Music

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芸術の部屋

カラオケ嫌いのカラオケの部屋
クラシック音楽を聞いてみよう
色々な音楽を聴いてみよう

カラオケ嫌いのカラオケの部屋

基本的には自分の好きな曲をいつでも聞けるようにと作ったもの。でも、音楽も歴史や時代を反映したものでもあり、世界には色々なジャンルの色々な曲があるのも面白いことです。
森繫久彌 満州里小唄 ゴンドラの歌
美空ひばり 韓国の唄 ロシアの音楽 男はつらいよ
おら東京さいくだ 中島みゆき 宮崎アニメ主題歌
hitomi 鄧麗君 高山青 谷村新司
古関裕而 植木等 【モンテンルパの夜はふけて】
海行かば
筒美京平 小椋佳 サンプラザ中野 沖縄
八代亜紀 浪花千栄子 みんなの歌 校歌寮歌応援歌
大地讃頌
日本民謡 bésame mucho
クラシック音楽を聞いてみよう
色々な音楽

森繫久彌

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日~2009年11月10日)。日本の俳優、声優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。 昭和の芸能界を代表する国民的俳優のだろう。映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌手・エッセイストなどなんでもありで活躍。早稲田大学中退後、NHKアナウンサーとなって満州国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組の出演で次第に喜劇俳優として注目される。映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博す。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中で喜劇性を光らせることができるユニークな存在として、後進の俳優たちにも大きな影響を与える。
森繁久彌 森繁久彌 森繁久彌

満州里小唄

満州里小唄
シベリアと満州の国境、満州里(マンチェリー)は 今日も吹雪に暮れてゆく。
人々はその風の中に どんなにか春を待つのだ。
丈余の氷のとける音に、雪を割って咲くアゴニカの紅い花に、
春の知らせをきき、ウォッカの杯をかさねれば、暁の窓を打つものは、
またしてもヒョウヒョウと舞い狂う朔北の粉雪である。

1.
積もる吹雪に 暮れゆく街よ      
渡り鳥なら つたえておくれ      
風のまにまに シベリアがらす      
ここは 雪国 満州里      


2.
暮れりゃ 夜風が そぞろに寒い      
さあさあ燃やそよ ペチカを燃やそう      
燃えるペチカに 心もとけて      
唄え ボルガの 舟歌を      
…ステンカラージンの歌…

3.
凍る大地も 春にはとけて
咲くよアゴニカ 真赤にさいて
明日ののぞみを 語ればいつか
雪はまた降る 夜はしらむ


マンチェリー小唄を聞く

オホーツクの舟歌(森繁久弥)

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ゴンドラの歌

1.
          いのちみじかし 恋せよ乙女
          紅きくちびる あせぬ間に
          紅き血潮の 冷えぬ間に
          明日の月日の ないものを
2.
          いのち短し 恋せよ乙女
          いざ 手を取りて かの舟に
          いざ燃ゆる頬を 君が頬に
          ここはたれも 来ぬものを
ゴンドラの唄

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美空ひばり

勿論昭和を代表する歌手。(1937年(昭和12年)5月29日~1989年(平成元年)6月24日)。歌手、女優。神奈川県横浜市磯子区出身。 12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われる。以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍。自他共に「歌謡界の女王」と認める存在。昭和の歌謡界を代表する歌手。女性として史上初の国民栄誉賞を受賞。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長147cm。
画像で見ると気がつかないけど、ずいぶん小さい人なんだ。
川の流れのように
川の流れのように:作詞は秋元康、作曲は見岳章。オリジナルの編曲は竜崎孝路。「人生とは河の流れのようなもの。」哲学的な響きのある詩が長く歌い続けられる秘密かも。
**秋元康(あきもと やすし、1958年5月2日 ~):日本の放送作家、作詞家、プロデューサー。 妻は元アイドルの高井麻巳子。
"とんねるず"のブレーン・プロデューサーとして世に知られて以降、ジャンルを問わず多くの楽曲の作詞を手掛ける。2000年代以降は、AKB48グループや坂道シリーズのプロデューサーとして、ほぼ全ての楽曲を作詞する。
「愛燦燦」を聞く

愛燦燦:「家族愛」をテーマに製作され、ハワイで撮影された『味の素』のCM映像のバック音楽をホリプロの若き映像プロデューサーだった岩上昭彦がひばりに歌唱させることを希望した。CMソングの製作者は最初から小椋にすることを考えていた。歌手はホリプロの所属歌手を検討したがイメージに合わず、岩上は「家族愛」のテーマに最も合致していると思われるひばりを希望した。当時のひばりは「歌謡界の女王」とも呼ばれていた芸能界の大御所であり、無謀とも言えるオファー。ひばりがこのオファーを受諾したため、完成したのが本楽曲。

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韓国の唄

【돌아와요 부산항에】

チョー・ヨンピル 韓国歌手チョー・ヨンピルのヒット曲。できれば韓国語で歌いたい。
ただし、日本語の歌詞は、女性が恋人を慕う歌だけど、韓国語の歌詞は兄弟となっている。
1
꽃 피는 동배섬에           
봄이 왔건만
형제 떠난 부산항에
갈매기만 슬피우네.
오륙도 돌아가는
연락선마다
목메여 불러봐도
대답없는 내 형제여
돌아와요 부산항에
그리운 내 형제여
1
コッピーヌン ドンペクソメ           
ボミ ワッカンマン
ヒョンジェドナン プサンハンエ
カルメギマン スルピウネ
オリュクド トラガヌンン
ヨンラクソンマダ
モッメヨ プルリョポァド
デダマヌン ネヒョンジェヨ
ドラワヨ プサンハンエ
クリウネ ヒョンジェヨ
2
가고파 목이 메요           
부르던 이 거리는
그리워서 헤메이던
긴긴날의 꿈이였지
언제나 말이 없는
저 물결들도
부딪쳐 슬퍼하면
가는 길을 막았었지
돌아와다 부산항에
그리운 내 형제여.
2
カゴパ モギメヨ           
プルドン イコリヌン
クリウォソ ヘメイドン
キンキンナレ クミヨッジ
オンジェナ マリオヌン
チョムル キョルドゥルド
プディチョ スルポハミョン
カヌンギルル マゴァッソジ
トラワダ プサンハンエ
クリウネ ヒョンジェヨ
プサン港へ帰れを聞く
***春夏秋冬→봄 여름 가을 겨울 、봄이=春が、형제 떠난=兄(弟)が去った、カモメ=갈매기 、
椿=동백 、섬에=島へ、섬 =島、

韓国の代表的な民謡だが、色々なバリエーションがある。
アリラン

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ロシアの音楽

ロシアの唄

【アムール川の波】


見よアムールに波白く
シベリアの風たてば
木々そよぐ河の辺に
波さかまきて
あふれくる
水豊かに流る

舟人の歌ひびき
くれないの陽は昇る
よろこびの歌声は
川面をわたり
はるかな野辺に
幸をつたえる

うるわしの流れ
広きアムールの面
白銀なし さわぐ河波
広き海めざし高まりゆく波
白銀なし、白銀なし、さわぐ河波
自由の河よアムール
うるわしの河よ
ふるさとの
平和を守れ
岸辺に陽は落ち
森わたる風に
さざなみ黄金をちらす

平和の守り
広きアムール河
わが船は行く
しぶきをあげて
舳先にたてば
波音たかく
開けゆく世の
幸をたたえて

見よアムールに波白く
シベリアの風たてば
木々そよぐ河の辺に
波さかまきて
あふれくる水
豊かに流る


アムール河の波を聞く
アムール河の波を聞く
ロシア国歌く
ロシア国歌く
Россия – священная наша держава,
Россия – любимая наша страна.
Могучая воля, великая слава –
Твоё достоянье на все времена!

Припев: 𝄆 Славься, Отечество наше свободное,
Братских народов союз вековой,
Предками данная мудрость народная!
Славься, страна! Мы гордимся тобой! 𝄇

От южных морей до полярного края
Раскинулись наши леса и поля.
Одна ты на свете! Одна ты такая –
Хранимая Богом родная земля!

Припев
Широкий простор для мечты и для жизни
Грядущие нам открывают года.
Нам силу даёт наша верность Отчизне.
Так было, так есть и так будет всегда!

Припев
翻訳例
ロシア、聖なる我らの国よ
ロシア、愛しき我らの国よ
力強き意思、大いなる光栄
汝が持てる物は世々にあり!

コーラス
讃えられて在れ、自由なる我らが祖国よ
幾世の兄弟なる民族の結束
祖先より授かった民族の英知よ!
国よ讃えられて在れ!我等汝を誇らん!

南の海より極地の果てへと
広がりし,我等が森と草原よ
世界に唯一なる汝、真に唯一なる汝
神に守られた祖国の大地よ!
コーラス
夢が為生きるが為,遮らぬ自由を
来たるべき時は我等にもたらす
祖国に捧ぐ忠誠は我等に力を与える
それはかつて、今も、そして常に在り続けん!
ステンカラージン
ポーリュシカ・ポーレ
草原情歌

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男はつらいよ

山田洋次監督、渥美清主演の「男はつらいよ」の主題歌。
男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(のテレビドラマおよび映画シリーズ。主人公の愛称から「寅さん」(とらさん)シリーズとも称される。 テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす人情喜劇で、毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。
男はつらいよ   男はつらいよ 私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天でうぶ湯を使い
性は車、名は寅次郎 人呼んでフテンの寅と発します。

俺がいたんじゃおよめにゃ行けぬ
わかっちゃいるんだ妹よ
いつかお前の喜ぶような
偉い兄貴になりたくて
奮闘努力の甲斐もなく
今日も涙の今日も涙の陽が落ちる陽が落ちる
男はつらいよ

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おら東京さいくだ

おら東京さ行くだ

吉幾三のコミカルの歌。田舎の伝統的な社会を馬鹿にしているようで、寧ろ現代の社会に失われた伝統社会への郷愁を感じさせるいい歌です。
「おら東京さいくだ」を聞く

「ゲゲゲの鬼太郎」を聞く
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中島みゆき

中島 みゆき(1952年2月23日~)。シンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。北海道札幌市出身。
「ファイト戦う君の歌を」を聞く
「地上の星」を聞く
時代
麦の唄麦の唄歌詞
「空と君のあいだに」を聞く
「ヘッドライト・テールライト」を聞く
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hitomi

hitomi Hitomi ( born January 26, 1976) is a Japanese singer-songwriter. She began her career as teen model before making her singing debuting under the helm of Tetsuya Komuro in 1994, who produced Hitomi's earliest work in pop music. Hitomi strove for artistry over the course of her career, penning "forward-looking" lyrics and becoming known for her "unusual" fashion sense that accompanied a "supermodel allure". Her signature songs include "Candy Girl", "Love 2000" and "Samurai Drive".
MARIA
LOVE 2000
ランバダ

【チェブラーシカ】

Cheburashka チェブラーシカ(Чебура́шка、Cheburashka)は、ロシアの児童文学家エドゥアルド・ウスペンスキーによるシリーズもの絵本『ワニのゲーナ』(Крокодил Гена)に登場するキャラクターである。そのシリーズの本来の主人公は、友人である「ワニのゲーナ」であったが、その人気からチェブラーシカが実質的な主人公となっている。ロシア語で「ばったり倒れ屋さん」という意味がある。
1966年に絵本作品として登場し、1969年からロマン・カチャーノフ監督により人形アニメで映画化。
チェブラーシカの唄
Голубой вагон ワニのゲーナが歌う哀愁のある良い歌です。
Голубой вагон

【国歌】

「ロシア連邦国歌」を聞く
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宮崎アニメ主題歌

宮崎アニメの主題歌。歌は米良美一。
もののけ姫

魔女の宅急便 ルージュの伝言
やさしさに包まれたなら
となりのトトロ
君をのせて 天空の城ラピュタ
365日
マルコポーロの冒険

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高山青

gaoshanqin 台湾の有名な民謡、もともとは少数民族の歌。
「高山青」を聞く
「高山青」を聞く
1. 高山青,澗水藍,
Gāoshān qīng, jiàn shuǐ lán,
阿里山的姑娘美如水呀,
Ālǐ shān de gūniáng měi rúshuǐ ya,
阿里山的少年壯如山 
Ālǐ shān de shàonián zhuàng rúshān.
啊!啊!A! A!

阿里山的姑娘美如水呀,
Ālǐ shān de gūniáng měi rúshuǐ ya,
阿里山的少年壯如山。
Ālǐ shān de shàonián zhuàng rúshān.
高山常青,澗水常藍,
Gāoshān cháng qīng, jiàn shuǐ cháng lán,
姑娘和那少年永不分呀,
Gūniáng hé nà shàonián yǒng bù fēn ya,
碧水常圍著青山轉。Bìshuǐ cháng wéizhe qīngshān zhuǎn.

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鄧麗君

テレサ・テン(1953年1月29日~1995年5月8日)。 鄧麗君〈Dèng Lìjūn)は、台湾出身の歌手。1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域ないし日本、タイ、マレーシアなども含めたアジアにおいて広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。
父親は中国河北省邯鄲市、母親は中国山東省出身で共に外省人で、また父親は元国民党軍の職業軍人で。彼女自身、軍隊への慰問活動を熱心に行っていた。
「何日君再來」を聞く
何日君再來はかなりポピュラーな歌か。歌詞を覚えよう。
好花不常开
hǎo huā hù cháng kāi
良い花は頻繁には咲かない

好景不常在
hǎo jǐng bù cháng zài
良い景色は頻繁にはない

愁堆解笑眉
chóu duī jiě xiào méi
憂うよりも笑顔になりたい
泪洒相思带
lèi sǎ xiāngsī dài
想いの涙が溢れる

今宵离别后
jīnxiāo líbié hòu
今宵 別れた後

何日君再来
hérì jūn zài lái
あなたはまたいつ来てくれるの?

喝完了这杯
hē wán le zhè bēi
この一杯を飲み終えたら

请进点小菜
qǐng jìn diǎn xiǎocài
おつまみを頼んで

人生难得几回醉
rénshēng nándé jǐ huí zuì
人生で酔うのは珍しい

不欢更何待
bù huān gèng hé dài
もっと楽しんで

来来来喝完了这杯再说吧
lái lái lái hē wán le zhè bēi zài shuō
この一杯を飲み終えてからまた言って

今宵离别后
jīnxiāo líbié hòu
今宵 別れた後

何日君再来
hérì jūn zài lái
あなたはまたいつ来てくれるの?

「夜来香」を聞く
【夜来香 yè lái xiāng】
1.那南风吹来清凉
nà nánfēng chuī lái qīngliáng→The southern wind is fresh and cool.

2.那夜莺啼声细唱
nà yèyīng tíshēng xìchàng →The nightingales is singing softly.
3.月下的花儿都入梦
yuèxià de huāér dōu rùmèng →Beneath the moon the flowers dream,
4.只有那夜来香
zhīyǒu nà yè lái xiāng →Except for the evening flower,
5.吐露着芬芳
tǔlù zhe fēnfāng →whose fragrances fills the air.
6.我爱这夜色茫茫
wǒ ài zhè yèsè mángmáng →I love this boundless darkness
7.也爱这夜莺歌唱
yě ài zhè yèyīng gēchàng →I love the nightingale's song.
8.更爱那花一般的梦
gèng ài nà huā yībān de mèng → Most for all I love a perfumed dream.
9.拥抱着夜来香
Yǒngbàozhe yèlái xiāng → I embrace the evening flower.
10.吻这夜来香
wén zhè yè lái xiāng →I kiss the evening flower.
11.夜来香 yè lái xiāng→Evening flower
12.我为你歌唱  wǒ wèi nǐ gēchàng →I sing for you
13.夜来香yè lái xiāng →Evening flower
14.我为你思量 wǒ wéi nǐ sī liàng →I think of you.
15.啊 我为你歌唱 A wǒ wèi nǐ gēchàng→Ah I sing for you. 16.我为你思量 wǒ wéi nǐ sī liàng →I think of you.
17.夜来香 yè lái xiāng →Evening flower

「黒い瞳」を聞く?
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谷村新司

谷村 新司(たにむら しんじ、1948年12月11日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、作詞家、作曲家、大学教授。アリスのリーダー。
昴を聞く

古関裕而

ale 古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年〈明治42年〉8月11日~ 1989年〈平成元年〉8月18日)は、今NHKの朝ドラの主人公。本名は古關 勇治(読み同じ)。妻は声楽家で詩人の古関金子。
でも、NHK朝ドラの「エール」は和製英語で、"yell"は単に叫ぶと言う意味らしい。
気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされ、また、楽器を一切使わずに頭の中だけで作曲を行ったといわれる。

NHK朝ドラの「エール」を歌っている歌手は、Greeen。
星影のエールを聞く
福島に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期には金須嘉之進に師事。という訳で金須嘉之進(きす よしのしん、1867年3月26日~ 1951年4月7日)について調べて見た。

福島聖ステパノ教会 NHK連続テレビ小説「エール」(月~土曜、午前8時)の第4回で登場した教会は、日本基督教団・福島教会がモデルで、ロケは日本聖公会・福島聖ステパノ教会で行われた。またその後、日本基督教団・福島新町教会が古関裕而(こせき・ゆうじ)の家の真向かいにでき、毎日、その教会の鐘の音を聞いて過ごしていたことも。ただ、古関はこうしたプロテスタントとの教会との接点だけでなく、「長崎の鐘」を作曲したことで、被曝したカトリック医師の永井隆と文通し、カトリックともつながりを持っていた。そして今回紹介するのは、もう一つのキリスト教3大教派である正教会との関わりだ。

ニコライ堂 古関は1952年、「ニコライの鐘」を発表し、藤山一郎が第6回紅白歌合戦の大トリで歌った。日本正教会の首座主教座大聖堂である東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)は、夏目漱石の『それから』にも登場し、多くの詩人や歌人も詠んだ東京お茶の水の名所として知られる。
だが、古関と正教会の関わりはそれで終わるわけではない。古関は旧制福島商業学校(現・福島商業高等学校)を卒業後、伯父の経営する川俣銀行に就職したが、そのころ仙台で音楽教育を行っていた金須嘉之進(きす・よしのしん)から和声の手ほどきを受けたという。金須は正教会の音楽家だ。この話は番組では省かれていた。

正教会における礼拝、つまり聖体礼儀における賛美は、楽器の伴奏を伴わないアカペラ唱法が基本。また、シンプルなメロディーを会衆全員で歌うプロテスタントとは違って、聖歌隊による合唱で歌われ、音楽の構造もかなり高度だ。そういうこともあって、古関は金須からかなり本格的な指導を受けたと思われる。
金須はニコライにその才能を認められ、1881年、14歳のとき、東京・神田駿河台にあった正教会の神学校に入学し、91年にはロシアのペテルブルクに留学して、バイオリンやピアノ、聖歌指揮法、作曲理論を習得したという。明治初期の日本人音楽留学生としては、幸田延(こうだ・のぶ)に次いで5人目。94年の帰国後、正教会の音楽指導や聖歌の編曲・作曲を行う一方、音楽会にも出演し、音楽教育にも尽力した。その弟子の一人が古関なのだ。

ところで、日本正教会の発祥の地は、ニコライ堂のあるお茶の水ではなく、実は函館だ。そこにまずロシア領事館が設置され、領事館付き司祭としてニコライが1861年に来日。脱国して米国に渡る直前の新島襄とそこで交流を持ったのはその3年後のこと。坂本龍馬のいとこである沢辺琢磨(さわべ・たくま)はニコライのもとで1868年、日本人として初めて正教の洗礼機密を受け、後に最初の日本人司祭となる。そして仙台を拠点として伝道していき、73年には仙台に教会ができた。そのような中で、67年生まれの金須も正教の信徒となったようだ。

聖ニコライ **聖ニコライ=ニコライ (日本大主教)
ニコライ(修道誓願前の姓:カサートキン、ロシア語: Николай (Касаткин), 1836年~1912年は日本に正教を伝道した大主教。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。 ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していたという。

金須は、帝室付カペーラ声楽院に留学中、副院長でロシアの作曲家リムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んでいた。当時、金須は、「リムスキー=コルサコフのオーケストラ作品ほとんど全部」を演奏したと書いている。
リムスキー=コルサコフは、色彩感あふれる管弦楽曲などを数多く残したことで知られる。また1883~94年には、ロシア帝国サンクトペテルブルクにある宗務局(宮廷礼拝堂)でロシア正教の奉神礼(典礼)音楽について研究していた。

金須からの影響もあって、古関もリムスキー=コルサコフが作曲した交響組曲「シェヘラザード」に傾倒していった。古関は金須をたいへん尊敬しており、自分がリムスキー=コルサコフの孫弟子になることを誇りとしていた。そして1988年3月、脳梗塞で聖マリアンナ医大附属病院入院してから死の間際まで古関が病室のベッドで聴いていたのもリムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」だったという。

シェヘラザード(またはシャハラザード、ペルシア語: شهرزاد‎, Šahrzād‎)は、『千夜一夜物語』の登場人物で語り手。サーサーン朝(ササン朝ペルシャ)のシャフリヤール王(Shahryār)の王妃であり、毎夜、命がけで王に物語を語る。なお、サーサーン朝は実在した国家、2人はこの物語上の架空人物。
シェヘラザードを聞く
1929年に国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品として、自身の作品がノミネート。これを日本の新聞で「チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの流行歌・歌謡曲や映画音楽、軍歌の作曲を手掛け、音丸の「船頭可愛や」、中野忠晴・伊藤久男らの「露営の歌」、伊藤久男の「暁に祈る」、霧島昇・波平暁男の「若鷲の歌」などを発表した。戦後は、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」や、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」、藤山一郎の「長崎の鐘」、伊藤久男の「イヨマンテの夜」、織井茂子の「君の名は」、岡本敦郎の「高原列車は行く」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。

若鷲の歌(予科練の歌)
この歌も作詞西条八十、作曲古関裕而である。
暁に祈る _ 伊藤久男(古関裕而 作曲)
露営の歌
長崎の鐘を聞く
他方で、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、名城大学応援歌「真澄の空に」、三重県立四日市高等学校応援歌「希望の門」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌「大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)」、読売ジャイアンツの球団歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、中日ドラゴンズの初代球団歌「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」、東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手掛け、和製スーザと呼ばれた。巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関本人はスポーツが苦手で、プロ野球にもあまり興味がなかったため、球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた。また、母校である福島商業高等学校の校歌「若きこころ」を作曲。
紺碧の空を聞く
オリンピックマーチ
六甲おろしく

古関裕而(ゆうじ)の生涯:
福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていたという。古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年が住んでおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。

1916年(大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現福島大学附属小学校)へ入学した。担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を作って古関に作曲を依頼してくるようになる。こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。

青少年期:
1922年(大正11年)、旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に入学した。同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。初めて自分の作品が披露された出来事であった。しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。

学校を卒業する頃、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。傾倒したのは、リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』とストラヴィンスキーの『火の鳥』、ドビュッシー、ムソルグスキーなどである。このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。

1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に勤務した。町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた。この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組に出演する。この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していた金須嘉之進に師事することになった。金須は正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んでいた。

**山田耕筰(やまだ こうさく、1886年~ 1965年)は、日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手がけている。

コロムビア専属へ:
1929年(昭和4年)、イギリスロンドン市のチェスター社が発行する音楽雑誌『ザ・チェスターリアン』第10巻第77号に掲載された管弦楽作品の懸賞募集を見て、同年7月に管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』を含む5つの作品を応募した。同年12月に福島商業学校の恩師、丹治嘉市に「2等に5曲共入賞致しました。協会からは既に旅費、及びその他の費用として、£400の金が送金されて来ました。」と手紙で報告し、1930年(昭和5年)1月23日の福島民報新聞など各紙で入賞を大々的に報道された。これらを典拠として『竹取物語』を日本人初の国際的作曲コンクール入賞作品とする文献があるが、この作品が二等に入賞したとされる作曲懸賞募集の詳細は明らかになっていない。これは国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある。日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのは外山道子の「やまとの声」である。

『竹取物語』は、色彩的で斬新なオーケストレーションがなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で愛知県豊橋市在住の内山金子(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も約100通に及ぶ熱烈な文通を経て1930年6月、古関20歳、金子18歳で結婚。古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。『竹取物語』の所在も知れないという。 つまり、『竹取物語』は今となっては幻の曲?

同年9月、コロムビアの顧問山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。東京では菅原明朗に師事した。菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関には深井史郎よりも才能があったと、後年まで称賛している。師と仰いだ菅原明朗のほかに、橋本國彦とも親交が厚かった。

しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それは叶わなかった。東京に移ってからのオーケストラ作品には、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』がある。これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。

1935年(昭和10年)、古関が26歳の頃、新民謡調の「船頭可愛や」(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。この歌は世界の舞台でも活躍したオペラ歌手・三浦環もレコードに吹き込んだ。

この頃、声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。金子は後に声楽家のベルトラメリ能子(よしこ)及びその師のノタル・ジャコモの教えを受けた。また同時期に古関は同郷の伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。

**伊藤 久男(いとう ひさお、1910年~1983年)は歌手。本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県本宮市出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。元妻は戦前にコロムビアレコード等で活躍した元芸者歌手・赤坂百太郎(大西ふさ子)。
暁に祈る 伊藤久男(古関裕而 作曲)を聞く
若鷲の歌(予科練の歌)を聞く
**予科練とは
「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始。14才半から17才までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練。飛行予科練習生制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。エリートして志願して入隊したものの8割が亡くなった。 茨城県阿見町は大正時代末期に、東洋一の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊が設置される。昭和14年には海軍飛行予科練習部、いわゆる「予科練」が神奈川県横須賀から移転し、翌年には予科練教育を専門におこなう土浦海軍航空隊が設置される。長く海軍の町としての歴史を歩んできた阿見町は、わが国の近代史の中でもひときわ光芒を放つ特別な時代を過ごし、日本が経験してきた戦争と平和を考えるうえで、忘れることのできない多くの事柄をその風土と歴史の中に刻み込んでいる。
太平洋戦争中から戦後1955年:
太平洋戦争中の古関は数々の名作戦時歌謡を発表。古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「愛国の花」「暁に祈る」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「露営の歌」に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。
伊藤久男 イヨマンテの夜1975を聞く
岩城さん イヨマンテの夜1975を聞く
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植木等

植木 等(うえき ひとし、1926年~2007年)は、俳優、コメディアン、歌手、ギタリスト、タレント。「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバー。仲間内での愛称は「ボンさん」「植木屋」「植木やん」。長男は作曲家の比呂公一。妹の夫に部落問題研究者の川村善二郎。御木本幸吉は、父方の祖母の親類にあたる。

クレージーキャッツ **クレージーキャッツ
メンバー; ハナ肇(ドラムス)、植木等(ボーカル・ギター)、谷啓(ボーカル・トロンボーン)、犬塚弘(ベース)、安田伸(テナーサックス)、石橋エータロー(ピアノ)1970年末まで、 桜井センリ(ピアノ)1960年下半期から
元々は「キューバン・キャッツ」の名で活動を開始したが、進駐軍のキャンプ回りをしていた際、演奏中に洗面器で頭を叩くギャグが大受けし、“You're crazy!”と言われたことから「クレージーキャッツ」に改名したとされている。渡辺プロダクション所属。数多くのバラエティ番組に出演し、コントを演じるようになってからコントグループと見られるようになった。しかしながら、下記の通り各人は音楽の経験やテクニックという点で卓越した技量を持っており、単なるコントグループ、コミックバンドとは全く違う、「音楽の質の高さ」を兼ね備えた異色の存在ともいえる。略称「クレージー」。音楽+コメディという芸能活動を広めた第一人者である。


植木等の父親である徹誠(てつじょう)は、かつて徹之助と名乗っており、若い頃はキリスト教徒であった。後に浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となる。たいへんな社会的正義感の持ち主で、被差別部落出身ではないが「自分は部落民ではないと思うことが、すでに相手を差別していることだ」と述べて、水平運動に参加した。治安維持法違反の罪に問われて何度となく投獄をされても、積極的に反差別と反戦を貫いて運動、戦後は日本共産党に入党し、60年安保のデモ隊にも参加するというような「行動する僧侶」だった。ただし、父は「謹厳実直」なだけの人物ではなく、息子・等から見ると「支離滅裂」で、義太夫。

スーダラ節
クレージーキャッツ メドレー
青島幸雄 彼等の歌の詩を作っていたのが、青島幸雄。後に何を間違えたか東京都知事になってしまう人だ。
**青島幸男
青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年7月17日 ~2006年12月20日)は、日本の作家、作詞家、タレント、俳優、放送作家、映画監督、政治家。参議院議員(5期)、第二院クラブ代表(初代・第5代)、東京都知事(第13代)などを歴任。


そんな真面目な性格であるから「スーダラ節」の楽譜をはじめて渡された時には、「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と真剣に悩んだ。父親に相談すると「どんな歌なんだ?」というので植木はスーダラ節を歌ってみた。激しい正義感の持ち主の父の前で歌ったあまりにふざけた歌詞に激怒されると思いきや、父は「すばらしい!」と涙を流さんばかりに感動した。唖然とする等が理由を尋ねると、「この歌詞は我が浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の教えそのものだ。親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」と諭され、植木は歌うことを決意した。このエピソードは、植木が歌手として生きていく上で生涯の支えになったという。 植木等。結構まじめで堅実な人だ。本当に人は見かけによらない。ギャグというものも本人はマジメで止められない所が面白いのかも。

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【モンテンルパの夜はふけて】

渡辺はま子 1952年(昭和27年)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから衝撃的な事実を知らされた。同国モンテンルパ市のニュービリビット刑務所には、多数の元日本軍兵士が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞きかされた。第二次世界大戦後7年も経つのに、なお刑を受刑し続け、中には死刑を待つだけの人達も居ると聞いた彼女は、銀座の鳩居堂から香を同刑務所宛に送った。

1952年6月、神奈川県鎌倉市にあった渡辺はま子の自宅に、一通の封書が届けられた。その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞 代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。二人はフィリピン・マニラ市郊外のモンテンルパ市の丘にあった「ニュービリビット刑務所」で、戦争犯罪者としてマニラ軍事裁判で死刑判決を受けていた人物であった。

作詞の代田銀太郎は、元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は、元大日本帝国陸軍将校。「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の、日本への望郷の念を込めた曲であった。
封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『あゝモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。 渡辺と宇都美が歌った『あゝモンテンルパの夜は更けて』のレコードは、20万枚を売り上げたヒット曲となった。
『あゝモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年(昭和27年)12月25日、渡辺がニュービリビット刑務所を訪れた。吹き込み以来、刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。

渡辺来訪時、作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康は開演前に対面し、歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。 慰問のステージは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『あゝモンテンルパの夜は更けて』は披露された。この曲を聞いた108名の収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は日本への望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員起立しての大合唱となった。作詞者の代田も、作曲者の伊藤も涙を流していた。

その後、この歌のヒットや渡辺はま子を始め、加賀尾秀忍ら関係者の努力が、当時のフィリピン政府当局を動かし、1953年(昭和28年)7月、すでに同曲をおさめたオルゴールを加賀尾から贈られていたフィリピン共和国大統領エルピディオ・キリノの独立記念日特赦によって、戦争犯罪者108名全員の日本への帰国が計られ、実現した。

敗戦後フィリピンに収監された日本人捕虜達の悲哀をうたった渡辺はま子の歌

モンテンルパの夜はふけて
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海行かば

大伴家持
『海行かば』(うみゆかば)は、日本の国民歌謡の一つ、歌曲、合唱曲。特に太平洋戦争中は準国歌、第二国歌とも呼ばれた(ただし、法的に認められたものではない)。
詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。
この詞には、1880年(明治13年)に当時の宮内省伶人だった東儀季芳も作曲しており、軍艦行進曲(軍艦マーチ)の中間部に聞くことができる。戦前においては、将官礼式曲として用いられた。
海行かば 当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。信時潔が日本放送協会の嘱託を受けて1937年(昭和12年)に作曲した。信時の自筆譜では「海ゆかば」。 本曲への国民一般の印象を決定したのは、太平洋戦争時にラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際、必ず冒頭曲として流されたことによる(ただし、真珠湾攻撃成功を伝える際は勝戦でも流された)。ちなみに、勝戦を発表する場合は「敵は幾万」、陸軍分列行進曲「抜刀隊」、行進曲『軍艦』などが用いられた。
なお、桜美林学園は創立以来、1958年(昭和33年)まで「海ゆかば」の旋律を校歌に採用していた。軍艦マーチを校歌にしている学校もあるが。

海ゆかばを聞く

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筒美京平

筒美 京平(つつみ きょうへい、1940年5月28日~2020年10月7日)。作曲家、編曲家。本名は渡辺 栄吉。青山学院大学経済学部卒業。つい先日お亡くなりになった。 余り表に出ない作家だけと、昭和に流行った歌謡曲のかなりのものが彼の作曲によるものとは。
筒美京平コレクションを聞く
「サザエさん」を聞く
尾崎紀世彦「また逢う日まで」を聞く
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小椋佳

小椋 佳(おぐら けい、本名:神田 紘爾(かんだ こうじ)、1944年1月18日 - ):
シンガーソングライター、作詞家、作曲家。東京都台東区出身。両親は飲食店を経営。東京都立上野高等学校卒業。東京大学文科一類入学。3年次法学部へ進学。東大法学部在学中は東大法律相談所で旧司法試験の勉強。東大法学部卒業後、日本勧業銀行入行。銀行マンとして証券部証券企画次長、浜松支店長、本店財務サービス部長などを歴任する傍らで音楽活動を行ってきた。またこの間、ノースウェスタン大学留学や、メリルリンチ証券派遣など、米国滞在を経験している。
1971年、歌手デビューした。当初は、フォークソングあるいはニューミュージックに分類されていたが、次第にジャンルを広げていった。
まさに、二足の草鞋の人生で、どちらも大成功のマルチタレントだ。本人はどう思っているかは分からないが。
シクラメンのかほり 小椋佳
シクラメンのかほり 布施明
アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険
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サンプラザ中野

サンプラザ中野(1960年8月15日~):ミュージシャン、作家。アミューズ所属。「山口のばら」名義で作詞も行っている。身長181cm、体重74kg。血液型はB型。左利き。スキンヘッドとサングラスがトレードマーク。山梨県甲府市生まれ、千葉県育ち。千葉県立東葛飾高等学校卒業、早稲田大学政治経済学部政治学科除籍。2008年1月15日、日本テレビ系列『踊る!さんま御殿!!』にて、芸名を「サンプラザ中野」から、「サンプラザ中野くん」へ変えたことを発表。"くん"を付けた呼ばないといけないのかな? さかなクンみたいに。そういえば爆風スランプなんでのもあったな。
サンプラザ中野くん「大きな玉ねぎの下で (令和元年 Ver.)」
爆風スランプ - Runner (1988年)
45歳の地図(還暦 Ver.)
リゾ・ラバ Resort Lover / BAKUFU SLUMP
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沖縄

沖縄の歌を集めてみよう。
島人ぬ宝 & 涙そうそう | しまんちゅぬ宝く
島唄を聞く
夏川りみ Rimi Natsukawa 島唄

『安里屋ユンタ』沖縄民謡 【 三線 cover 】

**「安里屋ユンタ」(あさとやユンタ:
沖縄県の八重山諸島の竹富島に伝わる古謡。これを元歌に、三線で節をつけたのが「安里屋節」(あさどやぶし)。
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Yami

八代亜紀

舟歌(森進一)
雨の慕情
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【石川さゆり】

「天城越え」を聞く

「津軽海峡冬景色」を聞く

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浪花千栄子

NHK カラオケ嫌いのカラオケの部屋

みんなの歌

やみ

「まっくら森の歌」谷山浩子

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校歌寮歌応援歌

【北海道大学】
恵迪寮では、現在でも毎年1曲ずつ寮歌が寮生の手によって作曲されています。特に有名なものに都ぞ弥生(1912年)(作歌:横山芳介、作曲:赤木顕次)があり、寮生のみならず、入学式・卒業式やコンパの場など広く全学で歌われています。
寮歌「幾世幾年」は、植物遺伝学の泰斗、木原均博士の作詞。大賞年寮歌
寮歌「幾世幾年」

北海道帝国大学予科の櫻星会歌 瓔珞(ようらく)みがく
瓔珞(ようらく)みがく

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大地讃頌

「大地讃頌」(だいちさんしょう)は、1962年(昭和37年)に、大木惇夫の作詞、佐藤眞の作曲により書かれた、「混声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』」の終曲。「大地賛頌」と書かれることもあるが誤りである。 日本の学校教育の現場では、卒業式等で歌われる定番曲として広く知られる。
この歌は今の学校での卒業式の定番らしいが、古い時代の人達には全く縁がない。どのような経緯でこうなったのか経緯を知りたいものだ。そもそも讃頌(さんしょう)なんて今の若者には聞いたことも無い言葉では。
大地讃頌

今の小中学生は皆知っている。    母なる大地の ふところに
   我ら人の子の 喜びはある
   大地を愛せよ 大地に生きる
   人の子ら その立つ土に感謝せよ

   平和な大地を 静かな大地を
   大地を褒めよ 讃えよ土を
   母なる大地を 母なる土を
   讃えよ 褒めよ 讃えよ土を
   母なる大地を 母なる大地を
   讃えよ 褒めよ 讃えよ土を
   母なる大地を ああ
   讃えよ大地を ああ

この詩を読んで見て子供達が土壌の大切さを思い浮かべるかな?
  ミミズもモグラも見たこと無い子供達に黒土の大切さは理解できるかしら。
讃えよ褒めよの繰返しで何だか偉く押しつけがましいと思うのですが。
農家出身で畑を耕した経験のある子には分かるかもしれないが、両親がサラリーマンの仮定ではね? カラオケ嫌いのカラオケの部屋

日本民謡

南部牛追い歌
南部牛追い歌

【木曽節】
木曽節(きそぶし)は、長野県木曽地域の民謡。木曽地域に近世から伝わる民謡で、木曽の材木を河川に流して運ぶ「川流し」をモチーフに、木曽川や周囲の山々と人情を歌い上げている。
歌詞中の「中乗りさん」(なかのりさん)は諸説あるが、材木を筏に組んで木曽川を下り運搬する人たちで、先頭を「舳乗り」(へのり)、後ろを「艫乗り」(とものり)、真ん中を「中乗り」といったというのが一般的。また、歌詞中に「木曽五木」(江戸時代に尾張藩から伐採が禁止された木曽谷の五木、ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹林)が歌いこまれている。「木曽の御岳さん」は木曽地域の最高峰(標高3,067メートル)である大きな山容の御嶽山。

木曽節と木曽踊りはいまでは日本全国に知られているが、これには大正から昭和戦前にかけて福島町(のち木曽福島町を経て現・木曽町)の町長を務めた伊東淳(いとう すなお、1876年 - 1942年)の尽力が大きかったといわれている。伊東は木曽の旧・福島村生まれで、地元自治体吏員から後に福島町長に就任、12年間在職した。観光客誘致・地元振興の手段として早くから木曽節に着目、自ら歌い、踊りも指導して、木曽節と木曽踊りを広く紹介した。『木曽のなかのりさん』(1917年)という冊子も発行、1925年には地元酒蔵・中善酒造店に薦めて酒の銘柄を「中乗さん」と改めさせるなどあらゆるPRに努め、「なかのりさん町長」と呼ばれた。

昭和に入ると、木曽節はラジオやレコード等の新メディアで一般に普及するに至り、全国的な知名度を得た。木曽福島駅前には功績を称えて伊東の銅像が立っている。
木曽節
【安来節】
安来節
【斉太郎節】
斎太郎節(さいたらぶし)は宮城県の民謡。元は牡鹿半島沿岸部で歌われた大漁唄とされている。
大正~昭和にかけて後藤桃水が他の唄とともに「大漁唄い込み」としてまとめ、全国的に有名になった。元は宮城県牡鹿半島の沿岸地域に伝わっていた櫓漕ぎ唄が元になっているとされている。斎太郎の名称の由来は諸説あるが、金華山沖から気仙沼にかけて歌われていた「さいとく節」と呼ばれる祝い唄があり、「さいとく」が訛って「さいたら」になり、「斎太郎」の文字が当てられたという説や仙台藩の鋳銭場銭座で働いていた斎太郎という美声の持ち主が、漁師となり、歌っていたことから、その名前が付いたという説がある。
斉太郎節

【八木節】
群馬県民謡です。
八木節
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bésame mucho

「ベサメ・ムーチョ」(Bésame Mucho、スペイン語: [ˈbesame ˈmutʃo])は、1940年にコンスエロ・ベラスケスによって作曲された楽曲である。1941年に発表され、サニー・スカイラーによる英語詞が付けられた。ビートルズ、ルイス・ミゲルダイアナ・クラールなど多数のアーティストによってカバーされており、最もカバーされたスペイン語の楽曲の1つとされている。

Bésame, bésame mucho
Como si fuera esta noche la última vez
bésame, bésame mucho,
que tengo miedo perderte, perderte después.

Bésame, bésame mucho
Como si fuera esta noche la última vez
bésame, bésame mucho,
que tengo miedo perderte, perderte después.

Quiero tenerte muy cerca
Mirarme en tus ojos
Verte junto a mi

Piensa que talvez mañana
Yo ya estaré lejos
Muy lejos de ti

Bésame, bésame mucho
Como si fuera esta noche la última vez
bésame, bésame mucho,
que tengo miedo perderte, perderte después.

Bésame, bésame mucho
que tengo miedo perderte, perderte después.
que tengo miedo perderte, perderte después.

『Bésame Mucho』(ベサメ・ムーチョ)は、メキシコの女性音楽家コンスエロ・ベラスケス(Consuelo Velázquez/1924-2005)が1940年(17歳頃)に作曲したラテン音楽。
ベラスケス自身のコメントによれば、この曲を書いた時点で彼女はまだキスを未経験で、キスとは罪深いもののように思えたという。
曲名の意味は「私にたくさんキスして」。スペイン語で「キスする」を意味する動詞「besar」の命令形「besa(ベサ)」と、「私に」を意味する「me(メ)」が結合して「Bésame(ベサメ)」となっている。「Mucho(ムーチョ)」は「たくさん」。
Bésame Mucho
---------------------------------------------
以下の翻訳はGoogleによる。
Kiss Me Kiss Me a Lot
As if tonight were the last time
kiss Me Kiss Me a Lot,
I'm afraid to lose you, to lose you later.

I want you very close
Look into your eyes
be with you.

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クラシック音楽を聞いてみよう

バッハ ヘンデル ハイドン モーツアルト ベートーベン
シューベルト ショパン シューマン ブラームス
チャイコフスキー ムソルグスキー ボロディン リムスキー・コルサコフ セルゲイ・ラフマニノフ
ヨハン・シュトラウス2世 ドヴォルザーク スメタナ リスト サラサーテ ジャック・オッフェンバック ビゼー
ロッシーニ グリーク ラベル ドビュッシー ハチャトリアン グローフェ ガーシュウィン
フォスター 伊福部 昭 マックス・スタイナー ジョン・フィリップ・スーザ
ジョン・ウィリアムズ ザ・ビートルズ インターナショナル
ペルシャの市場にて ドナウ河のさざ波 白毛女

バッハ

バッハ
バッハ ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日~ 1750年7月28日)は、18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家である。 バロック音楽の重要な作曲家の一人で、鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、当時から即興演奏の大家として知られていた。バッハ研究者の見解では、バッハはバロック音楽の最後尾に位置する作曲家としてそれまでの音楽を集大成したとも評価されるが、後世には、西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり音楽の源流であるとも捉えられ、日本の音楽教育では「音楽の父」と称された。
バッハ一族は音楽家の家系で(バッハ家参照)数多くの音楽家を輩出したが、中でも、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはその功績の大きさから、大バッハとも呼ばれている。J・S・バッハとも略記される。
G線上のアリア
G線上のアリア 長時間作業用
トッカータとフーガ 二短調 BWV565(バッハ)

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クラシック音楽を聞いてみよう

ヘンデル

ヘンデル
ヘンデル ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(De-Georg Friedrich Händel.ogg Georg Friedrich Händel , 1685年2月23日~1759年4月14日)は、ドイツ出身で、主にイギリスで活躍し、イギリスに帰化した作曲家。バロック音楽における最も重要な作曲家のひとりであり、特にイタリア語のオペラ・セリアや英語のオラトリオの作曲によって知られる。

水上の音楽

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クラシック音楽を聞いてみよう

ハイドン

ハイドン
ハイドン フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732年3月31日~1809年5月31日)は、古典派を代表するオーストリアの作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。 数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツ国歌(ドイツの歌)に用いられている。

皇帝

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クラシック音楽を聞いてみよう

モーツアルト

モーツアルト
モーツアルト ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト[1]( Wolfgang Amadeus Mozart、1756年1月27日~1791年12月5日)はオーストリアの音楽家。ハイドン、ベートーヴェンと並んで古典派音楽、ウィーン古典派を代表する一人である。
トルコ行進曲

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ベートーベン

ベートーベン

ベートーベン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven]、1770年12月16日ごろ~ 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史上極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。
トルコ行進曲
この曲が書かれたころのトルコはオスマントルコ。大変な強国。ウィーン攻めこんで来たり大変な勢力があったのです。
歓喜の歌

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シューベルト

シューベルト

シューベルト
フランツ・ペーター・シューベルト(ドイツ語: Franz Peter Schubert[1], 1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家。各分野に名曲を残したが、とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、歌曲の王と呼ばれることもある。
『菩提樹(ぼだいじゅ)』(Der Lindenbaum/デア・リンデンバウム)は、オーストリアの作曲家シューベルトによる歌曲集「冬の旅」の第5曲。日本語歌詞は、明治時代の訳詞家・近藤朔風(こんどう さくふう)による「泉に添いて 茂る菩提樹」が有名。

シューベルト:菩提樹
ドイツ語歌詞(意訳)
Am Brunnen vor dem Tore 門の前の泉のそばに
Da steht ein Lindenbaum そびえる一本の菩提樹
Ich träumt' in seinem Schatten 僕は木陰で夢を見た
So manchen süßen Traum たくさんの甘い夢を

Ich schnitt in seine Rinde 僕は樹の皮に刻み込む
So manches liebe Wort たくさんの愛の言葉を
Es zog in Freud' und Leide 楽しい時も悲しい時も
Zu ihm mich immer fort 僕はその樹に惹かれていた

Ich mußt' auch heute wandern 僕は今日もまた歩く
Vorbei in tiefer Nacht 真夜中に樹の側を通って
Da hab' ich noch im Dunkeln その時 真っ暗だったが
Die Augen zugemacht 僕は目を閉じた

Und seine Zweige rauschten すると枝がざわめいた
Als riefen sie mir zu まるで僕に呼びかけるように
Komm her zu mir, Geselle 「ここへおいで 旅人よ
Hier findst du deine Ruh' 貴方の安らぎはここにあります」

Die kalten Winde bliesen 冷たい風が吹きつけた
Mir grad' ins Angesicht まっすぐ僕の顔に
Der Hut flog mir vom Kopfe 帽子が飛んで行ったけど
Ich wendete mich nicht 僕は振り返らなかった

Nun bin ich manche Stunde あれから多くの時間が過ぎて
Entfernt von jenem Ort, 遠く離れた場所にいるけど
Und immer hör' ich's rauschen 僕にはずっとあのざわめきが聞こえる
Du fändest Ruhe dort! 「貴方はここで安らぎを得られたのに!」

シューベルト:魔王
未完成

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ショパン

ショパン

ショパン
フレデリック・フランソワ・ショパン(1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年~1849年)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。ピアニストとして、また作曲家として有名。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれる。様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開く。夜想曲やワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。

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シューマン

シューマン

シューマン
ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年~1856年)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。 ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。
シューマン;流浪の民
シューマン;子供の情景 作品15
シューマン;トロイメライ

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ブラームス

ブラームス

ブラームス
ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms、1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者。J.S.バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)と共に、ドイツ音楽における三大Bとも称される。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没する。作風はおおむねロマン派音楽に属するが、古典主義的な形式美を尊重する傾向も強い。
ベートーヴェンの後継者ととらえる人もおり、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の『交響曲第1番』を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評した。
ブラームス;ハンガリアン舞曲第5番
ブラームス;ハンガリアン舞曲第6番

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チャイコフスキー

チャイコフスキー
チャイコフスキー ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー( Пётр Ильич Чайковский ;1840年~ 1893年)は、有名なロシアの作曲家。
チャイコフスキー;くるみ割り人形-中国人の踊り
チャイコフスキー;くるみ割り人形-アラビア人の踊り
チャイコフスキー;くるみ割り人形-ロシア人の踊り
チャイコフスキー;ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー;ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー;1812年(序曲)
交響曲第6番《悲愴》

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ムソルグスキー

ムソルグスキー

ムソルグスキー
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー( 1839年3月21日 - 1881年3月28日)は、ロシアの作曲家で、「ロシア五人組」の一人。「五人組」の中では、そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いた。国民楽派の作曲家に分類され、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』などが代表作とされる。
ムソルグスキー;展覧会の絵
ムソルグスキー;蚤の唄
ムソルグスキー;蚤の唄 シャリアピン
ムソルグスキー;蚤の唄
歌;佐々木譲
ムソルグスキー;禿山の一夜
悲歌;シャリアピン

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ボロディン

ボロディン

ボロディン
アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(Alexander Porfiryevich Borodin, Алекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н, 1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) - 1887年2月15日/2月27日)は、帝政ロシアの作曲家、化学者、医師。ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人である。
ボロディン;中央アジアの草原にて
ボロディン;韃靼人の踊り

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リムスキー・コルサコフ

リムスキー・コルサコフ

リムスキー・コルサコフ
リムスキー・コルサコフ;韃靼人の踊り

『だったん人の踊り』(だったんじんのおどり)または『ポロヴェツ人の踊り』(ポロヴェツじんのおどり)は、ロシアの作曲家アレクサンドル・ボロディンが作曲したオペラ『イーゴリ公』の第2幕の曲で、ボロディンの最も有名な曲のひとつであり、またクラシック音楽でも有数の人気曲である。日本語の題名は『ダッタン人の踊り』『韃靼人の踊り』『ポロヴェッツ人の踊り』などとも記される。しばしばオーケストラのコンサートなどで、オペラとは独立に演奏される。ただし、オペラでは合唱を伴うが、演奏会では合唱のパートを省略することが多い。序曲や「ポロヴェツ人の行進」などと併せて『イーゴリ公組曲』とすることもある。
リムスキー・コルサコフ;;インドの唄
Sadko Song of India Rimsky Korsakov
歌劇「サトコ」より インドの歌。サトコとは日本人の女性の名「聡子、里子」等でないことは明か。サドコ(サトコ、サトコーとも。ロシア語: Садко、英語: Sadko)は、中世ロシアの叙事詩「ブィリーナ」の登場人物。彼は、ノヴゴロド出身の冒険家、商人であり、またグースリの演奏家でもあった。お話としては大変面白いものだ。 ノヴゴロドは中世のルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つ、歴史のロマンのある名曲です。

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セルゲイ・ラフマニノフ

セルゲイ・ラフマニノフ

セルゲイ・ラフマニノフ Rachmaninov Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов(1873年4月1日~ 1943年3月28日):
ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者。

1873年4月1日、モルダヴィア公・シュテファン3世の孫。父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと、母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ、幼少期を同州オネグで過ごした。父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だったが、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたという。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で子ども時代を過ごした。

4歳のとき、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳のとき、ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。

しかし彼は、12歳のときにすべての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。のちにはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。ステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになった。彼は父方の伯母の嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会った。このあと、彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となった。

1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛び抜けて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を完成させた。

1892年、同院作曲科を卒業、卒業制作として歌劇『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、金メダルを授けられた。同年10月8日(ユリウス暦では9月26日)にモスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演した。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった。

翌1893年5月9日(ユリウス暦では4月27日)、『アレコ』がボリショイ劇場で上演された。同年11月6日、チャイコフスキーが亡くなると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲した。
ラフマニノフは1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されたが、これは記録的な大失敗に終わった。特にツェーザリ・キュイが「エジプトの七つの苦悩」に例えて容赦なくこき下ろしたのはよく知られている。この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかった。失敗の原因として、グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかった可能性や、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されている。

この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥った。この間、彼はサーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第二指揮者に就任し、おもに演奏活動にいそしんだ。マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。シャリアピンの結婚式では介添人の1人として立ち会った。

1898年にはシャリャーピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタでアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。
一方、彼の落胆を心配した知人の仲介により、1899年にレフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。ラフマニノフはシャリャーピンを伴ってトルストイの自宅を訪ね、交響曲第1番の初演以降に作曲した数少ない作品のひとつである歌曲『運命』(のちに作品21の1として出版された)を披露した。しかしこのベートーヴェンの交響曲第5番に基づく作品は老作家の不興を買い、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになった。

つい最近までは、ラフマニノフの作曲家としての成功に決定的に寄与したのが、彼を心配した周囲の人たちの紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリだったということになっていた。しかし実際には数回の診療を受けただけで、現在ではその暗示療法の効果が疑問視されている。事実、難航していたピアノ協奏曲第2番第1楽章が完成したのは、治療に通った時期から1年以上経過している。

やがて創作への意欲を回復した彼は1900年から翌年にかけて、2台のピアノのための組曲第2番とピアノ協奏曲第2番という2つの大作を完成させた。特にダーリに献呈されたピアノ協奏曲第2番は、作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。

1902年、従姉のナターリヤ・サーチナと結婚した。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要だったが、伯母の奔走により無事許可を得ることができた。結婚式の行われた4月に作曲した『12の歌曲集』作品21には妻に捧げた『ここは素晴らしい』(第7曲)や、のちに自身でピアノ独奏曲にも編曲した『ライラック』(第5曲)といった作品が含まれている。

1904年から1906年初めまで、ボリショイ劇場の指揮者を務めた。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。1906年1月には自作のオペラ『けちな騎士』と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演した。

同年秋から1909年にかけて、家族とともにドレスデンに滞在した。このドレスデン滞在中の1907年に完成させた交響曲第2番は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛をもって迎えられた。この作品によりラフマニノフは2度目のグリンカ賞を受賞した。1908年にはアムステルダムでウィレム・メンゲルベルクとの共演でピアノ協奏曲第2番を演奏した。

1909年春、スイスの画家、アルノルト・ベックリンの同名絵画の複製画に着想を得た交響詩『死の島』を作曲した。同年夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のためにピアノ協奏曲第3番を作曲した。同年11月にニューヨークで自身ピアニストとして初演(この作品は、当時まだでき上がったばかりだったらしい。‘The Classic Collection’第80号より)し、翌年1月にはグスタフ・マーラーとの共演でこの作品を演奏した。

このころ、ラフマニノフは女流文学者のマリエッタ・シャギニャンと文通で意見を交わすようになり、1912年には彼女の選んだ詩による歌曲集作品34を作曲した。またこの曲集には終曲としてソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノヴァのために作曲された『ヴォカリーズ』が収められている。

1913年の1月から4月にかけてはローマに滞在した。スペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し創作に励んだのと同じ家を借りて住み、そこでエドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによる翻訳に基づく合唱交響曲『鐘』を作曲した。1915年1月には正教会の奉神礼音楽の大作『徹夜禱』を作曲した。1917年の秋には十月革命の進行する中、ピアノ協奏曲第1番の大がかりな改訂作業を行った。

1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはなかった(1930年6月の『ミュージカル・タイムズ』のインタビュー記事にラフマニノフ自身の「僕に唯一門戸を閉ざしているのが、他ならぬ我が祖国ロシアである」という言葉が引用されていたという。‘The Classic Collection’第80号より)。

しばらくはデンマークを拠点に演奏活動を行ったあと、1918年の秋にアメリカに渡り、以後はおもにコンサート・ピアニストとして活動するようになった。それまでラフマニノフのピアニストとしてのレパートリーは自作がほとんどだったが、アメリカ移住を機にベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを誇る、きわめて活動的なコンサート・ピアニストへと変貌を遂げたのである。1925年以降はヨーロッパでの演奏活動も再開した。

この時期には同様の境遇にあったベンノ・モイセイヴィチやウラディミール・ホロヴィッツと親交を結んだ。フリッツ・クライスラーとの共演による演奏、録音もたびたび行った。またピアノ制作者のスタインウェイと緊密な関係を保ち、楽器の提供を受けた。

ロシア出国後は作曲活動はきわめて低調になった。これは多忙な演奏活動のために作曲にかける時間を確保できなかったのみならず、故郷を喪失したことにより作曲への意欲自体が衰えてしまったためでもあった。同じロシアの作曲家、ピアニストとして旧知の仲であるニコライ・メトネルになぜ作曲をしないのかと尋ねられると、「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」ことを理由に挙げたという。それでも1926年にはロシア出国後初の作品となるピアノ協奏曲第4番を作曲した。

1931年、スイスのルツェルン湖畔にセナールと呼ばれる別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした。「セナール (Senar) 」とは、セルゲイ (Sergei) 、ナターリヤ (Natalia) 、ラフマニノフ (Rachmaninov) の頭文字を取ったものである。パガニーニの主題による狂詩曲と交響曲第3番はここで作曲された。1939年8月、ルツェルン音楽祭に出演し、エルネスト・アンセルメとの共演でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と自作の狂詩曲を演奏した。

やがてナチスが勢力を拡大するとスイスにも滞在することができなくなった。最後の作品となる交響的舞曲を作曲したのはロングアイランドでのことだった。1942年には家族とともにカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住んだ。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は亡くなる直前まで続けられた。

1943年3月28日、70歳の誕生日を目前にして悪性黒色腫のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが戦争中のことでもあり実現できず、6月1日にニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。

音楽・作風
チャイコフスキーの薫陶を受け、モスクワ音楽院でタネーエフに学んだことから、モスクワ楽派(音楽院派、西欧楽派などとも呼ばれる)の流れを汲んでおり、西欧の音楽理論に立脚した堅固な書法を特徴とした。一方で、作曲を志した時期には五人組に代表される国民楽派とモスクワ楽派との対立が次第に緩和されつつあったため、親交のあったリムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも取り入れて、独自の作風を築いた。ロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の1人に位置づけられる。
作品に特徴的に見られる重厚な和音は、幼いころからノヴゴロドやモスクワで耳にした聖堂の鐘の響きを模したものといわれる。半音階的な動きを交えた息の長い叙情的な旋律には、正教会聖歌やロシアの民謡などの影響が指摘される。グレゴリオ聖歌の『怒りの日』を好んで用いたことでも知られ、主要な作品の多くにこの旋律を聴くことができる。

すべての作品は伝統的な調性音楽の枠内で書かれており、ロマン派的な語法から大きく外れることはなかった。この姿勢はロシアを出国した以後の作品でも貫かれた。モスクワ音楽院の同窓で1歳年長のスクリャービンが革新的な作曲語法を追求し、後の調性崩壊に至る道筋に先鞭をつけたのとはこの点で対照的だった。

ラフマニノフ自身は1941年の『The Etude』誌のインタビューにおいて、自らの創作における姿勢について次のように述べていた。 「私は作曲する際に、独創的であろうとか、ロマンティックであろうとか、民族的であろうとか、その他そういったことについて意識的な努力をしたことはありません。私はただ、自分の中で聴こえている音楽をできるだけ自然に紙の上に書きつけるだけです。…私が自らの創作において心がけているのは、作曲している時に自分の心の中にあるものを簡潔に、そして直截に語るということなのです。」

自身が優れたピアニストだったこともあり、ピアノ曲については特に従来から高く評価されてきた。ロシア的旋律に共通する息の長い旋律を、減衰曲線しか描かないピアノの音で表現するという相反する要素を、夥しい数の音符を用いて書き切った作風はロマン派的な意味での「歌う楽器」としてのピアノ書法の完成者といえる。ただし作曲者は卓越した技巧と大きな手を持っていたため、一般の弾き手にとっては困難な運指や和音が多く存在する。ピアノ協奏曲の第2番や第3番、前奏曲や音の絵などのピアノ独奏曲は今日のピアノ音楽における重要なレパートリーとなっている。 メロディには第2拍から始まるものが、ほかの作曲家と比べてかなり大きな割合を占めている(2分の2拍子の場合だと半拍遅れ)。

ラフマニノフは、もともとはピアノ奏者出身で作曲家以外にも演奏者や指揮者としても多彩な能力を発揮していた方だ。
ラフマニノフ;死の島
ラフマニノフ交響曲第2番

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ヨハン・シュトラウス2世

ヨハン・シュトラウス2世

ヨハン・シュトラウス2世(1825年10月25日~1899年6月3日)は、オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家・指揮者。 ヨハン・シュトラウス1世の長男。弟にヨーゼフ・シュトラウスとエドゥアルト・シュトラウス1世が、甥にヨハン・シュトラウス3世がいる。(シュトラウス家も参照) 生涯のほとんどをウィンナ・ワルツ、ポルカなどの作曲に捧げ、『美しく青きドナウ』、『ウィーンの森の物語』、『皇帝円舞曲』などのよく知られたワルツを数多く生み出した。オーストリアのみならずヨーロッパ中で絶大な支持を獲得し、「ワルツ王」、「ウィーンの太陽」、当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と対比する形で「ウィーンのもう一人の皇帝」などと呼ばれた。のちにオペレッタの分野にも進出して、オペレッタの最高傑作といわれる『こうもり』などを生み出し、「オペレッタ王」とも呼ばれるようになる。
美しく青きドナウ
ウィーンの森の物語
皇帝円舞曲
ラデツキー行進曲 ウィーン・フィル

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ドヴォルザーク

ドヴォルザーク

アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク(1841年~ 1904年)。後期ロマン派におけるチェコの作曲家。チェコ国民楽派を代表する。 ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となった。スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。代表作に、弦楽セレナード、管楽セレナード、ピアノ五重奏曲第2番、交響曲第7番、交響曲第8番、交響曲第9番『新世界より』、スラヴ舞曲集、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがある。
新世界より:交響曲 第9番 ホ短調 Op.95

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スメタナ

スメタナ

ベドルジハ・スメタナ(1824年~1884年)。チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。スメタナは、当時、オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア帝国)によって支配されていたチェコの独立国家への願望、チェコ民族主義と密接に関係する国民楽派を発展させた先駆者である。そのため祖国チェコにおいては、広くチェコ音楽の祖とみなされている。国際的には、6つの交響詩から成る『わが祖国』と、オペラ『売られた花嫁』、弦楽四重奏曲『弦楽四重奏曲第1番 「わが生涯より」』で知られる。『わが祖国』は、スメタナの祖国であるチェコの歴史、伝説、風景を描写した作品で、第2曲の「ヴルタヴァ」(モルダウ)が特に著名である。
モルダウは中学校等の合唱曲として良く歌われているようだ。
モルダウ;わが祖国

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リスト

リスト

フランツ・リスト(1811年~1886年7月31日)。王政ハンガリー出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家。
自身の生誕地(後述)であり、当時属していたハンガリー王国(当時はオーストリア帝国支配下の版図内)を祖国と呼び、ハンガリー人としてのアイデンティティを抱いていたことから、死後も「ハンガリー」の音楽家として認識・記述されることが多い。しかしながら、その一方で生涯ハンガリー語を習得することはなく、両親の血統、母語、音楽家としての活動名義(フランツ・リスト)、最も長い活動地のいずれもに属し、当時の中東欧に多数存在したドイツ植民の系統でもある。このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としての国民楽派に含めることは殆どなく、多くはドイツロマン派の中に位置づけられる。
ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。
ハンガリー狂詩曲
狂詩曲はラプソディーともいうらしい。

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オッフェンバック

オッフェンバック ジャック・オッフェンバック(Jacques Offenbach, 1819年6月20日 - 1880年10月5日)は、ドイツ生まれでフランスで活躍(後に帰化)した作曲家、チェリスト。ロッシーニは「シャンゼリゼのモーツァルト」と評し、現代においても「オペレッタの父」とも呼ばれてる。
晩年の代表作「ホフマン物語」は未完のまま亡くなっていますが、幻想的なストーリーと、充実した音楽、エンターテイメントと芸術性を見事に兼ね備えた傑作の歌劇といわれる。
天国と地獄

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サラサーテ

サラサーテ

サラサーテ
パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(1844年~ 1908年)は、スペイン・パンプローナ出身の作曲家、ヴァイオリン奏者。バスク人である。
作曲家としてのサラサーテの作品は、ほとんどヴァイオリンと管弦楽(もしくはピアノ)のための作品。スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込んだ国民楽派に位置付けられる。その代表的な作品がジプシー(ロマ)の民謡による『ツィゴイネルワイゼン』であり、ラッシュ、フリッシュなどの特徴を取り入れている。

ツィゴイネルワイゼン
ジプシー民謡が取り入れられている。

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ビゼー

ビゼー

ビゼー
ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 1838年~1875年)は、19世紀フランスの作曲家。 代表作に『カルメン』、『アルルの女』、『真珠採り』、『美しきパースの娘(日本では作中のセレナードの旋律が「小さな木の実」に転用され有名)』など。
「カルメン」 第1組曲より
「カルメン」 第1組曲より
闘牛士の歌
ハバネラ

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グリーク

グリーク

エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(1843年~ 1907年)。ノルウェーの作曲家。 ノルウェーの民族音楽から着想を得て、国民楽派の作曲家として注目される。民族音楽からの深い影響は『ペール・ギュント』第1組曲の第1曲「朝」の冒頭がノルウェーの民族楽器であるハリングフェーレの共鳴弦を端からつま弾いた時の旋律から始まっていることからもうかがうことができる。グリーグの肖像は、旧500クローネ紙幣に描かれていた。
グリーク;山の魔王の宮殿にて
グリーク;ソルヴェイグの歌

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ラベル

ジョゼフ=モーリス(モリス)・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel ;1875年3月7日~ 1937年12月28日)は、フランスの作曲家。バスク系フランス人であり、『スペイン狂詩曲』・バレエ音楽『ダフニスとクロエ』・『ボレロ』の作曲、『展覧会の絵』のオーケストレーションで知られる。
ボレロ

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ドビュッシー

クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年8月22日~1918年3月25日)は、フランスの作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて独自の作曲を実行し、その伝統から外れた音階と半音階の用い方から19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家。
ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。しかし、本人は印象主義音楽という概念に対して否定的であり、テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃いともいわれる。
月の光
亜麻色の髪の乙女
月の光

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ハチャトリアン

グリーク アラム・イリイチ・ハチャトリアン(1903年5月24日~1978年5月1日)は、旧ソビエト連邦の作曲家、指揮者。アルメニア人であり姓は、ハチャトリアン。ソ連人民芸術家。プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共にソヴィエト3巨匠の一人と称された。
ハチャトリアン;剣の舞
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ロッシーニ

ロッシーニ

ロッシーニ
ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini, 1792年~1868年)は、イタリアの作曲家。多数のオペラを作曲し、『セビリアの理髪師』、『チェネレントラ』などは現在もオペラの定番である。また『タンクレーディ』、『セミラーミデ』などのオペラ・セリアも作曲した。フランスに移ってからはグランド・オペラ『ウィリアム・テル』を書く。美食家としても知られる。
ロッシーニ;ウィリアムテル序曲

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グローフェ

グローフェ

グローフェ
ファーディ・グローフェ(Ferde Grofé, 1892年3月27日 ニューヨーク~ 1972年4月3日 カリフォルニア州サンタモニカ)は、アメリカの作曲家、ピアニスト、およびアレンジャー。本名はファーディナンド・ルドルフ・フォン・グローフェ(Ferdinand Rudolph von Grofé)。
グローフェ;大峡谷

組曲『グランド・キャニオン』(Grand Canyon Suite )は、ファーディ・グローフェが作曲した管弦楽組曲。グローフェの代表作の1つである。本作の題名は『大峡谷』と訳されることもあるが、「大きな峡谷」といった意味の普通名詞ではなく、固有名詞としてアメリカのグランド・キャニオンを指しており、その情景が描写されている。

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ガーシュウィン

ガーシュウィン

ラプソディ・イン・ブルー(Rhapsody in Blue)は、アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンが作曲、ファーディ・グローフェが編曲したピアノ独奏と管弦楽のための音楽作品である。 『ラプソディ・イン・ブルー』というタイトルは「ジャズの語法によるラプソディ」といった程度の意味がある。ラプソディ(狂詩曲)には、「民族音楽風で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放なファンタジー風の楽曲」という意味があるので、このタイトルから、ガーシュウィンはジャズをアメリカにおけるある種の「民族音楽」と捉えていたことが窺える。実際この曲は、アメリカ的な芸術音楽の代表格とみなされている。 「この曲は青い」という言葉が題名の由来。元は『アメリカン・ラプソディ』という題名だったが、兄のアイラ・ガーシュウィンが現在の題名を提案して変更した。
ガーシュウィン;ラプソディー・イン・ブルー

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フォスター

フォスター

ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。20年間に約200曲を作曲し、その内訳は135曲のパーラーソングと28曲のミンストレルソング。多くはメロディの親しみやすい黒人歌、農園歌、ラブソングや郷愁歌である。「アメリカ音楽の父」とも称される。
年配の方は、フォスターの名前は良く効かされたし、彼の曲は小中学校でも歌ったのではないか。そもそも音楽教室に飾ってある作曲家の肖像はみなヨーロッパ人ばかりで、アメリカ人は彼一人だったかもしれない。
フォスター・メドレー

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伊福部 昭

伊福部 昭

伊福部 昭
伊福部 昭(いふくべ あきら、1914年〈大正3年〉~ 2006年〈平成18年〉)は、日本を代表する作曲家の一人。ほぼ独学で作曲家となった。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者としても知られる。北海道十勝の出身でアイヌの音楽も取り入れているところもすごい。
ゴジラ

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ジョン・ウィリアムズ

ジョン・ウィリアムズ John Towner Williams、1932年2月8日~ )は、アメリカ合衆国ニューヨーク出身の作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト。これまでにグラミー賞25回、英国アカデミー賞7回、アカデミー賞5回、ゴールデングローブ賞4回を受賞している。アカデミー賞には52回ノミネートされており、ウォルト・ディズニーに次いで2番目に多い。AFIは『スター・ウォーズ』でのウィリアムズの音楽を、史上最高の映画音楽に選出した。また、アメリカ議会図書館は、「文化的、歴史的、美学的に重要なもの」として、『スター・ウォーズ』のサウンドトラックを全米録音資料登録簿に登録した。

インディ・ジョーンズの映画の音楽。
インディ・ジョーンズ
恐竜のイメージを一変させた大作、ジュラシック・パーク。
ジュラシック・パーク
E.T.
スター・ウォーズ
帝国のマーチ
ヨーダの戦いの場面
The Imperial March
次の映画の音楽の作曲者と知れば、彼の偉大さは分かる。
→『スター・ウォーズ』、『シンドラーのリスト』、『未知との遭遇』、『スーパーマン』、『E.T.』、『インディ・ジョーンズ』、『ホーム・アローン』、『ジョーズ』、『ジュラシック・パーク』、『ハリー・ポッター』などジョージ・ルーカスおよびスティーヴン・スピルバーグ監督作品を中心にの多くの映画音楽を作曲。また、オーケストラ、アンサンブル、協奏曲やその他の作品も数多く作曲してきた。1980年から1993年までボストン・ポップスの首席指揮者を務め、ボストン・ポップスの名誉指揮者でもある。1974年からはスティーヴン・スピルバーグ監督とも交流があり、彼の長編映画のうち5作品を除くすべての作品の音楽を作曲。

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ジョン・フィリップ・スーザ

ジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa 、1854年11月6日~1932年3月6日)は、アメリカの作曲家、指揮者。 『ワシントン・ポスト』、『星条旗よ永遠なれ』など100曲を超えるマーチを作曲し、「マーチ王」と呼ばれる。ほかオペレッタや組曲などを作曲した。 マーチングバンドなどでよく用いられるマーチング用チューバのスーザフォーンを考案するなど、19世紀のバンド音楽発展に貢献した。
星条旗よ永遠なれ
スーザ:ワシントン・ポスト
スーザ:美中の美

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マックス・スタイナー

マックス・スタイナー(Max Steiner、1888年5月10日~1971年12月28日)は、オーストリア系のユダヤ系アメリカ人の映画音楽作曲家。本名はマクシミーリアン・ラウル・ヴァルター・シュタイナー (Maximilian Raoul Walter Steiner)。
「タラのテーマ」 『風と共に去りぬ』より 

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ペルシャの市場にて

「ペルシャの市場にて(In a Persian Market)」は、1920年にイギリスのアルバート・ケテルビーが作曲。モチーフになっているのは、砂漠からやって来たキャラバン隊。
ペルシャの市場にて

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ドナウ河のさざ波

イヴァノヴィチ ;ドナウ河のさざ波

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白毛女

北风吹 芭蕾舞剧;白毛女

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ロシア民謡

モスクワ郊外の夕べ
トロイカ
カチューシャ
ポーリュシカ・ポーレ

ドイツ民謡

リリーマルレーン
カントリーロード

ワルシャワ労働歌

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** ザ・ビートルズ ** フランク・シナトラ ** インターナショナル
** コンドルは飛んでいく ** ジョーン・バエズ ** ボブ・デュラン ** 特別演奏の部屋く
** デジャリドゥ ** アイヌ音楽 ** こんな楽器? ** ケチャ ** インターナショナル
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ザ・ビートルズ

ザ・ビートルズ (The Beatles) は1960年代から1970年にかけて活動したイギリス・リヴァプール出身のロックバンド。20世紀を代表するアーティストの一つである。音楽誌『ローリング・ストーン』による「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第1位にランクされており、経済紙ウォール・ストリート・ジャーナルの統計算出に基づく「史上最も人気のある100のロックバンド」にても1位となっている。
Abbey Road
Come Together
【Come Togetherの歌詞】
Shoot me 私を撃ちな!

Here come old flat-top, he come groovin’ up slowly
He got ju-ju eyeball, he one holy roller
He got hair down to his knee
Got to be a joker, he just do what he please
奴(ジョージ)は古いフラットトップ<のアメ車>でやって来る、ゆっくりとタイヤ痕を付けて 憑りつかれたような目をした、狂信者さ 膝まで髪を伸ばし
とんだ食わせ者さ、好きな事しかやりゃしない
He wear no shoeshine, he got toe-jam football
He got monkey finger, he shoot Coca-Cola
He say, “I know you, you know me"
One thing I can tell you is you got to be free
奴(ポール)に靴磨きなんて要らないよ、汚れた足でフットボールしてる
ラリった手つきで、”コカ” をキメる
奴は言うんだ「お前は俺を知ってるし、俺はお前を知っている」
俺が一つ言えるのは、あんたは自由に(ソロ活動で?)やりなよ
Come together, right now /Over me
さぁ一緒に、今すぐ 俺の上で
Shoot me! 撃ちなよ!
He bag production, he got walrus gumboot
He got Ono sideboard, he one spinal cracker
He got feet down below his knee
Hold you in his armchair, you can feel his disease
奴(ジョン)はバッグの活動家(バギズム運動)、”セイウチ” のゴム長靴を履いて オノ(ヨーコ)を隣に乗せて、背骨をケガさせちまった
膝より低くひざまづく/奴の<”腕に”ではなく>肘掛け椅子に抱かれたら、奴の病気に気付けるのさ
Come together, right now /Over me
さぁ一緒に、今すぐ俺の上で

もうやめよう!どう見ても歌詞は支離滅裂。三人称単数現在形なんて中学生でも知っている文法も無視。ドラッグでみんなで ”幻覚症状を味わおう”がCome togetherの真意かも?
Something

Eleanor Rigby

Eleanor Rigby
Ah, look at all the lonely people
Ah, look at all the lonely people
Eleanor Rigby
Picks up the rice in the church where a wedding has been
Lives in a dream
Waits at the window
Wearing the face that she keeps in a jar by the door
Who is it for?

All the lonely people
Where do they all come from?
All the lonely people
Where do they all belong?

Father McKenzie
Writing the words of a sermon that no one will hear
No one comes near
Look at him working
Darning his socks in the night when there's nobody there
What does he care?
All the lonely people
Where do they all come from?
All the lonely people
Where do they all belong?
Ah, look at all the lonely people
Ah, look at all the lonely people

Eleanor Rigby
Died in the church…
All the lonely people (ah, look at all the lonely people)
Where do they all come from?
All the lonely people (ah, look at all the lonely people)
Where do they all belong?

Source: LyricFind

Yesterday
Yellow subumarine

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フランク・シナトラ

My Way
My Way

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インターナショナル

インターナショナル ロシア語版
インターナショナル
ワルシャワ労働者の歌
ワルシャワ労働者の歌

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コンドルは飛んでいく

コンドルは飛んでいく(コンドルはとんでいく、El Cóndor Pasa)とはアンデスのフォルクローレの代表的な楽曲である。1970年にアメリカ合衆国のフォークロックデュオ、サイモン&ガーファンクルによってカバーされ日本やその他の国々に広く知られるようになった。
コンドルは飛んでいく---サイモン&ガーファンクルく
コンドルは飛んでいく

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ジョーン・バエズ

ジョーン・バエズ(Joan Baez、1941年1月9日~ )は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター。 フォークロックの草創期から、今なお第一線で活動し続けている女性音楽アーティストの第一人者。キャリアは60年にも及び、フォーク界に多大な足跡を残した。2017年『ロックの殿堂』入り。 ニューヨーク州のスタテン島にてメキシコ系の家に生まれる。彼女の一家は、クエーカー教徒であった。父親のアルバートは物理学者であり、軍需産業への協力を拒否し、それはジョーンの1960年代から現在まで続く公民権運動と反戦活動へ影響を及ぼした。妹のミミ・ファリーニャ(Mimi Fariña、1945年4月30日 - 2001年7月19日)もフォーク歌手であった。
歌手としての経歴は、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルから始まった。1960年10月、ファースト・アルバム『ジョーン・バエズ』をヴァンガード・レコードから発売。同作は「ドナドナ」「朝日のあたる家」[3]などトラディショナルのフォーク・バラード、ブルースと哀歌が、彼女自身のギターによって演奏されたものであった。
1961年9月発売の『ジョーン・バエズ 第2集(Joan Baez, Vol. 2)』はゴールド・アルバムとなり、翌年リリースされた『イン・コンサート』も同じくゴールド・アルバムを獲得した。バエズは、1960年代初頭から中期に掛けて、アメリカにおけるルーツ・リバイバルの先頭に立ち、自らの聴衆に対し、ブレイク前のボブ・ディランを紹介し、また多くのアーティストは彼女を模倣した。

勝利への讃歌Here's To You (1970年)
Donna, Donna

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特別演奏の部屋

デジャリドゥ

デジャリドゥ
デジャリドゥはオーストラリアのアボリジに達に使われる楽器。普通に吹いても音でないけど。
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こんな楽器?

珍しい楽器

アイヌの音楽

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インドネシアの音楽

ケチャ
Kecak Dance / Uluwatu, Bali

校歌・寮歌・応援歌

岩手県立盛岡第一高等学校 校歌 (1番のみ)
岩手県立盛岡第一高等学校 校歌
早稲田大学第一応援歌
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