Historyy

歴史の部屋

                         管理人の所在地;埼玉県志木市館志木ニュータウン内 ;      © 2017 Studio Rabotati All Right reserved

 
  

歴史の部屋

歴史の学習とは。歴史の好きな高齢者は多い。戦国時代の城めぐり。多くの謎に包まれた古代史の旅。歴史の研究はどんなテーマでもはまるととても面白く興味が尽きない。でももう少し視野を広げると全く異なった世界が広がる。例えば、宇宙の歴史138億年。ビックバンに始まり、未だ膨張を続けている宇宙とは一体何なのか。太陽系の歴史約46億年。これほとんど地球の歴約30億史と同程度。生命の誕生は、年前位か。でも、多細胞の動物が大爆発したのがカンブリア紀で、約5億年前。この時代の生き物はものすごく面白いですね。恐竜が絶滅したのが6500万年前。人類が祖先は数百年前で、ホモサピエンスが登場するのはせいぜい3万年前ぐらいで、縄文時代は1万年前ぐらいか。このあたりから世界中で農耕が開始される。コンピュータの歴史は、精々数十年。だが、もう数十年で人間のほとんどあらゆる能力を凌駕することと言われている。ここでは、このような超マクロな視点で、歴史を楽しみたいと思ってますが、たまには重箱の隅みたいなミクロな話題もいいかもしれませんね。

裸坊達の部屋

人類の歴史の部屋

目次
パンゲア大陸の分裂の仕方が人類の歴史を決めた 神になった人類 芸術の起源 遊牧の起源
青銅器の時代

裸坊達の部屋

パンゲア大陸の分裂の仕方が人類の歴史を決めた

アフリカを出発したホモサピエンスの子孫たちは、大型哺乳類を狩ることでみるみるうちに世界中に広まり、アフリカ、ユーラシア(アジア+ヨーロッパ)、南北アメリカ、オーストリアの各大陸に広まり、大型哺乳類を狩りつくした後は、定住して各々独自の文化を形成していく。この内、ユーラシアの文化だけが生き残り、他の文化はほとんど絶滅していってしまったのは何故か。世界を席巻したのは、最も早くから人類が活躍始めたアフリカでもなく、インカやマヤ帝国でもなく、どちらかというと後発のヨーロッパ諸国であったのは何故か。別に、彼らが遺伝的に優れていて適者生存で残ったわけではない。
 その、最大の原因は、地理的要因にあるようだ。農業や牧畜を発展させるためには、それを支える植物や動物が存在している必要がある。さらに、世界の各地で生まれた文明は、各々独自の展開をしてきているが、その相互の交流も非常に重要だった。
パンゲア大陸  このような観点から、ユーラシア大陸は他の大陸に比べて圧倒的に有利であった。人間が家畜化する動物、馬、牛、羊、豚、鶏、犬、これらがすべてそろっているのはユーラシア大陸だけ、インカやマヤの人々は、スペイン人が来るまで馬を知らなかった。小麦や米は、原始的なものでも食用になり品種改良も比較的容易に進められたが、南北アメリカで栽培されていたトウモロコシは相当長い期間をかけて品種改良がおこなわれたようだ。適切な作物も家畜も存在しなかったオーストラリアでは、現在に至るまで狩猟採集生活の段階にとどまっている。
 また、ユーラシア大陸は、他の大陸に比べて東西方向に長く伸びていることが利点でもある。つまり、人間の生活に適した地域が同じ緯度で東西方向につながっていて、異なった文明の人々が互いに交流してきたことだ。中国で発明された火薬はヨーロッパに伝わり、鉄砲になったのも一例だ。  それに比べて、アフリカや南北アメリカ大陸は南北に長く、途中にジャングルや砂漠といった障害があるため、人々の交流は行われず、インカとマヤの文明は全く独自に発達している。このような地理的条件がその後の技術的な発展を決定づけたようだ。
 このような大陸の分布が決定づけられたのは、地球の歴史で中生代の初めに一つの大陸であったパンゲア大陸が、その後分裂を重ねて今の配置となったためである。人類の歴史も地球の環境に大きな影響を受けているという一例だ。

人類の歴史の部屋

神になった人類

恐竜が滅んでから新生代、数百年前に人類の先祖たちが次々と現れてきます。その後地球は何度も氷河期に見舞われたようです。最終氷期はおよそ7万年くらいに始まり、1万年くらい前には終了したとされています。人類の先祖たちはゴリラ、チンパンジーを含めて20種類以上もいたと見られてますが、多くの仲間たちは氷河期を生き延びることができずに絶滅してしまったようです。でも、ホモサピエンスたちはこの時期ベーリング海峡(この時期は海面が低下して繋がっていた)を越えて世界中に拡散して行くのです。
寒冷化が進むにつれ、森林が減少し、多くのご先祖たちは森林から草地に追い出されていきます。でも、そこは肉食の猛獣の待ち構えている恐ろしい世界。そのため火や道具や言葉がどれだけ役に立ったか。でも、人類だって身を守るだけでなく、小動物を狩ったり肉食と取り入れ食料を確保する必要があります。
草食動物だって負けてはいません。巨大化の道を選んで進化します。草原で主体のイネ科の植物はたいていは消化が悪く、体内に微生物を飼って利用しているのです。だから食料の摂取効率が良く大きな体は理にかなっています。また、食料を求めての長距離の移動にも大きな体は役立ちます。
困るの人類だけでなく、肉食猛獣だって同じでしょう。獰猛な剣歯虎だって、マンモスや毛サイには太刀打ちできないでしょう。ところが、人類はそこに新しいニッチを求めたんですね。言葉を使って集団で協力し、火を使って脅して狭い所に追い込んで仕留める。大型動物を追って世界中移動しまくり。化石に残る大型の哺乳類、大部分の種は絶滅して、今では限られた(ゾウ、サイ、キリン等)種がアフリカの一部や本当に限られた場所にしか見られなくなりましたね。結局人類が滅ぼしてしまったのが真相らしいですね。もちろん地球が再度温暖化して環境が変わってことも影響しているでしょうが、環境だけならそれなりの生き残りも可能でしょうから。
結局、氷河時代を生き延びたのは、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人とその兄弟達。最後は、ホモ・サピエンスだけになってしまいます。でも、最近の研究では現生人類の遺伝子の中には3%程度入り込んでいるとか。ネアンデルタール人は、現生人類よりも体が大きく、脳の容量も大きいようですが、喉仏の位置が現生人類よりもやや下の方にあるため、言語を発声する能力が多少劣っていたのかも知れないと推測する学者もいます。
 マンモスや毛サイを倒した人々は、高揚感を持ってこう考えたに違いありません。「人類こそ自然界の覇者だ。」。これらの勇者たちの活躍は、そのやり方のノーハウとともに末永く、尾ひれがついて美化されて子孫達に伝えられていったことでしょう。英雄神話の誕生です。

人類の歴史の部屋

芸術の起源

ダイヤモンド博士がEテレで行っていた公開講義の中から。ダイヤモンド博士は芸術の起源をホモサピエンス以前から遺伝子に組込まれていた性質に求めます。人は何を見て美しいと感じるのでしょう。野に咲く花。色とりどりの蝶々や鳥。花は虫や小鳥、その他の動物達を寄せ集めるために美しい花を咲かせます。鳥は、どうでしょう。オスの美しい羽根は,メスを引きつけるため。自分は優秀な遺伝子を持っているというメッセージを発しているのです。クジャクのオスも生存のためならばあの大きな美しい羽根のメッセージは島ですが、それがメスに対する大切なメーセージなのでしょう。
アマミホシゾラフグは2012年に発見されました。直径2mほどの円形の幾何学的な模様が海底に存在することは1995年頃から知られていたものの、誰が何のために作っているのかは長らく謎のままだったのです。(『ダーウィンが来た! ?生きもの新伝説?』では、ミステリーサークルと呼んでいた)。後に、この海底の模様は本種(アマミホシゾラフグ)のオスが作った巣(産卵床)であったことが判明しました。このような素晴らしい産卵巣をつくるオスの能力は、優秀な遺伝子を持っていることの重要なアピールなのです。
アマミホシゾラフグ アマミホシゾラフグアマミホシゾラフグ
オーストラリアに住むアオアズマヤドリは、ブルーの美しいあずまやを作ることで有名です。枯れ枝を集めて見事な小屋を作った後、近くの民家などから青い色のものを手当たり次第に集めて巣を飾ります。まるで芸術家のようです。
アオアズマヤドリ アオアズマヤドリアオアズマヤドリ
鳥は美しい声でさえずります。これって音楽に起源なんでしょうか。鳥は本能で鳴くので自らの意志で学習したのでないからこれはアートではない。でも、鶯(うぐいす)なんかも最初は鳴くのが下手でも周りの鳥たちの鳴き方を学んでだんだんうまくなるとも言われてます。オウムや九官鳥は人間の言葉をまねします。鳥類や哺乳類のように脳の発達した生き物では、その行動が本能なのか学習なのかの線引きは非常に微妙です。
それでは、アートとは何なのか。人がアートに熱中する目的は何なのか。博士はそのカギを古代人類の残した石器に見出します。二つの石器があります。一つは無造作に石を打ち砕いて作ったもので、鋭利な刃と取っ手の部分があり、今でもすぐ実用に使えそうです。もう一つは、きれいに左右対称に造られており両側の刃の部分が薄く加工されており、実用的ではなくあくまでも見せるために作られています。両側に刃があったら危なくて持つこともできません。つまり、この石器の作者は、「私は、こんなに器用でこんなに美し良いものを作ることができる優秀な遺伝子を持っているんだ。」ということを他者に伝えるメッセージの役割を果たしているのだということです。
ラスコーの壁画(フランス)は先史時代(旧石器)の壁画。現代美術にも通じる写実性。これも作者は自己の絵を描く能力を仲間たちに伝えるメッセージだろう。当時の人々にとって狩猟は重要な生活手段だ。若し作者がけがをしたなどで狩猟への参加が出来なくなった場合、このような手段で集団の中に居場所を確保したのであろう。アートと言えども生き残りのための壮絶な戦いだった可能性もある。 ラスコーの壁画ラスコーの壁画
ヨーロッバ近世に花開く、美術、音楽等も王侯、貴族たちスポンサーの権力を誇示するメッセージという面があったことも見逃せない。

人類の歴史の部屋

遊牧の起源

農業の開始については色々と研究がありますが、牧畜と遊牧の起源についてはあまり研究がおこなわれていないようです。中国の漢の歴史資料やギリシャの歴史家ヘロドトスの資料には、既に遊牧民匈奴の猛威について書かれていたので、遊牧民が巨大な勢力として認識されていたようです。歴史書というものは大部分が農耕民の立場から書かれているので遊牧民の存在は過小評価されがちですが、人類の歴史において遊牧民の存在はとてつもなく重要です。
フン族
中国の歴史では、中国の王朝の交代にはたいてい遊牧民の存在がかかわっています。漢―匈奴に始まり、元帝国や最後の清朝も遊牧民的ですね。だいたい保守的な農耕民と比べ、開放的で国際派、商業や鉱工業に力を入れます。いわば中国社会の活力として大きな力となって来たようです。ヨーロッパの民族大移動にも遊牧民フン族(匈奴との関係は?)の移動が原因、元帝国は一時的に旧世界の統一(全部ではないが)を成し遂げます。マルコポーロが中国に来たりしたのもこの時代。ほか、インドや中東でも歴史上、遊牧民が大活躍しています。ロシアの版図拡大に寄与したコサック騎兵も遊牧民。
 さて、遊牧の起源ですが、今までの西欧での主流の考えは、遊牧の農耕社会起源説(1)で、西アジア南部のオアシス地帯で定住を始めた狩猟民が農耕技術を身に付け、食料源であるオアシス周辺の狩猟動物を捕獲して食料としていたが、その内若干の飼育を始めるようになった。オアシスの人口が少しずつ増加し始めると動物に対する需要が大きくなり、乳製品を確保する為に牧畜技術の発明を行った。さらに人口が増え、狭いオアシス内ではまかなえなくなると、周辺の牧草を求めてオアシスから草原に進出する人々が出てくる。動物との生活を専門にした遊牧民の登場である。彼らは搾乳、去勢、騎馬の技術を身に付け独自の遊牧社会を構成する。→どうも西欧人はメソポタミア起源説が好きですね。
もう一つの説は、遊牧の狩猟社会起源説(2)で、遊牧民を狩猟民の間から発生したものと考える。この説によるとアジアの森林地帯で狩猟生活を送っていた人びとが、やがてその森林周辺で草原に野生する動物、なかでも群を成す本能をもった有蹄類の動物に目をつけ、はじめはこれらの動物の後に従っていく形で彼らとの関係を持ち始めた。しかし、やがてこれらの人々は搾乳、去勢、騎馬の技術を獲得し、動物の群をほぼ完全に自らの支配下に置くことに成功した。 あるいは、(1)と(2)の折衷案。動物の中でも馬の飼育は狩猟民によって、羊、山羊は中央アジアの半農半牧民によって始められた。そしてこの両者が婚姻や交易で結合することによって両方の技術が融合し遊牧民が成立したという説。
マサイ族マサイ族 トナカイの群れトナカイの群れ ベドウィンベドウィン サーミ―サーミ―(トナカイ遊牧民)
でも、旧石器時代の人類の生き方を見ると、遊牧の起源はもっと古そうだ。大型動物を追って生活するうちにこれらの動物達をうまくコントロール技術を身に着ける。犬を使ったり、火を使ったりして行動を制限したり、適当に生かしておいて必要な時だけ狩るとか。あるいは、生きたまま囲いに入れて飼う。こちらは牧畜の起源か。
 遊牧民は、基本的に農耕民と比べて独立精神が強く、プライドが高い。彼らの神様(マンモスハンターだったご先祖)の教えを守って、定住生活を拒否しているからだ。ジンギス・カーンは帝王になってからも生活はテントのままだったらしい。
いまでも、世界には遊牧生活送っている人たちは大勢いる。モンゴルやカザフスタン、ウズベキスタン、中東でラクダを飼育するベドウィンもそうか。アフリカのマサイ族は牛、北方でトナカイを追って暮らしている人もいる。これらの人達にとって現在の世界は暮らしにくい。国と国の境の国境なんて言うのも邪魔だ。そもそも国に何かを頼る訳ではないのでろくに税金も払っていない。どの国の政府も「君たち定住しなさい。」と言う。「何言っているんだ。歴史的には俺たちの方がずっと以前からこういう暮らしをしているんだ。新参者にとやかく言われる筋合いはない。」
 遊牧生活と言う生き方、なかなか面白く味がある。今後の人類の将来を考える上で色々なノーハウが詰まっているかもね。都市生活者の中にも「都市ノーマッド」等と自称して定住を拒否する人たちもいるとか。それって、ホームレスのこと??(nomadとは遊牧民のこと)。

人類の歴史の部屋

青銅器の時代

人類が石器から進歩して、最初に使うようになるのが、青銅器。青銅は銅と錫の合金を指すのですが、何故最初から合金を利用して、銅そのものを使わなかったか。それは、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので自然に青銅が得られたようだ。銅と錫を分けるにはより高度な精錬技術が必要だから、当然の結果だ。最初の青銅器は、紀元前3000年頃、初期のメソポタミア文明であるシュメール文明で発明されたらしい。イラン高原は、銅と錫、燃料の木材が豊富であった。そのころの中東は、森林があって、今みたいな一面の砂漠ではなかったらしい。今の中東が砂漠地域になっているのは、農業と金属生産(主に鉄)に伴う自然破壊と文明の崩壊の結果だ。
「青銅」は、本来は、錫を含む銅合金の意味だが、、錫の含有の有無にかかわらず銅合金一般の代名詞(アルミニウム青銅・マンガン青銅・シルジン青銅等)としても用いられる。また、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので、産地によって錫などの配合比が決まっており、また錫と同時に添加されることの多い鉛の同位体の比率が産出鉱山ごとに異なるので、分析によりその原産地を推定できるらしい。
青銅といえば緑色と思われがちだが、本来の青銅は黄金色や白銀色の金属光沢を呈し、古代において金銀に準じる貴金属として利用されたようだ。銅鏡の反射面は使用時点では、白銀色に輝いていたようで、弥生時代の国産鏡では、錫の含有量を意図的に下げ、黄金色に鋳造し太陽を模しと考えられるものもある。
【青銅器時代】
青銅は、適度な展延性と、鋳造に適した融点の低さ、流動性のため、鉄が普及する以前は、もっとも広く利用されていた金属であった。その時代は、鉄が、銅よりも安価かつ大量に供給されるようになるまで続く。金属の融点と硬度はほぼ比例するので、青銅は鉄と比べて硬さや硬度でははるかに劣る。鉄と比べての利点は、加工性に優れて錆びにくいことがあげられる。鉄の生産のためには、より高温を得る技術が必要だっため、そのハードルを越えるまでは青銅が主役とならざるを得ない。
しかし、鉄は銅よりも採掘可能な量が多く、その結果、青銅より安価に製造できるようになり、金属が貴重品としての祭器から普段使う農具や兵器にも利用されるようになって、青銅は金属としての主役の座を降りることになる。 技術の歴史から見ると、人類がいかにして高い温度を作ることが出来るか。技術∽高温技術の関係が見られそうです。低温には絶対零度という限界があるけど、高温のほうは限界がないようで、現在の挑戦は、地上で核融合の利用を実現することかも。原発(これは核分裂)なんかでゴチャゴチャやってる場合ではない。

人類の歴史の部屋

日本の歴史の部屋

目次
  >
縄文時代 旧石器捏造事件 神武天皇 乙巳の変(いっしのへん)
藤原 不比等
桶狭間の戦い 信長の最強のライバル 本能寺の変の真相 関ケ原の戦い
柳川一件(やながわいっけん) 間宮海峡
横須賀造船所 オーランド諸島紛争と新渡戸稲造
米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人 【日系人の強制収容所】
平家・海軍・国際派日本の歴史と英国の歴史ビキニ事件

裸坊達の部屋

縄文時代

縄文時代は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代です。
旧石器時代と縄文時代の違い、つまり縄文時代の始まりは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられている。一方終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機としているが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までと多くの説があり、正確に定義できていない。なお、沖縄県や東北北部、北海道では縄文時代の生活様式がある程度継承されるためなおさら不鮮明。
だから、縄文から弥生への変化は非常に段階的で、はっきりした線引きは出来ないということらしい。縄文時代は、日本の歴史ではその後の日本の骨格が形造られる重要な時期で本当は面白いことがいっぱいあるのだと思われますが、なんせ書かれた記録が無いことから未だに不明な点が多く、今後の研究が待たれる分野と言えるでしょう。縄文時代に関するいくつかの疑問点を整理して見たい。
1.日本人のルーツについて
旧石器時代にも既に日本列島には人類が到着していたらしいことは分かっているようだ。野尻湖湖畔でナウマンゾウやオオツノシカのような大型動物達を狩っていた旧石器時代の人達。地球環境の温暖化に伴い、大型動物達が絶滅して行き食料としては、小型の哺乳類(ウサギ等)や鳥、魚、貝、木の実などへと食生活を変化させて定住化の道を進んでいく。
ナウマンゾウ
全国各地で見つかる貝塚は、この当時の人々が大量に貝を採集していた証拠であろう。温暖化で海水面は上がり(100m位上昇か)、埼玉県の南部地域にも貝塚が発見(例…水子貝塚)されています。この縄文人たちは、旧石器時代の人類の子孫なのでしょうか。あるいは、その後日本にやってきたのでしょうか。どのようなルートで日本に到達したのでしょうか。DNAの解析から、将来このようなことが分かる日が来るかもしれません。
2.縄文土器と文化
縄文土器はどうも世界最古の土器であるらしい。土器の利用は、当初は食料を調理するためのものであろうと思われる。つまり、水を煮立ててその中に食材を何でもブチ込んでいく鍋文化だ。これは、今でも日本の食生活の中心的存在だ。焼肉とパンを食する人たちなら皿があれば十分で、先の尖った円錐型の土器は煮炊きに用いられたのではないかと想像される。縄文土器の芸術性は世界にも誇りうるもの。火炎土器の装飾性は古代人の精神世界が高度な抽象性を確保していたことを伺わせる貴重なメッセージだ。
火焔型土器火焔型土器(かえんがたどき)
一方、日本にも環状列石や環状列柱(木)が存在している。イギリスやヨーロッパでも見られるストーンサークルです。天体観測の拠点だという説もありますが何か宗教的な意味があったことは間違いないでしょう。いずれにせよ人々の定住化によって、このような大規模なシンボル的な構造物の建築が可能になってきます。
大湯環状列石大湯環状列石(秋田県)
3.定住化の始まり
人類の定住化は、農耕の開始によってだとされていた。ところが青森県の三内丸山古墳の発掘で、この地に当時としては500人程度という大規模な集落の後が発見された。しかもこの集落相当長期にわたって(どの程度なのか調べて見たい)継続して存続していたらしい。
集落の周りには実のなる木を計画的の植林し、他にも多種多様な食料を食していたらしく、後世の弥生人よりもはるかにヘルシーな食生活を送っていたようだ。どうも4大文明の発祥の地よりも、周辺地域の方が生活文化は豊かというのが歴史の実態かも。それはそうだ、環境の変化(たいていは悪化)が生活スタイルの変化を促すのだから。地球全体が温暖な縄文時代は、青森県は今の九州ぐらいの気候だったのかもしれない。
大型動物を追って移動生活して世界中に拡散して行って人類が、気候の温暖化と大型動物の減少に合わせて定住化の道を進んで行く。このような動きが世界中で同時並行して進んでいたのだと思う。
4.稲作の始まり
水田耕作の始まりを持って弥生時代とするようですが、稲自体は既に縄文時代に始まっていたようです。また、最近の研究では水田耕作自体も従来考えられていたよりもかなり早い時期に始まっていた可能性も指摘されています。水田を使わない陸稲や、水の中にタネを撒くだけの方法なら、多大な労力を必要としません。ところが、今の水田耕作を見れば分かるように稲作には多大な労力がかかります。つまり、縄文の人達が進んで稲作を取り入れたということは、従来の食糧が不足してきたことが考えられます。温暖化していた縄文時代が寒冷化して来たものと想定されます。このことは過去の気温の変化を調べれば分かります。海岸線が後退して行ったことからだいたいは想定できるでしょうが。
ところで、稲のルーツは未だ良く分かっていません。中国から、朝鮮半島を経由して日本にやってきたとするのが従来の学説ですが、DNAの研究からどうもそうではないらしいと思われているようです。それと中国も朝鮮半島も北の方は稲作には不適です。北京周辺は小麦、米は江南地域です。つまり、南方ルートの可能性もありですね。黄河文明に滅ぼされた長江文明(発掘に既に存在は確認されており、その河姆渡遺跡は稲作文明)の先住民たちが日本に亡命してきて稲作を持ち込んだなんていう話もあるようです。あくまでも仮説段階ですが。
5.日本語の起源
縄文人がどこからやって来たか。移動に伴う言葉の連続性の問題が挙げられる。人は移動しても、言語の基本的構造は変わらないと考えられるからだ。例えば中国語は、1単語1音節、表意文字を用いるため文法は非常に簡素で合理的。良く似ていると言われるのは韓国語。似ているのは膠着語と言われる文法で、個々の単語はかなり異なり同一のルートと見るのは難しそう。一時、古代日本語は韓国語と共通で互いに意思疎通できたとする論文が出たことがあるようですが、結局根拠不十分。単語の類似性だけならroadと道路など英語だって日本語に似ていると主張することも可能である。言語の発展と言うのは文字の無い時代のことなので記録が残っておらず大変難しいと思う。途中で歴史から消えてしまった言葉なども沢山あるのではないかと思われる。

日本の歴史の部屋

旧石器捏造事件

旧石器捏造事件は、日本各地で「~原人」ブームを巻き起こした日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、発掘調査に携わっていた考古学研究家の藤村新一氏自らが事前に埋設した石器を自ら掘り出して発見したとする捏造だったと発覚した事件。藤村氏は1970年代半ばから各地で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日の毎日新聞朝刊にスクープされ、不正が発覚した。これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の醜聞となり、海外でも報じられた。おそらく世界の考古学史上最大級のスキャンダルとなるでしょう。
それでは、旧石器の年代は今まで、どのように推定していたのか。石器とは結局石の塊で、それ自身何も語らない。大抵はそれが掘り出された地層の年代から、例えば微花粉化石とか、他の動植物の化石とかから時代を推定するしか方法がない。それに石器と言えども偶然にそのような形をしていないとも限らず、人工による加工を実証することも難しそうだ。結局、藤村氏の悪質な捏造のため、日本の旧石器研究は根本から資料見直しを迫られることになってしまった。
日本に縄文時代より前から人が住みついていたことは、相沢忠洋氏の岩宿遺跡の発掘や、野尻湖の化石調査からほぼ確実と見られています。しかし、日本の自然環境から人骨化石はほとんど期待できない。そこで石器でも発見されれば大喜び。捏造はそこの心理をうまくついた訳だ。しかし、このような事件が無ければ旧石器考古学は捏造の積み重ねの上に理論を積み重ねさらに可笑しな方向に進む羽目になったわけだから、藤村氏の貢献は非常に貴重なものであったとも言えそうだ。実は考古学の一番大変な作業は、発掘した遺物の時代の確定のようだ。

日本の歴史の部屋

神武天皇

戦時中は、皇紀(こうき)という年号が使われていて、西暦1940年は、皇紀2600年ということで記念の年であった。皇紀元年は神武天皇が即位した年。ということは、神武天皇はキリスト誕生の660年も前に即位したことになります。紀元前7世紀。日本では、紀元前13世紀~紀元前4世紀ぐらいまでは縄文時代と言われている時代。 縄文時代は、約1万5,000年前~約2,300年前、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代で、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代とされる。土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚などが特徴。
神武天皇神武天皇
   神武天皇は、日本の初代天皇とされる神話・伝説上の人物。和風諡号(しごう;貴人の死後につけるおくり名)は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、諱(いみな)は「彦火火出見(ひこほほでみ)」だそうだ。
 神武天皇の功績は、九州の日向の地(今の宮崎県)の東征して、先住民を服従させ大和朝廷を成立させたということか。建国の父という位置づけだ。確かに、神武天皇は、神話・伝説上の人物だが、歴史の研究では、神話も伝説も何らかの意味は持っているはず。何故、神武天皇は東征で西征ではなかったのか。服従させられた先住民とはどんな人たちだったのか。吉野ケ里遺跡は当時の日本が、戦いに明け暮れた激動の時代であったことを示唆している。定住して安定した社会を築いていた縄文の人々の中に大陸方面から稲作技術を持った人々が押し寄せてくる。人口が増えて部族社会から首長社会、そして国家が誕生する。歴史が大きく転換する最も興味深い時代。文字が残されていないので、頼りになるのは遺跡の発掘と神話の意味するところの解明でしょう。(2018.5.6)
セロセンZero-fighter
【追記】戦争中の日本の有名な戦闘機「ゼロセン」は、紀元2600年(1940年=昭和15年)を記念してなずけられた。当時は零(れい)式戦闘機と称していた。そもそも0を零(れい)と読むのが本来の日本語。零をゼロと読むのは英語の影響だ。英語の「ゼロ・ファイター」が「ゼロセン」に変わったもの。

日本の歴史の部屋

乙巳の変(いっしのへん)

乙巳の変(いっしのへん)は、宮廷内のクーデター。西暦645年とされる。社会の教科書ではこの後、「大化の改新」という一連の改革が行われたことになっている。ところが近年の研究では、どうも改革というのが実態と異なっていることが明らかになって来ている。そもそもクーデターのやり方自体が非常に卑怯な方法で、日本人の美意識に全く合致しない。しかも、殺された蘇我入鹿が当代きっての秀才で気配りも抜群、当然次世代のリーダ的存在で、中大兄皇子等の嫉妬の対象だった可能性が高い。その後の改革というものも概ね蘇我氏の想定していた改革そのもので、内容的にはさほど見るべきものなし。それ以上に最悪なのは外交政策の大失敗である。
乙巳の変
白村江の戦い(663年)に百済を助け出兵し、唐・新羅の連合軍に大敗北を喫するのである。唐は隋を受け継いだ統一王国で、朝鮮半島にも勢力を拡大する。結局、唐に従った新羅を除き、高句麗及び百済は簡単に滅亡。国際情勢に関する知識があればどう考えても唐と戦う選択肢はあり得ない。どうも百済の残党の亡命勢力が中大兄皇子等を抱き込みクーデターとなった可能性がある。そもそも乙巳の変のもう一人の主役、中臣鎌足という人物の出自が怪しい。これほどの大改革なら、蘇我、物部、大伴、葛城等の大物が控えていてもよさそうなものだが。
当然、その前の時代から遣隋使を派遣し、日本の高官たちも中国の状況を把握していたはず。百済と組み唐と戦う選択肢はクーデターでも起こさない限りありえない。敗戦後は唐の報復(唐の側は大勝しているので報復の必要はないが)恐れて九州の防備に大わらわ。防人(さきもり)の配置など。国益を大いに損なった大失政だ。
その後、天皇となった天智天皇は、失政を覆い隠すために、強権発動をし、都を移したり、歴史の編纂(自己弁護)に勢力を傾けるも、死後、壬申の乱(672年)で弟の大海人皇子(後の天武天皇)に政権を奪取される。反乱者側が地方の豪族を抱き込み勝利した珍しい例となった。
このころ編纂された歴史書、「日本書紀」は蘇我氏を悪者にして歴史から抹殺する目的があるので、蘇我氏の業績を他のものに転嫁した可能性がある。その候補が聖徳太子ではないかとの説もある。蘇我氏は仏教を重んじ、和をもって貴しとする考え、つまり天皇独裁でなく、豪族たちによる合議制で国を動かそうとしていたので、聖徳太子の考えと合致して対立する要素は少ない。天皇独裁が必要なのはむしろ百済からの亡命勢力であろう。乙巳の変以降、天皇の独裁傾向が強まるのは、クーデターが一定の成果を上げたことになるであろう。百済の勢力も一定の軍事力を持っていたのかも。
その後、天武朝になってからも、中臣氏は藤原氏を名を変え、天皇家と縁戚関係を築き、独り勝ちとなる。その先駆けが藤原不比等。天皇家を自由に操ることで勢力を拡大し、その力は現在まで続いている。 この時代の史実は、記録も少なく資料としては、「日本書紀」、「古事記」、その他地方史をつづる「風土記」等限られている。しかし、歴史を書くのは常に勝者で、書かれていることは勝者に都合の良いことだということを常に肝に銘じておく必要がある。

日本の歴史の部屋

藤原 不比等

藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての官僚で、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男といわれている。鎌足は、乙巳の変(いっしのへん)で、中大兄皇子(天智天皇)を補佐した大立者であったが、後の壬申の乱で、藤原氏(中富氏)の一族は、排除され、元の姓である中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することに戻される。天智天皇系の近江朝の重臣は当然のこととして処罰の対象になったわけ。藤原不比等は当時13歳と幼かったことから、処罰の対象から免れたが、天武朝の官僚機構の下から出直すと苦労をしたといわれる。ところが、不比等は法律の知識が豊富で文才も豊か。『大宝律令』の編纂にも主導的な力を発揮して、トントン拍子の出世。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖とされている。古事記や日本書紀の編纂にも関与していたらしい。古事記は稗田阿礼という人の記憶を太安万侶が筆記したしたことになっているが、稗田阿礼という人物、不比等の代理人か本人自身ではないかとの推測もあるようだ。いずれにしても、藤原不比等という人物はただものではない。なんといっても、後に天皇家を利用して権勢をふるう藤原朝の元祖だ。天皇家との婚姻関係を通じて今の皇室は藤原家の筋が脈々と続いているのだ。京都の公家は三条だの白川だの、岩倉だの、袋小路(??)だの皆、藤原氏の末裔だね。今の宮内庁だって藤原氏の代理人かもね。ただ、不比等さんは信長や秀吉と比べて、戦いをしたわけでもないし大変地味な存在。ただ、日本の歴史においてはその存在は滅茶クチャ大きい存在なのだ。

日本の歴史の部屋

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い(1560年)は、今川義元が公家風になり軟弱で油断していため、信長に打たれたというのが通説であった。我々の学生時代はそのように理解されていたよう。しかし、義元自身は、東海一の弓取りと言われていたように、北の武田、東の北条をといまとめ、三国同盟を結び、織田の攻略に取り掛かる。策略家のやり手でもあったらしい。また、桶狭間の時には無くなっていたが、太原雪斎という僧で軍師も抱えていた。
一方、当時の織田は、父信秀の時代から庶流でありながら尾張の津島の湊を抑え、豊かな財源を背景に力を蓄え、今川とは何度も小競り合いを繰返していたらしい。守護大名の今川家の強みは、なんといっても足利将軍家との繋がりで、その権威をもとに無駄な戦いを避けつつ策略を元に領国を広げていった。織田領への侵入は、織田家の内紛に乗じたのでしょう。まず始めに、織田家の財力の基盤である津島の湊を占領し、約25,000の大軍を率いての進軍です。ただ、これは多分にデモンストレーションの意味合いが強く、簡単に講和できるものと踏んでいたと思われます。馬に乗らずに輿を担がせたのも将軍家との縁故の強さを見せびらかすため。一方の信長は領内の未だ固まらず、内部にも敵がいる状態で、財源となる湊まで占領されたとなると、普通の武将なら今川と組んだ方が有利と判断すると思ったのでしょう。

実際、この状況は信長にとっては大ピンチでしょうが、経済の感覚は抜群の信長、ここで妥協したら後がない(織田にとって津島の湊は最大の財源)と判断したのでしょう。また、偵察によって、今川の目的は戦うことでないことも見抜かれていたのか知れません。信長は、戦術においても当時の常識を上回っていました。信長は、いわば戦争のプロを養成していました。身分を問わず、というよりハングリーな貧しいものを積極的に金で兵隊に採用します。馬術に特に力を入れていたとの話もあり、最初から急戦策を考えていたのかも。農業の片手間に戦う兵士とは違い戦いに専念できます。大将の首だけを賞金目当てに戦います。また、命令には忠実で一糸乱れず行動することも可能です。桶狭間の戦いは良く奇襲作戦とみられますが、戦いは昼間の明るい時間に実行されます。こんな奇襲はあまり例がありません。また途中に大雨があったのも偶然。今川本隊だけなら兵力5, 000対2, 500。勝てると読んでいたのかも。今川の方は、諜報から信長は「うつけ」との織田家家臣達からの評判や、信長自身も孤立化していたので、諜報の結果を信じ定石通りの行動をしたことが逆に仇となったのかも。

日本の歴史の部屋

信長の最強のライバル

強運の人、信長の最強のライバルは誰であったのでしょうか。信玄や謙信が、とても強かったというのは、江戸時代になってから講談などで面白くするための誇張があるでしょう。当時の、経済力、軍事力(鉄砲)、兵站能力どれをとっても、戦国最強、信玄や謙信の戦い方は時代遅れです。信長の真のライバルは、1570年~80年の11年間もの間戦い続けた石山本願寺の勢力です。相手は所詮、僧侶と老若男女の民衆の集団であって戦いの専門集団・信長軍団の敵ではないはず。では、10年あまりの年月は何故。
歴史は、後になって造られるもの。しかし、当時の宗教が人々に与えた影響の大きさは、信長によって改革されたあとの宗教しか知らない後世の人には伝わっていなかった可能性もあり、あるいは意図的に無視した可能性もあります。
 鎌倉時代よりも前の仏教は、国家鎮護のための宗教。鎌倉時代以降の念仏仏教は、死を覚悟して戦う武士たちの心に直接訴えるもの。熱心に信仰すれば極楽浄土に行ける。いわば、人生観にまで影響する個人の宗教で、武士道の一環ともいえるものかも。ちょうど西欧で宗教改革以降のカルバン派のようなもの。上司の意向と宗教の教えが異なれば躊躇なく宗教を取る訳です。その代り、信じることのためなら命を賭して戦う集団となります。各戦国大名たちはみな、身内の中の宗教勢力の成長に苦労しています。一番多い対策は、大名自らが改宗してしまうことです。上杉謙信は毘沙門天、徳川家康は、「厭離穢土欣求浄土」。自ら信心深いことを世間にアピールします。
 信長も、このようなことを熟知していたのでうかつには手出しをしません。特に尾張・三河のような先進地帯は一向宗のような勢力が強く、身内にも大勢の信者たちを抱えていたはずです。
 だから、初めは比叡山を攻める。これはどちらと言えば旧勢力で腐った宗教の見本としたかったのでしょう。ところが石山本願寺の勢力は、そうはいかない。信長の野望を察知すると各地に伝令を出し、たちまち信長包囲網が完成する。石山の近くでは、根来衆や雑賀衆と言った鉄砲集団。海には村上水軍他の海賊集団、その後ろには毛利水軍、もちろん武田、上杉も要請にこたえて背後を伺っています。「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」を唱える一向宗信徒が捨て身だったとはいえ、信長軍は結局敗退の連続でした。また、僧侶と老若男女の民衆の集団であっても、築城や兵站等の後方支援を積極的のできるのも信者集団の強みです。しかも、石山本願寺自体が後背地が湿地で全面が海、難攻不落の最適な立地条件(だからのちの大阪城が築かれる)。最後は、石山城は陥落するのですが、このことで日本の宗教は大幅に変革されてしまします。
信長があれほどキリスト教に寛容だったのも、仏教勢力を駆逐するのが本当の目的でしょう。でも、キリスト教も同じ運命をたどります。最初は仏教が駆逐されたニッチを埋めていきます。キリシタン大名が生まれることは家臣たちにキリスト教が浸透していたことが最大の原因です。結局、秀吉、家康の代で禁止されてしまいますね。家康は仏教には非常に寛容な人で仏教を大いに保護しますが、軍事力だけは持てないように工夫しています。 ヨーロッパでは、宗教改革が起こりますが、日本では、すでに改革は実施済み。宗教が政治に口を出す心配はかなり少なくなっています。

日本の歴史の部屋

本能寺の変の真相

本能寺の変といえば1582年6月21日早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃される、当時日本に来ていたザビエル派の宣教師達すら大慌てする世界史上の大事件です。ところが、光秀が謀反に至る動機が上司信長に叱られた恨みという、今までの定説があまりにも不自然なため、朝廷陰謀説や宣教師陰謀説等いろいろな異説が唱えられて来ました。明智憲三郎は、明智光秀の子孫にあたる方ということで、沢山の資料を比較検討し、論理的な推論でストーリーをまとめ上げています。
本能寺の変 明智光秀の真の狙いは何だったのでしょうか。明智光秀という人物は、織田軍団の中で秀吉と並ぶナンバー1存在。おそらく秀吉より沈着冷静、信長の片腕として活躍していたのでその分当然信長の風当たりも強かったのは事実。また、美濃の土岐家の最高を願っていたこともあり、自己の自尊心を傷つけられただけで、一族を滅ぼしかねない謀反に走ることはないと思われます。信長は光秀を最も信頼していたので少数の戦力で本能寺に待機していたのでしょう。
 どうも、信長と光秀はすでに天下統一後の構想を共有していたようで、明国に出兵し、国内で有力な大名たちを一掃してしまう戦略を持っていたようです。まず、第一弾として家康を京都に招き入れ、それに乗じて光秀に家康を討たせる予定だったらしい。ライバルが一人減る。信長とて光秀がこのことに異論があるはずはないと考えたのでしょう。ところが光秀はすでに老境に入っていて、家康の次は自分の子孫が危ないと感じたらしい。
だから、家康を逃して本能寺の信長を逆に打つことになったらしい。豊臣政権では秀吉の徹底した情報戦略によって、悪逆非道で愚弄な人物として描かれてきたが、家康は光秀には恩義に感じていたらしく光秀に子孫たちを厚遇していたらしい。 
 ただ、戦前は中国進出を正当化したい軍部は、信長の構想を実施した秀吉を軍神扱いしたので、それに対応して光秀の評価はかなり貶められた可能性がある。
光秀が秀吉になぜ負けたのかは、今後の研究に待たねばならないようですが、細川藤孝(光秀が最も信頼していた)の裏切りが大きかったようです。
「本能寺の変」は変だ!435年後の再審請求 明智憲三郎

日本の歴史の部屋

関ケ原の戦い

司馬遼太郎の作品の中で、ドイツの有名な陸軍参謀が、関ヶ原の布陣図を見て当然「西軍の勝ち」だったのだろうと言ったとか。ドイツの参謀はモトルケとかその弟子のメッケルとか。
司馬遼太郎氏の創作なのかそのような事実があったかは分からないが、当時の戦国武将の判断でも「西軍の勝ち」という布陣だったことは間違いないように見える。
関ケ原の戦い
結局、東軍の勝利を決定づけたのは小早川秀秋の裏切りという一点になってしまうのでしょうか。小早川秀秋は、その一点でのみ歴史に名を残していると言っても過言でないわけです。
しかし秀秋がどのような来歴の人物であったのかはあまり知られていません。彼は、父は木下家定といい、秀吉の妻・ねねの兄とされている。本能寺の変が発生した1582年に生まれ。
3才の時に実子のいない秀吉の養子として引き取られ、ねねの元で成長する。幼少の頃から秀吉に厚遇を受けており、後継者候補のひとりとして扱われていたようだ。つまり、人が羨むような、幸運な立場にあったのでしょう。
秀秋の他には、豊臣秀次というもう一人の養子がいました。秀秋よりも14年ほど年長で、こちらは候補ではなく実際の後継者となり、秀吉から関白という、朝廷における最も高い地位を引き継いでいる(のちに殺されるが)。豊臣家は一族の人材が不足していたわけでもあり、それが秀秋に対する厚遇につながっていったものと見られます。
しかし、1593年に、秀吉に実子・秀頼が生まれたことにより、2人(秀次、秀秋)の養子の運命は反転する。
秀頼が生まれたことにより、秀吉はこの子に自分の跡を継がせたいと願うようなり、秀次と秀秋という2人の年長の養子は邪魔になる。秀頼が生まれた翌年に、当主に実子のいない中国地方の大大名・毛利家に対し、黒田官兵衛が話をもちかける。秀秋を毛利家の跡継ぎとして養子にもらってはどうか、という内容でした。豊臣一族に毛利家を乗っ取られることを嫌ってか、毛利家の統率者である小早川隆景は、跡継ぎを別の人物に定めた上で、秀秋を自分の養子とすることを申し出ます。いわば自分の家を継ぐ権利を提供することによって、毛利家が乗っ取られることを防いだわけです。 小早川隆景は高名な毛利元就の三男で、秀吉からの信任も厚い人物で、30万石という大きな領地の主でもありました。そのような人物の養子となり、かつ秀頼の邪魔者でもなくなるわけですので、秀吉はこれを了承し、秀秋は小早川家の人間になりました。
秀秋からすれば天下を制した豊臣家から放出され、その家臣の毛利家の、さらに家臣の小早川家の人間になるわけですので、決して愉快には思わなかったでしょう。しかし秀吉に逆らうことなど秀秋にはできませんので、言われるままに小早川秀俊と名前を変えます。
これによって小早川家の家格はあがり、やがて隆景は豊臣政権の五大老のひとりとなり、本家である毛利家と対等の立場になりました。
隆景は野心のある人物ではないので、このような形での出世は喜ばなかったでしょうし、縁もゆかりもない人物に自分の家を継がせることになったわけで、こちらも胸中複雑なものがあったでしょう。
秀秋が小早川家の養子となった翌年には、関白の地位にあった豊臣秀次が粛清されます。1595年に突如として秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は関白の地位を剥奪されて高野山に送られます。そして間もなく自害を命じられ、秀次は秀吉の手によって抹殺されてしまいます。秀次に対する嫌疑には確たる証拠はなかったようであり、秀吉の陰謀によって排除された、と見るのが正しいようです。処罰は秀次だけにとどまらず、その妻子や主だった家臣たちまでもが処刑されました。
この事件によって豊臣政権の安定は崩れ去り、秀吉亡き後には政権を簒奪される可能性が高まりました。秀次は単に関白の地位にあっただけでなく、日本を統治するための体制を整え、そのための家臣団も組織していました。それがまるごと失われたわけですから、豊臣家の支配力は一気に弱体化したのです。徳川家康が「将来は豊臣から政権を奪えるだろう」と判断したのは、この事件が起きたことによると思われます。後は秀吉さえ死ねば豊臣の力は失われるからです。そして事件の余波は秀秋にも及び色々な嫌がらせが秀吉やその側近たちから受けるようになった模様。
やがて1600年には徳川家康による上杉家討伐の軍が起こされ、秀秋もそれに参加すべく、1万程度の兵を率いて出征します。しかし大阪あたりまでたどり着いたころには、すでに石田三成が、豊臣から政権を奪おうと画策する家康打倒の兵を挙げており、これに巻き込まれる形で秀秋は西軍に所属することになります。そして徳川方が抑えていた京都の伏見城攻めに参加するなど、西軍側として活動します。この時に西軍の味方になれば、秀頼が成人するまで関白の地位につける、と石田三成から約束されていました。秀秋はもともとは秀吉の養子でしたから、豊臣姓に復帰すればそれは不可能ではありません。しかしそれはお前は中継ぎでしかない、と告げられているのと同然であり、秀秋はさほど喜ばなかったでしょう。既に秀頼との間に挟まった秀次の末路を見ているわけで、自分もいずれ同じ目に合わされるかもしれないわけですから。それにこれまでの経緯からいって、秀頼のために力を尽くしてやろう、などと秀秋が考えたとも思えません。むしろ秀頼には悪感情を持っていた可能性が高いでしょう。いっそのこと豊臣など滅んでしまえ、とすら思っていたかもしれません。
関ケ原の戦い
伏見城攻めの後、秀秋の軍勢は関ヶ原の戦場へと移動します。秀秋は関ヶ原では松尾山に布陣し、南から関ヶ原一帯を観測できる場所に位置します。秀秋のところには家康方から東軍に寝返るようにという使者が来ており、大きな領地を提供することを約束されています。
秀秋は幼少の頃から既に大きな所領を持っていた経緯があり、領土欲がそれほど強かったとは考えにくいです。そもそも領地加増の約束は石田方からもされていましたので、積極的に東軍につく理由にはなりえません。それでも秀秋は家康の誘いに乗ることを約束し、開戦を待ちます。関ヶ原の前年には家康らのはからいで領地を元に戻してもらった経緯があり、家康には恩こそあれ恨みはありませんでした。
その一方で豊臣家の嫡流、秀吉と秀頼には憎しみを感じる理由があったわけで、東軍についてしまってもおかしくありません。そうはいっても西軍の総大将は毛利なので筋論からいけば西軍につくべきなのでしょう。だから後世の人からはも裏切り者という評価が付きまとい、徳川家としてもあまり彼の貢献をあまり高く評価しなかったようだ。
この時の秀秋は西軍が勝っても東軍が勝っても得をする立ち位置にいました。その上、陣を構えているのは関ヶ原の南のはずれの方であり、あわてて動く必要はありませんでした。
戦場でそれぞれの陣営の有利・不利を見定め、勝ちそうな方に味方をすればいい。そのような状況におかれていました。しかし秀秋はこの時まだ18才でしかなく、そこまでしたたかな立ち回りを考えられたかどうかはわかりません。秀秋個人としては、葛藤していた可能性が高いでしょう。そもそも何者でもない少年が1万もの兵を率いる大名の立場にまで引き上げられることになったのは、秀吉の養子になったからであり、豊臣家には恩があると言えます。実家の木下家は小規模の武家でしかありませんでしたし、しかも秀秋はその五男で、継承権も持っていませんでした。
しかし養子となった後、秀吉は自分の都合で秀秋の立場を散々に振りまわしており、近い立場の秀次は粛清されており、10代の少年の心には深い傷が残っていたことでしょう。秀秋は酒に溺れがちで、精神的に不安定なところがあったと言われていますが、環境からすると無理もない話です。 ともあれ、ここで家康が勝利すれば、豊臣家の衰退は決定的なものとなります。自分が味方をすることで家康を勝たせれば、自分の存在基盤を失うことにもなるわけです。果たして自分の過去を潰してしまうべきか、それとも残すべきなのか。その葛藤の末、秀秋は家康に味方することを決意します。
小早川軍は膠着状態にあった戦場に兵を入れ、松尾山付近に陣を構えていた西軍の大谷吉継隊に攻めかかります。いったんは大谷隊に押し戻されるものの、大谷隊の近くにいた脇坂などの諸将が連鎖的に寝返りをうち、大谷隊を壊滅させます。これをきっかけに戦況は東軍優位に傾き、奮戦していた宇喜多、石田の軍勢も崩れ、主力決戦は一日で東軍の大勝利に終わりました。 こうして秀秋は東軍勝利の立役者となり、戦後は中国地方の岡山に移封され、55万石の大大名になっています。黒田や福島といった功績のあった他の大名よりも領地が大きく、家康からの評価が高かったことをうかがわせます。
3才で秀吉の養子となり、初めは10万石の領地を与えられ、やがて30万石となり、そして18才で55万石の大大名の地位にまで登ったわけです。これほど若年のうちに成功したのは珍しい、といえるほどの出世ぶりです。
しかしその生涯は関ヶ原の戦いの、わずか2年後に終わってしまいます。 1602年、秀秋は死亡します。死因はアルコールによる内臓疾患と言われていて、酒に溺れた生活を続けていたことが命取りとなったようです。小早川家は跡継ぎがいなかったことで改易(領土を没収)され、なくなってしまいます。
ともあれ、わずか20才で死去してしまったことで、その事績は「関ヶ原で東軍に寝返った」という一点のみが後世に語られることになってしまいました。
ただ、関ケ原で東軍が勝利した理由は、小早川一人の裏切りだけなのでしょうか。家康は小早川秀秋をどの程度信頼していたのでしょうか。石田三成の考えた布陣がそれほど完璧なものだったのか。軍事シミュレーションで当時の戦いを本当に再現できるのか。あるいは戦いはやってみないと本当のことは分からないのか。早川秀秋もその生い立ちや年齢を考えると側近たちの意思決定に大きく依存していたものと思われる。その側近たちがどのように考えて東軍側を選択したのかも興味深いところだ。

平家・海軍・国際派

平家・海軍・国際派及びその対をなす語として源氏・陸軍・民族派という語呂合わせがあるのをご存知の方も多いでしょう。その言葉の背景は、次のようなものらしい。それは、“「平家」「海軍」「国際派」は、スマートで格好は良いが、恬淡とした性格で、意地にならず、その主張を対立勢力に譲るという態度のために主流にはなりえない人々の属性。これに対立する勢力は、もちろん「源氏」「陸軍」「民族派」であり、こちらは質実剛健だが、外見はやぼったく派閥抗争を得意とし、我が国のほとんどの組織、特に政府組織で主流派を形成してきた人々の属性を指すことが多い。”

まあ、多分これは、どこかの霞が関の省庁あたりで言われている言葉だろうとは思います。有能(自分で思っているだけ?)で、人と異なった意見をズバズバ言う人間は、周りからも煙たがられ、人の嫌がる国際畑に移動されることも多いのでしょう。このような方が自嘲気味にそのようなこと言っているのかも知れませんが。
一般の庶民は、このような出世争いとは無関係ですが、歴史の流れを見ていくと当たらずと言えども、遠からず、結構面白い見方が出てきます。
     ●平家、商業、国際派---源氏、農業、国内派
     ●信長、商業、国際派…家康、農業、国内派
     ●蘇我氏、仏教、国際派…物部、神道、国内派
     結構、色々なパターンが出てきそうですね。物事を理解しようとするときに、このようにパターン化して、分類するのは一つの常套手段ですね。ただし、あくまでも仮説ですからその背景となる理由を分析することが何より大切ですね。
 平家は、対宋貿易で蓄えた富で力を得たので確かに商業重視の国際派、源氏は配下の武将に恩賞として土地を与えねば政権が成立しないので国内派です。農業の発展に尽くしたかどうかは?? です。

信長は、家来に土地の代わりに高価な茶器等をあたえていて、実際土地にはあまり執着がなかったようです。土地などもらっても、すぐに国替えして別の土地に飛ばされてしまいます。天下人となった時点で、日本の土地はすべて自分のものだったのでしょう。キリスト教を保護し、異国の文化をドンドン取り入れる開明派です。ただし、農業を保護しなかったわけではなさそう。家来には非常に厳しい暴君でしたが、一般庶民には大変気配りもしていたようです。
秀吉になると、国際派のイメージはダウンします。信長なら、そもそも大国「明」を相手に戦争なんて馬鹿なこと絶対にする訳がないでしょう。また、キリスト教の布教も禁止します。徳川政権は、言わずもがなの国内派ですが、長期政権なので初代家康がどの程度国内派であったかは、はっきりとはしませんが、政権の成立過程からもかなり国内派であることが分かります。

お隣の中国では、遊牧民の立てた王朝と漢人の立てた王朝が代り番こに登場しますが、征服王朝が国際派、漢族王朝が国内派と言えるかもしれません。この場合、征服王朝について、現代人には多少誤解があるようです。騎馬民族は大抵は少数民族、王族は処刑されたりするかも知れませんが、支配のため官僚機構はそのまま残されています。平氏が源氏と入れかわったようなものです。多分、中国人は今でもそう考えていると思います。植民地ではなく漢人の王朝だと。
一民族一国家という概念は近代ヨーロッパで誕生した考えです。世界にはそうでない国も多く、そのため紛争の種を抱えている地域も沢山あるようです。このことについては別の機会に。

日本の歴史の部屋

柳川一件(やながわいっけん)

江戸時代に起こった公文書の書換(かきかえ)事件です。国家を揺るがす事件の闇に、将軍が自ら迫る――。時代劇でも小説でもない、江戸初期の実話。徳川3代将軍・家光が直々に“証人喚問”し、解明を試みたのは、約30年にわたって秘密裡に行われていた「公文書書き換え」。秀吉の朝鮮出兵で断交した日朝間の国交回復をめぐる文書の改ざんという歴史的不祥事です。
 与野党が「前代未聞の歴史的犯罪だ」と財務省を非難していますが、過去にも公文書の改ざんが大問題になったことはあった。江戸時代に公文書中の公文書である「国書」の書き換えが発覚し、3代将軍・徳川家光(1604~51)が、諸大名を列席させて、じかに“証人喚問”まで行った。事件の名を「柳川一件(やながわいっけん)」という。(慶応大名誉教授田代和生氏が、この事件の顛末てんまつを詳細に調べ、『書き替えられた国書』(中公新書)にまとめているそうだ)。
 豊臣秀吉(1537~98)の2度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で朝鮮は大きな損害を受け、日本の撤兵後も日本と李氏朝鮮との国交は断絶したままだった。古くから日朝貿易で利益を得ていた対馬の宗義智(そう よしとし)(1568~1615)は独自のルートで国交回復を模索し、1605年に対馬に来ていた朝鮮の外交僧らを徳川家康(1543~1616)・秀忠(1579~1632)父子と会見させることに成功。
朝鮮出兵
 家康から「交渉を進めよ」とのお墨付きを得て義智は事前交渉を加速させるが、途中で難題が持ち上がった。国交回復に不可欠な国書の交換で、朝鮮側が「日本側から先に出せ」と求めてきたのだ。これが、朝鮮側が突きつけた難題。
 先に国書を差し出すことは相手への恭順を意味する。家康が呑のんでくれるかどうか不明だ。しかし、「朝鮮側が先だ」と押し返せば交渉は長期化する。また、「では、宛名は誰にすればいいのか」と問われる恐れもある。この時点ではまだ大坂に豊臣秀頼(1593~1615)がいた。朝鮮側が「交渉相手は出兵を決めた秀吉の遺児・秀頼だ」とでも主張したら、交渉はご破算になるであろう。
困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走る。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げた。朝鮮側の記録では、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されていた。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったものだったという。
 日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂。再度の出兵(慶長の役)となる。すでに明と冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んだ。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度(そんたく)して作成されたわけです。
 国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣した。回答使を「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。  困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走った。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げた。  朝鮮側の記録では、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されている。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったもの。日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂して再度の出兵(慶長の役)となるる。しかし、明と既に冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んだ。
 国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣。回答使は「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。  そこで対馬藩は、今度は朝鮮国王の印鑑を偽造し、「奉復」を「奉書(拝啓)」に書き換えた朝鮮国書をでっち上げる。更に朝鮮から将軍への献上品を記した目録も改ざんして、虎皮や朝鮮人参の数を追加する。『柳川記』によると、偽国書は将軍と回答使が謁見する当日、義智の重臣だった柳川智永(?~1613)が、すきを見て江戸城内ですり替えたという。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度そんたくして作成されたわけだ。  こうして日朝の国交は回復し、朝鮮から国書を携えた使節団が定期的に来日するようになる。だが、やりとりされた国書は初回の偽国書を先例に書かれたため、そのたびに「奉復」を「奉書」に、将軍の肩書きは「日本国王」に直さなくてはならなくなった。改ざんが改ざんを呼び、対馬藩は義智の死後も組織ぐるみで改ざんを続けざるを得なくなったわけです。

朝鮮使節
【27年後の告発、将軍自ら“証人喚問”へ】
 積み重ねられた国書の改ざんは、最初の家康国書の偽造から27年後に、対馬藩家老の内部告発という形で露見する。義智を継いで藩主となった息子の宗義成(1604~57)と、智永を継いで家老となった息子の柳川調興(しげおき(1603~84)が不仲となり、対馬藩を離れて旗本になろうとした調興が、幕府に改ざんした事実を暴露する。
 調興は証拠として偽国書の写しと偽印鑑の実物を提出し、「改ざんは宗氏が主導し、宗氏の指示で行われた」と訴えた。当然、自らも訴追の恐れがあったが、調興は江戸生まれで家康、秀忠の小姓を務め、幕閣に人脈があったため、罪を義成に押し付けられると読んだようだ。これに対して義成は「朝鮮との交渉は柳川氏に任せており、昔の改ざん時には自分はまだ子どもで、何も知らなかった」と反論した。
 幕府は朝鮮との交易を一時中止し、対馬に役人を派遣して偽国書に携わった義成の家臣や外交僧、偽印鑑を作った島民らへの訊問を重ねた。重要証人は江戸に連行され、老中が直接、誰の指示で偽造したのかを問いただした。決着は家光の裁定に委ねられ、1635年(寛永12年)3月11日、御三家や老中、若年寄、江戸にいる諸大名、旗本が見守る中、江戸城本丸の大広間で家光による“証人喚問”が行われた。
 記録によると、家光は双方の言い分が食い違う点を中心に、義成に七つの質問をした。義成は「自分は知らなかった」「外交の実務は柳川親子に任せていた」と弁明。父・義智の改ざんへの関与を問われると「決してない」と明確に否定。家光は最後に「家中での非法を知らなかったとはどういうことか」と義成の監督責任をただし、義成は「調興は幕閣に知り合いが多く、家臣はその権勢を恐れ、調興の不正を見つけても私の耳に入れなくなっていた」と苦しい釈明をしている。喚問の場にいた調興には「言いたいことはあるか」という問いかけだけで、喚問で「サプライズ」はなかった。
 4日後に出された家光の裁定。「義成はおとがめなし。主謀者は調興」。主謀者とされた調興は、大方が予想した死罪ではなく、津軽(青森県)への配流。一方で、偽国書を実際に作成した義成の家臣2人は一族もろとも死罪とされた。形の上では義成の勝ちだが、「喧嘩けんか両成敗」の結末ともとれる。「知らなかった」「任せていた」
 家光は同時に、義成に「来年までに朝鮮使節を来日させよ」と命じている。裁定の主眼は「引き続き朝鮮外交は対馬藩に任せる」ということにあった。事件を調べて、朝鮮との外交が非常に気を使う面倒な仕事であることを思い知り、直接、外交を担うより、首根っこを押さえた上で、引き続き宗氏を使う方が得策と判断したのだろう。間に宗氏がいてほしいとの思いは朝鮮側も同じだったようだ。それどころか朝鮮側は、かなり前から薄々改ざんに気づいていたフシすらある。
 喚問に列座した諸大名の多くは、家老が藩主を裏切ったこの事件に肝を冷やし、義成を支持していた。裁定翌日には対馬藩邸に諸大名の祝いの使者が列をなしたというから、義成無罪の裁定には“大名世論”への配慮もあったようだ。 津軽藩の拠点・弘前城(青森県)。現在は桜の名所として知られる。調興は藩主の招きで城で能を楽しんだこともあった。主謀者としながら調興を流罪で済ませたのは、義成が朝鮮外交に失敗した時の予備要員と考えていたからではないか。配流後の調興は広大な屋敷に住み、賓客のように扱われたという。幕閣の誰かから「悪いようにはしない」と言い含められていたのかもしれない。代わりに「トカゲの尻尾」にされたのは、国書改ざんの責めを負わされ、一族もろとも死罪とされた義成の家臣だった。

【家光が残した“故事英語” 】
 家光は当時、大名を相次いで改易し、段階的に鎖国を進めていた。諸大名に登城命令まで出して喚問を見せたのは、この喚問が家光の外交や大名統制の方針を納得させるための「政治ショー」だったことを物語る。
 この一件、今回の改ざん問題の経緯と似ているところも似ていないところもあるが、決定的に違うのは改ざんで欺かれた相手だ。民主主義下では「政治ショー」だけで幕引きとはいかず、国民世論が納得するまで真相究明の努力が必要なことは言うまでもない。
 家光が行った再発防止策がひとつある。偽国書作成の一因となった自らの肩書を「大君たいくん」と定めたのだ。「タイクーン(tycoon)」は今は「実力者」の意味に転じ、日本語由来の英語として定着している。

【事件の背景】
16世紀末、日本の豊臣政権による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日朝、日明関係が断絶。戦後、徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始。日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉の仲介を任される。
朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。使節は江戸城で2代将軍・秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、1609年には貿易協定である己酉約条(きゆうやくじょう)を締結させた。
対馬藩の家老であった柳川調興は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。

【大名・幕閣の動向】
当時、戦国時代の下克上の風潮が残存していた。柳川は、家康の覚えも良く、幕閣有力者からの支持もあり、「幕府も日朝貿易の実権を直接握りたいであろう」との推測から、勝算があると考えていた。一方、仙台藩主・伊達政宗など、宗義成を支持する大名もおり、彼らは、下剋上が横行する戦国時代が完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。

【家光の判断】
1635年4月27日(寛永12年3月11日)、3代将軍・家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われる。江戸にいるの旗本(1,000石以上)と大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開。結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪とされた。また、以酊庵の庵主であった規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に流された。 宗義成は対朝鮮外交における権限を回復させたものの、対朝鮮外交に不可欠であった漢文知識に精通しており、かつ朝鮮側との人脈を有していた柳川調興や規伯玄方が持っていたノウハウを失った事で、対朝鮮外交は完全に停滞してしまった。そのため、義成は幕府に援助を求めた。そこで、幕府は京都五山の僧の中から漢文に通じた優秀者(五山碩学)を朝鮮修文職に任じて対馬の以酊庵に輪番制によって派遣して外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを扱わせる。その結果、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれた。幕府は国書に記す将軍の外交称号を「日本国王」から「日本国大君」に改めることとなる。
いま、最も海外の特派員泣かせの日本語になっているという「ソンタク」も英語になるかもしれない。意味が「改ざん」に転じても、財務省理財局だけの責任か、まだ断言はできない状態。しかし、当時の対馬藩の立場を考えれば改竄の動機も明白で、家光さんも宗家の事情を忖度して罰を軽くしたようだ。日本、朝鮮双方とも交流を再開したい。だが、双方の面子がそれを許さない。さしたる産業のない対馬藩にとっては日朝の交流は生命線ともいえる重要事項。対馬藩が悪者になれば双方うまく収まる。切腹覚悟の英断だったのかも。
それに比べると、今回の「改ざん」は、動機が不純だ。森友学園とかいうヤクザまがいの団体のために財務省ともあろう国の機関が特別の便宜を供与するなど国策としても絶対にあってはならないことだ。

日本の歴史の部屋

間宮海峡

林蔵は、1780年、常陸国(茨城県)筑波郡の農家に生まれた。子供の頃から土木工事が好きで、堰とめ工事の現場に出入りしているうちに、利発さを買われて幕府の普請役雇・村上島之允の使い走りとして働くことになった。村上が各地を測量して地図を作製するのに従って、林蔵は測量技術と健脚を身につける。
村上が蝦夷地での仕事を命ぜられると、林蔵も一緒について行く。しかし冬の厳しい寒気と野菜不足で足がむくみ、体調を崩した(壊血病か)。土地の人から、蝦夷人(アイヌ)は魚と昆布を食べるので、病むこともなく冬を越す、と教えられ、それに従った所、むくみもとれて体調が回復したという。 これを機に林蔵は、アイヌと同じ生活をしなければならぬ、と知り、アイヌ語を習い、しばしばアイヌの家を訪れて衣服・家屋・狩猟・漁獲・旅行などについて詳しく調べる。
樺太 幕命を受けて、さらに蝦夷の先にある樺太探検。そこは世界地図の空白地帯。極北に向かった林蔵は、ついに樺太が島であることを確認。大陸との海峡はのちに間宮海峡と名付けられた。それは世界が驚いた大発見だった。当時樺太は大陸の一部とも思われいた。アムール川(黒竜江)の河口で河の流れが南北に分かれて流れることに気がつき、北への出口があることに気がつき、樺太が島であることを確認。のちに実際に最北端まで行ってその事実も確認している。大陸側の河口にたどり着くまでは、水深の浅いところが続いて、船を現地の人達の(アイヌ人とはまた別)小舟に乗り換えるなどの苦労の連続であった。
途中、60人ほどのギリヤーク人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。アイヌ人が通訳をしてくれて、酋長のコーニが大陸にある清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられている事を知る。
間宮の報告書は、アイヌを含む北方に諸民族たちの生活についても貴重な資料となっている。さらに、間宮は大陸の動向も探るため幕府には無許可で、清国領の役所も探索する(デレンと言うところにその町はあった)。そこはロシアとの国境付近にあり、北方系の諸民族たちは、ここを中心に一大ネットワークを形成していた。デレンには、ギリヤーク人、オロッコ人など様々の人たちの交流があり、大変にぎやかなところだったようだ。彼らは基本的には清朝の支配下にあったということだ。
清の役所 清の役人達は、林蔵が漢字で筆談しようとすると、漢字の読み書きができるとは信じられないふうだった。「日本はどの地で清国に貢ぎ物をしているのか」と聞かれて、「貢ぎ物はしていない。長崎の地で貿易をしているだけだ」と答えると、さらに疑わしそうに首をかしげた。林蔵が「ロシアとの国境はどこか」と尋ねると、「国境などあるはずがない。ロシアは清国の属国だ」と答えたという。しばらくデレンの地に留まっている間に林蔵は周囲から情報を聞き出した。清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。結局ロシアは敗退し、1689年(ネルチンスク条約)に条約が結ばれ、この地方から完全に手を引いたという。120年前の事であった。なお、ネルチンスク条約は1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代のロシアの間での戦いの後、結ばれた条約。多分高校の世界史でも出てくる。北方民族の各々の部族長たちが清の地方政府に朝貢の使者を送る。北方系の諸民族達同士も、普段は交流が少なくこの場を借りて物々交換や情報を交換し合っているのかも。ちょうど邪馬台国の卑弥呼達が中国に使者を送るという感じだ。中国と周辺諸国との関係は時代を超越してずっと続いているんですね。習近平の「一路一帯」なんていうのも案外そんな路線かも。
林蔵の樺太探検は、1832年にシーボルトが出版した「ニッポン」の第一巻で欧米社会に紹介された。シーボルトは林蔵が樺太が島であることを発見した世界最初の人物であると記し、その証拠に日本滞在中に入手した林蔵の地図を挿入した。さらに東韃靼と樺太の間の海峡を、間宮海峡と名付けた。これによって林蔵の発見が世界地図の上に永久に残ることになる。林蔵の探検はわが国の国益にも多大な寄与をなしている。

日本の歴史の部屋

横須賀造船所

横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)は江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっているが、構内には幕末の遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つと言われるそうです。
小栗忠順小栗忠順 連合艦隊司令長官連合艦隊司令長官
幕末の1865年(慶応元年)、江戸幕府の勘定奉行小栗忠順(おぐり ただまさ)の進言により、フランス技師を招き、横須賀製鉄所として開設される。小栗等は安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国。米国で最新鋭の造船所を見学し、日本の近代化のためにぜひ必要と感じて、勘定奉行立場から周囲の反対を押し切り建設を強行。工事の完成の前に江戸幕府崩壊。幕臣にて最後まで抵抗したため処刑される。生前、他の幕臣たちから「造船所できる前に幕府がたおれてしまうよ。」といわれ、「幕府のためでなく日本のために造るんだ。」と言ったとか。
 最新鋭の設備を備えた横須賀造船所は、東郷平八郎・連合艦隊司令長官をして、「わが艦隊が勝てたのはこの造船所のおかげだ。」と言わせるほど、日露戦争では大活躍をする。 現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。

日本の歴史の部屋

オーランド諸島紛争と新渡戸稲造

オーランド諸島とは、バルト海、ボスニア湾の入り口に位置する6,500を超える島々からなり、フィンランドの自治領となっています。住民のほとんどはスウェーデン系で、公用語はスウェーデン語。
しかし、背景には複雑な歴史があります。オーランド諸島はフィンランドの一地方としてスウェーデン王国に帰属していたが(当時スウェーデンは結構な大国)、1809年にロシア帝国との戦争に敗れたことからフィンランドが割譲されてしまう。オーランド諸島もフィンランド大公国の一部としてロシア領となってしまう。
1854年にクリミア戦争に参戦したイギリス・フランスはスウェーデンの参戦を確実にするため艦隊を派遣して同地のロシア軍を攻撃。これに対しロシアは、ノーベル(ノーベル賞のノーベル)を雇い、新兵器の機雷を使ってバルト海を封鎖。被害拡大を憂慮したスウェーデン政府は中立政策を取る。しかし、英仏政府はさらなる参戦を促す。クリミア半島でのロシアの敗勢を見たスウェーデン政府はようやく参戦の意志を顕すが、すでに戦争は終結に向かっていた。
オーランド諸島オーランド諸島
1856年のパリ講和条約によって、国境地帯であったオーランドは非武装地帯に指定された。しかし第一次世界大戦の勃発とともにロシアは条約に違反してオーランドの要塞化を開始。 大戦末期になるとフィンランド本土においてロシアからの独立の気運が高まり、これと並行するようにオーランドにおいてもフィンランドからの分離とスウェーデンへの再帰属を求める運動が起こり、フィンランド独立間近の1917年には、オーランドの代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出。オーランド分離を阻止したいフィンランドは広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させるも、オーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、両国間の緊張が高まる。このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の裁定を託し、フィンランドもこれに同意する。
1921年に、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造を中心として裁定が行われた。これが有名な「新渡戸裁定」です。日本では当時、国際的に孤立化の道が進んでいてあまり評価されていないけど、是非とも日本史の教科書にも入れて欲し良い快挙です。
オーランドのフィンランドへの帰属を認め(メンツを立て)、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めめる(スウェーデンは実利をとる)。これらは両国政府の具体化作業と国際連盟の承認の後、1922年にフィンランドの国内法(自治確約法)として成立し、オーランドの自治が確立します。現在は、フィンランド政府はスウェーデンへの復帰を認めていますが、帰属国を問う住民投票では現状を望む人が半数を超える(自治権の方が有利)。スウェーデンに復帰すれば一つの県にすぎないが、フィンランドのもとでは大幅な住民自治を認められ、海洋地域であるオーランドにとって非常に自由が利くからです。
この時の新渡戸の裁定は、関係する3者(フィンランド、スウェーデン、オーランド)の誰もが納得する、いわゆる大岡裁きになっていたのですね。このときイギリス人のドラモンド国連事務総長は、「不寛容な西洋文明に、寛容な精神を教えてくれた」と新渡戸氏の英断を高く評価したということです。また、今も島の住人は「島に平和をもたらしてくれたミスター・ニトベを尊敬している」と感謝の言葉を口にしているそうです。
ところで、「日本の学校には宗教教育がないというが、だったらどうやって道徳教育を行うのか」と問われて答えにつまった新渡戸氏は、【武士道】に思いあたり。それがきっかけで、外国人に日本のことを理解させたいと『BUSHIDO』(武士道)を英語で著しました。

日本の歴史の部屋

米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人

NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。

途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すのとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
フレッド・コレマツ 2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。

日本の歴史の部屋

【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

日本の歴史の部屋

日本の歴史と英国の歴史

極東の島国日本と極西の島国英国は、地政学的な共通点から歴史においても様々な共通点が見いだせるという人たちがいる。どちらも文化の中心となった大陸とは海で隔てられている。
まず、日本の縄文文化。大陸の影響が多少見られる弥生文化とくらべ、縄文文化はどうも日本独特のものらしい。英国にも対応するように新石器時代の巨石文化が花開いている。ストーンヘンジとかストーンサークルとか。これもヨーロッパ大陸から伝わったとの説はあるけど、史跡で見る限り英国が本場のようですね。何でも単一起源説で説明しようとするのは如何なものか。日本にだって環状列石のようなもの発見されているではないですか。人類は与えられた環境に適応して、独自の文化を形成するものらしい。
ストーンヘンジ ストーンヘンジ
日本人は、縄文時代の人達に後から渡来してきた人たちの混血によって次第に形づくられたようですが、英国人も同じようにいくつかの民族の混血によって形造られて来ている。
日本が、中国大陸の王朝に一度も征服されなかったように、英国も常に大陸の動きとは一線を画して独自の動きを続けて来た。
日本が大陸から学んだ仏教も儒教も、日本人の中で独自の精神文化として成熟しているように、英国もキリスト教を、「英国国教会」として独立したものとして受け入れた歴史を持っている。
新渡戸稲造氏の「武士道」で取り上げる封建時代の道徳、どうも英国のものが比較の対象として取り上げられているようだ。
英国人から見て日本人は、どうも馬が合うというか文化的なものに共通の傾向があるのかもしれません。今回、ノーベル文学賞を取ったKazuo Ishguroさん。アーサー王伝説の頃。タイムリーな受賞かもしれませんね。

日本の歴史の部屋

ビキニ事件

水着の話ではない。1954年3月1日に米国による太平洋・ビキニ環礁付近行われた水爆実験のために静岡県の漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件。実験当時、第五福竜丸はアメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄(はえなわ)の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後にアメリカは危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻に上るとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初アメリカ軍がこの爆弾の威力を4 - 8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであったため、安全区域にいたはずの多くの人々が被爆することとなった。
最近公表された湯川秀樹(1907~81年)(ノーベル賞の)手記には「二十世紀の人類は自分の手でとんでもない野獣をつくり出した」と書き起こし、原子力を「野獣」「猛獣」と形容した。「もはや飼主の手でも完全に制御できない狂暴性を発揮しはじめた」「少数の強力な国家だけが今後もこの猛獣の飼主たる地位を保持するであろう」と危機感を示している。
 後段では、「原子力の問題は人類の全体としての運命にもっと直接に関係する新しい問題として現われてきた」と、核兵器の脅威を前に世界が運命共同体となったことを強調する。ビキニ実験が核廃絶に向けた「人類的共同体の実現への大きな一歩」への転機となりえるのでは、と期待交じりに記している。

日本の歴史の部屋

世界の歴史の部屋

目次  
論語の世界 パックス・アメリカーナ 中華思想と小中華思想 コロンブスのお土産
民主主義の歴史 アイヒマン裁判 中国は何故世界の覇者になれなかったのか ニクソン・ショックとプラザ合意
原子爆弾の開発敗戦後の東アジア世界 忘れられた巨人The Buried Giant めげない北朝鮮
戦後の米国覇権とその政策 日の名残りThe Remains of the Day

裸坊達の部屋

論語の世界

今からおよそ2500年前(今年2018年なので2500-2018=482、つまりBC482年頃、BC5世紀)の世界で各々全く別の場所で、3人の哲学者が誕生する。ソクラテス(BC469~BC399)、釈迦(BC5世紀頃)、孔子(BC552~BC479)である。
ソクラテス自身は著述をしていないのでその思想は、弟子のプラトンやアリストテレス等によって後世に伝えられている。釈迦の思想も弟子達によって伝えられたもの。『論語』(ろんご)も、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。
論語は、儒教の聖典のごとく考えられているが、我々が考えている論語像は実は後世の弟子の弟子と言った後継者たちによってつくられたもので、実際の論語はもっと面白くて人間味にあふれたものらしい。
 孔子が生まれたのは春秋時代、戦国時代に入る前で各国が各々独立志向を高め、世の中が不安定になってきた時代です。殷(商)王朝が倒れ、周王朝も支配力が大幅に低下してきている時代です。中国の神話の世界では三皇五帝等として徳のある帝王が国を治めていたということになっています。これらの聖人達の実在性は不明で、夏(殷の前にあったとされている最初の世襲王朝)より前の時代ではないかとも考えられています。
ただ、殷、周の時代の中国の政治は非常に宗教色の強いものだったと思われます。甲骨文字や青銅器に刻まれた文字。政治のことを「祭りごと」と言いますが、当時思想家とか哲学者と言える人たちは、限られた神官層だけ。孔子のように思想を教え実践しようという人物は本当にまれであったと思われます。
 孔子が重んじた徳には、礼とか楽がありますが、当時としてはこのようなことが大変重要なことだったのでしょう。孔子の時代の必修学問として「詩経」の暗唱なんかあります。 中国最古の詩篇で、儒教の基本経典の一つ。舞踊や楽曲を伴う歌謡であったとも言われる。古の知恵が沢山詰まっているのですね。日本の「万葉集」と似たところがあるのかも。詩は声に出して読んだようです。当時、文章は大きな声を出して読んだらしい。だからそばにいる他の弟子達にも聞こえる。だから、それについて色々と議論もする。  孔子の弟子は、3000人とも言われますが、孔子は弟子を選ばず、特に初期の弟子達には色々な職業や出自のものが混じっており、孔子はこれらの弟子たちを分け隔てなく接したとのこと。気に入らない弟子でも破門なんてしない。十哲の一人とされる子路は、もともと任侠の出で、孔子の人格にぞっこん惚れ込んで死ぬまで孔子に従いますが、多分孔子にもっとも目をかけられた弟子なんでしょう。自分にないも長所を持っている弟子たちの良い所を伸ばすように教育する。だから、弟子たちの質問に対しても相手によってその都度答えが変わる。後世代の解釈者を悩ませるわけです。決して押しつける訳ではない。「先生、○○についてはどう思われますか。」「まあ、君の考えも一理あるけど、こう考えた方が良くない。」なんて。弟子達との対話を通して、孔子の考えも深まり、論語の面白さが出て来るようだ。
【孔子の理想とした社会】
「氏曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。」
子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬(たと)えば北辰のその所に居て衆星(しゅうせい)のこれにむかうが如し。

徳のある君子が国を治めれば、人々はそれに従い平和で調和のとれた社会が出来上がる。北辰とは、北極星のこと、夜空の星達は北極星を中心の回っていますね。孔子の理想とした社会はこれです。周王朝が成立した頃はこうであったとの言い伝えもあったのでしょう。昔は良かった。今は乱れていて、ますます乱れていく。歴史を見ているとたいていの時代、人々は過去の方が今より良かったと考えていたようです。中国の神話でも、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)等の聖人が次々と現れ、善政を行ったことになっています。
でも、孔子自身、行動の人。神話の世界の理想を現実社会に翻訳しなおし、どうすれば君主に徳を持ってもらい、秩序のある平和な社会が実現できるか、その方法論を考え、君主、大臣層を中心に説いて回ります。一時、自分の生まれた魯の国でも採用されるものの政敵に追われ放浪の旅に出る運命に。でも、この教えは、机の上の空論ではなく、実際の政治の局面毎の対応であるため、結構実用面でも役に立ったようで、弟子の数も増え、弟子の多くは、色々な国の政策にも参画できるようになってくるわけです。 論語では、弟子たちの存在がとても重要で面白い。
【孔子の弟子達】
筆頭は、子路(しろ、紀元前543年 - 紀元前481年)は、孔門十哲の一人である。もとは、任侠の出で、孔子の噂を聞きバカにしてからかってやろうと面談し、師の威厳に威圧され、一生孔子に従って旅をする。気が短くて行動派だが、師を尊敬する気持ちは非常に大きいようです。
顔回(がんかい、紀元前521年 - 紀元前481年)は、孔子(孔丘)の弟子。回は名(諱)。字(あざな)は子淵(しえん)。ゆえに顔淵(がんえん)ともいう。魯の人。孔子には常に褒められるキャラとしてはNo1.、つまり超秀才。孔門十哲の一人で、孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って没した。顏回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったという。この点孔子の方が学ぶ点が多かったのでしょう。孔子の思想は、実践の学ですから、利用されてナンボのとこがあります。このことから老荘思想発生の一源流とみなす考えも。
子貢(しこう、紀元前520年 - 紀元前446年 )は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した。孔子以上の秀才と他の弟子たちにも一目置かれた存在。商売でも成功するし、孔子や仲間たちの売込みにも尽力。孔子集団のプロモータ役か。その功もあってか、孔子集団の人気は高まり、弟子たちの就職先もどんどん増えて来る。だから、孔子の後半の弟子たちは、たいていは頭の良い秀才達で受け答えにそつがない。目的もどこかの国の役人として活躍するため。学ぶことは出世の手段だ。
孔子自身はこのような変貌を本当に喜んでいたのか。どうも昔の弟子たちの方が野人で、そちらの方に肩入れしたいというのが本音だったかも。その代り、孔子の教えは儒教として後世まで続くが、孔子の本来の理想とは異なり権力者の支配のための道具と変身して行く。ただ、本流から外れたグループからも諸子百家と言われる沢山の思想家たちを生み出す源泉となったと見ることも可能でしょう。(2018.2.8)
【追記】
幕末の長州藩で、松下村塾を作った吉田松陰。吉田松陰の生き方の中には、初期の孔子を思わせるものがありますね。松陰の思想は、儒教の一派である陽明学が中心にあると言われています。陽明学はいわゆる本流としての朱子学の形式主義に対応し、心の部分に光を当てたかなりラジカルの考えのようです。陽明学は中国や韓国では流行らず、むしろ日本で発展し、倒幕思想にも通じるようです。もともと儒教にも体制擁護の考えはなく、孔子は革命政権にも参画を試みていますし、孟子にも革命の必要性が書かれています。そもそも中国の古代神話、堯、舜、禹(ぎょう、しゅん、う)の時代は政権は禅譲(賢者から他の賢者へ)という形で引継がれ、それが理想で世襲制になることは、君主の欲望を作り出し世が乱れる原因なるとのが神話の教えしょう。

世界の歴史の部屋

歴史学とは科学か

目次    
民族史観 皇国史観 マルクス史観

裸坊達の部屋

歴史学は、過去の我々が辿ってきた道のりを正しく記録し.後世に伝える重要な社会科学の一分野です。でも、一般人の我々に取っても歴史の勉強は為になるし、とても面白いですね。格言にもあります。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」。でも、歴史も偏った見方をすれば、都合の悪い部分を無視して、都合の良い所だけつなぎあわせて、虚構の世界を紡ぎだすことも可能です。似非歴史学とでもいうものも多数存在していることにも気を付けないといけません。良く言われる〇〇史観などというものは、あくまでも仮説であり、実証による裏付けが必要なものです。例を挙げると、皇国史観、マルクス史観、民族史観、進化論的史観など色々あります。史観というものは、物の見方ですので、自分なりの史観を持つことは決して悪いことではないと思います。歴史小説などでは、作者の視点はある程度はっきりしている方が面白いかもしれません。しかし、歴史学が科学であるためには、常に証拠による検証が不可欠です。
     地球の歴史、生物の歴史は、自然科学の実証的な方法がかなり確立しています。しかし、今日我々が知っている自然の歴史も、長い間の宗教的史観、特にキリスト教史観との論戦の中で育まれてきたことを忘れてはならないでしょう。ここ20年で大きく書き換えられた事実は数えきれないほどあるし、日々進化しています。

歴史学とは科学か

民族史観

韓国は近年、日本に歴史認識の改革をさかんに求めていますね。でも、我々日本人には、彼らが求めているが今一つ分からないですよね。いま、韓国の歴史学は、民族史観一色で、実証的な研究をしようとしても出来ない状況なのです。歴史の研究は、本来過去の古文書等を根気良く読み解いて、ジグソーパズルをつなぎ合わせていくような、地道な作業が欠かせません。韓国の歴史学の分野で成功するためには、先人の研究を解釈しなおして、より国民や国家が喜ぶような新しい解釈を創造するだけです。
     檀君神話は、日本の神話と同じで、国の創生神話です。我が国では、神武天皇や神功皇后の話はそのまま事実と信じるような人はいないと思います。日本が中国を国交を持った時代、中国に対抗するため、国の歴史を長く見せる必要に迫られで、当時の大和朝廷の学者たちが知恵を絞って作り上げたのが天皇の系図であることは自明のことです。神話をそのまま信じると神武天皇は縄文人になってしまいます。檀君神話もちょうど同じタイミングで成立したのでしょう。もちろん、民族史観が国是の国ではこのようなことを否定するような発言はブーです。

      韓国の誕生の歴史は、悲惨なものがあります。朝鮮戦争のドサクサに紛れて成立したような国です。民族史観の学者達には見たくない現実です。因みにウィキペディア(ネット上の百科事典)で朝鮮戦争の項を引いてみると分かります。日本語のサイト、結構長いですね。朝鮮戦争は戦争特需もあり、日本の産業発展にはプラスの効果がありました。英語版、もちろん長いです。国連軍と言っても実際に戦ったのはアメリカですから。ロシア語、中国語、北朝鮮の同盟国だった訳ですから、結構長々と何か書かれています。中身は読めないですがそれだけ重要な出来事だった訳です。ところが、韓国語版は、日本語版の半分ほどしかありません。

はっきり言って、当時韓国民は何も出来なかったのです。日本軍の引上げた後の空白。その空白を狙った北朝鮮軍の侵入。当時の韓国の指導者は李 承晩(イ・スンマン)、別に国民の支持があったわけではなく、米国でのロビー活動が功を奏して、地位を獲得しました。因みに彼は、両班(ヤンパン、当時の朝鮮の特権階級)の出身です。急遽軍隊を造っても、町のゴロツキをかき集めたもので、略奪はする、戦えば逃げる、どうしようもない組織です。結局できることは、国連軍に従軍慰安婦を大量に送ることだけ。だから、今問題になっている従軍慰安婦の中にもこの時韓国の民兵によって強奪された人々も沢山いるはずです。国連軍様々ということです。もちろん、こんなことは民族史観の教科書では抹殺されているでしょう。李 承晩は建国の英雄です。でも、しばらく韓国は低迷が続きます。経済でも北が上です。
李承晩李承晩      朴正煕朴正煕

この状態を大幅に変えたのが朴正煕(パク・チョンヒ)です。彼は、大変な日本贔屓で、日本軍の占領が無ければ、学問も学べなかったし、軍人にもなれなかったと語っており、開発独裁をやり、日本の経済政策を取り入れ漢江の奇跡(ハンガン、かんこう)を成し遂げる。その娘が大統領を罷免された朴 槿恵(パク・クネ)である。朴正煕は、本当の意味で建国の父と位置づけられてもいい人物であろうが民族史観の立場では親日は悪であり、娘の方もそのような世論に気を使いすぎてあまり日韓関係は改善していな。

韓国の歴史上の英雄に安重根(あん じゅうこん)という人物がいる。朝鮮総督・伊藤博文を暗殺した単なるテロリストである。伊藤博文は、比較的穏健な開明派で、朝鮮総督となるなら適切な人物だったと考えられている。韓国ではいまだに義士として扱われているが、そういわないといけない雰囲気があるようだ。韓国は、民族史観を国是としているが、幸い我が国の今の歴史研究は、実証主義に基づく欧米の主流の考えに変わっている。歴史学は,科学(社会科学)として市民権を得ているようです。

歴史学とは科学か

皇国史観

韓国が民族史観を国是としているように、戦前の日本は皇国史観が国是であり、この史観の教えるところと異なる学説は、異端として認められていませんでした。日本の神話に書かれていることは、疑ってはならないとされていました。皇国史観は、「親には孝、国には忠」といった儒教道徳と、江戸時代に出て来た国学の思想を合体させたようなものです。

水戸黄門水戸黄門      本居宣長本居宣長

国学は、幕末に尊王攘夷の思想の裏付けとなり、討幕運動の原動力としての役割を果たします。各藩が国のような状態の国民を一つまとめるためには、天皇という象徴が必要だったのでしょう。韓国の場合も一つの国民国家としてアイデンティを保つには、民族史観とか反日感情を共有させることが指導者には必要なのかもしれません。

歴史学とは科学か

マルクス史観

人間世界は、原始共同体から王政、封建制を経て、資本主義社会、そして最終的には社会主義、共産主義に必然的に進化していくとする考えです。歴史上の出来事を何でも階級闘争に当てはめるステレオタイプにはうんざりです。各政治形態は、社会の上部構造、下部構造は経済が支えている。マルクスの友人エンゲルスは、この考えをダーウィンの進化論を発展させた素晴らしい考えと絶賛したとか。マルクス自身が暴力による革命まで考えていたのか、下部構造の経済の裏付けがないと社会主義など絵に描いた餅でしょう。
カール・マルクスカール・マルクス      エンゲルスエンゲルス

戦後、皇国史観にとって代わって、結構流行っていました。私の記憶でも中学校や高校の社会科の先生、こういう考えの人、多かったように思います。例えば歴史上の出来事に何でも階級闘争を持ち込むなど。また、マルクス主義でない人たちの中にも、政治の権力はだんだん下の方の人民に移譲されてきていると考えている人がいます。フランス革命、憲法の発布、議会政治、普通選挙、女性の参政権等々。これらの権利は人民が絶え間ない闘争の末勝ち取って来た血と汗の結晶と、多分学校の歴史でもそのような観点で教えられてきたのではないでしょうか。
生物の進化論でも、定行進化説といって進化には方向性があるという考えがあった。象の牙が段々長くなって来る。キリンの首が長くなる。人類はますます賢くなる(??)等々。生物の進化は環境への適応がすべてで、進化そのものには方向性は無いことは今では定説(中立説)。人類の脳の大きさも狩猟時代をピークにその後は一定か漸減の傾向。進化論を理解しているようで単なる勝手な思い込み。進化についてはまだまだ分かってないことの方が多いのです。

歴史学とは科学か

民主主義の歴史

みんなで決める。これは人類の歴史ではほぼ最初からあったルールです。類人猿の世界でも食べものを老人や幼い子供達にもある程度平等に分けるためのルールが存在しています。弱肉強食の社会でない限り。構成員が平等な狩猟民の世界では話合いで物事を決めることはごく当然のこと。マルクスの言う、原始共産制の世界です。農耕社会になって、リーダの存在が大きくなり、初めは回り持ちのリーダが世襲制となり、王政や帝国が生まれました。遊牧民の世界は部族会議などがしばらく続いており、これも一種の間接民主主義と言えるでしょう。ローマの元老院などは、話し合いの場ですが、議員は家柄で決まっており、終身ですから平民の権利は認められてなかったのですね。しかし、ここでの議論は真剣でカエサル(シーザー)とキケロの弁論での対決など、弁論の価値を高く評価している点はすばらしいものがあります。多数決で決まるより弁舌の力で決着することが多かったようです。元老院の議員にはそれだけの格式が求められていたようです。だいたい議論に参加しない人には決定に加わる権利は無いのです。

ローマでは、その後だんだん平民の力が強くなり、元老院と対立するようになります。シーザーは平民達の多大な支持を得て皇帝のような地位を確保します。今のロシアのプーチンみたいな存在かもしれません。その後、初代皇帝としてアウグストゥスが後を継ぎ、平民達の声を利用しながら、元老院から権力を奪い取っていきます。。
      古代ギリシャでは、アテネが民主制を採用します。アテネはペリクレスという偉大なリーダに恵まれ、大発展します。しかし、アテネ政体を視察に来たローマの元老院のメンバー達は、「これはダメだ、いづれ潰れる」と判断して、民主制の採用を見送ったそうです。案の定、ペリクレスが無くなると、アテネは混迷を極め、衰退します。いわゆる衆愚政治に陥ってしまったわけです。。

現代の民主制は、資本主義の勃興と並行して進んできたことを見逃してはなりません。新しく出て来た産業資本家達は、地主貴族から土地の農民を工場の賃労働のために引離す必要があります。そのためには普通選挙は格好の口実になります。選挙の投票では、賃金をくれる人の言うこと聞くのは当然です。また、中間層が増加することは、製品の買い手としても有望です。こうして成熟した資本主義国家の資本家達は遅れた国の政治制度にも横槍を入れるようになります。各国で労働争議が増加していく裏には、他国からの資金援助もあったことでしょう。革命運動等の指導者達、その資金源どこだったのでしょうか。

戦後の日本は、民主主義はもっとも進んだ制度だと学校教育で洗脳されて来ました。しかし、民主主義を真に機能させることは容易ではありません。権力者はマスメディアもネットの情報も管理できます。アメリカのトランプ政権は色々マスメディアでは叩かれていますが、今までとは異なった見方もあるのだと国民が気付いた点では評価できるのではないでしょうか。

世界の歴史の部屋

パックス・アメリカーナ

パックス・ロマーナという言葉が西洋史には出て来る。パックスはピースの意味で平和、ローマ帝国がヨーロパ及びその周辺を含む巨大な地域を統一し、長期間の平和と安定がもたらされていた状態をいう。時代的にはBC27年~AD180年、すなわちアウグストゥスによる帝政開始~五賢帝時代の終わりぐらいまでを指している。確かに域内に住む人々にとっては、戦争もなく経済も発展し平和で良い時代であったことは間違いないようです。世界史の中で巨大な帝国は何度も現れますが、パックス・〇〇と呼ばれるような帝国(共和国でもかまわないが)になるには、いくつかの条件が必要でしょう。具体的にいくつかの候補を挙げて見ましょう。

【唐帝国】

唐帝国は、交易も世界的で統一後は、周辺国ともうまくやっているようです。中華帝国の貿易は、朝貢という形で行われ、実際には宗主国の大幅な持ち出しです。中国の王朝は唐に限らず、統一後しばらくは平和な時代が訪れます。そのうちに国の統治機構が腐敗して、衰退していくことになります。これは中国だけに限らないか。でも、パックス・タンもありですね。ところで、唐の時代は、すごく国際的ですね。西から色々な文化がやって来てます。キリスト教(景教、ネストリウス派)も唐経由で、日本にも入って来てます。日本にキリスト教を最初に伝えたのは、ザビエルだというのはウソですね。

【パックス・モンゴリア】

モンゴルの世界帝国、歴史地図を見るとすごいですね。まさに、世界最大の帝国が忽然と現れるのです。モンゴルの侵入は、残虐さで有名ですが、征服後の統治には、現地の人材をフルに活用します。何せ、あれだけの版図をごく少数のモンゴル人では統治しようがありません。政府の中枢も有力な官僚たちは西域の色目人と言われる人々が多数を占めています。モンゴルの残虐さは、当時の支配者達の立場で歴史が書かれているためで、その後の善政については抹殺されているのでしょう。モンゴル帝国の一部であった元でも、官僚機構はそのまま、役人たちも不満なし、頭が入れ替わるだけですから。一般の人々から見たモンゴル支配下の生活、そんなに不満はなかったのかも知れませんね。モンゴル帝国の版図が大きくなったおかげ、世界交流は大幅に活性化します。商人たちが安全に行き来できるからです。ローマからは、マルコ・ポーロ達がやってきますね。

【パックス・ブリタニカ】

15世紀ごろから、ヨーロッパ列強の世界進出が始まります。はじめは、スペイン、ポルトガル、オランダそして最終的に英国に覇権が移っていきます。この時代戦争が絶えませんね。英国も最初は、武力に頼って来ましたが、次第に外交による平和的(陰謀的)解決を主力にするように変わって行きます。日本でも、幕末には陰で反政府勢力の薩長を支援し (幕府を支えたのはフランス)、日露戦争でもロシアの足を引張り続けます。更に、当時勃興してきたマスメディアをフル活用してロシアが負けたことを既成事実化して交渉を日本に有利に進めます。ロシアはお陰で革命が起こりロマノフ王朝は転覆します。この革命にも情報や資金面で隠然と操っていた力があったのですね。巧みに情報を操作して、世界を操る諜報活動の力を最初に認識したことが英国が成功した鍵ですね。

英国は、植民地経営でもうまくやっていたようですね。現地の人材をうまく活用しています。フランスが力で押さえつけるやり方を取ったのと対照的ですね。植民地が独立した後も、比較的順調に発展している例が多いようです。ただし、地元民を分断して統治する政策は、後々に大きなしこりを残しているようですね。我が国も戦前には、「大東亜共栄圏」を目指したことありましたが上手く行かなかったですね。

世界の歴史の部屋

【パックス・アメリカーナ】

第二次大戦の結果は、アメリカの一人勝ち、日本、ドイツの負組以外の、英、仏も戦争の痛手で青息吐息、英国は覇権をアメリカに譲り、院政を試みます。ところが予想外のことが生じます。いわゆる「鉄のカーテン」が出来、別の世界が形成されてしまうのです。でも、ソ連邦は、その後経済的に破綻し、現在覇権国と言えるのは米国だけになっています。パックス・アメリカーナは、現代の状態そのものでしょう。ここから先は、歴史の課題というより、現代政治そのものかも知れません。でも、昨日までに生じた事柄はすべて歴史の対象とも言えます。歴史を読み解き未来の予測に使えなければ歴史を学ぶ意味は何でしょうか。パックス・アメリカーナについての考察はまた後日行いたく思っています。

世界の歴史の部屋

米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人

NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。

途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すのとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
フレッド・コレマツ 2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。

世界の歴史の部屋

【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

世界の歴史の部屋

原子爆弾の開発

1945年8月、人類史上初、世界で唯一核兵器が実戦使用された。
8月6日 広島市 広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイ
8月9日 長崎市 長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマン
原子爆弾の開発は、E=mc2、すなわちわずかな質量が膨大なエネルギーを生み出すという発見から生まれた画期的な殺戮兵器である。ナチス支配下で米国に亡命して来た著名な科学者達がルーズベルト大統領に進言して開発が進められた。確かにドイツでも日本でも並行して開発が進められていたことは公然の秘密である。日本では仁科芳雄等が中心となって研究開発が進められていたが、敗戦後には原子力に関係する施設は米軍によって秘密裏に完璧に破壊された。日本のノーベル賞学者は湯川、朝永は仁科の弟子で、以後日本の物理学者らは専ら理論物理の研究を中心に行っていくことになる。
 ドイツが降伏し、日本も降伏寸前の時点では、核兵器の破壊力から投下を中止する意見もあったが、ルーズベルト死去の後を継いだトルーマン大統領の決定で投下が実施された。更に、第三の原子爆弾を投下することも計画されていたがトルーマンによって中止された。ルーズベルト大統領は、日系日本人の捕虜収容所を進めた張本人、やっていることナチスのユダヤ人捕虜収容所と何ら変わりがない。はじめからドイツには落とすつもりはなかったのかも。
 その後朝鮮戦争では、マッカーサーは原爆の使用を提言するが、トルーマンはこれを許さず、38度線にこだわり、また、今まで支援してきた蒋介石の中華民国政権の梯子をはずし、共産党の大陸支配を容認する。この結果、金日成が朝鮮解放の英雄として北朝鮮の支配を確立し、毛沢東も米国・日本から中国を解放した英雄として支配権を確立。その後進んでいく東西冷戦もこの時から想定されていた筋書通り展開のように思われる。

世界の歴史の部屋

敗戦後の東アジア世界

 日本がポツダム宣言を受け入れ終戦となったのが1945年。日本の降伏調印式は1945年9月2日。実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた(知らないのは日本国民だけ)。日本の終戦記念日は翌日の8月15日。正式に国家同士で戦争していたのはアメリカ合衆国と中華民国(蒋介石政府だけ)。ソ連とは不可侵条約を結んでいたので正式には戦闘状態には無かったわけです。中華人民共和国の成立は1949年10月1日。朝鮮戦争は1950年の北朝鮮の突然の侵入に始まり、1953年7月に休戦協定成立。未だ最終的な平和的解決は行われていない。

 戦後賠償については、米国、中華民国は賠償の権利を放棄している。これは第一次大戦時にドイツに過大な賠償金を課したことが大二次大戦の原因ともなったことを踏まえてのこと。従って、この時点において日本は戦後賠償の義務は一切ないことになっている。毛沢東の中華人民共和国は、戦中は国共合作として称して日本軍とも戦闘したことになっているが、実際は国民党を背後から鉄砲を打って邪魔したことぐらい。毛沢東は、「日本軍のお陰で国共内戦に勝てた」と豪語しているくらい。もちろん朝鮮半島は日本の統治下ですから日本国内の問題。韓国がとやかく言う筋合いは全くないはずのものです。

戦後、日本は東南アジア諸国に戦後賠償を行っておりますが、これは全く善意による経済援助。中国と韓国には未だに多大な資金供与を行っているのが我が国の現状です。しかし、日本は今の中国と韓国には賠償責任は一切ないはず。もしこれらの国が賠償しろというのは、アメリカ政府のさしがねか、中国、韓国の諜報組織による陰謀でしょう。日本人は歴史の勉強が足りないのは事実ですね。
日本は戦争放棄の他、諜報能力も放棄してしまったようで、政界、マスコミ、学会のすべてにこれら中国、韓国、北朝鮮からの諜報機関から莫大な資金がノーチェックで流れ込んでいるはず。世界中で、このように支払わなく良い賠償金??を払い続けている国はありません。日本では自民党の議員の中にすら中国、韓国のシンパは大勢います。本当の国益とは何か相当良く考えないといけませんね。

世界の歴史の部屋

ニクソン・ショックとプラザ合意

第二次大戦後、米ドルを基軸通貨として為替の安定・自由貿易の推進により世界各国が相互に発展することを目指して定められた国際ルールがブレトン・ウッズ体制(1944)です。
日本が奇跡的な経済成長を見せ、西ヨーロッパも順調に復興すると、国際競争力が相対的に上がっていきます。世界各国は輸出によって稼いだ米ドルを金にどんどん換えていきます。一方アメリカは世界の警察として多くの軍事費を投入し、また共産圏の拡大を防ぐために発展途上国への経済援助費を増やしていきます。多国籍企業は米国外へ投資をつづけ、膨大な米ドルが世界中に流出し、これらのドルも金に交換されました。
結局アメリカの保有していた金(ブレトンウッズ体制当初、世界の7割とも言われていた)は、大量に国外に流出し、金ドル交換の不安が叫ばれるようになりました。1960年代にはしばしばドル危機の声が高まり、ゴールド・ラッシュと呼ばれる金への投機が活発になる現象が起きました。
リチャード・ニクソンと毛沢東リチャード・ニクソンと毛沢東
1971年8月15日、アメリカ大統領チャールズ・ニクソンは、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止することを突然発表します。これは、ブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味しており、国際金融の大幅な枠組みが変わるきっかけとなります。この発表はアメリカ議会もしらなかったため、ニクソン・ショックと名づけられドル・ショックとも呼ばれます。ほぼ同時期(一ヶ月前)に発表されたニクソンによる中国訪問宣言と一連の北京での外交活動も合わせて、ニクソン・ショックと呼ばれています。
ところで、それまではドルは金と対応していたので他の財貨との関係は需要供給曲線のロジックでバランスが取れるフィードバック機能が働いていました。しかし、ドル金交換が停止されて以降、米国は無尽蔵にドル(もちろん貨幣に変わる債権なども含みます)を発行し、覇権国として世界中から自由に物を買うことができるようになりました。これが米国が覇権を維持できる根幹でしょうね。今後もドルはどんどん増え続けるでしょう。その結果は世界は一体どうなってしまうのでしょう。世界の経済は、常に新たな需要と供給のバランス点を模索して変化し続けるでしょう。人はそれを経済発展を称するのでしょうが、変動する世界は行きつく先が見えないので大変不安です。少なくともサスティナブル(持続可能)な制度ではないはずです。ただ、世界経済の規模が大きいのでたとえ破綻するにしても数十年の規模で推移するのでしょう。
基本的に貨幣の量が増えれば、財の需要は増え供給の価格は割高になるでしょう。特に労働賃金(労賃にも需要と供給の関係が成り立つ)の安い開発途上国には有利に働くでしょう。その結果、中国、インド、東南アジア、アフリカなどの経済はずいぶんよくなって来たようです。一方、先進国の工業は材料費や賃金の高騰で立ち行かなくなって行くようです。そして頻繁に発生するバブル、やはり近い将来何が起こる可能性は否定できないでしょう。現在も金はどんどん米国や日本から流出して中国やロシア、インドなどの国は金をせっせと集めていると言われます。そのうちにまた金本位制が復活するのかもしれません。

世界の歴史の部屋

中華思想と小中華思想

中国は儒教に国と言われ、韓国も儒教の国であることを自負している。儒教は日本人の思想にも多大な影響を与えています。北朝鮮やベトナムも儒教の影響を受けており、東アジア一帯に渡って一つの大きな文化圏を形成しているとも言えそうです。ただし、日本での儒学は隣の中国、朝鮮とは異なった発展をとげたようです。儒教は、何故か国の宗教にはならず、そのため人の生き方のような哲学的な部分が発展して、陽明学のような流れは日本から逆に中国に輸出されるまでに発展します。
一方、本家中国では、儒教は秦の時代の焚書坑儒のように最初は多大な迫害を受けますが、漢の時代以降、国を治める宗教(理念というべきか)として取り上げられ、大きく変身してしまいます。親には孝、国には忠と言う部分だけが強調されて、礼儀作法が形式化されていきます。現状肯定の支配者に取って、都合の良い考えですね。
一方、中国が宗主で周りの国が家来といった、中華思想が段々強化されていきます。いわゆる朝貢貿易です。歴史上、王国が誕生すると同時に王国の周辺の民族を見下すような自己中心的な考えは多かれ少なかれ見られるものですが、中国ではこの考え方が異常に発展してしまいます。中国独特の歴史的、地理的な環境がそのようにさせたようです。
一つには、儒教が中華思想を肯定し、強化する役割を果たしたようです。また、中国は何度も周辺の遊牧民に支配される歴史を経験しています。このような支配を受けた経験は、その劣等感の裏返しで、かえって選民思想のようなものを強化していく作用があるようです。
一方の韓国での小中華思想は、とりあえず中国を親と仰ぎつつ、自分はその第一の継承者として周辺の民族を積極的に見下す。朝鮮と言う国は、中国の影響をはねのける代わりに従属の道を選んだ。日本やベトナムとは異なる道だ。総ての文化は韓国から日本へ流入したと信じたい。コメも、仏教も、漢字も、カラオケも、寿司も、血液型性格判断も、終身雇用制度も。これが韓国の実態。結局見たいものしか見ないし、見たくないものは否定する。これが歴史認識の違いと彼らが声高に主張していることの真実です。
 中国も、尖閣列島の問題も、スプラトリー諸島の問題もすべて同じ。総て自己中心的な発想ですから解決するはずもないわけです。外交問題ではこれからも色々問題を起こすでしょうが、常に発想は自国中心。力の外交を繰り広げると予測されています。
 まあ、あまり隣の国を批判するのも格好いい話ではないので日本のことを振り返ると、戦争中の日本は、まさしく中華思想ならぬ皇国史観に塗り固められていて、あまり自慢できる話でもないですね。大東亜共栄圏などまさに中華思想とウリ二つ。劣等感に起因する排外思想、現実を見ないで過去を美化する史観。ちょうど今の北朝鮮と同じですね。このような民族主義的な歴史観、そろそろ終わりにして欲しいですね。

世界の歴史の部屋
裸坊達の部屋

コロンブスのお土産

 スペイン・イサベラ女王の資金援助で新世界に到達するコロンブス。1492年西インド諸島のサン・サルバドル島に上陸する。地元原住民の歓迎を受けるも、コロンブス本人は、金と奴隷の略奪しか興味がなかったらしい。要は海賊ビジネスが生業だった訳。ただ、インドに行った証明に胡椒(pepper)を持ち帰る必要があった。胡椒はインド原産で大変な貴重品。もちろんここは、本当はインドではないので、胡椒なんて手に入る訳がない。ところがここに素晴らしい代替品があった。唐辛子である。これも、英語ではpepperだ。以後、世界中で大流行の香辛料になる。本家の胡椒を凌ぐほどに。ただ、コロンブス自身は、インドに行ってないことがバレてしまい、晩年は不幸な人生だったとか。

 ところで、コロンブスが持ち帰った農作物は、非常に貴重なものが多く、世界中の人々の農業や食文化に多大な影響を与えている。例えば、下記のような作物が挙げられる。このうち一部は、コロンブス以前に別のルートで広まったと思われるものや、より後の時代に旧世界に伝えられたと思われるもの混じっているが、スペイン人による完璧な破壊略奪で滅ぼされた新大陸の文化の高さを証明している。

1.唐辛子…ナス科トウガラシ属、中南米を原産。
2.ピーマンやパプリカも唐辛子の変種。
3.トマト…ナス科ナス属、南アメリカのアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産。
4. ジャガイモ…ナス科ナス属、原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。
5. タバコ…ナス科タバコ属
6.カボチャ…ウリ科カボチャ属、原産は南北アメリカ大陸。
7. サツマイモ…ヒルガオ科サツマイモ属、
8.トウモロコシ…イネ科の一年生植物。
9. 落花生…マメ亜科ラッカセイ属、南米原産。
10. いんげん豆…マメ科、アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税として徴収

非常に多彩です。1~5がナス科というのも面白いですね。インカのナスカ絵…ダジャレ。世界に4大穀物…小麦、米、トウモロコシ、ジャガイモ。このうち2つが米大陸原産。トウモロコシとサツマイモは10世紀頃に既にポリネシアで栽培が記録されており、もっと前に伝わっていた可能性もあるそうです。唐辛子は、秀吉の朝鮮出兵の時に日本から朝鮮半島に伝わったようです。

世界の歴史の部屋

アイヒマン裁判

アドルフ・オットー・アイヒマン(1906年~ 1962年)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割をになったとされている。
Eichmann
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行される。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑。
 アイヒマン氏は、アルゼンチンで家族を持ち平穏な余生を送っていたようだ。イスラエルのやり方は、当然国際法違反であるが、アメリカの強い後ろ盾もあり不問にされた。世界のメディアは、アイヒマンを凶悪な性格に描こうと待ち構えていたが、アイヒマンの答弁は終始、「法と上司の命令を忠実に守っただけで、自分には罪はない。」というものであった。要するにごく普通の一般人。この裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、この記録を発表するが、ユダヤ社会を含めメディアから猛烈な批判を受ける。でも、事実なのだから仕方がない。でも、あなたがアイヒマンの立場だったら、上からの命令を敢然と拒否できたでしょうか。

世界の歴史の部屋

中国は何故世界の覇者になれなかったのか

明の時代、中国の鄭和は大艦隊を引き連れアフリカの東海岸(現ケニア)まで遠征する。鄭 和(1371年 ~1434年)は、中国明代の武将で12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられる。鄭和の船団は途中、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、中国の威を誇示して回った。コロンブスが米大陸を発見する(1492年)よりも60年ぐらい前のことだ。しかも遠征の規模も桁違いに大きい。
ジャンク船  コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはあまりなかったからという説もある。
しかし、3万人もの人材を海外に派遣して各地の地理情報を取りまとめているのだから、利用の仕方次第でいくらでも歴史に大影響を与えることは可能なはずだ。このような海外派遣を続けていれば(資金が枯渇しなければ)、インドやアフリカの国々も中国に朝貢するようになり、世界帝国の中心として覇をとなえることも可能であったはずだ。
鄭和の遠征鄭和の遠征      コロンブスコロンブス
 ただ、はっきり言えることは鄭和のプロジェクトは、国策プロジェクトで、当時の明は中央集権的国家であった。一方、コロンブス達は得体の知れないならず者集団。ベネチアからの資金やイサベラ女王の支援(ポルトガルには断られる)のおかげで成立した博打のようなプロジェクトだ。だからどちらもプロジェクトとしては成功しても、歴史に与える影響でコロンブスが勝っていることになる(歴史の逆説みたいなもの)。
 当時の明は、民間による海外貿易は禁止している。第三代永楽帝は、クーデター的に政権を確立したこともあり、積極的な海外拡張策を取り、周辺諸国に朝貢を促す政策を実施。基本的に朝貢貿易というのは、朝貢国よりも宗主国の方が持ち出しの経済的には割が合わないシステム。度重なる遠征と朝貢から明の財政は逼迫、以後中国は二度と海外に目を向けることはなくなる。ヨーロッパ諸国が海の覇権を確立する絶好の好機を提供したわけだ。
しかし、鄭和の艦隊が去った後は、その隙間はしばらくの間の海は、イスラム商人たちの独壇場(インドや東南アジア諸国も入れたか)となったはず。ここを避けて西へ向かったのがスペイン、強引に割り込んだのポルトガル。どのようにしてポルトガルが海の覇権を手に入れたのか、これも歴史の面白いところ。
ダウ船ダウ船      キルワキルワ遺跡(タンザニア)
 中国は、孔子の生まれた春秋戦国時代を除くと、ほとんどの時代統一王朝が存在している。たまたま、前の王朝が倒れても次の新しい王朝が統一する。基本的にはトップは倒れても官僚制は存続しているわけ。明の前の元王朝の時だって、王家の人間は処刑されても官僚たちはそのまま利用される。だって、極めて少人数のモンゴル人がどうやって人口の多い中国を治めるんだ。これが中国の歴史的な体質となってずっと残っている。いわゆる律令国家だ。朝鮮も同じ。ところが日本だけは、例外的に武士が政権を握りいわゆる封建制度となる。ヨーロッパもローマ帝国崩壊以降封建制に変わる。封建制は中央集権に対して非常に地方分権型。多数の国家が覇を競って競争する。封建制は中央集権に対して国の運営としては効率が悪そうだが、自由競争や思想の多様性が高い利点もあり結局、技術の分野では成功する。
中国は世界に先駆けて安定して平和な中央集権の確立に成功した。その結果は、当初技術面でも素晴らしい発展を見せる。紙、羅針盤、印刷術、火薬、鉄砲(のようなもの)等、世界中の近代以前の主要な発明は総て中国産と言っても過言ではあるまい。シルクロードで運ばれる絹も中国。スパッゲティだって元をたどれば中国の麺だろう。ところが、明代以降の中国は、海外から目を反らし、国内の技術の発展をむしろ禁止して、ひたすら政権の安定だけを目指すようになってしまう。日本も江戸幕府は民間の海外貿易を禁止したり、海外の情報を入れないようにして、300年の平和と安定を維持したが、政権の基礎が封建制であったため、諸藩から生じる討幕の動きを止めることができなかったわけだ。安定や平和、秩序を求める国民の要求にも一見合致した政策が、結果として世界の大勢に遅れ、国民にも多大な負担を強いることになってしまうわけだ。

世界の歴史の部屋

めげない北朝鮮

米トランプ政権の強硬な姿勢にもかかわらず、ますます戦術をエスカレートして行く北朝鮮。国際的制裁を声高に叫び続けるだけの阿部政権。果たして、落としどころはあるのでしょうか。そもそも、北朝鮮の歴史をたどってみれば、絶対に折れることが無いことは明白なはずですが。
朝鮮戦争が1953年に国連軍と中朝休戦協定が結ばれて以降、米国と朝鮮は未だに戦争が終わってない状態にある訳で、今まで北がもっとも望んでいたのは停戦協定と平和条約だったはずなのです。北朝鮮は、日本の敗戦とドサクサに紛れて金日成がソ連後と中国の力を借りて軍事力で簒奪した国家で、別に多くの国民の支持を集めて造られた国家ではありません。その意味では中国も一緒で、日本軍と戦っていた中華民国の軍隊を背中から鉄砲を打って倒したような政権。中国が米国を打倒した言うことで党内で一躍力をつけたのが毛沢東。結局朝鮮戦争で一番得をしたのは毛沢東と金日成です。
これに対して、米国の対応がまた不可思議。マッカーサー等のさらなる進行をトルーマン大統領は拒否し、今の38度線で休戦協定。これはソ連との約束とのこともあるようですが、その後中華民国への支援の梯子を外し(ルーズベルトの時代までは良かった)、中華民国は台湾へ追いやられることになります。同時に英国のチャーチルの「鉄のカーテン」演説を受けて、反共活動を開始します。
金日成
まあ、トルーマン大統領にとっては、世界とは米国と欧州。その他の野蛮人の国はどうでも良かったのかもしれませんが。もう一つ理由を挙げれば、当時事実上の唯一の戦勝国の米国は、強力に育った軍事力を戦後どのように処理して行けば良いか分からなかったと言う問題があったようです。熱い戦争は困るけど、冷たい戦争、お互いに睨み合って軍事拡張を続ける。時々小さな小競り合いがある(代理戦争)状態が大変好ましかったということもあるでしょう。軍隊と言う組織は超巨大な官僚組織、組織を縮小、予算を減らすなどしたら大変です。更に大戦後の米国軍は諜報能力も絶大で、あることないことでっち上げ政府を操ること等、お手の物。この軍と防衛産業、諜報機関、西欧諸国の同様な機関が協力して冷戦構造を作りあげられました。
金日成
この間、北朝鮮は常に米国から見て悪役、北朝鮮から見たら米国が悪役の体制が続けられてきました。北朝鮮の意志とは全く関係なく米国の都合です。もし、今米国が北朝鮮と和解して交流を開始したらどうなるのでしょう。韓国にいる米軍は必要なくなります。日本の沖縄基地も不要になってしまいます。トランプはそれでも良いと思っているのしょう。でも、米国の主流派は決してこのような状態は許せません。日本政府も韓国政府も対米依存ですから、米国が出て行ってしまうことには大反対でしょう。北朝鮮とはいつまでも敵対していて欲しいのが本音です。北朝鮮も反米を国是として国をまとめてきたことから、停戦協定を行うと、国家の存続理由が無くなって崩壊してしまう懸念もあるのでしょう。結局当事者達は今の状態が継続することを望んでいる訳です。一番困るのは北朝鮮の一般の民衆でしょう。
金日成
北朝鮮の国家体制は、戦前戦中の日本と瓜二つです。全体主義国家。天皇の代わりに金王朝があります。お国のために死ぬことを教育された人々、原爆でも落ちるまでは戦う覚悟が出来ているでしょう。トランプは多分自分から攻撃をかけることは無いでしょう。しかし、北朝鮮封じ込め戦略を取り続けた軍部には、北朝鮮が米国に届くミサイルを開発したことは大変なショックを受けているはずです。過去の日本と同じように玉砕戦を挑む可能性が現実味を帯びて来るからです。経済封鎖に当たって、中国とロシアが原油の供給をストップすることに躊躇したのは日本が真珠湾を攻めた前例があるからです。
停戦の最後の切り札は、北朝鮮が核開発を止めることでしょう。しかし、米国は今持っているものも破棄するように要求するでしょう。これは絶対にありえないストーリーです。イラクのフセインが大量破壊兵器を破棄してもまだあるはずだと因縁をつけられ最後に潰されましたね。リビアのカダフィも同じか。北朝鮮は、イラクやリビアのの二の舞にはならないでしょう。結局、現状を認め核兵器開発を止めることで手を打つところが落としどころでしょう。だから、米国世論が和平に傾くのを待っているのがトランプの真の狙いでしょう。和平が成立すれば、米国は韓国、日本から膨大な軍事力を引き上げることが出来、膨大な経費が削減できます。ただ、和平が成立すると韓国、日本も大幅な政策変更が避けられなくなるでしょう。北朝鮮が先に手を出せば話は簡単。戦争で片が付くでしょう。だから北もうかつに手を出さない。最後は米国の方が何らかの妥協案を出すかも。とすると現在駐留している韓国や沖縄の軍を引き上げることもトランプの視野にあるかも知れませ。

世界の歴史の部屋

忘れられた巨人The Buried Giant

2017年のノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロ氏の小説です。この舞台設定がとてもユニーク。舞台はイギリス、主人公の老夫婦は、ブリトン人。4世紀から5世紀頃大陸からサクソン人が大挙して侵入してくる。日本で言えば、縄文社会に大陸から弥生人が大挙してやってくるような状況か。でも、日本では大和政権が確立されていく頃。ローマ帝国ではキリスト教が国教となり(392)、ブリトン人はキリスト教徒という設定です。
ブリトン人は、ストーンヘンジ等の新石器文明を残した人々の末裔か、あるいはその後に来た人々か。また、サクソン人は、ドイツのザクセンと同語源でゲルマン系でしょうが、今ではアングロ・サクソンとして英国人の主流となっていいます。
小説の設定では、ブリトン人は山の斜面の横穴式の住まいを好み、サクソン人は環濠集落を築いており、言語も異なり文化も異なるものの平和な時代にはお互い多少の交流もあったという設定です。
アーサー王
ここで、出て来る巨人とは、「アーサー王」という伝説上の人物でしょう。マーリーンという魔法使いの参謀がいたり、ドラゴンやその他の怪獣を操ったり、また選ばれた騎士達の力で国土を一旦は統一したという設定だ。アーサー王はブリトン人ということで、実は戦いにおいて大量の虐殺も行い、そのため一部のサクソン人達は復讐心を燃やしブリトン人を殲滅しようと密かに計画している。一方、ブリトン人の中にはアーサー王の継承者を自認する人たちも存在している。一方、ドラゴンの息から吐き出される気が人々の過去の記憶を消し去るという魔術を持っている。主人公の老夫婦も過去の記憶が消されており、最初は二人とも認知症でもかかっているようだが、読み進めていくうちにドラゴンの霧というのが実際に作用していることが分かる。
主人公の老夫婦は、過去の記憶を求めて旅に出る。そこで色々な人物に会う。最後に竜は退治され人々は過去の記憶を取り戻すが、本当にそれは幸せなことなのか。
ブリトン人とサクソン人の遭遇、これは今の世界にも当てはまる重要なテーマです。EUにはイスラム教徒が難民として大挙して押し寄せてくる。日本だって将来、他人ごとではないかも知れません。

世界の歴史の部屋

戦後の米国覇権とその政策

1.戦後処理
 太平洋戦争は、一般に「真珠湾攻撃・マレー作戦・開戦の詔が出された1941年12月8日から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とされているが、英国はこの戦争でアジアでの覇権を失い、欧州では、戦勝国側も疲弊しきっており、米国の一人覇権が確定する。米国の当初の戦略は、戦勝国5か国の共同管理を想定しており、国連の英語名のUnited Nationsは、戦時中に使用していた単に連合国そのままである。
 米国の外交戦略は、もともとはモンロー主義(第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ モンローによって提唱された)に代表されるようにヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉が基本であった。 実際、米国は独立当初から、各州の自立を重んじる分権派と連邦政府の強化を目指したいエリート層との間で峻烈の戦いが続いて来ている。今年、大統領になったトランプのアメリカ第一主義や、共和党の茶会派等は、アメリカ庶民の本来の本音の草の根の意見を代表しているともいえるでしょう。
 米国中心の占領軍の、日本に対する政策は二度と戦争できないように極力力を削ぐものではあったが、一部国民の総意に基づく民主主義の理想を実現しようという意図もなかったとは言えない。農地解放、平和憲法等は自国では実現できない政策を実行に移したものともいえる。どちらかというと分権派的だ。それまで禁止されていた共産党の活動も合法化されるなど、戦後民主主義の時代を迎えるかと思われていた。また、イラク占領の際には、フセイン政権下の官僚機構をズタズタに破壊してしまったことが今の混迷の一因ともいわれているが、日本の場合、吉田茂主相の尽力もあり、官僚機構は米国の御用聞きとして無傷で残された。ただし、その代償として戦後の日本では、官僚主導の対米従属一辺倒の政策を変えられない状況となっている(これも米国の覇権戦略か)。
2.魔女狩りの時代
 ところが、その後米国では、戦略に大転換が行われる。発端は、当時英国の主相を退任した後のチャーチルが米国で講演した、いわゆる鉄のカーテン発言(1946年3月)だ。この時の米国の大統領は、トルーマン。米国では、マッカーシー旋風が吹き荒れ、日本でもマッカーサーの指令でレッドパージという政策が断行される。逆コースと言う時代である。公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とレッテルを貼られた人々裁判にもかけずに解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職したとされる。「赤狩り」とも呼ばれた。
3. 冷戦の始まりと朝鮮戦争
 どうも、トルーマンの一見弱腰と見られる戦略は、初めから意図したもので、トルーマンにとって、世界とは米国、ヨーロッパ、反共の拠点となりうる日本だけで、その他の地域は、とりあえず放置しておいてもいいと考えていたのではないかと思える。このようにしてチャーチル~ルーズベルト~トル-マンの冷戦構想が出来上がる。英国は今までの覇権を米国に移譲する。米国は英国をリーダとするヨーロッパに戦後復興を支援する。戦争中に増大した軍事力は、冷戦構造を持続することで維持する。そのためにはソ連邦には永続的な敵としてふるまってもらう。(2017.5.24)

鉄のカーテン…チャーチルの講演
 (前略)つい最近まで連合国側の勝利によって光輝いていた状況に影がさしてきた。ソヴィエト・ロシアとその国際共産主義組織が近い将来に何をなさんとしているのか、又、彼等の膨張主義的傾向や(他者にイデオロギーの)転向を強いる傾向に限界があるとすればそれは何なのか、誰にもわからない。再びドイツが侵略する事態に備えて、ロシア人がその西部国境の安全保障を確保する必要があることを我々は理解できる。
 (略)しかし、ヨーロッパの現況についての確かな事実を諸君にお伝えすることは私の義務なのである。言いたくはないが、この確かな事実を伝えることが私の義務と思うのである。バルト海のステテティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降された。このカーテンの裏側には、中欧・東欧の古くからの国々の首都がある。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブタペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な全ての郡市とその周辺の住民は、ソヴィエト圏内にあり、何らかの形で、ソヴィエトの影響下にあるばかりか、ますます強化されつつあるモスクワからの厳しい統制を受けている。(略)
 この『鉄のカーテン』を越えて西ヨーロッパまで手をのばしてきた各地の共産党第五列は、文明に対する挑戦である。ソ連が戦争を欲しているとは思わないが、彼らの求めているのは戦争の報酬であり、彼らの権力と主義のかぎりなき拡張である。だから手遅れにならぬうちに、すペての国にできるだけ早く自由と民主主義を確立しなくてはならない。ぞのために民主諸国とりわけアソグロ・サクソソの人々はしっかりと団結する必要がある。(略)
 さもなければ、ふたたぴ暗黒時代に逆もどりするかもしれない。私はあえていうが、用心してもらいたい。われわれに残された時間は少ないかもしれぬ。もう手遅れだということになるまで事態を放任しておくようなやりかただけは、おたがいにしないでおこうではないか。
スターリンの「鉄のカーテン」演説批判(抜粋) 『プラウダ』(1946.3.13)
 チャーチルの演説は、連合国間に不和の種をまき、協力をいっそう困難にすることをめざした危険な行動であると考える。それは平和と世界の安全をあやうくするものである。じっさい、チャーチルは、いまや戦争屋の立場に身をおいている。しかし彼はそこに一人でいるわけではない。イギリスだけでなく、おなじくアメリカにも彼の友人がいる。この点でチャーチルとその友人たちは、ふしぎなほどヒトラーと彼の一味を思わせるではないか。
「鉄のカーテン」演説
CIA NSC チャーチル~トルーマン 冷戦 鉄のカーテン
鉄のカーテンが降ろされた。チャーチルは、8月8日には、驚くほど楽観的だった。広島に Little Boy が落とされた後、長崎にFat Manが落とされる前の、8月8日だ。
チャーチルはトルーマンに機密電報を送り、「広島への攻撃は、この新しい力が正義の力となるか邪悪の力となるか、の可能性を持っていることを証明した。あなたと私は、この大戦争を統括する政府の元首として、世界の平和を促進するために、この偉大な力を我々の国益達成のためではなく、人間性を守る道具として利用する意思を表明した共同宣言を発表すべきだ」と述べた。
それから7カ月後、1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で、スターリンの冷酷な政府を厳しく攻撃した「鉄のカーテン」の演説をし、「国際連合は武装し、キリスト教文明を共産主義の脅威から護らねばならない」と言った。
トルーマン大統領も聴講していた。

ソ連封じ込め
トルーマンは、国連加盟国に原子力エネルギーの情報を提供すべきではないかというスティムソン陸軍長官の提案について、閣僚全員に意見を差し出すよう求めた。
「独占を」という意見もあれば、「完全公開」という意見まで様々だったが、ソ連の侵略的政策との絡みで、トルーマンがアメリカの原爆独占を続ける決定を出すのは当然であった。
1947(昭和22)年9月26日、新設された国家安全保障会議(National Security Council, NSC)は、ホワイト・ハウスでの最初の会合を開いた。そこで、CIAの最初の正式報告が提出され、アメリカの外交政策が明確にされた。「ソ連封じ込めという観点から、地域の重要順位は、⑴西ヨーロッパ、⑵中近東、 ⑶極東となる。日本は、ソ連極東地域に対抗する力として早く発展する資質を持つ唯一の地域なので重要である」

世界の歴史の部屋

日の名残りThe Remains of the Day

「日の名残り(The Remains of the Day)」は、ノーベル文学賞を受賞した英国の作家カズオ・イシグロ氏の作品です。歴史的背景は、2つの世界大戦のはざまの、やや没落しつつある英国。主人公スティーブンスは、有力貴族ダーリントン卿の執事。ダーリントン卿を骨の髄まで真髄して忠誠を尽くそうとする。「執事道」を究めた成功者と自認している。ダーリントン卿のもとには世界中(といっても米国を含む欧米諸国だが)の卿の人徳をしたいお忍びで相談に来る。卿は、来る人拒まずで常に公平を理想としていた人徳者。国際会議や条約締結の下準備として、ダーリントン卿の屋敷を借り、丁々発止の議論が行われている。そのため、スティーブンスは執事の仕事を通して各国の主要な人々の世話をする機会があり、自分も世界を動かす役割の一部として貢献していることに自負心を持っている。
しかし、当時の外交は、実際のこのようにして動かされていた一面もあったようです。ダーリントン卿自身もこのような場を提供することが平和と国際正義実現のためと思い精力的にホスト役を引き受けていたようだ。客の一人に「普通選挙だ民主主義だといってみても、婦人会の人々が戦争遂行なんてできるわけがない。」と言わせている。各国のエリート達が腹を割って話し合いをする場が必要なわけだ。しかし、戦争に対する危機感とそれに伴って台頭してくる国家主義によって、話し合いで解決しようという土壌は次第に失われていく。結局、第二次世界大戦後にはダーリントン、対独協力者として失脚し、屋敷は米国の金持ちファラディー氏のものになり、スティーブンスは、屋敷の管理人(肩書は今まで通り執事だが)として再雇用されることに。スティーブンスは、主人からもらった休暇を使って、元屋敷で働いていた女中頭を再雇用する目的で旅をする。旅の途中で色々な経験をする。なんせ主人公は人生ほとんどの期間、屋敷の中から外へ出たことがなかったのだ。また、実はその女中頭が、自分にたいして恋心があったこと(執事の仕事に夢中で気がつかなった)を初めて知る。現在は結婚していて孫が複数いることを知らされる。さすがに今までの自分の価値観に疑問を持つようになり、新しい人生を始めることを決意する。
「執事道」、結構日本の武士道と一脈通じるところがあるのでは。武士だって、主君のために命を捨てる覚悟を持てるのは、その主君を真から尊敬してないとできないこと。また、現在の外交の場でも、表向きニュースで扱われる動きの裏では、プライベートな話し合いの場が重要であるという事実は変わっていないのではなかろうか。いろいろと考えさせられる課題の多い良い作品だと思います。訳者「土屋政雄」氏の訳も読みやすい。

世界の歴史の部屋

盛岡の偉人達

盛岡という所は、なかなか人材の豊富な土地である。以下、一例を挙げたが他に漏れている方々も多いかも。筆者の浅学のためである。しかし、時代を経ても色あせぬ業績の多くは今後も受け継がれていく価値のあるものが多いでしょう。

文学系


野村胡堂(1882年~1963年)

盛岡尋常中学校(現:盛岡第一高等学校)卒。『銭形平次捕物控』で有名です。空想科学小説『二万年前』等の著作も。私は読んだことありませんがネットオークションではかなり高値がついていました。

金田一京助(1882年~1971年)

石川啄木とは盛岡高等小学校(現下橋中学校)以来の友人であり,啄木の死まで親交が続いた。東京帝国大学時代,アイヌ語に興味を持つ。のちに北海道へ行き現地を調査,アイヌ民族に伝わる叙事詩ユーカラの存在に注目する。日本でアイヌの研究をするならこの人抜きには語れません。

石川啄木(1886年~1912年)

盛岡ゆかりの詩人。1895年(明治28年),幼きころより優秀だった啄木は岩手郡下に一つしかない高等小学校へ通うため,親元を離れて盛岡で暮らす。その後1902年(明治35年)に盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)を中退するまでの7年間を盛岡で過ごしている。『一握の砂』『悲しき玩具』早世の詩人の業績は偉大です。短歌の世界この人を越える存在はこれからもなかなか出てこないでしょう。

宮澤賢治(1896年~1933年)

909年(明治42年)4月,賢治は親元を離れて盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)に入学する。この間仏教や文学に親しみ, 1915年(大正4年)4月,盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に入学,成績優秀な賢治は関豊太郎教授に目をかけられ,地質や土壌についての教えを受けた。農学者だった訳。『注文の多い料理店』は今でも名作です。盛岡第一高等学校42年卒業生を始めとする記念碑の除幕式の様子をPDFファイルに添付します。新しいウィンドウで表示します。
宮沢賢治記念碑

政治系


原敬(1856年~1921年)

1906年(明治39年)1月,第1次西園寺内閣で内務大臣(のち逓信(ていしん)大臣を兼務)となるまで原は郵便報知新聞記者,天津領事,農商務省大臣秘書官,外務省通商局局長,大阪毎日新聞社社長など多くの職を務める。特に農商務省時代には“カミソリ陸奥”の異名を持つ陸奥宗光の知遇を得た。のち1918年(大正7年)9月29日に第19代内閣総理大臣となるまで,第2次西園寺内閣における内務大臣兼鉄道院総裁,第1次山本内閣における内務大臣を歴任した。原は平民宰相と呼ばれ,近代日本における政治家の中でもその評価は高い。これは明治初期より続いた薩摩(鹿児島),長州(山口)等の出身者における政治の独占,いわゆる藩閥政治に対して政党政治で対抗し,第3代政友会総裁として政党内閣を組閣したことが理由として大きい。しかし,1921年(大正10年)11月4日東京駅構内で,原の政治姿勢に反対する19歳の青年に刺殺される。原は京都に向かう途中だった。
新渡戸稲造(1862年~1933年)

札幌農学校在学中にキリスト教の洗礼を受け,卒業後にアメリカ,ドイツへ留学し農学,経済学などを学ぶ。国際連盟の設立時にはその深い学識と高潔な人格のため事務次長に推され,スイスに渡り連盟の発展に寄与しますが、日本が連盟脱退の際には、日本の立場を国際的の理解してもらうため奔走するが、日本側でも海外でも理解されなかったようです。日本人の道徳観を世界に示そうとした、英語で書かれた著書『武士道』は、世界的なベストセラー。日本の英語の教科書にも是非取り入れて欲しい教材です。旧5,000円札の肖像として人々に親しまれています。

米内光政(1880年~1948年)

盛岡尋常中学校を(現:盛岡第一高等学校)へて海軍兵学校へ進み,卒業後海軍少尉に任官,日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し,その地の実情を直に見聞した。日本と他国とを冷静に見比べる米内の姿勢は,このころに培われた。1937年(昭和12年),林内閣のもとで海軍大臣に就任し,海軍次官を務めた山本五十六(いそろく)とともに,陸軍の主張する三国同盟に反対し続けた。天皇の信頼も厚く,1940年(昭和15年)には岩手県出身者として3人目となる内閣総理大臣に就任している。しかし陸軍の反対にあい半年後に退任,米内(よない)が政治の表舞台から去るとともに日独伊三国同盟は締結され,日本は太平洋戦争へと突き進むこととなる。

実業界


鹿島精一(1875年~1947年)

1888年(明治21年),盛岡~一関間の鉄道敷設が開始され,工事を請け負った。この縁で鹿島組組長鹿島岩蔵の知遇を得た精一は県立岩手中学校(現:盛岡第一高等学校)卒業後に上京,岩蔵の援助を得て東京帝国大学土木工学科を卒業した。のち岩蔵の長女糸子と結婚,婿養子となって鹿島を名乗り,1912年(明治45年)の岩蔵逝去後は鹿島組3代目組長に就任した。精一は1930年(昭和5年)に同社を株式会社に改め,株式会社鹿島組初代社長となる。この間にそれまでの経営から堅実で近代的な方針に切り替え,拡張された事業を鉄道建設に一本化した。
“鉄道の鹿島”,この名は東海道線における熱海‐三島間の「丹那(たんな)トンネル」の難工事を行ったことによって与えられた。全長7.8キロメートルの当時日本一の長さに加え,鹿島組が請け負った西口(三島口)は地盤が脆弱な難工事区域で,これまでの工法は役に立たなかった。精一は陣頭に立ちエアーロック工法,セメント注入法などを新たに発案,17年の歳月をかけて1933年(昭和8年)にトンネルを貫通させた。この工事で開発された多くの工法や経験,技術が,“世界の鹿島”の基礎を作り上げたと言える。また,東京土木建築業組合長,日本土木建築請負業者連合会長,土木学会会長などを歴任,土木建築業界全体の発展にも貢献した。精一は自らが岩蔵のおかげで道が開かれたように,向学心を持ちながらも進学できない学生に対して援助を惜しまなかった。

inserted by FC2 system