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世界の国々

万国旗 世界にはいくつ国があるのか。日本政府が承認している国だけでも196もの国家があるそうです。国連加盟国は193だそうだ。日本の196は国連加盟国数193に、「バチカン」「コソボ」「クック」「ユウエ」の4か国を足して「北朝鮮」を引いた数とのこと。これらの国を全部回ったことのある人は世界でだいたい100人程度だそうだ。
私達は、そのうちいくつぐらいの国の現状について知っているでしょうか。定年退職して海外旅行に行く時間ができる。でもたいていは数か国回ればもう堪能してしまうでしょう。それに言葉も分からなくて旗振りのガイドについて観光地回って買い物して、何を得るのでしょうか。旅は人の知識を増やし、人生を豊かにするとは昔から言われてきました。日本の常識は世界の非常識なんて言いますが。
いま、我が国は大変内向き志向になっています。オリンピックなんかの報道も、焦点は日本の選手だけ。国民は本当に他の国の選手の頑張っている姿を見たくないのでしょうか。一時は世界のトップクラスだったODAも今では情けないほど減少しています。ニュースを見てもベトナムやインドネシア、タイ等の国の人々の生活が20年前とどう変わっているのが全く分からない状況でしょう。
でも、これだけインターネットが発達した時代、ほとんどの情報は机の上で居ながらにして手に入ります。まずは手に入る情報をしっかりと把握し整理しておくことが大事です。もし、運よく海外に行くチャンスが来たら有効に活用しましょう。中学や高校で地理を学ぶのもそういう目的のためのはずですね。

目次
裸坊達の祭りについて
秘境ブータン
ロシアと日本
ニューギニアが面白い
カレーライスのお話
グリーンランド
クラカタウ火山
合掌造り集落
アラル海の問題について
ディエゴ・ガルシア島
スプリト
デリーの鉄柱
イースター島
裸坊達の祭りについて   秘境ブータン   ロシアと日本 ニューギニアが面白い   カレーライスのお話  
クラカタウ火山   合掌造り集落   アラル海の問題について   ディエゴ・ガルシア島   スプリト  
デリーの鉄柱   イースター島

裸坊達の祭りについて

裸坊祭り

裸坊祭というのが本当にある。「はだかぼうまつり」と読むそうですが、山口県防府市の防府天満宮で、1000年以上続いているとされる御神幸祭(裸坊祭)とも称される極めて伝統と由緒ある祭りだそうです。学問の神様として崇められている菅原道真公の御霊(みたま)を慰める神事で、菅原道真公が京都から大宰府に流されて行く道筋での宿泊地として立ち寄られた際の送迎にちなんで毎年11月の第4土曜日に実施されるそうです。白装束姿の「裸坊」と呼ばれる男たち約5千人が境内を埋め尽くす中、触れると願い事が叶うといわれる、御網代輿が登場し、裸坊たちが我先にと群がる壮大な祭りだそうです。
裸坊達の部屋に戻る

カレーライスのお話

 カレーライスは、今や日本料理の定番として定着しつつあるが、その歴史的背景はなかなか複雑です。ところで毎週金曜日はカレーの日。これ明治以来の日本の伝統。というより、英国の伝統。そもそも、インドにはカレーという料理は無く、ガラムマサラという国民食---日本で言えば味噌汁あるいは醤油みたいな汎用性の高い多種多様な食材がある。どれも豊富に香辛料を使うのですがその使い方も色々で、まさに「おふくろの味」と言ったもの。しいて、カレーの語源を探れば、ドラビダ語系のタミル語「カリ」に行きつくようです。

 英国が、インドを統治下に治め、1772年にインド総督だったウォーレン・ヘースティングズによって、「カレー」料理が紹介された。ヘースティングズはロンドンで仕出し屋のような商売もしていて、イギリス人でも調理できるように材料を調合してカレー粉として販売したようです。当時、英国では日曜日に肉を焼く。ローストビーフです。まいにち少しずつ食べて金曜あたりなると肉が傷み始める。それをごまかすためには香辛料満載のカレーがピッタリと言った訳です。土曜日は何食べたのですかね。

 日本には明治3年の兵制改革の時期。各藩寄せ集めの群を改革するため、陸軍はフランス、海軍はイギリスの範を取ることにした。そこで、英国海軍の金曜カレーが日本海軍に移植されたようだ。今でも海上自衛隊の金曜の夕食はカレーライスです???。横須賀カレーはその名残(海軍基地があった)。

 イギリスでは、ご飯でなくてパン??。イギリスでもカレー&ライスですよ。ヘースティングズは、ベンガル知事。ちょうどガンジス川河口のバングラデシュあたりで、主食は米。もちろんインディカ米の長粒種。日本では超異常なコメの高関税のため入手は難しいでしょうが、この方が多分美味しいのでしょう。  日本でのカレーの国産化は、まず漢方薬屋がトライして成功する。カレー粉は、まさに色々な生薬に混合物。カレーの実が成る植物なんて絶対にありません。この成分を解き明かすことは非常に面白い。きっと色々なカレーを試してみたくなること請け合いです。  また、カレーの具の方も色々な肉や魚、野菜のバリエーションも多く豊富なメニューが可能です。だた、日本のカレーは小麦粉を入れてトロミを出すのに比べて、他のカレーはもっとさらっとしたスープ状と言った違いがあるようです。
1.カレーの色
 あの黄色い色のもとは、ウコン(鬱金)。英語名ターメリック (turmeric)。
ターメリック ターメリック ショウガ科ウコン属の多年草。インドが原産であり、紀元前からインドで栽培されている。根茎に含まれるクルクミンは黄色い染料の原料としても広く用いられてきた。日本では、カレー粉に用いられるほか、クルクミンの肝機能への影響を期待して二日酔い対策ドリンクの原料にも用いられていますがまだ実証はされていないらしい。
2.辛み成分
 辛み成分は、胡椒も多少は使われるのですが、基本はトウガラシ
トウガラシ 胡椒
胡椒(左側)はヨーロッパではものすごく貴重品だったのです。トウガラシは、コロンブスが持ち帰るのですが、行ったのはインドでないので代わりに持ち帰ったもの。どちらもpepperなんて呼んでますが、トウガラシはナス科、胡椒はコショウ科のツル性植物で全く別もの。唐辛子は手軽に植えられることもあり、今や世界中で胡椒の座を奪ってしまったようです。他に生姜なども入っていることも。
3.香り成分
クミン コリアンダー クローブ クローブ
左から、cumin、coriander、clove
香りの一番手はクミン(cumin)。セリ科の植物。漢方では馬芹。市販のカレーを食べる際にこのパウダーを一振りすると香りが断然引き立つらしい(今度やって見たい)。
二番手はコリアンダー(coriander)タイ料理ではパクチー、中華では香菜(xiangcai)。セリ科の一年草。世界中で使われているが、最近ではスーパーでも売られている。
三番手は、クローブ(clove)、丁子(ちょうじ)ともいう。おもにインドネシア、ザンジバル、スリランカ、モーリシャス、マダガスカル、コモロ、ペナン、ドミニカなどで栽培されている。私も、タンザニアのザンジバル島、ペンバ島に行ったことがあるが、丁子の臭いが町中に漂っていました。チョットあまいいい香りがします。フトモモ科の木の花のつぼみです。大航海時代は、胡椒と並ぶ重要商品だったらしい。
ナツメグ シナモン シナモン
四番手は、ナツメグ。ニクズク科の常緑高木の種子。漢方薬では荳(ずく)。下痢止め。
他に、シナモン(肉桂)…クスノキ科の常緑樹、またその樹皮から作られる香辛料である。ニッキとも。香り高く、『スパイスの王様』と呼ばれる。
カルダモン フェンネル フェヌグリーク
左から、カルダモン、フェンネル、フェヌグリーク
カルダモン(cardamon)は、ショウガ科の多年草。和名は小荳蒄(ショウズク)。原産はインド、スリランカ、マレー半島。「スパイスの女王(the queen of spices)」と呼ばれることがある。
フェンネル(Fennel)は、セリ科ウイキョウ属の多年草。和名はウイキョウ(茴香)。
フェヌグリーク(fenugreek)…マメ亜科の一年草植物。
カレーにはものすごく色々な香料が入っているのですね。

世界一きれいな英語が聞ける国…秘境ブータン

 ブータンと聞いても一般の人は、なかなかイメージが沸かないと思う。なんせ1970年ぐらいまでほとんど鎖国状態で、今でも観光客の数は制限されていて、特定の旅行会社を経由して現地のガイドを同伴しないと旅行することは難しい。ヒマラヤ山脈の山の中の人口約78万人の非常に小さな国である。国民の9割が農民で貧しい国であるが、1972年代にワンチュク国王が提唱した国民総幸福量(いわゆる幸せの指標、GNH (Gross National Happiness))の概念に基づき、「世界一幸せな国ブータン」として国造りを進めており、GDP/GNP増加だけを経済の指標としている世界中の先進国からも注目されている。
ブータン・パロ空港ブータン・パロ空港
 ブータンの人達は、伝統文化に中で現代文明とは距離を置いて生活しており、ほとんどは農民ですが、農家はどの家も大きなガッチリしたつくりで、自給自足の生活ができるため、GNP統計上は実際以上に貧困状態と分類されているようです。また、教育、医療、水道等のインフラが無料ということも生活の心配が少ないため、幸福度に大きく貢献しているでしょう。一般的にはお金や経済の成長と幸福度は正の相関があるとされているが、実際の幸福度は、常に他者との比較ですから皆が同程度の貧しさなら人は幸福でいられます。また、余計な情報が氾濫していないことも精神的な豊かさのためには必要でしょう。そのようなわけから、アンケート調査などから、実際にブータンは幸福度は世界のトップ10には入ってくるようです。日本、米国等は20位以下。格差社会が進んでいるのでしょう。
ブータンのニューカップル 【上記写真の注釈】
 上の結婚式の写真は、左の青年がオランダ人で、森林保護関係のNGOの仕事をしているらしい。とてもブータンがお気に入りとのことですが、まさかブータンの女性と結婚して永住するつもりとは。実は、この写真を彼が私に送ってきたのは訳があるのです。
ネパールのカトマンズ空港から、ブータン行の飛行機に乗り込んだとたんの機内放送があり、本日の飛行は霧のため中止ということで、乗客はほぼ強制的にホテルに直行させられ翌朝に飛ぶことに。しかも、ホテルは見知らぬ客同士の相部屋。オランダ人は世界でも背が高いので有名だが、彼も相当にノッポで強そうだ。まあ、向こうからすれば正体不明の中年のアジアのオジサン。お互い間が持たないね。たまたま、ウィスキーのボトルを私が1本持っていたので、二人で1本あけて多少の話もしたようだ。大変喜んでくれていて、そのお礼として写真を送ってくれた。どうしてボトルなんか持っていたのか。ブータンの夜は何も娯楽が無いので準備しておいた方が良いとの情報があったからなのだが。まさに、ノミニュケーションの見本ですね。まあ、これも昔の話。2000年頃かな。ブータン国自体は今もそんなに変わってないかも。

ブータンのガイドさん
 このブータンの人、どうして英語が得意なのでしょう。ブータンと言う国、ちょうどヒマラヤの急斜面に位置しており、大河ツァンポー川(ブラマプトラ川)の沢山の支流による浸食で、国中が深い谷で分断されています。谷が異なると人の行き来も難しく、言葉も異なってきます。従って学校教育では共通語として英語が用いられているそうです。ブータンの人はシャイで人見知りするため、自分から外国人に話しかけることはありませんが、話しかけられるとしっかりとした英語で答えが返ってきます。スーパー(雑貨屋さん)の売り子の女性も英語の教科書を読んでいるような英語が返ってきます。ブータンは国連職員も多く出しているそうです。スローテンポで格調高く、威厳を持って話すことが出来る。日本の英語教育もそんな英語を目指して欲しいですね。

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ロシアと日本

文明開化時期のロシアと日本。日本はヨーロッパ諸国から色々なものを学んできました。科学技術は当然としても、軍事や法律など。では、ロシアから学んだもの。文学では、チェホフ、トルストイ、ドストエフスキー他結構あげられそう。後は音楽、チャイコスキーの他幾人かあげられそうです。後は一時流行った歌声喫茶などのロシア民謡。日露戦争と太平洋戦争で敵味方として戦った以外、隣人としてはあまり接触がないのが現実。それと戦後の東西冷戦の影響で、日本人の中にはあまりロシアが好きでない人も多いようです。
レーニン 右写真はユジノサハリンスクで見かけたレーニン像。スターリン像はもうないがレーニンは健在。
また、ロシアと言う国は軍事的には大国ですが、経済の面では相当貧しく、国民は常に西欧諸国にあこがれを抱いている国なのです。ロシア人の方は、経済成長を成し遂げ、文化的にも独自な日本には親近感を持っている人の方が多いようです。日本に来る観光客の中にはロシアや旧ソ連邦からやってくる人結構見かけます。
以前、政治家鈴木宗男が、「ロシアと経済交流をしないと北海道の未来は無い。」と言っていましたが、逆にサハリン、北方4島、極東の地域の発展も日本の力なくして発展は不可能です。韓国、中国がその地位を狙(ねら)っていますが。サハリンのスーパーを経営しているのはたいてい韓国人か中国人。社会主義の影響か、ロシア人は商売が下手で、新しい企画を行うことは苦手なようです。ただ、スポーツや芸術の世界ではとことん打込むすぐれた素質がありそうですね。付き合って損は無い相手でしょう。
サハリンには、今でも日本料理店があります。スーパーでは東郷ビールなんて売っています。反日の韓国や中国では、絶対にありえないことです。ロシアの首脳達は、領土問題を棚上げして、経済交流をしましょうと、何度もさそっているのに領土問題に固執し経済交流を拒否してきたのは日本の政府です。北方領土は、戦後のヤルタ会談の密約で米ソが合意したもの。基本的にはロシア側の好意が無ければ絶対に帰ってきません。朝鮮戦争で米国が38度線で留まったのと同じこと。米国の意向は、ロシアが常に敵側にいて欲しいことだけ。四島返還なんてことがおこれば米国が黙っているはずがありません。 ソ連邦が崩壊して、ロシアが自由主義経済圏に組入れられたはずですが、なんとかそれを阻止したい勢力が米国の政治の主導権を握っているのです。冷戦に変わる恒久的な対立です。
ところで、ソ連邦とは何だったのでしょうか。ロシア人は、常に西洋諸国から、田舎者あつかいされ、仲間外れにされ、バカにされ劣等感すら持ち続けてきた歴史があります。国際的には強面で、強いリーダーシップを発揮してくれるプーチンが国民の圧倒的な支持を受けるのはそれなりの理由があるのでしょう。

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ニューギニアが面白い

ニューギニア ニューギニアは一度訪ねてみたい国の一つである。ニューギニア島(New Guinea)は、は太平洋南部に位置する島。西半分は、インドネシア領で東はパプアニューギニアとしての独立国。オーストラリアがトレス海峡を隔てその北側にある。パプア島 (Papua)・イリアン島 (Irian)とも呼ばれている。面積は約78.6万km2で日本の国土の約2倍の大きさ。世界の島の中では、グリーンランドに次ぐ面積第2位の島。大陸を含めても8番目に広い陸塊だ。

ニューギニア最初の人類は、氷河期の頃にスンダランドから移住してきた人々であるようだ。オーストラリアのアボリジニに近い系統であるオーストラロイド(パプア人の祖先)とされている。その後、海洋民族で青銅器文明を持つアウストロネシア系の諸民族(メラネシア人、マレー人、ジャワ人)も到来したらしい。 熱帯雨林と湿地帯がほとんどを占めているため、白人たちにはうまく植民地的利用ができず比較的伝統的な社会が良く保存されてきている。そうはいっても独立までは色々と紆余曲折はあったのでそれは別途調べてみる必要はあるでしょう。 ニューギニア ニューギニアはダイヤモンド博士が、最初に人類学の研究のため訪れた地で、その後の彼の思想にも大きな影響を与えた場所だ。彼はバードウオッチングウォチャーとしての側面もあったので、その面でもニューギニアは最初から魅力的な土地でもあったのでしょう。
ただ、他の地域から隔絶された環境で、その複雑な地形から、多種多様な文化や言語を持った多くの部族達が独自の文化を守りながら生活しており、人類学研究の宝庫であったわけです。
最初に博士がこの島を訪ねたのが、1931年。2006年に首都ポートモレスビーの空港で見た光景は非常に衝撃的だ。近代的な飛行場。空港内での人々の服装も空港職員も設備も他の先進国の様子と全く変わらない。豊かな自然を破壊する道路建設をやめていきなり空港網が完備される。素晴らしいことだ。ただ一歩外へ行くとそこには伝統的な社会もいまだ根付いている。人類2000~3000年ぐらいの歴史の変化をたった数十年程度で追いついたこの人々達が今後どんな変化をしていくのかは大変興味深い人類学の壮大な実験だ。

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グリーンランド

グリーンランド

グリーンランドは、北極海と北大西洋の間にある世界最大の島(日本の面積の5.73倍)。メルカトル図法の地図で見ると北極に近いところにやたらと大きな島が描かれている。しかし、特別な観光地でもなさそうだし、我々にとっては存在感の薄い土地でもある。所属はデンマークの旧植民地。現在はデンマーク本土、フェロー諸島と対等の立場でデンマーク王国を構成しており、独自の自治政府が置かれてそうだ。
982年頃、ヴァイキングの仲間の赤毛のエイリークという人物が、この島を発見しグリーンランドと命名したらしい。ちなみにアイスランドもこの人物が発見し、ネーミングが悪く入植希望者が来なかったので、グリーンランドと命名したらしい。その後は住民たちも絶滅し忘れられた存在になっていたらしい。
グリーンランドは、大部分が北極圏に属し、全島の約80%以上は氷床と万年雪。巨大なフィヨルドが多く、氷の厚さは3,000m以上に達する所もあるという。居住区は沿岸部に限られ、本当に北極の島だ。
16世紀半ばに再発見され、18世紀にゴットホープに植民地が作られ、同時に布教も行われた。1917年以降はデンマークの支配が全島に及び、1953年本国の県と同様の自治権を得る。1979年5月に自治政府が発足し、グリーンランドはデンマークの自治領となった。1985年グリーンランド政府はECを離脱。
グリーンランドは、島内のほとんどの土地が厚い氷に覆われており、地下資源の採掘が困難であった。しかし、地球温暖化の影響で少しずつ氷が溶解しており、今後採掘のスピードが速まると予想される。グリーンランドの地下には中東地域に匹敵する量の原油が存在するとされており、地下資源収入が経済的にグリーンランドを支え、デンマークからのグリーンランド独立が容易になるとも指摘されています。
グリーンランドは、島内のほとんどの土地が厚い氷に覆われており、地下資源の採掘が困難であった。しかし、地球温暖化の影響で少しずつ氷が溶解しており、今後採掘のスピードが速まると予想される。グリーンランドの地下には中東地域に匹敵する量の原油が存在するとされており、地下資源収入が経済的にグリーンランドを支え、デンマークからのグリーンランド独立が容易になるとも指摘されています。主な資源は鉱物(亜鉛、銅、鉄、氷晶石、石炭、モリブデン、金、プラチナ、ウランなど)と海産物(魚介類、アザラシ、クジラなど)である。
【グリーンランドの経済】
現在のグリーンランドの主な収入源は漁業のようだ。2010年の輸出品の87%が魚介類(うち55%がエビ)および水産加工品。農業の中心は野菜生産と牧羊、そしてトナカイの飼育です。またグリーンランドアザラシをはじめとする動物の皮革や毛皮製品も、輸出の一部を占めています。

世界の国々

クラカタウ火山

インドネシアのジャワ島とスマトラ島間スンダ海峡にある超巨大火山。今でも活発に活動しているらしく恐ろしい話だ。数万年以上前から活動していたようだが、文字が発明されて以降、535年と1883年に大爆発を起こしている。特に535年の噴火は地球環境にも多大な影響を与え、歴史を大きく塗り替える原動力ににもなったとか。
クラカタウ火山 東ローマ帝国には、この時の様子の記述が明確に記載されており、1年以上も「太陽が暗い状態」が続いていたことが記されています。

【東ローマ帝国の歴史家プロコピオスの西暦536年の記述】
昼の太陽は暗くなり、そして夜の月も暗くなった。
太陽はいつもの光を失い、青っぽくなっている。
われわれは、正午になっても自分の影ができないので驚愕している。
太陽の熱は次第に弱まり、ふだんなら一時的な日食の時にしか起こらないような現象が、ほぼ丸一年続いてしまった。
月も同様で、たとえ満月でもいつもの輝きはない。

同様な記述は、西ローマ側にある。
【歴史家であり教会指導者ヨーアンネースの西暦536年の記述】
あのような太陽からの合図は、いままで見たこともないし報告されたこともない。
太陽が暗くなり、その暗さが1年半も続いた。太陽は毎日4時間くらいし照らなかった。照ったといっても、実にかすかだった。
人々は太陽が以前のように輝くことは2度とないのではと恐れた。

クラカタウ火山 このような記録は、中国にもあり、世界の多くの地域で噴火の爆音が聞こえたらしい。535年の大規模な噴火はインドネシアの文明に歴史的な断絶を引き起こした。5世紀から6世紀にかけてのジャワ島西部にはカラタンと呼ばれた高度の文明が栄えていたが、6世紀以後姿を消す。また、世界各地に異常気象をもたらす。その痕跡は樹木の年輪や極地の火山灰の堆積のような物的なものから歴史文書に至るまで広範囲に亘っているのだ。
1999年、イギリスで放映されたテレビ・ドキュメンタリーにおいて、この巨大噴火による気候変動を発端として、東ローマ帝国の衰退やネズミを媒介とするペストの蔓延、歴史に残らぬ暗黒時代の惨事の数々、イスラム教の誕生、ゲルマン人等によるヨーロッパ侵攻、中央アメリカのマヤ文明の崩壊、少なくとも4つの新しい地中海国家の誕生などが起こったと推論できるとされた。

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合掌造り集落

富山県の五箇山(ごかやま)と岐阜県の白川郷は合掌造りで有名で、世界遺産にも登録されています。でも、なぜこのような独特の構造の家屋が誕生したのでしょうか。
合掌造り 実はこれは、日本の戦国時代の武器生産、もっと具体的には火薬の製造に密接に関係していたとのことです。合掌造りの特徴は、大家族制。つまり、大きな家に多くの家族が住み、そこから出る大量の糞尿で、火薬を製造していたのです。
合掌造り 鉄砲の伝来は、種子島にポルトガル人が伝えますが、実は日本には鉄砲はもっと前から伝わっていたとされています。鉄砲には火薬が必要。でもこの火薬の製造方法が大変なため日本では鉄砲は普及しないでいたのです。本来火薬の発明は、中国なのですが国家秘密を言うことで日本には伝わってこなかったようです。
 火薬は長らく黒色火薬のみでした。これは木炭と硫黄、硝酸カリウム(硝石)の混合物ですが、日本では硝酸カリウムが採れないのです。大貿易港だった堺は硝石の輸入が可能でした。つまり、火薬は堺でしか作れず、これが戦国時代の堺の自治を支えたのだと考えらています。  その後、硝石を「国産化」する技術が広がります。原料は意外なところにありました。トイレです。バクテリアがアンモニアを分解すると、硝酸ができることを利用するのです。
 まず、人糞や厩肥に、ヨモギ、麻、サクなどの雑草を混ぜ合わせ、そこに尿を掛け、何度もかき混ぜる。すると分解が促進され、硝酸塩ができる。これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムに変化。これを灰汁(炭酸カリウム)で煮詰め、結晶化させると硝石となるのです。ヨーロッパでも海外から輸入できるようになるまでトイレを利用していたことが知られています。大変手間暇がかかり多大な労力が必要だったようです。
白川郷は幕府直轄の天領でした。そして、五箇山は加賀藩に含まれます。加賀藩は幕府にも火薬を献上しますが、加賀100万石の力の源泉は、この火薬製造だったともいえるのか。 そんな硝石製造ですが、明治になってチリから大量の「チリ硝石」が輸入されると、国産硝石の製造はあっさり壊滅してしまうのです。
なるほど技術の歴史から見ても、合掌造り家は世界遺産として恥ずかしくないもの。臭い話で恐縮ですが。

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アラル海の問題について

アラル海 アラル海と言ってもどこにあるのか分からない日本人が多いと思う。昔はシルクロードの真珠とも言われる美しい湖。世界で4番目の湖水面積を持っていた。シルクロードの中継点として、古代から色々な文化遺産もあるはず。歴史に興味ある人は、一度は訪れてみたい所。場所は、カザフスタンとウズベキスタンの国境。このアラル海が消滅の危機にあると言う。大規模モノカルチャー農業による典型的な環境破壊の一例だ。旧ソ連時代には、綿花の栽培のため大規模な灌漑事業が盛んに行われた。綿花というものは完全な商品作物。アメリカでも黒人奴隷を使った廉価な綿花でインド綿を売れなくした歴史がある。コストパフォーマンスを考えれば、大量の水を使って耕地面積を増やすことが米国の綿花に対抗できる唯一の方法だろう。加えて大量の農薬もあるだろう。

アラル海 ところがアラル海は砂漠のような乾燥地に奇跡的に存在しているような湖。水源は近くの山からの雪解け水なのでしょうが、出口の無い湖なのだ。アムダリア川とシルダリア川から流入した水は、ここアルル海で蒸発するか地下にしみ込むかで消えてしまう。当然灌漑で水を消費すれば、湖は干上がってしまうのは当たり前のこと。でも、世界で4番目の湖水面積を誇っていたアラル海は、そんなにすぐには消えない。
しかし、湖水面積の減少、塩分の集積、漁業の壊滅、周辺環境の悪化と、綿花の栽培のメリットよりも環境悪化のデメリットの方が目立つようになる。この問題が表面化したのは旧ソ連邦の崩壊が原因だ。崩壊後のソ連に対し西側の環境団体やメディアがソ連経済政策の悪さを宣伝する目的で強調しているが、これは本来古代から引き続き行われてきている灌漑農業による環境破壊の一例でしかない。
話は飛ぶが、宮崎駿監督の「もののけ姫」を覚えておられる方は多いだろう。実はこれは、人間による環境破壊を取り扱った映画であることは、これを見た方は気がつくと思う。破壊された環境に住んでいた「もののけ達」は、いずれとんでもない形でしっぺ返しをする。この「もののけ姫」実は、原型となるストーリーがあるのだそうだ。ギルガメッシュ叙事詩は、古代メソポタミアに伝わる一種の神話だが、ギルガメッシュ自身は実在していたとも。彼は都市を作るため森の神を退治する。その結果、どんな祟りがあったかは、原作を読んでいないので私は知らない。別に楔形文字が読めなくても日本語訳は出ていると思いますが。
もののけ姫 しかし、現実にも祟りは生じている。当時は豊かに繁殖していたらしいレバノン杉の森は今ではほとんど姿を消し、中東の人々は今ではろくな農業はできず、油(原油)を売って暮らしている。肥沃な三日月地帯など今は伝説上の代物となってしまった。原油は枯渇資源、いずれは掘りつくして無くなる。今、林立するビル群も砂上の楼閣なのかも。
そもそも、アメリカ、カナダ、オーストラリアの大規模モノカルチャー農業が、本質的に環境破壊型であることに気がつかねばならない。モノカルチャー農業よりも更に破壊的な農業が、西欧人が植民地で実施してきたプランテーションという大規模モノカルチャー農業だ。この二つの環境破壊農業を推し進める原動力が、自由貿易やグローバリゼーションという魔術である。低コストの大規模モノカルチャー農業と自由貿易が、開発途上国や社会主義国の農業政策まで破壊していることを認識しないといけない。
西欧人たちは、原住民たちを追い出して、タダ同然で土地を手に入れている。農作物の収穫を増やすために農地を増やせば良い。土地が無ければ森を焼いて、ブルドーザーで開墾して作れば良い。労働力は貧しい人たちを雇えばいくらでも手に入る。作物は同じ畑で何年も育てていれば連作障害と言って、育たなくなる。だから、大量の化学肥料をまき散らす。農地は荒廃するが土地は無尽蔵だ。今では、これらの地域は世界の食料基地として君臨している。
こんな農業に、旧世界の農民たちは太刀打ちできるわけがない。こんな農業が理想の形と誤解してまねをすれば、当然環境破壊をもたらすことは必然だ。環境に配慮した農業は当然コストもかかるし、無制限に規模の拡大はできない。
それでは、アラル海の問題は今後どうすればいいのか。あるいはどうなるのか。基本的な解決策は一つしかない。灌漑農業を総て止めること。アラル海への水の供給が復活すれば時間はかかるものの環境はある程度もとに戻る。ところが大規模モノカルチャー農業というもの一度手を染めると元に戻ることは難しい。麻薬中毒と同じだ。灌漑をすれば収量が増やせる。生産が増えると人手が必要に。人が増えれば食料を増やさないといけない。そのためには耕地面積を増やして灌漑施設を増強する。そのためには投資がいる。投資を回収するには水が必要。すべての可能な土地を灌漑しつくすまで終わらない。人が住み生活しているのに今さら止めることはできないだろう。しかも、それまでに多大の投資もしている。灌漑農業を止めない限りどんな解決策も効果が無い。他の河から水を引いて来る。結局更に耕地面積を増やすだけだ。大規模モノカルチャー農業という考えを捨てて、多品種少量生産、産地地消型、環境保全型の農業を作り上げていくことが必要だ。
実は、新世界の大規模モノカルチャーも曲がり角に来ている。耕地面積を増やして灌漑施設を増強する余地がなくなっているからだ。世界の食糧生産基地として君臨していくために大量の補助金を必要としている。つまり以前ほどもうからなくなっている。 水資源の問題も深刻だ。コロラド川の下流には水がなくなってしまっている。河口の生態系には大打撃。中国の黄河の河口にも水が来ない。長江から転流なんていう考えもあるが環境破壊だとも言えそうだ。アマゾンやアジアの熱帯雨林では耕作や放牧のために森林の伐採が進んでいるという。熱帯雨林では土壌の問題から数年で土地が荒廃し、更に伐採が進むという。荒廃した土地は元の森林には戻らず、世界の植物によるCO2吸収量が大幅に減少することが懸念されている。
オーストラリア大陸は、農業には不適な乾燥地で、原住民のアボリジ達はつい最近まで狩猟採集生活を行っていた地域だ。そこにやって来た白人たちは井戸を掘ることを考えた。地下には膨大な水量の化石水が眠っていた。井戸を掘れば水が自噴する。だからオーストラリアは今では農業大国。しかし、将来も安全な訳ではない。化石水は有限な資源で将来は枯渇するからだ。
世界の人口は今も増え続けているが、食糧生産は今までの大規模モノカルチャー農業では頭打ちだ。今後大規模な環境破壊を伴わずに耕地を拡大することは不可能になっている。 アラル海の問題は、世界的規模で進んでいる大規模モノカルチャー農業による限界を示す警鐘であろう。住家を奪われた「もののけ達」の祟りを受ける前に知恵を絞って新しい生き方を考えなければいけない時代かも。

世界の国々

ディエゴ・ガルシア島

ディエゴ・ガルシア島 こんな島の名前は、たいていの日本人は知らないだろう。実は、この島にはインド洋最大の米空軍基地があり、沖縄と比べてもはるかに重要な基地なのだそうだ。インド洋の真ん中にあるこの島は、米軍がアジア太平洋地域とインド洋中東地域を行き来する際、補給や空爆などの拠点として非常に重要で、アフガニスタン侵攻やイラク戦争などでフル活用されてきた。この島を使えなくなると、米軍のインド洋拠点が失なわれ、世界的な軍事覇権の低下につながるものと懸念されている。しかし、この基地が消滅する可能性が実現性を帯びてきているらしい。
モーリシャス でも、地図の上でこの場所を特定するのも結構大変だ。まず、ディエゴ・ガルシア島は、「チャゴス諸島」の最大の島だ。チャゴス諸島は1814年に英国の植民地になり、モーリシャスの一部として統治されていた。ところがモーリシャス独立の際、チャゴス諸島だけを不法に占拠を続け、英国がディエゴ・ガルシア島を米国にまた貸ししていたことになる。モーリシャスは、インド洋でもマダガスカル島のチョット東側、セイシェルやモルジブとな並ぶ、美しい海洋リゾート地。誰でも一度は訪れてみたい所だろう。そんな平和な島に世界最大級の軍事基地があるというのも現代世界の醜さを表す象徴なのかも。
今年(2019年)2月末、国際司法裁判所が「英国はチャゴス諸島をモーリシャスに返還(引渡し)すべき。英国はチャゴス諸島に対し、不当な植民地支配を続けている」とする、モーリシャス勝訴の勧告(判決的なもの)を出す。国際司法裁判所の勧告には拘束力がないので英国に無視されているが、ディエゴガルシア島の米軍基地の存立基盤である「英国によるチャゴス諸島の領有」が、国際法的に違法なことであると確定した。国際司法裁判所の勧告を受けて、国連総会は5月22日、英国に対し、チャゴス諸島を半年以内にモーリシャスに返還するよう求める英国非難決議を、賛成116、反対6、棄権56の圧倒的多数で可決したと言われる。いずれにしろ英国はこの件に関しては今後、何も権利を主張しないだろう。今後モーリシャス政府が米国と直接交渉しないといけないことになる。
ディエゴ・ガルシア モーリシャス政府は「英国からチャゴス諸島を返還された後も、ディエゴガルシアの米軍基地の存続を認める」と言っている。モーリシャス政府は、米軍基地の建設前にディエゴガルシアから追い出された旧島民の権利主張を代弁して米英に補償などを求める可能性は高い。しかし、モーリシャス政府だって基地の経済的軍事的メリットをみすみす失う気はない。だが、モーリシャス政府が米国に基地存続の条件を提示しても、外国政府に寛容でないトランプの米国は要求を突っぱねる可能性が大だ。。トランプ的に言うなら「米軍が高い金をかけてインド洋を守る義務などない。インド洋の防衛は、航路を使うアジア諸国がやるべきだ。ディエゴ・ガルシアの基地など閉鎖すれば良い」という話になる。今の米国のスタンスは基地を存続してやるから金を出せ。嫌ならいつでも出て行くぞだ。
確かに英国のEU離脱騒動で国際影響力が低下し、米国もトランプになって覇権放棄を積極的に進めている。ディエゴ・ガルシアの米軍基地などなくなった方が良いと考える国や人(米国人を含め)が増えていることを、賛成の増加と反対棄権の減少が物語っている。
事実、日本や中国は、インド洋の西端のジブチに海賊退治の名目ですでに基地を設けており、インド洋を自衛する傾向だ。中国海軍は、スリランカやパキスタン、ミャンマーなどインド洋の諸国の港を租借して首飾りのようにつないで影響圏にする「真珠の首飾り戦略」(インド包囲網)を以前からやっている。米国がインド洋から出て行く流れの中にいるのと対照的だ。日本の沖縄基地も同じだろう。何も米国が日本のためにコストをかけて守る義務はない。もっともっと金を出せ。

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スプリト

スプリトは、ローマ時代にはダルマチアと呼ばれていたクロアチア南部の中心都市でユネスコの世界遺産にもなっている美しい都市。アドリア海東海岸の、小さな半島に位置し、対岸はイタリアのベニス。
スプリト スプリト スプリト
この町を最初に建設したのが古代ローマ帝国の帝王ディオクレティアヌス。彼が引退後のために建てた宮殿とは言え、本格的な要塞機能も備えた本格的なもの。AD295年~305年に建てられたと言われており、こんな古い時代の物なら当然世界遺産の候補だが、著しく保存状態がいいことも魅力。
それ以前も、ギリシアの植民地が建設されており、彼等はダルマチア人との貿易を行って暮らしていたらしい。アテネだのスパルタだのギリシア人の活躍していた時代だね。その頃ゲルマン人たちは森の中で狩猟採集生活していたのでしょう。つまり、ダルマチア地方というのは当時では文化の先端地域の一部だったわけか。
宮殿はどっしりとした構造をしており、ほとんどローマの軍事要塞。城壁内の面積は38,000平方キロメートル。一辺190kmの正方形を考えるといかに巨大かが分かる。当時のローマ帝国がいかに周辺の異民族たちの侵入に気を配っていたかが分かる。 水道は堅固な作りで、アルプス山中の水源から水道路で供給されていた。宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていたと推定されている。住民には、公園と余暇施設が与えられていた。ディオクレティアヌスは、予定通りにきっちりと引退し、自発的に自ら職を退いた最初のローマ皇帝となる。 ということは他の皇帝達は病死か、暗殺か、クーデターで殺されたのか。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スプリト(当時はスパラトゥムと呼ばれていた)は東ローマ皇帝の支配下に。西ローマ帝国が滅亡は民族大移動という世界的な出来事が原因。定住地の確保を巡って、色々な民族同士が互いに争うようになる。
639年頃にこの地域一帯がアヴァール人とスラヴ人の侵攻で略奪されると、住処を失った東ローマ市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れる。東ローマ支配がその地域で復活するにつれ、多くのローマ市民は、本土へ戻る。しかし、一部の市民たちはディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択する。宮殿が強固な要塞状だったためである。この時、宮殿は長く打ち捨てられていたが、建造物内部は避難民等によって、新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造される。現在でも、宮殿はスプリト市の内核として機能しており、今も商店や市場・広場、住宅があり市民が暮らしている。遺跡をうまく利用した独特の街並みは今では立派な観光資源。宮殿都市は、その後歴史の中を紆余曲折しながら、現在までその姿をとどめているようだ。

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デリーの鉄柱

デリーの鉄柱(デリーのてっちゅう)とは、インド・デリー市郊外のクトゥブ・ミナール内にある錆びない鉄柱のことです。チャンドラヴァルマンの柱とも呼ばれている。1993年に「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」として世界遺産に登録されている。
鉄柱 鉄柱 鉄柱
鉄柱は99.72%という高純度な鉄(純鉄)で作られており、表面にはサンスクリット語の碑文が刻まれ、頂上には装飾的なチャクラがあしらわれている。直径は約44cm、高さは約7m、地下に埋もれている部分は約2m、重さは約10トン。インド有数の観光スポットになっているようだ。グプタ朝時代、紀元415年に建てられたといわれる。1500年以上のあいだ地上部分に限り錆が内部に進行していないことで知られている。錆びない理由としては、鉄柱を覆うリン酸化合物の皮膜が存在することで錆に強い特性が生まれたと考えられているが、現代の科学をもってしても謎だ。
一般に『アショーカ王の柱』と呼ばれているが、アショーカ王の建てたものではなく、アショーカ王より700年近くも後のものらしい。ダマスカス鋼で作られているとも言われている。この鉄柱のように錆びない鉄を目指す研究からステンレスが生まれたようだ。

鉄柱 鉄が錆びる理由は: 自然界において不安定な鉄(Fe)は、酸素を取り込んで、鉄鉱石はFe2O3、Fe3O4など酸化鉄の状態で安定する。精錬した鉄も同様で、その過程で生じる酸化鉄が錆である。普通の鉄は錆びるのが普通で、考古学の遺物も青銅器は残るが鉄器はなかなか残らない。
加熱しながら鍛えた鉄が錆びにくいことは経験上知られている。熱を加えて叩くことにより、不純物が外側に押し出され鉄の純度があがり、内部では再結晶化が促進されるためらしい。例として日本刀があるが、手入れを怠ればやはり錆を生じる。

現代では錆びない鉄として1913年に開発されたステンレス鋼が知られている。これは鉄(Fe)に、クロム(Cr)とニッケル(Ni)を一定量加えたもので、金属の表面に酸化皮膜を形成することで錆の発生を防いでいる。
古代の錆びない鉄としては同じく鍛造のダマスカス鋼が有名で、鉄柱もこれではないかと言われる。ただし、ダマスカス鋼も全く錆びないわけではなく、また注目を集めるのはむしろ模様の美しさによる。ダマスカスはシリアの首都の名前だね。
また、鉄は酸素と水があれば容易に酸化する。この地域は乾燥しているので、鉄は酸化しにくいのでしょうか。

鉄柱が純度の高い鉄製だから錆びないというのは誤りであるらしい。金属工学の専門家、インド工科大学のバラスブラマニアム博士によれば、99.72%の純度ならば50年ほどで錆びるという。1500年の間風雨に曝されながら錆びなかった理由は、鉄の純度の高さではなくむしろ不純物の存在にあるという仮説が有力らしい。

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イースター島

イースター島 イースター島は、チリ領の太平洋上に位置する火山島。モアイ像の建つ島として有名です。ポリネシア・トライアングルの東端に当たり、最も近い有人島まで直線距離2000km余と、周囲にはほとんど島らしい島が存在しない絶海の孤島です。
海底火山の噴火によって形成された島に最初の移民がたどり着いた時期は諸説あるが未定。文字記録がないため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀〜5世紀頃、西暦800年頃とする説が有力だったが、近年の研究では西暦1200年頃と言う説もある。実は文字による記録は残っているのだが、解読はされていない。
この移民は、はるか昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びと(オーストロネシア語族)の一派、いわゆるポリネシア人だったと考えられている。

ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象で、神格化された王や勇者たちの霊を部族の守り神として祀る習慣があり、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれたらしい。イースター島でも同様に行われていたようだ。化石や花粉の研究から、当時のイースター島は、世界でも有数の巨大椰子が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと想定されている。上陸したポリネシア人は鶏とネズミを共に持ち込んで食用としたといわれている。

イースター島 【モアイの時代】
ジャレド・ダイアモンドらによれば、7世紀〜8世紀頃に、アフ(プラットホーム状に作られた石の祭壇)造りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイ像も作られるようになったとされる。他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工しやすい軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことがある。採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡で、現在でも完成前のあらゆる段階の石像が、散乱する彫る道具とともに残されている。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイ像も作られていく。
モアイは比較的加工しやすい素材である凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられている。デザインも時代につれ変化していった。

第1期:人の姿に近いもので下半身も作られている。
第2期:下半身はなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる。
第3期: 頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。
第4期: 一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになる。

18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器や鉄器の存在は確認されていない。当時作られたモアイや墳墓、石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえる。 よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。
現在、アフ(台座)に立っている全ての像は、近年になって倒れていたものを立て直したものである。 島の東端にある、島最大の遺跡「アフ・トンガリキ」(アフの長さ100m)の上には、高さ5mを超える15体のモアイが立ち並んでいるが、これも1994年に周辺に倒れていた15体の像を、考古学者のクラウディオ・クリスティーノが55tの重量に耐えるクレーンを使って立て直したものである。
過去には、島にはもともと、巨大な像を作って動かす技術や知識がなく、モアイは南米からやって来た人々の力で建てられたという説が有力だった。しかし島民の遺骨のDNAには、島外起源の遺伝情報は見つかっていない。最近の研究により、モアイは島民が自力で建設し、移動させたことがわかっている。

【文明の崩壊】
島民の入植から17世紀までの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息する。モアイを作り、運び、建てるためには大量の木材が必要で、伐採によって森が失われた。ジャレド・ダイアモンドらは、こうした人為的な自然破壊が究極的にイースター島文明の崩壊を呼んだとする説を述べている。
それによれば、人口爆発(僅か数10年の間に4~5倍に膨れ上がり、1~2万人に達したという)と共に森林破壊が進んだ結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じた。モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続き、森林伐採は結果として家屋やカヌーなどのインフラストラクチャー整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代とほとんど変わらないものになっていた。 これは、文明の自滅説とでもいえるか。

ただし異説もある。テリー・ハントは、まず、森を破壊した主因はネズミによる食害だとしている。天敵が居ない環境にネズミが持ち込まれると、その急激な繁殖に伴って森林が破壊され、これを駆除すると森林が再生する様子は太平洋の他の島々の歴史上でも見られて来たという。イースター島でも発掘された植物の種子の多くにネズミにかじられた跡が見られた。文明の崩壊についても、そもそもイースター島の人口が1万5千人以上などに達した証拠はなく、森林破壊が進んだ状態でも人口は安定的に推移しており、最終的に崩壊をもたらしたのは自然破壊ではなく西洋人との接触(後述)だと唱えている。 でもネズミは食料として移入されたのではなかったのかな。

また、部族の争いがあったにしては、人を殺すことを目的としたような殺傷能力のある「武器」が島内からほとんど発掘されておらず、島で使われていた「マタア」と呼ばれる石器は、人を刺し殺すような作業には適していないという。島内から発掘された469個の頭骨を調べたところ、マタアによるものと思われる切り傷の痕が見つかったのは、そのうちわずか2個だけだった。西洋人による侵略時にも、現地人は投石で戦ったとされる。このことから、口伝にあるような戦闘があったのかどうか疑問視する専門家もいる。

いずれにせよ、争いが起こったとされる時から数百年も後になってから、収集された口承だけを頼りにすることは、研究者の間で論争となっている。部族間抗争の存在については、研究が進むにつれて否定されつつあり、イースター島民の人口が減ったのは、ヨーロッパ人による奴隷狩りが原因である可能性が高まっている。苛烈な奴隷狩りにより、島民の人口は100人前後まで減り、やがて疫病の流行で絶滅したとされる。

【】ヨーロッパ人到達後】
1722年の復活祭(イースター)の夜、オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。発見した日にちなみ島名が付けられたとされている。この島に上陸したロッヘフェーンは、1,000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島民の姿を目の当たりにする。
1774年には、イギリス人探検家のジェームズ・クックも上陸しているが、倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたものの、半数ほどはまだ直立していたと伝えている。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる。
18世紀〜19世紀にかけてペルー副王領政府(→ペルー)の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、島民が奴隷として連れ出された。1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時の島民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致された。また外部から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果、人口は更に激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時ではわずか111人であった。この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶した。
1888年にチリ領になり現在に至るが、1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、日本に対して打診があったという。日本は主に漁業基地としての有用性を認めたが、在チリ国公使三宅哲一郎がアルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマ大統領と面会したところ、アメリカ合衆国及びイギリスにも売却が打診されているとの説明がなされたため、しばらく静観するのが得策であるとの意見が出されたという。独立運動が起こっている話もあるし。結局最後に残る説は、白人到来による奴隷狩りと持ち込まれた疫病のせいではないか。

地理
チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmほどの太平洋上に位置し、ペルー海流が周辺海域は渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場であり、とくにカタクチイワシが多く捕れる。全周は60km、面積は180km2ほどであり、北海道利尻島とほぼ同じ大きさである。島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。また1995年に世界遺産に登録されている。
やや乾燥した気候で年間降雨量は1,250mmと少ない。バナナ、サトウキビなどの栽培には十分である。一方、河川がないため灌漑用水の確保はしにくい。タロイモ栽培などには適していない。

地質
マグマの噴出によって造られた小さな火山島であり、上空から見ると三角形をした島の各頂点には、カウ山、カティキ山、テレバカ山の3つの火山がある。テレバカ山(海抜507m、海底からは約2,000mの高さがある)が島の大部分を占め、他の2つの他に多数の噴火口や火口湖がある。ガラパゴス諸島やハワイ諸島と同じ玄武岩で鉄分が多く75万年前に形成され、最新の噴火は約10万年前とされるが、20世紀前半に水蒸気の噴出が記録されている。

交通
島の人口は約4000人。島内には、チリ海軍が駐留し、数ヶ月に1度は物資とともに海兵隊もやって来る。鉄道は敷設されていないが、主要道路については舗装されており、島内の主な交通手段としては、乗り合いバスもしくはタクシーが、主な公共交通手段として、島民や観光客に利用されている。観光客には、レンタカー、レンタルバイクも利用されることが多い。 島内には、レストラン、ホテル、ディスコ、ガソリンスタンド、ビデオレンタルショップ、学校、病院、博物館、郵便局、放送局(テレビ局3局、ラジオ局1局)等の施設が整っており、島の暮らしは至って現代的。
ラン航空が、マタベリ国際空港とサンティアゴ、リマ、タヒチのパペーテとの間に定期便を運航している。近隣諸島との間には貨客船も運航されている。なお、マタベリ国際空港の滑走路は、島の規模には不釣合いな3,300mと長大なものであるが、これはかつてNASAがスペースシャトルをヴァンデンバーグ空軍基地から打ち上げる計画を持っていたため、その際の緊急着陸場(TAL sites) のひとつとして整備されたため。チャレンジャー号爆発事故によってこの計画も中止されたため、緊急着陸地のリストから外された。

住民はロンゴロンゴと呼ばれる絵文字を持っていた。この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、1行目を読み終えると逆さにして2行目を読むというように、偶数行の絵文字が逆さになっている。板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。
この文字は伝統的に支配者家族や神官に伝えられていたが、1862年のペルー人の襲撃による奴隷化と後続した疫病を通じてこれらの識字層が全滅してしまい、内容を判読不能となった島民たちによって、以後薪や釣り糸のリールなどにされて、多数の文字資料が失われたという。そのため僅か26点しか現存せず、それらは全て島外に持ち出されて各国の博物館などに収蔵されている。 また、現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによりタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であり、現行のラパ・ヌイ語はタヒチ語の影響を強く受けた言語である。古代ラパ・ヌイ語についてはヨーロッパ人による貧弱な記録をたどるほかは、現行のラパ・ヌイ語から復元する以外、知る手立ては存在しない。したがって、解読は難しいとされている。

その他
閉鎖された空間に存在した文明が、無計画な開発と環境破壊を続けた結果、資源を消費し尽くして最後にはほぼ消滅したというダイアモンドらによる説は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い。
ポリネシア人がラパヌイ島に着いたとされる時期の森林は島を覆い尽くすほど茂っていたが、16世紀末頃までにほぼ消滅した。花粉分析から1300年頃までに椰子を初めとする全樹木類の花粉が減少してイネ科やカヤツリグサ科などの草本の花粉が急増していき、場所によりばらつきはあるが1500年〜1600年頃までには椰子、ハケケ、トロミロ、灌木の花粉が消滅する。椰子の実の化石を放射性炭素年代測定で分析した結果でも1500年以後のものは皆無である。環境破壊をしたのは島民自身であるという説と、島民が持ち込んだネズミによるという主に2説がある。
マゼランによる最初の西洋人による太平洋横断は1521年のことであり、先に挙げた樹木花粉の消滅時期や椰子の実の化石の消滅時期より後である。つまり文明の崩壊は白人のせいではないということか。

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