歴史の部屋

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歴史の学習とは。歴史の好きな高齢者は多い。戦国時代の城めぐり。多くの謎に包まれた古代史の旅。歴史の研究はどんなテーマでもはまるととても面白く興味が尽きない。でももう少し視野を広げると全く異なった世界が広がる。例えば、宇宙の歴史138億年。ビックバンに始まり、未だ膨張を続けている宇宙とは一体何なのか。太陽系の歴史約46億年。これほとんど地球の歴約30億史と同程度。生命の誕生は、年前位か。でも、多細胞の動物が大爆発したのがカンブリア紀で、約5億年前。この時代の生き物はものすごく面白いですね。恐竜が絶滅したのが6500万年前。人類が祖先は数百年前で、ホモサピエンスが登場するのはせいぜい3万年前ぐらいで、縄文時代は1万年前ぐらいか。このあたりから世界中で農耕が開始される。コンピュータの歴史は、精々数十年。だが、もう数十年で人間のほとんどあらゆる能力を凌駕することと言われている。ここでは、このような超マクロな視点で、歴史を楽しみたいと思ってますが、たまには重箱の隅みたいなミクロな話題もいいかもしれませんね。

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歴史学とは科学か

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目次
パンゲア大陸 火の使用 言語の起源 衣服の起源
神になった人類 芸術の起源 石器時代 遊牧の起源
アナサジの遺跡 青銅器の時代 長老支配の起源 文字の歴史
微生物が人類の歴史を決める 商業の歴史 歴史学とは科学か

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パンゲア大陸の分裂の仕方が人類の歴史を決めた

パンゲア大陸 アフリカを出発したホモサピエンスの子孫たちは、大型哺乳類を狩ることでみるみるうちに世界中に広まり、アフリカ、ユーラシア(アジア+ヨーロッパ)、南北アメリカ、オーストリアの各大陸に広まり、大型哺乳類を狩りつくした後は、定住して各々独自の文化を形成していく。この内、ユーラシアの文化だけが生き残り、他の文化はほとんど絶滅していってしまったのは何故か。世界を席巻したのは、最も早くから人類が活躍始めたアフリカでもなく、インカやマヤ帝国でもなく、どちらかというと後発のヨーロッパ諸国であったのは何故か。別に、彼らが遺伝的に優れていて適者生存で残ったわけではない。
 その、最大の原因は、地理的要因にあるようだ。農業や牧畜を発展させるためには、それを支える植物や動物が存在している必要がある。さらに、世界の各地で生まれた文明は、各々独自の展開をしてきているが、その相互の交流も非常に重要だった。
 このような観点から、ユーラシア大陸は他の大陸に比べて圧倒的に有利であった。人間が家畜化する動物、馬、牛、羊、豚、鶏、犬、これらがすべてそろっているのはユーラシア大陸だけ、インカやマヤの人々は、スペイン人が来るまで馬を知らなかった。小麦や米は、原始的なものでも食用になり品種改良も比較的容易に進められたが、南北アメリカで栽培されていたトウモロコシは相当長い期間をかけて品種改良がおこなわれたようだ。適切な作物も家畜も存在しなかったオーストラリアでは、現在に至るまで狩猟採集生活の段階にとどまっている。
 また、ユーラシア大陸は、他の大陸に比べて東西方向に長く伸びていることが利点でもある。つまり、人間の生活に適した地域が同じ緯度で東西方向につながっていて、異なった文明の人々が互いに交流してきたことだ。中国で発明された火薬はヨーロッパに伝わり、鉄砲になったのも一例だ。  それに比べて、アフリカや南北アメリカ大陸は南北に長く、途中にジャングルや砂漠といった障害があるため、人々の交流は行われず、インカとマヤの文明は全く独自に発達している。このような地理的条件がその後の技術的な発展を決定づけたようだ。
 このような大陸の分布が決定づけられたのは、地球の歴史で中生代の初めに一つの大陸であったパンゲア大陸が、その後分裂を重ねて今の配置となったためである。人類の歴史も地球の環境に大きな影響を受けているという一例だ。

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言語の起源

人類の発達に「言葉」の役割が大変重要であったことには異論がないであろう。ただ言語の発生から発展にかかわる知見は、化石や遺跡として残らないため、その推測はなかなか大変なことだ。
人類学者たちは、原始的と言われている世界中の色々な部族社会の言語の研究を試みた。しかし、現存している言葉は、どれも体系的に完成しており、それなりのしっかりした文法を持っており、その中には言語の発展の鍵をとらえることはできなかった。 例外的に利用できたのは、ヨーロッパ人に強制的に奴隷として連れてこられたような人達の話す言葉だ。ピジン(鳩のさえずりという意味か)という学名で呼ばれているらしい。単語のもとは英語だったり、スペイン語だったりで、名詞と動詞ぐらいの単語を適当に並べるだけの原始的な言語が生まれたわけです。奴隷達は出身地も異なり、全く言語が通じない環境に置かれたため、生きるために必要な最低限の知恵な訳でしょう。ところが、これらの人達の子や孫の世代になると、しっかりした体系の言語として確立してくる。これらは、クレオールと呼ばれており、元の言語である英語やスペイン語とは似ているものの、全く新しい別の言葉となっている。つまり、ピジンの段階なら、例えば英語圏の人なら聞いて分かるだろうが、クレオールを理解するには通訳が必要になる。
一方、別の研究としては、赤ちゃんが生まれてからどのように言語を体得していくかを調べる方法もある。言語の体得は語彙を増やすことよりも、論理的な考え方を習得することがはるかに重要だ。「食べたいのか」「食べたのか」「食べているのか」「食べたくないのか」「食べたらどうなるのか」幼児は、自然と言葉の文法的な枠組を理解してしまう。このようなことから、人には生まれつき備わった、自然文法とでも言うべき能力があるのかもしれない。そして、昔から、「言霊」ともいわれるように言葉には偉大なパワーがあるようだ。
ところで、人類(ホモ・サピエンス)の祖先がまだ、アフリカ大陸にいた、7万年位前にどうも人類が言葉を使うことを覚えたらしい。この時代を「人類大躍進の時代」と呼んでいるそうです。いくら土を掘っても言葉の化石は出ないのにどうしてそんな推定が出来るのか。

1.一つは解剖学的な視点で、喉仏(のどぼとけ)の位置が他の類人猿と比べ高い位置に移動している。このことは、気管と食道の分岐位置が高くなり、年配者の誤嚥性肺炎などの原因にもなるのですが、これが言葉を発するための重要な進化となったようです。これは、人類が火を使うようになって、固いものを噛み砕く必要が薄れたことも関係しているらしい。

2.二つ目は、この時代急に道具が高度化し、絵画や踊り等の文化が生じたらしいことです。例えば、石器でも木の取っ手をつけたり、槍や弓矢のようなものを集団で利用するには言語による伝達が不可避だというのです。

3.人は圧倒的の右利きが多いけど、これは人の左脳が右脳より優位に立ったためだという意見。多くの人では、言語をつかさどるのは左の脳であることが知られています。言葉を話すようになってから、右利きが圧倒的に増えた。他の類人猿には見られない特徴らしい。

4.この時代には人口が増えたこともあるでしょうが、集団の構成員の数が、急激に大きくなったらしい。これが可能になったのは、言語によるコミュニケーションが広まったからか。強いリーダより、賢い補助役の価値が高まってきたのでしょう。

音声を情報の伝達に使う動物は、自然界には数知れない。ほとんどの動物は多かれ少なかれ音を発し、仲間に危険や友好の意を伝える。これらの音声情報と言語の違いは何か。言語には文法があり、得られた情報を論理的に加工分析して、付加価値を付け加える。言語とは知恵の源泉だ。狩猟採集民の部族集団には、長老とか賢者とか呼ばれて皆から尊敬されている人がいて、皆の相談にのる。もめ事が生じると彼(彼女かも)は、自分の意見は言わずに双方の意見を辛抱強く良く聞き、結局集団として最適な解決策を見いだす。このような知恵はある程度は年の功に比例するだろう。このような知恵をもとにかなり規模の大きな大集団を維持し、アフリカを出発した人類は地球全体に拡散していったようだ。

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衣服の起源

虱 人は「パンツ」をはいた類人猿という人がいる。人類が服を着るようになったのは、約7万年前とみられる。衣類に付着するシラミの遺伝子を通じた研究をドイツ・マックスプランク進化人類学研究所の研究グループが発表した。研究者らは、3種類のシラミのうち、人間の衣類に付く衣ジラミに着目。シラミの細胞にあるミトコンドリアからDNAを採取し、他のシラミなどと比べて分析。衣ジラミが生まれた時期を人類がアフリカから欧州に移動し始めた約7万年前と特定した。人に特有の衣ジラミは体の接触によってうつり、人体を離れると24時間生存できないとされる。石器などと違い、衣類は長い年月を経て保存されないため、人類がいつ服を着始めたのかは研究者らの謎となっている。
何のために人は、衣類を着るようになったのか。氷河時代を生き抜いたネアンデルタール人も全身を毛皮の服で覆っていたのだろうと想像されている。寒冷地を生き抜くためには衣服の発明は不可欠だからだ。
しかし、衣服の起源を防寒だけに求めるのも無理があるような気もする。世界のどんな暑い地域の住民も、本当に完全に全裸の人々はいない。一方どんな類人猿も好んで衣服を身に着けるようなことはしない。つまり人前で裸でいることがタブーとなる人独自の習性を進化のどこかで獲得したようだ。

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火の使用

火の使用 人が何時から火を使うようになったかははっきりした証拠があるわけではないので、明確な答えは分からないが、多分50~100万年前には、ホモサピエンスよりも前の人類たちが使っていたものと想定される。 言葉は化石や遺跡には残らないが、火は焼け跡のようなものが洞窟内に残っていたりするので、全く調査が不能な訳でもなさそうだ。それと、人がもし火を使うことが出来なければ、自然界で生き残ることすら困難であったことも、かなり早い時期に火が使われたはずと考える根拠にもなっている。

1.火を使うことで調達できる食料の範囲が広がった。
本来肉食でない人が肉を食べるには熱を加えた調理が欠かせないようだ。野菜も熱を加えることで食べれられる素材が飛躍的に拡大する。火を使った調理は、ヒトがタンパク質や炭水化物を摂取するのを容易にしたようだ。

2.森林からサバンナの草原に出た際に、身を守る手段が他にない。また、火を使うことで夜も活動することが可能になった。また、火により寒くて暗い夜間にも行動ができるようになる。あるいは寒冷地にも住めるようになる。ヒトを襲う獣から身を守れるようになる。

3.当初は火は起こしにくく、大きな集団の共有物として大事に使われたはずだ。最初の火は山火事のような自然の火を皆で大事に消えないように管理して用いたのかもしれない。このようにして集団で生活する方法を身に着ける。

ところで、最近の研究で、人類は7万年前には全世界でわずか2000人にまで激減、絶滅しかけていたらしいことがわかってきた(米スタンフォード大学の研究者等による)。つまり、絶滅の一歩手前まで来ていたということです。 2005年に開始された、遺伝学によって人類学を研究するこのプロジェクトによると、ミトコンドリアの追跡によって、現在の人類は約20万年前にアフリカに住んでいた「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれている単一の母親の子孫であることがわかっており、約6万年前から全世界へ人類の分散が始まったそうだ。しかし、このミトコンドリア・イブと全世界への分散までの間に何が起きたかについては今までほとんどわかっておらず、謎に包まれていました。何はともあれどこかの時点で飛躍的な進化があったようだ。このような進化の原動力としては、①道具の進化、②火の使用、③言葉の進化と論理的思考、④集団生活の仕組みの変化、おそらくこれらの要因が相互に関連し合って、飛躍的な発展をもたらしたのでしょう。

縄文の火 では、人はどのようにして火を起こしていたのでしょうか。これについてはもっと分かっていない。ただ、縄文人や現在の狩猟民達の火を起こす方法から考えて、それより高度な方法を取っていたとは考えられないでしょう。
1.まず、最初に考えられるのは自然界の生じた火をそのまま利用する方法でしょう。山火事、雷、火山等。一度、種火を取得すれば、集団で大事に守っていけば結構使えるかも。
2.木や石をこすって摩擦熱を発生させる。これが一番普通の考えだろう。
3.火打石のように火花を発生させる。ただ、この火花をどのように大きな火にするか。これは、2の方法でも問題だ。こういう技術は現代人にもかえって難しいかも。
4.太陽光を集めるレンズや反射鏡を用いる。これは、レンズや鏡を平たんに研磨する技術が必要だが、可能性はある技術だ。ただし、これが使われていたという証拠はないようだ。
ただ、火は簡単に起こせるものではなさそうだ。基本的には一度起こした火は消さないで大事に使うのが原則ではなかったのだろうか。
人が比較的大きな集団で生活するようになったのは火のある所に人が集まり、集団で火を守っていこうとしたからかもしれない。

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神になった人類

恐竜が滅んでから新生代、数百年前に人類の先祖たちが次々と現れてきます。その後地球は何度も氷河期に見舞われたようです。最終氷期はおよそ7万年くらいに始まり、1万年くらい前には終了したとされています。人類の先祖たちはゴリラ、チンパンジーを含めて20種類以上もいたと見られてますが、多くの仲間たちは氷河期を生き延びることができずに絶滅してしまったようです。でも、ホモサピエンスたちはこの時期ベーリング海峡(この時期は海面が低下して繋がっていた)を越えて世界中に拡散して行くのです。
寒冷化が進むにつれ、森林が減少し、多くのご先祖たちは森林から草地に追い出されていきます。でも、そこは肉食の猛獣の待ち構えている恐ろしい世界。そのため火や道具や言葉がどれだけ役に立ったか。でも、人類だって身を守るだけでなく、小動物を狩ったり肉食を取り入れ食料を確保する必要があります。
草食動物だって負けてはいません。巨大化の道を選んで進化します。草原で新しく進化して来たイネ科の植物はたいていは消化が悪く、体内の微生物の助けを借りないと利用出来ません。だから食料の摂取効率が良く大きな体は理にかなっています。また、食料を求めての長距離の移動にも大きな体は役立ちます。
困るの人類だけでなく、肉食猛獣だって同じでしょう。獰猛な剣歯虎だって、マンモスや毛サイには太刀打ちできないでしょう。ところが、人類はそこに新しいニッチを求めたんですね。言葉を使って集団で協力し、火を使って脅して狭い所に追い込んで仕留める。大型動物を追って世界中移動しまくり。化石に残る大型の哺乳類、大部分の種は絶滅して、今では大型の動物(ゾウ、サイ、キリン等)は限られた地域、例えばアフリカ等にしか見られなくなりました。結局人類が滅ぼしてしまったのが真相らしいですね。もちろん地球が再度温暖化して環境が変わってことも影響しているでしょうが、環境だけならそれなりの生き残りも可能でしょうから。
結局、氷河時代を生き延びたのは、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人とその兄弟達。最後は、ホモ・サピエンスだけになってしまいます。でも、最近の研究では現生人類の遺伝子の中には3%程度入り込んでいるとか。ネアンデルタール人は、現生人類よりも体が大きく、脳の容量も大きいようですが、喉仏の位置が現生人類よりもやや下の方にあるため、言語を発声する能力が多少劣っていたのかも知れないと推測する学者もいます。
 マンモスや毛サイを倒した人々は、高揚感を持ってこう考えたに違いありません。「人類こそ自然界の覇者だ。」。これらの勇者たちの活躍は、そのやり方のノーハウとともに末永く、尾ひれがついて美化されて子孫達に伝えられていったことでしょう。英雄神話の誕生です。

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芸術の起源

ダイヤモンド博士がEテレで行っていた公開講義の中から。ダイヤモンド博士は芸術の起源をホモサピエンス以前から遺伝子に組込まれていた性質に求めます。人は何を見て美しいと感じるのでしょう。野に咲く花。色とりどりの蝶々や鳥。花は虫や小鳥、その他の動物達を寄せ集めるために美しい花を咲かせます。鳥は、どうでしょう。オスの美しい羽根は,メスを引きつけるため。自分は優秀な遺伝子を持っているというメッセージを発しているのです。クジャクのオスも生存のためならばあの大きな美しい羽根のメッセージは島ですが、それがメスに対する大切なメーセージなのでしょう。
アマミホシゾラフグは2012年に発見されました。直径2mほどの円形の幾何学的な模様が海底に存在することは1995年頃から知られていたものの、誰が何のために作っているのかは長らく謎のままだったのです。(『ダーウィンが来た! ?生きもの新伝説?』では、ミステリーサークルと呼んでいた)。後に、この海底の模様は本種(アマミホシゾラフグ)のオスが作った巣(産卵床)であったことが判明しました。このような素晴らしい産卵巣をつくるオスの能力は、優秀な遺伝子を持っていることの重要なアピールなのです。
アマミホシゾラフグ アマミホシゾラフグアマミホシゾラフグ
オーストラリアに住むアオアズマヤドリは、ブルーの美しいあずまやを作ることで有名です。枯れ枝を集めて見事な小屋を作った後、近くの民家などから青い色のものを手当たり次第に集めて巣を飾ります。まるで芸術家のようです。
アオアズマヤドリ アオアズマヤドリアオアズマヤドリ
鳥は美しい声でさえずります。これって音楽に起源なんでしょうか。鳥は本能で鳴くので自らの意志で学習したのでないからこれはアートではない。でも、鶯(うぐいす)なんかも最初は鳴くのが下手でも周りの鳥たちの鳴き方を学んでだんだんうまくなるとも言われてます。オウムや九官鳥は人間の言葉をまねします。鳥類や哺乳類のように脳の発達した生き物では、その行動が本能なのか学習なのかの線引きは非常に微妙です。
それでは、アートとは何なのか。人がアートに熱中する目的は何なのか。博士はそのカギを古代人類の残した石器に見出します。二つの石器があります。一つは無造作に石を打ち砕いて作ったもので、鋭利な刃と取っ手の部分があり、今でもすぐ実用に使えそうです。もう一つは、きれいに左右対称に造られており両側の刃の部分が薄く加工されており、実用的ではなくあくまでも見せるために作られています。両側に刃があったら危なくて持つこともできません。つまり、この石器の作者は、「私は、こんなに器用でこんなに美し良いものを作ることができる優秀な遺伝子を持っているんだ。」ということを他者に伝えるメッセージの役割を果たしているのだということです。
ラスコーの壁画ラスコーの壁画
ラスコーの壁画(フランス)は先史時代(旧石器)の壁画。現代美術にも通じる写実性。これも作者は自己の絵を描く能力を仲間たちに伝えるメッセージだろう。当時の人々にとって狩猟は重要な生活手段だ。若し作者がけがをしたなどで狩猟への参加が出来なくなった場合、このような手段で集団の中に居場所を確保したのであろう。アートと言えども生き残りのための壮絶な戦いだった可能性もある。 ヨーロッバ近世に花開く、美術、音楽等も王侯、貴族たちスポンサーの権力を誇示するメッセージという面があったことも見逃せない。

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石器時代

石器時代は大別して、旧石器時代と新石器時代に分けられる。
1.旧石器時代
旧石器旧石器
旧石器時代(きゅうせっきじだい、Palaeolithic Age)と言うのは非常に長くとらえどころが難しい。というのはいわゆる、ホモ・サピエンスが登場する前の人類たちも石器を使っていたから。
日本における旧石器時代は、後期については、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認されているらしい。前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されているようだ。 しかし、前期旧石器遺跡については実は全て捏造であったことが判明してしまった(旧石器捏造事件を参照)。だから、捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については多くの議論がある。
多分一番の問題は石器の年代測定なのでしょう。自然に存在している石か、人が加工したものかは、加工の断面などを調べれば分かるでしょう。しかし、石器自体の年代を測定する方法は無いようだ。唯一の決め手は、その石器が埋まっていた地層の年代を調べることだが、ここの部分を騙してしまえば、後は決め手がなくなってしまうらしい。

2.新石器時代
新石器新石器
新石器時代になると石器の製造技術が画期的に進化する。その一つが磨製石器。磨製石器(polished stone tool)とは製作技術で分類したときの石器の種類。打製石器と同じ方法で作ったものを、最後に磨いてなめらかに仕上げた道具であると言われいる。でも、最初からやすりみたいなもので磨いて作ったものもあるんじゃないか。子供の遊びも兼ねた体験学習の「勾玉づくり」では、初めから滑石をサンドペーパーで磨いて作る。磨製石器には、石皿・磨石・石斧・石錐・石棒・石剣などがある。石皿や石棒なら調理道具だろうから柔らかい加工しやすい石材を使えばいい。磨製石器の最古の例はオーストラリアで、4万7千年前にさかのぼるという。オーストラリアは、白人達が到達するまで、石器時代に近い生活をする狩猟採集民の世界であったが、この時代はまだどの民族も技術的にはそれほどの差はなかったのかも。
なぜこのような進歩が生じたのかは諸説あるようだ。一つは農耕の開始を関連付ける説。しかし、必ずしも農耕が直接関連しているとも限らない。ただ、人々が定住して住むようになり、一つ一つの集団の規模が大きくなったことがあげられそうだ。人は言語と論理を操り、互いにコミュニケーションを取り合うことで、技術が大きく進歩したのだろう。
一方、これらの石器を製作することは、現在の技術をもってしてもそんなに簡単なことではない。例えば、石の包丁を考えてみよう。肉の筋や野菜の堅い皮を切り取るには、それなりの強度と粘りが必要だ。まずは、包丁に適した石材を確保しないといけない。だいたいこのような石材はとても偏在して分布しており、だいたいは身近には得られないと考えた方が良い。探検隊を派遣して近辺の地質調査を行い、それでも入手不可能なときには周辺の部族から物々交換で確保して手に入れないと入手不可能だ。運良く原石を確保しても、次は加工の問題が控えている。まずは、1次加工で石材を討ち欠いて包丁の原形を作る。貴重な石材なので無駄がないように、討ち欠いた部分は細石器として利用する。さて、今度は1次加工した石包丁をより堅くザラザラした石で磨き上げないといけない。現代人がサンドペーパーで磨くのと同じで、最少は粗い目のもので、最後は細かい目のやすりでピカピカに光沢が出るまで磨き上げる。相当高度な研磨技術が必要だ。つまり、1本の石包丁を作るのに必要な人件費を今風に見積もると大変なものになりそうだ。これなら材料を供給する人たちもできた製品の一部と交換することで互いに利益を得ることが出来そうだ。つまり、新石器時代には色々な道具を作る専門家集団が育っていたのではないか。専門家集団が育つには相手の立場を尊重し互いに助けあう精神が不可欠だ。人は言語と論理を操り、互いにコミュニケーションを取り合うことで、技術が大きく進歩したのだろう。

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遊牧の起源

農業の開始については色々と研究がありますが、牧畜と遊牧の起源についてはあまり研究がおこなわれていないようです。中国の漢の歴史資料やギリシャの歴史家ヘロドトスの資料には、既に遊牧民匈奴の猛威について書かれていたので、遊牧民が巨大な勢力として認識されていたようです。歴史書というものは大部分が農耕民の立場から書かれているので遊牧民の存在は過小評価されがちですが、人類の歴史において遊牧民の存在はとてつもなく重要です。
フン族
中国の歴史では、中国の王朝の交代にはたいてい遊牧民の存在がかかわっています。漢―匈奴に始まり、元帝国や最後の清朝も遊牧民的ですね。だいたい保守的な農耕民と比べ、開放的で国際派、商業や鉱工業に力を入れます。いわば中国社会の活力として大きな力となって来たようです。ヨーロッパの民族大移動にも遊牧民フン族(匈奴との関係は?)の移動が原因、元帝国は一時的に旧世界の統一(全部ではないが)を成し遂げます。マルコポーロが中国に来たりしたのもこの時代。ほか、インドや中東でも歴史上、遊牧民が大活躍しています。ロシアの版図拡大に寄与したコサック騎兵も遊牧民。
 さて、遊牧の起源ですが、今までの西欧での主流の考えは、遊牧の農耕社会起源説(1)で、西アジア南部のオアシス地帯で定住を始めた狩猟民が農耕技術を身に付け、食料源であるオアシス周辺の狩猟動物を捕獲して食料としていたが、その内若干の飼育を始めるようになった。オアシスの人口が少しずつ増加し始めると動物に対する需要が大きくなり、乳製品を確保する為に牧畜技術の発明を行った。さらに人口が増え、狭いオアシス内ではまかなえなくなると、周辺の牧草を求めてオアシスから草原に進出する人々が出てくる。動物との生活を専門にした遊牧民の登場である。彼らは搾乳、去勢、騎馬の技術を身に付け独自の遊牧社会を構成する。→どうも西欧人はメソポタミア起源説が好きですね。
もう一つの説は、遊牧の狩猟社会起源説(2)で、遊牧民を狩猟民の間から発生したものと考える。この説によるとアジアの森林地帯で狩猟生活を送っていた人びとが、やがてその森林周辺で草原に野生する動物、なかでも群を成す本能をもった有蹄類の動物に目をつけ、はじめはこれらの動物の後に従っていく形で彼らとの関係を持ち始めた。しかし、やがてこれらの人々は搾乳、去勢、騎馬の技術を獲得し、動物の群をほぼ完全に自らの支配下に置くことに成功した。 あるいは、(1)と(2)の折衷案。動物の中でも馬の飼育は狩猟民によって、羊、山羊は中央アジアの半農半牧民によって始められた。そしてこの両者が婚姻や交易で結合することによって両方の技術が融合し遊牧民が成立したという説。
マサイ族マサイ族 トナカイの群れトナカイの群れ ベドウィンベドウィン サーミ―サーミ―(トナカイ遊牧民)
でも、旧石器時代の人類の生き方を見ると、遊牧の起源はもっと古そうだ。大型動物を追って生活するうちにこれらの動物達をうまくコントロール技術を身に着ける。犬を使ったり、火を使ったりして行動を制限したり、適当に生かしておいて必要な時だけ狩るとか。あるいは、生きたまま囲いに入れて飼う。こちらは牧畜の起源か。
 遊牧民は、基本的に農耕民と比べて独立精神が強く、プライドが高い。彼らの神様(マンモスハンターだったご先祖)の教えを守って、定住生活を拒否しているからだ。ジンギス・カーンは帝王になってからも生活はテントのままだったらしい。
いまでも、世界には遊牧生活送っている人たちは大勢いる。モンゴルやカザフスタン、ウズベキスタン、中東でラクダを飼育するベドウィンもそうか。アフリカのマサイ族は牛、北方でトナカイを追って暮らしている人もいる。これらの人達にとって現在の世界は暮らしにくい。国と国の境の国境なんて言うのも邪魔だ。そもそも国に何かを頼る訳ではないのでろくに税金も払っていない。どの国の政府も「君たち定住しなさい。」と言う。「何言っているんだ。歴史的には俺たちの方がずっと以前からこういう暮らしをしているんだ。新参者にとやかく言われる筋合いはない。」
 遊牧生活と言う生き方、なかなか面白く味がある。今後の人類の将来を考える上で色々なノーハウが詰まっているかもね。都市生活者の中にも「都市ノーマッド」等と自称して定住を拒否する人たちもいるとか。それって、ホームレスのこと??(nomadとは遊牧民のこと)。

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アナサジの遺跡

アナサジ1アナサジ遺跡 アナサジ2アナサジ遺跡

古代プエブロ人は、アメリカ先住民文化を残した人々。現在のアメリカ合衆国南西部のチャコキャニヨンに遺跡が残されていて調査が行われた。スペインの探検家がたどり着いた時には、木の生えていない砂漠の中に巨大な多層階の住居跡が残されてた。彼らの出現の時期は紀元前1200年頃ではないかと推定されている。
プエブロ(スペイン語)は、メキシコ北部とアメリカ合衆国南西部、特にニューメキシコ州やアリゾナ州に残るインディアンの伝統的な共同体、集落を指し、またそこに住むインディアンを集合的に呼んだ言葉。現在およそ35,000人のプエブロ・インディアンがいる。住宅はアドベと呼ばれる今でも使われている一種の日干し煉瓦でつくられている。
アナサジ文化とは、プエブロ人(アメリカ・インディアン)の祖先と考えられる人たちが作り出した先史農耕文化で、乾燥した山間部地方で、トウモロコシ栽培を主とする農耕を営んでいた。紀元前300年ごろから紀元後1700年ごろまで続いた。巧みな籠(かご)細工で知られる前半のバスケットメーカー期から、切石造りの大建造物に特色のある後半のプエブロ期へと発展した。
しかし、古植物学という古代の環境を推定する研究から、実はこの先住民が住み着いた当時は緑豊かな森に囲まれた土地であったことが分かってきた。でも、科学者たちはどうのようにして当時の花粉や植物繊維を手に入れたのでしょうか。一つの方法として、どこにでもいそうな小動物が作る地下の「溜め山(ためやま)」というものを発見したんだそうです。齧歯(げっし)類というネズミの仲間の中には食料を一か所に備蓄する生き物がいて、このため山が50~100年位で放棄されるらしい。でも、ため込んで残された食料がその後、格好の保存状態で残されているのだそうだ。チャコキャニヨンではバックラットというげっ歯類が遺物を残してくれたのだそうだ。学者たちは放射性炭素法で年代測定をして、森林の花粉がいつ頃のものかを測定すればその時代の環境が分かるということです。
農業を行うことで過密になった集落の人々は、森林を切り払い、水資源や農地を乱用することで、結局自分たちの生活環境を自ら破壊し、自分たちの文化を見捨ててしまったようです。

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青銅器の時代

銅鐸 人類が石器から進歩して、最初に使うようになるのが、青銅器。青銅は銅と錫の合金を指すのですが、何故最初から合金を利用して、銅そのものを使わなかったか。それは、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので自然に青銅が得られたようだ。銅と錫を分けるにはより高度な精錬技術が必要だから、当然の結果だ。最初の青銅器は、紀元前3000年頃、初期のメソポタミア文明であるシュメール文明で発明されたらしい。イラン高原は、銅と錫、燃料の木材が豊富であった。そのころの中東は、森林があって、今みたいな一面の砂漠ではなかったらしい。今の中東が砂漠地域になっているのは、農業と金属生産(主に鉄)に伴う自然破壊と文明の崩壊の結果だ。
「青銅」は、本来は、錫を含む銅合金の意味だが、、錫の含有の有無にかかわらず銅合金一般の代名詞(アルミニウム青銅・マンガン青銅・シルジン青銅等)としても用いられる。また、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので、産地によって錫などの配合比が決まっており、また錫と同時に添加されることの多い鉛の同位体の比率が産出鉱山ごとに異なるので、分析によりその原産地を推定できるらしい。
青銅といえば緑色と思われがちだが、本来の青銅は黄金色や白銀色の金属光沢を呈し、古代において金銀に準じる貴金属として利用されたようだ。銅鏡の反射面は使用時点では、白銀色に輝いていたようで、弥生時代の国産鏡では、錫の含有量を意図的に下げ、黄金色に鋳造し太陽を模しと考えられるものもある。
【青銅器時代】
青銅は、適度な展延性と、鋳造に適した融点の低さ、流動性のため、鉄が普及する以前は、もっとも広く利用されていた金属であった。その時代は、鉄が、銅よりも安価かつ大量に供給されるようになるまで続く。金属の融点と硬度はほぼ比例するので、青銅は鉄と比べて硬さや硬度でははるかに劣る。鉄と比べての利点は、加工性に優れて錆びにくいことがあげられる。鉄の生産のためには、より高温を得る技術が必要だっため、そのハードルを越えるまでは青銅が主役とならざるを得ない。
しかし、鉄は銅よりも採掘可能な量が多く、その結果、青銅より安価に製造できるようになり、金属が貴重品としての祭器から普段使う農具や兵器にも利用されるようになって、青銅は金属としての主役の座を降りることになる。 技術の歴史から見ると、人類がいかにして高い温度を作ることが出来るか。技術∽高温技術の関係が見られそうです。低温には絶対零度という限界があるけど、高温のほうは限界がないようで、現在の挑戦は、地上で核融合の利用を実現することかも。原発(これは核分裂)なんかでゴチャゴチャやってる場合ではない。

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長老支配の起源

人類の遺伝的な性質は、基本的には約7万前にアフリカを出発する前に、すべて決まっていしまっているらしい。人間は総てホモサピエンスという同じ種で全く対等だ。その特徴は、文法と論理をもつ言語を獲得したこと。それが、その後の飛躍的な発展をする要因となった。世界には、髪の色、皮膚の色等の違いで、色々な人種がいるが、これもダーウィンが主張した「性淘汰」で説明できる。つまり生まれ落ちた時点では、人は1万年前の縄文人も宇宙船の中で出産された赤ん坊も全く対等ということです。後は、育った環境と学習によって、はじめてその人の個性が作られるという訳です。
oden   ところで、人は高齢まで生き続ける極めて不自然な生き物です。すべての動物たちは、結婚して子孫を残すと役割を終えて死を迎えます。一部の動物達は、子供たちがある程度成長して独り立ちできるまで子育てを行います。子供たちの成長が終わるまで、死なせてもらえない。でも、人の場合は例外的に長い。長生きすれば孫や曾孫、場合によってはやしゃ孫??なんていう人もいたとか。この、人が長寿だという遺伝的な性質は、ホモサピエンスの特徴ですから当然、自然淘汰の結果得られた有利な性質と考えるべきでしょう
狩猟採集民の観察からは、出産を終えた母親は、子供を集団の他の成員に預け、従来の仕事に戻ります。子育ては専門家集団がまとめて行う。特に閉経を終えた女性がリーダー格で率先して子育てに当たっていたのでしょう。人の先祖たちはずっとこのようにしてきたようです。最近の医学の研究で、女性が出産するとき、出産の前後で脳から出るホルモンが変化するそうです。NHKの番組でも言っていた記憶があります。人間は集団で子育てを行うことで環境の激変を乗り越えてきたようです。
ところで、人の人生は学習の連続です。育児だって学習です。人類は、言葉を使うようになって道具を進歩させたようです。学習の結果は、集団内の構成員が互いにコミュニケーションを取り合うことで急速に進化するはずです。まさに、言葉は神の力「言霊」です。そして学習の結果が知恵。知恵が貯えられるのはまさに、老人の頭脳の中です。
こう考えれば、人の男も女も長寿であることは、社会集団全体にとっても大変望ましいこと。でも、厳しい環境の中で長寿を全うできるのは限られた数の人達だったでしょう。だから、昔の人達は、老人を特別な敬意をもって大切に扱ったのは、自分たちのため。当然のことだ。老人たちもそれに答えて知恵で報いる。喧嘩やもめ事の仲裁。話し合いのとりまとめ。これは現代社会で言われる「長老支配」とは、全く次元の異なる話ですね。
今の、社会では老人に希少価値は無い。極端に言えば掃いて捨てるほどいる。特別な敬意や尊敬を持ってもらえる老人は限られている。西欧型の世界観では、老後の生活は「余生」。ハッキリ言って、今の社会は老いることに価値を見出さない。人の長寿は遺伝的に与えられた。それによって人は厳しい環境を乗り越えてサバイバルして来た。老人に生きがいと活躍の場を与えない高齢化対策は、自滅への道と心得ねばなるまい。

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文字の歴史

言葉の歴史は、ホモサピエンスがアフリカ大陸を出発し、全世界に拡散する前に存在したことはほぼ明らかになっている。ただ、言語は、人が集団で暮らせばその集団毎に独自の言語が発達するので、最初から複数の言語が存在していたことはほぼ明らかだ。 それに比べ、人が文字を使うようになるのはかなり後で、現在でも狩猟採集民族の中には自らの言葉を表す文字を持たない人たちは多数存在している。例えば、日本でもアイヌの人達は、話し言葉だけで文化を継承してきている。一方、世界の貧しい国々の多くでは、識字率が大変低く、文字の読めない人たちが今でも沢山いるという事実も忘れてはならない。そもそも文字がなくても、日常の生活にはさほど不便はない。ただ、現在の科学技術には文字がなければ成り立たなほど必要な道具でもある。
文字   文字   文字   文字
四大文明は総て独自の文字を持っている。上の図は左からメソポタミアの楔形文字、エジプトの絵文字、インダス文字、漢字だ。米大陸でも独自の文字を発展させている。左はマヤ文字。キープのように縄に印をつけて並べたものも一種の文字と言えるのかも。
文字   文字
文字の起源もまだよく分かっていなことのようだ。起源の話をすれば必ず、出てくるのが単一起源説と複数同時発生説。ホモサピエンスの誕生はアフリカ発の単一起源説が優勢だ。言語は複数同時、自然発生的に出現したのだろう。農耕牧畜の起源は?、金属器の使用は? 欧米の研究者たちは、単一起源説を好む傾向がある。すべての文明はメソポタミアの肥沃な三日月の地域から始まったと主張するのだ。
では、そもそも文字とは何か。鳥や動物の鳴き声が言語と言えないように、記号の羅列で文字とは言えないだろう。言語は、文字、単語、文、文法体系から出来おり、更に重要なことはそれが論理と密接に結びついていることだ。
絵でも、いくつかの絵を並べるとそこにはストーリーができ、新しい情報や意思を表明することが可能になる。これを簡略化していけば絵文字が誕生する。単純な記号でも集団内の合意があれば、これも新しい文字と考えられるかも知れない。 しかし、文字の発明が人類の歴史に大きな影響を与えるようになるには、文字が話し言葉を文章として補完し、しかも保管に便利な道具とならないと単なる支配者の権威を示すだけの物にしかならない。
お隣の朝鮮半島では、ハングルという文字が独自に発明された。1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が「訓民正音」(훈민정음)の名で公布した。しかし、この文字は日本が朝鮮半島を占領するまではほとんど使われなかった。何故なら朝鮮半島の支配者たちは庶民が文字を読み書きできるようになることを好まなかったから。一方の日本では、平安時代に仮名文字が発明される。こちらの方は成立の過程は今一つはっきりはしないが、仮名文字はどんどん普及し、江戸時代の末期には、日本は世界でもトップクラスの識字率を誇っていたという。 最古の文字は、日本人から見れば中国で発見された甲骨文字であろう。少なくともメソポタミアで使われていた粘土板の楔形文字が、中国に伝わって漢字になったなんていう説は信じようがない。おそらく、文字は世界のいくつかの地域で個別に発達したんでしょう。しかし、文字体系はどうも自然発生的に成長はしないようだ。どこかの地域で文字が使われていることが分かれば周辺の地域はそれをそのまま借用するのが最も手っ取り早い。でも、元になる言語が異なれば、当然それに合わせて独自の改良が付け加えられる。日本では仮名が生まれ、大陸の西側では、フェニキア文字、ギリシャ文字、ローマ字等いろいろな文字が誕生している。アメリカ大陸でも独自の文字が発達している。

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微生物が人類の歴史を決める

天然痘
ダイヤモンド博士の著書『銃・病原菌・鉄』において、ヨーロッパ人が新大陸の文明を滅ぼした最大の原因は、ヨーロッパ人が旧大陸から持ち込んだ病原菌であろうと推測し、インカやマヤ以外の北米大陸のインデアンたちも病原菌によって急速に人口が減少しているという事実をもとに、説明している。確かに、白人達が持ち込んだ銃や火薬、馬と言った技術の力は大きいだろう。しかし、技術というものは比較的簡単に受け入れられるので一つの文明の崩壊までには至らないのではないかとも考えられる。スペイン人たちは意図したかどうかは不明だが、生物化学兵器を使った歴史的なジェノサイドを行ってしまったようだ。
しかし、この仮説はどうももっと普遍的に拡大され、人類の歴史更には生物の進化にも病原菌としての微生物が大きな働きをしているようにも思われる。
大仏 日本の歴史では、仏教の伝来の頃、蘇我氏と物部氏がその受け入れを巡って争う。ちょうど朝鮮半島の動乱期で沢山の難民が帰化人として日本にやって来る。船を仕立ててやってくる人達だから、当然政権についていたエリート達で武器も技術も持ってくるはずだ。帰化するための土地をくれということだ。その時に、技術や仏教の他に大陸から疫病も持ち込んできたようだ。動乱期の朝鮮では食料も不足し体力が弱って来るので疫病が蔓延していたのでしょう。そのことも日本へ脱出する要因でもあったのでしょう。
微生物は本来、宿主と共生することで子孫の繁栄を図る。だから大抵の病原菌は時間の経過とともに受け入れる人間側にも免疫がついてきて、病原菌に対する抵抗力がつく。だから、たいていの場合、帰化人たちの方が現地の人達より持ち込まれた病原菌に対する耐性があり、生き残るチャンスが多くなる。結局、仏教は受け入れられ、大量の帰化人たちが日本人として同化することになってしまった。
同じような経過が何度も繰り返されてので、日本人の先祖は縄文人と弥生人の混血で、やや弥生人の系統が強くなったのでしょう。
ひょとしたら、ネアンデルタール人クロマニヨン人の接触もそんなものだったのかもしれませんね。アフリカを出たクロマニヨン人達は、今までの人類と比べて集団の規模が大きくなってきたと考えられています。集団の規模が大きくなり、食事や排泄を共にするようになると新たな病原菌が発生するようになります。ただ、このような被害が連続しているうちに人々に段々耐性がついて来るようになります。 ネアンデルタール人とクロマニヨン人の出会いは、今まで想像されていたような狩りの場所を巡っての敵対関係ではなかったのかも。最近の遺伝子レベルの研究では、多少の混血もあった関係が指摘されています。ただ、比較的小さな家族単位で生活していた人たちの中に集団生活の中で強化された強力な病原菌が感染したら彼らアッという間に犠牲になってしまうでしょう。
農耕民と狩猟民の間にもこのような関係があったかもしれない。農耕民たちは集団で一箇所に定住し、お互いの病原菌を分け合って生活しています。場合によっては家畜の菌も一緒かも。狩猟民達は、食料が調達可能なうち手間のかかる農耕などするはずがない。特にモノカルチャー農業は、栄養価の点からも問題が多い。だから、農耕民とは物々交換程度の接触で農作物を手に入れようとしたのでしょう。人が接触すれば当然、病原菌も感染する。狩猟民達は、耐性が無いのであっという間に社会が崩壊してしてしまう。生き残った彼らは考えるでしょう。何故、我々は絶滅して、彼らは生き残ったのか。やはり農業をやる方が良いのだろう。先ほどの仏教の例なら、何故仏教を排斥しようとした我々が疫病で死に、仏教を信じている帰化人たちが生き残っているのか。やはり、仏教はいいものなんだと思ったかもね。
確かにそう考えたようで、仏教は日本では国家鎮護のための道具になる。東大寺の大仏建立も疫病が広がる(天然痘ではないかとの推定も)のを食い止めるだったとか。
剣歯虎 剣歯虎 剣歯虎 剣歯虎
病原菌が生物の進化に多大な影響を与えてきたのは、どうも一般的な法則として成り立ちそうだ。哺乳類の進化を見てみよう。哺乳類は大きく分けて、有袋類と有胎盤類の二つがある。共通祖先と考えられる単孔類等の例外もあるが。有袋類は、現在はほとんどオーストラリア大陸だけにしか見られず、象もキリンも有胎盤類だ。しかし、南北アメリカ大陸がまだパナマ地峡でつながっておらず、別の大陸だった頃、南米大陸は有袋類の王国だったことが分かっている。有胎盤類とほとんど同じ形の有袋類が闊歩していたわけ。パナマ地峡が繋がると、南北両大陸の動物たちが互いに反対側に拡散していく。その結果、有袋類はオッポサムのような一部の例外を除き、ほとんどが絶滅する。 上の4枚の絵の左2つはティラコスミルス(thylacosmilus)いう有袋類、右の2つはスミロドン(smilodon)、いわゆる犬歯虎のもの。ティラコスミルスに限らず、ほとんどの有袋類は絶滅の憂き目にあってしまう。多分ティラコスミルスは北からやって来た美味しそうな有胎盤類の動物たちを沢山食べてその時に一緒に病原菌も摂取してしまい、しかも耐性を持たないため簡単に絶滅してしまったのではないか。
この事実をダーウィン流の適者生存で説明できるのだろうか。これも有胎盤類と有袋類が保有していた病原菌同士の戦いではなかったのだろうか。有胎盤類はユーラシア大陸の広い地域で進化したので種々の病原菌に対してもそれなりの耐性を獲得していたのに対し、有袋類は比較的孤立した大陸で進化してきたので、有胎盤類が保有していた病原菌にやられやすかったのかもしれない。卵生の鳥類が特に不利益も被らずに進化してきたことをみると、有袋類という子育ての方法が生存にさほど不利とは思えないのですけど、いかがなものでしょうか。
病原菌の影響は互いの種族が時間的に長期に渡って隔離されているほど大きい。新大陸への旧大陸の病原菌の侵入がこれほど破壊的な威力をもたらしたとすれば、有袋類への有胎盤動物の侵入やネアンデルタール人社会へのクロマニヨン人(新人)の侵入は更に破滅的な影響があったのでしょう。

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商業の歴史

商業という言葉のもと、商はもともと古代中国の国の名前から来ているらしい。4大文明発祥の地、中国で最初に知られている国は殷(いん)という国。殷(拼音: Yīn、紀元前17世紀頃~紀元前1046年)これは殷墟の発掘調査から実在したことは明らかとなった。伝説では、殷の前には夏(か)という国もあったとされている。殷の人々は、自らの国を商(しょう)と呼んでいた。紀元前11世紀に周という国によって滅ぼされた(殷周革命)。殷墟から出土した甲骨文字には、王朝名および「殷」の字は見当たらないが、周は先代の王朝名として「殷」を用いたとある。殷後期の首都は出土した甲骨文字では「商」と呼ばれたらしい。
周によって国を追われた商の民は、その後、自分の国を持つことが出来ず、各地を流浪する民となり、その人たちが生計の手段として商業を起こした。だから、商業を営む人たちを商人というとのことだ。
生活に必要なものを互いに交換し合うという行為は、人類の歴史の中では更に昔にさかのぼることが出来そうだ。縄文人の遺跡からは、その地では取れない貴重な石なども見つかっており、相当広い範囲で文化的な交流があったことも分かっている。糸魚川のヒスイ(翡翠、jade)や固い石器が出来る黒曜石、縄文土器なども製作を行う専門家集団がいて、取引の重要な手段となっていた可能性もある。
商業という行為は、非常にハイリスク、ハイリターンな行為である。しかし、歴史を見れば商業に成功した民は皆豊かであることも事実だ。また、互いに必要な物を交換し合うという行為は、当事者同士から見れば満足がいくものでも、地球環境から得られる資源の分配という観点から見れば、大変不公平で不平等なものでもあるようだ。例えば、あなたの集落の近くの河原で貴重な石(例えば、翡翠など)が発見されたとしよう。これを自分の家に飾っておくだけでは何の富も生まない。しかし、これを近隣や更に遠隔地で売り裁くことが出来れば、収穫した分を全部富に変えることが出来る。畑仕事など馬鹿らしくてやっていられない。そして、このような資源は枯渇するまで取りつくされてしまうでしょう。しかし、目先の利く商人なら、得られた富を資本に今度は別の商品を開発できるのです。富が富を生む。資本主義の原点がここにあるわけです。農業は集団内の格差を生むが、商業は集団間の格差を助長する可能性があるわけです。

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日本の歴史の部屋

日本の歴史と言っても、実際には世界の歴史や地球の歴史と密接に関連している。  
完新世 縄文時代 旧石器捏造事件 縄文の巨大噴火
稲作の起源と鉄器の利用 弥生時代
吉野ケ里遺跡 神武天皇 丁未の乱(ていびのらん)
乙巳の変(いっしのへん) 白村江の戦い 藤原 不比等
鎌倉幕府の成立 松永 久秀
桶狭間の戦い 信長の最強のライバル 本能寺の変の真相 関ケ原の戦い
柳川一件(やながわいっけん) 間宮海峡
横須賀造船所 オーランド諸島紛争と新渡戸稲造 米内光政
米国の人種差別に立ち向かった日系人 【日系人の強制収容所】
平家・海軍・国際派日本の歴史と英国の歴史 ビキニ事件 翼、ふたたび
平成の終わり

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完新世

新生代第四紀完新世(かんしんせい、Holocene)とは地質時代区分のうちで最も新しい時代。日本の歴史を語る際には、すべての出来事は完新世に起こった事柄だ。かつての沖積世(Alluvium)と言われていたものとほぼ同義だ。 最終氷期が終わる約1万年前から現在まで(近未来も含む)を指し、その境界は、大陸ヨーロッパにおける氷床の消滅をもって定義されている。完新世の前は更新世、以前は洪積世と呼ばれていた。
縄文海進 気候環境が一転して地球全体が温暖化し、氷河がモレーン(堆石)を残して後退。地球各地が湿潤化して森林が増加、逆に草原が減少してマンモスやトナカイなどの大型哺乳類の生息環境が縮小し、彼らを絶滅させる。人類が狩りつくした可能性もあるが。 期間が短く大規模な大陸の移動などはないが、初期には、大陸氷床の融解によって海面が急激に上昇する。縄文海進といって埼玉県の中央部あたりまで海が迫っていた。縄文時代の貝塚の分布を見るとこのことは明かだ。特に完新世の気候最温暖期と呼ばれる時代には、現在より3メートルから5メートルほど陸地に対する海面の相対的な高さが高かったとされる。その後、海面は緩やかに下降し、海水準は2,000年前ほどから比較的安定している。 スンダランドが海中に没し、現在のインドネシアやフィリピンなどに相当する地域がユーラシア大陸から分離して島となる。ベーリング海に存在した陸橋ベーリンジアが温暖化の海進により水没し、北米大陸はユーラシア大陸から分離する。約7300年前に南九州の鬼界アカホヤが噴火する。同時に巨大地震や巨大津波が発生する。 更新世末から完新世初めにかけて、人類の直接の祖先であるヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)が世界規模で拡散する。人類の生活はそれまで、遊動しながらの狩猟(漁労)採集活動生活であったが、大きな川の流域などで定住農耕牧畜生活に大きく転換する。徐々に人類が文明を築き始め人類史にとって重要変換点となる。
【鬼界カルデラとアカホヤ】
鬼界カルデラ 九州の南に鬼界カルデラと巨大な噴火の跡が残されている。鬼界カルデラ(きかいカルデラ)は、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にある。薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島がカルデラ北縁に相当。薩摩硫黄島はランクAの活火山に指定されている。つまり、今でも大噴火の危険がある場所なのだ。
この火山が縄文時代の中期、約7,300年前に大爆発を起こしたらしい。更に有史以前にもたびたび爆発を起こしたらしいことも分かっている。
昭和初期に付近の島々を調査した地質学者の松本唯一は、ここに巨大なカルデラが存在していることを指摘し鬼界ヶ島にちなんで鬼界火山と名付け、1943年に鬼界カルデラとして学会に提唱。1976年にはアカホヤと呼ばれていた地層がこのカルデラを起源としていることが確認された。2016年から2017年かけて行われた海底調査の結果、直径約10km、高さ約600m、体積約30平方kmにもなる巨大な溶岩ドームが確認され、現在も活発な噴火活動が続いている。 当時居住していた縄文人の生活にも大打撃を与えたらしいい。アカホヤは、栄養分に乏しく農業には著しく不適との説もあり、縄文遺跡が主に東日本を中心に発見されるのもこの影響があるのかも知れない。このカルデラ型の噴火の頻度と言うものは約6000年に一度程度のものらしいが、もし今生じれば日本一国丸々絶滅させるぐらいの巨大な規模になる可能性もあるとのこと。

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縄文時代

縄文時代は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代です。
旧石器時代と縄文時代の違い、つまり縄文時代の始まりは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられている。一方終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機としているが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までと多くの説があり、正確に定義できていない。なお、沖縄県や東北北部、北海道では縄文時代の生活様式がある程度継承されるためなおさら不鮮明。
だから、縄文から弥生への変化は非常に段階的で、はっきりした線引きは出来ないということらしい。縄文時代は、日本の歴史ではその後の日本の骨格が形造られる重要な時期で本当は面白いことがいっぱいあるのだと思われますが、なんせ書かれた記録が無いことから未だに不明な点が多く、今後の研究が待たれる分野と言えるでしょう。縄文時代に関するいくつかの疑問点を整理して見たい。
1.日本人のルーツについて
旧石器時代にも既に日本列島には人類が到着していたらしいことは分かっているようだ。野尻湖湖畔でナウマンゾウやオオツノシカのような大型動物達を狩っていた旧石器時代の人達。地球環境の温暖化に伴い、大型動物達が絶滅して行き食料としては、小型の哺乳類(ウサギ等)や鳥、魚、貝、木の実などへと食生活を変化させて定住化の道を進んでいく。
全国各地で見つかる貝塚は、この当時の人々が大量に貝を採集していた証拠であろう。温暖化で海水面は上がり(100m位上昇か)、埼玉県の南部地域にも貝塚が発見(例…水子貝塚)されています。この縄文人たちは、旧石器時代の人類の子孫なのでしょうか。あるいは、その後日本にやってきたのでしょうか。どのようなルートで日本に到達したのでしょうか。DNAの解析から、将来このようなことが分かる日が来るかもしれません。
2.縄文土器と文化
火焔型土器 火焔型土器 縄文土器はどうも世界最古の土器であるらしい。土器の利用は、当初は食料を調理するためのものであろうと思われる。つまり、水を煮立ててその中に食材を何でもブチ込んでいく鍋文化だ。これは、今でも日本の食生活の中心的存在だ。焼肉とパンを食する人たちなら皿があれば十分で、先の尖った円錐型の土器は煮炊きに用いられたのではないかと想像される。縄文土器の芸術性は世界にも誇りうるもの。火炎土器の装飾性は古代人の精神世界が高度な抽象性を確保していたことを伺わせる貴重なメッセージだ。多分土器を製作する専門家集団もいたものと推測できる。
大湯環状列石大湯環状列石(秋田県)
一方、日本にも環状列石や環状列柱(木)が存在している。イギリスやヨーロッパでも見られるストーンサークルです。天体観測の拠点だという説もありますが何か宗教的な意味があったことは間違いないでしょう。いずれにせよ人々の定住化によって、このような大規模なシンボル的な構造物の建築が可能になってきます。左は秋田県の大湯環状列石。

3.定住化の始まり
人類の定住化は、農耕の開始によってだとされていた。ところが青森県の三内丸山古墳の発掘で、この地に当時としては500人程度という大規模な集落の後が発見された。しかもこの集落相当長期にわたって(どの程度なのか調べて見たい)継続して存続していたらしい。
集落の周りには実のなる木を計画的の植林し、他にも多種多様な食料を食していたらしく、後世の弥生人よりもはるかにヘルシーな食生活を送っていたようだ。どうも4大文明の発祥の地よりも、周辺地域の方が生活文化は豊かというのが歴史の実態かも。それはそうだ、環境の変化(たいていは悪化)が生活スタイルの変化を促すのだから。地球全体が温暖な縄文時代は、青森県は今の九州ぐらいの気候だったのかもしれない。
大型動物を追って移動生活して世界中に拡散して行って人類が、気候の温暖化と大型動物の減少に合わせて定住化の道を進んで行く。このような動きが世界中で同時並行して進んでいたのだと思う。
4.稲作の始まり
水田耕作の始まりを持って弥生時代とするようですが、稲自体は既に縄文時代に始まっていたようです。また、最近の研究では水田耕作自体も従来考えられていたよりもかなり早い時期に始まっていた可能性も指摘されています。水田を使わない陸稲や、水の中にタネを撒くだけの方法なら、多大な労力を必要としません。ところが、今の水田耕作を見れば分かるように稲作には多大な労力がかかります。つまり、縄文の人達が進んで稲作を取り入れたということは、従来の食糧が不足してきたことが考えられます。温暖化していた縄文時代が寒冷化して来たものと想定されます。このことは過去の気温の変化を調べれば分かります。海岸線が後退して行ったことからだいたいは想定できるでしょうが。
ところで、稲のルーツは未だ良く分かっていません。中国から、朝鮮半島を経由して日本にやってきたとするのが従来の学説ですが、DNAの研究からどうもそうではないらしいと思われているようです。それと中国も朝鮮半島も北の方は稲作には不適です。北京周辺は小麦、米は江南地域です。つまり、南方ルートの可能性もありですね。黄河文明に滅ぼされた長江文明(発掘に既に存在は確認されており、その河姆渡遺跡は稲作文明)の先住民たちが日本に亡命してきて稲作を持ち込んだなんていう話もあるようです。あくまでも仮説段階ですが。
5.日本語の起源
縄文人がどこからやって来たか。移動に伴う言葉の連続性の問題が挙げられる。人は移動しても、言語の基本的構造は変わらないと考えられるからだ。例えば中国語は、1単語1音節、表意文字を用いるため文法は非常に簡素で合理的。良く似ていると言われるのは韓国語。似ているのは膠着語と言われる文法で、個々の単語はかなり異なり同一のルートと見るのは難しそう。一時、古代日本語は韓国語と共通で互いに意思疎通できたとする論文が出たことがあるようですが、結局根拠不十分。単語の類似性だけならroadと道路など英語だって日本語に似ていると主張することも可能である。言語の発展と言うのは文字の無い時代のことなので記録が残っておらず大変難しいと思う。途中で歴史から消えてしまった言葉なども沢山あるのではないかと思われる。

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旧石器捏造事件

ナウマンゾウ旧石器捏造事件は、日本各地で「~原人」ブームを巻き起こした日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、発掘調査に携わっていた考古学研究家の藤村新一氏自らが事前に埋設した石器を自ら掘り出して発見したとする捏造だった事がと発覚した事件。藤村氏は1970年代半ばから各地で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日の毎日新聞朝刊にスクープされ、不正が発覚した。これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の醜聞となり、海外でも報じられた。おそらく世界の考古学史上最大級のスキャンダルとなるでしょう。それまで藤村氏が調査に行けば必ず新発見があり、「ゴッドハンド」として名をとどろかせていた人物だ。
それでは、旧石器の年代は今まで、どのように推定していたのか。石器とは結局石の塊で、それ自身何も語らない。大抵はそれが掘り出された地層の年代から、例えば微花粉化石とか、他の動植物の化石とかから時代を推定するしか方法がない。それに石器と言えども偶然にそのような形をしていないとも限らず、人工による加工を実証することも難しそうだ。結局、藤村氏の悪質な捏造のため、日本の旧石器研究は根本から資料見直しを迫られることになってしまった。石器を打ち欠いた切り口の年代が測定できればいいのでしょうがそのように技術はまだないのかも。
岩宿 日本に縄文時代より前から人が住みついていたことは、相沢忠洋氏の岩宿遺跡の発掘や、野尻湖の化石調査からほぼ確実と見られています。当時納豆売りの行商をしていた相沢青年から、この石器を見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)等の現場検証もあり、こちらは評価が確定しているようだ。日本の自然環境から人骨化石はほとんど期待できない。そこで石器でも発見されれば大喜び。捏造はそこの心理をうまくついた訳だ。しかし、このような事件が無ければ旧石器考古学は捏造の積み重ねの上に理論を積み重ねさらに可笑しな方向に進む羽目になったわけだから、藤村氏の貢献は非常に貴重なものであったとも言えそうだ。実は考古学の一番大変な作業は、発掘した遺物の時代の確定のようだ。

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縄文の巨大噴火

アカホヤ 7300年前、薩摩硫黄島の鬼界カルデラで噴火(アカホヤ噴火)が生じたことが明らかにされつつあります。7300年前の噴火では、火山灰が東北地方まで飛び散り甚大な被害を縄文人に与えたはずだが、もし仮に今起きたならば、日本一国滅亡させかねない災害だったらしい。噴火は数千年に一度の程度の頻度らしいが、いつ起こっても不思議ではなく、予知することもできないという恐ろしい代物だ。VEI=火山爆発指数が8以上という火山は、世界に七ヶ所あり薩摩硫黄島は危険度がトップクラスらしい。
縄文の遺跡は、何故か東日本に多く、西日本には少ないことは以前から謎であった。なるほど、西日本特に九州南部は壊滅的な被害を受けていたのでしょう。過去の遺跡は火山灰の下に埋もれてしまったのかもしれない。北九州あたりに生き残った人たちは、農業をあきらめ、海の民として生きる道を選んだ可能性がある。朝鮮半島の南にはどうも倭人の活躍が目立つようになるが、彼らが積極的に日本本土と大陸との橋渡しを行ったのかもしれない。
一方、日本神話に残されている天照大神が隠れ、日本中が真っ暗になったという天岩戸神話は、鬼界カルデラ大噴火による大災害の記憶なのかもしれない。
天岩戸 天岩戸(あまのいわと)の神話は古事記にも日本書紀にも出ている。7300年前というとBC53世紀ぐらいの昔。縄文中期ぐらいの出来事ではあるが、相当な大事件なので口承伝説として広く日本各地で伝えられてきたようだ。単なる日食のような出来事なら、簡単に忘れられて神話として残るはずも無かろう。昼間でも太陽がオレンジ色にかすんで月のような状態の暗い日々か何日も続き、作物も実らない数か月も続いたとしたら。こんな恐ろしい災害が今後いつ起こるかは予測できないらしい。

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弥生時代

弥生時代(やよいじだい)は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代。以前使われていた定義と比べるとずいぶん始まりの時期が早くなっているようだ。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れるとされる。
そもそも、日本の人々が何故、多様性に富んだ縄文文化を捨てて、稲作一辺倒のモノカルチャーに移行したのか。米一辺倒の食料では、栄養価は圧倒的に劣る。生活レベルは絶対に低下する。しかも稲の生産には多大な共同作業による多大な労働力を必要とする。稲作は縄文晩期には既に知られており、なかなか稲作文化は縄文人には受け入れがたいものだったはずだ。
おそらく、気候の大変動と、それに伴う大量の大陸からの渡来人の侵入、急激な人口増加と食料の不足等様様な要因が重なったのだろう。 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることになった。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきているらしい。もともと「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となっている。

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稲作の起源と鉄器の利用

縄文時代は、新石器時代に分類される。つまり、まだ金属器の利用はなかったのでしょう。ところが弥生時代に入ると青銅器と伴に鉄器の利用が始まる。普通は青銅器の時代があって、その後に鉄の利用が始まる。鉄の鉱石は銅よりも資源としては量的に優位であるが、鉄の融点が銅よりも高いことから、より高い温度を得るために技術的な壁が高かったようだ。縄文土器の技術とか、木の文化から得られる炭焼きの技術の蓄積から、縄文期の人々は鉄器を受け入れるポテンシャルは比較的高かったようだ。問題は鉄鉱石が容易に見つからなかったことにあったらしい。当時はまだ砂鉄の利用は行われていなかったらしい。どうも鉄鉱石は朝鮮半島の南部から持って来たらしい。或いは最初は製品として鉄の塊を輸入したのかも。半島南部は当時は倭人とみられる人たちも多く住んでおり、互いの交流もあり比較的容易に鉄資源を入手出来たようだ。でも、このことを考えると大和政権が朝鮮半島の支配権に大きな関心を持っていた理由は明かだろう。 一方、農業の方は青森県の三内丸山遺跡からも分かるように、縄文人たちは既に多品種に渡る多様な農業生産を行っていたことも分かっている。人類の歴史では農業を行うようになると人口が急速に増加すると言われている。しかし、人口を増やすためには食料生産を増やさねばならない。ところが人は豊かになると何故か子供の出生率が低下するものだ。何故、多様性に富んだ縄文式の農業を止めて、モノカルチャーの稲作に転換する必要があったのか。
  ヒントは律令制度の口分田に関する記述の中にある。当時の稲作農民は土地を持たず、農具も持たない、単なる労働力だったようだ。土地は家族の頭数だけで割り当てられる。鉄製の農具は貴重なものなので作業の時だけ貸し出されたらしい。水田耕作は、土地面積当たりの生産性は高いかもしれないが、新たに耕地を開墾するには多大な手間を要する。また、効率良く耕すに鉄製の農具が不可欠だったのだろう。つまり、新たに生まれる子供が労働力を提供する商品となったわけだ。人が増えれば食料がいる。そのためには新たな耕地がいる。耕地が増えれば人が必要。このようなサイクルで、弥生時代には人口がかなり増加し、また耕地と労働力の確保のため絶えず部族間の戦争が繰り広げられる世になったようだ。

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吉野ケ里遺跡

岩宿 吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県にある国の特別史跡。およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られる。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。発見されたのは、工場団地造成計画の際に偶然に発見されたもの。これは縄文遺跡の三内丸山も同じ。他にもっとすごい遺跡がまだ、地下に隠されている可能性は否定できない。
弥生時代中期の遺跡で紀元前4世紀頃に始まり、紀元後3世紀頃に最盛期を迎えたと推定されている。何と言ってもその特徴は、物々しいい軍事施設であるということだ。二重の深い堀と柵、敵を見張る物見櫓、刀傷のある人骨等。ちょうど、中国の史書に残されている、倭国大乱の時期に相当するのではないかと推定され、邪馬台国との関連も議論になっている。何故、平和な縄文の世界(山内丸山遺跡)から、このように戦いに明け暮れる時代に変化したのか。おそらくその背景には急激な環境の悪化という条件が隠されているはずだ。指導者たちは食料を確保して、民を食わせないといけない。弥生時代は、従来の縄文人の生活の場に大量の渡来人が流れ込む。大陸側の歴史も無視できない。両者は必ずしも平和裏に混血して現在の日本人が成立したわけではないだろう。遺伝子解析などの研究からもその辺の事情が少しずつ解明されてきているようだ。またまだよく分からないことだらけの世界である。

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神武天皇

戦時中は、皇紀(こうき)という年号が使われていて、西暦1940年は、皇紀2600年ということで記念の年であった。皇紀元年は神武天皇が即位した年。ということは、神武天皇はキリスト誕生の660年も前に即位したことになります。紀元前7世紀。日本では、紀元前13世紀~紀元前4世紀ぐらいまでは縄文時代と言われている時代。 縄文時代は、約1万5,000年前~約2,300年前、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代で、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代とされる。土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚などが特徴。
神武天皇    神武天皇は、日本の初代天皇とされる神話・伝説上の人物。和風諡号(しごう;貴人の死後につけるおくり名)は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、諱(いみな)は「彦火火出見(ひこほほでみ)」だそうだ。
 神武天皇の功績は、九州の日向の地(今の宮崎県)の東征して、先住民を服従させ大和朝廷を成立させたということか。建国の父という位置づけだ。確かに、神武天皇は、神話・伝説上の人物だが、歴史の研究では、神話も伝説も何らかの意味は持っているはず。何故、神武天皇は東征で西征ではなかったのか。服従させられた先住民とはどんな人たちだったのか。吉野ケ里遺跡は当時の日本が、戦いに明け暮れた激動の時代であったことを示唆している。定住して安定した社会を築いていた縄文の人々の中に大陸方面から稲作技術を持った人々が押し寄せてくる。人口が増えて部族社会から首長社会、そして国家が誕生する。歴史が大きく転換する最も興味深い時代。文字が残されていないので、頼りになるのは遺跡の発掘と神話の意味するところの解明でしょう。(2018.5.6)
セロセン 【追記】戦争中の日本の有名な戦闘機「ゼロセン」は、紀元2600年(1940年=昭和15年)を記念してなずけられた。当時は零(れい)式戦闘機と称していた。そもそも0を零(れい)と読むのが本来の日本語。零をゼロと読むのは英語の影響だ。英語の「ゼロ・ファイター」が「ゼロセン」に変わったもの。

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丁未の乱(ていびのらん)

丁未の乱(ていびのらん)(587年)は、飛鳥時代に起きた我が国の内乱。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされ、物部氏は衰退する。その後の日本の形を決める重要な戦いだ。
535年 インドネシアのクラカタウ火山の爆発による地球規模の大異変が起きる。 世界各地の古文書・年代記・伝承などに異常寒波・自然災害・飢饉・疫病が発生し、その結果政変や文明の崩壊がおきたことが記されている。その結果、民の不安を収めきれずに衰退に向かった勢力がいる一方、この不安を逆手に取り、集権化を押し進め国を統一する方向にもっていく勢力もいる。
6世紀(501~600年)の東アジアも、中国でも政権が交代し、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅が覇を競いあい混乱時代に陥る。朝鮮半島から沢山の難民(特に百済系が多いか)が日本にやって来る。百済から来た人たちはお土産に仏教を持ち込んでくる。インド発の仏教は同時に色々な技術を伴って伝えられるメリットもあったが、難民(渡来人)が同時に持ち込んだ疫病が大流行するという悪さももたらした。
物部氏は、当時は最有力の氏族だったようだ。神話では神武天皇の盟友となっており、磐井の乱の鎮圧にも活躍している。ただ、渡来人の数が増えるに従って、豪族たちの力関係少しずつ変わっていったようだ。物部氏と並ぶ大伴氏は、力の基盤となる朝鮮半島の南部の領土失い(新羅に取られ)力を失う。
一方の、蘇我氏の方も先祖は武内宿禰ということで名門らしいがその後の活躍はあまり記録が無く、渡来人を活用し力をつけて来たようだ。
結局、大連としての権力が、大伴・物部→物部、大臣の方が葛城氏・平群氏→蘇我氏と大和政権内の豪族の権力が物部・蘇我の二大勢力の対立に至ったらしい。
【対立の経過】
物部守屋 欽明天皇の時代。百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争う。
稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わり。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可。このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるように命ずる。守屋は自ら寺に赴き、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、群衆の目前で鞭打った。
こうした排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後に崩御(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込む。当初、守屋は有利であったが河内国の本拠地で戦死(流矢に当たったらしい)(丁未の乱)。同年蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位。以降物部氏は没落する。
物部氏の子孫たちは政治の舞台からは消えるが、物部氏から改めた石上氏が神社の宮司として代々続いているらしい。神道は国学として江戸時代には仏教に対抗する思想として復興する。
この当時から日本の天皇(この当時は大君と呼ばれていたはず)は象徴で、実際の実務は豪族たちが天皇の名前で行っていたのですね。上記の歴史も、日本書紀等だいぶ後になって書かれたものなのでかなりの改竄もあるかもしれないけど。しかし、これ以降仏教は国の支配原理としてしっかり根付くことになる。
しかし、この戦い、どう見ても蘇我氏の側に大義名分はないね。ここで問題としている仏教は国家鎮護のためのもの。国の宗教だから個人の信仰の自由とは全く無縁のもの。しかも疫病が流行していることも無視して力ずくで導入しようとする。最後は一方的に戦いを仕掛ける。 一人勝ちになった蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって政治基盤が動揺していくこともあったのかも。それを克服しようとした入鹿等の政治が強権的だったこともあり乙巳の変(いっしのへん)につながったのかもしれない。この時仏教を取り入れたことがその後の日本の繁栄にどれだけ寄与したのかも見ていく必要があるだろう。
歴史の流れは、偶然に作用される面が大きい。蘇我⇔物部の戦もどちらが勝っても不思議のない多い戦だったようだ。物部氏も私的には仏教を崇拝していた可能性もあり、朝鮮との関係も持っていたようだ。ただ国家の枠組みとして仏教を柱にすることには反対だったようだ。渡来人の発言力が大きくなってしまう可能性があるから。単に頑固な守旧派と見做すのは偏見であろう。

【氏姓制度の成立】
原始共同体においては、氏族や部族が社会の構成単位だったようだ。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直される。成立時期は、5~6世紀ぐらいらしい。同族のなかの長が、臣、 連、伴造、国造、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜わる。各姓は以下の通り。
臣(おみ)…葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては大王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
連(むらじ)…大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、大王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。
伴造(とものみやつこ)…連とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族。弓削氏、矢集氏(やずめ)、服部氏、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏や秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏がある。連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。百八十部(ももあまりやそのとも)さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。
国造(くにのみやつこ)…代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民を率いる地方的伴造の地位にある者もあった。君(きみ)、直(あたい)の姓が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。 県主(あがたぬし)…これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏の名とする。
このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、大王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれた。そののち、臣のように、元々は大王とならぶ地位にあった豪族にも及ぶ。

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乙巳の変(いっしのへん)

乙巳の変(いっしのへん)は、宮廷内のクーデター。西暦645年とされる。社会の教科書ではこの後、「大化の改新」という一連の改革が行われたことになっている。ところが近年の研究では、どうも改革というのが実態と異なっていることが明らかになって来ている。そもそもクーデターのやり方自体が非常に卑怯な方法で、日本人の美意識に全く合致しない。しかも、殺された蘇我入鹿が当代きっての秀才で気配りも抜群、当然次世代のリーダ的存在で、中大兄皇子等の嫉妬の対象だった可能性が高い。その後の改革というものも概ね蘇我氏の想定していた改革そのもので、内容的にはさほど見るべきものなし。それ以上に最悪なのは外交政策の大失敗である。
乙巳の変
白村江の戦い(663年)に百済を助け出兵し、唐・新羅の連合軍に大敗北を喫するのである。唐は隋を受け継いだ統一王国で、朝鮮半島にも勢力を拡大する。結局、唐に従った新羅を除き、高句麗及び百済は簡単に滅亡。国際情勢に関する知識があればどう考えても唐と戦う選択肢はあり得ない。どうも百済の残党の亡命勢力が中大兄皇子等を抱き込みクーデターとなった可能性がある。そもそも乙巳の変のもう一人の主役、中臣鎌足という人物の出自が怪しい。これほどの大改革なら、蘇我、物部、大伴、葛城等の大物が控えていてもよさそうなものだが。
当然、その前の時代から遣隋使を派遣し、日本の高官たちも中国の状況を把握していたはず。百済と組み唐と戦う選択肢はクーデターでも起こさない限りありえない。敗戦後は唐の報復(唐の側は大勝しているので報復の必要はないが)恐れて九州の防備に大わらわ。防人(さきもり)の配置など。国益を大いに損なった大失政だ。
その後、天皇となった天智天皇は、失政を覆い隠すために、強権発動をし、都を移したり、歴史の編纂(自己弁護)に勢力を傾けるも、死後、壬申の乱(672年)で弟の大海人皇子(後の天武天皇)に政権を奪取される。反乱者側が地方の豪族を抱き込み勝利した珍しい例となった。
このころ編纂された歴史書、「日本書紀」は蘇我氏を悪者にして歴史から抹殺する目的があるので、蘇我氏の業績を他のものに転嫁した可能性がある。その候補が聖徳太子ではないかとの説もある。蘇我氏は仏教を重んじ、和をもって貴しとする考え、つまり天皇独裁でなく、豪族たちによる合議制で国を動かそうとしていたので、聖徳太子の考えと合致して対立する要素は少ない。天皇独裁が必要なのはむしろ百済からの亡命勢力であろう。乙巳の変以降、天皇の独裁傾向が強まるのは、クーデターが一定の成果を上げたことになるであろう。百済の勢力も一定の軍事力を持っていたのかも。
その後、天武朝になってからも、天智系の豪族たちは処罰の対象となり、中臣氏は元の性に戻去れる。何故か、不比等の子孫だけが藤原氏と名を変え、天皇家と縁戚関係を築き、独り勝ちとなる。その先駆けが藤原不比等。天皇家を自由に操ることで勢力を拡大し、その力は現在まで続いている。 でも、不比等がやったこと、既存の豪族たちの力関係を新しい律令制という枠組みの中に吸収し、その頂点に収まったということではないのだろうか。「和をもって尊しとなす」の理想を地で行った方なのかも。その後の日本の歴史を見れば分かる通り、日本の天皇は絶対君主としてふるまうことは、一部の例外はあるもののほとんどない。貴族たちの合議制で政が行われていたようだ。お隣の朝鮮や中国の歴史と比べればこのことは一目瞭然でしょう。
この時代の史実は、記録も少なく資料としては、「日本書紀」、「古事記」、その他地方史をつづる「風土記」等限られている。しかし、歴史を書くのは常に勝者で、書かれていることは勝者に都合の良いことだということを常に肝に銘じておく必要があるでしょう。

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白村江の戦い

白村江の戦い

中国では618年に隋が滅び唐になる。朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国の鼎立状態で、日本は百済と親交が深かったようだ。このうち最も弱かった新羅は、いち早く唐の庇護下に入り、最も強かった高句麗は、唐と国境を接していることもあり、3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を受け、結局は滅び去る。日本は百済からの亡命貴族達も多く政権内にも百済ロビーが出来ていたこともあり、百済を支援しようとする。ただ遣唐使は既に630年に派遣されており、当時の政権内の多くの知識人達は唐と敵対する選択肢は無いことは分かっていたはずだ。
有名な乙巳の変(いっしのへん)が、645年に起こる。宮廷内のクーデター。そして遂に663年の白村江の戦いが生じる。百済の遺民達と倭国の連合軍が、唐・新羅の連合軍に大敗する事件だ。日本が外国に占領される3大危機として、①太平洋戦争、②元寇、③白村江の戦いと言われるほどの大事件だったようだ。
この後、「乙巳の変」の首謀者であるは中大兄の皇子(天智天皇)は唐・新羅の攻撃を恐れて、太宰府に水城と山城を築き、防人を配置するなど防衛に大わらわ。都を海から離れた大津に移すのも国土防衛の一環からか。このような強権政治は地方豪族の不満を招き、反乱を起こした弟の大海人皇子(天武天皇)に政権を譲ることになる(壬申の乱(じんしんのらん)(672年))。遣唐使はその後も続けられるが894年菅原道真の建議によって廃止され唐の滅亡(907年)によって消滅する。
白村江の戦いに当たっては、唐は日本からの留学生の帰国を阻止し、百済を攻めるという情報が漏れないように万全を期していたという。唐のおかげで朝鮮半島の統一に成功した新羅は、今度は一転して唐に歯向かい独立の道を歩むことに。日本との関係はずっと悪いまま。遣唐使は新羅を通過できないので南のルートを取らざるを得ず、遣唐使の航海は非常に危険を伴うものになっていたことも遣唐使廃止の理由の一つになっている。
【追記】
日本人の外交音痴は今に始まったことではない。1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾し(日本の降伏による第二次世界大戦終結)、白村江の戦いから1282年後に対外戦争での手痛い敗北を再び経験した。そして、戦勝国であるアメリカの様々な制度を導入したが、終戦直後の翌1946年(昭和21年)8月に当時の昭和天皇は、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし。」と語り、再び敗戦国の国民となった日本人を励ましたそうだ。歴史は繰り返す。英語「History repeats itself. 」、ロシア語「История повторяется.」、中国語「历史重演」。私達も歴史を学ぶのではなく、歴史に学ぶ姿勢が大事だ。

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藤原 不比等

藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての官僚で、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男といわれている。鎌足は、乙巳の変(いっしのへん)で、中大兄皇子(天智天皇)を補佐した大立者であったが、後の壬申の乱で、藤原氏(中富氏)の一族は、排除され、元の姓である中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することに戻される。天智天皇系の近江朝の重臣は当然のこととして処罰の対象になったわけ。藤原不比等は当時13歳と幼かったことから、処罰の対象から免れたが、天武朝の官僚機構の下から出直すと言う苦労をしたといわれる。ところが、不比等は法律の知識が豊富で文才も豊か。『大宝律令』の編纂にも主導的な力を発揮して、トントン拍子の出世。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖とされている。古事記や日本書紀の編纂にも関与していたらしい。古事記は稗田阿礼という人の記憶を太安万侶が筆記したしたことになっているが、稗田阿礼という人物、不比等の代理人か本人自身ではないかとの推測もあるようだ。いずれにしても、藤原不比等という人物はただものではない。なんといっても、後に天皇家を利用して権勢をふるう藤原朝の元祖だ。天皇家との婚姻関係を通じて今の皇室は藤原家の筋が脈々と続いている。京都の公家は三条だの白川だの、岩倉だの、袋小路(??)だの皆、藤原氏の末裔だね。今の宮内庁だって藤原氏の代理人かもね。ただ、不比等さんは信長や秀吉と比べて、戦いをしたわけでもないし大変地味な存在。ただ、日本の歴史においてはその存在は滅茶クチャ大きい存在なのだ。
でも、不比等がやったこと、本当は既存の豪族たちの力関係をを新しい律令制という枠組みの中に吸収し、その頂点に収まったということではないのだろうか。「和をもって尊しとなす」の理想を地で行った方なのかも。つまり、蘇我や物部といった氏族は消滅した代りに、彼らはしっかりと律令制の中での役割と権限を確保し、支配階級としてふるまっていたのではないだろうか。律令制という制度自体、当時の大帝国唐とお付き合いするために必要だったわけなので、形だけまねて中味を日本の実情に合わせて換骨堕胎してチャッカリ利用する不比等さんはやはりただものではない。
その後の日本の歴史を見れば分かる通り、日本の天皇は絶対君主としてふるまうことは、一部の例外はあるもののほとんどない。貴族たちの合議制で政が行われていたようだ。お隣の朝鮮や中国の歴史と比べればこのことは一目瞭然でしょう。でもそのおかげで天皇家は今日まで続いている。たいていの国では政権が変われば王族は処刑されて消えてしまうのに。また、その後日本が武士の世となり、封建制度という地歩分権型の国に変貌できたのも不比等流の律令制度のおかげかも知れない。お隣の朝鮮半島では専制王権型の律令制が定着してしまって日本に占領されるまで続く。やはり、藤原 不比等という人本当にただものでない。でも、とても地味な存在で歴史小説に登場する事などほとんどないようだ。

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鎌倉幕府の成立

鎌倉幕府の成立は1192年。頼朝はイイクニ作りに鎌倉へ。こんなこと常識。ところが今の若い世代は学校で、これは間違いで1185年(イイハコ)と覚えるように指導されているとのことだ。所詮こんなこと語呂合わせでどっちでもいいこと、これで歴史が変わるわけではないのに。文部省の陰謀? どうしてこんなこと一生懸命に議論するのか理解不能ですね。
鎌倉幕府 そんなことより、鎌倉幕府とは一体何なのかをしっかり把握することが重要でしょう。幕府とは英語で言えば、camp governmentつまり、占領地を統治するための臨時の統治機関。だから日本の支配権は名目的には相変わらず天皇中心の京都の公家達が持っている訳でしょう。だから鎌倉幕府の長官は、朝廷から任命された征夷大将軍。Imperator、他にも鎮守府将軍とかいくつかの将軍があって、そのうちの一つ。律令体制の中の一つの役職に過ぎないわけです。だから当時の海外の人から見れば、日本の元首は相変わらず朝廷であるし、また不思議なことにこれ以降の日本の将軍(征夷大将軍)達は、これを不服として朝廷を打倒しようと試みは一度も行われてこなかったわけです。だから、いつの間にか日本の実質的な支配者が征夷大将軍なのだと認識するようになって来たわけでしょう。だから、何時からが鎌倉時代で、何時からが平安時代なんて明確な境界がある訳はない。適当に決めれば良い話だ。 しかし、この時代の日本は世界の歴史の中で、非常にユニークな道を選択したことは忘れてはならない。封建制が確立したことだ。封建制とは何か、定義しろと言われると一言で説明するのは難しいでしょうが、封建制を経験したことのある国は、日本とヨーロッパだけ、それらの国々が今、世界の先進国となっている。
鎌倉幕府 隣の中国や朝鮮半島と比べれば、一目瞭然。律令国家では政権が変わるのは革命やクーデター。当然支配者層は一掃される。天皇も上皇も当然斬首されて当然だ。王国は崩壊したら、別の王国になる。一からのやり直し。この点、日本では誰が支配者か分からない混沌とした状態から気がつくと次のリーダーが生まれている。しかもこの状態が明治維新に至るまで継続する。 カール・マルクスは、原始共産制社会→部族社会→アジア型中央集権国家→封建社会→資本主義社会→社会主義社会→共産主義社会と社会は段階的に進歩していくという仮説を立てた。もちろん、これは証明される可能性の無い単なる仮設ではあるが、その中で特に、資本主義発達の大前提として封建制の社会の存在の必要性を力説していたらしい。また、ヨーロッパの封建制と並んで日本の封建制度を学ぶことの必要性を感じていたらしい。結局、彼は日本を訪問することはできなかったが。
鎌倉幕府 このエピソードは、新渡戸稲造氏の「Bushido」中で紹介されている。新渡戸稲造氏は、日本の武士道と西欧の騎士道が良く似ている点に注目し、封建制度の下で生じた道徳や人生哲学は、世界の平和や人の生き方を考える上に大変役に立つことを強調している。
歴史を学ぶことは史実を覚えるだけではない。封建制ができることによって、日本は朝鮮半島や他のアジアの諸国と比べると非常に異なった独自の発展をする。いま、グローバル化社会の進展で日本は、世界の中でどんどん存在感を失っている。日本が今後とも世界のトップランナーとして発展していくには、日本の過去の歴史をしっかり学んで人類発展の鍵を発見していくことも必要かもしれない。

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松永 久秀

松永弾正 NHK・eテレの「知恵泉」という番組から。ヒールの言い分という副題で、松永 弾正のことが取り上げられていた。松永 弾正と言えば斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されているらしい。「下剋上の代名詞」、「謀反癖のある人物」などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作物においてもそのような人物として描かれることが多いらしいが。三大悪事とされているのが①三好義継に足利義輝を殺害させ,畿内に実権をふるったこと。②三好三人衆と戦い東大寺大仏殿を焼いたこと,③織田信長を裏切ったこと。この3つともが全く根拠のない江戸時代の作り話、①暗殺したのが主君筋三好家の人間ならたとえそそのかしたとしても責任はないだろう。②は戦場になればどちらが火をつけたかは不明であるし、当時の寺は僧兵を有した戦闘集団でもあったのだからこれも悪逆非道とは言えないだろう。③に至っては、松永と織田はせいぜい一時的な同盟関係で主従の関係は全くないので、裏切りではないだろう。その結果、松永弾正は織田に攻められ、潔く自害する。むしろあっぱれな行動をすべきであろう。何故このような評価が生じてしまったのか。どうも江戸時代の安定期に入って下剋上や実力主義的な考えを極力否定したいという考えが蔓延してきたためであろう。歴史上の人物を善か悪か、好きか嫌いかで判断していては、歴史から学ぶことはできない。
松永 久秀(ひさひで)は、戦国時代の大和国の戦国大名。松永 弾正(だんじょう)の名で知られる。1533~34年頃より細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕えたと言われている。やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。三好長慶は、織田信長の登場前、将軍家を上手く操り、日本を統一しようという野心を持った大名で、松永 久秀は年下の三好長慶の良き相談相手として活躍して来たらしい。三好長慶は少なくとも畿内では相当な勢力を保っていたようだ。日本の歴史を見直すには決して見逃せない人物のようだ。
【久秀の抜擢】
松永久秀の抜擢は、三好政権における人事の革新性を表している。低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は競争の厳しい戦国の世では他の大名家でも見られる。しかし、どの大名の家臣もそれ相当の家柄が必要なことは暗黙の決まりであったようだ。例えば、上杉家は樋口兼続に直江家の後を継がせ直江の城と家臣団を継承。上杉だって長尾景虎じゃなかったか。北条家は福島(櫛間)綱成に北条の名字を与え一門に列席させるなど、抜擢するに応じて相応の家格・地位・領地・家臣団を与える。滝川一益や明智光秀を外様から抜擢した織田信長も、家格という観点から秩序維持の為に、光秀や丹羽長秀に惟任氏、惟住氏の名跡を継がせている。 信長の場合、彼らの出世が従来の織田家譜代を中心とする家格秩序と齟齬をきたすであろうと信長が予測し、その齟齬を未然に防ぐための措置と指摘されています。
【活躍】
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得る。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。出身については、諸説あるようだがもともとさほど高貴のでではなく、家格が重んじられていた当時は色々なやっかみを受ける立場であったようだ。
天文18年(1549年)、三好長慶が細川晴元、室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放して京都を支配する。松永は公家や寺社が三好家と折衝する際にその仲介をする役割を、三好長逸と共に果たすようになる。久秀は長慶に従って上洛し三好家の家宰となる。上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任される。長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられ戦国大名の仲間入りをする。足利将軍→細川→三好→松永の主従関係をひっくり返したことが下剋上の始まりとされる。
どうも、松永弾正のイメージは三好長慶の忠実な家臣であり続け、強烈な個性を持った三好長慶に対する周囲の恨みを松永一人がしょい込んだのかもしれない。長慶が早死にしてしまったため、三好家自体が分裂したことも松永にとっては不幸なことだったのかも。三好長慶・松永久秀のコンビは調べてみると面白そうだ。この二人には信長とは別な日本の統一像を持っていた可能性がある。大和の多聞山城は、信長の安土城のモデルになるような豪壮なものだったとか。松永久秀が信長に最後に反抗したのは、久秀が大事に治めてきた大和を、信長が没収し、こともあろうに宿敵、筒井順啓にくれてやるという暴挙に出たことが原因であったらしい。

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桶狭間の戦い

桶狭間 桶狭間の戦い(1560年)は、今川義元が公家風になり軟弱で油断していため、信長に打たれたというのが通説であった。我々の学生時代はそのように理解されていたよう。しかし、義元自身は、東海一の弓取りと言われていたように、北の武田、東の北条をといまとめ、三国同盟を結び、織田の攻略に取り掛かる。策略家のやり手でもあったらしい。また、桶狭間の時には無くなっていたが、太原雪斎という僧で高名な軍師も抱えていた。
一方、当時の織田は、父信秀の時代から庶流でありながら尾張の津島の湊を抑え、豊かな財源を背景に力を蓄え、今川とは何度も小競り合いを繰返していたらしい。守護大名の今川家の強みは、なんといっても足利将軍家との繋がりで、その権威をもとに無駄な戦いを避けつつ策略を元に領国を広げていった。織田領への侵入は、織田家の内紛に乗じたのでしょう。まず始めに、織田家の財力の基盤である津島の湊を占領し、約25,000の大軍を率いての進軍です。ただ、これは多分にデモンストレーションの意味合いが強く、簡単に講和できるものと踏んでいたと思われます。馬に乗らずに輿を担がせたのも将軍家との縁故の強さを見せびらかすため。一方の信長は領内の未だ固まらず、内部にも敵がいる状態で、財源となる湊まで占領されたとなると、普通の武将なら今川と組んだ方が有利と判断すると思ったのでしょう。

実際、この状況は信長にとっては大ピンチでしょうが、経済の感覚は抜群の信長、ここで妥協したら後がない(織田にとって津島の湊は最大の財源)と判断したのでしょう。また、偵察によって、今川の目的は戦うことでないことも見抜かれていたのか知れません。信長は、戦術においても当時の常識を上回っていました。信長は、いわば戦争のプロを養成していました。身分を問わず、というよりハングリーな貧しいものを積極的に金で兵隊に採用します。馬術に特に力を入れていたとの話もあり、最初から急戦策を考えていたのかも。農業の片手間に戦う兵士とは違い戦いに専念できます。大将の首だけを賞金目当てに戦います。また、命令には忠実で一糸乱れず行動することも可能です。桶狭間の戦いは良く奇襲作戦とみられますが、戦いは昼間の明るい時間に実行されます。こんな奇襲はあまり例がありません。また途中に大雨があったのも偶然。今川本隊だけなら兵力5, 000対2, 500。勝てると読んでいたのかも。今川の方は、諜報から信長は「うつけ」との織田家家臣達からの評判や、信長自身も孤立化していたので、諜報の結果を信じ定石通りの行動をしたことが逆に仇となったのかも。

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信長の最強のライバル

強運の人、信長の最強のライバルは誰であったのでしょうか。信玄や謙信が、とても強かったというのは、江戸時代になってから講談などで面白くするための誇張があるでしょう。当時の、経済力、軍事力(鉄砲)、兵站能力どれをとっても、戦国最強、信玄や謙信の戦い方は時代遅れです。信長の真のライバルは、1570年~80年の11年間もの間戦い続けた石山本願寺の勢力です。相手は所詮、僧侶と老若男女の民衆の集団であって戦いの専門集団・信長軍団の敵ではないはず。では、10年あまりの年月は何故。
歴史は、後になって造られるもの。しかし、当時の宗教が人々に与えた影響の大きさは、信長によって改革されたあとの宗教しか知らない後世の人には伝わっていなかった可能性もあり、あるいは意図的に無視した可能性もあります。
 鎌倉時代よりも前の仏教は、国家鎮護のための宗教。鎌倉時代以降の念仏仏教は、死を覚悟して戦う武士たちの心に直接訴えるもの。熱心に信仰すれば極楽浄土に行ける。いわば、人生観にまで影響する個人の宗教で、武士道の一環ともいえるものかも。ちょうど西欧で宗教改革以降のカルバン派のようなもの。上司の意向と宗教の教えが異なれば躊躇なく宗教を取る訳です。その代り、信じることのためなら命を賭して戦う集団となります。各戦国大名たちはみな、身内の中の宗教勢力の成長に苦労しています。一番多い対策は、大名自らが改宗してしまうことです。上杉謙信は毘沙門天、徳川家康は、「厭離穢土欣求浄土」。自ら信心深いことを世間にアピールします。
 信長も、このようなことを熟知していたのでうかつには手出しをしません。特に尾張・三河のような先進地帯は一向宗のような勢力が強く、身内にも大勢の信者たちを抱えていたはずです。
 だから、初めは比叡山を攻める。これはどちらと言えば旧勢力で腐った宗教の見本としたかったのでしょう。ところが石山本願寺の勢力は、そうはいかない。信長の野望を察知すると各地に伝令を出し、たちまち信長包囲網が完成する。石山の近くでは、根来衆や雑賀衆と言った鉄砲集団。海には村上水軍他の海賊集団、その後ろには毛利水軍、もちろん武田、上杉も要請にこたえて背後を伺っています。「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」を唱える一向宗信徒が捨て身だったとはいえ、信長軍は結局敗退の連続でした。また、僧侶と老若男女の民衆の集団であっても、築城や兵站等の後方支援を積極的のできるのも信者集団の強みです。しかも、石山本願寺自体が後背地が湿地で全面が海、難攻不落の最適な立地条件(だからのちの大阪城が築かれる)。最後は、石山城は陥落するのですが、このことで日本の宗教は大幅に変革されてしまします。
信長があれほどキリスト教に寛容だったのも、仏教勢力を駆逐するのが本当の目的でしょう。でも、キリスト教も同じ運命をたどります。最初は仏教が駆逐されたニッチを埋めていきます。キリシタン大名が生まれることは家臣たちにキリスト教が浸透していたことが最大の原因です。結局、秀吉、家康の代で禁止されてしまいますね。家康は仏教には非常に寛容な人で仏教を大いに保護しますが、軍事力だけは持てないように工夫しています。 ヨーロッパでは、宗教改革が起こりますが、日本では、すでに改革は実施済み。宗教が政治に口を出す心配はかなり少なくなっています。

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本能寺の変の真相

本能寺の変

本能寺の変といえば1582年6月21日早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃される、当時日本に来ていたザビエル派の宣教師達すら大慌てする世界史上の大事件です。ところが、光秀が謀反に至る動機が上司信長に叱られた恨みという、今までの定説があまりにも不自然なため、朝廷陰謀説や宣教師陰謀説等いろいろな異説が唱えられて来ました。明智憲三郎は、明智光秀の子孫にあたる方ということで、沢山の資料を比較検討し、論理的な推論でストーリーをまとめ上げています。
明智光秀の真の狙いは何だったのでしょうか。明智光秀という人物は、織田軍団の中で秀吉と並ぶナンバー1存在。おそらく秀吉より沈着冷静、信長の片腕として活躍していたのでその分当然信長の風当たりも強かったのは事実。また、美濃の土岐家の最高を願っていたこともあり、自己の自尊心を傷つけられただけで、一族を滅ぼしかねない謀反に走ることはないと思われます。信長は光秀を最も信頼していたので少数の戦力で本能寺に待機していたのでしょう。
 どうも、信長と光秀はすでに天下統一後の構想を共有していたようで、明国に出兵し、国内で有力な大名たちを一掃してしまう戦略を持っていたようです。まず、第一弾として家康を京都に招き入れ、それに乗じて光秀に家康を討たせる予定だったらしい。ライバルが一人減る。信長とて光秀がこのことに異論があるはずはないと考えたのでしょう。ところが光秀はすでに老境に入っていて、家康の次は自分の子孫が危ないと感じたらしい。
だから、家康を逃して本能寺の信長を逆に打つことになったらしい。豊臣政権では秀吉の徹底した情報戦略によって、悪逆非道で愚弄な人物として描かれてきたが、家康は光秀には恩義に感じていたらしく光秀に子孫たちを厚遇していたらしい。 
 ただ、戦前は中国進出を正当化したい軍部は、信長の構想を実施した秀吉を軍神扱いしたので、それに対応して光秀の評価はかなり貶められた可能性がある。
光秀が秀吉になぜ負けたのかは、今後の研究に待たねばならないようですが、細川藤孝(光秀が最も信頼していた)の裏切りが大きかったようです。でも、何故裏切ったのでしょうか。
「本能寺の変」は変だ!435年後の再審請求 明智憲三郎

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関ケ原の戦い

司馬遼太郎の作品の中で、ドイツの有名な陸軍参謀が、関ヶ原の布陣図を見て当然「西軍の勝ち」だったのだろうと言ったとか。ドイツの参謀はモトルケとかその弟子のメッケルとか。
司馬遼太郎氏の創作なのかそのような事実があったかは分からないが、当時の戦国武将の判断でも「西軍の勝ち」という布陣だったことは間違いないように見える。
関ケ原の戦い
結局、東軍の勝利を決定づけたのは小早川秀秋の裏切りという一点になってしまうのでしょうか。小早川秀秋は、その一点でのみ歴史に名を残していると言っても過言でないわけです。
しかし秀秋がどのような来歴の人物であったのかはあまり知られていません。彼は、父は木下家定といい、秀吉の妻・ねねの兄とされている。本能寺の変が発生した1582年に生まれ。
3才の時に実子のいない秀吉の養子として引き取られ、ねねの元で成長する。幼少の頃から秀吉に厚遇を受けており、後継者候補のひとりとして扱われていたようだ。つまり、人が羨むような、幸運な立場にあったのでしょう。
秀秋の他には、豊臣秀次というもう一人の養子がいました。秀秋よりも14年ほど年長で、こちらは候補ではなく実際の後継者となり、秀吉から関白という、朝廷における最も高い地位を引き継いでいる(のちに殺されるが)。豊臣家は一族の人材が不足していたわけでもあり、それが秀秋に対する厚遇につながっていったものと見られます。
しかし、1593年に、秀吉に実子・秀頼が生まれたことにより、2人(秀次、秀秋)の養子の運命は反転する。
秀頼が生まれたことにより、秀吉はこの子に自分の跡を継がせたいと願うようなり、秀次と秀秋という2人の年長の養子は邪魔になる。秀頼が生まれた翌年に、当主に実子のいない中国地方の大大名・毛利家に対し、黒田官兵衛が話をもちかける。秀秋を毛利家の跡継ぎとして養子にもらってはどうか、という内容でした。豊臣一族に毛利家を乗っ取られることを嫌ってか、毛利家の統率者である小早川隆景は、跡継ぎを別の人物に定めた上で、秀秋を自分の養子とすることを申し出ます。いわば自分の家を継ぐ権利を提供することによって、毛利家が乗っ取られることを防いだわけです。 小早川隆景は高名な毛利元就の三男で、秀吉からの信任も厚い人物で、30万石という大きな領地の主でもありました。そのような人物の養子となり、かつ秀頼の邪魔者でもなくなるわけですので、秀吉はこれを了承し、秀秋は小早川家の人間になりました。
秀秋からすれば天下を制した豊臣家から放出され、その家臣の毛利家の、さらに家臣の小早川家の人間になるわけですので、決して愉快には思わなかったでしょう。しかし秀吉に逆らうことなど秀秋にはできませんので、言われるままに小早川秀俊と名前を変えます。
これによって小早川家の家格はあがり、やがて隆景は豊臣政権の五大老のひとりとなり、本家である毛利家と対等の立場になりました。
隆景は野心のある人物ではないので、このような形での出世は喜ばなかったでしょうし、縁もゆかりもない人物に自分の家を継がせることになったわけで、こちらも胸中複雑なものがあったでしょう。
秀秋が小早川家の養子となった翌年には、関白の地位にあった豊臣秀次が粛清されます。1595年に突如として秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は関白の地位を剥奪されて高野山に送られます。そして間もなく自害を命じられ、秀次は秀吉の手によって抹殺されてしまいます。秀次に対する嫌疑には確たる証拠はなかったようであり、秀吉の陰謀によって排除された、と見るのが正しいようです。処罰は秀次だけにとどまらず、その妻子や主だった家臣たちまでもが処刑されました。
この事件によって豊臣政権の安定は崩れ去り、秀吉亡き後には政権を簒奪される可能性が高まりました。秀次は単に関白の地位にあっただけでなく、日本を統治するための体制を整え、そのための家臣団も組織していました。それがまるごと失われたわけですから、豊臣家の支配力は一気に弱体化したのです。徳川家康が「将来は豊臣から政権を奪えるだろう」と判断したのは、この事件が起きたことによると思われます。後は秀吉さえ死ねば豊臣の力は失われるからです。そして事件の余波は秀秋にも及び色々な嫌がらせが秀吉やその側近たちから受けるようになった模様。
やがて1600年には徳川家康による上杉家討伐の軍が起こされ、秀秋もそれに参加すべく、1万程度の兵を率いて出征します。しかし大阪あたりまでたどり着いたころには、すでに石田三成が、豊臣から政権を奪おうと画策する家康打倒の兵を挙げており、これに巻き込まれる形で秀秋は西軍に所属することになります。そして徳川方が抑えていた京都の伏見城攻めに参加するなど、西軍側として活動します。この時に西軍の味方になれば、秀頼が成人するまで関白の地位につける、と石田三成から約束されていました。秀秋はもともとは秀吉の養子でしたから、豊臣姓に復帰すればそれは不可能ではありません。しかしそれはお前は中継ぎでしかない、と告げられているのと同然であり、秀秋はさほど喜ばなかったでしょう。既に秀頼との間に挟まった秀次の末路を見ているわけで、自分もいずれ同じ目に合わされるかもしれないわけですから。それにこれまでの経緯からいって、秀頼のために力を尽くしてやろう、などと秀秋が考えたとも思えません。むしろ秀頼には悪感情を持っていた可能性が高いでしょう。いっそのこと豊臣など滅んでしまえ、とすら思っていたかもしれません。
関ケ原の戦い
伏見城攻めの後、秀秋の軍勢は関ヶ原の戦場へと移動します。秀秋は関ヶ原では松尾山に布陣し、南から関ヶ原一帯を観測できる場所に位置します。秀秋のところには家康方から東軍に寝返るようにという使者が来ており、大きな領地を提供することを約束されています。
秀秋は幼少の頃から既に大きな所領を持っていた経緯があり、領土欲がそれほど強かったとは考えにくいです。そもそも領地加増の約束は石田方からもされていましたので、積極的に東軍につく理由にはなりえません。それでも秀秋は家康の誘いに乗ることを約束し、開戦を待ちます。関ヶ原の前年には家康らのはからいで領地を元に戻してもらった経緯があり、家康には恩こそあれ恨みはありませんでした。
その一方で豊臣家の嫡流、秀吉と秀頼には憎しみを感じる理由があったわけで、東軍についてしまってもおかしくありません。そうはいっても西軍の総大将は毛利なので筋論からいけば西軍につくべきなのでしょう。だから後世の人からはも裏切り者という評価が付きまとい、徳川家としてもあまり彼の貢献をあまり高く評価しなかったようだ。
この時の秀秋は西軍が勝っても東軍が勝っても得をする立ち位置にいました。その上、陣を構えているのは関ヶ原の南のはずれの方であり、あわてて動く必要はありませんでした。
戦場でそれぞれの陣営の有利・不利を見定め、勝ちそうな方に味方をすればいい。そのような状況におかれていました。しかし秀秋はこの時まだ18才でしかなく、そこまでしたたかな立ち回りを考えられたかどうかはわかりません。秀秋個人としては、葛藤していた可能性が高いでしょう。そもそも何者でもない少年が1万もの兵を率いる大名の立場にまで引き上げられることになったのは、秀吉の養子になったからであり、豊臣家には恩があると言えます。実家の木下家は小規模の武家でしかありませんでしたし、しかも秀秋はその五男で、継承権も持っていませんでした。
しかし養子となった後、秀吉は自分の都合で秀秋の立場を散々に振りまわしており、近い立場の秀次は粛清されており、10代の少年の心には深い傷が残っていたことでしょう。秀秋は酒に溺れがちで、精神的に不安定なところがあったと言われていますが、環境からすると無理もない話です。 ともあれ、ここで家康が勝利すれば、豊臣家の衰退は決定的なものとなります。自分が味方をすることで家康を勝たせれば、自分の存在基盤を失うことにもなるわけです。果たして自分の過去を潰してしまうべきか、それとも残すべきなのか。その葛藤の末、秀秋は家康に味方することを決意します。
小早川軍は膠着状態にあった戦場に兵を入れ、松尾山付近に陣を構えていた西軍の大谷吉継隊に攻めかかります。いったんは大谷隊に押し戻されるものの、大谷隊の近くにいた脇坂などの諸将が連鎖的に寝返りをうち、大谷隊を壊滅させます。これをきっかけに戦況は東軍優位に傾き、奮戦していた宇喜多、石田の軍勢も崩れ、主力決戦は一日で東軍の大勝利に終わりました。 こうして秀秋は東軍勝利の立役者となり、戦後は中国地方の岡山に移封され、55万石の大大名になっています。黒田や福島といった功績のあった他の大名よりも領地が大きく、家康からの評価が高かったことをうかがわせます。
3才で秀吉の養子となり、初めは10万石の領地を与えられ、やがて30万石となり、そして18才で55万石の大大名の地位にまで登ったわけです。これほど若年のうちに成功したのは珍しい、といえるほどの出世ぶりです。
しかしその生涯は関ヶ原の戦いの、わずか2年後に終わってしまいます。 1602年、秀秋は死亡します。死因はアルコールによる内臓疾患と言われていて、酒に溺れた生活を続けていたことが命取りとなったようです。小早川家は跡継ぎがいなかったことで改易(領土を没収)され、なくなってしまいます。
ともあれ、わずか20才で死去してしまったことで、その事績は「関ヶ原で東軍に寝返った」という一点のみが後世に語られることになってしまいました。
ただ、関ケ原で東軍が勝利した理由は、小早川一人の裏切りだけなのでしょうか。家康は小早川秀秋をどの程度信頼していたのでしょうか。石田三成の考えた布陣がそれほど完璧なものだったのか。軍事シミュレーションで当時の戦いを本当に再現できるのか。あるいは戦いはやってみないと本当のことは分からないのか。早川秀秋もその生い立ちや年齢を考えると側近たちの意思決定に大きく依存していたものと思われる。その側近たちがどのように考えて東軍側を選択したのかも興味深いところだ。

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平家・海軍・国際派

平家・海軍・国際派及びその対をなす語として源氏・陸軍・民族派という語呂合わせがあるのをご存知の方も多いでしょう。その言葉の背景は、次のようなものらしい。それは、“「平家」「海軍」「国際派」は、スマートで格好は良いが、恬淡とした性格で、意地にならず、その主張を対立勢力に譲るという態度のために主流にはなりえない人々の属性。これに対立する勢力は、もちろん「源氏」「陸軍」「民族派」であり、こちらは質実剛健だが、外見はやぼったく派閥抗争を得意とし、我が国のほとんどの組織、特に政府組織で主流派を形成してきた人々の属性を指すことが多い。”

まあ、多分これは、どこかの霞が関の省庁あたりで言われている言葉だろうとは思います。有能(自分で思っているだけ?)で、人と異なった意見をズバズバ言う人間は、周りからも煙たがられ、人の嫌がる国際畑に移動されることも多いのでしょう。このような方が自嘲気味にそのようなこと言っているのかも知れませんが。
一般の庶民は、このような出世争いとは無関係ですが、歴史の流れを見ていくと当たらずと言えども、遠からず、結構面白い見方が出てきます。
     ●平家、商業、国際派---源氏、農業、国内派
     ●信長、商業、国際派…家康、農業、国内派
     ●蘇我氏、仏教、国際派…物部、神道、国内派
     結構、色々なパターンが出てきそうですね。物事を理解しようとするときに、このようにパターン化して、分類するのは一つの常套手段ですね。ただし、あくまでも仮説ですからその背景となる理由を分析することが何より大切ですね。
 平家は、対宋貿易で蓄えた富で力を得たので確かに商業重視の国際派、源氏は配下の武将に恩賞として土地を与えねば政権が成立しないので国内派です。農業の発展に尽くしたかどうかは?? です。

信長は、家来に土地の代わりに高価な茶器等をあたえていて、実際土地にはあまり執着がなかったようです。土地などもらっても、すぐに国替えして別の土地に飛ばされてしまいます。天下人となった時点で、日本の土地はすべて自分のものだったのでしょう。キリスト教を保護し、異国の文化をドンドン取り入れる開明派です。ただし、農業を保護しなかったわけではなさそう。家来には非常に厳しい暴君でしたが、一般庶民には大変気配りもしていたようです。
秀吉になると、国際派のイメージはダウンします。信長なら、そもそも大国「明」を相手に戦争なんて馬鹿なこと絶対にする訳がないでしょう。また、キリスト教の布教も禁止します。徳川政権は、言わずもがなの国内派ですが、長期政権なので初代家康がどの程度国内派であったかは、はっきりとはしませんが、政権の成立過程からもかなり国内派であることが分かります。

お隣の中国では、遊牧民の立てた王朝と漢人の立てた王朝が代り番こに登場しますが、征服王朝が国際派、漢族王朝が国内派と言えるかもしれません。この場合、征服王朝について、現代人には多少誤解があるようです。騎馬民族は大抵は少数民族、王族は処刑されたりするかも知れませんが、支配のため官僚機構はそのまま残されています。平氏が源氏と入れかわったようなものです。多分、中国人は今でもそう考えていると思います。植民地ではなく漢人の王朝だと。
一民族一国家という概念は近代ヨーロッパで誕生した考えです。世界にはそうでない国も多く、そのため紛争の種を抱えている地域も沢山あるようです。このことについては別の機会に。

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柳川一件(やながわいっけん)

江戸時代に起こった公文書の書換(かきかえ)事件です。国家を揺るがす事件の闇に、将軍が自ら迫る――。時代劇でも小説でもない、江戸初期の実話。徳川3代将軍・家光が直々に“証人喚問”し、解明を試みたのは、約30年にわたって秘密裡に行われていた「公文書書き換え」。秀吉の朝鮮出兵で断交した日朝間の国交回復をめぐる文書の改ざんという歴史的不祥事です。
 与野党が「前代未聞の歴史的犯罪だ」と財務省を非難していますが、過去にも公文書の改ざんが大問題になったことはあった。江戸時代に公文書中の公文書である「国書」の書き換えが発覚し、3代将軍・徳川家光(1604~51)が、諸大名を列席させて、じかに“証人喚問”まで行った。事件の名を「柳川一件(やながわいっけん)」という。(慶応大名誉教授田代和生氏が、この事件の顛末てんまつを詳細に調べ、『書き替えられた国書』(中公新書)にまとめているそうだ)。
 豊臣秀吉(1537~98)の2度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で朝鮮は大きな損害を受け、日本の撤兵後も日本と李氏朝鮮との国交は断絶したままだった。古くから日朝貿易で利益を得ていた対馬の宗義智(そう よしとし)(1568~1615)は独自のルートで国交回復を模索し、1605年に対馬に来ていた朝鮮の外交僧らを徳川家康(1543~1616)・秀忠(1579~1632)父子と会見させることに成功。
朝鮮出兵
 家康から「交渉を進めよ」とのお墨付きを得て義智は事前交渉を加速させるが、途中で難題が持ち上がった。国交回復に不可欠な国書の交換で、朝鮮側が「日本側から先に出せ」と求めてきたのだ。これが、朝鮮側が突きつけた難題。
 先に国書を差し出すことは相手への恭順を意味する。家康が呑のんでくれるかどうか不明だ。しかし、「朝鮮側が先だ」と押し返せば交渉は長期化する。また、「では、宛名は誰にすればいいのか」と問われる恐れもある。この時点ではまだ大坂に豊臣秀頼(1593~1615)がいた。朝鮮側が「交渉相手は出兵を決めた秀吉の遺児・秀頼だ」とでも主張したら、交渉はご破算になるであろう。
困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走る。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げた。朝鮮側の記録では、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されていた。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったものだったという。
 日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂。再度の出兵(慶長の役)となる。すでに明と冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んだ。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度(そんたく)して作成されたわけです。
 国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣した。回答使を「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。  困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走った。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げた。  朝鮮側の記録では、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されている。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったもの。日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂して再度の出兵(慶長の役)となるる。しかし、明と既に冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んだ。
 国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣。回答使は「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。  そこで対馬藩は、今度は朝鮮国王の印鑑を偽造し、「奉復」を「奉書(拝啓)」に書き換えた朝鮮国書をでっち上げる。更に朝鮮から将軍への献上品を記した目録も改ざんして、虎皮や朝鮮人参の数を追加する。『柳川記』によると、偽国書は将軍と回答使が謁見する当日、義智の重臣だった柳川智永(?~1613)が、すきを見て江戸城内ですり替えたという。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度そんたくして作成されたわけだ。  こうして日朝の国交は回復し、朝鮮から国書を携えた使節団が定期的に来日するようになる。だが、やりとりされた国書は初回の偽国書を先例に書かれたため、そのたびに「奉復」を「奉書」に、将軍の肩書きは「日本国王」に直さなくてはならなくなった。改ざんが改ざんを呼び、対馬藩は義智の死後も組織ぐるみで改ざんを続けざるを得なくなったわけです。

朝鮮使節
【27年後の告発、将軍自ら“証人喚問”へ】
 積み重ねられた国書の改ざんは、最初の家康国書の偽造から27年後に、対馬藩家老の内部告発という形で露見する。義智を継いで藩主となった息子の宗義成(1604~57)と、智永を継いで家老となった息子の柳川調興(しげおき(1603~84)が不仲となり、対馬藩を離れて旗本になろうとした調興が、幕府に改ざんした事実を暴露する。
 調興は証拠として偽国書の写しと偽印鑑の実物を提出し、「改ざんは宗氏が主導し、宗氏の指示で行われた」と訴えた。当然、自らも訴追の恐れがあったが、調興は江戸生まれで家康、秀忠の小姓を務め、幕閣に人脈があったため、罪を義成に押し付けられると読んだようだ。これに対して義成は「朝鮮との交渉は柳川氏に任せており、昔の改ざん時には自分はまだ子どもで、何も知らなかった」と反論した。
 幕府は朝鮮との交易を一時中止し、対馬に役人を派遣して偽国書に携わった義成の家臣や外交僧、偽印鑑を作った島民らへの訊問を重ねた。重要証人は江戸に連行され、老中が直接、誰の指示で偽造したのかを問いただした。決着は家光の裁定に委ねられ、1635年(寛永12年)3月11日、御三家や老中、若年寄、江戸にいる諸大名、旗本が見守る中、江戸城本丸の大広間で家光による“証人喚問”が行われた。
 記録によると、家光は双方の言い分が食い違う点を中心に、義成に七つの質問をした。義成は「自分は知らなかった」「外交の実務は柳川親子に任せていた」と弁明。父・義智の改ざんへの関与を問われると「決してない」と明確に否定。家光は最後に「家中での非法を知らなかったとはどういうことか」と義成の監督責任をただし、義成は「調興は幕閣に知り合いが多く、家臣はその権勢を恐れ、調興の不正を見つけても私の耳に入れなくなっていた」と苦しい釈明をしている。喚問の場にいた調興には「言いたいことはあるか」という問いかけだけで、喚問で「サプライズ」はなかった。
 4日後に出された家光の裁定。「義成はおとがめなし。主謀者は調興」。主謀者とされた調興は、大方が予想した死罪ではなく、津軽(青森県)への配流。一方で、偽国書を実際に作成した義成の家臣2人は一族もろとも死罪とされた。形の上では義成の勝ちだが、「喧嘩けんか両成敗」の結末ともとれる。「知らなかった」「任せていた」
 家光は同時に、義成に「来年までに朝鮮使節を来日させよ」と命じている。裁定の主眼は「引き続き朝鮮外交は対馬藩に任せる」ということにあった。事件を調べて、朝鮮との外交が非常に気を使う面倒な仕事であることを思い知り、直接、外交を担うより、首根っこを押さえた上で、引き続き宗氏を使う方が得策と判断したのだろう。間に宗氏がいてほしいとの思いは朝鮮側も同じだったようだ。それどころか朝鮮側は、かなり前から薄々改ざんに気づいていたフシすらある。
 喚問に列座した諸大名の多くは、家老が藩主を裏切ったこの事件に肝を冷やし、義成を支持していた。裁定翌日には対馬藩邸に諸大名の祝いの使者が列をなしたというから、義成無罪の裁定には“大名世論”への配慮もあったようだ。 津軽藩の拠点・弘前城(青森県)。現在は桜の名所として知られる。調興は藩主の招きで城で能を楽しんだこともあった。主謀者としながら調興を流罪で済ませたのは、義成が朝鮮外交に失敗した時の予備要員と考えていたからではないか。配流後の調興は広大な屋敷に住み、賓客のように扱われたという。幕閣の誰かから「悪いようにはしない」と言い含められていたのかもしれない。代わりに「トカゲの尻尾」にされたのは、国書改ざんの責めを負わされ、一族もろとも死罪とされた義成の家臣だった。

【家光が残した“故事英語” 】
 家光は当時、大名を相次いで改易し、段階的に鎖国を進めていた。諸大名に登城命令まで出して喚問を見せたのは、この喚問が家光の外交や大名統制の方針を納得させるための「政治ショー」だったことを物語る。
 この一件、今回の改ざん問題の経緯と似ているところも似ていないところもあるが、決定的に違うのは改ざんで欺かれた相手だ。民主主義下では「政治ショー」だけで幕引きとはいかず、国民世論が納得するまで真相究明の努力が必要なことは言うまでもない。
 家光が行った再発防止策がひとつある。偽国書作成の一因となった自らの肩書を「大君たいくん」と定めたのだ。「タイクーン(tycoon)」は今は「実力者」の意味に転じ、日本語由来の英語として定着している。

【事件の背景】
16世紀末、日本の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係が断絶。戦後、徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始。日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉の仲介を任される。
朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。使節は江戸城で2代将軍・秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、1609年には貿易協定である己酉約条(きゆうやくじょう)を締結させた。
対馬藩の家老であった柳川調興は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。

【大名・幕閣の動向】
当時、戦国時代の下克上の風潮が残存していた。柳川は、家康の覚えも良く、幕閣有力者からの支持もあり、「幕府も日朝貿易の実権を直接握りたいであろう」との推測から、勝算があると考えていた。一方、仙台藩主・伊達政宗など、宗義成を支持する大名もおり、彼らは、下剋上が横行する戦国時代が完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。

【家光の判断】
1635年4月27日(寛永12年3月11日)、3代将軍・家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われる。江戸にいるの旗本(1,000石以上)と大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開。結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪とされた。また、以酊庵の庵主であった規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に流された。 宗義成は対朝鮮外交における権限を回復させたものの、対朝鮮外交に不可欠であった漢文知識に精通しており、かつ朝鮮側との人脈を有していた柳川調興や規伯玄方が持っていたノウハウを失った事で、対朝鮮外交は完全に停滞してしまった。そのため、義成は幕府に援助を求めた。そこで、幕府は京都五山の僧の中から漢文に通じた優秀者(五山碩学)を朝鮮修文職に任じて対馬の以酊庵に輪番制によって派遣して外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを扱わせる。その結果、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれた。幕府は国書に記す将軍の外交称号を「日本国王」から「日本国大君」に改めることとなる。
いま、最も海外の特派員泣かせの日本語になっているという「ソンタク」も英語になるかもしれない。意味が「改ざん」に転じても、財務省理財局だけの責任か、まだ断言はできない状態。しかし、当時の対馬藩の立場を考えれば改竄の動機も明白で、家光さんも宗家の事情を忖度して罰を軽くしたようだ。日本、朝鮮双方とも交流を再開したい。だが、双方の面子がそれを許さない。さしたる産業のない対馬藩にとっては日朝の交流は生命線ともいえる重要事項。対馬藩が悪者になれば双方うまく収まる。切腹覚悟の英断だったのかも。
それに比べると、今回の「改ざん」は、動機が不純だ。森友学園とかいうヤクザまがいの団体のために財務省ともあろう国の機関が特別の便宜を供与するなど国策としても絶対にあってはならないことだ。

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間宮海峡

林蔵は、1780年、常陸国(茨城県)筑波郡の農家に生まれた。子供の頃から土木工事が好きで、堰とめ工事の現場に出入りしているうちに、利発さを買われて幕府の普請役雇・村上島之允の使い走りとして働くことになった。村上が各地を測量して地図を作製するのに従って、林蔵は測量技術と健脚を身につける。
村上が蝦夷地での仕事を命ぜられると、林蔵も一緒について行く。しかし冬の厳しい寒気と野菜不足で足がむくみ、体調を崩した(壊血病か)。土地の人から、蝦夷人(アイヌ)は魚と昆布を食べるので、病むこともなく冬を越す、と教えられ、それに従った所、むくみもとれて体調が回復したという。 これを機に林蔵は、アイヌと同じ生活をしなければならぬ、と知り、アイヌ語を習い、しばしばアイヌの家を訪れて衣服・家屋・狩猟・漁獲・旅行などについて詳しく調べる。
樺太 幕命を受けて、さらに蝦夷の先にある樺太探検。そこは世界地図の空白地帯。極北に向かった林蔵は、ついに樺太が島であることを確認。大陸との海峡はのちに間宮海峡と名付けられた。それは世界が驚いた大発見だった。当時樺太は大陸の一部とも思われいた。アムール川(黒竜江)の河口で河の流れが南北に分かれて流れることに気がつき、北への出口があることに気がつき、樺太が島であることを確認。のちに実際に最北端まで行ってその事実も確認している。大陸側の河口にたどり着くまでは、水深の浅いところが続いて、船を現地の人達の(アイヌ人とはまた別)小舟に乗り換えるなどの苦労の連続であった。
途中、60人ほどのギリヤーク人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。アイヌ人が通訳をしてくれて、酋長のコーニが大陸にある清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられている事を知る。
間宮の報告書は、アイヌを含む北方に諸民族たちの生活についても貴重な資料となっている。さらに、間宮は大陸の動向も探るため幕府には無許可で、清国領の役所も探索する(デレンと言うところにその町はあった)。そこはロシアとの国境付近にあり、北方系の諸民族たちは、ここを中心に一大ネットワークを形成していた。デレンには、ギリヤーク人、オロッコ人など様々の人たちの交流があり、大変にぎやかなところだったようだ。彼らは基本的には清朝の支配下にあったということだ。
清の役所 清の役人達は、林蔵が漢字で筆談しようとすると、漢字の読み書きができるとは信じられないふうだった。「日本はどの地で清国に貢ぎ物をしているのか」と聞かれて、「貢ぎ物はしていない。長崎の地で貿易をしているだけだ」と答えると、さらに疑わしそうに首をかしげた。林蔵が「ロシアとの国境はどこか」と尋ねると、「国境などあるはずがない。ロシアは清国の属国だ」と答えたという。しばらくデレンの地に留まっている間に林蔵は周囲から情報を聞き出した。清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。結局ロシアは敗退し、1689年(ネルチンスク条約)に条約が結ばれ、この地方から完全に手を引いたという。120年前の事であった。なお、ネルチンスク条約は1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代のロシアの間での戦いの後、結ばれた条約。多分高校の世界史でも出てくる。北方民族の各々の部族長たちが清の地方政府に朝貢の使者を送る。北方系の諸民族達同士も、普段は交流が少なくこの場を借りて物々交換や情報を交換し合っているのかも。ちょうど邪馬台国の卑弥呼達が中国に使者を送るという感じだ。中国と周辺諸国との関係は時代を超越してずっと続いているんですね。習近平の「一路一帯」なんていうのも案外そんな路線かも。
林蔵の樺太探検は、1832年にシーボルトが出版した「ニッポン」の第一巻で欧米社会に紹介された。シーボルトは林蔵が樺太が島であることを発見した世界最初の人物であると記し、その証拠に日本滞在中に入手した林蔵の地図を挿入した。さらに東韃靼と樺太の間の海峡を、間宮海峡と名付けた。これによって林蔵の発見が世界地図の上に永久に残ることになる。林蔵の探検はわが国の国益にも多大な寄与をなしている。

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横須賀造船所

横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)は江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっているが、構内には幕末の遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つと言われるそうです。
小栗忠順小栗忠順 連合艦隊司令長官連合艦隊司令長官
幕末の1865年(慶応元年)、江戸幕府の勘定奉行小栗忠順(おぐり ただまさ)の進言により、フランス技師を招き、横須賀製鉄所として開設される。小栗等は安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国。米国で最新鋭の造船所を見学し、日本の近代化のためにぜひ必要と感じて、勘定奉行立場から周囲の反対を押し切り建設を強行。工事の完成の前に江戸幕府崩壊。幕臣にて最後まで抵抗したため処刑される。生前、他の幕臣たちから「造船所できる前に幕府がたおれてしまうよ。」といわれ、「幕府のためでなく日本のために造るんだ。」と言ったとか。
 最新鋭の設備を備えた横須賀造船所は、東郷平八郎・連合艦隊司令長官をして、「わが艦隊が勝てたのはこの造船所のおかげだ。」と言わせるほど、日露戦争では大活躍をする。 現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。

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オーランド諸島紛争と新渡戸稲造

オーランド諸島とは、バルト海、ボスニア湾の入り口に位置する6,500を超える島々からなり、フィンランドの自治領となっています。住民のほとんどはスウェーデン系で、公用語はスウェーデン語。
しかし、背景には複雑な歴史があります。オーランド諸島はフィンランドの一地方としてスウェーデン王国に帰属していたが(当時スウェーデンは結構な大国)、1809年にロシア帝国との戦争に敗れたことからフィンランドが割譲されてしまう。オーランド諸島もフィンランド大公国の一部としてロシア領となってしまう。
1854年にクリミア戦争に参戦したイギリス・フランスはスウェーデンの参戦を確実にするため艦隊を派遣して同地のロシア軍を攻撃。これに対しロシアは、ノーベル(ノーベル賞のノーベル)を雇い、新兵器の機雷を使ってバルト海を封鎖。被害拡大を憂慮したスウェーデン政府は中立政策を取る。しかし、英仏政府はさらなる参戦を促す。クリミア半島でのロシアの敗勢を見たスウェーデン政府はようやく参戦の意志を顕すが、すでに戦争は終結に向かっていた。
オーランド諸島オーランド諸島
1856年のパリ講和条約によって、国境地帯であったオーランドは非武装地帯に指定された。しかし第一次世界大戦の勃発とともにロシアは条約に違反してオーランドの要塞化を開始。 大戦末期になるとフィンランド本土においてロシアからの独立の気運が高まり、これと並行するようにオーランドにおいてもフィンランドからの分離とスウェーデンへの再帰属を求める運動が起こり、フィンランド独立間近の1917年には、オーランドの代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出。オーランド分離を阻止したいフィンランドは広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させるも、オーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、両国間の緊張が高まる。このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の裁定を託し、フィンランドもこれに同意する。
1921年に、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造を中心として裁定が行われた。これが有名な「新渡戸裁定」です。日本では当時、国際的に孤立化の道が進んでいてあまり評価されていないけど、是非とも日本史の教科書にも入れて欲し良い快挙です。
オーランドのフィンランドへの帰属を認め(メンツを立て)、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めめる(スウェーデンは実利をとる)。これらは両国政府の具体化作業と国際連盟の承認の後、1922年にフィンランドの国内法(自治確約法)として成立し、オーランドの自治が確立します。現在は、フィンランド政府はスウェーデンへの復帰を認めていますが、帰属国を問う住民投票では現状を望む人が半数を超える(自治権の方が有利)。スウェーデンに復帰すれば一つの県にすぎないが、フィンランドのもとでは大幅な住民自治を認められ、海洋地域であるオーランドにとって非常に自由が利くからです。
この時の新渡戸の裁定は、関係する3者(フィンランド、スウェーデン、オーランド)の誰もが納得する、いわゆる大岡裁きになっていたのですね。このときイギリス人のドラモンド国連事務総長は、「不寛容な西洋文明に、寛容な精神を教えてくれた」と新渡戸氏の英断を高く評価したということです。また、今も島の住人は「島に平和をもたらしてくれたミスター・ニトベを尊敬している」と感謝の言葉を口にしているそうです。
ところで、「日本の学校には宗教教育がないというが、だったらどうやって道徳教育を行うのか」と問われて答えにつまった新渡戸氏は、【武士道】に思いあたり。それがきっかけで、外国人に日本のことを理解させたいと『BUSHIDO』(武士道)を英語で著しました。

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米内光政

米内光政は盛岡出身の偉人で、実はわが高校の大先輩にあたる人。と言っても戦前の話だから旧制の中学か。なんせうちの母校は、校歌が軍艦マーチ。その一説に「…、明治13春半ば、礎固く云々」の歌詞がある。なんと明治13春半ばが、米内さんの誕生日だったとは。彼は海軍のトップを務め、海軍大臣も何度も経験。総理大臣(第37代)にまでなっている。見識にも優れ、ロシア語の能力も当時の日本としてはNo.1。ヨーロッパにも駐在して、語学力を駆使して当時の欧州の情勢も正確に把握していた数少ない人物だったようだ。
米内光政 Wikipediaの検索では、1915年(大正4年)2月、ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は「暇つぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。と紹介されている。
米内が日独伊三国同盟に反対し、英米相手の戦争に反対していた理由は簡単だ。戦えば負けるに決まっているからだ。彼は生粋の軍人で、彼の頭脳は明晰だ。米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある。しかし、これは後世の後付けだろう。「負けると分かっている戦は避けるのが軍人の論理。孫氏の兵法もだってそう書いてある。」結局、当時の日本は正論を歪ませてまで戦争をしたいと思っていた真の戦犯たちが存在していたのだろう。
昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止めたことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉をかけたという。昭和天皇も皇室としての英国とは深い人脈も情報も持っておられる国際通、戦争を最も嫌っていた方が昭和天皇であったことは忘れてはならない。昭和天皇は「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、後年語っていたと言われる。
太平洋戦争を開始する連合艦隊司令長官・山本五十六は米内を尊敬する後輩で、 彼が日本は勝てるかと聞かれたとき、「短期決戦なら勝てるかも」と答えたという。当然勝てないという意味だ。これをもって時の政府は決戦を決めたという。真珠湾攻撃は、国政政治の常識から言って極めて稚拙な戦い。いきなり不意打ちをかけて勝った勝った。陸軍の中からは山本五十六を軍神扱いする動きがでる。もちろんこの奇襲を最も歓迎したのが米大統領のルーズベルト。その後の日本は自滅への道を突き進む。
米内への批判の一つとして、彼が支那事変の拡大を積極的に支持したことが言われている。これは、海軍の兵士たちの生命を守るため陸軍の協力が欲しいという理由もあり、海軍中心主義という批判のようだ。しかし、この時彼の立場は海軍大臣でもあり、当時の情勢が戦争拡大へ向かっている中で、むしろやりたいだけやらせた方が得という計算もあったのではないか。案の定、英米から猛烈な抗議が来る。ところが陸軍はこれ以上マズイからやめておこうという理性が失われてしまっていたようだ。
日本では、特に戦中、軍人と言えば勇猛果敢なだけが取り柄みたいな人物がもてはやされる。しかし、国際的な視野を持った米内は、ヨーロッパ各地の情報を自分なりに分析し、ヒットラーのドイツを組むことの危険性を当初から悟っており、同盟するならロシアの方がましだとの持論を持っていたようだ。

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米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人

NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。
フレッド・コレマツ

途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
フレッド・コレマツ 2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。

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【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

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日本の歴史と英国の歴史

極東の島国日本と極西の島国英国は、地政学的な共通点から歴史においても様々な共通点が見いだせるという人たちがいる。どちらも文化の中心となった大陸とは海で隔てられている。
まず、日本の縄文文化。大陸の影響が多少見られる弥生文化とくらべ、縄文文化はどうも日本独特のものらしい。英国にも対応するように新石器時代の巨石文化が花開いている。ストーンヘンジとかストーンサークルとか。これもヨーロッパ大陸から伝わったとの説はあるけど、史跡で見る限り英国が本場のようですね。何でも単一起源説で説明しようとするのは如何なものか。日本にだって環状列石のようなもの発見されているではないですか。人類は与えられた環境に適応して、独自の文化を形成するものらしい。
ストーンヘンジ ストーンヘンジ
日本人は、縄文時代の人達に後から渡来してきた人たちの混血によって次第に形づくられたようですが、英国人も同じようにいくつかの民族の混血によって形造られて来ている。
日本が、中国大陸の王朝に一度も征服されなかったように、英国も常に大陸の動きとは一線を画して独自の動きを続けて来た。
日本が大陸から学んだ仏教も儒教も、日本人の中で独自の精神文化として成熟しているように、英国もキリスト教を、「英国国教会」として独立したものとして受け入れた歴史を持っている。
新渡戸稲造氏の「武士道」で取り上げる封建時代の道徳、どうも英国のものが比較の対象として取り上げられているようだ。
英国人から見て日本人は、どうも馬が合うというか文化的なものに共通の傾向があるのかもしれません。今回、ノーベル文学賞を取ったKazuo Ishguroさん。アーサー王伝説の頃。タイムリーな受賞かもしれませんね。

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ビキニ事件

水着の話ではない。1954年3月1日に米国による太平洋・ビキニ環礁付近行われた水爆実験のために静岡県の漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件。実験当時、第五福竜丸はアメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄(はえなわ)の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後にアメリカは危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻に上るとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初アメリカ軍がこの爆弾の威力を4 - 8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであったため、安全区域にいたはずの多くの人々が被爆することとなった。
最近公表された湯川秀樹(1907~81年)(ノーベル賞の)手記には「二十世紀の人類は自分の手でとんでもない野獣をつくり出した」と書き起こし、原子力を「野獣」「猛獣」と形容した。「もはや飼主の手でも完全に制御できない狂暴性を発揮しはじめた」「少数の強力な国家だけが今後もこの猛獣の飼主たる地位を保持するであろう」と危機感を示している。
 後段では、「原子力の問題は人類の全体としての運命にもっと直接に関係する新しい問題として現われてきた」と、核兵器の脅威を前に世界が運命共同体となったことを強調する。ビキニ実験が核廃絶に向けた「人類的共同体の実現への大きな一歩」への転機となりえるのでは、と期待交じりに記している。

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翼、ふたたび

これは、作家江上剛氏の小説の題名。2010年のJAL破綻から再建の過程を描いたものですが、後半は、東日本大震災の際にJALの職員たちが見せた献身的な努力の成果を描いた物語として終わっている。
JAL B767 JAL破綻の直接の引き金となったのは2008年のリーマン・ショックとされているが、ショックに耐えることのできない脆弱な国策企業的な体質がより大きな原因だとされている。例えば効率の悪い大型機材を大量に保有。供給座席が需要に対して過剰。ただ、これは主に、日本の航空市場の特殊性として、国内線の基幹空港である羽田空港が非常に混雑、大量輸送によって需要に対応していかなければならない状況が続いていた。そのため、大型機材での運航が推奨されてきた。しかし、多くの地方空港が建設されていく中で、必ずしも大型機が望ましいとはいえなくなってきた。
投資の失敗も大きい。ホテルなどの関連企業を増やし、総合的なサービスの提供による競争力の強化を図ったが、採算性の見通しの甘さから、採算性を見込めないものが本業の足を引っ張る結果となる。また、長期にわたる為替差損も、JALの放漫経営の象徴として取り上げられている。
労働組合の問題もある。複数の労働組合が存在しているため、複雑な労使・労々関係も企業経営を極めて難しいものとしてきた。その他にも、採算性の取れる見込みのない地方路線への政治的な観点からの就航など、破綻の要因は多数見いだせる。これらの問題は実はバブル崩壊以降の日本の多くの大手企業にも共通してみられる特徴でもあり、決して他山の石では済まされない出来事と考えられます。
仙台空港 2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24km)を震源とする地震で、規模はマグニチュード9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震だ。
JAL再出発の直後の大震災。仙台空港が主な舞台となるが、仙台空港も地震と津波による相当なダメージを受けたようだ。そんな中JAL の職員たちが自分の身も顧みず乗客のためのサービスに徹する。「働く人たちが笑顔を絶やさない職場、そんな会社は必ずうまく行く」とのメーセージが素晴らしい。しかし、企業の意識改革というものは、外部の人間には想像できない相当の痛みを伴うものあることも覚悟しておく必要があるのでしょう。

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平成の終わり

平成天皇が退位されることとなった。これで昭和だけでなく平成も歴史の研究の対象になってしまうことになる。1989年(昭和64年)に昭和天皇・崩御に伴い皇位を継承。だから平成元年は1989年。2000年が平成12年ということ。2018年12月(平成30年)現在、平成天皇は85歳。高齢だが年間約1000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年度)、20件近くの祭儀を執り行うなど精力的に活動している。しかし2015年に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王同妃および文仁親王同妃に引き継いでいる。
また、科学者としても活躍されている(魚類学者としても知られハゼの分類学的研究者)。 魚類学における業績は各国で評価され学界において以下に記述する役職に就いている。民族学者である梅棹忠夫氏は、1971年「この前、皇太子殿下(まだ天皇になる前)にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣は大したもの。立派に東大、京大教授が務まる。帝としてはどうか知らないが、学者としては一流だ。」と述べている。
平成天皇は青少年の時代を、「現人神の君主」として、帝王教育を受け本人も当然としてそのように自己修練を積んで来た方だ。また、父としての昭和天皇の背中も見て育った方だ。戦後は象徴天皇として皇室はどうあるべきかをもっとも悩み続けた人であろう。
現代の憲法では、天皇は国民の象徴とされている。あってもなくてもいいものなの。一部の国民はそう思っているだろう。しかし、日本の歴史を振り返ってみれば、鎌倉時代以降ずっと国の象徴として機能してきている。ヨーロッパで言えばローマ法王みたいなものか。つまり、日本で一番偉い人なのだ。
ところで、【孔子の理想とした社会】として、「氏曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。」→ 子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰のその所に居て衆星(しゅうせい)のこれにむかうが如しとある。君臨すれども統治せず。これぞ孔子の考えていた徳治主義の理想像だ。昭和天皇も平成天皇もまた次の天皇もそのような考えでおられるようだ。少なくとも自らを単なる象徴だとは思っていなはずだ。だから、常に学問を怠らず、理想的な家族像を追求し、災害の被災地にも真っ先に駆けつけ被災者と気持ちを共有し、外交の場でも政治的な利害を超えて友好の意を伝えることが可能になるのだ。徳を持って治めるとはこのことではないか。
天皇家は、今まであまりにも政治権力に利用され続けてきた。今でも、一部の国会議員や宮内庁(これも政治権力だ)あるは有識者とか言われる人々が、天皇家の権威を復活させようと企んでいる。象徴となった天皇家は今後、一切政治には口を挟まないと思われる。その代わり、政治の側も一切横やりを入れてはいけないはずだ。天皇家の跡継ぎ問題、元号、このような問題は総て天皇ご自身に決めて頂けばいい話。だって、天皇は日本で一番偉い人なのだから。

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目次  
有史以前 紀元前10世紀まで
論語の世界 パックス・アメリカーナ 中華思想と小中華思想 コロンブスのお土産
火薬の歴史 モンゴルの世紀(Pax Mongolica) Ibn Battuta
巨大噴火の恐怖 インド航路の発見
民主主義の歴史 アイヒマン裁判 中国は何故世界の覇者になれなかったのか ニクソン・ショックとプラザ合意
原子爆弾の開発敗戦後の東アジア世界 忘れられた巨人The Buried Giant めげない北朝鮮
戦後の米国覇権とその政策 日の名残りThe Remains of the Day

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有史以前


歴史時代とか有史時代とか言う言い方がある。あまり感じのいい呼び方ではない。一般的には、文字が成立し、文献資料によって歴史事象を検証することが可能な時代を指し、それ以前は先史時代というのだそうだ。世界にはいまだに文字を持たない人たちもいるし、文字というものが文明にとってそれほど必然的なものでもなさそうだが。インカ帝国にみられるように、文字文化のみられなかったところでも天文学や建築技術など他の分野が高度に発達した例もみられ、また結縄のような文字によらないコミュニケーション・記録方法もある。要するに、歴史を学ぶ上でかなり古い時代と一括してくくった分類としておきましょう。

2万年以上前に遡ると、ネアンデルタール人とかデニソワ人なんて、現生人類の親戚だけと、どうも絶滅してしまったらしい人達の歴史も考えないといけない。あるいは若干ながら現生人類にも遺伝子が引き継がれているかも知れない。クロマニョン人というのは後期旧石器時代にヨーロッパ、北アフリカに分布した化石人類なのですが、これが現生人類と全く同じものかどうか。とりあえず、今地球上に生活している人類は新人、ホモサピエンスとして皆同じただ一つの種であるとされています。2万年前以降は新人の文化と考えて差し支えないようです。アフリカで誕生して、7万~4万年頃ユーラシア大陸に進出してきた新人は、強力な伝染病も一緒に持ち込んで先住民を絶滅させたという可能性(進化論における細菌兵器仮説)も否定できない。 2万年前から1万年までには、いろいろと文化の発展が目立ってきます。ほぼ、紀元前200世紀~紀元前100世紀となります。新人達は世界各地の洞窟に洞窟壁画を残しています。アルタミラ、ラスコーの壁画は有名。どちらもヨーロッパのもの。
   地図
1万2000年前の日本では、縄文土器が出土しており、今のところこれが世界最古の土器と認められている。土器というものは適切な粘土材料を確保し、高度な細工を施し、高温で焼き固めるなど高度な技術が必要であり、そのための専門家集団が存在したことを示唆している。洞窟壁画もかなりの高度な技術が必要なのかも知れない。 日本列島がいつから文字文化をもつようになり、文字社会に入ったかについては、多くの議論があるが、おおむね古墳時代(3世紀中頃から)が日本の先史時代と歴史時代の境となるらしい。文字そのものは弥生土器に墨書・刻書されている漢字、日本に関する中国の記録として、前1世紀の『漢書』「地理志」などがある。人類史としては、初めて文字が発明されたのは約6,000年前と推定されている。 人類は紀元前150世紀(約1万5000年前)には南米のチリまで到達していたことが判明しており、各地域の文明の格差というものはさほど大きくなかったのではないかと推定されている。
チャド共和国 先史時代の岩絵がアフリカのチャド共和国(ンジャメナ(N'Djamena))でも見つかっている。紀元前50~20世紀のものらしい。この洞窟が見つかったチャド北東部は今はサハラ砂漠だけと、絵が描かれた時代は緑豊かで多様な動物がいたのだろうと推測されます。このような壁画はアフリカ、アジア、オーストラリア、南北アメリカと世界中に分布しているようで、、美術品としても価値が高そうだ。

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紀元前10世紀まで


縄文の大集落とされる青森県の三内丸山遺跡は紀元前5000年頃と推定されているので、紀元前50世紀頃だ。最盛期には5000人ぐらい住んでいたと推定されている。都市とは言えないかもしれないけど。
時期的には、世界の4大文明よりも前だ。ティグリス・ユーフラテス河に囲まれた肥沃な三日月地帯に都市文明を形成するのが紀元前3500年頃。紀元前35世紀。エジプト文明(BC27世紀頃)、黄河文明(BC50世紀頃)、インダス文明(BC27世紀頃)と世界各地で都市文明が発生する。何故このような文明が発生したのかは興味のあることだが、石の建物の遺跡しか残ってないので多くの謎に包まれている。黄河文明と並行して長江文明というのもあったことが判ってきた。これらの文明に共通する特徴はいずれも大河の流域。つまり、大規模な灌漑農業の発達と関係がありそうだ。基本的にはイネ科の植物、多分小麦と米だ。長江文明だけは稲作が主体ということがはっきりしている。他の4大文明は小麦だ。これらの文明とは別に新大陸ではトウモロコシやジャガイモを主とした農耕が起こる。農耕→都市国家→巨大帝国と言った流れがなぜ起きたのかは解明したい。

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論語の世界

今からおよそ2500年前(今年2018年なので2500-2018=482、つまりBC482年頃、BC5世紀)の世界で各々全く別の場所で、3人の哲学者が誕生する。ソクラテス(BC469~BC399)、釈迦(BC5世紀頃)、孔子(BC552~BC479)である。
ソクラテス自身は著述をしていないのでその思想は、弟子のプラトンやアリストテレス等によって後世に伝えられている。釈迦の思想も弟子達によって伝えられたもの。『論語』(ろんご)も、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。
論語は、儒教の聖典のごとく考えられているが、我々が考えている論語像は実は後世の弟子の弟子と言った後継者たちによってつくられたもので、実際の論語はもっと面白くて人間味にあふれたものらしい。
 孔子が生まれたのは春秋時代、戦国時代に入る前で各国が各々独立志向を高め、世の中が不安定になってきた時代です。殷(商)王朝が倒れ、周王朝も支配力が大幅に低下してきている時代です。中国の神話の世界では三皇五帝等として徳のある帝王が国を治めていたということになっています。これらの聖人達の実在性は不明で、夏(殷の前にあったとされている最初の世襲王朝)より前の時代ではないかとも考えられています。
ただ、殷、周の時代の中国の政治は非常に宗教色の強いものだったと思われます。甲骨文字や青銅器に刻まれた文字。政治のことを「祭りごと」と言いますが、当時思想家とか哲学者と言える人たちは、限られた神官層だけ。孔子のように思想を教え実践しようという人物は本当にまれであったと思われます。
 孔子が重んじた徳には、礼とか楽がありますが、当時としてはこのようなことが大変重要なことだったのでしょう。孔子の時代の必修学問として「詩経」の暗唱なんかあります。 中国最古の詩篇で、儒教の基本経典の一つ。舞踊や楽曲を伴う歌謡であったとも言われる。古の知恵が沢山詰まっているのですね。日本の「万葉集」と似たところがあるのかも。詩は声に出して読んだようです。当時、文章は大きな声を出して読んだらしい。だからそばにいる他の弟子達にも聞こえる。だから、それについて色々と議論もする。  孔子の弟子は、3000人とも言われますが、孔子は弟子を選ばず、特に初期の弟子達には色々な職業や出自のものが混じっており、孔子はこれらの弟子たちを分け隔てなく接したとのこと。気に入らない弟子でも破門なんてしない。十哲の一人とされる子路は、もともと任侠の出で、孔子の人格にぞっこん惚れ込んで死ぬまで孔子に従いますが、多分孔子にもっとも目をかけられた弟子なんでしょう。自分にないも長所を持っている弟子たちの良い所を伸ばすように教育する。だから、弟子たちの質問に対しても相手によってその都度答えが変わる。後世代の解釈者を悩ませるわけです。決して押しつける訳ではない。「先生、○○についてはどう思われますか。」「まあ、君の考えも一理あるけど、こう考えた方が良くない。」なんて。弟子達との対話を通して、孔子の考えも深まり、論語の面白さが出て来るようだ。
【孔子の理想とした社会】
「氏曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。」
子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰のその所に居て衆星(しゅうせい)のこれにむかうが如し。

徳のある君子が国を治めれば、人々はそれに従い平和で調和のとれた社会が出来上がる。北辰とは、北極星のこと、夜空の星達は北極星を中心の回っていますね。孔子の理想とした社会はこれです。周王朝が成立した頃はこうであったとの言い伝えもあったのでしょう。昔は良かった。今は乱れていて、ますます乱れていく。歴史を見ているとたいていの時代、人々は過去の方が今より良かったと考えていたようです。中国の神話でも、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)等の聖人が次々と現れ、善政を行ったことになっています。
でも、孔子自身、行動の人。神話の世界の理想を現実社会に翻訳しなおし、どうすれば君主に徳を持ってもらい、秩序のある平和な社会が実現できるか、その方法論を考え、君主、大臣層を中心に説いて回ります。一時、自分の生まれた魯の国でも採用されるものの政敵に追われ放浪の旅に出る運命に。でも、この教えは、机の上の空論ではなく、実際の政治の局面毎の対応であるため、結構実用面でも役に立ったようで、弟子の数も増え、弟子の多くは、色々な国の政策にも参画できるようになってくるわけです。 論語では、弟子たちの存在がとても重要で面白い。
【孔子の弟子達】
筆頭は、子路(しろ、紀元前543年 - 紀元前481年)は、孔門十哲の一人である。もとは、任侠の出で、孔子の噂を聞きバカにしてからかってやろうと面談し、師の威厳に威圧され、一生孔子に従って旅をする。気が短くて行動派だが、師を尊敬する気持ちは非常に大きいようです。
顔回(がんかい、紀元前521年 - 紀元前481年)は、孔子(孔丘)の弟子。回は名(諱)。字(あざな)は子淵(しえん)。ゆえに顔淵(がんえん)ともいう。魯の人。孔子には常に褒められるキャラとしてはNo1.、つまり超秀才。孔門十哲の一人で、孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って没した。顏回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったという。この点孔子の方が学ぶ点が多かったのでしょう。孔子の思想は、実践の学ですから、利用されてナンボのとこがあります。このことから老荘思想発生の一源流とみなす考えも。
子貢(しこう、紀元前520年 - 紀元前446年 )は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した。孔子以上の秀才と他の弟子たちにも一目置かれた存在。商売でも成功するし、孔子や仲間たちの売込みにも尽力。孔子集団のプロモータ役か。その功もあってか、孔子集団の人気は高まり、弟子たちの就職先もどんどん増えて来る。だから、孔子の後半の弟子たちは、たいていは頭の良い秀才達で受け答えにそつがない。目的もどこかの国の役人として活躍するため。学ぶことは出世の手段だ。
孔子自身はこのような変貌を本当に喜んでいたのか。どうも昔の弟子たちの方が野人で、そちらの方に肩入れしたいというのが本音だったかも。その代り、孔子の教えは儒教として後世まで続くが、孔子の本来の理想とは異なり権力者の支配のための道具と変身して行く。ただ、本流から外れたグループからも諸子百家と言われる沢山の思想家たちを生み出す源泉となったと見ることも可能でしょう。(2018.2.8)
【追記】
幕末の長州藩で、松下村塾を作った吉田松陰。吉田松陰の生き方の中には、初期の孔子を思わせるものがありますね。松陰の思想は、儒教の一派である陽明学が中心にあると言われています。陽明学はいわゆる本流としての朱子学の形式主義に対応し、心の部分に光を当てたかなりラジカルの考えのようです。陽明学は中国や韓国では流行らず、むしろ日本で発展し、倒幕思想にも通じるようです。もともと儒教にも体制擁護の考えはなく、孔子は革命政権にも参画を試みていますし、孟子にも革命の必要性が書かれています。そもそも中国の古代神話、堯、舜、禹(ぎょう、しゅん、う)の時代は政権は禅譲(賢者から他の賢者へ)という形で引継がれ、それが理想で世襲制になることは、君主の欲望を作り出し世が乱れる原因なるとのが神話の教えしょう。
【追記2】
『論語』とは孔子こうし(B.C.552~B.C.479 春秋時代末期の思想家・教育者・政治家)とその弟子の会話を記した書物で、全20篇、全部で1万3千字あまりの本です。量的には決して大著ではありません。むしろ孔子名言集ハンドブック。あまりに昔の本で(孔子は2500年前の人)かつ背景のよくわからない短い文章なので注釈なしには読めません。注釈も人によって(一口に「人」といっても三国時代の人だったり、宋代の人だったり気が遠くなるような昔の人ですが)孔子の言葉の解釈が多少異なります。
そこで「もしかしたらこうなんじゃないのかなあ…」と素人が想像の羽を広げるのもあり、という本です。立派な聖言を金科玉条として読むより、自分の人生や現代社会の中に置いてあれこれ突っ込みを入れながら読んだ方が面白い本だと思います。

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歴史学とは科学か

目次    
民族史観 皇国史観 マルクス史観 科学的な見方

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歴史学は、過去の我々が辿ってきた道のりを正しく記録し.後世に伝える重要な社会科学の一分野です。でも、一般人の我々に取っても歴史の勉強は為になるし、とても面白いですね。格言にもあります。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」。でも、歴史も偏った見方をすれば、都合の悪い部分を無視して、都合の良い所だけつなぎあわせて、虚構の世界を紡ぎだすことも可能です。似非歴史学とでもいうものも多数存在していることにも気を付けないといけません。良く言われる〇〇史観などというものは、あくまでも仮説であり、実証による裏付けが必要なものです。例を挙げると、皇国史観、マルクス史観、民族史観、進化論的史観など色々あります。史観というものは、物の見方ですので、自分なりの史観を持つことは決して悪いことではないと思います。歴史小説などでは、作者の視点はある程度はっきりしている方が面白いかもしれません。しかし、歴史学が科学であるためには、常に証拠による検証が不可欠です。
     地球の歴史、生物の歴史は、自然科学の実証的な方法がかなり確立しています。しかし、今日我々が知っている自然の歴史も、長い間の宗教的史観、特にキリスト教史観との論戦の中で育まれてきたことを忘れてはならないでしょう。ここ20年で大きく書き換えられた事実は数えきれないほどあるし、日々進化しています。

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民族史観

韓国は近年、日本に歴史認識の改革を求めていますね。でも、我々日本人には、彼らが何を求めているのか今一つ分からないですよね。いま、韓国の歴史学は、民族史観一色で、実証的な研究をしようとしても出来ない状況なのです。歴史の研究は、本来過去の古文書等を根気良く読み解いて、ジグソーパズルをつなぎ合わせていくような、地道な作業が欠かせません。韓国の歴史学の分野で成功するためには、先人の研究を解釈しなおして、より国民や国家が喜ぶような新しい解釈を創造するだけです。
     檀君神話は、日本の神話と同じで、国の創生神話です。我が国では、神武天皇や神功皇后の話はそのまま事実と信じるような人はいないと思います。日本が中国を国交を持った時代、中国に対抗するため、国の歴史を長く見せる必要に迫られで、当時の大和朝廷の学者たちが知恵を絞って作り上げたのが天皇の系図であることは自明のことです。神話をそのまま信じると神武天皇は縄文人になってしまいます。檀君神話もちょうど同じタイミングで成立したのでしょう。もちろん、民族史観が国是の国ではこのようなことを否定するような発言はブーです。

      韓国の誕生の歴史は、悲惨なものがあります。朝鮮戦争のドサクサに紛れて成立したような国です。民族史観の学者達には見たくない現実です。因みにウィキペディア(ネット上の百科事典)で朝鮮戦争の項を引いてみると分かります。日本語のサイト、結構長いですね。朝鮮戦争は戦争特需もあり、日本の産業発展にはプラスの効果がありました。英語版、もちろん長いです。国連軍と言っても実際に戦ったのはアメリカですから。ロシア語、中国語、北朝鮮の同盟国だった訳ですから、結構長々と何か書かれています。中身は読めないですがそれだけ重要な出来事だった訳です。ところが、韓国語版は、日本語版の半分ほどしかありません。朝鮮戦争の歴史の記憶は国民から削除したい事柄のようです。

はっきり言って、当時韓国民は何も出来なかったのです。日本軍の引上げた後の空白。その空白を狙った北朝鮮軍の侵入。当時の韓国の指導者は李 承晩(イ・スンマン)、別に国民の支持があったわけではなく、米国でのロビー活動が功を奏して、地位を獲得しました。因みに彼は、両班(ヤンパン、当時の朝鮮の特権階級)の出身です。急遽軍隊を造っても、町のゴロツキをかき集めたもので、略奪はする、戦えば逃げる、どうしようもない組織です。結局できることは、国連軍に従軍慰安婦を大量に送ることだけ。だから、今問題になっている従軍慰安婦の中にもこの時韓国の民兵(ゴロツキ集団)によって強奪された人々も沢山いるはずです。国連軍様々ということです。もちろん、こんなことは民族史観の教科書では抹殺されているでしょう。李 承晩は建国の英雄です。でも、しばらく韓国は低迷が続きます。経済でも北が上です。
李承晩李承晩      朴正煕朴正煕      安重根安重根

この状態を大幅に変えたのが朴正煕(パク・チョンヒ)です。彼は、大変な日本贔屓で、日本軍の占領が無ければ、学問も学べなかったし、軍人にもなれなかったと語っており、開発独裁をやり、日本の経済政策を取り入れ漢江の奇跡(ハンガン、かんこう)を成し遂げる。その娘が大統領を罷免された朴 槿恵(パク・クネ)である。朴正煕は、本当の意味で建国の父と位置づけられてもいい人物であろうが民族史観の立場では親日は悪であり、娘の方もそのような世論に気を使いすぎてあまり日韓関係は改善していな。

韓国の歴史上の英雄に安重根(あん じゅうこん)という人物がいる。朝鮮総督・伊藤博文を暗殺した単なるテロリストである。伊藤博文は、比較的穏健な開明派で、朝鮮総督となるなら適切な人物だったと考えられている。安重根は韓国ではいまだに義士として扱われているが、そういわないといけない雰囲気があるようだ。韓国は、民族史観を国是としているが、幸い我が国の今の歴史研究は、実証主義に基づく欧米の主流の考えに変わっている。歴史学は,ようやく科学(社会科学)としての市民権を得て来たようです。

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皇国史観

韓国が民族史観を国是としているように、戦前の日本は皇国史観が国是であり、この史観の教えるところと異なる学説は、異端として認められていませんでした。日本の神話に書かれていることは、疑ってはならないとされていました。皇国史観は、「親には孝、国には忠」といった儒教道徳と、江戸時代に出て来た国学の思想を合体させたようなものです。

水戸黄門水戸黄門      本居宣長本居宣長

国学は、幕末に尊王攘夷の思想の裏付けとなり、討幕運動の原動力としての役割を果たします。各藩が国のような状態の国民を一つまとめるためには、天皇という象徴が必要だったのでしょう。韓国の場合も一つの国民国家としてアイデンティを保つには、民族史観とか反日感情を共有させることが指導者には必要なのかもしれません。

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マルクス史観

人間世界は、原始共同体から王政、封建制を経て、資本主義社会、そして最終的には社会主義、共産主義に必然的に進化していくとする考えです。歴史上の出来事を何でも階級闘争に当てはめるステレオタイプにはうんざりです。各政治形態は、社会の上部構造、下部構造は経済が支えている。マルクスの友人エンゲルスは、この考えをダーウィンの進化論を発展させた素晴らしい考えと絶賛したとか。マルクス自身が暴力による革命まで考えていたのか、下部構造の経済の裏付けがないと社会主義など絵に描いた餅でしょう。
カール・マルクスカール・マルクス      エンゲルスエンゲルス

戦後、皇国史観にとって代わって、結構流行っていました。私の記憶でも中学校や高校の社会科の先生、こういう考えの人、多かったように思います。例えば歴史上の出来事に何でも階級闘争を持ち込むなど。また、マルクス主義でない人たちの中にも、政治の権力はだんだん下の方の人民に移譲されてきていると考えている人がいます。フランス革命、憲法の発布、議会政治、普通選挙、女性の参政権等々。これらの権利は人民が絶え間ない闘争の末勝ち取って来た血と汗の結晶と、多分学校の歴史でもそのような観点で教えられてきたのではないでしょうか。
生物の進化論でも、定行進化説といって進化には方向性があるという考えがあった。象の牙が段々長くなって来る。キリンの首が長くなる。人類はますます賢くなる(??)等々。生物の進化は環境への適応がすべてで、進化そのものには方向性は無いことは今では定説(中立説)。人類の脳の大きさも狩猟時代をピークにその後は一定か漸減の傾向。進化論を理解しているようで単なる勝手な思い込み。進化についてはまだまだ分かってないことの方が多いのです。

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科学的な見方

地球の歴史の見方は、ここ数十年で大きく変化した。その最大の原因はプレート理論の発展だ。地表の大陸の分布は、その下にある流動するマントルという巨大な部分の絶え間ない運動に支配されている。地球という巨大な生き物は今も我々の下でいまも動き続けており、人を含むすべての生物の運命を支配している。
生物の進化の粗筋もかなり見えて来た。生命という存在もどうも宇宙において地球だけのものでは無いようだ。地球の上に生じた、偶然ともいえる事象の積み重ねが今の人類の存在にも繋がっている。
ダイヤモンド博士に発せられた「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのか?」という、ニューギニア人の賢者から発せられた問いに対して、「単なる地理的な要因」(例えば、ユーラシア大陸の文明がアメリカ大陸の文明よりも高くなったのは大陸が東西に広がっていたためだから等)という仮説を提示し、「ヨーロッパ人が優秀だったから」という従来の根強い人種差別的な偏見に対して反論を投げかけ、世界的なベストセラーとなった。さらに、補足すると、もしニューギニア人の先祖がたまたま今のヨーロッパに住み着いて、白人の先祖がニューギニアやオーストラリアに住み着いていたなら、君たちニューギニア人の子孫たちが世界を席巻することになったはずだということだ。まさに地球の歴史という観点からの見方だ。
多くの歴史的な物の見方には、著者本人も気づかないうちに、根強い人種差別的な偏見、特定の宗教的な偏見、職業的な偏見などに左右されがちである。
実際に歴史を動かして来た原動力は、自然災害、異常気候からの不作やその結果生じた民族の大移動など、偶発的で対応の難しい事態への必死の対応の連続であったはずだ。歴史の勝者も敗者も各々懸命に生きて来たわけで、その知恵を学び後世に活かすことが歴史を学ぶ意義になるはずだ。歴史には必然的な部分と極めて偶然的な部分が混在している。そして、一度変化が進むと後戻りできない所がある。だからこそ科学的推論が不可欠な訳だ。

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世界の歴史の部屋

火薬の歴史

世界を変えた火薬の歴史;クライヴ・ポンティング著-国家の盛衰を左右した兵器。
   火薬の発明は、羅針盤、印刷術と同様に、ルネサンスの3大発明であると西欧人は思っていた。羅針盤、印刷術は今では中国人がずっと前から使っていたことは常識。ところが、火薬に関しても、ほんの50年ほど前にこれに対する反証が挙げられた。
  火薬の発明は、本書によれば、科学技術の先端を突っ走るヨーロッパでなくて、なんと9世紀初頭の中国。1000年以上前のことだった。不老不死の霊薬を求めた道教の錬丹術師が偶然発見(発明)したようだ。古代中国の時代から医薬品だった木炭、硫黄、そして硝石の混合物が「火の薬」と判明したのだ。今日の黒色火薬である。
元寇
火薬は直ちに軍事機密とされ、その後12~14世紀の中国では、例えば、火炎放射器の「火槍(かそう)」、最初の爆弾の「震天雷(しんてんらい)」、軽量爆弾の「群蜂砲」、なんとも奇妙な名称の火薬兵器が作られている。中国は周囲を強力な騎馬民族(遊牧民)に囲まれているため防衛の必要上からも研究が進められたようだ。
特に宋に時代は、北半分を女真族に取られ、南の半分の南宋はモンゴルのフビライによって制圧されてしまう。この時モンゴルは火薬の技術を手に入れたようだ。モンゴルの波状的な西方への軍事遠征に火薬が有効に使われたようだ。あんな小型の蒙古馬だけでは世界征服などできるわけがない。制圧されたイスラム世界で硝石は「中国の雪」、ロケットは「中国の矢」と呼ばれたという。つまり、モンゴルの世界征服は火薬の技術おかげだったようだ。日本も元寇の際にはこの火器に相当悩まされたらしい。モンゴル人は中国人の裏切りを恐れ色目人を優遇しため、火薬技術は世界に拡散していく。
この火薬の利用は、歴史を大きく動かす原動力となったようだ。 モンゴル帝国が崩壊した後、火薬兵器を最大限に生かしたのがオスマントルコとインドのムガール帝国だという。また、チムール帝国もこの仲間だろう。日本でも織田信長の天下統一が加速する。種子島に伝わったという鉄砲は、特に最先端のものではなく既に中国にもあったものかも知れない。その後鉄砲の生産高も品質も日本は多分世界のトップクラスだったと言われる。オスマントルコと対峙した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、領土と奪われ最後は首都コンスタンティノープルを残すだけになるが、この時ローマ側は「ギリシャの火」という兵器を用いてトルコ側を散々てこずらせたとあるが、これも何らかの火薬技術だろうが正確な記録は残っていないようだ。
 その後、火薬兵器を装備したイスラム勢に対峙したヨーロッパ勢は前代未聞の艱難(かんなん)辛苦を嘗(な)めさせられた。14世紀のイタリアの桂冠(けいかん)詩人ペトラルカが火薬兵器を「地獄から送られてきた道具」と嘆息したのも宜(むべ)なるかなであった。おしなべて低温のヨーロッパにおいて、火薬の製造は難しく、硝石の生成も、また腐敗した有機物の結晶化以外に方法がなく、悪臭と闘わねばならなかったらしい。
その後、中国は明から清になり平和が続くにつれ、危険な火薬兵器は国が独占するようになるため新規の開発がなされなくなる。日本の徳川幕府も、火薬兵器の威力を十分理解していたため他大名には作らせないよう国が独占する。その間に戦争に明け暮れたヨーロッパ諸国に水を開けられたのかも。しかし、ヨーロッパ諸国だけが何故勝者として君臨できたのかはもう少し納得のいく説明が欲しいところだ。
火薬兵器は、今まで統一されてなかった民族の統一が急速に進む効果もあった。アフリカでも新しい国がいくつも出現する。チベットなんかもそうだろう。仏教寺院なども火器に対抗できるよう城のような形をしている。ハワイのカメハメハ大王なんかも火薬兵器を利用して、ハワイ全体を統一したらしい。アメリカインディアン達だって、馬に乗って銃で武装した集団で戦っている。ロシアのコサック騎兵達のシベリア征服も鉄砲の力だろう。

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モンゴルの世紀(Pax Mongolica)

元版図
13~14世紀(1201~1400年)は、チンギス・ハーンの興したモンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を支配したため、モンゴルの世紀と呼ばれる。モンゴル帝国は交易を奨励、保護しユーラシア大陸を陸路、海路で結ぶ一大交易網が成立した(シルクロードの発展)。ユーラシア各地を多くの技術や情報が行き交い、世界史の転換期のひとつとなった。
テムジン テムジン
1206年周辺部族をまとめ上げ、テムジンはクリルタイ(族長会議)で大ハーンに選出され、以後ヂンギスハーンな名乗る。これより破竹のごとく膨張が始まる。まずは周辺の大国を次々に滅ぼす。西遼(1211)、ホラズム王国(1220)、西夏(1227)、ここでヂンギスハーンは亡くなる。2代目、オゴタイハーン(位1229~41)。金を征服(1234)。
ヂンギスハーンには4人の子がいる。ジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイ。遊牧民の伝統では末子相続が一般的だったらしい。
モンゴル版図 ① 長男ジュチは西へ進み、その息子もバトゥもそれを引き継ぎ、キプチャク=ハーン国
② チャガタイ、オゴタイはチャガタイ=ハン国(中央アジア)、オゴタイ=ハン国(西北モンゴリア)を形成。
③ 末子トゥルイの子フラグもイランにとどまりイル=ハン国を興す。
④ 末子トゥルイの子フビライは南宋を滅ぼし元を建国する。
しかし、版図が広がるにつれて、一族の結束はだんだん緩くなり、時には対立するようになる。中国贔屓のフビライが強引に5代目を襲名するとどうもフビライの一人勝ち、反発も出て来るんだろう。
元寇とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗王国による2度にわたり行われた対日本侵攻。1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)。弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であったらしい。朱元璋(太祖・洪武帝)が元を追いやり明を建設sるのが1368年なのでまだしばらくは元の時代が続く。

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巨大噴火の恐怖

地球上の生物の進化の歴史は、地球環境の変化に対応して進んでいる。このことは人類の歴史に対しても同様なはずだ。地球という惑星は今でも活発に動いている。地球上の総ての生き物は生活環境の激変という試練からは逃れることは不可能なのです。
6500万年前に、巨大隕石が地球に衝突し、1億年以上続いた恐竜の天下を終わらせる。その後の荒廃した環境から哺乳類が進化し、人類の先祖がアフリカを出たのが6~7万年前頃。では、地球は大人しくなったのか。人類が自分達の歴史を残せるようになったのは、せいぜい1万年以下。これから先、どんな異変が生じるかは予想もつかないのです。
実は、西暦535年にこのような巨大災害が生じていたことが、世界各地で文字として記録されており、最近の地質調査からも証拠が挙がってきている。
噴火の場所は、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡。クラカタウ火山だ。別の場所でも火山活動が頻発したようだ。
この時、遠く離れた東ローマ帝国でも、大きな爆発音があり、その後1年以上も「太陽が暗い状態」が続いていたことが記されている。西ローマ側の教会の指導者たちも同じような記録を残している。中国でも(隋によって統一される前)、北の魏、南の梁の2つの王朝で同様な記録が残されている。その後、世界は飢饉と疫病が蔓延し、洪水や旱魃が繰り返された暗黒の時代に。食料を失った絶望した人々の移動が繰り返され、民族の対立が激化。この状況は相当長期に渡ったようだ。つまり、西暦6世紀は、世界的な出来事が同時発生的に生じている。今まで、学校で習っていた歴史の見方も大幅に書き換える必要がありそうだ。
1.ヨーロッパでは、東西ローマ帝国の力が弱体化し、ゲルマン人等周辺の異民族が大量に流れ込み社会が不安定に。
2.中国でも既存の王朝が弱体化して、異民族的な隋による統一が簡単に進む。
3.朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が食料を巡って生き残りの抗争繰り返し、大量の難民が日本に流れ込む。
4.日本には大量の帰化人が来る。仏教もその時入る。しかし、同時に疫病も持ち込まれたらしい。天然痘ではないかと言われる。帰化人と組んで仏教を保護したい蘇我氏と反対する物部・中臣氏の対立だ。仏教と疫病とがセットで持ち込まれたことが反対する理由だった。
5.ヨーロッパでは、絶望した人々の終末観(あの世で幸せに)が広がり、キリスト教が一気に勢力を増す。不幸な人が増えるほど宗教家は仕事が増える。
6.ムハンマドがイスラム教をあれほど急速に普及できたのも、多発する災害を都合良く天罰だとして利用できたため。イスラム教の発展もえらく急速だ。
7.新大陸のマヤやインカにも大きな変化があったらしい。
8.インド圏や他の地域はどうだったんだろうか。
自然災害、火山の爆発が人類の歴史を大きく塗り替えたということだ。
パウロ      ムハンマド

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Ibn Battuta

イブン・バットゥータ

マリーン朝
イブン・バットゥータ(Ibn Battuta;1304年~1368年/69年)は、マリーン朝のモロッコ人。イスラム教徒だ。彼の旅した地には北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれる。イブン・バットゥータは史上最も偉大な旅行家であろう。日本語訳では三大陸周遊記となっている。マリーン朝スルターンの命令を受けて、イブン・ジュザイイが口述筆記を行ない、1355年に旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(通称Rihla)が完成する。この旅行記は19世紀にヨーロッパにも紹介され、各国語に翻訳されて広く読まれた。イスラーム教徒だったためか西洋ではあまり評価されず、日本でも歴史の中にチョット顔を出す程度だが、当時の世界を俯瞰するには最適な書物なようだ。

14世紀は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。14世紀は、モンゴル帝国が成立したおかげて、世界のグローバル化が一気に進み、イスラム教が大いに発展した時代。そうでなければこのような世界旅行など全く不可能な話。陸も海も盗賊や海賊が出没するのは当たり前、地域間のネットワークが非常に良くなって来たようだ。まだ、このネットワークには西欧諸国は入っていない。イスラム教を異常に敵視する蛮族たちが闊歩する(十字軍や異端裁判等)後進的な地域だったようだ。
イブン・バットゥータ 生まれ育ちは、北アフリカ西部のモロッコ。当時は文化的には先進地だったようだ。マリーン朝は、12世紀末から15世紀末にかけてモロッコに存在していたイスラーム国家。フェズを首都とし、マグリブ西部(北アフリカの西側)を支配していた。対岸はスペインだがこの時はイスラームの勢力下にある。イブンは1304年マリーン朝の治世のモロッコ、タンジェのイスラム法学者、すなわちウラマーの一家に生まれとされている。
1325年6月、21歳のときに彼は巡礼、すなわちハッジのためにメッカを目指し故郷を発つ。往復16ヶ月の道程である。しかし彼が再びモロッコの地を踏むのは24年後となる。
【ハッジとは】
ハッジとは、イスラーム世界における、メッカへの巡礼の事。五行の1つ。すべてのムスリム(イスラーム教徒)にとって、少なくとも人生のうちに1回は、メッカ巡礼が義務付けられている。ただし、すべてのムスリムに課せられる他の四行(信仰告白(シャハーダ)、礼拝(サラート)、喜捨(ザカート)、断食(サウム))と異なり、巡礼は実行できる体力や財力のある者のみが行えば良いものとされている。巡礼期間中にハッジを済ませたものはムスリムの社会で尊敬を受ける。 サウジアラビア政府は(巡礼月、イスラム暦の第12月)の間に巡礼を目的とする外国人に特別査証を発給している。また、サウジアラビアとイスラエルとは国交はないが、パレスチナ人やアラブ系イスラエル人のイスラム教徒たちは、ヨルダンのアンマンを経由してサウジアラビアに入国しハッジを行うことが可能である。また、メッカは、イスラム教徒以外の人間が立ち入ることは禁じられていて、市内全域がイスラム教の聖地であるとのこと。

イスラム国家 彼は北アフリカ海岸沿いを陸路にてメッカを目指した。ザイヤーン朝、ハフス朝を横断し、そしてチュニスに到着すると彼はそこで2ヶ月を過ごす。チュニスは今でもチュニジアの首都、大都市だ。昔ローマ時代にカルタゴの拠点だった所。ザイヤーン朝、ハフス朝はベルベル人の建てたイスラム王朝。 1326年の早春、3500キロの旅の後イブン・バットゥータは当時バフリ朝(Bahri dynasty、マムルーク朝)の支配にあったアレクサンドリアの港に着く。マムルーク朝は首都をカイロに置くエジプトの王朝だ。アレクサンドリアにはアレクサンドロス大王の後継者たちが建てた世界最大級の立派な図書館があったのだが、5世紀ごろキリスト教徒の野蛮な攻撃を受けてこの当時には消失していた。 カイロには約ひと月滞在し、彼は比較的安全なマムルークの領内にて、この旅の中で幾度も行われる最初の遠回りを行った。ナイル河谷を遡上し、その後東へ向かい、紅海の港街アイザーブを経由するルートを選んだ。しかし街に近づくと反政府勢力に追い返されてしまった。アイザーブはナイル川を上った王家の谷で有名なルクソールの対岸(サウジアラビア側)にある港町だったようだ。 イブン・バットゥータはカイロに戻り、そしてマムルーク支配下のダマスカスへと2回目の遠回りをした。ダマスカスは今でもシリアの首都だ。1回目の旅で出会った聖人が、イブン・バットゥータはシリア経由でしかメッカにはたどり着けないと予言を残していたためだった。この遠回りにはヘブロン、エルサレム、ベツレヘムなど道中に聖地が点在しているという利点もあった。マムルーク朝は巡礼者のための治安確保に骨身を惜しまなかった。この権力の後押しが無ければ身包み剥がされ、殺害される旅行者で溢れていたことであろう。 イブン・バットゥータがこれほどの大旅行を無事成し遂げることが出来たのは当時の、イスラーム教を介した人的ネットワークの存在が非常に大きい。西のモロッコから東のインドネシアまで広大なネットワークが存在しているのだ。そうでなければ言語、文化の異なる地域を旅すること自体、この時代では危険極まりない所業だろう。
ダマスカスでラマダン月を過ごしたあと、彼はキャラバンに参加して1300キロ南のマディーナ(メジナとも、イスラム教の第二の聖地)に向かい、そこで4日を過ごしたあと、彼の巡礼の終着点であるメッカへ向かった。これ以降イブン・バットゥータはハッジとしてイスラム社会に受け入れられるようになる。つまりどこへ行っても尊敬を受けて便宜を図ってもらえる。ここで帰路に就くよりもむしろイブン・バットゥータは旅を続けることを選び、次の目的地を北東、モンゴル帝国のイルハン朝に定めた。 つまり、モンゴル帝国のおかげで、世界がある程度一つになったという利点があったのか。マルコ・ポーロの冒険もこのころか、調べて見ましょう。
イブン・バットゥータは1327年、東アゼルバイジャン州のタブリーズ(モンゴル帝国のイルハン朝の都があったところ、今はイラン領、アゼルバイジャン領だったことも)を訪れている。 メッカでひと月を過ごした後の1326年11月17日、アラビア半島を横断してイラクへ戻る大規模な巡礼キャラバンに参加した。一行はまず北のマディーナ(メジナ)へ向かった。日中を避け夜に旅を続け、やがて北東へと進路を変える。ナジュド平野を横断し、ナジャフ(イラク南部)へとたどり着いた。2週間の旅であった。ナジャフでは第4代カリフ、アリーの廟を訪れている。 その後バグダードへ向かうキャラバンと別れイブン・バットゥータは、ペルシアに入り6ヶ月の回り道をする。ナジャフからワシットへ、そしてチグリス川を南下してバスラを訪れる。そこからザグロス山脈を越えエスファハンへ向かう。そして南へ向かいシーラーズを訪れる。シーラーズはモンゴルの侵略の際にも破壊を免れて繁栄を誇っていた。ようやく彼は山道を戻り1327年6月、バグダードへ到着する。バグダードはいまだ街の至るところにフレグが1258年の侵略の際に残した破壊の痕跡が残っていた。エスファハンも美しい都市として有名。

イスラム国家 バグダードにて彼はイルハン朝最後の君主アブー・サイードが大勢の従者を引き連れて街を北へ向かうところを目撃している。イブン・バットゥータはしばらくそのロイヤル・キャラバンに随行し、その後にシルクロードを北へと向かい、タブリーズを訪れた。モンゴルへの道を開いた最初の街であり、この地域の他の交易都市はモンゴルにより徹底的に破壊されていたため、タブリーズは交易の要衝となっていた。

1328年か1330年のハッジの後、紅海に面するジッダを訪れる。その後彼は海岸に地域特有の南東の風に逆らいながら小船を乗り継ぎゆっくりと海岸に沿って南下した。ラスール朝統治下のイエメンに入ると、ザビードを、そしてタイズを訪れた。タイズではラスール朝のマリク(すなわち王)のムジャヒードに謁見している。イブン・バットゥータはサナアに立ち寄ったとも記録しているが、実際に訪れたかどうかは疑わしい。タイズからは直接交易の要衝アデンへ向かったと考えるのが現実的である。アデン着は1329年か1331年と考えられる。
アデンよりイブン・バットゥータはソマリアのゼイラに向かう船に乗った。ゼイラからソマリアの海岸をさらにくだりグアルダフィ岬を訪れる。それぞれで1週間を過ごした。その後、アフリカの角の当時最大の都市であったモガディシュを訪れる。アフリカの角とはソマリアのあたりが地図で見れば尖っていて三角形になっているがここを示す。この付近ではエチオピアが大国で力を持っていたようだ。 イブン・バットゥータの訪れた1331年、モガディシュは繁栄の絶頂にあった。彼はモガディシュを裕福な商人の多い「極めて巨大な都市」と描写、エジプトを含む各地から持ち込まれる高品質な織物についても触れている。

キルワ イブン・バットゥータはスワヒリ海岸の島にある町キルワ王国(現在タンザニア領)に1330年に着いたと記録を残している(ソマリアに着く前だろう)。キルワは金の貿易の要衝となっていた。彼はこの都市を「最も美しく設計された街のひとつ、すべての建物は木で作られ、ディース葦(dīs reed)で屋根が葺かれている」と記録している。そしてそのスルタンの謙虚で敬虔な人柄についても好意的に描写している。コーラル・ラグ(サンゴ由来の石灰岩)で造られた宮殿と拡張されたキルワのグレート・モスク(世界遺産となっている)の歴史はこの時代から始まっている。モンスーンの向きが変わるのにあわせて、イブン・バットゥータはアラビア半島へと戻る。まずはオマーン、そしてホルムズ海峡を通過し、1330年(あるいは1332年)のハッジにメッカへ戻った。
3度目のメッカ巡礼の後、イブン・バットゥータはムスリムのムハンマド・ビン・トゥグルクが治めるデリー・スルターン朝にて職を探すことに決める。1330年(あるいは1332年)の秋、陸路でのインド入りを意図し、セルジューク帝国の支配下にあったアナトリア半島(現在のトルコ)に向けて旅立った。シリアの港街ラタキアにてジェノヴァ共和国の船が彼(と彼の道連れ)を拾ってアランヤまで運んだ。この街は現在のトルコ南海岸に当たる。これ以降、旅行記におけるイブン・バットゥータのアナトリアでの足跡は混乱を来たす。歴史家たちはイブン・バットゥータは実際に中央アナトリアのいくつかの都市を巡ったものの、旅行記の記述が時系列に沿っていないものだと考えている。

スィノプから海路でジョチ・ウルス領(モンゴル帝国でもここはキップチャク)のクリミア半島へ到着。港街アゾフにてハンのアミールに出会う。その後豊かな大都市マジャールを訪れる。そしてマジャールからウズベク・ハンのオルドを訪問するために出発。この当時、ハンのオルドはベシタウ山の近くにあった。その後ブルガールへ向かう。この街が彼の旅のなかでの北限となった。夏の夜が(亜熱帯出身者からすれば)極端に短いと記録している。その後ウズベク・ハンのオルド(宿営地、テントの街か)に戻り、彼らとともにアストラハン(ボルガ河口右岸の都市)まで移動した。
ブルガール滞在中彼は闇の地を訪れてみたいとも書き残している。その地は遍く雪で覆われていて(シベリア北部のこと)唯一の移動手段は犬ぞりである。神秘的な人々が暮らし彼らは姿を見せることを嫌う。それでも彼らは南方の人々と奇妙な方法で交易を行っている。南の商人は夜にさまざまな商品を開けた雪原に並べておき、自分たちのテントに戻る。そして翌朝その場所にもどると商品はその神秘的な人々に持ち去られ、代わりにコートなど冬の衣類の素材となる上等な動物の毛皮が置かれている。この交易は神秘的な人々と商人がお互いの顔を見ることなく行われる。イブン・バットゥータは商人ではないしそれほど値打ちのある旅に思えなかったので闇の地への寄り道は差し控えた。

東ローマ皇帝 アストラハンに着くと、ウズベク・ハンは妊娠中の后の一人、ギリシャ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス(東ローマ帝国皇帝のことだ)の娘バヤルン妃にコンスタンティノープルへ出産のための帰郷を許可する。イブン・バットゥータは頼み込んでコンスタンティノープルへ向かう一行に同行させてもらった。これがイスラム世界を出た最初の旅となった。

1332年(あるいは1334年)も終わりに差し掛かったころにコンスタンティノープルに到着。彼は東ローマ帝国のアンドロニコス3世パレオロゴスに謁見。名高い教会アヤソフィアを訪れ、正教の司祭に旅の中で訪れたエルサレムの話をして聞かせた。ひと月滞在した後、イブン・バットゥータはアストラハンに戻った。その後首都サライを訪れ、スルタンのウズベク・ハンに旅の報告をした。その後カスピ海、アラル海を越えブハラ、サマルカンドを訪れた(両市は今はウズベキスタン領内)。そこでまた別のモンゴルの王、チャガタイ・ハン国のタルマシリンのもとを訪れている。そこから彼は南へ向かいモンゴル治世下のアフガニスタンを旅した。そのままヒンドゥークシュ山脈の山道を経てイブン・バットゥータはインド入りを果たした。旅行記で彼はこの山岳地帯の名称と奴隷貿易の関係について触れている。 この後、私は山岳地帯をバーワンの街へ向かった。山道は雪で覆われ凍えるように寒い。この地域はヒンドゥ・クシュ、すなわち「インド人殺し」と呼ばれている。厳しい寒さのために取税人の連れてくる奴隷のほとんどが死んでしまうのが理由だそうだ。 イブン・バットゥータと彼の一行は1333年の9月12日にインダス川に達している。これより彼はデリーへ向かいスルタン、ムハンマド・ビン・トゥグルクに謁見している。
当時ムハンマド・ビン・トゥグルクはその豊かな財力でイスラム世界に名をはせており、彼は支配をより強固なものにする目的でさまざまな学者や、スーフィー、カーディー、ワズィール、そして役人に経済的な支援をしていた。イブン・バットゥータはムハンマド・ビン・トゥグルクの治世にカーディー(裁判官)として6年間仕えた。この国はモンゴル帝国の侵攻の後に残った、エジプトのマムルーク朝と同様、数少ないアジアのイスラム国家であった。メッカでの経験が買われ、イブン・バットゥータはスルタンよりカーディーに任命された。しかしながら、彼はイスラム教の浸透していないインドでスルタンのお膝元、デリーを越えてイスラム法の執行を徹底することは難しいと悟る。 サルサティ(Sarsatti)のラージプートの王国からイブン・バットゥータはインドのハンシを訪れる。イブン・バットゥータはハンシの街を以下のように描写している「数多ある美しい街でも最もよく設計され、最も人々がよく集まる街。堅固な城壁に囲まれていて、聞けばこの街を造ったものは偉大な不信心な王という話でタラ(Tara)と呼ばれている」。シンド州に着くとすぐに彼はインダス川の河畔に生息するインドサイについて言及している。

スルタンは当時の感覚からしても理不尽な男で滞在する6年の間にイブン・バットゥータは、信の置ける臣下としてのアッパークラスな生活からさまざま理由から反逆者としての疑いをかけられる状態へと身を落とす。ハッジを理由に旅立つ計画を持ち出すとスルタンは彼を苦境へと落とし込んだ。1347年、元の使節が中国人巡礼者に人気の高かったヒマラヤの仏教寺院の再建の許可を求めにやってくると、イブン・バットゥータはようやくデリーを離れる機会を得た。
イブン・バットゥータは使節としての命を託された。しかし中国への出発点となる港へ向かう道中、彼の大規模な使節団は山賊の襲撃にさらされる。イブン・バットゥータは一団からはぐれ、身包み剥がされ、あわや命すらも失いかける。苦境に陥りながらも彼は10日以内に使節団に追いつき、合流を果たすとグジャラート州のカンバートへの旅を続けた。そこから船でカリカット(現在のコーリコード)へ向かった。2世紀の後にヴァスコ・ダ・ガマが上陸を果たす地である。カリカット滞在中、イブン・バットゥータはこの地の支配者ザモリンに客人として迎えられた。その後コッラムへと船を進める。南海岸で最も活況を極める港のひとつである。カリカットからコッラムまでの日数は10日であった。イブン・バットゥータが岸のモスクに立ち寄っているとき、嵐がやってきて2隻の船団のうちの1隻が沈んでしまった。別の1隻はイブン・バットゥータを残して出航するが、この船は数ヶ月後にスマトラ島の王に拿捕されることとなる。
このままデリーに戻った場合に責任を問われることを怖れたイブン・バットゥータはしばらくの間ナワーヤトのジャマール・ウッディーン庇護の下で南インドにとどまった。ナワーヤトは小さいながらも力のあるスルタン国でアラビア海に面するシャラベイ川河畔に位置する。しかしやがて起こるこのスルタン王国の転覆の中、イブン・バットゥータはインドを去るよりほかなくなる。中国への旅を続ける決意を固めるが、まずはモルディブへの寄り道からはじめることとした。
彼は当初の予定よりもずいぶんと長い9ヶ月をこの島国で過ごした。彼は仏教国からイスラム化を果たしたばかりのモルディブにとって貴重な人材だった。半ば強引に滞在を求められてこの国で主任カーディを務め、そしてロイヤルファミリーから伴侶を迎えオマル1世と姻戚関係を持った。しかししだいに彼は政治問題に巻き込まれるようになり、彼の厳格なイスラム法の執行に対し奔放な気質の島民がいらだちを募らせるようになると、イブン・バットゥータはモルディブを発った。彼は旅行記の中で島の女性たちが上半身裸で街をうろついていること、それに対するイブン・バットゥータの不満を現地の人々が歯牙にもかけなかったことを記録している。モルディブを発ったイブン・バットゥータはスリランカに向かい、アダムスピークとテナヴァラム寺を訪れた。
スリランカを出航するとすぐに船が沈み始めた。救助にやって来た船は海賊の襲撃に晒されるが、イブン・バットゥータは無事だった。彼はスリランカの岸で途方に暮れ、苦労してやっとのことでインドのマドゥライ王国までもどり、しばらく滞在する。その後彼は再びモルディブへ渡り、中国のジャンク船に乗りこんだ。まだ中国へ向かう使者としての使命を全うする意思を持っていた。 彼は現在のバングラデシュ、チッタゴンの港に上陸する。イブン・バットゥータはシャー・ジャラールに会うためにシレットに向かうことにした。チッタゴンからカマルの山々を越えてシレットに至る1ヶ月の旅路である。当時のイスラム世界ではシャー・ジャラールはこの骨折りに値するほど高名な人物であった。シレットへの旅の途中シャー・ジャラールの弟子たち数人に声をかけられる。彼らはイブン・バットゥータを案内するために何日も前から待っていた。1345年のシャー・ジャラールとの面会について、シャー・ジャラールは背が高く、細身で顔色はよく、洞窟のモスクで暮らしている。ミルク、バター、ヨーグルトのためのひつじを一頭だけ所有し、その他には財を持たないと記録している。また、取り巻きは外国人であり、強さと勇敢さで知られていた。たくさんの人々が教えを請うためにシャー・ジャラールのもとを訪れる、等々記している。イブン・バットゥータはさらに北へ向かいアッサム州を訪れた後、中国へのルートに戻った。

東南アジア
陳ベトナム イブン・バットゥータは陳朝ベトナムのポー・クロン・ガライを訪れたと考えられている。地域の姫ウルドゥジャと会ったと触れられている場所である。 1345年イブン・バットゥータは現在のスマトラ島北部アチェ州に位置するサムドラ・パサイ王国を訪れた。イブン・バットゥータはこの国の統治者について触れている。彼によれば、スルタンは、敬虔なムスリムで宗教的義務は最大限熱心に行い、しばしば地域の精霊信仰勢力に対して軍事行動をとっている。彼はスマトラ島について樟脳、ビンロウ椰子、クローブ、スズが豊かな島であると描写している。イブン・バットゥータは彼らのマズハブ(イスラム法学派)についてシャーフィイー学派と記録している。これは彼が実際に見てきたインド沿岸地域のムスリムに近い学問で、とりわけマッピラ・ムスリムはまさにイマーム、アル=シャーフィイーを信奉していた。当時サムドラ・パサイ王国はダール・アル=イスラーム(イスラム世界)の限界で、これ以上東にムスリムの統治する領域は存在しなかった。彼はスルタンの客人として、この木製の城壁に守られた街で2週間をすごした。スルタンはイブン・バットゥータに物資を提供し、スルタン所有のジャンクで彼を中国へ送り出した。

イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。
イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。 イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。

イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。
中国
イブン・バットゥータはイスラム世界で初めて万里の長城について触れている。1345年、モンゴル治世下の中国福建省泉州。彼は外国人のポートレイトを描いている似顔絵師と、彼らの巧みな技術について触れている。イブン・バットゥータは彼らの描く似顔絵はセキュリティ目的に使われると記している。イブン・バットゥータはこの街の職人と彼らの作る絹織物、磁器、そしてプラム、スイカといった果物、そして紙の通貨の利便性に賛辞を送っている。泉州における巨大船舶の製造工程について、さらには中国料理と食材、たとえばカエルやブタなど、イヌが食材として市場で売られていること、中国のニワトリが大きいことなどについて書き残している。
泉州にてイブン・バットゥータはこの地のカーディーに歓待を受けた。さらにはイスラム商人のリーダーが旗、太鼓、トランペットと楽団を引き連れてイブン・バットゥータに会いに来た。彼は、ここ泉州ではムスリムはいくつかのコミュニティに別れて暮らし、それぞれが自分たちのモスクとバザールと病院持っている、と記録している。滞在中彼は清源山に登り、洞窟に著名な道教の僧侶を訪ねている。その後彼は海沿いに南下し広州を訪れ、その街の裕福な商人のもとで2週間を過ごした。 広州から北へ泉州にもどり、福州へと向かう。
イブン・バットゥータは杭州を彼が見てきた中でも最大級の都市とし、そしてこの街の魅力について触れている。いわく、美しい湖を湛え、なだらか緑の丘に囲まれている。ムスリムの居住する一角にも言及し、彼はエジプトに起源を持つ一家のもとに身を寄せていた。杭州滞在中たくさんのよく設計され、きれいに塗装され、色彩豊かな帆を持ち、シルクの日よけをもった木製の船が運河に集まっているのを見ていたく感動したことを記録に残している。彼はカータイという名の元朝の地方行政官の晩餐会に呼ばれている。イブン・バットゥータによれば、この行政官は現地中国人の召喚魔術に大変興味を持っていた。また彼は太陽神を信仰する現地の人々についても言及している。
彼は京杭大運河を小船で上りながら、畑やラン、黒い絹の衣を纏った商人たち、花柄の絹の衣を纏った婦人たち、やはり絹を纏った僧たちを見た。北京ではイブン・バットゥータははぐれたデリー・スルターン朝の使節を名乗り、元朝ボルジギン氏、トゴン・テムルの宮廷に招かれる。イブン・バットゥータはトゴン・テムルについて、中国の一部の人々から崇拝されていると描写している。大都の宮殿は木造で、統治者の第一夫人(奇皇后)は彼女を称える行進を行わせた、と記録している。
イブン・バットゥータはまた泉州から60日のところにゴグとマゴグ(マゴグ)の地があると記している。ハミルトン・ギブによればイブン・バットゥータは万里の長城はクルアーン(コーラン)にあるとおり、ズー・ル=カルナインがゴグとマゴグを退けるために築いたものだと信じていた。 イブン・バットゥータは北京から杭州へ戻り、福州へと旅を進めた。泉州に戻るとすぐにサムドラ・パサイ王国のスルタン所有のジャンクに乗り込み、東南アジアを目指した。しかし船の乗組員に法外な額の報酬を要求され、彼が中国滞在中に工面した蓄えをほとんど失ってしまった。

帰郷とペスト
1346年に泉州に戻るとイブン・バットゥータはモロッコに帰る決心をする。インドのカリカットに着くと、もう一度ムハンマド・ビン・トゥグルクを訪ね慈悲を請うべきかと逡巡するが、そのままメッカへと向かうことにした。バスラへ向かう航路でホルムズ海峡を通る。そのときにイルハン朝の最後の君主アブー・サイードがペルシアで死亡したことを知る。イルハン朝はこのあとに起こるペルシア人とモンゴル人との間の激しい内戦により崩壊することになる。
1348年、イブン・バットゥータは最初のハッジのルートをなぞるつもりでダマスカスに立ち寄る。そこで彼の父が15年前に他界していたことを知る。そして続く翌年からしばらくの旅は「死」が支配的なテーマとなった。黒死病の流行が中東を襲い、彼はまさにペストの支配するシリア、パレスチナ、アラビア地域に居合わせていた。メッカに到着すると、彼はモロッコへ帰る決断をする。タンジェの家を発ってから実に四半世紀が経とうとしていた。帰り道にサルデーニャ(イタリアの島)へ最後の寄り道をした。1349年フェズを通ってタンジェ(モロッコ北部の町、タンジールとも)への帰郷を果たす。彼は彼の母もまた数ヶ月前に他界していたことを知る。
アンダルスと北アフリカ
イブン・バットゥータはグラナダ王国を訪れた。グラナダ王国はアンダルスにて最後のムラディ文化を育んでいる。ついに帰郷を果たしたイブン・バットゥータだが2、3日も滞在するとすぐにタンジェを離れることになる。これはムーア人の支配するイベリア半島のアンダルスを旅するきっかけとなった。当時カスティーリャ王アルフォンソ11世はジブラルタルへの攻撃を仄めかしていた。1350年、その攻撃から港を守る目的でイスラム教徒のグループがタンジェを旅立った。そこにイブン・バットゥータも参加した。しかし彼らが到着するまでにペストがアルフォンソ11世を殺したために侵略の恐れは無くなった。彼はそのままアンダルスの観光旅行へと目的を変え、バレンシア王国をめぐり、グラナダでアンダルスの旅を終える。
アンダルスを後にした彼はモロッコを旅する決断をする。家へ帰る途中でしばらくマラケシュに滞在した。かつての首都マラケシュはペストと、フェズへの遷都によりほとんどゴーストタウンのようだった。
マンサ・ムーサ マンサ・ムーサ
もう一度彼はタンジェに戻るが、ほんのしばらく滞在しただけでまた旅にでることになる。時は戻るが1324年にイブン・バットゥータが初めてカイロを訪れた2年前、西アフリカのマリ王国の皇帝マンサ・ムーサがまさにその街をハッジの為に訪れていた。途方も無い量の金を彼の国から持ち込んだマンサ・ムーサの巡礼は当時カイロでセンセーションを巻き起こしていた。イブン・バットゥータは旅行記の中でこのエピソードには触れなかったものの、当時のカイロでマンサ・ムーサの話を耳にしていたとしても不思議はない。彼はサハラ砂漠を越えた向こう側にあるこのイスラム国家を次の目的地とした。マンサ・ムーサの話は有名だが、どのようにしてこんな富を蓄えることが出来たのだろう。
モスク 1351年の秋にイブン・バットゥータはフェズを出発し、現在ではサハラ砂漠の北限となっている街、シジルマサへ向かった。この街で彼はラクダを何頭か購入し4ヶ月を過ごした。1352年2月、彼はキャラバンを伴って再び出発、25日をかけてタガーザーの塩原にたどり着く。この地域では建物はすべて塩のブロックでできている。ここではマッスーファ族の奴隷が塩を切り出し、ラクダで運び、建物を造る。タガーザーは交易の要衝でマリで産出される金に溢れていたが、イブン・バットゥータはあまり良い印象を持たなかった。ハエに悩まされ、水はしょっぱいと記録している。
タガーザーに10日滞在したあと、キャラバンはターサラフラーのオアシスに向かった。そこに準備のために3日滞在する。ここからこの広大な砂漠を縦断する旅で最後の、そして最も難しい区間が始まる。ターサラフラーから、まずはマッスーファ族の先行隊がウアラタのオアシスに向け出発、彼らはそこで水を調達して4日目の地点までもどり本体と合流する。ウアラタはサハラ交易ルートの南の終点で、ちょうどこのころにマリ帝国の支配下に入っていた。キャラバンはシジルマサから1600キロの行程に2ヶ月を費やした。
ここからイブン・バットゥータはナイル川と彼が思い込んでいた川、すなわちニジェール川に沿って南西へと旅をつづけ、マリ帝国の首都にたどり着く。彼は1341年より在位しているマンサ・スライマーンに謁見する。イブン・バットゥータは女奴隷、召使、さらにはスルタンの娘たちまでもが肌の一部を露出させた格好をしていることがムスリムらしくないと、不満をもらしている。2月には首都を離れ、現地のムスリム商人とともにラクダでトンブクトゥを訪れた。トンブクトゥは翌15世紀、16世紀にはこの地域でもっとも重要な都市となるが、イブン・バットゥータが訪れたこのときはまだ小さな街だった。この旅でイブン・バットゥータは生まれて初めてカバを目にする。トンブクトゥに少し滞在した後、彼はピローグという丸木舟でニジェール川を下り、ガオを訪れた。当時ガオは重要な交易の要衝であった。 ガオでひと月を過ごした後、彼は大きなキャラバンに参加してタカッダーのオアシスを目指した。砂漠を越える旅の中で彼はモロッコのスルタン、アブー・イナーン・ファーリスからのメッセージ、家に帰るようにとの命令を受け取る。彼は1353年の9月に、600名の女奴隷を輸送する巨大キャラバンとともにシジルマサへ向けて出発した。そして1354年の初旬にモロッコに戻っている。イブン・バットゥータのこのアフリカの旅の記録はイスラム教が西アフリカへと波及していく過程を覗かせてくれる貴重な資料となっている。

世界の歴史の部屋

インド航路の発見

ヴァスコ・ダ・ガマ ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1460年頃 - 1524年)は、ポルトガルの航海者、探検家。アフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれます。コロンブスの米大陸発見(1492年)でスペインに先を越されたポルトガル王には焦りもあったらしい。航海について公式に作成された報告書は残っておらず、いわば海賊の親玉みたいな人か。
魔女狩り ガマは、1497年7月、大勢の観衆が見守る中、リスボンから出発。 この艦隊派遣では、航路の発見に並びプレスター・ジョンの国およびインドとの親交と貿易の端緒をつくることが目的とされ、国王の親書が用意された。プレスター・ジョンの国とは、インドかアフリカにあるとされる伝説上の国。ローマ法王の狙いは、この国と組んでイスラム勢力を叩きのめすこと。十字軍の恨みまだ懲りずに戦う気だ。この当時のイベリア半島は、反宗教改革急先兵。失地回復運動(レコンキスタ)やら、魔女狩りや異端審問、ちょうど今のIS(イスラミック・ステート)みたいな国だ。航海の目的も商売も一つだが、カトリック教の布教が表向きの理由。異教徒は、本心では人間とは思わない、殺しても構わない。大変危険な集団だったのです。でも、プレスター・ジョンの伝説は、嘘ではなかったわけで、アフリカにはエチオピアと言う立派な国があって、今でも元祖キリスト教を信仰している。
アフリカの西海岸を回って喜望峰まではすんなりたどり着くが、それから先は全く未知の世界。当時のインド洋は、イスラム商人たちの縄張りだ。でも、実際はイスラムの陸の大帝国、ムガール帝国もオスマン帝国も陸の世界にしか目が無い。各地域の港町はチャンと税金を納めていれば完全な自治が認められ、誰でも自由に貿易ができる体制が確立していたようだ。だから、商人たちはインド人もスラバヤ人もアフリカ人も皆、平等に商いが出来たらしい。東アフリカには共通語としてスワヒリ語と言うものがある。タンザニア、ケニア、モザンビークなどで今でも共通語となっているようです。概ね彼らはイスラム教徒になっていた。スワヒリ語は、イスラム商人とアフリカ商人の交易のための共通語として発達したとのこと。また、これらの地域では、金融関係は今でもインド商人が強いとか。アフリカ人だって西欧人か来なければ、今ももっと平和な社会に生きていくことが出来たのでしょう。
しかし、イスラム教徒を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちは、アラビア語を話すムスリム(ムーア人)に対し妄想に近い強い警戒感を持っていました。結局、鉄砲を利用して無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に押し入ってその中心で銃を何発か放つ。ヴァスコの船隊に加わっていた一人の人物の記録によると、「ムーア人は家の中にとどまり、誰一人浜まで出てこようとしなかった」という。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この水域の慣行を無視し、港の使用料を払わないままだった。およそ彼らの行動は当時の慣習にはそぐわない。不自然で不可思議な行為だった。
インドに到達する。王宮に到着したヴァスコは来訪の目的を廷臣に伝えるように要求されたにもかかわらず、自らはポルトガル王の大使であるから王に直接話すと主張して聞かなかった。翌日宮殿で謁見したヴァスコは国王に親書を渡し、目的のひとつを達成した。しかし用意した贈り物を見た王の役人やイスラム教徒の商人は笑い出した。贈り物は布地、一ダースの外套、帽子6個、珊瑚、水盤6個、砂糖1樽、バターと蜂蜜2樽に過ぎなかった。「これは王への贈り物ではない。この街にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している」と言われ、ヴァスコは「私は商人ではなくて大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。」だったら偉そうな顔をするな。つまり、当時の西洋人は貿易をしようにも何も売るものすらないという悲しい現実があったわけだ。
これに対しヴァスコはイスラム系商人に対する過剰な猜疑心から、強硬な手段に打って出る。火器を使って暴力的に相手を脅す。当時のインドやアフリカの港町は独立した自治組織で自前の軍隊は小さい。簡単に武力で制圧されてしまう。こんな貿易だが、ヨーロッパでは、持ち帰った胡椒が高値で売れ、第二回の遠征が可能になる。
二回目以降はしっかりと火器を準備し、初めから征服目的で遠征をする。相手方は弱小の港湾都市国家、国策で火薬武器を平気で使用する相手にはかなわない。火器で領土を広げた、モンゴル帝国、チムール、ムガール、オスマン帝国の海洋版だ。これに対して陸の帝国は全くこの動きを無視。一定の税金さえ払えば何をしても構わない。あっという間に、ポルトガルの海洋帝国が成立する。スペイン、オランダ、イギリスがこれに倣う。西欧の覇権が成立する。ヴァスコが交易で得た品は、胡椒、肉桂、蘇木、丁字、生姜など。 このポルトガルの決定は、ヨーロッパ各国が本格的にアジアに進出する契機になったとともに、その基本的態度を方向付ける。強力な海軍を派遣して貿易を支配する構造は、ヨーロッパ諸国がアジアに植民地主義を展開する手段として用いられることに。
しかし、ポルトガルのやり方は東アジアでは通用しなかった。インドではムガール帝国は海には無関心だったが、中国(明)は違った。明は海外貿易を禁止するとともに、貿易の利益を国家が独占する政策を取る。朝貢貿易が主体であるため、周辺国も海賊退治を熱心に進める。イスラム圏では、一般の民間と海賊の区別はない。しかし、東アジアではポルトガルは大人しく振舞うしかない。キリスト教は、限定的にしか普及できず、ザビエルは日本での布教は断念し、中国で失意のうちに亡くなる。最後は布教抜きで経済利益を追求するオランダに覇権を奪われる。
イタリアのベネチア等の都市国家も、ポルトガルの興隆で最初は大きな打撃を受けるが、ポルトガルがすでに出来上がっていた自由な貿易網を完全に破壊できた訳でもなく、しばらくは息をつくことが出来たらしい。

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民主主義の歴史

みんなで決める。これは人類の歴史ではほぼ最初からあったルールです。類人猿の世界でも食べものを老人や幼い子供達にもある程度平等に分けるためのルールが存在しています。弱肉強食の社会でない限り。構成員が平等な狩猟民の世界では話合いで物事を決めることはごく当然のこと。マルクスの言う、原始共産制の世界です。農耕社会になって、リーダの存在が大きくなり、初めは回り持ちのリーダが世襲制となり、王政や帝国が生まれました。遊牧民の世界は部族会議などがしばらく続いており、これも一種の間接民主主義と言えるでしょう。ローマの元老院などは、話し合いの場ですが、議員は家柄で決まっており、終身ですから平民の権利は認められてなかったのですね。しかし、ここでの議論は真剣でカエサル(シーザー)とキケロの弁論での対決など、弁論の価値を高く評価している点はすばらしいものがあります。多数決で決まるより弁舌の力で決着することが多かったようです。元老院の議員にはそれだけの格式が求められていたようです。だいたい議論に参加しない人には決定に加わる権利は無いのです。

ローマでは、その後だんだん平民の力が強くなり、元老院と対立するようになります。シーザーは平民達の多大な支持を得て皇帝のような地位を確保します。今のロシアのプーチンみたいな存在かもしれません。その後、初代皇帝としてアウグストゥスが後を継ぎ、平民達の声を利用しながら、元老院から権力を奪い取っていきます。でも、その際の最大の力は武力よりも言論の力と信じられていました。
      古代ギリシャでは、アテネが民主制を採用します。アテネはペリクレスという偉大なリーダに恵まれ、大発展します。しかし、アテネ政体を視察に来たローマの元老院のメンバー達は、「これはダメだ、いづれ潰れる」と判断して、民主制の採用を見送ったそうです。案の定、ペリクレスが無くなると、アテネは混迷を極め、衰退します。いわゆる衆愚政治に陥ってしまったわけです。。

現代の民主制は、資本主義の勃興と並行して進んできたことを見逃してはなりません。新しく出て来た産業資本家達は、地主貴族から土地の農民を工場の賃労働のために引離す必要があります。そのためには普通選挙は格好の口実になります。選挙の投票では、賃金をくれる人の言うこと聞くのは当然です。また、中間層が増加することは、製品の買い手としても有望です。こうして成熟した資本主義国家の資本家達は遅れた国の政治制度にも横槍を入れるようになります。各国で労働争議が増加していく裏には、資本主義国からの資金援助もあったことでしょう。革命運動等の指導者達、その資金源どこだったのでしょうか。

戦後の日本は、民主主義はもっとも進んだ制度だと学校教育で洗脳されて来ました。しかし、民主主義を真に機能させることは容易ではありません。権力者はマスメディアもネットの情報も管理できます。アメリカのトランプ政権は色々マスメディアでは叩かれていますが、今までとは異なった見方もあるのだと国民が気付いた点では評価できるのではないでしょうか。

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パックス・アメリカーナ

パックス・ロマーナという言葉が西洋史には出て来る。パックスはピースの意味で平和、ローマ帝国がヨーロパ及びその周辺を含む巨大な地域を統一し、長期間の平和と安定がもたらされていた状態をいう。時代的にはBC27年~AD180年、すなわちアウグストゥスによる帝政開始~五賢帝時代の終わりぐらいまでを指している。確かに域内に住む人々にとっては、戦争もなく経済も発展し平和で良い時代であったことは間違いないようです。世界史の中で巨大な帝国は何度も現れますが、パックス・〇〇と呼ばれるような帝国(共和国でもかまわないが)になるには、いくつかの条件が必要でしょう。具体的にいくつかの候補を挙げて見ましょう。

【唐帝国】

唐帝国は、交易も世界的で統一後は、周辺国ともうまくやっているようです。中華帝国の貿易は、朝貢という形で行われ、実際には宗主国の大幅な持ち出しです。中国の王朝は唐に限らず、統一後しばらくは平和な時代が訪れます。そのうちに国の統治機構が腐敗して、衰退していくことになります。これは中国だけに限らないか。でも、パックス・タンもありですね。ところで、唐の時代は、すごく国際的ですね。西から色々な文化がやって来てます。キリスト教(景教、ネストリウス派)も唐経由で、日本にも入って来てます。日本にキリスト教を最初に伝えたのは、ザビエルだというのはウソですね。

【パックス・モンゴリア】

モンゴルの世界帝国、歴史地図を見るとすごいですね。まさに、世界最大の帝国が忽然と現れるのです。モンゴルの侵入は、残虐さで有名ですが、征服後の統治には、現地の人材をフルに活用します。何せ、あれだけの版図をごく少数のモンゴル人では統治しようがありません。政府の中枢も有力な官僚たちは西域の色目人と言われる人々が多数を占めています。モンゴルの残虐さは、当時の支配者達の立場で歴史が書かれているためで、その後の善政については抹殺されているのでしょう。モンゴル帝国の一部であった元でも、官僚機構はそのまま、役人たちも不満なし、頭が入れ替わるだけですから。一般の人々から見たモンゴル支配下の生活、そんなに不満はなかったのかも知れませんね。モンゴル帝国の版図が大きくなったおかげ、世界交流は大幅に活性化します。商人たちが安全に行き来できるからです。ローマからは、マルコ・ポーロ達がやってきますね。

【パックス・ブリタニカ】

15世紀ごろから、ヨーロッパ列強の世界進出が始まります。はじめは、スペイン、ポルトガル、オランダそして最終的に英国に覇権が移っていきます。この時代戦争が絶えませんね。英国も最初は、武力に頼って来ましたが、次第に外交による平和的(陰謀的)解決を主力にするように変わって行きます。日本でも、幕末には陰で反政府勢力の薩長を支援し (幕府を支えたのはフランス)、日露戦争でもロシアの足を引張り続けます。更に、当時勃興してきたマスメディアをフル活用してロシアが負けたことを既成事実化して交渉を日本に有利に進めます。ロシアはお陰で革命が起こりロマノフ王朝は転覆します。この革命にも情報や資金面で隠然と操っていた力があったのですね。巧みに情報を操作して、世界を操る諜報活動の力を最初に認識したことが英国が成功した鍵ですね。

英国は、植民地経営でもうまくやっていたようですね。現地の人材をうまく活用しています。フランスが力で押さえつけるやり方を取ったのと対照的ですね。植民地が独立した後も、比較的順調に発展している例が多いようです。ただし、地元民を分断して統治する政策は、後々に大きなしこりを残しているようですね。我が国も戦前には、「大東亜共栄圏」を目指したことありましたが上手く行かなかったですね。

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【パックス・アメリカーナ】

第二次大戦の結果は、アメリカの一人勝ち、日本、ドイツの負組以外の、英、仏も戦争の痛手で青息吐息、英国は覇権をアメリカに譲り、院政を試みます。ところが予想外のことが生じます。いわゆる「鉄のカーテン」が出来、別の世界が形成されてしまうのです。でも、ソ連邦は、その後経済的に破綻し、現在覇権国と言えるのは米国だけになっています。パックス・アメリカーナは、現代の状態そのものでしょう。ここから先は、歴史の課題というより、現代政治そのものかも知れません。でも、昨日までに生じた事柄はすべて歴史の対象とも言えます。歴史を読み解き未来の予測に使えなければ歴史を学ぶ意味は何でしょうか。パックス・アメリカーナについての考察はまた後日行いたく思っています。

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米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人

NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。

途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すのとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
フレッド・コレマツ 2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。

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【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

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原子爆弾の開発

1945年8月、人類史上初、世界で唯一核兵器が実戦使用された。
8月6日 広島市 広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイ
8月9日 長崎市 長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマン
原子爆弾の開発は、E=mc2、すなわちわずかな質量が膨大なエネルギーを生み出すという発見から生まれた画期的な殺戮兵器である。ナチス支配下で米国に亡命して来た著名な科学者達がルーズベルト大統領に進言して開発が進められた。確かにドイツでも日本でも並行して開発が進められていたことは公然の秘密である。日本では仁科芳雄等が中心となって研究開発が進められていたが、敗戦後には原子力に関係する施設は米軍によって秘密裏に完璧に破壊された。日本のノーベル賞学者は湯川、朝永は仁科の弟子で、以後日本の物理学者らは専ら理論物理の研究を中心に行っていくことになる。
 ドイツが降伏し、日本も降伏寸前の時点では、核兵器の破壊力から投下を中止する意見もあったが、ルーズベルト死去の後を継いだトルーマン大統領の決定で投下が実施された。更に、第三の原子爆弾を投下することも計画されていたがトルーマンによって中止された。ルーズベルト大統領は、日系日本人の捕虜収容所を進めた張本人、やっていることナチスのユダヤ人捕虜収容所と何ら変わりがない。はじめからドイツには落とすつもりはなかったのかも。
 その後朝鮮戦争では、マッカーサーは原爆の使用を提言するが、トルーマンはこれを許さず、38度線にこだわり、また、今まで支援してきた蒋介石の中華民国政権の梯子をはずし、共産党の大陸支配を容認する。この結果、金日成が朝鮮解放の英雄として北朝鮮の支配を確立し、毛沢東も米国・日本から中国を解放した英雄として支配権を確立。その後進んでいく東西冷戦もこの時から想定されていた筋書通り展開のように思われる。

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敗戦後の東アジア世界

 日本がポツダム宣言を受け入れ終戦となったのが1945年。日本の降伏調印式は1945年9月2日。実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた(知らないのは日本国民だけ)。日本の終戦記念日は翌日の8月15日。正式に国家同士で戦争していたのはアメリカ合衆国と中華民国(蒋介石政府だけ)。ソ連とは不可侵条約を結んでいたので正式には戦闘状態には無かったわけです。中華人民共和国の成立は1949年10月1日。朝鮮戦争は1950年の北朝鮮の突然の侵入に始まり、1953年7月に休戦協定成立。未だ最終的な平和的解決は行われていない。

 戦後賠償については、米国、中華民国は賠償の権利を放棄している。これは第一次大戦時にドイツに過大な賠償金を課したことが大二次大戦の原因ともなったことを踏まえてのこと。従って、この時点において日本は戦後賠償の義務は一切ないことになっている。毛沢東の中華人民共和国は、戦中は国共合作として称して日本軍とも戦闘したことになっているが、実際は国民党を背後から鉄砲を打って邪魔したことぐらい。毛沢東は、「日本軍のお陰で国共内戦に勝てた」と豪語しているくらい。もちろん朝鮮半島は日本の統治下ですから日本国内の問題。韓国がとやかく言う筋合いは全くないはずのものです。

戦後、日本は東南アジア諸国に戦後賠償を行っておりますが、これは全く善意による経済援助。中国と韓国には未だに多大な資金供与を行っているのが我が国の現状です。しかし、日本は今の中国と韓国には賠償責任は一切ないはず。もしこれらの国が賠償しろというのは、アメリカ政府のさしがねか、中国、韓国の諜報組織による陰謀でしょう。日本人は歴史の勉強が足りないのは事実ですね。
日本は戦争放棄の他、諜報能力も放棄してしまったようで、政界、マスコミ、学会のすべてにこれら中国、韓国、北朝鮮からの諜報機関から莫大な資金がノーチェックで流れ込んでいるはず。世界中で、このように支払わなく良い賠償金??を払い続けている国はありません。日本では自民党の議員の中にすら中国、韓国のシンパは大勢います。本当の国益とは何か相当良く考えないといけませんね。

世界の歴史の部屋

ニクソン・ショックとプラザ合意

リチャード・ニクソンと毛沢東

第二次大戦後、米ドルを基軸通貨として為替の安定・自由貿易の推進により世界各国が相互に発展することを目指して定められた国際ルールがブレトン・ウッズ体制(1944)です。
日本が奇跡的な経済成長を見せ、西ヨーロッパも順調に復興すると、国際競争力が相対的に上がっていきます。世界各国は輸出によって稼いだ米ドルを金にどんどん換えていきます。一方アメリカは世界の警察として多くの軍事費を投入し、また共産圏の拡大を防ぐために発展途上国への経済援助費を増やしていきます。多国籍企業は米国外へ投資をつづけ、膨大な米ドルが世界中に流出し、これらのドルも金に交換されました。
結局アメリカの保有していた金(ブレトンウッズ体制当初、世界の7割とも言われていた)は、大量に国外に流出し、金ドル交換の不安が叫ばれるようになりました。1960年代にはしばしばドル危機の声が高まり、ゴールド・ラッシュと呼ばれる金への投機が活発になる現象が起きました。
1971年8月15日、アメリカ大統領チャールズ・ニクソンは、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止することを突然発表します。これは、ブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味しており、国際金融の大幅な枠組みが変わるきっかけとなります。この発表はアメリカ議会もしらなかったため、ニクソン・ショックと名づけられドル・ショックとも呼ばれます。ほぼ同時期(一ヶ月前)に発表されたニクソンによる中国訪問宣言と一連の北京での外交活動も合わせて、ニクソン・ショックと呼ばれています。
ところで、それまではドルは金と対応していたので他の財貨との関係は需要供給曲線のロジックでバランスが取れるフィードバック機能が働いていました。しかし、ドル金交換が停止されて以降、米国は無尽蔵にドル(もちろん貨幣に変わる債権なども含みます)を発行し、覇権国として世界中から自由に物を買うことができるようになりました。これが米国が覇権を維持できる根幹でしょうね。今後もドルはどんどん増え続けるでしょう。その結果は世界は一体どうなってしまうのでしょう。世界の経済は、常に新たな需要と供給のバランス点を模索して変化し続けるでしょう。人はそれを経済発展を称するのでしょうが、変動する世界は行きつく先が見えないので大変不安です。少なくともサスティナブル(持続可能)な制度ではないはずです。ただ、世界経済の規模が大きいのでたとえ破綻するにしても数十年の規模で推移するのでしょう。
基本的に貨幣の量が増えれば、財の需要は増え供給の価格は割高になるでしょう。特に労働賃金(労賃にも需要と供給の関係が成り立つ)の安い開発途上国には有利に働くでしょう。その結果、中国、インド、東南アジア、アフリカなどの経済はずいぶんよくなって来たようです。一方、先進国の工業は材料費や賃金の高騰で立ち行かなくなって行くようです。そして頻繁に発生するバブル、やはり近い将来何が起こる可能性は否定できないでしょう。現在も金はどんどん米国や日本から流出して中国やロシア、インドなどの国は金をせっせと集めていると言われます。そのうちにまた金本位制が復活するのかもしれません。

世界の歴史の部屋

中華思想と小中華思想

中国は儒教に国と言われ、韓国も儒教の国であることを自負している。儒教は日本人の思想にも多大な影響を与えています。北朝鮮やベトナムも儒教の影響を受けており、東アジア一帯に渡って一つの大きな文化圏を形成しているとも言えそうです。ただし、日本での儒学は隣の中国、朝鮮とは異なった発展をとげたようです。儒教は、何故か国の宗教にはならず、そのため人の生き方のような哲学的な部分が発展して、陽明学のような流れは日本から逆に中国に輸出されるまでに発展します。
一方、本家中国では、儒教は秦の時代の焚書坑儒のように最初は多大な迫害を受けますが、漢の時代以降、国を治める宗教(理念というべきか)として取り上げられ、大きく変身してしまいます。親には孝、国には忠と言う部分だけが強調されて、礼儀作法が形式化されていきます。現状肯定の支配者に取って、都合の良い考えですね。
一方、中国が宗主で周りの国が家来といった、中華思想が段々強化されていきます。いわゆる朝貢貿易です。歴史上、王国が誕生すると同時に王国の周辺の民族を見下すような自己中心的な考えは多かれ少なかれ見られるものですが、中国ではこの考え方が異常に発展してしまいます。中国独特の歴史的、地理的な環境がそのようにさせたようです。
一つには、儒教が中華思想を肯定し、強化する役割を果たしたようです。また、中国は何度も周辺の遊牧民に支配される歴史を経験しています。このような支配を受けた経験は、その劣等感の裏返しで、かえって選民思想のようなものを強化していく作用があるようです。
一方の韓国での小中華思想は、とりあえず中国を親と仰ぎつつ、自分はその第一の継承者として周辺の民族を積極的に見下す。朝鮮と言う国は、中国の影響をはねのける代わりに従属の道を選んだ。日本やベトナムとは異なる道だ。総ての文化は韓国から日本へ流入したと信じたい。コメも、仏教も、漢字も、カラオケも、寿司も、血液型性格判断も、終身雇用制度も。これが韓国の実態。結局見たいものしか見ないし、見たくないものは否定する。これが歴史認識の違いと彼らが声高に主張していることの真実です。
 中国も、尖閣列島の問題も、スプラトリー諸島の問題もすべて同じ。総て自己中心的な発想ですから解決するはずもないわけです。外交問題ではこれからも色々問題を起こすでしょうが、常に発想は自国中心。力の外交を繰り広げると予測されています。
 まあ、あまり隣の国を批判するのも格好いい話ではないので日本のことを振り返ると、戦争中の日本は、まさしく中華思想ならぬ皇国史観に塗り固められていて、あまり自慢できる話でもないですね。大東亜共栄圏などまさに中華思想とウリ二つ。劣等感に起因する排外思想、現実を見ないで過去を美化する史観。ちょうど今の北朝鮮と同じですね。このような民族主義的な歴史観、そろそろ終わりにして欲しいですね。

世界の歴史の部屋
裸坊達の部屋

コロンブスのお土産

 スペイン・イサベラ女王の資金援助で新世界に到達するコロンブス。1492年西インド諸島のサン・サルバドル島に上陸する。地元原住民の歓迎を受けるも、コロンブス本人は、金と奴隷の略奪しか興味がなかったらしい。要は海賊ビジネスが生業だった訳。ただ、インドに行った証明に胡椒(pepper)を持ち帰る必要があった。胡椒はインド原産で大変な貴重品。もちろんここは、本当はインドではないので、胡椒なんて手に入る訳がない。ところがここに素晴らしい代替品があった。唐辛子である。これも、英語ではpepperだ。以後、世界中で大流行の香辛料になる。本家の胡椒を凌ぐほどに。ただ、コロンブス自身は、インドに行ってないことがバレてしまい、晩年は不幸な人生だったとか。

 ところで、コロンブスが持ち帰った農作物は、非常に貴重なものが多く、世界中の人々の農業や食文化に多大な影響を与えている。例えば、下記のような作物が挙げられる。このうち一部は、コロンブス以前に別のルートで広まったと思われるものや、より後の時代に旧世界に伝えられたと思われるもの混じっているが、スペイン人による完璧な破壊略奪で滅ぼされた新大陸の文化の高さを証明している。

1.唐辛子…ナス科トウガラシ属、中南米を原産。
2.ピーマンやパプリカも唐辛子の変種。
3.トマト…ナス科ナス属、南アメリカのアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産。
4. ジャガイモ…ナス科ナス属、原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。
5. タバコ…ナス科タバコ属
6.カボチャ…ウリ科カボチャ属、原産は南北アメリカ大陸。
7. サツマイモ…ヒルガオ科サツマイモ属、
8.トウモロコシ…イネ科の一年生植物。
9. 落花生…マメ亜科ラッカセイ属、南米原産。
10. いんげん豆…マメ科、アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税として徴収

非常に多彩です。1~5がナス科というのも面白いですね。インカのナスカ絵…ダジャレ。世界に4大穀物…小麦、米、トウモロコシ、ジャガイモ。このうち2つが米大陸原産。トウモロコシとサツマイモは10世紀頃に既にポリネシアで栽培が記録されており、もっと前に伝わっていた可能性もあるそうです。唐辛子は、秀吉の朝鮮出兵の時に日本から朝鮮半島に伝わったようです。

世界の歴史の部屋

アイヒマン裁判

アドルフ・オットー・アイヒマン(1906年~ 1962年)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割をになったとされている。
Eichmann
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行される。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑。
 アイヒマン氏は、アルゼンチンで家族を持ち平穏な余生を送っていたようだ。イスラエルのやり方は、当然国際法違反であるが、アメリカの強い後ろ盾もあり不問にされた。世界のメディアは、アイヒマンを凶悪な性格に描こうと待ち構えていたが、アイヒマンの答弁は終始、「法と上司の命令を忠実に守っただけで、自分には罪はない。」というものであった。要するにごく普通の一般人。この裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、この記録を発表するが、ユダヤ社会を含めメディアから猛烈な批判を受ける。でも、事実なのだから仕方がない。でも、あなたがアイヒマンの立場だったら、上からの命令を敢然と拒否できたでしょうか。

世界の歴史の部屋

中国は何故世界の覇者になれなかったのか

ジャンク船 明の時代、中国の鄭和は大艦隊を引き連れアフリカの東海岸(現ケニア)まで遠征する。鄭 和(1371年 ~1434年)は、中国明代の武将で12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられる。鄭和の船団は途中、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、中国の威を誇示して回った。コロンブスが米大陸を発見する(1492年)よりも60年ぐらい前のことだ。しかも遠征の規模も桁違いに大きい。
 コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはあまりなかったからという説もある。
しかし、3万人もの人材を海外に派遣して各地の地理情報を取りまとめているのだから、利用の仕方次第でいくらでも歴史に大影響を与えることは可能なはずだ。このような海外派遣を続けていれば(資金が枯渇しなければ)、インドやアフリカの国々も中国に朝貢するようになり、世界帝国の中心として覇をとなえることも可能であったはずだ。
鄭和の遠征鄭和の遠征      コロンブスコロンブス
 ただ、はっきり言えることは鄭和のプロジェクトは、国策プロジェクトで、当時の明は中央集権的国家であった。一方、コロンブス達は得体の知れないならず者集団。ベネチアからの資金やイサベラ女王の支援(ポルトガルには断られる)のおかげで成立した博打のようなプロジェクトだ。だからどちらもプロジェクトとしては成功しても、歴史に与える影響でコロンブスが勝っていることになる(歴史の逆説みたいなもの)。
 当時の明は、民間による海外貿易は禁止している。第三代永楽帝は、クーデター的に政権を確立したこともあり、積極的な海外拡張策を取り、周辺諸国に朝貢を促す政策を実施。基本的に朝貢貿易というのは、朝貢国よりも宗主国の方が持ち出しの経済的には割が合わないシステム。度重なる遠征と朝貢から明の財政は逼迫、以後中国は二度と海外に目を向けることはなくなる。ヨーロッパ諸国が海の覇権を確立する絶好の好機を提供したわけだ。
しかし、鄭和の艦隊が去った後は、その隙間はしばらくの間の海は、イスラム商人たちの独壇場(インドや東南アジア諸国も入れたか)となったはず。ここを避けて西へ向かったのがスペイン、強引に割り込んだのポルトガル。どのようにしてポルトガルが海の覇権を手に入れたのか、これも歴史の面白いところ。
ダウ船ダウ船      キルワキルワ遺跡(タンザニア)
 中国は、孔子の生まれた春秋戦国時代を除くと、ほとんどの時代統一王朝が存在している。たまたま、前の王朝が倒れても次の新しい王朝が統一する。基本的にはトップは倒れても官僚制は存続しているわけ。明の前の元王朝の時だって、王家の人間は処刑されても官僚たちはそのまま利用される。だって、極めて少人数のモンゴル人がどうやって人口の多い中国を治めるんだ。これが中国の歴史的な体質となってずっと残っている。いわゆる律令国家だ。朝鮮も同じ。ところが日本だけは、例外的に武士が政権を握りいわゆる封建制度となる。ヨーロッパもローマ帝国崩壊以降封建制に変わる。封建制は中央集権に対して非常に地方分権型。多数の国家が覇を競って競争する。封建制は中央集権に対して国の運営としては効率が悪そうだが、自由競争や思想の多様性が高い利点もあり結局、技術の分野では成功する。
中国は世界に先駆けて安定して平和な中央集権の確立に成功した。その結果は、当初技術面でも素晴らしい発展を見せる。紙、羅針盤、印刷術、火薬、鉄砲(のようなもの)等、世界中の近代以前の主要な発明は総て中国産と言っても過言ではあるまい。シルクロードで運ばれる絹も中国。スパッゲティだって元をたどれば中国の麺だろう。ところが、明代以降の中国は、海外から目を反らし、国内の技術の発展をむしろ禁止して、ひたすら政権の安定だけを目指すようになってしまう。日本も江戸幕府は民間の海外貿易を禁止したり、海外の情報を入れないようにして、300年の平和と安定を維持したが、政権の基礎が封建制であったため、諸藩から生じる討幕の動きを止めることができなかったわけだ。安定や平和、秩序を求める国民の要求にも一見合致した政策が、結果として世界の大勢に遅れ、国民にも多大な負担を強いることになってしまうわけだ。

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めげない北朝鮮

米トランプ政権の強硬な姿勢にもかかわらず、ますます戦術をエスカレートして行く北朝鮮。国際的制裁を声高に叫び続けるだけの阿部政権。果たして、落としどころはあるのでしょうか。そもそも、北朝鮮の歴史をたどってみれば、絶対に折れることが無いことは明白なはずですが。
朝鮮戦争が1953年に国連軍と中朝休戦協定が結ばれて以降、米国と朝鮮は未だに戦争が終わってない状態にある訳で、今まで北がもっとも望んでいたのは停戦協定と平和条約だったはずなのです。北朝鮮は、日本の敗戦とドサクサに紛れて金日成がソ連後と中国の力を借りて軍事力で簒奪した国家で、別に多くの国民の支持を集めて造られた国家ではありません。その意味では中国も一緒で、日本軍と戦っていた中華民国の軍隊を背中から鉄砲を打って倒したような政権。中国が米国を打倒した言うことで党内で一躍力をつけたのが毛沢東。結局朝鮮戦争で一番得をしたのは毛沢東と金日成です。
これに対して、米国の対応がまた不可思議。マッカーサー等のさらなる進行をトルーマン大統領は拒否し、今の38度線で休戦協定。これはソ連との約束とのこともあるようですが、その後中華民国への支援の梯子を外し(ルーズベルトの時代までは良かった)、中華民国は台湾へ追いやられることになります。同時に英国のチャーチルの「鉄のカーテン」演説を受けて、反共活動を開始します。
金日成
まあ、トルーマン大統領にとっては、世界とは米国と欧州。その他の野蛮人の国はどうでも良かったのかもしれませんが。もう一つ理由を挙げれば、当時事実上の唯一の戦勝国の米国は、強力に育った軍事力を戦後どのように処理して行けば良いか分からなかったと言う問題があったようです。熱い戦争は困るけど、冷たい戦争、お互いに睨み合って軍事拡張を続ける。時々小さな小競り合いがある(代理戦争)状態が大変好ましかったということもあるでしょう。軍隊と言う組織は超巨大な官僚組織、組織を縮小、予算を減らすなどしたら大変です。更に大戦後の米国軍は諜報能力も絶大で、あることないことでっち上げ政府を操ること等、お手の物。この軍と防衛産業、諜報機関、西欧諸国の同様な機関が協力して冷戦構造を作りあげられました。
金日成
この間、北朝鮮は常に米国から見て悪役、北朝鮮から見たら米国が悪役の体制が続けられてきました。北朝鮮の意志とは全く関係なく米国の都合です。もし、今米国が北朝鮮と和解して交流を開始したらどうなるのでしょう。韓国にいる米軍は必要なくなります。日本の沖縄基地も不要になってしまいます。トランプはそれでも良いと思っているのしょう。でも、米国の主流派は決してこのような状態は許せません。日本政府も韓国政府も対米依存ですから、米国が出て行ってしまうことには大反対でしょう。北朝鮮とはいつまでも敵対していて欲しいのが本音です。北朝鮮も反米を国是として国をまとめてきたことから、停戦協定を行うと、国家の存続理由が無くなって崩壊してしまう懸念もあるのでしょう。結局当事者達は今の状態が継続することを望んでいる訳です。一番困るのは北朝鮮の一般の民衆でしょう。
金日成
北朝鮮の国家体制は、戦前戦中の日本と瓜二つです。全体主義国家。天皇の代わりに金王朝があります。お国のために死ぬことを教育された人々、原爆でも落ちるまでは戦う覚悟が出来ているでしょう。トランプは多分自分から攻撃をかけることは無いでしょう。しかし、北朝鮮封じ込め戦略を取り続けた軍部には、北朝鮮が米国に届くミサイルを開発したことは大変なショックを受けているはずです。過去の日本と同じように玉砕戦を挑む可能性が現実味を帯びて来るからです。経済封鎖に当たって、中国とロシアが原油の供給をストップすることに躊躇したのは日本が真珠湾を攻めた前例があるからです。
停戦の最後の切り札は、北朝鮮が核開発を止めることでしょう。しかし、米国は今持っているものも破棄するように要求するでしょう。これは絶対にありえないストーリーです。イラクのフセインが大量破壊兵器を破棄してもまだあるはずだと因縁をつけられ最後に潰されましたね。リビアのカダフィも同じか。北朝鮮は、イラクやリビアのの二の舞にはならないでしょう。結局、現状を認め核兵器開発を止めることで手を打つところが落としどころでしょう。だから、米国世論が和平に傾くのを待っているのがトランプの真の狙いでしょう。和平が成立すれば、米国は韓国、日本から膨大な軍事力を引き上げることが出来、膨大な経費が削減できます。ただ、和平が成立すると韓国、日本も大幅な政策変更が避けられなくなるでしょう。北朝鮮が先に手を出せば話は簡単。戦争で片が付くでしょう。だから北もうかつに手を出さない。最後は米国の方が何らかの妥協案を出すかも。とすると現在駐留している韓国や沖縄の軍を引き上げることもトランプの視野にあるかも知れませ。

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忘れられた巨人The Buried Giant

アーサー王 2017年のノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロ氏の小説です。この舞台設定がとてもユニーク。舞台はイギリス、主人公の老夫婦は、ブリトン人。4世紀から5世紀頃大陸からサクソン人が大挙して侵入してくる。日本で言えば、縄文社会に大陸から弥生人が大挙してやってくるような状況か。でも、日本では大和政権が確立されていく頃。ローマ帝国ではキリスト教が国教となり(392)、ブリトン人はキリスト教徒という設定です。
ブリトン人は、ストーンヘンジ等の新石器文明を残した人々の末裔か、あるいはその後に来た人々か。また、サクソン人は、ドイツのザクセンと同語源でゲルマン系でしょうが、今ではアングロ・サクソンとして英国人の主流となっていいます。
小説の設定では、ブリトン人は山の斜面の横穴式の住まいを好み、サクソン人は環濠集落を築いており、言語も異なり文化も異なるものの平和な時代にはお互い多少の交流もあったという設定です。
アーサー王 ここで、出て来る巨人とは、「アーサー王」という伝説上の人物でしょう。マーリーンという魔法使いの参謀がいたり、ドラゴンやその他の怪獣を操ったり、また選ばれた騎士達の力で国土を一旦は統一したという設定だ。アーサー王はブリトン人ということで、実は戦いにおいて大量の虐殺も行い、そのため一部のサクソン人達は復讐心を燃やしブリトン人を殲滅しようと密かに計画している。一方、ブリトン人の中にはアーサー王の継承者を自認する人たちも存在している。一方、ドラゴンの息から吐き出される気が人々の過去の記憶を消し去るという魔術を持っている。主人公の老夫婦も過去の記憶が消されており、最初は二人とも認知症でもかかっているようだが、読み進めていくうちにドラゴンの霧というのが実際に作用していることが分かる。
主人公の老夫婦は、過去の記憶を求めて旅に出る。そこで色々な人物に会う。最後に竜は退治され人々は過去の記憶を取り戻すが、本当にそれは幸せなことなのか。
ブリトン人とサクソン人の遭遇、これは今の世界にも当てはまる重要なテーマです。EUにはイスラム教徒が難民として大挙して押し寄せてくる。日本だって将来、他人ごとではないかも知れません。多分ドラゴンがまき散らす息と言うのは、自然災害等による環境の劣化を指しているのだろう。洪水や旱魃など人の力では対処できない事柄はドラゴンなどと魔物のせいにしていたのでしょう。

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戦後の米国覇権とその政策

1.戦後処理
 太平洋戦争は、一般に「真珠湾攻撃・マレー作戦・開戦の詔が出された1941年12月8日から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とされているが、英国はこの戦争でアジアでの覇権を失い、欧州では、戦勝国側も疲弊しきっており、米国の一人覇権が確定する。米国の当初の戦略は、戦勝国5か国の共同管理を想定しており、国連の英語名のUnited Nationsは、戦時中に使用していた単に連合国そのままである。
 米国の外交戦略は、もともとはモンロー主義(第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ モンローによって提唱された)に代表されるようにヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉が基本であった。 実際、米国は独立当初から、各州の自立を重んじる分権派と連邦政府の強化を目指したいエリート層との間で峻烈の戦いが続いて来ている。今年、大統領になったトランプのアメリカ第一主義や、共和党の茶会派等は、アメリカ庶民の本来の本音の草の根の意見を代表しているともいえるでしょう。
 米国中心の占領軍の、日本に対する政策は二度と戦争できないように極力力を削ぐものではあったが、一部国民の総意に基づく民主主義の理想を実現しようという意図もなかったとは言えない。農地解放、平和憲法等は自国では実現できない政策を実行に移したものともいえる。どちらかというと分権派的だ。それまで禁止されていた共産党の活動も合法化されるなど、戦後民主主義の時代を迎えるかと思われていた。また、イラク占領の際には、フセイン政権下の官僚機構をズタズタに破壊してしまったことが今の混迷の一因ともいわれているが、日本の場合、吉田茂主相の尽力もあり、官僚機構は米国の御用聞きとして無傷で残された。ただし、その代償として戦後の日本では、官僚主導の対米従属一辺倒の政策を変えられない状況となっている(これも米国の覇権戦略か)。
2.魔女狩りの時代
 ところが、その後米国では、戦略に大転換が行われる。発端は、当時英国の主相を退任した後のチャーチルが米国で講演した、いわゆる鉄のカーテン発言(1946年3月)だ。この時の米国の大統領は、トルーマン。米国では、マッカーシー旋風が吹き荒れ、日本でもマッカーサーの指令でレッドパージという政策が断行される。逆コースと言う時代である。公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とレッテルを貼られた人々裁判にもかけずに解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職したとされる。「赤狩り」とも呼ばれた。
3. 冷戦の始まりと朝鮮戦争
 どうも、トルーマンの一見弱腰と見られる戦略は、初めから意図したもので、トルーマンにとって、世界とは米国、ヨーロッパ、反共の拠点となりうる日本だけで、その他の地域は、とりあえず放置しておいてもいいと考えていたのではないかと思える。このようにしてチャーチル~ルーズベルト~トル-マンの冷戦構想が出来上がる。英国は今までの覇権を米国に移譲する。米国は英国をリーダとするヨーロッパに戦後復興を支援する。戦争中に増大した軍事力は、冷戦構造を持続することで維持する。そのためにはソ連邦には永続的な敵としてふるまってもらう。(2017.5.24)

チャーチル 鉄のカーテン…チャーチルの講演
 (前略)つい最近まで連合国側の勝利によって光輝いていた状況に影がさしてきた。ソヴィエト・ロシアとその国際共産主義組織が近い将来に何をなさんとしているのか、又、彼等の膨張主義的傾向や(他者にイデオロギーの)転向を強いる傾向に限界があるとすればそれは何なのか、誰にもわからない。再びドイツが侵略する事態に備えて、ロシア人がその西部国境の安全保障を確保する必要があることを我々は理解できる。
 (略)しかし、ヨーロッパの現況についての確かな事実を諸君にお伝えすることは私の義務なのである。言いたくはないが、この確かな事実を伝えることが私の義務と思うのである。バルト海のステテティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降された。このカーテンの裏側には、中欧・東欧の古くからの国々の首都がある。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブタペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な全ての郡市とその周辺の住民は、ソヴィエト圏内にあり、何らかの形で、ソヴィエトの影響下にあるばかりか、ますます強化されつつあるモスクワからの厳しい統制を受けている。(略)
 この『鉄のカーテン』を越えて西ヨーロッパまで手をのばしてきた各地の共産党第五列は、文明に対する挑戦である。ソ連が戦争を欲しているとは思わないが、彼らの求めているのは戦争の報酬であり、彼らの権力と主義のかぎりなき拡張である。だから手遅れにならぬうちに、すペての国にできるだけ早く自由と民主主義を確立しなくてはならない。ぞのために民主諸国とりわけアソグロ・サクソソの人々はしっかりと団結する必要がある。(略)
 さもなければ、ふたたぴ暗黒時代に逆もどりするかもしれない。私はあえていうが、用心してもらいたい。われわれに残された時間は少ないかもしれぬ。もう手遅れだということになるまで事態を放任しておくようなやりかただけは、おたがいにしないでおこうではないか。
スターリンの「鉄のカーテン」演説批判(抜粋) 『プラウダ』(1946.3.13)
 チャーチルの演説は、連合国間に不和の種をまき、協力をいっそう困難にすることをめざした危険な行動であると考える。それは平和と世界の安全をあやうくするものである。じっさい、チャーチルは、いまや戦争屋の立場に身をおいている。しかし彼はそこに一人でいるわけではない。イギリスだけでなく、おなじくアメリカにも彼の友人がいる。この点でチャーチルとその友人たちは、ふしぎなほどヒトラーと彼の一味を思わせるではないか。
「鉄のカーテン」演説
CIA NSC チャーチル~トルーマン 冷戦 鉄のカーテン
鉄のカーテンが降ろされた。チャーチルは、8月8日には、驚くほど楽観的だった。広島に Little Boy が落とされた後、長崎にFat Manが落とされる前の、8月8日だ。
チャーチルはトルーマンに機密電報を送り、「広島への攻撃は、この新しい力が正義の力となるか邪悪の力となるか、の可能性を持っていることを証明した。あなたと私は、この大戦争を統括する政府の元首として、世界の平和を促進するために、この偉大な力を我々の国益達成のためではなく、人間性を守る道具として利用する意思を表明した共同宣言を発表すべきだ」と述べた。
それから7カ月後、1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で、スターリンの冷酷な政府を厳しく攻撃した「鉄のカーテン」の演説をし、「国際連合は武装し、キリスト教文明を共産主義の脅威から護らねばならない」と言った。
トルーマン大統領も聴講していた。

ソ連封じ込め
トルーマンは、国連加盟国に原子力エネルギーの情報を提供すべきではないかというスティムソン陸軍長官の提案について、閣僚全員に意見を差し出すよう求めた。
「独占を」という意見もあれば、「完全公開」という意見まで様々だったが、ソ連の侵略的政策との絡みで、トルーマンがアメリカの原爆独占を続ける決定を出すのは当然であった。
1947(昭和22)年9月26日、新設された国家安全保障会議(National Security Council, NSC)は、ホワイト・ハウスでの最初の会合を開いた。そこで、CIAの最初の正式報告が提出され、アメリカの外交政策が明確にされた。「ソ連封じ込めという観点から、地域の重要順位は、⑴西ヨーロッパ、⑵中近東、 ⑶極東となる。日本は、ソ連極東地域に対抗する力として早く発展する資質を持つ唯一の地域なので重要である」

世界の歴史の部屋

日の名残りThe Remains of the Day

日の名残り 「日の名残り(The Remains of the Day)」は、ノーベル文学賞を受賞した英国の作家カズオ・イシグロ氏の作品です。歴史的背景は、2つの世界大戦のはざまの、やや没落しつつある英国。主人公スティーブンスは、有力貴族ダーリントン卿の執事。ダーリントン卿を骨の髄まで真髄して忠誠を尽くそうとする。「執事道」を究めた成功者と自認している。ダーリントン卿のもとには世界中(といっても米国を含む欧米諸国だが)の卿の人徳をしたいお忍びで相談に来る。卿は、来る人拒まずで常に公平を理想としていた人徳者。国際会議や条約締結の下準備として、ダーリントン卿の屋敷を借り、丁々発止の議論が行われている。そのため、スティーブンスは執事の仕事を通して各国の主要な人々の世話をする機会があり、自分も世界を動かす役割の一部として貢献していることに自負心を持っている。
しかし、当時の外交は、実際のこのようにして動かされていた一面もあったようです。ダーリントン卿自身もこのような場を提供することが平和と国際正義実現のためと思い精力的にホスト役を引き受けていたようだ。客の一人に「普通選挙だ民主主義だといってみても、婦人会の人々が戦争遂行なんてできるわけがない。」と言わせている。各国のエリート達が腹を割って話し合いをする場が必要なわけだ。しかし、戦争に対する危機感とそれに伴って台頭してくる国家主義によって、話し合いで解決しようという土壌は次第に失われていく。結局、第二次世界大戦後にはダーリントン、対独協力者として失脚し、屋敷は米国の金持ちファラディー氏のものになり、スティーブンスは、屋敷の管理人(肩書は今まで通り執事だが)として再雇用されることに。スティーブンスは、主人からもらった休暇を使って、元屋敷で働いていた女中頭を再雇用する目的で旅をする。旅の途中で色々な経験をする。なんせ主人公は人生ほとんどの期間、屋敷の中から外へ出たことがなかったのだ。また、実はその女中頭が、自分にたいして恋心があったこと(執事の仕事に夢中で気がつかなった)を初めて知る。現在は彼女は結婚していて孫が複数いることを知らされる。さすがに今までの自分の価値観に疑問を持つようになり、新しい人生を始めることを決意する。
「執事道」、結構日本の武士道と一脈通じるところがあるのでは。武士だって、主君のために命を捨てる覚悟を持てるのは、その主君を真から尊敬してないとできないこと。また、現在の外交の場でも、表向きニュースで扱われる動きの裏では、プライベートな話し合いの場が重要であるという事実は変わっていないのではなかろうか。いろいろと考えさせられる課題の多い良い作品だと思います。訳者「土屋政雄」氏の訳も読みやすい。

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盛岡の偉人達

盛岡という所は、なかなか人材の豊富な土地である。以下、一例を挙げたが他に漏れている方々も多いかも。筆者の浅学のためである。しかし、時代を経ても色あせぬ業績の多くは今後も受け継がれていく価値のあるものが多いでしょう。筆者が盛岡の高校を卒業したため我田引水的な評価もあると思われる方も多いでしょうが、そこはご容赦下さい。

文学系


野村胡堂(1882年~1963年)

盛岡尋常中学校(現:盛岡第一高等学校)卒。『銭形平次捕物控』で有名です。空想科学小説『二万年前』等の著作も。私は読んだことありませんがネットオークションではかなり高値がついていました。

金田一京助(1882年~1971年)

石川啄木とは盛岡高等小学校(現下橋中学校)以来の友人であり,啄木の死まで親交が続いた。東京帝国大学時代,アイヌ語に興味を持つ。のちに北海道へ行き現地を調査,アイヌ民族に伝わる叙事詩ユーカラの存在に注目する。日本でアイヌの研究をするならこの人抜きには語れません。

石川啄木(1886年~1912年)

盛岡ゆかりの詩人。1895年(明治28年),幼きころより優秀だった啄木は岩手郡下に一つしかない高等小学校へ通うため,親元を離れて盛岡で暮らす。その後1902年(明治35年)に盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)を中退するまでの7年間を盛岡で過ごしている。『一握の砂』『悲しき玩具』早世の詩人の業績は偉大です。短歌の世界この人を越える存在はこれからもなかなか出てこないでしょう。

宮澤賢治(1896年~1933年)

909年(明治42年)4月,賢治は親元を離れて盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)に入学する。この間仏教や文学に親しみ, 1915年(大正4年)4月,盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に入学,成績優秀な賢治は関豊太郎教授に目をかけられ,地質や土壌についての教えを受けた。農学者だった訳。『注文の多い料理店』は今でも名作です。盛岡第一高等学校42年卒業生を始めとする記念碑の除幕式の様子をPDFファイルに添付します。新しいウィンドウで表示します。
宮沢賢治記念碑

政治系


原敬(1856年~1921年)

1906年(明治39年)1月,第1次西園寺内閣で内務大臣(のち逓信(ていしん)大臣を兼務)となるまで原は郵便報知新聞記者,天津領事,農商務省大臣秘書官,外務省通商局局長,大阪毎日新聞社社長など多くの職を務める。特に農商務省時代には“カミソリ陸奥”の異名を持つ陸奥宗光の知遇を得た。のち1918年(大正7年)9月29日に第19代内閣総理大臣となるまで,第2次西園寺内閣における内務大臣兼鉄道院総裁,第1次山本内閣における内務大臣を歴任した。原は平民宰相と呼ばれ,近代日本における政治家の中でもその評価は高い。これは明治初期より続いた薩摩(鹿児島),長州(山口)等の出身者における政治の独占,いわゆる藩閥政治に対して政党政治で対抗し,第3代政友会総裁として政党内閣を組閣したことが理由として大きい。しかし,1921年(大正10年)11月4日東京駅構内で,原の政治姿勢に反対する19歳の青年に刺殺される。原は京都に向かう途中だった。
新渡戸稲造(1862年~1933年)

札幌農学校在学中にキリスト教の洗礼を受け,卒業後にアメリカ,ドイツへ留学し農学,経済学などを学ぶ。国際連盟の設立時にはその深い学識と高潔な人格のため事務次長に推され,スイスに渡り連盟の発展に寄与しますが、日本が連盟脱退の際には、日本の立場を国際的の理解してもらうため奔走するが、日本側でも海外でも理解されなかったようです。日本人の道徳観を世界に示そうとした、英語で書かれた著書『武士道』は、世界的なベストセラー。日本の英語の教科書にも是非取り入れて欲しい教材です。旧5,000円札の肖像として人々に親しまれています。

米内光政(1880年~1948年)

盛岡尋常中学校を(現:盛岡第一高等学校)へて海軍兵学校へ進み,卒業後海軍少尉に任官,日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し,その地の実情を直に見聞した。日本と他国とを冷静に見比べる米内の姿勢は,このころに培われた。1937年(昭和12年),林内閣のもとで海軍大臣に就任し,海軍次官を務めた山本五十六(いそろく)とともに,陸軍の主張する三国同盟に反対し続けた。天皇の信頼も厚く,1940年(昭和15年)には岩手県出身者として3人目となる内閣総理大臣に就任している。しかし陸軍の反対にあい半年後に退任,米内(よない)が政治の表舞台から去るとともに日独伊三国同盟は締結され,日本は太平洋戦争へと突き進むこととなる。昭和天皇をして「あの時、米内がいてくれたなら。」と言わせる人物だったようだ。

実業界


鹿島精一(1875年~1947年)

1888年(明治21年),盛岡~一関間の鉄道敷設が開始され,工事を請け負った。この縁で鹿島組組長鹿島岩蔵の知遇を得た精一は県立岩手中学校(現:盛岡第一高等学校)卒業後に上京,岩蔵の援助を得て東京帝国大学土木工学科を卒業した。のち岩蔵の長女糸子と結婚,婿養子となって鹿島を名乗り,1912年(明治45年)の岩蔵逝去後は鹿島組3代目組長に就任した。精一は1930年(昭和5年)に同社を株式会社に改め,株式会社鹿島組初代社長となる。この間にそれまでの経営から堅実で近代的な方針に切り替え,拡張された事業を鉄道建設に一本化した。
“鉄道の鹿島”,この名は東海道線における熱海‐三島間の「丹那(たんな)トンネル」の難工事を行ったことによって与えられた。全長7.8キロメートルの当時日本一の長さに加え,鹿島組が請け負った西口(三島口)は地盤が脆弱な難工事区域で,これまでの工法は役に立たなかった。精一は陣頭に立ちエアーロック工法,セメント注入法などを新たに発案,17年の歳月をかけて1933年(昭和8年)にトンネルを貫通させた。この工事で開発された多くの工法や経験,技術が,“世界の鹿島”の基礎を作り上げたと言える。また,東京土木建築業組合長,日本土木建築請負業者連合会長,土木学会会長などを歴任,土木建築業界全体の発展にも貢献した。精一は自らが岩蔵のおかげで道が開かれたように,向学心を持ちながらも進学できない学生に対して援助を惜しまなかった。

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