歴史の部屋

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歴史の部屋

歴史の学習とは。歴史の好きな高齢者は多い。戦国時代の城めぐり。多くの謎に包まれた古代史の旅。歴史の研究はどんなテーマでもはまるととても面白く興味が尽きない。でももう少し視野を広げると全く異なった世界が広がる。例えば、宇宙の歴史138億年。ビックバンに始まり、未だ膨張を続けている宇宙とは一体何なのか。太陽系の歴史約46億年。これほとんど地球の歴約30億史と同程度。生命の誕生は、年前位か。でも、多細胞の動物が大爆発したのがカンブリア紀で、約5億年前。この時代の生き物はものすごく面白いですね。恐竜が絶滅したのが6500万年前。人類が祖先は数百年前で、ホモサピエンスが登場するのはせいぜい3万年前ぐらいで、縄文時代は1万年前ぐらいか。このあたりから世界中で農耕が開始される。コンピュータの歴史は、精々数十年。だが、もう数十年で人間のほとんどあらゆる能力を凌駕することと言われている。ここでは、このような超マクロな視点で、歴史を楽しみたいと思ってますが、たまには重箱の隅みたいなミクロな話題もいいかもしれませんね。

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歴史学とは科学か

歴史学とは科学か

目次    
民族史観 皇国史観 マルクス史観 科学的な見方

裸坊達の部屋

歴史学は、過去の我々が辿ってきた道のりを正しく記録し.後世に伝える重要な社会科学の一分野です。でも、一般人の我々に取っても歴史の勉強は為になるし、とても面白いですね。格言にもあります。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」。でも、歴史も偏った見方をすれば、都合の悪い部分を無視して、都合の良い所だけつなぎあわせて、虚構の世界を紡ぎだすことも可能です。似非歴史学とでもいうものも多数存在していることにも気を付けないといけません。良く言われる〇〇史観などというものは、あくまでも仮説であり、実証による裏付けが必要なものです。例を挙げると、皇国史観、マルクス史観、民族史観、進化論的史観など色々あります。史観というものは、物の見方ですので、自分なりの史観を持つことは決して悪いことではないと思います。歴史小説などでは、作者の視点はある程度はっきりしている方が面白いかもしれません。しかし、歴史学が科学であるためには、常に証拠による検証が不可欠です。
     地球の歴史、生物の歴史は、自然科学の実証的な方法がかなり確立しています。しかし、今日我々が知っている自然の歴史も、長い間の宗教的史観、特にキリスト教史観との論戦の中で育まれてきたことを忘れてはならないでしょう。ここ20年で大きく書き換えられた事実は数えきれないほどあるし、日々進化しています。

歴史学とは科学か

民族史観

韓国は近年、日本に歴史認識の改革を求めていますね。でも、我々日本人には、彼らが何を求めているのか今一つ分からないですよね。いま、韓国の歴史学は、民族史観一色で、実証的な研究をしようとしても出来ない状況なのです。歴史の研究は、本来過去の古文書等を根気良く読み解いて、ジグソーパズルをつなぎ合わせていくような、地道な作業が欠かせません。韓国の歴史学の分野で成功するためには、先人の研究を解釈しなおして、より国民や国家が喜ぶような新しい解釈を創造するだけです。
     檀君神話は、日本の神話と同じで、国の創生神話です。我が国では、神武天皇や神功皇后の話はそのまま事実と信じるような人はいないと思います。日本が中国を国交を持った時代、中国に対抗するため、国の歴史を長く見せる必要に迫られで、当時の大和朝廷の学者たちが知恵を絞って作り上げたのが天皇の系図であることは自明のことです。神話をそのまま信じると神武天皇は縄文人になってしまいます。檀君神話もちょうど同じタイミングで成立したのでしょう。もちろん、民族史観が国是の国ではこのようなことを否定するような発言はブーです。

      韓国の誕生の歴史は、悲惨なものがあります。朝鮮戦争のドサクサに紛れて成立したような国です。民族史観の学者達には見たくない現実です。因みにウィキペディア(ネット上の百科事典)で朝鮮戦争の項を引いてみると分かります。日本語のサイト、結構長いですね。朝鮮戦争は戦争特需もあり、日本の産業発展にはプラスの効果がありました。英語版、もちろん長いです。国連軍と言っても実際に戦ったのはアメリカですから。ロシア語、中国語、北朝鮮の同盟国だった訳ですから、結構長々と何か書かれています。中身は読めないですがそれだけ重要な出来事だった訳です。ところが、韓国語版は、日本語版の半分ほどしかありません。朝鮮戦争の歴史の記憶は国民から削除したい事柄のようです。

はっきり言って、当時韓国民は何も出来なかったのです。日本軍の引上げた後の空白。その空白を狙った北朝鮮軍の侵入。当時の韓国の指導者は李 承晩(イ・スンマン)、別に国民の支持があったわけではなく、米国でのロビー活動が功を奏して、地位を獲得しました。因みに彼は、両班(ヤンパン、当時の朝鮮の特権階級)の出身です。急遽軍隊を造っても、町のゴロツキをかき集めたもので、略奪はする、戦えば逃げる、どうしようもない組織です。結局できることは、国連軍に従軍慰安婦を大量に送ることだけ。だから、今問題になっている従軍慰安婦の中にもこの時韓国の民兵(ゴロツキ集団)によって強奪された人々も沢山いるはずです。国連軍様々ということです。もちろん、こんなことは民族史観の教科書では抹殺されているでしょう。李 承晩は建国の英雄です。でも、しばらく韓国は低迷が続きます。経済でも北が上です。
李承晩李承晩      朴正煕朴正煕      安重根安重根

この状態を大幅に変えたのが朴正煕(パク・チョンヒ)です。彼は、大変な日本贔屓で、日本軍の占領が無ければ、学問も学べなかったし、軍人にもなれなかったと語っており、開発独裁をやり、日本の経済政策を取り入れ漢江の奇跡(ハンガン、かんこう)を成し遂げる。その娘が大統領を罷免された朴 槿恵(パク・クネ)である。朴正煕は、本当の意味で建国の父と位置づけられてもいい人物であろうが民族史観の立場では親日は悪であり、娘の方もそのような世論に気を使いすぎてあまり日韓関係は改善していな。

韓国の歴史上の英雄に安重根(あん じゅうこん)という人物がいる。朝鮮総督・伊藤博文を暗殺した単なるテロリストである。伊藤博文は、比較的穏健な開明派で、朝鮮総督となるなら適切な人物だったと考えられている。安重根は韓国ではいまだに義士として扱われているが、そういわないといけない雰囲気があるようだ。韓国は、民族史観を国是としているが、幸い我が国の今の歴史研究は、実証主義に基づく欧米の主流の考えに変わっている。歴史学は,ようやく科学(社会科学)としての市民権を得て来たようです。

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皇国史観

韓国が民族史観を国是としているように、戦前の日本は皇国史観が国是であり、この史観の教えるところと異なる学説は、異端として認められていませんでした。日本の神話に書かれていることは、疑ってはならないとされていました。皇国史観は、「親には孝、国には忠」といった儒教道徳と、江戸時代に出て来た国学の思想を合体させたようなものです。

水戸黄門水戸黄門      本居宣長本居宣長

国学は、幕末に尊王攘夷の思想の裏付けとなり、討幕運動の原動力としての役割を果たします。各藩が国のような状態の国民を一つまとめるためには、天皇という象徴が必要だったのでしょう。韓国の場合も一つの国民国家としてアイデンティを保つには、民族史観とか反日感情を共有させることが指導者には必要なのかもしれません。

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マルクス史観

人間世界は、原始共同体から王政、封建制を経て、資本主義社会、そして最終的には社会主義、共産主義に必然的に進化していくとする考えです。歴史上の出来事を何でも階級闘争に当てはめるステレオタイプにはうんざりです。各政治形態は、社会の上部構造、下部構造は経済が支えている。マルクスの友人エンゲルスは、この考えをダーウィンの進化論を発展させた素晴らしい考えと絶賛したとか。マルクス自身が暴力による革命まで考えていたのか、下部構造の経済の裏付けがないと社会主義など絵に描いた餅でしょう。
カール・マルクスカール・マルクス      エンゲルスエンゲルス

戦後、皇国史観にとって代わって、結構流行っていました。私の記憶でも中学校や高校の社会科の先生、こういう考えの人、多かったように思います。例えば歴史上の出来事に何でも階級闘争を持ち込むなど。また、マルクス主義でない人たちの中にも、政治の権力はだんだん下の方の人民に移譲されてきていると考えている人がいます。フランス革命、憲法の発布、議会政治、普通選挙、女性の参政権等々。これらの権利は人民が絶え間ない闘争の末勝ち取って来た血と汗の結晶と、多分学校の歴史でもそのような観点で教えられてきたのではないでしょうか。
生物の進化論でも、定行進化説といって進化には方向性があるという考えがあった。象の牙が段々長くなって来る。キリンの首が長くなる。人類はますます賢くなる(??)等々。生物の進化は環境への適応がすべてで、進化そのものには方向性は無いことは今では定説(中立説)。人類の脳の大きさも狩猟時代をピークにその後は一定か漸減の傾向。進化論を理解しているようで単なる勝手な思い込み。進化についてはまだまだ分かってないことの方が多いのです。

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科学的な見方

地球の歴史の見方は、ここ数十年で大きく変化した。その最大の原因はプレート理論の発展だ。地表の大陸の分布は、その下にある流動するマントルという巨大な部分の絶え間ない運動に支配されている。地球という巨大な生き物は今も我々の下でいまも動き続けており、人を含むすべての生物の運命を支配している。
生物の進化の粗筋もかなり見えて来た。生命という存在もどうも宇宙において地球だけのものでは無いようだ。地球の上に生じた、偶然ともいえる事象の積み重ねが今の人類の存在にも繋がっている。
ダイヤモンド博士に発せられた「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのか?」という、ニューギニア人の賢者から発せられた問いに対して、「単なる地理的な要因」(例えば、ユーラシア大陸の文明がアメリカ大陸の文明よりも高くなったのは大陸が東西に広がっていたためだから等)という仮説を提示し、「ヨーロッパ人が優秀だったから」という従来の根強い人種差別的な偏見に対して反論を投げかけ、世界的なベストセラーとなった。さらに、補足すると、もしニューギニア人の先祖がたまたま今のヨーロッパに住み着いて、白人の先祖がニューギニアやオーストラリアに住み着いていたなら、君たちニューギニア人の子孫たちが世界を席巻することになったはずだということだ。まさに地球の歴史という観点からの見方だ。
多くの歴史的な物の見方には、著者本人も気づかないうちに、根強い人種差別的な偏見、特定の宗教的な偏見、職業的な偏見などに左右されがちである。
実際に歴史を動かして来た原動力は、自然災害、異常気候からの不作やその結果生じた民族の大移動など、偶発的で対応の難しい事態への必死の対応の連続であったはずだ。歴史の勝者も敗者も各々懸命に生きて来たわけで、その知恵を学び後世に活かすことが歴史を学ぶ意義になるはずだ。歴史には必然的な部分と極めて偶然的な部分が混在している。そして、一度変化が進むと後戻りできない所がある。だからこそ科学的推論が不可欠な訳だ。

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世界の歴史の部屋

火薬の歴史

世界を変えた火薬の歴史;クライヴ・ポンティング著-国家の盛衰を左右した兵器。
   火薬の発明は、羅針盤、印刷術と同様に、ルネサンスの3大発明であると西欧人は思っていた。羅針盤、印刷術は今では中国人がずっと前から使っていたことは常識。ところが、火薬に関しても、ほんの50年ほど前にこれに対する反証が挙げられた。
  火薬の発明は、本書によれば、科学技術の先端を突っ走るヨーロッパでなくて、なんと9世紀初頭の中国。1000年以上前のことだった。不老不死の霊薬を求めた道教の錬丹術師が偶然発見(発明)したようだ。古代中国の時代から医薬品だった木炭、硫黄、そして硝石の混合物が「火の薬」と判明したのだ。今日の黒色火薬である。
元寇
火薬は直ちに軍事機密とされ、その後12~14世紀の中国では、例えば、火炎放射器の「火槍(かそう)」、最初の爆弾の「震天雷(しんてんらい)」、軽量爆弾の「群蜂砲」、なんとも奇妙な名称の火薬兵器が作られている。中国は周囲を強力な騎馬民族(遊牧民)に囲まれているため防衛の必要上からも研究が進められたようだ。
特に宋に時代は、北半分を女真族に取られ、南の半分の南宋はモンゴルのフビライによって制圧されてしまう。この時モンゴルは火薬の技術を手に入れたようだ。モンゴルの波状的な西方への軍事遠征に火薬が有効に使われたようだ。あんな小型の蒙古馬だけでは世界征服などできるわけがない。制圧されたイスラム世界で硝石は「中国の雪」、ロケットは「中国の矢」と呼ばれたという。つまり、モンゴルの世界征服は火薬の技術おかげだったようだ。日本も元寇の際にはこの火器に相当悩まされたらしい。モンゴル人は中国人の裏切りを恐れ色目人を優遇しため、火薬技術は世界に拡散していく。
この火薬の利用は、歴史を大きく動かす原動力となったようだ。 モンゴル帝国が崩壊した後、火薬兵器を最大限に生かしたのがオスマントルコとインドのムガール帝国だという。また、チムール帝国もこの仲間だろう。日本でも織田信長の天下統一が加速する。種子島に伝わったという鉄砲は、特に最先端のものではなく既に中国にもあったものかも知れない。その後鉄砲の生産高も品質も日本は多分世界のトップクラスだったと言われる。オスマントルコと対峙した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、領土と奪われ最後は首都コンスタンティノープルを残すだけになるが、この時ローマ側は「ギリシャの火」という兵器を用いてトルコ側を散々てこずらせたとあるが、これも何らかの火薬技術だろうが正確な記録は残っていないようだ。
 その後、火薬兵器を装備したイスラム勢に対峙したヨーロッパ勢は前代未聞の艱難(かんなん)辛苦を嘗(な)めさせられた。14世紀のイタリアの桂冠(けいかん)詩人ペトラルカが火薬兵器を「地獄から送られてきた道具」と嘆息したのも宜(むべ)なるかなであった。おしなべて低温のヨーロッパにおいて、火薬の製造は難しく、硝石の生成も、また腐敗した有機物の結晶化以外に方法がなく、悪臭と闘わねばならなかったらしい。
その後、中国は明から清になり平和が続くにつれ、危険な火薬兵器は国が独占するようになるため新規の開発がなされなくなる。日本の徳川幕府も、火薬兵器の威力を十分理解していたため他大名には作らせないよう国が独占する。その間に戦争に明け暮れたヨーロッパ諸国に水を開けられたのかも。しかし、ヨーロッパ諸国だけが何故勝者として君臨できたのかはもう少し納得のいく説明が欲しいところだ。
火薬兵器は、今まで統一されてなかった民族の統一が急速に進む効果もあった。アフリカでも新しい国がいくつも出現する。チベットなんかもそうだろう。仏教寺院なども火器に対抗できるよう城のような形をしている。ハワイのカメハメハ大王なんかも火薬兵器を利用して、ハワイ全体を統一したらしい。アメリカインディアン達だって、馬に乗って銃で武装した集団で戦っている。ロシアのコサック騎兵達のシベリア征服も鉄砲の力だろう。

世界の歴史の部屋

モンゴルの世紀(Pax Mongolica)

元版図
13~14世紀(1201~1400年)は、チンギス・ハーンの興したモンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を支配したため、モンゴルの世紀と呼ばれる。モンゴル帝国は交易を奨励、保護しユーラシア大陸を陸路、海路で結ぶ一大交易網が成立した(シルクロードの発展)。ユーラシア各地を多くの技術や情報が行き交い、世界史の転換期のひとつとなった。
テムジン テムジン
1206年周辺部族をまとめ上げ、テムジンはクリルタイ(族長会議)で大ハーンに選出され、以後ヂンギスハーンな名乗る。これより破竹のごとく膨張が始まる。まずは周辺の大国を次々に滅ぼす。西遼(1211)、ホラズム王国(1220)、西夏(1227)、ここでヂンギスハーンは亡くなる。2代目、オゴタイハーン(位1229~41)。金を征服(1234)。
ヂンギスハーンには4人の子がいる。ジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイ。遊牧民の伝統では末子相続が一般的だったらしい。
モンゴル版図 ① 長男ジュチは西へ進み、その息子もバトゥもそれを引き継ぎ、キプチャク=ハーン国
② チャガタイ、オゴタイはチャガタイ=ハン国(中央アジア)、オゴタイ=ハン国(西北モンゴリア)を形成。
③ 末子トゥルイの子フラグもイランにとどまりイル=ハン国を興す。
④ 末子トゥルイの子フビライは南宋を滅ぼし元を建国する。
しかし、版図が広がるにつれて、一族の結束はだんだん緩くなり、時には対立するようになる。中国贔屓のフビライが強引に5代目を襲名するとどうもフビライの一人勝ち、反発も出て来るんだろう。
元寇とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗王国による2度にわたり行われた対日本侵攻。1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)。弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であったらしい。朱元璋(太祖・洪武帝)が元を追いやり明を建設するのが1368年なのでまだしばらくは元の時代が続く。

モンゴル人の快進撃は、火薬(火器)の利用を考えないと説明できそうにない。「世界を変えた火薬の歴史;クライヴ・ポンティング著」にあるように、宋に時代には中国は、北半分を女真族に取られ、南の半分の南宋はモンゴルのフビライによって制圧されてしまう。モンゴル人は女真族と戦った際に火薬の技術を手に入れたようだ。モンゴル人は周辺を多くの遊牧民に囲まれている。蒙古馬は彼らの馬と比べて決して大きい訳でない(むしろ小さい)。火薬の利用によりその後の世界の国々の盛衰は速度を急に速めて来る。イル=ハン国→オスマン帝国、キプチャク=ハーン国→ロシア帝国、チャガタイ=ハン国→チムール帝国およびムガール帝国と言うようなユーラシア大陸の歴史の流れの構造が浮き出で来るように思えるのですが。(2020.1.13)

世界の歴史の部屋

巨大噴火の恐怖

地球上の生物の進化の歴史は、地球環境の変化に対応して進んでいる。このことは人類の歴史に対しても同様なはずだ。地球という惑星は今でも活発に動いている。地球上の総ての生き物は生活環境の激変という試練からは逃れることは不可能なのです。
6500万年前に、巨大隕石が地球に衝突し、1億年以上続いた恐竜の天下を終わらせる。その後の荒廃した環境から哺乳類が進化し、人類の先祖がアフリカを出たのが6~7万年前頃。では、地球は大人しくなったのか。人類が自分達の歴史を残せるようになったのは、せいぜい1万年以下。これから先、どんな異変が生じるかは予想もつかないのです。
実は、西暦535年にこのような巨大災害が生じていたことが、世界各地で文字として記録されており、最近の地質調査からも証拠が挙がってきている。
噴火の場所は、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡。クラカタウ火山だ。別の場所でも火山活動が頻発したようだ。
この時、遠く離れた東ローマ帝国でも、大きな爆発音があり、その後1年以上も「太陽が暗い状態」が続いていたことが記されている。西ローマ側の教会の指導者たちも同じような記録を残している。中国でも(隋によって統一される前)、北の魏、南の梁の2つの王朝で同様な記録が残されている。その後、世界は飢饉と疫病が蔓延し、洪水や旱魃が繰り返された暗黒の時代に。食料を失った絶望した人々の移動が繰り返され、民族の対立が激化。この状況は相当長期に渡ったようだ。つまり、西暦6世紀は、世界的な出来事が同時発生的に生じている。今まで、学校で習っていた歴史の見方も大幅に書き換える必要がありそうだ。
1.ヨーロッパでは、東西ローマ帝国の力が弱体化し、ゲルマン人等周辺の異民族が大量に流れ込み社会が不安定に。
2.中国でも既存の王朝が弱体化して、異民族的な隋による統一が簡単に進む。
3.朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が食料を巡って生き残りの抗争繰り返し、大量の難民が日本に流れ込む。
4.日本には大量の帰化人が来る。仏教もその時入る。しかし、同時に疫病も持ち込まれたらしい。天然痘ではないかと言われる。帰化人と組んで仏教を保護したい蘇我氏と反対する物部・中臣氏の対立だ。仏教と疫病とがセットで持ち込まれたことが反対する理由だった。
5.ヨーロッパでは、絶望した人々の終末観(あの世で幸せに)が広がり、キリスト教が一気に勢力を増す。不幸な人が増えるほど宗教家は仕事が増える。
6.ムハンマドがイスラム教をあれほど急速に普及できたのも、多発する災害を都合良く天罰だとして利用できたため。イスラム教の発展もえらく急速だ。
7.新大陸のマヤやインカにも大きな変化があったらしい。
8.インド圏や他の地域はどうだったんだろうか。
自然災害、火山の爆発が人類の歴史を大きく塗り替えたということだ。
パウロ      ムハンマド

世界の歴史の部屋

Ibn Battuta

イブン・バットゥータ

マリーン朝
イブン・バットゥータ(Ibn Battuta;1304年~1368年/69年)は、マリーン朝のモロッコ人。イスラム教徒だ。彼の旅した地には北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれる。イブン・バットゥータは史上最も偉大な旅行家であろう。日本語訳では三大陸周遊記となっている。マリーン朝スルターンの命令を受けて、イブン・ジュザイイが口述筆記を行ない、1355年に旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(通称Rihla)が完成する。この旅行記は19世紀にヨーロッパにも紹介され、各国語に翻訳されて広く読まれた。イスラーム教徒だったためか西洋ではあまり評価されず、日本でも歴史の中にチョット顔を出す程度だが、当時の世界を俯瞰するには最適な書物なようだ。

14世紀は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。14世紀は、モンゴル帝国が成立したおかげて、世界のグローバル化が一気に進み、イスラム教が大いに発展した時代。そうでなければこのような世界旅行など全く不可能な話。一昔前なら陸も海も盗賊や海賊が出没するのは当たり前、地域間のネットワークが非常に良くなって来たようだ。しかしまだ、このネットワークには西欧諸国は入っていない。イスラム教を異常に敵視する蛮族たちが闊歩する(十字軍や異端裁判等)後進的な地域だったようだ。
イブン・バットゥータ 生まれ育ちは、北アフリカ西部のモロッコ。当時は文化的には先進地だったようだ。マリーン朝は、12世紀末から15世紀末にかけてモロッコに存在していたイスラーム国家。フェズを首都とし、マグリブ西部(北アフリカの西側)を支配していた。対岸はスペインだがこの時はイスラームの勢力下にある。イブンは1304年マリーン朝の治世のモロッコ、タンジェのイスラム法学者、すなわちウラマーの一家に生まれとされている。
1325年6月、21歳のときに彼は巡礼、すなわちハッジのためにメッカを目指し故郷を発つ。往復16ヶ月の道程である。しかし彼が再びモロッコの地を踏むのは24年後となる。
【ハッジとは】
ハッジとは、イスラーム世界における、メッカへの巡礼の事。五行の1つ。すべてのムスリム(イスラーム教徒)にとって、少なくとも人生のうちに1回は、メッカ巡礼が義務付けられている。ただし、すべてのムスリムに課せられる他の四行(信仰告白(シャハーダ)、礼拝(サラート)、喜捨(ザカート)、断食(サウム))と異なり、巡礼は実行できる体力や財力のある者のみが行えば良いものとされている。巡礼期間中にハッジを済ませたものはムスリムの社会で尊敬を受ける。 サウジアラビア政府は(巡礼月、イスラム暦の第12月)の間に巡礼を目的とする外国人に特別査証を発給している。また、サウジアラビアとイスラエルとは国交はないが、パレスチナ人やアラブ系イスラエル人のイスラム教徒たちは、ヨルダンのアンマンを経由してサウジアラビアに入国しハッジを行うことが可能である。また、メッカは、イスラム教徒以外の人間が立ち入ることは禁じられていて、市内全域がイスラム教の聖地であるとのこと。

イスラム国家 彼は北アフリカ海岸沿いを陸路にてメッカを目指した。ザイヤーン朝、ハフス朝を横断し、そしてチュニスに到着すると彼はそこで2ヶ月を過ごす。チュニスは今でもチュニジアの首都、大都市だ。昔ローマ時代にカルタゴの拠点だった所。ザイヤーン朝、ハフス朝はベルベル人の建てたイスラム王朝。 1326年の早春、3500キロの旅の後イブン・バットゥータは当時バフリ朝(Bahri dynasty、マムルーク朝)の支配にあったアレクサンドリアの港に着く。マムルーク朝は首都をカイロに置くエジプトの王朝だ。アレクサンドリアにはアレクサンドロス大王の後継者たちが建てた世界最大級の立派な図書館があったのだが、5世紀ごろキリスト教徒の野蛮な攻撃を受けてこの当時には消失していた。 カイロには約ひと月滞在し、彼は比較的安全なマムルークの領内にて、この旅の中で幾度も行われる最初の遠回りを行った。ナイル河谷を遡上し、その後東へ向かい、紅海の港街アイザーブを経由するルートを選んだ。しかし街に近づくと反政府勢力に追い返されてしまった。アイザーブはナイル川を上った王家の谷で有名なルクソールの対岸(サウジアラビア側)にある港町だったようだ。 イブン・バットゥータはカイロに戻り、そしてマムルーク支配下のダマスカスへと2回目の遠回りをした。ダマスカスは今でもシリアの首都だ。1回目の旅で出会った聖人が、イブン・バットゥータはシリア経由でしかメッカにはたどり着けないと予言を残していたためだった。この遠回りにはヘブロン、エルサレム、ベツレヘムなど道中に聖地が点在しているという利点もあった。マムルーク朝は巡礼者のための治安確保に骨身を惜しまなかった。この権力の後押しが無ければ身包み剥がされ、殺害される旅行者で溢れていたことであろう。 イブン・バットゥータがこれほどの大旅行を無事成し遂げることが出来たのは当時の、イスラーム教を介した人的ネットワークの存在が非常に大きい。西のモロッコから東のインドネシアまで広大なネットワークが存在しているのだ。そうでなければ言語、文化の異なる地域を旅すること自体、この時代では危険極まりない所業だろう。
ダマスカスでラマダン月を過ごしたあと、彼はキャラバンに参加して1300キロ南のマディーナ(メジナとも、イスラム教の第二の聖地)に向かい、そこで4日を過ごしたあと、彼の巡礼の終着点であるメッカへ向かった。これ以降イブン・バットゥータはハッジとしてイスラム社会に受け入れられるようになる。つまりどこへ行っても尊敬を受けて便宜を図ってもらえる。ここで帰路に就くよりもむしろイブン・バットゥータは旅を続けることを選び、次の目的地を北東、モンゴル帝国のイルハン朝に定めた。 つまり、モンゴル帝国のおかげで、世界がある程度一つになったという利点があったのか。マルコ・ポーロの冒険もこのころか、調べて見ましょう。
イブン・バットゥータは1327年、東アゼルバイジャン州のタブリーズ(モンゴル帝国のイルハン朝の都があったところ、今はイラン領、アゼルバイジャン領だったことも)を訪れている。 メッカでひと月を過ごした後の1326年11月17日、アラビア半島を横断してイラクへ戻る大規模な巡礼キャラバンに参加した。一行はまず北のマディーナ(メジナ)へ向かった。日中を避け夜に旅を続け、やがて北東へと進路を変える。ナジュド平野を横断し、ナジャフ(イラク南部)へとたどり着いた。2週間の旅であった。ナジャフでは第4代カリフ、アリーの廟を訪れている。 その後バグダードへ向かうキャラバンと別れイブン・バットゥータは、ペルシアに入り6ヶ月の回り道をする。ナジャフからワシットへ、そしてチグリス川を南下してバスラを訪れる。そこからザグロス山脈を越えエスファハンへ向かう。そして南へ向かいシーラーズを訪れる。シーラーズはモンゴルの侵略の際にも破壊を免れて繁栄を誇っていた。ようやく彼は山道を戻り1327年6月、バグダードへ到着する。バグダードはいまだ街の至るところにフレグが1258年の侵略の際に残した破壊の痕跡が残っていた。エスファハンも美しい都市として有名。

イスラム国家 バグダードにて彼はイルハン朝最後の君主アブー・サイードが大勢の従者を引き連れて街を北へ向かうところを目撃している。イブン・バットゥータはしばらくそのロイヤル・キャラバンに随行し、その後にシルクロードを北へと向かい、タブリーズを訪れた。モンゴルへの道を開いた最初の街であり、この地域の他の交易都市はモンゴルにより徹底的に破壊されていたため、タブリーズは交易の要衝となっていた。

1328年か1330年のハッジの後、紅海に面するジッダを訪れる。その後彼は海岸に地域特有の南東の風に逆らいながら小船を乗り継ぎゆっくりと海岸に沿って南下した。ラスール朝統治下のイエメンに入ると、ザビードを、そしてタイズを訪れた。タイズではラスール朝のマリク(すなわち王)のムジャヒードに謁見している。イブン・バットゥータはサナアに立ち寄ったとも記録しているが、実際に訪れたかどうかは疑わしい。タイズからは直接交易の要衝アデンへ向かったと考えるのが現実的である。アデン着は1329年か1331年と考えられる。
アデンよりイブン・バットゥータはソマリアのゼイラに向かう船に乗った。ゼイラからソマリアの海岸をさらにくだりグアルダフィ岬を訪れる。それぞれで1週間を過ごした。その後、アフリカの角の当時最大の都市であったモガディシュを訪れる。アフリカの角とはソマリアのあたりが地図で見れば尖っていて三角形になっているがここを示す。この付近ではエチオピアが大国で力を持っていたようだ。 イブン・バットゥータの訪れた1331年、モガディシュは繁栄の絶頂にあった。彼はモガディシュを裕福な商人の多い「極めて巨大な都市」と描写、エジプトを含む各地から持ち込まれる高品質な織物についても触れている。

キルワ イブン・バットゥータはスワヒリ海岸の島にある町キルワ王国(現在タンザニア領)に1330年に着いたと記録を残している(ソマリアに着く前だろう)。キルワは金の貿易の要衝となっていた。彼はこの都市を「最も美しく設計された街のひとつ、すべての建物は木で作られ、ディース葦(dīs reed)で屋根が葺かれている」と記録している。そしてそのスルタンの謙虚で敬虔な人柄についても好意的に描写している。コーラル・ラグ(サンゴ由来の石灰岩)で造られた宮殿と拡張されたキルワのグレート・モスク(世界遺産となっている)の歴史はこの時代から始まっている。モンスーンの向きが変わるのにあわせて、イブン・バットゥータはアラビア半島へと戻る。まずはオマーン、そしてホルムズ海峡を通過し、1330年(あるいは1332年)のハッジにメッカへ戻った。
3度目のメッカ巡礼の後、イブン・バットゥータはムスリムのムハンマド・ビン・トゥグルクが治めるデリー・スルターン朝にて職を探すことに決める。1330年(あるいは1332年)の秋、陸路でのインド入りを意図し、セルジューク帝国の支配下にあったアナトリア半島(現在のトルコ)に向けて旅立った。シリアの港街ラタキアにてジェノヴァ共和国の船が彼(と彼の道連れ)を拾ってアランヤまで運んだ。この街は現在のトルコ南海岸に当たる。これ以降、旅行記におけるイブン・バットゥータのアナトリアでの足跡は混乱を来たす。歴史家たちはイブン・バットゥータは実際に中央アナトリアのいくつかの都市を巡ったものの、旅行記の記述が時系列に沿っていないものだと考えている。

スィノプから海路でジョチ・ウルス領(モンゴル帝国でもここはキップチャク)のクリミア半島へ到着。港街アゾフにてハンのアミールに出会う。その後豊かな大都市マジャールを訪れる。そしてマジャールからウズベク・ハンのオルドを訪問するために出発。この当時、ハンのオルドはベシタウ山の近くにあった。その後ブルガールへ向かう。この街が彼の旅のなかでの北限となった。夏の夜が(亜熱帯出身者からすれば)極端に短いと記録している。その後ウズベク・ハンのオルド(宿営地、テントの街か)に戻り、彼らとともにアストラハン(ボルガ河口右岸の都市)まで移動した。
ブルガール滞在中彼は闇の地を訪れてみたいとも書き残している。その地は遍く雪で覆われていて(シベリア北部のこと)唯一の移動手段は犬ぞりである。神秘的な人々が暮らし彼らは姿を見せることを嫌う。それでも彼らは南方の人々と奇妙な方法で交易を行っている。南の商人は夜にさまざまな商品を開けた雪原に並べておき、自分たちのテントに戻る。そして翌朝その場所にもどると商品はその神秘的な人々に持ち去られ、代わりにコートなど冬の衣類の素材となる上等な動物の毛皮が置かれている。この交易は神秘的な人々と商人がお互いの顔を見ることなく行われる。イブン・バットゥータは商人ではないしそれほど値打ちのある旅に思えなかったので闇の地への寄り道は差し控えた。

東ローマ皇帝 アストラハンに着くと、ウズベク・ハンは妊娠中の后の一人、ギリシャ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス(東ローマ帝国皇帝のことだ)の娘バヤルン妃にコンスタンティノープルへ出産のための帰郷を許可する。イブン・バットゥータは頼み込んでコンスタンティノープルへ向かう一行に同行させてもらった。これがイスラム世界を出た最初の旅となった。

1332年(あるいは1334年)も終わりに差し掛かったころにコンスタンティノープルに到着。彼は東ローマ帝国のアンドロニコス3世パレオロゴスに謁見。名高い教会アヤソフィアを訪れ、正教の司祭に旅の中で訪れたエルサレムの話をして聞かせた。ひと月滞在した後、イブン・バットゥータはアストラハンに戻った。その後首都サライを訪れ、スルタンのウズベク・ハンに旅の報告をした。その後カスピ海、アラル海を越えブハラ、サマルカンドを訪れた(両市は今はウズベキスタン領内)。そこでまた別のモンゴルの王、チャガタイ・ハン国のタルマシリンのもとを訪れている。そこから彼は南へ向かいモンゴル治世下のアフガニスタンを旅した。そのままヒンドゥークシュ山脈の山道を経てイブン・バットゥータはインド入りを果たした。旅行記で彼はこの山岳地帯の名称と奴隷貿易の関係について触れている。 この後、私は山岳地帯をバーワンの街へ向かった。山道は雪で覆われ凍えるように寒い。この地域はヒンドゥ・クシュ、すなわち「インド人殺し」と呼ばれている。厳しい寒さのために取税人の連れてくる奴隷のほとんどが死んでしまうのが理由だそうだ。 イブン・バットゥータと彼の一行は1333年の9月12日にインダス川に達している。これより彼はデリーへ向かいスルタン、ムハンマド・ビン・トゥグルクに謁見している。
当時ムハンマド・ビン・トゥグルクはその豊かな財力でイスラム世界に名をはせており、彼は支配をより強固なものにする目的でさまざまな学者や、スーフィー、カーディー、ワズィール、そして役人に経済的な支援をしていた。イブン・バットゥータはムハンマド・ビン・トゥグルクの治世にカーディー(裁判官)として6年間仕えた。この国はモンゴル帝国の侵攻の後に残った、エジプトのマムルーク朝と同様、数少ないアジアのイスラム国家であった。メッカでの経験が買われ、イブン・バットゥータはスルタンよりカーディーに任命された。しかしながら、彼はイスラム教の浸透していないインドでスルタンのお膝元、デリーを越えてイスラム法の執行を徹底することは難しいと悟る。 サルサティ(Sarsatti)のラージプートの王国からイブン・バットゥータはインドのハンシを訪れる。イブン・バットゥータはハンシの街を以下のように描写している「数多ある美しい街でも最もよく設計され、最も人々がよく集まる街。堅固な城壁に囲まれていて、聞けばこの街を造ったものは偉大な不信心な王という話でタラ(Tara)と呼ばれている」。シンド州に着くとすぐに彼はインダス川の河畔に生息するインドサイについて言及している。

スルタンは当時の感覚からしても理不尽な男で滞在する6年の間にイブン・バットゥータは、信の置ける臣下としてのアッパークラスな生活からさまざま理由から反逆者としての疑いをかけられる状態へと身を落とす。ハッジを理由に旅立つ計画を持ち出すとスルタンは彼を苦境へと落とし込んだ。1347年、元の使節が中国人巡礼者に人気の高かったヒマラヤの仏教寺院の再建の許可を求めにやってくると、イブン・バットゥータはようやくデリーを離れる機会を得た。
イブン・バットゥータは使節としての命を託された。しかし中国への出発点となる港へ向かう道中、彼の大規模な使節団は山賊の襲撃にさらされる。イブン・バットゥータは一団からはぐれ、身包み剥がされ、あわや命すらも失いかける。苦境に陥りながらも彼は10日以内に使節団に追いつき、合流を果たすとグジャラート州のカンバートへの旅を続けた。そこから船でカリカット(現在のコーリコード)へ向かった。2世紀の後にヴァスコ・ダ・ガマが上陸を果たす地である。カリカット滞在中、イブン・バットゥータはこの地の支配者ザモリンに客人として迎えられた。その後コッラムへと船を進める。南海岸で最も活況を極める港のひとつである。カリカットからコッラムまでの日数は10日であった。イブン・バットゥータが岸のモスクに立ち寄っているとき、嵐がやってきて2隻の船団のうちの1隻が沈んでしまった。別の1隻はイブン・バットゥータを残して出航するが、この船は数ヶ月後にスマトラ島の王に拿捕されることとなる。
このままデリーに戻った場合に責任を問われることを怖れたイブン・バットゥータはしばらくの間ナワーヤトのジャマール・ウッディーン庇護の下で南インドにとどまった。ナワーヤトは小さいながらも力のあるスルタン国でアラビア海に面するシャラベイ川河畔に位置する。しかしやがて起こるこのスルタン王国の転覆の中、イブン・バットゥータはインドを去るよりほかなくなる。中国への旅を続ける決意を固めるが、まずはモルディブへの寄り道からはじめることとした。
彼は当初の予定よりもずいぶんと長い9ヶ月をこの島国で過ごした。彼は仏教国からイスラム化を果たしたばかりのモルディブにとって貴重な人材だった。半ば強引に滞在を求められてこの国で主任カーディを務め、そしてロイヤルファミリーから伴侶を迎えオマル1世と姻戚関係を持った。しかししだいに彼は政治問題に巻き込まれるようになり、彼の厳格なイスラム法の執行に対し奔放な気質の島民がいらだちを募らせるようになると、イブン・バットゥータはモルディブを発った。彼は旅行記の中で島の女性たちが上半身裸で街をうろついていること、それに対するイブン・バットゥータの不満を現地の人々が歯牙にもかけなかったことを記録している。モルディブを発ったイブン・バットゥータはスリランカに向かい、アダムスピークとテナヴァラム寺を訪れた。
スリランカを出航するとすぐに船が沈み始めた。救助にやって来た船は海賊の襲撃に晒されるが、イブン・バットゥータは無事だった。彼はスリランカの岸で途方に暮れ、苦労してやっとのことでインドのマドゥライ王国までもどり、しばらく滞在する。その後彼は再びモルディブへ渡り、中国のジャンク船に乗りこんだ。まだ中国へ向かう使者としての使命を全うする意思を持っていた。 彼は現在のバングラデシュ、チッタゴンの港に上陸する。イブン・バットゥータはシャー・ジャラールに会うためにシレットに向かうことにした。チッタゴンからカマルの山々を越えてシレットに至る1ヶ月の旅路である。当時のイスラム世界ではシャー・ジャラールはこの骨折りに値するほど高名な人物であった。シレットへの旅の途中シャー・ジャラールの弟子たち数人に声をかけられる。彼らはイブン・バットゥータを案内するために何日も前から待っていた。1345年のシャー・ジャラールとの面会について、シャー・ジャラールは背が高く、細身で顔色はよく、洞窟のモスクで暮らしている。ミルク、バター、ヨーグルトのためのひつじを一頭だけ所有し、その他には財を持たないと記録している。また、取り巻きは外国人であり、強さと勇敢さで知られていた。たくさんの人々が教えを請うためにシャー・ジャラールのもとを訪れる、等々記している。イブン・バットゥータはさらに北へ向かいアッサム州を訪れた後、中国へのルートに戻った。

東南アジア
陳ベトナム イブン・バットゥータは陳朝ベトナムのポー・クロン・ガライを訪れたと考えられている。地域の姫ウルドゥジャと会ったと触れられている場所である。 1345年イブン・バットゥータは現在のスマトラ島北部アチェ州に位置するサムドラ・パサイ王国を訪れた。イブン・バットゥータはこの国の統治者について触れている。彼によれば、スルタンは、敬虔なムスリムで宗教的義務は最大限熱心に行い、しばしば地域の精霊信仰勢力に対して軍事行動をとっている。彼はスマトラ島について樟脳、ビンロウ椰子、クローブ、スズが豊かな島であると描写している。イブン・バットゥータは彼らのマズハブ(イスラム法学派)についてシャーフィイー学派と記録している。これは彼が実際に見てきたインド沿岸地域のムスリムに近い学問で、とりわけマッピラ・ムスリムはまさにイマーム、アル=シャーフィイーを信奉していた。当時サムドラ・パサイ王国はダール・アル=イスラーム(イスラム世界)の限界で、これ以上東にムスリムの統治する領域は存在しなかった。彼はスルタンの客人として、この木製の城壁に守られた街で2週間をすごした。スルタンはイブン・バットゥータに物資を提供し、スルタン所有のジャンクで彼を中国へ送り出した。

イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。
イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。 イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。

イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。
中国
イブン・バットゥータはイスラム世界で初めて万里の長城について触れている。1345年、モンゴル治世下の中国福建省泉州。彼は外国人のポートレイトを描いている似顔絵師と、彼らの巧みな技術について触れている。イブン・バットゥータは彼らの描く似顔絵はセキュリティ目的に使われると記している。イブン・バットゥータはこの街の職人と彼らの作る絹織物、磁器、そしてプラム、スイカといった果物、そして紙の通貨の利便性に賛辞を送っている。泉州における巨大船舶の製造工程について、さらには中国料理と食材、たとえばカエルやブタなど、イヌが食材として市場で売られていること、中国のニワトリが大きいことなどについて書き残している。
泉州にてイブン・バットゥータはこの地のカーディーに歓待を受けた。さらにはイスラム商人のリーダーが旗、太鼓、トランペットと楽団を引き連れてイブン・バットゥータに会いに来た。彼は、ここ泉州ではムスリムはいくつかのコミュニティに別れて暮らし、それぞれが自分たちのモスクとバザールと病院持っている、と記録している。滞在中彼は清源山に登り、洞窟に著名な道教の僧侶を訪ねている。その後彼は海沿いに南下し広州を訪れ、その街の裕福な商人のもとで2週間を過ごした。 広州から北へ泉州にもどり、福州へと向かう。
イブン・バットゥータは杭州を彼が見てきた中でも最大級の都市とし、そしてこの街の魅力について触れている。いわく、美しい湖を湛え、なだらか緑の丘に囲まれている。ムスリムの居住する一角にも言及し、彼はエジプトに起源を持つ一家のもとに身を寄せていた。杭州滞在中たくさんのよく設計され、きれいに塗装され、色彩豊かな帆を持ち、シルクの日よけをもった木製の船が運河に集まっているのを見ていたく感動したことを記録に残している。彼はカータイという名の元朝の地方行政官の晩餐会に呼ばれている。イブン・バットゥータによれば、この行政官は現地中国人の召喚魔術に大変興味を持っていた。また彼は太陽神を信仰する現地の人々についても言及している。
彼は京杭大運河を小船で上りながら、畑やラン、黒い絹の衣を纏った商人たち、花柄の絹の衣を纏った婦人たち、やはり絹を纏った僧たちを見た。北京ではイブン・バットゥータははぐれたデリー・スルターン朝の使節を名乗り、元朝ボルジギン氏、トゴン・テムルの宮廷に招かれる。イブン・バットゥータはトゴン・テムルについて、中国の一部の人々から崇拝されていると描写している。大都の宮殿は木造で、統治者の第一夫人(奇皇后)は彼女を称える行進を行わせた、と記録している。
イブン・バットゥータはまた泉州から60日のところにゴグとマゴグ(マゴグ)の地があると記している。ハミルトン・ギブによればイブン・バットゥータは万里の長城はクルアーン(コーラン)にあるとおり、ズー・ル=カルナインがゴグとマゴグを退けるために築いたものだと信じていた。 イブン・バットゥータは北京から杭州へ戻り、福州へと旅を進めた。泉州に戻るとすぐにサムドラ・パサイ王国のスルタン所有のジャンクに乗り込み、東南アジアを目指した。しかし船の乗組員に法外な額の報酬を要求され、彼が中国滞在中に工面した蓄えをほとんど失ってしまった。

帰郷とペスト
1346年に泉州に戻るとイブン・バットゥータはモロッコに帰る決心をする。インドのカリカットに着くと、もう一度ムハンマド・ビン・トゥグルクを訪ね慈悲を請うべきかと逡巡するが、そのままメッカへと向かうことにした。バスラへ向かう航路でホルムズ海峡を通る。そのときにイルハン朝の最後の君主アブー・サイードがペルシアで死亡したことを知る。イルハン朝はこのあとに起こるペルシア人とモンゴル人との間の激しい内戦により崩壊することになる。
1348年、イブン・バットゥータは最初のハッジのルートをなぞるつもりでダマスカスに立ち寄る。そこで彼の父が15年前に他界していたことを知る。そして続く翌年からしばらくの旅は「死」が支配的なテーマとなった。黒死病の流行が中東を襲い、彼はまさにペストの支配するシリア、パレスチナ、アラビア地域に居合わせていた。メッカに到着すると、彼はモロッコへ帰る決断をする。タンジェの家を発ってから実に四半世紀が経とうとしていた。帰り道にサルデーニャ(イタリアの島)へ最後の寄り道をした。1349年フェズを通ってタンジェ(モロッコ北部の町、タンジールとも)への帰郷を果たす。彼は彼の母もまた数ヶ月前に他界していたことを知る。
アンダルスと北アフリカ
イブン・バットゥータはグラナダ王国を訪れた。グラナダ王国はアンダルスにて最後のムラディ文化を育んでいる。ついに帰郷を果たしたイブン・バットゥータだが2、3日も滞在するとすぐにタンジェを離れることになる。これはムーア人の支配するイベリア半島のアンダルスを旅するきっかけとなった。当時カスティーリャ王アルフォンソ11世はジブラルタルへの攻撃を仄めかしていた。1350年、その攻撃から港を守る目的でイスラム教徒のグループがタンジェを旅立った。そこにイブン・バットゥータも参加した。しかし彼らが到着するまでにペストがアルフォンソ11世を殺したために侵略の恐れは無くなった。彼はそのままアンダルスの観光旅行へと目的を変え、バレンシア王国をめぐり、グラナダでアンダルスの旅を終える。
アンダルスを後にした彼はモロッコを旅する決断をする。家へ帰る途中でしばらくマラケシュに滞在した。かつての首都マラケシュはペストと、フェズへの遷都によりほとんどゴーストタウンのようだった。
マンサ・ムーサ マンサ・ムーサ
もう一度彼はタンジェに戻るが、ほんのしばらく滞在しただけでまた旅にでることになる。時は戻るが1324年にイブン・バットゥータが初めてカイロを訪れた2年前、西アフリカのマリ王国の皇帝マンサ・ムーサがまさにその街をハッジの為に訪れていた。途方も無い量の金を彼の国から持ち込んだマンサ・ムーサの巡礼は当時カイロでセンセーションを巻き起こしていた。イブン・バットゥータは旅行記の中でこのエピソードには触れなかったものの、当時のカイロでマンサ・ムーサの話を耳にしていたとしても不思議はない。彼はサハラ砂漠を越えた向こう側にあるこのイスラム国家を次の目的地とした。マンサ・ムーサの話は有名だが、どのようにしてこんな富を蓄えることが出来たのだろう。
モスク 1351年の秋にイブン・バットゥータはフェズを出発し、現在ではサハラ砂漠の北限となっている街、シジルマサへ向かった。この街で彼はラクダを何頭か購入し4ヶ月を過ごした。1352年2月、彼はキャラバンを伴って再び出発、25日をかけてタガーザーの塩原にたどり着く。この地域では建物はすべて塩のブロックでできている。ここではマッスーファ族の奴隷が塩を切り出し、ラクダで運び、建物を造る。タガーザーは交易の要衝でマリで産出される金に溢れていたが、イブン・バットゥータはあまり良い印象を持たなかった。ハエに悩まされ、水はしょっぱいと記録している。
タガーザーに10日滞在したあと、キャラバンはターサラフラーのオアシスに向かった。そこに準備のために3日滞在する。ここからこの広大な砂漠を縦断する旅で最後の、そして最も難しい区間が始まる。ターサラフラーから、まずはマッスーファ族の先行隊がウアラタのオアシスに向け出発、彼らはそこで水を調達して4日目の地点までもどり本体と合流する。ウアラタはサハラ交易ルートの南の終点で、ちょうどこのころにマリ帝国の支配下に入っていた。キャラバンはシジルマサから1600キロの行程に2ヶ月を費やした。
ここからイブン・バットゥータはナイル川と彼が思い込んでいた川、すなわちニジェール川に沿って南西へと旅をつづけ、マリ帝国の首都にたどり着く。彼は1341年より在位しているマンサ・スライマーンに謁見する。イブン・バットゥータは女奴隷、召使、さらにはスルタンの娘たちまでもが肌の一部を露出させた格好をしていることがムスリムらしくないと、不満をもらしている。2月には首都を離れ、現地のムスリム商人とともにラクダでトンブクトゥを訪れた。トンブクトゥは翌15世紀、16世紀にはこの地域でもっとも重要な都市となるが、イブン・バットゥータが訪れたこのときはまだ小さな街だった。この旅でイブン・バットゥータは生まれて初めてカバを目にする。トンブクトゥに少し滞在した後、彼はピローグという丸木舟でニジェール川を下り、ガオを訪れた。当時ガオは重要な交易の要衝であった。 ガオでひと月を過ごした後、彼は大きなキャラバンに参加してタカッダーのオアシスを目指した。砂漠を越える旅の中で彼はモロッコのスルタン、アブー・イナーン・ファーリスからのメッセージ、家に帰るようにとの命令を受け取る。彼は1353年の9月に、600名の女奴隷を輸送する巨大キャラバンとともにシジルマサへ向けて出発した。そして1354年の初旬にモロッコに戻っている。イブン・バットゥータのこのアフリカの旅の記録はイスラム教が西アフリカへと波及していく過程を覗かせてくれる貴重な資料となっている。

世界の歴史の部屋

インド航路の発見

ヴァスコ・ダ・ガマ ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1460年頃 - 1524年)は、ポルトガルの航海者、探検家。アフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれます。コロンブスの米大陸発見(1492年)でスペインに先を越されたポルトガル王には焦りもあったらしい。航海について公式に作成された報告書は残っておらず、いわば海賊の親玉みたいな人か。
魔女狩り ガマは、1497年7月、大勢の観衆が見守る中、リスボンから出発。 この艦隊派遣では、航路の発見に並びプレスター・ジョンの国およびインドとの親交と貿易の端緒をつくることが目的とされ、国王の親書が用意された。プレスター・ジョンの国とは、インドかアフリカにあるとされる伝説上の国。ローマ法王の狙いは、この国と組んでイスラム勢力を叩きのめすこと。十字軍の恨みまだ懲りずに戦う気だ。この当時のイベリア半島は、反宗教改革急先兵。失地回復運動(レコンキスタ)やら、魔女狩りや異端審問、ちょうど今のIS(イスラミック・ステート)みたいな国だ。航海の目的も商売も一つだが、カトリック教の布教が表向きの理由。異教徒は、本心では人間とは思わない、殺しても構わない。大変危険な集団だったのです。でも、プレスター・ジョンの伝説は、嘘ではなかったわけで、アフリカにはエチオピアと言う立派な国があって、今でも元祖キリスト教を信仰している。
アフリカの西海岸を回って喜望峰まではすんなりたどり着くが、それから先は全く未知の世界。当時のインド洋は、イスラム商人たちの縄張りだ。でも、実際はイスラムの陸の大帝国、ムガール帝国もオスマン帝国も陸の世界にしか目が無い。各地域の港町はチャンと税金を納めていれば完全な自治が認められ、誰でも自由に貿易ができる体制が確立していたようだ。だから、商人たちはインド人もスラバヤ人もアフリカ人も皆、平等に商いが出来たらしい。東アフリカには共通語としてスワヒリ語と言うものがある。タンザニア、ケニア、モザンビークなどで今でも共通語となっているようです。概ね彼らはイスラム教徒になっていた。スワヒリ語は、イスラム商人とアフリカ商人の交易のための共通語として発達したとのこと。また、これらの地域では、金融関係は今でもインド商人が強いとか。アフリカ人だって西欧人か来なければ、今ももっと平和な社会に生きていくことが出来たのでしょう。
しかし、イスラム教徒を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちは、アラビア語を話すムスリム(ムーア人)に対し妄想に近い強い警戒感を持っていました。結局、鉄砲を利用して無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に押し入ってその中心で銃を何発か放つ。ヴァスコの船隊に加わっていた一人の人物の記録によると、「ムーア人は家の中にとどまり、誰一人浜まで出てこようとしなかった」という。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この水域の慣行を無視し、港の使用料を払わないままだった。およそ彼らの行動は当時の慣習にはそぐわない。不自然で不可思議な行為だった。
インドに到達する。王宮に到着したヴァスコは来訪の目的を廷臣に伝えるように要求されたにもかかわらず、自らはポルトガル王の大使であるから王に直接話すと主張して聞かなかった。翌日宮殿で謁見したヴァスコは国王に親書を渡し、目的のひとつを達成した。しかし用意した贈り物を見た王の役人やイスラム教徒の商人は笑い出した。贈り物は布地、一ダースの外套、帽子6個、珊瑚、水盤6個、砂糖1樽、バターと蜂蜜2樽に過ぎなかった。「これは王への贈り物ではない。この街にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している」と言われ、ヴァスコは「私は商人ではなくて大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。」だったら偉そうな顔をするな。つまり、当時の西洋人は貿易をしようにも何も売るものすらないという悲しい現実があったわけだ。
これに対しヴァスコはイスラム系商人に対する過剰な猜疑心から、強硬な手段に打って出る。火器を使って暴力的に相手を脅す。当時のインドやアフリカの港町は独立した自治組織で自前の軍隊は小さい。簡単に武力で制圧されてしまう。こんな貿易だが、ヨーロッパでは、持ち帰った胡椒が高値で売れ、第二回の遠征が可能になる。
二回目以降はしっかりと火器を準備し、初めから征服目的で遠征をする。相手方は弱小の港湾都市国家、国策で火薬武器を平気で使用する相手にはかなわない。火器で領土を広げた、モンゴル帝国、チムール、ムガール、オスマン帝国の海洋版だ。これに対して陸の帝国は全くこの動きを無視。一定の税金さえ払えば何をしても構わない。あっという間に、ポルトガルの海洋帝国が成立する。スペイン、オランダ、イギリスがこれに倣う。西欧の覇権が成立する。ヴァスコが交易で得た品は、胡椒、肉桂、蘇木、丁字、生姜など。 このポルトガルの決定は、ヨーロッパ各国が本格的にアジアに進出する契機になったとともに、その基本的態度を方向付ける。強力な海軍を派遣して貿易を支配する構造は、ヨーロッパ諸国がアジアに植民地主義を展開する手段として用いられることに。
しかし、ポルトガルのやり方は東アジアでは通用しなかった。インドではムガール帝国は海には無関心だったが、中国(明)は違った。明は海外貿易を禁止するとともに、貿易の利益を国家が独占する政策を取る。朝貢貿易が主体であるため、周辺国も海賊退治を熱心に進める。イスラム圏では、一般の民間と海賊の区別はない。しかし、東アジアではポルトガルは大人しく振舞うしかない。キリスト教は、限定的にしか普及できず、ザビエルは日本での布教は断念し、中国で失意のうちに亡くなる。最後は布教抜きで経済利益を追求するオランダに覇権を奪われる。
イタリアのベネチア等の都市国家も、ポルトガルの興隆で最初は大きな打撃を受けるが、ポルトガルがすでに出来上がっていた自由な貿易網を完全に破壊できた訳でもなく、しばらくは息をつくことが出来たらしい。

世界の歴史の部屋

民主主義の歴史

みんなで決める。これは人類の歴史ではほぼ最初からあったルールです。類人猿の世界でも食べものを老人や幼い子供達にもある程度平等に分けるためのルールが存在しています。弱肉強食の社会でない限り。構成員が平等な狩猟民の世界では話合いで物事を決めることはごく当然のこと。マルクスの言う、原始共産制の世界です。農耕社会になって、リーダの存在が大きくなり、初めは回り持ちのリーダが世襲制となり、王政や帝国が生まれました。遊牧民の世界は部族会議などがしばらく続いており、これも一種の間接民主主義と言えるでしょう。ローマの元老院などは、話し合いの場ですが、議員は家柄で決まっており、終身ですから平民の権利は認められてなかったのですね。しかし、ここでの議論は真剣でカエサル(シーザー)とキケロの弁論での対決など、弁論の価値を高く評価している点はすばらしいものがあります。多数決で決まるより弁舌の力で決着することが多かったようです。元老院の議員にはそれだけの格式が求められていたようです。だいたい議論に参加しない人には決定に加わる権利は無いのです。

ローマでは、その後だんだん平民の力が強くなり、元老院と対立するようになります。シーザーは平民達の多大な支持を得て皇帝のような地位を確保します。今のロシアのプーチンみたいな存在かもしれません。その後、初代皇帝としてアウグストゥスが後を継ぎ、平民達の声を利用しながら、元老院から権力を奪い取っていきます。でも、その際の最大の力は武力よりも言論の力と信じられていました。
      古代ギリシャでは、アテネが民主制を採用します。アテネはペリクレスという偉大なリーダに恵まれ、大発展します。しかし、アテネ政体を視察に来たローマの元老院のメンバー達は、「これはダメだ、いづれ潰れる」と判断して、民主制の採用を見送ったそうです。案の定、ペリクレスが無くなると、アテネは混迷を極め、衰退します。いわゆる衆愚政治に陥ってしまったわけです。。

現代の民主制は、資本主義の勃興と並行して進んできたことを見逃してはなりません。新しく出て来た産業資本家達は、地主貴族から土地の農民を工場の賃労働のために引離す必要があります。そのためには普通選挙は格好の口実になります。選挙の投票では、賃金をくれる人の言うこと聞くのは当然です。また、中間層が増加することは、製品の買い手としても有望です。こうして成熟した資本主義国家の資本家達は遅れた国の政治制度にも横槍を入れるようになります。各国で労働争議が増加していく裏には、資本主義国からの資金援助もあったことでしょう。革命運動等の指導者達、その資金源どこだったのでしょうか。

戦後の日本は、民主主義はもっとも進んだ制度だと学校教育で洗脳されて来ました。しかし、民主主義を真に機能させることは容易ではありません。権力者はマスメディアもネットの情報も管理できます。アメリカのトランプ政権は色々マスメディアでは叩かれていますが、今までとは異なった見方もあるのだと国民が気付いた点では評価できるのではないでしょうか。

世界の歴史の部屋

パックス・アメリカーナ

パックス・ロマーナという言葉が西洋史には出て来る。パックスはピースの意味で平和、ローマ帝国がヨーロパ及びその周辺を含む巨大な地域を統一し、長期間の平和と安定がもたらされていた状態をいう。時代的にはBC27年~AD180年、すなわちアウグストゥスによる帝政開始~五賢帝時代の終わりぐらいまでを指している。確かに域内に住む人々にとっては、戦争もなく経済も発展し平和で良い時代であったことは間違いないようです。世界史の中で巨大な帝国は何度も現れますが、パックス・〇〇と呼ばれるような帝国(共和国でもかまわないが)になるには、いくつかの条件が必要でしょう。具体的にいくつかの候補を挙げて見ましょう。

【唐帝国】

唐帝国は、交易も世界的で統一後は、周辺国ともうまくやっているようです。中華帝国の貿易は、朝貢という形で行われ、実際には宗主国の大幅な持ち出しです。中国の王朝は唐に限らず、統一後しばらくは平和な時代が訪れます。そのうちに国の統治機構が腐敗して、衰退していくことになります。これは中国だけに限らないか。でも、パックス・タンもありですね。ところで、唐の時代は、すごく国際的ですね。西から色々な文化がやって来てます。キリスト教(景教、ネストリウス派)も唐経由で、日本にも入って来てます。日本にキリスト教を最初に伝えたのは、ザビエルだというのはウソですね。

【パックス・モンゴリア】

モンゴルの世界帝国、歴史地図を見るとすごいですね。まさに、世界最大の帝国が忽然と現れるのです。モンゴルの侵入は、残虐さで有名ですが、征服後の統治には、現地の人材をフルに活用します。何せ、あれだけの版図をごく少数のモンゴル人では統治しようがありません。政府の中枢も有力な官僚たちは西域の色目人と言われる人々が多数を占めています。モンゴルの残虐さは、当時の支配者達の立場で歴史が書かれているためで、その後の善政については抹殺されているのでしょう。モンゴル帝国の一部であった元でも、官僚機構はそのまま、役人たちも不満なし、頭が入れ替わるだけですから。一般の人々から見たモンゴル支配下の生活、そんなに不満はなかったのかも知れませんね。モンゴル帝国の版図が大きくなったおかげ、世界交流は大幅に活性化します。商人たちが安全に行き来できるからです。ローマからは、マルコ・ポーロ達がやってきますね。

【パックス・ブリタニカ】

15世紀ごろから、ヨーロッパ列強の世界進出が始まります。はじめは、スペイン、ポルトガル、オランダそして最終的に英国に覇権が移っていきます。この時代戦争が絶えませんね。英国も最初は、武力に頼って来ましたが、次第に外交による平和的(陰謀的)解決を主力にするように変わって行きます。日本でも、幕末には陰で反政府勢力の薩長を支援し (幕府を支えたのはフランス)、日露戦争でもロシアの足を引張り続けます。更に、当時勃興してきたマスメディアをフル活用してロシアが負けたことを既成事実化して交渉を日本に有利に進めます。ロシアはお陰で革命が起こりロマノフ王朝は転覆します。この革命にも情報や資金面で隠然と操っていた力があったのですね。巧みに情報を操作して、世界を操る諜報活動の力を最初に認識したことが英国が成功した鍵ですね。

英国は、植民地経営でもうまくやっていたようですね。現地の人材をうまく活用しています。フランスが力で押さえつけるやり方を取ったのと対照的ですね。植民地が独立した後も、比較的順調に発展している例が多いようです。ただし、地元民を分断して統治する政策は、後々に大きなしこりを残しているようですね。我が国も戦前には、「大東亜共栄圏」を目指したことありましたが上手く行かなかったですね。

世界の歴史の部屋

【パックス・アメリカーナ】

第二次大戦の結果は、アメリカの一人勝ち、日本、ドイツの負組以外の、英、仏も戦争の痛手で青息吐息、英国は覇権をアメリカに譲り、院政を試みます。ところが予想外のことが生じます。いわゆる「鉄のカーテン」が出来、別の世界が形成されてしまうのです。でも、ソ連邦は、その後経済的に破綻し、現在覇権国と言えるのは米国だけになっています。パックス・アメリカーナは、現代の状態そのものでしょう。ここから先は、歴史の課題というより、現代政治そのものかも知れません。でも、昨日までに生じた事柄はすべて歴史の対象とも言えます。歴史を読み解き未来の予測に使えなければ歴史を学ぶ意味は何でしょうか。パックス・アメリカーナについての考察はまた後日行いたく思っています。

世界の歴史の部屋

米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人

NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。

途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すのとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
フレッド・コレマツ 2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。

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【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

世界の歴史の部屋

原子爆弾の開発

1945年8月、人類史上初、世界で唯一核兵器が実戦使用された。
8月6日 広島市 広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイ
8月9日 長崎市 長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマン
原子爆弾の開発は、E=mc2、すなわちわずかな質量が膨大なエネルギーを生み出すという発見から生まれた画期的な殺戮兵器である。ナチス支配下で米国に亡命して来た著名な科学者達がルーズベルト大統領に進言して開発が進められた。確かにドイツでも日本でも並行して開発が進められていたことは公然の秘密である。日本では仁科芳雄等が中心となって研究開発が進められていたが、敗戦後には原子力に関係する施設は米軍によって秘密裏に完璧に破壊された。日本のノーベル賞学者は湯川、朝永は仁科の弟子で、以後日本の物理学者らは専ら理論物理の研究を中心に行っていくことになる。
 ドイツが降伏し、日本も降伏寸前の時点では、核兵器の破壊力から投下を中止する意見もあったが、ルーズベルト死去の後を継いだトルーマン大統領の決定で投下が実施された。更に、第三の原子爆弾を投下することも計画されていたがトルーマンによって中止された。ルーズベルト大統領は、日系日本人の捕虜収容所を進めた張本人、やっていることナチスのユダヤ人捕虜収容所と何ら変わりがない。はじめからドイツには落とすつもりはなかったのかも。
 その後朝鮮戦争では、マッカーサーは原爆の使用を提言するが、トルーマンはこれを許さず、38度線にこだわり、また、今まで支援してきた蒋介石の中華民国政権の梯子をはずし、共産党の大陸支配を容認する。この結果、金日成が朝鮮解放の英雄として北朝鮮の支配を確立し、毛沢東も米国・日本から中国を解放した英雄として支配権を確立。その後進んでいく東西冷戦もこの時から想定されていた筋書通り展開のように思われる。

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敗戦後の東アジア世界

 日本がポツダム宣言を受け入れ終戦となったのが1945年。日本の降伏調印式は1945年9月2日。実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた(知らないのは日本国民だけ)。日本の終戦記念日は翌日の8月15日。正式に国家同士で戦争していたのはアメリカ合衆国と中華民国(蒋介石政府だけ)。ソ連とは不可侵条約を結んでいたので正式には戦闘状態には無かったわけです。中華人民共和国の成立は1949年10月1日。朝鮮戦争は1950年の北朝鮮の突然の侵入に始まり、1953年7月に休戦協定成立。未だ最終的な平和的解決は行われていない。

 戦後賠償については、米国、中華民国は賠償の権利を放棄している。これは第一次大戦時にドイツに過大な賠償金を課したことが大二次大戦の原因ともなったことを踏まえてのこと。従って、この時点において日本は戦後賠償の義務は一切ないことになっている。毛沢東の中華人民共和国は、戦中は国共合作として称して日本軍とも戦闘したことになっているが、実際は国民党を背後から鉄砲を打って邪魔したことぐらい。毛沢東は、「日本軍のお陰で国共内戦に勝てた」と豪語しているくらい。もちろん朝鮮半島は日本の統治下ですから日本国内の問題。韓国がとやかく言う筋合いは全くないはずのものです。

戦後、日本は東南アジア諸国に戦後賠償を行っておりますが、これは全く善意による経済援助。中国と韓国には未だに多大な資金供与を行っているのが我が国の現状です。しかし、日本は今の中国と韓国には賠償責任は一切ないはず。もしこれらの国が賠償しろというのは、アメリカ政府のさしがねか、中国、韓国の諜報組織による陰謀でしょう。日本人は歴史の勉強が足りないのは事実ですね。
日本は戦争放棄の他、諜報能力も放棄してしまったようで、政界、マスコミ、学会のすべてにこれら中国、韓国、北朝鮮からの諜報機関から莫大な資金がノーチェックで流れ込んでいるはず。世界中で、このように支払わなく良い賠償金??を払い続けている国はありません。日本では自民党の議員の中にすら中国、韓国のシンパは大勢います。本当の国益とは何か相当良く考えないといけませんね。

世界の歴史の部屋

ニクソン・ショックとプラザ合意

リチャード・ニクソンと毛沢東

第二次大戦後、米ドルを基軸通貨として為替の安定・自由貿易の推進により世界各国が相互に発展することを目指して定められた国際ルールがブレトン・ウッズ体制(1944)です。
日本が奇跡的な経済成長を見せ、西ヨーロッパも順調に復興すると、国際競争力が相対的に上がっていきます。世界各国は輸出によって稼いだ米ドルを金にどんどん換えていきます。一方アメリカは世界の警察として多くの軍事費を投入し、また共産圏の拡大を防ぐために発展途上国への経済援助費を増やしていきます。多国籍企業は米国外へ投資をつづけ、膨大な米ドルが世界中に流出し、これらのドルも金に交換されました。
結局アメリカの保有していた金(ブレトンウッズ体制当初、世界の7割とも言われていた)は、大量に国外に流出し、金ドル交換の不安が叫ばれるようになりました。1960年代にはしばしばドル危機の声が高まり、ゴールド・ラッシュと呼ばれる金への投機が活発になる現象が起きました。
1971年8月15日、アメリカ大統領チャールズ・ニクソンは、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止することを突然発表します。これは、ブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味しており、国際金融の大幅な枠組みが変わるきっかけとなります。この発表はアメリカ議会もしらなかったため、ニクソン・ショックと名づけられドル・ショックとも呼ばれます。ほぼ同時期(一ヶ月前)に発表されたニクソンによる中国訪問宣言と一連の北京での外交活動も合わせて、ニクソン・ショックと呼ばれています。
ところで、それまではドルは金と対応していたので他の財貨との関係は需要供給曲線のロジックでバランスが取れるフィードバック機能が働いていました。しかし、ドル金交換が停止されて以降、米国は無尽蔵にドル(もちろん貨幣に変わる債権なども含みます)を発行し、覇権国として世界中から自由に物を買うことができるようになりました。これが米国が覇権を維持できる根幹でしょうね。今後もドルはどんどん増え続けるでしょう。その結果は世界は一体どうなってしまうのでしょう。世界の経済は、常に新たな需要と供給のバランス点を模索して変化し続けるでしょう。人はそれを経済発展を称するのでしょうが、変動する世界は行きつく先が見えないので大変不安です。少なくともサスティナブル(持続可能)な制度ではないはずです。ただ、世界経済の規模が大きいのでたとえ破綻するにしても数十年の規模で推移するのでしょう。
基本的に貨幣の量が増えれば、財の需要は増え供給の価格は割高になるでしょう。特に労働賃金(労賃にも需要と供給の関係が成り立つ)の安い開発途上国には有利に働くでしょう。その結果、中国、インド、東南アジア、アフリカなどの経済はずいぶんよくなって来たようです。一方、先進国の工業は材料費や賃金の高騰で立ち行かなくなって行くようです。そして頻繁に発生するバブル、やはり近い将来何が起こる可能性は否定できないでしょう。現在も金はどんどん米国や日本から流出して中国やロシア、インドなどの国は金をせっせと集めていると言われます。そのうちにまた金本位制が復活するのかもしれません。

世界の歴史の部屋

中華思想と小中華思想

中国は儒教に国と言われ、韓国も儒教の国であることを自負している。儒教は日本人の思想にも多大な影響を与えています。北朝鮮やベトナムも儒教の影響を受けており、東アジア一帯に渡って一つの大きな文化圏を形成しているとも言えそうです。ただし、日本での儒学は隣の中国、朝鮮とは異なった発展をとげたようです。儒教は、何故か国の宗教にはならず、そのため人の生き方のような哲学的な部分が発展して、陽明学のような流れは日本から逆に中国に輸出されるまでに発展します。
一方、本家中国では、儒教は秦の時代の焚書坑儒のように最初は多大な迫害を受けますが、漢の時代以降、国を治める宗教(理念というべきか)として取り上げられ、大きく変身してしまいます。親には孝、国には忠と言う部分だけが強調されて、礼儀作法が形式化されていきます。現状肯定の支配者に取って、都合の良い考えですね。
一方、中国が宗主で周りの国が家来といった、中華思想が段々強化されていきます。いわゆる朝貢貿易です。歴史上、王国が誕生すると同時に王国の周辺の民族を見下すような自己中心的な考えは多かれ少なかれ見られるものですが、中国ではこの考え方が異常に発展してしまいます。中国独特の歴史的、地理的な環境がそのようにさせたようです。
一つには、儒教が中華思想を肯定し、強化する役割を果たしたようです。また、中国は何度も周辺の遊牧民に支配される歴史を経験しています。このような支配を受けた経験は、その劣等感の裏返しで、かえって選民思想のようなものを強化していく作用があるようです。
一方の韓国での小中華思想は、とりあえず中国を親と仰ぎつつ、自分はその第一の継承者として周辺の民族を積極的に見下す。朝鮮と言う国は、中国の影響をはねのける代わりに従属の道を選んだ。日本やベトナムとは異なる道だ。総ての文化は韓国から日本へ流入したと信じたい。コメも、仏教も、漢字も、カラオケも、寿司も、血液型性格判断も、終身雇用制度も。これが韓国の実態。結局見たいものしか見ないし、見たくないものは否定する。これが歴史認識の違いと彼らが声高に主張していることの真実です。
 中国も、尖閣列島の問題も、スプラトリー諸島の問題もすべて同じ。総て自己中心的な発想ですから解決するはずもないわけです。外交問題ではこれからも色々問題を起こすでしょうが、常に発想は自国中心。力の外交を繰り広げると予測されています。
 まあ、あまり隣の国を批判するのも格好いい話ではないので日本のことを振り返ると、戦争中の日本は、まさしく中華思想ならぬ皇国史観に塗り固められていて、あまり自慢できる話でもないですね。大東亜共栄圏などまさに中華思想とウリ二つ。劣等感に起因する排外思想、現実を見ないで過去を美化する史観。ちょうど今の北朝鮮と同じですね。このような民族主義的な歴史観、そろそろ終わりにして欲しいですね。

世界の歴史の部屋
裸坊達の部屋

コロンブスのお土産

 スペイン・イサベラ女王の資金援助で新世界に到達するコロンブス。1492年西インド諸島のサン・サルバドル島に上陸する。地元原住民の歓迎を受けるも、コロンブス本人は、金と奴隷の略奪しか興味がなかったらしい。要は海賊ビジネスが生業だった訳。ただ、インドに行った証明に胡椒(pepper)を持ち帰る必要があった。胡椒はインド原産で大変な貴重品。もちろんここは、本当はインドではないので、胡椒なんて手に入る訳がない。ところがここに素晴らしい代替品があった。唐辛子である。これも、英語ではpepperだ。以後、世界中で大流行の香辛料になる。本家の胡椒を凌ぐほどに。ただ、コロンブス自身は、インドに行ってないことがバレてしまい、晩年は不幸な人生だったとか。

 ところで、コロンブスが持ち帰った農作物は、非常に貴重なものが多く、世界中の人々の農業や食文化に多大な影響を与えている。例えば、下記のような作物が挙げられる。このうち一部は、コロンブス以前に別のルートで広まったと思われるものや、より後の時代に旧世界に伝えられたと思われるもの混じっているが、スペイン人による完璧な破壊略奪で滅ぼされた新大陸の文化の高さを証明している。

1.唐辛子…ナス科トウガラシ属、中南米を原産。
2.ピーマンやパプリカも唐辛子の変種。
3.トマト…ナス科ナス属、南アメリカのアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産。
4. ジャガイモ…ナス科ナス属、原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。
5. タバコ…ナス科タバコ属
6.カボチャ…ウリ科カボチャ属、原産は南北アメリカ大陸。
7. サツマイモ…ヒルガオ科サツマイモ属、
8.トウモロコシ…イネ科の一年生植物。
9. 落花生…マメ亜科ラッカセイ属、南米原産。
10. いんげん豆…マメ科、アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税として徴収

非常に多彩です。1~5がナス科というのも面白いですね。インカのナスカ絵…ダジャレ。世界に4大穀物…小麦、米、トウモロコシ、ジャガイモ。このうち2つが米大陸原産。トウモロコシとサツマイモは10世紀頃に既にポリネシアで栽培が記録されており、もっと前に伝わっていた可能性もあるそうです。唐辛子は、秀吉の朝鮮出兵の時に日本から朝鮮半島に伝わったようです。

世界の歴史の部屋

アイヒマン裁判

アドルフ・オットー・アイヒマン(1906年~ 1962年)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割をになったとされている。
Eichmann
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行される。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑。
 アイヒマン氏は、アルゼンチンで家族を持ち平穏な余生を送っていたようだ。イスラエルのやり方は、当然国際法違反であるが、アメリカの強い後ろ盾もあり不問にされた。世界のメディアは、アイヒマンを凶悪な性格に描こうと待ち構えていたが、アイヒマンの答弁は終始、「法と上司の命令を忠実に守っただけで、自分には罪はない。」というものであった。要するにごく普通の一般人。この裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、この記録を発表するが、ユダヤ社会を含めメディアから猛烈な批判を受ける。でも、事実なのだから仕方がない。でも、あなたがアイヒマンの立場だったら、上からの命令を敢然と拒否できたでしょうか。

世界の歴史の部屋

中国は何故世界の覇者になれなかったのか

ジャンク船 明の時代、中国の鄭和(ていわ)は大艦隊を引き連れアフリカの東海岸(現ケニア)まで遠征する。鄭 和(1371年 ~1434年)は、中国明代の武将で12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられる。鄭和の船団は途中、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、中国の威を誇示して回った。コロンブスが米大陸を発見する(1492年)よりも60年ぐらい前のことだ。しかも遠征の規模も桁違いに大きい。
 コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはあまりなかったからという説もある。
しかし、3万人もの人材を海外に派遣して各地の地理情報を取りまとめているのだから、利用の仕方次第でいくらでも歴史に大影響を与えることは可能なはずだ。このような海外派遣を続けていれば(資金が枯渇しなければ)、インドやアフリカの国々も中国に朝貢するようになり、世界帝国の中心として覇をとなえることも可能であったはずだ。
鄭和の遠征鄭和の遠征      コロンブスコロンブス
 ただ、はっきり言えることは鄭和のプロジェクトは、国策プロジェクトで、当時の明は中央集権的国家であった。一方、コロンブス達は得体の知れないならず者集団。ベネチアからの資金やイサベラ女王の支援(ポルトガルには断られる)のおかげで成立した博打のようなプロジェクトだ。だからどちらもプロジェクトとしては成功しても、歴史に与える影響でコロンブスが勝っていることになる(歴史の逆説みたいなもの)。
 当時の明は、民間による海外貿易は禁止している。第三代永楽帝は、クーデター的に政権を確立したこともあり、積極的な海外拡張策を取り、周辺諸国に朝貢を促す政策を実施。基本的に朝貢貿易というのは、朝貢国よりも宗主国の方が持ち出しの経済的には割が合わないシステム。度重なる遠征と朝貢から明の財政は逼迫、以後中国は二度と海外に目を向けることはなくなる。ヨーロッパ諸国が海の覇権を確立する絶好の好機を提供したわけだ。
しかし、鄭和の艦隊が去った後は、その隙間はしばらくの間の海は、イスラム商人たちの独壇場(インドや東南アジア諸国も入れたか)となったはず。ここを避けて西へ向かったのがスペイン、強引に割り込んだのポルトガル。どのようにしてポルトガルが海の覇権を手に入れたのか、これも歴史の面白いところ。
ダウ船ダウ船      キルワキルワ遺跡(タンザニア)
 中国は、孔子の生まれた春秋戦国時代を除くと、ほとんどの時代統一王朝が存在している。たまたま、前の王朝が倒れても次の新しい王朝が統一する。基本的にはトップは倒れても官僚制は存続しているわけ。明の前の元王朝の時だって、王家の人間は処刑されても官僚たちはそのまま利用される。だって、極めて少人数のモンゴル人がどうやって人口の多い中国を治めるんだ。これが中国の歴史的な体質となってずっと残っている。いわゆる律令国家だ。朝鮮も同じ。ところが日本だけは、例外的に武士が政権を握りいわゆる封建制度となる。ヨーロッパもローマ帝国崩壊以降封建制に変わる。封建制は中央集権に対して非常に地方分権型。多数の国家が覇を競って競争する。封建制は中央集権に対して国の運営としては効率が悪そうだが、自由競争や思想の多様性が高い利点もあり結局、経済・技術の分野では成功する。
中国は世界に先駆けて安定して平和な中央集権の確立に成功した。その結果は、当初技術面でも素晴らしい発展を見せる。紙、羅針盤、印刷術、火薬、鉄砲(のようなもの)等、世界中の近代以前の主要な発明は総て中国産と言っても過言ではあるまい。シルクロードで運ばれる絹も中国。スパッゲティだって元をたどれば中国の麺だろう。ところが、明代以降の中国は、海外から目を反らし、国内の技術の発展をむしろ禁止して、ひたすら政権の安定だけを目指すようになってしまう。日本も江戸幕府は民間の海外貿易を禁止したり、海外の情報を入れないようにして、300年の平和と安定を維持したが、政権の基礎が封建制であったため、諸藩から生じる討幕の動きを止めることができなかったわけだ。安定や平和、秩序を求める国民の要求にも一見合致した政策が、結果として世界の大勢に遅れ、国民にも多大な負担を強いることになってしまうわけだ。

世界の歴史の部屋

めげない北朝鮮

米トランプ政権の強硬な姿勢にもかかわらず、ますます戦術をエスカレートして行く北朝鮮。国際的制裁を声高に叫び続けるだけの阿部政権。果たして、落としどころはあるのでしょうか。そもそも、北朝鮮の歴史をたどってみれば、絶対に折れることが無いことは明白なはずですが。
朝鮮戦争が1953年に国連軍と中朝休戦協定が結ばれて以降、米国と朝鮮は未だに戦争が終わってない状態にある訳で、今まで北がもっとも望んでいたのは停戦協定と平和条約だったはずなのです。北朝鮮は、日本の敗戦とドサクサに紛れて金日成がソ連後と中国の力を借りて軍事力で簒奪した国家で、別に多くの国民の支持を集めて造られた国家ではありません。その意味では中国も一緒で、日本軍と戦っていた中華民国の軍隊を背中から鉄砲を打って倒したような政権。中国が米国を打倒した言うことで党内で一躍力をつけたのが毛沢東。結局朝鮮戦争で一番得をしたのは毛沢東と金日成です。
これに対して、米国の対応がまた不可思議。マッカーサー等のさらなる進行をトルーマン大統領は拒否し、今の38度線で休戦協定。これはソ連との約束とのこともあるようですが、その後中華民国への支援の梯子を外し(ルーズベルトの時代までは良かった)、中華民国は台湾へ追いやられることになります。同時に英国のチャーチルの「鉄のカーテン」演説を受けて、反共活動を開始します。
金日成
まあ、トルーマン大統領にとっては、世界とは米国と欧州。その他の野蛮人の国はどうでも良かったのかもしれませんが。もう一つ理由を挙げれば、当時事実上の唯一の戦勝国の米国は、強力に育った軍事力を戦後どのように処理して行けば良いか分からなかったと言う問題があったようです。熱い戦争は困るけど、冷たい戦争、お互いに睨み合って軍事拡張を続ける。時々小さな小競り合いがある(代理戦争)状態が大変好ましかったということもあるでしょう。軍隊と言う組織は超巨大な官僚組織、組織を縮小、予算を減らすなどしたら大変です。更に大戦後の米国軍は諜報能力も絶大で、あることないことでっち上げ政府を操ること等、お手の物。この軍と防衛産業、諜報機関、西欧諸国の同様な機関が協力して冷戦構造を作りあげられました。
金日成
この間、北朝鮮は常に米国から見て悪役、北朝鮮から見たら米国が悪役の体制が続けられてきました。北朝鮮の意志とは全く関係なく米国の都合です。もし、今米国が北朝鮮と和解して交流を開始したらどうなるのでしょう。韓国にいる米軍は必要なくなります。日本の沖縄基地も不要になってしまいます。トランプはそれでも良いと思っているのしょう。でも、米国の主流派は決してこのような状態は許せません。日本政府も韓国政府も対米依存ですから、米国が出て行ってしまうことには大反対でしょう。北朝鮮とはいつまでも敵対していて欲しいのが本音です。北朝鮮も反米を国是として国をまとめてきたことから、停戦協定を行うと、国家の存続理由が無くなって崩壊してしまう懸念もあるのでしょう。結局当事者達は今の状態が継続することを望んでいる訳です。一番困るのは北朝鮮の一般の民衆でしょう。
金日成
北朝鮮の国家体制は、戦前戦中の日本と瓜二つです。全体主義国家。天皇の代わりに金王朝があります。お国のために死ぬことを教育された人々、原爆でも落ちるまでは戦う覚悟が出来ているでしょう。トランプは多分自分から攻撃をかけることは無いでしょう。しかし、北朝鮮封じ込め戦略を取り続けた軍部には、北朝鮮が米国に届くミサイルを開発したことは大変なショックを受けているはずです。過去の日本と同じように玉砕戦を挑む可能性が現実味を帯びて来るからです。経済封鎖に当たって、中国とロシアが原油の供給をストップすることに躊躇したのは日本が真珠湾を攻めた前例があるからです。
停戦の最後の切り札は、北朝鮮が核開発を止めることでしょう。しかし、米国は今持っているものも破棄するように要求するでしょう。これは絶対にありえないストーリーです。イラクのフセインが大量破壊兵器を破棄してもまだあるはずだと因縁をつけられ最後に潰されましたね。リビアのカダフィも同じか。北朝鮮は、イラクやリビアのの二の舞にはならないでしょう。結局、現状を認め核兵器開発を止めることで手を打つところが落としどころでしょう。だから、米国世論が和平に傾くのを待っているのがトランプの真の狙いでしょう。和平が成立すれば、米国は韓国、日本から膨大な軍事力を引き上げることが出来、膨大な経費が削減できます。ただ、和平が成立すると韓国、日本も大幅な政策変更が避けられなくなるでしょう。北朝鮮が先に手を出せば話は簡単。戦争で片が付くでしょう。だから北もうかつに手を出さない。最後は米国の方が何らかの妥協案を出すかも。とすると現在駐留している韓国や沖縄の軍を引き上げることもトランプの視野にあるかも知れませ。

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忘れられた巨人The Buried Giant

アーサー王 2017年のノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロ氏の小説です。この舞台設定がとてもユニーク。舞台はイギリス、主人公の老夫婦は、ブリトン人。4世紀から5世紀頃大陸からサクソン人が大挙して侵入してくる。日本で言えば、縄文社会に大陸から弥生人が大挙してやってくるような状況か。でも、日本では大和政権が確立されていく頃。ローマ帝国ではキリスト教が国教となり(392)、ブリトン人はキリスト教徒という設定です。
ブリトン人は、ストーンヘンジ等の新石器文明を残した人々の末裔か、あるいはその後に来た人々か。また、サクソン人は、ドイツのザクセンと同語源でゲルマン系でしょうが、今ではアングロ・サクソンとして英国人の主流となっていいます。
小説の設定では、ブリトン人は山の斜面の横穴式の住まいを好み、サクソン人は環濠集落を築いており、言語も異なり文化も異なるものの平和な時代にはお互い多少の交流もあったという設定です。
アーサー王 ここで、出て来る巨人とは、「アーサー王」という伝説上の人物でしょう。マーリーンという魔法使いの参謀がいたり、ドラゴンやその他の怪獣を操ったり、また選ばれた騎士達の力で国土を一旦は統一したという設定だ。アーサー王はブリトン人ということで、実は戦いにおいて大量の虐殺も行い、そのため一部のサクソン人達は復讐心を燃やしブリトン人を殲滅しようと密かに計画している。一方、ブリトン人の中にはアーサー王の継承者を自認する人たちも存在している。一方、ドラゴンの息から吐き出される気が人々の過去の記憶を消し去るという魔術を持っている。主人公の老夫婦も過去の記憶が消されており、最初は二人とも認知症でもかかっているようだが、読み進めていくうちにドラゴンの霧というのが実際に作用していることが分かる。
主人公の老夫婦は、過去の記憶を求めて旅に出る。そこで色々な人物に会う。最後に竜は退治され人々は過去の記憶を取り戻すが、本当にそれは幸せなことなのか。
ブリトン人とサクソン人の遭遇、これは今の世界にも当てはまる重要なテーマです。EUにはイスラム教徒が難民として大挙して押し寄せてくる。日本だって将来、他人ごとではないかも知れません。多分ドラゴンがまき散らす息と言うのは、自然災害等による環境の劣化を指しているのだろう。洪水や旱魃など人の力では対処できない事柄はドラゴンなどと魔物のせいにしていたのでしょう。

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戦後の米国覇権とその政策

1.戦後処理
 太平洋戦争は、一般に「真珠湾攻撃・マレー作戦・開戦の詔が出された1941年12月8日から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とされているが、英国はこの戦争でアジアでの覇権を失い、欧州では、戦勝国側も疲弊しきっており、米国の一人覇権が確定する。米国の当初の戦略は、戦勝国5か国の共同管理を想定しており、国連の英語名のUnited Nationsは、戦時中に使用していた単に連合国そのままである。
 米国の外交戦略は、もともとはモンロー主義(第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ モンローによって提唱された)に代表されるようにヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉が基本であった。 実際、米国は独立当初から、各州の自立を重んじる分権派と連邦政府の強化を目指したいエリート層との間で峻烈の戦いが続いて来ている。今年、大統領になったトランプのアメリカ第一主義や、共和党の茶会派等は、アメリカ庶民の本来の本音の草の根の意見を代表しているともいえるでしょう。
 米国中心の占領軍の、日本に対する政策は二度と戦争できないように極力力を削ぐものではあったが、一部国民の総意に基づく民主主義の理想を実現しようという意図もなかったとは言えない。農地解放、平和憲法等は自国では実現できない政策を実行に移したものともいえる。どちらかというと分権派的だ。それまで禁止されていた共産党の活動も合法化されるなど、戦後民主主義の時代を迎えるかと思われていた。また、イラク占領の際には、フセイン政権下の官僚機構をズタズタに破壊してしまったことが今の混迷の一因ともいわれているが、日本の場合、吉田茂主相の尽力もあり、官僚機構は米国の御用聞きとして無傷で残された。ただし、その代償として戦後の日本では、官僚主導の対米従属一辺倒の政策を変えられない状況となっている(これも米国の覇権戦略か)。
2.魔女狩りの時代
 ところが、その後米国では、戦略に大転換が行われる。発端は、当時英国の主相を退任した後のチャーチルが米国で講演した、いわゆる鉄のカーテン発言(1946年3月)だ。この時の米国の大統領は、トルーマン。米国では、マッカーシー旋風が吹き荒れ、日本でもマッカーサーの指令でレッドパージという政策が断行される。逆コースと言う時代である。公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とレッテルを貼られた人々裁判にもかけずに解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職したとされる。「赤狩り」とも呼ばれた。
3. 冷戦の始まりと朝鮮戦争
 どうも、トルーマンの一見弱腰と見られる戦略は、初めから意図したもので、トルーマンにとって、世界とは米国、ヨーロッパ、反共の拠点となりうる日本だけで、その他の地域は、とりあえず放置しておいてもいいと考えていたのではないかと思える。このようにしてチャーチル~ルーズベルト~トル-マンの冷戦構想が出来上がる。英国は今までの覇権を米国に移譲する。米国は英国をリーダとするヨーロッパに戦後復興を支援する。戦争中に増大した軍事力は、冷戦構造を持続することで維持する。そのためにはソ連邦には永続的な敵としてふるまってもらう。(2017.5.24)

チャーチル 鉄のカーテン…チャーチルの講演
 (前略)つい最近まで連合国側の勝利によって光輝いていた状況に影がさしてきた。ソヴィエト・ロシアとその国際共産主義組織が近い将来に何をなさんとしているのか、又、彼等の膨張主義的傾向や(他者にイデオロギーの)転向を強いる傾向に限界があるとすればそれは何なのか、誰にもわからない。再びドイツが侵略する事態に備えて、ロシア人がその西部国境の安全保障を確保する必要があることを我々は理解できる。
 (略)しかし、ヨーロッパの現況についての確かな事実を諸君にお伝えすることは私の義務なのである。言いたくはないが、この確かな事実を伝えることが私の義務と思うのである。バルト海のステテティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降された。このカーテンの裏側には、中欧・東欧の古くからの国々の首都がある。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブタペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な全ての郡市とその周辺の住民は、ソヴィエト圏内にあり、何らかの形で、ソヴィエトの影響下にあるばかりか、ますます強化されつつあるモスクワからの厳しい統制を受けている。(略)
 この『鉄のカーテン』を越えて西ヨーロッパまで手をのばしてきた各地の共産党第五列は、文明に対する挑戦である。ソ連が戦争を欲しているとは思わないが、彼らの求めているのは戦争の報酬であり、彼らの権力と主義のかぎりなき拡張である。だから手遅れにならぬうちに、すペての国にできるだけ早く自由と民主主義を確立しなくてはならない。ぞのために民主諸国とりわけアソグロ・サクソソの人々はしっかりと団結する必要がある。(略)
 さもなければ、ふたたぴ暗黒時代に逆もどりするかもしれない。私はあえていうが、用心してもらいたい。われわれに残された時間は少ないかもしれぬ。もう手遅れだということになるまで事態を放任しておくようなやりかただけは、おたがいにしないでおこうではないか。
スターリンの「鉄のカーテン」演説批判(抜粋) 『プラウダ』(1946.3.13)
 チャーチルの演説は、連合国間に不和の種をまき、協力をいっそう困難にすることをめざした危険な行動であると考える。それは平和と世界の安全をあやうくするものである。じっさい、チャーチルは、いまや戦争屋の立場に身をおいている。しかし彼はそこに一人でいるわけではない。イギリスだけでなく、おなじくアメリカにも彼の友人がいる。この点でチャーチルとその友人たちは、ふしぎなほどヒトラーと彼の一味を思わせるではないか。
「鉄のカーテン」演説
CIA NSC チャーチル~トルーマン 冷戦 鉄のカーテン
鉄のカーテンが降ろされた。チャーチルは、8月8日には、驚くほど楽観的だった。広島に Little Boy が落とされた後、長崎にFat Manが落とされる前の、8月8日だ。
チャーチルはトルーマンに機密電報を送り、「広島への攻撃は、この新しい力が正義の力となるか邪悪の力となるか、の可能性を持っていることを証明した。あなたと私は、この大戦争を統括する政府の元首として、世界の平和を促進するために、この偉大な力を我々の国益達成のためではなく、人間性を守る道具として利用する意思を表明した共同宣言を発表すべきだ」と述べた。
それから7カ月後、1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で、スターリンの冷酷な政府を厳しく攻撃した「鉄のカーテン」の演説をし、「国際連合は武装し、キリスト教文明を共産主義の脅威から護らねばならない」と言った。
トルーマン大統領も聴講していた。

ソ連封じ込め
トルーマンは、国連加盟国に原子力エネルギーの情報を提供すべきではないかというスティムソン陸軍長官の提案について、閣僚全員に意見を差し出すよう求めた。
「独占を」という意見もあれば、「完全公開」という意見まで様々だったが、ソ連の侵略的政策との絡みで、トルーマンがアメリカの原爆独占を続ける決定を出すのは当然であった。
1947(昭和22)年9月26日、新設された国家安全保障会議(National Security Council, NSC)は、ホワイト・ハウスでの最初の会合を開いた。そこで、CIAの最初の正式報告が提出され、アメリカの外交政策が明確にされた。「ソ連封じ込めという観点から、地域の重要順位は、⑴西ヨーロッパ、⑵中近東、 ⑶極東となる。日本は、ソ連極東地域に対抗する力として早く発展する資質を持つ唯一の地域なので重要である」

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日の名残りThe Remains of the Day

日の名残り 「日の名残り(The Remains of the Day)」は、ノーベル文学賞を受賞した英国の作家カズオ・イシグロ氏の作品です。歴史的背景は、2つの世界大戦のはざまの、やや没落しつつある英国。主人公スティーブンスは、有力貴族ダーリントン卿の執事。ダーリントン卿を骨の髄まで真髄して忠誠を尽くそうとする。「執事道」を究めた成功者と自認している。ダーリントン卿のもとには世界中(といっても米国を含む欧米諸国だが)の卿の人徳をしたいお忍びで相談に来る。卿は、来る人拒まずで常に公平を理想としていた人徳者。国際会議や条約締結の下準備として、ダーリントン卿の屋敷を借り、丁々発止の議論が行われている。そのため、スティーブンスは執事の仕事を通して各国の主要な人々の世話をする機会があり、自分も世界を動かす役割の一部として貢献していることに自負心を持っている。
しかし、当時の外交は、実際のこのようにして動かされていた一面もあったようです。ダーリントン卿自身もこのような場を提供することが平和と国際正義実現のためと思い精力的にホスト役を引き受けていたようだ。客の一人に「普通選挙だ民主主義だといってみても、婦人会の人々が戦争遂行なんてできるわけがない。」と言わせている。各国のエリート達が腹を割って話し合いをする場が必要なわけだ。しかし、戦争に対する危機感とそれに伴って台頭してくる国家主義によって、話し合いで解決しようという土壌は次第に失われていく。結局、第二次世界大戦後にはダーリントン、対独協力者として失脚し、屋敷は米国の金持ちファラディー氏のものになり、スティーブンスは、屋敷の管理人(肩書は今まで通り執事だが)として再雇用されることに。スティーブンスは、主人からもらった休暇を使って、元屋敷で働いていた女中頭を再雇用する目的で旅をする。旅の途中で色々な経験をする。なんせ主人公は人生ほとんどの期間、屋敷の中から外へ出たことがなかったのだ。また、実はその女中頭が、自分にたいして恋心があったこと(執事の仕事に夢中で気がつかなった)を初めて知る。現在は彼女は結婚していて孫が複数いることを知らされる。さすがに今までの自分の価値観に疑問を持つようになり、新しい人生を始めることを決意する。
「執事道」、結構日本の武士道と一脈通じるところがあるのでは。武士だって、主君のために命を捨てる覚悟を持てるのは、その主君を真から尊敬してないとできないこと。また、現在の外交の場でも、表向きニュースで扱われる動きの裏では、プライベートな話し合いの場が重要であるという事実は変わっていないのではなかろうか。いろいろと考えさせられる課題の多い良い作品だと思います。訳者「土屋政雄」氏の訳も読みやすい。
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ハイレ・セラシエ皇帝

エチオピア国旗 帝国主義時代のヨーロッパ諸国にとっては、海外に植民地を持つことがその国のステータスシンボルであったようだ。イギリスはインド、カナダ、オーストラリアの他、アフリカ大陸には南アフリカ、東アフリカ(タンザニア、ケニア)を植民地化する。インドシナ半島も領有していたフランスも負けじと西アフリカ一帯を植民地化する。オランダはインドネシア(蘭領インド)、日本だって朝鮮、台湾、樺太などを植民地化、合衆国もフィリピンをスペインから奪い取る。ベルギーだってアフリカのコンゴを植民地化。そのようなヨーロッパ列強国によるアフリカの植民地化(アフリカ分割)が進む中、19世紀後半イタリアはエチオピアに強引に介入を始め、1885年に占領し、1889年、ウッチャリ条約によりエチオピアはエリトリアをイタリアの支配権を奪い取る(第一次エチオピア戦争)。国家統一が進みこれから発展するはずのエチオピアにとっては全く迷惑な話だろう。また、同年、隣国ソマリアがイタリア領となる。
独立国エチオピアへの植民を狙うイタリアはメネリク2世の帝位襲名を支援することで、間接的にエチオピアに影響力を行使することを計画していた。そのため、現地には1万人前後の兵士しか派遣されていなかったが、これを好機と見たメネリク2世はイタリアとの協定を破棄して開戦。単に数で上回れるだけでなく、陸軍がフランスの支援で高度な近代化を成し遂げていたのも大きな要因であった。アドワの戦いでエチオピア軍15万とイタリア軍1万が衝突する。
ハイレ・セラシエ1 終結後の1906年にはエチオピアに関する英仏伊三国協定が結ばれ、エチオピアにおける三国の利益保護のために協力することが決めらる。エチオピアは蚊帳の外。1925年にベニート・ムッソリーニがイタリア首相に就任する。 領土拡大を図るイタリアはドゥーチェ・ムッソリーニの指導の下、国境紛争を口実に再びエチオピアに侵攻した。数十年の間に近代的装備を失いつつあったエチオピア軍に圧勝し、皇帝ハイレ・セラシエ1世は亡命してイタリア国王がエチオピア皇帝を兼任した(第二次エチオピア戦争)。
この際、エチオピア政府は国際連盟にイタリアの侵略を訴えるが、効果のある解決策にはならなかったという。国際紛争の解決において大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だがイタリアに対して実効的ではなかった。しかし、イタリアは孤立からドイツおよび日本と結ぶようになり、枢軸国を形成する道をたどることになる。
1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐するとハイレ・セラシエが帰国し、軍の近代化を進めることとなる。

【ハイレ・セラシエ皇帝】
1930年4月にエチオピア帝国皇帝に即位。1931年7月16日に大日本帝国憲法を範とし、7章55条から成るエチオピア帝国初の成文憲法たる「エチオピア1931年憲法」を制定。しかしながら、実態は絶対主義的な欽定憲法であり、社会体制そのものの改革には手をつけず、ガバルと呼ばれる小作地制度も温存された。
ハイレ・セラシエ2 しかし、1934年イタリア・ファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国が「アドワの報復」を掲げてエチオピアに進攻、第二次エチオピア戦争が勃発。国際連盟でエチオピアはイタリアへの強制措置を訴えるもイギリスとフランスの対応が誠意を欠いたものであったために限定的な経済制裁しか行われず、翌1936年3月のマイチァウの戦いでイタリア軍は毒ガスを用いて帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させる。その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世は5月2日に鉄道でジブチに向かい、ジブチを経由してイギリスのロンドンに亡命した。その間首都アディスアベバは5月5日に陥落。
1936年から1941年までのエチオピアはイタリア領東アフリカ帝国としてファシスト・イタリアに統治された。1939年の第二次世界大戦勃発後、東アフリカ戦線 (第二次世界大戦)にて枢軸国のイタリア軍と連合国のイギリス軍の激戦を経て、1941年にエチオピアはイギリス軍に解放され、5月5日に皇帝ハイレ・セラシエ1世は凱旋帰国。
アフリカ分割 国際舞台での活躍;
1945年の第二次世界大戦終結後は、かつて国際連盟で自身が訴えた集団安全保障の実践として朝鮮戦争の国連軍にエチオピア軍を参加させた。また、コンゴ動乱ではコンゴ国連軍に真っ先に参加した国の1つであった。
外交面では朝鮮戦争に参戦するなど冷戦構造の中で西側寄りながら、ソビエト連邦や中華人民共和国のような東側の国々とも国交を築き、1955年のバンドンのアジア・アフリカ会議や1961年のベオグラードの非同盟諸国首脳会議に出席して非同盟中立を掲げ、1963年にはアディスアベバで西側寄りのアフリカ諸国であるモンロビア・グループと東側寄りのアフリカ諸国であるカサブランカ・グループを汎アフリカ主義に基づいてまとめあげたアフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合)の初代議長に就き、アラブ諸国とは同じ第三世界として連携しつつイスラエルとも歴史的な繋がりから軍事協力を行っていた。国際的に孤立していたラテンアメリカの黒人国家ハイチの独裁者であったフランソワ・デュヴァリエは外国指導者のハイチ訪問を唯一ハイレ・セラシエ1世にだけ認めた。内政面では憲法改正、軍の近代化などの改革を行うが、依然として専制政治を続けて権力分立はされず、議会に政党を認めず、封建体制を維持したため、経済面は発展せず国民の生活は悪化の一途を辿り、1960年代の国民一人当たりの年間所得は平均わずか70ドルという世界最貧国の一つに転落するなどさまざまな矛盾を国内に生み出していた。1960年には、皇太子アスファを擁立した陸軍近衛部隊のクーデター未遂事件が発生する。
なかんずく、1970年頃からの深刻な飢饉と、スエズ運河閉鎖による原油価格高騰から来るインフレの悪化は国民生活を苦しめ、一部支配層の農作物の隠匿から餓死者が農村部で増加するなど、エチオピア社会は大混乱となったが、皇帝は何ら対応策を取らず、逆に飢饉を隠蔽するなど、国際社会の非難を浴びた。
1973年以降、ストライキやデモが頻発し、エリトリアでは内戦が発生し、事態は悪化の一途を辿った。折悪しくも、皇帝が宮殿内に飼育しているペットのライオンに肉を与えている写真が発表され、深刻な食糧難に苦しむ国民を激怒させた。1973年9月には皇帝の孫イスカンデル・テスタ海軍副総督が、銃を突きつけて退位を迫る事件が起こり、皇帝の権威は政府内部でも著しく低下した。
退位・死去;
1974年には皇帝自身による不正が発覚するなど、国内におけるカリスマ性は地に堕ち、同年2月には軍が反乱を起こし、帝政打倒の声が高まった。皇帝はエンデルカチュ・マコンネンを首相に任命し、立憲君主制への移行や土地改革などを公約するが、時すでに遅く、民衆によるゼネスト、デモ、若手将校を中心とする改革集団「軍部調整委員会」の成立、軍部による政府要人の拘束などが公然と行われた。
そんな騒然とした雰囲気の1974年9月2日早朝、皇帝はアディスアベバの宮殿内で陸軍のクーデターにより逮捕・廃位され、拘禁中の1975年に暗殺(犯人はメンギスツという説もある。また、1997年にエチオピア当局は廃位直後に射殺されたと発表)された。
死後;
長らく遺骨は行方不明であったが、メンギスツ政権崩壊後の1992年に旧宮殿敷地内から発掘され、2000年にアディスアベバの至聖三者大聖堂内の墓地に埋葬された。なお、息子のアスファは妹等と共にアメリカのニューヨーク州に逃れ、慎ましく過ごすこととなり、1989年には皇帝アムハ・セラシエ1世を称したが、1997年にバージニア州で死去している。アスファの息子ゼラ・ヤコブは現在、エチオピアのアディスアベバに戻って居住している。
アディスアベバのアフリカ連合本部前にはそのアフリカ独立運動とアフリカ統一運動への功績を称えてハイレ・セラシエ1世の銅像が設置されている。
ハイレ・セラシエ3 結局、エチオピア国民は、独裁者である皇帝を廃位したものの、メンギスツというより専制的な独裁者に国を任せることになってしまった。皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際政治の舞台での活躍を見ると寧ろ名君に近い。結局、彼の失敗は経済政策だったのか。カリスマ性のある皇帝は、国民は過剰な期待を寄せてしまったようだ。チャンとした政策ブレーンを育てられなかったんでしょうね。軍人の扇動者たちは、自分は何もする能力は無くても、失敗をあげつらうのは得意な人達ばかりだ。ハイレ・セラシエ1世は明治維新の頃の日本をモデルにしたいと考えていたようだ。しかし、明治天皇はカリスマ性があったものの独裁者ではなかった。多分ハイレ・セラシエ1世は生格的には独裁者に向かないのに無理やり独裁者にされてしまったようだ。だから、断固たる対応が取れずに優柔不断のまま沈没してしまったんでしょう。しかし、第二次世界大戦後の国の舵取りはどこの国も大変みたいだったようだ。ソ連だってスターリンの独裁で経済は停滞、中国だって毛沢東時代の経済は貧しいままだ。どうすれば良かったのか答えを探すのは難しいでしょうね。
ハイレ・セラシエは1956年11月に戦後初めて日本を訪れた国家元首の国賓であり、満州国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って日本から歓迎された。また、1970年(大阪万博観覧のため)の際も来日していた。写真皇帝の両側の方は昭和天皇ご夫妻です。
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イラン革命(انقلاب ۱۳۵۷ ایران‎)

パーレビ皇帝 イラン革命は1978年1月に始まった革命である。国王による専制といっても、国民の生活への不満、海外からの外圧が無ければ、革命は起こらない。でもこれを契機(けいき)に、イランは何故か強硬な反米国家になってしまう。あるいはアメリカが嫌イランになったのか。この状態は2019年の現在まで40年以上も続いている。そもそも、イラン革命が専制王政を倒した民主主義革命ならば、民主化の旗手を自認するアメリカにとっては喜ばしいことではあっても、敵対する状態は変だ。

パフラヴィー朝下のイランは、西側諸国のアドバイスによる国際戦略で、脱イスラム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。国民の合意無き急進的すぎる改革上からの改革を否定したのだから、この革命は民主主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。また、イスラム化を通した反西欧化、反キリスト教化を謳った宗教革命の色が強い。

皇帝は、1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を強く推し進めようとした。しかしそれがかえって、宗教勢力や保守勢力の反発を招く。また、イラン国民のなかには、政府をアメリカの傀儡政権であると認識するものもいた。パフラヴィー皇帝は、自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。イランは有望な産油国。イギリスに肩代わりして米国がイランを傘下に置きたいと考えていることは勿論明白。国民の意識の中に反西欧、反キリスト教の精神が根強いことも考慮しないといけない。つまり単なる政治的な変革を越えて、宗教的、文化的、思想的な大改革であったことを見逃してはならない。

ホメイニー氏 亡命中のルーホッラー・ホメイニー氏を精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とする革命勢力が革命の中心。1979年、4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。国家の根本理念がイスラム教、世界初の宗教に基づく民主国家が成立。

この革命の特徴
この革命がまったく民衆自身によって成就されたことである。冷戦下の1970年代にあって、米国もソ連も外部から支援はしていないようだ。 当時は東西冷戦のさなかで、アメリカ合衆国とソ連の覇権争いと、その勢力圏下の国や民間組織が、アメリカ合衆国やソ連の代理としての戦争や軍事紛争、政治的・経済的な紛争が世界的に発生・継続していた国際情勢だった。この革命の場合は反米・反キリスト教を掲げながらも、ソ連には依存せず、インドやインドネシアのように米ソのどちらの勢力にも加わらない中立の姿勢を堅持し、第三世界の自立性の強化を歴史的に実証し、当時第三の勢力として実力をつけつつあった第三世界の傾向を強烈に示したのがこの革命だった。

イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国連邦政府が背後から支援して樹立した傀儡政権だったパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。米英はこの革命で石油の利権を失うことを最も懸念していたのでしょう。 1979年11月には、イランアメリカ大使館人質事件が起こり、アメリカは1980年4月にイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動。また西側諸国に発注していた、兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす。

一方、サウジアラビア、イラクなどの周辺のアラブ諸国の多くは、同じイスラム今日でもスンナ派というグループに属しており、十二イマーム派を含むシーア派とはやや敵対的な関係にある。反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム全体にも波及することに対して強い恐怖感を抱く。 隣国イラクがアメリカの軍事支援を得て、イランを侵攻、イラン・イラク戦争が勃発。この戦争は8年間も続く長期戦。 また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻も、ソ連がイスラム革命のアフガニスタンへの波及を防ぎたいと考えたのも要因とされている。

革命当初、欧米ではイラン・イスラム共和国体制を短命であると見ていた。西欧にとって、革命とその体制は信じがたい衝撃で、こんな体制が何年にも渡って継続するとは、まるで予想していなかった。だから、経済制裁を続けていればそのうち崩壊するだろうという戦略を続けている。しかし、四十年以上もこの革命体制は欧米の激しい干渉にさらされながらも継続しているのが現実だ。

革命後、人々は国王という共通の敵を失い、政治集団内では新体制を巡り激しい権力闘争に突入したようだ。これはどこの国でも共通にみられる現象。最終的にホメイニーを頂点とするイスラム法学者が統治する体制が固まり、そこではイスラム法が施行されるイスラム的社会が目指されることになる。
しかし、イランにはイスラムの他にも少数ではあるが複数の宗教が存在している。このような宗教少数派の一部、すなわちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒は、公認の宗教少数派としてイラン・イスラム共和国憲法第1章第13条で認められている。彼らが運営する私立小学校では、教育省が作成した宗教少数派用の教科書に従って宗教教育を実施することが義務付けられている。
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パーレビ朝

パフラヴィー朝(Pahlavi)は1925年から1979年までイランを統治した、イラン最後の王朝である。パフレヴィー朝、パーレビ朝、パーラヴィ朝とも呼ばれる。確か日本の新聞ではパーレビ国王と記されていた。
歴史: カージャール朝ペルシア帝国がイギリスとソビエト・ロシアによる干渉に苦しむ中、ペルシア・コサック旅団の軍人レザー・ハーンは1921年にクーデターを起こし、1925年にレザー・シャーとして皇帝に即位。カージャール朝に代わってパーレビ朝が成立。
初代皇帝レザー・シャーは軍事力を背景に中央集権化を進め、近代国家形成を目指して法制などを西欧化する改革を行い、1928年には不平等条約の撤廃に成功した。第二次世界大戦で、レザー・シャーは英ソによる支配からの脱却を目指して親ナチス・ドイツ政策に転換したが、逆にイラン進駐を招いて失脚。1941年9月16日、第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーが即位。
1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニーがソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立。1946年12月15日、イラン軍の侵攻にあい崩壊。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。1949年に反植民地主義のトゥーデ党(イラン共産党)が非合法化される。
1951年にモハンマド・モサッデクが首相に就任した。1951年のアーバーダーン危機(1951年~1954年)では、モハンマド・モサッデク首相がアングロ・イラニアン石油会社 (AIOC)を国有化。1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、親ソ政策を推進。このことはアメリカの反感を買い、1953年にMI6とアメリカ合衆国の協力のもと、アジャックス作戦でモサッデクを失脚させ、親米英的なモハンマド・レザー・シャーが権力を回復した。1955年にはCENTOに加盟し、西側陣営に加わった。
モハンマド・レザー・シャーは、アメリカの支援を受けて「白色革命」と呼ばれる石油利潤を元にした工業化と近代化を進める。しかし、原油価格の下落と急速な近代化の失敗から経済危機を招く。ルーホッラー・ホメイニー氏は、白色革命を批判しなかったが皇帝の独裁的な性格を非難して抵抗運動を呼びかけ、反皇帝運動が激化。1964年、ルーホッラー・ホメイニーは国外追放を受け亡命する。
1979年にルーホッラー・ホメイニーを指導者としてイラン革命が勃発すると、モハンマド・レザー・シャーはエジプトに亡命してパフラヴィー朝は崩壊し、イラン・イスラム共和国が成立。 モハンマド・レザー・シャー(在位:1941年~1979年)は、何故か日本のマスコミでは「皇帝」でなく「パーレビ国王」と呼ばれていた。
どうも、イランの歴史を見るとパーレビ朝自体が簒奪政権のようで、国民の信頼を獲得してなかったようだ。また、時代的には東西冷戦のため両陣営からの横槍も多く、国の舵取りも容易ではないようだ。また、英米による西アジア地域の弱体化戦略、「分断して統治せよ。」の実践もあったようだ。 クルド人の造ったクルディスタン共和国が潰されてことも気の毒なこと。独立を求めるクルド人勢力の存在は、未だに中東の不安定の原因となっている。イスラエルの存在もそうだ。英国がわざと紛争の種を置いて行った結果だ。
イランは、世界史の中では、ヨーロッパよりも遥かに先進地で文化的な誇りもある。思いつくままでも、古代ギリシャと戦ったアケメネス朝ペルシアやその後継のササン朝ペルシア、セレウコス朝、ウマイヤ朝、イルハン国など、色々な王朝名が出て来る。今後も西アジア地域のリーダ的存在としての動向が注目される。
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盛岡の偉人達

文学系 政治系 実業界 特別枠

盛岡という所は、なかなか人材の豊富な土地である。以下、一例を挙げたが他に漏れている方々も多いかも。筆者の浅学のためである。しかし、時代を経ても色あせぬ業績の多くは今後も受け継がれていく価値のあるものが多いでしょう。筆者が盛岡の高校を卒業したため我田引水的な評価もあると思われる方も多いでしょうが、そこはご容赦下さい。

文学系


野村胡堂(1882年~1963年)
野村胡堂 盛岡尋常中学校(現:盛岡第一高等学校)卒。『銭形平次捕物控』で有名です。空想科学小説『二万年前』等の著作も。私は読んだことありませんがネットオークションではかなり高値がついていました。
金田一京助(1882年~1971年)
金田一京助 石川啄木とは盛岡高等小学校(現下橋中学校)以来の友人であり,啄木の死まで親交が続いた。東京帝国大学時代,アイヌ語に興味を持つ。のちに北海道へ行き現地を調査,アイヌ民族に伝わる叙事詩ユーカラの存在に注目する。日本でアイヌの研究をするならこの人抜きには語れません。

石川啄木(1886年~1912年)
石川啄木 盛岡ゆかりの詩人。1895年(明治28年),幼きころより優秀だった啄木は岩手郡下に一つしかない高等小学校へ通うため,親元を離れて盛岡で暮らす。その後1902年(明治35年)に盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)を中退するまでの7年間を盛岡で過ごしている。『一握の砂』『悲しき玩具』早世の詩人の業績は偉大です。短歌の世界この人を越える存在はこれからもなかなか出てこないでしょう。

宮澤賢治(1896年~1933年)
宮澤賢治 909年(明治42年)4月,賢治は親元を離れて盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)に入学する。この間仏教や文学に親しみ, 1915年(大正4年)4月,盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に入学,成績優秀な賢治は関豊太郎教授に目をかけられ,地質や土壌についての教えを受けた。農学者だった訳。『注文の多い料理店』は今でも名作です。盛岡第一高等学校42年卒業生を始めとする記念碑の除幕式の様子をPDFファイルに添付します。新しいウィンドウで表示します。
宮沢賢治記念碑


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政治系


原敬原敬(たかし)(1856年~1921年)
1906年(明治39年)1月,第1次西園寺内閣で内務大臣(のち逓信(ていしん)大臣を兼務)となるまで原は郵便報知新聞記者,天津領事,農商務省大臣秘書官,外務省通商局局長,大阪毎日新聞社社長など多くの職を務める。特に農商務省時代には“カミソリ陸奥”の異名を持つ陸奥宗光の知遇を得た。のち1918年(大正7年)9月29日に第19代内閣総理大臣となるまで,第2次西園寺内閣における内務大臣兼鉄道院総裁,第1次山本内閣における内務大臣を歴任した。貴族の称号を自ら辞退したことから平民宰相と呼ばれ,近代日本における政治家の中でもその評価は極めて高い。これは明治初期より続いた薩摩(鹿児島),長州(山口)等の出身者における政治の独占,いわゆる藩閥政治に対して政党政治で対抗し,第3代政友会総裁として政党内閣を組閣したことが理由として大きい。しかし,1921年(大正10年)11月4日東京駅構内で,原の政治姿勢に反対する19歳の青年に刺殺される(政治力があったということだろう)。原は京都に向かう途中だった。
1921年、フィンランドとスェーデン、オーランド諸島をめぐる「新渡戸裁定」は有名で、未だに3国では新渡戸の評価は高いらしい。
新渡戸稲造新渡戸稲造(1862年~1933年)

札幌農学校在学中にキリスト教の洗礼を受け,卒業後にアメリカ,ドイツへ留学し農学,経済学などを学ぶ。国際連盟の設立時にはその深い学識と高潔な人格のため事務次長に推され,スイスに渡り連盟の発展に寄与しますが、日本が連盟脱退の際には、日本の立場を国際的の理解してもらうため奔走するが、日本側でも海外でも理解されなかったようです。日本人の道徳観を世界に示そうとした、英語で書かれた著書『武士道』は、世界的なベストセラー。日本の英語の教科書にも是非取り入れて欲しい教材です。旧5,000円札の肖像として人々に親しまれています。

米内光政米内光政(1880年~1948年)

盛岡尋常中学校を(現:盛岡第一高等学校)へて海軍兵学校へ進み,卒業後海軍少尉に任官,日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し,その地の実情を直に見聞した。日本と他国とを冷静に見比べる米内の姿勢は,このころに培われた。1937年(昭和12年),林内閣のもとで海軍大臣に就任し,海軍次官を務めた山本五十六(いそろく)とともに,陸軍の主張する三国同盟に反対し続けた。天皇の信頼も厚く,1940年(昭和15年)には岩手県出身者として3人目となる内閣総理大臣に就任している。しかし陸軍の反対にあい半年後に退任,米内(よない)が政治の表舞台から去るとともに日独伊三国同盟は締結され,日本は太平洋戦争へと突き進むこととなる。昭和天皇をして「あの時、米内がいてくれたなら。」と言わせる人物だったようだ。
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実業界


鹿島精
〇<b><font color=鹿島精一(1875年~1947年)

1888年(明治21年),盛岡~一関間の鉄道敷設が開始され,工事を請け負った。この縁で鹿島組組長鹿島岩蔵の知遇を得た精一は県立岩手中学校(現:盛岡第一高等学校)卒業後に上京,岩蔵の援助を得て東京帝国大学土木工学科を卒業した。のち岩蔵の長女糸子と結婚,婿養子となって鹿島を名乗り,1912年(明治45年)の岩蔵逝去後は鹿島組3代目組長に就任した。精一は1930年(昭和5年)に同社を株式会社に改め,株式会社鹿島組初代社長となる。この間にそれまでの経営から堅実で近代的な方針に切り替え,拡張された事業を鉄道建設に一本化した。
“鉄道の鹿島”,この名は東海道線における熱海‐三島間の「丹那(たんな)トンネル」の難工事を行ったことによって与えられた。全長7.8キロメートルの当時日本一の長さに加え,鹿島組が請け負った西口(三島口)は地盤が脆弱な難工事区域で,これまでの工法は役に立たなかった。精一は陣頭に立ちエアーロック工法,セメント注入法などを新たに発案,17年の歳月をかけて1933年(昭和8年)にトンネルを貫通させた。この工事で開発された多くの工法や経験,技術が,“世界の鹿島”の基礎を作り上げたと言える。また,東京土木建築業組合長,日本土木建築請負業者連合会長,土木学会会長などを歴任,土木建築業界全体の発展にも貢献した。精一は自らが岩蔵のおかげで道が開かれたように,向学心を持ちながらも進学できない学生に対して援助を惜しまなかった。
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特別枠


保阪 嘉内(ほさか かない:1896年~1937年)

日本の詩人。宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカンパネルラのモデルとも言われる。宮沢賢治を語るにはこの人を忘れてはならないようだ。 彼自身は山梨県の出身だが、盛岡高等農林学校農学科第二部に入学(1916)する。寄宿舎(自啓寮)では賢治と同室となる。山梨の農民生活の改善が進学の目的だったとか。この点も賢治と通じるものがある。嘉内が石川啄木に興味を持っていることを知った賢治は更に嘉内に惹かれて行く。どうも、嘉内の方が個性も強く、その後の宮沢賢治の生き方に大きな影響を与えたらしい。宇宙とか地質学の強い興味を持っている点も2人共通だ。
しかし、嘉内は1918年3月発行の第6号に寄稿した「社会と自分」という文章の中に、「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節があったことが問題視され、退学処分となる。賢治は学校当局に再考を求めたが処分は覆らず、嘉内は退学が決まり寮を出る。 嘉内は東京で明治大学に学籍を置き、農業を支える志を貫こうと札幌もしくは駒場の農科大学への進学に向け勉強に取り組んだが、母の急死に遭い断念し、山梨に戻って農業活動に入る。1919年11月から1年間は志願兵として近衛輜重兵大隊に応召。除隊後は山梨で職に就く傍ら、勤務演習に数度参加して1923年に士官(少尉)に任じられた。
農林学校を離れた後も、賢治と嘉内は手紙で交流を重ねていたようだ。一度、上野の帝国図書館で面会したとされるが、その日の嘉内の日記では「宮澤賢治 面会来」と書かれた文字を上から斜線で消している。この時期を境に賢治から嘉内への手紙の数は大きく減り、以後再び会うことはなかったとされる。二人の間に何があったのかは誰にも分からない。
1924年から1925年まで山梨日日新聞に文芸記者として勤務し、短歌欄に投稿したさかゑと結婚、その後、念願の農業生活に入る。柳宗悦と小宮山清三らと諏訪で講演した1926年と、1927年、1929年に子どもをさずかる。1928年には歌集出版を企図したが、出版社の火災で預けていた歌稿を失い断念した。営農中に在郷軍人会の分会長や駒井村会議員といった役職にも就いていたらしい。
アメリカで農学を究めようとした小菅健吉と保坂嘉内は、小菅渡米の1918年10月10日付けの絵はがきに始まり、20通を超すはがきと手紙の記録がある。そのなかに英文で記されたものも混じる点から、この期間に健吉経由でアメリカの農業指導の情報を得ていたことが推察される。
1926年7月に文部省が青年訓練所を開くと、初等教育で学業を終えた青年は軍事教練と学問の補習を受けることができた。山梨県を代表する「青年訓練所充用睦合実業補習学校」の記録が残っている。青年訓練所で指導をするうち青年教育に情熱を見出したらしい。
保阪と宮沢の二人は、その後の人生は異なったものの心の中では一緒に銀河鉄道で旅をしていた友人だったのでしょう。
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