日本の歴史の部屋
日本の歴史と言っても、実際には世界の歴史や地球の歴史と密接に関連している。古代、中世、近代、現代といっても明確な線引きはありません。あくまでも便宜上。でも、若干目次が見やすくなったのでは。
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後醍醐天皇 | 建武の新政 | 中先代の乱 | 北条 時行 | |
建武の新政 | 室町幕府 | 足利将軍 | ||
松永 久秀 | 三好 長慶 | |||
桶狭間の戦い | 信長の最強のライバル | 本能寺の変の真相 | 織田信忠 | 龍造寺隆信 |
小牧・長久手の戦い | 関ケ原の戦い | |||
柳川一件(やながわいっけん) | 慶安の変 | 水野忠邦 | ||
間宮海峡 | 横須賀造船所 |
明治十四年の政変 | ||||
日比谷焼打事件 | 1918年米騒動 | オーランド諸島紛争と新渡戸稲造 | 米内光政 | 山本 五十六 |
米国の人種差別に立ち向かった日系人 | 【日系人の強制収容所】 | |||
平家・海軍・国際派 | 日本の歴史と英国の歴史 | ビキニ事件 | 翼、ふたたび | |
平成の終わり | 小説吉田学校 | 吉田茂 | ||
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完新世
新生代第四紀完新世(かんしんせい、Holocene)とは地質時代区分のうちで最も新しい時代。日本の歴史を語る際には、すべての出来事は完新世に起こった事柄です。かつての沖積世(Alluvium)と言われていたものとほぼ同義。
最終氷期が終わる約1万年前から現在まで(近未来も含む)を指し、その境界は、大陸ヨーロッパにおける氷床の消滅をもって定義されている。完新世の前は更新世、以前は洪積世と呼ばれていた。
気候環境が一転して地球全体が温暖化し、氷河がモレーン(堆石)を残して後退。地球各地が湿潤化して森林が増加、逆に草原が減少してマンモスやトナカイなどの大型哺乳類の生息環境が縮小し、彼らを絶滅させる。人類が狩りつくした可能性もあるが。
期間が短く大規模な大陸の移動などはないが、初期には、大陸氷床の融解によって海面が急激に上昇する。縄文海進といって埼玉県の中央部あたりまで海が迫っていた。縄文時代の貝塚の分布を見るとこのことは明かだ。特に完新世の気候最温暖期と呼ばれる時代には、現在より3メートルから5メートルほど陸地に対する海面の相対的な高さが高かったとされる。その後、海面は緩やかに下降し、海水準は2,000年前ほどから比較的安定していると推定されている。
スンダランドが海中に没し、現在のインドネシアやフィリピンなどに相当する地域がユーラシア大陸から分離して島となる。ベーリング海に存在した陸橋ベーリンジアが温暖化の海進により水没し、北米大陸はユーラシア大陸から分離する。約7300年前に南九州の鬼界アカホヤが噴火する。同時に巨大地震や巨大津波が発生する。
更新世末から完新世初めにかけて、人類の直接の祖先であるヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)が世界規模で拡散する。人類の生活はそれまで、遊動しながらの狩猟(漁労)採集活動生活であったが、大きな川の流域などで定住農耕牧畜生活に大きく転換する。徐々に人類が文明を築き始め人類史にとって重要変換点となる。
【スンダランドとは】
スンダランド(Sundaland)とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷期に形成した広大な沖積平野の呼称だそうだ。これが海に水没するのは縄文海進と同じ時期だ。中国の黄海も陸地だったらしい。
スンダランドと想定されている範囲は、現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たるようだ。氷期には、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であったらしい。最近では、紀元前70000年頃から紀元前14000年頃にかけてのヴュルム氷期には陸地であったとされる。紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に没した。
オセアニアにもオーストラリアとニューギニアの間に海面下にしずんだ平野がありサフルランドと呼ばれている。出アフリカ後南ルートで東南アジアに至ったオーストラロイドは、スンダランドと陸続きになっていたジャワ島やバリ島から海を渡りオセアニアに移住した。アボリジニ達のご先祖様か。縄文人の先祖も北回り説、南回り説の二つがありまだ決着がついていないようだ。
【鬼界カルデラとアカホヤ】
九州の南に鬼界カルデラと巨大な噴火の跡が残されている。鬼界カルデラ(きかいカルデラ)は、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にある。薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島がカルデラ北縁に相当。薩摩硫黄島はランクAの活火山に指定されている。つまり、今でも大噴火の危険がある場所なのだ。
この火山が縄文時代の中期、約7,300年前に大爆発を起こしたらしい。更に有史以前にもたびたび爆発を起こしたらしいことも分かっている。
昭和初期に付近の島々を調査した地質学者の松本唯一は、ここに巨大なカルデラが存在していることを指摘し鬼界ヶ島にちなんで鬼界火山と名付け、1943年に鬼界カルデラとして学会に提唱。1976年にはアカホヤと呼ばれていた地層がこのカルデラを起源としていることが確認された。2016年から2017年かけて行われた海底調査の結果、直径約10km、高さ約600m、体積約30平方kmにもなる巨大な溶岩ドームが確認され、現在も活発な噴火活動が続いている。
当時居住していた縄文人の生活にも大打撃を与えたらしいい。アカホヤは、栄養分に乏しく農業には著しく不適との説もあり、縄文遺跡が主に東日本を中心に発見されるのもこの影響があるのかも知れない。このカルデラ型の噴火の頻度と言うものは約6000年に一度程度のものらしいが、もし今生じれば日本一国丸々絶滅させるぐらいの巨大な規模になる可能性もあるとのこと。
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縄文時代
縄文時代は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代です。
旧石器時代と縄文時代の違い、つまり縄文時代の始まりは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられている。一方終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機としているが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までと多くの説があり、正確に定義できていない。なお、沖縄県や東北北部、北海道では縄文時代の生活様式がある程度継承されるためなおさら不鮮明。
だから、縄文から弥生への変化は非常に段階的で、はっきりした線引きは出来ないということらしい。縄文時代は、日本の歴史ではその後の日本の骨格が形造られる重要な時期で本当は面白いことがいっぱいあるのだと思われますが、なんせ書かれた記録が無いことから未だに不明な点が多く、今後の研究が待たれる分野と言えるでしょう。縄文時代に関するいくつかの疑問点を整理して見たい。
1.日本人のルーツについて
旧石器時代にも既に日本列島には人類が到着していたらしいことは分かっているようだ。野尻湖湖畔でナウマンゾウやオオツノシカのような大型動物達を狩っていた旧石器時代の人達。地球環境の温暖化に伴い、大型動物達が絶滅して行き食料としては、小型の哺乳類(ウサギ等)や鳥、魚、貝、木の実などへと食生活を変化させて定住化の道を進んでいく。
全国各地で見つかる貝塚は、この当時の人々が大量に貝を採集していた証拠であろう。温暖化で海水面は上がり(100m位上昇か)、埼玉県の南部地域にも貝塚が発見(例…水子貝塚)されています。この縄文人たちは、旧石器時代の人類の子孫なのでしょうか。あるいは、その後日本にやってきたのでしょうか。どのようなルートで日本に到達したのでしょうか。DNAの解析から、将来このようなことが分かる日が来るかもしれません。
2.縄文土器と文化
縄文土器はどうも世界最古の土器であるらしい。土器の利用は、当初は食料を調理するためのものであろうと思われる。つまり、水を煮立ててその中に食材を何でもブチ込んでいく鍋文化だ。これは、今でも日本の食生活の中心的存在だ。焼肉とパンを食する人たちなら皿があれば十分で、先の尖った円錐型の土器は煮炊きに用いられたのではないかと想像される。縄文土器の芸術性は世界にも誇りうるもの。火炎土器の装飾性は古代人の精神世界が高度な抽象性を確保していたことを伺わせる貴重なメッセージだ。多分土器を製作する専門家集団もいたものと推測できる。
大湯環状列石(秋田県)
一方、日本にも環状列石や環状列柱(木)が存在している。イギリスやヨーロッパでも見られるストーンサークルです。天体観測の拠点だという説もありますが何か宗教的な意味があったことは間違いないでしょう。いずれにせよ人々の定住化によって、このような大規模なシンボル的な構造物の建築が可能になってきます。左は秋田県の大湯環状列石。
3.定住化の始まり
人類の定住化は、農耕の開始によってだとされていた。ところが青森県の三内丸山古墳の発掘で、この地に当時としては500人程度という大規模な集落の後が発見された。しかもこの集落相当長期にわたって(どの程度なのか調べて見たい)継続して存続していたらしい。
集落の周りには実のなる木を計画的の植林し、他にも多種多様な食料を食していたらしく、後世の弥生人よりもはるかにヘルシーな食生活を送っていたようだ。どうも4大文明の発祥の地よりも、周辺地域の方が生活文化は豊かというのが歴史の実態かも。それはそうだ、環境の変化(たいていは悪化)が生活スタイルの変化を促すのだから。地球全体が温暖な縄文時代は、青森県は今の九州ぐらいの気候だったのかもしれない。
大型動物を追って移動生活して世界中に拡散して行って人類が、気候の温暖化と大型動物の減少に合わせて定住化の道を進んで行く。このような動きが世界中で同時並行して進んでいたのだと思う。
4.稲作の始まり
水田耕作の始まりを持って弥生時代とするようですが、稲自体は既に縄文時代に始まっていたようです。また、最近の研究では水田耕作自体も従来考えられていたよりもかなり早い時期に始まっていた可能性も指摘されています。水田を使わない陸稲や、水の中にタネを撒くだけの方法なら、多大な労力を必要としません。ところが、今の水田耕作を見れば分かるように稲作には多大な労力がかかります。つまり、縄文の人達が進んで稲作を取り入れたということは、従来の食糧が不足してきたことが考えられます。温暖化していた縄文時代が寒冷化して来たものと想定されます。このことは過去の気温の変化を調べれば分かります。海岸線が後退して行ったことからだいたいは想定できるでしょうが。
ところで、稲のルーツは未だ良く分かっていません。中国から、朝鮮半島を経由して日本にやってきたとするのが従来の学説ですが、DNAの研究からどうもそうではないらしいと思われているようです。それと中国も朝鮮半島も北の方は稲作には不適です。北京周辺は小麦、米は江南地域です。つまり、南方ルートの可能性もありですね。黄河文明に滅ぼされた長江文明(発掘に既に存在は確認されており、その河姆渡遺跡は稲作文明)の先住民たちが日本に亡命してきて稲作を持ち込んだなんていう話もあるようです。あくまでも仮説段階ですが。
5.日本語の起源
縄文人がどこからやって来たか。移動に伴う言葉の連続性の問題が挙げられる。人は移動しても、言語の基本的構造は変わらないと考えられるからだ。例えば中国語は、1単語1音節、表意文字を用いるため文法は非常に簡素で合理的。良く似ていると言われるのは韓国語。似ているのは膠着語と言われる文法で、個々の単語はかなり異なり同一のルートと見るのは難しそう。一時、古代日本語は韓国語と共通で互いに意思疎通できたとする論文が出たことがあるようですが、結局根拠不十分。単語の類似性だけならroadと道路など英語だって日本語に似ていると主張することも可能である。言語の発展と言うのは文字の無い時代のことなので記録が残っておらず大変難しいと思う。途中で歴史から消えてしまった言葉なども沢山あるのではないかと思われる。
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旧石器捏造事件
旧石器捏造事件は、日本各地で「~原人」ブームを巻き起こした日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、発掘調査に携わっていた考古学研究家の藤村新一氏自らが事前に埋設した石器を自ら掘り出して発見したとする捏造だった事がと発覚した事件。藤村氏は1970年代半ばから各地で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日の毎日新聞朝刊にスクープされ、不正が発覚した。これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の醜聞となり、海外でも報じられた。おそらく世界の考古学史上最大級のスキャンダルとなるでしょう。それまで藤村氏が調査に行けば必ず新発見があり、「ゴッドハンド」として名をとどろかせていた人物だ。
それでは、旧石器の年代は今まで、どのように推定していたのか。石器とは結局石の塊で、それ自身何も語らない。大抵はそれが掘り出された地層の年代から、例えば微花粉化石とか、他の動植物の化石とかから時代を推定するしか方法がない。それに石器と言えども偶然にそのような形をしていないとも限らず、人工による加工を実証することも難しそうだ。結局、藤村氏の悪質な捏造のため、日本の旧石器研究は根本から資料見直しを迫られることになってしまった。石器を打ち欠いた切り口の年代が測定できればいいのでしょうがそのように技術はまだないのかも。
日本に縄文時代より前から人が住みついていたことは、相沢忠洋氏の岩宿遺跡の発掘や、野尻湖の化石調査からほぼ確実と見られています。当時納豆売りの行商をしていた相沢青年から、この石器を見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)等の現場検証もあり、こちらは評価が確定しているようだ。日本の自然環境から人骨化石はほとんど期待できない。そこで石器でも発見されれば大喜び。捏造はそこの心理をうまくついた訳だ。しかし、このような事件が無ければ旧石器考古学は捏造の積み重ねの上に理論を積み重ねさらに可笑しな方向に進む羽目になったわけだから、藤村氏の貢献は非常に貴重なものであったとも言えそうだ。実は考古学の一番大変な作業は、発掘した遺物の時代の確定のようだ。
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縄文の巨大噴火
7300年前、薩摩硫黄島の鬼界カルデラで噴火(アカホヤ噴火)が生じたことが明らかにされつつあります。7300年前の噴火では、火山灰が東北地方まで飛び散り甚大な被害を縄文人に与えたはずだが、もし仮に今起きたならば、日本一国滅亡させかねない災害だったらしい。噴火は数千年に一度の程度の頻度らしいが、いつ起こっても不思議ではなく、予知することもできないという恐ろしい代物だ。VEI=火山爆発指数が8以上という火山は、世界に七ヶ所あり薩摩硫黄島は危険度がトップクラスらしい。
縄文の遺跡は、何故か東日本に多く、西日本には少ないことは以前から謎であった。なるほど、西日本特に九州南部は壊滅的な被害を受けていたのでしょう。過去の遺跡は火山灰の下に埋もれてしまったのかもしれない。北九州あたりに生き残った人たちは、農業をあきらめ、海の民として生きる道を選んだ可能性がある。朝鮮半島の南にはどうも倭人の活躍が目立つようになるが、彼らが積極的に日本本土と大陸との橋渡しを行ったのかもしれない。
一方、日本神話に残されている天照大神が隠れ、日本中が真っ暗になったという天岩戸神話は、鬼界カルデラ大噴火による大災害の記憶なのかもしれない。
天岩戸(あまのいわと)の神話は古事記にも日本書紀にも出ている。7300年前というとBC53世紀ぐらいの昔。縄文中期ぐらいの出来事ではあるが、相当な大事件なので口承伝説として広く日本各地で伝えられてきたようだ。単なる日食のような出来事なら、簡単に忘れられて神話として残るはずも無かろう。昼間でも太陽がオレンジ色にかすんで月のような状態の暗い日々か何日も続き、作物も実らない数か月も続いたとしたら。こんな恐ろしい災害が今後いつ起こるかは予測できないらしい。
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貝塚
農業や遊牧の起源については良く議論されているが、漁業についてはどうも無視されている。四足動物が陸に進出してからも、彼等は食料のかなりの部分を海や川に依存して発展している。
縄文時代の遺跡といえば、貝塚であり、縄文人は当時の食料を陸の小動物や穀類の他、川や海の魚介類にかなりの部分依存していたことが分かる。
縄文時代の生活様式を引き継いで発展してきた、アイヌ文化も狩猟の他、川を上って来る鮭に食料の多くを依存してきた。更に、現代の日本人の食料もかなりのタンパク質を魚に依存しているのが現状だ。しかし、魚が健康食ということで、世界の他の国々も漁業に力を入れるようになって来たので、今や海の漁業資源の枯渇も心配が必要な時代になっている。
貝塚(かいづか)とは、貝類の常食に適した地に居住する先史時代の人々が、日々ごみとして大量に出る貝殻を他の様々な生活廃棄物と共に長年に亘って投棄し続けることで、それらが累積した特定の場所をいう。ただ従来の定説では貝殻の捨て場所と認識されてきたが、貝の加工工場あるいは塩の生産工場のような役割を果たした場所とする解釈もある。貝殻以外にも、鳥獣魚骨など食料の残滓、破損した土器・石器・骨角器などの道具類、焼土や灰なども捨てられていることが多く、また、人骨が発見されることもある。
最終氷期の終焉期(後氷期の到来期)には、長らく寒冷であった地球環境が急速かつ大幅に温暖化していった。その影響は当然ながら人類にも及んでいる。いわゆる縄文海進と言われる時代だ。日本のみならず世界中でこのような状況が進展していたようだ。
影響は食料資源にも現れ、最も顕著な変化として世界各地で大型動物の動物相(ゾウ類、サイ類、オオツノジカ類、バイソン、剣歯虎など)が大きな衰退を見せ、消滅してしまう。マンモス動物群(マンモス、ヘラジカ、バイソンなどで構成される寒冷適応型メガファウナ)とナウマンゾウ・ヤベオオツノジカ動物群(ナウマンゾウとヤベオオツノジカを主とする温暖適応型メガファウナ)が姿を消した日本列島はその代表例である。 人類は新しい環境に即して生活様式を変革する必要に迫られた。その一つが川や湖沼や海に溢れる魚介類の利用の拡大や開始であり、貝類を常食する人間集団の場合にはその居住地域でごみ捨て場として貝塚が形成されるようになった。
**ナウマンゾウ(Palaeoloxodon naumanni )は、日本に生息していたゾウの1種。はっきりとした年代は不明だが遅くとも65万~42万年前頃にはすでに出現、約2万年前頃から衰退し約1万5000年前の新生代更新世後期まで生息していたらしい。ゾウ目ゾウ科に属し、現生のアジアゾウと近縁。大陸からもナウマンゾウとされる化石の発掘例があるが、日本のナウマンゾウと同種であるかどうかは今のところ不明。要するに日本にも象がいた時代があったようだ。残念ながら今はいない。何故か??
肩高2.5メートル - 3メートルで、現生のアジアゾウと比べ、やや小型。氷期の寒冷な気候に適応するため、皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたらしい。
最初の標本は明治時代初期に横須賀で発見され、東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授だったドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマンによって研究、報告された。だからナウマン象なのか。
1962年から1965年まで長野県の野尻湖で実施された4次にわたる発掘調査では、大量のナウマンゾウの化石が見つかった。このときまでナウマンゾウは熱帯性の動物で毛を持っていないと考えられていたが、野尻湖発掘により、やや寒冷な気候のもとにいたことが明らかになった。 野尻湖畔からはナウマンゾウ、ヤベオオツノジカの化石と共に、旧石器時代の石器や骨器が見つかっており、ナウマンゾウは当時の人類の狩猟の対象であったと考えられている。日本においては約2万年前に絶滅したとされるが、これは日本列島に(現生)人類が現れた後期旧石器時代にあたる。
***ヤベオオツノジカ
ヤベオオツノジカは、30万年前から1万2千年前頃(新生代第四紀中期更新世~更新世末)の日本列島に生息していた大型のシカである。ヤベオオツノシカとも記される。日本語名が同じ「オオツノジカ」を冠するものの、ギガンテウスオオツノジカ(名前からすごく大きそう)とは別属別種とされる。
肩高1.8m、体長2.6mに達した大型の鹿。シカ亜科の中で1グループを成すオオツノジカ族は、頭の上に1対の大きな角を発達させており、角の違いが外観上もっとも目立つ特徴。
発見された化石の分布から、日本列島のうちで北海道から九州までに分布していたと考えられている。大陸にはいない日本固有種で、ナウマンゾウとともに更新世の日本の代表的大型哺乳類。本州では多数見つかっているのに対し、北海道での発見は少ない。北海道へは本州から渡っていったと考えられ、その時期は約30万年前または約12万年前?。同じ時代にサハリンから北海道、東日本から中部日本へと南下したヘラジカと異なり、ヤベオオツノジカは温帯系の動物であった。もっとも新しい時代の化石は縄文時代草創期。
後期旧石器時代の人々は、ナウマンゾウやハナイズミモリウシとともにヤベオオツノジカを狩猟の対象にしていたらしい。日本における更新世哺乳類化石の大量出土地としては、長野県にある野尻湖と岩手県(花泉)の遺跡があり、どちらも人間の狩猟・解体によって残されたと考えられている。野尻湖ではナウマンゾウが、ではハナイズミモリウシがそれぞれ最多で、ヤベオオツノジカはどちらの遺跡でも2番目に多い種であった。
いずれにしろ、縄文期には大型の哺乳類は激減したらしく、縄文人多々はより小型の動物を狩るか魚介類に依存するようになり、定住化の道をたどったらしい。
貝塚では、貝殻の炭酸カルシウム成分のために日本列島のような酸性土壌であっても中和され、土壌が有機物由来の考古遺物を保護する作用を持つため、人骨や鳥獣魚骨、骨角器などが比較的良好な保存状態で出土することが多い。貝塚は文字を持たなかった社会を研究するうえで重要視されている。
実は、貝塚は世界各地で発見されており、それまでは自然の堆積現象か居住地のいずれかと考えられていたが、貝殻のほかにも動物の骨や石器・土器が発見されたため、人間の食物の残滓が集積したものと認められるようになったのである。
世界的には、デンマークを中心としたヨーロッパ地域、カナダのブリティシュコロンビアを中心とした北西海岸、アメリカ合衆国メイン州を中心とした大西洋岸、東アジア沿海地域(日本列島を含む)などの、ほぼ同緯度の地域で、ヴュルム氷期(最終氷期)終焉期以降(後氷期の到来以降)に貝塚が出現している。 極東ロシアの沿海地方から東アジアの沿海地域(日本列島・朝鮮半島・中国大陸の沿海地域)にかけての一帯は、世界的に見ても貝塚が濃密に分布する地域である。
縄文時代の貝塚は、日本列島ではおよそ2500個所発見されており、その4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯に残されている。中でも千葉県下に集中しており、とりわけ千葉市内は分布密度が高く、世界最大の貝塚密集地帯になっている。このほか貝塚が集中して分布している地域としては、太平洋沿岸の大きな内湾であり干潟がよく発達した仙台湾や大阪湾などをあげることができる。
東京湾岸にも集中している貝塚であるが、作られ方は時期によって違う。縄文時代早期では、竪穴住居や小さな調理施設である炉穴の中に捨てられている場合が多く、縄文前期にも早期と同様の貝塚が形成されている。縄文中期になると、住居がムラのほぼ中程の広場を囲んで配置されていて、それらの住居に貝塚が残されたので、結果として環状の貝塚の並びが形成されたように見える。加曽利貝塚などがこれに類する。
日本列島は酸性土壌であり、骨などの有機物が残り難い。しかし、貝塚は大量の貝殻に由来する炭酸カルシウムが豊富なために土壌をアルカリ性に保ち、鳥獣や魚などの骨格(動物遺体)がよく保存されているので、当時の生産や海辺の生活を知る動物考古学の観点から貴重な遺跡となっている。
しかし、海岸線が後退していく中で、貝塚が昔の人々の遺したものであるという考えは、忘れられていく。奈良時代にも海岸からかなり離れた場所でありながら誰かが海辺の貝を獲って食べて捨てるという行為を長く続けたことでできあがったと考えられる岡(丘)についての記述があり、その誰かというのは上古の住人で、巨人であったと語っている(丘の上に座って手を海に伸ばして貝を取ったと考えていた)。
日本における貝塚の本格的調査研究は、1877年(明治10年)、アメリカ人動物学者エドワード・S・モースが列車の窓越しに発見して同年中に直ちに行った大森貝塚(大森貝墟)の発掘調査に始まる。大森貝塚は、東京府荏原郡大井村鹿島谷にある貝殻でできた土手に過ぎなかったが、一躍、モースの業績によって貝塚研究の分野では世界に広く知られる遺跡の一つになる。また、日本の考古学の発祥地と見なされることになった。
日本最古とされる貝塚は、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚であり、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両貝塚から出土している。
水子貝塚(みずこかいづか)は、埼玉県富士見市にある貝塚遺跡。国の史跡に指定されており、水子貝塚公園として整備されている。武蔵野台地の新河岸川沿いの縁に位置する縄文時代前期(約5500~6000年前)の遺跡で1917年(大正6年)発見された。1969年(昭和44年)9月9日に国の史跡に指定された。
大規模な環状の貝塚と集落跡があり、これを再現する形で全体が整備された歴史公園で、「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」として1994年(平成6年)に開園。園内には地表に白い陶片を用いて貝塚の規模や分布がわかるように表示されており、中央に大きな芝生広場を設け、5棟の竪穴式住居が復元されている。一部は内部が公開されており、そこに縄文人の生活の様子が展示されている。公園周囲には全長582メートルの遊歩道と、発掘調査で出土した植物の種などを基にして「縄文の森」を復元した。園内南側に木製の展望台があり、再現された「縄文の村」の様子を一望できる。また、園内の一角に水子貝塚から出土した土器などの考古資料を展示した展示館と、富士見市内のその他の遺跡から出土した考古資料を収めた資料館が設けられている。
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縄文文化とは
縄文時代は極めて長い。1万年以上も続く。彼らは当然サピエンスの仲間で、高度な知恵を有し、言語も持っていたはずだ。三内丸山遺跡でも分かるし、現生の狩猟採集民族の調査からも分かってきたことは、彼らが生存ぎりぎりの耐乏生活をしていて、農耕文明が彼等に希望の光を与えたという幻想はいかに誤りであるかということだ。
マクドナルドのハンバーガーをコーラで胃に流しこみ、深夜まで残業をしている現代の労働者と、季節季節の旬の食べ物を楽しみ、皆で集まって余暇を歌や踊りを踊って楽しむ古代人とどちらがより文化的な生活を送っていいるかを現代人は根本から考え直す必要に迫られいる。
アフリカの狩猟民族ブッシュマン達の生活も分かってきている。彼らは食料を求て働くがせいぜい2~3時間程度しか働かない。後は、各々余暇を楽しんでいる。理想的なアウトドア―ライフを実行している。
つまり、縄文人が貧しく何時も飢えていて遊ぶ暇がなく暗い人生を送っていたというのは、全くの偏見で、逆に人は精神的にはだんだん貧しくなって行っている可能性すら出て来る。
縄文人は村をつくって定住生活をしていた。氷河期には、草原で大型の動物を狩って生活していた人々は、地球が温暖化して森林が増えて来たため森の中で食料が調達できるようになり、定住を始めたようだ。古代人類といえども好きで移動生活する馬鹿はいない。つまり定住生活と農耕の開始とは何の因果関係もない。
縄文人は極めてグルメである。火を使って調理するようになり、利用できる素材のメニューがとてつもなく多様化している。一年中、旬のおいしい食材を次々と変えながら毎日の食事を家族✋仲良く楽しんでいたようだ。
縄文の家屋は、いわゆる竪穴式住居。真ん中に囲炉裏があり、火を囲んで一緒に家族で食事を取る。多分リーダが一人いてみんなで平和的話し合いで物事を決めていたんでしょう。いわゆるゴリラ型の社会。群れから出るも入るも自由(自己責任)だ。村には数~数十件件の家屋があるかもしてないが、基本的には血縁関係でつながっているはず。食料は自然の中に沢山あり、働く時間もせいぜい2~3時間程度。その間何をする。複雑な模様をつけた縄文土器やストーンサークルのどの不思議な遺跡。何故彼等は苦労してあんなものを。別に苦労をしている訳ではないのでは。つまり、それらは遊びの中で生まれた芸術ではないか。文化は遊び心が無いといいものが生まれない。これは現代の「物づくり精神」にも通じるものがある。
このように1万年も続いて成熟していた縄文時代が、何故弥生時代へと変化をしたのか。弥生時代になり生活面では明らかに貧しくなっている。遺跡から出る人骨から栄養面での低下、戦争や疫病の増加が見られるようだ。世界の歴史においても、人々が豊かな狩猟採集生活を捨てて、何故農耕を始めたのか疑問が呈されるようになって来た。いくつかの可能性をあげて見よう。
(1).地球が再び寒冷化し始め、森の規模と生産性が落ちた。
(2).地球が再び寒冷化し始め、大陸から大勢の人達が日本列島にやって来た。
人類の雑食の特性から(1)のシナリオはなさそうだ。沖縄や北海道では続縄文文化が続いているから。やはり稲作文化は大陸から大勢の人と一緒の日本にやってきたようだ。遺伝子の研究から現在の日本人には弥生人(大陸由来)の遺伝子がかなり多く含まれている。おそらく稲作文化は先住の縄文の人達からは相当の抵抗を受けながら浸透していったのではないか。何故か日本の文化の底流には縄文人由来とも考えられる事柄が数多く残されているような気がするのですが。
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竪穴式住居
ネットより拾った情報。「11月の終わりに、八ヶ岳を訪れまして、あるカフェの庭先に造られた竪穴式住居で囲炉裏にあたってきました。竪穴式住居は旧石器時代後期から平安時代まで、長い間用いられた日本の建築様式で、全国各地の遺跡公園などで復元されたものを見ることができます。しかし、実際に火を焚いて居住環境を体験することはなかなかできませんので、貴重な経験でした。」
縄文遺跡と言えば、何と言っても竪穴式住居。竪穴式の「竪穴」は「地面にタテに穴を掘っている」ことから名付けられた。その「穴」というのは、柱を立てる穴ではなく、もちろん浅堀りした居住スペースのことを指します。では、これが原始的で野蛮な文化かと問われればどうもそうでもなさそうだ。
では、何故地面を掘って家を建てたのでしょう?大雨の時などに浸水する可能性があります。排水はどうしていたのでしょう。排水まで考えると寧ろ土を盛った方が合理的なはずです。湿気も多いのではないかと心配なります。当時は今ほど雨が降らなかったのでしょうか? 古気候からの検証が必要でしょうか。疑問がいっぱいですね。
「しかし、こうして実際に建てられた竪穴式住居に入ってみると、そんな心配はないのだということが分かります。この日は、2日前に降った雪が解け、気温は2℃という気候でした。風は時折強く吹き付けましたが、雪解け水が浸水したり、ジメジメしたりする感じはありませんでした。オーナーいわく、「ここで火を囲んでお酒を飲んで、そのまま眠ってしまうのが最高」なんだそうです。」居酒屋としてこんな店開業すれば案外流行るのかも。
ところが、遺跡から発見されるのは、地面に残された跡だけ。地上部分は発見されていないので、どんな構造物だったのか不明。多くの復元小屋が、現存する茅葺き屋根の構造を模倣している。屋根材は残らないのでどんな材料で屋根を葺(ふ)いたのか。
竪穴式住居は、必ず住居スペースの中央に火をたく暖炉がある。この暖炉が生活の中心であったことは間違いないようだ。そのため住居内の空間は寧ろ乾燥していたのかも知れない。雨水の侵入は家の周りの排水溝を作っておけばある程度は防げそうだ。
暖房は囲炉裏が担う。現代の家が、主にエアコンなどで室内の空気を暖める「空気暖房」であるのに対し、竪穴式住居は火と土間の熱による床暖房という優れた面がある。朝鮮半島で普及しているオンドルと似た作用があるようだ。
囲炉裏は、暖房以外にも食事を作るためにもとても重要だ。仲間が火を囲んで集い合い仲良く食事をする。一緒に食事をとり交流を深め合うことが彼らの生活の非常に大きな部分を占めていたのだろう。大きなハンバーグをコーラで一人流し込むような野蛮な食事は彼等とは無縁のはず。
だから、暖炉の火はほぼ一年中燃えていたのかも。こんな所にいたら、燻製になってしまう。だから、空気を下部から取り入れ、天井付近で排気する工夫はされていたでしょう。
何故竪穴を掘ったのかも、明白だ。メインの住空間は竪穴の部分そのものだ。寧ろ上部の空間をどう有効利用するかが難しい。魚の燻製などを天井から吊るしていたのかも。
縄文弥生の頃の土偶には建物をかたどったものはないのですが、古墳時代になると埴輪に建物が登場しますので、その形の概要が分かります。素材までは確定できないものの、主に茅葺きか板葺きのようです。つまり、竪穴式の住居は大変優れたものだったようで、貴族たちは別にして一般の人達には奈良時代やその後まで使い続けて来られたみたいなのです。
茅葺き屋根は保温力が高く、室内と室外の温度差が大きいときにその力を発揮する。石や金属など、熱伝導率の高い屋根素材だと、外部環境に大きく影響され、その熱を屋根裏に伝えてしまう。現代の建物でも二階など屋根に面した部屋は、夏には特に暑い。屋根の断熱性能は住み心地に大きく影響する。
植物性の屋根の欠点は、乾燥すると燃えやすいということ。「それなのに中で火を焚いて、燃えないのか?」という疑問が湧きますね。「実際、私が入った竪穴式住居も、天井は決して高いわけではありません。しかし、熱の当たるところは煙の当たるところでもあります。天井に煙が当たると、煙はそこで冷やされてタール等が付きます。つまりいぶされるわけですね。これによって、燃えにくくなると同時に、カビにも強くもなり、通常の使い方で屋根が燃え出すことはありません。」
それにしても、今では茅葺き屋根も減る一方で、この2万年の知恵、現代では活かされていないのが残念ですよね。せめて景観だけでも維持できる茅葺き屋根材は作れないか? 茅葺き屋根を現在復元したいと思う人も大勢おられるようですが、それが出来る職人さんもおらず、材料もとても高価で割に合わないとか。
遺跡の復元等を実際に担当している方に聞きたい。今、竪穴式住居を復元するにはどのくらいのコストがかかるのか。その中にレストランやカフェを作って観光の目玉には出来ないのか?
竪穴の直径が、10m、深さを1mとすると、その時の掘削の体積は、
V=(π/4)×10×10×1=78.5、普通は人がシャベルを使って掘出すにはだいたい1時間に0.3~1m3程度らしい。急いで掘っても78.5時間、つまり一人3~4日かかる。当時のシャベルならもっとかかるか。もちろん作業は数人で行うんでしょうが、チョットした土木工事だ。更に、屋根材の茅や柱用の木材の切り出しもある。一体1軒の家を建てるのにどのくらいの時間と労力が必要なのだろうか。多分我々が今家を一軒たてるの似たような費用がかかる作業だったと想像される。当時でも家一軒持つということは大変な事だった。縄文人が定住生活をしていたことは明かだ。しかも、かなり住み心地の良い家屋で。
縄文人は、新石器時代に相当する時代に生きていたらしい。それでは、海外の新石器時代人はどんな住居の住んでいたのだろう。その前の旧石器時代の人達は? 竪穴の代りの横穴を掘ることはもう少し楽かも。鍾乳洞のような自然の横穴などはそんなに簡単には見つからないだろう。遊牧民たちは今でもテント式の住居。しかし、それはそれで合理性がある。住居の歴史も調べると結構奥が深いものがあるね。
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弥生時代
弥生時代(やよいじだい)は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代。以前使われていた定義と比べるとずいぶん始まりの時期が早くなっているようだ。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れるとされる。
そもそも、日本の人々が何故、多様性に富んだ縄文文化を捨てて、稲作一辺倒のモノカルチャーに移行したのか。米一辺倒の食料では、栄養価は圧倒的に劣る。生活レベルは絶対に低下する。しかも稲の生産には多大な共同作業による多大な労働力を必要とする。稲作は縄文晩期には既に知られており、なかなか稲作文化は縄文人には受け入れがたいものだったはずだ。
おそらく、気候の大変動と、それに伴う大量の大陸からの渡来人の侵入、急激な人口増加と食料の不足等様様な要因が重なったのだろう。
2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることになった。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきているらしい。もともと「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となっている。
どうも、稲作文化は大陸から九州へ到達し、それから徐々に東へとかなり抵抗を受けながら進展していったらしい。神武の東征の神話とも合致している。この辺りは遺跡の年代等の研究から少しずつ分かって来るのではないか。また稲作が普及するには鉄製農具の普及が不可欠だろう。稲作文化が従来の縄文式農業に比べて明らかに生産性が高いことが証明されない限り人々は稲作を取り入れるはずがない。
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稲作の起源と鉄器の利用
縄文時代は、新石器時代に分類される。つまり、まだ金属器の利用はなかったのでしょう。ところが弥生時代に入ると青銅器と伴に鉄器の利用が始まる。普通は青銅器の時代があって、その後に鉄の利用が始まる。鉄の鉱石は銅よりも資源としては量的に優位であるが、鉄の融点が銅よりも高いことから、より高い温度を得るために技術的な壁が高かったようだ。縄文土器の技術とか、木の文化から得られる炭焼きの技術の蓄積から、縄文期の人々は鉄器を受け入れるポテンシャルは比較的高かったようだ。問題は鉄鉱石が容易に見つからなかったことにあったらしい。当時はまだ砂鉄の利用は行われていなかったらしい。どうも鉄鉱石は朝鮮半島の南部から持って来たらしい。或いは最初は製品として鉄の塊を輸入したのかも。半島南部は当時は倭人とみられる人たちも多く住んでおり、互いの交流もあり比較的容易に鉄資源を入手出来たようだ。でも、このことを考えると大和政権が朝鮮半島の支配権に大きな関心を持っていた理由は明かだろう。
一方、農業の方は青森県の三内丸山遺跡からも分かるように、縄文人たちは既に多品種に渡る多様な農業生産を行っていたことも分かっている。人類の歴史では農業を行うようになると人口が急速に増加すると言われている。しかし、人口を増やすためには食料生産を増やさねばならない。ところが人は豊かになると何故か子供の出生率が低下するものだ。何故、多様性に富んだ縄文式の農業を止めて、モノカルチャーの稲作に転換する必要があったのか。
ヒントは律令制度の口分田に関する記述の中にある。当時の稲作農民は土地を持たず、農具も持たない、単なる労働力だったようだ。土地は家族の頭数だけで割り当てられる。鉄製の農具は貴重なものなので作業の時だけ貸し出されたらしい。水田耕作は、土地面積当たりの生産性は高いかもしれないが、新たに耕地を開墾するには多大な手間を要する。また、効率良く耕すに鉄製の農具が不可欠だったのだろう。つまり、新たに生まれる子供が労働力を提供する商品となったわけだ。人が増えれば食料がいる。そのためには新たな耕地がいる。耕地が増えれば人が必要。このようなサイクルで、弥生時代には人口がかなり増加し、また耕地と労働力の確保のため絶えず部族間の戦争が繰り広げられる世になったようだ。
【稲作社会への変化】
縄文人たちは明かに定住して農業も開始していた。ただこれは家族的共同体というか比較的平等に収穫物を分け合う、多品種少量生産の世界だったようだ。
ところが稲作は土木的な作業を伴う、労働集約的な産業だ。どうも社会が単純な作業だけを行う階層と管理する階級に二極分化して来たようだ。労働の質が分業が出来るように細分化されてきている。
土器の生産は、次第に専門家集団を育てて行ったのでは。燃料の調達、粘土の調達、器の製作、火の管理、配達等、そしてこれらの集団はそのまま青銅器、鉄器の生産にも受け継がれたのでしょう。また、これらの金属器の利用が水田耕作を飛躍的に革新させたのではないだろうか。ただこれらの分業化は人々に貧富の格差を生み出し、労働力を提供するだけの多数のプロレタリアートを増産していったようだ。
縄文人たちが、豊かに暮らしていれば、人口が急激に増加するはずもないし、稲作を自然発生的に開始するはずもない。生活に困窮するればかえって子孫を増やすため子供をたくさん作るようになるのがむしろ、自然の流れだ。土地も農具も持たない、貧しい農民の増加、しかも大陸から新たに食をもとめて新たに流れ込む人口。稲作がいっきに広がる原動力になったか。
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考古学の鬼
森本 六爾(もりもと ろくじ、1903~1936年)さんは、日本のアマチュア考古学者。しかし、『考古学の鬼』という異名とともに有数の知名度を誇る人物らしい。奈良県出身で、子供のころから遺跡の発掘物に惹かれ夢を追い続けた人か。
甕棺の研究やや銅鐸の型式分類を行い、弥生期区分において稲作が開始されたことを提唱するなど、アマチュアではあるものの日本の考古学の発展に大きく貢献した。松本清張の短編小説『断碑』の主人公、木村卓治のモデルとされている。
戦前の記紀(日本書紀や古事記)と皇国史観に基づいた当時の学者たちは、やたらと現地調査に拘る六爾さんの情熱をなかなか受け入れることが出来なかったようです。今では、考古学では縄文時代とか弥生時代の出来事を発掘によって調査できるようになりました。神話の時代にも科学のメスが入りつつあります。でも、縄文時代も弥生時代もまだまだ分からない謎が山積しています。
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邪馬台国
邪馬台国は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。
中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。
倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70~80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まる。弟が彼女を補佐して国を治めており、戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞基づくものとする意見もある。
女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。
***魏(ぎ、Wèi、220年~ 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも。戦国時代にも魏という別の国があった。45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝。
『三国志』ではあまり善玉扱いされてないかも知れないが、曹操は軍事政治に伴に優れた名君で産業の発展にも力を入れ、次々の新規の政策を実行し、戦乱の後の荒廃からの復興に尽くしたらしい。
卑弥呼が使いを魏に送った時代は、魏の方も邪馬台国と同盟を結ぶ利点があったはずで、魏の側からも使いを送って援助の手を差し伸べていたのではないか。魏の対抗馬としては呉の国がある。邪馬台国の時代なら倭の国で呉と同盟を結ぼうとした勢力もあったかもしれない。呉の記録が失われている。
曹操らの始めた屯田制(196年)は、画期的なもの。屯田制とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度。邪馬台国は魏と組んで屯田制を取り入れ急速に力をつけて行ったのかも。
【魏志倭人伝に書かれている倭人の風俗】
魏志倭人伝には倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾もあるらしい。
男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。その風俗は淫らではない。
→入墨の風習は日本だけに限らず世界中で見られる。アイヌの人達もやっていたのでは。入墨の習慣がすたれるということは、何か外部からの文化的圧力があったのであろう。入墨については古事記あたりに何らかの記載はないのだろうか。
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。稲、紵麻(からむし→麻)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
→いわゆる貫頭衣のことか。麻や絹を既に利用している。冠をつけるのは漢民族の風習だろう。相当高度な農耕社会が始まっている。
牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
→牛や馬がいなことは農耕には家畜を使ってはいない。日本にも野生の牛や馬はいるようだけど体は小さい。トラやヒョウは既にいなかったようだ。熊やオオカミはいたのでしょうが。羊は中国では遊牧民が飼っていた。ヤギはいたかも知れないね。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
→中国に合って日本にまだない武器は。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
→裸足で済むならその方が健康的か。中国では靴を履くのが普通だったのか。
家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。中国では箸かスプーンを使っていたのか。インド圏は今でも手づかみだ。
→寝床は父母兄弟は別と言うのは今なら当たり前では。部屋が別なのではなく寝床だ。中国ではそうでないのだろうか。
人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
→特に変わった風習でもないだろう。
倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
→生贄みたいな宗教的な儀式が沢山あった時代だ。中国では殷(商)の時代に相当するか。彼等から見たら相当野蛮な風習に見えたのかも。
真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
→日本は大変自然に恵まれた羨ましい国だと思っていたようだ。
特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
→殷(商)の時代の甲骨文字を想起させる。文字はまだ発明されていない思われるが。
集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
→分ちあう心を醸成するために酒は積極的な役割を果たす。
敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
→衣食住健康的な生活をしている証拠だね。
身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。女は慎み深く嫉妬しない。盗みは無く、訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。
→類人猿、狩猟採集民から脈々と受け継がれて来た道徳基準がまだ、しっかりと守られている。中国で言えば三皇五帝の神話の世界のようだね。
中国側の筆者の態度は、必ずしも野蛮国として見下した記述でもなさそうだ。入墨、靴を履かないで裸足、箸を使わず手で食べる、妙な儀式が残っている等としながらも、道徳的に正しく健康で文化的な生活をしている人たちが暮らしているとしている。海のかなたに理想郷が存在しているいう書き方ではないか。秦の始皇帝に命じられて「長生不老の霊薬」を求めて徐福が海を渡って旅立って行って帰ってこない、東の海にある理想郷と同一視している可能性すらある。
【徐福伝説】
徐 福(じょ ふく、:Xú Fú、生没年不詳)は、秦の方士(道士との違い??。斉国のの出身。
『史記』によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。
東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった。
同じく『史記』巻六「秦始皇本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せず、皇帝から金品をせしめた詐欺師」として描かれている。
徐福に関する伝説は、中国の他日本や韓国、台湾にもあり、日本では実際に定住したという伝説もある。実在した人物である可能性は大きいようだ。
魏志は、魏の徳は海外の遠方にも届いているということが強調される。隣国「呉」への対抗手段だ。同様に記載されいるインドの大月氏国、この頃はクシャナ朝になっていたらしいが中国では相変わらず大月氏国と記載されていたようだ。ガンダーダーラ美術を生み出してインドの広範な地域を支配した大帝国だ。
中国の三国時代にヴァースデーヴァ1世(波調)が魏に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、「親魏大月氏王」の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることから比較的よく知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものであるとされている。
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七支刀

七支刀(しちしとう、칠지도)は、奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣。全長は74.8センチメートルで、6本の枝刃を持つ特異な形をしている。1953年(昭和28年)に国宝に指定された。
石上神宮は古代豪族物部氏の氏神を祭っている。剣身の左右に段違いに3本ずつの枝刃を持つ剣で、剣身に金象嵌の銘文が表裏60余字記されている。錆による腐食がひどく読み取れない文字もある。その銘文の解釈・判読を巡っては研究が続いている。
銘文
(表):泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作
(裏):先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世
『日本書紀』には七枝刀(ななつさやのたち)との記述があり、4世紀頃、倭に対し百済が朝貢した際に献上されたものとされる。剣身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではない。しかしよく鍛えた鉄で造られたと書かれている。相当貴重で高価なもののようだ。当時の大陸との関係を示す史料の一つでであろう。好太王碑とともに4世紀の倭に関するである。当時の背景として、高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟を求め、贈られたとされている。
また、日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されており、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があるらしい。372年がこの年という説もあり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められているという。 しかし、年代の解釈は多数あり定説は無いようだ。
【大和政権の聖剣エクスカリバー】
当時の技術からして、「七枝刀」を送るという意味は大変重い。わざわざ1振りの刀に6つの枝を着けるということは、相手方に技術の高さを見せつけるとともに、呪術的な縛りを与えること目的としているからだろう。しかも銘文には良く鍛えた鉄で造られたとわざわざ書かれている。アーサー王伝説に出て来る魔法の剣「エクスカリバー」みたいなものでしょう。いわゆる固い軍事同盟だろう。つまり、当時の大和政権の運営は百済抜きにしては語れない。トップ外交であるから、百済の大王が、当時の倭の軍事的な最高権力者である物部氏に送ったものだろう。当時の朝鮮半島は、当時の百済国は高句麗や新羅の台頭により、亡国の危機にある。背後には中国の動きもある。
でも、技術的にどうなんだろう。鋳物として型に流し込んだだけのものか、綱としてかなり刀に近い構造なんだろうか。難易度を知りたいところだね。
その後、大和政権側は物部麁鹿火(あらかい)が中心となり百済支援のため朝鮮出兵を企てる。新羅側は同じ大和政権内の筑紫君磐井に出兵を諦めるように依頼する。その結果、磐井の乱(527年)が発生する。継体天皇の時代か。大和政権内でも百済派と新羅派が、抗争を続けているが、結局この抗争は百済派が優勢のまま、百済国が滅亡するまで続く。「七枝刀」の魔力ということか。百済滅亡後は、「七枝刀」は無用になったので石上神宮に密かに隠されていたのでしょう。
**石上神宮
石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。
非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。 何はともあれ、石上神宮は深い歴史を秘めた日本のパワーススポットのようだ。
【追記】
この件に関しては、日本側歴史界は百済から献上されたもの、韓国歴史界は百済王から下賜されたものとの解釈して争っているらしい。全く馬鹿な話だ。当時の国を現在の国民国家と同じと考えている。共存共栄、友情の証と見るべきじゃないのかな。
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継体王朝の謎
継体天皇(450?~531年)は、日本の第26代天皇(在位:507年~531年)。諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。
父親:彦主人王/母親:振媛/皇后:手白香皇女
**手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇2年以前 - 没年不詳)は、日本の第26代天皇・継体天皇の皇后。同天皇とは四従兄弟にあたる。仁賢天皇の皇女で、母は春日大娘皇女。同母弟に武烈天皇がいる。『古事記』の表記は手白髪郎女。子に欽明天皇。
『記紀』によれば、15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったとされているが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火などの推戴(すいたい)を受けて即位したとされる。
**大伴 金村(おおとも の かなむら)は、古墳時代の豪族(大連)。
**物部 麁鹿火(もののべのあらかい)は、古墳時代の豪族。物部麻佐良の子。
戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。
『記紀』は継体天皇を応神天皇の5世の子孫と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記している。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振姫の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、「男大迹王(をほどのみこと)」として5世紀末の越前地方を統治していたとされる。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議。まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)の推戴を試みる。倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明。やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王(をほどのみこと)を迎えようとする。疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。翌年の507年、58歳で河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とする。即位19年後の526年にして初めて大倭(後の大和国)に入り、都を定めた。翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、しかし新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している。
対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するためにたびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば継体6年(513年)に百済から任那の四県の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した。
531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。崩年に関しては『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は43歳(即位したのが58歳ではなかったか??)、『日本書紀』では没年齢は82歳。 古事記と日本書紀ではこのようにあちこち齟齬があるようだ。
これだけを見ると地方豪族による大王位を簒奪で、現皇室にまで連なる新王朝を創始したという王朝交替説など、どこにも出る幕は無いようだ。大和政権の2大勢力が、「あなたしかリーダをやる人はいない。」と懇願されてやむなく大王位を引受ける。中国古代の堯、舜、禹の時代の美風がまだ生きている。大王位など自分から言い出して引受けるものではない。割に合わない仕事なのかも。しかも、皇后には武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を当てている。皇后は大王族でなければならないという当時のルールはしっかり守られている。実際に、本当に候補が亡くなって困っていたんでしょう。連合政権のルールでは、物部氏や大伴氏はかってに大王を名乗る訳にはいかないのだろう。地方豪族をリクルートするぐらいなら自分達でやればよい。王朝交替説がでてくるのは、継体天皇が亡くなった後、皇位継承で色々悶着があったことが原因らしい。記紀の記述がはっきりしていないようだ。
**尾張目子媛(めのこひめ):
尾張草香(おわり の くさか)は、古代の地方豪族・尾張氏の首長。姓は連。継体天皇の最初の妃であったとされる目子媛(めのこひめ)の父親で、安閑・宣化両天皇の外祖父にあたる。断夫山古墳が彼の墓であるとの説がある。
つまり、26代継体天皇に続く、27,28代の安閑天皇、宣化天皇は、ありえない選択にも見える。当然、手白香皇女の子、欽明天皇に引き継がれるはずの。欽明天皇が幼少だったためとの可能性もある。では、尾張氏とは何者か?当然、外祖父として相当の権限を持っていたと思われるのですが。尾張氏の先祖も継体天皇と同じく何代か前は皇族だったのかも。
ただ、継体天皇を立てること(当時は天皇でなく大王)で、朝鮮攻めを正当化できる。物部 麁鹿火等はさっそく実行に移る。しかし、実際は磐井の君に邪魔されて、磐井の反乱鎮圧に終始し、朝鮮出兵は出来なかった。
当時の大和政権では、何か問題が生じるときは、必ず朝鮮半島の動きが関連している。縄文時代から弥生時代に変わる際には、たくさんの人が大陸からやってきている。鉄資源の確保などの課題もあり、当然半島との交流は盛んであったようだ。
当時大陸との交流の拠点は北九州がメインであったと思われるが、継体天皇の出身地越前国(福井県)も拠点となっていた可能性もある。背後には百済系の豪族達の支援もあるのかも。
【追記】
大和政権自体が、地方豪族の連合政権という性格を当初からずっと持ち続けている。連合の絆は王族同士の婚姻関係だ。ヨーロッパでも封建制の時代には王家同士の婚姻関係で戦争を避けていたではないか。だから大君に誰を立てるかを巡って、ある程度のいざこざがあるのは当然だろう。ただ大陸の国とは異なり、戦争による王朝交代は起こらずに済んでいる。島国であったため、渡来人たちが散発的に入ってきたこともあるだろう。地方豪族出身(王)の者が大王となったところでこれを王朝交代と主張する事は明かに無理がある。(2020.2.6)
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磐井の乱
磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権(親百済?)と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている。 朝鮮半島の利権を巡る大和政権内の争いは白村江の戦いまで延々と続いている。視点を大陸側に移せば、「倭人」の勢力は、日本列島の一部(北側は未統一)と朝鮮半島の南部を一体としたものなのでは。
磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているとされているが、『筑後国風土記』や『古事記』、『国造本紀』にも簡潔な記録が残っているらしい。
なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がない。
【経緯】真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおり。
527年6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請。
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧。朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
**注:「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」という言葉。この二人は軍人として同じ戦争で仲間として共に戦ってきたことを意味していそうだ。同じ軍事氏族として、縦の繋がりより横の連携の方が大事じゃないかと言っているんだね。
528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。
乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。
以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)としており、筑紫君磐井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して磐井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述があるらしい。
1970年代半ばになると、継体天皇期前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする考えが発表される。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱がおこったとする仮説が提案される。
1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期が5世紀後半まで遡る可能性が出て来る。磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が必要になったようだ。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったとする仮説もあり、意見など、磐井の乱に対する見方は必ずしも一致していないようだ。
一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が判明するに従い、九州広域にわたって栄えていた特有の文化圏があったことが分かって来る。磐井の乱までのヤマト王権とは強い中央集権体制であったのか、それとも各地豪族の連合的政権であったのかについては決着がついていないとされている。
しかし、世界の歴史を見てもいきなり天下り的に中央集権的な国家が誕生する例は無い。また、例え各地豪族の連合的政権であっても、連合集団の外側の人達にとっては極めて強権的な力を発揮することも可能だ。ヤマト王権自体が強い中央集権体制を持った国家だとする証拠は無い。ヤマト王権を大昔から強い天皇(大君)を中心とした中央集権体制であったと信じたい人々が大勢いることは確かだ。国家神道の呪縛といえようか。
中国でも呪術的な商王朝→連合的政権的な周王朝→群雄割拠の戦国時代→秦の統一と中央集権的な国家が誕生するには相当な年数を要している。古代ギリシャは最後までポリスの緩い連合で終わる。ローマ帝国でも皇帝が成立するまでに相当な年数を要している。でもローマ皇帝がそれほど強権的な権力を保持していたかはまた別な話だ。帝国内のではかなりの自治が許されていたようだが。そもそも大きな強い集権的国家とは国民が望んで作ったのか、望まざる出来事なのか。何故そうなるのは色々な事情があるのでしょう。
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岩戸山古墳/八女古墳群
磐井の墓は、『筑後国風土記』に詳述されているらしい。現在では福岡県八女市吉田の岩戸山古墳に比定されている。岩戸山古墳の位置する八女丘陵では、前方後円墳12基(岩戸山古墳含む)・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなる八女古墳群が分布する。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及び、筑紫君一族の墓に相当すると推定されている。磐井の墓と推定される岩戸山古墳は、当時の大王墓にも匹敵する規模であり、また出土した石製品群は北部九州の中でも他古墳を圧倒する数で、北部九州一帯に及んだ磐井の勢力を物語っている。その石製品群の分布状況から推測される勢力範囲は、北は玄界灘、南は有明海に及んでおり、筑紫君を中心として「筑紫政権」とも呼ぶべき強力な連合政権が形成されたことが分かり、これが九州王朝説(邪馬台国九州説や神武東遷のことか)の根拠の一つともなっているようだ。
特に有明海沿岸地域が5世紀後半から6世紀初頭にかけての対朝鮮交渉の中心地であったことから、その対朝鮮の外交権を巡って磐井とヤマト王権側との間に対立が生じたのかもしれない。その例として、朝鮮半島の栄山江流域に分布する前方後円形古墳(朝鮮半島にも前方後円墳が存在するらしい)の存在や、栄山江流域・慶南地方に分布する九州系横穴式石室の存在があり、これら九州系豪族が独自に朝鮮半島と密接な交渉を行なっていたのでしょう。また周囲からは埴輪ならぬ石人石馬が出土されるのも特徴だ。
また日本列島内においても、継体天皇陵と推定されている今城塚古墳(大阪府高槻市)を始めとする畿内古墳の石棺部材に阿蘇ピンク石(馬門ピンク石)が見られることから、九州から西日本・畿内へ文化を波及させるだけの力を有したとされる(阿蘇ピンク石の畿内流入は530年頃で終息)。つまり、九州からわざわざ船で大和地方に運ばせたらしい。舟型の石棺の材料は阿蘇ピンク石を使わねばならない宗教儀式上の重要な意味があったらしい。
筑紫君の氏族も一応は、大和連合政権に主要なメンバーとして組み込まれていたようで、史書では子の筑紫君葛子の後も7世紀末まで筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ、その活躍が認められているそうだ。
【馬門石とは】
「馬門石」は,熊本県宇土市網津町字馬門付近に産する凝灰岩で,約9万年前の阿蘇山の噴火により流れ出た火砕流が堆積し,数年から十数年をかけて冷えて固まったものだ。この堆積岩は「阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)」と呼ばれ,ふつは灰色~黒褐色ですが,馬門地区に堆積した岩層にはピンク色のものが含まれており,別名「阿蘇ピンク岩」とも呼ばれている。
この石は,比較的軟らかいため加工がしやすく,またその美しい色が珍重され,昔から鳥居や眼鏡橋など色々な構造物の石材として利用されてきました。近年まで,馬門石が利用されるようになったのは江戸時代以降だと思われていました。ところが,20年ほど前から,この石は考古学の世界で大きく注目を浴びることになる。
関西や中国地方のいくつもの古墳で見つかっている石棺が実は馬門石製であることが判明し,さらに第26代継体天皇の陵墓とされる大阪府の今城塚古墳や,第33代推古天皇の初陵とされる奈良県の植山古墳など,当時の最有力者が葬られたとみられる古墳から,馬門石製の棺が見つかったからです。上の表にある通り、多くの古墳の石棺にこの石材が。
地質学的にも解明されていない点の多い謎の「赤い石」。この石がはるか古墳時代に860キロも離れた大和の地へ運ばれていた…馬門石は現代人のロマンをかきたててやまない「謎の石」だ。重たい石棺が船で瀬戸内海を運ばれていた。地質学が歴史学にも貢献している例だ。
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熊襲(くまそ)
熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々。また地域名自体を表す総称である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
肥後国球磨郡(現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国曽於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とする説がある。また5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説(内藤湖南、津田左右吉、井上光貞)。一方宝賀寿男は、熊襲の「クマ」は「熊(羆)」のトーテムを表し、神功皇后と戦った羽白熊鷲などは、その「熊」・「鷲」の名称や「...其の為人、強く健し。亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔る...」といった記述から、「熊、鳥」をトーテムとする天孫族の末裔で、邪馬台国王族の子孫とする説を唱えた。また津田左右吉らの説に反論し、狗奴国は「狗(犬)」のトーテムを表し、犬狼信仰と犬狼獣祖伝説を持つ縄文人の国であると想定した。隼人は「吠え人」(狗のように吠える人)の意味で、狗奴国の末裔が隼人であると唱えた。 要するに諸説紛々か。
土器の分布の面からは、免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲の文化圏によって生み出されたものではないかと森浩一は考察。
イサオ・タケル制
景行朝の記述として、熊襲は頭を渠師者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいたと記している。大和王権は武力では押さえられないので、イサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した(ヤマトタケルが弟彦(オトヒコ)という武人を美濃国に求めた神話においても、敵を酔わせて殺害する戦法を取っている)。
服属神話;南九州がヤマト王権に臣従する過程が記紀神話に語られたもの。詳細は「山幸彦と海幸彦」を参照。
ヤマトタケル神話
古事記には、景行天皇の皇子であるヤマトタケルによるクマソタケル(熊襲建、川上梟帥)の征伐譚が記され、日本書紀においては、それに加え、ヤマトタケルに先立つ景行天皇自身の征討伝説が記される。特に前者は、当時小碓命と名乗ったヤマトタケルが、女装しクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、これらを討ち、その際に「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である。
**景行天皇=景行天皇は、日本の第12代天皇。『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。日本武尊(ヤマトタケル)の父。実在性は定かでない。
隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した人々。日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神火照命の末裔であるとされる。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「(犬のように)吠える人」の意味とも、「ハヤブサのような人」の形容とも方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも(あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、日本人男性の人名としても用いられる。薩摩隼人何て言うけど繋がりはあるのかな?
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銅鐸
銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。語源となった「鐸」は古代中国において用いられた柄付きの青銅器の楽器である。鐸は柄を持ちもう一方の手にもった打器で鐸を打ち鳴らして音をだしていた。銅鐸は銅製で鐸のような形をしているので「銅鐸」と名付けられたが、銅鐸のように吊るして使用されるものは本来「鐘」と呼ばれるのでそもそも楽器であったかは定かではない。でも、出来た当時の銅鐸は黄金色に輝いており、博物館に陳列されているような緑青のよる緑がかったものではないことには注意がいる。
**鐸=サナキと読む。音読みは「タク」。 銅または青銅製の大型の鈴。扁平な鐘の中に舌(ぜつ)があり、上部の柄(え)を持って振り鳴らす。
大きさは12センチから1メートルを越すものまで色々ある。1世紀頃には高さが60センチに達し、その後さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達する。しかし、その直後鋳造が止んでいる。現存する最大のものは、重量45キログラムに達する。銅鐸の起源は中国南部との説もあるがいまだ不明。
銅鐸は、近畿地方に多く出土するようだが、他でも見られる。銅鏡や銅剣と共に弥生時代の遺物として貴重な物のようだ。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。
銅鐸の表面には模様や絵がある。それを研究するのが面白いのかな。
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後漢書
『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀10巻、列伝80巻、志30巻の全120巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で、編者は范曄(はんよう、398年 ~ 445年)とされる。つまり、書かれた時代はその史実のあった時点よりも後世なので、当然色々と書き加えられたり、場合によっては削除されるものもあって当然。しかし、歴史書なるもの他のものも条件は同じであって、それだけの理由で資料の価値が棄損されるものでは当然ないだろう。
范曄は、幼い頃から学問に長じ、経書に通じて文章・音楽を良くしたという。宋の創始者・劉裕に仕えて尚書吏部郎となったが、432年(元嘉9年)に事件を起こし、左遷されて宣城太守になり、在任中に『後漢書』を著したとされている。范曄が執筆したのは本紀と列伝のみである。志については、范曄が後に文帝の弟、劉義康擁立の事件に関わったことで処刑されたので書かれていない。後に南朝梁の劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。このため現在伝わるのは、後述の李賢注と劉昭注の『続漢書』の志を合刻した北宋時代の版本に基づくものである。
范曄著『後漢書』の成立は432年以降と後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、年代的には『後漢書』より後の時代の範囲を記述している『三国志』の方が、范曄の『後漢書』よりも約150年も前に既に成立していた。ということは、後漢書と言われるもの後代に書き加えた部分があり、にわかに信ずることが出来ない部分が当然あるということか。
倭国について
『後漢書』東夷伝の中に倭(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」(いわゆる「後漢書倭伝」)は、280年代成立とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基にした記述とされている。魏の国は後漢滅亡後に起こった国なので、書かれた順序が逆。
「魏志倭人伝」にない記述として、建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)と想定されるものがが福岡県の志賀島で出土している。
また、安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。また「魏志倭人伝」には年代の指定がない倭国大乱(邪馬台国で生じた)についても桓帝・霊帝(後漢の皇帝)の間(147年~189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。しかし、後で書かれたのであれば余計な情報が増えている可能性もある。
漢委奴国王印
金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他
重さ100g程度(重さ108.729g、体積6.0625cm³)、純度も高いので現在価値で、5000円/gとすると、50万円程度か。
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。中国漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者(外臣)に対しては、内臣である諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられたとされる。
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倭の五王
倭の五王(わのごおう)とは、古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、 讃・珍・済・興・武(サン・チン・セイ・コウ・ブ ??)のこと。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡って主に南朝の宋(420年~479年)に朝貢したとのこと。日本側には対応する記録は無い。中国もまだ後漢が滅んで隋の統一がなされる前だ。
時代的には卑弥呼の邪馬台国より少し後。だから王と言っても天皇のことかどうかも不明。朝貢した目的は何だったのか。つまり、この時代は日本史にとっての空白の時代と言える。
倭の五王が記紀(古事記と日本書紀)における天皇だとすれば、誰に該当するかについては諸説ある。日本書紀作成の時点では、帰化人達は中国の歴史書の存在を知らなかっただろう。もし、知っていれば五人の王に歴代天皇に対応させる作業を行っていたのでは。あるいは意図的に無視した?中国側が勝手に讃・珍・済・興・武なんていう漢字を使う訳がないので本人がそう称したのでしょう。そもそも、これらの五王が大和政権の王だったという証拠もないので詳細は不明。
宋の歴史をまとめた『宋書』には、宋代を通じて五人の倭王の使者が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続く南斉の史書『南斉書』・梁の『梁書』にも、宋代の倭王の遣使について触れられている。一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は朝貢の事実を記していない。倭の五王に比定される天皇の時代に「呉国」と使者のやり取りがあったという記述がある。「呉」とは中国南東部の地域に当たることからこれが南朝の宋を意味するとも考えられるが。「魏」と対立していた国と言う意味かも。
遣使の目的は中国の先進的な文明を摂取すると共に、中華皇帝の威光を借りることによって当時のヤマト王権にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。或いは朝鮮半島における利権を確保する目的かも。まだ、鉄器が普及していない倭の国々は、朝鮮半島の勢力とも密接な関係を保つ必要もある。
倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だった可能性もある。438年の遣使では倭王珍が「倭隋」なる人物ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正を求めているが、この時 珍が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性が窺える。451年にも、やはり倭王済が23人に将軍号・郡太守号の称号を望んでいる。
478年の遣使を最後として、倭王は1世紀近く続けた中国への朝貢を打ち切っている。21代雄略天皇は最後の倭王武に比定される人物と考えられている。この雄略の実名と思しき名が刻まれた稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下としての「王」から「大王」への飛躍が認められ、同様の江田船山古墳出土鉄剣には「治天下大王」の称号が現れている。
雄略天皇を「武」とする説が有力とされているようだ。「武」という名も実名の「タケル」を漢訳したもの想定されているようだ。
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稲荷山古墳
稲荷山古墳(埼玉稲荷山古墳)は、埼玉県行田市にある古墳です。埼玉稲荷山古墳としてこの一帯には沢山の古墳が集まっており、古墳公園として整備されている。稲荷山古墳もその一つ。国の特別史跡に指定され、出土品は国宝に指定されている。 例の「ワカタケルの」金錯銘を有する鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)が出土したことで知られる。
埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳だそうだ。では第一位は? 造営年代は、古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造されたらしい。
稲荷山古墳は大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇の陵に治定)と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。だから大和政権に近い地方の豪族の根拠地だった。それは誰だろう。また埼玉古墳群の二子山古墳、鉄砲山古墳も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と考えるれる。埼玉古墳群以外に大仙陵古墳を縮小した形で造営された古墳としては、奈良県の川合大塚山古墳や岡山県の両宮山古墳などあるそうだ。
稲荷山古墳は大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇の陵に治定)と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。また埼玉古墳群の二子山古墳、鉄砲山古墳も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と見られている。埼玉古墳群以外に大仙陵古墳を縮小した形で造営された古墳としては、奈良県の川合大塚山古墳や岡山県の両宮山古墳などが挙げられる。
稲荷山古墳概要:
所在地:埼玉県行田市埼玉 (北緯36度7分45.81秒、東経139度28分51.66秒)
形状規模:前方後円墳、墳丘長120m、高さ11.7m
出土品:金錯銘鉄剣・画文帯神獣鏡・勾玉等(一括して国宝に指定)
築造時期:5世紀後半
1968年の発掘調査において金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)が後円部分から発掘される。1978年、この鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が表されていることが判明した。1983年、他の出土品とともに「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として国宝に指定された。
**江田船山古墳
江田船山古墳は、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する前方後円墳。清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで有名。国の史跡に指定されている。ここにも「ワカタケル大王」の文字が書かれているらしい。
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吉野ケ里遺跡
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県にある国の特別史跡。およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。発見されたのは、工場団地造成計画の際に偶然に発見されたもの。これは縄文遺跡の三内丸山も同じ。他にもっとすごい遺跡がまだ、地下に隠されている可能性は否定できない。
基本的に遺跡の発掘というものは、建設工事などがキッカケで偶然に発見されることがほとんど。人々が生活している場所を掘り起こすのはそんなにようにできることではない。将来はCTスキャンのように掘らずに土の中が観察できる技術の開発も望まれている。
ところで吉野ヶ里遺跡弥生時代中期のもので紀元前4世紀頃に始まり、紀元後3世紀頃に最盛期を迎えたと推定。何と言ってもその特徴は、物々しいい軍事施設であるということ。二重の深い堀と柵、敵を見張る物見櫓、刀傷のある人骨等。ちょうど、中国の史書に残されている、倭国大乱の時期に相当すると推定され、邪馬台国との関連も議論になっている。何故、平和な縄文の世界(山内丸山遺跡)から、このように戦いに明け暮れる時代に変化したのか。おそらくその背景には急激な環境の悪化という条件が隠されているはずだ。指導者たちは食料を確保して、民を食わせないといけない。弥生時代は、従来の縄文人の生活の場に大量の渡来人が流れ込む。大陸側の歴史も無視できない。両者は必ずしも平和裏に混血して現在の日本人が成立したわけではないだろう。遺伝子解析などの研究からもその辺の事情が少しずつ解明されてきているようだ。またまだよく分からないことだらけの世界であるが。
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神武天皇
戦時中は、皇紀(こうき)という年号が使われていて、西暦1940年は、皇紀2600年ということで記念の年であった。皇紀元年は神武天皇が即位した年。ということは、神武天皇はキリスト誕生の660年も前に即位したことになります。紀元前7世紀。日本では、紀元前13世紀~紀元前4世紀ぐらいまでは縄文時代と言われている時代。
縄文時代は、約1万5,000年前~約2,300年前、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代で、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代とされる。土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚などが特徴。
神武天皇は、日本の初代天皇とされる神話・伝説上の人物。和風諡号(しごう;貴人の死後につけるおくり名)は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、諱(いみな)は「彦火火出見(ひこほほでみ)」だそうだ。
神武天皇の功績は、九州の日向の地(今の宮崎県)から東征して、先住民を服従させ大和朝廷を成立させたことか。建国の父という位置づけだ。確かに、神武天皇は、神話・伝説上の人物だが、歴史の研究では、神話も伝説も何らかの意味は持っているはず。何故、神武天皇は東征で西征ではなかったのか。服従させられた先住民とはどんな人たちだったのか。吉野ケ里遺跡は当時の日本が、戦いに明け暮れた激動の時代であったことを示唆している。定住して安定した社会を築いていた縄文の人々の中に大陸方面から稲作技術を持った人々が押し寄せてくる。人口が増えて部族社会から首長社会、そして国家が誕生する。歴史が大きく転換する最も興味深い時代。文字が残されていないので、頼りになるのは遺跡の発掘と神話の意味するところの解明しかないか。(2018.5.6)
【追記】戦争中の日本の有名な戦闘機「ゼロセン」は、紀元2600年(1940年=昭和15年)を記念してなずけられた。当時は零(れい)式戦闘機と称していた。そもそも0を零(れい)と読むのが本来の日本語。零をゼロと読むのは英語の影響だ。英語の「ゼロ・ファイター」が「ゼロセン」に変わったもの。
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好太王碑
好太王碑は、高句麗の第19代の王・好太王(広開土王)の業績を称えた石碑。現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在。広開土王碑とも。付近には陵墓とみられる将軍塚や太王陵もあるという。 4世紀末から5世紀初頭の朝鮮半島史や古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料のはず。本来日韓中協力のプロジェクトになりそうなものだか。
この碑は、好太王の業績を称えるため子の長寿王が作成したもので、碑文によると(西暦414年)に建てたとされる。1880年に清国集安の農民により発見され、その翌年関月山よって拓本が作成された。1961年には洞溝古墓群の一部として中国の全国重点文物保護単位に指定されている。
高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑で、その四面に計1802文字が漢文で刻まれている。そのうち約200字は風化等で判読不能となっており、欠損部の解釈については様々な説がある。2010年現在は風化・劣化を防ぐため、ガラスケースで保護されている。
1884年1月、情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料に、好太王碑の拓本が含まれていた。その後、参謀本部で解読に当たったのは文官である青江秀と横井忠直であり、倭の五王以前の古代日本を知る重要史料とわかったため、漢文学者の川田甕江・丸山作楽・井上頼圀らの考証を経て、1888年(明治21年)末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上されたということだ。
碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。
**高句麗:
高句麗(こうくり、コグリョ、朝鮮語: 고구려、紀元前1世紀頃 - 668年)または高麗(こうらい、こま、コリョ、朝鮮語: 고려)は、現在の中国東北部(満洲)の南部から朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国北部にかけての地域に存在した国家。最盛期には中国東北地方南部、ロシア沿海地方の一部、および朝鮮半島の大部分を支配した。朝鮮史の枠組みでは同時期に朝鮮半島南部に存在した百済・新羅とともに三国時代を形成した一国とされる。本来北方の騎馬民族の建てた国家であるのか、とても強く中国をも脅かす存在だったようだ。
高句麗という国は、どうも北方の騎馬民族が造った国らしい。だから彼らが韓民族の先祖という訳ではないのかも。日本も中国もそう思っているだろうが韓国人には許せないだろう。それを言えば、朝鮮半島の南の方や百済なんかも、韓民族の先祖ではない(倭人??)かもしれない。新羅は大丈夫だろう。しかし今の韓国人にとっては多分絶対に認めたくはない。偉大な単一民族神話があるから。日本も人のことは言えないかもしれないが(単一民族神話がある)。「渤海」も韓国の学者は朝鮮民族が建てた国としているが、中国は当然そう考えていない。
『三国史記』の伝説によれば、初代王の朱蒙(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てたとされる。漢の支配から自立し、3世紀以降、魏晋南北朝時代の中国歴代王朝や夫余(扶余)、靺鞨、百済、新羅、倭など周辺諸国と攻防を繰り広げ、5世紀には最盛期を迎えた。高句麗は東アジアで大きな影響力をもったが、589年に中国が統一され南北朝時代が終焉を迎えると、統一王朝の隋・唐から繰り返し攻撃を受けた。高句麗は長らくこれに耐える。660年には百済が唐に滅ぼされ、新羅も唐と結んだことで南北から挟まれた。そして国内の内紛に乗じた唐・新羅の挟撃によって668年に滅ぼされ、唐に吸収されて安東都護府が設置された。唐も攻略には大変苦心する。
高句麗は別名を貊(はく)と言う。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。
広開土王(好太王)
391年に即位した広開土王(好太王、在位:391年~412年)はいわゆる広開土王碑を残したことで名高い。この碑文は彼の死後にその功績を称揚する目的で建立されたものであり、4世紀末から5世紀初頭における東アジア史の重要史料となっている。彼の諡号である広開土王(広く領土を開いた王)の名は彼が各方面で大きな戦果を挙げ領土を拡大した事に因んでいる。彼は395年には北西の稗麗(契丹の部族)を撃破し、翌396年には朝鮮半島中部の百済へ親征してその王都漢城に迫った。これによって百済王を臣従させ58城邑の700村を奪取した。398年には東北の粛慎を攻撃して朝貢させ、また誓約を破って倭と和通した百済を再度攻撃するため平壌まで進軍した。そこで倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきたため、400年に新羅領へ出兵しその王都を制圧していた倭軍を駆逐した。更に敗走する倭軍を追って朝鮮半島南端部にあたる任那加羅まで進み、倭人と共にいた安羅兵も討ったという。404年には倭が海路で帯方地方に侵入したがこれも撃退した407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った。このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、重要性の高い同時代史料として現代では高く評価される傾向にある。
広開土王によって拡大された領土を引き継ぎ、高句麗の全盛期を現出したのが長寿王(在位:413年?-491年)である。その諡号の通り、79年に亘って在位したと伝えられる。彼は即位直後の413年、東晋に初めて朝貢した。この頃、鮮卑族拓跋氏の北魏が中原を支配下に収めると、北魏に敗れた北燕から天王馮弘が高句麗に亡命した。当初長寿王は馮弘を保護したが、北魏からの強い要求の前に折れ彼を殺害した。長寿王はその後南北に分裂した中国の両朝に遣使を行い、特に国境を接する北魏との関係構築に腐心した。南北両王朝とも高句麗の存在を高く評価し、424年には宋、435年には北魏からそれぞれ冊封を受けた。高句麗に授けられた将軍号、官位は当時の東アジア諸国の中でも最上位級となった。
どうも倭国は実際に高句麗と一戦を交え、かなりこっぴどくやられたらしい。その後、日本の古墳には馬の埴輪が見られるようになるようだ。馬は日本ではまだ使われていなかったようで、馬のことを駒(こま)ともいうのは高句麗のものと言う意味かも知れない。
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馬の埴輪
人と馬の関係は「乗馬」に象徴されているともいえますが、その起源は西アジアのイラン地方で始まったとされ、次第に人間が乗る「鞍」と馬をコントロールする「手綱(たづな)や轡(くつわ)」が整備されました。轡(くつわ)とは難しい字だね。
その明確な例は、紀元前1000年頃から西アジアのアッシリアの浮彫などに見られます。やがて、中央アジアのスキタイ民族(B.C. 6~3世紀)などの影響で広くユーラシア大陸に拡がり、紀元前5世紀頃にはローマ軍でも重装歩兵と騎兵が一般的な存在となっていました。
ちなみに、我々がよく目にする馬のシンボルともいえる蹄鉄(ていてつ)は、蹄が冷湿な環境では歪みや裂けを生じて炎症を起こすことから生み出されたものです。
ローマ時代には蹄のサンダル(!)が考案されており、(通説では)9世紀頃になって釘で固定する蹄鉄が発明されたそうです。
一方、お隣の中国では、殷代(BC.1600~1100年)後期に(ローマの戦車によく似た)2輪車の戦車の使用が始まり、西周(BC.1100~756年)末期の紀元前8世紀頃から青銅や鉄製の轡がみられます。
やがて春秋・戦国時代(BC.770~221年)末期の紀元前4世紀頃から、騎馬戦法を駆使する北方遊牧民族の匈奴(B.C.4 ~A.D.1世紀)が中原にしばしば侵入するようになり、紀元前3世紀以降、漢代(B.C.206~A.D.8年)には中国の農耕民族と激しく対立していました(あの万里長城建設の“原動力”だ)。
紀元後の後漢代(A.D.25~220年)になると、(乗馬が不得手であった・・・)農耕民族が乗降り用の鐙(あぶみ)を発明して、現在の馬具の形が完成されたと考えられています。鐙(あぶみ)も難しい漢字だ。東アジアの乗馬の風習と馬具の源流はここに起源が求められ、4~5世紀には中国東北地方や朝鮮半島に馬の飼育を伴って拡大し、やがて日本列島にも伝えられました。
このようにして生まれた馬具は、 (少々堅苦しくて恐縮ですが…) 機能面から大きく四つに分けられます。
第一は、馬を制御する轡(くつわ)・手綱と、これらを繋(つな)いで頭に固定する面繋(おもがい)です。
第二は、乗馬用の鞍・鐙(あぶみ)および障泥(あおり)などと、これらを固定する胸繋(むながい)・尻繋(しりがい)があります。
第三はさまざまな装飾具で、面繋・尻繋の交点に付ける雲珠(うず)・辻金具をはじめ、純粋に装飾として付加された杏葉(ぎょうよう)や馬鐸・馬鈴などがあり、第四には戦闘用の馬冑・馬甲などの馬鎧(うまよろい)などがあります。
**轡(くつわ)=ハミ(馬銜、銜、英: bit)、または轡(くつわ)は、馬具の一種であり、馬の口に含ませる主に金属製の棒状の道具。こんなものつけられて馬は嫌がらないのでしょうか。人間と馬の長い歴史にあって、人間が馬を思いのままに制御しようと試みた中で、ハミは最大の発明であるといわれる。おそらくハミが発明されるまでは、縄を馬の首や頭部に巻きつけただけであったと考えられ、騎手の細かい制御の意思を的確に伝えることが困難であったと思われる。ウマの家畜化年代には議論があるが、ハミの利用は馬の家畜化年代を推定する指標として用いられている。
日本列島の馬具は、弥生時代中・後期の西北九州地方で(“王墓”とも呼ばれる)多数の副葬品をもつ有力な甕棺墓などから出土する稀少な輸入品の馬鐸や車馬具を除けば、古墳時代の4世紀末頃から古墳の副葬品として現われ、5~6世紀に広く普及しました。
このように、馬は古墳時代の途中から、新来の“最先端の乗り物”として登場したことが判ります。
まず頭部ですが、口の両脇には轡が外れないように先端に鏡板が付けられ、そこから後方に引手(ひきて)と手綱が表現されています。また、轡・鏡板を固定するベルトと、その交点に付けられた辻金具もリアルに表現されています。
鏡板はもっとも目立つ部分ですので、実用的なリングだけの素環(そかん)鏡板のほか、鈴付やf字形などのさまざまなバリエーションがあります。
ちなみに、頭の天辺(てっぺん)にある先が平たい棒状の飾りのようなものはタテガミの先端を束ねたもので、首筋まで続く部分も先端をカットして(おそらく・・・)“立てている”様子がうかがえます。
ほかに長い髪のままの(“ロン毛”の)馬形埴輪も見つかっていますので、(もちろん古墳時代の馬が短髪な種であった訳ではなく)まさにモヒカン刈りのような・・・パンク(?)な髪型に整えられていたらしいことには驚かされます。
次に、胴部中央に載せられる鞍と、胴体に巻き付けられる胸繋と尻繋はどうでしょうか。
古墳時代の鞍は(人間が乗る自転車のサドルにあたる)2または4本の居木(いぎ)と、前輪・後輪(しずわ)から成る前後の鞍橋(くらぼね)から構成されることが特徴です。
その鞍からは乗馬に必要な輪鐙が吊り下げられ、両脇部には泥除けの障泥(あおり)が装着されています。
鞍を固定する前後の胸繋・尻繋のベルトには、たくさんの馬鐸・馬鈴や鈴付杏葉が吊り下げられています(ガラガラと・・・ずいぶんと賑やかそうですね)。
尻繋のベルトの交点にはやはり辻金具が付けられ、ベルトがもっとも交差する中央部分には、多脚の雲珠が取り付けられていた様子が表現されています。
このように見てくると、埴輪に表現された馬は金銀で飾られた実に煌(きら)びやかな各種の馬具で飾られていたことが判ります。これらは「飾り馬具」と呼ばれる装飾性が高い特別な製品で、当時輸入に頼っていた金銀などの稀少な貴金属をふんだんに使用した“豪華な”馬具ということができます。
さて、人類は乗馬の他に、古来、耕作や牽引・戦闘などのさまざまな場面に馬を利用し、それぞれに相応しい馬具を使い分けてきました。
たとえば、東アジアで戦闘に用いられた馬には馬鎧(馬冑・馬甲)が装備され、文献記録や高句麗の古墳壁画は5世紀頃の中国東北部や朝鮮半島における騎兵同士の激しい戦闘の様子を伝えています。
ところが、日本列島の馬形埴輪には耕作・牽引などに適した馬具は付けられていませんし、ましてや大陸の騎兵にみられるような激しい戦闘に耐えるような装備はほとんど見当たりません。
古墳から出土した少数例の馬冑なども稀少な舶載品とみられ、馬具としてはごく少数の特殊な例にすぎません。大多数の馬形埴輪からは、少なくとも古墳時代の馬が農耕や戦闘に従事していた様子をうかがうことはできません。
こうしてみると、埴輪に象(かたどら)れた馬は乗馬に最大の「関心」があったようです(といっても馬の特性でもあるスピードが重視された様子はありません…)。
それも金銀に彩られたさまざまな馬具を鏤(ちりば)めた豪華な“いでたち”です。ほかの動物埴輪と比べても、著しく“人の手が加わった”姿が特徴で、特定階層の人物と(まさにベタベタの・・・)深い関係にあったことは否めません。ペットでありステータスシンボルだね。
おそらく当時の人々も、古墳に樹(た)てられた馬形埴輪を見ることによって、葬られた人物が(最先端の…)豪華な“乗り物”を所有することができた社会的地位の高い人物であることを容易に想像できたことでしょう。現代ならば、さしづめ(やや古いですが・・・)戦後のロールスロイスか、キャデラックといったところでしょうか。
やはり、馬形埴輪の場合でも「動物埴輪の“キーワード”」を通して、その性格を読み取ることができそうです。
動物埴輪は鳥類や哺乳類・魚類など、実にさまざまな動物が採り上げられていましたが、その種類は人間社会と関係の深い動物が選ばれて造形されていました。その背景には、古墳時代の人々の時間や生命(魂)に対する考え方や王権や神に関する世界観が隠されていることがうかがえます。
さらに、社会的地位の象徴などの意味も含まれていたと考えることができました。これまでに見てきましたように、動物埴輪はいわば当時の社会の“鏡”のような存在であったことがお解かり頂けたことと思います。
このような視線(“眼”)でもう一度、(一見?イヤよく見てもやはり、かわいらしい…)動物の埴輪達に込められた当時の人々のメッセージを読み取って頂ければ幸いです。
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卑弥呼の鏡
【「可能性高い」―大分・日田で出土の鉄鏡-中国・曹操陵の発掘責任者が見解】
「三国志の英雄」として知られる曹操(155~220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21.1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長冝■孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。
二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2~3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。
**金銀錯嵌珠(さくがんしゅ)龍文鉄鏡 1933(昭和8)年に鉄道の線路工事で見つかったとされ、出土状況の確実な情報はない。考古学者の梅原末治氏が63年に発表、64年に国重文に指定された。
**ダンワラ古墳
大分県日田市日高町にあった古墳。国の重要文化財の金銀錯嵌珠(さくがんしゅ)龍紋鉄鏡(重要文化財、東京国立博物館所蔵)の出土地として知られている。
1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で線路の盛土を採集している際、石棺が出土し、その中から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が発見された。
発見当時にはこの鉄鏡が注目を集めることはなかったが、1962年(昭和37年)に、梅原末治によってその価値が見いだされ、発見者の渡辺音吉の案内による現地調査が行われた。その結果、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断され、その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており、この古墳は前述の線路工事によって発見時に破壊されていたため、ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、背面の装飾は腐蝕のために剥落した部分が多いものの、約3分の1が残存しており原状をうかがうことができる。全面に金で竜文が象嵌されており、その角や爪は銀の象嵌とされ、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌入されている。中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。この鉄鏡は漢代のものと考えられている。現在は東京国立博物館が所有しているが、九州国立博物館で常設展示されている。
発見者によれば、石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡が出土し、近辺からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。また、日田市から出土した帯の金具である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、一説には同じ古墳から出土したともいう。
ダンワラ古墳は、一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われるが、その被葬者や、このような豪華な副葬品が納められた理由は明らかでない。鏡は100枚ももらった(大勢に配った)のだからダンワラ古墳が卑弥呼の墓という訳にはいかない。
考古学の展示で銅鏡として飾ってあるのは、裏側の模様のある方だが、製作当時の職人にとって重要なのは表側のつるつるの部分であるのは当然のこと。現在では銅は鉄より高価だけど、当時としては加工技術の難易度の高い鉄の鏡の方が、価値が高かったかもしれない。三国時代の魏の国は、銅の産地を呉の国に抑えられていため盛んに鉄の鏡が造られたらしい。また、呉と対立していた魏にとっては、邪馬台国との交流は地政学的にも大変重要で最大級のもてなしをしていたものと思われる。
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出雲王国
古代出雲(こだいいずも)は、弥生時代、古墳時代の出雲の国(現在の島根県東部および鳥取県西部)にある出雲平野、安来平野を中心にあった文化をさす。出雲は歴史的仮名遣いでは「いづも」である。
姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定できる。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出している。
**四隅突出型墳丘墓
古墳時代の典型的な古墳と言えば前方後円墳。これは日本独特のものなのか。あるいは本当はお隣の韓国や中国にもあるんだろうか。しかし、日本にも前方後円墳以外の古墳もある。四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。四隅突出型弥生墳丘墓とも呼称する。非常に個性的だけどこれは何か意味があるのだろうか。
現在の調査では、弥生中期後半の広島県の三次盆地に最も古い例がみられる。 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後期後半から出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に広まった。北陸では少し遅れ能登半島などで造られている。源流は今のところ判明していないが、貼り石方形墓から発展したという可能性もある。
山陰地方すなわち日本海側を中心に約90基が確認されている。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られている。
墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、規模は後の前期古墳の規模に近づくなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。
このことから、山陰〜北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権(出雲王権)を想定する論者もいる。また、もっとも集中的に存在する島根県安来市(旧出雲国)では古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考える者もおり、出雲国造家とのつながりを指摘する者もいる。
つまり、日本神話のスサノオ神話や大国主の国譲り神話、巨大な出雲大社やこの地方だけの神有月(神無月の反対)があること。これらの神話は何らかの歴史的な事実を反映したものである可能性が高い。
出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るが、豊富な神話、各地からの大量の出土品、古墳の種類の豊富さから、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。青銅器の原材料にしても、朝鮮半島産であるとするもの、島根半島の西部の銅山の産出であるとするものなど、いずれにしても特定はできいない。
鉄器については、山間部で時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっている。特に遺跡が多いのは県境付近であり、たたら製鉄に欠かせない大量の木炭の確保は欠かせなかったものと考えられる。西部地方は後に衰えを見せるが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられている。
古墳時代前期では、全国最大級の方墳である大成古墳・造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえる。
北陸や関東などに、四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。古事記上巻の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある多くの神社に出雲系の神が祭られている。大和政権が日本を統一した後も豊富な神話を伝えるなど、一大古代勢力であったことが伺える。
出雲地域をはじめ北陸地方、東北地方に分布する「ズーズー弁」(裏日本方言)と古代出雲の関連性はしばしば指摘される。「ズーズー弁」が飛び地状に分布する理由として、古代出雲の住民が東北地方に移住したとする説や、かつて日本海側で広く話されていた基層言語の特徴だとする説がある。
【追記】古代王国は海洋民の建てた国??
農耕民族の建てた大和王国(九州?近畿?)がドンドン領地を広げて行って、領地の境界で出雲王国と会戦し、屈服させた。どうもそんな農耕→王国、というストーリーは最近否定されてくるようだ。
どうも、当時の日本の支配者達は、新技術の鉄を武器に、交易をして栄えていたようだ(NHIのアイアンロードも参考になる)。
朝鮮半島南部、九州北部、吉備、出雲、大和、北陸、尾張と広大な交易のネットワークが当時もうできた可能性がある。そう考えると、神話の世界の「神武東征」も「出雲の国譲り神話も」、或いは歴代のの大王(天皇)が頻繁に都を変えていたことも理解が容易になるのでは。つまり、彼等は鉄には執着があっても領土としての土地にはあまり執着が無いようだ。
稲作が急速に普及したのは、朝鮮半島南部の人達と鉄製品と米を交換するためだったらしい。当時気候が寒冷化していて、大陸側では食料が不足していたらしい。だから米は最初から貨幣の代りになる、商品作物として大規模なモノカルチャ―、いわばプランテーション的な形で急速に普及していったらしい。米は種籾の形でなら数年は保存できる。鉄製農具を大量に作って米を増産→米を売って鉄器を購入→更に農具を生産→米の増産。このような成長のスパイラル。今の資本主義経済の発展の仕組みと同じだね。
このように当時の大和政権にとっては大陸との関係は国家の存亡にかかわる極めて重要な事柄。大和政権内の豪族達の対立の裏には必ず外交問題が横たわっている。国産の鉄が出来るようになると外交の重要性は小さくなっていったようだ。
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倭の五王
倭の五王(わのごおう)とは、古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、 讃・珍・済・興・武(サン・チン・セイ・コウ・ブ ??)のこと。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡って主に南朝の宋(420年~479年)に朝貢したとのこと。日本側には対応する記録は無い。中国もまだ後漢が滅んで隋の統一がなされる前だ。
時代的には卑弥呼の邪馬台国より少し後。だから王と言っても天皇のことかどうかも不明。朝貢した目的は何だったのか。つまり、この時代は日本史にとっての空白の時代と言える。
倭の五王が記紀(古事記と日本書紀)における天皇だとすれば、の誰に該当するかについては諸説ある。日本書紀作成の時点では、帰化人達は中国の歴史書の存在を知らなかったかも。もし、知っていれば五人の王、讃・珍・済・興・武を歴代天皇に対応させる作業を行っていたのでは。あるいは意図的に無視した?中国側が勝手に讃・珍・済・興・武なんていう漢字を使う訳がないので本人がそう称したんだろう。そもそも、これらの五王が大和政権の王だったという証拠もない。
宋の歴史をまとめた『宋書』には、宋代を通じて五人の倭王の使者が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続く南斉の史書『南斉書』・梁の『梁書』にも、宋代の倭王の遣使について触れられている。一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は朝貢の事実を記していない。倭の五王に比定される天皇の時代に「呉国」と使者のやり取りがあったという記述がある。「呉」とは中国南東部の地域に当たることからこれが南朝の宋を意味するとも考えられるが。「魏」と対立していた国と言う意味かも。
遣使の目的は中国の先進的な文明を摂取すると共に、中華皇帝の威光を借りることによって当時のヤマト王権にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。或いは朝鮮半島における利権を確保する目的かも。まだ、鉄器が普及していない倭の国々は、朝鮮半島の勢力とも密接な関係を保つ必要もある。
倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だった可能性もある。438年の遣使では倭王珍が「倭隋」なる人物ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正を求めているが、この時 珍が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性が窺える。451年にも、やはり倭王済が23人に将軍号・郡太守号の称号を望んでいる。
また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における権益に関して国際的承認を得ることも重要な目的であった。倭王達は宋に半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、最終的には「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に任ぜられ、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓についての公認を得たものの、百済に関してはついに認められなかった。この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、倭と対立する高句麗の反発を避けようとしたものと考えられる。また、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下であったが、これも同様に高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものと思われる。
478年の遣使を最後として、倭王は1世紀近く続けた中国への朝貢を打ち切っている。21代雄略天皇は最後の倭王武に比定される人物。この雄略の実名と思しき名が刻まれた稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下としての「王」から「大王」への飛躍が認められ、同様の江田船山古墳出土鉄剣には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中国の冊封体制から離脱し自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある。中華皇帝が大王の称号を与えるはずがないので、自ら大王と称したということらしい。
最初の413年の遣使は宋朝成立以前の東晋に対してのもので、『晋書』によると「高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が方物を献上した」とある。この記述を高句麗と倭国の共同入貢とする解釈、高句麗が倭人の戦争捕虜を伴ったとする解釈、単に個別の入貢を一括して記したものとする解釈もあるが、詳細は不明である。ただし、後の『梁書』諸夷伝には「晋の安帝の時、倭王讃有り」という記述がある。
479年と502年の記録はそれぞれ南斉・梁の建国時(479年・502年)のもので、これらは王朝建国に伴う事務的な任官であり、前王朝の官位を踏襲したものと考えられ、倭国の遣使があったか否かは明らかではない。確認できる最後の遣使は478年であり、史料上確実な倭国の次の遣使は600年~607年の遣隋使まで途絶えることとなる。
最も蓋然性が高いのものが雄略天皇を「武」とする説。記紀の記述の内容が5世紀末の朝鮮の史料とよく符合し、実名である「ワカタケル」と思しき名が刻まれた鉄剣がやはり5世紀末頃の遺跡で見つかっていることから同時代に在位していた大王である可能性が高い。「武」という名も実名の「タケル」を漢訳したものと考えられる。先代の安康天皇は雄略の兄であり、先々代の允恭天皇は安康・雄略の父であることから、済の子が興でありその弟が武であると記す『宋書』の系譜とも一致する。また、478年に武が奉った上表文では「にわかに父兄を喪い」(奄喪父兄)と述べられており、允恭の死後に跡を継いだ安康がわずか3年で暗殺されたという『記紀』の記述とも整合性がある。以上のように「済」・「興」・「武」(後ろの3人)については研究者の間でおおむね一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため、様々な説があるという。
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丁未の乱(ていびのらん)
丁未の乱(ていびのらん)(587年)は、飛鳥時代に起きた我が国の内乱。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされ、物部氏は衰退下とされている。その後の日本の形を決める重要な戦いだ。
535年 インドネシアのクラカタウ火山の爆発による地球規模の大異変が起きる。 世界各地の古文書・年代記・伝承などに異常寒波・自然災害・飢饉・疫病が発生し、その結果政変や文明の崩壊がおきたことが記されている。その結果、民の不安を収めきれずに衰退に向かった勢力がいる一方、この不安を逆手に取り、集権化を押し進め国を統一する方向にもっていく勢力もいる。
6世紀(501~600年)の東アジアも、中国でも政権が交代し、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅が覇を競いあい混乱時代に陥る。朝鮮半島から沢山の難民(特に百済系が多いか)が日本にやって来る。百済から来た人たちはお土産に仏教を持ち込んでくる。インド発の仏教は同時に色々な技術を伴って伝えられるメリットもあったが、難民(渡来人)が同時に持ち込んだ疫病が大流行するという悪さももたらしたようだ。
物部氏は、当時は最有力の氏族だったようだ。神話では神武天皇の盟友となっており、磐井の乱の鎮圧にも活躍している。ただ、渡来人の数が増えるに従って、豪族たちの力関係少しずつ変わっていったようだ。物部氏と並ぶ大伴氏は、力の基盤となる朝鮮半島の南部の領土失い(新羅に取られ)力を失う。
一方の、蘇我氏の方も先祖は武内宿禰ということで名門らしいがその後の活躍はあまり記録が無く、渡来人を活用し力をつけて来たようだ。
結局、大連としての権力が、大伴・物部→物部、大臣の方が葛城氏・平群氏→蘇我氏と大和政権内の豪族の権力が物部・蘇我の二大勢力の対立に変わったらしい。
【対立の経過】
欽明天皇(在位期間 539年~571年、古墳時代)の時代。任那が滅亡し百済から仏教が公式に伝来。百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争う。
稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わり。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可。このころから疫病が流行しだす。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるように命ずる。守屋は自ら寺に赴き、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、群衆の目前で鞭打った。
こうした排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後に崩御(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込む。当初、守屋は有利であったが河内国の本拠地で戦死(流矢に当たったらしい)(丁未の乱)。同年蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位。以降物部氏は没落したとされる。
物部氏の子孫たちは政治の舞台からは消えるが、物部氏から改めた石上氏が神社の宮司として代々続いているらしい。神道は国学として江戸時代には仏教に対抗する思想として復興する。
この当時から日本の天皇(この当時は大君と呼ばれていたはず)は象徴で、実際の実務は豪族たちが天皇の名前で行っていたのですね。上記の歴史も、日本書紀等はだいぶ後になって書かれたものなのでかなりの改竄もあるかもしれないけど。しかし、これ以降仏教は国の支配原理としてしっかり根付くことになる。
しかし、この戦い、どう見ても蘇我氏の側に大義名分はないね。ここで問題としている仏教は国家鎮護のためのもの。国の宗教だから個人の信仰の自由とは全く無縁のもの。しかも疫病が流行していることも無視して力ずくで導入しようとする。最後は一方的に戦いを仕掛ける。
一人勝ちになった蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって政治基盤が動揺していくこともあったのかも。それを克服しようとした入鹿等の政治が強権的だったこともあり乙巳の変(いっしのへん)につながったのかもしれない。この時仏教を取り入れたことがその後の日本の繁栄にどれだけ寄与したのかも見ていく必要があるだろう。
歴史の流れは、偶然に作用される面が大きい。蘇我⇔物部の戦もどちらが勝っても不思議のない多い戦だったようだ。物部氏も私的には仏教を崇拝していた可能性もあり、朝鮮との関係も持っていたようだ。ただ国家の枠組みとして仏教を柱にすることには反対だったようだ。渡来人の発言力が大きくなってしまう可能性があるから。単に頑固な守旧派と見做すのは偏見であろう。
【氏姓制度の成立】
原始共同体においては、氏族や部族が社会の構成単位だったようだ。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直される。成立時期は、5~6世紀ぐらいらしい。同族のなかの長が、臣、 連、伴造、国造、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜わる。各姓は以下の通り。
臣(おみ)…葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては大王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
連(むらじ)…大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、大王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。
伴造(とものみやつこ)…連とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族。弓削氏、矢集氏(やずめ)、服部氏、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏や秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏がある。連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。百八十部(ももあまりやそのとも)さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。
国造(くにのみやつこ)…代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民を率いる地方的伴造の地位にある者もあった。君(きみ)、直(あたい)の姓が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
県主(あがたぬし)…これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏の名とする。
このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、大王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれた。そののち、臣のように、元々は大王とならぶ地位にあった豪族にも及ぶ。
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天皇の系図
飛鳥時代当たりの古代史を調べて行くと、皇位の継承というのが非常に複雑なルールで行われて来たことが理解できる。何故このようなルールが生まれて来たのか。
魏志倭人伝に出て来る邪馬台国を考えて見ると良い。卑弥呼という女帝がいて国をまとめている。鬼道を持って国を治めていた。いわゆる神権政治だ。男帝が補佐している。男の王が立ったら、国は乱れた。だから卑弥呼の後には女帝の台与を立てた。
大和政権は、明かに豪族たちの連合政権だ。共通の神話を持っていたのか。また、朝鮮半島の鉄資源という共通の利害関係もある。大君は男性が多くなるが、皇后の血統はしっかり守られている。神との対話はどうも昔から女性の役目と決まっているようだ。藤原不比等が初めて皇族でない自分の娘を皇后に立てるまでにはかなりの時間がかかっていた。
図を見てみよう。まず、34代の舒明天皇が亡くなり、皇后の皇極天皇が35代を引き継ぐ。この時乙巳の変が発生。皇極天皇は翌日退位し、軽皇子が第36代孝徳天皇となる。何故か筆頭と目された中大兄皇子ではない。そして、孝徳天皇が亡くなると、再度皇極天皇が重祚して37代斉明天皇だ。38代になって初めて中大兄皇子が天智天皇になる。豪族たちの合意が得られなかったのか。
中大兄皇子は、後継として大海人を指名して、これが大和政権内の合意事項であったようだ。長男が亡くなれば後を継ぐのは次男。これを覆したことが壬申の乱の原因だろう。
39代の弘文天皇は実際にあったかどうか不明。後に付け加えられた可能性が高い。天武天皇の皇后、持統天皇は何と天智天皇の娘だ。だから、大友皇子は天武天皇の甥、持統天皇の腹違いの弟。大友皇子が亡くなったことは心残りのことだっただろうに。
壬申の乱を支援したのは、東海地方等の地方豪族たち。持統天皇の縁故の豪族たちが結束したのかも。
天武天皇が亡くなり、皇后の持統天皇が41代として継ぐ。持統天皇自身天智天皇の娘、当然皇位継承権あり。天智系の大津皇子は抹殺される。持統天皇は是が非でも、息子の草壁皇子に継がせたい。でも、まだ年少であった。ところが草壁皇子は若くして他界。草壁皇子の子軽皇子が後を継ぎ、代42代文武天皇になる。持統天皇から見れば、孫だ。持統天皇は譲位したのか。でも文武天皇も早世。仕方なく母親の元明天皇が第43代に。持統天皇はまだ生きておられたがさすがに重祚するのは無理だったか。しかし、絶対に皇位を天智系には渡さない執念はすごい。
文武天皇には、首皇子という息子がいる。母は不比等の娘宮子、正室も光明氏という不比等の娘。また正室は皇族でなければならないというルールをようやく変更させたらしい。県犬養三千代が不比等の妻。すると、文武天皇の皇后は宮子というか。聖武天皇の母、宮子は精神疾患を患い首皇子とはほとんど一緒に暮らさなかったとか。
元正天皇の時に都がならに移され、奈良時代に。聖武天皇は大仏で有名だ。男性の子に恵まれず、第46代は孝謙天皇。その後は天武系は途絶え、何と天智系の光仁天皇49代が誕生する。
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乙巳の変(いっしのへん)
乙巳の変(いっしのへん)は、宮廷内のクーデター。西暦645年とされる。社会の教科書ではこの後、「大化の改新」という一連の改革が行われたことになっている。ところが近年の研究では、どうも改革というのが実態と異なっていることが明らかになって来ている。そもそもクーデターのやり方自体が非常に卑怯な方法で、日本人の美意識に全く合致しない。しかも、殺された蘇我入鹿が当代きっての秀才で気配りも抜群、当然次世代のリーダ的存在で、中大兄皇子等の嫉妬の対象だった可能性が高い。その後の改革というものも概ね蘇我氏の想定していた改革そのもので、内容的にはさほど見るべきものなし。それ以上に最悪なのは外交政策の大失敗である。
白村江の戦い(663年)に百済を助け出兵し、唐・新羅の連合軍に大敗北を喫するのである。唐は隋を受け継いだ統一王国で、朝鮮半島にも勢力を拡大する。結局、唐に従った新羅を除き、高句麗及び百済は簡単に滅亡。国際情勢に関する知識があればどう考えても唐と戦う選択肢はあり得ない。どうも百済の残党の亡命勢力が中大兄皇子等を抱き込みクーデターとなった可能性がある。そもそも乙巳の変のもう一人の主役、中臣鎌足という人物の出自が怪しい。これほどの大改革なら、蘇我、物部、大伴、葛城等の大物が控えていてもよさそうなものだが。
当然、その前の時代から遣隋使を派遣し、日本の高官たちも中国の状況を把握していたはず。百済と組み唐と戦う選択肢はクーデターでも起こさない限りありえない。敗戦後は唐の報復(唐の側は大勝しているので報復の必要はないが)恐れて九州の防備に大わらわ。防人(さきもり)の配置など。国益を大いに損なった大失政だ。
その後、天皇となった天智天皇は、失政を覆い隠すために、強権発動をし、都を移したり、歴史の編纂(自己弁護)に勢力を傾けるも、死後、壬申の乱(672年)で弟の大海人皇子(後の天武天皇)に政権を奪取される。反乱者側が地方の豪族を抱き込み勝利した珍しい例となった。
このころ編纂された歴史書、「日本書紀」は蘇我氏を悪者にして歴史から抹殺する目的があるので、蘇我氏の業績を他のものに転嫁した可能性がある。その候補が聖徳太子ではないかとの説もある。蘇我氏は仏教を重んじ、和をもって貴しとする考え、つまり天皇独裁でなく、豪族たちによる合議制で国を動かそうとしていたので、聖徳太子の考えと合致して対立する要素は少ない。天皇独裁が必要なのはむしろ百済からの亡命勢力であろう。乙巳の変以降、天皇の独裁傾向が強まるのは、クーデターが一定の成果を上げたことになるであろう。百済の勢力も一定の軍事力を持っていたのかも。
その後、天武朝になってからも、天智系の豪族たちは処罰の対象となり、中臣氏は元の性に戻去れる。何故か、不比等の子孫だけが藤原氏と名を変え、天皇家と縁戚関係を築き、独り勝ちとなる。その先駆けが藤原不比等。天皇家を自由に操ることで勢力を拡大し、その力は現在まで続いている。
でも、不比等がやったこと、既存の豪族たちの力関係を新しい律令制という枠組みの中に吸収し、その頂点に収まったということではないのだろうか。「和をもって尊しとなす」の理想を地で行った方なのかも。その後の日本の歴史を見れば分かる通り、日本の天皇は絶対君主としてふるまうことは、一部の例外はあるもののほとんどない。貴族たちの合議制で政が行われていたようだ。お隣の朝鮮や中国の歴史と比べればこのことは一目瞭然でしょう。
この時代の史実は、記録も少なく資料としては、「日本書紀」、「古事記」、その他地方史をつづる「風土記」等限られている。しかし、歴史を書くのは常に勝者で、書かれていることは勝者に都合の良いことだということを常に肝に銘じておく必要があるでしょう。
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白村江の戦い

中国では618年に隋が滅び唐になる。朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国の鼎立状態で、日本は百済と親交が深かったようだ。このうち最も弱かった新羅は、いち早く唐の庇護下に入り、最も強かった高句麗は、唐と国境を接していることもあり、3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を受け、結局は滅び去る。日本は百済からの亡命貴族達も多く政権内にも百済ロビーが出来ていたこともあり、百済を支援しようとする。ただ遣唐使は既に630年に派遣されており、当時の政権内の多くの知識人達は唐と敵対する選択肢は無いことは分かっていたはずだ。
有名な乙巳の変(いっしのへん)が、645年に起こる。宮廷内のクーデター。そして遂に663年の白村江の戦いが生じる。百済の遺民達と倭国の連合軍が、唐・新羅の連合軍に大敗する事件だ。日本が外国に占領される3大危機として、①太平洋戦争、②元寇、③白村江の戦いと言われるほどの大事件だったようだ。
この後、「乙巳の変」の首謀者であるは中大兄の皇子(天智天皇)は唐・新羅の攻撃を恐れて、太宰府に水城と山城を築き、防人を配置するなど防衛に大わらわ。都を海から離れた大津に移すのも国土防衛の一環からか。このような強権政治は地方豪族の不満を招き、反乱を起こした弟の大海人皇子(天武天皇)に政権を譲ることになる(壬申の乱(じんしんのらん)(672年))。遣唐使はその後も続けられるが894年菅原道真の建議によって廃止され唐の滅亡(907年)によって消滅する。
白村江の戦いに当たっては、唐は日本からの留学生の帰国を阻止し、百済を攻めるという情報が漏れないように万全を期していたという。唐のおかげで朝鮮半島の統一に成功した新羅は、今度は一転して唐に歯向かい独立の道を歩むことに。日本との関係はずっと悪いまま。遣唐使は新羅を通過できないので南のルートを取らざるを得ず、遣唐使の航海は非常に危険を伴うものになっていたことも遣唐使廃止の理由の一つになっている。
【追記】
日本人の外交音痴は今に始まったことではない。1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾し(日本の降伏による第二次世界大戦終結)、白村江の戦いから1282年後に対外戦争での手痛い敗北を再び経験した。そして、戦勝国であるアメリカの様々な制度を導入したが、終戦直後の翌1946年(昭和21年)8月に当時の昭和天皇は、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし。」と語り、再び敗戦国の国民となった日本人を励ましたそうだ。歴史は繰り返す。英語「History repeats itself. 」、ロシア語「История повторяется.」、中国語「历史重演」。私達も歴史を学ぶのではなく、歴史に学ぶ姿勢が大事だ。
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藤原 不比等
藤原 不比等(ふじわら の ふひと; 659~720年):
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての官僚で、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男といわれている。鎌足は、乙巳の変(いっしのへん)で、中大兄皇子(天智天皇)を補佐した大立者であったが、後の壬申の乱で、藤原氏(中富氏)の一族は、排除され、元の姓である中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することに戻される。天智天皇系の近江朝の重臣は当然のこととして処罰の対象になったわけ。藤原不比等は当時13歳と幼かったことから、処罰の対象から免れたが、天武朝の官僚機構の下から出直すと言う苦労をしたといわれる。
一方、天智天皇の皇胤説と言うものも↓↓↓↓
不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説もある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と誓約の言葉を言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。
平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。
歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇・持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる。
ところが、不比等は法律の知識が豊富で文才も豊か。『大宝律令』の編纂にも主導的な力を発揮して、トントン拍子の出世。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖とされている。古事記や日本書紀の編纂にも関与していた。古事記は稗田阿礼という人の記憶を太安万侶が筆記したしたことになっているが、稗田阿礼という人物、不比等の代理人か本人自身ではないかとの推測もあるようだ。いずれにしても、藤原不比等という人物はただものではない。なんといっても、後に天皇家を利用して権勢をふるう藤原朝の元祖だ。天皇家との婚姻関係を通じて今の皇室は藤原家の筋が脈々と続いている。京都の公家は三条だの白川だの、岩倉だの、袋小路(??)だの皆、藤原氏の末裔だね。今の宮内庁だって藤原氏の代理人かもね。ただ、不比等さんは信長や秀吉と比べて、戦いをしたわけでもないし大変地味な存在。ただ、日本の歴史においてはその存在は滅茶クチャ大きい存在なのだ。
でも、不比等がやったこと、本当は既存の豪族たちの力関係をを新しい律令制という枠組みの中に吸収し、その頂点に収まったということではないのだろうか。「和をもって尊しとなす」の理想を地で行った方なのかも。つまり、蘇我や物部といった氏族は消滅した代りに、彼らはしっかりと律令制の中での役割と権限を確保し、支配階級としてふるまっていたのではないだろうか。律令制という制度自体、当時の大帝国唐とお付き合いするために必要だったわけなので、形だけまねて中味を日本の実情に合わせて換骨堕胎してチャッカリ利用する不比等さんはやはりただものではない。でも、不比等さんは確かに天皇の臣下の立場で権力を振るったが、天皇の権威を簒奪するような行為は慎んでおり、他者にも許さない厳しさはある。
その後の日本の歴史を見れば分かる通り、日本の天皇は絶対君主としてふるまうことは、一部の例外はあるもののほとんどない。貴族たちの合議制で政が行われていたようだ。お隣の朝鮮や中国の歴史と比べればこのことは一目瞭然でしょう。でもそのおかげで天皇家は今日まで続いている。たいていの国では政権が変われば王族は処刑されて消えてしまうのに。また、その後日本が武士の世となり、封建制度という地方分権型の国に変貌できたのも不比等流の律令制度のおかげかも知れない。お隣の朝鮮半島では専制王権型の律令制が定着してしまって日本に占領されるまで続く。やはり、藤原 不比等という人本当にただものでない。でも、とても地味な存在で歴史小説に登場する事などほとんどないようだ。
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比ぶ者なき
比ぶ者なきは藤原不比等を扱った歴史小説。著者は馳星周(はせせいしゅう)と言う方。藤原不比等は、後の藤原氏の元祖とも言えるし、律令制度を作り上げ、現在の皇室の原形を造ったとも言える人だ。おまけに日本の神話を渡来人たちの協力によって、造りあげ、天皇の地位を確立させた建国の父かも。
ただ、彼の実像は巧みに歴史の裏側にわき役として隠蔽されており、日本史の中でもあまり話題にされてこなかったようだ。古事記や日本書紀と言った日本の歴史について書かれた資料も実は、彼の時代に精力的に編纂されたもので、それ以前の出来事は総て、古事記や日本書紀に書かれたことが古代史の研究の基になっているのが現状である。
誰か不比等について、一般向きの小説でも書いた人はいないかとネットで検索していたらたまたま見つけた次第である。
不比等を主人公に選んだ、着眼は素晴らしいし、史実に照らしても内容的も良くまとまっている。不比等は天皇の地位が不安定な時期に、天武天皇→持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇と5人の天皇に仕えており、信頼される官僚としてどんどんと力をつけて行く。天皇側にも3人も女帝が含まれ、彼女等の側にも不比等を利用する必要があったとする観点も面白い。
だから、不比等の経歴を探るには、当時の歴代天皇の変遷を見て行かないとストーリーを見失うことになるかも。なんせこの時期の天皇の交代劇は非常に複雑で一筋縄では理解不能だと思われる。以下簡単に記す。
第38代天皇(在位:668~672年):天智天皇→諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。葛城氏と何らかの縁故でも。中大兄皇子として知られる。乙巳の変(いっしのへん)の首謀者で強権的な天皇であったとされているが。
第39代天皇(在位:672~ 672年):弘文天皇は実際に大王に即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることが多い。壬申の乱で殺されてしまう。天智天皇が弟大海皇子との約束を保護にし、大友皇子を立太子したのは、母親皇極天皇(斉明天皇)の意向であった可能性もある。当時の天皇は皆マザコンだから。
第40代天皇(在位:673~686):天武天皇(? ~ 686年)。諱は大海人(おおあま)。壬申の乱で勝利して即位。天智天皇の弟で弘文天皇の叔父ということだが。大友皇子を死に追いやったことは本意ではなかったのかも。
第41代天皇(在位:690年~697年):持統天皇(645年~703年)。天武天皇の皇后。史上三人目の女性天皇。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。天智天皇の娘でもあり、皇位継承権は持っている。息子の草壁皇子に後を継がせる予定でいたが、息子に先立たれ、孫の軽皇子に皇位(7歳)を継がせるため、自らが天皇となり不比等に協力を求める。ここまで見れば、壬申の乱の計画は彼女が行った可能性もある。自分の息子を皇位につけるには大友の皇子は明かに邪魔だ。彼女なら地方の豪族たちを取り込むことも容易だ。
第42代天皇(在位:697年~707年):文武天皇(683年~ 707年)。軽皇子のこと。持統天皇は15歳の軽皇子に譲位した。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になる。
第43代天皇(在位:707~ 715年):元明天皇(661年~721年)。諱は阿閇(あへ)。天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。文武天皇(軽皇子)が早世してしまう。元明天皇は、文武天皇の母親でもあり、草壁皇子(天皇待遇)の皇后ということで即位。持統天皇は年齢から重祚を諦める。祖母よりは母のほうが通りがよいか。
第44代天皇(在位:715年~724年):元正天皇(680~748年)。
父は草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひだか)。5人目の女帝。それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇。首皇子の叔母で中継ぎの役割。絶対に天智系の皇子には行為を渡さない。持統天皇の系列(母系)で行くのが天照大神以来の決まりとしてしまう。今の皇室で言えば令和天皇を愛子さまが継ぐのがいいのか。
第45代天皇(在位:724~749年):聖武天皇(701~ 756年)は、日本の。諱は首(おびと)。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。ようやく母親が皇族でない天皇が誕生する。不比等の狙いは達成したが、不比等は天皇の即位を見ることはかなわなかった。不比等の4人の子供たちが後の仕上げを完成させる。
【追記】
何と、飛鳥時代には即位した天皇15人中7人が女帝だ(第34~49代)。これも万世一系の血統を重視した結果。男性の天皇は皆短命だったので女帝の時代が長く続く。昔から皇位は男系と決っている言うのは真赤な嘘。皇室典範に「男系」と書かれているのは薩長政権の陰謀だった。不比等は不会常典範を盾に直径相続を守らせた。天皇に側室を造らせ男性の皇位継承者を沢山作って互いに競わせれば政権に都合の良い天皇を誕生させることが出来る。不比等や持統天皇達は、皇位継承には時の権力者が極力、皇位継承問題に口を出すことが出来ないようにしたようだ。このような努力が律令国家の枠組みを完成させ、天皇の権威を高めるとともに、天皇の権限にも制約を加え、「天皇は君臨すれども統治せず」の原則が出来上がる。現在まで皇室が存続する理由にもなっている。
ところが明治~昭和に天皇の権威を利用し、国を動かそうという勢力が台頭してくる。明治維新と言うナショリズムは発展の原動力とはなるが、やがてそれは軍人たちに悪用され、戦争を引きおこし破滅的な敗戦を被る結果となる。敗戦によって天皇家は本来の姿に立ち返った訳だろう。
不比等(659~720年)は、鎌足の子ということで、天武天皇の時代は不遇であったとされている。ただ持統天皇には皇后の時代から目を付けられて可愛がられていたようだ。結局、天武天皇→持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇と5代の天皇に仕えることに。当時の天皇の地位は盤石ではなく、男系の皇族達は次の天皇の座を巡って骨肉の争いになる可能性は大きかったのでしょう。この時代の女帝達は、自分の産んだ子や孫に帝位を継がせるため、新しいルール作りを不比等等に頼んだようだ。このためのツールが唐でできた律令と神話や歴史書の作成だったようだ。不比等を裏で支えてきたのは、新しい知識を持ち込んだ帰化人達だ。特に白村江の敗戦で百済再興の夢を断たれた百済の人達の活躍は大きかったようだ。下記のような文化大革命的な活動がおこなわれていたようだ。
1. 万系一世の天皇家という概念を神話で作成する。
2. 天照大御神という太陽神を造り、これを女性とした。孫に地上を支配するように命じたとか。太陽神は普通は男神。これは持統天皇を仄めかしているらしい。藤原氏の先祖とみられる神もちゃんと入っているらしい。
3. 蘇我氏の功績を打消すため、聖徳太子と言う人物を造り出し、功績をすり替えている。厩戸皇子は地味な皇族の一人だったはず。何故か聖人になってしまう。
4. 宮廷詩人柿本人麻呂。天皇賛歌のプロパガンダね。「アメノシタテラス」だよね。
でも、藤原不比等さん、そんなに悪い人でもないね。藤原を名乗れるのは父鎌足の子孫でなく、不比等の子孫だけ。天皇家も持統天皇の子孫だけが皇統を継ぐ権利を得て、大勢の皇族は下野するしかなくなる。世の中それでうまく収まる。「和を持って尊しとせよ」、物部氏を滅ぼした後の蘇我氏の家訓でもあったんだろう。女帝と言うものなかなかのものだ。なんせ天武朝時代は特別な戦争もなく、乱れた世を治めきったのだから。「オレオレ」のマザコン男帝ではかなわぬ業だ。すべては子のため孫のため、隠忍持久の持続的精神でやり遂げる。日本の社会は基本的には女性優位の伝統が根付いているのかもね。
【県犬養三千代】
県犬養 三千代(あがたのいぬかいのみちよ、665年? ~ 733年2月4日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。県犬養(あがたのいぬかい)氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍し、宿禰姓を賜った中堅氏族だといわれる。この三千代さんは草壁皇子のお世話係として宮中に仕えたようだ。持統天皇の信頼が厚く、軽皇子、首皇子の世話を懸命に行う。また、前の夫と別れ、不比等と夫婦となる。不比等が辣腕を振るってきたのは、藤原一族のためと言うより、妻三千代のため、軽皇子、首皇子たちの育て親としての愛情からと言う善意の解釈も可能だ。
県犬養三千代の一族は、その功績により天皇より橘のせいを賜る。橘氏もその後の歴史に時々顔を出す。藤原の姓だって、不比等の子孫限定だ。不比等は娘の光明氏が聖武天皇の皇后になるのを見ないで亡くなる。聖武天皇は子供に恵まれず、結局天武朝は崩壊し、天智系の光仁天皇が後を引き継ぐことに。不比等の子孫らが活躍し始めるのはその後のことだ。(2020.1.16記)
【追記】
不比等等のお陰で、日本の天皇制は確固たる基盤を固めることが出来た。天皇は基本的には君臨すれども統治せず。実際の政治は、律令体制の下で複数の大臣等が合議制で行うことに。しかし、大臣の任命権や拒否権は依然残されているので、その後、日本の権力の二重構造を生み出す原因に。二重構造が結果的に良かったのか悪かったのかは議論のある所でしょうが。明治維新以降、天皇の権限が意図的に薩長政権によって拡大解釈されて、最終的に日本を戦争に巻き込むことに。
戦後、GHQや昭和天皇御自身の宣言で、天皇は象徴であることが明記される(憲法第一条)。また、白村江の戦いの件をあげて、戦争の責任は天皇にある(道義的に)として戦争放棄を約束する(憲法9条)。
明治に造られた皇室典範の意図は明確だ。皇統は男系でないと政治家が利用しにくい。天皇は側室を造り沢山の男系の皇子を産んで選択肢を増やして欲しい。譲位などされては、政治に利用できないではないか。天皇が象徴である以上、男系に限るという規則は薩長政権によって捏造されたルールだろう。天皇が沢山の側室を置くことを前提に造られたルールだ。英国や他の欧州諸国でも女王が増えたのも同じ力学からでしょう。象徴天皇ならば女帝の方がうまく行く。歴史は繰り返すのだ。
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聖徳太子
聖徳太子(574~ 622年)または厩戸皇子(うまやどのみこ)、飛鳥時代の皇族。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第2皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教や儒教を取り入れ神道とともに信仰し興隆に努めたとされる。
【注】聖徳太子と想定される人物の家系図を探しました。記紀に乗っ取ているので他の資料でもあまり変わらないと思います。ただ皇后の名前が抜けているのは大問題です。調べれば出てくるはずです。当時のルールでは、皇后の位には皇族でなければなれません。つまり前の天皇の娘です。天皇の妻であっても皇后とは限らないわけです。この図では、誰が欽明天皇の正室だったか。当然敏達天皇の母親が皇后だったと推定されるわけです。蘇我氏は当然山背大兄王を天皇に立てたかったはずですが、正室から生まれた敏達系の田村皇子の方が正当という他の豪族たちの意見に対抗できなかったんでしょう。
聖徳太子の実在が今疑われてきている。乙巳の変(645年)の正当性を主張するため古事記や日本書紀の編纂が帰化人達の努力で行われるが、その中で蘇我馬子等の業績を隠蔽する目的で創造した人物の可能性が濃厚なのだ。
そもそもが、推古天皇も蘇我馬子等も同族みたいなもので、非常に良い関係だ。推古天皇も女帝で聖徳太子より年上なので摂政を置く必然性もなさそうだ。一族の山背大兄皇子(馬子の娘と聖徳太子の子)を死に追いやったとあるが、これではあまりにも不自然だ。つまり聖徳太子抜きでも歴史上の出来事を総て説明できる。
つまり、大和政権の2大氏族の一方の、物部氏の勢力が丁未の乱(ていびのらん)(587年)以降弱体化したので、蘇我氏の単独覇権が実現したということなようだ。蘇我氏と天皇家は婚姻関係を通じて既に一体となっている。すなわち、この段階で天皇を中心とした律令国家へ移行する準備は完了したということだ。
しかし、聖徳太子はずば抜けた聖人のごとく描かれている。厩戸皇子と言うのは馬小屋で生まれた聖人の意味だろう。こんな聖人は世界で一人しかいないだろう。そう、当時日本にはキリスト教が伝来していたはずだ。西暦325年ローマ帝国のコンスタンチヌス大帝がキリスト教を国教と決める。その際に2派に分かれていた宗派の一方を異端として追放する。ネストリウス派は新天地を求め東方へ旅をし、中国を経て日本にも来ていたらしい。景教という名で知られている。日本書紀の編纂時期は、中国は唐の時代。帰化人達は当然景教について知っていたし知識も持っていた可能性がある。厩戸皇子という正にピッタリの名を発見したということか。
遣隋使を派遣した頃の日本は、まだ隋の国力をそれほど評価してなかったと思われる。中国が統一されるのは久方ぶりのこと。邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送った時代とは違って来ているのですが。さもなければ、隋より更に強力な唐に対して白村江の戦いなど仕掛けたりはしないはずだ。「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」の遣隋使が持参した書は、当時の大和朝廷の人達の本音だったんだと思います。隋が巨大な帝国だという認識は歴史を学んだ人の後知恵なんでしょうね。
景教については、帰化人達は知っていたでしょう。でも、日本にも入っていたのでしょうか。キリスト教の伝来はザビエルが日本に初めて伝えたとされています。1549年、イゴヨク見かけるクリスチャンとか言って覚えた方も。実際には800~900くらい前にキリスト教が伝来していた可能性がある。岩手県に実際キリストの墓という古墳が存在するという話がネットにあった。景教の痕跡は他にないのだろうか。景教は仏教などの他の宗教とも交流を深めながら既存の宗教と合流し大きな影響を与えて来たらしい。
【いろは歌の謎】
「いろはにほへと/ちりぬるをわか/よたれそつねな/らむうゐのおく/やまけふこえて/ あさきゆめみし/ゑひもせす」
この各行一番下の文字を右から左へ読むと、「とかなくてしす」→「咎(とが)なくて死す」。
すなわち、"罪がなくて死んだ"の意味になる(歌の中では清音と濁音は区別されない)。このように歌の中に、もう一つのメッセージや暗号文を折り込むことを、折句というらしい。
誰がこの歌を作ったのか。これをイエスが罪もないのに十字架に掛けられたという意味という説がある。梅原猛氏は確かこれを柿本人麻呂の歌と見て彼が流罪になり刑死したことを恨んで作ったものとの説「水底の歌」を発表している。
確かに、乙巳の変で蘇我氏を討った理由には聖徳太子への迫害行為があったということが挙げられている。蘇我馬子-推古天皇-聖徳太子は、隋に倣った律令国家の樹立と言う点では政策理念は一致しているはず。ただ天皇中心の国家が出来て行く過程で豪族の蘇我氏自体の役割が小さくなっていく。蘇我蝦夷や入鹿達は聖徳太子等の暗殺を謀ったとも。このストーリーなら聖徳太子は実在し、しかも大変有能な政治家だった可能性もある。
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飛鳥時代
飛鳥時代は、日本史の時代区分。次の奈良時代は710年の聖武天皇時の奈良遷都から794年の桓武天皇時の平安京遷都までと、はっきりと線引きできるが、奈良時代以前は飛鳥時代、大和時代、古墳時代、弥生時代と遡っても、明確のエポックもなく、ダラダラと歴史が進んでいる感じだ。
実は、日本の歴史において自らの歴史を描いた書物が、出来上がるのが飛鳥時代。何故この時期に突然、歴史書が精力的に編纂されるようになったのか、その意図、原因を把握しないと古代の歴史の事実は何時までたっても闇の中。歴史は勝者の立場で書かれるといわれるが、飛鳥時代の歴史の編纂程大掛かりな作業は他に例が無いようだ。我々が神話としている世界も彼等にとって歴史の重要な部分。多くの渡来人が重用されている。飛鳥時代以前の歴史でまとまったものは、古事記と日本書紀のみであるが、そこに描かれている歴史は現代の目で見ても不自然な面が多々あり、にわかに史実と考えるには無理が多すぎる。参考にはなるものの実証的な検証が極めて重要でしょう。
当時の、世界は分裂していた中国が、隋、唐と言った巨大帝国の成立、それに伴う朝鮮半島の混乱、多数の帰化人の来日と言ったグローバルな視点が欠かせないはずだ。
隋、唐と言った巨大帝国の成立する直前には、実は535年はインドネシアのジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡でのクラカタウ火山の大爆発があって、地球環境が大幅に悪化したことが知られている。西のローマ帝国から東の中国まで世界中で大きな出来事が起こっている時代だ。古事記も日本書紀もこの激動の時代に、当時の政権の正統性を懸命に主張している点に注目だ。
飛鳥時代とは、広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的というがどのように区分するのでしょうか。「飛鳥時代」は、現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来し、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉らしい。乙巳の変以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事もあるとか。
弥生時代に稲作が盛んになる。水田モノカルチャーが進むと、階級分化が進み、鉄製農具、土地、種籾を所有する氏族たちと労働力だけしか提供できない平民(農奴)に分かれて来る。
氏族たちは相争いながら、婚姻関係を通じてより大きなグループを形成し、王となる共通のリーダを選んで国を形成していく。王は宗教的な権威として君臨し、氏族達が話し合いで国を動かす仕組みが成立する。邪馬台国とされる国もそのようにして生じたのでしょう。
その後、大和政権とでもいうより大きなまとまりが成立し、倭という一つの国家が成立していったようです。つまり、大和を中心に九州や出雲、吉備、尾張といった広域の連合が生じてきます。バラバラで相争っているよりも、連合国家を造った方が互いの利益につながるという何らかの力学が働いたはずです。多分、それは朝鮮半島や中国との関係だろうと想像されます。国が大きくなるのは支配者の征服欲や軍事技術の進歩だけでは説明できないと思いますが。大和政権自体、朝鮮半島南部には植民都市と言うものをたくさん持っていた可能性が高いようです。特にわが国では当時産出が少ない鉄や銅の鉱山の開発や、買取(金属製品のリサイクル)を植民都市で行っていたと考えられます。ギリシャ人たちが小アジアなどでやっていたことと同じです。
古事記や日本書紀では、大和政権は強力な軍事力を持った大君(おおきみ)という、リーダが全国を占領しまくったように描かれているが、実際には婚姻関係を元に結ばれた緩い連合政権だったはずだ。飛鳥時代の天皇の地位の継承の流れを見ればそれが分かる。天皇の地位の継承を巡って争いが生じそうになると、女性の天皇が誕生し、何とか危機を解消する。飛鳥時代は日本の歴史上、女性の天皇が特別多い。推古、皇極、斉明、持統、元明、元正…。どうも日本の社会は基本的に女系社会で政治の流れは実際には女性たちが決めているようだ。
それも当時の皇位の継承法を見れば理解できる。男性の皇子は、複数の皇子が競い合っているので、誰がスポンサーかで天皇になれるかどうか決まる。つまり皇后を誰にするかでスポンサーが決まってしまうのだ。天皇になってナンボの世界。スポンサーの顔色を伺いながらやらないと何時廃位されるかも知れない。また、有力氏族間の競争も激烈になる。ところが女性の皇后は自分の子を造り育てることで時期の天皇の候補まで決めてしまえる。しかも出身母体の氏族から多大の支援を受けることが出来る。自分の皇統を維持するメリットが圧倒的に大きい。皇室の権威がまだ確立していないこの時期、女帝の方が社会を安定させるメリットが大きいようだ。
このことは邪馬台国(中国の魏と言う国の歴史地理書)の例でも分かる。女王卑弥呼が無くなる。男の王を立てたら国がまとまらず、台与(とよ)と言う女帝を立てたらうまくまとまったと書かれている。
基本的には、大君(おおきみ)の仕事は祭礼を司る役割だろう。政治や軍事といった事項は大臣とか大連といった大氏族のリーダ達が大君の神託をもらって実施していたようだ。
【仏教の是非】
丁未の乱(ていびのらん)(587年)は、最初に史実と思われる最初の大和朝廷内の大衝突だ。朝鮮半島からの沢山の難民(難民と言ってもそれなりの軍事力を持った氏族だ)が流れ込む。仏教と疫病(天然痘か)を持ち込む。さあ、日本国の舵取りは? 誰がリーダシップを取るか。結局、国粋派の物部、中臣氏対蘇我氏の対立に。両者は自分たちの娘を嫁がせ、天皇のご宣託を確保しようと目論む。結局武力対立となって、物部氏は表舞台から消えさり、蘇我氏の天下となったと史書では明記されている。でも、この問題は朝鮮半島の情勢にどう付き合うかが最大の問題。仏教を受け入れれば解決する問題ではない。ズート後まで尾を引いている。
【聖徳太子とは?】
次に、分からない問題は聖徳太子の取り扱いだ。天皇は推古天皇で崇峻天皇の後を継いだ女帝だ。聖徳太子は厩戸皇子を指しているようだ。推古天皇、厩戸皇子と蘇我馬子は皆蘇我一族の血を引いておりとても仲良くやっていたらしい。政治も順調に回っている。
近年、聖徳太子は実在しなかったという考えが強くなっているらしく、歴史の教科書から消えて行く運命にあるようだ。つまり正式とされる記紀の記録は余りにも不自然だから。推古天皇は厩戸皇子よりも年上で政治力だって上だ。厩戸皇子が摂政になれるはずもない。そもそも厩戸と言う名前は、どこから来たのか。景教(ネストリウス派キリスト教)はどうも日本にも既に伝わっていたらしい。つまり、聖徳太子は馬小屋で生まれた聖人と言う意味だ。聖徳太子の子、山背大兄王が蘇我氏によって立太子されなかったのは、山背大兄王があまりに蘇我氏に近いため蘇我馬子が他の氏族達に遠慮して外したのだろうと推測されている。蘇我馬子が山背大兄王を殺さねばならない動機が不十分な訳だ。
結局、天武朝が蘇我氏を何とか悪役にしたい。つまり、乙巳の変を正当化したい。蘇我氏を誅殺したことを必然としたいための創作らしい。ところが蘇我馬子は他の氏族達に評判が良い。聖徳太子が行ったとされる業績は多分、総て蘇我馬子がやったこと。「和を持って尊しとせよ。」は、蘇我馬子がいったん敗れた物部氏の勢力にも気を使ってのスローガンだろう。聖徳太子は帰化人達が総力を挙げて作り上げた英雄。景教ではまさに聖人だ。
【乙巳の変】
乙巳の変(645年)も奇妙な事件だ。明らかに宮廷内クーデターであるのに首謀者が罰せられていない。中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺する。何と事件の直後に皇極天皇が退位し、軽皇子に譲位。孝徳天皇となる。天皇家が事件の首謀者なのか。氏族側では中臣鎌足、蘇我石川麻呂(蘇我氏の長老らしい)。背後には渡来人の勢力が疑われる。蘇我氏が反撃できなかったのは、百済系の渡来人の軍隊が警備して手足が出なかった可能性がある。
【白村江の戦い】
白村江の戦い(663年)で大敗退を喫す。百済国の再考を目指して、唐・新羅の連合軍と戦う。乙巳の変の必要性はこれで分かる。国際感覚豊かな蘇我氏は、唐・新羅の連合軍に勝てないことは自明なので反対するに決まっている。百済国のために軍を派遣したい勢力にとって蘇我氏は邪魔もの。朝廷と百済王国は既に血縁関係で強く結びついており、無視できない勢力となっている。大敗退の後は、遷都したり海岸防備に兵力を増強。当然地方の豪族達の不満が貯まる。敗戦の責任は誰が取ったのだろうか。天皇は天智天皇。
【壬申の乱】
壬申の乱(672年) 天智天皇崩御の後、弟?の大海皇子と息子大友の皇子が皇位継承の戦いを。反乱軍側の大海皇子が勝利して、天武天皇に。何と天武天皇の皇后が鸕野讚良(うののさらら)で後に持統天皇になるが、実は天智天皇の娘。ということは大友の皇子とは兄弟。大海皇子は天智天皇が自分の存在自体を恐れていることを考慮して、出家してひたすら恭順の意を示していた。一体だれがこんな乱を仕組んだのでしょうか。持統天皇はずっと夫を天皇にして自分の子等に皇統を持ってこようとしていたのかも。地方の豪族たちの根回ししておいて、蜂起させたのかも。
持統天皇は、藤原不比等を重用し、対立する有力な天智系の皇子たちを次々に排除していく。
あいにく持統天皇の系統は子供に恵まれず、元明天皇、元正天皇と女帝が中継ぎで立ち、聖武天皇(首皇子)までこれが続く。聖武天皇の皇后は初めての皇族以外の藤原氏出身の光明子となる。それまでのルールは男性天皇の皇后は皇族以外では不可というルールがあった。不比等がこれを天皇に変えさせたのだが、不比等は聖武天皇の即位を見ずに亡くなる。元明天皇の時に奈良遷都が行われ、後は奈良時代。不比等亡き後は、不比等の子等4兄弟が宮廷を牛耳るようになる。
【万世一系の天皇家】
持統天皇-藤原不比等が行ってきた一連の宮廷内の改革は、それまでの豪族たちの連合政権の形を律令制に基づく天皇独裁(実際には数人の大臣の合議)に国家の形態を変えることを可能にした。男性の皇族達が多数いて、彼らをバックアップする豪族たちが互いに競い合っている状況では、唐や新羅に対抗できる国家にはならない。
この制度作りに大きな寄与をしたのは律令制に取り込まれた帰化人(特に百済系の)であろう。白村江の戦い以降、祖国再建の夢を断たれた百済の人々は、律令制の中で官僚として活躍する選択をしていったのだろう。
このように書くと、大和政権が渡来人たちに乗っ取られたように感じる人もいるかも知れない。それは、現代の一民族一国家的ナショリズムに基づく偏見だ。百済であろうと新羅であろうと帰化した以上は対等な仲間だ。この当時の朝鮮半島は日本よりもはるかに混乱しており複雑な様相であっただろう。大陸と陸続きの半島では、そもそも百済、新羅、高句麗の三国では人々の移動も激しく、同じ民族で言葉すら通じたかどうか分からない。また、日本には弥生時代から人の流れがあった訳だし、国境線などない時代だから。
【百済国の謎】
百済と言う国は、結局白村江の戦い以降滅亡し、歴史から消え去ってしまう。百済と倭国は以前から一心同体という関係にあったのだろうか。そうでなければ、クーデターを断行してまで、唐と戦争をしなければいけない理由は見つからない。
古代朝鮮には任那日本府(みまなにほんふ)というヤマト王権の出先機関があったとされる。雄略紀や欽明紀など見られるらしい。もちろんそんなものの存在は今の韓国では否定されている。百済滅亡後の新羅との関係は明かに対抗する勢力だ。
7300年前、薩摩硫黄島の鬼界カルデラで噴火(アカホヤ噴火)が生じたことが明らかにされつつある。縄文の文化は東日本でしか発見されないが、当然それに匹敵する文化は西日本にもあり今はアカホヤの火山灰に下に埋もれているのでしょう。その時の生き残った人々は海洋民として大陸へも進出した可能性がある。つまり、彼らが積極的に鉄や銅などを利用する技術を大和国に伝えて来た可能性はある。朝鮮半島への人の流入は北の大陸からの他に南の海からの流入もあったのでしょう。
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新羅郡
私の住んでいる埼玉県志木市は、飛鳥時代には新羅郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)として設けられた国(地方行政単位)の一部だったらしい。その後、新座郡(にいくらぐん)と呼ばれるようになり、紆余曲折の末現在の行政区になっている。
具体的なエリアは、埼玉県和光市(全域)/朝霞市(全域)/新座市(全域)/志木市(本町一 - 六丁目、柏町一 - 六丁目、幸町一 - 四丁目、館一・二丁目)/戸田市(重瀬)/東京都練馬区(東大泉一 - 七丁目を除く大泉地区)/西東京市(旧保谷市域。ひばりが丘(一部を除く)、ひばりが丘北、住吉町、栄町、北町、下保谷、東町、中町、泉町、保谷町、富士町、東伏見、柳沢、新町)と推定されています。
名前を見れば明らか。古代朝鮮半島は、百済、高句麗、新羅の3国が争っていた時代で、大量の帰化人達が日本に押し寄せてくる時代です。新羅はその一つ。新羅から来た人々を大和朝廷が一括して、移住させ住まわせたということです。
実は、高麗郡(こまぐん)というのもあった。ともに武蔵国にあった郡。現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。日高市(全域)/鶴ヶ島市(全域)/川越市(入間川以西)/狭山市(同上)/入間市(大字野田、仏子、新光)/飯能市(大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元、上名栗、下名栗を除く全域)。高句麗(こうくり)のことを高麗 (こま)と呼んだんだろう。
以下、埼玉県知事上田清氏のブログを引用する。さすが埼玉県知事だけあって、歴史の勉強もしっかりやっておられる。
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7世紀、朝鮮半島では、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国が覇権争いをしていました。そのうち高句麗(高麗・こま)から日本に渡り関東各地に居住していた人々が、716年に現在の日高市を中心とした地域に集められ、「高麗郡」が設置されてから今年で1300年になります。同地域ではこれを記念して「高麗郡建郡1300年」の記念イベントが行われ、大変な盛り上がりを見せています。
さて、本日は、埼玉県には「高麗郡」だけではなく、実は「新羅郡」もあったというお話を御紹介したいと思います。平安時代初期に編さんされた歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、758年に僧侶以下74人の新羅からの渡来人を現在の新座、志木、朝霞、和光の地に移住させたという記述があります。その名も「新羅郡」であります。これがやがて「新座(にいくら)郡」に改められ、新座市の名の元になっています。和光市には「新倉」という地名も残っています。和光市を流れる白子(しらこ)川もかつては新羅川だったと言われているそうです。また、渡来した新羅人ゆかりの地名は「白木」や「白城」、「志木」などにも変化していったようです。
百済(くだら)から渡って来た人々もいましたが、これらの人々は都に近い畿内地方(現在の大阪府を中心とした地域)に住み、後発組の高句麗と新羅の人たちは関東の方に住んだようです。かつて新羅の首都であった、韓国の慶州(けいしゅう)のパンフレットには、日本の、それも埼玉の新座、志木、朝霞、和光などに新羅人の開拓地があったことが紹介されています。
以上☝☝☝
朝鮮半島は、結局唐と組んだ新羅が最終的に統一することに。それ以降大陸からの渡来人の流入は激減したのでしょう。倭国も安定時に入ります。その後、新羅と唐とは対立関係に。百済から来た渡来人たちは律令体制にもしっかり組み込まれ、支配階級の側に。しかし、白村江で大敗を喫した日本は、新羅という国をあまり好きにはなれないようだ。百済国を滅ぼした変節漢でけしからん奴。逆に、韓国の人達は百済が嫌いだ。日本にゴマすりしたけしからん奴。でも、歴史の勉強にはそのような主観的感情は邪魔です。渡来人達の努力で関東地方一帯も急速に開拓されていったんでしょうから。知事は、日本は単一民族なんて馬鹿なことをのたまう自民党のお偉方とは偉い違いだね。
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藤原京
藤原京(ふじわらきょう)は、今から約1300年前に日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城=日本の首府。つまり国家的な大プロジェクトだったはず。実際にも国の中心としてある時期まで機能していたようだ。それが何故打ち捨てられ、奈良へ新しく遷都せねばならなかったのか。
藤原京の大きさは、南北約4.8km、東西約5.2kmと非常に広く、京域のほぼ中央には、政治の中枢機関であり、天皇が住んでいた藤原宮がおかれた。宮殿が京の中心に在るのは他の都城と異なる藤原京の特徴。
東西南北に張り巡らされた道路によって街並みが碁盤目状に区切られ、その中に多くの寺院や役所のほか、市場や役人、庶民の住宅や寺院などが計画的に配置された。人口は約3万人と推定されている。藤原宮では初めて屋根に瓦を葺く。200万枚もの瓦が使われたらしい(法隆寺の瓦の約100倍)。
北は近鉄橿原線新ノ口駅、南が近鉄橿原神宮前駅から100mほど南の地点、東は桜井市内、西は畝傍山の西側という範囲になります。大和三山がすっぽりと藤原京の中に入っていた風光明媚な場所。
『日本書紀』には新益京と著されている。藤原京の名は、近世になって名づけられた学術用語でということらしい。
日本書紀には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷したとある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったのか。
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年に、宮が焼けたとされている。
676~710年なら、34年間。奈良時代も84年間(710~794年)だから、藤原時代と読んでも良さそうだが、それでは藤原不比等さんの時代見たいか。
ところで、古代の日本の都、遷都するたびに北へ北へと移動していく。何か理由があるのでしょうか。
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奈良時代
奈良時代は、平城京(現奈良県奈良市)に都が置かれた時代である。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。
710年(ナント美し碁盤の眼)に元明天皇(43代)によって平城京に遷都。794年に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。時代区分としては異常に短い。 更に740年から745年にかけて、聖武天皇自身短期間ではあるが恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがあるという。
聖武天皇(45代)は、天武持統系列の期待のダークホースとして即位した天皇。即位前の名は首 (おびと) 皇子、文武天皇(42代)と 藤原宮子の間に生まれた子。藤原宮子は、藤原不比等と県犬養 三千代(橘氏の祖)の間に生まれた子。早世した文武天皇の後、元明天皇(43代)、元明天皇(44代)と女帝が続くのは、首 (おびと) 皇子への皇位継承をスムーズに行いたいという強い意志の現れ。元明天皇が平城京に都を整備したのは孫のためだね。
聖武天皇の皇后・光明子も、藤原不比等の娘。皇族以外が皇后になった初めての事例。不比等は既に他界しているので、この時代は子供達、藤原4兄弟の時代。この4兄弟と聖武天皇の後見役として期待されている長屋王(天智系)と暗闘を続ける。
**聖武天皇(45代)
文武天皇の第一皇子。7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のとき。このため、707年、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位。714年)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったことから、即位は先延ばしにされ、文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐ。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位する。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であった。当然、長屋王は光明子の立后に反対。729年に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなり、光明子は非皇族として初めて立后される。
長屋王の変は、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者。
737年に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われる。急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、740年には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。しかし、この時点では後の藤原氏の交流の兆はまだ見られないようだ。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、741年には国分寺建立の詔を、743年には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切る。743年には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなる。744年には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説もある。
749年、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
752年、東大寺大仏の開眼法要。754年には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別。756年に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。聖武天皇は、何か薄幸な感じの天皇だ。
**長屋王
長屋王(676 / 684?~729年)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。
父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。不比等の時代も天武天皇の皇孫の中でも特別に優遇されていたらしい。血統の良さもさることながら、優れた政治的能力を期待され、藤原不比等も長屋王を政治家として育成を図ろうとしていたとの説もある。
長屋王政権
720年に藤原不比等が薨去すると、翌721年長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と参議の房前のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す。
長屋王の変
721年に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる。同年12月に元明上皇は崩御するが、これにより政治が不安定化していたらしく、翌養老6年(722年)正月には多治比三宅麻呂が謀反誣告を、穂積老が天皇を名指して非難を行い、それぞれ流罪に処せられる事件が発生する。この事件は評価が分かれるが、長屋王に対する不満や反感がこの事件に繋がったとする考えがある。
また、長屋王と吉備内親王の間の子女(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)は、一定程度の皇位継承権を持つことが意識されていたらしく、聖武天皇やその後継に万一の事態が発生した場合に、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。このため、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王家が目障りな存在だったと考えられる。
さらに当時の朝廷には、母親が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあり、聖武天皇は727に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加しておらず、前代未聞の生後1ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を明確に示した様子が窺われる。結局、728年に基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する。
729年に漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。この密告の対象となる具体的な内容は、前年に夭折した基王を呪い殺したことであったものと見られる。なお、『兵防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らは首をくくって自殺した。『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。
一方で、皇位継承権の埒外である藤原長娥子と所生の諸王(安宿王ら)には全く咎めはなかった。また、変に連座して罰せられた官人は外従五位下・上毛野宿奈麻呂ら微官の7名に過ぎず、皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、長屋王が政権を握る中で藤原四兄弟に対抗できる勢力を構築できていなかったことは明白であった。また、官人に対する統制強化・綱紀粛正策が、王自身に対してのみ手厚く、その他の官人に対しては冷淡な、自己本位的・独善的な面があり、多くの官人の不満を生んだとする見方もある。
長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年に天然痘により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。なお、『続日本紀』によると、翌738年長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺されてしまう。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。
しかし、長屋王を殺害した後、藤原四兄弟も天然痘で病死、奈良時代は政治的には非常に不安定な時代だったようだ。
【追記】
今回のコロナは、確かに人類の過去の感染症の歴史から見れば全然大したことは無い。
WHOの職員の方の投稿があったが、アフリカで流行ったエボラとエイズに感染者の致死率は90%位あったとか。でも先進国はそれに対してほとんど無関心だった。
でも、今回のウィルスは世界に富裕な大都市の人口密集地を直撃。しかも、老人の方が致死率が高い。貧困者が優先的に亡くなるなら政府は動かなくても世論は何も言わない。
今回は、金を持っていて選挙で投票してくれるお年寄りがターゲットになっている。マスコミも騒がざるを得ない。
日本では、奈良時代に天然痘が大流行した。政府の要職の役人も次々に亡くなる(藤原4兄弟の死→長屋王の祟り?)。聖武天皇は大仏を建立して、ひたすら祈祷の毎日。当時の発想では、国に災害が起こるのも天皇の政治が悪いから天罰だと考えれていたから。
乞食僧だった行基だったかが、全国から寄進をして回り、資金の調達に。人々はこれに感動して大仏は完成する。おかげて天然痘は何とか収まったらしい(自然消滅?)。当時の仏教は国家仏教で庶民を相手に念仏を教えることは禁止されていたらしい。そんな行基を頼りにした天皇はよほど困っていたらしい。
奈良時代と比べて、ヒトはどれだけ進歩したのか。各家庭にマスクを2枚ずつ配ることが首相命令? 世界一のウィルス研究所でも立ち上げたら。
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密教とは
日本の密教の開祖と言えば、当然空海が挙げられるでしょう。空海は遣唐使をして派遣されておきながら何と、唐の主流の仏教ではなく、インドかチベットあたりが発祥の密教を持ちかえり、これが本物の仏教だと国中に広めてしまった人物。その後エリート留学生だった最澄が空海に教えを乞う羽目に。でも最澄も自分の派閥を形成し、密教は真言宗と天台宗の2派閥が形成されることに。
そもそも密教とは何なんでしょう。秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教とも言われるらしい。金剛とはダイヤモンドのこと。当時から硬い石として知られていたようだ。
イスラム教にも神秘主義と言うのがある。スーフィズム(Sufism)とか言うらしい。9世紀以降に生じた、イスラム教の世俗化・形式化を批判する改革運動であり、修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一を究極的な目標とする、一種の内面化運動である。
キリスト教にも神秘主義思想はある。キリスト教はもともと当初から神秘主義的な側面が濃厚にあるようだ。密教もこれらの神秘主義思想と一脈通ずるものもある。
中国の老荘思想にも神秘主義は濃厚だ。道教なんて神社が中国人のいる所にはあちこち見れれる。大抵は世俗から離れ、山里で修業を重ねることで、仙人なり聖人なりの境地に到達できると考える。実際に修業を積んだ人は常人には出来ない特殊な能力を所持していたものと想定できる。
当時の仏教は、国家鎮護のための祈祷仏教。寺院は政治に口を出し、僧兵を持ち、私利私欲に走るように。一方密教は個人の内面を重んじ、山里で修業をしてくれるなら国としても奨励しない手は無い。それでも比叡山延暦寺などは僧兵を抱えて一大勢力となる。信長に簡単に焼き討ちされてしまったけど、弱かったお陰で世間の同情を引くことができ、再建にこぎつけたようだ。一向宗の大阪石山本願寺などは信長と10年近くも戦い続けたのだから。
密教は美術の面からは大変興味深い。寺院には神秘性を増すために色々な仕掛けが施されている。絵画としては曼荼羅(マンダラ)が有名だろう。インド圏(ネパールやブータン)に行くとタンカと言うなまえで観光客に売られている(下図左、右は日本のもの)。細密画だから1枚描くにも相当の労力がいると思われる。
【人物像】
最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年~822年)。日本の天台宗の開祖。伝教大師として広く知られる。近江国生れ。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となる。
空海(くうかい、774年~835年)は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖。讃岐の生まれらしい。とても字がうまかったらしい。弘法は筆を選ばずなんていうことわざがあるが内容の真偽については賛否両論。世界のことわざを調べて見ると大変面白い。空海はとても才覚のある人で一代で巨大宗教法人を作り上げた起業家と言えそうだ。
平安時代が始まるのは、平安遷都794年「泣くよ鶯(うぐいす)平安京」だったから、最澄、空海ともに奈良時代末に生まれ、平安時代に没したわけだ。仏教に関して言えば奈良時代のメインイベントは何と言っても東大寺の大仏建立。平安時代といえば、密教の成立かな?
神秘主義思想と言うものはかなり普遍性のあるもので、人類社会にとって現在でも形を変えて生き続けている思想だ。
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保元・平治の乱
朝廷が内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった二つの戦争。武士側の主役は、源氏の源義朝と平清盛であることは明かであるが、朝廷公家側の立場はチョト分かりにくい。
保元元年(ほうげんのらん)(1156年)は皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流される。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増す。
平治の乱(へいじのらん)(1160年)は、院近臣らの対立により発生した政変。まずは保元の乱で勝った後白河天皇が信西を重用し執政を行わせる。
荘園整理令を主たる内容とし中央集権化を図るが、それが逆に他の貴族たちを怒らせる原因なったようだ。さらに内裏の復興にも着手して再建。その直後にも新たに新制30ヶ条を出し、公事・行事の整備、官人の綱紀粛正に取り組む。この過程で信西とその一族の台頭が台頭。
**信西:(しんぜい1106~1160年):
平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)。私欲の無いマジメ一点張りの有能な官僚のように描かれるようだが?
国政改革推進のため、信西は平清盛を厚遇。平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後にはさらに勢力を拡大。また、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠だった。さらに清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。信西は、自らの子・藤原成範と清盛の女(後の花山院兼雅室)の婚約によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調に進行するかに見えた。
そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。後白河と信西の関係が悪化したから? もともと信頼の一門は武蔵国・陸奥国を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。義朝の武力という切り札を得た信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・近衛基実の婚姻も実現させる。摂関家は保元の乱によって藤原忠実の知行国・頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり、義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。後白河の近臣としては他にも、藤原成親(藤原家成の三男)や源師仲が加わり院政派の陣容も整えられた。
反信西派の形成
ここに、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門がそれぞれ形成されることになった。信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の最大の原因と思われる。二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。後白河天皇は何時上皇になったのか? 実は3年で息子の二条天皇に譲位。元々中継ぎ天皇の立場だったらしいが。
一方、清盛は自らの娘を信西の子・成憲に嫁がせていたが、信頼の嫡子・信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせるなど、両派の対立では中立的立場にあった。平治元年(1160年)、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派は反乱を起こした。これが平治の乱のキッカケ?
12月9日深夜、藤原信頼と信頼に同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けが、信西一門はすでに逃亡していた。クーデターには二条親政派の同意があったと推測される。翌10日には、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が捕縛され、22日に全員の配流が決定した。13日、信西は山城国田原に逃れ、土中に埋めた箱の中に隠れたが、発見されて掘り起こされる音を聞き、喉を突いて自害した。光保は信西の首を切って京都に戻り、首は大路を渡され獄門に晒された。
信西が自害した翌日の14日、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、臨時除目を行った。この除目で源義朝は播磨守、嫡子・頼朝は右兵衛権佐となった。『平治物語』は信頼が近衛大将になったとするが、『愚管抄』にその話は見えない。信頼の政権奪取には大半の貴族が反感を抱いていたが、二条親政派も義朝の武力を背景とした信頼の独断専行を見て、密かに離反の機会を窺っていた。信頼にしてみれば嫡男・信親と清盛の女の婚姻関係により、清盛も自らの協力者になると見込んでいた。
二条天皇の六波羅行幸
清盛は、熊野詣に赴く途中の紀伊国で京都の異変を知った。動転した清盛は九州へ落ち延びることも考えるが、紀伊の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の協力により、17日帰京する。帰京までに、伊藤景綱・館貞保などの伊賀・伊勢の郎等が合流した。一方、義朝はクーデターのため隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかった。京都の軍事バランスは大きく変化し、信頼の優位は揺らぐことになる。信西と親しかった内大臣・三条公教は信頼の専横に憤りを抱き、清盛を説得するとともに二条親政派の経宗・惟方に接触を図った。二条親政派にすれば信西打倒を果たしたことにより、藤原信頼ら後白河院政派は用済みとなっていた。公教と惟方により二条天皇の六波羅行幸の計画が練られ、藤原尹明(信西の従兄弟・惟方の義兄弟)が密命を帯びて内裏に参入する。25日早朝、清盛は信頼に名簿を提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信親を送り返した。信頼は清盛が味方についたことを喜ぶが、義朝は信親を警護していた清盛の郎等(難波経房・館貞保・平盛信・伊藤景綱)が「一人当千」の武者であることから危惧を抱いたという(『古事談』、ただし同書は18日のこととする)。
25日夜、惟方が後白河のもとを訪れて二条天皇の脱出計画を知らせると、後白河はすぐに仁和寺に脱出した。日付が変わって26日丑刻(午前2時)、二条天皇は内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動する。藤原成頼(惟方の弟)がこれを触れて回ったことで、公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結する。信頼と提携関係にあった摂関家の忠通・基実父子も参入したことで、清盛は一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。26日早朝、天皇・上皇の脱出を知った後白河院政派は激しく動揺し、義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したという。信頼・成親は義朝とともに武装して出陣するが、源師仲は保身のため三種の神器の一つである内侍所(神鏡)を持ち出して逃亡した。
六波羅合戦
信頼側の戦力は、三条殿襲撃に参加した源義朝・源重成・源光基・源季実、信西を追捕した源光保らの混成軍であった。義朝配下の軍勢は、子息の義平・朝長・頼朝、叔父・義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義などの郎等により形成され、義朝の勢力基盤である関東からは、三浦義澄・上総広常・山内首藤氏などが参戦したに過ぎなかった。義澄は義平の叔父、広常は義朝を養君として擁立していた上総氏の嫡子、山内首藤氏は源氏譜代の家人であり、いずれも義朝と個人的に深い関係を有する武士である。保元の乱では国家による公的な動員だったのに対して今回は反乱のための隠密裏の召集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だったと推測される。
清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、嫡男・重盛と弟・頼盛が出陣した。このとき陽明門を警護していた源光保、光基は門の守りを放棄して寝返るが、光保は美福門院の家人で政治的には二条親政派であり、信西打倒のため信頼に協力していたに過ぎなかった。また『平治物語』は源頼政が味方につかなかったとするが、もともと頼政も美福門院の家人であり信頼・義朝に従属する立場ではなかった。平氏軍は予定通り退却し、戦場は六波羅近辺へと移った。義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが六条河原であえなく敗退する。義朝は平氏軍と頼政軍の攻撃を受け、山内首藤俊通・片桐景重らが必死の防戦をする間に戦場から脱出した。
戦後
後白河院政派の壊滅
藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭した。清盛の前に引き出された信頼は自己弁護をするが、信西自害・三条殿襲撃の首謀者として処刑された。成親は重盛室の兄という理由で助命され、解官されるに留まった。逃亡していた師仲は、神鏡を手土産に六波羅に出頭するが処罰は厳しく、下野国への配流が決定。
義朝は東国への脱出を図るが途中で頼朝とはぐれ、朝長・義隆を失い、12月29日尾張国内海荘司・長田忠致の邸にたどり着いたところを鎌田政清とともに殺害された。義朝と政清の首は、正月9日、京都で獄門に晒された。義平は18日、難波経房の郎等・橘俊綱に捕らえられ、21日、六条河原で処刑される。頼朝も2月9日、頼盛の郎等・平宗清に捕まりやはり処刑されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命された。
この背景には頼朝が若年であったことに加え、彼がすでに上西門院の蔵人をつとめていたため、上西門院とその近臣である熱田大宮司家(頼朝の生母が熱田大宮司家の出身であり、頼朝自身も熱田神宮で生を受けた)が待賢門院(後白河上皇・上西門院の母)近臣家出身の池禅尼に働きかけた可能性が考えられる。義朝と行動を共にした源重成・季実も滅亡の運命を辿り、ここに後白河院政派は事実上壊滅することになる。
経宗・惟方の失脚
合戦の終息した12月29日、恩賞の除目があり、頼盛が尾張守、重盛が伊予守、宗盛が遠江守、教盛が越中守、経盛が伊賀守にそれぞれ任じられ、平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。同日、二条天皇は美福門院の八条殿に行幸し、清盛が警護した。
実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、後白河に対する圧迫を強める。信西打倒に関わった者は、後白河院政派・二条親政派を問わず政界から一掃された。つまり、朝廷内の勢力が2分され共に勢力を失ったことが平氏興隆の原因となった訳らしい。
平氏政権の成立
後白河上皇と二条天皇の対立は双方の有力な廷臣が共倒れになったため小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」(『愚管抄』)とあるように二頭政治が行われたが、乱勝利の最大の貢献者である清盛はどちらの派にも与することなく慎重に行動した。平氏一門は政府の要職を占め、政治への影響力を増大させた。平氏の知行国も一門だけでなく郎等にも及びその経済基盤も他から抜きん出たものとなった。さらに多くの軍事貴族が戦乱で淘汰されたため、京都の治安維持・地方反乱の鎮圧・荘園の管理の役割も平氏の独占するところとなり、国家的な軍事・警察権も事実上掌握。清盛はその経済力・軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立して、武士で初めて公卿(議政官)の地位に就いた。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権を形成していく。
一説では、鳥羽法皇が後継者として指名したのは二条天皇であり、後白河はその即位までの中継ぎに過ぎず鳥羽法皇の死去によって本来であれば院政を行う資格のない後白河上皇が形式的に院政を行うことになったものとするもの。信西は経歴的に「鳥羽法皇の側近」であって、法皇の生前の意向通りに二条天皇による親政を実現させる役割を担っていた。
将来的には信西によって自己の院政が停止させられると考えた後白河が、二条の親政が始まる前に信西を排除して名実ともに自己の院政を実現させるために引き起こしたのが平治の乱であったとする。
なお、別の説では「二条親政派」と後白河上皇の対立の開始を平治の乱以後とし、藤原経宗・惟方ら二条天皇側近もこの段階では信西との対立はあっても後白河とは対立していなかったとする。また、三条殿の炎上が信頼・義朝側の放火とする十分な裏付けは無く、失火ではないかと推測。だが、信西と同様の立場に立つ三条公教によって二条天皇が平清盛の軍事的保護下に置かれ、公卿たちがそこに結集したことで公家社会に擁立された子の天皇が父の上皇と対決するという構図が形成されたために、後白河はやむなく信頼らを切り捨てた。つまり、25日の晩の二条天皇の六波羅行幸の段階で既に「平治の乱」は終わって、翌日の戦闘は義朝による最後の抵抗に過ぎず、清盛側から見れば残敵への掃討戦であったということになる。
いずれの説にしろ、平清盛は朝廷公家内の対立を上手く活用しながら、恩を売りつつ一機に権力の集中を成し遂げた。つまり、最初の武家政権となった。朝廷公家側の意向ではもう政権は変えようもなくなってしまった。一方の源義朝はうっかり負け組についたため自滅の道を。まだ、武士の力は確立されてなかった。朝廷公家の威光あっての権力だったから。
どうも、源平の合戦で平氏が滅びたのは、朝廷公家側の最後の抵抗(主役は後白河上皇か?)か。鎌倉幕府の成立は、朝廷公家側から見れば、政権を取りそうな頼朝を都から上手く関東の片隅に追いやって、一時的な平穏を取り戻すことに成功と言う意味があったんだろう。さもないと、いずれ頼朝も朝廷天皇家と婚姻関係を結んだり官位を独占したりする。
確かに頼朝が京都に居座り、太政大臣や関白などになって権力を独占したら、平家を同じことになっていたでしょう。これは源氏一族が望んでも、関東武士達も朝廷公家側も望まない方向だったかも。
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平 清盛
平清盛(1118~1181年)は、貴族がのさばる格差社会を乗り越え、日本初の武家政権を打ち立てた最大級の成功者で英雄であろう。しかし、信長や秀吉と比べ何故かあまり人気がない。
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。
平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。しかし、独裁とはいえ敗者への配慮も人一倍あったようだ。源氏の棟梁の子、頼朝、義経以下、子供には罪は無いと許す。結果としてそれが仇になったわけか。当時の慣習では当然殺されていたものとか。
だいたい歴史で一番手は大抵うまく行かないものだ。秦の始皇帝→漢の劉邦、隋→唐、秀吉→家康、平清盛→源頼朝。二番手は一番手の失敗を教訓に慎重に事を運んでいる。しかし、武士の世の始まりは、平清盛が太政大臣になった時点だと思うのですが。
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鎌倉幕府の成立
鎌倉幕府の成立は1192年。頼朝はイイクニ作りに鎌倉へ。こんなこと常識。ところが今の若い世代は学校で、これは間違いで1185年(イイハコ)と覚えるように指導されているとのことだ。所詮こんなこと語呂合わせでどっちでもいいこと、これで歴史が変わるわけではないのに。武士の時代は平清盛が太政大臣になった時点でとっくに始まっている。どうしてこんなこと一生懸命に議論するのか理解不能ですね。
そんなことより、鎌倉幕府とは一体何なのかをしっかり把握することが重要でしょう。幕府とは英語で言えば、camp governmentつまり、占領地を統治するための臨時の統治機関。だから日本の支配権は名目的には相変わらず天皇中心の京都の公家達が持っている訳でしょう。だから鎌倉幕府の長官は、朝廷から任命された征夷大将軍。Imperator、他にも鎮守府将軍とかいくつかの将軍があって、そのうちの一つ。律令体制の中の一つの役職に過ぎないわけです。だから当時の海外の人から見れば、日本の元首は相変わらず朝廷であるし、また不思議なことにこれ以降の日本の将軍(征夷大将軍)達は、これを不服として朝廷を打倒しようと試みは一度も行われてこなかったわけです。だから、いつの間にか日本の実質的な支配者が征夷大将軍なのだと認識するようになって来たわけでしょう。だから、何時からが鎌倉時代で、何時からが平安時代なんて明確な境界がある訳はない。適当に決めれば良い話だ。
しかし、この時代の日本は世界の歴史の中で、非常にユニークな道を選択したことは忘れてはならない。封建制が確立したことだ。封建制とは何か、定義しろと言われると一言で説明するのは難しいでしょうが、封建制を経験したことのある国は、日本とヨーロッパだけ、それらの国々が今、世界の先進国となっている。
隣の中国や朝鮮半島と比べれば、一目瞭然。律令国家では政権が変わるのは革命やクーデター。当然支配者層は一掃される。天皇も上皇も当然斬首されて当然だ。王国は崩壊したら、別の王国になる。一からのやり直し。この点、日本では誰が支配者か分からない混沌とした状態から気がつくと次のリーダーが生まれている。しかもこの状態が明治維新に至るまで継続する。
カール・マルクスは、原始共産制社会→部族社会→アジア型中央集権国家→封建社会→資本主義社会→社会主義社会→共産主義社会と社会は段階的に進歩していくという仮説を立てた。もちろん、これは証明される可能性の無い単なる仮設ではあるが、その中で特に、資本主義発達の大前提として封建制の社会の存在の必要性を力説していたらしい。また、ヨーロッパの封建制と並んで日本の封建制度を学ぶことの必要性を感じていたらしい。結局、彼は日本を訪問することはできなかったが。
このエピソードは、新渡戸稲造氏の「Bushido」中で紹介されている。新渡戸稲造氏は、日本の武士道と西欧の騎士道が良く似ている点に注目し、封建制度の下で生じた道徳や人生哲学は、世界の平和や人の生き方を考える上に大変役に立つことを強調している。
歴史を学ぶことは史実を覚えるだけではない。封建制ができることによって、日本は朝鮮半島や他のアジアの諸国と比べると非常に異なった独自の発展をする。いま、グローバル化社会の進展で日本は、世界の中でどんどん存在感を失っている。日本が今後とも世界のトップランナーとして発展していくには、日本の過去の歴史をしっかり学んで人類発展の鍵を発見していくことも必要かもしれない。
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鎌倉殿の13人
『鎌倉殿の13人』は、2022年(令和4年)1月9日から放送されているNHK大河ドラマ第61作。脚本は大河ドラマ3回目となる三谷幸喜。
平安末から鎌倉前期を舞台に、歴史書『吾妻鏡』をベースとした源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きを、その勝利者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公として展開。ユーモアを交えたホームドラマのような描写とともに、徹底して無情で陰惨な粛清劇が描かれる。タイトルの「13人」とは、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「十三人の合議制」を構成した御家人を指している。
あらすじ
平安時代末期、都では平家が隆盛を極めており、伊豆でも平家方の豪族・伊東家が権勢を誇っていた。小豪族・北条家の次男・北条義時は、兄・北条宗時が源氏の流人・源頼朝を奉じて反平家の挙兵を行おうとしていることを知る。頼朝は伊東祐親の娘・八重と通じて千鶴丸を儲けるが、祐親によって追われ北条館に逃げ込んでいた。頼朝の真意を掴みきれない義時であったが、宗時や頼朝に一目惚れし正室となった姉・政子らによって、北条家は反平家の戦いに組み込まれていく。
治承4年(1180年)、以仁王の挙兵が失敗に終わり、伊豆でも平家の勢力が強化される。危機が迫ったと考えた頼朝は、北条家の主・北条時政らとともに挙兵する。初戦では勝利を収めたものの、石橋山の戦いでは相模の大豪族・大庭景親らに惨敗し、落ち延びる。その最中、宗時は義時に真の志を告げるが、伊東家の下人・善児の手によって命を落とす。安房に逃れた頼朝らは、房総の豪族を味方につけ勢力を拡大する。義時は上総の大豪族・上総広常を説得し、頼朝側の味方にする功をあげる。
頼朝の勢力拡大に伴い、平家方に付いていた伊東家は敗退、八重の再婚相手・江間次郎も混乱の中で殺害される。大軍を率いた頼朝は鎌倉に入り御所を築き、鎌倉殿を名乗る。義時らは祐親と八重の兄伊東祐清の免罪のため尽力するが、頼朝は祐親の命で殺害された千鶴丸の怨念が嫡男誕生を阻むと信じ、伊東親子を暗殺する。また頼朝の不貞によって起きた亀の前事件に激高した時政は、妻のりくとともに伊豆に戻ってしまうなど、次第に頼朝と坂東武士たちとのずれが明らかとなっていく。
やがてそれは坂東勢の謀反計画に発展し、事前に察知した義時は、頼朝側近らと対策し、広常に協力を頼み食い止める。だが頼朝は、無実である広常を見せしめとして殺害、敵対者とみなした木曽義仲・源義高父子らを次々に粛清し、坂東勢を恐怖で支配する。義時はそのような中、頼朝の意向を忠実に実行する側近へと変化していきながら、一途に思い続けてきた八重と結ばれ、ふたりの間にはのちに北条泰時となる男児が誕生する。
一方、頼朝の異母弟・源義経の天才的な戦の才能もあって源氏は勝ち進み、平家はついに滅亡する。だがその後、源氏兄弟の分断を謀る後白河法皇と頼朝の間で義経は板挟みになり、鎌倉への帰還を許されず、相互不信が募ってゆく。義経は討伐の対象となり、庇護者の藤原秀衡が治める奥州へ戻るも、秀衡はまもなく死去する。
**知りたいのは合議制を構成する13人は誰かと、本当に合議制が行われていたのか。の御★で13人を示す。
★1北条時政(ほうじょう ときまさ)…演:坂東彌十郎
義時の父。というより北条家の棟梁で鎌倉政権の初代の実質のリーダ。通称は四郎(しろう)。りくからは「しい様」と呼ばれている。
伊東祐親の娘で義時らの生母である先妻、後妻・鶴(つる)とも相次いで死別し、大番役のため京入りしていた時に見初めた公家の娘・りくを3人目の妻とする。
無骨な田舎侍であり、家族思いで武芸に長けるが、交渉下手で相手の口車に乗せられやすい。娘婿である源頼朝を宗時や義時ほど信用しているわけではなく、度々反論や足を引くような行為をしてしまう。でも、実際は相当に先見の明のある狸ジジイであることも面白い。伊豆の中規模の豪族が戦乱の関東で生き残りをかけた戦いをする中で、気がつけば鎌倉政権の大立者と大出世する。そもそも親族をこっそり裏切り、流人の頼朝を匿った段階から賭けは始まっている。
★2北条義時(ほうじょう よしとき)…演:小栗旬
本編の主人公。伊豆の豪族・北条時政の次男。母は伊東祐親の先妻の娘。通称(仮名)は小四郎(こしろう)。北条領に隣接する江間(えま)郷を拝領すると江間小四郎義時を名乗る。
北条家の財政など事務作業に長け、戦を嫌い政にも関心が無かったが、源頼朝が北条館に逃げ込んだことから状況が一変する。
初恋の人である八重のことを長く思い続けるが全く相手にされず、頼朝の勧めによる求婚も一度は拒否される。しかし、その後も江間に住まわせた八重に土産持参でたびたび会いに行き、最終的には彼女が笑顔でいること以外何も求めない境地に達する一途な想いを貫き夫婦となる。
政治や陰謀に無縁で平穏な家族が欲しかっただけの、義時が、兄の死を機に北条家+頼朝を守るために戦ううちに、北条政権を支える中核に成長する。
★3三浦義澄(みうら よしずみ)…演:佐藤B作
相模三浦郡の豪族。三浦家の惣領・三浦義明の次男。妻は伊東祐親の娘。通称は次郎(じろう)。陽気な性格だが義理堅く、敵方となった相手をも心配する。義兄弟でもある北条時政とは悪友で気心が知れた仲である。
兄の死により三浦家の家督を継ぐ。源頼朝の挙兵に際しては北条家と同調するが、石橋山の戦いでは酒匂川の増水に阻まれ合流できず、水が引くのを待つもやむなく引き返す。しかし、平家方となった甥・畠山重忠に行く手を阻まれ戦闘となる。さらに、本拠地である衣笠城が陥落し父・義明が戦死すると(衣笠城合戦)、海路で安房へ逃れる。のちに頼朝らと合流し鎌倉入りする。
平家軍を迎え撃つ富士川の戦いでは、夜更けに富士川のほとりで時政と殴り合いの喧嘩をしたことで水鳥の群れが羽ばたき、図らずも勝利へとつながる。しかし西国遠征には反対で、坂東の地盤固めを主張する。のちに頼朝の失脚を狙う謀議に巻き込まれ、三浦家の親族でもある北条家は見逃すという条件で反頼朝派に加わる。
★4和田義盛(わだ よしもり)…演:横田栄司
義澄の甥。義村の従兄。通称は小太郎(こたろう)。髭を蓄えた強面で弓の名手だが気が短く、平家方として敵対したのち頼朝に下った畠山重忠を恨む。
頼朝の挙兵では叔父・義澄らとともに戦に参加する。平家方に敵と思われていなかったにも関わらず、義村が止めるのも聞かずに先制攻撃をしたことから、のちに重忠から攻撃を受ける。安房へ逃れると頼朝に「侍大将」になりたい旨を直訴しており、義時とともに大豪族・上総広常を説得して味方にする功績を挙げる。頼朝が鎌倉へ入ると、約束通り「侍所別当」に任じられる。その後も犬猿の仲である重忠と先陣を争い、お互いに武功を挙げる。しかし西国遠征には反対の立場で、頼朝の失脚を狙う反頼朝派の謀議に参加する。
★5安達盛長(あだち もりなが)…演:野添義弘
頼朝の従者。妻は頼朝の乳母・比企尼の娘。通称は藤九郎(とうくろう)。流人時代から頼朝に仕えており、頼朝が本心を明かせる家人の一人である。押しに弱い面があるが、時には無茶で理不尽な頼朝の命をもそつなくこなす。
★6比企能員(ひき よしかず)…演:佐藤二朗
武蔵比企郡の豪族。叔母である比企尼の養子。通称は藤四郎(とうしろう)。飄々としているが目先の損得に流されやすいところがあり、道から苦言を呈されることもある。
頼朝の挙兵の際には静観していたが、勢いが増し鎌倉に入ると急接近する。亀の前事件で北条時政が伊豆へ帰ると、北条家に取って代わるためにあらゆる手段で源氏との繋がりを強めようとする。頼朝と政子の嫡男・万寿(のちの源頼家)が産まれると、その乳母夫(めのと)となる。
★7梶原景時(かじわら かげとき)…演:中村獅童
相模鎌倉郡の豪族。通称は平三(へいぞう)。冷静に状況を判断する現実主義者。無骨な坂東武者が多い中、和歌を詠むなどの教養も持ち合わせる、文武両道の武人。
石橋山の戦いでは平家方として戦い、大庭景親や山内首藤経俊らとともに頼朝を追い詰めるが、山中に隠れていた頼朝をあえて見逃す。のちに頼朝が勢いを盛り返すと、景親らと袂を分かつ。義時とは敵方の交渉役として上総広常の館で知り合い、伊豆山権現社に匿われていた政子らが鎌倉入りするための衣類を用立てするのをきっかけに、義時の仲介で頼朝の家人となる。
以降は頼朝の命で諜報活動を行うようになる。頼朝の失脚を狙う反頼朝派の会合に潜り込むが、和田義盛らに内偵を気付かれており捕まる。のちに解放されると頼朝から寝返りを疑われるが、御家人が集まる大倉御所にて、広常の双六相手をする隙に暗殺して変わらぬ恭順の意を示す。
西国遠征の際には源範頼率いる本隊の軍奉行(いくさぶぎょう)を務める。源義経と戦術を巡って対立するものの、彼の判断には理解を示しており、一ノ谷の戦いにおける義経の戦いぶりを「八幡大菩薩の化身」と評価する。
★8八田知家(はった ともいえ)…演:市原隼人
常陸の豪族。
★9足立遠元(あだち とおもと)…演:大野泰広
武蔵の豪族。頼朝から大倉御所の差配を任される。
★10三善康信(みよし やすのぶ)…演:小林隆
下級公家。太政官の書記。母は源頼朝の乳母。流人となった頼朝に月に一度書状を送り、都や朝廷の情勢を伝えている。以仁王の挙兵に関する誤った書状を送ったことが、頼朝の挙兵のきっかけとなる。鎌倉入りした頼朝の要請で、大江広元・中原親能・藤原行政を側近に推挙する。
★11大江広元(おおえ ひろもと)…演:栗原英雄
頼朝の側近で、政策を担う官僚。元は朝廷に仕える下級公家。官職は安芸介(あきのすけ)。
頼朝の要請で三善康信の推挙により中原親能・藤原行政とともに鎌倉に下向。頭脳明晰だが冷静かつ冷徹な性格で、坂東武者とは違った立場で動向を観察、分析して頼朝を支える。
★12中原親能(なかはら ちかよし)…演:川島潤哉
頼朝を支える官僚。官職は斎院次官(さいいんのすけ)。鎌倉下向後も頼朝の使者として上洛することが多い。義経の後白河法皇への拝謁のときにも同道し、義経の検非違使任官については、鎌倉殿の任官推挙が無いことを進言する。
★13二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)…演:野仲イサオ
(藤原行政 → 二階堂行政)頼朝を支える官僚。本姓は藤原行政(ふじわら の ゆきまさ)。官職は主計允(かずえのじょう)。
以上、Wikipediaから拾ったが確かに13人が揃っている。源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「十三人の合議制」ということであるが、これが制度としての実体を伴ったものか、単なる数合わせだったのか。文官は京都出身の公家が主体だが、それ以外は各武士団の棟梁達。北条氏も武士団の一つだから、独裁体制にはならないだろう。ドラマを見ないと分からないが。
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後醍醐天皇
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、南北朝時代を作り上げたことから、日本史上重要な位置づけがなされている。しかしなぜ後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうとしたのか、なぜ隠岐に流されたのか、なぜ鎌倉幕府側の足利尊氏が寝返って南北朝時代となったのか。鎌倉時代末期から南北朝にかけてのわずかの期間に様々な事件が起きていて複雑であるが、その中心人物である後醍醐天皇について。
両統迭立(てつりつ)
鎌倉末期、朝廷に皇位継承権を巡る大きな問題が起きた。その原因を作ったのは第88代・後嵯峨天皇で、後嵯峨天皇は次の第89代・後深草天皇に譲位して院政を行う。このまま後深草天皇の系譜に皇位が継承されていれば内部対立は起きない(でもこれは北朝系では?)。しかし後嵯峨上皇は後深草天皇に、弟の亀山天皇への譲位を強く迫ったまま死去し、しかも次の天皇を決めずに鎌倉幕府の推薦に任せる。
後深草天皇と亀山天皇は兄弟(長子相続の原則が確立していくのは江戸時代以降!)。こうなると天皇の位や私有地をめぐって、後深草天皇の「持明院統」と亀山天皇の「大覚寺統」という二つの系統にわかれ(両統迭立)、亀山天皇の次は伏見天皇ではなく後宇多天皇になった。このように亀山天皇以降、皇位継承権を巡る対立が深まり、大覚寺統と持明院統との不満や軋轢は強まり、これが南北朝の遠因となった。朝廷内では皇位後継者をめぐる内紛から、朝廷は持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)に分裂し140年もの間争う。
朝廷内では皇位継承権の問題を解決できず、当時の朝廷は鎌倉幕府の強い支配下にあったため、鎌倉幕府の仲裁によって天皇を10年ごとに両系から交互に出すことに(喧嘩両成敗の原則)。天皇の在位期間は10年と決まっており、次の天皇は鎌倉幕府が決めることに。
この両統迭立によって朝廷の皇位継承は一時的に安定したが、天皇を決める権限は幕府にあり、天皇に即位しても10年後には天皇の座を譲らなければならなかった。つまり自分の嫡男を次の天皇にしたいと思ってもできなかった。
後醍醐天皇の兄である後二条天皇が第94代天皇となったが、1308年に24歳で急死したため、次の天皇は持明院統へ移り、花園天皇(95代)が12歳で即位した。花園天皇は若年だったので、当然、持明院統の父の伏見上皇や兄の後伏見上皇が「院政」を行った。
後醍醐天皇の誕生
元寇から40年後、鎌倉幕府の統治権力を北条氏が握るなかで、1318年2月、京で後醍醐天皇の即位式が行われた。現在でも天皇を今上天皇と呼ぶように、天皇の名は死後に「おくり名」として名付けられるのが通常であった。しかし後醍醐天皇は現役時代から醍醐天皇の後の天皇という意味で後醍醐天皇と名乗った。
醍醐天皇とは平安時代のはじめの頃の天皇で、藤原時平・菅原道真を左右の大臣にして、その上にたって天皇自らが政治をおこなった。そのため醍醐天皇の政治は「延喜の治」とよばれ、その後、藤原氏による摂政政治になり、次に退位した天皇が上皇となって院政がおこなわれ、鎌倉幕府になると北条家が朝廷を左右するようになり、次期天皇さえも鎌倉幕府に決定権があった。
**醍醐天皇(だいごてんのう、885~930年)は、日本の第60代天皇(在位:897~930年)。
臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といった。のち父の即位とともに皇族に列し、親王宣下の後、敦仁親王に。宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。
885年、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれる。887年、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、897年に元服すると同日践祚、同月に即位。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。
しかし、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評される。近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。時平は荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、国史『日本三代実録』の完成や、律令制の基本法である延喜格式の撰修にも着手している。
後醍醐天皇は、かつての醍醐天皇の政治にあこがれ、自らを後醍醐と名乗ったのである。後醍醐天皇は幼少期から何不自由なく宮廷の中で生活していたが、現実の政治に意欲を燃やし、朱子学(儒教)に傾倒して、国の実権を握る鎌倉政権を深く憎んでいた。
そのため後醍醐天皇は幕府を滅ぼし、かつての天皇中心の国家に戻そうとしていた。すなわち藤原氏以前の天皇中心の政治を理想としたのである。
後二条天皇が亡くなると、第95代に花園天皇となり、10年交代の約束により、次は後宇多天皇の第2皇子であった尊治親王(後醍醐天皇)が中継ぎとして皇位継承権が巡ってきた。中継ぎとされたのは後二条天皇の皇太子が幼かったからである。このようにして1318年に大覚寺統の後醍醐天皇(31歳)が第96代天皇に。
しかし父の後宇多上皇が再び院政を開始したため、後醍醐天皇は名ばかりの天皇になり、さらに後醍醐天皇は「中継ぎ」であり、自分の子である護良親王に皇位継承権がないことが不満であった。次期の天皇は大覚寺統の後二条天皇の皇子がなる予定であった。このように次期の天皇を継承し、決定するのは鎌倉幕府の執権・北条氏だった。
1321年、後醍醐天皇は父・後宇多天皇の院政を停止させると、自分中心の天皇親政を復活させようとした。後醍醐天皇は「鎌倉幕府も摂政も関白も置かずに、天皇みずからが政治の中心となる朝廷政治」を目指す。
討幕計画(正中の変)
「なぜ朝廷が鎌倉幕府の指図を受けなければならないのか。このまま幕府の言いなりになれば、自分も天皇の地位からひきずりおろされることになる」、このように「天皇中心の政治」をめざした後醍醐天皇の怒りやあせりが強くなっていった。
鎌倉幕府の指名で、次の天皇は持明院統の量仁親王(光厳天皇・第96代天皇?)に決まっており、大覚寺統の後醍醐天皇は窮地に追い込まれていた。後醍醐天皇は吉田定房、北畠親房らを登用して政治の中心機関・記録所をつくり政治改革を行うが、後醍醐天皇の政治は思うようにいかなかった。
いっぽう蒙古襲来以来、鎌倉幕府の政治は乱れ、恩賞などの不満から御家人の恨みの声が強くなっていた。幕府の執権北条氏だけが繁栄し、ほかの御家人は貧しくなるばかりで、各地に幕府に逆らう「悪党」がふえ、社会不安が高まった。しかし鎌倉幕府は悪党らを取り締まらなかった。(注:「悪党」と言う名は今では聞こえが悪いが、寧ろ独立独歩の自尊心の表れとして自ら悪党と称していたものも)
元寇以降、鎌倉幕府の支配力は急速に衰えていった。鎌倉幕府の役割は武士の利益を保護し、土地問題を調停することであったが、それが出来にくくなる。元寇の役で蒙古軍を退けたが、全国の武士達は疲弊の極地にあった。武士達は幕府の命令に自前で戦い、幕府側も武士達に恩賞を与えたかったが、与える土地がなかった(相手が外国勢での防衛戦だから) 。
執権北条時宗は山積する問題を前に34歳の若さで死去した。恩賞をもらえず、訴訟を起こせば幕府の要人に賄賂を贈る方が勝つ。これでは何のための幕府なのか。 御家人たちの不満の矛先は北条氏に。時宗の後を継いだのが14歳の北条貞時で、その後を継いだのが最後の執権となる北条高時。鎌倉幕府は源頼朝が開いた幕府なので、北条氏に不満を持つ武士は多くいた。後醍醐天皇はこの機会を狙って倒幕の計画を立てた。
1324年、西国から反幕府運動が起きた。後醍醐天皇にとってはこの西国の反幕府運動は渡りに船であった。貴族たちは後醍醐天皇が朝廷の権力を取りもどしてくれることを期待し、後醍醐天皇は側近の日野資朝・俊基らと鎌倉幕府の討滅を計画するが、その計画が鎌倉幕府に密告されてしまう。
日野資朝は佐渡に流されたが、日野俊基は無罪となり、後醍醐天皇は幕府に釈明して許された。天皇が武家に弁明することは前代未聞だった。(正中の変)このように第1回目の倒幕計画は事前に発覚して失敗したが、これが第2回目の挙兵、元弘(げんこう)の変につながってゆく。
元弘の変
正中の変から7年後の1331年、後醍醐天皇は再び討幕を企てるが、天皇側近の吉田定房が幕府に密告し、倒幕計画が暴露して六波羅探題(幕府)の軍勢が御所に乗り込んできた。後醍醐天皇は三種の神器を持って女装してひそかに京都を脱出して比叡山に向かった。しかし延暦寺は六波羅探題に降伏しており、奈良の東大寺と興福寺は幕府側なのか朝廷側なのか判断できなかった。
後醍醐天皇は比叡山から笠置山の笠置寺に潜伏。自身の周りに名のある武将が全くいないことを不安に感じていた。思い悩んで寝ていると夢を見た。それは「庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下に官人が座っていた。南に設けられていた上座にはまだ誰も座っていなかった」その席は誰のために設けられたのかと不思議に思っていると童子が来て「その席はあなたのために設けられたもの」と言って空に上って消えてしまった。
後醍醐天皇は夢から覚めると、夢の意味を考えた。「木」に「南」と書くと「楠」という字になる。このことに気付き、寺の衆徒に「この近辺に楠という武士はいるか」と尋ねると、河内国金剛山(大阪府南河内郡千早赤阪村)に楠正成という者がいるということだった。後醍醐天皇はすぐに楠正成を笠置山に呼び寄せた。(注:皇国史観の英雄・忠臣楠木正成の登場神話?)
後醍醐天皇は笠置寺に入るが、すぐに笠置山は北条軍(六波羅軍)7万5000騎に包囲された。戦力の面では圧倒的に不利な状況にあったが、笠置山は天然の要害で幕府側相手に天皇軍の兵3000人は善戦し笠置は落ちなかった。笠置山は標高300メートル足らずの低山であるが傾斜の強い天然の要害であった。
後醍醐天皇の流罪
執権・北条高時は20万7600の大軍を笠置へ向けて出発させるが、到着前の9月29日、風雨の激しい夜半に笠置山裏手から幕府軍の精鋭が笠置城内へ忍びこみ放火し、これが契機となって笠置山は火の海となり陥落した。
後醍醐天皇は楠木正成の籠もる赤坂城を目差したが敗走軍からはぐれ、さ迷う中で幕府軍に捕えられた。後醍醐天皇の度重なる討幕計画に対し、1332年に鎌倉幕府は、かつての後鳥羽上皇と同様に隠岐へ流罪にして持明院統の光厳天皇を新たな天皇にした。しかし今回はかつての承久の乱のときとは時勢が変わっていた。
児島高徳は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての備前出身の武将で太平記に登場する。元弘の乱で隠岐に流される後醍醐天皇を、途中の船坂山で奪回しようとその跡を追ったが果せず、高徳は播磨・美作国境の杉坂まで追うが追いつけずに軍勢は雲散霧消してしまう。
夜になって宿舎に忍び込むが、警備の厳しさから救出をあきらめるが、児島高徳はせめて志だけでも伝えようと、庭の桜樹の幹を削って十字の詩を書いた。いずれお助けに来るので、それまで望みをもたれるようにと、中国の故事「天莫空勾践 時非無笵蠡」を桜の幹に書き残したのである。
朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は、何と書いてあるのか解らなかった。外が騒がしいために仔細を聞いた後醍醐天皇は、この詩を見られてすぐに意味を理解し微笑まれた。つまり天は越王勾践を破滅させるようなことはしない。必ず范蠡のような忠臣が現れて勾践を助ける。後醍醐天皇の場合も范蠡のような忠臣が現れて助けるであろう。それまでしばしお待ちくださいと言う意味であった。
***天莫空勾践 時非無笵蠡
時は南北朝時代・・後醍醐天皇が隠岐の島へ流されると知った児島高徳(このあたりの武士)は桜の樹に『天莫空勾践 時非無笵蠡』と刻み、「必ずやお助けしますのでご安心ください」という意を伝えたとの故事。
勾践とは越国王で「臥薪嘗胆」して、後に呉王の夫差に勝利したという故事の人で笵蠡は勾践をささえた忠臣。結局のところ後醍醐天皇奪還には成功しなかった。この後も南朝武士として各地を転戦・・その忠君ぶりから文部省唱歌にもなった。しかし、南朝方の武士の多くが、最初から鎌倉幕府に反旗を翻していたいわゆる「悪党」とされる武士達であったことも注目。忠義の根底に尊王思想があったという理屈は成り立たない。「悪党」される武士たちは鎌倉から遠い西国に多いのも頷ける。
後醍醐天皇の脱出
後醍醐天皇は天皇の座を奪われ島流しになったが、隠岐島にも天皇方につく役人がいた。また潜伏していた楠木正成が再び挙兵すると六波羅探題勢を撃破し、さらに護良親王が吉野で挙兵した。
千早城の楠木正成が鎌倉幕府相手に勝利したとの知らせは日本各地に伝わり、後醍醐天皇も名和長年らの力を借りて隠岐島から脱出すると、伯耆・船上山にて倒幕の綸旨を天下へ発した。
後醍醐天皇の挙兵によって、西国の反幕府勢力は「大義名分」を得て立ち上がった。各地では執拗な戦いが繰り広げられ、特に河内の豪族・楠木正成の勢力は強力で、正成が篭る千早城は鎌倉幕府の大軍の猛攻を頑として撥ね付け幕府軍を苦しめた。
これを鎮圧するため、鎌倉幕府は足利尊氏軍を送るが、足利尊氏は後醍醐天皇を倒さず、逆に幕府の六波羅探題を攻め、新田義貞は鎌倉を攻め鎌倉幕府を攻撃した。足利尊氏と新田義貞が鎌倉幕府に反旗を翻したのは、すでに世の情勢が変わっていたからである。
天下の情勢は天皇方に傾き、1333年、幕府を見限った御家人が続々と朝廷に忠誠を誓った。幕府側の足利尊氏と新田義貞が、それぞれが京都の六波羅探題と鎌倉を攻略し、執権・北条高時ら総計800人余りが最期まで鎌倉で戦い壮絶な最期を遂げた。日本は再び後醍醐天皇中心の中央集権国家(一時的に)として生まれ変わることになる。
建武の新政
1333年、足利尊氏によって京都・六波羅探題が攻略され、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす。後醍醐天皇は帰京の途上、摂津国(兵庫)で幕府滅亡の知らせを聞く。後醍醐天皇は公家や武士の助けを借りて150年ぶりに鎌倉幕府を滅ぼすことに成功したのである。
後醍醐天皇は京都に帰ると「朕の新儀は未来の先例なり」と声明し、光厳天皇を廃位させ後醍醐天皇による天皇親政を開始することになる。元号が建武に代わったことから、1334年のこの新政は「建武の新政」と呼ばれている。後醍醐天皇は後醍醐天皇自ら指示の出せる政治、つまり幕府、摂政・関白などが関与しない「天皇中心の政治」を行うことに執念を燃やした。
それまでの政治は、天皇は飾り物。平安中期には藤原氏が摂関関白となり、上皇が院政をしき、平安後期には征夷大将軍が幕府を開いて実際の政治を行っていた。これらの政治を否定して、天皇中心の政治を行おうとした。これを建武の新政という。
後隠醐天皇は記録所・雑訴決断所・恩賞方を新設。京都を守る武者所の長官には新田義貞、征夷大将軍には護良親王。地方組織として鎌倉に後醍醐天皇の子・成良親王と尊氏の弟・足利直義を、東北には後醍醐天皇の子・義良親王と北畠親房の子・顕家をつかわして治めさせた。全国に国司と守護を設置したが、権限は国司のほうが守護より上であった。なお勲功第一の足利尊氏は重職には任じられていない。そのため世間では「尊氏なし」と呼ばれ、不可解に思われていた。尊氏は「後醍醐天皇のやり方じゃ絶対うまくいくわけがない」と考え、わざと政権の中に入らなかったとされている。
いずれにせよ、この新政府を構成した者たちは同床異夢で、天皇を中心とする朝廷勢力と足利尊氏を中心にする武士勢力では「建武の新政」に寄せる期待が当然根本的に異なる。
武士団の多くが鎌倉政権を見限ったのは、鎌倉幕府が武士の権益の保護や利害の調整をはたさなかったからである。武士たちは鎌倉政権に代わる「新しい幕府」を期待していた。すなわち利害調整能力を持つ新たな政府であった。
後醍醐天皇が武士たちの気持ちを満たす政策を行えば問題はなかったが、朝廷は失政を繰り返した。天皇中心の政治を目指した後醍醐天皇は、貴族や寺院たちを優遇し、鎌倉幕府を倒すために命をかけた武士たちにはほとんど恩賞を与えなかった。このため多くの武士たちは不満を持つことになる。
最悪だったのは「公地公民制」を復活させ、武士の所領をいったん国有化したことだった。武士たちは所領の権益を確保するためには、京都の新政府から改めて所領を下賜してもらう手続きが必要だった。その結果、土地所有を巡っての係争が相次ぎ、その量は新政府の裁判調停能力をはるかに超えていた。日本を支える基盤である武士団は、後醍醐の新政によって鎌倉政権よりも大きな不利益を被ったのである。
日本の政治機能を「朝廷に一元化」する後醍醐天皇の政策は、考えとしては間違いではなかった。しかし後醍醐天皇の政策は世の現状を無視した時代錯誤と言うほかない。後醍醐天皇が短期的でも武士団の権益を保護する政策を進めていれば、違った展開になっていただろう。
戦力を持たない天皇や貴族が再び政治の中心になることはありえない。戦いに勝つには戦力が必要で、戦うのは武士であり貴族や天皇ではなかった。鎌倉幕府の誕生によって武士たちは自分の力に目覚め、何かあれば自分たちが武力に訴えれば、武力のない貴族や天皇は何もできないことを知っていたのである。
朝廷の失政を見て北条一族の残党が反乱を起こした。その中でも最強の勢力を誇る北条時行の軍勢は鎌倉を占領するほどの勢いであった。そのため朝廷軍の総司令官・足利尊氏が出陣して反乱軍を崩壊させた。
諸国の武士団は古い鎌倉幕府の再興よりも、足利尊氏による新たな幕府を希望するようになった。このことに気づいた尊氏は、鎌倉に腰を据えると軍功のあった武士たちに勝手に恩賞をばら撒いた。朝廷の許可を得ないこの行為は、事実上の朝廷への独立宣言であった。
ちなみに後醍醐天皇の第1皇子・護良親王(もりよし)は足利尊氏が反乱を起こすのではないかと怪しみ後醍醐天皇に忠告したが、後醍醐天皇は足利尊氏の「あなたの息子の護良親王が反乱をたくらんている」という言葉を信じ、1335年に護良親王を拿捕し、鎌倉の東光寺に幽閉させた。1336年の中先代の乱の際に、鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義の命により護良親王は殺害された。敵に護良親王を擁立されることを警戒したのである。
後醍醐天皇の政治の失敗
後醍醐天皇の天皇中心の政治はわずか2年で崩れ去った。その原因は武士が力を持っているのに、世の中の大きな動きを読めず、天皇や貴族がかつての王朝政治に戻そうとしたからである。武士は自分たちの武力の大きさに気づいていた。武力の前では天皇や貴族はいいなりになることを知っていた。
鎌倉幕府(北条氏)を滅ぼしたのは武士たちだった。しかし手柄を立てたのは武士なのに、朝廷は戦いもしない皇子や貴族に領地を与えたため、武士たちの不満が高まったのも当然である。さらに政権中枢の建物が貧相では格好がつかないとして、権威を示す大内裏(天皇の住まいと政治の場)の建設を始め、その費用を地方の国に割り当てたのである。そのため武士や農民の負担がふえ、人々の恨みは募るばかりとなった。鎌倉幕府の政治に不満を持っていた公家・武士・庶民(農民)の多くが後醍醐天皇に期待したが、天皇親政の急進的な改革(つまり天皇の妄想)によって日本国は大混乱に陥り諸国では反乱を招くことに。
最悪だったのは「公地公民」の建前に戻すため、武士の所領をいったん白紙にして国有化したことである。鎌倉時代の土地所有権を認めず、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)のみが土地の所有権を保証すると宣言したのだった。これは天皇の絶対的権威を天下に知らしめるためであったが、武士たちは所領地の権益を確保するために、京都の新政府から改めて所領を下賜してもらうことが必要だった。その結果、土地所有を巡っての係争が相次ぎ、その量は朝廷の裁判調停能力を大きく上回った。しかも慣れていない朝廷は「今日言ったことを明日に変えてしまうう」朝令暮改で「いったいあの命令は何が正しいんだ」と混乱状態となった。
武士たちは御成敗式目の第8条で「現在の持ち主が20年間、その土地を事実上支配していたら、その土地の所有権は変更できない」と示し、武士たちは安心して土地を所有していたが、この土地所有権は大問題となった。そもそも確認作業だけでも膨大で調停能力を上回っていた。
このため日本を支える最も重要な武士団は、後醍醐の新政によって鎌倉政権よりも大きな不利益と混乱を被り、政治は思うように進まず人々の恨みは募るばかりだった。そのため朝廷は、1333年7月23日に前言を翻して諸国平均知行安堵法を出した。
これは後醍醐天皇が武士の所有地を裁決するのを止め、各地の国司に委任して所領紛争の仲裁を朝廷が取り扱いをやめてしまったのである。このことから武士の新政に対する不満がいっそう強まった。朝廷は諸国の所領問題を解決できず、国内の治安・庶民の生活の安定も維持できなかった。
日本の政治を朝廷に一元化する政策は、かつての公地公民の政策であった。後醍醐天皇は日本の政治機能を朝廷に一元化することにこだわり、世の現状を無視し、しかも強引で急速すぎた。後醍醐天皇は武士団の権益を保護する政策に立って改革を進めれば結果は違っていただろう。
しかし後醍醐天皇は君主の手足となって動く(中国王朝)の官僚政治を理想としており、家柄にこだわらない有能な人材を得るため官職の世襲制を廃止しようとした。この急進的な官僚制度改革は上流貴族(公卿)の既得権益を削減するものだったため公家からも建武の新政に反発があった。内大臣までなった公家の三条公忠は「後醍醐天皇の御代は物狂いの沙汰としか思えず、先例になるとは到底思えない」と日記に書いてある。
建武の新政の頃は諸国で合戦がおき、盗賊・重税などによって農民が最も苦しめられ、国司・守護・悪党らの圧迫や搾取などで、建武の新政に対する民衆の不満は高まりを見せてた。
二条河原には、建武の新政に対する京の民衆が「このごろ都に流行るもの、夜討・強盗・謀綸旨(にせりんじ)・召人・早馬・虚騒動・生頸・還俗・自由出家」が七五調で書き込まれた。このことから民衆も大きな不満を持っていたことがわかる。
建武の新政は武士、公家、民衆の不満を募らせ、軍記物語・太平記では後醍醐天皇を欠徳の君主(無策な悪君)としている。このような状況の中で、不満をもつ武士たちは足利尊氏のもとに集まるようになり、やがて足利尊氏が後醍醐天皇に対して反乱をおこすことになる。
護良親王
征夷大将軍になった護良親王は、足利尊氏が全国の武士たちから支持されているのを見て「後醍醐天皇のためにも、今のうちに足利尊氏は排除しなければならない。ここで足利尊氏中心の幕府を開かせてしまっては、なんのために朝廷政権を取り戻したのか解らない。武士を集めたい」と考えていた。護良親王は武骨の人物で、鎌倉幕府を倒すときにも楠木正成と共に赤坂城で戦い、近畿の武士たちを統合し、全国へ密使を派遣して鎌倉幕府討伐を呼びかけるなど幕府滅亡の縁の下の力持ちになっていた。幕府滅亡後は征夷大将軍に任命されていた。
このことに気づいた足利尊氏は後醍醐天皇に対し、当時、後醍醐天皇が熱心に愛していた阿野廉子(あのれんし)を通じて「実は、密かに護良親王が帝位を狙っている」とささやかせたのである。当然、激怒した後醍醐天皇は護良親王を捕らえ、なんと尊氏の弟である足利直義に預け、鎌倉に幽閉させてしまった。これとほぼ同時に発生したのが中先代の乱であった。
中先代の乱
権大納言・西園寺公宗(きんむね)による後醍醐天皇暗殺計画が発覚した。西園寺家は代々鎌倉幕府と朝廷を結ぶ関東申次という役職にあり、北条家の勢いが盛んなころには西園寺家も朝廷の中で大きな力があった。ところが鎌倉幕府が衰弱すると西園寺家も力を失っていった。
28歳の西園寺公宗としては「あのころの栄光を再び」と考えたのだろうが、そこに最後の執権・北条高時の弟・泰家が訪ねてきた。北条泰家は分倍河原の合戦で新田義貞に負けたが、その後、兄と運命を共にせず北条家残党をまとめて暗躍していた。後醍醐天皇天皇を殺せば我々の天下が再び戻ってくると述べ、西園寺公宗は後醍醐天皇を京都の北山での紅葉見物に誘い、風呂に入った隙を見計らって殺害しようとした。しかし弟の西園寺公重によって計画が密告され、後醍醐天皇は難を逃れ西園寺公宗は処刑された。
親政が始まって2年後に北条高時の遺児・北条時行が信濃で反乱をおこした。北条時行は北条高時の次男で諏訪頼重ら北条氏の旧御家人とともに鎌倉を奪還すべく侵攻し、鎌倉に攻め込み鎌倉の足利直義(尊氏の弟)の軍を負かしたのである。
これを中先代の乱というが、京にいた足利尊氏は「自分を征夷大将軍にして関東に派遣すること」を後醍醐天皇に懇願するが許されなかった。そこで尊氏は天皇の命令を得ずに、勝手に反乱鎮圧を名目に征東将軍を名乗り関東に下った。
武士たちは睨み合いがあり、足利尊氏と新田義貞は互いに競い、この対立の中で、かつてを知る武士たちの多くが足利尊氏のもとに集まった。
反乱鎮圧を名目にした尊氏の行動に、武士たちはわれ先に追従し、尊氏は弟の直義と力を合わせて鎌倉の北条時行の軍を破る。諸国の武士団は古い鎌倉幕府の再興よりも、足利尊氏の手による新たな幕府を望んでいた。このことに気づいた尊氏は鎌倉に戻ると腰を据え、軍功のあった武士団に勝手に恩賞をばら撒いた。朝廷の許可を得ないこの行為は、後醍醐天皇にそむくことを意味していたが、幕府の再建をめざしていた足利尊氏は、反乱鎮圧と同時に新朝廷政権に反旗を翻したのである。
尊氏追討軍
この足利尊氏に激怒した後醍醐天皇は、新田義貞を尊氏追討軍として鎌倉に送った。いわゆる1335年の建武の内戦である。後醍醐天皇は足利尊氏の追討を命じたが、足利尊氏は箱根で新田義貞を打ち破ると、新田義貞を追撃する形で京都へ上った。足利尊氏のこの戦いは後醍醐政権を倒して、再び新たな幕府をつくるためのもので、武士たちはわれがちに追従しその軍勢は10万を数えていた。古い家柄の武士たちは新顔の楠木正成や名和長年らを快く思っていなかった。
後醍醐天皇はいったん尊氏に京都を明け渡して比叡山に移ると、敵の兵糧を絶ちながら諸国の援軍を集めて包囲網を敷く。朝廷軍の新田義貞と楠木正成の軍勢に畠山氏の軍勢が加わると、尊氏は京の戦いで大敗して九州へ下った。
***北畠顕家
北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の南朝公卿・武将。『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男。後醍醐天皇側近「後の三房」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)で参議に任じられて公卿に登り、建武の新政では、鎮守府大将軍として義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した(陸奥将軍府)。のち足利尊氏との戦い建武の乱が起こると、西上し、第一次京都合戦で新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝の内乱が開始するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るが、義貞との連携に失敗し直進を遮られたため、転進。伊勢経由で迂回して大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、石津の戦いで奮戦の末に幕府執事高師直の軍に討ち取られて戦死した。享年数え21歳(満20歳)。
政治思想家としても父と類似の才覚を持ち、戦死の一週間前に後醍醐天皇への諫言として著した『北畠顕家上奏文』は、美文かつ歴史的価値の高い史料とされている。後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗な北斉の皇族武将高長恭に扮して『陵王』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。
年少の公家であるにもかかわらず、顕家の第一回遠征軍が強かった理由の一つとして、日本史研究者の亀田俊和は、後醍醐天皇の優れた政策と、後醍醐がその奥州での権限を顕家に委ねた影響が大きかったのではないか、と推測している。つまり、彼が地元の統治能力に優れ地元の武士達を上手く束ねる能力もあったということか。美少年で、軍事や統治能力に優れ、戦記物では絵になる存在だ。アレクサンダー大王タイプの人物なのか。
足利尊氏の本拠地は鎌倉と足利にあるが、そのほか全国30箇所に荘園を持ち、そこからの情報が常に尊氏に集められていた。そのため現地の武士の考えや要望を直接把握することができた。足利尊氏は九州で武士を集めると、起死回生の策略で窮地を乗り切り、再び京都に攻め寄せた。起死回生の策略とは、尊氏は後醍醐天皇に皇位を奪われた持明院統の光厳天皇を即位させ「自分は正しい朝廷のために戦っている」という大義名分を掲げたのである。持明院統の光厳上皇から院宣を受けて、勢いを得た足利軍は多々良浜の戦い(福岡市東区)で南朝方の武将である菊池武敏の軍勢を破ると、一気に中国地方から畿内(関西)へ入った。
尊氏軍の勢いを感じた朝廷側の楠木正成は尊氏との和睦を後醍醐天皇に何度も進言するが受け入れられず、1336年に天皇の命を受けて摂津国湊川(みなとがわ)で尊氏軍を迎え撃ち敗れて自害した。
尊氏は新田義貞も撃破し再び京都を制圧すると持明院統の皇族を帝位に就け、わずか二年半で後醍醐天皇の新政は瓦解することになる。
南北朝時代の始まり
後醍醐天皇は比叡山に逃れ尊氏との和睦に応じ、天皇であることを証明する三種の神器をわたし、光厳上皇の弟・光明天皇が新たに即位した。しかし後醍醐天皇は隙を見て京都を脱出して奈良の吉野へ向かった。
吉野に逃れた後醍醐天皇は光明天皇を認めず、光明天皇に渡した三種の神器は偽物であると宣言した。このようにして2人の天皇が同時に在位することになり、京都の朝廷(持明院統)と吉野の朝廷(大覚寺統)が対峙し南北朝の動乱の時代となった。
地理的に北側になる京都の朝廷が北朝、南側になる吉野の朝廷を南朝といった。これ以降約60年間、日本は南北朝が対立する戦乱の渦に叩き込まれる。足利尊氏は建武式目を制定し光明天皇を擁立し(北朝)、1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開いた。
後醍醐天皇は吉野朝廷を開き足利尊氏の「北朝」と対立し、南北朝時代の56年間が始まった。
後醍醐天皇は各地に自らの皇子を派遣して協力を要請した。しかし多くの武士は足利尊氏につき、後醍醐天皇についていた名和長年、結城親光、千種忠顕、北畠顕家、新田義貞らが討死にすると、吉野に移って3年目に後醍醐天皇は失意のうちに52歳で崩御した。
南朝は勢力を弱めたが、北畠親房は篭城した常陸・小田城にて南朝の正統性を示す「神皇正統記」を書き関東の武士を味方につけた。しかし懐良親王、北畠顕能、宗良親王らはすでに亡くなっており、次第に南朝の勢力が衰え、1392年に南朝は降伏する。
後醍醐天皇は自分の理想通的政治を始めたかったが、この政治は始めから武士によって潰される運命にあった。なお明治44年に、明治政府は南朝の天皇を正統と定めたため、足利尊氏が擁立した光明天皇などの北朝時代の天皇は歴代天皇として数えられていない。明治政府のこの決定は、現実の歴史の流れからみると無理があったようだ。戦時中は、足利尊氏を朝敵として国賊扱いしてきたようだ。
阿野廉子
阿野廉子は後醍醐天皇の寵愛を受け3人の皇子を産んでいる。この3人の皇子の誰かが後醍醐天皇の後継ぎになるようにと、隠岐まで付き添った阿野廉子も京都へ帰還すると、建武の親政にも様々に口を出した。
後醍醐天皇の女性関係は実に華やかだった。天皇家の系図の中で比較的信憑性の高い「本朝皇胤紹運録」によると、後醍醐天皇の子を産んだ女性だけで20人いる。生まれた皇子は17人、皇女15人で、子を産まなかった女性は数に入っていないので、実際に性的関係を持った女性が何人かは分からない。「太平記」から推察すると、20人以上の女性の中で後醍醐天皇の寵愛は阿野廉子に向けられた。
この阿野廉子の運命が大きく変わったのは、中宮・西薗寺禧子の後醍醐天皇への入内の時だった。廉阿野子17-18歳の頃、中宮・禧子につきそい宮中に入ることになる。廉子はすぐに後醍醐の目にとまり、寵愛を受けることになった。その結果、後醍醐天皇との初めての子・恒良親王を産み、次に成良親王、同年には義良親王を産んでいる。
阿野廉子は美貌と肉体だけが売り物の女性ではなく、才女で後醍醐天皇のよき話し相手だった。そのため後醍醐天皇が隠岐へ流されたときも、後醍醐天皇は廉子を手放すことができず、配流先の隠岐まで連れて行った。
後醍醐天皇の皇子のうち比較的はっきりする8人を出生順に列挙すると尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良の各親王たちである。廉子の産んだ長子の恒良より前に、少なくとも4人の男子がいたため、恒良より上の4人の中に、中宮・禧子の産んだ子がいれば、その皇子が皇太子となる可能性が高かった。しかし廉子にしてみれば幸いなことに中宮禧子の子はいなかった。
阿野廉子は日本史の教科書には出てこないが上昇志向を持つ執念と実現力を持つ女性で、阿野廉子は次の目標を後醍醐天皇の後継者を自分の子にすることだった。後醍醐天皇には20人ほどの妻と30人以上の子供がおり、たとえ後醍醐天皇の愛情をほしいままにしても、次期天皇候補には数多のライバルがいた。苛烈な皇位争奪戦を勝ち抜かなければならない。
護良親王は元弘・建武の争乱にあたって後醍醐天皇の手足となって軍事行動を起こし、一時的には征夷大将軍にもなっている。後醍醐天皇の後継者に最も近かった。しかし自分の子でない護良親王が天皇になることに廉子は不服であった。
ところが、1334年1月23日、立太子の儀が行われたとき、皇太子に選ばれたのは護良親王ではなく廉子の長子・恒良親王だった。つまり後醍醐天皇は実績のある護良親王ではなく、まだ10歳になったばかりの阿野廉子の長男・恒良親王を後継者としたのだった。
さらに廉子は二人目の子・成良親王を鎌倉に下らせ、三人目の子・義良親王を奥州に下らせた。つまり廉子は将来性のある地位にそれぞれ後醍醐天皇との実子を送り込んだのである。つまり恒良親王を後醍醐天皇直系に、成良親王を足利尊氏に、義良親王を北畠親房に送り、誰が勝っても廉子の生んだ子を政権の座に就かせるようにした。
護良親王が皇太子になれなかったのは、阿野廉子が自分の子が皇位に就くのに邪魔になると考え、同じように護良親王を排除しようとしていた足利尊氏と目的が一致して、廉子は足利尊氏と組んだのである。尊氏から「護良親王が後醍醐天皇を廃そうとしている」という護良親王謀反の通報があり、阿野廉子からそれを聞いた後醍醐天皇が護良親王を捕えたのである。これは「太平記」の記載であるがこの叙述を100%信用できないにしても、そのような素地はあったのだろう。
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室町幕府
1336 年,足利尊氏によって創設された武家政権。足利幕府とも。将軍家の邸宅がのちに京都室町におかれたことから,一般に室町幕府と呼ばれる。南北朝の動乱期を経て3代将軍足利義満の時代に最盛期を迎えたが,有力守護大名の連合政権であったため統制力に欠け,大名の勢力争いが絶えなかった。応仁の乱により,幕府の権威は衰え,下剋上の世となり,末期には全国各地に戦国大名が興って,幕府は有名無実の状態となった。しかし文化的には北山文化,東山文化と呼ばれる武家文化が展開し,対明貿易は中国の文物をもたらした。元亀4 (1573) 年7月 18日,15代将軍足利義昭が織田信長によって追放され,幕府は滅亡した。
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足利将軍
室町時代の中心人物としては、まずは足利将軍が挙げられるだろう。勿論初代は、鎌倉幕府を倒して、2つ目の武家政権を樹立した足利尊氏。
足利 義詮(よしあきら)は、室町時代(南北朝時代)の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。となると足利将軍家には母方の血統として北条氏の血が流れていることに。足利尊氏自身が北条政権の有力御家人だったからそれも当然かもしれないが。
足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職:1368年 - 1394年)。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室の紀良子。 将軍家の基盤は盤石になる。
南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。
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建武の新政
建武の新政(けんむのしんせい)は、1333年7月4日に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武政権(けんむせいけん)の新政策(「新政」)。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。新政の名は、翌年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。
後醍醐天皇は鎌倉時代の公武の政治体制・法制度・人材の結合を図ったが、元弘の乱後の混乱を収拾しきれず、延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)に河内源氏の有力者であった足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、政権は崩壊した。
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中先代の乱(なかせんだいのらん):
1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児、北条時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。
概要
鎌倉幕府滅亡後、建武の新政により、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子・成良親王を長とし尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置された。しかし建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していた。北条氏が守護を務めていた信濃国もその1つで、千曲川(信濃川)周辺ではたびたび蜂起が繰り返され、足利方の守護小笠原貞宗らが鎮圧にあたっていた。
1335年(建武2年)6月には、鎌倉時代に関東申次を務め、北条氏と繋がりがあった公家・西園寺公宗らが京都に潜伏していた北条高時の弟北条泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を擁立して政権転覆を企てた陰謀が発覚する。公宗らは後醍醐天皇の暗殺に失敗して誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。
信濃に潜伏していた北条時行は、御内人であった諏訪頼重や滋野氏らに擁立されて挙兵した(『梅松論』)。時行の信濃挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。時行勢の保科弥三郎(保科氏)や四宮左衛門太郎らは青沼合戦において守護小笠原貞宗を襲撃し、この間に諏訪氏・滋野氏らは信濃国衙を焼き討ち襲撃して、建武政権が任命した公家の国司(清原真人某)を自害させる(『太平記』)。
ところが、京都の建武政権は当初、反乱軍が時行を擁しているとの情報を掴んでいなかったらしく、京都では反乱軍は木曽路から尾張国に抜け、最終的には政権のある京都へと向かうと予想(『梅松論』)したために鎌倉将軍府への連絡が遅れ、それが後の鎌倉陥落につながったとみられている。
勢いに乗った時行軍は武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍する。7月20日頃に女影原(埼玉県日高市)で渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を、小手指ヶ原(同県所沢市)で今川範満の軍を、武蔵府中で救援に駆けつけた下野国守護・小山秀朝の軍を打ち破り、これらを自害あるいは討死させた。
続いて、井手の沢(東京都町田市)にて鎌倉から出陣して時行軍を迎撃した足利直義をも破る。直義は尊氏の子の幼い足利義詮や、後醍醐天皇の皇子成良親王らを連れて鎌倉を逃れる。鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている(7月23日)。鎌倉に護良を将軍・時行を執権とする鎌倉幕府が再興され建武政権に対抗する存在になることを恐れていたからと考えられている。24日は鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)にて鎌倉将軍府側は最後の抵抗を試みるが佐竹義直(佐竹貞義の子)らが戦死、翌25日に時行は鎌倉に入り、一時的に支配する。更に時行勢は逃げる直義を駿河国手越河原で撃破した。直義は8月2日に三河国矢作に拠点を構え、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還している。
時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は要請を拒否する。8月2日尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号(征夷大将軍ではない)を与える。
尊氏は直義と合流し、各地が激戦が行われた。時行勢は次第に劣勢となり戦線は徐々に後退。19日には相模国辻堂で敗れた諏訪頼重が鎌倉勝長寿院で自害して、時行は鎌倉を保つこと20日余りで逃亡する。
後醍醐天皇は尊氏へ出陣の許可は与えなかったものの、少なくてもこの段階では尊氏と天皇の方針に大きな違いはなかったと考えられている。ところが、9月27日になり、尊氏は鎌倉において、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞の分配を行い、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反する(延元の乱)。
北条時行に従った武士には名越氏のような北条氏一門もいたが、大部分が諏訪頼重のような御内人であった。彼らの中には千葉氏・宇都宮氏・三浦氏などの関東有力武家の庶流の出身者が多数含まれており、結果的に関東武士が多数含まれることになった。これに対して佐竹氏・小山氏などの関東の御家人が鎌倉将軍府側に加わり、更に既に将軍府に出仕していた旧幕府吏僚や御内人の多くも時行の動きには従わずに、直義ともに鎌倉から脱出している。
このため、鎌倉に入った時行は公式の幕府文書を発給することが出来ず、御内人のみで出せる得宗家の奉行人連署奉書で命令を下している。そして、建武政権に仕えていた旧幕府吏僚や御内人の中にも尊氏とともに時行討伐に参加する者がおり、時行および御内人の挙兵は結果的には御内人同士の戦いとなって鎌倉幕府再興の可能性を失わせるとともに、室町幕府や鎌倉府を支える吏僚層を形成するきっかけとなった。
時行は鎌倉を逃れた後も各地に潜伏し、南北朝成立後は吉野の南朝から朝敵免除の綸旨を受けて南朝に従い、新田氏や北畠顕家の軍などに属して足利方と戦うが、1352年(正平7年/文和元年)足利方に捕縛され、翌年、鎌倉において処刑されたとされる。
なんと、始めは後醍醐天皇に敵視されていたものが、結果として南朝方に組することに。歴史にもしもは無いが、もし北条時行が戦いを先延ばしにして持久戦に持ち込んでいれば、南朝方が次第に優勢になり、足利政権の成立が出来なかった可能性もある大変な事件だったようだ。
中先代の乱の歴史的影響
以下の解説は、現時点ではあくまでも推測の域を出ない。
通説における影響
時行が起こした中先代の乱は、通説と新説の双方において、日本史に決定的影響を与えた戦いだった。すなわち、中先代の乱の直後に後醍醐天皇と足利尊氏の間で建武の乱という戦いが発生し、天皇が政治的実権を握っていた最後の全国的単独政権である建武政権の崩壊に繋がったことである。
1960年代の佐藤進一による通説的見解では、後醍醐天皇は支離滅裂な政策を繰り返して武家や民衆の支持を失った独裁的暗君であり、建武政権の崩壊は必然であったとされる。足利尊氏は後醍醐に反感を抱いており、後は誰かが導火線に点火するのを待つ状況だったという。佐藤の推測によれば、中先代の乱で尊氏が惣追捕使と征夷大将軍を後醍醐に要求したのは、中先代の乱を口実として武家の棟梁に足る資格を獲得し、新たな武家政権を樹立する野望を抱いていたからだという。
中先代の乱終結後、後醍醐は尊氏に帰京命令を出したのに対し、尊氏はそれに従わずに鎌倉に留まり独自の恩賞配布を行ったが、佐藤はこれをもって尊氏の後醍醐への反乱が開始したとしている。なお、この後、後醍醐が新田義貞を将とする兵を差し向けると尊氏は謝罪のため突然寺院に引きこもったりするなど、歴史的事実と佐藤の想定が食い違う部分もあるが、佐藤は、これは尊氏が精神疾患のある不安定な人間だったからと主張している。
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北条 時行(なかせんだいのらん):
北条 時行(ほうじょう ときゆき):
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の遺児。先代の武家の筆頭である高時と室町幕府創始者当代の武家の棟梁である足利尊氏との中間の存在として、中先代(なかせんだい)とも呼ばれる。
建武政権期、北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して建武2年(1335年)に中先代の乱を引き起こし、足利直義を破って鎌倉を奪還するが、わずか20日で尊氏に逐われた。
しかし、南北朝の内乱(1336年 - 1392年)では、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦った。1337年から翌年にかけては、鎮守府大将軍北畠顕家や新田義興(義貞の子)と共に足利家長(斯波家長)を討って自身にとって2度目となる鎌倉奪還に成功。顕家の遠征軍に随行して青野原の戦いで顕家らと共に土岐頼遠を破った。ところが、遠征軍は和泉国(大阪府)で行われた石津の戦いで執事高師直に大敗、遠征軍の長の顕家は敗死したものの、時行は生き残った。
のち1352年、時行は再び義興らと共に武蔵野合戦で戦い、初代鎌倉公方足利基氏を破って3度目の鎌倉奪還を果たした。しかしこの奪還も短期間に終わり、逃走を続けるも、翌年、足利方に捕らえられ、鎌倉龍ノ口(神奈川県藤沢市龍口)で処刑された。
鎌倉幕府滅亡
1331年、鎌倉幕府と後醍醐天皇の戦いである元弘の乱が発生。はじめ戦局は鎌倉幕府・北条氏に有利だったが、1333年に武家の名門足利氏の当主である高氏(後の尊氏)が後醍醐方に離反したことで六波羅探題(鎌倉幕府の西国監視機関)が壊滅。同年5月22日には、新田義貞による鎌倉攻めが行われ(東勝寺合戦)、時行の父である高時をはじめ北条一門の多くが自害し、鎌倉幕府は滅亡。
しかし、時行は得宗家の被官(家臣)である諏訪盛高によって鎌倉から抜け出し、難を逃れた。幼い時行はそのまま諏訪氏の本拠地である信濃国(長野県)に渡り、諏訪大社を奉じる諏訪神党のもとにかくまわれた。一方、兄の邦時(万寿丸)も、家臣の五大院宗繁と共に鎌倉脱出を試みていたが、宗繁の裏切りによって新田方に捕縛されて処刑された。
建武の新政と北条与党の反乱
鎌倉幕府倒壊後に後醍醐天皇が開始した建武の新政(1333年 - 1336年)では各地で反乱が起こったが、それらの半数以上が北条与党によって起こされたものだったとされている。少なくとも奥州北部・北九州・南関東・日向・紀伊・長門・伊予・京の8か所で北条氏による乱が発生した。 これらの乱の特徴として、乱が発生した国が、鎌倉幕府で北条氏が守護職に任じられていたこと(日向・越後・紀伊・信濃・長門)、あるいは旧領であったこと(陸奥)があげられる。日本史研究者の鈴木由美の指摘によれば、それぞれの北条氏の武将が乱を主導したのではなく、建武政権に不満を持つ在地の武士たちが旗頭として北条氏を担ぎ上げたという面が大きいとしている。
また、建武の新政においては、戦前からの伝統的通説・21世紀初頭の新説ともに後醍醐天皇は北条与党に対しては冷淡であり、北条氏への忠誠が強かった氏族(斎藤氏や松田氏など)は少数の例外を除き新政の中枢機関にほぼ用いられなかったと考えられている。
時行挙兵、鎌倉奪還
1335年6月には、西園寺公宗という公卿(上級貴族)が「太上天皇」という人物(誰?)を奉じ、後醍醐天皇の暗殺を計画したが、失敗して捕らえられた。西園寺家はかつて代々関東申次(朝廷と鎌倉幕府の交渉役)に任じられてきた有力公家であり、公宗が奉じたこの「太上天皇」は、鎌倉幕府と親しかった持明院統(後の北朝)の後伏見上皇のことと見られている。ただし、日本史研究者の家永遵嗣は、同じ持明院統でも光厳上皇のことを指している、としている(この当時上皇は複数人いたということでしょうか?)。
軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)の流布本第13巻「北山殿謀叛の事」の物語では、公宗は北条高時の弟(時行の叔父である北条泰家(時興))をかくまっており、京では泰家と共に挙兵し、東国の反乱軍の大将を時行、北国の反乱軍の大将を名越時兼として挙兵する予定だったと描かれている(北山殿=西園寺公宗)。日本史研究者の鈴木由美によれば、『太平記』のこの物語を直接支持する史料は見当たらないという。
しかし、公宗の後醍醐暗殺計画と時行の活動の時期が連動していることや、時行方が建武政権の「建武」年号ではなく持明院統(後の北朝)の「正慶」年号を使用していたことを考えれば、公宗が泰家・時行と結託していたという『太平記』説は事実と考えても良いかもしれない。
時行は後醍醐天皇による親政(建武の新政)に不満を持つ勢力や北条氏残党を束ね、同年7月14日、信濃国(長野県)で諏訪頼重(およびその子の時継)や滋野氏ら諏訪神党、三浦時継、三浦時明、蘆名盛員、那波宗政、清久山城守、塩谷民部大輔、工藤四郎左衛門尉などに擁立されて挙兵した(中先代の乱)。その傘下の武将には、千葉氏のような東国武士や、三浦時明・天野貞村のように建武政権に仕えていたのに政権に反旗を翻した者もおり、相当に大規模な反乱軍であったとみられる。
時行らはまず信濃国守護であった小笠原貞宗を撃破。同年7月18日、時行は上野国(群馬県)に攻め入った。足利尊氏の弟で東国を守護する直義(鎌倉将軍府)は、時行征伐軍を編成して派遣。時行はこれを武蔵国女影原(埼玉県日高市女影)・小手指原(同県所沢市北野)・府中(東京都府中市)などで撃破、建武政権方の武将を敗死させた。ついに直義は自ら軍勢を率いて、井出沢(東京都町田市本町田)で時行を迎え撃とうとしたが、時行はこれにも勝利。7月25日、時行は鎌倉に入り、武家にとっての旧都の奪還を成功させた。
なお、時行に逐われた直義は、鎌倉を脱出する直前、鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺害した。護良は後醍醐天皇の皇子で、元弘の乱の殊勲者の一人だったが、諸事情(後醍醐天皇に謀反の疑いをかけられていた)により失脚していた。直義が護良を殺害した理由についても諸説ある。一説によれば、時行が前征夷大将軍である護良を擁立した場合には、反乱軍の旗頭となることを危惧されていたためとも。一方、時行と護良が連携する等という想定をした直義の誤算かも知れないと。
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松永 久秀
NHK・eテレの「知恵泉」という番組から。ヒールの言い分という副題で、松永 弾正のことが取り上げられていた。松永 弾正と言えば斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されているらしい。「下剋上の代名詞」、「謀反癖のある人物」などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作物においてもそのような人物として描かれることが多いらしいが。三大悪事とされているのが①三好義継に足利義輝を殺害させ,畿内に実権をふるったこと。②三好三人衆と戦い東大寺大仏殿を焼いたこと,③織田信長を裏切ったこと。この3つともが全く根拠のない江戸時代の作り話、①暗殺したのが主君筋三好家の人間ならたとえそそのかしたとしても責任はないだろう。②は戦場になればどちらが火をつけたかは不明であるし、当時の寺は僧兵を有した戦闘集団でもあったのだからこれも悪逆非道とは言えないだろう。③に至っては、松永と織田はせいぜい一時的な同盟関係で主従の関係は全くないので、裏切りではないだろう。その結果、松永弾正は織田に攻められ、潔く自害する。むしろあっぱれな行動をすべきであろう。何故このような評価が生じてしまったのか。どうも江戸時代の安定期に入って下剋上や実力主義的な考えを極力否定したいという考えが蔓延してきたためであろう。歴史上の人物を善か悪か、好きか嫌いかで判断していては、歴史から学ぶことはできない。
松永 久秀(ひさひで)は、戦国時代の大和国の戦国大名。松永 弾正(だんじょう)の名で知られる。1533~34年頃より細川氏の被官・三好長慶(ながよし)の右筆(書記)として仕えたと言われている。やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。三好長慶は、織田信長の登場前、将軍家を上手く操り、日本を統一しようという野心を持った大名で、松永 久秀は年下の三好長慶の良き相談相手として活躍して来たらしい。三好長慶は少なくとも畿内では相当な勢力を保っていたようだ。日本の歴史を見直すには決して見逃せない人物のようだ。
【久秀の抜擢】
松永久秀の抜擢は、三好政権における人事の革新性を表している。低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は競争の厳しい戦国の世では他の大名家でも見られる。しかし、どの大名の家臣もそれ相当の家柄が必要なことは暗黙の決まりであったようだ。例えば、上杉家は樋口兼続に直江家の後を継がせ直江の城と家臣団を継承。上杉だって長尾景虎じゃなかったか。北条家は福島(櫛間)綱成に北条の名字を与え一門に列席させるなど、抜擢するに応じて相応の家格・地位・領地・家臣団を与える。滝川一益や明智光秀を外様から抜擢した織田信長も、家格という観点から秩序維持の為に、光秀や丹羽長秀に惟任(これとう)氏、惟住(これずみ)氏の名跡を継がせている。 信長の場合、彼らの出世が従来の織田家譜代を中心とする家格秩序と齟齬をきたすであろうと信長が予測し、その齟齬を未然に防ぐための措置と指摘されています。因みに惟任氏・惟住氏は有力な守護大名だった土岐氏の分家筋に当たる有力な家柄であったらしい。
【活躍】
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得る。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。出身については、諸説あるようだがもともとさほど高貴のでではなく、家格が重んじられていた当時は色々なやっかみを受ける立場であったようだ。
天文18年(1549年)、三好長慶が細川晴元、室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放して京都を支配する。松永は公家や寺社が三好家と折衝する際にその仲介をする役割を、三好長逸と共に果たすようになる。久秀は長慶に従って上洛し三好家の家宰となる。上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任される。長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられ戦国大名の仲間入りをする。足利将軍→細川→三好→松永の主従関係をひっくり返したことが下剋上の始まりとされる。
どうも、松永弾正のイメージは三好長慶の忠実な家臣であり続け、強烈な個性を持った三好長慶に対する周囲の恨みを松永一人がしょい込んだのかもしれない。長慶が早死にしてしまったため、三好家自体が分裂したことも松永にとっては不幸なことだったのかも。三好長慶・松永久秀のコンビは調べてみると面白そうだ。この二人には信長とは別な日本の統一像を持っていた可能性がある。大和の多聞山城は、信長の安土城のモデルになるような豪壮なものだったとか。松永久秀が信長に最後に反抗したのは、久秀が大事に治めてきた大和を、信長が没収し、こともあろうに宿敵、筒井順啓にくれてやるという暴挙に出たことが原因であったらしい。
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三好 長慶
三好 長慶(みよし ながよし;1522~1564)
織田信長は、最初の日本統一を成し遂げた武将ということになっているが、実態はかなり異なり後世の作りごとであった可能性が出てきた。そもそもの信長が使った「天下布武」の文字の「天下」とは、当時の常識として京都を中心とした畿内10か国程度で決して日本全国等の意味はなかったことが、当時の宣教師達の証言で明らかになって来たらしい。これもNHK e-テレ放映しているのだから、歴史学者の間ではそのような意見が強くなってきたらしい。更に信長自身、足利政権や天皇を倒す意図など全くなく、足利幕府を立て直して秩序を再構築したかっただけのとても律義な人だった可能性もあるようだ。
この観点から言うと、天下布武を最初に成し遂げた人物は、細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立した三好長慶こそ最初の天下人にふさわしいようだ。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨する。キリスト教の宣教師を優遇し、海外の文化にも興味を持っていたという。織田信長自身も三好長慶を最初の天下人と認め尊敬していたらしい。
このことは、江戸時代の前半までの武士達にとっては常識であったが、どうも後世に歴史の見方の改竄があって、意図的に日本の歴史から抹殺されていたようだ。江戸期に日本の歴史を「大日本史」として編集し直した徳川光圀に原因があるらしい。水戸学、皇国史観、尊王攘夷思想の最初の作り手でもある徳川光圀が何故これほど三好長慶を嫌ったであろうか。どのような歴史書も編集者の思い入れが入り込むことは避けられない。その意図まで読み解くことも歴史を学ぶ面白さでもあるのでしょう。ちなみに、日本史の中で3大悪人とされている松永弾正など、三好長慶の忠実な執事として律義の働いているだけみたいな人だ。信長を裏切ったといわれるが信長の方が裏切ったのかも。
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桶狭間の戦い
桶狭間の戦い(1560年)は、今川義元が公家風になり軟弱で油断していため、信長に打たれたというのが通説であった。我々の学生時代はそのように理解されていたよう。しかし、義元自身は、東海一の弓取りと言われていたように、北の武田、東の北条をといまとめ、三国同盟を結び、織田の攻略に取り掛かる。策略家のやり手でもあったらしい。また、桶狭間の時には無くなっていたが、太原雪斎という僧で高名な軍師も抱えていた。
一方、当時の織田は、父信秀の時代から庶流でありながら尾張の津島の湊を抑え、豊かな財源を背景に力を蓄え、今川とは何度も小競り合いを繰返していたらしい。守護大名の今川家の強みは、なんといっても足利将軍家との繋がりで、その権威をもとに無駄な戦いを避けつつ策略を元に領国を広げていった。織田領への侵入は、織田家の内紛に乗じたのでしょう。まず始めに、織田家の財力の基盤である津島の湊を占領し、約25,000の大軍を率いての進軍です。ただ、これは多分にデモンストレーションの意味合いが強く、簡単に講和できるものと踏んでいたと思われます。馬に乗らずに輿を担がせたのも将軍家との縁故の強さを見せびらかすため。一方の信長は領内の未だ固まらず、内部にも敵がいる状態で、財源となる湊まで占領されたとなると、普通の武将なら今川と組んだ方が有利と判断すると思ったのでしょう。
実際、この状況は信長にとっては大ピンチでしょうが、経済の感覚は抜群の信長、ここで妥協したら後がない(織田にとって津島の湊は最大の財源)と判断したのでしょう。また、偵察によって、今川の目的は戦うことでないことも見抜かれていたのか知れません。信長は、戦術においても当時の常識を上回っていました。信長は、いわば戦争のプロを養成していました。身分を問わず、というよりハングリーな貧しいものを積極的に金で兵隊に採用します。馬術に特に力を入れていたとの話もあり、最初から急戦策を考えていたのかも。農業の片手間に戦う兵士とは違い戦いに専念できます。大将の首だけを賞金目当てに戦います。また、命令には忠実で一糸乱れず行動することも可能です。桶狭間の戦いは良く奇襲作戦とみられますが、戦いは昼間の明るい時間に実行されます。こんな奇襲はあまり例がありません。また途中に大雨があったのも偶然。今川本隊だけなら兵力5, 000対2, 500。勝てると読んでいたのかも。今川の方は、諜報から信長は「うつけ」との織田家家臣達からの評判や、信長自身も孤立化していたので、諜報の結果を信じ定石通りの行動をしたことが逆に仇となったのかも。
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信長の最強のライバル
強運の人、信長の最強のライバルは誰であったのでしょうか。信玄や謙信が、とても強かったというのは、江戸時代になってから講談などで面白くするための誇張があるでしょう。当時の、経済力、軍事力(鉄砲)、兵站能力どれをとっても、戦国最強、信玄や謙信の戦い方は時代遅れです。信長の真のライバルは、1570年~80年の11年間もの間戦い続けた石山本願寺の勢力です。相手は所詮、僧侶と老若男女の民衆の集団であって戦いの専門集団・信長軍団の敵ではないはず。では、10年あまりの年月は何故。
歴史は、後になって造られるもの。しかし、当時の宗教が人々に与えた影響の大きさは、信長によって改革されたあとの宗教しか知らない後世の人には伝わっていなかった可能性もあり、あるいは意図的に無視した可能性もあります。
鎌倉時代よりも前の仏教は、国家鎮護のための宗教。鎌倉時代以降の念仏仏教は、死を覚悟して戦う武士たちの心に直接訴えるもの。熱心に信仰すれば極楽浄土に行ける。いわば、人生観にまで影響する個人の宗教で、武士道の一環ともいえるものかも。ちょうど西欧で宗教改革以降のカルバン派のようなもの。上司の意向と宗教の教えが異なれば躊躇なく宗教を取る訳です。その代り、信じることのためなら命を賭して戦う集団となります。各戦国大名たちはみな、身内の中の宗教勢力の成長に苦労しています。一番多い対策は、大名自らが改宗してしまうことです。上杉謙信は毘沙門天、徳川家康は、「厭離穢土欣求浄土」。自ら信心深いことを世間にアピールします。
信長も、このようなことを熟知していたのでうかつには手出しをしません。特に尾張・三河のような先進地帯は一向宗のような勢力が強く、身内にも大勢の信者たちを抱えていたはずです。
だから、初めは比叡山を攻める。これはどちらと言えば旧勢力で腐った宗教の見本としたかったのでしょう。ところが石山本願寺の勢力は、そうはいかない。信長の野望を察知すると各地に伝令を出し、たちまち信長包囲網が完成する。石山の近くでは、根来衆や雑賀衆と言った鉄砲集団。海には村上水軍他の海賊集団、その後ろには毛利水軍、もちろん武田、上杉も要請にこたえて背後を伺っています。「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」を唱える一向宗信徒が捨て身だったとはいえ、信長軍は結局敗退の連続でした。また、僧侶と老若男女の民衆の集団であっても、築城や兵站等の後方支援を積極的のできるのも信者集団の強みです。しかも、石山本願寺自体が後背地が湿地で全面が海、難攻不落の最適な立地条件(だからのちの大阪城が築かれる)。最後は、石山城は陥落するのですが、このことで日本の宗教は大幅に変革されてしまします。
信長があれほどキリスト教に寛容だったのも、仏教勢力を駆逐するのが本当の目的でしょう。でも、キリスト教も同じ運命をたどります。最初は仏教が駆逐されたニッチを埋めていきます。キリシタン大名が生まれることは家臣たちにキリスト教が浸透していたことが最大の原因です。結局、秀吉、家康の代で禁止されてしまいますね。家康は仏教には非常に寛容な人で仏教を大いに保護しますが、軍事力だけは持てないように工夫しています。 ヨーロッパでは、宗教改革が起こりますが、日本では、すでに改革は実施済み。宗教が政治に口を出す心配はかなり少なくなっています。
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本能寺の変の真相

本能寺の変といえば1582年6月21日早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃される、当時日本に来ていたザビエル派の宣教師達すら大慌てする世界史上の大事件です。ところが、光秀が謀反に至る動機が上司信長に叱られた恨みという、今までの定説があまりにも不自然なため、朝廷陰謀説や宣教師陰謀説等いろいろな異説が唱えられて来ました。明智憲三郎は、明智光秀の子孫にあたる方ということで、沢山の資料を比較検討し、論理的な推論でストーリーをまとめ上げています。
明智光秀の真の狙いは何だったのでしょうか。明智光秀という人物は、織田軍団の中で秀吉と並ぶナンバー1存在。おそらく秀吉より沈着冷静、信長の片腕として活躍していたのでその分当然信長の風当たりも強かったのは事実。また、美濃の土岐家の再興を願っていたこともあり、自己の自尊心を傷つけられただけで、一族を滅ぼしかねない謀反に走ることはないと思われます。信長は光秀を最も信頼していたので少数の戦力で本能寺に待機していたのでしょう。
どうも、信長と光秀はすでに天下統一後の構想を共有していたようで、明国に出兵し、国内で有力な大名たちを一掃してしまう戦略を持っていたようです。まず、第一弾として家康を京都に招き入れ、それに乗じて光秀に家康を討たせる予定だったらしい。ライバルが一人減る。信長とて光秀がこのことに異論があるはずはないと考えたのでしょう。ところが光秀はすでに老境に入っていて、家康の次は自分の子孫が危ないと感じたらしい。
だから、家康を逃して本能寺の信長を逆に打つことになったらしい。豊臣政権では秀吉の徹底した情報戦略によって、悪逆非道で愚弄な人物として描かれてきたが、家康は光秀には恩義に感じていたらしく光秀に子孫たちを厚遇していたらしい。
ただ、戦前は中国進出を正当化したい軍部は、信長の構想を実施した秀吉を軍神扱いしたので、それに対応して光秀の評価はかなり貶められた可能性がある。
光秀が秀吉になぜ負けたのかは、今後の研究に待たねばならないようですが、細川藤孝(光秀が最も信頼していた)の裏切りが大きかったようです。でも、何故裏切ったのでしょうか。
「本能寺の変」は変だ!435年後の再審請求 明智憲三郎
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小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦いは、1584年3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。
**小田原北条攻め: 1590年に豊臣秀吉が後北条氏を降した戦役。一方的に関白の地位を利用して起こした戦いである。関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。
小牧・長久手の戦いは、これより前。この時点では近畿地方は秀吉の天下となっていたが東日本の諸大名はまだ、それを認めていなかったようだ。関東管領は北条だし、家康も信長の子・織田信雄の要請を受けている。大義名分はある。しかし、戦力(兵力数)は明かに秀吉有利。秀吉側が仕掛けたようだ。でも、秀吉の天下取りを邪魔するには家康には北条を手を組む戦略もあった。
1582年3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし(甲州征伐)上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。また三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと、武田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した(天正壬午の乱)。
天正11年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いにおいて織田信長の次男の信雄を加えて、信長の三男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の遺領の越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられ、大坂の地は秀吉が接収し、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いている。
天正11年(1583年)に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。秀吉は信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、徳川家康と同盟を結んだ信雄は天正12年(1584年)3月6日に親秀吉派の三家老を処刑した。これに激怒する秀吉は、信雄に対し出兵を決断した。小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。
秀吉に攻められた信雄が仕方なく単独講和。家康も大義名分が無くなり秀吉とそれぞれ単独講和してしまったため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め・四国攻めにより、天正13年(1585年)8月までに制圧されることになる。家康は明かに力不足。
また、天正12年(1584年)11月23日、佐々成政が自領・富山を発し、雪深い立山を越えて(さらさら越え)、浜松の家康を訪れ、秀吉への抵抗を促したが聞き入れられず、翌天正13年(1585年)8月の富山の役で秀吉に降伏した。
これによって、天下の趨勢は更に秀吉政権確立へと進んでいくこととなったが、この頃の秀吉は、家康を武力により討伐することを諦めず、家康征伐を公言していた。
天正大地震発生前後の状況と地震による影響
家康と講和した後も、秀吉は再戦に向け、1年以上かけて態勢を整えていった。秀吉包囲網が瓦解していくのと同時期に、秀吉は、二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、天正13年(1585年)7月、近衛前久の猶子となって、関白宣下を受けた。また、美濃国大垣城に15万人の大軍のための兵糧を備蓄。地位、戦力共に家康を圧倒し、いつ決戦に臨んでもよいところまで体勢を整えていった。
一方の家康は、天正壬午の乱の後、北条氏と結んだ同盟条件に基づく上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲で、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸と対立。昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗し、これに手を焼いていた(第一次上田合戦)。またこの頃、家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、一時重篤に陥っている。
さらに、実はこの頃、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて起こった地震や大雨に戦役の負担が重なって、領国経営に深刻な影響が出ていた。特に天正11年(1583年)5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」(家忠日記)に見舞われていた。その状況下で豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られていた。
こうした中、天正13年11月13日(1586年1月2日)、徳川家の実質ナンバー2だった石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』) このような状況から、当時、家康は風前の灯だと見られていた。
ところが天正13年11月29日(1586年1月18日)に列島の中央部を「天正大地震」が襲う。マグニチュード(M)8クラス、最大震度6だったとされる。この時の地震による被害としては、富山県高岡市の木舟城は陥没し、城主・前田秀継(利家の弟)が死亡。岐阜県白川村の帰雲城も城下もろとも埋没し、このため城主内ヶ島氏一族が滅亡。このように被害は中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。このとき秀吉は近江国坂本城にいたが、あまりの恐ろしさにすぐに大坂城に逃げ帰ったという。
国際日本文化研究センターの磯田道史・准教授は「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)で、この地震を「近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震」だったと指摘。この地震がなければ、家康は2カ月後に秀吉の大軍から総攻撃を受けるはずだったとしている。天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」で局地戦では勝った家康だが、その後の秀吉は秀吉包囲網を瓦解させ、紀州や四国など版図を飛躍的に拡大し彼我の軍事力には大きな差がついていた。戦争に突入すればその後の後北条氏のように、家康には滅亡の可能性すらあっただろう。ところが震災で、秀吉の対家康前線基地の大垣城が全壊焼失、同盟軍の織田信雄の長島城も倒壊したという。秀吉軍を展開させるはずの美濃・尾張・伊勢地方の被害が大きく、戦争準備どころではなくなっていた。
一方の家康側は、この地震により岡崎城が被災したが、領国内は震度4以下だったという。もっとも天正大地震以前に大雨や小牧・長久手の戦い等への領民動員で徳川氏の領国は荒廃しており、家康にしても豊臣政権との戦いどころではなかった。
秀吉は家康征伐を中止して和解路線に転じ、1年近くにわたる交渉を経て、天正14年(1586年)10月27日、家康は大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明。豊臣政権ナンバー2の座を確保し将来に備えることとなる。
さらに、近年では片山正彦が、秀吉が家康を軍事的に屈服させきれなかったために、1586年の上洛後も秀吉と家康の間には主従関係が形式的な形でしか成立しなかったとしている。このため、家康は北条氏との同盟関係を引き続き存続させて秀吉と北条氏の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。その結果、秀吉は西国平定を優先して東国に対する軍事的な平定を先送りする方針を採り、東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得なくなった。家康が秀吉に完全に服従したのは1589年暮れに秀吉が北条氏討伐を宣言して家康がこれに応じ、更に翌1590年に入って家康が三男・長丸(後の徳川秀忠)を実質上の人質として上洛させ、北条氏討伐の先鋒を務めた時であるとしている(小田原征伐)。
徳川家での顕彰
関ヶ原本戦において徳川氏の主力は合戦に参加することができなかった(すなわち秀忠本軍は戦いに間に合わなかった)。このため、奇襲により羽柴軍別動隊を壊滅に追いこんだ小牧・長久手の戦いは徳川家で顕彰の対象となった。尾張藩においては、家康九男の藩主義直は長久手古戦場にみずから調査に行くほどの興味を示した。また、尾張藩士の調査によってつぎつぎと石碑が建てられ、藩士による合戦記も編纂されている。紀伊藩では、家康十男の藩主頼宣は小牧・長久手の戦いにまつわる合戦記を収集し、宇佐美定祐などの軍学者に命じて屏風や配陣図を描かせたり当時をよく知る者に合戦記を書かせたりしている。つまり徳川家の御家事情で、関ケ原の重要性よりも 小牧・長久手の戦いの方が重要だったと考えたのかも。
頼山陽も『日本外史』に、「公 (神君家康) の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」と、「小牧・長久手の戦い」こそが、徳川家康の天下人へ押し上げた原動力になったことを述べている。
どうも、この戦いの真相はよく分からない。「小牧・長久手の戦い」では、動員兵力では圧倒的に秀吉有利。ただ家康側としては、「秀吉が織田家簒奪の張本人」とする大義名分もあって諸大名の支援も得やすかった。家康側が戦略的に仕掛けた? だとすればその成算は??
秀吉側は初めから徳川を撃つつもりだったようだ。意図は明白。徳川は地震が発生しため命拾いした?
そもそも、本能寺の変は信長が光秀に徳川を撃たせようとしたのが原因との説もある。また、関ケ原の戦いは出来レースだったのか、勝ったことがラッキーだったのか。徳川の天下取り、ただのラッキーだったのか、用意周到の戦略だったのか。
【天正地震】
天正地震(てんしょうじしん)は、安土桃山時代の1586年1月18日および同年1月16日に中部地方で発生した巨大地震である。主に前者の地震についてを天正地震、後者は天正越中地震と呼ぶ。
『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載されている。
被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ、日本史上例のない大地震。震源域もマグニチュードもはっきりした定説はない。いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない。なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生。
同地震の規模を知ることが困難な背景としては、発生当時が戦国時代末期に当たり、豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難かったことが挙げられる。しかし、三河にいた松平家忠の日記(『家忠日記』)によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生したとある。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。
近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重県(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている。
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織田信忠
織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ、後継者と認められ織田政権第2代当主となる。甲斐武田氏を滅亡させた直後に本能寺の変で父・信長は本能寺、信忠は二条新御所にて自刃した。岐阜城主。つまり、本能寺の変では信長自身よりも彼が無くなったことの方が遥かに大きな意味を持っていたはずだ。つまり、戦わずして彼が逃亡していれば織田政権の家臣たちは必ず従ってくれるはずだから。既に信長本人から後継者としての指名を受けているようだ。
少年期
1557年頃、織田信長の長男として尾張国で生まれる。実母は不明。乳母は慈徳院(滝川氏)。なお濃姫が織田信忠を養子としたという説もある(勢州軍記)。幼名は奇妙丸。元服してはじめ勘九郎信重(のぶしげ)を名乗り、のちに信忠と改める。
永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していた。『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄六女・松姫と婚約が成立したという。
武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、元亀3年(1572年)に信玄は信長と敵対した将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始し(西上作戦)、これにより武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。以後、武田氏では勝頼末期に織田氏との関係改善が試みられるものの(甲江和与)、信長が和睦を拒否した為、武田・織田間の和睦は成立していない。
以来、信長に従って石山合戦、天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574年)7月~9月の伊勢長島攻めと各地を転戦した。
信長の後継者
天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで勝利し、そのまま岩村城攻めの総大将として出陣(岩村城の戦い)。夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1,100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将・秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城させた。以後、一連の武田氏との戦いにおいても、大いに武名を上げていくこととなる。
天正4年(1576年)11月28日、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、信長正室濃姫を養母として岐阜城主となった。また、濃姫の弟である斎藤利治が信忠付きの側近(重臣)となる。同年に正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官し将軍格となることを目指した。足利義昭は織田政権下でも備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍になるしかなかった。また、この官職は越後守護家でもある上杉家との対抗上、有意義であったともされる。
天正5年(1577年)2月、雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮して、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。その功績により10月15日には従三位左近衛権中将に叙任される。この頃より、信長に代わり総帥として諸将の指揮を執るようになる。12月28日には信長が持っていた茶道具のうちから8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。
天正6年(1578年)、播磨国の上月城を奪還すべく、毛利氏の当主・毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景・宇喜多忠家・村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を包囲した。信長も上月城救援の為、信忠を総大将に明智光秀、丹羽長秀・滝川一益ら諸将を援軍に出し、三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。
天正6年(1578年)10月4日、越中国での月岡野の戦いに義理の叔父にあたる斎藤利治が神保長住の援軍総大将として信長より勅命派遣、斉藤氏の加治田衆を筆頭に、美濃衆・尾張衆の信忠付きの援軍を送っている。斎藤利治に対しては労を労い「ご苦労の段とお察しする」と書状を送っている。また、同年から翌年の天正9年(1579年)にかけて、摂津で勃発した荒木村重の謀反(有岡城の戦い)の鎮圧にも出陣した。
天正8年(1580年)、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放されたため、美濃・尾張の2か国における信忠の支配領域が広がった。
甲州征伐
天正10年(1582年)、甲州征伐では、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康・北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。信忠は河尻秀隆、滝川一益の両将を軍監とし、伊那方面から進軍して、信濃南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略する。高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知している(『信長公記』巻15)。
信忠の進撃の早さに、体勢を立て直すことが出来ず諏訪から撤退した武田勝頼は、新府城を焼き捨てて逃亡する。信忠は追撃戦を開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。
3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞し梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志も表明する。この時、信忠は辞退しているものの、信長からすれば、将来的には織田家の家督だけでなく天下人の地位を信忠に、ひいては織田氏の嫡流に継承させることを一族・家臣を含めた内外に宣言したものであった。
本能寺の変
天正10年(1582年)6月2日、信忠は信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく、京都の妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在しており、その際に本能寺の変が発生した。
信忠は信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると、本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代の村井貞勝や斎藤利治ら側近と共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動した。信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城した。
しかし、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自刃した。介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がして自らの遺骸を隠すように命じたという。京洛中にいたが、本能寺に入るには間に合わず、二条新御所に駆け付けた福富秀勝・菅屋長頼・猪子兵助・団忠正らが斎藤利治を中心に明智勢と闘うが、信忠自害後に利治が「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と刺し違えて討死(忠死)した。享年26。父同様、その首が明智方に発見されることはなかった。
籠城時の具体的な戦闘内容について、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によると自ら剣をふるい敵の兵を斬った、とされる。この時、信忠の小姓に下方弥三郎という若者がおり、彼は奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出していた。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べた。この信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死したと伝わる。
この時、信忠は武田家滅亡後に八王子に落ち延びていた松姫に使者を出しており、彼女を妙覚寺に招こうとしていたといわれる。既に旅中にあったとされるが、しかし再会を果たすことはできず、信忠自刃の報を聞いた松姫は八王子に戻り、出家して心源院で武田家と共に信忠の供養を行った。一部の史料には信忠の子・三法師(織田秀信)の生母は実は松姫だったとするものもある。
評価
かつては徳川史観から松平信康との比較で暗愚な凡将との評価が定評だった。現在では後継者としては十分な能力・資質を備えた武将との評価が主流。信忠を暗愚とする根拠は、高柳光寿の著書『青史端紅』において、松平信康切腹事件の真相について語られた説に由来する。この説によれば、信長が、自分の嫡子である信忠に比べて、家康の嫡子信康の方が遙かに優れていたため、嫡子の将来を危惧し信康を除いたことが事件の真相であるという。この説は、高柳光寿が当時の学会で権威を持っていたこともあって広く浸透し、その結果、信忠を暗愚とするイメージが長く定着することとなった。この説は、あくまで信康の切腹を中心に据え、その動機の一つの可能性を示したに過ぎず、両者の事績を冷静に比較したものではない。そのため近年、信忠の事績が見直され、信長の後見を考慮に入れても信忠は無難に軍務や政務をこなしていたことが指摘された。そのため信忠が暗愚であるとする従来の説は根拠に乏しいとの見方が有力になり、現在主流の評価に移ってきている。
本能寺の変において、信長には脱出できる可能性は皆無だったが、信忠には京都から脱出できる可能性があった。なお、当代記によれば、光秀襲撃の際に側近の中には安土に逃げて再起を図るように諫言する者もいたが「これほどの謀反を企てる奴(光秀)なら、どうして洛中の出入り口に手をまわしていないであろうか。無様に逃げ出して途中で果てることこそ無念である。悪戯にこの場所から退くべきではない」と述べたという。これが事実だとすれば、この決断は誤りで余りに信忠は潔すぎたといえるが、この当代記に記載された逸話の信憑性は不確かである。でも、確かに光秀もさほど愚鈍な将でもない。一理ある話でもある。光秀が本気で天下を狙っていたかどうかだ。
逸話
出生した時、顔が奇妙であるということから、信長より奇妙丸という幼名を与えられたという。幼い頃から家督相続を約束されていた信忠は、信長から雑用を一切させないなどの厚遇を受け、武将として出陣する前から信長の戦に連れられ、闘いを学んでいた。父・信長が足利義昭より尾張守護の斯波家の家督を与えられた折に、自らは辞し息子信忠に斯波家を継承させたともいわれる。
天正9年(1581年)の京都御馬揃えの際、織田家一門の中における序列は第1位であった。また、信長存命中は形式的ながらも家督を譲られており、父がかつて礎としていた尾張と美濃の統治を任されていた。
『名将富鉱録』では、織田家家臣たちには優れた武将とされていたが、信長には「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」と評価されたと記されている。ただし甲州征伐で高遠城を落とした際、信長からその働きを賞賛され、3月26日に「天下の儀も御与奪なさるべき旨」を述べられたという(『信長公記』巻15)。高遠城に攻め入る際に、信長に武田氏の深追いは避けるよう託されていたが、現地での情勢を見た信忠はこの命を破り、深く攻め入った。結果、最終的に武田氏を滅亡に追いやった。このことで信長は信忠の武才を認めたという。
父に忠実だった印象が強いが、播磨三木城攻めの時には督戦に来た信長に作戦をめぐって抗弁した。また「人間五十年」で有名な『敦盛』など、幸若舞を好んだ信長に対して、信忠は能狂言を異常なほどに好んだ。徳川家康を通じ、稀少であった世阿弥の著作を入手したりもしている。また、伊勢松島で群集を前に能を演じたとの記録もあり(勢州軍記)、信忠の能の腕は「手前見事」と評されるほどの腕前だった(『当代記』巻2)。ただし信長は武将たる者が能を好む事を嫌い、「およそ舞楽は金銀の無駄であり、家業を忘れ、国が乱れる本である」と述べて天正8年(1580年)に信忠から能道具を取り上げて謹慎させた(『勢州軍記』巻下)。
『三河物語』によると、本能寺で異変に気づいた信長の最初の言葉は「上之助がべつしんか(城介が別心か=信忠(城介は信忠の前官位)の謀反か)」であったとされる。ただし本能寺の変の際、著者の大久保忠教は京都にいなかったため、どこまで信憑性があるか疑問がもたれる。
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龍造寺隆信
龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 「九州三強の一人」や「肥前の熊」などの異名が有名。 龍造寺嫡家は途絶えたとされるが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の佐賀県・長崎県諫早市・大村市などに点在するとされている。鍋島直茂は隆信の義弟。
仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。
「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。
戦国大名としては、上杉、武田、北条等東国の大名が挙げられるが、九州もなかなかのもの。NHKのブラタモリで佐賀県の武将として紹介されていた西国最強の大名だったとか。薩長土肥の「肥」の鍋島藩は龍造寺氏の子孫とか。
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関ケ原の戦い
司馬遼太郎の作品の中で、ドイツの有名な陸軍参謀が、関ヶ原の布陣図を見て当然「西軍の勝ち」だったのだろうと言ったとか。ドイツの参謀はモトルケとかその弟子のメッケルとか。
司馬遼太郎氏の創作なのかそのような事実があったかは分からないが、当時の戦国武将の判断でも「西軍の勝ち」という布陣だったことは間違いないように見える。
結局、東軍の勝利を決定づけたのは小早川秀秋の裏切りという一点になってしまうのでしょうか。小早川秀秋は、その一点でのみ歴史に名を残していると言っても過言でないわけです。
しかし秀秋がどのような来歴の人物であったのかはあまり知られていません。彼は、父は木下家定といい、秀吉の妻・ねねの兄とされている。本能寺の変が発生した1582年に生まれ。
3才の時に実子のいない秀吉の養子として引き取られ、ねねの元で成長する。幼少の頃から秀吉に厚遇を受けており、後継者候補のひとりとして扱われていたようだ。つまり、人が羨むような、幸運な立場にあったのでしょう。
秀秋の他には、豊臣秀次というもう一人の養子がいました。秀秋よりも14年ほど年長で、こちらは候補ではなく実際の後継者となり、秀吉から関白という、朝廷における最も高い地位を引き継いでいる(のちに殺されるが)。豊臣家は一族の人材が不足していたわけでもあり、それが秀秋に対する厚遇につながっていったものと見られます。
しかし、1593年に、秀吉に実子・秀頼が生まれたことにより、2人(秀次、秀秋)の養子の運命は反転する。
秀頼が生まれたことにより、秀吉はこの子に自分の跡を継がせたいと願うようなり、秀次と秀秋という2人の年長の養子は邪魔になる。秀頼が生まれた翌年に、当主に実子のいない中国地方の大大名・毛利家に対し、黒田官兵衛が話をもちかける。秀秋を毛利家の跡継ぎとして養子にもらってはどうか、という内容でした。豊臣一族に毛利家を乗っ取られることを嫌ってか、毛利家の統率者である小早川隆景は、跡継ぎを別の人物に定めた上で、秀秋を自分の養子とすることを申し出ます。いわば自分の家を継ぐ権利を提供することによって、毛利家が乗っ取られることを防いだわけです。
小早川隆景は高名な毛利元就の三男で、秀吉からの信任も厚い人物で、30万石という大きな領地の主でもありました。そのような人物の養子となり、かつ秀頼の邪魔者でもなくなるわけですので、秀吉はこれを了承し、秀秋は小早川家の人間になりました。
秀秋からすれば天下を制した豊臣家から放出され、その家臣の毛利家の、さらに家臣の小早川家の人間になるわけですので、決して愉快には思わなかったでしょう。しかし秀吉に逆らうことなど秀秋にはできませんので、言われるままに小早川秀俊と名前を変えます。
これによって小早川家の家格はあがり、やがて隆景は豊臣政権の五大老のひとりとなり、本家である毛利家と対等の立場になりました。
隆景は野心のある人物ではないので、このような形での出世は喜ばなかったでしょうし、縁もゆかりもない人物に自分の家を継がせることになったわけで、こちらも胸中複雑なものがあったでしょう。
秀秋が小早川家の養子となった翌年には、関白の地位にあった豊臣秀次が粛清されます。1595年に突如として秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は関白の地位を剥奪されて高野山に送られます。そして間もなく自害を命じられ、秀次は秀吉の手によって抹殺されてしまいます。秀次に対する嫌疑には確たる証拠はなかったようであり、秀吉の陰謀によって排除された、と見るのが正しいようです。処罰は秀次だけにとどまらず、その妻子や主だった家臣たちまでもが処刑されました。
この事件によって豊臣政権の安定は崩れ去り、秀吉亡き後には政権を簒奪される可能性が高まりました。秀次は単に関白の地位にあっただけでなく、日本を統治するための体制を整え、そのための家臣団も組織していました。それがまるごと失われたわけですから、豊臣家の支配力は一気に弱体化したのです。徳川家康が「将来は豊臣から政権を奪えるだろう」と判断したのは、この事件が起きたことによると思われます。後は秀吉さえ死ねば豊臣の力は失われるからです。そして事件の余波は秀秋にも及び色々な嫌がらせが秀吉やその側近たちから受けるようになった模様。
やがて1600年には徳川家康による上杉家討伐の軍が起こされ、秀秋もそれに参加すべく、1万程度の兵を率いて出征します。しかし大阪あたりまでたどり着いたころには、すでに石田三成が、豊臣から政権を奪おうと画策する家康打倒の兵を挙げており、これに巻き込まれる形で秀秋は西軍に所属することになります。そして徳川方が抑えていた京都の伏見城攻めに参加するなど、西軍側として活動します。この時に西軍の味方になれば、秀頼が成人するまで関白の地位につける、と石田三成から約束されていました。秀秋はもともとは秀吉の養子でしたから、豊臣姓に復帰すればそれは不可能ではありません。しかしそれはお前は中継ぎでしかない、と告げられているのと同然であり、秀秋はさほど喜ばなかったでしょう。既に秀頼との間に挟まった秀次の末路を見ているわけで、自分もいずれ同じ目に合わされるかもしれないわけですから。それにこれまでの経緯からいって、秀頼のために力を尽くしてやろう、などと秀秋が考えたとも思えません。むしろ秀頼には悪感情を持っていた可能性が高いでしょう。いっそのこと豊臣など滅んでしまえ、とすら思っていたかもしれません。
伏見城攻めの後、秀秋の軍勢は関ヶ原の戦場へと移動します。秀秋は関ヶ原では松尾山に布陣し、南から関ヶ原一帯を観測できる場所に位置します。秀秋のところには家康方から東軍に寝返るようにという使者が来ており、大きな領地を提供することを約束されています。
秀秋は幼少の頃から既に大きな所領を持っていた経緯があり、領土欲がそれほど強かったとは考えにくいです。そもそも領地加増の約束は石田方からもされていましたので、積極的に東軍につく理由にはなりえません。それでも秀秋は家康の誘いに乗ることを約束し、開戦を待ちます。関ヶ原の前年には家康らのはからいで領地を元に戻してもらった経緯があり、家康には恩こそあれ恨みはありませんでした。
その一方で豊臣家の嫡流、秀吉と秀頼には憎しみを感じる理由があったわけで、東軍についてしまってもおかしくありません。そうはいっても西軍の総大将は毛利なので筋論からいけば西軍につくべきなのでしょう。だから後世の人からはも裏切り者という評価が付きまとい、徳川家としてもあまり彼の貢献をあまり高く評価しなかったようだ。
この時の秀秋は西軍が勝っても東軍が勝っても得をする立ち位置にいました。その上、陣を構えているのは関ヶ原の南のはずれの方であり、あわてて動く必要はありませんでした。
戦場でそれぞれの陣営の有利・不利を見定め、勝ちそうな方に味方をすればいい。そのような状況におかれていました。しかし秀秋はこの時まだ18才でしかなく、そこまでしたたかな立ち回りを考えられたかどうかはわかりません。秀秋個人としては、葛藤していた可能性が高いでしょう。そもそも何者でもない少年が1万もの兵を率いる大名の立場にまで引き上げられることになったのは、秀吉の養子になったからであり、豊臣家には恩があると言えます。実家の木下家は小規模の武家でしかありませんでしたし、しかも秀秋はその五男で、継承権も持っていませんでした。
しかし養子となった後、秀吉は自分の都合で秀秋の立場を散々に振りまわしており、近い立場の秀次は粛清されており、10代の少年の心には深い傷が残っていたことでしょう。秀秋は酒に溺れがちで、精神的に不安定なところがあったと言われていますが、環境からすると無理もない話です。
ともあれ、ここで家康が勝利すれば、豊臣家の衰退は決定的なものとなります。自分が味方をすることで家康を勝たせれば、自分の存在基盤を失うことにもなるわけです。果たして自分の過去を潰してしまうべきか、それとも残すべきなのか。その葛藤の末、秀秋は家康に味方することを決意します。
小早川軍は膠着状態にあった戦場に兵を入れ、松尾山付近に陣を構えていた西軍の大谷吉継隊に攻めかかります。いったんは大谷隊に押し戻されるものの、大谷隊の近くにいた脇坂などの諸将が連鎖的に寝返りをうち、大谷隊を壊滅させます。これをきっかけに戦況は東軍優位に傾き、奮戦していた宇喜多、石田の軍勢も崩れ、主力決戦は一日で東軍の大勝利に終わりました。
こうして秀秋は東軍勝利の立役者となり、戦後は中国地方の岡山に移封され、55万石の大大名になっています。黒田や福島といった功績のあった他の大名よりも領地が大きく、家康からの評価が高かったことをうかがわせます。
3才で秀吉の養子となり、初めは10万石の領地を与えられ、やがて30万石となり、そして18才で55万石の大大名の地位にまで登ったわけです。これほど若年のうちに成功したのは珍しい、といえるほどの出世ぶりです。
しかしその生涯は関ヶ原の戦いの、わずか2年後に終わってしまいます。
1602年、秀秋は死亡します。死因はアルコールによる内臓疾患と言われていて、酒に溺れた生活を続けていたことが命取りとなったようです。小早川家は跡継ぎがいなかったことで改易(領土を没収)され、なくなってしまいます。
ともあれ、わずか20才で死去してしまったことで、その事績は「関ヶ原で東軍に寝返った」という一点のみが後世に語られることになってしまいました。
ただ、関ケ原で東軍が勝利した理由は、小早川一人の裏切りだけなのでしょうか。家康は小早川秀秋をどの程度信頼していたのでしょうか。石田三成の考えた布陣がそれほど完璧なものだったのか。軍事シミュレーションで当時の戦いを本当に再現できるのか。あるいは戦いはやってみないと本当のことは分からないのか。早川秀秋もその生い立ちや年齢を考えると側近たちの意思決定に大きく依存していたものと思われる。その側近たちがどのように考えて東軍側を選択したのかも興味深いところだ。
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平家・海軍・国際派
平家・海軍・国際派及びその対をなす語として源氏・陸軍・民族派という語呂合わせがあるのをご存知の方も多いでしょう。その言葉の背景は、次のようなものらしい。それは、“「平家」「海軍」「国際派」は、スマートで格好は良いが、恬淡とした性格で、意地にならず、その主張を対立勢力に譲るという態度のために主流にはなりえない人々の属性。これに対立する勢力は、もちろん「源氏」「陸軍」「民族派」であり、こちらは質実剛健だが、外見はやぼったく派閥抗争を得意とし、我が国のほとんどの組織、特に政府組織で主流派を形成してきた人々の属性を指すことが多い。”
まあ、多分これは、どこかの霞が関の省庁あたりで言われている言葉だろうとは思います。有能(自分で思っているだけ?)で、人と異なった意見をズバズバ言う人間は、周りからも煙たがられ、人の嫌がる国際畑に移動されることも多いのでしょう。このような方が自嘲気味にそのようなこと言っているのかも知れませんが。
一般の庶民は、このような出世争いとは無関係ですが、歴史の流れを見ていくと当たらずと言えども、遠からず、結構面白い見方が出てきます。
●平家、商業、国際派---源氏、農業、国内派
●信長、商業、国際派…家康、農業、国内派
●蘇我氏、仏教、国際派…物部、神道、国内派
結構、色々なパターンが出てきそうですね。物事を理解しようとするときに、このようにパターン化して、分類するのは一つの常套手段ですね。ただし、あくまでも仮説ですからその背景となる理由を分析することが何より大切ですね。
平家は、対宋貿易で蓄えた富で力を得たので確かに商業重視の国際派、源氏は配下の武将に恩賞として土地を与えねば政権が成立しないので国内派です。農業の発展に尽くしたかどうかは?? です。
信長は、家来に土地の代わりに高価な茶器等をあたえていて、実際土地にはあまり執着がなかったようです。土地などもらっても、すぐに国替えして別の土地に飛ばされてしまいます。天下人となった時点で、日本の土地はすべて自分のものだったのでしょう。キリスト教を保護し、異国の文化をドンドン取り入れる開明派です。ただし、農業を保護しなかったわけではなさそう。家来には非常に厳しい暴君でしたが、一般庶民には大変気配りもしていたようです。
秀吉になると、国際派のイメージはダウンします。信長なら、そもそも大国「明」を相手に戦争なんて馬鹿なこと絶対にする訳がないでしょう。また、キリスト教の布教も禁止します。徳川政権は、言わずもがなの国内派ですが、長期政権なので初代家康がどの程度国内派であったかは、はっきりとはしませんが、政権の成立過程からもかなり国内派であることが分かります。
お隣の中国では、遊牧民の立てた王朝と漢人の立てた王朝が代り番こに登場しますが、征服王朝が国際派、漢族王朝が国内派と言えるかもしれません。この場合、征服王朝について、現代人には多少誤解があるようです。騎馬民族は大抵は少数民族、王族は処刑されたりするかも知れませんが、支配のため官僚機構はそのまま残されています。平氏が源氏と入れかわったようなものです。多分、中国人は今でもそう考えていると思います。植民地ではなく漢人の王朝だと。
一民族一国家という概念は近代ヨーロッパで誕生した考えです。世界にはそうでない国も多く、そのため紛争の種を抱えている地域も沢山あるようです。このことについては別の機会に。
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柳川一件(やながわいっけん)
江戸時代に起こった公文書の書換(かきかえ)事件です。国家を揺るがす事件の闇に、将軍が自ら迫る――。時代劇でも小説でもない、江戸初期の実話。徳川3代将軍・家光が直々に“証人喚問”し、解明を試みたのは、約30年にわたって秘密裡に行われていた「公文書書き換え」。秀吉の朝鮮出兵で断交した日朝間の国交回復をめぐる文書の改ざんという歴史的不祥事です。
与野党が「前代未聞の歴史的犯罪だ」と財務省を非難していますが、過去にも公文書の改ざんが大問題になったことはあった。江戸時代に公文書中の公文書である「国書」の書き換えが発覚し、3代将軍・徳川家光(1604~51)が、諸大名を列席させて、じかに“証人喚問”まで行った。事件の名を「柳川一件(やながわいっけん)」という。(慶応大名誉教授田代和生氏が、この事件の顛末てんまつを詳細に調べ、『書き替えられた国書』(中公新書)にまとめているそうだ)。
豊臣秀吉(1537~98)の2度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で朝鮮は大きな損害を受け、日本の撤兵後も日本と李氏朝鮮との国交は断絶したままだった。古くから日朝貿易で利益を得ていた対馬の宗義智(そう よしとし)(1568~1615)は独自のルートで国交回復を模索し、1605年に対馬に来ていた朝鮮の外交僧らを徳川家康(1543~1616)・秀忠(1579~1632)父子と会見させることに成功。
家康から「交渉を進めよ」とのお墨付きを得て義智は事前交渉を加速させるが、途中で難題が持ち上がった。国交回復に不可欠な国書の交換で、朝鮮側が「日本側から先に出せ」と求めてきたのだ。これが、朝鮮側が突きつけた難題。
先に国書を差し出すことは相手への恭順を意味する。家康が呑のんでくれるかどうか不明だ。しかし、「朝鮮側が先だ」と押し返せば交渉は長期化する。また、「では、宛名は誰にすればいいのか」と問われる恐れもある。この時点ではまだ大坂に豊臣秀頼(1593~1615)がいた。朝鮮側が「交渉相手は出兵を決めた秀吉の遺児・秀頼だ」とでも主張したら、交渉はご破算になるであろう。
困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走る。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げた。朝鮮側の記録では、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されていた。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったものだったという。
日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂。再度の出兵(慶長の役)となる。すでに明と冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んだ。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度(そんたく)して作成されたわけです。
国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣した。回答使を「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。
困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走った。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げた。
朝鮮側の記録では、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されている。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったもの。日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂して再度の出兵(慶長の役)となるる。しかし、明と既に冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んだ。
国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣。回答使は「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。
そこで対馬藩は、今度は朝鮮国王の印鑑を偽造し、「奉復」を「奉書(拝啓)」に書き換えた朝鮮国書をでっち上げる。更に朝鮮から将軍への献上品を記した目録も改ざんして、虎皮や朝鮮人参の数を追加する。『柳川記』によると、偽国書は将軍と回答使が謁見する当日、義智の重臣だった柳川智永(?~1613)が、すきを見て江戸城内ですり替えたという。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度そんたくして作成されたわけだ。
こうして日朝の国交は回復し、朝鮮から国書を携えた使節団が定期的に来日するようになる。だが、やりとりされた国書は初回の偽国書を先例に書かれたため、そのたびに「奉復」を「奉書」に、将軍の肩書きは「日本国王」に直さなくてはならなくなった。改ざんが改ざんを呼び、対馬藩は義智の死後も組織ぐるみで改ざんを続けざるを得なくなったわけです。
【27年後の告発、将軍自ら“証人喚問”へ】
積み重ねられた国書の改ざんは、最初の家康国書の偽造から27年後に、対馬藩家老の内部告発という形で露見する。義智を継いで藩主となった息子の宗義成(1604~57)と、智永を継いで家老となった息子の柳川調興(しげおき(1603~84)が不仲となり、対馬藩を離れて旗本になろうとした調興が、幕府に改ざんした事実を暴露する。
調興は証拠として偽国書の写しと偽印鑑の実物を提出し、「改ざんは宗氏が主導し、宗氏の指示で行われた」と訴えた。当然、自らも訴追の恐れがあったが、調興は江戸生まれで家康、秀忠の小姓を務め、幕閣に人脈があったため、罪を義成に押し付けられると読んだようだ。これに対して義成は「朝鮮との交渉は柳川氏に任せており、昔の改ざん時には自分はまだ子どもで、何も知らなかった」と反論した。
幕府は朝鮮との交易を一時中止し、対馬に役人を派遣して偽国書に携わった義成の家臣や外交僧、偽印鑑を作った島民らへの訊問を重ねた。重要証人は江戸に連行され、老中が直接、誰の指示で偽造したのかを問いただした。決着は家光の裁定に委ねられ、1635年(寛永12年)3月11日、御三家や老中、若年寄、江戸にいる諸大名、旗本が見守る中、江戸城本丸の大広間で家光による“証人喚問”が行われた。
記録によると、家光は双方の言い分が食い違う点を中心に、義成に七つの質問をした。義成は「自分は知らなかった」「外交の実務は柳川親子に任せていた」と弁明。父・義智の改ざんへの関与を問われると「決してない」と明確に否定。家光は最後に「家中での非法を知らなかったとはどういうことか」と義成の監督責任をただし、義成は「調興は幕閣に知り合いが多く、家臣はその権勢を恐れ、調興の不正を見つけても私の耳に入れなくなっていた」と苦しい釈明をしている。喚問の場にいた調興には「言いたいことはあるか」という問いかけだけで、喚問で「サプライズ」はなかった。
4日後に出された家光の裁定。「義成はおとがめなし。主謀者は調興」。主謀者とされた調興は、大方が予想した死罪ではなく、津軽(青森県)への配流。一方で、偽国書を実際に作成した義成の家臣2人は一族もろとも死罪とされた。形の上では義成の勝ちだが、「喧嘩けんか両成敗」の結末ともとれる。「知らなかった」「任せていた」
家光は同時に、義成に「来年までに朝鮮使節を来日させよ」と命じている。裁定の主眼は「引き続き朝鮮外交は対馬藩に任せる」ということにあった。事件を調べて、朝鮮との外交が非常に気を使う面倒な仕事であることを思い知り、直接、外交を担うより、首根っこを押さえた上で、引き続き宗氏を使う方が得策と判断したのだろう。間に宗氏がいてほしいとの思いは朝鮮側も同じだったようだ。それどころか朝鮮側は、かなり前から薄々改ざんに気づいていたフシすらある。
喚問に列座した諸大名の多くは、家老が藩主を裏切ったこの事件に肝を冷やし、義成を支持していた。裁定翌日には対馬藩邸に諸大名の祝いの使者が列をなしたというから、義成無罪の裁定には“大名世論”への配慮もあったようだ。
津軽藩の拠点・弘前城(青森県)。現在は桜の名所として知られる。調興は藩主の招きで城で能を楽しんだこともあった。主謀者としながら調興を流罪で済ませたのは、義成が朝鮮外交に失敗した時の予備要員と考えていたからではないか。配流後の調興は広大な屋敷に住み、賓客のように扱われたという。幕閣の誰かから「悪いようにはしない」と言い含められていたのかもしれない。代わりに「トカゲの尻尾」にされたのは、国書改ざんの責めを負わされ、一族もろとも死罪とされた義成の家臣だった。
【家光が残した“故事英語” 】
家光は当時、大名を相次いで改易し、段階的に鎖国を進めていた。諸大名に登城命令まで出して喚問を見せたのは、この喚問が家光の外交や大名統制の方針を納得させるための「政治ショー」だったことを物語る。
この一件、今回の改ざん問題の経緯と似ているところも似ていないところもあるが、決定的に違うのは改ざんで欺かれた相手だ。民主主義下では「政治ショー」だけで幕引きとはいかず、国民世論が納得するまで真相究明の努力が必要なことは言うまでもない。
家光が行った再発防止策がひとつある。偽国書作成の一因となった自らの肩書を「大君たいくん」と定めたのだ。「タイクーン(tycoon)」は今は「実力者」の意味に転じ、日本語由来の英語として定着している。
【事件の背景】
16世紀末、日本の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係が断絶。戦後、徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始。日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉の仲介を任される。
朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。使節は江戸城で2代将軍・秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、1609年には貿易協定である己酉約条(きゆうやくじょう)を締結させた。
対馬藩の家老であった柳川調興は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。
【大名・幕閣の動向】
当時、戦国時代の下克上の風潮が残存していた。柳川は、家康の覚えも良く、幕閣有力者からの支持もあり、「幕府も日朝貿易の実権を直接握りたいであろう」との推測から、勝算があると考えていた。一方、仙台藩主・伊達政宗など、宗義成を支持する大名もおり、彼らは、下剋上が横行する戦国時代が完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。
【家光の判断】
1635年4月27日(寛永12年3月11日)、3代将軍・家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われる。江戸にいるの旗本(1,000石以上)と大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開。結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪とされた。また、以酊庵の庵主であった規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に流された。
宗義成は対朝鮮外交における権限を回復させたものの、対朝鮮外交に不可欠であった漢文知識に精通しており、かつ朝鮮側との人脈を有していた柳川調興や規伯玄方が持っていたノウハウを失った事で、対朝鮮外交は完全に停滞してしまった。そのため、義成は幕府に援助を求めた。そこで、幕府は京都五山の僧の中から漢文に通じた優秀者(五山碩学)を朝鮮修文職に任じて対馬の以酊庵に輪番制によって派遣して外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを扱わせる。その結果、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれた。幕府は国書に記す将軍の外交称号を「日本国王」から「日本国大君」に改めることとなる。
いま、最も海外の特派員泣かせの日本語になっているという「ソンタク」も英語になるかもしれない。意味が「改ざん」に転じても、財務省理財局だけの責任か、まだ断言はできない状態。しかし、当時の対馬藩の立場を考えれば改竄の動機も明白で、家光さんも宗家の事情を忖度して罰を軽くしたようだ。日本、朝鮮双方とも交流を再開したい。だが、双方の面子がそれを許さない。さしたる産業のない対馬藩にとっては日朝の交流は生命線ともいえる重要事項。対馬藩が悪者になれば双方うまく収まる。切腹覚悟の英断だったのかも。
それに比べると、今回の「改ざん」は、動機が不純だ。森友学園とかいうヤクザまがいの団体のために財務省ともあろう国の機関が特別の便宜を供与するなど国策としても絶対にあってはならないことだ。
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間宮海峡
林蔵は、1780年、常陸国(茨城県)筑波郡の農家に生まれた。子供の頃から土木工事が好きで、堰とめ工事の現場に出入りしているうちに、利発さを買われて幕府の普請役雇・村上島之允の使い走りとして働くことになった。村上が各地を測量して地図を作製するのに従って、林蔵は測量技術と健脚を身につける。
村上が蝦夷地での仕事を命ぜられると、林蔵も一緒について行く。しかし冬の厳しい寒気と野菜不足で足がむくみ、体調を崩した(壊血病か)。土地の人から、蝦夷人(アイヌ)は魚と昆布を食べるので、病むこともなく冬を越す、と教えられ、それに従った所、むくみもとれて体調が回復したという。
これを機に林蔵は、アイヌと同じ生活をしなければならぬ、と知り、アイヌ語を習い、しばしばアイヌの家を訪れて衣服・家屋・狩猟・漁獲・旅行などについて詳しく調べる。
幕命を受けて、さらに蝦夷の先にある樺太探検。そこは世界地図の空白地帯。極北に向かった林蔵は、ついに樺太が島であることを確認。大陸との海峡はのちに間宮海峡と名付けられた。それは世界が驚いた大発見だった。当時樺太は大陸の一部とも思われいた。アムール川(黒竜江)の河口で河の流れが南北に分かれて流れることに気がつき、北への出口があることに気がつき、樺太が島であることを確認。のちに実際に最北端まで行ってその事実も確認している。大陸側の河口にたどり着くまでは、水深の浅いところが続いて、船を現地の人達の(アイヌ人とはまた別)小舟に乗り換えるなどの苦労の連続であった。
途中、60人ほどのギリヤーク人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。アイヌ人が通訳をしてくれて、酋長のコーニが大陸にある清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられている事を知る。
間宮の報告書は、アイヌを含む北方に諸民族たちの生活についても貴重な資料となっている。さらに、間宮は大陸の動向も探るため幕府には無許可で、清国領の役所も探索する(デレンと言うところにその町はあった)。そこはロシアとの国境付近にあり、北方系の諸民族たちは、ここを中心に一大ネットワークを形成していた。デレンには、ギリヤーク人、オロッコ人など様々の人たちの交流があり、大変にぎやかなところだったようだ。彼らは基本的には清朝の支配下にあったということだ。
清の役人達は、林蔵が漢字で筆談しようとすると、漢字の読み書きができるとは信じられないふうだった。「日本はどの地で清国に貢ぎ物をしているのか」と聞かれて、「貢ぎ物はしていない。長崎の地で貿易をしているだけだ」と答えると、さらに疑わしそうに首をかしげた。林蔵が「ロシアとの国境はどこか」と尋ねると、「国境などあるはずがない。ロシアは清国の属国だ」と答えたという。しばらくデレンの地に留まっている間に林蔵は周囲から情報を聞き出した。清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。結局ロシアは敗退し、1689年(ネルチンスク条約)に条約が結ばれ、この地方から完全に手を引いたという。120年前の事であった。なお、ネルチンスク条約は1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代のロシアの間での戦いの後、結ばれた条約。多分高校の世界史でも出てくる。北方民族の各々の部族長たちが清の地方政府に朝貢の使者を送る。北方系の諸民族達同士も、普段は交流が少なくこの場を借りて物々交換や情報を交換し合っているのかも。ちょうど邪馬台国の卑弥呼達が中国に使者を送るという感じだ。中国と周辺諸国との関係は時代を超越してずっと続いているんですね。習近平の「一路一帯」なんていうのも案外そんな路線かも。
林蔵の樺太探検は、1832年にシーボルトが出版した「ニッポン」の第一巻で欧米社会に紹介された。シーボルトは林蔵が樺太が島であることを発見した世界最初の人物であると記し、その証拠に日本滞在中に入手した林蔵の地図を挿入した。さらに東韃靼と樺太の間の海峡を、間宮海峡と名付けた。これによって林蔵の発見が世界地図の上に永久に残ることになる。林蔵の探検はわが国の国益にも多大な寄与をなしている。歴史的に見れば樺太は日本の領土になっていても可笑しくない土地なんですね。
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慶安の変
慶安の変(けいあんのへん)は、慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。由比正雪の乱、由井正雪の乱、慶安事件とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義。
由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。
**由井正雪:
慶長10年(1605年)~ 慶安4年7月26日(1651年)は、江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者。名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もある。
この頃、江戸幕府では3代将軍・徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、鎖国政策によって山田長政のように日本国外で立身出世する道も断たれたため、巷には多くの浪人があふれていた。浪人の中には、武士として生きることをあきらめ、百姓・町人に転じるものも少なくなかった。しかし、浪人の多くは、自分たちを浪人の身に追い込んだ御政道(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。
正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった。
そのような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の子・徳川家綱が継ぐこととなった。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐する。
しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)7月23日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である7月22日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後、7月30日には正雪の死を知った金井半兵衛が大坂で自害、8月10日に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫した。
事件後の影響
駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった(真相は不明)。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付・中根正盛は与力(諜報員)を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。慶安の変を機会に、信綱と正盛は武功派で幕閣に批判的であったとされる徳川頼宣を幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊・一掃の功績をあげた。
江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画。別木事件とも)を教訓に、老中・阿部忠秋らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるように。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、正雪らの掲げた理念に沿った世になるに至る。
**注).承応の変
承応の変(じょうおうのへん)は、慶安5年9月13日(1652年10月15日)に起こった事件。戸次庄左衛門の乱、承応事件とも。主な首謀者は別木庄左衛門(べっき しょうざえもん)、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門。
牢人の別木庄左衛門が、同士数人とともに崇源院(徳川秀忠正妻)の27回忌が増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、江戸幕府老中を討ち取ろうと計画した。
しかし、仲間の1人が老中・松平信綱に密告したため、庄左衛門らは捕らえられ、処刑された。また、備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も、計画を打ち明けられていながら幕府に知らせなかったという理由で、ともに磔刑に処せられている。更に、老中・阿部忠秋の家臣である山本兵部が庄左衛門と交際があったということで、信綱は忠秋に山本の切腹を命じている。
慶安の変同様、それまでの武断政治の結果としての浪人増加による事件として位置づけられる。以後、幕府は文治政治へ政治方針を転換した。なお、事件から5日後の9月18日に承応元年と改元されており、事件の決着がついたのが改元後にあたるため、承応の変もしくは承応事件といわれるようになった。
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水野忠邦
水野 忠邦(ただくに)は、江戸時代後期の大名、老中。肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。1841年から1843年まで天保の改革を行った。そうだ江戸時代の三大改革、受験生なら必須の暗記事項だろう。つまり享保の改革・寛政の改革・天保の改革の3つを指し、三大改革と呼ぶのが史学上の慣例となっていると教え込まされる。
**三大改革論
近世日本史学において、この3つを三大改革と定義づける理解がいつから始まったかはよくわかっておらず、藤田覚は、ひとまず戦前の研究の到達点として1944年の本庄栄治郎の著作『近世日本の三大改革』があることを挙げている。そもそも具体的な政策に対して「享保の改革」などと呼ぶ習わしは当時になく、「〇〇の改革」や「三大改革」という言葉は近代歴史学の造語。ただし、天保の改革では、その最初の趣旨説明で老中・水野忠邦から将軍の上意として「享保と寛政を模倣とする」と宣言されており、享保・寛政・天保の3つを特別扱いするのは、元を辿れば、このような江戸幕府の史観を踏襲するものと藤田は指摘。
幕政改革は、財政や制度、統治などの改革や諸政策を指す。それ以外にも大規模な財政・制度改革は何度も行われており、正徳の治や田沼時代など「改革」と付かないものもある。
出生・唐津・浜松藩主時代
1794年、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。
忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、天領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。
この国替えにより忠邦の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより同年に寺社奉行兼任となる。幕府の重臣となった事で、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。
その後、将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。文政9年(1826年)に京都所司代となって侍従・越前守に昇叙し、11年に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。
天保5年(1834年)に水野忠成が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられ、同8年(1837年)に勝手御用掛を兼ねて、同10年(1839年)に老中首座となった。
天保の改革(1841~1843)
忠邦は異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減し、一方で大御所政治のなか、放漫な財政に打つ手を見出せない幕府に強い危機感を抱いていたとされる。しかし、家斉在世中は水野忠篤、林忠英、美濃部茂育(3人を総称して天保の三侫人という)をはじめ家斉側近が権力を握っており、忠邦は改革を開始できなかった。
**侫人=口先巧みにへつらう、心のよこしまな人。側近として権力を持ちたい忠邦より先に側近として仕えて既得権を有していた三人を指す。
天保8年(1837年)4月に家慶が第12代将軍に就任し、ついで1841年(天保12年)閏1月に大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手した。天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。
農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施したが、その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれた。また、天保14年(1843年)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、閏9月13日に老中を罷免されて失脚した。
**上知令: 江戸時代、幕府の老中首座水野忠邦が中心となって行なった政治改革の際に発せられた法令。 天保一四年(一八四三)九月、江戸・大坂一〇里四方(大坂は五里四方という説もある)を幕府直轄領とし、大名、旗本には代地を与えると定めたもの。 強い反対で翌月撤回され、水野忠邦失脚の契機となった。 用語としての上地令は明治政府の年没収例にも使われる。
失脚・老中再任後
改革はあまりに過激で庶民の怨みを買ったとされ、寺院にあった木魚を乱打しながら「水野は叩くに(忠邦)もってこいの木魚だ」と歌われたという。失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を投石などの襲撃を受け、「ふる石や瓦とびこむ水の家」と川柳に詠まれている。
弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災により焼失した。老中首座・土井利位はその再建費用としての諸大名からの献金を充分には集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、6月21日に家慶は外国問題の紛糾などを理由に忠邦を老中首座に再任した。しかし昔日の面影は無く、重要な任務を与えられるわけでもなかったため、御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったとされ、目付の久須美祐雋の記録では「木偶人御同様」(木偶の坊のようである)とされていた。同年7月からは頭痛・下痢・腰痛・発熱などの病気を理由としてたびたび欠勤した後、12月からは癪を理由として長期欠勤し、老中を辞職する弘化2年(1845年)2月まで勤めを休んだ。その一方で天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしたりしている。土井は自ら老中を辞任。鳥居は全ての役職を罷免された。
しかし老中・阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、弘化2年(1845年)9月、加増のうち1万石・本地のうち1万石、合計2万石を没収されて5万石となり、家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。10月末、鳥居と渋川はお預け、後藤は斬首となった。なお、この転封に際して、水野氏は領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとしたために領民が怒り、大規模な一揆を起こした。一揆は新領主の井上氏(井上正春)が調停して鎮めた。
嘉永4年(1851年)2月10日、死去。享年58(満56歳没)。死後、5日で謹慎が解かれた。墓所は茨城県結城市の旧万松寺跡。
**天保の改革(1841~1843)
三大改革の中でも最も出来の悪い失敗例となっている。つまりやらない方が遥かにマシな改悪だったか。水野本人の出世欲と権力欲だけが表に出て改革のビジョンが全く無い。
家斉旧側近を罷免し、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門を登用したが彼等も皆評判の悪い者ばかり。国を憂うる蘭学者や思想家達にまで司直の手が伸びている。「享保の改革」「寛政の改革」と並んで江戸の三大改革の一つとされる「天保の改革」が、「いやしい(1841)水野の天保の改革」という語呂合わせをされるほど評価が悪い理由は何か。
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横須賀造船所
横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)は江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっているが、構内には幕末の遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つと言われるそうです。
小栗忠順
連合艦隊司令長官
幕末の1865年(慶応元年)、江戸幕府の勘定奉行小栗忠順(おぐり ただまさ)の進言により、フランス技師を招き、横須賀製鉄所として開設される。小栗等は安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国。米国で最新鋭の造船所を見学し、日本の近代化のためにぜひ必要と感じて、勘定奉行立場から周囲の反対を押し切り建設を強行。工事の完成の前に江戸幕府崩壊。幕臣にて最後まで抵抗したため処刑される。生前、他の幕臣たちから「造船所できる前に幕府がたおれてしまうよ。」といわれ、「幕府のためでなく日本のために造るんだ。」と言ったとか。
最新鋭の設備を備えた横須賀造船所は、東郷平八郎・連合艦隊司令長官をして、「わが艦隊が勝てたのはこの造船所のおかげだ。」と言わせるほど、日露戦争では大活躍をする。
現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。
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明治十四年の政変
明治十四年の政変とは、明治14年(1881年)10月に参議大隈重信が明治政府中枢から追放された事件。自由民権運動が勃興する中で発生した開拓使官有物払下げ事件に端を発した事件であり、大隈と大隈系官僚が政府から去ったことにより政府内の構造が大きく変容した。
明治11年(1878年)5月に大久保利通が暗殺され、その後継者が誰になるかが誰もが関心を持っていた。順位からは大隅が伊藤を上回っていたが、大隅は佐賀出身で長州閥ではない。公家の岩倉、三条等を巻き込んだ朝廷内クーデターということらしい。
結局、政府の中枢を担う内閣は参議伊藤博文が主導権を握る形となる。大蔵卿を兼ね、財政における実力者であった大隈も伊藤の立場を認め、「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と伊藤を支える意思を表明している。薩摩派からは伊藤に対抗する存在として期待されていたが、伊藤の盟友である井上馨の参議就任にも協力するなど、伊藤に敵対する素振りは見せなかった。
しかし明治13年(1880年)頃には大隈発案による外債募集を巡って伊藤らと意見を違え、長州閥と対立することも起きていた。7月頃には井上が伊藤に、大隈を駐ロシア大使に左遷する案が参議の間で出ていると述べ、8月には伊藤が右大臣岩倉具視に対し、大隈を開拓使長官にしてはどうかと提案している。
一方で大隈は明治11年頃から福澤諭吉と親交を深めるようになり、慶應義塾への資金援助や横浜正金銀行の設立問題等で協力するようになった。福澤諭吉も当時としてはやや危険思想の持ち主と見なされていたようだ。
立憲体制導入問題
明治12年(1879年)、国会開設運動が興隆し、政府内でも憲法制定や国会開設について議論が開始されていた。明治9年(1876年)からは元老院において憲法草案の作成が進められていた。明治12年12月に参議山縣有朋が立憲政体に関する意見書を提出したことにより、太政大臣三条実美と岩倉は参議から立憲政体に関する意見を天皇に提出させることとした。翌明治13年2月には黒田清隆、7月には井上、12月には伊藤が提出した。このうち黒田は、立憲政体は時期尚早であると述べ、山縣と井上はヨーロッパの知識を盛り込んだだけのものであった。
伊藤は井上毅の協力を得て意見書を作成した。その内容は「国会創設は望ましいことではあるが、大事を急いで行うのは望ましくない」「国会を作る場合は上下両院を作り、均衡を保つべきである」「上院を作成する準備のため、現在の元老院を拡張し、華族・士族から公選された代表者に法律を作成させる」「下院の準備として府県会議員から公選の会計検査を行う検査員を選出する」というものであった。しかし大隈は意見書を出そうとはせず、明治14年を迎えた。
熱海会議
明治14年1月から2月にかけ、伊藤は熱海の旅館に大隈・井上・黒田を招き、立憲政体等について語り合ったが、合意は行われなかった。またこの会議の中では開拓使の廃止問題が取り上げられた。黒田は開拓使の継続が必要であると主張したが、大隈は財政上の問題で継続は困難であるとした。官有物払下げの方針が定まり、五代友厚が引き受け手として名乗りを上げた。
大隈の意見書
3月になると、未だ意見書を提出していなかった大隈に対し、左大臣有栖川宮熾仁親王から督促が行われた。大隈は有栖川宮に対し、他の参議・大臣に見せないことを条件に意見書を提出した。大隈の意見書は「早急に欽定憲法を制定し、2年後に国会を開く」「イギリス型の立憲政治を導入し、政党内閣を組織させる」など、あまりにも急進的なものであった。
有栖川宮は意見書を三条と岩倉に見せており、岩倉は伊藤が大隈の意見書について知らないということを察知した。意見書の内容があまりにも過激であると考えた岩倉は、伊藤に知られる前に大隈と話そうという手紙を書いている。しかし大隈は伊藤と意見を交換しようとはしなかった。
**あまりにも過激…これは、昭和、平成生まれの人にはどこが過激なのかは理解不能だろう。
7月、伊藤が大隈の意見書の内容を知り、激怒して出仕を行わなくなった。7月4日大隈は伊藤の元に赴いて弁解した。伊藤は大隈が福澤の代弁をするようなことをするのはおかしいとし、またなぜ自分に話さなかったのかと詰め寄った。これに対して大隈は、意見書の内容は実効性のあるものではなく、自分の見込みを書いただけで福澤の意見ではないと弁解し、「繰り返し繰り返し謝るのみです」「よろしく思いやりの心で許してください」と謝罪した。伊藤は7月5日より再び出仕したが、意見書について再度大隈に確認し、岩倉に問題は十分に解決していないと伝えるなど、二人の間には亀裂が残った。この段階では三条や岩倉は伊藤と大隈の間を取り持とうとしていた。
大隈の意見書は政変後に金子堅太郎が佐々木高行に「福澤ニ綴ラセタリ」と福澤の筆によるものであると伝え、福澤自身もこれを認めたと語っている。慶應義塾で教えを受け、太政官の大書記官を務めていた矢野文雄は後年、「わが輩が書いたもののやうである」と回想している。真偽は不明だが。
払下げ問題の漏洩
一方で明治13年頃から開拓使の産業・土地等を民間に払い下げる計画が進められていた。明治14年7月21日、黒田は閣議において、開拓使の官僚によって構成された「北新社」と、五代が参加していた「関西貿易社」への払下げを提議した。
閣議において左大臣有栖川宮熾仁親王や大隈は反対[したが、閣議では採択された。ところが7月26日に『東京横浜毎日新聞』において、「関西貿易商会の近状」と題した記事で払下げの事案が暴露され、黒田が同郷の五代に対して利益供与を行っているという報道が行われた。7月30日に明治天皇が裁下し、8月1日には公表されたため、各新聞紙上では大きな批判が繰り広げられることとなった。払下げが大きな批判を受けたことで太政大臣三条実美も払下げに難色を示すようになった。これを聞いた黒田は三条家に出向いて払下げの遂行を求めて強談している。
★リークを行った人物
新聞に払下げ情報のリークを行った人物としては様々な名が挙げられているが、明確になったものはない。
広瀬は8月31日の五代宛書簡において「某社」、三菱の策謀であると述べており、当時の政府内でも三菱の関与がしきりに取り沙汰されていた。また三菱につながる大隈、福澤諭吉らの陰謀説も政府内で取り沙汰されている。佐々木高行は土方久元から聞いた話として、伊藤博文が(事件は)三菱会社・大隈重信・福澤諭吉らが「相計リタル」ものと語ったとしている。また佐々木によれば河野敏鎌も参加していたとしている。黒田も同内容の説を信じていたが、大隈自身は『大隈侯昔日譚』において関与を否定している。
明治33年(1900年)に刊行された茶話主人著『維新後に於ける名士の逸談』では、岩内炭鉱の採算が取れないことを知った五代によるリークであるとしている。宮地英敏は炭鉱の採算が取れず、開拓事業への関与を危ぶんでいた広瀬が三菱と河野を通じてリークを行ったのではないかと推測している。伊藤之雄は大隈系の官僚であった矢野文雄か尾崎行雄・犬養毅・小野梓のいずれかであろうとしている。
実際のリーク者が誰であれ、伊藤博文は大隈が関与したと確信を強めていた。閣議で大隈が払下げに反対したことは、伊藤に大隈・福澤・三菱の陰謀説を信じさせる一因となった。
政府内における大隈排斥の動き
7月30日より天皇は北海道を含む地方行幸に赴き、閣員のうち有栖川宮・大隈・黒田・大木喬任はこれに同行していた。一方で東京に残った伊藤・井上・山縣有朋・山田顕義・西郷らは大隈の排除に向けて動き出し、三条や当時京都で病気療養中だった右大臣岩倉具視の説得を開始した。また佐々木ら非薩長系の政府重臣、井上毅による薩摩系参議への根回しも開始された。この頃佐々木高行・土方久元・吉井友実ら天皇親政を目指す旧侍補グループや谷干城・鳥尾小弥太ら非薩長系の軍人、そして金子堅太郎や三好退蔵といった中堅官僚は「中正党」と呼ばれるグループを形成し、払下げに反対して薩長勢力に対抗しようとしていた。
この際に大隈を排除する理由として挙げられたのが、大隈が福澤・三菱・佐賀・土佐の民権派と組んで、払下げ事件等で反政府感情を煽り、政権奪取を企てているというものである。佐々木高行は、世論の激化で政府が動揺すると好機と考え、宮中や元老院を舞台に谷・元田らと共に天皇親政運動を主導して、払下げ反対と大隈の追放および元老院の権限強化と参議廃止を訴え、天皇を擁して再度親政を掲げ伊藤ら政府要人の排除に動いたために「中正党」と称された。9月に結成された中正党の顔触れは元侍補達と谷や鳥尾小弥太・三浦梧楼・曾我祐準ら非主流派の軍人、河田景与・中村弘毅ら元老院議官、三好退蔵・金子堅太郎ら少壮官僚で構成されていた。佐々木に大隈の陰謀を伝えた金子堅太郎は、自分自身が大隈系の官僚から陰謀の存在を聞いたとしている。これにより三条や非薩長系も含めた東京政府内では大隈・福澤・三菱の結託が強く信じられるようになっていった。
実際に大隈・福澤・三菱は緩い連携を持っていたが、共通の謀略をもっていたわけではなかった。福澤の弟子である大隈系官僚は国会早期開催に積極的であったが、福澤は自由民権運動自体も「無智無識の愚民」と評するなど冷淡であり、国会開設も時期尚早であると考えていた。また大隈らは伊藤らが大隈排斥に向けて動いていることをほとんど把握していなかった。大隈が東京の情勢を知ったのは10月3日の北畠治房からの連絡によるもので、対処を取るためには遅すぎた。
10月8日までに東京政府のメンバー内では、大隈の罷免、憲法制定と9年後の国会開設、そして払下げの中止が合意された。帰京した岩倉は払下げ中止には否定的であり大隈罷免にも消極的であったが、伊藤や黒田が大隈罷免と払下げ中止を強く迫ったことによって、大隈罷免に同意し、開拓使問題については明治天皇の裁下を仰ぐこととなった。
天皇が10月11日に帰京すると、岩倉は千住駅で拝謁し、大隈の謀略によって払下げ問題が批判を受けているため、早急に御前会議を開いて払下げを再考するべきであると上奏した。その後三条・岩倉の二大臣、伊藤・黒田・山縣・西郷・井上・山田の六参議は有栖川宮左大臣と密談し、大隈罷免について合意した。これに続いて大隈以外の大臣・参議が大隈罷免を上奏した。明治天皇は大隈排除が薩長による陰謀ではないかと疑ったが、薩長以外の参議も大隈排除に同意していたことから、大隈排除に同意した。
同日中に伊藤と西郷によって大隈はこのことを知り、辞職した。10月12日に払下げの中止と国会開設が公表され(国会開設の詔)、事件は終息した。しかし農商務卿河野敏鎌や、矢野文雄・小野梓といった大隈系官僚が大量に辞職した。
政変の影響
しばしば政変はプロイセン風の憲法を作ろうとする伊藤とイギリス風を目指す大隈の路線対立が原因とみなされることがあるが、伊藤は政変の時点では明確にプロイセン流憲法を目指していたわけではなかった。伊藤は政変前の7月2日に井上毅からプロイセン流の憲法を作るよう求められていたが、伊藤はこの時点でははかばかしい反応を示していなかった。また岩倉も9月に出された井上毅の「内閣職制意見」にあるプロイセン流の天皇親政意見には同意しなかった。
しかし政変によって政府内の保守化が進んだことは確実である。井上毅は政変後の政府の有るべき姿として、「彼レ(福澤)ノ為ル所ニ反スルノミ」と述べたように、政府内からの福澤派の影響は徹底的に排除された。これによって政府内の保守化が進み、かつては排斥されていた島津久光の保守思想が再評価されるに至っている。
辞職した大隈と大隈系官僚は政党結成に動き、立憲改進党設立の母体となる。しかし大隈は明治21年(1888年)に政府復帰し、外務大臣を務めている。大隈の回想によれば、岩倉は明治16年(1883年)に没する直前に「薩長政治家にあやまられて、我が輩(大隈)を退けた事を悔ひ」、謝罪したとされる。
翌明治15年(1882年)1月1日、黒田が参議および開拓長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退いた。これにより政府内は伊藤を中心とする長州閥の主導権が確立された。開拓使も2月8日に廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に分けられた(三県一局時代)。またこの年には伊藤が憲法調査のためドイツおよびイギリスに留学することになるが、ドイツにおいてローレンツ・フォン・シュタインと出会ったことで、プロイセン流の憲法作成に傾倒していくこととなる。
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日比谷焼打事件
日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、1905年9月5日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日本の暴動事件。
1905年のポーツマス条約によってロシアは北緯50度以南の樺太島の割譲および租借地遼東半島の日本への移譲を認め、満洲や朝鮮の利権を手にし、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。
しかし、同条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかったため、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも拘わらず、直接的な賠償金が得られなかった。
そのため、国内世論の非難が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令(緊急勅令)も布かれた。でも、暴徒と化した民衆は一体誰を非難したいのか?
1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの斡旋の下、アメリカのポーツマスにて日露の和睦交渉が行われることとなった。当時、日本は戦争に対する多大な軍費への出費から財政が悪化し、ロシアでも血の日曜日事件など革命運動が激化していたため、両国とも戦争継続が困難になっていたのである。
しかし、ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否する。日露戦争の戦場は全て満州(中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権・小村寿太郎は8月29日、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。でも国際世論からは多分異常なまでに日本に肩入れした条約だろう。当時の覇権国英国の意向丸出しだね。
この条件は、朝日新聞などの予想記事から国民が考えていた講話条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 - ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部政治活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。しかし、小村の交渉を伊藤博文などは高く評価している。また、内閣総理大臣(首相)の桂と海軍大臣(海相)の山本権兵衛は小村を新橋駅に出迎え両脇を挟むように歩き、爆弾等を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟であったという。
長きにわたる戦争で戦費による増税に苦しんできた国民にとって、賠償金が取れなかった講和条約に対する不満が高まった。このため、9月3日に大阪市公会堂をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれたのである。その内容は、「国務大臣(閣僚)と元老を全て処分し、講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という過激なものであった。9月6日、勅令で、治安妨害の新聞雑誌の発行停止権を内相に与えられた。これにより、大阪朝日、東京朝日、万朝報、報知新聞など発行停止を命じられた。
朝日新聞などの予想記事の出元は? 朝日新聞などにはそのような情報能力は零だろう。米英諜報機関の陰謀? 実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。この事実が極めて貴重である。英国メディアは、世界に向けて日本の勝利を宣伝してくれた。日英同盟のおかげである。つまり、日本は英国の代理でロシアと戦争させられていた訳。でも、現実の日ロの戦争の被害は、明かに日本側の方が大である。日本側の全権・小村寿太郎は表彰されても非難される筋合いは全く零。よくぞここまで交渉をまとめた。こういう人を正確に評価できない国民は将来が危うい。でもその後の日本は「日本強し」の過大妄想に捉われて、中国大陸への進出まで試みて、予定通り敗戦への道を突き進む。
この点は、ドイツも同じか。ヒットラー政権はある程度大きくなるまでは、欧米、特に英国の多大な支援を受けていた。反ソビエト、反共産主義の名目で英米は多大な経済支援を続行する。戦後賠償金の返済の為にもドイツを強くしたい。ヒットラー政権は世界一民主的とされたワイマール体制下で大多数の国民の支持を得て成立したことを忘れてはいけない。ドイツ国民の総意の元で生まれた政権だったから。
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1918年米騒動
1918年(大正7年)に日本で発生した、コメの価格急騰にともなう暴動事件。日本近代史において単に米騒動とした場合は、本事件を指す。
第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)はコメ消費量の増大をもたらし、一方では工業労働者の増加、ひいては農村から都市部への人口流出の結果、米の生産量は伸び悩んでいた。1914年(大正3年)の第一次世界大戦開始直後に暴落した米価は約3年半の間ほぼ変わらず推移していたが、1918年(大正7年)の中ごろから上昇し始めた。大戦の影響によって米の輸入量が減少したことも米価上昇の原因となった。
**当時の日本は米が自給できなかった?実はその反対で農業者の意向を入れ米に関税をかけて輸入を制限していたのが事実。交代した原内閣が米を緊急輸入したことも米騒動解決の一つの成功の一因。つまり、米は凶作でもないのだから本当は、キチンとした対策があった訳。
米価格高騰を見て、次第に米作地主や米取扱業者の売り惜しみや買い占め、米穀投機が発生し始めた。そのなか寺内正毅内閣は1918年(大正7年)8月2日、シベリア出兵を宣言した。これは戦争特需における価格高騰を見越した流通業者や投機筋などの、投機や売り惜しみを加速させた。
大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に1石15円だった米価は6月には20円、翌7月17日には30円を超え、さらに伊勢の相場師・福寅一派の買いあおりや地方からの米の出回り減少で、8月1日には1石35円、同5日には40円、9日には50円を超え、各地の取引所で立会い中止が相次ぐ異常事態になった。一方で小売価格も7月2日に1升34銭3厘だった相場が、8月1日には40銭5厘、8月9日には60銭8厘と急騰し(当時の労働者の月収が18円 - 25円)、世情は騒然となった。
米価暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米価高騰を大きく報じたこともあり、社会不安を増大させた。事態を重く見た寺内正毅内閣総理大臣は1918年(大正7年)5月の地方長官会議にて国民生活難に関して言及したが、その年の予算編成において、救済事業奨励費はわずか3万5,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算とはいえなかった。仲小路廉農商務大臣は、1917年(大正6年)9月1日に「暴利取締令」を出し、米など各物資の買い占めや売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。さらに1918年(大正7年)4月には「外米管理令」が公布され、三井物産や鈴木商店など指定七社による外国米の大量輸入が実施されたが、米価は下落しなかった。
このため寺内内閣は警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針を採り、巡査採用数が増員された。生活苦と厳しい抑圧に喘ぐ庶民の怒りは、次第に資本家、特に米問屋、商社など流通業者に向けられるようになっていった。
騒動の発端となった富山県では、1918年(大正7年)「7月上旬」から、中新川郡東水橋町(現・富山市)で「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まっている。
また折りから、魚津港には、北海道への米の積み出しのため「伊吹丸」が寄航していた。当時の新聞によれば「魚津町にては、米積み込みの為客月一八日汽船伊吹丸寄港に際し細民婦女の一揆が起こり狼煙を上げたる」と、魚津町(現・魚津市)で一揆発生は7月18日以来という。さらに「二十日未明同海岸に於いて女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしを、いち早く魚津警察署に於いて探知し、解散せしめ」と、魚津の動きが20日未明(おそらく19日夜間)から起きていた報道もある。
7月22日の昼には、富山市西三番町の富豪浅田家の施米にもれた仲間町、中長柄町ほか市内各所の細民200名が市役所に押しかけた。このときは警官の説諭によって解散させられたが、住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた。
そのころ、東水橋町、富山市、魚津町以外にも、東岩瀬町(28日)、滑川町、泊町(31日)等富山県内での救助要請や、米の廉売を要望する人数はさらに増加し、各地で動きが起きていた。翌月8月3日には当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。
全国への波及
8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)との捏造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約2万人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。
東京市では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた。しかし、8月10日に宮武外骨を発起人として山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による野外演説会を日比谷公園で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにもかかわらず、当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本所近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている。東京市での暴動は、ほかの地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった。
こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日ごろからは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、9月12日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。
炭坑への飛び火
8月17日以降には、米騒動は山口県や九州北部の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県田川郡峰地炭坑などにおいて、炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転じ、売店を打ち壊すなどの暴動が起きた。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ち毀しや遊郭への放火などが起き、出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど、死者13名を数える惨事となった。陸軍が発砲理由とした坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は、陸軍が発砲を正当化するために捏造したコメントを、『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付)などが取材なしに記事化したことにより流布された可能性が高いとされる一方で、山本作兵衛による記録画では、ふんどし姿で電柱に登り、咥えタバコの火でダイナマイトを点火し放り投げるため、陸軍の兵士が射殺する記録画がある。
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間にわたる一連の騒動は、最終的に1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された。呉市では海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙するなか、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は2万5,000人を超え、8,253名が検事処分を受けた。また7,786名が起訴され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。
政府などの対応
政府は8月13日に1,000万円の国費を米価対策資金として支出することを発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。
8月13日、閣議は米穀強制買収に1,000万円限度の支出を決定。8月16日、農商務大臣が米穀類を強制買収し得る穀類収用令を公布(緊急勅令)。発動されず、1919年4月5日、同法廃止を公布(勅令)。
被差別部落との関わり
米騒動での刑事処分者は8,185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったためである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。事態を重視した原内閣は1920年(大正9年)、部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。
軍人の参加、警官による暴動への加担
呉市では、水兵が騒動に参加して検挙された。また、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。
全国中等学校優勝野球大会の中止
この騒動は、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)にも影響を及ぼした。8月11日に神戸市で始まった騒動により、当時の会場だった鳴尾球場に程近い鈴木商店で焼き打ち事件が発生。周辺の治安も大幅に悪化し、8月14日からの開催予定だった第4回全国中等学校優勝野球大会はいったん延期された。その後も治安改善の見通しが立たなかったため、8月16日に大会の中止が決定された。
原内閣の誕生
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。寺内は体調不良もあり8月31日に山縣有朋に辞意を告げ、9月21日に正式に辞表を提出した。山縣は西園寺公望に組閣を命じたが、西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして9月27日に原に組閣が命じられ、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。
**この時の政権は薩長派閥、大隈らの自由民権派とは対立関係。原敬は朝敵南部藩出身のたたき上げの優秀な官僚。勉強家で弁もたつ。つまり自由民権派とも議論が出来、当然尊敬も得ている。「平民宰相」となれば自由民権派の顔も立つ。つまり、余人をもって代えがたし。他に適当な人材もいなかったということだ。
発生の経緯についての研究
井上清・渡部徹『米騒動の研究』(全5巻)から45年後の2004年に、その間40年以上の間に積み上げられた新たな事実・資料・見地を織り込んで、B5版で623ページにわたる大著として刊行された『図説 米騒動と民主主義の発展』では、「1918年夏の米騒動について残っている証言・資料に現れている、最も早い時点での行動は、東水橋町の女性陸仲仕たち20数人によって、7月上旬から始められた、移出米商高松への積出停止の要求の行動です。」とまとめられている。
2000年ごろまでは、米騒動の始まりは「七月二二日夜、富山県下新川郡魚津町の漁民の妻等が、井戸端で、米が高くなるのは同地方の米を県外へ移出するため」であるから、米の積出しを中止してもらおうと相談し、「二三日午前八時すぎ、警察の調べでは四六名が海岸に集まった。これが全国をおおうた米騒動の発端であった」という説が定説であった。
しかしながら、上述したように、井本三夫編『北前の記憶——北洋・移民・米騒動との関係』(桂書房、1998年)、歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説米騒動と民主主義の発展』(民衆社、2004年)、井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』(桂書房、2010年)など、米騒動に直接参加した女陸仲仕や漁師、軍人など米騒動の目撃者や随伴者への聞き取りを文字化し、新たな視点による分析が加えられた学術書が次々と刊行された。そのため、米騒動がいつどこでどのように始まったのかについては、少なくとも「富山湾沿岸地帯」からであり、「漁村から始まったのではない」、その主体は「海運・荷役労働者の家族」、「都市漁民」の前期プロレタリアであるなどと従来の定説を大幅に改めることになっている。
さらに、米騒動と労働者のストライキとの関係についても「労働者階級の闘争は、一九一八(大正七)年七月の末に所謂「騒動」が勃発する以前から、工場におけるストライキという闘争形態を主たる闘争形態として展開しています。」とし、ストライキの参加人員を見ても「一六(大正五)年には八四一三名の参加人員が、実に一七(大正六)年には五万七三〇九名、米騒動の起きた一八年には六万六四五七名というように、官庁統計からいってもこの一七年がひとつの転機になっている」など、米騒動が始まった結果ストライキが頻発するようになったように言われていたのは間違いであることが、早くから指摘されていた。
また、富山県で米騒動が始まるより2 - 3か月早い「18年の4〜5月になると、もう食糧暴動と言えるものも起こっている」とし、「兵庫県赤穂郡相生町にある播磨造船所」で「食料品価格の高騰のなかで、待遇の悪さに怒った労働者数百人が、ラッパを合図に事務所・食堂・炊事場を襲撃して、器物・建物を破壊し炊事夫に暴行を加えた」という新たな事実が掘り起こされてもいる。
記念施設
米騒動が近年は評価される動きがある。魚津市大町の十二銀行(北陸銀行の前身)倉庫前には「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」による「米騒動発祥の地」の標柱があり、富山市水橋館町の郷土史料館の敷地内にも記念碑が設置された。
米騒動は結局どのような形で収束したのか? 「平民宰相」と期待された原敬内閣の力で急速に収束を見たと、NHKeテレ「知恵泉」では紹介されていたが。原敬は相当なやり手だったようだ。薩長勢力と民権派勢力を理詰めで説得し、最終的に余人持って代えがたしとして首相に選ばれる。
原敬は今、日本の歴史では「平民宰相」ぐらいの記述しかないが、その実績は世界史の教科書にも載せなければならないほど偉大な業績だった。何故ならば、当時の世界の情勢を見入れば、最初は小さな暴動が発展して最終的には国家を転覆する革命にまで発展する事例が多数ある。ロシア革命が起きるのこの時点。国内にも既に労働運動者の中にも革命思想に傾倒しているものも大勢いたのでしょう。
つまり、もし原が登板しなければ日本は今、共産主義国家になっていたかも。そうでなくてもフランス革命後のロベスピエールの独裁政権、イギリスもクロムウェル何て言う独裁者が現れた。つまり、大衆の暴動にかまけて拵えた政権などにはロクなものは無い。
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オーランド諸島紛争と新渡戸稲造
オーランド諸島とは、バルト海、ボスニア湾の入り口に位置する6,500を超える島々からなり、フィンランドの自治領となっています。住民のほとんどはスウェーデン系で、公用語はスウェーデン語。
しかし、背景には複雑な歴史があります。オーランド諸島はフィンランドの一地方としてスウェーデン王国に帰属していたが(当時スウェーデンは結構な大国)、1809年にロシア帝国との戦争に敗れたことからフィンランドが割譲されてしまう。オーランド諸島もフィンランド大公国の一部としてロシア領となってしまう。
1854年にクリミア戦争に参戦したイギリス・フランスはスウェーデンの参戦を確実にするため艦隊を派遣して同地のロシア軍を攻撃。これに対しロシアは、ノーベル(ノーベル賞のノーベル)を雇い、新兵器の機雷を使ってバルト海を封鎖。被害拡大を憂慮したスウェーデン政府は中立政策を取る。しかし、英仏政府はさらなる参戦を促す。クリミア半島でのロシアの敗勢を見たスウェーデン政府はようやく参戦の意志を顕すが、すでに戦争は終結に向かっていた。
1856年のパリ講和条約によって、国境地帯であったオーランドは非武装地帯に指定された。しかし第一次世界大戦の勃発とともにロシアは条約に違反してオーランドの要塞化を開始。
大戦末期になるとフィンランド本土においてロシアからの独立の気運が高まり、これと並行するようにオーランドにおいてもフィンランドからの分離とスウェーデンへの再帰属を求める運動が起こり、フィンランド独立間近の1917年には、オーランドの代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出。オーランド分離を阻止したいフィンランドは広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させるも、オーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、両国間の緊張が高まる。このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の裁定を託し、フィンランドもこれに同意する。
1921年に、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造を中心として裁定が行われた。これが有名な「新渡戸裁定」です。日本では当時、国際的に孤立化の道が進んでいてあまり評価されていないけど、是非とも日本史の教科書にも入れて欲し良い快挙です。
オーランドのフィンランドへの帰属を認め(メンツを立て)、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めめる(スウェーデンは実利をとる)。これらは両国政府の具体化作業と国際連盟の承認の後、1922年にフィンランドの国内法(自治確約法)として成立し、オーランドの自治が確立します。現在は、フィンランド政府はスウェーデンへの復帰を認めていますが、帰属国を問う住民投票では現状を望む人が半数を超える(自治権の方が有利)。スウェーデンに復帰すれば一つの県にすぎないが、フィンランドのもとでは大幅な住民自治を認められ、海洋地域であるオーランドにとって非常に自由が利くからです。
この時の新渡戸の裁定は、関係する3者(フィンランド、スウェーデン、オーランド)の誰もが納得する、いわゆる大岡裁きになっていたのですね。このときイギリス人のドラモンド国連事務総長は、「不寛容な西洋文明に、寛容な精神を教えてくれた」と新渡戸氏の英断を高く評価したということです。また、今も島の住人は「島に平和をもたらしてくれたミスター・ニトベを尊敬している」と感謝の言葉を口にしているそうです。
ところで、「日本の学校には宗教教育がないというが、だったらどうやって道徳教育を行うのか」と問われて答えにつまった新渡戸氏は、【武士道】に思いあたり。それがきっかけで、外国人に日本のことを理解させたいと『BUSHIDO』(武士道)を英語で著しました。
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米内光政
米内光政は盛岡出身の偉人で、実はわが高校の大先輩にあたる人。と言っても戦前の話だから旧制の中学か。なんせうちの母校は、校歌が軍艦マーチ。その一説に「…、明治13春半ば、礎固く云々」の歌詞がある。なんと明治13春半ばが、米内さんの誕生日だったとは。彼は海軍のトップを務め、海軍大臣も何度も経験。総理大臣(第37代)にまでなっている。見識にも優れ、ロシア語の能力も当時の日本としてはNo.1。ヨーロッパにも駐在して、語学力を駆使して当時の欧州の情勢も正確に把握していた数少ない人物だったようだ。
Wikipediaの検索では、1915年(大正4年)2月、ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は「暇つぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。と紹介されている。
米内が日独伊三国同盟に反対し、英米相手の戦争に反対していた理由は簡単だ。戦えば負けるに決まっているからだ。彼は生粋の軍人で、彼の頭脳は明晰だ。米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある。しかし、これは後世の後付けだろう。「負けると分かっている戦は避けるのが軍人の論理。孫氏の兵法もだってそう書いてある。」結局、当時の日本は正論を歪ませてまで戦争をしたいと思っていた真の戦犯たちが存在していたのだろう。
昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止めたことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉をかけたという。昭和天皇も皇室としての英国とは深い人脈も情報も持っておられる国際通、戦争を最も嫌っていた方が昭和天皇であったことは忘れてはならない。昭和天皇は「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、後年語っていたと言われる。
太平洋戦争を開始する連合艦隊司令長官・山本五十六は米内を尊敬する後輩で、 彼が日本は勝てるかと聞かれたとき、「短期決戦なら勝てるかも」と答えたという。当然勝てないという意味だ。これをもって時の政府は決戦を決めたという。真珠湾攻撃は、国政政治の常識から言って極めて稚拙な戦い。いきなり不意打ちをかけて勝った勝った。陸軍の中からは山本五十六を軍神扱いする動きがでる。もちろんこの奇襲を最も歓迎したのが米大統領のルーズベルト。その後の日本は自滅への道を突き進む。
米内への批判の一つとして、彼が支那事変の拡大を積極的に支持したことが言われている。しかし、これは戦後の宰相吉田茂も大陸進出積極論者で、ドイツと協力して英米と対立することの方が愚策と言っている訳だ。またこれは、海軍の兵士たちの生命を守るため陸軍の協力が欲しいという理由もあり、海軍中心主義という批判のようだ。しかし、この時彼の立場は海軍大臣でもあり、当時の情勢が戦争拡大へ向かっている中で、むしろやりたいだけやらせた方が得という計算もあったのではないか。案の定、英米から猛烈な抗議が来る。ところが陸軍はこれ以上マズイからやめておこうという理性が失われてしまっていたようだ。
日本では、特に戦中、軍人と言えば勇猛果敢なだけが取り柄みたいな人物がもてはやされる。しかし、国際的な視野を持った米内は、ヨーロッパ各地の情報を自分なりに分析し、ヒットラーのドイツを組むことの危険性を当初から悟っており、同盟するならロシアの方がましだとの持論を持っていたらしい。
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山本 五十六
山本 五十六(1884~1943年)は、日本人なら誰でもおなじみ。真珠湾攻撃の立役者。でも、敗戦後の極東裁判では死刑判決を受けずに済んだ。実は、ブーゲンビル島上空で米軍機に狙い撃ちされ既に戦死(海軍甲事件)している。米軍は開戦直後から、山本 五十六が真珠湾攻撃作戦以来の日本軍の頭脳であると認識しており、彼を射殺することを初めから作戦のプライオリティとしていたようだ。彼がいなければ日本軍など大したことは無い。事実、彼亡き後は、日本軍はじり貧で敗戦すら認めることが出来ない惨状。エリート軍人たちはここの戦術は巧みでも、大局観に欠けていた人たちばかりだったようだ。
山本 五十六が死んでいなければ、戦争に勝てたということはないだろう。しかし、もっと早い時期に講和への道が開けた可能性はある。
山本は日独伊三国同盟の締結に対し、米内光政、井上成美らと共に最後まで反対した。このことから海軍条約派三羽烏(海軍左派)とも言われているが、陸軍や外務省の提案に対して海軍の方針を示していただけで、対案を出す等積極的姿勢を見せることはなかった。山本達の反対理由は主に、
英米との関係が悪化して支那事変解決が難しくなる。
日ソ開戦の場合ドイツは距離が遠すぎて援助・支援が期待できない。
条約で日本が損をする項目があるのではないか。
軍事同盟締結によりドイツとイタリアに中国大陸の権益を要求される懸念がある。
山本 五十六を始め、米内光政、井上成美等は当初から海軍として英米と戦うことは無謀だと分析している。「日独伊三国同盟」には当然大反対。昭和天皇と同じだ。本当の軍人なら勝つことし考えない。負けることが自明な戦いは避けるのが当然だ。
山本は海軍大臣となった米内光政の下で林内閣・第1次近衛内閣、平沼内閣と留任する。この当時、海軍省では会議のあと米内が会見を行わず山本の会見だけで終わることもあった。平沼内閣といえば、ドイツがソ連と「独ソ不可侵条約」を結んだ際に、「複雑怪奇」として総辞職したことで有名。
山本は日独伊三国同盟の締結に対し、米内光政、井上成美らと共に最後まで反対した。このことから海軍条約派三羽烏(海軍左派)とも言われているが、陸軍や外務省の提案に対して海軍の方針を示していただけで、対案を出す等積極的姿勢を見せることはなかった。山本達の反対理由は主に、
英米との関係が悪化して支那事変解決が難しくなる。
日ソ開戦の場合ドイツは距離が遠すぎて援助・支援が期待できない。
条約で日本が損をする項目があるのではないか。
軍事同盟締結によりドイツとイタリアに中国大陸の権益を要求される懸念がある。
であった。山本は海軍書記官・榎本重治に「世間ではオレを三国同盟反対の親玉のようにいうが、根源は井上なんだぞ」と不機嫌そうに語ったこともある。
三国同盟賛成派は山本のイメージを悪化させるプロパガンダを展開し、また暗殺の風評を流した。山本は表面的には鷹揚に行動したが、密かに遺書も書いている。私服の憲兵が護衛についた他、自宅に機関銃が備えられたこともあった。山本は、三国同盟賛成と反英国・米国世論の盛り上がりは日本陸軍と内務省の合議による組織的なものと報告した。政治も世論も同盟締結に傾き、山本達は孤立していく。ところがノモンハン事件が起きて日本とソ連が軍事衝突を起こす中、8月23日、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結。平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇なり」の言葉を残して総辞職、日独伊三国同盟第一次交渉は頓挫した。山本達は「(同盟締結の)芽だけを摘んで根元を刈り取らなかった」という指摘もある。
つまり、三国同盟は日本にとって百害あって一利なし。最悪の選択であったはずだ。
1939年(昭和14年)8月30日、山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などにより、日本とイギリスやアメリカの関係は急速に悪化。当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると、近衛に日米戦争の場合の見込み問われた山本は、「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と発言している。
井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べている。半年や1年の戦争に勝てると思う人が総理大臣では、先の見込みは無いね。
山本は「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒も甚だしい」と漏らしていたという。経済の低迷による国民の不満、戦争を期待する世論、下級下士官たちの突き上げ、こうした風潮に媚びる軍の上層部。判断基準が可笑しい。
**1939年(昭和14年)水から石油が採れると主張した科学者に海軍共済組合で実験させた。海軍省先任副官・一宮義之らは反対したが、山本は「君達のように浅薄な科学知識ではわからない。深遠な科学というものはそうではない」とたしなめたが、その科学者は詐欺だった。 山本 五十六も結構、非科学的な面もある。戦術面も必ずしも優秀ではなかったとか。ただ大局観と信念の強さはやはり非凡なのでしょう。
**近衛文麿
五摂家の近衞家の第29代当主。後陽成天皇の12世孫に当たる。藤原氏の成れの果てか。陸軍に担がれた操り人形。大政翼賛会の総裁。皇室が悪用された典型だね。
太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループとして昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。
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米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人
NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。
途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。
晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。
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【日系人の強制収容所】
日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。
ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。
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日本の歴史と英国の歴史
極東の島国日本と極西の島国英国は、地政学的な共通点から歴史においても様々な共通点が見いだせるという人たちがいる。どちらも文化の中心となった大陸とは海で隔てられている。
まず、日本の縄文文化。大陸の影響が多少見られる弥生文化とくらべ、縄文文化はどうも日本独特のものらしい。英国にも対応するように新石器時代の巨石文化が花開いている。ストーンヘンジとかストーンサークルとか。これもヨーロッパ大陸から伝わったとの説はあるけど、史跡で見る限り英国が本場のようですね。何でも単一起源説で説明しようとするのは如何なものか。日本にだって環状列石のようなもの発見されているではないですか。人類は与えられた環境に適応して、独自の文化を形成するものらしい。
日本人は、縄文時代の人達に後から渡来してきた人たちの混血によって次第に形づくられたようですが、英国人も同じようにいくつかの民族の混血によって形造られて来ている。
日本が、中国大陸の王朝に一度も征服されなかったように、英国も常に大陸の動きとは一線を画して独自の動きを続けて来た。
日本が大陸から学んだ仏教も儒教も、日本人の中で独自の精神文化として成熟しているように、英国もキリスト教を、「英国国教会」として独立したものとして受け入れた歴史を持っている。
新渡戸稲造氏の「武士道」で取り上げる封建時代の道徳、どうも英国のものが比較の対象として取り上げられているようだ。
英国人から見て日本人は、どうも馬が合うというか文化的なものに共通の傾向があるのかもしれません。今回、ノーベル文学賞を取ったKazuo Ishguroさん。アーサー王伝説の頃。タイムリーな受賞かもしれませんね。
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ビキニ事件
水着の話ではない。1954年3月1日に米国による太平洋・ビキニ環礁付近行われた水爆実験のために静岡県の漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件。実験当時、第五福竜丸はアメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄(はえなわ)の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後にアメリカは危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻に上るとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初アメリカ軍がこの爆弾の威力を4 - 8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであったため、安全区域にいたはずの多くの人々が被爆することとなった。
最近公表された湯川秀樹(1907~81年)(ノーベル賞の)手記には「二十世紀の人類は自分の手でとんでもない野獣をつくり出した」と書き起こし、原子力を「野獣」「猛獣」と形容した。「もはや飼主の手でも完全に制御できない狂暴性を発揮しはじめた」「少数の強力な国家だけが今後もこの猛獣の飼主たる地位を保持するであろう」と危機感を示している。
後段では、「原子力の問題は人類の全体としての運命にもっと直接に関係する新しい問題として現われてきた」と、核兵器の脅威を前に世界が運命共同体となったことを強調する。ビキニ実験が核廃絶に向けた「人類的共同体の実現への大きな一歩」への転機となりえるのでは、と期待交じりに記している。
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翼、ふたたび
これは、作家江上剛氏の小説の題名。2010年のJAL破綻から再建の過程を描いたものですが、後半は、東日本大震災の際にJALの職員たちが見せた献身的な努力の成果を描いた物語として終わっている。
JAL破綻の直接の引き金となったのは2008年のリーマン・ショックとされているが、ショックに耐えることのできない脆弱な国策企業的な体質がより大きな原因だとされている。例えば効率の悪い大型機材を大量に保有。供給座席が需要に対して過剰。ただ、これは主に、日本の航空市場の特殊性として、国内線の基幹空港である羽田空港が非常に混雑、大量輸送によって需要に対応していかなければならない状況が続いていた。そのため、大型機材での運航が推奨されてきた。しかし、多くの地方空港が建設されていく中で、必ずしも大型機が望ましいとはいえなくなってきた。
投資の失敗も大きい。ホテルなどの関連企業を増やし、総合的なサービスの提供による競争力の強化を図ったが、採算性の見通しの甘さから、採算性を見込めないものが本業の足を引っ張る結果となる。また、長期にわたる為替差損も、JALの放漫経営の象徴として取り上げられている。
労働組合の問題もある。複数の労働組合が存在しているため、複雑な労使・労々関係も企業経営を極めて難しいものとしてきた。その他にも、採算性の取れる見込みのない地方路線への政治的な観点からの就航など、破綻の要因は多数見いだせる。これらの問題は実はバブル崩壊以降の日本の多くの大手企業にも共通してみられる特徴でもあり、決して他山の石では済まされない出来事と考えられます。
2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24km)を震源とする地震で、規模はマグニチュード9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震だ。
JAL再出発の直後の大震災。仙台空港が主な舞台となるが、仙台空港も地震と津波による相当なダメージを受けたようだ。そんな中JAL の職員たちが自分の身も顧みず乗客のためのサービスに徹する。「働く人たちが笑顔を絶やさない職場、そんな会社は必ずうまく行く」とのメーセージが素晴らしい。しかし、企業の意識改革というものは、外部の人間には想像できない相当の痛みを伴うものあることも覚悟しておく必要があるのでしょう。
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平成の終わり
平成天皇が退位されることとなった。これで昭和だけでなく平成も歴史の研究の対象になってしまうことになる。1989年(昭和64年)に昭和天皇・崩御に伴い皇位を継承。だから平成元年は1989年。2000年が平成12年ということ。2018年12月(平成30年)現在、平成天皇は85歳。高齢だが年間約1000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年度)、20件近くの祭儀を執り行うなど精力的に活動している。しかし2015年に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王同妃および文仁親王同妃に引き継いでいる。
また、科学者としても活躍されている(魚類学者としても知られハゼの分類学的研究者)。
魚類学における業績は各国で評価され学界において以下に記述する役職に就いている。民族学者である梅棹忠夫氏は、1971年「この前、皇太子殿下(まだ天皇になる前)にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣は大したもの。立派に東大、京大教授が務まる。帝としてはどうか知らないが、学者としては一流だ。」と述べている。
平成天皇は青少年の時代を、「現人神の君主」として、帝王教育を受け本人も当然としてそのように自己修練を積んで来た方だ。また、父としての昭和天皇の背中も見て育った方だ。戦後は象徴天皇として皇室はどうあるべきかをもっとも悩み続けた人であろう。
現代の憲法では、天皇は国民の象徴とされている。あってもなくてもいいものなの。一部の国民はそう思っているだろう。しかし、日本の歴史を振り返ってみれば、鎌倉時代以降ずっと国の象徴として機能してきている。ヨーロッパで言えばローマ法王みたいなものか。つまり、日本で一番偉い人なのだ。
ところで、【孔子の理想とした社会】として、「氏曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。」→ 子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰のその所に居て衆星(しゅうせい)のこれにむかうが如しとある。君臨すれども統治せず。これぞ孔子の考えていた徳治主義の理想像だ。昭和天皇も平成天皇もまた次の天皇もそのような考えでおられるようだ。少なくとも自らを単なる象徴だとは思っていなはずだ。だから、常に学問を怠らず、理想的な家族像を追求し、災害の被災地にも真っ先に駆けつけ被災者と気持ちを共有し、外交の場でも政治的な利害を超えて友好の意を伝えることが可能になるのだ。徳を持って治めるとはこのことではないか。
天皇家は、今まであまりにも政治権力に利用され続けてきた。今でも、一部の国会議員や宮内庁(これも政治権力だ)あるは有識者とか言われる人々が、天皇家の権威を復活させようと企んでいる。象徴となった天皇家は今後、一切政治には口を挟まないと思われる。その代わり、政治の側も一切横やりを入れてはいけないはずだ。天皇家の跡継ぎ問題、元号、このような問題は総て天皇ご自身に決めて頂けばいい話。だって、天皇は日本で一番偉い人なのだから。
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小説吉田学校
『小説吉田学校』は、政治評論家の戸川猪佐武(とがわ いさむ、1923年12月16日 - 1983年3月19日)による日本の実録政治小説。占領下での吉田内閣から鈴木善幸内閣までの保守政界の権力闘争史を描いた長編。当初は雑誌連載され、1981年に角川文庫で出され、2001年に学陽書房〈人物文庫〉全8巻で再刊されている。
なお本作と、さらに掘り下げた『小説吉田茂』と『小説三木武吉』(いずれも角川書店のち文庫化)は、各「小説」と銘打ってはいるが、実際は史実を克明に追ったノンフィクション作品に近い。戸川が「小説という形を取ってあえて評伝にしなかった」のは、「政治家というものは、そのパーソナリティ、キャラクターによって、行動様式が支配されている」ものであり、政治家の「人間を描くことによって、こういう人だから、こういう行動をとったということがはじめてわかるから」だという。なお続編的著作に『小説 永田町の争闘』(全3部、毎日新聞社のち角川文庫)と、『昭和の宰相』(全7部、講談社のち講談社文庫)がある。
【第1部】 「保守本流」;
ワンマン宰相・吉田茂が、池田勇人や佐藤栄作ら「吉田学校」の門下生たちを率いて日本の講和独立を果たした後、鳩山一郎ら党人派との熾烈な権力闘争に挑む姿を中心に、第2次吉田内閣から鳩山内閣成立までを描く。
【第2部】 「党人山脈」;
保守合同に命を賭ける鳩山派の謀将三木武吉、日米安保に執念を燃やす岸信介、そして河野一郎、大野伴睦ら党人政治家たちの姿を中心に、鳩山内閣から池田内閣までを描く。
【第3部】 「角福火山」;
「ポスト佐藤」を巡る田中角栄と福田赳夫の暗闘角福戦争を中心に、佐藤内閣末期から田中内閣成立までを描く。
【第4部】 「金脈政変」;
田中金脈問題を中心に「椎名裁定」で三木武夫内閣が誕生するまでを描く。
【第5部】 「保守新流」;
ロッキード事件で前総理・田中が逮捕され「三木おろし」が激化した三木内閣末期を描く。
【第6部】 「田中軍団」;
刑事被告人となった田中が初の総裁予備選で大平正芳内閣を樹立するまでを描く。
【第7部】 「四十日戦争」;
衆議院選挙惨敗を巡る大角主流派と三福中非主流派の対立を中心に描く。
【第8部】 「保守回生」;
現職総理・大平の急逝を受け、史上初の衆参同日選挙で自民党が圧勝するまでを描く。
戸川 猪佐武(とがわ いさむ、1923年12月16日 - 1983年3月19日)は、日本の政治評論家・作家。神奈川県平塚市出身。父親は小説家で元平塚市市長の戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。
ずいぶん昔に読んだんですが、政治家のパーソナリティ、キャラクターに踏み込んだ話が多く、時代背景などもよく分かる。そのうちにまた読んでみたい本です。
でも、昔の自民党は派閥があって、個性豊かな政治家が多かったのかも。多数派工作のみで政策は官僚任せ、頭脳の抜けた今の政党よりも健全だったのかも。
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吉田茂
平成生まれの方は、歴史の教科書にチョコっと顔を出すぐらいの記憶しかないと思われるが、敗戦後の日本を立て直し、その後の政治体制の骨組みを造ったキーパーソンだ。戦後の日本は、昭和天皇、マッカーサー、吉田茂の3人で造りあげたといっても過言では無いかもしれない。
吉田 茂(1878年~1967年)は、外交官、政治家。外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任。
東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、および1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田と安倍晋三の2人のみである。
なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人だそうだ。
1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科(とが)で逮捕される。母は竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。
1881年、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。
養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている。
1897年、学習院に入学、1901年卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まる。大学科閉鎖に伴い1904年、無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅の他、武者小路公共、池邊龍一、林久治郎、藤井實らがいた。
外交官時代
当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごす。中国における吉田は戦争積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であった。吉田は、満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強硬意見。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のものに限り、広げるべきではないという意見では一貫していたという。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離」論を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官に就任する。
但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していた。岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。1936年は、二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となる。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対(親英米派)で叶わなかった。陸軍は発足当時からドイツシンパ。海軍は親英だった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後の日本軍の勝利??などにより成功しなかった。
その後、日本の敗色が濃くなると、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。
第二次世界大戦後
終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後。大蔵大臣に石橋湛山を任じて傾斜生産や復興金融金庫によって戦後経済復興を推し進める。
1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。
自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は「首相は第一党から出すべき」という憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任した。
**この時期の、政党や選挙の形は、どうだったのか。ネットでの検索ではなかなか出て来ない。各政党が今後の日本の在り方をどうとらえていたのか、政策面での違いが分からないと動きがよく分からない。
第2次、3次吉田内閣
このときGHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。 これを受けて吉田は民主自由党単独で第2次内閣を組織した。その直後に社会党などの野党は内閣不信任を提出、可決されたため、吉田は衆議院を解散した(馴れ合い解散)。第24回衆議院議員総選挙で民主自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。
1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は長い間、米議会の下院非米活動委員会をモデルにした『非日活動委員会』を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が1952年(昭和27年)に設置・施行されるきっかけを作る。アメリカでは当時赤狩り旋風が吹き荒れていた。
サンフランシスコ平和条約
朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保)を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。
側近の白洲次郎などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散)。自由党の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣を組織した。1953年(昭和28年)2月、吉田の国会で質問者(西村栄一)に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり、三木武吉ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散)で対抗。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。
1954年(昭和29年)1月から強制捜査が始まった造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の収賄罪の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法違反で在宅起訴されるが国連加盟恩赦で免訴)。これが戦後唯一の指揮権発動。当然ながら、新聞等は多大なる批判を浴びせる。また、同年6月3日の警察庁及び道府県警察を設置する警察法全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎に議院警察権を発動させて国会に警官隊を導入。同年7月1日には保安庁と保安隊を合体し防衛庁と自衛隊に改組。野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及。吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。
造船疑獄では吉田自身が国会から証人喚問を複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。国会から議院証言法違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察は不起訴処分とした。
内閣総辞職後
1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介で1957年(昭和32年)に入党した。次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持つ。
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その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、『ブリタニカ百科事典』1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。
死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。翌20日正午頃、大磯の自邸にて死去した。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという。享年90(満89歳没)。
性格・特徴
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。また、吉田の行動は当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという。
吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。
尊皇家・臣茂
尊皇家であり、終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという。
1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。
住居
幣原内閣で外相に就任した際、東京・芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。
佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。
首相退陣後は神奈川県大磯町で暮らした。政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開。
趣味・嗜好
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。
政治姿勢
駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
逸話:辞めたくなったら…
1946年(昭和21年)4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧民政党系の日本進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。ところが5月4日になって突然、GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付されると、状況は一変した。
自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任して当時は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると、古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶した。そこで鳩山は、松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、「あの殿様じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。
ところが元政友会幹事長の松野鶴平が、この日の夜から毎晩のように吉田のもとに押しかけて後継総裁を受けるよう口説き、ついにはその気にさせた。松野はその手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた。松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から2人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。
蓋を開けてみると、吉田は松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、
1.金作りは一切やらない
2.閣僚の選考に一切の口出しは無用
3.辞めたくなったらいつでも辞める
という勝手な3条件を提示して鳩山を憤慨させた。しかし総選挙からすでに1か月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くかわからなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。
5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。
吉田学校・ワンマン体制
自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があった。そこで、官僚出身者を中心とした吉田学校と呼ばれる集団を形成する。1949年(昭和24年)の第24回総選挙で当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、広川弘禅や大野伴睦らのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。吉田学校の主な人物として、佐藤栄作・池田勇人・田中角栄がいる。彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、保守本流を形成することになる。
孤高のサイン
日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の六人全員で署名した。
講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約に一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。
【賢者は歴史に学ぶ】
昭和の敗戦は昭和天皇に飛鳥時代の白村江の敗戦を思い起こさせたようだ。多分、吉田茂も同じ思いであったようだ。
昭和天皇も吉田も、ドイツと組んで戦争する事は最初から反対であった。国際情勢を鑑みれば当然だ。しかし、国際派、親英派と見なされる人物は次々と奸臣として天皇の周りから消されて行き、昭和天皇自身が戦争責任者となってしまった。吉田も排除された側にいた。このような動きを天皇は政権内の下剋上として何度も懸念を表明していたにも関わらず。
飛鳥朝廷も、国際派、親中国派といえる蘇我氏をクーデターで排除し、戦争に突入し大敗退を喫したようだ。その戦後処理が飛鳥時代の天皇達と名宰相の藤原の不比等によって成し遂げられる。
吉田は、何度も戦争の責任を表明したがる天皇を引き留め、GHQをも天皇制維持の側に引き寄せることに成功。GHQが最も恐れたの天皇制を失くせば日本が社会主義、共産主義への道を進むことになることを懸念したから。結局、天皇、GHQ、吉田首相の三者の協力でで昭和の仕組みが造られたといっても過言では無いようだ。
吉田が自分自身を飛鳥の名宰相の藤原の不比等になぞらえていた可能性は大きい。戦後日本の官僚機構はほとんど無傷で残った。政権の運営にも積極的に官僚出身者を重用。結局新しい制度のもとで吉田の独裁体制が確立する。
不比等も律令制を整備して帰化人を積極的に活用し、比ぶもの無き者と称されるまでの権力を。しかし、二人とも権力に奢ることなく高齢に至るまで理想を追求し続けた人物であることは間違いない。
【天皇マッカーサー】
マッカーサーは軍人上りの苦労人で、フィリピンでの日本軍との戦いで散々苦労した経歴がある。だから当初は敗戦国に対し、いかに懲罰を与えるかで高圧的な態度で臨んで来たらしい。占領軍の司令官としての権限は非常に強く、その力は米大統領を凌ぐもの(日本においては)であったとされる。しかし、昭和天皇と頻繁に接触するうちに考えが変わったらしい。
同じくドイツの占領をしていた軍人、アイゼンハワー等によるドイツの状況を鑑み、天皇制を残すことがベストと考えたようだ。マッカーサー自身が事実上敗戦後初代の天皇になっていたのかも。ドイツは連合国の分割統治となるが、日本は対米従属一辺倒、他国の干渉は一切許さない。その代わり天皇は残った。
不比等等が「古事記」や「日本書紀」の神話を造り日本の国の考え方を変えていったように、マッカーサー等も神話を造り出すことに成功した。それはマスメディアや学校教育を通して、人々を洗脳していく。「世界一の民主主義・資本主義の国アメリカ。アメリカのマネをしていれば総てはうまく行く。」「民主主義はアメリカによってもたらされた。大衆によって選ばれた政党が多数決で物事を決めればうまく行く。少数意見は無視すべし。」(2020.1.3)
次の文もマッカーサーの日本での活躍を称賛しているようだ。
老兵・マッカーサーはなぜ「日本は自衛の戦争だった」と証言したのか…
連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサーだが、米国での人気は絶大で、ニューヨークやシカゴなどで行われたパレードには総勢数百万人が集まった。
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」
1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。
後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」にこう記した。
「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼の言葉は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』と語った…」
8日前の11日、マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。人生の黄昏を感じさせる演説だが、心中は闘争心でみなぎっていた。
「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」
「もし原料供給を断ち切られたら100万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」
会場がどよめいた。証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。
もっと言えば、5年8カ月にわたり日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。
この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領への夢は潰えた。
なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。
日本の「自衛戦争」を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。だが、マッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかを紐解くと答えが見えてくる。
マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国(中華人民共和国)という共産主義国の脅威を痛感した。
朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。
ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソと徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺したこともあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。
これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。
マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。
「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」
マッカーサーはこうも語った。これは「米国は戦う相手を間違った。真の敵は日本ではなくソ連や中国共産党だった」と言っているのに等しい。
マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。「自衛戦争」発言は、自らの戦略の優位性を雄弁に語るうちにポロリと本音が出たとみるべきだろう。
他にもマッカーサーは重要な証言を残した。
民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と称えたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」
「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」
それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。
別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。
このように3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。
「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」
ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。「日本人の柔軟性」をよい意味で少年に例えたといえなくもない。
日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、1953年に第34代大統領に就任した。
1964年4月5日マッカーサー84年の生涯と閉じる。元首相・吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。昭和天皇も米大統領宛に弔電を打った。葬儀は米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。マッカーサーはやはり欧米人で初めてで最後の天皇だったのかもしれない。(2020.1.5)
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【日系人の強制収容所】
日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。
ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。
原子爆弾の開発
1945年8月、人類史上初、世界で唯一核兵器が実戦使用された。
8月6日 広島市 広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイ
8月9日 長崎市 長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマン
原子爆弾の開発は、E=mc2、すなわちわずかな質量が膨大なエネルギーを生み出すという発見から生まれた画期的な殺戮兵器である。ナチス支配下で米国に亡命して来た著名な科学者達がルーズベルト大統領に進言して開発が進められた。確かにドイツでも日本でも並行して開発が進められていたことは公然の秘密である。日本では仁科芳雄等が中心となって研究開発が進められていたが、敗戦後には原子力に関係する施設は米軍によって秘密裏に完璧に破壊された。日本のノーベル賞学者は湯川、朝永は仁科の弟子で、以後日本の物理学者らは専ら理論物理の研究を中心に行っていくことになる。
ドイツが降伏し、日本も降伏寸前の時点では、核兵器の破壊力から投下を中止する意見もあったが、ルーズベルト死去の後を継いだトルーマン大統領の決定で投下が実施された。更に、第三の原子爆弾を投下することも計画されていたがトルーマンによって中止された。ルーズベルト大統領は、日系日本人の捕虜収容所を進めた張本人、やっていることナチスのユダヤ人捕虜収容所と何ら変わりがない。はじめからドイツには落とすつもりはなかったのかも。
その後朝鮮戦争では、マッカーサーは原爆の使用を提言するが、トルーマンはこれを許さず、38度線にこだわり、また、今まで支援してきた蒋介石の中華民国政権の梯子をはずし、共産党の大陸支配を容認する。この結果、金日成が朝鮮解放の英雄として北朝鮮の支配を確立し、毛沢東も米国・日本から中国を解放した英雄として支配権を確立。その後進んでいく東西冷戦もこの時から想定されていた筋書通り展開のように思われる。
光州事件
光州事件(こうしゅうじけん)は、1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地であった光州市(現:光州広域市)を中心として起きた民衆の蜂起。5月17日の全斗煥らのクーデターと金大中らの逮捕を契機に、5月18日にクーデターに抗議する学生デモが起きたが、戒厳軍の暴行が激しかったことに怒った市民も参加した。デモ参加者は約20万人にまで増え、木浦をはじめ全羅南道一帯に拡がり、市民軍は武器庫を襲うと銃撃戦の末に全羅南道道庁を占領したが、5月27日に大韓民国政府によって鎮圧された。この事件はお隣の韓国での事件で日本では当時どのように伝えられていたかだが、現在に日韓関係を考える上でも重要で、日本史の一部としても取り入れたい。
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光州広域市(クァンジュこういきし、광주광역시)は、大韓民国の広域市。朝鮮半島の南西部、全羅南道に八方を囲まれる形で位置しており、過去には全羅南道の道庁所在地だったことがある。人口は約147万人。
光州広域市は経済・行政・文化の中心都市として、光州・全羅地域を管轄する官公署と多くの企業の本部と支社などが置かれている湖南地方の中心の役目をしている。昔から光の町、光の都市と呼ばれる。
光州学生事件、光州事件に象徴される「民主と人権を象徴する都市」として知られる。
京畿道にも同音の地名が存在するが漢字表記では広州市であり、混同に注意。
概要
韓国では、朴正煕大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが続いていた。しかし、軍部では維新体制の転換を目指す上層部と、朴正煕に引き立てられた中堅幹部勢力「ハナフェ(ハナ会・一心会)」との対立が表面化した。
1979年12月12日、保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握した(粛軍クーデター)。粛軍クーデター後も全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥が率いる新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した(5・17非常戒厳令拡大措置)。金大中は全羅南道の出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が事件発生の大きな原因となっている。また、鎮圧部隊の空挺部隊も、かつては韓国軍のエリート部隊であったが、全斗煥の警護部隊的な位置づけに格下げされ、兵士たちには鬱憤がたまっていた。
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発端は、朴正煕大統領の暗殺。日本贔屓であるだけでなく、日本の経済成長を学んで漢江の奇跡を成し遂げ、現在の韓国経済の繁栄の礎を造った立役者であったはずだ。ただ、強引で独裁的な手法は、国民、特に支配階級である両班(양반〈ヤンバン〉)層には嫌われていたはずだ。朴正煕大統領個人の能力で成長を続けて来た韓国にとって、今後の国の在り方を求めて政権内部で壮烈な戦いが来る広げられることは、その後の歴史が示している。
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韓国はかつて一度だけ、朴大統領の父、朴正煕大統領の時代に極秘に核開発を進めていた経緯がある。だが、1979年10月26日に側近の金載圭・中央情報部(KCIA)部長に暗殺されてしまった。暗殺の背後に「米国の影」がちらついていたという見方もある。
確かに安重根の伊藤博文の暗殺とは全く、様相が異なる。
これ以降、韓国の政権は大きく反日に舵を切る。日本も原子力発電に拘るのは、将来独自の核を持つ必要性を真剣に考えているからか。
北朝鮮にだけ核開発を許し、わざと敵対するように仕向け、日本と韓国を脅し続ければ、両国は何時までも対米従属を続けざるを得ない。北朝鮮という国自体が米国の圧力であのような国家として成立しており、あのような役割を演じ続けさせられている気の毒な国だという認識を持つことが必要だ。
日本でも田中角栄がロッキード事件で失脚させられるのも米国の意向とも考えられる。
5月18日、光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊とこれに抗議した学生が自然発生的に衝突した。軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、また翌19日にはデモの主体も学生から激昂した市民に変わっていった。市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦した。21日に群集に対する空挺部隊の一斉射撃が始まると、市民は郷土予備軍の武器庫を奪取して武装し、これに対抗した。戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。
韓国政府は抵抗する光州市民を「スパイに扇動された暴徒」であるとした。 韓国メディアは光州で暴動が起きていることを報じた。海外メディアは、ニューヨーク・タイムズのヘンリー・スコット・ストークス東京支局長を始めとして、金大中は「処刑されるべきではない」との社説を掲げ「民主化運動の闘士」であるとの後押しを行った。また、ドイツ公共放送(ARD)東京在住特派員であったドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーター(ドイツ語版、朝鮮語版)が事件を報道した。
***金大中
地元の有力者などで構成された市民収拾対策委員会は戒厳軍側と交渉するも妥結に至らなかった。市民たちは武器を手に入れると韓国軍を相手に銃撃戦を行い、全羅南道道庁を占領した。指導部は闘争派と協商派に分かれて分裂した。5月26日、市民軍は記者会見でアメリカが介入すれば流血事態は阻止できると主張するとともに、同志は死ぬ準備が出来ていると発表した。結局、一部闘争派を残して自主武装解除を行い、この情報から市民に占拠された全羅南道庁に対する鎮圧命令が下った。5月27日、市民軍の先頭に立って武器倉庫を攻撃したユン・サンウォンを含む市民軍には射殺されるものもあり、韓国軍、警察隊にも死傷者を出しながら鎮圧作戦は終了した。光州市に投入された総兵力数は2万5千人に上った。1980年9月17日、金大中に死刑判決が下された。
当時、事件は「北朝鮮の扇動による暴動」とされたが、粘り強い真相究明の動きの結果、1997年に国の記念日となり、2001年には事件関係者を民主化有功者とする法律が制定。韓国の近代史でもっとも大きな事件の一つ、かつ韓国における民主主義の分岐点となった1987年6月の6月民主抗争の原動力となった。その一方で、2010年代においても韓国では当時の韓国政府と同様に北朝鮮の関与があったとする複数の報道もなされているが、それに対する非難の他、2017年1月に機密解除されたアメリカ中央情報局(CIA)の機密文書では北朝鮮の関与を否定するなど、事件の原因について対立する説がなされている。金大中を支持していたニューヨークタイムズのストークス記者は、当時は金大中に騙されていたと回想している。つまり、未だに真相は全く解明されていない。
後の民主化への影響
当時の韓国国内では、全斗煥による保安司令部が、マスコミなどの情報も全て統制していたため、光州事件の実態について国民に説明される事はなかった。しかし光州市民らによって徐々にその悲惨な実態が明るみに出るにつれ、反独裁民主化運動の理念的基礎となっていった。この時期の民主化運動世代は光州世代とも呼ばれ、彼らの活動にも大きな影響を及ぼしている。この流れは、大統領直接選挙制を求めた大規模な民主化運動である六月抗争(1987年)に繋がっている。
また全斗煥や盧泰愚など、運動を弾圧した新軍部勢力の中心人物の多くが慶尚道出身であったため、全羅道における反慶尚道感情が強化され、民主化後の韓国政治を左右する地域対立を悪化させる一因となったことを指摘する声もある。
事件中、韓国軍の作戦統制権を持っていた在韓米軍のジョン・A・ウィッカム司令官が韓国軍部隊の光州投入を承認し、アメリカ政府も秩序維持を理由にこれを黙認したため、アメリカへの批判が起こり、韓国人の対米観が大きく見直されることとなった。
盧泰愚大統領の時代には、事件当時の鎮圧軍司令官たちを追及する聴聞会が開かれた。また「光州民主化運動関連者補償等に関する法律」が制定され、犠牲者・負傷者に対する補償金が支給された。
金泳三大統領は就任後に、光州事件を「五・一八民主化運動」と規定する談話を発表し、各種記念事業の実施を宣言した。1995年には韓国国会で「五・一八民主化運動等に関する特別法」(五・一八特別法)及び「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、光州事件及び軍事反乱などに対する公訴時効を停止した。1997年4月、大法院はこの特別法を根拠として、全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領に実刑判決及び追徴金を宣告した(同年12月に金大中大統領の特別赦免により釈放)。
金泳三、金大中、盧武鉉とつづく文民政権で、光州は民主化運動の国家的聖地となった。現在、光州市内には5・18記念墓地、5・18記念公園など民主化運動を記念する施設や記念碑等が、市内のあちこちに点在している。しかし李明博は大統領就任直後に行なわれた2008年度の記念式典こそ出席したものの、2009年以降の慰霊祭には出席していない。
2004年1月、ソウル高等法院刑事3部で開かれた宣告公判にて裁判部は1980年に内乱陰謀で死刑判決が下された金大中に対し無罪を宣告した。裁判部は「被告人の内乱陰謀事件は、全斗煥などの憲政秩序破壊犯行を阻止したり、反対したことで、憲法の存立と憲政秩序を守護するための正当な行為だとするものであるため、再審継続部分は刑法第20条によって、無罪を宣告する」ことを明らかにした。判決を受け、金大中は裁判部の迅速かつ公正な対応に感謝を述べると共に、5・17非常戒厳令拡大措置について「新軍部の反民主的な行動でした」とし「新軍部に反旗をした(私の)行動に対して無罪を決定してくれた事は、国民と歴史が勝利するという事を改めて悟るようにしてくれた」「自由な司法部と独立した司法部が健在しなければならず、このような間違った裁判がわが国で二度と起こらないようにしてくれることを願う」とする旨のコメントを述べた。
2017年5月18日、自身も光州事件経験者である文在寅大統領は、5.18民主化運動37周年記念式における演説で、「文在寅政府は光州民主化運動の延長線上に立っています。」「新政府は5.18民主化運動とろうそく革命の精神を仰ぎ、この地の民主主義を完全に復元します。光州の英霊たちが心安らかに休めるよう成熟した民主主義の花を咲かせます。」「光州精神を憲法に継承する真の民主共和国時代を開きます。」「5.18精神を憲法前文に含める改憲を完了できるようこの場を借りて国会の協力と国民の皆様の同意を丁重に要請します。」と述べた。また、大統領選挙活動中、憲法前文に光州事件の民主化運動の精神を盛り込むことを公約していた。
2020年5月17日、「ソウル駅回軍」に参加したため、5月18日当日に清涼里警察署に収監されていた文在寅大統領は光州文化放送のインタビューで、「当時の学生会長団の決定を非難する考えは全くないが、ソウルの大学生たちが民主化を要求する大々的な集会を行うことで、軍が投入される口実を提供したが、決定的な時に退却する決定を下したことにより、光州市民は本当に孤立して戒厳軍に立ち向かうことになった」と、いまだに大きな罪悪感を抱いていることを述べた。なお、当時に「ソウル駅回軍」に参加し、のちに政治家になったのは文大統領以外に、柳時敏(当時はソウル大学総学生会代議員議長)や沈在哲(当時はソウル大総学生会長)などがいる。
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大韓航空機爆破事件
チョット古いニュースからの引用
今も、北朝鮮が大韓航空機爆破事件への関与を否定している中、真実を話し続けることが、生き残った自分の使命であり責任だと語る金賢姫氏。今回の再調査ついて、そして彼女の見た田口八重子さん、横田めぐみさんの様子について、じっくりと話を聞きました。
2014年09月08日 10時09分 JST | 更新 2014年11月07日 14時12分 JST
1987年11月に起きた大韓航空機爆破事件。その実行犯の一人だった金賢姫氏が服毒自殺に失敗し、逮捕されたことによって、北朝鮮による恐るべきテロ行為の全貌と、さらに彼女たちスパイの日本人化計画に関与したとされる日本人拉致被害者たちの存在が明らかになりました。
今も、北朝鮮が大韓航空機爆破事件への関与を否定している中、真実を話し続けることが、生き残った自分の使命であり責任だと語る金賢姫氏。
北朝鮮による拉致被害者などの再調査の結果報告が目前に迫っている今、改めて「報道ステーションSUNDAY」は、今回の再調査ついて、そして彼女の見た田口八重子さん、横田めぐみさんの様子について、じっくりと話を聞きました。
覚えているだろうか。
大韓航空機爆破事件は、1987年11月29日に大韓航空の旅客機が、偽造された日本国旅券を使い日本人に成り済ました北朝鮮の工作員によって、飛行中に爆破されたテロ事件である。
日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件(1987年)を指す場合と、1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件のことを指す場合に分かれる。
事件当日の大韓航空858便(使用機材:ボーイング707-320B) 。
飛行予定:イラク・バグダード・サダム国際空港(始点)発→UAEアブダビ・アブダビ国際空港→タイ王国バンコク・バンコク国際空港→韓国ソウル特別市金浦国際空港(終点) この便はバンコクへの寄港をテクニカルランディング扱いにしていたため、バンコク - ソウル間もしくはバンコク - アブダビ間のみの利用は不可だった。
乗員:11名、乗客:104名 。乗客のほとんどは中近東への出稼ぎから帰る韓国人労働者。
大韓航空858便は、アラブ首長国連邦アブダビを出発。バンコク国際空港に到着するはずが、ミャンマー(この時はまだビルマ)ラングーンから南約220km海上上空の地点で、午前11時22分に旅客機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解。
機長は、遭難信号や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死したらしい。乗客・乗員115人全員が、行方不明(12月19日に全員死亡と認定)となる。
捜索活動が続く。 大韓航空機の捜索には、ビルマとタイの両政府当局が当たった。タイ王国軍による捜索隊を組織し気象状況に858便が消息を絶つ迄の経過から「ビルマとタイの国境付近のジャングルに墜落」と推定し一帯に派遣されたが、実際にはアンダマン海上に墜落していた。
人工衛星の測位システムや当時のアンダマン海近辺の航空レーダーサイトの整備が貧弱であったことで、迅速に事故発生地点を把握することが出来ず(2014年のマレーシア航空370便墜落事故で再び問題となった)、墜落地点と推定されたビルマ側は、反政府勢力カレン族が支配する紛争地帯で政府の捜索は不可能、またカレン族が国境を侵犯し武装闘争を繰り広げていたため、捜索隊を編成指揮したタイ側も十分な捜索活動は尽せなかった。
12月10日になってアンダマン海から事故機の機体と思われる残骸が、海上や海岸の漂着物などで次々発見、洋上の遭難が確実視されたが、墜落地点の特定は、外交関係から1990年まで持ち越された。後述「被疑者の拘束」で、実行犯が確保される一方で、機体が確認されていないにもかかわらず『爆破』と断定したことは、捏造・陰謀説が一部から指摘される一因になった。
改めて推定された遭難地について、ビルマ国内紛争地帯沿岸に近い海域で、外交関係事情から捜索は限定的なものに留まり確定されないまま長期化し、漂着や現地の漁船により、858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部が偶発的に回収された。これらにボーイング707と確認できる構造原形をとどめたものは数多く、機体の残骸が大韓航空858便であることは明らかであったが、ブラックボックスは発見できず、事件から3年後の1990年3月10日に海底から回収した胴体上部外板一部に、大韓航空がオフィシャルエアラインとなっていたソウルオリンピックのロゴが記され、これがHL7406号機特有のもので858便の残骸と断定されるまでかなり長時間を要したとの。
また搭乗者の完全な形での遺体は捜索が後手に回ったことや、インド航空182便爆破事件など他の多くの空中分解事故のケースと同様に完全なものは1人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部がDNA解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた痕跡があり、爆弾起爆から着水までに機体が損壊中何らかの引火から機体の大半が火炎に包まれていたことを裏付けていた。韓国政府の管轄部所では爆弾の位置から機体が空中分解し水上に墜落するまでの過程について、メーカー協力のもと分析を行い報告書を作成。火災の発生と続いて起こった損壊は仮定範囲の記載に留めた。
当初、空中分解の原因は事故機となったボーイング707-320BのHL7406号機(1971年製造、製造番号:20522/855)固有の欠陥が原因と見られていた。このHL7406機は当初は大統領外遊時の特別機として韓国政府が使用していたが、大韓航空に移管され主に国内線で運航されていた。だが事件の10年前の1977年9月に釜山で胴体着陸事故を起こし、事件の2か月前の9月2日にはソウルの金浦国際空港でランディングギアが出ずにまたしても胴体着陸する事故を起こしており、修理を終えて運航復帰した直後に発生したためであった。しかし実際には爆破テロであったことが後に判明することになる。
一方で、ソウルの韓国放送公社によれば、事件発生後に大韓航空幹部が「ハイジャックされた可能性がある」と語ったという。だが、それを裏付ける証拠はなく、大韓航空はビルマ政府に情報収集を依頼した。後に爆破したと断定されたあとで「携帯できるような爆発物では航空機の壁に1mの穴を空けることしか出来ず空中爆破は出来ない」という、旅客機の航空事故に関する知識の乏しい軍事評論家の指摘もあったが、これは与圧されていない地上で爆発した場合であり、過去の与圧されている航空機の爆破事件において、1万メートル程度の巡航高度を飛行中の旅客機に亀裂や穴が空くと、そこから与圧された空気が噴出することで、風船が破裂する様に機体が空中分解した例が多数ある(例:コメット連続墜落事故 )。
実行犯の拘束
事件直前、バグダードで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した乗客は15人いたが、その中に日本人男女各1名がいた。この2名は、日本の旅券を持っており、30日午後にバーレーンのバーレーン国際空港にガルフ航空機で移動し、同国のマナーマのホテルに宿泊していた。韓国当局も搭乗名簿から、この「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っており、当地の韓国大使館代理大使がその日の夜に接触した。
事件直前の1987年11月21日に、東京で警察に偽造旅券を所持していたため逮捕された日本赤軍の丸岡修は、翌年に迫ったソウルオリンピックの妨害工作をするために、ソウル特別市行きを計画していたことが明らかになっており、中東を本拠地とする日本赤軍の事件への関与が疑われていた。そのため大韓民国中央情報部は、早い時点で2人をマークしていた。
また日本国政府当局は「日本人による反韓テロ事件」を懸念していた。在バーレーン日本大使館が入国記録を調べたところ、航空券の英文の「姓」が抜けていた。日本では男女問わず姓を名乗る事が法律で定められているため違和感を覚え、女の旅券番号を日本国外務省に照会したところ、徳島市在住の実在する男性に交付されたパスポートと同一であることが判明、偽造であると確認した。
2名は、バーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていた為、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、出国するのを押し留めた。日本大使館に身柄拘束権が無かった為、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸うふりをして、その場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺した。
現場に居た、日本人外交官であった砂川昌順による『極秘指令~金賢姫拘束の真相 』(NHK出版)によれば、女はマールボロに隠された青酸系毒薬のアンプルを、警察官から奪い取り自殺を図ったが、バーレーンの警察官のハッサンが飛びかかり、直ちに吐き出させた為、完全に噛み砕けず青酸ガスで気を失って倒れただけに留まった。
男は死亡したが、同伴の女は一命を取りとめ、3日後に意識を取り戻した。自殺した男が所持していたパスポートの名義の男性は東京都在住の実在する人物であったが、彼のパスポートは東京にあった。彼は「宮本 明(みやもと あきら)」を名乗る男の全額費用持ちでフィリピンのマニラとタイのバンコクに1983年(昭和58年)秋に旅行したが、その翌年に「宮本」に、パスポートと実印を1か月ほど貸していたことが判明した。
「宮本」は警視庁が北朝鮮工作員を摘発した西新井事件に関係していた、北朝鮮側工作員の李京雨であることが判明し、事件への北朝鮮の関与が疑われるようになった。また、自殺した男が所持していた日本製の煙草の製造年月は4年前の「(昭和)58年4月」となっており、既に3年前には全品売り切れであったうえに賞味期限も過ぎていたため、「宮本」が逮捕前に作った「小道具」の可能性が高いとされる。
当初、偽造パスポートが日本人名義であり、日本国政府もバーレーン当局に捜査協力を求めていたがパスポート偽造は日本国内法の「旅券法違反ないし偽造公文書行使」には該当するが、韓国側の大韓航空機爆破容疑という重大な大量殺人テロと比較して、身柄引き渡しを受ける強い法的根拠がないと判断したとされ、身柄引き渡し請求権を放棄。
この判断は、当時の内閣安全保障室長である佐々淳行によれば、韓国への引渡しは在バーレーンの日本大使館員の判断ではなく、佐々の意見具申に基づいた「総理大臣官邸判断」であるとのこと。なおモントリオール条約では、航空機上で発生した事件の裁判権は旗国主義により、航空機が登録されていた国家にある(つまり韓国?)。
韓国への引き渡し
バーレーン警察による取り調べが行われた後、女の身柄は12月15日に韓国へ引き渡された。その時彼女は、自殺防止用のマスクを口に被せられていた。ソウルの国家安全企画部で尋問が行なわれたが、女は当初日本人になりすまし、ついで中華人民共和国の黒竜江省出身の「百華恵」であると供述、容疑を否認し続けた。
しかし、取調官からの連日の事情聴取の中で、日本人や中国人であるとする説明の数々の矛盾点を指摘された上、「日本に住んでいた時に使っていたテレビのメーカーは?」という質問に、北朝鮮ブランドの「チンダルレ(ツツジの意)」と答えて捜査員にも笑われる事態となり、また捜査員に夜のソウル特別市街へ連れ出された際、北朝鮮の説明とは全く異なる繁栄ぶりに驚愕し、ついに北朝鮮工作員の金賢姫であることを白状し、航空機爆破の犯行を自白した。
なお金賢姫の供述によれば、爆発物は時限装置付きのプラスチック爆弾が入った携帯ラジオと液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。爆弾は2人の座っていた機体前方の7Aと7B近くのラックの中に入れており、爆発物は彼女がバッグの中に入れて機内に持ち込んだと供述した。
2019年3月31日、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時の全斗煥政権が大統領選挙を前に、金賢姫を韓国に移送しようとしていたことが明らかになった。
実行犯の背景
実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)であった。2人は10月7日に金正日の「ソウルオリンピックの韓国単独開催と参加申請妨害のため大韓航空機を爆破せよ」との親筆指令に従いテロ行為に及んだもので、父娘であると偽りテロ実行のために旅行していた。
韓国当局の取調べによれば、2人は11月12日に任務遂行を宣誓し、ソ連の首都モスクワへ朝鮮民航(現:高麗航空)で北朝鮮政府関係者2名とともに向かい、そこでアエロフロート便に乗り換え当時社会主義国家だったハンガリーに11月13日に北朝鮮のパスポートで入国した。そこで6日間滞在した後にハンガリーから隣国オーストリアに11月18日に陸路入国した。ハンガリーへの2人の入国はハンガリー政府も公式に認めている。この時まで金賢姫は別人名義の北朝鮮旅券を使い金勝一は北朝鮮外交官旅券を使っていたが、オーストリア国内で日本の偽造旅券を使い始めた。6日間滞在したあとウィーンから11月23日発のオーストリア航空621便でユーゴスラビアのベオグラードに移動して5日間滞在した。2人はベオグラードの北朝鮮工作員のアジトで爆発物を受け取ったとされる。
11月28日にベオグラードからバグダードへイラク航空226便で移動し、その日のうちにバグダードで大韓航空858便に搭乗していた。なお、2人が機内に持ち込んだのは酒瓶に入った液体爆弾(「PLX」と推測される)と、豆腐大の「コンポジション4」というプラスチック爆弾と時限爆破装置を仕込んだ日本製トランジスターラジオ(パナソニック製AM/FMラジオRF-082型を改造したもので、実際にラジオとして動作する)であった(トランジスターラジオの時限爆破装置は電池がなければ作動できない構造)。
ベオグラードでイラク航空に搭乗した際には、当時イラン・イラク戦争の最中でありイラクが戦時体制にあることから電池を取り上げられていた。そのため大韓航空機に搭乗する際にはイラクの空港職員に対して「個人の持ち物まで没収するのか」と金勝一が抗議し、電池は返却されたという。しかし、「当時イラン・イラク戦争の最中であり、厳戒態勢が敷かれていたイラクの空港職員が、乗客の抗議によって規則を曲げるなどありえないことである」との意見を元に、この証言は金賢姫の捏造との指摘がある。なお、当時のサダム・フセイン政権のイラクはイランへの支援を理由に1980年から北朝鮮と国交断絶状態にあった。
また、2人がアブダビで降機した後に、機内のハットラックに(手荷物に隠された)爆発物が残されていたのを客室乗務員が発見出来なかった事を疑問視する声もあり、「忘れ物の確認作業を怠った可能性がある」とも言われているが、この便の様に複数の経由地を経由し、各経由地で乗客が乗降しつつ最終目的地に向かう便の場合は、経由地で機内に手荷物を残したままトランジットエリアに行く乗客は珍しくない。経由地でハットラックなどに手荷物が残っていてもそれが忘れ物であるとは認識しない可能性が高い。また忘れ物として手荷物を発見していても、それが爆発物である事には気付かない可能性もあるが、いずれにしても、この事件で客室乗務員も全員殉職している為真相は不明である。
なお、後述の2010年(平成22年)放映の『大韓航空機爆破23年目の真実〜独占金賢姫11時間の告白&完全再現ドラマ・私はこうして女テロリストになった…』によれば、大韓航空機でアブダビに到着した乗客は一旦全員機外に出されている。この時2人はローマまでの航空券を所持しており、脱出用にアブダビから直接ローマに向う航空券と撹乱用にバーレーンに向ったと見せかけるための実際に使用した航空券も持っていた。2人は二つの航空券を使用することで「足がつかないように」するつもりであった。しかしアブダビのトランジットエリアで航空券のチェックが行われた。このチェックは事前に北朝鮮当局が知らなかったことであった。そのため撹乱用の航空券を使わざるを得なくなり、2人はやむなくバーレーンに向い、次のローマ行きの便まで滞在する破目になったという。そのためバーレーンで足止めされていなければ北朝鮮に逃亡していた可能性が高い。
「金賢姫は外交官の父を持つ北朝鮮では比較的恵まれた家庭出身であった」とされており、北朝鮮から亡命したコンゴ駐在大使館員高英煥は、駐アンゴラ水産代表部にいた金賢姫の父親は事件直後に本国に急遽呼び戻されたと語っている。平壌外国語大学日本語科に在籍中に北朝鮮の工作員としてスカウトされ、日本における謀略活動のための訓練をされており、北朝鮮工作員の海外拠点であったマカオ(当時はポルトガル海外県)に何度も滞在していた。「李恩恵」と呼ばれる女性(日本から北朝鮮により拉致されたとされる田口八重子とみられている)に、日本語教育や日本文化の教育を受け、「蜂谷真由美」という日本人名を使用し、日本語を巧みに使って日本人になりすましていた。
事件の動機
現在も北朝鮮は事件への関与を否定しており、韓国による自作自演を主張しているが、この事件の指導と総指揮は、当時既に金日成の後継者に指名されていた朝鮮労働党書記金正日が執ったと言われている。
その主な目的は、「大韓航空機の原因不明の空中分解」によって大韓航空のみならず韓国政府の国際社会における信頼低下を引き起こし、その結果として翌年にソウルで行われるソウルオリンピックの妨害を行うことであったと言われている。具体的には北朝鮮の同盟国であった東側社会主義諸国にオリンピックをボイコットさせる動機のひとつにしようというものであった(他にもオリンピックそのものを中止させるためともいわれているが、効果は疑問である)。これはオリンピックのエントリー締切が1988年1月17日であり、妨害するならこの時期が最後の機会であったためである。
しかし、金賢姫がハンガリーに北朝鮮パスポートで入国し、そこから日本の偽造パスポートで出国したことから、ハンガリー当局は北朝鮮による謀略があったと判断し、当時の東側陣営の盟主であったソ連へ報告したため、東側社会主義国全体からも「卑劣なテロ国家」として認識されるようになった。そのため、ソウルオリンピック参加を曖昧にしていた、ソビエト社会主義共和国連邦および中華人民共和国は正式に参加表明、他の東欧諸国も追随し参加を表明した。結局参加しなかったのは北朝鮮ぐらいで、目論見は完全に裏目になった。
*記憶には無いけど確か北朝鮮はこの時は不参加だったようだ。ソ連、中国が不参加の可能性があったのかな。では、台湾は?
その後、北朝鮮は米韓合同軍事演習を「戦争の瀬戸際だ」と喧伝し、有事の際の支援を要請したが、中ソ両国から反感を買った。翌年の6月には金日成が中ソ両国を訪問したが、その場で「これ以上オリンピックの妨害工作をするのであれば、北朝鮮が1989年に開催する第13回世界青年学生祭典には参加しない」と、圧力をかけられたという。
事件の慰霊碑
ソ連のタス通信は当時「事件は事実である」と伝えたうえで、「実行犯の自白のみが証拠であり、韓国当局による捏造説とする見方もある」と報道したが、北朝鮮の主張を全面的に擁護するものではなかった。以上のことから、北朝鮮は当初の目的とは異なり、事件に対して直接的な批判こそされなかったが、建前上は同盟国である他の社会主義国陣営からも顰蹙(ひんしゅく)を買ったといえる。なお、ソ連は事件及びソウルオリンピック後の1990年に、中華人民共和国は1992年に北朝鮮の激しい抗議を無視し、韓国との国交を樹立した。
*ソ連、中国は朝鮮半島の分断を認めていなかったのかな。でも、日本は未だに北朝鮮との国交を樹立していない。
事件後に当事国のみならず世界各国により北朝鮮への非難が巻き起こったものの、北朝鮮が意図した「韓国の信頼低下」という現象は起こらず、翌1988年には殆どの東側諸国や非同盟中立諸国も参加する形でソウルオリンピックが開催された。またテロ事件は日本人や韓国人、レバノン人などに対する拉致問題やラングーン事件に並んで北朝鮮による国家犯罪の典型として一般的に認識され、北朝鮮は逆に世界中から非難や信頼低下を招き、国際的に孤立することになった。
事件後の北朝鮮
北朝鮮は現在に至るまで事件の関与を否定しているため、事件の謝罪を行っていない。ただし日本では、服毒死した金勝一の偽造日本国旅券作成の過程で、日本在住の北朝鮮工作員が背乗りに関与したほか、日本人拉致被害者の田口八重子に関する金賢姫の話を「信憑性があるもの」と受け取られている。
金日成の母方の従兄弟で、北朝鮮の姜成山前首相の娘婿である、亡命者の康明道の著書『北朝鮮の最高機密』によれば、事件後の1988年当時、平壌は金賢姫の話題で持ちきりであった。労働新聞は連日、韓国の国家安全企画部が金賢姫をでっちあげ、事件を捏造していると報道した。しかし、康明道は平壌外国語大学日本語科出身の張チョルホの話として、「金賢姫が平壌外国語大学日本語科に在籍していたが、調査部が連れて行った」と記している。 また、北朝鮮の元工作員・安明進の著書『北朝鮮拉致工作員』によれば、北朝鮮当局は金賢姫が「北朝鮮の工作員ではない」と最後まで否定したが、金正日政治軍事大学では、金賢姫が対外情報調査部に所属する工作員であることを教官も生徒も誰もが知っていたとのことである。
その後、北朝鮮での南北赤十字会談(1972年)のとき、張基栄に金賢姫が花束をささげたのは捏造で、本当は私がささげた、と主張する女性が平壌に現れ、朝鮮総聯を経由して録画ビデオがマスコミに配られる事件が起きた(もっともその映像で骨格などの照合により、名乗り出た女性こそ捏造であったことが即座に解明された)。この事件は、自殺に失敗はしたが青酸ガスのため3日間意識不明になるなど命をかけて任務を遂行した金賢姫に、北朝鮮が利用するだけ利用して容赦無く捨てたことを認識させ、完全に転向するきっかけとなった。
安明進によれば、金正日は金賢姫が大韓航空機爆破には成功したものの自殺に失敗し、韓国に連行され北朝鮮の工作員であることや破壊工作の詳細を自白したことを知ると激怒した。まず、対外調査部長は解任され、前モスクワ駐在大使であった権熙京が後任になった。また、金正日が「いつでも女性が問題を起すのだ。女性工作員の数を大幅に削減しろ!」と命令し、女性工作員の訓練地区であった10号棟双鷹地区を完全に閉鎖した。一時期は北朝鮮のスパイ組織である3号庁舎で女性工作員をまったく採用しなくなった。
さらに、大韓航空機爆破事件から3年後の1991年6月、金賢姫の手記『金賢姫全告白 いま、女として』が発行されるや、日本語版が北朝鮮に輸入された後朝鮮語に再翻訳され、教官や安明進を含む大学関係者が読んだとされる。金正日も同書を読み、金賢姫の転向は大学の教育が間違っているせいだ、と指摘した。金賢姫は「韓国は乞食と娼婦があふれていると教育されてきたが、実際の韓国の豊かさや自由を見て北朝鮮当局に騙されていたことを悟り転向した」と綴っている。その結果、金正日政治軍事大学では、韓国の実情を具体的に生徒に知らせる教育が始まった。
一方で、安明進のように、北朝鮮の現状に疑問を持つ工作員を生むことになった。また金賢姫が死刑判決後特赦を受けたことも、亡命への希望を持たせることとなったとか。
金賢姫のその後
金賢姫は韓国における1年間の取調べの後、「トランジスターラジオにセットした時限爆弾で858便を爆破した」と認定され、韓国の国家保安法、航空法、航空機運航安全法違反で1989年2月3日に起訴された。韓国の裁判所は一・二審とも死刑判決を下し、1990年3月27日に確定した。
しかし盧泰愚大統領は「事件の生き証人」という政治的な配慮から、事件遺族の抗議の中、4月12日に特赦した。また5月には内外の記者との会見が行われ、自己批判と北朝鮮の体制批判をした。この時に飛び出した話の一つが前述の「李恩恵」の話であった。その後、1997年に韓国国家安全企画部(現・国家情報院)部員と結婚し子供も授かったほか、自伝も出版した。なお金に対し日本では「元死刑囚」ないし「元工作員」という呼称が付けられて報道されている。
1997年以降は、公式の場から姿を消していたが、これは盧武鉉など革新政権が、北朝鮮に融和的な太陽政策を採っており、金の存在を目立たなくするための措置との指摘もある。2004年12月、ソウルの検察当局は訴訟を受けて、事件関連記録のうち、個人情報関係を除く全てについて情報公開を決定した。これについて金は、北朝鮮の工作員として関与した事件を否定するようにと、当時の韓国政府からの圧力だったと後に主張している。
2008年には、金が当時の政権によって捏造されたとする説に対して、知人宛の手紙を通じて反論している。この手紙は北韓民主化フォーラムの李東馥代表の手に渡り、11月25日に自身のホームページで内容を公開した。それによれば、金は2003年にある報道番組への出演を要請されたが、当時は盧武鉉政権下で国家情報院といった政府機関や、マスコミが事件捏造説を盛り上げていたこと、前述の番組を放送するテレビ局が政権寄りだったことから、出演すれば事件に関して偽証していると仕立て上げられることを警戒し、出演を拒否したこと、さらに番組への出演を断ったためか、非公開のはずの自宅にマスコミが押しかける嫌がらせを受けたと主張している。
2009年3月11日に、釜山で田口八重子の兄および実子と会談したが、この場において金は「大韓航空機爆破事件は私がやったことだ。北朝鮮によるテロに間違いない」とした後に、一部から出ている捏造説を「残念だ」と一蹴した。また「盧武鉉政権時代に、情報機関の国家情報院に、捏造説を認めるよう強いられていた」という趣旨の発言をして、捏造であったことを認めるように、政府から迫られたと主張している。
*捏造説とは韓国政府の自作自演ということ? 何故韓国政府がそのような捏造をしなければならないのか? 北との関係改善の為?
なお、金は現在に至るまで事件の犠牲者遺族と対面や対話などをしていない。そのため、日本人拉致被害者と会談するにあたり、遺族会が韓国政府に金が事件の遺族に会わないことを非難する申し入れをした。
事件当時、アンゴラ駐在の北朝鮮貿易代表部の水産代表だったとされる金の父一家の消息は事件後不明となっており、強制収容所にいるという説があったが、2012年1月にアジアプレス・ネットワークが伝えるところでは、一家と親しかった脱北者の話として支配階層が居住する平壌から、1988年に日本海側にある咸鏡北道・清津市に、一家は強制移住させられ、現在も厳しい監視下におかれているという。それによれば父と姉は死亡、母は高齢であるが生存しており、大学を中退させられた弟一家が生活を支えているという。
文在寅政権発足後は、韓国国内で従北勢力が活発化したことに伴い、司法もその影響を強く受けることとなり、2018年7月26日には、本事件が全斗煥による自作自演の反共テロであると唱える家族会への批判が「名誉毀損である」として、刑事事件化されたことが報じられた。
陰謀説・捏造説
事件は北朝鮮工作員による犯行という韓国政府の発表に対し、左派系諸団体などによる陰謀ないし捏造であるとする説が唱えられている。一部ではあるが北朝鮮ないし朝鮮総連による当初の主張を受けて、日本社会党(現在の社会民主党)や日韓の一部マスコミなどが「本当に北朝鮮の工作員による犯行だったのか」として、「大統領選挙で与党候補を当選させるために韓国国家安全企画部(現・大韓民国国家情報院)が仕組んだ謀略ではないか」という「自作自演」であるとする陰謀論が主張されたこともある。
日本社会党は長年に渡り北朝鮮の独裁支配政党の朝鮮労働党と友好関係にあったため(その上韓国政府を国家として公認していなかった)、北朝鮮当局の主張をそのまま受けて「北朝鮮は同事件に関与していない」として擁護していた。そのため、同党の井上一成国際局長が北朝鮮当局の事件への関与を認める発言を「問題発言」として撤回させる事態も発生した。一方で北朝鮮と対立関係にあった日本共産党は社会党の一連の北朝鮮擁護の姿勢に対し事件への北朝鮮の関与は明らかであるとして厳しく批判していた。
そうしたなか、日本社会党の機関紙「社会新報」の1988年5月24日付けの紙面は「大韓航空機爆破事件は日韓米とバーレーンの関係国による国際的詐欺である」とすることを韓国の金貞烈前首相が認める「良心宣言」をしたとする報道をした。この記事については裏付け取材を全くしていない虚偽報道であったとして、記事の全面取消しと編集長の更迭が行われた。なお、この報道のニュースソースは韓国政府から反国家団体認定を受けている「韓国民主回復統一促進国民会議」(韓民統)日本支部の機関紙「民族時報」1988年5月21日付けの紙面であったが、更にソースを辿ると朝鮮中央通信が2月に配信した捏造によるプロパガンダニュースであり朝日新聞が「韓国の前首相がこのような発言をする可能性はありえない」とするなど、日韓の報道機関も無視していた記事であった。だが、この社会新報の記事をタイプしたものを板門店で「こういう情報もある」と北朝鮮の記者が配っていた。そのため北朝鮮側も事件に関与していない事を主張する為に虚偽の情報を発信していたといえる。
また日本人ジャーナリストの野田峯雄が1990年に発表した『破壊工作―大韓航空機爆破事件、葬られたスパイたちの肖像』(JICC出版局(現:宝島社))によれば、バーレーンの病院で「担当医師」から「金勝一は瀕死の状態だったが、金賢姫には何の異常もみられなかった」との証言を得たとして、金賢姫は本当に北朝鮮の工作員なのかと疑問とした主張をした。
2003年には、韓国の作家が事件は韓国の国家安全企画部(現・国家情報院)が仕組んだ謀略ではないのかという疑問を呈した小説『背後』を発表、韓国でベストセラーとなった。これは、大きな事件が起きたときに見られる特徴的な陰謀論であり、2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件は「アメリカ合衆国連邦政府の自作自演である」との主張と酷似している(詳細はアメリカ同時多発テロ事件陰謀説を参照)。
そして2005年には、韓国政府が捏造説の真偽を調査し「政治的に利用されたのは事実であるが、事件自体は真実である」という調査結果を公表している。
なお前述のように、1987年当時の「韓国政府の自作自演」による捏造説であるが、韓国の中央日報は、政府から圧力を受けたとする金の主張が真実であれば、前政権の誰かがあおった疑いがあると主張している。なお、韓国では「北朝鮮寄りの理念を拡散させた」場合には、国家保安法によって処罰される可能性がある。しかしながら文在寅政権下では、従北勢力が何らかの批判にさらされる状況下には無く、却って金が「本事件を韓国当局の陰謀である」と唱える従北勢力を批判したことが、名誉毀損として刑事事件化する事態に陥っている。
2020年には、韓国文化放送が、大韓航空858便と推定される航空機の胴体がミャンマーの海底で発見されたと報道し、遺族らは胴体の引き揚げと真相究明を求め、韓国政府も調査に乗り出すことになった。
全く不可解な事件だ。もし、犯人の金賢姫が無くなっていたならば、本当に完全犯罪として事件は闇の中。ただ証拠と言えば本人の自白のみなので、色々な陰謀説が登場する。
しかし、数奇な運命の人である。自殺を図るも奇跡的に助かり、死刑の判決も「事件の生き証人」として特赦にて許される。
なんせテレビ映りの良いそこそこの美人ときている。ニュースのネタとしては最高でマスコミには引っ張りだこだったようだ。家柄はそこそこでエリート諜報員として恵まれた教育を受けて来たようだ。
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