Human history

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人物列伝

歴史を学ぶには、やはりその時代を動かして来た人物を研究するのが良い。例えその人物の評価が今プラスでもマイナスでも学ぶべき点は多い。

からくり儀右衛門 島津製作所の歴史
二宮 忠八
安藤百福 吉野 彰 梶田 隆章 仁科 芳雄
湯川秀樹
アルキメデス メンデル
今西 錦司 木原 均 木村 資生 北里 柴三郎
沢田 敏男先生 羽仁 五郎 森 毅
ジョン・ガードン 屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ) シェーンハイマー
ガジュセック 大隅 良典
福沢諭吉 緒方洪庵 緒方春朔 国友 一貫斎 頼 山陽 頼 和太郎
新島襄 安部譲二
Nobel ムハマド・ユヌス 中村哲 ニコライ (日本大主教)
村木厚子 姜尚中 李 登輝 中井久夫
梁英姫 團藤 重光 エドワード・テラー
ナオミ・クライン ミルトン・フリードマン 小塩節 中村 征夫 広井勇
神田伯山 Mária Telkes リチャード・ローティ
竹村健一 坂村健
司法、法律 三淵 嘉子 我妻 栄 山口良忠 石田 和外
宇田川潤四郎 児島惟謙
宮本 常一 ヨシダナギ 大橋眞 ケン・ロビンソン
ヨビノリたくみ 鳥居耀蔵 徳富蘇峰 平田篤胤
  
高橋是清 淵田美津雄 レーピン
櫻井忠温 丸本彰造 福地源一郎 宮崎滔天
ケンペル 山本 義隆 リヒトホーフェン 中山 忠直 松井石根
石原莞爾
ヤスオ・マツイ 安部司 松浦光修 杉本五郎
及川幸久 Karl Ernst Haushofer 勝丸円覚 エドガー・サンジエ
高橋洋一 クラウス・フックス ペートンターン・シナワット ヨセフ・トランペルドール
やなせたかし 山中峯太郎
マンネルヘイム 河上清 西田幾多郎 田母神俊雄
高野岩三郎 小泉八雲 藤井一至
イリア・レーピン
淵田美津雄

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

からくり儀右衛門

文字書き人形

江戸時代末に流行していた「からくり人形」の技術は凄い。からくり儀右衛門とは、田中 久重(たなか ひさしげ;1799年~ 1881年(明治14年))の幼名で、子供のころから「からくり人形」の傑作をたくさん残している。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。これらの技術は人型ロボットを作る技術とも重なるもので、機械工学というものも最終的にはこういう技術やアイデアは不可欠なものなのだ。田中 久重は、また、東洋のエジソンといわれるが、肥前国佐賀藩の精煉方に着任したあとは、蒸気機関車の模型、反射炉の設計、蒸気船「電流丸」など実に多くの工学の分野に功績を残している。
弓曳童子 晩年は田中製造所を設立し、これが後に株式会社芝浦製作所、現在の東芝の基礎となる。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。天才といえども常に努力を惜しまなかった人なのでしょう。
文字書き人形 **下記文章は佐賀県の方の書かれたもの。
先週かなり興奮気味に私に『田中久重』(1799~1881)の動画を見ることを勧めてきました。 彼はその感動的人物が佐賀藩と関係があったことに驚いていました。 久留米の鼈甲職人の長男に生まれた人。
  蒸気機関車佐賀の鍋島直正(鍋島閑叟)の下で田中久重は蒸気機関車や蒸気船、アームストロング砲などの制作にかかわった人でした。
佐賀藩は長崎の出島の警護の役をしていましたので殿様はオランダ船に乗り込み防衛の大切さを悟ったようです。田中を佐賀藩に招き、城内で機関車を走らせてみせました。その中に大隈重信もいたのです。日本に明治5年 新橋⇔横浜間に鉄道を引いた一人が大隈重信です。むべなるかな(宜なるかな)ですね。

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

二宮 忠八(にのみや ちゅうはち、1866~1936年)

二宮 忠八 明治から昭和期の軍人、航空機研究者、実業家。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現・愛媛県八幡浜市矢野町)出身。
陸軍従軍中の1889年、「飛行器」を考案。その翌年には、ゴム動力による「模型飛行器」を製作。軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ三度行なうも理解されず、以後は独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至らなかった。

なお、「飛行器」とは忠八本人の命名による。忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介している。

八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗し、また2人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八12歳の時に若くして亡くなり家は困窮した。忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したという。この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった。

飛行への着想
1887年(明治20年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。ある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた(固定翼の着想)。

二宮 忠八 カラス型飛行器
それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45 cm。全長は35 cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。1891年(明治24年)4月29日、3 mの自力滑走の後、離陸して10 mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36 mを飛行させた。

玉虫型飛行器
2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2 m)を作成。これは無尾翼の複葉機で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦翼面として働く設計だった。烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていたが、動力源については未解決であった。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。当時は軍も観測気球が利用されていたが、飛行機の開発に乗り気ではないと感じた忠八は退役し、まずは製作資金を作ってから独力で研究することにした。

大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて1906年(明治39年)に支社長にまで昇進する。この時期は資金をまかなえず、ほかにスポンサーも現れなかったため飛行器の開発は停滞した。この間、1903年(明治36年)12月17日、ついにライト兄弟が有人動力飛行に成功する。しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行器への情熱を持ち続けていた。

支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開する。従軍当時に新聞記事でオートバイのガソリンエンジンを知り、これを動力に利用できないかと考えていた忠八は、1908年(明治41年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、ついで12馬力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」と同じ出力)を自作する構想を立てた。

しかし、その矢先にライト兄弟の飛行機を新聞で知ることとなる。世界初の有人動力飛行という快挙を逃した忠八は大いに嘆き、飛行器の枠組みをハンマーで破壊してしまった。以後、二宮は飛行器の開発から離れて製薬の仕事に打ち込むとともに、1909年(明治42年)に二宮合資会社、大阪製薬株式会社を設立し局方塩の製造を開始。

遅かった評価
1919年(大正8年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)・白川義則と懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。

ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。1925年(大正14年)9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、1926年(大正15年)5月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を受章、1927年(昭和2年)勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。すでに陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。

神社設立
飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために京都府八幡市に飛行神社を私財を投じて設立、自ら神主になっている。安全祈願に訪れる航空、宇宙業界関係者が多く、例祭では飛行機からの参拝も実施される。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著す。

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NHK連続テレビ小説『まんぷく』

2018年10月より放送開始の、NHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルとなったのが、「カップヌードル」の生みの親、安藤百福氏だ。ドラマの内容は、実業家の夫・萬平とその妻・福子(ヒロイン)をモデルとする夫婦の成功物語。百福と満腹(万福)を語呂合わせしたのかも。
安藤夫妻 安藤 百福(ももふく);1910年(明治43年)~ 2007年(平成19年)、は日本の実業家でインスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として世界的にも知られる。日清食品(株)創業者。日本統治時代の台湾出身で、元は呉百福、民族は台湾人ということらしい。敗戦のため1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得しなければならなかった。

チキンラーメンの開発のすごいところは、ゼロから独力でスタートして、実験と失敗の繰り返しで開発したこと。すべて自分で考え観察し改良を重ねる。技術開発の手本だ。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」とヒット商品を世に送り出してきたが、失敗もある。

1974年7月、日清食品は「カップライス」を発売した。この商品は食糧庁長官から「お湯をかけてすぐに食べられる米の加工食品」の開発を持ちかけられたことがきっかけとなっもの。カップライスを試食した政治家や食糧庁職員の評判はすこぶる高く、マスコミは「奇跡の食品」、「米作農業の救世主」と報道した。「長い経営者人生の中で、これほど褒めそやされたことはなかった」と述懐しているが、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米粉が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなって消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされた。
安藤は日清食品の資本金の約2倍、年間の利益に相当する30億円を投じてカップライス生産用の設備を整備していたが「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという。この時の経験について安藤は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている。何故か国が技術開発に口を出すとうまく行かない。
日清製粉は宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発も手掛けている。百福さんが生前に残した言葉、「食足世平」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として今でも継承されているそうだ。

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吉野 彰(2019ノーベル化学賞)

吉野 彰(よしの あきら、1948年(昭和23年)1月30日~)。ご存知、今年(2019年)のノーベル化学賞受賞者。電気化学が専門。携帯電話やパソコンなどに用いられるリチウムイオン二次電池の発明者の一人。2019年10月、ノーベル化学賞受賞が決定した。福井謙一の孫弟子に当たるそうだ。 民間の会社(旭化成)で研究を続けていたようだ。
**二次電池:
二次電池とは、充電して繰り返し使用できる電池。蓄電池や充電池とも呼ばれる。内部の化学反応によって電気を発生させ、電気を送り込むことで元の力を取り戻すことができる。
**福井謙一(1918~1998): 化学反応と分子の電子状態に関する「フロンティア電子理論」の樹立により、我が国で初めて化学分野におけるノーベル賞を受賞。我が国における化学の基礎理論を世界的水準にまで高めた。
吉野 彰 1948年に大阪府に生まれる。担任教師の影響で小学校三・四年生頃に化学に関心を持ったという。少年時代の愛読書にマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』の訳本がある。
合成繊維の発展という世相を背景に、新たなものを生み出す研究をしたいと思いから、京都大学工学部石油化学科に入学。すでに量子化学分野の権威として知られていた福井謙一への憧憬も京大工学部入学の理由の一つで、大学では福井の講義を受講している。
福井謙一博士 大学の教養課程では考古学研究会に入り、多くの時間を遺跡現場で発掘に充てた。樫原廃寺跡の調査と保存運動にも携わり、また、考古学研究会での活動を通して後の妻と出会ったとのこと。大学院修士課程修了後、大学での研究ではなく企業での研究開発に関わることを望み、旭化成工業(現 旭化成株式会社)に入社。
リチウム・イオン電池の開発
1980年代、携帯電話やノートパソコンなどの携帯機器の開発により、高容量で小型軽量な二次電池(充電可能な電池)のニーズが高まる。従来のニッケル水素電池などでは限界があり新型二次電池が切望されていた。一方、陰極に金属リチウムを用いたリチウム電池による一次電池は商品化されていたが、金属リチウムを用いた二次電池は、充電時に反応性の高い金属リチウムが発火・爆発する危険があり、また、充電と放電を繰り返すと性能が著しく劣化してしまうという非常な難点があり、現在でもまだ実用化には至っていない。
  【一次電池の使用用途の違い】
 実は、電池と呼ばれているものには非常に多くの種類があるが、①化学電池、②物理電池、③生物電池に分類できるという。

1. 私たちが日常生活で多用している乾電池は、「化学電池」に属するもの。化学電池とは、  電池の内部に充填された物質が「酸化」や「還元」といった化学反応によって他の物質へ変化する際に生じる電気エネルギーを利用する。普通の電池の他、「燃料電池」も化学電池の仲間に分類される。「燃料電池」なんてまたまた難しい用語が出て来たので、後で説明が必要になるか。

  2. 物理電池とは、熱や光などのエネルギーを取り入れることで電力を取り出す(エネルギー変換)タイプの電池で、太陽電池がその代表です。太陽電池はソーラー電池ともいい、太陽光がエネルギーの元だ。

3. 生物電池とは、微生物などが起こす生物化学反応を利用する電池で、光合成を利用した「生物太陽電池」などがあるそうだ。今後発展していくのでしょう。

という訳で、一般に電池と言うと化学電池のことになる。また、一次電池と二次電池の違いは二次電池は充電できるもののようだ。
化学電池とは、どうも乾電池と同じようなものと考えて良さそうです。乾電池の仕組みと構造は、種類によらずほぼ同じ。電池の内部では、「イオン化傾向」の異なる2種類の金属が電解液に浸されている。イオン化傾向が大きい(溶けてイオンになりやすい)物質はしだいに電解液の中に溶け出していく。金属は解けると+イオンになるので、電極は残された電子によって-に帯電する。つまり「負極」になる。一方、イオン化傾向が低い物質はほとんど電解液に溶けず、プラス側に帯電して「正極」になります。「正極」と「負極」を銅線で繋げば電気が流れる訳です。もちろん電気の流れる方向は決まっているので直流です。

白川英樹博士 【電導性ポリアセチレン】
ペットボトルの材料のPET(ポリエチレンテレフタラート)やスーパーの買い物袋のポリエチレンは小さな有機化合物(高分子を合成する原料の低分子化合物の総称をモノマーと呼びます)が多数つながった「高分子」(ポリマーとも言います)。普通の高分子は電気をまったく通しません。でも炭素と炭素との結合が二重結合と単結合が交互に並んだ共役(きょうやく)高分子は電気を少し流す性質を示します。炭素-炭素二重結合を形作っている内の1つはσ(シグマ)結合、もうひとつはπ(パイ)結合と呼び、この結合に関与している電子をそれぞれσ電子、π電子といいます。π電子は比較的動きやすいので、このπ電子が高分子の中を動いて電気が少し流れます。しかし共役高分子は電気が流れるといっても鉄や銅などの金属に比べればまだまだ電気は流れにくい化合物です。この共役高分子に臭素やヨウ素を加えると金属と同じくらい電気を通すようになります。これはπ電子の一部が引き抜かれて部分的にプラス(正孔)ができます(ドーピングと言います)。そのプラスを埋めるために隣のマイナスの電子(π電子)が動き、またその電子が抜けた場所にプラスができる。それが繰り返すことで電子がつぎつぎ動いて電気が流れます。白川英樹先生は共役高分子のひとつであるポリアセチレンの薄い膜を作る方法とドーピングによって共役高分子が金属のように電気をよく流すこと(導電性高分子)を発見して、2000年にA.J. ヒーガー氏、A.G. マクアダイアミッド氏と共にノーベル化学賞を受賞されました。

しかし、ポリアセチレンは真比重が低く電池容量が高くならないことや電極材料として不安定であるという問題があった。そこで、炭素材料を負極として、リチウムを含有するLiCoO2を正極とする新しい二次電池であるリチウムイオン二次電池 (LIB) の基本概念を1985年に確立した。吉野は、更にいくつかの点に着目し、LIB(リチウムイオン・バッテリー)が誕生したという。

吉野博士は、白川英樹(2000年ノーベル化学賞受賞者)が発見した電気を通すプラスチックであるポリアセチレンに注目。それが有機溶媒を使った二次電池の負極に適していることを1981年に見いだす。電池の開発が無機溶媒から有機溶媒へ、電極も有機化合物を使う時代になった。
さらに、正極にはジョン・グッドイナフらが1980年に発見したリチウムと酸化コバルトの化合物であるコバルト酸リチウム (LiCoO2) などのリチウム遷移金属酸化物を用いて、リチウムイオン二次電池の原型を1983年に創出する。
しかし、ポリアセチレンは真比重が低く電池容量が高くならないことや電極材料として不安定であるという問題があった。そこで、炭素材料を負極として、リチウムを含有するLiCoO2を正極とする新しい二次電池であるリチウムイオン二次電池 (LIB) の基本概念を1985年に確立する。吉野が次の点に着目したことによりLIB(リチウムイオン・バッテリー)が誕生した。 1.正極にLiCoO2を用いることで、
(1).正極自体がリチウムを含有するため、負極に金属リチウムを用いる必要がないので安全である
(2).4V級の高い電位を持ち、そのため高容量が得られる
2.負極に炭素材料を用いることで、
(1).炭素材料がリチウムを吸蔵するため、金属リチウムが電池中に存在しないので本質的に安全である
(2).リチウムの吸蔵量が多く高容量が得られる

また、特定の結晶構造を持つ炭素材料を見いだし、実用的な炭素負極を実現した。加えて、アルミ箔を正極集電体に用いる技術や、安全性を確保するための機能性セパレータなどの本質的な電池の構成要素に関する技術を確立し、さらに安全素子技術、保護回路・充放電技術、電極構造・電池構造等の技術を開発し、さらに安全でかつ、出力電圧が金属リチウム二次電池に近い電池の実用化に成功して、ほぼ現在のLIBの構成を完成させた。1986年、LIBのプロトタイプが試験生産され、米国DOT(運輸省、Department of Transportation)の「金属リチウム電池とは異なる」との認定を受け、プリマーケッティングが開始される。

しかし、商品化に1993年まで掛かった吉野とエイ・ティーバッテリ-(当時、旭化成と東芝の合弁会社、2004年解散)は出遅れ、世界初のリチウムイオン二次電池 (LIB) は西美緒率いるソニー・エナジー・テックにより1990年に実用化、1991年に商品化された。現在、リチウムイオン二次電池 (LIB) は携帯電話、ノートパソコン、デジタルカメラ・ビデオ、携帯用音楽プレイヤーをはじめ幅広い電子・電気機器に搭載され、2010年にはLIB市場は1兆円規模に成長した。小型で軽量なLIBが搭載されることで携帯用IT機器の利便性は大いに増大し、迅速で正確な情報伝達とそれに伴う安全性の向上・生産性の向上・生活の質的改善などに多大な貢献をしている。また、LIBは、エコカーと呼ばれる自動車 (EV, HEV, P-HEV) などの交通機関の動力源として実用化が進んでおり、電力の平準化やスマートグリッドのための蓄電装置としても精力的に研究がなされている。

ボルタ電池 最も初期の、化学電池はボルタ電池でしょう。高校で習うかも。イオン化傾向なんかと一緒に。
Li→K→Ca→Na→Mg→Al→Zn→Fe→Ni→Sn→Pb→(H2)→Cu→Hg→Ag→Pt→Au
 始めの方ほどイオンになり易い。亜鉛Znと銅Cuでは、亜鉛の方がイオンになりやすく、溶けてプラスのイオンになる。つまり陰極に電子を置き去りにして溶けます。ところが銅は水素よりもイオンになりにくい。希硫酸はH2SO4で、溶媒中で既にイオンになっている。水素イオンは電極(銅)から電子を受け取り、気体の水素になりブクブクと泡になって出てくる。図を見れば分かる通り、電極を導体で繋げば、電子の余った負極から電子の不足する正極の方へ電子の流れが出来ます。つまり電流が発生し、豆電球を光らせる訳。

勿論、リチウムイオン二次電池はこんな簡単なものではないが、電池とはどんなものかを知っておくことは必要でしょう。吉野さんの話では、日本のノーベル化学賞は、福井→白川→吉野と19年周期で受賞しているので、多分次は2034年頃に再度受賞の可能性があるかもしれません。

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梶田 隆章(2015ノーベル物理学賞)

梶田 隆章 梶田 隆章(かじた たかあき、1959年3月9日~)は、日本の物理学者、天文学者。東京大学教授。専門はニュートリノ研究。ニュートリノ振動の発見により、2015年にアーサー・B・マクドナルド氏と共にノーベル物理学賞を受賞。川越高校出身。1959年3月9日、埼玉県東松山市の農家に生まれ。幼少期から読書好きで、両親に「お茶の水博士になりたい」と話していたこともあったそうだ。
埼玉大学で物理学を専攻して素粒子に興味を持つ。卒業後、東京大学大学院理学系研究科に進学。小柴昌俊研究室に所属し、この頃から小柴、戸塚洋二の下で宇宙線研究に従事。素粒子に特に強い関心があったわけではなかったが、「何となく興味があった」という理由で研究室を選んだという。

スーパーカミオカンデ ニュートリノ研究を始めたのは、1986年のこと。ニュートリノの観測数が理論的予測と比較して大幅に不足していることに気づき、それがニュートリノ振動によるものと推測。ニュートリノ振動とは、ニュートリノが途中で別種のニュートリノに変化するという現象。ニュートリノに質量があることを裏付けるものだ。これを明らかにするためには膨大な観測データが必要で、岐阜県神岡町(現・飛騨市)にあるニュートリノの観測装置カミオカンデで観測を始める。転機はカミオカンデより容積が15倍大きいスーパーカミオカンデが1996年に完成し、観測データが飛躍的に増大したことにある。
小柴博士 1996年よりスーパーカミオカンデで大気ニュートリノを観測、ニュートリノが質量を持つことを確認し、1998年ニュートリノ物理学・宇宙物理学国際会議で発表。1999年に第45回仁科記念賞を受賞した。これらの成果はすべてグループによる研究の賜物であった。2015年、アーサー・B・マクドナルドと共にノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」である。同年、ノーベル生理学医学賞を受賞した大村智らと共に文化勲章を受章した。

戸塚洋二博士 2015年の梶田博士のノーベル物理学賞の受賞理由となった「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」は、梶田博士の先輩であり師でもあった戸塚洋二博士を中心として行われた研究の賜物であり、梶田氏は戸塚氏の後継者としてノーベル物理学賞を受賞する形となる。戸塚本人は2008年に癌で亡くなっており、もしも戸塚が生きていれば梶田との共同受賞は確実だったと惜しまれた。梶田自身もノーベル物理学賞受賞発表時の記者会見の場において、「戸塚氏が生きていたら共同受賞していたと思いますか」との質問に「はい、そう思います」と即答している。指導教官の小柴昌俊によると、謙虚かつ控えめで、学生時代は議論ではあまり活発に発言しなかったが、実験には熱心だったという。中学時代の担任によると、先生の言うことをよく聞く素直な子供だったが、温和で控えめな性格で、授業中に積極的に発言するようなことはなかったという。趣味はなく、飲酒や喫煙もせず、休日は富山市の自宅で寝ていることが多いという。また、テレビではニュース番組を見るという。子供の頃は親から注意されるほど読書が好きで、隠れて本を読んでいた。 後進の育成のため東京大学や東京理科大学で教鞭を執る他、母校の埼玉県立川越高校でも授業や物理部の指導を行っている。

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ニュートリノの質量証明 素粒子物理学の定説覆す
 ニュートリノは物質を構成する基本単位である素粒子の中で、最も謎の多い存在だ。1970年代に確立された「標準理論」と呼ばれる素粒子物理学の基本法則では、その質量はゼロとされてきたが、この定説を覆したのが梶田氏だった。
 ニュートリノは電子型、ミュー型、タウ型の3種類があり、飛行中に別のタイプに変身する不思議な性質がある。「振動」と呼ばれる現象で、これを確認すればニュートリノに質量があることの証拠になると考えられていた。
 梶田氏は、超新星爆発に伴うニュートリノの観測で2002年にノーベル賞を受けた小柴昌俊氏(89)に師事。岐阜県飛騨市神岡町の地下にある観測施設「カミオカンデ」の観測データを解析し、宇宙線が大気中の原子核と衝突して生まれる「大気ニュートリノ」でミュー型が理論予想より少ない異変を1986年に見つけた。
 後継施設「スーパーカミオカンデ」の観測で、この異変が振動現象であることを証明。98年に岐阜県高山市で開かれた国際学会で発表して脚光を浴び、素粒子物理学に革命をもたらす。
 この大発見は標準理論を超える新たな理論の構築を迫るものとなる。ニュートリノの質量は17種類ある素粒子の中で極端に軽く、同じ素粒子でもなぜ質量が大きく違うのかを説明する新たな法則が必要になるからだそうだ。
 ニュートリノは宇宙の謎を解く上でも鍵を握る。宇宙は138億年前に誕生し、物質もこのときに生まれた。物質の根源である素粒子の性質が詳しく分かれば、宇宙の誕生や進化の謎を解明する手掛かりが得られる。
 宇宙誕生時には物質を作る粒子と、電気的な性質が反対の「反粒子」が同じ数だけ存在していた。何故か、粒子だけが生き残って現在の宇宙が出来上がる。粒子の方が反粒子よりもほんの少し多かったからという説明もあるがホントのことはまだ分かっていないようだ。
 この理由は2008年にノーベル賞を受けた小林誠、益川敏英両氏の理論によって、素粒子の一種であるクォークについては説明されたが、宇宙を今も満たすニュートリノについては未だ分かっていない。この謎を解明すれば、宇宙の理解が飛躍的に進みそうだ。

--発見のきっかけは:
「小柴先生の助手だった1986年、改良したソフトを使ってカミオカンデのデータを解析したところ、大気ニュートリノのうちミュー型が予想より少ないことを見つけた。十中八九、ソフトの間違いだと思ったが、1年以上かけてチェックして88年に論文を書いた」

--ニュートリノが別のタイプに変化する振動現象の可能性は当時、指摘されていたのか:
 「70年代に大気ニュートリノでミュー型が少ないとの論文があったが、明確ではなかった。正面からおかしいと言った論文は世界初だった」

--なぜ発見できたのか:
「予想しないことがあると思うかどうかだ。解析プログラムの結果を信じられるかということもある。何年にもわたり観測データを見てきた経験があり、自分の目にも自信があった」

--当時の思いは: 
「ニュートリノは飛行中に振動しても変化はわずかと思われていたが、大きく変化していた。標準理論が予想していない振動が起きていると、非常に興奮した。あまりにも重要な問題に出くわしたので、このサイエンスをきちっとやらなければと思った」

--小柴氏はどんな人か: 「サイエンスでは妥協しない。その意味では厳しい。私が学生だったときから偉い先生で、雲の上のような存在。サイエンスに対して厳しい目を持たないとちゃんとした研究ができないことを、後進にも伝えていきたい」

--ニュートリノの研究はなぜ重要なのか: 
「ニュートリノの小さな質量は、標準理論よりも根本的で深いレベルの理論を作る上で非常に重要なことを教えてくれる。今の宇宙がなぜ物質だけでできているのかは大きな謎だが、ニュートリノには物質と反物質の数の違いの元を作るメカニズムがあるのではと考えられている。宇宙をより理解することは、生活には直接影響しないが、人類として重要なことではないか」

--素粒子研究には多額の費用が必要になる: 
「その通りで、国にサポートしてもらわない限りできない。国民にきちんと重要性を分かっていただかないといけない。われわれがやることは、科学の重要性や面白さを地道に伝えていくことだ」

■「次の受賞」へ宇宙の謎に迫る 日米で競争激化
 梶田隆章氏が成果を挙げたスーパーカミオカンデでは、ニュートリノの性質をさらに詳しく解明し、宇宙の謎に迫る新たな実験「T2K」が行われている。次のノーベル賞が狙える重要な研究だ。
 T2Kチームは昨年5月、茨城県東海村の大強度陽子加速器施設「J-PARC(パーク)」から、西に295km離れたスーパーカミオカンデに向けて「反ミュー型」のニュートリノを発射する実験を開始した。チームは一昨年、ミュー型を発射し、電子型に変身する現象を世界で初めて発見。今度はこれと反対の性質を持つ反粒子に着目し、反ミュー型が反電子型に変わる様子をとらえる。

 新旧の実験データを比較して、変身する確率に違いが見つかれば、小林誠、益川敏英両氏が素粒子クォークで確立した理論がニュートリノでも成立することを示す大発見になる。
 宇宙ではクォークよりもニュートリノの方が圧倒的に多い。宇宙誕生時にあった反粒子が消滅し、物質を作る粒子だけが生き残った仕組みが、現在の宇宙形成により大きな意味を持っていたことが裏付けられる。
 チームを率いる京都大の中家剛教授は「世界に先駆けて5~10年後に発見し、宇宙を理解する新しい扉を開きたい」と話す。
 スーパーカミオカンデの体積を20倍に大型化した「ハイパーカミオカンデ」の建設構想もある。100年分の観測データがわずか5年で得られる3代目の施設で、小林・益川理論の精密観測を目指す。2025年ごろの観測開始が目標だが、800億円に及ぶ建設費が課題だ。

 国際競争も過熱している。米国などのチームはT2Kを追って同様の実験を始めており、小林・益川理論の検証で巻き返しを狙っている。米国はハイパーカミオカンデに似た実験も日本と同時期の開始を目指しており、新発見の競争は激化しそうだ。

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小林・益川 小林・益川理論
小林誠(京都大学、当時)と益川敏英(京都大学、当時)によって1973年に発表された理論。
両者は1973年に発表した論文の中で、もしクォークが3世代(6種類)以上存在し、クォークの質量項として世代間の混合を許すもっとも一般的なものを考えるならば、既にK中間子の崩壊の観測で確認されていたCP対称性の破れを理論的に説明できることを示した。
クォークの質量項に表れる世代間の混合を表す行列はカビボ・小林・益川行列(CKM行列)と呼ばれる。2世代の行列理論をN.カビボが1963年に提唱し、3世代混合の理論を1973年に小林・益川の両者が提唱した。

カビボ・小林・益川行列(Cabibbo-Kobayashi-Maskawa matrix)は、素粒子物理学の標準理論において、フレーバーが変化する場合における弱崩壊の結合定数を表すユニタリー行列。 頭文字をとってCKM行列と呼ばれる。クォーク混合行列とも言われる。 CKM行列はクォークが自由に伝播する場合と弱い相互作用を起こす場合の量子状態の不整合を示しており、CP対称性の破れを説明するために必要不可欠である。この行列は元々ニコラ・カビボが2世代の行列理論として公表していたものを、小林誠と益川敏英が3世代の行列にして完成したものである。発表当時クォークはアップ、ダウン、ストレンジの3種類しか見つかっていなかったが、その後、1995年までに残りの3種類(チャーム、ボトム、トップ)の存在が実験で確認された。
KEKのBelle実験およびSLACのBaBar実験で、この理論の精密な検証が行われた。これらの実験により小林・益川理論の正しさが確かめられ、2008年、小林、益川両名にノーベル物理学賞が贈られた。

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仁科 芳雄(日本の素粒子論の草分け)

仁科・湯川・朝永 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年(明治23年)~1951年(昭和26年))は、日本の現代物理学の父と言われる人だ。日本に量子力学の拠点を作り、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげる。なんせ彼の弟子に当たる人たちの活躍が素晴らしい。日本のノーベル物理学賞を受賞した方々は、皆彼の薫陶を受けた弟子か孫弟子。なぜ日本にこんなに物理学賞が多いのか。

ニールス・ボーアのもとで身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理を世界水準に引き上げた。仁科の主催する研究室からは、多くの学者が巣立っていく。ニールス・ボーアはデンマークの人。戦争の時代に各国の逸材を自国に招き分け隔てなく育てた学者で、量子力学のリーダー格。アインシュタインとも交流があったとか。

Bohr 彼(ボーア)の弟子たちの一部は後、アメリカに渡り原子爆弾の製造に取り組む。仁科も日本に帰り、原子爆弾の製造に関係していたことは間違いない。ドイツやソ連の学者達も同様だ。残念ながら、或いは幸いと言うべきが、日本はトップの判断や資金不足の影響で敗戦までに間に合わなかった。仁科等が研究用に造っていた科学装置はGHQの手によって密かに悉く破壊されつくされたらしい。だから、戦後の日本の物理学は専ら理論科学の方面だけで活躍することに。

【追記】
後に分かったことだが、ドイツは原爆の開発には取組んでいなかったらしい。だから、最初の原爆が広島長崎に落とされたのはドイツが先に降伏したからではなく、始めからターゲットして予定されていたようだ。しかし、ドイツは密かにミサイル技術を開発していた。宇宙時代の乗り物としてフォン・ブラウン博士が夢見ていたもの。ミサイルは人工衛星を打ち上げたり、有人飛行にも不可欠の技術。勿論核兵器を飛ばすために不可欠な技術らしい。北朝鮮が盛んにミサイル実験を繰り返すのも宇宙開発が主目的だと主張するのもまんざら嘘とは言えない。

1949年(昭和24年)、湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞。π中間子の発見を理論的に予測した。

1965年、朝永振一郎博士が相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した(繰り込み理論)。
湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一等が仁科の弟子で、多くの孫弟子がいる。仁科の影響の及ばない素粒子論の研究者は少ないとされている。

2002年、小柴昌俊博士がカミオカンデを使って太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した功績でノーベル物理学賞。日本もかなり豊かになったのか、実験科学の面でも功績があげられるようになった。ただ実験装置がだんだん巨大になるので国際協力が不可欠に。

2008年、南部陽一郎博士、自発的対称性の破れの発見により、ノーベル物理学賞を受賞。この時は、益川・小林博士も同時受賞。同時に3人も受賞、日本は物理学大国なのでしょうか。

2015年、梶田隆章博士がスーパーカミオカンデを使ってニュートリノ振動を発見したことでノーベル賞を受賞。先輩の戸塚洋二氏も功績があったのだが惜しくも亡くなっていた。

以上、7人が日本の量子力学、素粒子の世界の物理学の伝統を繋いで来た方々らしい。梶田隆章先生!今後の日本の展望はいかが。どうも梶田さんの後を継ぐ世代、やや心もとない気がするらしい。今後を繋ぐ若手が育って来ているかどうかだ。今の教育制度の元では、根気のいる地道な研究を継続してい行く力が育つがどうかとても心配だ。

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湯川秀樹

湯川 秀樹(1907年(明治40年)1月23日 ~1981年(昭和56年)9月8日): 日本人として初めてノーベル賞を受賞した方。物理学者(理論物理学)。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。

原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。

戦後は非局所場理論・素領域理論などを提唱したが、理論的な成果には繋がらなかった。一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。上記のように、戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原爆開発に関与したことが確認されている。残念ながら資金不足で頓挫。でも、彼の能力から当然研究に引き込まれることはやむをえまい。
物理学では、森羅万象を説明する力は、4つあることが知られている。「重力」、「電気力」、「強い力」、「弱い力」。このうち後半の2つは何のことか素人にはチンプンカンプンだ。そもそも、力とは何だ。本当に4つしかないの。 勿論、政治力とか経済力とかは物理学とは無縁だし、摩擦力とか遠心力なんていうのこれも重力か。静電気力と磁力は同じ理論で説明できるらしい。化学ではファンデルワールス力何て言うのもあるぞ。とりあえず、物理学では力は4種類しかないということで勘弁してもらおう。

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アルキメデス

アルキメデス アルキメデス(Archimedes、紀元前287~212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。古代ギリシアの科学者といえば一にも二にも彼だろう。ただし、時代的にはアレキサンダー帝国が無くなり、古代ローマが台頭してきた時期だ。当時の世界の学問の中心地はアレクサンドリア(プトレマイオス王朝)だ。アルキメデスはギリシアの植民都市シラクサの人。ローマの侵略に対して祖国シラクサ防衛のために知恵を傾けた英雄でもあるようだ。ただ、ローマ軍は彼一人のため多大な犠牲を強いられたようだ。

アルキメデスの人生の記録は、彼が没してから長い時間が過ぎた後に古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、全容を掴めていない。アルキメデスの友人のヘラクレイデスも伝記を書き残したといわれるが、失われてしまい細部は伝わっていない。しかし、没年については例外的に、正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死んだことが、彼の死に関する故事の記述からわかっているからである。彼の生年は、死んだときの年齢(75歳とされている)から逆算して求められたもの。

**ポリュビオス
ポリュビオス(紀元前204? ~紀元前125年?)。古代ギリシアのメガロポリス生まれの歴史家である。第三次マケドニア戦争のピュドナの戦いの後、人質としてローマに送られ、スキピオ・アエミリアヌスの庇護を受けた。

シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『Universal History 』(普遍史)には70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが出典に利用している。この書ではアルキメデス個人にも若干触れ、また街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。 アルキメデスは紀元前287年、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア島のシラクサで生まれた。この生年は、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者[3]「ペイディアス[4] (Phidias)」と告げている。プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している。アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『幾何学理論』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』にはエラトステネスに宛てた序文がある。

アルキメデスは紀元前212年、第二次ポエニ戦争でローマの将軍がシラクサを占領した時に殺された。アルキメデスの評判を知っていた将軍は、彼には危害を加えないように命令を出していた。アルキメデスの家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは砂に描いた図形の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していたアルキメデスが無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したといわれている。アルキメデス最期の言葉は「図をこわすな!」だったとか。これも有名なエピソードだ。

【アルキメデスの原理】
アルキメデスは浮力の原理を用いて黄金の王冠が純金よりも密度が低いか否か判断したと言われる。最も広く知られたアルキメデスのエピソードは、「アルキメデスの原理」を思いついた経緯である。ヒエロン2世は金細工職人に金塊を渡して、神殿に奉納するための誓いの王冠を作らせることにした。しかし王冠が納品された後、ヒエロン王は金細工師が金を盗み、その重量分の銀を混ぜてごまかしたのではないかと疑いだした。
もし金細工師が金を盗み、金より軽い銀で混ぜ物をしていれば、王冠の重さは同じでも、体積はもとの金地金より大きい。しかし体積を再確認するには王冠をいったん溶かし、体積を計算できる単純な立方体にしなくてはならなかった。困った王はアルキメデスを呼んで、王冠を壊さずに体積を測る方法を訊いた。アルキメデスもすぐには答えられず、いったん家に帰って考えることにした。
何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。これを見たアルキメデスは、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。ここに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「ヘウレーカ、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ、不正がばれた金細工師は、死刑にされてしまった。 これも有名なエピソード。
比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないのではとの疑問も提示されている。

実際には、アルキメデスは自身が論述『浮体の原理』で主張した、今日アルキメデスの原理と呼ばれる流体静力学上の原理を用いて解決したのではと考えられる。この原理は、物質を流体に浸した際、それは押し退ける流体の重量と等しい浮力を得ることを主張する。この事実を利用し、天秤の一端に吊るした冠と釣り合う質量の金をもう一端に吊し、冠と金を水中に浸ける。もし冠に混ぜ物があって比重が低いと体積は大きくなり、押し退ける水の量が多くなるため冠は金よりも浮力が大きくなるので、空中で釣り合いのとれていた天秤は冠側を上に傾くことになる。ガリレオ・ガリレイもアルキメデスはこの浮力を用いる方法を考え付いていたと推測している。

【アルキメディアン・スクリュー】
アルキメディアン・スクリューは効率的な揚水に威力を発揮する。工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家のアテナイオスが残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「シュラコシア号」の設計を依頼したという。シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に庭園やギュムナシオン、さらには女神アプロディーテーの神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスはアルキメディアン・スクリューと名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。現代では、このスクリューは液体だけでなく石炭の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。
アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。ねじ構造はアルキメデスのような天才にしか思いつかないという人もおり、実際に中国でねじ構造を独自に機械として使用することはできなかった。「ねじは中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である」とも言われる。本当かな??

【アルキメデスの鉤爪】
アルキメデスの鉤爪とは、シラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。2005年、ドキュメント番組「Superweapons of the Ancient World」でこれが製作され、実際に役に立つか検証してみたところ、クレーンは見事に機能した。

光線兵器 【アルキメデスの熱光線】
2世紀の著述家ルキアノスは、紀元前214~紀元前212年のシラクサ包囲の際にアルキメデスが敵船に火災を起こして撃退したという説話を記している。数世紀後、トラレスのアンテミオスはアルキメデスの兵器とは太陽熱取りレンズだったと叙述。これは太陽光線をレンズで集め、焦点を敵艦に合わせて火災を起こしていたもので「アルキメデスの熱光線」と呼ばれたという。
このようなアルキメデスの兵器についての言及は、その事実関係がルネサンス以降に議論された。ルネ・デカルトは否定的立場を取ったが、当時の科学者たちはアルキメデスの時代に実現可能な手法で検証を試みた。その結果、念入りに磨かれた青銅や銅の盾を鏡の代用とすると太陽光線を標的の船に集めることができた。これは、太陽炉と同様に放物面反射器の原理を利用したものと考えられた。1973年にギリシアの科学者イオアニス・サッカスがアテネ郊外のスカラガマス海軍基地で実験を行った。縦5フィート(約1.5m)横3フィート(約1メートル)の銅で皮膜された鏡70枚を用意し、約160フィート(約50m)先のローマ軍艦に見立てたベニヤ板製の実物大模型に太陽光を集めたところ、数秒で船は炎上した。
2005年10月、マサチューセッツ工科大学 (MIT) の学生グループは一辺1フィート(約30cm)の四角い鏡127枚を用意し、木製の模型船に100フィート(約30m)先から太陽光を集中させる実験を行った。やがて斑点状の発火が見られたが、空が曇り出したために10分間の照射を続けたが船は燃えなかった。しかし、この結果から気候条件が揃えばこの手段は兵器として成り立つと結論づけられた。MITは同様な実験をテレビ番組「怪しい伝説」と協同しサンフランシスコで木製の漁船を標的に行われ、少々の黒こげとわずかな炎を発生させた。しかし、シラクサは東岸で海に面しているため、効果的に太陽光を反射させる時間は朝方に限られてしまう点、同じ火災を起こす目的ならば実験を行った程度の距離では火矢やカタパルトで射出する太矢の方が効果的という点も指摘された。原理的には可能だが、実際にやってみると難しいようだ。

【その他力学】
梃子 てこについて記述した古い例は以前から知られていたようだ。アルキメデスは『平面の釣合について』において、てこの原理を説明している。4世紀のエジプトの数学者パップスは、アルキメデスの言葉「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう。」を引用して伝えた。プルタルコスは、船員が非常に重い荷物を運べるようにするためにアルキメデスがブロックと滑車機構をどのように設計したかを述べた。また、アルキメデスは第一次ポエニ戦争の際にカタパルトの出力や精度を高める工夫や、オドメーター(距離計)も発明した。オドメーターは歯車機構を持つ荷車で、決まった距離を走る毎に球を箱に落として知らせる構造を持っていた。

【数学】
アルキメデスはまた数学の分野にも大きな貢献を残した。級数を放物線の面積、円周率計アルキ代数螺旋の定義、回転面の体積の求め方や、大数の記数法も考案している。
彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。
アルキメデスは取り尽くし法を駆使して円周率を求めた。アルキメデスは、現代で言う積分法と同じ手法で無限小を利用していた。背理法を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは取り尽くし法の名で知られ、円周率π(パイ)の近似値を求める際に用いられた。
アルキメデスは、ひとつの円に対し外接する多角形と、円に内接する多角形を想定した。この2つの多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの多角形からこれは31⁄7(約3.1429)と310⁄71(約3.1408)の間にあるという結果を得た。
また彼は、円の面積は半径でつくる正方形に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの実数について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは実数におけるアルキメデスの性質と呼ばれる。
『円周の測定』にてアルキメデスは3の平方根を265⁄153(約1.7320261)と1351⁄780(約1.7320512)の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。
球の体積は無限小・積分を用いることで公式を発見した。また球の表面積は無限小・積分・カヴァリエリの原理を用いることで公式を同じ高さの円柱の側面の表面積と等しいことを示す。
ゼロの対極にある無限集合の概念に、到達していたらしいという新しい資料が発見されている。

アルキメデスの数学に関する記述は古代においてほとんど知られていなかったらしい。著述はギリシア語の方言ドーリス地方語であったし、原典は伝わっていない。アルキメデスは存命中アレクサンドリアの数学者達とは多少交流を持っていた事も手伝い、この地ではアルキメデスの論説も多少伝わっていたようだ。彼らが研究の途上で再発見した事項も多いのだろう。

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メンデル

メンデル グレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel、1822年7月20日~ 1884年1月6日)は、オーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭。植物学の研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したことで有名。遺伝学の祖。
当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は交雑とともに液体のように混じりあっていく(混合遺伝)と考えられていた。メンデルの業績はこれを否定し、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱したことである。

オーストリア帝国のオドラウ近郊のハインツェンドルフ(Heinzendorf bei Odrau, 現在のチェコ・モラヴィア)に小自作農(果樹農家)の子として生まれ、ヨハンと名付けられる。母語はドイツ語であった。オルミュッツ大学で2年間学んだ後、1843年に聖アウグスチノ修道会に入会し、モラヴィア地方ブリュンの修道院に所属、修道名グレゴール(グレゴリオ)を与えられる。

メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた。1847年に司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える。1850年、教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった。生物学の劣等性が生物学の大変革をもたらす遺伝の法則を発見するのだから世の中は分からないものだ。

1851年から2年間ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名な クリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ。ブリュンに帰ってからは1868年まで高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが失敗している。 この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した。このころに1860-1870年にかけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない。

遺伝の研究
メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは、1847年司祭として修道院の生活を始めた時である。1862年にはブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。 有名なエンドウマメの交配実験は1853年から1868年までの間に修道院の庭で行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があるため、様々な形質や品種があり人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目。そしてエンドウ豆は、花の色が白か赤か、種の表面に皺があるかない(滑らか)かというように対立形質が区別しやすく、さらに、花弁の中に雄しべ・雌しべが存在し花弁のうちで自家受粉するので、他の植物の花粉の影響を受けず純系を保つことができ、また、どう人為交配しても必ず種子が採れ、さらには一世代が短いなどの観察のしやすさを備えていることから使用した。次に交配実験に先立って、種商店から入手した 34品種のエンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に 22品種選び出した。これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった。エンドウ豆を実験の資料に選んだことが彼が普通の生物学者と異なり、物理学と数学等の幅広い教養の基盤を有する非凡な点であったようだ。

その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で 2n=14であるからである。

この結果の口頭での発表は1865年にブリュン自然協会で、論文発表は1866年に『ブリュン自然科学会誌』で行われた。タイトルは“Versuche über Pflanzen-Hybriden”(植物雑種に関する実験)であった。さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった。

1868年には人々に推されブルノ修道院長に就任し多忙な職務をこなしたが、毎日の仕事に忙殺され1870年頃には交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった。

メンデルは、研究成果が認められないまま、1884年に死去した。メンデルが発見した法則は、1900年に3人の学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらによりそれぞれ独自に(つまり共同研究ではない)再発見されるまで埋もれていた。彼らがそれぞれ独自に発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった。ライフ誌が1999年に選定した、「Life's 100 most important people of the second millennium(この1000年でもっとも重要な100人)」に入っている。

生物学の基本中の基本ともとも言える遺伝の法則が、1900年まで認められていなかったというのもある意味驚きだ。高校教科書でも紹介される物理や化学の法則は、大体18世紀には総て発見済みだ。

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今西 錦司

今西 錦司 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年1月6日~1992年6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学、1939年)。京都府出身。
今西錦司氏は、生物学の研究において次々とユニークな新しい学説を提案し、今では彼の考えは寧ろ世界の標準として認知されつつある。研究においては多彩な仲間同士の自由な対話を重んじ、多くの弟子達を育成。ノーベル賞クラスの学者だったようだ。
今西氏の活動は登山家、探検隊としてのものが有名だが、登山も探検も結局彼等の研究の成果に結びつくもので、登山家、探検隊としては資金調達の名人だったようだ。 生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。住み分け理論はダーウィンの進化論を補完する基礎理論だ。
今西 錦司 第二次大戦後は、京都大学の理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類学の礎を築いた。「彼らは人と同じように知能を持ち、社会生活をしている」ので、彼等と同じ目線で考えることの必要性を訴え、野外の自然観察の重要性を強調し、類人猿研究の先駆けを作った。
現代文明が行き詰まりを見せている今、人間とは何かを見直そうという世界的な風潮のなか、ヒトと共通の先祖を持つ類人猿の研究がホットな話題として注目されてきている。

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木原 均

木原 均 木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日~1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。 コムギの祖先を発見したことで知られる。近縁の植物のゲノムと遺伝子との関係を知り、ゲノムの遷移や進化の過程を調査するのに用いられる手法を確立した。また、スイバの研究から種子植物の性染色体も発見した。種なしスイカの開発者でもある。

木原がコムギの遺伝子の研究をすることになったのは、北大の先輩で、当時大学院生だった坂村徹の「遺伝物質の運搬者(染色体)」という題の講演を聴いたことがきっかけ。木原は話が面白くて感激のあまり坂村の研究室まで押しかけていったという。これは木原が学問に目覚め、科学者としての出発点でもあった。しかし木原はこの後、他の植物生理学の研究を続けコムギには縁なく過ごしていたが、坂村が植物生理学の教授となり外国留学することになったため、コムギの遺伝子研究を木原に委ねたのである。 恵迪寮出身であり、大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当した。日本スキー草創期に発展に尽くした一人で、科学的トレーニングを提唱し、スキー、テニス、野球などをたしなんだ。 木原の遺した言葉として「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」(The History of the Earth is recorded in the Layers of its Crust; The History of all Organisms is inscribed in the Chromosomes.) というものが知られている。これは1947年刊行の著書『小麦の祖先』の前書きにある以下の文章を元に後年整理されたものだという。

木原 均 「小麦の歴史はこの染色体に刻まれてあって、恰も地球の歴史が地層と云う書物で読めるやうに、こゝから小麦の分類や祖先の発見がなされるのである。 — 木原均、『小麦の祖先』(1947年)」
生命科学を地球の医師に
生命科学の一定義は、「生命科学は生命に関するすべての分野を総動員して人類生存の活路を見出そうとする総合学術である」としています。 生命科学の役割はたくさんありますが、とりわけ人口の爆発的増加、資源の枯渇、環境汚染等の対策には、全人類規模で当たらなければなりません。 地球は人間だけのものではなく、全ての生物がここで生を営んでいるのです。他の生物なしでは人間は生きることができません。 このままなりゆきまかせで行くならば、いつかは自滅することでしょう。 医師が人類の病気を予防したり治療するように、生命科学は地球の医師となって働いてほしいものです。 (1976年9月14日 北海道大学創基百周年記念講演より)

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木村 資生

木村 資生 木村 資生(きむら もとお、1924年11月13日 ~1994年11月13日)は、日本の集団遺伝学者。中立進化説を提唱。日本人で唯一ダーウィン・メダルを受賞。
中立進化説とは、分子レベルの進化はダーウィン的な「サバイバル・オブ・ザ・フィッテスト」(適者生存)だけではなく、生存に有利でも不利でもない中立的な変化で「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」、すなわち、たまたま幸運に恵まれたものも残っていくという学説である。中立説は発表当初多くの批判を浴び世界的な論争を引き起こした。その後、この説は広く認められるようになり、現代進化論の一部となっている。

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北里 柴三郎

北里 柴三郎 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、1853年~ 1931年(昭和6年))は、日本の医学者・細菌学者・教育者・実業家。「日本の細菌学の父」。ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。
第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)だったのに惜しかったね。 名字の正しい読みは「きたざと」。北里が留学先のドイツで「きたざと」と呼んでもらう為に、ドイツ語で「ざ」と発音する「sa」を使い、「Kitasato」と署名したところ、英語圏では「きたさと」と発音され、一般的となってしまったらしい。

肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まる。父は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格。母は幼少時江戸育ち、嫁いでからは庄屋を切りもり。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼。柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わる。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。

1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮。翌年7月に廃止。熊本医学校に入学。そこで教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚める。マンスフェルトから特別に語学を教った柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになる。

1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学。在学中よく教授の論文に口を出し大学側と仲が悪く、何度も留年。頭良すぎた? 1883年(明治16年)には、医学士。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書く。演説原稿が残っている。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職。

留学時代
柴三郎は同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツのベルリン大学へ留学。そこで、コッホに師事し大きな業績を上げる。1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させる。さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞。柴三郎が受賞できなかったのは、運が悪かった? ペスト菌を発見だけでも十分ノーベル賞級では。でもこの時点はまだペスト菌は発見されていない。

論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から多くの招きのオファーを受ける。しかし、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に日本に帰国。

帰国後
北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」の烙印を押され、母校の東大医学部と対立する形に。それは単に東大を敵に回すことだけでなく柴三郎自身の研究者生命も危うくすることを意味していた。しかし、ベルリン大学へ留学緒方正規の紹介ではなかったか。弟子の成長を嫉妬したのであろうか? 多様な考えがあることは成長へのバネ。権威に胡坐をかいて既得権を守ろうとしたのか?

******************脚気
脚気(かっけ、beriberi)はビタミン欠乏症の一つ。重度で慢性的なビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患。軽度のものはチアミン欠乏症(Thiamine deficiency)と呼ばれる。心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起きることから脚気と呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心、しょうしん)を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。最悪の場合には死亡に至る。
リスクファクターには、白米中心の食生活、アルコール依存症、人工透析、慢性的な下痢、利尿剤の多量投与など。
日本では、白米が流行した江戸において疾患が流行したため「江戸患い」と呼ばれた。大正時代には、結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。1910年代にビタミンの不足が原因と判明し治療可能となったが、死者が1000人を下回ったのは1950年代。その後も1970年代にジャンクフードの偏食によるビタミン欠乏、1990年代に点滴輸液中のビタミン欠乏によって、脚気患者が発生している。 大日本帝国海軍で軍医の高木兼寛は、イギリスの根拠に基づく医療に依拠して、タンパク質が原因であると仮定して、洋食、麦飯を試み、1884年(明治17年)の導入により、1883年に23.1パーセントであった発症率を2年後には1パーセント未満に激減させた。その理論は誤っていたが、疫学の科学的根拠を得ていたわけ。

だが、当時医学の主流派は、理論を優先するドイツ医学を模範としていたことから高木は批判され、また予防成績も次第に落ちて様々な原因が言われ、胚芽米も導入された。これに対抗して、大日本帝国陸軍は白米を規則とする日本食を採用した。『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、死者総計の約2割、約4000人の死因が脚気であり、その後も陸軍は脚気の惨害に見舞われた。 農学者の鈴木梅太郎は、1910年(明治43年)に動物を白米で飼育すると、脚気類似の症状が出るが、米糠・麦・玄米を与えると、快復することを報告した。これを基にして翌年、糠中の有効成分を濃縮して「オリザニン」として販売したが、医学界においては伝染病説と中毒説が支配的であり、また農学者であって医学者ではなかった鈴木が提唱したこともあり、彼の栄養欠乏説は当時受け入れられなかった。

**鈴木 梅太郎**
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)~ 1943年(昭和18年)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を脚気の予防に使えることを発見したことで有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。文化勲章受章者。長岡半太郎、本多光太郎と共に理研の三太郎と称される。農芸化学者だったからか医学界にはなかなか認められなかったらしい。権威主義というかセクト主義。学問と言うのはすそ野の広さが大切だね。

1912年にポーランドのカジミェシュ・フンクが『ビタミン』という概念を提唱したが、日本帝国陸軍はなおも栄養説を俗説であるとしてさげすみ、外来の栄養説を後追いした。今日から観ると、陸軍主導の調査会には、真の原因を解明するだけの能力はなかったとも指摘されている。陸軍が白米の給食を止めて、麦を3割含む麦飯に変更したのは、海軍から遅れること30年の大正2年のこと。
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**東大教授・緒方正規、どうしちゃんたんですかね。柔軟性に欠ける権威主義。彼の弟子たちが勝手に忖度したのかもしれないけど。今でも、医学界にはこんな風潮残っているんでしょうか。山崎豊子の「白い巨塔」なんでいう小説もあるけど。
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日本に帰国した柴三郎は自分の希望する研究ができると思っていたはず。実際は北里の思う通りには行かなかった。東大と対立した柴三郎を研究者として暖かく受け入れてくれる研究所はどこもなく、学界に大きな力と人脈を持つ東大を恐れて誰も援助する者も無し。研究者・北里柴三郎はまさに孤立無援の状態であり、これが東大の恩師を敵に回した者の(科学の仮説に敵味方なぞないのにね)厳しい現実だった。そんな時、この北里柴三郎の危機的状況を静かに目撃していた福澤諭吉は海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれにふさわしい研究環境が用意されない日本の状況を深く失望。多大な資金援助により北里柴三郎の為の「私立伝染病研究所」を設立。そして、北里柴三郎は福沢に感謝して、そこの初代所長に。その後、私立伝染病研究所は国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」(現・東京大学医科学研究所)となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた。
しかし、学問上の対立を権力で封じ込めようとする悪癖。今でもあるみたいだ。そういえば脚気の原因を細菌とする説は、文学でも有名な森鴎外にも受け継がれてしまったようだ。

かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な対立が背景にあるといわれている。その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里柴三郎はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大を憎悪していた為、すぐに所長を辞任した。そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所。北里大学の母体)を設立した。そこで新たに、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

福沢諭吉の死後の1917年(大正6年)、北里柴三郎は福沢諭吉による長年の多大なる恩義に報いる為、「慶應義塾大学医学部」を創設し、初代医学部長、付属病院長となった。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。

また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらの状況であったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として「大日本医師会」が誕生した。その後、1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。

***緒方正規
緒方 正規(おがた まさのり、~1919年)は日本の衛生学者、細菌学者。東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。
1853年肥後国に熊本藩医緒方玄春の子として生まれる。古城医学校を経て、1880年東京帝大医学部を卒業。緒方洪庵なら有名だけと。

翌年ドイツのマックス・フォン・ペッテンコーファーのもとに留学、ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。また、1882年からはベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子であるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。
1000円 1884年に帰国。1885年には東大医学部の衛生学教室と内務省衛生試験所に着任し、衛生試験所に細菌室を創設する。同年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー宛に紹介状を書いている。 1885年に脚気病原菌説を発表するが、ドイツ留学中の北里はこの学説を批判した。現在では北里の批判が正しかったことが分かっている。この事件によって、北里は東大の医学部と対立しつづけることになる。赤痢や後述のペスト菌の研究でも二人は対立しあい、研究面で何かと対決することが多かったが、私生活では晩年まで交流が続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を述べている。緒方の弟子たちが悪かったのか。1886年帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。

1896年、台湾でペストが流行したときに現地調査を行い、ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指摘した。北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実はペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤りを北里は認め自説を撤回している。また、ペストはネズミのノミを媒介として流行することを証明し、ドイツの専門誌に発表した。
1898年に医科大学学長をつとめ、東京学士会院会員、第5回日本医学会総会会頭などを歴任。 1919年、食道癌を患って静養していたが、気管支・肺に転移し、肺壊疽も併発して同年7月30日に死去。

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島津製作所の歴史

島津製作所の歴史
島津製作所は、◯に十字のロゴマークの他、ものづくり精神を堅持し続けている不思議な存在だ。下記のその秘密の一端を紹介した記事があった。丸に十字。歴史に詳しい方ならこれ島津藩の家紋か。
京都の誇り、島津製作所の凄まじさを知っているか?
本能の赴くままに新市場を開拓した島津製作所のあり得ない歴史:2020.9.18(金)(鵜飼 秀徳:ジャーナリスト、一般社団法人良いお寺研究会代表理事)
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島津本社  京都には京セラ、任天堂、オムロン、村田製作所、ローム、日本電産など名だたる大企業が存在する。創業100年を超える企業も少なくない。帝国データバンクの調査では、京都における創業100周年を超える「老舗企業」は1403社(2018年11月時点)。全体に占める老舗企業の割合は4.73%(全国平均2.27%)だ。これは、全都道府県の中でトップである。**確かに京都には独自の技術を売り物にする個性派企業が多い。
   例えば、東京にも進出した百年超企業では、和菓子の虎屋、和文具・線香の鳩居堂、陶磁器のたち吉、呉服商の大丸百貨店などがある。花札やトランプ製造に端を発する任天堂も1889(明治22)年の創業で、2019年に創業130周年を迎えた。こうした京都の老舗企業から学ぶとするならば、業態をさほど変えない「保守的経営」こそが、組織を長持ちさせる永続のカギかもしれない。
 だが、京都にありながらこの百年超企業(島津)は、異色中の異色。創業は任天堂よりも古い1875(明治8)年(前身の店はもっと古い)。
 連結売上高3854億円(2020年3月31日現在)、グループ社員数1万3200人を擁する精密機器メーカーだ。最近は新型コロナウイルスPCR検査試薬の発売で注目を集めた、最先端テクノロジーの会社でもある。
 だが、島津製作所の変遷は更に興味深い。とくに戦前はカメレオンのように事業内容を七変化。それぞれが何の脈絡のなさそうな製品を数々生み出してきている。現に、「えっ、これも島津製作所が最初なの?」という「日本初」の製品がいくつもある。
 製品だけではない。島津製作所から派生した企業は多い。自動車用バッテリー世界シェア2位のGSユアサ、塗料大手の大日本塗料、フォークリフトで世界3位の三菱ロジスネクストなどは島津製作所が前身企業。京セラや日本電産、村田製作所など売上高ベースで1兆円を超える巨大企業も、その創業時は島津製作所と何らかの協力関係を持ってきたようだ。
**つまり、次から次へを新規のベンチャー企業を生み出す母体ともなっている。

仏具  以下は、知られざる島津製作所の「別の顔」。
 島津製作所はもともと仏具屋であった。江戸時代末期には、西本願寺門前に店を構えていた。島津が手がけた仏具はお寺に納める鳴り物や装飾具、仏壇などに備えられる香炉、花立て、蝋燭立てなどであった。**今でも京都にはこんな店一杯ある。

 仏具業はそれこそ、大寺院がひしめく京都にあって安定的なビジネスだ。今でも大本山クラスの寺院の門前には、創業数百年といった仏具店が軒を並べている。
 ところが、過去に一度だけ仏具業全体が廃絶の危機に立たされた局面があった。明治維新である。それまで大切にしていた寺院や仏教的慣習を破壊する「廃仏毀釈」が吹き荒れた時代だ。  背景には、国家仏教から国家神道への切り替えにあった。神仏分離令という法律が出され、習合状態であった仏(寺院)と神(神社)を明確に切り分けよ、ということになって寺院が壊されたのだ。寺院が壊されるような時代では、仏具も不要になる。

島津源蔵  同時期、京都は禁門の変や鳥羽伏見の戦いによって、丸焼けになっていた。物価は高騰し、治安は悪化を極め、京都は深刻な政情不安に陥っていた。京都が荒廃する中、首都が東京に遷り、多くの人々が天皇の後を追って京都を去っていった。この時、先に紹介した和菓子の虎屋は東京に進出している。それを裏切りと捉えている京都人は多い。

だが、島津製作所の創業者で、仏具職人だった島津源蔵(初代)は京都に残って復興の旗手となることを誓う。 当時、京都府政は「教育施設の整備」を復興政策の最優先に掲げた。例えば、全国に先駆けて小学校が整備されたのが京都であった。新政府による学制発布は1872(明治4)年だが、京都ではその3年も前に64校も開校している。

 また、お雇い外国人を呼び寄せ、欧米の科学技術を教える機関「舎密局(せいみきょく)」などが開かれた。舎密局を通じて、西洋諸国から最新の理化学機器が我が国にもたらされたことは、初代源蔵の好奇心を大いに刺激した。小学校の整備にともなって学校の授業で使用される理化学機器の需要は高まりを見せ、源蔵はそこに商機を見出す。
**しかし、こんな時代に実験器具の製造に眼をつける人も稀だ。実験器具なんてみな研究者自身が苦労して手作りするのが当たり前だったから。
**舎密とはchemistryの音訳。つまり、化学のことだ。化学実験器具メーカーとなったのか。

「お寺が学校に変わるのは時代の流れや。仏具はもうあかん。いまのうちに科学の知識を習得して、実験器具を手がけるんや。そうや、西洋鍛冶屋や――」
 時代の変化に飲み込まれるのではなく、それを逆手にとって推進力にしていく。そうして、島津源蔵は理化学機器の製造・修理を手がける島津製作所を創業する。

気球 電気自動車
日本海海戦の「敵艦見ユ」を可能にした島津のバッテリー。島津製作所は様々な発明・開発を成し遂げることになる。
 1877(明治10)年には日本で最初に人間を乗せた気球を揚げている。ライト兄弟が飛行機で有人飛行を成功させるのが1903(明治36)年だから、その四半世紀も前に島津製作所の技術で日本人が空を飛んでいたのである。 **これは初耳です。歴史の教科書に載ってないのでは?

梅治郎  明治期には、初代源蔵の息子である梅治郎(二代源蔵)によって、現代生活に欠かせないアイテムが開発、商業化された。バッテリー(蓄電池)だ。バッテリーを搭載する製品は、自動車やバイクはもちろん、ノートパソコン、スマートフォンなど、例を挙げればキリがない。近年は電気自動車が普及し出し、高性能バッテリーの需要は増している。

 バッテリーを世界で最初に発明したのはフランスの科学者、ガストン・プランテで1859(安政6)年のことであるが、プランテの原理を使って、日本で最初にバッテリーを開発したのが二代源蔵であった。このバッテリー開発が、島津製作所に大きな転機をもたらした。折しも、満州や朝鮮半島の権益を巡り、日露戦争に発展していた時期だったからだ。

 当時の主戦場は「海(軍艦)」。ロシアが誇る太平洋艦隊と、日本海軍連合艦隊はほぼ互角であった。そこで、大海原の中でいかに敵艦の情報をつかみ、先手を撃つか。情報戦略こそが戦局の明暗を分ける。そこで連合艦隊の無線の電源として搭載されたのが「島津のバッテリー」だった。

 日本海海戦において、連合艦隊司令長官東郷平八郎は「敵艦見ユ」(敵の艦隊が見えた)といち早く打電。迎え撃つ体制の連合艦隊は、常に風上にたって有利に戦いを進め、バルチック艦隊を撃滅。日露戦争における影の立役者が、島津製作所であったとはほとんど知られていない事実。

   このバッテリー事業はその後、日本電池の創業へ。現在、クルマのバッテリー世界シェア2位を誇るGSユアサの前身企業の1社。なお、創業者島津源蔵は日本で最初に自社製のバッテリーを積んだ電気自動車(デトロイト2号)を走らせた人物とのこと(実機はGSユアサ本社に展示されている)。

人体模型 仏具屋の技術から生まれた「島津のマネキン」!!  さらに島津製作所は当時、意外なものを手掛けている。マネキンだ。島津の源流は仏具業である。そして、仏教関連産業が衰退し、教育用理化学機器の需要が高まる中で、人体模型が島津の手によって手掛けられた。そこには仏具商時代の鋳物仏具という精緻なものづくり技術がベースにある。それが西洋医学や学校における科学教育の発展とともに、人体模型という新たなる分野に昇華していく。
 1909(明治42)年、二代源蔵はアメリカのシアトルで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会に人体模型を出品し、見事に大賞を受賞。そして1923(大正12)年9月に起きた関東大震災によって、人体模型事業は大きな画期を迎えることになる。
震災後、日本は生活物資の国際支援を受ける。その中にアメリカから送られてきた大量の古着が。その結果、洋服文化が一気に拡大。
 そこで国内の繊維業界は堰を切ったように洋服製造に着手する。すると、販売促進用としてマネキンの需要も生まれる。島津製作所はいよいよ、自社製マネキン製造に打って出る。島津製作所は人体模型を基に改良に改良を重ね、ファイバー素材を用いたマネキン製造に成功する。この時、京人形にヒントを得たとされる。 「島津のマネキン」はその後、ワコールグループのマネキン会社、七彩などを誕生させる。国内マネキン企業25社のほとんどが島津製作所に関係しているらしい。「日本アパレルの祖」が島津製作所と言えば、チョット違う気がするが。

田中耕一 現代に息づく島津製作所のもの作り精神!!
 仏具、気球、バッテリー、マネキン。すべてが、脈絡のないようで、源流では繋がっている。時代の潮流をつかみ、自由な発想に基づいて、新しいものに果敢に挑戦する。この島津のものづくりの精神は、現代にもしっかりと受け継がれてきているのか。
 後に社員である田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞し、このコロナ禍においてはPCR検査試薬をいち早く開発、販売を実現させたこととも決して無縁ではない。
 詳しくは『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(鵜飼秀徳著、朝日新聞出版、1400円)をご覧いただければ幸いである。
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以上、ご参考までに。

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沢田 敏男先生

沢田 敏男先生 沢田 敏男(1919年〈大正8年〉~2017年(平成29年)10月18日)は、日本の農学者(農業農村工学)。学位は農学博士(京都大学・1955年)。京都大学名誉教授、京都大学農学部教授、京都大学農学部学部長、京都大学総長、農業土木学会会長などを歴任した。
農業土木、ダム工学を専攻する農学者、工学者である。三重県伊賀市出身。学位論文「浸透水の流動に関する研究」により、1955年に京都大学より農学博士を授与された。京都大学で教鞭を執るだけでなく総長にも就任し、のちに名誉教授の称号を贈られた。2017年10月18日午後0時半に京都市内の病院で心不全のため死去。

灌漑ダムや干拓施設に関する理論的研究を行った。特に、ロックフィルダムの変形や透水の諸問題を解決する有用な設計法を多数確立。これらの工法は、各地のダム建設時に適用されたという。
京都大学総長としては、留学生受け入れの拡充など「国際化」路線を確立し、「将来計画検討委員会」発足でその後具体化する京大改革構想の策定に着手したことが注目される。一方、1970年代以後、竹本処分(1977年)を経てなお一定の勢力を維持し「日本のガラパゴス」と称された京大学生運動に対しては、「学生寮の正常化」政策を進めることでその支持基盤を弱めようとした。1982年12月、沢田は評議会で吉田寮を廃寮にするための「在寮期限」(1986年3月31日)の設定を取り決めたが、吉田寮自治会や他の学生の猛反発によって事態はいっそう混乱し、「在寮期限闘争(紛争)」と呼称される新たな学生運動が盛り上がってしまった。この問題の解決は後任の西島安則総長時代に持ち越され、吉田寮も存続した。

先輩には奥田東がいる。彼も1961年に農学部長、1963年には京都大学総長となり2期6年を務めた。当時は学園紛争の時期に当たり、国立大学協会会長として各地の紛争解決にも尽力した。後輩には南勲先生がいる。実は、彼が私の学生時代の指導教官だった。

僕たちの学生時代は、ちょうど学園紛争のさ中。奥田東先生も沢田 敏男先生も過激化する学生達とまじめに体力勝負で立ち向かった猛者。他大学では機動隊の導入等強権的な手段を取らざるを得ないとみられる状況下でも、監禁状態の中でも最後まで話し合いの姿勢を貫いた烈士ともいえる。
沢田 敏男先生は、柔道で鍛えた頑強な体力と、万年青年の熱意を持ち、日本の農業や農業土木の将来を語らせれば止まらなくなる愛すべきキャラクターの持ち主であった。農水省の後輩達に聞けば、ゴルフの腕も相当なもので、90歳を越えてからもその飛距離は若手が敵わないとか。

残念ながら、学生時代はそんなすごい人とは思わなかった。そもそも講義は滅茶滅茶下手くそで、ある意味聞くに堪えない。古色蒼然とした自分のノートを教室で読み上げ、一字一句書き取れと言うのだから。でも、昔の人はそのような努力をして知識を手に入れたのだろう。
まだ、ご健在と思ってネットで調べて見たら、ご逝去されたことを知った。ただご冥福を祈るばかりである。

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羽仁 五郎

羽仁 五郎 羽仁 五郎(はに ごろう、1901年(明治34年)~1983年(昭和58年))は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
群馬県桐生市出身。父親・森宗作はは第四十銀行の創立者で初代頭取、舘林貯蓄銀行頭取などを務めた。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部に入学。数ヶ月後に休学し、同年9月、ドイツで歴史哲学を学ぶ。留学中、糸井靖之・大内兵衛・三木清と交流し、現代史・唯物史観の研究を開始。「すべての歴史は現代の歴史である」というベネデット・クローチェの歴史哲学を知り、影響を色濃く受ける。1924年(大正13年)、帰国し、東京帝国大学文学部史学科に入る。 マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。1983年(昭和58年)、肺気腫のため死去。

1926年(大正15年)4月8日、羽仁吉一・もと子夫妻の長女説子と結婚。「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、森姓から羽仁姓となる。1927年(昭和2年)、東京帝国大学卒業。同大史料編纂所に嘱託として勤務。1928年(昭和3年)2月、日本最初の普通選挙で応援演説をしたことで問題となり辞職。同年10月三木清・小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊。1932年(昭和7年)、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。1933年(昭和8年)9月11日、治安維持法容疑で検束。留置中に日本大学教授を辞職。強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放。その後、『ミケルアンヂェロ』その他の著述で軍国主義に抵抗し多くの知識人の共感を得た。中でも『クロォチェ』論は特攻隊員の上原良司の愛読書となり遺本ともなった。1945年(昭和20年)3月10日、北京で憲兵に逮捕され、東京に身柄を移され、敗戦は警視庁の留置場で迎え、10月4日の治安維持法廃止を受けてようやく釈放された。1947年(昭和22年)、参議院議員に当選[2]し、1956年(昭和31年)まで革新系議員として活動。国立国会図書館の設立に尽力する。日本学術会議議員を歴任。
マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。1983年(昭和58年)、肺気腫のため死去。
息子は、ドキュメンタリー映画監督の羽仁進、孫が羽仁未央。甥はしいたけの人工栽培を発明した農学者の森喜作。晩年には家元制度打倒を唱える花柳幻舟と交際があり、羽仁は花柳を「ぼくのガールフレンド」と呼んでいた。志士多彩だね。

基本的にはレベラルな思想の持ち主だったのかな。当時世界を席巻したマスクス主義も今の若者、実は僕達にもよく内容は理解できない。一種の流行なようなものだったのか。生粋のマスクス主義の方がいたら反論を期待したいのだけど。羽仁 五郎さんの旧姓は森さんだって。そういえば数学者で教育評論家でもある森毅先生とも容貌が何となく似ている気もするが血縁関係はあるのかどうかは知らない。
【都市の論理】
都市の論理で理想とする都市は、中世の自治都市。封建制度が崩壊して都市防衛を自力で行う自主独立の都市に民主主義の原点を求めたようだ。日本では堺や博多等も含まれるかもしれない。古代都市アテネもこのようなモデルに含まれるのか。でもアテネの民主政治は実はペリクレスの独裁を最盛期にその後は衆愚政治に陥り無益な戦役を繰返し没落する。古代ローマ人達はアテネ式の民主政治はダメ(愚劣)だと認識。また、当時の自治都市が自治を続けられるのは自前の軍事力が担保されないといけない。現在も力が支配する世界かと言えば半分は正しく、部分的は正しくない。例えば、地方自治についてはある程度の枠組みの範囲で自主独立が可能なはずだ。

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森 毅

森 毅 森 毅(もり つよし、1928年1月10日~2010年7月24日[1]):
日本の数学者、評論家、エッセイスト。京都大学名誉教授。専攻は、関数空間の解析の位相的研究。東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区)生まれ。大阪府豊中市育ち。大学教授時代より亡くなるまで京都府八幡市に在住。小学生の頃から塾へ通うなどしていたが、『戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生、要領と度胸だけは抜群の受験名人、それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた』という(本人著『数学受験術指南』より)。

大阪府立北野中学校(旧制)(現:北野高校)在学中から数学が得意であった。その後、旧制第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)へ進学。受験した理由は戦時下にあって最もリベラルが残っている、と評判であったからだそうだ。在学中の二年生の時に終戦を迎え、東京帝国大学理学部数学科へ。この頃は、東大では医学部よりも理学部物理学科の方が難関であったらしく、『数学科なんて入りやすいほうだった』(同著)という。 数学・教育にとどまらず社会や文化に至るまで広い範囲で評論活動を行う。歌舞伎、三味線、宝塚歌劇団は在学中より熱中し、これらもエッセイの材料としている。北海道大学理学部助手を務めた後、1957年京都大学教養部助教授に就任。1971年、教授昇任の審査の際に、助教授就任後の数学者としての業績は論文が2本だけだったため、「これほど業績がない人物を教授にしてよいのか」と問題になったが、「こういう人物がひとりくらい教授であっても良い」ということで京都大学の教授となった。

数学教育に関していえば、民間の教育団体である数学教育協議会の活動との関わりが挙げられる。京大時代は名物教授の一人として人気を博す。40代半ばから一般向けの数学の本で知られ、1981年刊行の『数学受験術指南』はロングセラーとなった。また浅田彰は森に数学を習い、ニューアカ・ブームの当時は盛んに森を称揚していた。「一刀斎」と号する。「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが教育に関する持論。新聞・テレビなどのマスコミでも広く活躍。また、文学・哲学についても造詣が深く、『ちくま文学の森』『ちくま哲学の森』などの編集に加わった。萩原延壽とは三高時代の同級生で親交深かった。2010年7月24日午後7時30分、敗血症性ショックのため大阪府寝屋川市内の病院で死去。

彼は確か大学の教養部の構内で何回かお目にかかった気がする。一刀斎とかの素人向けの数学の説明が面白かったように。徹底したリベラリストで一切の拘束を忌み嫌うところがある。庶民に語りかける教育学者及び哲学者と言った感じだった。

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ジョン・ガードン

ジョン・ガードン ジョン・バートランド・ガードン(Sir John Bertrand Gurdon, FRS, 1933年10月2日 - )は、イギリスの生物学者。専門は発生生物学。ケンブリッジ大学名誉教授。山中伸弥と2012年度ノーベル生理学・医学賞を共同授賞した。
山中伸弥は、ガードンとのノーベル賞同時受賞に関して、「ガードン先生との同時受賞が、一番うれしいと言っても過言ではない。ガードン先生はカエルの研究で、大人の細胞が受精卵の状態に戻るということを核移植技術で証明した。まさに、私のしている研究を開拓してもらった」と述べている。 ところで、写真は左は山中伸弥教授、右はジョン・ガードン博士。真ん中はクローン羊を開発したイアン博士。

幼少期から昆虫に興味を抱き、イートン校では何千匹もの毛虫を蛾にふ化させ教師に好かれることはなかった。15歳の通知表では「生物学分野への進学を考えているならば全く時間の無駄である。そんな考えは直ちに放棄すべきこと。」と記されている。イートン校の生物学クラスでは同級生250名の中で最下位。他の理系科目も最下位グループが定位置であった。父からは軍人か銀行員になるよう言われたが、イギリス軍の入隊検査に不合格となりオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジへ進学した。

オックスフォード大学入学当初は古典文学を専攻したが、入学担当者の手違いで理学専攻生枠が30名欠員となっており、生物学専攻への転籍に成功した。ガードンはこの転籍を「幸運な出会い」と後述している。大学院では昆虫学の研究でPh.D.取得を目指したが申請却下され、核移植の研究を行うことに。この核研究が後のノーベル賞受賞研究へとつながる。オックスフォード大学での指導教授はマイケル・フィシュバーグ博士で核研究に関する手ほどきを受けた。ガードンは晩年になってもフィシュバーグとの出会いに感謝している。

1960年にオックスフォード大学でPh.D取得後、ポストドクターとしてカリフォルニア工科大学で学ぶ。フィッシュバーグから新しい分野の研究を行うよう助言を受け、カリフォルニア工科大学ではボブ・エドガー教授の下でファジー研究を行った。しかしファジー研究は上手くいかず、1年後に胚研究へ戻る。カリフォルニア工科大学での研究は上手く進まなかったが、未知の研究領域を探究したことで科学者としての見識が広まったとフィシュバーグとカリフォルニア工科大学へ感謝するコメントを残している。
1963年にフィッシュバーグがジュネーブ大学へ移籍したことに伴ない空席となったオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジ動物学講座へ復帰(1963年 - 1971年)。この間、クライスト・チャーチカレッジで動物学講座助教授・准講師(准教授級)を経て、1971年にマックス・ペルツ教授の招きでケンブリッジ大学へ移籍した。1972年に新設されたMRC分子生物学研究所で研究を行い、1979年にMRC生物学部門長、1983年にケンブリッジ大学分子生物学講座教授、1989年ケンブリッジ大学ウエルカムトラスト/UKがんセンター・細胞生物学研究所を設立。

1971年に王立協会フェロー(FRS)に就任。生物学研究の功績により1995年にイングランド国王からナイトの勲位を授与され“サー (Sir)”の称号を得る。1994年から2002年までモードリン・カレッジ長を務めた。

カエルの体細胞核移植により、クローン技術の開発に成功した。この研究がES細胞やiPS細胞の開発に結びつくことになった。その先達としての業績で、2012年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。2004年には細胞生物学研究所がガードンの功績を讃えて、ガードン研究所へ改称された。

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山中研究とガードン研究:分化と未分化、カエルとヒトをつなぐ「初期化」;道上達男

何を隠そう、私もiPS研究のごくごく一端を担っている。1年に一度、研究成果を報告する会があり、山中先生をお見かけする。テレビからも十分のその人柄は伝わってくるが、会合でも大きな会場の端の方に座り、いわゆる「前に前に」という方ではない。一方で、自分のラボの関係者とは気さくに会話をしていて、そういうところにすごく親近感を感じる。

京大の山中伸弥教授とイギリスのジョン・ガードン博士が2012年のノーベル医学・生理学賞を受賞したことは、受賞直後から数多く報道され、ご存じの方も多いと思う。特に「iPS細胞」は受賞前から既に有名であり、うちの大学の理系学生なら「iPS化って何?」という問いに「遺伝子を導入して分化細胞を未分化細胞にすること」といったくらいには答えを返せると思う(期待)。これまで動物細胞では分化細胞を、多分化能を有するような未分化状態に戻すことは無理だとされてきた。それをたった4つの遺伝子で可能としたところが衝撃的であり、最初の論文発表からわずか6年での受賞という点からもこの研究の重要性が理解できよう。

一方で、ガードン先生の研究内容は必ずしも日本では広く知られていない(発生学の研究としてはもちろん有名である)。ガードン先生の受賞対象は「核移植による細胞の初期化」であるが、簡単に言うとクローン生物の作出であり、それを(分化細胞の核を使って)動物で最初に成功させた研究ということになる。世の中ではヒツジのドリーが最初のクローン動物と思っている方が多いかもしれないが、ドリーの発表は1997年、アフリカツメガエルを使った彼の初期化実験は1975年、つまりそれより20年以上前の成果である。

初期化とはゴールの細胞、あるいはそれに内包される核をスタート(に近いところ)に戻すことを意味する。これらの研究が注目される中で、改めて採り上げられる機会が増えた概念がある。C.H.Waddingtonが1950年代の著書『発生と分化の原理』で提示した「運河モデル」は細胞の分化・未分化に関するもので、細胞の分化状態を球に例え、球が山の上(未分化)から下(分化)に転がり落ち、下の谷の部分で止まるようなものであるとする。お分かりだと思うが、山中研究はボールを山の「下から上に」転がせたわけであり、このような発生学の概念を覆したとも言えるのである。

さて、人間との関わりを考えた時、これらの研究の位置づけはどうなるだろう。ガードン研究の先にはドリーがあり、更にはヒトクローン胚作製の捏造問題があった。ヒトクローンの作出には現在も成功していない。山中研究の先には再生医療応用があるが、iPS細胞の安全性の問題、再分化の方法論など、これからやらなければいけないことが山積している。一部のマスコミはiPS細胞を人工万能細胞と訳すが、少なくとも現時点で「万能」という言葉を平然と使うことには大きな抵抗がある。また、iPS細胞樹立前から広く用いられていた胚性幹細胞(ES細胞)はiPS細胞樹立のヒントにもなり、ES細胞の免疫拒絶の問題を回避することがiPS細胞の有利性にもつながり、実は同じことがクローン胚由来のES細胞によっても可能である…といったように、両者の関係は実はES細胞と併せ、やはり密接に関係していると言える。

私自身、ツメガエルの初期発生とiPSの分化誘導系の研究を両輪で行っているので、この二人の受賞はそういう意味でも感慨深い。ちなみに、昨年9月にツメガエル研究の国際学会がフランスで行われ、そこにガードン先生も出席された。実は全く同じ日程で日本ではiPS研究のシンポジウムがあり、ここには山中先生が出席されている。ノーベル賞受賞発表のわずか1ヶ月前のことであるが、なんか因縁(?)めいたものをこんなことでも感じる(私は日程がずれていたら両方出席する予定だったのだが、海外を選択してしまいました(苦笑))。

さて、これらの一見異なる研究がなぜ同時にノーベル賞を受賞したかというと、両者の共通点として先に書いた「初期化」というキーワードが浮かぶ。山中研究はごく限られた数の遺伝子を核に導入することで、分化細胞の中にある核が初期化するのに対し、ガードン研究は分化細胞の核を脱核した未受精卵に移植することで、細胞の影響を受けて移植した核が初期化される(図1)。では初期化とは何か? 人間をはじめとする動物のほとんどは、全く同じ細胞がただ集まっているのではなく、個々の役割を果たす様々な種類の細胞から成り立っている。これらは全て1つの細胞(=卵)から生み出され、1細胞がスタート、個体それぞれの細胞がゴールだと考えることができる。

ガードン先生も、学生のポスターや発表にも耳を傾け、熱心にメモをとるような方であり、山中先生に通じるところがあるような気がする。逆に、残念ながら今のマスコミ、あるいは国の風潮として、これらの事についてお祭りのように騒ぎ、有頂天になり、万能だと過信する危惧があるが、こういうことに踊らされず謙虚かつ真摯な態度で正しく事実を理解し、研究を行っていきたいものである。栄誉を得た先生方自身がそうであるように。 (生命環境科学系/生物)

受精卵からはじまった細胞が分化していく過程で、遺伝子のオン・オフが固定化されます。この固定化の選択は、細胞が分裂するときも引き継がれていきます。この固定化が緩くて細胞の運命が途中で変わってしまっては、適切な細胞、ひいてはからだをつくれなくなるため、厳重に固定化された大人の細胞の運命を巻きもどすことは不可能と考えられていました。しかし、この定説をくつがえしたのが、山中伸弥教授とともにノーベル賞を受賞したジョン・B・ガードン教授でした。
ガードン教授は、おたまじゃくしの腸にある細胞から核を抜き出して、除核した卵子に移植しました。すると、通常の受精と同じく、おたまじゃくしが生まれることを発見したのです。しかし、「おたまじゃくしのような若い幼生の細胞核だからではないか」という批判がありました。そこで、1975年、ガードン教授は大人のカエルの皮膚細胞から採取した核を2段階にわたって卵子に移植しました。その結果、世界で初めて、大人の細胞核から「クローン動物」を生み出すことに成功しました。つまり、ガードン教授は「再び受精卵となる」という能力の一端は、卵子が持っているのではないか、ということを示したのです。

しかし、こうしたクローンの作成は、カエルだからできることで、ほ乳類では難しい、という意見が根強くありました。ところが1997年にイギリスのロスリン研究所から発表されたクローン羊ドリーの誕生によって、ほ乳類でも「核移植によるクローン個体」が作れることが証明されました。ドリーは、分化してしまっていた大人の提供羊の細胞とまったく同じ遺伝情報を持って生まれてきました。ほ乳類でも、卵子のなかに「体細胞を全能性胚細胞に初期化する能力」があることが証明されたのです。ただ、依然として体細胞クローンの成功率は低く、無事にうまれても、初期化が不完全なことに起因する先天的な疾病を発症する可能性が高いことがわかっています。

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屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ: Tú Yōuyōu)

屠 呦呦 屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ: Tú Yōuyōu、1930年12月30日~ )は中国の医学者、医薬品化学者、教育者。多くの命を救った抗マラリア薬であるアルテミシニン(青蒿素)とジヒドロアルテミシニンの発見者として知られている。アルテミシニンの発見およびそれを使ったマラリア治療は、20世紀における熱帯病治療、南アジア・アフリカ・南米の熱帯開発途上国での健康増進を、飛躍的に進歩させたとみなされている。屠は2011年にラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞を、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。中国本土で教育を受け且つ研究を続けた生粋の中国人がラスカー賞及びノーベル賞を受賞したのは、屠が初めて。

経歴
屠は1930年12月30日に中国・浙江省の寧波生まれ。名前は『詩経』の一節「呦呦鹿鳴 食野之苹(ゆうゆうとして鹿の鳴くあり、野のよもぎを食らう)」に由来するとか。1951年に北京大学医学院に入学、薬学科で学び、1955年に卒業。その後、2年半のあいだ伝統的中国医学を学んだ。卒業後、北京の中国中医研究院(現在の中国中医科学院)に勤めた。改革開放の後、1980年に初めて研究員に昇進し、2001年に博士課程における相談役 (academic advisor) に昇進した。現在、彼女は科学院の首席研究員である。

2011年のラスカー賞受賞に際して、「全人類の健康のために戦い続けることは研究者の責務です … 私がしたことは、祖国が私に授けてくれた教育への恩返しとして、私がしなければならなかったことです」と語り、受賞を喜んだ。「私にとって、多くの患者の治癒を見ることがより喜ばしいことです」とも語る。それまでの何十年もの間、屠は「人々からほとんど忘れ去られた」無名の存在だった。2007年のインタビューによると、屠の生活環境は非常に貧しいものだった。彼女のオフィスは北京・東城区の古いアパートにあり、暖房も滞りがちで、電化製品といえば2つだけ、電話機と、薬草サンプル保存用の冷蔵庫しかなかった。

屠は「三無科学者」と言われていた。まず彼女は大学院に進んでいない(当時の中国に大学院制度はなかった)。また海外での教育・研究経験が無い。そして中国科学院・中国工程院という中国の国立研究機関に属していない。1979年まで中国に大学院制度は無く、その点で他国と大きな隔たりがあった。彼女は1949年の中国建国以降における中国医学界の第一世代を代表する存在とみなされている。

家族
屠の夫は寧波効実中学 (日本の高等学校に相当する元私立校)の同級生で、工場労働者をしていた。二人の娘がおり、姉はイングランドのケンブリッジ大学に勤務しており、妹は北京に住んでいる。屠がマラリア研究を始めた頃、彼女の夫は労働改造所で強制労働させられており、二人の娘はまだ幼かった。

研究背景
屠は1960年代から1970年代にかけての文化大革命の時期に研究を続けていた。この時期、科学者たちは毛沢東思想により最下層の階級(いわゆる「臭老九」)とみなされていた。この頃、中国の同盟国である北ベトナムは、南ベトナム・米国とベトナム戦争を戦っていたが、マラリアで多くの死者を出し、従来の特効薬であるクロロキンに対する抵抗性が出始めていた。マラリアは中国南部の海南、雲南、広西、広東でも主な死因の一つだった。毛沢東は523計画という新薬開発の秘密プロジェクトを1967年5月23日に立ち上げ、屠はそのプロジェクトのリーダーに指名された。

以下、主な研究内容↓
住血吸虫病: 屠はそのキャリアの初期にミゾカクシの研究をしていた。これは20世紀前半に華南で流行した住血吸虫症の薬として、中国医学で伝統的に使われている薬草である。

マラリア
当初、世界各地の科学者が24万もの合成物を検査したが、いずれも失敗だった。1969年、当時39歳だった屠は、中国の薬草を調べることを考えていた。彼女はまず中国伝統医学の古書、民間療法を調査し、中国各地のベテラン中医を訪ね歩き、「抗マラリアのための実践的処方集」と名付けたノートを作った。そのノートには640もの処方がまとめられていた。また彼女の研究チームは1971年までに、2000もの伝統的な中医の調剤法を調べ、薬草から380もの抽出物を取り出し、マウスで試験した。

そのうちの一つの合成物に効果が認められた。マラリアの特徴である「断続的な発熱」に使われるヨモギの一種クソニンジン(黄花蒿)からの抽出物が、動物体内でのマラリア原虫の活動を劇的に抑制することを突き止めた。屠が編み出した抽出法は、抽出物の薬効を高め、かつその毒性を抑えるものだった。プロジェクトの研究会で屠が発表したところによると、その調合法は1600年前に葛洪が著作した文献に『肘後備急方』(奥の手の緊急処方)という名で記されていたという。尚、アルテミシニンの有効性を最終的に証明したのは、屠とは別の中国人研究者だとの指摘もある。

当初、屠たちは文献どおりに熱湯で抽出を行なったため効果が得られなかったが、熱が植物中の有効成分を損なったのではないかと屠は考え、代わりに低温のエーテルを使って有効な合成物を抽出する手法を提案した。マウスとサルを使った動物実験で、この薬は充分な効果が認められた。その上で、屠はヒトとしての最初の被験者となった。「この研究グループのリーダーとして、私には責任がありました」と彼女は語った。薬の安全性が分かり、その後に実施したヒトの患者への臨床試験も成功した。

1972年に彼女と共同研究者たちはその純物質を取り出し、「青蒿素」と名付けた。これは欧米ではアルテミシニンと呼ばれており、特に開発途上国で多くの命を救うことになった。屠はアルテミシニンの化学構造と薬理作用も研究し、研究グループはアルテミシニンの化学構造を初めて明らかにした。1973年に屠は、アルテミシニン分子のカルボニル基を調べているさなか、偶然ジヒドロアルテミシニンの合成に至った。屠の研究は、1977年に匿名で発表された。

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ルドルフ・シェーンハイマー

シェーンハイマー ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolph Schoenheimer、1898年5月10日~1941年7月11日)は、ドイツ生まれのアメリカ合衆国の生化学者。代謝回転の詳細な調査を可能にする、同位体を用いた測定法を開発した。 ドイツのベルリンで生まれ、ベルリン大学医学部を卒業。その後、ライプツィヒ大学、フライブルク大学で生化学の教鞭を執った。

1933年にコロンビア大学に移り、生物化学部門に参加する。ハロルド・ユーリーの研究室の研究者やコンラート・ブロッホと共に、安定同位体を使用して生物が摂取するエサをマークし、生体内での代謝を追跡する方法を確立した。さらにコレステロールが動脈硬化症の危険因子であることを発見する。1941年、シアン化合物で自殺。

ルドルフ・シェーンハイマー博士は、いま盛んに「動的平衡」の考えを唱えておられる福岡伸一博士の尊敬する画期的なアイデアを最初に提唱した方のようだ。福岡伸一博士は、また「マリス博士の奇想天外な人生(キャリー・マリス著)」の翻訳もされている。

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「生命の神秘は、神が作ったものだから追及しきれない」という時代から、遺伝子がすべて解明される時代に移り、生命も機械部品のように、それぞれの役割が明確に捉えられる時代になった。「機械論メカニズム」という視点。 それ以来、世界を分けて、分けて、小さくして、私たちは生命の機能を解き明かし、進化してきた。 福岡氏が大学の研究室に入った頃、その流れはますます強まっていた。生物を個別にみるのではなく、生物全体で捉える「分子生物学」という新しい流れが生まれていた。幼少時代、昆虫の新種を見つけることを夢みていた福岡氏は、細胞という巨大な森の中で、新種の細胞を見つけることになった。

しかし、細胞の役割を機械的に解明しようとすればするほど、それだけでは解明できない壁にぶつかった。その時に目にしたのがルドルフ・シェーンハイマーのこの言葉だった。 “生命は機械ではない、生命は流れだ” 。 機械論に寄りすぎた生物学に対し、シェーンハイマーは独自のアプローチをした。人間はなぜ食べつつけるのか?機械論者はこう考える。「食べ物は、人間が動き続けるためのエネルギー。車にとってのガソリンのようなもの。だから常に食べ物を摂取し、その燃えカスを老廃物として排泄するのだ。」 「それは本当だろうか?」シェーンハイマーは、食べ物を細胞レベルで着色し、摂取した際の体中での流れを緻密に測定した。すると50%以上はエネルギーとして燃やされずに、身体の中に「細胞」として取り込まれていることを発見した。同時に、多くの外部の細胞を新たに取り入れているのに、体重は増えていないことにも注目した。 つまり、生物の身体は、身体の原子を食べ物の原子と入れ替えているのだ。自分自身を分解しながら、新たな細胞を統合している。うんちの主成分は、食べ物のカスではない。自分の身体の分解されたものなのだ。最も入れ替えが早いのは消化器系の細胞。数日の単位でどんどん入れ替わる。入れ替わるペースは違っても、骨や脳細胞ですら入れ替わっている。 “私たち人間は、絶え間ない分子の流れに身を置いているのだ。” 分子的には、一年も経つとほとんど入れ替わってしまう。だから久し振りに会う人に「お変わりありませんね」というのは大間違い。細胞レベルではほとんど入れ替わっている。それなのに、約束やアイデンティティにこだわる人間の不思議。 生きている本質は、絶え間なく更新すること。それが生き続ける唯一の法則であり、それを「DYNAMIC STATE(動的平衡)」という。 要素はたえまなく更新される。平衡はたえまなく求められる。絶え間なく入れ替わることが、エントロピーへの抵抗。だから人間は、頑丈ではなく、柔らかに緩くつくられている。 それでも捨て残りが少しずつ溜まる。それが老化。そして緩やかに更新が滞り、いつかはエントロピーに捉えられるのだ。 鴨長明の言葉を思い出すね。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」生物と言うものも結局流れに浮かぶ「うたかた」のようなものらしい。

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ガジュセック

ガジュセック ダニエル・カールトン・ガジュセック(Daniel Carleton Gajdusek、1923年9月9日 ~2008年12月12日)は、ニューヨーク州ヨンカーズ出身のアメリカ合衆国の医師で医学研究者。初めて報告されたプリオン病であるクールー病の研究で、バルチ・ブランバーグとともに、1976年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼は後年、児童性的虐待の罪で有罪判決を受け、その名声を大きく損なった。

クールー病の研究
彼は、パプアニューギニアの風土病であるクールー病(現地の言葉で「震える」の意味)の研究でノーベル賞を受賞した。この病気は、ニューギニア島南部高地に住むフォレ族の間で1950年代から60年代に広がっていた病気である。ガジュセックは、この病気の流行と、フォレ族のカニバリズムの習慣を結びつけた。そしてこの習慣がなくなると、クールー病は一世代のうちに完全になくなった(原因→結果?? 他の原因は考えられないか?)。

ニューギニア島のフォレ族の地区を担当する医師であるビンセント・ジーガスが、この病気のことを初めてガジュセックに知らせた。ガジュセックは「笑い病」としても知られるこの地特有の神経病について初めて医学的に研究を行った。彼はフォレ族とともに暮らし、彼らの言葉や文化を学びつつ、クールー病の犠牲者の解剖などを行った。ガジュセックは、この病気は死者の脳を食べるというフォレ族に伝わった儀式によって感染しているという結論を導いた(解剖して分かるのか?)。ガジュセックは、クールー病を伝染させる原因物質は特定できなかったが、後の研究によりプリオンと呼ばれる悪性のタンパク質がクールー病の原因だと推定されている。

申し訳ないが、ガジュセックの研究はノーベル生理学・医学賞に値するものかどうか疑問だ。カニバリズムの習慣が無くなった結果、クールー病は一世代のうちに完全になくなった(原因→結果)。これはあくまでも疫学的な知見であり、クールー病発生のメカニズムは全く解明されていない。ノーベル疫学賞は無いから仕方がないか。死者の脳を食べるという儀式は、過去多くの民族にもあったものと想定されている。死者との魂の共有という宗教的な感覚で欧米人が著しく嫌悪をいだくカニバリズム(飢えに勝てず人肉を食らう)とは一線を画するものだろう。クールー病を伝染させる原因物質を特定できなかった研究者にノーベル賞とは何かシックリいかないものがある。この習慣を止めさせたことが人権主義者を喜ばせただけか。

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大隅 良典

大隅 良典(おおすみ よしのり、1945年2月9日 ~):
大隅 良典 生物学者(分子細胞生物学)。理学博士(東京大学・1974年)。「オートファジーの仕組みの解明」により2016年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。

太平洋戦争末期の1945年2月9日、福岡県福岡市生まれ。4人兄弟の末子。父大隅芳雄氏は九州大学工学部教授。なお父は、佐世保工業高等専門学校の3代目の校長も務めていた。家は福岡市の外れにあり、周囲は農家の子どもたちばかりという環境で、皆と一緒に自然の中で遊ぶ。幼い頃から、兄の和雄に贈られた自然科学の本に親しむ。特に八杉龍一の『生きものの歴史』、マイケル・ファラデーの『ろうそくの科学』、三宅泰雄の『空気の発見』などに心を動かされ、科学に興味を持った。 福岡県立福岡高等学校では化学部に所属した。卒業後、東京大学理科二類に進学。当初は理学部で化学を学ぼうと考えていたが、教養学部に新設された基礎科学科に興味を持ち、そちらに進む。 恩師である今堀和友の紹介でジェラルド・モーリス・エデルマンの研究室に留学。アメリカ合衆国に渡り、ロックフェラー大学の博士研究員となる。その頃のエデルマンは、従来研究していた免疫学を離れ発生生物学に取り組み始めていたため、大隅も試験管内での受精系の確立の研究に従事。

**八杉龍(やすぎ りゅういち、1911年~1997年10月27日): 生物学史家。東京工業大学教授、早稲田大学を歴任。東京に、ロシア語学者の八杉貞利の子として生まれる。東京帝国大学理学部動物学科卒、実験動物学から生物学史研究に進み、多くの著述を行い、1951年、『動物の子どもたち』で毎日出版文化賞。1959年、『人間の歴史』で産経児童出版文化賞受賞。1962年、東京工業大学教授。1972年、早稲田大学教授。進化論、生物学史を中心に多くの啓蒙的著作、翻訳を残す一方、ルイセンコ学説の支持者でもあった。

専門は生物学であり、特に分子細胞生物学などの分野を研究。オートファジーの分子メカニズムや生理学的な機能についての研究が知られている。その研究論文は他の研究者から多数引用されており、2013年にはトムソン・ロイター引用栄誉賞を受賞。そのほか、藤原賞、日本植物学会学術賞、朝日賞などを受賞。2006年、日本学士院は、大隅の業績について「一貫してオートファジーの分子機構の解明に正面から取り組んでおり、他の追随を全く許さない研究を続けている」と高く評価し、日本の学術賞としては最も権威ある日本学士院賞を授与。2012年には、「生体の重要な素過程の細胞自食作用であるオートファジーに関してその分子メカニズムと生理的意義の解明に道を拓いたものとして高く評価される」として、ノーベル賞を補完する学術賞として知られる京都賞の基礎科学部門を受賞。細胞が自らのタンパク質を分解し、再利用する「オートファジー」(自食作用)の仕組みを解明し、悪性腫瘍の特効薬を発明した功績が認められガードナー国際賞を受賞した。2016年10月3日、「飢餓状態に陥った細胞が自らのタンパク質を食べて栄養源にする自食作用『オートファジー』の仕組みを解明した」卓越した成果が認められ、ノーベル生理学・医学賞を単独受賞する。

大隅先生の功績は、オートファジー(自食作用)の研究で世界の第一人者ということ。ということは、オートファジーとは何かを知らないと。

**卑近な例えかも知れないが、人の手が5本の指に成長するためには、指の間の組織が無くならないといけない。オートファジー(自食作用)が器官の形成には大切な役割をしているらしい。

オートファジー (Autophagy) とは、細胞が持っている、細胞内のタンパク質を分解するための仕組みの一つ。酵母からヒトにいたるまでの真核生物に見られる機構であり、細胞内での異常なタンパク質の蓄積を防いだり、過剰にタンパク質合成したときや栄養環境が悪化したときにタンパク質のリサイクルを行ったり、細胞質内に侵入した病原微生物を排除したりすることで生体の恒常性維持に関与している。このほか、個体発生の過程でのプログラム細胞死や、ハンチントン病などの疾患の発生、細胞のがん化抑制にも関与することが知られている。auto-はギリシャ語の「自分自身」を表す接頭語、phagyは「食べること」の意で、1963年にクリスチャン・ド・デューブにより定義された。

1953年から1955年にかけてクリスチャン・ド・デューブにより多様な加水分解酵素を含む細胞小器官としてリソソームが発見された。ド・デューブは、1963年に細胞が自身のタンパク質を小胞としてリソソームと融合して分解する現象をオートファジー、その小胞をオートファゴソームと命名した。

その後、ユビキチン-プロテアソーム系によるタンパク質分解機構の解明は進むが、一方、オートファジーの分子生物学的な解明についてほとんど進展がみられなかった。これは電子顕微鏡による観察がオートファゴソームを検出する唯一の手段であったことが大きな要因であった。また、オートファジー現象を否定する論文も発表されていた。

1992年に大隅良典(当時東京大学教養学部助教授)らは出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae)でのオートファジーを初めて観察した。
液胞はリソソームと似た性質を持つ小器官で多数の加水分解酵素を内在しており、出芽酵母においては細胞体積の25%以上を占める最大のコンパートメントである。また、出芽酵母は窒素源が枯渇すると減数分裂と胞子形成を起こすが、液胞の加水分解酵素を欠損した株は胞子形成が不全になる事が知られており、液胞が栄養飢餓状態で重要な生理機能を持つことが示唆されていた。

これらの事に着目した大隅らは、タンパク質分解酵素欠損株を飢餓状態にして観察した。大隅の予想は当たり、タンパク質分解酵素欠損のため分解されずに液胞に蓄積した小さな顆粒状のものがブラウン運動で激しく動き回っているのを認めた。

電子顕微鏡を用いた更なる観察により次のような事が判明した。顆粒は一重膜の構造体であることが示され、オートファジックボディーと名付けられた。飢餓に応答して隔離膜が出現し、膜の伸長と共に細胞質のタンパク質などを取り囲みオートファゴソームを形成する。オートファゴソームは直ちに液胞と融合する。融合時にオートファゴソームの外側の膜と液胞の膜が融合し、オートファゴソームの内側の膜に囲まれた部分が液胞に放出され一重膜のオートファジックボディーとなる。出芽酵母で観察された、これら一連の膜動態はド・デューブの提唱したオートファジー現象そのものであった。

オートファジー遺伝子の同定
大隅らは出芽酵母を突然変異誘起剤で処理し、ランダムに遺伝子を傷付けることでオートファジー不能変異体の作成を試みた。5000個の突然変異体の中から1つだけ変異株が見つかり、オートファジー(Autophagy)のスペルから「apg1変異体」と名付けられた。詳しい解析より、当時役割が知られていない遺伝子に傷が付いていることが分かり「APG1遺伝子」と名付けられた。大隅らはAPG1を含め14種類のオートファジー不能変異体を同定し、それらの遺伝子解析からオートファジーに必須となる14種類の遺伝子を確定し、1993年にFEBS Lettersに論文を発表した。

2003年に外国の複数のグループがAPGと同じ遺伝子を異なる名前で研究していたことが明らかとなり、オートファジー関連遺伝子の名前がATG (Autophagy)として統一された。APG1はATG1にAPG16はATG16と、大隅の付けた番号がそのまま引き継がれた。

現在(2016年)では41種類のATG遺伝子が同定されている。その内、合計18個(Atg1~Atg10,Atg12~Atg14,Atg16~Atg18,Atg29,Atg31)がオートファゴソームの形成に必須の遺伝子とされている。

大隅らが酵母でのオートファジー遺伝子の同定を行っていた当時、ヒトやマウスの全ゲノム解読DNAが行われていた。これらの成果を基にATG遺伝子のヒトやマウスのホモログが発見されていった。1998年に初の哺乳類Atg相同因子であるAtg12とAtg5が、1999年にAtg6相同因子であるBeclin1が発見された。2000年にはAtg8の哺乳類相同因子であるLC3の論文が発表された。

オートファゴソームの起源
隔離膜の起源について決定的な証拠がなく長年結論の出ない状態であった。2008年、オートファゴソームが小胞体の近くで形成されることが示され、オートファゴソームの小胞体起源説が強く示唆された。その後、ミトコンドリア起源説も提唱され論争が起きるが、2013年に発表された論文で、隔離膜が形成される小胞体上の箇所はミトコンドリアと小胞体の接触部位であることが示され、小胞体起源説とミトコンドリア起源説はどちらも正しいことが判明した。この結果は、小胞体とミトコンドリアという機能も由来も全く異なる2つの独立した細胞小器官が協働して第3の細胞小器官・オートファゴソームを作るという驚くべき結果であった。

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

福沢諭吉

福沢諭吉 福澤 諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日)。中津藩士のち旗本、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾(旧:蘭学塾、現在の慶應義塾大学はじめ系列校)の創設者。商法講習所(のちの一橋大学)、神戸商業講習所(のちの神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現:東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力。
新聞『時事新報』の創刊者。ほかに東京学士会院(現:日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている。庶民の教育に熱を入れた啓蒙思想家。

**明治六大教育家
明治六大教育家は、1907年(明治40年)に「近世の教育に功績ある故教育家の代表者」として顕彰された6人の教育家を指す呼称。顕彰当時は故六大教育家または帝国六大教育家と称されたが、大正期以降に「明治六大教育家」「明治の六大教育家」という呼称が見られるように。1907年(明治40年)5月、帝国教育会、東京府教育会、東京市教育会共同主催の全国教育家大集会が東京高等工業学校(東京工業大学の前身)講堂で開催され、集会2日目に故六大教育家追頌式が執り行われた。顕彰された6人は以下の通り。
① 大木喬任(おおき たかとう)…文部卿として近代的な学制を制定
② 森有礼(もり ありのり)…明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施
③ 近藤真琴(こんどう まこと)…攻玉塾を創立、主に数学・工学・航海術の分野で活躍
④ 中村正直(なかむら まさなお)…同人社を創立、西国立志編など多くの翻訳書を発刊した
⑤ 新島襄(にいじま じょう)…同志社を創立、英語・キリスト教の分野で多くの逸材を教育
⑥ 福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)…慶應義塾を創立、法学・経済学を中心に幅広い思想家として著名

福沢諭吉 1835年1月10日、摂津国大坂堂島新地五丁目(現・大阪府大阪市福島区福島一丁目)にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の間に次男(末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。福澤氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した。 友米の孫である父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。栗園は、中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。
なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ)。

天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでも祟りが起こらない事を確かめてみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。
5歳ごろから藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。

福澤の学問的・思想的源流に当たるのは亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。したがって、諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。

安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。

高島秋帆 **高島秋帆(たかしま しゅうはん)
1798年、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれる。先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔。文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。藤沢東畡(1794-1864)によって大坂市中に開かれた漢学塾であり関西大学の源流の一つの泊園書院に学ぶ。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。また、この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌天保6年(1835年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。
その後、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であり、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が「異様之冠物」と称するような斬新なものであった。
この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。幕命により江川英龍や下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、さらにその門人へと高島流砲術は広まった。しかし、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。幕府から重用されつつ脇荷貿易によって十万石の大名に匹敵する資金力を持つ秋帆を鳥居耀蔵が妬み「密貿易をしている」という讒訴をしたためというのが通説だが、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中水野忠邦によって行われたものとする説もある。武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者名は本間弘武で、秋帆は監修)。慶応2年(1866年)、69歳(満67歳)で死去した。
NHK大河ドラマ「晴天を衝け」では、高島秋帆の役を玉木宏が演じた。渋沢栄一は吉沢亮。

**時代劇では悪役となる鳥居耀蔵だが彼の側にも言い分があるのでは??

安政2年(1855年)、諭吉はその山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。
**適塾(てきじゅく、正式名称: 適々斎塾〈てきてきさいじゅく〉、別称: 適々塾〈てきてきじゅく〉)は、緒方洪庵が江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾。1838年(天保9年)開学。緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする。幕末から明治維新にかけて福沢諭吉、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、高峰譲吉など多くの名士を輩出した。大阪大学及び大阪大学医学部の源流の一つ。

その後、諭吉が腸チフスを患うと、洪庵から「乃公(だいこう:自分のこと)はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説を初めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。ほかにも昆布や荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。

幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

**勝 海舟(かつ かいしゅう)は、日本の武士(幕臣)、政治家、華族。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。
福沢諭吉 元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大きく、マシュー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろからすでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、島津文三郎のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じて氷解塾の塾頭も務める)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、藤本元岱・神尾格・藤野貞司・前野良伯らが適塾から移ってきたほか、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。

島村鼎甫を尋ねたあと、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らとともに出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現・浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。

安政6年(1859年)、日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に諭吉は出かけることにした。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影がないことは当時の蘭学者の間では常識であった。緒方洪庵もこれからの時代は英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、当時の日本では、オランダだけが鎖国の唯一の例外の国であり、現実にはオランダ語以外の本を入手するのは困難だった。

諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだあと、蕃書調所へ入所したが「英蘭辞書」は持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていた。諭吉はようやく蕃書調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。

渡米
安政6年(1859年)の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。この派遣は、岩瀬忠震の建言で進められ、使用する船は米軍艦「ポーハタン号」、その護衛船として「咸臨丸」が決まった。
福澤諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。安政7年1月13日、幕府使節団は品川を出帆、1月19日に浦賀を出港する。 福澤諭吉は、軍艦奉行・木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船したが、この咸臨丸の航海は出港直後からひどい嵐に遭遇した。咸臨丸はこの嵐により大きな被害を受け、船の各所は大きく破損した。乗員たちの中には慣れない船旅で船酔いになる者、疲労でぐったりする者も多く出た。そんな大変な長旅を経て、安政7年2月26日(太陽暦3月17日)、幕府使節団はサンフランシスコに到着する。ここで福澤は3週間ほど過ごして、その後、修理が完了した咸臨丸に乗船してハワイを経由して、万延元年5月5日(1860年6月23日)に日本に帰国する。

(一方、その後の幕府使節団はパナマに行き、パナマ鉄道会社が用意した汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在のコロン)へ行く。アスピンウォールに着くと、米海軍の軍艦「ロアノーク号」に乗船し、5月15日にワシントンに到着する。そこで、幕府使節団はブキャナン大統領と会見し、日米修好通商条約の批准書交換などを行う。その後、フィラデルフィア、ニューヨークに行き、そこから、大西洋のポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をまわり、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、万延元年11月10日に、日本の江戸に帰国・入港する。)
今回のこの咸臨丸による航海について、福澤諭吉は、「蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したのは日本人の世界に誇るべき名誉である」と、のちに述べている。また、船上での福澤諭吉と勝海舟の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いたと言われている。

一方、福沢諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。福澤は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては福澤はさまざまに衝撃を受けた、という。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。)。

福澤諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。また、翻訳途中だった『万国政表』(統計表)は、福澤の留守中に門下生が完成させていた。

アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を福沢諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、福澤は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。

その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになった。これは外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。福澤はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いた。この頃の福澤は、かなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。また、米国公使館通訳ヒュースケンの暗殺事件や水戸浪士による英国公使館襲撃事件など、多くの外交文書の翻訳も携わり、緊迫した国際情勢を身近に感じるようになったという。 **語学の習得とは、かように困難なものなのだ。福沢の場合も、オランダ語を相当に学んだことが功を奏したようだ。英語が嫌いな学生さんで他の外国語をマスターしようと志すなら、もう一つベースになる語学をマスターできるかどうか考えた方が良い。

渡欧(幕臣時代)
1861年、福沢諭吉は中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「オーディン号」に乗って品川を出港した。
12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給。1862年1月1日、長崎を出港し、6日、香港に寄港。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義・帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けた。
1月12日、香港を出港。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、2月22日にスエズに到着。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超えて、北のカイロに向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海を渡り、マルタ島経由でフランスのマルセイユに3月5日に到着。そこから、リヨンに行って、3月9日、パリに到着。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学(滞在期間は20日ほど)。
1862年4月2日、幕府使節団はドーバー海峡海峡を越えてイギリスのロンドン。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学。万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。ロンドンの次はオランダのユトレヒトを訪問。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。その後、幕府使節団は、プロイセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国境問題を討議するためにペテルブルクを訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学。その後、幕府使節団はまたフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルのリスボンに文久2年(1862年)8月23日、到着した。
以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福沢諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。
また、福沢諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、福沢諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった(この時、福沢はその学会に自分の顔写真をとられている。)。 1862年9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、1862年12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国。ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。

品川に到着した翌日の12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった。1863年3月になると、孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。福沢の周囲では、同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、福沢諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年頃〜明治6年頃までが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと福沢はのちに回想している。)

1863年7月、薩英戦争が起こったことにより、福沢諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し(拒否したのは中津藩では無く福沢の意味?)、代わりに、以前より親交のあった仙台藩の大童信太夫を通じ新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。

元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった。慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。また明治2年(1869年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記を、福沢諭吉は玄白の曽孫の杉田廉卿、他の有志たちと一緒になってまとめて、『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。

再び渡米
慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福沢諭吉が加わることになった(他に津田仙、尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。福沢諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。

アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。この時、福澤は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。 慶応3年6月27日(1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。福澤は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、福澤は『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。

明治維新
慶応3年(1867年)12月9日、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、福澤諭吉は新政府から出仕を求められたがこれを辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった。慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念する。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意になり、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩には慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた三島億二郎が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の高島嘉右衛門の藍謝塾とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェーランド『経済学原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講義を続けた(なお漢語に由来する「経済学」の語は諭吉や神田孝平らによりpolitical economyもしくはeconomicsの訳語として定着した)。老中・稲葉正邦から千俵取りの御使番として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、イギリス流憲法論を唱えた。

妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。

新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に300円で譲り渡し、慶應義塾の新しい土地として目をつけた三田の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げの交渉を東京府と行った。明治3年には諭吉を厚く信頼していた内大臣・岩倉具視の助力を得てそれを実現。明治4年からここに慶應義塾を移転させて、「帳合之法(現在の簿記)」などの講義を始めた。また明六社に参加。当時の文部官吏には隆一や田中不二麿・森有礼ら諭吉派官吏が多かったため、1873年(明治6年)、慶應義塾と東京英語学校(かつての開成学校でのち大学予備門さらに旧制一高に再編され、現:東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることになった。

廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)のすべてを政府が握るのではなく「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝とともに、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張。

『通俗民権論』『通俗国権論』『民間経済禄』なども官民調和の主張ないし初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由主義を紹介する際には「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声があった。
**短い期間ではあったが、文部官僚への道は福沢が最も目指していたものだったかも。

明治7年(1874年)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣したほか、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会し、弥太郎が山師ではないと評価した諭吉は、三菱商会にも荘田平五郎や豊川良平といった門下を投入したほか、後藤の経営する高島炭鉱を岩崎に買い取らせた。また、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草に助力。

明治9年(1876年)2月、諭吉は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らとともに、初めて大久保利通と会談した。このときの福澤について大久保は日記の中で「種々談話有之面白く、流石有名に恥じず」と書いている。諭吉によると晩餐のあとに大久保が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べたことについて、諭吉は大久保が自分を民権論者の首魁のように誤解していると感じ(諭吉は国会開設論者であるため若干の民権論も唱えてはいたが、過激な民権論者には常に否定的であった)、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答したという。

1880年12月には参議の大隈重信邸で大隈、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞の発行を依頼された。福澤はその場での諾否を保留して数日熟考したが、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと1881年1月に井上を訪問した。しかし井上が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで福澤はその英断に歓喜し、新聞発行を引き受けた。

しかし、大隈重信が当時急進的すぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤は大隈の急進的傾向を警戒するようになる。またちょうどこの時期は「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。そのため政府関係者に大隈・福澤・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる明治十四年の政変が起こることとなった。つい3か月前に大隈、伊藤、井上と会見したばかりだった諭吉はこの事件に当惑し、伊藤と井上に宛てて違約を責める手紙を送った。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙だった。この手紙に対して、井上は返事の手紙を送ったが伊藤は返答しなかった。数回にわたって手紙を送り返信を求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上も最後の書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際を久しく絶つことになった。諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった。

諭吉はすでに公報発行の準備を整えていたが、大隈が失脚し、伊藤と井上は横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられた準備を自分の新聞発行に転用することとし、明治15年(1882年)3月から『時事新報』を発刊することになる。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡(おしひろ)めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟(いやしく)もこの精神に戻(もと)らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦(また)その相手を問わず一切敵として之を擯(しりぞ)けんのみ。」と記されている。

教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに諭吉が勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさとやめて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、島津家に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は大学南校や大学東校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。
**確かにその後も、日本では東京大大学に莫大な資金が注ぎ込まれて、学問の一極集中の弊害をきたしている感がある。
**元幕臣の勝海舟は、この時点でも資金調達を段取りできる立場にあったのだろうか?

港区を流れる古川に狸橋という橋があり、橋の南に位置する狸蕎麦という蕎麦店に諭吉はたびたび来店していたが、明治12年(1879年)に狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた。その場所に慶應義塾幼稚舎が移転し、また東側部分が土筆ケ岡養生園、のちの北里研究所、北里大学となった。

明治13年(1880年)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた諭吉の立場はますます厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。このころから平民の学生が増えたことにより、運営が徐々に黒字化するようになった。
また、私立の総合的な学校が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。
**ライバルの早稲田大学は、未だ登場していなかったのか? 学生も士族の子弟ばかりで平民が少なかった。学問をやっても金儲けには繋がらないとの考えがあったため?

明治25年(1892年)には、長與專齋の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。ちょうど帝国大学の構想が持ち上がっているころだったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。

金玉均 朝鮮改革運動支援と対清主戦論
明治15年(1882年)に訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた諭吉は、朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった。 **日本は戦時中でも、多くの軍人たちにとって軍事活動は西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためと信じられており、植民地的侵略とは考えもしていなかっただろう。侵略との考えは、敗戦後に戦勝国から押し付けられた考えだ。でも、今となって日本の周辺諸国に納得出来る説明が可能だろうか。
**金玉均
金 玉均(김옥균、1851年2月23日~1894年3月28日)。李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の大朝鮮国の思想家。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力。
大朝鮮国第26代国王、初代大韓帝国皇帝、高宗の王命「勅命」を受けて1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食する。当時の日本の一部の思想=アジア主義を金玉均が独自に東アジアに特化された「三和主義」として発案し唱えた。1882年10月、壬午事変後に締結された済物浦条約の修信使朴泳孝らに随行して再度日本を訪れ、福澤諭吉から紹介された井上馨を通じて横浜正金銀行から運動資金を借款し、朝鮮半島初の諸外国への留学生の派遣や朝鮮半島で初めての新聞である『漢城旬報』の創刊発行に協力。幾多の功績は朝鮮半島の近代化に貢献した、一部の有識者や福澤諭吉などに「朝鮮半島の近代化の父」と呼ばれる貢献を残した。
清朝から独立し、日本の明治維新を模範とした朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため国王の委任状を持って日本へ渡ったが、交渉は失敗に終わり、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた。 当時の日本政府の政治的立場から、東京や札幌、栃木県佐野や小笠原諸島などを転々とした後、李経方(李鴻章の養子、日本淸国公使官)と李鴻章に会うため、上海に渡ったが、1894年3月28日、上海は東和洋行ホテルで洪鐘宇(復讐に燃えていた朝鮮王妃閔妃の手先)によって回転式拳銃で暗殺された。 金玉均の死体は大清帝国政府により軍艦咸靖号で本国大朝鮮国に運ばれて死後に死刑宣告され凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。
金玉均氏の評価は今の韓国では?


1882年7月23日、壬午事変が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件が。外務卿井上馨は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約を締結。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに、清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して諭吉が推薦する慶應義塾出身の牛場卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えている。

朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、袁世凱率いる3,000の兵を京城へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、1884年12月4日に甲申事変を起こすも、事大党の要請に応えた清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で磯林真三大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も中国人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた。

この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった。

**甲申事変
甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。

このときの開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿・井上馨との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清揃っての朝鮮からの撤兵を約した天津条約が結ばれたことで一応の終息をみた。しかし、主戦論者の諭吉はこの結果を清有利とみなして不満を抱いたという。 **確かに朝鮮半島で独立党による政権が樹立できなかったことは、日本政府の失敗であった。朝鮮半島に独立した親日政権さえ造れれば、後の日韓併合もおこり得なかったはずだ。

当時の諭吉の真意は、息子の福澤一太郎宛ての書簡(1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川へ逃げたる訳なり。日支兵員之多寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦之分れハ、今後半月か一月中ニ公然たる事ト存候。」に窺える。

日清戦争の支援
明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まる。諭吉も金玉均の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置。同年4月から5月にかけて東学党の乱鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると、日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。

国会開設以来、政府と帝国議会は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。諭吉は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた。

また戦費の募金運動(諭吉はこれを遽金と名付けた)を積極的に行って、自身で1万円という大金を募金するとともに、三井財閥の三井八郎右衛門、三菱財閥の岩崎久弥、渋沢財閥の渋沢栄一らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5,000万円の公債募集を決定したためその際に解散した)。

この年は諭吉の還暦であったが、還暦祝いは戦勝後まで延期とし、1895年12月12日に改めて還暦祝いを行った。この日、諭吉は慶應義塾生徒への演説で「明治維新以来の日本の改新進歩と日清戦争の勝利によって日本の国権が大きく上昇した」と論じ、「感極まりて泣くの外なし」「長生きは可きものなり」と述べた。
**日清戦争の勝利は、当時の日本人全体の士気を大いに鼓舞したようだ。

福澤諭吉・小幡篤次郎共著『学問のすゝめ』(初版、1872年)
諭吉は日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。このころまでには慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた。

晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したりしたことなどが挙げられる。また明治30年(1897年)8月6日に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂う手紙を残している。諭吉は明治31年(1898年)9月26日、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復した。その後、慶應義塾の『修身要領』を編纂。
しかし1901年1月25日、脳溢血が再発したため2月3日に東京で死去。享年68(満66歳没)。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している。8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わった。

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緒方洪庵

緒方洪庵 緒方 洪庵(おがた こうあん、1810~1863年)は、江戸時代後期の医師、蘭学者。大坂に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだ。洪庵の功績として最も有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。

日本最初の病理学書『病学通論』を著した。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては、西洋の医書を参考に『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を5、6日で書き上げて出版し、医師らに100冊を無料配布するなど、日本医学の近代化に努めた。

人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。 塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。それは極めて厳格で、子の緒方平三と緒方四郎が、預けられた加賀大聖寺藩の渡辺卯三郎の塾を抜け出し、越前大野藩に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである(後日、復帰させた)。

語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している。

原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。
福澤諭吉が、適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。堂島新地5丁目(現・大阪市福島区福島1丁目)にあった中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。 診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。特に和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな」という悲痛な作品を残している。

江戸での洪庵は将軍徳川家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど、富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。さらには蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。以上のことからくるストレスが健康を蝕んでいった。洪庵の急死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して炎天下に長時間いたことであると述べている。
人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり、顔が広かった。大坂城在番役を勤めていた旗本久貝正典は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。また、ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあった。 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し、英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
緒方八重 洪庵の人柄や適塾での教育は優れていたものの、洪庵を敬慕する福沢の『福翁自伝』で伝えられ、さらに司馬遼太郎の歴史小説で知られるようになったことで、理想化されている面があるとの指摘もある(**住友史料館主席研究員海原亮の見解)。
適塾を前身とする大阪大学では、学務情報システムに"KOAN(コーアン=洪庵)"の名が用いられている。また、卒業証書には洪庵直筆の書が用いられている。

妻の八重は、夫との間に7男6女(うち4人は早世)を儲け、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。時に洪庵が叱責すると、それをなだめつつ門弟を教え諭すことも多かったと言われる。福沢は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘を書いている。洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。八重の葬儀には、門下生から明治政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。

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緒方春朔

緒方春朔 緒方 春朔(おがた しゅんさく、寛延元年(1748年)~文化7年(1810年))は、江戸時代の医学者。春朔は通称で、諱は惟章(これあき)、号は済庵、洞雲軒。筑後国久留米(現福岡県久留米市)出身。
筑後国久留米藩士小田村甚吾(初名瓦林清右衛門)の次男として生まれ、その後久留米藩医緒方元斉の養子となる。若い頃から家業を継ぐため長崎に遊学し蘭方医吉雄耕牛の元で医学を学ぶ。

天明年間(1781年~1788年)、久留米を離れ先祖ゆかりの地である筑前国秋月(現福岡県朝倉市秋月)に移住。初め上秋月村(現朝倉市上秋月)の大庄屋天野甚左衛門宅の離れを借りて住んでいたが、寛政元年(1789年)秋月藩8代藩主黒田長舒に召抱えられ、藩医となる。

春朔は長崎にいた頃から種痘に関心を持っており、清の医学書『医宗金鑑(中国語版)』を基に種痘について研究していた。この種痘法はエドワード・ジェンナーの考案した牛痘を用いた方法ではなく、天然痘患者から採取した膿(痘痂)を使った方法(人痘法)であった。春朔の人痘法は、ジェンナーの牛痘の種痘よりも6年早く始められた。前述の『医宗金鑑』に記された種痘法は銀の管を使って粉末状にした痘痂を鼻へ吹き入れるというものであったが、春朔は確実性を増すためこの方法に改良を加え、木製のへらに盛った痘痂粉末を鼻孔から吸引させるという方法を考案した。

寛政元年(1789年)から翌2年(1790年)にかけて秋月藩内で天然痘が流行。このとき春朔は自らが診察した患者から痘痂を採取した後、天野甚左衛門の申し出を受け彼の子供二人に初の種痘を実施。二人の子供は接種から2日後、天然痘の症状を発症したがその後10日ほどで回復した。

寛政5年(1793年)春朔は自らの研究の成果をまとめた医学書『種痘必順弁』を著す。この本は一般の人にも種痘について分かりやすく説明するために書かれたという面もあり、当時にしては珍しく和文で書かれている(この時代の医学書は漢文で書くのが主流であった)。

春朔は自らが考案した種痘法を秘伝とせず、教えを請う者には分け隔てなく学ばせたのでその名声は日増しに高まり、ついには日本各地から門人が集まるようになった。その3分の1近くが諸藩の藩医であった。

こうして種痘を広めるため尽力した春朔は人々から『医聖』とまで呼ばれるようになったという。文化7年(1810年)没。享年63。墓所は秋月の長生寺。 大正5年(1916年)、正五位を追贈された。

昭和2年(1927年)には朝倉郡医師会(現朝倉医師会)によって記念碑が旧秋月城内に建立された。 また朝倉市の朝倉医師会病院には平成2年(1990年)に建立された緒方春朔種痘成功200年顕彰碑がある。この石碑には彼が初めて種痘を施した際の様子がレリーフとして刻まれている。

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Nobel

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(スウェーデン語: Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日~1896年12月10日)は、スウェーデンの化学者、発明家、実業家。 ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。
遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられた。ディナミット・ノーベルやアクゾノーベルのように現代の企業名にも名を残している(どちらもノーベルが創業した会社の後継)

Alfred Bernhard Nobel スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家のイマヌエル・ノーベル(1801–1872) とカロリナ・アンドリエッテ・ノーベル (1805–1889) の4男として生まれた。両親は1827年に結婚し、8人の子をもうけた。一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。父は機雷の発明で会社は一時儲かるもののやがて破産。
**注)機雷(きらい)とは、水中に設置されて艦船が接近、または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する水中兵器。機雷は機械水雷の略。機雷に触れることを触雷(しょくらい)、機雷を設置した海域を機雷原(きらいげん)、機雷を撤去することを掃海という。機雷ではどのような爆薬が使われたか。また爆発までの防水の工夫は?

事業に失敗した父は1837年、単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた。1842年、父は妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった。学校に通っていたのはストックホルムでの1841年から1842年にかけての18カ月間だけだった。

化学の家庭教師として雇われたのは化学者ニコライ・ジーニン。その後化学をさらに学ぶため、1850年にパリに行き、テオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講している。翌年にはアメリカに渡って4年間化学を学んだ。そこで短期間だが発明家ジョン・エリクソンに師事。その後、父の事業を手伝う。最初の特許を出願したのは1857年のことで、ガスメーターについての特許。父も子もかなりの発明家。

クリミア戦争 (1853–1856) では兵器生産で大儲けをするが、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため事業はたちまち逼迫し、父は1859年に再び破産。父は工場を次男のルドヴィッグ・ノーベル(1831–1888) に任せ、ノーベルと両親はスウェーデンに帰国した。なお、ルドヴィッグは受け継いだ工場を再開して事業を発展させた。ノーベルは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。ノーベル本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことである(テオフィル=ジュール・ペルーズの下で共に学んだアスカニオ・ソブレロが発見)。この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。

**注) ニトログリセリン
ニトログリセリン ニトログリセリン(nitroglycerin)とは、有機化合物で、爆薬の一種であり、狭心症治療薬としても用いられる。グリセリン分子の3つのヒドロキシ基を、硝酸と反応させてエステル化させたものだが、これ自身は狭義のニトロ化合物ではなく、硝酸エステルである。また、ペンスリットやニトロセルロースなどの中でも「ニトロ」と言われたら一般的にはニトログリセリン、またはこれを含有する狭心症剤を指す。甘苦味がする無色油状液体。水にはほとんど溶けず、有機溶剤に溶ける。 しかし、わずかな振動で爆発することもあるため、取り扱いはきわめて難しい。一般的に原液のまま取り扱われるようなことはなく、正しく取り扱っていれば爆発するようなことは起きない。昔は取り扱い方法が確立していなかったため、さまざまな爆発事故が発生していた。実際の爆発事故は製造上の欠陥か取り扱い上の問題がほとんど。日本において原液のまま工場から出荷されることはない。綿などに染みこませて着火すると爆発せずに激しく燃焼するが、高温の物体上に滴下したり金槌で叩くなど強い衝撃を加えると爆発する。


**注) 珪藻土
珪藻土(けいそうど、diatomite、diatomaceous earth)は、藻類の一種である珪藻の殻の化石よりなる堆積物(堆積岩)。ダイアトマイトともいう。珪藻の殻は二酸化ケイ素(SiO2)でできており、珪藻土もこれを主成分とする。珪藻が海や湖沼などで大量に増殖し死滅すると、その死骸は水底に沈殿する。死骸の中の有機物の部分は徐々に分解されていき、最終的には二酸化ケイ素を主成分とする殻のみが残る。このようにしてできた珪藻の化石からなる岩石が珪藻土である。多くの場合白亜紀以降の地層から産出される。
固化した珪藻土は、殻を壊さない程度に粉砕して用いる。珪藻土の粒径、すなわち珪藻の殻の大きさは大体100µmから1mmの間。粒子の形態はもとになった珪藻の種類に応じて、円盤状のもの、紡錘状のものとさまざまである。珪藻土の色は白色、淡黄色、灰緑色と産地によってさまざまであるが、これは殻の色ではなく、珪藻土に混入している粘土粒子など莢雑物の色である。また、焼成すると赤く変色するものもある。
珪藻の殻には小孔が多数開いている為、珪藻土は体積あたりの重さが非常に小さい。珪藻土の最大の用途は濾過助剤である。吸着能力は低く、溶液中に溶解している成分はそのまま通し、不溶物だけを捕捉する性質がある。そのため珪藻土単独で濾過する事は稀で、フィルターに微細粉末が目詰まりしてしまうのを防ぐためにフィルターの手前において微細粉末を捕捉するのに用いられる。
また、珪藻土は水分や油分を大量に保持することができる。このため乾燥土壌を改良する土壌改良材や、流出した油を捕集する目的で使用される。アルフレッド・ノーベルはニトログリセリンを珪藻土に吸収させることで安定性を高めたダイナマイトを発明したが、ノーベルはその後はるかに爆発力の強いブラスチングゼラチンスタイルのダイナマイトを開発したため、珪藻土を使ったダイナマイトは科学史のトピック的存在にとどまった。触媒やクロマトグラフィーの固定相の担体としても使用される。
その他、耐火性と断熱性に優れているため建材や保温材として、電気を通さないので絶縁体として、また適度な硬さから研磨剤としても使用されている。建材としては、昔からその高い保温性と程よい吸湿性を生かして壁土に使われていた。近年、自然素材への関心が高まるとともに、壁土への利用用途が見直され脚光をあびている。漆喰に類似した外観に仕上げることができ、プロでなくとも施工しやすいため、DIY向けの建材としても販売されている。珪藻土そのものには接着能力はないので、壁土としては石灰やアクリル系接着剤を混ぜて使用される。


1864年9月3日、爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡。ノーベル本人も怪我を負う。この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマヌエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。珪藻土に液体のニトログリセリンを含ませるのは彼の発明のサビの部分のようだ。1866年、不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明。雷管を使うことで自由に爆発をコントロールできるように。彼の莫大な利益を狙うシャフナーと名乗る軍人が特許権を奪おうと裁判を起こしたがこれに勝訴し、1867年アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得する。しかしシャフナーによる執拗な追求はその後も続き、アメリカ連邦議会にニトロの使用で事故が起きた場合、責任はノーベルにあるとする法案まで用意されたため、軍事における使用権をシャフナーに譲渡。
**注) 雷管(Blasting cap)は、わずかな熱や衝撃でも発火する火薬を筒に込めた火工品。微量の起爆薬(爆粉、ばくふん)と、それによって点火される添装薬(導爆薬)で構成され、火薬・爆薬などに、意図通りのタイミングで確実に点火するため、主に軍事用途のほか発破など工業用途で用いられる。 アンホ爆薬などは雷管だけでは起爆できず、伝爆薬(プライマーブースタ)を必要とする。 なお、信管は「雷管」に「起爆時期を感知する装置」と「安全装置」を組み込み、一体化させたもの。1865年、アルフレッド・ノーベルによりダイナマイト点火用として、併せて発明された。

1871年、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をダイナマイトと名づけ生産を開始。50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになり、一躍世界の富豪の仲間入りをする。1875年、ダイナマイトより安全で強力なゼリグナイトを発明。1887年にはコルダイトの元になったバリスタイトの特許を取得している。

**無煙火薬(バリスタイトballistite)
ニトログリセリン単独では危険すぎるので,ノーベルはそれを安全にして使えるケイ藻土ダイナマイト,ゼラチンダイナマイトを発明して,ニトログリセリンの爆薬原料としての地位を確立した。さらに1886年にはニトログリセリンを多量のニトロセルロースと混ぜてゼラチン状とし,衝撃に対して鈍感にしたダブルベース無煙火薬(バリスタイトballistite)を発明している。無煙火薬は土木工事ではさほどニーズがあったものでなく、連続攻撃の必要な専ら戦争用の兵器開発と言われる。

1878年、兄ルドヴィッグとロベルトと共に現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社を設立。この会社は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。
1884年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。また同年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与される。さらに1893年にはウプサラ大学から名誉学位を授与された。
1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。ノーベルは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし1895年最終的な敗訴が確定する。更に仏政府は相手方の方を正式に購入。1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけとして、長年居住していたパリからイタリアのサンレーモに移住。

1895年、持病の心臓病が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く。病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。ニトロは心臓病などの薬にも使われている。1896年12月7日、サンレーモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わなかった。現在、ノーベルはストックホルムに埋葬されている。

ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともあるという。生涯独身であり、子供はいなかった。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがあるという。1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタには既にアートゥル・フォン・ズットナーという婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。

発明
ニトログリセリンの衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1867年ダイナマイトの特許を取得した。同年イングランドのサリーにある採石場で初の公開爆発実験を行っている。また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel's Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。

その後ノーベルはコロジオンなどに似た様々なニトロセルロース化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。それをゼリグナイトと名付け、1876年に特許を取得した。それにさらに硝酸カリウムや他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている無煙火薬のさきがけともいうべきバリスタイトも発明している。

死の約一年前に、ノーベルは次のような遺言書を書いていたそうです。
 私の遺産を次のように処分してほしい。遺言執行人は、確かな有価証券に遺産を投資し、それで基金をつくる。これによって生じた利子を5等分し、毎年その前年度に人類に最もつくした人々に賞金を与える。
  物理学の方面で最も重要な発明や発見をした者。
  最も重要な化学上の発見や改良をした者。
  生理学または医学で最も重要な発見をした者。
  理想主義的文学についていちじるしい寄与をした者。
  国家間の友好関係を促進し、平和会議の設立や普及につくし、   軍備の廃止や縮小に最も大きな努力をした者。(後略)

『世界の科学者100人―未知の扉を開いた先駆者たち』より
 この遺書によって処分された基金は約3300万クローナ。
 授賞式が行われる今日12月10日は彼の命日。享年63歳でした。

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ムハマド・ユヌス

ムハマド・ユヌス(ベンガル語: মুহাম্মদ ইউনুস Muhammad Yunus、1940年6月28日~ )は、バングラデシュの経済学者、実業家。同国にあるグラミン銀行の創設者、またそこを起源とするマイクロクレジットの創始者として知られる。2006年のノーベル平和賞受賞者。学位は経済学博士(ヴァンダービルト大学)。また、国連のSDG Advocatesの一人。

ムハマド・ユヌス 英国統治下にあったバングラデシュの南部チッタゴンの宝石店の二男として生まれる。チッタゴンカレッジを経て、ダッカ大学で修士号を取得し卒業。フルブライト奨学金を得て渡米し、1969年にヴァンダービルト大学で経済学の博士号を取得。テネシー州で同郷の友人とともに「バングラデシュ市民委員会」を組織、祖国の独立を支援した。 1969年から1972年までミドルテネシー州立大学で経済学の助教授を務める。その後、バングラデシュ独立の翌年の1972年に帰国し、チッタゴン大学経済学部長に就任した。1976年に貧困救済プロジェクトをジョブラ村にて開始し、銀行に融資するように働きかけ自ら村民の保証人にまでなったが、銀行の融資は受けられず、1983年に同プロジェクトはバングラデシュ政府の法律により独立銀行(政府認可の特殊銀行)となる。無担保で少額の資金を貸し出すマイクロ・クレジットでは、8万4000村で558万人ほどの貧しい女性を主対象に貸し出している。このマイクロ・クレジットは貧困対策の新方策として国際的に注目され、主に第三世界へ広がっている。 グラミン銀行は多分野で事業を展開し、「グラミン・ファミリー」と呼ばれるグループへと成長をとげた。2006年のノーベル平和賞が授与された。2007年2月、新党「市民の力」を発足。2011年3月2日、バングラデシュ中央銀行は商業銀行総裁の60歳定年を定めた法律を違反して、ユヌスが総裁を続けているとして、グラミン銀行総裁を解任したと発表したが、グラミン銀行側は役員会から永久総裁として認められていると反論し、撤回を求めて提訴したが、バングラディシュ最高裁に棄却され解任が決定になったが、原因は二大政党制に批判的なユヌスが政党を立ち上げようとしたことで、首相と対立したためとも言われている
。 2013年、ユヌスは日本人グラフィックデザイナー稲吉紘実のデザインによる「ユヌス・ソーシャル・ビジネス マーク」を発表した。
ユヌスは、現在の資本主義が、人間について利益の最大化のみを目指す一次元的な存在であると見なしているとする。これに対して人間は多元的な存在であり、ビジネスは利益の最大化のみを目的とするわけではないとユヌスは主張する。 **明治の日本の実業家たちも同じような考えだったように。社会の発展は己の利益だけに帰するものではない。NHK大河ドラマ(第60作;2021年2月14日~12月26日)でやっていた、『青天を衝け』の「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一翁と良く似た考えの持ち主のようだ。資本主義ではなくて合本主義だとか。

ソーシャル・ビジネス:ユヌス氏は、利益の最大化を目指すビジネスとは異なるビジネスモデルとして、「ソーシャル・ビジネス」を提唱した。ソーシャル・ビジネスとは、特定の社会的目標を追求するために行なわれ、その目標を達成する間に総費用の回収を目指すと定義している。また、ユヌスは2種類のソーシャル・ビジネスの可能性をあげている。一つ目は社会的利益を追求する企業であり、二つ目は貧しい人々により所有され、最大限の利益を追求して彼らの貧困を軽減するビジネスということらしい。

ユヌスは、グラミン・ファミリーの一つであるグラミン・コミュニケーションズにて会長職を努めている。このグラミン・コミュニケーションズで、労働法に違反した事が発覚している。ユヌスは、他の会社幹部3人とともにバングラデシュの労働裁判所に公式に謝罪し、罰金として7500タカを支払った。これが不祥事とされている。
【グラミン銀行】
グラミン銀行(ベンガル語: গ্রামীণ ব্যাংক、英語: Grameen Bank)とは、バングラデシュにある銀行でマイクロファイナンス機関。「グラミン」という言葉は「村(グラム)」という単語に由来。本部はバングラデシュの首都ダッカ。ムハマド・ユヌスが1983年に創設した。マイクロクレジットと呼ばれる貧困層を対象にした比較的低金利の無担保融資を主に農村部で行っている。銀行を主体として、インフラ・通信・エネルギーなど、多分野で「グラミン・ファミリー」と呼ばれるソーシャル・ビジネスを展開している。2006年ムハマド・ユヌスと共にノーベル平和賞を受賞。
グラミン銀行の起源はチッタゴン大学教授であったムハマド・ユヌスが銀行サービスの提供を農村の貧困者に拡大し、融資システムを構築するための可能性について調査プロジェクトを立ち上げたことにさかのぼることができる。銀行の創設者であるムハマド・ユヌスは、アメリカのヴァンタービルト大学で経済博士号を取得した。1974年、バングラデシュで飢饉があった際、ユヌスは42の家族に総額27ドルという小額の融資をした。それは高金利のローンによる圧迫で、売り物のための小額の支出にも金貸しに頼らざるを得ないという負担を無くすため。ユヌスは、そのような(金利は年率20%近く、複利ではなく単利である。利子の総額は元本を上回ることがない。)小額融資を多くの人が利用できるようにすることで、バングラデシュの農村にはびこる貧困に対して良い影響を及ぼせると考えた。

ユヌスとチッタゴンにあるバングラデシュ大学の地方経済プロジェクト、貧困者向けの金融サービス拡大理論の実証調査として銀行は始められた。1976年に、ジョブラ村を代表とする大学周辺の村が、グラミン銀行からサービスを受ける最初の地域となった。銀行は成功し、プロジェクトはバングラデシュ中央銀行の支援もあって首都ダッカの北方にあるタンガイル県でも1979年に始められた。銀行の成功は続き、バングラデシュの各地に広がるのにそれほど時間を必要としなかった。1983年10月2日のバングラデシュの政令によって、プロジェクトは独立銀行になった。1998年のバングラデシュ洪水で同行の返済率は打撃を被ったが、システムの改良によってその後数年のうちに回復した。銀行は今日全域に拡大し続け、農村の貧困者に小規模ローンを提供している。その成功を受け、40カ国以上で類似のプロジェクトがなされるようになり、世界銀行がグラミンタイプの金融計画を主導するようになった。

銀行は複数のドナーから資金提供を受けていたが、主要な提供者は時間とともに変化した。初期には、非常に低い利率でドナー機関から資本の大半を提供されていた。1990年代半ばには、バングラデシュ中央銀行から資本の大部分を得るようになった。最近は、資金調達のために債券を発行している。債券はバングラデシュ政府より保証、援助されているが、なお公定歩合を上回った利率で売られている。

グラミン銀行の特徴はそれが銀行の貧しい借り手によって所有されることである。そのほとんどは女性である。借り手が銀行の総資産の90%を所有し、残りの10%はバングラデシュ政府が所有している。2009年5月現在、銀行の借り手は787万を越え、2003年の312万人から2倍以上となった。その内97%が女性である。銀行の成長は、カバーする村の数でも確認できる。2009年5月現在、銀行の支店がある村は2003年の43,681村から、84,388村まで増え、2,556の支店に23,445人以上の従業員がいる。銀行は総額約4515億8000万タカ(約80億7000万ドル)を貸付、約4016億タカ(約71億6000万ドル)は返済されている。銀行は、1998年の95%の返済率から上昇し、97.86%になったと主張している。

2011年3月2日、バングラデシュ中央銀行は、銀行創設者であるムハマド・ユヌス総裁を解任したことを発表したが、権限がない為に、2016年現在も彼は総裁である(辞任もしていない)。
2018年には、日本の芸能事務所の吉本興業とグラミン銀行の総裁で社会起業家のムハマド・ユヌスとの共同出資で脱貧困と格差社会を減らす為のマイクロクレジットの会社(金融機関)のユヌス・よしもとソーシャルアクション株式会社(yySA)が創立をした。2018年3月28日にはムハマド・ユヌス総裁が来日して吉本興業とのマイクロクレジットの事業を行うように協力をした。他にムハマド・ユヌス総裁に似たキャラクター・ユヌスくんが登場している。

貧困者は金が無い。金を借りるにも担保も無い。大勢の貧困者同士が互いに協力し合い、互いにリスクを分担すれば、小さくともそれなりの事業を起こせる。ただ事業が成功してもそれは組織に還元してくれないと事業は成立しない。でも、発展途上国には絶対に必要なシステムかも知れない。
吉本興業も初めは売れない芸人たちを集めて立ち上げた面がある。売れた芸人は出世払いで当然組織に貢がないといけない。事務所が多額のピンハネをすると問題視されているが、その分助けられている芸人達(組織にぶら下がっているともいえるが)のことも考えているのだろうか。吉本興業も初めは河原乞食とでもいえる貧しい芸人たちの生活を助けるために立ち上げた組織の面もあったようだ。グラミン銀行創立と良く似た一面があるのかもしれない。ただ組織が大きくなると新たな矛盾と向き合っていかないといけないようだ。

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中村哲

中村哲 中村 哲(なかむら てつ、1946年~ 2019年12月4日)は、日本の医師(脳神経内科)。アフガニスタンではカカ・ムラド(کاکا مراد、「ナカムラのおじさん」)とも呼ばれる。 ペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・サービス総院長、九州大学高等研究院特別主幹教授などを歴任。

ペシャワール会の現地代表やピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長として、パキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事。アフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与されており、さらに同国の名誉市民権が贈られている。日本からも旭日双光章などが授与。アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて、武装勢力に銃撃され死去。死去に伴い、旭日小綬章や内閣総理大臣感謝状などが授与された。

福岡県福岡市御笠町(現在の博多区堅粕)生まれ。福岡県立福岡高等学校を経て、1973年に九州大学医学部を卒業。国内病院勤務ののち、1984年、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から派遣されてパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事。登山と昆虫採集が趣味で、1978年には7000m峰ティリチミール登山隊に帯同医師として参加。
パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動してきたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難(何故??)になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続ける意思を示している。

中村哲 1996年に医療功労賞を受賞し、03年にマグサイサイ賞を受賞した。2004年には皇居に招かれ、当時天皇であった明仁、皇后の美智子、皇女・紀宮清子内親王(当時)へアフガニスタンの現況報告を行った。同年、第14回イーハトーブ賞受賞。
2008年には参議院外交防衛委員会で、参考人としてアフガニスタン情勢を語っている。また、「天皇陛下御在位20年記念式典」にも、天皇・皇后が関心を持つ分野に縁のある代表者の一人として紹介され出席している。

2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして、福岡県朝倉市の山田堰をモデルにして建設していた、クナール川からガンベリー砂漠まで総延長25kmを超える用水路が完成し、約10万人の農民が暮らしていける基盤を作る。

2016年、現地の住民が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。住民の要望によりモスク(イスラム教の礼拝堂)やマドラサ(イスラム教の教育施設)を建設。旭日双光章受章。2019年10月7日、アフガニスタンでの長年の活動が認められ、同国の名誉市民権を授与された。

2019年12月4日、アフガニスタンの東部ナンガルハル州の州都ジャラーラーバードにおいて、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。負傷後、現地の病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為にアメリカ軍のバグラム空軍基地へ搬送される途中で死亡。なお、中村と共に車に同乗していた5名(運転手や警備員など)もこの銃撃により死亡。中村が襲撃されたこの事件に対してターリバーンは報道官が声明を発表し、組織の関与を否定。一方でアフガニスタン大統領のアシュラフ・ガニーは「テロ事件である」とする声明を発した。
12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、遺体は空路で日本に搬送された。追悼式典では大統領のアシュラフ・ガニー自らが棺を担いだ。
実行犯の何人かが捕まったらしいが、誘拐目的で誤って射殺されたようだ。ターリバーンの人達にも尊敬を受けていたようだ。
***
中村さんは、本来は医者であるのに、水の問題がより重要と懸命に努力されたようだ。水の問題は本来農業土木技術者の役割だろう。農水省も含め、日本は新生アフガニスタンの人々の為に中村医師の意志を引き継いでいってもらたい。

中村哲さんは、アフガニスタンで73歳の時に亡くなった。
彼は、もともと医師だったのに、農業土木を学び直して。
でも、後悔の無い、人生だったようだ。すべて自分の意思で行動した。

○○さんに「あなたは何処で何を学ばれたか」の問いに、私は
農学部で農業土木を専攻と答えたら、農業土木とは何をやる所か?
→「そう、世界中で、中村哲さんがやったようなことをやるのが本来の仕事だ。」
当時、同期の卒業生達は、農水省で役人になるか、土建業のゼネコンやコンサル、商社に就職。でも誰も中村医師のような活動をしなかった。
農業は衰退産業だった。コメ余りの中、農水省は海面を埋め立てて、
農地を増やす干拓事業を粛々と継続していた。
No one goes, so we will go. No one does it, so we will.耳の痛い言葉である。

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国友 一貫斎

国友 一貫斎 国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ)) 1778年~1840年12月26日))は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った。

**大した発明家なんだね。今まで知らなかった。因みに発明家・平賀 源内(ひらが げんない)は1728年~1780年だから、彼よりも後輩か。

近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継ぐ。
文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の敗訴となった。 文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。実戦で使われたことがあるのだろうか?

反射望遠鏡 文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、天保3年(1832年)頃から反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作。口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡は当時の日本で作られていたものよりも優れた性能であり、鏡の精度は2000年代に市販されている望遠鏡に匹敵するレベルで100年以上が経過した現代でも劣化が少ないという。NHKで月を見た画像が写されたが月の表面の凹凸もくっきり。この望遠鏡は後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。

その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。この他に人が翼を羽ばたかせて飛ぶ飛行機「阿鼻機流」を作ろうとしていた事もある。また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835年)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。

反射望遠鏡 江戸時代の科学技術を日本人自身が馬鹿にしてはいけない。結局西洋に後れを取ったのは軍事技術と産業化の面だけだったのか。明治維新後、他のアジア諸国に先駆けて、西洋の科学技術に追いついたのは科学教育の基礎が江戸時代には出来ていたかららしい。

空気銃 国友家は代々の鉄砲職人だけど彼はずば抜けた才能だね。下記の逸話も面白い。
国友一貫斎が、時の老中・酒井忠進ただゆきの前で行った御前射撃で、2発発射。標的には、2発とも命中したのに、一つの穴しかなかった。
老中、酒井忠進、標的の板、しげしげと見て、『誠に同穴だ、国友は鉄砲の名人だ』 と言った。一貫斎は、『まぐれ当りでございます』 と、謙遜した。
・・・ しかし、彼は ・・・
鉄砲鍛冶である前に、使用者の身に立って作らなければならないと考え、種子島流、荻野流、南蛮流、星山流、米山流、自得流等砲術の免許皆伝を受けている鉄砲の名手だった。・・・ 吾われ も 斯かくく ありたし! ・・・

 

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頼 山陽

頼 山陽 頼 山陽(1781年~1832年):
江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人。大坂生まれ。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなったらしい。

生涯
父の頼 春水 は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀北に私塾「青山社」を開く。青山社の近隣には文人や学者が居住していた。山陽はこの頃、同地で誕生。母は飯岡義斎の長女で歌人の頼梅颸、その妹は尾藤二洲に嫁いでいる。

天明元年(1781年)12月、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(現広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。1788年広島藩学問所(現修道中学校・修道高等学校)に入学。その後春水が江戸在勤となったため学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友尾藤二洲に師事。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、広島へ連れ戻され廃嫡の上、自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。なお『日本外史』の初稿が完成したのもこの時といわれる。謹慎を解かれたのち、文化2年(1809年)に広島藩学問所の助教に就任。文化6年(1809年)に父の友人であった儒学者の菅茶山より招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任した。

ところが、その境遇にも満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年(1811年)に京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年(1818年)には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。文政5年(1822年)上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。この居宅にて営々と著述を続け、文政9年(1826年)には代表作となる『日本外史』が完成し、文政10年(1827年)には江戸幕府老中松平定信に献上された。文政11年(1828年)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明處」とした。

山陽の結成した「笑社」(後の真社)には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成した。その主要メンバーは、父とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子の小竹、京都の蘭医小石元俊の子の元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子の半江、京都の浦上玉堂の子の春琴、岡山の武元登々庵が挙げられる。さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家菅井梅関、尾張出身の南画家中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工の青木木米、幕末の三筆として名高い貫名菘翁、そして遠く九州から文人画家田能村竹田も加わり、彼らは盛んに詩文書画を制作した。

また、その後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』などの完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年(1832年)に死去。享年53。山田風太郎著『人間臨終図巻』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという。また、遺稿とされる「南北朝正閏論」(『日本政記』所収)の自序にはこれを書く決意をしたのは9月12日の夜であったことを記している。京都円山公園・長楽寺に葬られた。法名は山紫水明居士である。
最初の妻との子である長男が頼聿庵、京都で生まれた2人の子である次男が頼支峰と三男が頼三樹三郎。子孫の1人に中国文学者の頼惟勤がいる。

司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。

『日本外史』は武家の時代史であるが、簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。言い換えれば、史伝小説の源流の一つとも言い得る。ただし簡明であるがゆえに巷間で広く読まれ、幕末、明治維新から、昭和戦前期まで、広く影響を与えた。

詩吟、剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る(べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる)」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名で、死後刊行された『山陽詩鈔』(全8巻)に収められている。古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『日本楽府』(全1巻)がある。同書の第一は下記引用の詩に始まるが、易姓革命による秦(嬴氏、西楚の覇王に滅ぼされる)、漢(劉氏、新の摂皇帝に滅ぼされる)に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の「皇統の一貫」に基づく国体の精華を強調している。
【川中島<頼山陽>】
鞭声粛粛 夜河を過る (べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる)
曉に見る千兵の 大牙を擁するを (あかつきにみるせんぺいの たいがをようするを)
遺恨なり十年 一剣を磨き (いこんなりじゅうねん いっけんをみがき)
流星光底 長蛇を逸す (りゅうせいこうてい ちょうだをいっす)

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頼 和太郎

頼 和太郎 頼和太郎さん(らい・わたろう=基地監視団体「リムピース」編集長)が10日死去した。73歳。通夜は15日午後6時、葬儀は16日午後1時から神奈川県横須賀市本町1の4のプラザヨコスカ中央本社斎場で。
 米軍の艦船や航空機の動向を調べて発信するリムピースで、中心的な役割を果たしていた。横須賀海上保安部によると、神奈川県三浦市の三崎港で9日午前10時ごろ、頼さんのシーカヤックが転覆。別のカヤックに乗っていた妻(59)が海に飛び込んで抱え、近くの作業船に救助されたが、搬送先で死去した。
(2021年12月13日 22時58分:朝日デジタル)
上の写真は、何故米軍自慢のオスプレイが、かように頻繁に事故を起こすのか、技術的欠陥を模型を使って説明しているところのようだ。

故人 頼和太郎氏とは小学校時代のポン友です。東京目黒の東山小学校だったけ。僕が4年の後半に埼玉岩槻から転校して、すぐその後に彼が転校してきた。同じクラスで席も近くよく一緒に遊んだ。何故か馬が合った。
中学は私は盛岡に転校してその後は会ってはなかったけど、東京で一度だけあった。一浪して東大に入ってすぐに学生運動に熱を入れていたようだ。私も京都の農学部にいたが3学年の時、学生運動が飛び火してろくに勉強もせずに卒業した世代だ。でもどうしてもヘルメット被って棒振り回す気にはなれなかったね。彼も基本的には平和主義者で、暴力を肯定している訳ではないだろう。
多くの学生が企業に就職し、保守派に転校した中で、づっと継続して闘争を続けていた訳でしょうか。でも、朝日新聞に入社して記者をやりながら合法的な活動を続けていた訳ですね。なんせ裏表のない純粋な熱血漢です。
頼山陽の資料館の設立に関わっているらしいことはネットで見たけど、まさか亡くなったとはビックリです。ご冥福を祈ります。

【頼 惟勤(らい つとむ、1922~1999年)】:
中国学者。お茶の水女子大学名誉教授。頼和太郎さんの父君であられる。東京府生まれ。父は東京高等学校教授の頼成一で、惟勤は頼山陽の6代目の子孫(山陽の子・聿庵の末裔)。1939年(昭和14年)(旧制)私立武蔵高等学校卒業後、1943年(昭和18年)、東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科を繰り上げ卒業。1944年(昭和19年)、海軍少尉。1945年(昭和20年)、中尉。復員ののち、倉石武四郎の世話で京都帝国大学教務嘱託。1949年(昭和24年)、東京大学文学部副手。1952年(昭和27年)お茶の水女子大学専任講師、のち1959年(昭和34年)に助教授、1964年(昭和39年)に教授。1979年(昭和54年)から1983年(昭和58年)にかけて附属高等学校長。1987年(昭和62年)、定年退官、名誉教授、千葉経済短期大学教授。1992年(平成4年)、定年退職。1997年(平成9年)、勲三等旭日中綬章受勲。中国音韻学が専門。
**和太郎君のお父さんも、記憶に良く残っている。色白で眼鏡かけた学究一筋の温厚そうな方だったが、軍人経験者で結構な硬骨漢なのでは。和太郎君と一緒に算数を教えてもらった記憶がある。教えることにも喜びを見いだしている。amazon見ると結構著作も残されているようだ。中国語研究をするには一読しておく必要がありそうだ。
頼 和太郎 【頼清徳さん】
台湾総統の頼清徳(Lài qīngdé)。この方は頼山陽とは取り合えず、関係がない。台湾の貧農の出身とか。つまり、きっすいの本省人。因みに頼姓は日本にも、韓国にも、台湾にも、中国にもあるとか。もちろん、台湾独立が目標だ。ところが習近平政権もバイデン政権も独立大反対、一つの中国に固執。舵取りは国の舵取りはとても大変そうだ。

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新島襄

新島襄 新島 襄(にいじま じょう、1843年2月~ 1890年1月)は、キリスト教の教育者。同志社大学の設立者。江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立。

*上段右の絵は「上毛かるた」から。上毛は今の群馬県。
幼少時代
天保14年(1843年)、江戸(現・東京都区部)の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つように。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ。

1864年、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。

*当時、日本の教会、特に北海道ではロシア正教会が多かった。ロシア正教会は欧米のプロテスタント教会とは異なり、地元の文化を尊重し、現地化を模索していたらしい。日本の多くのキリスト教信者たちはかなり多くの者がロシア正教会の感化を受けてキリスト教徒になったようだ。

6月14日(7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国する。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った。 慶応元年(1865年)7月、ボストン着。

ワイルド・ローヴァー号の船主、アルフィーアス・ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができた。慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業。 明治3年(1870年)にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アーモスト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得であった。新島は大学で自然科学系地質学(鉱物学)を専攻していた。アーモスト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。

明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねる。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査。

明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」(Corresponding member of the Japan)。同年10月9日、バーモント州ラットランドのグレース教会で開かれたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴えて5,000ドルの寄付の規約を得た。
10月31日、新島はコロラド号でサンフランシスコを出港し、太平洋を横断して翌月26日に横浜に帰着し、新島よりも一足先に日本で活動していたアメリカン・ボード宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの出迎えを受ける。

その後故郷の上州安中に向かい、三週間滞在した。滞在中に、藩校・造士館と竜昌寺を会場にキリスト教を講演する。その集会で30人の求道者がでて、日曜ごとに聖書研究会が開かれた。明治11年(1878年)に30人が新島より洗礼を受け、安中教会(現、日本基督教団安中教会)を設立した。

同志社設立
1883年の第三回全国基督信徒大親睦会の幹部、新島は前から2列目の右から4人目、左隣は内村鑑三。そうだ、内村鑑三も結構有名だね。明治8年(1875年)1月、新島は大阪で木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな候補地と定めた。

明治8年(1875年)11月29日、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けて校舎を確保、府知事・槇村正直、府顧問・山本覚馬の賛同を得て旧薩摩屋敷5800坪を譲り受け官許同志社英学校を開校し初代社長に就任する。開校時の教員は新島とジェローム・デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。

また、この時の縁で翌明治9年(1876年)1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚する。同年10月20日、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰、不破惟次郎ら熊本バンドと呼ばれる青年達が同志社英学校に入学。
明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。女学校スタイルはメアリー・リヨンが設立したマウント・ホリヨーク大学を模している。

明治13年(1880年)から大学設立の準備を始める。同年2月17日に快風丸での旧知を訪ねるため、かつての備中松山藩であった岡山県高梁町(現在の高梁市)へと赴き、滞在中に中川横太郎の勧めで伝道と文化改革を目的とした演説を行う。この時の演説は、のちに備中松山の地で高梁基督教会堂の設立発起員の一人となり女子教育に注力する事になる、同地の婦人部会の代表であった福西志計子に深い影響を与えた。
明治19年(1886年)9月には京都看病婦学校(同志社病院)がキリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。この看病婦学校・病院にて看護指導に当たる事となったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズである。

明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。特に土倉は新島のよき理解者、協力者であり、新島も土倉を頼りとした。板垣退助と新島を取り結んだのも自由民権運動のパトロンでもあった土倉であろうと推測される。
また明治21年(1888年)11月、徳富蘇峰は襄の求めに応じ「同志社大学設立の旨意」を添削し、自身の経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、同志社大学設立に尽力した。
晩年
明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養すが、回復せず明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」。享年48。1月27日13時より同志社前のチャペルで葬儀が営まれ、京都府知事・北垣国道をはじめ約4,000人が参列した。遺体は京都東山若王子山頂に葬られた。墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。
**財界人大物たちの協力を見ると、同志社大学設立の目的はキリスト教の普及ではなさそうだ。慶応大学を設立した福沢諭吉と同じようだ。

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ニコライ (日本大主教)

ニコライ (日本大主教) ニコライ(Николай (Касаткин), 1836年8月1日(ロシア暦) - 1912年2月16日(グレゴリオ暦))は日本に正教を伝道した大主教。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。
「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していたとされる。

ニコライは修道名で、本名はイヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(ロシア語: Иван Дмитриевич Касаткин)。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。

戦後の日本では、キリスト教と言えばカトリックだのプロテスタントだのと言っているが、ともに傍系。正真正銘の本家本元は正教会だろう。なんせローマ帝国の西半分が滅亡後も東ローマ帝国はずっと生き残って来たのだから。戦前の日本の有名なキリスト教信者達にも多大な影響を与えていたようだ。
日本贔屓でかつ寛大な精神の持ち主だったようで、日本人や日本文化にも関心が大。多くの日本人との交遊も深めたらしい。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。

初期
スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザの輔祭、ドミートリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は5歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァシーリー・ゴロヴニーンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。

在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。ミラ・リキヤの奇蹟者聖ニコライは東方教会において重視される聖人であり、好んで聖名(洗礼名)・修道名に用いられるが、ニコライも奇蹟者聖ニコライを守護聖人として「ニコライ」との修道名をつけられている。

函館時代
翌1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、元大館藩軍医の木村謙斉から日本史研究、東洋の宗教、美術などを7年間学んだ。また、仏教については学僧について学んだ。

ニコライは1868年(慶応4年4月)自らの部屋で密かに、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる土佐藩士沢辺琢磨、函館の医師酒井篤礼、能登出身の医師浦野大蔵に洗礼機密を授けた。この頃、木村が函館を去った後の後任として新島襄から日本語を教わる。新島は共に『古事記』を読んで、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。ロシア語でなく英語だった。

懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った以後、精力的に正教の布教に努めた。
明治2年(1869年)日本ロシア正教伝道会社の設立の許可を得るためにロシアに一時帰国した。ニコライの帰国直前に、新井常之進がニコライに会う。

ニコライはペテルブルクで聖務会院にあって首席であったサンクトペテルブルク府主教イシドルから、日本ロシア正教伝道会社の許可を得ることができた。1870年(明治3年)には掌院に昇叙されて、日本ロシア正教伝道会社の首長に任じられた。ニコライの留守中に、日本では沢辺、浦野、酒井の三名が盛んに布教活動を行った。

明治4年(1871年)にニコライが函館に帰って来ると、沢辺の下に身を寄せていた人々が9月14日(10月26日)に洗礼機密を受けた。旧仙台藩士12名が洗礼を受け、ニコライは仙台地方の伝道を強化するために、そのうちの小野荘五郎ほか2人を同年12月に仙台に派遣した。ニコライは旧仙台藩の真山温治と共に露和辞典の編集をした。

東京時代
明治4年12月(1872年1月)に正教会の日本伝道の補佐として、ロシアから修道司祭アナトリイ・チハイが函館に派遣された。ロシア公使館が東京に開設されることになり、函館の領事館が閉鎖されたが、聖堂は引き続き函館に残されることになったので、ニコライはアナトリイに函館聖堂を任せて、明治5年1月(1872年2月)に上京し築地に入った。ニコライは仏教研究のために外務省の許可を得て増上寺の高僧について仏教研究を行った。

明治5年(1872年)9月に駿河台の戸田伯爵邸を日本人名義で購入して、ロシア公使館付属地という条件を付け、伝道を行った。明治5年9月24日東京でダニイル影田隆郎ら数十名に極秘に洗礼機密を授けた。

明治7年(1874年)には東京市内各地に伝教者を配置し、講義所を設けた。ニコライは、神奈川、伊豆、愛知、などの東海地方で伝道した。さらに京阪地方でも伝教を始めた。
明治7年5月には、東京に正教の伝教者を集めて、布教会議を開催した。そこで、全20条の詳細な『伝道規則』が制定された。

明治8年(1875年)7月の公会の時、日本人司祭選立が提議され、沢辺琢磨を司祭に、酒井篤礼を輔祭に立てることに決定した。東部シベリアの主教パウェルを招聘して、函館で神品会議を行い、初の日本人司祭が叙任された。このようにニコライを中心に日本人聖職者集団が形成された。さらに、正教の神学校が設立され、ニコライが責任を担った。
明治9年(1876年)には修善寺町地域から岩沢丙吉、沼津市地域から児玉菊、山崎兼三郎ら男女14名がニコライから洗礼を受けた。

明治11年(1878年)、ロシアから修道司祭のウラジミール・ソコロフスキーが来日して、ニコライの経営する語学学校の教授になり、明治18年までニコライの片腕になった。

ニコライ堂) Слава в Вышних Богу→Gloria 栄光 ??
明治12年(1879年)にニコライは二度目の帰国をし、明治13年に主教に叙聖される。その頃の教勢は、ニコライ主教以下、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263だった。同じ年、正教宣教団は出版活動を開始し、『正教新報』が明治13年12月に創刊された。愛々社という編集局を設けた。

明治13年(1880年)イコンの日本人画家を育成するために、ニコライは山下りんという女性をサンクトペテルブルク女子修道院に学ばせた。3年後山下は帰国し、生涯聖像画家として活躍した。 明治15年(1882年)に神学校の第一期生が卒業すると、ロシアのサンクトペテルブルク神学大学やキエフ神学大学に留学生を派遣した。
明治17年(1884年)に反対意見があり中断していた、大聖堂の建築工事に着手して、明治24年に竣工した。正式名称を復活大聖堂、通称はニコライ堂と呼ばれた。
明治26年(1893年)ニコライの意向により、女流文学誌『うらにしき(裏錦)』が出版された。明治40年まで存続し明治女流文学者の育成に貢献した。 明治37年(1904年)2月10日に日露戦争が開戦する前の、2月7日の正教会は聖職者と信徒によって臨時集会を開き、そこでニコライは日本に留まることを宣言し、日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。

内務大臣、文部大臣が開戦直後に、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示した。強力な警備陣を宣教団と敷地内に配置したので、正教宣教団と大聖堂は被害を受けることがなかった。神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

不朽体
1970年、谷中墓地改修の際に棺を開けると不朽体(どんな状態だったのか?)が現れた。同年、ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。

ニコライが伝道した「正教」
ニコライが「ロシア正教を伝えた」とする媒体が散見されるが、「ロシア正教会」「ロシア正教」は最も早くに見積もっても1448年に成立した独立正教会の組織名であり、教会の名ではない。「正教を伝えた」が正しい表現である。ニコライは「(組織としての)ロシア正教会に所属していた」とは言えるが、あくまで「正教を伝えた」とされているようだ。

正教会は1カ国に一つの教会組織を具えることが原則であり各地に正教会組織があるが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会に教義上、異なるところは無く、相互の教会はフル・コミュニオンの関係にあり、同じ信仰を有しているとされている。

【正教会】
正教会(Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会。キリスト教の教会(教派)の一つ。と言うよりも元祖キリスト教と言う方が正確か。正教以外のキリスト教にはカトリック、プロテスタント、その他モルモン教、クエーカー教等多数あるようだ。
日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている。なお「東方教会」が正教会を指している場合もある。
例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンティノープル総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りとされる。
なお、アルメニア使徒教会(アルメニア正教会)、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属するようだ。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。

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安部譲二

安部譲二 安部 譲二(あべ じょうじ、1937年~2019年) 小説家、タレント。元暴力団員。自らの服役経験を基にした自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などの著作がある。元日本航空のスチュワードとしても勤務した。また漫画原作者としても、第51回小学館漫画賞を受賞した柿崎正澄の漫画『RAINBOW-二舎六房の七人-』などの作品がある。血液型O型。
本名は安部 直也(あべ なおや)。元妻は実業家、エッセイストの遠藤瓔子で、ゲームソフトの原作・監督などを手がける遠藤正二朗は遠藤との子にあたる。
下記、ヤクザ時代の過去については「大体、10%だけがホントで、あとは膨らました脚色ですよ」、「作家は政治屋や役人と一緒で、ホントのことなんか言うわけがねぇんだよ」とも発言。しかし日本航空のスチュワードであった経歴については、当時の同僚の夫である深田祐介や当時の同僚から事実であったことが証言されており、多数の写真も残っている。

父の転勤に伴い、幼少時はイギリスのロンドンやイタリアのローマで育つ。第二次世界大戦の影響を受けて、1941年に日本郵船が欧州支店を撤退するために家族で日本へ帰国すると、池田山(現・品川区東五反田)の母の実家に育ち、森村学園幼稚園に通う。

日本も第二次世界大戦に参戦すると、1942年に軍属として昭南島(シンガポール)に出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝、名将言行録などを国民学校低学年にして片っ端から読破。港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。

また、大戦末期には熱海の祖母の別荘に疎開し、町内に松竹ロビンスの監督等を務めた新田恭一が住んでいて野球を教えてもらったという。これが縁で成人した安部が安藤組のアマチュア野球チームにいたおり、安部の母が「プロ野球選手になれたらヤクザをやめてもいい」と言った息子の話を真に受け、足を洗って欲しいと新田から辿って新田の慶応野球部の後輩・別当薫に安部を紹介したことがあるという。

橋本 私立麻布中学校時代の同級生には元総理大臣の橋本龍太郎がいる。麻布中学の入学試験当日、頭のいい受験生の後席に座ればカンニングできると目論んだ安部は、他の受験生を品定めしたところ、橋本が一番頭がよさそうに感じ、その後席に座ることに成功したという。後年、橋本と同窓会で会った際、政界に身を置くようになっていた橋本に自身と似た匂いを嗅ぎ取り、互いに都合の悪いことだけは黙して語らないことを約束したといわれる。また、橋本政権下の時代、コメンテーターとしてトーク番組で政治問題のコメントする際はいつも『俺は龍ちゃんと同級生だったから』とのことでいつも自民党擁護の発言が目立った。しかし、これは安部自身が元ヤクザのベストセラー作家でありながら橋本と同級生だったことを言いたかったちょっとしたネタであり、一緒に出演していた他のコメンテーターからは特に問題視されることはなかった。

麻布中学2年時には江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある。また、中学在学中から安藤組大幹部・阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたため麻布高校への内部進学が認められなかった。

1952年には夏祭りの場で複数のテキ屋と争い、出刃包丁による傷害事件を起こす。困った父親により幼少期に育ったイギリスに留学させられ、ウィンブルドンの寄宿制学校に進む。同校在学中には南ロンドン地区の少年ボクシング大会に出場し、ライトウェルター級選手として優勝した。入寮から4ヶ月経った時、イタリアから留学中の女子生徒と全裸で戯れていたのを舎監に発見され退寮処分を受ける。16歳の時にカメラマンのアシスタントとしてオランダに渡り、ロバート・ミッチャムと売春婦を巡って殴り合いをしたことがある。

安藤組時代
日本に戻ると、慶應義塾高校に入学。同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳で本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生たち16人に喧嘩を挑まれて3人で叩きのめしたことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けた。

慶應義塾高校除籍後は神戸市立須磨高等学校や逗子開成高等学校など6つの高等学校を転々とし、安藤組組員であった時期に保善高校定時制課程に入学した。この間、18歳の時に横浜市伊勢佐木町へ債権の取り立てに行き、不良外人のブローカーと争い、初めて銃で撃たれる経験をする。

19歳の時には横浜で不良外人の下へ借金の取り立てに行ったところ、用心棒から殺されそうになり、反撃して相手の拳銃と車を奪い逃走。このため強盗殺人未遂と銃刀剣法違反で逮捕され、少年院から大津刑務所に身柄を移される。1審で懲役7年の実刑判決を受けたが、接見に来た今日出海らの勧めで控訴。控訴審の弁護人の働きにより緊急避難が認められ、強盗殺人未遂から窃盗罪・遺失物取得罪・銃刀剣法違反に罪名変更され、懲役2年6月、保護観察付執行猶予5年の有罪判決を受ける。

以後、「幻の鉄」の二つ名を持つ中国道の大親分のもとに身柄を預けられ、親分の一家を守るとともに、親分の娘と恋仲になった。また、若い時期はブラディー・ナオのリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もあった。世界王者・サンディ・サドラーの来日時のスパーリングパートナーも務めたといい、ハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたこともある。

(安藤組に所属中のエピソードと思われるが)1980年代、作家転向後の青年誌(講談社刊行「ホットドッグ・プレス」)のインタビュー記事内で「フランスに滞在中、射撃の大会に出場したところ22口径の部で優勝し、そのことが「ル・モンド」紙に掲載され、周囲より「日本では拳銃を所持できないのに、なぜお前が優勝できるのだ」という声があがり、「オレはヤクザだ」という趣旨の発言をし、それが原因でフランスから国外退去させられた」というくだりがある。

日本航空勤務時代
1959年に22歳で保善高校定時制を卒業し、国際ホテル学校に入学。1961年1月に23歳で日本航空に入社し、客室乗務員として国内線や国際線に乗務する。スチュワードからパーサーまで出世するが、理不尽な要求をする乗客とのトラブルで殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であったことが露見し、安藤組解散(1964年)後の1965年1月に退社に追い込まれた。
パーサー時代の勤務態度は真面目な反面、感情的になることが多く、同僚の彼女をぶん取って交際したり、横柄な支店長を殴ったり、乗客を投げ飛ばしたこともあったといわれている。出勤時には車の中で安藤組の代紋を外し、日本航空の社章に取り換えていた。

日本航空時代に同僚の遠藤瓔子と結婚した。その後作家となる、当時日本航空広報部社員だった深田祐介と知り合い、深田の妻とも客室乗務部で同僚であった。当時深田は安部を「帰国子女で典型的な山の手のお坊ちゃん風」と思っており、暴力団員でもあったことを退社に至るまで全く知らなかったとしている。

この間、1963年4月17日から1967年8月25日に起きた第二次広島抗争に派遣された。映画「仁義なき戦い」の第四部「頂上作戦」の劇中に、全国からケンカの助っ人が広島市に集結したくだりがあるが、実際は全面戦争にはならず、安部は暇で野球に興じていた。ある日、商店街の野球大会に参加して、飛ばない軟式ボールを広島市民球場の外野スタンドにたたき込んだら、商店街の会長から「親分にもよく話してやるから、広島カープの入団テストを受けてみなさい」と言われたとしている。

小金井一家/実業家時代
日本航空退社後の1966年からは刑務所で服役する。同年、ボクシングジムを紹介するなど親交があった三島由紀夫の原作、田宮二郎主演で、日本航空時代の安部をモデルとした映画『複雑な彼』が大映で制作、封切りされている。田宮二郎が演じた主人公「宮城譲二」は、その後安部が作家デビューするにあたりペンネームにもなった。

安藤組解散後は、新宿の小金井一家にヘッドハンティングされる。同時に妻とレストラン「サウサリート」の経営、キックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営、プロモーター、競馬予想屋などの職を転々とした。

1960年代後半から1970年代にかけて青山でジャズクラブ「ロブロイ」を経営していた時期は、本店を遠藤に任せ、赤坂と六本木と三田の支店をそれぞれ愛人に任せ、白いキャデラック・フリートウッドを乗り回し、ドーベルマンを飼い、大田区鵜の木の敷地700坪の豪邸に住むほどの勢いがあった。「ロブロイ」では菅野邦彦も弾いたが、当時高校生の矢野顕子も弾いた。後に瓔子が当時を回想して書いた「青山『ロブロイ』物語」はテレビドラマにもなった。

1974年9月から半年間、ボリビア政府軍の砲艇の航海長として革命軍の村を掃射する任務にあたったこともあるという。また、1975年には南ベトナム政府軍御用達のフランス製メタンフェタミン25キログラム缶を安価に入手すべく、陥落直前のサイゴンに潜り込んだものの、一度は1500万円で購入したメタンフェタミンを群集に争奪され、命からがら脱出したこともあるとしている。

同年に拳銃不法所持や麻薬法違反で実刑判決を受け、同年秋から府中刑務所で4年間服役した。当時、囚人の中に赤軍派(後に日本赤軍)活動家の城崎勉がおり、安部の著作によると、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きる直前、城崎にオルグされかけたことがあったという。

1981年にヤクザから足を洗った。安部の前科は暴行傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反など日本国内だけで合計14犯、また国外でも複数回の服役を経験し、国外での前科は3犯、国内と国外での刑務所生活は通算8年間に及んだ。 小説家・テレビタレントとして
1983年から小説を書き始めた。著書を出してくれる出版社が見つからなかったが、1984年に山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に刑務所服役中の体験記『府中木工場の面々』の連載を開始した。文筆家としての道を歩むきっかけになった山本との出会いに関しては、著書等で事あるごとに「山本先生は自分の恩師、大恩人である」と触れている。

1987年に連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版された。『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化もされ、以後人気作家としての地位を築いた。情報帯番組『追跡』(日本テレビ系)の金曜レギュラーを皮切りにテレビやラジオに数多く出演し、タレントとしても活動した。なお、『追跡』司会の青島幸男を深く敬愛しており、青島の東京都知事選出馬時も支持している。

人気作家になったが、バブル景気崩壊で負債を抱え妻の遠藤瓔子とも離婚し、借金の形や慰謝料として大半の財産と一緒に愛車のポルシェも持っていかれた代わりに、安価なオートザム・レビューを渋々購入したが、実用性が高く気に入っていると後にNAVI誌上で評した。都内某ディーラーにて新車購入の際、購入した車の値引の代わりに、CMキャラクターだった小泉今日子を「4人ばっか乗っけて持ってきてくれ」と発言し、担当営業と営業所長を困らせたことがある。本人曰く「4人なんてありえねぇんだから、等身大の看板でも乗っけてくりゃ笑えたのに」としている。

漫画作品の原作にも携わり、2005年には『RAINBOW-二舎六房の七人-』で第51回小学館漫画賞一般部門を受賞した。2005年頃より、新聞などに掲載される禁煙グッズの広告に登場。「私は楽して煙草をやめました」として大々的に広告されているが、本人は煙草をやめていないことを自身のブログなどで告白している。

また、選挙ではいつも日本共産党に投票していたが、2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党に投票し、後悔しているとも述べている。日本社会党、日本共産党の支持を受け、庶民派の東京都知事として在任中であった美濃部亮吉が、高級ホテルとして知られるホテルオークラで朝食を摂っているのを目撃した安部は、美濃部と一悶着起こしたと自著にて記している。
2000年代以降は執筆にはパソコンを使用し、ときおり2ちゃんねるやウィキペディアを見ていることを明らかにしている。2019年9月2日、急性肺炎で死去した。
本当に自由人ですね。全くのお坊ちゃん育ちで何事にも拘らない。いや、変に頑なに拘る。 そこが魅力なんですかね。でも、この人の本あまり読んだことは無いんだけど。

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村木厚子

村木厚子 村木 厚子(むらき あつこ、1955年〈昭和30年〉12月28日~):
元労働・厚生労働官僚。津田塾大学客員教授。旧姓西村(にしむら)。厚生労働省4人目の女性局長として、2008年に雇用均等・児童家庭局長を務めた後、内閣府政策統括官(共生社会政策担当)、厚生労働省社会・援護局長を歴任し、2013年7月から2015年9月まで厚生労働事務次官を務めた。

退官後は内閣官房孤独・孤立対策担当室政策参与、伊藤忠商事取締役、住友化学取締役、SOMPOホールディングス監査役、コニカミノルタアドバイザー、大妻学院理事、土佐中学校・高等学校理事等に就任。

高知県出身。夫は労働省入省同期の村木太郎。2女の母でもある。幼い頃は人見知りで対人恐怖症(本人談)の読書好きな少女だった。自由な校風に憧れ、土佐中学校・高等学校に入学。同校を卒業し、高知大学文理学部経済学科に進学。社会保険労務士の父の背中を見て育ち、大学卒業後の1978年に、労働行政を管轄する労働省に入省。なお、その際の国家公務員上級試験では、高知大学からの合格者は村木1名だけであったとか。

村木厚子 東京大学出身者の男性キャリアが多い霞が関の中央省庁の幹部の中では、珍しい地方国立大学出身の女性で、さらに厚生労働省では少数派の旧労働省出身であった。事務処理能力や、頭の良さ、法令知識などが特に目立つような存在ではなく、誰もが認める次官候補や、エースと呼ばれるタイプではなかった。障害者問題を自身のライフワークと述べ、人事異動で担当を離れた後も、福祉団体への視察を続けるといった仕事に臨むまじめな姿勢や、低姿勢で物腰柔らかく、誰も怒らせることなく物事を調整することができる、敵を作らない典型的な調整型官僚として有能であることが評価されていた。女性としては松原亘子に続き2人目となる事務次官就任の可能性もささやかれていた。
2008年には、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長に就任した。2012年9月10日に社会・援護局長。
2013年7月2日から2015年9月まで事務次官を務め退官。
2016年6月、伊藤忠商事社外取締役に就任。

村木厚子 冤罪被害
厚労省の社会・援護局 障害保健福祉部 企画課長時代に、自称障害者団体「凛(りん)の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、不正に郵便料金を安くダイレクトメールを発送させたとして、2009年6月、大阪地方検察庁特別捜査部長の大坪弘道や副部長の佐賀元明の捜査方針のもと、虚偽公文書作成・同行使の容疑で、同部主任検事の前田恒彦により逮捕された。

**凛(りん)の会→確かにwikiで検索しても出て来ない。全く実態が無いようだ。課長クラスの者がこのような架空の組織の便宜を図ることなどまずはあり得ないことだ。そもそもこんな事態初めから存在してなかったんではないの。せいぜい部下の手違い程度だろう。初めから、検察庁特別捜査部が出て来るような事件ではなさそうだ。何か目的を持った陰謀がありそうだ。個人的に人に恨まれるような方でもないし、何か政策面で彼女を排除したい勢力がいたのか?

逮捕を受けて自民党の厚労大臣 舛添要一(当時)は「大変有能な局長で省内の期待を集めていた。同じように働く女性にとっても希望の星だった」と、容疑者となった村木へ賛辞ともとれる異例のコメントを発表した。
**→舛添要一が過去形でコメントしている点は怪しい。だって、未だ容疑は確定していない段階だ。賛辞どころか極めて不適切な発言だね。明らかに冤罪であることを重々承知の上で容疑を肯定しようという意図がありあり見える。

翌7月、大阪地方検察庁は虚偽有印公文書作成・同行使の罪で村木を大阪地方裁判所に起訴した。 取調べの中で担当検察官の國井弘樹は村木に向かって、和歌山毒物カレー事件を例に挙げ「あの事件だって、本当に彼女がやったのか、実際のところは分からないですよね」といい、否認を続けることで冤罪で罪が重くなることを暗示し自白を迫ったという。担当検察官の國井弘樹は和歌山毒物カレー事件も冤罪であることを重々承知の上で脅していた訳だね。検察に逆らうものは誰でも裁判で負けるぞ!

*やはり、そうだったのか。和歌山毒物カレー事件は有罪判決を出すには明らかに証拠不十分だね。誰かを犯人に仕立て上げないと検察の面子が立たないか。それでは裁判所もグルなのかな?

逮捕から5ヶ月が経過した2009年11月、保釈請求が認められ、村木の身柄が解放された。弁護士の弘中惇一郎と厚労官僚の夫も同席した保釈後の記者会見では容疑事実を強く否定し、改めて無罪を主張した。
村木厚子 翌2010年9月10日、無罪を訴えた村木に対して大阪地裁は無罪判決を言い渡した。政権交代を経た民主党の厚労大臣 長妻昭(当時)は「それなりのポストにお戻り頂く」と、無罪が確定した場合は局長級で復職させる旨に言及した。2010年9月21日、大阪地検は上訴権を放棄。下級審での無罪判決が確定判決となった。

同じ日、朝日新聞は本事件の捜査を担当した検察官の前田が証拠改竄を行っていたことを朝刊でスクープ。同日夜、前田は証拠隠滅の容疑で検察官に逮捕された。同年10月1日、大坪及び同副部長であった佐賀が、同特捜部当時の部下であった前田による故意の証拠改竄を知りながら隠したとして、犯人蔵匿の容疑で逮捕された。

この事件において、村木の逮捕に深く関わった検察官3人の職務遂行に犯罪の疑いが掛けられ、検察官が被疑者として検察官に逮捕されるという極めて異例の事態となった。 **詳細は大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件を参照。

冤罪事件について外交官出身の佐藤優は「村木厚子さんは無罪になりましたが、部下に公印を使われた上司としての責任は当然問われないといけない」と述べている。2012年2月、部下の有罪確定を受けて、訓告処分を受けた。
**これは一概には言えない。公印とは誰が押そうと第三者に対しては有効。でも、組織の中では必ずしも上司の了解があったとは言えない。そこまで責任はないのでは?

**村木厚子さんは、冤罪が証明されて以降、かえって周囲からの信頼を得たようだ。復職後も大活躍されているようで結構な話である。ただ、ただ現職の官僚が証拠不十分の段階で逮捕されるということは、本人にとって大問題だ。逮捕されたというだけで、マスコミ上では既に犯人扱いだから。勿論メディア側にも大いに責任はあるが。

復職
2010年9月21日、起訴休職処分が解かれ、村木は厚生労働省に大臣官房付として復職した。その後内閣府に出向し、9月27日付で局長級の内閣府政策統括官(共生社会政策担当)に就任。青少年育成や少子高齢化、自殺、犯罪被害者対策、障害者施策等の施策の担当である。また、内閣府自殺対策推進室長と内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)も併任。10月21日から菅直人内閣総理大臣の特命を受け、待機児童ゼロ特命チーム事務局長を併任した。

検察の在り方検討会議では大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件で勾留された一人として意見を述べた。2011年6月から法務省法制審議会新時代の刑事司法制度特別部会委員を務め、取り調べの可視化に向けた審議などにあたった。

2012年2月、国側から得た刑事補償金を、社会福祉法人南高愛隣会に寄付することを表明し、同年3月「共生社会を創る愛の基金」が創設された。
2012年9月10日付で、厚生労働省社会・援護局長に就任し、3年3か月ぶりに厚生労働省に局長として復帰した。
2013年7月2日付で、金子順一の後任として厚生労働事務次官に就任した。女性の事務次官就任は、松原亘子労働事務次官(当時)以来、16年ぶり2人目である。2014年6月18日、国会提出した法案等の文書ミスで、訓告処分を受ける。2015年4月8日からの天皇と皇后のパラオ訪問に同行。10月1日付で事務次官を退任。

退官後
2016年6月、伊藤忠商事社外取締役、コニカミノルタ株式会社アドバイザー、学校法人大妻学院理事、一般社団法人障害者雇用企業支援協会顧問、公益財団法人三菱UFJ信託芸術文化財団評議員、公益財団法人産業雇用安定センター評議員、公益社団法人日本フィランソロピー協会理事に就任。2017年学校法人土佐中学校・高等学校理事、津田塾大学総合政策学部客員教授、SOMPOホールディングス株式会社監査役に就任。2018年住友化学株式会社取締役。2021年内閣官房孤独・孤立対策担当室政策参与。日本農福連携協会副会長理事、全国居住支援法人協議会共同代表[33]、日本生活協同組合連合会理事なども務めた。

【大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件】
大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件とは、2010年(平成22年)9月21日に、大阪地方検察庁特別捜査部所属で、障害者郵便制度悪用事件担当主任検事であった前田恒彦が、証拠物件のフロッピーディスクを改竄したとして証拠隠滅の容疑で、同年10月1日には、当時の上司であった大阪地検元特捜部長・大坪弘道および元副部長・佐賀元明が、主任検事の前田による故意の証拠の改竄を知りながらこれを隠したとして犯人隠避の容疑で、それぞれ逮捕された事件。

現職の検事で、しかも特捜部の部長・副部長・主任検事が担当していた事件の職務執行に関連して逮捕されるという極めて異例の事態となり、検察庁のトップである検事総長・大林宏の辞職の引き金となった。
ただ、問題は証拠の改竄や隠滅と言った行為は、今回はたまたま発見されたが、本当はこんなことが日常茶飯事で行われていないという証拠にはならないことだ。さらに、このような証拠の改竄や隠滅と言った行為が組織ぐるみで行われているとしたら?

担当検事の証拠偽造容疑
2010年(平成22年)9月10日、障害者郵便制度悪用事件で、大阪地方裁判所が厚生労働省元局長・村木厚子に無罪判決を言い渡した。
その後、同年9月21日に朝日新聞は、被告人のひとりが作成したとされる障害者団体証明書に関し、重要な証拠が改竄された疑いがあることを朝刊でスクープした。
その記事の内容は、大阪地検特捜部が、2009年5月26日に同事件の被告人のひとりである厚労省社会・援護局障害保健福祉部企画課元係長のフロッピーディスクごと元データを差し押さえていたが、その後、重要な証拠である同データの作成日時について、「6月1日未明」(5月31日深夜)から(6月上旬に指示を受けたという捜査見通しに合致する)「6月8日」に書き換えられていた、というものである。

検察は朝日新聞が報道する前日から調査をしていたが、9月21日になって、最高検察庁が証拠偽造罪の疑いで直接捜査を開始した。最高検刑事部所属の部長を含めた4人の検事のうち、大阪高等検察庁を担当する最高検検事・長谷川充弘が、大阪地方検察庁検事事務取扱に任じられて本事件の主任検事となり、東京高等検察庁や東京地方検察庁の検事7人のチームで捜査を担当した。同日夜に証拠隠滅の容疑で元主任検事を逮捕し、自宅および大阪地方検察庁の執務室の捜索を行った。 検察捜査について地方検察庁から報告を受けて了承や指示をすることが原則の上級庁(最高検察庁・高等検察庁)が、被疑者の身柄拘束をした上で直接捜査をすることは極めて異例である。

同日、最高検では、次長検事・伊藤鉄男、最高検刑事部長・池上政幸および最高検刑事部検事・八木宏幸が、また大阪地検では次席検事・大島忠郁がそれぞれ会見を開いて陳謝するとともに、検察の信頼回復に努める旨のコメントを発表した。一方、事件当時大阪地方検察庁特捜部長を務め、容疑者である元主任検事の上司だった京都地方検察庁次席検事は、最高検の本件への対応について、「むごいことをする。本人の話も聞かずにいきなり逮捕した」とし「やりすぎ」と批判し、自己の刑事責任を否定するとともに元主任検事を擁護した。

上司の犯人隠避容疑
9月27日には三井環(元大阪高検公安部長)が、大阪高検次席検事・玉井英章ら当時の大阪地検検事正・次席検事・特捜部長・特捜部副部長、計4人を、犯人隠避の罪で検事総長・大林宏に告発した。

最高検察庁も、最高検公判部長・吉田統宏および最高検総務部長・伊丹俊彦を主任に任じ、9月28日までに、当時の特捜部長および特捜部副部長につき、犯人隠避容疑で捜査を開始した。同日、大阪地検検事正および前次席検事も聴取を受けた。

その後10月1日の夜に、大阪地検元特捜部長・大坪弘道および大阪地検元特捜部副部長・佐賀元明が犯人隠避容疑で逮捕された。大阪地検公判部長・谷岡賀美も、「証拠が改竄された疑いがある」との報告を受けつつ公判を続けていたとして、本件の参考人として最高検から聴取を受けたが、犯人隠避への関与はなかったとして、起訴等の刑事処分はされなかった。

改竄と対応の経緯
2010年1月27日、厚労省元局長・村木厚子の初公判において障害者団体証明書の作成日時が問題となった。これに関する大阪地検の対応については、当初次のように説明されていた。
*******************
同僚の検事が主任検事に問い合わせたところ、フロッピーディスクの書換があったと言われたため、これを告げられた公判担当検事が、同僚2名とともに、1月30日に副部長に公表するよう訴えた。2月1日には、副部長が部長に相談。部長の指示で副部長は主任検事に問い合わせたが、「過失だった」と言われたために、以後の調査を見送った。 同地検の検事正や大阪高検刑事部長にも報告が上がったが、大阪高検検事長に報告は上がらず、地検としても何らアクションを取らず問題を放置していたものである。
****************
しかし、報道によれば、当初は故意を否認していた元主任検事が、2010年9月24日に供述を転じ、故意に書き換えを行ったと自白したとされる。
当時の大阪地検特捜部長や、同特捜部副部長らは、9月23日以降、連日のように東京の最高検で参考人として任意聴取を受けた。逮捕前の取材に対し、元特捜部長は、部下の主任検事が故意にデータを書き換えたとは思っていなかったとし、その後も一貫して過失と判断したと主張しているとされる。しかし、最高検は、故意の改竄と知りながら隠した疑いがあるとして、10月1日当時の特捜部長および副部長を犯人隠避の容疑で逮捕した。

その後の報道によれば、元主任検事は、上記2010年1月の元局長の初公判後に副部長(いずれも当時)に改竄を告白したとされ、そのときに「ここはすべて任せろ」といわれ、その後、過失と主張するように指示されたという。また、副部長は部長にも経緯を報告し、データの書き換えはコピーを対象とした遊びのつもりであったものであり、また、「捜査報告書」には正しい日時が記録されているので、書き換えたとしても問題ない、という弁解を考え、2月初めに、2人でこれに沿った上申書を元主任検事に作らせたと、最高検は見ているという。

また、最高検は、同年12月24日に検証結果を発表したが、そこでは、特捜部に組織的病理も原因であったとされている。元主任検事は、上司の特捜部長から、「政治家はできなくても、せめて局長までは立件を」「これが君の使命だ」と求められ、また、大阪高検検事長ら幹部から「局長の部下の独断での犯行は考えられない」などと言われてプレッシャーを感じ、一人で抱え込んでいたとされる。また、特捜部長は、検事が立件に消極的な意見を述べると「特捜から出て行ってもらう」など叱責していたという。ただし、この発表時点でも、特捜部長、副部長は関与を否定し、「最高検の描いたストーリー」と批判しているという。
2010年10月11日、最高検察庁は、元主任検事・前田恒彦について、大阪地方裁判所に証拠隠滅の罪で起訴した。
2011年4月12日、大阪地裁(中川博之裁判長)は懲役1年6ヶ月の実刑判決を言い渡した。前田恒彦は控訴せず、実刑が確定した。

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

姜尚中

姜尚中 姜 尚中(カン サンジュン、朝鮮語:강 상중、1950年(昭和25年)8月12日~ )は、日本の政治学者。東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長。長崎県の学校法人鎮西学院学院長・理事。鎮西学院大学の初代学長。専門は政治学・政治思想史。特にアジア地域主義論・日本の帝国主義を対象としたポストコロニアル理論研究。

思想・主張
在日韓国人という立場を、エドワード・サイードの言う「周辺者」あるいは「亡命者」とみなし、日本と韓国という二つの祖国を持つ独自の存在とし、日本社会が歴史的に捉えてきた朝鮮史観、およびそこにあるいわゆる「偏見」に対して批判を加えている。 ここでは、日本の戦前の朝鮮史観の始まりは、山縣有朋の「主権線・利益線」にまで遡ると主張。日本の近代化としての理想像が西欧社会であるならば、その反転としての未開地域、停滞地域として朝鮮半島・東北アジアが「発見」されたと主張している。また、戦後の日本の対朝鮮史観については、丸山眞男のいう「悔恨の共同体」を経て、経済復興、高度経済成長を背景に「日本特殊論」などが登場してくる中で、西欧との同一化と差異化のプロセスとして、再び戦前と同様の対朝鮮・東北アジア史観が「再発見」されたと主張している。

ナショナリズム批判についての著作も多い。ただし、現在の世界システムを自由主義経済による支配システムとして考えた場合、その中枢にいる一握りの経済大国と周辺に追いやられた諸国との経済格差はますます大きくなっているとし、有無を言わさず周辺化される力学に反抗する手段としての、いわばイマニュエル・ウォーラーステインのいう「反システム運動」として発現するナショナリズムに対しては一定の理解を示している。また、サミュエル・P・ハンティントンが主張した「文明の衝突」に対しても、世界システムにおける中枢国と周辺国の格差を無視したオリエンタリズム的観点であると批判している。

在日韓国人2世で、平和問題などについて積極的に発言している政治学者、姜尚中氏(64)。両親が日本で体験した戦争と、戦後の日韓関係について聞いた。
――戦後生まれですが、父母から戦争の話は聞きましたか。

「東京に住んでいた両親は疎開先の愛知県一宮市で空襲により長男を亡くしています。焼夷(しょうい)弾が雨あられのようにふってくる恐怖感だけでなく、長男を亡くしたことが、親にとって戦争の最大のトラウマでした」
姜 尚中(かん・さんじゅん)氏 熊本市生まれの在日2世。22歳の時の訪韓を機に韓国名の姜尚中を使う。専門は政治学、政治思想史。東京大名誉教授。
「母は一番上の長男の命日に欠かさず供養していました。幼い頃、長男の死を聞かされていなかった自分は、母が何をしているか分からず聞いたと記憶しています。我が家が本当は3人兄弟だったと聞かされたのは高校生の時。非常に驚いた。母も、もう高校生だからと思って打ち明けたのではないでしょうか」
「戦争の爪痕は、何十年たっても人のどこかに残る。戦争を始めるときは、そういうことを考えずに始めるのでしょう。だから戦争というのはすべきじゃない」

――日本はなぜ戦争を始めたとみていますか。
「日本が明治維新後、想像以上に近代化に成功したがゆえに、内側からかかるべきブレーキがかからなくなった。よく私はこれを『成功が蹉跌(さてつ)の原因になった』と言っています。歴史的に言えば、日清戦争で巨大な賠償金が出たということは非常に大きかった。だから、東アジアの中で、目覚ましいほどの近代化の成功をなし遂げ、戦争を避けるブレーキがかからなくなった」
「日本と戦争を考えた時に1905年が重要な年です。日露戦争に勝ったと言われているけれど、実質的にはこれ以上の戦争継続能力はなかった。にもかかわらず韓国を併合してしまった。(韓国を日本の保護国にした)同年の第2次日韓協約、韓国ではウルサ条約と呼ぶが、ここに踏み込むべきではなかった」
「韓国では伊藤博文のことが悪く言われていますが、韓国の併合に関しては必ずしも積極的ではなかった。あの時点では、日本の中も一枚岩ではなかったのでしょう。方向転換なり、少なくとも違う対応ができる可能性はあったわけだが、そうはなりませんでした」
――戦後をどう評価していますか。
「日本は沖縄を別にすれば、平和が戦後ずっと続いた。多くの日本国民は平和と繁栄、成長はほぼイコールで結びつくという非常に誇らしい歴史だったと思います。それはアジアの国々が正当に評価しなければならないことです。一方で、日本の周辺のアジアの国々では戦争が続いた。ある人はベトナム戦争が終わるまでを戦後30年戦争というが、硝煙のにおいが絶えませんでした」

「私は1950年に生まれました。その年に朝鮮戦争が起き、それは新しい戦争の始まりでした。日本にとどまっていた韓国人の私の父や母、そこから生まれてきた私のような存在にとって、父や母の国で起きた戦争は暗い影を落としました。日本にいる在日の人は直接的に戦争との関係を持たなかったけれども、父母の国は甚大な被害が出る戦争となりました」

「沖縄と在日の人々は、戦争の絶えないアジアと、どこかでつながっていました。戦後という歩みを実感する場合でも、普通の日本人とはおのずからニュアンスの違いがあります」

平和を支えている「犠牲」に目を向けることも重要と語る姜氏
――1970年代初頭に初めて韓国に行ったそうですが、その時に感じたことは。
「強いカルチャーショックを受けました。実はそこで初めて、日本の平和は例外ではないかと気づきました。たぶん沖縄に、その時代に渡航すれば同じ考えを持ったのではないかと思います。自分の身は韓国との関係を持ちながら、非常に例外的な日本の平和の中で生まれて育ったことを考えるときに、心の中に、ある種の落差、あつれきがずっとありました」

「韓国は1997年に通貨危機を経験し、その後、急速に近代化していく中で、日本と同じような問題を抱えるようになりました。過当競争や高齢者の孤独など、かつてあった日本との経済的な格差とは違う問題が見えてきました」
「日本にとっては戦後、韓国にとっては解放の70年を迎えています。日韓で異なる2つの8月15日が寄り添うことは可能だとみています」

――平和を維持するために必要なことは何ですか。
「空気のようにすっている平和が、誰かによってつくられ、キープしていくために誰かの犠牲を伴っていることに気づかないといけない。日本の場合は米軍基地の負担がある沖縄、韓国の場合は徴兵制です。かつての戦争体験者の声を聴くことは重要ですが、今起きている出来事にも目を向けなければなりません」
(聞き手は社会部、辻征弥)

**テレビでしかお会いしたことは無いけど、物静かな語り口。日韓の真の交流の為には欠かせない人かも。「韓国も反省すべき点がある」が韓国人の学者には嫌われるかも。

人物列伝
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李 登輝

李 登輝(り とうき、1923年〈大正12年〉1月15日~2020年7月30日、Lǐ Dēng huī):
李 登輝 中華民国(台湾)の政治家、農業経済学者、宣教師。第4代中華民国総統(7期途中昇格・8期・9期、1988年~2000年)。コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。信仰する宗教は台湾基督長老教会。日本統治時代に使用していた名は岩里 政男(いわさと まさお)。本省人初の中華民国総統で、「台湾民主化の父」と評価される。日本においては、「22歳まで日本人だった」の言葉や、日本語が話せることなどから親日家としても知られた。
蔣経国を副総統として補佐し、その死後は後継者として中華民国の歴史上初めてとなる民選総統であり、なおかつ本省人出身者では初の総統となった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の本土化を推進した。

**初の本省人出身者。日本初の国民宰相の原敬さんの経歴と良く似ている。
**李登輝さんは、政治家としての顔の他、農学者、熱心なキリスト教徒、日本語の達人、日本文化へ憧憬が深い親日家。生粋の台湾人(本省人)と多面的な顔をお持ちの方だ。

蒋介石 中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在すると主張した(二国論)。国共内戦の一方的な終結宣言により、内戦を口実にしてきた動員戡乱時期臨時条款の廃止で中華民国の民主化を実現し、国家統一綱領に基づいて中華人民共和国との統一交渉も開始しつつ、第三次台湾海峡危機では中華人民共和国の軍事的圧力に対して中華民国の独立を守った。
総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党、台湾団結連盟を自ら中心となって結成し、台湾独立運動・泛緑連盟に影響を与え続けていた。

生い立ち
台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)埔坪村の「源興居」で李金龍と江錦の次男として生まれる。父・金龍は、警察補として植民地当局に出仕していた。2歳年上の兄李登欽(日本名:岩里武則)は、第二次世界大戦で志願兵となるがフィリピンの前線で行方不明となり、大日本帝国海軍二等機関兵(戦死後、「上等機関兵」)として戦死通知されている。異母弟の李炳男は、貿易業に従事した。

父方の李一族は現在の福建省永定から台湾へ移住してきた客家の系譜で、祖父の代にはアヘンの販売権を有しており、経済的に安定した家庭環境によって幼少の頃から教育環境に恵まれていた。なお、母方は閩南民系であるうえ、一族も移住後に現地コミュニティと融合していたことから、登輝自身に客家としてのアイデンティティはあまりなかった。

【閩南民系(びんなんみんけい)】 または閩南人・福佬人とは、主に台湾と中国の福建省に居住する漢民族の一派。東南アジアの国々ににも多く存在している。客家とは異なる。
蒋経国 公学校に入学した登輝は、日本名「岩里政男」を通称として父から授けられた。父の転勤に伴い6歳から12歳まで汐止公学校、南港公学校、三芝公学校、淡水公学校と4度の転校を繰り返した。淡水公学校卒業後は私立台北国民中学(現在の大同高級中学)に入学したが、1年後の1938年に淡江中学校へ転校。淡江中学校では学業に専念し首席で卒業。卒業後は台北高等学校に合格。
当時の「内台共学」教育により登輝は生涯流暢な日本語を話し、後年行われた司馬遼太郎との対談においては「22歳(1945年)までは日本人だった」と語り、「難しいことは日本語で考える」と公言していた。中華民国籍取得後も、訪日時には日本語を使用していた。

京都帝国大学時代
1942年9月、戦時の在学期間短縮措置により台北高等学校を卒業。同年10月、現地の台北帝国大学には現地人に対する入学制限から進学することがかなわず、本土の京都帝国大学農学部農業経済学科に進学した。農業経済学を選択した理由として、本人によれば幼少時に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目の当たりにした事と、高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義の唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があると思ったことを理由として挙げている。大学時代は自ら「農業簿記」を学び、同時にマルクスや河上肇などの社会主義関連の書籍に親しんでいた。当時の登輝は、台湾よりも台湾人に門戸が開かれていた、満州で卒業後に立身出世を目指すことを考えていた。

旧日本陸軍軍歴
1944年にほかの文科系学生と同じように学徒出陣により出征する。大阪師団に徴兵検査第一乙種合格(特別甲種幹部候補生)で入隊し、台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後日本に戻り、その後千葉陸軍高射学校に見習士官として配属される。その直後の1945年3月10日、東京大空襲に遭遇。千葉の上空を通って東京方面に向かう米軍機に向けて高射砲を撃つ。爆撃で金属片が顔をかすめたが無事だった。 大空襲の翌日である3月11日、爆撃で戦死した小隊長に代わって被災地で救援を指揮。 その後、終戦を名古屋で迎え、直後の昇進によりいわゆるポツダム少尉となる。 召集された際、日本人の上官から「お前どこへ行く? 何の兵になるか?」と聞かれ、迷わず「歩兵にしてください」と言い、加えて「二等兵にしてください」とまで要求したところ、その上官から「どうしてそんなきついところへ行きたいのか」と笑われたという。
【ポツダム少尉】
ポツダム少尉(ポツダムしょうい)とは、ポツダム宣言受諾後に戦闘が基本的に終了した8月15日から11月30日まで継続した陸軍省と海軍省によって、この間の日本軍において少尉に任官した軍人[1]の通称である。全員が1階級昇進して除隊した(この期間の昇進をポツダム進級と呼ぶ)。主に、学徒動員や士官学校の士官候補生などが、これによって士官とされる少尉に任ぜられた。人数が多く、任官者が自嘲的に自らを「ポツダム少尉」と呼んだ[1]ことからこの名称が広まった。倉田卓次のように「ポツダム少尉」を自称した人物によって広められた一面もある。
このような昇進は少尉に限ったものではないが、少尉が士官と認められる最低の階級(それより下の兵とは大きく軍内での扱いが異なった)だったことや、学徒出陣によって、見習士官(身分上は士官学校生と同等)の多くが従軍期間に関わらず少尉とされた。士官が退官手当や恩給の支給額において(下士官よりも)有利になるとの配慮からとされている。
大学生からの学徒出陣者の多くは「ポツダム少尉」になってから復学し、大学卒業後に要職に就いた。現役軍人の大半が公職追放されたのに対して学徒出陣者は公職追放の対象とならずに戦後に公務員になれたために上級公務員の中には多くのポツダム少尉が含まれることになった。

宋美齢 1945年8月15日の日本の敗戦とそれに伴う中華民国による台湾接収を受けて、中華民国籍となる。登輝は京大に復学して学業を継続するか悩んだ後、新生台湾建設に貢献すべく帰国を決意する。日本軍が台湾から撤退した後の1946年春に台湾へ帰り、同年夏に台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。
呉克泰の証言では、登輝は、彼の要請を受けて、台湾に帰国後間もない1946年9月に中国共産党に入党。同年発生した米軍兵士による北京大学生強姦事件に抗議する反米デモや翌1947年の国民党による二・二八事件に反発する暴動などに参加した。二・二八事件では登輝は台湾人および日本人としての経歴から、この事件で粛清の対象になる可能性が高かったため、知人の蔵に匿われた。この頃の登輝については、複数の証言があるが、共産党員としての活動期間は概ね2年間とされる。
【二・二八事件】
二・二八事件は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中国国民党政権による長期的な白色テロ、すなわち民衆弾圧・虐殺の引き金となった事件。 1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。

このことに関して、共産党員になるには党組織による観察が一年以上必要なので、台湾に引き揚げてから二・二八事件が発生するまでに共産党員になるのは不可能だとする意見もあったが、2002年に行われたインタビューで、登輝自身がかつて共産主義者であったことを認めた。登輝は同インタビューの中で、「共産主義理論をよく理解しており、共産主義は失敗する運命にあることを知っているので、共産主義には長い間反対していた」と述べた。さらに自身の国民党への強い憎悪のために共産主義に傾倒したとも述べている。また、当時毛沢東が唱えていた新民主主義を研究していた新民主同志會に所属して後にこの組織が共産党に引き継がれてから「離党」したので「入党」ではないと疑惑を否定した。
**何故、それほど憎悪していた国民党に入党したのか。当時政治家として成功するためには国民党に入らざるを得ない。習近平氏が安倍氏に「安倍さんは首相になるために自民党に入った。私が共産党に入ったのも同じ理由だ。」本来政治家とはそうあるべきものなのかも。
同様に彼がキリスト教に入信したのも、西欧人達と対等に話を出来るようにするためか。明治期の多くの知識人がキリスト教に入信したの同じ理由か。


1948年に農学士の称号を得る。1949年8月、台湾大学を卒業し、同大学農学部の助手として採用された。同年2月には、淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵(中国語版)と見合いにより結婚。なお、1949年は国共内戦での国民党軍の敗北が明らかとなり蔣介石政権が台湾に逃れてきた時期にあたり、5月19日には臨時戒厳令が台湾全域に施行され、登輝も9月に台湾省警備総司令部による検挙を受けた。

アメリカ留学時代
1950年に長男李憲文をもうけ、1952年に中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学で農業経済学を研究した。1953年に修士学位を獲得して帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学の講師として勤務することになった。
その後1957年に中国農業復興聯合委員会(農復会)に就職、研究職としての職歴を重ねた。同時に台湾大学助教授を兼任した。1961年にキリスト教に入信する。
1965年、ロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル大学に留学する。同大学では農業経済学を専攻する。1968年5月にPh.D.(農業経済学専攻)を取得。その博士論文 Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 (1895年から1960年の台湾の経済発展におけるセクター間の資本の流れ)は全米農業経済学科賞を受賞し、1971年にコーネル大学出版社から出版されている。博士号を受けて1968年7月に台湾に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任した。

この当時42歳で、留学生の間では最年長だった彼は、週末になると若い学生を自宅に招き、ステーキをふるまうことが多かった。そのため、当時のあだ名が「牛排李」(ビーフステーキの李)だったというエピソードがある。このころ彼の家に招待されていた者の中に、後に蒋経国暗殺未遂事件を起こす黄文雄・鄭自才がおり、このことが後述するタイへの出国不許可につながることになる。

政界進出
1969年6月、登輝は憲兵に連行されて警備総司令部の取調べを受ける。最初の取調べは17時間にも及びその後1週間拘束された。この経験から李登輝は台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心したと後年述べている。このとき、彼の経歴を洗いざらい調べた警官に「お前みたいな奴なんか蔣経国しか使わない」と罵られたという。1970年、国際連合開発計画の招待によりタイ・バンコクで農業問題の講演を依頼されたが、同年4月に蔣介石の息子で当時行政院副院長の役職にあった蔣経国の暗殺未遂事件が発生し、犯人の黄文雄とアメリカ留学時代に交流があったため政府は「観察中」との理由で出国を認めなかった。
**蔣経国は、蒋介石の息子(長男)で政権を引き継ぐ。息子は既に父のやり方を変革する意図があって、李登輝を重用したのかもしれない。李登輝さんは国民党から敵視されていた要注意人物ではなかったのか?
**白色テロ:台湾において白色テロとは、二・二八事件以降の戒厳令下において中国国民党政府が反体制派に対して行った政治的弾圧のこと。1987年に戒厳令が解除されるまでの期間、反体制派とみなされた多くの国民が投獄・処刑された。戒厳令が解除された後、台湾政府は正式に謝罪し、犠牲者に対する補償のための財団を設立した。
この時期農復会の上司であった沈宗瀚と徐慶鐘、または蒋経国側近の王昇・李煥の推挙により、1971年8月(または1970年)に専門家として蔣経国に農業問題に関する報告を行う機会を得て、その知遇を得ることになった。そして蔣経国により国民党への入党を勧誘され、同年10月、経済学者の王作栄の紹介により国民党に入党している。

行政院長に就任した蔣経国は本省人エリートの登用を積極的に行い、登輝は無任所大臣に当たる政務委員として入閣した。この時49歳であり、当時最年少での入閣であった。以降6年間、農業専門の行政院政務委員として活動した。

その後1978年、蔣経国により台北市長に任命される。市長としては「台北芸術祭」に力を入れた。また、水不足問題の解決等に尽力し、台北の水瓶である翡翠ダムの建設を行った。さらに1981年には台湾省主席に任命される。省主席としては「八万農業大軍」を提唱し、農業の発展と稲作転作などの政策を推進した。この間の登輝は、派閥にも属さず権力闘争とも無縁で、蒋経国を始めとする上司や政府中枢の年配者の忠実な部下に徹した。

1984年、蔣経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会第7回会議で行われた選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。蔣経国が登輝を副総統に抜擢したことについて登輝自身は「私は蔣経国の副総統であるが、彼が計画的に私を後継者として選んだのかどうかは、本当に知らない。しかし、私は結局彼の後を引き継いだのであり、これこそは歴史の偶然なのである。」と語っている。1982年に長男の憲文を上咽頭癌により32歳の若さで喪う不孝に見舞われているが、その子・坤儀も女児であり、李家を継ぐ男児がいなくなったことから、蒋経国の警戒を解き、側近中の側近といわれていながらも左遷された王昇らとの明暗を分けたともいわれる。

中華民国総統として
1988年1月13日、蔣経国が死去。蔣経国は臨終の間際に登輝を呼び出したが、秘書の取次ミスにより、臨終には立ち会えなかった。任期中に総統が死去すると副総統が継承するとする中華民国憲法第49条の規定により、登輝が総統に就任する。国民党主席代行に就任することに対しては蔣介石の妻・宋美齢が躊躇し主席代行選出の延期を要請したが、当時若手党員だった宋楚瑜が早期選出を促す発言をしたこともあり主席代行に就任する。7月には第13回国民党全国代表大会で正式に党主席に就任した。

しかし登輝の政権基盤は確固としたものではなく、李煥・郝柏村・兪国華ら党内保守派がそれぞれ党・軍・政府(行政院)の実権を掌握していた。この後、登輝はこれらの実力者を牽制しつつ、微妙なバランスの中で政権運営を行っていった。
1989年には党秘書長の李煥と行政院長の兪国華を争わせて兪を追い落とし、その後釜に李煥を就任させた。この時、後任の秘書長に登輝の国民党主席就任を支持した宋楚瑜を据えた。

第8期総統(1990年 - 1996年)
1990年5月に登輝の代理総統の任期が切れるため、総統選挙が行われることになった。 党の中央常務委により1月31日に登輝を党推薦の総統候補にすることが決定され、登輝が誰を副総統候補に指名するか注目されたが、登輝が2月に指名したのは、李煥などの実力者でなく総統府秘書長の李元簇だった。

これに反発した党内元老らは党推薦候補を確定する臨時中央委員会全体会議で決定を覆すことを画策し、これに李煥・郝柏村らも同調した。反李登輝派は、投票方式を当日に従来の「起立方式」から「無記名投票方式」へ変更したうえで造反した人物を特定されずに正副総統候補の選任案を否決しようとしたが、李登輝派がこの動きを察知してマスコミにリークして牽制、登輝は李元簇とともに党の推薦を受けることに成功した。

その後も反李登輝派は、台北市長・台湾省主席で登輝の前任者でもあった本省人の林洋港を総裁候補に、蒋経国の義弟である蒋緯国を副総統候補に擁立し、国民大会で争う構えを見せた(このときの総裁選挙は、国民大会代表による間接選挙方式であった)。かつて登輝を支持した趙少康ら党内改革派も「李登輝独裁」を批判したが、政治改革を支持する世論に支えられた登輝は票を固め、党内元老の調停の結果、林洋港・蒋緯国いずれも不出馬を表明した。一連の「2月政争」を制した登輝は党内地位を確固たるものとし、3月21日の国民大会において信任投票により登輝と李元簇が総統・副総統にそれぞれ選出された。

同時期、台湾では民主化運動が活発化しており、国民政府台湾移転後一度も改選されることのなかった民意代表機関である国民大会代表及び立法委員退職と全面改選を求める声が強まっていた。1989年に国民大会で、台湾への撤退前に大陸で選出されて以来居座り続ける、「万年議員(*選挙で選ばれていない議員)」の自主退職条例を可決させていたが、1990年3月16日、退職と引き換えに高額の退職金や年金を要求する国民大会の万年議員への反発から、「三月学運」が発生した。登輝は学生運動の代表者や民主進歩党(民進党)の黄信介主席らと会談し、彼らが要求した国是会議の開催と憲法改正への努力を約束した。第8代総統に就任した当日の5月20日には、「早期に動員戡乱時期(中国語版)を終結させる」と言明し、1979年の美麗島事件で反乱罪に問われた民主活動家や弁護士など、政治犯への特赦や公民権回復を実施した。6月に朝野の各党派の代表者を招き「国是会議」が開催され、各界の憲政改革に対する意見を求めた。

国是会議の議論に基づいて、1991年5月1日をもって動員戡乱時期臨時条款は廃止され(戒厳体制の完全解除)、中華民国憲法増修条文により初めて中華民国憲法を改正した。これにより国民大会と立法院の解散を決定し、この2つの民意代表機関の改選を実施することになった。これによって、「万年議員」は全員退職し、同年12月に国民大会、翌1992年12月に立法議員の全面改選が行われ「万年国会」問題は解決された。

1991年6月、登輝は対立が決定的になった李煥に代わって郝柏村を行政院長に指名した。郝も先の総統選挙では「李登輝おろし」に関わっており、台湾世論では驚きをもって受け止められ、民進党や改革派は三軍に絶大な影響力を持つ実力者の指名を「軍人の政治干渉」として反発した。当時登輝は治安回復などを郝指名の理由としたが、真の狙いは「国民党の支配下にあった軍を国家のものにすること」にあった。実際、登輝はシビリアン・コントロール(文民統制)の原則に従って郝を国軍から退役させたため、郝の国軍に対する影響力が弱まり、国軍の主導権も登輝が握ることになる。その後、登輝と事実上の共闘関係を結んでいた民進党が郝を攻撃し、離間により李煥と連携できない郝は守旧派をまとめられずに1993年に総辞職に追い込まれた。登輝は後任の行政院長に側近の連戦を据え、行政院の主導権も握った。

権力を掌握した登輝は、より一層の民主化を推進していくことになる。1992年には「陰謀犯」による内乱罪を規定していた刑法100条を立法院で修正させて、「台湾独立」などの主張を公にすることを可能にし、その後海外にいた独立活動家らも無罪にされた。
この民主化は「静かな革命」と呼ばれ、李登輝は「民主先生(ミスター・デモクラシー)」とも呼ばれた。李登輝は司馬遼太郎との対談で、「夜ろくろく寝ることができなかった。子孫をそういう目に二度と遭わせたくない」と述べており、台湾人を苦しめた法律、組織を次々と廃止、蔣介石の残党を巧みに追放し、野党の民進党を育て、民主化を進めた。

1994年3月31日に発生した千島湖事件について、「中国共産党の行為は土匪と同じだ。人民はこんな政府をもっと早く唾棄すべきだった」「(事件について穏便に言った方がよいという意見に対して)こんなときはガツンとやるに限るんだ。そうすると中国人はおとなしくなる。下手に出るとつけあがるよ。日本は中国に遠慮して、つけあがらせてばかりじゃないか」と述べており、土匪という激烈な言葉で中国を激しく批判したことから、台湾で波紋を呼び、中国からの武力攻撃を心配する声もあったが、その後、中国の李鵬首相が陳謝し、哀悼の言葉を述べている。

1994年7月、台湾省・台北市・高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙が実施された。さらに登輝は総統直接選挙の実現に向けて行動した。しかし国民党が提出した総統選挙草案は、有権者が選出する代理人が総統を選出するというアメリカ方式の間接選挙を提案するものであった。それでも登輝はフランス方式の直接選挙を主張し、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することが賛成多数で決定された。同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めた。

第9期総統(1996年 - 2000年)
1996年、初めての総統直接選挙が実施される。この選挙に際して中華人民共和国は台湾の独立を推進するものと反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される軍事演習を実施、ミサイル発射実験をおこなった。アメリカは2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中国を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まった(第三次台湾海峡危機)。北京政府の意図に反して、これらの圧力は却って台湾への国際的な同情と登輝への台湾国民の支持を誘う結果となり、登輝は54.0%の得票率で当選して台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任した。「民主の大いなる門が、たった今、台湾・澎湖・金門・馬祖地区で開かれた」と声明を読み上げた後、「三民主義万歳、中華民国万歳、台湾人民万歳」と締めくくって大歓声を浴びた登輝は、政治家としての絶頂期を迎える。

総統に再任後は行政改革を進めた。1996年12月に「国家発展会議」(国是会議から改称)を開催したが、この会議の議論に基づいて1997年に憲法を改正し、台湾省を凍結(地方政府としての機能を停止)することが決定された。これによって台湾省政府は事実上廃止となった。
2000年の総統選挙では自身の後継者として副総統の連戦を推薦して選挙支援を行なうが、この選挙では国民党を離党した宋楚瑜が総統選に参加したことから、国民党票が分裂、最終的には民進党候補の陳水扁が当選し、第10期中華民国総統に就任した。これにより台湾に平和的な政権移譲を実現したが、野党に転落した国民党内部からは登輝の党首辞任を求める声が高まり、2000年3月に国民党主席職を辞任した。

外交・両岸関係
外交においては、蒋経国政権末期の路線を引き継ぐ形で、従来の「中華民国は中国全土を代表する政府」という建前から脱却し、「弾性外交」と呼ばれる現実的な外交を展開。正式な国交がない諸国にも積極的に訪問した。
1989年にはシンガポールを訪問して蒋経国の盟友であったリー・クアンユー首相と会見するが、この際シンガポール側が李登輝を「中華民国総統」ではなく「台湾から来た総統」という呼称を用いたものの、登輝は「不満だがその呼称を受け入れる」と表明した。香港で行われた中台のオリンピック委員会トップによる協議で台湾のスポーツ団体の中国語名称を「中華台北」とすることで合意した。また、1990年にGATTには「中華民国」ではなく「台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域」の呼称で加盟し、北京で行われた1990年アジア競技大会に1970年バンコク大会以来20年ぶりに参加し、両岸のスポーツ直接交流が始まった。1991年にはAPECにも「中華台北」の呼称で加盟している。
両岸問題では、1991年に「中国大陸と台湾は均しく中国であり、一つの中国の原則に基づいて敵対状態を解除して統一に向けて協力する」と定めた国家統一綱領を掲げ、密使を通じて大陸の曽慶紅らと接触して窓口機関の海峡交流基金会を設置してシンガポールで辜汪会談を実現させるなど当初は中台統一に積極的だった。1993年にはそれまで香港とマカオを介した間接貿易のみだった大陸への直接投資を解禁した。

しかし、動員戡乱時期を終結させて以来、北京政府は登輝のことを「隠れ台独派」とみなしており、登輝自身も後述する二国論を「いつかは言わねばならないと機会をうかがっていた」と回想する。リー・クアンユーとは蜜月関係にあったが、1994年9月にリーから「台湾は中国の一部で、何十年かかろうとも将来は統一に向かわねばならない」と水を向けられたのをきっかけに登輝が態度を硬化し、両者の交流は途絶えた。

1995年に登輝が訪米を実現して中華民国のプレゼンスを国際社会にアピールすると、北京政府は露骨な強硬姿勢をとるようになった。1996年に総統に再選された後は登輝の武力行使放棄提案(李六条、李六点)を拒絶した大陸の江沢民政権の「文攻武嚇」(李登輝を批判し、武力を以て威嚇する路線)によって台湾海峡ミサイル危機が起き、登輝は「台湾独立」を意識した発言を強めていくことになる。1999年7月、ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレのインタビュー中で両岸関係を「特殊な国と国の関係」と表現、二国論を展開した。この発言には、10月1日の国慶節で「一国二制度」を前面に打ち出して台湾との統一交渉を開始しようとする北京政府を牽制する意図があった。同年12月にも、アメリカの外交専門雑誌『フォーリン・アフェアーズ』の論文で「台湾は主権国家だ」と記述し、台湾独立を強く意識する主張を行った。

2013年5月、李登輝は台湾人のルーツをたどれば中国大陸からの移民が多いとしつつも、「私がはっきりさせておきたいのは、『台湾は中国の一部』とする中国の論法は成り立たないということだ。四百年の歴史のなかで、台湾は六つの異なる政府によって統治された。もし台湾が清国によって統治されていた時代があることを理由に『中国(中華人民共和国)の一部』とされるならば、かつて台湾を領有したオランダやスペイン、日本にもそういう言い方が許されることになる。いかに中国の論法が暴論であるかがわかるだろう。もっといおう。たしかに台湾には中国からの移民者が多いが、アメリカ国民の多くも最初のころはイギリスから渡ってきた。しかし今日、『アメリカはイギリスの一部』などと言い出す人はいない。台湾と中国の関係もこれと同じである」と述べている。

経済
李登輝は12年間の総統時代に力を注いだのは、農業の発展で生まれた過剰資本と過剰労働力を使用して中小工業を育成するという「資源配分」であり、そのやり方は日本の発展が偉大な教師であり、日本と台湾が歩んできた経済発展の道は、外国資本と技術を当てにした「北京コンセンサス」とも、規制緩和と国有企業の民営化と財政支出の抑制を柱にした「ワシントン・コンセンサス」とも異なる方法であったと回顧している。

総統職を退いた後は台湾独立の立場を明確にした。「中華民国は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに正名を定めるべき」と主張する台湾正名運動で総召集人を務め、2001年7月には国民党内の本土派と台湾独立活動家と共に「台湾団結連盟」を結成した。形式上では既に政界を引退していたものの、独立運動の精神的な指導者と目されるようになる。このため同年9月21日に国民党中央考核紀律委員会により、反党行為を理由に党籍剝奪の処分を受けた。国民党を離れたため、その後は台湾独立派と見られる民進党と関係を深めていく。2003年9月には「もはや中華民国は存在しない」と発言して台湾独立への意思を鮮明にした。2004年の総統選挙では、選挙運動中の同年2月28日、台湾島の南北約500kmを約200万人の市民が手をつないで「人間の鎖」を形成する台湾独立デモを主催するなど、民進党候補の陳水扁を側面支援した。

しかし次第に陳水扁を批判するようになり、民進党とも距離を置くようになる。2007年1月には、メディアのインタビューを受けた際に、“私は台湾独立とは一度も言ったことがない”と発言して、転向かとメディアに騒がれる出来事もあったが、台湾の声によれば、インタビュー本文には「台湾は既に独立した国家だから、いまさら独立する必要はない。民進党は政治利用に独立を持ち出すのは控えるべき」と発言したことが明記されている。

2008年の総統選挙ではなかなか民進党の総統候補である謝長廷の支持表明をせず、しびれを切らした後援会が勝手に支持を表明する事態が発生したが、2008年3月の選挙直前に謝を「台湾が主権国家であるとはっきり言える人物」として支持表明。しかし、国民党総統候補馬英九の当選後は産経新聞のインタビューに対し、馬に協力する意向を示した。 地位によって政治的主張が異なる人物のため、台湾国内では「台湾独立を諦めていないが、駆け引き上手な現実主義者」というイメージが強いとされる。

2011年6月、9期目在任中の1997年から退任する2000年までの間に国家安全局の裏帳簿から自身の創立したシンクタンク「台湾総合研究院」へ、780万米ドル(6億2700万円)を運営資金として流しまた一部を着服した公金横領とマネーローンダリングの罪で、中華民国最高検察庁に起訴された。2013年11月15日、台北地方法院で無罪判決が言い渡された。
台湾第四原子力発電所について、2013年4月に李登輝ははっきりと核四の住民投票に行くことはないと表明し、「もし原子力発電を維持できなければ、台湾の未来はどこへ行くのか? 風力や太陽エネルギーでエネルギー源を置き換えようとするのならば、これらの代替エネルギーは「コントロールする術が無く」、不安定過ぎて台湾の電力需給に応えられない」、「原子力発電方式は改変すべきであり」と語り、人民の台湾電力および政府に対する信頼の欠如に至っては、「台湾電力は民間に開放すべきで、例えば6社の民営電力会社に分割して小規模で進めれば、このように大きな問題は発生することはあり得ない」と主張した。
2012年4月から、「生命之旅」と称して台湾各地を視察する旅に出ている。どんな姿であれ、最後は玉山(旧称・新高山)で終わりたいという胸の内を周囲に語っている。

2013年12月、台湾で同性婚を容認する多元成家法案に対し、「私はキリスト教徒だ。聖書に何と書かれているか見てみるべきだ」と発言し、反対の立場を表明した。2016年12月には「我々の社会は自由があるだろう。男女は自由だし、どう自由にしても構わないが、家庭が必要なら子供を産むのも必要だという関係だ。家族の継続は十分に維持されなければならず、宗教上私の立場ではどうしても同意しない」と語った。
2016年7月30日、石垣島を訪問し、台湾農業者入植顕頌碑などを参観し、日台交流について講演した。訪問の際に食べた石垣牛の美味しさに感動し、台湾和牛の産業化を研究し始め、陽明山擎天崗で戦前移入された但馬牛(見島牛とも)の末裔の牛を購入し、若い頃働いていた花蓮の牧場施設を借り育成事業を開始。初めて繁殖に成功した仔牛を「源興牛」と名付けた。

2020年2月、自宅で牛乳が気管に入ったことで誤嚥性肺炎となり入院。7月に入って体調が急激に悪化。同月29日には蔡英文総統、頼清徳副総統、蘇貞昌行政院長らが見舞いに訪れた。翌30日19時24分頃、入院先の台北栄民総医院で死去。97歳だった。
2020年10月7日に、告別追悼礼拝を新北市淡水の真理大学大礼拝堂で行い、その後、国軍管轄施設である五指山軍人墓地内の「特勲区」に遺骨を埋葬された。

李登輝 人物像
司馬遼太郎や小林よしのりとの対談でも時間を忘れるほど熱心に語る雄弁家である。新婚時代、新妻に対しても遠慮なく農業政策を語り続けたため、農業には無知だった夫人も話を合わせるために農業を勉強したという。
李登輝は中国の政治家を全面否定するわけではなく、胡錦濤やその後続世代の習近平、李克強を「地方で鍛えられた優秀な政治家」と高く評価し、日本の政治家を「東京や法律でしかものを考えられない人ばかり」と批判していた。
文学・思想
中学・高校時代に鈴木大拙・阿部次郎・倉田百三・夏目漱石らの日本の思想家や文学者の本に触れ、日本の思想から影響を受ける。また、日本の古典にも通じており、『古事記』・『源氏物語』・『枕草子』・『平家物語』などを読む。宗教に関しては、キリスト教長老派を信奉した。また、台湾総督府民政長官を務めた後藤新平を「台湾発展の立役者」として高く評価していた。
ちなみに、若手育成のために開いた「李登輝学校」の卒業生らが、李登輝が漫画『魁!!男塾』の登場人物の江田島平八に似ているということで、PR向けに江田島平八のコスプレを行ったことがある。これについて、主に国民党議員から「日本びいきだ」、「植民地支配肯定」などとの批判が起きた。

熱心なキリスト教徒で、総統退任後は「山地に入りキリスト教の布教をしたい」と語っていたが、さらなる民主化のため「台湾団結同盟」を自ら主導して創立した。また、『旧約聖書』の「出エジプト記」についてよく話していた。

台湾の同世代に顕著なことだが、かつて台湾政府の要職を経験していながら一番得意とされる言語は日本語といわれる。それについで台湾語、英語となり、一番苦手なのは北京語で、非常に台湾訛りが強い。北京語で質問されると、それを日本語に訳して意味を理解し、日本語で回答を考えてから北京語に訳すという、日本人と同様のプロセスで返答していたことから、外省人の記者たちからは「李登輝の北京語は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか」と言われていた。この不得手さを逆手にとって、宋美齢の側近に「宋美齢の北京語は浙江訛りが強いため、今後用件は文書で送付するように」と要請、発言を記録化し宋美齢の権力を失墜させた。

**総じて台湾人(本省人達)は、北京語は不得手。でも、これは中国が元々多民族国家であることからやむを得ない。シンガポールの漢人だってお年寄りは北京語は知らない。華僑たちの故郷は中国の南方系だからやむを得ないだろう。でも、若者たちは学校で北京語を必修として教わるようだ。

上記のように、日本文学を多く読み、岩波文庫の蔵書数を誇ったり、日本のオピニオン雑誌『中央公論』『文藝春秋』を愛読するなど、情報処理や思考の面で多く日本語が介在したとされる。そのため、記者会見など公の場でも特定の単語を日本で使用される呼称をそのまま現地語で発音することがあり、台湾では「波斯(ペルシア)湾戦争」と表記される湾岸戦争を「湾岸戦争」のまま中国語読みしていた例も確認されている。文恵夫人を日本語読みで「フミエ」と呼ぶこともある。なお、娘たちの学習は自由意志に委ねており、2人とも本格的な日本語教育を受けず英米に進学した。

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

中井久夫

中井久夫 中井 久夫(なかい ひさお、1934年1月16日~2022年8月8日) 医学者・精神科医。専門は、精神病理学・病跡学。神戸大学名誉教授。学位は、医学博士(京都大学・論文博士・1966年)。文化功労者。昨年亡くなられた。88才? 一般向けの著作も多く啓蒙活動にも熱心な方であったようだ。日本の精神病理学第2世代を代表する人物である。専門は統合失調症の治療法研究。NHKの100分で名著において紹介された。統合失調症と診断された方々は我々の身の回りに結構沢山いる。治らない病と言われているがそんなことは無いようだ。

風景構成法
中井が1969年に考案した風景構成法 (Landscape Montage Technique) は、心理療法におけるクライエント理解の有力なツールとして、日本で独自に創案・開発されたものである。ロールシャッハテストのような侵襲性が高いものとは異なった視点から、クライエントの現況を推察できる。また中井は精神分析学者のナウムバーグのなぐり描き法や、英国の児童精神科医であるドナルド・ウィニコットのスクイグルを日本に紹介した。中井自身は1982年に色々な出てくるイメージのいくつかを限界吟味するという相互限界吟味法を創案している。中井が紹介したこれらの手法は日本で独自の発展を見せ、山中康裕によるMSSM法などが生まれる契機を作った。

統合失調症
著作集の初期から中期にかけての難解ともいえる統合失調症(精神分裂病)理論は、非常に高い水準に達していると評価されている。また米国の精神科医であるハリー・スタック・サリヴァン(H.S.Sullivan)の統合失調症理論を取り入れ、日本の臨床場面に広く普及・浸透するのに貢献した。「関与しながらの観察 (participant observation)」等の臨床家に対する箴言はその一端である。

PTSD
阪神・淡路大震災(1995年)に際して被災者の心のケアにあたったことを契機に、近年では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の研究・紹介を精力的に行っており、米国の精神科医ジュディス・ハーマン (J.L.Herman) の「心的外傷と回復」の翻訳も行っている。中井は「医師が治せる患者は少ない。しかし、看護できない患者はいない」と、看護師を対象に記した『看護のための精神医学』で述べており、精神科医療に関わる看護師の教育にも尽力している。この本は、看護師のみならず臨床心理士やケースワーカー等の臨床に携わる者にも多くの示唆を与えている。米国では正義なき戦いと言われたベトナム戦争からの帰還兵に多発し社会問題に発展している。

文学
ラテン語や現代ギリシャ語、オランダ語にも通じた語学力を活かし、詩の翻訳やエッセイなどで文筆家としても知られている。中井は、「ポール・ヴァレリーの研究者となるか科学者、医者となるかかなり迷った」と語っている。ギリシャの詩人カヴァフィスの全詩集翻訳により読売文学賞受賞。また歴史(哲学史)にも通暁しており、その一端は代表作『治療文化論』、『西欧精神医学背景史』などでも窺い知ることができる。無類の軍艦好き・船舶好きでもある。子供のころから『ジェーン海軍年鑑』を読んでいたため、昭和9年生まれながらも戦時中の日本軍の戦果発表が誇張されていることに気づいていたと語っている。

中井さん説では、精神疾患になりやすいという性質は、狩猟社会においては非常に重要な能力であったとする。他の人に見えない未来を予見し、ストレスを敏感に察知。古代社会の予言者なんてこんな人ばかりだったかも。現代社会では、社会生活不適応なヒトとして差別され隔離処置。だから色々な精神疾患は現在では医学の進歩?にもかかわらず、過去に比べて増加する傾向に。治療概念の抜本的見直しも必要。

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梁英姫

梁 英姫(ヤン ヨンヒ、1964年11月11日~):
梁英姫 日本の映画監督。現在創作活動にはヤン ヨンヒを用いるように変えた。チョット待って、国籍は韓国みたいだ。ヤン ヨンヒ(양용희)。韓国の人、何故か最近は漢字を使いたがらない。いわゆる民族主義。漢字は中国人の発明だからハングル一点張りで行こう。だから日本育ちの彼女は日本人である。

1964年11月11日、大阪府大阪市生野区生まれ。在日朝鮮人2世。幼いときから民族教育を受けた。 両親は在日本朝鮮人総連合会の幹部。父親は北朝鮮から勲章をもらえるほど熱烈な活動家。両親のもと朝鮮学校で民族教育を受けた。1971年~1972年、両親が3人の兄を帰還事業で北朝鮮に送る。兄らはそこで家族を持ったが、親からの仕送りで生活。一番下の兄は梁が帰国事業も総連も在日も何もわからない頃に1度監視人付きで日本に帰ってきて、突然北朝鮮に帰ることになって怒ったことがある。東京の朝鮮大学校を卒業。1987年から1990年まで、大阪朝鮮高級学校にて国語教師を務める。その後、劇団女優やラジオパーソナリティとして活動。

1995年より、ドキュメンタリーの映像作品を発表。1997年から2003年まで、ニューヨークに滞在。ニュースクール大学大学院コミュニケーション学部メディア研究科にて修士号を取得。2004年、韓国国籍を取得。2005年、初の長編ドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』を発表する。この映画がヒットしたようだ。こちらの詳細はNHKのドキュメンタリーに。2013年2月「第85回アカデミー賞」授賞式での外国語映画賞の日本代表に選ばれる 。

梁は「在日だけが苦労しているみたいな言い方が一番嫌いで、兄が平壌・自身が在日での苦労はあったが、夫からのDVの経験もないし親も仲がよかった。しかし、そこで苦労をしてきた人もいて、人それぞれ違うものを背負っている。映画館が沢山ある日本で暮らしているのに観ない若者が多いのはあり得ないと思っている。北朝鮮の人は韓国ドラマを命懸けで観ていて、見つかれば罰が厳しいのに他の国の生活を知りたいからとし、政治で引き裂かれている家族が多いかというのも分かる。」と語っている。

2012年12月のトークショーでは『かぞくのくに』は、ヤンの実体験が元で、「映画では北朝鮮に渡った兄が1人になっているが実際は3人いる。一番下の兄が日本で3か月治療出来る特殊でまれな許可をもらったが、よく分からない内に3か月経たずに帰った」と語った。映画について「ほぼ実話で、北朝鮮で病気を持っていても実際の兄らは今も生きている。映画にしていない長男は躁鬱病を患って2009年に他界した」と観客に語った。ヤン監督は、北朝鮮の組織から電話を受け「謝罪文を書くように」脅された過去を持ち「何について、誰に謝罪するのか分からなかった」、「政府や団体がなにかしら言ってくるのは変だと思い、謝罪文の代わりに『愛しきソナ』を作った」と語ったが、それによって北朝鮮への入国が禁止になったことも話した。「いつか兄たちと共に、私の映画が楽しめる日が来ると信じている。家族に会えないのは寂しいが、作品を通して自身の気持ちを表現しようと決めた。家族を守るため、公式の問題児として有名になりたい。私の名が知られて世界中に作品を見てもらうことによって、“あの家族に触れるのは止めよう”と思われないと家族を守れない」「どんどん取材を受け、映画祭もなるべく参加して、現地で語っています」と思いを語った。観客席にいた在日コリアン3世の若い女性に「朝鮮籍のパスポートは大変だけど、渡航出来る国は沢山ある。国籍に悩むより、様々な国を訪ねて友達を作って勉強し、その後で国籍を考えればいい。そのままでいいと思うようになら、そのままでもいいと思う」と自身の考え方を述べた。

オモニの島 わたしの故郷 〜映画監督・ヤンヨンヒ〜
NHK: 初回放送日: 2023年1月21日
在日コリアン2世の映画監督・ヤンヨンヒさん。日本と北朝鮮に引き裂かれた自らの家族を描いてきたヨンヒさんが最新作でカメラを向けたのは母親の壮絶な体験、朝鮮半島の南の島で起きた虐殺事件、チェジュ島4・3事件だった。映画は去年秋、韓国でも公開、大きな話題を呼んだ。なぜ兄たちを北に送ったのか、母親の真実に向き合うヨンヒさん。自分は何者の娘なのか、映画を通じて問い続けてきた半世紀にわたる心の軌跡を見つめる。 今では観光客を集める韓国のハワイとでもいうべき済州島で起きた島民への大虐殺事件。米軍支配下の基、李承晩政権が引き起こしたもの。韓国政府も真相は伏せたまま。ヤンさんの母親が絶対に韓国に心を許さないのは家族を殺され日本に亡命して一人助かった過去があるから。もちろん、北朝鮮が好きな訳でもない。

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團藤 重光

團藤 重光 團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日~ 2012年6月25日):
東大退官後、1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで最高裁判所判事に就任した。GHQ支配下において日本の民主的裁判の在り方を模索し悩みぬいた特筆すべき最高裁判所判事法学者である。専門は、刑法・刑事訴訟法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士 1962年)。東京大学名誉教授。

山口県生まれ、岡山県育ち。戦後の日本刑事法学の第一人者。大学で教鞭を執ったのち、最高裁判所判事に就任。ま死刑廃止論者の代表的人物でもあった。温厚な性格で弟子を厳しく指導することはなかったという。酒(ワイン)を嗜み、料理によって赤白を厳格に飲み分けたという。

1913年(大正2年)、山口地方裁判所検事局次席検事團藤安夫(1878年 - 1935年)の長男として、山口県吉敷郡山口町で誕生。翌1914年(大正3年)、父が弁護士に転身するにあたり、父の郷里の岡山県高梁に近い岡山市へ家族で転居。以後、團藤は高等学校卒業まで岡山において成長。團藤自身が出身地を岡山であると言及するのは、山口での生活は物心つく前の短期間にすぎず、幼少期を過ごしたのが岡山だから。1974年(昭和49年)~1983年(昭和58年)、最高裁判所判事。2012年(平成24年)、東京都内の自宅で老衰のため死去。葬儀(ミサ)は東京都千代田区麹町の聖イグナチオ教会主聖堂で行われた。墓所は雑司ヶ谷霊園の義父勝本正晃の墓所。

刑事訴訟法学
團藤の研究は刑事訴訟法から始まった。当時、民事訴訟法学においては基礎理論の研究が既にドイツでなされていたが、これに対して刑事訴訟法学の基礎理論研究は全くなされていなかった。そこで、法学部生時代に聴いた兼子一の講義の中で、兼子がジェイムズ・ゴルトシュミットの説を引用していたことに示唆を得て『法律状態としての訴訟』を読み込み、またヴィルヘルム・ザウアーの『訴訟法の基礎』を読み込み、民事訴訟法学の基礎理論を構築し、これを刑事訴訟法に応用しようとした。ザウアーが訴訟の発展過程を訴追過程、手続過程、実体形成過程の三面に分けたのに対して、團藤はそのような区分に疑問を呈し、刑事訴訟手続を手続発展過程と実体形成過程の二面として分析した。また、そのような観点から、刑事手続上の訴訟行為として実体形成行為と手続形成行為の概念を提唱した。以上の研究は助手論文として「刑事訴訟行為の無効」(法学協会雑誌55巻1号〜3号、1937年)にまとめられた。→この部分何を言いたいか不明。

その後も團藤は刑事訴訟の基礎理論の研究を進め、その構築を自身の学問上の最も重要なテーマの一つと位置づけるに至った。前述の助手論文など、刑事訴訟基礎理論に関する論文は『訴訟状態と訴訟行為』(弘文堂、1949年)に収められている。

刑法学
團藤は、師である小野清一郎と同じく後期旧派にたち、刑罰を道義的応報とした上で、犯罪論において、構成要件を違法有責類型であるとする小野理論を継承するが、小野理論が犯罪限定機能を有しなかったことから、戦時中全体主義に取り込まれた点を批判し、罪刑法定主義の見地から構成要件を形式的、定型的なものであるとしてその自由保障機能を重視する定型説を提唱した。かかる見地からは、みずから実行行為に出ていない共謀共同正犯は定型性を欠くものとして否定されるが、團藤は後掲のとおり後に改説することになる。
**要は刑罰とは何か。誰を罰するべきか罰せざるべきか。こんな基礎的なことが意外と明確にされていなかったんでしょう。

違法性の実質については、小野と同じく規範違反説をとりつつも、その内容を小野が国家的法秩序違反としていた点を批判し、法は道徳の最低限を画すものであるとの考えから、国家の制定法とは独立した社会倫理秩序違反をさすとして行為無価値論の立場をとり、後に結果無価値論に立つことを明確にした平野龍一と対立した。 責任論において、小野がとる道義的責任論とその師である牧野英一がとる新派刑法理論に基づく性格責任論との争いを止揚することを企図して、道義的責任論を基礎としつつも、二次的に背後の行為者の人格形成責任を問う人格的責任論を提唱した。

以上のように、團藤は、新派と旧派に分かれて大きく対立していた戦前の刑法理論を発展的に解消した上で継承し、戦後間もない刑法学の基礎を形成した。

刑事訴訟法においては、小野と同じくドイツ法に由来する職権主義構造を本質とする立場をとるが、現実の審判の対象は訴因だが、潜在的な審判の対象に公訴事実が含まれるとの折衷説をとる。この点を当事者主義構造を本質とする平野から徹底的に批判された。

法思想 團藤の法思想は、著書『法学入門』(筑摩書房、1974年)で体系的に明らかにされ、最高裁判事としての経験を踏まえ『法学の基礎』(有斐閣、1996年、2007年第2版)でさらに展開されている。『法学入門』はその難解さから「法学出門」であると批評された。

團藤の思想の根本にあるのは「主体的」な人間の存在である。人間は権利義務ないし法律関係の主体として、その立場から法を捉える点で主体性を有すると同時に、客観的な法を動かす原動力でありかつ担い手であるという点でも法において主体的であるとする。團藤によれば、罪刑法定主義の根拠や刑法が自己の責任に帰することができる場合にのみ刑罰を科する責任刑法であることも、根源的には人間を主体的に見ていく上で根拠付けられるものとされる。
社会的活動
現行刑事訴訟法の立法への関与
戦後の新憲法制定に伴う法制改革の際に、各種の立法に関与した。刑事訴訟法(1948年(昭和23年)制定)の立案担当者の一人である(その他の担当者として、中野次雄、植松正、岸盛一、西村宏一、佐藤藤佐など)。アメリカ刑事法に倣って逮捕要件を緩和しようと考えたがうまくいかず、代わりに準現行犯・緊急逮捕の規定を考案した。

最高裁判所判事
東大退官後、1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで最高裁判所判事に就任した。
**強制採尿(彼の考え?)
強制採尿とは、刑事事件において被疑者が捜査の過程で自分の尿を提出しない場合、医学的手段を用いて尿を採取すること。薬物四法による薬物取締りの際に問題となる。ドラッグは一定の間尿に溜まるため、ドラッグを使用した疑いのある者には尿検査が必要となるが、採尿を拒否された場合、医師の手により尿道にカテーテルを挿入して尿を採取する手段が必要となる。 しかし、このような捜査方法は個人の尊厳の冒涜に該当しかねず、また用いるべき令状は身体検査令状と鑑定処分許可状のいずれになるのかが問題となっていた。最高裁判所昭和55年10月23日第一小法廷決定は、強制採尿は最終的手段として許されるとし、令状については上記のいずれをも退け、捜索差押許可状を用いるべきであるとした。
上記の最高裁決定によると、尿を押収するには捜索・差押えの性質があるために捜索差押許可状が必要であるが、捜索・差押えの性質が一般の物と異なることから、令状は「身体検査令状に関する刑訴法218条5項が…準用されるべきであって、令状の記載条件として、医師をして医学的に相当と認められる方法により行わせなければならない旨の条件の記載」があることを条件とする。これを強制採尿令状という。強制採尿令状による採尿場所への連行については、最高裁判所平成6年9月16日第三小法廷決定で、連行は合法であるとした。

大阪空港訴訟では、毎日21時から翌日7時までの空港の利用差止めを認めるべきか否かという問題について、訴えを却下した多数意見に対して、差止めを認めるべきとの反対意見を述べた。団藤はこの訴訟の経緯をノートに記録し、没後の2023年4月に公表された内容には、第一小法廷で審理されていた段階では差し止めを認めた2審判決(大阪高等裁判所)を追認する方向だったが、被告の国が大法廷での審理を求める上申書が出された際、元最高裁判所長官の村上朝一から大法廷で審理するよう電話があったと第一小法廷の裁判長から聞き、「この種の介入は怪(け)しからぬことだ」と記していた。この団藤のノートについては、同月放映されたETV特集でも取り上げられた。
**確かに裁判所の判決は多数決原理で決めるべきものではない。空港の利用差止めは国の目指す経済的利絵優先主義には反するであろうが。

自白の証拠採否について「共犯者の自白も本人の自白と解すべきである」という補足意見を書いて、捜査における自白偏向主義に一石を投じた(もっとも、共犯者の自白が相互に補強証拠になりうるとしているため、当該事案の結論に影響はない。最判昭51.10.28参照)。 学者時代は共謀共同正犯を否定する代表的な論者であったが、最高裁判事としては、実行行為に出ていないものの、犯罪事実について行為支配を持った者を正犯として評価することを是認する肯定説の立場にたった。この点について、團藤は実務家としては判例の体系を踏まえなければならず、学者としての良心と実務家としての良心は必ずしも一致しないという見解を示している。そして團藤は、肯定説に立ちながら行為支配の理論等による修正を提唱している。

死刑廃止論
團藤は死刑廃止論者として知られているが、従来は死刑に賛成の立場であった。しかし、ある事件(この事件を名張毒ぶどう酒事件とする見解もあるが、同事件は就任前の1972年(昭和47年)の最高裁判決であるため誤りである。実際は1976年(昭和51年)の波崎事件の最高裁判決である)で陪席として死刑判決を出した際に、傍聴席から「人殺し」とヤジが飛んだ。この事件では、團藤は冤罪ではないかと一抹の不安を持っていたうえに、被告人も否認していた事件であった。これを契機として、被告人が有罪であるとの絶対的な自信がなかったこと、そして冤罪の可能性がある被告人に対して死刑判決を出したことへの後悔と実際に傍聴人から非難されたことなどから、死刑に対する疑念が出てきたとのことである。
**証拠不十分なものは無罪という古代からの原則がある。冤罪の可能性が明かにない場合も死刑は廃止すべきとするのだろうか?

最高裁判事退官後は、宮内庁東宮職参与、宮内庁参与を歴任しながら死刑廃止運動や少年法改定反対運動関連の活動など、刑事被告人の権利確立のための活動に重点を置いた。「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」と発言している。
白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年(昭和27年)1月21日に北海道札幌市で発生した、日本共産党による警察官射殺事件である。

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エドワード・テラー

エドワード・テラー アメリカ合衆国の「水爆の父」として知られる。だから大変尊敬に値する科学者かとなると疑問符が。
エドワード・テラー(Edward Teller、 もとのハンガリー名ではテッレル・エデ(Teller Ede)。 1908年1月15日~2003年9月9日)は、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ人理論物理学者。アメリカ合衆国では「水爆の父」として知られる。ローレンス・リバモア国立研究所は彼の提案によって設立された。本来の専門分野では、原子核物理学、分子物理学などで多くの業績があり、代表的なものにヤーン・テラー効果やBETの吸着等温式があるという。

1908年、オーストリア=ハンガリー帝国ブダペストで弁護士の父と、銀行家の娘で4カ国語をこなす才媛の母のもとに生まれた。テラー家は、裕福なユダヤ人知識階級であった。幼少のころから算数の才能を見せ、学校に上がる前に足し算・引き算のみならずかけ算を覚えたという逸話がある。
11歳のころの1919年3月21日、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、クン・ベーラ率いるハンガリー共産党が権力を奪取し、ハンガリー・ソビエト共和国を建国。ハンガリーの貴族や地主・資本家階級とされた人々の企業・土地といった資産をすべて没収し、国有化した。
この影響で父マックスが弁護士の職を失い、一家は貧窮。 同年8月、ハンガリー・ソビエト共和国はホルティ・ミクローシュ大将率いるハンガリー国新陸軍によって崩壊。不幸なことに、クンはユダヤ人であり、ハンガリー共産党指導部の多くもユダヤ人であった。ハンガリーの伝統的な反ユダヤ主義とホルティによる白色テロの高まりを受け、一家は1926年にハンガリーを去り、ドイツへ移住した。テラーが18歳の時であった。

テラーはブダペストで短期間化学工学を学んでおり、ドイツで高等教育を受け、そこでも同じく化学そして数学を学び、1930年にライプツィヒ大学のヴェルナー・ハイゼンベルクの元で物理学の博士号を取得した。その後、ゲッティンゲン大学で助教授として2年を過ごした。
1933年にドイツの政権を握ったアドルフ・ヒトラーが反ユダヤ主義政策を取り始めると、テラーは1934年、ユダヤ人救出委員会の助けでドイツを離れる決心をした。一時期イングランドに滞在した後、ニールス・ボーアのいたコペンハーゲンで1年を過ごし、1935年8月、アメリカ合衆国に移住した。また、その直前の1934年2月、テラーは初恋の人ミチ (Mici) と結婚している。同じハンガリー出身のレオ・シラードが、アルベルト・アインシュタインの署名入りの書簡を使ってアメリカ政府に原子爆弾の研究を働きかけた際には、ユージン・ウィグナーとともにその活動に加わっていた。

幼少時代のハンガリーでの好ましくない経験にもかかわらず、1930年に世界恐慌の波がドイツに押し寄せ、資本主義の崩壊を目の当たりにしたテラーは、社会主義・共産主義に両義的感情と興味を抱いていた。 しかし、アメリカ合衆国に渡った後、友人のレフ・ランダウがソ連政府によって逮捕されたことを伝え聞くなど、ソ連への反感を次第に強めていった。 1943年にスターリン体制の下での理不尽な裁判と粛清を描いたアーサー・ケストラーの小説『真昼の暗黒』を読んだことが決定的な契機となって、以降は根強い反共感情を抱くようになった。

水爆開発
1941年までジョージ・ワシントン大学で教鞭を執り、そこでジョージ・ガモフに出会ったテラーは、1942年、ブリッグス委員会 (Briggs committee) で働きながら、マンハッタン計画に参加する。第二次世界大戦中、テラーはロスアラモス国立研究所の理論物理学部門に所属し、核分裂だけの核爆弾から核融合を用いた超強力爆弾(水素爆弾)へ核兵器を発展させるべきだと強く主張した。1945年、ニューメキシコでの世界初の原爆実験(トリニティ実験)に立ち会い、「なんだ、こんなちっぽけなものなのか」と感想を述べたとされる。1946年にテラーはロスアラモスを離れ、シカゴ大学の教授になる。

エドワード・テラー 1949年のソビエト連邦の核爆発成功の後、1950年にロスアラモスへ戻って水爆計画に携わったテラーは、水爆を「マイ・ベイビー」と呼んでいたという。テラーとスタニスワフ・ウラムが実際に作動する水爆の設計を思い付いたとき、彼の人の手柄を自分のものとする、部下の面倒を見ないなどの性格からテラーは計画の長に選ばれなかった。テラーは再度ロスアラモスを去り、1952年、新たに設立されたカリフォルニア大学放射線研究所のローレンス・リバモア支部に加わる。1954年、身上調査の審問を受けた際にテラーがロバート・オッペンハイマーを非難したことが元で、オッペンハイマーは公職追放となり、テラーと科学者達、またオッペンハイマーとの間の溝は広がることになる。またその後は科学者からは相手にされなくなり、「水爆の父」と唯一持ち上げてくれる政治家、軍人との付き合いにのめり込んで行った。
原爆開発にかかわった多くの物理学者達が、反核へと転身し容共主義者として監視されていた時代でもある。

【アラスカ人工港計画】
1950年代に、テラーはアラスカに核爆発を利用して大規模な人工港を作るという「チャリオット作戦」を公表した。これは、アラスカには無人の荒野が広がっているという先入観があってのことだったが、そこはアメリカ大陸で最も古くから人類が住む土地であった。その結果、民族意識に目覚めたエスキモーやインディアンなどのアラスカ原住民を中心とする反対運動が高まり、この計画は幻と終わった。

1958年から1960年にかけ、テラーはローレンスリバモア国立研究所の所長になった後、カリフォルニア大学バークレー校で教える傍ら、同研究所の副所長をつとめた。1975年、テラーは引退してリバモア研究所の名誉所長に指名され、フーバー研究所のシニア研究員にも任命される。引退後もテラーは絶えず核計画推進の主張者であり続け、実験と開発の継続を訴えた。戦略防衛構想が撤回されたときにも、テラーはその最も強力な擁護者の1人だった。1982年、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンよりアメリカ科学界最高峰の栄誉とされるアメリカ国家科学賞を贈られた。
2003年9月、カリフォルニア州スタンフォードで死去。95歳だった。水爆を開発したことに関しては、核による相互確証破壊により核戦争を防げたとして、生涯肯定的な言動を行い、悔いることはなかった。
**確かに彼の言うことは一理ある。核廃絶運動に抵抗する人達も、水爆を使うことを許容しようと言う人はいないだろう。しかし、もし米国が水爆を開発しなければロシアも中国もそんなものを開発しようとはしないだろう。水爆以上の兵器? 物理学はそれも既に可能にしている。物質と反物質の接触で、超々巨大なエネルギーを発生させ後には何も残さない。対消滅と言う現象で、自然界では現実にそんなことも起こっていることも確認されている。

**マンハッタン計画(Manhattan Project):
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ、日本、ソ連などの原子爆弾開発の可能性に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。
ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。
科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、「マンハッタン・プロジェクト」とした。
**「マンハッタン・プロジェクト」は「ルーズベルト・プロジェクト」だったようだ。この時日本も先に核兵器を保有する可能性は同程度の確率で考えられていた。現に計画書も出来ていて一部実験も実施に移されてもいたようだ。広島・長崎への原爆投下は最初から計画されたものだった可能性が高い。
2003年9月、カリフォルニア州スタンフォードで死去。95歳だった。水爆を開発したことに関しては、核による相互確証破壊により核戦争を防げたとして、生涯肯定的な言動を行い、悔いることはなかった。

水爆のブレークスルーは、超高温高圧を造り出すために原子核分裂を使うことだった。水爆の威力は広島原爆の数千倍以上と言われ、Tellerに言わせればほぼ無限大と言うことだ。恐竜を滅ぼした隕石衝突を上回る威力か。人類の最終兵器と言われる所以だ。オッペンハイマー博士を含め大勢の物理学の大家が開発に消極的になったことを憤慨し、孤立無援の戦いを続けた意志強固な科学者と言えるか?
科学の暴走をどこまで許すかは人類の課題だ。

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ナオミ・クライン

ナオミ・クライン ナオミ・クライン(Naomi Klein, 1970年5月8日~ ):
カナダのジャーナリスト、作家、活動家。21世紀初頭における、世界で最も著名な女性知識人、活動家の一人として知られる。
1970年、モントリオールのユダヤ人活動家の家に生まれる。ジャーナリストとしての活動は、トロント大学在学中に学生新聞の編集長を務めたところから始まる。1999年に『ブランドなんか、いらない』を発表し、反グローバリゼーションにおけるマニフェストとしての評価を受ける。続いて2002年には、資本主義を批判する『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』を刊行。名声を確立した。
雑誌・新聞への寄稿も数多く、結婚相手のカナダ人テレビジャーナリストのアヴィ・ルイス(Avi Lewis)とは、共同でドキュメンタリー映画を作成している。2014年、『これがすべてを変える――資本主義vs.気候変動』を発表した。

ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された同書の書評で、ウィスコンシン大学マディソン校のレイチェル・カーソン記念教授であるロブ・ニクソンは、「気候に関する問いを形作る科学、心理学、地政学、経済学、倫理学、そして市民運動(activism)を一つに編み合わせた。その結果、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』以来、最も重大かつ論争を呼ぶ環境についての本となっている」と評した。同書は、マーガレット・アトウッドらによって設立されたカナダ作家トラストが授与するヒラリー・ウェストン作家トラスト・ノンフィクション賞(Hilary Weston Writers’ Trust Prize for Nonfiction)の2014年の受賞作に選ばれた。

ナオミ・クライン 2015年7月1日、正義と平和のためのローマ教皇評議会と国際カトリック開発機構連盟( International Alliance of Catholic Development Organisations (CIDSE) )が、第266代ローマ教皇フランシスコによるエコロジーに関する教皇回勅において示された課題などを議論するために共催した会議「人々と惑星を最優先に:直ちに進路の変更を」に招かれた。クラインは「驚いたが嬉しい」と語り、また環境と経済に関する現教皇の認識と積極的な姿勢を評価する発言をしている。

主張
『ブランドなんか、いらない』では、クラインがナイキ社をあまりに辛辣に批判したために、同社から正式のコメントが出されるまでになった(ナイキとしては異例の対応)。新自由主義にとってのウォール街の崩壊は、共産主義にとってのベルリンの壁崩壊に匹敵する、としている。

実は彼女は、NHKの「100分で名著」に紹介された(2023年6月)。ナオミさんとは日系人だろうか?
チリの軍事クーデター、天安門事件、ソ連崩壊、米国同時多発テロ事件、アジアの津波災害等々、大きな惨事と並行して起こった出来事を一つの視角から徹底的に検証し「強欲資本主義」とも呼ばれる経済システムが世界を席巻した原因を明らかにした著作があります。「ショック・ドクトリン」。カナダ人ジャーナリストのナオミ・クラインの代表作です。

市場原理主義を唱える経済学者ミルトン・フリードマンは、「真の変革は、危機的状況によってのみ可能となる」と述べました。ナオミ・クラインはこれを「ショック・ドクトリン」と呼び、先進諸国が途上国から富を収奪することを正当化する最も危険な思想とみなします。近年の悪名高い人権侵害は、反民主主義的な体制による残虐行為と見られてきましたが、実は民衆を震え上がらせ抵抗力を奪うために綿密に計画されたものであり、その隙に市場主義改革を断行するのに利用されてきたといいます。
「新型コロナの危機的拡大」、「CO2濃度の危機的上昇と地球温暖化の恐怖」、「ウクライナ危機による専制国家の世界支配の恐怖」。確かにどの課題も綿密に計画されメディアを通して世界中に既成事実として世界中を危機に陥れている。
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ミルトン・フリードマン

ナオミ・クライン ミルトン・フリードマン(英: Milton Friedman、1912年7月31日~2006年11月16日): アメリカ合衆国の経済学者。古典派経済学とマネタリズム、市場原理主義・金融資本主義を主張しケインズ的総需要管理政策を批判。ケインズ経済学からの転向者(転向者と言う言葉は良くないね!)。共和党支持者。1976年、ノーベル経済学賞受賞。身長152センチ。

20世紀後半におけるマネタリスト、新自由主義を代表する学者として位置づけられている。戦後、貨幣数量説を蘇らせマネタリストを旗揚げ、裁量的総需要管理政策に反対しルールに基づいた政策を主張した。

1970年代までは先進国の各国政府は、「スタグフレーション」に悩んでいた。フリードマンは、スタグフレーションのうちインフレーションの要素に対しての姿勢や政策を重視。また、経済に与える貨幣供給量の役割を重視し、それが短期の景気変動および長期のインフレーションに決定的な影響を与えるとした。特に、貨幣供給量の変動は、長期的には物価にだけ影響して実物経済には影響は与えないとする見方であり、(貨幣の中立性)、インフレーション抑制が求められる中で支持された。1976年 これらの主張により、ノーベル経済学賞を受賞した。

ハンガリー東部(現在はウクライナの一部となっているザカルパッチャ州Berehove)からのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれる。父親は工場経営者・資本家で、ナオミ・クラインは絶望工場的な場所だったと指摘している。
**ナオミ・クラインさんは、いま新自由主義をジャーナリストの観点から世界的な大問題と指摘して、注目を浴びている。

奨学金を得て、15歳で高校を卒業した。ラトガーズ大学で学士を取得後、数学と経済学のどちらに進もうか悩んだ結果、世界恐慌の惨状を目にしたこともあって、シカゴ大学で経済を専攻し、修士を取得した。さらに、コロンビア大学でサイモン・クズネッツ(1971年ノーベル経済学賞受賞)の指導を受け博士号を取得した。コロンビア大学と連邦政府で働き、後にシカゴ大学の教授となる。また、アーロン・ディレクターの妹であるローズ・ディレクターと結婚し、一男(デイヴィッド・フリードマン)一女をもうけた。

後に反ケインズ的裁量政策の筆頭と目されるようになったが、大学卒業後の就職難の最中で得た連邦政府の職は、ニューディール政策が生み出したものであった。後に振り返って、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは、緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求める研究を残している。ただし、第二次世界大戦が終わって、連邦政府の職を離れるまでは、自身の経済学上の立場は、一貫してケインジアンであった。

1969年、リチャード・ニクソン政権の大統領経済諮問委員会で、変動相場制を提案した(後にニクソンとは決裂している)。また、1975年のチリ訪問や1980年から中国を訪問するなど世界各国で政策助言を行ったことでも知られ、特に「資本主義をみたければ香港に行くべき」と香港を称えており、香港の積極的不介入を自由経済の最適なモデルと評価した。日本では、1982年から1986年まで日本銀行の顧問も務めていた。

シカゴ学派のリーダーとして、ノーベル経済学賞受賞者を含め多くの経済学者を育てた。マネタリストの代表者と見なされ、政府の裁量的な財政政策に反対した。政府の財政政策によってではなく、貨幣供給量と利子率によって、景気循環が決定されると考えた。また、1955年には、教育バウチャー(利用券)制度を提唱したことでも知られる。これは公立学校に市場原理を導入することで競争を促し、公教育の質の向上を図ろうとするものであり、各国における公立学校選択制の導入に大きな影響を与えている。主著は『A Monetary History of the United States, 1867-1960』、『資本主義と自由』。

1951年ジョン・ベーツ・クラーク賞、1967年米経済学会会長、1976年にノーベル経済学賞を受賞。1986年に保守派の中曽根康弘内閣から「勳一等瑞宝章」、1988年にはフリードマンが支持した右派のロナルド・レーガンからアメリカ国家科学賞と大統領自由勲章を授与される。2006年11月16日 、心臓疾患のため自宅のあるサンフランシスコにて死去。94歳。

思想・主張
フリードマンはリチャード・ニクソンとロナルド・レーガンを熱烈に支持。ニクソン、レーガンともに、50年代にジョセフ・マッカーシーの「赤狩り」に全面協力した人物である。この段階で、フリードマンの思想が「新」自由主義であるかどうかに疑問符がつく。ただし、フリードマンが政権の顧問を一時務めていたニクソンについては、「我々はもうみんなケインジアンだ」(もともとはフリードマンに由来し、実際のニクソンの言葉は「私はもう経済学で言うケインジアンだ」とされる)と有名な発言をしてケインズ政策を行ったため、フリードマンは激怒し、「史上最も社会主義的な大統領」であると猛烈に批判することとなった。
**ニクソン氏が社会主義的とは一体どういう意味?

また、軍事独裁政権アウグスト・ピノチェトが大統領時代のチリを支持し、訪問もした。ピノチェトの独裁で数千人の死者と、それを上回る行方不明者が出た。フリードマンの弟子の「シカゴ・ボーイズ」はチリに入り、ピノチェトの経済政策についてアドバイスをした。しかし、経済が低迷しのちにはピノチェトですら、彼らの意見に耳を傾けなくなった。フリードマンにとっての理想は、規制のない自由主義経済の設計である。フリードマンは、あらゆる市場への制度上の規制は排除されるべきと考えた。そのため、公正な民主主義を支持する人々は、フリードマンを新自由主義(Neo Liberalism)、反ケインズ主義(アンチ・ケインジアン)の筆頭格として批判した。フリードマンは元ケインズ主義からの転向者であり、理念の一部はケインズと共通点もあった。

フリードマンは、基本的には、市場に任せられるところはすべて任せるが、いくつか例外があり、自由主義者は無政府主義者ではないとして、政府が市場の失敗を是正することを認める。また、中央銀行の仕事だけは市場に任せるわけにはいかないという考えであり、中央銀行を廃止して、貨幣発行を自由化する、金本位制のように外部から枠をはめるような制度を作るといった代案を提示している。フリードマンは、連邦準備銀行がマネーサプライを一定の割合で機械的に増やせば、インフレなしで安定的な経済成長が見込めると述べており(Kパーセントルール)、コンピュータに任せても良いとした。

**政策決定にAIを導入したい訳?
財政政策批判
政府によって実施される財政政策は、財政支出による一時的な所得の増加と乗数効果によって景気を調整しようとするものである。しかし、フリードマンによって提唱された恒常所得仮説によると、一時的な変動所得が消費の増加に回らないため、ケインジアンの主張する乗数効果は、その有効性が大きく損なわれる。そのため、恒常所得仮説は、中央銀行によって実施される金融政策の復権を求めたマネタリストの重要な論拠の一つになった。また、経済状況に対する政府中銀の認知ラグや政策が実際に行われるまでのラグ、および効果が実際に波及するまでのラグといったラグの存在のために、裁量的に政策を行ってもそれは適切に機能せず、かえって不要の景気変動を生み出してしまうことからも、裁量的な財政政策を批判した。

フリードマンは、ケインズ政策はスタグフレーションに繋がるとし、ケインズ政策の実行→景気拡大→失業率の低下→インフレ期待の上昇→賃金の上昇→物価の上昇→実質GDP成長率の低下→失業率の再上昇というメカニズムで、結果的に物価だけが上昇すると主張している。

大恐慌
フリードマンは、金本位制が問題であったと理解しており、著書『A Monetary History of the United States, 1867-1960』の中で、大恐慌はこれまでの通説(市場の失敗)ではなく、不適切な金融引き締めという裁量的政策の失敗が原因だと主張した。金融政策の失敗を世界恐慌の真因としたフリードマンの説は、現在も有力な説とされており、その後の数多くの研究者が発表した学術論文によって、客観的に裏付けされている。ベン・バーナンキFRB理事(当時)は、2002年のフリードマンの誕生日に「あなた方は正しい。大恐慌はFRBが引き起こした。あなた方のおかげで、我々は二度と同じ過ちを繰り返さないだろう」とこの主張を認めている。
**ここで言う大恐慌とは、1929年のニューヨーク株式市場の大暴落で始まった一連の出来事を指しているはずだ。つまり第一次大戦が終わったことが原因。世界規模の出来事だ。不適切な金融引き締めが原因との明確な証拠は?大恐慌はFRBが引き起こした? 明らかに政治的発言。

麻薬合法化
麻薬政策について、フリードマンは、麻薬禁止法の非倫理性を説いている。1972年からアメリカで始まったドラッグ戦争(麻薬の取り締り)には「ドラッグ戦争の結果として腐臭政治、暴力、法の尊厳の喪失、他国との軋轢などが起こると指摘したが、懸念した通りになった」と語り大麻の合法化を訴えていた。また、別の主張では、大麻にかぎらずヘロインなども含めた麻薬全般の合法化を主張した。
**確かに非合法の麻薬の取引は腐敗の温床であることは分かる。しかし、これを合法化すれば解決するかと言えば大変疑問だ。ヤクザの大親分を東証一部の大会社の社長にするようなものにならなければいいが。

主張した具体的政策
義務教育、国立病院、郵便サービスなどは、公共財として位置づけるのではなく、市場を通じた競争原理を導入したほうが効率的であると主張していた。1962年、フリードマンは、著書『資本主義と自由』において、政府が行うべきではない政策、もし現在政府が行っているなら『廃止すべき14の政策』を主張した。下記を参照。これらの問題は個別の政策論として論ずるべきではなさそうだ。

  1. 農産物の買い取り保障価格制度。
  2. 輸入関税または輸出制限。
  3. 商品やサービスの産出規制(生産調整・減反政策など)。
  4. 物価や賃金に対する規制・統制。
  5. 法定の最低賃金や上限価格の設定。
  6. 産業や銀行に対する詳細な規制。
  7. 通信や放送に関する規制。
  8. 現行の社会保障制度や福祉(公的年金機関からの購入の強制)。
  9. 事業・職業に対する免許制度。
  10. 公営住宅および住宅建設の補助金制度。
  11. 平時の徴兵制。
  12. 国立公園。
  13. 営利目的の郵便事業の禁止。
  14. 国や自治体が保有・経営する有料道路。

フリードマンの弟子達に当たるシカゴボーイズという権力者たちは世界中の政府の中枢部に入り込んでいるらしい。1~14の施策を本気で実行する国が出て来れば、その国の大多数の国民の生活経済は大崩壊してしまうでしょう。一方、一部の富裕層はますます豊かになるかもしれないが、豊かになってどうしたいというのでしょうかね。
【追記】
「好ましい世界をつくるには、各国(人)がそれぞれ自国(自分)のことをきちんと管理すればよい。おのおのの価値観に従って、自由に自己の才覚を発揮できる仕組みをつくれば、物質的な繁栄と人間としての自由を共に謳歌できるだろう。そして自由市場こそ、この理想を最もよく実現できるシステムだ」―ミルトン・フリードマン (Milton Friedman、1912年7月31日~2006年11月16日)
現実の米国は、同盟国に上記のような徹底した民営化をやらせる。草刈り場と化した自由市場での勝ち組は当然巨大国際資本のグループ。例えばオルガルヒという存在。彼らがその国の政策自体を支配するようになる。
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小塩節

小塩節 小塩 節(おしお たかし、1931年1月10日~ 2022年5月12日):
ドイツ文学者。中央大学名誉教授。フェリス女学院理事長。妻は、英文学者・小塩トシ子さん。
長崎県佐世保市生まれ。父は牧師小塩力。松本高等学校 (旧制)文科乙類を経て、東京大学独文科卒、同大学院修了。1958年、国際基督教大学専任講師、準教授、1967年からNHKの「ドイツ語講座」を1985年まで担当。2022年5月12日、敗血症の為に東京都三鷹市の病院にて死去。91歳没。
そうだ。確かに私が大学生だった頃か、ラジオでドイツ語の講師やっておられた。ドイツ語の方は、大学卒業以来全くやってないのでもう忘れたが、小塩さんが生前行った対話が最近放送されて、彼のキリスト教の歴史認識及び学識に深い感銘を覚えた。

小塩節 【ゴート語聖書翻訳】
ゴート語とは、ゴート族、特に西ゴート族によって話された、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派の東ゲルマン語群に属する言語である。ヨーロッパで最初のゲルマン語の翻訳聖書を作ったのはウルフィラまたはウルフィラス(311年頃~383年)とされる。彼は4世紀のゴート人司教(実は彼はギリシャ人でゴート族に奴隷に売られたらしい)。聖書の布教のためにゴート文字を発案した。彼によるゲルマン語の金字塔であるゴートの聖書の重要な断片は今日も残っている。小塩さんはドイツ留学中に北欧のどこかの国で現物を直接見たそうだ。
当時はローマ帝国の西側は滅亡していて、当時の聖書はギリシャ語で書かれていたものしかなく、しかもゲルマン人達はまだ自分達の文字を持っていなかった時代である。 ウルフィラの聖書は、未だ紙が伝わっていない時代で、羊皮紙に銀を打ち付けて文字を書いている。小塩さんはこのウルフィラによって翻訳された聖書(ゴート語)の翻訳もやっていたようだ。
新しい発見。キリストが「父よ!」と叫ぶ場面をウルフィラは「とうちゃん」のような訳をしている。また「god」は、神と言うより「相談者」と翻訳している。ウルフィラさん自身が貧しいゴート人達と共にヒツジなんか飼って共同生活をし、「相談者」や「とうちゃん」のような立場で布教活動し、彼らの為に文字まで発明し、彼らが読めるように聖書の翻訳まで行った聖人だったようだ。

小塩さんは、牧師の家庭で生まれ、キリスト教は生活の一部となっている。戦時中は、異国の宗教と言うことで馬鹿にされるだけでなく、非国民との差別を受ける経験もしている。
また、留学先のドイツではちょうどヒットラー政権下で、多くのキリスト教徒たちも差別を受けていて収容所に監禁されていたものもいたとか。迫害を受ければ受ける程、信仰は強くなるものとのことである。
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中村 征夫

中村 征夫 中村 征夫(なかむら いくお、1945年7月1日~ ):
写真家。環境問題や水中写真に関する著書・写真集をはじめ、テレビコマーシャルも数多く手掛けている。沖縄のサンゴ礁やヘドロの溜まった東京湾の中の生き物たち、貴重な記録が盛りだくさん。 秋田県潟上市(出生時:南秋田郡昭和町)出身。秋田市立高等学校(現秋田県立秋田中央高等学校)卒業。水中写真の第一人者で報道写真家。19歳のときに独学で水中写真をはじめる。専門誌のフォトグラファーを経て、31歳でフリーに。1977年以来、東京湾の撮影を35年間続けている。

1993年、取材先の奥尻島で北海道南西沖地震に遭遇、滞在していた島南部の青苗地区が火災と津波で壊滅するも避難に成功、九死に一生を得る。機材の全てを流されて裸足で避難したが、唯一持っていたモーターマリンで、災害直後の奥尻島の惨状を撮影。その写真は共同通信社から世界中に配信され、世界中の新聞に掲載された。

中村 征夫 また、石垣島白保地区でのアオサンゴ大群落を、モノクロ写真で撮影した写真が大きな反響を呼ぶ。この写真集に後押しされる形で、同白保地区に海底を埋め立てて建設予定だった石垣島新空港計画が、白紙撤回されたことがある。 作家の椎名誠とは、ともにトークライブを開催するなど縁が深い。中村の写真集『白保SHIRAHO』を原案とした映画『うみそらさんごのいいつたえ』では撮影に全面的に参加している。

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広井勇

広井勇 廣井 勇(ひろい いさみ、1862年10月24日~ 1928年(昭和3年)10月1日): 土木工学者。東京帝国大学教授。高知県出身。札幌農学校(現在の北海道大学)卒業。「港湾工学の父」と呼ばれた。

1862年、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)において、筆頭家老深尾家の家臣で土佐藩御納戸役を務める広井喜十郎とその妻、寅子との間に長男、数馬として生まれる。同郷同世代の牧野富太郎同様、幼い頃から郷校名教館(めいこうかん)で儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)に学んだ。数馬の曽祖父広井遊冥(1770年-1853年)もまた、かつて名教館で儒学や和算を教えており、蘭林はその弟子であった。植物学者牧野富太郎と土木工学者廣井 勇は明教館からの盟友だった訳です。NHKの朝ドラでもこのことは何度も紹介されていた。

広井勇 当時はまだ安政南海地震の爪跡が残る時代だったが、幼い頃の数馬は浦戸湾の入口にあたる種崎村(現、高知市)の海岸で、十数年前に津波が襲来した際、堆砂の中に埋没し忘れられていた堤防が露出して津波を防いだという話を聞かされたと記している。この堤防は、遡ること200年前の1655年(明暦元年)に、野中兼山(*江戸初期の土佐藩家老)が造らせたものであった。

9歳のときに父と死別し、名を勇と改める。11歳で上京、叔父である男爵片岡利和の邸宅に書生として寄宿しながら工部大学校予科へ入ったが、16歳のとき、工部大学校の学費方針変更を受けて、全額官費で生活費も支給されるという札幌農学校に入学を決めた。

札幌農学校では内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らとともに二期生となった。教頭には前年帰国したウィリアム・スミス・クラークに代わって、その弟子であるウィリアム・ホイーラーが着任していた。ホイーラーは当時20代半ばの土木技術者であったが、わずか3年の任期の間に、今も残る札幌市時計台(旧農学校演武場)や、木鉄混合トラス構造の豊平橋を設計するなど活躍しており、国境を越えて貢献するその姿は、勇の進路に大きな影響を与えた。他に、セシル・ピーボディらから土木工学、数学、測量術、物理学などを学んだ。

在学中の1877年(明治10年)6月、勇ら同期生6人は、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けてキリスト教に改宗した。勇は彼らの中でも非常に熱心な信者であったが、ある日内村鑑三に「この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る」と宣言し、内村らに伝道を託したという。

1881年(明治14年)7月に札幌農学校卒業後、官費生の規定に従い開拓使御用掛に奉職、11月には媒田開採事務係で鉄路科に勤務し、北海道最初の鉄道である官営幌内鉄道の小樽~幌内間工事に携わり、初めて小規模の鉄道橋梁建設に携わった。翌年開拓使の廃止にともない工部省に移り、鉄道局で日本鉄道会社の東京-高崎間建設工事の監督として、荒川橋梁の架設にあたった。

翌1883年(明治16年)12月、単身私費で横浜港からアメリカ合衆国に渡った。師ホイーラーらの紹介で中西部セントルイスの陸軍工兵隊本部の技術者に採用され、ミシシッピ川とミズーリ川の治水工事に携わった後、チャールズ・シェイラー・スミス(Charles Shaler Smith)の設計事務所で橋梁設計に従事した。セントルイスでの両職場とも、当時世界最長のアーチ橋であり、鋼鉄を最初に用いた大規模橋梁でもあったイーズ橋のたもとにあり、強い印象を書き残している。当時スミスの事務所では、隣のケンタッキー州で北米初、かつ世界最長かつ最高高さのカンチレバー橋であるハイ橋(High_Bridge_of_Kentucky)を設計していた。

スミスの病没後は、はじめ南部バージニア州ロアノークにあるノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道、のちに北部デラウェア州の橋梁建設会社エッジ・ムーア・ブリッジ(Edge Moor Bridge)に移って技術者として働く傍ら、橋梁建築について英文で著した技術書『プレート・ガーダー・コンストラクション』(Plate-Girder Construction)を刊行した。同書は、理論から実践的な標準設計までを貫く内容から、アメリカの大学で教科書として長く使用され、1914年には5刷が出るほど好評だったという。

1887年(明治20年)、母校札幌農学校から、道庁への移管に伴い新設される工学科助教授への就任要請を受け、一旦ドイツのカールスルーエ大学に1年間、シュトゥットガルト大学に半年間留学して土木工学と水利工学を研究、バウ・インジュニュール(土木工師)の学位を得た後、1889年(明治22年)に帰国。札幌農学校工学科の教授に就任した。講義は英語中心で行われた。当時の工学科では卒業研究の題材に、道庁で実際に企画されている土木事業が選ばれており、研究成果は事業に活かされるなど、道庁土木機関のシンクタンクとしての機能も果たしていた。こうした中から、岡崎文吉、平野多喜松らが巣立っていった。

1889年(明治22年)頃から始まった秋田港(当時は「土崎港」)の築港に際し、秋田県の青年実業家・近江谷栄次(のちに衆議院議員)に招請され、13年後に改修が完了した秋田港には「廣井波止場」の名が付けられた。
1890年(明治23年)からは北海道庁技師を兼務し、函館港の築堤に携わった後、1893年(明治26年)、札幌農学校の文部省移管・工学科廃止に伴い技師専任となり、小樽築港事務所長に就任、小樽港開港に向けた整備に従事した。冬の季節風で激しい波浪に見舞われる岸壁に対して、勇は火山灰を混入して強度を増したコンクリートを開発、さらにそのコンクリートブロックを71度34分に傾斜させ並置する「斜塊ブロック」という独特な工法を採用し、1908年(明治41年)、1300mに及ぶ日本初のコンクリート製長大防波堤を完成させた。設計の際に用いた波圧の算出法は、広井公式と言われ現在も使われている。
**今でも、広井公式は水理公式集にも記載されている。防波堤の設計の基本的な公式として世界的にも認められている訳です。水理公式集を見れば日本人の名のついた公式はそんなに多くないことに気がつくでしょう。

彼は工事中、勇は毎朝誰よりも早く現場に赴き、夜も最も遅くまで働いた。現場では半ズボン姿でコンクリートを自ら練る姿をしばしば見かけたという。この防波堤は、建設から100年以上経過した現在でも当時のままに機能しているが、たまたま結果として残ったという以上に、勇の準備が周到だったと言える。コンクリートの強度試験は、当初50年、大正以降に改められて実に100年後まで強度をテストするよう、実に6万個の供試体が用意され、実際に2005年現在もなお強度テストが行われているからである。
*自然環境下に置かれたコンクリートは、強度の経年劣化の可能性は避けがたい。現場中心主義の彼ならではの深慮遠謀と言うべきか。

1899年(明治32年)、秋田港や小樽港の設計に感服した土木界の泰斗古市公威の推挙により、学外出身にも関わらず工学博士号を得て東京帝国大学教授となり、1919年(大正8年)には土木学会の第6代会長となった。勇は土木界へ、堀見末子、青山士、太田圓三、増田淳、八田與一、久保田豊、田中豊、宮本武之輔、石川栄耀ら、20年以上に渡り錚々たる逸材を送り出し、そのうち少なくない人々が海外へ雄飛した。学生への指導は厳しくも懇切で、教育者としての評価も高かった。「先生は毎日寝る直前に床を敷いて、明かりを消し、正座して30分間、今日一日精魂を込めて学生達を教育したか、反省して翌日の生活の糧にした」と伝えられる。

また、稚内港、函館港、釧路港、留萌港といった道内港湾の整備はもちろん、渡島水電による大沼水力発電所(函館市)、最初期の鉄筋コンクリート橋梁である広瀬橋(仙台市)、関東地方初の商業用ダムとして鬼怒川水力電気が建設した黒部ダム(日光市)など、多くの土木工事で設計指導にあたっておきながら、報賞の金品を渡そうとすると、「費用に余裕があるならば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と述べて拒絶したという。さらに、研究面では関門橋の原型となった下関海峡横断橋の設計、鉄筋コンクリートのためのセメント用法実験、日本で初めてカスチリアノの定理を用いた不静定構造の解法を解説するなどの業績を残している。

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神田伯山 (6代目)

神田伯山
神田 伯山(六代目)(はくざん、1983年6月4日~): 講談師。学位は学士(経営学)。日本講談協会および落語芸術協会所属。前名は神田 松之丞(かんだ まつのじょう)。本名は古舘 克彦(ふるたち かつひこ)。講談の大名跡である神田伯山を6代目として襲名(2020)。新進気鋭の講談師として注目を浴びている。講談なんて古臭い芸能で縁が無いと思っていたが、結構面白い。現代の語り部という役割か。
高校2年生のときにラジオで偶然、6代目三遊亭圓生の御神酒徳利を聞き、感銘を受ける。
*高校の授業で世界史の先生が昔の出来事を見た来たような口ぶりで説明する。これ講談調に語れば生徒達も大喜び、歴史に興味を持ってくれるかも。
高校卒業後の浪人生時代に所沢市で行われた立川談志独演会の高座を見て、立川談志のファンになる。以降、談志の追っかけとなり、のちに講談師になることにした。漫才と異なり一人でパフォーマンス。落語家に近いものがある。
最初に師匠を付けてもらったネタは『三方ヶ原軍記』。覚えるのに2か月ほどかかったが、次に教わった『鉢の木』は寝食も忘れ没頭し、1週間で覚えた。その際、師匠の松鯉から「お前は将来名人になる」と言われたという。師匠方の着物が畳めないなど、前座仕事には向いていなかったという。趣味は落語を聞くこと。
インターネットの普及した現在。現代の語り部の役割が見直されているのでは。やはり、物語は表情や声色、リズム、文章では伝わらないものもある。話は逸れるが受験予備校の名門講師にも似たような素質が求められているのでは。ニュース解説なども講談調でやるととても分かり易くて売れるかも。

歴史家蘇峰
史書『近世日本国民史』は民間史学の金字塔と呼ぶべき大作である。蘇峰は歴史について、こう語っている。
所謂過去を以て現在を観る、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞であり、新聞は明日の歴史である。
従つて新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべしとするものである。
『近世日本国民史』は、第1巻「織田氏時代 前編」から最終巻までの総ページ数が4万2,468ページ、原稿用紙17万枚、文字数1,945万2,952文字におよび、ギネスブックに「最も多作な作家」と書かれているほどである。『近世日本国民史』の構成は、
緒論…織田豊臣時代〔10巻〕
中論…徳川時代〔19巻〕・孝明天皇の時代〔32巻〕
本論…明治天皇時代の初期10年間〔39巻〕
の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている。
蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。しかし蘇峰は、「御一新」は未完のままあまりに短命に終息してしまったとみており、日本の近代には早めの「第二の維新」が必要であると考えた。それゆえ、蘇峰の思想には平民主義と皇国主義が入り混じり、ナショナリズムとグローバリズムとが結合した。なお、この件について松岡正剛は、蘇峰はあまりにも自ら立てた仮説に呑み込まれたのではないかと指摘している。
蘇峰は執筆当初、頼山陽の『日本外史』(22巻、800ページ)を国民史の分量として目標としていた。しかし、結果的には林羅山・林鵞峰の『本朝通鑑』(5,700ページ)や徳川光圀のはじめた『大日本史』(2,500ページ)の規模を上まわった。
『近世日本国民史』の第十八巻は元禄赤穂事件にあてられている。義士否認論では佐藤信方らの見解を記すとともに、「吉良を故君の仇と思ふは愚の至り」と思想も述べられる。但し、「大石の放蕩は敵を欺く為の計略といふ深慮遠謀などではなく、只の救い難き好色による処である」「寺坂の離脱は密命を帯びた為でなく、単に臆病だった為」等の独断による主観的な赤穂義士への悪口も散見される。

同書の最終巻は西南戦争にあてられている。その後の日本が興隆にむかったため西郷隆盛は保守反動として片づけられがちであるが、蘇峰は西郷をむしろ「超進歩主義者」とみており、一身を犠牲にした西郷率いる薩摩軍が敗北したことによって、人びとは言論によって政権を倒す方向へと向かったとしている。

杉原志啓によれば、アナキストの大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、正宗白鳥、菊池寛、久米正雄、吉川英治らによっても愛読されていた。松本清張は歴史家蘇峰を高く評価しており、遠藤周作も『近世日本国民史』はじめ蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたという。

蘇峰は、『近世日本国民史』を執筆しながら「支那では4,000年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のために国が滅びる」として、同書完成のあかつきには支那史(中国史)を書きたいとの意向を示していたという。
*具体的にはどんな政治家がいたんでしょうか?

蘇峰は死ぬまで昭和維新、日本国憲法第9条、朝鮮戦争等のそれぞれの事象について、つねに独自の見解、いわば「蘇峰史観」をもっていた。その意味で蘇峰は松岡正剛によれば、日本近現代史においてはきわめて例外的な「現在的な歴史思想者」であったとしている。

言論人蘇峰
蘇峰が1916年(大正6年)に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は約100万部にのぼった。当時のベストセラー作家だった夏目漱石の『吾輩は猫である』は、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)に出版し、1917年(大正6年)までに1万1,500部(初版単行本の大蔵書店版)であるから、その影響力の大きさがわかる。

蘇峰は朝比奈知泉、福地源一郎(桜痴)、陸羯南などと同様、当時のメディアをリードした傑出した編集者であり記者であったが、その本質は政客的存在に近いものであった。社内では経営権をもち、創立者でもあることから広汎な自律性と裁量権を有するが、ゆえに一方で経営上・編集上の責任を負い、場合によっては政界の力を必要することもあった。逆言すれば、蘇峰・桜痴・羯南らは、いわばみずから組織をつくりあげたことで政治的存在となったのであり、後年の「番記者」のごとく既存の組織に属することによって活動して自らの地位を築いたのではなかった。当時にあっては、「国民新聞の蘇峰」というよりは「蘇峰の国民新聞」だったのである。その意味で、蘇峰らは「純粋な新聞界の住人というよりは政界と新聞界の両棲動物で、現住所は政界に近い」 と評される。しかし蘇峰は、生涯にわたって、みずから一記者であることを「記す者」という本来の意味において誇りに思っていた。
*そうだろうか?どの新聞も創刊の頃は創設者の意向を色濃く反映したものになるのでは。中立不偏不党を是として周囲に忖度ばかりしている記事では泡の抜けたビールみたいなものにならないかな?

人物と交友関係
蘇峰は、新聞・雑誌のみならず、講演者としても活躍した。日本各地で数多くの講演をおこない、数百人、場合によっては1,000人をこえる聴衆を集め、つねに盛況だったといわれる。
蘇峰の交友範囲は広く、与謝野晶子、鳩山一郎、緒方竹虎、佐佐木信綱、橋本関雪、尾崎行雄、加藤高明、斎藤茂吉、土屋文明、賀川豊彦、島木赤彦らの名前を掲げることができる。また、後藤新平、勝海舟、伊藤博文、森鷗外、渋沢栄一、東条英機、山本五十六、正力松太郎、中曽根康弘とも交遊があった。そこにイデオロギーや職業の違いはなく、あらゆるジャンル、年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望、大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している。
親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の短歌を詠んでいる。

わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪

神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の書簡が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている。『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身も『蘇翁言志録』(1936年)で、ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なり。と述べるように、書簡を大切なものと考えていた。
蘇峰自身も手紙魔であり、朝食前に20本もの書簡を書いていたというエピソードがある。

徳富蘇峰記念館所蔵の書簡は、館員の高野静子による解説(正・続)が出版。 『蘇峰とその時代-そのよせられた書簡から』(1988年)では、勝海舟、新島襄、徳富蘆花、坪内逍遥、森鷗外、山田美妙、内田魯庵、中西梅花、幸田露伴、森田思軒、宮崎湖処子、志賀重昂、佐々城豊寿、酒井雄三郎、小泉信三、松岡洋右、中野正剛、大谷光瑞などとの書簡が、、紹介されている。
『続 蘇峰とその時代-小伝鬼才の書誌学者 島田翰』(1998年)では、島田翰、与謝野晶子、与謝野鉄幹、吉屋信子、杉田久女、夏目漱石、竹崎順子(伯母)、徳富久子(母)、徳富静子(妻)、矢島楫子(叔母)、潮田千勢子、植木枝盛、依田學海、野口そ恵子、吉野作造、滝田樗陰、麻田駒之助、菊池寛、山本実彦、島田清次郎、賀川豊彦、が紹介されている。
平成22年(2010年)には、高野静子編『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』が出版された(各・下記参照)。
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Mária Telkes

Mária Telkes Mária Telkes
From Wikipedia, the free encyclopedia

英語から翻訳-マリア・テルケスはハンガリー系アメリカ人の生物物理学者であり、太陽エネルギー技術に取り組んだ発明家です。 彼女は生物物理学者として働くために 1925 年に米国に移住しました。彼女は 1937 年にアメリカ国籍を取得し、1939 年に太陽エネルギーの実用化を図るためにマサチューセッツ工科大学で働き始めました。

Mária Telkes (December 12, 1900 – December 2, 1995) was a Hungarian-American biophysicist and inventor who worked on solar energy technologies.
She moved to the United States in 1925 to work as a biophysicist. She became an American citizen in 1937 and started work at the Massachusetts Institute of Technology (MIT) to create practical uses of solar energy in 1939.
During World War II, she developed a solar distillation device, deployed at the end of the war, which saved the lives of downed airmen and torpedoed sailors. Her goal was to create a version for villagers in poor and arid regions. Telkes, often called by colleagues The Sun Queen, is considered one of the founders of solar thermal storage systems. After the war, she became an associate research professor at MIT.
** distillation¬¬=蒸留、arid region=乾燥地帯
In the 1940s she and architect Eleanor Raymond created one of the first solar-heated houses, Dover Sun House, by storing energy each day. In 1953 they created a solar oven for people at various latitudes that could be used by children.

In 1952, Telkes became the first recipient of the Society of Women Engineers Achievement Award. She was awarded a lifetime achievement award from the National Academy of Sciences Building Research Advisory Board in 1977. Telkes registered more than 20 patents.

Early life and education
Telkes was born in Budapest, Hungary, in 1900 to Aladar and Mária Laban de Telkes. Her grandfather Simon Telkes was from a Jewish family. In 1881, her father magyarized the family name to Telkes. In 1883 he converted to the Unitarian faith. In 1907 he was elevated to the Hungarian nobility, with the prefix kelenföldi.

Mária attended elementary and high school in Budapest. She then studied at the Eötvös Loránd University, graduating with a B.A. in physical chemistry in 1920 and a PhD in 1924.

Career
Telkes moved to the United States in 1924, and visited a relative who was the Hungarian consul in Cleveland, Ohio. There, she was hired to work at the Cleveland Clinic Foundation to investigate the energy produced by living organisms. Telkes did some research while working at the foundation, and under the leadership of George Washington Crile, they invented a photoelectric mechanism that could record brain waves. They also worked together to write a book called Phenomenon of Life.
** consul=領事
Telkes next worked as a physicist at Westinghouse. She developed metal alloys for thermocouples to convert heat into electricity.
Thermocouple=熱電対
She wrote to Massachusetts Institute of Technology about working in its new solar energy program and she was hired in 1939, staying until 1953.

Desalination
During World War II, the United States government, noting Telkes's expertise, recruited her to serve as a civilian advisor to the Office of Scientific Research and Development (OSRD). There, she developed a solar-powered water desalination machine, completing a prototype in 1942. It came to be one of her most notable inventions because it helped soldiers get clean water in difficult situations and also helped solve water problems in the US Virgin Islands. However, its initial deployment was delayed until the end of the war because Hoyt C. Hottel repeatedly re-negotiated the manufacturing contracts for the machine.
** expertise=専門知識、desalination=脱塩、海水淡水化

Heat storage
Telkes identified thermal energy storage as the most "critical problem" facing designers of a workable solar-heated house. One of her specialties was phase-change materials that absorb or release heat when they change from solid to liquid. She hoped to use phase-change materials like molten salts for storing thermal energy in active heating systems. One of her materials of choice was Glauber's salt (sodium sulfate).
**molten salt=溶融塩
Hottel, as chairman of the solar energy fund at MIT, originally supported Telkes's approach. He wrote that "Dr. Telkes' contribution may make a big difference in the outcome of our project". However, he was both less interested in and more skeptical about solar power, compared to Telkes. Telkes, like the project's funder Godfrey Lowell Cabot, was a "fervent believer in solar energy". There were personality clashes between Hottel and Telkes.

In 1946, the group tried to use Glauber's salt in the design of their second solar house. Hottel and others blamed Telkes for problems with the material. In spite of support from university president Karl Compton, Telkes was reassigned to the metallurgy department, where she continued her work on thermocouples. Although she was no longer involved in the MIT solar fund, Cabot would have liked her to return. He encouraged her to continue working on the problem independently.
** metallurgy department=冶金科

Dover Sun House
In 1948, Telkes started working on the Dover Sun House; she teamed up with architect Eleanor Raymond, with the project financed by philanthropist and sculptor Amelia Peabody. The system was designed so that Glauber's salt would melt in the sun, trap the heat and then release it as it cooled and hardened. ** philanthropist=慈善家
The system worked with the sunlight passing through glass windows, which would heat the air inside the glass. This heated air then passed through a metal sheet into another air space. From there, fans moved the air to a storage compartment filled with the salt (sodium sulfate). These compartments were in between the walls, heating the house as the salt cooled.

For the first two years the house was successful, receiving tremendous publicity and drawing crowds of visitors. Popular Science hailed it as perhaps more important, scientifically, than the atom bomb. By the third winter, there were problems with the Glauber's salt: it had stratified into layers of liquid and solid, and its containers were corroded and leaking. The owners removed the solar heating system from their house, replacing it with an oil furnace.

In 1953 George Russell Harrison, dean of science at MIT, called for a review of the solar fund at MIT, due to concerns about its lack of productivity. The resulting report tended to promote Hottel's views and disparaged both Cabot and Telkes. Telkes was fired by MIT in 1953 after the report came out.
**disparage=軽蔑する

Solar-powered oven
As of 1953, Telkes was working at the New York University College of Engineering where she continued to conduct solar energy research. Telkes received a grant from the Ford Foundation of $45,000 to develop a solar-powered oven so people who lack the technology around the world would be able to heat things. The two main criteria for this project were: the oven temperature must get as high as 350°F (175°C), and it must be easy to use.

Telkes spent several years in industry. Initially, she was the director of solar energy at the Curtiss-Wright Company. Next, she worked on materials for use in extreme conditions, such as space, at Cryo-Therm (1961–1963). This work included helping to develop materials for use in the Apollo mission and Polaris missiles. Then, she worked as director of solar energy at Melpar, Inc. (1963–1969).
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リチャード・ローティ

リチャード・ローティ リチャード・マッケイ・ローティ(Richard McKay Rorty、1931年10月4日~ 2007年6月8日)は、アメリカ合衆国の哲学者であり、ネオプラグマティズム(Neopragmatism)の代表的思想家。NHKの「百分で名著」でも取り上げられた。「哲学の終焉」を論じため、多くの哲学研究者からの批判を浴びるが、逆に一般の人達、特に若者を中心に人気を博しているようだ。
*ネオプラグマティズムとは新しいプラグマティズム。では古典的なプラグマティズムとは一体何なんでしょうか?

彼はシカゴ大学で学士号、修士号を得たのち、イェール大学で1956年に博士号。プリンストン大学の哲学教授、バージニア大学教授、スタンフォード大学教授となり、哲学と比較文学を教えた。プラグマティズムの立場から近代哲学の再検討を通じて「哲学の終焉」を論じた他、哲学のみならず、政治学、経済学、社会学、アメリカ文化などの論壇で活躍した。現代アメリカを代表する哲学者とされる。
プラグマティズムの代表者ジョン・デューイの他、トーマス・クーン、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインらの影響を受ける。

哲学者としてのローティの思想はその独特な哲学史の見解で知られている。ローティの著作『哲学と自然の鏡』では近代哲学に一貫して見られる伝統に注目している。それはルネ・デカルトに始まりイマヌエル・カントによって体系化された哲学における認識論の伝統であり、真理に到達するために依拠できる確実な知的基礎を確立するための試みであった。そしてマルティン・ハイデッガーやルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、ジョン・デューイ、ミシェル・フーコー、W.V.O.クワインなどの現代の哲学者による攻撃は、この認識論的な哲学の伝統に対する批判であったと考える。そしてローティは、近代哲学の認識論的な伝統を批判することは必ずしもそれを克服することではないことを問題視し、そのような伝統に基づいた哲学については「哲学の終焉」を主張する。そして新たな哲学の指針として知識や文化を基礎付けるような認識論の伝統を使わない哲学的解釈学の可能性を示唆している。これは哲学の歴史の中で中心的な主題であった真理という問題を研究することは有益ではないことを認め、ポスト哲学的文化としてあらゆる種類の言説を相対化する文化へと移行することを意味している。このようなローティの考え方は現代のプラグマティズムの哲学に根ざしたものであり、ポスト哲学的文化が到来したとしても、哲学そのものが消滅することはない。
****
「哲学は死んだ。」と言うのは明かにレトリックで、哲学者はその基本を根本から見直しなさいと言うのが彼の主張の本意でしょう。
哲学とは、万物の科学である。古代ギリシャでは、幾何学や数学は哲学そのもの。カントも天文学に興味を持っており、そちらの方面でも大学者であった。デカルトもパスカルもその思想の根底にはニュートン力学の真理がある。つまり、正しい前提を基に演繹的に推理を積重ねて行けば、必ず正しい結論が得られる。幾何学はそのお手本であった。ところが自然科学の方は、絶対に正しいと思われた大前提を次々と次々と疑いの目を向け覆すことで、大きな発展を遂げて来た。相対性理論、宇宙の歴史、カオス理論等々。
哲学においても、絶対的な真理を探究することはもうやめましょう。だったら、どうすれば良いのか。少なくとも自然科学や数学の理論を大いに取り入れる必要はあるでしょう。神の世界に逃避することは許されない。

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竹村健一

竹村健一 竹村 健一(1930年〈昭和5年〉4月7日~2019年〈令和元年〉7月8日):
ジャーナリスト、政治評論家。大阪府生まれ。中学校の1年生の時に、父の実家のある兵庫県朝来郡和田山町(現:朝来市)に引っ越す。旧制兵庫県立生野中学校に転校。卒業後、旧制姫路高等学校文科甲類(現:神戸大学文学部)に入学するが、学制改革により翌年新制京都大学に編入。アメリカ・フルブライト財団主催のフルブライト奨学金制度の第1号として、アメリカ合衆国のシラキュース大学、イェール大学、ソルボンヌ大学(旧:パリ大学)で学ぶ。シラキュース大学大学院新聞科修了。

1955年から英文毎日の記者を経て、1963年に新日鐵グループの山陽特殊製鋼へ入社し調査部長となる。しかし、1年後に山陽特殊製鋼を退社し、以後は追手門学院大学英文科助教授、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動を始める。並行してテレビ・ラジオにも出演。

1980年(昭和55年)頃、講演やテレビ番組などで「仕事ができない奴=資料を持ち過ぎの奴」との持論を展開し、自身は1冊の手帳に情報を集約して使っていることを紹介した。自らの監修によりオリジナルの手帳「これだけ手帳」を発刊し、その後30年にわたって発行され続けたが、2012年度版をもって発行を終了した。 1982年(昭和57年)9月、同年夏に出した『もっと売れる商品を創りなさい』が月刊誌『アクロス』同年2月号の記事から盗用していることが発覚。記者会見で盗用の事実を認めて謝罪し、回収することになった。全文コピーが7ヶ所で87行、文意盗用が10ヶ所で67行というもの。

1985年(昭和60年)より、ニューヨークマンハッタンのモット・ストリートとプリンス・ストリートの交差点付近にあるビルの壁面に、竹村の肖像壁画が描かれている。アデランスのCM撮影用に描かれたものである。

先述の「これだけ手帳」発売終了以後、メディア出演や著書発表などの活動を行うことはなかった。2019年(令和元年)7月8日(月曜日)午後7時38分、多臓器不全のため、89歳で死去。

論調は基本的に保守的・親米的で、ハイテク、情報産業を重視する傾向が強い。リゾートとリサーチの「二つのR」が日本の未来を決する、と繰り返し強調。原子力発電の旗振り役もしている。友人・知人にも保守派の論客が多く、日本共産党や公明党とは主張が異なるものの、政党傾向や人物に偏らず、良いと思えるところは率直に評価すると自認する。竹村は著述業を通じて精力的にマーシャル・マクルーハンの思想を紹介した。

執筆スタイルは、口述筆記で喋ったことをテープに録音してそれを原稿起こししたり、新聞の切り抜き記事を編集者にリライトさせると言われており、1981年には36冊を出版するという量産ぶりで、1冊あたり最低3万部を売っていた。
広い見識を持ち、テレビなどでも度々『英国エコノミスト』、『フィナンシャル・タイムズ』など、日本の新聞では紹介されにくい紙面からの情報も幅広く紹介する。自身のブログでは、日本のマスメディアに出てこない重要なニュースや記事を定期的に発表していた。

趣味はテニス、麻雀、スキー、スキューバダイビングなど。スキーは57歳、スキューバは58歳で始めるという好奇心の強さと行動力を見せた。スキーは、ニュージーランドでたまたま居合わせた三浦雄一郎と意気投合して、そのままスキー場に直行したという逸話も残る。また、実業家として太陽企画出版・善光寺温泉ホテル(現在は廃業)を経営。2006年からは『AICJ中学校・高等学校』を運営する学校法人AICJ鴎州学園の理事長も務め、その母体である鴎州コーポレーションの取締役相談役も務めている。

パイプを銜えた独特な風貌、「大体やね」「ブッシュさんはね」(日本国外の政治家を敬称入りで呼ぶ事例は日本人では稀)など、独特の口調や語の強調による特徴的かつ辛辣なトークによる評論を行う。この言葉が生まれたきっかけはTBSラジオ『ミッドナイトプレスクラブ』で外国人特派員らと議論を交わした時に出てきたとしている。このため物真似芸として、タモリが芸能活動初期の持ちネタとしており、「だいたいやねぇ」という口癖を使用した。本人がバラエティ番組に出演することもあった。
日本全国均一の航空運賃の発案者である。

ベストセラーとなった著書『マクルーハンの世界』で竹村は、テレビはラジオと異なり大衆を扇動しない「クールなメディア」だと説明したが、この点がマーシャル・マクルーハンの思想と全く異なるとして批判された。同書はマクルーハンの紹介ではなく「一種の創作みたいなもの」だったと竹村は弁明。

大体やね、昭和を代表するとも言えるジャーナリストだね。テレビはラジオと異なり大衆を扇動しない「クールなメディア」との評は、今では真逆の現象が生じている。ただ、登場したばかりのテレビの放送にはそのような側面も多少はあったかもしれない。テレビメディアの重要性はベトナム戦争の際には大いに発揮された。とてもクールなメディアではなく極めて熱く大衆を大いに扇動できるものであることが証明済みだ。そもそも彼自身テレビへの出演に拘り続けたのはそれを知っていたからでしょう。

彼の各記事はどれも「一種の創作みたいなもの」ともいえる。だから、読んでいて大変面白く、それなりに新しい視点を提供してくれる。当時の時代を常に先取りしようという好奇心は学ぶべきものも多いかもしれない。昭和の歴史を学び直すためにはもう一度読み直してみる価値はありそうだ。


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坂村 健(さかむら けん、1951年7月25日~ )

坂村 健 坂村 健(さかむら けん、1951年7月25日~ ): コンピュータ科学者、コンピュータ・アーキテクト。工学博士(慶應義塾大学、1979年)、東京大学名誉教授、INIAD(東洋大学情報連携学部)学部長。専攻での研究内容はダイナミックアーキテクチャだが、自ら提唱したTRONプロジェクトにてリーダー、またアーキテクトとして多種多様な仕様を策定した。東京都出身。

TRONとはコンピュータのOSであり、マイクロソフト社のWindowsを凌ぐ性能もあるとか。日本も国策プロジェクトとして推進する計画があったが、米国の横槍で頓挫した。何故なら坂村氏は開発したものを無料で公開して誰でもが使えるようにしたからだとか。パソコン分野では今では完全にWindowsであるが、他の工業分野ではTRONは不可欠のツールとして比率で言えばNo.1の地位を確保しているのだ現状らしい。今でも目が離せない技術と言うことだ。

************************************* TRONは“100年OS”を目指す――坂村健東大教授

TRONプロジェクトの坂村東大教授は、TRONSHOWに先立つ講演で「100年使えるソフトウェアを目指そう」と、T-Engineアーキテクチャの採用を訴えた。

 TRONSHOW開幕に先立つ11日の講演で、TRONプロジェクトの坂村健東京大学教授はTRONプロジェクトの成果と今後の活動について語った。
 同氏は、全世界のコンピュータの94%が機器組込であり、TRON OSはその約半分を占めるシェアNo.1 OSであることを紹介したうえで、ユビキタスコンピューティングの全世界的な関心の高まりとともに、TRONはさらに注目を集めていると述べた。
 その理由として、TRONは現在主流になっているパソコンOSなどと異なり1984年以来の長い歴史があり、GPLの“ない”完全なオープンアーキテクチャであること、世界で初めて“Computing Everywhere”(どこでもコンピュータ)を提唱したことを挙げた。つまり、Windowsよりずっと歴史があり、Linuxのような公開義務も課さない、ユビキタスなどとっくの昔に考えていた――というわけだ。

 その坂村氏が2002年の成果として強調していたのが、T-Engineアーキテクチャの急激な普及だ。このT-Engineアーキテクチャは、ハードウェアを標準化することでミドルウェアの互換性を確保し、その流通を目指したものだ(関連記事を参照)。
 坂村氏は「組込機器のように利益率の低いビジネスで、今までのようにソフトウェアを使い捨てにしていては、どこの企業も体力が持たない。T-Engineアーキテクチャに沿ったソフトウェアであれば、異なるCPUでもリコンパイルするだけで再利用でき、新製品を短期間に開発できる。100年使えるソフトウェアを目指そう」と、T-Engineの優位性とその普及を訴えた。

「われわれは最先端。米国から学ぶものは何もない」
 この日の講演で目玉として用意されていたのは、来春メドという「ユビキタスIDセンター」を設立だ。

 同氏は、ユビキタスコンピューティングを実現するには、あらゆる「モノ」にIDコードを付与し、それを自動的に認識するシステムの構築が必要だとし、そのコード体系として「ユビキタスID」を提唱している。ユビキタスIDは128ビット長で、世の中に流通する物はもちろん、ソフトウェアやサービスなどの無形物にもすべてIDを付与することができる。

 この技術を応用すれば、インターネット対応冷蔵庫に商品を入れるだけで、冷蔵庫が商品タグに埋め込まれたユビキタスIDを読み取り、外出先から携帯電話を使って冷蔵庫の中にある商品の種類、生産者、賞味期限などの情報を検索することも可能になるわけだ。

 ユビキタスIDセンターは、「モノ」を認識するための基盤技術の確立と普及を目指し、各業界団体にユビキタスIDの付与を呼びかけるとともに、日本国内のユビキタスID管理センターとして機能するという。

 「輸入品が多く流通する時代に、日本国内の生産物にのみユビキタスIDを付与しても実効力があるのか」という皮肉な問いも記者たちからは出たが、坂村氏は「国際標準化するまで待てない。ユビキタスIDの技術は世界最先端のものであり、理論的にはすでに完成している。日本が世界に先駆けて普及させ、もし世界各国がその技術を必要とすれば、われわれは喜んで提供する。そして、それぞれの国が実情にあわせてユビキタスIDを付与すればよい。これが、今の日本にできる最大の国際貢献だ」と反論。

 また、「同様の研究を行っているMIT(マサチューセッツ工科大学)との技術協力はあり得るか」という問いに対しては、「MITがやっていることは、単にバーコードを置き換えようというだけのものだ。データ長も96ビットと小さい。われわれの技術はその数段上を行くもので、彼らから学ぶものは何もない。もちろん、彼らのほうから技術協力を求められたら歓迎するが、われわれのほうから何かを頼みに行く理由は何もない」といつもどおり強気一辺倒だった。

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三淵 嘉子

三淵 嘉子 三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13日~ 1984年〈昭和59年〉5月28日):
日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長。今、NHKの朝ドラ「虎に翼」のヒロインの実在モデルだそうだ。

台湾銀行勤務の武藤貞雄とノブの長女として、シンガポールにて生まれる。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子(よしこ)」と名付けられた。
東京府青山師範学校附属小学校を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。1935年、明治大学法学部に入学。1938年に高等試験司法科試験に合格し、明治大学を卒業。1940年に第二東京弁護士会に弁護士登録をしたことで明治大学同窓の中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士となる。1941年に武藤家の書生をしていた和田芳夫と結婚するも、和田が召集先の中国で発病、1946年に帰国後長崎の陸軍病院で戦病死する。1945年に長男や戦死した弟の妻子とともに福島県坂下町へ疎開ののち、両親の住む川崎市に移り住む。
1947年、裁判官採用願いを司法省に提出。司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付、家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任。1949年6月4日に初の女性判事補となった石渡満子に次いで、同月28日に東京地裁判事補となる。1952年、名古屋地方裁判所で初の女性判事となる。1956年、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と再婚。三淵姓となる。
1956年、東京地裁判事となる。広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当(裁判長古関敏正、三淵、高桑昭)。1963年12月7日、判決は請求棄却とするも日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言した。

1963年より1972年まで東京家庭裁判所判事。少年部で計5000人超の少年少女の審判を担当した。 1972年、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となる。1973年11月に浦和地裁の所長となり、1978年1月からは横浜地裁の所長を務め、1979年に退官。1980年に再び弁護士となり、その後は日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務めた。1984年5月28日午後8時15分、骨肉腫のため69歳で死去した。

三淵 嘉子 2024年度前期放送のNHK連続テレビ小説『虎に翼』で伊藤沙莉が演じる主人公、「猪爪寅子」のモデルである。番組は未だ始まったばかりであるが、寅子の相談相手を自認していた司法学生にたまたま遭遇し、「女は無能力者だから司法への道を諦めて早く結婚しろ」との説に、たまたまやって来た母がそれを聞いて怒り出す場面がある。それ以降、娘の道を応援するように。初めは進学に大反対だったのですが。
この学生さん自説では無く当時の法の一般論のつもりで主張していたので何故怒られたかもトンと検討がつかない。「女は無能力者」との説は世間の常識とは著しくかけ離れたものであることに気がつかなかった。司法界の世界では常識と考えていたようだ。でも、進学を積極的に進めたのも法曹界の重鎮だ。
多分、上の事件(小説なのであったかどうかは別として)は昭和の初めで、まだ臨戦国家に変わるまで、原敬暗殺事件(1921年)以降もしばらく続く大正デモクラシーによる民主的思想も高揚していた時期だ。西洋の啓蒙思想も消化済みで自らの頭で独自の論理を組立てなければならない時期。概ね日本の民法は欧米のコピーではあるが、見直しも必要な時期でもある。
男尊女卑の考えは、多くの日本人は儒教道徳による封建的な思想と見なされがちである。でも、実際には欧米の考えのコピーであることに気がつかねばならない。「女は無能力者」との考えは、明かに植民地支配国であった欧米の思想だ。
日本の専業主婦なら家の財産管理は全面的に任されているケースがほとんどだった。これを一々旦那の了解が必要では、準禁治産者という言う例司法学生の説も一理ある。実際に欧米の金持ちと結婚した貧乏な妻は一生奴隷的な地位に隷属せざるを得ない。オランダに支配されたインドネシアでは結婚した女性は裁判に訴える権利すら与えられなかった。男尊女卑は欧米では今でも根強く残っている。だから、目に見えるところの差別に注目が行くようだ。(2024.4.9)

人物列伝
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我妻 栄

我妻 栄 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年(明治30年)4月1日 - 1973年(昭和48年)10月21日)は、山形県米沢市出身の日本の民法学者。法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。
英語教師の父・又次郎と自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励む。
小学校、県立米沢中学ともに常に首席、一高は入学・卒業とも一番。東京帝国大学法学部独法科に入学、在学中に高等文官試験に合格。指導教官の鳩山秀夫に望まれ大学に残り、30歳のとき同大教授、1945年に法学部長となり、のちに名誉教授。末弘厳太郎、穂積重遠、牧野英一ら名だたる学者からも指導を受けた。

戦後は、日本国憲法制定のため最後の貴族院議員に勅選され、農地改革立法に参与して中央農地委員となる。ほかに、日本学術会議の副会長、日本学士院会員にも就任。さらに、法務省特別顧問として民事関係の立法に尽力し、恩師の鳩山、末広、穂積が果たし得なかった民法の総合的研究の完成にあたり、「我妻民法」といわれる独自の民法体系を作り上げた。1964年の文化勲章受賞を機にその年金を母校愛から米沢興譲館高校に寄託し、財団法人自頼奨学財団を設立。後輩の育英にあてた。

60年安保当時、『朝日新聞』に「岸信介君に与える」と題した手記を寄稿。岸首相の国会運営を批判し、即時退陣を訴えたほか、1971年には宮本康昭裁判官の再任拒否問題に関し「裁判官の思想統制という疑念は避けがたい」という文化人グループに加わり、最高裁に反省を求めるなど、反骨の人としても広く知られた。 1973年10月21日、急性胆嚢炎のため、熱海市の国立熱海病院で死去。76歳没。

妻の緑は、鈴木米次郎(作曲家、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)創立者)の四女。長男の我妻洋は心理学者で、東京工業大学教授等を歴任。二男の我妻堯は産婦人科医で、東京大学医学部助教授を経て国立病院医療センター(現:国立国際医療研究センター)国際医療協力部初代部長等を歴任した。 民事訴訟法学者で東京都立大学教授の我妻学は実孫。

学説
我妻は、師である鳩山の研究に依拠したドイツ法由来の解釈論を発展させて、矛盾なき統一的解釈と理論体系の構築を目指すとともに、資本主義の高度化によって個人主義に基礎を置く民法の原則は取引安全、生存権の保障といった団体主義に基づく新たな理想によって修正を余儀なくされているので、条文の単なる論理的解釈では社会生活の変遷に順応することはできないとした上で、「生きた法」である判例研究の結果に依拠した法解釈を展開した。このような我妻理論・体系は、鳩山、末弘、穂積の学説を総合したものといえ、理論的に精緻であるだけでなく、結論が常識的で受け入れやすいとの特徴があったことから学界や実務に大きな影響を与え続け長らく通説とされた。

我妻の生涯の研究テーマは「資本主義の発達に伴う私法の変遷」であり、その全体の構想は、所有権論、債権論、企業論の3つからなっている。
後掲「近代法における債権の優越的地位」は1925年から1932年に発表された論文を収録したもので、債権論と所有権論がテーマとなっているが、その内容は以下のとおりである。前近代的社会においては、物資を直接支配できる所有権こそ財産権の主役であったが、産業資本主義社会になると、物資は契約によって集積され資本として利用されるようになり、その発達に従い所有権は物資の個性を捨てて自由なものとなり、契約・債権によってその運命が決定される従属的地位しか有しないものとして財産権の主役の座を追われる。これが我妻の説く「債権の優越的地位」であるが、その地位が確立されることにより今度は債権自体が人的要素を捨てて金銭債権として合理化され金融業の発達を促す金融資本主義に至る。我妻は、このような資本主義発展の歴史をドイツにおける私法上の諸制度を引き合いに出して説明し、このような資本主義の発達が今後の日本にも妥当すると予測した。後掲「近代法における債権の優越的地位」は1925年から1932年に発表された論文を収録したもので、債権論と所有権論がテーマとなっているが、その内容は以下のとおりである。前近代的社会においては、物資を直接支配できる所有権こそ財産権の主役であったが、産業資本主義社会になると、物資は契約によって集積され資本として利用されるようになり、その発達に従い所有権は物資の個性を捨てて自由なものとなり、契約・債権によってその運命が決定される従属的地位しか有しないものとして財産権の主役の座を追われる。これが我妻の説く「債権の優越的地位」であるが、その地位が確立されることにより今度は債権自体が人的要素を捨てて金銭債権として合理化され金融業の発達を促す金融資本主義に至る。我妻は、このような資本主義発展の歴史をドイツにおける私法上の諸制度を引き合いに出して説明し、このような資本主義の発達が今後の日本にも妥当すると予測した。

我妻 栄 我妻は、金融資本主義の更なる発達によって合理化が進むと、企業は、人的要素を捨てて自然人に代わる独立の法律関係の主体たる地位を確立し、ついには私的な性格さえ捨てて企業と国家との種々の結合、国際資本と民族資本との絶え間なき摩擦等の問題を産むと予測し、企業論において、会社制度の発展に関する研究によって経済的民主主義の法律的特色を明らかにするはずであったが、その一部を含む後掲『経済再建と統制立法』を上梓したのみで全体像は未完のままとなっている。上掲のとおり我妻の予測は現代社会にそのまま当てはまるものも多く、「近代法における債権の優越的地位」は日本の民法史上不朽の名論文とされている。

我妻は、金融資本主義の更なる発達によって合理化が進むと、企業は、人的要素を捨てて自然人に代わる独立の法律関係の主体たる地位を確立し、ついには私的な性格さえ捨てて企業と国家との種々の結合、国際資本と民族資本との絶え間なき摩擦等の問題を産むと予測し、企業論において、会社制度の発展に関する研究によって経済的民主主義の法律的特色を明らかにするはずであったが、その一部を含む後掲『経済再建と統制立法』を上梓したのみで全体像は未完のままとなっている。上掲のとおり我妻の予測は現代社会にそのまま当てはまるものも多く、「近代法における債権の優越的地位」は日本の民法史上不朽の名論文とされている。

後掲「近代法における債権の優越的地位」は1925年から1932年に発表された論文を収録したもので、債権論と所有権論がテーマとなっているが、その内容は以下のとおりである。前近代的社会においては、物資を直接支配できる所有権こそ財産権の主役であったが、産業資本主義社会になると、物資は契約によって集積され資本として利用されるようになり、その発達に従い所有権は物資の個性を捨てて自由なものとなり、契約・債権によってその運命が決定される従属的地位しか有しないものとして財産権の主役の座を追われる。これが我妻の説く「債権の優越的地位」であるが、その地位が確立されることにより今度は債権自体が人的要素を捨てて金銭債権として合理化され金融業の発達を促す金融資本主義に至る。我妻は、このような資本主義発展の歴史をドイツにおける私法上の諸制度を引き合いに出して説明し、このような資本主義の発達が今後の日本にも妥当すると予測した。

我妻は、金融資本主義の更なる発達によって合理化が進むと、企業は、人的要素を捨てて自然人に代わる独立の法律関係の主体たる地位を確立し、ついには私的な性格さえ捨てて企業と国家との種々の結合、国際資本と民族資本との絶え間なき摩擦等の問題を産むと予測し、企業論において、会社制度の発展に関する研究によって経済的民主主義の法律的特色を明らかにするはずであったが、その一部を含む後掲『経済再建と統制立法』を上梓したのみで全体像は未完のままとなっている。上掲のとおり我妻の予測は現代社会にそのまま当てはまるものも多く、「近代法における債権の優越的地位」は日本の民法史上不朽の名論文とされている。

山口良忠(やまぐち よしただ)

日本のソクラテス!!
山口良忠 山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年~ 1947年)。
裁判官。佐賀県杵島郡白石町出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死したことで知られる。この事件自体は有名で真相は別にして多くの日本人は知っている。NHK朝ドラ「虎に翼の花岡判事の実在モデルです」。

1913年(大正2年)、佐賀県杵島郡福治村(現在の白石町)に、小学校教師の長男として生まれる。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学法学部を卒業。判事となる。1942年(昭和17年)に東京民事地方裁判所に転任後、1946年(昭和21年)10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。この部署では、主に闇米等を所持していて食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。

食糧管理法違反で起訴された被告人を担当し始め、配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのにそれを取り締まる自分が闇米を食べていてはいけないのではないかという思いにより、1946年(昭和21年)10月初め頃から闇米を拒否するようになる。実際に闇米も手に入らない多くの貧しい者達が沢山餓死していたことは、GHQの報道管制で隠蔽されていた事実である。

山口は配給のほとんどを2人の子供に与え、自分は妻と共にほとんど汁だけの粥などをすすって生活した。義理の父親神垣秀六・親戚・友人などがその状況を見かねて食糧を送ったり、食事に招待するなどしたものの、山口はそれらも拒否した。自ら畑を耕してイモを栽培したりと栄養状況を改善する努力もしていたが、次第に栄養失調に伴う疾病が身体に現れてきた。しかし、自分が職を離れたら「担当の被告人100人をいつまでも未決のままにしてはならない」と療養も拒否した。そして、1947年(昭和22年)8月27日に地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決を書いたあと、やっと故郷の白石町で療養することとなる。東京の職場を離れた山口は、まるで肩の重荷が取れたように配給以外の食べ物もよく食べるようになったが、すでに手遅れだった。同年10月11日、栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核)のため33歳で死去した。

死後20日ほど経った11月4日に、山口の死が朝日新聞で報道され、話題を集めた。なおその自らに厳しい態度から、食糧管理法違反で逮捕された人々に対しても過酷であったのではないかと考える者もいたが、むしろ同情的であり、情状酌量した判決を下すことが多かったといわれる。

この事件から、闇米を食べなければ生きていくことそれ自体が不可能であり、食糧管理法それ自体が守ることが不可能な法律であったという意見もあり、食糧管理法違反事件ではしばしば期待可能性・緊急避難の法理の適用が主張されたが、裁判所によってことごとく退けられていた。
食糧管理法を遵守して餓死した者として、山口の他には東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎、青森地裁判事保科徳太郎の名が伝えられている。

背景
敗戦によって、満州・朝鮮・台湾の領土を喪失し、それにより穀物の供給源を失い、また外地からの引揚者によって、本土の人口が激増、日本の食糧事情は極めて劣悪なものとなっていた。
それでも、例えば「食えないための一家心中」といったような記事は、社会不安を煽り、占領政策がうまく行っていないことを印象づけるおそれのあるものとしてGHQの検閲基準により報道できないものとされていたこともあって、餓死について報道がなされることはほとんどなかった。
ところが、1945年(昭和20年)10月、幣原内閣の大蔵大臣であった渋沢敬三は、米国UP通信記者に対して、1946年(昭和21年)度内に餓死・病死により一千万人の日本人が死ぬ見込みであると語り、国際的ニュースとなった。これに対し、同年12月21日、GHQ衛生局長クロフォード・サムスは、「日本がいまや飢餓線上にあるとか、病院は飢餓患者で満員だとか、上野駅だけでも毎晩数十人の餓死者を出しているというのは、巧妙な流言戦術である。それはアメリカ合衆国から食糧をもっと送らせようとして、故意に事実をねじ曲げていることなのだ」と批判した。
結局日本国政府は、成人一人1日当りの栄養摂取量を1050キロカロリーという、生命維持に必要な最低ぎりぎりの限界(現在の平均摂取量の半分以下)まで絞って食糧援助を要請、このままでは追加のアメリカ軍派遣が必要になると踏んだアメリカ合衆国連邦政府の判断により、ララ物資の輸入が許可された。
また、農家における食料供給の意欲の減退も、食糧危機の要因であったことから、農林大臣副島千八の決断により、全農家に対して強権的に米を供出させる『緊急勅令第八六号』を発動するなどしている。
*ソ連邦でも都市プロレタリアートの食料確保が課題となり、ウクライナ穀倉地帯からの食料の強奪が行われた。

一方で、上記のようなGHQ側からの批判に応えるため、1946年(昭和21年)7月15日には勅令第311号「連合国占領軍の占領目的に有害なる行為に対する処罰等に関する件」を公布・施行。食糧統制に違反する行為は、単なる経済犯ではなく、占領軍に対する敵対行為の中に含まれるという公権的な解釈が確立、ほとんど必罰主義による解釈適用がなされるようになる。
加えて、当時は裁判官の地位が信じられないほど低く、ヤミ物資を買うにも十分な給与があるとは言い難い状態であった。(例えば、山口のような若手判事の給料は、月給30円程度であったという。昭和25年頃、玉子は1パック100円であった。) そのため、複数の裁判官が栄養失調に苦しんでいたといわれており、実際に、過労や結核に栄養不足が加わって死ぬ者も少なくなかった。 さらに、裁判官の給料だけでは、到底、家族全員が食べていける状態ではなかったため、弁護士に転職する者が非常に多くなっていったことが、個々の裁判官の負担をますます重いものとしていた。

山口の死を伝えた朝日新聞の第一報(西部本社版)は、社会面トップに「食糧統制に死の抗議 われ判事の職にあり ヤミ買い出來ず 日記に殘す悲壯な決意」との四段ぬきの大見出しで報道され、死の床につづられた日記の一節であるとして以下の文章が掲載された。

食糧統制法は惡法だ、しかし法律としてある以上、國民は絶対にこれに服從せなければならない、自分はどれほど苦くともヤミの買出なんかは絶対にやらない、從つてこれを犯す奴は断固として処断する。

自分は平常ソクラテスが惡法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している、今日法治國の國民には特にこの精神が必要だ、自分はソクラテスならねど食糧統制法の下喜んで餓死するつもりだ、敢然ヤミと闘つて餓死するのだ。被告の大部分は前科者ばかりだ自分等の心に一まつの曇がありどうして思い切つた正しい裁判が出来やうか、弁護士連から今日の判検事諸公にしてもほとんどが皆ヤミの生活をされているではないかとしばしばつき込まれたではないか、自分はそれを聞かされた時には心の中で実際泣いたのだ、公平なるべき司直の血潮にも濁りが入つたなと。

願わくは天下にヤミを撲滅するためによろこんでギセイとなることを辞せない同志の判官諸公があつて速かに九千万國民を餓死線上から救い出したいものだ家内も当初は察してくれなかつた、それもそのはずだ、六つと三つのがん是もない子をもつ母親として「腹がへつた、何かくれないか」と要求される度に全く断腸の思いをし、夫が判官の精神を打忘れること、世のたとえに言ふ「親の心は盲目だ」でついアメ一本でもと思つたのも実に無理もなかつたであらう。

食糧統制法は悪法だ、しかし法律としてある以上、國民は絶対にこれに服從せねばならない自分はどれほど苦しくともヤミ買出しなんかは絶対にやらない、從つてこれをおかすものは断固として処断せねばならない、自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している、今日法治國の國民にはとくにこの精神が必要だ、自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ。敢然ヤミと闘つて餓死するのだ自分の日々の生活は全く死の行進であつた、判検事の中にもひそかにヤミ買して何知らぬ顔で役所に出ているのに、自分だけは今かくして清い死の行進を続けていることを思うと全く病苦を忘れていゝ気持だ。

人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない。闇にかかわっている曇りが少しでも自分にあったならば、自信がもてないだろう。これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりは良い。

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石田 和外

石田 和外 石田 和外(いしだ かずと、1903年5月20日~1979年5月9日): 第5代最高裁判所長官。福井県福井市生まれ。父は福井県庁職員。祖父の石田磊(らい)は福井商工会議所初代会頭、第九十二国立銀行頭取、福井市議会議長であった。
*何故彼のことが気になったか? もちろん朝ドラ「虎に翼」に登場する主要人物だからだ。
福井中学校在学中、父が46歳で他界し、一家で上京。錦城中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業する。卒業後は司法省に入省。最高裁判所長官を務め、退官後の1978年、元号法制化実現国民会議(のちの日本を守る国民会議。日本会議の前身の一つ)を結成、議長となる。1979年、死去。
*「虎に翼」では彼は司法界の仲間内からは期待の星として最高裁判所長官に就任したようだが。

刑事裁判官の道に進む。
1934年4月、帝人事件の第一審裁判を担当。左陪席裁判官として判決を起案し、事件が事実無根であることを強調するため、「水中に月影を掬(きく)するが如し」という名文句を使って全員に無罪を言い渡し、「司法界に石田あり」と一躍注目される。
1943年に1941年に発生した平沼騏一郎襲撃事件の裁判で裁判長を担当し、時の首相東条英機の宿敵である中野正剛衆議院議員を証人に呼んだ際、軍の意向を受けた検察官が裁判の公開中止を申し立てたが、石田は拒否して裁判公開の原則を貫いた。
1947年、司法省人事課長に就任。当時の司法大臣が、のち、当人を最高裁長官とするよう佐藤栄作に推薦したとされる木村篤太郎であった。その後、司法省の廃止に伴って1948年、最高裁判所事務局(現・最高裁判所事務総局)へ異動し、人事課長・人事局長・事務次長を歴任。その後は東京地方裁判所長、最高裁判所事務総長、東京高等裁判所長官を歴任。なお、司法省の職員のうち、裁判官として戦争犯罪(主として思想抑圧関与、政治犯を作り出した罪)に問われた・公職追放となった者は一人もおらず、旧支配層の勢力は温存された。戦前は判事懲戒法に基づき、検察官が裁判官の人事等に関与することができたという事情もあると思われる。

1963年6月6日、最高裁判所判事に就任。
1969年1月11日、木村の推薦によって佐藤内閣から最高裁判所長官に指名される。就任時に「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」と述べた。この言葉は石田が東京地裁右陪席裁判官だった30年前の1939年に日本が右傾化したころ法律新聞に出した文言と同じ(後に、「それから30年、当時とは反対の流れになったが、私自身は変わっていないことを思い出した」と話している)。地裁拘置部が学生デモ事件で検察側の拘置請求却下が続出して、釈放された学生たちが再びデモに参加して暴れてまた逮捕され、この拘置請求も却下されて三度デモに参加して逮捕が繰り返されるという事態が起こった。自民党政権の閣僚から「こんなありさまでは治安維持ができない」と発言があり、自民党は司法問題調査会を設置するなどし、石田長官は事務総長に「調査会の設置は司法権の独立を侵すおそれがある」と談話を発表させたりした。こうした情勢下で、長沼ナイキ事件において「平賀書簡問題」や訴訟担当裁判所が所属していた青年法律家協会(青法協)への裁判官加入の是非論争、鹿児島地裁所長の管轄裁判官へのアンケート調査などが起こった。石田は関係者を注意処分したり、解任、転勤など次々に手を打った。また、一方で青法協裁判官については不再任(宮本康昭)や脱会勧告や配置転換や裁判官任官拒否を行い、思想選別はレッドパージから「青年」にちなみ「ブルーパージ」と呼ばれた(この裁判官の構成変更が、数の上では、後の大法廷における行政寄り判決続出の一因となっている)。東大から長官含みで最高裁裁判官に迎えられた田中二郎は定年を待たずに最高裁を去った。また司法行政では民事裁判官会合で初めて公害訴訟の在り方を検討し、これにより公害被害者救済の道を裁判所が開く導入部となった。

1970年5月、憲法記念日の会見で、「極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者は、その思想は憲法上は自由だが、裁判官として活動することには限界がありはしないか」 と談話を出した。
*司法の独立を否定するものが裁判官に就任することは明かに不適切と言うことだ。いかなる思想を持とうと自由だが、法がある以上誰が判決を出そうと同じものでなくては司法の独立性は守れない。

1971年4月、司法修習修了式で裁判官志望者の不採用を巡って修習生が研修所側の制止を聞かずに発言して罷免(同人は後に資格を回復)したことがきっかけで、1983年まで修了式は中止された。
1970年7月、大法廷裁判長として八幡製鉄事件の裁判を担当。営利法人の政治活動、その一環としての会社による政治献金を容認。以降の政治献金問題において必ず言及される判例となる。
1972年9月13日、裁判官会議の議により最高裁判所規則「地方裁判所における審理に判事補の参与を認める規則」制定し、同年11月から参与判事補制度を導入した。
1973年4月4日、大法廷裁判長として尊属殺重罰規定違憲判決を下す。同月25日、全農林警職法事件の裁判において、これまで限定解釈ゆえに合憲とされていた国家公務員の争議権制限について、限定解釈せずとも合憲である旨の判例変更を行い、後の全逓名古屋中郵事件や岩教組学テ事件にも影響を与えた。5月19日、最高裁判所長官を定年退官。 1976年6月22日、英霊にこたえる会結成、会長。
1978年、元号法制化実現国民会議(1981年に日本を守る国民会議に改称。97年、日本を守る会と統一し日本会議)を結成。
基本的に彼の法思想は、「司法権の独立」と言う一点に絞られそうだ。法は万民に公平でなければならない。権力の意向に迎合してはならないとともに世論(せろん;輿論ではなく)に同調してもならない。
*輿論と世論は全く異なる。「輿論に耳を傾け、世論に拘泥してはならない」は大正デモクラシーの生みの親、原敬の名言でもある。
司法権の独立は、実は中国秦の時代に支えた法家達の思想でもあり、ローマ法も多分そうであろう。多くの立憲主義の国家で、三権分立が唱えられる背景でも。
でも、翻って今の世界はどうか? 米国等は裁判所の判決は大統領の意向で180度も異なってしまう。韓国でも失脚した大統領は在職中行為を犯罪とされ極刑が言い渡されたり。彼の先輩にあたる山口 良忠さん、自らを日本のソクラテスと自認していた方だ。ソクラテスを自殺に追い込んだアテネの民主主義はその時死を迎えた。司法を司る裁判官は決して世論に迎合してはならない。テレビでは偏屈な堅物役ではあったが、己の信条を守り通した法曹界の大物だったようだ。

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宇田川潤四郎

宇田川潤四郎(1907~1970):
宇田川潤四郎 NHK朝ドラ「虎に翼」をより楽しむために~多岐川幸四郎のモデル宇田川潤四郎は京都家裁所長だった~
勿論、主人公の寅子さんは、日本初の弁護士、女性初の裁判長三淵嘉子さんです。
朝ドラ「虎に翼」で、型破りの強烈な個性で目を引くのは、俳優滝藤賢一さん演じる「多岐川幸四郎」裁判官。寅子の上司である。この多岐川のモデルは、宇田川潤四郎裁判官(1907~1970)。

新憲法の下で最高裁の初代家庭局長になり、日本になかった家庭裁判所を創設した。多岐川がドラマに初登場した時に滝での願掛けの場面があったが、宇田川さんが滝行をしていたのは実話らしい。
宇田川さんは、家庭裁判所の設立や子どもたちの支援、女性の地位向上に全力をかけ、「家庭裁判所の父」とも呼ばれている。女性の地位が低いままでは安心できる健全な家庭は成り立たない、子どもと家庭の問題は地続きと考えていた。

1969年の朝日新聞のインタビューでも「女性の人格は無視され、男性の暴力のもとに泣いている女性が多い」「国民のすべてが暴力支配を徹底的に排除し、『法の支配』の実現を強調することは大きな義務である」と答えた。
宇田川さんは、京都にもなじみが深い。京都少年審判所長をつとめ、宇治少年院の設立に尽力し(2008年閉鎖)、京都家庭裁判所の所長に就任したこともあった。

宇田川さんが亡くなって約55年の歳月が経過しようとしている現在においても、彼が求め描いた家庭裁判所の役割は微塵も変わっていない。高齢化に伴う成年後見事件の増加、今年5月に民法改正で成立した共同親権に関する紛争の増加が見込まれるなど、今後ますます家裁が関わる事件が増え続けることは明らかである。しかし、その家庭裁判所の裁判官・調査官・書記官などの人員体制は、国民のニーズにとうてい見合っていないのである。
改正民法は、2年以内には施行される。
それまでに、家裁の真の目的が達せられるよう、家裁の体制の充実を求める声をより広範囲にあげていかなければならない。
村松いづみ (2024年7月10日 12:58)

戦後しばらくは戦災孤児の扱いが問題だったようだ。少年院は彼等のサンクチュアリーとして、生活を支援し自立を促す施設でなければならなかったはずだ。でも実際は予算の不足の問題もあったかもしれないが、社会のゴミとしての隔離施設でもあったようだ。路上生活の孤児達は生活の必要上からどうしても犯罪に加担するリスクは大きいだろう。だから院内での虐待や人権侵害も問題に。多くは閉鎖されてしまっているようだ。野犬の収容施設のようなものになってしまっては本末転倒だ。

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児島惟謙

児島 惟謙(こじま これかた/ こじま いけん、天保8(1837)年~明治41(1908)年、日本の裁判官・政治家。

児島惟謙 後述する大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと国際的にも高く評価された。後に貴族院議員、衆議院議員。
*確かに三権分立は民主主義の大原則、国際法順守の民主国家(文明国)との高い評価を会受け、後の不平等条約改正の大きな原動力となる。

「児島惟謙」は脱藩を機に用い始めた仮の名で、児島はこれを終生用いた。 天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下で宇和島藩士の金子惟彬の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、父方の親戚が営む造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。
少年期、窪田清音から免許皆伝を認められた窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場へ入門、大阪財界の大立役者となる土居通夫と剣術修業に励む。 1865年長崎に赴いて坂本龍馬、五代友厚らと親交を結んだ。(1867(慶応3)年)に脱藩して京都に潜伏し、勤王派として活動。戊辰戦争にも参戦。1868年に出仕し、新潟県御用掛、品川県少参事を経て、1870年12月に司法省に入省。名古屋裁判所長、長崎控訴裁判所長などを経て1883年に大阪控訴院長となった。 1891年(明治24年)に大審院長に就任するとともに法曹会を設立し、法律雑誌『法曹記事』の発行を開始。

【大津事件】
同年5月11日には訪日中のロシア皇太子・ニコライ(ニコライ2世)が警備にあたっていた巡査・津田三蔵により襲撃され負傷する大津事件が発生した。被告人である津田は大逆罪により大津地方裁判所に起訴されたが、総理大臣・松方正義ら政府首脳が大逆罪の適用を強く主張していたこともあり、大審院は事件を自ら処理することとした。
これに対して、児島は津田の行為は大逆罪の構成要件に該当しない(罪刑法定主義を)との信念のもと、審理を担当する堤正己裁判長以下7名の判事一人づつ全員を説得した。結局、大審院は津田の行為に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑を宣告した。司法権の独立の維持に貢献した児島は「護法の神様」と日本の世論から高く評価され、当時の欧米列強からも日本の近代化の進展ぶりを示すものという高い評価を受けた。

1892年6月、向島の待合で花札賭博に興じていたとして、児島を含む大審院判事6名が告発され、時の検事総長松岡康毅から懲戒裁判にかけられた。翌7月に証拠不十分により免訴になったが、児島は1894年4月、責任を取らされる形で大審院を辞職した(抗議の意味でしょう。他の者は無罪。こちらの事件は逆に無理やり作られた国策事件みたいですね)

*司法権の独立は中央集権的な政治を行うには邪魔になるかも。
**確かにこの事件は下手に判決を出せば、国際紛争に発展しかねない問題。第一次世界大戦はセルビアのテロリストがオーストリア皇太子夫妻を暗殺したことに始まる。松方内閣はロシアの意向を忖度すれば、極刑に処すべしだろうと主張。反ロシア世論は寧ろ犯人を英雄扱いしたい。ロシアは本気で報復戦争を仕掛ける恐れも。警察官が起こした事件であれば、なまじ大逆罪の極刑をすればかえって日本政府の関与が疑われ全くの逆効果になってしまうところだった。司法権の独立は国の安全を守るためにも必要なことなんですね。日本型の忖度外交は逆効果になるケースが多い。

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宮本 常一

宮本 常一 宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本の民俗学者・農村指導者・社会教育家。
山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現大阪教育大学)専攻科卒業。学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになった。
1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。
宮本の民俗学は、非常に幅が広く後年は観光学研究のさきがけとしても活躍した。民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築いた。
宮本が所属したアチックミューゼアムは、後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収され網野善彦らの活動の場となった。
宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではないが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したため、柳田國男の学閥からは無視・冷遇された。
*確かに、社会科学や哲学も総合したスケールの大きさは寧ろ評価されるべきなんでしょうが。
20世紀末になって再評価の機運が高まった。益田勝実は宮本を評し、柳田民俗学が個や物や地域性を出発点にしつつもそれらを捨象して日本全体に普遍化しようとする傾向が強かったのに対し、宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を乗り越えようとしたと位置づけている。宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め、長年にわたり刊行した『宮本常一著作集』(未來社)で把握できるが、未収録の記録も少なくない。
**益田勝実:
益田 勝実(ますだ かつみ、1923年〈大正12年〉~ 2010年〈平成22年〉)。国文学者。古代文学専攻。元・法政大学文学部教授。山口県下関市出身。東京大学文学部卒業、同大学大学院修士課程修了、法政大学に勤務、1967年に教授。 説話研究や柳田國男らの民俗学の視点を導入した研究で知られる。2006年『益田勝実の仕事』で毎日出版文化賞受賞。梅原猛の『水底の歌』が刊行され賞賛されていた時、益田はその決定的な矛盾を指摘した(『文学』1975年4月)。その書き方が、このような本はまともに相手にすべきものではない、というものだったため、梅原は反論し(同10月号)、実質上、益田の指摘が正しいことを認めつつ激しく罵倒したため、益田は再反論で、弱っていると書いた(同12月号)。2010年2月6日、老衰により死去。86歳没。

【「世間師」】
宮本常一“忘れられた日本人” (4)「世間師」の思想:初回放送日:NHK2024年6月24日
宮本常一が対象にした共同体は旧来の説のように固定的で閉鎖的なものではない。外部からもたらされた知が既存の知と入り混じりダイナミックに変貌にしていく動的なものだ。
かつての日本では「世間師」を呼ばれる人たちが集落に存在し「旅」を通じて新たな刺激や知恵を集落にもたらしてく仕組みが働いていたという。その営みは、宮本自身が民俗学という学問を通じて実践しようとしていた、地域社会を豊かにしていこうという営みとも重なり合う。第四回は、「世間師」や「伝承者」と宮本が呼んだ人々が共同体にもたらした豊かなものに迫っていくとともに、宮本が民俗学を通して何を実践したかに迫る。
*ここで言う「世間師」と言う概念はとても重要だ。このような存在は、人類発祥の時点から存在していて、これが人類の文明を進歩させた大きな原動力にもなっているようだ。まだ都市が発展していなく、比較的小さな共同体を維持発展させていくには、外の世界とその共同体を繋ぐ必要不可欠な人達だったんでしょうね。誰が新しい作物や道具や思想を持ってきたのか。

「民衆史」「生活誌」という独自の概念を生み出し、戦後の民俗学や歴史学に決定的な影響を与えた宮本常一(1907-1981)。柳田国男、折口信夫と並び称される民俗学の巨人です。宮本が20年来の研究の傍らで取りこぼした聞き書きを編纂し、彼独自の民俗学のあり方や方法を示した代表作が「忘れられた日本人」(1960)です。ここ数年、宮本常一についての様々な研究書や読み物が相次いで出版され、一般の人々の間でも関心が巻き起こっています。そこで「100分de名著」では、代表作「忘れられた日本人」を読み解き、奥深い宮本の思想に現代の視点から新しい光を当て直すことで、私たちの根底にある「生活意識や文化」をあらためて見つめなおします。

宮本常一は、日本列島をすみずみまで歩き、多くの人々から夥しい数の話を聞き取りました。列島各地の歴史や事情に精通し、農業、漁業、林業等の実情を把握することで、その豊かさや価値、問題点を明らかにしていったのです。そうした調査の中で、宮本は、出会った物象の底に潜む生活意識や文化の奥深さに触れることになります。彼は、既存の民俗学の方法だけでは、そうした事態はとらえきれないと考え、紀行、座談、聞き書き、随筆など、さまざまな手法を用いて、民衆の生活意識や文化を浮かび上がらせようとした。その試みの集大成が「忘れられた日本人」という書物なのです。

この書物を読み解くと、伝統が色濃く残る集落には、「寄合」「共助」「世間師」など、現代社会が失ってしまった共同体運営の知恵にあふれています。また、ごく日常的な営みにも現れる日本人ならではの感受性が歴史を通じてどう育まれていったかを知ることもできます。いわば「忘れられた日本人」は日本人の心性の原点を探りだす著作なのです。

民俗学者の畑中章宏さんは、「忘れられた日本人」を現代に読む意味が「近代化の中で表面的には忘れ去っているようにみえるが、無意識のうちに我々を規定している生活や文化の基層に触れることができること」だといいます。畑中さんに「忘れられた日本人」を現代の視点から読み解いてもらい、「私たちは何者なのか」を深く考えていきます。

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ヨシダナギ

ヨシダナギ ヨシダ ナギ(1986年(昭和61年)7月6日~ )は、日本の女性写真家。東京都出身。主にアフリカをはじめとする世界の少数民族や先住民を撮影。2019年からはドラァグクイーンの撮影を行うなど、被写体の幅を広げた活動をする。
*ドラァグクイーン(drag queen):誇張した女らしさや性表現(女装)でパフォーマンスを行う人物。ゲイのシスジェンダー男性であることが多いが、さまざまな性的指向や性同一性のドラァグクイーンも存在。纏った衣装の裾を引き摺る (drag) ことからこう呼ばれる。

経歴
5歳の頃、テレビでマサイ族を見る。ヤリを持って飛び跳ねる姿が強烈な印象をもち「いつか自分もマサイ族になりたい、なれる」と信じていたが、10歳の頃に日本人だという現実を両親から突き付けられて挫折を経験する。言語コミュニケーションを苦手としていたが、学童クラブの先生が母親に「ペンと紙を持たせれば、絵や文字で表現することができる」とアドバイスし、初めて理解者が現れたと感じる。 10歳に千葉県へ引っ越し後から学校でいじめに遭い、中学2年生時に不登校のまま卒業。不登校の間、インターネットを通じて物語の創作活動を始める。プロフィール写真が芸能事務所の目に留まり、芸能活動を始める。
ヨシダナギ 21歳の時に一人暮らしを始め、それから前向きな性格に変わったと語る。また芸能活動は自分は向いていないと考え引退し、その後はイラスト制作や写真撮影が主な活動となる。その時期に母親から仕事の手伝いを頼まれ、初の海外となるフィリピンへ行く。 フィリピンで撮影した子供達の写真をブログに載せた所、好評だった事をきっかけに東南アジアを回り始める。だが自分が思う程の驚きが無かったため、憧れだったアフリカに向かう事を決める。

2009年
初のアフリカはエジプトとエチオピア。現地では初めは良い顔しようとしていたが、「アフリカ人と同じぐらい感情的に、理不尽になって良いんだ」と思い、嬉しい時も辛い時も感情をストレートに出せるようになりすごく楽になれたと語る。

2012年
カメルーンの山岳地帯に暮らすコマ族の撮影。この時に初めて少数民族と同じ格好になって撮影を行う。打ち解けるためにコマ族の女性と同じ上半身は裸、下半身は葉っぱの格好になり、女性達からは歌と歓喜の舞で歓迎された。 長老からも気に入られ、「5番目の妻としたい」とプロポーズされたが、「来世でね」と丁重に断る。

2015年
ヨシダナギ 9月 TBSの紀行バラエティ番組『クレイジージャーニー』で「民族と同じ姿になる写真家」として紹介されエチオピアのスリ族との撮影の様子が取り上げられる。以降、同番組に不定期に出演。 9月 個展『Suri COLLECTION ヨシダナギ 写真展 ~世界一ファッショナブルな民族の極彩~』開催(gallery and shop 山小屋)。

2016年 4月 個展 『写真集 SURI COLLECTION発売記念個展』開催(西武渋谷店)
6月 個展 『ブリキのヨシダ展』開催(Buriki no Zyoro)
その後も活動は続いている。……~~

人物
『クレイジージャーニー』出演時に初めて「フォトグラファー(写真家)」と紹介され、「あ、もうそう名乗って良いんだ」と思った。それまでは「作品」を撮ろうと思ってなく、あくまで「記録」として撮影していた。
被写体の少数民族と同じ格好になるのは女性に対して敬意を示す考えがあるため。男性と違い下心を使うのは有効でなく、代わりに文化を褒めても「誰でも言える」と返されるから。
『HEROES』以降、新しい被写体を探すことは本当にプレッシャーが大きく、「すごく嫌だった」と語る。
『DRAG QUEEN -No Light, No Queen-』の制作費の1000万円は本人の持ち出し。これは「会いたい人が見つかった時、すぐプロジェクトを動かすために」と内密に貯めていた資金だった。
インタビューでは「出来ることは限られています。だからこそ、意地を張るべき場面ではとことん張らないとダメと思っています。」と語る。 「写真を勉強した上手い方にはとても敵わないので、あくまで勉強しないというポリシーは今後も貫きます」と話す。
積極的な書籍の執筆やトークショーの開催など写真家の枠に囚われない活動をする。「ヨシダナギ」はアーティスト名で、本名は明らかになっていない。左肩にタトゥーを入れている。

ユニークな活動をされている方ですね。具体的な写真や動画はネットで検索できるでしょう。それより人類の文化や文明に意味について深く考えさせられる画像ですね。

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大橋眞

大橋眞 大橋 眞(おおはし まこと、1953年〈昭和28年〉~ )は、日本の生物学者、医学者(免疫生物学)。徳島大学名誉教授。学位は医学博士(宮崎医科大学・1984年)。「眞」は「真」の旧字体のため、新字体で大橋 真と表記される場合もある。
東京大学医科学研究所技官、宮崎医科大学医学部助手、徳島大学総合科学部教授などを歴任した。
免疫生物学を専攻する生物学者である。白血球の遊走因子に関する研究などで知られる。文部省の技官として東京大学で勤務したのち、宮崎医科大学や徳島大学で教鞭を執った。2019年(令和元年)からの新型コロナウイルス感染症の世界的流行に際しては、全国及び一部の海外の大橋と同調者と手を組み、新型コロナウイルスの存在そのものを否定し、PCR検査の即時停止やマスク推奨の停止を求める署名活動を展開した。2022年以降は自宅で来客者を自身の動画に出演する形で配信する活動にとどまっている。
*全国及び一部の海外の大橋と同調者と手を組み、新型コロナウイルスの存在そのものを否定し→実はここのWikiの記述は不適切だ。不適切なネット情報をむやみに拡散することは良くない。
彼はCovit19ウィルスの存在を否定している訳ではなく、感染症の原因かどうかが証明されていない点を指摘しているだけだ。これはPCR法の発明者ノーベル賞学者マリス博士も同じことを指摘しているので、大橋教授の疑問は当然。誰かによって解明されなければならないはずだが誰も答えられない。これは学者としては正しい態度であり称賛されることはあっても非難に値するものでは全くない。

*GAFAによる情報統制が行われた中、当たり前の疑問を呈しても陰謀論者扱いを受けてしまうのでしょう。とてもまじめな研究者であることは間違いない。
* PCR検査が無自覚無症状の陽性者(疑感染者)を数多く造り出し、これが世界的大流行(パンデミック)の原因となったことは今ではほぼ明かである。日本でもようやく5類感染扱いとなり、普通のウィルスの感染症と変わらない扱いとなっている。

1953年(昭和28年)に生まれ。国が設置・運営する京都大学に進学し、薬学部の製薬化学科にて学んだ。1976年(昭和51年)3月、京都大学を卒業。それに伴い、薬学士の称号を取得した。さらに京都大学の大学院に進学し、薬学研究科にて学んだ。1978年(昭和53年)3月、京都大学の大学院における修士課程を修了した。それに伴い、薬学修士の学位を取得した。

大学院修了後、文部省の技官となり、国が設置・運営する東京大学の医科学研究所に1978年(昭和53年)3月より勤務した。その後、国が設置・運営する宮崎医科大学に採用されることになり、1979年(昭和54年)1月に医学部の助手として着任した。それと並行して博士論文を執筆し、1984年(昭和59年)5月24日、宮崎医科大学より医学博士の学位を授与された。1991年(平成3年)4月、国が設置・運営する徳島大学に転じ、総合科学部の助教授に就任した。その傍ら、学内の他の役職も兼務していた。1993年(平成5年)4月から2007年(平成19年)3月にかけて遺伝子組換え実験安全管理委員会のメンバーを兼務していた。また、1995年(平成7年)5月から1997年(平成9年)4月にかけて入試委員会の委員を兼務していた。1997年(平成9年)4月、徳島大学の総合科学部にて教授に昇任。その傍ら、学内の他の役職も兼務していた。2002年(平成14年)4月より、アイソトープ総合センター運営委員会と大学院運営委員会の委員をそれぞれ兼務することになった。また、2004年(平成16年)4月から2008年(平成20年)3月にかけて、全学共通教育センターの教員も兼務していた。2019年(平成31年)3月31日、徳島大学を退職した。同年4月、徳島大学より名誉教授の称号が授与された。

専門は生物学であり、特に免疫生物学に関する分野の研究に従事した。白血球の遊走因子に関する研究に取り組み、好酸球や好中球の遊走因子について分子構造の解析などを手掛けた。これまでの業績に関しては、2006年(平成18年)7月に日本工学教育協会から最優秀発表賞が授与されている。

学術団体としては、徳島生物学会、日本寄生虫学会、日本免疫学会などに所属した。日本寄生虫学会においては評議員などを歴任した。
徳島大学を退職後、2019年(令和元年)からの新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受け、新型コロナウイルスに関する言論活動を展開している。新型コロナウイルスを誰も分離していないと主張するなど新型コロナウイルスの存在を否定しており、2021年春まで自由民主党所属、以降離党勧告、除名処分を受けて無所属となった東京都日野市設置の日野市議会の女性議員の池田利惠らとともに自説に関する講演など、開催側の大橋、池田らと聴衆する参加者全員でマスク不着用を前提に行っていた。なお池田はその後このマスク不着用の講演会開催を理由に自民党除名を受けて、2021年9月29日に不当だとして代理人弁護士を通じて訴状を東京地方裁判所民事部に提出した。しかし自由民主党日野市議団除名後、無会派となって以降も2022年2月20日執行の日野市議会選挙で当選して5期目となる。この池田が事務局長を務める「新型コロナウイルスを考える会」では大橋は顧問に就任しており、この会のウェブサイトを通じて自身の似顔絵が描かれたシャツなど関連グッズを販売している。さらに、武田邦彦、吉野敏明、矢作直樹、藤井聡、内海聡、井上正康とともに「WeRise宣言」を発表している。この宣言は「新型コロナウイルス感染症はメディアが作り出した怪物」と位置づけたうえで「PCR検査による陽性者認定を即刻停止するよう求めます」「感染予防対策としてのマスク着用の推奨を停止することを求めます」「感染者数の発表を停止するよう求めます」などと主張しており、この宣言への賛同者を募る署名運動を展開していた。

これらの活動は波紋を呼び、徳島大学に多数の抗議が寄せられたことから、徳島大学が「本学と雇用関係になく、⼀連の活動は大橋氏個⼈が行っているものであります。従って、大橋氏の見解などは本学と一切関係ございません」と発表したうえで「雇用関係にないこと及び表現の自由の観点から、本学が大橋氏への苦情について対応することはできません」と釈明する事態となった。なお、新型コロナウイルスの分離や培養については、既に複数の研究機関が成功させている。たとえば日本においては、国立感染症研究所が2020年(令和2年)1月に分離と培養に成功したと発表している。

* PCR検査の有用性に対しては、PCR法の発見者(発明者)キャリー・マリス氏(ノーベル賞受賞者)本人が疑義を申し立てている。PCR法(ポリメラーゼ連鎖反応)は遺伝子断片のコピーを大量生産する遺伝子研究には欠かせない重要な手法として確立している。しかし、それを感染症ウィルスの発見に使えるかとなると、それは無理なことらしい。2019年にマリス氏は不審死しており、翌2020年からCovit19に対して米ファウチ等の提案によってPCR検査が普及することになる。マリス博士は感染症ウィルスの発見にPCR法を使ってはいけないと何度も警告している。更に、「自覚症状のない感染者はいない。」との持論も展開している。つまり、大橋さんの研究は大橋氏個⼈の独自研究ではなく、ウィルス学や遺伝子工学の深い研究の歴史に根差したものと言うことだ。因みにマリス氏は2019年に亡くなっているのでCovit19の世界的流行の事情は全く知らない。マリス氏がPCR検査は無効だと言っているのは、HIVウィルスについてだ。マリス氏がHIVウィルスは存在しないとしている理由は、フランスの発見者達がPCR法を使って発見したとされたことだ。

** 1983年5月20日、仏パスツール研究所のリュック・モンタニエ氏やフランソワーズ・バレ・シヌシ氏らが、エイズの原因になるウイルスを発見したと米科学誌サイエンスで発表した。両氏はこの功績で2008年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。つまり、実際に彼らがPCR法を使ったのか否かは明らかでない。マリス博士がHIVウィルスの存在を否認しているというのはPCR法ではウィルスを発見できるはずが無いという信念かららしい。
エイズと疑われる患者がアフリカで見つかったのは1950年代。81年には米国で初のエイズの症例が報告された。病原体が分からず、有効な治療法が無い死の病として恐れられていたのだが。

「PCR検査による陽性者認定を即刻停止するよう求めます」の警告は、今は世界中で実施に移されており、中国では自覚症状の無い者へ検査は必要なしと言うことが分かり、検査数を大幅に減らし感染者も著しく減少させることに成功。欧米でもPCR検査よりも他の検査法が推奨されるようになり、感染者は大幅に減少した。マスクを着用を好む人も日本ではまだかなりいるが、海外ではほとんどなくなった。どうもPCR検査の多用とマスメディアによる誇張が世界的感染拡大の最大の原因だったようだ。 どうやら大橋先生の疑問はすべて正しかったようだ。科学的にきちんと解明されるべきことであるが。

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ケン・ロビンソン

ケネス・ロビンソン(英語: Kenneth Robinson、1950年3月4日 - 2020年8月21日)は、イギリスの能力開発・教育アドバイザー、思想家。 リバプールの労働者階級の家庭出身で7人兄弟である。父親は仕事中の事故で肢体に麻痺が残る。ロンドン大学で教育と演劇を専攻。2008年にベンジャミン・フランクリン・メダルを受賞。2020年8月21日に癌との短い戦いの後、家族に囲まれて安らかに亡くなったことがツイッターを通じて確認された。70歳没。 アメリカの教育は「工業的」に画一化を志向しているが、人間はもっと「農業的」有機的存在として教育され成長するべき、と説く、演劇などを取り入れた斬新な教育方法を実施し、数学や科学を含め子供たちの学習成績を大幅に改善した功績が認められ、サー(ナイト)の称号を授かる。

TED (カンファレンス)でのプレゼンテーションが有名であり、2014年に2千万回を、2022年8月現在では1億回を超える視聴を達成している。中でも「学校教育は創造性を殺してしまっている (Ken Robinson says schools kill creativity)」は、最も人気である。
You tubeで彼の講演を聞くことができる。ユーモアを交えた話はきく価値がある。英語ですが字幕もあります。

*TED (カンファレンス)
TED(テド、テッド、英: Technology Entertainment Design)は、アメリカ合衆国のニューヨーク市に本部があるLLC。カナダのバンクーバー(過去にはアメリカ合衆国カリフォルニア州ロングビーチ、モントレー)で、毎年大規模な世界的講演会「TED Conference」(テッド・カンファレンス)を開催(主催)している非営利団体である。

カンファレンスは、1984年に極々身内のサロン的集まりとして始まったが、2006年から講演会の内容をインターネット上で無料で動画配信するようになり、それを契機にその名が広く知られるようになった。1984年からと、ハイテク系の話題の多いタイプのカンファレンスとしては比較的古くからある一つであり、変遷もあるが、基本的には学術・エンターテインメント・デザインなど様々な分野の人物がプレゼンテーションを行なうというスタイルである。 講演者には非常に著名な人物も多く、ジェームズ・ワトソン(DNAの二重螺旋構造の共同発見者、ノーベル生理学・医学賞受賞者)、ビル・クリントン(元アメリカ合衆国大統領、政治家)、ジミー・ウェールズ(オンライン百科事典ウィキペディアの共同創設者)といった人物がプレゼンテーションを行なっているが、最重要事項はアイディアであり、一般的には無名な人物も数多く選ばれ、事前のコーチングを受けた上でプレゼンテーションしている。 カンファレンスに出席するためには、審査を受けた上で年会費10,000ドルを支払って、TEDの会員になる必要がある。
特徴として、質疑応答が無い 一般的なプレゼンテーションのイベントである質疑応答の時間が設けられていない。理由としては質問者のプレゼンタイムとなってしまうことことから。

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ヨビノリたくみ

ヨビノリたくみ(1993年~)は、日本のYouTuber。YouTubeチャンネル『予備校のノリで学ぶ「大学の数学・物理」』で、主に大学の数学や物理の解説動画を配信している。学位は修士(学術)(東京大学・2017年)。令和5年度の「科学技術分野の文部科学大臣表彰」科学技術賞(理解増進部門)を、動画編集などを担当するヨビノリやすとともに受賞している。受賞理由は「インターネット動画配信による革新的な科学の理解増進」。

学部生時代の講義が難解であったことから学部生向けに分かりやすい授業を行えたら良いと考え、研究者としての生計に不安を覚えていたこともあり、2017年7月に理系大学生向けにYouTubeチャンネル『予備校のノリで学ぶ「大学の数学・物理」』(略称:ヨビノリ)を創設した。

*確かに分かりやすさは素晴らしい。授業料払って大学に通わなくても、より分かりやすい授業を無料で聞けるということは日本の科学技術の発展のためには良いことだろう。「科学を皆のポケットに」。科学は一部の専門家の独占物ではないからね。

日本学術振興会特別研究員(DC1)となるも2018年3月に中退。中退の理由は、現代日本における大学教員の姿が幸せそうなものに見えなかったことと、想像以上にYouTubeチャンネルの人気が出たのでYouTuberとしての活動に本腰を入れるため。2019年の新型コロナウイルス感染症が流行する中で、NHK高校講座やN高等学校のオンライン授業と並んで教育系YouTuberの動画が多く視聴されているが、ヨビノリたくみはその例の一つに挙げられている。

2023年4月7日には、一般社団法人日本物理学会からの推薦を受け、科学技術への関心や理解の増進に寄与し、科学技術に関する知識の普及啓発等に寄与する活動を行った人物へ送られる「科学技術分野の文部科学大臣表彰」科学技術賞(理解増進部門)を、動画編集や企画、撮影を担当するヨビノリやすとともに受賞した。受賞理由は「インターネット動画配信による革新的な科学の理解増進」。
YouTube上では書籍に関するエンタメ情報番組『ほんタメ』のMCも務めている。
ヨビノリたくみ **童顔の美青年で、話も上手い。でも滅茶テンポが速い。板書が得意。黒板に書く際は動画を早送りしているのでしょうが、その速さも絶妙。その場で書くことが視聴者の理解をアップすることも計算ずく。これも予備校講師で培ったノーハウかも。視聴者が増えているのも当然かも。大学で学ぶ、熱力学や量子力学が自宅で楽しめるのはとても楽しみなことですね。若いと思ったが1993年は平成5年。平成生まれ何です。時代は変わったということでもありますか。

黒板を使った本格的かつ分かりやすい授業に定評がある。板書するシーンは早送りする一方でカットはしないのがこだわりであるが、これは板書する姿に趣があると考える一方、手軽に見られることの重要性も考えた結果だという。準備に3 - 4時間、動画撮影は15分の内容なら2時間ほど。編集にも3 - 4時間はかけている。
*準備には大変な労力が。もちろん作業は一人ではできまい。多数のボランティアの協力もあるのでしょう。

自身の予備校講師の経験から、「大学教員は授業のプロではなく研究のプロであり、基礎的なものより専門分野についての方が面白く授業する」と指摘。「教養や基礎的な分野は授業のプロに任せて、教員らには自身しかできない専門的な授業に集中してほしい」と話した。また「大学で学ぶ専門的な学びに橋渡しするつもりで、基本的な知識を分かりやすく動画で伝えている」と説明。大学との連携も進めており、オープンキャンパスで実際に講義をしたり、動画を授業の参考としてシラバスに掲載する大学教員もいるという。また、大学生向けの講座だけでなく高校講座も開設しており、「今週の積分」などの企画を展開している。YouTube教育の普及にも力を注いでおり、文部科学省においての講演や他の教育系YouTuberとの交流にも積極的である。物理学の研究会への出席などもしている。

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鳥居耀蔵

鳥居 耀蔵(とりい ようぞう:1796年~1796年(明治6年))は、江戸時代の幕臣、旗本。耀蔵は通称、諱は忠耀(ただてる)。(1796年12月22日) 実父は大学頭を務めた江戸幕府儒者の林述斎。江戸の文系学問の最高峰の朱子学を習得している。父方の祖父の松平乗薀は美濃岩村藩の第3代藩主、乗薀の実父は吉宗の下で享保の改革を進めた老中松平乗邑である。旗本鳥居成純の長女・登与の婿として養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。弟に日米和親条約の交渉を行った林復斎が、甥に同じく幕末の外交交渉に当たった岩瀬忠震、堀利煕がいる。

天保の改革
やがて家斉が隠居して徳川家慶が12代将軍となり、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。渋川敬直、後藤三右衛門(13代目後藤庄三郎)と共に水野の三羽烏と呼ばれる。
天保9年(1838年)、江戸湾測量を巡って江川英龍と対立する。この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになり、翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら蘭学者を弾圧する遠因となったといわれる。

だが、これについては、耀蔵は単なる蘭学嫌いではなく、天保14年(1843年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷の書とても、専ら御採用相成」と主張して反対するなど、その実用性はある程度認めていたこと、また江戸湾巡視の際に耀蔵と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと耀蔵と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、耀蔵が失脚する弘化元年(1844年)まで続いていること、耀蔵は江戸湾巡視や蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めていたことを指摘し、蛮社の獄は『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされたとする説がある。

天保12年(1841年)、市民に人気のあった南町奉行矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。矢部家は改易、定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。江戸の市民からはかなり嫌われていたようであり、「町々で惜しがる奉行、やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこが良う(耀)蔵」という落首が詠まれたという。天保の改革における耀蔵の市中取締りは非常に厳しく、おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていたため、当時の人々からは“蝮(マムシ)の耀蔵”、あるいはその名をもじって“妖怪”(通称の「耀蔵」・官位の「甲斐守」)とあだ名された。また、この時期に北町奉行だった遠山景元(金四郎:遠山の金さんなんて時代劇に)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた(遠山は鳥居失脚後に南町奉行として復帰した)。天保14年(1843年)に勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。

アヘン戦争後、列強の侵略の危機感から、江川や高島秋帆らは洋式の軍備の採用を幕府に上申し、採用されるが、終始反対の立場にあった耀蔵は快く思わず(異国の脅威は何も感じていなかったんでしょうか?)、手下の本庄茂平次ら密偵を使い、姻戚関係にあった長崎奉行伊沢政義(伊沢の長男政達は耀蔵の娘と結婚)と協力して、赴任前の伊沢と事前に相談したり自分の与力を伊沢に付き従えさせるなどして、高島に密貿易や謀反の罪を着せた。長崎で逮捕され、小伝馬町の牢獄に押し込められた高島に、耀蔵が自ら取り調べにあたるなどして進歩派を恐れさせたとされる。だが、これについても長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として高島は処罰されたのであり、高島の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた水野によって行われたものとする説がある。

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

徳富蘇峰

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年~1957年(昭和32年))は、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られている。蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。小説家の徳冨蘆花(とくとみ ろか)は実弟。

蘇峰 生い立ちと青年時代
1863年、肥後国上益城郡杉堂村の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬の第五子・長男として生れた。徳富家は代々葦北郡水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」のひとり横井小楠(よこい しょうなん)に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬(蘇峰の父)は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した。
*維新の十傑:明治維新に尽力した志士のうち、山脇之人『維新元勲十傑論』(1884年3月刊)において挙げられた特に優れた10人を指す。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の特に枢要な「維新の三傑」の他、薩摩藩の小松帯刀(小松清廉)、長州藩の大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、肥前藩の江藤新平、肥後藩の横井小楠、公家の岩倉具視から成る。10人ともに幕末から明治まで生き抜いたが、明治に入り3人が病死、7人が外因死(暗殺、刑死、敗死)により命を落としている。誰を持って十傑とするかは山脇氏の全くの個人的見解で他にも多数異論があるが、皆それなりの影響力のあった人物であろう。

蘇峰は、8歳まで水俣に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った。1871年(明治4年)から兼坂諄次郎に学んだ。読書の力は漸次ついてきて、『四書』『五経』『左伝』『史記』『歴史網鑑』『国史略』『日本外史』『八家文』『通鑑網目』なども読み、兼坂から習うべきものも少なくなった。1872年(明治5年)には熊本洋学校に入学したが、年少(10か11歳)のため退学させられ、このことはあまり恥辱でもなかったが、大変不愉快な思いを憶えたという。その後1875年(明治8年)に再入学する。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧約聖書』などにふれて西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、1876年(明治9年)、横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった。

熊本洋学校閉鎖後の1876年(明治9年)8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都の同志社英学校に転入学した。同年12月に創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした。

しかし、1880年(明治13年)春、新島の長期不在中に同志社英学校幹事市原盛宏らが英学校2年上級と下級を合併して1クラスにしたことが発端となって不平組がストライキを起こす。その大将は大久保真次郎で、范増(はんぞう)*格の謀主は蘇峰であった。結局、この騒動は新島が4月13日の朝礼の際に自分の掌を杖で打ち、自らを罰して生徒に訓したことによって終息し(自責の杖事件)、騒動の責任を感じた蘇峰は卒業目前で同志社英学校を中退した。
*范増:中国の古代、楚の項羽の名参謀として仕えたとされる。
その後蘇峰は東京に赴き下谷一致教会で植村正久に面会したが、「植村氏は如何にもぶつきら棒の漢(やから)にて、新島先生と相対したる気持などは、露程も出で来らず」、それ以来教会通いをやめてしまった。新聞記者志願もかなわず、翌1881年(明治14年)、帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、寄稿もしてナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している。

1882年(明治15年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設する。1886年(明治19年)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいる。
*宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年~ 1922年)
自由民権思想を根幹とする世界革命を目指し活動した近代日本の社会運動家。孫文ら中国の革命家たちを支援した日本人の代表格。孫文の自伝「志有れば竟に成る」で「革命の為に奔走して終始怠たらざらし者」 としてその名が挙げられている。
大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれるヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった。1882年(明治15年)夏に上京し、慶應義塾に学ぶ従兄の江口高邦に伴われて福澤諭吉に面会。

蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。

蘇峰は1886年(明治19年)の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった板垣退助(自由党総理)を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている。同書は蘇峰の上京後に田口卯吉の経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした。これが蘇峰の出世作となった。

1887年(明治20年)2月には東京赤坂榎坂に姉・初子の夫・湯浅治郎の協力を得て言論団体「民友社」を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰した。この誌名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『The Nation』から採用したものだといわれている。

民友社には弟の蘆花をはじめ山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南ら政教社の掲げる国粋主義(国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、1888年(明治21年)から1889年(明治22年)にかけては、大同団結運動支援の論陣を張った。また、平民叢書第6巻として『現時之社会主義』を1893年(明治26年)に発刊するなど社会主義思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった。

その一方で蘇峰は1888年(明治21年)、森田思軒、朝比奈知泉らとともに「文学会」の発会を主唱した。会は毎月第2土曜日に開かれ、気鋭の文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後に1人ないし2人が文学について語り、また参加者全員で雑談するという会合で、坪内逍遥や森鷗外、幸田露伴などが参加した。
1890年(明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたってオピニオンリーダーとして活躍することとなった。さらに蘇峰は、1891年(明治24年)5月には『国民叢書』、1892年(明治25年)9月には『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東(The Far East)』)を、それぞれ発行している。このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた。蘇峰は、『國民新聞』発刊にあたって、
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当時予の最も熱心であったのは、第一、政治の改良。第二、社会の改良。第三、文芸の改良。第四、宗教の改良であった。
— 『蘇峰自伝』
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と記している。

蘇峰は1891年(明治24年)10月、『国民之友』誌上に「書を読む遊民」を発表している。そこで蘇峰は、中学校(旧制)に進学せず、地方の町村役場で吏員となっている若者や小学校の授業生(授業担当無資格教員)となっている地方青年に、専門的な実業教育を施して生産活動に参画せしむるべきことを主張している。

『大日本膨脹論』(一部)
一方では1889年(明治22年)1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、1894年(明治27年)、対外硬六派に接近して第2次伊藤内閣を攻撃し、日清戦争に際しては、内村鑑三の「Justification of Korean War」を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。蘇峰は、日清開戦におよび、7月の『国民之友』誌上に「絶好の機会が到来した」と書いた(「好機」)。それは、今が、300年来つづいてきた「収縮的日本」が「膨脹的日本」へと転換する絶好の機会だということである。蘇峰は戦況を詳細に報道、自ら広島の大本営に赴き、現地に従軍記者を派遣した[注釈 8]。 さらに蘇峰は、参謀次長・川上操六、軍令部長・樺山資紀らに対しても密着取材を敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した『大日本膨脹論』を刊行した。

従軍記者として日清戦争後も旅順にいた32歳の蘇峰は、1895年(明治28年)4月のロシア・ドイツ・フランスによるいわゆる三国干渉の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、国家に対する失望感を吐露した。

この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にはほとんど別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足らぬわけゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと確信するにいたった。
— 『蘇峰自伝』
と回想している。

蘇峰 「変節」と政界入り
従軍記者として日清戦争後も旅順にいた32歳の蘇峰は、1895年(明治28年)4月のロシア・ドイツ・フランスによるいわゆる三国干渉の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、国家に対する失望感を吐露した。
蘇峰は、「この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にはほとんど別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足らぬわけゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと確信するにいたった。」— 『蘇峰自伝』
と回想している。

遼東半島の還付(三国干渉)に強い衝撃を受けた蘇峰は、翌1896年(明治29年)より海外事情を知るための世界旅行に出かけた。同行したのは国民新聞社社員の深井英五であった。蘇峰は、渡欧する船のなかで「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民之友』に掲載した。その欧米巡歴は、ロンドンを皮切りにオランダ、ドイツ、ポーランドを経てロシアに入り、モスクワでは文豪レフ・トルストイを訪ねた。その後、パリに入ってイギリスに戻り、さらにアメリカ合衆国に渡航している。ロンドンでは、『タイムズ』や『デイリー・ニューズ』などイギリスの新聞界と密に接触し、日英連繋の根回しをおこなっている。このころから蘇峰は、平民主義からしだいに強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。
帰国直後の1897年(明治30年)、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任、従来の強固な政府批判の論調をゆるめると、反政府系の人士より、その「変節」を非難された。
蘇峰は「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べているが、田岡嶺雲は蘇峰に対し「一言の氏に寄すべきあり、曰く一片の真骨頂を有てよ。説を変ずるはよし、節を変ずるなかれと」と記して批判し、堺利彦もまた「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」とみずからの疑念を表明した。

1898年(明治31年)には『国民之友』の不買運動がおこり、売り上げは低迷した。蘇峰は、この年の8月『国民之友』のみならず『家庭雑誌』『欧文極東』も廃刊して、その言論活動を『國民新聞』に集中させた。なお、蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として政治家と交際し、政界や官界に影響力を持った政客として活動することで政治を動かそうとしたとして肯定的な評価もある。

蘇峰はこののち山縣有朋や桂太郎との結びつきを深め、1901年(明治34年)6月に第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、その艦隊増強案を支持し続け、1904年(明治37年)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した。しかし、1905年(明治38年)の日露講和会議の報道では講和条約(ポーツマス条約)調印について、図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、9月5日の日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって襲撃を受けた。

*日ロ戦争の講和条約は、明かに日本に有利な大成功のものであった。勿論英国の支援があったからで、実際には勝者と言えるような情勢ではなかった(戦死者は日本の方が遥かに多い)ではなかったはずだ。別に蘇峰は変節した訳でもなくジャーナリストとして現状を正しく分析していただけのことだ。
社の印刷設備を破壊しようとする暴徒と社員が社屋入り口付近でもみ合いとなり、駆けつけた日比野雷風が抜刀してかろうじて撃退している。

1910年(明治43年)、韓国併合ののち、初代朝鮮総督の寺内正毅の依頼に応じ、朝鮮総督府の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。『京城日報』は、あらゆる新聞雑誌が発行停止となった併合後の朝鮮でわずかに発行を許された日本語新聞であった。

翌1911年(明治44年)8月24日には貴族院勅選議員に任じられている。前年5月には大逆事件の検挙が始まり、1911年(明治44年)1月には幸徳秋水ら24人に死刑判決が下った。弟の蘆花は、桂太郎首相に近い蘇峰に対し幸徳らの減刑助命の忠告をするよう求めたが、処刑の執行は速やかにおこなわれたため、間に合わなかった。

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇崩御。蘇峰は明治天皇の死について- 国家の一大秩序は、実にわが明治天皇の御一身につながりしなり。国民が陛下の崩御とともに、この一大秩序を見失いたるは、まことに憐むべきの至りならずや。 と言及している。同年、専門学校令による同志社大学開校に際し、政治経済学部委員長に就任。

大正デモクラシー時代と『近世日本国民史』の執筆
1913年(大正2年)1月の第一次護憲運動のさなか桂太郎の立憲同志会創立趣旨草案を執筆している。 『國民新聞』は大正政変に際しても第3次桂内閣を支持したため、「桂の御用新聞」と見なされて再び襲撃を受けた。『蘇峰日誌』などによれば、このとき国民新聞社社員は活字用の溶解した鉛まで投げて群衆に抵抗し、社員のなかの1名はピストルを発射、それにより少なくとも死者1名、重傷者2名を出し、更に日本刀による応戦で負傷者多数が生じている。

蘇峰は、同年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は「文章報国」を標榜して時事評論に健筆をふるった。1914年(大正3年)の父・一敬の死後は『時務一家言』『大正の青年と帝国の前途』を出版して『将来之日本』以来の言論人に立ち返ることを約した。

第一次世界大戦のさなかに書かれた『大正の青年と帝国の前途』のなかで蘇峰は、特徴的な「大正の青年」について、模範青年、成功青年、煩悶青年、耽溺青年、無色青年の5類型を掲げて論評しており、「金持ち三代目の若旦那」のようなものだと言っている。日清・日露の両戦争に勝利した日本は、独立そのものを心配しなくてはならないような状況は見あたらないから、彼らに創業者(維新の青年)のようにあれと求めても無理であり、彼らが「呑気至極」なのもやむを得ない、と述べたうえで、むしろ国際競争のなかで青年を呑気たらしめている国家のあり方、無意識的に惰性で運行しているかのような国家のあり方が問題なのであり、国家は意識的に国是を定めるべきだと主張した。

1915年(大正4年)11月、第2次大隈内閣は異例の新聞人叙勲をおこなっている。蘇峰は、このとき黒岩涙香、村山龍平、本山彦一らとともに勲三等を受章した。なお、蘇峰の『國民新聞』は立憲政友会に対しては批判的な記事を掲載することが多く、それは第1次西園寺内閣時代の1906年(明治39年)にさかのぼるが、「平民宰相」となった原敬が最も警戒すべき新聞として敵視していたのが『國民新聞』であった。二個師団増設問題の解決をめぐって互いに接近したこともあったが、1918年(大正7年)の原内閣成立後も、原は『國民新聞』に対する警戒を解かなかった。

1918年(大正7年)5月、蘇峰は「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した。同年7月、55歳となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰のライフワークであり、当初は明治初年以降の歴史について記す予定であったが、明治を知るには幕末、幕末を知るには江戸時代が記されなければならないとして、結局、織田信長の時代以降の歴史を著したものとなった。『近世日本国民史』は、東京の大森(現大田区)に建てられた「山王草堂」と名づけた居宅(現在の山王草堂記念館)で執筆された。山王草堂には、隣接して自ら収集した和漢の書籍10万冊を保管した「成簀堂(せいきどう)文庫」という鉄筋コンクリート造、地上3階、地下2階の書庫が建てられた。
1923年(大正12年)には10巻を発表した段階で『近世日本国民史』の業績が認められ、帝国学士院の恩賜賞を受賞した。この年は9月1日に関東大震災が起こっているが、その日神奈川県逗子にいた蘇峰は、周囲が津波に襲われるなか、庭先で『近世日本国民史』の執筆をおこなっている。

1925年(大正14年)6月、蘇峰は帝国学士院会員に推挙され、その任に就いた。また、同年、皇室思想の普及などを目的とする施設「青山会館」が、蘇峰の寄付によって東京・青山に完成している。

ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえている。1927年(昭和2年)、弟の蘆花が死去。1928年(昭和3年)には蘇峰の「文章報国40年祝賀会」が青山会館で開催されている。

帝国学士院会員としては、1927年(昭和2年)5月に「維新史考察の前提」、1928年(昭和3年)1月に「神皇正統記の一節に就て」、1931年(昭和6年)10月には「歴史上より見たる肥後及び其の人物」のそれぞれについて進講している。 なお、関東大震災後に国民新聞社の資本参加を求めた根津嘉一郎が副社長として腹心の河西豊太郎をすえると根津と河西のあいだに確執が深まり、1929年(昭和4年)、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社。その後は、本山彦一の引きで大阪毎日新聞社・東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。

1945年(昭和20年)9月、自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、同年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部の逮捕命令対象者のリストに名を連ねた(A級戦犯容疑の第三次逮捕者59名中の1人)が、老齢と三叉神経痛のために自宅拘禁とされ、後に不起訴処分が下された。公職追放処分を受けたため、1946年(昭和21年)2月23日に貴族院勅選議員などの公職を辞して静岡県熱海市に蟄居した。また同年には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして文化勲章、勲二等旭日重光章を返上した。1948年(昭和23年)12月7日、妻の静子が死去。熱海に蟄居となったこのころの蘇峰は、さかんに達磨画を描いている。

蘇峰は終戦後も日記を書き続けており、その中で、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている。

1951年(昭和26年)2月、終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、1952年(昭和27年)4月20日、ついに全巻完結した。『近世日本国民史』は、史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書であり、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされている。高齢のため、98巻以降は口述筆記された。平泉澄の校訂により時事通信社で刊行されたが、100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の1963年(昭和38年)、孫の徳富敬太郎の手によってなされた。

1952年(昭和27年)9月『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版、1954年(昭和29年)3月から1956年(昭和31年)6月まで『読売新聞』紙上に明治・大正・昭和の人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者の悲哀』では、近代アメリカ外交を批判すると同時に日本人にも反省を求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰の死後、『三代人物史』と改題されたうえで刊行された。

1954年(昭和29年)には山中湖畔の双宜荘を同志社に寄贈し、翌年11月に行われた同志社創立80周年記念式にも老躯を押して出席するなど、同志社との関わりは生涯にわたって続いた。

1957年(昭和32年)11月2日、熱海の晩晴草堂で死去。享年95(満94歳没)。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。葬儀は東京の霊南坂教会でおこなわれた。墓所は東京都立多磨霊園にある。 思想家、言論人としての蘇峰は、その思想の振幅が大きく(*そうだろうか?一貫しているようにも見えるが?)、行動が変化に富み、活動範囲も多岐にわたるため、その全体像をつかむのは容易ではない。蘇峰自身も、維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり。と述べている(「日本国民の活題目」、『国民の友』第263号)。それについて、「変節漢」あるいは時流便乗派という否定的な評価があることも事実であり、終戦後の1946年(昭和21年)に同志社大学学長となった田畑忍は蘇峰に向かって「どうぞ先生、もう一度民主主義者になるような、みっともないことをしないでください」と述べたという。 それに対し、松岡正剛は、敬虔なクリスチャン、若き熊本の傑物、平民主義者、国民主義者、皇室中心主義者、大ジャーナリスト、文章報国に生きた言論人、そのいずれでもあったが、しかし、そのなかのどれかひとつに偏った人ではなかった、そして、歴史の舞台の現場から退くということのなかった人であると評価している。 戦前における国権主義的な言論活動については評判が悪く、戦後の日本史学界では、上述の蘇峰「日本国民の活題目」にみられるような情勢判断こそが近代日本のアジア進出さらには軍国主義の台頭を許した元凶ではないかとする見解が少なくない(これが進駐軍GHQの見解なんでしょう)。 その一方で、久恒啓一は蘇峰が人びとにあたえた影響力の大きさを「影響力の広さ×影響力の深さ×影響力の長さ」で示すならば、蘇峰は近代日本社会にきわめて大きな影響をあたえた人物にほかならないとしている。近代日本思想史を語るうえで重要な、三国干渉後の「蘇峰の変節」については、今日では仮に軽挙妄動の部分があったとしても決して蘇峰自身の内部では思想上の変節ではなかったとする評価が力を得ており、こうした見解は海外の研究者であるジョン・ピアーソン(1977年)、ビン・シン(1986年)によって示されている。すなわち、かれらは蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、上述「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに疑義を呈している。 戦前のジャーナリストとしては最大級の存在だったようだ。また、著作の数も膨大。多数の日本人や政治家達にも多大な影響を与えた。だからGHQに嫌われA級戦犯の扱いを受けたようだ。何故、一ジャーナリストが直接戦争に関わっていないのにA級戦犯の罪の問われなければいけないのか。彼の著作自体も永らく禁書扱いで手に入らなかったようだ。東京裁判の欺瞞性についても彼自身批判していたようだ。そのことがA級戦犯の罪に問われた直接の原因らしい。

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

平田篤胤

平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年~1843年):
江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。
国学の系統は-契沖→加茂真淵→本居宣長→平田 篤胤
となるようですが、なかなか各人各様の思想がありその本質が掴みがたい。特に平田 篤胤はスケールが大きく、博学多彩で国学の枠には収まらないようだ。

出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学の四大人(しうし)の中の一人として位置付けられている。
*大国隆正(おおくに たかまさ、1793~1871年):
幕末・明治維新期の国学者、神道家。石見国津和野藩出身。は、幕末・明治維新期の国学者、神道家。石見国津和野藩出身。 津和野国学の泰斗として、国学史上の四大人観を確立し、「文武虚実論」に代表される学問論を残した。神道家としては石見国に於ける大国主信仰の復興にも貢献した。

秋田を出奔
久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町に生まれた。生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学や神道とは無縁であった(それは当然で、この時点では国学や神道はまだ学問として認知されていなかったはずだ)。

故郷を捨て江戸に出奔する20歳のときまでの事跡ははっきりしないが、現存する史料から不幸な幼少期が示されている。貧しさのなかで捨て子同然の少年時代を送ったと考察されてもいる。また、継母との折り合いがわるかったという見解もある。 20歳になったばかりの寛政7年(1795年)1月8日に脱藩・出奔し、遺書して国許を去った。「正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない」という言い伝えにちなんだという。江戸に出た篤胤は、苦学しながら当時の最新の学問、とくに西洋の医学・地理学・天文学を学びつつ、旗本某氏の武家奉公人となった。
篤胤25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となった。養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細は不明。このころ、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と出会う。当時織瀬は旗本屋敷の奥勤めをしており、篤胤は同家のしがない奉公人であったが、やがて2人は深く愛し合うようになり、享和元年(1801年)篤胤26歳のとき、結婚した。

国学との出会い
上述のように、篤胤が江戸に出てきたのは必ずしも国学を学ぶためではなかった。その関心は広く、蘭学を吉田長淑に学び、解剖にも立ち合っている。他方、迫り来る対露危機に関しては、徹底した情報収集を行っている。 篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年(1803年)のこと。妻の織瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、夢のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した。これは時代の流行語となった。
*つまり、本居宣長本人から直接指導を受けた訳では無いようだ。

文化2年(1805年)、篤胤は宣長の跡を継いだ長男の本居春庭に入門しており、夢中対面の話は春庭あて書簡に書かれている。篤胤は『直日霊』や『初山踏』『玉勝間』『古事記伝』など宣長の著作を読み、独学で本居派国学を学んでいった。篤胤の買い求めた『古事記伝』には、宣長門下服部中庸(なかつね)が著したダイヤグラム『三大考』が付録として付いていた。これは、10枚の図で「天・地・泉」の成り立ちを明示したものであり、のちに『霊能真柱』の著述におおいに活用されることになった。

このころ、芝蘭堂の山村才助が西洋・東洋の地理書を渉猟した本格的な総合的地理書『訂正増訳采覧異言』(1802年成立)を著し、長崎の蘭学者志筑忠雄による『暦象新書』(1798年-1802年)ではニコラウス・コペルニクスの地動説やアイザック・ニュートンの万有引力が紹介されている。新知識に貪欲な篤胤は、両書より強い影響を受け、世界認識の再構築をせまられた。そこで出会ったのが、宣長の国学だった。漢意を排除して文献学的かつ考証学的な姿勢に徹する宣長の方法により、それまで仏教的・儒教的に牽強付会(けんきょうふかい: 自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること。)を伴って様々に説明されてきた古代日本の有り様が、見事に解明されていることに篤胤は衝撃を受けた。しかし、後述のように宣長と篤胤では学問の内容・方法ともに大きな相違点がみられる。

享和3年(1803年)、太宰春台『弁道書』を批判した処女作『呵妄書』を著し、翌文化元年(1804年)、「真菅乃屋」を号して自立した。書斎「真菅乃屋」は好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸がひらかれていた。以後、篤胤は膨大な量の著作を次々に発表していった。その著作は生涯で100におよぶ。篤胤の執筆する様子は、何日間も不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら机にむかったまま寝て、疲れがとれると、起きてまた書きつづけるというものだった(蒲団を引いて寝ることはほとんど無い)。文化2年(1805年)から翌年にかけては『鬼神新論』『本教外編』などの論考を著述している。 文化3年(1806年)より真菅乃屋では私塾として門人を取っている(のちに「気吹舎」に改称)。門人ははじめ3人であったが、最後には553人に達した。ほかに、篤胤没後の門人」と称した人が1,330人にのぼった。文化4年(1807年)以降は医業を兼ね、玄瑞と改めた。

文化8年(1811年)頃までおこなった篤胤の講義は、門人筆記というかたちでまとめられ、『古道大意』『出定笑語』『西籍慨論』『志都の石屋(医道大意)』などの題名でのちに書籍として刊行されることとなるが、この時点では宣長の学説の影響が大きく、篤胤独自の見解はまだ充分にすがたをあらわしていない。

文化8年10月、篤胤が駿河国府中の門人たちを訪れたとき、篤胤は今まで疑問に感じていたことを初めて口にした。すなわち、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』など、神代にまつわる「古伝(いにしえのつたえ)」がそれぞれの書籍のあいだで内容に差異があるのは何故なのか、従来は本居宣長『古事記伝』の説に従えばよいと考えていたが、他の諸書も参照して考慮し、正しい内容を確定すべきではないのか、ということである。門人たちもこれに賛成したところから、篤胤は門人で駿府の本屋、採選亭の主人柴崎直古の寓居に籠もり、諸書を集め、12月5日から年末までの25日間をかけて大部の書を一気に著述した。こうして成ったのが、『古事記』上巻・『日本書紀』神代巻の内容を再構成した『古史成文』であり、その編纂の根拠を記した『古史徴』であった。『霊能真柱』の草稿もこのとき成立している。

復古神道の成立
文化9年(1812年)、篤胤37歳のとき、相思相愛で結ばれた妻、織瀬を亡くした。篤胤は深い悲しみのなか「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」の歌を詠んだ。愛妻の死は、死後の霊や幽冥への関心を促し、本格的な幽界研究へとつながっていった。

同年、織瀬の死にあって篤胤は、幽冥界を論じた『霊能真柱(たまのみはしら)』を書き上げた。ここで、篤胤は従来はなかった彼独特の生死感を説いた。この書は、「霊の行方の安定(しづまり)を知」るならば、「大倭心(やまとごころ)を堅むべく」、大倭心が固められるならば「真道(まことのみち」を知ることができるという死後安心論の意図をもって著述された。すなわち、本居宣長が、人は死ねばその霊は汚き他界、つまり「夜見」(黄泉)の世界へゆくのであるから、人が死ぬことはじつに悲しいことであるとしたのに対し、篤胤は、人は生きては天皇が主宰する顕界(目に見える世界)の「御民(みたみ)」となり、死しては大国主神が主宰する「幽冥」(目には見えない世界、冥府)の神となって、それぞれの主宰者に仕えまつるのだから死後は必ずしも恐怖するものではないと説いた。そして、その「幽冥」とは、われわれが生きる顕界と同じ空間、山や森、墓といったわれわれの身近なところにあって、決して他界ではなく、幽冥界からはこちら側(顕界)が見えるものとし、こちら側から向こう側(「幽冥」)が見えないだけであるとした。さらに、神はわれわれとはさほど遠くない「幽冥」の世界から顕界に生きるわれわれの生命と暮らし、郷土の平和と安寧をいつも見守り、加護してくれていると説いた。篤胤は、これを10個の図によって、開闢のはじめの混沌たる原質から天(太陽)・地(地球)・泉(月)から成る宇宙がいかにして生成されたかを、地動説的な解釈をほどこしつつ説明している。篤胤は、上述の服部中庸『三大考』に「産霊(むすび)の霊力」のはたらきを加え、そのうえで、天照大神が瓊瓊杵尊に命じて治めさせた「顕世(うつしよ)」と大国主命が治める「幽世(かくりよ)」を対比させ、すべては「顕明事(あらわごと)」と「幽冥事(かくりごと)」の2つによって均衡が保たれるのであって、これは大国主命がみずから退隠した勇気によって保証されていると説明し、このことによって死後の霊魂は心安らかに幽冥界に向かうことができるとした。

篤胤が求めたのはこの世の幸福であり、関心をいだいたのは死後の霊の行方についてであった。その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めた。ここで篤胤は、天主教(キリスト教)的天地創造神話と『旧約聖書』的な歴史展開を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする首尾一貫した、儒教的・仏教的色彩を完全に排除した復古神道神学を樹立している。篤胤によれば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が四海の中心であり、天皇は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それが「霊の真柱」だった。

平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの古典に収載された古伝説には齟齬や矛盾、非合理もふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解するという手法を用いて論を展開した。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはずだという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた。篤胤の関心は、古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界の事実を明らかにしていくことにあったが、漢意の排除と文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、篤胤の手法は邪道そのものであり、逸脱と解釈された。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなく、自身も含めた近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索し、それに必要な神学を構築するために『古事記』『日本書紀』などの古典および各社にのこる祝詞を利用していた。『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観についての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は伊勢松阪の鈴屋(本居派の門人達のたまり場)とはしだいに疎遠になっていった。

文化10年(1813年)、対露危機に関して情報を集めていた篤胤は、危機が一段落したこの時期に蒐集文書をまとめて『千島白浪』を編纂しており、同書には当然収めてはいないものの、幕府機密文書も入手している。篤胤は、ロシア情報を獲得するためにロシア語辞書までみずから編纂していた。文化12年(1815年)、のちに経世論者となる出羽国雄勝郡郡山村(現、秋田県雄勝郡羽後町)出身で、篤胤より年長の佐藤信淵が入門した。 東総遊歴と幽界研究 篤胤は、私塾兼書斎である「真菅乃屋」から自己の著作を刊行しようと努めてきたが、その著述活動を支えるような有力な領主の庇護はなく、必ずしも裕福な門弟に恵まれていたわけではなかった。当初は江戸在住の武士や町人が門人・支持者となって後援したのにとどまっていた。この「真菅乃屋」のサークルを江戸以外の地に拡大しなければ自分の学問はひろまらない、このように考えた篤胤が巡遊先として最初に選んだのは、下総・上総の地だった。文化13年(1816年)に篤胤は初めてこの地域をまわった。 篤胤は文化13年4月に江戸を出て、船橋・神崎・香取・鹿島・銚子・飯岡と利根川下流地域をめぐり、途中、鹿島神宮・香取神宮及び息栖神社に詣でている。この旅で「天之石笛」という霊石を得たことにちなみ、篤胤は家号を「伊吹乃屋(気吹舎)」と改め、「大角」とも名乗るようになった。翌文化14年(1817年)には、この旅の顛末をしるした『天石笛之記』が書かれている。 文政元年(1818年)11月18日、43歳となった篤胤は、武蔵国越谷在住の門人山崎篤利の養女と再婚した。新しい妻も先妻の名「織瀬」を名乗った。山崎篤利は、越谷の油商人で篤胤の出版事業を経済的に援助した人物である。この頃、篤胤は越谷の久伊豆神社境内に草庵「松声庵」をむすんでいるが、これは篤利たち越谷の門人たちの援助によるものであった。この年、『古史成文』を刊行、篤胤のライフワークとなる『古史伝』の著述にとりかかった。 文政2年(1819年)、2度目の東総遊歴をおこなった。最初の訪問地以外にも八日市場・富田・東金・本納・一の宮などを巡り、篤胤はこの遊歴の中で、のちに著作としてまとめられることとなる『玉襷(たまだすき)』や『古道大意』を講釈し、門人獲得を精力的におこなった。農政家・国学者として知られる宮負定雄の父定賢はじめ多くの豪農・神職がこのとき入門している(定雄自身も文政9年に入門)。 この時期の篤胤は、平田学の核心となる諸書の著述や刊行を進めると同時に幽界研究に大きな関心を払った。幽界に往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという者の言葉を信じ、そこから直接幽界の事情を著述している。 篤胤は、天狗小僧寅吉の異界での話を聞き書きしたが、文章だけでは物足りず、絵師を呼んで神仙界の「七生舞」を絵画で表現した。 文政3年(1820年)秋、江戸では天狗小僧寅吉の出現が話題となった。発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに寅吉が寄食したことにある。寅吉によれば、彼は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。篤胤はかねてから幽冥界に強い関心をいだいていたため、山崎の家を訪問し、この天狗少年を養子として迎え入れた。篤胤は、寅吉から聞き出した幽冥界のようすを、文政5年(1822年)、『仙境異聞』として出版している。これにつづく『勝五郎再生記聞』(文政6年刊行)は、死んで生まれ変わったという武蔵国多摩郡の農民小谷田勝五郎からの聞き書きである。幽なる世界についての考究には、他に、『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』などがあり、妖怪俗談を集めた『新鬼人論』(文政3年成立)では民俗学的方向を示し、のちに柳田國男や折口信夫らの継承するところとなった。 文政5年(1822年)、『ひとりごと』を著して、全国の神官に支配的な影響力をもつ吉田家に接近するため、かつて『俗神道大意』で痛罵した吉田家を弁護した。吉田家と敵対関係にある神祇伯白川家(白川伯王家)に接近したこともある。 文政6年(1823年)、かねてより学問に専心したいとして備中松山藩主板倉氏に対し永の暇を求めていたが、それが聞き入れられ、松山藩を辞している。こののち、篤胤は尾張藩に接近し、一時、わずかな扶持をあたえられたこともあったが、晩年にはそれを召し上げられている。 関西旅行とインド学・中国学 文政6年(1823年)、篤胤は関西に旅行した。7月22日に江戸を発つ際、上京にかける意気込みを「せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり」と歌に詠んだ篤胤は、8月3日に尾張国熱田神宮に参詣し、8月6日に京都に到着した。自身の著作を富小路貞直を通して光格上皇に、門人六人部節香・是香を通して仁孝天皇に、それぞれ献上している。 一方、篤胤の鈴屋訪問の報は、鈴屋の門人たちのあいだで篤胤をどう迎えるかの対立を生んだ。篤胤に好意的な『三大考』の著者服部中庸は篤胤こそ後継者に相応しく、どの門人も篤胤には及ばないとまで語ったといわれるが、多くの門人は露骨に篤胤を無視し、あるいは排斥した。その代表が京都の城戸千楯や大坂の村田春門である。かれらは篤胤が古伝に恣意的な解釈をほどこしていると批判し、城戸は篤胤来訪の妨害までしている。篤胤は京都で服部中庸を含む本居派門人と交流の機会を得ており、門人たちは篤胤に関する批評の手紙を、和歌山の本居宗家の本居大平に送った。大平が整理したこれら篤胤批評は、やがて人手を介して写本が篤胤に伝わり、のちに平田銕胤が論評と補遺を加えて『毀誉相半書』という名で出版した。 鈴屋一門の後継者本居大平は、『三大考』をめぐる論争で篤胤に厳しく批判されていたが、門人の一人として篤胤をもてなすこととした。訪問に先立って篤胤が送った「武蔵野に漏れ落ちてあれど今更に より来し子をも哀とは見よ」という歌に対し、大平は「人のつらかむばかりものいひし人 けふあひみればにくゝしもあらず」と返している。両者の会談は友好的な雰囲気で行われ、篤胤はこのとき宣長の霊碑の1つを大平より与えられた。 その後、伊勢神宮を参詣し、ついで松阪の本居春庭(宣長の子)を訪れ、11月4日に念願の宣長の墓参を果たした。墓前に「をしへ子の千五百と多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し」の歌を詠んだ。松阪では鈴屋本家を訪れ、本居春庭と会談するなどして、11月19日、江戸に戻った。 文政7年(1824年)、門人の碧川篤眞が娘千枝と結婚して婿養子となり、平田銕胤(かねたね)と名乗って篤胤の後継者となった。控えめな性格の銕胤は篤胤の活動をよく支えた。 この時期以降の篤胤には『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、とりわけ、道蔵をはじめとする中国やインドの経典類の考究に力を注いでいる。文政9年(1826年)成立の『印度蔵志』や文政10年(1827年)成立の『赤県太古伝』などがその代表である。これらは日本の古典や古伝承の研究をフィールドとするという意味での国学の概念を越え出ており、インドや中国の古記文献に関する研究が篤胤の著述のかなりの部分を占めることは、他の国学者には見られないところと評されている。なお、『印度蔵志』については、天保11年(1840年)、篤胤は曹洞宗総本山永平寺57世の載庵禹隣にみせており、このとき禹隣禅師は篤胤の労を称えて「東華大胤居士」の法号を贈ったといわれる。 晩年の暦学研究、江戸追放 天保2年(1831年)以降の篤胤は、暦日や易学に傾倒した。『春秋命暦序考』『三暦由来記』『弘仁暦運記考』『太皞古易伝』などの著作がある。上述のインド学・中国学、そして暦学や易学の研究の芽は、いずれも『霊能真柱』のうちに胚胎していたものであった。 天保5年(1834年)、篤胤は水戸の史館への採用を願ったが成功しなかった。天保8年(1837年)、天保の大飢饉のなか、かつての塾頭生田万が越後国柏崎で蜂起して敗死している(生田万の乱)。天保9年(1838年)、故郷久保田藩への帰参が認められた。また、この頃から篤胤の実践的な学問??は地方の好学者に強く歓迎されるようになり、門人の数も大幅に増加した。 天保12年(1841年)1月1日、西洋のグレゴリウス暦に基づいて江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に著述差し止めと国許帰還(江戸追放)を命じられた。激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたとも、尺座設立??の運動にかかわったためともいわれる。同年4月5日、秋田に帰着し、11月24日、久保田藩より15人扶持と給金10両を受け、再び久保田藩士となった。江戸の平田塾気吹舎の運営は養子の平田銕胤に委ねられた。 篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、門弟たちに国学を教えた。当時、菩提所の宗判がないと居住を許されなかったが、篤胤はこのとき生家大和田家が久保田郊外の曹洞宗寺院、正洞院の檀家であったことから同寺院を菩提所としている。門人の数は秋田帰還後も増え続け、帰藩してからも70人余に達しており、そのなかには藩校明徳館の和学方取立係であった大友直枝(平鹿郡羽宇志別神社社家)もいた。篤胤は江戸に帰還すべく運動したが、それは成功せず、『古史伝』などの著作は未完のまま、失意のうちに天保14年(1843年)9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した。68歳。葬儀は正洞院で盛大に営まれた。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点で門人は553人を数えた。銕胤は、毎年正月7日に金1歩を江戸より秋田の正洞院にとどけ、篤胤の供養を怠らなかった。 弘化2年(1845年)3月、白川神祇伯は篤胤に「神霊能真柱大人」の称号(のちに「霊神」に改称)を贈った。また、没後100年となった1943年(昭和18年)8月21日には従三位が追贈されている。 思想 当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い。篤胤の学説は、関東・中部・奥羽の神社・農村・宿駅など在方の有力者に信奉され、従来の諸学派をしのぎ、幕末の思潮に大きな影響をあたえ、特に尊皇攘夷運動の支柱となった。 篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えて、天地の始原・神祇・生死・現世と来世などについて古史古伝に新しい解釈を加え、キリスト教の教義も取り入れて葬祭の儀式を定め、心霊や仙術の研究も行っている。仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、様々な宗教教義なども進んで研究分析し、八家の学とも称した。なお、篤胤が大切にしていた新井白石肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的・論理的に学問を行う人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念を抱いていた。また、西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。篤胤は本居宣長と同じく「日本は他のどの国よりも優秀である」と主張するが、宣長のように「日本人本来の心を取り戻すためには儒学的知を排除しなければならない」というような異文化排斥の態度をとらない。彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも称される。篤胤の神道は復古神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながった。 篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。彼は、国学塾として真菅乃屋(のちに気吹舎)を文化元年(1804年)に開き、好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸をひらいた。文化元年(1804年)から明治9年(1876年)まで、篤胤死後も含めた平田塾の門人数は約4,200名にのぼったとされるが、このように平田塾が広範囲に多数の門人を集めた理由のひとつとしては、平田国学が近代をむかえようとする在方レベルでの新しい知識欲に応えうる内容を有していたからだと考えられる。すなわち、その国学には、たとえ通俗化したかたちではあっても洋学からの新知識や世界の地誌や地理、地動説にもとづく宇宙論、分子論を取り込んだ霊魂論、また、復古神道の論理的帰結であり、身分制の解体を希求する「御国の御民」論など、当時、台頭しつつあり、また地方の課題に向き合うことを余儀なくされた在方の豪農層には新鮮で有用な知見が多く含まれていたと考えられるのである。 篤胤は、一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも関係していると思われる。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村は小説『夜明け前』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。 **土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想→彼の思想は柳田國男や折口信夫等の民俗学に受け継がれていく。風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問である。このような流れはドイツにも見られ、グリム童話のグリム兄弟などがその一派とか。キリスト教の縛りを離れてドイツ民族本来の姿を見つめたい。ドイツ国学の誕生か。ナチズムの誕生にも繋がっているかも。 この学問は、近代化によって多くの民俗資料が失われようとするとき、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬やナショナリズムの高まりとともに誕生した若い学問であり、日本もその例外ではない。日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけて、柳田國男や折口信夫らによって近代科学として完成された。通常はfolkloreの訳語とされるが、folkloreは民間伝承(民俗)それ自体をも指すため、英語圏では民俗学をFolklore-StudiesやFolkloristicsと呼ぶことも少なくない。 人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っている。こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明する学問でもある。 出定笑語 平田は『出定後語』の理論を借用して『出定笑語』を書き、文章が平易通俗的であったこともあり、幕末以前、1820年代、1830年代、1840年代の多くの人に読まれ、明治維新に至る王政復古運動、さらには廃仏毀釈の思想原理になった。 民族宗教の体系化 書籍によって自然科学や世界地誌を深く学んだ平田篤胤は、自己に対する他者を中国から西洋に転換した当時の知識人のなかの一人であった。かれは、天主教的天地創造神話を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする、きわめて首尾一貫した復古神道神学を樹立した。 復古神道においては、日本の「国産み」においてこそ天地創造がおこなわれる。日本は「よろずの国の本つ御柱(みはしら)たる御国(みくに)にして、万の物、万の事の万の国にすぐれたるものといわれ、また掛(かけ)まくも畏(かしこ)き我が天皇命(すめらみこと)は万の国の大君(おおきみ)にましますこと」が自明のこととして主張される。こうした民族宗教としての神道の体系化は、「世界の一体化」の過程において、儒教的な東アジア知的共同体からの日本の離脱を意味するものであって、反面、せまりくるウェスタンインパクト(西洋の衝撃)に対する日本単独の態度表明でもあった。 「よろずの国の本つ御柱」たる日本の位置づけは、当時にあっては、何故西洋諸国が日本に交易を求めてくるのかの説明に用いられ、日本が「中つ国」「うまし国」であることは、鎖国下の日本が物産豊かに自足し、他国との交易を必ずしも必要としていないという事実(あるいは事実認識)がこれを補強した。 篤胤は、村落の氏神社への信仰や祖先崇拝といった、従来、人びとが日常レベルで慣れ親しんできた信仰に、記紀神話の再編にもとづくスケールの大きい宇宙論を結びつけ、さらに幽冥界での死後安心の世界を提示した。宇宙論から導かれる神々の秩序やそのなかに整然と位置づけられる氏神社、永遠の魂の安全といった教義は、村落指導者たちに対し、それまで深く意識することもなく受け入れてきた村落の神社のすがたを一変させるような強烈な印象をあたえたものと考えられる。

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高橋是清

高橋 是清(たかはし これきよ、1854年~1936年(昭和11年))
立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年(大正10)~- 1922年(大正11)。栄典は正二位大勲位子爵。日露戦争の戦費調達のための外債募集を大成功させたことで、近代日本を代表する財政家として知られる。大蔵大臣としての評価は絶大。愛称は『ダルマさん』。二・二六事件で暗殺された。

高橋是清 1854年幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として、江戸芝中門前町に生まれる。きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。

その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(後の明治学院)にて学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる(つまり奴隷だ)。牧童や葡萄園での奴隷として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。

1868年(明治元年)、帰国する。帰国後の1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら佐賀の耐恒寮や須田学舎など当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現:開成中学校・高等学校)の初代校長を務めた。共立学校の教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友、山口慎と苦労を分かつ。1892年(明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。

高橋是清 日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、「この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。」
支払い能力は関税収入である。中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例がある。と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、当時香港上海銀行のロンドン支部長ユーウェン・キャメロン(デーヴィッド・キャメロンの高祖父)らが公債発行に応じ、さらにジェイコブ・シフなどニューヨークの人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。
1913年(大正2年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。

政友会はその後も迷走し、清浦奎吾の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された第15回総選挙に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは有爵者には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党政友本党の対立候補田子一民に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。
新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任命。
その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。

1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止、史上初の国債の日銀直接引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論』刊行の4年前であった。髙橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。 五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任。また1934年(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた。軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、暗殺された。享年81。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。間口も奥行きもある人物であり、インタビュー後でも忘れられない印象を残したとされる。

世界恐慌の際にドイツのヒットラーや米国のルーズベルトに先駆け、日本は世界恐慌から脱出できた。日本政府が満州国へ多大の投資をおこなったのもニューディール政策に先行して模範を示したものとして、世界的にも注目を浴びたはずだ。

満州国へは多くの貧しい農民たちが入植した。金儲け目当ての麻薬販売人たちではない。元々この地は清国の発祥の地、しかし、全くの荒れ地で農業はほとんど行われていない。現在この地は、穀倉地帯で中国人の食料を生産する場所に転換している。ここに、世界中から多くの人を招き入れ、差別のない平等な理想郷を作るというのが本来の発想だった。軍部もこれには賛同し、後ドイツがユダヤ人迫害を始めても関東軍は彼等を受け入れることにも乗り気であったという。外務省はドイツに忖度していたためかこれは実現しなかった。
高橋が軍事予算を抑制しようとしたこともっともなこと。高橋を軍部が殺害したことは、日本の歴史にとって最悪の事態を招くことに。癌細胞の如く、軍部は暴走を始める。そもそもせっかく満州国の経営が立ち上がったのに、中華民国に戦争を吹きかけた(満州事変)。これでは米英に戦争の口実を与えるようなもの。

何故か日本の政治家は重要な人物に限って暗殺されている。大久保利通、原敬、高橋是清。彼等は改革皆道半ばで挫折させられている。勿論殺されないまでも可笑しな事件で失脚させられている。犯人の裏に闇の組織の存在があるのでしょうか。安倍晋三さんもその一人になれるのでしょうか。

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淵田 美津雄

高橋是清 淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)~ 1976年(昭和51年): 日本の海軍軍人、キリスト教伝道者。海軍兵学校52期。最終階級は海軍大佐。

1902年12月3日、奈良県北葛城郡磐城村(現・葛城市)で教師の父・弥蔵と母・シカの三男として生まれる。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、1921年(大正10年)、海軍兵学校に海兵52期として入学する。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。1924年7月24日、海軍兵学校を卒業、少尉候補生。

1941年12月、ハワイ作戦に参加。8日、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官で第1次攻撃隊を指揮し、「ト・ト・ト」(全軍突撃せよ)及び「トラトラトラ」(奇襲ニ成功セリ)が淵田中佐機から打電された。真珠湾攻撃の戦果は戦艦4隻が大破着底戦艦2隻が大・中破するなど、米太平洋艦隊戦艦部隊を行動不能にする大戦果をあげた。攻撃後に淵田は源田とともに数日付近にとどまり留守だった敵空母を撃滅する案を進言したが受け入れられなかった。12月26日、第一次攻撃隊指揮官淵田と第二次攻撃隊指揮官嶋崎重和少佐は直接昭和天皇への真珠湾攻撃軍状奏上が許される。佐官による軍状奏上は初のことであった。その後二人は淵田と海兵同期の高松宮宣仁親王に誘われて27日、霞ヶ関離宮の皇族の集まりに顔を出した。
*真珠湾攻撃は奇襲とはいえ大成功だったとの評価は変わらない。

その後休む間もなく第一航空艦隊は南下し、1942年1月20日〜22日のラバウル・カビエン攻略支援、1942年2月19日のボートダーウィン攻撃、1942年3月のジャワ海掃討戦、1942年4月のインド洋作戦と攻撃隊を指揮し連戦連勝を続けた。インド洋作戦までで大戦果をあげながら損失はわずかだった。第一航空艦隊は世界最強の機動部隊となるが、連戦連勝で疲労と慢心が現れていた。

1942年6月、ミッドウェー作戦に参加するが、虫垂炎となり盲腸の手術をしたため出撃できず空母赤城艦上に留まり、代わりは友永丈市大尉が務めた。しかしミッドウェー海戦の敗北で空母4隻を失う結果となる。淵田は赤城からの脱出時に両足を骨折した。

1943年7月1日、第1航空艦隊作戦参謀。長官は角田覚治中将。再建された一航艦は散在する基地を母艦に見立て移動と集中を重視した航空部隊であった。1944年2月、マリアナ諸島テニアン島進出後にマリアナ諸島空襲を受ける。角田は攻撃を企図するが、淵田は戦闘機が不十分、進出直後で攻撃に成算はない、消耗は避けるべきと飛行機の避退を進言したが聞き入れられなかった。結局一航艦は米艦隊攻撃で壊滅状態となる。

1944年4月30日、連合艦隊航空甲参謀に着任。連合艦隊長官は豊田副武大将。1944年5月、あ号作戦準備中にビアクに米軍が上陸すると、連合艦隊司令部は作戦命令方針に背き独断で決戦兵力をビアクに投入した。軍令部は現場の意向に従い5月29日、渾作戦が開始する。しかし11日、マリアナに米機動部隊が来攻し、13日、連合艦隊司令部はあ号作戦用意発令を強行し、混乱で戦力を消耗したまま19日、マリアナ沖海戦が開始される。空母3隻と航空戦力の大半を失って敗北する。

1944年10月、台湾沖航空戦が発生する。敵空母11隻轟撃沈、8隻撃破の戦果を報じる。戦果検証に携わった連合艦隊情報参謀中島親孝中佐によれば、参加部隊は経験が浅いので、司令部で戦果を絞った方がいいと意見したが、淵田は「下から報告してくるのを値切れるか」と答えたという。壊滅したはずの米戦力が発見され、連合艦隊日吉司令部で淵田美津雄、鈴木栄二郎、田中正臣、中島親孝の4人で再検討がされ4隻撃破程度撃沈なしと判断する。淵田によれば参謀長申進を以て注意をし、捷号作戦は敵空母10隻健在のもと対処するように通達したため、連合艦隊、軍令部、各航空隊も敵空母健在と判断していたという。

1944年10月、レイテ沖海戦が発生した。同海戦から神風特攻隊が開始され、以降淵田は航空主務参謀としてその発令、命令の起案を担当した。最初の神風特攻隊の感状の起案も行った。先に未帰還となった久納好孚中尉より関行男大尉が一号となった経緯について軍令部部員奥宮正武は久納大尉の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀淵田大佐の慎重な処置ではないかという。

1945年4月、海軍総隊兼連合艦隊航空参謀。沖縄作戦が始まると連合艦隊司令部では神重徳大佐が戦艦大和による海上特攻を主張した。神は「大和を特攻的に使用し度(た)く」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。淵田は「神が発意し直接長官に裁決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。

1945年8月5日、会議で訪れていた広島を離れ、広島市への原子爆弾投下から間一髪で逃れた。広島が核攻撃された翌日には海軍調査団として入市、残留放射能により二次被爆するが放射線障害の症状は出なかった。

1945年8月15日、終戦。
1945年11月、予備役編入。極東国際軍事裁判(東京裁判)では連合艦隊航空参謀として特攻で病院船2隻が沈んだことについて質問された。1945年12月〜1946年3月、第2復員省勤務。史実調査部、GHQ歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。その後、正規海軍将校のため公職追放となる。

●終戦後のある日、米国兵達に突然、無理やり連行される事件があったとか。屈強そうな黒人兵達に囲まれて、倉庫のような建物に押し込まれる。死を覚悟したとか。ところがそこで待っていたのは大勢の黒人兵達の大歓迎。彼は真珠湾攻撃の大ヒーローと言うことだった。彼を囲んでの大宴会。白人達に抵抗して苦しめてくれたヒーローとして仲間と見なされた訳らしい。ずっと、日本の勝利を願っていたんだそうだ。当時の米国大統領は民主党のルーズベルトだったが、人種差別主義者の彼と戦う日本軍を多くの黒人達がヒーローと見做していた訳。

戦後、元アメリカ陸軍航空軍軍曹のジェイコブ・デシェーザー宣教師の書いたパンフレットを読みキリスト教に関心を持つ。以降淵田は1952年から1957年まで8度にわたりアメリカへ伝道の旅に出かけた。キリスト教の伝道をする淵田には海軍仲間の批判、アメリカのリメンバーパールハーバーの声、元特攻隊員が刀を持って押し入るなど障害も多かった。しかし淵田は自らが「真珠湾の英雄(私がトラトラトラの淵田です)」であることを伝道の武器にし、戦争は互いの無知から起こったとし、謝罪ではなく互いに理解するため戦争の愚かしさ、憎しみの連鎖を断つことを訴えた。

1966年、米国の市民権を得る。晩年は大阪水交会会長を務める。1976年5月30日、糖尿病の合併症により死去。入院中は、見舞いに訪れた来客とは日本語で会話していたが、当時アメリカに留学していた娘とは英語で会話していたという。葬儀は海軍関係者向けに神式、その他向けにキリスト教式に別々で執り行なわれた。

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イリヤ・レーピン

ロシア語: Илья́ Ефи́мович Ре́пин, Ilya Yefimovich Repin (1844年~ 1930年)
レーピン ロシア帝国の画家・彫刻家。世界史の断面を見事に切り取った迫力ある写実な絵で有名。多分何処かでお目にかかっているはずだ。心理的洞察を持ち合わせた写実画によって名高く、いくつかの作品は既存の社会秩序の矛盾や階層間の緊張を露わにしている。社会的名士の肖像画を制作する一方、しばしば貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材として、数多くの作品を残した。

レーピンはロシア帝国時代、ウクライナ・ハリコフ県で生を受けた。この地はハリコ「スロボジャーンシュチナ」と呼ばれたウクライナの歴史的地域の中心部であった。両親はロシア人入植者(いわゆる屯田兵)であるため、民族的にはウクライナ人でない。でもコサック騎兵として軍人となった経歴はあるようだ。

レーピン 1866年に、地元のイコン画家イワン・ブナコフの許で徒弟として修業を積み、肖像画の予備的な勉強をしてからサンクトペテルブルクに上京し、短期間ロシア帝国美術アカデミーへの入学を許可される。1873年から1876年までアカデミーの許可を得て、イタリアとパリに遊学。後者においてはフランス印象主義絵画に接触して、色と光の使い方に永続的な感化をこうむる。それでも依然としてレーピンの画風は、西欧の古い巨匠たち、ことにレンブラントのそれに近く、レーピン自身が印象派に属することはなかった。

レーピン 自分と出自の同じ一般大衆に生涯を通じて注目し続け、しばしばウクライナやロシアの地方の庶民を描いたレーピンだが、後年になるとロシア帝国のエリートやインテリゲンチャ、ニコライ2世などの貴族・皇族らも描くようになった。レーピンの有名な肖像画として、アントン・ルビンシテインやモデスト・ムソルグスキー、レフ・トルストイ夫妻を描いたものが挙げられる。
*有名人の肖像画を描くことは収入を得るためには必須だったでしょう。

レーピン 1878年に自由思想の「巡廻美術展協会」(日本での通称は「移動派」)に入会。この団体は、レーピンが上京したころ官学のアカデミックな形式主義と闘ったグループであった。1870年代前半に制作した絵画『ヴォルガの舟曳き』を巡廻美術展に出品したことにより、レーピンの名声が確立する。この作品は、重労働に就く多くの貧民を描いたものであって、希望なきロシアの青年を描き出したものではない。1882年からはサンクトペテルブルクに住むようになるが、しばしばウクライナに帰郷し、機会を見て外国旅行にも赴いた。
1881年、アレクサンドル2世が暗殺される直前に、レーピンはロシアの革命運動をテーマに扱う一連の絵画(『自白の拒否』『ナロードニキの逮捕』『思いがけなく』)に着手する。なかでも『思いがけなく』は、間違いなく革命を題材とする風俗画の傑作であり、絵の中の人物同士の対照的な気分と、民族的なモチーフとが混ぜ合わされている。

大作の『クルスク県の十字架行進』(1880年~1883年)は、一堂に会したさまざまな社会階層とその間の緊張した関係をひとつの伝統的宗教行事に託して描くとともに、緩慢にではあるがたゆまず続く前進というモチーフでまとめあげている。このことから本作は「ロシア民族様式」の祖型といわれることがある。

レーピン 1885年には、心理的側面において最も強烈な絵画『イワン雷帝と皇子イワン』を完成させる。カンバスの中でイワン雷帝は、怒りを抑えきれずに息子を殴って深手を負わせてから正気に戻り、死にゆく息子を抱き締めつつ恐れ慄いている。怯えきったイワン雷帝の横顔は、力ない息子の横顔と対比をなしている。



レーピン レーピンの最も手の込んだ絵画は、『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージュ・コサックたち』であり、服従を迫るスルタンに対しコサックたちが嘲弄に満ちた返書をしたためる、という伝説的場面が主題である。この作品は完成までに実に長い歳月を要した。本作のそもそものコンセプトは「さまざまな笑顔の見本」であったが、レーピンはまたこの画題のなかに自由・平等・博愛の理念が内包されているとも考えていた。彼はウクライナ・コサックたちの共和主義の理想を描こうとしたのである。1870年代の末に着手され、ようやく1891年になって完成したが、皮肉にも、完成後すぐにツァーリによって買い上げられた。代金は3万5千ルーブルであった。この数字は、それまでロシアの絵画に対して支払われたうちの最高額だった。

成熟期のレーピンは数多くの著名人の同胞を描いており、レフ・トルストイやドミトリー・メンデレーエフ、将校ポベドノスツェフ、慈善事業家パーヴェル・トレチャコフ、ウクライナの詩人タラス・シェフチェンコらを描いた。1881年には、ウラディーミル・スターソフの要請もあって、死が間近に迫っていたモデスト・ムソルグスキーの肖像を描いており、ムソルグスキーの死後、その肖像画を売ってムソルグスキーをアレクサンドル・ネフスキー寺院に埋葬する費用にあてたという。1889年には、作曲家のアレクサンドル・グラズノフから、管弦楽曲《東洋風狂詩曲》作品29を献呈されている。

レーピン 1903年にはロシア政府からの依嘱で、国家評議会創設100周年記念式典を描いたレーピン最大のカンバス(400×877 cm)が制作された。

レーピンは、サンクトペテルブルクの真北にあるクォッカラに自宅「ペナトゥイ」を構えた。1917年のロシア革命とフィンランド独立によって同地がフィンランド領に編入されるが、レーピンはそのまま同地に留まった。ソ連政府はたびたびレーピンに帰国を要請したものの、あまりに高齢であることを口実にレーピンは帰国を断わり続けた。レーピンはボリシェヴィキの革命後の残虐行為に反発しており、晩年のインタビューではボリシェヴィキを「強盗、殺人者」と呼び、「ソビエトロシアへは決して戻らない」と語っている。晩年まで創作は続けたが、右手の障害に加えてキャンバスすら入手が難しくなったためリノリウムを代わりに用いた。1930年にクオッカラで死去。

レーピンの死後、ソ連・フィンランド戦争によって領土が再編されると、クオッカラはソ連当局によりレニングラード州に編入され、レーピンにちなんでレーピノと改名された。「ペナトゥイ」は1940年にレーピン美術館として公開され、現在は「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」の一部として世界遺産に登録されている。

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櫻井忠温

櫻井忠温 櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)~1965年(昭和40年)):日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。
1879年(明治12年)6月11日、愛媛県松山城下の小唐人町(現・松山市大街道1丁目)に士族の3男として生まれる。1899年(明治32年)、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校卒業(13期)。

松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征。乃木将軍配下、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという。

帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録『肉弾』を1906年(明治39年)に刊行。戦記文学の先駆けとして大ベストセラーとなり、英国、米国、ドイツ、フランス、ロシア、中国など15カ国に翻訳紹介される。

1924年(大正13年)以降、陸軍省新聞班長を務め、1930年(昭和5年)、陸軍少将で退役。著作には『銃後』『草に祈る』『黒煉瓦の家』『大将白川』『将軍乃木』『煙幕』などのほか、晩年の自伝『哀しきものの記録』がある。また少年時代に画家を志し、四条派の絵師に学んだほど画技にも秀で、画集も出版している。

1932年(昭和7年)、チャールズ・チャップリンの訪日前に一部軍人の不穏な動きを察知し、チャップリンの秘書の高野虎市(櫻井と親交があった)に対して日本滞在中の旅程案を提示し、その中で右派勢力を懐柔するために皇居を遥拝するよう助言した(実際にチャップリンは東京に到着後、遥拝を行った)。

太平洋戦争時の活動から、1947年(昭和22年)公職追放に遭い、1952年(昭和27年)解除。長く東京で暮らしたが、1959年(昭和34年)に帰郷。
1962年(昭和37年)に松山坊っちゃん会を設立、初代名誉会長となる。
1964年(昭和39年)に愛媛県教育文化賞を受賞。
1965年(昭和40年)9月17日、松山市一番町の菅井病院で死去。86歳没。墓所は多磨霊園(8-1-15)。

坊っちゃん連載
1962年(昭和37年)に5月から7月までには愛媛新聞の夕刊として、かつて1906年(明治36年)に高浜虚子が主宰した雑誌「ホトトギス」に発表された夏目漱石の名作「坊っちゃん」の挿絵を担当した。夏目漱石が教師として松山時代に赴任した時、教え子となった。「漱石赴任120年」として2015年2月22日から52年ぶりに愛媛新聞で再び掲載された。

著書『肉弾』
難攻不落の要塞といわれた旅順口。ここに乃木希典大将率いる大日本帝国陸軍第三軍は、ステッセル司令官率いる強大国ロシア軍と壮烈な攻防戦を繰り広げた。 本書は、旅順要塞をめぐる日露両軍の激戦の模様を克明に伝えるほか、惨劇を極める戦場の極限状態にあって、なお部下や戦友の安否を気づかい、家族を想う兵士達の姿を感動的に描く。

日露戦争後、櫻井は明治天皇から破格の特別拝謁の栄誉に授かり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は本書をドイツ全軍の将兵に必読書として奨励した。また日露戦争終結に尽力したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、櫻井宛に「予はこの書の数節を我が二児に読み聞かせたが、英雄的行為を学ぶことは一朝有事の時に際して、一般青年の精神を鼓舞すべきもの」という賞賛の書簡を寄せた。 英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア・中国など、世界15カ国で翻訳出版され、近代戦記文学の先駆けとして世界的ベストセラーとなる。

日露戦争後、櫻井は明治天皇から破格の特別拝謁の栄誉に授かり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は本書をドイツ全軍の将兵に必読書として奨励した。また日露戦争終結に尽力したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、櫻井宛に「予はこの書の数節を我が二児に読み聞かせたが、英雄的行為を学ぶことは一朝有事の時に際して、一般青年の精神を鼓舞すべきもの」という賞賛の書簡を寄せた。 英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア・中国など、世界15カ国で翻訳出版され、近代戦記文学の先駆けとして世界的ベストセラーとなる。

*実は、この本は今の学校や自治体の図書館には置かれていない。戦後GHQによって禁書指定されたかららしい。でも、戦後80年もたっているのに未だに禁書? そもそもなぜ禁書指定にしたのか? GHQの禁書指定を作る際には日本の学者達も大いに協力して、未だにその勢力は文部省などの官僚機構に残存しているからだとか。

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丸本彰造

丸本彰造
丸本 彰造(まるもと しょうぞう:
1886年〈明治19年〉3月25日 - 1961年〈昭和36年〉11月19日)は、日本の陸軍軍人。主著『食糧戦争』はGHQにより焚書(没収)された。最終階級は陸軍主計少将。勲三等従四位。

【GHQにより焚書】
分書扱いされたのは相当な名著であったんでしょう。そもそもGHQとはどんな性格の組織で、どんな目的で活動していたのでしょう。戦後80年たった日本では、未だに発禁処分された貴重な書籍の復刻版はなかなか登場しない。『食糧戦争』とは今世界が直面している最重要なテーマだ。

GHQに送り込まれた職員たちは、主に極左リベラル系の学者達が多かったようだ。まずは、日本を二度と米国に反抗できない弱小国にすること。そのためには天皇制を廃止し、国民をバラバラの個人の集団に替えてしまうこと。反ソ共産主義革命を起こして中央集権的な強権的国家を造らせること。つまりソ連大嫌いの共産主義とはトロキー的な思想だ。それと、日本の官僚や学界などに親GHQの日本人を大量に採用した。

ある意味、日本に幸いだったのは占領軍のトップがマッカーサー元帥だったこと。彼は軍人としての武士道精神(騎士道精神)からか日本の天皇に対しても旧軍人たちに対しても一定の敬意を持っていた。「戦勝国が敗戦国を一方的に裁くことは理に会わない。」このセリフのおかげて彼は米大統領候補としての資格を失う。

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福地源一郎

福地源一郎 福地 源一郎(ふくち げんいちろう、1841年~1906年):
幕末の旗本(外国奉行支配調役格通弁御用頭取、150俵3人扶持、御目見得以上)。明治時代の政論家・劇作家・小説家。幼名八十吉(やそきち)。号星泓のち櫻癡(おうち、新字体:桜痴)、別号吾曹。福地桜痴の名で知られる。東京日日新聞社長、最晩年は衆議院議員。

「江湖新聞」発刊で筆禍を得、大蔵官僚を経て東京日日新聞社主筆・社長に就任。当時の言論界・政界に大きな影響力を揮ったが、のち声望傾き、退社後は演劇改良運動に傾注して活歴劇を創始。改修物、翻案物のほか時代物や世話物を創作して劇壇の第一人者となった。
*のち声望傾き→薩長政権に嫌われた?

天保12年(1841年)、長崎新石灰(しっくい)町で長門国豊浦郡府中出身の儒医・岸田苟庵(福地苟庵)の息子として生まれた。幼時から長川東洲について漢学を学び、15歳の時に長崎で阿蘭陀通詞・名村八右衛門のもとで蘭学を学ぶ。安政4年(1857年)に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出た。以後、2年間ほどイギリスの学問や英語を森山栄之助の下で学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなった。万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。文久元年(1861年)には柴田日向守に付いて通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。また、同年に発生した第一次東禅寺事件では外国方として現場にいたため事件を目撃し、その詳細を記録している(『史談会速記録』)。

慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また西洋の演劇や文学にも興味を持ち始める。

慶応2年(1866年)1月に江戸に帰着し、同年3月、外国奉行支配調役格通詞御用頭取に任じられて蔵米150俵3人扶持に加増され、御目見得以上(旗本)に列した。しかし、開国論の主張が攘夷派に敵視されて不平に堪えず遊蕩に耽った。

慶応3年(1867年)10月の大政奉還の際には、徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの内容の意見書を小栗忠順に対して提出したが、その意見の妥当性は認められたものの、慶喜の意向が判然としないことなどの理由から容れられることが無かった。

維新後
江戸開城後の慶応4年閏4月(1868年5月)に江戸で『江湖新聞』を創刊した。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べた。
これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件であり、太政官布告による新聞取締りの契機となった。その後、徳川宗家の静岡移住に従い自らも静岡に移ったが、同年末には東京に舞い戻り、士籍を返上して平民となり、浅草の裏長屋で「夢の舎主人」「遊女の家市五郎」と号して戯作、翻訳で生計を立て、仮名垣魯文、山々亭有人等とも交流した。その後下谷二長町で私塾日新舎(後に共慣義塾に改名)を開き(後に本郷に移転)、英語と仏語を教えている。

明治3年(1870年)、渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入り、また伊藤とともにアメリカへ渡航し、会計法などを調査して帰国。翌年、岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を訪れ、明治6年(1873年)に一行と別れてトルコを視察して帰国。明治7年(1874年)、大蔵省を辞して政府系の『東京日日新聞』発行所である日報社に入社(主筆、のち社長)、署名の社説を書き、また紙面を改良して発行部数を増大させた。政治的立場としては漸進主義を唱えて、自由党系の新聞からは御用主義、保守主義と批判されたが、政界に親しくした。明治8年(1875年)に新聞紙条例と讒謗律が発布された際には、その適用について各新聞社が共同で政府へ提出した伺書の起案を行った。また同年には地方官会議で議長・木戸孝允を助けて書記官を務める。明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると2月22日軍団御用係の名目で自ら戦地に出向き、山縣有朋の書記役も得て、田原坂の戦いなどに従軍記者として参陣、「戦報採録」など現地からの戦争報道を行ってジャーナリストとして大いに名を上げた。この東京への帰途に木戸孝允の依頼で、京都で明治天皇御前で戦況を奏上する。

明治11年(1878年)に渋沢栄一らとともに東京商法会議所を設立。また下谷区から東京府会議員に当選し、議長となった(のちに東京市議にも当選[8])。さらに、東京株式取引所肝煎にも推挙される[3]。明治14年(1881年)、私擬憲法『国憲意見』を起草し、また軍人勅諭の制定にも関与した。この年、『東京日日新聞』は1万2千部を発行するようになる。この頃、下谷の茅町の自宅で豪奢な生活を送り、自宅は俗に「池端御殿」、福地本人は「池ノ端の御前」などと呼ばれ、多くの招待客が訪れていた。

明治15年(1882年)、丸山作楽・水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙等を政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けたが、政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌年に解党した。

**超然主義
超然主義とは、政府が政党に左右されずに、特定の政党に偏らず、客観的な立場から政治を行うことを指します。これは、1889年に黒田清隆首相が、憲法発布の際、地方長官に対して行った演説で提唱された考え方で、政府が「常に一定の方向」を保持し、政党から一定の距離を置くべきだという主張がその根拠となっています。
「常に一定の方向」とは何か。この時代なら簡単だ。富国強兵を推進し、欧米列強の不当な干渉を排除し、強いてはアジアの同胞の独立を支援することだ。つまりどの政党も目的は同じと言うことで協力できる。

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宮崎滔天

宮崎滔天 宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871~1922年): 自由民権思想を根幹とする世界革命を目指し活動した近代日本の社会運動家。孫文ら中国の革命家たちを支援した日本人の代表格として知られ、孫文の自伝「志有れば竟に成る」で「革命の為に奔走して終始おこたらざりし者」 としてその名が挙げられている。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。

荒尾宮崎家は1647年、宮崎弥次兵衛正之が荒尾村の有力武士の娘を嫁に迎え、定住したことに始まる。肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に遠祖を菅原道真とする郷士の家柄に、その9代目となる宮崎政賢と佐喜夫妻の八男として、1871年(明治3年)に生まれる。兄に社会運動家の宮崎八郎、宮崎民蔵、宮崎彌蔵がおり、八郎は熊本の自由民権運動家で「肥後のルソー」と呼ばれた。幼少の頃から村人たちに「(八郎)兄様のようになりなさい」と言われ、「先天的自由民権家」と自認して少年期を過ごした。7歳の時の1877年、八郎が西南戦争で戦死。八郎戦死の訃報を聞き、「良いか皆のもの、今後一切宮崎家のものは官の飯を食ってはならぬ」と父が慟哭したことは滔天の記憶に鮮明に刻まれ、以後、「官」と付くものは「泥棒悪人の類」と見做すようになる。父には山東家伝二天一流を兄たちとともに習っている。

熊本県立中学校に通うも、「中学同窓生の其志望目的を語るや、皆曰く吾は何々の吏となり、吾は何某の官に就かん」という有様であったため、1885年(明治18年)、「自由民権の思想を鼓吹して人材を養成しつつありし」徳富蘇峰の私塾・大江義塾に入塾した。当初、滔天は大江義塾に対し、「余が理想郷なりき、否余が理想よりも遥かに進歩せる自由民権の天国なりき」と期待したが、やがて塾生との問答から、徳富蘇峰や塾生たちが功名心や立身出世を願って自由民権を語っていることを知り、失望してわずか半年で大江義塾を去った。民権家には演説が付きものだが、このころの滔天は人前で話すのが苦手だったという。

1886年(明治19年)に上京。偶然立ち寄った教会で生まれて初めて聞く讃美歌に感動し、宣教師の説教を聞いて「暗夜に光明を望むが如き感」を得る。「政治の共和的にして、信仰条目の自由なる」考えに共鳴して1887年に受洗した。この間、教会に通い、牧師の妻から英語を習った。また、東京専門学校(現早稲田大学)の英学部に入学している。 1887年、学資困窮となり帰郷。そこで貧しさにあえぐ荒尾村の農民たちの姿を目の当たりにし、「先ずパンを与うべきか、福音を先にすべきか」と、キリスト教への信仰が揺らぎ始めることになる。 伝道師となって世界を救うことを夢見て荒尾を再び離れ、1888年(明治21年)に熊本英学校、次いで1889年(明治22年)には長崎のミッションスクール「加伯里(カブリ)英和学校」に遊学した。カブリ英和学校在学中、スウェーデン人のイサク・アブラハムと知り合い、彼から「宗教の裏面に地獄あり…古来宗教の為に恐るべき戦争を惹起したること幾何ぞ」とのことばに衝撃を受け、さらに自由民権の本場である欧米社会でも貧困に喘ぐ人々が多くいる事実を知る。このことが、滔天がキリスト教を脱会する大きな要因となった。イサクに関心を持った同郷の有志たちと彼の学校を作ることを計画し、前田下学(前田案山子の長男)に頼んで、熊本に英語を講習する一私塾を開かせることとなった。熊本に学校をつくるまでの間、下学の本宅がある玉名郡小天村(現天水町)で村童相手に英語を教えることとなり、滔天はイサクの通訳兼付き人として同道。そこで下学の妹である槌と知り合い恋仲になる。学校計画は、田畑の至る所に排泄を行う等、イサクの自然讃美ないしはアナーキズムによる独自の哲学から編み出された生活によって、20人を超えた村童・青年たちもたちまち離れてしまい、とん挫した。(その後イサクはアメリカに強制送還された)。

ツチとの恋に落ち「恋の化身」となった滔天であったが、次第に「大罪悪を犯したるがごとき感」を抱くようになり、アメリカに留学することを企図。このため長崎に滞在していたところ、兄・彌蔵が駆け付け、彼の革命的アジア主義を説かれる。 「パンを与ふるの道古人既に之を喝破し尽くせり、…(中略)…之を決行するの道、唯腕力の権に頼るの一法あるのみと。…腕力の基礎の切要にして且急務なるを認めたり。然らば乃ち何の処にか其基礎を定むべき。是に於て彼が過去の宿望たる支那問題は復活せり。」 「もし支那にして復興して義に頼って立たんか、印度興すべく、暹羅安南振起すべく、比律賓、埃及もって救うべきなり…(中略)…遍く人権を回復して、宇宙に新紀元を建立するの方策、この以外に求むべからざるなり」。 世界革命の必要性、そしてその第一歩としての中国革命というこの考えに滔天は深く共感し、以後、兄弟で中国革命を目指すようになる。

1891年(明治24年)、初めて上海に渡航した。翌年、槌と結婚し、長男の龍介誕生。おりしも朝鮮で東学党の乱があり、日本と清国との交渉はついに切迫した。渡米して経済学を学ぶために、1895年(明治28年)4月に神奈川県で旅券を取得したが、渡米は実現しなかった。

同1895年(明治28年)7月頃神戸の岩本千綱と連絡し、9月末広島の海外渡航株式会社の在バンコク代理人に就職してタイに渡った。1896年(明治29年)6月にはタイより最終的に帰国した。

兄・彌蔵の死と孫文との邂逅
外務省の命によって中国秘密結社の実情観察におもむき、中国革命党員との往復があった。

1897年(明治30年)に孫文(孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や蔣介石を援助した。1898年(明治31年)、戊戌の政変においては香港に逃れた康有為をともなって帰朝し、朝野の間に斡旋し、同1898年(明治31年)のフィリピン独立革命においては参画するところがあった。

**戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)は、1898年(戊戌の年)に清朝の光緒帝が康有為らを登用し、近代化改革(戊戌の変法、または百日改革)を始めた際に、西太后を中心とする保守派がこれを弾圧した事件です。光緒帝は幽閉され、改革派の主要人物は処刑や亡命に追い込まれ、改革は挫折しました。

哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、1900年(明治33年)に恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在のシンガポール)にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。

恵州事件の失敗から同志間で滔天への「悪声」が聞かれるようになり、「胸底を去る能わざりき」不快の念を抱いた滔天は浪花節語りに転身することを決意。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた。「侠客と江戸ッ児と浪花節」のエッセイで滔天は、自らの浪曲観を説明し「平民芸術」と定義した。この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、1902年(明治35年)8月20日に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。この『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。

一旦はアジア主義運動に挫折し、自分を見つめ直す意図で桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となる(なお東京・浅草の日本浪曲協会大広間には孫文筆になる「桃中軒雲右衛門君へ」という額が飾られている)。

しかし革命の志を捨てたわけではなく、1905年(明治38年)には孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成した。なお滔天は辛亥革命の孫文のみならず朝鮮開化党の志士・金玉均の亡命も支援しているが、その金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。

1906年(明治39年)、板垣退助の秘書である和田三郎や、平山周、萱野長知らと革命評論社を設立。1907年(明治40年)9月5日、『革命評論』を創刊(~1907年3月25日、全10号)して、孫文らの辛亥革命を支援。

1912年(明治45年)1月に、口述筆記『支那革命軍談 附.革命事情』(高瀬魁介編、明治出版社)を出版し、辛亥革命の宣伝につとめた。亡くなる前年まで大陸本土に度々渡航した。

1917年(大正6年)、湖南省を訪れ、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを講演を行った場に、毛沢東がいた。

1922年(大正11年)12月6日、腎臓病による尿毒合併症により東京で病没した。享年51歳。
上海でも孫文ら主催で追悼会が催された。東京文京区の白山神社境内には孫文が亡命中に滔天とともに座った石段が孫文を顕彰する碑とともに保存されている。日本人として、山田良政・山田純三郎兄弟とともに辛亥革命支援者として名を残す。
中華人民共和国の南京中国近代史遺址博物館の中庭に孫文と並んで銅像が建つ。

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エンゲルベルト・ケンペル

エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer;1651~ 1716年11月2日):
長崎出島で活躍したドイツ人医師、博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。出島の三学者の一人。
リッペ=デトモルト侯国のレムゴーに牧師の息子として生まれる。ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている。この2つの経験が、後に平和や安定的秩序を求めるケンペルの精神に繋がったと考えられる。哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。

その後、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務。その後、東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうしてケンペルはシャム(タイ)を経由して日本に渡る。1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在した。1691年(元禄4年)と1692年(元禄5年)に連続して、江戸参府を経験し将軍・徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳・今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した。

彼のもっとも大きな功績は「日本・シュメール同祖説」を唱えた最初の人物。日本でも彼の影響を受けて何人かの日本人の研究者も出ているが、戦後日本の学会では「日本・シュメール同祖説」は単なるトンデモ論として無視されるようになっている。しかし、欧米ではまじめに研究が続けられていて最近は静かなブームとなっているらしい。実は最近の科学的考古学の進歩によって、「日本・シュメール同祖説」は全く根拠がないどころか、こう考えなければ古代の謎のシュメール人は宇宙人だったとの結論しか出て来ないためだ。しかも縄文文化は世界最古の最先端の文明だったことが次々と世界に知られるようになって来ている。
日本では縄文以前の研究が「日本・シュメール同祖説」も含めてGHQによって禁書指定にされていた。「自虐史観」が学会にも染みついて今でも日本の古代文明が中国や欧米近東よりも進んでいたという論文はタブー扱いになっているようだ。

【追記】
シュメール語で神はスメ、日本の天皇はスメラミコト、日本の皇室は菊花、シュメール王朝も菊のような文様、帝(ミカド)はミグト(天降る開拓者)、etc.、etc.
また三種の神器もシュメールにある(剣、日像鏡、月象)
確かに似ている。天皇が神では確かにGHQにとってはとてもまずそうだ。だから燃やしてしまった。

【出島三博士】
みなさんは、江戸時代に日本で活躍した外国人を知っていますか?「えっ、江戸時代って鎖国していたんじゃないの?」と思われる方も多いと思います。
実際、江戸時代はその大半が鎖国状態にあり、貿易相手はオランダと中国(+朝鮮、琉球、蝦夷を合わせる場合もあります)に限られていました。しかし、「出島三博士」と呼ばれる3人の外国人が日本で活躍していました。

出島三博士とは、江戸時代に出島に来日して博物学的な研究を行った3名を指します。その3名の学者とは、エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。3人は旅行記も残しており、それらは平凡社東洋文庫から刊行されているらしい。

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山本 義隆

山本 義隆(やまもと よしたか、1941年(昭和16年)12月12日 ~): 科学史家・自然哲学者・教育者。元学生運動家。駿台予備学校物理科講師。元・東大闘争全学共闘会議代表。妻は装幀家の山本美智代。東京大学大学院博士課程中退。これ時代のレジェンドと言うべき存在でもあったのですが。
山本 義隆
来歴・人物
大阪府出身。大阪市立船場中学校、大阪府立大手前高等学校を経て、1960年(昭和35年)東京大学理科一類入学、1964年 (昭和39年)東京大学理学部物理学科卒業。

その後、同大学院で素粒子論を専攻、京都大学基礎物理学研究所に国内留学する。秀才でならし、将来を嘱望されていたが、学生運動に没入した。学生運動の後は大学を去り、大学での研究生活に戻ることはなかった。

1960年代、東大ベトナム反戦会議の活動に携わり、東大全共闘議長を務める。1969年 (昭和44年) の安田講堂事件前に警察の指名手配を受け地下に潜伏するが、同年9月の日比谷での全国全共闘連合結成大会の会場で警察当局に逮捕された。日大全共闘議長の秋田明大とともに、全共闘を象徴する存在であったが、くしくも2人は拘置所で顔を合わせることとなった(1969年、秋田保釈時の会見)。なお、全共闘に関するマスコミ取材は一切受けていない。

全共闘運動については「68・69を記録する会」として一次資料収集活動をしている。その活動の中で、運動当時のビラ、立て看板などを集め、成果として『東大闘争資料集』全23巻を国会図書館におさめた。また、写真家渡辺眸の写真集『東大全共闘1968‐1969』(2007年) には手稿を寄せた。2015年に、全共闘当時についての記述を含む著書『私の1960年代』を刊行している。

東大闘争後は在野の研究者として研究を続ける。東京拘置所から出所した後、1979年にエルンスト・カッシーラーの『実体概念と関数概念』を翻訳し評価を受けた。カッシーラーの著作の翻訳にはその後も長く関わることになり、『認識問題』の翻訳も手がけて1996年にみすず書房が公刊した。

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フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(Ferdinand Freiherr von Richthofen、1833~ 1905年)

ドイツの地理学者・探検家。近代的地形学の分野の創設者とされ、中国の研究を通じて、シルクロードの定義を定めた。近代地形学の父と称される。

リヒトホーフェンは、ブレスラウ大学(現ヴロツワフ大学)及びベルリン大学で学んだ。1856年に学位を授与された後、地質学者として働いた。1856年から1860年にかけて、南チロル(アルプス山脈)とトランシルヴァニア(カルパティア山脈)で、地質学的調査を行なった。
1859年にプロイセンから東アジアへ向かったオイレンブルク使節団に随行し、中国、日本、シャムを回った。そして1868年から1872年にかけて中国の調査を行い、それを『シナ』という著書にまとめる。その際に「ザイデンシュトラーセン(絹の道)」という言葉を初めて用いた。中国行きの途中に日本に立ち寄ったほか、中国滞在中も、政情不安から1870年8月から9か月間日本に滞在した。

1872年にドイツへ帰国した後、リヒトホーフェンはベルリン地理学会の会長を勤めた。1875年にボン大学の地質学教授になり、1883年にライプツィヒ大学に地理学教授として移動した。1886年、リヒトホーフェンはベルリン大学に招聘された。彼の弟子にはスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンがいる。

今でこそ、シルクロードという語がまかり通っているけど、実際にはその具体的な実態は未だ明らかにされていない。シルクロードと言うのは貿易の主要品目が絹と言うことだけど、実際当時の人々は絹を求めてリスクを冒してまで交易の度に出かけたのか? 絹なら多分中国が主生産地と言うことになるのだけど、では絹と何を交換したんでしょう。ペルシャ絨毯とかガラス製品とか? 確かに奈良の正倉院には見事なペルシャ製のガラスがある。なお、シルクロードとは別にアイアン・ロードなんて言うものも近年提案されている。製鉄技術は古代から世界中の広がるようになるけど、どのような経路をたどったのか。また、陸のシルクロードに対応するものとして海のシルクロードと言うものも着目されている。船の輸送力はラクダの背中よりは遥かに大きいから、古代人が船を利用しなかったと考えるのは無理がある。シルクロードはまだまだ未解明な概念だ。

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中山 忠直(なかやま ただなお、1895~1957年)

中山 忠直(なかやま ただなお、1895~1957年):
中山 忠直 詩人、著作家。宇宙のイメージを盛り込んだ詩作品などによってサイエンス・フィクション (SF) に連なる先駆的なものと評価されている。マルクス主義を経て、勤皇社会主義と称する極右思想??(極左の間違いでは?)に拠り、さらに日本人=ユダヤ人同祖説に立って天皇はユダヤ人の血を引くと論じて著書の発禁処分を受けた。「皇漢医学」の名称の下に漢方医としても活動し、製薬事業を興すとともに、関連する著作も書いた。筆名として、中山 啓を用いた時期がある。

石川県金沢市に生まれ、幼い頃から宇宙に興味を寄せ、自然科学者を夢みた。1910年のハレー彗星の接近を契機に、詩作に没頭する。
石川県立金沢第二中学校(後の石川県立金沢錦丘中学校・高等学校の前身)から、上京して早稲田大学商科に学び、中村進午、北昤吉の薫陶を受ける。卒業した後、服部時計店の店員、総合雑誌『中外』編集者などを経て、『日本及日本人』や『報知新聞』の常連寄稿者となった。
数万年後、人類が滅び去った後の地球を描いた「地球を弔う」や、火星への憧れを語る「未来への遺言」など、独自の詩作を行なうとともに、日本画家・野澤洋如の下で画業にも従った。

**何故発禁処分? 勤皇社会主義が何故極右思想なんでしょうか? 日本人=ユダヤ人同祖説はオランダ出島にいたケンペルさんが書いた日本人=シュメール人同祖説とも似ているし、仮説としては大変雄大で面白いものだ。禁書にすべき理由も明らかでないね?

正規の医師の資格は持っていなかったが、1927年に出版した『漢方医学の新研究』が大ベストセラーとなり、西洋医学の導入で衰退しつつあった漢方医学の復興の契機となった。「中山研究所」を設立し、漢方薬の販売や、鍼灸の施術を行なった。また、この時期には、民族主義的主張を展開した著作も発表する。

1943年、当時日本の占領下で昭南島と呼ばれていたシンガポールへ司政官として招聘されたが、赴任前に脳溢血に倒れ、以降は不自由な体を抱えることとなったが、第二次世界大戦後も、晩年まで言論活動を続けた。墓所は多磨霊園。

大宅壮一は、中山を評して「筆のちんどん屋」と呼んだ(これ褒め言葉?)。
後には、漢方医学界への貢献が大きかったとする再評価の動きも起こっているが、極右思想家としての活動もあったことも絡み、「貢献した漢方界からも意識的に無視される」状況にある(漢方医学に極左や極右何て関係あるんでしょうか?)。

【追記】 「ユダヤ民族は有史以前に早く日本に渡来し、全くの日本人として同化し去り、ユダヤ人特有の信仰も人生観も忘れ果てて、同じく『神ながらの徒』として皇室に忠誠をはげみ、愛国の熱情に燃えている。かくユダヤ民族を完全に同化し去った楽園は、地上のドコにあるか。日本歴史の一面は、ユダヤ同化の歴史である。過去に於いて然りし如く、日本の地理力は今後に於いてもユダヤを同化する必然力を具えている。」これが中山の言っていることらしい。決して日本の天皇家にユダヤ人の血が混じっている何て言っていないようだ。
確かに、古代日本にはイスラエルの消えた10支族(多分多神教)やキリスト教徒(アリウス派、景教)など西域からやって来たと思われる人達が帰化しているようだ。彼らは大和政権にも積極的に協力し、日本文化の発展に多大な寄与してくれたようだ。

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Karl Ernst Haushofer

カール・エルンスト・ハウスホーファー(Karl Ernst Haushofer、1869年8月27日 ~ 1946年3月13日)は、ドイツの陸軍軍人、地理学者、地政学者。ミュンヘン大学教授。最終階級は陸軍少将。旧バイエルン王国出身。ランドパワー(陸上権力)を重視するドイツ地政学の祖。日本との関係が深い人物。

経歴・軍歴
1869年、バイエルン王国の首都ミュンヘンにて出生。1887年、人文主義ギムナジウムを卒業した後、1年間の志願兵としてドイツ帝国のバイエルン陸軍第一野砲連隊「Prinzregent Luitpold」(「摂政王子ルイトポルト」)に入営する。

1896年、父の代でユダヤ教からカトリックに改宗したタバコ製造業者の娘であるマルタ・マイアー=ドースと結婚する。二人の息子、アルブレヒトとハインツをもうけた。

1888年、バイエルン王国陸軍第一野砲兵連隊の士官候補生となる。1898年に高級士官の登竜門であるバイエルン陸軍大学校(ドイツ語版)を修了し、1899年から2年間、参謀本部へ異動。1901年、陸軍大尉として原隊に復帰し、3年間砲兵中隊長を務める。

1904年より参謀本部中央事務局に異動。さらに陸軍大学校への辞令を受け戦史(軍事史)教官となるが、1907年の学期半ばでプファルツ地方ランダウのバイエルン第3師団の参謀に異動させられる。これを懲罰的措置とみなしたハウスホーファーは、陸軍軍人としての栄達を諦め、地理的研究のキャリアを志向し始める。

1908年(明治41年)から1910年(明治43年)まで、駐日ドイツ大使館付武官として勤務。帰国後まもなく重い肺病を患い、3年間の休職を命じられた。その間、1911年から1913年に博士論文「大日本 大日本の軍事力、世界的地位、そして将来についての考察」(Dai Nihon: Betrachtungen über Gross-Japans Wehrkraft, Weltstellung und Zukunft)をまとめ、哲学博士(Doktor der Philosophie)の学位を取得。

40代に入っても陸軍少佐にとどまっていたが、第一次世界大戦で西部戦線に従軍して急速に昇進し、砲兵連隊長などを務めて名誉陸軍少将の階級を受ける。

ドイツ地政学の祖・ヒトラーとの出会い
第一次世界大戦後はミュンヘン大学にて大学教授資格(ハビリタチオン)を取得し、1921年に同大学の地理学教授となる。ハウスホーファーは、自然地理的環境と政治との相互関連を強調し、スウェーデンのルドルフ・チェーレンが提唱した地政学を継承して大成させた。

1919年にハウスホーファーは教え子としてルドルフ・ヘスと知り合い、1921年にはアドルフ・ヒトラーと出会った。1923年のミュンヘン一揆の際には逃亡するヘスを一時匿い、ランツベルク刑務所に収監されていたヒトラーと面会した。ヒトラーはハウスホーファーの生存圏(レーベンスラウム)の理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、ナチス党の政策に取り入れた。しかしハウスホーファーは「(ヒトラーが)それら(地政学)の概念を理解していないし、理解するための正しい展望も持ち合わせていないという印象を受けたし、そう確信した」と見てとり、フリードリヒ・ラッツェルなどの地政学基礎の講義をしようとしたが、ヒトラーは拒絶した。ハウスホーファーはこれをヒトラーが「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」ことによるものであるとみていた。

ナチス政権下
ナチス党が政権に就いた1933年にはミュンヘン大学の正教授に就任した。1934年から1937年までドイツ学士院総裁を務め、この間、当時駐独大使館付武官で後に駐独大使となる大島浩とも接触して日独友好に関与した。

妻がユダヤ系であったこともあって、1938年頃にはハウスホーファー本人はナチズムに幻滅するようになっていたといわれるが、1939年には親衛隊のドイツ民族対策本部(ドイツ国籍を持たない在外ドイツ人との連携機関)に籍を置いた。

ベルリンにあるアルブレヒトの記念碑
1941年5月10日に教え子のヘスが、イギリスとの単独和平を目論みメッサーシュミット Bf110で渡英した際には、事前にヘスと会っていたことや長男で外交官だったアルブレヒト(ドイツ語版)がイギリスにおける接触先としてハミルトン公ダグラス・ダグラス=ハミルトンを紹介していたことが問題視された。そして同年独ソ戦が開始されたことから、地政学上の見地からソ連との関係強化を主張したハウスホーファーとヒトラーの関係は疎遠になる。

さらに息子アルブレヒトが1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に関わっていたことでゲシュタポの監視下に入った。アルブレヒトは逃走していたが、同年12月に逮捕され、ベルリン陥落直前の1945年4月末に処刑された。ハウスホーファーは息子の死を大いに嘆いた。

死去
第二次世界大戦期を通じて連合国の間では、ハウスホーファーがヒトラーの侵略政策に大きな影響を与えたという見方が広まった。ドナルド・ノートン(Donald Hawley Norton)はこうした見方をされたハウスホーファーを「ヒトラーの悪魔的天才(Hitler's evil genius)」と評している。ドイツ敗戦後のニュルンベルク裁判でも重要戦争犯罪人としてハウスホーファーを裁く動きがあったが、高齢の上に病身であったこと、ヒトラーの政策への関与の立証が困難であったことなどから見送られた。ハウスホーファーは、自らの理論がナチス・ドイツに用いられたことについて「自分は学者であるよりもドイツ人であった」と述懐している。1946年に妻とヒ素を飲み、連合軍占領下の故郷バイエルン州で服毒自殺した。

*ハウスホーファーは、欧米人には良く知られた存在らしいが、日本ではほとんど知られていない。いや、戦前はかなり著名だったようだが。多分GHQによる禁書指定を受けたためでしょう。地政学と言う学問は、列強諸国が合い競う帝国主義の時代には不可欠な実践の学問。軍人に限らず一般の政治家にとっても必須の学問だった。だから、ヒットラーが彼の理論を政策に応用したとしても、彼が戦争犯罪人として責任を問われるのは筋違いでしょう。核兵器の開発の責任がアインシュタインにあると言っているようなものだ。
********************************************** 思想と影響
ハウスホーファーはランドパワーの大国であるソビエト連邦とドイツの同盟(独ソ同盟)の主唱者の一人である。グレゴール・シュトラッサーらナチス左派やエルンスト・ニーキッシュのようなナショナル・ボリシェヴィズムの哲学、一部のドイツ共産党幹部までに大きな影響を与えた。弟子のルドルフ・ヘスを介してアドルフ・ヒトラーに影響を与えたが、(妻がユダヤ人であることからも)熱心なナチスでは全くなく、後のソ連侵攻に対しては明確に失望している。近年ではウクライナ戦争の背景となったアレクサンドル・ドゥーギンのネオユーラシア主義にも影響を与えているとされる。

駐日武官としての経験は、ハウスフォーファーが地政学者となる契機となった。ハウスフォーファーはおおむね親日的な人物であった。日本については、主著『太平洋地政学』(Geopolitik des pazifischen Ozeans)のほか、主に日本の軍事力やアジアでの覇権、経済的発展などに関する多数の著作がある。ほか、明治天皇に関する著作(Mutsuhito, Kaiser von Japan 1933年など)もある。ハウスフォーファーはアジア太平洋地域における日本をヨーロッパにおけるドイツに準え、更に独ソ同盟に日本を加えることを提案していた。従って(満州以北への)北進や日中戦争に反対する南進論者として日本軍への工作活動を行ったが、これは失敗に終わった。
*大東亜共栄圏の理念も彼の影響が大きかった訳ですか?

日本滞在中に日本語はもちろん、朝鮮語や中国語を修め、広くアジアを旅しヒンドゥー教や仏教の経典、またアーリア民族が多く住む北インドやイランにも詳しく、アジア神秘主義の権威でもあった。ヒトラー及びナチス党はハウスホーファーの理論に少なからぬ影響を受けた。
*日本にも多大な影響を与えたみたいですね。

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勝丸円覚(かつまる・えんかく)

1990年代半ばに警視庁に入庁し、2000年代はじめから公安・外事分野で経験を積む。 数年間外国の日本大使館にも勤務した経験を持ち数年前に退職し、現在は国内外でセキュリティコンサルタントとして企業やビジネスマンなどにスパイに狙われないための知識や防犯に関するアドバイスをしている。
公安とはとても地味な仕事。リスクも多い。愛国心が無ければ出来ない仕事でもある。一般人も巻き込まれないためにはその手口を知っておくことは不可欠。

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高橋洋一

髙橋 洋一(たかはし よういち、1955〈昭和30〉~) ): 経済学者、数量政策学者、元大蔵・財務官僚。学位は博士(政策研究)(千葉商科大学大学院・2007年)。嘉悦大学大学院ビジネス創造研究科教授、官僚国家日本を変える元官僚の会幹事長、株式会社政策工房代表取締役会長、NPO法人万年野党アドバイザリーボード。研究分野はマクロ経済学、財政政策、金融政策。

数学科出身の大蔵・財務官僚。経済学者、数量政策学者としての研究分野はマクロ経済学、財政政策、金融政策。第1次安倍晋三内閣においては経済政策のブレーンを務めた。自由民主党所属の衆議院議員・中川秀直のブレーンであったともされる。大阪維新の会のブレーンであり、かつては大阪市特別顧問も務めていた。YouTuberとしても活動。

大蔵省理財局資金第一課資金企画室長、プリンストン大学客員研究員、内閣府参事官(経済財政諮問会議特命)、総務大臣補佐官、内閣参事官(内閣総理大臣補佐官付参事官)、金融庁顧問、橋下徹市政における大阪市特別顧問、菅義偉内閣における内閣官房参与(経済・財政政策担当)などを歴任した。

1955年(昭和30年)、東京都豊島区巣鴨生まれ。東京都立小石川高等学校を経て、1978年(昭和53年)、東京大学理学部数学科卒業。幼少期から数学者となることを志し、東大数学科を卒業後、同大学経済学部経済学科に学士編入学して籍を置きつつ、文部省統計数理研究所に非常勤研究員として勤めるが、諸事情により退職。

1980年(昭和55年)、東大経済学科を卒業後、大蔵省に入省。証券局総務課に配属される。

大蔵省関税局総務課企画係長を経て、1985年(昭和60年)国税庁高松国税局観音寺税務署長。大蔵省理財局資金第一課資金企画室長、プリンストン大学客員研究員、国土交通省国土計画局特別調整課長(財務省より出向)などを歴任した。

2001年(平成13年)に発足した小泉純一郎内閣において、経済財政政策担当大臣の竹中平蔵の補佐官となった。続いて2006年に発足した第1次安倍晋三内閣で公募による首相官邸政策スタッフとして、井上一徳や、白間竜一郎、清水康弘らとともに内閣参事官(内閣総務官室)に就任。2007年(平成19年)、千葉商科大学より博士(政策研究)の学位を取得(いわゆる論文博士[注釈 2])。学位請求論文は「財投・郵政・政策金融改革の経済分析:公的金融システムの大変革の理論と実践」。2008年(平成20年)3月31日付で国家公務員を退官。退官時まで内閣参事官であり、財務省には復職していない。

退官後の2008年(平成20年)4月に東洋大学経済学部総合政策学科教授に就任し、同年6月19日には「官僚国家日本を変える元官僚の会」を発起人の1人として設立。同年、著書『さらば財務省!』で、第17回山本七平賞を受賞した。

2010年(平成22年)4月、嘉悦大学ビジネス創造学部教授に就任。2012年(平成24年)4月5日、大阪市特別顧問に就任。2012年(平成24年)10月1日、 インターネット上の私塾「髙橋政治経済科学塾」を開講。2021年現在、嘉悦大学における主な担当科目は金融論。

2020年10月、菅義偉内閣において内閣官房参与(経済・財政政策担当)(2021年5月まで)

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クラウス・フックス

クラウス・エミール・ユリウス・フックス (ドイツ語: Klaus Emil Julius Fuchs, 1911~ 1988年)は、ドイツ生まれの理論物理学者。マンハッタン計画でアメリカの原子爆弾開発に大変貢献したが、そのかたわらスパイとしてソビエト連邦に機密情報を流し続けていた。スパイとして有罪判決を受け刑に服し、釈放された後は東ドイツの理論物理学の重要人物となった。

独ソ戦勃発後、ソビエト連邦もイギリスの秘密の軍事研究の内容を知るべきだと考えソ連側との接触を開始した。1941年8月にはソ連の情報機関GRUの諜報部員で 経済学者ユルゲン・クチンスキー(Jürgen Kuczynski)、その妹、上海でリヒャルト・ゾルゲの助手であったウルスラ・クチンスキー等と接触し、「rest」のコードネームで呼ばれるようになる。1943年末には米国に渡りコロンビア大学、後にロスアラモス国立研究所に勤務、理論物理学者として、原子爆弾および水素爆弾の製造に不可欠な臨界計算に多大な貢献をしていた。

フックスは第二次世界大戦後イギリスへ戻り、米国・英国・カナダの政府高官らの間で核開発など軍事上の機密技術を交換するための合同政策委員会 (Combined Policy Committee) にも出席していたが、この間もケンブリッジ・ファイヴのドナルド・マクリーンやアレクサンドル・フェクリソフなどの情報員と接触して原爆の、後には水爆の製造理論などの情報を流し続けた。こうした情報なくして、ソ連が1940年代後半に急速に核兵器の開発および配備を進めることは困難であったと考えられている。

しかしソ連の暗号を解読する米英共同研究・ヴェノナ計画の結果、フックスの関与が明らかになった。MI5の捜査を受けたフックスは尋問の後、1950年1月にスパイであるとの告白を始めた。

フックスはイギリスおよびアメリカの核兵器関連の機密情報をソ連に漏らした軍事スパイとして告発され、1950年3月1日、わずか90分の裁判で、懲役14年の判決を受けた。12月には英国籍を剥奪された。フックスが自白をする気になったのは、死刑を逃れるためだったという意見がある一方、当人は自白をした以上は釈放されて、また研究生活に戻れる程度にしか認識していなかった節が見られたともいう。

1959年6月23日に釈放されたフックスは、東ドイツのドレスデンに移住する。ロッセンドルフの核研究所に迎えられ、そこでの講義で、フックスは中華人民共和国の研究者に核技術を伝え、その情報を元に中華人民共和国は5年後に核実験を行ったとされている。1963年にはドレスデン工科大学理論物理学教授に招聘された。

その後も東ドイツでフックスは科学者としての活動を続けている。国立科学アカデミー・レオポルディーナのメンバーに選ばれているほか、ドイツ社会主義統一党中央委員会のメンバーにも選ばれ、引退する1979年までロッセンドルフの核研究所の副所長を勤めた。カール・マルクス勲章も受賞している。1988年1月28日にドレスデンで死去。

ソビエト連邦もイギリスの秘密の軍事研究の内容を知るべきだとの彼の信念はある意味正しかったのかもしれない。互いに核を持っているから核は戦争の抑止力となっている可能性もある。

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ペートンターン・シナワット

タイの建設中ビルの崩壊 ペートンターン・シナワット( Paetongtarn Shinawatra, 1986年8月21日~):
タイ王国の政治家。同国首相(第39代)。愛称はウンイン。

1986年8月21日、タイの有力政治家で元首相であるタクシン・シナワットの次女として、バンコクで生まれる。3人いる子の内、次女で末子。政治家としての父の後継となったのは3人の内で最も政治に関心があったからだと言われる。ただし、ビジネスを引き継いだ後、政治の世界に踏み入れていて政治キャリアは極めて短い。元パイロットだった夫との間に2児がいる。

父であるタクシンは4ヶ月前にAIS社を設立して間もなかった。彼女は幼少期のほとんどをアメリカ・カリフォルニア州のロサンゼルスで過ごした。その後帰国し、セント・ヨーセフ修道院学校を卒業。2008年にはチュラーロンコーン大学政治学部社会人類学科を卒業。この学生時、首相である父が訪米中に軍事クーデタで失脚、彼女は自宅が軍用車両で包囲されていたため帰宅することも出来なかったという。その後イギリスのサリー大学に留学している。その傍ら、父タクシンの政界進出に伴って父の所有していたタイコム財団などの会社の重職や株を保有し、チナワット財閥のリーダーとなり、大きく経営に関わっている。

2022年には21の会社の株を所有しており、それらの資産は約680億バーツになるとされている。
2021年10月28日に国際会議展示センターで開催されたタイ貢献党の年次総会で、初めて彼女は党の参入・革新諮問委員長(顧問)に就任し政治の表舞台に立った。

翌2022年3月20日の党会議において、彼女は党の「当主」に。これにより事実上の一家世襲の形となり、党のタクシン主義方針が強固なものに。

2023年の1月、彼女は次の総選挙に向け、自身が首相候補になる用意があると表明した。そして民主主義の原則に則り、国民の声を尊重し、自身らの政策理念に賛成する勢力との協力を喜んで行う旨も表明した。しかし当初は未だタイ国内に残っていた反タクシン主義の雰囲気も相まって多くの政党が協力を拒んだ。例えば国民国家の力党のプラウィット党首との間では、この時点においては協力どころか当選した場合の実力行使すら囁かれるほどであった。

しかしその中でも彼女は着々と選挙に向けた基盤づくりを始めており、顧問には自身の似た経歴を持つセター・タウィーシンを選び、選挙活動でのアドバイスや指示を行っている。

3月になり、彼女は連立構想に対して、クーデターを起こさず、双方が等しい立場をとる姿勢であれば対話を進めると発言した。しかしこの発言には国民国家の力党との連立樹立を明確にはせず、正式に連立樹立が決定したのは選挙でタイ貢献党が第二党となる事が決定した頃となり、国民からの公約違反疑惑が強くなるきっかけとなった[10]また同月には党がペートンタンとセターとチャイカセーム・ニティシリ教授の三人を正式に首相候補に指名した。

総選挙では初中盤においての選挙運動をリードし、最終的に前進党につく第二党の地位を得た。彼女は有権者に対し感謝した上で、前進党との連立構想を現実のものとするため、前進党との連立協議に奔走した。両党は同じく政治勢力において革新的な立場を同じくしており、連立構想は順調に事が進み、成立まであと一歩の状態にあった。しかしここで首相指名に関しての対立が発生。またこれに対し王党派を多く抱える元老院(上院)が前進党の首相候補者ピターの首相指名を認めないとする決定を下した。これにより事態は一気に貢献党有利に進み始め、また当初連立で対立関係にあった国民国家の力党のプラウィット党首も連立に合意。これによりタイ貢献党によるセター内閣が成立した。8月30日になり、正式にタイ団結国家建設党と国民国家の力党が連立政権に加入した。
10月27日、党の臨時総会において8代目党首に選出された。

2024年8月14日、閣僚人事を巡る問題でセター首相がタイ憲法裁判所の判決により失職。16日、タイ国会下院の首相指名投票で過半数の支持を得てペートンタンが後継の首相に選出された。18日に国王ラーマ10世の承認及び任命により、正式に首相に就任した。

タクシン一族からの首相就任は、父、父の義弟、父の妹に続き4人目となるため、野党からは「政治王朝化」「父の名だけで首相になった」との批判の声もある。

*タイ王国は欧米に植民地支配の時期に独立を保ち続けた稀有な国(日本と同じ)。 日本とは今後も友好関係を保っていくべき重要な相手国だ。日本では天皇は「君臨すれども統治せず」の原則が確立しているが、大国では未だ国王の親政を求める声が大きいのかもしれない。今後の政治手腕が注目される。

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ヨセフ・トランペルドール

カーバ神殿 元駐日イスラエル大使、エリ・コーヘン氏が『神国日本』を上梓(じょうし)した。居合五段、空手は流派最高位という同氏と出版記念講演会で対談し、日本への造詣の深さに感じ入るとともに「イスラエル建国の父」ヨセフ・トランペルドールの逸話に心打たれた。

帝政ロシアに生まれたトランペルドールは学位がありながら、あえて一兵卒としてロシア軍に従軍。ユダヤ人として差別を受けるも勇敢さと国への忠誠を証明しようと最前線での戦いを志願し、日露戦争で左腕を失った。退院後、片腕だけで使える軍刀とピストルを手に再び前線に舞い戻り、敗戦。捕虜として大阪の浜寺収容所に送られた。

日本では宗教や民族を理由に迫害されることはなく、母国ロシアで味わえなかった自由を初めて経験した。持ち前の積極性を発揮し「ユダヤ人捕虜組織」を設立、収容所の中に学校、工場、図書館、劇場まで造ったというから驚きだ。ちなみに彼は、明治天皇から義手を賜っている。

戦場で死をも恐れず戦う日本兵を目の当たりにし、日本での捕虜生活を通して大和魂、武士道精神を体感したトランペルドールは主権を持つことの大切さに目覚め、ユダヤ人国家再興を使命として自覚するに至った。「その意味でイスラエル建国の礎となったのは、日本の武士道精神」とコーヘン氏は語る。日本人としては光栄だが、では肝心の日本人は今、どうなのか。

初代天皇の名にも表れているように、日本は元来、神と武を尊ぶ国であった。神話の時代から連綿とつづく日本らしさ、国体の中心におられるのは、歴代の天皇陛下だ。と同時に、一木一草にも神は宿り、恵みを与えてくれる八百万(やおよろず)の神々への感謝と畏敬の念を抱きながら、日本人は生きてきた。その意味で、日本は神の国であろう。<記:かつらぎ・なみ>

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松井石根(まつい いわね)

松井石根 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)~ 昭和23年(1948年)):
陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日支提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、南京事件の責任を問われて極東国際軍事裁判にてB級戦犯として死刑判決を受け、処刑された。

*南京事件については、松井さん自身何も報告を受けておらず知らなかったと証言している。また、南京事件自体実態が不明だ。極東国際軍事裁判自体が連合国側が恣意的に造り出したものだから仕方がないことではあるが、明かに冤罪でありお気の毒な話でもある。

出自
愛知県愛知郡牧野村(現・名古屋市中村区牧野町)出身。旧尾張藩士松井武圀、ひさの六男として生まれた。成城学校卒業後、陸軍幼年学校へと進んだ。

在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。そのための軸となるのは、日本と中国(支那)の良好な提携であるという。この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深めていった。
*「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」→これは明治以来、どの政治家も志した共通の理念だろう。元々は吉田松陰等の攘夷思想からの延長でも。

幼年学校卒業後、松井は順調に陸軍士官学校へと入学した。

明治30年(1897年)、陸軍士官学校(9期)を次席で卒業し、明治34年(1901年)に陸軍大学校(18期)に入学した。陸大在学中の明治37年(1904年)に日露戦争勃発により陸大を中退し、歩兵第6連隊中隊長として従軍した。遼陽会戦では戦傷を負っている。 この時期の松井が思想的な影響を受けたのは、同郷の先輩にもあたる荒尾精であった。荒尾の思想の根底にあるのは、日中の強い提携である。欧米列強の侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのが、その主張の要であった。

*荒尾 精:
日本の陸軍軍人、日清貿易研究所の設立者。日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。

その後、日露戦争のため中退した陸大に復校し、明治39年(1906年)に次席で卒業した。(恩賜の軍刀を拝受)松井は、前途を嘱望される逸材として、参謀本部への配属となり、一旦、フランスへと派遣された。

中国赴任時代~孫文、蔣介石を支援
明治40年(1907年)フランスから帰国した松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであった。日中関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである。

*基本的に一貫して親中国派であり、中国だって堪能だったんでは? 南京事件の首謀者になることなどあり得ないはずだ。

明治42年(1909年)、清国滞在中に大尉から少佐へと昇進した。この頃から孫文と深く親交するようになった。松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も中国国民党の袁世凱(中国各地に具群居していた軍閥の一つ、つまり孫文の政府を乗っ取った)打倒に協力した。

松井は日本に留学した蔣介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月、蔣が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち事態を打開させた。田中首相は①この際、揚子江以南を掌握することに全力を注ぎ、北伐は焦るなということ、 ②共産主義の蔓延を警戒し、防止せよということ、 ③この①②に対して日本は支援を惜しまないということこの三点を述べた。 最終的に二人のあいだで合意したのは、国民革命が成功し、中国統一が完成した暁には、日本はこれを承認すること。これに対して国民政府は、満洲における日本の地位と特殊権益を認めるということであった。
*満洲は中国固有の領土ではなく、清朝を治めていた遊牧民達の土地。

松井の秘書田中正明によれば「松井は当時すでに中国は蔣介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。日本は、この際進んで目下失意の状態にある蔣を援助して、蔣の全国統一を可能ならしむよう助力する。そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、ただし蔣の国民政府による中国統一が成就した暁には、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とするという構想であった。」

松井構想(蔣介石との連携)の破綻
ところが、昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蔣介石への批判が相次いで、日中関係は松井の意図に反した方向へと流れていった。

同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蔣介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。松井は首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている)。しかし、結局うやむやのままになり、昭和天皇の怒りを買って田中義一が首相を辞めることになった。こうして松井構想は破綻した。**張作霖は一応は国民党の一部とも言えるが日本側の味方でもあったようだ。張作霖爆殺事件は今では明らかに日本陸軍の仕業と分かっている。昭和天皇が怒るのも至極当然。これをうやもやした田中義一首相の責任は重い。この件が日中戦争→太平洋戦争の引き金になったようだ。

一方、蔣介石も日本への不信感を濃くした。昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国を経て、蔣介石の反日の姿勢は間違いなく強まっていった。蔣介石政権には米英からは多大な軍事支援が送られている。一方の毛沢東へはソ連からの軍事支援。

大亜細亜協会の活動
蔣介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、松井は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立した(松井は設立発起人、後に会長に就任)。会員には近衛文麿、広田弘毅、小畑敏四郎、本間雅晴、鈴木貞一、荒木貞夫、本庄繁など、錚々たるメンバーであった。「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である」とする松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的な航海へと船出した。当時の松井の考え方を下記に引用する。

*理想は素晴らしいが、肝心の蒋介石政権が完全に米英の傀儡であり、すでに満州国包囲人が完成している。日本の本格的軍事行動を待っていることに気がつかないと。

「世界は政治的及経済的ブロックの境に従って区画せられて居り、その内若干の大国が主体となって国際聯盟が利用せられて居るのである。亜細亜に於て日支両国の如き鮮明なる政治的大陸を形成するものが、相互の間何等の諒解もなく、個々別々に聯盟に加入し、両国間の直接交渉によって解決せらるべき問題をも、本来極東には縁もゆかりもなき、従って認識も理解もなき欧羅巴諸国の手に鍛錬せられて、日支相互の反目と抗争を激成するの具に逆用せられたこと、せられっゝあることは、東洋永遠の平和の為めにも、亜細亜復興の為めにも、遺憾至極と云はなければならぬ。」

昭和9年(1934年)1月6日、大亜細亜協会台湾支部が設立され、松井は名誉顧問に就任。

昭和10年(1935年)8月、現役を退き、予備役へと入った。

蔣介石への不信
一方、米勢力に接近し反日、排日の色を濃くする蔣介石の国民党政府に対して不信感を抱くようになった。加えてこの時期、中国共産党が華南地域に勢力を拡大していたが、この動きに歯止めをかけることのできない国民党について、松井は批判的な姿勢を強めていた。国民党政府が、リットン調査団の報告書を嬉々として受け入れたことについても不満を募らせた。当時、松井は次のように述べている。

「英国の勢力を長江一帯に再建せしめ、之を全支に拡延せしめたるもの国民政府であり、米国資本の侵略的勢力を南支中支に誘因しつゝあるもの、亦国民政府とその党与とである。而して、その実質に於て独り満洲のみならず支那全土をも国際管理下に置かんことを意図せる夫のリットン報告書―リットン報告書を基礎とする国際連盟総会勧告案を無条件に受諾するに至りては、支那自らを売り亜細亜を裏切る彼等の罪責亦極れりと申さねばならぬ。 「支那を救ふの途」大亜細亜協会機関誌『大亜細亜主義』創刊号、昭和8年5月発行」

*日中が戦えば漁夫の利を得るのは英国である。日露戦争でも漁夫の利を得たのは英国であったことも忘れてはならない。蒋介石政府が英国の傀儡化していることも視野にあるのか。
陸軍内部では統制派を中心に「中国一撃論」が盛んに説かれるようになっていた。日本への敵対視を続ける中国側の動向は看過できず、それならば蔣介石政権の政治基盤が脆弱な今の内に、一気に叩いておこうという論である。国民党政府に対する不信を濃くする松井は、徐々に「中国一撃論」へと傾いていった。

西南の旅
昭和11年(1936年)2月3日、蔣介石との関係を取り戻すために、田中正明を伴って「西南の旅」に出発した。広東・広西で胡漢民、陳済堂、李宗仁、白崇禧ら西南派の指導者らと会談、さらに3月14日南京で蔣介石、何応欽、張群らと会談している。蔣介石との会談は1時間半に及んだが、ほとんどが松井と蔣介石二人だけの押し問答に終わった。最後に二人は、孫文のアジア主義の遂行で互いに了解し合って別れた。しかし、別れぎわに蔣介石は松井に対し「今後は部下の張群と話をしてくれ」と失礼な言動をしたため、松井の顔が瞬間くもったという。

同年12月12日、西安事件が勃発。捕えられた蔣介石は国共合作により抗日へと方針を180度転換した。ここに及んで、蔣介石と連携するという松井構想は完全に破綻した。

日中戦争(支那事変)の上海戦
昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港した。

参謀本部は戦闘を上海とその周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団で一気に蔣介石軍を叩き潰し、早く和平に持ち込むべきだと考えていた。8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。

11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行、これを成功させて、状況は日本軍に有利になってきた。しかし、第10軍は松井の指揮系統下にはなかった。11月12日上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。

松井の体調は上海上陸後から余り芳しくなく、11月に入ってからはマラリアの症状が出て、高熱にも苦しめられ、軍医から処方されたキニーネを服用しながら指揮を執った。11月4日、松井は「予自身去一日ヨリ多少風邪気味ニテ七、八度ノ熱アリシカ「マラリア」ラシク、本日ヨリ規根ヲ服用シ経過良好 此分ナラ後二、三日ニテ全復ノ見込」と記している。南京攻略戦たけなわの12月5日から15日まで蘇州の司令部に病臥、滞留していた。武藤章は「松井大将は十二月五日頃蘇州に司令部を推進さられた。だが大将は長期間の苦心と肉体的無理が積って病臥せられた。」と記している。

南京戦
松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。松井はトラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始し、松井も南京への進撃を参謀本部に意見具申し、上海派遣軍も南京への突進を開始して、第10軍と上海派遣軍による先陣争いのような状況となった。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。

しかし、南京に進軍する中、松井は、前述した様に、南京攻略戦の前に蘇州で病気療養し、直接、攻略戦の指揮は行えなかった。12月7日、療養中の松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示したが、これは現場指揮官に実質無視されることとなる。

12月7日、蒋介石は南京を脱出したが、中国軍はそのまま残り籠城戦の準備を行う。12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく南京総攻撃が始まり、そのときに、中国人捕虜の殺害・民間人の殺害が数多く見られたことは日本側の記録にも残るとおりである。13日、南京は陥落した。陥落するまで戦闘指揮を行うことができずに療養(蘇州にて)していた松井は、陥落から数日後の12月17日に中支那方面軍の南京入城式を行う旨を通達し、その後、蘇州から南京に戻り、写真のとおり、乗馬姿になり、入城式で閲兵を行った。しかし、入城式のための治安がまだ確立されておらず、皇族朝香宮鳩彦王(12月2日、上海派遣軍司令官に就任)の身の安全の確保も含めて、中国軍の便衣兵を恐れるあまり「疑わしいものはすべてその日のうちに始末する方針がとられた」ため、結果的に、第9師団などのように、民間人である成年男子をも便衣兵と見なして疑わしい者を数多く処刑するような事態となった。松井は、南京城内の戦闘後の日本軍兵士による不法行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。松井は、戦後に、この時のことを回想し、日本軍の中国人捕虜への扱いが人道的でなかったことも嘆き、「武士道とか人道」の考えが昔の日本軍から後退したことをも嘆いた。後の東京裁判における宣誓口述書では、松井は、兵士による軍規違反の掠奪暴行等の不法行為は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。

一方、トラウトマン工作は、日本側が戦争の勝利をよいことに、提示する条件をつりあげたことによって頓挫した。しかし、松井はこの時期に蔣介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた。だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蔣介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。松井は2月21日に上海を離れて帰国し予備役となったが、その理由は、軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭されたとも、日本政府(外務省)が南京での不法行為を踏まえて陸軍への現地の軍紀粛正を要望したことで、陸軍中央の現地調査(1月)を受けて日本に召喚されたとも、言われている。

太平洋戦争(大東亜戦争)期から終戦まで
軍籍を離れた松井は「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動を展開し、国内各所での講演活動を行っていた。1939年4月には陸軍美術協会の会長に就任し、同年7月に開催された戦争画を競う第一回聖戦美術展では展覧会名誉会長を務めている。

対米英開戦後の1月、松井は「思想国防協会」会長となり、日米開戦の意義や東南アジア占領地における興亜思想の普及について述べている。

1942年6月、松井は大亜細亜協会会頭として国外視察に出かけ、上海~南京~台湾~広東~海南島~仏印~タイ~ビルマ~マレーシア、スマトラ島~ジャワ島~セレベス島~フィリピンを訪れ、大東亜共栄圏確立の重要性を説いた。南京では汪兆銘と、ビルマではバー・モウ、シンガポールではチャンドラ・ボースとそれぞれ会談している。

帰国後の松井は、栄養失調から風邪をこじらせ、軽い肺炎を起こした。敗戦までの間、松井は仏門に励み、朝昼の二回、近くの観音堂に参拝するのが日課だった。

松井石根 1945年8月15日、松井は終戦の玉音放送を熱海の自宅で聞いた。同年11月19日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に対し松井らを戦争犯罪人として逮捕し、巣鴨刑務所に拘禁するよう命令。松井は肺炎を患い、病床にあった。松井の個人通訳を務めていた岡田尚は、松井の巣鴨出頭を遅らせようと、松井と親交のあった岩波書店の岩波茂雄社長に頼み、岩波と親しい間柄であるGHQの派遣医師である武見太郎に松井の診断書を書いてもらい、巣鴨出頭を1946年3月5日まで延期させることに成功している。この間松井は、死後に備えて「支那事変日誌抜粋」と「我等の興亜理念併其運動の回顧」を書き上げている。
昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年(1940年)2月、日中戦争(支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

獄中
1946年3月4日、松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、盃を交わしながら「乃公はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないなぁ」と語った(陸軍後輩、有末精三の言)。翌5日出頭。収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった。また、重光葵の『巣鴨日記』によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であり、獄中では常に国民服姿だったという。

*「殺身為仁」:
「身を殺して仁をなす(みをころしてじんをなす)」は、自分の命を犠牲にして仁道のために尽くすことを意味する慣用句です。

東京裁判
戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。裁判中は、東条英機が小まめにメモを取り続けたのに対して、松井は頬杖をついて黙り続ける姿が記録されている。判決は、松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
当時キーナンの秘書兼通訳をしていた山崎晴一の書いた「鬼検事キーナン行状記」によれば、ジョセフ・キーナン検事はこの判決について、『なんというバカげた判決か。シゲミツは、平和主義者だ。無罪が当然だ。マツイ、ヒロタが死刑などとは、まったく考えられない。マツイの罪は、部下の罪だから、終身刑がふさわしい。ヒロタも絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑まではないか。』と判決を批判していたという。

なお東京裁判で、「(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」と証言している。また12年12月17日に南京に入城した松井は、当時の様子をつづった日記を基にした供述書で「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」といった内容を述べている。一方で入城後に一部の兵による軍律違反の報告を受けており、法廷で「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」と証言した。松井の部下は裁判前の尋問で非行件数を「10か20の事件だった」と述べている。だが、判決はこう断罪した。「自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていたが、履行を怠った」また、南京攻略後に松井が帰国したことをめぐり、検察側は日本が南京での多数の不法行為の責任を問い、司令官の職を解き召還したという構図を持ち出した。松井は「それは理由にはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いだ」と明確に否定したものの、反論は一切聞き入れられなかった。「南京で2万の強姦(ごうかん)、20万人以上の殺害があった」と断定した東京裁判だが、松井に対する判決では「南京陥落から6、7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上が殺害」とそれぞれ数を引き下げた。

死刑執行
松井は昭和23年(1948年)12月9日、巣鴨拘置所において、教誨師花山信勝に次の言葉を残した。

「南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭のときに、支那人の死者もいっしょにと私が申したところ、参謀長以下、何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめ、あんなことをしたのだ。私は日露戦争のとき、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とはまったく変わっておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが、せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。ところが、そのことのあとで、みなが笑った。はなはだしいのは、ある師団長のごときは、当たり前ですよ、とさえいった。したがって、私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。せっかくこうなったのだから、このまま往生したい、と思っている。

昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で松井を含めた7人(他の6人は東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)の絞首刑が執行された。70歳没。
辞世の句は、3首である。
  ●天地(あめつち)も 人もうらみず ひとすじに 無畏(むい)を念じて 安らけく逝く
  ●いきにえに 尽くる命は 惜かれど 国に捧げて 残りし身なればく
  ●世の人に のこさばやと思ふ 言の葉は 自他平等に誠の心

ノンフィクション作家の早坂隆は、2011年に刊行した『松井石根と南京事件の真実』(文春新書)の中で、松井が南京占領を平和裡に進めようとしていた過程や、親中派としての松井の思想、東京裁判における松井に関する審理の矛盾などを指摘した。

田原総一朗は「松井石根の構想によって日本政府と蔣介石の信頼関係が堅持されていれば、日本と中国の歴史は大きく変わっていたはずである。日本が蔣介石の中国と戦争を起こすこともなく、当然、南京事件も起きえなかった。」とのべている。

南京大虐殺事件に関して
事件の責任と東京裁判での答弁
極東国際軍事裁判昭和22年(1947年)11月24日、ノーラン検察官が南京事件に関して反対尋問した際の松井石根の証言について政治学者の丸山眞男は昭和24年(1949年)に発表した「軍国支配者の精神形態」で論じた。丸山は、検察から部下(兵士)の暴行の懲罰について努力したかと尋問されると松井が「全般の指揮官として、部下の軍司令官、師団長にそれを希望するよりほかに、権限はありません」と証言したことを部分的に引用しながら「自己にとって不利な状況のときには何時でも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏になりすますことが出来る」のであるとして、松井のような態度を「権限への逃避」と評した。丸山はこうした「権限への逃避」は、ナチスのゲーリングが全責任を負うとした「明快さ」と異なり、「日本ファシズムの矮小性」の一側面であるとし、日本軍人戦犯は一様に「うなぎのようにぬらくらし、霞のように曖昧」な答弁をすると表した。

*丸山眞男は結構有名な政治学者なんですがね。GHQには逆らわないか?「うなぎのようにぬらくらし、霞が関のように曖昧」な説明だね。

このような丸山眞男の松井評価について牛村圭は、松井石根が同尋問で「私は方面軍司令官として、部下を率いて南京を攻略するに際して起こったすべての事件に対して責任を回避するものではありませんけれども、しかし各軍隊の将兵の軍紀、風紀の直接責任者は私ではないということを申した」と自分の責任を回避しないと答弁したことが裁判記録に残っており、丸山は論文に引用にする際に松井答弁を意図的に省略していたことを発見した。また、当時東京裁判の検察も松井が責任を回避しないと答弁したことを確実に受け取っていたのであって、松井の答弁は「道義上の責任」と「法律上の責任」を区別した明瞭なものであると牛村は再評価した。牛村圭は裁判記録を虚心坦懐に読解すれば、松井が「道義上の責任は決して回避せぬが日本陸軍の法規ではこうなっていると説明している」と解釈する方が自然であり、丸山眞男の論については「松井の人格を歪曲する削除を加え」「予断と先入観を、恣意的と呼んでいい論証法を用いて押し通そうとした。このような論法につき、丸山眞男は<道義上の責任>を感じてしかるべきであろう」と批判している。

松井に関する蔣介石の「発言」
「興亜観音を守る会」会報(『興亜観音第15号』2002年4月18日号)に田中正明が書いたところによれば、1966年9月に、田中ら5人が岸信介の名代として台湾を訪問した際、蔣介石が「南京には大虐殺などありはしない。何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と涙ながらに語ったという体験談が記されている。この話は『興亜観音第10号』(1999年10月18日号)にも掲載されており、両方とも蔣介石は「申し訳ない事をした」と田中に語ったと記されているが、何応欽の軍事報告や松井大将が冤罪だったという部分は、10号では田中が考える事実として記されているのに、15号では蔣介石自身の発言と記されており、異同がある。

なお、蔣介石自身の公式の回顧録である産経新聞(当時はサンケイ新聞)が1976年に紙面掲載した『蔣介石秘録』の「全世界を震え上がらせた蛮行」によれば、蔣介石は1938年1月22日付の日記に「日本軍は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ」と記している。また、日本軍による南京攻略戦が終了した後の自軍の損害については、「南京防衛戦における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である。」「日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長江(揚子江)岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。」「虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ。」「こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は2カ月に及んだ。」「犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。」 とも発表している。

人物列伝
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石原莞爾(いしわら かんじ)

石原莞爾 石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年(明治22年)~1949年(昭和24年)8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級。

「帝国陸軍の異端児」と呼ばれたほど軍内では変わった性格をしており、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。しかし、彼の著作はGHQに禁書指定されて現在まで続いている。

陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、満洲国在勤帝国大使館附陸軍武官(兼任)、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、ドイツ駐在やジュネーヴ会議(英語版)随員も経験した。東亜連盟も指導し、予備役編入後は立命館大学国防学研究所所長も務めた。

【幼少年時代】
明治22年(1889年)、山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生。父親は警察官であり転勤が多かったため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であったが利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると、1年生で一番の成績であった。石原の3年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。
石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた。

【軍学校時代】

明治35年(1902年)、庄内中学2年次途中で仙台陸軍地方幼年学校(予科)を受験して合格し、入校した。石原は、ここで総員51名の中で1番の成績を維持し学業は優秀だったが、器械体操や剣術などの運動は苦手だった。

明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校(本科)に入校し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を受けた。田中智学の『妙法蓮華経』(法華経)に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。また、東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。

明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入校した。区隊長への反抗や侮辱をするなど、生活態度が悪く、卒業成績は官報によると13番/418名(歩兵科では8番)であった。
明治43年(1910年)5月に士官学校(21期歩兵科)を卒業後は、朝鮮駐在の歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図〈ひがし まさみち〉)よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。

連隊長命令で、陸軍大学校を受験することになった。試験に合格し、大正4年(1915年)に入校することになる。ここでは、戦術学、戦略、軍事史などの教育を受けた。大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。

【在外武官時代】
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読んだ。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。

【関東軍参謀時代】
石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた。

昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満洲に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。
昭和6年(1931年)満洲事変を起こし、23万の張学良軍を相手に、1万数千の関東軍で満洲を占領した。

柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満洲事変をきっかけに行った満洲国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。さらには関東軍に代わって満洲国協和会による一党独裁制を確立して関東軍から満洲国を自立させることも主張していた。

二・二六事件の鎮圧
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。

この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の[二・二六事件で反乱軍の鎮圧を進言した]態度は正当なものであった」と述懐している。

この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁できなかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満洲派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。

安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、何もしなかった。

また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に尋ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と罵倒すると、栗原は殺害を中止し、石原は事なきを得ている。

宇垣内閣の組閣を断念させる
昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣一成大将がにわかに有力視され、ついに大命降下される運びとなった。

しかし、石原莞爾参謀本部第一部長心得や田中新一陸軍省兵務局兵務課長を中心とする陸軍中堅層は、軍部主導で政治を行うことを目論んでおり、宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動いた。石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。中島中将は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して大命を受けた。

しかし石原は諦めず、今度は軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官への工作も成功し、誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。こうして宇垣は陸軍大臣を得られず、やむなく組閣を断念し、石原の策は見事に成功した。だが、石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣断念の後に政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるものである。

なお、反宇垣派の中心的な人物であった石原と田中は仙台陸軍地方幼年学校の出身で、石原の原隊は歩兵第65連隊、田中の原隊は歩兵第52連隊でこれらはすべて宇垣軍縮により廃止されている。この怨念が反宇垣に走る原動力だったと理解することもできる

左遷
1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満洲での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。

1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満洲事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも大笑いしたため、石原は絶句したという。

1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時には参謀本部第一部長(作戦)であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。

ふたたび関東軍へ・東條英機との確執

昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には満洲国の首都である新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満洲国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満洲国を満洲人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。これには、東條は恩賜の軍刀を授かっていない(石原は授かっている)のも理由として挙げられる。以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒し、事あるごとに東條を無能呼ばわりしていく。一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。

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やなせたかし

カーバ神殿 やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、1919年〈大正8年〉~ 2013年〈平成25年〉): 漫画家・絵本作家・詩人。有限会社やなせスタジオ社長。高知県出身。 『アンパンマン』の原作者。社団法人日本漫画家協会代表理事理事長、社団法人日本漫画家協会代表理事会長を歴任。

絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行っていた。

1919年(大正8年)2月6日、東京府北豊島郡(現:東京都北区)生まれ。父方の実家は高知県香美郡(現:高知県香美市)にあり、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家。父親は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵船に勤めた後、講談社に移り「雄辯」で編集者を務めた。

父親はやなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ、1923年(大正12年)に特派員として単身上海に渡る。その後、後を追い家族で上海に移住。この地で弟・千尋が生まれるものの、父親がアモイに転勤となったのをきっかけに、再び家族は離散。やなせらは東京に戻る。
1924年(大正13年)に父親がアモイで客死。遺された家族は父親の縁故を頼りに高知県高知市に移住する。弟は長岡郡後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた長岡郡医師会長の伯父(父の兄)・寛に引き取られ、まもなく母が再婚したため、やなせも弟と同じく伯父に引き取られて育てられる。

少年時代は『少年倶楽部』を愛読し、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科に進学。

戦争体験
高等工芸学校を1939年(昭和14年)に卒業後、東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職。しかし、1941年(昭和16年)に徴兵のため大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊へ入営。学歴を生かし幹部候補生を志願し、その内の乙幹に合格し暗号を担当する下士官となる。
補充隊での教育後は日中戦争(中国戦線)に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったという。従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという。最終階級は陸軍軍曹。なお、太平洋戦争では弟が戦死している。

終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが、絵への興味が再発して1946年(昭和21年)に高知新聞社に入社。『月刊高知』編集部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが、同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、自らも退職し上京した。

【小松暢(こまつ のぶ):1918年~1993年11月】
漫画家・やなせたかしの妻で、結婚前は編集者を務めた。「小松」は1度目の結婚以降やなせとの再婚までの間に名乗った姓で、出生時の姓は「池田」。再婚後は柳瀬?1993年11月、癌のため死去。
連続テレビ小説『あんぱん』の脚本を担当した中園ミホによると、小松はやなせに「正義は逆転することがある。信じがたいことだが。じゃあ、逆転しない正義とは何か?飢えて死にそうな人がいれば、一切れのパンをあげることだ」という言葉で励ましていたという。

1947年(昭和22年)に上京し小松暢と結婚。この時期、やなせは漫画家を志すようになるが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選ぶ。やなせ曰く「とにかく貧乏は嫌だった」。同年、三越に入社し、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌でも作品を発表。当初は漫画家のグループ「独立漫画派」に入ったが、まもなく「漫画集団」に移った。1953年(昭和28年)3月に三越を退職し、専業漫画家となる。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したという。

三越時代、やなせは包装紙のデザインを猪熊弦一郎に依頼している。猪熊のデザインにやなせのレタリングで「mitsukoshi」のロゴが入れられた包装紙のデザインは、「華ひらく」の名で半世紀以上使われている。

困ったときのやなせさん
1953年(昭和28年)に独立した後も精力的に漫画を発表していた。手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり、やなせが所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり、作品発表の場自体が徐々に減っていく。1964年(昭和39年)にNHKの『まんが学校』に講師として3年間レギュラー出演したり、その翌年にまんがの入門書を執筆するなど、大人漫画・ナンセンス漫画の復興に取り組み、1967年(昭和42年)には4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞したものの、1960年代後半は本当にきつかったという。

漫画家としての仕事が激減したやなせだったが、舞台美術制作や放送作家などその他の仕事のオファーが次々と舞い込むようになり、生活的に困窮することはなかった。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたという。やなせ曰く「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる」。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生まれ、ヒットに至るという現象が2度起きている。

1960年(昭和35年)、永六輔作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の舞台美術を手掛けた際に、作曲家のいずみたくと知り合い、翌1961年に『手のひらを太陽に』を作詞。同曲は教科書に載るほどのスタンダードな曲となっている。

1969年(昭和44年)、虫プロダクションの劇場アニメ『千夜一夜物語』制作の際に、エロチック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れた。同作がヒットしたお礼として、手塚はポケットマネーで、やなせが1967年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞。同作はやなせの代表作のひとつとなっている。

1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現:サンリオ)の社長辻信太郎が来場。やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたことから、サンリオとの交流を深める。やなせは当初は菓子のパッケージを手掛けていたが、1966年(昭和41年)9月にやなせが処女詩集『愛する歌』を出版社から出そうとした際に、「それならうちで出してくれ」とサンリオは出版事業に乗り出した。『愛する歌』はサンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録した。出版事業に乗り出したサンリオの元で、絵本の執筆も始める。1969年には短編メルヘン集の十二の真珠で『アンパンマン』が初登場。ただしこのアンパンマンは後のものとは異なる作品であり、ヒーロー物へのアンチテーゼ(アンチヒーロー)として作られた大人向けの作品である。

1973年(昭和48年)には雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げ編集長を務める一方で、馬場のぼるらと「漫画家の絵本の会」を立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる。同年に1969年発表したアンパンマンを子供向けに改作し、フレーベル館の月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の一冊「あんぱんまん」として発表。同作は当初評論家、保護者、教育関係者からバッシングを受けた。元は大人向けに書いた作品だったが、次第に、幼児層に絶大な人気を得るようになっていった。

1988年(昭和63年)には、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』の放映が日本テレビで開始される。テレビ業界的にかなり不安視されており、スポンサーが少なかった、数局のみの放送、昭和天皇の病状悪化による自粛ムードの最中での放送開始などと逆境を余儀なくされるが、まもなく大人気番組となり、日本テレビ系列で拡大放映された。キャラクターグッズなども爆発的に売れ、やなせは一躍売れっ子になった。

アニメ『それいけ!アンパンマン』の大ヒットを受けて、1990年代以降は様々な賞を受賞。1996年(平成8年)7月には出身地の高知県香美市に香美市立やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が開館し、1998年(平成10年)8月には同記念館内に雑誌「詩とメルヘン」の表紙イラストやカットなどを収蔵した「詩とメルヘン絵本館」が開館するなど名声が高まっていった。官庁や地方自治体、公益事業や業界団体などのマスコットのキャラクターデザインを懇請され、無償で引き受けることも多くなった。前述の「詩とメルヘン」編集長時代も初期はほぼノーギャラで引き受けていた。

やなせは名声に甘んじることなく漫画の復興にも取り組んだ。1992年(平成4年)から地元高知で行われていた一コマ漫画の大会「まんが甲子園」には立ち上げ時から深くかかわり、晩年まで審査委員長を務めた。2005年(平成17年)には財政難を理由にまんが甲子園入賞校へ贈る賞金の半減を打ち出した高知県に対し総額200万円の資金提供を申し出ている。

2000年(平成12年)には日本漫画家協会理事長に就任。結果を残すことが出来なかったが、懸案事項は「ストーリー漫画以前の漫画家と以降の漫画家の収入格差をいかに解消するか」だった。やなせは自社ビルに日本漫画家協会を家賃タダで入居させていた。

この時期から「漫画家ならば行動や言動も漫画的に面白くなければならない」という信念を持つようになり、テンガロンハットにサングラス、カウボーイブーツという独特なファッションで公の場に現れ、日本漫画家協会の会合やその他のイベントなどで歌や踊りを取り入れたユニークなスピーチをするようになった。

2001年(平成13年)には自作のミュージカルを初演、2003年(平成15年)には同ミュージカルの延長線上で、作曲家「ミッシェル・カマ」、歌手やなせたかしとしてCDデビュー。
詩人としては、2003年に『詩とメルヘン』が休刊するものの、2007年にかまくら春秋社から季刊誌『詩とファンタジー』を立ち上げ、「責任編集」を務めた。

ユニークで元気なキャラクターを演じ続けそのイメージが強いが、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていた。膀胱癌は10度以上再発している。晩年はチャイドルをもじって「オイドル」(老いドル、老人のアイドル)を自称していた。

2011年(平成23年)春に視界がぼやけることを理由に漫画家引退を考え、最後の大舞台として生前葬を企画。友人らに告別式の文章を書いてもらい「清浄院殿画誉道嵩大居士」という戒名入りの位牌も準備したが、その発表直前に東日本大震災が発生し、不謹慎だからという理由で計画は白紙になった。震災直後「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソング的扱いをされたり、「笑顔を失っていた子供たちがアンパンマンを見て笑顔を取り戻した」といった良い話がやなせの元に届いたことから、引退を撤回したという。その後、被災地向けにアンパンマンのポスターを制作したり、奇跡の一本松をテーマにしたCDを自主制作するなどした。

2012年(平成24年)6月の日本漫画家協会賞の贈賞式を最後に、高齢と体調不良を理由に日本漫画家協会の理事長を辞任して会長に就任。後任の理事長はちばてつや。

その後もユニークなキャラクターは変えず、テレビのインタビューやアニメの舞台挨拶の席では、陽気に歌いだす、元気な感じで「もうすぐ俺は死ぬ」と言って笑いをとるなどしていた。2013年(平成25年)7月6日に行われた劇場版アニメ「それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ」の初日舞台挨拶では、
「なんとか今のところは死なないでいるんだけど、まもなくだね。病院からはあと2〜3週間しか生きられないって言われてる。死ぬ時は死ぬんだよ。笑いながら死ぬんだよ。そうすれば映画の宣伝になる。死ぬまで一生懸命やるんだよ。」と笑いながら語っていた。

テレビのニュースでは、2013年6月に「アンパンマン」のアニメ製作のスタッフらに「来年までに俺は死ぬんだよね。朝起きるたびに、少しずつ体が衰弱していくのが分かるんだよね。まだ死にたくねぇよ。面白いところへ来たのに、俺はなんで死ななくちゃいけないんだよ。」
と悲痛な本音を吐露する当時94歳のやなせの姿が繰り返し放送された。同日、NHKも夜のニュースでアンパンマンのアニメを暫らく流すなどして逝去を惜しんだ。やなせが死去した3日前には、やなせ原作のアニメ『ニャニがニャンだー ニャンダーかめん』に出演した声優の檀臣幸も50歳の若さで死去している。

その後、葬儀は故人の遺志により、近親者のみで済ませた。後日「偲ぶ会」を開くこととなり、翌2014年(平成26年)2月6日、生きていれば95歳となる誕生日に東京都新宿区で「ありがとう!やなせたかし先生 95歳おめでとう!」というタイトルで開催された。やなせの密葬には、ちばてつやをはじめとする日本漫画家協会所属の漫画家60人が参列したという。

晩年には家族や親戚がいなかったこともあり、やなせは生前自身の遺産について、アンパンマンミュージアム(高知県)とやなせスタジオ(東京)に回すよう周囲に伝えていたという。自身の墓は高知県香美市香北町にある実家の跡地である「やなせたかし朴ノ木公園」に建設し、墓碑の横にはアンパンマンとばいきんまんの石像も建てられた。やなせスタジオは、長年やなせの秘書を務めていた「越尾正子」が代表取締役を引き継ぎ、やなせ作品の全著作権を管理している。

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山中峯太郎(やまなか みねたろう)

山中峯太郎 山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)~ 1966年(昭和41年))は、日本の陸軍軍人、小説家、翻訳家。陸士19期・陸大退校(25期相当)、最終階級は陸軍歩兵中尉(依願免官)。山中未成、大窪逸人、石上欣哉、三条信子などのペンネームも用いた。

大阪府で呉服商を営んでいた馬淵浅太郎(旧・彦根藩士)の次男として生まれる。幼少時に、陸軍一等軍医山中恒斎の婿養子となり、のちに恒斎の娘の「みゆき」を娶った。近衛歩兵第3連隊での隊付勤務を経て、陸軍士官学校に進んだが、脚気を患って自宅療養を命じられ、大阪の山中家に戻った。

養父の医院は経営状態が思わしくなかった。中幼本科に在校中から、休日には東京・麹町の大橋図書館(現・三康図書館の前身)に通って読書にふけっていた山中は、苦しい家計の一助になればと、処女作となる小説『真澄大尉』を執筆し、大阪毎日新聞に持ち込んだところ、高く評価されて同紙の連載小説に採用された。『真澄大尉』は、主人公である真澄大尉がシベリアで3年間にわたって民間人に身をやつし、軍事探偵として挺身したことを描いたものであり、真澄大尉は、山中の後年の代表作『亜細亜の曙』などで同じく軍事探偵として活躍する本郷義昭少佐の原型といえる。

本来は陸士18期であった山中であるが、自宅療養のために陸士卒業が1期遅れ、1907年(明治40年)5月に卒業、近衛歩兵第3連隊附。陸士在校中に、清国からの留学生と交流を深めた。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。

東條英機(陸士17期、陸軍大将、内閣総理大臣、陸軍大臣、参謀総長)は山中と同じく原隊が近歩三であり、同じ時期に近歩三で隊附勤務をしており、晩年まで親しい仲であった。1941年に東條が陸軍大臣に就任すると、高名な作家となっていた山中は東條の「私的顧問」の役割を引き受け、例えば1942年(昭和17年)に刊行された『東條首相声明録 一億の陣頭に立ちて』(東條の訓示や演説をまとめた書)は「山中峯太郎 編述」となっている。なお山中は東條より陸士の2期後輩であるが、陸大は山中の方が2年早く入校している。

山中峯太郎 1910年(明治43年)11月、陸軍歩兵中尉に進級。同年12月、陸軍大学校に入校(陸大25期相当)。陸大は陸士同期生の1割程度しか入校できない難関であり、何度目かの受験で中尉になってからようやく合格するのが当たり前であったが、山中は少尉で受験しての「一発合格」を果たした。山中は陸士19期(卒業者1,068名)で最初に陸大入校を果たし、かつ陸大25期の中で陸士19期は山中のみであった。

山中が陸大に入校した翌年の1911年(明治44年)に辛亥革命が起きた。1913年(大正2年)7月に、辛亥革命後に孫文から政権を奪った袁世凱の専制に反対する青年将校たち(その多くが、陸士で山中と交流を深めた清国からの留学生であった)によって第二革命が起きた。

旧知の中国青年将校らの動きを知った山中は、故意に陸大から退校させられるように振舞い、同年、退校処分となって近衛歩兵第三連隊附に戻った。

帝国陸軍において陸大卒業の履歴は進級・補職に大きく影響し、陸大卒業の履歴を持たずに陸軍中央三官衙(陸軍省・参謀本部・教育総監部)で勤務し、あるいは高級指揮官(総軍司令官、方面軍司令官、軍司令官、師団長など)となることは困難であった。

山中は陸大25期として1913年(大正2年)11月に陸大を卒業する予定であったが、半年あまりの在校期間を残して自ら陸大を去り、帝国陸軍での栄達を放棄する決断をした。これは、一日でも早く休職して中国に渡り、第二革命に参加して同志たる中国の青年将校たちを助けたい一心からであった。

1913年、山中は東京朝日新聞通信員となって上海に渡り、第二革命に身を投じた。同年7月に始まった第二革命は失敗に終わり、8月には終息した。山中は、日本に亡命する同志の中国青年将校らと共に日本に戻った(山中が帰国したのは同年9月)。

同年12月には再び上海に渡り、翌年の1914年(大正3年)2月に帰国して近衛歩兵第三連隊附となり、軽謹慎1週間の懲罰を受け、依願免官となって軍歴を閉じた。陸軍を辞めた山中は、半年ほど経った9月に東京朝日新聞記者となった(1917年)。

その後も第三革命にも関与するが、一方、「中央公論」「東方時論」「新小説」などに評論や読み物、小説を発表。1917年、淡路丸偽電事件の首謀者として逮捕され東京朝日新聞を退社、下獄。1919年出獄後、自らの宗教的告白『我れ爾を救ふ』を出版。一燈園の西田天香と交流する。この頃から「婦人倶楽部」「主婦之友」などの婦人雑誌に家庭小説や宗教小説を執筆するようになる。さらに倶楽部雑誌、少年少女雑誌でも活躍するようになり、講談社の雑誌が主舞台となる。1927年(昭和2年)から「少年倶楽部」に登場、1930年の『敵中横断三百里』で人気を博す(戦後に監督森一生、脚本黒澤明により「日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里」として映画化)。また『亜細亜の曙』『大東の鉄人』などの本郷義昭シリーズも広く知られる。『実録・アジアの曙』など自伝的回想を発表している。

戦後は公職追放となり(何故?)→理由は単に東条英機首相と仲が良かったからとのことだけらしい。

名探偵ホームズ全集
戦後になり、山中の戦前の諸作品が多く復刊されていたものの、山中が新作を発表する機会は激減していた。
そのような中、ポプラ社が、海外の推理小説(当時の呼称は探偵小説)・冒険小説を、少年少女向けに読みやすく翻案した叢書『世界名作探偵文庫』を企画し、1953年(昭和28年)に山中にシャーロック・ホームズシリーズなどの執筆を依頼し、山中は快諾した。本叢書の執筆陣には、山中に加えて江戸川乱歩、南洋一郎らが顔を揃えていた。

『世界名作探偵文庫』は1954年(昭和29年)に刊行が開始され、第1回配本の3巻は、いずれも山中による第1巻『深夜の謎』(一般的なタイトルは『緋色の研究』、以下同じ)・第2巻『恐怖の谷』・第3巻『怪盗の宝』(『四つの署名』)であった。当初の『世界名作探偵文庫』の企画では、同叢書に収録するシャーロック・ホームズシリーズはこの3点のみとする予定であり、同じく山中が執筆した第4巻『魔人博士』(サックス・ローマー著)と第5巻『灰色の怪人』(バロネス・オルツィ著)の2冊が続けて刊行された。

しかし、ホームズもの3冊が圧倒的な売れ行きを示したため、ポプラ社は山中の執筆によるホームズものを『名探偵ホームズ全集』として独立させ、全20巻の叢書として完結させることに方針を変更した。ポプラ社の担当編集者の後年の回想によると、自らが丹精を込めて翻案したホームズものがベストセラーになったことについて、戦後に髀肉の嘆をかこっていた山中の喜びは大きく、「ホームズもの全部を訳させて欲しいと言ってきた」という。各巻は原稿用紙300枚近かったが、山中は毎月一冊のペースで書き進め、『名探偵ホームズ全集』(全20巻)は1956年(昭和31年)末までに完結し、2年間で100万部近くの部数に達した。

山中は各巻の冒頭に載せた序文において、シャーロックホームズ・シリーズの翻案の趣旨を、読者たる少年少女に分かりやすい言葉で述べている。第1巻『深夜の謎』の序文から引用する。

「ところが、なにしろ英国の作家だから、その小説には、当然に、英国人の古い習わし、風俗、わからないことばなどが、多分にふくまれていて、上手な訳文でも、日本のことに少年少女にはぴったりしない点、たいくつするところがすくなくない。そこで、この本は、『緋色の研究』を翻案して、日本の少年少女に、もっともおもしろいように、すっかり、書きなおしたのである。
— 山中峯太郎、」

*翻訳の難しいところ面白いところですね。翻訳自身が一つの作品と言うことでしょう。

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

マンネルヘイム

マンネルヘイム カール・グスタフ・“クスター”・エミール・マンネルヘイム(1867年~1951年)は、フィンランドの軍人、大統領。フィンランド軍の最高司令官としてフィンランド内戦、冬戦争、継続戦争、ラップランド戦争を指揮した。

士官候補生としてロシア帝国陸軍に入隊し、日露戦争などで実績を積み将軍(つまり日本軍と戦った)となった。第一次世界大戦中にフィンランドが独立すると、その後の混乱から起こったフィンランド内戦で、白衛軍の司令官として闘った。独立早期、フィンランドが君主制を目指した際には摂政として連合国に独立承認を求めた。その後、一時は公職を離れたが、第二次大戦突入前の情勢不安の中で先の実績を買われて国防委員長となり、軍の装備の更新などに力を入れた。その後のソ連との戦争である冬戦争、継続戦争においては最高指揮官となり、フィンランドの防衛を行った。継続戦争の戦況悪化とナチス・ドイツとの同盟の責任から大統領を辞したリスト・リュティを継いで、1944年から1946年にかけて第6代大統領となり、ラップランド戦争でナチス・ドイツと戦い、ソ連との難しい講和を成し遂げ、独立を保った。2000年のフィンランド国内の調査においてフィンランドで最も偉大な人物として選ばれた。

マンネルヘイム 第一次世界大戦
1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアへ宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発。セルビア独立を支持するロシアは動員を開始した(第一次世界大戦)。マンネルヘイムの近衛騎兵旅団はロシア第4軍に配備されオーストリア=ハンガリーに対する緒戦と、続く10月の戦いで名を上げ、12月に聖ゲオルグ十字章4級を受けている。彼はこの章を受けたときに「今、心安らかに死ねる」と語ったという。

1915年3月、マンネルヘイムは第12騎兵師団の司令官となり、東ガリツィアへ移動した。この方面では敵将マッケンゼンの攻撃によってロシア軍は徐々に後退していたが、司令官にブルシーロフが着任し、1916年6月にブルシーロフ攻勢が開始された。この攻勢でロシア軍が成功を収めると、ルーマニアが8月に連合国側(セルビア側)として参戦した。

マンネルヘイムの第12騎兵師団はルーマニアを支援するためカルパティア山脈へ移った。1916年冬に中央同盟が攻勢を行い、12月にブカレストが陥落すると、大部分を失ったルーマニア軍はモルダヴィアへ後退し、マンネルヘイムを含むロシア軍はシレト川で防衛にまわり、大きな戦闘は発生しなかった。後にドイツ元帥として有名になるエルヴィン・ロンメル率いるヴュルテンベルク山岳猟兵大隊が第12騎兵師団の守備する山岳に対して攻撃を行っている。マンネルヘイムはこれらの戦いによって前線指揮官から司令官へと変わり、有利な地形を活かした拠点防衛を学んだ。

1917年1月に第12騎兵師団が後備に回されると、マンネルヘイムは休暇をとり、ペトログラードでニコライ2世に謁見した後にヘルシンキで2週間を過ごした。3月9日にペトログラードに戻り、2月革命の蜂起に遭遇すると、義弟のミカエル・グリッペンベルクの助力で前線のモルダヴィアへ戻った。6月に中将へ昇進し、3個の師団で構成された第6騎兵軍団の指揮官となった。

マンネルヘイム 2月革命後の臨時政府は戦争を継続したが、軍事大臣となったケレンスキーによるケレンスキー攻勢が失敗すると支持は低下した。8月に最高総司令官のコルニーロフが臨時政府からソビエトの排除を求めて反乱を起こしたが失敗した。9月にマンネルヘイムが膝の古傷の療養を理由としてオデッサで病気休暇をとっている間に、ドゥホーニンにより思想の不一致から予備役へ入れられた。これはフィンランドで独立の気運が高まると同時に、左派勢力によってフィンランドが社会主義化されることを危惧するマンネルヘイムを考えた対処であった。この年の12月3日にオデッサを出発し、12月18日にヘルシンキへ戻った。

フィンランド内戦
1917年11月のフィンランドの選挙で保守系のペール・スヴィンヒューが首相になり、ボリシェヴィキの指導を受けた社会民主党による革命は阻止された。12月6日、フィンランド独立宣言が採択され、フィンランドはロシアから独立した。フィンランドの軍隊は1905年にニコライ2世により廃止されており、スヴィンヒューは12月に帰国したマンネルヘイムに軍隊の創設を委託した。

ロシアは十月革命によってボリシェヴィキによる新政府が成立し、第一次世界大戦から離脱するため中央同盟と休戦交渉を行っていた。対ドイツのためのロシア軍10万がフィンランドに駐留し、フィンランドの社会主義革命を目指す赤衛軍の武装を支援していた。ロシアが独立宣言を承認したあとも4万以上の兵力がフィンランドに残っていた。 スヴィンヒューを支持する白衛軍は赤衛軍と対立し、武力衝突が発生していた。白衛軍は1918年1月13日に国軍として認められ、マンネルヘイムの提案で政府は首都機能を赤衛軍の勢力が強いヘルシンキから保守勢力の強い北部のヴァーサへ移すことを決めた。1月27日、ヘルシンキで赤衛軍によるクーデターが発生し、フィンランド内戦が始まった。

白衛軍は兵数の不足を補うため2月に徴兵制を施行し、兵士の動員が行われた。白衛軍はマンネルヘイムを始めとするロシアから帰国した将校、ドイツで訓練を受けたイェーガー、スウェーデンからの義勇兵を含めて約7万の兵力で構成された。赤衛軍は緒戦においてタンペレ、ヘルシンキ、ヴィープリなど重要都市を押さえ、工業力に富んでいた。駐留ロシア軍から訓練を受け、武装を供給された赤衛軍は3月上旬まで攻勢を行ったが、白衛軍は徐々に拠点防御で勝利するようになった。

ロシアは3月3日にブレスト=リトフスク条約に調印してドイツなどと停戦したが、条約に含まれていたフィンランドからの撤退はすぐには実行されなかった。フィンランド政府はドイツに援軍を求めたが、マンネルヘイムは大国の力に依存して戦うことの危険性を説き、反対した。マンネルヘイムは、ドイツ軍は赤衛軍とは戦わず他国の軍を対象とすることと、指揮権をマンネルヘイムに委ねる条件を政府に認めさせた。政府はマンネルヘイムを騎兵大将(Ratsuväenkenraali) へ昇進させ、序列を示した。ドイツ軍の到着前の3月上旬から白衛軍はタンペレを目標に反抗作戦を行い、4月3日に陥落させた。同日、リュディガー・フォン・デア・ゴルツの率いるドイツ軍約1万が海上からヘルシンキの西にあるハンコ岬とヘルシンキの東、ロヴィーサに無血上陸した。白衛軍が東国境のヴィープリを攻略し、別働隊で西部のポリを解放する間にドイツ軍はヘルシンキをほぼ無抵抗で落とした。内戦は終結し、5月16日に白衛軍はヘルシンキで勝利パレードを行った。

内戦で勝利を収めると、フィンランド政府は親ドイツの勢力が強まった。マンネルヘイムは連合国側の優勢を認識しており、スカンディナヴィア諸国と協調した武装中立を訴えたが、ドイツ軍参謀将校によるフィンランドの軍政への介入をフィンランド政府が承認したため1918年6月にスウェーデンへ亡命した。

摂政、ロシア内戦
亡命したマンネルヘイムはストックホルムに駐在する連合国の外交官と会談し、フィンランド政府の親独的傾向に反対していること、フィンランドはドイツに頼らずに独立するべきとの方針を表明した。フィンランド議会はフリードリヒ・カールをフィンランド王に決めたが、西部戦線でドイツ軍の戦況が悪化すると、連合国との関係改善と飢餓回避の食糧輸入のため、マンネルヘイムにフィンランドを代表してフランスとイギリスに行くことを求めた。マンネルヘイムはヘルシンキに戻り摂政のスヴィンヒュー、首相のパーシキヴィと会談した上でロンドン、パリを訪れた。フランスはフィンランド国会議員の選挙実施を求め、1918年の5月に行うことを約束した。イギリスは選挙実施後に独立の承認を決定することとした。マンネルヘイムは食糧の輸入許可を成功させ、ノルウェーとスウェーデンから小麦を借りて輸入した。交渉中の12月、パリにいたマンネルヘイムはフィンランドに呼び戻されて摂政になった。彼をフィンランド王にしようと考えていた君主主義者すらいた。

摂政としてマンネルヘイムは、しばしばクスター(カルル・クスター・エミール・マンネルヘイム、kustaa)の文字でサインをした。これは彼のクリスチャン・ネームであるグスタフのフィンランド表記であり、これまで長い間ロシアに仕えてきたマンネルヘイムを疑わしく思うフィンランド人がいたため、フィンランド人であることを強調するためであった。クリスチャン・ネームのエミールの部分が嫌いでありC.G.マンネルヘイム、または単にマンネルヘイムとして署名した。 彼の親類や友人には、グスタフと呼ばれていた。

1918年12月にフリードリヒ・カールは王位を辞退し、1919年5月には国会議員選挙が行われ、新しい議会はフィンランドを大統領制の共和国とする決議を7月に採択した。その間マンネルヘイムは国内では融和のため革命側に対する恩赦を行い、国防のために1919年2月に新しい徴兵法を制定し、士官学校を設立した。外交においては北欧諸国との協調を目指したが、スウェーデンとはオーランド諸島の帰属を巡る問題は解決されず対立が続いた。ロシアではロシア内戦が続き白衛軍がボリシェヴィキ政権に抵抗していた。マンネルヘイムは自国を含むヨーロッパの安全とロシア自身の為にロシアの共和国化を望み、白衛軍に応じてロシアへ進軍することを提言した。しかし、フィンランド国内でこの考えに同調する者は少なく、議会は反対した上、ロシア側の白衛軍の指導者の中にはフィンランドの独立を認めないものも存在した。

*オーランド諸島の帰属問題を解決した新渡戸稲造であることは忘れてはいけない。

マンネルヘイムは7月の初代大統領選挙に立候補した。マンネルヘイムを支持したのは国民連合党とスウェーデン人民党のみで、政権を運営していた保守連合はカールロ・ユホ・ストールベリを候補とした。恩赦によって社会主義者の勢力が戻り、5月の選挙で200議席中80議席を獲得した社会民主党もストールベリを支持した。マンネルヘイムは大統領選挙で143対50で敗れた。

マンネルヘイム 当時フィンランドはエストニアに義勇兵を派遣しており、またイギリスからフィンランド軍のペトログラード攻撃を要請されていた。マンネルヘイムはフィンランドの独立が確保されることとフィンランド東部のペツァモ、東カレリア周辺領土のフィンランドへの帰属を条件にこの要請に応えようとしていた。東方積極的外交はこのときは認められなかった。マンネルヘイムはこれを機に公職から身を引いた。

1919年10月にロシア白衛軍のユデーニチはエストニアからペトログラード近郊まで攻め込んだが援護が取られず撤退した。マンネルヘイムはユデーニチを支援することをストールベリに求めたが、実現しなかった。ロシア内戦は赤軍の勝利で終わり、1920年にソビエト・ロシアとフィンランドはタルトゥ条約を結び国境が確定した。

慈善活動
ボリシェヴィキに反対する発言から、マンネルヘイムは中道から左派にかけての多くの政治家から問題人物と見られていた。フィンランドの社会主義者はマンネルヘイムを「ブルジョワジー」や「白い将軍」と認識し、ロシア内戦におけるフィンランドの積極策について反感を抱いていた。マンネルヘイムは主義主張に基く現代の政党政治がよい指導者を生み出せるかどうか疑問に思っていた。マンネルヘイムの悲観的な認識としては、国益は党利党略のために「民主的な政治家」によって頻繁に犠牲にされていた。

マンネルヘイムは1925年の大統領選挙に出馬を要請されたが拒否し、慈善活動を行った。姉のソフィエが作った戦争被害を受けた子供に対する病院を参考にしたマンネルヘイム児童福祉連盟を1920年に設立し、1921年にフィンランド赤十字社の会長になり積極的に活動した。

アジア旅行
マンネルヘイムは狩りや旅行を好み、1927年の旅ではソビエトを避けてロンドンを経由してカルカッタへと向かった。陸行でビルマへ向かい、ラングーン、ガントク、シッキムで1か月を費やした。さらに自動車と飛行機でバスラ、バグダッド、カイロ、ベニスを経由して帰還した。1935年に日本から贈呈刀を贈られている。

1936年の旅ではアデンを経由してボンベイへ向かった。マンネルヘイムはインド滞在中ヨーロッパから来ていた多くの旧友や知人と会った。旅行と狩りの間、マドラス、デリー、ネパールを訪ねた。ネパールではマンネルヘイムは国王に虎狩りに招かれた。そこで測定された中でも最大級の大きさであり、2人の人間を殺したとされる2.23メートルの虎を狩った。その毛皮は現在ヘルシンキ、カイヴォプイストのマンネルハイム博物館に飾られている。

*加藤清正のトラ退治を思い起こさせる事件ですね。
フィンランド軍の改革
1929年、フィンランドの農民が左翼政党に反対したラプア運動が広まり、フィンランド共産党が非合法化された。マンネルヘイムは当初はラプア運動を認めていたが、事実上の軍事独裁者になって欲しいとの申し立てを拒んだ。ラプア運動はストールベリの誘拐などの暴力手段をとり、マンネルヘイムを含む多数の支持を失った。1931年にペール・スヴィンヒューが大統領となり、マンネルヘイムをフィンランド国防委員会の議長に指名した。そして戦争になった場合は、マンネルヘイムがフィンランド軍の最高司令官となることが決められた。スヴィンヒューのあとを継いだキュオスティ・カッリオもまた1937年にこの約束を更新した。1933年、スヴィンヒューによってマンネルヘイムは陸軍元帥に昇進した。

マンネルヘイムはフィンランドの軍需産業を支援し、叶わなかったもののスウェーデンとの軍事同盟を得ようとした。フィンランド軍の近代化と軍組織の刷新に取り組み、カレリアの防御線の作成や空軍の導入を実施した。1934年に動員の仕組みを改めることで常備軍の対応速度を早め、有事には最大で人口の8.6%にあたる31万5000人を動員する計画が策定された。国民に対して防衛力の必要性について理解を深める活動も行ったが、不況と防衛に対する閣僚との意見の食い違いで予算は不足した。防衛予算の増強を求める彼の意見は内閣と様々な点で折り合わず、何度も辞表にサインした。

フィンランド最高司令官
1939年8月、ソビエト連邦はドイツとの間にモロトフ=リッベントロップ協定を結び勢力圏の確認をすると、フィンランドに対して東カレリアとの交換でカレリア地峡の割譲を要求した。

ソ連の要求は主にレニングラードを攻撃することのできる範囲をフィンランドが保有していることに対して安全保障のための領域を獲得するものだった。しかし、カレリア地峡はフィンランドの人口のおおよそ10%が居住し、工場も多く建設されておりフィンランドとしてはこれを割譲することはできなかった。マンネルヘイムやソ連との交渉を担当したパーシキヴィは要求の受け入れを進言したが内閣は拒否し、交渉は決裂した。マンネルヘイムは10月17日再度辞任を撤回し、フィンランド軍の最高司令官を引き受けた。公式にはソビエトの攻撃があった後の11月30日に最高司令官職についている。この攻撃によって冬戦争が開始された。マンネルヘイムの気持ちは娘ソフィーへの手紙に書かれている。「歳と健康を考えれば私は最高司令官の重責など引き受けたくなかった。しかし私は政府と大統領の懇願に膝を折らねばならなかった。私は今4度目の戦争の中だ。」

戦争が始まるとその日のうちにマンネルヘイムは最高司令官として国防軍にその日の最初に命令を出した。
「大統領は1939年11月30日をもって私をフィンランド軍の最高司令官に任命した。勇敢なるフィンランドの兵士諸君!私がこの職に就いた今、我々の不倶戴天の敵が再びわが国を侵している。まずは自らの司令官を信頼せよ。諸君は私を知っているし私も諸君を知っている。また、階級を問わず皆がその本分の達成のためであれば死を厭わないことも知っている。この戦争は我々の独立の継続のため以外の何者でもない。我々は我々の家を、信念を、国を守るために戦うのだ。」
*この精神は日本の軍国主義と相通ずるものがある。国民は祖国の防衛のために戦うもので本分の達成のためであれば死を厭わない点も同じだ。他国を侵略して植民地にしようと言う意図などあったはずもない。

マンネルヘイムは急いで自らの司令部をミッケリに再編成し、アクセル・アイロ中将とカール・ルドルフ・ワルデン大将が補佐した。アクセル・アイロはマンネルヘイムの親しい友人であり、ルドルフ・ワルデンは1939年12月から1940年3月27日まで司令部の代理人として内閣に送られ、戦後に防衛相となった。

*冬戦争は真っ白な雪の中、真っ白な兵服にスキーを履いた戦士達が戦っている。
マンネルヘイム自身は冬戦争と継続戦争の大半でミッケリの司令部を使ったが、何度も前線へ足を運んだ。1940年3月12日に締結されたモスクワ平和条約によって冬戦争は終結した。憲法上は戦争が終結すれば最高司令官は大統領であるキュオスティ・カッリオや後を継いだリスト・リュティに戻さねばならなかったが、カッリオもリュティも留任させた。

冬戦争の後、デンマークとノルウェーはヴェーザー演習作戦でドイツの侵攻を受け、ソ連はバルト三国を占領した(バルト諸国占領)。1940年7月、ドイツからの密使がリュティとマンネルヘイムを訪れ、ドイツはフィンランドの独立を認めることを伝えた。8月にドイツはノルウェーに進駐している軍人の往復のためにフィンランドを通過する許可を得た。マンネルヘイムはスウェーデンと共同した中立化を画策したが、ドイツはフィンランドが中立になることを認めなかった。

独ソ関係が険悪化する中、ドイツ軍はフィンランドに駐留し、ドイツ軍80,000人の指揮権の譲渡をマンネルヘイムに対して提案した。マンネルヘイムはフィンランドをドイツの戦争目的に結び付けないように断った。マンネルヘイムはナチス・ドイツの政府との関係を可能な限り形式的なものに保ち、同盟のための条約の拒否に成功した。

6月22日、ドイツがソ連に対してバルバロッサ作戦を開始するとフィンランド領からドイツ軍が攻撃をはじめ、これに対してソ連はフィンランドに空爆を行った。こうしてフィンランドとソ連間でも戦争が始まり、マンネルヘイムの発案でフィンランドはこの戦争を継続戦争と呼称した。フィンランド国内からドイツ軍が侵攻したが、マンネルヘイムはドイツへの支援は控え、フィンランド軍にレニングラード包囲戦の手伝いをさせることは堅く拒否した。

マンネルヘイムの75歳の誕生日である1942年6月4日に、政府はフィンランド元帥の称号を与えた。彼はこの称号を得た唯一の人間である。この日、マンネルヘイムの誕生日を祝してアドルフ・ヒトラーが急遽訪問したが、これはあまり嬉しくない出来事であり、マンネルヘイムを困惑させた。

ヒトラーの訪問
1942年6月4日にヒトラーはフィンランドを訪れ、マンネルヘイムの75歳の誕生日を祝った。前日の夕方に知らされたマンネルヘイムは、より公式的な訪問のように見えるミッケリやヘルシンキの司令部で会うことは避けた。会談はフィンランド南東部のイマトラで、ごく秘密裏にセッティングされた。

イマトラ空港からリュティ大統領同伴のもと、ヒトラーは車でマンネルヘイムの待つ鉄道線の近くまで移動した。ヒトラーのスピーチのあと、誕生日の食事を行いヒトラーとマンネルヘイムは会談した。リュティとその他フィンランド、ドイツの高官もこれに参加していた。ヒトラーはフィンランドで5時間を過ごしてドイツへ戻った。ヒトラーはソ連反抗作戦を促進するように求めるつもりであったとされるが、特に具体的な要求はしなかった。

フィンランド国営放送・Yleの技術者ソール・ダメン(Thor Damen)はヒトラーとマンネルヘイムの非公式な会話を録音することに成功した。ヒトラーは、自分の非公式な会話を録音することを許さなかったため、この録音は密かに行われた。この録音は、ヒトラーの非公式的な会話を録音した唯一のものである。

確証がない話であるが、ヒトラーとの会談の間にマンネルヘイムが自分の葉巻に火をつけたという話がある。マンネルヘイムはヒトラーがフィンランドに対ソ連の手伝いを求めると考えており、マンネルヘイムにとってはこれは不本意だった。マンネルヘイムが葉巻に火をつけた時、ヒトラーが嫌煙家であることはよく知られていたので他の出席者は息をのんだという。しかし、ヒトラーは葉巻についてコメントせず、冷静に会話を続けた。ヒトラーが自分が優位だとして話をしているならばマンネルヘイムに対して喫煙をやめるように言うはずである。マンネルヘイムはヒトラーが自分の立ち位置を強者と弱者のどちらと考えているかを判断できたという。ヒトラーが強く指図できないと判断しているため、ヒトラーの申し出を断ることができたという。

最高司令官としての評価
マンネルヘイムのフィンランド最高司令官としての戦時の記録は評価が簡単ではない。今日でさえ、マンネルヘイムの大きな名声に対抗して戦争中の指揮内容はほぼ国家反逆であるという批判が存在する。こうした批判は主にソ連やフィンランドの共産主義者から来ている。おそらく最も簡単なのはマンネルヘイムの役割を政治家と軍司令官の2つに分けることである。

軍司令官としてのマンネルヘイムはおおむね成功した。彼の指導の下、フィンランド防衛軍はフィンランドをソ連の占領から守った。マンネルヘイムは兵士の生命を浪費しないように注意しており、不要な危険を避けた。おそらく彼の最大の短所は人を介して報告を聞くことを嫌うことである。アクセル・アイロのような多くの優秀な部下がいるにもかかわらず、総司令部の部門の責任者がマンネルヘイムへ直接報告するよう求めたため、参謀総長である歩兵大将のエリック・ハインリッヒは役目がほとんど無かった。マンネルヘイムは仕事に圧倒され、結果として総司令部での部門の間の調整に苦悩した。1944年6月のソビエトのカレリア攻勢が予測できなかったことはマンネルヘイムが木を見て森を見ずの状態になっていたことが原因の1つとして示唆されている。負担を減らすため代わりに情報を集めて、作戦命令ができるような他の権威はいなかった。

冬戦争と継続戦争の間、マンネルヘイムと他のフィンランド指導者との間には問題が何度かあった。リュティは少なくとも1度、可能な限りよい歴史的評価を保とうと行動しているとマンネルヘイムを非難した。首相のエドウィン・リンコミエスは死後に出版された回顧録で有名な芸術家にありがちな気性のむらや移り気な振舞いを非難した。マンネルヘイムが大統領に就任した際に首相を勤め、後に第7代大統領になったパーシキヴィはマンネルヘイムがすでに老齢であり常に平静を保てるわけではないと主張した。

一方でマンネルヘイムは政治に優れていたと言われる。彼は軍人であり、文民統制の原則に従ったが、フィンランドの中心人物であった。特に重大な問題はいつソ連と講和するかであった、早すぎればドイツの報復的な予防占領を招き、遅すぎればソ連にフィンランドが占領される。1942年にソ連の優位が明確になると、国の主権を守って平和へ導くためにマンネルヘイムは軍事力を蓄えた。
*大国に挟まれた(しかも地続き)小国が独立を保っていくことは大変なことなようだ。日本はその点大変恵まれている。

終戦と大統領職
1944年6月、フィンランドはソ連からの大規模な攻勢を受けていた。ドイツのラップランド軍司令であるエデュアルト・ディートル上級大将はフィンランド支援に動き、本国からの増援をとりつけたが、飛行機での移動中に墜落死した。ドイツ外相のリッベントロップは、援助と引き換えにフィンランドが公式に継戦する誓約を求め、ソ連は正式な降伏を求めた。リュティはソ連の要求を議会に知らせず、ドイツの要求の検討を行った。マンネルヘイムは議会の正式な承認でドイツと協定を結ぶことに懸念を示し、首相のエドウィン・リンコミエスはソ連が降伏を求めていることを公開しなければ議会はドイツの要求を承認しないと判断した。リュティは個人として約束し、その後のロシアとの単独講和の際は大統領を辞めることでドイツとの協定を反故にすることを法律学者に検討させて可能であるという判断を得た。

リュティは議会の承認を得ずに協定へサインし、ドイツと共に戦うことを誓うリュティ=リッベントロップ協定を結んだ。この協定でフィンランドはドイツから大量の支援物資を得た。マンネルヘイムはソ連の攻勢に対応し、侵攻を停止させた。その後主戦場はフィンランドから欧州へと向かい、7月にソ連から降伏を含まない和平の打診を得た。

リュティ・リッベントロップ協定に背いて単独講和を行うため、リュティは辞任した。8月4日、議会の特別立法で、マンネルヘイムは第6代大統領となった。マンネルヘイムは国内的にも国際的にも、フィンランドを戦争から解放するために十分な威信を持つ唯一の人間であることが明らかであった。彼はフィンランド人の多くの信任を受け、また、戦争から平和へとフィンランドを導くことのできる事実上ただひとりの権威であった。ドイツとフィンランドの間の条約はリュティ個人の結んだものとして破棄した。フィンランドの立たされた危険な状況は、大統領府前での就任演説にも反映された。

「議長、温かいお言葉感謝申し上げます。誉れ高い議員の皆さんに国難の時に国家の長たる職務の2度目の許しをいただいたことに、私にのしかかる責任を重く感じています。大きな課題は我々の未来を守るために打ち勝たなければならない困難です。今、真っ先に私の心にあるのはもう5年の間戦っているフィンランド軍のことです。議会、政府の支援と我々を支える人々の満場一致によって、我々は独立と国家の存続の維持に成功すると私は望み、そう信じております。」
継続戦争は厳しい条件で終結した。しかし、ソ連が国境を越えたほかの国に比べれば、領土の大半も、主権も、議会制民主主義も、経済の自由も維持されるなど、幸運なものであった。カレリア全土とペッツァモを失い、数多くのカレリア難民はフィンランド国内に安住の地を求めた。賠償金として3億ドル相当の物資を支払うことになった。さらにフィンランドは12月までに動員を解除して常備軍のみに縮小すると同時に北部からドイツ軍を撤退させるためにラップランド戦争を戦った。ソ連優位の連合国管理委員会を受け入れながら戦後の復興を受け入れなければならなかった。この難しい時期を通してフィンランドを導けたのはマンネルヘイムただ1人であったことは広く認められている。

1946年3月4日、官邸を去るマンネルヘイム
大統領としての任期はマンネルヘイムにとっては難しいものだった。6年の任期があったが、すでに70代後半であり、強い要請を受けて不本意ながらその職に留まった。頻繁な病気、連合国管理委員会の要求、戦争責任裁判によって状況は悪くなった。彼は任期中の多くの期間、委員会が平和に対する罪によって自分を告訴するように要求することを恐れていた。しかし、これらの告訴は行われることはなかった。理由の1つとしてスターリンのマンネルヘイムへの感心と尊敬があるとされる。スターリンは1947年、モスクワのフィンランド代表団にフィン人は老元帥に多くの借りがあると語っている。いずれにせよ、彼の一意でフィンランドは占領されなかった。連合国管理委員会のいくつかの要求に対してマンネルヘイムは批判を持っていたにもかかわらず、マンネルヘイムは休戦義務を果たすために働いた。マンネルヘイムは戦後のフィンランドの復興における仕事の必要性を強く感じていた。

マンネルヘイムは議会政治について学ばなければならなかった。彼は貴族政治観のために議会政治を完全には尊敬していなかった。また、時にはいやいやながらも共産党初の大臣を任命しさえした。

マンネルヘイムは1945年に健康問題を再発して仕事に支障を来たし、同年11月から1946年2月まで仕事から離れて病気休暇を取った。休養のため南フランスとポルトガルで過ごした。戦犯裁判の評決の発表の後、マンネルヘイムは大統領の辞職を決意した。休戦条約を結び、ラップランド戦争の趨勢が決まったことで自らに求められた役目を果たしたと考えた。

1946年3月4日、マンネルヘイムは大統領を辞職した。1918年には政敵であったフィンランドの共産党員でさえ、難しい時期に国家の結束を維持するためにはらわれた努力とその役割に感謝した。首相である保守派のユホ・クスティ・パーシキヴィが後任として第7代大統領となった。

大統領を辞任した後、マンネルヘイムはロホヤのキルクニエミの館(Kirkniemi Manor)を買った。彼はそこで余生を過ごすつもりであった。1946年6月、消化性潰瘍で手術を行い、10月には十二指腸潰瘍と診断された。1947年にスイスでさらに手術を受けた[83]。モントルーのヴァルモンサナトリウムはマンネルヘイムが余生を過ごす主な場所となった。

1948年、徐々に体力が回復してきたマンネルヘイムは回想録に取り組んだ。口述筆記した部分以外は、モントルーに住んで協力したアルダー・パーソネンをはじめ、将軍のエリック・ハインリッヒス、レオナルド・グランデル、オリヴァ・オレニウス、イルマリ・マルトラ、大佐のヴィルヤネンなどの協力者によって書かれた。彼らは戦争歴史家でもあった。マンネルヘイムはできる限り、タイプされた自分の記憶の草稿を校正した。総じて私生活は触れず、自分のかかわったフィンランド内戦頃と冬戦争、継続戦争頃のフィンランドの出来事に焦点を合わせた。1951年1月に胃の発作が起きた時、マンネルヘイムの回想録はまだ完成してはいなかった。彼らはマンネルヘイムの死後に発行している。

1951年1月27日(フィンランド時間1月28日)、マンネルヘイムはスイス、ローザンヌの州立病院で永眠した。2月4日には全ての軍関係者の出揃う中、ヘルシンキのヒエタニエミ墓地に国葬された。マンネルヘイムは今日でもフィンランドで偉大な政治家として多くの人々から敬意をもたれている。政党に属さず、利己的な動機なしに行われた祖国への献身、最前線へ赴く勇気、70代後半でも熱心に働く能力、ソ連とフィンランドの衝突を見越して備えた外交的遠望がその理由と考えられる。

マンネルヘイムの誕生日である6月4日は国旗の日としてフィンランド国防軍によって祝われている。これはフィンランド政府によって、1942年の75歳の誕生日にフィンランド元帥の称号を与えたことを期に始まった。国旗の日にはパレードと国防軍の兵員への報酬と昇格が行われる。マンネルヘイムの人生とその歩みはマンネルヘイム博物館に記されている。

マンネルヘイムはフィンランドの記念硬貨のモチーフに選ばれている。2003年に造幣されたマンネルヘイムとサンクトペテルブルクの10ユーロ記念硬貨では、コインの表がマンネルヘイムの肖像になっている。2004年12月5日、Suuret suomalaiset(偉大なフィンランド人)コンテストにおいて、マンネルヘイムは1位に選ばれた。

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河上清 キヨシ・カール・カワカミ(K.K.カワカミ)

河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉~ 1949年〈昭和24年〉)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山。

1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。

米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。

万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。1900年(明治33年)社会主義協会結成に参加、1901年(明治34年)社会民主党を他の5名とともに創立。同党が禁止されると、身の危険を感じて渡米。大学で学びながらジャーナリストとしての活動も再開。キヨシ・カール・カワカミ(K.K.カワカミ)の筆名を用いる(ミドルネームの「カール」はカール・マルクスにちなむ)。カワカミ,K.カール、K・カール・カワカミなどと表記されることもある。

折りしも日露戦争が始まった事から万朝報の特派員の名目で同地に留まり、その後もフリージャーナリスト、時事新報・毎日新聞社(旧横浜毎日新聞で、現在の毎日新聞とは別会社)の客員特派員としてアメリカでの執筆活動を続け、その間にアメリカ人女性と結婚した。

その後、日本への国際的非難が集中した「対中国二十一か条要求」「満州事変」問題などで日本側の支持に回ったことなどから、米国では「日本の政策の代弁者」と見られるようになった。

太平洋戦争開戦直後、スパイ容疑で逮捕されたが、彼を知るアメリカ人有力者の助力もあって釈放される。太平洋戦争中には「日本は負けなければならない」と連合国支持を明確にする立場に転じた。

さらに戦後は、再び「革新」の側にシンパシィを示すようになる。1949年(昭和24年)には、自署の印税の中から10万円を日本社会党に寄付し、さらに社会党幹部に対して、「非武装中立」政策を提言した。
以後、日本には戻らずワシントンD.C.で静かな余生を送った。

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ヤスオ・マツイ

ヤスオ・マツイ ヤスオ・マツイ (Yasuo Matsui、1877年 - 1962年)は、20世紀に活動した日系アメリカ人建築家 。
1898年(明治31年)に日本からアメリカ合衆国に渡り、マサチューセッツ市工業学校を経てカリフォルニア大学に入学した。1904年、ニューヨークに永住することを決意し、ニューヨーク美術建築協会に加入。その後アーネスト・フラッグの下で働く。エンパイア・ステート・ビルディングに取り組んだ建築家の一人となる。

最終的には東海岸にある多くの著名な超高層ビルのプロジェクトに関わっていた建築事務所であるF.H. Dewey&Companyの社長に就任。最も著名なプロジェクトは、71階建ての40 ウォール・ストリートビルである。また1939年の世界博覧会で日本館をデザインした。

ヤスオ・マツイ アメリカ在住の他の著名な日本人とともに、マツイは真珠湾攻撃後FBIに逮捕された。彼は1941年12月8日にエリス島に連れて行かれ、1942年2月に仮釈放されるまで2か月間拘禁された。その後も戦争中は渡航の自由は縮小され、毎月連邦政府に活動を報告しなければならず、カメラを所有することは禁じられた。マツイは1945年10月に仮釈放が発表された。アメリカ国民に帰化したマツイは1962年に死去した。死去時、家族は既婚の娘がいた。

*ナチスのヒットラーを人種差別主義者と非難していたルーズベルト、彼も同程度な人種差別主義者だったようだ。当時の欧米諸国はそもそもキリスト教徒以外の民族は人権を有するものと見なしていなかった。

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安部司

安部司 安部 司(あべ つかさ、1951年 - ):
は、日本の食品添加物評論家。自身が積極的に開発に関わって来ただけに、信頼性のある発言が注目される。
福岡県福岡市生まれ。特定非営利活動法人熊本県有機農業研究会メンバー(JAS判定員)。経済産業省国家資格水質第一種公害防止管理者。食品製造関係の特許4件取得。 山口大学文理学部化学科を卒業したのち総合商社の食品課に勤め、食品添加物の営業に従事していたが、ある日、自宅の食卓に自分が開発に関わったミートボールを発見し、自分の子供たちに食べさせたくないものを自分が作っていたということに初めて気がつき、愕然とした。ほどなく会社を退職。2018年に一般社団法人加工食品診断士協会を設立した。

講演では、食品添加物やパウダー状の食品・香辛料を数十種類持ち込み、白い粉だけでできるインスタントラーメンのスープや、清涼飲料水の合成を実演して見せる。インターネット配信番組『博士も知らないニッポンのウラ』でも同様の実演をし、ホストの水道橋博士と宮崎哲弥を驚かせたほか、漫画『美味しんぼ』でも紹介された。また、インターネット配信番組『マル激トーク・オン・ディマンド』第262回[4]などのメディアで紹介されている。

添加物の毒性を訴えるつもりはないという。「そんなことを言ったらすぐに食品会社に「その根拠を示せ」と突っ込まれます」「しかし、添加物が間接的にもたらす害を言うことは出来る」「まず糖分・塩分・油分の取りすぎです」(『美味しんぼ』第101巻より)

食品添加物のおかげで、「安い」「簡単」「便利」「美しい」「オイシイ」という現在の加工食品が成立している。これをメリットとして認めつつも、このことに無自覚で、人工的な味に慣れきっている消費者たちの自覚をうながそうとする(『なにを食べたらいいの?』)。

「(食品添加物を利用することで実現した)簡単で便利な生活もいいけれど、その代償として失っているものは確実にあります。それが何なのか、本当にこのままでよいのか。この辺りで立ち止まって、一度きちんと考えてみてはどうでしょうか。私の話がそのきっかけになるのであれば、それが一番うれしいことです。」

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松浦光修

松浦光修 松浦 光修(まつうら みつのぶ、1959年~ ):歴史学者。皇學館大学文学部国史学科教授。専門は日本思想史。
昭和34年(1959年)熊本県熊本市生まれ。皇學館大学文学部国史学科を卒業後、同大学院博士課程文学研究科で日本思想史(日本の伝統国家思想)を学ぶ。「大国隆正の研究」により國學院大學から博士(神道学)の学位を取得。2018年現在、皇學館大学文学部教授。
日本人にとって皇室とは何か?本当は無くてもいいのか?何故2600年以上も続いているのか? 

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杉本五郎

杉本五郎 杉本 五郎(すぎもと ごろう、1900年(明治33年)~1937年(昭和12年)): 陸軍軍人。著作家。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。

広島県安佐郡三篠町(現:広島市西区打越町)生まれ。少年期から将校に憧れ、1913年(大正2年)、質実剛健を伝統とする広島藩の元藩校である旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)入学。1918年(大正7年)修道中学校を卒業し、陸軍士官候補生として広島の歩兵第11連隊に入隊。しかし同年起こった米騒動は、日本帝国の内部的危機の開始を告げる大事件となり、国体安泰の安易な夢が一瞬に打ち破られ、杉本の深刻な思索と悲壮な人生が始まった。小作争議が激化し日本資本主義の屋台骨は揺らぎ始め、ロシア革命の影響で社会主義が台頭、また軍事的封建的支配の圧迫が加わり、社会に暗い圧迫感と絶望感が充満した。兵営の中から混乱した世の中を眺めた杉本は、危機を直感し自ら救世の先達になる決意を固めたのでは、と言われている。しかし軍隊に入った杉本には窓は一方にしか開かれておらず、皇国の精神を発揚し実践するための勉学と修養とに全精神を傾倒していく。

1919年(大正8年)陸軍士官学校(33期)本科入校。1921年(大正10年)同校卒業。歩兵少尉に任官、再び歩兵第11連隊附となり、陸軍戸山学校、陸軍科学研究所で短期間の教育を受ける。また軍務の傍ら広島から毎週1回は必ず三原市にある臨済宗大本山・仏通寺に修養に通い出征までの9年間これを続けた。本来個人の精神的な修養原理である禅を国家論や道法論、人生論に持ち込み、独自の思想を形成していく。

1931年(昭和6年)、満州事変では第5師団臨時派遣隊第2大隊第8中隊長として出征、中国天津方面で軍事行動ののち帰還。この後、出世コースである陸軍大学校受験をしきりに薦められたが、「中隊長という地位が私の気持に一番よく叶っている。これ以上の地位につきたくない」と拒否、「兵とともに在り、兵と生死をともにしたい」と願った。実際は、上官の受験への強い勧めに抗しきれず、一度だけ陸軍大学を受験している。結果は不合格であった。息子同然である兵の身上をよく調べ、貧しい兵の家庭へは、限られた給料の中から送金を欠かさなかった。1936年(昭和11年)勃発した二・二六事件に対しては「皇軍の恥」として、共産主義に対すると同様に不忠の汚名を被せ非難した。翌1937年(昭和12年)支那事変(日中戦争)が勃発。同年8月少佐に昇進、第2中隊長のまま、長野部隊に属し中国激戦地に従軍。同年9月、山西省広霊県東西加斗閣山の戦闘において戦死。岩壁を登って敵兵約600の陣地へ、号令をかけながら突撃。手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、倒れることなく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。38歳の生涯であった。

死の寸前まで四人の息子への遺書として書き継がれた20通の手紙を妻へ送っている。これに接した同志らによって、これは私蔵すべきでない、と20章からなる遺書形式の文章『大義』として昭和13年(1938年)5月に刊行された。これが青年将校や士官学校の生徒さらには一般学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ね29版、130万部を超える大ベストセラーとなった。

本書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。子に出した手紙とのふれこみ通りであれば、子らに名利名聞を求めず、天皇を絶対者として、己が死をも軽んじて奉仕することを説いている。本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。文中、幾ヶ所も伏字があり、これは杉本の思いがあまりにも純粋で、当時の権力者をも容赦せず、軍部の腐敗や軍規の緩みなども手厳しく批判した箇所といわれ、伏せ字の中には「敵国民族なる所以を以て殺傷して飽くなし、略奪して止まる所を知らず。悲しむべし。」などと日本軍将兵の戦争犯罪に触れている部分もある。あまりに純粋な言行を煙たがれ激戦地に送られた、という噂が戦後出た。この本の内容が一般学校の生徒らにも熱烈に支持され、生徒らによって自発的に本の研究会等が各校で作られたことについて、作家の城山三郎はその著書『大義の末』で、学校の配属将校の横暴や暴力に苦しむ生徒らが、本の内容に比して配属将校の不行跡・不品行ぶりを彼らに突きつけ、掣肘しようとした面があったことを語っている。

「大義」にも登場する仏通寺の山崎益州管長は「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。中隊長としても、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり「永遠の中隊長」であった」と述べている。

吉本隆明は、戦時中には杉本五郎の天皇の絶対観念に感動したと告白し、北一輝や中野正剛は社会ファシズム思想、相対感情が入ってくるが、杉本はドイツのエックハルトや、ヨブ記に対するキルケゴールに匹敵する絶対感情であると絶賛している。

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及川幸久(おいかわ ゆきひさ)

神奈川県生まれ、(昭和35年6月~)、上智大学卒業、その後国際基督教大学にて行政学研究科修士課程取得。YouTuberとしての知名度も高いらしい。政治団体幸福実現党の外務局長として党の活動推進に携わっておられるようです。また上智大学を卒業後、国際基督教大学の大学院にてキリスト教神学者の思想による修士号も取得さら、宗教家としても側面もあるそうだ。また、国際関係にも精通しているようだ。

「J・Fケネディ大統領暗殺事件の真相!トランプが公開した機密文書とは?」に関するyou-tubeでのニュース解説は分かりやすく核心をついている。60年間秘匿されていた大量の機密文書が一気に公開される。これはおそらく世界を大きく揺るがすものになることは間違いない。
ケネディ暗殺の真犯人は? オズワルド単独犯行説は米国人の大部分の人は信じていないが、では真の実行犯(つまり裏組織)は? 
  1. ソ連邦陰謀説
  2. 米諜報機関説(CIA等)
  3. イスラエル説
  Etc. etc.

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エドガー・サンジエ

エドガー・サンジエ(Edgar Eduard Bernard Sengier、1879~1963年): ベルギーの鉱山技師で、第二次世界大戦中にベルギー領コンゴで操業していたユニオン・ミニエール鉱山会社の取締役であった。マンハッタン計画およびその後の原子爆弾開発に必要なウランをこの会社からアメリカ政府に提供した。
サンジエは銅鉱山の開発に携わっていたのだろうが、たまたま発見したウラン鉱山は特別に純度の高いものだった。ただ、当時ウランは何か役に立つ物とは考えられていなかった。1938年ドイツでウランの核分裂反応が発見された。つまりウランはとても貴重な軍事資源となる可能性が見えて来た。ドイツ軍が侵入して来る前に行動を起こさないと。

第二次世界大戦中、米国で原子爆弾制作のマンハッタン計画が始まると、サンジエはそれに必要なウラン鉱石の多くをアメリカ政府に提供した。その多くは敵の手に渡ることを防ぐためにウラン鉱石を備蓄するという先見の明があって、すでにニューヨーク州スタテン島の倉庫に保管していた。こうした行動により1946年、彼は米国籍以外の人としては初めて、アメリカ合衆国から「功労勲章」を授与された。

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西田幾多郎

西田幾多郎 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都帝国大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。

東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。

経歴
加賀国河北郡森村(現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(帝大における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となった『善の研究』(弘道館、1911年1月)は、旧制高等学校の生徒らには代表的な必読書となった。

哲学への関心が芽生えたのは石川県専門学校(のちの四高、石川県金沢市)に学んだときのことである。ここで古今東西の書籍に加え、外国語から漢籍までを学んだ。金沢出身の数学の教師であり、のちに四高校長などを歴任した北条時敬は、彼の才能を見込んで数学者になるよう強く勧めた。また、自由民権運動に共感し、「極めて進歩的な思想を抱いた」という。だが、薩長藩閥政府は自由民権運動を弾圧し、中央集権化を推し進める。そして彼の学んでいる学校は、国立の「第四高等中学校」と名称が変わり、薩摩出身の学校長、教師が送り込まれた。柏田盛文校長の規則ずくめとなった校風に反抗し学校を退学させられるが、学問の道は決して諦めなかった。翌年、東京帝国大学(現在の東京大学)選科に入学し、本格的に哲学を学ぶ。故郷に戻り教職を得るが、学校内での内紛で失職するなど、在職校を点々とする。

自身は苦難に遭ったときは海に出かけることで心を静めたという。世俗的な苦悩からの脱出を求めていた彼は、高校の同級生である鈴木大拙の影響で、禅に打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。この時期よく円相図(丸)を好んで描いていたという。その後は、哲学以外にも、物理・生物・文学など、幅広い分野で、学問の神髄を掴み取ろうとした。京都帝国大学教授時代は18年間教鞭を執り、三木清、西谷啓治など多くの哲学者を育て上げている。

太平洋戦争中の晩年、国策研究会において佐藤賢了と出会い、佐藤から東条英機が大東亜共栄圏の新政策を発表する演説への助力を依頼される。「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを著述し、『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だったことや、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説には、原稿での意向は反映されなかった。後に和辻哲郎宛の手紙の中で「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。

1945年(昭和20年)6月2日、神奈川県鎌倉市極楽寺姥ケ谷の自宅書斎で尿毒症による発作を起こし、その5日後に死去。北鎌倉の東慶寺で葬儀が行われた。法名は曠然院明道寸心居士。その際、鈴木大拙は、遺骸を前に座り込んで号泣したという。

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田母神俊雄

田母神俊雄 田母神 俊雄(たもがみ としお、1948年〈昭和23年〉~)は、日本の航空自衛官、軍事評論家、政治活動家。第38代航空総隊司令官、第29代航空幕僚長。最終階級は航空幕僚長(空軍大将相当)。予備役ブルーリボンの会顧問、「日本をまもる会・大東亜聖戦大碑護持会」会長。

防衛大学校卒業後、航空自衛隊に入隊し、2007年3月に航空幕僚長に就任。2008年10月31日に政府の歴史認識と異なるアパグループ主催の懸賞論文を公表し、航空幕僚長を更迭された。論文では、日本は第二次世界大戦に蒋介石とルーズベルトの策略によって巻き込まれたと主張した。また、日本の戦時中の行動は「西洋の植民地主義からアジアを解放する」ための努力であったと論じた。この論文と、その後の核兵器使用に関する発言は、日本国内外で大きな論争を引き起こした。

退官後は軍事評論家として活動。2014年に都知事選と衆議院選に出馬して落選。2016年に都知事選における公職選挙法違反容疑の罪に問われ、2018年に有罪が確定して2023年末まで5年間の公民権停止となった。2024年に再び東京都知事選挙に出馬したが落選した。

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高野岩三郎

高野岩三郎 高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(明治4年9月2日)- 1949年(昭和24年)4月5日)は、日本の社会統計学者、社会運動家。

経歴・人物
長崎県西彼杵郡長崎区銀屋町出身。兄は高野房太郎。慶應義塾幼稚舎、共立学校(現:開成中学校・高等学校)、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業(1895年)。大学は兄のアメリカからの仕送りで何とか卒業できたという。1904年に法学博士の学位を授与される。この間1897年から和仏法律学校で講師を務め、財政学を講じた。

ミュンヘン大学留学(1899-1903年)で統計学を学び、1903年に東京帝国大学法科大学助教授(統計学)。政治学者で後に東大総長となる小野塚喜平次らと社会政策学会を設立、学会内の最左派として活動した。また日本文化人連盟を結成。東京帝大では法学部からの経済学部独立に尽力した。弟子には森戸辰男、大内兵衛、舞出長五郎など、のちに著名となる多くのマルクス経済学者がいる。

1919年、東京帝国大学経済学部成立の年に政府の要請により国際労働機関 (ILO) 代表に任命されたが、大日本労働総同盟友愛会などは労働界から選出すべきであると非難(国際労働会議代表反対運動)、同じ意見を持っていた高野は本来無関係のはずであったが筋を通して日本代表とともに東大も辞職した。

翌1920年、請われて大原社会問題研究所の設立に参加。設立時から没年まで所長を務める。大原社研では日本最初の労働者家計調査を実施、労働問題を研究。1928年12月日本大衆党が結成され委員長となるが、翌年同党は分裂。

戦後、鈴木安蔵、森戸辰男、馬場恒吾らと憲法研究会を設立、1945年12月26日、研究会は「憲法草案要綱」発表。さらに同年12月28日、高野は雑誌「新生」にて高野私案を発表した。 高野は最長老として最も過激な意見を述べたと言われる。この憲法草案要綱は、のちに連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) で憲法草案を作る際に参考とされ、日本国憲法との類似点が指摘される。高野はこれとは別に大統領制・土地国有化などを盛り込む日本共和国憲法私案要綱を発表。自身の所属する憲法研究会を含め、天皇制存続を容認する潮流を「囚われたる民衆」と称して批判、天皇制廃止を主張した。

1946年日本放送協会 (NHK) 第5代会長。敗戦後、GHQによる厳しい検閲に協力した5100名にも及ぶ日本人グループのリーダー格だったのが高野であり、このことが、高野の戦後初代NHK会長就任につながっている。NHKの会長に就任した高野は1946年4月30日に行われた就任挨拶で「権力に屈せず、大衆とともに歩み、大衆に一歩先んずる」とする放送のあり方を説き、民主的なNHKを目指したが、GHQの占領政策が反共に転換したこと、任期半ばにして高野自身が死去したことで挫折してしまった。 同年10月、日本太平洋問題調査会を再建し、世話人に就任した。
**なるほど、彼がGHQの洗脳戦略立案の影の主役と目される理由か。GHQを仕切っていたのはいわゆる極左リベラル、一種の社会主義者=トロッキスト達のようだ。マッカーサー元帥自身は基本的に反共で天皇制を不可欠なものと認識していたようだ。

1948年日本統計学会初代会長。日本社会党の顧問でもあった。

親族
妻はミュンヘン留学中に知り合ったドイツ人女性バルバラ・カロリナ。滞在中の1902年に娘のマリアが誕生し、1906年に日本で入籍[8]。長女マリアはマルクス経済学者の宇野弘蔵と、三女の正子は物理学者の野上茂吉郎と結婚した。茂吉郎の両親は野上豊一郎・弥生子夫妻。

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小泉八雲

小泉八雲 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日~ 1904年〈明治37年〉9月26日)ギリシャ生まれ英国国籍の新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は『怪談』『知られぬ日本の面影』『骨董』などで知られる明治時代の作家。明治期の日本を海外に紹介したことや、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな(のっぺらぼう)」といった日本に古くから伝わる口承の説話を記録・翻訳し、世に広めたことで評価されている。

ハーンは1850年6月27日、レフカダ島でイギリス人の父とギリシャ人の母の元に生まれた。家庭環境に恵まれず、幼少期に両親が離婚してハーンは捨てられ、大富豪だった大叔母に引き取られる。厳格なカトリック教の教えを強いられて逆にキリスト教嫌いになり、神話や伝説、民話、民間信仰、アニミズムといったものに興味を引かれるようになった。16歳の時に遊具が左目に当たり失明。17歳で大叔母が破産して経済的に困窮し、19歳で移民船に乗り渡米。ホームレス同然だったところを印刷屋のワトキンに拾われ、印刷の知識を身に付ける。文筆業の才能を持っていたハーンは新聞社に就職してジャーナリストとなり、次第に名声を高めていった。『古事記』の英訳版を読み1884年の万国博覧会に行ったことから日本に興味を持ち、1890年に来日。新聞社との契約を破棄して、40歳で松江の英語教師となる。ハーンは住み込み女中だったセツと結婚(アメリカ人女性と短い期間ではあるが最初の結婚をしていたので再婚となる)。ハーンは41歳、セツは23歳、18歳の年の差婚だった。家族のために1896年に日本国籍を取得し「小泉八雲」に改名。松江・熊本・神戸・東京に移り住み、英語教師の仕事をしながら精力的に執筆活動を続けた。1904年、54歳で死去。

なお、八雲は日本語があまり上手くなく「ヘルンさん言葉」と自称する独特な片言の日本語の変種で他者と会話していた。「ヘルンさん言葉」を完璧に理解できるのは妻のセツだけで、英語のできない客人とは話が通じず、セツが間に立って「ヘルンさん言葉」を通訳していたと次男の巌は『父八雲を語る』で回想している。

1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」に改名。「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなんで名づけられた。八雲の名前は本人が決めたものではなく、セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』にある日本最古の和歌からとって名付けたという。なお、2016年11月、愛知学院大学の教授によって1896年(明治29年)当時の英国領事の書簡を元にした研究論文が発表され、小泉八雲がイギリスと日本の二重国籍だった可能性が高いことが示唆されている。

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でも、きっと本人も日本人だと考えていたのでは?
NHKの朝ドラは 『ばけばけ』ヒロインの夫・ヘブン役(モデル/小泉八雲)はトミー・バストウさん!(2025.10)。第113作目の連続テレビ小説は、松江の没落士族の娘・小泉セツがモデルの物語。外国人の夫、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と共に、「怪談」を愛し、急速に西洋化が進む明治の日本の中で埋もれてきた名も無き人々の心の物語に光をあて、代弁者として語り紡いだ夫婦の物語です。

人物列伝
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藤井一至(ふじい かずみち)

藤井一至 藤井 一至(ふじい かずみち、1981年10月8日~ ): 日本の土壌学者(博士(農学)、京都大学)。福島国際研究教育機構・土壌ホメオスタシス研究ユニットリーダー。元国立研究開発法人森林研究・整備機構・森林総合研究所主任研究員。

持続的な食糧生産や土壌管理技術を研究テーマとし、『土 地球最後のナゾ - 100億人を養う土壌を求めて - 』(光文社新書、2018年)で河合隼雄学芸賞(2019年)、『土と生命の46億年史 - 土と進化の謎に迫る - 』(講談社ブルーバックス、2024年)で講談社科学出版賞(2025年)受賞。
1981年、富山県中新川郡立山町生まれ。子供の頃の趣味は岩石採集。
立山町立雄山中学校、富山県立富山中部高等学校を経て、京都大学農学部を卒業、同大学大学院農学研究科博士課程修了、博士(農学)の学位を取得[8]。『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)、『栽培植物と農耕の起源』(中尾佐助)に影響を受け、土の研究を志す。土壌学研究室では吉田山の土壌生成過程、インドネシアの熱帯雨林の土地利用変化の影響を研究した。
大学では将棋部に所属し、関西学生王将(2003年)を獲得した。

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