世界の歴史の部屋

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世界の歴史の部屋

目次
有史以前 紀元前10世紀まで インダス文明の謎 アイアンロード
殷墟 牧野の戦い 長江文明 スキタイ
論語の世界 ギリシア人の物語 ソクラテスの知恵 ソクラテスの逆説
アレクサンダー大王 アレクサンドロスの東方遠征
孟子 呉 漢(ごかん) 貞観政要
唐代三夷教
則天武后 仏教弾圧事件 会昌の廃仏 キケロ
パックス・アメリカーナ 中華思想と小中華思想 コロンブスのお土産
火薬の歴史 モンゴルの世紀(Pax Mongolica) Ibn Battuta
巨大噴火の恐怖 インド航路の発見 ガヴリロ・プリンツィプ サラエボ事件
民主主義の歴史 アイヒマン裁判 中国は何故世界の覇者になれなかったのか ニクソン・ショックとプラザ合意
原子爆弾の開発 敗戦後の東アジア世界 忘れられた巨人The Buried Giant めげない北朝鮮
戦後の米国覇権とその政策 日の名残りThe Remains of the Day ハイレ・セラシエ皇帝 イラン革命
パーレビ朝 トルーマン大統領

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有史以前


歴史時代とか有史時代とか言う言い方がある。あまり感じのいい呼び方ではない。一般的には、文字が成立し、文献資料によって歴史事象を検証することが可能な時代を指し、それ以前は先史時代というのだそうだ。世界にはいまだに文字を持たない人たちもいるし、文字というものが文明にとってそれほど必然的なものでもなさそうだが。インカ帝国にみられるように、文字文化のみられなかったところでも天文学や建築技術など他の分野が高度に発達した例もみられ、また結縄のような文字によらないコミュニケーション・記録方法もある。要するに、歴史を学ぶ上でかなり古い時代と一括してくくった分類としておきましょう。

2万年以上前に遡ると、ネアンデルタール人とかデニソワ人なんて、現生人類の親戚だけと、どうも絶滅してしまったらしい人達の歴史も考えないといけない。あるいは若干ながら現生人類にも遺伝子が引き継がれているかも知れない。クロマニョン人というのは後期旧石器時代にヨーロッパ、北アフリカに分布した化石人類なのですが、これが現生人類と全く同じものかどうか。とりあえず、今地球上に生活している人類は新人、ホモサピエンスとして皆同じただ一つの種であるとされています。2万年前以降は新人の文化と考えて差し支えないようです。アフリカで誕生して、7万~4万年頃ユーラシア大陸に進出してきた新人は、強力な伝染病も一緒に持ち込んで先住民を絶滅させたという可能性(進化論における細菌兵器仮説)も否定できない。 2万年前から1万年までには、いろいろと文化の発展が目立ってきます。ほぼ、紀元前200世紀~紀元前100世紀となります。新人達は世界各地の洞窟に洞窟壁画を残しています。アルタミラ、ラスコーの壁画は有名。どちらもヨーロッパのもの。
   地図
1万2000年前の日本では、縄文土器が出土しており、今のところこれが世界最古の土器と認められている。土器というものは適切な粘土材料を確保し、高度な細工を施し、高温で焼き固めるなど高度な技術が必要であり、そのための専門家集団が存在したことを示唆している。洞窟壁画もかなりの高度な技術が必要なのかも知れない。 日本列島がいつから文字文化をもつようになり、文字社会に入ったかについては、多くの議論があるが、おおむね古墳時代(3世紀中頃から)が日本の先史時代と歴史時代の境となるらしい。文字そのものは弥生土器に墨書・刻書されている漢字、日本に関する中国の記録として、前1世紀の『漢書』「地理志」などがある。人類史としては、初めて文字が発明されたのは約6,000年前と推定されている。 人類は紀元前150世紀(約1万5000年前)には南米のチリまで到達していたことが判明しており、各地域の文明の格差というものはさほど大きくなかったのではないかと推定されている。
チャド共和国 先史時代の岩絵がアフリカのチャド共和国(ンジャメナ(N'Djamena))でも見つかっている。紀元前50~20世紀のものらしい。この洞窟が見つかったチャド北東部は今はサハラ砂漠だけと、絵が描かれた時代は緑豊かで多様な動物がいたのだろうと推測されます。このような壁画はアフリカ、アジア、オーストラリア、南北アメリカと世界中に分布しているようで、、美術品としても価値が高そうだ。

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紀元前10世紀まで


縄文の大集落とされる青森県の三内丸山遺跡は紀元前5000年頃と推定されているので、紀元前50世紀頃だ。最盛期には5000人ぐらい住んでいたと推定されている。都市とは言えないかもしれないけど。
時期的には、世界の4大文明が含まれる。ティグリス・ユーフラテス河に囲まれた肥沃な三日月地帯に都市文明を形成するのが紀元前3500年頃。紀元前35世紀。エジプト文明(BC27世紀頃)、黄河文明(BC50世紀頃)、インダス文明(BC27世紀頃)と世界各地で都市文明が発生する。何故このような文明が発生したのかは興味のあることだが、石の建物の遺跡しか残ってないので多くの謎に包まれている。黄河文明と並行して長江文明というのもあったことが判ってきた。これらの文明に共通する特徴はいずれも大河の流域。つまり、大規模な灌漑農業の発達と関係がありそうだ。基本的にはイネ科の植物、多分小麦と米だ。長江文明だけは稲作が主体ということがはっきりしている。他の4大文明は小麦だ。これらの文明とは別に新大陸ではトウモロコシやジャガイモを主とした農耕が起こる。農耕→都市国家→巨大帝国と言った流れがなぜ起きたのかは解明したい。

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インダス文明の謎

中学や高校の歴史で4大文明として学ぶ中にインダス文明が含まれているが、実はこの文明についての詳細は全く分かっておらず、謎に包まれたままだということだ。「インダス文明の謎(著者;長田俊樹、京都大学学術出版社)」の著者;長田(おさだ)氏は、発掘調査のリーダとして、色々な学問分野を総合して現状の知見を取りまとめておられる。
神官 左の像は有名だ。神官とされているが実際は誰なのか。
英国の大英博物館は、世界各地から取り集められた膨大なコレクションが自慢であるが、古代文明に関する展示も相当なもの。特にエジプトとメソポタミアについては1フロアー全部という立派なもの。中国やマヤ、インカなどもそれなりに。それに比べてインダス文明に割かれた展示スペースはショーケースの1/4程しかないとのこと。インダス印章、装身具、女神像、インダス土器、発掘現場の写真。西洋人(特に英国人)にとっては、インダス文明は興味の対象ではないかのようだ。
ところで、この地球の上で、色々な生き物たちが栄えては滅んでその結果、主役の交代が繰り返されている歴史から見ると、インド亜大陸という地域は、最も人類が繁栄し続けている場所だ。現在もインドだけで9億を越える人口を有している。バングラデッシュもネパールも人口大国だ。地球上でもっとも人口が密集している地域だ。しかも民族、言語、宗教と多様な人々が共存していることが特徴だ。良くやり玉にあげられるインド独特のカースト制度も、もともとは多様な背景の人々が共存していくための知恵だったのではないかとの仮説も成り立つようだ。22世紀はインドの時代だという人もいる。現在の米国型のグローバル経済は膨張し続けなければいずれ破綻する運命なので、いずれ中国に覇権が移る。中国も米国式のコピーだから、国民の格差と不満が累積し破綻する。人類の未来からの視点では将来最も有望な地域でもある。古代史のみならず、中世、現代の歴史も面白そうだ。
このように歴史の勉強には極めて魅力的な場所であるにも関わらず、研究がほとんど行われていないのが現状だ。欧米や日本の研究者達にとって興味の対象とならないのか、或いは興味を持って研究し始めても、色々な壁がありやる気を失くしてしまうのか。
遺跡の分布
インダス文明に関する遺跡としては、有名なものではモヘンジョダロ(1922年発見)(Mohenjo-daro)とハラッパ(1826年発見)(Harappa)がある。近年では、それに加えてドーラビーラ(1967年発見)(Dholavira)。前二者は現在パキスタン領内にあり、発見当時はまだ英国領だった。英国人の発想ではメソポタミア文明が伝わって来たかぐらいの発想っだのかも。モヘンジョダロは現地の言葉で「死の丘」と呼ばれていて、古代の人が眠るたたりのある場所として誰も近づかない場所だったらしい。
独立後のインドとパキスタンは、英国の分断統治政策が功を奏し、大変仲が悪い。だから、遺跡の調査で両国が協力することは不可能で、そもそもビザが下りない。また、海外からの調査団の入国にも今までは閉鎖的であったといわれる。
ハラッパ モヘンジョダロ ドーラビーラ
(注)写真は左からハラッパ、モヘンジョダロ、ドーラビーラ、どれも壮大な都市遺跡だ。
ドーラビーラはインド内にあるため、インド政府も観光資源と認識し、NHKでも取り上げられたことがある。巨大な都市遺構に満々と水をたたえた水路の水が豊かに流れる映像。でも、このイメージもどうも怪しいという。一滴の水も無駄にしない乾燥地帯でこんなことがあるはずがない。
インドでの発掘調査は、非常に難しいいという。たとえ遺跡が砂漠の中にあったとしても、世界一人口が密集している砂漠だ。私有地を発掘することは簡単には許可が下りない。インダスの印章や土器のかけらが転がっている土地では子供たちがそれを拾って観光客に売りつけているらしい。結構買う人がいるらしい。
インダス文明に関する遺跡は、上記3つの他にもいくつかあって、その数は数百ともいわれるが実数は不明。分布範囲も広く、今後更に広がっていくだろう。中にはインダス文明より後期のものもあるが、逆にそれより古いと想定されるものもある。沢山の遺跡のいくつかは既に調査が行われているはずであるが、何故かその報告書が提出されるのはかなり遅くなる傾向があるという。なんせ宗教的の多様性のある国なので、何が新しい発見がある度に宗教界から多大な反論が寄せられて大変なのだそうだ。なんせ世界で最も民主的であることを自認するインドのことだ。忖度など許されない。とことん議論を尽くし、皆が納得するまで事は進まない。進歩よりも安定と調和を優先する国柄。時間はかかるが、そのうちに解決に向かうのかも。
しかし、歴史の研究に政治や宗教が絡んで自由な研究が進められないのはインド地域だけではない。韓国の南では古墳時代の後期前方後円墳が存在するらしい。韓国の歴史界は存在自体を認めない。日韓の考古学での共同研究はまず不可能だ。日本の古墳の多くは、古代の天皇との関係は推測されてはいるが、宮内庁は発掘調査を許可しないらしい。
ただ、今までの調査で分かってきたことは、インダス文明では強大な中央集権的な権力機構の存在が確認できないという。どうも交易や手工業を中心に人々が集う、多文化共生国家というもののようだ。農業も小麦一辺倒のモノカルチャーではなく、雑穀も利用し、カレーも発明されていたらしい。
**注)カレーの話;発見された遺骨の歯の歯垢(プラーク)から、ウコン(ターメリック)とショウガが発見された事から。この2つはカレーの主要な材料だ。
また、非常に進んだ貴石の加工品が多く出土されるが、その原産地は、大抵発見された場所と離れた土地でしか採集できないものが多い。貴石とは宝石になるような鉱物で、ラピスラズリ、メノウ、翡翠、黒曜石等。
遺跡の分布 **注)ラピスラズリという宝石はNHKでも紹介されていた。青い色の石で、インダス文明を特徴づける宝石らしい。一説によると金よりも高価なものだったとか。
インダス文明の研究によって、4大文明の考え方そのものの考え方を変換する必要があるようだ。今までの西欧人の考え方は、メソポタミア文明が農耕と国家を発明し、それがエジプト、インダス、黄河の文明に伝わったというもの。いわゆる単一起源説。人類の起源についてはアフリカ起源の単一起源説に落ち着きそうだが、文明の発生については多地域同時発生説の方が、信憑性が高そうだ。黄河の文明については、ほぼ同じ時期に長江文明というのがあったらしい。また、日本の縄文時代だって、生活レベルの豊かさから言えば、4大文明に匹敵するものだったかも知れない。また、今まで考古学的に全く無視されてきたアジアの他の地域にだって何時新しい遺跡の発見があるか分からない。
文明が大河のほとりにできるという仮説からは、ガンジス川、イラワジ川、メコン川他いくらでもあるし、文明の発生機構から言えば、新大陸のインカ、アステカ文明などはメソポタミア文明の影響などあるはずがない。そもそも文明とは何か、石造りの大きな神殿か、文字の発明か。農耕の痕跡か。おそらく答えは一つ、文明が発生することで人口が著しく増えたこと。何らかの生産革命があったということでしょう。

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アイアンロード

最古の人工鉄 あのシルクロードより古い「文明の道」が、姿を現している。西アジアから日本列島まで、各地に「鉄」を伝えたこの道は、研究者によって「アイアンロード」と名づけられた。舞台となるのは、ユーラシア大陸の大草原や山岳地帯など、人影もまばらな、辺境の地。発掘調査から、エジプトやギリシャなどメインストリームの古代文明とは異なる、「未知の世界史」が浮かび上がっている。NHKが江口洋介さんをナビゲーターに、壮大な物語を描く。

また、これまで武器を中心に考えられてきた古代の鉄の役割が、時代が進むなかで次々と広がっていった事実も分かってきた。鉄は和平を促す“交渉品”となり、異文明を結ぶ“交易品”となり、馬具を生んで“移動革命”をもたらし、工具として“芸術革命”を導き、農具となって“生産革命”を起こしていた。鉄は、武器による「征服と破壊」の一方で、「融和と建設」の主役でもあったのだ。残念ながらこの番組は見逃したが、こんな話は出て来るものと想定は出来る。

鉄の製品を造ることは、大変手間のかかる仕事だ。しかし、文明の成長は農業の進歩だけではとても説明しきれない。①まず、鉄の鉱石を見つけなければいけない。枯渇資源の鉱石を確保し続けるためには、探鉱の専門集団が必要だ。彼らは情報を求めてあちこちを歩き回る。 ②鉱石の採掘、運搬の重労働。多くの人出が必要だろう。③鉄を溶かすためには大量の燃料がいる。石炭の利用できない時代、燃料は木材だろう。かなりの規模の森林があることが必要だ。④実際に鉄を作る作業も大変だ。当時としては考えられる最高の温度を確保する技術がいる。専門の技術者集団があちこちに生まれていたのでしょう。⑤出来た鉄の塊を今度は農具や武具に加工する仕事がある。量産化して市場で売るのか注文生産なのか。⑥このように手間のかかる製品であるから、その売込みのための営業活動も盛んであったのでしょう。地方地方の権力者達とは密接な関係を持って活動していたと想像されます。

という訳で、鉄を作るには複数の集団が互いに協力し合って、濃密なネットワークのもと効率的に活動するようになったと想定されます。鉄の拡散は農業や牧畜など技術と異なり非常に高速でユーラシア大陸各地に拡散していったようです。鉄は日本へも銅とほぼ同時に伝わり、縄文から弥生の一大変化に一役買っていたようです。 鉄は、武器による「征服と破壊」の主役というより、「融和と建設」の主役でもあったのはこのような理由からでしょう。複数の集団が互いにhappyになるためには戦争よりも平和的利用の方が適しているといえますね。

**ヒッタイト
トルコ中部にある遺跡で一昨年(2017年)、日本の調査団が4200年前から4300年前の地層から世界で最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘した。これまでの定説では、3200年前から3300年前にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて、製造技術を独占し、周囲を征服したとされている。しかし製鉄の歴史は更に遡りそうだ。
スキタイの金細工 **スキタイ:ユーラシアでは紀元前9世紀〜紀元後4世紀にかけて、中央アジアのソグディアナ地方で活躍。紀元後12世紀までの活動の記録が見えるイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。スキタイ人は古代ギリシア人とも戦っていたようです。スキタイ人は鉄製の武器を使って少人数でも青銅製の武器が主流の周りの勢力を圧倒していたようです。でも、スキタイといえば高度な金細工が有名。鉄を求て探し回っていれば金鉱も発見しやすいか。

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殷墟

史記 殷(いん、Yīn)は、紀元前17世紀頃 ~紀元前1046に栄えたとされている。文献的にはこの前に夏(か)という王朝があったされている。天乙という人が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝。紀元前11世紀(紀元前1046年)帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)ことになっている。周は先代の王朝名として「殷」を用いたおり、殷の人達は自らを商(しょう、拼音: Shāng)とも呼んで(出土した甲骨文字)いたようだ。殷の遺跡は、二里岡文化とか殷墟の発掘もありかなり解明が進められてきているようだ。 殷の考古学的研究は殷墟から出土する甲骨文字(亀甲獣骨文字)の発見が果たした役割が大きい。甲骨文字は正に漢字のご先祖様だ。これにより、『史記』にいうところの殷の実在性が疑いのないものとなった。甲骨占卜では上甲が始祖として扱われ、天乙(名は唐)が建国者として極めて重要に祀られている。 甲骨文字の解読が進められてどうも殷の前の夏と言いう王朝の存在も実現性を帯びてきている。更に中国では黄河文明とは別の長江文明の存在も明らかになり、今後の考古学的研究の進歩が期待される分野でもある。

殷が実存するという証拠が見つかったのはある偶然のきっかけとのこと。以下そのエピソードを引用したい。 甲骨文字 1899年北京。金文(青銅器や石碑の銘文に刻まれた古代の漢字)を研究する学者であった王懿栄(オウイエイ)はマラリアに悩まされ、マラリアに効くという「竜骨」と呼ばれる漢方薬を服用していた。竜骨とは、地中から出土する化石で、亀の甲羅や象、犀、牛など獣の牙、角、骨を中国人は龍の骨であると信じ、漢方薬として飲用していた。 王懿栄の元に劉鉄雲(リュウテツウン)という人物が寄宿していた。彼も金文研究者だったんだろう。ある日、劉鉄雲は粉にする前の竜骨に目が留まる。竜骨に何か文字のようなものが刻まれていることに気がついたからです。
「見たこともない文字だ。これは現在知られている金文よりさらに古い古代文字なのではないか」と疑問を抱き、王懿栄にも報告。大変な価値を持つものと判断した二人は北京中の漢方薬店で竜骨を買い漁って研究を進める。やがてこれらの竜骨の出所を辿っていくと黄河流域の河南省安陽県の小屯村であることが判明。ここはかって「殷墟」と呼ばれた地であった。 劉鉄雲と交流のあった羅振玉(ラシンギョク)、そして王国維(オウコクイ)の2人は小屯村を発掘調査。文字の刻まれた竜骨、青銅器、玉器などを多数発見する。
1911年辛亥革命勃発。日本への亡命を余儀なくされた2人は日本の学者の協力などを得て、竜骨に刻まれた文字(甲骨文字)の研究と解読に努めました。そしてある事実に到達する。 小屯村は殷王朝末期の都で、甲骨文字で刻まれた殷王の名前と史記「殷本記」に記された殷王の名前がほぼ一致するということでありました。物的証拠と文献資料の一致によってこれまで伝説とされてきた「殷」王朝の実在が証明されたのです。ようやく殷墟に日の目が当たったんだ。
刻まれていた甲骨文字の内容はそのほとんどが卜占(ぼくせん=占い)の結果を記したものだった。卜占は亀の甲羅、獣の肩甲骨に卜占の内容を刻み、裏側を火であぶり表面にできる亀裂によって吉兆や行動指針を決めるもの。占われていた内容は、祭祀に関するものが多く、狩猟や戦争、天候の予知などありとあらゆるものが卜占によって決定されたようだ。
殷では祭祀と政治は同意義であり、農事、軍事、祭事、王位継承などすべてが卜占の結果に基づいて行われた。日本だって、政治のことを「まつりごと」と言っているので、古代ではよくあることだろう。卜占を通じて神の言葉を伝えるシャーマンは貞人(テイジン)と呼ばれていたようだ。邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)と同じか。当時祀られていた神々は、山や河などの自然神、王家や部族の首長の祖先神など。あらゆる神々の中で万物を超越しすべてを支配する最高位の神を「帝」または「上帝」と呼んでいた。貞人は集団の指導者あるいは神の代弁者として人々を導きました。

殷王家は太陽神の末裔を名乗り太陽崇拝を行っていたらしい。エジプトのファラオと同じだね。代々の王の諡(おくりな/死者に贈る称号)には当時信じられていた日ごとに順番に昇る10個の太陽の名前、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸が必ず含まれている。太陽が10個あるというのも面白い発想だけど、この考えを否定するのも大変なことだろう。 人間の行為の善悪が吉祥や災異を招くと信じられ、神の恩寵を受けたり、怒りを鎮めるために祭祀の供物として生贄が捧げられたようだ。生贄は犬、羊、馬、牛などの獣が使われ、時には人が捧げられました。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられました。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したともあったようです。確かに、殷の王族や貴族の墓からは青銅器、玉器などの副葬品と伴に大量の人骨が出てくることが多い。この人骨は被葬者に伴って葬られた殉葬者たちでしょう。被葬者の妻妾や家臣や兵士たちであり、被葬者を死後の世界でも守り仕えるために埋められたようだ。ある貴族の墓からは2頭立ての戦車が馬ごと殉葬者とともに発見された例も見つかった。戦車は整然と並びすべて太陽の昇る東の方角を向いていた。殉葬の風習は現代の価値観では想像を絶するが、当時の信仰心は絶対的なものであり、神に近い存在または神そのものと死を共にすることは名誉なこととされていたようだ。マヤやインカにも同様な風習はあったようだ。他の文明ではどうだったのだろうか。

原始的生活を送っていた時代、人々を結び付けていたのは宗教でだったのでしょう。 殷の戦争は呪力と呪力の戦いだったらしい。戦いには「媚」と呼ばれる巫女を伴なう。巫女たちは軍鼓を打ち鳴らし敵に向かって呪詛を唱え攻撃しました。甲骨文字には鬼方と呼ばれる強大な異民族を攻撃したときの様子が記されており、動員兵力数万人のうち投入された「媚」は3千人に達したと書かれています。敵の「媚」を捕らえることは最大級の功績で「蔑暦」と呼ばれたと記されています。敵の「媚」は呪力を封じるために真っ先に殺されました。また異民族の地を進軍するときは道を整備し、土地に掛けられた呪詛や悪霊を祓うために異民族の生首をかかげた。祓除を終えたところを「道」と呼び表しました。 「媚」に含まれる眉の文字は顔料で眼の回りをくまどりし呪術的な化粧を施した象形であり、後世に転じて「媚びる」となる。

青銅器 青銅器は殷の神秘主義的な世界観を最も特徴付けるものです。青銅器は当時大変貴重なものだったので主に祭器や武器に用いられました。祭祀用青銅器は酒や神々への供物を盛るための食器として作られました。殷において酒は神と交歓するのに重要なものでした。卜占に際し、火を焚き、青銅器に酒を満たし、肉を供えて神や祖霊を迎え、飲酒によって一種のトランス状態に落ちることで神の神託を聞きました。

 牧野の戦い(殷周革命;紀元前1027年または1046年)によって、商(殷)は結局、周に滅ぼされる。酒池肉林という言葉がある。殷の紂王が愛姫である妲己の歓心を買うため、その言うがままに日夜酒色に耽り、民を虐げた(とされる)故事に由来する。しかし、これも紂王にとっては一種の神事であって、周の時代になってその価値観が否定されたという経緯もあるのだろう。
青銅器の製作は殷末期に一種の最高点を極める。殷に取って代わった周でも青銅器は作られるが技術的には殷代のものの方が遥かに優っている。殷代は絶対的な宗教心が並々ならぬ造形力を発揮する時代でした。神々の姿を現そうという強い信念が発露した結晶が青銅器の獣面文であろう。
【商人の語源】
殷を現代中国では「商」と呼んでいます。日本では「史記」の巻名が「殷本記」であることから通常「殷」と呼びますが、中国の王朝は創始者が最初に王に封じられた地名を取るルールがある。始祖の契が封じられた地が商であったためこの王朝は「商」を自称してた。
殷滅亡後、国を失った「商」の遺民は各地に離散する。定住できる耕作地を得られなかった「商」の人々は生計を立てるために物品の売買や交易に携わるようになりました。そんな彼らを人は商人と呼び、商の人の業(なりわい)を商業と呼ぶようになったと言われています。
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宮城谷 昌光(みやぎたに まさみつ)(1945年~)
中国の古代史を楽しむなら、欠かせない作家です。古代中国の偉人にスポットを当てた作品が素晴らしい。『史記』をはじめとする漢籍を修めただけでなく、白川に深い影響を受け金文や甲骨文字まで独学で学んだという。代表作に『重耳』、『孟嘗君』など他多数。殷、周、春秋戦国時代など古代中国に素材を求めた作品が多い。古代中国の世界を楽しめる唯一の歴史小説作家であろう。
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**鼎(かなえ、てい)
鼎 鼎とは、古代中国の代表的な器物。もともとは肉、魚、穀物を煮炊きする土器として出現したが、殷・周の時代は神を祀る祭器用の貴重な青銅器となる。通常はなべ型の胴体に中空の足が3つつき、青銅器の場合には横木を通したり鉤で引っ掛けたりして運ぶための耳が1対つく。殷代中期からは方鼎と箱型の胴体に4本足がつくものが多数出現。中には蓋がついたものもあり、しばしば銘文が刻まれている。
鼎という言葉はことわざにもよく使われる。まず、鼎の足が3本であることから、3という数を表すことがある。例えば、 鼎談(ていだん)→3人で会談すること。 / 鼎立(ていりつ)→3つの勢力が並び立つ状態のこと。
また、権力の象徴として用いることも。 問鼎軽重(もんていけいちょう)→「鼎の軽重を問う」→ 既存の権威や権力を疑い、あるいはそれに挑戦すること。また、重さの象徴として用いることも。

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牧野の戦い

牧野の戦いは、古代中国の紀元前11世紀に、殷の帝辛(紂王)と周の姫発を中心とした勢力が牧野で争った戦い。周軍が勝利し約600年続いた殷王朝は倒れ、周王朝が天下を治めることになった。
『史記』によれば殷末の帝辛(紂王)は凶悪な暴君。重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになる。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになったとされる。もちろんこれは勝者の書いた歴史だから本当のことは分からないが。
帝辛はこれを知って怒り、ある日密議に加わった諸侯らを偽って招き、殺して塩漬けにした。周の君主である西伯の姫昌は篤実な性格でこの密議には加わっていなかったが、帝辛に疑われて奴隷とされた。さらに帝辛は殷の人質となっていた昌の長男伯邑考を羹(あつもの、スープのこと)にして昌に食べさせた。昌の家臣たちが帝辛に莫大な贈物をしたので昌の疑いは晴れて解放されたが、昌はこれを恨んで殷に復讐する決意を固めた。
昌は周に戻ったのち、近隣の諸国を併呑して国力を増大させ、さらに殷に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して次第に殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の昌は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。昌の後を継いで次男の姫発が周の太子として諸侯をまとめ、殷に決戦を挑むことになった。
発の率いる軍は殷の虚をついて決起し、諸侯の軍もこれに加わって瞬く間に大軍となった。殷軍は為す術もなく周軍は侵攻したが、発は「いまだそのときではない」と言って突如として軍を返し、周へと帰国した。
この理由は不明とされているが、
1.占いによって殷を滅ぼすのが不吉と出た。
2.諸侯の力を借りてあまりに素早く殷を滅ぼしてしまうと、周が王朝を開いた時に諸侯の力が強くなりすぎると考えた。
などの理由が推測されている。
【牧野の戦い】
数年後、発はまたしても軍を発して殷を攻めた。この際には様々な瑞兆があったといわれている。周軍は孟津という港から黄河を渡ろうとしたが、雷雨と暴風に邪魔されて河を渡ることが出来なかった。発は怒り、黄河の神に向かって「天命は既に下ったのだ。どうしてわたしの邪魔をするのか」と大喝すると嵐はやみ、周軍は河を渡ることができた。また、河を渡る船の中に白魚が飛び込んできた。白は殷のシンボルカラーである。
周軍と殷軍は殷の首都・朝歌に近い牧野で決戦することになる。『史記』によれば殷の準備は万全で70万という大軍を動員。一方で周軍は諸侯の軍を加えても40万。しかも決戦を前にまたしても雷雨に見舞われ周軍の諸将は敗戦を恐れたが、発は殷の天乙 (湯) が夏の桀を破って王朝をひらいた鳴条の戦いにおいても雷雨がとまらなかったといわれていることから、むしろこれは周が勝って王朝をひらくという前触れであると言って全軍を勇気づけた。
殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、その数は戦場にて不吉を祓うための神官を含んでいるうえに、殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵から成り立っていた。彼らも暴虐な帝辛の支配に嫌気がさしていたので、呂尚のもとで先進化された周軍の攻勢をみるや矛先を変えて襲い掛かり、殷軍は壊滅した。
周軍は帝辛を追って朝歌まで攻め入り、帝辛は王宮に火を放って死んだ。発は帝辛の遺体に三本の矢を放ってから鉞で首を落としたという。『尚書』牧誓によれば、この日の干支は甲子であると記され、出土した青銅器銘文でも確認されている。ここに600年に及んだ殷王朝は倒れ、発は周王朝を開いて武王として即位した。
牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、青銅器銘文や甲骨文においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。超古代の歴史で軍勢に実際の数は不明か。兵に数は誇張されている可能性が大だ。では、実数はどのように推定されるのでしょうか。
【鳴条の戦い】
鳴条の戦い(Mingtiao)とは約紀元前1600年に中国で起こった戦い。湯(とう:王の名前)が鳴条(現在の山西省?河南省洛陽市?付近)から軍を起こし、夏に向けて進軍した決戦である。戦争の結果、夏は滅亡し、湯が商朝(殷)をおこした。
夏の王位が桀に渡った際、夏は以前と比べてもはや強くはなかった。桀は普段は不正を働き、また無責任であった。桀は自身の宮殿が素朴すぎると感じ、新たな「宮殿」の建造を命ずる。これには7年もの月日を費やし、数万人もの奴隷を働かせ、また、多額の資金を使い切った。農民は憤慨した。
そうしている間に、黄河の下流の近くにある殷は、近くの部族からの支援を得ることに成功。彼らの祖先である后稷は、禹の為に働き、殷の領地を与えられた。殷は湯の治世中、農業の発展により、ますます力を得ていた。湯は近くの部族と同盟を結び、また、その配下を丁重に扱った。湯は伊尹によっても支えられた。伊はもともと湯の義父の奴隷であったが、湯が結婚したとき、湯の料理人となった。伊はまた、当時の情勢を分析し単なる料理人ではなく、湯の右腕になった。湯は夏王朝を終わらせる決心をした。湯は桀に従うことに同意したが、ひそかに夏王朝を転覆する準備をした。最初に、湯はその国民を亳という名の場所に移させた。 亳から夏の首都までの地域は平坦であり、進路をさえぎる丘や川はほとんど無かった。湯は自分の配下にも寛容だったので、彼らの支持を受けていた。ほとんどの貴族が幽霊を信じていたように、彼らは神とその先祖を崇拝することが非常に重要であると信じていた。地理的に商(殷)に近い葛にいた部族は、定期的に祖先を祭祀せず、湯が犠牲のためにと与えた家畜と羊を食べてしまい、また、動物を送った湯の子供を殺した。 湯はこの部族を征服し、さらにいくつかの周辺部族を滅ぼした。しかし桀は湯が彼の王位に対する脅威であることを認識していなかった。
When a few tribes started rebelling against Xia(夏), Tang(湯) of Shang(商) decided that the time had come. He started his attack on Xia. Upon hearing of Tang's rebellion, Jie (桀)sent troops from the smaller territories of Gu, Wei, and Kuenwu. Yi(伊) advised Tang to put off the fight for a year, then conquered Gu and Wei, and defeated Kuenwu.
Before the army proceeded any further, Yi Yin told Tang that the army needed a boost in morale. Tang gave a speech, known historically as 'Tang's pledge', before the two armies met in Mingtiao (鳴条present-day North Anyi, Xiyun) around 1600 BC. Tang's generals and soldiers all abhorred Jie, so they fought bravely. On the contrary, Jie's troops, seeing the power of the Shangs, did not listen to his commands. They either surrendered or fled. As a result, the Shangs won the battle and set up the Shang(商) dynasty.
After the battle was won, Jie of Xia sought shelter in Kuenwu. After conquering Kuenwu, Tang of Shang forced Jie into exile in Nanchao (present day Chao, Anhui). Jie stayed there until his death. Tang then eliminated the remaining Xia forces and used the Xia peasants as slaves.
As Tang of Shang was a nobleman, his revolution is considered the first 'noble revolution' in Chinese history. The Shang dynasty, which he founded, was also the second slavery-based dynasty in Chinese history.
ウィキペディアにあった英語の解説です。でも、殷王朝が奴隷制に根差した王朝と断定できるのでしょうか。それとも古代の王朝は総て奴隷制度だと考えているのでしょうか。
司馬遷の史記には、殷-周交代の牧野の戦いの戦いに加えて、その前の夏-商(殷)交代の鳴条の戦いについてもかなり詳細の記述があるんですね。作家宮城谷さんの小説にも取りあげられています。史記の記述を取り入れたのでしょうね。夏王朝の存在はまだ考古学的には実証されていませんが、そのうち発掘されるかも知れませんね。

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長江文明

長江文明とは中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。紀元前140世紀~10世紀。少し古すぎないか。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。
20世紀前半に黄河文明の仰韶文化が発見されて以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかったことで中国の文明の発祥は黄河流域で、その後次第に長江流域などの周辺地域に広がっていったとの見方が支配的であった。

河姆渡遺跡 しかし、浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)の発掘調査(1973年~1978年)で、この説は覆される。河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年頃(紀元前60世紀~紀元前50世紀)のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見される。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。
このように河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明=黄河文明」という当時の定説は覆される。
更に、東北の遼河周辺でも文明の痕跡が発見されるに至り、現在では遼河周辺、黄河上・中・下流域、長江上・中・下流域に分類し、それぞれが互いに影響しあい、かつ独自の発展を遂げていったと考えられている。
初期段階より稲作が中心。畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流だろう。 朝鮮半島を経由しないで直接海を渡って来たのか。
中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、黄帝と神農や蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると推定されている。

河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、また呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)からは磁器が発見されている。中国文化の重要な一翼を担うこれらの文物の源流がここから出たのではないかとする説もある。
これらが後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解らない。本格的な発掘が始まってより30年ほどしか経っておらず、発見されたものの量に対して研究が追いついていないのが現状である。

三星堆遺跡 四川盆地では長らく文明の発見が無かったが、1986年に四川省広漢市の三星堆遺跡(さんせいたいいせき)から大量の青銅器などが見つかり、一気に注目されるようになる。
四川は地形的に他の地域と途絶しており、そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていた。そこで四川文明と分類されることもある。
三星堆の特徴として怪異な面が多数発掘されることがあり、青銅の人像の顔に被せられた黄金面も発掘された。古代にあったとされる蜀の国だと考えられる。この蜀国は『史記』ではほとんど登場せず、まだ中華文明の視野の外の地域であった。唯一、秦の恵文王の紀元前316年に司馬錯によって滅ぼされて、秦の版図に入ったことが記される。
なお、蜀地域の地域史書である『華陽国志』ではこの古代蜀についての詳しい記述があったが、黄河文明中心史観の時代にあってはこれらの文献は想像の産物だと思われていた。しかし、三星堆遺跡の発見で一躍現実味を帯びたものとなった。
2004年現在、長江文明・四川文明とも体系化された文字は見つかっていない。ただし、文字様の記号は見つかっており、その年代は紀元前2000年から紀元前600年とされている。現在出土している最古の甲骨文字が紀元前1300年くらい(武丁期)のものなので、これが文字だとすれば甲骨文字に先んじた文字ということになる。
継承者
長江文明を築きそれを受け継いでいる正確な集団は判明していないが、楚・呉・越がそれに相当すると考えられ、また現在四川省涼山に住む少数民族イ族 がその末裔ではないかと考察する者もある。
イ族は元来涼山には定住しておらず、ピモと呼ばれる祭祀を務める者が死者を弔う際に唄を歌うが、これは魂が先祖の居た地へ戻る道程を表しており、唄われている地名や地理的特徴を遡ると長江周辺へと帰結するらしい。この事から太古は長江流域に住んでいたが漢民族の侵入によって散り散りになりその末裔が現在の涼山へたどり着いたとされる。
その古い成り立ちから文化は古代に多く見られる儀式が主体で、家畜や民族の安泰を祈願し木で組んだ門を家畜に潜らせ魔を祓うものや、鶏を処しその結果で占いをするという日本の弥生初期に通ずるアニミズムが残っている。

日本への影響
雨季を人工的に作り出す農法から大陸の暖かい地域で発生し、国内で発掘された稲の遺伝子がこの地域のジャポニカ種と同じであった為に、弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々(弥生人)は、長江文明が起源とする説もある。

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スキタイ

スキタイは ユーラシアでは紀元前9世紀〜紀元後4世紀にかけて、中央アジアのソグディアナでは紀元後12世紀までの活動の記録が見えるイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家。 NHKの「アイアンロード」の主役となる人達の物語。
ヒッタイト 人類最初に鉄を使って一大覇権を確立したのが、トルコ・アナトリア高原に居を構えたヒッタイトという民族。ヒッタイトも謎の多き民族だが、突如歴史の舞台に登場し、当時周辺諸国の中で最強とも言われるエジプトとも戦い、一歩も引かず平和条約を結んだという実力のある国だったらしい。
その後、ヒッタイトは何故か歴史の舞台から姿を忽然と消してしまうのですが、その技術は黒海を越えて対岸のウクライナ地方の伝達していくことに。その主役となるの人達スキタイ人とのこと。
**カデシュの戦い
カデシュの戦いは、紀元前1286年頃にシリアのオロンテス川一帯で起きた、古代エジプトとヒッタイトの戦い。史上初の公式な軍事記録に残された戦争。成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦い。エジプトのラムセス2世は治世4年目にシリア地方北部に侵攻。ヒッタイトが鉄器をふんだんに産する予想外の強国だったらしい。

スキタイは文字を使って自らの歴史を残すことはしなかったが、ギリシアやペルシアは彼等とも戦を交えたらしい。ギリシアの文献では、「スキタイを戦ったものは、二度と戻ってこない。」と書かれている。重装歩兵を中心のギリシア軍に対し、最新の鉄器と馬を用いる彼等とは戦にならなかったようだ。では、何故彼等がヒッタイトを真似地域の覇権国家を目指さなかったか。

スキタイの人達の住んでいる場所は、大抵は荒涼とした荒れ地で農業には適さない。彼らは遊牧の生活スタイルを選び、自らの技術を生かし、鉄製品を交易の手段として活用したらしい。つまり、彼らは領土的な野心は乏しく、平和を愛する交易の民として暮らしていた可能性が高い。ただ、周辺国から見ると野蛮で恐ろしく強い人たちだったようだ。

農業と違い、鉄鉱石は枯渇資源。彼らやその仲間達は鉄鉱石を求めて、西から東へ約4000kmの旅をすることに。馬を使った遊牧生活はその活動範囲を大幅に広げたようだ。シルクロードの北側に位置する彼らが移動し往復した跡。残された遺跡群は今発掘されているようだが、この道はシルクロードならぬアイアンロードと称するのが適切なようだ。
このアイアンロードの最終地が当時縄文時代の日本列島だったようだ。スキタイの人達が直接来たわけではないが、技術というものは交易を通じて意外と速く伝わるものらしい。

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論語の世界

今からおよそ2500年前(今年2018年なので2500-2018=482、つまりBC482年頃、BC5世紀)の世界で各々全く別の場所で、3人の哲学者が誕生する。ソクラテス(BC469~BC399)、釈迦(BC5世紀頃)、孔子(BC552~BC479)である。
ソクラテス自身は著述をしていないのでその思想は、弟子のプラトンやアリストテレス等によって後世に伝えられている。釈迦の思想も弟子達によって伝えられたもの。『論語』(ろんご)も、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。
論語は、儒教の聖典のごとく考えられているが、我々が考えている論語像は実は後世の弟子の弟子と言った後継者たちによってつくられたもので、実際の論語はもっと面白くて人間味にあふれたものらしい。
 孔子が生まれたのは春秋時代、戦国時代に入る前で各国が各々独立志向を高め、世の中が不安定になってきた時代です。殷(商)王朝が倒れ、周王朝も支配力が大幅に低下してきている時代です。中国の神話の世界では三皇五帝等として徳のある帝王が国を治めていたということになっています。これらの聖人達の実在性は不明で、夏(殷の前にあったとされている最初の世襲王朝)より前の時代ではないかとも考えられています。
ただ、殷、周の時代の中国の政治は非常に宗教色の強いものだったと思われます。甲骨文字や青銅器に刻まれた文字。政治のことを「祭りごと」と言いますが、当時思想家とか哲学者と言える人たちは、限られた神官層だけ。孔子のように思想を教え実践しようという人物は本当にまれであったと思われます。
孔子像  孔子が重んじた徳には、礼とか楽がありますが、当時としてはこのようなことが大変重要なことだったのでしょう。孔子の時代の必修学問として「詩経」の暗唱なんかあります。
中国最古の詩篇で、儒教の基本経典の一つ。舞踊や楽曲を伴う歌謡であったとも言われる。古の知恵が沢山詰まっているのですね。日本の「万葉集」と似たところがあるのかも。詩は声に出して読んだようです。当時、文章は大きな声を出して読んだらしい。だからそばにいる他の弟子達にも聞こえる。だから、それについて色々と議論もする。
 孔子の弟子は、3000人とも言われますが、孔子は弟子を選ばず、特に初期の弟子達には色々な職業や出自のものが混じっており、孔子はこれらの弟子たちを分け隔てなく接したとのこと。気に入らない弟子でも破門なんてしない。十哲の一人とされる子路は、もともと任侠の出で、孔子の人格にぞっこん惚れ込んで死ぬまで孔子に従いますが、多分孔子にもっとも目をかけられた弟子なんでしょう。自分にないも長所を持っている弟子たちの良い所を伸ばすように教育する。だから、弟子たちの質問に対しても相手によってその都度答えが変わる。後世代の解釈者を悩ませるわけです。決して押しつける訳ではない。「先生、○○についてはどう思われますか。」「まあ、君の考えも一理あるけど、こう考えた方が良くない。」なんて。弟子達との対話を通して、孔子の考えも深まり、論語の面白さが出て来るようだ。
【孔子の理想とした社会】
「氏曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。」
子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰のその所に居て衆星(しゅうせい)のこれにむかうが如し。

徳のある君子が国を治めれば、人々はそれに従い平和で調和のとれた社会が出来上がる。北辰とは、北極星のこと、夜空の星達は北極星を中心の回っていますね。孔子の理想とした社会はこれです。周王朝が成立した頃はこうであったとの言い伝えもあったのでしょう。昔は良かった。今は乱れていて、ますます乱れていく。歴史を見ているとたいていの時代、人々は過去の方が今より良かったと考えていたようです。中国の神話でも、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)等の聖人が次々と現れ、善政を行ったことになっています。
でも、孔子自身、行動の人。神話の世界の理想を現実社会に翻訳しなおし、どうすれば君主に徳を持ってもらい、秩序のある平和な社会が実現できるか、その方法論を考え、君主、大臣層を中心に説いて回ります。一時、自分の生まれた魯の国でも採用されるものの政敵に追われ放浪の旅に出る運命に。でも、この教えは、机の上の空論ではなく、実際の政治の局面毎の対応であるため、結構実用面でも役に立ったようで、弟子の数も増え、弟子の多くは、色々な国の政策にも参画できるようになってくるわけです。 論語では、弟子たちの存在がとても重要で面白い。
【孔子の弟子達】
筆頭は、子路(しろ、紀元前543年 - 紀元前481年)は、孔門十哲の一人である。もとは、任侠の出で、孔子の噂を聞きバカにしてからかってやろうと面談し、師の威厳に威圧され、一生孔子に従って旅をする。気が短くて行動派だが、師を尊敬する気持ちは非常に大きいようです。
顔回(がんかい、紀元前521年 - 紀元前481年)は、孔子(孔丘)の弟子。回は名(諱)。字(あざな)は子淵(しえん)。ゆえに顔淵(がんえん)ともいう。魯の人。孔子には常に褒められるキャラとしてはNo1.、つまり超秀才。孔門十哲の一人で、孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って没した。顏回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったという。この点孔子の方が学ぶ点が多かったのでしょう。孔子の思想は、実践の学ですから、利用されてナンボのとこがあります。このことから顔回は老荘思想発生の一源流とみなす考えも。
子貢(しこう、紀元前520年 - 紀元前446年 )は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した。孔子以上の秀才と他の弟子たちにも一目置かれた存在。商売でも成功するし、孔子や仲間たちの売込みにも尽力。孔子集団のプロモータ役か。その功もあってか、孔子集団の人気は高まり、弟子たちの就職先もどんどん増えて来る。だから、孔子の後半の弟子たちは、たいていは頭の良い秀才達で受け答えにそつがない。目的もどこかの国の役人として活躍するため。学ぶことは出世の手段だ。
孔子自身はこのような変貌を本当に喜んでいたのか。どうも昔の弟子たちの方が野人で、そちらの方に肩入れしたいというのが本音だったかも。その代り、孔子の教えは儒教として後世まで続くが、孔子の本来の理想とは異なり権力者の支配のための道具と変身して行く。ただ、本流から外れたグループからも諸子百家と言われる沢山の思想家たちを生み出す源泉となったと見ることも可能でしょう。(2018.2.8)
【追記】
幕末の長州藩で、松下村塾を作った吉田松陰。吉田松陰の生き方の中には、初期の孔子を思わせるものがありますね。松陰の思想は、儒教の一派である陽明学が中心にあると言われています。陽明学はいわゆる本流としての朱子学の形式主義に対応し、心の部分に光を当てたかなりラジカルの考えのようです。陽明学は中国や韓国では流行らず、むしろ日本で発展し、倒幕思想にも通じるようです。もともと儒教にも体制擁護の考えはなく、孔子は革命政権にも参画を試みていますし、孟子にも革命の必要性が書かれています。そもそも中国の古代神話、堯、舜、禹(ぎょう、しゅん、う)の時代は政権は禅譲(賢者から他の賢者へ)という形で引継がれ、それが理想で世襲制になることは、君主の欲望を作り出し世が乱れる原因なるとのが神話の教えです。
【追記2】
『論語』とは孔子(こうし)(B.C.552~B.C.479 春秋時代末期の思想家・教育者・政治家)とその弟子の会話を記した書物で、全20篇、全部で1万3千字あまりの本です。量的には決して大著ではありません。孔子名言集ハンドブックと言った位置づけか。あまりに昔の本で(孔子は2500年前の人)かつ背景のよくわからない短い文章なので注釈なしには読めません。注釈も人によって(一口に「人」といっても三国時代の人だったり、宋代の人だったり気が遠くなるような昔の人ですが)孔子の言葉の解釈が多少異なります。
そこで「もしかしたらこうなんじゃないのかなあ…」と素人が想像の羽を広げるのもあり、という本です。立派な聖言を金科玉条として読むより、自分の人生や現代社会の中に置いてあれこれ突っ込みを入れながら読んだ方が面白い本だと思います。

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ギリシア人の物語

塩野七生さんの力作ですね。ローマ人の物語は全15巻、それに比べてギリシアはたった3巻。でも内容は充実している。ペルシャ戦争の経緯とアテネの民主政治の実態。第三巻は大遠征の末、ヘレニズム世界を作り上げたアレクサンダー大王の物語。一機に読んでしまいました。

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ソクラテスの知恵

ソクラテス ソクラテスは、自身の著作が無く後世の人からは摩訶不思議な人物のように評価されている。しかし、彼が非常に保守的な人間であったことを考えると、彼の理想の社会は古代の狩猟採集生活の時代であったと考えるとスッキリと理解できる。孔子が神話の時代が理想社会であったと考えたのと同じだ。古代の社会集団は一つの家族で運命共同体。その中での争いは勝ち負けのない世界だ。常に相手を尊重する分ちあいの精神が充満している。落伍者を出さないように努める社会だから。
ソクラテスはギリシャ(アテネ)のエリートたちの仲裁役、村の長老的な役割をかって出ていたらしい。彼の教え方は対話、対話、対話。ダイアローグで決してディベートではない。彼自身は特に演説がうまかったわけではないし、何か特別な思想の持ち主でもない。聴衆相手の演説なら弟子たちの方がよっぽど巧みなようだ。政界をリードできる若者たちが沢山育つ。
しかし、ソクラテスを慕って多様な人達が競って弟子になる。政界をリードできる若者たちが沢山育つ。ディベートは勝ち負けが決まる。自己の主張は簡単には曲げない技巧が要求される。負けた方には恨みさえ残る。でもソクラテスの弟子達はいくらソクラテスに論破されても寧ろ快感が残り更に傾倒していくことに。何故なのか。
ソクラテスは、弟子たちの言うことを丁寧に聞いて、だいたい最初は素晴らしい考えだと褒め上げる。そして少しずつ反対者の意見に対して弟子達がどう考えるか尋ねて行く。助け舟を出しながら次々を質問攻めにする。ダイアローグでは、最初の考えと後の考えが大いに変わるのが当然だ。でも、この結論は弟子自らが自分で考えて自分で導きだしたもの、ソクラテスはその産婆役ということ。知恵(知識でなく)の源泉は対話の中にありだ。
ギリシャの民主政治の崩壊期にソクラテスは裁判にかけられ有罪とされ自ら毒杯をあおって死んだとされる。罪状は危険な政治家や思想家を育てたことらしい。もちろんソクラテスは色々と弁明しただろう。しかし、陪審員達は「言っていることは正論だけど、決定は多数決だから」。つまり、多数決の前には正論は通らないということ。ソクラテス程の人材なら当然海外に逃げること出来たはず。しかし、彼は生粋のアテネの人。抗議の意味で毒杯を仰いだようだ。あるいはこの国に将来は無いということか。実際にこの国は衆愚政治を続けた挙句破綻してしまう。
アテネに政治形態を学びに視察に来ていたローマの元老院の議員団たちは、民主政治+多数決原理=衆愚政治、有害無益な愚劣な制度と見なし元老院による寡頭政治を続ける決意を固めたとか。 民主政治+多数決原理=衆愚政治という図式は、現代の社会において本当に解消されたのかといえば、まだ答えは出ていない。分かるのは1世紀が2世紀か後のことになるかも。

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ソクラテスの逆説

ソクラテスは、文字を使って、文章を作るという文字の価値を否定した人物として後世に伝えられている。でも、文章を作ると人は思考を止め、考える力が落ちるということは脳科学の観点からも一理あるようだ。
デルファイ神殿 ソクラテスが無知の知に目覚めるきっかけとして次のような話があったらしい。ソクラテスはある日、デルファイ神殿?かどこかの巫女にあなたはギリシャ一の知恵者だと言われたとか。「いえ、私は自分では無知だと思っているし、知恵者だと思ったことは一度もありません。」「では、試してごらん。」という訳で、アテネ中の知恵者と言われている人たちに片っ端から教えを乞うことに。ところが、誰もソクラテスが発する根本的な疑問について明快な答えを出すことが出来ないことに気がついた。「人に説明できなことは自分が分かっていないからだ。」対話とは二人で仲良く解を見つけ出していく過程だ。知恵者と言われている人達が、そうだ私も分かっていない。一緒に考えよう。」となれば、彼は賢者の仲間入り。無知の知の所有者だ。ところが知恵者と言われている人たちは変な面子があるから、自説を曲げない。これをホントの無知というのだ。

知恵の根本にあるのが対話だ。賢者というものは、頭の中にもう一人の自分がいて常に対話を繰返している。橘氏のいうスロー思考。感情だけで決断するのがクイック思考。クイック思考しかできない人間を本当の馬鹿というのだそうだ。ソクラテスの考えと良く似ている。アニマル脳とサピエンス脳とも言い換えられよう。

ソクラテスが、文字の価値を否定したというのは勿論後世の作り話。当時のギリシャでは商売においても文字は日常的に使われており、文字は記録媒体としての価値は大きい。
ただ、知的生産の道具としては、対話の重要性は今でも変わっていない。「人に説明できなことは自分が分かっていないからだ。」専門家の人々が一般の人との対話を避けたがるのは人類の将来にとって危険な兆候だろう。

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アレクサンダー大王

東征の経路

年表

アレクサンダー大王が生まれたのはBC356年、紀元前4世紀。マケドニアの王父フィリポスが全ギリシャの覇権を手にする。父フィリポスはアレクサンダーに帝王教育を施す。父の暗殺で20歳で王位につく(諸将の推薦で)。周辺を固め21歳で宿敵ペルシャに攻め入る。
イッソスの戦い

【ゴルディアスの結び目】
ゴルディアスの結び目(英: Gordian Knot)は、古代アナトリアにあったフリギアの都ゴルディオンの神話と、アレクサンドロス大王にまつわる伝説。この故事によって、手に負えないような難問を誰も思いつかなかった大胆な方法で解決してしまうことのメタファー「難題を一刀両断に解くが如く」(英: To Cut The Gordian Knot )として使われる。ゴルディオンの結び目、ゴルディオスの結び目とも。
ゴルディアスの結び目 伝説
その昔、権力争いにあけくれたフリギアでは、世継ぎの王がいなくなってしまった。そこでテルメッソスの神サバジオスに、臣民が次の王がいつ現れるかの託宣を仰いだ。すると、預言者の前に牛車に乗ってやってくる男がフリギアの王になる、という神託がくだった。ちょうど神殿へ牛車に乗って入ってくる男がいたが、それは貧しい農民のゴルディアースであった。にわかには信じがたい神託であったが、ゴルディアスの牛車には、神の使いの鷲がとまっていたため、それを見た占い師の女が、彼こそが次の王だと高らかに叫んだ。 ゴルディアスは王として迎えられ王都ゴルディオンを建てた。ゴルディアスは神の予言に感謝を示すため、乗ってきた牛車を神サバジオスに捧げた。そしてミズキの樹皮でできた丈夫な紐で荷車の轅を、それまで誰も見たことがないほどにしっかりと柱に結びつけ、「この結び目を解くことができたものこそ、このアジアの王になるであろう」と予言した。その後、この荷車を結びつけた結び目はゴルディアスの結び目として知られ、結び目を解こうと何人もの人たちが挑んだが、結び目は決して解けることがなかった。

数百年の後、この地を遠征中のマケドニア王アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)が訪れた。彼もその結び目に挑んだが、やはりなかなか解くことができなかった。すると大王は剣を持ち出し、その結び目を一刀両断に断ち切ってしまい、結ばれた轅はいとも簡単に解かれてしまった。折しも天空には雷鳴がとどろき、驚いた人々を前に、大王の従者のアリスタンドロスは「たったいま我が大王がかの結び目を解いた。雷鳴はゼウス神の祝福の証である」と宣言した。後にアレクサンドロス3世は遠征先で次々と勝利し、予言通りにアジアの王となったという。
この神話部分は、古い伝承ゆえの多くのバリエーションが存在する。ゴルディアスにはミダースという息子がおり、その息子が王になったとする話や、占い師の女と結婚したとする話などもある。勿論、これにはいくつもの異説があるらしく、史実かどうかは疑わしい。

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アレクサンドロスの東方遠征

alexander31  マケドニアという国は、ギリシアの北方にあった目立たない後進地域だった。マケドニア人はギリシア人の一派なのですが、アテネなどギリシアの中心部の人々と比べて大分なまりがあったみたいで、彼らからはバルバロイ(汚い言葉を話す者達)と呼ばれて軽蔑され、野蛮人とされていたらしい。さらにマケドニア人はポリスを形成していなくて、王のもとに貴族層が支配者層になっていた。
ところがこのマケドニア、南方の先進地域が指導権争いで混乱し衰退していく中で力をつけてくる。
マケドニアを一大強国に発展させたのがフィリッポス2世(位前359~前336)。アレクサンドロス大王の父だ。彼は、若いときにテーベに人質になっていたことがある。重装歩兵の戦術をじっくりと身につけて、マケドニアで王位に就いた。古代ギリシアの戦術は重装歩兵の密集軍団。マケドニアの軍制は貴族の騎兵が中心だったのですが農民を重装歩兵にして、フィリッポスは軍制改革を成功させ、王権も強化します。相変わらずポリス間の対立抗争が続くギリシア本土に進出。アテネ・テーベ連合軍がマケドニア軍を迎え撃ったのが前338年、カイロネイアの戦い。結局マケドニアが勝って、ギリシアのポリス世界はマケドニアの支配下に。

こういう情勢の中で、前336年フィリッポス2世は暗殺されます。40代半ばでまだまだこれからの年齢ですね。背後関係は不明。でも、反マケドニア派にとってはチャンス。独立を回復するにはフィリッポスの死ほどありがたいものはない。なにしろ、マケドニアはフィリッポス一代で強国に成り上がったんだから、彼さえいなければマケドニアの支配はすぐに崩れるだろうと考えたんだね。フィリッポスには息子がいたけれど、まだ20歳です。こんな若者にフィリッポスの跡を継げるわけがないというのが、まあ常識的な考えだろう。ところが、この20歳の跡継ぎがアレクサンドロスだったんです。
アリストテレス アレクサンドロスは、しっかりと帝王教育を叩きこまれた超人的なリーダであった。英語ではアレキサンダー。なんせ軍事技術はスパルタ仕込み。実戦さながらのスパルタ教育。知識は当時最高の知恵者と言われたアリストテレス。しかもどの技術の習得にも、大王の学友という親衛隊をつけ技を競わせる。つまり全体としては何を行うにしてももアレクサンドロスは第一人者として名参謀付きのリーダとしてふるまうことが可能な訳。 アレクサンドロスは王位を継ぐと、すぐさまマケドニア軍を掌握し、独立を企てたポリスをあっさり制圧しました。その上で、アレクサンドロスは全ギリシアの盟主にして対ペルシア戦最高司令官になります。ギリシアを固めてから彼がおこなったのが有名な東方遠征。

アレクサンドロスの父親、フィリッポス2世と言うのはなかなかの教育者でもあった名君か。日本でも、信長や震源の父親も結構見直して見るのも面白いかもね。

アレクサンドロスは英雄だからね、いろいろな伝説がある。どこまで本当か分からない逸話もたくさんあるが、こんな話もある。
いろいろ準備を整えて東方遠征に出かけるときに、宴会をするんだ。出陣式。アレクサンドロスは22歳。まだまだ若い。さらにマケドニアは若い国で王と貴族の間がそんなに遠くない。貴族の第一人者が王という感じです。ギリシア人の人間関係は上下関係より横関係の方が強い。だから、王も若い貴族達も仲間同士的な感じでわいわいやって盛り上がったんだろう。このときアレクサンドロスは自分の財産をほいほい仲間達に分けてしまうんです。森林や領地をね。あんまり、気前よく財産を分けて、アレクサンドロス自身の持ち物がなくなってしまったので、ペルディッカスという貴族が王にたずねた。
「王よ、あなたには何も残らないのではないですか?」それに対してアレクサンドロスが言ったという台詞(せりふ)。 「私には希望がある。」かっこよすぎる。
父王フィリッポスがマケドニアの勢力を伸ばしてギリシア全土を制圧していくときにアレクサンドロスが仲間に言ったという言葉。「困ったものだ。父上が何もかもなされてしまっては、我々のやることがなくなってしまう。」親父も結構大物だったんだ。
東方遠征というのは具体的にはペルシア遠征なんですが、これは彼の父フィリッポスがすでに計画をしていたものです。これは、息子に残されたというわけだ。

  前334年、アレクサンドロスは東方遠征に出発。率いるギリシア軍は騎兵、歩兵あわせて約4万。このとき兵糧は30日分しかなかったというから、絶対勝って軍資金や食糧は現地調達するつもり。 ヨーロッパとアジアを分けるダーダネルス海峡を渡って、まず最初の会戦。グラニコス河畔の戦いといいます。このときのペルシア軍もだいたい4万くらいです。ここでアレクサンドロスは軽く敵を蹴散らして、途中の都市を制圧しながらメソポタミア地方に向かう。
ペルシア側が本気でアレクサンドロスを迎えたのがメソポタミア地方の入り口。イッソスの戦い。ここで、はじめてペルシア大王ダレイオス3世自身が出陣するんです。ペルシア軍公称60万、実際には40万くらい?。それでもギリシア軍の10倍。勝てる自信があったのか単に無謀なだけか。 しかし、この40万の中で本体であるペルシア人は、そんなに多くない。ペルシア人の戦士は全部集めてもせいぜい10万程度です。ペルシア領内の色々な民族から兵士は集められている傭兵。烏合の衆という訳だろうが戦う前にそんなこと考えたのかしら。
ペルシア軍にはギリシア人の傭兵も結構いたんですよ。食い詰めたギリシア人がペルシアまで出稼ぎに来ているんだ。なにしろギリシアの重装歩兵は強力ですから、重宝されていた。 のちの時代の壁画ですが、イッソスの戦いを描いた絵です、逃げようとするダレイオス3世の後ろに控えているこの軍勢は長い槍を持っているでしょ。これ、重装歩兵です。ペルシア大王の親衛隊になっているんだ。 まあ、そんなわけで、ペルシア軍は数は多いが、決して一つにまとまった大きな力を発揮できる状態ではないということです。アレクサンドロスは当時の武将にしては珍しく情報収集能力にも秀でていたということか。
前333年、イッソスの戦い。戦いは乱戦になります。アレクサンドロスは自分から真っ先に敵に突っ込んでいくタイプです。ペルシア大王の本陣にまで肉薄します。
ペルシア大王ダレイオス3世は、どちらかといえばお坊ちゃんで、こういう戦には向いていなかった。ギリシア軍が迫ってくるとあわてて戦車の向きを変えて逃げてしまった。王様が逃げて他の一般兵士が頑張ることはないです。イッソスの戦いはアレクサンドロスの大勝利となる。

  勝ったあと、戦場には財宝がたくさん残されていたんです。何故かというと、ダレイオスは戦場でも豪勢な生活をするために特別の天幕に家具調度品を持ち込んでいたの。ついでに自分の母親に妃、お姫様まで連れてきていたんですな、これが。でも、彼女たちみんな置き去りにして逃げちゃった。この妃やお姫様はものすごい美人だったらしい。
みーんなアレクサンドロスのものになる。ですが、アレクサンドロスは彼女たちには指一本触れず丁重に保護をしたんだ。この辺は禁欲的で潔癖でしょ。哲学者アリストテレスの教えを忠実に守っていたのか。
これをあとで伝え聞いたダレイオス3世は、「もし余がペルシア大王でなくなったとき、代わりに玉座に座るのはアレクサンドロスであって欲しい」と言ったとか。
つまり、ペルシア帝国を滅ぼして、その領土を支配するつもりなら、ペルシア人の協力は絶対必要でしょ。ペルシア人を手なづけるにはどうしたらよいか。 彼のペルシア王妃達に対する保護にはそういう深謀遠慮があったようだ。だから彼の軍隊はペルシア人もどんどん将軍に取りたて急速に勢力を拡大。

このあとアレクサンドロスはすぐさま逃げたダレイオスを追わずに、進路を南に取ります。 まずフェニキア攻略を目標にします。7ヶ月かけて、ティルス市を攻略。ギリシアの海上貿易の利益にとってはフェニキアはライバル。
そして、エジプトに入ります。エジプトではペルシアの支配に対して抵抗が強まっていたので、ギリシア軍は歓迎される。アレクサンドロスは解放者として迎えられていい気分。
アリストテレス   次が前331年、アルベラの戦い(またはガウガメラの戦い)。エジプトからメソポタミアに軍を進めたアレクサンドロスとダレイオス3世の最後の決戦。ペルシア側は100万の軍勢です。4万のギリシア軍に勝ち目はないと考えたパルメニオン将軍はアレクサンドロスに進言しました。「王よ、この大軍に勝つには夜襲しかありません。」アレクサンドロス答えて言う。「私は勝利を盗まない。」

これもアレクサンドロス伝説ですから本当かどうかは不明。ペルシア側は逆にギリシアの勝機は夜襲しかないと考えた。そこで、夜襲に備えて全軍に完全武装で起きているように指示を出した。アレクサンドロスが夜襲をかけたら、すぐさま逆襲にでようと言うわけです。しかし、アレクサンドロスは全然その気はないでしょ。 ペルシア軍はいつ来るか、いつ来るかと緊張しながら夜を明かしてしまいました。徹夜で緊張してくたくたです。 一方のギリシア軍はぐっすり眠って元気一杯で朝が来た。というわけで、翌日の決戦はアレクサンドロスの勝利となった、という。チョットできすぎた話だね。と言ってもあまりにも多勢に無勢、どういう戦いをしたのか??

実際に今度の決戦も乱戦になって、またもやダレイオス3世は逃げ出してしまうんです。そのため全軍総崩れになって負けてしまった。
これで、事実上ペルシアは滅亡し、アレクサンドロスがその帝国の後継者になりました。逃げたダレイオス3世は地方のサトラップ(総督)の裏切りで殺されてしまいました。
  アレクサンドロスはその後も旧ペルシア領を支配下に納めながら東に向かって転戦。前326年にはインダス川を渡りインドに侵入しました。
アレクサンドロスは本気で世界征服を考えていたのか。人間の住む所どこまでも東に向かうつもりみたいです。見知らぬ土地への好奇心が人並外れて強いようだ。だから、彼の率いる兵士達は不安になるんだね。おい、大王よ、どこまで行くつもりだ。そろそろギリシアに返して欲しい。この段階で兵士達がストライキ。もう帰りたい、と言うんです。東方遠征に出発してからすでに8年が経っている。

いくらアレクサンドロスでも兵士が動かなければどうしようもない。ようやく遠征は終わりアレクサンドロスの軍は帰途に。ただ、アレクサンドロスがマケドニアに帰ることは無かった。彼はペルシア帝国の後継者としてバビロンから帝国を統治しました。彼の作ったこの大帝国は名前がありません。というのはこのあとすぐにアレクサンドロスは死んでしまうから。

【アレクサンドロスの政策】   短い間とはいえアレクサンドロスが進めた政策は画期的。まず彼は新たに征服した領土にアレクサンドリアという名前の都市を建設します。中でもエジプトのナイル河口に築いたアレクサンドリアが有名。帝国各地に支配の拠点として同じ名前の都市をたくさん造っている。全部で70以上あるらしい。 この新しく造った都市にアレクサンドロスがギリシアから連れてきたギリシア兵達が住む。中央アジアやインドに近いアレクサンドリアに住まわされたギリシア人達はギリシア本土から遠く離れているし、現地の人々と結婚なんかしてやがて土地の人たちに吸収されていくんですがね。しかし、ギリシア風の文化がこういう地域にも広がったわけです。ヘレニズム文化と言うやつか。

何年か前のことですがNHKで、インドの山奥の谷あいに住む部族が紹介されたらしい。その部族の人々は自分たちこそアレクサンドロスがインドに残したギリシア人の末裔と名乗っているとのこと。顔つきや風俗も周囲のインド人と違うようだ。そういう人々が今でもいるらしい。ガンダーラ文化何て言うのもあったね。

  さらに、アレクサンドロスはギリシア文明とオリエント文明の積極的融合をめざす。具体的には民族融合を考えたようです。面白いことアレクサンドロスは、師アリストテレスのギリシア人は特別(他民族はバルバロイ)という思想だけは受け入れなかったようだ。ギリシア兵士とペルシア貴族の子女との集団結婚なんていうのをやります。自分自身もペルシア王族の女性を妻にする。広大な帝国を治めるためにもペルシア人をどんどん登用します。アレクサンドロス自身がペルシア風に傾いていく。
これがマケドニア以来アレクサンドロスの身近にいた貴族グループとの間にしっくりしない雰囲気を生み出します。「アレクサンドロスの勝利はマケドニア人のおかげじゃないか」と、不満を持つ。
  また、エジプトでアレクサンドロスはシワーという神殿都市に行くのですが、ここの神殿で神の生まれ変わりというお告げをうけて、すっかりその気になる。エジプト人に歓迎されていい気持ちでいた上に、これですからね。しかも、もともとエジプトは王を神の化身と考える伝統がある。神の生まれ変わりといわれ、神の化身のように接待される。
ここに来て王を友人のように対等に近い感じで扱うマケドニア人やギリシア人との落差が目立つように。 ペルシア人の王に対する態度もエジプトに近い。王を高いところに置いてお仕えする感じです。難しい言い方をすると、ペルシアやエジプトの王の在り方は「専制主義的」なのです。
アレクサンドロスにとってギリシア風よりもオリエント専制主義が気に入ったことはもちろんです。そして、彼はギリシア人やマケドニア人に対しても神のごとく自分に接するように強制しはじめます。気軽に声をかけるな、話すときは跪け、とかね。

これに対してマケドニア貴族の中からは反乱計画なども出てくる。こういう状況の中でアレクサンドロスは突然死んでしまいます。アラビア方面に遠征計画があってその出陣を祝う宴会で突然倒れる。何日か寝込んだ後で亡くなります。死因は不明。33歳。

【ヘレニズム諸国】
  後継者が問題になる。子供がまだないんですよ。妃の一人が妊娠中で、アレクサンドロスの死後息子が生まれますが、こんな子供に統治能力はないですね。あと、肉親としては腹違いの兄がいたのですが、この人は知的障害があって、もともと王位には耐えられない。
臨終間際にアレクサンドロスは後継者についてきかれてこう言った。「最も王たるにふさわしいものに」。アレクサンドロス自身、跡継ぎを残そう等と言う発想全く無いようだ。
彼の死後、マケドニア貴族の有力武将による後継争いの戦争が起こる。この結果、アレクサンドロスの帝国は大きく3つの国に分かれる。

マケドニア、ギリシアに建国したのが、アンティゴノス朝マケドニア、旧ペルシア領に建国したのがセレウコス朝シリア。エジプトにプトレマイオス朝エジプト。
何とか朝というのは建国した将軍の名前。このあと、その子孫が王位を継承していくことに。セレウコス朝シリアは領土が広すぎて中央アジア方面まで統制できなかった。中央アジア方面のギリシア人総督は、やがて自立してバクトリアという国を建設しました(前255)。ペルシア本土、現在のイランですが、ここではパルティアというペルシア人の国が自立(前248)。

いちばん長く続いたヘレニズム諸国がプトレマイオス朝エジプト。ここの最後の王が有名なクレオパトラ。世界三大美人だそうですが。このクレオパトラですが、何民族だったかというと、当然、ギリシア人なんですね。良くクイズにも出される。アレクサンドロスの武将プトレマイオスの子孫だから。ヘレニズム時代というのはギリシア人が支配者であった時代でもあるわけです。
ヒュダスペス河畔の戦い 【ヒュダスペス河畔の戦い(Battle of the Hydaspes RIver)】
ヒュダスペス河畔の戦い(Battle of the Hydaspes River)は、紀元前326年に行われたアレクサンドロス3世(大王)率いるアルゲアス朝(マケドニア王国)およびインド諸侯の連合軍(以下、「アレクサンドロス軍」と表記)と現代のパンジャーブ地方一帯の領主でパウラヴァ族(Paurava)首長であったポロス率いる反アレクサンドロス・インド諸侯軍(以下は「ポロス軍」と表記)との戦いである。「ヒュダスペス川の戦い」とも称される。アレクサンドロス軍にとってガウガメラの戦い以来となる戦象を擁する軍との対戦であり、アレクサンドロスにとっては最後の主要な一戦となった。戦いに騎兵ならぬ象兵が投入されたことも注目。
ペルシア帝国を滅ぼし、ペルシアの残党をヒンドゥークシュで討伐したアレクサンドロスはインダス川を渡り、インドに対する侵攻作戦を開始した。アレクサンドロスがこの時に率いた軍勢は135,000や41,000や46,000と資料により差があるが、いずれにしても大軍であった。アレクサンドロス軍はインダス川とヒュダスペス川(現:ジェルム川)の間にある町で最も大きな規模を有し、ガウタマ・シッダールタが度々治療に訪れ、ギリシアにも名が届いていたタキシラ(現:ラーワルピンディー近郊)に入り、タキシラの首長・アーンビ(ヒンディー語: Ambhi、古代ギリシア語: Taxiles)らの歓迎を受けた。
タキシラで暫く過ごしたアレクサンドロスであったが、ヒュダスペス川からアケシネス川(現:シェナブ川)に至る一帯の支配者であったポロスは、ヒュダスペス川近くの領主であったスピタケス(Spitaces、Spitakes)らと共にアレクサンドロスに対抗する姿勢を見せて、アレクサンドロスによるヒュダスペス川の渡河を阻止すべく、軍勢を率いて対岸に陣を構えた。
ヒュダスペス渡河
アレクサンドロスはインダス川を渡った際に使用した船を全て解体した上で、ヒュダスペス川まで運ぶように命じて、到着後に再度組み立ててヒュダスペス川沿いに並べた。また、アレクサンドロスも本陣をポロス軍の対岸に構えた。
ポロスはヒュダスペス川の川幅の狭い渡河の容易な地点を中心に警備の部隊を配置したのに対して、アレクサンドロスは自軍を複数に分けてヒュダスペス川の至る場所に襲撃または偵察として派遣し、ポロスの目先を逸らす作戦を取り、ポロスもアレクサンドロス軍の動きに惑わされて、一箇所に集中して対応することが難しくなった。 とはいえ、アレクサンドロス本陣の近くより河を渡ることは、対岸に戦象部隊や多数のポロス軍の兵士が陣を構えており、極めて困難であることから、ポロスの本軍を牽制させる為に本軍の指揮をクラテロスに任せて、自らは5,000を超える騎兵を率い、その他に歩兵部隊らを伴って、本陣から150スタディア(約27キロ)離れた、ヒュダスペス川が湾曲した地点より川を渡ることに決めた。インド全体が雨季に入り、ヒュダスペス川の水源となるカフカース山脈の雪が解けることで川の水量も多くなっていた。また、アレクサンドロスが渡河を試みた日は激しい雷雨の中という悪天候であったが、逆にポロス軍に動きを悟られにくくなったこともあって、警戒を切り抜けて川を渡ることに成功した。
アレクサンドロスの渡河に気づいたポロスは、自らの息子に軍を与えてこれに当たらせたが、アレクサンドロス軍はポロス軍に勝利を収め、ポロスの息子は戦死、多数の戦車が拿捕された。これに呼応して対岸のクラテロス率いるアレクサンドロス本軍がヒュダスペスを渡る構えを見せたが、ポロスは一部の守備隊を残すと共に、その残りの全軍を率いてアレクサンドロス率いる軍との決戦に向かった。
ポロス軍は 軍中央の第1列に戦象、軍中央第2列、軍左翼・右翼へは歩兵部隊、最左翼及び最右翼へは騎兵部隊、騎兵部隊の前列に戦車部隊とする陣立てを取った。
アレクサンドロス軍は、ポロス軍中央の戦象部隊との直接衝突を避けて、自らは騎兵部隊の一部を率いてポロス軍左翼を攻撃、転進したポロス軍左翼をアレクサンドロス率いる騎兵部隊が追撃しつつ、アレクサンドロス軍の別の騎兵部隊がポロス軍左翼の後方に回り込んで、これを包囲した。
包囲によりポロス軍左翼歩兵部隊は戦象部隊が属するポロス軍中央へと後退し、ポロス軍も中央の戦象部隊をアレクサンドロス軍騎兵部隊へと差し向けたが、待機していたアレクサンドロス軍の歩兵部隊(ファランクス)がこれを迎撃して、戦象の足及び象使いに的を絞って攻撃した。この攻撃を受けて、戦象が混乱をきたしてポロス軍、アレクサンドロス軍の陣営に関係なく暴走し、戦象の近くで戦っていたポロス軍に大きな損害が生じた。暴走した戦象は体力が尽きるのを待っていたアレクサンドロス軍歩兵部隊によって無力化された。
ポロス軍は騎兵部隊、歩兵部隊共にアレクサンドロス軍に打ち破られて退却したが、この戦いの趨勢に合わせてヒュダスペス川を渡っていたクラテロス率いるアレクサンドロス本軍が敗走するポロス軍を追討して、多くのポロス軍兵士を殺戮した。
ポロス軍はポロスの2人の息子及びスピタケスを含む兵士12,000が戦死、9,000が捕虜となり、戦車も全て破壊された。一方のアレクサンドロス軍の戦死者は歩兵4000、弓兵200であり、他に8,000名近くが戦死もしくは負傷した。ポロスは自ら戦象を操って奮戦したが、アレクサンドロス軍の捕虜となった。アレクサンドロスはポロスの降伏を受け入れて、ポロスの勇戦振りを評価して今までの所領以上の領土を与え、一帯の支配者として認めた。ポロスもアレクサンドロスのインド転戦中は数々の戦いに参戦した。
なお、ヒュダスペス河畔の戦いを記念してアレクサンドロスは2つの町を作った。1つはアレクサンドロスの軍馬で、この戦いで死亡したブーケファラスに因んで、「アレキサンドリア・ブーケファリア」、もう1つは勝利の女神ニケに因んで「アレキサンドリア・ニカイア」と命名した。アレクサンドロスはヒュダスペス河畔での勝利に続いて、更なる進軍を目指したものの、先のインド軍が「騎兵80,000、歩兵200,000、戦車8,000台、戦象6,000頭」を用意して待ち構えていると伝えられたことや、アレクサンドロス軍の損害が大きかったこと、兵士が望郷の念に駆られたこと等の理由によって、マケドニアおよびギリシア出身の兵士はそれ以上進軍しないよう懇願した。アレクサンドロスは兵士らを説得したが、結局は兵士らの意見を汲んで、バビロンへの帰路に着くこととなった。
両軍の戦力について、アッリアノスによるとポロス軍の戦力は騎兵4,000、戦車300、戦象200、歩兵30,000、死傷者はポロス軍が歩兵20,000、騎兵3,000が戦死、アレクサンドロス軍が歩兵80、弓兵10、騎兵220となるが、当記事は英語版wikipediaが採用しているプルタルコスらの記述に基づく。
世界史の中になかなか出て来ないインドの政権だけど、ペルシャ軍と比べてもなかなかの強敵だ。ポロスとはどのような人物だったのか。一地方長官レベルが、国王レベルか?

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孟子

孟子は孔子に次ぐ儒教の伝承者として重要な人物となっている。孔子と孟子の教えを「孔孟の教え」と呼ぶほど儒教の中心の教えとなっています。孟子は孔子の孫の子思の門人として学び、諸国を遊説しますが、戦国時代の背景の中では理想主義と排され、その後は隠遁生活を送る。しかしその思想はのちに再評価されることになる。

孟子 *孟子(もうし、拼音: Mèngzǐ、紀元前372年?~紀元前289年)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。
*孔子(こうし、: Kǒng zǐ 、紀元前552年~紀元前479年)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。

孔子は春秋時代に生きた人でしたが、孟子はその後の戦国時代に生きました。ほぼ 2 世紀弱後。孔子は BC6 世紀、孟子は BC4 世紀の人。戦国時代の特徴としては、武力抗争が盛んであったことと、孟子もそこに含まれる「諸子百家(しょしひゃっか)」と呼ばれるさまざまな学者や思想が現れ、学派が乱立したことが挙げられる。彼らは、国の統治や社会の安定について互いに論戦を重ねる。

母の逸話「孟母三遷」と「孟母断機」が有名
孟子の母は今でいう教育ママだったとされ、それにまつわる逸話があります。孟子は墓地の近くに住んでいたところ、葬式ごっごをして遊ぶようになったため、母親は市場に引っ越したが、今度はお店屋さんごっこをして遊ぶようになった。そこで今度は学校の近くに引っ越したところ勉強するようになったという逸話が「孟母三遷(もうぼさんせん)の教え」とされています。
また、修行の途中の孟子が家に帰ると、機織りをしていた母親が完成途中の布を断ち切り、学問を途中でやめるのはこれと同じことだと言って師の元に追い返したという「孟母断機(もうぼだんき)の戒め」があります。ただ、この逸話は、孟子の生い立ちを語るためにのちに創作された話だともされています。


孟子は「人は生まれついての悪者はいないのだから、悪に染まらないよう学問を修め、努力すれば誰でも聖人になれる」とする「性善説」を唱え、人間の本質を突き詰めてゆきました。生前は理想主義的としてあまり認められなかったようですが、最終的には儒学の本流に組み入れられる。
一方この逆の立場に立つのが同じ儒家の荀子。煎じ詰めれば「人は生まれた時には、性悪なので学問を修め矯正し、努力しなければ聖人になれない」とする立場。「性悪説」の元祖。荀子も偉い人で後の法家思想の源流ともいえる。
孟子は人が生まれながらに持っている「四端」の概念を用いて性善説の根拠を説明します。四端とは「仁・義・礼・智」のことで、仁は人を憐れむ心、義は自分の不正を恥じる心、礼は人に譲る心、智は是非(正しいことは良いこと、不正は悪いこと)の心、をそれぞれ表す。生まれたままの状態の四端は小さいが、学問をし修養を積めば四端の徳を自分のものにできるとしました。
そして、のちに登場する儒教の一派である朱子も性善説を採用する。朱子学は江戸時代には幕府公認の学問とされ日本にも広がる。中でも性善説は「吉田松陰」に大きな影響を与えることになります。ただ、日本では朱子学よりも陽明学の方が盛んになっているのは大陸と異なる点だ。
孟子は政治に理想は、「王道政治」であるとした。王道政治とは、仁義に基づいて有徳の君主が国を治める政道のことをいいます。王道政治の反対は、武力や策略によって支配や統治をする「覇道政治」。では、「王道政治」とは何か。孟子は、世の中の安定には人の心の安定が必要だと考え、「道徳」を最重要視したようだ。

では、その道徳は誰が作ったか。性悪説の弱点は、支配者が作った道徳ではどうしても作為性が強く、万民が納得できる教えにならないことだ。しかし、道徳というものが厳然と存在する以上、その起源を解明しないと納得できないでしょう。
孟子の師、孔子は道徳の起源はずっと過去に遡ると考えていた。三皇五帝の時代の王達が理想のリーダ像として語られる。夏→殷→周と言った時代。孔子ほど歴史を学ぶ大切さを強調した思想家は少ないのではないか。過去に遡る程、人間はより道徳的に行動できる。

「仁義に基づく王道政治」の「仁義」とは、「思いやりの心」をいう「仁」と、「正しい行い」をいう「義」を道徳の基本理念とする思想です。これは。孔子が最も大切な徳として説いた「仁」の思想を一歩進めたものです。情緒的な愛の概念である「仁」に対して、それを秩序に落とし込む「義」の概念を明確にしたことで、仁義の規範性が明確になったといえます。
時代を過去に遡れば、狩猟採集の時代に行きつくでしょう。更に遡れば類人猿、哺乳類全体と人の進化の解明そのものに繋がっていきます。

以前、チンパンジーにも正義があるという説を紹介したことがあります。確か、出典は橘玲さんの本だったか。
チンパンジーは、第一位のボス猿(アルファオス)を中心とした、厳しい順位社会を構成していますが、ある種の正義感情が共有されており、メンバーの行動に正統性を与える機能をしていることは、次の実験からも知られています。

例1:順位の低い下っ端のサルに餌を与えます。そこにたまたまαオスが通りかかります。αオスは,掌を上にして「物乞いのポーズ」と言われるポーズを行い餌をねだる。決して力ずくで取り上げることはしない。チンパンジーの世界にも先取特権が存在し、所有権の侵害は許されないという正義が存在していることになる。

例2;真ん中をガラスで仕切った2つの部屋に2頭のサルを一匹ずついれ、キュウリを与えると両者とも喜んで食べる。ところが1頭の餌をリンゴに変えると、キュウリを食べていたサルは、キュウリを放り出し、怒り狂う。自分だけが一方的に不当に扱われるのは、平等の原則に反する。

例3;異なる群れから選んだ2頭のサルを四角いテーブルの両端に座らせ、真ん中にリンゴを置く。はじめは取合いを行い、先に手にした方が食べるが、何回か繰り返すうちにどちらが手を出さなくなる。一度序列が決まると、上下の掟は絶対となる。

これは、よく見ると孟子が理想としていた道徳と良く似てますね。チンパンジーも人と同じく社会生活をしている。だからこのような道徳規範があった方が、群れが良くまとまる。覇道政治より、王道政治が好まれるわけだ。

ところが、生物の本を読んでいたらこの実験は実際にはチンパンジーではなくアカゲザルと言うサルで行った結果だと言う。多分日本猿にも当てはまるでしょう。だからこのような道徳規範は、哺乳類(多分鳥類も)のように知能のある生物が社会生活をするようになった結果生じたものらしい。昔のヒト程道徳的で、現代人は不道徳となると、人は本当に進化していると言えるのでしょう。

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呉 漢(ごかん)

宮城谷昌光氏の歴史小説のタイトル。もちろん呉 漢(ご かん、? - 44年)は実在人物で後漢(ごかん)の武将。ゴカン(後漢、呉漢)をかけているのが面白い。劉邦によってつくられた漢帝国は、王 莽(前45年~ 23年)によって滅亡させられる。8年には王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国。この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪に相当すると見なされた。王莽という人物はよく分からない。極めて理想主義者の一面もある。ただ政権簒奪に当たっては皇后(自分の親族)を利用している面もある。後の世の評価では滅茶苦茶悪行の限りを尽くしたとか。結局地方の割拠する豪族達に見放され自滅する。
光武帝 呉漢は、後漢の武将。家は貧しく、県に出仕して亭長となるが、その賓客が法を犯したため戸籍を脱し、彭寵と共に漁陽に逃げ、馬を商うなどして幽州に暮らし、地元の豪傑と誼を結んだという。 そのうちに劉秀(後の光武帝)に認められ大出世をすることに。
朴訥な人物であるが、勇猛で知謀ありと鄧禹によって見出された。朝廷では明察で謹厳質朴と見られ、戦場ではいつも冷静で挫ける事が無く、光武帝は呉漢を見れば安心できたと言う。平時に光武帝が様子見させると武具の手入れをしていて、常に戦いに備え、何時でも出陣できた。光武帝は寛容な人柄で部下には優しく接していたということだが、その結果が呉漢帝国の統治にゆるみが出て後の滅亡に繋がった可能性がある。

【小説の魅力】
 経営トップらのファンが多い中国歴史小説のベストセラー作家、宮城谷昌光氏の最新刊「呉漢」(中央公論新社)が好調だ。約2000年前に後漢を建国した光武帝(前5~57年)に尽くした腹心の武将、「呉漢」に焦点を当てた。光武帝と呉漢のコンビはどのようにして分裂した中国全土を統一していったのか。現代の企業社会にそのまま応用できる「呉漢」のリーダーシップを宮城谷氏に聞いた。

「寛容力」で中国全土を統一した光武帝、宮城谷氏は「光武帝は中国史上でも異色の皇帝」と語る。
 ――漢の高祖が建国した前漢を王莽(おうもう)が簒奪(さんだつ)し「新」を建国しましたが農民の反乱や盗賊の横行で中国全土は混乱を極めます。各地の王族や豪族が蜂起した群雄割拠の中から統一政権を樹立したのが後漢の光武帝でした。
 「後漢は古代の日本の古代史とも関わりの多い王朝ですがあまり知られていないですね。以前に光武帝(劉秀)を主人公に『草原の風』(中央公論新社)を書きましたが、中国史の中でも極めて異例のリーダーだと考えています」

 ――中国史では新王朝の初代皇帝は異民族か前時代のアウトローのケースがほとんどです。光武帝は漢王室につながり前王朝の復興を旗印にした珍しいケースですね。そのリーダーシップはどこにあったのでしょうか。でも、必ずしも正統な後継者と認められていた訳でもなさそうだ。

 「光武帝は青年時代から真面目という評判でした。その点からも劉邦(漢の高祖)とはだいぶ違う(笑)。だから挙兵した時は周囲に驚かれると同時に信用もされました。人民をいじめたり略奪する軍ではないと思われました」
 「光武帝がほかの中国皇帝と異なるのは、その寛容力にあります。赤眉(せきび)と呼ばれる全国的な盗賊の軍隊を光武帝は追い詰めるのですが、最後に許してしまう。敵対していた緑林(盗賊のこと)の人間も重用していく歴史上あまり類のない度量を発揮しました」

2000年前にもいた「働いたと見せかける」部下
宮城谷氏は「光武帝は中国史上でも異色の皇帝」と語る
 「光武帝の軍隊も百戦百勝では決してなく、手痛い敗戦や失敗を経験しています。それでも配下の将軍を罰してはいません。許す力で中国を統一したのです。光武帝は大変革を行いませんでした。改革が大きければ反動も大きい。14年間かけて天下を平定しました。ゆっくり時間をかけて新王朝を作り上げていきました」
 ――現代人から見れば光武帝は理想の上司に見えます(笑)しかし、ただ許す力だけで国家なり組織なりを運営していけるのかどうか疑問も残ります。部下を統括していくポイントはどこに置いていたのでしょうか。
 「光武帝が一番嫌ったのは偽善です。偽善が最悪、まっすぐな悪より悪いという考えでした。軍事的な失敗は処罰しないのに、大臣クラスの悪事には入獄させたり処刑したりしています」
 「恐らく光武帝は、王莽が偽善的な方法で前漢朝廷の中で簒奪していく過程を観察していたのでしょう。前王朝の優秀な官僚、エリートがたくさんいながら誰も王莽にストップをかけられない。エリートたちは自分の能力を発揮させられれば正義というものは考えなくていいのかという思いがありました」
  ――現代の企業でも自分や上司のために不正に目をつむり、結果的に組織を危機的状況に陥れているケースがあります。
 「2000年前にもトップの前でだけ働いているように見せかける偽善的な部下はいました(笑)。トップの目がどこを向いているのかは分かるのです。動いていても実質はもたらしていません。大局的に動かない方がいい局面でも、働いているように見せるために動くのです」
 ――光武帝はどう部下を教育していったのでしょうか。
 「後漢が重んじたものに『孝経』があります。論語よりも重用しましたが、要するに『親孝行しなさい』というだけの書物です(笑)。ただ邪心・邪念があっては親孝行できません。邪心ない人間を登用するのが光武帝の基本形でした。理ではなく情に熱い人間を多く抱えようとしたのが王朝の仕組みとして成功したといえます」
質問の「質」が学ぶレベルを決める
 ――さて主人公の呉漢です。この小説では貧しい農民の出身ながら「地」を見つめてきた人物として描かれます。日本人に人気の高い諸葛亮孔明のような天才的な人物ではなかったのですね。
 「光武帝に起用されるまでの呉漢の経歴は後漢書でもほとんど記されていません。常勝将軍ではなく、失敗や敗北もしました。しかし光武帝から処罰されたり疑われたりはせずに『司馬』という軍事・軍政トップを維持しました」
 ――乱世とはいえ、軍事的な教育を受けていない農民出身の呉漢が、将軍として抜てきされ活躍できたのは不思議ですね。
 「呉漢は部下の扱いがうまくいかない面もありました(笑)。独自に部下の掌握術を編み出したのでなく、光武帝に質問し模倣したのでしょう」
 「呉漢は人から学ぶということをうまくやれた人物だったのでしょう。質問の質が優れていたと思います。質問の質が悪ければ答えも悪くなります。以前に誰かがしたようなありきたりの質問をすれば、答える側も以前聞いたことのあるような回答になります。『今までと違うぞ』と思わせる質問をすれば相手も優れた答えを考えることになります」
 ――呉漢のような良質の質問は現代のビジネスパーソンでも応用できそうですね。具体的には人脈を広げてビジネス環境についての情報収集に注意すればよいのでしょうか。
 「人間同士の交流だけではない部分から問いを発する必要があるでしょう。マスコミやテレビからの情報だけでは受け身の問いになってしまいます。呉漢の『地を見て教えられたこと』もよい質問をするために役だったといえます」
 「呉漢自身の才能という点では軍を動かすときのスピードの速さですね。これは模倣ではできない。当時は出動命令が出てもすぐには準備できません。呉漢軍はいつでも用意ができている。トップからすれば使いやすい、多少ミスをしても許そうということになります。呉漢自身に私欲がなく、光武帝のために働くのが楽しいといった点も光武帝は見抜いていました」

AIは作家を超える作品を書けるか
 ――小説「呉漢」には呉漢の生涯の軍師格「祇登」も登場し、大事な局面で呉漢を助けます。  「私が想像した架空の人物ですが、当初はこんな重要な役割になるはずではなかったのですが(笑)。小説には同じように配置しても成長する人物と成長しないケースとが出てきます。連載が終わって『案外成長しなかったな』という場合もあります」
 ――人工知能(AI)を使って小説を書く試みも出てきていますね。
 「小説は書き手自身がすべて計算通り動かしているわけではありません。登場人物が自分を飛び越えていってくれないと小説は面白くない。自分自身が驚くということが芸術には必要です。良い作品は絶対自分を超えていく。超えていった作品に自分がついていく形になるのがよいのです」
 ――宮城谷さんの才能を高く評価していた司馬遼太郎氏は晩年小説をやめてしまいました。宮城谷さんは70歳を超えた現在でも質の高い作品を発表し続けています。孔子の生涯を描く「孔丘」の連載もスタートしました。生涯現役の秘密はどこにありますか。
 「特別な健康法はありません(笑)。ただ数年前から次に何を書くかを考えて(1)史料集め(2)ノート取り(3)年表作り――を準備しています。『孔丘』は呉漢を執筆中に用意を進めていました」
 「現在は昼12時くらいに起床してブランチ。自宅近くの事務所に移動して午後1時から5時ころまで1日原稿用紙5枚くらい書きます。自宅で夕食。夜は史料調べに使います。エッセーはリズムが違うので夜に書きます。午前2時か3時に就寝。そういう日常です」
 ――東大阪市の司馬遼太郎記念館は司馬氏の書斎がそのまま保存してあって、司馬氏が読みかけだった宮城谷さんの小説がそのまま机の上に置いてあります。宮城谷さんの文学記念館の計画はありませんか。
 「現在はありません(笑)」 (聞き手は松本治人)

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貞観政要

李世民 太宗は唐を建国した李淵(高祖)の子。第2代皇帝太宗として律令体制の整備に努め、7世紀前半の「貞観の治」の安定期を出現させ、周辺諸国に対しても優位にたち東アジア世界に秩序を打ち立てたとされる。太宗は世界帝国「唐」の建国の父か。李世民は、父李淵(高祖)に勧めて挙兵し、唐の建国に功績があった。第2子であったが、兄の李建成を殺害し、父の高祖を幽閉(626年の「玄武門の変」)して第2代の皇帝太宗(在位626~649年)となった。このような異常な方法で権力を握った皇帝であるが、統治者としては中国史上でも有数の名君とされ、その統治は「貞観の治」と言われている。 皇位を奪い取った簒奪者の汚名をそそぐために善政に努めたともいえるかも。

貞観の治
 太宗は即位の翌627年、貞観と改元し、さらに628年には陝西省の一部に残った独立政権を滅ぼし、唐の全国統一を完成させた。内政では貞観律令を制定など律令制の整備に努め、三省六部制を確立させ、『貞観氏族志』を編纂させて氏族の格付けを行って貴族支配を安定させた。その統治は、年号に基づいて貞観の治と言われた(649年まで)。太宗を補佐した者の中には、魏徴や房玄齢など、名臣と言われる人物が多く、かれらは太宗に対して直言し、太宗も好くその進言を聞いたという。太宗と名臣たちの政治に関する問答をまとめた書物が『貞観政要』である。貞観政要は国の治め方、 部下の使い方、部下の心得などの容量を簡潔にまとめており、日本でも会社経営の教科書として使っている経営者もいるらしい。

突厥との戦い
 トルコ系遊牧国家である突厥は北魏の末期にモンゴル地方で急速台頭し、柔然を倒して強大になる。北魏が分裂し、東魏・西魏の対立、さらに北斉・北周の対立が続いた時期に最も有力となり、華北の諸王朝を従属させる勢いがあった。しかし、隋が華北に登場し、さらに中国を統一して突厥に攻勢をかけたため、突厥は583年に東西に分裂した。
 東突厥はその後、モンゴル高原で契丹などの北方系民族を従え、隋末の混乱に乗じて再び有力となった。中国北方で隋に反旗を翻して挙兵し唐の建国を宣言した李淵も隋との戦いでは突厥の騎兵の援軍に頼らざるを得なかった。しかし、628年に中国統一を成し遂げた太宗は、突厥に対して攻勢に転じ、630年に東突厥を滅亡に追いこむ。太宗は北方遊牧民等からも「天可汗」(北方遊牧民の王の称号)を送られ、漢民族の支配者のみならず、北方遊牧民をふくめた「世界帝国」の皇帝として認めらたことに。

世界帝国としての唐
 641年、吐蕃(チベット)のソンツェン=ガンポに対しては娘を嫁がせて和親策をとり、遠くインドのヴァルダナ朝ハルシャ王が使節を派遣すると、唐からは王玄策が派遣された。
 朝鮮半島に対しては、隋の煬帝の高句麗遠征の失敗を踏まえ、慎重を期したが、百済の要請を受けて645、647年に高句麗に出兵した。しかし、この時も高句麗軍の激しい抵抗を受け、失敗した。高句麗遠征には失敗したが、百済、新羅とは冊封関係を結んだ。(唐が新羅との連合軍で百済、高句麗を滅ぼしたが、新羅との戦争に破れたのは次の7世紀の後半、高宗の時である。)
 日本からは630年、第1回の遣唐使として犬上御田鍬が来朝し、太宗は632年に貴俵仁を日本に派遣した。この時の遣唐使に従って唐で学んだ人々が645年の大化改新の原動力となった(乙巳の変に加担したわけではないだろうが)。
 この他、周辺諸国からの朝貢を受け入れ、多くの留学生や留学僧が都長安に来た。このように太宗の時代は唐が「世界帝国」として成立した時代である。この時代は玄奘のインドへの旅行などが行われ、東西の文化の交流が進み、その都長安は国際色豊かな文化が繁栄した。

『貞観政要』(じょうがんせいよう)は、中国唐代に呉兢が編纂したとされる太宗の言行録。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる膨大なものだ。 本書は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たち(魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪ら重臣45名)との政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている。論語と良く似た創りみたいだ。君主と臣下は常に対話(ダイアローグ)によって政策を立案し、ディベートをしてはいけない。ディベートは勝ち負けがはっきりするし、君主と臣下はそもそも立場が対等ではない。古代の名君と言われる人物はどの世界でも対話が上手だ。

太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにあるようだ。中国には秦以来、天子に忠告し、政治の得失について意見を述べる諫官(かんかん)という職務があり、唐代の諫官には毎月200枚の用紙が支給され、それを用いて諫言した。歴代の王朝に諫官が置かれたが、太宗のようにその忠告を聞き入れた皇帝は極めて稀で、天子の怒りに触れて左遷されたり、殺されるということも多かったという。太宗は筋の通った進言・忠告を非常に喜び、至極もっともな言葉であると称賛し、普通の君主では到底改めにくいであろうところを改めたという。

また太宗は質素倹約を奨励し、王公以下に身分不相応な出費を許さず、以来、国民の蓄財は豊かになった。公卿たちが太宗のために避暑の宮殿の新築を提案しても、太宗は費用がかかり過ぎると言って退けた。太宗を補佐した魏徴ら重臣たちは今の各省の大臣に相当するが、その家に奥座敷すら無いという質素な生活をしていた。私利私欲を図ろうと思えば、容易にできたであろう立場にいながらである。 このような国家のため、万民のために誠意を尽くしたその言行は、儒教の精神からくるといわれる。中国では儒教道徳に基準を置き、皇帝は天の意志を体して仁慈の心で万民を愛育しなければならないという理念があった。また臣下にも我が天子を理想的な天子にするのが責務であるという考えがあり、天子の政治に欠失がないように我が身を顧みず、場合によっては死を覚悟して諫めることがあった。 しかし、太宗が儒教を重んじたという証拠はあるのかな。後世の儒家の勝手な思い込みかも知れない。太宗は仏教を嫌い道教の方を好んだとの話もあるようだし。しかし、古来から帝王学の神髄は洋の東西を問わず不変なもののようだ。組織のリーダー論にも通じるものがある。

ゆえに本書は、かつては教養人の必読書であり、中国では後の歴代王朝の君主(唐の憲宗・文宗・宣宗、宋の仁宗、遼の興宗、金の世宗、元のクビライ、明の万暦帝、清の乾隆帝など)が愛読している。また日本にも平安時代に古写本が伝わり、北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読されてきた。
本書の編纂は呉兢によるもので、時期は太宗の死後40から50年ぐらい、つまり武則天が退位して中宗が復位し、唐朝が再興した頃である。呉兢は以前から歴史の編纂に携わっており、太宗の治績に詳しいことから中宗の復位を喜んだ。そして貞観の盛政を政道の手本として欲しいとの願いから、『貞観政要』を編纂して中宗に上進した。その後、玄宗の世の宰相・韓休(かんきゅう、672年 ~ 739年)がかつて中宗に上進したその書を高く評価し、後世の手本となるように呉兢に命じて改編して上進させた。以後、『貞観政要』が世に広まった。
中宗に上進した初進本は中宗個人を対象としたもので、天子が心得るべき篇(輔弼(ほひつ)篇や直言諫諍(かんそう)篇、第4巻参照)があり、玄宗への再進本は後世の手本とするものなので、太子や諸王を戒める篇に改められている。

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唐代三夷教

唐代三夷教とは、中国の唐の時代において、隆盛した西方起源の3つの宗教。 キリスト教ネストリウス派(景教)/ゾロアスター教(祆教)/マニ教(明教) の3宗教を指す。

このうちゾロアスター教が南北朝時代にまず中国に伝わり、ついで唐代に入りネストリウス派キリスト教とマニ教が伝わる。いずれも、当時「西域」と呼ばれた地域を経由しての伝播であったが、唐の2代皇帝太宗は西域支配に乗り出し、640年(貞観14年)には高昌国を滅ぼして、そこに安西大都護府を置いた。この3宗教は、盛唐(8世紀初頭)の頃には玄宗による開明的な国家運営の下、首都長安においてそれぞれに隆盛期を迎え、史上「唐代三夷教」と呼称されることになる。当時、人口約100万を誇った長安は異国情緒あふれる国際都市で、市街ではインド人の幻術師やペルシア系の踊り子、歌手、楽士、酌婦、給仕などをみかけることも少なくなく、後宮ではポロが人気を博し、貴婦人のあいだでは乗馬が流行した。そうしたなかで、「三夷教」にも広く門戸が開かれていたのである。

しかし、3宗教とも、9世紀後半に武宗が行った会昌の廃仏において仏教とともに弾圧を受け、それ以降は中国史の表舞台からは姿を消す。ただし、その影響は様々なかたちで後世に残り、特にマニ教は明・清代に至るまで、社会のなかで隠然たる影響力を持ったとされる。

ゾロアスター教(祆教)
ペルシアのザラスシュトラが創唱した二元論的宗教ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であった。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、後続するサーサーン朝でも国教とされて王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた。ゾロアスター教は、火を崇拝するところから「拝火教」とも呼ばれた。

ゾロアスター教が中国に伝来したのは、5世紀の頃とされている。交易活動のために多数のイラン人がトルキスタンから現在の甘粛省を経て中国へわたり、そのことにより、当時、東西に分裂していた華北の北周や北斉に広まる。信者は相当数いたものと思われ、唐代には「祆教(けんきょう)」と称された。教団が存在し、その取締り役として「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」がいたとされる(その意味の詳細は不明)。隋や唐の時代になると、ペルシア人やイラン系の西域出身者(ソグド人など)が薩宝(薩甫、薩保)は1つの官職と認められて官位が授けられ、ゾロアスター教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された。首都の長安や洛陽、あるいは敦煌や涼州などといった都市に寺院や祠が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の祆祠(けんし)があったといわれている。しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったといわれる。

祆教の信者は多くの場合、ペルシア人や西域出身者であったが、当初は隊商の商人が多数を占め、のちには唐に亡命政府を樹立したサーサーン朝からの難民などが加わったものと思われる。祆教は、14世紀ころまで開封や鎮江などに残っていたと記録されているが、その後の消息はつかめていない。

ネストリウス派(景教)
ネストリウス派は、コンスタンティノポリス総主教のネストリオスにより説かれたキリスト教の教派の1つである。この教派は、431年、エフェソス公会議において異端として排斥されたため、宣教の中心を東方へ移動し、シリア、ペルシア、アラビア、南インドなどで布教した。アタナシウス派の三位一体説(確かに世界の宗教を見渡せば特異な思想だ)を否定する有力な教義で本来はこちらの方が主流だったと言われている。

中国へは、太宗の時代の635年(貞観9年)にペルシア人司祭「阿羅本」率いる一団の宣教師によって伝えられる。太宗は、その宣教を許し、3代高宗の時代になると、阿羅本は「鎮国大法主」という高い地位に封ぜられ、地方の州にも景寺(教会)を建てるよう詔勅が下される。中国では「景教(けいきょう)」と表記されたが、景教とは中国語で「光の信仰」という意味であり、景教教会は当初「波斯(ペルシア)寺」のちに「大秦寺」の名で各地に建立される。景教はまた、「ミシア(Missiah 救世主)教(メシアのことだね)」とも呼ばれ、「彌尸訶」「彌施訶」「彌失訶」などの字があてられた。

当初、唐の朝廷は皇族も含めた支配層が鮮卑や匈奴などの北族的要素を濃厚に有したこともあり、景教や仏教など非中華地域由来の宗教に対し寛容で、これらの信仰を保護した。698年(聖暦元年)、高宗の皇后であった武則天(則天武后)の仏教偏重政策により一時衰退したが、9代玄宗の時代には、寧王であった李憲ら五王が参拝し、庇護されるようになる。742年(天宝元年)には、玄宗が大将軍で宦官であった高力士に命じ、高宗・玄宗ら五代皇帝の御真影を寺に安置させ、また絹百匹を賜って祭るように指令しており、745年(天宝4年)には大秦国(東ローマ帝国)から、高僧として知られる佶和(ゲワルギス)が長安を訪れる。玄宗はアブラハムやパウロと称される17人の神職に命じ、ゲワルギスとともに興慶宮において景教式の大法会を執行させた。このような玄宗による景教保護には、景教による王権の権威づけといった意図もあったのだろう。

ネストリウス派は、8世紀後半の代宗(11代皇帝)の時代にも庇護された。このような隆盛を受けて、12代徳宗治下の781年(建中2年)には、有名な「大秦景教流行中国碑」が建立されている。
祆教とは異なり、景教には多数の中国人信者がいたことが判明。景教は当初ペルシア人によって伝えられたものであることから多分にペルシア化したキリスト教であったが、漢訳景教経典も遺存していることから、その教義の全貌も解明されてきている。それによれば、景教は仏教や道家(老子や荘子の思想)のことばも採用し、さらに、皇帝には忠を、親には孝を説くなど儒家の要素もあって、多分に中国化している。

しかし、唐代末期の845年(会昌5年)には、18代皇帝の武宗による「会昌の廃仏」(仏教の立場からは「三武一宗の法難」のひとつとされる)など、唐王朝を伝統的中華王朝に位置づける意識が強まって、弾圧の対象となる。

ネストリウス派は、布教によって、のちにモンゴル帝国を構成することとなる北方の遊牧民にも広がり、チンギス・カン一族のなかにも、また、カン家の姻族にあたる諸氏にも熱心な信者を獲得し、元の時代には再び中国本土でも広く信者を得る。錦江や杭州、揚州などでは会堂もひらかれた。しかし、モンゴル帝国中枢の諸集団は、西方ではイスラームとトルコ系言語を受容してテュルク化していった一方、東方ではチベット仏教を篤く信仰し、これを保護したため、ネストリウス派の信仰はしだいに衰亡、消滅していった。

マニ教(明教)
3世紀にペルシアのマニによって創唱されたマニ教は、諸教混交の平和的ないし普遍的な世界宗教として当初は西方へ、やがて東方へと信者を増やしていった。マニ教は、パルティアからサーサーン朝にかけてのギリシア・ローマ、イラン、インドの文化の接触と交流の一産物とみなすことができ、西はメソポタミア、シリア、小アジア、パレスティナ、エジプト、北アフリカ、さらにイベリア半島、イタリア半島にまで、東は中央アジア、インド、そして中国にまで伝播した。

中国には694年(長寿3年)に伝来し、「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」とも表記される。則天武后は官寺として首都長安城にマニ教寺院の大雲寺を建立。これには、西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻)との関係を良好に保つ意図があったともいわれる。こののち、漢字によるマニ教の経典もあらわれ、特に8世紀後葉から9世紀初頭にかけて長江流域の大都市や洛陽、太原などの都邑にもマニ教寺院が建てらる。マニ教徒は、中国では「白衣白冠の徒」と称された。 しかし、「会昌の廃仏」に先だつ843年(会昌3年)に唐の武宗によってマニ教が禁教され、会昌の廃仏では仏教のみならず「三夷教」も禁止され、多くの聖職者・宣教者が還俗させられた。そうしたなかにあって、マニ教の僧侶のなかから多くの殉教者を出していることが、当時、唐にあった日本からの留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている。

マニ教 ウイグルにおいては、8世紀後半の3代牟羽可汗の統治時代にマニ教が国教とされるほどの隆盛と国家的保護を得た。やがて反マニ教勢力の巻き返しによって弾圧を受けたが、8世紀末から9世紀初頭にかけての7代懐信可汗によって再び国教化された。しかし、上述のように中央アジアがイスラーム化するにおよんでマニ教も衰退。

五代十国時代以降、中国ではマニ教は仏教や道教の一派として流布し続けた。歴史小説『水滸伝』の舞台となった北宋の「方臘の乱」の首謀者方臘はマニ教徒であったともいわれている。弾圧のなかでマニ教は呪術的要素を強めていったために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで称された。官憲によるマニ教取り締まりは、しばしば江南地方や四川でなされており、そのなかでマニ教信者は「喫菜事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれている。

宗教に寛容な元朝においては、明教すなわちマニ教は、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、乱の指導者であった朱元璋が建てた「明」の国号は「明教」に由来したものだといわれている。しかし明王朝による中国支配が安定期に入ると、マニ教は危険視されて厳しく弾圧された。15世紀の段階ですでに教勢の衰退著しく、ほとんど消滅したとされてきたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社のひとつといわれる。 現在、唯一のマニ教寺院が福建省晋江市に現存し、中国政府により国家重要文化財(「全国重点文物」)に指定されている。

イスラム教
「三夷教」以外で西方に起源を有し、唐代に中国に伝播した宗教としては、イスラームがある。中国では「清真教」と呼ばれ、モスクは「清真寺」と表記され、また、当時勃興したイスラム帝国は「大食」とあらわされた。のちにウイグル(回鶻)の人びとが多数イスラームに改宗したことにより、イスラームを「回教」ないし「回々教」とする表記も広まった。

イスラームは中国全土に広く伝わり、言語・形質等の点で漢族と共通するイスラーム教徒、いわば漢族のムスリムは、「回族」として中華人民共和国の少数民族の一つとして認められている。現在、回族は中国全土に広く分布しており、その人口は2000年時点で約980万人とされ、中国領内のムスリム全体のおよそ半数を占めている。

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則天武后

則天武后 武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。つまり、唐の時代は第三代高宗でいったん途切れて国名が「周」となる訳です。すなわち易姓革命。日本では則天武后と呼ばれることが多い。悪女の評判もあるものの名君の素質もありそう。

**高宗は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后。第2代皇帝は、貞観政要でおなじみの名君として知られる李世民(598~649年)。太宗の死から即位に当たっては色々内紛があったらしい。
663年、白村江の戦いで倭・百済遺民連合軍に勝利。668年、新羅と共同(唐・新羅の同盟)して、隋以来敵対関係にあった高句麗を滅亡させる(唐の高句麗出兵)。高句麗という国、遊牧民の建てた国らしく版図も広く相当な強国で中国勢を脅かして来た存在だったらしい。こうして朝鮮半島のほとんどを版図に収め、安東都護府を設置、唐の最大版図を獲得した。しかし、新羅が唐との同盟を破棄し、676年に朝鮮半島全土を統一を達成(唐・新羅戦争)したため、ついに朝鮮半島経営を放棄した。漢民族の国家による朝鮮半島支配は、このあと明の成立まで途絶する。 韓民族が新羅を好きなのは一理あるね。

この時期になると、外戚の長孫氏が皇后である武氏の一派によって追放され、代わって武后が政治の実権を掌握するようなる。このため高宗は武后廃立を計画するも失敗。逆に健康をそこない実権は完全に武后に。683年に死去。夫婦の間で抗争か。病気がちであった高宗は、政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫無忌、その後は皇后の武則天に実権を。武則天はなかなか才色兼備のやり手だったようだね。 太宗の崩御にともない、武照は出家することとなったが、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行する。

垂簾政治
武皇后は高宗に代わり、垂簾政治を行った。武皇后は自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては、狄仁傑・姚崇・宋璟・張説などがいる。これらは低い身分の出身であり、貴族制下では宮廷内での出世が見込めない人物だった。武皇后は人材の採用に当たっては、身分のみならず才能と武皇后への忠誠心を重視。姚崇と宋璟は後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いたが、張説は評価の分かれる宰相である。

**垂簾政治=垂簾聴政は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うこと。
顕慶5年(660年)、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。倭国(日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の戦い(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼす(唐の高句麗出兵)が、武皇后の暴政と営州都督・趙文翽の横暴により契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東・遼西の情勢はかえって悪化した。 その結果新羅は本格的独立を果たす。

出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主や薛懐義・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣の許敬宗などを任用し、密告政治により反対者を排除。そのため「酷吏」が反対派を監視する恐怖大獄を行う。この状況に高宗は、宰相を招いて武皇后の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し、皇帝の権力奪還を許さなかった。

弘道元年(683年)、高宗が崩御すると太子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじることを余儀なくされた。

武則天の専横に対して、皇族は男性・女性を問わず次々と挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈した。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王が書いたが、その名文に感嘆した武則天が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話があるが、そのとき宰相は黙って返答しなかった。

登位
唐宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った。

天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)。
即位後
帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。

武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣、狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。

晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け横暴を極めた張易之・昌宗兄弟を除くために、神龍元年1月24日(705年2月22日)、宰相・張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることになった。しかし、武氏の眷属は李氏宗室を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。その後まもなく武則天は死去し、706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。唐代の帝陵は、代始の大乱に勝るとも劣らない幕引きの兵乱のさなか、京兆尹の温韜にすべてが盗掘される羽目にあったが、乾陵のみは発掘予定の夏に激しい雷雨が数晩続き、不成功に終わったという。

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仏教弾圧事件

三武一宗の法難(さんぶいっそうのほうなん、三武之禍: sān wǔ zhī huò)とは、中国の歴代王朝が仏教を弾圧した事件のうち、とりわけ規模が大きく、また後世への影響力も大きかった4人の皇帝による廃仏事件のことである。各皇帝の廟号や諡号をとってこう呼ばれている。三武一宗の廃仏とも。現代の日本では今でも仏教の影響は小さくないのに、お隣の中国や朝鮮では 仏教の影響は極めて希薄な理由もここにあるようだ。

北魏の太武帝と唐の武宗とは、道教を保護する一方で仏教を弾圧したが、北周の武帝は、道教も仏教もともに弾圧した。その一方で、通道観という施設を新設し、仏教・道教を研究させている。後に述べるように道教の保護だけに留まらず経済政策の意味もあったらしい。
唐の武宗の仏教弾圧については、その元号をとって会昌の廃仏と呼ばれる。
4度の廃仏事件
1.北魏の太武帝(在位 : 423年 - 452年)の太平真君年間。
2.北周の武帝(在位 : 560年 - 578年)の建徳年間。
3.唐の武宗(在位 : 840年 - 846年)の会昌年間。
4.後周の世宗(在位 : 954年 - 959年)の顕徳年間。


弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊と財産の没収、僧の還俗。特に後周の世宗の場合は純粋に、寺院の財産を没収するとともに、国家の公認した度僧制度によらず勝手に得度した者(私度僧)や、脱税目的で僧籍を取る者(偽濫僧)を還俗させて税を課そうとする、財政改善を狙った経済政策であった。銅(貨幣の材料)や鉄(武器の材料)という金属を中心とした物資を仏寺中の仏像や梵鐘などから得ることも、当時の情勢(唐の武宗時代の銅銭不足による経済混乱、後周の世宗時代のいわゆる「十国」の再統一事業)からして、差し迫った問題であった。(以上Wikipediaから)

軍事面でも、出家して軍籍から離脱する国民が大量に出ることは、戦乱の時代にあっては痛手であった。特に五胡十六国時代には、それまで啓示系の宗教が中国には無かったこともあって、仏教の影響力は絶大で、北斉の史官魏収は、寺3万、僧尼200万と記しており、この数字を鵜呑みにするならば、全人口が1000万にも達しなかったであろう当時の割拠政権にとって、そのような膨大な人口を再び国政に戻すことは、必要に迫られた事情であったと言える。

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会昌の廃仏

会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)とは、中国・唐朝の武宗(第18代皇帝; 在位期間 840年~846年)に行われた廃仏事件。また、仏教と共に、長安を中心に盛んであった「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教)も排斥された。「会昌」は、その時の年号。中国史上の対仏教弾圧である三武一宗の廃仏の1つであり、第3回目に当たる。
開成5年(840年)に即位した武宗は道教に傾斜して宮中に道士を入れ、道教保護の一方で教団が肥大化していた仏教や、景教などの外来宗教に対する弾圧を行なう。寺院4,600ヶ所余り、招提・蘭若40,000ヶ所余りが廃止され、還俗させられた僧尼は260,500人、没収寺田は数千万頃、寺の奴婢を民に編入した数が150,000人という。武宗は、会昌6年(846年)に丹薬の飲み過ぎで体調を崩し33歳で崩御し、弾圧は収束する。
中央集権国家というのはヤバイね。立った一人の皇帝の意向で歴史の流れが変わってしまうんだ。

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キケロ

キケロ マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年~紀元前43年)は、共和政ローマ末期の政治家、文筆家、哲学者。ラテン語でギリシア哲学を紹介した人として、ルネサンス期のエラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えたらしい。キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味する。出身は決して名家のではなかったらしく、努力で名声をあげたらしい。

ミトリデダスとの戦争によってギリシアから亡命してきた新アカデメイア派のラリッサのピロンから穏健な懐疑主義を学ぶ。弁論家ポセイドニオスに師事。紀元前81年に法律家としての活動を始める。当時ローマの終身独裁官であったルキウス・コルネリウス・スッラの側近クリュソゴノスの不正蓄財事件に関する被告ロスキウスの弁護を引き受け、その裁判で勝訴して名を上げた。つまり、有能な弁護士として弁論術を磨いたらしい。

紀元前48年8月、元老院派がファルサルスの戦いで敗北すると、キケロは、マルクス・テレンティウス・ウァロらと共に元老院派を離脱した。その際、無責任で身勝手な対応に終始したため、カトの制止がなければ、キケロは、小ポンペイウスに殺害されるところであった。後にカエサルにより許されたが、以降は政治から離れて学問に専念し、アッティクスの協力も得て、数々の著作を世に送り出した。紀元前46年4月にウティカでカトが自害したため、キケロは、カトの生き様を誉め讃えた『カト』を発刊した。同時期にカエサルも『反カト』を発刊したが、共に現存していない。このカト氏も弁論だけでカエサルに対抗する。
キケロは、他の元老院議員たちとは違い、独裁者に変貌していくカエサルや共和政ローマの崩壊を目の当たりにして、不安を覚えていた。このことは、『アッティクス宛書簡集』などから読み取ることができる。

紀元前44年、カエサルが暗殺された。そのとき、キケロは、その事件に直接には関らなかったものの、暗殺者たちを支持しており、その数日後にブルトゥスなどの暗殺者との会談を行っている。カエサル暗殺後にカエサルの後継者に座ろうとするマルクス・アントニウスに対抗するため、当時平民だったオクタウィアヌスを政界に召喚し、彼の人気を後ろ盾に『フィリッピカ』と題する数次にわたるアントニウス弾劾演説を行う。
しかし、アントニウスとオクタウィアヌスの間に第二回三頭政治が成立したことにより、キケロは、失脚してしまう。紀元前43年12月7日、アントニウスの放った刺客により暗殺される。このとき、キケロの首だけでなく右手も切取られて、フォルム・ロマヌムに晒されることとなった。 紀元前30年、アントニウスは、アクティウムの海戦に敗れて自死。このとき、キケロの息子マルクス(小キケロ)は、ローマの執政官で、アントニウスの一切の名誉を取り消し、アントニウス家の者は今後「マルクス」の名を使うことを禁ずることを可決した。

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世界の人口

人類に歴史を遡ると、地球上のホモサピエンスの総数は1万人以下(2000任位??)であったろうと推定されている。どんな生物でもその生存数は地球の環境に制御され、入手可能な食料の総量で決定されるはずである。
アフリカを出た人類は、草食動物を狩ることで氷河時代を乗り切り、しかも世界の隅々まで拡散することに成功した。寒冷な当時の気候は森林が減少し、草地が増えたことから大型の草食動物たちは絶好の食糧確保のニッチとなったことは当然だろう。大型の草食動物達は当時の肉食獣たちにも手だしできないからだ。こうして人類は確実に数を増やしたのでしょう。
気候が温暖になって来ると、近くの森の小動物や川や海の魚、木の実などの食するように食料の切り替えが進められ、定住化が進むとともに、遊牧のような、動物を家畜化するような動きが加速する。生活は平和でより豊かになったようだ。日本で言えば縄文時代。1万年ぐらい続く安定した良い時代だったようだ。
その後、また寒冷化が進み、危機が訪れる。そのころから小麦や稲を中心としたイネ科植物に人は支配されるようになり、権力機構や戦争の規模が拡大していく。その結果人口は増大したか。どうもそうでもなさそうだ。
世界の人口
世界の人口の推移を推定したグラフがある。このグラフを見て、人類は順調に発展して豊かになり人口が増えたと言えるだろうか。少なくとも紀元1300年(14世紀)位までは、人口は漸増だ。ヨーロッパでのベストの大流行までは、ほぼ直線的に増えているのに、それ以降の人口の増加はある意味異常だ。特に2000年以降も全く減速する気配さえない。人間だって地球上の生物の一員だ。こんな人口増加持続可能と考える方が可笑しい。そもそも100億の人口を養うための食糧はどうするのだろうか。
どんな集団も豊かになると人口は増えずに一定になるようだ。人(生物)は将来に不安を感じると子孫を沢山残して絶滅のリスクを減らそうとするものらしい。ということは20世紀以降の人口増加は、食料の増産の効果もあるものの、世界の人達は将来に不安を感じていて子供を産み続けているのかも知れない。

かって、マルサス(1766~1834)という学者が。「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する。」と主張したが、人口が幾何級数的に増加するというのは、どうも産業革命以降の話のようで、それ以前は人口はさほど増えてはこなかったようだ。それまでの社会は生活資源に見合った人口増加をゆっくりとしてきたのが、何故か資本主義社会の発展とともに人口を増やす社会的圧力が強まっているとしか考えられない。このグラフを見る限り今後人口が減少に転ずる気配はないようだ。だとすれば人類は着実に絶滅への道をたどっている可能性が高いことになる。

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マルサスの人口論

Essay on the principle of population, 1826は、世界の人口についてはじめて考察した古典的名著だろう。彼はアダム・スミスと並ぶ古典経済学の泰斗だ。彼の時代には、都市化により貧困な労働者が町にあふれ、食料が不足し、貧困や道徳的退廃の改善の実現が主張されていた時代だ。マルサスは人口の原理を示すことで理想的主義的な革新派を批判しようとしたらしい。
ヨーロッパの人口
上に示したグラフは、ヨーロッパ地域の人口の推移の推定だ。ペストの大流行が終わり、15世紀に入ったころから急に人口が増え始めている。だからマルサスが人口は等比級数的に増えると喝破したのは確かにこの時点では事実だ。
マルサス まず、マルサスは次の2つの自明??と考えられる前提から議論を始める。
【第一前提】食料(生活資源)は人類の生存に不可欠である。
【第二前提】人間、異性間の情欲は必ず存在し止めることが出来ない。
【考察】人口の増加率は生活資源を増加率よりも不等に大きい。
【結論】人口は制限されなければ幾何級数的に増加するのに、人口を養う生活資源は算術級数的にしか増加しない。
マルサスの第一前提は何人も否定できないだろう。ただし、第二前提の方は異論がありそうだ。過去の世界の人口の推移を見ても、人類はそんなに繁殖率の高い生き物ではなさそうだ。ただ、不思議なもので貧困な社会ほど子供の出生率が高いという、豊かさと人口増は反比例の関係にあるようだ。しかし、1800年以降の世界の人口の伸び率は少し異常だ。2000年以降は減少に転ずるとの楽観的な予想もあるが本当のことは分かっていない。
では、次の疑問、生活資源の増加は算術級数的にしか増加しないのだろうか。この場合、生活資源は食料に絞った方が良い。
農業生産力は、新大陸の発見以降相当大きな進展があったようだ。農薬、殺虫剤、化学肥料、トラクターのような農業機械。これらは戦争の技術とも大いに関連があり戦争に明け暮れたこの時代に大いに進歩した。また、アメリカ、カナダ、オーストラリアと穀物生産の土地もいくらでも開拓できた。つまり、農業生産力が一気に加速したわけだ。果たしてこの傾向が今後も続くかどうかはまだよく分かっていない。
現状では、世界の人口はいまだに増え続けている。このまま、世界に人口が増え続けると、食料生産が追いつくのかどうかは、今のところ分かっていない。人類に破滅を予言するマルサスの考察は現在でも現実味を失っていない。
【追記】
第二次世界大戦が終わるまで、世界の列強の国は皆食料の不足を心配していた。食料の心配が必要ない国は、新大陸のアメリカと世界に植民地を持つ英国だけ。ドイツや日本が排他的で自己中心的な行動に走ったのは、マルサスの人口論の影響が大きかったためもあるのでしょう。

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日本の人口

世界の人口推移、ヨーロッパとの人口の推移とみて来れば、当然日本はどうなんだろうとの疑問がわく。基本的には19世紀後半から急速に右上がりのグラフになっている点は同じだ。ただ2000年以降はあくまでも推定値。こんなにうまく人口が減るなら世界の人口問題なんて簡単に解決しそうですが。
ヨーロッパの人口
人口が増減するのは必ずその原因があるはずだ。このグラフでは、江戸幕府が成立して100年少しの間、人口が急に増えている。人口が増えた背景には必ず食料の増産があったはず。徳川政権の江戸の開発で耕地面積が大幅に増えたのが原因かも。次は明治維新以降だ。この時代の食料生産の事情はどうなのだろうか。都市化が進み、農民以外の人達に大量の食糧を供給する必要がある。不足した食料を輸入に頼るのも難しそうだ。ただ、農作物の商品化が進み、農民のもやる気が向上したということもありそうだ。何らかの食糧生産の革命的な変化起こったに違いない。
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火薬の歴史

世界を変えた火薬の歴史;クライヴ・ポンティング著-国家の盛衰を左右した兵器。
   火薬の発明は、羅針盤、印刷術と同様に、ルネサンスの3大発明であると西欧人は思っていた。羅針盤、印刷術は今では中国人がずっと前から使っていたことは常識。ところが、火薬に関しても、ほんの50年ほど前にこれに対する反証が挙げられた。
  火薬の発明は、本書によれば、科学技術の先端を突っ走るヨーロッパでなくて、なんと9世紀初頭の中国。1000年以上前のことだった。不老不死の霊薬を求めた道教の錬丹術師が偶然発見(発明)したようだ。古代中国の時代から医薬品だった木炭、硫黄、そして硝石の混合物が「火の薬」と判明したのだ。今日の黒色火薬である。
元寇
火薬は直ちに軍事機密とされ、その後12~14世紀の中国では、例えば、火炎放射器の「火槍(かそう)」、最初の爆弾の「震天雷(しんてんらい)」、軽量爆弾の「群蜂砲」、なんとも奇妙な名称の火薬兵器が作られている。中国は周囲を強力な騎馬民族(遊牧民)に囲まれているため防衛の必要上からも研究が進められたようだ。
特に宋に時代は、北半分を女真族に取られ、南の半分の南宋はモンゴルのフビライによって制圧されてしまう。この時モンゴルは火薬の技術を手に入れたようだ。モンゴルの波状的な西方への軍事遠征に火薬が有効に使われたようだ。あんな小型の蒙古馬だけでは世界征服などできるわけがない。制圧されたイスラム世界で硝石は「中国の雪」、ロケットは「中国の矢」と呼ばれたという。つまり、モンゴルの世界征服は火薬の技術おかげだったようだ。日本も元寇の際にはこの火器に相当悩まされたらしい。モンゴル人は中国人の裏切りを恐れ色目人を優遇しため、火薬技術は世界に拡散していく。
この火薬の利用は、歴史を大きく動かす原動力となったようだ。 モンゴル帝国が崩壊した後、火薬兵器を最大限に生かしたのがオスマントルコとインドのムガール帝国だという。また、チムール帝国もこの仲間だろう。日本でも織田信長の天下統一が加速する。種子島に伝わったという鉄砲は、特に最先端のものではなく既に中国にもあったものかも知れない。その後鉄砲の生産高も品質も日本は多分世界のトップクラスだったと言われる。オスマントルコと対峙した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、領土と奪われ最後は首都コンスタンティノープルを残すだけになるが、この時ローマ側は「ギリシャの火」という兵器を用いてトルコ側を散々てこずらせたとあるが、これも何らかの火薬技術だろうが正確な記録は残っていないようだ。
 その後、火薬兵器を装備したイスラム勢に対峙したヨーロッパ勢は前代未聞の艱難(かんなん)辛苦を嘗(な)めさせられた。14世紀のイタリアの桂冠(けいかん)詩人ペトラルカが火薬兵器を「地獄から送られてきた道具」と嘆息したのも宜(むべ)なるかなであった。おしなべて低温のヨーロッパにおいて、火薬の製造は難しく、硝石の生成も、また腐敗した有機物の結晶化以外に方法がなく、悪臭と闘わねばならなかったらしい。
その後、中国は明から清になり平和が続くにつれ、危険な火薬兵器は国が独占するようになるため新規の開発がなされなくなる。日本の徳川幕府も、火薬兵器の威力を十分理解していたため他大名には作らせないよう国が独占する。その間に戦争に明け暮れたヨーロッパ諸国に水を開けられたのかも。しかし、ヨーロッパ諸国だけが何故勝者として君臨できたのかはもう少し納得のいく説明が欲しいところだ。
火薬兵器は、今まで統一されてなかった民族の統一が急速に進む効果もあった。アフリカでも新しい国がいくつも出現する。チベットなんかもそうだろう。仏教寺院なども火器に対抗できるよう城のような形をしている。ハワイのカメハメハ大王なんかも火薬兵器を利用して、ハワイ全体を統一したらしい。アメリカインディアン達だって、馬に乗って銃で武装した集団で戦っている。ロシアのコサック騎兵達のシベリア征服も鉄砲の力だろう。

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モンゴルの世紀(Pax Mongolica)

元版図
13~14世紀(1201~1400年)は、チンギス・ハーンの興したモンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を支配したため、モンゴルの世紀と呼ばれる。モンゴル帝国は交易を奨励、保護しユーラシア大陸を陸路、海路で結ぶ一大交易網が成立した(シルクロードの発展)。ユーラシア各地を多くの技術や情報が行き交い、世界史の転換期のひとつとなった。
テムジン テムジン
1206年周辺部族をまとめ上げ、テムジンはクリルタイ(族長会議)で大ハーンに選出され、以後ヂンギスハーンな名乗る。これより破竹のごとく膨張が始まる。まずは周辺の大国を次々に滅ぼす。西遼(1211)、ホラズム王国(1220)、西夏(1227)、ここでヂンギスハーンは亡くなる。2代目、オゴタイハーン(位1229~41)。金を征服(1234)。
ヂンギスハーンには4人の子がいる。ジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイ。遊牧民の伝統では末子相続が一般的だったらしい。
モンゴル版図 ① 長男ジュチは西へ進み、その息子もバトゥもそれを引き継ぎ、キプチャク=ハーン国
② チャガタイ、オゴタイはチャガタイ=ハン国(中央アジア)、オゴタイ=ハン国(西北モンゴリア)を形成。
③ 末子トゥルイの子フラグもイランにとどまりイル=ハン国を興す。
④ 末子トゥルイの子フビライは南宋を滅ぼし元を建国する。
しかし、版図が広がるにつれて、一族の結束はだんだん緩くなり、時には対立するようになる。中国贔屓のフビライが強引に5代目を襲名するとどうもフビライの一人勝ち、反発も出て来るんだろう。
元寇とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗王国による2度にわたり行われた対日本侵攻。1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)。弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であったらしい。朱元璋(太祖・洪武帝)が元を追いやり明を建設するのが1368年なのでまだしばらくは元の時代が続く。

モンゴル人の快進撃は、火薬(火器)の利用を考えないと説明できそうにない。「世界を変えた火薬の歴史;クライヴ・ポンティング著」にあるように、宋に時代には中国は、北半分を女真族に取られ、南の半分の南宋はモンゴルのフビライによって制圧されてしまう。モンゴル人は女真族と戦った際に火薬の技術を手に入れたようだ。モンゴル人は周辺を多くの遊牧民に囲まれている。蒙古馬は彼らの馬と比べて決して大きい訳でない(むしろ小さい)。火薬の利用によりその後の世界の国々の盛衰は速度を急に速めて来る。イル=ハン国→オスマン帝国、キプチャク=ハーン国→ロシア帝国、チャガタイ=ハン国→チムール帝国およびムガール帝国と言うようなユーラシア大陸の歴史の流れの構造が浮き出で来るように思えるのですが。(2020.1.13)

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巨大噴火の恐怖

地球上の生物の進化の歴史は、地球環境の変化に対応して進んでいる。このことは人類の歴史に対しても同様なはずだ。地球という惑星は今でも活発に動いている。地球上の総ての生き物は生活環境の激変という試練からは逃れることは不可能なのです。
6500万年前に、巨大隕石が地球に衝突し、1億年以上続いた恐竜の天下を終わらせる。その後の荒廃した環境から哺乳類が進化し、人類の先祖がアフリカを出たのが6~7万年前頃。では、地球は大人しくなったのか。人類が自分達の歴史を残せるようになったのは、せいぜい1万年以下。これから先、どんな異変が生じるかは予想もつかないのです。
実は、西暦535年にこのような巨大災害が生じていたことが、世界各地で文字として記録されており、最近の地質調査からも証拠が挙がってきている。
噴火の場所は、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡。クラカタウ火山だ。別の場所でも火山活動が頻発したようだ。
この時、遠く離れた東ローマ帝国でも、大きな爆発音があり、その後1年以上も「太陽が暗い状態」が続いていたことが記されている。西ローマ側の教会の指導者たちも同じような記録を残している。中国でも(隋によって統一される前)、北の魏、南の梁の2つの王朝で同様な記録が残されている。その後、世界は飢饉と疫病が蔓延し、洪水や旱魃が繰り返された暗黒の時代に。食料を失った絶望した人々の移動が繰り返され、民族の対立が激化。この状況は相当長期に渡ったようだ。つまり、西暦6世紀は、世界的な出来事が同時発生的に生じている。今まで、学校で習っていた歴史の見方も大幅に書き換える必要がありそうだ。
1.ヨーロッパでは、東西ローマ帝国の力が弱体化し、ゲルマン人等周辺の異民族が大量に流れ込み社会が不安定に。
2.中国でも既存の王朝が弱体化して、異民族的な隋による統一が簡単に進む。
3.朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が食料を巡って生き残りの抗争繰り返し、大量の難民が日本に流れ込む。
4.日本には大量の帰化人が来る。仏教もその時入る。しかし、同時に疫病も持ち込まれたらしい。天然痘ではないかと言われる。帰化人と組んで仏教を保護したい蘇我氏と反対する物部・中臣氏の対立だ。仏教と疫病とがセットで持ち込まれたことが反対する理由だった。
5.ヨーロッパでは、絶望した人々の終末観(あの世で幸せに)が広がり、キリスト教が一気に勢力を増す。不幸な人が増えるほど宗教家は仕事が増える。
6.ムハンマドがイスラム教をあれほど急速に普及できたのも、多発する災害を都合良く天罰だとして利用できたため。イスラム教の発展もえらく急速だ。
7.新大陸のマヤやインカにも大きな変化があったらしい。
8.インド圏や他の地域はどうだったんだろうか。
自然災害、火山の爆発が人類の歴史を大きく塗り替えたということだ。
パウロ      ムハンマド

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Ibn Battuta

イブン・バットゥータ

マリーン朝
イブン・バットゥータ(Ibn Battuta;1304年~1368年/69年)は、マリーン朝のモロッコ人。イスラム教徒だ。彼の旅した地には北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれる。イブン・バットゥータは史上最も偉大な旅行家であろう。日本語訳では三大陸周遊記となっている。マリーン朝スルターンの命令を受けて、イブン・ジュザイイが口述筆記を行ない、1355年に旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(通称Rihla)が完成する。この旅行記は19世紀にヨーロッパにも紹介され、各国語に翻訳されて広く読まれた。イスラーム教徒だったためか西洋ではあまり評価されず、日本でも歴史の中にチョット顔を出す程度だが、当時の世界を俯瞰するには最適な書物なようだ。

14世紀は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。14世紀は、モンゴル帝国が成立したおかげて、世界のグローバル化が一気に進み、イスラム教が大いに発展した時代。そうでなければこのような世界旅行など全く不可能な話。一昔前なら陸も海も盗賊や海賊が出没するのは当たり前、地域間のネットワークが非常に良くなって来たようだ。しかしまだ、このネットワークには西欧諸国は入っていない。イスラム教を異常に敵視する蛮族たちが闊歩する(十字軍や異端裁判等)後進的な地域だったようだ。
イブン・バットゥータ 生まれ育ちは、北アフリカ西部のモロッコ。当時は文化的には先進地だったようだ。マリーン朝は、12世紀末から15世紀末にかけてモロッコに存在していたイスラーム国家。フェズを首都とし、マグリブ西部(北アフリカの西側)を支配していた。対岸はスペインだがこの時はイスラームの勢力下にある。イブンは1304年マリーン朝の治世のモロッコ、タンジェのイスラム法学者、すなわちウラマーの一家に生まれとされている。
1325年6月、21歳のときに彼は巡礼、すなわちハッジのためにメッカを目指し故郷を発つ。往復16ヶ月の道程である。しかし彼が再びモロッコの地を踏むのは24年後となる。
【ハッジとは】
ハッジとは、イスラーム世界における、メッカへの巡礼の事。五行の1つ。すべてのムスリム(イスラーム教徒)にとって、少なくとも人生のうちに1回は、メッカ巡礼が義務付けられている。ただし、すべてのムスリムに課せられる他の四行(信仰告白(シャハーダ)、礼拝(サラート)、喜捨(ザカート)、断食(サウム))と異なり、巡礼は実行できる体力や財力のある者のみが行えば良いものとされている。巡礼期間中にハッジを済ませたものはムスリムの社会で尊敬を受ける。 サウジアラビア政府は(巡礼月、イスラム暦の第12月)の間に巡礼を目的とする外国人に特別査証を発給している。また、サウジアラビアとイスラエルとは国交はないが、パレスチナ人やアラブ系イスラエル人のイスラム教徒たちは、ヨルダンのアンマンを経由してサウジアラビアに入国しハッジを行うことが可能である。また、メッカは、イスラム教徒以外の人間が立ち入ることは禁じられていて、市内全域がイスラム教の聖地であるとのこと。

イスラム国家 彼は北アフリカ海岸沿いを陸路にてメッカを目指した。ザイヤーン朝、ハフス朝を横断し、そしてチュニスに到着すると彼はそこで2ヶ月を過ごす。チュニスは今でもチュニジアの首都、大都市だ。昔ローマ時代にカルタゴの拠点だった所。ザイヤーン朝、ハフス朝はベルベル人の建てたイスラム王朝。 1326年の早春、3500キロの旅の後イブン・バットゥータは当時バフリ朝(Bahri dynasty、マムルーク朝)の支配にあったアレクサンドリアの港に着く。マムルーク朝は首都をカイロに置くエジプトの王朝だ。アレクサンドリアにはアレクサンドロス大王の後継者たちが建てた世界最大級の立派な図書館があったのだが、5世紀ごろキリスト教徒の野蛮な攻撃を受けてこの当時には消失していた。 カイロには約ひと月滞在し、彼は比較的安全なマムルークの領内にて、この旅の中で幾度も行われる最初の遠回りを行った。ナイル河谷を遡上し、その後東へ向かい、紅海の港街アイザーブを経由するルートを選んだ。しかし街に近づくと反政府勢力に追い返されてしまった。アイザーブはナイル川を上った王家の谷で有名なルクソールの対岸(サウジアラビア側)にある港町だったようだ。 イブン・バットゥータはカイロに戻り、そしてマムルーク支配下のダマスカスへと2回目の遠回りをした。ダマスカスは今でもシリアの首都だ。1回目の旅で出会った聖人が、イブン・バットゥータはシリア経由でしかメッカにはたどり着けないと予言を残していたためだった。この遠回りにはヘブロン、エルサレム、ベツレヘムなど道中に聖地が点在しているという利点もあった。マムルーク朝は巡礼者のための治安確保に骨身を惜しまなかった。この権力の後押しが無ければ身包み剥がされ、殺害される旅行者で溢れていたことであろう。 イブン・バットゥータがこれほどの大旅行を無事成し遂げることが出来たのは当時の、イスラーム教を介した人的ネットワークの存在が非常に大きい。西のモロッコから東のインドネシアまで広大なネットワークが存在しているのだ。そうでなければ言語、文化の異なる地域を旅すること自体、この時代では危険極まりない所業だろう。
ダマスカスでラマダン月を過ごしたあと、彼はキャラバンに参加して1300キロ南のマディーナ(メジナとも、イスラム教の第二の聖地)に向かい、そこで4日を過ごしたあと、彼の巡礼の終着点であるメッカへ向かった。これ以降イブン・バットゥータはハッジとしてイスラム社会に受け入れられるようになる。つまりどこへ行っても尊敬を受けて便宜を図ってもらえる。ここで帰路に就くよりもむしろイブン・バットゥータは旅を続けることを選び、次の目的地を北東、モンゴル帝国のイルハン朝に定めた。 つまり、モンゴル帝国のおかげで、世界がある程度一つになったという利点があったのか。マルコ・ポーロの冒険もこのころか、調べて見ましょう。
イブン・バットゥータは1327年、東アゼルバイジャン州のタブリーズ(モンゴル帝国のイルハン朝の都があったところ、今はイラン領、アゼルバイジャン領だったことも)を訪れている。 メッカでひと月を過ごした後の1326年11月17日、アラビア半島を横断してイラクへ戻る大規模な巡礼キャラバンに参加した。一行はまず北のマディーナ(メジナ)へ向かった。日中を避け夜に旅を続け、やがて北東へと進路を変える。ナジュド平野を横断し、ナジャフ(イラク南部)へとたどり着いた。2週間の旅であった。ナジャフでは第4代カリフ、アリーの廟を訪れている。 その後バグダードへ向かうキャラバンと別れイブン・バットゥータは、ペルシアに入り6ヶ月の回り道をする。ナジャフからワシットへ、そしてチグリス川を南下してバスラを訪れる。そこからザグロス山脈を越えエスファハンへ向かう。そして南へ向かいシーラーズを訪れる。シーラーズはモンゴルの侵略の際にも破壊を免れて繁栄を誇っていた。ようやく彼は山道を戻り1327年6月、バグダードへ到着する。バグダードはいまだ街の至るところにフレグが1258年の侵略の際に残した破壊の痕跡が残っていた。エスファハンも美しい都市として有名。

イスラム国家 バグダードにて彼はイルハン朝最後の君主アブー・サイードが大勢の従者を引き連れて街を北へ向かうところを目撃している。イブン・バットゥータはしばらくそのロイヤル・キャラバンに随行し、その後にシルクロードを北へと向かい、タブリーズを訪れた。モンゴルへの道を開いた最初の街であり、この地域の他の交易都市はモンゴルにより徹底的に破壊されていたため、タブリーズは交易の要衝となっていた。

1328年か1330年のハッジの後、紅海に面するジッダを訪れる。その後彼は海岸に地域特有の南東の風に逆らいながら小船を乗り継ぎゆっくりと海岸に沿って南下した。ラスール朝統治下のイエメンに入ると、ザビードを、そしてタイズを訪れた。タイズではラスール朝のマリク(すなわち王)のムジャヒードに謁見している。イブン・バットゥータはサナアに立ち寄ったとも記録しているが、実際に訪れたかどうかは疑わしい。タイズからは直接交易の要衝アデンへ向かったと考えるのが現実的である。アデン着は1329年か1331年と考えられる。
アデンよりイブン・バットゥータはソマリアのゼイラに向かう船に乗った。ゼイラからソマリアの海岸をさらにくだりグアルダフィ岬を訪れる。それぞれで1週間を過ごした。その後、アフリカの角の当時最大の都市であったモガディシュを訪れる。アフリカの角とはソマリアのあたりが地図で見れば尖っていて三角形になっているがここを示す。この付近ではエチオピアが大国で力を持っていたようだ。 イブン・バットゥータの訪れた1331年、モガディシュは繁栄の絶頂にあった。彼はモガディシュを裕福な商人の多い「極めて巨大な都市」と描写、エジプトを含む各地から持ち込まれる高品質な織物についても触れている。

キルワ イブン・バットゥータはスワヒリ海岸の島にある町キルワ王国(現在タンザニア領)に1330年に着いたと記録を残している(ソマリアに着く前だろう)。キルワは金の貿易の要衝となっていた。彼はこの都市を「最も美しく設計された街のひとつ、すべての建物は木で作られ、ディース葦(dīs reed)で屋根が葺かれている」と記録している。そしてそのスルタンの謙虚で敬虔な人柄についても好意的に描写している。コーラル・ラグ(サンゴ由来の石灰岩)で造られた宮殿と拡張されたキルワのグレート・モスク(世界遺産となっている)の歴史はこの時代から始まっている。モンスーンの向きが変わるのにあわせて、イブン・バットゥータはアラビア半島へと戻る。まずはオマーン、そしてホルムズ海峡を通過し、1330年(あるいは1332年)のハッジにメッカへ戻った。
3度目のメッカ巡礼の後、イブン・バットゥータはムスリムのムハンマド・ビン・トゥグルクが治めるデリー・スルターン朝にて職を探すことに決める。1330年(あるいは1332年)の秋、陸路でのインド入りを意図し、セルジューク帝国の支配下にあったアナトリア半島(現在のトルコ)に向けて旅立った。シリアの港街ラタキアにてジェノヴァ共和国の船が彼(と彼の道連れ)を拾ってアランヤまで運んだ。この街は現在のトルコ南海岸に当たる。これ以降、旅行記におけるイブン・バットゥータのアナトリアでの足跡は混乱を来たす。歴史家たちはイブン・バットゥータは実際に中央アナトリアのいくつかの都市を巡ったものの、旅行記の記述が時系列に沿っていないものだと考えている。

スィノプから海路でジョチ・ウルス領(モンゴル帝国でもここはキップチャク)のクリミア半島へ到着。港街アゾフにてハンのアミールに出会う。その後豊かな大都市マジャールを訪れる。そしてマジャールからウズベク・ハンのオルドを訪問するために出発。この当時、ハンのオルドはベシタウ山の近くにあった。その後ブルガールへ向かう。この街が彼の旅のなかでの北限となった。夏の夜が(亜熱帯出身者からすれば)極端に短いと記録している。その後ウズベク・ハンのオルド(宿営地、テントの街か)に戻り、彼らとともにアストラハン(ボルガ河口右岸の都市)まで移動した。
ブルガール滞在中彼は闇の地を訪れてみたいとも書き残している。その地は遍く雪で覆われていて(シベリア北部のこと)唯一の移動手段は犬ぞりである。神秘的な人々が暮らし彼らは姿を見せることを嫌う。それでも彼らは南方の人々と奇妙な方法で交易を行っている。南の商人は夜にさまざまな商品を開けた雪原に並べておき、自分たちのテントに戻る。そして翌朝その場所にもどると商品はその神秘的な人々に持ち去られ、代わりにコートなど冬の衣類の素材となる上等な動物の毛皮が置かれている。この交易は神秘的な人々と商人がお互いの顔を見ることなく行われる。イブン・バットゥータは商人ではないしそれほど値打ちのある旅に思えなかったので闇の地への寄り道は差し控えた。

東ローマ皇帝 アストラハンに着くと、ウズベク・ハンは妊娠中の后の一人、ギリシャ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス(東ローマ帝国皇帝のことだ)の娘バヤルン妃にコンスタンティノープルへ出産のための帰郷を許可する。イブン・バットゥータは頼み込んでコンスタンティノープルへ向かう一行に同行させてもらった。これがイスラム世界を出た最初の旅となった。

1332年(あるいは1334年)も終わりに差し掛かったころにコンスタンティノープルに到着。彼は東ローマ帝国のアンドロニコス3世パレオロゴスに謁見。名高い教会アヤソフィアを訪れ、正教の司祭に旅の中で訪れたエルサレムの話をして聞かせた。ひと月滞在した後、イブン・バットゥータはアストラハンに戻った。その後首都サライを訪れ、スルタンのウズベク・ハンに旅の報告をした。その後カスピ海、アラル海を越えブハラ、サマルカンドを訪れた(両市は今はウズベキスタン領内)。そこでまた別のモンゴルの王、チャガタイ・ハン国のタルマシリンのもとを訪れている。そこから彼は南へ向かいモンゴル治世下のアフガニスタンを旅した。そのままヒンドゥークシュ山脈の山道を経てイブン・バットゥータはインド入りを果たした。旅行記で彼はこの山岳地帯の名称と奴隷貿易の関係について触れている。 この後、私は山岳地帯をバーワンの街へ向かった。山道は雪で覆われ凍えるように寒い。この地域はヒンドゥ・クシュ、すなわち「インド人殺し」と呼ばれている。厳しい寒さのために取税人の連れてくる奴隷のほとんどが死んでしまうのが理由だそうだ。 イブン・バットゥータと彼の一行は1333年の9月12日にインダス川に達している。これより彼はデリーへ向かいスルタン、ムハンマド・ビン・トゥグルクに謁見している。
当時ムハンマド・ビン・トゥグルクはその豊かな財力でイスラム世界に名をはせており、彼は支配をより強固なものにする目的でさまざまな学者や、スーフィー、カーディー、ワズィール、そして役人に経済的な支援をしていた。イブン・バットゥータはムハンマド・ビン・トゥグルクの治世にカーディー(裁判官)として6年間仕えた。この国はモンゴル帝国の侵攻の後に残った、エジプトのマムルーク朝と同様、数少ないアジアのイスラム国家であった。メッカでの経験が買われ、イブン・バットゥータはスルタンよりカーディーに任命された。しかしながら、彼はイスラム教の浸透していないインドでスルタンのお膝元、デリーを越えてイスラム法の執行を徹底することは難しいと悟る。 サルサティ(Sarsatti)のラージプートの王国からイブン・バットゥータはインドのハンシを訪れる。イブン・バットゥータはハンシの街を以下のように描写している「数多ある美しい街でも最もよく設計され、最も人々がよく集まる街。堅固な城壁に囲まれていて、聞けばこの街を造ったものは偉大な不信心な王という話でタラ(Tara)と呼ばれている」。シンド州に着くとすぐに彼はインダス川の河畔に生息するインドサイについて言及している。

スルタンは当時の感覚からしても理不尽な男で滞在する6年の間にイブン・バットゥータは、信の置ける臣下としてのアッパークラスな生活からさまざま理由から反逆者としての疑いをかけられる状態へと身を落とす。ハッジを理由に旅立つ計画を持ち出すとスルタンは彼を苦境へと落とし込んだ。1347年、元の使節が中国人巡礼者に人気の高かったヒマラヤの仏教寺院の再建の許可を求めにやってくると、イブン・バットゥータはようやくデリーを離れる機会を得た。
イブン・バットゥータは使節としての命を託された。しかし中国への出発点となる港へ向かう道中、彼の大規模な使節団は山賊の襲撃にさらされる。イブン・バットゥータは一団からはぐれ、身包み剥がされ、あわや命すらも失いかける。苦境に陥りながらも彼は10日以内に使節団に追いつき、合流を果たすとグジャラート州のカンバートへの旅を続けた。そこから船でカリカット(現在のコーリコード)へ向かった。2世紀の後にヴァスコ・ダ・ガマが上陸を果たす地である。カリカット滞在中、イブン・バットゥータはこの地の支配者ザモリンに客人として迎えられた。その後コッラムへと船を進める。南海岸で最も活況を極める港のひとつである。カリカットからコッラムまでの日数は10日であった。イブン・バットゥータが岸のモスクに立ち寄っているとき、嵐がやってきて2隻の船団のうちの1隻が沈んでしまった。別の1隻はイブン・バットゥータを残して出航するが、この船は数ヶ月後にスマトラ島の王に拿捕されることとなる。
このままデリーに戻った場合に責任を問われることを怖れたイブン・バットゥータはしばらくの間ナワーヤトのジャマール・ウッディーン庇護の下で南インドにとどまった。ナワーヤトは小さいながらも力のあるスルタン国でアラビア海に面するシャラベイ川河畔に位置する。しかしやがて起こるこのスルタン王国の転覆の中、イブン・バットゥータはインドを去るよりほかなくなる。中国への旅を続ける決意を固めるが、まずはモルディブへの寄り道からはじめることとした。
彼は当初の予定よりもずいぶんと長い9ヶ月をこの島国で過ごした。彼は仏教国からイスラム化を果たしたばかりのモルディブにとって貴重な人材だった。半ば強引に滞在を求められてこの国で主任カーディを務め、そしてロイヤルファミリーから伴侶を迎えオマル1世と姻戚関係を持った。しかししだいに彼は政治問題に巻き込まれるようになり、彼の厳格なイスラム法の執行に対し奔放な気質の島民がいらだちを募らせるようになると、イブン・バットゥータはモルディブを発った。彼は旅行記の中で島の女性たちが上半身裸で街をうろついていること、それに対するイブン・バットゥータの不満を現地の人々が歯牙にもかけなかったことを記録している。モルディブを発ったイブン・バットゥータはスリランカに向かい、アダムスピークとテナヴァラム寺を訪れた。
スリランカを出航するとすぐに船が沈み始めた。救助にやって来た船は海賊の襲撃に晒されるが、イブン・バットゥータは無事だった。彼はスリランカの岸で途方に暮れ、苦労してやっとのことでインドのマドゥライ王国までもどり、しばらく滞在する。その後彼は再びモルディブへ渡り、中国のジャンク船に乗りこんだ。まだ中国へ向かう使者としての使命を全うする意思を持っていた。 彼は現在のバングラデシュ、チッタゴンの港に上陸する。イブン・バットゥータはシャー・ジャラールに会うためにシレットに向かうことにした。チッタゴンからカマルの山々を越えてシレットに至る1ヶ月の旅路である。当時のイスラム世界ではシャー・ジャラールはこの骨折りに値するほど高名な人物であった。シレットへの旅の途中シャー・ジャラールの弟子たち数人に声をかけられる。彼らはイブン・バットゥータを案内するために何日も前から待っていた。1345年のシャー・ジャラールとの面会について、シャー・ジャラールは背が高く、細身で顔色はよく、洞窟のモスクで暮らしている。ミルク、バター、ヨーグルトのためのひつじを一頭だけ所有し、その他には財を持たないと記録している。また、取り巻きは外国人であり、強さと勇敢さで知られていた。たくさんの人々が教えを請うためにシャー・ジャラールのもとを訪れる、等々記している。イブン・バットゥータはさらに北へ向かいアッサム州を訪れた後、中国へのルートに戻った。

東南アジア
陳ベトナム イブン・バットゥータは陳朝ベトナムのポー・クロン・ガライを訪れたと考えられている。地域の姫ウルドゥジャと会ったと触れられている場所である。 1345年イブン・バットゥータは現在のスマトラ島北部アチェ州に位置するサムドラ・パサイ王国を訪れた。イブン・バットゥータはこの国の統治者について触れている。彼によれば、スルタンは、敬虔なムスリムで宗教的義務は最大限熱心に行い、しばしば地域の精霊信仰勢力に対して軍事行動をとっている。彼はスマトラ島について樟脳、ビンロウ椰子、クローブ、スズが豊かな島であると描写している。イブン・バットゥータは彼らのマズハブ(イスラム法学派)についてシャーフィイー学派と記録している。これは彼が実際に見てきたインド沿岸地域のムスリムに近い学問で、とりわけマッピラ・ムスリムはまさにイマーム、アル=シャーフィイーを信奉していた。当時サムドラ・パサイ王国はダール・アル=イスラーム(イスラム世界)の限界で、これ以上東にムスリムの統治する領域は存在しなかった。彼はスルタンの客人として、この木製の城壁に守られた街で2週間をすごした。スルタンはイブン・バットゥータに物資を提供し、スルタン所有のジャンクで彼を中国へ送り出した。

イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。
イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。 イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。

イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。
中国
イブン・バットゥータはイスラム世界で初めて万里の長城について触れている。1345年、モンゴル治世下の中国福建省泉州。彼は外国人のポートレイトを描いている似顔絵師と、彼らの巧みな技術について触れている。イブン・バットゥータは彼らの描く似顔絵はセキュリティ目的に使われると記している。イブン・バットゥータはこの街の職人と彼らの作る絹織物、磁器、そしてプラム、スイカといった果物、そして紙の通貨の利便性に賛辞を送っている。泉州における巨大船舶の製造工程について、さらには中国料理と食材、たとえばカエルやブタなど、イヌが食材として市場で売られていること、中国のニワトリが大きいことなどについて書き残している。
泉州にてイブン・バットゥータはこの地のカーディーに歓待を受けた。さらにはイスラム商人のリーダーが旗、太鼓、トランペットと楽団を引き連れてイブン・バットゥータに会いに来た。彼は、ここ泉州ではムスリムはいくつかのコミュニティに別れて暮らし、それぞれが自分たちのモスクとバザールと病院持っている、と記録している。滞在中彼は清源山に登り、洞窟に著名な道教の僧侶を訪ねている。その後彼は海沿いに南下し広州を訪れ、その街の裕福な商人のもとで2週間を過ごした。 広州から北へ泉州にもどり、福州へと向かう。
イブン・バットゥータは杭州を彼が見てきた中でも最大級の都市とし、そしてこの街の魅力について触れている。いわく、美しい湖を湛え、なだらか緑の丘に囲まれている。ムスリムの居住する一角にも言及し、彼はエジプトに起源を持つ一家のもとに身を寄せていた。杭州滞在中たくさんのよく設計され、きれいに塗装され、色彩豊かな帆を持ち、シルクの日よけをもった木製の船が運河に集まっているのを見ていたく感動したことを記録に残している。彼はカータイという名の元朝の地方行政官の晩餐会に呼ばれている。イブン・バットゥータによれば、この行政官は現地中国人の召喚魔術に大変興味を持っていた。また彼は太陽神を信仰する現地の人々についても言及している。
彼は京杭大運河を小船で上りながら、畑やラン、黒い絹の衣を纏った商人たち、花柄の絹の衣を纏った婦人たち、やはり絹を纏った僧たちを見た。北京ではイブン・バットゥータははぐれたデリー・スルターン朝の使節を名乗り、元朝ボルジギン氏、トゴン・テムルの宮廷に招かれる。イブン・バットゥータはトゴン・テムルについて、中国の一部の人々から崇拝されていると描写している。大都の宮殿は木造で、統治者の第一夫人(奇皇后)は彼女を称える行進を行わせた、と記録している。
イブン・バットゥータはまた泉州から60日のところにゴグとマゴグ(マゴグ)の地があると記している。ハミルトン・ギブによればイブン・バットゥータは万里の長城はクルアーン(コーラン)にあるとおり、ズー・ル=カルナインがゴグとマゴグを退けるために築いたものだと信じていた。 イブン・バットゥータは北京から杭州へ戻り、福州へと旅を進めた。泉州に戻るとすぐにサムドラ・パサイ王国のスルタン所有のジャンクに乗り込み、東南アジアを目指した。しかし船の乗組員に法外な額の報酬を要求され、彼が中国滞在中に工面した蓄えをほとんど失ってしまった。

帰郷とペスト
1346年に泉州に戻るとイブン・バットゥータはモロッコに帰る決心をする。インドのカリカットに着くと、もう一度ムハンマド・ビン・トゥグルクを訪ね慈悲を請うべきかと逡巡するが、そのままメッカへと向かうことにした。バスラへ向かう航路でホルムズ海峡を通る。そのときにイルハン朝の最後の君主アブー・サイードがペルシアで死亡したことを知る。イルハン朝はこのあとに起こるペルシア人とモンゴル人との間の激しい内戦により崩壊することになる。
1348年、イブン・バットゥータは最初のハッジのルートをなぞるつもりでダマスカスに立ち寄る。そこで彼の父が15年前に他界していたことを知る。そして続く翌年からしばらくの旅は「死」が支配的なテーマとなった。黒死病の流行が中東を襲い、彼はまさにペストの支配するシリア、パレスチナ、アラビア地域に居合わせていた。メッカに到着すると、彼はモロッコへ帰る決断をする。タンジェの家を発ってから実に四半世紀が経とうとしていた。帰り道にサルデーニャ(イタリアの島)へ最後の寄り道をした。1349年フェズを通ってタンジェ(モロッコ北部の町、タンジールとも)への帰郷を果たす。彼は彼の母もまた数ヶ月前に他界していたことを知る。
アンダルスと北アフリカ
イブン・バットゥータはグラナダ王国を訪れた。グラナダ王国はアンダルスにて最後のムラディ文化を育んでいる。ついに帰郷を果たしたイブン・バットゥータだが2、3日も滞在するとすぐにタンジェを離れることになる。これはムーア人の支配するイベリア半島のアンダルスを旅するきっかけとなった。当時カスティーリャ王アルフォンソ11世はジブラルタルへの攻撃を仄めかしていた。1350年、その攻撃から港を守る目的でイスラム教徒のグループがタンジェを旅立った。そこにイブン・バットゥータも参加した。しかし彼らが到着するまでにペストがアルフォンソ11世を殺したために侵略の恐れは無くなった。彼はそのままアンダルスの観光旅行へと目的を変え、バレンシア王国をめぐり、グラナダでアンダルスの旅を終える。
アンダルスを後にした彼はモロッコを旅する決断をする。家へ帰る途中でしばらくマラケシュに滞在した。かつての首都マラケシュはペストと、フェズへの遷都によりほとんどゴーストタウンのようだった。
マンサ・ムーサ マンサ・ムーサ
もう一度彼はタンジェに戻るが、ほんのしばらく滞在しただけでまた旅にでることになる。時は戻るが1324年にイブン・バットゥータが初めてカイロを訪れた2年前、西アフリカのマリ王国の皇帝マンサ・ムーサがまさにその街をハッジの為に訪れていた。途方も無い量の金を彼の国から持ち込んだマンサ・ムーサの巡礼は当時カイロでセンセーションを巻き起こしていた。イブン・バットゥータは旅行記の中でこのエピソードには触れなかったものの、当時のカイロでマンサ・ムーサの話を耳にしていたとしても不思議はない。彼はサハラ砂漠を越えた向こう側にあるこのイスラム国家を次の目的地とした。マンサ・ムーサの話は有名だが、どのようにしてこんな富を蓄えることが出来たのだろう。
モスク 1351年の秋にイブン・バットゥータはフェズを出発し、現在ではサハラ砂漠の北限となっている街、シジルマサへ向かった。この街で彼はラクダを何頭か購入し4ヶ月を過ごした。1352年2月、彼はキャラバンを伴って再び出発、25日をかけてタガーザーの塩原にたどり着く。この地域では建物はすべて塩のブロックでできている。ここではマッスーファ族の奴隷が塩を切り出し、ラクダで運び、建物を造る。タガーザーは交易の要衝でマリで産出される金に溢れていたが、イブン・バットゥータはあまり良い印象を持たなかった。ハエに悩まされ、水はしょっぱいと記録している。
タガーザーに10日滞在したあと、キャラバンはターサラフラーのオアシスに向かった。そこに準備のために3日滞在する。ここからこの広大な砂漠を縦断する旅で最後の、そして最も難しい区間が始まる。ターサラフラーから、まずはマッスーファ族の先行隊がウアラタのオアシスに向け出発、彼らはそこで水を調達して4日目の地点までもどり本体と合流する。ウアラタはサハラ交易ルートの南の終点で、ちょうどこのころにマリ帝国の支配下に入っていた。キャラバンはシジルマサから1600キロの行程に2ヶ月を費やした。
ここからイブン・バットゥータはナイル川と彼が思い込んでいた川、すなわちニジェール川に沿って南西へと旅をつづけ、マリ帝国の首都にたどり着く。彼は1341年より在位しているマンサ・スライマーンに謁見する。イブン・バットゥータは女奴隷、召使、さらにはスルタンの娘たちまでもが肌の一部を露出させた格好をしていることがムスリムらしくないと、不満をもらしている。2月には首都を離れ、現地のムスリム商人とともにラクダでトンブクトゥを訪れた。トンブクトゥは翌15世紀、16世紀にはこの地域でもっとも重要な都市となるが、イブン・バットゥータが訪れたこのときはまだ小さな街だった。この旅でイブン・バットゥータは生まれて初めてカバを目にする。トンブクトゥに少し滞在した後、彼はピローグという丸木舟でニジェール川を下り、ガオを訪れた。当時ガオは重要な交易の要衝であった。 ガオでひと月を過ごした後、彼は大きなキャラバンに参加してタカッダーのオアシスを目指した。砂漠を越える旅の中で彼はモロッコのスルタン、アブー・イナーン・ファーリスからのメッセージ、家に帰るようにとの命令を受け取る。彼は1353年の9月に、600名の女奴隷を輸送する巨大キャラバンとともにシジルマサへ向けて出発した。そして1354年の初旬にモロッコに戻っている。イブン・バットゥータのこのアフリカの旅の記録はイスラム教が西アフリカへと波及していく過程を覗かせてくれる貴重な資料となっている。

世界の歴史の部屋

インド航路の発見

ヴァスコ・ダ・ガマ ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1460年頃 - 1524年)は、ポルトガルの航海者、探検家。アフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれます。コロンブスの米大陸発見(1492年)でスペインに先を越されたポルトガル王には焦りもあったらしい。航海について公式に作成された報告書は残っておらず、いわば海賊の親玉みたいな人か。
魔女狩り ガマは、1497年7月、大勢の観衆が見守る中、リスボンから出発。 この艦隊派遣では、航路の発見に並びプレスター・ジョンの国およびインドとの親交と貿易の端緒をつくることが目的とされ、国王の親書が用意された。プレスター・ジョンの国とは、インドかアフリカにあるとされる伝説上の国。ローマ法王の狙いは、この国と組んでイスラム勢力を叩きのめすこと。十字軍の恨みまだ懲りずに戦う気だ。この当時のイベリア半島は、反宗教改革急先兵。失地回復運動(レコンキスタ)やら、魔女狩りや異端審問、ちょうど今のIS(イスラミック・ステート)みたいな国だ。航海の目的も商売も一つだが、カトリック教の布教が表向きの理由。異教徒は、本心では人間とは思わない、殺しても構わない。大変危険な集団だったのです。でも、プレスター・ジョンの伝説は、嘘ではなかったわけで、アフリカにはエチオピアと言う立派な国があって、今でも元祖キリスト教を信仰している。
アフリカの西海岸を回って喜望峰まではすんなりたどり着くが、それから先は全く未知の世界。当時のインド洋は、イスラム商人たちの縄張りだ。でも、実際はイスラムの陸の大帝国、ムガール帝国もオスマン帝国も陸の世界にしか目が無い。各地域の港町はチャンと税金を納めていれば完全な自治が認められ、誰でも自由に貿易ができる体制が確立していたようだ。だから、商人たちはインド人もスラバヤ人もアフリカ人も皆、平等に商いが出来たらしい。東アフリカには共通語としてスワヒリ語と言うものがある。タンザニア、ケニア、モザンビークなどで今でも共通語となっているようです。概ね彼らはイスラム教徒になっていた。スワヒリ語は、イスラム商人とアフリカ商人の交易のための共通語として発達したとのこと。また、これらの地域では、金融関係は今でもインド商人が強いとか。アフリカ人だって西欧人か来なければ、今ももっと平和な社会に生きていくことが出来たのでしょう。
しかし、イスラム教徒を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちは、アラビア語を話すムスリム(ムーア人)に対し妄想に近い強い警戒感を持っていました。結局、鉄砲を利用して無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に押し入ってその中心で銃を何発か放つ。ヴァスコの船隊に加わっていた一人の人物の記録によると、「ムーア人は家の中にとどまり、誰一人浜まで出てこようとしなかった」という。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この水域の慣行を無視し、港の使用料を払わないままだった。およそ彼らの行動は当時の慣習にはそぐわない。不自然で不可思議な行為だった。
インドに到達する。王宮に到着したヴァスコは来訪の目的を廷臣に伝えるように要求されたにもかかわらず、自らはポルトガル王の大使であるから王に直接話すと主張して聞かなかった。翌日宮殿で謁見したヴァスコは国王に親書を渡し、目的のひとつを達成した。しかし用意した贈り物を見た王の役人やイスラム教徒の商人は笑い出した。贈り物は布地、一ダースの外套、帽子6個、珊瑚、水盤6個、砂糖1樽、バターと蜂蜜2樽に過ぎなかった。「これは王への贈り物ではない。この街にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している」と言われ、ヴァスコは「私は商人ではなくて大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。」だったら偉そうな顔をするな。つまり、当時の西洋人は貿易をしようにも何も売るものすらないという悲しい現実があったわけだ。
これに対しヴァスコはイスラム系商人に対する過剰な猜疑心から、強硬な手段に打って出る。火器を使って暴力的に相手を脅す。当時のインドやアフリカの港町は独立した自治組織で自前の軍隊は小さい。簡単に武力で制圧されてしまう。こんな貿易だが、ヨーロッパでは、持ち帰った胡椒が高値で売れ、第二回の遠征が可能になる。
二回目以降はしっかりと火器を準備し、初めから征服目的で遠征をする。相手方は弱小の港湾都市国家、国策で火薬武器を平気で使用する相手にはかなわない。火器で領土を広げた、モンゴル帝国、チムール、ムガール、オスマン帝国の海洋版だ。これに対して陸の帝国は全くこの動きを無視。一定の税金さえ払えば何をしても構わない。あっという間に、ポルトガルの海洋帝国が成立する。スペイン、オランダ、イギリスがこれに倣う。西欧の覇権が成立する。ヴァスコが交易で得た品は、胡椒、肉桂、蘇木、丁字、生姜など。 このポルトガルの決定は、ヨーロッパ各国が本格的にアジアに進出する契機になったとともに、その基本的態度を方向付ける。強力な海軍を派遣して貿易を支配する構造は、ヨーロッパ諸国がアジアに植民地主義を展開する手段として用いられることに。
しかし、ポルトガルのやり方は東アジアでは通用しなかった。インドではムガール帝国は海には無関心だったが、中国(明)は違った。明は海外貿易を禁止するとともに、貿易の利益を国家が独占する政策を取る。朝貢貿易が主体であるため、周辺国も海賊退治を熱心に進める。イスラム圏では、一般の民間と海賊の区別はない。しかし、東アジアではポルトガルは大人しく振舞うしかない。キリスト教は、限定的にしか普及できず、ザビエルは日本での布教は断念し、中国で失意のうちに亡くなる。最後は布教抜きで経済利益を追求するオランダに覇権を奪われる。
イタリアのベネチア等の都市国家も、ポルトガルの興隆で最初は大きな打撃を受けるが、ポルトガルがすでに出来上がっていた自由な貿易網を完全に破壊できた訳でもなく、しばらくは息をつくことが出来たらしい。

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ガヴリロ・プリンツィプ

ガヴリロ・プリンツィプ
ガヴリロ おそらく、こんな名前世界史で大学受験する高校生でも知らないんじゃない。でも第一次大戦の引き金となったあの事件を思い出せば分かる。
ガヴリロ・プリンツィプ(セルビア語: Гаврило Принцип / Gavrilo Princip、 1894年7月25日 ~1918年4月28日)は、セルビアのテロリスト。ボスニア出身のボスニア系セルビア人の民族主義者で、1914年6月28日、サラエヴォでオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するサラエボ事件を起こす。世界史の勉強で年号を覚えることがmustとは思わないが、これが第一次世界大戦のキッカケだから重要な年号には違いない。彼は青年ボスニアの活動家。貧しい農家で生まれ苦学して学ぶ。

1911年、プリンツィプはセルビアの分離独立を目指す革命組織「青年ボスニア」に参加し、メンバーたちと秘密裏に会合を重ね、文学・倫理・政治について語り合う。1912年には反オーストリア=ハンガリー帝国デモを主催したためギムナジウムから退学処分を受けた。プリンツィプはセルビア国境を越えた際に跪いて地面にキスしたという。 ベオグラードに到着したプリンツィプは、黒手組のメンバーのヴォジスラフ・タンコシッチ少佐にオスマン帝国へのゲリラ運動に参加したいと志願したが、身長が基準に達していないとして拒否された。プリンツィプは失意のままサラエボに戻り、弟の家で数カ月間過ごした。その後、プリンツィプは反オスマン組織セルビア革命組織メンバーのツィカ・ラファエロヴィチと接触し、青年セルビアのメンバー15人と共にヴラニェの訓練所に派遣される。プリンツィプは訓練所で暗殺や爆弾製造の訓練を受けた後、ベオグラードに戻った。 ボスニア・ヘルツェゴヴィナはセルビア正教のセルビア人、ムスリムのボシュニャク人、カトリックのクロアチア人住居地域が入り混じり、もともとオスマン帝国領であったが、1878年のベルリン会議の決定に基づくオーストリア=ハンガリー帝国の占領の後、1908年には正式に併合される。
当時、バルカンではロシア帝国を後ろ盾とする汎スラヴ主義とオーストリア帝国・ドイツ帝国の支援を受ける汎ゲルマン主義が対立し、ゲルマン民族であるオーストリアの占領下にありながら人口の大半がスラヴ系であるボスニアでは、すでにオスマン帝国から独立していた同じスラヴ系のセルビア王国への併合を求める大セルビア主義が台頭していた。
サラエヴォは共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首府であり、オーストリア帝国から派遣された総督が駐在していた。1914年6月に同地で軍事演習が行われることになり、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の後継者でフランツ・フェルディナント(皇太子)が妃ゾフィー・ホテク(チェコ貴族出身)とともに視察のためサラエヴォを訪問した。 大セルビア主義を掲げてセルビア軍将校ドラグーティン・ディミトリエビッチにより組織化された黒手組(ツルナ・ルーカ)はフランツ・フェルディナントの暗殺を計画し、プリンツィプも計画に加わった。黒手組は1911年にフランツ・ヨーゼフ1世の暗殺を計画したが、失敗している。
1914年6月28日午前10時、フランツ・フェルディナント夫妻を乗せた列車がサラエヴォに到着。フランツ・フェルディナント夫妻はセルビア駅から自動車に乗り込みサラエヴォに向かった。6台の車列の先頭にはサラエヴォ市長フェヒム・チュルツィヒと警察長官エドムント・ゲラーデが乗り込み、夫妻は2列目の車にボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督オスカル・ポティオレクとフランツ・フォン・ハラッハ中佐と共に乗り込んでいた。また、市民と触れ合うために車の屋根は折り畳まれていた。
黒手組のメンバー7人はそれぞれ間隔をあけて街道に待機し、車列が目の前を通過する際に襲撃する算段となっていた。ムハメド・メフメドバシッチが最初に車列と接触するが、彼は行動を起こさずに静観した(後年「背後に警官が立っていたので行動できなかった」と述べている)。10時15分、中央警察署の前で待機していたネデリュコ・チャブリノヴィッチがフランツ・フェルディナント夫妻の乗った車に爆弾を投げ付けたが、爆発まで10秒のタイムラグが生じ、4台目の車が通過した際に爆発し、4台目の車に乗っていたエリック・フォン・メリッツィとアレクサンデル・フォン・ボース=ヴァルデック伯爵と市民12人が負傷した。チャブリノヴィッチは服毒して川に飛び込んだが、毒は不良品で効果がなく、川も水深10センチメートルしかなかったため、すぐに引きずり出され逮捕される。爆発音を聞いた車列はスピードを上げて総督官邸に逃げ込み、プリンツィプら残り5人のメンバーは混乱する大勢の群衆に阻まれ暗殺を決行できなかった。
総督官邸に逃げ込んだフランツ・フェルディナントは、爆弾で負傷した市民を見舞うため病院に向かった。ポティオレク(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督)は市内中心部を避け迂回するルートを選んだが、運転手のレオポルト・ローチャにルートの変更を伝えるのを忘れてしまった。そのため、ローチャは道を間違えてフランツ・ヨーゼフ通りに入ってしまい、カフェで食事をしていたプリンツィプと遭遇した。車は方向転換を行うが、プリンツィプはFN ブローニングM1910を取り出し車に近付き、1.5メートルの距離から発砲した。プリンツィプは1発目をゾフィー(妃)の腹部に、2発目をフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲し、車は総督官邸に逃げ込んだが、夫妻は午前11時前に死亡した。
暗殺に成功したプリンツィプは青酸を飲んで自殺を図るが、チャブリノヴィッチのものと同様に不良品だったため効果がなく拳銃自殺を試みようとするが、発砲前に群衆に取り押さえられた。プリンツィプは裁判にかけられハプスブルク家の法に基づき死刑を求刑されるが、犯行時20歳に達していなかったため死刑を免れ懲役20年の刑を宣告された。プリンツィプはテレージエンシュタット要塞刑務所(現在のチェコ共和国テレジーン)に収監されるが、第一次世界大戦末期の劣悪な刑務所環境のため持病の結核が悪化し、サラエボ事件から3年10か月後の1918年4月28日に獄中で病死。プリンツィプは獄中で結核性脊椎症の悪化のために右腕を切断しており、また、栄養失調も重なり死亡時には体重が40キログラムしかなかったという。
死後、遺体は民族主義者の聖地になることを避けるためサンメルコ墓地に秘密裏に埋葬された。しかし、埋葬に立ち会ったチェコ人兵士によって1920年に「セルビア人の永遠の英雄」と書かれた記念碑が墓地に立てられている。

プリンツィプが使用した拳銃は押収され、フランツ・フェルディナントの血染めの軍服とともに大公の友人アントン・プンティガム司教に引き渡された。拳銃と軍服は長い間教会に保管されていたが、2004年にフランツ・フェルディナント夫妻が乗っていた車とともにウィーン軍事史博物館に貸与され、常設展示されている。また、フランツ・フェルディナントの首に命中した銃弾はチェコの博物館に保管されている。
生家は第一次世界大戦中に破壊されたが、戦後にユーゴスラビア王国が再建して博物館として開放された。しかし、1941年にユーゴスラビア王国はナチス・ドイツに占領され、生家はサラエヴォがクロアチア独立国の一部となった際に再び破壊された。その後、1944年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国によって博物館として再建され、これとは別にサラエヴォ市内にもプリンツィプを記念した博物館が建てられた。しかし、1990年代のユーゴスラビア紛争の際に再び破壊され、以後は再建されていない。
後世の評価
セルビアに於いては民族主義がしばしば台頭するが、事件の結果がセルビア王国の滅亡につながったため、必ずしも肯定的な評価とはなっておらず、プリンツィプの評価は賛否が分かれる。ボスニア・ヘルツェゴビナでも、プリンツィプをテロリストと見なす意見と、英雄と見なす意見の両方が存在する。 2014年4月21日にエミール・クストリッツァとマティヤ・ベチコヴィッチがプリンツィプの銅像を建てることを発表。サラエボ事件から100周年を迎える6月27日に除幕式が行われ、会場では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった。
2015年6月28日にはベオグラードにプリンツィプの像が建てられた。この像はスルプスカ共和国大統領ミロラド・ドディクからセルビア大統領トミスラヴ・ニコリッチに贈呈されたものだった。ニコリッチは像を贈呈された際に「プリンツィプは英雄であり、ヨーロッパにまたがる暴君・殺人者による奴隷支配からの解放の象徴である」と声明を発表している。
**スルプスカ共和国(スルプスカきょうわこく)は、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナの構成体の1つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、セルビア人を主体とする共和国で、通称はセルビア人共和国。独自の大統領、政府、立法府を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%を占める。
ガヴリロ・プリンツィプをテロリストと決めつけ断罪することは簡単かも知れないが、未だに英雄として尊敬を集めていることも忘れてはいけない。テロリストにも一理あり。テロを受ける側にも問題があるということだ。他に手段の無い行き場のない追いつめられた人の気持ちにも配慮が必要な訳です。暗殺されたオーストリア皇太子には多分何も落ち度はない。しかし、圧政を受けている人々にとっては、オスマントルコもハプスブルグ王国も同罪で、抹殺すべき対象でしかない。
安重根 韓国での英雄となっている安重根も同じだろう。伊藤博文は決して圧政者ではなかった。より邪悪な日本人はいくらでもいた。伊藤博文を暗殺した韓国(朝鮮)は、より過酷な圧政を被ることになる。でも、彼は圧政に立ち向かおうとしたのだと事実は消せない。韓国のお友達と議論する際は気をつけて欲しい。
でも、本当に大事なことは、色々な人達がこの地球に共存して生活していること。旧ユーゴスラビアなんか理想の社会だ。オスマントルコもそうだ。一つの国に多様な民族が共存している国こそ目指すべき社会のはずだ。
【石川啄木(一握の砂)】
「日韓併合に際して」
地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨を塗りつゝ 秋風を聞く
【テロリスト】
我は知る、テロリストのかなしき心を―
言葉と行いを分かちがたき ただ一つの心を、
奪われたる言葉のかはりに おこないをもて語らむとする心を、

国際問題の解決こそ、「分ちあいの心」、話し合いの精神が大事だ。テロリストを防ぐためには、 彼等にも対話の場を設定してあげる必要もある。テロを受ける側にも問題があるということだ。

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サラエボ事件

サラエボ事件 6月28日は第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」が起きた日。1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フェルディナント大公とその妻ゾフィー・ホテクはセルビアの首都サラエボを外遊中にセルビア民族主義者の青年によって暗殺された。事件の起きた日は、夫妻の14回目の結婚記念日でもあった。
この夫妻の結婚は下記のようだったとか。
実はゾフィーは、皇族出身ではなくオーストリア・ハンガリー帝国の陸軍最高司令官の妻に仕える女官にしかすぎなかった。皇族と女官。いわば身分違いの結婚。これが周囲の猛反対を招く。それでもフェルディナント大公は必死に周囲を説得する。
渋々ながら結婚を認めてもらえたのだが、それには幾つかの厳しい条件がついてきた。例えば、「ゾフィーは皇族としての権利を全て放棄すること」「二人の間に男子が生まれてもその男子に皇位継承権はない」などなど。もっとも屈辱的だったのは、公式行事に妻ゾフィーを同伴させてはならないというものだった。公式行事に妻を同伴させるのは皇族として当たり前の事だった。その「当たり前」のことすら許されなかったのだから、相当冷たい目で見られていたのがわかる。そういった逆境にも負けず、3男1女に恵まれ、側室を持っていたという記録もないから、二人は相当仲睦まじかったのだろう。逆境が二人の絆を強くしたのかも知れない。
さて、次にオーストリアとセルビアの関係について。セルビアはかつて中世ヨーロッパでは大国。しかし、14世紀にオスマン・トルコに敗れ、領土を奪われてしまう。19世紀に入り、オスマン・トルコが衰退し、独立を果たすもオスマン・トルコとの戦いのどさくさに紛れてオーストリア・ハンガリー帝国に領土の一部を吸収されてしまい、完全なスラヴ人(セルビア・ブルガリア・クロアチアなど東ヨーロッパの民族)国家樹立とはならず、オーストリア・ハンガリー帝国への対立感情を募らせていった。過激派組織を結成し、武力に訴えようとする者がでる。
オーストリア・ハンガリー帝国にしてみれば到底看過出来ることではないので、スラヴ人たちへの抑圧を強める。これが、サラエボ事件前、ひいては第一次世界大戦前の両国の関係である。「オスマン・トルコに敗れて領土を奪われてしまった」と書いたが、あろうことか(1389年)6月28日がその屈辱的な日なのである。
セルビア人にとって最も忌むべき日に憎むべき帝国の人間がやって来る┄。民族主義を強く主張する人間にとっては怒り心頭であっただろう。フェルディナント大公夫妻がその事を知らなかったとしても、最悪のタイミングでセルビアに来てしまったと言わざるを得ない。「そして事件は起こった┄」
1914年6月28日午前10時頃、大公夫妻の乗った車が市役所に向かう途中、爆弾を投げつけられるという事件が起こる。このとき大公夫妻は奇跡的に無事だったが、従者たちに負傷者が出た。市役所に着いた夫妻は急遽予定を変更し、爆弾事件で負傷した者を見舞う為、病院に向かうことにしたがそこで暗殺されたようだ。犯人の名はプリンツィプという19歳の青年。民族主義の過激派組織「黒手組」のメンバーのひとりであった。先の爆弾事件も「黒手組」メンバーの犯行だったのである。プリンツィブは逃走を図るも失敗し、犯行に関わった「黒手組」メンバーも逮捕された。
皮肉なことに、フェルディナント大公はセルビア人に対して政治的には好意的なスタンスを取っていた。ここでひとつの疑問が残る。

「なぜ帝国はセルビアの治安が悪いと分かっていながら大公夫妻を派遣したのか」である。民族主義運動が起こっていてセルビア人達が帝国への反感を募らせていることは当然知っていた筈だし、中には過激な考えを持つ者がいるであろう事は容易に想像出来た。
しかも「黒手組」がフェルディナント大公夫妻の外遊を狙った犯行を企てている事は帝国は事前にセルビア政府から知らされていたという。ではなぜ、犯行を未然に防げなかったのか。 実はセルビア政府は黒手組の動きを事前に察知していたのだが、政府の中に黒手組の息のかかった者がいて捜査情報が筒抜け状態となりメンバーを逮捕するまでには至らなかったのだ。問題はなぜわざわざ帝国が大公夫妻を派遣したかである。
一説によると、フェルディナント大公は身分違いの結婚をした事で皇帝にも嫌われていた。目障りにすら思っていたかもしれない。その目障りな存在を消す為にはどうしたら良いか。
適当な理由をつけてセルビアに外遊させ、そこで過激な民族主義者に暗殺させるというのはどうだろうか。自ら手を下さなくても良いし、事件を口実としてセルビアに圧力をかけることも出来る。 ただ、これはあくまで推測であって、皇帝が黒幕だという証拠は何もない。事件後、当然のことながら帝国は大激怒。事件の首謀者らの即時身柄引き渡しなど10ヶ条もの要求をセルビア政府に突き付ける。 セルビア政府は要求を一部受け入れるとしたものの、帝国は「全ての要求を受け入れなければ帝国への宣戦布告とみなす」としたので、武力衝突は避けられない状況となった。ここからどう第一次世界大戦へと繋がっていくのか。

セルビアはかつてロシア帝国と「有事の際にはロシアはセルビアに無条件で協力する」という条約を結んでいたのでロシアはセルビア側に参戦することになった。一方、オーストリア・ハンガリー帝国は三国同盟でドイツ帝国と同盟関係にあったので(もう1ヵ国はイタリア)、ドイツはオーストリア・ハンガリー帝国側に参戦することになった。
だが、これでは終わらない。かねてよりドイツ帝国と外交問題で激しく対立していたフランスとイギリスがロシア帝国側につく。
この時点で「オーストリア・ハンガリーvs セルビア」の争いではなく「ロシアvs ドイツ」の争いへと発展していった。こうして戦火はヨーロッパ中に広がっていった。
では「オーストリアvsセルビア」はいったいどうなったのか。セルビアはオーストリアに敗れ、セルビアの首相はギリシャに逃亡する。だが、オーストリアも無事では済まなかった。 ドイツを始めとする同盟国側につき、敗れたことで降伏、皇帝も退位しオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。ドイツも敗れたことで、ドイツ帝国も同じく降伏、皇帝も退位しドイツ帝国も崩壊した。さらには戦勝国であるロシア帝国も同時期に起こったロシア革命により滅亡することとなる。ヨーロッパを支配した3つの「帝国」がほぼ同時期に崩壊する。第一次世界大戦は「帝国主義の崩壊」の転機ともなっていたのである。
第一次世界大戦からちょうど100年目の2014年6月28日、ヨーロッパ各地で第一次世界大戦の犠牲者への慰霊祭が行われた。だが、サラエボ事件の歴史認識は未だ大きな隔たりがある。 事件を起こしたセルビア人青年プリンツィプはテロリストといえるが、セルビア人の認識は「民族解放の英雄」だという。ちょうど100年目に当たる2014年にはプリンツィプの銅像も建てられ、除幕式にはセルビアの首相ら要人も参加している。「あの時、もし違った結果になっていたとしたら┄」歴史に「もし~だったら」は禁物だが、そう考えさせられる事件でもある┄。

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民主主義の歴史

みんなで決める。これは人類の歴史ではほぼ最初からあったルールです。類人猿の世界でも食べものを老人や幼い子供達にもある程度平等に分けるためのルールが存在しています。弱肉強食の社会でない限り。構成員が平等な狩猟民の世界では話合いで物事を決めることはごく当然のこと。マルクスの言う、原始共産制の世界です。農耕社会になって、リーダの存在が大きくなり、初めは回り持ちのリーダが世襲制となり、王政や帝国が生まれました。遊牧民の世界は部族会議などがしばらく続いており、これも一種の間接民主主義と言えるでしょう。ローマの元老院などは、話し合いの場ですが、議員は家柄で決まっており、終身ですから平民の権利は認められてなかったのですね。しかし、ここでの議論は真剣でカエサル(シーザー)とキケロの弁論での対決など、弁論の価値を高く評価している点はすばらしいものがあります。多数決で決まるより弁舌の力で決着することが多かったようです。元老院の議員にはそれだけの格式が求められていたようです。だいたい議論に参加しない人には決定に加わる権利は無いのです。

ローマでは、その後だんだん平民の力が強くなり、元老院と対立するようになります。シーザーは平民達の多大な支持を得て皇帝のような地位を確保します。今のロシアのプーチンみたいな存在かもしれません。その後、初代皇帝としてアウグストゥスが後を継ぎ、平民達の声を利用しながら、元老院から権力を奪い取っていきます。でも、その際の最大の力は武力よりも言論の力と信じられていました。
      古代ギリシャでは、アテネが民主制を採用します。アテネはペリクレスという偉大なリーダに恵まれ、大発展します。しかし、アテネ政体を視察に来たローマの元老院のメンバー達は、「これはダメだ、いづれ潰れる」と判断して、民主制の採用を見送ったそうです。案の定、ペリクレスが無くなると、アテネは混迷を極め、衰退します。いわゆる衆愚政治に陥ってしまったわけです。。

現代の民主制は、資本主義の勃興と並行して進んできたことを見逃してはなりません。新しく出て来た産業資本家達は、地主貴族から土地の農民を工場の賃労働のために引離す必要があります。そのためには普通選挙は格好の口実になります。選挙の投票では、賃金をくれる人の言うこと聞くのは当然です。また、中間層が増加することは、製品の買い手としても有望です。こうして成熟した資本主義国家の資本家達は遅れた国の政治制度にも横槍を入れるようになります。各国で労働争議が増加していく裏には、資本主義国からの資金援助もあったことでしょう。革命運動等の指導者達、その資金源どこだったのでしょうか。

戦後の日本は、民主主義はもっとも進んだ制度だと学校教育で洗脳されて来ました。しかし、民主主義を真に機能させることは容易ではありません。権力者はマスメディアもネットの情報も管理できます。アメリカのトランプ政権は色々マスメディアでは叩かれていますが、今までとは異なった見方もあるのだと国民が気付いた点では評価できるのではないでしょうか。

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パックス・アメリカーナ

パックス・ロマーナという言葉が西洋史には出て来る。パックスはピースの意味で平和、ローマ帝国がヨーロパ及びその周辺を含む巨大な地域を統一し、長期間の平和と安定がもたらされていた状態をいう。時代的にはBC27年~AD180年、すなわちアウグストゥスによる帝政開始~五賢帝時代の終わりぐらいまでを指している。確かに域内に住む人々にとっては、戦争もなく経済も発展し平和で良い時代であったことは間違いないようです。世界史の中で巨大な帝国は何度も現れますが、パックス・〇〇と呼ばれるような帝国(共和国でもかまわないが)になるには、いくつかの条件が必要でしょう。具体的にいくつかの候補を挙げて見ましょう。

【唐帝国】

唐帝国は、交易も世界的で統一後は、周辺国ともうまくやっているようです。中華帝国の貿易は、朝貢という形で行われ、実際には宗主国の大幅な持ち出しです。中国の王朝は唐に限らず、統一後しばらくは平和な時代が訪れます。そのうちに国の統治機構が腐敗して、衰退していくことになります。これは中国だけに限らないか。でも、パックス・タンもありですね。ところで、唐の時代は、すごく国際的ですね。西から色々な文化がやって来てます。キリスト教(景教、ネストリウス派)も唐経由で、日本にも入って来てます。日本にキリスト教を最初に伝えたのは、ザビエルだというのはウソですね。

【パックス・モンゴリア】

モンゴルの世界帝国、歴史地図を見るとすごいですね。まさに、世界最大の帝国が忽然と現れるのです。モンゴルの侵入は、残虐さで有名ですが、征服後の統治には、現地の人材をフルに活用します。何せ、あれだけの版図をごく少数のモンゴル人では統治しようがありません。政府の中枢も有力な官僚たちは西域の色目人と言われる人々が多数を占めています。モンゴルの残虐さは、当時の支配者達の立場で歴史が書かれているためで、その後の善政については抹殺されているのでしょう。モンゴル帝国の一部であった元でも、官僚機構はそのまま、役人たちも不満なし、頭が入れ替わるだけですから。一般の人々から見たモンゴル支配下の生活、そんなに不満はなかったのかも知れませんね。モンゴル帝国の版図が大きくなったおかげ、世界交流は大幅に活性化します。商人たちが安全に行き来できるからです。ローマからは、マルコ・ポーロ達がやってきますね。

【パックス・ブリタニカ】

15世紀ごろから、ヨーロッパ列強の世界進出が始まります。はじめは、スペイン、ポルトガル、オランダそして最終的に英国に覇権が移っていきます。この時代戦争が絶えませんね。英国も最初は、武力に頼って来ましたが、次第に外交による平和的(陰謀的)解決を主力にするように変わって行きます。日本でも、幕末には陰で反政府勢力の薩長を支援し (幕府を支えたのはフランス)、日露戦争でもロシアの足を引張り続けます。更に、当時勃興してきたマスメディアをフル活用してロシアが負けたことを既成事実化して交渉を日本に有利に進めます。ロシアはお陰で革命が起こりロマノフ王朝は転覆します。この革命にも情報や資金面で隠然と操っていた力があったのですね。巧みに情報を操作して、世界を操る諜報活動の力を最初に認識したことが英国が成功した鍵ですね。

英国は、植民地経営でもうまくやっていたようですね。現地の人材をうまく活用しています。フランスが力で押さえつけるやり方を取ったのと対照的ですね。植民地が独立した後も、比較的順調に発展している例が多いようです。ただし、地元民を分断して統治する政策は、後々に大きなしこりを残しているようですね。我が国も戦前には、「大東亜共栄圏」を目指したことありましたが上手く行かなかったですね。

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【パックス・アメリカーナ】

第二次大戦の結果は、アメリカの一人勝ち、日本、ドイツの負組以外の、英、仏も戦争の痛手で青息吐息、英国は覇権をアメリカに譲り、院政を試みます。ところが予想外のことが生じます。いわゆる「鉄のカーテン」が出来、別の世界が形成されてしまうのです。でも、ソ連邦は、その後経済的に破綻し、現在覇権国と言えるのは米国だけになっています。パックス・アメリカーナは、現代の状態そのものでしょう。ここから先は、歴史の課題というより、現代政治そのものかも知れません。でも、昨日までに生じた事柄はすべて歴史の対象とも言えます。歴史を読み解き未来の予測に使えなければ歴史を学ぶ意味は何でしょうか。パックス・アメリカーナについての考察はまた後日行いたく思っています。

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米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人

NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。

途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すのとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
フレッド・コレマツ 2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。

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【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

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原子爆弾の開発

1945年8月、人類史上初、世界で唯一核兵器が実戦使用された。
8月6日 広島市 広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイ
8月9日 長崎市 長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマン
原子爆弾の開発は、E=mc2、すなわちわずかな質量が膨大なエネルギーを生み出すという発見から生まれた画期的な殺戮兵器である。ナチス支配下で米国に亡命して来た著名な科学者達がルーズベルト大統領に進言して開発が進められた。確かにドイツでも日本でも並行して開発が進められていたことは公然の秘密である。日本では仁科芳雄等が中心となって研究開発が進められていたが、敗戦後には原子力に関係する施設は米軍によって秘密裏に完璧に破壊された。日本のノーベル賞学者は湯川、朝永は仁科の弟子で、以後日本の物理学者らは専ら理論物理の研究を中心に行っていくことになる。
 ドイツが降伏し、日本も降伏寸前の時点では、核兵器の破壊力から投下を中止する意見もあったが、ルーズベルト死去の後を継いだトルーマン大統領の決定で投下が実施された。更に、第三の原子爆弾を投下することも計画されていたがトルーマンによって中止された。ルーズベルト大統領は、日系日本人の捕虜収容所を進めた張本人、やっていることナチスのユダヤ人捕虜収容所と何ら変わりがない。はじめからドイツには落とすつもりはなかったのかも。
 その後朝鮮戦争では、マッカーサーは原爆の使用を提言するが、トルーマンはこれを許さず、38度線にこだわり、また、今まで支援してきた蒋介石の中華民国政権の梯子をはずし、共産党の大陸支配を容認する。この結果、金日成が朝鮮解放の英雄として北朝鮮の支配を確立し、毛沢東も米国・日本から中国を解放した英雄として支配権を確立。その後進んでいく東西冷戦もこの時から想定されていた筋書通り展開のように思われる。

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敗戦後の東アジア世界

 日本がポツダム宣言を受け入れ終戦となったのが1945年。日本の降伏調印式は1945年9月2日。実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた(知らないのは日本国民だけ)。日本の終戦記念日は翌日の8月15日。正式に国家同士で戦争していたのはアメリカ合衆国と中華民国(蒋介石政府だけ)。ソ連とは不可侵条約を結んでいたので正式には戦闘状態には無かったわけです。中華人民共和国の成立は1949年10月1日。朝鮮戦争は1950年の北朝鮮の突然の侵入に始まり、1953年7月に休戦協定成立。未だ最終的な平和的解決は行われていない。

 戦後賠償については、米国、中華民国は賠償の権利を放棄している。これは第一次大戦時にドイツに過大な賠償金を課したことが大二次大戦の原因ともなったことを踏まえてのこと。従って、この時点において日本は戦後賠償の義務は一切ないことになっている。毛沢東の中華人民共和国は、戦中は国共合作として称して日本軍とも戦闘したことになっているが、実際は国民党を背後から鉄砲を打って邪魔したことぐらい。毛沢東は、「日本軍のお陰で国共内戦に勝てた」と豪語しているくらい。もちろん朝鮮半島は日本の統治下ですから日本国内の問題。韓国がとやかく言う筋合いは全くないはずのものです。

戦後、日本は東南アジア諸国に戦後賠償を行っておりますが、これは全く善意による経済援助。中国と韓国には未だに多大な資金供与を行っているのが我が国の現状です。しかし、日本は今の中国と韓国には賠償責任は一切ないはず。もしこれらの国が賠償しろというのは、アメリカ政府のさしがねか、中国、韓国の諜報組織による陰謀でしょう。日本人は歴史の勉強が足りないのは事実ですね。
日本は戦争放棄の他、諜報能力も放棄してしまったようで、政界、マスコミ、学会のすべてにこれら中国、韓国、北朝鮮からの諜報機関から莫大な資金がノーチェックで流れ込んでいるはず。世界中で、このように支払わなく良い賠償金??を払い続けている国はありません。日本では自民党の議員の中にすら中国、韓国のシンパは大勢います。本当の国益とは何か相当良く考えないといけませんね。

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ニクソン・ショックとプラザ合意

リチャード・ニクソンと毛沢東

第二次大戦後、米ドルを基軸通貨として為替の安定・自由貿易の推進により世界各国が相互に発展することを目指して定められた国際ルールがブレトン・ウッズ体制(1944)です。
日本が奇跡的な経済成長を見せ、西ヨーロッパも順調に復興すると、国際競争力が相対的に上がっていきます。世界各国は輸出によって稼いだ米ドルを金にどんどん換えていきます。一方アメリカは世界の警察として多くの軍事費を投入し、また共産圏の拡大を防ぐために発展途上国への経済援助費を増やしていきます。多国籍企業は米国外へ投資をつづけ、膨大な米ドルが世界中に流出し、これらのドルも金に交換されました。
結局アメリカの保有していた金(ブレトンウッズ体制当初、世界の7割とも言われていた)は、大量に国外に流出し、金ドル交換の不安が叫ばれるようになりました。1960年代にはしばしばドル危機の声が高まり、ゴールド・ラッシュと呼ばれる金への投機が活発になる現象が起きました。
1971年8月15日、アメリカ大統領チャールズ・ニクソンは、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止することを突然発表します。これは、ブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味しており、国際金融の大幅な枠組みが変わるきっかけとなります。この発表はアメリカ議会もしらなかったため、ニクソン・ショックと名づけられドル・ショックとも呼ばれます。ほぼ同時期(一ヶ月前)に発表されたニクソンによる中国訪問宣言と一連の北京での外交活動も合わせて、ニクソン・ショックと呼ばれています。
ところで、それまではドルは金と対応していたので他の財貨との関係は需要供給曲線のロジックでバランスが取れるフィードバック機能が働いていました。しかし、ドル金交換が停止されて以降、米国は無尽蔵にドル(もちろん貨幣に変わる債権なども含みます)を発行し、覇権国として世界中から自由に物を買うことができるようになりました。これが米国が覇権を維持できる根幹でしょうね。今後もドルはどんどん増え続けるでしょう。その結果は世界は一体どうなってしまうのでしょう。世界の経済は、常に新たな需要と供給のバランス点を模索して変化し続けるでしょう。人はそれを経済発展を称するのでしょうが、変動する世界は行きつく先が見えないので大変不安です。少なくともサスティナブル(持続可能)な制度ではないはずです。ただ、世界経済の規模が大きいのでたとえ破綻するにしても数十年の規模で推移するのでしょう。
基本的に貨幣の量が増えれば、財の需要は増え供給の価格は割高になるでしょう。特に労働賃金(労賃にも需要と供給の関係が成り立つ)の安い開発途上国には有利に働くでしょう。その結果、中国、インド、東南アジア、アフリカなどの経済はずいぶんよくなって来たようです。一方、先進国の工業は材料費や賃金の高騰で立ち行かなくなって行くようです。そして頻繁に発生するバブル、やはり近い将来何が起こる可能性は否定できないでしょう。現在も金はどんどん米国や日本から流出して中国やロシア、インドなどの国は金をせっせと集めていると言われます。そのうちにまた金本位制が復活するのかもしれません。

世界の歴史の部屋

中華思想と小中華思想

中国は儒教に国と言われ、韓国も儒教の国であることを自負している。儒教は日本人の思想にも多大な影響を与えています。北朝鮮やベトナムも儒教の影響を受けており、東アジア一帯に渡って一つの大きな文化圏を形成しているとも言えそうです。ただし、日本での儒学は隣の中国、朝鮮とは異なった発展をとげたようです。儒教は、何故か国の宗教にはならず、そのため人の生き方のような哲学的な部分が発展して、陽明学のような流れは日本から逆に中国に輸出されるまでに発展します。
一方、本家中国では、儒教は秦の時代の焚書坑儒のように最初は多大な迫害を受けますが、漢の時代以降、国を治める宗教(理念というべきか)として取り上げられ、大きく変身してしまいます。親には孝、国には忠と言う部分だけが強調されて、礼儀作法が形式化されていきます。現状肯定の支配者に取って、都合の良い考えですね。
一方、中国が宗主で周りの国が家来といった、中華思想が段々強化されていきます。いわゆる朝貢貿易です。歴史上、王国が誕生すると同時に王国の周辺の民族を見下すような自己中心的な考えは多かれ少なかれ見られるものですが、中国ではこの考え方が異常に発展してしまいます。中国独特の歴史的、地理的な環境がそのようにさせたようです。
一つには、儒教が中華思想を肯定し、強化する役割を果たしたようです。また、中国は何度も周辺の遊牧民に支配される歴史を経験しています。このような支配を受けた経験は、その劣等感の裏返しで、かえって選民思想のようなものを強化していく作用があるようです。
一方の韓国での小中華思想は、とりあえず中国を親と仰ぎつつ、自分はその第一の継承者として周辺の民族を積極的に見下す。朝鮮と言う国は、中国の影響をはねのける代わりに従属の道を選んだ。日本やベトナムとは異なる道だ。総ての文化は韓国から日本へ流入したと信じたい。コメも、仏教も、漢字も、カラオケも、寿司も、血液型性格判断も、終身雇用制度も。これが韓国の実態。結局見たいものしか見ないし、見たくないものは否定する。これが歴史認識の違いと彼らが声高に主張していることの真実です。
 中国も、尖閣列島の問題も、スプラトリー諸島の問題もすべて同じ。総て自己中心的な発想ですから解決するはずもないわけです。外交問題ではこれからも色々問題を起こすでしょうが、常に発想は自国中心。力の外交を繰り広げると予測されています。
 まあ、あまり隣の国を批判するのも格好いい話ではないので日本のことを振り返ると、戦争中の日本は、まさしく中華思想ならぬ皇国史観に塗り固められていて、あまり自慢できる話でもないですね。大東亜共栄圏などまさに中華思想とウリ二つ。劣等感に起因する排外思想、現実を見ないで過去を美化する史観。ちょうど今の北朝鮮と同じですね。このような民族主義的な歴史観、そろそろ終わりにして欲しいですね。

世界の歴史の部屋
裸坊達の部屋

コロンブスのお土産

 スペイン・イサベラ女王の資金援助で新世界に到達するコロンブス。1492年西インド諸島のサン・サルバドル島に上陸する。地元原住民の歓迎を受けるも、コロンブス本人は、金と奴隷の略奪しか興味がなかったらしい。要は海賊ビジネスが生業だった訳。ただ、インドに行った証明に胡椒(pepper)を持ち帰る必要があった。胡椒はインド原産で大変な貴重品。もちろんここは、本当はインドではないので、胡椒なんて手に入る訳がない。ところがここに素晴らしい代替品があった。唐辛子である。これも、英語ではpepperだ。以後、世界中で大流行の香辛料になる。本家の胡椒を凌ぐほどに。ただ、コロンブス自身は、インドに行ってないことがバレてしまい、晩年は不幸な人生だったとか。

 ところで、コロンブスが持ち帰った農作物は、非常に貴重なものが多く、世界中の人々の農業や食文化に多大な影響を与えている。例えば、下記のような作物が挙げられる。このうち一部は、コロンブス以前に別のルートで広まったと思われるものや、より後の時代に旧世界に伝えられたと思われるもの混じっているが、スペイン人による完璧な破壊略奪で滅ぼされた新大陸の文化の高さを証明している。

1.唐辛子…ナス科トウガラシ属、中南米を原産。
2.ピーマンやパプリカも唐辛子の変種。
3.トマト…ナス科ナス属、南アメリカのアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産。
4. ジャガイモ…ナス科ナス属、原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。
5. タバコ…ナス科タバコ属
6.カボチャ…ウリ科カボチャ属、原産は南北アメリカ大陸。
7. サツマイモ…ヒルガオ科サツマイモ属、
8.トウモロコシ…イネ科の一年生植物。
9. 落花生…マメ亜科ラッカセイ属、南米原産。
10. いんげん豆…マメ科、アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税として徴収

非常に多彩です。1~5がナス科というのも面白いですね。インカのナスカ絵…ダジャレ。世界に4大穀物…小麦、米、トウモロコシ、ジャガイモ。このうち2つが米大陸原産。トウモロコシとサツマイモは10世紀頃に既にポリネシアで栽培が記録されており、もっと前に伝わっていた可能性もあるそうです。唐辛子は、秀吉の朝鮮出兵の時に日本から朝鮮半島に伝わったようです。

世界の歴史の部屋

アイヒマン裁判

アドルフ・オットー・アイヒマン(1906年~ 1962年)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割をになったとされている。
Eichmann
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行される。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑。
 アイヒマン氏は、アルゼンチンで家族を持ち平穏な余生を送っていたようだ。イスラエルのやり方は、当然国際法違反であるが、アメリカの強い後ろ盾もあり不問にされた。世界のメディアは、アイヒマンを凶悪な性格に描こうと待ち構えていたが、アイヒマンの答弁は終始、「法と上司の命令を忠実に守っただけで、自分には罪はない。」というものであった。要するにごく普通の一般人。この裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、この記録を発表するが、ユダヤ社会を含めメディアから猛烈な批判を受ける。でも、事実なのだから仕方がない。でも、あなたがアイヒマンの立場だったら、上からの命令を敢然と拒否できたでしょうか。

世界の歴史の部屋

中国は何故世界の覇者になれなかったのか

ジャンク船 明の時代、中国の鄭和(ていわ)は大艦隊を引き連れアフリカの東海岸(現ケニア)まで遠征する。鄭 和(1371年 ~1434年)は、中国明代の武将で12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられる。鄭和の船団は途中、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、中国の威を誇示して回った。コロンブスが米大陸を発見する(1492年)よりも60年ぐらい前のことだ。しかも遠征の規模も桁違いに大きい。
 コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはあまりなかったからという説もある。
しかし、3万人もの人材を海外に派遣して各地の地理情報を取りまとめているのだから、利用の仕方次第でいくらでも歴史に大影響を与えることは可能なはずだ。このような海外派遣を続けていれば(資金が枯渇しなければ)、インドやアフリカの国々も中国に朝貢するようになり、世界帝国の中心として覇をとなえることも可能であったはずだ。
鄭和の遠征鄭和の遠征      コロンブスコロンブス
 ただ、はっきり言えることは鄭和のプロジェクトは、国策プロジェクトで、当時の明は中央集権的国家であった。一方、コロンブス達は得体の知れないならず者集団。ベネチアからの資金やイサベラ女王の支援(ポルトガルには断られる)のおかげで成立した博打のようなプロジェクトだ。だからどちらもプロジェクトとしては成功しても、歴史に与える影響でコロンブスが勝っていることになる(歴史の逆説みたいなもの)。
 当時の明は、民間による海外貿易は禁止している。第三代永楽帝は、クーデター的に政権を確立したこともあり、積極的な海外拡張策を取り、周辺諸国に朝貢を促す政策を実施。基本的に朝貢貿易というのは、朝貢国よりも宗主国の方が持ち出しの経済的には割が合わないシステム。度重なる遠征と朝貢から明の財政は逼迫、以後中国は二度と海外に目を向けることはなくなる。ヨーロッパ諸国が海の覇権を確立する絶好の好機を提供したわけだ。
しかし、鄭和の艦隊が去った後は、その隙間はしばらくの間の海は、イスラム商人たちの独壇場(インドや東南アジア諸国も入れたか)となったはず。ここを避けて西へ向かったのがスペイン、強引に割り込んだのポルトガル。どのようにしてポルトガルが海の覇権を手に入れたのか、これも歴史の面白いところ。
ダウ船ダウ船      キルワキルワ遺跡(タンザニア)
 中国は、孔子の生まれた春秋戦国時代を除くと、ほとんどの時代統一王朝が存在している。たまたま、前の王朝が倒れても次の新しい王朝が統一する。基本的にはトップは倒れても官僚制は存続しているわけ。明の前の元王朝の時だって、王家の人間は処刑されても官僚たちはそのまま利用される。だって、極めて少人数のモンゴル人がどうやって人口の多い中国を治めるんだ。これが中国の歴史的な体質となってずっと残っている。いわゆる律令国家だ。朝鮮も同じ。ところが日本だけは、例外的に武士が政権を握りいわゆる封建制度となる。ヨーロッパもローマ帝国崩壊以降封建制に変わる。封建制は中央集権に対して非常に地方分権型。多数の国家が覇を競って競争する。封建制は中央集権に対して国の運営としては効率が悪そうだが、自由競争や思想の多様性が高い利点もあり結局、経済・技術の分野では成功する。
中国は世界に先駆けて安定して平和な中央集権の確立に成功した。その結果は、当初技術面でも素晴らしい発展を見せる。紙、羅針盤、印刷術、火薬、鉄砲(のようなもの)等、世界中の近代以前の主要な発明は総て中国産と言っても過言ではあるまい。シルクロードで運ばれる絹も中国。スパッゲティだって元をたどれば中国の麺だろう。ところが、明代以降の中国は、海外から目を反らし、国内の技術の発展をむしろ禁止して、ひたすら政権の安定だけを目指すようになってしまう。日本も江戸幕府は民間の海外貿易を禁止したり、海外の情報を入れないようにして、300年の平和と安定を維持したが、政権の基礎が封建制であったため、諸藩から生じる討幕の動きを止めることができなかったわけだ。安定や平和、秩序を求める国民の要求にも一見合致した政策が、結果として世界の大勢に遅れ、国民にも多大な負担を強いることになってしまうわけだ。

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めげない北朝鮮

米トランプ政権の強硬な姿勢にもかかわらず、ますます戦術をエスカレートして行く北朝鮮。国際的制裁を声高に叫び続けるだけの阿部政権。果たして、落としどころはあるのでしょうか。そもそも、北朝鮮の歴史をたどってみれば、絶対に折れることが無いことは明白なはずですが。
朝鮮戦争が1953年に国連軍と中朝休戦協定が結ばれて以降、米国と朝鮮は未だに戦争が終わってない状態にある訳で、今まで北がもっとも望んでいたのは停戦協定と平和条約だったはずなのです。北朝鮮は、日本の敗戦とドサクサに紛れて金日成がソ連後と中国の力を借りて軍事力で簒奪した国家で、別に多くの国民の支持を集めて造られた国家ではありません。その意味では中国も一緒で、日本軍と戦っていた中華民国の軍隊を背中から鉄砲を打って倒したような政権。中国が米国を打倒した言うことで党内で一躍力をつけたのが毛沢東。結局朝鮮戦争で一番得をしたのは毛沢東と金日成です。
これに対して、米国の対応がまた不可思議。マッカーサー等のさらなる進行をトルーマン大統領は拒否し、今の38度線で休戦協定。これはソ連との約束とのこともあるようですが、その後中華民国への支援の梯子を外し(ルーズベルトの時代までは良かった)、中華民国は台湾へ追いやられることになります。同時に英国のチャーチルの「鉄のカーテン」演説を受けて、反共活動を開始します。
金日成
まあ、トルーマン大統領にとっては、世界とは米国と欧州。その他の野蛮人の国はどうでも良かったのかもしれませんが。もう一つ理由を挙げれば、当時事実上の唯一の戦勝国の米国は、強力に育った軍事力を戦後どのように処理して行けば良いか分からなかったと言う問題があったようです。熱い戦争は困るけど、冷たい戦争、お互いに睨み合って軍事拡張を続ける。時々小さな小競り合いがある(代理戦争)状態が大変好ましかったということもあるでしょう。軍隊と言う組織は超巨大な官僚組織、組織を縮小、予算を減らすなどしたら大変です。更に大戦後の米国軍は諜報能力も絶大で、あることないことでっち上げ政府を操ること等、お手の物。この軍と防衛産業、諜報機関、西欧諸国の同様な機関が協力して冷戦構造を作りあげられました。
金日成
この間、北朝鮮は常に米国から見て悪役、北朝鮮から見たら米国が悪役の体制が続けられてきました。北朝鮮の意志とは全く関係なく米国の都合です。もし、今米国が北朝鮮と和解して交流を開始したらどうなるのでしょう。韓国にいる米軍は必要なくなります。日本の沖縄基地も不要になってしまいます。トランプはそれでも良いと思っているのしょう。でも、米国の主流派は決してこのような状態は許せません。日本政府も韓国政府も対米依存ですから、米国が出て行ってしまうことには大反対でしょう。北朝鮮とはいつまでも敵対していて欲しいのが本音です。北朝鮮も反米を国是として国をまとめてきたことから、停戦協定を行うと、国家の存続理由が無くなって崩壊してしまう懸念もあるのでしょう。結局当事者達は今の状態が継続することを望んでいる訳です。一番困るのは北朝鮮の一般の民衆でしょう。
金日成
北朝鮮の国家体制は、戦前戦中の日本と瓜二つです。全体主義国家。天皇の代わりに金王朝があります。お国のために死ぬことを教育された人々、原爆でも落ちるまでは戦う覚悟が出来ているでしょう。トランプは多分自分から攻撃をかけることは無いでしょう。しかし、北朝鮮封じ込め戦略を取り続けた軍部には、北朝鮮が米国に届くミサイルを開発したことは大変なショックを受けているはずです。過去の日本と同じように玉砕戦を挑む可能性が現実味を帯びて来るからです。経済封鎖に当たって、中国とロシアが原油の供給をストップすることに躊躇したのは日本が真珠湾を攻めた前例があるからです。
停戦の最後の切り札は、北朝鮮が核開発を止めることでしょう。しかし、米国は今持っているものも破棄するように要求するでしょう。これは絶対にありえないストーリーです。イラクのフセインが大量破壊兵器を破棄してもまだあるはずだと因縁をつけられ最後に潰されましたね。リビアのカダフィも同じか。北朝鮮は、イラクやリビアのの二の舞にはならないでしょう。結局、現状を認め核兵器開発を止めることで手を打つところが落としどころでしょう。だから、米国世論が和平に傾くのを待っているのがトランプの真の狙いでしょう。和平が成立すれば、米国は韓国、日本から膨大な軍事力を引き上げることが出来、膨大な経費が削減できます。ただ、和平が成立すると韓国、日本も大幅な政策変更が避けられなくなるでしょう。北朝鮮が先に手を出せば話は簡単。戦争で片が付くでしょう。だから北もうかつに手を出さない。最後は米国の方が何らかの妥協案を出すかも。とすると現在駐留している韓国や沖縄の軍を引き上げることもトランプの視野にあるかも知れませ。

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忘れられた巨人The Buried Giant

アーサー王 2017年のノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロ氏の小説です。この舞台設定がとてもユニーク。舞台はイギリス、主人公の老夫婦は、ブリトン人4 世紀から5 世紀頃大陸からサクソン人が大挙して侵入してくる。日本で言えば、縄文社会に大陸から弥生人が大挙してやってくるような状況か。でも、日本では大和政権が確立されていく頃。ローマ帝国ではキリスト教が国教となり(392)、このブリトン人はキリスト教徒という設定です。
ブリトン人は、ストーンヘンジ等の新石器文明を残した人々の末裔か、あるいはその後に来た人々か。また、サクソン人は、ドイツのザクセンと同語源でゲルマン系でしょうが、今ではアングロ・サクソンとして英国人の主流となっていいます。
小説の設定では、ブリトン人は山の斜面の横穴式の住まいを好み、サクソン人は環濠集落を築いており、言語も異なり文化も異なるものの平和な時代にはお互い多少の交流もあったという設定です。
アーサー王 ここで、出て来る巨人とは、「アーサー王」という伝説上の人物でしょう。マーリーンという魔法使いの参謀がいたり、ドラゴンやその他の怪獣を操ったり、また選ばれた騎士達の力で国土を一旦は統一したという設定だ。アーサー王はブリトン人ということで、実は戦いにおいて大量の虐殺も行い、そのため一部のサクソン人達は復讐心を燃やしブリトン人を殲滅しようと密かに計画している。一方、ブリトン人の中にはアーサー王の継承者を自認する人たちも存在している。一方、ドラゴンの息から吐き出される気が人々の過去の記憶を消し去るという魔術を持っている。主人公の老夫婦も過去の記憶が消されており、最初は二人とも認知症でもかかっているようだが、読み進めていくうちにドラゴンの霧というのが実際に作用していることが分かる。
主人公の老夫婦は、過去の記憶を求めて旅に出る。そこで色々な人物に会う。最後に竜は退治され人々は過去の記憶を取り戻すが、本当にそれは幸せなことなのか。
ブリトン人とサクソン人の遭遇、これは今の世界にも当てはまる重要なテーマです。EUにはイスラム教徒が難民として大挙して押し寄せてくる。日本だって将来、他人ごとではないかも知れません。多分ドラゴンがまき散らす息と言うのは、自然災害等による環境の劣化を指しているのだろう。洪水や旱魃など人の力では対処できない事柄はドラゴンなどと魔物のせいにしていたのでしょう。

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戦後の米国覇権とその政策

1.戦後処理
 太平洋戦争は、一般に「真珠湾攻撃・マレー作戦・開戦の詔が出された1941年12月8日から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とされているが、英国はこの戦争でアジアでの覇権を失い、欧州では、戦勝国側も疲弊しきっており、米国の一人覇権が確定する。米国の当初の戦略は、戦勝国5か国の共同管理を想定しており、国連の英語名のUnited Nationsは、戦時中に使用していた単に連合国そのままである。
 米国の外交戦略は、もともとはモンロー主義(第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ モンローによって提唱された)に代表されるようにヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉が基本であった。 実際、米国は独立当初から、各州の自立を重んじる分権派と連邦政府の強化を目指したいエリート層との間で峻烈の戦いが続いて来ている。今年、大統領になったトランプのアメリカ第一主義や、共和党の茶会派等は、アメリカ庶民の本来の本音の草の根の意見を代表しているともいえるでしょう。
 米国中心の占領軍の、日本に対する政策は二度と戦争できないように極力力を削ぐものではあったが、一部国民の総意に基づく民主主義の理想を実現しようという意図もなかったとは言えない。農地解放、平和憲法等は自国では実現できない政策を実行に移したものともいえる。どちらかというと分権派的だ。それまで禁止されていた共産党の活動も合法化されるなど、戦後民主主義の時代を迎えるかと思われていた。また、イラク占領の際には、フセイン政権下の官僚機構をズタズタに破壊してしまったことが今の混迷の一因ともいわれているが、日本の場合、吉田茂主相の尽力もあり、官僚機構は米国の御用聞きとして無傷で残された。ただし、その代償として戦後の日本では、官僚主導の対米従属一辺倒の政策を変えられない状況となっている(これも米国の覇権戦略か)。
2.魔女狩りの時代
 ところが、その後米国では、戦略に大転換が行われる。発端は、当時英国の主相を退任した後のチャーチルが米国で講演した、いわゆる鉄のカーテン発言(1946年3月)だ。この時の米国の大統領は、トルーマン。米国では、マッカーシー旋風が吹き荒れ、日本でもマッカーサーの指令でレッドパージという政策が断行される。逆コースと言う時代である。公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とレッテルを貼られた人々裁判にもかけずに解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職したとされる。「赤狩り」とも呼ばれた。
3. 冷戦の始まりと朝鮮戦争
 どうも、トルーマンの一見弱腰と見られる戦略は、初めから意図したもので、トルーマンにとって、世界とは米国、ヨーロッパ、反共の拠点となりうる日本だけで、その他の地域は、とりあえず放置しておいてもいいと考えていたのではないかと思える。このようにしてチャーチル~ルーズベルト~トル-マンの冷戦構想が出来上がる。英国は今までの覇権を米国に移譲する。米国は英国をリーダとするヨーロッパに戦後復興を支援する。戦争中に増大した軍事力は、冷戦構造を持続することで維持する。そのためにはソ連邦には永続的な敵としてふるまってもらう。(2017.5.24)

チャーチル 鉄のカーテン…チャーチルの講演
 (前略)つい最近まで連合国側の勝利によって光輝いていた状況に影がさしてきた。ソヴィエト・ロシアとその国際共産主義組織が近い将来に何をなさんとしているのか、又、彼等の膨張主義的傾向や(他者にイデオロギーの)転向を強いる傾向に限界があるとすればそれは何なのか、誰にもわからない。再びドイツが侵略する事態に備えて、ロシア人がその西部国境の安全保障を確保する必要があることを我々は理解できる。
 (略)しかし、ヨーロッパの現況についての確かな事実を諸君にお伝えすることは私の義務なのである。言いたくはないが、この確かな事実を伝えることが私の義務と思うのである。バルト海のステテティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降された。このカーテンの裏側には、中欧・東欧の古くからの国々の首都がある。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブタペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な全ての郡市とその周辺の住民は、ソヴィエト圏内にあり、何らかの形で、ソヴィエトの影響下にあるばかりか、ますます強化されつつあるモスクワからの厳しい統制を受けている。(略)
 この『鉄のカーテン』を越えて西ヨーロッパまで手をのばしてきた各地の共産党第五列は、文明に対する挑戦である。ソ連が戦争を欲しているとは思わないが、彼らの求めているのは戦争の報酬であり、彼らの権力と主義のかぎりなき拡張である。だから手遅れにならぬうちに、すペての国にできるだけ早く自由と民主主義を確立しなくてはならない。ぞのために民主諸国とりわけアソグロ・サクソソの人々はしっかりと団結する必要がある。(略)
 さもなければ、ふたたぴ暗黒時代に逆もどりするかもしれない。私はあえていうが、用心してもらいたい。われわれに残された時間は少ないかもしれぬ。もう手遅れだということになるまで事態を放任しておくようなやりかただけは、おたがいにしないでおこうではないか。
スターリンの「鉄のカーテン」演説批判(抜粋) 『プラウダ』(1946.3.13)
 チャーチルの演説は、連合国間に不和の種をまき、協力をいっそう困難にすることをめざした危険な行動であると考える。それは平和と世界の安全をあやうくするものである。じっさい、チャーチルは、いまや戦争屋の立場に身をおいている。しかし彼はそこに一人でいるわけではない。イギリスだけでなく、おなじくアメリカにも彼の友人がいる。この点でチャーチルとその友人たちは、ふしぎなほどヒトラーと彼の一味を思わせるではないか。
「鉄のカーテン」演説
CIA NSC チャーチル~トルーマン 冷戦 鉄のカーテン
鉄のカーテンが降ろされた。チャーチルは、8月8日には、驚くほど楽観的だった。広島に Little Boy が落とされた後、長崎にFat Manが落とされる前の、8月8日だ。
チャーチルはトルーマンに機密電報を送り、「広島への攻撃は、この新しい力が正義の力となるか邪悪の力となるか、の可能性を持っていることを証明した。あなたと私は、この大戦争を統括する政府の元首として、世界の平和を促進するために、この偉大な力を我々の国益達成のためではなく、人間性を守る道具として利用する意思を表明した共同宣言を発表すべきだ」と述べた。
それから7カ月後、1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で、スターリンの冷酷な政府を厳しく攻撃した「鉄のカーテン」の演説をし、「国際連合は武装し、キリスト教文明を共産主義の脅威から護らねばならない」と言った。
トルーマン大統領も聴講していた。

ソ連封じ込め
トルーマンは、国連加盟国に原子力エネルギーの情報を提供すべきではないかというスティムソン陸軍長官の提案について、閣僚全員に意見を差し出すよう求めた。
「独占を」という意見もあれば、「完全公開」という意見まで様々だったが、ソ連の侵略的政策との絡みで、トルーマンがアメリカの原爆独占を続ける決定を出すのは当然であった。
1947(昭和22)年9月26日、新設された国家安全保障会議(National Security Council, NSC)は、ホワイト・ハウスでの最初の会合を開いた。そこで、CIAの最初の正式報告が提出され、アメリカの外交政策が明確にされた。「ソ連封じ込めという観点から、地域の重要順位は、⑴西ヨーロッパ、⑵中近東、 ⑶極東となる。日本は、ソ連極東地域に対抗する力として早く発展する資質を持つ唯一の地域なので重要である」

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日の名残りThe Remains of the Day

日の名残り 「日の名残り(The Remains of the Day)」は、ノーベル文学賞を受賞した英国の作家カズオ・イシグロ氏の作品です。歴史的背景は、2つの世界大戦のはざまの、やや没落しつつある英国。主人公スティーブンスは、有力貴族ダーリントン卿の執事。ダーリントン卿を骨の髄まで真髄して忠誠を尽くそうとする。「執事道」を究めた成功者と自認している。ダーリントン卿のもとには世界中(といっても米国を含む欧米諸国だが)の卿の人徳をしたいお忍びで相談に来る。卿は、来る人拒まずで常に公平を理想としていた人徳者。国際会議や条約締結の下準備として、ダーリントン卿の屋敷を借り、丁々発止の議論が行われている。そのため、スティーブンスは執事の仕事を通して各国の主要な人々の世話をする機会があり、自分も世界を動かす役割の一部として貢献していることに自負心を持っている。
しかし、当時の外交は、実際のこのようにして動かされていた一面もあったようです。ダーリントン卿自身もこのような場を提供することが平和と国際正義実現のためと思い精力的にホスト役を引き受けていたようだ。客の一人に「普通選挙だ民主主義だといってみても、婦人会の人々が戦争遂行なんてできるわけがない。」と言わせている。各国のエリート達が腹を割って話し合いをする場が必要なわけだ。しかし、戦争に対する危機感とそれに伴って台頭してくる国家主義によって、話し合いで解決しようという土壌は次第に失われていく。結局、第二次世界大戦後にはダーリントン、対独協力者として失脚し、屋敷は米国の金持ちファラディー氏のものになり、スティーブンスは、屋敷の管理人(肩書は今まで通り執事だが)として再雇用されることに。スティーブンスは、主人からもらった休暇を使って、元屋敷で働いていた女中頭を再雇用する目的で旅をする。旅の途中で色々な経験をする。なんせ主人公は人生ほとんどの期間、屋敷の中から外へ出たことがなかったのだ。また、実はその女中頭が、自分にたいして恋心があったこと(執事の仕事に夢中で気がつかなった)を初めて知る。現在は彼女は結婚していて孫が複数いることを知らされる。さすがに今までの自分の価値観に疑問を持つようになり、新しい人生を始めることを決意する。
「執事道」、結構日本の武士道と一脈通じるところがあるのでは。武士だって、主君のために命を捨てる覚悟を持てるのは、その主君を真から尊敬してないとできないこと。また、現在の外交の場でも、表向きニュースで扱われる動きの裏では、プライベートな話し合いの場が重要であるという事実は変わっていないのではなかろうか。いろいろと考えさせられる課題の多い良い作品だと思います。訳者「土屋政雄」氏の訳も読みやすい。
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ハイレ・セラシエ皇帝

エチオピア国旗 帝国主義時代のヨーロッパ諸国にとっては、海外に植民地を持つことがその国のステータスシンボルであったようだ。イギリスはインド、カナダ、オーストラリアの他、アフリカ大陸には南アフリカ、東アフリカ(タンザニア、ケニア)を植民地化する。インドシナ半島も領有していたフランスも負けじと西アフリカ一帯を植民地化する。オランダはインドネシア(蘭領インド)、日本だって朝鮮、台湾、樺太などを植民地化、合衆国もフィリピンをスペインから奪い取る。ベルギーだってアフリカのコンゴを植民地化。そのようなヨーロッパ列強国によるアフリカの植民地化(アフリカ分割)が進む中、19世紀後半イタリアはエチオピアに強引に介入を始め、1885年に占領し、1889年、ウッチャリ条約によりエチオピアはエリトリアをイタリアの支配権を奪い取る(第一次エチオピア戦争)。国家統一が進みこれから発展するはずのエチオピアにとっては全く迷惑な話だろう。また、同年、隣国ソマリアがイタリア領となる。
独立国エチオピアへの植民を狙うイタリアはメネリク2世の帝位襲名を支援することで、間接的にエチオピアに影響力を行使することを計画していた。そのため、現地には1万人前後の兵士しか派遣されていなかったが、これを好機と見たメネリク2世はイタリアとの協定を破棄して開戦。単に数で上回れるだけでなく、陸軍がフランスの支援で高度な近代化を成し遂げていたのも大きな要因であった。アドワの戦いでエチオピア軍15万とイタリア軍1万が衝突する。
ハイレ・セラシエ1 終結後の1906年にはエチオピアに関する英仏伊三国協定が結ばれ、エチオピアにおける三国の利益保護のために協力することが決めらる。エチオピアは蚊帳の外。1925年にベニート・ムッソリーニがイタリア首相に就任する。 領土拡大を図るイタリアはドゥーチェ・ムッソリーニの指導の下、国境紛争を口実に再びエチオピアに侵攻した。数十年の間に近代的装備を失いつつあったエチオピア軍に圧勝し、皇帝ハイレ・セラシエ1世は亡命してイタリア国王がエチオピア皇帝を兼任した(第二次エチオピア戦争)。
この際、エチオピア政府は国際連盟にイタリアの侵略を訴えるが、効果のある解決策にはならなかったという。国際紛争の解決において大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だがイタリアに対して実効的ではなかった。しかし、イタリアは孤立からドイツおよび日本と結ぶようになり、枢軸国を形成する道をたどることになる。
1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐するとハイレ・セラシエが帰国し、軍の近代化を進めることとなる。

【ハイレ・セラシエ皇帝】
1930年4月にエチオピア帝国皇帝に即位。1931年7月16日に大日本帝国憲法を範とし、7章55条から成るエチオピア帝国初の成文憲法たる「エチオピア1931年憲法」を制定。しかしながら、実態は絶対主義的な欽定憲法であり、社会体制そのものの改革には手をつけず、ガバルと呼ばれる小作地制度も温存された。
ハイレ・セラシエ2 しかし、1934年イタリア・ファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国が「アドワの報復」を掲げてエチオピアに進攻、第二次エチオピア戦争が勃発。国際連盟でエチオピアはイタリアへの強制措置を訴えるもイギリスとフランスの対応が誠意を欠いたものであったために限定的な経済制裁しか行われず、翌1936年3月のマイチァウの戦いでイタリア軍は毒ガスを用いて帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させる。その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世は5月2日に鉄道でジブチに向かい、ジブチを経由してイギリスのロンドンに亡命した。その間首都アディスアベバは5月5日に陥落。
1936年から1941年までのエチオピアはイタリア領東アフリカ帝国としてファシスト・イタリアに統治された。1939年の第二次世界大戦勃発後、東アフリカ戦線 (第二次世界大戦)にて枢軸国のイタリア軍と連合国のイギリス軍の激戦を経て、1941年にエチオピアはイギリス軍に解放され、5月5日に皇帝ハイレ・セラシエ1世は凱旋帰国。
アフリカ分割 国際舞台での活躍;
1945年の第二次世界大戦終結後は、かつて国際連盟で自身が訴えた集団安全保障の実践として朝鮮戦争の国連軍にエチオピア軍を参加させた。また、コンゴ動乱ではコンゴ国連軍に真っ先に参加した国の1つであった。
外交面では朝鮮戦争に参戦するなど冷戦構造の中で西側寄りながら、ソビエト連邦や中華人民共和国のような東側の国々とも国交を築き、1955年のバンドンのアジア・アフリカ会議や1961年のベオグラードの非同盟諸国首脳会議に出席して非同盟中立を掲げ、1963年にはアディスアベバで西側寄りのアフリカ諸国であるモンロビア・グループと東側寄りのアフリカ諸国であるカサブランカ・グループを汎アフリカ主義に基づいてまとめあげたアフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合)の初代議長に就き、アラブ諸国とは同じ第三世界として連携しつつイスラエルとも歴史的な繋がりから軍事協力を行っていた。国際的に孤立していたラテンアメリカの黒人国家ハイチの独裁者であったフランソワ・デュヴァリエは外国指導者のハイチ訪問を唯一ハイレ・セラシエ1世にだけ認めた。内政面では憲法改正、軍の近代化などの改革を行うが、依然として専制政治を続けて権力分立はされず、議会に政党を認めず、封建体制を維持したため、経済面は発展せず国民の生活は悪化の一途を辿り、1960年代の国民一人当たりの年間所得は平均わずか70ドルという世界最貧国の一つに転落するなどさまざまな矛盾を国内に生み出していた。1960年には、皇太子アスファを擁立した陸軍近衛部隊のクーデター未遂事件が発生する。
なかんずく、1970年頃からの深刻な飢饉と、スエズ運河閉鎖による原油価格高騰から来るインフレの悪化は国民生活を苦しめ、一部支配層の農作物の隠匿から餓死者が農村部で増加するなど、エチオピア社会は大混乱となったが、皇帝は何ら対応策を取らず、逆に飢饉を隠蔽するなど、国際社会の非難を浴びた。
1973年以降、ストライキやデモが頻発し、エリトリアでは内戦が発生し、事態は悪化の一途を辿った。折悪しくも、皇帝が宮殿内に飼育しているペットのライオンに肉を与えている写真が発表され、深刻な食糧難に苦しむ国民を激怒させた。1973年9月には皇帝の孫イスカンデル・テスタ海軍副総督が、銃を突きつけて退位を迫る事件が起こり、皇帝の権威は政府内部でも著しく低下した。
退位・死去;
1974年には皇帝自身による不正が発覚するなど、国内におけるカリスマ性は地に堕ち、同年2月には軍が反乱を起こし、帝政打倒の声が高まった。皇帝はエンデルカチュ・マコンネンを首相に任命し、立憲君主制への移行や土地改革などを公約するが、時すでに遅く、民衆によるゼネスト、デモ、若手将校を中心とする改革集団「軍部調整委員会」の成立、軍部による政府要人の拘束などが公然と行われた。
そんな騒然とした雰囲気の1974年9月2日早朝、皇帝はアディスアベバの宮殿内で陸軍のクーデターにより逮捕・廃位され、拘禁中の1975年に暗殺(犯人はメンギスツという説もある。また、1997年にエチオピア当局は廃位直後に射殺されたと発表)された。
死後;
長らく遺骨は行方不明であったが、メンギスツ政権崩壊後の1992年に旧宮殿敷地内から発掘され、2000年にアディスアベバの至聖三者大聖堂内の墓地に埋葬された。なお、息子のアスファは妹等と共にアメリカのニューヨーク州に逃れ、慎ましく過ごすこととなり、1989年には皇帝アムハ・セラシエ1世を称したが、1997年にバージニア州で死去している。アスファの息子ゼラ・ヤコブは現在、エチオピアのアディスアベバに戻って居住している。
アディスアベバのアフリカ連合本部前にはそのアフリカ独立運動とアフリカ統一運動への功績を称えてハイレ・セラシエ1世の銅像が設置されている。
ハイレ・セラシエ3 結局、エチオピア国民は、独裁者である皇帝を廃位したものの、メンギスツというより専制的な独裁者に国を任せることになってしまった。皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際政治の舞台での活躍を見ると寧ろ名君に近い。結局、彼の失敗は経済政策だったのか。カリスマ性のある皇帝は、国民は過剰な期待を寄せてしまったようだ。チャンとした政策ブレーンを育てられなかったんでしょうね。軍人の扇動者たちは、自分は何もする能力は無くても、失敗をあげつらうのは得意な人達ばかりだ。ハイレ・セラシエ1世は明治維新の頃の日本をモデルにしたいと考えていたようだ。しかし、明治天皇はカリスマ性があったものの独裁者ではなかった。多分ハイレ・セラシエ1世は生格的には独裁者に向かないのに無理やり独裁者にされてしまったようだ。だから、断固たる対応が取れずに優柔不断のまま沈没してしまったんでしょう。しかし、第二次世界大戦後の国の舵取りはどこの国も大変みたいだったようだ。ソ連だってスターリンの独裁で経済は停滞、中国だって毛沢東時代の経済は貧しいままだ。どうすれば良かったのか答えを探すのは難しいでしょうね。
ハイレ・セラシエは1956年11月に戦後初めて日本を訪れた国家元首の国賓であり、満州国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って日本から歓迎された。また、1970年(大阪万博観覧のため)の際も来日していた。写真皇帝の両側の方は昭和天皇ご夫妻です。
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イラン革命(انقلاب ۱۳۵۷ ایران‎)

パーレビ皇帝 イラン革命は1978年1月に始まった革命である。国王による専制といっても、国民の生活への不満、海外からの外圧が無ければ、革命は起こらない。でもこれを契機(けいき)に、イランは何故か強硬な反米国家になってしまう。あるいはアメリカが嫌イランになったのか。この状態は2019年の現在まで40年以上も続いている。そもそも、イラン革命が専制王政を倒した民主主義革命ならば、民主化の旗手を自認するアメリカにとっては喜ばしいことではあっても、敵対する状態は変だ。

パフラヴィー朝下のイランは、西側諸国のアドバイスによる国際戦略で、脱イスラム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。国民の合意無き急進的すぎる上からの改革を否定したのだから、この革命は民主主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。また、イスラム化を通した反西欧化、反キリスト教化を謳った宗教革命の色が強い。

皇帝は、1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を強く推し進めようとした。しかしそれがかえって、宗教勢力や保守勢力の反発を招く。また、イラン国民のなかには、政府をアメリカの傀儡政権であると認識するものもいた。パフラヴィー皇帝は、自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。イランは有望な産油国。イギリスに肩代わりして米国がイランを傘下に置きたいと考えていることは勿論明白。国民の意識の中に反西欧、反キリスト教の精神が根強いことも考慮しないといけない。つまり単なる政治的な変革を越えて、宗教的、文化的、思想的な大改革であったことを見逃してはならない。

ホメイニー氏 亡命中のルーホッラー・ホメイニー氏を精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とする革命勢力が革命の中心。1979年、4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。国家の根本理念がイスラム教、近代世界初の宗教に基づく民主国家が成立。

この革命の特徴
この革命がまったく民衆自身によって成就されたことである。冷戦下の1970年代にあって、米国もソ連も外部から支援はしていないようだ。 当時は東西冷戦のさなかで、アメリカ合衆国とソ連の覇権争いと、その勢力圏下の国や民間組織が、アメリカ合衆国やソ連の代理としての戦争や軍事紛争、政治的・経済的な紛争が世界的に発生・継続していた国際情勢だった。この革命の場合は反米・反キリスト教を掲げながらも、ソ連には依存せず、インドやインドネシアのように米ソのどちらの勢力にも加わらない中立の姿勢を堅持し、第三世界の自立性の強化を歴史的に実証し、当時第三の勢力として実力をつけつつあった第三世界の傾向を強烈に示したのがこの革命だった。

イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国連邦政府が背後から支援して樹立した傀儡政権だったパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。米英はこの革命で石油の利権を失うことを最も懸念していたのでしょう。 1979年11月には、イランアメリカ大使館人質事件が起こり、アメリカは1980年4月にイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動。また西側諸国に発注していた、兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす。

一方、サウジアラビア、イラクなどの周辺のアラブ諸国の多くは、同じイスラム今日でもスンナ派というグループに属しており、十二イマーム派を含むシーア派とはやや敵対的な関係にある。反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム全体にも波及することに対して強い恐怖感を抱く。 隣国イラクがアメリカの軍事支援を得て、イランを侵攻、イラン・イラク戦争が勃発。この戦争は8年間も続く長期戦。 また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻も、ソ連がイスラム革命のアフガニスタンへの波及を防ぎたいと考えたのも要因とされている。

革命当初、欧米ではイラン・イスラム共和国体制を短命であると見ていた。西欧にとって、革命とその体制は信じがたい衝撃で、こんな体制が何年にも渡って継続するとは、まるで予想していなかった。だから、経済制裁を続けていればそのうち崩壊するだろうという戦略を続けている。しかし、四十年以上もこの革命体制は欧米の激しい干渉にさらされながらも継続しているのが現実だ。

革命後、人々は国王という共通の敵を失い、政治集団内では新体制を巡り激しい権力闘争に突入したようだ。これはどこの国でも共通にみられる現象。最終的にホメイニーを頂点とするイスラム法学者が統治する体制が固まり、そこではイスラム法が施行されるイスラム的社会が目指されることになる。
しかし、イランにはイスラムの他にも少数ではあるが複数の宗教が存在している。このような宗教少数派の一部、すなわちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒は、公認の宗教少数派としてイラン・イスラム共和国憲法第1章第13条で認められている。彼らが運営する私立小学校では、教育省が作成した宗教少数派用の教科書に従って宗教教育を実施することが義務付けられている。
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パーレビ朝

パフラヴィー朝(Pahlavi)は1925年から1979年までイランを統治した、イラン最後の王朝である。パフレヴィー朝、パーレビ朝、パーラヴィ朝とも呼ばれる。確か日本の新聞ではパーレビ国王と記されていた。
歴史: カージャール朝ペルシア帝国がイギリスとソビエト・ロシアによる干渉に苦しむ中、ペルシア・コサック旅団の軍人レザー・ハーンは1921年にクーデターを起こし、1925年にレザー・シャーとして皇帝に即位。カージャール朝に代わってパーレビ朝が成立。
【注】コサック旅団
コサックと言えば、強大なロシアを作り上げた立役者。アレクサンドル2世は喜んで支援したとか。投当時の陸では最強軍団だったらしい。ロシア帝国がソ連邦に変わって、スターリンの天下になってから、イランとソ連の関係はなくなったらしい。
以下、この事情を説明した記事があったので紹介する。
Persian Cossack Brigade---Written By: The Editors of Encyclopaedia Britannica Persian Cossack Brigade, cavalry unit founded in Iran in 1879 and modeled after Russian Cossack formations. It began as a regiment and was enlarged within a few months to a brigade and later, during World War I, into a division.
**Persian Cossack Brigadeはペルシャのコサック旅団、cavalry=騎兵、regiment=連隊、つまり、連隊から旅団に拡大したということ。

The genesis of the Iranian brigade lay in the need for a reliable and well-disciplined fighting force. Impressed by the Russian Cossacks he had encountered during a recent visit to Europe, in 1878 Nāṣer al-Dīn Shāh (ruled 1848–96) asked the Russian government for help in the creation of an Iranian cavalry unit. Lieut.-Col. A.I. Domantovich was selected to assist in the organization of the requested force, and in 1879 its nucleus was founded in Tehrān, staffed by active-duty Russian officers under contract to the Iranian government. In its early years the brigade was essentially a ceremonial force, numbering only 400 men, but its numbers increased at the end of the 1890s. After the assassination of Nāṣer al-Dīn Shāh in 1896 the brigade was converted to an experienced elite guard to protect the shah and the dynasty. It was used increasingly as an internal police force and, as a result, became unpopular with Iranian nationalists, who considered it an embodiment of Russian foreign policy and internal despotism.

**Nāṣer al-Dīn Shāhはレザー・ハーン当時のイランの皇帝。。ハーンはジンギス・ハーンのハーンではないか。1878年にヨーロッパを視察したハーンがコサック騎兵に感銘し、イランにも騎兵連隊を造りたいとロシア政府に正式に要請したものらしい。最初発足の頃は400人ばかりの儀式用のものだった。皇帝が暗殺されで、パーラビー朝となると、強大な権力を持つようになる。

In June 1908 the brigade, led by Col. Vladimir Platonovich Liakhov and acting under direct orders of Moḥammad ʿAlī Shāh (ruled 1907–09), bombarded the Majles (parliament) as part of a plan to undermine constitutional government. In an ensuing civil war (1908–09) the brigade fought on the side of the shah. During World War I (1914–18) the brigade was expanded into an 8,000-man division and fought with the Russian government against an invading Turkish army and its Iranian allies; the war years saw increasing tensions within the division between the Russian executive officers and the junior Iranian officers. After the Russian Revolution of 1917 the Russian officers of the division were split into “Red” and “White” factions. The Russians departed in 1920, and Col. Reza Khan, one of its Persian officers (who later, in 1925, became shah of Iran), assumed command.

**bombarded≠砲撃した。アリ・シャーが議会を砲撃した憲法議会は既に出来ていたということだ。続く内戦(1908–09)では、旅団はシャーの側で戦う。第一次世界大戦の際にはロシアと協力してオスマントルコと戦った。ロシア革命(1917年)の際にはコサック隊のロシアの将校たちの分裂が生じ、ロシアに引き上げてしまい、コサック隊はレザー・シャーのものとなる。

In February 1921 several detachments of the Iranian Cossacks, under Reza Khan’s command, carried out a coup d’état that made Sayyid Zia al-Din Tabatabaʾi prime minister. Late that year the division was amalgamated with other independent military units, thus forming a unified national army under Reza Khan. Many of the division’s Iranian officers rose to positions of prominence.
レザー・シャーは1921にクーデターを起こし、皇帝に。コサック旅団は他の軍隊を併合して、国軍に成長する。

初代皇帝レザー・シャーは軍事力を背景に中央集権化を進め、近代国家形成を目指して法制などを西欧化する改革を行い、1928年には不平等条約の撤廃に成功した。第二次世界大戦で、レザー・シャーは英ソによる支配からの脱却を目指して親ナチス・ドイツ政策に転換したが、逆にイラン進駐を招いて失脚。1941年9月16日、第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーが即位。
1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニーがソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立。1946年12月15日、イラン軍の侵攻にあい崩壊。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。1949年に反植民地主義のトゥーデ党(イラン共産党)が非合法化される。
1951年にモハンマド・モサッデクが首相に就任した。1951年のアーバーダーン危機(1951年~1954年)では、モハンマド・モサッデク首相がアングロ・イラニアン石油会社 (AIOC)を国有化。1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、親ソ政策を推進。このことはアメリカの反感を買い、1953年にMI6とアメリカ合衆国の協力のもと、アジャックス作戦でモサッデクを失脚させ、親米英的なモハンマド・レザー・シャーが権力を回復した。1955年にはCENTOに加盟し、西側陣営に加わった。
モハンマド・レザー・シャーは、アメリカの支援を受けて「白色革命」と呼ばれる石油利潤を元にした工業化と近代化を進める。しかし、原油価格の下落と急速な近代化の失敗から経済危機を招く。ルーホッラー・ホメイニー氏は、白色革命を批判しなかったが皇帝の独裁的な性格を非難して抵抗運動を呼びかけ、反皇帝運動が激化。1964年、ルーホッラー・ホメイニーは国外追放を受け亡命する。
1979年にルーホッラー・ホメイニーを指導者としてイラン革命が勃発すると、モハンマド・レザー・シャーはエジプトに亡命してパフラヴィー朝は崩壊し、イラン・イスラム共和国が成立。 モハンマド・レザー・シャー(在位:1941年~1979年)は、何故か日本のマスコミでは「皇帝」でなく「パーレビ国王」と呼ばれていた。
どうも、イランの歴史を見るとパーレビ朝自体が簒奪政権のようで、国民の信頼を獲得してなかったようだ。また、時代的には東西冷戦のため両陣営からの横槍も多く、国の舵取りも容易ではないようだ。また、英米による西アジア地域の弱体化戦略、「分断して統治せよ。」の実践もあったようだ。 クルド人の造ったクルディスタン共和国が潰されてことも気の毒なこと。独立を求めるクルド人勢力の存在は、未だに中東の不安定の原因となっている。イスラエルの存在もそうだ。英国がわざと紛争の種を置いて行った結果だ。
イランは、世界史の中では、ヨーロッパよりも遥かに先進地で文化的な誇りもある。思いつくままでも、古代ギリシャと戦ったアケメネス朝ペルシアやその後継のササン朝ペルシア、セレウコス朝、ウマイヤ朝、イルハン国など、色々な王朝名が出て来る。今後も西アジア地域のリーダ的存在としての動向が注目される。
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トルーマン大統領

ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman、1884~1972年)。第33代大統領。フランクリン・ルーズベルトの死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格した。その後1回再選される。日本でこの大統領の名前を知らない人は少ないだろう。広島、長崎に原爆投下を命じた張本人だから。世界でただ一人、原爆を使用した指導者として歴史に名をとどめている。

トルーマン大統領 実はルーズベルトとはわずか1度しか会っておらず、戦争の進捗や内部の情報は全く聞かされていなかったという。この当時ヨーロッパ戦線ではナチス率いるドイツが降伏間近、アジア・太平洋戦線でも連合国軍が日本を追い詰め、戦争をどう終わらせるか舵取りが求められていた。トルーマンが大統領に就任した時に知らされたのが、ヤルタ会談での秘密協定と新型爆弾(原子爆弾)の開発状況であったという。 原子爆弾投下については、軍人であって一線で活躍していたマッカッサーアイクも猛烈に反対していたのに、何故独断と偏見で実施したのか。トルーマン自身は生涯、原爆投下を正当化し、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導きアメリカ将兵の命を救った大統領」という評価が定着しいるが本人は大変後悔していたらしい。

マッカッサーが主張する通り、朝鮮戦争の際に何故、原子爆弾投下を許さなかったのか、まさにダブルスタンダード。マッカッサーの主張が通っていれば、今頃は中国全体を国民党政府が支配しており、朝鮮半島も一つの国、東西冷戦もなく世界は国連を中心に平和裏に回っていたはず。
一方の、マッカッサーの戦後構想は、ロシアや中国も入れて国連中心に多極型の世界を構築しようとするもの。将来は敗戦国も仲間に入れる。
一方の、チャーチル~ルーズベルト路線は、欧米中心の英国覇権をアメリカが受け継ぐもの。そのために国連は骨抜きにして、東西冷戦を永続させること。これにスターリンの膨張路線が都合よく同調する。勝ち組の国は軍の縮小は難しい。トルーマン政権の対中政策は、「ローズヴェルトの戦後構想」を基調とするものだったらしい。

アメリカはわざわざ蒋介石政権崩壊を崩壊させて、ソ連軍の支援する中国共産党に大陸を引き渡してしまう。朝鮮戦争の際にマッカッサーが主張する通り、原子爆弾投下を行っていれば、中共も北朝鮮も存在せず、東西冷戦も起こりえなかった可能性もある。東西冷戦はチャーチル=ルーズベルトの最初からの戦略だった可能性もあるが。

日本への原爆投下に関して
原爆投下強硬派であるバーンズに同調してトルーマンが原爆投下を承認した事に対して、当時のアメリカ一般国民の支持率は85%だったが、トルーマンと政治的に対立する立場だった共和党や和平派からは酷評があったという。
ハーバート・フーヴァーは『裏切られた自由』で日本への原爆投下は「トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して、原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を、疑わせるものである。日本は繰り返し和平を求める意向を、示していた。これはアメリカの歴史において、未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を、永遠に責むものである」と批判している。

ドワイト・アイゼンハワーは原爆投下に否定的なコメントをしたとされる。アイゼンハワーが原爆投下に反対した理由は『第一は、日本は降伏する準備ができていたので、あんな恐ろしい兵器で攻撃する必要がなかった。第二に、アメリカを原爆の最初の使用国にしたくなかったからだ』という理由である(しかし、アイゼンハワーは大統領任期中の1953年に、自身の政権下で被爆地広島に原子力発電所を造る案が浮上した際に「原爆を投下したことへの罪悪感を示すことになる」という理由で反対している。)

大統領主席補佐官でアメリカ海軍提督だったウィリアム・リーヒの回想録には、天皇の地位保全さえ認めれば日本は降伏する用意がある事、東郷茂徳が採った日本がソ連を仲介者とする和平工作を依頼していた事を意図的に無視したことを批判しており、「アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない」と述べている。またリーヒはトルーマンに対し、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見していた。

海軍長官のジェームズ・フォレスタルも、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルも、陸軍次官補のジョン・マックロイも無警告の原爆投下には反対をしていた。海軍作戦本部長のアーネスト・J・キングも反対をしていた。1945年シカゴ大冶金研究所で7月12日、原爆の対日使用に関するアンケートがあった。それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書 (Szilard petition) を提出したが、原爆投下前に大統領に届けられることはなかった。しかし実際には、レスリー・グローブス陸軍少将らが請願書を手元に置き、大統領には届かないように防害した。

ジョセフ・グルー国務次官はソ連に対する威嚇のために原爆投下を強行に主張するバーンズと正反対の路線であった。タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。

映画監督のオリバー・ストーンは、トルーマン政権内では多くの軍幹部が、空襲を受けて疲弊し、降伏寸前だった日本に原爆を使っても意味がないと進言していたが、それでも耳を貸さなかったのは、対日参戦へと動いていたソ連を牽制するためではなかったのかと批判している。

オリバー・ストーンとともに『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』を手掛けたピーター・カズニック歴史学教授によると、年配の世代の人たちはトルーマン大統領は英雄だったと信じているのは「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」という「原爆神話」を信じているためであり、同教授が講演で、第二次世界大戦当時の7人の米軍最高幹部のうちの6人までが原爆投下は不要か道徳的ではないと言っていたと話すと、これを聞いた退役軍人らは衝撃を受けると述べた[24]。またカズニックは前述のウィリアム・リーヒ同様に、トルーマンが日本がソ連に和平仲介したことを意図的に無視したことを批判している。広島・長崎に原爆を投下した真の狙いはソ連が参戦する前に日本の降伏を促すため、またソ連に対して警告するためであり、原爆が勝利をもたらしたというのは「神話」であり実際にはソ連対日参戦が日本が降伏する決定打だったと主張している。

トルーマン政権時代の外交政策、核政策を専門とするスタンフォード大学の歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は「太平洋戦争末期の広島、長崎への原爆投下は日本の降伏を早めたり、米軍兵士の犠牲を回避するのが目的で決断されたわけではない」という内容の論文を1995年に掲載しており、日本に懲罰を加えることが原爆投下の本来の目的の一つだったと説明している。また同教授は被爆したアメリカ兵捕虜について扱っている。原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎にはアメリカ人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。長崎市の福岡俘虜収容所第14分所に収容された捕虜たちは、三菱重工長崎造船所で働かされ、第14分所は敗戦時、オランダ人152人・オーストラリア人24人・イギリス人19人の195人を収容し、原爆で8人が死亡した。アメリカ合衆国連邦政府が被爆死したアメリカ兵捕虜の事を秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」と述べている。同教授は「政府はある時点から認めるようになりましたが名前は公表していません、政府は自分にとって不都合なことは公表しないものです。」と取材に電話で応じている。実は捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の日系アメリカ人が被爆した。

1997年に歴史家でアメリカ原子力制御委員会主席J・サミュエル・ウォーカー(英語版参照)は『原爆投下とトルーマン』を発表、「この数年公開された外交文書と当時のアメリカ政府高官の日記の詳細な分析により、なぜアメリカが原爆を使用したかが増々明確になってきた。日本本土侵攻を避ける為にも早期終戦にも原爆は必要なかったこと、原爆以外の容易な外交的手段がありトルーマンはそれを知っていたこと、原爆はアメリカの若者50万人の命を救ったというこけの生えた主張に全く根拠がない、という点で我々研究者達の意見は一致した。」とも発言している。

森林学者のフロイド・シュモーは原爆投下のニュースを聴きナチス・ドイツのユダヤ人虐殺にも匹敵する蛮行であると怒り悲しみ、トルーマンに抗議電報を打った。被災者のための家屋建設支援についてはその日の内に決断し、1口1ドルの寄付を募り米国各地を回り始めた。

1945年8月9日にアメリカ・キリスト教会連盟の抗議があり、「多くのキリスト教徒は、日本の都市に対する原子爆弾の使用に深く心を痛めております。なぜなら、原爆の使用は必然的に無差別破壊をもたらし、人類の未来にとって極めて危険な前例となるからです。連盟会長オクスナム主教と同連盟の恒久的平和委員委員長ジョン・F・ダレスは、報道向けの声明を準備しており、明日、次のことを強く主張するつもりです。原爆は人類に託されたものと見なすべきであり、日本国民に対して新型爆弾に関する事実を確認させ、降伏条件の受諾に十分な機会と時間が与えられるべきであること。そして、日本国民にこれ以上の原爆による破壊がもたされる前に、日本が最後通牒について考え直す十分な機会が与えられることを謹んで要請致します。」とトルーマンに抗議の電報を打った。

渡邊恒雄は中央公論 2006年10月号に掲載された『なぜ、今、戦争責任の検証か』において、トルーマンは原爆投下がもたらす非戦闘員に対する非人間的な残酷さへの想像力が欠如していたのではないかと述べている。しかし、ポツダム会談の時期にトルーマンが書き残していた日記には、たとえ日本人がどんなに暴虐でも原爆で攻撃するのは残酷であるから、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標は軍事拠点に限定し、東京と京都は目標から除くようスティムソン陸軍長官に指示したことが述べられていた。

トルーマンは広島への原爆投下について1958年のCBSのインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語り、公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。だが、トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたこと、トルーマン自身が一般市民を犠牲にする行為に反対していたこと、トルーマン政権と軍の間に知られざる攻防があったことが近年明らかになった。

原爆による最大の破壊効果を得るために選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所であったが、その中でも広島と京都が有力候補に上がっており、「マンハッタン計画」で原爆計画の責任者を努めていたレスリー・グローブス准将は京都を推した。グローブスは「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」と述べていた。しかし、陸軍長官のヘンリー・スティムソンはかつて京都を2度訪問し、原爆を投下すれば、おびただしい数の市民が犠牲になることを認識していたためこの案を却下した。一方、グローブスはスティムソンとの面会から1か月後、京都に軍事施設があるという報告書を作成し、京都駅や絹織物の糸を作る紡績工場を軍事施設として報告していた。京都への投下は国益を損なうと考えていたスティムソンはグローブスの提案を認めようとはしなかった。

1945年7月16日、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が成功。一方で、日本ではすでに多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近と見られ、グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えた。原爆実験から5日後、スティムソンに部下から緊急の電報が届き、軍は京都への原爆投下をまだ諦めていなかった。スティムソンはトルーマンに報告し京都を外すよう求め、トルーマン自身は7月25日の日記に「この兵器は今から8月10日の間に日本に対して使う予定になっている。私は陸軍省長官のスティムソン氏に、使用に際しては軍事目標物、兵隊や水兵などを目標とし、女性や子どもを目標としないようにと言っておいた。いかに日本が野蛮、冷酷、無慈悲かつ狂信的とはいえ、世界の人々の幸福を推進するリーダーたる我々が、この恐るべき爆弾を日本の古都や新都に対して落とすわけにはいかないのだ。この点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は純粋に軍事物に限られる。」と記していた。

しかし、トルーマンのもとに軍から届いた新たな投下目標を記した報告書の最初にあげられていたのは広島で、目標選定を行っていたグローブスたちが意図的に騙すために報告書には、「広島は日本有数の港と軍事物資の供給基地など軍の大規模施設が集まる陸軍都市である」と述べられていた。トルーマンは広島に原爆を投下しても一般市民の犠牲はほとんどないと思い込んでしまい、結局トルーマンが投下目標から広島を外すことはなかった。

1945年7月25日、「最初の原爆を広島、小倉、新潟、長崎のうちのひとつに投下せよ。2発目以降は準備ができ次第投下せよ」とグローブスが起草した原爆投下指令書が発令された。1945年8月6日、午前1時45分、部隊はテニアン島を離陸。そして8時15分に広島に原爆が投下された。ポツダム会談の帰り道にトルーマンは大西洋の船上と船中で演説を開始し、「先ほどアメリカ軍は日本の軍事拠点ヒロシマに1発の爆弾を投下した。原子爆弾がこの戦争を引き起こした敵の上に解き放たれたのだ」とあくまでも軍事目標に落としたと強調した。一方、ワシントンで報告を受けたグローブスは、原爆を開発した科学者に電話し「君たちを誇りに思う」とねぎらった。

8月8日、トルーマンがワシントンに戻った直後、スティムソンはトルーマンの元を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せ、トルーマンは「こんな破壊行為をしてしまった責任は大統領の私にある。」と述べている。しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走し、同じ日、原爆は長崎にも投下された。トルーマンは友人である民主党のリチャード・ラッセル上院議員に送った手紙に、「個人的には、一国の指導者の“強情”のために集団を全滅させる必要性があるのか、明らかに後悔している」と心境を吐露していた。また、「一つ言っておくが、私は原爆が全体に必要でない限り、使用しない」と日本を降伏させるためにやむを得ない措置であることを強調。さらに「ソ連が戦争に介入すれば、日本は非常に短期間で降伏するだろう」とも記していた。トルーマンは「私の目的は、できるだけ多くの米国人の命を救うこと」とする一方、日本に対しては「日本の男性と子供たちには人間として同情を感じている」「私は日本が非常に残酷で野蛮な戦争国家だと知っている。だが、我々も彼らと同じように行動しなければならないとは思わない」と複雑な心境を抱いていることを明かしている。書簡を送られたラッセル議員は原爆投下2日前の8月7日にトルーマンに、「もし我々が、(日本を無条件降伏させるのに)十分な数の原爆を保有していないなら、原爆ができ上がるまで、TNT爆弾でも焼夷弾で攻撃を続ける必要がある」などと、日本への徹底的な攻撃を促す電報を送っていた。

8月10日、トルーマンは全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する決断を伝え、この場で「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい」と発言し、「大統領の許可なしに今後の使用は停止される」と決定した。
アメリカ・キリスト教会連盟の原爆投下抗議の電報に対し、8月11日にトルーマンは「8月9日付の電報を頂き感謝いたします。私ほど原爆の使用に心を痛めている人間はいません。しかし、私は日本の宣戦布告なき真珠湾攻撃と戦争捕虜の虐殺にも非常に心を痛めました。日本人が理解する唯一の言葉というのは、私たちが日本人に対して原爆投下をすることのように思えます。獣(beast)と接するときは、それを獣として扱わなければなりません。非常に残念なことでありますが、それが真実です。」と返答した。

トルーマンはその事実を覆い隠そうとし、長崎への原爆投下の24時間後、国民に向けたラジオ演説で「戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」と用意されていた原稿にはなかった文言が加えられた。研究者はこの言葉が、市民の上に投下した責任を追及されないよう後付けで考えられたものだと指摘する。スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授は「トルーマンは軍の最高司令官として投下の責任を感じていました。例え非道な行為でも投下する理由があったというのは大統領にとって都合の良い理屈でした。このとき、命を救うために原爆を使ったという物語が生まれました。世論を操作するため演出されたのです」と述べている。

スティムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明した(1947年2月)。
トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルは韓国聯合ニュースのインタビューに対し「祖父のトルーマン大統領は広島と長崎の原爆被害の惨状に大きな衝撃を受け、このために朝鮮戦争時に原爆を使用しなかった」と証言している。トルーマンは朝鮮戦争では「原爆使用の可能性を排除しない。」との構えを見せながらも、記者会見では「原爆は恐ろしい兵器であり、(北朝鮮の)侵略に関係のない無実の人びとや女性、子供に対して使用すべきではない。」と述べて、中国に対する原爆使用を主張したマッカーサー国連軍司令官を解任した。1962年ある教授がトルーマンに「大統領として何か悔いることがありますか。」との質問に、「もちろん原爆だ。」と答え、「原爆投下の悪夢にうなされ続けており、大きな失敗を犯したと思っているが、原爆投下の決定を公に取り消すわけにはいかないので、それを抱えて生きるしかない。」と述懐した。

1964年、ミズーリ州インデペンデンス市のトルーマン図書館でトルーマンはアメリカに訪問した被爆者と面会したことがあり、世界平和研究使節団親善大使の松本卓夫と会談した。トルーマンは被爆者に対し「原爆を投下したのは日本人のためでもあった」と説明していたものの、最後まで目を合わさず、面会は3分程で打ち切られた。

家族
トルーマンと妻ベスの間には娘マーガレット・トルーマンがいる。マーガレットは長じてクリフトン・ダニエルと結婚し、クリフトン・トルーマン・ダニエル(1957年 - )ら4人の子供をもうけた。クリフトンは2012年8月、トルーマンの孫として来日、同4日広島市平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花した。

語録
「合衆国大統領は、貴方は世にも立派な人だと告げる声を嫌という程聞かされる。大統領は、貴方は立派な人ではないと言う一つの声に耳を傾けなければならない」。
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