日本の歴史の部屋(続)
日本の歴史の部屋少し大きくなり過ぎました。トピック別に再度分類を試みようかと。
日本の歴史の部屋
日本の歴史の部屋(続)
日本の古代遺跡
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戦国大名
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日本の古代遺跡古代の天皇達
神話の世界
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世界の古代遺跡
日本の古代遺跡
| DNAから分かる日本人の祖先 | 古代の日本の人口 | 巨石文明と昆布 | 沖縄のロゼッタストーン | 星ヶ塔遺跡 | |
| 古墳 | 土器 | 轆轤 | あんぎん | ||
| 稲作 | 稲のルーツ | モグラの穴掘り | 日本最古の鉄 | ||
| 砂原遺跡 | 大平山元I遺跡 | 青谷上寺地遺跡 | 登呂遺跡 | ||
| 原の辻遺跡 | 垣内遺跡 | 十三行博物館 |
DNAから分かる日本人の祖先
DNAから分かる日本人の祖先
祖先と先祖と言うことば良く似ているがどう使い分けるのか?
AIの回答:「祖先」と「先祖」は、どちらも血統や家系において初代や先代の人々を指す言葉です。ただし、「祖先」の方が古い系統を指す意識が強く、文章語的であるのに対し、「先祖」は日常語的です。つまり、基本的にはどちらでもOK。
だから、鯨の祖先は河馬のような生物だった。この場合は、先祖よりも祖先がシックリする。でも、鯨と河馬をいくら詳細に比べてもそんなこと誰も信じられるわけがない。系統進化学という学問があるが、最初は化石を調べるしか手段が無かったが近年DNAを解析することで、祖先と子孫の関係と系統的に明らかにする方法が開発され、それにより今まで常識?とされていたもっともらしい説明が大幅に見直されている。
日本人の祖先探し。探してどうしたいのか? 何時から日本と土地に住み着くようになって、後から大陸や周りの島々から人々が移住して来て、文化が進化?して、今我々がいるのか。この過去への探索の旅は、後半は歴史書や建物など遺跡も多いが、前半は限られた遺跡など資料が不足でほとんど空白の時代とも思われていた。
従来の学説では、大陸→島、人の流れも文化も大陸起源説が中心であった。いや、縄文人は南から列島伝いにやって来た。後からやって来た大陸系の弥生人にとってかわられた。それと、小中華思想等の影響で文明は中国→朝鮮半島→日本という固定観念もあった。ところがこれは大間違いで、相互作用の大きさや途中での地球環境の激変の事実を無視した全くの暴論であったことも実証されつつある。
【遺伝子解析とはどのようなものか】
ハプロ遺伝子とは、複数の対立遺伝子について、どちらの親から受け継いだ遺伝子かを指すハプロタイプ(haplotype)の遺伝子と定義されている。
ハプロタイプは、ミトコンドリアDNAやY染色体DNA、核ゲノムの染色体など、さまざまな遺伝子で構成されています。
このうち、ミトコンドリアゲノムは女系の祖先を遡ることが可能で、Y染色体DNAは男系の祖先を調べることが可能です。これは、古代人の化石を調べなくても現在生きている我々のDNAを調べればできることなのです。
人類の起源はアフリカ、ミトコンドリアゲノムの解析で遡って行くと、ミトコンドリア・イブという一つの型に行きつくというのです。これは、日本人の祖先もアフリカ起源であることは既に異論はない。ただ、最初のホモサピエンスたちが何故、何時頃、どのようにして日本やヨーロッパや南米やオーストラリア大陸まで移動の旅をつづけたのかは大いに疑問が増してくるでしょう。
ミトコンドリアゲノムの解析は今世界中で行われています。日本でも県別単位で細かく調査されているようで、かなりの発見もなされているようです。
一方のY染色体DNA解析も並行して行われており、これの世界分布とミトコンドリアDNAの分布に大きな差があることも分かって来ました。世界各地で民族の交代劇が繰返された証拠とされいます。ざっくりいえば、男の遺伝子は拡散する傾向がある。女の遺伝子は保守的でその場にとどまる傾向がある。島国の日本では民族の交代劇が起こらなかったためか、かなり古いタイプの遺伝型が残されていて、大陸とは異なっていることが分かったようだ。
逆に、大陸中国では民族の交代劇は著しく、初期に黄河文明や長江文明を造った人達は駆逐されて、今では山岳地帯の少数民族になったいる可能性があるらしい。
遺伝子解析は、稲作の起源についても行われていて、日本の稲は中国南方から来た?或いは日本の方が先?或いは別の場所? 少なくとも朝鮮半島に稲作を持ち込んだの倭人達のようだ。中国の文献にも書いてある。朝鮮半島の南の住んでいた人達は倭人であると(魏志倭人伝等)。
これ等の研究成果はもっと公に公表されてもいいと思うけど、今までの日本人の学説や欧米人の歴史観にも多大な修正を迫るものだけに、慎重にならざるを得ないのかも。
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古代の日本の人口
科学的な考古学の発展や遺伝子系統図解析等の進歩により日本の古代社会の人口や経済等が近年急速に解明されつつある。
このグラフを見てみよう。日本の人口は、1万4000年前頃から急速に増え、しばらく一定で、縄文時代と弥生時代の境目で一旦人口は激減する。その後また急激に人口が回復しより人口の多い状態でまた定常化するようだ。
縄文時代の東北地方は現在の亜熱帯地方の気候だったらしく、食料も豊富で人々は争いも無く平和に暮らしていたようだ。
約2500年前から地球の気温は急に寒冷化したようだ。
このグラフでは明確ではないが、7300年前に九州の南で生じた鬼界カルデラの大噴火の影響も極めて重大事件だ。
こちらの表を見ると縄文中期には東日本には人口が25万にもいるのに西日本では1万弱の人口しかない。これは明かに鬼界カルデラの大噴火の影響であって、多くの人達が火山灰の犠牲になり亡くなったのでしょう。しかし、一部の人達は船を使って逃げ出し、東日本や海を渡って朝鮮半島へ逃げ出しことに成功したようだ。
なお、縄文時代の時代区分については諸説があるようで、以下は参考程度。
草創期: 1万7000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前
前期: 7000年前 - 5500年前
中期: 5500年前 - 4400年前
後期: 4400年前 - 3200年前
晩期: 3200年前 - 2400年前(東北・関東地方)
縄文遺跡の分布は圧倒的に東日本が多い理由の一つは鬼界カルデラの大噴火であることは間違いない。では大噴火の前から人口が少なかった?或いは遺跡はあるはずなのにアカホヤ火山灰層に埋もれてしまって隠されている?
【アカホヤ】
鬼界アカホヤ火山灰は、約7,300年前の鬼界カルデラの大噴火に伴って噴出した火山灰。幸屋火砕流と同時に噴出した火山灰のうち、上空に噴き上げられてから地上に降下したものをいう。テフラとしての記号はK-Ah。AKの略称でも呼ばれる。
白色または淡褐色(オレンジ色)を呈し、保水性が無く農業には適さない。
火山灰に覆われた面積は約200万km2、体積は約100km3にもなる。偏西風にのって東北地方まで到達した。九州南部において地下の比較的浅い場所に厚さ約1mの層をなしており、四国、中国地方西南部および紀伊半島においても層として確認することができる。種子島では、20 ~40cm、琵琶湖では3 ~ 5cmの厚さである。また、層が不明瞭な地域においては土壌分析によって検出可能であり、おおむね日本全域で確認されている。
宮崎県の農家の間でアカホヤと呼ばれていた地層について調査した結果、人吉市付近のイモゴ、種子島のアカボッコ、四国南部のオンジなど、似たような地層が日本各地に分布していることがわかり、1976年(昭和51年)に鬼界カルデラを起源とする火山灰であることが確認された。
地層の年代決定において縄文時代の早期と前期とを分ける重要な鍵層の一つになっている。特に、種子島、屋久島、薩摩半島南部および大隅半島南部は幸屋火砕流が直撃し、当時居住していた縄文人の生活に壊滅的大打撃を与えたと考えられている。また、南九州では火山灰の影響により約600年から900年間は照葉樹林が復活しなかった。
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巨石文明と昆布
巨石文明と昆布
世界中で見られる古代の巨石文明。古代でなくとも建設重機など無かった時代に巨石を加工し運搬することは、何故そんなことが可能だったのか現代人には考えても分からないらしい。宇宙人がやって来て教えたんでは?
大阪城築城と昆布【昆布の歴史】
社団法人日本昆布協会発刊の「昆布」という書籍があります。
この書籍の中の、「大阪築城と昆布」の項では、大阪城築城のとき、石を運ぶのにたくさんの昆布が使われたとあります。昆布?昆布?
「水につけた昆布を敷きつめ、その表面のヌメリを利用してその上に石を滑らせて運んだ。」といった文章が紹介されていました。
豊臣秀吉が大坂城を築城する際、石垣を築くのに各地から巨石が運ばれた。運搬には 「修羅」と呼ばれる木製のソリが使われたが、滑りを良くするためにぬらした昆布を敷き、ぬめりを利用して巨石を運んだという説だ。
「検証はできませんが」と前置きした上で小笠原さんは続ける。「役目を終えて町に残された大量の乾いた昆布を、もったいないと大坂の商人たちがしょうゆで煮た
ところおいしいダシが出た。それを機に昆布文化が 定着したとの話です。」
老舗うどん店「道頓堀今井」の今井徹社長に聞いた。「海藻類を使って巨石を運んだ例は 他の地域の城にもあるらしい」といい、「大坂城築城の後に、海藻をいったん干してから炊くという調理法が定着したかもしれません」。
そして江戸時代に入り良質の食材が大阪に集まったため、おいしいダシの出る北海道産昆布を味の基本とする食文化が定着したと考えるとつじつまが合う。過去に昆布がこのような形でも利用されていたとは驚きのエピソードです。
*確かに関西では昆布のダシを使う文化、一方関東ではダシは鰹節を使う食文化が定着している。
You-Tubeで小名木先生も発表しておられる。縄文人は巨石を運搬するのに昆布を使ったようだ。南米のインカでも多分この技術が用いられた。縄文人は多数の貝塚の出土から明らかなように、海洋民族の血を受けている。更に日本人は昆布(海藻)を食することが可能だ。消化酵素を遺伝的に持っている(世界では珍しい)。昆布は食べ物としても利用可能だ。インカの人達も海藻を食べることが出来るらしい。日常使っている材料を建設技術に応用して見ようというのは発想として自然なこと。
この仮説が本当かどうか、是非実際に昆布を使って実験を行って確かめて欲しいですね。でも建設重機も持たなかったインカの人達が山の高いところに巨石を沢山用いた建造物を造ったということは不思議ですね。昆布のようなものを使えば可能なのでしょうか?
巨石を切り出す技術は矢穴法とでもいう方法は確立しています。楔を使うんですが、楔は鉄でなくても木材でも用は足りたでしょう。後はどうやってこの石を現場まで運ぶかです。遠方への輸送には船が用いられたでしょう。問題は陸上での石切り場からの撮り出しと現場での精度の良い設置です。従来考えられていた方法はコロを使う方法(滑り摩擦を転がり摩擦に)。それと海草のような摩擦を低減する方法です。
昔の人の技術力を馬鹿にしてはいけません。縄文遺跡のストーンサークルは天文観測の役割もあったらしく、石の配置は極めて正確です。熊本地震で崩れた石垣の崩れた部分は後で修復した部分で、当初から組まれた石垣は無傷のままだったそうです。
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轆轤(ろくろ)
轆轤(ろくろ)は、回転する構造を持つ各種の装置のことを言う。
① 滑車を利用して重い物を吊り上げたり引いたりするための人力万力。小型のものは車地(しゃち)、滑車のみのものは飛蝉(とびせみ)という。
② 大型和船の艪屋倉で用いられた帆、伝馬船、錨等の揚げ降ろしをするための装置。
③ 木工や陶芸に用いられる回転式の器械。轆䡎(䡎は車偏に戸)とも書く。陶芸用のものは陶車ともいう。木工用のものは、原始的な旋盤そのものであり、綺麗な回転体を削り出すことができる。陶芸用のものは回転可能な円形の台で、回転軸は台に直交し円の中心を通る。その上に粘土をのせ、台を回しながら粘土に手指を当てると、回転の中心から手指の位置までを半径にした綺麗な円を形作ることができ、それの連続体として綺麗な回転体が成型できる。
因みに陶芸用の轆轤は英語でPottery wheel、中国語なら陶轮(Táo lún)
「轆轤の」漢字はやたら難しい。
轆とは、轆轆(ろくろく)/車が音を立てて走るさま/轆轤(ろくろ)/陶器を作るための回転する台/物を上げ下げするための滑車などの意味をもつ漢字。18画の画数をもち、車部に分類される。音読みが「ロク」で訓読みは無い。
轤とは、轆轤(ろくろ)/陶器を作るための回転する台/物を上げ下げするための滑車などの意味をもつ漢字。23画の画数をもち、車部に分類される。
どうやら、「ろくろ」という実態の道具が日常的に使われていて、それに対する大和言葉「ろくろ」があり、後から音を表す漢字を当てはめたようだ。
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轆轤がいつ発明されたかははっきりしておらず、紀元前6000年前から紀元前2400年前の間に発明されたとされている。メソポタミアで発明されたという説が有力であるが、エジプトと中国もその発明を主張している。と言うことは、日本起源からも知れないし、世界中で各々独自に発明された可能性もある。初期の轆轤は手や足で直接、轆轤を回転させながら壺や食器を形作った。日本では縄文土器→弥生土器と進化していて、土器の成形には轆轤を使っていた可能性が高い。
後にはずみ車が発明され、これと連結することで安定した回転を得ることができるようになった。はずみ車は重く、動かすのに力が要る。しかしひとたび回転に勢いがつくと、はずみ車の慣性モーメントのせいで小さな力での減速は僅かとなり、回転速度が長く保たれる。
**はずみ車の発明で、真円の陶器の製作が可能になった。
鉄器時代に、回転台を軸棒ではずみ車を兼ねる重い円盤につなぎ、足で下の円盤を蹴り回転を与える轆轤が広まった。それまでの轆轤では手で直接回転台を回していたが、この型の轆轤では手で回転させる必要がなく、自由に両手を使うことができるようになった。
*足でろくろを回すことは大発明だろう。機械工学的な知識(動力の伝達機構)が必須だ。
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【ロクロピット】
ロクロピットとは、古代において轆轤(ロクロ)を据え付けるために土を掘りくぼめた小さい穴(pit)のことである。須恵器・土師器の窯跡や工房址などから見つかることが多い。
轆轤は発明当初は手で回転させていたと考えられるが、のちにはずみ車が発明され、これと連結することで安定した回転を得ることができるようになった。はずみ車は重く、動かすのに力が要るが、ひとたび回転に勢いがつくと、自身の重さのせいで容易には減速しなくなり、一定の回転速度が保たれる。鉄器時代には、回転台を軸棒ではずみ車を兼ねる重い円盤につなぎ、足で下の円盤を蹴り回転を与える「蹴り轆轤」が広まった。それまでの轆轤では手で直接回転台を回していたが、「蹴り轆轤」では手で回転させる必要がなく、自由に両手を使うことができるようになった。
ロクロピットは、「蹴り轆轤」にともなう段階のもので、日本では律令制的な土器生産の広がりとともに古代の遺跡から検出される。円盤を載せる台と軸棒とを土中に埋め込むことによって、二段構造を呈する場合が多い。壁、底ともにきわめて堅くしまっていることが特徴的である。窯跡や工房址からの検出が多く、周囲に未製品、半製品、失敗作と思われる土器をともなうことが多い。なお、土器の底部の切り離しは「蹴り轆轤」の一般化とともに糸が使用されることが多くなると推定される。回転状態で切り離した場合は指紋のような渦巻状の切り離し痕跡が確認できる。
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轆轤は新大陸では発明されることがなく、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達し、ヨーロッパから轆轤がもたらされるまでは、陶器は手のみで作られていた。実は彼らは車輪というものも発明されていなかった。
日本では奈良時代に、木製の百万塔が轆轤びきで大量に生産されている。
産業革命が始まると轆轤は、蒸気機関やガソリンエンジン、そして電気で動かされるようになったが、人力で動作するものも依然として使用されている。それ以前にも一般的ではなかったが、風力や水力を動力とする轆轤も発明されていた。人力で動かす必要がなくなったとはいえ、轆轤を使い陶器を作るのは未だに熟練を要する作業であり、職人芸と言える。
土器とろくろの関係をも少し深堀して考察してみる。まだ固まっていない作業中の土器を成形するには、土器は持ち上げてはダメで、作業する人の方が土器の周りを動かなければ不可なはずだ。これは大変不便で作業台を動かして人の位置は固定されている方が遥かに作業効率も良いし出来上がりも綺麗だ。
次の作業台の中心(土器の中心)をピンで固定し回転するように工夫すれば、点対象の綺麗な土器がつくることが出来る。勿論回転は手で回すのでとても遅く真円度もあまり確保を出来なかったかもしれない。だったら古代人ならそんな手間かけなくても良いかも。縄文土器を効率良く作るためならこの方法でも十分でしょう。ある意味、これ(作業台を動かす)も初期のろくろと見做しても良いのでは? 縄文人にインカ人にも轆轤は必要ないかも。弥生時代になって日常生活の土器が多用され大量生産が望まれるようなったらろくろは使われたと思われる。
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あんぎん(編布)
編布(あんぎん)とは、自然植物から採取した繊維を材料とし、縄文時代から日本に存在したとみられる編み物の技法により作られた布。古代に端を発し、大正時代から昭和時代初期までおもに農耕民らの仕事着や日用品に活用された。一般的な編み物と明確に区別すべく、「アンギン」とカタカナで表記されるのが一般的。
狭義では便宜的に、縄文時代の衣服の意で「アンギン」と称する。
日本遺産「『なんだ、コレは!』信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化」に特筆された越後アンギンがとくに知られる。
寒い地方では冬を過ごすために獣の皮を剥いで鞣した物をまとったと考えられ、世界各地にその例があるが、高温多湿の日本の風土では獣皮とはべつの通気性のある衣服も必要で、それがアンギンであったと考えられている。素材は大麻など、麻の繊維で編んだものが多々発見されている。縄文時代前期のアンギンは、網目が粗く、衣服に適したものではなかったが、縄文時代の末期の遺跡から発見されたアンギンのなかには人骨とともに発見され、衣服として使われたものと考えられる。
【世界最古の布】
世界最古の布は、世界文明発祥の地??であるチグリス川・ユーフラテス川に芽生えた、世界最古の繊維(リネン)といわれています。3万年前らしい。リネンとは麻布のことらしい。つまりアンギンと同じもの。高温多湿の日本では古い繊維は残りにくいのでルーツはどこまで遡れるかは分からないが、メソポタミアから伝わったものではなさそうですね。なお、最古のアンギンが出土したのは福井県の鳥浜貝塚から。
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星ヶ塔遺跡(黒曜石採掘遺跡)
星ヶ塔黒曜石原産地遺跡(長野県諏訪郡下諏訪町立町)は、縄文時代の黒曜石採掘遺跡です。現在までの調査では、約3.5万平方メートルの範囲に縄文前期から晩期までの黒曜石採掘跡が193か所分布していることが明らかになっています。かつての人々はここで原石を採掘したのち、山麓で商品として加工、それが全国的に流通していたことが理化学的産地分析により明らかになっています。このような理由から、縄文時代の資源開発と流通を考えるうえで極めて重要な遺跡として、2015年に国史跡に指定されました。
北海道の白滝、長野県の和田峠、伊豆諸島の神津島、隠岐の島などが産地として有名です。 長野県長和町星糞峠遺跡では、縄文鉱山とでも称すべきような、大規模な黒曜石採掘遺跡が見つかっています。
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沖縄のロゼッタストーン
沖縄のロゼッタストーンは沖縄県で発見された線刻石板。
1933年、沖縄県中頭郡嘉手納町の野国総管の墓付近において、熊本医科大学(現熊本大学)学長・山崎正董と沖縄研究者・島袋源一郎により発見されたのが最初とされている。
2008年までに13枚発見されており、12枚が現存(1枚は紛失)。一部が沖縄県立博物館・美術館に収蔵されている(資料名:線刻された石版、残りは?)。内容は船や農業作業、建造物や動物だと思われる絵のほか、Nや十などの簡単な文字模様が石板一面に刻まれている。年代は不明であり、どの民族やどの文明に由来するかも不明である。
言語学研究者のマーク・ローザは、「屋判」やーばん(家紋のようなもの・屋号を示すもの)に近いのではないかと推測している。
これが古代文字なのか、文字ではないとしても何らかのメッセージを込めた記号なのか? そもそもこれが書かれた時代は何時なのか? 後世の人による偽作ではないとしたら、何とか解明したくなりますね。実は現地の人達によると米軍基地からは100枚以上発見されており米軍によって持ち去られたらしい。
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稲作
何時から人が米を食べ始めるようになったか?それが稲作文化へと発展するまでにはどれだけの時間と努力と技術革新が行われて来たのか?
しかし、最初に野生の米を食べてみようとした人は凄いね!牛や羊は稲わらなら好んで食べるかもしれないけど米粒はわざわざ食べないでしょうね。米粒は籾の中にあるし、脱穀しても生のままでは食べられないのでは?
勿論これは麦(小麦や大麦等)も同じだけど。
勿論、最初に人類が米を出会うのは、野生の稲でしょう。
普通野生の穀類は、脱粒種と言われるもの。脱粒性とは種子が穂から離れ落ち易い性質のこと。
稲の脱粒種とは、種子(玄米)が穂から自然に落ちやすい性質を持つイネの種子のことです。野生のイネは種子散布のためにこの性質を持っていますが、栽培イネは収穫の損失を防ぐため、脱粒しない(種子が落ちにくい)品種が選ばれてきました。
でも、最初に米を食しようとした人は凄い。牛や羊は穀物の葉は好んで食べるが積極的に実を食べようとはしない。しかも、米や小麦は生のままでは美味しくない。火を通す必要がある。ドングリや野菜に火を加えると食べられるようになることは既に知っていたのでしょうが。
わざわざ、これを栽培する。縄文期には陸稲(おかぼ)が中心だった? なぜわざわざ水を引いて? 多分野生の稲が水田のような水浸しの環境の方がよく育つことを知っていたからでしょう。
しかし、日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はなく、栽培技術や食文化などと共に伝播したものと考えられている。 日本列島 への伝播については、いくつかの説があり、概ね以下のいずれかの経路によると考えられている。 南方の 照葉樹林 文化圏から 黒潮 に乗ってやって来た「海上の道」ルートである。 ただし、多様な伝播経路を考慮すべきとの指摘もある 。
少なくとも中国大陸→朝鮮半島→ヤマトのルートは否定されている(日本の歴史教科書は未だこの説に執着)。これは稲の遺伝子の解析が進められて日本→朝鮮半島はあるが、朝鮮半島北部では気候が寒冷で当時は稲作が不可能であった。また、中国揚子江文明も稲作を行っているが、日本の稲作と時期が同時でどちらが先かは不明である。
【稲の品種】
稲の品種は、主に栽培場所と米粒の形によって3種類に分類できます。栽培場所による分類は、ジャポニカ米(日本型稲)、インディカ米(インド型稲)、ジャバニカ米(ジャワ型稲)です。米粒の形による分類は、短粒種、中粒種、長粒種です。
☆栽培場所による分類
ジャポニカ米(日本型稲):
1.日本、朝鮮半島、中国東北部、ヨーロッパの一部などで栽培され、米粒が短く丸く、ねばりが強いのが特徴。例えば、コシヒカリ、あきたこまちはジャポニカ米。
2.インディカ米(インド型稲):
中国南部、インド、タイ、ベトナムなど、高温多湿な地域で栽培され、米粒が細長く、炊くとパサパサする特徴がある。例えば、タイ米やバスマティ米はインディカ米の品種。
3.ジャバニカ米(ジャワ型稲)*ジャポニカの変異種?:
インドネシア、フィリピン、アフリカ、アメリカなどで栽培され、米粒が幅広くて大粒、少しねばりがあります。例えば、パエリアやリゾットに適した品種。
【苗代と田植え】
最も原始的な方法は、種を直接田圃に撒く方法だろう。
苗代(なわしろ)は、稲の苗を育てる場所。田んぼとは別に、水はけと保水性の良い土を用意して、種籾をまいて育てる。田植えの前に稲の苗を育てる場所で、田んぼとは別の場所です。現在では、育苗箱が使われることが多く、苗代で育てた苗を田んぼに移植するのが「田植え」です(AI)。弥生人も田植えをしていたらしい。
田植えは、今の日本では田植え機が開発され機械化されているが、以前は人海戦術で子供達まで含めた大勢の人が動員された。
田植えの前には代掻き(しろかき)と言う作業が行われ、これが雑草の生育を防ぎ、イネの生育を促進する重要な作業とされる。
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稲のルーツ
野生のイネが古代人によって栽培されるようになり、様々な変化の過程(栽培化とよばれる)を経て現在の栽培イネになりました。
イネの仲間を知るで紹介したように、アジアの栽培イネはインディカ種とジャポニカ種に大きく分けられますが、ゲノムを詳しく調べたところ、この2つは20万年以上前に分かれたことが明らかになりました。ただ、イネが作物になったのは約1万年前と考えられているので、ジャポニカ種とインディカ種はそれぞれ別々の変化を経て、作物になったと考えられ始めています。
現在の野生イネと栽培イネを比較すると、草丈が小さくなった代わりに穂が大きくなり、お米も野生イネは色が着いているのに対し、栽培イネでは白米が普通。そして種(お米)が熟した時、野生イネは、種が自然に地面に落ちるのに対し、栽培イネは落下しません(脱粒性の変化)。
このようなイネの性質の変化について、いろいろな研究がされていますが、まだはっきりしていない事がたくさんあります。しかし、考古学で知られていた以上に古いイネの歴史がわかったのは、イネゲノム研究の大きな成果。インディカ種にだけ残された優れた性質をジャポニカ種に導入するなど、これから開発する品種に大きなヒントを与えてくれそうです。
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モグラの穴掘り
稲作をしている農家です。水田の畦塗り(田んぼを取り囲む土手部分にできた穴や割れ目に土を塗りつける防水作業)を行った端から、モグラが穴をあけてしまうので困っています。小さい穴を探すのも一苦労ですし、ひどい時は一晩で水田の水がほとんど抜けてしまうこともあります。水田周辺に近づくモグラを防ぐにはどうしたらいいのでしょうか?(広島県・上條大介さん/仮名・40代)
今でもこんな事件があるんですね。稲作に食料の大部分を依存していた古代の人達はどのように対処していたのでしょうか? 田に水を供給するには川に堰をつくり、水位をあげて、別の個所に切り欠きをつくって、重力で水を供給しないといけない。でも、キチンと小さい穴を探して穴を塞ぎ、モグラ退治をしないとまた水が抜けてします。
そもそも川に堰をつくることは、何処に何時堰をつくって田に水を入れるかは、近隣の田との兼ね合いもありその調整も大変ことなんです。いまでも、利水組合が大きな権限を持って農家の間の調整をやっているんです。当時はその役割を貴族たちがやっていたんでしょうが。
稲作と野生動物の関係。貯蔵した米を鼠が食べてしまうことは古代人にとっても大きな問題だった。高床式の倉庫も湿気を防ぐ以外に鼠対策でもあった。だから柱には鼠返しなどの工夫も。それに加えて日本人が猫を家畜化した最大の要因だ。
では、モグラ対策はどうしたんでしょうか。猫はモグラを食してくれない。畑ではモグラはミミズやオケラなどを食べてくれるし、別に人に害を加えない無害な生き物。
上の質問に対するある専門家の解答:モグラのトンネルは地面からせいぜい50cm程度の深さに作られます。水田の底のような圧縮された固い土壌だと、モグラの餌となる虫が少ないと思われますので、わざわざ水田の下を移動することは考えられません。
ですが、水田の田起こし後に水を張って代かきしたことで、ケラなどが畔に移動した結果、それを狙ったモグラが水田のまわりの土手部分に集まってくることは考えられます。
モグラにとって、畔に作るトンネルは、巣を作ったり、餌を蓄えたり巣作りするための「本道」ではなく、あくまでも餌を探すために掘った「支道」だと思われますから、まずはその痕跡を探すこと。今回は水稲農家からの相談でしたが、畑の場合はモグラが掘ったトンネルによって作物の根が浮いたり、その穴からネズミが侵入する可能性もありますので、採食用の穴を見つけたら、根気よく潰し続けることが重要です。
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どうやら、古代においてもモグラ穴被害はそれほど大きな問題ではなかったのかもしれない。そもそもモグラは人と同じく肺呼吸。空気の無い水を張った水田の土の下では生きていけないし、それは餌となる虫たちも同様だろう。モグラのトンネルは畔の部分に限定されており、水田の底に広大なトンネル網をつくっている訳ではなさそうだ。
でも、上記のような被害も少なからずあるようなのでモグラが来ないような対策を考えて行くことも必要でしょうね。
歴史の部屋
古墳
| 古墳 | 前方後方古墳 |
| 縄文の墳墓 | 芝山古墳 | 黒又山 | 西谷墳墓群 |
| 五色塚古墳 | 石舞台古墳 | 蛇塚古墳 |
日本の古墳
日本全国で古墳の数はものすごく多い。約16万基もあるとか。現在分かっているものでは神社8万、寺7万、全国津々浦々にあるコンビニの数も5万程度。ところが、古墳が造られたのはいわゆる古墳時代と言う時代に限定されており、仏教が国の宗教として公認されると新たな建造ピタッと無くなってしまったらしい。
古墳とは多分その地方の権力者のお墓と考えられている。
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前方後方古墳
前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)は、古墳の墳形の一種であり、特に東日本の前期古墳に多く存在する。また、中国・四国地方にも多く存在し、中でも出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて築かれていた。その起源は、方形の墳丘墓への通路が変化し、突出部へと代わっていき成立したと推測されている。東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきた。
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弥生前方後方形墳丘墓
愛知県一宮市の西上免遺跡で発見された前方後方形墳丘墓は墳丘長約40メートルもある。
前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられている。3世紀前半の弥生時代終末期頃、東海地方では方形墓の周壕が一周するものや方形の一辺に突出状の祭壇を設ける墓が流行した。そしてやがてその際壇部や陸橋部が発展し前方後方形が出現する。 その例としては愛知県の廻間SZ01墳丘墓があげられ、祖形と考えられる。この墳形は西は京都府から東は千葉県までひろがった。 つまり前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされたと考えられる。
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縄文の墳墓
縄文時代の墳墓遺跡には、土坑墓や周堤墓、貝塚などがある。
【土坑墓】
縄文時代のお墓の多くは土坑墓で、地面に円形の穴を掘って遺体を埋めたもの。
お墓の上には目印の木や石を立てたり、底に赤い土(ベンガラ)を撒いたりする。
土坑(どこう)とは、発掘調査等の際、確認される遺構のうち、人が土を掘りくぼめて出来たと考えられる穴で性格が見極めにくいものを指すとあった。
土坑は穴を掘った後で、必ずしもお墓とは限らないようだ。貯蔵孔かも知れない。構造物の柱穴の場合は大抵は埋め戻しの跡などから区別できることが多いらしい。
山の斜面にある横穴がそのままお墓になっているものは土坑とは言わないようだ。でも、古代人が死者に対してどのような態度で接していたかを知ることは古代史の研究の大きな課題でもあるだろう。
【周堤墓】
キウス周堤墓群は、北海道千歳市にある縄文後期の集団墓8基で構成される史跡。石狩低地帯を臨む緩斜面に位置する。1979年10月23日に国指定の史跡となった。2021年(令和3年)、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。
史跡内には、縄文時代後期(およそ3200年前)に作られたとされる、複数の墓が点在する。墓はそれぞれ「 - 号」と割り振られており、全8基の墓が存在する。縄文時代に作られた墓としては、日本最大。
名称は墓の周りを堤が囲っていることから名付けられたもの。現在地表面で見られる各々の墓は、円状に土を掘ったのち、掘った土をその周囲に盛って作られた。史跡で見つかっているものには盛土遺構や建築物の跡も見られる。出土したものには土器や木製品などがあり、江別市に位置する北海道立埋蔵文化財センターで保存、見学することが可能である。図の土偶は日本の他の地域でも見られる土偶で縄文文化を代表するもの。縄文文化が北海道まで広がっていた証拠だ。ただ、稲作が出来ない北海道では弥生遺跡は見つからないようだ。
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芝山古墳
場所は、千葉県成田空港のそば。芝山古墳群、殿塚・姫塚と芝山古墳はにわ博物館がある。関東にも古墳は多く、特徴のある埴輪も多い。
なんと、ここには田中英道先生がユダヤ人埴輪として発表されたものも数体ある。確かにどう見ても西からやって来た外国人のようだ。意外なことかもしれませんが、人物を模した埴輪は関西よりも関東に多い。
時代的にはイスラエルの失われた10支族の人達の可能性もありそうだ。陸路を遥々来たのか海伝いにやって来たのかは分からないが、多分直接この地にやって来て友好的に受け入れられたものと思える。古墳時代はまだ人口も少なく、未開発の土地は沢山あり、稲作のためどんどん水田が新たに造られて行った時代。
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登呂遺跡
登呂遺跡(とろいせき)は、静岡県静岡市駿河区登呂五丁目にある水田遺構を伴う弥生時代の集落遺跡・低湿地遺跡。国の特別史跡に指定されている。弥生時代後期にあたる1世紀ごろの集落と推定されている。「登呂」はこの地域の小字名。
登呂の弥生集落は、安倍川の洪水により押し流された土砂が堆積して形成された自然堤防上に造られている(縄文海退時に作られた稲作に適した沖積平野)。集落には、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して竪穴状平地建物12棟、高床倉庫2棟が建っており、水田はその南につくられている。
*建物は住居だろうが、縄文時代の竪穴式住居とどこが異なるのか?縄文時代の前の人達は山の斜面に横穴を掘って(あるいは自然の洞窟)住んでいたようだが。柱を立てて、その上に住居を構える。つまり水上生活なんていう選択肢もあるのでは?
戦時中の1943年(昭和18年)7月10日、軍事工場建設の際に発見された。もし、発見が遅れていれば工場の建設は強行され発掘は行われなかった可能性が大きい。
戦後間もない1947年(昭和22年)には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴状平地建物・高床倉庫の遺構が検出された。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた卜骨などが出土した。
*中国でも殷王朝では占いに骨や角、亀の甲などが用いられていた。火であぶって、ヒビの形で占いをする。これが発展して甲骨文字が形成されたという。
登呂遺跡の弥生集落において、住居などの建物に竪穴建物ではなく竪穴状平地建物が採用されたのは、当該遺跡が低湿地遺跡においても特に地下水位が高く、地面を掘ると水が湧き出す土地であり、竪穴建物として建築するには不向きだったためと考えられている。
*竪穴状平地建物は建物の周囲を盛り土して、竪穴式の構造をその上に構築するもの。貴族は高床式の建物に住むが、庶民は縄文以来の竪穴式住居に住んでいたなんているトンデモ説では小学生の疑問にも答えられない。縄文人は地下水位の高い高地に住んでいたことを忘れてはいけない。
1999年(平成11年)から5カ年計画で再発掘調査が行われ、新たに銅釧や漆が塗られた槽づくりの琴が出土し、祭殿と見られる大型の掘立柱建物跡などが検出されている。またそれまで大型の畦畔による大区画水田と思われていた水田跡の中に、前調査時に認識されていなかった小畦畔があることが確認され、小区画水田であることが判ってきた。
*銅釧(どうくしろ):
弥生時代中期から古墳時代にかけて作られた青銅製の腕輪です。貝輪を模した形をしており、鉤状突起や刻目文などの装飾が施されています。
*貝輪は縄文女性のアクセサリーのようだ。銅釧もそうだ。弥生人も血行お洒落に記を使っていたようですね。
*大区画水田と小区画水田の違いは、前者は集団農場、後者は家族単位の農地を示しているとも考えられる。収穫した稲の分配にもかかわる問題だ。
現在、遺跡は「登呂公園」として整備され、各種建物などが復元されているほか、遺跡についての資料がある静岡市立登呂博物館が隣接して建てられている。
博物館は、施設建て替えのため2007年(平成19年)6月をもって一時閉館し、現行の施設は2010年(平成22年)10月3日に開館した。常設展示室の観覧料は、大人300円、大学生・高校生200円。中学生以下50円。
国の三大特別史跡(吉野ケ里、原の辻遺跡)の一つで、世界で初めての弥生時代の遺跡。日本の弥生時代研究の総てのベースともなるもの言える。
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五斗長垣内遺跡
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)は、兵庫県淡路市黒谷にある弥生時代の遺跡。国の史跡に指定されている。弥生時代後期における日本列島最大規模の鉄器生産集落。
本遺跡は2001年(平成13年)に発見され、2007年(平成19年)から発掘調査が実施された。
遺跡は淡路島の西側海岸線から3キロメートルの距離にある丘陵上に位置。東西にのびる尾根を中心に、東西500メートル、南北50メートルに広がることが確認されている。現地からは、播磨灘や瀬戸内を行き交う船を一望でき、その向こうには家島群島の島影や播磨地域を見渡せる。弥生時代後期の1世紀ごろのおよそ150年間にわたり存在したと考えられる。遺跡には鍛冶工房として使われた竪穴建物が復元されている。
弥生時代後期の鉄器生産工房として使われた竪穴建物23軒から成っており、うち12軒から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。また石槌や鉄床石、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。1軒の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器生産遺跡としては、最大規模であった。住居として使われた竪穴建物は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である事が分かった。
*従来の日本の考古学会では、日本に鉄が入って来るのは古墳時代に大陸経由で渡って来たと考えられていた(何故?)。しかし、1世紀には鉄器の生産工場の遺跡が出たことで、時代は大幅に遡ることに。実はその後縄文遺跡からの鉄生産の遺跡が見つかり、縄文時代に大陸の中国以外の場所から伝わったか、独自に鉄生産技術を開発したらしいことが明らかに。
五斗長垣内遺跡は瀬戸内海の淡路島にあることから、ここで作られた鉄器は瀬戸内海地域一帯に供給されていた可能性がある。
【舟木遺跡】
舟木遺跡(ふなきいせき)は、兵庫県淡路市舟木にある弥生時代の集落跡。国の史跡に指定されている。遺跡は標高約150メートルの山間地にあり、南北約800メートル、東西約500メートルに及ぶ。これまでの調査で、大型の竪穴建物跡20棟や大量の製塩土器などが出土したほか、漁具の「ヤス」(近畿地方では初の発見)や中国製の青銅鏡、「絵画土器」の破片などが見つかっている。この遺跡は、1966年に、地元の小学生が土器の破片を見つけたことで、初めて発見されたという。こちらの遺跡は何と紀元前3世紀。垣内遺跡遺跡よりも300~400年位古い。
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原の辻遺跡
原の辻遺跡(はるのつじいせき)は、長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触、石田町石田西触にある遺跡。国の特別史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
壱岐島東部・幡鉾川下流にある、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする遺跡である。『魏志倭人伝』に登場する「一大国」の国都とされている。一大国は一支国の誤記とされるが、誤記ではないとする説も存在する。
*確かに一支→イシ→壱岐で何となく語呂が合うような。
最初の遺跡発掘は1923年(大正12年)から1926年(大正15年)にかけて、地元の石田尋常高等小学校教諭・松本友雄による小規模なものであった。彼はこの時、弥生土器や石器類を発掘している。
第二次大戦後の1951年(昭和26年)より1961年(昭和36年)の10年間に九学会連合・東亜考古学会により4回にわたる発掘調査が行われた。この結果、居跡や墓地が発掘され、貨泉や大量の鉄器等が出土した。
*貨泉(かせん)
中国の新の王莽が西暦14年に鋳造した銅貨で、日本でも弥生時代から出土しています。遺跡の年代を特定する重要な資料。通貨と言うよりも青銅器を造る材料にしたのでしょう。
以後も長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所を中心に調査が継続され、また、現在も調査は継続されている。1993年(平成5年)の大規模な調査で三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が検出された。また、壕の外西北では日本最古の船着き場の跡も発掘された。原の辻の中心部分に当たる。 環濠集落の規模は東西約350メートル、南北約750メートルである。この東側に『魏志倭人伝』に見える卑狗と卑奴母離などの役人の家や役所があったと想像される。壕の外の北、東、東南には墓地が見つかっている。また、遺跡全体の総面積は100ヘクタールにも及ぶ広大なものである[1]。また、集落域は約24haであった。
これらの発掘調査結果から1995年(平成7年)に一支国の国都である可能性を指摘した。
また、弥生時代中期の竪穴建物址から炭化した米、麦が出土している。島の河川流域の低地に水田が広がり、水稲農耕が行われていた。対馬に比較して水稲農耕が広く行われていた。島には貝塚もあり、狩猟獣であるシカ・イノシシのほか、家畜であるウマをはじめ獣骨や魚骨が出土している。
石器では石斧・片刃石斧・石包丁に一部鉄器を交えるが、後期になると石器はほとんど姿を消し、手斧・鎌・刀子など鉄器が豊富になる。なかには鉄器の原材料と想定できる板状のものがあり、これからさまざまな鉄器を造り出した。壱岐島の鉄器は舶載品であると考えられている。
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荒神谷遺跡
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡。国の史跡に指定されている。
1983年(昭和58年)広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘調査が開始された。1984年 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ[いつ?]特定できていない。
銅剣
丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。これらの銅剣は出雲で製作された可能性もあるが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず発掘調査をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が出てきた。担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていった。当初は百本位だろうと考えられたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達した。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となった。
【銅剣】
丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。これらの銅剣は出雲で製作された可能性もあるが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず発掘調査をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が出てきた。担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていった。当初は百本位だろうと考えられたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達した。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となった。
【銅鐸】
先年の騒動が静まってから、島根県教育委員会では、周辺に未発掘の遺物、遺跡がある可能性が大として、磁気探査器を使って調査したところ、銅剣出土地より南へ7メートルに反応があり、発掘が始められた。発掘開始まもなく、銅剣出土地点よりも7メートルほど谷奥へ行った場所で銅鐸6口が発見された。埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で2列に並べられていた。分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。文様に強い独自性がみられる1つを除いては、同形式の銅鐸の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力である。12年後に出土した加茂岩倉遺跡の39口の銅鐸との関連性を考慮すると、一概に畿内製造であるとは言い切れなくなってきている。北部九州製の可能性が高い。三号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが確認されている。二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることが判明した。なお6個の銅鐸の高さが20センチと同じである。
速見保孝によると、近辺に銅鉱山があり、また鋳型を作るための材料となる「来待石」が大量にある事から、出雲で原材料を集め、大量に製造したのではないか、という説もある。
【銅矛】
銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の東側に、16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。横には小ぶりの銅鐸が鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で、同じく交互に並べた状態であった。古代当時、この青銅器に関わった人が、銅矛の刃と銅鐸の鰭を立てた状態で丁寧に並べて置いた、そのままの状態を保って出土したのである。
分類には諸説あるが、大まかに言えば、中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は、銅剣とほぼ同じか、若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州産の青銅器に見られる綾杉状のとぎ分けがあることから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。
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十三行博物館
17世紀から語られることの多い台湾の歴史ですが、実は各地に先史時代の遺跡が点在しており、北部での代表格ともいえるのが港町淡水の対岸八里にある「十三行遺跡」です。台湾の鉄器文化を伝える遺跡からは、陶器、鉄器、墓など、様々な文物が出土しており、約1800年前から500年ほど前まで、ここに製鉄技術を持つ人々が住んでいたことがわかっています。1990年の初頭に、遺跡がある場所に汚水処理場が建設されることになったことから、遺跡の保存運動が起こり、更に遺跡の発掘作業がすすめられ、焼き物のかけらや金属器、石器などが発見されました。保存を求める多くの声に応え、十三行遺跡は国定遺跡に指定され、遺跡の9分の1が保存されることになりました。出土品の陳列館として2003年に「十三行博物館」が正式に開館しました。十三行遺跡地層、考古学試掘坑現場模型、遺跡発掘ビデオ、バーチャル体験コーナーなど、考古学についての知識が学べる体験型の博物館です。
*縄文人が、南から日本列島に渡ってい来た人々と北(大陸)から渡って来た人々、それから元から列島にいた人々の交流(混血)によって生じたことが最近の遺伝子系統調査の結果分かって来た。縄文文化は海洋民族の特徴が強く(多数の貝塚遺跡)、その移動経路としての台湾やフィリピンの遺跡調査は欠かせない。ただ両国の征服者達によって、意図的に無視隠蔽されている面もある。今後どのような発見があるか楽しみでもありますね。
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日本最古の鉄
日本最古の鉄器は、縄文時代(紀元前3~4世紀)に福岡県糸島市で出土したとされています。また、日本で最も古い製鉄遺跡は、岡山県総社市千引カナクロ谷にある千引カナクロ谷製鉄遺跡です。(Google AI)
鉄器時代(てっきじだい)と言う用語は、デンマークのクリスチャン・トムセンが提唱した歴史区分法の1つ。主に利用されていた道具の材料で時代を、石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する三時代(時期)法を採用し、鉄器時代はその中の最後の時代に相当する。つまり単なる仮説。
鉄器時代の定義としては、青銅を利用した青銅器の代わりに鉄を利用した鉄器が主要な道具として使われている事が条件となっている。
この分類法は先ヨーロッパ史を前提にして提唱されている。ヨーロッパ、中東、インド、中国などの地域では時代区分することが可能に見えるが、実は日本やサハラ以南アフリカにおいては青銅器と鉄器が同時に伝わり、石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に入るため疑問が多い。新たな遺跡が発掘されるにつれ鉄器の歴史はどんどん時代が遡っている。
初期の製鉄は炉内に木炭と鉱石を層状に装入して鞴(ふいご)で空気を送って燃焼させ、一酸化炭素が鉄と結合している酸素を奪って二酸化炭素となり金属鉄になる。この化学反応に必要な温度は400から800度ほどで、温度が低ければ固体のまま還元されて酸素を失った孔だらけの海綿状の鉄になり、硬いものの上で赤熱のまま打ち叩いて不純物を絞り出し、鉄原子どうしをくっつけ直すことで純粋な鉄にすることができる。これが「鍛える」という操作である。更に炭に包んで炭素分を加えて鍛えることで「鋼」が精製できる。
でも、今までは鉄は熱を与えて溶融させなければ出来ないと想定されていた(銑鉄)。鉄の融点は青銅と比べ高いため、青銅器の製作が出来ない者には鉄の製造は不可能と思われていた。しかし、400~800度なら青銅よりも先に鉄を利用する者が現れても何ら不思議はない。
鉄の利用は鉄器時代の開幕よりもはるかに古く、紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られており、アフリカにおける冶金も紀元前3000年から紀元前2500年の頃に遡ると言われる。更に近年の縄文遺跡から発掘された鉄は作られたのは紀元前3000年よりも古い可能性が化学分析の結果から推定されており、研究者を困らせている。
ただしもっとも初期には融点が高いために鉄鉱石から鉄を精錬することはできず、もっぱら隕鉄を鉄の材料としていた??。その後、エジプトなどでも出土例がみられるが、精錬の難しさや隕鉄の希少性などから利用は多くなく、武器や農具としての利用は青銅を主としていた。
最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し、鉄を主力とした最初の文化を作り上げた。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった。その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事が無かった。しかし前1200年のカタストロフが起き、ヒッタイトが紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。カタストロフによってオリエントの主要勢力はほぼ滅亡するが、その後勃興した、あるいは生き残った諸国はすべて鉄器製造技術を備えていた。同様のことはエーゲ海地方においても起きた。紀元前1200年ごろにギリシアの北方から製鉄技術を持つドーリア人が侵入し、ミケーネ文明の諸都市やその構成員であったアイオリス人やイオニア人を駆逐しながらギリシアへと定住した。この時代は文字による資料が失われていることから暗黒時代と呼ばれるが、一方でアイオリス人やイオニア人を含む全ギリシアに鉄器製造技術が伝播したのもこの時代のことである。
インドのタミル・ナードゥ州で紀元前2,953年から3,345年製の鉄器が発見されており、ヒッタイトより先に鉄器を使用していたらしい。
つまり、今までの鉄器ヒッタイト起源説は非常に怪しいということだ。中国では漢王朝と北の匈奴は共に鉄器を用いた軍拡競争をしていたらしい(NHKアイアンロード)し、その頃の縄文土器を焼いていた倭国も鉄を生産していた。
欧米人達は人類の文化は皆西から東へを流れるものという固定観念に縛られている。しかし、現実は紙も羅針盤も火薬も養蚕も皆東から西に流れている。感染症(例えばペスト)もそうであるが。
鉄という物質は非常に奥が深い。未だに精巧に作られた日本刀を凌ぐ技術を開発することは出来ないのだ。良い鉄をつくるには、良い森林(大量の炭)、良い鉱石、良い人材(ノーハウの積み重ね)、加工の技術などの組合せが必要。ぽっと出のヒッタイト人が突然鉄器を持って出現することなど絶対にあり得ない。彼に誰が技術を教えたのか?
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砂原遺跡
砂原遺跡(すなばらいせき)は、島根県出雲市多伎町砂原に立地する中期旧石器時代とされる遺跡。2009年(平成21年)の同志社大学等による発掘調査で検出された石器群について、同大学教授の松藤和人により、12万年前~11万年前に遡る日本最古のものとする見解が示されている。
*旧石器捏造事件以降、石器の年代推定には最新の注意が払われるようになって来ている。
12万年前と言うのは、何と現生人類(クロマニヨン人)がまだ誕生してなくて、ヨーロッパでは、いわゆるネアンデルタール人が活躍していた時代。でも、この時期日本列島は大陸と地続きで、大型の動物達も何の障害もなくやって来ていたはずだから、当然それを追ってヒトも来ていたことは当然でしょう。と言うことは縄文人の祖先は彼等と言うことも推定できる。クロマニヨン人、ネアンデルタール人も主にヨーロッパで発見研究されたヒト達で、ユーラシア大陸の東側では人類はどういう進化?を遂げていたのかはまだよく分かっていない。
しかも、現生人類にネアンデルタールの遺伝子が数%残されていることがヘーボ博士らの研究から明らかにされている。しかも、この遺伝子は現代日本人にも沢山残っているとか。
概要
2009年(平成21年)出雲市多伎町砂原で、土層の露頭中から1点の小石片(玉随製剥片)が見つかった。8月22~24日の3日間、玉随製剥片の出土層位の確認と火山灰同定のための試料採取、新たな石器の検出を目的とした予備調査を行った。
遺跡の基本層序は、地表から
1.耕作土→2.古土壌層→3.火山灰層→4.古土壌層→5.火山灰層→6.砂質シルト層→7.古土壌層→8.砂礫層
その下に段丘砂礫層が2.5メートルの厚さで水平に広がっている成層堆積である。火山灰分析用に、各層の土壌サンプルが採取された。
初日、玉随製剥片が見つかった場所の土層と剥片に付着する土壌と斑文が合致するか確認した。2日目、玉随製剥片が見つかった場所からそれほど遠くない所で石英斑岩製の石核を砂質シルト層中から掘り当てた。次に灰色の砂質シルト層中から小さな剥片が次々に見つかった。さらに松の木の下で拳大ほどの石英の塊を拾い上げた。両端に敲打で生じた潰痕がたくさん付いている石英製の敲石(ハンマー・ストーン)であった。
3日目、崖面で石器探索、段丘礫層の下位の土層調査。玉随剥片は7番目の古土壌層から、石英斑岩製の石核や拳大ほどの敲石は6番目の砂質シルト層から出土。基底部の段丘礫層は、関東の下末吉面に対比され、約12.2万年前に形成されたものである。5番目の火山灰の給源が分かればこの土層の年代を絞り込める。
本調査
2009年(平成21年)9月15日から2週間の予定で本調査に踏み切る。砂原遺跡発掘調査団を結成した。調査初日は9月15日、午前中は出雲市教育委員会の埋蔵文化財担当責任者と打ち合わせ、午後遺跡に着く。トレンチを台地上に設定。発掘場所は南北に7メートル、東西4メートルの28平方メートル。遺跡の広さからすれば小さな窓を開けるようのもので、目指す石器を掘り当てるのは運任せである。パワーショベルで約20センチメートルの厚さで土を剥いでいった。Ⅰ~Ⅴ層まで遺物出ず。Ⅱ層の古土壌層の最上部に微量の鬼界アカホヤ火山灰と姶良Tn火山灰の火山ガラスが多量に含まれていることは分かっていた。上層のスキ取りに二日半懸かった。地表下1.5メートルのところで重機での掘削を止め手彫りに切り替えた。
*鬼界アカホヤ噴火は屋久7300年前の起こった世界的火山の大噴火、姶良火山の爆発は約3万前と推定されている。
この発掘調査には、旧石器遺跡の堆積環境の解明という目的とその後の科学的な分析に耐えられるデータを収集することを主眼に置いた。このような考古学の調査方法は自然科学的な手法に限りなく近づけることになる。トレンチ内を1メートル四方のグリッドに区切り、一つのグリッドを一人が担当し隣接するグリッドとも合わせトレンチ全体が同じ高さになるように掘る。これを「スライス掘り」と呼ぶ。長さ数ミリの砕片(石屑)は言うに及ばず、1~2ミリの炭粒でさえも見逃さない。この調査法の有効性は1980年代の長崎県国見町(現雲仙市)にある百花台東遺跡の発掘で証明されている。石器や礫が出土すると竹ベラや竹串を使って慎重に輪郭を出し色々な観察の末に取り上げる。さらに、スライス掘りで生じた排土はグリッドごとに土嚢袋に収納し、後で見逃された遺物を回収する。掘り進むと旧地表面の乾裂面が見つかった。その面上で炭粒や木葉形の炭化物見つかる。炭粒は人が火を焚いたことと関係するかも知れない。乾裂面はⅥa層中、Ⅵa層とⅥb層の境界面、Ⅵb層中でも見つかっている。Ⅵa層中から直径5ミリメートルほどの管状ないし紡錘状の高師小僧(たかしこぞう[注釈 13])も検出された。さらの出土した石器・礫の表面には褐鉄鋼や二酸化マンガンを付着するものがあった。直立した高師小僧がⅥb層中で確認されている。遺物包含層であるⅥa層・Ⅵb層から出土する礫のサイズは径数センチから拳大ほどでサイズがそろっていた。Ⅵa層から出土した石器・礫が多く、Ⅵbからは出土数が少なかった。Ⅵa層からの礫は角礫・亜角礫が約7割である。出土平面分布は集中域が認められる。また、Ⅵa層・Ⅵb層の礫種は珪化流紋岩・弱珪化流紋岩の比率が増加する。調査を行った松藤和人は、これを自然現象で説明するより自然現象以外の要因が関与したと解釈するしかないとし、人の関与があったのではないかとする。
出土した石器
予備調査で5点(玉随製剥片、石英製の石核、小さな剥片色々、石英の塊;敲石ハンマーストーンなど)の石器が見つかり、本調査では珪化流紋岩や玉髄などの剥離面をもつ剥片や石核、加工のある礫片が見つかった。
9月25日の午後、珪化流紋岩とは明確に区別できる緻密な流紋岩製の尖頭スクレイパーが出土した。淡青色の石片で、珪化流紋岩とはまるで石質が異なり、大分県の大野川流域で後期旧石器にたくさん使われている緻密な無斑晶流紋岩そっくりだった。岩面にはVb層の赤土色の粘土がべったり付着していた。出土時点では淡青色をしていたが、日が経るに従って退色し灰白色に変わってしまった。
下層のⅥb層から出土した石器群を第Ⅰ文化層、上層のⅥaを第Ⅱ文化層と名付けた。第Ⅰ文化層から出土した石の内訳は、礫器(チョッピング・トゥール)1点、削器(スクレイパー)2点、剥片1点、砕片2点の計6点。石材は玉随、珪化流紋岩から成る。尖頭スクレイパーは、長さ5.9センチ、幅3.2センチ、厚さ1.5センチで、極めて緻密な珪化流紋岩。
第Ⅱ文化層に包含された遺物は、嘴状石器1点、削器3点、彫器様石器2点、剥片10点、石核3点、断塊(チャンク、英: chunk、塊の意)10点、敲石(ハンマー・ストーン)1点の計30点。石材は多様で、珪化流紋岩を主体に玉随、石英からなる[9]。
これらの石材による石器は日本列島の旧石器時代遺跡ではほとんど使用されないため、研究者の目が慣れておらずに見解が一致せず、これらの石器を自然石と見る意見も強い。その一方で、上峯篤史が開発した斑晶観察法によって珪化流紋岩の観察法が確立され、砂原遺跡の出土石器に人為的な製作パターンが見いだされた。この方法については、専門家からも評価がされている。
年代について
遺跡や遺物の年代を決定するには、旧石器の形態や石器組成などによる考古学的検討と地形・地質学的な検討によることが多い。日本列島は火山が多く、噴出時期が判明する広域火山灰が豊富で、それを利用した火山灰層序編年(テフロクロノロジー)が確立している。砂原遺跡の年代決定については、段丘地形の研究から段丘形成年代を究明すること、遺跡周辺に堆積している土層中に噴出年代が分かる既知の火山灰を見つけること、さらに遺跡の層中の2枚の分厚い火山灰を試料にフィッション・トラック法(FT法)を用いて年代を直接測定することである。第Ⅱ文化層中に包含される火山灰層(三瓶木次火山灰)の年代を11万年前と特定した。
この研究調査の重要な点は、約11万年前に島根県出雲市に明らかに旧石器人類が生活していたことの証拠となることだ。しかも、年代的には縄文人や弥生人と言ったホモ・サピエンスではなく、ネアンデルター人達のような旧人に属する人達と言うことに? でも、ヨーロッパではネアンデルタール人は現生人類との競争に負けて絶滅したことになっている。当時の日本列島は大陸と地続きであったことは分かっているので、種々の動物達と一緒に人類の祖先たちも日本にやって来たようだ。縄文人がどのように造られて来たのかも興味津々の話ですね。
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国内最古級の旧石器か、12万年前の地層から石片 出雲
(出所)asahi.com(朝日新聞社):国内最古級の旧石器か、12万年前の地層から石片 出雲(2009年9月29日付)
島根県出雲市の砂原(すなばら)遺跡で、中期旧石器時代(13万年前~3万5千年前)の約12万年前の地層から、国内最古級とみられる旧石器20点が見つかったと、松藤(まつふじ)和人・同志社大教授(旧石器考古学)を団長とする発掘調査団が29日、発表した。調査団によると、国内最古とされてきた金取(かねどり)遺跡(岩手県遠野市、約9万年前)を約3万年さかのぼる可能性がある。日本列島で人が活動を始めた起源を探る貴重な資料になるという。
8月に出雲市在住の地形学者が、砂原遺跡の地層の断面が露出したがけで、鋭い石片を発見。調査団が9月16日から発掘調査した。
このがけを調べたり、地表から約2メートル掘り下げたりしたところ、約11万年前の火山噴火で積もった「三瓶(さんべ)木次(きすき)火山灰層」と、約12万8千年前の砂礫(されき)層の間の地層から、旧石器とみられる長さ約5~1.5センチの石片20点が出土した。石の塊を他の石などを使ってはぎ取ったとみられる剥片(はくへん)や、先をとがらせて縁を刃物のように鋭く二次加工したものなど。素材は石英岩や流紋岩などだった。
松藤教授は「20点の石器にはいずれも剥離痕や人が力を加えた部分があった。また、発掘した地層の石は主に安山岩系で、石器に使われた石英岩、流紋岩とは全く異質で、石器は外から持ち込まれた可能性があると考えられる」と話している。
私有地のため現地説明会はないが、調査報告会を10月4日午前10時半から出雲市内の多伎コミュニティーセンターで開く。出土品は10月10~25日、同市内の県立古代出雲歴史博物館で展示する。問い合わせは県教委文化財課(0852・22・5880)へ。(野中一郎)
【追記】
石器捏造事件以降、石器の発見場所、地層については綿密に確認されて問題は無くなったかもしれない。しかし、発見された石器が本当に人工的に造られたものか自然物かの区別が難しいようだ。だから、日本の旧石器を否定したい学者はこれをフェイクとして無視する態度を取り続けるでしょう。でも、そこのあるはずのない石、例えば黒曜石だの石英岩などが用いられていれば、人為的に運ばれたものと推定するのが自然だろう。旧石器は日本以外でも多数発見されているので何らかの科学的な方法があると思いますが。
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大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)
大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)
青森県東津軽郡外ヶ浜町にある旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡。2013年3月27日付で国の史跡に指定された。指定名称は「大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)」。2021年(令和3年)7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。
1975年(昭和50年)とその翌年に青森県立郷土館により、1998年(平成10年)に民家の建て替え工事に伴い旧蟹田町教育委員会により発掘調査されている。旧蟹田町教育委員会が行った発掘調査で出土した縄文土器は世界の中で最も古いものの一つではないかとされるものがある。
*世界最古の土器?
縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法の算定で15,500~16,500年前のものである可能性があるとされる。また、旧石器時代の性格を示す石鏃も世界でもっとも古いもので、これは世界で最も古い弓矢の使用を示す。
*世界最古の弓矢? それ以前の人類は飛び道具を使わなかったのか。「石を投げる」はあったでしょう。投げ槍では飛距離を出すのは難しそう。ブーメランは何時頃からアボリジア達は使い始めたのか。鉄砲はまだでも水鉄砲くらいなら。
外ヶ浜町山元地区にはⅠ〜Ⅳ遺跡、墓地公園遺跡などいくつもの縄文遺跡が発見されているが、このうち本遺跡は縄文時代草創期のものである。これらから出土した石器や土器は、大山小学校跡の大山ふるさと資料館から、む~もん館に移設保存されて自由に見学ができるようになっている。
大平山元Ⅰ遺跡からは石斧や石核、石鏃などの石器も発掘されている。ほとんどの石器の材料は地元の川から採れる頁岩からできているが、中には青森県西津軽郡鰺ヶ沢町から運ばれてきた黒曜石からできている石器もある。
土器はすべて小破片で形の分かるものはないが、文様はなく平らで角張った底の土器である。土器の内側には炭化物が付着しており、食料の煮炊きに使ったものであることが分かる。発見当時、これは世界でもっとも古い煮炊きの痕の一つとみなされた。(その後2012年に、中国で1万9千~2万年前のものではないかとみられる、焦げ痕のある土器がみつかっている。*こちらの方が古いけど大丈夫?)
*初期の縄文土器は底が尖ったものが多いのですが。
現在は民家と民家の間に挟まれた狭い空き地にある。現在田の近くにあるため、縄文時代には湿地帯のすぐ近くの小高い場所だったとされる。
*大平山元I遺跡は当時、当時は海の傍だったようだ。貝塚は近くにあるのでしょうか?
青森県と隣接する岩手、秋田、北海道南部にはビックリするほど沢山の縄文遺跡が存在する。そのため世界で最も古い人類の文明ではないかと世界中で注目されている。今後もどのような発見があるのか楽しみな所です。
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青谷上寺地遺跡
青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき):
鳥取県鳥取市青谷町青谷にある縄文時代末から平安時代にかけての複合遺跡。特に弥生時代の集落遺跡として知られる。国道青谷羽合道路及び鳥取県道274号青谷停車場井手線の建設にともない、1998年(平成10年)度から3年3か月の期間をかけて、遺構面の面積で延べ約55,000平方メートルが発掘調査された。典型的な低湿地遺跡で、弥生人の脳をはじめとする多彩な遺物が出土したことから「弥生の地下博物館」とも呼ばれている。2008年(平成20年)に国の史跡に指定された。
鳥取市は鳥取県の西側で鳥取砂丘の近くだ。護岸工事の跡もあり人々は海を通して周囲と交易をしていたようだ。
およそ1.5キロメートル四方の青谷平野の中央部に位置し、当時の地形の高低を利用した遺構が残されている。地形の高かったところでは無数の土坑群やピット群が検出されているが、周辺の低湿地部では水田域を確認している。いずれにおいても厚い遺物包含層が形成されており、複数の遺構面が介在する。
遺跡は弥生時代前期後半に集落としての姿を現し、中期後半に著しい拡大を遂げ後期に続くが、古墳時代前期初頭に突如として姿を消す。
遺構で目を引くのは、杉の板材を用いた護岸施設である。遺跡の南東部で検出された弥生時代中期後半の護岸施設には長さ260センチメートル・幅70センチメートルの巨大な板を数枚立て並べたうえ杭で固定していた。後期になると地形の高い範囲を取り囲むように溝がめぐらされているが、ここには矢板列を幾重にも打ち込んでいた。こうした護岸施設の中には建築部材を転用したものが含まれている。
*現在の護岸なら鋼矢板で代用される。木製の矢板を大量生産できる建設技術は驚きですね。どのような船が着岸していたのか気になるところです。
遺物は膨大な数の土器以外に、鉄器・青銅器・木器・石器・骨角器など多彩で、後述の遺物も合わせ弥生時代の情報量の多さは特筆される。
遺跡の東側の溝では弥生時代後期の100人分を超える約5,300点の人骨が見つかったが、うち110点に殺傷痕が見られた。また2点に脊椎カリエスによる病変が確認された。これは日本における最古の結核症例である。
*結核菌も渡来人がもたらしたものらしい。
・日本で初めて弥生人の脳が3人分発見された。この脳から採取したDNAを元に顔が復元された。
・発掘された弥生時代後期とみられる男性人骨について、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館が父系のY染色体を分析し2020年の研究報告で発表した結果、5点のうち2点はY染色体ハプログループC1a1、1点はハプログループD、1点はハプログループO、残る1点については「不明」(Y染色体ハプログループが特定できなかった)であった。
・母系のミトコンドリアDNA分析の結果、青谷上寺地遺跡出土の弥生時代の古人骨は現代日本人でも最も多く見られるハプログループであるハプログループD4が多く検出された。 特にハプログループD4b2b1及びD4b2a2が多く検出されたが、D4g1a、D4g1c、D4a1a1、D4a2a、D4c1b1、D4c1b2、D4c2等、同様に現代日本人でも見られる他の下位系統の例も見つかっている。ハプログループD4以外では、ハプログループM7b1a(特に下位系統のM7b1a1a1)及びハプログループN9a2(特に下位系統のN9a2aだが、N9a2dも一例有り)が多く検出された。そのほかにはハプログループBが四例(B4b1a1b、B4c1a1a1a、B4f、B5b1a2がそれぞれ一例ずつ)、ハプログループC1aが一例、ハプログループD5a1a1が一例、ハプログループG1a1a2が一例、ハプログループM9a1a1が一例、そして以前から縄文人由来と推定されているハプログループN9bが二例、ハプログループM7a1a1aが一例、H2a2aが一例発表されている。
・更に、2021年の研究報告で同じく青谷上寺地遺跡出土の別の五人分の男性人骨をもって遺伝子検査を行った結果、二点がY染色体ハプログループD(そのうち一点はD1bまで特定)、二点がハプログループO1b2(そのうち一点がO1b2a1まで、もう一点がO1b2a1a1まで特定)、そして一点がどのハプログループに属すか不明(特定できなかった)と発表されている。
・120センチメートルほどのモミ製の盾から緑色顔料(緑土)が確認された。これは東アジア最古の緑土の使用例である。
・35点もの糞石が出土した。これは弥生時代の糞石としては最も多い。ちなみに同じ低湿地遺跡である唐古・鍵遺跡では1点のみの出土にとどまる。
☆糞石(鳥取県のHPから)
この土の塊のようなものが何だか分かりますか?
答えは青谷上寺地遺跡から出土した「糞石(ふんせき)」。読んで字のごとく、人や動物の排泄物(はいせつぶつ)が化石化したものです。すでに臭いは失われていますので、ご安心ください。
ところで、糞石は弥生時代の暮らしを知る上でとても重要な出土品です。なぜなら消化されずに排泄された食物の断片などが含まれていて、排泄物の主が食べていたものを知ることができるからです。
そこで、人に由来する糞石を分析したところ、青谷上寺地遺跡に暮らしていた弥生時代の人はコメの他に、ムギや雑穀を食べていたことが分かりました。
見た目はまさに"糞"ですが、弥生時代の生活を教えてくれる、ありがたい出土品です。
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黒又山
黒又山
秋田県鹿角市十和田大湯地区中通台地にある、円錐の形をした標高280.6mの山である。黒又山は、地元では「クロマンタ」または「クルマンタ山」と愛称され、山頂には本宮神社がある。山の形がピラミッドに似ているので、古代のロマンをかきたてる山としてマニアでは知られている。黒又山と、その上空を光りながら飛行する何らかのものが描かれた鳥谷幡山の絵(昭和17年)が有名である。 黒又山のすぐ近くには、国特別史跡「大湯環状列石」がある。
登山するには、宮野平集落の本宮神社鳥居口から入る。山頂周辺には樹木が繁っているので、眺望はあまりよくない。 山麓には、秋田県鹿角市遺跡詳細分布調査報告書記載の堤尻I遺跡・堤尻II遺跡・堤尻III遺跡(縄文時代)などの遺跡がある。
安倍貞任の一門の中に、本宮徳治郎という医者がいた。本宮徳治郎は鹿角に安住の地を求め、移住する際には安倍氏の守り神である清水観音、八幡大菩薩、帝釈天を背負ってきた。本宮は帝釈天を黒又山に祀り、巽の方向の草木八幡堂に八幡大菩薩を、丑寅の方向の大円寺境内に清水観音を祀った。更に、医師の守り神である薬師如来を一身に信仰し、遠くからでもお参りができるように黒又山に薬師堂を建立した。本宮神社の名が掲げられたのは明治になってからで、この地一帯に深く信仰を得て昔から薬師様として親しまれていた。黒又山頂上には薬師堂が鎮座していて、本尊は薬師如来である。
黒又山は1992年から1994年にかけて、同志社大学の研究グループを中心とした「黒又山総合調査団」によって考古学的調査が行われた。黒又山遺跡の出土遺物には、石器や石造品、土器、土製品の基本的遺物があげられる。また、鉄釘や古銭なども出土している。特筆すべきなのは、石英安山岩からなる刻文石製品で、山頂部、斜面、山麓部から16個ほど出土している。
刻文石製品は縄文時代に小型のものが若干調査例があるが、大量に大型のものが狭い区域に集中して出土するのは、極めて特筆すべきことである。大湯環状列石という縄文時代後期初めの宗教祭祀遺跡から直線距離で2km内外にあることも考えると、この黒又山も山岳宗教祭祀の場であったと考えられる。
発掘された石は岩偶と思われる物も含まれており、最大で42×25×18cm、最小で8×4.5×4cmで、いずれも人頭大前後ばかりのもので、ちょうど人が持ち運びできる程度の重さである。刻まれた「文様」は黒又山の南西にある猿賀神社の「御神体石」に刻まれた文様と酷似している。
また、地中レーダーによって、山頂の地下10mの地点に何者かが埋葬されている可能性のある空洞と石棺のような物が発見されており、黒又山全体が石で造られた7段から10段のテラス構造になっている事が確認されている。これらは2022年にテレビ番組で行われた企画で、東北大学の協力で行われた最新のレーダー機器での調査でも観測されている。
第2次調査のトレンチにより、山頂部からは「烏帽子状の立石」が発見された。立石は頭部の部分は表面の自然石が剥離していて、何らかの強い衝撃によって破壊された跡が残されている。立石はほぼ四面体になっており、第1面には「目の形」に刻まれた跡が、他の面にも蛇の様な盛り上がりや、小さな円形状の文様が刻まれている。目のような文様は、国道103号沿いにある(国道を造るために移動させられているという)通称「おなご石」にも刻まれている。この立石を中心に岩が半円状に配置されていたと思われる。
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西谷墳墓群
西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)は、島根県出雲市大津町字西谷にある弥生時代から奈良時代の墳墓群。国の史跡。
出雲市街南東部の標高40m程度の丘陵に存在する。弥生時代後期の弥生墳丘墓、古墳時代の古墳・横穴墓群、奈良時代の火葬墓などからなる。1953年に発見され、2018年現在で27号までと番外5号までの32基の墳墓と横穴墓群が確認されている。このうち、1~4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地域を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、出雲地域ではこの西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に多く見られる。
1953年(昭和28年)、出雲市大津町下来原(しもくりはら)字西谷の丘陵地で、出雲市立第一中学校の生徒によって散乱している土器片が発見された。この土器片は1956年(昭和31年)、同中学校の教員により「下来原西谷丘陵土器」として報告され、出土地点が「西谷丘陵遺跡」と名付けられた。この出土地点は、今日では西谷4号墓と呼ばれている。
1971年(昭和46年)に島根県立出雲商業高等学校の移転に伴う島根県教育委員会による事前分布調査により、1号墓・4号墓・5号墓が確認された。
1972年(昭和47年)、出雲市教育研究会による1号墓の緊急発掘調査で、これが四隅突出型墳丘墓であることが確認された。同年、8号墓が調査前に破壊されている。
その後、1980年までに島根県教育委員会や出雲考古学研究会の調査により計17基の墳墓が確認され、出雲考古学研究会がその成果を『西谷墳墓群』にまとめ刊行した。
1983年(昭和58年)から1992年(平成4年)にかけては、島根大学考古学研究室を主体に3号墓を中心に発掘調査が行われ、弥生土器や水銀朱、柱穴など祭祀の痕跡が確認された。
1991年から1992年にかけて、農道工事にともない15・16号墓が発見・調査(記録保存)された。2000年3月30日に国の史跡に指定された。
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五色塚古墳
兵庫県神戸市垂水区五色山にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財・神戸市指定有形文化財に指定されている。
兵庫県では最大規模の古墳(194メートル)で、4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られる。西側にある小壺古墳と合わせて国の史跡になっている。
五色塚古墳が造られた4世紀後半のランキングが気になりますね。じつはその時代だと、200メートルほどのサイズの前方後円墳は、日本の中心地である奈良(ヤマト)と大阪にしかなかったのです。その時代だと、五色塚古墳は全国で、なんと5本の指に入る大きさでした!
五色塚古墳に葬られたのは、目の前に広がる明石海峡という大事な海路を掌握していた人物であったと考えられます。そのためにヤマト王権から、かなり重要視されていたのでしょう。ヤマト王権そのものではないの?
そもそも、淡路島では日本で最も古い鉄生産の縄文遺跡もある。
【円筒埴輪】
埴輪と言えば、武人や馬、動物の形をしたもの思い浮かべる人が大部分。しかし実際古墳から発掘される土管の形の円筒埴輪。同じサイズで同じ形の大量生産の工業製品。専門家集団による大量生産であることは明か。だから全国一律の形なのでは? 形象埴輪よりは時代的には後だろう。 円筒埴輪は文字通り円筒で土器のようだが底が無く。単なるシンボルとしてではなくもっと実用的な用途があったと考える必要がありそうだ。古墳の本体の土の中に溜まった水分を排出するためのドレーンとしての役割があるのかもしれない。埴輪はこの復元のように単に並べて置いただけなんでしょうか。これではすぐに倒れてバラバラになってしまうでしょうね。多分建設時には土の中に埋める形で用いられたのでは?他の形象埴輪も死者を送るためなら土中に埋めて使われるものだったのでは?
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石舞台古墳

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。
*その根拠は?→その土地が蘇我氏の勢力圏?記紀に場所の記述がある?
墳丘は現在失われているが、下部は方形で、20~50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていた。墳丘の周りに幅5.9~8.4mの空堀がめぐり、幅約7.0メートルの外堤が設けられている。外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルである。
封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であるという。

埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。花崗岩で作られた石組みである。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。また、石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3km、多武峰のふもとから運ばれた。
石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。羨道部と外堤から土師器と須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出た。
外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたって周辺にあった古墳を削平し、土などを移したものと考えられている。
1952年(昭和27年)3月29日、国の特別史跡に指定された。
被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。 また、三重中京大学名誉教授の上野利三は石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれており?、肉眼でも確認可能との説を主張している。
ただし、異説があり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目(馬子の父)説を唱えている。
石舞台古墳が文献に記されるのは、江戸時代になってから。延宝9年(1681年)の林宗甫『大和名所記』(和州旧跡幽考)に、石太屋という陵があると記しており、陵とは前後の文脈から天武天皇の陵と了解できる。「石太屋」(いしふとや)は大きな石で造った屋の意味で、これが「石舞台」と転訛したのではないかとの意見がある。嘉永元年(1848年)の『西国三十三所名所図会』にも、石舞台を天武天皇の殯のあとという記述があるが、現在では天武天皇の墓とする説を支持する学者はいない。
地元では他に「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としている。
明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』にみえる桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後これが有力になった。
1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。これより前には前方後円墳ではないかという説もあったが、貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、方形であることが判明した。発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったのはこれが初めてのことであった。
巨石が組み上げられた基本的な外観は江戸時代から変わっていないが、石室と羨道部はかなり崩れていた。現在は修復され、内部が公開されているので玄室内に入ることも可能である。
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蛇塚古墳(へびづかこふん)

蛇塚古墳(へびづかこふん)は、京都府京都市右京区太秦にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
京都府で最大規模の横穴式石室を有する前方後円墳であったが、墳丘封土は失われ、現在は露出した石室のみが残る。
築造時期は、古墳時代後期-終末期の6世紀末から7世紀初頭頃と推定される。現存する京都府の前方後円墳としては最後期に属する。嵯峨野地域では天塚古墳(約71メートル、国の史跡)・清水山古墳(約60メートル、非現存)・垂箕山古墳(仲野親王墓古墳、約75メートル)・蛇塚古墳などの前方後円墳を中心とする6世紀以降の後期古墳が分布するが、これらは嵯峨野一帯を開発した渡来系氏族の秦氏の活動に関係すると見られ、主な古墳は秦氏の首長墓と推測されている。
石室域は1977年(昭和52年)に国の史跡に指定された。現在では石室内への立ち入りは制限されている。でも、この古墳住宅地の間只中にある。子供達にとっては中を探検したくなるのでは?
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土器
| 最古の縄文土器 | 火焔型土器 | 遮光器土偶 | 土師器 | 須恵器 |
最古の縄文土器
最古の縄文土器
日本最古の縄文土器は、青森県大平山元遺跡で1975~1976年に発掘された土器片と考えられています。放射性炭素年代測定法により、約1万6,500年前の土器であると推定されています。
大平山元遺跡は蟹田川の中流に位置し、良質な頁岩の産地だったと考えられています。縄文時代の人々は頁岩を道具づくりの材料として使用していたと推測されてる。
また、長崎県泉福寺洞穴遺跡では、豆粒文土器と呼ばれる土器が発見されています。豆粒文土器は、表面に小豆粒大の粘土を貼りつけただけの、丸底の深鉢です。科学的年代測定法と出土層から、約1万2,000年前の土器と推定されています。
縄文土器と言っても最初から縄文があった訳でもないだろう。
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火焔型土器
火焔型土器(かえんがたどき)は、縄文時代中期を代表する日本列島各地で作られた土器の一種。 燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器を指す。縄文土器の中でも特に装飾性豊かな土器。
火焔型土器は殆どが深鉢形土器で、胴部は粘土紐を貼り付けてS字状、渦巻状などの文様を施す。縄文(縄の回転による施文)による装飾はほとんど見られない。上部には原則として4か所に大ぶりの把手(突起)を付す。把手は複雑な形状で、粘土紐によって装飾され、把手以外の口縁部は鋸の歯状に形作る。これらの装飾が何を表したものかは不明だが、全体の形状が燃え上がる炎を思わせることから「火焔型」土器と呼ばれている。集落内の特定の場所で発見される傾向はなく、またオコゲがついているものも出土することから、煮炊きに使われたと考えられる。しかしその形状から見て何らかの祭祀的な目的に使われたとも考えられる。

東日本全体では200以上の遺跡で出土している。信濃川流域の新潟県、長野県北部、および阿賀野川流域の福島県西部の出土数が多い。北陸地方の富山県や東北地方の南部山形県、群馬県・栃木県から少数出土することがある。出土点数の大半は新潟県域の特に信濃川中流域に集中する傾向があり、長岡市馬高遺跡、十日町市笹山遺跡、野首遺跡などで特に多く出土したことが知られている。福島県では縄文中期から末期にかけての柳津町石生前遺跡(いしうまえ)、耶麻郡西会津町の上小島C遺跡、南会津郡南会津町の寺前遺跡、磐梯町と猪苗代町にまたがる法正尻遺跡などが知られる。
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遮光器土偶

遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた。雪国で遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇張表現と考えられているが、それにしても何故こんな目に。
遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。
完全な状態で発見されることは稀で、足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において、土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられている。

*単なる土人形ではなく中空ににして焼き固めている。技術もいるし手間もかかる。わざわざ壊すためにこんなものをつくる。余ほど大切な儀式に使たんでしょうか。現在でも見られる信楽焼の狸を思い起こすのは私だけでしょうか?
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土師器(はじき)
土師器(はじき)は、古墳時代から平安時代にかけて広く使われた素焼きの土器です。弥生土器の系統をひき、赤褐色や黄褐色の色をしており、一般的に装飾が少なく、野焼きで焼かれたため、柔らかいのが特徴です。
土師器は古墳時代以降に出現し、前の時代に作られていた「弥生土器(やよいどき)」を受け継いだ、素焼きの土器です。 約700~800度の温度で、野焼きで焼かれたため、色は赤色や黄かっ色で、軟らかい土器であることが特徴です。
土師器(はじき)とは、弥生土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師質土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。
須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、一般的に土師器の方がより日常的で格下の存在とみなされていたと考えられてきた。しかし、『正倉院文書』中の土器の器種別の価格表を記録した文書によれば、須恵器と土師器のあいだの価格差はほとんどなく、蓋付のものはないものに比較しておよそ倍の価格がついていることが判明した[1]。なお、埴輪も一種の土師器である。
多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、9世紀中頃までは坏や皿、高坏・椀などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては甑がある。このような日常食器のほか、祭祀具・副葬品としても多く使われ、祭祀遺跡・古墳からも出土する。
野焼き、もしくは小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給がされる酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器の場合より低い800 - 900度で焼成されることになり、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。土師器の土器形式として庄内式や布留式(奈良県天理市布留遺跡から出土)と命名され、庄内式土器の方が古い段階の土師器とされた。この庄内式土器の段階では定型化した大型の円墳は未だ出現しておらず、庄内式土器は、古墳出現以前の土器である説が有力とされる。形式順序は弥生V期、庄内式、布留式という順になる。
須恵器とほぼ同時期に生産されていたものであるが、土師器の技法は弥生土器の延長線上にあり、どの形式から土師器かを土器自体から決定することは難しい。当初は古墳に伴うという時代的特徴が手がかりとなったが、現在では、全国的斉一性が重視されている。縄文土器、弥生土器は地域色が強かったのに対し、土師器では、厳密に言えば地方色もあるが、同じような意匠・技法による土器が本州から九州までの規模で分布する。これは、前代と一線を画すような文化交流の増大を意味し、その裏に政治的統一の進展を見る説が有力である。
*確かに博物館での展示をみても弥生式土器と土師器(はじき)の区別はつかない。古墳時代なら土師器?
土師器は元来、原則的にも伝統的にも文様をもたない土器のはずであるが、東北地方北部を中心とする地域の8世紀前後の土師器には口縁部に沈線文をもつものがしばしば出土する。
9世紀以降は土師器工人集団(土師部:はじべ)と須恵器工人集団(陶部:すえつくりべ)との交流が活発になり、轆轤土師器、土師質土器などと呼ばれる両者の中間様式の土器が多量につくられるようになった。
中世に入って登場するかわらけは、土師器本来の製法を汲む手づくね式の土器で、主として祭祀用として用いられた。現在でも一部で、厄除けや酒席の座興としてかわらけ投げがおこなわれることがある。なお伊勢神宮で神事に用いられる土器はすべて三重県多気郡明和町の神宮土器調整所で造られる土師器である。
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須恵器

須恵器(すえき)は、古墳時代から平安時代にかけての日本で生産された陶質土器(炻器)。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。
平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていた(ただし古墳時代からそう読まれていたかどうかは不詳)が、いわゆる陶器(とうき)との混乱を避けるべく、考古学用語として須恵器という当て字が考案され一般化したものである。20世紀前半までは祝部土器(いわいべどき)と呼ばれることがあった。また、奈良時代の僧である行基が諸国を行脚して民衆に作陶技術を教授したとする伝承から「行基焼」(ぎょうきやき)との別名もある。
なお福岡県糟屋郡には、須恵町という須恵器を連想させる地名があり、実際に「須恵焼」という焼物を産出してもいるが、これは江戸時代に福岡藩磁器御用窯が在った現在の同町で焼かれ、その後博多人形師宗家の中ノ子家が継承した、無双金錆焼に代表される焼物の名称であり、須恵という地名および須恵焼と当項「須恵器」とは、直接的には無関係。
須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別が付きにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん)焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。
縄文土器から土師器までの土器は、日本列島古来の技法である「輪積み(紐状の粘土を積み上げる)」により成形され、野焼きで作られていた。このため焼成温度が800~900度と低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。
それに対し、須恵器は全く異なる技術(轆轤技術)を用いて成形し、窖窯(あながま)と呼ばれる地下式・半地下式の登り窯を用いて1100度以上の高温で還元焔焼成されることで強く焼締まり、従来の土器以上の硬度を得た。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素と水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまり還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な青灰色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。
基本的には釉薬をかけない。釉のかかったものも見られるが、これらの多くは窯の燃焼中、燃料(薪)の灰が製品に付着し、高熱で融解して偶然生じた「自然釉」のようである。
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古代の天皇達
| 卑弥呼 | 神武天皇の父 | 神武天皇 | 長髄彦 | 欠史八代 |
| 綏靖天皇 | 安寧天皇 | 懿徳天皇 | 開化天皇 | |
| 崇神天皇 | 垂仁天皇 | 景行天皇 | 成務天皇 | ヤマトタケル |
| 武内宿禰 | ||||
| 仁徳天皇 | 倭の五王 | 雄略天皇 | 神功皇后 | |
| 平群真鳥 | 武烈天皇 | 継体天皇 | 小野妹子 | |
| 崇峻天皇 | 秦河勝 | |||
| 聖武天皇 | 和気清麻呂 | 桓武天皇 |
日本の歴史の部屋(続)
裸坊達の部屋
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卑弥呼
卑弥呼(読みは、ひみこ/ひめみこ等諸説有り、旧字体:卑彌呼、170年頃 ~248年)は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。しかし、日本の古代の歴史書である『古事記』『日本書紀』等に卑弥呼の記述はなく、考古学上も実在した文献的証拠が無い。
西晋の官僚である陳寿が書いた『魏志倭人伝』に記述が見られる。著者の陳寿は日本に来た記録はないため伝聞により当時の日本に関して記述したようだ。
それによれば、倭人の国は多くの男王が統治していた小国があり、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れたため(倭国大乱)、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定したとある。卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せず、また歳長大で夫がおらず、政治は男弟の補佐によって行なわれたとも記されている。諱も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢(旗のようなものらしい)を贈り励ましたと書かれている。まあ、ガンバレぐらいで武器を送った訳でもなさそうだ。当時の魏の状況から見て、邪馬台国が魏の後ろ盾を期待した訳ではなさそうだ。ただ朝鮮半島の南部は倭人達が暮らしているとの中国側の記事からすると、邪馬台国は魏と国を接していた可能性もありそうだ。
3世紀の初めに存在した連合国家=ヤマト政権と見なせば、邪馬台国=大和王朝となるので、「倭国の女王」である卑弥呼は日本で最初の女帝と見做せる。
邪馬台国が何処にあるかの論争は姦しいが、著者の陳寿さんがどういう目的でこれを書いたんでしょうね。西晋とは魏を滅ぼして、魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)の3国を統一した王朝。当時、魏の国は蜀呉の2国と戦争状態で、更に朝鮮半島には騎馬民族の強国高句麗が台頭しているので、魏としては何とか倭人の協力が欲しかった。
陳寿さんの記述は、倭国は一見文明外の野蛮な国のように書かれているが、実は彼にとっての理想郷のようでもある。
人々は温和で平和的で礼儀正しく争いを好まない。村の人々は皆平等で男女長幼の差別をしない。男女を問わず年寄りを敬い、話し合いで物事を決める。席次は年齢順でリーダと言えどもこれに従う。
卑弥呼は、長老達を通して、民の声を聴き、天の声としてリーダ(男王)に伝える。これ正に現代の民主制にも優る良い政治形態かも。卑弥呼=ヒメミコとすれば、彼女は一種のシャーマンとも考えられる。
倭国の自然は、海岸近くまで鬱蒼と森林が迫り、海で貝や魚を取って暮らす人が多い。少ない平地には水田が広がる。山にも山で狩や山菜等の採集もできる。つまり人々はとても豊かで敢えて他の部族を襲撃して食料を奪う必要は無いようだ。
倭国大乱と記されている大乱とは連合国家間内部のリーダ達の間の覇権争いで、民族交代で全く別の国が出来てしまうような大陸諸国の戦争とは全く異なったもののようだ。
そもそも、弥生以前の縄文人は海洋民族の血を引いており、海産物を食の中心にしていたようだ。だから、魚が取れなくなると海を伝って集団で移動する。その地の留まるものもいる。だから、連合国家の各リーダ達は皆、先祖が繋がって血縁関係でも結ばれている訳だろう。だから、話し合いでの解決が最も理想的なんでしょう。互いのご先祖の神様を尊重し合う。だから八百万の神なんですね。
これは、隣国の中華王朝から見ればある意味脅威でもあるだろう。多くの国に分裂していれば簡単に侵略できるが、倭国は一旦団結すれば恐ろしい力を発揮する。助け合いの精神があるから。
事実日本は、歴史上ただ一つの例外を除いて一度も外国に侵略されたことは無い。白村江で負けた後の唐、世界帝国を作り上げたモンゴル、世界の海を支配したスペイン、オランダ、フランス、イギリス、ロシア皆侵略に失敗している。成功したのは米国だけだ。
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神武天皇の父
神武天皇の父は、鵜鷀草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと) です。母は玉依姫命 (たまよりひめのみこと) 。 神武天皇は、高千穂宮 (たかちほのみや) に御降臨され、日本初代天皇として即位されました。
大物主神の妻もタマヨリ姫で同名。シャーマンの役割を持った女性の名前の可能性も?
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神武天皇
神武天皇(じんむてんのう、は、日本の初代天皇とされる人物。一般的には、日本神話(『古事記』・『日本書紀』(記紀))上の伝説上の人物とされることが多い。
諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さの、さぬ)。『日本書紀』記載の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。
天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。奈良盆地一帯の指導者長髄彦(ナガスネヒコ)らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。遷都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる人物。
『古事記』・『日本書紀』(記紀)に明記されているので、日本の正史にのせられているので一応、相当する人物がいたと考えるべきだろう。
ただ、何時頃の人物なのか。或いは複数の人物を一人にまとめたのか。一体どんな出来事があったのか。天照大御神や高御産巣日神も一応は実在したと見なさなければいけないようですが。
天孫(天照大御神の孫。皇孫(高皇産霊尊の外孫)ともいう)・瓊瓊杵尊の曽孫。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。『日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいる。稲飯命は新羅王の祖ともされる。
『日本書紀』によると庚午年(『本朝皇胤紹運録』によると1月1日庚辰の日)に筑紫の日向で誕生。15歳で立太子。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳時に兄や子を集め東征を開始。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神(大物主神)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とし、翌年に即位して初代天皇となる。『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は西暦紀元前660年2月11日。皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命(かんやいみみ)、神渟名川耳尊(かんぬなかわみみ、後の綏靖天皇)を儲ける。神武天皇76年に崩御。
**2月11日は「建国記念の日」です。この日は、日本の建国を記念し、国を愛する心を養う日とされています。
*日向→宇佐→安芸国→吉備国→難波国→河内国→紀伊国を経て→中洲(大和国)
筑紫の日向と言うのは今の宮崎県として良いのでしょうか。この遠征は総て海路を通しておこなわれたようだ。元々縄文人は海洋民族だったようだ。だから瀬戸内海一帯がこの時代の一つの経済圏・活動圏だった訳です。これらの国同士は、婚姻関係で強い絆を持っているので神武天皇をリーダとする連合国家の成立にはさほどの抵抗なく合意してくれたのかもしれませんね。つまりほとんどの国は共通の神様(先祖)を持っていた。
【皇紀】
皇紀とは、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年(紀元前660年)を元年とする日本の紀年法です。西暦より660年大きな値となります。日本書紀の記述に基づき、明治政府が1872年(明治5年)に制定しました。明治政府はどのような根拠でこの紀年法を定めたのでしょう。
因みに、零戦(戦闘機)が制式採用された1940年(昭和15年)は神武天皇即位紀元(皇紀)2600年にあたるので、その下2桁の「00」から「零式」とされたということがある。
神武天皇の実在を疑う根拠となっているのは、皇紀元年は紀元前660年となることだ。これは明かに縄文時代に相当する。そんな時代に国なんて存在するかバーカということだろう。ところが弥生時代の初めは考古学的発見からどんどん遡り、紀元前660年は弥生時代の前期だ。しかも縄文時代にもどうも国らしきものも存在したらしい。
しかし、考古学における発見が相次ぎ、また古代人の遺伝子も推定できるようになり、1万年以上続いた縄文時代の見直しが行われている。三内丸山遺跡の発見以来、彼らは海岸地帯に居を構え、ヒスイ(富山県糸魚川)や黒曜石(神津島)等の交易をおこなっていた。つまり、国としてのまとまりがあり、いくつかの国同士がネットワークで結ばれていたことが判明して来た。となると、神武天皇は縄文人でも構わないと言うことになる。
ここで忘れてはいけないのが、7300年前に起こったとされる鬼界カルデラの大噴火事件である。これは地球の歴史上の大事件で、これにより日本の西日本一帯や朝鮮半島の南部まで、人が住めない荒れ地と化してしまう。多くの人達が亡くなったが一部の者達は東日本や大陸へと避難して助かったものもいたかもしれない。
実際に日本で発見される縄文遺跡は東日本が圧倒的に多いが、7300年前より前の西日本の遺跡は火山灰の下に埋もれて見つからないだけなのかもしれない。
何時頃から西日本地区に人口が回復するのか? 神武天皇時代には圧倒的に東日本の方が人口が多かった。でも、稲作が開始されるのは九州かららしい。神武天皇の東征は稲作文化の東進と言う観点でとらえると面白いかも。神武天皇自身が稲の種を普及する役割を持っていいた。
【神武天皇陵】
神武(じんむ)天皇陵は畝傍山の北東のふもとに位置し、正式には「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」といいます。
「日本書紀」と「古事記」が伝えるところによると、初代天皇とされる神武天皇は、日向地方(現在の宮崎)から瀬戸内海を東に進んで難波(現在の大阪)に上陸しましたが、生駒の豪族長髄彦に阻まれたため、南下して熊野へ回りました。そこで出会った八咫烏(やたがらす)に導かれて吉野の険しい山を越え、大和に入ります。周辺の勢力をしたがえた後、最後に宿敵の長髄彦を倒して大和地方を平定されました。
そして、紀元前660年の1月1日に畝傍山の東南、橿原宮(かしはらのみや)で第一代天皇として即位されました。
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長髄彦(ながすねひこ)
『日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。
『古事記』では特に討伐の場面もなく主君の邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が神武天皇に服属したとするが、『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため饒速日命(邇芸速日命)の手によって殺されたとされる。
*「神璽(しんじ)」とは、天皇の印(御璽)または三種の神器を指す言葉(AI)。
『先代旧事本紀』では神武天皇が紀伊半島を迂回し長髄彦と再び対峙した頃には、既に饒速日命は亡くなっており、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)が天孫(神武天皇)への帰順を諭しても聞かなかったため殺したとする。
なお、長髄とは『日本書紀』では邑の名であるとされている。
登美夜毘売(とみやびめ)、あるいは三炊屋媛(みかしきやひめ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で河内国の河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨し、その後大和国の鳥見の白庭山に移った饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻とし、仕えるようになる。
神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の彦五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。
その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。『日本書紀』神武紀には、この時の様子を次のように記している。
ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べ、主君が天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と步靫(かちゆき)を見せた。天皇が同じ物を見せると長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命に殺された。
確かにどう見ても神話の世界で、実話としては余りにも突飛。しかし、神武天皇とリーダの地位をどちらが正統かを争っているんですね。祖先は同じではないかと。だからリーダを殺して神様としてまつることで戦いは終了なんでしょう。
*神武天皇の鳶
霊鵄(きんし)とは、日本神話に登場する金色のトビ(鵄)で、神武天皇の東征を助けたとされています。瑞鳥(めでたいことの前兆とされる鳥)とされ、日本建国に導いた神使とされています。
『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。
ただし、『古事記』に金鵄は登場せず、神武東征の際に熊野から大和へ東征軍を道案内した八咫烏と混同、あるいは同視されることが多い。金鵄と八咫烏が同一であるか、それとも別の存在であるかはっきりしないが、いずれにしろ日本建国に関わった霊鳥として、吉事や勝利あるいは建国の代名詞として使われ、特に大日本帝国時代には金鵄勲章をはじめ、意匠や名称が多方面で採用された。
*ナガスネヒコを祀る神社として知られるのは、奈良県奈良市にある添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)。この神社は、神武天皇(イワレヒコ)と対立した豪族・長髄彦(ナガスネヒコ)の御霊を祀ると伝えられています。
**八十梟帥(やそたける)は『日本書紀』にある人名。「数多くの勇者」という意味で用いられている可能性もある。『古事記』では八十建と表記し、後者の意味で用いている。
『日本書紀』によれば神武天皇が菟田(宇陀)の高倉山に登って、国内を見渡したとき、国見丘の上に八十梟帥がおり、女坂には女軍、男坂には男軍、墨坂にはおこし炭を置いていたとされる。この八十梟帥は後に天皇に敗れ、斬り殺されている。
弟猾は、「倭の国の磯城の邑に磯城の八十梟帥あり、又高尾張の邑に赤銅の八十梟帥あり」と奏上している。
*弟猾(おとうかし)とは、記紀等に伝わる古代日本の人物。『古事記』では弟宇迦斯と表記されている。大和国(奈良県)の宇陀(うだ)の豪族、兄猾(兄宇迦斯、えうかし)の弟。
*また、おとうかし【弟猾】:大和の菟田県(うだあがた)の豪族の長。神武天皇を暗殺しようとした兄の兄猾(えうかし)を密告。功により猛田邑(たけだのむら)を与えられたとも。
また弟磯城は「吾が兄兄磯城、天つ神の子来ましつと聞きては、八十梟帥を聚め、兵甲を具へてあひ戦はむとす」と述べている。
また『日本書紀』では景行天皇12年12月5日条にも「熊襲の八十梟帥」が現れる。
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欠史八代
欠史八代(けっしはちだい)は、第2代綏靖天皇~第9代開化天皇までの8代の初期の天皇を指す。歴史学の用語。確かに『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている。しかし、多くの学者はそれは後世(記紀編纂時)の創作ではないかと見なしている(何故?)。欠史八代の天皇が実在していない?
でも、戦前までははそう思われていなかったのでは?
古代天皇の系譜は『古事記』、『日本書紀』(『記紀』)によって伝えられている。初期天皇の系譜の中には、後世に創作されたと見られるものが多数存在する? 特に欠史八代と呼ばれる赤色で示す8名の天皇は要注意。何故?
『記紀』の原史料として重要なものとして『帝紀』や『旧辞』がある。『古事記』、『日本書紀』はこれらを基に作成されたと考えられるからだ。しかし、これらの内容は古くに佚失し伝存していない。前者は天皇の名前、系譜、后妃や子供の名、宮の場所、治世中の重要な出来事、治世年数、王陵の場所、後者は神代の物語、神々の祭の物語、天皇や英雄の歴史物語、歌謡、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定されている。欠史八代が「欠史」とされるのは、『記紀』に伝わる各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、『旧辞』の部分、即ち物語や歌謡など具体的な歴史情報が存在しないこと(紛失した?)による。このため、この8代の天皇が皇室の起源をより古いものとするために後世に追加されたものであることが疑われ、その実在性が問題となった。でも天皇の正統性を示すためには『帝紀』的な系譜情報の方が絶対に重要ではなかろうか?
本当にそうだろうか。何故皇室の起源を実際よりも古くしなければならないのか。その動機が乏しい。神武天皇がBC660年の生まれとしても、史実として何の問題も無いことは近年の考古学的発見より明らかになっている。隋や唐の皇帝に比べて日本の天皇は、明かに古くて正当性がある。彼等の先祖が西方の蛮族出身であることもきちんと情報を掴んでいる。遣隋使にしても遣唐使にしても常に両国が全く対等であること譲っていない。
ピンクに色付けされた天皇の没年例が皆異常に長生きなことにも注目だ。100歳以上まで生きている。崇神天皇に至っては168歳。半分にしても84歳。
つまり、欠史八代どころではなく、本当はその倍以上の天皇が必要なはずだ。ここで大事なことは皇后が誰かと言うこと。当時は皇后は男系の女子でなければならず、卑弥呼と同じく唯一天の声を直接聞くことができる存在(シャーマン)だったから。
欠史八代が唱えられた背景は、戦後GHQにより強制された自虐史観があるのでしょう。つまり、日本は何時の時代も大陸(中国や朝鮮)よりも劣って遅れた国でなければならない。少なくとも天武朝の役人たち(多分それ以降の方も)は、自国の歴史にプライドを持って記紀の編集に取組んでいる。わざわざ改竄するような動機もないでしょう。だから、新しい証拠が出て来るまでこのままにしておくしかないでしょう。

1.神武、2.綏靖、3.安寧、4.懿徳、5.孝昭、6.孝安、7.孝霊、8.孝元、9.開化、10.崇神
戦前の学生達はこれを暗記させられていたのだ。
更に、中国の新唐書・日本伝には下記に記述がある。と言うことは内容は前の王朝隋の時代にまとめられたもの。欠史八代なんて言っているのは戦後の日本の学者(GHQの洗脳による自虐史観)だけみたいだ。
日本は、いにしえの「倭奴国」なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南に当たる海中にある島である。(中略)
(その倭国に)彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号して、大和州に移って統治した。
次はは綏靖、次は安寧、次は懿徳、次は孝昭、次は孝安、次は孝霊、次は孝元、次は開化
次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。
欠史八代の時期はどうも魏志倭人伝の「倭国大乱」の時期とも重なるようだ。
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綏靖天皇(すいぜいてんのう)
日本の第2代天皇。『日本書紀』での名は神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)。
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三皇子。母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(日本書紀)。同母兄に神八井耳命(多臣等諸氏族の祖)、『古事記』では加えて同母長兄に日子八井命(日本書紀なし、茨田連・手嶋連の祖)の名を挙げる。神武天皇42年1月3日に立太子。
父帝が崩御した3年後の11月、異母兄の手研耳命を誅殺。翌年1月に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移す。同年7月、事代主神の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命を皇后として磯城津彦玉手看尊(後の安寧天皇)を得た。即位33年、崩御。
神武天皇76年3月11日に父帝が崩御した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命は皇位に就くため弟の神八井耳命と神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。己卯年11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か[4])の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることが出来ず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。
古代の天皇の皇位継承に当たってはやたらと血なまぐさい事件が多い。ヤマトの連合政権では、皇太子を担ぐ諸氏族の力関係がもろに反映する。後世の者達にとっても記録に残して伝えたい事件とは言えないでしょう。
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安寧天皇
安寧天皇(あんねいてんのうは、日本の第3代天皇。『日本書紀』での名は磯城津彦玉手看天皇。
神渟名川耳天皇(綏靖天皇:第2代)の皇子。母は事代主神の娘の五十鈴依媛命(『日本書紀』)。父帝が崩御した年の7月に即位。即位2年1月、片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)へ都を移す。即位3年2月、鴨王(事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命を皇后として息石耳命、大日本彦耜友尊(後の懿徳天皇)、磯城津彦命を得た。即位38年、崩御。
【五十鈴依媛命】
姉の姫踏鞴五十鈴媛命は神武天皇の皇后であり、豊玉姫・玉依姫姉妹と同じく、甥・叔母の異世代婚の系譜を伝える。
『日本書紀』の安寧紀によると、五十鈴依媛命は事代主神の少女(おとむすめ)とあり、これは綏靖紀二年条に「(安寧天皇の父である綏靖天皇は)五十鈴依媛を立てて皇后と為したまう。すなわち天皇の姨(みおば)なり」とあるのと合致する。なお、『古事記』には五十鈴依媛命は登場せず、河俣毘売が綏靖天皇の皇后である。
*事代主神の血統が天皇になるためのマストの条件だったようだ。何故なら、沢山の国の連合でしかない国?をまとめる力は女性のシャーマン(皇后)しかいないから。
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懿徳天皇(いとくてんのう)
第4代天皇。磯城津彦玉手看天皇(安寧天皇:第3代)の第二皇子。母は鴨王(事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命(『日本書紀』)。兄弟として同母兄に息石耳命(または常津彦某兄)、同母弟に磯城津彦命がいる。父帝が崩御した翌年の2月に即位。即位2年1月、軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)に都を移す。同年2月、息石耳命の娘の天豊津媛命を皇后として観松彦香殖稲尊(後の孝昭天皇)を得た。即位34年、崩御。
【渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)】
『日本書紀』本文での皇后。渟名襲媛とも。事代主の孫鴨王の娘。母は不明(男系のルールが守られている)。安寧3年に皇后になる
*母親が問題だ。事代主神とはいわゆる出雲王朝のリーダで国譲り神話で失脚したと見なされて来た。でも、彼女はシャーマン(皇后)としてヤマト全体を知らしめる存在だった訳だ。日が出る前に天の声を聴き、日が昇ると政務を弟(夫=天皇)にまかせる。正に卑弥呼のような存在だったようだ。
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開化天皇(かいかてんのう)
第9代天皇は開化天皇(かいかてんのう)です。父は孝元天皇、母は欝色謎命(うつしこめのみこと)です。国風諡号(しごう)は稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)とされています。
大日本根子彦国牽天皇(孝元天皇)の第二皇子。母は皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)。同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。16歳で皇太子となる。
父帝が崩御した年の11月に即位。翌年、春日の率川宮に都を移す。以前の都とは大きく離れた大和盆地の北に位置している。即位6年、孝元天皇の妃(側室)だった伊香色謎命を皇后として御間城尊(後の崇神天皇)らを得た。また丹波竹野媛、和珥臣の祖の姥津命の妹の姥津媛を妃にしている。姥津媛との間には狭穂彦命、狭穂姫命、日葉酢媛命、神功皇后の祖となる彦坐王を得た。即位60年、崩御。
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崇神天皇
崇神天皇(すじんてんのう)は、日本の第10代天皇。『日本書紀』での名は、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)。実在した可能性のある最初の天皇とする説があり、考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、近年発掘の進む纏向遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である。実は、初代神武天皇のあとの2代から9代までは天皇は日本書紀には名前だけが記されており、実績が書かれていない影の薄い天皇なので、多くの研究者達は実在性を疑っている(欠史八代)。
父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目尊(後の垂仁天皇:第11代天皇)や倭彦命らを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神などの神々を祀ることで治めた。即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。即位68年、崩御。
*【欠史八代】
父帝がいることは、少なく一代前9代天皇は存在したはずだ。皇位継承に関わるごたごたはあったとしても世の中を動かす特に大きな事件が無く平和な時代がつづいて居れば、、あえて実績を記す必要が無かったからでは?
*孝元天皇:
日本の第8代とされる天皇。『日本書紀』での名は大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)。欠史八代の1人として実在性が疑われる根拠は何なのでしょうか? なお、9代は開化天皇
*倭彦命(やまとひこのみこと)
彼が薨去(こうきょ)した際の古墳で、近習は墓の周辺に生き埋めにされた。日本書紀に記された唯一の殉葬の記録。崇神天皇はそれ以降殉死の禁令を出したという。
日本書紀では殉死を「いにしえののり(古風)」と記している。魏志倭人伝では卑弥呼の死の際には奴婢百余人の記述もある。でも、古事記では「始めて陵に人垣をたてき」の記述もあり、実際のこの時代殉死の風習があったのか無かったのか?
実は、この時の疫病は相当ひどいものだったらしく、人口が半減~1/3程度まで減少したらしい。この対策として日本の神社を系統化(格式を決める)して、神社ネットワークを活用してうがいと手洗いを実践することで感染を治めたという功績があったらしい。神社を地方行政の手段として用いるこのアイデアは後世まで引き継がれ日本神道の礎を築いたようだ。
**古墳の周りに人型の埴輪を並べるのは殉死の風習を止めるためとの説がある。
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垂仁天皇(すいにんてんのう)
垂仁天皇(すいにんてんのう)は、日本の第11代天皇。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。先代の崇神天皇(第10代)、次代の景行天皇(第12代)と共に纒向遺跡付近に都したと伝えられる天皇の一人であり、考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定される。
御間城天皇(崇神天皇)の第三皇子。生母は皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと、大彦命〈孝元天皇皇子〉の娘)である。兄の豊城入彦命をこえて、24才で皇太子に立てられる。
父帝が崩御した翌年の1月2日に即位。即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘の狭穂姫命を皇后とした。即位5年に皇后の兄の狭穂彦王が叛乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死した。即位15年2月、丹波道主王の娘の日葉酢媛命を新たな皇后として大足彦尊(景行天皇)、倭姫命らを得た。即位25年、五大夫を集めて祭祀の振興を誓い、伊勢神宮、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった様々な文化の発祥に関わったとされる。即位37年、大足彦尊を立太子。即位99年に140歳で崩御、『古事記』に153歳。
【日葉酢媛命】
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は、垂仁天皇の2番目の皇后。
父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。「日葉酢媛」は『日本書紀』での記述である。書紀ではほかに「日葉酢根命」、「日葉洲媛命」にも作り、また『古事記』は「氷羽州比売命」、「比婆須比売命」。ヒバスヒメとしておこう。
『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により、同15年2月甲子(10日)に丹波(今の北近畿)から妹たちとともに後宮に迎えられた。同年8月壬午(1日)に皇后に立てられた。
垂仁天皇32年7月己卯(6日)に薨じた。その葬儀に際して、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。『古事記』では天皇崩御後も生きており、多遅摩毛理(田道間守)から時じくの香の木の実の半分を受け取ったとされ、その(葬儀の)時に石祝作(いわきつくり)と土師部(はにしべ)を定めたとされる。
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「佐紀陵山古墳」で、墳丘長207メートルの前方後円墳。中世にはその所在を失ったが、1875年(明治8年)に治定を見て、修治を加えられたものである。
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景行天皇
景行天皇(けいこうてんのう)は、日本の第12代天皇。『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。日本武尊(ヤマトタケル)の父。纒向遺跡付近に都したと伝えられる最後の天皇であり、考古学上、実在したとすれば4世紀前期から中期の大王と推定される。
活目天皇(垂仁天皇:第11代)の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと。開化天皇の曾孫)。垂仁天皇37年1月1日に21歳で立太子。
父皇が崩御した翌年に即位。即位2年、3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后とした。皇后との間には大碓皇子、小碓尊らを得ている。即位4年、美濃国に行幸。八坂入媛命を妃として稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子らを得た。即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐。即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊(16歳)を遣わして川上梟帥を討たせた。即位40年、前もって武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じた。3年後、帰途に伊勢国能褒野で30歳で逝去した日本武尊を埋葬し、大和国と河内国にも白鳥陵を造る。即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子し、武内宿禰を棟梁の臣とした。即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7月7日に八坂入媛命を立后。即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。即位58年、近江国に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。
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成務天皇
成務天皇(せいむてんのう)は、日本の第13代天皇。『日本書紀』での名は稚足彦天皇。日本で初めて行政区画を定めたとされている。実在したとすれば4世紀中ごろに在位した大王と推定される。
景行天皇(第12代)の第四皇子、母は美濃出身の八坂入媛命(やさかいりひめのみこと。崇神天皇の皇孫)。景行天皇46年に24歳で立太子。父帝が崩御した翌年に即位。即位5年、諸国に国造と稲城を置き山河で国境を定めた。即位60年、崩御。
【八坂入媛命(やさかいりひめのみこと。崇神天皇の皇孫)】
景行天皇(第12代)の皇后。古事記には八尺之入日売命(やさかのいりひめのみこと)とある。父は八坂入彦命(崇神天皇(第10代)の皇子)で、母は未詳。成務天皇(第13代)・五百城入彦皇子ら七男六女の母。
景行天皇4年2月21日、景行天皇の妃となった。元々天皇に見初められたのは同母妹の弟媛であったが、固辞した彼女に推薦されて入内に至ったと伝えられる。同52年5月4日に当初皇后だった播磨稲日大郎姫が崩御したことを受け、同年7月7日に新たな皇后に立てられた。成務天皇2年11月10日、皇太后となった。
*魏志倭人伝の卑弥呼が誰か?それは天皇家と血が繋がった皇族で、独身か皇后であることが望ましいようだ。卑弥呼の墓は現在、大和の箸墓古墳ではないかとの説が有力らしい。
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ヤマトタケル
ヤマトタケル(景行天皇12年 - 景行天皇41年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄。
ヤマトタケル(日本武尊)は、景行天皇の皇子で、大和朝廷の全国統一に貢献した英雄です。熊襲(九州)や蝦夷(東北)を征伐し、全国を統一しようとしました。東征の帰途に病死しましたが、その死後、白鳥となって故郷に帰ったという伝説が残っています。日本神話の中でも文学的に最も輝いている部分の一つ。
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武内宿禰
武内宿禰(たけうちのすくね、景行天皇14年~ 没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
*成務天皇(13代)と双子の兄弟だったとの説もある。当時双子は縁起が悪いとされ隠された。
*つまり、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族達は自分達の氏族から天皇を輩出する権利と資格を有している訳だろう。逆に天皇家と言う氏族は無い。ヤマト政権が連合政権を言われる所以だろう。
『日本書紀』景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする。孝元天皇紀では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。なお、応神天皇紀では弟(母は不明)として甘美内宿禰の名が見える。
『古事記』では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる。同書においては、異母兄弟(長幼不詳)として味師内宿禰(甘美内宿禰)の名が見える。
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仁徳天皇
仁徳天皇(にんとく)は、日本の第16代天皇。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)。4世紀末から5世紀前半に在位したと推定されている。その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。
4世紀末から5世紀前半に実在した可能性のある天皇。誉田天皇(応神天皇)の第四皇子。母は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の孫の仲姫命(なかつひめのみこと)。誉田天皇の崩御後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨去により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。
応神天皇40年1月8日、父・誉田天皇から兄・大山守命と共に「年長の子と年少の子はどちらがより愛おしいか?」と尋ねられた。大山守命が年長だと答えたが、大鷦鷯尊は末弟の菟道稚郎子に跡を継がせたいという父の気持ちを見抜いていたので「年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。1月24日、菟道稚郎子は皇太子、大鷦鷯尊は太子の補佐役、大山守命は山川林野の管理人に任じらこれが三年続き、貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び大鷦鷯尊が即位することとなった。
即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。
即位4年、天皇が高い山から国を見渡すと、どの家にも煙が昇っていなかった。これにより民衆が炊事もできないほど貧しいことを知った。そこで以後三年間、課税と労役を全てとりやめることにした。そして自らは、宮の屋根が壊れ雨漏りしても直すこともしなかった。
即位7年、三年が経過して再び山の上から国を眺めると、どの家からも煙が立ち上っていた。諸国は課税再開を要請したが、結局即位10年まで課税停止は延長された。
その後は河内平野一帯で大規模な治水工事を行った。日本書紀には、次の事績が記されている。
河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)、依網池(よさみいけ、大阪市住吉区)を築造した。
灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。呉(南朝宋)と高麗(高句麗)が朝貢してきた。
網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。
天皇が遷都を行うなどの公共工事は、一般に経済活性化の効果をもたらすものだ。ただ労働者には給金(当時としては米)を支払わなければ。でも、民が飢えれば課税(米の徴収)もまかならない。まずは国の倉庫に米を蓄える。米は、新米、古米、古古米と2年位は備蓄の利くものだ。水田開発を行えば新しく米の生産ができ、新たな人口を養うことも可能になる。つまり、右肩上がりの経済となり、人口も大いに増加したようだ。この結果、天皇家は豊かになったはずだ。
古墳が新田開発の土捨て場であったとの説は非常に説得力がある。土地を平らにし、水路を張り巡らすためには大量の残土の処理が必要。更には周辺の国々(地方政権)と交易を盛んにするためにも水路は港湾を整備したようだ。
大仙陵古墳:
宮内庁はこれを仁徳天皇稜と認定しているようですが。日本書紀にそう書いてある。仁徳天皇と言う名前はやはり特別だ。余ほどの民の信頼を得ていなければあり得ない名称である。「仁」「徳」も為政者としては最高の美徳。後世の天皇の模範として記されているようだ。天皇の理想像なんでしょう。
仁徳天皇稜は、日本で最大の古墳であり、世界最大規模でもある。一体何のために。仁徳天皇の業績は水田の開発と治水利水の大規模工事を沢山行った方のようだ。ちょうどこの時代、水田が全国的に普及する。
民が豊かになってこそ初めて国が豊かになる。稲作の普及は国のインフラ事業。事業のためには労働者を雇わないと。そのためには食料を沢山備蓄しなければない。米は2~3年、多分それ以上に備蓄が可能だ。工事によって水田が増えれば食料の増産が見込める。民もそれを感謝して大きな古墳を拵えた。古墳の製造にも専門技術者が育ち、全国規模で同じような古墳(前方後円墳)が出来るんでしょうね。
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倭の五王
倭の五王(わのごおう)とは、中国南朝の宋(劉宋)の正史『宋書』に登場する倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武をいう。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くにわたり、東晋、宋、斉などの南朝に遣使入貢し(遣宋使)、また梁からも官職を授与された。倭の五王が記紀=『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)における歴代天皇の誰に該当するかについては諸説ある。つまり記紀には記されていない。
中国六朝(呉、東晋、宋、斉、梁、陳)の第3王朝である宋の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420年~479年)を通じて倭(今の日本)の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続く斉の正史『南斉書』(537年)、梁の正史『梁書』(619年)、南朝4代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。また、宋に先立つ晋の正史『晋書』(648年)にも五王の先駆とも考えられる記事がある。一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は宋への遣使の事実を記していないが、『日本書紀』は倭の五王に比定される歴代大王(天皇)のうち応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇の時代に「呉」との間で遣使の往来があったとする記述も。「呉」は六朝(南朝)最初の王朝であり、中華帝国そのものを意味したと考えられる。
*当時朝鮮半島は北朝の支配下。宋王朝には倭王配下の同盟国にまで威光を示すほどの軍事力は無い。それでは、何故北朝ではなく南朝なのか。北朝は主に遊牧民の立てた軍事力による国家だ。ただ文化や経済は南朝側が優位だ。倭国としても学ぶべきものも多く、交易の利益もあったかも。
倭の五王の遣宋使の目的は、中国の先進的な文明を摂取すると共に、中国皇帝の威光を借りることによって当時の倭(ヤマト王権)にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の内部での支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと思われる。弱体の南宋なら官爵等いくらでも連発してくれる。つまり利用価値があったんでしょう。
また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、なおかつ4世紀後半以降獲得した朝鮮半島における権益に関して国際的承認を得ることも、遣宋使の重要な目的であった。5世紀の倭の五王はそれぞれ南朝の宋に対して、いずれも官爵を要請したことが知られるが、その政策の背景には、高句麗の南下に対抗して、朝鮮半島における軍事権を確保しようとする意図があったことが指摘されている。この倭王の官爵要請は、中国王朝から冊封されることによって、中国王朝を中心とする政治的秩序構造に参加し、それによって自国の権威を高め、高句麗に対抗しようとしたものであり、このことを最も明確に示しているのが、かの有名な武の上表であり、武の上表には、倭は宋の遠辺に位置するその藩国であり、宋のために周辺の小国を平定して宋の範囲を拡大したことが記載されており、これは宋を天下の中枢とみなし、宋による世界秩序を至上の秩序とする態度にほかならない。そのため、倭王たちは宋帝に朝鮮半島の軍事的支配権を承認するよう繰り返し上申し、上述の通り438年に珍は「使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」の承認を要求したが、「安東将軍倭国王」以外は却下された。
*宋にとってメリットが無かったんでしょう。
451年に南朝は、百済の1字を名乗る済に対して倭本国、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓の軍事的支配権を承認し、武も「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」を授与されたが、南朝と国交のある百済だけは承認せず、武は百済に対する軍事的支配権の承認を繰り返し要求したことが記録されている。
*半島側の意向も。任那、加羅のような小国なら北からの脅威から軍事力で守ってくれる倭国の存在は頼もしいだろう。しかし、百済や新羅のように国の版図拡大を図っている国にとっては倭国は寧ろライバルになってしまう。
『宋書』倭国伝にある、武の478年遣使の際の上表文には「東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す。渡りては海北95国を平ぐ云々」とあって、大和朝廷の国土統一、朝鮮半島遠征の状況過程を伝え、百済の国名と父・済の名を出して思いを訴えている。
高句麗王は、395年に慕容宝によって「平州牧」となり「封遼東・帯方二国王」に封ぜられ、413年に東晋の安帝より「使持節 都督 営州諸軍事 征東将軍 高句麗王 楽浪公」に封冊され、420年には宋の武帝より「征東大将軍」に、422年には「散騎常侍」を加え「督平州諸軍事」を増され、時の高句麗王の称号は「使持節 散騎常侍 都督 営平二州諸軍事 征東大将軍 高句麗王 楽浪公」ということとなった。この称号の意味するところは、高句麗王の「楽浪」地方の支配権はもとより、北燕(北朝圏)勢力下の「営・平二州」の軍事権をも認めたもので、実力が伴うならば、この地方を征服して治下におさめてもよろしいという宋の承認を、高句麗王は得たこととなる。
*そもそも南朝の宗は北燕や高句麗王には何の軍事的影響力は持ち合わせていない。
倭王は、430年までに「使持節 都督 倭・新羅・任那・秦韓・慕韓五国諸軍事 安東大将軍 倭王」に封ぜられていたものとみられるが、451年には確実に「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に封冊されている。倭王は、百済を除く南朝鮮の軍事的支配権を認められていた。
*大和朝廷と朝鮮南部の関係は切っても切れない関係があるようだ。そこに住んでいるのも当時は倭人。民族的にも一体なのです。今のような国境線がある時代とは異なる。
倭の五王と中国王朝との交渉は、421年の讃の宋への遣使にはじまるが、倭王は478年の遣宋使を最後として、宋代を通じて1世紀近く続けた遣宋使を打ち切っている。『日本書紀』における21代オホハツセノワカタケル=大迫瀬幼武天皇(雄略天皇)の在位期間は「興」および「武」の遣使時期と重なり、このワカタケルと思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、中国皇帝の臣下としての「王」から倭の「大王」への飛躍が認められる。また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中華帝国の冊封体制から離脱し、自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある。
あるいは、倭の五王が宋に使節を派遣したのは、宋が倭王の権威の保障となる存在であったからであり、斉に1度使節を派遣したものの2度目以降がなかったのは、斉が倭王の権威の保障にならない存在であったからであろう。
七支刀の時代について『日本書紀』は百済との関係を、百済側が積極的に交渉を求めて来たのだと記述している。つまり、日本は百済に対してさほど関心がなかったということである。当時の百済は高句麗と激闘を繰り返し、高句麗王斯由を戦死に追い込むほど国力が盛んであり、372年には東晋から鎮東将軍・領楽浪太守の地位を与えられ、高句麗領の「楽浪」を支配する名目的な地位を獲得した。当時の百済は南方の任那にさして関心はなく、倭との関係を求めたのは、この任那に勢力を伸ばして来ている倭に関心を持ったからであろう。関心はやがて積極的に倭軍を利用しようとする動きに変わるが、その状況を物語るのが好太王碑である。好太王の主要な敵は日本(倭)であり、しかも繰り返し倭軍を攻撃している。倭がはるか平壌近くまで出兵する理由は百済の介在によって明らかとなり、百済の求めに応じて倭は派兵し、高句麗はそのため倭軍と戦わざるを得なかった。
百済の救援要請は当然のことながら倭王の地位を高めることになり、それが倭の五王の「都督百済諸軍事」(百済を軍事的に支配する権限)の背景となる。好太王碑に好太王が新羅の要請を入れて倭軍と戦った記事もあり、倭の五王が称号に新羅における軍事支配権(「都督新羅諸軍事」)を主張する背景がここにある。しかも、新羅は高句麗の勢力を背景にして倭の勢力を排除するが、高句麗の勢力下に組み込まれたために、今度はこの高句麗を排除するため、倭の軍事力に依存しようとしたとも伝えられている。それがますます倭王の新羅に対する優位性、つまりは「都督新羅諸軍事」の主張の背景となった。「秦韓」は辰韓で新羅の母体であり、「慕韓」は馬韓で百済の母体である。これらの地域を新羅や百済が完全に制圧するまでは、新羅や百済に支配されることを望まない勢力があり、これらは倭に依存し、それが倭王の「都督秦韓・慕韓諸軍事」の背景となった。「任那」はかつての弁韓であり、新羅や百済には属さず、倭の勢力に依存し、独立的な様相を呈していた。「都督任那諸軍事」はこの任那に対する倭王の軍事支配権の主張である。その後、「都督諸軍事」に「加羅」が加号されるが、『南斉書』に建元元年(479年)加羅国王が独自に南斉に朝貢し、その王(荷知王)が「輔国将軍・加羅国王(または本国王)」に封冊されることと関係がある。つまり、高霊加羅の独立的な動きを背景にした称号追加だった。
倭の五王は『日本書紀』にはまったく記述がなく、『三国史記』にも直接的な対応史料はない。倭の五王は朝鮮諸国との関係からみれば、「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」(倭珍)とか、「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」(倭武)などの称号からうかがうことができるように、倭国は当然のこととして、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓、加羅の南朝鮮全体を軍事的に支配しているようにみえるが、他方、倭王は宋に服属し、自らをその藩王の地位に位置づけていた。
推古朝以来、「日出處天子致書日沒處天子無恙(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや)」と、自らを隋の皇帝と同じく天子と位置づけ、中国との対等外交を求めた日本の古代貴族にとって、倭の五王の外交は認め難いことが、『日本書紀』編者が倭の五王に関する『宋書』などの中国史料の記述を採用せず、倭の五王について無視してしまった最大の理由とみられる。それでは『日本書紀』に倭の五王の関係記事がまったくないのかといえば、必ずしもそうでもない。前述のように『日本書紀』には応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇の時に呉国と交渉をもったことが記されているが、呉国は三国時代の呉の地を指し、この地は倭の五王が交渉をもった宋の地である。また、倭讃は司馬曹達を宋に派遣したが、呉国に派遣されたのは、応神朝では阿知使主と都加使主、雄略朝では身狭村主青と檜隈民使博徳であったといい、雄略天皇は「大悪天皇」と天下の誹謗をうけたが、「唯愛寵する所は、史部の身狭村主青と檜隈民使博徳等のみ」であったといい、呉国に派遣されたのは渡来系の人々、しかも「史部」という文筆に携わっていた人々であったらしい。
【結論】
では、倭の五王とは具体的には誰を指すんでしょう。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに存在した。中国南宋で讃・珍・済・興・武で5つの漢字で示された。倭国内では当然大和言葉で呼ばれていたはず。
埼玉県稲荷山古墳から発見された鉄剣に記された銘文から、この剣に記された名「ワカタタケル」が雄略天皇(第21代天皇)を指していることがほぼ確実視されている。そして彼が最後の王、武であろうと推定されている。何故ワカタタケルが武と分かる。「大悪天皇」と言われるように武ばったイメージから?
すると讃・珍・済・興・武は第17~21代の天皇を指すということだろうか。第16代天皇は確か仁徳天皇だった。謎は無事解明されたんでしょうか?
第16代→仁徳天皇
第17代→履中天皇(讃)
第18代→反正天皇(珍)
第19代→允恭天皇(済)
第20代→安康天皇(興)
第21代→雄略天皇(武)
第22代→清寧天皇
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雄略天皇
雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月~479年〈雄略天皇23年8月7日〉)は、日本の第21代天皇(在位:456年?〈安康天皇3年11月13日〉~479年?)。『日本書紀』での名は大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと) 。考古学的に実在が実証されている古墳時代の天皇。そうです。埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれていた銘が彼のことを指すらしいとのことからのようだ。
雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇:第19代天皇)の第五皇子。母は誉田天皇(応神天皇:第15代天皇)の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子・穴穂天皇(安康天皇:第20代天皇)の同母弟。
「記紀」によれば抜群の政治的才能と軍事的センスを持つ一方、残忍・冷酷な側面を持つある種の英雄的性格を有し、大伴氏、物部氏の二氏を自身の軍事的背景として、それまでの有力豪族との連合政権的な性格をもった大和政権の体制を専制的な体制へと転換したとされる。 養蚕の推奨、新羅への出兵、宋への遣使などの政策を積極的に実施した。
兄である穴穂天皇(安康天皇)の崩御後、帝位継承の邪魔となる兄弟や従兄たちを粛清した後即位した。このとき誅殺した葛城円大臣の娘の葛城韓媛を妃とし白髪皇子(清寧天皇)を得た。また吉備上道臣田狭から妻の吉備稚媛を奪い磐城皇子・星川稚宮皇子を得た。皇后は大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇女である草香幡梭姫皇女で血縁上は叔母にあたり、間に子はない。 王位継承争いは他の時代にも見られたが王位継承のライバルとなる親族をこれほど多く次々と殺戮したことは前例にないと言われている。
即位後も当時の畿内の最有力豪族である葛城氏と同じく地方の最有力豪族である吉備氏の二大豪族とも戦いこれを降し専制王権化を強めた。
埼玉県の稲荷山古墳より出土した鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵」(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))が『古事記』にある名称「大長谷若建」の中の「若建」(ワカタケルとしている)と『日本書紀』の名称「大泊瀬幼武」の中の「幼武」(これもワカタケルとしている)と類似しているとされていることから「考古学で存在が確認された最古の天皇」であるとされる。
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**何故この時期に連合政権から中央集権化が進められたんでしょう。大伴、物部の2大豪族が他の地方豪族を攻め富を収奪する? 鉄製の武器が普及し、戦闘能力に格差が生じて来た。ヤマトの武装集団は、関東、九州のみならず朝鮮半島へも進出する。
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神功皇后
神功皇后(じんぐうこうごう、旧字体:神󠄀功皇后、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。夫の仲哀天皇の崩御から息子の応神天皇即位まで初めての摂政として、三韓征伐の実施など約70年間統治したとされる(在任:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。
『日本書紀』編者が比定したとされる「魏志倭人伝」にあらわれる卑弥呼(248年没)の生涯と時代が重なる部分がある。したがって神功皇后が卑弥呼であるか、卑弥呼に近い人物である可能性がある。
後述の広開土王碑文、三国史記や七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などから総合しても実在の可能性が高いが、神功皇后は卑弥呼とは約120年の差がある4世紀後半ごろの人物であるという説もある。
父は開化天皇玄孫・息長宿禰王、母は葛城高顙媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がいる。母方先祖に、新羅王子として播磨国に入った天日槍、また但馬国の清彦。
193年(仲哀天皇2年)1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。200年(仲哀天皇9年)2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。『古事記』分注の没年干支では仲哀天皇の崩御は西暦362年に比定される。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高句麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。
翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である麛坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。
明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された。摂政69年目に崩御。
明治時代まで第15代天皇で通っていたものを改竄するのはどのような意図があったんでしょうね。魏志倭人伝の「倭国おおいに乱る」の記述は三韓征伐のことを指しているのでは。
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平群真鳥(へぐり の まとり)
平群 真鳥(へぐり の まとり、生年不詳 - 498年?)は、雄略・清寧・顕宗・仁賢朝の大臣。父は平群木菟。子に平群鮪がいる。
雄略天皇の御世に大臣となり、平群氏の全盛期を迎える。
仁賢天皇の没後、自ら大王になろうとしたが、これに不満を抱いた大伴金村は小泊瀬稚鷦鷯尊(後の武烈天皇:第25代天皇)の命令を受け平群真鳥とその子鮪(しび)を討ち、さらに平群一族を皆殺しにした。
『日本書紀』には、真鳥が死にあたって産地を列挙して塩を呪ったが、角鹿(敦賀)を呪い忘れたため、天皇が食する塩は角鹿産のみとなったとする伝説が記されている。
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大和朝廷はもともと各地の豪族たちの連合政権である。しかも、各々の豪族達は先祖を共有し、婚姻関係を通じて同じ神話で結ばれている。リーダとなる天皇は豪族たちの合意で選ばれるのだから、誰が天皇(大王)なっても可笑しくない。大伴氏は武烈天皇を担ぎ、政敵平群一族を上意図打ちしたようだ。その後物部・蘇我と実質のリーダは交代する。万世一系の天皇制の形が出来上がるのは、天武・持統朝になってからだ。
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武烈天皇
武烈天皇(ぶれつてんのうは、日本の第25代天皇(在位:)。
名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。
都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)。奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑がある。『古事記』では「長谷之列木宮」と記す。
父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女(雄略天皇の皇女)で、父母は共に三従兄弟姉妹である。同母姉に手白香皇女(継体天皇后)・橘仲皇女(宣化天皇后)がいる。
長じて罪人を罰し、理非を判定する事をお好みになった。法令にお通じになり、日の暮れるまで政治をお執りになって、世に知られずにいる無実の罪は必ずお見抜きになり、それをおはらしになった。訴訟の審理はまことに当を得ておられた。また、しきりに多くの悪行をなさって、一つも善業を行われなかった。さまざな酷刑をご覧にならないことはなく、国内の人民は、みな震え怖れていた。
「長好刑理、法令分明。日晏坐朝、幽枉必達、斷獄得情。又、頻造諸惡、不修一善。凡諸酷刑、無不親覽。國內居人、咸皆震怖。」 (長刑の理を好みて、法令分明めたまふ。日の晏れて朝に坐して、幽枉必ず達して、獄を断めて情を得たまひき。又、頻りに諸悪を造し、一も善を修めず、諸酷刑、自ら見ざるは無く、国内の居人、みな震怖す。)
仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
皇太子は、物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子の平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。
*相当に評判の悪い天皇だったようですね。やたらと気に食わない者達を殺しまくる。最後は殺された? 結局皇位継承者が誰もいなくなってしまった。第26代天皇はかの有名な継体天皇。越前の国(近江の国)から迎えられる。
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継体天皇
継体天皇(けいたいてんのう、450?~531年)は、日本の第26代天皇(在位:507~ 531年。元の名はヲホドノオウ。漢字では、男大迹王や乎富等王など。
『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。
記紀によれば、応神天皇5世の来孫であり、『日本書紀』の記事では越前国、『古事記』の記事では近江国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村や物部麁鹿火などの推戴を受けて即位したとしている。先帝とは4親等以上離れている。太平洋戦争後、応神天皇5世というその特異な出自が議論の対象になった。ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説と、それ以前の大王家と血縁関係のある傍系の王族(皇族)の出身であるという『記紀』の記述を支持する説があり、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論があるらしい。
*血縁関係については遺伝子検査でもしない限り本当のことは分からない。大伴金村や物部麁鹿火等重臣らの推薦があったのなら大和政権が正統な後継者と認めた訳だから、王朝交代には当たらないと思うのですが。そもそも皇位なんて権威はあっても権力が強い者でもなく、わざわざ皇位をついでくれる適任者が他にいなかったというのが実情ではないか。
記紀は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫(来孫)と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を垂仁天皇の女系の8世の子孫(雲孫)とも記している。『日本書紀』によれば、450年頃に近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛は、自分の故郷である越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。記紀が伝える男大迹王の記録は、出生から幼少の頃、振媛が越前国に連れ帰るまでは詳細にあるが、次の記録は57歳の頃になっており、その約50年間の男大迹王及び振媛の記録はない。
男大迹王は越前にとどまっておらず、父親の彦主人王の故郷の近江にも行き来していたか、近江を拠点にしていた可能性もある。その根拠として水谷千秋は『日本書紀』では、越前から迎えたとあるが、『古事記』では越前の名前は全く出て来ず「近江」から迎えたとある事を指摘している。
『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
次に大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。)」と言い、群臣は越前国三国(現福井県坂井市三国町あたり)(『古事記』では近江から迎えたとある)にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えようとした。臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣はかしこまり、忠誠をつくそうとした。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった。群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、そのかいあって男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発したという。
その後も、男大迹王は自分はその任ではないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(仁賢天皇皇女・雄略天皇外孫)を皇后とした。継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている。 その後19年間は大倭入りせず、511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。 翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している(磐井の乱)。
崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇:第27代天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『古事記』では、継体の没年を527年としている。没年齢は『日本書紀』では82歳。『古事記』では43歳。都にいた期間は、『日本書紀』では5年間。『古事記』では、1年間程である。
*古代には半年を1年と数えたとの説もあるらしい? でも年齢が倍近くも異なるのは変だ。58歳の時に即位したなら、没年例は82歳でしょう。
対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するために、たびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば、512年に百済から任那の四県の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した。
*百済は日本の同盟国。しかし、何時寝返るか分からない。任那の四県の割譲は後大伴金村の大失策とされ、大伴氏は権力を失っていく。
継体や勾大兄皇子、金村は軍事的な外交を行った。任那は百済や新羅からの軍事的圧力に対して倭の軍事力を頼り、継体らはそれを踏まえて隙があれば新羅と百済を討とうとしていた。現在の博多に存在した那津官家はその兵站基地であった。安閑天皇や宣化天皇期の屯倉設置も、兵站としての役割を期待されてのものであったと考えられる。
屯倉 (みやけ) :
古代日本でヤマト王権(朝廷)が直接支配する土地を指します。もともとは、朝廷直轄地で収穫された穀物を貯蔵する倉を意味し、後にその倉がある地域全体を表すようになりました。
【☆大伴金村】
大伴 金村(おおとも の かなむら)は、古墳時代の豪族(大連)。大伴室屋の孫で、大伴談の子とされるが、大伴室屋の子とする系図もある。少なくともこの時点では、大和の豪族連合政権のトップにいたようだ。
498年、仁賢天皇(第24代天皇)の崩御後に大臣・平群真鳥、鮪父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。506年武烈天皇(第25代天皇)の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇(第26代天皇)とし、以後安閑(第27代天皇)・宣化(第28代天皇)・欽明(第29代天皇)の各天皇に仕えた。
『日本書紀』によると継体天皇6年(512年)に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請を受けて、金村はこれを承認する代わりに五経博士を渡来させた。継体天皇21年(527年)に発生した磐井の乱では物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。
ただし、『古事記』の竺紫君石井退治(磐井の乱)の記事には、物部荒甲(麁鹿火)大連と大伴金村連が討伐にあたったと記されており、本居宣長は『古事記伝』で単なる脱字の可能性と実はこの時にはまだ大連に就いていなかった可能性を指摘しており、近年においても笹川尚紀は『日本書紀』の編纂において、壬申の乱の功労者として当時の朝廷において一定の影響力を有していた大伴氏の伝承に基づく金村の顕彰記事(平郡真鳥討伐や継体天皇擁立など)が採用されていたと考え、金村は少なくとも継体天皇の即位の頃はまだ大連ではなかった可能性も指摘している。
*奈良県葛城市には、金村を祀る金村神社がある。また、金村が住吉に邸宅を構えていたのは、住吉が外交に適した地であったからと考えられる。
しかし、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。
晩年は大伴氏の館のあった摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)に住み、そこで死去。住吉区にある帝塚山古墳は、大伴金村あるいはその子の墓とされているが、古墳の築造年代は4世紀末から5世紀初頭であり年代が合わない。
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崇峻天皇
崇峻天皇(すしゅんてんのう、553~ 592年12月12日)は、日本の第32代天皇(在位:587~592年12月12日)
諱は泊瀬部(はつせべ)。「古事記」には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。漢風諡号の「崇峻天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。日本史の中で、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の娘の小姉君で、敏達天皇・用明天皇・推古天皇の異母弟にあたる。因みに、前の天皇は用明天皇(第31代)、次の天皇は有名な推古天皇(第33代)
丁未の乱で勝利した蘇我馬子は、擁立していた泊瀬部皇子を天皇即位させます。587年8月、崇峻天皇が即位します。ところがこの崇峻天皇、即位5年後の592年に臣下によって暗殺されてしまいます。日本の歴史において臣下によって暗殺された天皇は記録上、崇峻天皇のみです。このような一大事件が起こったのが崇峻天皇の時代でした。臣下によって暗殺は珍しいかもしれないが、跡継ぎ争いで戦死や自害に追い込まれた天皇は数知れない。
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592年のある日、崇峻天皇のもとへイノシシを献上する者がありました。すると崇峻天皇はこんな風にぼやきました「あぁ、ムカつくやつの首もこのイノシシの首のようにきってしまいたい!」。
この情報は蘇我馬子も知るところとなります。蘇我馬子は、崇峻天皇のこの発言を自分に対しての発言だと考えました。蘇我馬子も、崇峻天皇が日頃から自分のことを嫌っていることをわかっていたのでしょう。この発言に加え、崇峻天皇が近辺で兵を集めているなどという噂もあり、蘇我馬子は崇峻天皇に対して強い警戒心を抱くようになります。(こんな話公式の記録に残っているんでしょうか?)
こうして、両者の緊張感が高まった中で蘇我馬子によって考えられたのが崇峻天皇暗殺計画でした。自らに危険が及ぶ前に、先に崇峻天皇を亡き者にしようと考えたのです。(証拠の無い陰謀論みたいですが)
この計画は成功し、592年11月、崇峻天皇は暗殺されました。
そして同じく592年11月、崇峻天皇暗殺を実行した東漢直駒が蘇我馬子の娘と密通していたことを理由に蘇我馬子によって処刑されます。
ですが、おそらくこの処刑は蘇我馬子による口封じであったのだろうと思います。処刑理由や時期を鑑みるに、蘇我馬子の思惑を感じずにはいられません。
理由はどうあれ、結果的に蘇我馬子は崇峻天皇の暗殺とその口封じに成功しました。こうして、日本史における一大事件、崇峻天皇暗殺事件は起こったのでした。
確かに変だ。宮中で堂々と暗殺を実行した犯人ならその場で逮捕され直ちに処刑されるはず。乙巳の変でも犯人の鎌足と中江皇子はヒーロー扱い。
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蘇我馬子犯人説ですね。これが日本の学界の定説?でも、蘇我と物部の宗教論争では、天皇は敏達天皇(30)、用明天皇(31)、崇峻天皇(32)、推古天皇(33)と崇仏派の天皇が続く。しかも、天皇達は皆、蘇我の稲目・馬子とは血縁関係にある。蘇我馬子には暗殺を試みる動機がない。勿論、何時の時代でも親子、兄弟が反発し合うことはあるだろう。だが暗殺の首謀者東漢直駒の裏に蘇我馬子が関与していたことは立証できないだろう。逆に多くの豪族たちが蘇我氏の勢力拡大を快く思っていなかったとは想定できる。だから、東漢直駒が暗殺に至った理由も判然としない。しかもこの殺傷事件他者の目前で公然を行ったのでは。これ暗殺でないね。上意打ちに近い。天の声か?少なくとも東漢直駒にも蘇我馬子にもこの行為が悪だという認識は全く零だね。当の蘇我馬子自身も口封じ等する必要は全く無いだろう。後世の歴史学者も何とか蘇我氏を悪人に仕立て上げたいだけ。
**東漢直駒
東漢 駒(やまとのあや の こま)は、飛鳥時代の人物。姓は直。東漢氏(ヤマトノアヤ)は、古代日本に百済(朝鮮半島)から渡来した有力な氏族で、後漢霊帝の子孫と称した帰化氏族です。大和朝廷の外交や財務を担当し、蘇我氏とも親密な関係を築きました。
**推古天皇は第30代敏達天皇の妃で、その1代前の欽明天皇は推古天皇と敏達天皇の父。推古天皇と敏達天皇は異母兄妹で結婚していたのです。 また、2人目の女性天皇(第35代皇極天皇)の祖父と夫(第35代舒明天皇)の父は同一人物(ふたりは伯父と姪のあいだがら)です。
**聖徳太子は、父は用明天皇(31)、祖父は欽明天皇(29)であり、母は穴穂部皇女(欽明天皇の娘)であるから崇峻天皇の後継としては最も相応しい立場だ。それにもかかわらず叔母の推古天皇(33)の即位となる。崇峻天皇暗殺の後では男性は誰も天皇にはなりたくない。女性が天皇になれば世の中丸く収まる。厩戸皇子はやりたいことが自由にできる。さらに秦河勝の名参謀もいたようだ。
蘇我馬子は聡明で聖徳太子とも上手く政治をやっていたようだ。第一回遣隋使で
「天皇は天を兄とし日が出る前に天の声を聞き、日が昇ると弟に政務をゆだねる」と隋の皇帝に伝えたとか? 天皇=推古天皇、弟=聖徳太子。
ただし、聖徳太子は後世に付けられた尊称だから、厩戸王と記すべきか?しかし、天皇の役割は天の声を聞くこと(シャーマンに近いか)。地上の政治は摂政や大臣にまかせなさい。崇峻天皇の暗殺(上意打ち)もそれなりに理由があるんでしょう。
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秦 河勝(はた の かわかつ)
秦 河勝(はた の かわかつ)は、秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる。姓は造。秦国勝の子とする系図がある(古墳時代から飛鳥時代)。
日本書紀の記述では、河勝の先祖にあたる秦氏は4世紀頃に秦国から百済を経由して日本列島の倭国へ帰化した有力氏族である。弓月君の直系子孫にあたる。
日本書紀の記述では、河勝の先祖にあたる秦氏は4世紀頃に秦国から百済を経由して日本列島の倭国へ帰化した有力氏族である。弓月君の直系子孫にあたる。一説には始皇帝の子孫、あるいは西域から来て秦に帰化した氏族とも。
河勝は聖徳太子の儕輩(同志)として国造りに大きく貢献したとされており、当時の秦氏の族長的人物であったとされる。富裕な商人でもあり、朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。
『風姿花伝』第四に述べられている伝説によれば、摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した後、大避大明神(大荒大明神)となったとされている。そのため、兵庫県赤穂市坂越で没したとする説がある。坂越・大避神社はこの大避大明神を主祭神とし、神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓がある。同じく赤穂市有年(うね)にも大避神社があるがこれは坂越の分家である。
☆生島
赤穂市坂越浦沖にある、周囲1630mの小島。 大避神社の神域として、古代から人の出入りを禁止しています。現在でも入れない(宮内庁管轄?)。
『生島樹林』として、大正13年12月9日に 国の天然記念物の指定を受けています。秦河勝は渡来人だけど八百万の神の一人として歴代天皇からも絶大な尊敬を集めているようだ。
秦河勝は、聖徳太子亡き後蘇我氏に疎まれ、赤穂に流刑になったという説もある。地元の発展に大いに尽くしたとか。
また、6世紀半ばから7世紀半ばまで大和王権で活動した秦氏出身の豪族、秦河勝(はたのかわかつ)が最後に行き着いた場所が坂越であり、秦河勝のお墓が設置されています。
後世においては神格化がされており、翁面や北斗七星の神である宿神と同一視されていた。服部幸雄は「宿神である秦河勝の実体は摩多羅神であり、摩多羅神と秦河勝は同一視できる」、川村湊は「「宿神」は具体的には「翁面」として表され、歴史神話的には秦河勝であり、それは摩多羅神でもありうるということになるのである。」と主張している。
**摩多羅神(またらじん)
密教、特に天台宗の玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。 牛祭の摩多羅神
河勝は芸能の神としても信仰されている。『風姿花伝』第四によれば、上宮太子(聖徳太子)が秦河勝に「六十六番の物まね」を作らせ、紫宸殿で舞わせたものが「申楽」の始まりと伝えている。そのため、河勝は申楽(猿楽)・能楽の始祖とされている。
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和気清麻呂
和気 清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。
備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側(道鏡側)に参加したらしく、天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲六等の叙勲を受け、3月には藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓している。右兵衛少尉を経て、天平神護2年(766年)従五位下に叙爵し、近衛将監に任ぜられるとともに特別に封戸50戸を与えられた。
*藤原仲麻呂の乱も実は道鏡等の陰謀で藤原仲麻呂は冤罪だった可能性もある。
*孝謙天皇、重祚して称徳天皇は、日本の第46代天皇および第48代天皇。 父は聖武天皇、母は藤原不比等と橘三千代の娘であり、史上初めて人臣から皇后となった光明皇后。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。
神護景雲3年(769年)7月頃に宇佐八幡宮の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんづかさ)・中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛していた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と奏上する。道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに自信を持ち(あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して託宣させたともされる)、自らが皇位に就くことを望む。
称徳天皇は神託を確認するため側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられないため、代わりに弟の清麻呂を召して宇佐八幡宮へ赴き神託を確認するように勅した。清麻呂は出発にあたって、道鏡から吉報をもたらせば官位を上げる(大臣に任官するとも)旨をもちかけられたという。また、清麻呂に対する懐柔策として、一族郎党への官位に授与も。
一方で、道鏡の師である路豊永からは、道鏡が皇位に就くようなことがあれば、天皇の臣下として面目なく天皇に仕えることなど到底できない、自分は殷の伯夷に倣って身を隠そうと思う旨を伝えられる。清麻呂はこの言葉を当然と思い、主君のために命令を果たす気持ちを固めて宇佐八幡宮に参宮する。
清麻呂は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した。清麻呂の報告を聞いた道鏡は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷するが、さらに、別部 穢麻呂(わけべの きたなまろ)に改名させ、大隅国に配流した(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は配流途中の清麻呂を追って暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。
神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御して後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月に清麻呂は大隅国から呼び戻されて入京を許され、翌宝亀2年(771年)3月に従五位下に復位し、9月には播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰した。また、清麻呂の祖先の墓が郷里に営まれて大木が茂る林となっていたが、清麻呂の配流中に伐採されてしまっていた。清麻呂が帰京してこの事情を上表したところ、祖先4名と清麻呂を美作備前両国の国造とする旨の詔が出された。両国の国造として以下の事績がある。
延暦7年(788年)備前国和気郡のうち吉井川の西側の人民から、この人民の居住地と藤野郷にある同郡の役所の間に大きな吉井川があるため、雨で増水が発生するたびに公務が果たせなくなるとの訴えがあった。そこで清麻呂は河の西側を磐梨郡として独立させて新たな役所を設置すること、水難を避けるとともに人民の負担に不公平がないよう和気郡藤野郷にある駅家を川の西側に移転させ(のちの珂磨駅家か)ることを言上し、許されている。
延暦18年(800年)備前国にあった私墾田100町について、清麻呂の遺志を継いで子息の広世が賑給田として寄進した。
天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、一挙に四階昇進して従四位下に叙せられる。清麻呂は庶務に熟達して過去事例に通暁していたことから、桓武朝において実務官僚として重用されて高官に昇る。延暦2年(783年)摂津大夫に任ぜられ、延暦3年(784年)従四位上に昇叙されるが、摂津大夫として以下の事績がある。
延暦4年(785年)神崎川と淀川を直結させる工事を行い大阪湾から長岡京方面への物流路を確保した。
延暦7年(788年)述べ23万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)。
清麻呂は摂津大夫を務める傍ら、民部大輔次いで民部卿を務め、民部大輔・菅野真道とともに民政の刷新を行うとともに、『民部省例』20巻を編纂した。延暦7年(788年)には中宮大夫に任ぜられて皇太夫人・高野新笠にも仕え、その命令を受けて新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し『和氏譜』として撰上し、桓武天皇に賞賛されている。さらには、延暦3年(784年)の遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付けて、山背国葛野郡宇太村を選んで平安京への遷都を進言するとともに、延暦12年(793年)には造宮大夫に任ぜられ、自身も建都事業に尽力した。この間の延暦9年(790年)正四位下、延暦15年(796年)には従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇っている。
延暦18年(799年)2月21日薨去。享年67。最終官位は従三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造。即日正三位の位階を贈られた。
*称徳天皇の意図が良く分からない。彼女は天武朝最後の天皇の資格のある後継者であり、次の桓武天皇からは天智系の桓武天皇が即位する。道鏡は出家した坊さんだから皇族の子供を残すことは許されないでしょう。道鏡がもし天皇になっても一代限り。つまり、天皇の世襲制を止めようということかも。確かにローマ法王のように高僧たちの中から選挙で選ぶなんて言う方法もあったかも。でも、皇室の運営は仏教ではなく、神道で行くことは推古天皇の時に決められている。
和気 清麻呂は、命を賭して万系一世の天皇の権威を守った国家の英雄として今でも尊敬されている訳です。
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聖武天皇

聖武天皇(しょうむてんのう、701~ 756年)は、第45代天皇(在位:724~749年)。
諱は首(おびと)であるが、これは伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説が存在。持統天皇は一人息子の草壁皇子を早死にで失う。首皇子は文武天皇(軽皇子)の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。と言うことは持統天皇のとても大事な大事な曾孫(ひまご)さん。大事な一人息子文武天皇を早死にで失ってしまった持統天皇の天皇にとっては首皇子の立太子は悲願でもあったでしょう。
大宝元年、文武天皇の第一皇子として生まれる。707年に7歳で父と死別、母・宮子も心的障害に陥ったため、その後は長らく会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。707年、父方の祖母・元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。714年には元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、反対勢力との対立もあり、即位は先延ばしにされ、715年に伯母(文武天皇の姉)・元正天皇が中継ぎとして皇位を継ぐことにる。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位。
ただし、当時の認識において天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の母を持つ皇子の即位は異例として捉えられ、その権力基盤は決して安定したものではなかったとされる。このため、即位と同時に当時9名いた議政官全員の昇叙(位階の昇格)もしくは益封(封戸の増加)を行い、その18日後には六人部王・長田王・葛木王以下諸王10名と大伴宿奈麻呂・多治比広成・日下部老以下諸臣44名の昇叙を行っており、以降天皇即位時の臨時の昇叙が慣習として定着する。即位時の臨時の昇叙自体は天武天皇の先例に基づくものとされているが、天武天皇の即位自体が壬申の乱による皇統の変更という異常な状況下で実施されたことにも留意する必要がある。
*当時の天皇の血統は大変厳しい。男系とはいえ、母親も皇族でなければならない。何故なら、天の声を直接聞くことができるのは女性でなければならないからだ。卑弥呼の時代からそうだ。男性の天皇なら皇后が卑弥呼の役割を担える。これを特定の貴族の娘も皇后になれるように変えたのは藤原不比等のようだ。
聖武天皇(天武系)の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王(天智系)が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれかの縁者である。
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約5年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられていて彷徨五年と呼ばれている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えて度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急逝した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
749年、娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
752年、東大寺大仏の開眼法要を行う。754年には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会った。同時期に、長く病気を患っていた母・宮子と死別する。756年に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。勝宝感神聖武皇帝と諡され、後には聖武天皇と呼ばれるようになった。
**聖武天皇は、天皇として周りからの期待の最も高かった天皇かもしれない。藤原不比等や持統天皇の努力の賜物として誕生した訳だから。また、非常に責任感が強く、災害や疫病の発生に対しても一心不乱に仏に祈ることで乗り越えようと。東大寺大仏のためには、乞食坊主と見られていた行基の助けにもすがる。東大寺大仏の建設は巷の庶民たちの沢山の協力が無ければ実現は不可能だった。東大寺大仏はまさに世界的な大事業であった訳です。
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桓武天皇
桓武天皇(かんむてんのう、737~ 806年)は、日本の第50代天皇(在位:781~806年)。諱は山部(やまべ)。
平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。また、践祚と日を隔てて即位した初めての天皇である。桓武平氏の祖。遷都の都市は誰でも知っている794年。「泣くよ鶯平安京」として覚えた?
白壁王(後の光仁天皇49代)の長男(第一皇子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。母親は皇族と言うルールは無くなってはいる。しかし当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた。その状況が大きく変化するのは34歳の時に称徳天皇の崩御によって父の白壁王が急遽皇位を継承することになってからである。
*天武王朝の最後の切り札、聖武天皇が崩御して紆余曲折があって、光仁→桓武と天智系の天皇に戻ったわけ。
*孝謙天皇:第46代天皇、重祚して称徳天皇:第48代天皇。史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇。即位前の名は「阿倍内親王」。持統天皇の夢破れたり。藤原氏は既に天武朝に見切りをつけていた?
父王(光仁天皇=白壁王)の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により皇太子とされた。
781年には父から譲位されて天皇に即き、同母弟の早良親王を皇太子と定め、即位の詔を宣した。藤原百川の兄の藤原良継の娘の藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇:第51代)と神野親王(後の嵯峨天皇:52代)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもあった夫人の藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇:第53代)がいる。桓武王朝(あるいは藤原王朝)が完成した訳か。
平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇系統が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う(天智天皇はすぐ近くの近江大津宮に遷都)。初め784年に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の794年、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。
**確かに遷都の最大の理由は、仏教勢力の排除だとする説が強い。奈良の都の中央部に大寺院を構え、多数の僧兵すら養っている。この時代朝廷は近衛兵のような常備軍を持っていない。
また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍の大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した802年に蝦夷の脅威は減退、延暦22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。
しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長男)の建言を容れて、いずれも中断している(徳政相論)。
また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。ただし、健児導入の目的について、紀古佐美の遠征軍が騎馬を巧みとする蝦夷に太刀打ちできなかったために、従来の中国大陸・朝鮮半島からの沿岸防備を念頭に置いて編成された農民を徴集した歩兵に代わって対蝦夷戦争に対応した騎兵の確保を目指した軍制改革であったとする説も出されている。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。
その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて延800年に後者に「崇道天皇」と追号し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
*井上内親王(717~ 775年)は、なんと第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。天皇の位をつぐには最も相応しいと誰もが思いそうな人物。
*早良親王は、奈良時代の皇親、僧侶。光仁天皇の皇子で、母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太子に立てられたが、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没した。崇道天皇と追諡されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。
治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導し、地方行政を監査する勘解由使の設置など、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。
**勘解由使(かげゆし):平安時代に国司などの官吏が交代する際に、新任者が事務を引き継いだことを確認する役職です。令外官の一種で、地方行政の監査も担いました。
**令外官(りょうげのかん)とは、律令の令制に規定のない新設の官職。令外官が管掌する官司を令外官司(りょうげのかんし)と称する場合もある。
古代の天皇達
歴史の部屋
神話の世界
| 天地開闢 | 造化三神 | タカミムスビ | 国産み | ニギハヤヒ |
| 竹内文書 | 九鬼文書 | 日高見国 | 思金神 | トヨウケビメ |
| 事代主神 | 大国主神 | |||
| トヨタマ姫 | タマクシ姫 | タマヨリ姫 | 八上比売 | |
| 気象神社 | 檀君神話 | |||
| 日向三代 | ウガヤフキアエズ | 稲飯命 | 神世七代 | |
| 天孫降臨 | 此花姫(コノハナサクヤヒメ) | ニニギノミコト | 温羅 |
日本の歴史の部屋(続)
裸坊達の部屋
歴史の部屋
天地開闢 (日本神話)
天地開闢(てんちかいびゃく)とは天地に代表される世界が初めて生まれたときのことを示すとされる。『日本書紀』では、冒頭に「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざれしとき……」とされている。
*古代人(縄文人や旧石器人も含む)にとっては、自分達が生活している現実の世界そのものと言っていいだろう。また、同時に死後の世界や前世の世界も知りたいと思ったでしょう。また、どんな世界だって始まりがあるという考えも理解できる。現代人なら宇宙の始まりはビッグバンと言って知ったかぶりをしているがビッグバンが提唱されたのも20世紀も終わりの頃だ。だから、どんな神話にもビッグバンに対応するような話が入っている。天地開闢(てんちかいびゃく)はこの世の始まりのお話。
古事記では
世界の最初に、高天原に相次いで三柱の神(造化の三神)が生まれた。
①天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)/②高御産巣日神(たかみむすひのかみ)/③神産巣日神(かみむすひのかみ)
*高天原とはこの時は世界の総て?そこにアメ、タカ、カミの3神が生まれる。
続いて、二柱の神が生まれる。
①宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)/②天之常立神(あめのとこたちのかみ)
この五柱の神は性別はなく、独身のまま子どもを生まず身を隠してしまい、これ以降表だって神話には登場しないが、根元的な影響力を持つ特別な神である。そのため別天津神(ことあまつかみ)と呼ぶ。
*別天津神(コトアマツカミ)は縄文以前から伝えられて来たとても古い神のようだ。山と大木とか自然物崇拝の名残りかも。
*日本神話の面白いところは、絶対神が不在なことだ。一番偉い神様は誰? コトアマツカミ達は当然アマテラスが崇める神様達。ゼウスやジュピターとは異なる。神様は皆平等、人は皆死ねば神様になる。つまり八百万の神とは人類全体を指している。これスゴーイ宗教かもね。
次に、二柱の神が生まれる。
①国之常立神(くにのとこたちのかみ)/②豊雲野神(とよくもののかみ)
国之常立神と豊雲野神も性別はなく、これ以降、神話には登場しない。しかし、全国津々浦々の神社にこれらの神々が祭られていることは古代の記憶が残されていることの現われでもある。
引き続いて五組十柱の神々が生まれた。五組の神々はそれぞれ男女の対の神々であり、下のリスト(省略)では、左側が男性神、右側が女性神である。以上の七組十二柱を総称して神世七代(かみのよななよ)という。
この中に伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)が含まれている。このお二人が日本列島を造り、アマテラスとスサノオの父母となるのでは?
『日本書紀』
『日本書紀』における天地開闢は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったと語られる。続いてのシーンは、性別のない神々の登場のシーン(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場のシーン(巻一第二段・第三段)に分かれる。また、先にも述べたように、古事記と内容が相当違う。さらに異説も存在する。
*そうだろうか?根源神(中性)と言うものが最初に現れその後男女の区別のある神々がたくさん登場する。でも古事記も日本書紀も天地がどのように生まれたとはあまり説明が無いようだ。ここは旧約聖書の創世記等とは異なっている。
根源神たちの登場
本文によれば、太古、天地は分かれておらず、互いに混ざり合って混沌としていた。しかし、その混沌の中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、神(複数)が生まれる。
天地の中に葦の芽のようなものが生成され、神となる(3柱)。これらの神々は純粋に男だった。
*何故男だったのか?しかも自然に発生する。
第一の一書によれば、天地に生成されたものの形は不明である。しかし、これが神となったことは変わらない。生まれた神々(12柱;省略)は次の通り。
第二の一書によれば、天地に葦の芽のようなものが生成された。これが神となったとされる。すなわち、本書と同じであるが、神々の名称が異なる。
日本の歴史の部屋(続)
神話の世界
造化三神
造化三神(ぞうかさんしん)とは、日本神話に登場する天地創造の始まりに現れたとされる三柱の神々です。
①天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)/②高御産巣日神(タカミムスビノカミ)/③神産巣日神(カミムスビノカミ)
この三神は、混沌とした世界の創世において重要な役割を果たし、宇宙の生成と秩序の源とされています。
日本神話の面白いところは、絶対的な権力者が不在な点だ。世界を想像した神達がその後主役の座を降りてしまう。また、よく読んでみると神と人の区別も極めてあいまい。神々の世界は皆平等で、話し合いで世界を動かしていく極めて民主的な社会だったのかも。
日本の歴史の部屋(続)
神話の世界
タカミムスビ
タカミムスビは、日本神話に登場する神。別天津神・造化三神のうちの一柱である。
*神さんを数えるときに「柱」を使うのですね。寿命の長い木は何時も人々の生活を見守っていてくれるので、「木」が神様と言うのも理解できますが。
『古事記』では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、高木神、『日本書紀』では高皇産霊尊と書かれる。また葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)、高木大神(たかぎのおおかみ)という名で登場。別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。古くからの天皇守護のための神々である御巫八神の筆頭として知られる。古くは大王家(天皇家)の至高神であったという説もある。
**高木さん。よくある姓だけど。文字通り高い木の意味でしょうね。樹齢100年なんて言う高木は古代人にとってはとても神聖なものではあったんでしょう。
タカミムスビ、カミムスビの男女の産霊(ムスビ)の神二神に7世紀後半以降、道教神学の三尊三清(天上の三つの御殿にいる三人の至上神が一体となって造化を掌るという)思想からアメノミナカヌシを加え三神とし、造化三神とされたという。
*造化三神(ぞうかさんしん)とは、日本神話に登場する天地創造の始まりに現れたとされる三柱の神々です。
*宇宙は、タカさん、カミさん、アメさんの3人が協力して作ったんですね。
日本の歴史の部屋(続)
神話の世界
国産み
国生み/国産み(くにうみ)とは、日本神話を構成する神話の一。日本の国土創世譚。国生み神話とも。 イザナギとイザナミの二神が高天原の神々に命じられ、日本列島を構成する島々を創成した物語である。
なお、国生みの話の後には神生み/神産み(かみうみ)が続く。
*イザナギとイザナミの二神は高天原では最高神ではない。別天津神(ことあまつがみ)たちが命じたとある。
*別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々である。神世七代、天津神・国津神、三貴神、地神五代などに先行する神。
古事記
『古事記』によれば、大八島は次のように生まれた。
伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の二神は、漂っていた大地を完成させるよう、別天津神(ことあまつがみ)たちに命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐、伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした地上を掻き混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。
*大八島とは、九州、四国、本州にいくつかの島(対馬、壱岐、淡路島等)を加えた今の日本列島のかなりの部分を示しているようだ。
二神は淤能碁呂島に降り、結婚する。まず淤能碁呂島に「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの、広大な殿舎)」を建てた。『古事記』から引用すると、以下のようになる。
このようにして、二神は男女として交わることになる。伊邪那岐は左回りに伊邪那美は右回りに天の御柱の周囲を巡り、そうして出逢った所で、伊邪那美が先に「阿那迩夜志愛袁登古袁(あなにやし、えをとこを。意:ああ、なんという愛男〈愛おしい男、素晴らしい男〉だろう)」と伊邪那岐を褒め、次に伊耶那岐が「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやし、えをとめを。意:ああ、なんという愛女〈愛おしい乙女、素晴らしい乙女〉だろう)」と伊邪那美を褒めてから、二神は目合った(性交した)。しかし、女性である伊邪那美のほうから誘ったため、正しい交わりでなかったということで、まともな子供が生まれなかった。二神は、最初に生まれた不具の子である水蛭子(ヒルコ)を葦船(あしぶね)(※『日本書紀』の場合は、堅固な樟(くす)で作った船『天磐櫲樟船〈あまのいわくすぶね〉』になっている)に乗せて流してしまい、次に淡島(アワシマ)が生まれたが、(明記こそされていないものの)またしても不具の子であったらしく、ヒルコともども伊邪那岐、伊邪那美の子供のうちに数えられていない。(『日本書紀』第四段本文では、イザナミがイザナギより先に声をかけたところ、イザナギが「吾は是男子(ますらを)なり。理(ことわり)当に先づ唱ふべし。」と言ってもう一度やり直しただけである。)
悩んだ二神は別天津神の下へと赴き、まともな子が生まれない理由を尋ねたところ、占いにより、女から誘うのがよくなかったとされた。そのため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性である伊邪那岐のほうから誘って再び目合った。
別天津神(ことあまつかみ):
天地開闢の際に最初に高天原に現れたとされる五柱の神々を指す。具体的には、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、可美葦牙彦舅神、天常立神の五柱。これらの神々は、天津神の中でも特別とされ、古事記や日本書紀などにもその存在が記されています。
日本書紀
『日本書紀』の記述は、基本的に、伊奘諾(イザナギ)、伊奘冉(イザナミ)が自発的に国生みを進める(巻一第四段)。本文では、「底下(そこつした)に豈国無けむや」といって国生みを始めている。また、伊奘諾、伊奘冉のことをそれぞれ「陽神」「陰神」と呼ぶなど、陰陽思想の強い影響がみられる。『古事記』と同様、天降った伊奘諾、伊奘冉は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天之瓊矛(あめのぬぼこ。『古事記』でいう天沼矛)で渾沌とした地上を掻き混ぜる。このとき、「滄溟」(あをうなはら)を得た矛から滴り落ちた潮が積もって島(オノゴロシマ)となった。ただし、このとき、他の天つ神は登場しない。一書第一は特に『古事記』に類似し、天神が産み損じの理由を占い、時日を定めて二神を再び降したとする。ただし、どのように時日を定めたかは記述が無い。
**オノゴロシマ(淤能碁呂島)
この島は実在するのか? 国生みと言っても日本列島のことではなさそうだ。イザナギ、イザナミにに国造りを命じた高天原の神々は日本列島のどこかに住んでいたんでしょう(多分日高見国)。
日本書紀
『日本書紀』の記述は、基本的に、伊奘諾(イザナギ)、伊奘冉(イザナミ)が自発的に国生みを進める(巻一第四段)。本文では、「底下(そこつした)に豈国無けむや」といって国生みを始めている。また、伊奘諾、伊奘冉のことをそれぞれ「陽神」「陰神」と呼ぶなど、陰陽思想の強い影響がみられる。『古事記』と同様、天降った伊奘諾、伊奘冉は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天之瓊矛(あめのぬぼこ。『古事記』でいう天沼矛)で渾沌とした地上[注 1]を掻き混ぜる。このとき、「滄溟」(あをうなはら)を得た矛から滴り落ちた潮が積もって島(オノゴロシマ)となった。ただし、このとき、他の天つ神は登場しない。一書第一は特に『古事記』に類似し、天神が産み損じの理由を占い、時日を定めて二神を再び降したとする。ただし、どのように時日を定めたかは記述が無い。
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神話の世界
ニギハヤヒ
邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)は、日本神話に登場する神。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古(長髄彦、ナガスネヒコ)が奉じる神として登場する。那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売(『日本書紀』では三炊屋媛という)を妻とし、宇摩志麻遅命をもうけた。宇摩志麻遅命は、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ、後の神武天皇)が東征し、それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古(神武天皇)が天照大神の子孫であることを知り、神倭伊波礼毘古のもとに下ったとある。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
『先代旧事本紀』では、天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは同一神とされる。 他方、『新撰姓氏録』においてはニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の孫)とし両者を別とする。
ニギハヤヒの墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある白庭山とされている。
記紀で存在を改ざんされたらしい神武東征前の初代大和王朝の王。その一方で全国にニギハヤヒをお祀りする神社は三輪神社、石上神宮、上下賀茂神社、石切神社、金刀比羅宮等、今なお多く存在し、歴史を消し切れていないのも事実です。
日本の歴史の部屋(続)
神話の世界
竹内文書(たけうちもんじょ)
竹内文書(たけうちもんじょ、たけのうちもんじょ、磯原文書、天津教文書ともいう)は、 新興宗教天津教を開いた竹内巨麿によって、代々伝わってきたとものとして昭和10年に公開された文書群。いわゆる神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称。天津教の聖典とされる。竹内文書の信奉者は、原本は後述の裁判に提出されたのちに東京大空襲によりほぼ焼失したと主張している。
*天津教
皇祖皇太神宮天津教(こうそ こうたいじんぐう あまつ-きょう)とは、昭和前期に強勢を誇った御嶽教系の流れをくむ宗教団体である。単に「天津教」と略称されることもある。
*御嶽教(おんたけきょう):
木曽御嶽山信仰(御嶽講)を起源とする教派神道(神道十三派)の一つ。奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く。創始者は下山応助とされている。長野県木曽町に教団本部のある「木曽御嶽本教」としばしば混同されるが、別の団体。
平群真鳥の子孫であるとされる竹内家に、養子に入ったと自称する竹内巨麿(たけうちきよまろ/たけのうちきよまろ)が、1928年(昭和3年)3月29日に文書の存在を公開した。昭和10年代以降加筆されたという説もある。写本の多くは戦前に焼失し失われているが、南朝系の古文献を再編したとされる写本もある。
*平群真鳥(へぐり の まとり、生年不詳 - 498年?)
仁賢天皇の没後、自ら大王になろうとし、大伴金村と小泊瀬稚鷦鷯尊(後の武烈天皇:第25代天皇)によって平群一族は皆殺しにされたとある。
当時竹内は皇祖皇太神宮天津教を興し、同宮の神職であった。元々の竹内文書は、彼の天津教と直接関係はないが、竹内文書の内容と、さらに新宗教天津教の教理が加えられたものが、同宗教団体の教典に位置づけられている。書物だけではなく、下記に述べる神宝の類まで包括して「竹内文献(たけのうちぶんけん)」ということが多い。
*平群氏が残したものは貴重でしょうが、後世にかなりの部分が付け加えられているようだ。
竹内文書では神武天皇からはじまる現在の皇朝を「神倭朝(かむやまとちょう)」と呼び、これ以前に「上古25代」(または「皇統25代」)とそれに続く「不合朝(あえずちょう)73代」(73代目は神武天皇のことである)があり、さらにそれ以前に「天神7代」があったとしている。
*縄文時代にも多くの部族的な国家があり、互いに交流していたとすれば、神武天皇以前にも何らかの王朝のようなものがあっても可笑しくないかも。
ちなみに上古21代天皇は、「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といい、イザナギ(『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神)にあたるとし、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」すなわちツクヨミ(『古事記』では月読命、『日本書紀』では月弓尊)であり、スサノオ(『日本書紀』では素盞嗚尊・素戔嗚尊、『古事記』では建速須佐之男命・須佐乃袁尊)の別名とされている。
*日本神話との整合性はある。
その他次のような記述がある。
「イスキリス・クリスマス(イエス・キリストとされる)の遺言」という「イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。五色人へ遣わし文」で始まる文書がありそれによると十字架上で死なずに渡来(ゴルゴダの丘で処刑されたのは、弟のイスキリと記する)、1935年(昭和10年)8月初に竹内巨麿が青森県の戸来村(現在の新郷村)で発見した十来塚(竹内巨麿が村長に書くようにいった)が「イスキリス・クリスマス」の墓であるすなわちキリストの墓とし、モーセの十戒は実は表十戒であり、裏十戒・真十戒を含む原文の記された石を天津教の神宝として天津教が所有し、天皇が、来日したモーセに授け、モーセの墓が石川県の宝達志水町に存在している。釈迦をはじめ世界の大宗教教祖はすべて来日し、天皇に仕えたことになっている。
世界には五色人(ごしきじん。黄人(きひと、日本人を含むアジア人)、赤人(あかひと、ネイティブアメリカンやユダヤ人等に少し見られる)、青人(あおひと、肌が青白い。現在、純血種ほとんどなし)、黒人(くろひと、インドの原住民族やアフリカ人等)、白人(しろひと、白い肌やプラチナ、ブロンドの髪をしたヨーロッパ人))が存在していた。
皇祖皇太神宮が全世界の中心である。
*現在茨城県に存在する神宮(鹿島神宮?香取神宮?)は、遷宮したもの。
*確かに壮大な説だし、しかも古代の史実を良く知り尽くしている。後世の偽作としたら誰がこんなことを思いつくのだろうか。
*古代、世界は天皇を中心に回っていた?
*青森県の戸来村には確かにキリストの墓と言われるものが存在し観光の名所にもなっている。
*モーゼの墓といえば、石川県能登の宝達山麓にある三ツ子塚古墳群にある伝説の場所です。モーゼが天浮船で能登にたどり着き、そこで余生を過ごしたという伝説に基づいた公園です。でも、これはUFOなどではなく、せいぜい葦船ではないか。
3000年以上前の上古2代天皇の時代に16人の弟妹たちが全世界に散らばり、彼らの名前は今も地名として残っているという。その中には「ヨハネスブルグ」「ボストン」「ニューヨーク」といった名前が見られるが、これらの都市が建設されたのはかなり新しい時代である。
*「ヨハネスブルグ」「ボストン」「ニューヨーク」? 確かにこれは変だ。本当に書かれている? 漢字で記されているを勝手に読み替えた?
約3000年前の不合朝64代の時代に皇子31名と皇女43名が巡幸し、長である万国巡知彦尊が知勇大力で外敵を制圧したのが「桃太郎」の起源だという。
*しかし、皆殺しにされたとされる平群一族が後世に残したかった何らかの史実が隠されている可能性は高いだろう。
不合朝69代神足別豊鋤天皇の代にミヨイ、タミアラが陥没した(このミヨイ、タミアラの文字は、1940年10月の『天国棟梁天皇御系図宝の巻き前巻・後巻』児玉天民著が初出である)とムー大陸(1938年6月号の雑誌『神日本』(中里義美主宰)の「陥没大陸ムー国」が日本での初期紹介)やアトランティス大陸を思わせる記述がある。
ヒヒイロカネについての記述がある。また、文書とともに伝えられてきたとされる鉄剣がヒヒイロカネ製であるとしていた。
*ヒヒイロカネ:
『竹内文書』に出てくる超古代文明の金属とされるもの。オカルティストが「古史古伝における太古日本の伝説の金属または合金」と主張している。麻原彰晃がオウム真理教設立前にオカルト雑誌『ムー』で取り上げていた。緋緋色金、日緋色金とも表記し、火廣金(ヒヒロカネ)、ヒヒイロガネ、ヒヒイロノカネとも呼称し、青生生魂(アポイタカラ)はヒヒイロカネを指すといわれる。様々なフィクションに登場する。なお実在するベリリウム銅合金が特徴として近い。新宗教の宗教的なモチーフであるにもかかわらず、日本のサブカルチャーにおいて頻繁に用いられている。
富山県(富山平野)呉羽山の羽根飛登行所は日本国内専用、つまり国内線の空港、石川県羽咋市にある羽根飛行場は世界各地を回るための国際線用だった。太古の昔に空飛ぶ船があり、天皇がそれに乗って万国を巡行していたという。
*古代に超文明が栄えていた? 太古の飛行場跡地だというんだ。ただ天皇の先祖が海洋民なら船を使って万国を巡行していたという可能性は否定できない。
富山県の立山町にはUFOの目撃者が異常に多い尖山(とがりやま、とんがりやま)という古代日本のピラミッドが存在する(標高559m)。「神代の万国史」に挿入された巻頭写真の説明には、「トンガリ山は上古第二十四代天仁仁杵身光天皇(アメノニニギノスメラミコト)の神殿のアトである」と書かれている。これは神殿「アメトツチヒラミツト」で、天皇はそこから「天の浮舟」(あめのうきふね:UFO)に乗り、全世界を飛行したとされている(サンデー毎日ピラミッド特集、北日本新聞、名古屋タイムズ(1984年6月))。
*古代に超文明が栄えていた? 人類の文明は宇宙人から学んだもの? 空飛ぶ船や超合金火廣金(ヒヒロカネ)を持ち出してはオカルトの世界となってしまう。だから人気がなくならないのかも知れませんが。しかし、平群一族が後世に残したかった何らかの史実が隠されている可能性否定できない。
日本の歴史の部屋(続)
神話の世界
九鬼文書(くかみもんじょ)
九鬼文書(くかみもんじょ)とは、古史古伝のうちのひとつ。古代出雲王朝の正統性を主張する偽書。九鬼家の遠祖で天児屋根命(アルアメノコヤネノミコト)の時代に記録された神代文字の原文を、藤原不比等が漢字に書き改めたもので、九鬼氏が保管したとされる。天児屋根命は、記紀で皇孫邇邇芸能命(ニニギノミコト)と共に高天原から高千穂に降り立った天津神である。
藤原不比等自らが漢字に書き改めたことが事実なら、偽書と言う表現は当たらないでしょう。古代出雲王朝についてはまだよくわからないことが多すぎる。
☆【古史古伝(こしこでん)】:
古代史の主要な史料(日本の場合なら『古事記』や『日本書紀』など)とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称。種類が多く、また超古代文献・超古代文書ともいう。日本のものでない古史古伝もあるのでしょうか?
古史古伝は今のところ、いずれも学界の主流からは偽書とみなされている。日本の『武功夜話』や『百輪中旧記』などのように中世以後の歴史を記した偽書もあるが、古代の特に古い時代に無関係な文献は古史古伝とは呼ばれない。
古史古伝は、多くの場合、
1. 写本自体が私有され非公開である、などの理由で史料批判がなされる予定がなく、史料として使えないものも多い。
2. 超古代文明について言及されている
3. 日本のものの場合、漢字の伝来以前に日本にあったという主張がある神代文字で綴られている
4. 日本のものの場合、上代特殊仮名遣に対応してない(奈良時代以前の日本語は母音が8個あったが、5母音の表記体系である)
*現在日本語も5母音の表記体系。
5.成立したとされる年代より後(特に近代以降)の用語や表記法が使用されている
等々の理由で古代史研究における歴史学的な価値は無く、古代からの伝来である可能性も無いと考えられている。しかし、古史古伝は種類が多く1〜5の特徴もすべての古史古伝に共通しているわけではなく、それらの諸点についての度合いは各書ごとに様々である。
日本のものの場合、江戸時代成立とみられる文献もあり、それらには江戸時代的な特徴はあるが、近代以後の用語などは存在しない。ただし、いずれの「古史古伝」においても「偽書である『古史古伝』ではなく、真書である」と主張する人々はかつて存在し、また現在も存在している。
現在では、近代における日本人の国家観・民族観への受容等のあらわれとして、文献の作成を行う者の思想に対する研究が始まったところである。
古史古伝を含む偽史の作成は、それが作成される社会と時代における時代精神を反映している。原田実はオウム真理教が偽史運動から登場した事を指摘している。実際に教祖の麻原彰晃は、古史古伝に登場するヒヒイロカネに関する記事をオカルト雑誌のムーに発表したことがある。いわゆるトンデモ本や新興宗教が偽史や古史古伝に立脚しているケースは多々見られる。
日本の歴史の部屋(続)
神話の世界
日高見国(ひたかみこく)
日高見国(ひたかみこく)とは、古代日本における伝説上の国名であり、大和または蝦夷の地を美化して使われた言葉と考えられていた。。具体的には、大和を指す場合もあれば、蝦夷の地、つまり大和から見て東方の辺境を指す場合もあります。(AI)
『釈日本紀』は、日高見国が大祓の祝詞のいう神武東征以前の大和であり、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』での日本武尊東征時の常陸国であることについて、平安時代の日本紀講筵の「公望私記」を引用し、「四望高遠之地、可謂日高見国歟、指似不可言一処之謂耳(四方を望める高台の地で、汎用性のある語)」としているが、この解釈については古来より様々に論じられている。
例えば、津田左右吉のように、「実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの」とする見方もある。神話学者の松村武雄は、「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったものだとしている。また、「日高」を「見る」ということでは異論はなく、「日高」は「日立」(日の出)の意味を持つので、『常陸国風土記』にある信太郡については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかともされ、旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる。
*大和(ヤマト)から国名が日本に変わるきっかけにもなった?
その他様々にいわれているが、いずれにしろ特定の場所を指すものではないということでも異論はなく、ある時の王権の支配する地域の東方、つまり日の出の方向にある国で、律令制国家の東漸とともにその対象が北方に移動したものと考えられている。北上川という名前は「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている。戊辰戦争直後には北海道11カ国制定にともない日高国が設けられ、現在は北海道日高振興局にその名をとどめる。
「日高見国」が大和政権成立以前にすでに日本には存在していたという説も以前からある。事実、神代文字で書かれたという古文書(偽作説も)には「日高見国」の名前も出てくる。
しかし、日本書紀などでは、神武天皇達は「天の岩船」で天から降臨したことになっている。まさかUFOで月からやって来た訳は無いから、地球上の別の場所から移動して来たんでしょう。朝鮮半島はこの時期無人の荒野でこの時期は過去の遺跡に空白時代なんです。当然神武天皇は東からやって来たんでしょう。東から葦船に乗ってやって来て忽然と人々の前に現れる。しかも手土産持参で(多分稲の種等)。周囲の人々は神が降臨したと信じるかも。
考古学や古環境学(地質や気候)の発展によって、日本の縄文時代のかなり早い時期から、日本全体の一つの文明圏が出来ていて、海上交通によって連合政権のようなものを作っていても可笑しくないことが分かって来た。三内丸山遺跡の発掘が一例だが、人々は定住生活を行って、漁労、狩猟、農耕を組合わせた豊かな暮らしをしていたらしい。また、ヒスイや黒曜石に見られるようにかなり遠隔地域とも盛んに交流し、ネットワーク社会を形成していたらしい。これを「日高見国」として見做そうという考えだ。
「日高見国」の中心が何処にあったかは不明だが、どうやら東日本一帯が一つのまとまりと見られる。何故ならば、縄文末期から弥生時代初頭では、日本の人口分布は圧倒的に東に偏っていたことが分かって来たことだ。原因は7300年前に生じた鬼界カルデラの大噴火の影響がある。つまり西日本一帯は火山灰でほとんど人が住めなくなっていた時期が続いていたらしい。その証拠に西日本では縄文遺跡がほとんど見つかっていない(火山灰の下を発掘しないと見つからない)。西日本の環境が回復してから稲作農耕が始まるわけです。西日本の環境が回復して人々の暮らしが戻って来る。その時にやってくる人たちは一体どこからやって来たのでしょうか? 東日本は寒冷化が進んで住みにくくなってきた。海洋民なら当然船で移動しますね。ヤマトだったり、九州だったり、出雲だったり、全国各地へ広がる。
天孫降臨の高天原を「日高見国」と見なす考えは十分あり得る。まさか、高天原を天空の城とみなすことは神話の世界ではありえても現実の歴史ではあり得ない。「日高見国」では沢山の国が各々自分達の先祖を神様として敬っている。つまり多神教、八百万の神々の世界です。
神武政権は「日高見国」の神々の助けが無ければ成立しない。ヤマト=日高見国とすれば解釈上何の問題も無い。壬申の乱での天武朝も東国氏族の支援があってこそ成立した。だからヤマトは日本と名前を変える。
日本の歴史の部屋(続)
神話の世界
思金神(オモイカネ)
思金神(オモイカネ)
天岩戸伝承で、アマテラスを岩戸から救出する際のシナリオを考えた知恵の神。 出雲の国譲りでも派遣する神々の選定を行ったり、ニニギの天孫降臨でそのサポート役を担ったりするなど、重要な節目に登場。 その相談役的な立場と英才ぶりから知恵を司ると考えられ、学業成就や合格祈願に求められる。つまり、
オモイカネ(オモヒカネ、思金、思兼)は、日本神話に登場する神。
『古事記』では思金神、常世思金神(トコヨノオモイカネ)、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神(ヤゴコロノオモイカネ)、八意思金神と表記される。
高御産巣日神(タカミムスビ)の子であり、天忍穂耳命(アメノオシホミミ)の妻である万幡豊秋津師比売命(タクハタチヂヒメ)の兄弟。
*高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
天地開闢(かいびゃく)の際に最初に現れたとされる三柱の神の一柱。他の二柱は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と神産巣日神(かみむすひのかみ)。高御産巣日神は、万物を生成する神とされ、創造、発展、完成を司る神として信仰されています。
最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。国譲りでは、葦原中国に派遣する神の選定を行っている。その後、天孫降臨で邇邇芸命に随伴した。
(八意)思金神の「八」を「多い」、「意」を「思慮」と解し、「八意」は思金神への修飾語、「思」を「思慮」、「金」を「兼ね」と解し、名義は「多くの思慮を兼ね備えていること」と考えられる。
また、東京都杉並区鎮座の気象神社では、八意とは『晴』『曇』『雨』『雪』『雷』『風』『霜』『霧』という八つの気象条件を指し、思兼命はそれらを司ることができると解説している。性別がはっきりとしていない。
*天地開闢(かいびゃく)の際に最初に現れた、つまり万物を生成した神達は、何処の国の神話でも性別は明記されていないでしょう。つまり性別すら生成されていない。だから男神とも女神とも自由に解釈できるのでしょう。天照大御神ですらもともとは男神の太陽神だったとの説もある。
*現代では、もっぱら知恵を司ると神として用いられ、学業成就や合格祈願に使われているようだ。古代文明のコンピュータ(AI)と言うことだろう。
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神話の世界
トヨウケビメ
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている。『古事記』では豊宇気毘売神と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神、登由宇気神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、大物忌神、とよひるめ、等々。
『古事記』では伊邪那美命(いざなみ)から生まれた和久産巣日神(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神。後に、他の食物神の大気都比売神(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった。
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。
『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治山頂にある真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたが、十余年後に家を追い出され、漂泊した末に奈具村に至りそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。
尚、『摂津国風土記』逸文に、 止与宇可乃売神は、一時的に摂津国稲倉山(所在不明)に居たことがあったと記されている。また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という(外宮境内社)。
信仰・祭祀
丹波、但馬の地名の起源として、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)が京丹後市峰山町(比沼麻奈為神社がある)にあることから、その地が田庭と呼ばれ、田場、丹波へと変遷したという説がある。付近の久次嶽中腹には大神の杜があり、天の真名井の跡とされる穂井の段(ほいのだん)がある。また、神社の縁起は、大饗石(おおみあえいし)と呼ばれる直方体のイワクラであると言われている。
福知山市大江町には元伊勢豊受大神社がある。元伊勢内宮より南方の船岡山に鎮座する社で、藤原氏の流れである河田氏が神職を代々継承している。崇神天皇の御世、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が天照大神の御杖代として各地を回るときに、最初の遷座地が丹後であった。その比定地はいくつか存する。
伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)、奈具社(京都府京丹後市)、籠神社(京都府宮津市)奥宮天真奈井神社、比沼麻奈為神社(京都府京丹後市)、十市御縣坐神社(奈良県橿原市)で主祭神とされているほか、神明神社の多くや、多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。また、穴守稲荷神社(東京都大田区)のようにトヨウケビメを祀っている稲荷神社もある。
中世に入り外宮の神職である度会家行が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしている。現代でも内宮と外宮の両方を参拝する際には、先に外宮を参拝するしきたりとなっている。
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神話の世界
トヨタマ姫
トヨタマヒメ(豊玉姫、豊玉毘売)とは、日本神話に登場する女神。海神の娘であり、火遠理命(ホオリノミコト=山幸彦)の妻。彼女は神武天皇の父方の祖母、母方の伯母として知られています。
海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住むとされる。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、異類婚姻譚の典型として知られる。神武天皇(初代天皇)の父のウガヤフキアエズの母であり、天皇の母のタマヨリ姫の姉にあたる(後述)。
*竜宮と言っても、その描写はチョットした漁村で、別に海の中に存在した訳ではない。ワニも一族のトーテムで住人は普通の人間だ。
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神話の世界
タマクシ姫
玉櫛媛(たまくしひめ、玉櫛姫)は、日本神話に登場する女性。初代皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命の母として知られる。三島溝樴姫(みしまのみぞくいひめ)、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、活玉依毘売(いくたまよりひめ)ともいう。三嶋溝抗命の子である。
**ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)は、『日本書紀』に登場する人物・女神で、初代天皇・神武天皇の皇后(初代皇后)。『古事記』のヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)に相当する。蹈鞴(タタラ)の文字があるのは無視できない。製鉄部族のリーダだった?
**ミシマミゾクヒ(三嶋溝抗命)
『古事記』や『日本書紀』、『先代旧事本紀』によれば、娘には神武天皇の妻である比売多々良伊須気余理比売の母・勢夜陀多良比売(玉櫛媛命)がいるとされ、事代主神または大物主神の妻となり媛蹈鞴五十鈴媛命を生んだとされる。
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神話の世界
タマヨリ姫
タマヨリビメ(玉依毘売、『古事記』)またはタマヨリヒメ(玉依姫、『日本書紀』)は、日本神話に登場する女神。神武天皇(初代天皇)の母として知られる。
名義は「神霊が依り憑く巫女」と考えられる。大物主神の妻である活玉依毘売や、『山城国風土記』逸文に見える玉依日売と同じく、この名前を持つ者は神と通婚する巫女的神性を持つとされる。なお皇統が穀霊で続き、玉依毘売の御子も「五瀬命」(厳稲の命)、「稲氷命」(稲霊の命)、「御毛沼命」(御食主の命)、「若御毛沼命」(若御食主の命)であることから、特に穀霊を依り憑かせる巫女であったと考えられる。
宮浦神社(宮崎県日南市)は玉依姫の住居跡といわれる。また宮崎県日南市に玉依姫の陵墓であると伝えられる場所がある。
龍口明神社では龍神を束ねる海神族の祖先とされ、また姫自身も龍神として崇められている。
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神話の世界
八上比売(やがみひめ)
八上比売(やがみひめ / やかみひめ、八上姫)は、日本神話に登場する因幡国八上郡の女神。大国主神の最初の妃。
『古事記』において八上比売、『先代旧事本紀』では稲羽八上姫と表記されている。
大穴牟遅神の大勢の兄弟神(八十神)は大穴牟遅神を荷物持ちとして、八上比売への求婚のために因幡国へと向かった。その途中、負傷した挙げ句八十神たちに騙されて、傷が痛んだ兎に大穴牟遅神は出会いこれを救う(因幡の白兎)。救われた白兎は「あなたの求婚は成功するでしょう」という予言を残し、この予言は的中する。
八上比売は八十神たちの求婚をはね除け、大穴牟遅神との結婚を宣言するが、妬んだ八十神たちの謀略によって大穴牟遅神は二度殺されてしまう。母の刺国若比売などに救われた大穴牟遅神は根之堅洲国に逃れ、そこで受けた須佐之男命の試練を乗り越え、須勢理毘売命を娶り、大国主神となって八十神たちを平定する。その後大国主神は八上比売を宮殿に迎え入れるが、正妻となった須勢理毘売命の嫉妬を恐れ、生まれたばかりの子を木の俣に挟んで因幡の国へ帰ってしまう。
売沼神社に近い嶽古墳が八上比売の神陵とされる他、各地に八上比売の関連伝承が存在する。
「八上」は現在の「八頭郡」、「命」が着かないことは巫女性を表すと解し、名義は「因幡国八上郡の豪族の娘である巫女」と考えられる。
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神話の世界
事代主神(ことしろぬし)
事代主神(ことしろぬし)は、日本神話に登場する神で、大国主神の息子です。託宣の神として知られ、商売繁盛や漁業の神としても信仰されています。また、七福神の恵比寿様と同一視されることもあります。
事代主神は、国譲り神話において、大国主神から天照大神への国譲りを承諾する託宣を述べたことで知られています。
別名は八重言代主神、八重事代主神とも表記し、『古事記』において大国主神と神屋楯比売命との間に生まれたとされる。
葦原中国平定において、建御雷神らが大国主神に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主神が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主神は「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。
抵抗した弟の建御名方神も建御雷神に服従すると、大国主神は国譲りを承諾し、事代主神が先頭に立てば私の180人の子供たちも事代主神に従って天津神に背かないだろうと言った。
「国譲り神話」は、日本神話の中でも最もドラマチックな部分だ。また、神話とは言え何らかの史実があった可能性を示唆している。出雲系の王朝が大和系の王朝に併合された?合体して一つになったのでは?
【追記】
葦原中国(あしはらのなかつくに)は、葦原中国とは、日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界。「葦原の中つ国」とも表記される。一方、「豊葦原瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)」は、日本国の美称。これは、葦が豊かに茂り、稲穂がみずみずしく実る国という意味で、日本の豊かな自然と稲作を象徴しています。
事代主神が統治していた「中つ国」は、出雲一国ではなく、倭国全体を意味しているようだ。だから、国譲りは倭国全体のリーダの交代。では、出雲政権とヤマト政権の間に大きな戦争でもあったのかしら。
実は大和政権の天皇の皇后は出雲の神々の子孫から選ばれている。皇后は天の声を聞くシャーマンの役割を担い、それを下々に伝え政治をするのが天皇の役割。両勢力を仲裁したのが日高国(高天原)の神々だった。
葦原瑞穂の国は、古代人が住むのにそんなに適した土地でしょうか。「葦」は葦船なんかに利用価値はあるけど、湿地に生える草。高天原の人々(神々)は将来ここに広大な水田地帯を開発することを最初から計画していたんでしょうか?すでに稲作の技術をマスターしていた。
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神話の世界
大国主神(オオクニヌシ)
大国主神(オオクニヌシ)は、日本の神話に登場する神様で、出雲大社の祭神として知られている。国づくりの神として、八百万の神々の中にも名を連ね、人々の幸福を願う神として信仰されています。また、因幡の白兎を助けた心優しい神様としても知られています。
大国主神は、須佐之男命(スサノオノミコト)の子孫または6世の孫とされる神様で、出雲の国づくりを行った神様として知られています。少彦名神(スクナヒコナノカミ)とともに、中つ国の経営を行い、様々な知識や技術を人々に伝えたとされています。
**少彦名神(スクナビコナノカミ):
日本神話に登場する小さな神で、大国主神(おおくにぬしのかみ)と共に国作りを行ったと伝えられています。医薬の神、酒造りの神、温泉の神としても知られ、その小さな体からは想像もできないほどの知恵と技術を持っていたとされています。
大国主神は、国づくりを終えた後、天照大神に国を譲り、その後、人々の幸福を願う神様として、出雲大社に鎮座し、多くの信仰を集めています。
大国主神は、縁結び、子授、夫婦和合、五穀豊穣、養蚕守護、医薬、病気平癒、産業開発、交通・航海守護、商売繁盛など、様々なご利益があるとされています。
大国主神は、出雲大社だけでなく、全国各地で祀られ、人々の生活に深く関わっている神様として、広く知られています。
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神話の世界
気象神社
気象神社は、1944年(昭和19年)4月、大日本帝国陸軍の陸軍気象部(杉並区馬橋地区)の構内に造営されました。軍にとって気象条件は戦略、作戦を講じるのに大事な要素であっ ...
気象神社について: 日本で唯一の気象の神様が祀られている神社。 高円寺の氷川神社内 (〒166-0003 東京都杉並区高円寺南4丁目44−19 氷川神社)にあり、気象予報士の受験者や快晴祈願などの方がお参りに訪れます。
日本唯一の気象神社は「高円寺氷川神社」の境内にあります。 晴れを祈願したり、近年では気象予報士の合格祈願でも訪れることも多いようです。 新海誠監督の映画「天気の子」のワンシーンにこの気象神社の「下駄の絵馬」が出てきたことで全国的に有名になりました。 気象神社のお祭神は、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)です。
*お祭神は、思金神(オモイカネ)だったんですね。
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神話の世界
檀君神話
檀君神話は、朝鮮半島の建国神話であり、檀君が古朝鮮の建国王であるという物語です。檀君は、帝釈天の王子桓雄と熊女の子として生まれ、平壤を都として朝鮮という国を建国しました。(AI)
檀君(だんくん、朝鮮語: 단군)は、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、一般に紀元前2333年に即位したとされる伝説上の古朝鮮の王。『三国遺事』によると、天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる。『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」という意味の号であって個人名ではなく、個人名は王倹(おうけん、朝鮮語: 왕검・ワンゴム)という。
高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用と見られるのが、檀君の文献上の初出である。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくない。中国の史書にはまったく登場せず、初めて朝鮮の歴史書に登場するのも13世紀と遅い。通常は神話として扱われ、歴史事実とは看做されておらず、檀君という王が実在した、あるいは檀君が築いたとされる檀君朝鮮が存在したという証拠はほとんどなく、檀君が実在の人物だった可能性はゼロに近い、と研究者は語っている。
檀君神話には並行する伝承が存在し、夫余の建国神話、及びツングース系の諸民族に伝わる獣祖神話などがある。
【建国神話】
世界には多くの建国神話があり、現在の支配者が建国神話と関係があるとされる場合、支配の正統性の根拠とされる。ただし、建国神話には、自らが支配者にふさわしいとする誇張や脚色また明らかに事実ではない記載も見られ、史実を反映したものとは限らない。また史実を反映したとされるものであっても、史実そのままとは限らない。
アジアの始祖神話は、その始祖がどのように生まれたかによって、いくつかの類型があり、始祖が卵で生まれたという卵生神話、箱舟に乗って漂流してきたという箱舟漂流神話、狼・犬などの動物から生まれたという獣祖神話、雷光・日光などにあたって妊娠して生まれたという感精神話がある。始祖神話を類型化し、それぞれが一定範囲に分布し、その分布が類型によって異なり、類型によって、文化境域が設定できることを指摘したのは、三品彰英であり、卵生神話は、インドネシア、台湾など南方に分布、北限は朝鮮半島にまでおよび、新羅、金官加耶、高句麗にみられる。箱舟漂流神話は黄海、東シナ海、南シナ海縁辺に分布する南方海洋神話である。獣祖神話は、モンゴル、突厥など北アジアに分布し、感精神話はもっとも普遍的で、漢人の始祖神話はほとんどこれに属するが、その場合、雷電・星辰によるものが多く、日光によるものに限れば、満洲・蒙古諸族が分布の中心となる。その中間的なものが、天降りの霊物によるもので、殷始祖契のように玄鳥の卵を飲んで、というものがそれに含まれ、漢人と満洲・蒙古諸族とに等しく分布する。夫余の始祖神話は、卵のような大きさの氣が降ってきた、というものであり、感精神話の中間的な、天降りの霊物による類型に属し、卵があらわれるが、卵生ではない。高句麗は、日光感精神話と卵生神話の両要素をもち、満洲・蒙古的要素と、南方的要素との複合形態といえ、その意味では、夫余とは大きく異なる。
日本の建国神話の形成がいつ頃かをうかがい知る記述として、欽明紀(『日本書紀』)に、百済王が新羅を攻めたが逆に討死してしまい、人質として日本にいた百済王子が帰国する際、蘇我臣が、「かつて百済が高句麗によって滅ぼされそうになった時、百済王が日本の建邦の神(建国神)を祀って、難を逃れたが、その後、祀らなくなったから、新羅に滅ぼされそうになっているのだ」と語り、日本の建国神について説明し、再び祀るよう薦める記述があり、少なくとも6世紀中頃には、建国に関する神話が形成されていたことがわかる内容である。
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【世界の始祖神話】
①卵生神話、②獣祖神話、③箱舟漂流神話、④感精神話
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神話の世界
日向三代

日向三代(ひむかさんだい/ひゅうがさんだい)とは、日本神話において、地神五代のうち、瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊の3柱の神々およびそれらの神々の時代を指す用語。皇室の祖が日向にあった時代である。概ね天孫降臨と神武東征の間に位置する。
*3柱とはつまり、ニニギ/ ホオリ/ウガヤフキアエズです。
*5代とは上の3柱に、アマテラスとアメノオシホミミの2柱を加えたもの。
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神話の世界
ウガヤフキアエズ
鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと、うがやふきあえずのみこと)は、日本神話の神。地神五代の5代目、日向三代の3代目。神武天皇の父。
彦火火出見尊(火折尊、山幸彦)の子。母は豊玉姫。『先代旧事本紀』によれば異母弟に武位起命がいる。叔母の玉依姫との間に彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命・彦火火出見尊(神武天皇)を得た。父と末子は同名の彦火火出見尊である。久しくして崩じ吾平山上陵に葬られた。
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鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズ)は、初代・神武天皇の父にして農業と漁業の守護神です。異称はたいへん長い物がおおく、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、彦波瀲武葺不合命、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、日子波瀲武葺不合命、うがやふきあえずのみこと、などと呼ばれます。
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ウガヤフキアエズは、海幸彦・山幸彦に登場する山幸彦(ヒコホホデミ命)と、海神の娘(トヨタマヒメ)から生まれた御子神です。のちに大和王朝を建国するカムヤマトイワレビコ命(神武天皇)の父となります。
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稲飯命(いないのみこと)
稲飯命(いないのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「稲飯命」や「彦稲飯命」、『古事記』では「稲氷命」と表記される。
神武天皇(初代天皇)の兄。
『日本書紀』・『古事記』によれば、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と海神の娘の玉依姫との間に生まれた第二子(第三子とも)である。兄に彦五瀬命、弟に三毛入野命・神日本磐余彦尊(神武天皇)がいる。新羅王の祖とも。
『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従うが、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとする。
*鋤持(さいもち)は紐が付いた刀の意味らしい。元々は鋤は「すき」、つまり農機具だったはず。古代人は鉄は武器ではなく、農具として優先的に用いたようだ。つまり、それだけ平和な国だった。
『古事記』では事績の記載はなく、稲氷命は妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)したとのみ記されている。
右京皇別 新良貴 - 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」と記し、稲飯命は新羅王の祖であると伝える。
稲飯命について『日本書紀』には「鋤持神(さいもちのかみ)」と見えるが、関連して『古事記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さいもちのかみ)」とあり、これらは鰐(わに)の別称とされる。『古事記』の神話では、山幸彦(火遠理命)は海神宮から葦原中国に送ってくれた一尋和邇(一尋鰐)に小刀をつけて帰したという。また以上から、「さい」とは刀剣を指すとも考えられ、鰐の歯の鋭い様に由来するとされる。特に『日本書紀』神代上では「韓鋤(からさい)」、推古天皇20年条では「句禮能摩差比(クレイノウマサヒ)」などと見えることから、朝鮮半島から伝来した利剣を表すともいわれる。古田武彦はマサヒの「ヒ」は朝鮮語の「ビダ、ベダ」(切る)と同じ意味であるとしている。また『新撰姓氏録』に見えるように、稲飯命は新羅王の祖であるとする異伝がある。
高句麗の建国話で、高朱蒙が「私は天孫(又は太陽の子)で河伯の外孫である、今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚や鼈が浮かんで橋を作り、朱蒙らは川を渡ることができたという話がある。
*高朱蒙;高句麗の建国者・東明聖王のことらしい。高句麗も新羅も建国者は倭人、神武天皇の兄弟たちと言うことらしい。
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神話の世界
神世七代
神世七代(かみよななよ, かみのよななよ)は、日本神話で天地開闢のとき生成した7代の神の総称。またはその時代をいう。
神世七代のほかに天神七代ともいう。陽神(男神)と陰神(女神)がある。
『古事記』では、別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としている。最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代とする。
別天津神(ことあまつかみ)とは、天地開闢の際に最初に高天原に現れたとされる五柱の神々を指します。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、可美葦牙彦舅神、の五柱です。
別天津神は、天津神の中でも特別な存在とされ、日本神話において天地開闢の初期段階で現れた神々として最重要視されています(AI)。
*5柱→アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒ、ウマシアシカビ、アメノトコタチ
これ等の神々には性別が記載されていない。
1. 国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2. 豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3. 宇比地邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4. 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5. 意富斗能地神(おおとのぢのかみ)・大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6. 淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7. 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
(左側が男神、右側が女神)
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神話の世界
天孫降臨
天孫降臨(てんそんこうりん)とは、日本神話における天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギ)が、高天原から地上(日向国・現在の宮崎県)に降りてきたことを指します. これは、日本建国神話の重要な要素であり、皇室の起源を説明する上で重要な役割を果たします(AI)。
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天孫降臨(てんそんこうりん)とは、『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話。 邇邇芸命(ニニギ)が、葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降あまくだったこと。
天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、天照大御神の子である天忍穂耳命(アメノオシホミ)に、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」と言った。
*アメノオシホミはアマテラスの次男。農業の神、特に稲作の守護神として崇められ、五穀豊穣や農業の繁栄に関わる神徳を持つとされています。
*葦原の中津国は既に平定されている。中津国は当然大和を含む広い地域。筑紫の日向はあくまでも前線基地だろう。では、高天原は何処にある。天にあるはずはない。
*天磐船(あまのいわふね)とは日本神話において、天神である饒速日命(ニニギ)が高天原から中津国(地上)に降りる際に使用したとされる船。
UFOのような宇宙船?古代の超文明? 多分葦船では? 高天原は東国にあった。これを「日高見国」と言っても良いか。アメノオシホミは東国から船でやって来て、忽然と日向の地に現れる。まるで天から降って来たかの如く。何を持って、当然稲の種だ。稲作を普及することで多くの人口を養える。
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神話の世界
此花姫(コノハナノサクヤビメ)
『古事記』では本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)、別名を木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)、『日本書紀』では本名を神吾田津姫(かみあたつひめ)、神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、別名を木花開耶姫(このはなのさくやびめ)、『播磨国風土記』では許乃波奈佐久夜比売命(このはなのさくやびめ)と表記する。読みはコノハナノサクヤビメ、コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。木花咲弥姫命(このはなさくやひめのみこと)と表記することもある。
神話では、天照大御神(アマテラス)の命を受けて地上世界に降臨した邇邇芸命(ニニギノミコト、ホノニニギ)から求婚を受ける。父の大山津見神はそれを喜んで、姉の石長比売(イワナガヒメ)と共に嫁がせようとしたが、邇邇芸命は醜い石長比売を送り返し、美しい木花之佐久夜毘売とだけ結婚した。
父神の大山津見神はこれを怒り、私が娘二人を一緒に差し上げたのは石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇芸命)の命は岩のように永遠のものになるはずであったのに、木花之佐久夜毘売のみを妻にしたため、木の花が咲き誇るように繁栄はするだろうが、その命ははかないものになるだろうと語った。
それで天神の子孫である天皇に寿命が生じてしまったといい、神々の時代から天皇の時代への途中に位置づけられる神話となっている。
**オオヤマツミ
『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他に大山積神、大山罪神とも表記される。 別名 和多志大神、酒解神。
**人には寿命があるが、神には寿命が無い。永遠の命。
**父オオヤマツミが当時としては
木花之佐久夜毘売は一夜で身篭るが、邇邇芸命(ニニギ)は国津神の子ではないのではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神である邇邇芸命の本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中で火照命(ホデリノミコト/海幸彦)・火須勢理命(ホスセリノミコト/)・火遠理命(ホオリノミコト/山幸彦)の三柱の子を産んだ(火中出産を参照)。火遠理命の孫が初代天皇の神武天皇である。
『播磨国風土記』では伊和大神(大国主神)の妻とされる。これは上の話と辻褄が全く合わないけど?
【考証】
本名の「阿多」は鹿児島県南さつま市から野間半島にわたる地域、また薩摩国(鹿児島県西部)にちなむ名で、「鹿葦」も薩摩の地名という。
名は一般的には植物と関連づけられている。神阿多都比売の名義は「神聖な、阿多の女性(巫女)」とされ、木花之佐久夜毘売の神名の「木花」は木花知流比売と同様「桜の花」、「之」は格助詞、「佐久」は「咲く」、「夜」は間投助詞、「毘売」は「女性」と解し、名義は「桜の花の咲くように咲き栄える女性」と考えられる。なお桜は神木であり、その花の咲き散る生態によって年穀を占う木と信じられた。神名は咲くことを主にすれば 「木花之佐久夜毘売」となり、散ることを主にすれば「木花知流比売」となるとされる。
これに対してポリネシア語をもとに、コノは kau-nui(大型船)、ハナは hana(労働)、サクヤヒメは haku wahine(貴婦人)とする推論もある。
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神話の世界
ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)
ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)は、日本神話に登場する神で、天照大御神の孫にあたる神様です。天孫降臨したとされる神であり、葦原中国を統治するため高天原から日向の高千穂に降臨したと言われています。(AI)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、日本神話の神。地神五代の3代目。日向三代の初代。神武天皇の曾祖父。
天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命の子(つまり天照大神の孫)。皇孫(すめみま)、天孫(あめみま)とも称される。高皇産霊尊の意により葦原中国の主として天降(あまくだ)り、日向国の襲の高千穂峰へ至った(『古事記』では高木神の命をうけた天照大御神の神勅)。さらに国を探し求めて吾田長屋笠狭岬へと至り、そこで大山祇神の娘の鹿葦津姫(かしつひめ)、またの名は木花開耶姫(コノハナサクヤビメ)を娶った。二人の間には火闌降命・彦火火出見尊らが生まれた。久しくして崩御。可愛山陵に葬られた。
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神話の世界
温羅(うら/おんら)
温羅(うら/おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼。
温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣され退治されたという。
伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したものと見られ、文書には数種類の縁起が伝えられている。また、この鬼退治伝説は桃太郎伝説の原型に当たるとの説もある。
伝承によると、吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げおおせて倒せなかった。このため崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の五十狭芹彦命を派遣した。
討伐に際し、五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を1本ずつ射たが温羅はその都度石を投げて撃ち落とした。そこで命が2本同時に射たところ、1本は撃ち落とされたが、もう1本は温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、五十狭芹彦命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、五十狭芹彦命は鵜に変化してついに捕らえたところ温羅は降参し「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上した。これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになった。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。この釜殿の精霊のことを「丑寅みさき」と呼ぶ。
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神話の世界
日本の首相
| 伊藤博文 | ||
| 池田 勇人 | 橋本 龍太郎 | 菅 義偉 |
伊藤博文(1・5・7・10)
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、1841年~1909年(明治42):
明治時代に、4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣(初代、5代・7代、10代)を務めた。一次内閣時には大日本帝国憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治に道を開いた。他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任。
周防国の百姓を子として生まれる。父が長州藩の足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。吉田松陰の私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加。1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる。1864年にロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった。
明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)岩倉使節団の副使として外遊する。この間に大久保利通の信任を得た。
1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対。同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議兼工部卿に就任。1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生。1882年(明治15年)にドイツやオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手。
**政治家伊藤 博文の功罪については色々な論があるであろうが、彼は非常に人脈に恵まれていることが分かる。特に師となる先輩には絶大な信頼を勝ち取っている。例えば、吉田松陰→高杉晋作→岩倉具視→大久保道造→木戸孝允
1885年に太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後の初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年に枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した。
1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織。1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(第1次大隈内閣)を成立させた。さらに1900年(明治33年)には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた。しかし1901年(明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職。
同年に起こった日英同盟論には慎重でロシアとの協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、1903年(明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った。
日露戦争開戦には慎重だったが、日露戦争後の朝鮮・満州の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)には初代韓国統監に就任。韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の独立運動家安重根に狙撃されて死亡した。
開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が評価される[1]。
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日本の歴史の部屋
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歴史の部屋
池田 勇人(58・59・60)
池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)~1965年(昭和40年)):
政治家、大蔵官僚。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任。
大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相。所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした。
生い立ち
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・うめの間に7人兄弟の末子として生まれる。旧制忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格。第一高等学校を受験するが2度落第、第五高等学校(熊本)を経て京都帝国大学法学部卒業。
大蔵官僚時代
挫折と生命の危機の克服
京都帝国大学法学部卒業後、高等試験をパスし1925年大蔵省へ入省。大蔵省の中枢は当時からすでに東大出身者で固められており、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流。本来ならば地方の出先機関の局長や税関長止まりというキャリアで、入省後は相場の通り地方を廻る。1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった。
宇都宮税務署長を務めていた1929年、当時不治の病といわれた難病の落葉状天疱瘡を発症して大蔵省を休職、休職期間が切れたため1931年に退職、以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で、栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈み切歯扼腕する思いであった。少しよくなりかけた頃、島四国巡礼をする。
闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っている。看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、1934年に奇跡的に完治。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる。再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定したが、挨拶を受けた秘書課長の谷口恒二や松隈秀雄から復職を薦められる。同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。
**税務署長を転々としていた訳。
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日本の首相
財政家として基盤の形成
復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、野間清治や根津嘉一郎の遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる。
当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻り、しばらくは重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされたが、1941年、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となる。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。丁度太平洋戦争と重なり、賀屋と共に、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金となり、国家財政は事実上の破綻に至る。1942年、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)。1944年、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長。出世の遅れに嫌気が差し、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが、母親に猛反対され断念。
1945年2月に主税局長となり、出世の遅れはここでほぼ取り戻した。初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった。 1944年9月~1945年9月の間埼玉県春日部市に家族(妻と次女と三女)を疎開させていた。当時の春日部市は春日部町と言う町であり、春日部駅東口周辺に税務署があった。池田家の居住地はその周辺になる。池田本人も家族の疎開先の春日部町から大蔵省に通っていた。5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散。主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移っており、同所で終戦を迎える。
終戦後、池田は戦後補償の担当者だったといわれ、軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴いGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした。戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み、1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。終戦、そして主計局長の中村建城をはじめとする公職追放による人事の混乱に加え、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した(次官抜擢は別説あり)。石橋蔵相下では石橋に協力して戦後の財政再建の実務を担当した。
次いで成立した社会党中心の片山内閣は社会主義を標榜し、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として経済安定本部(安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増える。ここで安本次官だった同郷の永野重雄と親しくなり、財界に強い素地を作る。
1948年、梅林組及び竹中工務店に対する融資問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に小坂善太郎、愛知揆一らとともに証人喚問された。同年、48歳で大蔵省を退官。浪人中に政治家になることを猛反対していた母が亡くなったことが、政治家転身を後押しした。
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日本の首相
政治家として
吉田の右腕として新人で大蔵大臣
1949年の第24回衆議院議員総選挙に旧広島2区から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の竹原市立吉名小学校の裁縫室で上げた。演説の話が難しすぎ、100人近くの聴衆はポカーンとして拍手一つ上がらなかったというが、初当選を果たす。以降死去まで在任、選挙は7回全てトップ当選した。中選挙区制においては空前絶後の記録である。
池田の所属する民自党は大勝したが、選挙後の組閣(第3次吉田内閣)において、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった。この年2月1日にマッカーサーの財政顧問のジョゼフ・ドッジ (デトロイト銀行頭取)が公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策が要求されると予想され、それまでのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもないためであった。
外交官出身の吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが、財政経済は素人でほとんど無関心だったため、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった。吉田は前内閣で、池田成彬に擬えて泉山三六を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった(国会キス事件)。吉田は宮島清次郎に人選を依頼したが、宮島が挙げる向井忠晴ら候補者はみな公職追放の憂き目に遭っていた。
宮島から桜田武経由で話を聞いた永野重雄は、安本時代の次官仲間だった池田を推薦した。宮島が池田にテストを行ったが、宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があった。宮島は、当時は財界でもその名を知る者はほとんどいなかった池田を吉田に推薦した。こうして池田は当選1回で第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された(就任日は1949年2月16日)。この人事には林譲治や大野伴睦ら党人派が反対したが、最終的には吉田に頼まれた自由党幹事長の大野が反対派をまとめた。池田は吉田の全権委任の形で経済を任されており、その後3度の内閣改造を経て解散されるまで蔵相に留任した他、第3次吉田内閣で通商産業大臣を、第4次吉田内閣では経済審議庁長官を兼務した。
池田は大蔵大臣秘書官として黒金泰美と、官僚時代に英語が堪能で贔屓にしていた宮澤喜一を抜擢した。まもなく黒金が仙台国税局長に異動したため、後任に固辞する大平正芳を否応なしに秘書官に起用した。
占領下の経済政策
1949年、ジョゼフ・ドッジが来日。池田はドッジと協議を重ねた。池田は、後の「所得倍増計画」に見られるような積極財政をプランし、減税や公共投資を推し進め、それによって戦後の復興を成し遂げようと考えていたが、占領下ではGHQの指示は絶対で、意に反してドッジの超均衡財政の忠実な執行者を余儀なくされた。3月7日にドッジ・ラインを実施、1950年度予算は、収支プラス3億円の超均衡予算となった。
ドッジ・ラインの反動で、金づまり(デフレ)の嵐が吹き荒れ、企業合理化による人員整理で失業者が増大し、各地で労働争議が頻発、下山事件など暗い事件も相次いだ。ドッジは特に公務員の大量解雇による人件費削減を池田に強く指示し、これを実行したため、ドッジと池田に非難が集中、政党、労働組合、産業界、特に中小企業からの集中砲火にさらされた。
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財政投融資の開始
ドッジ・ラインに従って厳しい金融引き締め政策が実行された結果、1949年4月から6月にかけて日本経済は激しい金融難に見舞われた。超緊縮予算は国庫収支の大幅な引き揚げ超過を伴うため、経済はデフレの傾向を示しはじめ企業は資金不足に悩んでいた。産業を再構築するための産業資金の供給を、政府に求める民間の要請が高まった。1950年6月、池田は民間の住宅資金を供給する住宅金融公庫を設立して政府系金融機関を設ける糸口を付けた上で、手詰まりになっていた産業資金を作るため、財政資金を活用することにし、大蔵省預金部を改組して1951年4月に資金運用部を設立した。これが後年、高度成長政策を進める上での財政上のテコになった財政投融資になる。
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日本専売公社発足
1949年、大蔵省専売局を独立し発足した日本専売公社の初代総裁には池田の推薦により秋山孝之輔が抜擢された。
日銀への影響力の拡大
1950年、産業金融のあり方を巡り一万田尚登日本銀行総裁と大論争が行われ、池田が勝利したことで、大蔵省が日銀に対して圧倒的力を行使するようになった。特に1956年、池田の大蔵省の同期・山際正道が日銀総裁になって以降、池田の影響力が増した。池田は輸出向け金融の制度改革で足腰を強め、重化学工業を中心とする産業の成長を見据えていた。しかし一万田は重工業化政策に反対するなど、池田とは全く逆の財政観を持っていたため、一万田が勝っていたら、高度経済政策は違った形になっていた可能性もある。
通商産業省発足
アメリカ対日協議会(ACJ、ジャパン・ロビーの中枢組織)のドレイパー陸軍次官が池田に「輸出でドル外貨を稼げ」と説得、池田が「ドルがない。綿花を仕入れようにも綿花商人が綿花を送ってくれない」と切り返すとドレイパーが帰国して綿花業者を説得し「日本に綿花を送れ」と指示し、大量に送られた綿花によって日本の繊維産業が急ピッチで発展した。繊維製品と日用雑貨製品のアメリカなどへの輸出増大でその振興を目的として1949年5月、商工省を改組して通商産業省(現経済産業省)が発足した。
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シャウプ勧告と税制改革
戦後税制3つの転機といわれる所得税中心の税制を確立したシャウプ勧告では、ドッジ予算ほど強い権限がないことに着目し、池田はその内容を柔軟に解釈し、勧告の中で示されている以上の減税が可能であるとの立場をとり、1949年度の補正予算に若干の減税をドッジに認めさせ、歴史上はじめて実質上の歳出増ならびに減税の両方を含む補正予算を示した。
池田の評判と評価の変化
池田はドッジと、選挙公約の不履行という民自党内部や各党からの批判、「国民生活の窮迫」という国民の非難との板挟みになり、「インフレではない。ディスインフレ政策である」と強調したため、「ディス・インテリ」という不本意な渾名を付けられた。「池田勇人、鬼よりこわい、ニッコリ笑って税をとる」という戯れ歌が歌われ、池田の憎たらしい面構えの漫画が新聞・雑誌に掲載された。
中小企業の倒産や、企業主家族の心中が相次いだため、記者たちからの意見を求められた池田は「その種の事件が起こるのは当然のことと見ている」と述べ、国民にショックを与えた。1950年6月の参院選では、吉田から「お前が喋らない方が党のためになる」と選挙応援には来ないでくれと言われた。
一方、国内からの反撥を受けながらもドッジ・ラインを実現できるだけの力を示すことで、対米信用を獲得し、大蔵省を足場に政治家としての権力基盤を形成した。ドッジと大蔵省の協議のほとんどに出席したヤング使節団のオービル・マークダイアミドは後年、「ドッジ使節団の成功に最も寄与したのは池田である」と述べた。ドッジやGHQからの池田に対する信頼は厚く、日本の政治家は池田を通さないとドッジと面会できなかったといわれる。それが吉田の池田に対する信頼感を持たせることにも繋がった。
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講和の下交渉
1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた。この年6月に参院選も予定されていたことから、世論の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ。
しかし渡米の最大の使命はこれではなかった。ドッジやマーカット少将から「講和の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった。当時、対日占領の経済的負担がアメリカにとって過重となっていて、アメリカ政府の中にも軍事的要求が満足できるなら必ずしも講和に反対しない、という意見が台頭しつつあったといわれる。アメリカは日本を独立させるという条件を提示し、朝鮮戦争に全面的に協力させようと考えていたとする見方もある。
こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は講和・安保問題の打診、"吉田からの伝言を預かり、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える"という、重大なミッションを抱えて同年4月25日、吉田の特使として白洲次郎、宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米した。池田は戦後、日本の閣僚がアメリカの土を踏んだ第1号でもあった。
池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、ワシントンD.C.でドッジ・ラインの緩和を要請した。また池田は近い将来の日本経済の飛躍的発展と、その基盤を成す輸出振興のために輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)設立の構想を持っており、国際通貨基金(IMF)総裁を訪ね、日本政府のIMF加盟、国際復興開発銀行(世界銀行)加入要請、輸銀創設の要請などの話し合いを重ねた。最終的な権限はGHQにあるため、まとまってもそこでは結論は出さずに、形式的にはGHQの決定に委ねる形であった。日本の歴史の部屋(続)
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5月3日、池田と宮澤が国務省にドッジを訪問、吉田からのメッセージを口頭で伝えた。「日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及びアジア地域の安全を保障するために、米軍を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい…条約締結の前提として米軍基地の存続が必要だとしても、日本はすぐにでも条約締結の用意がある」などと、日米安全保障条約の基礎を成す内容を伝えた。国務省の立場を非常によくする内容の安保条約的構想のオファーに、バターワース国務次官が「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これはアチソン国務長官に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があったロンドンでの外相会議に出席した。コピーのもう一部はダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた。
なお、2人とは全くの別行動をとっていた白洲は、吉田からの安保構想は聞かされていなかったといわれ、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している。白洲は皮肉をこめて「池田勇人というのはアメリカにとてもモテたんです。不思議に数字丸暗記できるという、一種の特技ですよ。日本の国家予算はあの時分はインフレだから、兆でなく何千億ですけど、それを、こういうものはこうでありましてと、ひょうひょうと言うんです。聞く方は口開けて見てましたね。頭脳明晰な、とても偉い人だと思って。アメリカ人はそういうところはわりに感心するんです。第一回の訪米のとき、アメリカの財界人は池田を買ったのです」などと述べている。
帰国後、GHQを差し置いて池田が官吏の給与引き上げ、税の軽減などをワシントンに直接伝えたと、渡米中の池田の言動についてGHQ民政局 (GS) のホイットニー准将とGHQ経済科学局 (ESS) 長だったマーカット少将が激怒した。池田がアメリカで話したことは、日本側では極秘に付されていたが、GHQでは皆知っていた。また池田が「GHQが細部にわたって干渉することは適当でない」と司令部の人員削除を提案したことがマッカーサーに通じていてGHQの反感を買っているといわれた。吉田はドッジラインの譲歩などの池田の渡米みやげを翌月に迫る参院選の政治的キャンペーンに利用しようと考えていたが、吉田はマッカーサーと面会の約束が取れず、池田もマーカットに面会を断られたため、池田の渡米みやげは発表できなくなり、やむなく「おみやげはない」という政府声明を出した。このため池田は蔵相辞職、あるいは追放ではという噂が上がった。池田の窮地を救うため吉田がGHQと交渉し、池田が主張した官吏の給与引き上げ、税の軽減、輸銀創設、IMF、世界銀行加盟、小麦協定(MSA協定)への参加などほぼ司令部から了解が得られ、池田の立場も救われた。占領下という極めて困難な条件の下で、国政の要ともいうべき外交と経済を、吉田と池田が長期にわたって分担したという共通の経験と思い出が、二人の関係をいっそう親密なものにした。以降、池田は単なる数字に強い財政家の枠を超えて吉田に次ぐナンバー2の地位を築く。一方の白洲は帰国後、自身の果たした役割を世に説明することもなく、鶴川に引っ込んで好きな農民生活に戻っていった。
なお、マッカーサーは池田訪米の本当の目的を池田の帰国後まで知らず、報告書を読んで激怒したとする文献が多いが、宮澤は後年のインタビューで「マッカーサーが吉田に講和を薦めた」と話している。
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講和・独立後の政権運営
産業金融システムとして池田が設立したのが政府系金融機関である輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)と日本開発銀行(開銀)である。日本の再興期に於いて、当時の四大重点産業である電力、石炭、海運、鉄鋼など、輸出力のない基幹産業に、当時の民間銀行は資金不足で投資ができず、財政余裕資金を国家要請に基づき、それらの分野に重点的配分し、基幹産業を復活させる目的を持った。本来は1947年に設立された復興金融金庫(復金)が面倒を見るべきであったが、ドッジは復金は超インフレの元凶とみて反対し、GHQの純粋主義者は戦前・戦中の国策会社的なものは一切認めないという態度を崩さなかった。復金は融資を受けていた昭和電工が1948年に事件を起こしたことで(昭和電工事件)、経済安定本部が監督していた復金を池田が大蔵省指導へ移していた。「どこか他に上手い資金源はないか」と池田が思案し思いついたのが米国務省からの見返り資金と政府が運営する郵便貯金であった。郵便貯金は明治時代から存続し、大蔵省の預金部資金として集められ、スキャンダルや様々な政治目的のための不正使用の歴史でもあったが、占領期間中、GHQはこの資金の用途を地方債の引き受けに限定していた。インフレが収まると預金者が充分信用してない銀行ではなく、郵便局に預けるようになるにつれ資金量が増えていた。池田はこの二つの資金を重要プロジェクトに利用したいと考え、ドッジと協議に入った。池田は輸銀と事実上復金の再生である新しい機関・開銀の設立を提案、うち輸銀に関しては資本財の輸出促進のため、銀行から通常借りられるよりもっと長期の資金が必要であるという池田の主張をGHQは理解して受け入れ、見返り資金と政府の一般会計からの資金、合計150億円を資本金として1951年2月1日に輸銀は営業を開始した。
もう一つの開銀の設立は輸銀より難航した。開銀設立は池田が「戦後日本に特殊銀行がなくなり、復金は機能を失い、見返り資金も将来なくなることを考えると、何らか新しい特殊金融機関が必要でないか」とドッジに提案したのが最初である。しかし池田のたび重なる要請にもかかわらず、ドッジは開銀は資金運用部資金(郵便貯金)から借り入れることを許さなかった。1951年になってドッジはやっと政府の特別プロジェクトへの郵便貯金特別会計からの支払いを認めた。但しその資本金は見返り資金から100億円を供出したのみで、金融債の発行や外部からの原資の調達は行わない、貸し出しの際も運転資金は取り扱わないなどの厳しい条件をつけた。
こうして1951年4月、開銀は設立された。開銀は調整プールの役割を演じ、業績が好転した産業からの回収金を、資金の欠乏している産業に再貸出した。両銀行設立にアメリカが見返り資金を提供したのは、日本を朝鮮戦争の兵站基地とすべく日本の財閥解体を中止させ、軍需産業の復活を狙っていたためともいわれる。池田が輸銀の初代総裁には河上弘一、開銀の初代総裁には小林中とそれぞれ腹心をあてた。輸銀と開銀は官僚の直接支配から独立した形での銀行であり、どちらもドレイパーやドッジ、マーカット、つまり米国の意向に沿ったもので、どちらも池田の指導・監督下にあり、池田は大手企業にも隠然たる力を発揮できるようになった。産業界への資金供給の主要な役を日銀の一万田総裁から取り上げたため、小林はこれに恩義を感じ、以降財界の池田シンパの中心的な存在になった。小林は開銀の頭取として民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守政治家に対する献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになった。5年以上に及ぶ在職期間中に小林が振るった権力は日銀総裁を凌ぐものだった。朝鮮特需により大企業はこの二つの銀行をフルに利用し、日本経済を大きく飛躍させた。自身の資金源確保という一面もあるにせよ、池田はこの占領下時代に、日本の高度成長期の礎をすでに築いていたのである。輸銀と開銀は行政上は大蔵省の管轄下にあったが、政策面では通産省が支配的な力を振るい、大きな力を持つようになった。
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1952年には、池田主導の下に長期信用銀行法が成立し、旧特殊銀行であった日本興業銀行と新設の日本長期信用銀行(以下、長銀)が長期金融を担当する民間金融機関として改めて誕生し、官民ともに長期資金の供給体制が確立した。長銀の第二代頭取には池田が日本勧業銀行での権力闘争に敗れた浜口巌根を据えた[121]。これら政府金融機関による融資は、貧弱な社会資本充実のために「国営・準国営事業」や「公共的事業」に対しても行われ、1953年度から財政投融資資金計画として「公社」に再編された国鉄と電信電話事業及び帝都高速度交通営団・郵政事業特別会計・特定道路整備事業特別会計(のちの日本道路公団)・電源開発株式会社・日本航空株式会社などにも投資された。池田は税務畑の出身で、本来金融は畑違いだったのだが、苦心の対米交渉が実を結び、金融分野で思わぬ業績を挙げたことが得意だったらしく、「大手町界隈は、オレの作った銀行ばかり。池田銀行街になったな」とよく自慢していたという。1949年「従来の一県一行主義に固執することなく、適当と認めるものは営業を許可する方針である」と表明し、この政策転換により1951年から1954年にかけて北海道銀行、東北銀行、千葉興業銀行、東京都民銀行など全国に12の新銀行(戦後地銀)が設立された。この他、戦後の投資信託(投信)復活は、証券業界の要望を受けた池田が1951年に議員立法で投信法を提出し、証券会社が委託会社を兼ねることにGHQは難色したものの成立、同年6月の「証券投資信託法」公布が切っ掛けである。野村、日興、山一、大和の四証券会社を皮切りに計7社が委託者登録・投信募集を開始し、これを機に株式投資ブームが興り、このブームを背景に増資ラッシュが起こったといわれる。戦後の様々な金融機関の設置はドッジ・ライン下で行われたため、事実上、池田・大蔵省が戦後日本の経済体制の基本を形成した。
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吉田内閣は、成立当初は白洲次郎が吉田の懐刀のような仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田が入れ替わって吉田の右腕になっていく。池田の自由党とは反目になる1954年の日本民主党結党時の頃の池田の政財界への影響力について椎名悦三郎は「三木さんが岸さんを幹事長にしたのは、自由党に財政通の池田君がいて、ずっと表裏の蔵相をつとめて大蔵省を仕切っていたからだ。あの当時は実業界もがらがらと変わり、みんな追放になったから総務部長程度が大幹部に収まっていた。財界といっても、勘定は少し儲かっていたが銭はない。しかし税金は納めねばならない。そこで大蔵省に頼み込み、税金を年賦にしてもらったり、復興金融金庫に融資を依頼したりした。財界はみんな池田参りをしてね。どいつもこいつも、池田君に助けられていた。だから財界に対する池田君の力は隠然たるものがあった。こちら側で池田君に対抗する人物は岸さんしかいなかった」と話している。ドッジ・ライン以降、池田が首相として「所得倍増計画」を打ち出すまでの12年間は、一貫してアメリカとの交渉を通じて対米信用を獲得しつつ、日本の経済復興を推進した時期といえる。
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経済の停滞は続いたが、ドッジ・ラインという劇薬と、1950年6月の朝鮮動乱勃発による特需ブームにより、ようやく戦後の日本経済は不況を脱した。また見返り資金の管理を重要視したドッジが、大蔵省から独立した見返り資金管理官という次官級または大臣級のポストを新設してはどうかと池田に相談し、池田が吉田と相談し大蔵省内に次官クラスの役職として1949年6月に財務官という役職を新設し、初代の財務官には渡辺武を任命した。また同月、大蔵政務次官として部下となった京大の後輩・水田三喜男を可愛がり、後の第1次池田内閣で大野派ながら『所得倍増計画』を推進する大蔵大臣に抜擢した。
1951年、正力松太郎からの要請で、日本初の民放テレビ・日本テレビ放送網設立のための資金を財界人から調達。同年、日本医師会の田宮猛雄会長、武見太郎副会長から請求された健保の診療報酬大幅引き上げは、1954年の「医師優遇税制」と形を変え導入された(詳細は後述)。1951年の増田甲子七の自由党幹事長起用あたりから、自由党の人事にも関わり、吉田から相談を受けるようになった。1952年1月、戦死者遺族援護費をめぐり橋本龍伍厚生大臣と対立し、橋本が辞任した。
1952年8月、吉田と密談を重ねて抜き打ち解散を進言する。自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は保利茂官房長官と麻生太賀吉の二人のみで、その二人も池田が後から伝えたといわれる。衆議院議長の大野伴睦も自由党幹事長・林譲治さえ知らなかった。選挙資金の準備が整う前に抜き打ち解散をすれば、自由党の圧勝、鳩山一郎一派への大打撃になると池田が読んで吉田に進言したものであるが、自身の選挙も危ないという事情が一番にあった。当時公職追放を解除された恩人の賀屋興宣は東京から出馬することになったが、永野護が同じ広島2区から立候補することになり、石橋湛山が当時盛んに池田財政の非を訴え、広島にも乗り込んで煽っていた。
講和の下交渉の際に打診していた日本の国際復興開発銀行(世界銀行)と国際通貨基金 (IMF) 加盟が認められ、選挙期間中の9月にメキシコシティで開催された総会に宮澤を伴い出席。ユージン・ブラック世界銀行総裁に只見川の電源開発資金(只見特定地域総合開発計画)の借り入れを打診し賛同を得た。またスナイダーアメリカ合衆国財務長官とドッジ国務長官顧問から後にMSA交渉で展開される軍事援助の問題を伝えられた。一本立ちした日本の大蔵大臣として、世界各国の蔵相や中央銀行総裁と、初めて対等の立場で物が言えた。池田は数多い外遊の中でも晩年までこのメキシコ行を懐かしんだという。
しかし帰国すると吉田一派と鳩山一派の対立は、手が付けられない状態となっており、やむなく池田と広川弘禅農相とで、吉田批判の元凶と目した石橋と河野一郎の除名処分を強引に決め、吉田に進言して実行させた。当時、林譲治、益谷秀次、大野伴睦の「吉田御三家」といえども、池田、佐藤という新興勢力を抑えられなくなっていた。
同年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す松永安左エ門が、三鬼隆、水野成夫、工藤昭四郎らの電力統合派と政府委員会で争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり、通産大臣の池田に直談判して来た。池田は松永の熱意に驚き協力を約束して形勢が逆転、その後分割民営化(九電力体制)が成された。これをきっかけに、松永が池田を可愛がるようになった。松永との関係が後の水主火従から火主水従というエネルギー切り替えに繋がった。
戦後GHQは保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようと「農地法」の制定を農林省に命じた。与党自由党や農林省は反対したが、GHQと同様の考えを持っていた池田は保守の支持基盤ができると考え、池田の強い働きかけによって同法は1952年7月成立した。「農地法」の制定によって農地改革による零細な農業構造が固定され、規模拡大による農業発展の道は閉ざされた。戦前から有力だった農村の共産主義、社会主義勢力は消滅し、農村は保守化した。池田の狙いは見事に実現し、保守化した農家・農村は農協によって組織化され、農協が自民党の集票基盤になった。農協は自民党政権下で、最大の圧力団体となっていった。
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度重なる問題発言
この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである。当時当選1回で、しかも外相でもない池田が全権メンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなく、宮澤でさえ「これは、相当の贔屓だな」と思ったという。対日講和条約と日米安全保障条約が調印(後者は吉田のみ署名)した後、ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された。
度重なる問題発言
池田は吉田からの信認厚く、その自信過剰のあまり問題発言を連発し、物議を醸すこともあった。大蔵・通産大臣(第3次吉田内閣)時代の1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、さらに12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言したとしていずれも問題となる。占領軍の権威を笠に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴びた。また1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪された。池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」と勝手に答弁をするなど、一人で内閣を背負っているような気持ちになっていた。日頃から「池田というのは若いくせに生意気だ」という空気があり大問題になった。"貧乏人は麦を食え発言"をやったときには、委員会が騒然となり、「放言だ!」「重大問題だぞ!」と声が上がり、池田叩きのネタをつかんだ新聞は「またやった!」と大喜びした。
1952年11月27日、加藤勘十(社会党)の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまた問題発言をしたため、翌日に野党が不信任決議案を提出した。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより、不信任案が可決された。日本国憲法下での唯一の閣僚不信任である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には内閣不信任決議にもつながりかねない状況であったため、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。
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雌伏期から自民党の大物政治家へ
失言の度に、大衆の反感をかったことから、いかに大衆と結びつくべきかを考え、後の大衆に向けてのサービス精神を養った。この不信任案可決以降、池田に近い党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった。この頃から池田は派閥を作ろうという気を持ち「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた。
その後も党・政府の要職を歴任する。1953年自由党政調会長に就任。政調副会長には水田三喜男や前尾繁三郎など政策通を取り揃え「大政調会」と謳われた。実力は相当で、大蔵官僚は池田の許に何かと通い、人事から政策まで逐一相談した。当時の副総理は緒方竹虎だったが、池田は「もう一人の副総理だ」の声まで上がった。八方塞がりだったこの時期に池田がこれ程の力を持てたのは変わらぬ吉田の寵と、自身が築き上げた大蔵省内外に張り巡らせた人脈と政策力のためである。また松野頼三は池田の下で政調副会長として鍛えられ、政策通としての素地を作った。松野は「政調会長は権威がないかも知れないけど池田は権威があった。大蔵大臣は何をしているのだろうと思うくらい、全部池田がやっていた」と述べている。
1953年5月、朝鮮戦争休戦協定と前後してMSA問題が表面化。MSAとは米国が1951年10月に作った相互安全保障法のことで、対外経済援助と米国の世界軍事体制を結合させる役割を担うものだったが、米国はこのMSA援助を日本にも適用し、朝鮮戦争で用いた兵器を日本に転用して日本の防衛力を増大することを目指していた。これに対して日本側では、財界が朝鮮特需に代わる経済特需をこのMSA援助に期待しており、両者の思惑が食い違っていた。8月にダレス国務長官が訪日、吉田に保安隊増強を提案したが不調に終わったため、防衛問題と経済援助での日米間の意見調整を目的として、10月、池田が吉田個人の特使として、宮澤と愛知揆一を伴い渡米。池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉(MSA協定)が行われた。烈しい交渉の結果、自衛力増強の努力を続けることで日米間の合意が成立した。
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この交渉がきっかけとなって自主防衛への取り組みが進み、防衛庁新設、自衛隊発足、秘密保護法成立などの安保政策につながった。また、農産物取引によって米国の余剰農産物を受け入れたことによって日米間の農産物貿易自由化・日本の食卓の洋食化が進んだほか、教育分野でのいわゆる「逆コース」(教育二法による日教組の影響力の排除や、道徳・倫理の科目増設など)のきっかけにもなった。
政界再編成と宏池会の結成
1954年の造船疑獄で東京地検は、政治資金が豊かな池田と佐藤に焦点を当てて捜査を進めたが、佐藤逮捕の寸前に犬養健法相の指揮権発動によって免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した。この事件で池田は参考人として事情聴取を受けたにも拘らず、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として自由党幹事長(12月29日まで)に就任。同年、重光、鳩山一郎、三木武吉、松村謙三ら党内非主流派と改進党による新党結成(日本民主党)の動きを見て、幹事長として自由党丸ごと新党なだれ込みを策したが、吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないと拒否され、新党に近づく岸と石橋を自由党から除名した。石橋は恩人ではあるが、反吉田派と吉田派という立場で長く敵対関係にあり、この時点で亀裂があった。1955年の保守合同に参加することは、鳩山を擁する三木武吉や河野一郎、岸らに頭を下げることになり吉田派は迷った。池田は反対グループの中心的存在だったが、現実的に判断し吉田派全体を長老の林譲治・益谷秀次とともにまとめて自由民主党に参加する。吉田にも入党を勧めたが佐藤が反対し、吉田と佐藤は無所属になった(吉田・佐藤の自民党入党は1957年2月)。
1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の2年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる。また鳩山政権下で吉田派は池田と佐藤の両派に次第に割れてゆく。政争の一環として、鳩山政権全期間にわたって大蔵大臣を務めた一万田尚登へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした。池田は一万田とは比較にならないほどの政治力を持っていた。ただし1956年5月の日比賠償協定締結には、藤山愛一郎に頼まれ、強く反対する大蔵省を抑えるなど協力している。吉田一派は親米嫌ソだったため、日ソ国交回復の際には、池田は「人気取りの思い付き外交、しかも国際的地位を傷つける二元外交」などと激しく反対し、「モスクワに行くなら脱党だ」と息巻いたが、前尾がやっとの思いでなだめ思いとどまらせた。ドッジ、吉田という2人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった緒方竹虎という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった。保守合同の過程とこの後の岸内閣期に池田は岸と対立、または妥協したが、それには次期首相への伏線が張られていた。
1956年12月の鳩山退陣に伴う後継争いで池田は石井派に加担、打倒岸へ向けて動いた。石井派は文教や財政の専門家は多いが党務の経験者がおらず、短期間でも自由党幹事長を務めた池田の系列の議員が選挙の指揮を執った。岸反対で共通する石橋支持派の参謀・三木武夫と2、3位連合の政略を立てた仕掛けが成功、石橋湛山が決選投票で岸を僅差で逆転した。一説には、石橋が総理になった方が自身が蔵相として復帰できると計算、石橋が2位になるよう自派の票を石橋に流したといわれる。同年12月23日に成立した石橋内閣で、石橋は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執し大蔵大臣を引き受け、石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出す。この「1000億円施策、1000億円減税」というアイデアは、決選投票後に池田が石橋に伝え、石橋が概ね賛成した。1961年から1964年までアメリカの大統領経済諮問委員会議長を務めたウォルター・ヘラーが後にジョン・F・ケネディの減税政策にこのキャッチフレーズを真似たともいわれる。しかし同内閣が2か月の短命に終わり、池田も後継候補に挙がったが党内の抵抗があり、石橋の療養中に臨時首相代理を務めた外相の岸が後継となる。
1957年2月、第1次岸内閣となり、政敵の岸に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが、1957年7月の内閣改造で、岸が日銀寄りの一万田を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的スローガンの獲得であった。1957年10月頃には旧自由党の吉田派を佐藤と分ける形で自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり、自民党派閥の原点といわれる。宏池会は1957年10月に機関紙「進路」を発刊し公然と派閥を旗揚げした。これを見た自民党執行部が、岸の意向を受けて「党内の派閥を解消すべきだ」と唱えだした。国民が自民党内の"派閥"の存在を明確な図式として意識するようになったのはこの時からだった。
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宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに、この頃から「所得倍増」の基となる政策構想を練り上げていく。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された。池田の"勘"と下村の"理論"を結びつけたのは田村で、3人の独特の結びつきの中から『所得倍増』は生み出されたといわれる。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができており、下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である。
また財界人のバックアップも、この時期強化された。池田は大蔵省出身者の集まりは勿論、桜田武や永野重雄、近藤荒樹、小田原大造、廿日出要之進といった広島出身者、奥村綱雄や太田垣士郎、堀田庄三、堀江薫雄ら、五高や京大の学閥の集まりや支援者を既に持っていた。他に吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という財界四天王を中心として集まったものや、松永安左ヱ門が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり、これほどの人脈が参集したケースは歴代内閣でも例を見ないといわれた。特に池田と同じ明治32年生まれで集まる小林中ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった。財界四天王に鹿内信隆を加えた少人数で話し合う会は極秘中の極秘だった。経済担当相を歴任した池田は、財界とのつながりが深く、財界も特に戦後の資本主義的再建に果たした池田の手腕を高く買っていた。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めた。また保守合同をめぐり佐藤との関係が複雑になり、佐藤の実兄の岸が総理になったことで吉田とも距離を置くようになった。
1958年、話し合い解散による同年5月の総選挙では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流4派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った。池田は自派全ての候補者の応援に回り、のちに池田の妻が秘書に「あんな強行日程は組まないで欲しい」と言われたほどの強行軍の結果50名が当選、岸派57名に次ぐ第2派閥に躍り出る。しかし選挙後の第2次岸内閣では、主流四派で組閣が進み、池田には最後に防衛庁長官を提示された。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の国務大臣を引き受ける。11月、アメリカシアトルで開催されたコロンボ会議に出席し、アメリカの中間選挙で大勝したアメリカ民主党の財務長官・ジョン・W・シュナイダーにお祝いを言った際、後に標語として用いた「寛容と忍耐」という言葉をシュナイダーから聞いたと言われる。反岸を鮮明にし同年12月31日、岸の警職法改正案の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、三木武夫、灘尾弘吉の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、石井らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり、安保の改定を「二段階論」で考えていた岸政権を潰すため、三木や河野一郎らと謀り、そろって「同時大幅改定」を主張し無理難題をふっかけた。保守合同以来、はじめての自民党分裂の危機だった。
1959年2月22日、郷里の広島に戻り、広島市立袋町小学校の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的キャッチコピーとも評される「所得倍増計画」「月給倍増論」を初めて口にした。同年6月18日の第2次岸内閣改造内閣では、「悪魔の政治家の下にはつかん」と断言していたが、岸が「陛下が、政局の安定、ひいては内閣の統一を希望している」と持ちかけ、池田を感動させた、岸と佐藤の使い・田中角栄から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」と口説かれて、あるいは影のブレーン・賀屋興宣が「内閣に入って首相を狙え」と口説かれたともいわれるが、大平は「あの時は、1日に株が30円も下がって、内閣改造がもう1日のびたら岸さんは、これを投げ出すという段階に来ていたから、再入閣は私がすすめた」と話している。大平以外の側近は「たった半年で変節したら世間から何と言われるか」などと猛反対していたが、池田自身も後述する理由から無視して通産大臣に就任した。保守政界の一方の雄として政治家池田の擡頭を印象付けたが、ここで岸内閣の閣内にいたことは大きな意味を持った(後述)。安保闘争が激化した同年6月には、自衛隊の治安出動を強く主張した。治安出動に強硬だったのは、池田と川島正次郎幹事長だった。
第一次池田内閣
安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は1960年7月19日に内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。池田政権はその後、2度の解散総選挙と4度の内閣改造を経て、1964年11月9日まで続く長期政権となった。
池田は安保闘争の時の強硬的な立場から、安保改定を強引に押し通した岸政権の亜流になるのではないかと見られていた。しかし、池田は60年安保を通じて、テレビをはじめとするメディアが大衆の世論形成に影響を与えることを肌で実感し、それを逆に利用する戦略をとる。吉田内閣時代や安保闘争で定着していた自身の反庶民的・高圧的なイメージを払拭することに努め、「低姿勢」「寛容と忍耐」の信条をテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」を演出した。一方、重要政策と見られていた安保・外交や憲法などを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「所得倍増計画」を池田内閣の目玉政策として発表、日本の社会を「政治の季節」から「経済の時代」へ巧みに転換した。さらに、内閣総理大臣官房広報室(現・内閣府大臣官房政府広報室)の機能を拡充させ、現在のタウンミーティングのはしり(当時は「一日内閣」と呼称)も行われた。
1960年11月の総選挙では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のベースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝であった。さらに、社会党は得意としていた「貧困対策」を自民党の「所得倍増計画」で先取りされ、安保闘争からの党勢拡大の勢いが頭打ちとなり、結局社会党は自民党を議席数で上回ることが一度もなかった。
また、所得倍増政策の一環として、国土計画の第一歩である「全国総合開発計画」(全総)を発表(1962年10月)、太平洋ベルト地帯の形成を始め、政府主導のインフラ設備投資が始まる。後に、自民党の政治家と後援会は選挙区への公共事業の誘導で密接なつながりを形成し、自民党は1970年代の派閥政治へと向かってゆく。
通商政策としては、自由貿易が日本の先進国入りには不可欠であるとの認識を持っており。首相在任中に、輸入自由化率を43%から西欧諸国並みの93%にまで引き上げた。池田は自由化を推し進めるために、選挙区内のレモン農家までを敵に回した。さらに、石油の輸入自由化によって石炭は斜陽産業となり、炭労や社会党の打撃となった。その一方で、労働者保護のための社会保障政策の拡充も成し遂げられる。
文部行政としては、それまでの文科系学問の優遇(国庫補助など)を改め、技術革新による経済成長に対応させるために、医学をはじめ理工系を重要視した予算を組んだ。また、高等専門学校(高専)の設置も進んだ。
第一次産業に関しては、1961年に農業基本法を成立させ、遅れていた農業の近代化に取り組んだ。この政策においても、利益団体との癒着が見られるようになる。
また、総理在任中に行われた朝日新聞社の世論調査においては、鳩山内閣から宮澤内閣までの全自民党政権を通じ、唯一内閣支持率が内閣不支持率を下回った事がなかった。
1964年9月9日、国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院した。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。政治家、とりわけ首相や実力者が病に倒れた場合には政局変動の要因になるため、その病状がひた隠しされることが通例と言われる。池田の場合も池田派の側近議員らが癌であることをひた隠し通した上で、任期を残して退陣する演出を行った。東京オリンピック閉会式翌日の10月25日に退陣を表明、自民党内での後継総裁選びの調整を見守った上で11月9日の議員総会にて佐藤栄作を後継総裁として指名した(池田裁定)。後継総裁選びを、退陣予定の総裁の指名に委ねた戦前・戦後を通じて最初のケースであった。
その後、療養に努めたが、翌1965年8月13日に死去した。享年65。
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橋本 龍太郎(82・83)
橋本 龍太郎(1937年〈昭和12年〉7月29日~2006年〈平成18年〉7月1日):
内閣総理大臣(第82・83代)、学位は、法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民。
竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。
初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣で厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣・大蔵大臣等を歴任し、いわゆるニューリーダーの後を担う総裁候補と目されるようになった。
1994年に発足した「自社さ連立政権」の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務し、1996年の村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。
在任中は住宅金融専門会社問題(住専問題、第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではアメリカのクリントン大統領・ロシアのエリツィン大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣で行政改革担当大臣や沖縄開発庁長官を、また中央省庁再編後には規制改革担当大臣や沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。
2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、地盤を次男の橋本岳に譲る。翌2006年に死去。68歳没。
東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は警視総監・朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女であったが、中耳炎をこじらせて龍太郎を出産した5か月後に急死した。官僚である父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家(旧熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられた。なお、龍伍は戦後政界に進出し、吉田茂の側近となる。
麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった。
中学入学時から学校の勉強には全くついていけず、常に圧倒的最下位だったので、政治家の息子なので誰もが裏口入学だと暗黙の了解事項として理解していた。
中学時代、試験の点数は殆ど0点ばかりだったにも関わらず麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山に明け暮れてそれほど勉強をしなかったため成績は中位くらいだったと言う記述も有る。また、大学入学後にはもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた。
1956年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。橋本には、腰椎カリエスによって足に障害を負っていた父・龍伍に門戸を開いてくれた唯一の高等学校であった、慶應に対する一入の思い入れがあり、以後並々ならぬ愛校心を抱き続けた。父にとっても橋本の慶應義塾大学の合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という。大学時代の思い出となった講義では中村菊男の明治・大正の政治家の逸話をあげている。
大学でも剣道に力を入れた。とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた。なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという。大学卒業後、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社。
政治家の道へ
社会人3年目の1962年、父・龍伍が急死した。橋本は会社に出勤してから2時間後に父の訃報を聞いたという。父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている。しかし、当時未成年であった大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の継母・正に出馬を求める声も挙がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、橋本龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった。立候補が決まった橋本龍太郎は、当時の西村英一厚生大臣にお願いして、父が大臣を務めた厚生省の会議をまんべんなく見学、実務を熟知しているノンキャリアの課長補佐に貼り付くように質問をしながらノートを取り続けて猛勉強しており、その姿は政治記者だけでなく厚生省を取材していた社会部記者も感心していたという。
1963年の総選挙で橋本龍太郎は衆議院議員選挙で初当選する。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った。
初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった。橋本龍太郎本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。
議員当選後に遠縁に当たる久美子と結婚。久美子はカトリックだったため、六本木のチャペルセンターで結婚式を挙げた。媒酌人は佐藤栄作。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤栄作が葬儀委員長を務めた。そういった関係でもあり、橋本は自民党内の派閥では、佐藤派に所属した。
1969年の第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で橋本龍太郎は田中、竹下に傾倒するようになった。佐藤栄作引退を受けての自民党の総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤栄作が福田赳夫を支持するように示唆したが、橋本はこれを固辞し、田中派に参加した。
1978年12月7日、橋本龍太郎は第1次大平内閣で厚生大臣に任命された。当選5回にしての初入閣であり、「親子二代の厚相」としてマスコミにも取り上げられた。昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力した。
水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議したことがあった。しかし、応対した橋本龍太郎は、患者らの「人命軽視だ」という批判に対して、「政府が人命を大事にしなかったことがあるか! 取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた。
その後、橋本は竹下登を中心とする創政会の結成に参画し、その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。
1986年7月22日、第3次中曽根内閣では運輸大臣に就任し、政権の主要政策である国鉄分割民営化で辣腕を振るった。大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。イラン・イラク戦争の際、海上保安庁の巡視船を派遣する案が事務レベルで調整された際には「一番船には僕が乗っていく」との決意とともに承諾したが、結局後藤田正晴内閣官房長官の反対により実現しなかった。
1987年には竹下内閣で自民党の幹事長代理に就任し、病気療養中であった幹事長の安倍晋太郎に変わって調整役を担い、消費税導入や昭和天皇の大喪の礼に対して党側の実務を担当した。
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日本の首相
総裁候補へ浮上
1989年、宇野内閣成立時には橋本龍太郎は幹事長代理としての実績・手腕が評価され、自民党の幹事長に昇格した。宇野政権においては、リクルート事件や消費税の影響に加えて、宇野宗佑首相本人の女性スキャンダルが噴出した。一方で、不人気の宇野首相に代わって自民党幹事長の橋本龍太郎は自民党の先頭に立って日本各地を積極的に遊説し、橋本は全国的に国民的知名度を得るに至った。政権与党である自民党がかつてないほどの厳しい逆風にさらされた1989年7月の参院選では、自民党は議席を大幅に減らし大惨敗した。その際に、橋本の「ちくしょう!やっぱりこれだけ(差が)開いたか」とチェリーを喫煙しながら悔しがるシーンがテレビで放映され、その眉目秀麗ぶりとあわせて話題となった。
宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野宗佑の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本龍太郎と小沢一郎は、この頃からたびたび対立を繰り返して、「一龍戦争」と呼ばれた。
1989年8月、「第1次海部内閣」では、橋本龍太郎は大蔵大臣に就任し、第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで大蔵大臣の職を引責辞任した。
1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、竹下派の後継会長の座をめぐって小沢一郎派と反小沢一郎派が対立する。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕恵三が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。小沢・羽田派は経世会を離脱して「改革フォーラム21」(羽田派)を立ち上げた。経世会の副会長に就任していた橋本龍太郎は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動を共にした。
この間の1991年12月に弟の橋本大二郎が高知県知事選挙に立候補し、当選した。この時の知事選挙では、橋本龍太郎は自民党推薦の候補と対決し、高知県の街頭演説では、弟の大二郎の横に立って「自慢の弟です!」と弟・大二朗への支持を聴衆、有権者に呼び掛けた。
1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本龍太郎、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ、全国遊説で奮闘した。しかし、総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は野党に転落した。宮澤喜一首相の後継総裁に後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁のもとで政務調査会長に就任した。この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて、橋本は「政権奪還論」を著している。
自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権の村山内閣では、橋本は通商産業大臣に就任した。大臣在任中、橋本は日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも「タフ・ネゴシエイター」として高く評価されている。
1995年9月、橋本龍太郎は圧倒的な国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶応大学出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野洋平は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退する。そして、河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された。総裁選の結果は、数々の役職を無難にこなし竹下派の支持を取り付けた橋本龍太郎は304票を獲得し、87票を獲得した小泉純一郎に圧勝した。こうして、橋本龍太郎は、第17代自由民主党総裁に就任し、自民党幹事長には宮澤派の加藤紘一、総務会長には三塚派の塩川正十郎、政調会長には旧渡辺派の山崎拓を選任した。また、橋本龍太郎は総裁就任に伴って、村山改造内閣では副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。
1996年1月11日に村山富市首相の辞任に伴い、橋本龍太郎は第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による「第1次橋本内閣」が発足した。内閣官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では、橋本は改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。
橋本の就任当初は村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題について、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開して激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開した。橋本政権は序盤から大きな批判、逆風にさらされた。ただし、海外市場では好感する動きが見られた。
1996年2月23日にアメリカのクリントン大統領との首脳会談で橋本は普天間飛行場の返還を要求し、4月12日に日米両政府が全面返還に合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策・環境政策が絡む中でアメリカや沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、翌1997年12月24日には比嘉鉄也名護市長によるヘリポート受け入れ(辺野古移設)表明を取り付け、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率は60パーセントに上昇した。
自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に、橋本は靖国神社を参拝した。この現職の内閣総理大臣の参拝は、中曽根康弘が1985年の終戦記念日に初の公式参拝をして以来であった。
同年の臨時国会冒頭の9月27日、橋本は衆議院を解散する。そして、小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙期間中は日本各地から橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われるほど国民的人気を見せ付けて自民党は大勝利した。
第2次橋本内閣
総理大臣官邸にてアメリカのウィリアム・コーエン国防長官(左)と(1997年4月9日)
1996年11月7日、社民党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独内閣「第2次橋本内閣」が発足した。この時、自民党単独内閣になったと言われたが、実際は社民党・新党さきがけが閣外から橋本内閣に協力していたので、3党の連立の枠組みはまだあった。この第2次橋本内閣では、橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。
特に行政改革にかける橋本の意気込みは、「火だるまになっても(行革を)やり切る」と述べるほどであり、『火だるま行革』とマスメディアに報道された。
橋本は首相直属の「行政改革会議」を設置し、自らその議長となった[3]。メンバーには武藤嘉文総務庁長官・中央省庁改革等担当大臣、水野清総理補佐官(行政改革担当)のほか、経団連会長の豊田章一郎、連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。
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日本の首相
1996年12月17日、ペルーのリマにある日本大使公邸を、トゥパク・アマル革命運動が占拠し、多数が人質となる「在ペルー日本大使公邸占拠事件」が発生した。橋本は直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田外相の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリが武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリに親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリと会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した。事件の際、外務省の対策本部に木村屋總本店のあんパンを大量に差し入れ、「アンパン総理」といった声も聞かれた。
**何かほほえましい、ユーモラスな話題だね。アンパンマンはまだ流行ってなかったかしら。
1997年の通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ駐留軍用地特措法問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させることで合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された。橋本は自社さ派と評されるようになる。
1997年6月23日にコロンビア大学での講演において聴衆から「日本がアメリカ国債を蓄積し続けることが長期的な利益」に関して質問が出た際、橋本は「大量のアメリカ国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」と返した。そしてアメリカ経済が与える世界経済への影響などを理由に挙げた上で「アメリカ国債を売却し、外貨準備を金に替えようとしたい誘惑に屈服することは無い」と続けた。しかし、大量のアメリカ国債を保有する日本の首相が「アメリカ国債を売却」への言及をしたことが大きく注目され、ニューヨーク証券取引所の株価が一時下落した。
1997年9月、橋本龍太郎は自民党総裁に再選され、内閣改造を行い「第2次橋本改造内閣」が発足した。橋本は梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を中央省庁改革等の担当である総務庁長官に起用した。これには、世間から多くの非難が集中し、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったという。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった。
1997年11月のロシアのエリツィン大統領との首脳会談では、2000年までに平和条約を締結する事や両国の経済協力を促進する事で合意した。
1997年11月、橋本内閣は「財政構造改革法」を成立させて、2003年までの赤字国債発行を毎年度削減する等の財政再建路線をとり、緊縮型の予算を組んだ。しかし、その後、日本経済の景気減速が顕著となり、北海道拓殖銀行や山一證券などの経営破綻が起こると、自民党内やアメリカ政府から、さらに景気対策を求める声が増えていった。また、山一證券の破綻で、橋本内閣の掲げる6大改革の1つ「金融システム改革」及び、それにに伴う「金融ビッグバン」への批判も相次いだ。これを受け1997年12月、橋本内閣は2兆円の特別減税を表明した。
1997年12月24日から「龍ちゃんプリクラ」こと橋本首相といっしょに写真が取れるプリントクラブが、党本部1階ロビーに設置された。
1998(平成10)年4月、橋本は4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した。また同年、金融監督庁を新たに設置し、大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。1998年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消した。
1998年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本龍太郎や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席にとどまり、選挙で惨敗した。この時、橋本龍太郎は「すべてひっくるめて私の責任だ。力不足。それ以上いうことはない」と敗戦の弁を述べた後、橋本内閣は総辞職した。
1997年には日本の総理大臣として初めて北朝鮮の拉致事件について国会答弁で触れている。
{消費税増税とその後}
1997(平成9)年4月1日に村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げと地方消費税の導入(4パーセント→地方消費税1パーセントを合わせて5パーセント)を橋本内閣が実施。
産経新聞の田村秀男編集委員は、記事「カンノミクスの勘違い」の中で橋本が消費増税を実行したせいで、増税実施の翌年から、日本は長期デフレーション(平成不況・失われた20年)に突入したと評している。田村編集委員は、消費増税を実施した1997年度(平成9年度)においては、消費税収が約4兆円増えたが、2年後の1999年度(平成11年度)には、1997年度比で、所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減にとなったと指摘し、消費増税の効果が「たちまち吹っ飛んで現在に至る」と評している。さらに、「橋本元首相は財務省官僚の言いなりになった事を、亡くなる間際まで悔いていたと聞く。」と述べている。
**「カンノミクスの勘違い」→これ菅首相のことでは。これだけ反対しておいて現在は消費税増税に傾く今の日本。消費税増税は橋本氏だけではなかったはず。橋本氏の消費税は、財政健全化が目的。今の消費税は年金財源の確保。若年層から老人層への所得移転が目的か。
2001年自由民主党総裁選挙に出馬した際も、橋本龍太郎が自身の公式ホームページにて、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として日本を不況に陥らせたことを謝罪している。
**財政再建が目的なら消費税はあまり賢い方法でなかったかもしれない。官僚層をなだめて歳出を切り詰めることが筋だけど、族議員の多い自民党ですぐに行うことは難しそうだ。財政再建が急務と言う認識があったとは思えるが。
日本の歴史の部屋(続)
日本の首相
橋本は生前「私は平成9年から10年にかけて緊縮財政をやり、国民に迷惑をかけた。私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。これを深くお詫びしたい」「財政再建のタイミングを早まって経済低迷をもたらした」との自責の念も示している。
日本の所得税収、法人税収はそれぞれ1998年度、1999年度と減少し続けているが、法人税は両年にわたって、所得税は1999年度に減税が実行されている。他の先進国の基準にあわせる方向で、所得税は高所得者の負担が軽減、法人税は税率が引き下げられているため、減税による税収減も含まれている。
その額は、所得税・住民税の定率減税(3兆5000億円)と最高税率の引下げ(5000億円)、法人税・法人事業税の税率引下げ(2兆5000億円)などである[51]。この三つの合計は6兆5000億円となり、上の指摘の額と同じになる。つまり、税収の減収額は、減税の額と同じになり、消費税導入の効果は中立的であったことになる。
1997年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況の影響もあり、1998年度の日本の名目GDPは、前年度比マイナス2%の503兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻な就職氷河期、デフレーション経済が蔓延する結果になった。
**首相としては運の悪い時期になったものだね。日本の経済学者皆インフレ大好き人間ばかりのようだし。マスコミも景気動向の数値だけでしか評価しない。
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日本の首相
首相退任後
首相退任後の1998年8月、橋本龍太郎は小渕恵三首相から、「首相外交最高顧問」を任じられ受けている。この首相外交最高顧問は、内閣官房長官が「任務を解く」と談話を出すまで続けられることとなっており、議員引退後もこの肩書は残っていた。小渕、森、小泉と三代にわたって務め上げた。
1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族の橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は「(前年の)参院選惨敗の責任は私にあるから入閣は無理」として固辞する。自分に代わって、同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する。
2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔が衆議院議長に就任したことに伴って、橋本龍太郎は旧小渕派の会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、他に適格な人材がいなかったためである。実権は野中広務や青木幹雄が握っており、橋本は会長とは名前ばかりの「雇われマダム」と揶揄するマスコミもあった。橋本自身、会長職を望んでいたわけではなかったが、放っておくこともできず、仕方なく引き受けたという。
2000年11月、「加藤の乱」の際に、かつてヨーロッパで行われた儀式を引き合いに出し「猫を鉄板の上で躍らせるようにして甚振れ」と発言し、物議を醸す。
2000年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、橋本龍太郎は沖縄開発庁長官に就任し、また、新設された行政改革担当大臣も兼務した。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。橋本龍太郎のその仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。
2001年4月の総裁選では、同派幹部の高鳥修や村岡兼造らのすすめもあり派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論も出たが、当初は橋本の勝利が予想された。しかし、実際に対決みると、「小泉フィーバー」と呼ばれる絶大な人気のある小泉純一郎が大勝利し、橋本は敗北してしまった。総裁選の結果は、小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった。なお小泉からも入閣を要請されたが、橋本は固辞している。
2003年9月の総裁選では橋本派から熊代昭彦、笹川堯、藤井孝男の3人が総裁選出馬を表明する。橋本は3人と面談し藤井の擁立を決定するが、藤井は小泉純一郎・亀井静香の後塵を拝して落選した。この総裁選の過程で村岡兼造や久間章生らベテラン議員、さらに青木幹雄・片山虎之助らの参議院側、自身が自民党総裁・内閣総理大臣として陣頭指揮を執った1996年衆院選当選組の桜田義孝、下地幹郎、新藤義孝、大村秀章などの橋本派若手議員が小泉支持に回るなど派内の分裂が決定的となり、橋本派は弱体化した。
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政策
① 厚生政務次官、自民党社会部会長、衆議院社会労働委員長、厚生大臣と厚生族議員としてキャリアを積んでいき、水俣病患者に対して対応が冷酷・傲岸であるとの批判もあったが、厚生族のドンとも言うべき存在になる。身体障害を持つ龍伍が父である橋本は、福祉に強い関心を抱き、「政治は弱者のためにある」との龍伍の政治信念を守った。
② 環境庁の発足や、環境庁から環境省への移行など環境行政にも関わった。また、京都議定書の締結にも首相として関わった。
③ 第3次中曽根内閣で運輸大臣に就任し、中曽根康弘が首相就任以来取り組んできた国鉄分割民営化の総仕上げに携わったが、のち郵政解散をめぐって産経新聞の取材に応じた際の2005年12月、行政改革の話題で「分割民営化をほめてくれる方がいるが、JR西日本の福知山線脱線事故が起きてものすごく後悔している」と明言。新規投資にゆとりのないJR西日本のスタートに無理があり、信楽高原鉄道事故につながったとする見解をも示唆した。
④ 海部内閣では大蔵大臣に就任し、党内基盤の脆弱な海部俊樹首相を、特に政策面で強く支えた。湾岸戦争では多国籍軍の経費として130億ドルを拠出。 過熱気味の不動産価格をソフトランディングするべく、不動産関連融資の総量規制を行う。→不動産バブル崩壊のキッカケ?
⑤ 自社さ連立政権の基礎となった三党政策合意がまとまったのは、社会党きっての厚生労働族議員である村山富市が、国会議員の中で厚生労働問題に詳しく力量を信頼していた橋本が自民党の政務調査会長だったことも大きいと言われる。村山内閣発足後、橋本は通商産業大臣に就任する。
⑥ 首相在任中は、「六大改革」を唱え、構造改革・行政改革を目指した。「たとえ火だるまになっても行政改革を断行する」と決意表明したことから、「火達磨の決意」「火達磨改革」「火だるま行革」とも呼ばれた。村山内閣において決定された消費税率5パーセントへの引き上げを実施するも、「アジア通貨危機」と重なって、長期不況に陥った(失われた10年、失われた20年、就職氷河期を参照)。→運が悪かった?
⑦ 行政改革に取り組み、22ある省庁を1府12省庁に削減する省庁再編、大蔵省の名称変更や金融業務の切り離し、首相権限強化を伴う内閣機能の見直し、郵政三事業の一体公社化、公務員定数の一割削減などを「行政改革会議」において最終報告という形で決定した。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実し、一定の成果を挙げた。なお、父・龍伍も、吉田内閣において行政管理庁長官として省庁再編を目指していたが、頓挫した経緯がある。
⑧ 薬害エイズ事件に関して、橋本は田中秀征に「秀征さん、僕が厚生族であることを知っているでしょう。この政権合意ほんとうにきついけど、政権の合意だからやらないといけない。邪魔だけはしない。」と伝えた。業界団体や会社の要望も全てはねつけ、役所も政権合意だから仕方ないと思うようになった。後で「菅直人一人がやったような気分になっているが、秀征さんはそれでいいのか」と言ってきた。田中はこの問題が解決したのは、さきがけの主張と、橋本の見えない協力が一番だったと高く評価している。
**薬害エイズ事件は、厚生省に落ち度があったとは思えない、不思議な事件だ。菅直人が患者達に謝罪したが何を謝罪したのか分からない。米国の干渉があったらしいが。
⑨ 首相就任早々にクリントン大統領と日米安全保障共同宣言を出し、沖縄県・普天間基地移設問題については、基地の整理縮小含みでの同意をアメリカ合衆国から取り付けた。その一方で、新・日米防衛協力のための指針を策定。
⑩ 対ロシア外交では、エリツィン大統領との間に個人的な信頼関係を結び、エリツィンの訪日を実現、川奈合意の実現をみた。
⑪ エリツィンは橋本を「友人リュウ」と呼んだ。フランスのシラク大統領も橋本を「リュウ」と呼んで、趣味を認め合う仲だった。
⑫ 1995年まで日本遺族会会長を務めていたこともあり、首相就任後に靖国神社へ参拝した。それは子供の頃に継母になじめなかった頃に面倒を見てくれた従兄が召集されて戦地へ行く前に、「自分が亡くなった時は、靖国へ戻ってくる。」と橋本に言い残したためであり、首相就任後に参拝した日はその従兄の命日であった。
⑬ 日本の慰安婦問題に関して、1996年に元慰安婦に対する謝罪の手紙を内閣総理大臣名義で発出した。
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人物像
身長165cm、体重66kg。座右の銘は「誠」、「初心忘るべからず」。趣味は、剣道、登山、写真、読書、プラモデル製作など多彩。特に剣道は政界きっての腕前であった。全日本剣道連盟顧問、全日本剣道道場連盟会長、日本美術刀剣保存協会会長。
一般には整髪剤は「ポマードべったり」と受け取られているが、実際には水性のヘアクリームを使っていたと本人が語っている。学生時代から通していたという。ある時、鈴木宗男が橋本に隠れて「あのポマード野郎」と悪口を話していた所、偶然後ろに橋本がいたため鈴木は顔面蒼白になったが、当の本人は「鈴木君、これはムースだよ」と言って快活に笑ったと言う。橋本の人柄を表す逸話として鈴木本人がよく語っている。橋本が身なりに気を使ったのは、父・龍伍の最期の言葉が橋本のネクタイの曲がりを戒めるものであったからだといわれる。橋本は1990年にベストドレッサー賞を政治・経済部門で受賞している。
高校生時代からの喫煙者で、「俺は意思が強いから、他人から何と言われようとタバコはやめない」「(鄧)小平が晩年まで頭が冴えていたのは、ヘビースモーカーだったからだ」と断言し、心臓発作を起こすまでチェリーを愛飲していた。親友の安部譲二にピースを勧められても、頑なにチェリーを吸い続けていたという。
制服を好み、学生時代は常に詰襟学生服か剣道着で生活していたという。また、日本国有鉄道の民営化の際に運輸大臣を務めていたので国鉄の制服を着て式典に臨み、その時に着用した制服は後々も大事に保管されていた。
橋本は内閣総理大臣在任中も、高知県知事になって東京から離れた腹違いの異母弟・大二郎に代わって、しばしば公務の合間に入院中だった義母を見舞った。
弟の大二郎がNHK記者だった頃、恋人と結婚したいという相談を兄の龍太郎にした。諸々の事情から龍太郎は、母が反対するので結婚しないほうが良い、と助言した。だが、大二郎が二の句を継がせずに結婚したい意志を伝えると、龍太郎は「よしわかった、俺に任せてくれ」と言ってその場を引き取り、時間を要して母を説得して、大二郎の結婚の承諾を得たという。その説得の過程では、龍太郎の苦労と母の涙があったという(2014年4月28日放送『徹子の部屋』より本人談)。
1994年の週刊文春の阿川佐和子との対談で「政界の杉良太郎」と呼ばれていますねと問われ「光栄です」と笑い、ご婦人層の人気の秘密はと聞かれ、「まだ、大人になりきってないからじゃないんですか」と答えている。
**橋本氏の魅力は、確かに外見が言い。そんなに背が高い訳でないが、髪が黒く若々しいイメージ。それと性格も素直で率直。裏表がない。大人になりきってない。つまり理想化肌で青っぽいか。自民党内でもエリートか。
でも、辞めてから評判は必ずしも良くはない。特に経済界からは。日本のフーバーとか。米大統領のフーバーさんはそんなに悪い政治家でもない。まじめで立派な方のようだ。私なんか寧ろその後のルーズベルトの方が扇動政治家で遥かに悪い政治家のように思うけど。
六つの改革とは、橋本内閣が最重要課題と位置づけて行った、行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革、教育改革からなる、6つの改革のこと。六大改革ともいう。これ今でも日本の抱えている大問題ばかりだ。先見の明があったのか。組織をいじくっても未だ本質的には一向に改善に気配はない。改革には痛みを伴う。つまり、霞が関にも議員たちにもマスコミにも大変うけが悪い。橋本氏の良い所は世間の評判に無頓着と言う点か。理想化肌で正論で通す。一方、放漫財政でお金をばら蒔く政治家は、大変受けが良い。花さか爺さんの小渕首相なんか良い例か。
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歴史の部屋
99菅 義偉(99)
菅 義偉(すが よしひで、1948年〈昭和23年〉~)は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(9期)。
横浜市会議員(2期)、総務副大臣(第3次小泉改造内閣)、総務大臣(第7代)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、郵政民営化担当大臣(第3代)、自由民主党幹事長代行(第2代)、内閣官房長官(第81代・第82代・第83代)、沖縄基地負担軽減担当大臣、拉致問題担当大臣、自由民主党総裁(第26代)、内閣総理大臣(第99代)などを歴任した。
生い立ち
秋田県雄勝郡秋ノ宮村に実家があった教員一家で、イチゴ農家の長男として生まれる。
父親である菅和三郎は第二次世界大戦末期、南満州鉄道職員として当時満州国の首都だった通化市で日本の降伏を迎えた。引き揚げ後は、郷里の秋ノ宮で農耕に従事。「秋の宮いちご」のブランド化に成功。2010年(平成22年)に92歳で死去すると、旭日単光章を叙勲されている。母や叔父、叔母は元学校教員であり、2人の姉も高等学校教員となった。
故郷秋田から上京就職
雄勝町立秋ノ宮小学校(現・湯沢市立雄勝小学校)を卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校(現・湯沢市立雄勝中学校)に進学する。父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後上京する。
「東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち上京したが、秋田時代と変わらぬ日々を東京都板橋区の段ボール製造工場での勤務をして過ごし、現実の厳しさを痛感して2か月で工場を退職。
法政大学へ進学
上京から2年後に「授業料が最も安かった」という理由で法政大学法学部政治学科へ進学。法大在学中には実家から仕送りも受けつつ、アルバイトで生活費と学費を稼いでいたという。一方で、大学の空手道部に4年間所属し、三段の段位を取得している。1973年、法政大学法学部政治学科を卒業し設備株式会社に入社。
政治家秘書として
1975年、政治家を志して相談した法政大学就職課のつてで、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長中村梅吉の秘書を紹介された。秘書が参議院議員選挙に立候補することになり、その下で働いた。ところが当該秘書が体調を崩し出馬を断念。同年4月、中村と同じ中曽根派だった衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。
小此木の事務所には当時秘書が7人おり、その末端として採用された。菅は小此木の自宅の近くのアパートに住み、毎朝小此木の家に向かった。小此木の三男で、当時小学生だった小此木八郎は「秘書というより書生かな。秘書はみな家族同然でしたけど、いっしょにご飯を食べていたのは菅さんだけでした」と回顧している。一時期、小此木系の県議の梅沢健治に預けられ、梅沢から、人との接し方や一票のつくり方など様々なことを仕込まれた。
1980年5月、小此木の自宅に住み込みで働いていた真理子と結婚。法政大学の同級生の家が所有する横浜市神奈川区菅田町のアパートで暮らし始める。
1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める。
横浜市会議員
1986年10月1日、翌年の横浜市会議員選挙に立候補するため、秘書を退職。神奈川区選挙区の現職の自民党市議から「自分の選挙区を譲るから後継者になって欲しい」と声をかけられるが、これを断り、西区選挙区(定数2)から出る道を選んだ。自民党はすでに鈴木喜一を公認していたため、小此木らは反対。しかし菅は引かなかった。
結局、鈴木喜一は市議会を飛び出し、1987年4月の県議選に無所属で立候補し、党公認の現職の斎藤達也を破って初当選した。菅も同月の市議選・西区選挙区に立候補し、定数2に対し得票数2位で初当選を果たした。菅がそこまで選挙区選びにこだわったのは、西区に本社がある相模鉄道(現・相鉄グループ)の副社長を後援会に引き入れようとしたためと言われている。
1991年、再選。同年11月4日、議員会館での転落事故が元で、小此木彦三郎が死去。彦三郎の地盤は三男の八郎が受け継ぎ、1993年の第40回衆議院議員総選挙に立候補。この選挙で菅は八郎陣営の事務長として奔走し、八郎は定数4に対し得票数3位で初当選した。
菅は当選回数わずか2回にもかかわらず、小此木八郎の事実上の代役として、秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、「影の横浜市長」と呼ばれた。1995年4月29日、市議を任期満了で退任。
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国政への進出
1996年の第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自由民主党公認で出馬し、新進党公認・公明党推薦の上田晃弘、旧民主党公認の新人大出彰らを破り、初当選した。
1998年の自由民主党総裁選挙では所属していた平成研究会会長の小渕恵三ではなく、師と仰ぐ梶山静六を支持し、同派閥を退会。その後宏池会に入会した。2000年の第2次森内閣不信任決議をめぐる「加藤の乱」では、加藤紘一らに同調して不信任案の採決では欠席したが、その後の加藤派分裂では親加藤派の小里派(会長:小里貞利)ではなく、反加藤グループの堀内派(会長:堀内光雄)に参加。
竹中平蔵総務大臣(第3次小泉改造内閣)の下、総務副大臣(情報通信、郵政担当)として総務省内部統制のトップを任され、事実上人事権なども行使した。
総務大臣として(第1次安倍政権)
2007年に発覚した年金記録問題では、厚生労働大臣の柳澤伯夫を差し置き、総務大臣の菅が検証を担当した。
日本郵政公社総裁の生田正治と会談後、生田から総裁辞任の申し出があったことを発表した。その後、後任の日本郵政公社総裁には、三井住友銀行出身の西川善文が就任することが発表された。なお、生田自身が政府に辞任を申し入れたことはなかったらしい。
2006年、再チャレンジ支援議員連盟の創設に参加。この議連は実質、ポスト小泉を選出する2006年自由民主党総裁選挙に、安倍晋三を擁立する原動力になった。その後安倍は総裁選で選出され、同年9月に発足した第1次安倍内閣で当選回数わずか4回で総務大臣(郵政民営化担当大臣を兼務)に任命され、初入閣する。同年12月、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)の補職辞令を受けた。
安倍の首相退陣に伴い行われた2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持する宏池会の方針に反して麻生太郎を支持し、推薦人にも名前を連ねた。福田政権の下で、選挙対策総局長を格上げした選挙対策委員長に古賀誠が就任すると、古賀に手腕を買われ、同副委員長として引続き衆院選対策にあたることになった。
菅は自民党選挙対策副委員長だった2009年当時、同じ叩き上げの古賀誠・選挙対策委員長の下で、世襲制限を導入しようとした。具体的には衆院選マニフェスト(政権公約)に3親等以内の親族らの同一選挙区からの立候補を(次期衆院選から)禁ずる」旨が明記された。しかし、党内の世襲議員から反発や抵抗を受け、なし崩し的に公約から姿を消した。
麻生太郎首相の自民党が敗北し民主党(鳩山由紀夫内閣)への政権交代が起きた同年8月の第45回衆議院議員総選挙では、神奈川2区で民主党の三村和也の猛追を受けるも548票の僅差で三村を破り、5選(三村は比例復活)。野党となった自民党の2009年総裁選挙にて、宏池会を退会した。
2010年、谷垣禎一党総裁の下で自民党国会対策副委員長及び広報本部長代理に就任。2011年、自民党組織運動本部長に就任。
2012年4月、民主党政権の野田第1次改造内閣(野田佳彦首相)での郵政民営化法改正案の採決で、賛成する自民党の方針に反して反対した。
2012年自由民主党総裁選挙に先立ち、甘利明に呼びかけて安倍晋三の総裁再登板を画策し、麻生太郎を引き入れて安倍を返り咲きさせた。
同年9月、谷垣禎一に代わる安倍晋三の自由民主党総裁就任に伴い、自民党幹事長代行に起用された。自民党が3年ぶりに政権を奪還し安倍が首相に再就任した同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、三村を比例復活も許さずに破り6選。
2019年4月1日、総理大臣官邸にて新元号「令和(れいわ)」を発表
2012年12月26日、第2次安倍内閣の発足に伴い、内閣官房長官に任命される。
2013年、郵政民営化の考えにそぐわないとして、日本郵政社長坂篤郎を就任わずか6か月で退任させ、顧問職からも解任した。また、同年に発生したアルジェリア人質事件では、防衛省の反対を押し切り、前例のない日本国政府専用機の派遣を行った。
2014年5月、内閣人事局の局長人事を主導し、局長に内定していた杉田和博に代わり加藤勝信(のち厚生労働大臣、自身の政権下での内閣官房長官)を任命したとされる。元内閣参事官の高橋洋一によると、局長人事を機に官僚を統制下に置き「歴代官房長官の中でも屈指の情報収集能力」を持つようになったという。同年7月、自らが出演したNHK『クローズアップ現代』の放送内容について、放送後のNHKに官邸を通じて間接的に圧力をかけたと報じられたが、事実では無いと、自身の関与を否定した。さらに、同年11月には衆議院解散による第47回衆議院議員総選挙執行を安倍に進言した。
2016年7月7日、内閣官房長官の在職期間が1,290日となり、歴代1位の在職日数を記録した。
2019年4月1日、天皇明仁(上皇)の退位(譲位)及び皇太子徳仁親王(今上天皇)の第126代天皇即位(明仁から徳仁への皇位継承)による改元に伴い同年5月1日より施行される新元号について、元号を改める政令(平成31年政令第143号)が同日に公布されたことにより、首相官邸での記者会見にて「新しい元号は『令和(れいわ)』であります」と発表した。
同年5月9日-11日、内閣官房長官に就任してからは初となるアメリカ合衆国訪問。初日からマイク・ポンペオ国務長官、パトリック・シャナハン国防長官代行(直後に国防長官に指名)、10日にはマイク・ペンス副大統領と会談した。ドナルド・トランプ大統領との面会はなかったとはいえ、政権を動かしている実務畑の3人と会談できたことは異例の厚遇として報道されている。ニューヨークへ移動してからは、S&P グローバル、バンク・オブ・アメリカを訪問し、アメリカ経済界のトップらとの交流をもったほか、国際連合本部で開かれていたシンポジウムで基調演説も行った。
同年6月には菅に近い自民党無派閥議員13人による政策勉強会「令和の会」が発足、同月20日に菅を招いて初会合が開かれた。
2020年7月に発売された「月刊Hanada 2020年9月号」で安倍首相から菅について「(ポスト安倍の)有力な候補者の一人であることは間違いない」と指摘した上で「ただ、菅総理には菅官房長官がいないという問題がありますが」とも付け加えられ、官房長官としての力量評価及び菅にとって代わる官房長官候補の不在について言及したものとされた。官房長官としては非常に有能であるとの評価。
2020年8月29日、党総裁と内閣総理大臣の辞任を表明した安倍晋三に代わる新たな総裁を決める自民党総裁選挙に出馬する意向を党幹事長である二階俊博に伝えた。後の9月2日夕方に、正式に記者会見を開き、出馬を表明した。
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第99代内閣総理大臣として
2020年9月14日、両院議員総会による自由民主党総裁選挙が執行され、岸田文雄(89票)、石破茂(68票)を破り377票を得た菅が選出された。国会議員職の世襲ではない自民党総裁としては森喜朗以来であり、選挙地盤を世襲していない自民党総裁としては海部俊樹以来である。その2日後の9月16日の内閣総理大臣指名選挙により内閣総理大臣に指名された。同日午後6時17分に皇居宮殿での天皇徳仁による初の内閣総理大臣任命式を終え、第99代内閣総理大臣に就任し、菅義偉内閣が発足。菅の後任として内閣官房長官には、横滑りで厚生労働大臣の加藤勝信が就任した。
憲政史上(前身の内閣書記官長含め)、内閣官房長官経験者で首相に就任したのは、鳩山一郎、佐藤栄作、大平正芳、鈴木善幸、竹下登、宮澤喜一、小渕恵三、福田康夫、安倍晋三に続いて10人目。
国民のために働く内閣
2020年9月16日、首相官邸での就任時記者会見において、キャッチフレーズとして「自助・共助・公助、そして絆」を掲げ、「国民のために働く内閣」として、内政では、ポストコロナ社会を見据えたデジタル庁新設や全世代型社会保障制度の構築など、外交・安全保障面では、自由で開かれたインド太平洋の推進(→自由と繁栄の弧)などを、主要政策として掲げた。
9月20日以降、国際連合総会でのビデオ演説、各国首脳との電話会談を実施、「菅外交」を始動させ、10月18日に首相就任後初の外遊先であるベトナムを訪問してグエン・スアン・フック首相と会談、防衛装備品移転協定の締結などで合意。10月20日には、インドネシアのジャカルタを訪問し、ジョコ・ウィドド大統領と会談。新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大による経済への影響を踏まえて500億円の円借款を供与する方針を表明。
11月16日、来日中の国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長と首相官邸で会談し、2021年夏に延期された2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催実現に向け連携していくことを確認。
11月17日、菅はオーストラリア首相スコット・モリソンと国内で初の首脳会談を行った。
2021年1月7日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大をうけて、東京都知事の小池百合子、埼玉県知事の大野元裕、千葉県知事の森田健作、神奈川県知事の黒岩祐治の要請に応じ、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県の1都3県を対象に翌1月8日から2月7日までの期間で、(安倍前政権以来)緊急事態宣言を再発令することを発表。
同月14日、大阪府、兵庫県、京都府、愛知県、岐阜県、福岡県、栃木県の計7府県を宣言に追加することを決定した。
2月2日、緊急事態宣言発令中の10都府県について、栃木県のみを解除し、10都府県の緊急事態宣言を3月7日まで延長したことを発表した。なお、感染状況が順次改善した都府県から順次解除され、3月21日に1都3県が解除されたことで緊急事態宣言は全面的に解除された。
2月3日ごろ、菅の長男による高級官僚違法接待問題が週刊文春によって報じられた。
4月5日から5月5日までの予定で、宮城県、大阪府、兵庫県の3府県に対し、新型コロナウイルスに対する「まん延防止等重点措置」を発令。また、これら3府県以外でも感染者数が拡大している状況がみられることから、4月9日に東京都、京都府、沖縄県の3都府県を、4月12日から5月5日まで(東京都のみ5月11日まで)の予定で、範囲に追加。
4月16日午後(日本時間17日未明)にアメリカ・ホワイトハウスで米国大統領ジョー・バイデンと会談。東シナ海や南シナ海の情勢について、中華人民共和国による力による現状変更の試みや地域の他者への威圧に反対することで一致した。また、菅はアメリカが福島第一原発事故以降に敷いていた日本産食品の輸入規制の撤廃をバイデンに働きかけた。結果的に、2021年9月21日に輸入規制は全廃された。
オリンピック東京大会・東京パラリンピックの開催
7月18日、菅は東京都に緊急事態宣言が発令されている中、東京五輪・パラリンピック組織委員会が国際オリンピック委員会(IOC)や五輪の関係者を招いた、東京・元赤坂の迎賓館で開催された歓迎会に参加した。歓迎会には菅のほかに東京五輪・パラリンピック組織委員会の橋本聖子会長、IOCのバッハ会長、小池百合子東京都知事、組織委の森喜朗前会長、丸川珠代五輪相、日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長ら約40人が出席した。橋本は7月17日の記者会見で、東京都に緊急事態宣言が発令されている中での開催が適切かを問われ「規模を大変小さくし、飲食はせず、ソーシャルディスタンス(社会的距離)を取る。十分な対策をするので、予定通り開催させていただきたい」と述べていたが、17日午後、ツイッターのトレンドワード1位に「バッハ歓迎パーティー」が浮上し、ネット上では炎上状態。立憲民主党の枝野幸男代表は18日、新型コロナウイルス感染拡大を踏まえ、「国民にこれだけ自粛を求めている状況でどう受け止められるか。国民視点が全く欠けている」と歓迎会を批判し、バッハ会長について「開会式もリモートで参加すればいい。そもそもなぜ日本に来ているのか」とも指摘した。
7月20日、『ウォール・ストリート・ジャーナル』のピーター・ランダース東京支局長は五輪開催をめぐり、首相官邸で菅にインタビュー。菅は開催を中止するよう自身に近い関係者から何度も助言されたと明かし、「やめることは一番簡単なこと、楽なことだ。挑戦するのが政府の役割だ」と強調した。同紙は同日、菅の発言「The simplest thing and the easiest thing is to quit. The government’s job is to tackle challenges.」を本国版で配信した。
7月23日、オリンピック東京大会開会式に出席。
7月27日、東京都で、新型コロナウイルスの新規感染者数が過去最多となる2848人を記録したが、「(オリンピックを続けることについて)車の制限であるとか、テレワーク、そして正に、皆さんのおかげさまによりまして、人流は減少していますので、そうした心配はないと思っています」と会見で話した。
8月8日、オリンピック東京大会閉会式に出席。
8月16日、東京など6都府県に発令中の緊急事態宣言に7府県を追加し、8月31日までだった宣言期限は9月12日まで延長することを発表した。さらに10県を新たに9月12日までまん延防止措置の対象とした。
8月21日・22日の両日、産経新聞社とフジニュースネットワーク合同世論調査を実施した結果、菅義偉内閣の支持率は前回調査(7月17、18両日実施)から6.9ポイント減の32.1%であると報じられた。
8月23日、東京都では緊急事態宣言が発令され、感染拡大を防ぐため国民に行動制限を求める中、東京都内のホテルで開かれた、大会組織委員会の橋本聖子会長が主催し、IPCのパーソンズ会長や丸川珠代五輪担当相、小池百合子東京都知事、鳥原光憲・日本パラリンピック委員会(IPC)会長ら約40人が参加した歓迎会に参加した。
8月24日、東京パラリンピック開会式に出席。
自由民主党総裁への再選断念
8月26日には前回総裁選で菅に敗れた岸田文雄が総裁選出馬を表明し、岸田はこの中で党役員任期を「1期1年・連続3期」までとする党改革案を打ち出した。これに対し菅は30日には9月中に幹事長の二階を含む党役員人事の更新を行う方針を固め、31日には9月中旬に衆議院を解散し、総裁選を先送りする案も選択肢との考えを二階に伝えた。
しかし、これらの方針は党内から強い反発を招き、9月1日には衆議院解散による総裁選の先送りをしない方針を表明。党役員人事についても菅は9月2日に安倍、麻生らに協力を打診したが拒否され、党運営に行き詰った菅は9月3日に次期総裁選には立候補せず、9月末の総裁任期満了とともに首相を退任する意向を示した。総裁選では自身の内閣でワクチン担当相を務めた河野太郎行政・規制改革担当相への支持を表明した。
9月5日、東京パラリンピック閉会式に出席。
9月30日、自由民主党総裁としての任期満了を迎え、菅は総裁を退任した。新総裁には岸田文雄が就任。
10月4日午前に菅は臨時閣議を開き、閣僚らの辞表を取りまとめて、菅義偉内閣は総辞職した。その後、岸田が国会の内閣総理大臣指名選挙、皇居での任命式を経て首相に就任し岸田内閣が成立したことを受けて、菅は内閣総理大臣を退任した。在任期間は384日。
日本の歴史の部屋(続)
日本の首相
内閣総理大臣退任後
首相退任から13日後の10月17日、9年ぶりに靖国神社を参拝した。首相在任中は定期的に真榊や玉串料を奉納していたが、参拝自体は見送っていた。第2次安倍内閣で内閣官房長官に就任する前の2012年8月15日までは毎年参拝していたが、就任後は参拝を控えていた。
**菅義偉内閣の支持率の低下は、本当に非常に気の毒なことだ。明らかにマスメディアによるネガティブキャンペーンが原因。感染対策はG7欧米諸国と比べると遥かにうまくやっていたし、東京オリンピックも無観客とは言え諸外国の期待に十分に応えることが出来た。マスメディアはこの2点を根拠も無く揚げ足取りで批判し支持率を意図的に落とした。この背景には誰の意向があったのだろうか。再起を期待したい。
2021年10月31日、第49回衆議院議員総選挙で9選。
政策・主張
行政組織の縦割り解消、民間ノウハウの活用、規制緩和の推進、費用便益の検討など、伝統的な官僚主導から距離を置いた政治主導の推進、かつて1980年代から2000年代にかけて英国や米国で取り入れられたニュー・パブリック・マネージメント(新公共経営)の傾向が強い。「税金を投入するに値するのか」「自助」「既得権益を打破」などの菅の主張に、政策のスタイルが反映されている。
一度取り組むと決めた政策は譲らないと評され、「これ」と見出した政策を絞り込み、それに注力するスタイルだとされる。またこだわる政策は携帯料金の引き下げなど目立つものに限らず、比較的地味な政策が多いとされるが、携わる政策の幅がとても広いことが特徴である。
行政改革推進
デジタル庁
菅義偉内閣としては、デジタル庁新設によるデジタル化の推進や縦割行政打破を看板政策として掲げていた。9月1日、菅内閣の看板政策であるデジタル庁が発足。デジタル大臣に平井卓也、事務方トップデジタル監に民間出身石倉洋子が就任。初の官民一体の組織である。
**ただ、デジタルの言葉だけが先行し、具体的に何をやりたいのかが伝わってこない。
ふるさと納税
総務大臣の在任中、地方分権改革推進法など19本の法案を成立させるとともに、ふるさと納税の提唱を行ない、実現にこぎつけた。
夕張市再建
財政破綻に陥っていた夕張市を、新たに制定した地方公共団体財政健全化法に基づく財政再生団体に指定し、再建計画の策定を支援。夕張市再建支援のため東京都から派遣された職員に鈴木直道(のちの夕張市長、北海道知事)がおり、その恩もあり菅と鈴木は懇意の関係にあるとされる。
携帯電話の料金引き下げ
菅が長年にわたり携帯料金の引き下げを主張していた。その理由は、日本の携帯料金が世界でトップクラスに高いだけでなく、そもそも3社とも同水準の利益率20%の横並び状態にあることが、国民の公共財産である公共電波を利用する通信事業として不健全な競争状態にあるとしている。自身の内閣のもとで、2021年9月には大幅な料金引き下げが実現した。
***確かに、日本の携帯業界は世界のガラパゴスと揶揄される状態らしい。3社の寡占状態で新規参入が阻止されていることが最大の問題だけど、元官NTTの意向も強く簡単には解決しないようだ。
多国間同盟関係の重視
日米豪印戦略対話
日米豪印戦略対話(クアッド)
2021年9月25日、首相退任間近にも関わらず菅は渡米し、日米豪印戦略的対話(クアッド)に参加。日本、米国、オーストラリア、インドの4カ国間で対中政策をめぐり温度差がある中で、菅は各国の足並みを揃えることに腐心した。地域間の枠組みとしてクアッドの存在感を高めたい日米に対し、インドは伝統的に非同盟主義を取り対中包囲網の色彩が強いクアッドには、「米同盟の一員と見なされかねない」との懸念を背景に当初は及び腰だったが、菅は繰り返しインドを説得し、クアッドの定例化に道筋を付けた。
**うまく利用できれば対米独立、等距離外交の基礎にもなり得るか。
日米首脳会談「台湾」明記
バイデン大統領との首脳会談では中華人民共和国が軍事圧力を強めている台湾問題についても協議し、共同声明で台湾海峡の平和と安定の重要性を強調した。日米首脳会談の共同声明が台湾に触れたのは、1969年(昭和44年)の佐藤栄作とリチャード・ニクソンの共同声明以来のことであり、日中国交正常化以降では初めて。中国は「核心的利益」と位置付ける台湾について触れたことや、香港・ウイグルの人権状況に深刻な懸念を表明したことなどに反発し、「強烈な不満と断固とした反対」を表明、対日圧力を強化する姿勢を示している。
**台湾問題は、米国に台湾独立を認めさせることが最大の日本の役割。台湾が中国の一部と認めることは、中国が台湾に軍事的圧力をかけることは国際法上正義となってしまう。
コロナワクチン
新型コロナワクチンの高齢者接種の前倒しを求め、総務省は市町村長に電話作戦を展開した。菅義偉首相の宣言通り、全国で7月末に完了する見通しとなったが、千葉大学の新藤宗幸名誉教授(行政学)は「(従わなければ)地方交付税、とりわけ特別交付税で差をつけますよ、という制裁を市町村長が考えるのは当然」と指摘し、「(ワクチンが直接の所管ではない)総務省が前面に出てくること自体がお門違い。中央と地方の民主的な関係を自ら破壊している。分権どころの騒ぎではない」と批判した。その後、6月下旬からワクチン供給不足問題が表面化し、予約がキャンセルする事態が続出し、ワクチン接種推進担当大臣を務める河野太郎行政改革担当大臣は自治体向けについて「供給量が希望量の3分の1でございますので、希望量の配送というのはできません」と述べた。
**ワクチン接種推進に懸命に旗振りしたことは認められる。
他国間自由貿易主義
環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への賛成
「私は農家の長男だが、地方では農業が衰退しており集約化が必要だ。都市農業は相続税など税制で支援すべき。日本は資源のない島国。雇用をつくるのが政治家の仕事だ」として日本のTPP参加に賛成。
東アジア地域包括的経済連携(RCEP)の署名
「世界に内向き志向がみられる中、自由貿易の推進がより一層重要だ」としてRCEPの署名に参加した。
積極的財政主義
リーマンショックが発生した際は、「100年に1度の危機には、100年に1度の対応が必要だ」として、無利子国債の発行に賛成していた。同時に、政府紙幣の発行も求めていた。
東日本大震災からの復興に向けた財源について、増税ではなく、日本銀行による復興国債の全額買い切りオペで調達することを求める声明文の署名に参加した。
民主党、自由民主党、公明党の三党間において取り決められた、社会保障と税の一体改革に関する合意(三党合意)の破棄を求める強硬派に分類されていた。
脱炭素社会・カーボンニュートラル
10月26日、就任後初の所信表明演説で、「菅政権では成長戦略の柱に『経済と環境の好循環』を掲げ、グリーン社会の実現に最大限注力していく」と述べ、「我が国は2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、すなわち2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すことをここに宣言する」と表明。
2021年4月22日、政府の地球温暖化対策推進本部にて、2030年に向けた温室効果ガスの削減目標について、2013年度に比べて46%削減することを目指すと表明。さらに、50%の高みに向けて挑戦を続けていくと強調。
なお、原子力規制委員会の新基準を満たした原子力発電は「再開すべき」としている。
不妊治療への保険適用
不妊治療への保険適用を重点政策としており、2022年4月に不妊治療に対して保険適用することを決定。
家族制度をめぐる考え
2002年に選択的夫婦別姓制度の導入を求める請願を出している。一方、2014年のアンケートでは、「選択的夫婦別姓制度導入に反対」としている。2020年9月の自民党総裁選で行なわれた書面での質問では、「家族の在り方に深く関わる事柄で、国民の間で意見が分かれており、慎重な検討が必要」との立場を示した。
2021年3月3日の参議院予算委員会の立憲民主党真山勇一への質疑応答では、「(夫婦別姓制度に関して)賛成に署名した」と発言した。
ただし、国による同性婚、同性パートナーシップ制度導入の賛否について、2020年9月の自民党総裁選で行なわれた書面での質問には「家族の在り方の根幹に関連する問題で、慎重な検討が必要」と回答した。
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日本の歴史の部屋(続)
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戦国大名
| 龍造寺隆信 | 伊達宗城 | 立花宗茂 |
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日本の歴史の部屋(続)
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龍造寺隆信
龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 「九州三強の一人」や「肥前の熊」などの異名が有名。 龍造寺嫡家は途絶えたとされるが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の佐賀県・長崎県諫早市・大村市などに点在するとされている。鍋島直茂は隆信の義弟。
仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。
**九州三強とは→島津氏・龍造寺氏・大友氏
「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。
戦国大名としては、上杉、武田、北条等東国の大名が挙げられるが、九州もなかなかのもの。NHKのブラタモリで佐賀県の武将として紹介されていた西国最強の大名だったとか。薩長土肥の「肥」の鍋島藩は龍造寺氏の子孫とか。
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伊達宗城
伊達家というと、多くの方は伊達政宗→仙台というイメージがある。しかし、もう1つ伊予宇和島にも伊達家があるのだ。
なんといっても、宇和島藩を有名にしたのは幕末の8代藩主・伊達宗城(むねなり、1818~1892)である。宗城は島津斉彬(なりあきら)、松平春嶽(しゅんがく)、山内容堂(ようどう)とともに「四賢侯」と呼ばれた幕末の名君である。
しかし、宗城は元々宇和島藩主の家柄ではない。3000石の旗本・山口直勝(なおかつ)の次男として生まれた。
7代藩主・伊達宗紀(むねただ)はなかなか嗣子に恵まれず、幕府から薩摩藩主・島津重豪(しげひで。11代将軍家斉の岳夫)の13男を養子に迎えてはどうかと持ち込まれる。宇和島藩はこれを断ったものの、今度は老中・水野忠成(ただあきら)から将軍・家斉の子を養子にしないかと勧められる。そこで宗紀は、伊達家の血を引く一族からめぼしい人物を見定めて養子に迎えることに決めた。それが、従兄弟・山口直勝の子、宗城だった。
宗城はその期待以上の名君だった。洋学への造詣深く、しかも実践派であった。高野長英や村田蔵六(大村益次郎)を招いて西洋兵書の翻訳、砲台建築に従事。島津斉彬が蒸気船建造に着手したと聞くと、船大工らを長崎に派遣して蒸気船の建造を試みた。さらにマッチの製造、天然痘の種痘を施す実験なども行っている。
また、宗城は外様大名のなかでもリーダーシップを発揮し、老中・阿部正弘に信頼され、その依頼や相談にしばしば乗っていたという。嘉永元(1848)年の土佐藩主急死にともなう山内容堂の藩主就任を陰ながら支援し、翌嘉永2年に長崎警備を分担する福岡藩と佐賀藩の間に起こった問題を調停し、嘉永4(1851)年には薩摩藩主・島津斉興の引退、世子・斉彬の藩主就任に尽力している。いわば、幕府老中が表立って動けない案件を景でサポートする裏方だったのだろう。
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立花 宗茂
立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊後国国東郡筧(現在の大分県豊後高田市)に生まれる。大友氏の一族で重臣。陸奥国棚倉藩主、筑後国柳河藩初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にも10名程いるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人。
なんせ戦上手で負けたことがない。しかも戦略家で鉄砲隊なども早く導入していたらしい。南から進出してくる島津勢をくい止める。豊臣秀吉の九州征伐の際には豊臣方につく。彼は西国無双とよばれ戦国最強の武将とたたえられた。70歳と越えても現役として活躍。関ヶ原の戦いでは西軍につくが、あっぱれな戦いぶりが認められ家康の参謀格として生き残り旧領も与えられる。
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日本の神社
| 稲荷神社 | 気象神社 | 調(つき)神社 | 磐船神社 |
| 大國魂神社 | 大避神社 | ||
| 手水舎 | 狛犬とは |
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稲荷神社
稲荷神社(いなりじんじゃ)・稲荷社(いなりしゃ)は稲荷神を祀る神社。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本宮となっている。明治の神仏分離の際、稲荷神社は多数の神道系と少数の仏教系とに分かれた。
神社のうちで稲荷神社は、2970社(主祭神として、32000社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。
神道系の稲荷神社の入り口には通常、朱色の鳥居が建てられている。朱塗りは社殿や鳥居で広く使われ、稲荷を象徴するものになっている。総本宮である伏見稲荷大社では、参道は「千本鳥居」によって導かれる。
*神社の鳥居は狐神道系の稲荷神社の入り口には通常、朱色の鳥居が建てられている。朱塗りは社殿や鳥居で広く使われ、稲荷を象徴するものになっている。総本宮である伏見稲荷大社では、参道は「千本鳥居」によって導かれる。
**神道において、狐は稲荷神の使いであるとされており、神使や眷属(血のつながりのあるもの、一族、親族、従者、家来)として祀られています。稲荷神社では、狐が神前を飾る像として見られ、稲荷信仰の重要なシンボルです. 狐は、農事の始まる時期に里へ降りてきて、収穫の終わる時期に山へ戻るとされ、稲荷大神が農業神であることと深く結びついています。
ほとんどの稲荷神社では社頭などに守護獣として狐形の像が置かれ、奉納された赤い前掛けをつけていることも多い。狐は稲荷の神使であるが、俗に神そのものとも考えられている。狐の像は普通、雌雄一対となっている。多くの場合、口や前足に象徴的な品を持ち、その品は宝玉や鍵、巻物が一般的であるが、稲束や子狐なども好まれている。彫像は写実的なものでなく様式化されており、狐が座し、尻尾が立ち上がっている様が表現されている。これらの共通した特徴にもかかわらず、各像は非常に個性的であり、完全に同じであるものは二つとして無い。今日では、入り口で狐の像を見つけたら、それは稲荷神社の存在を表している。
神道系の稲荷神社の入り口には通常、朱色の鳥居が建てられている。朱塗りは社殿や鳥居で広く使われ、稲荷を象徴するものになっている。総本宮である伏見稲荷大社では、参道は「千本鳥居」によって導かれる。
☆狐
ほとんどの稲荷神社では社頭などに守護獣として狐形の像が置かれ、奉納された赤い前掛けをつけていることも多い。狐は稲荷の神使であるが、俗に神そのものとも考えられている。狐の像は普通、雌雄一対となっている。多くの場合、口や前足に象徴的な品を持ち、その品は宝玉や鍵、巻物が一般的であるが、稲束や子狐なども好まれている。彫像は写実的なものでなく様式化されており、狐が座し、尻尾が立ち上がっている様が表現されている。入り口で狐の像を見つけたら、それは稲荷神社の存在を表している。神道系の稲荷神社の入り口には通常、朱色の鳥居が建てられている。朱塗りは社殿や鳥居で広く使われ、稲荷を象徴するものになっている。総本宮である伏見稲荷大社では、参道は「千本鳥居」によって導かれる。
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調(つき)神社
調神社(つきじんじゃ)は、埼玉県さいたま市浦和区岸町三丁目にある神社。式内社で、旧社格は県社。
別称は「調宮(つきのみや)」。社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、狛犬ではなく狛ウサギがある神社として知られる。
祭神は次の3柱。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
豊宇気姫命(とようけびめのみこと)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
祭神に関する伝説として、調(つき)神社に古くから伝わる七不思議のうちに「松が無いこと」がある。その伝説では、当地に姉神・弟神がいたが弟神は大宮に行ってしまい、姉神が帰りを待っても弟神は帰って来なかったため、姉神はもう待つことを嫌ったという。この伝説に見える姉神と弟神は、天照大神(当社祭神)と素盞嗚尊(大宮の氷川神社祭神)にあたるといわれる。
他に文献によれば、祭神を瀬織津比咩とする説、調玉命とする説、月読命とする説、日の神・倉稲荷玉命の2柱とする説、天照大神・宇賀御玉神の2柱とする説などがある。
創建
社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたという。また第10代崇神天皇の時には伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の初穂米・調の集積所と定めたとする。さらに宝亀2年(771年)6月20日には勅使として藤原朝臣常恣が奉幣を行ったので、これが例大祭(現在は新暦7月20日)の起源になったと伝える。
上記伝承の真偽は定かでないが、『式内社調査報告』等に於いても社名に「調」が見えることから、朝廷への調物(貢ぎ物・御調物)を納める御倉が調神社の前身になったと想定している。関連伝承として調神社の七不思議のうちに「鳥居が無いこと」があり、その中で倭姫命の命により調物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったことによると伝えており、この伝承も調神社の前身が御倉であったことを表すものとされる。そして伝承中で奉幣があったと伝える宝亀2年(771年)には武蔵国の所属が東山道から東海道に変更されていることから、この街道変更により調物が通らなくなって役割を終えた御倉が神聖視され、神社として奉斎されるようになったのが実際の創建になると推測されている。
以上とは別に、『新撰姓氏録』や国史に見える調連・調首・調吉士・調忌寸一族(調氏)が奉斎したという説もある。この調氏は渡来系氏族であるが、東国に渡来人の集団居住が多いこととの関連が指摘される。当社の所在地名の「岸」は、「吉士」に由来するものとされる。そのほか、境内に多い槻の木(ケヤキ)と「調」を関連付ける説もある。
概史
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、武蔵国足立郡に「調神社」と記載され、式内社に列している。
中世からは、「調」が「月」と同じ読みであることから、月待信仰と結びつくようになった。延元2年/建武4年(1337年)には足利尊氏の命で一色範行による社殿の復興があったが、天正18年(1590年)には小田原征伐に伴う兵火で焼失したという。
江戸時代、慶安2年(1649年)には徳川家光から朱印地7石が寄進された。この朱印状には「月読社」と記されているが、『調宮縁起』ではこの社名は誤りと記されている。しかし、その後の朱印状にもこの社名は継続して使われている。
別当寺は月山寺であり、玉蔵院が兼帯した。月山寺には二十三夜堂が設けられ、月天子の勢至菩薩が本尊としてまつられた。
『江戸名所図会』にも登載され、文人墨客もこの月待・月読の神を知ってか数多く参詣している。中でも寛政3年(1791年)4月11日には、俳人小林一茶が深い森の中に鎮まる「月よみの宮」に額突いたことを『紀行』(一茶全集第5巻)に書いている。また、旅を好んだ僧の津田大浄は、文政2年(1819年)に『遊歴雑記』に「二十三夜の宮と称す(中略)社の造営善尽し、美尽し、内のかざり心々の奉納の品々夥しく、辺鄙の駅路にくらぶれば目を驚かせり」と社頭の繁栄を記している。また、文化4年(1807年)から天保5年(1834年)までの間に江戸の郊外を旅した徳川清水家の御広敷用人の村尾正靖(号は嘉陵)は、記録の中で「勢至菩薩の森だという。本社、拝殿はみな銅葺き屋根で、建物全体を朱に塗って、瑞籬をめぐらしている(中略)社の造りが仏教的でないので、往古には神を崇めていたものを、後になって仏に祀り変えたものであろう」と当時の様子を記している。
天保10年(1839年)には、国学者の平田篤胤が当社を参拝して『調神社考証』を著しているが、その著に於いて、当社は伊勢神宮に納める初穂を入れる倉庫から発展した神社であるとした。
明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において郷社に列し、明治31年(1898年)に県社に昇格した。
境内
社殿は本殿と拝殿が一体となった権現造で、安政5年(1858年)の造営。それまで使用された旧本殿は、境内社の稲荷神社の社殿として現在も使用されている。
また境内の社叢はケヤキ・ムクノキの古木林を形成しており、「調神社の境内林」としてさいたま市指定天然記念物に指定されている。
日本の歴史の部屋
日本の歴史の部屋(続)
歴史の部屋
磐船神社(いわふねじんじゃ)
磐船神社(いわふねじんじゃ)は、大阪府交野市にある神社。天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)と呼ばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。岩船神社(いわふねじんじゃ)、岩所神社(いわところじんじゃ)とも呼ばれる。
当社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明櫛玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命=ニギハヤ)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にある。交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏の傍系一族の氏神であり、この一族が深く関わっていたとされている。
しかし、物部守屋が丁未の乱で蘇我馬子に敗れて滅びると、物部氏自体の勢いも弱まり肩野物部氏は交野から一掃されて当社は衰退した。以降は当社を総社としていた私市、星田、田原、南田原の四村の人々によって護持された。
中世以降は、山岳信仰や修験道の行場とされ、北峯の宿・岩船の宿として栄えた。また、天の磐船から航海の神様である住吉三神を祀る住吉信仰が当社に入っている。これには住吉大社の神主であった津守氏が饒速日命の子孫であったのも関係しているとの説もある。現在も境内には垂迹神の住吉大神の四体が連なる本地仏の石仏や不動明王石仏を初め神仏習合の影響が色濃く残されている。その後、度重なる天野川の氾濫により社殿、宝物などの流失が続いて衰微した。
**この巨岩、何時からこの場所にあるんでしょう。天の磐船というなら、天から降りて来た? 誰かが運んできた? 後ろに山があるし、多分昔からあったんでしょうね。最初から信仰の対象だったんでしょうね。
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大國魂神社(おおくにたまじんじゃ、大国魂神社)
大國魂神社(おおくにたまじんじゃ、大国魂神社):
東京都府中市に所在する神社。武蔵国の総社であり、東京五社の一社。また、武蔵国の一之宮から六之宮までを合わせ祀るため、「六所宮」とも呼ばれる。
**東京五社→他の四社は東京大神宮、靖国神社、日枝神社、明治神宮。
古代、国司は任国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。この長い巡礼を簡単に行えるよう、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社は武蔵国の総社にあたる。
当社は府中市中心部に鎮座し、「府中」の市名はかつて武蔵国の国府があったことに由来する。当社の境内地がかつての武蔵国の国府跡にあたり、境内地と市道を挟んで東側の市有地は「武蔵国府跡(武蔵国衙跡地区)」として国の史跡に指定され整備されており、柱跡が表示されて展示室、博物館「ふるさと府中歴史館」が設置されている。また、当社は府中宿の中心部近くにあり、大鳥居から武蔵国分寺や武蔵国分尼寺までの道が整備されていた。
当社の創建は景行天皇(第12代天皇、ヤマトタケルの父)41年(西暦111年)5月5日と伝えられており、大化の改新の際に現在の場所に国府を置いたという。源頼義と義家が奥州戦に向かう際に戦勝を祈願、その直系子孫にあたる源頼朝も妻の安産祈願をしたなどの伝承が残されてある。
境内は多くの社殿からなるほか、重要文化財の木造狛犬を初めとした文化財を多数伝えている。府中本町駅近くの市街地中心部に位置するにもかかわらず木々に囲まれており、参道の馬場大門のケヤキ並木は国の天然記念物に指定されている。
例大祭は、東京都指定無形民俗文化財に指定されている「くらやみ祭」であり、関東三大奇祭の一つに数えられている。
【祭神】
本殿の祭神は以下の通り。武蔵国の総社として、当社創建当時の武蔵国一之宮から六之宮まで(通称:武州六社明神)を祀っている。
【武州六社(ぶしゅうろくしゃ)】
武蔵国総社の大國魂神社(7)で祀られ、4月末から始まる大國魂神社の例祭「くらやみ祭」に参列する、武蔵国の一宮から六宮までの六社の神社。武州六社明神、武州六大明神など。小野神社(1)、二宮神社(2)、氷川神社(3)、秩父神社(4)、金鑚神社(5)、杉山神社(6)である。武蔵国一宮から六宮まで、異説があるものもあるが、基本的には総社である大國魂神社が祀っている武州六社明神に準じる。大國魂神社はそのため六所宮などとも言われるが、下記六社はこの大國魂神社による基準を受け入れる形で今も「くらやみ祭」に参列している。
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大避神社(おおさけじんじゃ)
大避神社(おおさけじんじゃ)は、兵庫県赤穂市坂越(さこし)の宝珠山麓にある神社。旧社格は県社。瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り」(重要無形民俗文化財)で知られる。
☆坂越の船祭り
国の重要無形民俗文化財に指定されている坂越、大避(おおさけ)神社の祭礼「坂越の船祭(ふなまつり)」は、塩回船の港町として栄えた坂越の伝統行事。航海安全を司る大避神社で祭典が行われた後、浜辺までの参道を神輿や獅子舞が練り歩き、国の天然記念物の生島お旅所までの船渡御が開始されます。十数隻の船が旗や幟を立て、生島へと巡航していきます。日没後、提灯に灯を点し、各船が還幸する風景も幻想的な美しさです。
☆祭神→大避大神 - 秦河勝を指す。/天照皇大神/春日大神
歴史
秦河勝の祖である秦氏は3世紀頃に大陸より倭国へ渡来した氏族であり、秦河勝は飛鳥時代の族長的人物として聖徳太子の同志として活躍した人物である。京都最古の寺とされる広隆寺を建立、聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)を安置したとされる。広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って広隆寺境内から分散し遷座したものとされ、当社も大避(大酒)と云われる由縁の一つである。
河勝は太子死後の皇極3年(644年)、海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去、そして地元の民がその霊を祀ったのが当社の創建という。神社正面の海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があり神域となっているため、現在でも人の立ち入りを禁じている。
神社には、河勝公が自ら彫ったか、聖徳太子から賜ったものとされ、雅楽で使用された1300年前の蘭陵王の面が宝物として伝えられている。河勝は猿楽の始祖とされており(『風姿花伝』第四)、観阿弥、世阿弥親子や、楽家である東儀家などが末裔を称し、金春禅竹の金春流も河勝を初世として伝えている(『明宿集』)。
『播磨国総社縁起』の記述では、養和元年(1182年)に祭神中太神24座に列しており、当時すでに有力な神社であったとされる。
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手水舎(ちょうずや・ちょうずしゃ)

手水舎は神社や寺院の参拝前に手や口を清めるための場所。参拝者は、柄杓を使って水盤の水を取り、手と口を清めます。(AI)
手水(ちょうず、てみず)とは、神社や寺院において参拝前に手や口を清める水、またはその行為のことである。それを行う施設を手水舎(ちょうずや、てみずや)という。「ちょうず」の名は「てみず」の転訛で、ウ音便化を含む規則的な変化(テミヅ → テウヅ → チョーズ )によるもの。
右手で柄杓(ひしゃく)を取り、手水を掬(すく)う。
その手水で最初に左手を清める。
次に柄杓を左手に持ち替え、同様の動作で右手を清める。
次に口をゆすぐためもう一度右手に柄杓を持ち替え、左の手のひらに手水を溜めて口に含む(柄杓の椀に直接口をつけない)。
音を立てずに口をゆすいで清め、そっと吐き出す。
先の動作で左手をもう一度清める。
最後に柄杓の柄を片手で持ち、椀部が上になるよう傾け、柄に手水をしたたらせて洗い流す。
柄杓を元の位置に静かに戻す。
手水の起源は、神道に由来し、聖域を訪れる際に周辺に流れる河川の水や湧き水で身を清めていたことにはじまる。その名残は、伊勢神宮の御手洗場などで見られる。時代が変化するにつれ、河川の水質が汚染され、清流や湧き水の確保が困難になったことから、それに代わる施設として手水舎が併設されるようになっていった。
第10代崇神天皇の時代に何らかの感染症が大流行したらしい。何と当時に人口半減したとか。記紀にも書かれている。これは現代人のY染色体の変異の解析からも確認できるらしい。手水舎の設置は古代の感染症対策だったらしい。で効果も絶大だったらしい。
一方、人口大激減の時代は、中国歴史書の「倭国大乱」の時期とも一致しているようだ。
手水舎(ちょうずや・ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ)は、参拝者が身を浄めるために手水を使う施設のことである。水盤舎(すいばんしゃ)、御水屋(おみずや)とも呼ばれる。神社、寺院の参道脇または社殿脇に置かれ、参詣者が手や口を漱ぎ清める。多くの手水舎は、四方転びの柱が用いられ、四方吹き放しとなっており、その中に水盤が据え付けられている。柄杓が置かれており、それを使用する。柄杓にすくった一杯分の手水を使い、一連の所作を行う。
【花手水】
2010年代末から、手水に花を浮かべる「花手水」が広まっている。境内の花や生花店で売れ残った花などを利用している。花はアジサイのほか、ヒマワリ・バラ・キクなど季節の花が用いられる。
でも、花手水では手や口を漱ぐ本来の目的を果たせるのでしょうかね?
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狛犬とは
神社を詣れば、私たちを出迎えてくれる「狛犬(こまいぬ)」。狛犬とは、拝殿の前や参道の要所に左右「一対」となって設置されている像です。勇ましい表情でじっと佇む狛犬は、邪気を祓(はら)い、神前を守護する意味を持っているのです。その姿は犬というより立派なタテガミを生やしたライオン(獅子)のようですが、正確には狛犬は架空の動物、霊獣とされています。
一般的に、拝殿に向かって右側に口を開けている「阿(あ)形」、左側に口を閉じている「吽(うん)形」が構えています。(逆のものや両方とも口を開けているものなど例外もあります)これが対になって「阿吽(あうん)」となるのです。この「阿吽」とは、もともとインドのサンスクリット語の最初の音「あ」と最後の音「うん」を表しており、「宇宙の最初と最後」を意味していると言われています。
狛犬は、高麗犬と書かれることもあります。それは朝鮮の「高麗の国」を経由して日本に入ってきたから。狛犬の起源は、古代オリエントとも言われており、最強の守護獣として国王の玉座(椅子)などに刻まれていた「ライオン」が始まりと考えられています。そこからインドや中国を通り、朝鮮の高麗を経て日本に入ってきたという説が有力のようです。
日本では、平安時代には宮中で魔除けのために用いられていたと言われています。
屋外に設置された狛犬は耐久性を考えて、石製、青銅製、鉄製などが多く、陶器製で作られたものもあります。正確には右側が「獅子」、左側が「狛犬」とされており、オスとメスで一対になっているとも考えられています。よく見ると玉を抑えた「玉取り」や子ども連れの「子取り」、尻を持ち上げ威嚇しているような狛犬など、さまざまな様式があるようです。
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確かに神社に狛犬は不思議な組合せだ。
神社は、もともと聖域を示すには、しめ縄のようなもので十分であり、門番のような性格のものは一切必要としない。朝鮮半島経由で伝わった来たとしたら仏教とともに百済人達が持ち込んだものだ。仏教に多数の守護神が入り込むのは、ヒンズー教の影響だろう。インドでも西域でも当時は、ライオンはまだしっかりと生きていた時代。最強の守護獣としてライオンが選ばれるのは道理だろう。つまり、神社の狛犬は架空の動物ではなくライオンそのものだと思われる。でも、インド(西域)から仏教とともに伝わった狛犬が神社にあって、お寺に無いことは確かに不思議なことだ。そもそも江戸時代までは神仏習合が当たり前の時代。元々狛犬は神社とお寺が共有していたものだったんでしょう。
神社の守護神なら、オオカミが起源だろう。全国の稲荷神社は皆キツネが守護神。でも、キツネとオオカミはよく似ている。日本犬も似ている。オオカミの像作ってもキツネだと言われればああそうかで納得できる。
埼玉県の調(つき)神社ではウサギが、神獣。
ところ変われば品代わる。色々な御神獣があってもいいね。ドラゴンとか金のシャチホコとか。沖縄のシーサーとか。シーサーは多分ライオンだろう。獅子なら発音も似ている。
【阿吽(あうん)】
阿吽とは、最初と最後を意味する言葉。 インドに古くから伝わる言語のひとつで、サンスクリット語では、「阿」(あ)は口を開けて発する音声であり字音の始め、「吽」(うん)は口を閉じる音声であり字音の終わりとなっている。 この組み合わせにより、万物の始めと終わりを象徴する。
【神仏分離令】
明治時代までは、お寺の中に神社があるのは当たり前。今でもお寺に狛犬が残っている例は多いとか。明治政府によって多くのお寺が無理やり神社に替えられた例も多いらしい。
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世界の古代遺跡
| 古代ドイツ 謎の女性シャーマン |
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古代ドイツ 謎の女性シャーマン
豪華な副葬品、首の骨の異常、歯に空いた謎の穴。9000年前に埋葬された女性の骨から、彼女が実はシャーマン、つまり、神や精霊と交信し、人々をいやす存在らしいことが分かった。最新DNA解析が、肌や目の色だけでなく、彼女の暮らしや社会的な役割までを浮かび上がらせる。さらに、CGによる顔の復元や、共に埋葬された子どもの骨の分析から、謎に包まれた古代の女性シャーマンの真実に迫る。(ドイツ2024年; NHK地球ドラマチック)
1934 年にバート・デュレンベルクの温泉庭園の建設工事中に発見された、紀元前 7000 年から 6800 年頃の成人女性と幼児の二重埋葬は、中央ヨーロッパにおける中石器時代の顕著な埋葬地の 1 つとみなされています。座った状態で埋葬された女性の珍しい装備と身体の異常性から、この埋葬はシャーマンの埋葬であると解釈されています。
遺伝子研究により、女性と子供の関係が明らかになった。男の子は彼女の息子ではなく、4親等または5親等の親戚である。女性のゲノムで分析された表現型の変異から、彼女は比較的肌の色が濃く、髪は黒くストレートで、目は青かったことがわかった。
女性と一緒に埋葬された珍しい装備品には、フリント製の遺物や堅い岩の道具のほか、骨や枝角の遺物、赤土のかけら、少なくとも 3 匹のカメの甲羅を含む多数の動物の骨、部分的に穴が開けられた動物の歯などがある。鹿の角や、もともと部分的に穴が開けられていたイノシシの牙 6 本とともに、これらの発見物はおそらく頭や体の装飾品である。女性の副葬品や身体の異常性から、この埋葬はシャーマンのものと解釈されている。
2024年州立庭園博覧会の準備の一環として行われたその後の発掘調査では、遺体の埋葬と配置に関する新たな事実が明らかになっただけでなく、埋葬に明らかに関係する多数の新たな発見も明らかになった。刺し貫かれた動物の歯のほか、動物の残骸、石器、大量の人骨も発見された。
研究により、この30~40歳の女性は、当時の典型的な身長約1.55メートルの華奢な人物だったことが判明した。注目すべきは、彼女の骨格には、狩猟採集民によく見られる、特に下肢の筋肉の付着部がはっきりと見られなかったことである。
頭蓋底では、大後頭孔の縁に小さな狭窄の形で異常があります。この領域は、異常に発達した血管の痕跡です。第 1 頸椎は先天性成長障害により不完全に形成されており、弓の 40% しか達していません。椎弓の丸い端は、以前に観察された大後頭孔の欠陥に対応しています。
この文脈で、研究者は、血管が圧迫され、さまざまな後遺症が生じた可能性があると仮説を立てました。再発掘の発見物の中に第 2 頸椎が見つかったことで、これが裏付けられました。この椎骨には、突出した骨留め具の形で椎骨突起に限定された異常も見られます。これにより、脳につながる血管の 1 つが閉塞した可能性が考えられます。
これは、特定の頭の姿勢をとることで意図的に引き起こされる可能性があります。その結果が深刻であったり、健康に害を及ぼす可能性は低いでしょう。しかし、血管の詰まりによって眼振、つまり眼球の不随意運動が引き起こされる可能性は考えられます。この異常な特徴は不気味であると認識された可能性があり、意図的に引き起こされた場合、シャーマンとしての彼女の役割を強化したり、正当化したりした可能性があります。
**つまり神がかりのような状態。
遺伝子研究により、シャーマンのゲノム祖先プロファイルは、中央ヨーロッパと西ヨーロッパの数十人の他の中石器時代の狩猟採集民の祖先と完全に一致することが明らかになりました。このプロファイルは、一般に西(ヨーロッパ)狩猟採集民祖先と呼ばれています。
バート・デュレンベルクのゲノムで分析された表現型の変異から、シャーマンは比較的黒い肌、黒くてまっすぐな髪、青い目をしていたことが明らかになりました。この組み合わせは西ヨーロッパの狩猟採集民の間では非常に一般的であり、シャーマンの女性は、ロシュブール、ミュラータール(ルクセンブルク)、ラ・ブラーニャ、アストゥリアス(スペイン)、サマセットのチェダーマン(イギリス)などの遺跡から出土した同時代の中石器時代の人々とこの外見を共有していました。
バート・デュレンベルク遺跡の再発掘中に、部分的に保存された幼児の骨格が発見されました。岩盤の発見により、この個体の遺伝子分析が可能になりました。高品質なデータ両個体、特に女性からゲノムデータが入手可能であれば、研究者はゲノムデータをスキャンして、2人の個体に共通するゲノム領域、いわゆる血統的同一性(IBD)領域の存在、量、長さを調べるために新たに開発された手法も利用できる。この手法は、データが欠落している断片化された古代 DNA ではよくあることですが、これにより、生物学的な高次の血縁関係、条件付きで 10 次までの血縁関係の検出が可能になります。
バート・デュレンベルクの2人の個体に関して、研究者らは、2人の間で共有されている血統識別領域の数と長さの分布が、4度または5度の遺伝的近縁性に相当することを発見した。この近縁性の程度は、直系と仮定すると4世代または5世代離れていることに相当し、成人女性は少年の潜在的高祖母になる可能性がある。(州立先史博物館提供)
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【古代史におけるシャーマンの役割】
ドイツは英語でジャーマン(Germann)、シャーマン(Shaman)とは?
シャーマニズムあるいはシャマニズム(Shamanism)とは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称。宗教学、民俗学、人類学等々で用いられている用語・概念。巫術(ふじゅつ)などと表記されることもある。
シャーマニズムとはシャーマンを中心とする宗教形態で、精霊や冥界の存在が信じられている。シャーマニズムの考えでは、霊の世界は物質界よりも上位にあり、物質界に影響を与えているとされる。
シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のこと。 「シャーマン」という用語・概念は、ツングース語で呪術師の一種を指す「šaman, シャマン」に由来し、19世紀以降に民俗学者や旅行家、探検家たちによって、極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般を呼ぶために用いられるようになり、その後に宗教学、民俗学、人類学などの学問領域でも類似現象を指すための用語(学術用語)として用いられるようになったもの。
では、シャーマニズムとは原始的な考えなのかしら?日本の神道等も基本的にはシャーマニズムのような気もするが?邪馬台国の卑弥呼はどう見てもシャーマンだろうし、インカやマヤ文明でもシャーマンたちは活躍しているようだ。中国だって夏殷時代にはシャーマンの存在は大きい。
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古代においていくつかの村の部族たちが連合体を作っていることを想定して見よう。元々は一つの家族がだんだんと人口を増やして、村を増やしていく。祖先は皆共通で共通の神?を共有している。普段はある程度の交流も維持している。だから何か問題が生じた場合、争いで解決するより話し合いで解決する方が遥かに合理的だ。この時の最終の手段として「それじゃー、神様に聞いてみましょう」となる。神様の声を聞ける存在がシャーマンなのだ。
シャーマンは女性とは限らず、男性でも良いのだが。シャーマンに求められる力は武力ではなく、共感力だ。神様の声で皆を納得させなければいけないから。でも、考えようによっては結構民主的でいい方法ですね。
中国の歴史書に見られる倭国大乱?が女王卑弥呼を共立することで解決したとある。これは現代社会にも通用する知恵だ。日本が2600年以上も内乱も無く一つの国でまとまって来たのも天皇がシャーマンとして機能して来たからかもしれない。
世界の古代遺跡
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