Human history

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人物列伝

歴史を学ぶには、やはりその時代を動かして来た人物を研究するのが良い。例えその人物の評価が今プラスでもマイナスでも学ぶべき点は多い。

からくり儀右衛門 島津製作所の歴史
安藤百福 吉野 彰 梶田 隆章 仁科 芳雄
湯川秀樹
アルキメデス メンデル
今西 錦司 木原 均 木村 資生 北里 柴三郎
沢田 敏男先生 羽仁 五郎 森 毅
ジョン・ガードン 屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ) シェーンハイマー
ガジュセック 大隅 良典
福沢諭吉 緒方洪庵 国友 一貫斎
新島襄 安部譲二
Nobel ムハマド・ユヌス 中村哲 ニコライ (日本大主教)
村木厚子 姜尚中 李 登輝 中井久夫
梁英姫 團藤 重光 エドワード・テラー
ナオミ・クライン ミルトン・フリードマン 小塩節 中村 征夫 広井勇
神田伯山 Mária Telkes リチャード・ローティ
竹村健一 三淵 嘉子

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

からくり儀右衛門

文字書き人形

江戸時代末に流行していた「からくり人形」の技術は凄い。からくり儀右衛門とは、田中 久重(たなか ひさしげ;1799年~ 1881年(明治14年))の幼名で、子供のころから「からくり人形」の傑作をたくさん残している。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。これらの技術は人型ロボットを作る技術とも重なるもので、機械工学というものも最終的にはこういう技術やアイデアは不可欠なものなのだ。田中 久重は、また、東洋のエジソンといわれるが、肥前国佐賀藩の精煉方に着任したあとは、蒸気機関車の模型、反射炉の設計、蒸気船「電流丸」など実に多くの工学の分野に功績を残している。
弓曳童子 晩年は田中製造所を設立し、これが後に株式会社芝浦製作所、現在の東芝の基礎となる。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。天才といえども常に努力を惜しまなかった人なのでしょう。
文字書き人形 **下記文章は佐賀県の方の書かれたもの。
先週かなり興奮気味に私に『田中久重』(1799~1881)の動画を見ることを勧めてきました。 彼はその感動的人物が佐賀藩と関係があったことに驚いていました。 久留米の鼈甲職人の長男に生まれた人。
  蒸気機関車佐賀の鍋島直正(鍋島閑叟)の下で田中久重は蒸気機関車や蒸気船、アームストロング砲などの制作にかかわった人でした。
佐賀藩は長崎の出島の警護の役をしていましたので殿様はオランダ船に乗り込み防衛の大切さを悟ったようです。田中を佐賀藩に招き、城内で機関車を走らせてみせました。その中に大隈重信もいたのです。日本に明治5年 新橋⇔横浜間に鉄道を引いた一人が大隈重信です。むべなるかな(宜なるかな)ですね。

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NHK連続テレビ小説『まんぷく』

2018年10月より放送開始の、NHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルとなったのが、「カップヌードル」の生みの親、安藤百福氏だ。ドラマの内容は、実業家の夫・萬平とその妻・福子(ヒロイン)をモデルとする夫婦の成功物語。百福と満腹(万福)を語呂合わせしたのかも。
安藤夫妻 安藤 百福(ももふく);1910年(明治43年)~ 2007年(平成19年)、は日本の実業家でインスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として世界的にも知られる。日清食品(株)創業者。日本統治時代の台湾出身で、元は呉百福、民族は台湾人ということらしい。敗戦のため1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得しなければならなかった。
チキンラーメンの開発のすごいところは、ゼロから独力でスタートして、実験と失敗の繰り返しで開発したこと。すべて自分で考え観察し改良を重ねる。技術開発の手本だ。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」とヒット商品を世に送り出してきたが、失敗もある。
1974年7月、日清食品は「カップライス」を発売した。この商品は食糧庁長官から「お湯をかけてすぐに食べられる米の加工食品」の開発を持ちかけられたことがきっかけとなっもの。カップライスを試食した政治家や食糧庁職員の評判はすこぶる高く、マスコミは「奇跡の食品」、「米作農業の救世主」と報道した。「長い経営者人生の中で、これほど褒めそやされたことはなかった」と述懐しているが、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなって消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされた。安藤は日清食品の資本金の約2倍、年間の利益に相当する30億円を投じてカップライス生産用の設備を整備していたが「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという。この時の経験について安藤は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている。何故か国が技術開発に口を出すとうまく行かない。
日清製粉は宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発も手掛けている。百福さんが生前に残した言葉、「食足世平」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として今でも継承されているそうだ。

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吉野 彰(2019ノーベル化学賞)

吉野 彰(よしの あきら、1948年(昭和23年)1月30日~)。ご存知、今年(2019年)のノーベル化学賞受賞者。電気化学が専門。携帯電話やパソコンなどに用いられるリチウムイオン二次電池の発明者の一人。2019年10月、ノーベル化学賞受賞が決定した。福井謙一の孫弟子に当たるそうだ。 民間の会社(旭化成)で研究を続けていたようだ。
吉野 彰 1948年に大阪府に生まれる。担任教師の影響で小学校三・四年生頃に化学に関心を持ったという。少年時代の愛読書にマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』の訳本がある。
合成繊維の発展という世相を背景に、新たなものを生み出す研究をしたいと思いから、京都大学工学部石油化学科に入学。すでに量子化学分野の権威として知られていた福井謙一への憧憬も京大工学部入学の理由の一つで、大学では福井の講義を受講している。
福井謙一博士 大学の教養課程では考古学研究会に入り、多くの時間を遺跡現場で発掘に充てた。樫原廃寺跡の調査と保存運動にも携わり、また、考古学研究会での活動を通して後の妻と出会ったとのこと。大学院修士課程修了後、大学での研究ではなく企業での研究開発に関わることを望み、旭化成工業(現 旭化成株式会社)に入社。
リチウム・イオン電池の開発
1980年代、携帯電話やノートパソコンなどの携帯機器の開発により、高容量で小型軽量な二次電池(充電可能な電池)のニーズが高まる。従来のニッケル水素電池などでは限界があり新型二次電池が切望されていた。一方、陰極に金属リチウムを用いたリチウム電池による一次電池は商品化されていたが、金属リチウムを用いた二次電池は、充電時に反応性の高い金属リチウムが発火・爆発する危険があり、また、充電と放電を繰り返すと性能が著しく劣化してしまうという非常な難点があり、現在でもまだ実用化には至っていない。
  【一次電池の使用用途の違い】
 実は、電池と呼ばれているものには非常に多くの種類があるが、①一化学電池、②物理電池、③生物電池に分類できるという。

1. 私たちが日常生活で多用している乾電池は、「化学電池」に属するもの。化学電池とは、  電池の内部に充填された物質が「酸化」や「還元」といった化学反応によって他の物質へ変化する際に生じる電気エネルギーを利用する。普通の電池の他、「燃料電池」も化学電池の仲間に分類されます。「燃料電池」なんてまたまた難しい用語が出て来たので、後でキット説明が必要になるのでしょう。

  2. 物理電池とは、熱や光などのエネルギーを取り入れることで電力を取り出す(エネルギー変換)タイプの電池で、太陽電池がその代表です。太陽電池はソーラー電池ともいい、太陽光がエネルギーの元だ。

3. 生物電池とは、微生物などが起こす生物化学反応を利用する電池で、光合成を利用した「生物太陽電池」などがあるそうだ。今後発展していくのでしょう。

という訳で、一般に電池と言うと化学電池のことになる。しかし、まだ一次電池と二次電池の区別までたどり着いていないね。
化学電池とは、どうも乾電池と同じようなものと考えて良さそうです。乾電池の仕組みと構造は、種類によらずほぼ同じ。電池の内部では、「イオン化傾向」の異なる2種類の金属が電解液に浸されている。イオン化傾向が大きい(溶けてイオンになりやすい)物質はしだいに電解液の中に溶け出していく。金属は解けると+イオンになるので、電極は残された電子によって-に帯電する。つまり「負極」になる。一方、イオン化傾向が低い物質はほとんど電解液に溶けず、プラス側に帯電して「正極」になります。「正極」と「負極」を銅線で繋げば電気が流れる訳です。もちろん電気の流れる方向は決まっているので直流です。
更に、化学電池は、「一次電池」と「二次電池」に分類できます。
 一次電池:一度きりの使用で使い捨てタイプの乾電池です。
 二次電池:充電して繰り返し使える乾電池です。
白川英樹博士 【電導性ポリアセチレン】
ペットボトルの材料のPET(ポリエチレンテレフタラート)やスーパーの買い物袋のポリエチレンは小さな有機化合物(高分子を合成する原料の低分子化合物の総称をモノマーと呼びます)が多数つながった「高分子」(ポリマーとも言います)。普通の高分子は電気をまったく通しません。でも炭素と炭素との結合が二重結合と単結合が交互に並んだ共役(きょうやく)高分子は電気を少し流す性質を示します。炭素-炭素二重結合を形作っている内の1つはσ(シグマ)結合、もうひとつはπ(パイ)結合と呼び、この結合に関与している電子をそれぞれσ電子、π電子といいます。π電子は比較的動きやすいので、このπ電子が高分子の中を動いて電気が少し流れます。しかし共役高分子は電気が流れるといっても鉄や銅などの金属に比べればまだまだ電気は流れにくい化合物です。この共役高分子に臭素やヨウ素を加えると金属と同じくらい電気を通すようになります。これはπ電子の一部が引き抜かれて部分的にプラス(正孔)ができます(ドーピングと言います)。そのプラスを埋めるために隣のマイナスの電子(π電子)が動き、またその電子が抜けた場所にプラスができる。それが繰り返すことで電子がつぎつぎ動いて電気が流れます。白川英樹先生は共役高分子のひとつであるポリアセチレンの薄い膜を作る方法とドーピングによって共役高分子が金属のように電気をよく流すこと(導電性高分子)を発見して、2000年にA.J. ヒーガー氏、A.G. マクアダイアミッド氏と共にノーベル化学賞を受賞されました。

しかし、ポリアセチレンは真比重が低く電池容量が高くならないことや電極材料として不安定であるという問題があった。そこで、炭素材料を負極として、リチウムを含有するLiCoO2を正極とする新しい二次電池であるリチウムイオン二次電池 (LIB) の基本概念を1985年に確立した。吉野は、更にいくつかの点に着目し、LIB(リチウムイオン・バッテリー)が誕生したという。


吉野博士は、白川英樹(2000年ノーベル化学賞受賞者)が発見した電気を通すプラスチックであるポリアセチレンに注目。それが有機溶媒を使った二次電池の負極に適していることを1981年に見いだす。電池の開発が無機溶媒から有機溶媒へ、電極も有機化合物を使う時代になったわけですか。 さらに、正極にはジョン・グッドイナフらが1980年に発見したリチウムと酸化コバルトの化合物であるコバルト酸リチウム (LiCoO2) などのリチウム遷移金属酸化物を用いて、リチウムイオン二次電池の原型を1983年に創出する。
しかし、ポリアセチレンは真比重が低く電池容量が高くならないことや電極材料として不安定であるという問題があった。そこで、炭素材料を負極として、リチウムを含有するLiCoO2を正極とする新しい二次電池であるリチウムイオン二次電池 (LIB) の基本概念を1985年に確立する。吉野が次の点に着目したことによりLIB(リチウムイオン・バッテリー)が誕生した。 1.正極にLiCoO2を用いることで、
(1).正極自体がリチウムを含有するため、負極に金属リチウムを用いる必要がないので安全である
(2).4V級の高い電位を持ち、そのため高容量が得られる
2.負極に炭素材料を用いることで、
(1).炭素材料がリチウムを吸蔵するため、金属リチウムが電池中に存在しないので本質的に安全である
(2).リチウムの吸蔵量が多く高容量が得られる

また、特定の結晶構造を持つ炭素材料を見いだし、実用的な炭素負極を実現した。加えて、アルミ箔を正極集電体に用いる技術や、安全性を確保するための機能性セパレータなどの本質的な電池の構成要素に関する技術を確立し、さらに安全素子技術、保護回路・充放電技術、電極構造・電池構造等の技術を開発し、さらに安全でかつ、出力電圧が金属リチウム二次電池に近い電池の実用化に成功して、ほぼ現在のLIBの構成を完成させた。1986年、LIBのプロトタイプが試験生産され、米国DOT(運輸省、Department of Transportation)の「金属リチウム電池とは異なる」との認定を受け、プリマーケッティングが開始される。

しかし、商品化に1993年まで掛かった吉野とエイ・ティーバッテリ-(当時、旭化成と東芝の合弁会社、2004年解散)は出遅れ、世界初のリチウムイオン二次電池 (LIB) は西美緒率いるソニー・エナジー・テックにより1990年に実用化、1991年に商品化された。現在、リチウムイオン二次電池 (LIB) は携帯電話、ノートパソコン、デジタルカメラ・ビデオ、携帯用音楽プレイヤーをはじめ幅広い電子・電気機器に搭載され、2010年にはLIB市場は1兆円規模に成長した。小型で軽量なLIBが搭載されることで携帯用IT機器の利便性は大いに増大し、迅速で正確な情報伝達とそれに伴う安全性の向上・生産性の向上・生活の質的改善などに多大な貢献をしている。また、LIBは、エコカーと呼ばれる自動車 (EV, HEV, P-HEV) などの交通機関の動力源として実用化が進んでおり、電力の平準化やスマートグリッドのための蓄電装置としても精力的に研究がなされている。

ボルタ電池 最も初期の、化学電池はボルタ電池でしょう。高校で習うかも。イオン化傾向なんかと一緒に。Li→K→Ca→Na→Mg→Al→Zn→Fe→Ni→Sn→Pb→(H2)→Cu→Hg→Ag→Pt→Au 始めの方ほどイオンになり易い。亜鉛Znと銅Cuでは、亜鉛の方がイオンになりやすく、溶けてプラスのイオンになります。つまり陰極に電子を置き去りにして溶けます。ところが銅は水素よりもイオンになりにくい。希硫酸はH2SO4で、溶媒中で既にイオンになっている。水素イオンは電極(銅)から電子を受け取り、気体の水素になりブクブクと泡になって出てくる。図を見れば分かる通り、電極を導体で繋げば、電子の余った負極から電子の不足する正極の方へ電子の流れが出来ます。つまり電流が発生し、豆電球を光らせる訳です。
勿論、リチウムイオン二次電池はこんな簡単なものではありませんが、電池とはどんなものかを知っておくことは必要でしょう。吉野さんの話では、日本のノーベル化学賞は、福井→白川→吉野と19年周期で受賞しているので、多分次は2034年頃に再度受賞の可能性があるかもしれません。

人物列伝
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梶田 隆章(2015ノーベル物理学賞)

梶田 隆章 梶田 隆章(かじた たかあき、1959年3月9日~)は、日本の物理学者、天文学者。東京大学教授。専門はニュートリノ研究。ニュートリノ振動の発見により、2015年にアーサー・B・マクドナルド氏と共にノーベル物理学賞を受賞。川越高校出身。1959年3月9日、埼玉県東松山市の農家に生まれ。幼少期から読書好きで、両親に「お茶の水博士になりたい」と話していたこともあったそうだ。
埼玉大学で物理学を専攻して素粒子に興味を持つ。卒業後、東京大学大学院理学系研究科に進学。小柴昌俊研究室に所属し、この頃から小柴、戸塚洋二の下で宇宙線研究に従事。素粒子に特に強い関心があったわけではなかったが、「何となく興味があった」という理由で研究室を選んだという。

スーパーカミオカンデ ニュートリノ研究を始めたのは、1986年のこと。ニュートリノの観測数が理論的予測と比較して大幅に不足していることに気づき、それがニュートリノ振動によるものと推測。ニュートリノ振動とは、ニュートリノが途中で別種のニュートリノに変化するという現象。ニュートリノに質量があることを裏付けるものだ。これを明らかにするためには膨大な観測データが必要で、岐阜県神岡町(現・飛騨市)にあるニュートリノの観測装置カミオカンデで観測を始める。転機はカミオカンデより容積が15倍大きいスーパーカミオカンデが1996年に完成し、観測データが飛躍的に増大したことにある。
小柴博士 1996年よりスーパーカミオカンデで大気ニュートリノを観測、ニュートリノが質量を持つことを確認し、1998年ニュートリノ物理学・宇宙物理学国際会議で発表。1999年に第45回仁科記念賞を受賞した。これらの成果はすべてグループによる研究の賜物であった。2015年、アーサー・B・マクドナルドと共にノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」である。同年、ノーベル生理学医学賞を受賞した大村智らと共に文化勲章を受章した。

戸塚洋二博士 2015年の梶田博士のノーベル物理学賞の受賞理由となった「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」は、梶田博士の先輩であり師でもあった戸塚洋二博士を中心として行われた研究の賜物であり、梶田氏は戸塚氏の後継者としてノーベル物理学賞を受賞する形となる。戸塚本人は2008年に癌で亡くなっており、もしも戸塚が生きていれば梶田との共同受賞は確実だったと惜しまれた。梶田自身もノーベル物理学賞受賞発表時の記者会見の場において、「戸塚氏が生きていたら共同受賞していたと思いますか」との質問に「はい、そう思います」と即答している。指導教官の小柴昌俊によると、謙虚かつ控えめで、学生時代は議論ではあまり活発に発言しなかったが、実験には熱心だったという。中学時代の担任によると、先生の言うことをよく聞く素直な子供だったが、温和で控えめな性格で、授業中に積極的に発言するようなことはなかったという。趣味はなく、飲酒や喫煙もせず、休日は富山市の自宅で寝ていることが多いという。また、テレビではニュース番組を見るという。子供の頃は親から注意されるほど読書が好きで、隠れて本を読んでいた。 後進の育成のため東京大学や東京理科大学で教鞭を執る他、母校の埼玉県立川越高校でも授業や物理部の指導を行っている。

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ニュートリノの質量証明 素粒子物理学の定説覆す
 ニュートリノは物質を構成する基本単位である素粒子の中で、最も謎の多い存在だ。1970年代に確立された「標準理論」と呼ばれる素粒子物理学の基本法則では、その質量はゼロとされてきたが、この定説を覆したのが梶田氏だった。
 ニュートリノは電子型、ミュー型、タウ型の3種類があり、飛行中に別のタイプに変身する不思議な性質がある。「振動」と呼ばれる現象で、これを確認すればニュートリノに質量があることの証拠になると考えられていた。
 梶田氏は、超新星爆発に伴うニュートリノの観測で2002年にノーベル賞を受けた小柴昌俊氏(89)に師事。岐阜県飛騨市神岡町の地下にある観測施設「カミオカンデ」の観測データを解析し、宇宙線が大気中の原子核と衝突して生まれる「大気ニュートリノ」でミュー型が理論予想より少ない異変を1986年に見つけた。
 後継施設「スーパーカミオカンデ」の観測で、この異変が振動現象であることを証明。98年に岐阜県高山市で開かれた国際学会で発表して脚光を浴び、素粒子物理学に革命をもたらす。  この大発見は標準理論を超える新たな理論の構築を迫るものとなる。ニュートリノの質量は17種類ある素粒子の中で極端に軽く、同じ素粒子でもなぜ質量が大きく違うのかを説明する新たな法則が必要になるからだそうだ。
 ニュートリノは宇宙の謎を解く上でも鍵を握る。宇宙は138億年前に誕生し、物質もこのときに生まれた。物質の根源である素粒子の性質が詳しく分かれば、宇宙の誕生や進化の謎を解明する手掛かりが得られる。
 宇宙誕生時には物質を作る粒子と、電気的な性質が反対の「反粒子」が同じ数だけ存在していた。何故か、粒子だけが生き残って現在の宇宙が出来上がる。粒子の方が反粒子よりもほんの少し多かったからという説明もあるがホントのことはまだ分かっていないようだ。  この理由は2008年にノーベル賞を受けた小林誠、益川敏英両氏の理論によって、素粒子の一種であるクォークについては説明されたが、宇宙を今も満たすニュートリノについては未だ分かっていない。この謎を解明すれば、宇宙の理解が飛躍的に進みそうだ。

--発見のきっかけは:「小柴先生の助手だった1986年、改良したソフトを使ってカミオカンデのデータを解析したところ、大気ニュートリノのうちミュー型が予想より少ないことを見つけた。十中八九、ソフトの間違いだと思ったが、1年以上かけてチェックして88年に論文を書いた」
--ニュートリノが別のタイプに変化する振動現象の可能性は当時、指摘されていたのか:  「70年代に大気ニュートリノでミュー型が少ないとの論文があったが、明確ではなかった。正面からおかしいと言った論文は世界初だった」
--なぜ発見できたのか: 「予想しないことがあると思うかどうかだ。解析プログラムの結果を信じられるかということもある。何年にもわたり観測データを見てきた経験があり、自分の目にも自信があった」
--当時の思いは: 「ニュートリノは飛行中に振動しても変化はわずかと思われていたが、大きく変化していた。標準理論が予想していない振動が起きていると、非常に興奮した。あまりにも重要な問題に出くわしたので、このサイエンスをきちっとやらなければと思った」--小柴氏はどんな人か: 「サイエンスでは妥協しない。その意味では厳しい。私が学生だったときから偉い先生で、雲の上のような存在。サイエンスに対して厳しい目を持たないとちゃんとした研究ができないことを、後進にも伝えていきたい」
--ニュートリノの研究はなぜ重要なのか: 「ニュートリノの小さな質量は、標準理論よりも根本的で深いレベルの理論を作る上で非常に重要なことを教えてくれる。今の宇宙がなぜ物質だけでできているのかは大きな謎だが、ニュートリノには物質と反物質の数の違いの元を作るメカニズムがあるのではと考えられている。宇宙をより理解することは、生活には直接影響しないが、人類として重要なことではないか」
--素粒子研究には多額の費用が必要になる: 「その通りで、国にサポートしてもらわない限りできない。国民にきちんと重要性を分かっていただかないといけない。われわれがやることは、科学の重要性や面白さを地道に伝えていくことだ」
■「次の受賞」へ宇宙の謎に迫る 日米で競争激化  梶田隆章氏が成果を挙げたスーパーカミオカンデでは、ニュートリノの性質をさらに詳しく解明し、宇宙の謎に迫る新たな実験「T2K」が行われている。次のノーベル賞が狙える重要な研究だ。  T2Kチームは昨年5月、茨城県東海村の大強度陽子加速器施設「J-PARC(パーク)」から、西に295km離れたスーパーカミオカンデに向けて「反ミュー型」のニュートリノを発射する実験を開始した。チームは一昨年、ミュー型を発射し、電子型に変身する現象を世界で初めて発見。今度はこれと反対の性質を持つ反粒子に着目し、反ミュー型が反電子型に変わる様子をとらえる。
 新旧の実験データを比較して、変身する確率に違いが見つかれば、小林誠、益川敏英両氏が素粒子クォークで確立した理論がニュートリノでも成立することを示す大発見になる。  宇宙ではクォークよりもニュートリノの方が圧倒的に多い。宇宙誕生時にあった反粒子が消滅し、物質を作る粒子だけが生き残った仕組みが、現在の宇宙形成により大きな意味を持っていたことが裏付けられる。
 チームを率いる京都大の中家剛教授は「世界に先駆けて5~10年後に発見し、宇宙を理解する新しい扉を開きたい」と話す。
 スーパーカミオカンデの体積を20倍に大型化した「ハイパーカミオカンデ」の建設構想もある。100年分の観測データがわずか5年で得られる3代目の施設で、小林・益川理論の精密観測を目指す。2025年ごろの観測開始が目標だが、800億円に及ぶ建設費が課題だ。
 国際競争も過熱している。米国などのチームはT2Kを追って同様の実験を始めており、小林・益川理論の検証で巻き返しを狙っている。米国はハイパーカミオカンデに似た実験も日本と同時期の開始を目指しており、新発見の競争は激化しそうだ。
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小林・益川 小林・益川理論
小林誠(京都大学、当時)と益川敏英(京都大学、当時)によって1973年に発表された理論。 両者は1973年に発表した論文の中で、もしクォークが3世代(6種類)以上存在し、クォークの質量項として世代間の混合を許すもっとも一般的なものを考えるならば、既にK中間子の崩壊の観測で確認されていたCP対称性の破れを理論的に説明できることを示した。 クォークの質量項に表れる世代間の混合を表す行列はカビボ・小林・益川行列(CKM行列)と呼ばれる。2世代の行列理論をN.カビボが1963年に提唱し、3世代混合の理論を1973年に小林・益川の両者が提唱した。

カビボ・小林・益川行列(Cabibbo-Kobayashi-Maskawa matrix)は、素粒子物理学の標準理論において、フレーバーが変化する場合における弱崩壊の結合定数を表すユニタリー行列。 頭文字をとってCKM行列と呼ばれる。クォーク混合行列とも言われる。 CKM行列はクォークが自由に伝播する場合と弱い相互作用を起こす場合の量子状態の不整合を示しており、CP対称性の破れを説明するために必要不可欠である。この行列は元々ニコラ・カビボが2世代の行列理論として公表していたものを、小林誠と益川敏英が3世代の行列にして完成したものである。発表当時クォークはアップ、ダウン、ストレンジの3種類しか見つかっていなかったが、その後、1995年までに残りの3種類(チャーム、ボトム、トップ)の存在が実験で確認された。
KEKのBelle実験およびSLACのBaBar実験で、この理論の精密な検証が行われた。これらの実験により小林・益川理論の正しさが確かめられ、2008年、小林、益川両名にノーベル物理学賞が贈られた。

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仁科 芳雄(日本の素粒子論の草分け)

仁科・湯川・朝永 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年(明治23年)~1951年(昭和26年))は、日本の現代物理学の父と言われる人だ。日本に量子力学の拠点を作り、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげる。なんせ彼の弟子に当たる人たちの活躍が素晴らしい。日本のノーベル物理学賞を受賞した方々は、皆彼の薫陶を受けた弟子が孫弟子。なぜ日本にこんなに物理学賞が多いのか。

ニールス・ボーアのもとで身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理を世界水準に引き上げた。仁科の主催する研究室からは、多くの学者が巣立っていく。ニールス・ボーアはデンマークの人。戦争の時代に各国の逸材を自国に招き分け隔てなく育てた学者で、量子力学のリーダー格。アインシュタインとも交流があったとか。

Bohr 彼の弟子たちの一部は後、アメリカに渡り原子爆弾の製造に取り組む。仁科も日本に帰り、原子爆弾の製造に関係していたことは間違いない。ドイツやソ連の学者達も同様だ。残念ながら、或いは幸いと言うべきが、日本はトップの判断や資金不足の影響で敗戦までに間に合わなかった。仁科等が研究用に造っていた科学装置はGHQの手によって密かに破壊されつくされたらしい。だから、戦後の日本の物理学は専ら理論科学の方面だけで活躍することに。

【追記】
後に分かったことだが、ドイツは原爆の開発には取組んでいなかったらしい。だから、最初の原爆が広島長崎に落とされたのはドイツが先に降伏したからではなく、始めからターゲットして予定されていたようだ。しかし、ドイツは密かにミサイル技術を開発していた。宇宙時代の乗り物としてフォン・ブラウン博士が夢見ていたもの。ミサイルは人工衛星を打ち上げたり、有人飛行にも不可欠の技術。北朝鮮が盛んに実験を繰り返すのも宇宙開発が目的だと主張するのもまんざら嘘とは言えない。
1949年(昭和24年)、湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞。π中間子の発見を理論的に予測した。

1965年、朝永振一郎博士が相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。 湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一等が仁科の弟子で、多くの孫弟子がいる。仁科の影響の及ばない素粒子論の研究者は少ないとされている。

2002年、小柴昌俊博士がカミオカンデを使って太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した功績でノーベル物理学賞。日本もかなり豊かになったのか、実験科学の面でも功績があげられるようになった。ただ実験装置がだんだん巨大になるので国際協力が不可欠に。

2008年、南部陽一郎博士、自発的対称性の破れの発見により、ノーベル物理学賞を受賞。この時は、益川・小林博士も同時受賞。同時に3人も受賞、日本は物理学大国なのでしょうか。

2015年、梶田隆章博士がスーパーカミオカンデを使ってニュートリノ振動を発見したことでノーベル賞を受賞。先輩の戸塚洋二氏も功績があったのだが惜しくも亡くなっていた。

以上、7人が日本の量子力学、素粒子の世界の物理学の伝統を繋いで来た方々らしい。梶田隆章先生!今後の日本の展望はいかが。どうも梶田さんの後を継ぐ世代、やや心もとない気がするらしい。今後を繋ぐ若手が育って来ているかどうかだ。今の教育制度の元では、根気のいる地道な研究を継続してい行く力が育つがどうかとても心配だ。

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湯川秀樹

湯川 秀樹(1907年(明治40年)1月23日 ~1981年(昭和56年)9月8日): 日本人として初めてノーベル賞を受賞した方。物理学者(理論物理学)。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。

原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。

戦後は非局所場理論・素領域理論などを提唱したが、理論的な成果には繋がらなかった。一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。上記のように、戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原爆開発に関与したことが確認されている。残念ながら資金不足で頓挫。でも、彼の能力から当然研究に引き込まれることはやむをえまい。
物理学では、森羅万象を説明する力は、4つあることが知られている。「重力」、「電気力」、「強い力」、「弱い力」。このうち後半の2つは何のことか素人にはチンプンカンプンだ。そもそも、力とは何だ。本当に4つしかないの。 勿論、政治力とか経済力とかは物理学とは無縁だし、摩擦力とか遠心力なんていうのこれも重力か。静電気力と磁力は同じ理論で説明できるらしい。化学ではファンデルワールス力何て言うのもあるぞ。とりあえず、物理学では力は4種類しかないということで勘弁してもらおう。

人物列伝
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アルキメデス

アルキメデス アルキメデス(Archimedes、紀元前287~212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。古代ギリシアの科学者といえば一にも二にも彼だろう。ただし、時代的にはアレキサンダー帝国が無くなり、古代ローマが台頭してきた時期だ。当時の世界の学問の中心地はアレクサンドリア(プトレマイオス王朝)だ。アルキメデスはギリシアの植民都市シラクサの人。ローマの侵略に対して祖国シラクサ防衛のために知恵を傾けた英雄でもあるようだ。ただ、ローマ軍は彼一人のため多大な犠牲を強いられたようだ。

アルキメデスの人生の記録は、彼が没してから長い時間が過ぎた後に古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、全容を掴めていない。アルキメデスの友人のヘラクレイデスも伝記を書き残したといわれるが、失われてしまい細部は伝わっていない。しかし、没年については例外的に、正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死んだことが、彼の死に関する故事の記述からわかっているからである。彼の生年は、死んだときの年齢(75歳とされている)から逆算して求められたもの。

**ポリュビオス
ポリュビオス(紀元前204? ~紀元前125年?)。古代ギリシアのメガロポリス生まれの歴史家である。第三次マケドニア戦争のピュドナの戦いの後、人質としてローマに送られ、スキピオ・アエミリアヌスの庇護を受けた。

シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『Universal History 』(普遍史)には70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが出典に利用している。この書ではアルキメデス個人にも若干触れ、また街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。 アルキメデスは紀元前287年、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア島のシラクサで生まれた。この生年は、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者[3]「ペイディアス[4] (Phidias)」と告げている。プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している。アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『幾何学理論』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』にはエラトステネスに宛てた序文がある。

アルキメデスは紀元前212年、第二次ポエニ戦争でローマの将軍がシラクサを占領した時に殺された。アルキメデスの評判を知っていた将軍は、彼には危害を加えないように命令を出していた。アルキメデスの家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは砂に描いた図形の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していたアルキメデスが無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したといわれている。アルキメデス最期の言葉は「図をこわすな!」だったとか。これも有名なエピソードだ。

【アルキメデスの原理】
アルキメデスは浮力の原理を用いて黄金の王冠が純金よりも密度が低いか否か判断したと言われる。最も広く知られたアルキメデスのエピソードは、「アルキメデスの原理」を思いついた経緯である。ヒエロン2世は金細工職人に金塊を渡して、神殿に奉納するための誓いの王冠を作らせることにした。しかし王冠が納品された後、ヒエロン王は金細工師が金を盗み、その重量分の銀を混ぜてごまかしたのではないかと疑いだした。
もし金細工師が金を盗み、金より軽い銀で混ぜ物をしていれば、王冠の重さは同じでも、体積はもとの金地金より大きい。しかし体積を再確認するには王冠をいったん溶かし、体積を計算できる単純な立方体にしなくてはならなかった。困った王はアルキメデスを呼んで、王冠を壊さずに体積を測る方法を訊いた。アルキメデスもすぐには答えられず、いったん家に帰って考えることにした。
何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。これを見たアルキメデスは、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。ここに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「ヘウレーカ、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ、不正がばれた金細工師は、死刑にされてしまった。 これも有名なエピソード。
比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないのではとの疑問も提示されている。

実際には、アルキメデスは自身が論述『浮体の原理』で主張した、今日アルキメデスの原理と呼ばれる流体静力学上の原理を用いて解決したのではと考えられる。この原理は、物質を流体に浸した際、それは押し退ける流体の重量と等しい浮力を得ることを主張する。この事実を利用し、天秤の一端に吊るした冠と釣り合う質量の金をもう一端に吊し、冠と金を水中に浸ける。もし冠に混ぜ物があって比重が低いと体積は大きくなり、押し退ける水の量が多くなるため冠は金よりも浮力が大きくなるので、空中で釣り合いのとれていた天秤は冠側を上に傾くことになる。ガリレオ・ガリレイもアルキメデスはこの浮力を用いる方法を考え付いていたと推測している。

【アルキメディアン・スクリュー】
アルキメディアン・スクリューは効率的な揚水に威力を発揮する。工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家のアテナイオスが残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「シュラコシア号」の設計を依頼したという。シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に庭園やギュムナシオン、さらには女神アプロディーテーの神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスはアルキメディアン・スクリューと名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。現代では、このスクリューは液体だけでなく石炭の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。
アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。ねじ構造はアルキメデスのような天才にしか思いつかないという人もおり、実際に中国でねじ構造を独自に機械として使用することはできなかった。「ねじは中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である」とも言われる。本当かな??

【アルキメデスの鉤爪】
アルキメデスの鉤爪とは、シラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。2005年、ドキュメント番組「Superweapons of the Ancient World」でこれが製作され、実際に役に立つか検証してみたところ、クレーンは見事に機能した。

光線兵器 【アルキメデスの熱光線】
2世紀の著述家ルキアノスは、紀元前214~紀元前212年のシラクサ包囲の際にアルキメデスが敵船に火災を起こして撃退したという説話を記している。数世紀後、トラレスのアンテミオスはアルキメデスの兵器とは太陽熱取りレンズだったと叙述。これは太陽光線をレンズで集め、焦点を敵艦に合わせて火災を起こしていたもので「アルキメデスの熱光線」と呼ばれたという。
このようなアルキメデスの兵器についての言及は、その事実関係がルネサンス以降に議論された。ルネ・デカルトは否定的立場を取ったが、当時の科学者たちはアルキメデスの時代に実現可能な手法で検証を試みた。その結果、念入りに磨かれた青銅や銅の盾を鏡の代用とすると太陽光線を標的の船に集めることができた。これは、太陽炉と同様に放物面反射器の原理を利用したものと考えられた。1973年にギリシアの科学者イオアニス・サッカスがアテネ郊外のスカラガマス海軍基地で実験を行った。縦5フィート(約1.5m)横3フィート(約1メートル)の銅で皮膜された鏡70枚を用意し、約160フィート(約50m)先のローマ軍艦に見立てたベニヤ板製の実物大模型に太陽光を集めたところ、数秒で船は炎上した。
2005年10月、マサチューセッツ工科大学 (MIT) の学生グループは一辺1フィート(約30cm)の四角い鏡127枚を用意し、木製の模型船に100フィート(約30m)先から太陽光を集中させる実験を行った。やがて斑点状の発火が見られたが、空が曇り出したために10分間の照射を続けたが船は燃えなかった。しかし、この結果から気候条件が揃えばこの手段は兵器として成り立つと結論づけられた。MITは同様な実験をテレビ番組「怪しい伝説」と協同しサンフランシスコで木製の漁船を標的に行われ、少々の黒こげとわずかな炎を発生させた。しかし、シラクサは東岸で海に面しているため、効果的に太陽光を反射させる時間は朝方に限られてしまう点、同じ火災を起こす目的ならば実験を行った程度の距離では火矢やカタパルトで射出する太矢の方が効果的という点も指摘された。原理的には可能だが、実際にやってみると難しいようだ。

【その他力学】
梃子 てこについて記述した古い例は以前から知られていたようだ。アルキメデスは『平面の釣合について』において、てこの原理を説明している。4世紀のエジプトの数学者パップスは、アルキメデスの言葉「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう。」を引用して伝えた。プルタルコスは、船員が非常に重い荷物を運べるようにするためにアルキメデスがブロックと滑車機構をどのように設計したかを述べた。また、アルキメデスは第一次ポエニ戦争の際にカタパルトの出力や精度を高める工夫や、オドメーター(距離計)も発明した。オドメーターは歯車機構を持つ荷車で、決まった距離を走る毎に球を箱に落として知らせる構造を持っていた。

【数学】
アルキメデスはまた数学の分野にも大きな貢献を残した。級数を放物線の面積、円周率計アルキ代数螺旋の定義、回転面の体積の求め方や、大数の記数法も考案している。
彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。
アルキメデスは取り尽くし法を駆使して円周率を求めた。アルキメデスは、現代で言う積分法と同じ手法で無限小を利用していた。背理法を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは取り尽くし法の名で知られ、円周率π(パイ)の近似値を求める際に用いられた。
アルキメデスは、ひとつの円に対し外接する多角形と、円に内接する多角形を想定した。この2つの多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの多角形からこれは31⁄7(約3.1429)と310⁄71(約3.1408)の間にあるという結果を得た。
また彼は、円の面積は半径でつくる正方形に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの実数について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは実数におけるアルキメデスの性質と呼ばれる。
『円周の測定』にてアルキメデスは3の平方根を265⁄153(約1.7320261)と1351⁄780(約1.7320512)の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。
球の体積は無限小・積分を用いることで公式を発見した。また球の表面積は無限小・積分・カヴァリエリの原理を用いることで公式を同じ高さの円柱の側面の表面積と等しいことを示す。
ゼロの対極にある無限集合の概念に、到達していたらしいという新しい資料が発見されている。

アルキメデスの数学に関する記述は古代においてほとんど知られていなかったらしい。著述はギリシア語の方言ドーリス地方語であったし、原典は伝わっていない。アルキメデスは存命中アレクサンドリアの数学者達とは多少交流を持っていた事も手伝い、この地ではアルキメデスの論説も多少伝わっていたようだ。彼らが研究の途上で再発見した事項も多いのだろう。

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メンデル

メンデル グレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel、1822年7月20日~ 1884年1月6日)は、オーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭。植物学の研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したことで有名。遺伝学の祖。
当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は交雑とともに液体のように混じりあっていく(混合遺伝)と考えられていた。メンデルの業績はこれを否定し、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱したことである。

オーストリア帝国のオドラウ近郊のハインツェンドルフ(Heinzendorf bei Odrau, 現在のチェコ・モラヴィア)に小自作農(果樹農家)の子として生まれ、ヨハンと名付けられる。母語はドイツ語であった。オルミュッツ大学で2年間学んだ後、1843年に聖アウグスチノ修道会に入会し、モラヴィア地方ブリュンの修道院に所属、修道名グレゴール(グレゴリオ)を与えられる。

メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた。1847年に司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える。1850年、教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった。生物学の劣等性が生物学の大変革をもたらす遺伝の法則を発見するのだから世の中は分からないものだ。

1851年から2年間ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名な クリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ。ブリュンに帰ってからは1868年まで高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが失敗している。 この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した。このころに1860-1870年にかけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない。

遺伝の研究
メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは、1847年司祭として修道院の生活を始めた時である。1862年にはブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。 有名なエンドウマメの交配実験は1853年から1868年までの間に修道院の庭で行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があるため、様々な形質や品種があり人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目。そしてエンドウ豆は、花の色が白か赤か、種の表面に皺があるかない(滑らか)かというように対立形質が区別しやすく、さらに、花弁の中に雄しべ・雌しべが存在し花弁のうちで自家受粉するので、他の植物の花粉の影響を受けず純系を保つことができ、また、どう人為交配しても必ず種子が採れ、さらには一世代が短いなどの観察のしやすさを備えていることから使用した。次に交配実験に先立って、種商店から入手した 34品種のエンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に 22品種選び出した。これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった。エンドウ豆を実験の資料に選んだことが彼が普通の生物学者と異なり、物理学と数学等の幅広い教養の基盤を有する非凡な点であったようだ。

その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で 2n=14であるからである。

この結果の口頭での発表は1865年にブリュン自然協会で、論文発表は1866年に『ブリュン自然科学会誌』で行われた。タイトルは“Versuche über Pflanzen-Hybriden”(植物雑種に関する実験)であった。さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった。

1868年には人々に推されブルノ修道院長に就任し多忙な職務をこなしたが、毎日の仕事に忙殺され1870年頃には交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった。

メンデルは、研究成果が認められないまま、1884年に死去した。メンデルが発見した法則は、1900年に3人の学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらによりそれぞれ独自に(つまり共同研究ではない)再発見されるまで埋もれていた。彼らがそれぞれ独自に発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった。ライフ誌が1999年に選定した、「Life's 100 most important people of the second millennium(この1000年でもっとも重要な100人)」に入っている。

生物学の基本中の基本ともとも言える遺伝の法則が、1900年まで認められていなかったというのもある意味驚きだ。高校教科書でも紹介される物理や化学の法則は、大体18世紀には総て発見済みだ。

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今西 錦司

今西 錦司 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年1月6日~1992年6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学、1939年)。京都府出身。
今西錦司氏は、生物学の研究において次々とユニークな新しい学説を提案し、今では彼の考えは寧ろ世界の標準として認知されつつある。研究においては多彩な仲間同士の自由な対話を重んじ、多くの弟子達を育成。ノーベル賞クラスの学者だったようだ。
今西氏の活動は登山家、探検隊としてのものが有名だが、登山も探検も結局彼等の研究の成果に結びつくもので、登山家、探検隊としては資金調達の名人だったようだ。 生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。住み分け理論はダーウィンの進化論を補完する基礎理論だ。
今西 錦司 第二次大戦後は、京都大学の理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類学の礎を築いた。「彼らは人と同じように知能を持ち、社会生活をしている」ので、彼等と同じ目線で考えることの必要性を訴え、野外の自然観察の重要性を強調し、類人猿研究の先駆けを作った。
現代文明が行き詰まりを見せている今、人間とは何かを見直そうという世界的な風潮のなか、ヒトと共通の先祖を持つ類人猿の研究がホットな話題として注目されてきている。

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木原 均

木原 均 木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日~1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。 コムギの祖先を発見したことで知られる。近縁の植物のゲノムと遺伝子との関係を知り、ゲノムの遷移や進化の過程を調査するのに用いられる手法を確立した。また、スイバの研究から種子植物の性染色体も発見した。種なしスイカの開発者でもある。

木原がコムギの遺伝子の研究をすることになったのは、北大の先輩で、当時大学院生だった坂村徹の「遺伝物質の運搬者(染色体)」という題の講演を聴いたことがきっかけ。木原は話が面白くて感激のあまり坂村の研究室まで押しかけていったという。これは木原が学問に目覚め、科学者としての出発点でもあった。しかし木原はこの後、他の植物生理学の研究を続けコムギには縁なく過ごしていたが、坂村が植物生理学の教授となり外国留学することになったため、コムギの遺伝子研究を木原に委ねたのである。 恵迪寮出身であり、大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当した。日本スキー草創期に発展に尽くした一人で、科学的トレーニングを提唱し、スキー、テニス、野球などをたしなんだ。 木原の遺した言葉として「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」(The History of the Earth is recorded in the Layers of its Crust; The History of all Organisms is inscribed in the Chromosomes.) というものが知られている。これは1947年刊行の著書『小麦の祖先』の前書きにある以下の文章を元に後年整理されたものだという。

木原 均 「小麦の歴史はこの染色体に刻まれてあって、恰も地球の歴史が地層と云う書物で読めるやうに、こゝから小麦の分類や祖先の発見がなされるのである。 — 木原均、『小麦の祖先』(1947年)」
生命科学を地球の医師に
生命科学の一定義は、「生命科学は生命に関するすべての分野を総動員して人類生存の活路を見出そうとする総合学術である」としています。 生命科学の役割はたくさんありますが、とりわけ人口の爆発的増加、資源の枯渇、環境汚染等の対策には、全人類規模で当たらなければなりません。 地球は人間だけのものではなく、全ての生物がここで生を営んでいるのです。他の生物なしでは人間は生きることができません。 このままなりゆきまかせで行くならば、いつかは自滅することでしょう。 医師が人類の病気を予防したり治療するように、生命科学は地球の医師となって働いてほしいものです。 (1976年9月14日 北海道大学創基百周年記念講演より)

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木村 資生

木村 資生 木村 資生(きむら もとお、1924年11月13日 ~1994年11月13日)は、日本の集団遺伝学者。中立進化説を提唱。日本人で唯一ダーウィン・メダルを受賞。
中立進化説とは、分子レベルの進化はダーウィン的な「サバイバル・オブ・ザ・フィッテスト」(適者生存)だけではなく、生存に有利でも不利でもない中立的な変化で「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」、すなわち、たまたま幸運に恵まれたものも残っていくという学説である。中立説は発表当初多くの批判を浴び世界的な論争を引き起こした。その後、この説は広く認められるようになり、現代進化論の一部となっている。

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北里 柴三郎

北里 柴三郎 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、1853年~ 1931年(昭和6年))は、日本の医学者・細菌学者・教育者・実業家。「日本の細菌学の父」。ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。
第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)だったのに惜しかったね。 名字の正しい読みは「きたざと」。北里が留学先のドイツで「きたざと」と呼んでもらう為に、ドイツ語で「ざ」と発音する「sa」を使い、「Kitasato」と署名したところ、英語圏では「きたさと」と発音され、一般的となってしまったらしい。

肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まる。父は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格。母は幼少時江戸育ち、嫁いでからは庄屋を切りもり。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼。柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わる。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。

1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮。翌年7月に廃止。熊本医学校に入学。そこで教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚める。マンスフェルトから特別に語学を教った柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになる。

1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学。在学中よく教授の論文に口を出し大学側と仲が悪く、何度も留年。頭良すぎた? 1883年(明治16年)には、医学士。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書く。演説原稿が残っている。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職。

留学時代
柴三郎は同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツのベルリン大学へ留学。そこで、コッホに師事し大きな業績を上げる。1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させる。さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞。柴三郎が受賞できなかったのは、運が悪かった? ペスト菌を発見だけでも十分ノーベル賞級では。でもこの時点はまだペスト菌は発見されていない。

論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から多くの招きのオファーを受ける。しかし、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に日本に帰国。

帰国後
北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」の烙印を押され、母校の東大医学部と対立する形に。それは単に東大を敵に回すことだけでなく柴三郎自身の研究者生命も危うくすることを意味していた。しかし、ベルリン大学へ留学緒方正規の紹介ではなかったか。弟子の成長を嫉妬したのであろうか? 多様な考えがあることは成長へのバネ。権威に胡坐をかいて既得権を守ろうとしたのか?

******************脚気
脚気(かっけ、beriberi)はビタミン欠乏症の一つ。重度で慢性的なビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患。軽度のものはチアミン欠乏症(Thiamine deficiency)と呼ばれる。心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起きることから脚気と呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心、しょうしん)を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。最悪の場合には死亡に至る。
リスクファクターには、白米中心の食生活、アルコール依存症、人工透析、慢性的な下痢、利尿剤の多量投与など。
日本では、白米が流行した江戸において疾患が流行したため「江戸患い」と呼ばれた。大正時代には、結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。1910年代にビタミンの不足が原因と判明し治療可能となったが、死者が1000人を下回ったのは1950年代。その後も1970年代にジャンクフードの偏食によるビタミン欠乏、1990年代に点滴輸液中のビタミン欠乏によって、脚気患者が発生している。 大日本帝国海軍で軍医の高木兼寛は、イギリスの根拠に基づく医療に依拠して、タンパク質が原因であると仮定して、洋食、麦飯を試み、1884年(明治17年)の導入により、1883年に23.1パーセントであった発症率を2年後には1パーセント未満に激減させた。その理論は誤っていたが、疫学の科学的根拠を得ていたわけ。

だが、当時医学の主流派は、理論を優先するドイツ医学を模範としていたことから高木は批判され、また予防成績も次第に落ちて様々な原因が言われ、胚芽米も導入された。これに対抗して、大日本帝国陸軍は白米を規則とする日本食を採用した。『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、死者総計の約2割、約4000人の死因が脚気であり、その後も陸軍は脚気の惨害に見舞われた。 農学者の鈴木梅太郎は、1910年(明治43年)に動物を白米で飼育すると、脚気類似の症状が出るが、米糠・麦・玄米を与えると、快復することを報告した。これを基にして翌年、糠中の有効成分を濃縮して「オリザニン」として販売したが、医学界においては伝染病説と中毒説が支配的であり、また農学者であって医学者ではなかった鈴木が提唱したこともあり、彼の栄養欠乏説は当時受け入れられなかった。

**鈴木 梅太郎**
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)~ 1943年(昭和18年)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を脚気の予防に使えることを発見したことで有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。文化勲章受章者。長岡半太郎、本多光太郎と共に理研の三太郎と称される。農芸化学者だったからか医学界にはなかなか認められなかったらしい。権威主義というかセクト主義。学問と言うのはすそ野の広さが大切だね。

1912年にポーランドのカジミェシュ・フンクが『ビタミン』という概念を提唱したが、日本帝国陸軍はなおも栄養説を俗説であるとしてさげすみ、外来の栄養説を後追いした。今日から観ると、陸軍主導の調査会には、真の原因を解明するだけの能力はなかったとも指摘されている。陸軍が白米の給食を止めて、麦を3割含む麦飯に変更したのは、海軍から遅れること30年の大正2年のこと。
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**東大教授・緒方正規、どうしちゃんたんですかね。柔軟性に欠ける権威主義。彼の弟子たちが勝手に忖度したのかもしれないけど。今でも、医学界にはこんな風潮残っているんでしょうか。山崎豊子の「白い巨塔」なんでいう小説もあるけど。
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日本に帰国した柴三郎は自分の希望する研究ができると思っていたはず。実際は北里の思う通りには行かなかった。東大と対立した柴三郎を研究者として暖かく受け入れてくれる研究所はどこもなく、学界に大きな力と人脈を持つ東大を恐れて誰も援助する者も無し。研究者・北里柴三郎はまさに孤立無援の状態であり、これが東大の恩師を敵に回した者の(科学の仮説に敵味方なぞないのにね)厳しい現実だった。そんな時、この北里柴三郎の危機的状況を静かに目撃していた福澤諭吉は海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれにふさわしい研究環境が用意されない日本の状況を深く失望。多大な資金援助により北里柴三郎の為の「私立伝染病研究所」を設立。そして、北里柴三郎は福沢に感謝して、そこの初代所長に。その後、私立伝染病研究所は国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」(現・東京大学医科学研究所)となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた。
しかし、学問上の対立を権力で封じ込めようとする悪癖。今でもあるみたいだ。そういえば脚気の原因を細菌とする説は、文学でも有名な森鴎外にも受け継がれてしまったようだ。

かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な対立が背景にあるといわれている。その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里柴三郎はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大を憎悪していた為、すぐに所長を辞任した。そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所。北里大学の母体)を設立した。そこで新たに、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

福沢諭吉の死後の1917年(大正6年)、北里柴三郎は福沢諭吉による長年の多大なる恩義に報いる為、「慶應義塾大学医学部」を創設し、初代医学部長、付属病院長となった。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。

また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらの状況であったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として「大日本医師会」が誕生した。その後、1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。

***緒方正規
緒方 正規(おがた まさのり、~1919年)は日本の衛生学者、細菌学者。東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。
1853年肥後国に熊本藩医緒方玄春の子として生まれる。古城医学校を経て、1880年東京帝大医学部を卒業。緒方洪庵なら有名だけと。

翌年ドイツのマックス・フォン・ペッテンコーファーのもとに留学、ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。また、1882年からはベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子であるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。
1000円 1884年に帰国。1885年には東大医学部の衛生学教室と内務省衛生試験所に着任し、衛生試験所に細菌室を創設する。同年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー宛に紹介状を書いている。 1885年に脚気病原菌説を発表するが、ドイツ留学中の北里はこの学説を批判した。現在では北里の批判が正しかったことが分かっている。この事件によって、北里は東大の医学部と対立しつづけることになる。赤痢や後述のペスト菌の研究でも二人は対立しあい、研究面で何かと対決することが多かったが、私生活では晩年まで交流が続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を述べている。緒方の弟子たちが悪かったのか。1886年帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。

1896年、台湾でペストが流行したときに現地調査を行い、ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指摘した。北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実はペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤りを北里は認め自説を撤回している。また、ペストはネズミのノミを媒介として流行することを証明し、ドイツの専門誌に発表した。
1898年に医科大学学長をつとめ、東京学士会院会員、第5回日本医学会総会会頭などを歴任。 1919年、食道癌を患って静養していたが、気管支・肺に転移し、肺壊疽も併発して同年7月30日に死去。

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島津製作所の歴史

島津製作所の歴史
島津製作所は、◯に十字のロゴマークの他、ものづくり精神を堅持し続けている不思議な存在だ。下記のその秘密の一端を紹介した記事があった。丸に十字。歴史に詳しい方ならこれ島津藩の家紋か。
京都の誇り、島津製作所の凄まじさを知っているか?
本能の赴くままに新市場を開拓した島津製作所のあり得ない歴史:2020.9.18(金)(鵜飼 秀徳:ジャーナリスト、一般社団法人良いお寺研究会代表理事)
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島津本社  京都には京セラ、任天堂、オムロン、村田製作所、ローム、日本電産など名だたる大企業が存在する。創業100年を超える企業も少なくない。帝国データバンクの調査では、京都における創業100周年を超える「老舗企業」は1403社(2018年11月時点)。全体に占める老舗企業の割合は4.73%(全国平均2.27%)だ。これは、全都道府県の中でトップである。**確かに京都には独自の技術を売り物にする個性派企業が多い。
   例えば、東京にも進出した百年超企業では、和菓子の虎屋、和文具・線香の鳩居堂、陶磁器のたち吉、呉服商の大丸百貨店などがある。花札やトランプ製造に端を発する任天堂も1889(明治22)年の創業で、2019年に創業130周年を迎えた。こうした京都の老舗企業から学ぶとするならば、業態をさほど変えない「保守的経営」こそが、組織を長持ちさせる永続のカギかもしれない。
 だが、京都にありながらこの百年超企業(島津)は、異色中の異色。創業は任天堂よりも古い1875(明治8)年(前身の店はもっと古い)。
 連結売上高3854億円(2020年3月31日現在)、グループ社員数1万3200人を擁する精密機器メーカーだ。最近は新型コロナウイルスPCR検査試薬の発売で注目を集めた、最先端テクノロジーの会社でもある。
 だが、島津製作所の変遷は更に興味深い。とくに戦前はカメレオンのように事業内容を七変化。それぞれが何の脈絡のなさそうな製品を数々生み出してきている。現に、「えっ、これも島津製作所が最初なの?」という「日本初」の製品がいくつもある。
 製品だけではない。島津製作所から派生した企業は多い。自動車用バッテリー世界シェア2位のGSユアサ、塗料大手の大日本塗料、フォークリフトで世界3位の三菱ロジスネクストなどは島津製作所が前身企業。京セラや日本電産、村田製作所など売上高ベースで1兆円を超える巨大企業も、その創業時は島津製作所と何らかの協力関係を持ってきたようだ。
**つまり、次から次へを新規のベンチャー企業を生み出す母体ともなっている。

仏具  以下は、知られざる島津製作所の「別の顔」。
 島津製作所はもともと仏具屋であった。江戸時代末期には、西本願寺門前に店を構えていた。島津が手がけた仏具はお寺に納める鳴り物や装飾具、仏壇などに備えられる香炉、花立て、蝋燭立てなどであった。**今でも京都にはこんな店一杯ある。

 仏具業はそれこそ、大寺院がひしめく京都にあって安定的なビジネスだ。今でも大本山クラスの寺院の門前には、創業数百年といった仏具店が軒を並べている。
 ところが、過去に一度だけ仏具業全体が廃絶の危機に立たされた局面があった。明治維新である。それまで大切にしていた寺院や仏教的慣習を破壊する「廃仏毀釈」が吹き荒れた時代だ。  背景には、国家仏教から国家神道への切り替えにあった。神仏分離令という法律が出され、習合状態であった仏(寺院)と神(神社)を明確に切り分けよ、ということになって寺院が壊されたのだ。寺院が壊されるような時代では、仏具も不要になる。

島津源蔵  同時期、京都は禁門の変や鳥羽伏見の戦いによって、丸焼けになっていた。物価は高騰し、治安は悪化を極め、京都は深刻な政情不安に陥っていた。京都が荒廃する中、首都が東京に遷り、多くの人々が天皇の後を追って京都を去っていった。この時、先に紹介した和菓子の虎屋は東京に進出している。それを裏切りと捉えている京都人は多い。

だが、島津製作所の創業者で、仏具職人だった島津源蔵(初代)は京都に残って復興の旗手となることを誓う。 当時、京都府政は「教育施設の整備」を復興政策の最優先に掲げた。例えば、全国に先駆けて小学校が整備されたのが京都であった。新政府による学制発布は1872(明治4)年だが、京都ではその3年も前に64校も開校している。

 また、お雇い外国人を呼び寄せ、欧米の科学技術を教える機関「舎密局(せいみきょく)」などが開かれた。舎密局を通じて、西洋諸国から最新の理化学機器が我が国にもたらされたことは、初代源蔵の好奇心を大いに刺激した。小学校の整備にともなって学校の授業で使用される理化学機器の需要は高まりを見せ、源蔵はそこに商機を見出す。
**しかし、こんな時代に実験器具の製造に眼をつける人も稀だ。実験器具なんてみな研究者自身が苦労して手作りするのが当たり前だったから。
**舎密とはchemistryの音訳。つまり、化学のことだ。化学実験器具メーカーとなったのか。

「お寺が学校に変わるのは時代の流れや。仏具はもうあかん。いまのうちに科学の知識を習得して、実験器具を手がけるんや。そうや、西洋鍛冶屋や――」
 時代の変化に飲み込まれるのではなく、それを逆手にとって推進力にしていく。そうして、島津源蔵は理化学機器の製造・修理を手がける島津製作所を創業する。

気球 電気自動車
日本海海戦の「敵艦見ユ」を可能にした島津のバッテリー。島津製作所は様々な発明・開発を成し遂げることになる。
 1877(明治10)年には日本で最初に人間を乗せた気球を揚げている。ライト兄弟が飛行機で有人飛行を成功させるのが1903(明治36)年だから、その四半世紀も前に島津製作所の技術で日本人が空を飛んでいたのである。 **これは初耳です。歴史の教科書に載ってないのでは?

梅治郎  明治期には、初代源蔵の息子である梅治郎(二代源蔵)によって、現代生活に欠かせないアイテムが開発、商業化された。バッテリー(蓄電池)だ。バッテリーを搭載する製品は、自動車やバイクはもちろん、ノートパソコン、スマートフォンなど、例を挙げればキリがない。近年は電気自動車が普及し出し、高性能バッテリーの需要は増している。

 バッテリーを世界で最初に発明したのはフランスの科学者、ガストン・プランテで1859(安政6)年のことであるが、プランテの原理を使って、日本で最初にバッテリーを開発したのが二代源蔵であった。このバッテリー開発が、島津製作所に大きな転機をもたらした。折しも、満州や朝鮮半島の権益を巡り、日露戦争に発展していた時期だったからだ。

 当時の主戦場は「海(軍艦)」。ロシアが誇る太平洋艦隊と、日本海軍連合艦隊はほぼ互角であった。そこで、大海原の中でいかに敵艦の情報をつかみ、先手を撃つか。情報戦略こそが戦局の明暗を分ける。そこで連合艦隊の無線の電源として搭載されたのが「島津のバッテリー」だった。

 日本海海戦において、連合艦隊司令長官東郷平八郎は「敵艦見ユ」(敵の艦隊が見えた)といち早く打電。迎え撃つ体制の連合艦隊は、常に風上にたって有利に戦いを進め、バルチック艦隊を撃滅。日露戦争における影の立役者が、島津製作所であったとはほとんど知られていない事実。

   このバッテリー事業はその後、日本電池の創業へ。現在、クルマのバッテリー世界シェア2位を誇るGSユアサの前身企業の1社。なお、創業者島津源蔵は日本で最初に自社製のバッテリーを積んだ電気自動車(デトロイト2号)を走らせた人物とのこと(実機はGSユアサ本社に展示されている)。

人体模型 仏具屋の技術から生まれた「島津のマネキン」!!  さらに島津製作所は当時、意外なものを手掛けている。マネキンだ。島津の源流は仏具業である。そして、仏教関連産業が衰退し、教育用理化学機器の需要が高まる中で、人体模型が島津の手によって手掛けられた。そこには仏具商時代の鋳物仏具という精緻なものづくり技術がベースにある。それが西洋医学や学校における科学教育の発展とともに、人体模型という新たなる分野に昇華していく。
 1909(明治42)年、二代源蔵はアメリカのシアトルで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会に人体模型を出品し、見事に大賞を受賞。そして1923(大正12)年9月に起きた関東大震災によって、人体模型事業は大きな画期を迎えることになる。
震災後、日本は生活物資の国際支援を受ける。その中にアメリカから送られてきた大量の古着が。その結果、洋服文化が一気に拡大。
 そこで国内の繊維業界は堰を切ったように洋服製造に着手する。すると、販売促進用としてマネキンの需要も生まれる。島津製作所はいよいよ、自社製マネキン製造に打って出る。島津製作所は人体模型を基に改良に改良を重ね、ファイバー素材を用いたマネキン製造に成功する。この時、京人形にヒントを得たとされる。 「島津のマネキン」はその後、ワコールグループのマネキン会社、七彩などを誕生させる。国内マネキン企業25社のほとんどが島津製作所に関係しているらしい。「日本アパレルの祖」が島津製作所と言えば、チョット違う気がするが。

田中耕一 現代に息づく島津製作所のもの作り精神!!
 仏具、気球、バッテリー、マネキン。すべてが、脈絡のないようで、源流では繋がっている。時代の潮流をつかみ、自由な発想に基づいて、新しいものに果敢に挑戦する。この島津のものづくりの精神は、現代にもしっかりと受け継がれてきているのか。
 後に社員である田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞し、このコロナ禍においてはPCR検査試薬をいち早く開発、販売を実現させたこととも決して無縁ではない。
 詳しくは『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(鵜飼秀徳著、朝日新聞出版、1400円)をご覧いただければ幸いである。
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以上、ご参考までに。

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沢田 敏男先生

沢田 敏男先生 沢田 敏男(1919年〈大正8年〉~2017年(平成29年)10月18日)は、日本の農学者(農業農村工学)。学位は農学博士(京都大学・1955年)。京都大学名誉教授、京都大学農学部教授、京都大学農学部学部長、京都大学総長、農業土木学会会長などを歴任した。
農業土木、ダム工学を専攻する農学者、工学者である。三重県伊賀市出身。学位論文「浸透水の流動に関する研究」により、1955年に京都大学より農学博士を授与された。京都大学で教鞭を執るだけでなく総長にも就任し、のちに名誉教授の称号を贈られた。2017年10月18日午後0時半に京都市内の病院で心不全のため死去。

灌漑ダムや干拓施設に関する理論的研究を行った。特に、ロックフィルダムの変形や透水の諸問題を解決する有用な設計法を多数確立。これらの工法は、各地のダム建設時に適用されたという。
京都大学総長としては、留学生受け入れの拡充など「国際化」路線を確立し、「将来計画検討委員会」発足でその後具体化する京大改革構想の策定に着手したことが注目される。一方、1970年代以後、竹本処分(1977年)を経てなお一定の勢力を維持し「日本のガラパゴス」と称された京大学生運動に対しては、「学生寮の正常化」政策を進めることでその支持基盤を弱めようとした。1982年12月、沢田は評議会で吉田寮を廃寮にするための「在寮期限」(1986年3月31日)の設定を取り決めたが、吉田寮自治会や他の学生の猛反発によって事態はいっそう混乱し、「在寮期限闘争(紛争)」と呼称される新たな学生運動が盛り上がってしまった。この問題の解決は後任の西島安則総長時代に持ち越され、吉田寮も存続した。

先輩には奥田東がいる。彼も1961年に農学部長、1963年には京都大学総長となり2期6年を務めた。当時は学園紛争の時期に当たり、国立大学協会会長として各地の紛争解決にも尽力した。後輩には南勲先生がいる。実は、彼が私の学生時代の指導教官だった。

僕たちの学生時代は、ちょうど学園紛争のさ中。奥田東先生も沢田 敏男先生も過激化する学生達とまじめに体力勝負で立ち向かった猛者。他大学では機動隊の導入等強権的な手段を取らざるを得ないとみられる状況下でも、監禁状態の中でも最後まで話し合いの姿勢を貫いた烈士ともいえる。
沢田 敏男先生は、柔道で鍛えた頑強な体力と、万年青年の熱意を持ち、日本の農業や農業土木の将来を語らせれば止まらなくなる愛すべきキャラクターの持ち主であった。農水省の後輩達に聞けば、ゴルフの腕も相当なもので、90歳を越えてからもその飛距離は若手が敵わないとか。

残念ながら、学生時代はそんなすごい人とは思わなかった。そもそも講義は滅茶滅茶下手くそで、ある意味聞くに堪えない。古色蒼然とした自分のノートを教室で読み上げ、一字一句書き取れと言うのだから。でも、昔の人はそのような努力をして知識を手に入れたのだろう。
まだ、ご健在と思ってネットで調べて見たら、ご逝去されたことを知った。ただご冥福を祈るばかりである。

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羽仁 五郎

羽仁 五郎 羽仁 五郎(はに ごろう、1901年(明治34年)~1983年(昭和58年))は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
群馬県桐生市出身。父親・森宗作はは第四十銀行の創立者で初代頭取、舘林貯蓄銀行頭取などを務めた。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部に入学。数ヶ月後に休学し、同年9月、ドイツで歴史哲学を学ぶ。留学中、糸井靖之・大内兵衛・三木清と交流し、現代史・唯物史観の研究を開始。「すべての歴史は現代の歴史である」というベネデット・クローチェの歴史哲学を知り、影響を色濃く受ける。1924年(大正13年)、帰国し、東京帝国大学文学部史学科に入る。 マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。1983年(昭和58年)、肺気腫のため死去。

1926年(大正15年)4月8日、羽仁吉一・もと子夫妻の長女説子と結婚。「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、森姓から羽仁姓となる。1927年(昭和2年)、東京帝国大学卒業。同大史料編纂所に嘱託として勤務。1928年(昭和3年)2月、日本最初の普通選挙で応援演説をしたことで問題となり辞職。同年10月三木清・小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊。1932年(昭和7年)、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。1933年(昭和8年)9月11日、治安維持法容疑で検束。留置中に日本大学教授を辞職。強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放。その後、『ミケルアンヂェロ』その他の著述で軍国主義に抵抗し多くの知識人の共感を得た。中でも『クロォチェ』論は特攻隊員の上原良司の愛読書となり遺本ともなった。1945年(昭和20年)3月10日、北京で憲兵に逮捕され、東京に身柄を移され、敗戦は警視庁の留置場で迎え、10月4日の治安維持法廃止を受けてようやく釈放された。1947年(昭和22年)、参議院議員に当選[2]し、1956年(昭和31年)まで革新系議員として活動。国立国会図書館の設立に尽力する。日本学術会議議員を歴任。
マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。1983年(昭和58年)、肺気腫のため死去。
息子は、ドキュメンタリー映画監督の羽仁進、孫が羽仁未央。甥はしいたけの人工栽培を発明した農学者の森喜作。晩年には家元制度打倒を唱える花柳幻舟と交際があり、羽仁は花柳を「ぼくのガールフレンド」と呼んでいた。志士多彩だね。

基本的にはレベラルな思想の持ち主だったのかな。当時世界を席巻したマスクス主義も今の若者、実は僕達にもよく内容は理解できない。一種の流行なようなものだったのか。生粋のマスクス主義の方がいたら反論を期待したいのだけど。羽仁 五郎さんの旧姓は森さんだって。そういえば数学者で教育評論家でもある森毅先生とも容貌が何となく似ている気もするが血縁関係はあるのかどうかは知らない。

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森 毅

森 毅 森 毅(もり つよし、1928年1月10日~2010年7月24日[1]):
日本の数学者、評論家、エッセイスト。京都大学名誉教授。専攻は、関数空間の解析の位相的研究。東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区)生まれ。大阪府豊中市育ち。大学教授時代より亡くなるまで京都府八幡市に在住。小学生の頃から塾へ通うなどしていたが、『戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生、要領と度胸だけは抜群の受験名人、それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた』という(本人著『数学受験術指南』より)。

大阪府立北野中学校(旧制)(現:北野高校)在学中から数学が得意であった。その後、旧制第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)へ進学。受験した理由は戦時下にあって最もリベラルが残っている、と評判であったからだそうだ。在学中の二年生の時に終戦を迎え、東京帝国大学理学部数学科へ。この頃は、東大では医学部よりも理学部物理学科の方が難関であったらしく、『数学科なんて入りやすいほうだった』(同著)という。 数学・教育にとどまらず社会や文化に至るまで広い範囲で評論活動を行う。歌舞伎、三味線、宝塚歌劇団は在学中より熱中し、これらもエッセイの材料としている。北海道大学理学部助手を務めた後、1957年京都大学教養部助教授に就任。1971年、教授昇任の審査の際に、助教授就任後の数学者としての業績は論文が2本だけだったため、「これほど業績がない人物を教授にしてよいのか」と問題になったが、「こういう人物がひとりくらい教授であっても良い」ということで京都大学の教授となった。

数学教育に関していえば、民間の教育団体である数学教育協議会の活動との関わりが挙げられる。京大時代は名物教授の一人として人気を博す。40代半ばから一般向けの数学の本で知られ、1981年刊行の『数学受験術指南』はロングセラーとなった。また浅田彰は森に数学を習い、ニューアカ・ブームの当時は盛んに森を称揚していた。「一刀斎」と号する。「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが教育に関する持論。新聞・テレビなどのマスコミでも広く活躍。また、文学・哲学についても造詣が深く、『ちくま文学の森』『ちくま哲学の森』などの編集に加わった。萩原延壽とは三高時代の同級生で親交深かった。2010年7月24日午後7時30分、敗血症性ショックのため大阪府寝屋川市内の病院で死去。

彼は確か大学の教養部の構内で何回かお目にかかった気がする。一刀斎とかの素人向けの数学の説明が面白かったように。徹底したリベラリストで一切の拘束を忌み嫌うところがある。庶民に語りかける教育学者及び哲学者と言った感じだった。

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ジョン・ガードン

ジョン・ガードン ジョン・バートランド・ガードン(Sir John Bertrand Gurdon, FRS, 1933年10月2日 - )は、イギリスの生物学者。専門は発生生物学。ケンブリッジ大学名誉教授。山中伸弥と2012年度ノーベル生理学・医学賞を共同授賞した。
山中伸弥は、ガードンとのノーベル賞同時受賞に関して、「ガードン先生との同時受賞が、一番うれしいと言っても過言ではない。ガードン先生はカエルの研究で、大人の細胞が受精卵の状態に戻るということを核移植技術で証明した。まさに、私のしている研究を開拓してもらった」と述べている。 ところで、写真は左は山中伸弥教授、右はジョン・ガードン博士。真ん中はクローン羊を開発したイアン博士。

幼少期から昆虫に興味を抱き、イートン校では何千匹もの毛虫を蛾にふ化させ教師に好かれることはなかった。15歳の通知表では「生物学分野への進学を考えているならば全く時間の無駄である。そんな考えは直ちに放棄すべきこと。」と記されている。イートン校の生物学クラスでは同級生250名の中で最下位。他の理系科目も最下位グループが定位置であった。父からは軍人か銀行員になるよう言われたが、イギリス軍の入隊検査に不合格となりオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジへ進学した。

オックスフォード大学入学当初は古典文学を専攻したが、入学担当者の手違いで理学専攻生枠が30名欠員となっており、生物学専攻への転籍に成功した。ガードンはこの転籍を「幸運な出会い」と後述している。大学院では昆虫学の研究でPh.D.取得を目指したが申請却下され、核移植の研究を行うことに。この核研究が後のノーベル賞受賞研究へとつながる。オックスフォード大学での指導教授はマイケル・フィシュバーグ博士で核研究に関する手ほどきを受けた。ガードンは晩年になってもフィシュバーグとの出会いに感謝している。

1960年にオックスフォード大学でPh.D取得後、ポストドクターとしてカリフォルニア工科大学で学ぶ。フィッシュバーグから新しい分野の研究を行うよう助言を受け、カリフォルニア工科大学ではボブ・エドガー教授の下でファジー研究を行った。しかしファジー研究は上手くいかず、1年後に胚研究へ戻る。カリフォルニア工科大学での研究は上手く進まなかったが、未知の研究領域を探究したことで科学者としての見識が広まったとフィシュバーグとカリフォルニア工科大学へ感謝するコメントを残している。
1963年にフィッシュバーグがジュネーブ大学へ移籍したことに伴ない空席となったオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジ動物学講座へ復帰(1963年 - 1971年)。この間、クライスト・チャーチカレッジで動物学講座助教授・准講師(准教授級)を経て、1971年にマックス・ペルツ教授の招きでケンブリッジ大学へ移籍した。1972年に新設されたMRC分子生物学研究所で研究を行い、1979年にMRC生物学部門長、1983年にケンブリッジ大学分子生物学講座教授、1989年ケンブリッジ大学ウエルカムトラスト/UKがんセンター・細胞生物学研究所を設立。

1971年に王立協会フェロー(FRS)に就任。生物学研究の功績により1995年にイングランド国王からナイトの勲位を授与され“サー (Sir)”の称号を得る。1994年から2002年までモードリン・カレッジ長を務めた。

カエルの体細胞核移植により、クローン技術の開発に成功した。この研究がES細胞やiPS細胞の開発に結びつくことになった。その先達としての業績で、2012年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。2004年には細胞生物学研究所がガードンの功績を讃えて、ガードン研究所へ改称された。

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山中研究とガードン研究:分化と未分化、カエルとヒトをつなぐ「初期化」;道上達男

何を隠そう、私もiPS研究のごくごく一端を担っている。1年に一度、研究成果を報告する会があり、山中先生をお見かけする。テレビからも十分のその人柄は伝わってくるが、会合でも大きな会場の端の方に座り、いわゆる「前に前に」という方ではない。一方で、自分のラボの関係者とは気さくに会話をしていて、そういうところにすごく親近感を感じる。

京大の山中伸弥教授とイギリスのジョン・ガードン博士が2012年のノーベル医学・生理学賞を受賞したことは、受賞直後から数多く報道され、ご存じの方も多いと思う。特に「iPS細胞」は受賞前から既に有名であり、うちの大学の理系学生なら「iPS化って何?」という問いに「遺伝子を導入して分化細胞を未分化細胞にすること」といったくらいには答えを返せると思う(期待)。これまで動物細胞では分化細胞を、多分化能を有するような未分化状態に戻すことは無理だとされてきた。それをたった4つの遺伝子で可能としたところが衝撃的であり、最初の論文発表からわずか6年での受賞という点からもこの研究の重要性が理解できよう。

一方で、ガードン先生の研究内容は必ずしも日本では広く知られていない(発生学の研究としてはもちろん有名である)。ガードン先生の受賞対象は「核移植による細胞の初期化」であるが、簡単に言うとクローン生物の作出であり、それを(分化細胞の核を使って)動物で最初に成功させた研究ということになる。世の中ではヒツジのドリーが最初のクローン動物と思っている方が多いかもしれないが、ドリーの発表は1997年、アフリカツメガエルを使った彼の初期化実験は1975年、つまりそれより20年以上前の成果である。

初期化とはゴールの細胞、あるいはそれに内包される核をスタート(に近いところ)に戻すことを意味する。これらの研究が注目される中で、改めて採り上げられる機会が増えた概念がある。C.H.Waddingtonが1950年代の著書『発生と分化の原理』で提示した「運河モデル」は細胞の分化・未分化に関するもので、細胞の分化状態を球に例え、球が山の上(未分化)から下(分化)に転がり落ち、下の谷の部分で止まるようなものであるとする。お分かりだと思うが、山中研究はボールを山の「下から上に」転がせたわけであり、このような発生学の概念を覆したとも言えるのである。

さて、人間との関わりを考えた時、これらの研究の位置づけはどうなるだろう。ガードン研究の先にはドリーがあり、更にはヒトクローン胚作製の捏造問題があった。ヒトクローンの作出には現在も成功していない。山中研究の先には再生医療応用があるが、iPS細胞の安全性の問題、再分化の方法論など、これからやらなければいけないことが山積している。一部のマスコミはiPS細胞を人工万能細胞と訳すが、少なくとも現時点で「万能」という言葉を平然と使うことには大きな抵抗がある。また、iPS細胞樹立前から広く用いられていた胚性幹細胞(ES細胞)はiPS細胞樹立のヒントにもなり、ES細胞の免疫拒絶の問題を回避することがiPS細胞の有利性にもつながり、実は同じことがクローン胚由来のES細胞によっても可能である…といったように、両者の関係は実はES細胞と併せ、やはり密接に関係していると言える。

私自身、ツメガエルの初期発生とiPSの分化誘導系の研究を両輪で行っているので、この二人の受賞はそういう意味でも感慨深い。ちなみに、昨年9月にツメガエル研究の国際学会がフランスで行われ、そこにガードン先生も出席された。実は全く同じ日程で日本ではiPS研究のシンポジウムがあり、ここには山中先生が出席されている。ノーベル賞受賞発表のわずか1ヶ月前のことであるが、なんか因縁(?)めいたものをこんなことでも感じる(私は日程がずれていたら両方出席する予定だったのだが、海外を選択してしまいました(苦笑))。

さて、これらの一見異なる研究がなぜ同時にノーベル賞を受賞したかというと、両者の共通点として先に書いた「初期化」というキーワードが浮かぶ。山中研究はごく限られた数の遺伝子を核に導入することで、分化細胞の中にある核が初期化するのに対し、ガードン研究は分化細胞の核を脱核した未受精卵に移植することで、細胞の影響を受けて移植した核が初期化される(図1)。では初期化とは何か? 人間をはじめとする動物のほとんどは、全く同じ細胞がただ集まっているのではなく、個々の役割を果たす様々な種類の細胞から成り立っている。これらは全て1つの細胞(=卵)から生み出され、1細胞がスタート、個体それぞれの細胞がゴールだと考えることができる。

ガードン先生も、学生のポスターや発表にも耳を傾け、熱心にメモをとるような方であり、山中先生に通じるところがあるような気がする。逆に、残念ながら今のマスコミ、あるいは国の風潮として、これらの事についてお祭りのように騒ぎ、有頂天になり、万能だと過信する危惧があるが、こういうことに踊らされず謙虚かつ真摯な態度で正しく事実を理解し、研究を行っていきたいものである。栄誉を得た先生方自身がそうであるように。 (生命環境科学系/生物)

受精卵からはじまった細胞が分化していく過程で、遺伝子のオン・オフが固定化されます。この固定化の選択は、細胞が分裂するときも引き継がれていきます。この固定化が緩くて細胞の運命が途中で変わってしまっては、適切な細胞、ひいてはからだをつくれなくなるため、厳重に固定化された大人の細胞の運命を巻きもどすことは不可能と考えられていました。しかし、この定説をくつがえしたのが、山中伸弥教授とともにノーベル賞を受賞したジョン・B・ガードン教授でした。
ガードン教授は、おたまじゃくしの腸にある細胞から核を抜き出して、除核した卵子に移植しました。すると、通常の受精と同じく、おたまじゃくしが生まれることを発見したのです。しかし、「おたまじゃくしのような若い幼生の細胞核だからではないか」という批判がありました。そこで、1975年、ガードン教授は大人のカエルの皮膚細胞から採取した核を2段階にわたって卵子に移植しました。その結果、世界で初めて、大人の細胞核から「クローン動物」を生み出すことに成功しました。つまり、ガードン教授は「再び受精卵となる」という能力の一端は、卵子が持っているのではないか、ということを示したのです。

しかし、こうしたクローンの作成は、カエルだからできることで、ほ乳類では難しい、という意見が根強くありました。ところが1997年にイギリスのロスリン研究所から発表されたクローン羊ドリーの誕生によって、ほ乳類でも「核移植によるクローン個体」が作れることが証明されました。ドリーは、分化してしまっていた大人の提供羊の細胞とまったく同じ遺伝情報を持って生まれてきました。ほ乳類でも、卵子のなかに「体細胞を全能性胚細胞に初期化する能力」があることが証明されたのです。ただ、依然として体細胞クローンの成功率は低く、無事にうまれても、初期化が不完全なことに起因する先天的な疾病を発症する可能性が高いことがわかっています。

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屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ: Tú Yōuyōu)

屠 呦呦 屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ: Tú Yōuyōu、1930年12月30日~ )は中国の医学者、医薬品化学者、教育者。多くの命を救った抗マラリア薬であるアルテミシニン(青蒿素)とジヒドロアルテミシニンの発見者として知られている。アルテミシニンの発見およびそれを使ったマラリア治療は、20世紀における熱帯病治療、南アジア・アフリカ・南米の熱帯開発途上国での健康増進を、飛躍的に進歩させたとみなされている。屠は2011年にラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞を、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。中国本土で教育を受け且つ研究を続けた生粋の中国人がラスカー賞及びノーベル賞を受賞したのは、屠が初めて。

経歴
屠は1930年12月30日に中国・浙江省の寧波生まれ。名前は『詩経』の一節「呦呦鹿鳴 食野之苹(ゆうゆうとして鹿の鳴くあり、野のよもぎを食らう)」に由来するとか。1951年に北京大学医学院に入学、薬学科で学び、1955年に卒業。その後、2年半のあいだ伝統的中国医学を学んだ。卒業後、北京の中国中医研究院(現在の中国中医科学院)に勤めた。改革開放の後、1980年に初めて研究員に昇進し、2001年に博士課程における相談役 (academic advisor) に昇進した。現在、彼女は科学院の首席研究員である。

2011年のラスカー賞受賞に際して、「全人類の健康のために戦い続けることは研究者の責務です … 私がしたことは、祖国が私に授けてくれた教育への恩返しとして、私がしなければならなかったことです」と語り、受賞を喜んだ。「私にとって、多くの患者の治癒を見ることがより喜ばしいことです」とも語る。それまでの何十年もの間、屠は「人々からほとんど忘れ去られた」無名の存在だった。2007年のインタビューによると、屠の生活環境は非常に貧しいものだった。彼女のオフィスは北京・東城区の古いアパートにあり、暖房も滞りがちで、電化製品といえば2つだけ、電話機と、薬草サンプル保存用の冷蔵庫しかなかった。

屠は「三無科学者」と言われていた。まず彼女は大学院に進んでいない(当時の中国に大学院制度はなかった)。また海外での教育・研究経験が無い。そして中国科学院・中国工程院という中国の国立研究機関に属していない。1979年まで中国に大学院制度は無く、その点で他国と大きな隔たりがあった。彼女は1949年の中国建国以降における中国医学界の第一世代を代表する存在とみなされている。

家族
屠の夫は寧波効実中学 (日本の高等学校に相当する元私立校)の同級生で、工場労働者をしていた。二人の娘がおり、姉はイングランドのケンブリッジ大学に勤務しており、妹は北京に住んでいる。屠がマラリア研究を始めた頃、彼女の夫は労働改造所で強制労働させられており、二人の娘はまだ幼かった。

研究背景
屠は1960年代から1970年代にかけての文化大革命の時期に研究を続けていた。この時期、科学者たちは毛沢東思想により最下層の階級(いわゆる「臭老九」)とみなされていた。この頃、中国の同盟国である北ベトナムは、南ベトナム・米国とベトナム戦争を戦っていたが、マラリアで多くの死者を出し、従来の特効薬であるクロロキンに対する抵抗性が出始めていた。マラリアは中国南部の海南、雲南、広西、広東でも主な死因の一つだった。毛沢東は523計画という新薬開発の秘密プロジェクトを1967年5月23日に立ち上げ、屠はそのプロジェクトのリーダーに指名された。

以下、主な研究内容↓
住血吸虫病: 屠はそのキャリアの初期にミゾカクシの研究をしていた。これは20世紀前半に華南で流行した住血吸虫症の薬として、中国医学で伝統的に使われている薬草である。

マラリア
当初、世界各地の科学者が24万もの合成物を検査したが、いずれも失敗だった。1969年、当時39歳だった屠は、中国の薬草を調べることを考えていた。彼女はまず中国伝統医学の古書、民間療法を調査し、中国各地のベテラン中医を訪ね歩き、「抗マラリアのための実践的処方集」と名付けたノートを作った。そのノートには640もの処方がまとめられていた。また彼女の研究チームは1971年までに、2000もの伝統的な中医の調剤法を調べ、薬草から380もの抽出物を取り出し、マウスで試験した。

そのうちの一つの合成物に効果が認められた。マラリアの特徴である「断続的な発熱」に使われるヨモギの一種クソニンジン(黄花蒿)からの抽出物が、動物体内でのマラリア原虫の活動を劇的に抑制することを突き止めた。屠が編み出した抽出法は、抽出物の薬効を高め、かつその毒性を抑えるものだった。プロジェクトの研究会で屠が発表したところによると、その調合法は1600年前に葛洪が著作した文献に『肘後備急方』(奥の手の緊急処方)という名で記されていたという。尚、アルテミシニンの有効性を最終的に証明したのは、屠とは別の中国人研究者だとの指摘もある。

当初、屠たちは文献どおりに熱湯で抽出を行なったため効果が得られなかったが、熱が植物中の有効成分を損なったのではないかと屠は考え、代わりに低温のエーテルを使って有効な合成物を抽出する手法を提案した。マウスとサルを使った動物実験で、この薬は充分な効果が認められた。その上で、屠はヒトとしての最初の被験者となった。「この研究グループのリーダーとして、私には責任がありました」と彼女は語った。薬の安全性が分かり、その後に実施したヒトの患者への臨床試験も成功した。

1972年に彼女と共同研究者たちはその純物質を取り出し、「青蒿素」と名付けた。これは欧米ではアルテミシニンと呼ばれており、特に開発途上国で多くの命を救うことになった。屠はアルテミシニンの化学構造と薬理作用も研究し、研究グループはアルテミシニンの化学構造を初めて明らかにした。1973年に屠は、アルテミシニン分子のカルボニル基を調べているさなか、偶然ジヒドロアルテミシニンの合成に至った。屠の研究は、1977年に匿名で発表された。

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ルドルフ・シェーンハイマー

シェーンハイマー ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolph Schoenheimer、1898年5月10日~1941年7月11日)は、ドイツ生まれのアメリカ合衆国の生化学者。代謝回転の詳細な調査を可能にする、同位体を用いた測定法を開発した。 ドイツのベルリンで生まれ、ベルリン大学医学部を卒業。その後、ライプツィヒ大学、フライブルク大学で生化学の教鞭を執った。

1933年にコロンビア大学に移り、生物化学部門に参加する。ハロルド・ユーリーの研究室の研究者やコンラート・ブロッホと共に、安定同位体を使用して生物が摂取するエサをマークし、生体内での代謝を追跡する方法を確立した。さらにコレステロールが動脈硬化症の危険因子であることを発見する。1941年、シアン化合物で自殺。

ルドルフ・シェーンハイマー博士は、いま盛んに「動的平衡」の考えを唱えておられる福岡伸一博士の尊敬する画期的なアイデアを最初に提唱した方のようだ。福岡伸一博士は、また「マリス博士の奇想天外な人生(キャリー・マリス著)」の翻訳もされている。

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「生命の神秘は、神が作ったものだから追及しきれない」という時代から、遺伝子がすべて解明される時代に移り、生命も機械部品のように、それぞれの役割が明確に捉えられる時代になった。「機械論メカニズム」という視点。 それ以来、世界を分けて、分けて、小さくして、私たちは生命の機能を解き明かし、進化してきた。 福岡氏が大学の研究室に入った頃、その流れはますます強まっていた。生物を個別にみるのではなく、生物全体で捉える「分子生物学」という新しい流れが生まれていた。幼少時代、昆虫の新種を見つけることを夢みていた福岡氏は、細胞という巨大な森の中で、新種の細胞を見つけることになった。

しかし、細胞の役割を機械的に解明しようとすればするほど、それだけでは解明できない壁にぶつかった。その時に目にしたのがルドルフ・シェーンハイマーのこの言葉だった。 “生命は機械ではない、生命は流れだ” 。 機械論に寄りすぎた生物学に対し、シェーンハイマーは独自のアプローチをした。人間はなぜ食べつつけるのか?機械論者はこう考える。「食べ物は、人間が動き続けるためのエネルギー。車にとってのガソリンのようなもの。だから常に食べ物を摂取し、その燃えカスを老廃物として排泄するのだ。」 「それは本当だろうか?」シェーンハイマーは、食べ物を細胞レベルで着色し、摂取した際の体中での流れを緻密に測定した。すると50%以上はエネルギーとして燃やされずに、身体の中に「細胞」として取り込まれていることを発見した。同時に、多くの外部の細胞を新たに取り入れているのに、体重は増えていないことにも注目した。 つまり、生物の身体は、身体の原子を食べ物の原子と入れ替えているのだ。自分自身を分解しながら、新たな細胞を統合している。うんちの主成分は、食べ物のカスではない。自分の身体の分解されたものなのだ。最も入れ替えが早いのは消化器系の細胞。数日の単位でどんどん入れ替わる。入れ替わるペースは違っても、骨や脳細胞ですら入れ替わっている。 “私たち人間は、絶え間ない分子の流れに身を置いているのだ。” 分子的には、一年も経つとほとんど入れ替わってしまう。だから久し振りに会う人に「お変わりありませんね」というのは大間違い。細胞レベルではほとんど入れ替わっている。それなのに、約束やアイデンティティにこだわる人間の不思議。 生きている本質は、絶え間なく更新すること。それが生き続ける唯一の法則であり、それを「DYNAMIC STATE(動的平衡)」という。 要素はたえまなく更新される。平衡はたえまなく求められる。絶え間なく入れ替わることが、エントロピーへの抵抗。だから人間は、頑丈ではなく、柔らかに緩くつくられている。 それでも捨て残りが少しずつ溜まる。それが老化。そして緩やかに更新が滞り、いつかはエントロピーに捉えられるのだ。 鴨長明の言葉を思い出すね。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」生物と言うものも結局流れに浮かぶ「うたかた」のようなものらしい。

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ガジュセック

ガジュセック ダニエル・カールトン・ガジュセック(Daniel Carleton Gajdusek、1923年9月9日 ~2008年12月12日)は、ニューヨーク州ヨンカーズ出身のアメリカ合衆国の医師で医学研究者。初めて報告されたプリオン病であるクールー病の研究で、バルチ・ブランバーグとともに、1976年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼は後年、児童性的虐待の罪で有罪判決を受け、その名声を大きく損なった。

クールー病の研究
彼は、パプアニューギニアの風土病であるクールー病(現地の言葉で「震える」の意味)の研究でノーベル賞を受賞した。この病気は、ニューギニア島南部高地に住むフォレ族の間で1950年代から60年代に広がっていた病気である。ガジュセックは、この病気の流行と、フォレ族のカニバリズムの習慣を結びつけた。そしてこの習慣がなくなると、クールー病は一世代のうちに完全になくなった(原因→結果?? 他の原因は考えられないか?)。

ニューギニア島のフォレ族の地区を担当する医師であるビンセント・ジーガスが、この病気のことを初めてガジュセックに知らせた。ガジュセックは「笑い病」としても知られるこの地特有の神経病について初めて医学的に研究を行った。彼はフォレ族とともに暮らし、彼らの言葉や文化を学びつつ、クールー病の犠牲者の解剖などを行った。ガジュセックは、この病気は死者の脳を食べるというフォレ族に伝わった儀式によって感染しているという結論を導いた(解剖して分かるのか?)。ガジュセックは、クールー病を伝染させる原因物質は特定できなかったが、後の研究によりプリオンと呼ばれる悪性のタンパク質がクールー病の原因だと推定されている。

申し訳ないが、ガジュセックの研究はノーベル生理学・医学賞に値するものかどうか疑問だ。カニバリズムの習慣が無くなった結果、クールー病は一世代のうちに完全になくなった(原因→結果)。これはあくまでも疫学的な知見であり、クールー病発生のメカニズムは全く解明されていない。ノーベル疫学賞は無いから仕方がないか。死者の脳を食べるという儀式は、過去多くの民族にもあったものと想定されている。死者との魂の共有という宗教的な感覚で欧米人が著しく嫌悪をいだくカニバリズム(飢えに勝てず人肉を食らう)とは一線を画するものだろう。クールー病を伝染させる原因物質を特定できなかった研究者にノーベル賞とは何かシックリいかないものがある。この習慣を止めさせたことが人権主義者を喜ばせただけか。

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大隅 良典

大隅 良典(おおすみ よしのり、1945年2月9日 ~):
大隅 良典 生物学者(分子細胞生物学)。理学博士(東京大学・1974年)。「オートファジーの仕組みの解明」により2016年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。

太平洋戦争末期の1945年2月9日、福岡県福岡市生まれ。4人兄弟の末子。父大隅芳雄氏は九州大学工学部教授。なお父は、佐世保工業高等専門学校の3代目の校長も務めていた。家は福岡市の外れにあり、周囲は農家の子どもたちばかりという環境で、皆と一緒に自然の中で遊ぶ。幼い頃から、兄の和雄に贈られた自然科学の本に親しむ。特に八杉龍一の『生きものの歴史』、マイケル・ファラデーの『ろうそくの科学』、三宅泰雄の『空気の発見』などに心を動かされ、科学に興味を持った。 福岡県立福岡高等学校では化学部に所属した。卒業後、東京大学理科二類に進学。当初は理学部で化学を学ぼうと考えていたが、教養学部に新設された基礎科学科に興味を持ち、そちらに進む。 恩師である今堀和友の紹介でジェラルド・モーリス・エデルマンの研究室に留学。アメリカ合衆国に渡り、ロックフェラー大学の博士研究員となる。その頃のエデルマンは、従来研究していた免疫学を離れ発生生物学に取り組み始めていたため、大隅も試験管内での受精系の確立の研究に従事。

**八杉龍(やすぎ りゅういち、1911年~1997年10月27日): 生物学史家。東京工業大学教授、早稲田大学を歴任。東京に、ロシア語学者の八杉貞利の子として生まれる。東京帝国大学理学部動物学科卒、実験動物学から生物学史研究に進み、多くの著述を行い、1951年、『動物の子どもたち』で毎日出版文化賞。1959年、『人間の歴史』で産経児童出版文化賞受賞。1962年、東京工業大学教授。1972年、早稲田大学教授。進化論、生物学史を中心に多くの啓蒙的著作、翻訳を残す一方、ルイセンコ学説の支持者でもあった。

専門は生物学であり、特に分子細胞生物学などの分野を研究。オートファジーの分子メカニズムや生理学的な機能についての研究が知られている。その研究論文は他の研究者から多数引用されており、2013年にはトムソン・ロイター引用栄誉賞を受賞。そのほか、藤原賞、日本植物学会学術賞、朝日賞などを受賞。2006年、日本学士院は、大隅の業績について「一貫してオートファジーの分子機構の解明に正面から取り組んでおり、他の追随を全く許さない研究を続けている」と高く評価し、日本の学術賞としては最も権威ある日本学士院賞を授与。2012年には、「生体の重要な素過程の細胞自食作用であるオートファジーに関してその分子メカニズムと生理的意義の解明に道を拓いたものとして高く評価される」として、ノーベル賞を補完する学術賞として知られる京都賞の基礎科学部門を受賞。細胞が自らのタンパク質を分解し、再利用する「オートファジー」(自食作用)の仕組みを解明し、悪性腫瘍の特効薬を発明した功績が認められガードナー国際賞を受賞した。2016年10月3日、「飢餓状態に陥った細胞が自らのタンパク質を食べて栄養源にする自食作用『オートファジー』の仕組みを解明した」卓越した成果が認められ、ノーベル生理学・医学賞を単独受賞する。

大隅先生の功績は、オートファジー(自食作用)の研究で世界の第一人者ということ。ということは、オートファジーとは何かを知らないと。

**卑近な例えかも知れないが、人の手が5本の指に成長するためには、指の間の組織が無くならないといけない。オートファジー(自食作用)が器官の形成には大切な役割をしているらしい。

オートファジー (Autophagy) とは、細胞が持っている、細胞内のタンパク質を分解するための仕組みの一つ。酵母からヒトにいたるまでの真核生物に見られる機構であり、細胞内での異常なタンパク質の蓄積を防いだり、過剰にタンパク質合成したときや栄養環境が悪化したときにタンパク質のリサイクルを行ったり、細胞質内に侵入した病原微生物を排除したりすることで生体の恒常性維持に関与している。このほか、個体発生の過程でのプログラム細胞死や、ハンチントン病などの疾患の発生、細胞のがん化抑制にも関与することが知られている。auto-はギリシャ語の「自分自身」を表す接頭語、phagyは「食べること」の意で、1963年にクリスチャン・ド・デューブにより定義された。

1953年から1955年にかけてクリスチャン・ド・デューブにより多様な加水分解酵素を含む細胞小器官としてリソソームが発見された。ド・デューブは、1963年に細胞が自身のタンパク質を小胞としてリソソームと融合して分解する現象をオートファジー、その小胞をオートファゴソームと命名した。

その後、ユビキチン-プロテアソーム系によるタンパク質分解機構の解明は進むが、一方、オートファジーの分子生物学的な解明についてほとんど進展がみられなかった。これは電子顕微鏡による観察がオートファゴソームを検出する唯一の手段であったことが大きな要因であった。また、オートファジー現象を否定する論文も発表されていた。

1992年に大隅良典(当時東京大学教養学部助教授)らは出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae)でのオートファジーを初めて観察した。
液胞はリソソームと似た性質を持つ小器官で多数の加水分解酵素を内在しており、出芽酵母においては細胞体積の25%以上を占める最大のコンパートメントである。また、出芽酵母は窒素源が枯渇すると減数分裂と胞子形成を起こすが、液胞の加水分解酵素を欠損した株は胞子形成が不全になる事が知られており、液胞が栄養飢餓状態で重要な生理機能を持つことが示唆されていた。

これらの事に着目した大隅らは、タンパク質分解酵素欠損株を飢餓状態にして観察した。大隅の予想は当たり、タンパク質分解酵素欠損のため分解されずに液胞に蓄積した小さな顆粒状のものがブラウン運動で激しく動き回っているのを認めた。

電子顕微鏡を用いた更なる観察により次のような事が判明した。顆粒は一重膜の構造体であることが示され、オートファジックボディーと名付けられた。飢餓に応答して隔離膜が出現し、膜の伸長と共に細胞質のタンパク質などを取り囲みオートファゴソームを形成する。オートファゴソームは直ちに液胞と融合する。融合時にオートファゴソームの外側の膜と液胞の膜が融合し、オートファゴソームの内側の膜に囲まれた部分が液胞に放出され一重膜のオートファジックボディーとなる。出芽酵母で観察された、これら一連の膜動態はド・デューブの提唱したオートファジー現象そのものであった。

オートファジー遺伝子の同定
大隅らは出芽酵母を突然変異誘起剤で処理し、ランダムに遺伝子を傷付けることでオートファジー不能変異体の作成を試みた。5000個の突然変異体の中から1つだけ変異株が見つかり、オートファジー(Autophagy)のスペルから「apg1変異体」と名付けられた。詳しい解析より、当時役割が知られていない遺伝子に傷が付いていることが分かり「APG1遺伝子」と名付けられた。大隅らはAPG1を含め14種類のオートファジー不能変異体を同定し、それらの遺伝子解析からオートファジーに必須となる14種類の遺伝子を確定し、1993年にFEBS Lettersに論文を発表した。

2003年に外国の複数のグループがAPGと同じ遺伝子を異なる名前で研究していたことが明らかとなり、オートファジー関連遺伝子の名前がATG (Autophagy)として統一された。APG1はATG1にAPG16はATG16と、大隅の付けた番号がそのまま引き継がれた。

現在(2016年)では41種類のATG遺伝子が同定されている。その内、合計18個(Atg1~Atg10,Atg12~Atg14,Atg16~Atg18,Atg29,Atg31)がオートファゴソームの形成に必須の遺伝子とされている。

大隅らが酵母でのオートファジー遺伝子の同定を行っていた当時、ヒトやマウスの全ゲノム解読DNAが行われていた。これらの成果を基にATG遺伝子のヒトやマウスのホモログが発見されていった。1998年に初の哺乳類Atg相同因子であるAtg12とAtg5が、1999年にAtg6相同因子であるBeclin1が発見された。2000年にはAtg8の哺乳類相同因子であるLC3の論文が発表された。

オートファゴソームの起源
隔離膜の起源について決定的な証拠がなく長年結論の出ない状態であった。2008年、オートファゴソームが小胞体の近くで形成されることが示され、オートファゴソームの小胞体起源説が強く示唆された。その後、ミトコンドリア起源説も提唱され論争が起きるが、2013年に発表された論文で、隔離膜が形成される小胞体上の箇所はミトコンドリアと小胞体の接触部位であることが示され、小胞体起源説とミトコンドリア起源説はどちらも正しいことが判明した。この結果は、小胞体とミトコンドリアという機能も由来も全く異なる2つの独立した細胞小器官が協働して第3の細胞小器官・オートファゴソームを作るという驚くべき結果であった。

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福沢諭吉

福沢諭吉 福澤 諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日)。中津藩士のち旗本、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾(旧:蘭学塾、現在の慶應義塾大学はじめ系列校)の創設者。商法講習所(のちの一橋大学)、神戸商業講習所(のちの神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現:東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力。
新聞『時事新報』の創刊者。ほかに東京学士会院(現:日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている。庶民の教育に熱を入れた啓蒙思想家。

**明治六大教育家
明治六大教育家は、1907年(明治40年)に「近世の教育に功績ある故教育家の代表者」として顕彰された6人の教育家を指す呼称。顕彰当時は故六大教育家または帝国六大教育家と称されたが、大正期以降に「明治六大教育家」「明治の六大教育家」という呼称が見られるように。1907年(明治40年)5月、帝国教育会、東京府教育会、東京市教育会共同主催の全国教育家大集会が東京高等工業学校(東京工業大学の前身)講堂で開催され、集会2日目に故六大教育家追頌式が執り行われた。顕彰された6人は以下の通り。
① 大木喬任(おおき たかとう)…文部卿として近代的な学制を制定
② 森有礼(もり ありのり)…明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施
③ 近藤真琴(こんどう まこと)…攻玉塾を創立、主に数学・工学・航海術の分野で活躍
④ 中村正直(なかむら まさなお)…同人社を創立、西国立志編など多くの翻訳書を発刊した
⑤ 新島襄(にいじま じょう)…同志社を創立、英語・キリスト教の分野で多くの逸材を教育
⑥ 福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)…慶應義塾を創立、法学・経済学を中心に幅広い思想家として著名

福沢諭吉 1835年1月10日、摂津国大坂堂島新地五丁目(現・大阪府大阪市福島区福島一丁目)にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の間に次男(末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。福澤氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した。 友米の孫である父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。栗園は、中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。
なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ)。

天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでも祟りが起こらない事を確かめてみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。
5歳ごろから藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。

福澤の学問的・思想的源流に当たるのは亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。したがって、諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。

安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。

高島秋帆 **高島秋帆(たかしま しゅうはん)
1798年、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれる。先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔。文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。藤沢東畡(1794-1864)によって大坂市中に開かれた漢学塾であり関西大学の源流の一つの泊園書院に学ぶ。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。また、この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌天保6年(1835年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。
その後、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であり、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が「異様之冠物」と称するような斬新なものであった。
この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。幕命により江川英龍や下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、さらにその門人へと高島流砲術は広まった。しかし、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。幕府から重用されつつ脇荷貿易によって十万石の大名に匹敵する資金力を持つ秋帆を鳥居耀蔵が妬み「密貿易をしている」という讒訴をしたためというのが通説だが、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中水野忠邦によって行われたものとする説もある。武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者名は本間弘武で、秋帆は監修)。慶応2年(1866年)、69歳(満67歳)で死去した。
NHK大河ドラマ「晴天を衝け」では、高島秋帆の役を玉木宏が演じた。渋沢栄一は吉沢亮。

**時代劇では悪役となる鳥居耀蔵だが彼の側にも言い分があるのでは??

安政2年(1855年)、諭吉はその山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。
**適塾(てきじゅく、正式名称: 適々斎塾〈てきてきさいじゅく〉、別称: 適々塾〈てきてきじゅく〉)は、緒方洪庵が江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾。1838年(天保9年)開学。緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする。幕末から明治維新にかけて福沢諭吉、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、高峰譲吉など多くの名士を輩出した。大阪大学及び大阪大学医学部の源流の一つ。

その後、諭吉が腸チフスを患うと、洪庵から「乃公(だいこう:自分のこと)はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説を初めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。ほかにも昆布や荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。

幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

**勝 海舟(かつ かいしゅう)は、日本の武士(幕臣)、政治家、華族。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。
福沢諭吉 元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大きく、マシュー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろからすでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、島津文三郎のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じて氷解塾の塾頭も務める)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、藤本元岱・神尾格・藤野貞司・前野良伯らが適塾から移ってきたほか、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。

島村鼎甫を尋ねたあと、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らとともに出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現・浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。

安政6年(1859年)、日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に諭吉は出かけることにした。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影がないことは当時の蘭学者の間では常識であった。緒方洪庵もこれからの時代は英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、当時の日本では、オランダだけが鎖国の唯一の例外の国であり、現実にはオランダ語以外の本を入手するのは困難だった。

諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだあと、蕃書調所へ入所したが「英蘭辞書」は持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていた。諭吉はようやく蕃書調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。

渡米
安政6年(1859年)の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。この派遣は、岩瀬忠震の建言で進められ、使用する船は米軍艦「ポーハタン号」、その護衛船として「咸臨丸」が決まった。
福澤諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。安政7年1月13日、幕府使節団は品川を出帆、1月19日に浦賀を出港する。 福澤諭吉は、軍艦奉行・木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船したが、この咸臨丸の航海は出港直後からひどい嵐に遭遇した。咸臨丸はこの嵐により大きな被害を受け、船の各所は大きく破損した。乗員たちの中には慣れない船旅で船酔いになる者、疲労でぐったりする者も多く出た。そんな大変な長旅を経て、安政7年2月26日(太陽暦3月17日)、幕府使節団はサンフランシスコに到着する。ここで福澤は3週間ほど過ごして、その後、修理が完了した咸臨丸に乗船してハワイを経由して、万延元年5月5日(1860年6月23日)に日本に帰国する。

(一方、その後の幕府使節団はパナマに行き、パナマ鉄道会社が用意した汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在のコロン)へ行く。アスピンウォールに着くと、米海軍の軍艦「ロアノーク号」に乗船し、5月15日にワシントンに到着する。そこで、幕府使節団はブキャナン大統領と会見し、日米修好通商条約の批准書交換などを行う。その後、フィラデルフィア、ニューヨークに行き、そこから、大西洋のポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をまわり、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、万延元年11月10日に、日本の江戸に帰国・入港する。)
今回のこの咸臨丸による航海について、福澤諭吉は、「蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したのは日本人の世界に誇るべき名誉である」と、のちに述べている。また、船上での福澤諭吉と勝海舟の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いたと言われている。

一方、福沢諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。福澤は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては福澤はさまざまに衝撃を受けた、という。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。)。

福澤諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。また、翻訳途中だった『万国政表』(統計表)は、福澤の留守中に門下生が完成させていた。

アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を福沢諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、福澤は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。

その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになった。これは外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。福澤はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いた。この頃の福澤は、かなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。また、米国公使館通訳ヒュースケンの暗殺事件や水戸浪士による英国公使館襲撃事件など、多くの外交文書の翻訳も携わり、緊迫した国際情勢を身近に感じるようになったという。 **語学の習得とは、かように困難なものなのだ。福沢の場合も、オランダ語を相当に学んだことが功を奏したようだ。英語が嫌いな学生さんで他の外国語をマスターしようと志すなら、もう一つベースになる語学をマスターできるかどうか考えた方が良い。

渡欧(幕臣時代)
1861年、福沢諭吉は中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「オーディン号」に乗って品川を出港した。
12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給。1862年1月1日、長崎を出港し、6日、香港に寄港。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義・帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けた。
1月12日、香港を出港。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、2月22日にスエズに到着。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超えて、北のカイロに向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海を渡り、マルタ島経由でフランスのマルセイユに3月5日に到着。そこから、リヨンに行って、3月9日、パリに到着。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学(滞在期間は20日ほど)。
1862年4月2日、幕府使節団はドーバー海峡海峡を越えてイギリスのロンドン。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学。万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。ロンドンの次はオランダのユトレヒトを訪問。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。その後、幕府使節団は、プロイセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国境問題を討議するためにペテルブルクを訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学。その後、幕府使節団はまたフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルのリスボンに文久2年(1862年)8月23日、到着した。
以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福沢諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。
また、福沢諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、福沢諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった(この時、福沢はその学会に自分の顔写真をとられている。)。 1862年9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、1862年12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国。ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。

品川に到着した翌日の12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった。1863年3月になると、孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。福沢の周囲では、同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、福沢諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年頃〜明治6年頃までが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと福沢はのちに回想している。)

1863年7月、薩英戦争が起こったことにより、福沢諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し(拒否したのは中津藩では無く福沢の意味?)、代わりに、以前より親交のあった仙台藩の大童信太夫を通じ新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。

元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった。慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。また明治2年(1869年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記を、福沢諭吉は玄白の曽孫の杉田廉卿、他の有志たちと一緒になってまとめて、『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。

再び渡米
慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福沢諭吉が加わることになった(他に津田仙、尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。福沢諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。

アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。この時、福澤は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。 慶応3年6月27日(1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。福澤は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、福澤は『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。

明治維新
慶応3年(1867年)12月9日、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、福澤諭吉は新政府から出仕を求められたがこれを辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった。慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念する。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意になり、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩には慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた三島億二郎が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の高島嘉右衛門の藍謝塾とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェーランド『経済学原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講義を続けた(なお漢語に由来する「経済学」の語は諭吉や神田孝平らによりpolitical economyもしくはeconomicsの訳語として定着した)。老中・稲葉正邦から千俵取りの御使番として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、イギリス流憲法論を唱えた。

妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。

新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に300円で譲り渡し、慶應義塾の新しい土地として目をつけた三田の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げの交渉を東京府と行った。明治3年には諭吉を厚く信頼していた内大臣・岩倉具視の助力を得てそれを実現。明治4年からここに慶應義塾を移転させて、「帳合之法(現在の簿記)」などの講義を始めた。また明六社に参加。当時の文部官吏には隆一や田中不二麿・森有礼ら諭吉派官吏が多かったため、1873年(明治6年)、慶應義塾と東京英語学校(かつての開成学校でのち大学予備門さらに旧制一高に再編され、現:東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることになった。

廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)のすべてを政府が握るのではなく「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝とともに、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張。

『通俗民権論』『通俗国権論』『民間経済禄』なども官民調和の主張ないし初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由主義を紹介する際には「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声があった。
**短い期間ではあったが、文部官僚への道は福沢が最も目指していたものだったかも。

明治7年(1874年)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣したほか、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会し、弥太郎が山師ではないと評価した諭吉は、三菱商会にも荘田平五郎や豊川良平といった門下を投入したほか、後藤の経営する高島炭鉱を岩崎に買い取らせた。また、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草に助力。

明治9年(1876年)2月、諭吉は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らとともに、初めて大久保利通と会談した。このときの福澤について大久保は日記の中で「種々談話有之面白く、流石有名に恥じず」と書いている。諭吉によると晩餐のあとに大久保が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べたことについて、諭吉は大久保が自分を民権論者の首魁のように誤解していると感じ(諭吉は国会開設論者であるため若干の民権論も唱えてはいたが、過激な民権論者には常に否定的であった)、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答したという。

1880年12月には参議の大隈重信邸で大隈、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞の発行を依頼された。福澤はその場での諾否を保留して数日熟考したが、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと1881年1月に井上を訪問した。しかし井上が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで福澤はその英断に歓喜し、新聞発行を引き受けた。

しかし、大隈重信が当時急進的すぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤は大隈の急進的傾向を警戒するようになる。またちょうどこの時期は「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。そのため政府関係者に大隈・福澤・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる明治十四年の政変が起こることとなった。つい3か月前に大隈、伊藤、井上と会見したばかりだった諭吉はこの事件に当惑し、伊藤と井上に宛てて違約を責める手紙を送った。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙だった。この手紙に対して、井上は返事の手紙を送ったが伊藤は返答しなかった。数回にわたって手紙を送り返信を求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上も最後の書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際を久しく絶つことになった。諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった。

諭吉はすでに公報発行の準備を整えていたが、大隈が失脚し、伊藤と井上は横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられた準備を自分の新聞発行に転用することとし、明治15年(1882年)3月から『時事新報』を発刊することになる。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡(おしひろ)めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟(いやしく)もこの精神に戻(もと)らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦(また)その相手を問わず一切敵として之を擯(しりぞ)けんのみ。」と記されている。

教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに諭吉が勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさとやめて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、島津家に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は大学南校や大学東校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。
**確かにその後も、日本では東京大大学に莫大な資金が注ぎ込まれて、学問の一極集中の弊害をきたしている感がある。
**元幕臣の勝海舟は、この時点でも資金調達を段取りできる立場にあったのだろうか?

港区を流れる古川に狸橋という橋があり、橋の南に位置する狸蕎麦という蕎麦店に諭吉はたびたび来店していたが、明治12年(1879年)に狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた。その場所に慶應義塾幼稚舎が移転し、また東側部分が土筆ケ岡養生園、のちの北里研究所、北里大学となった。

明治13年(1880年)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた諭吉の立場はますます厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。このころから平民の学生が増えたことにより、運営が徐々に黒字化するようになった。
また、私立の総合的な学校が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。
**ライバルの早稲田大学は、未だ登場していなかったのか? 学生も士族の子弟ばかりで平民が少なかった。学問をやっても金儲けには繋がらないとの考えがあったため?

明治25年(1892年)には、長與專齋の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。ちょうど帝国大学の構想が持ち上がっているころだったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。

金玉均 朝鮮改革運動支援と対清主戦論
明治15年(1882年)に訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた諭吉は、朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった。 **日本は戦時中でも、多くの軍人たちにとって軍事活動は西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためと信じられており、植民地的侵略とは考えもしていなかっただろう。侵略との考えは、敗戦後に戦勝国から押し付けられた考えだ。でも、今となって日本の周辺諸国に納得出来る説明が可能だろうか。
**金玉均
金 玉均(김옥균、1851年2月23日~1894年3月28日)。李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の大朝鮮国の思想家。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力。
大朝鮮国第26代国王、初代大韓帝国皇帝、高宗の王命「勅命」を受けて1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食する。当時の日本の一部の思想=アジア主義を金玉均が独自に東アジアに特化された「三和主義」として発案し唱えた。1882年10月、壬午事変後に締結された済物浦条約の修信使朴泳孝らに随行して再度日本を訪れ、福澤諭吉から紹介された井上馨を通じて横浜正金銀行から運動資金を借款し、朝鮮半島初の諸外国への留学生の派遣や朝鮮半島で初めての新聞である『漢城旬報』の創刊発行に協力。幾多の功績は朝鮮半島の近代化に貢献した、一部の有識者や福澤諭吉などに「朝鮮半島の近代化の父」と呼ばれる貢献を残した。
清朝から独立し、日本の明治維新を模範とした朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため国王の委任状を持って日本へ渡ったが、交渉は失敗に終わり、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた。 当時の日本政府の政治的立場から、東京や札幌、栃木県佐野や小笠原諸島などを転々とした後、李経方(李鴻章の養子、日本淸国公使官)と李鴻章に会うため、上海に渡ったが、1894年3月28日、上海は東和洋行ホテルで洪鐘宇(復讐に燃えていた朝鮮王妃閔妃の手先)によって回転式拳銃で暗殺された。 金玉均の死体は大清帝国政府により軍艦咸靖号で本国大朝鮮国に運ばれて死後に死刑宣告され凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。
金玉均氏の評価は今の韓国では?


1882年7月23日、壬午事変が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件が。外務卿井上馨は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約を締結。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに、清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して諭吉が推薦する慶應義塾出身の牛場卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えている。

朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、袁世凱率いる3,000の兵を京城へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、1884年12月4日に甲申事変を起こすも、事大党の要請に応えた清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で磯林真三大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も中国人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた。

この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった。

**甲申事変
甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。

このときの開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿・井上馨との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清揃っての朝鮮からの撤兵を約した天津条約が結ばれたことで一応の終息をみた。しかし、主戦論者の諭吉はこの結果を清有利とみなして不満を抱いたという。 **確かに朝鮮半島で独立党による政権が樹立できなかったことは、日本政府の失敗であった。朝鮮半島に独立した親日政権さえ造れれば、後の日韓併合もおこり得なかったはずだ。

当時の諭吉の真意は、息子の福澤一太郎宛ての書簡(1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川へ逃げたる訳なり。日支兵員之多寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦之分れハ、今後半月か一月中ニ公然たる事ト存候。」に窺える。

日清戦争の支援
明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まる。諭吉も金玉均の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置。同年4月から5月にかけて東学党の乱鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると、日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。

国会開設以来、政府と帝国議会は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。諭吉は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた。

また戦費の募金運動(諭吉はこれを遽金と名付けた)を積極的に行って、自身で1万円という大金を募金するとともに、三井財閥の三井八郎右衛門、三菱財閥の岩崎久弥、渋沢財閥の渋沢栄一らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5,000万円の公債募集を決定したためその際に解散した)。

この年は諭吉の還暦であったが、還暦祝いは戦勝後まで延期とし、1895年12月12日に改めて還暦祝いを行った。この日、諭吉は慶應義塾生徒への演説で「明治維新以来の日本の改新進歩と日清戦争の勝利によって日本の国権が大きく上昇した」と論じ、「感極まりて泣くの外なし」「長生きは可きものなり」と述べた。
**日清戦争の勝利は、当時の日本人全体の士気を大いに鼓舞したようだ。

福澤諭吉・小幡篤次郎共著『学問のすゝめ』(初版、1872年)
諭吉は日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。このころまでには慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた。

晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したりしたことなどが挙げられる。また明治30年(1897年)8月6日に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂う手紙を残している。諭吉は明治31年(1898年)9月26日、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復した。その後、慶應義塾の『修身要領』を編纂。
しかし1901年1月25日、脳溢血が再発したため2月3日に東京で死去。享年68(満66歳没)。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している。8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わった。

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緒方洪庵

緒方洪庵 緒方 洪庵(おがた こうあん、1810~1863年)は、江戸時代後期の医師、蘭学者。大坂に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだ。洪庵の功績として最も有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。

日本最初の病理学書『病学通論』を著した。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては、西洋の医書を参考に『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を5、6日で書き上げて出版し、医師らに100冊を無料配布するなど、日本医学の近代化に努めた。

人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。 塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。それは極めて厳格で、子の緒方平三と緒方四郎が、預けられた加賀大聖寺藩の渡辺卯三郎の塾を抜け出し、越前大野藩に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである(後日、復帰させた)。

語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している。

原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。
福澤諭吉が、適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。堂島新地5丁目(現・大阪市福島区福島1丁目)にあった中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。 診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。特に和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな」という悲痛な作品を残している。

江戸での洪庵は将軍徳川家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど、富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。さらには蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。以上のことからくるストレスが健康を蝕んでいった。洪庵の急死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して炎天下に長時間いたことであると述べている。
人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり、顔が広かった。大坂城在番役を勤めていた旗本久貝正典は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。また、ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあった。 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し、英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
緒方八重 洪庵の人柄や適塾での教育は優れていたものの、洪庵を敬慕する福沢の『福翁自伝』で伝えられ、さらに司馬遼太郎の歴史小説で知られるようになったことで、理想化されている面があるとの指摘もある(**住友史料館主席研究員海原亮の見解)。
適塾を前身とする大阪大学では、学務情報システムに"KOAN(コーアン=洪庵)"の名が用いられている。また、卒業証書には洪庵直筆の書が用いられている。

妻の八重は、夫との間に7男6女(うち4人は早世)を儲け、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。時に洪庵が叱責すると、それをなだめつつ門弟を教え諭すことも多かったと言われる。福沢は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘を書いている。洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。八重の葬儀には、門下生から明治政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。

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Nobel

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(スウェーデン語: Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日~1896年12月10日)は、スウェーデンの化学者、発明家、実業家。 ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。
遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられた。ディナミット・ノーベルやアクゾノーベルのように現代の企業名にも名を残している(どちらもノーベルが創業した会社の後継)

Alfred Bernhard Nobel スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家のイマヌエル・ノーベル(1801–1872) とカロリナ・アンドリエッテ・ノーベル (1805–1889) の4男として生まれた。両親は1827年に結婚し、8人の子をもうけた。一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。父は機雷の発明で会社は一時儲かるもののやがて破産。
**注)機雷(きらい)とは、水中に設置されて艦船が接近、または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する水中兵器。機雷は機械水雷の略。機雷に触れることを触雷(しょくらい)、機雷を設置した海域を機雷原(きらいげん)、機雷を撤去することを掃海という。機雷ではどのような爆薬が使われたか。また爆発までの防水の工夫は?

事業に失敗した父は1837年、単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた。1842年、父は妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった。学校に通っていたのはストックホルムでの1841年から1842年にかけての18カ月間だけだった。

化学の家庭教師として雇われたのは化学者ニコライ・ジーニン。その後化学をさらに学ぶため、1850年にパリに行き、テオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講している。翌年にはアメリカに渡って4年間化学を学んだ。そこで短期間だが発明家ジョン・エリクソンに師事。その後、父の事業を手伝う。最初の特許を出願したのは1857年のことで、ガスメーターについての特許。父も子もかなりの発明家。

クリミア戦争 (1853–1856) では兵器生産で大儲けをするが、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため事業はたちまち逼迫し、父は1859年に再び破産。父は工場を次男のルドヴィッグ・ノーベル(1831–1888) に任せ、ノーベルと両親はスウェーデンに帰国した。なお、ルドヴィッグは受け継いだ工場を再開して事業を発展させた。ノーベルは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。ノーベル本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことである(テオフィル=ジュール・ペルーズの下で共に学んだアスカニオ・ソブレロが発見)。この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。

**注) ニトログリセリン
ニトログリセリン ニトログリセリン(nitroglycerin)とは、有機化合物で、爆薬の一種であり、狭心症治療薬としても用いられる。グリセリン分子の3つのヒドロキシ基を、硝酸と反応させてエステル化させたものだが、これ自身は狭義のニトロ化合物ではなく、硝酸エステルである。また、ペンスリットやニトロセルロースなどの中でも「ニトロ」と言われたら一般的にはニトログリセリン、またはこれを含有する狭心症剤を指す。甘苦味がする無色油状液体。水にはほとんど溶けず、有機溶剤に溶ける。 しかし、わずかな振動で爆発することもあるため、取り扱いはきわめて難しい。一般的に原液のまま取り扱われるようなことはなく、正しく取り扱っていれば爆発するようなことは起きない。昔は取り扱い方法が確立していなかったため、さまざまな爆発事故が発生していた。実際の爆発事故は製造上の欠陥か取り扱い上の問題がほとんど。日本において原液のまま工場から出荷されることはない。綿などに染みこませて着火すると爆発せずに激しく燃焼するが、高温の物体上に滴下したり金槌で叩くなど強い衝撃を加えると爆発する。


**注) 珪藻土
珪藻土(けいそうど、diatomite、diatomaceous earth)は、藻類の一種である珪藻の殻の化石よりなる堆積物(堆積岩)。ダイアトマイトともいう。珪藻の殻は二酸化ケイ素(SiO2)でできており、珪藻土もこれを主成分とする。珪藻が海や湖沼などで大量に増殖し死滅すると、その死骸は水底に沈殿する。死骸の中の有機物の部分は徐々に分解されていき、最終的には二酸化ケイ素を主成分とする殻のみが残る。このようにしてできた珪藻の化石からなる岩石が珪藻土である。多くの場合白亜紀以降の地層から産出される。
固化した珪藻土は、殻を壊さない程度に粉砕して用いる。珪藻土の粒径、すなわち珪藻の殻の大きさは大体100µmから1mmの間。粒子の形態はもとになった珪藻の種類に応じて、円盤状のもの、紡錘状のものとさまざまである。珪藻土の色は白色、淡黄色、灰緑色と産地によってさまざまであるが、これは殻の色ではなく、珪藻土に混入している粘土粒子など莢雑物の色である。また、焼成すると赤く変色するものもある。
珪藻の殻には小孔が多数開いている為、珪藻土は体積あたりの重さが非常に小さい。珪藻土の最大の用途は濾過助剤である。吸着能力は低く、溶液中に溶解している成分はそのまま通し、不溶物だけを捕捉する性質がある。そのため珪藻土単独で濾過する事は稀で、フィルターに微細粉末が目詰まりしてしまうのを防ぐためにフィルターの手前において微細粉末を捕捉するのに用いられる。
また、珪藻土は水分や油分を大量に保持することができる。このため乾燥土壌を改良する土壌改良材や、流出した油を捕集する目的で使用される。アルフレッド・ノーベルはニトログリセリンを珪藻土に吸収させることで安定性を高めたダイナマイトを発明したが、ノーベルはその後はるかに爆発力の強いブラスチングゼラチンスタイルのダイナマイトを開発したため、珪藻土を使ったダイナマイトは科学史のトピック的存在にとどまった。触媒やクロマトグラフィーの固定相の担体としても使用される。
その他、耐火性と断熱性に優れているため建材や保温材として、電気を通さないので絶縁体として、また適度な硬さから研磨剤としても使用されている。建材としては、昔からその高い保温性と程よい吸湿性を生かして壁土に使われていた。近年、自然素材への関心が高まるとともに、壁土への利用用途が見直され脚光をあびている。漆喰に類似した外観に仕上げることができ、プロでなくとも施工しやすいため、DIY向けの建材としても販売されている。珪藻土そのものには接着能力はないので、壁土としては石灰やアクリル系接着剤を混ぜて使用される。


1864年9月3日、爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡。ノーベル本人も怪我を負う。この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマヌエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。珪藻土に液体のニトログリセリンを含ませるのは彼の発明のサビの部分のようだ。1866年、不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明。雷管を使うことで自由に爆発をコントロールできるように。彼の莫大な利益を狙うシャフナーと名乗る軍人が特許権を奪おうと裁判を起こしたがこれに勝訴し、1867年アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得する。しかしシャフナーによる執拗な追求はその後も続き、アメリカ連邦議会にニトロの使用で事故が起きた場合、責任はノーベルにあるとする法案まで用意されたため、軍事における使用権をシャフナーに譲渡。
**注) 雷管(Blasting cap)は、わずかな熱や衝撃でも発火する火薬を筒に込めた火工品。微量の起爆薬(爆粉、ばくふん)と、それによって点火される添装薬(導爆薬)で構成され、火薬・爆薬などに、意図通りのタイミングで確実に点火するため、主に軍事用途のほか発破など工業用途で用いられる。 アンホ爆薬などは雷管だけでは起爆できず、伝爆薬(プライマーブースタ)を必要とする。 なお、信管は「雷管」に「起爆時期を感知する装置」と「安全装置」を組み込み、一体化させたもの。1865年、アルフレッド・ノーベルによりダイナマイト点火用として、併せて発明された。

1871年、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をダイナマイトと名づけ生産を開始。50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになり、一躍世界の富豪の仲間入りをする。1875年、ダイナマイトより安全で強力なゼリグナイトを発明。1887年にはコルダイトの元になったバリスタイトの特許を取得している。

**無煙火薬(バリスタイトballistite)
ニトログリセリン単独では危険すぎるので,ノーベルはそれを安全にして使えるケイ藻土ダイナマイト,ゼラチンダイナマイトを発明して,ニトログリセリンの爆薬原料としての地位を確立した。さらに1886年にはニトログリセリンを多量のニトロセルロースと混ぜてゼラチン状とし,衝撃に対して鈍感にしたダブルベース無煙火薬(バリスタイトballistite)を発明している。無煙火薬は土木工事ではさほどニーズがあったものでなく、連続攻撃の必要な専ら戦争用の兵器開発と言われる。

1878年、兄ルドヴィッグとロベルトと共に現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社を設立。この会社は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。
1884年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。また同年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与される。さらに1893年にはウプサラ大学から名誉学位を授与された。
1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。ノーベルは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし1895年最終的な敗訴が確定する。更に仏政府は相手方の方を正式に購入。1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけとして、長年居住していたパリからイタリアのサンレーモに移住。

1895年、持病の心臓病が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く。病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。ニトロは心臓病などの薬にも使われている。1896年12月7日、サンレーモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わなかった。現在、ノーベルはストックホルムに埋葬されている。

ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともあるという。生涯独身であり、子供はいなかった。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがあるという。1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタには既にアートゥル・フォン・ズットナーという婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。

発明
ニトログリセリンの衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1867年ダイナマイトの特許を取得した。同年イングランドのサリーにある採石場で初の公開爆発実験を行っている。また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel's Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。

その後ノーベルはコロジオンなどに似た様々なニトロセルロース化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。それをゼリグナイトと名付け、1876年に特許を取得した。それにさらに硝酸カリウムや他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている無煙火薬のさきがけともいうべきバリスタイトも発明している。

死の約一年前に、ノーベルは次のような遺言書を書いていたそうです。
 私の遺産を次のように処分してほしい。遺言執行人は、確かな有価証券に遺産を投資し、それで基金をつくる。これによって生じた利子を5等分し、毎年その前年度に人類に最もつくした人々に賞金を与える。
  物理学の方面で最も重要な発明や発見をした者。
  最も重要な化学上の発見や改良をした者。
  生理学または医学で最も重要な発見をした者。
  理想主義的文学についていちじるしい寄与をした者。
  国家間の友好関係を促進し、平和会議の設立や普及につくし、   軍備の廃止や縮小に最も大きな努力をした者。(後略)

『世界の科学者100人―未知の扉を開いた先駆者たち』より
 この遺書によって処分された基金は約3300万クローナ。
 授賞式が行われる今日12月10日は彼の命日。享年63歳でした。

人物列伝
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ムハマド・ユヌス

ムハマド・ユヌス(ベンガル語: মুহাম্মদ ইউনুস Muhammad Yunus、1940年6月28日~ )は、バングラデシュの経済学者、実業家。同国にあるグラミン銀行の創設者、またそこを起源とするマイクロクレジットの創始者として知られる。2006年のノーベル平和賞受賞者。学位は経済学博士(ヴァンダービルト大学)。また、国連のSDG Advocatesの一人。

ムハマド・ユヌス 英国統治下にあったバングラデシュの南部チッタゴンの宝石店の二男として生まれる。チッタゴンカレッジを経て、ダッカ大学で修士号を取得し卒業。フルブライト奨学金を得て渡米し、1969年にヴァンダービルト大学で経済学の博士号を取得。テネシー州で同郷の友人とともに「バングラデシュ市民委員会」を組織、祖国の独立を支援した。 1969年から1972年までミドルテネシー州立大学で経済学の助教授を務める。その後、バングラデシュ独立の翌年の1972年に帰国し、チッタゴン大学経済学部長に就任した。1976年に貧困救済プロジェクトをジョブラ村にて開始し、銀行に融資するように働きかけ自ら村民の保証人にまでなったが、銀行の融資は受けられず、1983年に同プロジェクトはバングラデシュ政府の法律により独立銀行(政府認可の特殊銀行)となる。無担保で少額の資金を貸し出すマイクロ・クレジットでは、8万4000村で558万人ほどの貧しい女性を主対象に貸し出している。このマイクロ・クレジットは貧困対策の新方策として国際的に注目され、主に第三世界へ広がっている。 グラミン銀行は多分野で事業を展開し、「グラミン・ファミリー」と呼ばれるグループへと成長をとげた。2006年のノーベル平和賞が授与された。2007年2月、新党「市民の力」を発足。2011年3月2日、バングラデシュ中央銀行は商業銀行総裁の60歳定年を定めた法律を違反して、ユヌスが総裁を続けているとして、グラミン銀行総裁を解任したと発表したが、グラミン銀行側は役員会から永久総裁として認められていると反論し、撤回を求めて提訴したが、バングラディシュ最高裁に棄却され解任が決定になったが、原因は二大政党制に批判的なユヌスが政党を立ち上げようとしたことで、首相と対立したためとも言われている
。 2013年、ユヌスは日本人グラフィックデザイナー稲吉紘実のデザインによる「ユヌス・ソーシャル・ビジネス マーク」を発表した。
ユヌスは、現在の資本主義が、人間について利益の最大化のみを目指す一次元的な存在であると見なしているとする。これに対して人間は多元的な存在であり、ビジネスは利益の最大化のみを目的とするわけではないとユヌスは主張する。 **明治の日本の実業家たちも同じような考えだったように。社会の発展は己の利益だけに帰するものではない。NHK大河ドラマ(第60作;2021年2月14日~12月26日)でやっていた、『青天を衝け』の「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一翁と良く似た考えの持ち主のようだ。資本主義ではなくて合本主義だとか。

ソーシャル・ビジネス:ユヌス氏は、利益の最大化を目指すビジネスとは異なるビジネスモデルとして、「ソーシャル・ビジネス」を提唱した。ソーシャル・ビジネスとは、特定の社会的目標を追求するために行なわれ、その目標を達成する間に総費用の回収を目指すと定義している。また、ユヌスは2種類のソーシャル・ビジネスの可能性をあげている。一つ目は社会的利益を追求する企業であり、二つ目は貧しい人々により所有され、最大限の利益を追求して彼らの貧困を軽減するビジネスということらしい。

ユヌスは、グラミン・ファミリーの一つであるグラミン・コミュニケーションズにて会長職を努めている。このグラミン・コミュニケーションズで、労働法に違反した事が発覚している。ユヌスは、他の会社幹部3人とともにバングラデシュの労働裁判所に公式に謝罪し、罰金として7500タカを支払った。これが不祥事とされている。
【グラミン銀行】
グラミン銀行(ベンガル語: গ্রামীণ ব্যাংক、英語: Grameen Bank)とは、バングラデシュにある銀行でマイクロファイナンス機関。「グラミン」という言葉は「村(グラム)」という単語に由来。本部はバングラデシュの首都ダッカ。ムハマド・ユヌスが1983年に創設した。マイクロクレジットと呼ばれる貧困層を対象にした比較的低金利の無担保融資を主に農村部で行っている。銀行を主体として、インフラ・通信・エネルギーなど、多分野で「グラミン・ファミリー」と呼ばれるソーシャル・ビジネスを展開している。2006年ムハマド・ユヌスと共にノーベル平和賞を受賞。
グラミン銀行の起源はチッタゴン大学教授であったムハマド・ユヌスが銀行サービスの提供を農村の貧困者に拡大し、融資システムを構築するための可能性について調査プロジェクトを立ち上げたことにさかのぼることができる。銀行の創設者であるムハマド・ユヌスは、アメリカのヴァンタービルト大学で経済博士号を取得した。1974年、バングラデシュで飢饉があった際、ユヌスは42の家族に総額27ドルという小額の融資をした。それは高金利のローンによる圧迫で、売り物のための小額の支出にも金貸しに頼らざるを得ないという負担を無くすため。ユヌスは、そのような(金利は年率20%近く、複利ではなく単利である。利子の総額は元本を上回ることがない。)小額融資を多くの人が利用できるようにすることで、バングラデシュの農村にはびこる貧困に対して良い影響を及ぼせると考えた。

ユヌスとチッタゴンにあるバングラデシュ大学の地方経済プロジェクト、貧困者向けの金融サービス拡大理論の実証調査として銀行は始められた。1976年に、ジョブラ村を代表とする大学周辺の村が、グラミン銀行からサービスを受ける最初の地域となった。銀行は成功し、プロジェクトはバングラデシュ中央銀行の支援もあって首都ダッカの北方にあるタンガイル県でも1979年に始められた。銀行の成功は続き、バングラデシュの各地に広がるのにそれほど時間を必要としなかった。1983年10月2日のバングラデシュの政令によって、プロジェクトは独立銀行になった。1998年のバングラデシュ洪水で同行の返済率は打撃を被ったが、システムの改良によってその後数年のうちに回復した。銀行は今日全域に拡大し続け、農村の貧困者に小規模ローンを提供している。その成功を受け、40カ国以上で類似のプロジェクトがなされるようになり、世界銀行がグラミンタイプの金融計画を主導するようになった。

銀行は複数のドナーから資金提供を受けていたが、主要な提供者は時間とともに変化した。初期には、非常に低い利率でドナー機関から資本の大半を提供されていた。1990年代半ばには、バングラデシュ中央銀行から資本の大部分を得るようになった。最近は、資金調達のために債券を発行している。債券はバングラデシュ政府より保証、援助されているが、なお公定歩合を上回った利率で売られている。

グラミン銀行の特徴はそれが銀行の貧しい借り手によって所有されることである。そのほとんどは女性である。借り手が銀行の総資産の90%を所有し、残りの10%はバングラデシュ政府が所有している。2009年5月現在、銀行の借り手は787万を越え、2003年の312万人から2倍以上となった。その内97%が女性である。銀行の成長は、カバーする村の数でも確認できる。2009年5月現在、銀行の支店がある村は2003年の43,681村から、84,388村まで増え、2,556の支店に23,445人以上の従業員がいる。銀行は総額約4515億8000万タカ(約80億7000万ドル)を貸付、約4016億タカ(約71億6000万ドル)は返済されている。銀行は、1998年の95%の返済率から上昇し、97.86%になったと主張している。

2011年3月2日、バングラデシュ中央銀行は、銀行創設者であるムハマド・ユヌス総裁を解任したことを発表したが、権限がない為に、2016年現在も彼は総裁である(辞任もしていない)。
2018年には、日本の芸能事務所の吉本興業とグラミン銀行の総裁で社会起業家のムハマド・ユヌスとの共同出資で脱貧困と格差社会を減らす為のマイクロクレジットの会社(金融機関)のユヌス・よしもとソーシャルアクション株式会社(yySA)が創立をした。2018年3月28日にはムハマド・ユヌス総裁が来日して吉本興業とのマイクロクレジットの事業を行うように協力をした。他にムハマド・ユヌス総裁に似たキャラクター・ユヌスくんが登場している。

貧困者は金が無い。金を借りるにも担保も無い。大勢の貧困者同士が互いに協力し合い、互いにリスクを分担すれば、小さくともそれなりの事業を起こせる。ただ事業が成功してもそれは組織に還元してくれないと事業は成立しない。でも、発展途上国には絶対に必要なシステムかも知れない。
吉本興業も初めは売れない芸人たちを集めて立ち上げた面がある。売れた芸人は出世払いで当然組織に貢がないといけない。事務所が多額のピンハネをすると問題視されているが、その分助けられている芸人達(組織にぶら下がっているともいえるが)のことも考えているのだろうか。吉本興業も初めは河原乞食とでもいえる貧しい芸人たちの生活を助けるために立ち上げた組織の面もあったようだ。グラミン銀行創立と良く似た一面があるのかもしれない。ただ組織が大きくなると新たな矛盾と向き合っていかないといけないようだ。

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中村哲

中村哲 中村 哲(なかむら てつ、1946年~ 2019年12月4日)は、日本の医師(脳神経内科)。アフガニスタンではカカ・ムラド(کاکا مراد、「ナカムラのおじさん」)とも呼ばれる。 ペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・サービス総院長、九州大学高等研究院特別主幹教授などを歴任。

ペシャワール会の現地代表やピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長として、パキスタンやアフガニスタンで医療活動に従事。アフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与されており、さらに同国の名誉市民権が贈られている。日本からも旭日双光章などが授与。アフガニスタンのナンガルハル州ジャラーラーバードにて、武装勢力に銃撃され死去。死去に伴い、旭日小綬章や内閣総理大臣感謝状などが授与された。

福岡県福岡市御笠町(現在の博多区堅粕)生まれ。福岡県立福岡高等学校を経て、1973年に九州大学医学部を卒業。国内病院勤務ののち、1984年、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から派遣されてパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事。登山と昆虫採集が趣味で、1978年には7000m峰ティリチミール登山隊に帯同医師として参加。
パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動してきたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難(何故??)になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続ける意思を示している。

中村哲 1996年に医療功労賞を受賞し、03年にマグサイサイ賞を受賞した。2004年には皇居に招かれ、当時天皇であった明仁、皇后の美智子、皇女・紀宮清子内親王(当時)へアフガニスタンの現況報告を行った。同年、第14回イーハトーブ賞受賞。
2008年には参議院外交防衛委員会で、参考人としてアフガニスタン情勢を語っている。また、「天皇陛下御在位20年記念式典」にも、天皇・皇后が関心を持つ分野に縁のある代表者の一人として紹介され出席している。

2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして、福岡県朝倉市の山田堰をモデルにして建設していた、クナール川からガンベリー砂漠まで総延長25kmを超える用水路が完成し、約10万人の農民が暮らしていける基盤を作る。

2016年、現地の住民が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。住民の要望によりモスク(イスラム教の礼拝堂)やマドラサ(イスラム教の教育施設)を建設。旭日双光章受章。2019年10月7日、アフガニスタンでの長年の活動が認められ、同国の名誉市民権を授与された。

2019年12月4日、アフガニスタンの東部ナンガルハル州の州都ジャラーラーバードにおいて、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。負傷後、現地の病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為にアメリカ軍のバグラム空軍基地へ搬送される途中で死亡。なお、中村と共に車に同乗していた5名(運転手や警備員など)もこの銃撃により死亡。中村が襲撃されたこの事件に対してターリバーンは報道官が声明を発表し、組織の関与を否定。一方でアフガニスタン大統領のアシュラフ・ガニーは「テロ事件である」とする声明を発した。
12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、遺体は空路で日本に搬送された。追悼式典では大統領のアシュラフ・ガニー自らが棺を担いだ。
実行犯の何人かが捕まったらしいが、誘拐目的で誤って射殺されたようだ。ターリバーンの人達にも尊敬を受けていたようだ。
***
中村さんは、本来は医者であるのに、水の問題がより重要と懸命に努力されたようだ。水の問題は本来農業土木技術者の役割だろう。農水省も含め、日本は新生アフガニスタンの人々の為に中村医師の意志を引き継いでいってもらたい。

中村哲さんは、アフガニスタンで73歳の時に亡くなった。
彼は、もともと医師だったのに、農業土木を学び直して。
でも、後悔の無い、人生だったようだ。すべて自分の意思で行動した。

○○さんに「あなたは何処で何を学ばれたか」の問いに、私は
農学部で農業土木を専攻と答えたら、農業土木とは何をやる所か?
→「そう、世界中で、中村哲さんがやったようなことをやるのが本来の仕事だ。」
当時、同期の卒業生達は、農水省で役人になるか、土建業のゼネコンやコンサル、商社に就職。でも誰も中村医師のような活動をしなかった。
農業は衰退産業だった。コメ余りの中、農水省は海面を埋め立てて、
農地を増やす干拓事業を粛々と継続していた。
No one goes, so we will go. No one does it, so we will.耳の痛い言葉である。

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国友 一貫斎

国友 一貫斎 国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ)) 1778年~1840年12月26日))は鉄砲鍛冶師、発明家。幼名は藤一。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った。

**大した発明家なんだね。今まで知らなかった。因みに発明家・平賀 源内(ひらが げんない)は1728年~1780年だから、彼よりも後輩か。

近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継ぐ。
文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の敗訴となった。 文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。実戦で使われたことがあるのだろうか?

反射望遠鏡 文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、天保3年(1832年)頃から反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作。口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡は当時の日本で作られていたものよりも優れた性能であり、鏡の精度は2000年代に市販されている望遠鏡に匹敵するレベルで100年以上が経過した現代でも劣化が少ないという。NHKで月を見た画像が写されたが月の表面の凹凸もくっきり。この望遠鏡は後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。

その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。この他に人が翼を羽ばたかせて飛ぶ飛行機「阿鼻機流」を作ろうとしていた事もある。また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835年)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。

反射望遠鏡 江戸時代の科学技術を日本人自身が馬鹿にしてはいけない。結局西洋に後れを取ったのは軍事技術と産業化の面だけだったのか。明治維新後、他のアジア諸国に先駆けて、西洋の科学技術に追いついたのは科学教育の基礎が江戸時代には出来ていたかららしい。

空気銃 国友家は代々の鉄砲職人だけど彼はずば抜けた才能だね。下記の逸話も面白い。
国友一貫斎が、時の老中・酒井忠進ただゆきの前で行った御前射撃で、2発発射。標的には、2発とも命中したのに、一つの穴しかなかった。
老中、酒井忠進、標的の板、しげしげと見て、『誠に同穴だ、国友は鉄砲の名人だ』 と言った。一貫斎は、『まぐれ当りでございます』 と、謙遜した。
・・・ しかし、彼は ・・・
鉄砲鍛冶である前に、使用者の身に立って作らなければならないと考え、種子島流、荻野流、南蛮流、星山流、米山流、自得流等砲術の免許皆伝を受けている鉄砲の名手だった。・・・ 吾われ も 斯かくく ありたし! ・・・

 

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新島襄

新島襄 新島 襄(にいじま じょう、1843年2月~ 1890年1月)は、キリスト教の教育者。同志社大学の設立者。江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立。

幼少時代
天保14年(1843年)、江戸(現・東京都区部)の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つように。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ。

1864年、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。

*当時、日本の教会、特に北海道ではロシア正教会が多かった。ロシア正教会は欧米のプロテスタント教会とは異なり、地元の文化を尊重し、現地化を模索していたらしい。日本の多くのキリスト教信者たちはかなり多くの者がロシア正教会の感化を受けてキリスト教徒になったようだ。

6月14日(7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国する。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った。 慶応元年(1865年)7月、ボストン着。

ワイルド・ローヴァー号の船主、アルフィーアス・ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができた。慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業。 明治3年(1870年)にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アーモスト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得であった。新島は大学で自然科学系地質学(鉱物学)を専攻していた。アーモスト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。

明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねる。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査。

明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」(Corresponding member of the Japan)。同年10月9日、バーモント州ラットランドのグレース教会で開かれたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴えて5,000ドルの寄付の規約を得た。
10月31日、新島はコロラド号でサンフランシスコを出港し、太平洋を横断して翌月26日に横浜に帰着し、新島よりも一足先に日本で活動していたアメリカン・ボード宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの出迎えを受ける。

その後故郷の上州安中に向かい、三週間滞在した。滞在中に、藩校・造士館と竜昌寺を会場にキリスト教を講演する。その集会で30人の求道者がでて、日曜ごとに聖書研究会が開かれた。明治11年(1878年)に30人が新島より洗礼を受け、安中教会(現、日本基督教団安中教会)を設立した。

同志社設立
1883年の第三回全国基督信徒大親睦会の幹部、新島は前から2列目の右から4人目、左隣は内村鑑三。そうだ、内村鑑三も結構有名だね。明治8年(1875年)1月、新島は大阪で木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな候補地と定めた。

明治8年(1875年)11月29日、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けて校舎を確保、府知事・槇村正直、府顧問・山本覚馬の賛同を得て旧薩摩屋敷5800坪を譲り受け官許同志社英学校を開校し初代社長に就任する。開校時の教員は新島とジェローム・デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。

また、この時の縁で翌明治9年(1876年)1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚する。同年10月20日、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰、不破惟次郎ら熊本バンドと呼ばれる青年達が同志社英学校に入学。
明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。女学校スタイルはメアリー・リヨンが設立したマウント・ホリヨーク大学を模している。

明治13年(1880年)から大学設立の準備を始める。同年2月17日に快風丸での旧知を訪ねるため、かつての備中松山藩であった岡山県高梁町(現在の高梁市)へと赴き、滞在中に中川横太郎の勧めで伝道と文化改革を目的とした演説を行う。この時の演説は、のちに備中松山の地で高梁基督教会堂の設立発起員の一人となり女子教育に注力する事になる、同地の婦人部会の代表であった福西志計子に深い影響を与えた。
明治19年(1886年)9月には京都看病婦学校(同志社病院)がキリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。この看病婦学校・病院にて看護指導に当たる事となったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズである。

明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。特に土倉は新島のよき理解者、協力者であり、新島も土倉を頼りとした。板垣退助と新島を取り結んだのも自由民権運動のパトロンでもあった土倉であろうと推測される。
また明治21年(1888年)11月、徳富蘇峰は襄の求めに応じ「同志社大学設立の旨意」を添削し、自身の経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、同志社大学設立に尽力した。
晩年
明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養すが、回復せず明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」。享年48。1月27日13時より同志社前のチャペルで葬儀が営まれ、京都府知事・北垣国道をはじめ約4,000人が参列した。遺体は京都東山若王子山頂に葬られた。墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。
**財界人大物たちの協力を見ると、同志社大学設立の目的はキリスト教の普及ではなさそうだ。慶応大学を設立した福沢諭吉と同じようだ。

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ニコライ (日本大主教)

ニコライ (日本大主教) ニコライ(Николай (Касаткин), 1836年8月1日(ロシア暦) - 1912年2月16日(グレゴリオ暦))は日本に正教を伝道した大主教。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。
「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していたとされる。

ニコライは修道名で、本名はイヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(ロシア語: Иван Дмитриевич Касаткин)。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。

戦後の日本では、キリスト教と言えばカトリックだのプロテスタントだのと言っているが、ともに傍系。正真正銘の本家本元は正教会だろう。なんせローマ帝国の西半分が滅亡後も東ローマ帝国はずっと生き残って来たのだから。戦前の日本の有名なキリスト教信者達にも多大な影響を与えていたようだ。
日本贔屓でかつ寛大な精神の持ち主だったようで、日本人や日本文化にも関心が大。多くの日本人との交遊も深めたらしい。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。

初期
スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザの輔祭、ドミートリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は5歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァシーリー・ゴロヴニーンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。

在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。ミラ・リキヤの奇蹟者聖ニコライは東方教会において重視される聖人であり、好んで聖名(洗礼名)・修道名に用いられるが、ニコライも奇蹟者聖ニコライを守護聖人として「ニコライ」との修道名をつけられている。

函館時代
翌1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、元大館藩軍医の木村謙斉から日本史研究、東洋の宗教、美術などを7年間学んだ。また、仏教については学僧について学んだ。

ニコライは1868年(慶応4年4月)自らの部屋で密かに、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる土佐藩士沢辺琢磨、函館の医師酒井篤礼、能登出身の医師浦野大蔵に洗礼機密を授けた。この頃、木村が函館を去った後の後任として新島襄から日本語を教わる。新島は共に『古事記』を読んで、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。ロシア語でなく英語だった。

懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った以後、精力的に正教の布教に努めた。
明治2年(1869年)日本ロシア正教伝道会社の設立の許可を得るためにロシアに一時帰国した。ニコライの帰国直前に、新井常之進がニコライに会う。

ニコライはペテルブルクで聖務会院にあって首席であったサンクトペテルブルク府主教イシドルから、日本ロシア正教伝道会社の許可を得ることができた。1870年(明治3年)には掌院に昇叙されて、日本ロシア正教伝道会社の首長に任じられた。ニコライの留守中に、日本では沢辺、浦野、酒井の三名が盛んに布教活動を行った。

明治4年(1871年)にニコライが函館に帰って来ると、沢辺の下に身を寄せていた人々が9月14日(10月26日)に洗礼機密を受けた。旧仙台藩士12名が洗礼を受け、ニコライは仙台地方の伝道を強化するために、そのうちの小野荘五郎ほか2人を同年12月に仙台に派遣した。ニコライは旧仙台藩の真山温治と共に露和辞典の編集をした。

東京時代
明治4年12月(1872年1月)に正教会の日本伝道の補佐として、ロシアから修道司祭アナトリイ・チハイが函館に派遣された。ロシア公使館が東京に開設されることになり、函館の領事館が閉鎖されたが、聖堂は引き続き函館に残されることになったので、ニコライはアナトリイに函館聖堂を任せて、明治5年1月(1872年2月)に上京し築地に入った。ニコライは仏教研究のために外務省の許可を得て増上寺の高僧について仏教研究を行った。

明治5年(1872年)9月に駿河台の戸田伯爵邸を日本人名義で購入して、ロシア公使館付属地という条件を付け、伝道を行った。明治5年9月24日東京でダニイル影田隆郎ら数十名に極秘に洗礼機密を授けた。

明治7年(1874年)には東京市内各地に伝教者を配置し、講義所を設けた。ニコライは、神奈川、伊豆、愛知、などの東海地方で伝道した。さらに京阪地方でも伝教を始めた。
明治7年5月には、東京に正教の伝教者を集めて、布教会議を開催した。そこで、全20条の詳細な『伝道規則』が制定された。

明治8年(1875年)7月の公会の時、日本人司祭選立が提議され、沢辺琢磨を司祭に、酒井篤礼を輔祭に立てることに決定した。東部シベリアの主教パウェルを招聘して、函館で神品会議を行い、初の日本人司祭が叙任された。このようにニコライを中心に日本人聖職者集団が形成された。さらに、正教の神学校が設立され、ニコライが責任を担った。
明治9年(1876年)には修善寺町地域から岩沢丙吉、沼津市地域から児玉菊、山崎兼三郎ら男女14名がニコライから洗礼を受けた。

明治11年(1878年)、ロシアから修道司祭のウラジミール・ソコロフスキーが来日して、ニコライの経営する語学学校の教授になり、明治18年までニコライの片腕になった。

ニコライ堂) Слава в Вышних Богу→Gloria 栄光 ??
明治12年(1879年)にニコライは二度目の帰国をし、明治13年に主教に叙聖される。その頃の教勢は、ニコライ主教以下、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263だった。同じ年、正教宣教団は出版活動を開始し、『正教新報』が明治13年12月に創刊された。愛々社という編集局を設けた。

明治13年(1880年)イコンの日本人画家を育成するために、ニコライは山下りんという女性をサンクトペテルブルク女子修道院に学ばせた。3年後山下は帰国し、生涯聖像画家として活躍した。 明治15年(1882年)に神学校の第一期生が卒業すると、ロシアのサンクトペテルブルク神学大学やキエフ神学大学に留学生を派遣した。
明治17年(1884年)に反対意見があり中断していた、大聖堂の建築工事に着手して、明治24年に竣工した。正式名称を復活大聖堂、通称はニコライ堂と呼ばれた。
明治26年(1893年)ニコライの意向により、女流文学誌『うらにしき(裏錦)』が出版された。明治40年まで存続し明治女流文学者の育成に貢献した。 明治37年(1904年)2月10日に日露戦争が開戦する前の、2月7日の正教会は聖職者と信徒によって臨時集会を開き、そこでニコライは日本に留まることを宣言し、日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。

内務大臣、文部大臣が開戦直後に、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示した。強力な警備陣を宣教団と敷地内に配置したので、正教宣教団と大聖堂は被害を受けることがなかった。神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

不朽体
1970年、谷中墓地改修の際に棺を開けると不朽体(どんな状態だったのか?)が現れた。同年、ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。

ニコライが伝道した「正教」
ニコライが「ロシア正教を伝えた」とする媒体が散見されるが、「ロシア正教会」「ロシア正教」は最も早くに見積もっても1448年に成立した独立正教会の組織名であり、教会の名ではない。「正教を伝えた」が正しい表現である。ニコライは「(組織としての)ロシア正教会に所属していた」とは言えるが、あくまで「正教を伝えた」とされているようだ。

正教会は1カ国に一つの教会組織を具えることが原則であり各地に正教会組織があるが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会に教義上、異なるところは無く、相互の教会はフル・コミュニオンの関係にあり、同じ信仰を有しているとされている。

【正教会】
正教会(Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会。キリスト教の教会(教派)の一つ。と言うよりも元祖キリスト教と言う方が正確か。正教以外のキリスト教にはカトリック、プロテスタント、その他モルモン教、クエーカー教等多数あるようだ。
日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている。なお「東方教会」が正教会を指している場合もある。
例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンティノープル総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りとされる。
なお、アルメニア使徒教会(アルメニア正教会)、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属するようだ。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。

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安部譲二

安部譲二 安部 譲二(あべ じょうじ、1937年~2019年) 小説家、タレント。元暴力団員。自らの服役経験を基にした自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などの著作がある。元日本航空のスチュワードとしても勤務した。また漫画原作者としても、第51回小学館漫画賞を受賞した柿崎正澄の漫画『RAINBOW-二舎六房の七人-』などの作品がある。血液型O型。
本名は安部 直也(あべ なおや)。元妻は実業家、エッセイストの遠藤瓔子で、ゲームソフトの原作・監督などを手がける遠藤正二朗は遠藤との子にあたる。
下記、ヤクザ時代の過去については「大体、10%だけがホントで、あとは膨らました脚色ですよ」、「作家は政治屋や役人と一緒で、ホントのことなんか言うわけがねぇんだよ」とも発言。しかし日本航空のスチュワードであった経歴については、当時の同僚の夫である深田祐介や当時の同僚から事実であったことが証言されており、多数の写真も残っている。

父の転勤に伴い、幼少時はイギリスのロンドンやイタリアのローマで育つ。第二次世界大戦の影響を受けて、1941年に日本郵船が欧州支店を撤退するために家族で日本へ帰国すると、池田山(現・品川区東五反田)の母の実家に育ち、森村学園幼稚園に通う。

日本も第二次世界大戦に参戦すると、1942年に軍属として昭南島(シンガポール)に出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝、名将言行録などを国民学校低学年にして片っ端から読破。港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。

また、大戦末期には熱海の祖母の別荘に疎開し、町内に松竹ロビンスの監督等を務めた新田恭一が住んでいて野球を教えてもらったという。これが縁で成人した安部が安藤組のアマチュア野球チームにいたおり、安部の母が「プロ野球選手になれたらヤクザをやめてもいい」と言った息子の話を真に受け、足を洗って欲しいと新田から辿って新田の慶応野球部の後輩・別当薫に安部を紹介したことがあるという。

橋本 私立麻布中学校時代の同級生には元総理大臣の橋本龍太郎がいる。麻布中学の入学試験当日、頭のいい受験生の後席に座ればカンニングできると目論んだ安部は、他の受験生を品定めしたところ、橋本が一番頭がよさそうに感じ、その後席に座ることに成功したという。後年、橋本と同窓会で会った際、政界に身を置くようになっていた橋本に自身と似た匂いを嗅ぎ取り、互いに都合の悪いことだけは黙して語らないことを約束したといわれる。また、橋本政権下の時代、コメンテーターとしてトーク番組で政治問題のコメントする際はいつも『俺は龍ちゃんと同級生だったから』とのことでいつも自民党擁護の発言が目立った。しかし、これは安部自身が元ヤクザのベストセラー作家でありながら橋本と同級生だったことを言いたかったちょっとしたネタであり、一緒に出演していた他のコメンテーターからは特に問題視されることはなかった。

麻布中学2年時には江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある。また、中学在学中から安藤組大幹部・阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたため麻布高校への内部進学が認められなかった。

1952年には夏祭りの場で複数のテキ屋と争い、出刃包丁による傷害事件を起こす。困った父親により幼少期に育ったイギリスに留学させられ、ウィンブルドンの寄宿制学校に進む。同校在学中には南ロンドン地区の少年ボクシング大会に出場し、ライトウェルター級選手として優勝した。入寮から4ヶ月経った時、イタリアから留学中の女子生徒と全裸で戯れていたのを舎監に発見され退寮処分を受ける。16歳の時にカメラマンのアシスタントとしてオランダに渡り、ロバート・ミッチャムと売春婦を巡って殴り合いをしたことがある。

安藤組時代
日本に戻ると、慶應義塾高校に入学。同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳で本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生たち16人に喧嘩を挑まれて3人で叩きのめしたことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けた。

慶應義塾高校除籍後は神戸市立須磨高等学校や逗子開成高等学校など6つの高等学校を転々とし、安藤組組員であった時期に保善高校定時制課程に入学した。この間、18歳の時に横浜市伊勢佐木町へ債権の取り立てに行き、不良外人のブローカーと争い、初めて銃で撃たれる経験をする。

19歳の時には横浜で不良外人の下へ借金の取り立てに行ったところ、用心棒から殺されそうになり、反撃して相手の拳銃と車を奪い逃走。このため強盗殺人未遂と銃刀剣法違反で逮捕され、少年院から大津刑務所に身柄を移される。1審で懲役7年の実刑判決を受けたが、接見に来た今日出海らの勧めで控訴。控訴審の弁護人の働きにより緊急避難が認められ、強盗殺人未遂から窃盗罪・遺失物取得罪・銃刀剣法違反に罪名変更され、懲役2年6月、保護観察付執行猶予5年の有罪判決を受ける。

以後、「幻の鉄」の二つ名を持つ中国道の大親分のもとに身柄を預けられ、親分の一家を守るとともに、親分の娘と恋仲になった。また、若い時期はブラディー・ナオのリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もあった。世界王者・サンディ・サドラーの来日時のスパーリングパートナーも務めたといい、ハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたこともある。

(安藤組に所属中のエピソードと思われるが)1980年代、作家転向後の青年誌(講談社刊行「ホットドッグ・プレス」)のインタビュー記事内で「フランスに滞在中、射撃の大会に出場したところ22口径の部で優勝し、そのことが「ル・モンド」紙に掲載され、周囲より「日本では拳銃を所持できないのに、なぜお前が優勝できるのだ」という声があがり、「オレはヤクザだ」という趣旨の発言をし、それが原因でフランスから国外退去させられた」というくだりがある。

日本航空勤務時代
1959年に22歳で保善高校定時制を卒業し、国際ホテル学校に入学。1961年1月に23歳で日本航空に入社し、客室乗務員として国内線や国際線に乗務する。スチュワードからパーサーまで出世するが、理不尽な要求をする乗客とのトラブルで殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であったことが露見し、安藤組解散(1964年)後の1965年1月に退社に追い込まれた。
パーサー時代の勤務態度は真面目な反面、感情的になることが多く、同僚の彼女をぶん取って交際したり、横柄な支店長を殴ったり、乗客を投げ飛ばしたこともあったといわれている。出勤時には車の中で安藤組の代紋を外し、日本航空の社章に取り換えていた。

日本航空時代に同僚の遠藤瓔子と結婚した。その後作家となる、当時日本航空広報部社員だった深田祐介と知り合い、深田の妻とも客室乗務部で同僚であった。当時深田は安部を「帰国子女で典型的な山の手のお坊ちゃん風」と思っており、暴力団員でもあったことを退社に至るまで全く知らなかったとしている。

この間、1963年4月17日から1967年8月25日に起きた第二次広島抗争に派遣された。映画「仁義なき戦い」の第四部「頂上作戦」の劇中に、全国からケンカの助っ人が広島市に集結したくだりがあるが、実際は全面戦争にはならず、安部は暇で野球に興じていた。ある日、商店街の野球大会に参加して、飛ばない軟式ボールを広島市民球場の外野スタンドにたたき込んだら、商店街の会長から「親分にもよく話してやるから、広島カープの入団テストを受けてみなさい」と言われたとしている。

小金井一家/実業家時代
日本航空退社後の1966年からは刑務所で服役する。同年、ボクシングジムを紹介するなど親交があった三島由紀夫の原作、田宮二郎主演で、日本航空時代の安部をモデルとした映画『複雑な彼』が大映で制作、封切りされている。田宮二郎が演じた主人公「宮城譲二」は、その後安部が作家デビューするにあたりペンネームにもなった。

安藤組解散後は、新宿の小金井一家にヘッドハンティングされる。同時に妻とレストラン「サウサリート」の経営、キックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営、プロモーター、競馬予想屋などの職を転々とした。

1960年代後半から1970年代にかけて青山でジャズクラブ「ロブロイ」を経営していた時期は、本店を遠藤に任せ、赤坂と六本木と三田の支店をそれぞれ愛人に任せ、白いキャデラック・フリートウッドを乗り回し、ドーベルマンを飼い、大田区鵜の木の敷地700坪の豪邸に住むほどの勢いがあった。「ロブロイ」では菅野邦彦も弾いたが、当時高校生の矢野顕子も弾いた。後に瓔子が当時を回想して書いた「青山『ロブロイ』物語」はテレビドラマにもなった。

1974年9月から半年間、ボリビア政府軍の砲艇の航海長として革命軍の村を掃射する任務にあたったこともあるという。また、1975年には南ベトナム政府軍御用達のフランス製メタンフェタミン25キログラム缶を安価に入手すべく、陥落直前のサイゴンに潜り込んだものの、一度は1500万円で購入したメタンフェタミンを群集に争奪され、命からがら脱出したこともあるとしている。

同年に拳銃不法所持や麻薬法違反で実刑判決を受け、同年秋から府中刑務所で4年間服役した。当時、囚人の中に赤軍派(後に日本赤軍)活動家の城崎勉がおり、安部の著作によると、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きる直前、城崎にオルグされかけたことがあったという。

1981年にヤクザから足を洗った。安部の前科は暴行傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反など日本国内だけで合計14犯、また国外でも複数回の服役を経験し、国外での前科は3犯、国内と国外での刑務所生活は通算8年間に及んだ。 小説家・テレビタレントとして
1983年から小説を書き始めた。著書を出してくれる出版社が見つからなかったが、1984年に山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に刑務所服役中の体験記『府中木工場の面々』の連載を開始した。文筆家としての道を歩むきっかけになった山本との出会いに関しては、著書等で事あるごとに「山本先生は自分の恩師、大恩人である」と触れている。

1987年に連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版された。『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化もされ、以後人気作家としての地位を築いた。情報帯番組『追跡』(日本テレビ系)の金曜レギュラーを皮切りにテレビやラジオに数多く出演し、タレントとしても活動した。なお、『追跡』司会の青島幸男を深く敬愛しており、青島の東京都知事選出馬時も支持している。

人気作家になったが、バブル景気崩壊で負債を抱え妻の遠藤瓔子とも離婚し、借金の形や慰謝料として大半の財産と一緒に愛車のポルシェも持っていかれた代わりに、安価なオートザム・レビューを渋々購入したが、実用性が高く気に入っていると後にNAVI誌上で評した。都内某ディーラーにて新車購入の際、購入した車の値引の代わりに、CMキャラクターだった小泉今日子を「4人ばっか乗っけて持ってきてくれ」と発言し、担当営業と営業所長を困らせたことがある。本人曰く「4人なんてありえねぇんだから、等身大の看板でも乗っけてくりゃ笑えたのに」としている。

漫画作品の原作にも携わり、2005年には『RAINBOW-二舎六房の七人-』で第51回小学館漫画賞一般部門を受賞した。2005年頃より、新聞などに掲載される禁煙グッズの広告に登場。「私は楽して煙草をやめました」として大々的に広告されているが、本人は煙草をやめていないことを自身のブログなどで告白している。

また、選挙ではいつも日本共産党に投票していたが、2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党に投票し、後悔しているとも述べている。日本社会党、日本共産党の支持を受け、庶民派の東京都知事として在任中であった美濃部亮吉が、高級ホテルとして知られるホテルオークラで朝食を摂っているのを目撃した安部は、美濃部と一悶着起こしたと自著にて記している。
2000年代以降は執筆にはパソコンを使用し、ときおり2ちゃんねるやウィキペディアを見ていることを明らかにしている。2019年9月2日、急性肺炎で死去した。
本当に自由人ですね。全くのお坊ちゃん育ちで何事にも拘らない。いや、変に頑なに拘る。 そこが魅力なんですかね。でも、この人の本あまり読んだことは無いんだけど。

人物列伝
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村木厚子

村木厚子 村木 厚子(むらき あつこ、1955年〈昭和30年〉12月28日~):
元労働・厚生労働官僚。津田塾大学客員教授。旧姓西村(にしむら)。厚生労働省4人目の女性局長として、2008年に雇用均等・児童家庭局長を務めた後、内閣府政策統括官(共生社会政策担当)、厚生労働省社会・援護局長を歴任し、2013年7月から2015年9月まで厚生労働事務次官を務めた。

退官後は内閣官房孤独・孤立対策担当室政策参与、伊藤忠商事取締役、住友化学取締役、SOMPOホールディングス監査役、コニカミノルタアドバイザー、大妻学院理事、土佐中学校・高等学校理事等に就任。

高知県出身。夫は労働省入省同期の村木太郎。2女の母でもある。幼い頃は人見知りで対人恐怖症(本人談)の読書好きな少女だった。自由な校風に憧れ、土佐中学校・高等学校に入学。同校を卒業し、高知大学文理学部経済学科に進学。社会保険労務士の父の背中を見て育ち、大学卒業後の1978年に、労働行政を管轄する労働省に入省。なお、その際の国家公務員上級試験では、高知大学からの合格者は村木1名だけであったとか。

村木厚子 東京大学出身者の男性キャリアが多い霞が関の中央省庁の幹部の中では、珍しい地方国立大学出身の女性で、さらに厚生労働省では少数派の旧労働省出身であった。事務処理能力や、頭の良さ、法令知識などが特に目立つような存在ではなく、誰もが認める次官候補や、エースと呼ばれるタイプではなかった。障害者問題を自身のライフワークと述べ、人事異動で担当を離れた後も、福祉団体への視察を続けるといった仕事に臨むまじめな姿勢や、低姿勢で物腰柔らかく、誰も怒らせることなく物事を調整することができる、敵を作らない典型的な調整型官僚として有能であることが評価されていた。女性としては松原亘子に続き2人目となる事務次官就任の可能性もささやかれていた。
2008年には、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長に就任した。2012年9月10日に社会・援護局長。
2013年7月2日から2015年9月まで事務次官を務め退官。
2016年6月、伊藤忠商事社外取締役に就任。

村木厚子 冤罪被害
厚労省の社会・援護局 障害保健福祉部 企画課長時代に、自称障害者団体「凛(りん)の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、不正に郵便料金を安くダイレクトメールを発送させたとして、2009年6月、大阪地方検察庁特別捜査部長の大坪弘道や副部長の佐賀元明の捜査方針のもと、虚偽公文書作成・同行使の容疑で、同部主任検事の前田恒彦により逮捕された。

**凛(りん)の会→確かにwikiで検索しても出て来ない。全く実態が無いようだ。課長クラスの者がこのような架空の組織の便宜を図ることなどまずはあり得ないことだ。そもそもこんな事態初めから存在してなかったんではないの。せいぜい部下の手違い程度だろう。初めから、検察庁特別捜査部が出て来るような事件ではなさそうだ。何か目的を持った陰謀がありそうだ。個人的に人に恨まれるような方でもないし、何か政策面で彼女を排除したい勢力がいたのか?

逮捕を受けて自民党の厚労大臣 舛添要一(当時)は「大変有能な局長で省内の期待を集めていた。同じように働く女性にとっても希望の星だった」と、容疑者となった村木へ賛辞ともとれる異例のコメントを発表した。
**→舛添要一が過去形でコメントしている点は怪しい。だって、未だ容疑は確定していない段階だ。賛辞どころか極めて不適切な発言だね。明らかに冤罪であることを重々承知の上で容疑を肯定しようという意図がありあり見える。

翌7月、大阪地方検察庁は虚偽有印公文書作成・同行使の罪で村木を大阪地方裁判所に起訴した。 取調べの中で担当検察官の國井弘樹は村木に向かって、和歌山毒物カレー事件を例に挙げ「あの事件だって、本当に彼女がやったのか、実際のところは分からないですよね」といい、否認を続けることで冤罪で罪が重くなることを暗示し自白を迫ったという。担当検察官の國井弘樹は和歌山毒物カレー事件も冤罪であることを重々承知の上で脅していた訳だね。検察は逆らうものは誰でも裁判で負けるぞ!

逮捕から5ヶ月が経過した2009年11月、保釈請求が認められ、村木の身柄が解放された。弁護士の弘中惇一郎と厚労官僚の夫も同席した保釈後の記者会見では容疑事実を強く否定し、改めて無罪を主張した。
村木厚子 翌2010年9月10日、無罪を訴えた村木に対して大阪地裁は無罪判決を言い渡した。政権交代を経た民主党の厚労大臣 長妻昭(当時)は「それなりのポストにお戻り頂く」と、無罪が確定した場合は局長級で復職させる旨に言及した。2010年9月21日、大阪地検は上訴権を放棄。下級審での無罪判決が確定判決となった。

同じ日、朝日新聞は本事件の捜査を担当した検察官の前田が証拠改竄を行っていたことを朝刊でスクープ。同日夜、前田は証拠隠滅の容疑で検察官に逮捕された。同年10月1日、大坪及び同副部長であった佐賀が、同特捜部当時の部下であった前田による故意の証拠改竄を知りながら隠したとして、犯人蔵匿の容疑で逮捕された。

この事件において、村木の逮捕に深く関わった検察官3人の職務遂行に犯罪の疑いが掛けられ、検察官が被疑者として検察官に逮捕されるという極めて異例の事態となった。 **詳細は大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件を参照。

冤罪事件について外交官出身の佐藤優は「村木厚子さんは無罪になりましたが、部下に公印を使われた上司としての責任は当然問われないといけない」と述べている。2012年2月、部下の有罪確定を受けて、訓告処分を受けた。
**これは一概には言えない。公印とは誰が押そうと第三者に対しては有効。でも、組織の中では必ずしも上司の了解があったとは言えない。そこまで責任はないのでは?

**村木厚子さんは、冤罪が証明されて以降、かえって周囲からの信頼を得たようだ。復職後も大活躍されているようで結構な話である。ただ、ただ現職の現職の官僚が証拠不十分の段階で逮捕されるということは、本人にとって大問題だ。逮捕されたというだけで、マスコミ上では既に犯人扱いだから。勿論メディア側にも大いに責任はあるが。

復職
2010年9月21日、起訴休職処分が解かれ、村木は厚生労働省に大臣官房付として復職した。その後内閣府に出向し、9月27日付で局長級の内閣府政策統括官(共生社会政策担当)に就任。青少年育成や少子高齢化、自殺、犯罪被害者対策、障害者施策等の施策の担当である。また、内閣府自殺対策推進室長と内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)も併任。10月21日から菅直人内閣総理大臣の特命を受け、待機児童ゼロ特命チーム事務局長を併任した。

検察の在り方検討会議では大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件で勾留された一人として意見を述べた。2011年6月から法務省法制審議会新時代の刑事司法制度特別部会委員を務め、取り調べの可視化に向けた審議などにあたった。

2012年2月、国側から得た刑事補償金を、社会福祉法人南高愛隣会に寄付することを表明し、同年3月「共生社会を創る愛の基金」が創設された。
2012年9月10日付で、厚生労働省社会・援護局長に就任し、3年3か月ぶりに厚生労働省に局長として復帰した。
2013年7月2日付で、金子順一の後任として厚生労働事務次官に就任した。女性の事務次官就任は、松原亘子労働事務次官(当時)以来、16年ぶり2人目である。2014年6月18日、国会提出した法案等の文書ミスで、訓告処分を受ける。2015年4月8日からの天皇と皇后のパラオ訪問に同行。10月1日付で事務次官を退任。

退官後
2016年6月、伊藤忠商事社外取締役、コニカミノルタ株式会社アドバイザー、学校法人大妻学院理事、一般社団法人障害者雇用企業支援協会顧問、公益財団法人三菱UFJ信託芸術文化財団評議員、公益財団法人産業雇用安定センター評議員、公益社団法人日本フィランソロピー協会理事に就任。2017年学校法人土佐中学校・高等学校理事、津田塾大学総合政策学部客員教授、SOMPOホールディングス株式会社監査役に就任。2018年住友化学株式会社取締役。2021年内閣官房孤独・孤立対策担当室政策参与。日本農福連携協会副会長理事、全国居住支援法人協議会共同代表[33]、日本生活協同組合連合会理事なども務めた。

【大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件】
大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件とは、2010年(平成22年)9月21日に、大阪地方検察庁特別捜査部所属で、障害者郵便制度悪用事件担当主任検事であった前田恒彦が、証拠物件のフロッピーディスクを改竄したとして証拠隠滅の容疑で、同年10月1日には、当時の上司であった大阪地検元特捜部長・大坪弘道および元副部長・佐賀元明が、主任検事の前田による故意の証拠の改竄を知りながらこれを隠したとして犯人隠避の容疑で、それぞれ逮捕された事件。

現職の検事で、しかも特捜部の部長・副部長・主任検事が担当していた事件の職務執行に関連して逮捕されるという極めて異例の事態となり、検察庁のトップである検事総長・大林宏の辞職の引き金となった。
ただ、問題は証拠の改竄や隠滅と言った行為は、今回はたまたま発見されたが、本当はこんなことが日常茶飯事で行われていないという証拠にはならないことだ。さらに、このような証拠の改竄や隠滅と言った行為が組織ぐるみで行われているとしたら?

担当検事の証拠偽造容疑
2010年(平成22年)9月10日、障害者郵便制度悪用事件で、大阪地方裁判所が厚生労働省元局長・村木厚子に無罪判決を言い渡した。
その後、同年9月21日に朝日新聞は、被告人のひとりが作成したとされる障害者団体証明書に関し、重要な証拠が改竄された疑いがあることを朝刊でスクープした。
その記事の内容は、大阪地検特捜部が、2009年5月26日に同事件の被告人のひとりである厚労省社会・援護局障害保健福祉部企画課元係長のフロッピーディスクごと元データを差し押さえていたが、その後、重要な証拠である同データの作成日時について、「6月1日未明」(5月31日深夜)から(6月上旬に指示を受けたという捜査見通しに合致する)「6月8日」に書き換えられていた、というものである。

検察は朝日新聞が報道する前日から調査をしていたが、9月21日になって、最高検察庁が証拠偽造罪の疑いで直接捜査を開始した。最高検刑事部所属の部長を含めた4人の検事のうち、大阪高等検察庁を担当する最高検検事・長谷川充弘が、大阪地方検察庁検事事務取扱に任じられて本事件の主任検事となり、東京高等検察庁や東京地方検察庁の検事7人のチームで捜査を担当した。同日夜に証拠隠滅の容疑で元主任検事を逮捕し、自宅および大阪地方検察庁の執務室の捜索を行った。 検察捜査について地方検察庁から報告を受けて了承や指示をすることが原則の上級庁(最高検察庁・高等検察庁)が、被疑者の身柄拘束をした上で直接捜査をすることは極めて異例である。

同日、最高検では、次長検事・伊藤鉄男、最高検刑事部長・池上政幸および最高検刑事部検事・八木宏幸が、また大阪地検では次席検事・大島忠郁がそれぞれ会見を開いて陳謝するとともに、検察の信頼回復に努める旨のコメントを発表した。一方、事件当時大阪地方検察庁特捜部長を務め、容疑者である元主任検事の上司だった京都地方検察庁次席検事は、最高検の本件への対応について、「むごいことをする。本人の話も聞かずにいきなり逮捕した」とし「やりすぎ」と批判し、自己の刑事責任を否定するとともに元主任検事を擁護した。

上司の犯人隠避容疑
9月27日には三井環(元大阪高検公安部長)が、大阪高検次席検事・玉井英章ら当時の大阪地検検事正・次席検事・特捜部長・特捜部副部長、計4人を、犯人隠避の罪で検事総長・大林宏に告発した。

最高検察庁も、最高検公判部長・吉田統宏および最高検総務部長・伊丹俊彦を主任に任じ、9月28日までに、当時の特捜部長および特捜部副部長につき、犯人隠避容疑で捜査を開始した。同日、大阪地検検事正および前次席検事も聴取を受けた。

その後10月1日の夜に、大阪地検元特捜部長・大坪弘道および大阪地検元特捜部副部長・佐賀元明が犯人隠避容疑で逮捕された。大阪地検公判部長・谷岡賀美も、「証拠が改竄された疑いがある」との報告を受けつつ公判を続けていたとして、本件の参考人として最高検から聴取を受けたが、犯人隠避への関与はなかったとして、起訴等の刑事処分はされなかった。

改竄と対応の経緯
2010年1月27日、厚労省元局長・村木厚子の初公判において障害者団体証明書の作成日時が問題となった。これに関する大阪地検の対応については、当初次のように説明されていた。
*******************
同僚の検事が主任検事に問い合わせたところ、フロッピーディスクの書換があったと言われたため、これを告げられた公判担当検事が、同僚2名とともに、1月30日に副部長に公表するよう訴えた。2月1日には、副部長が部長に相談。部長の指示で副部長は主任検事に問い合わせたが、「過失だった」と言われたために、以後の調査を見送った。 同地検の検事正や大阪高検刑事部長にも報告が上がったが、大阪高検検事長に報告は上がらず、地検としても何らアクションを取らず問題を放置していたものである。
****************
しかし、報道によれば、当初は故意を否認していた元主任検事が、2010年9月24日に供述を転じ、故意に書き換えを行ったと自白したとされる。
当時の大阪地検特捜部長や、同特捜部副部長らは、9月23日以降、連日のように東京の最高検で参考人として任意聴取を受けた。逮捕前の取材に対し、元特捜部長は、部下の主任検事が故意にデータを書き換えたとは思っていなかったとし、その後も一貫して過失と判断したと主張しているとされる。しかし、最高検は、故意の改竄と知りながら隠した疑いがあるとして、10月1日当時の特捜部長および副部長を犯人隠避の容疑で逮捕した。

その後の報道によれば、元主任検事は、上記2010年1月の元局長の初公判後に副部長(いずれも当時)に改竄を告白したとされ、そのときに「ここはすべて任せろ」といわれ、その後、過失と主張するように指示されたという。また、副部長は部長にも経緯を報告し、データの書き換えはコピーを対象とした遊びのつもりであったものであり、また、「捜査報告書」には正しい日時が記録されているので、書き換えたとしても問題ない、という弁解を考え、2月初めに、2人でこれに沿った上申書を元主任検事に作らせたと、最高検は見ているという。

また、最高検は、同年12月24日に検証結果を発表したが、そこでは、特捜部に組織的病理も原因であったとされている。元主任検事は、上司の特捜部長から、「政治家はできなくても、せめて局長までは立件を」「これが君の使命だ」と求められ、また、大阪高検検事長ら幹部から「局長の部下の独断での犯行は考えられない」などと言われてプレッシャーを感じ、一人で抱え込んでいたとされる。また、特捜部長は、検事が立件に消極的な意見を述べると「特捜から出て行ってもらう」など叱責していたという。ただし、この発表時点でも、特捜部長、副部長は関与を否定し、「最高検の描いたストーリー」と批判しているという。
2010年10月11日、最高検察庁は、元主任検事・前田恒彦について、大阪地方裁判所に証拠隠滅の罪で起訴した。
2011年4月12日、大阪地裁(中川博之裁判長)は懲役1年6ヶ月の実刑判決を言い渡した。前田恒彦は控訴せず、実刑が確定した。

人物列伝
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姜尚中

姜尚中 姜 尚中(カン サンジュン、朝鮮語:강 상중、1950年(昭和25年)8月12日~ )は、日本の政治学者。東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長。長崎県の学校法人鎮西学院学院長・理事。鎮西学院大学の初代学長。専門は政治学・政治思想史。特にアジア地域主義論・日本の帝国主義を対象としたポストコロニアル理論研究。

思想・主張
在日韓国人という立場を、エドワード・サイードの言う「周辺者」あるいは「亡命者」とみなし、日本と韓国という二つの祖国を持つ独自の存在とし、日本社会が歴史的に捉えてきた朝鮮史観、およびそこにあるいわゆる「偏見」に対して批判を加えている。 ここでは、日本の戦前の朝鮮史観の始まりは、山縣有朋の「主権線・利益線」にまで遡ると主張。日本の近代化としての理想像が西欧社会であるならば、その反転としての未開地域、停滞地域として朝鮮半島・東北アジアが「発見」されたと主張している。また、戦後の日本の対朝鮮史観については、丸山眞男のいう「悔恨の共同体」を経て、経済復興、高度経済成長を背景に「日本特殊論」などが登場してくる中で、西欧との同一化と差異化のプロセスとして、再び戦前と同様の対朝鮮・東北アジア史観が「再発見」されたと主張している。

ナショナリズム批判についての著作も多い。ただし、現在の世界システムを自由主義経済による支配システムとして考えた場合、その中枢にいる一握りの経済大国と周辺に追いやられた諸国との経済格差はますます大きくなっているとし、有無を言わさず周辺化される力学に反抗する手段としての、いわばイマニュエル・ウォーラーステインのいう「反システム運動」として発現するナショナリズムに対しては一定の理解を示している。また、サミュエル・P・ハンティントンが主張した「文明の衝突」に対しても、世界システムにおける中枢国と周辺国の格差を無視したオリエンタリズム的観点であると批判している。

在日韓国人2世で、平和問題などについて積極的に発言している政治学者、姜尚中氏(64)。両親が日本で体験した戦争と、戦後の日韓関係について聞いた。
――戦後生まれですが、父母から戦争の話は聞きましたか。

「東京に住んでいた両親は疎開先の愛知県一宮市で空襲により長男を亡くしています。焼夷(しょうい)弾が雨あられのようにふってくる恐怖感だけでなく、長男を亡くしたことが、親にとって戦争の最大のトラウマでした」
姜 尚中(かん・さんじゅん)氏 熊本市生まれの在日2世。22歳の時の訪韓を機に韓国名の姜尚中を使う。専門は政治学、政治思想史。東京大名誉教授。
「母は一番上の長男の命日に欠かさず供養していました。幼い頃、長男の死を聞かされていなかった自分は、母が何をしているか分からず聞いたと記憶しています。我が家が本当は3人兄弟だったと聞かされたのは高校生の時。非常に驚いた。母も、もう高校生だからと思って打ち明けたのではないでしょうか」
「戦争の爪痕は、何十年たっても人のどこかに残る。戦争を始めるときは、そういうことを考えずに始めるのでしょう。だから戦争というのはすべきじゃない」

――日本はなぜ戦争を始めたとみていますか。
「日本が明治維新後、想像以上に近代化に成功したがゆえに、内側からかかるべきブレーキがかからなくなった。よく私はこれを『成功が蹉跌(さてつ)の原因になった』と言っています。歴史的に言えば、日清戦争で巨大な賠償金が出たということは非常に大きかった。だから、東アジアの中で、目覚ましいほどの近代化の成功をなし遂げ、戦争を避けるブレーキがかからなくなった」
「日本と戦争を考えた時に1905年が重要な年です。日露戦争に勝ったと言われているけれど、実質的にはこれ以上の戦争継続能力はなかった。にもかかわらず韓国を併合してしまった。(韓国を日本の保護国にした)同年の第2次日韓協約、韓国ではウルサ条約と呼ぶが、ここに踏み込むべきではなかった」
「韓国では伊藤博文のことが悪く言われていますが、韓国の併合に関しては必ずしも積極的ではなかった。あの時点では、日本の中も一枚岩ではなかったのでしょう。方向転換なり、少なくとも違う対応ができる可能性はあったわけだが、そうはなりませんでした」
――戦後をどう評価していますか。
「日本は沖縄を別にすれば、平和が戦後ずっと続いた。多くの日本国民は平和と繁栄、成長はほぼイコールで結びつくという非常に誇らしい歴史だったと思います。それはアジアの国々が正当に評価しなければならないことです。一方で、日本の周辺のアジアの国々では戦争が続いた。ある人はベトナム戦争が終わるまでを戦後30年戦争というが、硝煙のにおいが絶えませんでした」

「私は1950年に生まれました。その年に朝鮮戦争が起き、それは新しい戦争の始まりでした。日本にとどまっていた韓国人の私の父や母、そこから生まれてきた私のような存在にとって、父や母の国で起きた戦争は暗い影を落としました。日本にいる在日の人は直接的に戦争との関係を持たなかったけれども、父母の国は甚大な被害が出る戦争となりました」

「沖縄と在日の人々は、戦争の絶えないアジアと、どこかでつながっていました。戦後という歩みを実感する場合でも、普通の日本人とはおのずからニュアンスの違いがあります」

平和を支えている「犠牲」に目を向けることも重要と語る姜氏
――1970年代初頭に初めて韓国に行ったそうですが、その時に感じたことは。
「強いカルチャーショックを受けました。実はそこで初めて、日本の平和は例外ではないかと気づきました。たぶん沖縄に、その時代に渡航すれば同じ考えを持ったのではないかと思います。自分の身は韓国との関係を持ちながら、非常に例外的な日本の平和の中で生まれて育ったことを考えるときに、心の中に、ある種の落差、あつれきがずっとありました」

「韓国は1997年に通貨危機を経験し、その後、急速に近代化していく中で、日本と同じような問題を抱えるようになりました。過当競争や高齢者の孤独など、かつてあった日本との経済的な格差とは違う問題が見えてきました」
「日本にとっては戦後、韓国にとっては解放の70年を迎えています。日韓で異なる2つの8月15日が寄り添うことは可能だとみています」

――平和を維持するために必要なことは何ですか。
「空気のようにすっている平和が、誰かによってつくられ、キープしていくために誰かの犠牲を伴っていることに気づかないといけない。日本の場合は米軍基地の負担がある沖縄、韓国の場合は徴兵制です。かつての戦争体験者の声を聴くことは重要ですが、今起きている出来事にも目を向けなければなりません」
(聞き手は社会部、辻征弥)

**テレビでしかお会いしたことは無いけど、物静かな語り口。日韓の真の交流の為には欠かせない人かも。「韓国も反省すべき点がある」が韓国人の学者には嫌われるかも。

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李 登輝

李 登輝(り とうき、1923年〈大正12年〉1月15日~2020年7月30日、Lǐ Dēng huī):
李 登輝 中華民国(台湾)の政治家、農業経済学者、宣教師。第4代中華民国総統(7期途中昇格・8期・9期、1988年~2000年)。コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。信仰する宗教は台湾基督長老教会。日本統治時代に使用していた名は岩里 政男(いわさと まさお)。本省人初の中華民国総統で、「台湾民主化の父」と評価される。日本においては、「22歳まで日本人だった」の言葉や、日本語が話せることなどから親日家としても知られた。
蔣経国を副総統として補佐し、その死後は後継者として中華民国の歴史上初めてとなる民選総統であり、なおかつ本省人出身者では初の総統となった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の本土化を推進した。

**初の本省人出身者。日本初の国民宰相の原敬さんの経歴と良く似ている。
**李登輝さんは、政治家としての顔の他、農学者、熱心なキリスト教徒、日本語の達人、日本文化へ憧憬が深い親日家。生粋の台湾人(本省人)と多面的な顔をお持ちの方だ。

蒋介石 中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在すると主張した(二国論)。国共内戦の一方的な終結宣言により、内戦を口実にしてきた動員戡乱時期臨時条款の廃止で中華民国の民主化を実現し、国家統一綱領に基づいて中華人民共和国との統一交渉も開始しつつ、第三次台湾海峡危機では中華人民共和国の軍事的圧力に対して中華民国の独立を守った。
総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党、台湾団結連盟を自ら中心となって結成し、台湾独立運動・泛緑連盟に影響を与え続けていた。

生い立ち
台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)埔坪村の「源興居」で李金龍と江錦の次男として生まれる。父・金龍は、警察補として植民地当局に出仕していた。2歳年上の兄李登欽(日本名:岩里武則)は、第二次世界大戦で志願兵となるがフィリピンの前線で行方不明となり、大日本帝国海軍二等機関兵(戦死後、「上等機関兵」)として戦死通知されている。異母弟の李炳男は、貿易業に従事した。

父方の李一族は現在の福建省永定から台湾へ移住してきた客家の系譜で、祖父の代にはアヘンの販売権を有しており、経済的に安定した家庭環境によって幼少の頃から教育環境に恵まれていた。なお、母方は閩南民系であるうえ、一族も移住後に現地コミュニティと融合していたことから、登輝自身に客家としてのアイデンティティはあまりなかった。

【閩南民系(びんなんみんけい)】 または閩南人・福佬人とは、主に台湾と中国の福建省に居住する漢民族の一派。東南アジアの国々ににも多く存在している。客家とは異なる。
蒋経国 公学校に入学した登輝は、日本名「岩里政男」を通称として父から授けられた。父の転勤に伴い6歳から12歳まで汐止公学校、南港公学校、三芝公学校、淡水公学校と4度の転校を繰り返した。淡水公学校卒業後は私立台北国民中学(現在の大同高級中学)に入学したが、1年後の1938年に淡江中学校へ転校。淡江中学校では学業に専念し首席で卒業。卒業後は台北高等学校に合格。
当時の「内台共学」教育により登輝は生涯流暢な日本語を話し、後年行われた司馬遼太郎との対談においては「22歳(1945年)までは日本人だった」と語り、「難しいことは日本語で考える」と公言していた。中華民国籍取得後も、訪日時には日本語を使用していた。

京都帝国大学時代
1942年9月、戦時の在学期間短縮措置により台北高等学校を卒業。同年10月、現地の台北帝国大学には現地人に対する入学制限から進学することがかなわず、本土の京都帝国大学農学部農業経済学科に進学した。農業経済学を選択した理由として、本人によれば幼少時に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目の当たりにした事と、高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義の唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があると思ったことを理由として挙げている。大学時代は自ら「農業簿記」を学び、同時にマルクスや河上肇などの社会主義関連の書籍に親しんでいた。当時の登輝は、台湾よりも台湾人に門戸が開かれていた、満州で卒業後に立身出世を目指すことを考えていた。

旧日本陸軍軍歴
1944年にほかの文科系学生と同じように学徒出陣により出征する。大阪師団に徴兵検査第一乙種合格(特別甲種幹部候補生)で入隊し、台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後日本に戻り、その後千葉陸軍高射学校に見習士官として配属される。その直後の1945年3月10日、東京大空襲に遭遇。千葉の上空を通って東京方面に向かう米軍機に向けて高射砲を撃つ。爆撃で金属片が顔をかすめたが無事だった。 大空襲の翌日である3月11日、爆撃で戦死した小隊長に代わって被災地で救援を指揮。 その後、終戦を名古屋で迎え、直後の昇進によりいわゆるポツダム少尉となる。 召集された際、日本人の上官から「お前どこへ行く? 何の兵になるか?」と聞かれ、迷わず「歩兵にしてください」と言い、加えて「二等兵にしてください」とまで要求したところ、その上官から「どうしてそんなきついところへ行きたいのか」と笑われたという。
【ポツダム少尉】
ポツダム少尉(ポツダムしょうい)とは、ポツダム宣言受諾後に戦闘が基本的に終了した8月15日から11月30日まで継続した陸軍省と海軍省によって、この間の日本軍において少尉に任官した軍人[1]の通称である。全員が1階級昇進して除隊した(この期間の昇進をポツダム進級と呼ぶ)。主に、学徒動員や士官学校の士官候補生などが、これによって士官とされる少尉に任ぜられた。人数が多く、任官者が自嘲的に自らを「ポツダム少尉」と呼んだ[1]ことからこの名称が広まった。倉田卓次のように「ポツダム少尉」を自称した人物によって広められた一面もある。
このような昇進は少尉に限ったものではないが、少尉が士官と認められる最低の階級(それより下の兵とは大きく軍内での扱いが異なった)だったことや、学徒出陣によって、見習士官(身分上は士官学校生と同等)の多くが従軍期間に関わらず少尉とされた。士官が退官手当や恩給の支給額において(下士官よりも)有利になるとの配慮からとされている。
大学生からの学徒出陣者の多くは「ポツダム少尉」になってから復学し、大学卒業後に要職に就いた。現役軍人の大半が公職追放されたのに対して学徒出陣者は公職追放の対象とならずに戦後に公務員になれたために上級公務員の中には多くのポツダム少尉が含まれることになった。

宋美齢 1945年8月15日の日本の敗戦とそれに伴う中華民国による台湾接収を受けて、中華民国籍となる。登輝は京大に復学して学業を継続するか悩んだ後、新生台湾建設に貢献すべく帰国を決意する。日本軍が台湾から撤退した後の1946年春に台湾へ帰り、同年夏に台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。
呉克泰の証言では、登輝は、彼の要請を受けて、台湾に帰国後間もない1946年9月に中国共産党に入党。同年発生した米軍兵士による北京大学生強姦事件に抗議する反米デモや翌1947年の国民党による二・二八事件に反発する暴動などに参加した。二・二八事件では登輝は台湾人および日本人としての経歴から、この事件で粛清の対象になる可能性が高かったため、知人の蔵に匿われた。この頃の登輝については、複数の証言があるが、共産党員としての活動期間は概ね2年間とされる。
【二・二八事件】
二・二八事件は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中国国民党政権による長期的な白色テロ、すなわち民衆弾圧・虐殺の引き金となった事件。 1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。

このことに関して、共産党員になるには党組織による観察が一年以上必要なので、台湾に引き揚げてから二・二八事件が発生するまでに共産党員になるのは不可能だとする意見もあったが、2002年に行われたインタビューで、登輝自身がかつて共産主義者であったことを認めた。登輝は同インタビューの中で、「共産主義理論をよく理解しており、共産主義は失敗する運命にあることを知っているので、共産主義には長い間反対していた」と述べた。さらに自身の国民党への強い憎悪のために共産主義に傾倒したとも述べている。また、当時毛沢東が唱えていた新民主主義を研究していた新民主同志會に所属して後にこの組織が共産党に引き継がれてから「離党」したので「入党」ではないと疑惑を否定した。
**何故、それほど憎悪していた国民党に入党したのか。当時政治家として成功するためには国民党に入らざるを得ない。習近平氏が安倍氏に「安倍さんは首相になるために自民党に入った。私が共産党に入ったのも同じ理由だ。」本来政治家とはそうあるべきものなのかも。
同様に彼がキリスト教に入信したのも、西欧人達と対等に話を出来るようにするためか。明治期の多くの知識人がキリスト教に入信したの同じ理由か。


1948年に農学士の称号を得る。1949年8月、台湾大学を卒業し、同大学農学部の助手として採用された。同年2月には、淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵(中国語版)と見合いにより結婚。なお、1949年は国共内戦での国民党軍の敗北が明らかとなり蔣介石政権が台湾に逃れてきた時期にあたり、5月19日には臨時戒厳令が台湾全域に施行され、登輝も9月に台湾省警備総司令部による検挙を受けた。

アメリカ留学時代
1950年に長男李憲文をもうけ、1952年に中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学で農業経済学を研究した。1953年に修士学位を獲得して帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学の講師として勤務することになった。
その後1957年に中国農業復興聯合委員会(農復会)に就職、研究職としての職歴を重ねた。同時に台湾大学助教授を兼任した。1961年にキリスト教に入信する。
1965年、ロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル大学に留学する。同大学では農業経済学を専攻する。1968年5月にPh.D.(農業経済学専攻)を取得。その博士論文 Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 (1895年から1960年の台湾の経済発展におけるセクター間の資本の流れ)は全米農業経済学科賞を受賞し、1971年にコーネル大学出版社から出版されている。博士号を受けて1968年7月に台湾に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任した。

この当時42歳で、留学生の間では最年長だった彼は、週末になると若い学生を自宅に招き、ステーキをふるまうことが多かった。そのため、当時のあだ名が「牛排李」(ビーフステーキの李)だったというエピソードがある。このころ彼の家に招待されていた者の中に、後に蒋経国暗殺未遂事件を起こす黄文雄・鄭自才がおり、このことが後述するタイへの出国不許可につながることになる。

政界進出
1969年6月、登輝は憲兵に連行されて警備総司令部の取調べを受ける。最初の取調べは17時間にも及びその後1週間拘束された。この経験から李登輝は台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心したと後年述べている。このとき、彼の経歴を洗いざらい調べた警官に「お前みたいな奴なんか蔣経国しか使わない」と罵られたという。1970年、国際連合開発計画の招待によりタイ・バンコクで農業問題の講演を依頼されたが、同年4月に蔣介石の息子で当時行政院副院長の役職にあった蔣経国の暗殺未遂事件が発生し、犯人の黄文雄とアメリカ留学時代に交流があったため政府は「観察中」との理由で出国を認めなかった。
**蔣経国は、蒋介石の息子(長男)で政権を引き継ぐ。息子は既に父のやり方を変革する意図があって、李登輝を重用したのかもしれない。李登輝さんは国民党から敵視されていた要注意人物ではなかったのか?
**白色テロ:台湾において白色テロとは、二・二八事件以降の戒厳令下において中国国民党政府が反体制派に対して行った政治的弾圧のこと。1987年に戒厳令が解除されるまでの期間、反体制派とみなされた多くの国民が投獄・処刑された。戒厳令が解除された後、台湾政府は正式に謝罪し、犠牲者に対する補償のための財団を設立した。
この時期農復会の上司であった沈宗瀚と徐慶鐘、または蒋経国側近の王昇・李煥の推挙により、1971年8月(または1970年)に専門家として蔣経国に農業問題に関する報告を行う機会を得て、その知遇を得ることになった。そして蔣経国により国民党への入党を勧誘され、同年10月、経済学者の王作栄の紹介により国民党に入党している。

行政院長に就任した蔣経国は本省人エリートの登用を積極的に行い、登輝は無任所大臣に当たる政務委員として入閣した。この時49歳であり、当時最年少での入閣であった。以降6年間、農業専門の行政院政務委員として活動した。

その後1978年、蔣経国により台北市長に任命される。市長としては「台北芸術祭」に力を入れた。また、水不足問題の解決等に尽力し、台北の水瓶である翡翠ダムの建設を行った。さらに1981年には台湾省主席に任命される。省主席としては「八万農業大軍」を提唱し、農業の発展と稲作転作などの政策を推進した。この間の登輝は、派閥にも属さず権力闘争とも無縁で、蒋経国を始めとする上司や政府中枢の年配者の忠実な部下に徹した。

1984年、蔣経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会第7回会議で行われた選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。蔣経国が登輝を副総統に抜擢したことについて登輝自身は「私は蔣経国の副総統であるが、彼が計画的に私を後継者として選んだのかどうかは、本当に知らない。しかし、私は結局彼の後を引き継いだのであり、これこそは歴史の偶然なのである。」と語っている。1982年に長男の憲文を上咽頭癌により32歳の若さで喪う不孝に見舞われているが、その子・坤儀も女児であり、李家を継ぐ男児がいなくなったことから、蒋経国の警戒を解き、側近中の側近といわれていながらも左遷された王昇らとの明暗を分けたともいわれる。

中華民国総統として
1988年1月13日、蔣経国が死去。蔣経国は臨終の間際に登輝を呼び出したが、秘書の取次ミスにより、臨終には立ち会えなかった。任期中に総統が死去すると副総統が継承するとする中華民国憲法第49条の規定により、登輝が総統に就任する。国民党主席代行に就任することに対しては蔣介石の妻・宋美齢が躊躇し主席代行選出の延期を要請したが、当時若手党員だった宋楚瑜が早期選出を促す発言をしたこともあり主席代行に就任する。7月には第13回国民党全国代表大会で正式に党主席に就任した。

しかし登輝の政権基盤は確固としたものではなく、李煥・郝柏村・兪国華ら党内保守派がそれぞれ党・軍・政府(行政院)の実権を掌握していた。この後、登輝はこれらの実力者を牽制しつつ、微妙なバランスの中で政権運営を行っていった。
1989年には党秘書長の李煥と行政院長の兪国華を争わせて兪を追い落とし、その後釜に李煥を就任させた。この時、後任の秘書長に登輝の国民党主席就任を支持した宋楚瑜を据えた。

第8期総統(1990年 - 1996年)
1990年5月に登輝の代理総統の任期が切れるため、総統選挙が行われることになった。 党の中央常務委により1月31日に登輝を党推薦の総統候補にすることが決定され、登輝が誰を副総統候補に指名するか注目されたが、登輝が2月に指名したのは、李煥などの実力者でなく総統府秘書長の李元簇だった。

これに反発した党内元老らは党推薦候補を確定する臨時中央委員会全体会議で決定を覆すことを画策し、これに李煥・郝柏村らも同調した。反李登輝派は、投票方式を当日に従来の「起立方式」から「無記名投票方式」へ変更したうえで造反した人物を特定されずに正副総統候補の選任案を否決しようとしたが、李登輝派がこの動きを察知してマスコミにリークして牽制、登輝は李元簇とともに党の推薦を受けることに成功した。

その後も反李登輝派は、台北市長・台湾省主席で登輝の前任者でもあった本省人の林洋港を総裁候補に、蒋経国の義弟である蒋緯国を副総統候補に擁立し、国民大会で争う構えを見せた(このときの総裁選挙は、国民大会代表による間接選挙方式であった)。かつて登輝を支持した趙少康ら党内改革派も「李登輝独裁」を批判したが、政治改革を支持する世論に支えられた登輝は票を固め、党内元老の調停の結果、林洋港・蒋緯国いずれも不出馬を表明した。一連の「2月政争」を制した登輝は党内地位を確固たるものとし、3月21日の国民大会において信任投票により登輝と李元簇が総統・副総統にそれぞれ選出された。

同時期、台湾では民主化運動が活発化しており、国民政府台湾移転後一度も改選されることのなかった民意代表機関である国民大会代表及び立法委員退職と全面改選を求める声が強まっていた。1989年に国民大会で、台湾への撤退前に大陸で選出されて以来居座り続ける、「万年議員(*選挙で選ばれていない議員)」の自主退職条例を可決させていたが、1990年3月16日、退職と引き換えに高額の退職金や年金を要求する国民大会の万年議員への反発から、「三月学運」が発生した。登輝は学生運動の代表者や民主進歩党(民進党)の黄信介主席らと会談し、彼らが要求した国是会議の開催と憲法改正への努力を約束した。第8代総統に就任した当日の5月20日には、「早期に動員戡乱時期(中国語版)を終結させる」と言明し、1979年の美麗島事件で反乱罪に問われた民主活動家や弁護士など、政治犯への特赦や公民権回復を実施した。6月に朝野の各党派の代表者を招き「国是会議」が開催され、各界の憲政改革に対する意見を求めた。

国是会議の議論に基づいて、1991年5月1日をもって動員戡乱時期臨時条款は廃止され(戒厳体制の完全解除)、中華民国憲法増修条文により初めて中華民国憲法を改正した。これにより国民大会と立法院の解散を決定し、この2つの民意代表機関の改選を実施することになった。これによって、「万年議員」は全員退職し、同年12月に国民大会、翌1992年12月に立法議員の全面改選が行われ「万年国会」問題は解決された。

1991年6月、登輝は対立が決定的になった李煥に代わって郝柏村を行政院長に指名した。郝も先の総統選挙では「李登輝おろし」に関わっており、台湾世論では驚きをもって受け止められ、民進党や改革派は三軍に絶大な影響力を持つ実力者の指名を「軍人の政治干渉」として反発した。当時登輝は治安回復などを郝指名の理由としたが、真の狙いは「国民党の支配下にあった軍を国家のものにすること」にあった。実際、登輝はシビリアン・コントロール(文民統制)の原則に従って郝を国軍から退役させたため、郝の国軍に対する影響力が弱まり、国軍の主導権も登輝が握ることになる。その後、登輝と事実上の共闘関係を結んでいた民進党が郝を攻撃し、離間により李煥と連携できない郝は守旧派をまとめられずに1993年に総辞職に追い込まれた。登輝は後任の行政院長に側近の連戦を据え、行政院の主導権も握った。

権力を掌握した登輝は、より一層の民主化を推進していくことになる。1992年には「陰謀犯」による内乱罪を規定していた刑法100条を立法院で修正させて、「台湾独立」などの主張を公にすることを可能にし、その後海外にいた独立活動家らも無罪にされた。
この民主化は「静かな革命」と呼ばれ、李登輝は「民主先生(ミスター・デモクラシー)」とも呼ばれた。李登輝は司馬遼太郎との対談で、「夜ろくろく寝ることができなかった。子孫をそういう目に二度と遭わせたくない」と述べており、台湾人を苦しめた法律、組織を次々と廃止、蔣介石の残党を巧みに追放し、野党の民進党を育て、民主化を進めた。

1994年3月31日に発生した千島湖事件について、「中国共産党の行為は土匪と同じだ。人民はこんな政府をもっと早く唾棄すべきだった」「(事件について穏便に言った方がよいという意見に対して)こんなときはガツンとやるに限るんだ。そうすると中国人はおとなしくなる。下手に出るとつけあがるよ。日本は中国に遠慮して、つけあがらせてばかりじゃないか」と述べており、土匪という激烈な言葉で中国を激しく批判したことから、台湾で波紋を呼び、中国からの武力攻撃を心配する声もあったが、その後、中国の李鵬首相が陳謝し、哀悼の言葉を述べている。

1994年7月、台湾省・台北市・高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙が実施された。さらに登輝は総統直接選挙の実現に向けて行動した。しかし国民党が提出した総統選挙草案は、有権者が選出する代理人が総統を選出するというアメリカ方式の間接選挙を提案するものであった。それでも登輝はフランス方式の直接選挙を主張し、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することが賛成多数で決定された。同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めた。

第9期総統(1996年 - 2000年)
1996年、初めての総統直接選挙が実施される。この選挙に際して中華人民共和国は台湾の独立を推進するものと反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される軍事演習を実施、ミサイル発射実験をおこなった。アメリカは2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中国を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まった(第三次台湾海峡危機)。北京政府の意図に反して、これらの圧力は却って台湾への国際的な同情と登輝への台湾国民の支持を誘う結果となり、登輝は54.0%の得票率で当選して台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任した。「民主の大いなる門が、たった今、台湾・澎湖・金門・馬祖地区で開かれた」と声明を読み上げた後、「三民主義万歳、中華民国万歳、台湾人民万歳」と締めくくって大歓声を浴びた登輝は、政治家としての絶頂期を迎える。

総統に再任後は行政改革を進めた。1996年12月に「国家発展会議」(国是会議から改称)を開催したが、この会議の議論に基づいて1997年に憲法を改正し、台湾省を凍結(地方政府としての機能を停止)することが決定された。これによって台湾省政府は事実上廃止となった。
2000年の総統選挙では自身の後継者として副総統の連戦を推薦して選挙支援を行なうが、この選挙では国民党を離党した宋楚瑜が総統選に参加したことから、国民党票が分裂、最終的には民進党候補の陳水扁が当選し、第10期中華民国総統に就任した。これにより台湾に平和的な政権移譲を実現したが、野党に転落した国民党内部からは登輝の党首辞任を求める声が高まり、2000年3月に国民党主席職を辞任した。

外交・両岸関係
外交においては、蒋経国政権末期の路線を引き継ぐ形で、従来の「中華民国は中国全土を代表する政府」という建前から脱却し、「弾性外交」と呼ばれる現実的な外交を展開。正式な国交がない諸国にも積極的に訪問した。
1989年にはシンガポールを訪問して蒋経国の盟友であったリー・クアンユー首相と会見するが、この際シンガポール側が李登輝を「中華民国総統」ではなく「台湾から来た総統」という呼称を用いたものの、登輝は「不満だがその呼称を受け入れる」と表明した。香港で行われた中台のオリンピック委員会トップによる協議で台湾のスポーツ団体の中国語名称を「中華台北」とすることで合意した。また、1990年にGATTには「中華民国」ではなく「台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域」の呼称で加盟し、北京で行われた1990年アジア競技大会に1970年バンコク大会以来20年ぶりに参加し、両岸のスポーツ直接交流が始まった。1991年にはAPECにも「中華台北」の呼称で加盟している。
両岸問題では、1991年に「中国大陸と台湾は均しく中国であり、一つの中国の原則に基づいて敵対状態を解除して統一に向けて協力する」と定めた国家統一綱領を掲げ、密使を通じて大陸の曽慶紅らと接触して窓口機関の海峡交流基金会を設置してシンガポールで辜汪会談を実現させるなど当初は中台統一に積極的だった。1993年にはそれまで香港とマカオを介した間接貿易のみだった大陸への直接投資を解禁した。

しかし、動員戡乱時期を終結させて以来、北京政府は登輝のことを「隠れ台独派」とみなしており、登輝自身も後述する二国論を「いつかは言わねばならないと機会をうかがっていた」と回想する。リー・クアンユーとは蜜月関係にあったが、1994年9月にリーから「台湾は中国の一部で、何十年かかろうとも将来は統一に向かわねばならない」と水を向けられたのをきっかけに登輝が態度を硬化し、両者の交流は途絶えた。

1995年に登輝が訪米を実現して中華民国のプレゼンスを国際社会にアピールすると、北京政府は露骨な強硬姿勢をとるようになった。1996年に総統に再選された後は登輝の武力行使放棄提案(李六条、李六点)を拒絶した大陸の江沢民政権の「文攻武嚇」(李登輝を批判し、武力を以て威嚇する路線)によって台湾海峡ミサイル危機が起き、登輝は「台湾独立」を意識した発言を強めていくことになる。1999年7月、ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレのインタビュー中で両岸関係を「特殊な国と国の関係」と表現、二国論を展開した。この発言には、10月1日の国慶節で「一国二制度」を前面に打ち出して台湾との統一交渉を開始しようとする北京政府を牽制する意図があった。同年12月にも、アメリカの外交専門雑誌『フォーリン・アフェアーズ』の論文で「台湾は主権国家だ」と記述し、台湾独立を強く意識する主張を行った。

2013年5月、李登輝は台湾人のルーツをたどれば中国大陸からの移民が多いとしつつも、「私がはっきりさせておきたいのは、『台湾は中国の一部』とする中国の論法は成り立たないということだ。四百年の歴史のなかで、台湾は六つの異なる政府によって統治された。もし台湾が清国によって統治されていた時代があることを理由に『中国(中華人民共和国)の一部』とされるならば、かつて台湾を領有したオランダやスペイン、日本にもそういう言い方が許されることになる。いかに中国の論法が暴論であるかがわかるだろう。もっといおう。たしかに台湾には中国からの移民者が多いが、アメリカ国民の多くも最初のころはイギリスから渡ってきた。しかし今日、『アメリカはイギリスの一部』などと言い出す人はいない。台湾と中国の関係もこれと同じである」と述べている。

経済
李登輝は12年間の総統時代に力を注いだのは、農業の発展で生まれた過剰資本と過剰労働力を使用して中小工業を育成するという「資源配分」であり、そのやり方は日本の発展が偉大な教師であり、日本と台湾が歩んできた経済発展の道は、外国資本と技術を当てにした「北京コンセンサス」とも、規制緩和と国有企業の民営化と財政支出の抑制を柱にした「ワシントン・コンセンサス」とも異なる方法であったと回顧している。

総統職を退いた後は台湾独立の立場を明確にした。「中華民国は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに正名を定めるべき」と主張する台湾正名運動で総召集人を務め、2001年7月には国民党内の本土派と台湾独立活動家と共に「台湾団結連盟」を結成した。形式上では既に政界を引退していたものの、独立運動の精神的な指導者と目されるようになる。このため同年9月21日に国民党中央考核紀律委員会により、反党行為を理由に党籍剝奪の処分を受けた。国民党を離れたため、その後は台湾独立派と見られる民進党と関係を深めていく。2003年9月には「もはや中華民国は存在しない」と発言して台湾独立への意思を鮮明にした。2004年の総統選挙では、選挙運動中の同年2月28日、台湾島の南北約500kmを約200万人の市民が手をつないで「人間の鎖」を形成する台湾独立デモを主催するなど、民進党候補の陳水扁を側面支援した。

しかし次第に陳水扁を批判するようになり、民進党とも距離を置くようになる。2007年1月には、メディアのインタビューを受けた際に、“私は台湾独立とは一度も言ったことがない”と発言して、転向かとメディアに騒がれる出来事もあったが、台湾の声によれば、インタビュー本文には「台湾は既に独立した国家だから、いまさら独立する必要はない。民進党は政治利用に独立を持ち出すのは控えるべき」と発言したことが明記されている。

2008年の総統選挙ではなかなか民進党の総統候補である謝長廷の支持表明をせず、しびれを切らした後援会が勝手に支持を表明する事態が発生したが、2008年3月の選挙直前に謝を「台湾が主権国家であるとはっきり言える人物」として支持表明。しかし、国民党総統候補馬英九の当選後は産経新聞のインタビューに対し、馬に協力する意向を示した。 地位によって政治的主張が異なる人物のため、台湾国内では「台湾独立を諦めていないが、駆け引き上手な現実主義者」というイメージが強いとされる。

2011年6月、9期目在任中の1997年から退任する2000年までの間に国家安全局の裏帳簿から自身の創立したシンクタンク「台湾総合研究院」へ、780万米ドル(6億2700万円)を運営資金として流しまた一部を着服した公金横領とマネーローンダリングの罪で、中華民国最高検察庁に起訴された。2013年11月15日、台北地方法院で無罪判決が言い渡された。
台湾第四原子力発電所について、2013年4月に李登輝ははっきりと核四の住民投票に行くことはないと表明し、「もし原子力発電を維持できなければ、台湾の未来はどこへ行くのか? 風力や太陽エネルギーでエネルギー源を置き換えようとするのならば、これらの代替エネルギーは「コントロールする術が無く」、不安定過ぎて台湾の電力需給に応えられない」、「原子力発電方式は改変すべきであり」と語り、人民の台湾電力および政府に対する信頼の欠如に至っては、「台湾電力は民間に開放すべきで、例えば6社の民営電力会社に分割して小規模で進めれば、このように大きな問題は発生することはあり得ない」と主張した。
2012年4月から、「生命之旅」と称して台湾各地を視察する旅に出ている。どんな姿であれ、最後は玉山(旧称・新高山)で終わりたいという胸の内を周囲に語っている。

2013年12月、台湾で同性婚を容認する多元成家法案に対し、「私はキリスト教徒だ。聖書に何と書かれているか見てみるべきだ」と発言し、反対の立場を表明した。2016年12月には「我々の社会は自由があるだろう。男女は自由だし、どう自由にしても構わないが、家庭が必要なら子供を産むのも必要だという関係だ。家族の継続は十分に維持されなければならず、宗教上私の立場ではどうしても同意しない」と語った。
2016年7月30日、石垣島を訪問し、台湾農業者入植顕頌碑などを参観し、日台交流について講演した。訪問の際に食べた石垣牛の美味しさに感動し、台湾和牛の産業化を研究し始め、陽明山擎天崗で戦前移入された但馬牛(見島牛とも)の末裔の牛を購入し、若い頃働いていた花蓮の牧場施設を借り育成事業を開始。初めて繁殖に成功した仔牛を「源興牛」と名付けた。

2020年2月、自宅で牛乳が気管に入ったことで誤嚥性肺炎となり入院。7月に入って体調が急激に悪化。同月29日には蔡英文総統、頼清徳副総統、蘇貞昌行政院長らが見舞いに訪れた。翌30日19時24分頃、入院先の台北栄民総医院で死去。97歳だった。
2020年10月7日に、告別追悼礼拝を新北市淡水の真理大学大礼拝堂で行い、その後、国軍管轄施設である五指山軍人墓地内の「特勲区」に遺骨を埋葬された。

李登輝 人物像
司馬遼太郎や小林よしのりとの対談でも時間を忘れるほど熱心に語る雄弁家である。新婚時代、新妻に対しても遠慮なく農業政策を語り続けたため、農業には無知だった夫人も話を合わせるために農業を勉強したという。
李登輝は中国の政治家を全面否定するわけではなく、胡錦濤やその後続世代の習近平、李克強を「地方で鍛えられた優秀な政治家」と高く評価し、日本の政治家を「東京や法律でしかものを考えられない人ばかり」と批判していた。
文学・思想
中学・高校時代に鈴木大拙・阿部次郎・倉田百三・夏目漱石らの日本の思想家や文学者の本に触れ、日本の思想から影響を受ける。また、日本の古典にも通じており、『古事記』・『源氏物語』・『枕草子』・『平家物語』などを読む。宗教に関しては、キリスト教長老派を信奉した。また、台湾総督府民政長官を務めた後藤新平を「台湾発展の立役者」として高く評価していた。
ちなみに、若手育成のために開いた「李登輝学校」の卒業生らが、李登輝が漫画『魁!!男塾』の登場人物の江田島平八に似ているということで、PR向けに江田島平八のコスプレを行ったことがある。これについて、主に国民党議員から「日本びいきだ」、「植民地支配肯定」などとの批判が起きた。

熱心なキリスト教徒で、総統退任後は「山地に入りキリスト教の布教をしたい」と語っていたが、さらなる民主化のため「台湾団結同盟」を自ら主導して創立した。また、『旧約聖書』の「出エジプト記」についてよく話していた。

台湾の同世代に顕著なことだが、かつて台湾政府の要職を経験していながら一番得意とされる言語は日本語といわれる。それについで台湾語、英語となり、一番苦手なのは北京語で、非常に台湾訛りが強い。北京語で質問されると、それを日本語に訳して意味を理解し、日本語で回答を考えてから北京語に訳すという、日本人と同様のプロセスで返答していたことから、外省人の記者たちからは「李登輝の北京語は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか」と言われていた。この不得手さを逆手にとって、宋美齢の側近に「宋美齢の北京語は浙江訛りが強いため、今後用件は文書で送付するように」と要請、発言を記録化し宋美齢の権力を失墜させた。

**総じて台湾人(本省人達)は、北京語は不得手。でも、これは中国が元々多民族国家であることからやむを得ない。シンガポールの漢人だってお年寄りは北京語は知らない。華僑たちの故郷は中国の南方系だからやむを得ないだろう。でも、若者たちは学校で北京語を必修として教わるようだ。

上記のように、日本文学を多く読み、岩波文庫の蔵書数を誇ったり、日本のオピニオン雑誌『中央公論』『文藝春秋』を愛読するなど、情報処理や思考の面で多く日本語が介在したとされる。そのため、記者会見など公の場でも特定の単語を日本で使用される呼称をそのまま現地語で発音することがあり、台湾では「波斯(ペルシア)湾戦争」と表記される湾岸戦争を「湾岸戦争」のまま中国語読みしていた例も確認されている。文恵夫人を日本語読みで「フミエ」と呼ぶこともある。なお、娘たちの学習は自由意志に委ねており、2人とも本格的な日本語教育を受けず英米に進学した。

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中井久夫

中井久夫 中井 久夫(なかい ひさお、1934年1月16日~2022年8月8日) 医学者・精神科医。専門は、精神病理学・病跡学。神戸大学名誉教授。学位は、医学博士(京都大学・論文博士・1966年)。文化功労者。昨年亡くなられた。88才? 一般向けの著作も多く啓蒙活動にも熱心な方であったようだ。日本の精神病理学第2世代を代表する人物である。専門は統合失調症の治療法研究。NHKの100分で名著において紹介された。統合失調症と診断された方々は我々の身の回りに結構沢山いる。治らない病と言われているがそんなことは無いようだ。

風景構成法
中井が1969年に考案した風景構成法 (Landscape Montage Technique) は、心理療法におけるクライエント理解の有力なツールとして、日本で独自に創案・開発されたものである。ロールシャッハテストのような侵襲性が高いものとは異なった視点から、クライエントの現況を推察できる。また中井は精神分析学者のナウムバーグのなぐり描き法や、英国の児童精神科医であるドナルド・ウィニコットのスクイグルを日本に紹介した。中井自身は1982年に色々な出てくるイメージのいくつかを限界吟味するという相互限界吟味法を創案している。中井が紹介したこれらの手法は日本で独自の発展を見せ、山中康裕によるMSSM法などが生まれる契機を作った。

統合失調症
著作集の初期から中期にかけての難解ともいえる統合失調症(精神分裂病)理論は、非常に高い水準に達していると評価されている。また米国の精神科医であるハリー・スタック・サリヴァン(H.S.Sullivan)の統合失調症理論を取り入れ、日本の臨床場面に広く普及・浸透するのに貢献した。「関与しながらの観察 (participant observation)」等の臨床家に対する箴言はその一端である。

PTSD
阪神・淡路大震災(1995年)に際して被災者の心のケアにあたったことを契機に、近年では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の研究・紹介を精力的に行っており、米国の精神科医ジュディス・ハーマン (J.L.Herman) の「心的外傷と回復」の翻訳も行っている。中井は「医師が治せる患者は少ない。しかし、看護できない患者はいない」と、看護師を対象に記した『看護のための精神医学』で述べており、精神科医療に関わる看護師の教育にも尽力している。この本は、看護師のみならず臨床心理士やケースワーカー等の臨床に携わる者にも多くの示唆を与えている。米国では正義なき戦いと言われたベトナム戦争からの帰還兵に多発し社会問題に発展している。

文学
ラテン語や現代ギリシャ語、オランダ語にも通じた語学力を活かし、詩の翻訳やエッセイなどで文筆家としても知られている。中井は、「ポール・ヴァレリーの研究者となるか科学者、医者となるかかなり迷った」と語っている。ギリシャの詩人カヴァフィスの全詩集翻訳により読売文学賞受賞。また歴史(哲学史)にも通暁しており、その一端は代表作『治療文化論』、『西欧精神医学背景史』などでも窺い知ることができる。無類の軍艦好き・船舶好きでもある。子供のころから『ジェーン海軍年鑑』を読んでいたため、昭和9年生まれながらも戦時中の日本軍の戦果発表が誇張されていることに気づいていたと語っている。

中井さん説では、精神疾患になりやすいという性質は、狩猟社会においては非常に重要な能力であったとする。他の人に見えない未来を予見し、ストレスを敏感に察知。古代社会の予言者なんてこんな人ばかりだったかも。現代社会では、社会生活不適応なヒトとして差別され隔離処置。だから色々な精神疾患は現在では医学の進歩?にもかかわらず、過去に比べて増加する傾向に。治療概念の抜本的見直しも必要。

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梁英姫

梁 英姫(ヤン ヨンヒ、1964年11月11日~):
梁英姫 日本の映画監督。現在創作活動にはヤン ヨンヒを用いるように変えた。チョット待って、国籍は韓国みたいだ。ヤン ヨンヒ(양용희)。韓国の人、何故か最近は漢字を使いたがらない。いわゆる民族主義。漢字は中国人の発明だからハングル一点張りで行こう。だから日本育ちの彼女は日本人である。

1964年11月11日、大阪府大阪市生野区生まれ。在日朝鮮人2世。幼いときから民族教育を受けた。 両親は在日本朝鮮人総連合会の幹部。父親は北朝鮮から勲章をもらえるほど熱烈な活動家。両親のもと朝鮮学校で民族教育を受けた。1971年~1972年、両親が3人の兄を帰還事業で北朝鮮に送る。兄らはそこで家族を持ったが、親からの仕送りで生活。一番下の兄は梁が帰国事業も総連も在日も何もわからない頃に1度監視人付きで日本に帰ってきて、突然北朝鮮に帰ることになって怒ったことがある。東京の朝鮮大学校を卒業。1987年から1990年まで、大阪朝鮮高級学校にて国語教師を務める。その後、劇団女優やラジオパーソナリティとして活動。

1995年より、ドキュメンタリーの映像作品を発表。1997年から2003年まで、ニューヨークに滞在。ニュースクール大学大学院コミュニケーション学部メディア研究科にて修士号を取得。2004年、韓国国籍を取得。2005年、初の長編ドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』を発表する。この映画がヒットしたようだ。こちらの詳細はNHKのドキュメンタリーに。2013年2月「第85回アカデミー賞」授賞式での外国語映画賞の日本代表に選ばれる 。

梁は「在日だけが苦労しているみたいな言い方が一番嫌いで、兄が平壌・自身が在日での苦労はあったが、夫からのDVの経験もないし親も仲がよかった。しかし、そこで苦労をしてきた人もいて、人それぞれ違うものを背負っている。映画館が沢山ある日本で暮らしているのに観ない若者が多いのはあり得ないと思っている。北朝鮮の人は韓国ドラマを命懸けで観ていて、見つかれば罰が厳しいのに他の国の生活を知りたいからとし、政治で引き裂かれている家族が多いかというのも分かる。」と語っている。

2012年12月のトークショーでは『かぞくのくに』は、ヤンの実体験が元で、「映画では北朝鮮に渡った兄が1人になっているが実際は3人いる。一番下の兄が日本で3か月治療出来る特殊でまれな許可をもらったが、よく分からない内に3か月経たずに帰った」と語った。映画について「ほぼ実話で、北朝鮮で病気を持っていても実際の兄らは今も生きている。映画にしていない長男は躁鬱病を患って2009年に他界した」と観客に語った。ヤン監督は、北朝鮮の組織から電話を受け「謝罪文を書くように」脅された過去を持ち「何について、誰に謝罪するのか分からなかった」、「政府や団体がなにかしら言ってくるのは変だと思い、謝罪文の代わりに『愛しきソナ』を作った」と語ったが、それによって北朝鮮への入国が禁止になったことも話した。「いつか兄たちと共に、私の映画が楽しめる日が来ると信じている。家族に会えないのは寂しいが、作品を通して自身の気持ちを表現しようと決めた。家族を守るため、公式の問題児として有名になりたい。私の名が知られて世界中に作品を見てもらうことによって、“あの家族に触れるのは止めよう”と思われないと家族を守れない」「どんどん取材を受け、映画祭もなるべく参加して、現地で語っています」と思いを語った。観客席にいた在日コリアン3世の若い女性に「朝鮮籍のパスポートは大変だけど、渡航出来る国は沢山ある。国籍に悩むより、様々な国を訪ねて友達を作って勉強し、その後で国籍を考えればいい。そのままでいいと思うようになら、そのままでもいいと思う」と自身の考え方を述べた。

オモニの島 わたしの故郷 〜映画監督・ヤンヨンヒ〜
NHK: 初回放送日: 2023年1月21日
在日コリアン2世の映画監督・ヤンヨンヒさん。日本と北朝鮮に引き裂かれた自らの家族を描いてきたヨンヒさんが最新作でカメラを向けたのは母親の壮絶な体験、朝鮮半島の南の島で起きた虐殺事件、チェジュ島4・3事件だった。映画は去年秋、韓国でも公開、大きな話題を呼んだ。なぜ兄たちを北に送ったのか、母親の真実に向き合うヨンヒさん。自分は何者の娘なのか、映画を通じて問い続けてきた半世紀にわたる心の軌跡を見つめる。 今では観光客を集める韓国のハワイとでもいうべき済州島で起きた島民への大虐殺事件。米軍支配下の基、李承晩政権が引き起こしたもの。韓国政府も真相は伏せたまま。ヤンさんの母親が絶対に韓国に心を許さないのは家族を殺され日本に亡命して一人助かった過去があるから。もちろん、北朝鮮が好きな訳でもない。

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團藤 重光

團藤 重光 團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日~ 2012年6月25日):
東大退官後、1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで最高裁判所判事に就任した。GHQ支配下において日本の民主的裁判の在り方を模索し悩みぬいた特筆すべき最高裁判所判事法学者である。専門は、刑法・刑事訴訟法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士 1962年)。東京大学名誉教授。

山口県生まれ、岡山県育ち。戦後の日本刑事法学の第一人者。大学で教鞭を執ったのち、最高裁判所判事に就任。ま死刑廃止論者の代表的人物でもあった。温厚な性格で弟子を厳しく指導することはなかったという。酒(ワイン)を嗜み、料理によって赤白を厳格に飲み分けたという。

1913年(大正2年)、山口地方裁判所検事局次席検事團藤安夫(1878年 - 1935年)の長男として、山口県吉敷郡山口町で誕生。翌1914年(大正3年)、父が弁護士に転身するにあたり、父の郷里の岡山県高梁に近い岡山市へ家族で転居。以後、團藤は高等学校卒業まで岡山において成長。團藤自身が出身地を岡山であると言及するのは、山口での生活は物心つく前の短期間にすぎず、幼少期を過ごしたのが岡山だから。1974年(昭和49年)~1983年(昭和58年)、最高裁判所判事。2012年(平成24年)、東京都内の自宅で老衰のため死去。葬儀(ミサ)は東京都千代田区麹町の聖イグナチオ教会主聖堂で行われた。墓所は雑司ヶ谷霊園の義父勝本正晃の墓所。

刑事訴訟法学
團藤の研究は刑事訴訟法から始まった。当時、民事訴訟法学においては基礎理論の研究が既にドイツでなされていたが、これに対して刑事訴訟法学の基礎理論研究は全くなされていなかった。そこで、法学部生時代に聴いた兼子一の講義の中で、兼子がジェイムズ・ゴルトシュミットの説を引用していたことに示唆を得て『法律状態としての訴訟』を読み込み、またヴィルヘルム・ザウアーの『訴訟法の基礎』を読み込み、民事訴訟法学の基礎理論を構築し、これを刑事訴訟法に応用しようとした。ザウアーが訴訟の発展過程を訴追過程、手続過程、実体形成過程の三面に分けたのに対して、團藤はそのような区分に疑問を呈し、刑事訴訟手続を手続発展過程と実体形成過程の二面として分析した。また、そのような観点から、刑事手続上の訴訟行為として実体形成行為と手続形成行為の概念を提唱した。以上の研究は助手論文として「刑事訴訟行為の無効」(法学協会雑誌55巻1号〜3号、1937年)にまとめられた。→この部分何を言いたいか不明。

その後も團藤は刑事訴訟の基礎理論の研究を進め、その構築を自身の学問上の最も重要なテーマの一つと位置づけるに至った。前述の助手論文など、刑事訴訟基礎理論に関する論文は『訴訟状態と訴訟行為』(弘文堂、1949年)に収められている。

刑法学
團藤は、師である小野清一郎と同じく後期旧派にたち、刑罰を道義的応報とした上で、犯罪論において、構成要件を違法有責類型であるとする小野理論を継承するが、小野理論が犯罪限定機能を有しなかったことから、戦時中全体主義に取り込まれた点を批判し、罪刑法定主義の見地から構成要件を形式的、定型的なものであるとしてその自由保障機能を重視する定型説を提唱した。かかる見地からは、みずから実行行為に出ていない共謀共同正犯は定型性を欠くものとして否定されるが、團藤は後掲のとおり後に改説することになる。
**要は刑罰とは何か。誰を罰するべきか罰せざるべきか。こんな基礎的なことが意外と明確にされていなかったんでしょう。

違法性の実質については、小野と同じく規範違反説をとりつつも、その内容を小野が国家的法秩序違反としていた点を批判し、法は道徳の最低限を画すものであるとの考えから、国家の制定法とは独立した社会倫理秩序違反をさすとして行為無価値論の立場をとり、後に結果無価値論に立つことを明確にした平野龍一と対立した。 責任論において、小野がとる道義的責任論とその師である牧野英一がとる新派刑法理論に基づく性格責任論との争いを止揚することを企図して、道義的責任論を基礎としつつも、二次的に背後の行為者の人格形成責任を問う人格的責任論を提唱した。

以上のように、團藤は、新派と旧派に分かれて大きく対立していた戦前の刑法理論を発展的に解消した上で継承し、戦後間もない刑法学の基礎を形成した。

刑事訴訟法においては、小野と同じくドイツ法に由来する職権主義構造を本質とする立場をとるが、現実の審判の対象は訴因だが、潜在的な審判の対象に公訴事実が含まれるとの折衷説をとる。この点を当事者主義構造を本質とする平野から徹底的に批判された。

法思想 團藤の法思想は、著書『法学入門』(筑摩書房、1974年)で体系的に明らかにされ、最高裁判事としての経験を踏まえ『法学の基礎』(有斐閣、1996年、2007年第2版)でさらに展開されている。『法学入門』はその難解さから「法学出門」であると批評された。

團藤の思想の根本にあるのは「主体的」な人間の存在である。人間は権利義務ないし法律関係の主体として、その立場から法を捉える点で主体性を有すると同時に、客観的な法を動かす原動力でありかつ担い手であるという点でも法において主体的であるとする。團藤によれば、罪刑法定主義の根拠や刑法が自己の責任に帰することができる場合にのみ刑罰を科する責任刑法であることも、根源的には人間を主体的に見ていく上で根拠付けられるものとされる。
社会的活動
現行刑事訴訟法の立法への関与
戦後の新憲法制定に伴う法制改革の際に、各種の立法に関与した。刑事訴訟法(1948年(昭和23年)制定)の立案担当者の一人である(その他の担当者として、中野次雄、植松正、岸盛一、西村宏一、佐藤藤佐など)。アメリカ刑事法に倣って逮捕要件を緩和しようと考えたがうまくいかず、代わりに準現行犯・緊急逮捕の規定を考案した。

最高裁判所判事
東大退官後、1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで最高裁判所判事に就任した。
**強制採尿(彼の考え?)
強制採尿とは、刑事事件において被疑者が捜査の過程で自分の尿を提出しない場合、医学的手段を用いて尿を採取すること。薬物四法による薬物取締りの際に問題となる。ドラッグは一定の間尿に溜まるため、ドラッグを使用した疑いのある者には尿検査が必要となるが、採尿を拒否された場合、医師の手により尿道にカテーテルを挿入して尿を採取する手段が必要となる。 しかし、このような捜査方法は個人の尊厳の冒涜に該当しかねず、また用いるべき令状は身体検査令状と鑑定処分許可状のいずれになるのかが問題となっていた。最高裁判所昭和55年10月23日第一小法廷決定は、強制採尿は最終的手段として許されるとし、令状については上記のいずれをも退け、捜索差押許可状を用いるべきであるとした。
上記の最高裁決定によると、尿を押収するには捜索・差押えの性質があるために捜索差押許可状が必要であるが、捜索・差押えの性質が一般の物と異なることから、令状は「身体検査令状に関する刑訴法218条5項が…準用されるべきであって、令状の記載条件として、医師をして医学的に相当と認められる方法により行わせなければならない旨の条件の記載」があることを条件とする。これを強制採尿令状という。強制採尿令状による採尿場所への連行については、最高裁判所平成6年9月16日第三小法廷決定で、連行は合法であるとした。

大阪空港訴訟では、毎日21時から翌日7時までの空港の利用差止めを認めるべきか否かという問題について、訴えを却下した多数意見に対して、差止めを認めるべきとの反対意見を述べた。団藤はこの訴訟の経緯をノートに記録し、没後の2023年4月に公表された内容には、第一小法廷で審理されていた段階では差し止めを認めた2審判決(大阪高等裁判所)を追認する方向だったが、被告の国が大法廷での審理を求める上申書が出された際、元最高裁判所長官の村上朝一から大法廷で審理するよう電話があったと第一小法廷の裁判長から聞き、「この種の介入は怪(け)しからぬことだ」と記していた。この団藤のノートについては、同月放映されたETV特集でも取り上げられた。
**確かに裁判所の判決は多数決原理で決めるべきものではない。空港の利用差止めは国の目指す経済的利絵優先主義には反するであろうが。

自白の証拠採否について「共犯者の自白も本人の自白と解すべきである」という補足意見を書いて、捜査における自白偏向主義に一石を投じた(もっとも、共犯者の自白が相互に補強証拠になりうるとしているため、当該事案の結論に影響はない。最判昭51.10.28参照)。 学者時代は共謀共同正犯を否定する代表的な論者であったが、最高裁判事としては、実行行為に出ていないものの、犯罪事実について行為支配を持った者を正犯として評価することを是認する肯定説の立場にたった。この点について、團藤は実務家としては判例の体系を踏まえなければならず、学者としての良心と実務家としての良心は必ずしも一致しないという見解を示している。そして團藤は、肯定説に立ちながら行為支配の理論等による修正を提唱している。

死刑廃止論
團藤は死刑廃止論者として知られているが、従来は死刑に賛成の立場であった。しかし、ある事件(この事件を名張毒ぶどう酒事件とする見解もあるが、同事件は就任前の1972年(昭和47年)の最高裁判決であるため誤りである。実際は1976年(昭和51年)の波崎事件の最高裁判決である)で陪席として死刑判決を出した際に、傍聴席から「人殺し」とヤジが飛んだ。この事件では、團藤は冤罪ではないかと一抹の不安を持っていたうえに、被告人も否認していた事件であった。これを契機として、被告人が有罪であるとの絶対的な自信がなかったこと、そして冤罪の可能性がある被告人に対して死刑判決を出したことへの後悔と実際に傍聴人から非難されたことなどから、死刑に対する疑念が出てきたとのことである。
**証拠不十分なものは無罪という古代からの原則がある。冤罪の可能性が明かにない場合も死刑は廃止すべきとするのだろうか?

最高裁判事退官後は、宮内庁東宮職参与、宮内庁参与を歴任しながら死刑廃止運動や少年法改定反対運動関連の活動など、刑事被告人の権利確立のための活動に重点を置いた。「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」と発言している。
白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年(昭和27年)1月21日に北海道札幌市で発生した、日本共産党による警察官射殺事件である。

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エドワード・テラー

エドワード・テラー アメリカ合衆国の「水爆の父」として知られる。だから大変尊敬に値する科学者かとなると疑問符が。
エドワード・テラー(Edward Teller、 もとのハンガリー名ではテッレル・エデ(Teller Ede)。 1908年1月15日~2003年9月9日)は、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ人理論物理学者。アメリカ合衆国では「水爆の父」として知られる。ローレンス・リバモア国立研究所は彼の提案によって設立された。本来の専門分野では、原子核物理学、分子物理学などで多くの業績があり、代表的なものにヤーン・テラー効果やBETの吸着等温式があるという。

1908年、オーストリア=ハンガリー帝国ブダペストで弁護士の父と、銀行家の娘で4カ国語をこなす才媛の母のもとに生まれた。テラー家は、裕福なユダヤ人知識階級であった。幼少のころから算数の才能を見せ、学校に上がる前に足し算・引き算のみならずかけ算を覚えたという逸話がある。
11歳のころの1919年3月21日、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、クン・ベーラ率いるハンガリー共産党が権力を奪取し、ハンガリー・ソビエト共和国を建国。ハンガリーの貴族や地主・資本家階級とされた人々の企業・土地といった資産をすべて没収し、国有化した。
この影響で父マックスが弁護士の職を失い、一家は貧窮。 同年8月、ハンガリー・ソビエト共和国はホルティ・ミクローシュ大将率いるハンガリー国新陸軍によって崩壊。不幸なことに、クンはユダヤ人であり、ハンガリー共産党指導部の多くもユダヤ人であった。ハンガリーの伝統的な反ユダヤ主義とホルティによる白色テロの高まりを受け、一家は1926年にハンガリーを去り、ドイツへ移住した。テラーが18歳の時であった。

テラーはブダペストで短期間化学工学を学んでおり、ドイツで高等教育を受け、そこでも同じく化学そして数学を学び、1930年にライプツィヒ大学のヴェルナー・ハイゼンベルクの元で物理学の博士号を取得した。その後、ゲッティンゲン大学で助教授として2年を過ごした。
1933年にドイツの政権を握ったアドルフ・ヒトラーが反ユダヤ主義政策を取り始めると、テラーは1934年、ユダヤ人救出委員会の助けでドイツを離れる決心をした。一時期イングランドに滞在した後、ニールス・ボーアのいたコペンハーゲンで1年を過ごし、1935年8月、アメリカ合衆国に移住した。また、その直前の1934年2月、テラーは初恋の人ミチ (Mici) と結婚している。同じハンガリー出身のレオ・シラードが、アルベルト・アインシュタインの署名入りの書簡を使ってアメリカ政府に原子爆弾の研究を働きかけた際には、ユージン・ウィグナーとともにその活動に加わっていた。

幼少時代のハンガリーでの好ましくない経験にもかかわらず、1930年に世界恐慌の波がドイツに押し寄せ、資本主義の崩壊を目の当たりにしたテラーは、社会主義・共産主義に両義的感情と興味を抱いていた。 しかし、アメリカ合衆国に渡った後、友人のレフ・ランダウがソ連政府によって逮捕されたことを伝え聞くなど、ソ連への反感を次第に強めていった。 1943年にスターリン体制の下での理不尽な裁判と粛清を描いたアーサー・ケストラーの小説『真昼の暗黒』を読んだことが決定的な契機となって、以降は根強い反共感情を抱くようになった。

水爆開発
1941年までジョージ・ワシントン大学で教鞭を執り、そこでジョージ・ガモフに出会ったテラーは、1942年、ブリッグス委員会 (Briggs committee) で働きながら、マンハッタン計画に参加する。第二次世界大戦中、テラーはロスアラモス国立研究所の理論物理学部門に所属し、核分裂だけの核爆弾から核融合を用いた超強力爆弾(水素爆弾)へ核兵器を発展させるべきだと強く主張した。1945年、ニューメキシコでの世界初の原爆実験(トリニティ実験)に立ち会い、「なんだ、こんなちっぽけなものなのか」と感想を述べたとされる。1946年にテラーはロスアラモスを離れ、シカゴ大学の教授になる。

エドワード・テラー 1949年のソビエト連邦の核爆発成功の後、1950年にロスアラモスへ戻って水爆計画に携わったテラーは、水爆を「マイ・ベイビー」と呼んでいたという。テラーとスタニスワフ・ウラムが実際に作動する水爆の設計を思い付いたとき、彼の人の手柄を自分のものとする、部下の面倒を見ないなどの性格からテラーは計画の長に選ばれなかった。テラーは再度ロスアラモスを去り、1952年、新たに設立されたカリフォルニア大学放射線研究所のローレンス・リバモア支部に加わる。1954年、身上調査の審問を受けた際にテラーがロバート・オッペンハイマーを非難したことが元で、オッペンハイマーは公職追放となり、テラーと科学者達、またオッペンハイマーとの間の溝は広がることになる。またその後は科学者からは相手にされなくなり、「水爆の父」と唯一持ち上げてくれる政治家、軍人との付き合いにのめり込んで行った。
原爆開発にかかわった多くの物理学者達が、反核へと転身し容共主義者として監視されていた時代でもある。

【アラスカ人工港計画】
1950年代に、テラーはアラスカに核爆発を利用して大規模な人工港を作るという「チャリオット作戦」を公表した。これは、アラスカには無人の荒野が広がっているという先入観があってのことだったが、そこはアメリカ大陸で最も古くから人類が住む土地であった。その結果、民族意識に目覚めたエスキモーやインディアンなどのアラスカ原住民を中心とする反対運動が高まり、この計画は幻と終わった。

1958年から1960年にかけ、テラーはローレンスリバモア国立研究所の所長になった後、カリフォルニア大学バークレー校で教える傍ら、同研究所の副所長をつとめた。1975年、テラーは引退してリバモア研究所の名誉所長に指名され、フーバー研究所のシニア研究員にも任命される。引退後もテラーは絶えず核計画推進の主張者であり続け、実験と開発の継続を訴えた。戦略防衛構想が撤回されたときにも、テラーはその最も強力な擁護者の1人だった。1982年、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンよりアメリカ科学界最高峰の栄誉とされるアメリカ国家科学賞を贈られた。
2003年9月、カリフォルニア州スタンフォードで死去。95歳だった。水爆を開発したことに関しては、核による相互確証破壊により核戦争を防げたとして、生涯肯定的な言動を行い、悔いることはなかった。
**確かに彼の言うことは一理ある。核廃絶運動に抵抗する人達も、水爆を使うことを許容しようと言う人はいないだろう。しかし、もし米国が水爆を開発しなければロシアも中国もそんなものを開発しようとはしないだろう。水爆以上の兵器? 物理学はそれも既に可能にしている。物質と反物質の接触で、超々巨大なエネルギーを発生させ後には何も残さない。対消滅と言う現象で、自然界では現実にそんなことも起こっていることも確認されている。

**マンハッタン計画(Manhattan Project):
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ、日本、ソ連などの原子爆弾開発の可能性に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。
ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。
科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、「マンハッタン・プロジェクト」とした。
**「マンハッタン・プロジェクト」は「ルーズベルト・プロジェクト」だったようだ。この時日本も先に核兵器を保有する可能性は同程度の確率で考えられていた。現に計画書も出来ていて一部実験も実施に移されてもいたようだ。広島・長崎への原爆投下は最初から計画されたものだった可能性が高い。
2003年9月、カリフォルニア州スタンフォードで死去。95歳だった。水爆を開発したことに関しては、核による相互確証破壊により核戦争を防げたとして、生涯肯定的な言動を行い、悔いることはなかった。

水爆のブレークスルーは、超高温高圧を造り出すために原子核分裂を使うことだった。水爆の威力は広島原爆の数千倍以上と言われ、Tellerに言わせればほぼ無限大と言うことだ。恐竜を滅ぼした隕石衝突を上回る威力か。人類の最終兵器と言われる所以だ。オッペンハイマー博士を含め大勢の物理学の大家が開発に消極的になったことを憤慨し、孤立無援の戦いを続けた意志強固な科学者と言えるか?
科学の暴走をどこまで許すかは人類の課題だ。

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ナオミ・クライン

ナオミ・クライン ナオミ・クライン(Naomi Klein, 1970年5月8日~ ):
カナダのジャーナリスト、作家、活動家。21世紀初頭における、世界で最も著名な女性知識人、活動家の一人として知られる。
1970年、モントリオールのユダヤ人活動家の家に生まれる。ジャーナリストとしての活動は、トロント大学在学中に学生新聞の編集長を務めたところから始まる。1999年に『ブランドなんか、いらない』を発表し、反グローバリゼーションにおけるマニフェストとしての評価を受ける。続いて2002年には、資本主義を批判する『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』を刊行。名声を確立した。
雑誌・新聞への寄稿も数多く、結婚相手のカナダ人テレビジャーナリストのアヴィ・ルイス(Avi Lewis)とは、共同でドキュメンタリー映画を作成している。2014年、『これがすべてを変える――資本主義vs.気候変動』を発表した。

ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された同書の書評で、ウィスコンシン大学マディソン校のレイチェル・カーソン記念教授であるロブ・ニクソンは、「気候に関する問いを形作る科学、心理学、地政学、経済学、倫理学、そして市民運動(activism)を一つに編み合わせた。その結果、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』以来、最も重大かつ論争を呼ぶ環境についての本となっている」と評した。同書は、マーガレット・アトウッドらによって設立されたカナダ作家トラストが授与するヒラリー・ウェストン作家トラスト・ノンフィクション賞(Hilary Weston Writers’ Trust Prize for Nonfiction)の2014年の受賞作に選ばれた。

ナオミ・クライン 2015年7月1日、正義と平和のためのローマ教皇評議会と国際カトリック開発機構連盟( International Alliance of Catholic Development Organisations (CIDSE) )が、第266代ローマ教皇フランシスコによるエコロジーに関する教皇回勅において示された課題などを議論するために共催した会議「人々と惑星を最優先に:直ちに進路の変更を」に招かれた。クラインは「驚いたが嬉しい」と語り、また環境と経済に関する現教皇の認識と積極的な姿勢を評価する発言をしている。

主張
『ブランドなんか、いらない』では、クラインがナイキ社をあまりに辛辣に批判したために、同社から正式のコメントが出されるまでになった(ナイキとしては異例の対応)。新自由主義にとってのウォール街の崩壊は、共産主義にとってのベルリンの壁崩壊に匹敵する、としている。

実は彼女は、NHKの「100分で名著」に紹介された(2023年6月)。ナオミさんとは日系人だろうか?
チリの軍事クーデター、天安門事件、ソ連崩壊、米国同時多発テロ事件、アジアの津波災害等々、大きな惨事と並行して起こった出来事を一つの視角から徹底的に検証し「強欲資本主義」とも呼ばれる経済システムが世界を席巻した原因を明らかにした著作があります。「ショック・ドクトリン」。カナダ人ジャーナリストのナオミ・クラインの代表作です。

市場原理主義を唱える経済学者ミルトン・フリードマンは、「真の変革は、危機的状況によってのみ可能となる」と述べました。ナオミ・クラインはこれを「ショック・ドクトリン」と呼び、先進諸国が途上国から富を収奪することを正当化する最も危険な思想とみなします。近年の悪名高い人権侵害は、反民主主義的な体制による残虐行為と見られてきましたが、実は民衆を震え上がらせ抵抗力を奪うために綿密に計画されたものであり、その隙に市場主義改革を断行するのに利用されてきたといいます。
「新型コロナの危機的拡大」、「CO2濃度の危機的上昇と地球温暖化の恐怖」、「ウクライナ危機による専制国家の世界支配の恐怖」。確かにどの課題も綿密に計画されメディアを通して世界中に既成事実として世界中を危機に陥れている。
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ミルトン・フリードマン

ナオミ・クライン ミルトン・フリードマン(英: Milton Friedman、1912年7月31日~2006年11月16日): アメリカ合衆国の経済学者。古典派経済学とマネタリズム、市場原理主義・金融資本主義を主張しケインズ的総需要管理政策を批判。ケインズ経済学からの転向者(転向者と言う言葉は良くないね!)。共和党支持者。1976年、ノーベル経済学賞受賞。身長152センチ。

20世紀後半におけるマネタリスト、新自由主義を代表する学者として位置づけられている。戦後、貨幣数量説を蘇らせマネタリストを旗揚げ、裁量的総需要管理政策に反対しルールに基づいた政策を主張した。

1970年代までは先進国の各国政府は、「スタグフレーション」に悩んでいた。フリードマンは、スタグフレーションのうちインフレーションの要素に対しての姿勢や政策を重視。また、経済に与える貨幣供給量の役割を重視し、それが短期の景気変動および長期のインフレーションに決定的な影響を与えるとした。特に、貨幣供給量の変動は、長期的には物価にだけ影響して実物経済には影響は与えないとする見方であり、(貨幣の中立性)、インフレーション抑制が求められる中で支持された。1976年 これらの主張により、ノーベル経済学賞を受賞した。

ハンガリー東部(現在はウクライナの一部となっているザカルパッチャ州Berehove)からのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれる。父親は工場経営者・資本家で、ナオミ・クラインは絶望工場的な場所だったと指摘している。 **ナオミ・クラインさんは、いま新自由主義をジャーナリストの観点から世界的な大問題と指摘して、注目を浴びている。

奨学金を得て、15歳で高校を卒業した。ラトガーズ大学で学士を取得後、数学と経済学のどちらに進もうか悩んだ結果、世界恐慌の惨状を目にしたこともあって、シカゴ大学で経済を専攻し、修士を取得した。さらに、コロンビア大学でサイモン・クズネッツ(1971年ノーベル経済学賞受賞)の指導を受け博士号を取得した。コロンビア大学と連邦政府で働き、後にシカゴ大学の教授となる。また、アーロン・ディレクターの妹であるローズ・ディレクターと結婚し、一男(デイヴィッド・フリードマン)一女をもうけた。

後に反ケインズ的裁量政策の筆頭と目されるようになったが、大学卒業後の就職難の最中で得た連邦政府の職は、ニューディール政策が生み出したものであった。後に振り返って、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは、緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求める研究を残している。ただし、第二次世界大戦が終わって、連邦政府の職を離れるまでは、自身の経済学上の立場は、一貫してケインジアンであった。

1969年、リチャード・ニクソン政権の大統領経済諮問委員会で、変動相場制を提案した(後にニクソンとは決裂している)。また、1975年のチリ訪問や1980年から中国を訪問するなど世界各国で政策助言を行ったことでも知られ、特に「資本主義をみたければ香港に行くべき」と香港を称えており、香港の積極的不介入を自由経済の最適なモデルと評価した。日本では、1982年から1986年まで日本銀行の顧問も務めていた。

シカゴ学派のリーダーとして、ノーベル経済学賞受賞者を含め多くの経済学者を育てた。マネタリストの代表者と見なされ、政府の裁量的な財政政策に反対した。政府の財政政策によってではなく、貨幣供給量と利子率によって、景気循環が決定されると考えた。また、1955年には、教育バウチャー(利用券)制度を提唱したことでも知られる。これは公立学校に市場原理を導入することで競争を促し、公教育の質の向上を図ろうとするものであり、各国における公立学校選択制の導入に大きな影響を与えている。主著は『A Monetary History of the United States, 1867-1960』、『資本主義と自由』。

1951年ジョン・ベーツ・クラーク賞、1967年米経済学会会長、1976年にノーベル経済学賞を受賞。1986年に保守派の中曽根康弘内閣から「勳一等瑞宝章」、1988年にはフリードマンが支持した右派のロナルド・レーガンからアメリカ国家科学賞と大統領自由勲章を授与される。2006年11月16日 、心臓疾患のため自宅のあるサンフランシスコにて死去。94歳。

思想・主張
フリードマンはリチャード・ニクソンとロナルド・レーガンを熱烈に支持。ニクソン、レーガンともに、50年代にジョセフ・マッカーシーの「赤狩り」に全面協力した人物である。この段階で、フリードマンの思想が「新」自由主義であるかどうかに疑問符がつく。ただし、フリードマンが政権の顧問を一時務めていたニクソンについては、「我々はもうみんなケインジアンだ」(もともとはフリードマンに由来し、実際のニクソンの言葉は「私はもう経済学で言うケインジアンだ」とされる)と有名な発言をしてケインズ政策を行ったため、フリードマンは激怒し、「史上最も社会主義的な大統領」であると猛烈に批判することとなった。
**ニクソン氏が社会主義的とは一体どういう意味?

また、軍事独裁政権アウグスト・ピノチェトが大統領時代のチリを支持し、訪問もした。ピノチェトの独裁で数千人の死者と、それを上回る行方不明者が出た。フリードマンの弟子の「シカゴ・ボーイズ」はチリに入り、ピノチェトの経済政策についてアドバイスをした。しかし、経済が低迷しのちにはピノチェトですら、彼らの意見に耳を傾けなくなった。フリードマンにとっての理想は、規制のない自由主義経済の設計である。フリードマンは、あらゆる市場への制度上の規制は排除されるべきと考えた。そのため、公正な民主主義を支持する人々は、フリードマンを新自由主義(Neo Liberalism)、反ケインズ主義(アンチ・ケインジアン)の筆頭格として批判した。フリードマンは元ケインズ主義からの転向者であり、理念の一部はケインズと共通点もあった。

フリードマンは、基本的には、市場に任せられるところはすべて任せるが、いくつか例外があり、自由主義者は無政府主義者ではないとして、政府が市場の失敗を是正することを認める。また、中央銀行の仕事だけは市場に任せるわけにはいかないという考えであり、中央銀行を廃止して、貨幣発行を自由化する、金本位制のように外部から枠をはめるような制度を作るといった代案を提示している。フリードマンは、連邦準備銀行がマネーサプライを一定の割合で機械的に増やせば、インフレなしで安定的な経済成長が見込めると述べており(Kパーセントルール)、コンピュータに任せても良いとした。

**政策決定にAIを導入したい訳?
財政政策批判
政府によって実施される財政政策は、財政支出による一時的な所得の増加と乗数効果によって景気を調整しようとするものである。しかし、フリードマンによって提唱された恒常所得仮説によると、一時的な変動所得が消費の増加に回らないため、ケインジアンの主張する乗数効果は、その有効性が大きく損なわれる。そのため、恒常所得仮説は、中央銀行によって実施される金融政策の復権を求めたマネタリストの重要な論拠の一つになった。また、経済状況に対する政府中銀の認知ラグや政策が実際に行われるまでのラグ、および効果が実際に波及するまでのラグといったラグの存在のために、裁量的に政策を行ってもそれは適切に機能せず、かえって不要の景気変動を生み出してしまうことからも、裁量的な財政政策を批判した。

フリードマンは、ケインズ政策はスタグフレーションに繋がるとし、ケインズ政策の実行→景気拡大→失業率の低下→インフレ期待の上昇→賃金の上昇→物価の上昇→実質GDP成長率の低下→失業率の再上昇というメカニズムで、結果的に物価だけが上昇すると主張している。

大恐慌
フリードマンは、金本位制が問題であったと理解しており、著書『A Monetary History of the United States, 1867-1960』の中で、大恐慌はこれまでの通説(市場の失敗)ではなく、不適切な金融引き締めという裁量的政策の失敗が原因だと主張した。金融政策の失敗を世界恐慌の真因としたフリードマンの説は、現在も有力な説とされており、その後の数多くの研究者が発表した学術論文によって、客観的に裏付けされている。ベン・バーナンキFRB理事(当時)は、2002年のフリードマンの誕生日に「あなた方は正しい。大恐慌はFRBが引き起こした。あなた方のおかげで、我々は二度と同じ過ちを繰り返さないだろう」とこの主張を認めている。
**ここで言う大恐慌とは、1929年のニューヨーク株式市場の大暴落で始まった一連の出来事を指しているはずだ。つまり第一次大戦が終わったことが原因。世界規模の出来事だ。不適切な金融引き締めが原因との明確な証拠は?大恐慌はFRBが引き起こした? 明らかに政治的発言。

麻薬合法化
麻薬政策について、フリードマンは、麻薬禁止法の非倫理性を説いている。1972年からアメリカで始まったドラッグ戦争(麻薬の取り締り)には「ドラッグ戦争の結果として腐臭政治、暴力、法の尊厳の喪失、他国との軋轢などが起こると指摘したが、懸念した通りになった」と語り大麻の合法化を訴えていた。また、別の主張では、大麻にかぎらずヘロインなども含めた麻薬全般の合法化を主張した。
**確かに非合法の麻薬の取引は腐敗の温床であることは分かる。しかし、これを合法化すれば解決するかと言えば大変疑問だ。ヤクザの大親分を東証一部の大会社の社長にするようなものにならなければいいが。

主張した具体的政策
義務教育、国立病院、郵便サービスなどは、公共財として位置づけるのではなく、市場を通じた競争原理を導入したほうが効率的であると主張していた。1962年、フリードマンは、著書『資本主義と自由』において、政府が行うべきではない政策、もし現在政府が行っているなら『廃止すべき14の政策』を主張した。下記を参照。これらの問題は個別の政策論として論ずるべきではなさそうだ。

  1. 農産物の買い取り保障価格制度。
  2. 輸入関税または輸出制限。
  3. 商品やサービスの産出規制(生産調整・減反政策など)。
  4. 物価や賃金に対する規制・統制。
  5. 法定の最低賃金や上限価格の設定。
  6. 産業や銀行に対する詳細な規制。
  7. 通信や放送に関する規制。
  8. 現行の社会保障制度や福祉(公的年金機関からの購入の強制)。
  9. 事業・職業に対する免許制度。
  10. 公営住宅および住宅建設の補助金制度。
  11. 平時の徴兵制。
  12. 国立公園。
  13. 営利目的の郵便事業の禁止。
  14. 国や自治体が保有・経営する有料道路。

フリードマンの弟子達に当たるシカゴボーイズという権力者たちは世界中の政府の中枢部に入り込んでいるらしい。1~14の施策を本気で実行する国が出て来れば、その国の大多数の国民の生活経済は大崩壊してしまうでしょう。一方、一部の富裕層はますます豊かになるかもしれないが、豊かになってどうしたいというのでしょうかね。
【追記】
「好ましい世界をつくるには、各国(人)がそれぞれ自国(自分)のことをきちんと管理すればよい。おのおのの価値観に従って、自由に自己の才覚を発揮できる仕組みをつくれば、物質的な繁栄と人間としての自由を共に謳歌できるだろう。そして自由市場こそ、この理想を最もよく実現できるシステムだ」―ミルトン・フリードマン (Milton Friedman、1912年7月31日~2006年11月16日)
現実の米国は、同盟国に上記のような徹底した民営化をやらせる。草刈り場と化した自由市場での勝ち組は当然巨大国際資本のグループ。例えばオルガルヒという存在。彼らがその国の政策自体を支配するようになる。
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小塩節

小塩節 小塩 節(おしお たかし、1931年1月10日~ 2022年5月12日):
ドイツ文学者。中央大学名誉教授。フェリス女学院理事長。妻は、英文学者・小塩トシ子さん。
長崎県佐世保市生まれ。父は牧師小塩力。松本高等学校 (旧制)文科乙類を経て、東京大学独文科卒、同大学院修了。1958年、国際基督教大学専任講師、準教授、1967年からNHKの「ドイツ語講座」を1985年まで担当。2022年5月12日、敗血症の為に東京都三鷹市の病院にて死去。91歳没。
そうだ。確かに私が大学生だった頃か、ラジオでドイツ語の講師やっておられた。ドイツ語の方は、大学卒業以来全くやってないのでもう忘れたが、小塩さんが生前行った対話が最近放送されて、彼のキリスト教の歴史認識及び学識に深い感銘を覚えた。

小塩節 【ゴート語聖書翻訳】
ゴート語とは、ゴート族、特に西ゴート族によって話された、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派の東ゲルマン語群に属する言語である。ヨーロッパで最初のゲルマン語の翻訳聖書を作ったのはウルフィラまたはウルフィラス(311年頃~383年)とされる。彼は4世紀のゴート人司教(実は彼はギリシャ人でゴート族に奴隷に売られたらしい)。聖書の布教のためにゴート文字を発案した。彼によるゲルマン語の金字塔であるゴートの聖書の重要な断片は今日も残っている。小塩さんはドイツ留学中に北欧のどこかの国で現物を直接見たそうだ。
当時はローマ帝国の西側は滅亡していて、当時の聖書はギリシャ語で書かれていたものしかなく、しかもゲルマン人達はまだ自分達の文字を持っていなかった時代である。 ウルフィラの聖書は、未だ紙が伝わっていない時代で、羊皮紙に銀を打ち付けて文字を書いている。小塩さんはこのウルフィラによって翻訳された聖書(ゴート語)の翻訳もやっていたようだ。
新しい発見。キリストが「父よ!」と叫ぶ場面をウルフィラは「とうちゃん」のような訳をしている。また「god」は、神と言うより「相談者」と翻訳している。ウルフィラさん自身が貧しいゴート人達と共にヒツジなんか飼って共同生活をし、「相談者」や「とうちゃん」のような立場で布教活動し、彼らの為に文字まで発明し、彼らが読めるように聖書の翻訳まで行った聖人だったようだ。

小塩さんは、牧師の家庭で生まれ、キリスト教は生活の一部となっている。戦時中は、異国の宗教と言うことで馬鹿にされるだけでなく、非国民との差別を受ける経験もしている。
また、留学先のドイツではちょうどヒットラー政権下で、多くのキリスト教徒たちも差別を受けていて収容所に監禁されていたものもいたとか。迫害を受ければ受ける程、信仰は強くなるものとのことである。
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中村 征夫

中村 征夫 中村 征夫(なかむら いくお、1945年7月1日~ ):
写真家。環境問題や水中写真に関する著書・写真集をはじめ、テレビコマーシャルも数多く手掛けている。沖縄のサンゴ礁やヘドロの溜まった東京湾の中の生き物たち、貴重な記録が盛りだくさん。 秋田県潟上市(出生時:南秋田郡昭和町)出身。秋田市立高等学校(現秋田県立秋田中央高等学校)卒業。水中写真の第一人者で報道写真家。19歳のときに独学で水中写真をはじめる。専門誌のフォトグラファーを経て、31歳でフリーに。1977年以来、東京湾の撮影を35年間続けている。

1993年、取材先の奥尻島で北海道南西沖地震に遭遇、滞在していた島南部の青苗地区が火災と津波で壊滅するも避難に成功、九死に一生を得る。機材の全てを流されて裸足で避難したが、唯一持っていたモーターマリンで、災害直後の奥尻島の惨状を撮影。その写真は共同通信社から世界中に配信され、世界中の新聞に掲載された。

中村 征夫 また、石垣島白保地区でのアオサンゴ大群落を、モノクロ写真で撮影した写真が大きな反響を呼ぶ。この写真集に後押しされる形で、同白保地区に海底を埋め立てて建設予定だった石垣島新空港計画が、白紙撤回されたことがある。 作家の椎名誠とは、ともにトークライブを開催するなど縁が深い。中村の写真集『白保SHIRAHO』を原案とした映画『うみそらさんごのいいつたえ』では撮影に全面的に参加している。

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広井勇

広井勇 廣井 勇(ひろい いさみ、1862年10月24日~ 1928年(昭和3年)10月1日): 土木工学者。東京帝国大学教授。高知県出身。札幌農学校(現在の北海道大学)卒業。「港湾工学の父」と呼ばれた。

1862年、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)において、筆頭家老深尾家の家臣で土佐藩御納戸役を務める広井喜十郎とその妻、寅子との間に長男、数馬として生まれる。同郷同世代の牧野富太郎同様、幼い頃から郷校名教館(めいこうかん)で儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)に学んだ。数馬の曽祖父広井遊冥(1770年-1853年)もまた、かつて名教館で儒学や和算を教えており、蘭林はその弟子であった。植物学者牧野富太郎と土木工学者廣井 勇は明教館からの盟友だった訳です。NHKの朝ドラでもこのことは何度も紹介されていた。

広井勇 当時はまだ安政南海地震の爪跡が残る時代だったが、幼い頃の数馬は浦戸湾の入口にあたる種崎村(現、高知市)の海岸で、十数年前に津波が襲来した際、堆砂の中に埋没し忘れられていた堤防が露出して津波を防いだという話を聞かされたと記している。この堤防は、遡ること200年前の1655年(明暦元年)に、野中兼山(*江戸初期の土佐藩家老)が造らせたものであった。

9歳のときに父と死別し、名を勇と改める。11歳で上京、叔父である男爵片岡利和の邸宅に書生として寄宿しながら工部大学校予科へ入ったが、16歳のとき、工部大学校の学費方針変更を受けて、全額官費で生活費も支給されるという札幌農学校に入学を決めた。

札幌農学校では内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らとともに二期生となった。教頭には前年帰国したウィリアム・スミス・クラークに代わって、その弟子であるウィリアム・ホイーラーが着任していた。ホイーラーは当時20代半ばの土木技術者であったが、わずか3年の任期の間に、今も残る札幌市時計台(旧農学校演武場)や、木鉄混合トラス構造の豊平橋を設計するなど活躍しており、国境を越えて貢献するその姿は、勇の進路に大きな影響を与えた。他に、セシル・ピーボディらから土木工学、数学、測量術、物理学などを学んだ。

在学中の1877年(明治10年)6月、勇ら同期生6人は、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けてキリスト教に改宗した。勇は彼らの中でも非常に熱心な信者であったが、ある日内村鑑三に「この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る」と宣言し、内村らに伝道を託したという。

1881年(明治14年)7月に札幌農学校卒業後、官費生の規定に従い開拓使御用掛に奉職、11月には媒田開採事務係で鉄路科に勤務し、北海道最初の鉄道である官営幌内鉄道の小樽~幌内間工事に携わり、初めて小規模の鉄道橋梁建設に携わった。翌年開拓使の廃止にともない工部省に移り、鉄道局で日本鉄道会社の東京-高崎間建設工事の監督として、荒川橋梁の架設にあたった。

翌1883年(明治16年)12月、単身私費で横浜港からアメリカ合衆国に渡った。師ホイーラーらの紹介で中西部セントルイスの陸軍工兵隊本部の技術者に採用され、ミシシッピ川とミズーリ川の治水工事に携わった後、チャールズ・シェイラー・スミス(Charles Shaler Smith)の設計事務所で橋梁設計に従事した。セントルイスでの両職場とも、当時世界最長のアーチ橋であり、鋼鉄を最初に用いた大規模橋梁でもあったイーズ橋のたもとにあり、強い印象を書き残している。当時スミスの事務所では、隣のケンタッキー州で北米初、かつ世界最長かつ最高高さのカンチレバー橋であるハイ橋(High_Bridge_of_Kentucky)を設計していた。

スミスの病没後は、はじめ南部バージニア州ロアノークにあるノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道、のちに北部デラウェア州の橋梁建設会社エッジ・ムーア・ブリッジ(Edge Moor Bridge)に移って技術者として働く傍ら、橋梁建築について英文で著した技術書『プレート・ガーダー・コンストラクション』(Plate-Girder Construction)を刊行した。同書は、理論から実践的な標準設計までを貫く内容から、アメリカの大学で教科書として長く使用され、1914年には5刷が出るほど好評だったという。

1887年(明治20年)、母校札幌農学校から、道庁への移管に伴い新設される工学科助教授への就任要請を受け、一旦ドイツのカールスルーエ大学に1年間、シュトゥットガルト大学に半年間留学して土木工学と水利工学を研究、バウ・インジュニュール(土木工師)の学位を得た後、1889年(明治22年)に帰国。札幌農学校工学科の教授に就任した。講義は英語中心で行われた。当時の工学科では卒業研究の題材に、道庁で実際に企画されている土木事業が選ばれており、研究成果は事業に活かされるなど、道庁土木機関のシンクタンクとしての機能も果たしていた。こうした中から、岡崎文吉、平野多喜松らが巣立っていった。

1889年(明治22年)頃から始まった秋田港(当時は「土崎港」)の築港に際し、秋田県の青年実業家・近江谷栄次(のちに衆議院議員)に招請され、13年後に改修が完了した秋田港には「廣井波止場」の名が付けられた。
1890年(明治23年)からは北海道庁技師を兼務し、函館港の築堤に携わった後、1893年(明治26年)、札幌農学校の文部省移管・工学科廃止に伴い技師専任となり、小樽築港事務所長に就任、小樽港開港に向けた整備に従事した。冬の季節風で激しい波浪に見舞われる岸壁に対して、勇は火山灰を混入して強度を増したコンクリートを開発、さらにそのコンクリートブロックを71度34分に傾斜させ並置する「斜塊ブロック」という独特な工法を採用し、1908年(明治41年)、1300mに及ぶ日本初のコンクリート製長大防波堤を完成させた。設計の際に用いた波圧の算出法は、広井公式と言われ現在も使われている。
**今でも、広井公式は水理公式集にも記載されている。防波堤の設計の基本的な公式として世界的にも認められている訳です。水理公式集を見れば日本人の名のついた公式はそんなに多くないことに気がつくでしょう。

彼は工事中、勇は毎朝誰よりも早く現場に赴き、夜も最も遅くまで働いた。現場では半ズボン姿でコンクリートを自ら練る姿をしばしば見かけたという。この防波堤は、建設から100年以上経過した現在でも当時のままに機能しているが、たまたま結果として残ったという以上に、勇の準備が周到だったと言える。コンクリートの強度試験は、当初50年、大正以降に改められて実に100年後まで強度をテストするよう、実に6万個の供試体が用意され、実際に2005年現在もなお強度テストが行われているからである。
*自然環境下に置かれたコンクリートは、強度の経年劣化の可能性は避けがたい。現場中心主義の彼ならではの深慮遠謀と言うべきか。

1899年(明治32年)、秋田港や小樽港の設計に感服した土木界の泰斗古市公威の推挙により、学外出身にも関わらず工学博士号を得て東京帝国大学教授となり、1919年(大正8年)には土木学会の第6代会長となった。勇は土木界へ、堀見末子、青山士、太田圓三、増田淳、八田與一、久保田豊、田中豊、宮本武之輔、石川栄耀ら、20年以上に渡り錚々たる逸材を送り出し、そのうち少なくない人々が海外へ雄飛した。学生への指導は厳しくも懇切で、教育者としての評価も高かった。「先生は毎日寝る直前に床を敷いて、明かりを消し、正座して30分間、今日一日精魂を込めて学生達を教育したか、反省して翌日の生活の糧にした」と伝えられる。

また、稚内港、函館港、釧路港、留萌港といった道内港湾の整備はもちろん、渡島水電による大沼水力発電所(函館市)、最初期の鉄筋コンクリート橋梁である広瀬橋(仙台市)、関東地方初の商業用ダムとして鬼怒川水力電気が建設した黒部ダム(日光市)など、多くの土木工事で設計指導にあたっておきながら、報賞の金品を渡そうとすると、「費用に余裕があるならば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と述べて拒絶したという。さらに、研究面では関門橋の原型となった下関海峡横断橋の設計、鉄筋コンクリートのためのセメント用法実験、日本で初めてカスチリアノの定理を用いた不静定構造の解法を解説するなどの業績を残している。

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神田伯山 (6代目)

神田伯山 六代目 神田 伯山(はくざん、1983年6月4日~)は、講談師。学位は学士(経営学)。かなりのインテリ? 日本講談協会および落語芸術協会所属。前名は神田 松之丞(かんだ まつのじょう)。本名は古舘 克彦(ふるたち かつひこ)。講談の大名跡である神田伯山を6代目として襲名(2020)。新進気鋭の講談師として注目を浴びている。講談なんて古臭い芸能で縁が無いと思っていたが、結構面白い。現代の語り部という役割か。
高校2年生のときにラジオで偶然、6代目三遊亭圓生の御神酒徳利を聞き、感銘を受ける。
高校卒業後の浪人生時代に所沢市で行われた立川談志独演会の高座を見て、立川談志のファンになる。以降、談志の追っかけとなり、のちに講談師になることにした。漫才と異なり一人でパフォーマンス。落語家に近いものがある。 最初に師匠を付けてもらったネタは『三方ヶ原軍記』。覚えるのに2か月ほどかかったが、次に教わった『鉢の木』は寝食も忘れ没頭し、1週間で覚えた。その際、師匠の松鯉から「お前は将来名人になる」と言われたという。師匠方の着物が畳めないなど、前座仕事には向いていなかったという。趣味は落語を聞くこと。 インターネットの普及した現在。現代の語り部の役割が見直されているのでは。やはり、物語は表情や声色、リズム、文章では伝わらないものもある。話は逸れるが受験予備校の名門講師にも似たような素質が求められているのでは。ニュース解説なども講談調でやるととても分かり易くて売れるかも。
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Mária Telkes

Mária Telkes Mária Telkes
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Mária Telkes (December 12, 1900 – December 2, 1995) was a Hungarian-American biophysicist and inventor who worked on solar energy technologies. She moved to the United States in 1925 to work as a biophysicist. She became an American citizen in 1937 and started work at the Massachusetts Institute of Technology (MIT) to create practical uses of solar energy in 1939. During World War II, she developed a solar distillation device, deployed at the end of the war, which saved the lives of downed airmen and torpedoed sailors. Her goal was to create a version for villagers in poor and arid regions. Telkes, often called by colleagues The Sun Queen, is considered one of the founders of solar thermal storage systems. After the war, she became an associate research professor at MIT.
** distillation¬¬=蒸留、arid region=乾燥地帯
In the 1940s she and architect Eleanor Raymond created one of the first solar-heated houses, Dover Sun House, by storing energy each day. In 1953 they created a solar oven for people at various latitudes that could be used by children.

In 1952, Telkes became the first recipient of the Society of Women Engineers Achievement Award. She was awarded a lifetime achievement award from the National Academy of Sciences Building Research Advisory Board in 1977. Telkes registered more than 20 patents.

Early life and education
Telkes was born in Budapest, Hungary, in 1900 to Aladar and Mária Laban de Telkes. Her grandfather Simon Telkes was from a Jewish family. In 1881, her father magyarized the family name to Telkes. In 1883 he converted to the Unitarian faith. In 1907 he was elevated to the Hungarian nobility, with the prefix kelenföldi.

Mária attended elementary and high school in Budapest. She then studied at the Eötvös Loránd University, graduating with a B.A. in physical chemistry in 1920 and a PhD in 1924.

Career
Telkes moved to the United States in 1924, and visited a relative who was the Hungarian consul in Cleveland, Ohio. There, she was hired to work at the Cleveland Clinic Foundation to investigate the energy produced by living organisms. Telkes did some research while working at the foundation, and under the leadership of George Washington Crile, they invented a photoelectric mechanism that could record brain waves. They also worked together to write a book called Phenomenon of Life.
** consul=領事
Telkes next worked as a physicist at Westinghouse. She developed metal alloys for thermocouples to convert heat into electricity.
Thermocouple=熱電対
She wrote to Massachusetts Institute of Technology about working in its new solar energy program and she was hired in 1939, staying until 1953.

Desalination
During World War II, the United States government, noting Telkes's expertise, recruited her to serve as a civilian advisor to the Office of Scientific Research and Development (OSRD). There, she developed a solar-powered water desalination machine, completing a prototype in 1942. It came to be one of her most notable inventions because it helped soldiers get clean water in difficult situations and also helped solve water problems in the US Virgin Islands. However, its initial deployment was delayed until the end of the war because Hoyt C. Hottel repeatedly re-negotiated the manufacturing contracts for the machine.
** expertise=専門知識、desalination=脱塩、海水淡水化

Heat storage
Telkes identified thermal energy storage as the most "critical problem" facing designers of a workable solar-heated house. One of her specialties was phase-change materials that absorb or release heat when they change from solid to liquid. She hoped to use phase-change materials like molten salts for storing thermal energy in active heating systems. One of her materials of choice was Glauber's salt (sodium sulfate).
**molten salt=溶融塩
Hottel, as chairman of the solar energy fund at MIT, originally supported Telkes's approach. He wrote that "Dr. Telkes' contribution may make a big difference in the outcome of our project". However, he was both less interested in and more skeptical about solar power, compared to Telkes. Telkes, like the project's funder Godfrey Lowell Cabot, was a "fervent believer in solar energy". There were personality clashes between Hottel and Telkes.

In 1946, the group tried to use Glauber's salt in the design of their second solar house. Hottel and others blamed Telkes for problems with the material. In spite of support from university president Karl Compton, Telkes was reassigned to the metallurgy department, where she continued her work on thermocouples. Although she was no longer involved in the MIT solar fund, Cabot would have liked her to return. He encouraged her to continue working on the problem independently.
** metallurgy department=冶金科

Dover Sun House
In 1948, Telkes started working on the Dover Sun House; she teamed up with architect Eleanor Raymond, with the project financed by philanthropist and sculptor Amelia Peabody. The system was designed so that Glauber's salt would melt in the sun, trap the heat and then release it as it cooled and hardened. ** philanthropist=慈善家
The system worked with the sunlight passing through glass windows, which would heat the air inside the glass. This heated air then passed through a metal sheet into another air space. From there, fans moved the air to a storage compartment filled with the salt (sodium sulfate). These compartments were in between the walls, heating the house as the salt cooled.

For the first two years the house was successful, receiving tremendous publicity and drawing crowds of visitors. Popular Science hailed it as perhaps more important, scientifically, than the atom bomb. By the third winter, there were problems with the Glauber's salt: it had stratified into layers of liquid and solid, and its containers were corroded and leaking. The owners removed the solar heating system from their house, replacing it with an oil furnace.

In 1953 George Russell Harrison, dean of science at MIT, called for a review of the solar fund at MIT, due to concerns about its lack of productivity. The resulting report tended to promote Hottel's views and disparaged both Cabot and Telkes. Telkes was fired by MIT in 1953 after the report came out.
**disparage=軽蔑する

Solar-powered oven
As of 1953, Telkes was working at the New York University College of Engineering where she continued to conduct solar energy research. Telkes received a grant from the Ford Foundation of $45,000 to develop a solar-powered oven so people who lack the technology around the world would be able to heat things. The two main criteria for this project were: the oven temperature must get as high as 350°F (175°C), and it must be easy to use.

Telkes spent several years in industry. Initially, she was the director of solar energy at the Curtiss-Wright Company. Next, she worked on materials for use in extreme conditions, such as space, at Cryo-Therm (1961–1963). This work included helping to develop materials for use in the Apollo mission and Polaris missiles. Then, she worked as director of solar energy at Melpar, Inc. (1963–1969).
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リチャード・ローティ

リチャード・ローティ リチャード・マッケイ・ローティ(Richard McKay Rorty、1931年10月4日~ 2007年6月8日)は、アメリカ合衆国の哲学者であり、ネオプラグマティズム(Neopragmatism)の代表的思想家。NHKの「百分で名著」でも取り上げられた。「哲学の終焉」を論じため、多くの哲学研究者からの批判を浴びるが、逆に一般の人達、特に若者を中心に人気を博しているようだ。
*ネオプラグマティズムとは新しいプラグマティズム。では古典的なプラグマティズムとは一体何なんでしょうか?

彼はシカゴ大学で学士号、修士号を得たのち、イェール大学で1956年に博士号。プリンストン大学の哲学教授、バージニア大学教授、スタンフォード大学教授となり、哲学と比較文学を教えた。プラグマティズムの立場から近代哲学の再検討を通じて「哲学の終焉」を論じた他、哲学のみならず、政治学、経済学、社会学、アメリカ文化などの論壇で活躍した。現代アメリカを代表する哲学者とされる。
プラグマティズムの代表者ジョン・デューイの他、トーマス・クーン、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインらの影響を受ける。

哲学者としてのローティの思想はその独特な哲学史の見解で知られている。ローティの著作『哲学と自然の鏡』では近代哲学に一貫して見られる伝統に注目している。それはルネ・デカルトに始まりイマヌエル・カントによって体系化された哲学における認識論の伝統であり、真理に到達するために依拠できる確実な知的基礎を確立するための試みであった。そしてマルティン・ハイデッガーやルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、ジョン・デューイ、ミシェル・フーコー、W.V.O.クワインなどの現代の哲学者による攻撃は、この認識論的な哲学の伝統に対する批判であったと考える。そしてローティは、近代哲学の認識論的な伝統を批判することは必ずしもそれを克服することではないことを問題視し、そのような伝統に基づいた哲学については「哲学の終焉」を主張する。そして新たな哲学の指針として知識や文化を基礎付けるような認識論の伝統を使わない哲学的解釈学の可能性を示唆している。これは哲学の歴史の中で中心的な主題であった真理という問題を研究することは有益ではないことを認め、ポスト哲学的文化としてあらゆる種類の言説を相対化する文化へと移行することを意味している。このようなローティの考え方は現代のプラグマティズムの哲学に根ざしたものであり、ポスト哲学的文化が到来したとしても、哲学そのものが消滅することはない。
****
「哲学は死んだ。」と言うのは明かにレトリックで、哲学者はその基本を根本から見直しなさいと言うのが彼の主張の本意でしょう。
哲学とは、万物の科学である。古代ギリシャでは、幾何学や数学は哲学そのもの。カントも天文学に興味を持っており、そちらの方面でも大学者であった。デカルトもパスカルもその思想の根底にはニュートン力学の真理がある。つまり、正しい前提を基に演繹的に推理を積重ねて行けば、必ず正しい結論が得られる。幾何学はそのお手本であった。ところが自然科学の方は、絶対に正しいと思われた大前提を次々と次々と疑いの目を向け覆すことで、大きな発展を遂げて来た。相対性理論、宇宙の歴史、カオス理論等々。
哲学においても、絶対的な真理を探究することはもうやめましょう。だったら、どうすれば良いのか。少なくとも自然科学や数学の理論を大いに取り入れる必要はあるでしょう。神の世界に逃避することは許されない。

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竹村健一

竹村健一 竹村 健一(1930年〈昭和5年〉4月7日~2019年〈令和元年〉7月8日):
ジャーナリスト、政治評論家。大阪府生まれ。中学校の1年生の時に、父の実家のある兵庫県朝来郡和田山町(現:朝来市)に引っ越す。旧制兵庫県立生野中学校に転校。卒業後、旧制姫路高等学校文科甲類(現:神戸大学文学部)に入学するが、学制改革により翌年新制京都大学に編入。アメリカ・フルブライト財団主催のフルブライト奨学金制度の第1号として、アメリカ合衆国のシラキュース大学、イェール大学、ソルボンヌ大学(旧:パリ大学)で学ぶ。シラキュース大学大学院新聞科修了。

1955年から英文毎日の記者を経て、1963年に新日鐵グループの山陽特殊製鋼へ入社し調査部長となる。しかし、1年後に山陽特殊製鋼を退社し、以後は追手門学院大学英文科助教授、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動を始める。並行してテレビ・ラジオにも出演。

1980年(昭和55年)頃、講演やテレビ番組などで「仕事ができない奴=資料を持ち過ぎの奴」との持論を展開し、自身は1冊の手帳に情報を集約して使っていることを紹介した。自らの監修によりオリジナルの手帳「これだけ手帳」を発刊し、その後30年にわたって発行され続けたが、2012年度版をもって発行を終了した。 1982年(昭和57年)9月、同年夏に出した『もっと売れる商品を創りなさい』が月刊誌『アクロス』同年2月号の記事から盗用していることが発覚。記者会見で盗用の事実を認めて謝罪し、回収することになった。全文コピーが7ヶ所で87行、文意盗用が10ヶ所で67行というもの。

1985年(昭和60年)より、ニューヨークマンハッタンのモット・ストリートとプリンス・ストリートの交差点付近にあるビルの壁面に、竹村の肖像壁画が描かれている。アデランスのCM撮影用に描かれたものである。

先述の「これだけ手帳」発売終了以後、メディア出演や著書発表などの活動を行うことはなかった。2019年(令和元年)7月8日(月曜日)午後7時38分、多臓器不全のため、89歳で死去。

論調は基本的に保守的・親米的で、ハイテク、情報産業を重視する傾向が強い。リゾートとリサーチの「二つのR」が日本の未来を決する、と繰り返し強調。原子力発電の旗振り役もしている。友人・知人にも保守派の論客が多く、日本共産党や公明党とは主張が異なるものの、政党傾向や人物に偏らず、良いと思えるところは率直に評価すると自認する。竹村は著述業を通じて精力的にマーシャル・マクルーハンの思想を紹介した。

執筆スタイルは、口述筆記で喋ったことをテープに録音してそれを原稿起こししたり、新聞の切り抜き記事を編集者にリライトさせると言われており、1981年には36冊を出版するという量産ぶりで、1冊あたり最低3万部を売っていた。
広い見識を持ち、テレビなどでも度々『英国エコノミスト』、『フィナンシャル・タイムズ』など、日本の新聞では紹介されにくい紙面からの情報も幅広く紹介する。自身のブログでは、日本のマスメディアに出てこない重要なニュースや記事を定期的に発表していた。

趣味はテニス、麻雀、スキー、スキューバダイビングなど。スキーは57歳、スキューバは58歳で始めるという好奇心の強さと行動力を見せた。スキーは、ニュージーランドでたまたま居合わせた三浦雄一郎と意気投合して、そのままスキー場に直行したという逸話も残る。また、実業家として太陽企画出版・善光寺温泉ホテル(現在は廃業)を経営。2006年からは『AICJ中学校・高等学校』を運営する学校法人AICJ鴎州学園の理事長も務め、その母体である鴎州コーポレーションの取締役相談役も務めている。

パイプを銜えた独特な風貌、「大体やね」「ブッシュさんはね」(日本国外の政治家を敬称入りで呼ぶ事例は日本人では稀)など、独特の口調や語の強調による特徴的かつ辛辣なトークによる評論を行う。この言葉が生まれたきっかけはTBSラジオ『ミッドナイトプレスクラブ』で外国人特派員らと議論を交わした時に出てきたとしている。このため物真似芸として、タモリが芸能活動初期の持ちネタとしており、「だいたいやねぇ」という口癖を使用した。本人がバラエティ番組に出演することもあった。
日本全国均一の航空運賃の発案者である。

ベストセラーとなった著書『マクルーハンの世界』で竹村は、テレビはラジオと異なり大衆を扇動しない「クールなメディア」だと説明したが、この点がマーシャル・マクルーハンの思想と全く異なるとして批判された。同書はマクルーハンの紹介ではなく「一種の創作みたいなもの」だったと竹村は弁明。

大体やね、昭和を代表するとも言えるジャーナリストだね。テレビはラジオと異なり大衆を扇動しない「クールなメディア」との評は、今では真逆の現象が生じている。ただ、登場したばかりのテレビの放送にはそのような側面も多少はあったかもしれない。テレビメディアの重要性はベトナム戦争の際には大いに発揮された。とてもクールなメディアではなく極めて熱く大衆を大いに扇動できるものであることが証明済みだ。そもそも彼自身テレビへの出演に拘り続けたのはそれを知っていたからでしょう。

彼の各記事はどれも「一種の創作みたいなもの」ともいえる。だから、読んでいて大変面白く、それなりに新しい視点を提供してくれる。当時の時代を常に先取りしようという好奇心は学ぶべきものも多いかもしれない。昭和の歴史を学び直すためにはもう一度読み直してみる価値はありそうだ。


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三淵 嘉子

三淵 嘉子 三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13日~ 1984年〈昭和59年〉5月28日):
日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長。今、NHKの朝ドラ「虎に翼」のヒロインの実在モデルだそうだ。

台湾銀行勤務の武藤貞雄とノブの長女として、シンガポールにて生まれる。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子(よしこ)」と名付けられた。
東京府青山師範学校附属小学校を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。1935年、明治大学法学部に入学。1938年に高等試験司法科試験に合格し、明治大学を卒業。1940年に第二東京弁護士会に弁護士登録をしたことで明治大学同窓の中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士となる。1941年に武藤家の書生をしていた和田芳夫と結婚するも、和田が召集先の中国で発病、1946年に帰国後長崎の陸軍病院で戦病死する。1945年に長男や戦死した弟の妻子とともに福島県坂下町へ疎開ののち、両親の住む川崎市に移り住む。
1947年、裁判官採用願いを司法省に提出。司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付、家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任。1949年6月4日に初の女性判事補となった石渡満子に次いで、同月28日に東京地裁判事補となる。1952年、名古屋地方裁判所で初の女性判事となる。1956年、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と再婚。三淵姓となる。
1956年、東京地裁判事となる。広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当(裁判長古関敏正、三淵、高桑昭)。1963年12月7日、判決は請求棄却とするも日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言した。

1963年より1972年まで東京家庭裁判所判事。少年部で計5000人超の少年少女の審判を担当した。 1972年、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となる。1973年11月に浦和地裁の所長となり、1978年1月からは横浜地裁の所長を務め、1979年に退官。1980年に再び弁護士となり、その後は日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務めた。1984年5月28日午後8時15分、骨肉腫のため69歳で死去した。

三淵 嘉子 2024年度前期放送のNHK連続テレビ小説『虎に翼』で伊藤沙莉が演じる主人公、「猪爪寅子」のモデルである。番組は未だ始まったばかりであるが、寅子の相談相手を自認していた司法学生にたまたま遭遇し、「女は無能力者だから司法への道を諦めて早く結婚しろ」との説に、たまたまやって来た母がそれを聞いて怒り出す場面がある。それ以降、娘の道を応援するように。初めは進学に大反対だったのですが。
この学生さん自説では無く当時の法の一般論のつもりで主張していたので何故怒られたかもトンと検討がつかない。「女は無能力者」との説は世間の常識とは著しくかけ離れたものであることに気がつかなかった。司法界の世界では常識と考えていたようだ。でも、進学を積極的に進めたのも法曹界の重鎮だ。
多分、上の事件(小説なのであったかどうかは別として)は昭和の初めで、まだ臨戦国家に変わるまで、原敬暗殺事件(1921年)以降もしばらく続く大正デモクラシーによる民主的思想も高揚していた時期だ。西洋の啓蒙思想も消化済みで自らの頭で独自の論理を組立てなければならない時期。概ね日本の民法は欧米のコピーではあるが、見直しも必要な時期でもある。
男尊女卑の考えは、多くの日本人は儒教道徳による封建的な思想と見なされがちである。でも、実際には欧米の考えのコピーであることに気がつかねばならない。「女は無能力者」との考えは、明かに植民地支配国であった欧米の思想だ。
日本の専業主婦なら家の財産管理は全面的に任されているケースがほとんどだった。これを一々旦那の了解が必要では、準禁治産者という言う例司法学生の説も一理ある。実際に欧米の金持ちと結婚した貧乏な妻は一生奴隷的な地位に隷属せざるを得ない。オランダに支配されたインドネシアでは結婚した女性は裁判に訴える権利すら与えられなかった。男尊女卑は欧米では今でも根強く残っている。だから、目に見えるところの差別に注目が行くようだ。(2024.4.9)

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