日本の歴史の部屋

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日本の歴史の部屋

日本の歴史と言っても、実際には世界の歴史や地球の歴史と密接に関連している。古代、中世、近代、現代といっても明確な線引きはありません。あくまでも便宜上。でも、若干目次が見やすくなったのでは。
古代の歴史
完新世 縄文時代 旧石器捏造事件 縄文の巨大噴火
縄文文化とは
稲作の起源と鉄器の利用 弥生時代 考古学の鬼 邪馬台国
七支刀 継体王朝の謎 磐井の乱 岩戸山古墳/八女古墳群
吉野ケ里遺跡 神武天皇 丁未の乱(ていびのらん) 天皇の系図
乙巳の変(いっしのへん) 白村江の戦い 藤原 不比等 比ぶ者なき
聖徳太子 飛鳥時代 新羅(しらぎ)郡
奈良時代 密教とは
中世の歴史
 
平 清盛 鎌倉幕府の成立 松永 久秀 三好 長慶
桶狭間の戦い 信長の最強のライバル 本能寺の変の真相 関ケ原の戦い
柳川一件(やながわいっけん) 間宮海峡
横須賀造船所
近世の歴史
オーランド諸島紛争と新渡戸稲造 米内光政 山本 五十六
米国の人種差別に立ち向かった日系人 【日系人の強制収容所】
平家・海軍・国際派日本の歴史と英国の歴史 ビキニ事件 翼、ふたたび
平成の終わり 小説吉田学校 吉田茂

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完新世

新生代第四紀完新世(かんしんせい、Holocene)とは地質時代区分のうちで最も新しい時代。日本の歴史を語る際には、すべての出来事は完新世に起こった事柄です。かつての沖積世(Alluvium)と言われていたものとほぼ同義。 最終氷期が終わる約1万年前から現在まで(近未来も含む)を指し、その境界は、大陸ヨーロッパにおける氷床の消滅をもって定義されている。完新世の前は更新世、以前は洪積世と呼ばれていた。
縄文海進 気候環境が一転して地球全体が温暖化し、氷河がモレーン(堆石)を残して後退。地球各地が湿潤化して森林が増加、逆に草原が減少してマンモスやトナカイなどの大型哺乳類の生息環境が縮小し、彼らを絶滅させる。人類が狩りつくした可能性もあるが。 期間が短く大規模な大陸の移動などはないが、初期には、大陸氷床の融解によって海面が急激に上昇する。縄文海進といって埼玉県の中央部あたりまで海が迫っていた。縄文時代の貝塚の分布を見るとこのことは明かだ。特に完新世の気候最温暖期と呼ばれる時代には、現在より3メートルから5メートルほど陸地に対する海面の相対的な高さが高かったとされる。その後、海面は緩やかに下降し、海水準は2,000年前ほどから比較的安定していると推定されている。

スンダランドが海中に没し、現在のインドネシアやフィリピンなどに相当する地域がユーラシア大陸から分離して島となる。ベーリング海に存在した陸橋ベーリンジアが温暖化の海進により水没し、北米大陸はユーラシア大陸から分離する。約7300年前に南九州の鬼界アカホヤが噴火する。同時に巨大地震や巨大津波が発生する。 更新世末から完新世初めにかけて、人類の直接の祖先であるヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)が世界規模で拡散する。人類の生活はそれまで、遊動しながらの狩猟(漁労)採集活動生活であったが、大きな川の流域などで定住農耕牧畜生活に大きく転換する。徐々に人類が文明を築き始め人類史にとって重要変換点となる。
スンダランド 【スンダランドとは】
スンダランド(Sundaland)とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷期に形成した広大な沖積平野の呼称だそうだ。これが海に水没するのは縄文海進と同じ時期だ。中国の黄海も陸地だったらしい。
スンダランドと想定されている範囲は、現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たるようだ。氷期には、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であったらしい。最近では、紀元前70000年頃から紀元前14000年頃にかけてのヴュルム氷期には陸地であったとされる。紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に没した。
オセアニアにもオーストラリアとニューギニアの間に海面下にしずんだ平野がありサフルランドと呼ばれている。出アフリカ後南ルートで東南アジアに至ったオーストラロイドは、スンダランドと陸続きになっていたジャワ島やバリ島から海を渡りオセアニアに移住した。アボリジニ達のご先祖様か。縄文人の先祖も北回り説、南回り説の二つがありまだ決着がついていないようだ。



【鬼界カルデラとアカホヤ】
鬼界カルデラ 九州の南に鬼界カルデラと巨大な噴火の跡が残されている。鬼界カルデラ(きかいカルデラ)は、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にある。薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島がカルデラ北縁に相当。薩摩硫黄島はランクAの活火山に指定されている。つまり、今でも大噴火の危険がある場所なのだ。
この火山が縄文時代の中期、約7,300年前に大爆発を起こしたらしい。更に有史以前にもたびたび爆発を起こしたらしいことも分かっている。
昭和初期に付近の島々を調査した地質学者の松本唯一は、ここに巨大なカルデラが存在していることを指摘し鬼界ヶ島にちなんで鬼界火山と名付け、1943年に鬼界カルデラとして学会に提唱。1976年にはアカホヤと呼ばれていた地層がこのカルデラを起源としていることが確認された。2016年から2017年かけて行われた海底調査の結果、直径約10km、高さ約600m、体積約30平方kmにもなる巨大な溶岩ドームが確認され、現在も活発な噴火活動が続いている。 当時居住していた縄文人の生活にも大打撃を与えたらしいい。アカホヤは、栄養分に乏しく農業には著しく不適との説もあり、縄文遺跡が主に東日本を中心に発見されるのもこの影響があるのかも知れない。このカルデラ型の噴火の頻度と言うものは約6000年に一度程度のものらしいが、もし今生じれば日本一国丸々絶滅させるぐらいの巨大な規模になる可能性もあるとのこと。

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縄文時代

縄文時代は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代です。
旧石器時代と縄文時代の違い、つまり縄文時代の始まりは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられている。一方終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機としているが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までと多くの説があり、正確に定義できていない。なお、沖縄県や東北北部、北海道では縄文時代の生活様式がある程度継承されるためなおさら不鮮明。
だから、縄文から弥生への変化は非常に段階的で、はっきりした線引きは出来ないということらしい。縄文時代は、日本の歴史ではその後の日本の骨格が形造られる重要な時期で本当は面白いことがいっぱいあるのだと思われますが、なんせ書かれた記録が無いことから未だに不明な点が多く、今後の研究が待たれる分野と言えるでしょう。縄文時代に関するいくつかの疑問点を整理して見たい。
1.日本人のルーツについて
旧石器時代にも既に日本列島には人類が到着していたらしいことは分かっているようだ。野尻湖湖畔でナウマンゾウやオオツノシカのような大型動物達を狩っていた旧石器時代の人達。地球環境の温暖化に伴い、大型動物達が絶滅して行き食料としては、小型の哺乳類(ウサギ等)や鳥、魚、貝、木の実などへと食生活を変化させて定住化の道を進んでいく。
全国各地で見つかる貝塚は、この当時の人々が大量に貝を採集していた証拠であろう。温暖化で海水面は上がり(100m位上昇か)、埼玉県の南部地域にも貝塚が発見(例…水子貝塚)されています。この縄文人たちは、旧石器時代の人類の子孫なのでしょうか。あるいは、その後日本にやってきたのでしょうか。どのようなルートで日本に到達したのでしょうか。DNAの解析から、将来このようなことが分かる日が来るかもしれません。
2.縄文土器と文化
火焔型土器 火焔型土器 縄文土器はどうも世界最古の土器であるらしい。土器の利用は、当初は食料を調理するためのものであろうと思われる。つまり、水を煮立ててその中に食材を何でもブチ込んでいく鍋文化だ。これは、今でも日本の食生活の中心的存在だ。焼肉とパンを食する人たちなら皿があれば十分で、先の尖った円錐型の土器は煮炊きに用いられたのではないかと想像される。縄文土器の芸術性は世界にも誇りうるもの。火炎土器の装飾性は古代人の精神世界が高度な抽象性を確保していたことを伺わせる貴重なメッセージだ。多分土器を製作する専門家集団もいたものと推測できる。
大湯環状列石大湯環状列石(秋田県)
一方、日本にも環状列石や環状列柱(木)が存在している。イギリスやヨーロッパでも見られるストーンサークルです。天体観測の拠点だという説もありますが何か宗教的な意味があったことは間違いないでしょう。いずれにせよ人々の定住化によって、このような大規模なシンボル的な構造物の建築が可能になってきます。左は秋田県の大湯環状列石。

3.定住化の始まり
人類の定住化は、農耕の開始によってだとされていた。ところが青森県の三内丸山古墳の発掘で、この地に当時としては500人程度という大規模な集落の後が発見された。しかもこの集落相当長期にわたって(どの程度なのか調べて見たい)継続して存続していたらしい。
集落の周りには実のなる木を計画的の植林し、他にも多種多様な食料を食していたらしく、後世の弥生人よりもはるかにヘルシーな食生活を送っていたようだ。どうも4大文明の発祥の地よりも、周辺地域の方が生活文化は豊かというのが歴史の実態かも。それはそうだ、環境の変化(たいていは悪化)が生活スタイルの変化を促すのだから。地球全体が温暖な縄文時代は、青森県は今の九州ぐらいの気候だったのかもしれない。
大型動物を追って移動生活して世界中に拡散して行って人類が、気候の温暖化と大型動物の減少に合わせて定住化の道を進んで行く。このような動きが世界中で同時並行して進んでいたのだと思う。
4.稲作の始まり
水田耕作の始まりを持って弥生時代とするようですが、稲自体は既に縄文時代に始まっていたようです。また、最近の研究では水田耕作自体も従来考えられていたよりもかなり早い時期に始まっていた可能性も指摘されています。水田を使わない陸稲や、水の中にタネを撒くだけの方法なら、多大な労力を必要としません。ところが、今の水田耕作を見れば分かるように稲作には多大な労力がかかります。つまり、縄文の人達が進んで稲作を取り入れたということは、従来の食糧が不足してきたことが考えられます。温暖化していた縄文時代が寒冷化して来たものと想定されます。このことは過去の気温の変化を調べれば分かります。海岸線が後退して行ったことからだいたいは想定できるでしょうが。
ところで、稲のルーツは未だ良く分かっていません。中国から、朝鮮半島を経由して日本にやってきたとするのが従来の学説ですが、DNAの研究からどうもそうではないらしいと思われているようです。それと中国も朝鮮半島も北の方は稲作には不適です。北京周辺は小麦、米は江南地域です。つまり、南方ルートの可能性もありですね。黄河文明に滅ぼされた長江文明(発掘に既に存在は確認されており、その河姆渡遺跡は稲作文明)の先住民たちが日本に亡命してきて稲作を持ち込んだなんていう話もあるようです。あくまでも仮説段階ですが。
5.日本語の起源
縄文人がどこからやって来たか。移動に伴う言葉の連続性の問題が挙げられる。人は移動しても、言語の基本的構造は変わらないと考えられるからだ。例えば中国語は、1単語1音節、表意文字を用いるため文法は非常に簡素で合理的。良く似ていると言われるのは韓国語。似ているのは膠着語と言われる文法で、個々の単語はかなり異なり同一のルートと見るのは難しそう。一時、古代日本語は韓国語と共通で互いに意思疎通できたとする論文が出たことがあるようですが、結局根拠不十分。単語の類似性だけならroadと道路など英語だって日本語に似ていると主張することも可能である。言語の発展と言うのは文字の無い時代のことなので記録が残っておらず大変難しいと思う。途中で歴史から消えてしまった言葉なども沢山あるのではないかと思われる。

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旧石器捏造事件

ナウマンゾウ旧石器捏造事件は、日本各地で「~原人」ブームを巻き起こした日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、発掘調査に携わっていた考古学研究家の藤村新一氏自らが事前に埋設した石器を自ら掘り出して発見したとする捏造だった事がと発覚した事件。藤村氏は1970年代半ばから各地で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日の毎日新聞朝刊にスクープされ、不正が発覚した。これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の醜聞となり、海外でも報じられた。おそらく世界の考古学史上最大級のスキャンダルとなるでしょう。それまで藤村氏が調査に行けば必ず新発見があり、「ゴッドハンド」として名をとどろかせていた人物だ。
それでは、旧石器の年代は今まで、どのように推定していたのか。石器とは結局石の塊で、それ自身何も語らない。大抵はそれが掘り出された地層の年代から、例えば微花粉化石とか、他の動植物の化石とかから時代を推定するしか方法がない。それに石器と言えども偶然にそのような形をしていないとも限らず、人工による加工を実証することも難しそうだ。結局、藤村氏の悪質な捏造のため、日本の旧石器研究は根本から資料見直しを迫られることになってしまった。石器を打ち欠いた切り口の年代が測定できればいいのでしょうがそのように技術はまだないのかも。
岩宿 日本に縄文時代より前から人が住みついていたことは、相沢忠洋氏の岩宿遺跡の発掘や、野尻湖の化石調査からほぼ確実と見られています。当時納豆売りの行商をしていた相沢青年から、この石器を見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)等の現場検証もあり、こちらは評価が確定しているようだ。日本の自然環境から人骨化石はほとんど期待できない。そこで石器でも発見されれば大喜び。捏造はそこの心理をうまくついた訳だ。しかし、このような事件が無ければ旧石器考古学は捏造の積み重ねの上に理論を積み重ねさらに可笑しな方向に進む羽目になったわけだから、藤村氏の貢献は非常に貴重なものであったとも言えそうだ。実は考古学の一番大変な作業は、発掘した遺物の時代の確定のようだ。

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縄文の巨大噴火

アカホヤ 7300年前、薩摩硫黄島の鬼界カルデラで噴火(アカホヤ噴火)が生じたことが明らかにされつつあります。7300年前の噴火では、火山灰が東北地方まで飛び散り甚大な被害を縄文人に与えたはずだが、もし仮に今起きたならば、日本一国滅亡させかねない災害だったらしい。噴火は数千年に一度の程度の頻度らしいが、いつ起こっても不思議ではなく、予知することもできないという恐ろしい代物だ。VEI=火山爆発指数が8以上という火山は、世界に七ヶ所あり薩摩硫黄島は危険度がトップクラスらしい。
縄文の遺跡は、何故か東日本に多く、西日本には少ないことは以前から謎であった。なるほど、西日本特に九州南部は壊滅的な被害を受けていたのでしょう。過去の遺跡は火山灰の下に埋もれてしまったのかもしれない。北九州あたりに生き残った人たちは、農業をあきらめ、海の民として生きる道を選んだ可能性がある。朝鮮半島の南にはどうも倭人の活躍が目立つようになるが、彼らが積極的に日本本土と大陸との橋渡しを行ったのかもしれない。
一方、日本神話に残されている天照大神が隠れ、日本中が真っ暗になったという天岩戸神話は、鬼界カルデラ大噴火による大災害の記憶なのかもしれない。
天岩戸 天岩戸(あまのいわと)の神話は古事記にも日本書紀にも出ている。7300年前というとBC53世紀ぐらいの昔。縄文中期ぐらいの出来事ではあるが、相当な大事件なので口承伝説として広く日本各地で伝えられてきたようだ。単なる日食のような出来事なら、簡単に忘れられて神話として残るはずも無かろう。昼間でも太陽がオレンジ色にかすんで月のような状態の暗い日々か何日も続き、作物も実らない数か月も続いたとしたら。こんな恐ろしい災害が今後いつ起こるかは予測できないらしい。

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縄文文化とは

縄文時代は極めて長い。1万年以上も続く。彼らは当然サピエンスの仲間で、高度な知恵を有し、言語も持っていたはずだ。三内丸山遺跡でも分かるし、現生の狩猟採集民族の調査からも分かってきたことは、彼らが生存ぎりぎりの耐乏生活をしていて、農耕文明が彼等に希望の光を与えたという幻想はいかに誤りであるかということだ。
マクドナルドのハンバーガーをコーラで胃に流しこみ、深夜まで残業をしている現代の労働者と、季節季節の旬の食べ物を楽しみ、皆で集まって余暇を歌や踊りを踊って楽しむ古代人とどちらがより文化的な生活を送っていいるかを現代人は根本から考え直す必要に迫られいる。
アフリカの狩猟民族ブッシュマン達の生活も分かってきている。彼らは食料を求て働くがせいぜい2~3時間程度しか働かない。後は、各々余暇を楽しんでいる。理想的なアウトドア―ライフを実行している。
つまり、縄文人が貧しく何時も飢えていて遊ぶ暇がなく暗い人生を送っていたというのは、全くの偏見で、逆に人は精神的にはだんだん貧しくなって行っている可能性すら出て来る。
縄文人は村をつくって定住生活をしていた。氷河期には、草原で大型の動物を狩って生活していた人々は、地球が温暖化して森林が増えて来たため森の中で食料が調達できるようになり、定住を始めたようだ。古代人類といえども好きで移動生活する馬鹿はいない。つまり定住生活と農耕の開始とは何の因果関係もない。
縄文人は極めてグルメである。火を使って調理するようになり、利用できる素材のメニューがとてつもなく多様化している。一年中、旬のおいしい食材を次々と変えながら毎日の食事を家族✋仲良く楽しんでいたようだ。
縄文の家屋は、いわゆる竪穴式住居。真ん中に囲炉裏があり、火を囲んで一緒に家族で食事を取る。多分リーダが一人いてみんなで平和的話し合いで物事を決めていたんでしょう。いわゆるゴリラ型の社会。群れから出るも入るも自由(自己責任)だ。村には数~数十件件の家屋があるかもしてないが、基本的には血縁関係でつながっているはず。食料は自然の中に沢山あり、働く時間もせいぜい2~3時間程度。その間何をする。複雑な模様をつけた縄文土器やストーンサークルのどの不思議な遺跡。何故彼等は苦労してあんなものを。別に苦労をしている訳ではないのでは。つまり、それらは遊びの中で生まれた芸術ではないか。文化は遊び心が無いといいものが生まれない。これは現代の「物づくり精神」にも通じるものがある。

このように1万年も続いて成熟していた縄文時代が、何故弥生時代へと変化をしたのか。弥生時代になり生活面では明らかに貧しくなっている。遺跡から出る人骨から栄養面での低下、戦争や疫病の増加が見られるようだ。世界の歴史においても、人々が豊かな狩猟採集生活を捨てて、何故農耕を始めたのか疑問が呈されるようになって来た。いくつかの可能性をあげて見よう。

(1).地球が再び寒冷化し始め、森の規模と生産性が落ちた。
(2).地球が再び寒冷化し始め、大陸から大勢の人達が日本列島にやって来た。

人類の雑食の特性から(1)のシナリオはなさそうだ。沖縄や北海道では続縄文文化が続いているから。やはり稲作文化は大陸から大勢の人と一緒の日本にやってきたようだ。遺伝子の研究から現在の日本人には弥生人(大陸由来)の遺伝子がかなり多く含まれている。おそらく稲作文化は先住の縄文の人達からは相当の抵抗を受けながら浸透していったのではないか。何故か日本の文化の底流には縄文人由来とも考えられる事柄が数多く残されているような気がするのですが。

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弥生時代

弥生時代(やよいじだい)は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代。以前使われていた定義と比べるとずいぶん始まりの時期が早くなっているようだ。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れるとされる。
そもそも、日本の人々が何故、多様性に富んだ縄文文化を捨てて、稲作一辺倒のモノカルチャーに移行したのか。米一辺倒の食料では、栄養価は圧倒的に劣る。生活レベルは絶対に低下する。しかも稲の生産には多大な共同作業による多大な労働力を必要とする。稲作は縄文晩期には既に知られており、なかなか稲作文化は縄文人には受け入れがたいものだったはずだ。
おそらく、気候の大変動と、それに伴う大量の大陸からの渡来人の侵入、急激な人口増加と食料の不足等様様な要因が重なったのだろう。 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることになった。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきているらしい。もともと「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となっている。

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稲作の起源と鉄器の利用

縄文時代は、新石器時代に分類される。つまり、まだ金属器の利用はなかったのでしょう。ところが弥生時代に入ると青銅器と伴に鉄器の利用が始まる。普通は青銅器の時代があって、その後に鉄の利用が始まる。鉄の鉱石は銅よりも資源としては量的に優位であるが、鉄の融点が銅よりも高いことから、より高い温度を得るために技術的な壁が高かったようだ。縄文土器の技術とか、木の文化から得られる炭焼きの技術の蓄積から、縄文期の人々は鉄器を受け入れるポテンシャルは比較的高かったようだ。問題は鉄鉱石が容易に見つからなかったことにあったらしい。当時はまだ砂鉄の利用は行われていなかったらしい。どうも鉄鉱石は朝鮮半島の南部から持って来たらしい。或いは最初は製品として鉄の塊を輸入したのかも。半島南部は当時は倭人とみられる人たちも多く住んでおり、互いの交流もあり比較的容易に鉄資源を入手出来たようだ。でも、このことを考えると大和政権が朝鮮半島の支配権に大きな関心を持っていた理由は明かだろう。 一方、農業の方は青森県の三内丸山遺跡からも分かるように、縄文人たちは既に多品種に渡る多様な農業生産を行っていたことも分かっている。人類の歴史では農業を行うようになると人口が急速に増加すると言われている。しかし、人口を増やすためには食料生産を増やさねばならない。ところが人は豊かになると何故か子供の出生率が低下するものだ。何故、多様性に富んだ縄文式の農業を止めて、モノカルチャーの稲作に転換する必要があったのか。
  ヒントは律令制度の口分田に関する記述の中にある。当時の稲作農民は土地を持たず、農具も持たない、単なる労働力だったようだ。土地は家族の頭数だけで割り当てられる。鉄製の農具は貴重なものなので作業の時だけ貸し出されたらしい。水田耕作は、土地面積当たりの生産性は高いかもしれないが、新たに耕地を開墾するには多大な手間を要する。また、効率良く耕すに鉄製の農具が不可欠だったのだろう。つまり、新たに生まれる子供が労働力を提供する商品となったわけだ。人が増えれば食料がいる。そのためには新たな耕地がいる。耕地が増えれば人が必要。このようなサイクルで、弥生時代には人口がかなり増加し、また耕地と労働力の確保のため絶えず部族間の戦争が繰り広げられる世になったようだ。
【稲作社会への変化】
縄文人たちは明かに定住して農業も開始していた。ただこれは家族的共同体というか比較的平等に収穫物を分け合う、多品種少量生産の世界だったようだ。
ところが稲作は土木的な作業を伴う、労働集約的な産業だ。どうも社会が単純な作業だけを行う階層と管理する階級に二極分化して来たようだ。労働の質が分業が出来るように細分化されてきている。
土器の生産は、次第に専門家集団を育てて行ったのでは。燃料の調達、粘土の調達、器の製作、火の管理、配達等、そしてこれらの集団はそのまま青銅器、鉄器の生産にも受け継がれたのでしょう。また、これらの金属器の利用が水田耕作を飛躍的に革新させたのではないだろうか。ただこれらの分業化は人々に貧富の格差を生み出し、労働力を提供するだけの多数のプロレタリアートを増産していったようだ。
縄文人たちが、豊かに暮らしていれば、人口が急激に増加するはずもないし、稲作を自然発生的に開始するはずもない。生活に困窮するればかえって子孫を増やすため子供をたくさん作るようになるのがむしろ、自然の流れだ。土地も農具も持たない、貧しい農民の増加、しかも大陸から新たに食をもとめて新たに流れ込む人口。稲作がいっきに広がる原動力になったか。

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考古学の鬼

森本 六爾 森本 六爾(もりもと ろくじ、1903~1936年)さんは、日本のアマチュア考古学者。しかし、『考古学の鬼』という異名とともに有数の知名度を誇る人物らしい。奈良県出身で、子供のころから遺跡の発掘物に惹かれ夢を追い続けた人か。
甕棺の研究やや銅鐸の型式分類を行い、弥生期区分において稲作が開始されたことを提唱するなど、アマチュアではあるものの日本の考古学の発展に大きく貢献した。松本清張の短編小説『断碑』の主人公、木村卓治のモデルとされている。
戦前の記紀(日本書紀や古事記)と皇国史観に基づいた当時の学者たちは、やたらと現地調査に拘る六爾さんの情熱をなかなか受け入れることが出来なかったようです。今では、考古学では縄文時代とか弥生時代の出来事を発掘によって調査できるようになりました。神話の時代にも科学のメスが入りつつあります。でも、縄文時代も弥生時代もまだまだ分からない謎が山積しています。

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邪馬台国

邪馬台国は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。 中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。
倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70~80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まる。弟が彼女を補佐して国を治めており、戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞基づくものとする意見もある。 女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。

***魏(ぎ、Wèi、220年~ 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも。戦国時代にも魏という別の国があった。45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝。 『三国志』ではあまり善玉扱いされてないかも知れないが、曹操は軍事政治に伴に優れた名君で産業の発展にも力を入れ、次々の新規の政策を実行し、戦乱の後の荒廃からの復興に尽くしたらしい。

卑弥呼が使いを魏に送った時代は、魏の方も邪馬台国と同盟を結ぶ利点があったはずで、魏の側からも使いを送って援助の手を差し伸べていたのではないか。魏の対抗馬としては呉の国がある。邪馬台国の時代なら倭の国で呉と同盟を結ぼうとした勢力もあったかもしれない。呉の記録が失われている。
曹操らの始めた屯田制(196年)は、画期的なもの。屯田制とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度。邪馬台国は魏と組んで屯田制を取り入れ急速に力をつけて行ったのかも。

【魏志倭人伝に書かれている倭人の風俗】
魏志倭人伝には倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾もあるらしい。
男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。その風俗は淫らではない。
→入墨の風習は日本だけに限らず世界中で見られる。アイヌの人達もやっていたのでは。入墨の習慣がすたれるということは、何か外部からの文化的圧力があったのであろう。入墨については古事記あたりに何らかの記載はないのだろうか。
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。稲、紵麻(からむし→麻)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
→いわゆる貫頭衣のことか。麻や絹を既に利用している。冠をつけるのは漢民族の風習だろう。相当高度な農耕社会が始まっている。
牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
→牛や馬がいなことは農耕には家畜を使ってはいない。日本にも野生の牛や馬はいるようだけど体は小さい。トラやヒョウは既にいなかったようだ。熊やオオカミはいたのでしょうが。羊は中国では遊牧民が飼っていた。ヤギはいたかも知れないね。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
→中国に合って日本にまだない武器は。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
→裸足で済むならその方が健康的か。中国では靴を履くのが普通だったのか。
家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。中国では箸かスプーンを使っていたのか。インド圏は今でも手づかみだ。
→寝床は父母兄弟は別と言うのは今なら当たり前では。部屋が別なのではなく寝床だ。中国ではそうでないのだろうか。
人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
→特に変わった風習でもないだろう。
倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
→生贄みたいな宗教的な儀式が沢山あった時代だ。中国では殷(商)の時代に相当するか。彼等から見たら相当野蛮な風習に見えたのかも。
真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
→日本は大変自然に恵まれた羨ましい国だと思っていたようだ。
特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
→殷(商)の時代の甲骨文字を想起させる。文字はまだ発明されていない思われるが。
集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
→分ちあう心を醸成するために酒は積極的な役割を果たす。
敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
→衣食住健康的な生活をしている証拠だね。
身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。女は慎み深く嫉妬しない。盗みは無く、訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。
→類人猿、狩猟採集民から脈々と受け継がれて来た道徳基準がまだ、しっかりと守られている。中国で言えば三皇五帝の神話の世界のようだね。
 中国側の筆者の態度は、必ずしも野蛮国として見下した記述でもなさそうだ。入墨、靴を履かないで裸足、箸を使わず手で食べる、妙な儀式が残っている等としながらも、道徳的に正しく健康で文化的な生活をしている人たちが暮らしているとしている。海のかなたに理想郷が存在しているいう書き方ではないか。秦の始皇帝に命じられて「長生不老の霊薬」を求めて徐福が海を渡って旅立って行って帰ってこない、東の海にある理想郷と同一視している可能性すらある。
【徐福伝説】
徐 福(じょ ふく、:Xú Fú、生没年不詳)は、秦の方士(道士との違い??。斉国のの出身。 『史記』によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。
東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった。 同じく『史記』巻六「秦始皇本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せず、皇帝から金品をせしめた詐欺師」として描かれている。
徐福に関する伝説は、中国の他日本や韓国、台湾にもあり、日本では実際に定住したという伝説もある。実在した人物である可能性は大きいようだ。
魏志は、魏の徳は海外の遠方にも届いているということが強調される。隣国「呉」への対抗手段だ。同様に記載されいるインドの大月氏国、この頃はクシャナ朝のなっていたらしいが中国では相変わらず大月氏国と記載されていたようだ。ガンダーダーラ美術を生み出してインドの広範な地域を支配した大帝国だ。
中国の三国時代にヴァースデーヴァ1世(波調)が魏に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、「親魏大月氏王」の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることから比較的よく知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものであるとされている。

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七支刀

七支刀

七支刀(しちしとう、칠지도)は、奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣。全長は74.8センチメートルで、6本の枝刃を持つ特異な形をしている。1953年(昭和28年)に国宝に指定された。 石上神宮は古代豪族物部氏の氏神を祭っている。剣身の左右に段違いに3本ずつの枝刃を持つ剣で、剣身に金象嵌の銘文が表裏60余字記されている。錆による腐食がひどく読み取れない文字もある。その銘文の解釈・判読を巡っては研究が続いている。
銘文
(表):泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作
(裏):先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

『日本書紀』には七枝刀(ななつさやのたち)との記述があり、4世紀頃、倭に対し百済が朝貢した際に献上されたものとされる。剣身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではない。当時の大陸との関係を示す史料の一つでであろう。好太王碑とともに4世紀の倭に関するである。当時の背景として、高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟を求め、贈られたとされている。

石上神宮

また、日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されており、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があるらしい。372年がこの年という説もあり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められているという。 しかし、年代の解釈は多数あり定説は無いようだ。

当時の技術からして、「七枝刀」を送るという意味は大変重い。わざわざ1振りの刀に6つの枝を着けるということは、相手方に技術の高さを見せつけるとともに、呪術的な縛りを与えること目的としているからだろう。アーサー王伝説に出て来る魔法の剣「エクスカリバー」みたいなものでしょう。いわゆる固い軍事同盟だろう。トップ外交であるから、百済の大王が、当時の倭の軍事的な最高権力者である物部氏に送ったものだろう。当時の朝鮮半島は、当時の百済国は高句麗や新羅の台頭により、亡国の危機にある。背後には中国の動きもある。

その後、大和政権側は物部麁鹿火(あらかい)が中心となり百済支援のため朝鮮出兵を企てる。新羅側は同じ大和政権内の筑紫君磐井に出兵を諦めるように依頼する。その結果、磐井の乱(527年)が発生する。継体天皇の時代か。大和政権内でも百済派と新羅派が、抗争を続けているが、結局この構想は百済派が優勢のまま、百済国が滅亡するまで続く。「七枝刀」の魔力ということか。百済滅亡後は、「七枝刀」は無用になったので石上神宮に密かに隠されていたのでしょう。

**石上神宮
石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。
非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。 何はともあれ、石上神宮は深い歴史を秘めた日本のパワーススポットのようだ。

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継体王朝の謎

継体系図 継体天皇(450?~531年)は、日本の第26代天皇(在位:507年~531年)。諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。
父親:彦主人王/母親:振媛/皇后:手白香皇女

**手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇2年以前 - 没年不詳)は、日本の第26代天皇・継体天皇の皇后。同天皇とは四従兄弟にあたる。仁賢天皇の皇女で、母は春日大娘皇女。同母弟に武烈天皇がいる。『古事記』の表記は手白髪郎女。子に欽明天皇。

『記紀』によれば、15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったとされているが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火などの推戴(すいたい)を受けて即位したとされる。

**大伴 金村(おおとも の かなむら)は、古墳時代の豪族(大連)。
**物部 麁鹿火(もののべのあらかい)は、古墳時代の豪族。物部麻佐良の子。

戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。
『記紀』は継体天皇を応神天皇の5世の子孫と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記している。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振姫の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、「男大迹王(をほどのみこと)」として5世紀末の越前地方を統治していたとされる。

継体系図 『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議。まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)の推戴を試みる。倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明。やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王(をほどのみこと)を迎えようとする。疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。翌年の507年、58歳で河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とする。即位19年後の526年にして初めて大倭(後の大和国)に入り、都を定めた。翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、しかし新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している。

対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するためにたびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば継体6年(513年)に百済から任那の四県の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した。
531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。崩年に関しては『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は43歳(即位したのが58歳ではなかったか??)、『日本書紀』では没年齢は82歳。 古事記と日本書紀ではこのようにあちこち齟齬があるようだ。

これだけを見ると地方豪族による大王位を簒奪で、現皇室にまで連なる新王朝を創始したという王朝交替説など、どこにも出る幕は無いようだ。大和政権の2大勢力が、「あなたしかリーダをやる人はいない。」と懇願されてやむなく大王位を引受ける。中国古代の堯、舜、禹の時代の美風がまだ生きている。大王位など自分から言い出して引受けるものではない。割に合わない仕事なのかも。しかも、皇后には武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を当てている。皇后は大王族でなければならないという当時のルールはしっかり守られている。実際に、本当に候補が亡くなって困っていたんでしょう。連合政権のルールでは、物部氏や大伴氏はかってに大王を名乗る訳にはいかないのだろう。地方豪族をリクルートするぐらいなら自分達でやればよい。王朝交替説がでてくるのは、継体天皇が亡くなった後、皇位継承で色々悶着があったことが原因らしい。記紀の記述がはっきりしていないようだ。

**尾張目子媛(めのこひめ):
尾張草香(おわり の くさか)は、古代の地方豪族・尾張氏の首長。姓は連。継体天皇の最初の妃であったとされる目子媛(めのこひめ)の父親で、安閑・宣化両天皇の外祖父にあたる。断夫山古墳が彼の墓であるとの説がある。
つまり、26代継体天皇に続く、27,28代の安閑天皇、宣化天皇は、ありえない選択にも見える。当然、手白香皇女の子、欽明天皇に引き継がれるはずの。欽明天皇が幼少だったためとの可能性もある。では、尾張氏とは何者か?当然、外祖父として相当の権限を持っていたと思われるのですが。尾張氏の先祖も継体天皇と同じく何代か前は皇族だったのかも。


ただ、継体天皇を立てること(当時は天皇でなく大王)で、朝鮮攻めを正当化できる。物部 麁鹿火等はさっそく実行に移る。しかし、実際は磐井の君に邪魔されて、磐井の反乱鎮圧に終始し、朝鮮出兵は出来なかった。
当時の大和政権では、何か問題が生じるときは、必ず朝鮮半島の動きが関連している。縄文時代から弥生時代に変わる際には、たくさんの人が大陸からやってきている。鉄資源の確保などの課題もあり、当然半島との交流は盛んであったようだ。
当時大陸との交流の拠点は北九州がメインであったと思われるが、継体天皇の出身地越前国(福井県)も拠点となっていた可能性もある。背後には百済系の豪族達の支援もあるのかも。
【追記】

大和政権自体が、地方豪族の連合政権という性格を当初からずっと持ち続けている。連合の絆は王族同士の婚姻関係だ。ヨーロッパでも封建制の時代には王家同士の婚姻関係で戦争を避けていたではないか。だから大君に誰を立てるかを巡って、ある程度のいざこざがあるのは当然だろう。ただ大陸の国とは異なり、戦争による王朝交代は起こらずに済んでいる。島国であったため、渡来人たちが散発的に入ってきたこともあるだろう。地方豪族出身(王)の者が大王となったところでこれを王朝交代と主張する事は明かに無理がある。(2020.2.6)

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磐井の乱

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権(親百済?)と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている。 朝鮮半島の利権を巡る大和政権内の争いは白村江の戦いまで延々と続いている。視点を大陸側に移せば、「倭人」の勢力は、日本列島の一部(北側は未統一)と朝鮮半島の南部を一体としたものなのでは。
磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているとされているが、『筑後国風土記』や『古事記』、『国造本紀』にも簡潔な記録が残っているらしい。 なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がない。
【経緯】真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおり。
527年6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請。
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧。朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
**注:「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」という言葉。この二人は軍人として同じ戦争で仲間として共に戦ってきたことを意味していそうだ。同じ軍事氏族として、縦の繋がりより横の連携の方が大事じゃないかと言っているんだね。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。 乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)としており、筑紫君磐井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して磐井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述があるらしい。

1970年代半ばになると、継体天皇期前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする考えが発表される。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱がおこったとする仮説が提案される。
1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期が5世紀後半まで遡る可能性が出て来る。磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が必要になったようだ。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったとする仮説もあり、意見など、磐井の乱に対する見方は必ずしも一致していないようだ。
一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が判明するに従い、九州広域にわたって栄えていた特有の文化圏があったことが分かって来る。磐井の乱までのヤマト王権とは強い中央集権体制であったのか、それとも各地豪族の連合的政権であったのかについては決着がついていないとされている。

しかし、世界の歴史を見てもいきなり天下り的に中央集権的な国家が誕生する例は無い。また、例え各地豪族の連合的政権であっても、連合集団の外側の人達にとっては極めて強権的な力を発揮することも可能だ。ヤマト王権自体が強い中央集権体制を持った国家だとする証拠は無い。ヤマト王権を大昔から強い天皇(大君)を中心とした中央集権体制であったと信じたい人々が大勢いることは確かだ。国家神道の呪縛といえようか。
中国でも呪術的な商王朝→連合的政権的な周王朝→群雄割拠の戦国時代→秦の統一と中央集権的な国家が誕生するには相当な年数を要している。古代ギリシャは最後までポリスの緩い連合で終わる。ローマ帝国でも皇帝が成立するまでに相当な年数を要している。でもローマ皇帝がそれほど強権的な権力を保持していたかはまた別な話だ。帝国内のではかなりの自治が許されていたようだが。そもそも大きな強い集権的国家とは国民が望んで作ったのか、望まざる出来事なのか。何故そうなるのは色々な事情があるのでしょう。

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岩戸山古墳/八女古墳群

石人石馬 磐井の墓は、『筑後国風土記』に詳述されているらしい。現在では福岡県八女市吉田の岩戸山古墳(位置)に比定されている。岩戸山古墳の位置する八女丘陵では、前方後円墳12基(岩戸山古墳含む)・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなる八女古墳群が分布する。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及び、筑紫君一族の墓に相当すると推定されている。磐井の墓と推定される岩戸山古墳は、当時の大王墓にも匹敵する規模であり、また出土した石製品群は北部九州の中でも他古墳を圧倒する数で、北部九州一帯に及んだ磐井の勢力を物語っている。その石製品群の分布状況から推測される勢力範囲は、北は玄界灘、南は有明海に及んでおり、筑紫君を中心として「筑紫政権」とも呼ぶべき強力な連合政権が形成されたことが分かり、これが九州王朝説(邪馬台国九州説や神武東遷のことか)の根拠の一つともなっているようだ。
特に有明海沿岸地域が5世紀後半から6世紀初頭にかけての対朝鮮交渉の中心地であったことから、その対朝鮮の外交権を巡って磐井とヤマト王権側との間に対立が生じたのかもしれない。その例として、朝鮮半島の栄山江流域に分布する前方後円形古墳(朝鮮半島にも前方後円墳が存在するらしい)の存在や、栄山江流域・慶南地方に分布する九州系横穴式石室の存在があり、これら九州系豪族が独自に朝鮮半島と密接な交渉を行なっていたのでしょう。また周囲からは埴輪ならぬ石人石馬が出土されるのも特徴だ。

また日本列島内においても、継体天皇陵と推定されている今城塚古墳(大阪府高槻市)を始めとする畿内古墳の石棺部材に阿蘇ピンク石(馬門ピンク石)が見られることから、九州から西日本・畿内へ文化を波及させるだけの力を有したとされる(阿蘇ピンク石の畿内流入は530年頃で終息)。つまり、九州からわざわざ船で大和地方に運ばせたらしい。舟型の石棺の材料は阿蘇ピンク石を使わねばならない宗教儀式上の重要な意味があったらしい。
筑紫君の氏族も一応は、大和連合政権に主要なメンバーとして組み込まれていたようで、史書では子の筑紫君葛子の後も7世紀末まで筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ、その活躍が認められているそうだ。
馬門石 【馬門石とは】
「馬門石」は,熊本県宇土市網津町字馬門付近に産する凝灰岩で,約9万年前の阿蘇山の噴火により流れ出た火砕流が堆積し,数年から十数年をかけて冷えて固まったものだ。この堆積岩は「阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)」と呼ばれ,ふつは灰色~黒褐色ですが,馬門地区に堆積した岩層にはピンク色のものが含まれており,別名「阿蘇ピンク岩」とも呼ばれている。
この石は,比較的軟らかいため加工がしやすく,またその美しい色が珍重され,昔から鳥居や眼鏡橋など色々な構造物の石材として利用されてきました。近年まで,馬門石が利用されるようになったのは江戸時代以降だと思われていました。ところが,20年ほど前から,この石は考古学の世界で大きく注目を浴びることになる。
関西や中国地方のいくつもの古墳で見つかっている石棺が実は馬門石製であることが判明し,さらに第26代継体天皇の陵墓とされる大阪府の今城塚古墳や,第33代推古天皇の初陵とされる奈良県の植山古墳など,当時の最有力者が葬られたとみられる古墳から,馬門石製の棺が見つかったからです。上の表にある通り、多くの古墳の石棺にこの石材が。
地質学的にも解明されていない点の多い謎の「赤い石」。この石がはるか古墳時代に860キロも離れた大和の地へ運ばれていた…馬門石は現代人のロマンをかきたててやまない「謎の石」だ。重たい石棺が船で瀬戸内海を運ばれていた。地質学が歴史学にも貢献している例だ。

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吉野ケ里遺跡

吉野ケ里遺跡 吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県にある国の特別史跡。およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。発見されたのは、工場団地造成計画の際に偶然に発見されたもの。これは縄文遺跡の三内丸山も同じ。他にもっとすごい遺跡がまだ、地下に隠されている可能性は否定できない。
基本的に遺跡の発掘というものは、建設工事などがキッカケで偶然に発見されることがほとんど。人々が生活している場所を掘り起こすのはそんなにようにできることではない。将来はCTスキャンのように掘らずに土の中が観察できる技術の開発も望まれている。
ところで吉野ヶ里遺跡弥生時代中期のもので紀元前4世紀頃に始まり、紀元後3世紀頃に最盛期を迎えたと推定。何と言ってもその特徴は、物々しいい軍事施設であるということ。二重の深い堀と柵、敵を見張る物見櫓、刀傷のある人骨等。ちょうど、中国の史書に残されている、倭国大乱の時期に相当すると推定され、邪馬台国との関連も議論になっている。何故、平和な縄文の世界(山内丸山遺跡)から、このように戦いに明け暮れる時代に変化したのか。おそらくその背景には急激な環境の悪化という条件が隠されているはずだ。指導者たちは食料を確保して、民を食わせないといけない。弥生時代は、従来の縄文人の生活の場に大量の渡来人が流れ込む。大陸側の歴史も無視できない。両者は必ずしも平和裏に混血して現在の日本人が成立したわけではないだろう。遺伝子解析などの研究からもその辺の事情が少しずつ解明されてきているようだ。またまだよく分からないことだらけの世界であるが。

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神武天皇

戦時中は、皇紀(こうき)という年号が使われていて、西暦1940年は、皇紀2600年ということで記念の年であった。皇紀元年は神武天皇が即位した年。ということは、神武天皇はキリスト誕生の660年も前に即位したことになります。紀元前7世紀。日本では、紀元前13世紀~紀元前4世紀ぐらいまでは縄文時代と言われている時代。 縄文時代は、約1万5,000年前~約2,300年前、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代で、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代とされる。土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚などが特徴。
神武天皇    神武天皇は、日本の初代天皇とされる神話・伝説上の人物。和風諡号(しごう;貴人の死後につけるおくり名)は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、諱(いみな)は「彦火火出見(ひこほほでみ)」だそうだ。
 神武天皇の功績は、九州の日向の地(今の宮崎県)から東征して、先住民を服従させ大和朝廷を成立させたことか。建国の父という位置づけだ。確かに、神武天皇は、神話・伝説上の人物だが、歴史の研究では、神話も伝説も何らかの意味は持っているはず。何故、神武天皇は東征で西征ではなかったのか。服従させられた先住民とはどんな人たちだったのか。吉野ケ里遺跡は当時の日本が、戦いに明け暮れた激動の時代であったことを示唆している。定住して安定した社会を築いていた縄文の人々の中に大陸方面から稲作技術を持った人々が押し寄せてくる。人口が増えて部族社会から首長社会、そして国家が誕生する。歴史が大きく転換する最も興味深い時代。文字が残されていないので、頼りになるのは遺跡の発掘と神話の意味するところの解明しかないか。(2018.5.6)
セロセン 【追記】戦争中の日本の有名な戦闘機「ゼロセン」は、紀元2600年(1940年=昭和15年)を記念してなずけられた。当時は零(れい)式戦闘機と称していた。そもそも0を零(れい)と読むのが本来の日本語。零をゼロと読むのは英語の影響だ。英語の「ゼロ・ファイター」が「ゼロセン」に変わったもの。

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丁未の乱(ていびのらん)

丁未の乱(ていびのらん)(587年)は、飛鳥時代に起きた我が国の内乱。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされ、物部氏は衰退下とされている。その後の日本の形を決める重要な戦いだ。
535年 インドネシアのクラカタウ火山の爆発による地球規模の大異変が起きる。 世界各地の古文書・年代記・伝承などに異常寒波・自然災害・飢饉・疫病が発生し、その結果政変や文明の崩壊がおきたことが記されている。その結果、民の不安を収めきれずに衰退に向かった勢力がいる一方、この不安を逆手に取り、集権化を押し進め国を統一する方向にもっていく勢力もいる。
6世紀(501~600年)の東アジアも、中国でも政権が交代し、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅が覇を競いあい混乱時代に陥る。朝鮮半島から沢山の難民(特に百済系が多いか)が日本にやって来る。百済から来た人たちはお土産に仏教を持ち込んでくる。インド発の仏教は同時に色々な技術を伴って伝えられるメリットもあったが、難民(渡来人)が同時に持ち込んだ疫病が大流行するという悪さももたらしたようだ。
物部氏は、当時は最有力の氏族だったようだ。神話では神武天皇の盟友となっており、磐井の乱の鎮圧にも活躍している。ただ、渡来人の数が増えるに従って、豪族たちの力関係少しずつ変わっていったようだ。物部氏と並ぶ大伴氏は、力の基盤となる朝鮮半島の南部の領土失い(新羅に取られ)力を失う。
一方の、蘇我氏の方も先祖は武内宿禰ということで名門らしいがその後の活躍はあまり記録が無く、渡来人を活用し力をつけて来たようだ。
結局、大連としての権力が、大伴・物部→物部、大臣の方が葛城氏・平群氏→蘇我氏と大和政権内の豪族の権力が物部・蘇我の二大勢力の対立に変わったらしい。
【対立の経過】
物部守屋 欽明天皇(在位期間 539年~571年、古墳時代)の時代。任那が滅亡し百済から仏教が公式に伝来。百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争う。
稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わり。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可。このころから疫病が流行しだす。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるように命ずる。守屋は自ら寺に赴き、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、群衆の目前で鞭打った。
こうした排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後に崩御(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込む。当初、守屋は有利であったが河内国の本拠地で戦死(流矢に当たったらしい)(丁未の乱)。同年蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位。以降物部氏は没落する。
物部氏の子孫たちは政治の舞台からは消えるが、物部氏から改めた石上氏が神社の宮司として代々続いているらしい。神道は国学として江戸時代には仏教に対抗する思想として復興する。
この当時から日本の天皇(この当時は大君と呼ばれていたはず)は象徴で、実際の実務は豪族たちが天皇の名前で行っていたのですね。上記の歴史も、日本書紀等だいぶ後になって書かれたものなのでかなりの改竄もあるかもしれないけど。しかし、これ以降仏教は国の支配原理としてしっかり根付くことになる。
しかし、この戦い、どう見ても蘇我氏の側に大義名分はないね。ここで問題としている仏教は国家鎮護のためのもの。国の宗教だから個人の信仰の自由とは全く無縁のもの。しかも疫病が流行していることも無視して力ずくで導入しようとする。最後は一方的に戦いを仕掛ける。 一人勝ちになった蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって政治基盤が動揺していくこともあったのかも。それを克服しようとした入鹿等の政治が強権的だったこともあり乙巳の変(いっしのへん)につながったのかもしれない。この時仏教を取り入れたことがその後の日本の繁栄にどれだけ寄与したのかも見ていく必要があるだろう。
歴史の流れは、偶然に作用される面が大きい。蘇我⇔物部の戦もどちらが勝っても不思議のない多い戦だったようだ。物部氏も私的には仏教を崇拝していた可能性もあり、朝鮮との関係も持っていたようだ。ただ国家の枠組みとして仏教を柱にすることには反対だったようだ。渡来人の発言力が大きくなってしまう可能性があるから。単に頑固な守旧派と見做すのは偏見であろう。

【氏姓制度の成立】
原始共同体においては、氏族や部族が社会の構成単位だったようだ。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直される。成立時期は、5~6世紀ぐらいらしい。同族のなかの長が、臣、 連、伴造、国造、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜わる。各姓は以下の通り。
臣(おみ)…葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては大王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
連(むらじ)…大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、大王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。
伴造(とものみやつこ)…連とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族。弓削氏、矢集氏(やずめ)、服部氏、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏や秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏がある。連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。百八十部(ももあまりやそのとも)さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。
国造(くにのみやつこ)…代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民を率いる地方的伴造の地位にある者もあった。君(きみ)、直(あたい)の姓が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。 県主(あがたぬし)…これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏の名とする。
このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、大王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれた。そののち、臣のように、元々は大王とならぶ地位にあった豪族にも及ぶ。

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天皇の系図

飛鳥時代当たりの古代史を調べて行くと、皇位の継承というのが非常に複雑なルールで行われて来たことが理解できる。何故このようなルールが生まれて来たのか。
魏志倭人伝に出て来る邪馬台国を考えて見ると良い。卑弥呼という女帝がいて国をまとめている。鬼道を持って国を治めていた。いわゆる神権政治だ。男帝が補佐している。男の王が立ったら、国は乱れた。だから卑弥呼の後には女帝の台与を立てた。
大和政権は、明かに豪族たちの連合政権だ。共通の神話を持っていたのか。また、朝鮮半島の鉄資源という共通の利害関係もある。大君は男性が多くなるが、皇后の血統はしっかり守られている。神との対話はどうも昔から女性の役目と決まっているようだ。藤原不比等が初めて皇族でない自分の娘を皇后に立てるまでにはかなりの時間がかかっていた。
天皇系図 図を見てみよう。まず、34代の舒明天皇が亡くなり、皇后の皇極天皇が35代を引き継ぐ。この時乙巳の変が発生。皇極天皇は翌日退位し、軽皇子が第36代孝徳天皇となる。何故か筆頭と目された中大兄皇子ではない。そして、孝徳天皇が亡くなると、再度皇極天皇が重祚して37代斉明天皇だ。38代になって初めて中大兄皇子が天智天皇になる。豪族たちの合意が得られなかったのか。
中大兄皇子は、後継として大海人を指名して、これが大和政権内の合意事項であったようだ。長男が亡くなれば後を継ぐのは次男。これを覆したことが壬申の乱の原因だろう。
39代の弘文天皇は実際にあったかどうか不明。後に付け加えられた可能性が高い。天武天皇の皇后、持統天皇は何と天智天皇の娘だ。だから、大友皇子は天武天皇の甥、持統天皇の腹違いの弟。大友皇子が亡くなったことは心残りのことだっただろうに。
壬申の乱を支援したのは、東海地方等の地方豪族たち。持統天皇の縁故の豪族たちが結束したのかも。 天武天皇が亡くなり、皇后の持統天皇が41代として継ぐ。持統天皇自身天智天皇の娘、当然皇位継承権あり。天智系の大津皇子は抹殺される。持統天皇は是が非でも、息子の草壁皇子に継がせたい。でも、まだ年少であった。ところが草壁皇子は若くして他界。草壁皇子の子軽皇子が後を継ぎ、代42代文武天皇になる。持統天皇から見れば、孫だ。持統天皇は譲位したのか。でも文武天皇も早世。仕方なく母親の元明天皇が第43代に。持統天皇はまだ生きておられたがさすがに重祚するのは無理だったか。しかし、絶対に皇位を天智系には渡さない執念はすごい。
文武天皇には、首皇子という息子がいる。母は不比等の娘宮子、正室も光明氏という不比等の娘。また正室は皇族でなければならないというルールをようやく変更させたらしい。県犬養三千代が不比等の妻。すると、文武天皇の皇后は宮子というか。聖武天皇の母、宮子は精神疾患を患い首皇子とはほとんど一緒に暮らさなかったとか。
元正天皇の時に都がならに移され、奈良時代に。聖武天皇は大仏で有名だ。男性の子に恵まれず、第46代は孝謙天皇。その後は天武系は途絶え、何と天智系の光仁天皇49代が誕生する。


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乙巳の変(いっしのへん)

乙巳の変(いっしのへん)は、宮廷内のクーデター。西暦645年とされる。社会の教科書ではこの後、「大化の改新」という一連の改革が行われたことになっている。ところが近年の研究では、どうも改革というのが実態と異なっていることが明らかになって来ている。そもそもクーデターのやり方自体が非常に卑怯な方法で、日本人の美意識に全く合致しない。しかも、殺された蘇我入鹿が当代きっての秀才で気配りも抜群、当然次世代のリーダ的存在で、中大兄皇子等の嫉妬の対象だった可能性が高い。その後の改革というものも概ね蘇我氏の想定していた改革そのもので、内容的にはさほど見るべきものなし。それ以上に最悪なのは外交政策の大失敗である。
乙巳の変
白村江の戦い(663年)に百済を助け出兵し、唐・新羅の連合軍に大敗北を喫するのである。唐は隋を受け継いだ統一王国で、朝鮮半島にも勢力を拡大する。結局、唐に従った新羅を除き、高句麗及び百済は簡単に滅亡。国際情勢に関する知識があればどう考えても唐と戦う選択肢はあり得ない。どうも百済の残党の亡命勢力が中大兄皇子等を抱き込みクーデターとなった可能性がある。そもそも乙巳の変のもう一人の主役、中臣鎌足という人物の出自が怪しい。これほどの大改革なら、蘇我、物部、大伴、葛城等の大物が控えていてもよさそうなものだが。
当然、その前の時代から遣隋使を派遣し、日本の高官たちも中国の状況を把握していたはず。百済と組み唐と戦う選択肢はクーデターでも起こさない限りありえない。敗戦後は唐の報復(唐の側は大勝しているので報復の必要はないが)恐れて九州の防備に大わらわ。防人(さきもり)の配置など。国益を大いに損なった大失政だ。
その後、天皇となった天智天皇は、失政を覆い隠すために、強権発動をし、都を移したり、歴史の編纂(自己弁護)に勢力を傾けるも、死後、壬申の乱(672年)で弟の大海人皇子(後の天武天皇)に政権を奪取される。反乱者側が地方の豪族を抱き込み勝利した珍しい例となった。
このころ編纂された歴史書、「日本書紀」は蘇我氏を悪者にして歴史から抹殺する目的があるので、蘇我氏の業績を他のものに転嫁した可能性がある。その候補が聖徳太子ではないかとの説もある。蘇我氏は仏教を重んじ、和をもって貴しとする考え、つまり天皇独裁でなく、豪族たちによる合議制で国を動かそうとしていたので、聖徳太子の考えと合致して対立する要素は少ない。天皇独裁が必要なのはむしろ百済からの亡命勢力であろう。乙巳の変以降、天皇の独裁傾向が強まるのは、クーデターが一定の成果を上げたことになるであろう。百済の勢力も一定の軍事力を持っていたのかも。
その後、天武朝になってからも、天智系の豪族たちは処罰の対象となり、中臣氏は元の性に戻去れる。何故か、不比等の子孫だけが藤原氏と名を変え、天皇家と縁戚関係を築き、独り勝ちとなる。その先駆けが藤原不比等。天皇家を自由に操ることで勢力を拡大し、その力は現在まで続いている。 でも、不比等がやったこと、既存の豪族たちの力関係を新しい律令制という枠組みの中に吸収し、その頂点に収まったということではないのだろうか。「和をもって尊しとなす」の理想を地で行った方なのかも。その後の日本の歴史を見れば分かる通り、日本の天皇は絶対君主としてふるまうことは、一部の例外はあるもののほとんどない。貴族たちの合議制で政が行われていたようだ。お隣の朝鮮や中国の歴史と比べればこのことは一目瞭然でしょう。
この時代の史実は、記録も少なく資料としては、「日本書紀」、「古事記」、その他地方史をつづる「風土記」等限られている。しかし、歴史を書くのは常に勝者で、書かれていることは勝者に都合の良いことだということを常に肝に銘じておく必要があるでしょう。

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白村江の戦い

白村江の戦い

中国では618年に隋が滅び唐になる。朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国の鼎立状態で、日本は百済と親交が深かったようだ。このうち最も弱かった新羅は、いち早く唐の庇護下に入り、最も強かった高句麗は、唐と国境を接していることもあり、3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を受け、結局は滅び去る。日本は百済からの亡命貴族達も多く政権内にも百済ロビーが出来ていたこともあり、百済を支援しようとする。ただ遣唐使は既に630年に派遣されており、当時の政権内の多くの知識人達は唐と敵対する選択肢は無いことは分かっていたはずだ。
有名な乙巳の変(いっしのへん)が、645年に起こる。宮廷内のクーデター。そして遂に663年の白村江の戦いが生じる。百済の遺民達と倭国の連合軍が、唐・新羅の連合軍に大敗する事件だ。日本が外国に占領される3大危機として、①太平洋戦争、②元寇、③白村江の戦いと言われるほどの大事件だったようだ。
この後、「乙巳の変」の首謀者であるは中大兄の皇子(天智天皇)は唐・新羅の攻撃を恐れて、太宰府に水城と山城を築き、防人を配置するなど防衛に大わらわ。都を海から離れた大津に移すのも国土防衛の一環からか。このような強権政治は地方豪族の不満を招き、反乱を起こした弟の大海人皇子(天武天皇)に政権を譲ることになる(壬申の乱(じんしんのらん)(672年))。遣唐使はその後も続けられるが894年菅原道真の建議によって廃止され唐の滅亡(907年)によって消滅する。
白村江の戦いに当たっては、唐は日本からの留学生の帰国を阻止し、百済を攻めるという情報が漏れないように万全を期していたという。唐のおかげで朝鮮半島の統一に成功した新羅は、今度は一転して唐に歯向かい独立の道を歩むことに。日本との関係はずっと悪いまま。遣唐使は新羅を通過できないので南のルートを取らざるを得ず、遣唐使の航海は非常に危険を伴うものになっていたことも遣唐使廃止の理由の一つになっている。
【追記】
日本人の外交音痴は今に始まったことではない。1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾し(日本の降伏による第二次世界大戦終結)、白村江の戦いから1282年後に対外戦争での手痛い敗北を再び経験した。そして、戦勝国であるアメリカの様々な制度を導入したが、終戦直後の翌1946年(昭和21年)8月に当時の昭和天皇は、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし。」と語り、再び敗戦国の国民となった日本人を励ましたそうだ。歴史は繰り返す。英語「History repeats itself. 」、ロシア語「История повторяется.」、中国語「历史重演」。私達も歴史を学ぶのではなく、歴史に学ぶ姿勢が大事だ。

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藤原 不比等

藤原 不比等
藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての官僚で、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男といわれている。鎌足は、乙巳の変(いっしのへん)で、中大兄皇子(天智天皇)を補佐した大立者であったが、後の壬申の乱で、藤原氏(中富氏)の一族は、排除され、元の姓である中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することに戻される。天智天皇系の近江朝の重臣は当然のこととして処罰の対象になったわけ。藤原不比等は当時13歳と幼かったことから、処罰の対象から免れたが、天武朝の官僚機構の下から出直すと言う苦労をしたといわれる。ところが、不比等は法律の知識が豊富で文才も豊か。『大宝律令』の編纂にも主導的な力を発揮して、トントン拍子の出世。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖とされている。古事記や日本書紀の編纂にも関与していたらしい。古事記は稗田阿礼という人の記憶を太安万侶が筆記したしたことになっているが、稗田阿礼という人物、不比等の代理人か本人自身ではないかとの推測もあるようだ。いずれにしても、藤原不比等という人物はただものではない。なんといっても、後に天皇家を利用して権勢をふるう藤原朝の元祖だ。天皇家との婚姻関係を通じて今の皇室は藤原家の筋が脈々と続いている。京都の公家は三条だの白川だの、岩倉だの、袋小路(??)だの皆、藤原氏の末裔だね。今の宮内庁だって藤原氏の代理人かもね。ただ、不比等さんは信長や秀吉と比べて、戦いをしたわけでもないし大変地味な存在。ただ、日本の歴史においてはその存在は滅茶クチャ大きい存在なのだ。
でも、不比等がやったこと、本当は既存の豪族たちの力関係をを新しい律令制という枠組みの中に吸収し、その頂点に収まったということではないのだろうか。「和をもって尊しとなす」の理想を地で行った方なのかも。つまり、蘇我や物部といった氏族は消滅した代りに、彼らはしっかりと律令制の中での役割と権限を確保し、支配階級としてふるまっていたのではないだろうか。律令制という制度自体、当時の大帝国唐とお付き合いするために必要だったわけなので、形だけまねて中味を日本の実情に合わせて換骨堕胎してチャッカリ利用する不比等さんはやはりただものではない。
その後の日本の歴史を見れば分かる通り、日本の天皇は絶対君主としてふるまうことは、一部の例外はあるもののほとんどない。貴族たちの合議制で政が行われていたようだ。お隣の朝鮮や中国の歴史と比べればこのことは一目瞭然でしょう。でもそのおかげで天皇家は今日まで続いている。たいていの国では政権が変われば王族は処刑されて消えてしまうのに。また、その後日本が武士の世となり、封建制度という地方分権型の国に変貌できたのも不比等流の律令制度のおかげかも知れない。お隣の朝鮮半島では専制王権型の律令制が定着してしまって日本に占領されるまで続く。やはり、藤原 不比等という人本当にただものでない。でも、とても地味な存在で歴史小説に登場する事などほとんどないようだ。

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比ぶ者なき

皇統系図天武 比ぶ者なきは藤原不比等を扱った歴史小説。著者は馳星周(はせせいしゅう)と言う方。藤原不比等は、後の藤原氏の元祖とも言えるし、律令制度を作り上げ、現在の皇室の原形を造ったとも言える人だ。おまけに日本の神話を渡来人たちの協力によって、造りあげ、天皇の地位を確立させた建国の父かも。
ただ、彼の実像は巧みに歴史の裏側にわき役として隠蔽されており、日本史の中でもあまり話題にされてこなかったようだ。古事記や日本書紀と言った日本の歴史について書かれた資料も実は、彼の時代に精力的に編纂されたもので、それ以前の出来事は総て、古事記や日本書紀に書かれたことが古代史の研究の基になっているのが現状である。
誰か不比等について、一般向きの小説でも書いた人はいないかとネットで検索していたらたまたま見つけた次第である。
不比等を主人公に選んだ、着眼は素晴らしいし、史実に照らしても内容的も良くまとまっている。不比等は天皇の地位が不安定な時期に、天武天皇→持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇と5人の天皇に仕えており、信頼される官僚としてどんどんと力をつけて行く。天皇側にも3人も女帝が含まれ、彼女等の側にも不比等を利用する必要があったとする観点も面白い。

だから、不比等の経歴を探るには、当時の歴代天皇の変遷を見て行かないとストーリーを見失うことになるかも。なんせこの時期の天皇の交代劇は非常に複雑で一筋縄では理解不能だと思われる。以下簡単に記す。
第38代天皇(在位:668~672年):天智天皇→諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。葛城氏と何らかの縁故でも。中大兄皇子として知られる。乙巳の変(いっしのへん)の首謀者で強権的な天皇であったとされているが。

第39代天皇(在位:672~ 672年):弘文天皇は実際に大王に即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることが多い。壬申の乱で殺されてしまう。天智天皇が弟大海皇子との約束を保護にし、大友皇子を立太子したのは、母親皇極天皇(斉明天皇)の意向であった可能性もある。当時の天皇は皆マザコンだから。

第40代天皇(在位:673~686):天武天皇(? ~ 686年)。諱は大海人(おおあま)。壬申の乱で勝利して即位。天智天皇の弟で弘文天皇の叔父ということだが。大友皇子を死に追いやったことは本意ではなかったのかも。

第41代天皇(在位:690年~697年):持統天皇(645年~703年)。天武天皇の皇后。史上三人目の女性天皇。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。天智天皇の娘でもあり、皇位継承権は持っている。息子の草壁皇子に後を継がせる予定でいたが、息子に先立たれ、孫の軽皇子に皇位(7歳)を継がせるため、自らが天皇となり不比等に協力を求める。ここまで見れば、壬申の乱の計画は彼女が行った可能性もある。自分の息子を皇位につけるには大友の皇子は明かに邪魔だ。彼女なら地方の豪族たちを取り込むことも容易だ。

第42代天皇(在位:697年~707年):文武天皇(683年~ 707年)。軽皇子のこと。持統天皇は15歳の軽皇子に譲位した。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になる。

第43代天皇(在位:707~ 715年):元明天皇(661年~721年)。諱は阿閇(あへ)。天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。文武天皇(軽皇子)が早世してしまう。元明天皇は、文武天皇の母親でもあり、草壁皇子(天皇待遇)の皇后ということで即位。持統天皇は年齢から重祚を諦める。祖母よりは母のほうが通りがよいか。

第44代天皇(在位:715年~724年):元正天皇(680~748年)。 父は草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひだか)。5人目の女帝。それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇。首皇子の叔母で中継ぎの役割。絶対に天智系の皇子には行為を渡さない。持統天皇の系列(母系)で行くのが天照大神以来の決まりとしてしまう。今の皇室で言えば令和天皇を愛子さまが継ぐのがいいのか。

第45代天皇(在位:724~749年):聖武天皇(701~ 756年)は、日本の。諱は首(おびと)。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。ようやく母親が皇族でない天皇が誕生する。不比等の狙いは達成したが、不比等は天皇の即位を見ることはかなわなかった。不比等の4人の子供たちが後の仕上げを完成させる。

【追記】
何と、飛鳥時代には即位した天皇15人中7人が女帝だ(第34~49代)。これも万世一系の血統を重視した結果。男性の天皇は皆短命だったので女帝の時代が長く続く。昔から皇位は男系と決っている言うのは真赤な嘘。皇室典範に「男系」と書かれているのは薩長政権の陰謀だったんでしょう。天皇に側室を造らせ男性の皇位継承者を沢山作って互いに競わせれば政権に都合の良い天皇を誕生させることが出来る。不比等や持統天皇達は、皇位継承には時の権力者が極力口を出すことが出来ないようにしたようだ。このような努力が律令国家の枠組みを完成させ、天皇の権威を高めるとともに、天皇の権限にも制約を加え、「天皇は君臨すれども統治せず」の原則が出来上がる。現在まで皇室が存続する理由にもなっている。 ところが明治~昭和に天皇の権威を利用し、国を動かそうという勢力が台頭してくる。明治維新と言うナショリズムは発展の原動力とはなるが、やがてそれは軍人たちに悪用され、戦争を引きおこし破滅的な敗戦を被る結果となる。敗戦によって天皇家は本来の姿に立ち返った訳だろう。

天智天皇   持統天皇
不比等(659~720年)は、鎌足の子ということで、天武天皇の時代は不遇であったとされている。ただ持統天皇には皇后の時代から目を付けられて可愛がられていたようだ。結局、天武天皇→持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇と5代の天皇に仕えることに。当時の天皇の地位は盤石ではなく、男系の皇族達は次の天皇の座を巡って骨肉の争いになる可能性は大きかったのでしょう。この時代の女帝達は、自分の産んだ子や孫に帝位を継がせるため、新しいルール作りを不比等等に頼んだようだ。このためのツールが唐でできた律令と神話や歴史書(書換)の作成だったようだ。不比等を裏で支えてきたのは、新しい知識を持ち込んだ帰化人達だ。特に白村江の敗戦で百済再興の夢を断たれた百済の人達の活躍は大きかったようだ。下記のような文化大革命的な活動がおこなわれていたようだ。
1. 万系一世の天皇家という概念を神話で作成する。
2. 天照大御神という太陽神を造り、これを女性とした。孫に地上を支配するように命じたとか。太陽神は普通は男神。これは持統天皇を仄めかしているらしい。藤原氏の先祖とみられる神もちゃんと入っているらしい。
3. 蘇我氏の功績を打消すため、聖徳太子と言う人物を造り出し、功績をすり替えている。厩戸皇子は地味な皇族の一人だったはず。何故か聖人になってしまう。
4. 宮廷詩人柿本人麻呂。天皇賛歌のプロパガンダね。「アメノシタテラス」だよね。

でも、藤原不比等さん、そんなに悪い人でもないね。藤原を名乗れるのは父鎌足の子孫でなく、不比等の子孫だけ。天皇家も持統天皇の子孫だけが皇統を継ぐ権利を得て、大勢の皇族は下野するしかなくなる。世の中それでうまく収まる。「和を持って尊しとせよ」、物部氏を滅ぼした後の蘇我氏の家訓でもあったんだろう。女帝と言うものなかなかのものだ。なんせ天武朝時代は特別な戦争もなく、乱れた世を治めきったのだから。「オレオレ」のマザコン男帝ではかなわぬ業だ。すべてはこのため孫のため、隠忍持久の持続的精神でやり遂げる。日本の社会は基本的には女性優位の伝統が根付いているのかもね。
【県犬養三千代】
県犬養 三千代(あがたのいぬかいのみちよ、665年? ~ 733年2月4日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。県犬養(あがたのいぬかい)氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍し、宿禰姓を賜った中堅氏族だといわれる。この三千代さんは草壁皇子のお世話係として宮中に仕えたようだ。持統天皇の信頼が厚く、軽皇子、首皇子の世話を懸命に行う。また、前の夫と別れ、不比等と夫婦となる。不比等が辣腕を振るってきたのは、藤原一族のためと言うより、妻三千代のため、軽皇子、首皇子たちの育て親としての愛情からと言う善意の解釈も可能だ。
県犬養三千代の一族は、その功績により天皇より橘のせいを賜る。橘氏もその後の歴史に時々顔を出す。藤原の姓だって、不比等の子孫限定だ。不比等は娘の光明氏が聖武天皇の皇后になるのを見ないで亡くなる。聖武天皇は子供に恵まれず、結局天武朝は崩壊し、天智系の光仁天皇が後を引き継ぐことに。不比等の子孫らが活躍し始めるのはその後のことだ。(2020.1.16記)


【追記】
不比等等のお陰で、日本の天皇制は確固たる基盤を固めることが出来た。天皇は基本的には君臨すれども統治せず。実際の政治は、律令体制の下で複数の大臣等が合議制で行うことに。しかし、大臣の任命権や拒否権は依然残されているので、その後、日本の権力の二重構造を生み出す原因に。二重構造が結果的に良かったのか悪かったのかは議論のある所でしょうが。明治維新以降、天皇の権限が意図的に薩長政権によって拡大解釈されて、最終的に日本を戦争に巻き込むことに。
戦後、GHQや昭和天皇御自身の宣言で、天皇は象徴であることが明記される(憲法第一条)。また、白村江の戦いの件をあげて、戦争の責任は天皇にある(道義的に)として戦争放棄を約束する(憲法9条)。
明治に造られた皇室典範の意図は明確だ。皇統は男系でないと政治家が利用しにくい。天皇は側室を造り沢山の男系の皇子を産んで選択肢を増やして欲しい。譲位などされては、政治に利用できないではないか。天皇が象徴である以上、男系に限るという規則は薩長政権によって捏造されたルールだろう。天皇が沢山の側室を置くことを前提に造られたルールだ。英国や他の欧州諸国でも女王が増えたのも同じ力学からでしょう。象徴天皇ならば女帝の方がうまく行く。歴史は繰り返すのだ。

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聖徳太子

聖徳太子 聖徳太子(574~ 622年)または厩戸皇子(うまやどのみこ)、飛鳥時代の皇族。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第2皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教や儒教を取り入れ神道とともに信仰し興隆に努めたとされる。
【注】聖徳太子と想定される人物の家系図を探しました。記紀に乗っ取ているので他の資料でもあまり変わらないと思います。ただ皇后の名前が抜けているのは大問題です。調べれば出てくるはずです。当時のルールでは、皇后の位には皇族でなければなれません。つまり前の天皇の娘です。天皇の妻であっても皇后とは限らないわけです。この図では、誰が欽明天皇の正室だったか。当然敏達天皇の母親が皇后だったと推定されるわけです。蘇我氏は当然山背大兄王を天皇に立てたかったはずですが、正室から生まれた敏達系の田村皇子の方が正当という他の豪族たちの意見に対抗できなかったんでしょう。
聖徳太子系図 聖徳太子の実在が今疑われてきている。乙巳の変(645年)の正当性を主張するため古事記や日本書紀の編纂が帰化人達の努力で行われるが、その中で蘇我馬子等の業績を隠蔽する目的で創造した人物の可能性が濃厚なのだ。
そもそもが、推古天皇も蘇我馬子等も同族みたいなもので、非常に良い関係だ。推古天皇も女帝で聖徳太子より年上なので摂政を置く必然性もなさそうだ。一族の山背大兄皇子(馬子の娘と聖徳太子の子)を死に追いやったとあるが、これではあまりにも不自然だ。つまり聖徳太子抜きでも歴史上の出来事を総て説明できる。
つまり、大和政権の2大氏族の一方の、物部氏の勢力が丁未の乱(ていびのらん)(587年)以降弱体化したので、蘇我氏の単独覇権が実現したということなようだ。蘇我氏と天皇家は婚姻関係を通じて既に一体となっている。すなわち、この段階で天皇を中心とした律令国家へ移行する準備は完了したということだ。

宗教会議 しかし、聖徳太子はずば抜けた聖人のごとく描かれている。厩戸皇子と言うのは馬小屋で生まれた聖人の意味だろう。こんな聖人は世界で一人しかいないだろう。そう、当時日本にはキリスト教が伝来していたはずだ。西暦325年ローマ帝国のコンスタンチヌス大帝がキリスト教を国教と決める。その際に2派に分かれていた宗派の一方を異端として追放する。ネストリウス派は新天地を求め東方へ旅をし、中国を経て日本にも来ていたらしい。景教という名で知られている。日本書紀の編纂時期は、中国は唐の時代。帰化人達は当然景教について知っていたし知識も持っていた可能性がある。厩戸皇子という正にピッタリの名を発見したということか。

遣隋使を派遣した頃の日本は、まだ隋の国力をそれほど評価してなかったと思われる。中国が統一されるのは久方ぶりのこと。邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送った時代とは違って来ているのですが。さもなければ、隋より更に強力な唐に対して白村江の戦いなど仕掛けたりはしないはずだ。「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」の遣隋使が持参した書は、当時の大和朝廷の人達の本音だったんだと思います。隋が巨大な帝国だという認識は歴史を学んだ人の後知恵なんでしょうね。

景教については、帰化人達は知っていたでしょう。でも、日本にも入っていたのでしょうか。キリスト教の伝来はザビエルが日本に初めて伝えたとされています。1549年、イゴヨク見かけるクリスチャンとか言って覚えた方も。実際には800~900くらい前にキリスト教が伝来していた可能性がある。岩手県に実際キリストの墓という古墳が存在するという話がネットにあった。景教の痕跡は他にないのだろうか。景教は仏教などの他の宗教とも交流を深めながら既存の宗教と合流し大きな影響を与えて来たらしい。

聖徳太子 【いろは歌の謎】
「いろはにほへと/ちりぬるをわか/よたれそつねな/らむうゐのおく/やまけふこえて/  あさきゆめみし/ゑひもせす」
この各行一番下の文字を右から左へ読むと、「とかなくてしす」→「咎(とが)なくて死す」。
すなわち、"罪がなくて死んだ"の意味になる(歌の中では清音と濁音は区別されない)。このように歌の中に、もう一つのメッセージや暗号文を折り込むことを、折句というらしい。 誰がこの歌を作ったのか。これをイエスが罪もないのに十字架に掛けられたという意味という説がある。梅原猛氏は確かこれを柿本人麻呂の歌と見て彼が流罪になり刑死したことを恨んで作ったものとの説「水底の歌」を発表している。

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飛鳥時代

飛鳥時代は、日本史の時代区分。次の奈良時代は710年の聖武天皇時の奈良遷都から794年の桓武天皇時の平安京遷都までと、はっきりと線引きできるが、奈良時代以前は飛鳥時代、大和時代、古墳時代、弥生時代と遡っても、明確のエポックもなく、ダラダラと歴史が進んでいる感じだ。
古事記 実は、日本の歴史において自らの歴史を描いた書物が、出来上がるのが飛鳥時代。何故この時期に突然、歴史書が精力的に編纂されるようになったのか、その意図、原因を把握しないと古代の歴史の事実は何時までたっても闇の中。歴史は勝者の立場で書かれるといわれるが、飛鳥時代の歴史の編纂程大掛かりな作業は他に例が無いようだ。我々が神話としている世界も彼等にとって歴史の重要な部分。多くの渡来人が重用されている。飛鳥時代以前の歴史でまとまったものは、古事記と日本書紀のみであるが、そこに描かれている歴史は現代の目で見ても不自然な面が多々あり、にわかに史実と考えるには無理が多すぎる。参考にはなるものの実証的な検証が極めて重要でしょう。

当時の、世界は分裂していた中国が、隋、唐と言った巨大帝国の成立、それに伴う朝鮮半島の混乱、多数の帰化人の来日と言ったグローバルな視点が欠かせないはずだ。 隋、唐と言った巨大帝国の成立する直前には、実は535年はインドネシアのジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡でのクラカタウ火山の大爆発があって、地球環境が大幅に悪化したことが知られている。西のローマ帝国から東の中国まで世界中で大きな出来事が起こっている時代だ。古事記も日本書紀もこの激動の時代に、当時の政権の正統性を懸命に主張している点に注目だ。
飛鳥時代とは、広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的というがどのように区分するのでしょうか。「飛鳥時代」は、現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来し、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉らしい。乙巳の変以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事もあるとか。

弥生時代に稲作が盛んになる。水田モノカルチャーが進むと、階級分化が進み、鉄製農具、土地、種籾を所有する氏族たちと労働力だけしか提供できない平民(農奴)に分かれて来る。 氏族たちは相争いながら、婚姻関係を通じてより大きなグループを形成し、王となる共通のリーダを選んで国を形成していく。王は宗教的な権威として君臨し、氏族達が話し合いで国を動かす仕組みが成立する。邪馬台国とされる国もそのようにして生じたのでしょう。
その後、大和政権とでもいうより大きなまとまりが成立し、倭という一つの国家が成立していったようです。つまり、大和を中心に九州や出雲、吉備、尾張といった広域の連合が生じてきます。バラバラで相争っているよりも、連合国家を造った方が互いの利益につながるという何らかの力学が働いたはずです。多分、それは朝鮮半島や中国との関係だろうと想像されます。国が大きくなるのは支配者の征服欲や軍事技術の進歩だけでは説明できないと思いますが。大和政権自体、朝鮮半島南部には植民都市と言うものをたくさん持っていた可能性が高いようです。特にわが国では当時産出が少ない鉄や銅の鉱山の開発や、買取(金属製品のリサイクル)を植民都市で行っていたと考えられます。ギリシャ人たちが小アジアなどでやっていたことと同じです。

古事記や日本書紀では、大和政権は強力な軍事力を持った大君(おおきみ)という、リーダが全国を占領しまくったように描かれているが、実際には婚姻関係を元に結ばれた緩い連合政権だったはずだ。飛鳥時代の天皇の地位の継承の流れを見ればそれが分かる。天皇の地位の継承を巡って争いが生じそうになると、女性の天皇が誕生し、何とか危機を解消する。飛鳥時代は日本の歴史上、女性の天皇が特別多い。推古、皇極、斉明、持統、元明、元正…。どうも日本の社会は基本的に女系社会で政治の流れは実際には女性たちが決めているようだ。
それも当時の皇位の継承法を見れば理解できる。男性の皇子は、複数の皇子が競い合っているので、誰がスポンサーかで天皇になれるかどうか決まる。つまり皇后を誰にするかでスポンサーが決まってしまうのだ。天皇になってナンボの世界。スポンサーの顔色を伺いながらやらないと何時廃位されるかも知れない。また、有力氏族間の競争も激烈になる。ところが女性の皇后は自分の子を造り育てることで時期の天皇の候補まで決めてしまえる。しかも出身母体の氏族から多大の支援を受けることが出来る。自分の皇統を維持するメリットが圧倒的に大きい。皇室の権威がまだ確立していないこの時期、女帝の方が社会を安定させるメリットが大きいようだ。
このことは邪馬台国(中国の魏と言う国の歴史地理書)の例でも分かる。女王卑弥呼が無くなる。男の王を立てたら国がまとまらず、台与(とよ)と言う女帝を立てたらうまくまとまったと書かれている。
基本的には、大君(おおきみ)の仕事は祭礼を司る役割だろう。政治や軍事といった事項は大臣とか大連といった大氏族のリーダ達が大君の神託をもらって実施していたようだ。

【仏教の是非】
丁未の乱(ていびのらん)(587年)は、最初に史実と思われる最初の大和朝廷内の大衝突だ。朝鮮半島からの沢山の難民(難民と言ってもそれなりの軍事力を持った氏族だ)が流れ込む。仏教と疫病(天然痘か)を持ち込む。さあ、日本国の舵取りは? 誰がリーダシップを取るか。結局、国粋派の物部、中臣氏対蘇我氏の対立に。両者は自分たちの娘を嫁がせ、天皇のご宣託を確保しようと目論む。結局武力対立となって、物部氏は表舞台から消えさり、蘇我氏の天下となったと史書では明記されている。でも、この問題は朝鮮半島の情勢にどう付き合うかが最大の問題。仏教を受け入れれば解決する問題ではない。ズート後まで尾を引いている。

【聖徳太子とは?】
次に、分からない問題は聖徳太子の取り扱いだ。天皇は推古天皇で崇峻天皇の後を継いだ女帝だ。聖徳太子は厩戸皇子を指しているようだ。推古天皇、厩戸皇子と蘇我馬子は皆蘇我一族の血を引いておりとても仲良くやっていたらしい。政治も順調に回っている。 近年、聖徳太子は実在しなかったという考えが強くなっているらしく、歴史の教科書から消えて行く運命にあるようだ。つまり正式とされる記紀の記録は余りにも不自然だから。推古天皇は厩戸皇子よりも年上で政治力だって上だ。厩戸皇子が摂政になれるはずもない。そもそも厩戸と言う名前は、どこから来たのか。景教(ネストリウス派キリスト教)はどうも日本にも既に伝わっていたらしい。つまり、聖徳太子は馬小屋で生まれた聖人と言う意味だ。聖徳太子の子、山背大兄王が蘇我氏によって立太子されなかったのは、山背大兄王があまりに蘇我氏に近いため蘇我馬子が他の氏族達に遠慮して外したのだろうと推測されている。蘇我馬子が山背大兄王を殺さねばならない動機が不十分な訳だ。

結局、天武朝が蘇我氏を何とか悪役にしたい。つまり、乙巳の変を正当化したい。蘇我氏を誅殺したことを必然としたいための創作らしい。ところが蘇我馬子は他の氏族達に評判が良い。聖徳太子が行ったとされる業績は多分、総て蘇我馬子がやったこと。「和を持って尊しとせよ。」は、蘇我馬子がいったん敗れた物部氏の勢力にも気を使ってのスローガンだろう。聖徳太子は帰化人達が総力を挙げて作り上げた英雄。景教ではまさに聖人だ。

【乙巳の変】
乙巳の変(645年)も奇妙な事件だ。明らかに宮廷内クーデターであるのに首謀者が罰せられていない。中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺する。何と事件の直後に皇極天皇が退位し、軽皇子に譲位。孝徳天皇となる。天皇家が事件の首謀者なのか。氏族側では中臣鎌足、蘇我石川麻呂(蘇我氏の長老らしい)。背後には渡来人の勢力が疑われる。蘇我氏が反撃できなかったのは、百済系の渡来人の軍隊が警備して手足が出なかった可能性がある。

【白村江の戦い】
白村江の戦い(663年)で大敗退を喫す。百済国の再考を目指して、唐・新羅の連合軍と戦う。乙巳の変の必要性はこれで分かる。国際感覚豊かな蘇我氏は、唐・新羅の連合軍に勝てないことは自明なので反対するに決まっている。百済国のために軍を派遣したい勢力にとって蘇我氏は邪魔もの。朝廷と百済王国は既に血縁関係で強く結びついており、無視できない勢力となっている。大敗退の後は、遷都したり海岸防備に兵力を増強。当然地方の豪族達の不満が貯まる。敗戦の責任は誰が取ったのだろうか。天皇は天智天皇。

【壬申の乱】
壬申の乱(672年) 天智天皇崩御の後、弟?の大海皇子と息子大友の皇子が皇位継承の戦いを。反乱軍側の大海皇子が勝利して、天武天皇に。何と天武天皇の皇后が鸕野讚良(うののさらら)で後に持統天皇になるが、実は天智天皇の娘。ということは大友の皇子とは兄弟。大海皇子は天智天皇が自分の存在自体を恐れていることを考慮して、出家してひたすら恭順の意を示していた。一体だれがこんな乱を仕組んだのでしょうか。持統天皇はずっと夫を天皇にして自分の子等に皇統を持ってこようとしていたのかも。地方の豪族たちの根回ししておいて、蜂起させたのかも。
持統天皇は、藤原不比等を重用し、対立する有力な天智系の皇子たちを次々に排除していく。 あいにく持統天皇の系統は子供に恵まれず、元明天皇、元正天皇と女帝が中継ぎで立ち、聖武天皇(首皇子)までこれが続く。聖武天皇の皇后は初めての皇族以外の藤原氏出身の光明子となる。それまでのルールは男性天皇の皇后は皇族以外では不可というルールがあった。不比等がこれを天皇に変えさせたのだが、不比等は聖武天皇の即位を見ずに亡くなる。元明天皇の時に奈良遷都が行われ、後は奈良時代。不比等亡き後は、不比等の子等4兄弟が宮廷を牛耳るようになる。

【万世一系の天皇家】
持統天皇-藤原不比等が行ってきた一連の宮廷内の改革は、それまでの豪族たちの連合政権の形を律令制に基づく天皇独裁(実際には数人の大臣の合議)に国家の形態を変えることを可能にした。男性の皇族達が多数いて、彼らをバックアップする豪族たちが互いに競い合っている状況では、唐や新羅に対抗できる国家にはならない。
この制度作りに大きな寄与をしたのは律令制に取り込まれた帰化人(特に百済系の)であろう。白村江の戦い以降、祖国再建の夢を断たれた百済の人々は、律令制の中で官僚として活躍する選択をしていったのだろう。
このように書くと、大和政権が渡来人たちに乗っ取られたように感じる人もいるかも知れない。それは、現代の一民族一国家的ナショリズムに基づく偏見だ。百済であろうと新羅であろうと帰化した以上は対等な仲間だ。この当時の朝鮮半島は日本よりもはるかに混乱しており複雑な様相であっただろう。大陸と陸続きの半島では、そもそも百済、新羅、高句麗の三国では人々の移動も激しく、同じ民族で言葉すら通じたかどうか分からない。また、日本には弥生時代から人の流れがあった訳だし、国境線などない時代だから。

【百済国の謎】
百済と言う国は、結局白村江の戦い以降滅亡し、歴史から消え去ってしまう。百済と倭国は以前から一心同体という関係にあったのだろうか。そうでなければ、クーデターを断行してまで、唐と戦争をしなければいけない理由は見つからない。
古代朝鮮には任那日本府(みまなにほんふ)というヤマト王権の出先機関があったとされる。雄略紀や欽明紀など見られるらしい。もちろんそんなものの存在は今の韓国では否定されている。百済滅亡後の新羅との関係は明かに対抗する勢力だ。
7300年前、薩摩硫黄島の鬼界カルデラで噴火(アカホヤ噴火)が生じたことが明らかにされつつある。縄文の文化は東日本でしか発見されないが、当然それに匹敵する文化は西日本にもあり今はアカホヤの火山灰に下に埋もれているのでしょう。その時の生き残った人々は海洋民として大陸へも進出した可能性がある。つまり、彼らが積極的に鉄や銅などを利用する技術を大和国に伝えて来た可能性はある。朝鮮半島への人の流入は北の大陸からの他に南の海からの流入もあったのでしょう。

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新羅郡

私の住んでいる埼玉県志木市は、飛鳥時代には新羅郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)として設けられた国(地方行政単位)の一部だったらしい。その後、新座郡(にいくらぐん)と呼ばれるようになり、紆余曲折の末現在の行政区になっている。
具体的なエリアは、埼玉県和光市(全域)/朝霞市(全域)/新座市(全域)/志木市(本町一 - 六丁目、柏町一 - 六丁目、幸町一 - 四丁目、館一・二丁目)/戸田市(重瀬)/東京都練馬区(東大泉一 - 七丁目を除く大泉地区)/西東京市(旧保谷市域。ひばりが丘(一部を除く)、ひばりが丘北、住吉町、栄町、北町、下保谷、東町、中町、泉町、保谷町、富士町、東伏見、柳沢、新町)と推定されています。

名前を見れば明らか。古代朝鮮半島は、百済、高句麗、新羅の3国が争っていた時代で、大量の帰化人達が日本に押し寄せてくる時代です。新羅はその一つ。新羅から来た人々を大和朝廷が一括して、移住させ住まわせたということです。

実は、高麗郡(こまぐん)というのもあった。ともに武蔵国にあった郡。現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。日高市(全域)/鶴ヶ島市(全域)/川越市(入間川以西)/狭山市(同上)/入間市(大字野田、仏子、新光)/飯能市(大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元、上名栗、下名栗を除く全域)。高句麗(こうくり)のことを高麗 (こま)と呼んだんだろう。

上田知事 以下、埼玉県知事上田清氏のブログを引用する。さすが埼玉県知事だけあって、歴史の勉強もしっかりやっておられる。
☟☟☟
7世紀、朝鮮半島では、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国が覇権争いをしていました。そのうち高句麗(高麗・こま)から日本に渡り関東各地に居住していた人々が、716年に現在の日高市を中心とした地域に集められ、「高麗郡」が設置されてから今年で1300年になります。同地域ではこれを記念して「高麗郡建郡1300年」の記念イベントが行われ、大変な盛り上がりを見せています。
古地図 さて、本日は、埼玉県には「高麗郡」だけではなく、実は「新羅郡」もあったというお話を御紹介したいと思います。平安時代初期に編さんされた歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、758年に僧侶以下74人の新羅からの渡来人を現在の新座、志木、朝霞、和光の地に移住させたという記述があります。その名も「新羅郡」であります。これがやがて「新座(にいくら)郡」に改められ、新座市の名の元になっています。和光市には「新倉」という地名も残っています。和光市を流れる白子(しらこ)川もかつては新羅川だったと言われているそうです。また、渡来した新羅人ゆかりの地名は「白木」や「白城」、「志木」などにも変化していったようです。

百済(くだら)から渡って来た人々もいましたが、これらの人々は都に近い畿内地方(現在の大阪府を中心とした地域)に住み、後発組の高句麗と新羅の人たちは関東の方に住んだようです。かつて新羅の首都であった、韓国の慶州(けいしゅう)のパンフレットには、日本の、それも埼玉の新座、志木、朝霞、和光などに新羅人の開拓地があったことが紹介されています。
以上☝☝☝

朝鮮半島は、結局唐と組んだ新羅が最終的に統一することに。それ以降大陸からの渡来人の流入は激減したのでしょう。倭国も安定時に入ります。その後、新羅と唐とは対立関係に。百済から来た渡来人たちは律令体制にもしっかり組み込まれ、支配階級の側に。しかし、白村江で大敗を喫した日本は、新羅という国をあまり好きにはなれないようだ。百済国を滅ぼした変節漢でけしからん奴。逆に、韓国の人達は百済が嫌いだ。日本にゴマすりしたけしからん奴。でも、歴史の勉強にはそのような主観的感情は邪魔です。渡来人達の努力で関東地方一帯も急速に開拓されていったんでしょうから。知事は、日本は単一民族なんて馬鹿なことをのたまう自民党のお偉方とは偉い違いだね。

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奈良時代

奈良時代は、平城京(現奈良県奈良市)に都が置かれた時代である。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。
710年(ナント美し碁盤の眼)に元明天皇(43代)によって平城京に遷都。794年に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。時代区分としては異常に短い。 更に740年から745年にかけて、聖武天皇自身短期間ではあるが恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがあるという。 聖武天皇(45代)は、天武持統系列の期待のダークホースとして即位した天皇。即位前の名は首 (おびと) 皇子、文武天皇(42代)と 藤原宮子の間に生まれた子。藤原宮子は、藤原不比等と県犬養 三千代(橘氏の祖)の間に生まれた子。早世した文武天皇の後、元明天皇(43代)、元明天皇(44代)と女帝が続くのは、首 (おびと) 皇子への皇位継承をスムーズに行いたいという強い意志の現れ。元明天皇が平城京に都を整備したのは孫のためだね。
聖武天皇の皇后・光明子も、藤原不比等の娘。皇族以外が皇后になった初めての事例。不比等は既に他界しているので、この時代は子供達、藤原4兄弟の時代。この4兄弟と聖武天皇の後見役として期待されている長屋王(天智系)と暗闘を続ける。

**聖武天皇(45代)
文武天皇の第一皇子。7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のとき。このため、707年、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位。714年)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったことから、即位は先延ばしにされ、文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐ。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位する。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であった。当然、長屋王は光明子の立后に反対。729年に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなり、光明子は非皇族として初めて立后される。 長屋王の変は、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者。


737年に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われる。急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、740年には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。しかし、この時点では後の藤原氏の交流の兆はまだ見られないようだ。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、741年には国分寺建立の詔を、743年には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切る。743年には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなる。744年には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説もある。
749年、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
752年、東大寺大仏の開眼法要。754年には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別。756年に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。聖武天皇は、何か薄幸な感じの天皇だ。

**長屋王
長屋王(676 / 684?~729年)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。
父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。不比等の時代も天武天皇の皇孫の中でも特別に優遇されていたらしい。血統の良さもさることながら、優れた政治的能力を期待され、藤原不比等も長屋王を政治家として育成を図ろうとしていたとの説もある。

長屋王政権
720年に藤原不比等が薨去すると、翌721年長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と参議の房前のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す。

長屋王の変
721年に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる。同年12月に元明上皇は崩御するが、これにより政治が不安定化していたらしく、翌養老6年(722年)正月には多治比三宅麻呂が謀反誣告を、穂積老が天皇を名指して非難を行い、それぞれ流罪に処せられる事件が発生する。この事件は評価が分かれるが、長屋王に対する不満や反感がこの事件に繋がったとする考えがある。

また、長屋王と吉備内親王の間の子女(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)は、一定程度の皇位継承権を持つことが意識されていたらしく、聖武天皇やその後継に万一の事態が発生した場合に、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。このため、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王家が目障りな存在だったと考えられる。

さらに当時の朝廷には、母親が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあり、聖武天皇は727に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加しておらず、前代未聞の生後1ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を明確に示した様子が窺われる。結局、728年に基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する。

729年に漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。この密告の対象となる具体的な内容は、前年に夭折した基王を呪い殺したことであったものと見られる。なお、『兵防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らは首をくくって自殺した。『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。

一方で、皇位継承権の埒外である藤原長娥子と所生の諸王(安宿王ら)には全く咎めはなかった。また、変に連座して罰せられた官人は外従五位下・上毛野宿奈麻呂ら微官の7名に過ぎず、皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、長屋王が政権を握る中で藤原四兄弟に対抗できる勢力を構築できていなかったことは明白であった。また、官人に対する統制強化・綱紀粛正策が、王自身に対してのみ手厚く、その他の官人に対しては冷淡な、自己本位的・独善的な面があり、多くの官人の不満を生んだとする見方もある。 長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年に天然痘により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。なお、『続日本紀』によると、翌738年長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺されてしまう。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。
しかし、長屋王を殺害した後、藤原四兄弟も天然痘で病死、奈良時代は政治的には非常に不安定な時代だったようだ。

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密教とは

日本の密教の開祖と言えば、当然空海が挙げられるでしょう。空海は遣唐使をして派遣されておきながら何と、唐の主流の仏教ではなく、インドかチベットあたりが発祥の密教を持ちかえり、これが本物の仏教だと国中に広めてしまった人物。その後エリート留学生だった最澄が空海に教えを乞う羽目に。でも最澄も自分の派閥を形成し、密教は真言宗と天台宗の2派閥が形成されることに。

金剛峯寺   延暦寺  
そもそも密教とは何なんでしょう。秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教とも言われるらしい。金剛とはダイヤモンドのこと。当時から硬い石として知られていたようだ。
イスラム教にも神秘主義と言うのがある。スーフィズム(Sufism)とか言うらしい。9世紀以降に生じた、イスラム教の世俗化・形式化を批判する改革運動であり、修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一を究極的な目標とする、一種の内面化運動である。
キリスト教にも神秘主義思想はある。キリスト教はもともと当初から神秘主義的な側面が濃厚にあるようだ。
中国の老荘思想にも神秘主義は濃厚だ。道教なんて神社が中国人のいる所にはあちこち見れれる。大抵は世俗から離れ、山里で修業を重ねることで、仙人なり聖人なりの境地に到達できると考える。実際に修業を積んだ人は常人には出来ない特殊な能力を所持していたものと想定できる。

当時の仏教は、国家鎮護のための祈祷仏教。寺院は政治に口を出し、僧兵を持ち、私利私欲に走るように。一方密教は個人の内面を重んじ、山里で修業をしてくれるなら国としても奨励しない手は無い。それでも比叡山延暦寺などは僧兵を抱えて一大勢力となる。信長に簡単に焼き討ちされてしまったけど、弱かったお陰で世間の同情を引くことができ、再建にこぎつけたようだ。一向宗の大阪石山本願寺などは信長と10年近くも戦い続けたのだから。

密教は美術の面からは大変興味深い。寺院には神秘性を増すために色々な仕掛けが施されている。絵画としては曼荼羅(マンダラ)が有名だろう。インド圏(ネパールやブータン)に行くとタンカと言うなまえで観光客に売られている(下図左、右は日本のもの)。細密画だから1枚描くにも相当の労力がいると思われる。
タンカ   曼荼羅
【人物像】
最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年~822年)。日本の天台宗の開祖。伝教大師として広く知られる。近江国生れ。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となる。
空海(くうかい、774年~835年)は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖。讃岐の生まれらしい。とても字がうまかったらしい。弘法は筆を選ばずなんていうことわざがあるが内容の真偽については賛否両論。世界のことわざを調べて見ると大変面白い。空海はとても才覚のある人で一代で巨大宗教法人を作り上げた起業家と言えそうだ。

平安時代が始まるのは、平安遷都794年「泣くよ鶯(うぐいす)平安京」だったから、最澄、空海ともに奈良時代末に生まれ、平安時代に没したわけだ。仏教に関して言えば奈良時代のメインイベントは何と言っても東大寺の大仏建立。平安時代といえば、密教の成立かな? 神秘主義思想と言うものはかなり普遍性のあるもので、人類社会にとって現在でも形を変えて生き続けている思想だ。

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平 清盛

平清盛
平清盛(1118~1181年)は、貴族がのさばる格差社会を乗り越え、日本初の武家政権を打ち立てた最大級の成功者で英雄であろう。しかし、信長や秀吉と比べ何故かあまり人気がない。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。

厳島神社
平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。しかし、独裁とはいえ敗者への配慮も人一倍あったようだ。源氏の棟梁の子、頼朝、義経以下、子供には罪は無いと許す。結果としてそれが仇になったわけか。当時の慣習では当然殺されていたものとか。

だいたい歴史で一番手は大抵うまく行かないものだ。秦の始皇帝→漢の劉邦、隋→唐、秀吉→家康、平清盛→源頼朝。二番手は一番手の失敗を教訓に慎重に事を運んでいる。しかし、武士の世の始まりは、平清盛が太政大臣になった時点だと思うのですが。

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鎌倉幕府の成立

鎌倉幕府の成立は1192年。頼朝はイイクニ作りに鎌倉へ。こんなこと常識。ところが今の若い世代は学校で、これは間違いで1185年(イイハコ)と覚えるように指導されているとのことだ。所詮こんなこと語呂合わせでどっちでもいいこと、これで歴史が変わるわけではないのに。武士の時代は平清盛が太政大臣になった時点でとっくに始まっている。どうしてこんなこと一生懸命に議論するのか理解不能ですね。
鎌倉幕府 そんなことより、鎌倉幕府とは一体何なのかをしっかり把握することが重要でしょう。幕府とは英語で言えば、camp governmentつまり、占領地を統治するための臨時の統治機関。だから日本の支配権は名目的には相変わらず天皇中心の京都の公家達が持っている訳でしょう。だから鎌倉幕府の長官は、朝廷から任命された征夷大将軍。Imperator、他にも鎮守府将軍とかいくつかの将軍があって、そのうちの一つ。律令体制の中の一つの役職に過ぎないわけです。だから当時の海外の人から見れば、日本の元首は相変わらず朝廷であるし、また不思議なことにこれ以降の日本の将軍(征夷大将軍)達は、これを不服として朝廷を打倒しようと試みは一度も行われてこなかったわけです。だから、いつの間にか日本の実質的な支配者が征夷大将軍なのだと認識するようになって来たわけでしょう。だから、何時からが鎌倉時代で、何時からが平安時代なんて明確な境界がある訳はない。適当に決めれば良い話だ。 しかし、この時代の日本は世界の歴史の中で、非常にユニークな道を選択したことは忘れてはならない。封建制が確立したことだ。封建制とは何か、定義しろと言われると一言で説明するのは難しいでしょうが、封建制を経験したことのある国は、日本とヨーロッパだけ、それらの国々が今、世界の先進国となっている。
鎌倉幕府 隣の中国や朝鮮半島と比べれば、一目瞭然。律令国家では政権が変わるのは革命やクーデター。当然支配者層は一掃される。天皇も上皇も当然斬首されて当然だ。王国は崩壊したら、別の王国になる。一からのやり直し。この点、日本では誰が支配者か分からない混沌とした状態から気がつくと次のリーダーが生まれている。しかもこの状態が明治維新に至るまで継続する。 カール・マルクスは、原始共産制社会→部族社会→アジア型中央集権国家→封建社会→資本主義社会→社会主義社会→共産主義社会と社会は段階的に進歩していくという仮説を立てた。もちろん、これは証明される可能性の無い単なる仮設ではあるが、その中で特に、資本主義発達の大前提として封建制の社会の存在の必要性を力説していたらしい。また、ヨーロッパの封建制と並んで日本の封建制度を学ぶことの必要性を感じていたらしい。結局、彼は日本を訪問することはできなかったが。
鎌倉幕府 このエピソードは、新渡戸稲造氏の「Bushido」中で紹介されている。新渡戸稲造氏は、日本の武士道と西欧の騎士道が良く似ている点に注目し、封建制度の下で生じた道徳や人生哲学は、世界の平和や人の生き方を考える上に大変役に立つことを強調している。
歴史を学ぶことは史実を覚えるだけではない。封建制ができることによって、日本は朝鮮半島や他のアジアの諸国と比べると非常に異なった独自の発展をする。いま、グローバル化社会の進展で日本は、世界の中でどんどん存在感を失っている。日本が今後とも世界のトップランナーとして発展していくには、日本の過去の歴史をしっかり学んで人類発展の鍵を発見していくことも必要かもしれない。

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松永 久秀

松永弾正 NHK・eテレの「知恵泉」という番組から。ヒールの言い分という副題で、松永 弾正のことが取り上げられていた。松永 弾正と言えば斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されているらしい。「下剋上の代名詞」、「謀反癖のある人物」などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作物においてもそのような人物として描かれることが多いらしいが。三大悪事とされているのが①三好義継に足利義輝を殺害させ,畿内に実権をふるったこと。②三好三人衆と戦い東大寺大仏殿を焼いたこと,③織田信長を裏切ったこと。この3つともが全く根拠のない江戸時代の作り話、①暗殺したのが主君筋三好家の人間ならたとえそそのかしたとしても責任はないだろう。②は戦場になればどちらが火をつけたかは不明であるし、当時の寺は僧兵を有した戦闘集団でもあったのだからこれも悪逆非道とは言えないだろう。③に至っては、松永と織田はせいぜい一時的な同盟関係で主従の関係は全くないので、裏切りではないだろう。その結果、松永弾正は織田に攻められ、潔く自害する。むしろあっぱれな行動をすべきであろう。何故このような評価が生じてしまったのか。どうも江戸時代の安定期に入って下剋上や実力主義的な考えを極力否定したいという考えが蔓延してきたためであろう。歴史上の人物を善か悪か、好きか嫌いかで判断していては、歴史から学ぶことはできない。
松永 久秀(ひさひで)は、戦国時代の大和国の戦国大名。松永 弾正(だんじょう)の名で知られる。1533~34年頃より細川氏の被官・三好長慶(ながよし)の右筆(書記)として仕えたと言われている。やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。三好長慶は、織田信長の登場前、将軍家を上手く操り、日本を統一しようという野心を持った大名で、松永 久秀は年下の三好長慶の良き相談相手として活躍して来たらしい。三好長慶は少なくとも畿内では相当な勢力を保っていたようだ。日本の歴史を見直すには決して見逃せない人物のようだ。
【久秀の抜擢】
松永久秀の抜擢は、三好政権における人事の革新性を表している。低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は競争の厳しい戦国の世では他の大名家でも見られる。しかし、どの大名の家臣もそれ相当の家柄が必要なことは暗黙の決まりであったようだ。例えば、上杉家は樋口兼続に直江家の後を継がせ直江の城と家臣団を継承。上杉だって長尾景虎じゃなかったか。北条家は福島(櫛間)綱成に北条の名字を与え一門に列席させるなど、抜擢するに応じて相応の家格・地位・領地・家臣団を与える。滝川一益や明智光秀を外様から抜擢した織田信長も、家格という観点から秩序維持の為に、光秀や丹羽長秀に惟任(これとう)氏、惟住(これずみ)氏の名跡を継がせている。 信長の場合、彼らの出世が従来の織田家譜代を中心とする家格秩序と齟齬をきたすであろうと信長が予測し、その齟齬を未然に防ぐための措置と指摘されています。因みに惟任氏・惟住氏は有力な守護大名だった土岐氏の分家筋に当たる有力な家柄であったらしい。
【活躍】
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得る。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。出身については、諸説あるようだがもともとさほど高貴のでではなく、家格が重んじられていた当時は色々なやっかみを受ける立場であったようだ。
天文18年(1549年)、三好長慶が細川晴元、室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放して京都を支配する。松永は公家や寺社が三好家と折衝する際にその仲介をする役割を、三好長逸と共に果たすようになる。久秀は長慶に従って上洛し三好家の家宰となる。上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任される。長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられ戦国大名の仲間入りをする。足利将軍→細川→三好→松永の主従関係をひっくり返したことが下剋上の始まりとされる。
どうも、松永弾正のイメージは三好長慶の忠実な家臣であり続け、強烈な個性を持った三好長慶に対する周囲の恨みを松永一人がしょい込んだのかもしれない。長慶が早死にしてしまったため、三好家自体が分裂したことも松永にとっては不幸なことだったのかも。三好長慶・松永久秀のコンビは調べてみると面白そうだ。この二人には信長とは別な日本の統一像を持っていた可能性がある。大和の多聞山城は、信長の安土城のモデルになるような豪壮なものだったとか。松永久秀が信長に最後に反抗したのは、久秀が大事に治めてきた大和を、信長が没収し、こともあろうに宿敵、筒井順啓にくれてやるという暴挙に出たことが原因であったらしい。

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三好 長慶

三好 長慶(みよし ながよし;1522~1564)
三好 長慶 織田信長は、最初の日本統一を成し遂げた武将ということになっているが、実態はかなり異なり後世の作りごとであった可能性が出てきた。そもそもの信長が使った「天下布武」の文字の「天下」とは、当時の常識として京都を中心とした畿内10か国程度で決して日本全国等の意味はなかったことが、当時の宣教師達の証言で明らかになって来たらしい。これもNHK e-テレ放映しているのだから、歴史学者の間ではそのような意見が強くなってきたらしい。更に信長自身、足利政権や天皇を倒す意図など全くなく、足利幕府を立て直して秩序を再構築したかっただけのとても律義な人だった可能性もあるようだ。

この観点から言うと、天下布武を最初に成し遂げた人物は、細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立した三好長慶こそ最初の天下人にふさわしいようだ。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨する。キリスト教の宣教師を優遇し、海外の文化にも興味を持っていたという。織田信長自身も三好長慶を最初の天下人と認め尊敬していたらしい。

このことは、江戸時代の前半までの武士達にとっては常識であったが、どうも後世に歴史の見方の改竄があって、意図的に日本の歴史から抹殺されていたようだ。江戸期に日本の歴史を「大日本史」として編集し直した徳川光圀に原因があるらしい。水戸学、皇国史観、尊王攘夷思想の最初の作り手でもある徳川光圀が何故これほど三好長慶を嫌ったであろうか。どのような歴史書も編集者の思い入れが入り込むことは避けられない。その意図まで読み解くことも歴史を学ぶ面白さでもあるのでしょう。ちなみに、日本史の中で3大悪人とされている松永弾正など、三好長慶の忠実な執事として律義の働いているだけみたいな人だ。信長を裏切ったといわれるが信長の方が裏切ったのかも。

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桶狭間の戦い

桶狭間 桶狭間の戦い(1560年)は、今川義元が公家風になり軟弱で油断していため、信長に打たれたというのが通説であった。我々の学生時代はそのように理解されていたよう。しかし、義元自身は、東海一の弓取りと言われていたように、北の武田、東の北条をといまとめ、三国同盟を結び、織田の攻略に取り掛かる。策略家のやり手でもあったらしい。また、桶狭間の時には無くなっていたが、太原雪斎という僧で高名な軍師も抱えていた。
一方、当時の織田は、父信秀の時代から庶流でありながら尾張の津島の湊を抑え、豊かな財源を背景に力を蓄え、今川とは何度も小競り合いを繰返していたらしい。守護大名の今川家の強みは、なんといっても足利将軍家との繋がりで、その権威をもとに無駄な戦いを避けつつ策略を元に領国を広げていった。織田領への侵入は、織田家の内紛に乗じたのでしょう。まず始めに、織田家の財力の基盤である津島の湊を占領し、約25,000の大軍を率いての進軍です。ただ、これは多分にデモンストレーションの意味合いが強く、簡単に講和できるものと踏んでいたと思われます。馬に乗らずに輿を担がせたのも将軍家との縁故の強さを見せびらかすため。一方の信長は領内の未だ固まらず、内部にも敵がいる状態で、財源となる湊まで占領されたとなると、普通の武将なら今川と組んだ方が有利と判断すると思ったのでしょう。

実際、この状況は信長にとっては大ピンチでしょうが、経済の感覚は抜群の信長、ここで妥協したら後がない(織田にとって津島の湊は最大の財源)と判断したのでしょう。また、偵察によって、今川の目的は戦うことでないことも見抜かれていたのか知れません。信長は、戦術においても当時の常識を上回っていました。信長は、いわば戦争のプロを養成していました。身分を問わず、というよりハングリーな貧しいものを積極的に金で兵隊に採用します。馬術に特に力を入れていたとの話もあり、最初から急戦策を考えていたのかも。農業の片手間に戦う兵士とは違い戦いに専念できます。大将の首だけを賞金目当てに戦います。また、命令には忠実で一糸乱れず行動することも可能です。桶狭間の戦いは良く奇襲作戦とみられますが、戦いは昼間の明るい時間に実行されます。こんな奇襲はあまり例がありません。また途中に大雨があったのも偶然。今川本隊だけなら兵力5, 000対2, 500。勝てると読んでいたのかも。今川の方は、諜報から信長は「うつけ」との織田家家臣達からの評判や、信長自身も孤立化していたので、諜報の結果を信じ定石通りの行動をしたことが逆に仇となったのかも。

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信長の最強のライバル

強運の人、信長の最強のライバルは誰であったのでしょうか。信玄や謙信が、とても強かったというのは、江戸時代になってから講談などで面白くするための誇張があるでしょう。当時の、経済力、軍事力(鉄砲)、兵站能力どれをとっても、戦国最強、信玄や謙信の戦い方は時代遅れです。信長の真のライバルは、1570年~80年の11年間もの間戦い続けた石山本願寺の勢力です。相手は所詮、僧侶と老若男女の民衆の集団であって戦いの専門集団・信長軍団の敵ではないはず。では、10年あまりの年月は何故。
歴史は、後になって造られるもの。しかし、当時の宗教が人々に与えた影響の大きさは、信長によって改革されたあとの宗教しか知らない後世の人には伝わっていなかった可能性もあり、あるいは意図的に無視した可能性もあります。
 鎌倉時代よりも前の仏教は、国家鎮護のための宗教。鎌倉時代以降の念仏仏教は、死を覚悟して戦う武士たちの心に直接訴えるもの。熱心に信仰すれば極楽浄土に行ける。いわば、人生観にまで影響する個人の宗教で、武士道の一環ともいえるものかも。ちょうど西欧で宗教改革以降のカルバン派のようなもの。上司の意向と宗教の教えが異なれば躊躇なく宗教を取る訳です。その代り、信じることのためなら命を賭して戦う集団となります。各戦国大名たちはみな、身内の中の宗教勢力の成長に苦労しています。一番多い対策は、大名自らが改宗してしまうことです。上杉謙信は毘沙門天、徳川家康は、「厭離穢土欣求浄土」。自ら信心深いことを世間にアピールします。
 信長も、このようなことを熟知していたのでうかつには手出しをしません。特に尾張・三河のような先進地帯は一向宗のような勢力が強く、身内にも大勢の信者たちを抱えていたはずです。
 だから、初めは比叡山を攻める。これはどちらと言えば旧勢力で腐った宗教の見本としたかったのでしょう。ところが石山本願寺の勢力は、そうはいかない。信長の野望を察知すると各地に伝令を出し、たちまち信長包囲網が完成する。石山の近くでは、根来衆や雑賀衆と言った鉄砲集団。海には村上水軍他の海賊集団、その後ろには毛利水軍、もちろん武田、上杉も要請にこたえて背後を伺っています。「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」を唱える一向宗信徒が捨て身だったとはいえ、信長軍は結局敗退の連続でした。また、僧侶と老若男女の民衆の集団であっても、築城や兵站等の後方支援を積極的のできるのも信者集団の強みです。しかも、石山本願寺自体が後背地が湿地で全面が海、難攻不落の最適な立地条件(だからのちの大阪城が築かれる)。最後は、石山城は陥落するのですが、このことで日本の宗教は大幅に変革されてしまします。
信長があれほどキリスト教に寛容だったのも、仏教勢力を駆逐するのが本当の目的でしょう。でも、キリスト教も同じ運命をたどります。最初は仏教が駆逐されたニッチを埋めていきます。キリシタン大名が生まれることは家臣たちにキリスト教が浸透していたことが最大の原因です。結局、秀吉、家康の代で禁止されてしまいますね。家康は仏教には非常に寛容な人で仏教を大いに保護しますが、軍事力だけは持てないように工夫しています。 ヨーロッパでは、宗教改革が起こりますが、日本では、すでに改革は実施済み。宗教が政治に口を出す心配はかなり少なくなっています。

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本能寺の変の真相

本能寺の変

本能寺の変といえば1582年6月21日早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃される、当時日本に来ていたザビエル派の宣教師達すら大慌てする世界史上の大事件です。ところが、光秀が謀反に至る動機が上司信長に叱られた恨みという、今までの定説があまりにも不自然なため、朝廷陰謀説や宣教師陰謀説等いろいろな異説が唱えられて来ました。明智憲三郎は、明智光秀の子孫にあたる方ということで、沢山の資料を比較検討し、論理的な推論でストーリーをまとめ上げています。
明智光秀の真の狙いは何だったのでしょうか。明智光秀という人物は、織田軍団の中で秀吉と並ぶナンバー1存在。おそらく秀吉より沈着冷静、信長の片腕として活躍していたのでその分当然信長の風当たりも強かったのは事実。また、美濃の土岐家の最高を願っていたこともあり、自己の自尊心を傷つけられただけで、一族を滅ぼしかねない謀反に走ることはないと思われます。信長は光秀を最も信頼していたので少数の戦力で本能寺に待機していたのでしょう。
 どうも、信長と光秀はすでに天下統一後の構想を共有していたようで、明国に出兵し、国内で有力な大名たちを一掃してしまう戦略を持っていたようです。まず、第一弾として家康を京都に招き入れ、それに乗じて光秀に家康を討たせる予定だったらしい。ライバルが一人減る。信長とて光秀がこのことに異論があるはずはないと考えたのでしょう。ところが光秀はすでに老境に入っていて、家康の次は自分の子孫が危ないと感じたらしい。
だから、家康を逃して本能寺の信長を逆に打つことになったらしい。豊臣政権では秀吉の徹底した情報戦略によって、悪逆非道で愚弄な人物として描かれてきたが、家康は光秀には恩義に感じていたらしく光秀に子孫たちを厚遇していたらしい。 
 ただ、戦前は中国進出を正当化したい軍部は、信長の構想を実施した秀吉を軍神扱いしたので、それに対応して光秀の評価はかなり貶められた可能性がある。
光秀が秀吉になぜ負けたのかは、今後の研究に待たねばならないようですが、細川藤孝(光秀が最も信頼していた)の裏切りが大きかったようです。でも、何故裏切ったのでしょうか。
「本能寺の変」は変だ!435年後の再審請求 明智憲三郎

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関ケ原の戦い

司馬遼太郎の作品の中で、ドイツの有名な陸軍参謀が、関ヶ原の布陣図を見て当然「西軍の勝ち」だったのだろうと言ったとか。ドイツの参謀はモトルケとかその弟子のメッケルとか。
司馬遼太郎氏の創作なのかそのような事実があったかは分からないが、当時の戦国武将の判断でも「西軍の勝ち」という布陣だったことは間違いないように見える。
関ケ原の戦い
結局、東軍の勝利を決定づけたのは小早川秀秋の裏切りという一点になってしまうのでしょうか。小早川秀秋は、その一点でのみ歴史に名を残していると言っても過言でないわけです。
しかし秀秋がどのような来歴の人物であったのかはあまり知られていません。彼は、父は木下家定といい、秀吉の妻・ねねの兄とされている。本能寺の変が発生した1582年に生まれ。
3才の時に実子のいない秀吉の養子として引き取られ、ねねの元で成長する。幼少の頃から秀吉に厚遇を受けており、後継者候補のひとりとして扱われていたようだ。つまり、人が羨むような、幸運な立場にあったのでしょう。
秀秋の他には、豊臣秀次というもう一人の養子がいました。秀秋よりも14年ほど年長で、こちらは候補ではなく実際の後継者となり、秀吉から関白という、朝廷における最も高い地位を引き継いでいる(のちに殺されるが)。豊臣家は一族の人材が不足していたわけでもあり、それが秀秋に対する厚遇につながっていったものと見られます。
しかし、1593年に、秀吉に実子・秀頼が生まれたことにより、2人(秀次、秀秋)の養子の運命は反転する。
秀頼が生まれたことにより、秀吉はこの子に自分の跡を継がせたいと願うようなり、秀次と秀秋という2人の年長の養子は邪魔になる。秀頼が生まれた翌年に、当主に実子のいない中国地方の大大名・毛利家に対し、黒田官兵衛が話をもちかける。秀秋を毛利家の跡継ぎとして養子にもらってはどうか、という内容でした。豊臣一族に毛利家を乗っ取られることを嫌ってか、毛利家の統率者である小早川隆景は、跡継ぎを別の人物に定めた上で、秀秋を自分の養子とすることを申し出ます。いわば自分の家を継ぐ権利を提供することによって、毛利家が乗っ取られることを防いだわけです。 小早川隆景は高名な毛利元就の三男で、秀吉からの信任も厚い人物で、30万石という大きな領地の主でもありました。そのような人物の養子となり、かつ秀頼の邪魔者でもなくなるわけですので、秀吉はこれを了承し、秀秋は小早川家の人間になりました。
秀秋からすれば天下を制した豊臣家から放出され、その家臣の毛利家の、さらに家臣の小早川家の人間になるわけですので、決して愉快には思わなかったでしょう。しかし秀吉に逆らうことなど秀秋にはできませんので、言われるままに小早川秀俊と名前を変えます。
これによって小早川家の家格はあがり、やがて隆景は豊臣政権の五大老のひとりとなり、本家である毛利家と対等の立場になりました。
隆景は野心のある人物ではないので、このような形での出世は喜ばなかったでしょうし、縁もゆかりもない人物に自分の家を継がせることになったわけで、こちらも胸中複雑なものがあったでしょう。
秀秋が小早川家の養子となった翌年には、関白の地位にあった豊臣秀次が粛清されます。1595年に突如として秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は関白の地位を剥奪されて高野山に送られます。そして間もなく自害を命じられ、秀次は秀吉の手によって抹殺されてしまいます。秀次に対する嫌疑には確たる証拠はなかったようであり、秀吉の陰謀によって排除された、と見るのが正しいようです。処罰は秀次だけにとどまらず、その妻子や主だった家臣たちまでもが処刑されました。
この事件によって豊臣政権の安定は崩れ去り、秀吉亡き後には政権を簒奪される可能性が高まりました。秀次は単に関白の地位にあっただけでなく、日本を統治するための体制を整え、そのための家臣団も組織していました。それがまるごと失われたわけですから、豊臣家の支配力は一気に弱体化したのです。徳川家康が「将来は豊臣から政権を奪えるだろう」と判断したのは、この事件が起きたことによると思われます。後は秀吉さえ死ねば豊臣の力は失われるからです。そして事件の余波は秀秋にも及び色々な嫌がらせが秀吉やその側近たちから受けるようになった模様。
やがて1600年には徳川家康による上杉家討伐の軍が起こされ、秀秋もそれに参加すべく、1万程度の兵を率いて出征します。しかし大阪あたりまでたどり着いたころには、すでに石田三成が、豊臣から政権を奪おうと画策する家康打倒の兵を挙げており、これに巻き込まれる形で秀秋は西軍に所属することになります。そして徳川方が抑えていた京都の伏見城攻めに参加するなど、西軍側として活動します。この時に西軍の味方になれば、秀頼が成人するまで関白の地位につける、と石田三成から約束されていました。秀秋はもともとは秀吉の養子でしたから、豊臣姓に復帰すればそれは不可能ではありません。しかしそれはお前は中継ぎでしかない、と告げられているのと同然であり、秀秋はさほど喜ばなかったでしょう。既に秀頼との間に挟まった秀次の末路を見ているわけで、自分もいずれ同じ目に合わされるかもしれないわけですから。それにこれまでの経緯からいって、秀頼のために力を尽くしてやろう、などと秀秋が考えたとも思えません。むしろ秀頼には悪感情を持っていた可能性が高いでしょう。いっそのこと豊臣など滅んでしまえ、とすら思っていたかもしれません。
関ケ原の戦い
伏見城攻めの後、秀秋の軍勢は関ヶ原の戦場へと移動します。秀秋は関ヶ原では松尾山に布陣し、南から関ヶ原一帯を観測できる場所に位置します。秀秋のところには家康方から東軍に寝返るようにという使者が来ており、大きな領地を提供することを約束されています。
秀秋は幼少の頃から既に大きな所領を持っていた経緯があり、領土欲がそれほど強かったとは考えにくいです。そもそも領地加増の約束は石田方からもされていましたので、積極的に東軍につく理由にはなりえません。それでも秀秋は家康の誘いに乗ることを約束し、開戦を待ちます。関ヶ原の前年には家康らのはからいで領地を元に戻してもらった経緯があり、家康には恩こそあれ恨みはありませんでした。
その一方で豊臣家の嫡流、秀吉と秀頼には憎しみを感じる理由があったわけで、東軍についてしまってもおかしくありません。そうはいっても西軍の総大将は毛利なので筋論からいけば西軍につくべきなのでしょう。だから後世の人からはも裏切り者という評価が付きまとい、徳川家としてもあまり彼の貢献をあまり高く評価しなかったようだ。
この時の秀秋は西軍が勝っても東軍が勝っても得をする立ち位置にいました。その上、陣を構えているのは関ヶ原の南のはずれの方であり、あわてて動く必要はありませんでした。
戦場でそれぞれの陣営の有利・不利を見定め、勝ちそうな方に味方をすればいい。そのような状況におかれていました。しかし秀秋はこの時まだ18才でしかなく、そこまでしたたかな立ち回りを考えられたかどうかはわかりません。秀秋個人としては、葛藤していた可能性が高いでしょう。そもそも何者でもない少年が1万もの兵を率いる大名の立場にまで引き上げられることになったのは、秀吉の養子になったからであり、豊臣家には恩があると言えます。実家の木下家は小規模の武家でしかありませんでしたし、しかも秀秋はその五男で、継承権も持っていませんでした。
しかし養子となった後、秀吉は自分の都合で秀秋の立場を散々に振りまわしており、近い立場の秀次は粛清されており、10代の少年の心には深い傷が残っていたことでしょう。秀秋は酒に溺れがちで、精神的に不安定なところがあったと言われていますが、環境からすると無理もない話です。 ともあれ、ここで家康が勝利すれば、豊臣家の衰退は決定的なものとなります。自分が味方をすることで家康を勝たせれば、自分の存在基盤を失うことにもなるわけです。果たして自分の過去を潰してしまうべきか、それとも残すべきなのか。その葛藤の末、秀秋は家康に味方することを決意します。
小早川軍は膠着状態にあった戦場に兵を入れ、松尾山付近に陣を構えていた西軍の大谷吉継隊に攻めかかります。いったんは大谷隊に押し戻されるものの、大谷隊の近くにいた脇坂などの諸将が連鎖的に寝返りをうち、大谷隊を壊滅させます。これをきっかけに戦況は東軍優位に傾き、奮戦していた宇喜多、石田の軍勢も崩れ、主力決戦は一日で東軍の大勝利に終わりました。 こうして秀秋は東軍勝利の立役者となり、戦後は中国地方の岡山に移封され、55万石の大大名になっています。黒田や福島といった功績のあった他の大名よりも領地が大きく、家康からの評価が高かったことをうかがわせます。
3才で秀吉の養子となり、初めは10万石の領地を与えられ、やがて30万石となり、そして18才で55万石の大大名の地位にまで登ったわけです。これほど若年のうちに成功したのは珍しい、といえるほどの出世ぶりです。
しかしその生涯は関ヶ原の戦いの、わずか2年後に終わってしまいます。 1602年、秀秋は死亡します。死因はアルコールによる内臓疾患と言われていて、酒に溺れた生活を続けていたことが命取りとなったようです。小早川家は跡継ぎがいなかったことで改易(領土を没収)され、なくなってしまいます。
ともあれ、わずか20才で死去してしまったことで、その事績は「関ヶ原で東軍に寝返った」という一点のみが後世に語られることになってしまいました。
ただ、関ケ原で東軍が勝利した理由は、小早川一人の裏切りだけなのでしょうか。家康は小早川秀秋をどの程度信頼していたのでしょうか。石田三成の考えた布陣がそれほど完璧なものだったのか。軍事シミュレーションで当時の戦いを本当に再現できるのか。あるいは戦いはやってみないと本当のことは分からないのか。早川秀秋もその生い立ちや年齢を考えると側近たちの意思決定に大きく依存していたものと思われる。その側近たちがどのように考えて東軍側を選択したのかも興味深いところだ。

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平家・海軍・国際派

平家・海軍・国際派及びその対をなす語として源氏・陸軍・民族派という語呂合わせがあるのをご存知の方も多いでしょう。その言葉の背景は、次のようなものらしい。それは、“「平家」「海軍」「国際派」は、スマートで格好は良いが、恬淡とした性格で、意地にならず、その主張を対立勢力に譲るという態度のために主流にはなりえない人々の属性。これに対立する勢力は、もちろん「源氏」「陸軍」「民族派」であり、こちらは質実剛健だが、外見はやぼったく派閥抗争を得意とし、我が国のほとんどの組織、特に政府組織で主流派を形成してきた人々の属性を指すことが多い。”

まあ、多分これは、どこかの霞が関の省庁あたりで言われている言葉だろうとは思います。有能(自分で思っているだけ?)で、人と異なった意見をズバズバ言う人間は、周りからも煙たがられ、人の嫌がる国際畑に移動されることも多いのでしょう。このような方が自嘲気味にそのようなこと言っているのかも知れませんが。
一般の庶民は、このような出世争いとは無関係ですが、歴史の流れを見ていくと当たらずと言えども、遠からず、結構面白い見方が出てきます。
     ●平家、商業、国際派---源氏、農業、国内派
     ●信長、商業、国際派…家康、農業、国内派
     ●蘇我氏、仏教、国際派…物部、神道、国内派
     結構、色々なパターンが出てきそうですね。物事を理解しようとするときに、このようにパターン化して、分類するのは一つの常套手段ですね。ただし、あくまでも仮説ですからその背景となる理由を分析することが何より大切ですね。
 平家は、対宋貿易で蓄えた富で力を得たので確かに商業重視の国際派、源氏は配下の武将に恩賞として土地を与えねば政権が成立しないので国内派です。農業の発展に尽くしたかどうかは?? です。

信長は、家来に土地の代わりに高価な茶器等をあたえていて、実際土地にはあまり執着がなかったようです。土地などもらっても、すぐに国替えして別の土地に飛ばされてしまいます。天下人となった時点で、日本の土地はすべて自分のものだったのでしょう。キリスト教を保護し、異国の文化をドンドン取り入れる開明派です。ただし、農業を保護しなかったわけではなさそう。家来には非常に厳しい暴君でしたが、一般庶民には大変気配りもしていたようです。
秀吉になると、国際派のイメージはダウンします。信長なら、そもそも大国「明」を相手に戦争なんて馬鹿なこと絶対にする訳がないでしょう。また、キリスト教の布教も禁止します。徳川政権は、言わずもがなの国内派ですが、長期政権なので初代家康がどの程度国内派であったかは、はっきりとはしませんが、政権の成立過程からもかなり国内派であることが分かります。

お隣の中国では、遊牧民の立てた王朝と漢人の立てた王朝が代り番こに登場しますが、征服王朝が国際派、漢族王朝が国内派と言えるかもしれません。この場合、征服王朝について、現代人には多少誤解があるようです。騎馬民族は大抵は少数民族、王族は処刑されたりするかも知れませんが、支配のため官僚機構はそのまま残されています。平氏が源氏と入れかわったようなものです。多分、中国人は今でもそう考えていると思います。植民地ではなく漢人の王朝だと。
一民族一国家という概念は近代ヨーロッパで誕生した考えです。世界にはそうでない国も多く、そのため紛争の種を抱えている地域も沢山あるようです。このことについては別の機会に。

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柳川一件(やながわいっけん)

江戸時代に起こった公文書の書換(かきかえ)事件です。国家を揺るがす事件の闇に、将軍が自ら迫る――。時代劇でも小説でもない、江戸初期の実話。徳川3代将軍・家光が直々に“証人喚問”し、解明を試みたのは、約30年にわたって秘密裡に行われていた「公文書書き換え」。秀吉の朝鮮出兵で断交した日朝間の国交回復をめぐる文書の改ざんという歴史的不祥事です。
 与野党が「前代未聞の歴史的犯罪だ」と財務省を非難していますが、過去にも公文書の改ざんが大問題になったことはあった。江戸時代に公文書中の公文書である「国書」の書き換えが発覚し、3代将軍・徳川家光(1604~51)が、諸大名を列席させて、じかに“証人喚問”まで行った。事件の名を「柳川一件(やながわいっけん)」という。(慶応大名誉教授田代和生氏が、この事件の顛末てんまつを詳細に調べ、『書き替えられた国書』(中公新書)にまとめているそうだ)。
 豊臣秀吉(1537~98)の2度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で朝鮮は大きな損害を受け、日本の撤兵後も日本と李氏朝鮮との国交は断絶したままだった。古くから日朝貿易で利益を得ていた対馬の宗義智(そう よしとし)(1568~1615)は独自のルートで国交回復を模索し、1605年に対馬に来ていた朝鮮の外交僧らを徳川家康(1543~1616)・秀忠(1579~1632)父子と会見させることに成功。
朝鮮出兵
 家康から「交渉を進めよ」とのお墨付きを得て義智は事前交渉を加速させるが、途中で難題が持ち上がった。国交回復に不可欠な国書の交換で、朝鮮側が「日本側から先に出せ」と求めてきたのだ。これが、朝鮮側が突きつけた難題。
 先に国書を差し出すことは相手への恭順を意味する。家康が呑のんでくれるかどうか不明だ。しかし、「朝鮮側が先だ」と押し返せば交渉は長期化する。また、「では、宛名は誰にすればいいのか」と問われる恐れもある。この時点ではまだ大坂に豊臣秀頼(1593~1615)がいた。朝鮮側が「交渉相手は出兵を決めた秀吉の遺児・秀頼だ」とでも主張したら、交渉はご破算になるであろう。
困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走る。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げた。朝鮮側の記録では、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されていた。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったものだったという。
 日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂。再度の出兵(慶長の役)となる。すでに明と冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んだ。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度(そんたく)して作成されたわけです。
 国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣した。回答使を「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。  困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走った。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げた。  朝鮮側の記録では、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されている。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったもの。日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂して再度の出兵(慶長の役)となるる。しかし、明と既に冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んだ。
 国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣。回答使は「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。  そこで対馬藩は、今度は朝鮮国王の印鑑を偽造し、「奉復」を「奉書(拝啓)」に書き換えた朝鮮国書をでっち上げる。更に朝鮮から将軍への献上品を記した目録も改ざんして、虎皮や朝鮮人参の数を追加する。『柳川記』によると、偽国書は将軍と回答使が謁見する当日、義智の重臣だった柳川智永(?~1613)が、すきを見て江戸城内ですり替えたという。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度そんたくして作成されたわけだ。  こうして日朝の国交は回復し、朝鮮から国書を携えた使節団が定期的に来日するようになる。だが、やりとりされた国書は初回の偽国書を先例に書かれたため、そのたびに「奉復」を「奉書」に、将軍の肩書きは「日本国王」に直さなくてはならなくなった。改ざんが改ざんを呼び、対馬藩は義智の死後も組織ぐるみで改ざんを続けざるを得なくなったわけです。

朝鮮使節
【27年後の告発、将軍自ら“証人喚問”へ】
 積み重ねられた国書の改ざんは、最初の家康国書の偽造から27年後に、対馬藩家老の内部告発という形で露見する。義智を継いで藩主となった息子の宗義成(1604~57)と、智永を継いで家老となった息子の柳川調興(しげおき(1603~84)が不仲となり、対馬藩を離れて旗本になろうとした調興が、幕府に改ざんした事実を暴露する。
 調興は証拠として偽国書の写しと偽印鑑の実物を提出し、「改ざんは宗氏が主導し、宗氏の指示で行われた」と訴えた。当然、自らも訴追の恐れがあったが、調興は江戸生まれで家康、秀忠の小姓を務め、幕閣に人脈があったため、罪を義成に押し付けられると読んだようだ。これに対して義成は「朝鮮との交渉は柳川氏に任せており、昔の改ざん時には自分はまだ子どもで、何も知らなかった」と反論した。
 幕府は朝鮮との交易を一時中止し、対馬に役人を派遣して偽国書に携わった義成の家臣や外交僧、偽印鑑を作った島民らへの訊問を重ねた。重要証人は江戸に連行され、老中が直接、誰の指示で偽造したのかを問いただした。決着は家光の裁定に委ねられ、1635年(寛永12年)3月11日、御三家や老中、若年寄、江戸にいる諸大名、旗本が見守る中、江戸城本丸の大広間で家光による“証人喚問”が行われた。
 記録によると、家光は双方の言い分が食い違う点を中心に、義成に七つの質問をした。義成は「自分は知らなかった」「外交の実務は柳川親子に任せていた」と弁明。父・義智の改ざんへの関与を問われると「決してない」と明確に否定。家光は最後に「家中での非法を知らなかったとはどういうことか」と義成の監督責任をただし、義成は「調興は幕閣に知り合いが多く、家臣はその権勢を恐れ、調興の不正を見つけても私の耳に入れなくなっていた」と苦しい釈明をしている。喚問の場にいた調興には「言いたいことはあるか」という問いかけだけで、喚問で「サプライズ」はなかった。
 4日後に出された家光の裁定。「義成はおとがめなし。主謀者は調興」。主謀者とされた調興は、大方が予想した死罪ではなく、津軽(青森県)への配流。一方で、偽国書を実際に作成した義成の家臣2人は一族もろとも死罪とされた。形の上では義成の勝ちだが、「喧嘩けんか両成敗」の結末ともとれる。「知らなかった」「任せていた」
 家光は同時に、義成に「来年までに朝鮮使節を来日させよ」と命じている。裁定の主眼は「引き続き朝鮮外交は対馬藩に任せる」ということにあった。事件を調べて、朝鮮との外交が非常に気を使う面倒な仕事であることを思い知り、直接、外交を担うより、首根っこを押さえた上で、引き続き宗氏を使う方が得策と判断したのだろう。間に宗氏がいてほしいとの思いは朝鮮側も同じだったようだ。それどころか朝鮮側は、かなり前から薄々改ざんに気づいていたフシすらある。
 喚問に列座した諸大名の多くは、家老が藩主を裏切ったこの事件に肝を冷やし、義成を支持していた。裁定翌日には対馬藩邸に諸大名の祝いの使者が列をなしたというから、義成無罪の裁定には“大名世論”への配慮もあったようだ。 津軽藩の拠点・弘前城(青森県)。現在は桜の名所として知られる。調興は藩主の招きで城で能を楽しんだこともあった。主謀者としながら調興を流罪で済ませたのは、義成が朝鮮外交に失敗した時の予備要員と考えていたからではないか。配流後の調興は広大な屋敷に住み、賓客のように扱われたという。幕閣の誰かから「悪いようにはしない」と言い含められていたのかもしれない。代わりに「トカゲの尻尾」にされたのは、国書改ざんの責めを負わされ、一族もろとも死罪とされた義成の家臣だった。

【家光が残した“故事英語” 】
 家光は当時、大名を相次いで改易し、段階的に鎖国を進めていた。諸大名に登城命令まで出して喚問を見せたのは、この喚問が家光の外交や大名統制の方針を納得させるための「政治ショー」だったことを物語る。
 この一件、今回の改ざん問題の経緯と似ているところも似ていないところもあるが、決定的に違うのは改ざんで欺かれた相手だ。民主主義下では「政治ショー」だけで幕引きとはいかず、国民世論が納得するまで真相究明の努力が必要なことは言うまでもない。
 家光が行った再発防止策がひとつある。偽国書作成の一因となった自らの肩書を「大君たいくん」と定めたのだ。「タイクーン(tycoon)」は今は「実力者」の意味に転じ、日本語由来の英語として定着している。

【事件の背景】
16世紀末、日本の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係が断絶。戦後、徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始。日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉の仲介を任される。
朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。使節は江戸城で2代将軍・秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、1609年には貿易協定である己酉約条(きゆうやくじょう)を締結させた。
対馬藩の家老であった柳川調興は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。

【大名・幕閣の動向】
当時、戦国時代の下克上の風潮が残存していた。柳川は、家康の覚えも良く、幕閣有力者からの支持もあり、「幕府も日朝貿易の実権を直接握りたいであろう」との推測から、勝算があると考えていた。一方、仙台藩主・伊達政宗など、宗義成を支持する大名もおり、彼らは、下剋上が横行する戦国時代が完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。

【家光の判断】
1635年4月27日(寛永12年3月11日)、3代将軍・家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われる。江戸にいるの旗本(1,000石以上)と大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開。結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪とされた。また、以酊庵の庵主であった規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に流された。 宗義成は対朝鮮外交における権限を回復させたものの、対朝鮮外交に不可欠であった漢文知識に精通しており、かつ朝鮮側との人脈を有していた柳川調興や規伯玄方が持っていたノウハウを失った事で、対朝鮮外交は完全に停滞してしまった。そのため、義成は幕府に援助を求めた。そこで、幕府は京都五山の僧の中から漢文に通じた優秀者(五山碩学)を朝鮮修文職に任じて対馬の以酊庵に輪番制によって派遣して外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを扱わせる。その結果、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれた。幕府は国書に記す将軍の外交称号を「日本国王」から「日本国大君」に改めることとなる。
いま、最も海外の特派員泣かせの日本語になっているという「ソンタク」も英語になるかもしれない。意味が「改ざん」に転じても、財務省理財局だけの責任か、まだ断言はできない状態。しかし、当時の対馬藩の立場を考えれば改竄の動機も明白で、家光さんも宗家の事情を忖度して罰を軽くしたようだ。日本、朝鮮双方とも交流を再開したい。だが、双方の面子がそれを許さない。さしたる産業のない対馬藩にとっては日朝の交流は生命線ともいえる重要事項。対馬藩が悪者になれば双方うまく収まる。切腹覚悟の英断だったのかも。
それに比べると、今回の「改ざん」は、動機が不純だ。森友学園とかいうヤクザまがいの団体のために財務省ともあろう国の機関が特別の便宜を供与するなど国策としても絶対にあってはならないことだ。

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間宮海峡

林蔵は、1780年、常陸国(茨城県)筑波郡の農家に生まれた。子供の頃から土木工事が好きで、堰とめ工事の現場に出入りしているうちに、利発さを買われて幕府の普請役雇・村上島之允の使い走りとして働くことになった。村上が各地を測量して地図を作製するのに従って、林蔵は測量技術と健脚を身につける。
村上が蝦夷地での仕事を命ぜられると、林蔵も一緒について行く。しかし冬の厳しい寒気と野菜不足で足がむくみ、体調を崩した(壊血病か)。土地の人から、蝦夷人(アイヌ)は魚と昆布を食べるので、病むこともなく冬を越す、と教えられ、それに従った所、むくみもとれて体調が回復したという。 これを機に林蔵は、アイヌと同じ生活をしなければならぬ、と知り、アイヌ語を習い、しばしばアイヌの家を訪れて衣服・家屋・狩猟・漁獲・旅行などについて詳しく調べる。
樺太 幕命を受けて、さらに蝦夷の先にある樺太探検。そこは世界地図の空白地帯。極北に向かった林蔵は、ついに樺太が島であることを確認。大陸との海峡はのちに間宮海峡と名付けられた。それは世界が驚いた大発見だった。当時樺太は大陸の一部とも思われいた。アムール川(黒竜江)の河口で河の流れが南北に分かれて流れることに気がつき、北への出口があることに気がつき、樺太が島であることを確認。のちに実際に最北端まで行ってその事実も確認している。大陸側の河口にたどり着くまでは、水深の浅いところが続いて、船を現地の人達の(アイヌ人とはまた別)小舟に乗り換えるなどの苦労の連続であった。
途中、60人ほどのギリヤーク人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。アイヌ人が通訳をしてくれて、酋長のコーニが大陸にある清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられている事を知る。
間宮の報告書は、アイヌを含む北方に諸民族たちの生活についても貴重な資料となっている。さらに、間宮は大陸の動向も探るため幕府には無許可で、清国領の役所も探索する(デレンと言うところにその町はあった)。そこはロシアとの国境付近にあり、北方系の諸民族たちは、ここを中心に一大ネットワークを形成していた。デレンには、ギリヤーク人、オロッコ人など様々の人たちの交流があり、大変にぎやかなところだったようだ。彼らは基本的には清朝の支配下にあったということだ。
清の役所 清の役人達は、林蔵が漢字で筆談しようとすると、漢字の読み書きができるとは信じられないふうだった。「日本はどの地で清国に貢ぎ物をしているのか」と聞かれて、「貢ぎ物はしていない。長崎の地で貿易をしているだけだ」と答えると、さらに疑わしそうに首をかしげた。林蔵が「ロシアとの国境はどこか」と尋ねると、「国境などあるはずがない。ロシアは清国の属国だ」と答えたという。しばらくデレンの地に留まっている間に林蔵は周囲から情報を聞き出した。清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。結局ロシアは敗退し、1689年(ネルチンスク条約)に条約が結ばれ、この地方から完全に手を引いたという。120年前の事であった。なお、ネルチンスク条約は1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代のロシアの間での戦いの後、結ばれた条約。多分高校の世界史でも出てくる。北方民族の各々の部族長たちが清の地方政府に朝貢の使者を送る。北方系の諸民族達同士も、普段は交流が少なくこの場を借りて物々交換や情報を交換し合っているのかも。ちょうど邪馬台国の卑弥呼達が中国に使者を送るという感じだ。中国と周辺諸国との関係は時代を超越してずっと続いているんですね。習近平の「一路一帯」なんていうのも案外そんな路線かも。
林蔵の樺太探検は、1832年にシーボルトが出版した「ニッポン」の第一巻で欧米社会に紹介された。シーボルトは林蔵が樺太が島であることを発見した世界最初の人物であると記し、その証拠に日本滞在中に入手した林蔵の地図を挿入した。さらに東韃靼と樺太の間の海峡を、間宮海峡と名付けた。これによって林蔵の発見が世界地図の上に永久に残ることになる。林蔵の探検はわが国の国益にも多大な寄与をなしている。歴史的に見れば樺太は日本の領土になっていても可笑しくない土地なんですね。

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横須賀造船所

横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)は江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっているが、構内には幕末の遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つと言われるそうです。
小栗忠順小栗忠順 連合艦隊司令長官連合艦隊司令長官
幕末の1865年(慶応元年)、江戸幕府の勘定奉行小栗忠順(おぐり ただまさ)の進言により、フランス技師を招き、横須賀製鉄所として開設される。小栗等は安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国。米国で最新鋭の造船所を見学し、日本の近代化のためにぜひ必要と感じて、勘定奉行立場から周囲の反対を押し切り建設を強行。工事の完成の前に江戸幕府崩壊。幕臣にて最後まで抵抗したため処刑される。生前、他の幕臣たちから「造船所できる前に幕府がたおれてしまうよ。」といわれ、「幕府のためでなく日本のために造るんだ。」と言ったとか。
 最新鋭の設備を備えた横須賀造船所は、東郷平八郎・連合艦隊司令長官をして、「わが艦隊が勝てたのはこの造船所のおかげだ。」と言わせるほど、日露戦争では大活躍をする。 現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。

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オーランド諸島紛争と新渡戸稲造

オーランド諸島 オーランド諸島とは、バルト海、ボスニア湾の入り口に位置する6,500を超える島々からなり、フィンランドの自治領となっています。住民のほとんどはスウェーデン系で、公用語はスウェーデン語。
しかし、背景には複雑な歴史があります。オーランド諸島はフィンランドの一地方としてスウェーデン王国に帰属していたが(当時スウェーデンは結構な大国)、1809年にロシア帝国との戦争に敗れたことからフィンランドが割譲されてしまう。オーランド諸島もフィンランド大公国の一部としてロシア領となってしまう。
1854年にクリミア戦争に参戦したイギリス・フランスはスウェーデンの参戦を確実にするため艦隊を派遣して同地のロシア軍を攻撃。これに対しロシアは、ノーベル(ノーベル賞のノーベル)を雇い、新兵器の機雷を使ってバルト海を封鎖。被害拡大を憂慮したスウェーデン政府は中立政策を取る。しかし、英仏政府はさらなる参戦を促す。クリミア半島でのロシアの敗勢を見たスウェーデン政府はようやく参戦の意志を顕すが、すでに戦争は終結に向かっていた。
新渡戸稲造 1856年のパリ講和条約によって、国境地帯であったオーランドは非武装地帯に指定された。しかし第一次世界大戦の勃発とともにロシアは条約に違反してオーランドの要塞化を開始。 大戦末期になるとフィンランド本土においてロシアからの独立の気運が高まり、これと並行するようにオーランドにおいてもフィンランドからの分離とスウェーデンへの再帰属を求める運動が起こり、フィンランド独立間近の1917年には、オーランドの代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出。オーランド分離を阻止したいフィンランドは広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させるも、オーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、両国間の緊張が高まる。このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の裁定を託し、フィンランドもこれに同意する。
1921年に、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造を中心として裁定が行われた。これが有名な「新渡戸裁定」です。日本では当時、国際的に孤立化の道が進んでいてあまり評価されていないけど、是非とも日本史の教科書にも入れて欲し良い快挙です。
オーランドのフィンランドへの帰属を認め(メンツを立て)、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めめる(スウェーデンは実利をとる)。これらは両国政府の具体化作業と国際連盟の承認の後、1922年にフィンランドの国内法(自治確約法)として成立し、オーランドの自治が確立します。現在は、フィンランド政府はスウェーデンへの復帰を認めていますが、帰属国を問う住民投票では現状を望む人が半数を超える(自治権の方が有利)。スウェーデンに復帰すれば一つの県にすぎないが、フィンランドのもとでは大幅な住民自治を認められ、海洋地域であるオーランドにとって非常に自由が利くからです。
この時の新渡戸の裁定は、関係する3者(フィンランド、スウェーデン、オーランド)の誰もが納得する、いわゆる大岡裁きになっていたのですね。このときイギリス人のドラモンド国連事務総長は、「不寛容な西洋文明に、寛容な精神を教えてくれた」と新渡戸氏の英断を高く評価したということです。また、今も島の住人は「島に平和をもたらしてくれたミスター・ニトベを尊敬している」と感謝の言葉を口にしているそうです。
ところで、「日本の学校には宗教教育がないというが、だったらどうやって道徳教育を行うのか」と問われて答えにつまった新渡戸氏は、【武士道】に思いあたり。それがきっかけで、外国人に日本のことを理解させたいと『BUSHIDO』(武士道)を英語で著しました。

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米内光政

米内光政は盛岡出身の偉人で、実はわが高校の大先輩にあたる人。と言っても戦前の話だから旧制の中学か。なんせうちの母校は、校歌が軍艦マーチ。その一説に「…、明治13春半ば、礎固く云々」の歌詞がある。なんと明治13春半ばが、米内さんの誕生日だったとは。彼は海軍のトップを務め、海軍大臣も何度も経験。総理大臣(第37代)にまでなっている。見識にも優れ、ロシア語の能力も当時の日本としてはNo.1。ヨーロッパにも駐在して、語学力を駆使して当時の欧州の情勢も正確に把握していた数少ない人物だったようだ。
米内光政 Wikipediaの検索では、1915年(大正4年)2月、ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は「暇つぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。と紹介されている。
米内が日独伊三国同盟に反対し、英米相手の戦争に反対していた理由は簡単だ。戦えば負けるに決まっているからだ。彼は生粋の軍人で、彼の頭脳は明晰だ。米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある。しかし、これは後世の後付けだろう。「負けると分かっている戦は避けるのが軍人の論理。孫氏の兵法もだってそう書いてある。」結局、当時の日本は正論を歪ませてまで戦争をしたいと思っていた真の戦犯たちが存在していたのだろう。
昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止めたことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉をかけたという。昭和天皇も皇室としての英国とは深い人脈も情報も持っておられる国際通、戦争を最も嫌っていた方が昭和天皇であったことは忘れてはならない。昭和天皇は「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、後年語っていたと言われる。
太平洋戦争を開始する連合艦隊司令長官・山本五十六は米内を尊敬する後輩で、 彼が日本は勝てるかと聞かれたとき、「短期決戦なら勝てるかも」と答えたという。当然勝てないという意味だ。これをもって時の政府は決戦を決めたという。真珠湾攻撃は、国政政治の常識から言って極めて稚拙な戦い。いきなり不意打ちをかけて勝った勝った。陸軍の中からは山本五十六を軍神扱いする動きがでる。もちろんこの奇襲を最も歓迎したのが米大統領のルーズベルト。その後の日本は自滅への道を突き進む。
米内への批判の一つとして、彼が支那事変の拡大を積極的に支持したことが言われている。しかし、これは戦後の宰相吉田茂も大陸進出積極論者で、ドイツと協力して英米と対立することの方が愚策と言っている訳だ。またこれは、海軍の兵士たちの生命を守るため陸軍の協力が欲しいという理由もあり、海軍中心主義という批判のようだ。しかし、この時彼の立場は海軍大臣でもあり、当時の情勢が戦争拡大へ向かっている中で、むしろやりたいだけやらせた方が得という計算もあったのではないか。案の定、英米から猛烈な抗議が来る。ところが陸軍はこれ以上マズイからやめておこうという理性が失われてしまっていたようだ。
日本では、特に戦中、軍人と言えば勇猛果敢なだけが取り柄みたいな人物がもてはやされる。しかし、国際的な視野を持った米内は、ヨーロッパ各地の情報を自分なりに分析し、ヒットラーのドイツを組むことの危険性を当初から悟っており、同盟するならロシアの方がましだとの持論を持っていたらしい。

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山本 五十六

山本 五十六 山本 五十六(1884~1943年)は、日本人なら誰でもおなじみ。真珠湾攻撃の立役者。でも、敗戦後の極東裁判では死刑判決を受けずに済んだ。実は、ブーゲンビル島上空で米軍機に狙い撃ちされ既に戦死(海軍甲事件)している。米軍は開戦直後から、山本 五十六が真珠湾攻撃作戦以来の日本軍の頭脳であると認識しており、彼を射殺することを初めから作戦のプライオリティとしていたようだ。彼がいなければ日本軍など大したことは無い。事実、彼亡き後は、日本軍はじり貧で敗戦すら認めることが出来ない惨状。エリート軍人たちはここの戦術は巧みでも、大局観に欠けていた人たちばかりだったようだ。
山本 五十六が死んでいなければ、戦争に勝てたということはないだろう。しかし、もっと早い時期に講和への道が開けた可能性はある。
山本は日独伊三国同盟の締結に対し、米内光政、井上成美らと共に最後まで反対した。このことから海軍条約派三羽烏(海軍左派)とも言われているが、陸軍や外務省の提案に対して海軍の方針を示していただけで、対案を出す等積極的姿勢を見せることはなかった。山本達の反対理由は主に、 英米との関係が悪化して支那事変解決が難しくなる。
日ソ開戦の場合ドイツは距離が遠すぎて援助・支援が期待できない。
条約で日本が損をする項目があるのではないか。
軍事同盟締結によりドイツとイタリアに中国大陸の権益を要求される懸念がある。
山本 五十六を始め、米内光政、井上成美等は当初から海軍として英米と戦うことは無謀だと分析している。「日独伊三国同盟」には当然大反対。昭和天皇と同じだ。本当の軍人なら勝つことし考えない。負けることが自明な戦いは避けるのが当然だ。

山本は海軍大臣となった米内光政の下で林内閣・第1次近衛内閣、平沼内閣と留任する。この当時、海軍省では会議のあと米内が会見を行わず山本の会見だけで終わることもあった。平沼内閣といえば、ドイツがソ連と「独ソ不可侵条約」を結んだ際に、「複雑怪奇」として総辞職したことで有名。
山本 五十六 山本は日独伊三国同盟の締結に対し、米内光政、井上成美らと共に最後まで反対した。このことから海軍条約派三羽烏(海軍左派)とも言われているが、陸軍や外務省の提案に対して海軍の方針を示していただけで、対案を出す等積極的姿勢を見せることはなかった。山本達の反対理由は主に、 英米との関係が悪化して支那事変解決が難しくなる。
日ソ開戦の場合ドイツは距離が遠すぎて援助・支援が期待できない。
条約で日本が損をする項目があるのではないか。
軍事同盟締結によりドイツとイタリアに中国大陸の権益を要求される懸念がある。
であった。山本は海軍書記官・榎本重治に「世間ではオレを三国同盟反対の親玉のようにいうが、根源は井上なんだぞ」と不機嫌そうに語ったこともある。

三国同盟賛成派は山本のイメージを悪化させるプロパガンダを展開し、また暗殺の風評を流した。山本は表面的には鷹揚に行動したが、密かに遺書も書いている。私服の憲兵が護衛についた他、自宅に機関銃が備えられたこともあった。山本は、三国同盟賛成と反英国・米国世論の盛り上がりは日本陸軍と内務省の合議による組織的なものと報告した。政治も世論も同盟締結に傾き、山本達は孤立していく。ところがノモンハン事件が起きて日本とソ連が軍事衝突を起こす中、8月23日、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結。平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇なり」の言葉を残して総辞職、日独伊三国同盟第一次交渉は頓挫した。山本達は「(同盟締結の)芽だけを摘んで根元を刈り取らなかった」という指摘もある。
つまり、三国同盟は日本にとって百害あって一利なし。最悪の選択であったはずだ。

1939年(昭和14年)8月30日、山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などにより、日本とイギリスやアメリカの関係は急速に悪化。当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると、近衛に日米戦争の場合の見込み問われた山本は、「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と発言している。
井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べている。半年や1年の戦争に勝てると思う人が総理大臣では、先の見込みは無いね。
山本は「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒も甚だしい」と漏らしていたという。経済の低迷による国民の不満、戦争を期待する世論、下級下士官たちの突き上げ、こうした風潮に媚びる軍の上層部。判断基準が可笑しい。

**1939年(昭和14年)水から石油が採れると主張した科学者に海軍共済組合で実験させた。海軍省先任副官・一宮義之らは反対したが、山本は「君達のように浅薄な科学知識ではわからない。深遠な科学というものはそうではない」とたしなめたが、その科学者は詐欺だった。 山本 五十六も結構、非科学的な面もある。戦術面も必ずしも優秀ではなかったとか。ただ大局観と信念の強さはやはり非凡なのでしょう。

**近衛文麿
五摂家の近衞家の第29代当主。後陽成天皇の12世孫に当たる。藤原氏の成れの果てか。陸軍に担がれた操り人形。大政翼賛会の総裁。皇室が悪用された典型だね。 太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループとして昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。

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米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人

NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。
フレッド・コレマツ

途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
フレッド・コレマツ 2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。

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【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

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日本の歴史と英国の歴史

極東の島国日本と極西の島国英国は、地政学的な共通点から歴史においても様々な共通点が見いだせるという人たちがいる。どちらも文化の中心となった大陸とは海で隔てられている。
まず、日本の縄文文化。大陸の影響が多少見られる弥生文化とくらべ、縄文文化はどうも日本独特のものらしい。英国にも対応するように新石器時代の巨石文化が花開いている。ストーンヘンジとかストーンサークルとか。これもヨーロッパ大陸から伝わったとの説はあるけど、史跡で見る限り英国が本場のようですね。何でも単一起源説で説明しようとするのは如何なものか。日本にだって環状列石のようなもの発見されているではないですか。人類は与えられた環境に適応して、独自の文化を形成するものらしい。
ストーンヘンジ ストーンヘンジ
日本人は、縄文時代の人達に後から渡来してきた人たちの混血によって次第に形づくられたようですが、英国人も同じようにいくつかの民族の混血によって形造られて来ている。
日本が、中国大陸の王朝に一度も征服されなかったように、英国も常に大陸の動きとは一線を画して独自の動きを続けて来た。
日本が大陸から学んだ仏教も儒教も、日本人の中で独自の精神文化として成熟しているように、英国もキリスト教を、「英国国教会」として独立したものとして受け入れた歴史を持っている。
新渡戸稲造氏の「武士道」で取り上げる封建時代の道徳、どうも英国のものが比較の対象として取り上げられているようだ。
英国人から見て日本人は、どうも馬が合うというか文化的なものに共通の傾向があるのかもしれません。今回、ノーベル文学賞を取ったKazuo Ishguroさん。アーサー王伝説の頃。タイムリーな受賞かもしれませんね。

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ビキニ事件

水着の話ではない。1954年3月1日に米国による太平洋・ビキニ環礁付近行われた水爆実験のために静岡県の漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件。実験当時、第五福竜丸はアメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄(はえなわ)の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後にアメリカは危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻に上るとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初アメリカ軍がこの爆弾の威力を4 - 8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであったため、安全区域にいたはずの多くの人々が被爆することとなった。
最近公表された湯川秀樹(1907~81年)(ノーベル賞の)手記には「二十世紀の人類は自分の手でとんでもない野獣をつくり出した」と書き起こし、原子力を「野獣」「猛獣」と形容した。「もはや飼主の手でも完全に制御できない狂暴性を発揮しはじめた」「少数の強力な国家だけが今後もこの猛獣の飼主たる地位を保持するであろう」と危機感を示している。
 後段では、「原子力の問題は人類の全体としての運命にもっと直接に関係する新しい問題として現われてきた」と、核兵器の脅威を前に世界が運命共同体となったことを強調する。ビキニ実験が核廃絶に向けた「人類的共同体の実現への大きな一歩」への転機となりえるのでは、と期待交じりに記している。

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翼、ふたたび

これは、作家江上剛氏の小説の題名。2010年のJAL破綻から再建の過程を描いたものですが、後半は、東日本大震災の際にJALの職員たちが見せた献身的な努力の成果を描いた物語として終わっている。
JAL B767 JAL破綻の直接の引き金となったのは2008年のリーマン・ショックとされているが、ショックに耐えることのできない脆弱な国策企業的な体質がより大きな原因だとされている。例えば効率の悪い大型機材を大量に保有。供給座席が需要に対して過剰。ただ、これは主に、日本の航空市場の特殊性として、国内線の基幹空港である羽田空港が非常に混雑、大量輸送によって需要に対応していかなければならない状況が続いていた。そのため、大型機材での運航が推奨されてきた。しかし、多くの地方空港が建設されていく中で、必ずしも大型機が望ましいとはいえなくなってきた。
投資の失敗も大きい。ホテルなどの関連企業を増やし、総合的なサービスの提供による競争力の強化を図ったが、採算性の見通しの甘さから、採算性を見込めないものが本業の足を引っ張る結果となる。また、長期にわたる為替差損も、JALの放漫経営の象徴として取り上げられている。
労働組合の問題もある。複数の労働組合が存在しているため、複雑な労使・労々関係も企業経営を極めて難しいものとしてきた。その他にも、採算性の取れる見込みのない地方路線への政治的な観点からの就航など、破綻の要因は多数見いだせる。これらの問題は実はバブル崩壊以降の日本の多くの大手企業にも共通してみられる特徴でもあり、決して他山の石では済まされない出来事と考えられます。
仙台空港 2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24km)を震源とする地震で、規模はマグニチュード9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震だ。
JAL再出発の直後の大震災。仙台空港が主な舞台となるが、仙台空港も地震と津波による相当なダメージを受けたようだ。そんな中JAL の職員たちが自分の身も顧みず乗客のためのサービスに徹する。「働く人たちが笑顔を絶やさない職場、そんな会社は必ずうまく行く」とのメーセージが素晴らしい。しかし、企業の意識改革というものは、外部の人間には想像できない相当の痛みを伴うものあることも覚悟しておく必要があるのでしょう。

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平成の終わり

平成天皇が退位されることとなった。これで昭和だけでなく平成も歴史の研究の対象になってしまうことになる。1989年(昭和64年)に昭和天皇・崩御に伴い皇位を継承。だから平成元年は1989年。2000年が平成12年ということ。2018年12月(平成30年)現在、平成天皇は85歳。高齢だが年間約1000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年度)、20件近くの祭儀を執り行うなど精力的に活動している。しかし2015年に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王同妃および文仁親王同妃に引き継いでいる。
また、科学者としても活躍されている(魚類学者としても知られハゼの分類学的研究者)。 魚類学における業績は各国で評価され学界において以下に記述する役職に就いている。民族学者である梅棹忠夫氏は、1971年「この前、皇太子殿下(まだ天皇になる前)にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣は大したもの。立派に東大、京大教授が務まる。帝としてはどうか知らないが、学者としては一流だ。」と述べている。
平成天皇は青少年の時代を、「現人神の君主」として、帝王教育を受け本人も当然としてそのように自己修練を積んで来た方だ。また、父としての昭和天皇の背中も見て育った方だ。戦後は象徴天皇として皇室はどうあるべきかをもっとも悩み続けた人であろう。
現代の憲法では、天皇は国民の象徴とされている。あってもなくてもいいものなの。一部の国民はそう思っているだろう。しかし、日本の歴史を振り返ってみれば、鎌倉時代以降ずっと国の象徴として機能してきている。ヨーロッパで言えばローマ法王みたいなものか。つまり、日本で一番偉い人なのだ。
ところで、【孔子の理想とした社会】として、「氏曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。」→ 子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰のその所に居て衆星(しゅうせい)のこれにむかうが如しとある。君臨すれども統治せず。これぞ孔子の考えていた徳治主義の理想像だ。昭和天皇も平成天皇もまた次の天皇もそのような考えでおられるようだ。少なくとも自らを単なる象徴だとは思っていなはずだ。だから、常に学問を怠らず、理想的な家族像を追求し、災害の被災地にも真っ先に駆けつけ被災者と気持ちを共有し、外交の場でも政治的な利害を超えて友好の意を伝えることが可能になるのだ。徳を持って治めるとはこのことではないか。
天皇家は、今まであまりにも政治権力に利用され続けてきた。今でも、一部の国会議員や宮内庁(これも政治権力だ)あるは有識者とか言われる人々が、天皇家の権威を復活させようと企んでいる。象徴となった天皇家は今後、一切政治には口を挟まないと思われる。その代わり、政治の側も一切横やりを入れてはいけないはずだ。天皇家の跡継ぎ問題、元号、このような問題は総て天皇ご自身に決めて頂けばいい話。だって、天皇は日本で一番偉い人なのだから。

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小説吉田学校

『小説吉田学校』は、政治評論家の戸川猪佐武(とがわ いさむ、1923年12月16日 - 1983年3月19日)による日本の実録政治小説。占領下での吉田内閣から鈴木善幸内閣までの保守政界の権力闘争史を描いた長編。当初は雑誌連載され、1981年に角川文庫で出され、2001年に学陽書房〈人物文庫〉全8巻で再刊されている。

  なお本作と、さらに掘り下げた『小説吉田茂』と『小説三木武吉』(いずれも角川書店のち文庫化)は、各「小説」と銘打ってはいるが、実際は史実を克明に追ったノンフィクション作品に近い。戸川が「小説という形を取ってあえて評伝にしなかった」のは、「政治家というものは、そのパーソナリティ、キャラクターによって、行動様式が支配されている」ものであり、政治家の「人間を描くことによって、こういう人だから、こういう行動をとったということがはじめてわかるから」だという。なお続編的著作に『小説 永田町の争闘』(全3部、毎日新聞社のち角川文庫)と、『昭和の宰相』(全7部、講談社のち講談社文庫)がある。

【第1部】 「保守本流」;
ワンマン宰相・吉田茂が、池田勇人や佐藤栄作ら「吉田学校」の門下生たちを率いて日本の講和独立を果たした後、鳩山一郎ら党人派との熾烈な権力闘争に挑む姿を中心に、第2次吉田内閣から鳩山内閣成立までを描く。
【第2部】 「党人山脈」;
保守合同に命を賭ける鳩山派の謀将三木武吉、日米安保に執念を燃やす岸信介、そして河野一郎、大野伴睦ら党人政治家たちの姿を中心に、鳩山内閣から池田内閣までを描く。
【第3部】 「角福火山」;
「ポスト佐藤」を巡る田中角栄と福田赳夫の暗闘角福戦争を中心に、佐藤内閣末期から田中内閣成立までを描く。
【第4部】 「金脈政変」;
田中金脈問題を中心に「椎名裁定」で三木武夫内閣が誕生するまでを描く。
【第5部】 「保守新流」;
ロッキード事件で前総理・田中が逮捕され「三木おろし」が激化した三木内閣末期を描く。
【第6部】 「田中軍団」;
刑事被告人となった田中が初の総裁予備選で大平正芳内閣を樹立するまでを描く。
【第7部】 「四十日戦争」;
衆議院選挙惨敗を巡る大角主流派と三福中非主流派の対立を中心に描く。
【第8部】 「保守回生」;
現職総理・大平の急逝を受け、史上初の衆参同日選挙で自民党が圧勝するまでを描く。
戸川 猪佐武(とがわ いさむ、1923年12月16日 - 1983年3月19日)は、日本の政治評論家・作家。神奈川県平塚市出身。父親は小説家で元平塚市市長の戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。
ずいぶん昔に読んだんですが、政治家のパーソナリティ、キャラクターに踏み込んだ話が多く、時代背景などもよく分かる。そのうちにまた読んでみたい本です。
でも、昔の自民党は派閥があって、個性豊かな政治家が多かったのかも。多数派工作のみで政策は官僚任せ、頭脳の抜けた今の政党よりも健全だったのかも。

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吉田茂

平成生まれの方は、歴史の教科書にチョコっと顔を出すぐらいの記憶しかないと思われるが、敗戦後の日本を立て直し、その後の政治体制の骨組みを造ったキーパーソンだ。戦後の日本は、昭和天皇、マッカーサー、吉田茂の3人で造りあげたといっても過言では無いかもしれない。

吉田  天皇  マッカーサー
吉田 茂(1878年~1967年)は、外交官、政治家。外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任。 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、および1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田と安倍晋三の2人のみである。
なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人だそうだ。

吉田 1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科(とが)で逮捕される。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。 1881年、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。 養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている。

1897年、学習院に入学、1901年卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まる。大学科閉鎖に伴い1904年、無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅の他、武者小路公共、池邊龍一、林久治郎、藤井實らがいた。

外交官時代
当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごす。中国における吉田は戦争積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であった。吉田は、満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強硬意見。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のものに限り、広げるべきではないという意見では一貫していたという。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離」論を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官に就任する。

但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していた。岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。1936年は、二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となる。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対(親英米派)で叶わなかった。陸軍は発足当時からドイツシンパ。海軍は親英だった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後の日本軍の勝利??などにより成功しなかった。

その後、日本の敗色が濃くなると、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。

第二次世界大戦後
終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後。大蔵大臣に石橋湛山を任じて傾斜生産や復興金融金庫によって戦後経済復興を推し進める。

1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。

自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は「首相は第一党から出すべき」という憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任した。

**この時期の、政党や選挙の形は、どうだったのか。ネットでの検索ではなかなか出て来ない。各政党が今後の日本の在り方をどうとらえていたのか、政策面での違いが分からないと動きがよく分からない。

第2次、3次吉田内閣
このときGHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。 これを受けて吉田は民主自由党単独で第2次内閣を組織した。その直後に社会党などの野党は内閣不信任を提出、可決されたため、吉田は衆議院を解散した(馴れ合い解散)。第24回衆議院議員総選挙で民主自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。
1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は長い間、米議会の下院非米活動委員会をモデルにした『非日活動委員会』を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が1952年(昭和27年)に設置・施行されるきっかけを作る。アメリカでは当時赤狩り旋風が吹き荒れていた。

サンフランシスコ平和条約
朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保)を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。

側近の白洲次郎などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散)。自由党の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣を組織した。1953年(昭和28年)2月、吉田の国会で質問者(西村栄一)に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり、三木武吉ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散)で対抗。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。

1954年(昭和29年)1月から強制捜査が始まった造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の収賄罪の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法違反で在宅起訴されるが国連加盟恩赦で免訴)。これが戦後唯一の指揮権発動。当然ながら、新聞等は多大なる批判を浴びせる。また、同年6月3日の警察庁及び道府県警察を設置する警察法全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎に議院警察権を発動させて国会に警官隊を導入。同年7月1日には保安庁と保安隊を合体し防衛庁と自衛隊に改組。野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及。吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。

造船疑獄では吉田自身が国会から証人喚問を複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。国会から議院証言法違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察は不起訴処分とした。

内閣総辞職後
1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介で1957年(昭和32年)に入党した。次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持つ。

1 その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、『ブリタニカ百科事典』1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。
死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。翌20日正午頃、大磯の自邸にて死去した。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという。享年90(満89歳没)。

性格・特徴
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。また、吉田の行動は当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという。 吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。

尊皇家・臣茂
尊皇家であり、終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという。 1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。
住居
幣原内閣で外相に就任した際、東京・芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。
佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。 首相退陣後は神奈川県大磯町で暮らした。政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開。

趣味・嗜好
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。

政治姿勢
駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
逸話:辞めたくなったら…
1946年(昭和21年)4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧民政党系の日本進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。ところが5月4日になって突然、GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付されると、状況は一変した。

自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任して当時は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると、古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶した。そこで鳩山は、松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、「あの殿様じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。
ところが元政友会幹事長の松野鶴平が、この日の夜から毎晩のように吉田のもとに押しかけて後継総裁を受けるよう口説き、ついにはその気にさせた。松野はその手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた。松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から2人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。
蓋を開けてみると、吉田は松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、
1.金作りは一切やらない
2.閣僚の選考に一切の口出しは無用
3.辞めたくなったらいつでも辞める

という勝手な3条件を提示して鳩山を憤慨させた。しかし総選挙からすでに1か月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くかわからなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。

5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。

吉田学校・ワンマン体制
自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があった。そこで、官僚出身者を中心とした吉田学校と呼ばれる集団を形成する。1949年(昭和24年)の第24回総選挙で当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、広川弘禅や大野伴睦らのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。吉田学校の主な人物として、佐藤栄作・池田勇人・田中角栄がいる。彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、保守本流を形成することになる。

孤高のサイン
日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の六人全員で署名した。
講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約に一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。

【賢者は歴史に学ぶ】
昭和の敗戦は昭和天皇に飛鳥時代の白村江の敗戦を思い起こさせたようだ。多分、吉田茂も同じ思いであったようだ。
昭和天皇も吉田も、ドイツと組んで戦争する事は最初から反対であった。国際情勢を鑑みれば当然だ。しかし、国際派、親英派と見なされる人物は次々と奸臣として天皇の周りから消されて行き、昭和天皇自身が戦争責任者となってしまった。吉田も排除された側にいた。このような動きを天皇は政権内の下剋上として何度も懸念を表明していたにも関わらず。 飛鳥朝廷も、国際派、親中国派といえる蘇我氏をクーデターで排除し、戦争に突入し大敗退を喫したようだ。その戦後処理が飛鳥時代の天皇達と名宰相の藤原の不比等によって成し遂げられる。
吉田は、何度も戦争の責任を表明したがる天皇を引き留め、GHQをも天皇制維持の側に引き寄せることに成功。GHQが最も恐れたの天皇制を失くせば日本が社会主義、共産主義への道を進むことになることを懸念したから。結局、天皇、GHQ、吉田首相の三者の協力でで昭和の仕組みが造られたといっても過言では無いようだ。
吉田が自分自身を飛鳥の名宰相の藤原の不比等になぞらえていた可能性は大きい。戦後日本の官僚機構はほとんど無傷で残った。政権の運営にも積極的に官僚出身者を重用。結局新しい制度のもとで吉田の独裁体制が確立する。
不比等も律令制を整備して帰化人を積極的に活用し、比ぶもの無き者と称されるまでの権力を。しかし、二人とも権力に奢ることなく高齢に至るまで理想を追求し続けた人物であることは間違いない。
マッカーサー 【天皇マッカーサー】
マッカーサーは軍人上りの苦労人で、フィリピンでの日本軍との戦いで散々苦労した経歴がある。だから当初は敗戦国に対し、いかに懲罰を与えるかで高圧的な態度で臨んで来たらしい。占領軍の司令官としての権限は非常に強く、その力は米大統領を凌ぐもの(日本においては)であったとされる。しかし、昭和天皇と頻繁に接触するうちに考えが変わったらしい。 同じくドイツの占領をしていた軍人、アイゼンハワー等によるドイツの状況を鑑み、天皇制を残すことがベストと考えたようだ。マッカーサー自身が事実上敗戦後初代の天皇になっていたのかも。ドイツは連合国の分割統治となるが、日本は対米従属一辺倒、他国の干渉は一切許さない。その代わり天皇は残った。
不比等等が「古事記」や「日本書紀」の神話を造り日本の国の考え方を変えていったように、マッカーサー等も神話を造り出すことに成功した。それはマスメディアや学校教育を通して、人々を洗脳していく。「世界一の民主主義・資本主義の国アメリカ。アメリカのマネをしていれば総てはうまく行く。」「民主主義はアメリカによってもたらされた。大衆によって選ばれた政党が多数決で物事を決めればうまく行く。少数意見は無視すべし。」(2020.1.3)

次の文もマッカーサーの日本での活躍を称賛しているようだ。
老兵・マッカーサーはなぜ「日本は自衛の戦争だった」と証言したのか…
連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサーだが、米国での人気は絶大で、ニューヨークやシカゴなどで行われたパレードには総勢数百万人が集まった。
 「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」
 1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。
 後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」にこう記した。
 「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼の言葉は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』と語った…」
 8日前の11日、マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。人生の黄昏を感じさせる演説だが、心中は闘争心でみなぎっていた。
「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」
 「もし原料供給を断ち切られたら100万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」
 会場がどよめいた。証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。
 もっと言えば、5年8カ月にわたり日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。
この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領への夢は潰えた。
なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。  日本の「自衛戦争」を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。だが、マッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかを紐解くと答えが見えてくる。  マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国(中華人民共和国)という共産主義国の脅威を痛感した。  朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。

 ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソと徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺したこともあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。
 これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。

 マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。
 「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」
マッカーサーはこうも語った。これは「米国は戦う相手を間違った。真の敵は日本ではなくソ連や中国共産党だった」と言っているのに等しい。
 マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。「自衛戦争」発言は、自らの戦略の優位性を雄弁に語るうちにポロリと本音が出たとみるべきだろう。
他にもマッカーサーは重要な証言を残した。
 民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と称えたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
 「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」

「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」
 それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。
 別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。
 このように3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。
 「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」
ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。「日本人の柔軟性」をよい意味で少年に例えたといえなくもない。
 日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、1953年に第34代大統領に就任した。
1964年4月5日マッカーサー84年の生涯と閉じる。元首相・吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。昭和天皇も米大統領宛に弔電を打った。葬儀は米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。マッカーサーはやはり欧米人で初めてで最後の天皇だったのかもしれない。(2020.1.5)

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【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

世界の歴史の部屋

原子爆弾の開発

1945年8月、人類史上初、世界で唯一核兵器が実戦使用された。
8月6日 広島市 広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイ
8月9日 長崎市 長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマン
原子爆弾の開発は、E=mc2、すなわちわずかな質量が膨大なエネルギーを生み出すという発見から生まれた画期的な殺戮兵器である。ナチス支配下で米国に亡命して来た著名な科学者達がルーズベルト大統領に進言して開発が進められた。確かにドイツでも日本でも並行して開発が進められていたことは公然の秘密である。日本では仁科芳雄等が中心となって研究開発が進められていたが、敗戦後には原子力に関係する施設は米軍によって秘密裏に完璧に破壊された。日本のノーベル賞学者は湯川、朝永は仁科の弟子で、以後日本の物理学者らは専ら理論物理の研究を中心に行っていくことになる。
 ドイツが降伏し、日本も降伏寸前の時点では、核兵器の破壊力から投下を中止する意見もあったが、ルーズベルト死去の後を継いだトルーマン大統領の決定で投下が実施された。更に、第三の原子爆弾を投下することも計画されていたがトルーマンによって中止された。ルーズベルト大統領は、日系日本人の捕虜収容所を進めた張本人、やっていることナチスのユダヤ人捕虜収容所と何ら変わりがない。はじめからドイツには落とすつもりはなかったのかも。
 その後朝鮮戦争では、マッカーサーは原爆の使用を提言するが、トルーマンはこれを許さず、38度線にこだわり、また、今まで支援してきた蒋介石の中華民国政権の梯子をはずし、共産党の大陸支配を容認する。この結果、金日成が朝鮮解放の英雄として北朝鮮の支配を確立し、毛沢東も米国・日本から中国を解放した英雄として支配権を確立。その後進んでいく東西冷戦もこの時から想定されていた筋書通り展開のように思われる。

世界の歴史の部屋

敗戦後の東アジア世界

 日本がポツダム宣言を受け入れ終戦となったのが1945年。日本の降伏調印式は1945年9月2日。実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた(知らないのは日本国民だけ)。日本の終戦記念日は翌日の8月15日。正式に国家同士で戦争していたのはアメリカ合衆国と中華民国(蒋介石政府だけ)。ソ連とは不可侵条約を結んでいたので正式には戦闘状態には無かったわけです。中華人民共和国の成立は1949年10月1日。朝鮮戦争は1950年の北朝鮮の突然の侵入に始まり、1953年7月に休戦協定成立。未だ最終的な平和的解決は行われていない。

 戦後賠償については、米国、中華民国は賠償の権利を放棄している。これは第一次大戦時にドイツに過大な賠償金を課したことが大二次大戦の原因ともなったことを踏まえてのこと。従って、この時点において日本は戦後賠償の義務は一切ないことになっている。毛沢東の中華人民共和国は、戦中は国共合作として称して日本軍とも戦闘したことになっているが、実際は国民党を背後から鉄砲を打って邪魔したことぐらい。毛沢東は、「日本軍のお陰で国共内戦に勝てた」と豪語しているくらい。もちろん朝鮮半島は日本の統治下ですから日本国内の問題。韓国がとやかく言う筋合いは全くないはずのものです。

戦後、日本は東南アジア諸国に戦後賠償を行っておりますが、これは全く善意による経済援助。中国と韓国には未だに多大な資金供与を行っているのが我が国の現状です。しかし、日本は今の中国と韓国には賠償責任は一切ないはず。もしこれらの国が賠償しろというのは、アメリカ政府のさしがねか、中国、韓国の諜報組織による陰謀でしょう。日本人は歴史の勉強が足りないのは事実ですね。
日本は戦争放棄の他、諜報能力も放棄してしまったようで、政界、マスコミ、学会のすべてにこれら中国、韓国、北朝鮮からの諜報機関から莫大な資金がノーチェックで流れ込んでいるはず。世界中で、このように支払わなく良い賠償金??を払い続けている国はありません。日本では自民党の議員の中にすら中国、韓国のシンパは大勢います。本当の国益とは何か相当良く考えないといけませんね。

世界の歴史の部屋

ニクソン・ショックとプラザ合意

リチャード・ニクソンと毛沢東

第二次大戦後、米ドルを基軸通貨として為替の安定・自由貿易の推進により世界各国が相互に発展することを目指して定められた国際ルールがブレトン・ウッズ体制(1944)です。
日本が奇跡的な経済成長を見せ、西ヨーロッパも順調に復興すると、国際競争力が相対的に上がっていきます。世界各国は輸出によって稼いだ米ドルを金にどんどん換えていきます。一方アメリカは世界の警察として多くの軍事費を投入し、また共産圏の拡大を防ぐために発展途上国への経済援助費を増やしていきます。多国籍企業は米国外へ投資をつづけ、膨大な米ドルが世界中に流出し、これらのドルも金に交換されました。
結局アメリカの保有していた金(ブレトンウッズ体制当初、世界の7割とも言われていた)は、大量に国外に流出し、金ドル交換の不安が叫ばれるようになりました。1960年代にはしばしばドル危機の声が高まり、ゴールド・ラッシュと呼ばれる金への投機が活発になる現象が起きました。
1971年8月15日、アメリカ大統領チャールズ・ニクソンは、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止することを突然発表します。これは、ブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味しており、国際金融の大幅な枠組みが変わるきっかけとなります。この発表はアメリカ議会もしらなかったため、ニクソン・ショックと名づけられドル・ショックとも呼ばれます。ほぼ同時期(一ヶ月前)に発表されたニクソンによる中国訪問宣言と一連の北京での外交活動も合わせて、ニクソン・ショックと呼ばれています。
ところで、それまではドルは金と対応していたので他の財貨との関係は需要供給曲線のロジックでバランスが取れるフィードバック機能が働いていました。しかし、ドル金交換が停止されて以降、米国は無尽蔵にドル(もちろん貨幣に変わる債権なども含みます)を発行し、覇権国として世界中から自由に物を買うことができるようになりました。これが米国が覇権を維持できる根幹でしょうね。今後もドルはどんどん増え続けるでしょう。その結果は世界は一体どうなってしまうのでしょう。世界の経済は、常に新たな需要と供給のバランス点を模索して変化し続けるでしょう。人はそれを経済発展を称するのでしょうが、変動する世界は行きつく先が見えないので大変不安です。少なくともサスティナブル(持続可能)な制度ではないはずです。ただ、世界経済の規模が大きいのでたとえ破綻するにしても数十年の規模で推移するのでしょう。
基本的に貨幣の量が増えれば、財の需要は増え供給の価格は割高になるでしょう。特に労働賃金(労賃にも需要と供給の関係が成り立つ)の安い開発途上国には有利に働くでしょう。その結果、中国、インド、東南アジア、アフリカなどの経済はずいぶんよくなって来たようです。一方、先進国の工業は材料費や賃金の高騰で立ち行かなくなって行くようです。そして頻繁に発生するバブル、やはり近い将来何が起こる可能性は否定できないでしょう。現在も金はどんどん米国や日本から流出して中国やロシア、インドなどの国は金をせっせと集めていると言われます。そのうちにまた金本位制が復活するのかもしれません。

世界の歴史の部屋

中華思想と小中華思想

中国は儒教に国と言われ、韓国も儒教の国であることを自負している。儒教は日本人の思想にも多大な影響を与えています。北朝鮮やベトナムも儒教の影響を受けており、東アジア一帯に渡って一つの大きな文化圏を形成しているとも言えそうです。ただし、日本での儒学は隣の中国、朝鮮とは異なった発展をとげたようです。儒教は、何故か国の宗教にはならず、そのため人の生き方のような哲学的な部分が発展して、陽明学のような流れは日本から逆に中国に輸出されるまでに発展します。
一方、本家中国では、儒教は秦の時代の焚書坑儒のように最初は多大な迫害を受けますが、漢の時代以降、国を治める宗教(理念というべきか)として取り上げられ、大きく変身してしまいます。親には孝、国には忠と言う部分だけが強調されて、礼儀作法が形式化されていきます。現状肯定の支配者に取って、都合の良い考えですね。
一方、中国が宗主で周りの国が家来といった、中華思想が段々強化されていきます。いわゆる朝貢貿易です。歴史上、王国が誕生すると同時に王国の周辺の民族を見下すような自己中心的な考えは多かれ少なかれ見られるものですが、中国ではこの考え方が異常に発展してしまいます。中国独特の歴史的、地理的な環境がそのようにさせたようです。
一つには、儒教が中華思想を肯定し、強化する役割を果たしたようです。また、中国は何度も周辺の遊牧民に支配される歴史を経験しています。このような支配を受けた経験は、その劣等感の裏返しで、かえって選民思想のようなものを強化していく作用があるようです。
一方の韓国での小中華思想は、とりあえず中国を親と仰ぎつつ、自分はその第一の継承者として周辺の民族を積極的に見下す。朝鮮と言う国は、中国の影響をはねのける代わりに従属の道を選んだ。日本やベトナムとは異なる道だ。総ての文化は韓国から日本へ流入したと信じたい。コメも、仏教も、漢字も、カラオケも、寿司も、血液型性格判断も、終身雇用制度も。これが韓国の実態。結局見たいものしか見ないし、見たくないものは否定する。これが歴史認識の違いと彼らが声高に主張していることの真実です。
 中国も、尖閣列島の問題も、スプラトリー諸島の問題もすべて同じ。総て自己中心的な発想ですから解決するはずもないわけです。外交問題ではこれからも色々問題を起こすでしょうが、常に発想は自国中心。力の外交を繰り広げると予測されています。
 まあ、あまり隣の国を批判するのも格好いい話ではないので日本のことを振り返ると、戦争中の日本は、まさしく中華思想ならぬ皇国史観に塗り固められていて、あまり自慢できる話でもないですね。大東亜共栄圏などまさに中華思想とウリ二つ。劣等感に起因する排外思想、現実を見ないで過去を美化する史観。ちょうど今の北朝鮮と同じですね。このような民族主義的な歴史観、そろそろ終わりにして欲しいですね。

世界の歴史の部屋
裸坊達の部屋

コロンブスのお土産

 スペイン・イサベラ女王の資金援助で新世界に到達するコロンブス。1492年西インド諸島のサン・サルバドル島に上陸する。地元原住民の歓迎を受けるも、コロンブス本人は、金と奴隷の略奪しか興味がなかったらしい。要は海賊ビジネスが生業だった訳。ただ、インドに行った証明に胡椒(pepper)を持ち帰る必要があった。胡椒はインド原産で大変な貴重品。もちろんここは、本当はインドではないので、胡椒なんて手に入る訳がない。ところがここに素晴らしい代替品があった。唐辛子である。これも、英語ではpepperだ。以後、世界中で大流行の香辛料になる。本家の胡椒を凌ぐほどに。ただ、コロンブス自身は、インドに行ってないことがバレてしまい、晩年は不幸な人生だったとか。

 ところで、コロンブスが持ち帰った農作物は、非常に貴重なものが多く、世界中の人々の農業や食文化に多大な影響を与えている。例えば、下記のような作物が挙げられる。このうち一部は、コロンブス以前に別のルートで広まったと思われるものや、より後の時代に旧世界に伝えられたと思われるもの混じっているが、スペイン人による完璧な破壊略奪で滅ぼされた新大陸の文化の高さを証明している。

1.唐辛子…ナス科トウガラシ属、中南米を原産。
2.ピーマンやパプリカも唐辛子の変種。
3.トマト…ナス科ナス属、南アメリカのアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産。
4. ジャガイモ…ナス科ナス属、原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。
5. タバコ…ナス科タバコ属
6.カボチャ…ウリ科カボチャ属、原産は南北アメリカ大陸。
7. サツマイモ…ヒルガオ科サツマイモ属、
8.トウモロコシ…イネ科の一年生植物。
9. 落花生…マメ亜科ラッカセイ属、南米原産。
10. いんげん豆…マメ科、アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税として徴収

非常に多彩です。1~5がナス科というのも面白いですね。インカのナスカ絵…ダジャレ。世界に4大穀物…小麦、米、トウモロコシ、ジャガイモ。このうち2つが米大陸原産。トウモロコシとサツマイモは10世紀頃に既にポリネシアで栽培が記録されており、もっと前に伝わっていた可能性もあるそうです。唐辛子は、秀吉の朝鮮出兵の時に日本から朝鮮半島に伝わったようです。

世界の歴史の部屋

アイヒマン裁判

アドルフ・オットー・アイヒマン(1906年~ 1962年)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割をになったとされている。
Eichmann
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行される。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑。
 アイヒマン氏は、アルゼンチンで家族を持ち平穏な余生を送っていたようだ。イスラエルのやり方は、当然国際法違反であるが、アメリカの強い後ろ盾もあり不問にされた。世界のメディアは、アイヒマンを凶悪な性格に描こうと待ち構えていたが、アイヒマンの答弁は終始、「法と上司の命令を忠実に守っただけで、自分には罪はない。」というものであった。要するにごく普通の一般人。この裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、この記録を発表するが、ユダヤ社会を含めメディアから猛烈な批判を受ける。でも、事実なのだから仕方がない。でも、あなたがアイヒマンの立場だったら、上からの命令を敢然と拒否できたでしょうか。

世界の歴史の部屋

中国は何故世界の覇者になれなかったのか

ジャンク船 明の時代、中国の鄭和(ていわ)は大艦隊を引き連れアフリカの東海岸(現ケニア)まで遠征する。鄭 和(1371年 ~1434年)は、中国明代の武将で12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられる。鄭和の船団は途中、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、中国の威を誇示して回った。コロンブスが米大陸を発見する(1492年)よりも60年ぐらい前のことだ。しかも遠征の規模も桁違いに大きい。
 コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはあまりなかったからという説もある。
しかし、3万人もの人材を海外に派遣して各地の地理情報を取りまとめているのだから、利用の仕方次第でいくらでも歴史に大影響を与えることは可能なはずだ。このような海外派遣を続けていれば(資金が枯渇しなければ)、インドやアフリカの国々も中国に朝貢するようになり、世界帝国の中心として覇をとなえることも可能であったはずだ。
鄭和の遠征鄭和の遠征      コロンブスコロンブス
 ただ、はっきり言えることは鄭和のプロジェクトは、国策プロジェクトで、当時の明は中央集権的国家であった。一方、コロンブス達は得体の知れないならず者集団。ベネチアからの資金やイサベラ女王の支援(ポルトガルには断られる)のおかげで成立した博打のようなプロジェクトだ。だからどちらもプロジェクトとしては成功しても、歴史に与える影響でコロンブスが勝っていることになる(歴史の逆説みたいなもの)。
 当時の明は、民間による海外貿易は禁止している。第三代永楽帝は、クーデター的に政権を確立したこともあり、積極的な海外拡張策を取り、周辺諸国に朝貢を促す政策を実施。基本的に朝貢貿易というのは、朝貢国よりも宗主国の方が持ち出しの経済的には割が合わないシステム。度重なる遠征と朝貢から明の財政は逼迫、以後中国は二度と海外に目を向けることはなくなる。ヨーロッパ諸国が海の覇権を確立する絶好の好機を提供したわけだ。
しかし、鄭和の艦隊が去った後は、その隙間はしばらくの間の海は、イスラム商人たちの独壇場(インドや東南アジア諸国も入れたか)となったはず。ここを避けて西へ向かったのがスペイン、強引に割り込んだのポルトガル。どのようにしてポルトガルが海の覇権を手に入れたのか、これも歴史の面白いところ。
ダウ船ダウ船      キルワキルワ遺跡(タンザニア)
 中国は、孔子の生まれた春秋戦国時代を除くと、ほとんどの時代統一王朝が存在している。たまたま、前の王朝が倒れても次の新しい王朝が統一する。基本的にはトップは倒れても官僚制は存続しているわけ。明の前の元王朝の時だって、王家の人間は処刑されても官僚たちはそのまま利用される。だって、極めて少人数のモンゴル人がどうやって人口の多い中国を治めるんだ。これが中国の歴史的な体質となってずっと残っている。いわゆる律令国家だ。朝鮮も同じ。ところが日本だけは、例外的に武士が政権を握りいわゆる封建制度となる。ヨーロッパもローマ帝国崩壊以降封建制に変わる。封建制は中央集権に対して非常に地方分権型。多数の国家が覇を競って競争する。封建制は中央集権に対して国の運営としては効率が悪そうだが、自由競争や思想の多様性が高い利点もあり結局、経済・技術の分野では成功する。
中国は世界に先駆けて安定して平和な中央集権の確立に成功した。その結果は、当初技術面でも素晴らしい発展を見せる。紙、羅針盤、印刷術、火薬、鉄砲(のようなもの)等、世界中の近代以前の主要な発明は総て中国産と言っても過言ではあるまい。シルクロードで運ばれる絹も中国。スパッゲティだって元をたどれば中国の麺だろう。ところが、明代以降の中国は、海外から目を反らし、国内の技術の発展をむしろ禁止して、ひたすら政権の安定だけを目指すようになってしまう。日本も江戸幕府は民間の海外貿易を禁止したり、海外の情報を入れないようにして、300年の平和と安定を維持したが、政権の基礎が封建制であったため、諸藩から生じる討幕の動きを止めることができなかったわけだ。安定や平和、秩序を求める国民の要求にも一見合致した政策が、結果として世界の大勢に遅れ、国民にも多大な負担を強いることになってしまうわけだ。

世界の歴史の部屋

めげない北朝鮮

米トランプ政権の強硬な姿勢にもかかわらず、ますます戦術をエスカレートして行く北朝鮮。国際的制裁を声高に叫び続けるだけの阿部政権。果たして、落としどころはあるのでしょうか。そもそも、北朝鮮の歴史をたどってみれば、絶対に折れることが無いことは明白なはずですが。
朝鮮戦争が1953年に国連軍と中朝休戦協定が結ばれて以降、米国と朝鮮は未だに戦争が終わってない状態にある訳で、今まで北がもっとも望んでいたのは停戦協定と平和条約だったはずなのです。北朝鮮は、日本の敗戦とドサクサに紛れて金日成がソ連後と中国の力を借りて軍事力で簒奪した国家で、別に多くの国民の支持を集めて造られた国家ではありません。その意味では中国も一緒で、日本軍と戦っていた中華民国の軍隊を背中から鉄砲を打って倒したような政権。中国が米国を打倒した言うことで党内で一躍力をつけたのが毛沢東。結局朝鮮戦争で一番得をしたのは毛沢東と金日成です。
これに対して、米国の対応がまた不可思議。マッカーサー等のさらなる進行をトルーマン大統領は拒否し、今の38度線で休戦協定。これはソ連との約束とのこともあるようですが、その後中華民国への支援の梯子を外し(ルーズベルトの時代までは良かった)、中華民国は台湾へ追いやられることになります。同時に英国のチャーチルの「鉄のカーテン」演説を受けて、反共活動を開始します。
金日成
まあ、トルーマン大統領にとっては、世界とは米国と欧州。その他の野蛮人の国はどうでも良かったのかもしれませんが。もう一つ理由を挙げれば、当時事実上の唯一の戦勝国の米国は、強力に育った軍事力を戦後どのように処理して行けば良いか分からなかったと言う問題があったようです。熱い戦争は困るけど、冷たい戦争、お互いに睨み合って軍事拡張を続ける。時々小さな小競り合いがある(代理戦争)状態が大変好ましかったということもあるでしょう。軍隊と言う組織は超巨大な官僚組織、組織を縮小、予算を減らすなどしたら大変です。更に大戦後の米国軍は諜報能力も絶大で、あることないことでっち上げ政府を操ること等、お手の物。この軍と防衛産業、諜報機関、西欧諸国の同様な機関が協力して冷戦構造を作りあげられました。
金日成
この間、北朝鮮は常に米国から見て悪役、北朝鮮から見たら米国が悪役の体制が続けられてきました。北朝鮮の意志とは全く関係なく米国の都合です。もし、今米国が北朝鮮と和解して交流を開始したらどうなるのでしょう。韓国にいる米軍は必要なくなります。日本の沖縄基地も不要になってしまいます。トランプはそれでも良いと思っているのしょう。でも、米国の主流派は決してこのような状態は許せません。日本政府も韓国政府も対米依存ですから、米国が出て行ってしまうことには大反対でしょう。北朝鮮とはいつまでも敵対していて欲しいのが本音です。北朝鮮も反米を国是として国をまとめてきたことから、停戦協定を行うと、国家の存続理由が無くなって崩壊してしまう懸念もあるのでしょう。結局当事者達は今の状態が継続することを望んでいる訳です。一番困るのは北朝鮮の一般の民衆でしょう。
金日成
北朝鮮の国家体制は、戦前戦中の日本と瓜二つです。全体主義国家。天皇の代わりに金王朝があります。お国のために死ぬことを教育された人々、原爆でも落ちるまでは戦う覚悟が出来ているでしょう。トランプは多分自分から攻撃をかけることは無いでしょう。しかし、北朝鮮封じ込め戦略を取り続けた軍部には、北朝鮮が米国に届くミサイルを開発したことは大変なショックを受けているはずです。過去の日本と同じように玉砕戦を挑む可能性が現実味を帯びて来るからです。経済封鎖に当たって、中国とロシアが原油の供給をストップすることに躊躇したのは日本が真珠湾を攻めた前例があるからです。
停戦の最後の切り札は、北朝鮮が核開発を止めることでしょう。しかし、米国は今持っているものも破棄するように要求するでしょう。これは絶対にありえないストーリーです。イラクのフセインが大量破壊兵器を破棄してもまだあるはずだと因縁をつけられ最後に潰されましたね。リビアのカダフィも同じか。北朝鮮は、イラクやリビアのの二の舞にはならないでしょう。結局、現状を認め核兵器開発を止めることで手を打つところが落としどころでしょう。だから、米国世論が和平に傾くのを待っているのがトランプの真の狙いでしょう。和平が成立すれば、米国は韓国、日本から膨大な軍事力を引き上げることが出来、膨大な経費が削減できます。ただ、和平が成立すると韓国、日本も大幅な政策変更が避けられなくなるでしょう。北朝鮮が先に手を出せば話は簡単。戦争で片が付くでしょう。だから北もうかつに手を出さない。最後は米国の方が何らかの妥協案を出すかも。とすると現在駐留している韓国や沖縄の軍を引き上げることもトランプの視野にあるかも知れませ。

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忘れられた巨人The Buried Giant

アーサー王 2017年のノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロ氏の小説です。この舞台設定がとてもユニーク。舞台はイギリス、主人公の老夫婦は、ブリトン人。4世紀から5世紀頃大陸からサクソン人が大挙して侵入してくる。日本で言えば、縄文社会に大陸から弥生人が大挙してやってくるような状況か。でも、日本では大和政権が確立されていく頃。ローマ帝国ではキリスト教が国教となり(392)、ブリトン人はキリスト教徒という設定です。
ブリトン人は、ストーンヘンジ等の新石器文明を残した人々の末裔か、あるいはその後に来た人々か。また、サクソン人は、ドイツのザクセンと同語源でゲルマン系でしょうが、今ではアングロ・サクソンとして英国人の主流となっていいます。
小説の設定では、ブリトン人は山の斜面の横穴式の住まいを好み、サクソン人は環濠集落を築いており、言語も異なり文化も異なるものの平和な時代にはお互い多少の交流もあったという設定です。
アーサー王 ここで、出て来る巨人とは、「アーサー王」という伝説上の人物でしょう。マーリーンという魔法使いの参謀がいたり、ドラゴンやその他の怪獣を操ったり、また選ばれた騎士達の力で国土を一旦は統一したという設定だ。アーサー王はブリトン人ということで、実は戦いにおいて大量の虐殺も行い、そのため一部のサクソン人達は復讐心を燃やしブリトン人を殲滅しようと密かに計画している。一方、ブリトン人の中にはアーサー王の継承者を自認する人たちも存在している。一方、ドラゴンの息から吐き出される気が人々の過去の記憶を消し去るという魔術を持っている。主人公の老夫婦も過去の記憶が消されており、最初は二人とも認知症でもかかっているようだが、読み進めていくうちにドラゴンの霧というのが実際に作用していることが分かる。
主人公の老夫婦は、過去の記憶を求めて旅に出る。そこで色々な人物に会う。最後に竜は退治され人々は過去の記憶を取り戻すが、本当にそれは幸せなことなのか。
ブリトン人とサクソン人の遭遇、これは今の世界にも当てはまる重要なテーマです。EUにはイスラム教徒が難民として大挙して押し寄せてくる。日本だって将来、他人ごとではないかも知れません。多分ドラゴンがまき散らす息と言うのは、自然災害等による環境の劣化を指しているのだろう。洪水や旱魃など人の力では対処できない事柄はドラゴンなどと魔物のせいにしていたのでしょう。

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戦後の米国覇権とその政策

1.戦後処理
 太平洋戦争は、一般に「真珠湾攻撃・マレー作戦・開戦の詔が出された1941年12月8日から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とされているが、英国はこの戦争でアジアでの覇権を失い、欧州では、戦勝国側も疲弊しきっており、米国の一人覇権が確定する。米国の当初の戦略は、戦勝国5か国の共同管理を想定しており、国連の英語名のUnited Nationsは、戦時中に使用していた単に連合国そのままである。
 米国の外交戦略は、もともとはモンロー主義(第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ モンローによって提唱された)に代表されるようにヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉が基本であった。 実際、米国は独立当初から、各州の自立を重んじる分権派と連邦政府の強化を目指したいエリート層との間で峻烈の戦いが続いて来ている。今年、大統領になったトランプのアメリカ第一主義や、共和党の茶会派等は、アメリカ庶民の本来の本音の草の根の意見を代表しているともいえるでしょう。
 米国中心の占領軍の、日本に対する政策は二度と戦争できないように極力力を削ぐものではあったが、一部国民の総意に基づく民主主義の理想を実現しようという意図もなかったとは言えない。農地解放、平和憲法等は自国では実現できない政策を実行に移したものともいえる。どちらかというと分権派的だ。それまで禁止されていた共産党の活動も合法化されるなど、戦後民主主義の時代を迎えるかと思われていた。また、イラク占領の際には、フセイン政権下の官僚機構をズタズタに破壊してしまったことが今の混迷の一因ともいわれているが、日本の場合、吉田茂主相の尽力もあり、官僚機構は米国の御用聞きとして無傷で残された。ただし、その代償として戦後の日本では、官僚主導の対米従属一辺倒の政策を変えられない状況となっている(これも米国の覇権戦略か)。
2.魔女狩りの時代
 ところが、その後米国では、戦略に大転換が行われる。発端は、当時英国の主相を退任した後のチャーチルが米国で講演した、いわゆる鉄のカーテン発言(1946年3月)だ。この時の米国の大統領は、トルーマン。米国では、マッカーシー旋風が吹き荒れ、日本でもマッカーサーの指令でレッドパージという政策が断行される。逆コースと言う時代である。公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とレッテルを貼られた人々裁判にもかけずに解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職したとされる。「赤狩り」とも呼ばれた。
3. 冷戦の始まりと朝鮮戦争
 どうも、トルーマンの一見弱腰と見られる戦略は、初めから意図したもので、トルーマンにとって、世界とは米国、ヨーロッパ、反共の拠点となりうる日本だけで、その他の地域は、とりあえず放置しておいてもいいと考えていたのではないかと思える。このようにしてチャーチル~ルーズベルト~トル-マンの冷戦構想が出来上がる。英国は今までの覇権を米国に移譲する。米国は英国をリーダとするヨーロッパに戦後復興を支援する。戦争中に増大した軍事力は、冷戦構造を持続することで維持する。そのためにはソ連邦には永続的な敵としてふるまってもらう。(2017.5.24)

チャーチル 鉄のカーテン…チャーチルの講演
 (前略)つい最近まで連合国側の勝利によって光輝いていた状況に影がさしてきた。ソヴィエト・ロシアとその国際共産主義組織が近い将来に何をなさんとしているのか、又、彼等の膨張主義的傾向や(他者にイデオロギーの)転向を強いる傾向に限界があるとすればそれは何なのか、誰にもわからない。再びドイツが侵略する事態に備えて、ロシア人がその西部国境の安全保障を確保する必要があることを我々は理解できる。
 (略)しかし、ヨーロッパの現況についての確かな事実を諸君にお伝えすることは私の義務なのである。言いたくはないが、この確かな事実を伝えることが私の義務と思うのである。バルト海のステテティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降された。このカーテンの裏側には、中欧・東欧の古くからの国々の首都がある。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブタペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な全ての郡市とその周辺の住民は、ソヴィエト圏内にあり、何らかの形で、ソヴィエトの影響下にあるばかりか、ますます強化されつつあるモスクワからの厳しい統制を受けている。(略)
 この『鉄のカーテン』を越えて西ヨーロッパまで手をのばしてきた各地の共産党第五列は、文明に対する挑戦である。ソ連が戦争を欲しているとは思わないが、彼らの求めているのは戦争の報酬であり、彼らの権力と主義のかぎりなき拡張である。だから手遅れにならぬうちに、すペての国にできるだけ早く自由と民主主義を確立しなくてはならない。ぞのために民主諸国とりわけアソグロ・サクソソの人々はしっかりと団結する必要がある。(略)
 さもなければ、ふたたぴ暗黒時代に逆もどりするかもしれない。私はあえていうが、用心してもらいたい。われわれに残された時間は少ないかもしれぬ。もう手遅れだということになるまで事態を放任しておくようなやりかただけは、おたがいにしないでおこうではないか。
スターリンの「鉄のカーテン」演説批判(抜粋) 『プラウダ』(1946.3.13)
 チャーチルの演説は、連合国間に不和の種をまき、協力をいっそう困難にすることをめざした危険な行動であると考える。それは平和と世界の安全をあやうくするものである。じっさい、チャーチルは、いまや戦争屋の立場に身をおいている。しかし彼はそこに一人でいるわけではない。イギリスだけでなく、おなじくアメリカにも彼の友人がいる。この点でチャーチルとその友人たちは、ふしぎなほどヒトラーと彼の一味を思わせるではないか。
「鉄のカーテン」演説
CIA NSC チャーチル~トルーマン 冷戦 鉄のカーテン
鉄のカーテンが降ろされた。チャーチルは、8月8日には、驚くほど楽観的だった。広島に Little Boy が落とされた後、長崎にFat Manが落とされる前の、8月8日だ。
チャーチルはトルーマンに機密電報を送り、「広島への攻撃は、この新しい力が正義の力となるか邪悪の力となるか、の可能性を持っていることを証明した。あなたと私は、この大戦争を統括する政府の元首として、世界の平和を促進するために、この偉大な力を我々の国益達成のためではなく、人間性を守る道具として利用する意思を表明した共同宣言を発表すべきだ」と述べた。
それから7カ月後、1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で、スターリンの冷酷な政府を厳しく攻撃した「鉄のカーテン」の演説をし、「国際連合は武装し、キリスト教文明を共産主義の脅威から護らねばならない」と言った。
トルーマン大統領も聴講していた。

ソ連封じ込め
トルーマンは、国連加盟国に原子力エネルギーの情報を提供すべきではないかというスティムソン陸軍長官の提案について、閣僚全員に意見を差し出すよう求めた。
「独占を」という意見もあれば、「完全公開」という意見まで様々だったが、ソ連の侵略的政策との絡みで、トルーマンがアメリカの原爆独占を続ける決定を出すのは当然であった。
1947(昭和22)年9月26日、新設された国家安全保障会議(National Security Council, NSC)は、ホワイト・ハウスでの最初の会合を開いた。そこで、CIAの最初の正式報告が提出され、アメリカの外交政策が明確にされた。「ソ連封じ込めという観点から、地域の重要順位は、⑴西ヨーロッパ、⑵中近東、 ⑶極東となる。日本は、ソ連極東地域に対抗する力として早く発展する資質を持つ唯一の地域なので重要である」

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日の名残りThe Remains of the Day

日の名残り 「日の名残り(The Remains of the Day)」は、ノーベル文学賞を受賞した英国の作家カズオ・イシグロ氏の作品です。歴史的背景は、2つの世界大戦のはざまの、やや没落しつつある英国。主人公スティーブンスは、有力貴族ダーリントン卿の執事。ダーリントン卿を骨の髄まで真髄して忠誠を尽くそうとする。「執事道」を究めた成功者と自認している。ダーリントン卿のもとには世界中(といっても米国を含む欧米諸国だが)の卿の人徳をしたいお忍びで相談に来る。卿は、来る人拒まずで常に公平を理想としていた人徳者。国際会議や条約締結の下準備として、ダーリントン卿の屋敷を借り、丁々発止の議論が行われている。そのため、スティーブンスは執事の仕事を通して各国の主要な人々の世話をする機会があり、自分も世界を動かす役割の一部として貢献していることに自負心を持っている。
しかし、当時の外交は、実際のこのようにして動かされていた一面もあったようです。ダーリントン卿自身もこのような場を提供することが平和と国際正義実現のためと思い精力的にホスト役を引き受けていたようだ。客の一人に「普通選挙だ民主主義だといってみても、婦人会の人々が戦争遂行なんてできるわけがない。」と言わせている。各国のエリート達が腹を割って話し合いをする場が必要なわけだ。しかし、戦争に対する危機感とそれに伴って台頭してくる国家主義によって、話し合いで解決しようという土壌は次第に失われていく。結局、第二次世界大戦後にはダーリントン、対独協力者として失脚し、屋敷は米国の金持ちファラディー氏のものになり、スティーブンスは、屋敷の管理人(肩書は今まで通り執事だが)として再雇用されることに。スティーブンスは、主人からもらった休暇を使って、元屋敷で働いていた女中頭を再雇用する目的で旅をする。旅の途中で色々な経験をする。なんせ主人公は人生ほとんどの期間、屋敷の中から外へ出たことがなかったのだ。また、実はその女中頭が、自分にたいして恋心があったこと(執事の仕事に夢中で気がつかなった)を初めて知る。現在は彼女は結婚していて孫が複数いることを知らされる。さすがに今までの自分の価値観に疑問を持つようになり、新しい人生を始めることを決意する。
「執事道」、結構日本の武士道と一脈通じるところがあるのでは。武士だって、主君のために命を捨てる覚悟を持てるのは、その主君を真から尊敬してないとできないこと。また、現在の外交の場でも、表向きニュースで扱われる動きの裏では、プライベートな話し合いの場が重要であるという事実は変わっていないのではなかろうか。いろいろと考えさせられる課題の多い良い作品だと思います。訳者「土屋政雄」氏の訳も読みやすい。
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ハイレ・セラシエ皇帝

エチオピア国旗 帝国主義時代のヨーロッパ諸国にとっては、海外に植民地を持つことがその国のステータスシンボルであったようだ。イギリスはインド、カナダ、オーストラリアの他、アフリカ大陸には南アフリカ、東アフリカ(タンザニア、ケニア)を植民地化する。インドシナ半島も領有していたフランスも負けじと西アフリカ一帯を植民地化する。オランダはインドネシア(蘭領インド)、日本だって朝鮮、台湾、樺太などを植民地化、合衆国もフィリピンをスペインから奪い取る。ベルギーだってアフリカのコンゴを植民地化。そのようなヨーロッパ列強国によるアフリカの植民地化(アフリカ分割)が進む中、19世紀後半イタリアはエチオピアに強引に介入を始め、1885年に占領し、1889年、ウッチャリ条約によりエチオピアはエリトリアをイタリアの支配権を奪い取る(第一次エチオピア戦争)。国家統一が進みこれから発展するはずのエチオピアにとっては全く迷惑な話だろう。また、同年、隣国ソマリアがイタリア領となる。
独立国エチオピアへの植民を狙うイタリアはメネリク2世の帝位襲名を支援することで、間接的にエチオピアに影響力を行使することを計画していた。そのため、現地には1万人前後の兵士しか派遣されていなかったが、これを好機と見たメネリク2世はイタリアとの協定を破棄して開戦。単に数で上回れるだけでなく、陸軍がフランスの支援で高度な近代化を成し遂げていたのも大きな要因であった。アドワの戦いでエチオピア軍15万とイタリア軍1万が衝突する。
ハイレ・セラシエ1 終結後の1906年にはエチオピアに関する英仏伊三国協定が結ばれ、エチオピアにおける三国の利益保護のために協力することが決めらる。エチオピアは蚊帳の外。1925年にベニート・ムッソリーニがイタリア首相に就任する。 領土拡大を図るイタリアはドゥーチェ・ムッソリーニの指導の下、国境紛争を口実に再びエチオピアに侵攻した。数十年の間に近代的装備を失いつつあったエチオピア軍に圧勝し、皇帝ハイレ・セラシエ1世は亡命してイタリア国王がエチオピア皇帝を兼任した(第二次エチオピア戦争)。
この際、エチオピア政府は国際連盟にイタリアの侵略を訴えるが、効果のある解決策にはならなかったという。国際紛争の解決において大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だがイタリアに対して実効的ではなかった。しかし、イタリアは孤立からドイツおよび日本と結ぶようになり、枢軸国を形成する道をたどることになる。
1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐するとハイレ・セラシエが帰国し、軍の近代化を進めることとなる。

【ハイレ・セラシエ皇帝】
1930年4月にエチオピア帝国皇帝に即位。1931年7月16日に大日本帝国憲法を範とし、7章55条から成るエチオピア帝国初の成文憲法たる「エチオピア1931年憲法」を制定。しかしながら、実態は絶対主義的な欽定憲法であり、社会体制そのものの改革には手をつけず、ガバルと呼ばれる小作地制度も温存された。
ハイレ・セラシエ2 しかし、1934年イタリア・ファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国が「アドワの報復」を掲げてエチオピアに進攻、第二次エチオピア戦争が勃発。国際連盟でエチオピアはイタリアへの強制措置を訴えるもイギリスとフランスの対応が誠意を欠いたものであったために限定的な経済制裁しか行われず、翌1936年3月のマイチァウの戦いでイタリア軍は毒ガスを用いて帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させる。その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世は5月2日に鉄道でジブチに向かい、ジブチを経由してイギリスのロンドンに亡命した。その間首都アディスアベバは5月5日に陥落。
1936年から1941年までのエチオピアはイタリア領東アフリカ帝国としてファシスト・イタリアに統治された。1939年の第二次世界大戦勃発後、東アフリカ戦線 (第二次世界大戦)にて枢軸国のイタリア軍と連合国のイギリス軍の激戦を経て、1941年にエチオピアはイギリス軍に解放され、5月5日に皇帝ハイレ・セラシエ1世は凱旋帰国。
アフリカ分割 国際舞台での活躍;
1945年の第二次世界大戦終結後は、かつて国際連盟で自身が訴えた集団安全保障の実践として朝鮮戦争の国連軍にエチオピア軍を参加させた。また、コンゴ動乱ではコンゴ国連軍に真っ先に参加した国の1つであった。
外交面では朝鮮戦争に参戦するなど冷戦構造の中で西側寄りながら、ソビエト連邦や中華人民共和国のような東側の国々とも国交を築き、1955年のバンドンのアジア・アフリカ会議や1961年のベオグラードの非同盟諸国首脳会議に出席して非同盟中立を掲げ、1963年にはアディスアベバで西側寄りのアフリカ諸国であるモンロビア・グループと東側寄りのアフリカ諸国であるカサブランカ・グループを汎アフリカ主義に基づいてまとめあげたアフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合)の初代議長に就き、アラブ諸国とは同じ第三世界として連携しつつイスラエルとも歴史的な繋がりから軍事協力を行っていた。国際的に孤立していたラテンアメリカの黒人国家ハイチの独裁者であったフランソワ・デュヴァリエは外国指導者のハイチ訪問を唯一ハイレ・セラシエ1世にだけ認めた。内政面では憲法改正、軍の近代化などの改革を行うが、依然として専制政治を続けて権力分立はされず、議会に政党を認めず、封建体制を維持したため、経済面は発展せず国民の生活は悪化の一途を辿り、1960年代の国民一人当たりの年間所得は平均わずか70ドルという世界最貧国の一つに転落するなどさまざまな矛盾を国内に生み出していた。1960年には、皇太子アスファを擁立した陸軍近衛部隊のクーデター未遂事件が発生する。
なかんずく、1970年頃からの深刻な飢饉と、スエズ運河閉鎖による原油価格高騰から来るインフレの悪化は国民生活を苦しめ、一部支配層の農作物の隠匿から餓死者が農村部で増加するなど、エチオピア社会は大混乱となったが、皇帝は何ら対応策を取らず、逆に飢饉を隠蔽するなど、国際社会の非難を浴びた。
1973年以降、ストライキやデモが頻発し、エリトリアでは内戦が発生し、事態は悪化の一途を辿った。折悪しくも、皇帝が宮殿内に飼育しているペットのライオンに肉を与えている写真が発表され、深刻な食糧難に苦しむ国民を激怒させた。1973年9月には皇帝の孫イスカンデル・テスタ海軍副総督が、銃を突きつけて退位を迫る事件が起こり、皇帝の権威は政府内部でも著しく低下した。
退位・死去;
1974年には皇帝自身による不正が発覚するなど、国内におけるカリスマ性は地に堕ち、同年2月には軍が反乱を起こし、帝政打倒の声が高まった。皇帝はエンデルカチュ・マコンネンを首相に任命し、立憲君主制への移行や土地改革などを公約するが、時すでに遅く、民衆によるゼネスト、デモ、若手将校を中心とする改革集団「軍部調整委員会」の成立、軍部による政府要人の拘束などが公然と行われた。
そんな騒然とした雰囲気の1974年9月2日早朝、皇帝はアディスアベバの宮殿内で陸軍のクーデターにより逮捕・廃位され、拘禁中の1975年に暗殺(犯人はメンギスツという説もある。また、1997年にエチオピア当局は廃位直後に射殺されたと発表)された。
死後;
長らく遺骨は行方不明であったが、メンギスツ政権崩壊後の1992年に旧宮殿敷地内から発掘され、2000年にアディスアベバの至聖三者大聖堂内の墓地に埋葬された。なお、息子のアスファは妹等と共にアメリカのニューヨーク州に逃れ、慎ましく過ごすこととなり、1989年には皇帝アムハ・セラシエ1世を称したが、1997年にバージニア州で死去している。アスファの息子ゼラ・ヤコブは現在、エチオピアのアディスアベバに戻って居住している。
アディスアベバのアフリカ連合本部前にはそのアフリカ独立運動とアフリカ統一運動への功績を称えてハイレ・セラシエ1世の銅像が設置されている。
ハイレ・セラシエ3 結局、エチオピア国民は、独裁者である皇帝を廃位したものの、メンギスツというより専制的な独裁者に国を任せることになってしまった。皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際政治の舞台での活躍を見ると寧ろ名君に近い。結局、彼の失敗は経済政策だったのか。カリスマ性のある皇帝は、国民は過剰な期待を寄せてしまったようだ。チャンとした政策ブレーンを育てられなかったんでしょうね。軍人の扇動者たちは、自分は何もする能力は無くても、失敗をあげつらうのは得意な人達ばかりだ。ハイレ・セラシエ1世は明治維新の頃の日本をモデルにしたいと考えていたようだ。しかし、明治天皇はカリスマ性があったものの独裁者ではなかった。多分ハイレ・セラシエ1世は生格的には独裁者に向かないのに無理やり独裁者にされてしまったようだ。だから、断固たる対応が取れずに優柔不断のまま沈没してしまったんでしょう。しかし、第二次世界大戦後の国の舵取りはどこの国も大変みたいだったようだ。ソ連だってスターリンの独裁で経済は停滞、中国だって毛沢東時代の経済は貧しいままだ。どうすれば良かったのか答えを探すのは難しいでしょうね。
ハイレ・セラシエは1956年11月に戦後初めて日本を訪れた国家元首の国賓であり、満州国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って日本から歓迎された。また、1970年(大阪万博観覧のため)の際も来日していた。写真皇帝の両側の方は昭和天皇ご夫妻です。
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イラン革命(انقلاب ۱۳۵۷ ایران‎)

パーレビ皇帝 イラン革命は1978年1月に始まった革命である。国王による専制といっても、国民の生活への不満、海外からの外圧が無ければ、革命は起こらない。でもこれを契機(けいき)に、イランは何故か強硬な反米国家になってしまう。あるいはアメリカが嫌イランになったのか。この状態は2019年の現在まで40年以上も続いている。そもそも、イラン革命が専制王政を倒した民主主義革命ならば、民主化の旗手を自認するアメリカにとっては喜ばしいことではあっても、敵対する状態は変だ。

パフラヴィー朝下のイランは、西側諸国のアドバイスによる国際戦略で、脱イスラム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。国民の合意無き急進的すぎる改革上からの改革を否定したのだから、この革命は民主主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。また、イスラム化を通した反西欧化、反キリスト教化を謳った宗教革命の色が強い。

皇帝は、1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を強く推し進めようとした。しかしそれがかえって、宗教勢力や保守勢力の反発を招く。また、イラン国民のなかには、政府をアメリカの傀儡政権であると認識するものもいた。パフラヴィー皇帝は、自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。イランは有望な産油国。イギリスに肩代わりして米国がイランを傘下に置きたいと考えていることは勿論明白。国民の意識の中に反西欧、反キリスト教の精神が根強いことも考慮しないといけない。つまり単なる政治的な変革を越えて、宗教的、文化的、思想的な大改革であったことを見逃してはならない。

ホメイニー氏 亡命中のルーホッラー・ホメイニー氏を精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とする革命勢力が革命の中心。1979年、4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。国家の根本理念がイスラム教、世界初の宗教に基づく民主国家が成立。

この革命の特徴
この革命がまったく民衆自身によって成就されたことである。冷戦下の1970年代にあって、米国もソ連も外部から支援はしていないようだ。 当時は東西冷戦のさなかで、アメリカ合衆国とソ連の覇権争いと、その勢力圏下の国や民間組織が、アメリカ合衆国やソ連の代理としての戦争や軍事紛争、政治的・経済的な紛争が世界的に発生・継続していた国際情勢だった。この革命の場合は反米・反キリスト教を掲げながらも、ソ連には依存せず、インドやインドネシアのように米ソのどちらの勢力にも加わらない中立の姿勢を堅持し、第三世界の自立性の強化を歴史的に実証し、当時第三の勢力として実力をつけつつあった第三世界の傾向を強烈に示したのがこの革命だった。

イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国連邦政府が背後から支援して樹立した傀儡政権だったパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。米英はこの革命で石油の利権を失うことを最も懸念していたのでしょう。 1979年11月には、イランアメリカ大使館人質事件が起こり、アメリカは1980年4月にイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動。また西側諸国に発注していた、兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす。

一方、サウジアラビア、イラクなどの周辺のアラブ諸国の多くは、同じイスラム今日でもスンナ派というグループに属しており、十二イマーム派を含むシーア派とはやや敵対的な関係にある。反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム全体にも波及することに対して強い恐怖感を抱く。 隣国イラクがアメリカの軍事支援を得て、イランを侵攻、イラン・イラク戦争が勃発。この戦争は8年間も続く長期戦。 また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻も、ソ連がイスラム革命のアフガニスタンへの波及を防ぎたいと考えたのも要因とされている。

革命当初、欧米ではイラン・イスラム共和国体制を短命であると見ていた。西欧にとって、革命とその体制は信じがたい衝撃で、こんな体制が何年にも渡って継続するとは、まるで予想していなかった。だから、経済制裁を続けていればそのうち崩壊するだろうという戦略を続けている。しかし、四十年以上もこの革命体制は欧米の激しい干渉にさらされながらも継続しているのが現実だ。

革命後、人々は国王という共通の敵を失い、政治集団内では新体制を巡り激しい権力闘争に突入したようだ。これはどこの国でも共通にみられる現象。最終的にホメイニーを頂点とするイスラム法学者が統治する体制が固まり、そこではイスラム法が施行されるイスラム的社会が目指されることになる。
しかし、イランにはイスラムの他にも少数ではあるが複数の宗教が存在している。このような宗教少数派の一部、すなわちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒は、公認の宗教少数派としてイラン・イスラム共和国憲法第1章第13条で認められている。彼らが運営する私立小学校では、教育省が作成した宗教少数派用の教科書に従って宗教教育を実施することが義務付けられている。
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パーレビ朝

パフラヴィー朝(Pahlavi)は1925年から1979年までイランを統治した、イラン最後の王朝である。パフレヴィー朝、パーレビ朝、パーラヴィ朝とも呼ばれる。確か日本の新聞ではパーレビ国王と記されていた。
歴史: カージャール朝ペルシア帝国がイギリスとソビエト・ロシアによる干渉に苦しむ中、ペルシア・コサック旅団の軍人レザー・ハーンは1921年にクーデターを起こし、1925年にレザー・シャーとして皇帝に即位。カージャール朝に代わってパーレビ朝が成立。
初代皇帝レザー・シャーは軍事力を背景に中央集権化を進め、近代国家形成を目指して法制などを西欧化する改革を行い、1928年には不平等条約の撤廃に成功した。第二次世界大戦で、レザー・シャーは英ソによる支配からの脱却を目指して親ナチス・ドイツ政策に転換したが、逆にイラン進駐を招いて失脚。1941年9月16日、第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーが即位。
1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニーがソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立。1946年12月15日、イラン軍の侵攻にあい崩壊。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。1949年に反植民地主義のトゥーデ党(イラン共産党)が非合法化される。
1951年にモハンマド・モサッデクが首相に就任した。1951年のアーバーダーン危機(1951年~1954年)では、モハンマド・モサッデク首相がアングロ・イラニアン石油会社 (AIOC)を国有化。1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、親ソ政策を推進。このことはアメリカの反感を買い、1953年にMI6とアメリカ合衆国の協力のもと、アジャックス作戦でモサッデクを失脚させ、親米英的なモハンマド・レザー・シャーが権力を回復した。1955年にはCENTOに加盟し、西側陣営に加わった。
モハンマド・レザー・シャーは、アメリカの支援を受けて「白色革命」と呼ばれる石油利潤を元にした工業化と近代化を進める。しかし、原油価格の下落と急速な近代化の失敗から経済危機を招く。ルーホッラー・ホメイニー氏は、白色革命を批判しなかったが皇帝の独裁的な性格を非難して抵抗運動を呼びかけ、反皇帝運動が激化。1964年、ルーホッラー・ホメイニーは国外追放を受け亡命する。
1979年にルーホッラー・ホメイニーを指導者としてイラン革命が勃発すると、モハンマド・レザー・シャーはエジプトに亡命してパフラヴィー朝は崩壊し、イラン・イスラム共和国が成立。 モハンマド・レザー・シャー(在位:1941年~1979年)は、何故か日本のマスコミでは「皇帝」でなく「パーレビ国王」と呼ばれていた。
どうも、イランの歴史を見るとパーレビ朝自体が簒奪政権のようで、国民の信頼を獲得してなかったようだ。また、時代的には東西冷戦のため両陣営からの横槍も多く、国の舵取りも容易ではないようだ。また、英米による西アジア地域の弱体化戦略、「分断して統治せよ。」の実践もあったようだ。 クルド人の造ったクルディスタン共和国が潰されてことも気の毒なこと。独立を求めるクルド人勢力の存在は、未だに中東の不安定の原因となっている。イスラエルの存在もそうだ。英国がわざと紛争の種を置いて行った結果だ。
イランは、世界史の中では、ヨーロッパよりも遥かに先進地で文化的な誇りもある。思いつくままでも、古代ギリシャと戦ったアケメネス朝ペルシアやその後継のササン朝ペルシア、セレウコス朝、ウマイヤ朝、イルハン国など、色々な王朝名が出て来る。今後も西アジア地域のリーダ的存在としての動向が注目される。
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盛岡の偉人達

文学系 政治系 実業界 特別枠

盛岡という所は、なかなか人材の豊富な土地である。以下、一例を挙げたが他に漏れている方々も多いかも。筆者の浅学のためである。しかし、時代を経ても色あせぬ業績の多くは今後も受け継がれていく価値のあるものが多いでしょう。筆者が盛岡の高校を卒業したため我田引水的な評価もあると思われる方も多いでしょうが、そこはご容赦下さい。

文学系


野村胡堂(1882年~1963年)

盛岡尋常中学校(現:盛岡第一高等学校)卒。『銭形平次捕物控』で有名です。空想科学小説『二万年前』等の著作も。私は読んだことありませんがネットオークションではかなり高値がついていました。

金田一京助(1882年~1971年)

石川啄木とは盛岡高等小学校(現下橋中学校)以来の友人であり,啄木の死まで親交が続いた。東京帝国大学時代,アイヌ語に興味を持つ。のちに北海道へ行き現地を調査,アイヌ民族に伝わる叙事詩ユーカラの存在に注目する。日本でアイヌの研究をするならこの人抜きには語れません。

石川啄木(1886年~1912年)

盛岡ゆかりの詩人。1895年(明治28年),幼きころより優秀だった啄木は岩手郡下に一つしかない高等小学校へ通うため,親元を離れて盛岡で暮らす。その後1902年(明治35年)に盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)を中退するまでの7年間を盛岡で過ごしている。『一握の砂』『悲しき玩具』早世の詩人の業績は偉大です。短歌の世界この人を越える存在はこれからもなかなか出てこないでしょう。

宮澤賢治(1896年~1933年)

909年(明治42年)4月,賢治は親元を離れて盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)に入学する。この間仏教や文学に親しみ, 1915年(大正4年)4月,盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に入学,成績優秀な賢治は関豊太郎教授に目をかけられ,地質や土壌についての教えを受けた。農学者だった訳。『注文の多い料理店』は今でも名作です。盛岡第一高等学校42年卒業生を始めとする記念碑の除幕式の様子をPDFファイルに添付します。新しいウィンドウで表示します。
宮沢賢治記念碑

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政治系


原敬(1856年~1921年)

1906年(明治39年)1月,第1次西園寺内閣で内務大臣(のち逓信(ていしん)大臣を兼務)となるまで原は郵便報知新聞記者,天津領事,農商務省大臣秘書官,外務省通商局局長,大阪毎日新聞社社長など多くの職を務める。特に農商務省時代には“カミソリ陸奥”の異名を持つ陸奥宗光の知遇を得た。のち1918年(大正7年)9月29日に第19代内閣総理大臣となるまで,第2次西園寺内閣における内務大臣兼鉄道院総裁,第1次山本内閣における内務大臣を歴任した。原は平民宰相と呼ばれ,近代日本における政治家の中でもその評価は高い。これは明治初期より続いた薩摩(鹿児島),長州(山口)等の出身者における政治の独占,いわゆる藩閥政治に対して政党政治で対抗し,第3代政友会総裁として政党内閣を組閣したことが理由として大きい。しかし,1921年(大正10年)11月4日東京駅構内で,原の政治姿勢に反対する19歳の青年に刺殺される。原は京都に向かう途中だった。

新渡戸稲造(1862年~1933年)

札幌農学校在学中にキリスト教の洗礼を受け,卒業後にアメリカ,ドイツへ留学し農学,経済学などを学ぶ。国際連盟の設立時にはその深い学識と高潔な人格のため事務次長に推され,スイスに渡り連盟の発展に寄与しますが、日本が連盟脱退の際には、日本の立場を国際的の理解してもらうため奔走するが、日本側でも海外でも理解されなかったようです。日本人の道徳観を世界に示そうとした、英語で書かれた著書『武士道』は、世界的なベストセラー。日本の英語の教科書にも是非取り入れて欲しい教材です。旧5,000円札の肖像として人々に親しまれています。

米内光政(1880年~1948年)

盛岡尋常中学校を(現:盛岡第一高等学校)へて海軍兵学校へ進み,卒業後海軍少尉に任官,日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し,その地の実情を直に見聞した。日本と他国とを冷静に見比べる米内の姿勢は,このころに培われた。1937年(昭和12年),林内閣のもとで海軍大臣に就任し,海軍次官を務めた山本五十六(いそろく)とともに,陸軍の主張する三国同盟に反対し続けた。天皇の信頼も厚く,1940年(昭和15年)には岩手県出身者として3人目となる内閣総理大臣に就任している。しかし陸軍の反対にあい半年後に退任,米内(よない)が政治の表舞台から去るとともに日独伊三国同盟は締結され,日本は太平洋戦争へと突き進むこととなる。昭和天皇をして「あの時、米内がいてくれたなら。」と言わせる人物だったようだ。

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実業界


鹿島精一(1875年~1947年)

1888年(明治21年),盛岡~一関間の鉄道敷設が開始され,工事を請け負った。この縁で鹿島組組長鹿島岩蔵の知遇を得た精一は県立岩手中学校(現:盛岡第一高等学校)卒業後に上京,岩蔵の援助を得て東京帝国大学土木工学科を卒業した。のち岩蔵の長女糸子と結婚,婿養子となって鹿島を名乗り,1912年(明治45年)の岩蔵逝去後は鹿島組3代目組長に就任した。精一は1930年(昭和5年)に同社を株式会社に改め,株式会社鹿島組初代社長となる。この間にそれまでの経営から堅実で近代的な方針に切り替え,拡張された事業を鉄道建設に一本化した。
“鉄道の鹿島”,この名は東海道線における熱海‐三島間の「丹那(たんな)トンネル」の難工事を行ったことによって与えられた。全長7.8キロメートルの当時日本一の長さに加え,鹿島組が請け負った西口(三島口)は地盤が脆弱な難工事区域で,これまでの工法は役に立たなかった。精一は陣頭に立ちエアーロック工法,セメント注入法などを新たに発案,17年の歳月をかけて1933年(昭和8年)にトンネルを貫通させた。この工事で開発された多くの工法や経験,技術が,“世界の鹿島”の基礎を作り上げたと言える。また,東京土木建築業組合長,日本土木建築請負業者連合会長,土木学会会長などを歴任,土木建築業界全体の発展にも貢献した。精一は自らが岩蔵のおかげで道が開かれたように,向学心を持ちながらも進学できない学生に対して援助を惜しまなかった。

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特別枠


保阪 嘉内(ほさか かない:1896年~1937年)

日本の詩人。宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカンパネルラのモデルとも言われる。宮沢賢治を語るにはこの人を忘れてはならないようだ。 彼自身は山梨県の出身だが、盛岡高等農林学校農学科第二部に入学(1916)する。寄宿舎(自啓寮)では賢治と同室となる。山梨の農民生活の改善が進学の目的だったとか。この点も賢治と通じるものがある。嘉内が石川啄木に興味を持っていることを知った賢治は更に嘉内に惹かれて行く。どうも、嘉内の方が個性も強く、その後の宮沢賢治の生き方に大きな影響を与えたらしい。宇宙とか地質学の強い興味を持っている点も2人共通だ。
しかし、嘉内は1918年3月発行の第6号に寄稿した「社会と自分」という文章の中に、「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節があったことが問題視され、退学処分となる。賢治は学校当局に再考を求めたが処分は覆らず、嘉内は退学が決まり寮を出る。 嘉内は東京で明治大学に学籍を置き、農業を支える志を貫こうと札幌もしくは駒場の農科大学への進学に向け勉強に取り組んだが、母の急死に遭い断念し、山梨に戻って農業活動に入る。1919年11月から1年間は志願兵として近衛輜重兵大隊に応召。除隊後は山梨で職に就く傍ら、勤務演習に数度参加して1923年に士官(少尉)に任じられた。
農林学校を離れた後も、賢治と嘉内は手紙で交流を重ねていたようだ。一度、上野の帝国図書館で面会したとされるが、その日の嘉内の日記では「宮澤賢治 面会来」と書かれた文字を上から斜線で消している。この時期を境に賢治から嘉内への手紙の数は大きく減り、以後再び会うことはなかったとされる。二人の間に何があったのかは誰にも分からない。
1924年から1925年まで山梨日日新聞に文芸記者として勤務し、短歌欄に投稿したさかゑと結婚、その後、念願の農業生活に入る。柳宗悦と小宮山清三らと諏訪で講演した1926年と、1927年、1929年に子どもをさずかる。1928年には歌集出版を企図したが、出版社の火災で預けていた歌稿を失い断念した。営農中に在郷軍人会の分会長や駒井村会議員といった役職にも就いていたらしい。
アメリカで農学を究めようとした小菅健吉と保坂嘉内は、小菅渡米の1918年10月10日付けの絵はがきに始まり、20通を超すはがきと手紙の記録がある。そのなかに英文で記されたものも混じる点から、この期間に健吉経由でアメリカの農業指導の情報を得ていたことが推察される。
1926年7月に文部省が青年訓練所を開くと、初等教育で学業を終えた青年は軍事教練と学問の補習を受けることができた。山梨県を代表する「青年訓練所充用睦合実業補習学校」の記録が残っている。青年訓練所で指導をするうち青年教育に情熱を見出したらしい。
保阪と宮沢の二人は、その後の人生は異なったものの心の中では一緒に銀河鉄道で旅をしていた友人だったのでしょう。
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