植物園も面白い
目次
カボチャ
カボチャは、ウリ科カボチャ属に属する果菜の総称です。原産は南北アメリカ大陸。果実を食用とし、ビタミンA、ビタミンC、ビタミンEなどのビタミン類を多く含む緑黄色野菜。という訳で、カボチャは世界中で食べられている重要な野菜だね。
ウリ科の植物といえば、ほとんどが巻(ま)きひげをもつつる性の草本。つまり、自分では立つことが出来ず、支柱などに巻き付いて上に伸びるんだ。だから、支柱が無いと地面を這(は)うように大きくなる。カボチャだって支柱があれば右のように育つ。ウリ科の植物の多くはもともと熱帯に分布し、人類の歴史上最も古い作物が沢山(たくさん)含まれている。ウリ科の植物には次のようなものがある。キュウリ、スイカ、カボチャ、ズッキーニ、ヒョウタン、ヘチマ、トウガン、テッポウウリ、ユウガオ、ツルレイシ(ニガウリ、ゴーヤ)、メロンなど多くの種が昔から果菜や果物として栽培されてきたんだ。縄文人も食べていたものも多いかもね。
**ツルレイシ(蔓茘枝)は、未熟な果実を野菜として利用するウリ科の植物である。また、その果実のこと。一般的にはニガウリ、ゴーヤーなどと呼ばれる。
カボチャは、原産地がアメリカ大陸だったので、縄文人は食べられなかった。日本にはポルトガル人が持って来たんだろう。鉄砲やキリスト教と一緒にね。どうしてカボチャなんて名前になったの? 東南アジアにカンボジアという国があるでしょう。カンボジア→カボチャに訛(なま)ったんだという説が有力。当時の日本人はポルトガルなんて遠い国のこと知っているわけがない。それに当時の航海術ではイッキに日本には来(こ)れず、東南アジアなど南の国を経由して日本に来るんだ。中国語では南瓜 (ナングァ; nánguā)という。日本ではカボチャのことを南京(なんきん)なんて言うこともある。南京(なんきん)は中国の南の方の都市の名前だね。カボチャは他にも唐茄子(とうなす)なんて呼ばれることもある。中国のナスという意味。どう見てもナスとは似(に)てないけど。ポルトガル人が中国から持ってきたと思ったでしょうね。唐はもともと中国という意味だ。中国には昔「唐」という大帝国があったのは君達知っているね。
英語では、pumpkin (パンプキン)とsquash (スクウォッシュ)の2つがある。果皮がオレンジ色の種類のみが pumpkin で他はsquash 。ハロウィーンで使うカボチャはみな橙(だいだい)色なのでpumpkin 。日本のカボチャは、普通皮が緑色なのでkabocha squash (カボチャ・スクウォッシュ)などと呼ばれているそうだ。
中国語では南瓜 (ナングァ; nánguā)、ロシア語ではтыква(トィークバ)。世界中で親しまれている野菜ですね。
ところで、君たちはカボチャが好きですか。お母さん方の中にはカボチャは皮が固いから料理が大変なので嫌(きら)う人もいるらしいけど。でも、カボチャは大変栄養価も高く、中南米の人たちは、トウモロコシの品種改良に成功するまで主食として食べていたらしい。
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トウモロコシ
君達は、トウモロコシが好きかな。ホップコーンとか醤油(しょうゆ)をつけた焼きトウモロコシなんかおいしいかな。家畜の餌(エサ)や工業原料としても大量に使われている。今や小麦や米を抜いて生産量は三大穀物のナンバー1だろう。
でも、トウモロコシの原産地はアメリカ大陸で、コロンブスの新大陸発見以降に旧大陸に持ち込まれたものなんだ。荒地でも育ち、丈夫で手間のかからない作物なので今や世界中に広まり、貧しい国の人々のお腹(おなか)を満たしているんだ。
トウモロコシの先祖にあたる植物はまだよく分かっていないようです。テオシントという雑草みたいな草が起源らしいのですが、実も小さくて本当に食用になるの??という感じなんだそうだ。1万年位前に栽培化が始まったらしいのですが。小麦や稲と異なり農作物として品種改良を行うためには多大な時間と労力がかかったらしい。でも、紀元前5000年ごろまでには大規模に栽培されるようになり、南北両アメリカ大陸の主要農産物となっていたようだ。トウモロコシ以外の作物としてはジャガイモやカボチャもあったようだ。ジャガイモもカボチャもトウモロコシも西洋人が日本に持ち込むまでは、全く知られていなかった作物だ。いわゆる帰化植物だね。帰化植物にも勝手にはびこる迷惑な雑草もあるけど役に立つ作物も沢山あるんだね。
マヤ文明やアステカ文明においてもトウモロコシは大規模に栽培され、両文明の主食として生活の根幹を成していた。 マヤ文明やアステカ文明は、スペイン人によって滅ぼされてしまったけれど、農業技術の発展という点では人類に多大な貢献(こうけん)をしてくれているんだね。
【新世界(南北アメリカ大陸)から旧世界に伝搬した作物】
→トウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、トウガラシ、トマト、サツマイモなど。ただし、これらは総てスペイン人が持ち帰ったというわけでなく、太平洋諸島の海洋民族達によってもっと早くから伝えられていたものも多いことが分かってきています。
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ヒョウタン
ヒョウタンも、ウリ科の1年生植物。漢字では瓢箪(ひょうたん)と書く。ひさご、ふくべともいう。 この植物の果実は食べるよりももっぱら道具として使われてきたようだ。アフリカの狩猟民族の中には今でもひょうたんを半分割にして食器として使っている。もともと原産地はアフリカで、世界中に広まったらしい。土器の無かった縄文時代より前の時代には日本でも食器として使っていたのかも知れないね。おそらく世界最古の栽培植物でしょう。
戦国時代の侍たちは、ひょうたんを水筒(すいとう)の代りに使っていた。でも、ひょうたんの中身、割らないでどうやって取り出すのでしょうか。ほっておけば中が腐って外側だけが残るのかも。そのうちひょうたんを売っているお店の人に聞いてみたいと思います。君たちも水筒の代りに「ひょうたん」を持って歩きたいと思いませんか。ちょっと格好(かっこう)いいですね。
「ひょうたん」はおそらく世界中で使われていたんでしょう。英語では"gourd(ゴード)"、中国語では葫芦(Húlu;フールー)、フランス語ではgourde(ゴード)、ロシア語ではтыква(ティクバ)、韓国語では효탄(ヒョッタン)、スペイン語ではcalabaza(カラバザ)、ドイツ語ではKürbis。Google翻訳でいくらでも見つかる。
「ひょうたん」の仲間の「ゆうがお」の実は「干瓢(かんぴょう)」の原料になります。ひょうたんとよく似ているけど、中央のくびれが少ないね。かんぴょうとは「のり巻き」の中に入っている茶色い紐(ひも)みたいなもの。「あさがお」と「ひるがお」はヒルガオ科の同じ仲間なのに、「ゆうがお」はウリ科で先祖が異なるんですね。植物の分類も見た目だけで判断はできないんですね。
ところで、少し国語の勉強だ。ところで、皆さんはことわざで、「ひょうたんから駒(こま)」なんてて大人の人が言うのを聞いたことがありませんか。「瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)、とは予想もしていないこと、あり得ないことが起こる。または冗談で言ったことが本当に起こる という意味です。「嘘(うそ)から出たまこと」も同じように使われます。ここで駒(こま)とは馬のことです。将棋の駒ではないよ。ひょうたんの口はとても小さいだろ。そんな小さな口から馬が出てくるわけがない。つまり、ありえないことが起こるという意味だ。「アラジンと魔法のランプ」でも小さなランプから大男が現れるね。これもお話だからで本当はあり得ないよね。
ひょうたんの花も結構きれいでしょう。キュウリも、カボチャも、スイカもみんな綺麗(きれい)な花を咲かせるね。綺麗な花で虫を呼び寄せて花粉を運んでもらうためだね。めしべの先に花粉がつかないと実がならないから。
【ヒョウタンと古代の海洋移住】
ヒョウタンを知らない人はいない。ところが、ヒョウタンは人類の歴史に関わる重要な植物でもある。世界最古の栽培植物の一つで、原産地のアフリカから日本には9,600年前にもたらされ、さらにアメリカ大陸へも1万年をさかのぼって伝播している。人が海洋を通り移住するには飲料水の確保が最も重要である。史前その役目をはたしたのが、人類の原器と言えるヒョウタンで、古代の海洋民族の島々ポリネシアにも色濃くその文化が残されている。
☆古代の航海は飲水をどうしたか☆
有史前から人は海を渡った。敵に追われたり、人口の増加、環境変動、あるいは冒険心から新しい土地を求めて海に乗り出した。理由はさまざまであれ、舟出に際し、必要なものは何だったろうか。舟はもちろん、当座の食料、農作物、家畜などいろいろ考えられる。しかし、目的地にいつつくかわからず、さらに目的地も定かでない舟出であれば、最も欠かせないのは水であったに違いない。食べ物は魚を釣ることもできようが、飲み水は、いつ降るかわからない雨に頼るには心細い。第一、生死にかかわる。たとえ食べなくとも水さえあれば、何週間も生き残れる。飲み水の保証なくしては、古代においてもその出発は躊躇されたであろう。かつて、タヒチからハワイに航海したポリネシア人は、航海に先立ち水を飲まないように、また、飲む場合も海水を混ぜて飲み、真水の利用をできるだけ少なくするように訓練をしたと伝わる。と言っても最小限の真水は必要であろう。また、家族や家畜を伴う移住などではやはり水の確保は欠かせなかったに違いない。
水を貯えるには器が要る。史前の器としては土器がすぐ頭に浮かぶが、焼きの甘い土器では表面から水はにじみ出て蒸発し、目減りしてしまう。その上、重い。長い日数がかかり、荷物の多い海洋移住では舟に積みこむには適していない。熱帯ではココナツも若ければ中に果汁と呼ばれる透明な飲み水になる胚乳の液体がたっぷり含まれている。ただし、殻が厚くかさばるし、重い。東アジアから熱帯アジアにかけては竹も容器になるが、口が広い竹筒に入れた水を長期間もれないように栓をするのは難しい。
古代の海洋航海で、最もすぐれた水入れは、ヒョウタンであったと考えられる。
☆アフリカから広がった最古の栽培植物☆
ヒョウタンはアフリカが原産地である。現在栽培されているヒョウタンの野生は失われてしまっているが、アフリカのみに近縁の野生種が3種ばかり存在する。果実の形はさまざまで、いわゆるくびれのあるヒョウタン形以外に、球形、枕形、ヘチマ形、棍棒形、壺形、鶴首形、柄杓形などがあり、加えて大きさがいろいろで長さ2cmほどの豆瓢から胴回りが2m近く中に93リットルもの水が入る特大瓢、長さが285cmの長瓢、さらにくびれのない棒形なら何と341cmの果実も記録されている。最小と最大の果実の容積比は4万倍にも達し、同一種でこれほどの差がある果実は他にない。因に干瓢を作るユウガオも同一種である。種子も多形だが、最も変異に富むのがアフリカで、とても同一種とは思えないような形も見られ、この特徴からもヒョウタンのアフリカ起源が裏付けされる。
【ひょうたんの中身はどうやって取り出しているのですか?】
ひょうたんの実は、皮の部分が木のように堅くなりますが、中には種とそれを取り囲む綿のようなものが入ってます。以下はひょうたんの一般的な加工法です。
熟したひょうたんの実を収穫し、通常は「口」(蔓につながった部分)を少し切り落として穴をあけます。加工の都合で口を傷つけたくない場合は、反対側の「お尻」に開けることもあります。そして、全体を水に浸けて数週間置きます。実が腐ってひどい臭いがしますが、我慢です。水は時々換えてやります。
表面の皮がペロンと剥がれるぐらいになったら、臭いのを我慢して水から取り出します。穴を下にして振ってやれば、種が周りの綿のような部分と一緒にどろどろと出てきます。さらに完全に中をきれいに洗うため、きれいな水を入れてしばらく置き、また振っては出す、というのを繰り返します。中身が出尽くし、臭いもなくなったら乾燥させ、ひとまず完成です。これに塗装したり絵を書いたりして仕上げです。
実際に試したことはありませんが、多分こんなものではないかと思われます。銀杏の実も腐ると臭いですが、やはり報酬が分かっているので我慢できるのでしょう。
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ジャガイモ
ジャガイモ(馬鈴薯〈ばれいしょ〉、potato)は、ナス科ナス属の多年草の植物。地面から上は枯れちゃっても、土の中にはイモが残っているから、次の年も茎や葉が伸びて来るんだ。デンプンが多く蓄えられている地下茎がイモとして食べられる。
品種改良なんかで、ナスの実がなって土の中にはジャガイモなんてことも可能なんでしょうね。ポマトといいって、トマトの実がなってジャガイモが出来る作物の実験ではできるらしい。トマトもナス科の植物なのです。
ジャガイモの原産地も南米アンデス山脈の高地といわれる。16世紀にスペイン人が旧大陸に持ち帰って世界中に広まりました。日本には、1600年頃にオランダ船によりジャカルタ港(インドネシア)から運ばれたのでジャカルタイモ→ジャガタライモ→ジャガイモとなったと言われています。
ヨーロッパでも、小麦などが育ちにくい所でも良く育つため主食として栽培されるようになります。イモから分裂して育つので、基本的にみな同じ遺伝子を持ったクローンであり、病害虫に対して同時に被害を受けるため、壊滅的(かいめつてき)な飢饉(ききん)となることがある。アイルランドで起こったジャガイモの不作による飢饉は有名で、この時アイルランドから米国に大勢の人が難民となって流出した。
ジャガイモは、おいしいけど食べるときに注意することがある。イモから出てきた芽や緑色に変わった塊茎(これがジャガイモの食べるとこと)には毒性成分ポテトグリコアルカロイド(ソラニンなど)が多く含まれ、中毒するので気をつけて下さい。ジャガイモは茎が大きくなったもの。サツマイモは根が大きくなったもの。他のイモはどちらでしょう。サトイモ、ヤマイモなども調べてみて下さい。
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サツマイモ
サツマイモ(薩摩芋)は、ヒルガオ科サツマイモ属の植物です。養分を蓄えている肥大した根の部分を食用として食べます。甘藷(かんしょ)とか唐芋(からいも、とういも)と呼ばれることもある。 花は咲くがめったにお目にかかることは無いようだ。
16世紀に頻繁に南アメリカ大陸にやってきたスペイン人あるいはポルトガル人により東南アジアに導入され、ルソン島(フィリピン)から中国を経て1597年に宮古島へ伝わり、17世紀の初め頃に琉球、九州、本州と伝わったようです。だから、アジアにおいては外来植物ということになる。中国(唐)から伝来した由来により、特に九州では唐芋とも呼ばれる場合が多い。薩摩(さつま)イモの薩摩とは、今の鹿児島県のこと。
ニュージーランドへは10世紀頃に伝播し、「クマラ」(kumara) の名称で広く消費されている。西洋人の来航前に既にポリネシア域内では広く栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている。
イギリスではエリザベス朝の頃に、その甘さから好意的に受け入れられた。18世紀末に甘くないジャガイモ (potato) が一般化するにつれ、サツマイモはsweet potato(スィート・ポテト)と呼ばれるようになる。
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トマト
トマト(tomato)は、南アメリカのアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産のナス科ナス属の植物。ジャガイモといっしょだね。根っこにジャガイモ、実がトマトのポマトなんていうのもつくれるらしい。でも、根がトマトで実がジャガイモだったらどうしましょう。日本では1年で枯れてしまうけど、熱帯地方では結構大きな木になることもあるらしい。
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カラムシ
みなさん。カラムシと言う植物のこと知っていますか。カラムシなんていう名前ですが虫ではなくて、チャンとした植物の名前。それも、日本中どこにでもある極(きわ)めてありふれた雑草(ざっそう)だったんです。だから、日本では縄文(じょうもん)時代からずっと使われていたそうです。何に使ったでしょう。食料、医薬品にも使ったでしょうが、最もよく使われたのが衣類を造る繊維(せんい)です。つまり糸を造って織物(おりもの)を作るのです。
カラムシは、イラクサ目イラクサ科の多年生植物。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古くから植物繊維をとるために栽培されたため、たくさんの別名を持っています。紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)、カツホウ、シラノ、シロソ、ソロハ、シロホ、ヒウジ、コロモグサ、カラソ等々。漢字では「苧」と書くんですね。
けっこう背が高く、子供の背丈位、つまり1~1.5mに達します。葉は大きくて、縁(ふち)に細かい鋸歯(ギザギザ)があります。花は咲きますが、風によって花粉を運ぶ風媒花だから花はあまり美しくありません。多年生植物で冬になると地上部は枯(か)れても、春には新芽が出てきます。本来は雑草なので丈夫で簡単には駆除(くじょ)できませんが、畑にも植えられていたこともあり品種の改良も見られ色々なお変種があるようです(栽培植物が野生に帰ることもあるからね)。
ところで、皆さん衣類の繊維としてはどんなものが使われているでしょう。
1. 動物(哺乳類)の毛
一番使われているのが羊毛。羊さんの毛。英語ならwool(ウール)。ヤギのこともある。カシミアウールはヤギ。他にも、駱駝(ラクダ)なんかも。他にもあるかな。
2. 絹(きぬ)
蚕(かいこ)という虫の蛹(さなぎ)から作るんだ。蚕の幼虫が蛹(さなぎ)になる時、自分の体の周りに糸を紡いで家を造るんです。その家のことを繭(まゆ)と言います。繭の中で変態(へんたい)して、ガに変身する。でも、人間はその繭をバラして繊維を取ってしまうんです。カイコにとってはいい迷惑。でも人が飼ってくれることでカイコは生き延びてきている面もあるんだ。カイコの食料は桑(くわ)の葉っぱ。人間は畑で桑の木を育ててカイコに食べさせている。繊維を取ることが出来る虫はカイコ以外にも沢山いるので調べてみたら面白いかも。英語ならsilk(シルク)。
3. 綿(わた)
アオイ科ワタ属の植物。綿の実の種の周りの繊維を頂くのです。英語ではcotton(コットン)。昔は日本でも沢山作られていたけど、外国から安い綿が輸入されるようになってすたれてしまった。
4. 人工繊維
化学的に合成したもの。多くは石油から出来る。ナイロン、レーヨン、アセテート等色々ある。人工繊維に対して自然の材料を使ったものは天然繊維と言っている。
5. 植物の葉や茎(皮も含む)の繊維
昔から使われているものとして麻(あさ)がある。他に繊維は紙の原料にもなるね。
6. その他
何があるかは分からないけど、自然界にはまだ利用されていない便利な材料があるかもしれないからね。各自考えて見て下さい。
ここで、問題だ。繊維の麻(あさ)の原料は何でしょう。ヒント。麻は縄文時代から使われてきています。つまり、どこにでも生えている雑草を利用したのでしょう。
答えは分かりましたか。カラムシこそ麻の主要な材料(他にも似たような植物が使われていた)なのです。
カラムシは、縄文の昔からずっと栽培(栽培)されてきていました。古代には天皇が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」を挙げています。越後国は日本一のカラムシの産地で、戦国大名・上杉謙信は衣類の原料として青苧(あおそ)座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げたと言われています。何故このような文化的・伝統的に優れた産業や技術が現在では衰退(すいたい)してしまったのでしょうか。
実は、カラムシは今農作物として勝手に栽培出来ないように法律で定められています。この法律は、日本だけでなく国際的な約束事になっています。大麻と言うのを知っていますか。大麻より精製(せいせい)されたものはマリファナとも言われています。いわゆる違法薬物です。勝手に栽培できないように法律や条例でも規制されています。
なぜ、このような違法薬物に対しての国際的な禁止協定が出来たのでしょうか。キッカケは、1840年に起こった阿片戦争です。阿片は依存症になると人格を失うまでに至る危険な薬物です。でも、阿片も医療薬としては古代から使われて来たもの。何故、当時の中国だけ人々がこのように阿片に依存するようになってしまったのでしょうか。阿片を求めたのは当時の中国の社会事情も考慮する必要があるでしょう。でも、阿片撲滅(ぼくめつ)運動をキッカケに多くの依存性のある薬物が禁止されるようになります。
大麻もどうも道連れにされた面も否定できないようです。現在見直しも進められています。カナダやカリフォルニア州などでは、既に合法化されています。合法化される地域が増えれば、取り締まりも難しくなってくるでしょう。
人間、依存症の危険は、どこにでも転がっているものです。阿片やマリファナに限らず、タバコ、アルコール(お酒)もそうです。アルコール依存症というのも大変な病気です。最近では薬物に限らず、スマホ依存症、ネット依存症も大問題。眼病や脳の萎縮(いしゅく)など恐ろしい後遺症も心配されているね。本来、依存症のリスクは個人の責任で回避すべき問題のはずだ。しかし、依存症の人が増えすぎると、国が法律で禁止しようということになってしまう。でも、法律で禁止するとかえって犯罪を増加させてしまうという逆効果の面があることも忘れてはいけないね。
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桑
クワ(桑)は、クワ科クワ属の総称。カイコの餌(えさ)として昔から重要な作物で、また果物として実が食べられることもある。蚕が食べるのはヤマグワといわれる種。
落葉性の高木で、大きいものは15mに達するが、普段見かけるのは数m程度のものが多い。雌雄異株だが、同株のものがある。春に開花。雄花は茎の先端から房状に垂れ下がり、雌花は枝の基部の方につく。果実は初夏に熟(じゅく)す。熟すと赤黒くなり、甘くて美味しい。
桑を栽培する桑畑は地図記号にもなったほど、日本で良く見られる風景であった。養蚕業が最盛期であった昭和初期には、桑畑の面積は全国の畑地面積の4分の1に当たる71万ヘクタールに達したという。しかし、現在、養蚕業が盛んだった地域では、生産者の高齢化、後継者難、生糸産業全般の衰退の中で、普通の畑に転用されたり、放置された桑畑も多い。
養蚕業が盛んだった頃は、定期的に剪定等の手入れが行われていたクワ畑であるが、養蚕以外でのこれといって有益な利用法が無かった。放置された結果として、現在、森の様になっている畑も多い。しかも、こうなってしまった以上、前述の様に高齢化した管理者にとっては、これを管理することが物理的に更に難しくしく、毛虫がつきやすい樹種でもある為、利用される桑畑も減少し、平成25年2万5千分の1地形図図式において桑畑の地図記号は廃止となってしまった。
近年、クワの実が郷愁を呼ぶ果物として、注目を浴びてきてもいる。ちなみに蚕が食べるのはヤマグワである。スーパーなどでも売ってくれればいいのにね。ブルーベリーなんかと似ている。英語で桑の実はマルベリー(mulberry)と言うんだ。欧米でも食べているんだね。また、木材としてのクワも木質はかなり硬く、磨くと美しいので、しばしば工芸用に使われて来たようだ。国産材の中ではむしろ最高級材に属するとのこと、是非利用を促進して欲しいね。
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ムベ
【果実のムベ】
ムベ(郁子)は、アケビ科ムベ属の常緑つる性木本植物。別名、トキワアケビ(常葉通草)。方言名はグベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)、ウンベ(鹿児島県) イノチナガ、コッコなど。色々な名前があることからして結構昔から食べられていたらしい。
関東以西、台湾、中国に生える。木の感じはアケビと似ている。不老長寿(ふろうちょうじゅ)の実として昔から使われていたらしい。皇室では大嘗祭(おおなめのまつり)や新嘗祭(にいなめのまつり)で用いられていたというので調べて見ませんか。
花が咲くのは5月。花には雌雄(オスとメス)があり、芳香を発し、花冠は薄い黄色で細長く、剥いたバナナの皮のようでアケビ(アケビも最近食べることは少ない)の花とは趣が異なる。自然状態ではニホンザルが好んで食べ、種子散布に寄与しているようである。
主に盆栽や日陰棚にしたてる。新芽と果実は食用となる。日本では伝統的に果樹として重んじられ、宮中に献上する習慣もあったらしい。 しかしアケビと比べて果実が小さく、果肉も甘いけど食べにくいので、あまり売れないのかな。現在でも生産農家はあって、皇室のほか、天智天皇(ムベが大好きだったらしい)を祭る近江神宮、靖国神社に献上している。
【むべなるかな】
ところで、「むべなるかな」という言葉がある。古めかしいイメージ。どういう意味なのでしょうか。現在「むべなるかな」は、原因・理由と結果が結びついたときに「それはもっともだな、いかにもその通りだな」と言いたいときに使います。例えば、草野球で上手い人が実は甲子園出場メンバーだったことを知ったときに「それはむべなるかなだね」と使います。
もともとは「本当にそうだ、もっともだ」を意味する「うべ」(宜べ)という古語で、これに断定の「なり」、「~だなあ」という意味の「かな」の2つがくっついてできた言葉だそうです。つまり、「うべ」+「なり」+「かな」→「うべなるかな」→「むべなるかな」という変化をとげてきたということのようです。なお、「うべなるかな」でも間違いではありません。話を聞いて「なるほど」や「納得」と言いたいときに、「それはむべなるかなですね」と言うと、一味違う会話ができるかもしれません。
良く似た果物にアケビかある。種子を包む胎座が甘みを持つので、昔から山遊びする子供の絶好のおやつとして親しまれてきた。果皮はほろ苦く、内部にひき肉を詰めて油で揚げたり刻んで味噌炒めにするなど、こちらは山菜料理として親しまれている。主に山形県では、農家で栽培され、スーパーで購入することができる。また、東北地方などでは、新芽(山形県や新潟県などでは「木の芽」と呼ぶ)をやはり山菜として利用している。その他、成熟した蔓は、籠を編むなどして工芸品の素材として利用される。また、秋田県では、種を油の原料としている。江戸時代から明治時代にかけては高級品として珍重され、明治以降生産が途絶えていたが、近年復活した。昔は簡単に手に入る食材が今は返って入手が難しくなってきた。
こういう昔から日本人に親しまれて来た伝統の味はもっとスーパーなどで簡単に手に入るようになるといいですね。
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ヤマモモ
「ももも、すももも、もものうち」なんていう言い方があるけど、これ本当?
スモモはバラ科でスモモ属、桃は同じくスモモ属だから確かに近縁だ。ヤマモモはヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモで少し離れている?
この三者、どれも美味しい果物ではあるが、外見も味も当然大いに異なる。でも古代においては、美味しい果物を総称してモモと呼んでいたのではとの説もある。
ヤマモモ(山桃、学名: Morella rubra)は、ヤマモモ科ヤマモモ属の常緑樹。また、その果実のこと。夏に実る赤い果実は生食でき、甘酸っぱい独特の風味があり、ジャムや果実酒にも加工される。
日本に自生するヤマモモは、「モモ」と呼ばれ、モモは果実の総称ともされていて、渡来種の桃は初め「ケモモ」と呼ばれていた。それが、時代が立って桃が生活に食い込んで「モモ」と呼ばれ、ヤマモモは山のモモで「ヤマモモ」と呼ばれるようになった。
中国大陸や日本を原産とし、山地の暖地を好み、暑さには強い。日本では関東以南(房総半島南部、福井県以西)の本州、四国、九州、沖縄の低地や山地に自生する。本州南部以南では、海岸や低山の乾燥した尾根など、痩せ地で森林を構成する重要樹種である。
日本国外では、朝鮮半島南部、中国、台湾、フィリピンに分布。中国では江蘇省、浙江省が有名な産地で、とりわけ寧波市に属する余姚市や慈渓市、あるいは温州市甌海区は古くから知られた産地であり、千年に及ぶとされる古木も多く残る。他に福建省、広東省、広西チワン族自治区、台湾なども産地である。自然分布以外にも、人の手によって公園、庭園、都市の街路などにも植えられる。
雌雄異株のため、結実させるためには雄株と雌株が必要です。自然界では雄株と雌株が混在するので自然に交配できますが、庭に1本のみ植えた場合は実が付きにくいこともあります。NHKの「らんまん」では、料亭を開いた寿恵子(浜辺美波)が高地から取り寄せ庭に植え、これが客寄せパンダになる。庭になっている実をそのまま客に捥(も)いでもらい食してもらう。最高のもてなしという訳か。
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サルスベリ
サルスベリ(百日紅、猿滑、紫薇、学名: Lagerstroemia indica)は、ミソハギ科の落葉中高木。別名は、ヒャクジツコウ。
和名サルスベリの語源は、木登りが上手なサルでも、滑り落ちるほど樹皮が滑らかという例えから名付けられている。確かに樹皮はつるつるであることはこの木の特徴ともいえる。花が咲く期間が長いことから、ヒャクジツコウ(百日紅)の別名もあり、漢名もまた百日紅。
英語名 Crape myrtle は、ギンバイカ(myrtle)の花に似て、花弁がちりめん(crape)のように縮れていることから。
中国では、唐代長安の紫微(宮廷)に多く植えられたため、紫薇(zǐwēi)と呼ばれるが、比較的長い間紅色の花が咲いていることから、百日紅(bǎirìhóng)ともいう。江蘇省徐州市、湖北省襄陽市、四川省自貢市、台湾基隆市などで市花とされている。
中国南部原産。世界の熱帯各地に分布。日本へは江戸時代以前に渡来したと言われる。
広葉樹の小高木。熱帯地域ではない日本などでは落葉樹。樹皮は見るからに滑らかな表面をもち、全体に淡褐色で、所々がはげ落ちて白く、濃淡が混じった斑模様になる。特に幹の肥大成長に伴って、特に夏に古い樹皮のコルク層が剥がれ落ち、新しいすべすべした感触の樹皮が表面に現れて更新していく。だからサルスベリと言われる。
葉は通常2対互生(コクサギ型葉序)、対生になることもある。葉身は倒卵状楕円形。春の芽吹きの時期はやや遅く、新葉は樹皮の色に似て赤味を帯びる。
花期は7 - 10月。花は紅色または白色(桃色もある)。円錐花序になり、がくは筒状で6裂、花弁は6枚で縮れている。花は開花したその日で萎んでしまう一日花であるが、蕾(つぼみ)が次々と開花するため、百日紅(サルスベリ)の別名どおり100日近く咲き続ける。
果期は8 - 11月。果実は円い蒴果で、先が6つに割れて、翼がある種子を飛ばす。果実は種子を飛ばしたあとも遅くまで枝に残っている。
冬芽は小さな卵形で先端は尖り、枝の先端に仮頂芽がつき、側芽は対生するか、ときにずれてコクサギ型互生となる。仮頂芽と側芽はほぼ同じ大きさで、芽鱗2~4枚に覆われている。冬芽わきにある葉痕には、弧状の維管束痕が1個ある。
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つくし(スギナ)
スギナ(杉菜)は、シダ植物門トクサ綱(こう)トクサ目トクサ科トクサ属(ぞく)の植物の1種です。日本に生育するトクサ類では最も小柄(こがら)です。浅い地下に地下茎を伸ばしてよく繁茂します。生育には湿気の多い土壌が適していますが、畑地にも生え、防除するのは大変です。つまり根絶(こんぜつ)は難しいということか。その栄養茎(えいようけい)をスギナ、胞子茎(ほうしけい)をツクシ(土筆)と呼び、ツクシの方は食用とされる。でも、土筆は昔に比べると見ることが減ったように思うのですが。子供達には取っては土筆を取るのは楽しい思い出なのにね。
スギナは、春に地下茎からツクシ(土筆)と呼ばれる胞子茎を出します。ここから胞子を飛ばすのです。ツクシの成長後に、それとは全く外見の異なる緑の草が出てきますね。栄養茎(えいようけい)と言います。栄養茎は茎と葉からなり、光合成を行います。だから、鮮(あざ)やかな緑色。全体を見ると杉(スギ)の樹形(じゅけい)に似て見える。だからスギナと呼ばれるんでしょう。
食材「ツクシ(土筆)」は春の山菜として親しまれている。袴を取って茹でて灰汁を抜き、だしで軟らかく煮たり、佃煮にしたりして食用とする。しかし、若干の有毒成分も含まれており、大量に食べることはあまり推奨されないという。
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トクサ(砥草、木賊)は、シダ植物門トクサ科トクサ属の植物です。スギナもトクサ属だ。チョット土筆と似ているでしょ。
日本では北海道から本州中部にかけての山間の湿地に自生しますが、観賞用などの目的で栽培されることも多い。日本的な感じからお蕎麦(そば)屋さんの店の前の小さな庭に植えてあったりしますね。茎(くき)表面がチョット固いですね。表皮細胞の細胞壁にプラントオパールと呼ばれるケイ酸が蓄積していて、砥石(といし)みたいに物を研ぐことができるのです。砥石みたいな草だから、砥草と呼ばれのです。
地下茎があって横に伸び、地上茎を直立させる。同じトクサ科のスギナと異なり、枝分かれせず、中空で節がある。つまり1本の棒(ぼう)みたいな形。茎は触るとザラついた感じがし、引っ張ると節で抜ける。節の部分にはギザギザのはかま状のものがあって、それより上の節の茎がソケットのように収まっています。このはかま状のぎざぎざが葉に相当します。茎の先端にツクシの頭部のような胞子葉群をつけ、ここに胞子ができる。土筆の親玉みたいだね。
トクサは、花の咲かない隠花植物(いんかしょくぶつ)ですが、古生代に大森林を造った仲間(なかま)の面影がありなんか格好いいと思うのですがいかがでしょうか。
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古生代の植物
古生代の植物と言えば、ロボク、リンボク、フウインボク。シダ科の植物では。古生代の大森林を形成した巨木たち?? トクサをみるとなんだか古代の森を彷彿とさせると感じるのは私だけか?
ロボクは、石炭紀に栄え、石炭とともに見出される化石としてのみ知られる木本様植物である。現生のトクサ類に近縁で、高さ約80センチメートルぐらいの木であった。リンボクなどとともに沼沢地に群生していたと考えられる。現生の蘆のような形をしていたため蘆木と呼ばれている。「蘆」とは確かに「アシ」という意味だ。アシはヨシ(葦、芦、蘆、葭)とも呼ばれる。アシは「悪し」に繋がるのでヨシ(良し)になったらしい。
クックソニア(学名: Cooksonia)は、古生代シルル紀中期からデボン紀前期に生息した陸上植物の属。 学名は、オーストラリアの著名な古植物学者 であるイザベル・クリフトン・クックソン(1893〜1973)にちなんで命名された。高さは数センチメートルほどしかなかったが、茎の先端にトランペット型をした胞子嚢を持っていたとみられている。 初めて海から陸上に進出した生物の1つであり(厳密には、地衣類と細菌が最初の進出者)、そのため乾燥から守るための機能を備えていた。 例えば、維管束を持っておらず、シダ植物との形態も異なる。 また、蝋質のクチクラ層を持っており、植物体内部の水分の蒸発を防いでいた。 しかし、防水性のクチクラは水分を留めることに長けている反面、空気中の気体を植物中に取り入れることを妨げてしまうため、ガス交換を効率よく行うための器官である気孔を発達させたことが、化石から分かっている。 陸上を開拓した先駆者であり、2011年現在までにおいて確認された陸上植物の中では世界最古のものである。 維管束植物の祖先。つまり上へ向かっての成長、森をつくる植物の誕生か。コケや地衣類だけでは地面を覆うだけだから。これらの植物は現生の植物(名称が似ているものはあるが)とは異なり、胞子で増えるシダの仲間に近いようだ。
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クックソニア
クックソニア(学名: Cooksonia)は、古生代シルル紀中期からデボン紀前期に生息した陸上植物の属である。 学名は、オーストラリアの著名な古植物学者であるイザベル・クリフトン・クックソン(1893〜1973)にちなんで命名された。
*クックソニア:植物界―リニア門―リニア綱―リニア目―クッソニア属
2011年現在までに確認された陸上植物の中では最古のものとされており、細菌や地衣類に続いて海から陸上に進出した生物である。また、維管束植物の祖先とされている。
*クッソニア(Cussonia)はウコギ科の植物の属で、エチオピアに自生している原生植物。園芸植物として人気があるらしい。アフリカ起源で、南アフリカとマスカリン諸島に分布の中心を持っている。今調べているのは太古の植物クックソニア(Cooksonia)で、クッソニア(Cussonia)ではありません。名前が似ているので紛らわしいけど。初めGoogleでクッソニアと入れたらここちらだけが出て来たのですが、今は逆に古代植物方が出て来るように。
高さは数センチメートルほどで、茎の先端にトランペット型をした胞子嚢を持っていたとみられている。蝋質のクチクラ層を持っており、植物体内部の水分の蒸発を防いで、地上の乾燥した環境に適応していた。一方で、クチクラ層は空気中の気体を植物中に取り入れることを妨げてしまうため、ガス交換を効率よく行うための器官である気孔も発達させたことが化石から分かっている。一方で維管束を持っておらず、後のシダ植物などとも形態が異なる。
多くの陸上植物の元祖として最も有力な候補らしい。
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ヒカゲノカズラ
ヒカゲノカズラ科(Lycopodiaceae):
小葉植物の1分類群で、現生のすべての同形胞子性の小葉類を含む科。異形胞子性をもつイワヒバ科、ミズニラ科とともにヒカゲノカズラ綱を構成する。PPG I分類体系では3亜科16属388種が属する。ヒカゲノカズラ目 (Lycopodiales) に含まれ、同じ範囲を指す。
生活型と生活環
ヒカゲノカズラ科を含む全ての維管束植物は、その生活環に胞子をつくる胞子体と配偶子(卵と精子)を形成する配偶体を持ち、それが世代交代を行う。
ヒカゲノカズラ科の胞子体の生活型は地上生、着生または岩上性で、常緑多年生。匍匐する地上性種には安定した開けた場所に「妖精の輪(フェアリーリング)」と呼ばれる群落をつくるものがある。この輪の外周では盛んに匍匐茎が成長する一方、前年に成長した部分の群落が枯れる。その輪は円形となり、時間経過に伴い指数関数的に直径が大きくなる。1964年に直径11.25 m(メートル)と測定された輪は1839年に起源すると算定されている。
ヒカゲノカズラ Lycopodium clavatum は山野の地表を這(は)うように広がるシダ植物の仲間だ。ただしシダ植物を、ワラビやゼンマイなどのよく知られる種を含むシダ類と、より原始的な小葉類(しょうようるい)とに大別すると後者に含まれる。冬でも緑色を保つ姿から縁起物として神事に使われる例もあるのだが、その知名度はあまり高くない。
ところが、この植物に着目してきた大阪公立大学の山田敏弘教授(付属植物園長)から「私たちのグループの研究で4億2000万年前の祖先と同じ体づくりのしくみをしていることがわかった。まさに『生きた化石』と呼べる存在で、植物では約30年ぶりの発見になる。その名のように日陰者だったヒカゲノカズラに、これからもっと光を当てていきたい」と力の込もった言葉を聞いた。新たな「生きた化石」の発見とは、ただごとではない。その意味を探ってみよう。
ここで言う「生きた化石」に必ずしも厳密な定義はないが、化石になるような太古の時代の姿を保ってきた生物を指す言葉として一般的に使われている。動物ならシーラカンスやカブトガニなど、植物ならイチョウやメタセコイアなどが、そう呼ばれてきた。
二叉分枝をした初期の陸上植物
植物が水中から陸上へ進出してまもなく、その体は軸の先端部にある分裂組織が均等に二つに分かれる二叉分枝(にさぶんし)という形で成長し、つくり出されていた。古生代シルル紀(約4億4400万年~4億1900万年前)に出現して最古の大型化石植物とされるクックソニア Cooksonia、続くデボン紀(約4億1900万年~3億5900万年前)初期の地層で発見されたアグラオフィトン Aglaophytonなども二叉分枝をしていた。
現在の植物のほとんどは、体軸の先端にある二つの分裂組織の片方が旺盛に成長する単軸分枝で成長する。それに対して、ヒカゲノカズラを含む小葉類は今なお二叉分枝という特徴を残しているので、生きた化石と呼べるであろうことは以前から推察されていた。
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木綿(もめん)
木綿・木棉(もめん)は、ワタの種子から取れる繊維(せんい)です。英語ならコットン(cotton)。機織り(はたおり)の音みたい。
ワタとはアオイ科ワタ属の多年草の植物。いくつかの種類があるらしい。木綿は種子の周りにフワーと付いている。繊維としては伸びにくく丈夫で、吸湿性があって肌触りがいい。現代では下着などによく使われるが、縮みやすいという欠点もある。
漢字にも気をつけて。摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿らしいが実際には区別しない。 "きへん"と"いとへん"がある。綿で覚えておこう。
ただし、「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す語である。布団や座布団の中身を繊維の種類を問わず「綿(わた)」と呼ぶが、これはその本来の用法である。古くは、中でも真綿(絹の原料)を意味することが多かった。
現在までに見つかっている木綿栽培の最古の証拠はメキシコにあり、約8000年前に遡るらしい(出典;Foods and Nutrition Encyclopedia)。その種類はアメリカ栽培綿で、現在世界で栽培されている木綿の89.9%(ほぼ9割)がこの種。野生の木綿の種はメキシコで最も多様であり、それにオーストラリアとアフリカが次いでいる。
旧世界で最も古い木綿栽培の痕跡は約7000年前(紀元前5千年紀から紀元前4千年紀)のもので、インド亜大陸の北西の広大な領域で発達したインダス文明の住民によるもの。インダス川流域の木綿産業はかなり発展し、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていた。西暦が始まる以前に木綿の布はインドから地中海、さらにその先へと広まっていた。インドが世界一の綿の産地だった訳だね。
ギリシャ人はアレクサンドロス3世のころまで木綿を知らず、ほぼ同時代のメガステネスが『インド誌』の中でセレウコス1世に「(インドには)羊毛が生える木がある」と教えている。羊毛とは羊の毛だ。そんな木があるわけがない。
紀元1世紀にアラブ商人がモスリン(本来は綿織物)やキャラコをイタリアやスペインにもたらした(出典;コロンビア百科事典第六版)。ムーア人がスペインに木綿栽培法をもたらしたのは9世紀のこと。14世紀にヴェネツィアやミラノでも織られるようになる。当初イングランドには15世紀以前に少量輸入され、ろうそくの芯(しん)等に使われた。17世紀にはイギリス東インド会社がインドから珍しい綿織物をもたらした。アメリカ先住民は木綿を紡いで衣服や染色したタペストリーを作っていた。ペルーではインカ帝国以前の墓から木綿の布が見つかっている。染色や織り方の面で、ペルーやメキシコの綿織物は古代エジプトの墓から見つかったものとよく似ている。
イラン(ペルシャ)での木綿の歴史はアケメネス朝(紀元前5世紀ごろ)まで遡る。しかし、イスラム化する以前のイランでの木綿栽培に関する文献は非常に少ない。13世紀のマルコ・ポーロはペルシャの主要産品として木綿も挙げている。17世紀フランスの旅行家ジョン・カルダンはサファヴィー朝を訪れ、その広大な綿花農場を紹介している。
ペルーでは、モチェ文化やナスカ文化といった海岸に沿った文化の発達の基盤として Gossypium barbadense というワタ属の原生種の栽培があった。綿花を川の上流で栽培し、それを使って漁網を作り、海岸の漁村との交易に使った。スペイン人が16世紀初めにメキシコに到達したとき、原住民は綿花を栽培し、綿織物の衣服を着ていた。
中国への伝来は晩唐とも北宋とも言われている。朝鮮半島へは1364年に文益漸が国禁を犯して元から伝えたという記録が残されている。
中世末期には、木綿が貿易によって北ヨーロッパにもたらされたが、それが植物性だということ以外詳しい製法は伝わらなかった。ウールに似ていることから、北ヨーロッパの人々は羊のなる植物があるのだろうと想像した。1350年、ジョン・マンデヴィルは今となっては奇妙な話だが、「(インドには)枝先に小さな子羊がなる素晴らしい木が生えている。枝はとてもしなやかで、子羊が空腹になると枝が屈んで草を食むことができる」と書き残す。この考え方はヨーロッパ各地の言語での木綿の呼称に痕跡を残している。
18世紀から19世紀初めにかけてイギリス領インド帝国が確立することでインドの綿織物産業は徐々に衰退していった。これはイギリス東インド会社の植民地運営方針によるものである。インドは原綿だけを供給することを強制され、イギリスで製造した織物を購入することを強制された。
16世紀以降、交易を通じてインド産などの綿が、主にイギリスにもたらされ、18世紀ごろにはイギリスの羊毛業をおびやかすまでになる。1780年代になると、自動紡績機や蒸気機関が相次いで実用化され、イギリスは綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換した。この綿産業の発展を主軸にした産業構造の変革は、産業革命ともいわれる。
1738年、バーミンガムのルイス・ポールとジョン・ワイアットが2つの異なる速度で回転するローラーを使った紡績機を発明し、特許を取得した。1764年のジェニー紡績機と1769年のリチャード・アークライトによる紡績機の発明により、イギリスでは綿織物の生産効率が劇的に向上した。18世紀後半にはマンチェスターで綿織物工場が多数稼動し、輸出拠点にもなったため、「コットンポリス (cottonpolis)」の異名で呼ばれるようになった。イギリスとアメリカ合衆国の綿織物生産量は、1793年にアメリカ人のイーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明したことでさらに増加した。テクノロジーの進歩と世界市場への影響力が増大したことから、植民地のプランテーションから原綿を購入し、それをランカシャーの工場で織物に加工し、製品をアフリカやインドや中国(香港および上海経由)といった植民地市場で売りさばくというサイクルを構築した。
1840年代になると、インドの木綿繊維の供給量だけでは追いつかなくなり、同時にインドからイギリスまでの運搬に時間とコストがかかることも問題となってきた。そのころアメリカで優れたワタ属の種が生まれたことも手伝って、イギリスはアメリカ合衆国と西インド諸島のプランテーションから木綿を買い付けるようになっていく。19世紀中ごろまでに綿花生産はアメリカ合衆国南部の経済基盤となり、"King Cotton" と呼ばれるようになった。綿花栽培作業は奴隷の主要な仕事となった。黒人奴隷をたくさん使って生産する。
南北戦争が勃発すると、北軍が南部の港を封鎖したため、綿花輸出が激減した。これは連合国側(南部)が意図的に輸出を減らしたという側面もあり、それによって主要輸出先であるイギリスに連合国を承認させ、あわよくば戦争に介入してもらおうと考えた結果。しかし、イギリスとフランスはエジプトの木綿へと目を向けてしまった。イギリスとフランスはエジプトのプランテーションに多額の投資をし、エジプト政府のイスマーイール・パシャはヨーロッパの銀行などから多額の融資を獲得した。1865年に南北戦争が終わると、イギリスやフランスはエジプトの木綿から再び安価なアメリカの木綿に戻り、エジプトは赤字が膨らみ1876年に国家破産に陥った。これはエジプトが1882年にイギリス帝国の事実上の保護国となる原因となった。
この間、イギリス帝国ではアメリカ南部から入ってこなくなった綿花を補うため、特にインドからの綿花輸出を推進した。関税や他の制限を加えることで、イギリス政府はインドでの綿織物生産を抑制し、原綿をイギリス本国に輸出するようにしむけた。マハトマ・ガンディーはこの過程を次のように説明している。
1. インドの労働者が1日7セントの賃金で摘んだ綿花を、イギリス人が独占的に購入する。
2. この原綿はイギリスの船に積み込まれ、インド洋、紅海、地中海、ジブラルタル海峡、ビスケー湾、大西洋を経由する3週間の航海を経てイギリスに運ばれる。この貨物輸送で綿花の値段は少なくとも倍になる。
3. 木綿はランカシャーで綿織物になる。工場労働者にはインドのペニーではなくシリングが支払われる。イギリスの労働者は賃金が高いだけでなく、織物工場を建設したり、機械を納入するといった経済効果の派生がある。これらの賃金や利益はすべてイギリス国内でのものである。
4. 最終製品は再びイギリスからインドへ船で運ばれる。このときに賃金を得る船長や船員もイギリス人である。このとき利益を得る数少ないインド人は下働きのインド人水夫で、船上の汚れ仕事を1日数セントで担っている。
5. この綿織物を買うのはインドの王族や地主で、その金は貧しい小作農を1日7セントで働かせて得たものである。
南北戦争の勃発によるアメリカ産綿花の輸入減少は、ロシアにも影響を与えた。当時のロシアは紡績や織物といった木綿工業の成長が著しく、綿花の供給不足は大きな問題となった。イギリスがエジプトからの輸入に切り替えた一方で、ロシアは国内で生産する道を模索し、その産地として併合して間もない中央アジアのトルキスタン(現在のウズベキスタン)に着目した。南北戦争後にはアメリカからの綿花輸入も復活したものの、1880年代以降はアメリカから導入したワタの品種改良や灌漑農法によって国内生産量を増やし、1915年にはロシアが必要とする綿花の7割近くをトルキスタンが供給するまでに成長した。一方、綿花栽培の中心地となったフェルガナ盆地では、人手や資金を必要とする綿花栽培が急激に拡大したことによる農民の経済的困窮や、綿花への転作によって地域的な飢饉が発生するなどの社会不安も生じた。中央アジアでの綿花栽培はソ連時代にも拡大を続け、ソ連から独立したウズベキスタンは21世紀現在も世界有数の綿花生産国となっている。しかしながら、乾燥地に灌漑農業を強引に普及させたことはアラル海の枯渇や農地の塩害等環境破壊も引き起こしている。大規模なプランテーション農業は大規模な環境破壊も引き起こす懸念も大きいことを人々に警告する。
アメリカ合衆国では、南部の綿花生産が北部の開発の資金源となった。アフリカ系アメリカ人奴隷による綿花生産は南部を豊かにしただけでなく、北部にも富をもたらした。南部の木綿の多くは北部の港を経由して輸出された。
1865年の南北戦争終結と奴隷解放宣言の後も、南部の経済基盤は綿花生産だった。南部では小作農が増え、解放された黒人農夫と土地を持たない白人農夫が裕福な白人地主の所有する綿花プランテーションで働いた。綿花プランテーションでは綿花を手で摘む必要があり、多数の労働力を必要とした。収穫用機械が本格的に導入されるのは1950年代になってから。20世紀初頭になると、徐々に機械が労働者を置き換え始め、南部の労働力は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に漸減した。今も木綿はアメリカ合衆国南部の主要輸出品であり、木綿生産量の大部分はアメリカ栽培種が占めている。
日本へは799年三河国に漂着した崑崙人(インド人??)によってもたらされ栽培が開始されたが成功しなかったようだ。この崑崙人は各地を廻り、栽培法を伝えたとされている。 主にこの後、綿は明や朝鮮からの輸入に頼ることになり、故に長い間高級品であった。その後、連続して栽培され一般的になるのは、16世紀以降とされる。戦国時代後期からは全国的に綿布の使用が普及し、三河などで綿花の栽培も始まり、江戸時代に入ると急速に栽培が拡大。各地に綿花の大生産地帯が形成され、特に畿内の大阪近郊などにおいて生産が盛んになった。木綿問屋も形成され、綿花産業は大きくなり、綿を染める染料の藍や綿花栽培に欠かせない肥料となる干鰯や鰊粕製造などの関連産業も盛んとなった。
明治以降、政策により綿布の生産が強化されたこともあり、1930年代には綿布の輸出量が世界一となった。その後安い原料が日本に入るようになり、日本の綿花栽培は衰退する。第二次世界大戦時は綿布の輸出は停止したが、戦後復活し、再び世界一になった。ただしその後は安価なアジア産の綿布に押され、生産量は減少している。個人やグループ単位での生産はあるが、統計上の国内自給率は0%となっている。でも、やはり農産物を過度に輸入に頼るのは歴史を見れば明らかなように健全な経済ではないようだ。国産の綿花栽培の復活が望まれている。
合成繊維との競合
人造繊維は1890年代にフランスで開発されたレーヨンから始まる。レーヨンは天然セルロースからできているので合成繊維ではないが、製造工程は複雑化しており、天然繊維より安価。その後、合成繊維が次々と開発され、産業化されて行く。アセテート繊維は1924年に開発された。石油化学による最初の合成繊維はデュポンが1936年に開発したナイロンである。その後1944年には同じデュポンがアクリル繊維を開発した。これらの合成繊維は女性用靴下などに使われたが、木綿と合成繊維が本格的に競合するようになったのは、1950年代になってポリエステルが出回るようになってからのことである。1960年代にはポリエステルを使った衣類が急激に広まり、木綿輸出に依存していたニカラグアで経済危機が発生する。安い合成繊維と競合することでニカラグアでは木綿生産額が1950年から1965年の間に10分の1に低下した。木綿生産量は1970年代に回復しはじめ、1990年代初めには1960年代以前のレベルにもどる。
しかし、合成繊維のほとんどは、枯渇資源である石油を利用。しかも安価に製造するには大量生産が前提。破棄しても腐らないので土に戻らない。今後の工業は多品種少量生産が前提だ。天然繊維への回帰が良いというエコロジー的な視点もある。
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ラフレシア
皆(みな)さん。ラフレシア(rafflesia)の花って知ってますか。世界一大きな花として有名ですね。東南アジアの島やマレー半島にあるそうだ。ラフレシア科ラフレシア属の植物で、どれも完全な寄生植物で、十数種程度あるそうだ。どれも多肉質の大形の花をつけ、中でもラフレシア・アルノルディイ(日本語で「ラフレシア」と呼ぶ場合、たいていこの種を指す)の花は直径90cm程にも達し、「世界最大の花」としてよく知られています。
この花の花粉を運んでいるのは、ハエでです。腐った動物の死体や汲み取り便所(昔のトイレだ)の臭いに喩(たと)えられる腐臭を発します。すごく臭いんですね。この臭いで送粉するハエを引き寄せるんです。見た目もあまりきれいじゃないね。でも、ハエにはとても美しく見えるのかな。花言葉は「夢現」(ゆめうつつ。夢と現実の区別のつかない状態のこと)ということらしいが。
ヨーロッパ人で、この花を始めて発見したのは、シンガポールを建設したトーマス・ラッフルズの調査隊。同行したメンバーは「人食い花ではないか?」と恐れたそうだ。ラッフルズはそんな迷信を恐れず、花に触って無害であることを証明したとのこと。ラッフルズさんが発見したのでラフレシアになったんですね。
この植物の生態がまたとても奇妙なんだ。他の植物の根(ブドウ科植物)に寄生し、そこから栄養分を奪い取る。ここから直接花を出して茎も根も葉もない。花は雄花と雌花に分かれいる。雄花の葯(やく)からは粘液に包(つつ)まれクリーム状になった花粉が出て、花の奥に入り込んだハエの背面に付着する。このハエが雌花に誘引されて花の奥に入り込み、めしべの柱頭に背中が触れると受粉が成立します。花弁(かべん)は発泡スチロールのような質感(しつかん)で、踏(ふ)むと乾いたようなパキパキという音がするそうだ。残念ながら日本でラフレシアが見れる植物園は無いようです。飼育が難しく現地でもなかなか見るのは大変らしい。
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ショクダイオオコンニャク
ショクダイオオコンニャク(燭台大蒟蒻)は、サトイモ科・コンニャク属の植物。別名スマトラオオコンニャク。インドネシア、スマトラ島の熱帯雨林に自生する。最短でも2年に一度2日間しか咲かない、世界最大の花として有名になった。ショクダイは燭台(ショクダイ)、つまり蝋燭(ろうそく)の台だね。蒟蒻(コンニャク)という字は凄(すご)く難しいね。世界最大の花としてラフレシアがあったね。こちらは花序(かじょ)として最大。タンポポの花みたいに沢山の花が集まって一つの花に見えるものを花序というらしい。単独の花としてはラフレシアの地位は変わらないそうだ。こちらは日本の植物園でも見られるらしい。
【小石川植物園】
小石川植物園は東京大学の付属施設(ふぞくしせつ)となってますが、桜やツツジ、モミジの頃など一年中散策(さんさく)が楽しめます。元は徳川幕府の薬草園(やくそうえん)だったのです。
小石川植物園の改修された温室にショクダイオオコンニャクを見つけました。今は、葉だけですが、何時花が咲くのか楽しみですね。(2019.12.8)
色々な木が見れるよ。
【追記】
小石川植物園(東京大学付属植物園)のショクダイオオコンニャクの花が2023年末に開花した。13年ぶりの開花だという。このため普段は閑静な植物園に大勢の見学者が殺到。なんと"この花"とのご対面は90分待ちとか。あきらめて園内を散策していたら、隣の温室から、看ることができた。ただし近寄って見た訳ではないので匂いまでは分かりませんでしたが。下図は当日貰ったパンフレットから。
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キャッサバ
キャッサバ(cassava)は、トウダイグサ科の熱帯低木。皆さんの大好きなタピオカの原料は、イモだったんですね。原料は安そうなのでこれだけ普及したんでしょうね。
キャッサバは、もともとは南米、北東ブラジルが原産。キャッサバ芋(いも)はタピオカの原料であり、多くのデンプンを持つことから世界各地で重要な作物として栽培されていて、食用や工業原料として広く利用されているんだ。
栽培はとても簡単で、茎を地中に挿すだけで発根、そのまま生育するらしい。作付面積あたりのカロリー生産量はあらゆる芋類・穀類より多く、デンプン質の生産効率は高い。素晴らしい夢の作物みたいだね。
しかし食用とするためには毒抜き処理が必要。毒抜きのために皮や芯を除去しても、その場で加工しなければ腐ってしまう等利用の制約も大きい。
食用以外の利用範囲も広く、葉を発酵(はっこう)させて毒抜きし飼料として利用するほか、アルコール発酵によるバイオ燃料(バイオマスエタノール)製造も注目を浴びている。農作物としては、悪環境下(乾燥地、酸性土壌、貧栄養土壌)でも生育可能など、これまで農地とされなかった場所での栽培ができ、食糧問題や地球温暖化問題の解決への期待も大きい。
さらに、熱帯の都市では緑地帯の植え込みにも利用され、室内での観葉植物としても利用価値がある。観賞用の斑入り(ふいり)の葉の品種もある。丈夫で育てやすいんだね。
タピオカ (tapioca) は、トウダイグサ科のキャッサバの根茎から製造したデンプンのこと。菓子の材料や料理のとろみ付けに用いられる他、つなぎとしても用いられる。紙の強度を上げるための薬剤の原料としても重要。
キャッサバデンプンをタピオカと呼ぶのは、ブラジルの先住民のトゥピ語で、でんぷん製造法を「tipi'óka」と呼ぶことによるらしい。タピオカにはグルテンがなく(小麦粉には大量に含まれる)、タンパク質もほとんどない。水分を加えて加熱すると糊化しやすく、抱水力が強いのが特徴である。
**グルテン
グルテン (gluten) あるいは麩質(ふしつ)は、小麦、ライ麦などの穀物の胚乳(はいにゅう)から生成される二つのタンパク質グルテニンとグリアジンが水を吸収して網目状につながったもの。料理では小麦粉に水を加えてこねる事でこれら2つのタンパク質が絡みあってグルテンができる。グルテンは食物アレルギーの原因となるタンパク質でもある。アレルギー体質の人はパンやウドンやスパゲッティが食べられないのでとても気の毒だね。
生産
国際連合食糧農業機関(FAO)が発表した統計資料によると、2019年(令和元年)の全世界における生産量は3億0356万トンであり、主食にするイモ類ではジャガイモ(同3億7043万トン)に次ぎ、第3位のサツマイモ(同9182万トン)を大きく上回る。つまり2位。
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裸坊達の部屋
芙蓉
フヨウ(芙蓉、Hibiscus mutabilis)は、アオイ科フヨウ属の落葉低木。「芙蓉」はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には「木芙蓉」(もくふよう)とも呼ばれることも。
中国、台湾、日本の沖縄、九州・四国に自生する。日本では関東地方以南で観賞用に栽培される。幹は高さ1.5~3m。寒地では冬に地上部は枯れ、春に新たな芽を生やす。葉は互生し、表面に白色の短毛を有し掌状に浅く3~7裂する。
7~10月初めにかけてピンクや白で直径10~15cm程度の花をつける。朝咲いて夕方にはしぼむ1日花で、長期間にわたって毎日次々と開花する。花は他のフヨウ属と同様な形態で、花弁は5枚で回旋し椀状に広がる。先端で円筒状に散開するおしべは根元では筒状に癒合しており、その中心部からめしべが延び、おしべの先よりもさらに突き出して5裂する。果実は蒴果で、毛に覆われて多数の種子をつける。
**蒴果( さくか、 capsule):
蒴果とは、果実の型の1つであり、複数の心皮からなり、果皮はふつう乾燥しており、裂開して種子を放出する果実のことである。ドクダミ、ユリ、ラン、アヤメ、ネギ、ツユクサ、イグサ、スミレ、ヤナギ、カタバミ、ナデシコ、ツバキ、ツツジ、アサガオ、キキョウ、ホウセンカなどさまざまな植物に見られる。
同属のムクゲと同時期に良く似た花をつけるが、直線的な枝を上方に伸ばすムクゲの樹形に対し、本種は多く枝分かれして横にこんもりと広がること、葉がムクゲより大きいこと、めしべの先端が曲がっていること、で容易に区別できる。フヨウとムクゲは近縁であり接木も可能。
南西諸島や九州の島嶼部や伊豆諸島などではフヨウの繊維で編んだ紐や綱が確認されている。甑島(こしきしま)列島(鹿児島県)の下甑町瀬々野浦ではフヨウの幹の皮を糸にして織った衣服(ビーダナシ)が日本で唯一確認されている。ビーダナシは軽くて涼しいために重宝がられ、裕福な家が晴れ着として着用したようである。現存するビーダナシは下甑島の歴史民俗資料館に展示されている4着のみであり、いずれも江戸時代か明治時代に織られたものである。
*スイフヨウ(酔芙蓉、Hibiscus mutabilis cv. Versicolor)
朝咲き始めた花弁は白いが、時間がたつにつれてピンクに変色する八重咲きの変種であり、色が変わるさまを酔って赤くなることに例えたもの。なお、「水芙蓉」はハスのことである。混同しないように注意のこと。
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朝顔
『万葉集』巻十にあるアサガオの。 「朝がほは朝露負ひて咲くといへど、ゆふ陰にこそ咲きまさりけれ」。この時代今の朝顔は日本に伝わってなかったらしい。夕暮に際して特に眼をひいた花の風情を愛でたものか。
万葉集に登場する「朝顔(あさがほ)」は、私たちが良く知っているあのヒルガオ科のあさがおとは違います。当時は、朝に咲くきれいな花を「朝顔(あさがほ)」と呼んだようです。桔梗(ききょう)、木槿(むくげ)などとする説があります。現在では、桔梗(ききょう)であるとする説が有力。写真は、桔梗(ききょう)と木槿(むくげ)です。
アサガオ(朝顔、Morning glory)は、ヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物。日本で最も発達した園芸植物。古典園芸植物。中国語で牽牛。日本では「蕣」の漢字も当てられる。
葉は広三尖形で細毛を有する。花は大きく開いた円錐形で、真夏に開花。
自生種が存在することから、ヒマラヤかネパールから中国にかけての地域のどちらかが原産地であるとする説が有力。しかし近年になって、熱帯アメリカ大陸が原産地であるとする説も出されている。
日本への到来は、奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされる。アサガオの種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けにごし、けんごし)」と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていた。朝顔の葉を細かに揉み、便所の糞壺に投じると虫がわかなくなる。再びわくようになったら再投入。
世界的に見ても、これほど形態が多種多様に変化した園芸植物は他にない。ほとんどの変異は江戸時代に生まれたものである。変異の著しいものには種子を作る事ができないものもある。
この変異が著しいために、種子ができない、または非常に結実しにくいものは「出物(でもの)」と呼ばれる。不稔である出物の系統を維持するためには、変化が発現しなかった株(「親木(おやぎ)」と呼ばれる)により遺伝的に伝えて行くしかない。したがってたくさんの種をまき、小苗の内に葉の特徴から変化を有している株は出物として鑑賞用に育成し、残りの株の中から出物の変異を隠し持っている親木を鑑別し、こちらは出物の採種用として育成することになる。そのため江戸時代の人々は経験的にメンデルの法則を知っていたとも言われる。
品種改良の歴史
江戸時代の2度の朝顔ブームを機に品種改良が大きく進んで観賞用植物となり、木版の図譜類も多数出版される。この時代には八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれた。これらの朝顔を現代では「変化朝顔」と呼ぶ。変化朝顔は江戸、上方を問わず大きく流行し、特に珍しく美しいものは、オモトや菊などと同様、非常に高値で取り引きされた。「大輪朝顔」も「正木(まさき)」と呼ばれる結実する変化朝顔の一種である。江戸時代の変化朝顔ブームは、文化・文政期(1804年-1830年)、嘉永・安政期(1848年-1860年)にあり、幕末には約1200系統が作られた。ブームの発端は、文化3年(1806年)の江戸の大火で下谷に広大な空き地ができ、そこに下谷・御徒町村付近の植木職人がいろいろな珍しい朝顔を咲かせたことによる。その後、趣味としてだけでなく、下級武士の御徒が内職のひとつとして組屋敷の庭を利用して朝顔栽培をするようにもなった。
上記とは別に、熊本藩では武士たちによる園芸が盛んで、朝顔も花菖蒲や菊、芍薬、椿、山茶花などと共に愛好されており、盛んに育種されて独自の系統が生まれた。本来の朝顔の花型を保ち、大輪であり、「肥後朝顔」と呼ばれる。これが後世の大輪朝顔の祖先の一つになった。これら熊本の六種類の園芸植物は現在「肥後六花」と総称され、熊本に伝えられている。
戦後は大輪朝顔が主流を占めるようになり、直径20cm以上にもなる花を咲かせることのできる品種も現れた。もちろんそのためには高度な栽培技術が確立されたことも重要である。変化朝顔は維持が難しいためごく一部でのみ栽培されているが、最近再び注目されつつある。
アサガオは色彩も豊富である。原種は薄い青色だが、品種改良によって白、紅色、ピンク、紫、濃紺、浅黄色等の品種が生まれた。また、茶色、灰色、黒鳩色、紅鳩色、葡萄鼠色など通常の花色としてはかなり特異な品種も存在する。
「黃色の朝顔」と「黒色の朝顔」の両者は「幻の朝顔」と呼ばれる。このうち、「黄色の朝顔」については昭和40年代に再現が試みられ開花に成功し、NHKのニュース番組でも報道。その後は定着せずに絶えた模様。一方、「黒色の朝顔」の作出も試みられている。現在、黒色に最も近いといわれるものとして「黒王」という品種がある。
おおよそは、江戸時代に突然変異により作られた品種をベースに交配を重ねて新しい品種がつくられている。これを育種と呼ぶ。
高温を好む植物で短日性のため、イギリス等の高緯度地域での栽培は難しく欧米ではあまり品種もないが、庭園用の多花性品種として鮮紅色中輪の「スカーレット・オハラ」などが作出されている。なお近縁種のマルバアサガオは比較的早くから欧米で栽培され、花色の変異も色々見られる。
さらに「ヘブンリー・ブルー」などのソライロアサガオは近縁の別種である。ソライロアサガオやマルバアサガオはまとめて「西洋朝顔」と呼ばれることもある。
*短日植物
アサガロは、日が長くなる季節に茎や葉が茂り、日が短くなり、夜が一定時間より長くなると花芽が出来て花が咲く。このような植物を「短日植物」という。ダリア、キク、コスモスなど秋に咲く花が多い。反対に日が長くなると花を咲かせる植物は長日植物と呼ばれる。小麦、大根などがある。
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メタセコイア
界 : 植物界 Plantae
階級なし : 維管束植物 Tracheophyta
門 : 球果植物門 Pinophyta
綱 : マツ綱 Pinopsida
目 : マツ目 Pinales
科 : ヒノキ科 Cupressaceae
属 : メタセコイア属 Metasequoia
種 : メタセコイア M. glyptostroboides
学名:Metasequoia glyptostroboides、和名:アケボノスギ 、英名:dawn redwood
メタセコイアは、ヒノキ科(またはスギ科)メタセコイア属の落葉樹。1属1種。和名はアケボノスギ(曙杉)、イチイヒノキ。和名のアケボノスギは、英名 dawn redwood(または、学名 Metasequoia)を訳したもの。
当初は日本を含む北半球で化石として発見されるのみで、絶滅した植物と考えられていたが、1946年に中国四川省(現在の湖北省利川市)で現存していることが確認された。
樹高は生長すると高さ25-30 m、直径1.5 mになる。葉はモミやネズに似て線のように細長く、長さは-3 cm程度、幅は1-2 mm程度で、羽状に対生。秋に赤茶色に紅葉した後、落葉する。雌雄同株で、花期は2-3月。雄花は総状花序、あるいは円錐花序となって枝から垂れ下がる。 結実は多く、秋から冬にかけて無数の種が地表に落ちる。
**球果植物門
球果植物(きゅうかしょくぶつ、学名:Pinophyta、シノニム:Coniferophyta)は、裸子植物のうち、その種子がかさ状の構造に包まれるもの(毬果(きゅうか)植物類)を指す。マツ門ともいう。スギやヒノキ、マツ類といった、いわゆる針葉樹植物(コニファー)はこのグループに含まれる。現生種はすべて木本である。
**東京大付属の小石川植物園で見たメタセコイアは背が高くまっすぐ伸びていてなかなか美しい。生きた化石ということで興味を持って調べて見た。恐竜の餌にもなったのかもしれない。セコイアと言う樹もあるけど、こちらは常緑樹。メタセコイアの人気には敵わないようだ。アケボノスギと言う名もなかなか化石っぽくて捨てがたいね(アケボノゾウとかもあった)。
分布
メタセコイアの化石は日本各地の新生代第三紀層に見られ、カナダ北部・シベリア・グリーンランドなど北半球の北極周辺に広く分布していた。1939年に日本の関西地方の第三紀層で、常緑種のセコイアに似た落葉種の植物遺体(化石の1種)が発見された。発見者の三木茂により、セコイアに「のちの、変わった」という意味の接頭語である「メタ」をつけて「メタセコイア」と命名され、1941年に学会へ発表された。それまで発見されていたヌマスギやセコイアと異なると考え、メタセコイア属を設けた。また、落葉樹であることも推定した。
日本では2016年1月に福島県広野町の中生代白亜紀の地層から発見された化石が国内最古のメタセコイアの化石とされている。
現生種の発見: 当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1946年に南京大学の鄭万鈞から北京の静生生物研究所の胡先驌のもとに送られた植物標本が三木論文にあるメタセコイアであることが判明した。これは中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサン)」と呼ばれたもので、「生きている化石」と呼ばれることも多い。
1948年、アメリカのチェイニー(Ralph W. Chaney)が、湖北省から苗を持ち帰り育成。その一部が1950年に三木が結成したメタセコイア保存会に送られ、保存会により日本国内の研究機関や自治体に配布された。
1949年に日本政府と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、全国各地の公園、並木道、校庭などに植えられている。
愛媛県伊予市の市の木に指定されている。滋賀県高島市のメタセコイア並木が日本紅葉の名所100選に選定されている。
種子は英国などの種苗会社からインターネット通販などで入手できる。何故、日本では種子は生産できないのか? タネは直径2~3mmの淡黄色のおがくず状で、日本の気候にはよく合い生育は早いと言われる。
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スギ(杉)
スギ(学名: Cryptomeria japonica)は、ヒノキ科スギ亜科スギ属で、日本原産の常緑針葉樹。主に本州以南の山地に生え、広く植林される。
**植物界→球果植物門 Pinophyta→マツ綱 Pinopsida→マツ目 Pinales→ヒノキ科 Cupressaceae→スギ亜科 Taxodioideae→スギ属 Cryptomeria→スギ C. japonica
漢字の「杉」は、日本ではスギのことを指すが、中国ではコウヨウザンのことを指す。中国では日本の杉の仲間を「柳杉」と呼ぶ。他にも「椙」の字の表記がある。「椙」はいわゆる国字であり、日本でしか通じない。太平洋側に産するものを「オモテスギ」、日本海側に産するものを「ウラスギ」と呼んで区別することがある。
それでは、英語では杉はcederと出ているが、正確にはjapanese cederとしないと別の木に取られてしまうだろう。レバノン杉何て言うのもあるし。
本種は単型であり、本種のみでスギ属 (Cryptomeria属) を形成する。科はヒノキ科に属する。ヒノキ科は中生代に登場した起源の古い植物群で、現在は日本のスギの他、アメリカ大陸のセコイア Sequoia sempervirens、中国のメタセコイア Metasequoia glyptostroboides、コウヨウザン Cunninghamia lanceolata などが遺存的に分布している。
**コウヨウザン(広葉杉、檆、学名:Cunninghamia lanceolata)は、中国南部原産のヒノキ科コウヨウザン属の樹木。木材を採るために原産地の中国では中部以南を中心に広く栽培される樹種。日本には江戸時代後期に渡来したといわれる。国内ではあまり注目されてこなかった樹種であるが、成長の早さやヒノキに近いとされる材質の良さが近年見直されて特性や育種面の研究が進められているとか。
代表的な針葉樹として分類的にスギに近縁ではないものまでスギと名付けられることがしばしば見られる。たとえばレバノンスギ (Cedrus libani)、ヒマラヤスギ (C. deodara)はスギの名前がついているもののヒノキ科ではなくマツ科に属する。また、バラ目のアズキナシをカタスギと呼ぶことも。
日本固有種。本州(青森県)から、四国、九州の屋久島まで分布し、主に山地に自生。また北海道各地にも広く造林されていて、植林の北限は日本海沿岸の羽幌。古くから植林されており、日本の造林面積としては最も広い樹種である。沢沿いなど比較的水分と栄養分に富む環境を好む傾向があり、植林の際にも谷間はスギ、中腹はヒノキやサワラ、尾根筋はマツと植え分けられる。
スギは本州各地における造林地ではヒノキ(Chamaecyparis obtusaヒノキ科ヒノキ属)、アカマツ(Pinus densiflora マツ科マツ属)、カラマツ(Larix kaempferi マツ科カラマツ属)と並んで主要な林業用の針葉樹であり、その中でも全国的に最も植えられている最重要の樹種である。造林の主な目的はその幹から製材される木材である。材が比較的軟らかく加工性に富むこと、幹が通直で歩留まりが良いこと、一定の腐朽に対する耐性があることなど様々な利点を持つ。また生態的にも温帯の気候になじみやすく、成長速度も比較的速いことも利点である。ただし、道南を除く北海道においては林業における主要な樹種はカラマツ、トドマツ(マツ科モミ属)、アカエゾマツ(マツ科トウヒ属)といったマツ科針葉樹や各種の落葉広葉樹となる。
京都の北山杉の真直ぐ伸びる姿や確かに景観的に美しいが、林業に携わる方々のメンテナンスの努力も大変なんだろうと想像する。他の杉林も同様であろが。
堆積物中の花粉化石の調査結果によれば、日本列島は氷期にマツ類が卓越した時期を除けば、おおむねスギ林が分布していたことが判明している。特に気候が温暖化し始めた1万年前頃から伊豆半島周辺域や日本海側でスギ林が繁茂し始め、2000年~1500年前にはスギ花粉の出現率は70%を超えるほどの繁栄期を迎えていた。
【杉玉】
杉玉(すぎたま、すぎだま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる。「搾りを始めました」という意味。
発祥:奈良県にあるお酒の神様を祭る大神神社の文化だったといわれる。大神神社では、毎年11月14日に「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきたが、その習慣が江戸時代初頭から全国の酒蔵へ広まった。大神神社がある三輪山周辺にはスギが多く自生し、三輪山のスギは聖なるものとされているため、スギを使った杉玉ができたとされている。本来は三輪山のスギで作られた杉玉を飾ることが習わしだったが、現在では各地の酒蔵が独自に製造したり、業者に依頼して作っていることが多い。
杉玉と似たものでスズメバチの巣を飾っている店もある。これはこれで迫力のある飾り物だ。スズメバチ自体は極めて危険なハチではあるが。
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レバノン杉
レバノンスギ(lebanese cedar、学名:Cedrus libani)は、マツ科ヒマラヤスギ属の針葉樹。なんと同じヒマラヤスギ属のヒマラヤスギと同様、名前に「スギ」が付いているが実際はマツ科。なおスギは同目ではあるもののスギ科(または広義のヒノキ科)スギ属であり、近縁ではないとか。
良質の木材であり、古代エジプトやメソポタミアのころから建材や船材に利用されていた。レバノンに住んでいたフェニキア人はこの木を伐ってガレー船建造や木材・樹脂輸出を行い、全地中海へと進出した。聖書に出て来るノアの箱舟も材料はレバノン杉だったんでは?
レバノン、シリアなどの高地が原産。高さは40 mほど。古代においては中近東一帯に広く自生していたが伐採利用が大規模に進んだ結果、レバノンスギの森は消滅し現在においてはレバノン等のごく一部の地域に小規模に残存するのみとなり、保護扱いされている。現在わずかにレバノンスギが残存するカディーシャ渓谷と神の杉の森は世界遺産に登録されている。レバノンの国旗および国章のデザインにも用いられている。
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ワカキノサクラ
花びらの縁が赤く、花芯が白の珍しい色。高知県佐川町で牧野富太郎博士が発見したもので、種から発芽し3年ほどで花を咲かせるヤマザクラの幼形開花型、つまり変種。名前もこのことから付けられた。漢字で書くと「若木桜」だと思われるでしょうが「稚木桜」だそうだ。余り大きくならず鉢植えでも栽培可能なので盆栽としても利用されているとか。
ヤマザクラ(山桜、学名: Cerasus jamasakura)はバラ科サクラ属の落葉高木のサクラ。日本の固有種で、日本に自生する10もしくは11種あるサクラ属の基本野生種の一つ。便宜的に山地に植生する野生のサクラを総称してヤマザクラ(山桜)ということもあり、品種としてのヤマザクラとの混同に注意が必要。
日本の固有種である。オオシマザクラと同じく暖温帯に分布する。主に西日本の暖温帯を中心に分布するが、東日本にも自生する。本州、四国、九州に分布がみられ、北限は太平洋側では宮城県、日本海側では新潟県。南限は鹿児島県のトカラ列島。
本来は常緑広葉樹林が植生域であるが、二次林の落葉広葉樹林の方に多く進出して植生してきた。人間の生活圏の拡大と共に森が伐採されて陽当たりが良くなったためである。しかし1960年代以降は林業の衰退により二次林が放置され陽当たりの悪い場所が増え、ヤマザクラの植生域が減少している。
中国や朝鮮半島(韓国)の一部地域にも分布しているという説もあるが、カスミザクラやオオヤマザクラの誤認の可能性も高いという。
ヤマザクラは多くの場合葉芽と花が同時に展開するので、花が先に咲くソメイヨシノと区別する大きな特徴となる。また成長に時間がかかり、花の数も少ない。
ヤマザクラは野生種で数も多いため、同一地域の個体群内でも個体変異が多く、開花時期、花つき、葉と花の開く時期、花の色の濃淡と新芽の色、樹の形など様々な変異がある。新芽から展開しかけの若い葉の色は特に変異が大きく、赤紫色や褐色の他にもツクシヤマザクラでは黄緑色、緑色もあり、先端の色が濃いものなどもある。
ソメイヨシノ
ソメイヨシノ(染井吉野、学名: Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino’)は、母をエドヒガン、父を日本固有種のオオシマザクラの雑種とする自然交雑もしくは人為的な交配で生まれた日本産の栽培品種のサクラ。遺伝子研究の結果、1995年にソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑してできた単一の樹を始源とする、栽培品種のクローンであることが明らかにされた。
日本では、サクラは固有種を含んだ10もしくは11の基本の野生種を基に、これらの変種を合わせて100種以上の自生種がある。さらに古来から改良開発されてきた栽培品種が少なくとも200種以上あり、分類によっては600種以上、または800種とも言われる品種が確認されている。
これら多品種のサクラのうち、ソメイヨシノは江戸時代後期に開発され、昭和の高度経済成長期にかけて日本全国で圧倒的に多く植えられた。このため今日では気象庁が沖縄県以東、札幌以西の各地のサクラの開花・満開を判断する「標本木」としているなど、現代の観賞用のサクラの代表種となっており、単に「サクラ」と言えばこの品種を指す事が多い。
なお、ソメイヨシノという表記は、一般的にはエドヒガンとオオシマザクラの種間雑種から生み出された特定の一つの栽培品種を指すが、便宜的にエドヒガンとオオシマザクラの種間雑種のサクラ全てを指している場合もある。
ヒマラヤザクラ (ヒマラヤ桜 学名:Prunus cerasoides) はバラ科サクラ属の樹木。サクラの野生種の一つ。英語圏ではワイルド・ヒマラヤン・チェリー (英語: Wild Himalayan Cherry) とも呼ばれる。東アジアや南アジアに見られる落葉性の樹木である。ヒマラヤが起源と考えられており、インドのヒマーチャル・プラデーシュからネパール、中国南西部、ビルマなどに見られる。海抜1200mから2400mの高山の森に生える。また、サクラ自体もヒマラヤ近辺が原産と考えられている。
桜の起源がヒマラヤで唐時代に遠路日本までやって来たとすれば壮大な話だけど、どうなんでしょうね。
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ハタザクラ
「ハタザクラ(旗桜)」は、埼玉県志木市にある「世界に1本」の桜だそうだ。正確には「チョウショウインハタザクラ(長勝院旗桜)」という名前だそうだ。長勝院はこの桜があるお寺の名前。散歩の途中でハタザクラの標識を見かけたので立ち寄ってみたが、まだ蕾の状態で開花には至っていなかった。ソメイヨシノよりは1週間程度開花が遅いらしい。以下は、HPに出ていたものを紹介。
*ハタザクラと言うのは実は日本各地のあるようだ。チョウショウインハタザクラが世界唯一のものらしい。
桜の花は普通花びらが5枚。しかし、旗桜はその5枚のほかに、中心部に1枚か2枚(ときにはもっと)の花びらのようなパーツを持つ花をつけるらしい。この余分なものが旗に見えるところからの命名で、これが珍種の所以とのこと。じつはこの旗は花びらではなく、雄シベが変形したものらしい。この旗を持つ花は、全体の1/2から1/4の確率で存在するそうだ。「日本さくらの会」の研究誌である『桜の科学』にこの名前で登録されたとのこと。
しかし、今年(2007年)は肝心のハタザクラ(親木)の衰弱がひどく、あくまで個人的見解ではありながら、もはや一般的な「観光」に耐える資源ではなくなったとらしい。
そもそもが樹齢400年以上ということですし、加えて90年代に保護されるようになるまではかなり粗末に扱われた時代もあるようです。樹勢の衰えは避けられない事態なのでしょう。稀少種に対する興味でお出かけいただく方のために、今後もこのページは続けるつもりです。ただし、どうか上記事情をご勘案いただきたく存じます。
もちろん、市内各所で若木が育成されており、ハタザクラが志木の象徴的存在であることには変わりがありません。お出かけいただいたときには、老衰の親木だけでなく、これら若木もご鑑賞いただければ幸いです。(2007年4月15日)→そうします(2024年4月:筆者)
ハタザクラはオオシマザクラの変種らしく、荒川の土手など関東一円のあるようだが、ネットでは志木市のものがダントツに出て来る。
【オオシマザクラ】
オオシマザクラ(大島桜)はバラ科サクラ属のサクラで、日本の固有種。日本に自生する10もしくは11種あるサクラ属の基本野生種の一つ。成長が速く再生力も強いので古来雑木林に植えられて燃料として多用されたことからタキギザクラ(薪桜)の別名がある。また、葉が桜餅の葉に使われるためモチザクラ(餅桜)とも呼ばれる。
緑色の新葉の展開と同時に一重咲きの大輪の花を比較的多く咲かせ、花弁の色は白色、花径は30 ~40ミリメートル (mm) ある。花弁は5枚で、先が2つに分かれている。花と葉は、クマリン由来の比較的強い芳香を持つ。葉が桜餅に使われる理由だ。花柄や花序は長く、花は下垂して下向きにつく。突然変異しやすく八重咲きになったものもあり、増えた花弁で雄蕊と中間的な形質を持つものを「旗弁(きべん)」という。緑色の葉と相まってこの白い花びらが目立つことから旗弁を持つオオシマザクラは「旗桜」「白旗桜」とも呼ばれる。源氏の旗印も白旗であり、オオシマザクラの元の分布域が関東であることから、オオシマザクラと東国武士には強い関係性があるとも言われている。果期は6月。果実はサクラのなかでも大きく球形から俵形で、熟すと黒紫色になる。サクランボとして売られている黒紫色の実はオオシマザクラでしょうか? 観賞用に栽培されたり、サクラの中でも潮風に強いため防腐樹として利用されている。葉は香りがよいことから塩漬けにして、桜餅を包んでいるサクラの葉に使われることでもよく知られている。
日本は鑑賞(花見)目的で、世界各国に比べて歴史的にも圧倒的に多くのサクラの栽培品種を生み出してきた。オオシマザクラは八重咲きなどに突然変異しやすく、成長が速く、花を大量に付け、大輪で、芳香なため、その見栄えのする特徴を好まれて花見の対象となってきた。またこれらの特徴から、優良個体や突然変異個体の選抜・育種・増殖の繰り返しの結果として多くの栽培品種の親種となってきた。オオシマザクラを基盤とするこれらの栽培品種はサトザクラ群と呼ばれている。サトザクラ群にはカンザンのように濃い紅色の花弁を持つ品種もあるが、これは意外にも花弁が白色のオオシマザクラの特質を継承していると考えられている。一般的なオオシマザクラの花弁は白いが、色素のアントシアニンの影響で稀に花弁がわずかに紅色に染まる個体があり、散り際の低温刺激でも紅色が濃くなることがある。通常の野生状態ではこのように紅色の発露が制御されているが、選抜育種の最中に突然変異が起こって紅色の個体が生まれ、ここからカンザンなどの紅色系のサトザクラが誕生したと考えられている。なおソメイヨシノもオオシマザクラが親であるが父であるためサトザクラ群には含めない。では、ソメイヨシノの母親は誰なんでしょうね。
鎌倉時代に関東南部に人の往来が多くなると、現地のオオシマザクラが栽培され京都に持ち込まれるようになったと考えられている。そして室町時代にはオオシマザクラに由来するフゲンゾウやミクルマガエシが誕生し、江戸時代にはカンザンなどの多品種のサトザクラ群が生まれて、現在まで多くの品種が受け継がれている。桜の品種改良にも親が父親の場合と母親の場合があるんですね。父親の雄蕊(オシベ)の花粉を雌蕊(メシベ)に付けて受粉させる。これを逆にすると異なった品種が生まれる??。
木材および燃料
成長が速く再生力が強いので雑木林に植えられて古来燃料(木炭)として利用された他、木材としても目が細かく均質であるため、浮世絵の版木やいら建材、家具の材料として用いられた。樹皮は磨くと光沢が出るため、工芸品として樺細工のように茶筒などの原料として用いられた。
食用材
花や葉が分解する時にクマリンの配糖体に由来する芳香を放ち、生育が良く萌芽しやすく毎年若葉を多くつけるため、昔から塩漬けにして分解を促進して芳香を増した葉が桜餅の葉に使われてきた。他のサクラの葉でも塩漬けにすればオオシマザクラと同等のクマリンの香りを生成することがあるため、現在では他の樹種の葉も桜餅に使われている。初夏にかけて結実し十分に熟した果実は食用となるが、通常の食用種であるセイヨウミザクラ(サクランボ)と比較してえぐみが強く実も小さいため、食用として流通することはない。渋みが多い野生種のサクラのなかでもオオシマザクラは渋みは少なく、果実酒にすると味の良いものができる。樹皮は漢方薬の材料となり桜皮として用いる。鎮咳、去痰効果があるとされる。
緑化植樹として
光さえあれば栄養の乏しい土壌や火山性ガスにも耐性が強いなど悪環境下でも生育しやすいので、現代では工業地帯に緑化目的で植樹される。1950年代以降、海岸線沿いに防風林として植えられたクロマツがマツ材線虫病に罹患して枯れることが相次いだため、悪環境に強いと見られたオオシマザクラが代替樹として植えられたが、サクラの中では強いと言っても潮風に強い樹種とまでは言えないため2010年代後半時点では植えられることは減っている。
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トウダイグサ
本州から沖縄の各地に見られるのはもちろん、北半球の温帯、暖帯に広く分布。春に花を咲かせる頃の草姿が昔の燈台の形に似ていることから「トウダイグサ」の名がついた。生薬名を「沢漆(タクシツ)」といい、茎葉に峻下作用(峻下剤(シュンゲ)とは下剤のうち、特に作用の強いもの)があるとされる。茎の切り口から出る白い乳液に触れるとかぶれることがあるので要注意。切り花に用いられるハツユキソウ(E. marginata Pursh)やクリスマスによく見かけるポインセチア(E. pulcherrima Willd. ex Klotzsch)は、本種と同じトウダイグサ科Euphorbia属の植物。(武田薬品工業株式会社 京都薬用植物園)
道ばたや畑地など、人里周辺の日当たりの良い場所に生える越年草です。茎は途中で枝分かれしないままのびて、高さ30センチメートルほどになります。花期が近づくと、茎の先端が放射状に枝分かれして、まるで平皿のように広がる。この草姿が燈台(昔の照明器具)を連想させるため、燈台草とつけられた。
花は小さくて地味。その周りの苞葉(葉が変化した部分)が鮮やかな黄緑色になるため、晴れた日はまばゆく輝いて目立つ。果実は3個の球をつなげたような姿。これを鈴に見立てたスズフリバナという別名もある。
茎や葉をちぎると白い乳汁が出る。この乳汁は有毒で、さわるとかぶれ、誤食すると中毒を起こすおそれがある。(野田市のHP)
トウダイグサに良く似た植物にノウルシ(これもトウダイグサ科)がある。河川敷に生えており、荒川の田島ヶ原サクラソウ自生地(さいたま市)にもサクラソウと共に自生しており、サクラソウを凌駕する勢いがある。でも環境省のレッドリストにも。
なお、トウダイグサ科に属する植物は非常に多い。食糧として重要なキャッサバ(タピオカの原料にも)、トウゴマ(唐胡麻)はトウゴマ属の多年草。別名、ヒマ(蓖麻)。種子から得られる油はひまし油(蓖麻子油)として広く使われており、種にはリシン (ricin) という毒タンパク質がある。パラゴムノキ (Para rubber) は、パラゴムノキ属の常緑高木。幹を傷つけて得られる乳液 (ラテックス、latex)は天然ゴムの原料。「パラ」は原産地であるブラジル北部の州(パラ州)に由来。
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セツブンソウ
セツブンソウ(節分草、学名:Eranthis pinnatifida)は、キンポウゲ科セツブンソウ属の多年草。漢名には菟葵(tú/tù kuí)・莃が当てられるが、中国語では別の植物を指すようだ。
植物図鑑なら次のような解説があるだろう。
地下に球状で径0.8~1.5cmの暗褐色をした塊茎があり、下からひげ根を出す。茎は高さ10~30cmになり、その上方に2個の茎葉が無柄で輪生する。茎葉は長さ2~2.5cm、幅3~5.5cmになり、深く羽状に切れ込み、裂片は広線形となる。根出葉は単生し、葉柄は長さ7~15cm、五角状円形で長さ幅ともに1~5cmになり、3全裂し、さらに羽状に欠刻する。
花期は2-4月。つまり冬の花か。花は茎先に単生し、白色で径2~2.5cmになる。花柄は茎葉から出て長さ0.5~1cmになり、細かい絨毛がある。花弁に見えるのは花弁状の萼片(がくへん)で、ふつう5個あり、広楕円形で長さ1~1.5cm、幅1.5~0.8cmで先端は尖る。花弁は5~10個あり、先端は2裂し、黄色から橙黄色の蜜腺になる。雄蕊(ゆうずい; おしべのこと)は多数あり葯(やく;雄蕊の先の花粉が入った袋)は淡紫色になる。雌蕊(ゆうずい)は2~5個。果実は袋果となり、種子は径2mmになり、褐色で表面は滑らか。
日本固有種。本州(関東地方以西)の特産で、石灰岩地を好む傾向があり、まばらな温帯夏緑林の林内や山すその半影地などに生育する。奥秩父でも見られるようだ。
可憐な花は人気が高く、現在は、乱獲や自生地の環境破壊によって希少植物になっている。セツブンソウの自生地として有名な場所は、栃木県栃木市(星野の里)、埼玉県小鹿野町、兵庫県丹波市(青垣町のセツブンソウ3群生地)、広島県庄原市(総領地域)、山口県岩国市など。
和名セツブンソウは「節分草」の意で、早春に芽を出し節分の頃に花を咲かせることからこの名があるが、屋外での開花は節分より遅い。
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エンセーテ
エンセーテ: 単子葉植物綱→ショウガ亜綱→ショウガ目→バショウ科→エンセーテ属→エンセーテ
エンセーテはエチオピア料理に欠かせないもので、北部ではインジェラ、南部ではエンセーテが良く用いられているらしい。
エンセーテ(Ensete ventricosum)は、バショウ科エンセーテ属に属する植物。エチオピアバナナ、アビシニアバナナ、アビシニアバショウ、ニセバナナとも呼ばれる。エチオピア南部の諸民族にとって重要な食糧作物であり、主食となっている。エンセーテ属には観葉植物は多いが、食用とされているのはほとんどこの種のみである。
エンセーテは多年生の植物であり、6m 程度まで成長する。バナナに良く似た外観。しかし、バナナと違って実は大きくならず、代わりに茎がずっと太くなる。この茎と根茎にデンプンが多量に含まれ、エンセーテの主要可食部となっている。花は咲くが、咲いたあとは株が枯死してしまう。
近縁にあるバナナと違い、エンセーテの果実は食用ではない。葉柄基部及び根茎に蓄えられたデンプンを主に食用とする。食糧作物としての利用タイプではサゴヤシに近い。さらにエンセーテの若い茎や葉は野菜として食用になり、葉は家畜のえさに、古い葉は、屋根や、袋やロープ、マットなどを作る繊維をとるために使われる。植物体の大半は利用することができ、捨てるところがほとんどない。蓄積されたデンプンは、葉柄の場合かきとられて数週間かけて土中で発酵させてから食用とする。根茎の場合、皮をむいてから中のデンプンの多い部分を崩し、やはり土中で醗酵させて食用とする。醗酵したデンプンからは主にパンが作られ、また粥にして食べることもある。エンセーテの根茎をそのまま蒸して食べる地域もある。また、エンセーテのデンプンからは酒も造られる。デンプンのほかに、エンセーテの咲く直前の花をすり潰す酒もあるが、エンセーテはめったに花を咲かせない上、開花したエンセーテは枯死してしまうため、この酒は材料をそろえることが難しく希少なもの。
作物として考えると、土壌中の栄養素を枯渇させにくい特性があり長期連作が可能であるが、タンパク質量が少ない。しかし、エンセーテを主食として利用する人々にタンパク質欠乏症はほとんど無い。これは、同時にマメ科作物やほかの穀類を併用しているため。
エンセーテはほとんどの穀物よりも単位面積当たりにおいて大きな食料供給力を持つ。250から375平方メートルの畑に植えられた40本から60本のエンセーテは、一家の5人から6人の人間を養うのに充分な食料を供給する。エンセーテはエチオピアで最も重要な根茎作物であり、人口の多い南部及び南西部において古くから主食として利用されてきた。いつから栽培が始められたかについてはわかっていない。南部の主要民族であるグラゲ人やシダモ人の食文化や経済におけるエンセーテの重要性については、17世紀前半のイエズス会宣教師であるヘロニモ・ロボによってはじめて記録された。
野生のエンセーテは種子から成長するが、栽培種は蘖(ゲツ)から苗を作り、畑に挿し木して栽培する。一本の木から最大で400個の苗を採取できる。1994年にはエチオピア全土で3,000 km2の栽培面積があり、1ヘクタールにつきほぼ10トンが収穫された。エンセーテはしばしばソルガムの間に混栽され、ゲデオ人はコーヒーの間に混栽している。一本の木から40kgから50kgのデンプンが採取できるようになるまでには、3年から8年はかかる。このため、人々は成長段階の違うエンセーテを次々と畑に植え、いつでも木のどれかが利用可能な状態にしておく。エンセーテは穀物よりも旱魃に強い。エンセーテ栽培地域においてはさまざまな品種のエンセーテが栽培されている。
*「蘖(ゲツ、ひこばえ)、こうじ、もやし」樹木の切株や根元から生えて来る若芽のこと。
多くの場合、穀物とともにガモ人、ゴファ人、いくつかのオロモ人グループ、ウォライタ人、グラゲ人、シダモ人などエチオピア南部の多くの民族の主食となっている。エンセーテは2000万人の食糧を賄っているとされ、また生産性が高い上に土壌流出などの自然破壊も起こしにくい作物である。しかし、エンセーテの栽培面積は減少傾向にある。これは、エンセーテの換金性が低く、コーヒーやカルダモンなどの商業作物の栽培が徐々に主流となってきているためである。今後とも世界の食料が不足する事態になれば重要性が増すかも。もっと知名度上げて、世界にも輸出できる作物として期待できるのではないでしょうか。
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インジェラ
インジェラは、エチオピアで主食として食べられている食品。起源は古く、史料の中には紀元前100年には、すでに存在していたと記す物もある。本来はエチオピア北部の高原地帯で作られてきた食べ物であり、19世紀末のエチオピア帝国の拡大に伴ってエチオピアの南部地域にも広まっていった。
インジェラは食品名で植物の名前ではない。イネ科の穀物であるテフの粉を水で溶き、その後、概ね3日間かけて醗酵させて生地とし、これを巨大な鉄板で薄いクレープのように片面だけを焼き上げて、インジェラは作られる。なお、醗酵した生地にできる黄色い上澄み液は「イルショ」と呼ばれ、一部は次にインジェラを作る時に再利用される。
トウモロコシ、ソルガムを材料としてインジェラを作る事も可能だが、テフで作った物の柔らかな手触りと独特の食感が、エチオピアでは特に好まれている。テフで作ったインジェラの独特の食感は、スポンジやタオルにも喩えられている。また、エチオピアの一般の家庭では、テフにトウモロコシとオオムギの粉を混合した物が、材料として使われる。
焼き上がった生地に空いた多くの穴は「アイン(目)」と呼ばれ、穴の数の多さがインジェラの出来を評価する要素とされる。焼き上がりの色が薄いインジェラが上等の物とされるが、濃い色に焼き上がったインジェラの方がより豊かな風味を持つとされる。
また、完成したインジェラには、乳酸菌も作用するため、乳酸菌による醗酵食品独特の匂いと酸味が出る。醗酵にかけた時間が短ければ芳しい香りがする甘い生地に仕上がり、これは主に農繁期などの時間が無い場合に作られる。逆に、醗酵にかけた時間が長過ぎると、酸味が強くなり、一般には失敗とされるが、酸味の強いインジェラを特に好む者もいるという。
なお、エチオピア以外でも、例えばエチオピア料理店などでもインジェラは供される。醗酵の進む速度には、その場所の温度や湿度が影響するため、醗酵させる日数は見た目や味の好みの他に、その土地の気候や季節により異なる。参考までに、冬場の日本では1週間程度かかるという。
完成したインジェラは冷ました状態で食され、植物を編んで作った台(メソブ、マサブ)に載せて供される。インジェラには様々な種類のワット(唐辛子で煮込んだ辛いシチュー)を付けて食べる。インジェラは朝昼夜の3三食以外に、間食としても食べられており、その際にはバレバレ(バルバレとも)と呼ばれる辛味の強い調味料などを付けて食べられる。
また、インジェラは料理を載せる皿の代わりとしても使用される場合がある。なお、載せていた料理を全て食べた後、皿の代わりにしていたインジェラも食する。こうしたインジェラの食べ方を見た者からは「ナイフとフォークの代わりにもなるパン」に例えられる場合もある。
なお、大勢で大きな盆を囲んで料理を食べる時には、親愛の感情を示すために互いにインジェラを食べさせ合う習慣が存在し、この習慣は「マグロス」と呼ばれている。親族や家族の集まりでは、最年長者がインジェラを小さくちぎり、順番に与えるしきたりである。
【テフ】
テフは、イネ科スズメガヤ属の植物。主にエチオピアで栽培され、種子が穀物として主食に供され、エチオピア料理の伝統的な食材。テフは栄養価が高いだけでなく、グルテンを含まないため、グルテンにアレルギーを有する場合に、コムギなどの代替食品として利用される場合も。
草丈は50 cm~150 cm。種子の皮の色から赤色種と白色種の2種に分類される。これらの種子は非常に小さく、床に落とせば見失ってしまうほど。「テフ」の名は、アムハラ語の「見失う」に由来するとか。
テフはエチオピアで伝統的に主食として用いられてきた穀物であり、低地・高原地帯に関わらず、エチオピアで広く栽培されてきた。伝統的な栽培法は、雨季が始まる8月頃に、ウシに曳かせた犂(すき、plough)で畑を耕し、手で種子を直に蒔き付ける。そうすると、9月下旬から10月にかけて穂が出始め、乾季が始まる11月頃に成熟する。同じ耕地で4年連続でテフを栽培し、その後は4年から10年ほど休耕するというサイクルで栽培されている。
2004年のエチオピアでのテフの収穫量は、1,687,000トンであり、収率は0.8 (トン/ha)であった。穀物のテフには、小麦粉と違いグルテンが含有されていないため、小麦アレルギーのヒトに対するニーズが大きい。また、鉄分が豊富であるなど、栄養価の高さも注目を集め、21世紀初頭において、欧米や日本でも所謂「スーパーフード」の1つとして消費量が増えつつある。また、エチオピアだけに生産量では不足のため、各国での国産化の試みもされているようです。
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椿
ツバキ(椿、海柘榴)またはヤブツバキ(藪椿、学名: Camellia japonica)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹木。花が観賞されて庭などに植えられるほか、薬用や食用にもなる。日本各地で見られる普通の花?山茶花(さざんか)との区別はよく分からないが。
**サザンカは、花びらが一枚一枚バラバラに落ちるのに対して、ツバキは1つの花がそのまま丸ごと下に落ちると言う。地面に落ちている様子を見ると、分かる。花が丸ごとぼとっと落ちていればこれはツバキと言えるようだ。ただこの法則?も例外がありらしい。英語ならともにcamelliaだからあまり気にしなくてもいいかも。
なお、椿は世界中に分布するようで、英語などではcamellia(英)、camelia(西)、Kamelie(独)、камелия(露)となっていてどれもカメリアに近い発音だ。ただし中国語では茶花となっていて、これではお茶の花で全く別物になってしまいそうだ。また、椿(Chūn)という漢字もありこれなら日本語の椿となる。名前についてはGoogle翻訳で調べたもの。
和名ツバキの語源については諸説あり、葉につやがあるので「津葉木」とする説や、葉が厚いので「厚葉木」と書いて語頭の「ア」の読みが略されたとする説などがあり、いずれも葉の特徴から名付けられたとみられている。数多くの園芸品種が栽培されているツバキの、日本における海岸近くの山中や、雑木林に生える代表的な野生種をヤブツバキとよんでいる。
植物学上の種であるヤブツバキ(学名:Camellia japonica)の別名として、一般的にツバキと呼んでおり、またヤマツバキ(山椿)の別名でも呼ばれる。日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であってもサザンカを椿と呼ぶことはあまりない。なお、漢字の「椿」は、中国では霊木の名で、ツバキという意味は日本での国訓である。ヤブツバキの中国植物名(漢名)は、紅山茶(こうさんちゃ)という。
「椿」の字の音読みは「チン」で、椿山荘(東京都文京区)などの固有名詞に使われたりする。なお「椿」の原義はツバキとは無関係のセンダン科の植物チャンチン(香椿)であり、「つばき」は国訓、もしくは、偶然字形が一致した国字である。歴史的な背景として、日本では733年『出雲風土記』にすでに椿が用いられている。その他、多くの日本の古文献に出てくる。ツバキの古名はカタシである。
ただ昔から日本の椿は日本にあったのかと言うと、柳田国邦夫によると出羽の国には西から船で運ばれて来たとの伝承もある。秋田県の男鹿半島には椿という地名がある。椿という地名は暖地性の「ヤブツバキ」が自生するところから由来しているという。椿地区の能登山にある椿の群落は、自生北限地帯として大正11年に国の天然記念物に指定された。
「ー そのころ、加賀の国からは盛んに商いの船がやってきていました。あるとき、能登の船乗りの若者が村一番の美人で働き者の娘と恋に落ちました。しかし若者は船乗りの身。村に長くは留まれませんでした。そこで若者は、2年後にきっとまた来る、そのときには必ず故郷の美しいツバキの実を持ってきて見せてあげよう、と約束して旅立ちました。娘は待ちました。若者に会う日を楽しみにしながら。しかし、約束の2年が経っても若者は来ませんでした。娘は、あれだけ固く誓ったのに若者が来ないのは、難波して死んでしまったからに違いないと思いつめるようになりました。待ち焦がれて3年目のある日、娘は悲しみのあまり海へ身を投げました...
若者が再び村にやってきたのは娘の旅立ちから間もなくのことでした。若者は悲しみに暮れました。若者は村の岩山に登り、二人の約束だったツバキの実をひとつひとつ蒔きました。
ツバキの花が咲く岩山はいつしか、能登山と呼ばれるようになりました -」
長い冬の風がほころび始める4月頃、能登山にはツバキの花が美しく咲きほこります。椿と言う字は春の木と書く。
中国では隋の王朝の第2代皇帝煬帝の詩の中で椿が「海榴」もしくは「海石榴」として出てくる。海という言葉からもわかるように、海を越えてきたもの、日本からきたものを意味していると考えられる。榴の字は、ザクロを由来としている。しかしながら、海石榴と呼ばれた植物が本当に椿であったのかは国際的には認められていない。中国において、ツバキは主に「山茶」と書き表されている。「椿」の字は日本が独自にあてたものであり、中国においては椿といえば、「芳椿」という東北地方の春の野菜が該当する。
英語では、カメリア・ジャポニカ (Camellia japonica) と学名がそのまま英語名になっている珍しい例である。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介した。後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿の属名にカメリアという名前をつけ、ケンペルの記載に基づき「日本の」を意味するジャポニカの名前をつけたという。
タネを搾るとツバキ油が採れる。油が貴重品だった時代に、この油は照明の燃料、料理、美容に使い、不老不死の薬とも考えられていた。当時の大陸において、ツバキ油は、日本の使節団がもたらす宝物だったらしく、日本の貴重な輸出品でもあったようだ。
分布・生育地
日本原産。日本では北海道南西部、本州、四国、九州、南西諸島、日本国外では朝鮮半島南部と中国、台湾が知られる。本州中北部にはごく近縁のユキツバキがあるが、ツバキは海岸沿いに青森県まで自然分布し、ユキツバキはより内陸標高の高い位置にあって住み分ける。主に海沿いや山地に自生する。北海道の南西部(松前)でも、各所の寺院や住宅に植栽されたものを見ることができる。自生北限は、青森県津軽郡平内町の夏泊半島で、椿山と呼ばれる1万株に及ぶ群落は、天然記念物に指定されている。
形態・生態
常緑性の低木から小高木で、普通は高さ5 - 10メートル (m) 前後になり、高いものでは樹高15 mにもなる。ただしその成長は遅く、寿命は長い。樹皮はなめらかで灰色地に灰白色の模様があり、時に細かな突起がまばらに出る。枝はよく分かれて茂る。冬芽は線状楕円形で先端はとがり、円頭の鱗片が折り重なる。鱗片の外側には細かい伏せた毛がある。鱗片は枝が伸びると脱落する。
葉は互生し、長さ5 - 12センチメートル (cm) 、幅4 cmほどの楕円形から長楕円形で、先端は短く尖り、基部は広いくさび形、葉縁には細かい鋸歯が並ぶ。葉質は厚くて固く、表面は濃緑色でつやがあり、裏面はやや色が薄い緑色で、葉身・葉柄ともに無毛である。
花期は冬から春(2月 - 4月)で、早咲きのものは冬さなかに咲く。花は紅色あるいは紅紫色の5弁花で、枝の先の葉腋から1個ずつ下向きに咲かせる。花弁は長さ3 - 5 cmで半開きに筒状に咲き、平らには開かない。1枚ごとに独立した離弁花だが、5枚の花弁と多くの花糸のつけ根が合着した筒形になっていて、散るときは花弁と雄しべが一緒に落花する。
果実は球形で、9 ~11月に熟し、実が3つに裂開して、中から2 - 3個の黒褐色の種子が出てくる。
サザンカとの見分け方
ツバキ(狭義のツバキ。ヤブツバキ)とサザンカはよく似ているが、ツバキは若い枝や葉柄、果実は無毛であるのでサザンカとは区別がつく。また次のことに着目すると見分けることができる。ただし、原種は見分けやすいが、園芸品種は多様性に富むので見分けにくい場合がある。
ツバキは花弁が個々に散るのではなく萼と雌しべだけを木に残して丸ごと落ちるが(花弁がばらばらに散る園芸品種もある)、サザンカは花びらが個々に散る。
ツバキは雄しべの花糸が下半分くらいくっついているが、サザンカは花糸がくっつかない。
ツバキは、花は完全には平開しない(カップ状のことも多い)。サザンカは、ほとんど完全に平開する。
ツバキの子房には毛がないが(ワビスケには子房に毛があるものもある)、サザンカ(カンツバキ・ハルサザンカを含む)の子房には毛がある。
ツバキは葉柄に毛が生えない(ユキツバキの葉柄には毛がある)。サザンカは葉柄に毛が生える。
ツバキの花期は早春に咲くのに対し、サザンカは晩秋から初冬(10 - 12月)にかけて咲く。
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ケシ
ケシ(芥子、罌粟、Opium poppy)。ケシ科ケシ属に属する一年草の植物。
日本語の「ケシ」は英語の「poppy(ポピー)」と同じと見なされている。しかし、英語で単に「poppy」といえばイギリス各地に自生しており、園芸種としても盛んに栽培されているヒナゲシ(corn poppy(コーン・ポピー))を指す。一方日本語で単にケシといった場合、それが種指定をも包含している場合はもっぱら本種を指す。英語では本種を「opium poppy(オピウム・ポピー)」と呼び「poppy」とは明確に区別している。日本語でも、他の園芸用ケシ属植物と区別するため、特に本種を阿片ケシ(アヘンケシ)と呼ぶことがあり、学会などでは種小名を用いソムニフェルム種と呼ぶ。
【ヒナゲシ】
ヒナゲシは、ヨーロッパ原産のケシ科の一年草。グビジンソウ、コクリコ、シャーレイポピー とも呼ばれる。他のケシ科の植物も含めて単にポピーということもある。フランスやポーランドなどの国花として有名である。ケシにあるような麻薬成分は含まれていない。
グビジンソウ→グビジンソウ(虞美人草)の名は、中国の伝説に由来している。秦末の武将・項羽には虞と言う愛人がいた。項羽が劉邦に敗れて垓下に追い詰められた時に、死を覚悟した項羽が詠った垓下の歌に合わせて舞った。
力拔山兮氣蓋世 (力は山を抜き、気は世を覆う)
時不利兮騅不逝 (時利あらずして 騅逝かず)
騅不逝兮可奈何 (騅の逝かざる 如何すべき)
虞兮虞兮奈若何 (虞や虞や 汝を如何せん)
— 垓下歌(垓下の歌)『史記』巻7項羽本紀 第7 司馬遷
この舞の後に彼女は自害した。彼女を葬った墓に翌夏赤くこの花が咲いたという伝説から、こう呼ばれる。なお虞美人の自害云々については、女性の貞操がとやかく言われるようになった北宋代からであり、『史記』、『漢書』ではそのような記述は無い。
芥子という表記は本来カラシナを指す言葉であるが、ケシの種子とカラシナの種子がよく似ていることから、室町時代中期に誤用されて定着したものであるとされる。
日本では「opium poppy」など「opium」産生植物はあへん法で栽培が禁止されている種に指定されており、政府の許可を得ずして栽培してはならない。「opium」とはアヘン、麻薬の意味である。
【カラシナ】
カラシナ(芥子菜、辛子菜、Brassica juncea、英: Mustards)はアブラナ科アブラナ属の越年草。「芥」でカラシナを意味し、「芥子」はカラシナの種子の意味。 別名ともされるセイヨウカラシナは、カラシナの原種である野生種が、明治期以降に帰化植物となったもの。英語名のマスタードと言えばあれかなと分かる。花は菜の花と似ている。芥子の花とは全然似ていない。
【芥子の花】
藤圭子さんの歌に、「赤く咲くのは芥子の花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのこの私 夢は夜開く」等有名な歌があったね。この芥子の花はどうも園芸用の「poppy」だろうね。栽培に政府の許可を得ているとは思えない。綺麗な花だね。
【芥川】
ちり芥なんていって「あくた」はゴミ、不要物の意味もある。では小説が芥川さんの名前の由来は?稗田さん何て名もあるから、一種のへりくだりかな?地名もあるらしい。
【阿片(あへん)】
アヘン(阿片、鴉片、opium)は、ケシ(芥子、opium poppy)の実から採取される果汁を乾燥させたもので、いわゆる麻薬。ケシの実から採取されるアルカロイドはオピエートと呼ばれ、そこから合成されるものがオピオイド。麻薬(narcotic)とは、本来このようなオピエートやオピオイドを指す。
ケシから採取されたアルカロイドや、そこから合成される化合物は、鎮痛、陶酔といった作用があり、また高用量の摂取では昏睡や呼吸抑制を引き起こす。このようなアルカロイドや、合成化合物には、モルヒネ、ヘロイン、コデイン、オキシコドンを含む。
【アルカロイド】
アルカロイド(英: alkaloid)とは、窒素原子を含み、ほとんどの場合塩基性を示す天然由来の有機化合物の総称。一部のアルカロイドには中性や弱酸性を示すものもある。また、似た構造を有する一部の合成化合物もアルカロイドと呼ばれることも。アルカロイドは、炭素、水素、窒素の他酸素や硫黄、その他稀に塩素、臭素、リンといった元素を含む。
アルカロイドは、微生物、真菌、植物、両生類などの動物を含む非常に様々な生物によって生産され、天然物(二次代謝産物とも呼ばれる)の中の一群を成している。多くのアルカロイドは酸塩基抽出によって粗抽出物から精製できる。多くのアルカロイドは他の生物に対して有毒である。しばしば薬理作用を示し、医薬や娯楽のための麻薬としてや、幻覚儀式において使用される。基本的に多種の生物が自衛のために開発した化学兵器なんだろうね。
現在、近似種を含め約数千種があるといわれている。古くからアルカロイドは抽出されてきたが、近代的な研究の元祖は、ドイツの薬剤師ゼルチュネルが1804年にアヘンから分離抽出したモルフィン、つまりモルヒネであるとされている。
【モルヒネ】
モルヒネ(morphine)は、ベンジルイソキノリン型アルカロイドの一種で、チロシンから生合成されるオピオイド系の化合物。ケシを原料とする。脳内や脊髄に作用し、痛みを脳に伝える神経の活動を抑制し、鎮痛作用を示す。外科の手術では患者さんを痛みから救う不可欠の薬剤だ。極めて強力な鎮痛作用を持ち、日本では薬機法に定められた、重要な処方箋医薬品。とくに持続する鈍痛に効果が高く、一般的な鎮痛薬が効きにくい内臓痛をはじめ、各種がん痛や手術後にも適応する。有効限界がないのも特徴で、より強い痛みに対しては用量を増やすことによる対応が可能。
その一方で適切に使わねば強い中毒性・常習性を持つため、(医療の鎮痛目的には使用方法が確立されており、適切に使えば依存することはない)毒薬(薬機法)・麻薬(麻向法)として規制されている。
アルカロイドとその他の窒素を含む天然化合物との境界は明確ではない。アミノ酸、ペプチド、タンパク質、ヌクレオチド、核酸、アミン、抗生物質のような化合物は通常アルカロイドとは呼ばれない。環外の位置に窒素を含む天然化合物(メスカリン、セロトニン、ドパミン等)は、通常アルカロイドよりもアミンと呼ばれる。しかし、一部の研究者はアルカロイドをアミンの特別な場合であると考えている。
【アミン】
アミン(amine)とは、アンモニアの水素原子を炭化水素基または芳香族原子団で置換した化合物の総称。 置換した数が1つであれば第一級アミン、2つであれば第二級アミン、3つであれば第三級アミンという。
アヘンの名の由来は、英語名opiumの中国語の音訳である阿片(拼音: a piàn アーピエン)を音読みしたもの。明代の中国、江戸時代の日本では阿芙蓉(あふよう)と書いた。
ケシの実の汁は古代から鎮痛・鎮静作用が知られ、医薬品として用いられてきた。しかし同時に習慣性や、濫用による健康被害など、麻薬としての特性があり、阿片戦争を引き起こすなど、重大な害悪も引き起こした。
現在では、1912年のハーグ阿片条約、これを引き継ぐ1961年の麻薬に関する単一条約において国際統制下にある。日本でもあへん法によって規制されている。
アヘンは極めて古くからその存在が知られている。紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシが栽培されていたと考えられており、紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版にはシュメール人の乳液の採取について記述されている。紀元前2000年頃には、ヨーロッパや、中央アルプスにケシ栽培は伝わった。紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造がされていた事がわかるパピルスの文献が見つかっている。英語名opiumは、この時代のラテン語名opiumを引き継いだもの。古代ヨーロッパにおけるアヘンの使用は、西ローマ帝国の滅亡により、一時廃ることとなった。
5世紀前後、イスラム圏の交易網が発達し、インドや中国、アフリカの中部などの各地にアヘンはもたらされた。アラブ商人は医薬品としてのアヘンを商品とみなしていた。東アジアにも伝来した。11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来した。再び、医薬品として用いられた。15世紀頃からは麻酔薬としても用いられた。20世紀初頭までは民間療法の薬剤として用いられた。
大航海時代を経ての西欧諸国による海上貿易において、アヘンは重要な商品となった。中国では、西欧諸国、特にイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘン禍に陥る。イギリスは交易において三角貿易の構造を構築し、アヘンを用いて資産を獲得した。このアヘン貿易は、規模や対象、時代こそ違うものの諸国においても同様の交易が行われた。
清国では、上海など都市の河沿い地域に使用者が多く、当初は運搬船の停泊船内や宿場などで煙草に混ぜて吸入されていた。19世紀、このアヘンの蔓延に危機感をつのらせた清国がイギリス商人のアヘンを焼却したことが、イギリスと清国の間で、アヘン戦争(1840年-)の引き金となった。しかし、この紛争後もアヘン流入量が縮小されず、市中では次第に半固形の阿片膏を煙管(キセル)に入れて吸入するようになっていた。この携行しやすい阿片膏によって、より清国内の広域へアヘンが浸透、アヘン窟も伝播した。20世紀初頭の清末には、清国の上流層にもアヘンが一部流れていたとされており、清滅亡後の1930年代においても、煙管など吸引用品の取扱店や「大煙」と看板を掲げた煙館など、アヘン関係の店が各地でみられた。
ヨーロッパにおいては、「アヘンの危険性の認知」や「アヘンの習慣を持つ者が多い中国人の各地への移住とそれによる中国人コミュニティーとの接触」に伴い19世紀には反アヘン運動が高まった。また、アメリカ・カナダへの中国人労働者の流入ともに、特にサンフランシスコをはじめとする地域でアヘン窟がみられるようになり、1875年に至り反ドラッグ法制定など対策が行われた。
20世紀初頭から、国際間におけるアヘンの統制が始まる。1912年にはハーグ阿片条約が調印され、アヘン貿易が制限された。1920年に国際連盟が成立してからは、連盟が統制に関する職務を負い、国際機関が設置された。1926年の第一・第二阿片会議条約では、アヘンの使用等に関しても統制され、1928年の麻薬製造制限条約においてアヘン貿易は完全に禁止された。国際連合に移行後も、同様の統制体制が持続し、現行の1961年の麻薬に関する単一条約においてもアヘンは統制されている。
芥子の話に戻る。
草丈は1-2メートル程度で、葉の形は長楕円~長卵形で、上の葉ほど小さくなる。葉に関して他のケシ属とは、①葉柄がなく茎を抱く。他のケシ属は葉柄がある。②切れ込みが浅く縁が波打つ。他のケシ属は深く切れ込み細かく裂けるものが多い。③色がロウで覆われたような緑灰色である。他のケシ属は緑が鮮明なものが多い。④表も裏もほとんど無毛である。葉に限らず、本種はほぼ無毛である。
といった点で区別できるが、これらの特徴は品種によってかなり差がある。
播種後半年ほどで開花する。通常は前年の秋に播種するので開花期は4-6月頃になる。花は茎の先端に一つだけ付き、つぼみのときは下向きで開花と同時に天頂を向く。また2枚ある萼(がく)は開花と同時に脱落する。一日花であり翌日には散る。大きさは10-15cmと草丈に比較して大きく、悪臭がある。花弁は一重咲きの品種では4枚で、色は基本色として紅、白、紫があり青と黄はない。単色の品種も多いが、園芸種はこれらの中間や、これらが混じった「絞り」など様々な変化を見せる。だがOpium poppyは基本色に黄を欠くことから、他のpoppyには多い黄やオレンジ系の花を作ることは不可能である。八重咲きの品種では花弁の縁が細裂するものがある。なおアヘン採取用に品種改良されたOpium poppyはどれも一重咲きである。
花が枯れて数日すると、芥子坊主と呼ばれる独特の形の鶏卵~握りこぶし大の果実を実らす。この芥子坊主の形も品種によって真球に近い球形や楕円球形と、様々に変化する。八重咲きなどの園芸種も結実するが、実の大きさやモルヒネ含有量はアヘン採取用の品種には遠く及ばない。どの品種も未熟果の表面に浅い傷をつけると麻薬成分であるモルヒネを含む白色~淡紅色の乳液が浸出し、しばらくすると粘性を示し黒化する。これをへらでかき集め乾燥したものが生アヘンである。果実が熟すと植物体は枯死し、熟した果実の天頂に穴があき、径 0.5mm に満たない微細な種子が飛び出す(非常に細かい物を「ケシ粒のような~」と表現するのは、これが由来)。種子は腎形であり、表面には網目模様があるが、肉眼では確認しにくい。色は品種により白から黒まで変化するが、食用に売られているものは象牙色と黒が多い。
栽培植物としての歴史は古く、紀元前5000年頃と考えられるスイスの遺跡から本種の種子が発見されている。四大文明が興った頃には既に薬草として栽培されていたとされ、シュメールの楔形文字板にも本種の栽培記録がある。本種の薬用利用はそこから古代エジプトを経て古代ギリシアに伝わったと考えられ、ローマ帝国を経てヨーロッパ全土に広まった。その間に帝国の退廃を映して利用法も麻薬用へと変貌を遂げ、大航海時代を経てアヘン原料として世界各地に広まった。特にイギリスは植民地であったインドで本種の大々的な栽培を行い、生産されたアヘンを中国(当時は清)へ輸出して莫大な利益をあげた。
日本では、室町時代に南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県西部)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある。その後現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで少量が産出されたがいずれも少量で高価であり、用途も医療用に限られていた。明治の半ば、大阪府の農民二反長音蔵がケシ栽培を政府に建白。地元の大阪府三島郡で大規模生産に乗り出すとともに、品種改良に尽力し、モルヒネ含有量が既存種の数倍に達する一貫種と呼ばれる優良品種を作出した。日本は台湾統治開始後、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知った。台湾総督府衛生顧問だった後藤新平は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させた一方で内地では二反長音蔵のケシ栽培を積極的に後援し、日本国内のアヘンの生産と台湾への輸出・販売を台湾総督府の専売制とし、莫大な利益を得た。1935年頃には全国作付けが100haに達し、5月の開花期には広大なケシ畑に雪白の花が広がり、非常な壮観を呈した。当時のアヘン年間生産量は15tに達し、全国産額の50%は和歌山県有田郡で、40%が大阪府三島郡がそれぞれ占めた。昭和に入ると日本は日本統治時代の朝鮮や満洲の一部(熱河省。現在の河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の一部)でケシ栽培を奨励し、第二次世界大戦中は満洲国、蒙古聯合自治政府、南京国民政府などで大規模栽培を行い、生成されたアヘンに高額の税をかけ戦費を調達した。太平洋戦争後の1946年、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がケシ栽培を禁止し、国内生産は途絶した。あへん法が1954年に制定され、翌1955年から栽培が再開された。しかし戦前のような大規模栽培は復活することなく、現在の栽培量は実験室レベルに留まっている。
多くの国がケシ栽培に何らかの規制をかけている一方で、園芸用としてのケシ栽培については規制していない国も多い。アメリカ合衆国ではモルヒネ原料となる種を含むケシの栽培も種子の販売も自由で、ネット通販で種子を安価に購入できる。英国などヨーロッパでは、一面に咲きほこるケシ畑が春の風物詩になっている。なお、先進国においては乾燥させた本種の植物体を有機溶媒に浸してアルカロイド成分を浸出させる方法で効率的にモルヒネを回収している。原始的なへら掻きによる採取は、モルヒネの回収率が非効率なこともあり、形としてアヘンを生産する必要のあるアヘン輸出可能国か、非合法生産下でしか行われていない。現在、国際条約下でアヘンの輸出可能な国家はインド、中華人民共和国、日本、北朝鮮の4ヶ国に限定されているが、現在も輸出を継続しているのはインドのみであるため、国際条約下においては、インドが本種の最大の栽培地といえる。このほか国際的に紛争が起きている地域で、住民が手っ取り早く現金収入を得るために国際条約を無視して本種を栽培するケースが多い。旧ソ連の中央アジアや、長年内乱が続いたアフガニスタン、カンボジア、中米などが新たな非合法栽培の中心地となっている。このケースにおいて、20世紀に非常に有名だったのが、いわゆる黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)としても知られるミャンマー・タイ・ラオスの国境にまたがる地域であるが、2002年以降は同地域での紛争が沈静化し、ようやく同地の支配権を確保できた政府によって他の換金作物への転作が奨励されるようになったため、低調化している。ミャンマーでは政府や国連薬物犯罪事務所が代替作物としてコーヒー栽培への転換を進めており、仕入れなどで外国企業も支援している。
21世紀に入ってから条約無視の不法ケシ最大生産国はアフガニスタンで、2014年時点で全世界生産量の70%が同国産となっており、タリバンなど同国反政府組織の重要な資金源となっている。国連薬物犯罪事務所の発表では、2013年の世界の不法なケシの作付け面積は約29万7000ヘクタールに及ぶ。
日本でも、あへん法によってアヘンやモルヒネに対する規制がかけられている。同法は太平洋戦争前の満州や朝鮮で大規模に行われた戦費調達のためのアヘン生産の反省に基づき、国内での大規模栽培を例外なく禁止する意図の元に策定されている。ゆえにその内容は他国に比較して非常に厳しい。現代の日本において、あへん法に基づく栽培許可を受けるには、栽培地の周囲に二重の金網を張り巡らせ門扉には施錠する、夜間はレーザーセンサーを用いて警備するといった非常に厳しい条件を満たさなければならない。ゆえに実際に許可を得て栽培しているのは国や地方自治体の研究機関や、薬科大学や総合大学の薬学部の薬草園(東京都薬用植物園、日本大学薬学部や京都薬科大学の付属薬用植物園など)、および国の研究機関から委託されて栽培している数軒の農家が北海道にあるだけで、国内のアヘン生産量は実験室レベルに留まっている。これではとても国内需要を賄えないため他国からアヘンを輸入している。一方、前述した個人輸入や他の植物に種子が付着して(ケシとは知らずに)日本で栽培・自生してしまう例が少なからずある。
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マスタード
マスタードは、カラシナ(イエローマスタードおよびブラウンマスタード)やシロガラシ(ホワイトマスタード)の種子やその粉末に、水や酢、糖類や小麦粉などを加えて練り上げた調味料。カラシの風味と酢の酸味が持ち味である。ホットドックにはケチャップと共に定番だ。
黄色い色でチューブに入っていて誰でも知っている。でも、これがもともと何なのか分からない。「ぼーといきてんじゃね~よ。」とチコちゃんに叱られる。
日本語なら「からし」でいいけど、「和からし」と「マスタード」は料理ではしっかり使い分けされている。
からし(カラシ、芥子、辛子、英語: Japanese mustard)は、アブラナ科の植物であるカラシナおよびその近縁種の種子から作られる香辛料。黄色もしくは黄土色で、独特の刺激臭と辛味を持つ。マスタードは西洋カラシナが原料。熊本名産の「辛子蓮根(からしれんこん)」。もちろん「和からし」を使っているはずだけど、これを「マスタード」に変えても美味しいかな? 鼻にツーンと抜ける強烈な辛みがあるものが「和からし」。 比較的口当たりが柔らかく辛さ抑えめなのが「洋からし」とか。
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コウホネ
昔から日本人には親しまれて来た水草のようだ。甕に植えて観賞用にも。河川の遊水池なんかにどこにでも自生していたのが、河川改修などで絶滅の危機にある県も。つまり、日本全体とすれば絶滅の危機は心配ない。
コウホネ (河骨、学名: Nuphar japonica) はスイレン科コウホネ属に属する水草の1種。底泥中を横に這う地下茎から葉を伸ばし、ふつう水面より上に葉を立ち上げるが (抽水葉)、水面に浮かべる浮水葉をつけることも。また水中の沈水葉は細長い。夏になると、長い花柄の先に直径3–5センチメートルほどの黄色い花を咲かせる。抽水葉、浮水葉、沈水葉と葉の形が変化するのも面白い。日本固有種ともされ、北海道から九州の浅い池や沼に生育する。
「コウホネ (河骨)」の名の由来は、底泥中を這う白い地下茎が骨のように見えるためとされることが多い (異説もあり)。この地下茎を乾燥させたものは川骨せんこつとよばれ、生薬とされる。
多年生の水生植物。地下茎 (根茎) は白くて太く肥大しており、直径1~3センチメートル (cm)、水底の泥中を横に這い、茶褐色の葉痕があり、古い部分は黒褐色をしている。根茎の先端部から葉柄が束生し、葉には沈水葉と水上葉がある。冬季には水上葉は枯れ、水中葉のみを残す。
花期は6~10月。長い花柄 (直径 3~6 mm) が地下茎から生じて水上へ伸び、その先端に直径 3~5 cm で上向きに咲く黄色いカップ状の花を1個つける。数日開花し、雌性先熟 (雌しべが成熟した後に雄しべが成熟する)。萼片は5枚、黄色 (まれに橙色) 。
果実は液果、緑色でつぼ形、長さ 3~6 cm、水中でくずれて多数 (26–130個) の種子を放出。種子は倒卵形で長径 5~6 mm。染色体数は 2n = 34。
日本の北海道 (南西部)、本州、四国、九州に分布。韓国、沿海州、サハリンからも報告されているが疑問視され、日本固有種とも。水深が浅く泥深い湖沼や河川、水路に生育する。
コウホネは日本全体としては絶滅危惧等に指定されていないが、河川改修、圃場整理などによって激減し、地域によっては絶滅危惧種に指定されている。
人間との関わり
池沼の泥中にある肥大した地下茎 (根茎) を掘り上げ、細根を切り捨て、根茎を縦割りにして天日乾燥もしくは火力乾燥したものは川骨せんこつとよばれ、日本薬局方に収録された生薬。鎮咳、去痰、利尿、消炎、浄血、止血、強壮、解熱などの作用があるとされ。含有成分としては、アルカロイドであるヌファリジンやヌファラミンなどが知られている。
食用
アイヌ民族はコウホネをカパト (kapato) とよび、地下茎をアク抜き・乾燥したものを保存食とし、水で戻して汁の実として利用した。なお、北海道空知総合振興局の樺戸郡(かばとぐん)の名称はこれに由来。
鑑賞
コウホネは、庭園の池などで観賞用に栽培される。またアクアリウムで沈水葉を鑑賞対象とすることもある。コウホネは生け花に使用されることもある。
家紋
日本の家紋の中には、コウホネの葉を模した紋として、丸い円の中にコウホネの葉を1枚だけ配した「丸輪に一河骨まるわにひとつこうほね」や、コウホネの葉を3枚放射状に配した「三つ河骨みつこうほね」などさまざまなものがある。
文化
「河骨」は夏の季語であり、下記のような俳句がある。
河骨の 終にひらかぬ 花盛り — 山口素堂
河骨の 金鈴ふるふ 流れかな — 川端茅舎
花言葉は「崇高」「秘められた愛情」「その恋は危険」。
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スイレン
スイレン属 (スイレンぞく、学名: Nymphaea) は、スイレン科に属する属の1つ。多年生の水草であり、地下茎から長い葉柄を伸ばし、水面に浮水葉を浮かべる。花は大型で水面上または水上に抜け出て開花。4枚の萼片と多数の花弁・雄しべ、1個の雌しべをもち、花弁の色は白色、黄色、赤色、紫色など。被子植物スイレン科スイレン属〇〇スイレンということになる。
スイレン属は世界中に分布し、50種ほどが知られる。日本にはただ1種、ヒツジグサ(未草)のみが自生する。さまざまな種が観賞用に栽培され、また多数の園芸品種が作出されている。園芸用のスイレンは、温帯スイレンと熱帯スイレンに大別される。スイレン (睡蓮) の名は本来はヒツジグサの漢名であるが、日本ではスイレン属の水草の総称として用いられる。英名では water lily (water-lily, waterlily) とよばれるが、一部の種は lotus ともよばれる。属名の Nymphaea は、「水の妖精」を意味するギリシア語の νυμφαία (nymphaia) に由来。では、私が富士見市の難波田城公園の池で見た白いスイレンは何だったんだろう。日本固有のヒツジグサか外来の園芸種か。この日は古代蓮を見るのが目的だったけど、未だ開花前であった。こちらはピンク色の大きな花で蓮だからlotusだろう。つまりこれもスイレンの一種?
多年生の浮葉植物であり、地下茎から根を張り、そこから長い葉柄が生じ、浮水葉が水面に浮かんでいる。地下茎の発達程度は種によって異なり、無分枝または分枝、短い地下茎が直立するものから、長い地下茎が底泥中を横走するものまでいる。ときに匍匐枝による栄養繁殖が見られ、また地下茎の分断による栄養繁殖を行う種もいる。葉は水中に留まる沈水葉または水上に突き出る抽水葉であることもあるが、多くの葉は葉身が水面に浮かぶ浮水葉である。つまり、葉の形態として①沈水葉(水の中)、②抽水葉(水面上に突き出る)、③浮水葉(水面に浮かぶ)の3通りがある。
**匍匐茎(ほふくけい、ストロン/stolon):
植物において、地上近くを這って伸びる茎のこと。匍匐枝(ほふくし)。走出枝(ランナー/Runner) と呼ばれる場合もある。厳密にはstolonとrunnerは異なる物であるが、実際上、両語を明確に区別して使用される場面は少ない。
匍匐茎の節から、新しい植物体(ラメット)が形成される。なお、匍匐茎などで一つながりになっている個体全体のことは、ジェネット(栄養繁殖集合体)という。匍匐茎によって生まれる新しい芽は、基本的に受精によらないクローンということだ。
スイレンは美しい花をもつため、広く観賞用に栽培されており、またさまざまな栽培品種が作出されている。スイレンは古代エジプトの昔から人間の関心を引き、装飾に用いられたり、信仰の対象ともなっていた。クロード・モネはスイレンの絵を数多く描いたことが知られている。
【ヒツジグサ】
ヒツジグサ(未草、学名: Nymphaea tetragona)は、スイレン科スイレン属に属する多年生の水草の1種。水底に根を張った地下茎から長い葉柄を伸ばし、水面に円形の葉を浮かべる (右図)。花期は6月から9月、長い花柄の先についた1個の花が水面上で咲く (右図)。花の大きさは直径3–7センチメートル (cm)、萼片が4枚、多数の白い花弁と黄色い雄しべがらせん状についている。
ヒツジグサの名の由来は、未の刻 (午後2時) 頃に花が咲くためとされることが多いが、この頃に花が閉じ始めるためともされる。中国名は睡蓮または子午蓮であるが、日本語での睡蓮 (スイレン) はスイレン属の総称として用いられる。
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ハス
ハス(蓮、学名:Nelumbo nucifera)は、インド原産のハス科多年性水生植物。地下茎は「蓮根」(れんこん、はすね)といい、野菜名として通用する。被子植物ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス。ハスは種名。明らかにスイレンとは全く別種。でも英語でlotusはハスまたはスイレンとなっていた。
日本での古名「はちす」は、花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのが通説である。「はす」はその転訛。水芙蓉(すいふよう、みずふよう)、もしくは単に芙蓉(ふよう)、不語仙(ふごせん)、池見草(いけみぐさ)、水の花などの異称をもつ。
ハスの花と睡蓮(スイレン)を指して「蓮華」(れんげ)といい、仏教とともに伝来し古くから使われた名である。
英名 Lotus(ロータス)はギリシア語由来で、元はエジプトに自生するスイレンの一種「ヨザキスイレン」 Nymphaea lotus を指したものという。7月の誕生花であり、夏の季語。花言葉は「雄弁」。結局、英語でLotusと言えば、ハスもスイレンもどちらも指すことになる。
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オオオニバス
オオオニバスは、スイレン科の水生植物。直径3m以上になる大きな丸い葉をもち、水面にその葉(浮葉)を浮かべている。アマゾン川原産。花は夕方から咲き始め、はじめは白色で、翌朝にはピンク色に変化する。花の直径は約40cm。送粉者は主に甲虫。被子植物スイレン目スイレン科オオオニバス属オオオニバス。
浮葉は円形で2~3mの長さがあり、子供が乗っても大丈夫。縁(ふち)が10-15cmほど反り返って、盆形になっているので乗っていて安定感がある。しかし、実際は葉の縁に切れ込みがあるため、葉に水はたまらない。花は直径20-40cm、夕方頃から白い花弁を展開させて芳香を発し、夜のうちにコガネムシなどの送粉者が訪れる。そして翌朝になると一度花弁を閉じ、花の中に送粉者を閉じ込める。そのように閉じ込めている間に雄しべが開いて、花の中で動きまわる送粉者に花粉が付着する。その次の朝に再び開花して、送粉者は外に放たれ、別の花に飛び移って受粉する。その間に白色であった花の色はピンク色に変化し、芳香も少なくなるため、他の甲虫類があまり寄り付かなくなる。このような機構によって自家受粉を防いでいるものと考えられている。
果実は楕円形で、全体に刺が生えている。その中に大きさ1cmほどの黒色の種子が詰まっており、熟したあとに水中に落下する。種子は1-3ヶ月後に発芽することもあるが、環境条件が悪ければ2-3年の間休眠することもある。
観賞用として、植物園などで栽培される。大型になったオオオニバスの葉は浮力が強く、子供を葉の上に乗せるといったイベントが開かれることもある。
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ユキモチソウ
ユキモチソウ(雪餅草、学名: Arisaema sikokianum)はサトイモ科テンナンショウ属の多年草。花の中央に雪のように白い餅に見える付属体があることから雪餅草と呼ばれる。偽茎から鳥足状の葉が付く葉柄が横に分かれ、上に伸びた葉柄先端に花(仏炎苞)が付く。世界的に見ても日本の三重、奈良、四国の限られた地域に自生する。
ユキモチソウは花の中に餅状のものを持っている。この「餅」に近づくと・・・昆虫たちが次々と中に落ちていく! でもユキモチソウは食虫植物ではない。実は花粉を運んでもらうためだとか。本来虫たちはキノコを目指してやって来るので、ユキモチソウはキノコと同じ匂い(人にとってはとても臭いが虫たちには快適な匂いらしい)を発して虫たちを引き寄せるらしい。だから、ユキモチソウはキノコが沢山自生する森でしか生育できない。さもないと虫は飛んでこない。では、キノコにとってメリットは?
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蒲
ガマ(蒲)は、ガマ科ガマ属の多年草の抽水植物。円柱状の穂。花粉は蒲黄(ほおう)とよばれ、薬用にされる。和名のガマは、葉を編んでむしろや敷物を作ったことから、朝鮮語のカム(材料)に由来するとする説がある。ガマは漢字で「蒲」と書き、水辺に生える草という意味がある。「甫」は田んぼに草が生えている様子を表し、さんずいをつけた「浦」は水辺を表していて、これに草かんむりをつけている。別名で、ミズクサ・ミスクサ・ミスグサ(御簾草)や、キツネノロウソク(狐の蝋燭)とも言われる。
**抽水植物:水生植物のうち、水底に根を張り、茎の下部は水中にあるが、茎か葉の少なくとも一部が水上に突き出ているものをいう。 挺水(ていすい)植物ともいう。水深約0.5~1.2 mの浅水にはえ、根は水底の土壌中にあり、葉や茎が水上に出ている植物でガマ・ハスなどはその例。
北半球の温帯から熱帯の温暖な地域や、オーストラリアの広範囲に分布。日本では北海道・本州・四国・九州に分布。池や沼、川の岸辺などの浅い水辺に自生。
浅い水底の泥の中の根茎から茎が直立する多年草。横に走る地下茎によって群生する。草丈は高さ1~ 2 m、水中の泥の中に地下茎をのばす。葉は線形で厚く、下部は鞘状に茎を抱く。葉の断面は三日月形で、内部はスポンジ状。
花期は夏の6 ~ 8月。葉よりも高く茎を伸ばし、頂に円柱形の花穂をつけ、上部は黄色い花粉をまき散らす雄花穂、下部の緑色部は雌花穂であり、雌雄花穂はつながってつく。穂の上半分の雄花群は細く、長さ7~ 12cm、開花時には黄色い葯が一面に出る風媒花。花穂の下部の雌花群は、長さ10~12 cm、直径は約6mm。雄花も雌花も花びらなどはなく、ごく単純な構造になっている。
花が終わると、雄花は散って軸だけが穂の上に立ち、雌花穂は茶褐色になって太さも1.5 ~ 2 cmと太くなり、ソーセージに形が似たいわゆる「ガマの穂」になる。雌花は結実後は、綿クズのような冠毛を持つ微小な果実になる。この果実は、長い果柄の基部に穂綿となる白い毛がつき、先端の花柱が色づく。晩秋になると、ガマの穂がほぐれて風によって飛散し、水面に落ちると速やかに種子が実から放出されて水底に沈み、そこで発芽する。また、強い衝撃によって、種が飛び散ることもある。
メイガ科(あるいはツトガ科)のニカメイガ(Asiatic rice borer, Chilo suppressalis)、ヤガ科のオオチャバネヨトウ(Nonagria puengeleri)などの幼虫の食草である。魚類などの産卵場所や避難場所として利用され、栄養塩類の除去などの水質浄化に役立っている。
昔から、若葉を食用、花粉を傷薬、葉や茎はむしろや簾の材料として使われてきた。雌花の熟したものは綿状(毛の密生した棒様のブラシ状)になり、これを穂綿と呼ぶ。火打ち石で火を付けていた時代には、穂綿に硝石をまぜてほくちとして用いることがあった。蒲の穂を乾燥させて、蚊取り線香の代用として使われる事もある。
茎、葉は、樽作りで、樽材の隙間に噛ませ、気密性の向上に利用される事もある。かつてアイヌは茎を編んでゴザにした。
ガマの雄化穂から出る花粉は、同属のコガマ、ヒメガマとともに、集めて陰干ししたものが生薬となり、蒲黄(ほおう)と呼ばれ薬用にする。漢方では、蒲灰散(ほかいさん)、蒲黄散などに蒲黄が処方され、内服すると利尿作用、通経作用があるとされる。民間では、1日量2~3グラムの花粉を、布袋などに入れて約400 ㏄の水で半量になるまで煎じて、3回に分けて服用される。外傷には傷面を清潔にして花粉をそのままつけてもよいとも言われており、中国南朝の陶弘景注『神農本草経』、唐代の孫思邈著『備急千金要方』には、蒲黄が止血や傷損(すり傷)に効くとある。
黄色い花粉には、フラボノイド配糖体のイソラムネチン、脂肪油、α-ティファステローム、β-シトステロール、ブドウ糖などの成分が含まれる。このフラボノイド配糖体には、細胞組織を引き締める収斂(しゅうれん)作用があり、血管を収縮させて出血を止める作用があると考えられている。また、脂肪油が外傷の皮膚面を覆うことにより、外部からの空気に触れないように保護し、自然治癒力を助けていると考えられている。
日本最古の歴史書とされる『古事記』(712年)の中の「因幡の白兎」の挿話で登場することでも有名。『古事記』の「因幡の白兎」の説話では、毛をむしり取られた兎に、大穴牟遅神(大国主命)が蒲黄を取って敷き散らし、その上に転がるよう教える。また、「因幡の白兎」が包まれたのは、ガマの穂綿だという説もある。
「蒲の穂」はかまぼこ(蒲鉾)の語源である。昔のかまぼこは板に盛られた現在の形とは異なり、細い竹にすり身を付けて焼いた食べ物を指していた。これは現在のちくわにあたる。ちくわと蒲の穂は色と形が似ていて、矛のように見えるガマの穂先は「がまほこ」と言われている。蒲焼きも、昔はウナギを開かずに、筒切りにして棒に差して焼いていたので、その形がガマの穂に似ていたことから「蒲」の字が当てられている。
**確かに。漢字を調べると「蒲(がま)」が元字で蒲焼(かばやき)、蒲鉾(かまぼこ)、蒲団(ふとん)とある。
布団も元来は「蒲団」と書き、江戸時代以前に、スポンジ状の繊維質が入った丈夫で柔らかなガマの葉を使って、円く編んで平らな敷物をつくった。
花言葉は、従順、素直、慌て者、無差別、救護、慈愛、予言など多数ある。
何か見る人をホットさせるガマの穂であるが、昔から庶民に親しまれて来たものだったようだ。
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アラビアゴム
スーダン内戦の影響でアラビアゴムが不足し、ペプシ・コーラやコカ・コーラの生産に支障が出るらしい。アラビアゴムとは何者だ?
アラビアガム (Gum arabic) あるいはアラビアゴムあるいはアカシア樹脂は、アフリカ、ナイル地方原産のマメ科ネムノキ亜科アカシア属アラビアゴムノキ (Acacia senegal)、またはその同属近縁植物の樹皮の傷口からの分泌物を乾燥させたもの。吸水するとゼラチン様に膨潤する。自然に生じた樹皮の傷口からも得られるが、効率よく採取するためには雨季が終了する2月から5月にかけて樹皮に切り付けを行う。
乾燥品は不規則な粒状や塊状で良品は淡黄色。劣等品は褐色や赤色に着色する。水に対する溶解性が高く、水溶液は強い粘性を示し、良好な乳化安定性を示すため、食品添加物のうち、乳化剤や安定剤として飲料や食品に広く用いられている。
身近なところではアイスクリームなどの菓子類や、ガムシロップが典型的な用途である。また医薬品の錠剤のコーティング剤や、絵具(ガッシュ)、インクなどの工業製品にも用いられている。特に水彩絵具の固着材はアラビアガムである。乾燥時にべたつかず、わずかな水分で速やかに粘性を示すので、切手の接着面の糊にも使用されている。
以前は植物標本を台紙に固定するテープの糊にもよく使われたが、今日では博物館や植物園のように大量に使用する施設では熱固定式の合成接着剤に移行している。ダニや微小昆虫を半永久プレパラートにするときに用いるガム・クロラール液やホイヤー液などのガム・クロラール系封入剤は、アラビアガムと抱水クロラールを主成分とする。
主産地はスーダン、チャド、ナイジェリア、セネガル、マリ、ケニアなど。
日本ではアカシアといえば同じマメ科でも比較的縁の遠いニセアカシアが一般的であり、真のアカシア属の植物は日本ではあまり一般的ではないが、関東以南にしばしば植栽されるフサアカシア(ミモザ)の樹皮を降雨時に観察すると、傷のある部分に水を吸って褐色のゼリー状に膨潤したアラビアゴムを見ることができる。
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大和草
日本原産で国内にのみ分布しているヤマトグサは、日本人の植物学博士である牧野富太郎(朝ドラでは槙野万太郎)が発見した野草。今NHKの朝ドラで多くの人の知る存在となったようですが、正直な所、やはり地味な雑草?
アカネ科ヤマトグサ属の多年草。ヤマトグサは主に本州の関東地方以西から四国や九州まで分布、北限は秋田県、南限は熊本県となっている。熊本県は九州で唯一ヤマトグサの自生が確認されている土地です。牧野富太郎の故郷高知県では今でも自生しているんでしょうか。丘陵地帯の森林下で生育。現在は多くの都道府県にて、絶滅する恐れがある植物としてレッドリストの指定を受けている。森林栽培や林道工事による自然への影響に加え、園芸栽培を目的とした採取を理由に減少しているようです。ヤマトグサは同じ株に花びらのない雄花と雌花を咲かせる野草で、「風媒花」に分類される。
風媒花とは風の力に頼って受粉が行われる花のことを指し、総じて派手な花を咲かせない点が特徴です。確かに稲や小麦の花を鑑賞したい人は少ないでしょう。雄花の姿は独特で、長さ5mm程度の細い雄しべが多数垂れさがっています。一方で雌花は緑色をしており、非常に小さいため雄花よりも目立ちません。柄がなく筒状の外花被片で子房を囲んでおり、外花被片のやや側面から曲がった柱頭が突き出てきます。
ヤマトグサは牧野富太郎が新種として発見。牧野富太郎は日本の植物学における基礎を築いたとして、”植物学の父”とも謳われている大博士。牧野富太郎がヤマトグサを最初に発見したのは、1886年高知県。当時は標本がないため、誤って「ハシカグサ(これもアカネ科)」と同定していました。しかし、その後同じ場所にて最適な標本を得たことからヤマトグサの研究が始まります。後に植物学者である大久保三郎との連名で、「植物学雑誌」にて研究結果の論文を発表。日本固有種であり、日本人の手によって記録され、日本の学術雑誌に発表された植物はヤマトグサが初めてでした。
**確かに、ハシカグサとヤマトグサの葉だけを見ればかなり似ている。でも、花を見れば違いは分かる。よく見れば葉っぱもかなり違う。でも、違うということを証明することは簡単ではない。だから牧野の植物標本は、種から根から花まで、更には生育の過程まで一括セットで集めることに拘る。地道な努力の積み重ねが必要な訳だ。
日本の植物の多くは、西洋人達の手で世界に紹介されていたので、牧野富太郎の世界への発表は日本の植物学の最初基礎を築いた大成果と言うことになるのでしょう。日本の植物を世界に紹介していたのがかのシーボルト博士と言うことで、シーボルトの助手を務めた伊藤圭介の孫という人物が登場する。
*****
朝ドラ「らんまん」がだんだん面白くなってきましたね。特に東大植物学教室の田辺教授(矢田部良吉)と万太郎との決裂は、学歴のない万太郎にとって最大の危機ともいえます。これから万太郎はどうやって研究を続けるのかと危ぶんでいたところ、畳みかけるようにもう一つの事件が浮上してきました。それは田辺教授が発見した「トガクシソウ(戸隠草)」の命名にまつわるものです。
テレビでは、ロシアのマキシモヴィッチ博士に鑑定を依頼した標本の中で、万太郎の採取した「マルバマンネングサ(丸葉万年草)」が新種と認められました。そのため学名は万太郎の名前が入った「セドゥム・マキノイ・マクシム」と命名されています。これは大変名誉なことです。また田辺教授が戸隠で採取した「トガクシソウ」もメギ科の新属と認められ、確認のために花の標本を送ってほしいということになりました。これが認められれば、田辺教授の名前が入った学名がつけられることになります。
ところが「トガクシソウ」は、実は田辺教授より先に伊藤孝光(伊藤篤太郎)の叔父が採取していたのです。それをマキシモヴィッチに送っており、既にメギ科ミヤオソウ属の一種と認定され、「ポドフィルム・ジャポニクル」という学名まで与えられていました。その事実があるにもかかわらず、田辺教授の送った標本によって、ミヤオソウ属ではなく新属と認定されようとしているのです。どうやらマキシモヴィッチが認定を誤ったようなのです。このままだと「ヤタベ・ジャポニカ・マクシム」という学名が正式のものとなり、伊藤篤太郎の功績は無に帰してしまいます。だからテレビでは、田辺教授のことを「泥棒教授」、マキシモヴィッチのことを「世界一の間抜け」と罵ったのです。
ところでこの伊藤孝光は万太郎と違い、学歴も家柄もありました。孝光の祖父伊藤圭介は、シーボルトから教えを受けた日本を代表する本草学者の一人です。その祖父から植物学の手ほどきを受けた孝光は、イギリスのケンブリッジ大学に留学した経験もあります。そのプライドが許さなかったのかもしれません。そこで孝光は田辺教授より先にイギリスの植物雑学誌に論文を提出し、自ら「トガクシソウ」に「ランザニア・ジャポニカ」という学名をつけました。
後手に回ったマキシモヴィッチは、「トガクシソウ」の公表を断念せざるをえなくなります。ということで、自分の名が学名につくことを期待していた田辺教授の夢は破れたのです。当然その怒りは孝光に向けられ、万太郎同様植物学教室への出入りを禁じられてしまいます。これが有名な「破門草事件」の顛末です。伊藤は「トガクシソウ」をめぐって破門されたので、「トガクシソウ」に「破門草」という別称が付けられたというわけです。これは本当にあった事件でした。
それはさておき、この一件によって伊藤篤太郎は、日本で初めて学名をつけた植物学者とされました。同時に「トガクシソウ」も、日本人によってはじめて学名をつけられた植物として日本の植物学史に名をとどめています。一方、矢田部教授(テレビでは田辺教授?)は人間関係の不和が原因で、明治24年に東大を停職、27年には免官となり、東京高等師範学校の英語教授に転出しています。もちろん矢田部教授にしても、たとえばアジサイ科のキレンゲショウマの学名に「キレンゲショウマ・パルマータ・ヤタベ」と自分の名を留めています。ついでながら、矢田部良吉は外山正一・井上哲次郎とともに『新体詩抄初篇』を編んでおり、日本の近代詩人としても知られている人物です。
**伊藤篤太郎:
日本で最初に植物に名を与えた学者。1888年にトガクシソウの学名に関わる「破門草事件」を起こした中心人物。1921年に東北帝国大学に生物学科が新設されるとその講師となる。しかし、この件もマキシモビッチの認定ミスと言うことなら、矢田部教授の怒りは逆恨みと言うことになり、彼の功績は認められざるを得ないでしょう。
**カール・ヨハン・マキシモヴィッチ(1827年 - 1891年):
19世紀のロシアの植物学者。専門は被子植物の分類。ペテルブルク帝立科学アカデミー会員。極東アジア地域を現地調査し、生涯の大半をその植物相研究に費やし、数多く新種について学名を命名した。その業績を含め、日本との関わりは大きい。「破門草事件」の原因を作った人物と言えど、その業績の大きさは大変なもののようだ。実は矢田部教授に破門された富太郎は、マキシモビッチを頼ってロシア留学を決意する。ところがマ博士が突然インフルエンザに罹って急死することに。マ博士も楽しみに待っていたとか。結局、この計画はご破算となってしまう。
なお田辺教授のもとで万太郎を敵視していた徳永政市助教授(松村任三)・大窪昭三郎講師(大久保三郎、東京府知事大久保一翁の三男)でしたが、これ以後万太郎に好意的になります。ドイツに留学して帰国した松村は、田辺教授が辞めた後に教授となります。そしてなんと万太郎を東大助手として正式に採用したのです。出入りを禁止されて途方に暮れた万太郎でしたが、以後は堂々と研究に邁進できることになりました。また大窪講師は、万太郎が土佐で採取した新種の「ヤマトグサ」を共同で研究し、その成果を植物学雑誌に発表します。その学名には二人の名前が連名でつけられました(Theligonum japonica Okubo et Makino)。今後の展開が楽しみですね。
**トガクシソウ(戸隠草、学名:Ranzania japonica ):
メギ科トガクシソウ属の多年草。別日本特産の1属1種。長野県の戸隠山で最初に採集されたので、トガクシソウ(戸隠草)の名がある。また、日本人によって初めて学名がつけられた植物。属名 Ranzania は、「日本のリンネ」とも称される江戸時代の本草学者である小野蘭山に献名されたものだが、本来はこの植物と彼は何らの関連はない。しかし、別名「破門草」は頂けない名ですね。
**松村任三(まつむら じんぞう、1856年~1928年):
日本の植物学者。東京帝国大学理学部植物学教室教授、附属小石川植物園の初代園長。多くの植物標本を採取しソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名を付け、それまでの本草学と近代の植物学の橋渡しをした。また、植物の分類のための植物解剖(形態)学という新しい学問を広めた。門下生に牧野富太郎がいる。だが次第に牧野を憎むようになり、講師であった牧野の免職をたびたび画策した。現在の茨城県高萩市出身。確かに朝ドラのストーリーからしても、徳永助教授の立場は、槙野の指導教官でもあり、師弟関係があったとも言える。
**大久保三郎(おおくぼ さぶろう、1857年~ 1914年):
日本の植物学者。幕臣で後に東京府知事・子爵となった大久保一翁の息子として生まれた。1871年(明治4年)にアメリカ合衆国のミシガン大学に留学し、植物学を学んだ。1876年(明治9年)にはイギリスに渡った。帰国後の1878年(明治11年)に内務省に務めた後、東京大学御用掛、小石川植物園の植物取調に任じられた。伊豆諸島、小笠原諸島の植物相の研究を行った。1883年(明治16年)助教授に昇進し、矢田部良吉を補佐し、標本施設拡充に貢献した。1887年(明治20年)にも伊豆諸島を調査した。1889年(明治22年)に『植物学雑誌』に牧野富太郎と連名でヤマトグサを日本で初めて学名をつけて発表した。1895年(明治28年)三好学がドイツ留学から帰国すると、大学を非職となり、高等師範学校の教授となるが、以後中学用の植物学教科書の編集を行う以外に、植物学の研究論文などを書くことはなかった。シダ類のオオクボシダは大久保三郎に因んで命名された。
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ムジナモ
ムジナモ(貉藻、狢藻、Aldrovanda vesiculosa)は、ウツボカズラ目モウセンゴケ科ムジナモ属の多年草の水生植物で、1属1種の食虫植物である。日本を含む世界各地に分布するが、自然環境下での生息地は50カ所程度と少ない。
NHKの「爛漫」で牧野富太郎博士が見つけたことが紹介されている。確かにユニークな植物である。浮遊性の水草で、根は発芽時に幼根があるだけで通常はない。つまり、ぷかぷかと水に浮いているまさに根無し草。さらに、葉がハエトリグサと同じく二枚貝のような捕虫器官になっており、ミジンコなどの動物プランクトンを捕食する。動物を食べる植物だ。
細長い茎を中心にして、捕虫葉が風車のように放射状に輪生する。植物全体の印象は、似た和名を持ち小さな袋状の捕虫葉を持つタヌキモが二次元的・平面のように広がって見えるのに対し、ムジナモは三次元的・円柱のように見える。また、その形がタヌキの尻尾のようなので、発見者である植物学者の牧野富太郎氏は和名をつけるとき「タヌキモ」と命名したかったが、既にタヌキモという植物があったため、タヌキの別名であるムジナから「ムジナモ」と名付けられた。英名は Waterwheel plant と、水車の名が与えられている。
茎は5cmから30cmほどの長さになり、夏期には1日に1cm伸びることもある。途中で脇芽を出して枝を伸ばし、基部が枯れ落ちていくことで分離、増殖していく。葉柄の長さは5mmから8mmで、その先に付く捕虫葉は5mm程度。捕虫葉の内側にはハエトリグサと同じく感覚毛が生えているが、数は約40本と多く、1回の刺激で葉が閉じる。閉じる速さも50分の1秒とハエトリグサより遙かに速い。しかし捕虫葉が小さく水中にあるため観察は困難である。葉を閉じると狭窄運動を行い、消化酵素を出し、養分を吸収する。つまり、葉と言う器官が胃腸と言う動物の消化器官に早変わりする訳だ。
冬期は先端に冬芽(殖芽)を作り、水底に沈んで越冬する。春になると冬芽は浮上し、水温の上昇と共に成長していく。7月から8月、水温が30度を超えるようになると茎の途中から花茎を1本伸ばすが、花を咲かせることは希で閉鎖花の状態で終わってしまうことが多い。開花は昼の1時間から2時間ほどで、白もしくは緑白色の小さな花が1つ咲く。種子は翌年の初夏に発芽する。
日本では1890年に江戸川河川敷の用水池で、牧野富太郎により発見された。柳の木にもたれて、ふと水面を覗き込んだらそこに浮遊していたという話は、愛好家の間では特に有名である。同年11月発行の『植物学雑誌』においてムジナモの和名が発表され、翌年には花の解剖図を描き、開花が見られなかったヨーロッパにおいて文献に引用された。ムジナモの発見とその後の事態は牧野の名を世界に広める事になったが、そのことが当時出入りしていた東京帝国大学理学部植物学教室への、出入りが禁じられた件に関係しているとも言われている。
1890年に江戸川で発見されてから、全国各地で発見が相次いだが、干拓事業などによる自生地の消失、魚やアメリカザリガニなどによる食害、農薬や生活廃水の流入による水質汚染により、各地で絶滅。最後に残った宝蔵寺沼(埼玉県羽生市)も1966年に国の天然記念物に指定されたが、同年台風による利根川の水害でほとんど流されてしまい、残った個体も流入した農薬の影響を受け、1967年に絶滅した。
栽培に成功していた個体が残っていたため、種としての絶滅は免れた。宝蔵寺沼ではムジナモが放流されて増殖が試みられており、国の天然記念物指定をうけたままになっている。ただ、現在の宝蔵寺沼は草食性魚類が優勢であり、放流したムジナモのほとんどが翌年までにはこれらの食害で消失してしまっている。他にも自生地の復活を図って放流、増殖が試みられている池がある。
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ヤッコソウ
ヤッコソウは高知県で発見され、牧野富太郎により命名された。短い地上茎に数枚の小さい葉が対生し、先に花が単生する。ヤッコソウとは大名行列の奴に見立てての命名。
テレビNHK朝ドラで出て来た。山歩きのガイドをしている少年が好きだったという名も無い植物を富太郎博士が新種(新しい科)として命名。
他の数属の全寄生植物とともにラフレシア科に含められることも多かったが、これらは多系統であることが分子系統解析により明らかとなった。
日本では九州・四国地方に分布し、徳島県を北限とする。天然記念物に指定されているものもある。
徳島県の南にはヤッコソウという変わった植物が生育してる。どう変わっているかというと、種子を作る植物は緑色の葉を持っていて光合成をして必要な養分を自分で作るのが普通である。ところが、このヤッコソウは十センチメートルにも満たず、全体が白く緑色の葉を持っていない。自分では養分を作ることができず、別の植物にくっ付いて養分をもらっている。そうした植物を寄生植物という。
ヤッコソウはその寄生植物のひとつで、シイノキ属の植物の根に寄生する。秋に 「やっこ 」に似た白い花を付けるのでこの名が付いた。徳島県が自生の北限で、国や県の天然記念物に指定されている。
ヤッコソウには帽子がある。その帽子は、雄しべが筒状になったものだ。帽子の側面には花粉がつまった葯が帯のようになった葯帯がある。花ははじめは雄しべの帽子をかぶっているが、やがてそれが抜け落ち、雌しべが顔を出す。花には甘い蜜がたくさん出ていて、花の下側にある鱗片葉の付け根に蜜がたまる構造になっている。その蜜を求めてやってきた小動物や虫が、たまった蜜をなめようとして頭を入れると雄しべの帽子に触れて花粉が付く。そして別の花に移って同じように蜜をなめようとするとむき出しになった雌しべに体が触れて受粉する。
寄生植物は変わった形をしたものが多く、世界で一番大きな花を付ける植物であるラフレシアもその一つで、一見、葉は全く見られずに一メートルを超える奇妙な花を付ける。中心には壷のようになった場所があり、その奥に雄しべや雌しべがあって臭いで呼び寄せられたハエが花粉を運ぶ。寄生植物は栄養を作るための葉を付ける必要がないので、子孫を残すための花にエネルギーを集中することができる。そこで、花粉を運んでもらうために効率の良い形になっていて、普通の植物とは変わった形をしている。
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ムラサキカタバミ
ムラサキカタバミ(紫片喰、紫酢漿草、学名 Oxalis debilis Kunth 1822)
カタバミ科カタバミ属の植物。南アメリカ原産で、江戸時代末期に観賞用として導入されて以降、日本に広く帰化。環境省により要注意外来生物に指定されている。他にも、北アメリカ、オーストラリア、熱帯アジアなどに帰化している。
背丈は約30cm、葉は根生三出複葉、小葉はハート形、裏面の基部に黄色い腺点がある。 花は主に春~初夏に咲き、葉の間から数個の花柄を伸ばして、先端に数輪を散形花序につける。直径1.7cmほどで、がく・花弁とも5枚。 青みのある濃い桃色で花筒部奥は白く抜け、花の中心部に向けて緑色の筋が入る。 植物体の栄養状態や環境に起因して花色が異なる場合もあるが、同じ環境で育ててみると殆どが同じ花色になってしまう。
鱗茎から地上に葉と花柄だけを伸ばす。鱗茎は下部から太いやや透明がかったダイコン状の牽引根を出し、より深く根付く能力を持つ。 繁殖期(6-7月)に鱗茎と牽引根の間へ木子(微細な小球根)をびっしりと付け、非常に旺盛な繁殖をする。日本ではサビ病の多発により休眠する場合が多い。両性花で虫媒花だが日本では種子を付けず、木子による栄養繁殖クローンが主とみられる。
**木子(きご):
ムラサキカタバミは直径2ミリほどの小さな球根をたくさんつけるのが特徴です。また場合によってはこれらの根が生長し、まるで小さな大根のように育つこともあります。
ムラサキカタバミは種子ではなく、根に形成される「木子(きご)」を媒介にしてどんどんと繁殖する。そのため除草の際には根をしっかりと処理することが大切。
**カタバミ(酢漿草、片喰、傍食、学名: Oxalis corniculata):
カタバミ科カタバミ属の多年草。日本の地方名には「かがみぐさ」「すいば」「しょっぱぐさ」「すずめぐさ」「ねこあし」「もんかたばみ」などがあり、『日本方言大辞典』[4]には180種以上が記録されている。中国では「三葉酸草」「老鴨嘴」「酸味草」「満天星」などの別名がある。単にカタバミと言えばこれを指すようだ。
元来は観賞用に栽培されたものであるが、現在では庭園から畑地、芝地を中心に広く見られる。土の中の鱗茎を取り尽くすのが非常に難しいので、駆除が大変困難な強雑草である。草の丈が低く柔らかいため雑草の刈り取りから殆ど無視される対象でもある。開花が始まった頃が木子の出来るピークなので、その時期に土を深く掘り抜き捨てるしかない。なお、体内に蓚酸を多く含む関係上、用土がアルカリ化すると勢いが弱まる。
花は独特の色合いで美しいが、雑草のため市販されることはほとんどない。しかし、葉にウイルス性の斑入りが入る系統が存在し、この系統のみ流通している。但し、このウイルス斑はやや不安定で、草の状態によっては消えてしまうこともある。
ムラサキカタバミが属している「カタバミ」は、中南米や南アフリカを原産として世界に広く分布している植物。その種類はなんと約850種類にも登る。
種類によって花の色や葉の枚数が異なり、開花時期も春から夏のタイプと秋から冬に咲くものに分かれます。
牧野富太郎をモデルとしたテレビ朝ドラ「らんまん」で関東大震災の後の焼け荒れた道端で、ムラサキカタバミを見つけて感動する場面が見られるらしい(予告編)。駆除が大変困難な雑草とされる理由が分かる。
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ツチトリモチ
ツチトリモチ科は、一見キノコに似ているが、菌類ではなく、双子葉植物。寄生性の植物だから葉緑体は持たない(緑でない)。他の植物の根に寄生し、地下茎は塊状、地上へは花序(花茎)だけが顔を出す。葉はないか、あるいは鱗片状に退化した鱗片葉を持つ。根は寄生根で短く、これが寄主の組織に根付く。植物体は葉緑素を持たず、黄色又は赤色に呈す。花序は肉穂花序で、丸いか楕円形の頭のような部分の表面に多数の小さな花をつける。花は両性か雌雄異花で、どちらもごく簡単な構造になっている。雄花は花弁があるものもあるが、雌花はほとんど雌しべのみといった姿であり、微小。
ツチトリモチ(土鳥黐)は、日本固有種で、本州(紀伊半島)から四国、九州、南西諸島(種子島〜口永良部島)までの山地の森林内に生育。
宿主であるハイノキ属のクロキやハイノキの根を抱くようにして地下に塊状の茎があり、秋の終わりに花茎が地上に顔を出す。花茎は太くて短く高さ6~12cm、多数の鱗片状の葉に包まれる。花期は10〜11月。花茎も鱗片も花序と同様に真っ赤である。その先端に楕円形の花序がつく。花序は大きさが鶏卵ほどで、表面は細かい粒状のもので覆われ、赤い。ちょうど、ヤマモモの果実を大きくしたような感じである。この粒子は花ではなく、花穂の表面から突出した球状の構造である。これが互いにほぼ密着するように並んでおり、花序の外見はこれが並んだ状態が見えるだけである。花はその突起の間の隙間に並んで生じ、外からは見えない。花はすべて雌花で、単純な形の雌しべのみからなる。雌雄異株であるが、雄株は発見されたことがない。したがって種子は単為生殖によって作られる。
なお、和名のツチトリモチは、根茎から鳥黐(とりもち)を取ったことにちなむ。別名に山寺坊主というのがある。要は実際に鳥もちを作ったことに由来しているんですね。土鳥もちは変なキノコではなく、れっきとした双子葉植物なんです。
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真菌類とは
真菌類(キノコ・カビ・酵母)
真菌類は、単細胞の酵母や、糸状の菌糸をもつ多細胞の糸状菌であるきのこやカビなどを含む。真核生物であり、原核生物である細菌にはないような特徴的な機能がある種類がある。一部はお酒造りや産業用酵素生産などに使われている。
Q. 細菌と真菌はどこが違う?
A. 細菌も真菌も「菌」がつくので同じ仲間だと思われがちですが、細胞の構造は全く異なる。 細菌は染色体DNAが細胞の中に裸で存在していて、原核生物の仲間。
一方、真菌(カビ、酵母、キノコの仲間)は、染色体が膜に包まれた核の中に存在していて、ヒトと同じ真核生物の仲間。つまり、真菌は、核の他にミトコンドリアや小胞体などたくさんの小器官をもっていて、最近と比べると実はかなり高等な生物。
Q. 真菌と動物(ヒト)の細胞はよく似ている?
A. 真菌もヒトなどの動物も同じ真核生物で、細胞の構造がよく似ている。 このため真菌を殺す薬剤はヒトの細胞にも有害で、よく効く抗真菌剤が少ないのはこのため。 真菌と動物(ヒト)の細胞の異なる点は、前者が堅い細胞壁を持っていることです。その点は植物に似ている?
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松茸(マツタケ)
マツタケ(松茸、Tricholoma matsutake)は、キシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節のキノコの一種。日本やロシアを含むアジアとヨーロッパ、北アメリカに分布。腐植質の少ない比較的乾燥した土壌を好む。秋にアカマツの単相林のほか針葉樹が優占種となっている混合林の地上に生える。菌糸体の生育温度範囲は5~30℃、最適温度は22~25℃、最適pHは4.5~ 5.5であり、菌糸の成長速度は遅い。生育地となる松林が世界的に松枯れなどの病気に悩まされていることなどもあって、減少傾向にあるとされる。国際自然保護連合(IUCN)が2020年7月に絶滅危惧種に指定した。
特有な芳香があり、日本では高級な食用キノコとして珍重されるが、日本国外では不快な臭いとみなされていることが多い。
その子実体は、マツタケオールによる独特の強い香りを持ち、日本においては食用キノコの最高級品に位置付けられている。秋、まれに梅雨期にアカマツ林に発生するが、クロマツ、ツガ、コメツガ、エゾマツ、ハイマツなどの木の下にも発生することが知られている。梅雨頃に生える季節外れのマツタケはサマツ(早松)とも呼ばれ共に食用にされる。なお、マツタケの仲間にはよく似たキノコが多数確認されている。
生態
アカマツの樹齢が20年から30年になるとマツタケの発生が始まり30年から40年が最も活発で、70年から80年で衰退する。マツタケは菌根菌で、マツ属(Pinus)などの樹木の根と、外生菌根または外菌根と呼ばれる相利共生体を形成して生活している。樹木の根を伝って菌糸が広がり、生え始めの地点から周辺に向かって輪になって子実体が生えてくる。
マツタケの子実体は直径数メートルの環状のコロニー、いわゆる「フェアリーリング」(天使の輪)を作って発生し、1年でおおよそ15 cmの速度で拡大し、その領域を「シロ」と呼ぶ。その語源は「白」とも「城」あるいは「代」とも言うが定かではない。シロの地下にはマツタケの本体である菌糸体と菌根が発達しており、土壌が白くなっている。マツタケは貧栄養な比較的乾燥した鉱質土層にクサレケカビ属真菌(Mortierella sp.)などと共に生息し、そこに分布する宿主の吸収根と共生する。
マツタケが生える山林は「マツタケ山」と呼ばれており、アカマツ林の尾根から中腹にかけての痩せた乾燥気味の土地に良く生える。平坦で落葉樹の葉がたくさん落ちているような、栄養分の多い土地には生えることはなく、マツタケ菌は他の菌に比べて弱いため、腐葉土が多く養分がある土地では他の雑菌に負けてしまう。生産量減少の主な要因は、山林の放置と宅地造成の拡大と言われており、アカマツ林の保全が提唱されると共に、自然に生えるものから、農産物として山林を手入れをして生やすものへの転換も行われている。
地表に落枝・落葉・松ぼっくりなどが蓄積して富栄養化が進み、分厚い腐葉土のようになると、腐生菌が増えたことで生存競争に敗れてマツタケが発生しなくなってしまうので、生息環境としては不適である。後述する日本における収穫量の減少は、開発やマツクイムシ被害による松林の減少に加えて、里山の住民が肥料や燃やす燃料として落ち葉や薪をとらなくなったことによる土壌の富栄養化が大きな要因になっている。
発生初期の若い菌糸のシロと最盛期を過ぎたシロの水分量には差があり、最盛期を過ぎると乾燥化が進み不透水層が形成される。シロの内部では乾燥化が進み抗生物質様のものを分泌して細菌や放線菌を排除する現象が生じているが、いや地と呼ばれるこの排除現象は菌根から由来する物質単一では起こらないと考えられている。また、子実体原基形成の刺激日前後の降水量と子実体の発生本数には正の相関があることが明らかになっていて、8月から9月の降水の間隔は発生本数に大きな影響を与えている(一回のまとまった降雨ではなく乾燥が進まない一定の間隔での降雨が重要)。
一方、腐生植物であるシャクジョウソウ科のシャクジョウソウはマツタケなどのキシメジ科の菌に寄生することが知られ、イボタケ科のケロウジは、マツタケ同様の菌根菌であるが、マツタケの「シロ」を排除して縮小させ、自らの「シロ」を形成する。そのため、これらはマツタケの大敵とされている。
収穫と流通
マツタケを採るのは難しく、通常のキノコのように地表に顔を出して傘が開ききってしまえば、香りも味も落ちる。このため、地表からわずか1-2cm程度、顔を出したところを見極め、根本から押し上げるようにして採取する。シロの場所を知らない人間が、やみくもに探しても採取できない理由はこの点にある。また、地衣類の多い林地では傘が地上に見えないこともある。現在のところ人工栽培することができず、自然に発生したものを収穫する。
入会地の過剰利用などにより退行遷移を起こしてアカマツが優占するようになった(コモンズの悲劇一歩手前で抑制がかかった状態である)里山はマツタケにとっては適した環境であるため、過去には日本でも多く取れ、庶民の秋の味覚として親しまれた。「松茸列車」と呼ばれる、国産松茸を満載した貨物列車が毎日東海道本線を走ったほどである。しかし、松の葉や枝を燃料や肥料として利用しなくなりマツ林の林床環境が富栄養化したこととマツクイムシにより松枯れが多発したことでマツタケの収穫量は激減した。そのため、現在では高価な食材の代表格となっている。
林野庁の資料によれば、昭和初期の流通量は6000トン程度で、最盛期の1941年(昭和16年)には1万2000トンが記録されている。しかし、その後減少し続け1965年(昭和40年)に1291トン、1998年(平成10年)に247トンであった。2010年(平成22年)には140トン、23億円を産したが、これが前年比5.8倍である。
1993年のような冷夏で雨の多い年は多く発生するものの、夏が暑く8月中旬から9月末頃の降水量が少ない年は収量が減少するとされてきたが、2010年のように記録的猛暑にも拘らず秋の降水量が周期的で十分多かったことでマツタケが歴史的豊作になる年が出現するに及んで、夏の猛暑自体は地中温度にあまり影響を与えないために影響は受けにくいと考えられている。
最近では市場流通量のほとんどが輸入品で占められ、中でも韓国や北朝鮮、中国(特に吉林省・雲南省・四川省)からの輸入が多い。2007年の10月には、北朝鮮産については2006年10月の核実験をきっかけとする経済制裁で輸入が止まっており、中国産については残留農薬(殺虫剤)問題に端を発する市場の不信感から価格が低迷した。北米からは別種のT. magnivelareが輸入されているが、それを含め類似の形態・食味・香りを持つキノコは市場では一括して「松茸」として扱われている。
北米のT. magnivelareは、日本のマツタケとは異なり自然度の高い森林に発生する。キノコを採集するために熊手(レーキ)で落葉層を掻くなどして地表を攪乱することは、樹木の細根を傷つけ生態系へのダメージとなる。このためアメリカ合衆国ではキノコ狩りに規制がかけられており、一時はこのキノコをワシントン条約に基づき保護する対象とすることが検討された。
輸入品の主要産地は中国が圧倒的に多い。2位から4位は年度によって変わるもののアメリカ、カナダ、トルコとなっている。
中国産、韓国産は色・形とも日本国産マツタケとほぼ変わらない。カナダ産、アメリカ産のものは、色が白っぽくてサイズが大きめである。新鮮なものほど香りは強いが、流通過程において風味が劣化していると言われる。主な要因は、植物防疫法により微量でも土が付着した状態での輸入が禁止されているので、洗浄が避けられないことにある。
日本のキノコ食文化の歴史は古く、縄文時代中期(紀元前2000年頃)の遺跡から、縄文人がキノコを食物として利用していたことを示す遺物(キノコ形土製品)が多数発見されており、岡山市の弥生時代の百間川・兼基遺跡からは、マツタケを模した「土人形」が出土している。
『日本書紀』には応神天皇に「茸」を献上したことが記されており、『万葉集』には奈良の高圓山のマツタケの短歌が載っており、平安時代になると当時の貴族がマツタケ狩りを季節の行事として楽しむようになり、『古今和歌集』『拾遺和歌集』にもしばしばマツタケの歌が詠まれている。
安土桃山時代になると、武士もマツタケ狩りをしていた様子が記録として残されており、江戸時代になると一般大衆もマツタケを食していたことが江戸時代の料理本『本朝食鑑』に記録されている。
日本の秋の味覚の代名詞としても扱われる食用キノコで、「日本のキノコの王様」とも称される。人工栽培が困難であること、また秋のほんの一時期しか食べることができないことから、希少価値が高い食材として珍重される。多くの日本人にとって、一般に香りが良いと評され「香り松茸 味しめじ」という言葉がある。食材としての主な旬は10 - 11月。軸が太くしっかりしていて、カサが開いておらず、つぼんでいるものが商品価値の高い良品とされる。
薄味の日本料理に合い、土瓶蒸しや炭火焼き、吸い物、松茸ご飯、天ぷらなどの料理にして、香りを生かして食べられるのが一般的。他のキノコと同様に、マツタケも加熱することにより旨み成分が増えるため、生で食べても旨みは感じない。調理する際は、洗うと香りが落ちてしまうことから、布巾で軽くふく程度にして、石づきは切り落とさず、中心を残すように周りだけを削るように切って下ごしらえが行われる。新鮮なマツタケほど香りも高く、日が経つと香りも味も落ち、カサカサに乾燥するので、入手したら早めに使い切るようにする。
特有の香りの主成分は、1938年(昭和13年)、農学博士・岩出亥之助により解明されたマツタケオールと呼ばれるマツタケだけに含まれるもので、1-オクテン-3-オールとtrans-2-オクテン-1-オール、およびケイ皮酸メチルからなるとし、人工合成にも成功した。特にマツタケ特有の香りを生んでいるのはケイ皮酸メチルである。マツタケの香りを再現した安価な合成香料も「マツタケエッセンス」などとして市販されている。さらに食物繊維やカリウムが豊富で、香りや味だけではなく、栄養的にも優れたキノコと評されている。
【近畿大学】:
近畿大学農学部ではマツタケなど有用食用きのこ類の人工栽培という課題に取り組んでいるという。
「はい。マツタケの人工栽培というのは研究における一つのゴールなのですが、最も重要なのは、そのために何をしないといけないのか、という点です。きのこという生き物は実に謎が多く、マツタケに限らずほかのきのこでもわからないことがたくさんあります。人工栽培できるきのことできないきのこ。その違いは何か。研究室の目標としてマツタケの人工栽培を掲げてはいますが、その根幹として、きのこ栽培のメカニズムを科学的に解明していこうというのが根本にあります。そのために育種もするし、栽培もする。生化学的なアプローチもする。だから栽培に興味のある人も、遺伝子工学や生化学が好きな人も、どちらでも興味深い研究だと思います。」
「そうです!きのこは植物ではありませんよ。野菜ではありません。きのこは「菌類」です。なので、きのこ、カビ、酵母は学術的には同じ仲間なんです。酵母は単細胞性で分裂を繰り返して生きていますが、カビやきのこは糸状菌(しじょうきん)と呼ばれ、細胞が糸状で連なった状態になっています。こうした形態的な違いはあるのですが、分類学的にはきのこ、カビ、酵母はいずれも真菌類というカテゴリーに属します。」
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昆布(コンブ)
コンブは古くから日本各地で食べられており、主に乾燥させて出汁を取るために日本料理では幅広く使われる。つまり無くてはならない食材としても利用されている。
結び昆布や昆布巻きなどに用いられる棹前昆布は「早煮昆布」とも呼ばれ、漁期前に採取された未成熟で薄い昆布を、煮てから干した加工品。コンブを食材として用いた料理は日本各地に見られ、例えば昆布締めは富山県、昆布巻きニシンは山形県、松前漬けは北海道の郷土料理の1つとして知られる。さらに北海道では、湯通しした若い昆布を刺身昆布として食べる習慣もあった。他にも、コンブを細長く刻んで刻み昆布(そうめん昆布)にも加工され昆布の佃煮が作られ、おにぎりの具などにも使われる。また、表面を薄く削ってとろろ昆布やおぼろ昆布(こちらは糸状ではなく薄く帯状に削った製品)にする他、酢昆布やおしゃぶり昆布としてお茶請け・おやつにも用いられる。
では、海外ではどうだろうか。西洋人は余り海草を食べる習慣は無いようだが。ロシアでコンブは「海のキャベツ(морская капуста)」と呼ばれ、サラダに用いられる場合もあるが、食べ物としてはそれほどよく知られていない。では中国では? 東南アジアでは? 南北アメリカでは?
日本の統計局の家計調査によると、青森市、盛岡市、富山市が昆布消費量の多い都市で、日本の平均の1.4〜1.8倍を消費。沖縄県那覇市は7位(日本の平均の1.1倍)。沖縄県はかつて日本産昆布を中国に輸出するための中継地点であったことから、昆布を利用する食文化が生まれ昆布消費量が多かったが、近年は若者の伝統食離れで消費が減少。ということは中国では昆布を食べる習慣はありそうだ。昆布の佃煮の消費量が多い都市は、福井市、大津市、富山市で、これに京都、奈良など近畿地方の都市が続く。近畿地方では古くから北前船によって昆布が多く流通し、独特の昆布消費文化と加工技術が存在するため、佃煮の消費量が多い。そうなのだ。北前船が北から運ぶ産物は、何と言っても「鰊(ニシン)」「昆布(コンブ)」。昆布は日本の食文化を支える代表的な食材だ。うどんも蕎麦も拉麺も出汁には昆布を使っているのでは?
コンブは特に豊富な食物繊維や鉄分、カルシウムなどが含まれており健康食品として人気が高い。1908年に池田菊苗が、日本では古来から食材などとして使われてきた昆布の旨み成分がグルタミン酸であることを発見し、これがうま味調味料の「味の素」となった。因みにイノシン酸は鰹節の成分。他に、昆布にはヒトにとっての必須元素であるヨウ素を多量に含有することが特徴だけど、取り過ぎも決して健康には良くないことも知られている。
昆布と似た?海藻としてはワカメがあるが、こちらの利用はどうなんだろう。
さて、では生命の進化の樹から見た、昆布の立ち位置は何処だろうか。とりあえず真核生物ドメイン。今の分類では、陸上植物とは異なった門。動物や菌類でもない。
ところで、コンブには一生のうちに胞子体と配偶体という二つの世代があり、世代交代をしています。私たちがよく目にするいわゆるコンブは、胞子体です。秋になるとこのコンブから種(遊走子)が出て岩などに付着し、配偶体とよばれる姿に変わります。配偶体はオスとメスに分かれることから、以前は有性世代と呼ばれることもありました。彼女ら、彼らはおのおのが卵と精子を出し、受精して幼いコンブが生まれます。まるで人間のようですね。陸上植物とはやっぱり異なる。花は咲かない、身はつけない。
コンブは意外と新しい起源の生き物らしい。コンブを含め現在「褐藻」(かっそう)といわれている海藻類は中世代、いまから 1 ~2 億年ほど前に分化したと考えられています。つまり、陸上で腿虫類が全盛を極め、陸上植物もソテツなど巨大な種子植物が現れた頃、海中でも新しい海藻の仲間が生まれたようだ。海ではアンモナイトの仲間が繁栄。でも、褐藻の仲間の中にコンブ類が現れたのはさらに遅く、3500万年から850万年前、陸上に被子植物が現れた頃と言われている。
コンブとは何? よく耳にするナガコンブ、マコンブの他、ワカメ・カジメなど多くの海藻がコンブの仲間。コンブは褐藻に分類され全世界の温帯から亜寒帯にかけて広く分布する。海藻の中でも大型になる種が多いのが特徴です。特に、ジャイアントケルプは20m以上に成長する。 海の昆布類は陸上の熱帯雨林にも負けない巨大森林を作り、CO2の固定に一役買っているらしい。
コンブは海中で生活しているのにダシがでない?のは何故か?
これは、おたる水族館のクイズ。確かに生きている間は出汁(ダシ)が出る訳はなく、死んで細胞壁が壊れて初めて出しが出る。選択肢は
① 実は出ている。/② 海水だから /③ 耐えている
もちろん意識して耐えている訳ではない。でも、正解は③。
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