歴史の部屋

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歴史の部屋

歴史の学習とは。歴史の好きな高齢者は多い。戦国時代の城めぐり。多くの謎に包まれた古代史の旅。歴史の研究はどんなテーマでもはまるととても面白く興味が尽きない。でももう少し視野を広げると全く異なった世界が広がる。例えば、宇宙の歴史138億年。ビックバンに始まり、未だ膨張を続けている宇宙とは一体何なのか。太陽系の歴史約46億年。これほとんど地球の歴約30億史と同程度。生命の誕生は、年前位か。でも、多細胞の動物が大爆発したのがカンブリア紀で、約5億年前。この時代の生き物はものすごく面白いですね。恐竜が絶滅したのが6500万年前。人類が祖先は数百年前で、ホモサピエンスが登場するのはせいぜい3万年前ぐらいで、縄文時代は1万年前ぐらいか。このあたりから世界中で農耕が開始される。コンピュータの歴史は、精々数十年。だが、もう数十年で人間のほとんどあらゆる能力を凌駕することと言われている。ここでは、このような超マクロな視点で、歴史を楽しみたいと思ってますが、たまには重箱の隅みたいなミクロな話題もいいかもしれませんね。

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歴史一般

目次
歴史学とは何だろう 民族史観 皇国史観 マルクス史観
水戸学 大日本史 鄭成功
科学的な見方 勧善懲悪の世界観
土偶を読む ホツマツタヱ 長髄彦
アテルイ 魏志倭人伝 アラハバキ
秦氏のルーツ 武人型埴輪 三種の神器 王仁博士
貞観大噴火 宝永大噴火
タタールの軛 テルマエ 五賢帝時代 ハザール王国
吉田学校 五百羅漢
神聖ローマ帝国 トスカネリ 形而上学
ナポレオン法典 不改常典 キリストの墓 アグリッパ
覇権 ラプラプ 磁器の間 ソグド人
神武天皇 遊仙窟 玉葉 九条兼実

裸坊達の部屋

歴史学とは何だろう

歴史学は、過去の我々が辿ってきた道のりを正しく記録し.後世に伝える重要な社会科学の一分野です。でも、一般人の我々に取っても歴史の勉強は為になるし、とても面白いですね。格言にもあります。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」。でも、歴史も偏った見方をすれば、都合の悪い部分を無視して、都合の良い所だけつなぎあわせて、虚構の世界を紡ぎだすことも可能です。似非歴史学とでもいうものも多数存在していることにも気を付けないといけません。良く言われる〇〇史観などというものは、あくまでも仮説であり、実証による裏付けが必要なものです。例を挙げると、皇国史観、マルクス史観、民族史観、進化論的史観など色々あります。史観というものは、物の見方ですので、自分なりの史観を持つことは決して悪いことではないと思います。歴史小説などでは、作者の視点はある程度はっきりしている方が面白いかもしれません。しかし、歴史学が科学であるためには、常に証拠による検証が不可欠です。
     地球の歴史、生物の歴史は、自然科学の実証的な方法がかなり確立しています。しかし、今日我々が知っている自然の歴史も、長い間の宗教的史観、特にキリスト教史観との論戦の中で育まれてきたことを忘れてはならないでしょう。ここ20年で大きく書き換えられた事実は数えきれないほどあるし、日々進化しています。

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民族史観

韓国は近年、日本に歴史認識の改革を求めていますね。でも、我々日本人には、彼らが何を求めているのか今一つ分からないですよね。いま、韓国の歴史学は、民族史観一色で、実証的な研究をしようとしても出来ない状況なのです。歴史の研究は、本来過去の古文書等を根気良く読み解いて、ジグソーパズルをつなぎ合わせていくような、地道な作業が欠かせません。韓国の歴史学の分野で成功するためには、先人の研究を解釈しなおして、より国民や国家が喜ぶような新しい解釈を創造するだけです。
     檀君神話は、日本の神話と同じで、国の創生神話です。我が国では、神武天皇や神功皇后の話はそのまま事実と信じるような人はいないと思います。日本が中国を国交を持った時代、中国に対抗するため、国の歴史を長く見せる必要に迫られで、当時の大和朝廷の学者たちが知恵を絞って作り上げたのが天皇の系図であることは自明のことです。神話をそのまま信じると神武天皇は縄文人になってしまいます。檀君神話もちょうど同じタイミングで成立したのでしょう。もちろん、民族史観が国是の国ではこのようなことを否定するような発言はブーです。

      韓国の誕生の歴史は、悲惨なものがあります。朝鮮戦争のドサクサに紛れて成立したような国です。民族史観の学者達には見たくない現実です。因みにウィキペディア(ネット上の百科事典)で朝鮮戦争の項を引いてみると分かります。日本語のサイト、結構長いですね。朝鮮戦争は戦争特需もあり、日本の産業発展にはプラスの効果がありました。英語版、もちろん長いです。国連軍と言っても実際に戦ったのはアメリカですから。ロシア語、中国語、北朝鮮の同盟国だった訳ですから、結構長々と何か書かれています。中身は読めないですがそれだけ重要な出来事だった訳です。ところが、韓国語版は、日本語版の半分ほどしかありません。朝鮮戦争の歴史の記憶は国民から削除したい事柄のようです。

はっきり言って、当時韓国民は何も出来なかったのです。日本軍の引上げた後の空白。その空白を狙った北朝鮮軍の侵入。当時の韓国の指導者は李 承晩(イ・スンマン)、別に国民の支持があったわけではなく、米国でのロビー活動が功を奏して、地位を獲得しました。因みに彼は、両班(ヤンパン、当時の朝鮮の特権階級)の出身です。急遽軍隊を造っても、町のゴロツキをかき集めたもので、略奪はする、戦えば逃げる、どうしようもない組織です。結局できることは、国連軍に従軍慰安婦を大量に送ることだけ。だから、今問題になっている従軍慰安婦の中にもこの時韓国の民兵(ゴロツキ集団)によって強奪された人々も沢山いるはずです。国連軍様々ということです。もちろん、こんなことは民族史観の教科書では抹殺されているでしょう。李 承晩は建国の英雄です。でも、しばらく韓国は低迷が続きます。経済でも北が上です。
李承晩李承晩      朴正煕朴正煕      安重根安重根

この状態を大幅に変えたのが朴正煕(パク・チョンヒ)です。彼は、大変な日本贔屓で、日本軍の占領が無ければ、学問も学べなかったし、軍人にもなれなかったと語っており、開発独裁をやり、日本の経済政策を取り入れ漢江の奇跡(ハンガン、かんこう)を成し遂げる。その娘が大統領を罷免された朴 槿恵(パク・クネ)である。朴正煕は、本当の意味で建国の父と位置づけられてもいい人物であろうが民族史観の立場では親日は悪であり、娘の方もそのような世論に気を使いすぎてあまり日韓関係は改善していな。

韓国の歴史上の英雄に安重根(あん じゅうこん)という人物がいる。朝鮮総督・伊藤博文を暗殺した単なるテロリストである。伊藤博文は、比較的穏健な開明派で、朝鮮総督となるなら適切な人物だったと考えられている。安重根は韓国ではいまだに義士として扱われているが、そういわないといけない雰囲気があるようだ。韓国は、民族史観を国是としているが、幸い我が国の今の歴史研究は、実証主義に基づく欧米の主流の考えに変わっている。歴史学は,ようやく科学(社会科学)としての市民権を得て来たようです。戦前は皇国史観何てかなりイデオロギー的な学説が尊重されていたようですが。

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皇国史観

韓国が民族史観を国是としているように、戦前の日本は皇国史観が国是であり、この史観の教えるところと異なる学説は、異端として認められていませんでした。日本の神話に書かれていることは、疑ってはならないとされていました。皇国史観は、「親には孝、国には忠」といった儒教道徳と、江戸時代に出て来た国学の思想を合体させたようなものです。

水戸黄門水戸黄門      本居宣長本居宣長

国学は、幕末に尊王攘夷の思想の裏付けとなり、討幕運動の原動力としての役割を果たします。各藩が国のような状態の国民を一つまとめるためには、天皇という象徴が必要だったのでしょう。韓国の場合も一つの国民国家としてアイデンティを保つには、民族史観とか反日感情を共有させることが指導者には必要なのかもしれません。

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マルクス史観

人間世界は、原始共同体から王政、封建制を経て、資本主義社会、そして最終的には社会主義、共産主義に必然的に進化していくとする考えです。歴史上の出来事を何でも階級闘争に当てはめるステレオタイプにはうんざりです。各政治形態は、社会の上部構造、下部構造は経済が支えている。マルクスの友人エンゲルスは、この考えをダーウィンの進化論を発展させた素晴らしい考えと絶賛したとか。マルクス自身が暴力による革命まで考えていたのか、下部構造の経済の裏付けがないと社会主義など絵に描いた餅でしょう。
カール・マルクスカール・マルクス      エンゲルスエンゲルス

戦後、皇国史観にとって代わって、結構流行っていました。私の記憶でも中学校や高校の社会科の先生、こういう考えの人、多かったように思います。例えば歴史上の出来事に何でも階級闘争を持ち込むなど。また、マルクス主義でない人たちの中にも、政治の権力はだんだん下の方の人民に移譲されてきていると考えている人がいます。フランス革命、憲法の発布、議会政治、普通選挙、女性の参政権等々。これらの権利は人民が絶え間ない闘争の末勝ち取って来た血と汗の結晶と、多分学校の歴史でもそのような観点で教えられてきたのではないでしょうか。
生物の進化論でも、定行進化説といって進化には方向性があるという考えがあった。象の牙が段々長くなって来る。キリンの首が長くなる。人類はますます賢くなる(??)等々。生物の進化は環境への適応がすべてで、進化そのものには方向性は無いことは今では定説(中立説)。人類の脳の大きさも狩猟時代をピークにその後は一定か漸減の傾向。進化論を理解しているようで単なる勝手な思い込み。進化についてはまだまだ分かってないことの方が多いのです。

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水戸学

水戸学は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩において形成された学風、学問。第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成された。特に天保期以降、第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えられることも多い。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある。

**天保: 天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年~1845年までの期間。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。この時期色々な事件が発生する。お伊勢参りが流行。天保の大飢饉、大塩平八郎の乱。天保の改革。

徳川光圀
【前期水戸学】
明暦3年(1657年)、水戸藩世子の徳川光圀は江戸駒込別邸内に史局を開設し、紀伝体の日本通史(のちの「大日本史」)の編纂事業を開始。藩主就任後の寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とした。 当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かった。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。
編纂過程においては、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、佐々宗淳、丸山可澄(活堂)、安積澹泊、栗山潜鋒、打越直正(撲斎)、森尚謙、三宅観瀾らがいる。
「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える(南北朝正閏論)。ただし、光圀においては北朝及び武家政権の確立を異端視するものではく、それらを名分論のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった。光圀死後も編纂事業は継続されたが、元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は50年間ほど中断状態となった。

**でも、これが戦時中には拡大解釈され、楠木正成忠臣、足利尊氏悪臣論なんて話になってしまう。NHK大河ドラマでも足利尊氏はヒーローとしてはなかなか登場しなかった。
**南朝正統論を正とすると今の皇室は北朝系の子孫となる。南朝系の皇族は今はいないだろうね。
**徳川 光圀(とくがわ みつくに): 常陸水戸藩の第2代藩主。後世の創作における脚色を含めて「水戸黄門」としても知られる。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。血統としては申し分ない。しかし、何故か水戸藩は徳川御三家の中で将軍を輩出していない。第15代将軍の徳川慶喜が唯一の例外か。
下記の説明はよく分かる。多分そうなんでしょう。
紀州の頼宣と、水戸の頼房は、母親が同じ兄弟です。
当時は「母がおなじなのが本当の兄弟、母が違えば事実上は他人」が常識です。子供の序列は生まれ順ではなく、母の身分順です。だから生母の身分が同格なら息子の序列も対等です、生まれ順はあまり関係ない。
但し同母の兄弟の間ならば、兄が弟より上です。もとは頼宣が水戸藩主で、頼宣が駿府(のち紀州)に移ったあとに頼房が水戸藩主になっている、といった経緯から、当初は「水戸は紀州の分家」というふうに見られていました。だから地位も紀州より水戸が一段低く領地も小さいわけです。水戸(弟)の家が、紀州(兄)の家より上に行くということはあり得ません。だから、紀州家を差し置いて水戸が将軍になることは、あってはいけないんです、理屈として。尾張と紀州は同格ですが、生まれ順でわずかに尾張が序列も石高も上です。しかし、水戸は必ず紀州の味方をするはずですから、事実上は紀州のほうが将軍継承権が強い。だから尾張と紀州は仲良くもできないが喧嘩もできない。そういうバランスが自然に出来上がった、ということです。 頼房の次男で2代藩主の徳川光圀(義公)は「水戸黄門」として著名である。光圀は『大日本史』の編纂を開始し、天皇と朝廷を深く尊び、湊川に後醍醐天皇の忠臣楠木正成(大楠公)の碑を建てるなど尊皇運動に尽くす。光圀以来、水戸藩内には尊皇を支柱とする水戸学が誕生し、幕末の尊皇攘夷運動に多大な影響を。水戸家は親藩の御三家ではあるが、水戸学を奉じる勤皇家の家として「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる。大政奉還もその一環とも言えるか。

【後期水戸学】
「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心として再開される。この頃、藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感が強まっていた一方、水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まることなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革を目指した。翠軒の弟子には小宮山楓軒、青山延于らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷は対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。幽谷の門下、会沢正志斎、藤田東湖、豊田天功らが、その後の水戸学派の中心となる。
文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。
天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」であり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・藤田東湖であり、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。
徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近である改革派の家臣たちも同様に謹慎を言い渡された。
この謹慎中に藤田東湖が執筆したのが「弘道館記」の解説書である「弘道館記述義」である。この中で、東湖は本居宣長の国学を大幅に採用し、儒学の立場から会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化とともに広範な民衆動員を図る思想は弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えた。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」は、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。

**NHK大河ドラマ「晴天を衝け」で渋沢の故郷でも藤田東湖等の思想は大きな影響を与えたらしい。
**藤田 東湖(ふじた とうこ): 武士(水戸藩士)、学者(水戸学藤田派)。藤田幽谷の息子。東湖神社の祭神。戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家として著名であるが、藤田は本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。
嘉永6年(1853年)のペリー来航は水戸藩改革派の復権をもたらし、斉昭は幕政参与に就任、東湖らも斉昭側近に登用され、農兵の編成などの軍事改革が進められる。しかし、安政の大地震で東湖は死亡し、安政の大獄で斉昭が再度処罰されるに至って、水戸藩は政治的・思想的な混迷を深めていくことになる。水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

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大日本史

『大日本史』は、日本の代表的な歴史書。確かに日本では古事記、日本書紀以降本格的な歴史書は編纂されていないのかも。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成。神武天皇から後小松天皇までの百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。
『大日本史』は光圀死後の1715年、藩主徳川綱條(つなえだ:第三代藩主)による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。 **後小松天皇(1377年~1433年):第100代天皇および北朝第6代天皇(在位:1382年~1412年)、室町幕府三代将軍義満~の時代。

『義公行実』など各種伝記史料によれば、水戸徳川家世子として教育を受けていた青年時代の光圀は非行も多かったが、1645年(正保2年)に『史記』「伯夷伝」を読んで伯夷・叔斉に感銘を受け、以来は反省して学問に精励し、史書編纂を志したという。世子時代の1657年(明暦3年)には明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移り、ここで史局を開発し編纂事業を開始する。史局ははじめ茶屋を利用して史局員を付け、後に火事小屋御殿に移して文庫も設置した。日本では『日本書紀』以下六国史など史書は編年体で編纂されるのが常で、『史記』のような紀伝体の史書が編纂された先例はなく、史館員からの反対意見もあったという。修史事業の動機には、幕府の編纂が行われていたことや、明暦の大火でその資料が亡失したこと(江戸城本丸もこの時焼失した)、林羅山の死などが契機になったと考えられている。

その後、光圀は父頼房の死去により家督を相続し、公務が多忙となったため事業からは遠ざかっていたが、幕府では1662年(寛文2年)に林鵞峰に命じて編年体の史書『本朝通鑑』の編纂を開始しており、光圀は林鵞峰を藩邸に招いて面談し、編纂方針や正統問題について質問している。1672年には編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転し、「彰考館」と改めた。史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、特に南朝関係の史料を広く収集している。また、光圀は日本へ亡命した明朝遺臣である朱舜水を招聘し、彼らより歴史の正統性の意味を諭された。特に、南北朝時代の南朝方武将楠木正成の忠誠心を朱舜水に示唆された(そもそも日本の正史にとって、北朝と南朝のどちらをとるのかは最大の選択「本朝の大事」だった)。さらに、北畠親房の『神皇正統記』の影響を受けていた。

次の点が三大特色とされる。
 1. 神功皇后を皇后伝に列した。
 2. 大友皇子を帝紀に列した。
 3. 南朝正統論を唱えた。
全体的に水戸学=大義名分論とする尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えた。歴代天皇が現在のものに改編されたのも『大日本史』の影響とされている。
徳川光圀 **朱 舜水(しゅ しゅんすい、1600年~1682年):中国明の儒学者。江戸時代初期来日。紹興府余姚県に生まれる。中国では李自成の乱により1644年に明朝が滅亡し、李自成は満州民族に駆逐され新王朝である清朝が成立。舜水は仕官はしていなかったものの鄭成功親子など明朝遺臣が華南を中心に明朝再興のため活動を開始すると運動に参加し、軍資金を得るため日本やベトナムへも渡り貿易などを行い、南明政権の魯王朱以海や、台湾に拠った鄭成功を支援し、1659年7月の南京攻略戦にも参加。 舜水の学問は、朱子学と陽明学の中間にあるとされ、理学・心学を好まず空論に走ることを避け、実理・実行・実用・実効を重んじた(経世致用の学にも通じる)。
光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業(後に『大日本史』と命名)の編纂に参加した安積澹泊や、木下道順・山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。83歳で死去。

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秦氏のルーツ

ユダヤ人埴輪 古代史の研究では秦氏のルーツは確かに色々と取りざたされているようだ。そもそも京都、平安京は古代豪族、秦氏の地盤である。少なくとも秦氏は渡来系の豪族で、技術や軍事力もそこそこあり、朝廷を己の地に誘致したとするとその目的や如何? これほど勢力があったと思われる秦氏は日本史の中では、自然消滅?
当然色々な仮説があるであろうが、下記の田中英道氏の説も一考の余地はありそうだ。そもそもこの説は彼のオリジナルではなく、昔どこかで見た記憶もある。

【田中 英道(たなか ひでみち、1942年2月20日~ )】
美術史家、歴史家。東北大学名誉教授。東京都出身。 フランス・イタリア美術史を研究し多くの業績をあげる一方、日本美術の世界的価値に着目し精力的な研究を展開している。 また、日本独自の文化・歴史の重要性を指摘し、日本国史学会の代表を務める。
著書(「発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く」(勉誠出版、2019年10月))や、YouTube番組(「日本から見たサピエンス全史」| 未来ネット)で、古来よりユダヤ人が日本に渡来していたことを述べており、秦氏などはその代表であると解説する(秦河勝は聖徳太子の側に仕えていた人物)。秦氏のルーツは、応神天皇の古墳時代に弓月国から来た弓月君が祖とされる。古墳などの巨大建築物をはじめとする最新技術、絹、馬、羊、貨幣(和同開珎、開発者は多胡羊太夫)なども、ユダヤ人が持ち込んだ可能性が高いとしている。 千葉県や群馬県には古墳が最も多く存在し、出土した埴輪の中でも、「長い髭・長いもみあげ・帽子」を被った形の埴輪は、ユダヤ教徒の格好にほぼ一致することから、「ユダヤ人埴輪」と名付けている。角髪(みずら)もユダヤ人の影響ではないかと述べている。確かに三角帽子を被った埴輪は注目を引きそうだ。ユダヤ人埴輪は各地で出土しているが、中でも千葉県芝山町の芝山古墳から出土したユダヤ人埴輪は数も多く、状態も良いものが多い。「観音教寺・芝山はにわ博物館」には常設展示されている。 日ユ同祖論と思われがちではあるが、元々日本人(縄文人)がいたところにユダヤ人がやって来たことであると否定している。 ユダヤ人が日本に辿り着いたことについては、アッシリア捕囚(紀元前722年頃)から派生する「イスラエルの失われた10支族(Ten Lost Tribes)」に関連する部族の移動と見ている。正確には失われた10支族の一つがユダヤ人ということだから、後の9支族がその後どうなったかは何も知られていないの実態のようですが。


蛇塚 **一方、秦氏の先祖は、中国最初の巨大帝国秦からの亡命者という考えも成り立ちそうだ。同じような文脈で、日本各地の残っている徐福伝説なんかも面白い。秦の始皇帝に不老長寿の薬の探索で東方楽土に日本を訪問し、そのまま帰らなかった。大量に資金と人材を用意して貰ってそのまま着服してしまった。まあ、秦の滅亡が速すぎて帰還する機会を失ったとも言えるが。まあ、痛快な話でもある。

蛇塚 【蛇塚古墳】
京都府下最大、全国的にも有数の規模を誇る横穴式石室をもつ古墳で、古墳時代後期の7世紀頃に築造されたと考えられる前方後円墳。このころの太秦一帯は機織や高度な土木技術をもつ渡来系氏族の秦氏により大いに栄えており、蜂岡寺(広隆寺)の創建や、後の平安京造営に際してその一翼を担うほどの勢力をもっていた。その秦氏一族の族長クラスの墓といわれる。はやくから封土は失われ、残存する石室の周囲には民家が建ち並んでいる状況だが、後円部の石室は全長17.8メートル、玄室長6.8メートル、玄室幅3.9メートル、玄室床面積25.8㎡を測る。蛇塚の名称は、かつて石室内に蛇が多く棲息していたことに由来するといわれている。国指定史跡。古代豪族蘇我氏の石舞台古墳にも匹敵する規模とか。
**実は、この蛇塚、学生時代に見学したことがある。住宅地の真ん中に何か妙な石組がポツンとあって、特に重要な遺跡にも見えなかったが、古代豪族秦氏の墓と聞いて感銘を覚えたものである。近くに有名な広隆寺がある。これも秦氏の建立。広隆寺は弥勒菩薩像が。また、京都太秦は東映太秦映画村もありの今も撮影のロケ地としても有名。多数の観光名所が集まっている。

【広隆寺(こうりゅうじ)】
京都市右京区太秦蜂岡町にある真言宗系単立の寺院。山号は蜂岡山。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は京都三大奇祭として知られるが、現在は不定期開催となっている。

弥勒菩薩 【弥勒菩薩半跏思惟像】
仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿。日本には大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられ、飛鳥時代から奈良時代にかけての作品が多く残されているが、広隆寺のものが最高傑作の一つ。
像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材?の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から分かっている。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。どこかの学生さんがあまりの高貴さに感動し抱きついて指が折れたとかの逸話もある。
制作時期は7世紀とされる。
  ①作風等から朝鮮半島からの渡来像、
  ②日本で制作された、
  ③朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻した
とする説等があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似も指摘されている。

第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明?した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。
どうも秦氏のルーツから見て、秦氏自らが製作に携わったオリジナルな作品のようだ。日本古代の文化は総て大陸経由だとする自虐史観は止めた方が良さそうだ。

秦さんと言う名は結構よく見かける。帰化人だった秦氏は何とか日本社会(大和の国)に溶け込もうと努力を重ねていたのかもしれない。つまり、今の日本民族の立派なご先祖様の一人。あまり詮索する問題ではないけど、ロマンがあって楽しい話題だと思う。
なお、仏教とともに日本にもわたって来たとされる宗教に景教と言うものがある。だとすれば日本にキリスト教が伝えられた歴史は大幅に遡る。可能性は大きい。ユダヤ教だって一緒に来たかも。また、弓月国と言うのも中央アジアに現実にあったらしくキリスト教国だったとか。

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武人型埴輪

武人埴輪 ユダヤ人埴輪が見つかったのは、千葉県の芝山古墳群ですが、横芝光町にあり中台古墳群とも呼ばれている。で、この埴輪見てこの埴輪の人物が間違いなくユダヤ人と言える?
お隣の韓国にもこんな帽子はある。世界中にこれと似た帽子はありそうだ。田中先生の学説はもう少し補強できる証拠が必要だ。反論を企てている学者はいないのか。
まず、埴輪の信憑性? あとから作られたフェィクでは? 旧石器捏造事件のようなことがあってはならない。でも、この時代は大陸との人の行き来もあり、西方から来た者と直接交易をした可能性も否定できない。

早速、Google検索を試みる。「ユダヤ人埴輪」で検索すると、田中先生の学説のオンパレード。一般には武人型埴輪と称されているらしい。ユダヤ人埴輪と言う用語はまだ定着していないからだろう。今後検索するには「武人型埴輪」とすべきなんだろう。埴輪の目的からして墓を守る武人が配置されることは理解できよう。

埴輪 挂甲武人(はにわ けいこうぶじん)は、東京国立博物館が所蔵する甲冑をまとい武装した6世紀代の人物形象埴輪。古墳時代の埴輪として初めて国宝に指定されたものであり、2020年(令和2年)に綿貫観音山古墳出土埴輪群が国宝となるまでは、唯一の国宝埴輪であった。つまり、武人埴輪自体そんなに多く出土されるものではなさそうだ。秦の始皇帝の墓兵馬俑の多数の武人達。これも例外的なもののようだ。でも、武人達の風貌を見ると色々な民族から成り立った軍隊であることが分かるという。
この埴輪見てこの埴輪の人物が間違いなくユダヤ人と言える?どうもこれは無理だ。仮説の一つにはなるだろうが。

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三種の神器

日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、すなわち八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉の総称。また、これと同一とされる、日本の歴代天皇が古代よりレガリアとして伝世してきた三種類の宝物を指す。どれも一般公開はされていないようだが。これを所持していないと正式に天皇とは認められないとなると相当貴重な宝物となる。分かり易く書くと、鏡と剣と勾玉の三つ。ネットで検索すればその写真は手に入るか。やはり人目見て見たいのは人情であろう。

天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承される。だが即位の必須条件とはされなかった場合もあり、後鳥羽天皇などは神器継承なしに即位している。
形代は「かたしろ」と読む。身代わりのこと。レプリカと解しても良いか。
『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。現在では草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の内宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。しかし同皇居内に、天皇と皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。

『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。現在では草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の内宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。しかし同皇居内に、天皇と皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。つまり、天皇と皇族すら見たことが無い。本当に存在するの??

【八咫鏡(やたのかがみ)】
三種の神器の一つ。年代不詳。『古事記』では、八尺鏡(やたかがみ)と記されている。伊勢の神宮の内宮にレプリカが宮中にあるということらしい。
『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。卑弥呼が魏王から送られた鏡は銅鏡だったけど、この時代は鉄の鏡は銅よりも貴重だったようだ。八咫(やた)は具体的な数値なのか単位大きいと言う意味なのかは諸説あるらしい。古代史の研究では鏡の表(ものを移す面)よりも裏の模様や文字が遥かに重要。博物館に展示されている鏡は皆裏を表にしている。八尺鏡も裏側の映像は一般公開してもいいだろうに。
記紀神話によれば、天照大御神の岩戸隠れの際に天津麻羅と伊斯許理度売命が作ったとされ、『日本書紀』には天照大神を象って作られたことや、試しに日像鏡や日矛を鋳造したことが伝わる。天宇受売命が踊り狂い、神々が大笑いすることを不審に思った天照大御神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大御神自身を映して、興味を持たせ、天手力男神によって外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった、という。

天孫降臨の際、天照大御神から邇邇芸命に授けられ、この鏡を天照大御神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された、という。

【天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)】
草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも言われ熱田神宮の御神体。天皇の持つ武力の象徴であるとされる。 日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、大蛇の体内(尾)から見つかった神剣である。スサノオは、八岐大蛇由来の神剣を高天原のアマテラスに献上したとされている。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共にニニギノミコトに託され、地上に降りた。 崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという。 景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かうヤマトタケルに神剣(天叢雲剣/草薙剣)を託す。ヤマトタケルの死後、草薙剣は神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けた。ミヤズヒメの実家が尾張。これが名古屋・熱田神宮の起源である。熱田の御神体として剣が祀られている。
形代の草薙剣は、壇ノ浦の戦い(源平合戦)における安徳天皇(第81代天皇)入水により関門海峡に沈み、失われた。神剣の喪失により、様々な伝説・神話が生まれた(中世神話)。結局、後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位。平氏滅亡により神璽と神鏡は確保できたが、神剣を手にすることは出来なかった。形代(かたしろ、レプリカ?)が失われても本物は熱田神宮にあったのでは? その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とした。南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いた(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られている。
神剣としては英国のアーサー王物語の「エクスカリバー(Excalibur)」が有名か。世界には色々な神剣がありそうだ。

【八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)】
「さか」は通常は「しゃく」(尺)の転訛?、この場合は上代の長さの単位の咫(あた)のことか。8尺は(当時の尺は今より短いため)約180センチメートル (cm)、8咫は約140cmである。勾玉がそんな大きいわけない。結わえてある緒の長さでかも。また、「八尺」は単に大きい(あるいは長い)という意味であるとも、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説も。
「瓊」は赤色の玉のことであり、これは瑪瑙(メノウ)のことであるともされる(現代の瑪瑙細工では深紅の赤瑪瑙が細工物や勾玉などによく使用され、ありふれた色だが、これは江戸時代に原石を加熱して赤く発色させる技法が発明されてよりの事)。「瓊」は訓読みで「に」、音読みでは「ケイ」。

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王仁博士

王仁博士(わに、生没年不詳):
応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記。伝承では、百済に渡来した漢人。
和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられる。
韓国系の学者は、王仁博士はまだ文字を知らなかった日本人に文化を伝えた朝鮮の偉い学者なっているようだ。

王仁墓 『日本書紀』や『新撰姓氏録』には、百済に渡来した漢人であるとされ、支持する研究者も多い。姓である王氏から楽浪郡の漢人の王氏とする見解がある。朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても中国系渡来人の家系ではないかと推測されている。しかし、新羅の時代は王氏の姓は存在していたはずで、王氏の姓が無くなるのは李氏朝鮮になってからとか。今の韓国では王氏の姓は聞かれない。

前漢が紀元前108年に朝鮮半島に置いた楽浪郡では官吏に王氏が多く、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼすと王氏は百済に亡命した。日本が369年に新羅を征討すると、百済が日本へ政治的保護を求めた際に文化を日本に輸出し、こうした背景のなか王仁も訪日したともいわれる。一方、津田左右吉をはじめ実在を疑問視する説も多数。山尾幸久は儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする。

「なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」
「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花」

王仁墓 王仁の作とされる難波津の歌は、有名らしい。古今和歌集の仮名序で王仁の作とされるが、百人一首には含まれてはいない。全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌とか。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われるということらしい。

大阪府枚方市藤阪東町にある博士王仁之墓は江戸時代の1731年(享保16年)に建立されたものと伝えられてきた。 昭和46年近畿民俗会の調査では官軍に追われて亡くなった地という地元の村の伝承が記録されている。椿井政隆(1770-1837)によって書かれた由緒書という説がある。
枚方市だけでなく、東京上野公園他各地にワニさんの記念碑があるようだ。設立の目的は日韓友好の記念碑らしい。王仁博士の実在は不明であるが、証拠もない状況であまり深堀する必要もなさそうだ。儒教も漢字も別にワニさんがいなくても日本には伝わっただろうし、日本史においてもさほど大きな事件とも思われない。伝承は尾鰭がついてどんどん膨らんでいくものだから。

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貞観大噴火

平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動。山頂から北西に約10km離れた斜面で発生した大規模な割れ目噴火で。長尾山ほか2、3のスコリア丘を形成し、膨大な量の溶岩を噴出。噴出物の総量は約14億m3にも及び、溶岩流は北西山麓を広く覆い尽くした末に、北麓にあった広大な湖・剗の海(せのうみ)の大半を埋没させた。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた宝永大噴火とともに、富士山の噴火災害の特異例として数え上げられ、文献記録に残る富士山噴火のうちで最大規模とも言われる。
なお、この噴火で埋没した剗の海の残片が現在の富士五湖のうちの2つ、西湖と精進湖であり、溶岩流の上に1100年の時を経て再生した森林地帯が青木ヶ原樹海である。

時代背景
西暦864年(貞観6年)は、日本の首都が平城京から長岡京を経た末に平安京に落ち着いてちょうど70年目にあたる年。朝廷では清和天皇の外祖父・藤原良房が皇族以外で初の摂政に就任し、後の藤原北家繁栄の礎を築きつつあった時代。

古代の富士山噴火
一方、日本の古代史は1万~ 5000年前に開始されたとされる新富士火山の活発な活動期に当たる。当時の人々にとっては、富士山の山頂火口から立ち上る盛んな噴気のありさまは日常的な光景だった。奈良時代後期に成立した『万葉集』には、720年(養老4年)頃東国に赴任していた高橋虫麻呂が富士山を讃えて詠んだ長歌が載せられ、歌の中に以下のような一節がある。

(前略)富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ(後略) (富士の峰は流れる雲を遮り、鳥さえも飛び上がることはできない。燃え上がる火は雪で消され、降る雪は火で消されていく)
— 高橋虫麻呂、万葉集

『万葉集』には、恋焦がれる胸中を富士山の噴気にたとえて詠み上げた歌が数多く見出されている。富士山では噴気活動のみならず噴火活動も頻発し、『続日本紀』の781年(天応元年)の項には「富士山で灰が降り、山麓の草木が枯れた」との記録がある。平安時代の800年 - 802年(延暦19年 - 21年)には延暦大噴火が発生。東側斜面に側火口の「西小富士」を形成し、鷹丸尾溶岩と檜丸尾第2溶岩を噴出した。さらに大量の降下火山灰により、当時の東海道だった足柄路が通行不能に。繰り返される噴火災害を受け、朝廷では富士山に神位を捧げ、神を「懐柔」することで事態の沈静化を図っていた。

**何故、日本各地で富士山がかくも神聖視されるか? 実際に恐れ多い山だったから。今でも活動は続いている。今後何時噴火するかは予知できない。だから今でもしっかり観測を続けている。下記は大規模な噴火だけど、中小の噴火は数知れないようだ。

1万~ 5000年前から噴火開始?(縄文時代)
延暦大噴火 : 800年 - 802年(平安時代)
貞観大噴火:864~866年 (平安時代)
宝永大噴火 : 1707年 (江戸時代)

歴史一般

宝永大噴火

宝永大噴火
宝永大噴火は、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火。2022年現在、富士山の噴火としては最も新しいものであるとともに、記録が残されている10回の中でも最大のものとされる。噴火は約2週間続き、総噴出量は、約0.7 km3 DREと推定されている。火山を専門とする分野では単に「宝永噴火」と書く場合が多い。
噴火による直接の死者は記録されていない。噴煙から降下したスコリアや火山灰よる火災やそれらの急激な堆積などで、主に富士山から東側の地域で甚大な被害が発生した。

宝永大噴火は、富士山の三大噴火の一つ。他の二つは平安時代に発生した「延暦の大噴火(800年 - 802年)」と「貞観の大噴火(864年 - 866年)」。宝永大噴火以後、現在に至るまで富士山は噴火していない。

特徴は噴煙の高さが上空20kmと推定される。火山爆発指数VEI5のプリニー式噴火と大量の火山灰である。実際に100 km離れた江戸にも火山灰が積もった。ただし溶岩の流下は見られていない。地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、脱水及び発泡と脱ガスが殆ど行われず、爆発的な噴火となった。噴火がみられたのは富士山の東南斜面であり、合計3つの火口が形成された(宝永山)。これらは標高の高い順に第一、第二、そして第三宝永火口とよばれ、互いに重なり合うように並んでいる。ただし麓から見ると最も大きい第一火口のみが目立つ。なお、宝永山は登山道が整備されているため登山が可能。

噴出した火山灰の総量は 1.7km3と見積もられており、関東一円に降り注いで農作物に多大な影響をもたらした。
被災地の管轄は、小田原藩以外は幕領や旗本知行地が多く細分されていたが、幕府は全国各藩への石高に応じた課税により資金調達し被災各地の復興に努めた。小田原藩では自力での復興は無理と判断し、領地の半分を幕府に差しだし救済を求めた。しかし、噴火から20年以上を経ても復興できない地域が多くあり、小田原藩の米の収量が元に戻るまで90年程を要したという。

酒匂川流域では、堆積した火山灰(富士山周辺で推定40cm)により水位が上がり堤防が決壊し、水没する村が続出。噴火の影響による洪水は100年余続き、大岡越前守忠相に見出された田中休愚が徳川吉宗の命を受けて享保11年(1726年)から復興に当たった。

富士山の噴火史
富士山の火山活動は3つの時代に分けられる。一番古い小御岳火山(こみたけ-)は今の富士山の場所で10万年以上前に活動していた。その次に古富士火山が8万年前頃から爆発的な噴火を繰り返して大きな山体を形成した。その後1万年前(5000年前とする説もある)から現在の新富士火山の活動に移行した。新富士火山の噴火では大量の火山灰や火山弾などの降下噴出物、溶岩、火砕流などの流出が特徴である。平安時代は特に火山活動が活発で、延暦19年 - 21年(800年 - 802年)に大量の火山灰を降らせたと日本後紀に記載された延暦大噴火があり、貞観8年(864年)には山腹から大量の溶岩(青木が原溶岩)を流出し現在の青木が原樹海の元を形成した貞観大噴火など大きな噴火があった。その後は小規模な噴火や噴気活動など比較的穏やかな時期が続いていた。

時代背景
噴火が起こったのは徳川綱吉の治世(延宝8年~ 宝永6年・1680年 - 1709年)の末期で、江戸や上方の大都市では元禄文化と呼ばれる町人文化が発展していた。噴火の前年には、元禄15年(1702年)に起こった赤穂浪士の討ち入り事件が近松門左衛門の筆で人形浄瑠璃として初演された。富士山に大穴を開けたこの大噴火は、綱吉や重秀の悪政の証拠だとされた。これはいわれのない迷信であるが、当時はこのような天災地変は天地から生まれた財宝である金銀に混ぜ物をして悪貨を発行し幕府の私腹を肥やした結果、天罰が下ったのだとされていた。
**確かに、将軍綱吉は、犬将軍等と言われ評判が悪い。でも、最近の研究では結構善政を引いた名君とも。つまり時代環境が悪かった。これは現代でも当てはまる。ロシアでプーチンさんの人気が高いのは原油価格が値上がりして景気が良くなったから、エリツィンさんが失脚したのは現有価格が低迷して景気が良くならなかったからとの分析もある。景気の良い時の首相は何をやっても評判がいいけど、景気が悪くなると評判が落ちる。メディアはそんなこと評価に入れてくれないから。結果しか見ないが政策は原因の一つにしか作用しない。

【宝永地震】
噴火の始まる7週間前の10月4日(10月28日)13-14時頃に推定マグニチュード8.6~ 9クラスと推定される宝永地震が起こった。この地震の震源は繰り返し巨大地震を起している南海トラフであり、日本最大級のものであった。遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したとの見方もあったが異論もある。地震の被害は東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達した。
**地震と火山の噴火の因果関係の話らしい。時間的には地震が火山噴火の引き金になった可能性があると。でも、単なる偶然の一致かも知れない。

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タタールの軛

タタールの軛(くびき)とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を、ロシア側から表現した用語である。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人の、2世紀半にわたるモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である。「タタールの羈絆(きはん)」と称することもある。モンゴル人は強かった。今の相撲界を見れば分かる?

**軛=車の轅(ながえ)の先につけ、牛馬のくびにあてる横木。
**羈絆=行動する人の足手まといになるもの。束縛になるもの。ほだし。

13世紀、分領制の時代に入っていたルーシは東西からの二大勢力による厳しい挑戦を受ける。この世紀の初頭には未だキリスト教以前の異教の信仰にとどまっていたバルト海沿岸地域に、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)をはじめとするカトリック教徒のドイツ人が北方十字軍および東方殖民の活動を開始し、正教徒であったルーシの人びととの間に衝突が起こるようになる。ドイツ人の侵攻は、1240年と1242年の2度にわたってノヴゴロド公国の公子アレクサンドル・ネフスキーによって阻まれ、その東進はエストニアでとどまり、カトリックによる北ルーシ侵攻は失敗した。

その一方で、ヨーロッパ大陸でも最も東に位置し、常にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシは、1223年、すでにモンゴル帝国の最初の襲撃を受けていた(カルカ河畔の戦い)。これは、初代皇帝チンギス・カンの治世において、ホラズム遠征の一環としておこなわれたもので、このとき、モンゴル軍は南ルーシ諸侯と南ロシア草原のテュルク系遊牧民キプチャク(ポロヴェツ族)の連合軍に大勝したが、征服はおこなわなかった。このときの遠征は中央アジアを標的としたもので、キプチャク草原やロシア方面の占領を目的とした遠征ではなかったため、モンゴル軍はすぐに東方に帰還した。

モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイは、1235年、帝国の首都カラコルム(現在のモンゴル国・アルハンガイ県)に王侯・貴族を招集してクリルタイを開催し、西方への大遠征を決定。チンギス・カンの長男ジョチの采領(ウルス)は帝国の西に割り当てられていたので、征西軍の総指揮官にはジョチの次男バトゥが任じられる。1236年、バトゥ率いる大遠征軍は川や沼沢の氷結する冬の到来を待って東ヨーロッパへの大侵攻を開始し、ヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルガールを征服した(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)。モンゴル軍は続いてルーシへ侵攻し、1237年から1238年にかけてリャザン(旧リャザン)、ウラジーミル(ウラジーミル・スーズダリ大公国)、トヴェリ、コロムナなどを次々と占領して北東ルーシを征服、さらに1239年から1240年にかけては南ルーシに転進し、キエフ・ルーシ(キエフ大公国、正式な国名は「ルーシ」Русь )の首都キエフを攻略して破壊し、南ルーシの多くの都市や農村を荒廃させた(バトゥの大西征)。

モンゴル軍の征服は、北西に離れたノヴゴロド公国をのぞくすべてのルーシにおよび、1240年までにはルーシの住民ほとんどすべてがモンゴルへの服属を余儀なくされた。1241年、バトゥはハンガリー平原(現在のハンガリー)や現在のポーランドを侵略したところでオゴデイ死去の報を聞き、カスピ海北岸まで引き返してヴォルガ川下流に滞留した。この西征により、バトゥを家長とするジョチ家の所領はカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にまで拡大した。ルーシの人びとは、キプチャク族などテュルク系遊牧民が自身よりも東方に本拠を置くモンゴル系遊牧民たちを「タタル」(古テュルク語で「他の人びと」)と呼びならわしていたのにならい、ルーシを征服したかれら東方遊牧民を「タタール」(漢字表記は「韃靼」)と呼んだ。

ジョチ家の所領(ジョチ・ウルス)は、こののち次第に緩やかな連邦へと傾斜していくモンゴル帝国内で自らの自立性を強めていったため、ジョチ・ウルス(金帳汗国)とも呼ばれる。こうしてノヴゴロドを含む全ルーシはモンゴル帝国の支配下に組み入れられ、ルーシの人びとはモンゴルへの貢納を強制される。このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールのくびき」と呼んでいる。「タタールのくびき」は、モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も相次いでモンゴルからの自立を果たすまでの200年以上にわたって続いた。ロシアはその後16世紀初め頃までに「タタールのくびき」を完全に脱するが、その後もクリミア半島やヴォルガ川流域、シベリアなど広範囲にひろがるテュルク=モンゴル系の人々を「タタール」と呼んだ。

やがて、ピョートル1世(大帝)によって18世紀前半に創始されたロシア帝国は、この世紀の末までにはタタール諸民族居住域の大部分を支配下に置くこととなった。

歴史一般

テルマエ

『テルマエ・ロマエ』(THERMÆ ROMÆ)は、ヤマザキマリによる漫画作品。『コミックビーム』(エンターブレイン)にて2008年2月号から2013年4月号まで連載。当初は不定期連載だったが、2010年4月号から定期連載に移行した。単行本は2013年6月にて最終巻を迎えた。そもそも、テルマエとは古代ローマの公衆浴場のことらしい。ロマエは「ローマの」と言う意味か。

『テルマエ・ロマエ』は、古代ローマ時代の浴場と、現代日本の風呂をテーマとしたコメディ。入浴文化という共通のキーワードを軸に、現代日本にタイムスリップした古代ローマ人の浴場設計技師が、日本の風呂文化にカルチャーショックを覚え、大真面目なリアクションを返すことによる笑いを描く。単行本では、各話の間に、風呂に関する歴史資料や、作者の体験が書かれたコラムが掲載されている。題名の「テルマエ・ロマエ」は、ラテン語で「ローマの浴場」という意味。

テルマエ 書店の店頭での宣伝などを通して部数を伸ばし、『コミックビーム』の連載作品としては例外的に女性読者の支持も集めた。また、東京都浴場組合による推薦や、イタリア・ローマ関係の学術的な問い合わせといった、あまり例のなかった形での反響がある。2010年に受賞が相次いだ際には展覧会や旅行会社とのタイアップも企画された。2巻には、このマンガのヒットはイタリアの新聞で「ローマ帝国ついに日本の漫画界を征服」と報道されたことが記された。

本作の執筆のきっかけについて、作者は「東京スポーツ」紙上のインタビューで「ヨーロッパにはお風呂も銭湯もないから、お湯につかりたくてもつかれない。でも、そこら中に古代ローマ時代の浴場の遺跡がある。昔はあったのになぜ今ないのか、それがもどかしくて」「イタリア人の夫が日本の家風呂を見て笑うんです。(中略)古代ローマ人なら日本の風呂の良さをわかってくれるぞ」とその発想の経緯を語っている。また夫が「ローマ皇帝の名前を全員言えるほどの古代ローマおたく」であったことも大きかったとのこと。

あらすじ
舞台はハドリアヌス帝時代、西暦130年代の古代ローマ。浴場を専門とする設計技師ルシウス・モデストゥスは、革新的な建造物が次々に誕生する世相に反した、昔ながらの浴場の建設を提案するが採用されず、事務所と喧嘩別れしたことで失業状態に陥ってしまう。 落ち込む彼の気を紛らわせようとする友人マルクスと共に公衆浴場に赴いたものの、周囲の騒々しさに耐えかね雑音を遮るため湯中に身を沈めたルシウスは、浴槽の壁の一角に奇妙な排水口が開いているのを見つけ、仕組みを調べようと近づいたところ、足を取られて吸い込まれてしまう。不測の事態にもがきながらも水面に顔を出すと、彼はローマ人とは違う「平たい顔」の民族がくつろぐ、見たこともない様式の浴場に移動していた。

ルシウスが見た「平たい顔族」とはアジア系有色人種の未来の姿、すなわち現代日本人であり、ルシウスは浴場を使ったタイムトラベラーとなっていたのだった。これ以降、ルシウスは自分の意志とは無関係にたびたび古代ローマと現代日本の世界を行き来し、「平たい顔族」の風呂で得たアイディアをローマでの浴場設計・運用考案に活かし、それが自らの創意工夫によるものではないことに若干の後ろめたさを感じつつも、浴場施設専門の空間プロデューサーとして名声を勝ち得ていき、時のローマ皇帝・ハドリアヌスからも全幅の信頼を置かれる。だが、それはルシウスをさらに多忙にする結果となり、妻からは「仕事のことしか考えていない」と非難された挙句に離縁されてしまうなど、私生活には恵まれない。

ルシウスが古代ローマと現代日本を行き来して名を上げていく中、大学で古代ローマ史を研究している小達さつきは、実家の旅館にタイムスリップしてきたルシウスと出会う。彼が実家の旅館の買収をめぐるトラブルを解決してくれたことを通じて、さつきはルシウスと惹かれ合い、彼が歴史に残した功績を探り当てようとする。その結果、さつきもまたルシウスと同じように古代ローマへタイムスリップすることができ、愛する彼のために現代日本に別れを告げて古代ローマにとどまる。

やがてルシウスは、ハドリアヌスが理想としていた温泉保養地の建設を成し遂げ、ハドリアヌスはルシウスにローマの未来を託し、満足のうちに息を引き取る。そしてルシウスも、さつきとの間に念願の子供を授かる。その子供が産湯につかって大喜びする様子を見て、ルシウスはローマとテルマエの明るい未来を予感する。

ということで古代ローマの遺跡を堪能するには浴場の知識は欠かせないようだ。

【古代ローマの公衆浴場】
古代ローマの公衆浴場は、バルネア (balnea)、テルマエ (thermae) と呼ばれており、多くの都市に少なくとも1つの公衆浴場が存在した。そこは社会生活の中心の1つになっていた。
古代ローマ人にとって入浴は非常に重要だった。彼らは1日のうち数時間をそこで過ごし、時には一日中いることもあった。裕福なローマ人が1人か複数人の奴隷を伴ってやってきた。料金を支払った後、裸になり、熱い床から足を守るためにサンダルだけを履いた。奴隷は主人のタオルを運び、飲み物を取ってくるなどした。入浴前には運動をする。例えば、ランニング、軽いウェイトリフティング、レスリング、水泳などである。運動後、奴隷が主人の身体にオイルを塗り、(木製または骨製の)肌かき器で汚れと共にオイルを落とした。
ヴィッラやドムスや砦にも私的な浴室があり、それらも「テルマエ」と呼ばれた。これらは付近を流れる川や用水路から水を供給していた。浴室の設計については、ウィトルウィウスが『建築について』で論じている。

歴史一般

五賢帝時代

五賢帝(ごけんてい)は、1世紀末から2世紀後期に在位したローマ帝国の5人の皇帝、またその在位した時代のこと。共和政時代から続いてきた領土拡大が一種の集大成を迎え、ローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた。パクス・ロマーナと呼ばれる時代の一角をなす。
五賢帝は、その後継者に比較して穏健な政策によって知られる。時期としては紀元96年のドミティアヌスの死から、紀元180年のコンモドゥスの登位に至る時期を指し、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人の皇帝が該当する。また、トラヤヌスの統治時代がローマ帝国の領土最大期だった。

  1.ネルウァ(Marcus Cocceius Nerva)
  2.トラヤヌス(Marcus Ulpius Nerva Trajanus)
  3.ハドリアヌス(Publius Aelius Traianus Hadrianus)
  4.アントニヌス・ピウス(Titus Aurelius Fulvius Boionius Arrius Antoninus Pius)
  5.マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius Antoninus)

五賢帝 これらの諸帝のうち、マルクス・アウレリウスを除く4人は世襲によらず養子によって後継者を指名した。このことで「五賢帝は実子や血縁者を帝位に就けずに、元老院から最適任者を養子に迎え帝位に就けた」と思われがちであるが、実際はマルクス・アウレリウス以外は血を分けた息子に恵まれず養子を迎えざるをえなかったと言う単純な理由のようだ。トラヤヌスは生前にハドリアヌスを養子に迎えていた訳ではなく、彼の死後、養子縁組を知らせる手紙を皇后ポンペイア・プロティナが捏造したことによるでっち上げとの説が有力である(現にトラヤヌス死去が公表されたのはハドリアヌスの養子が決定した後だった)。そのハドリアヌスが迎えた養子アントニヌス・ピウスは無能ではなかったにせよ、特に華々しい政治経歴を持っているわけではない。また、当のアントニヌス・ピウスも養子を自分の意思で決めた訳ではなく、ハドリアヌスの命令である。その養子であるマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスは、当時少年であり元老院議員ですらない。更にネルウァを除く4人は、直系の血縁者ではないものの親戚同士にあり、血縁者以外に帝位を継がせたという説も厳密には正確ではない。

一般には五賢帝という名称から、この5人がローマ皇帝としての名君の「ベスト5」であるかのように認識されることもある。そのような評価を与えた最初は、ルネサンス期の思想家のニッコロ・マキャヴェッリである。さらに18世紀英国の歴史家エドワード・ギボンはその評価を引き継ぎ、著書『ローマ帝国衰亡史』の中で、この時代を「人類が最も幸福であった時代」と評した。ただしギボンは五賢帝以降の皇帝を酷評しているものの、五賢帝がローマ皇帝のベスト5だと評している訳ではない(例えばユリウス・カエサルを、「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と評している)。今日でも「ローマの平和」の究極の到達点として広く想起されるものの、ハドリアヌス帝の頃から古代ローマの領域は拡大から現状維持・縮小に転じており、最後の五賢帝であるマルクス・アウレリウス帝の時代あたりからは、北方のゲルマン人侵入の激化というローマ帝国衰亡の兆しも始まっている。
ただし、マルクス・アウレリウスは哲人皇帝としても知られているが。

歴史一般

ハザール王国

ハザール王国 ハザールは、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。支配者層はテュルク系民族と推測されており、支配者層が9世紀頃にユダヤ教に改宗したことは有名。交易活動を通じて繁栄した。アラビア語、ペルシア語資料では خزر Khazar と書かれている。日本語ではハザル、ハザリア、ホザールあるいはカザールと表記されることもある。

ハザールは謎の多い遊牧民であり、起源はもとより系統もはっきりしない。おそらくテュルク系と考えられている。中国の歴史書である『旧唐書』,『新唐書』に出てくる波斯(ペルシア)国(サーサーン朝)に北隣する「突厥可薩部」がこの「ハザール」のことと考えられている。8世紀 - 9世紀の年代記作者テオファネスによれば、ハザールの故郷はベルシリア(アルメニア史料のバルシリ)であるという。

10世紀のペルシア語の地理書『世界境域誌』に書かれているハザール人たちの諸都市の項目(首都イティル)によれば、ハザールのハーカーンは「アンサーの子孫に属す(と書かれており、この「アンサー」とは突厥王家である阿史那氏の訛音ではないかとも言われている。

ハザールは6世紀の東ローマ史料において、サビル(サベイロイ)と呼ばれており、『戦史』の著者プロコピオスによれば、「サビルはフンの一族であり、カフカスあたりに居住し、多数の首長のもとに適当に分かれている」という。このサビルとハザールがまったく同一の民族であったか否かは確定できないが、少なくとも10世紀のアラブの歴史家マスウーディーは『黄金の牧場』の中で、ハザールをテュルク系サビルとしている。また、サビルの名が6世紀末からほとんど現れなくなるのは、サビルと呼ばれる部族連合の中にハザールが含まれていたことを示すからであろう。

ハザールはおそらく6世紀末にカスピ海沿岸およびカフカスからアゾフ海のステップに進出したが、その時期はまだ西突厥の勢力が強大で、その宗主権のもとに置かれていた。626年、東ローマ帝国のヘラクレイオス1世は帝国の北東国境を守るために「東のテュルク」と同盟を結んだ。この「東のテュルク」の主力をなしていたのがハザールであり、東ローマ帝国は彼らと共にペルシア(サーサーン朝)支配下にあったカフカスを攻め(ビザンチン・サーサーン戦争、第三次ペルソ・テュルク戦争)、大きな戦果をあげた。

ハザール・カガン国
7世紀の中ごろ、西突厥の衰退と共にハザールはその後継国家ハザール・カガン国を形成し、独立を果たす。一方、南ロシアのステップでは、オノグル・ブルガールの部族連合「古き大ブルガリア」が成立した(635年)。アラブ・ハザール戦争(642年 - 799年)が始まる。ハザールが西進すると古き大ブルガリアは崩壊し(653年)、一部はハザールにとりこまれ(黒ブルガール)、残りは各地に散らばってヴォルガ・ブルガール,ドナウ・ブルガールを形成。

ハザールとイスラーム
以前、ハザールはカフカスをめぐってサーサーン朝ペルシアと対立していたが、サーサーン朝が新興のイスラーム共同体(ウンマ)によって滅ぼされると(651年)、代わってイスラーム共同体とカフカスをめぐって争うようになった。イスラーム共同体は654年に南カフカスのアルメニア,グルジア,アルバニアを占領し、カフカス山脈を越えてハザールの領有する北カフカスに侵入、カスピ海沿岸の要塞デルベントを陥落させ、ハザールの中心都市ベレンジェルに迫った。ハザールはベレンジェルでイスラーム軍を追い返したが、しばらく一進一退の攻防が続いた。イスラーム共同体で内紛が起こったため、一時はその侵攻が止んだが、661年にウマイヤ朝が成立すると、再びハザールに攻撃をかけてきた。735年、ウマイヤ朝のカリフであるヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクは従兄弟のマルワーン・イブン・ムハンマド(のちのマルワーン2世)を派遣し、麾下のウマイヤ朝軍1万5千が逆にヴォルガ河畔まで進撃した。これに窮したカガンは司令官マルワーンに和睦を申し入れ、イスラーム改宗を約束した。この遠征を受けてハザールはウマイヤ朝カリフの宗主権を一時的に認めさせられるが、属国にはならなかった。

一方、東ローマ帝国とは共通の敵がペルシア(サーサーン朝)とアラブ(イスラーム)と一緒であったため、利害が一致していたが、クリミア半島の領有に関しては争いが生じた。西進を続けるハザールはまずボスポロス(ケルチ海峡)を占領すると、クリミア半島南端のヘルソン(ケルソネソス)に迫った。東ローマ帝国にとっては古来のギリシア植民都市であったヘルソンを黒海における橋頭堡として死守すべきであったため、皇帝ユスティニアノス2世は自治都市であったヘルソンに遠征軍を差し向けた。しかし遠征は失敗に終わり、ヘルソンはハザールに占領されてしまうが(705年)、まもなくしてヘルソンは帝国の手に戻り、クリミア南部は帝国領、それ以外はハザール領ということで、両国の友好関係が約200年にわたって続いた。

比較的友好な関係にあったハザールと東ローマ帝国は婚戚関係も結んでいる。ユスティニアノス2世は軍人のレオンティオスによって帝位を奪われ、クリミア半島のヘルソンに逃れ、ハザール・カガン国に亡命した。その際、カガンの姉妹と結婚し、ユスティニアヌス1世の妃にちなんでテオドラと改名させた。また、イコノクラスム最盛期の皇帝コンスタンティノス5世の妻もビハール・カガンの娘イレーネーであり、その子レオーン4世は「ハザロス(ハザール人)」と仇名された。その他、帝国で活躍した官吏や知識人のなかにもハザール出身者が少なくなかった。

ハザールとユダヤ
サルケル遺跡は830年代にハザールが建てたかつての都市。写真は1930年代のもので、現在はヴォルガ・ドン運河運用のため1952年に造られたチムリャンスク湖の底に沈んでいる。 ハザールのユダヤ教受容は非常に有名であるが、改宗に関する史料は少なく、その時期と実態は謎に包まれており、さまざまな論争を呼んでいる。西欧ではアクイタニア(アキテーヌ)のドルトマルが864年に書いたマタイ伝の注釈の中で、ハザールの改宗にふれているので、864年以前であることは確実であろう。アラブのマスウーディーはハザールの王(ベク)がハールーン・アッ=ラシード(在位:786年 - 809年)の時代に、ユダヤ教を受け入れ、ビザンツ帝国やムスリム諸国から迫害を受けて逃れてきたユダヤ教徒がハザール国に集まったと記している。10世紀のコルドバのユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトがハザールのヨシフ・カガンに宛てた手紙、いわゆる『ハザール書簡』において、「ブラン・カガンが夢の中で天使に会ってユダヤ教に改宗したが、民衆が新しい宗教を信じなかったので、ベクが尽力してユダヤ教の普及をはかった」という記述がある。ブラン・カガンの時代だとすると、730年 - 740年頃ということになる。以上のように、改宗の時期や理由は断定することはできないが、9世紀初頭と考えるのが妥当なところであろう。

735年にマルワーン率いるウマイヤ朝軍に敗れたハザールは一時的にイスラム教に改宗したものの、アッバース革命に前後するイスラーム帝国内部の混乱を機に、799年にオバデア・カガンは再びユダヤ教を公的に受容した。こうして9世紀までに、ハザールの支配者層はユダヤ教を受容したが、住民はイスラム教徒が多かったと考えられている。 ハザール・カガン国は10世紀になると衰退し始め、貢納国であったヴォルガ・ブルガールの離反や、キエフ・ルーシ(キエフ大公国),ペチェネグといった外敵の脅威にさらされていった。965年、キエフ・ルーシの大公スヴャトスラフ1世の遠征で、サルケルおよびイティルが攻略され、ハザール・カガン国は事実上崩壊した。

政治
当初はカガンが権力の頂点にあったが、次第にその地位は名目的なものになった。そのため、宗教的権威を有するカガンと、事実上の支配をおこなうベクやシャドが並び立つ統治体制へと移行した(二重王権制)。10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲンネトスは『帝国統治論』のなかでハザールの内乱にふれているが、その内乱は明らかにカガンとベクのそれぞれの関係者間の戦闘であった。この年代を833年から843年の間とすれば、ハザールのカガンは内乱によって843年までに実質的な権力を奪われ、名目的存在となったと思われる。ただし、聖者伝の『コンスタンティノス伝』によると、コンスタンティノスがハザールを訪れた860年頃ではカガンがまだ最高権力者であるかのように描かれている。しかしながら、ハザール・カガン国においてカガンの権威が時代と共に限定されてゆき、ベクが権力を掌握していったことは確かである。支配者層は、多くの遊牧国家と同様季節移動する豪華なテント群を宮廷とし、夏の間は草原地帯での生活を送り、冬は都イティルの周辺などで過ごした。

経済
9世紀以降ノルマン人の活動が盛んになり、バルト海からカスピ海北岸にかけて交易活動(ヴォルガ交易路)で活躍した。当時のカスピ海は、イスラム側からは「ハザルの海」と称されていた。ノルマン人は北欧・ロシアから毛皮・奴隷などをもたらした。ハザルは、魚のゼラチンを輸出した。その他、ユダヤ商人、ムスリム商人など様々な商人が訪れたことで、各地の商業ネットワークが結びついていた。南のカスピ海や黒海から、北のバルト海や北欧へと、ヴォルガ川やドニエプル川やネヴァ川やダウガヴァ川で結ぶ内陸水路による交易路を、「ヴァリャーギからギリシャへの道」と呼ぶ。

宗教
ハザールの元来の宗教は多神教とアニミズムであり、テングル・カガン(天王)が最も重要視された。しかしながら遊牧民の特徴として他の宗教には寛容であるため、イスラム教,キリスト教,ユダヤ教なども信仰された。 9世紀に支配者層はユダヤ教に改宗し、一部の一般住民もそれに続いた。断定はできないがその理由として、東に位置するイスラームのアッバース朝と、西に位置する正教会の東ローマ帝国の双方から等距離を図るための選択という説がある。

影響
黒海及びカスピ海の北にあったハザールがイスラーム帝国の北進に抵抗したことは、結果的にヨーロッパの東部からイスラーム化が進むのを防ぐ役割を果たした。もし、ステップのさまざまな遊牧民とスラヴ人が早い時期にイスラーム化していたとするならば、世界史の流れは一変していたはずである。

ハザールが衰える一方でブルガールが勢力を回復させ、首長アルミシュはアッバース朝に接近してハザールからの自立を図った。この際の922年にカリフ・ムクタディルの使節に随伴したイブン・ファドラーンによる記録が『ヴォルガ・ブルガール紀行』として残されている。また954年から961年にかけて、後ウマイヤ朝のユダヤ教徒出身のワズィール(宰相)ハスダイ・イブン・シャプルトとハザールのヨセフ・カガンとの間で交わされた往復書簡『ハザール書簡』が残されている。さらにカイロのシナゴーグのゲニザ(文書秘蔵室)で発見された10世紀以降(ファーティマ朝時代)の文書(カイロ・ゲニザ)からも幾つかのハザール関連資料が発見された。ハザールのユダヤ教化の経緯等が書かれた無名のハザール人のハスダイ宛書簡(シェフター文書)やキエフのテュルク系ユダヤ教徒の紹介状かつ寄付の呼び掛け状(キエフ文書)など。

ソ連・ロシアでの研究
ソ連の学者はハザールを北コーカサスの先住民とした。1930年代のソ連ではハザール帝国の遺跡発掘作業が活発化、ミハイル・アルタモノフは労働赤旗勲章、レーニン勲章を受章する。ロシアの歴史学会では、中世のカスピ海の水位上昇が、ハザール王国のカスピ海沿いの町に大洪水を起こさせたともされている。

「アシュケナジム・ハザール起源説」について
中世西ヨーロッパのユダヤ人口は数万人に過ぎなかったのに17世紀東欧のユダヤ人口が数十万あったことは西方からの移民では説明できない、などの傍証から、今日ユダヤ教徒の大半を占めるアシュケナジムは、このハザール系ユダヤ教徒の子孫であるという説(つまりパレスチナに住んでいたユダヤ人の子孫ではなく、ハザール人やスラブ人の子孫であるという説)がある。テルアビブ大学のユダヤ史の教授A.N.ポリアックが提唱した学説に依拠し、ハンガリー出身のユダヤ人作家アーサー・ケストラーの『第十三支族』によって、東欧ユダヤ人ハザール起源説は広く知られるようになり、近年では、シュロモー・ザンドによって書かれた『ユダヤの起源』でも、この説について説明されている。

一方で、反論も多い。13世紀のボレスワフ5世や14世紀のカジミェシュ3世、14世紀~15世紀のヴィタウタスのユダヤ人保護政策による、ポーランド王国やリトアニア大公国への西欧からのユダヤ流入はハザール衰退よりかなり後のことである。また通常16世紀初頭のポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)のユダヤ人口は数万人と見積もられ、17世紀半ばの数十万人への増加を旧ハザール地域からの移民で説明しようとすると10世紀以降のハザール国家解体から13世紀のモンゴル帝国の攻撃・支配、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)やその後継諸国の統治に至るまで500年以上にわたって数十万人の人口を維持し続け、16~17世紀にポーランド・リトアニアに移住したことになる。だがキプチャク・ハン国やジョチ裔諸国に、人口比からすれば東欧を凌ぐほどの巨大なユダヤ社会が在り、16~17世紀にそれが崩壊したという話は伝わっていない。また、『元朝秘史』、『元史』、『世界征服者史』、『集史』などのモンゴル帝国の資料では、バトゥの西方遠征軍によるブルガールやキプチャク諸部族、ルースィ諸国、カフカス方面のアス(イラン系アラン人)などの征服については書かれているが、ハザールについてはこれらの地域に存在していたような形跡や情報が全く出て来ない。 また、アシュケナジムの使用言語であるイディッシュ語の系統が西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語(標準ドイツ語)の一つである点もハザール起源説に無理がある理由である。ハザールはテュルク系と考えられているが、イディッシュ語にはテュルク諸語との類縁関係が全くない。アシュケナジムがハザール起源なら当然イディッシュ語にはテュルク系言語の特徴が残っているはずである。ハザールがユダヤ教に改宗したのは(それがどの程度の規模であったかはともかく)確かであるが、それまで母語としてきたテュルク系言語まで捨てたとは到底考えにくい[独自研究?]。しかもハザールの故地にはカライ派ユダヤ教徒がいるが、彼らの使用言語であるカライム語はテュルク諸語の一つである。このようにカライム人のカライム語はテュルク系言語として残っている一方で、アシュケナジムのイディッシュ語にはテュルク系言語的特長が全く残らずゲルマン系言語になっている。この理由についてハザール起源説は何ら説明がない。

ハザール人とユダヤ人をむすびつける理論の現状
アラブ世界では、反シオニズム主義者、反ユダヤ主義者たちの間におけるこの理論への支持は高い。こうした賛同者たちの議論では、もしアシュケナジーたちがかつてのハザール人であってセム系の起源を持たないのであれば、イスラエルへの歴史的権利もなく、神による、聖書やクルアーンに見える、イスラエル人へのカナンの地の約束の主体でもなく、それゆえ、宗教的シオニストとキリスト教シオニストの双方の理論的基盤が葬りさられるという。

1970年代と80年代には、ハザール人理論はロシアの排外的反ユダヤ主義者たちにまで広がり、とくに歴史家Lev Gumilyovは「ユダヤ系ハザール人」を、7世紀以来、ロシアの発展を繰り返し妨害してきたものとして描き出している。

バーナード・ルイス は1999年につぎのように述べた。 この理論…はいかなる証拠からも支持されていない。専門分野において、すべてのまじめな学者たちから放棄されて久しい。それは、ハザール人理論が、ときおり、政治的な論争において用いられるアラブ諸国においても同じである。

イスラエルの歴史家シュロモー・ザンド(Shlomo Sand)は、アシュケナジー・ユダヤ人たちのハザール人祖先という主題を、その論争的な書物、『The Invention of the Jewish People』(2008年刊、邦題:『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』)において扱った。

ザンドが主張するところでは、イスラエルの歴史家たちは、ハザール人を祖先とするテーゼを傍流に追いやり、1951年から現在まで無視し続け、ヘブライ語でのハザール人についての一冊の歴史書も刊行されていないという。

歴史家たちからは、ザンドの調査の質に対する批判が行われている。 Simon Schama は、かれのザンドの本への批評で、つぎのように書いている。

アシュケナジーのユダヤ人の全体が、必ずハザール人の子孫に違いないと主張するのは、ちょうどまさに、中断のない系譜を無批判に主張することであり、ザンドは、ユダヤ人の歴史のより広い文脈にこのんで逆らおうとしている。

Anita Shapira は「ザンドはほとんど異端的で、議論を呼ぶような翻訳にかれの議論の基礎をおいており、さらには、重要な学者たちの信頼性を、彼らの結論を何ら証拠もなく否定することで、損なおうと試みている」と書いた。

遺伝学的研究
遺伝学の立場からは、この説を否定する研究結果が出されている。ただしこれらの議論は「アシュケナジー=ハザール系」説を否定するもので、少数の「ハザール系アシュケナジー・ユダヤ人」が現存する可能性の是非については明らかでない(もちろん、ハザール系アシュケナジーが少数いたことが証明されても、それは全てのアシュケナジーに適用されるものではないので、いわゆるハザール起源説は否定される)。

1999年のHammerらの研究(米国科学アカデミー紀要掲載)はアシュケナジム、ローマ系、北アフリカ系、クルド系、近東系、イエメン系、エチオピア系のユダヤ人を、それぞれの近接した地域の非ユダヤ人集団と比較した。それによると「異なった国々への長期の居住にもかかわらず、そして互いと隔離されていたにも関わらず、ほとんどのユダヤ系住民たちは、遺伝子レベルでは、互いと大幅な差異は示さなかった。この結果は、ヨーロッパ、北アフリカ、そして中東のユダヤ人コミュニティの父系の遺伝子プールが、共通の中東の祖先集団の子孫であるという仮説を支持し、かつ、ほとんどのユダヤ人コミュニティが、隣接した非ユダヤ人集団からディアスポラ以降も、相対的に隔離されていることを示唆している」。Nicholas Wade によれば、「この結果は、ユダヤ人の歴史と伝統と一致し、ユダヤ人共同体の大半が改宗者からなるとか、ハザール人や、ユダヤ教に改宗した中世トルコ部族の子孫であるといった理論を反証している」という。

2001年のNebelらのY染色体ハプログループの研究によると、R1aハプログループの染色体(論文内では Eu 19 と呼称)は、東欧の住民の間では非常に高率(54%-60%)で出現するものだが、これがアシュケナジー・ユダヤ人の間では高い頻度(12.7%)を示す。

著者らは、これらの染色体グループは周囲の東欧の住民からアシュケナジムへの低レベルでの遺伝子の流入を反映しているか、あるいは、ハプログループ R1a を持つアシュケナジーと、ほとんどすべての東欧住民の両方が、ハザール人の祖先をも部分的に持つことを示すと仮定している。 2003年のBeharらによるY染色体の研究によると、アシュケナジーのレビ氏族(かれらはアシュケナジー全体のおよそ4%を構成する)のあいだでは、ハプログループR1a1の所有率は 50% 以上だった。 このハプログループは、他のユダヤ人のグループでは珍しく、東欧住民の間では高い頻度を示す。

彼らの論じるところでは「R1a1 NRYの高頻度での所有をアシュケナジーのレビ氏族にもたらした出来事は、非常に少数の、そしておそらくは単一の始祖に関わるものである可能性が高い」。 彼らは、この遺伝子群の源泉であると思われる、「非ユダヤ系のヨーロッパ住民である、一人または複数の始祖がいて、その子孫がレビ氏族の成員となった」のだと仮定した。そして、同時に、その代案としての「魅力的な源泉は、8世紀から9世紀にその支配階層がユダヤ教に改宗したと考えられているハザール王国だろう」という。

彼らの結論としては「アシュケナジー・ユダヤ人の多数派のNRYハプログループの構成も、アシュケナジーのレビ氏族の間のR1a1ハプログループのマイクロサテライト・ハプロタイプの構成も、幾人かの著者たち(Baron 1957; Dunlop 1967; Ben-Sasson 1976; Keys 1999)が推測したような、多数のハザール人やその他のヨーロッパを起源とするものではないが、現在のアシュケナジーのレビ氏族に、ひとり、または複数の、そうした始祖による重要な貢献がある、ということを否定することはできない」というものであった。

2005年のNebelらによるY染色体多態マーカーに基づく研究は、アシュケナジー・ユダヤ人は、他のユダヤ人や中東の諸集団に、ヨーロッパでの隣接住民よりも近いことを示した。しかし、アシュケナジー男性の11.5%は、東ヨーロッパで支配的なY染色体ハプログループである、ハプログループR1a1(R-M17)に属することが判明し、これは、この二つの集団の間に、遺伝子の流れが存在することを示唆している。著者たちは、「アシュケナジムのR-M17染色体は神秘的なハザール人の名残を表す」という仮説を立てた。かれらの結論するところでは、「しかしアシュケナジー・ユダヤ人の間でのR-M17染色体が実際に、神秘的なハザール人の名残を意味するとしても、我々のデータに従えば、この貢献は、単一の始祖あるいは数人の非常に近い血縁の男性たちに限定され、現在のアシュケナジーの12%を超えることはない」。

2010年のAtzmonらによるユダヤ人の祖先の研究では、「主要な成分、系統、そして家系上の同一性(IBD)の分析から、二つの主要グループ、中東のユダヤ人とヨーロッパ・シリアのユダヤ人が識別された」 ヨーロッパ・ユダヤ人たちが互いと、そして、南欧の住民達と、IBDセグメントを共有し、近接しているということは、ヨーロッパのユダヤ人たちが共通の起源を持つことを示唆しており、中東欧のあるいはスラブ系の住民が、アシュケナジーのユダヤ人の形成に大きな遺伝的貢献をしたことを反証している。

歴史一般

吉田学校

吉田学校は、吉田茂が自らの政治基盤を支え、後進を育てるために集められた国会議員のグループを指す。吉田と同じ官僚出身が多数を占め、吉田学校出身者の多くは吉田の引退後も戦後日本を牽引した。のちに首相となった池田勇人や佐藤栄作らが代表例である。

鳩山一郎の公職追放を受け、外交官から突然自由党総裁に就任することとなった吉田には戦後改革を遂行するうえで、自分の手足となる忠実な部下が少なかった。さらに、吉田は党人派の議員たちが戦前軍部に屈したことや党人派の行政手腕や政策立案能力などに対し、強い不信感を抱き、戦後の混乱を収拾できる行政能力を高める必要性を感じていた。こういった理由から、吉田は1949年の第24回衆議院議員総選挙に公職追放された旧勢力の公認候補の代わりとして、各省庁から自らの後輩にあたる有能な官僚を送り込み、結果総選挙に圧勝した。吉田はこれら吉田学校生らを強いリーダーシップで率い、戦後日本の政治体制の基礎を固めた。

吉田学校について吉田自身は「授業料を取っていないから、(生徒は)何人かわからない」「和田博雄は最上級生だが、社会党に行ったから中途退学生だ」と語っている。
保守合同で自由民主党が誕生すると、1956年に吉田の側近たちが集まり「丙申会」(旧吉田派)を名乗り始める。当初、吉田や佐藤栄作が自由民主党に参加しなかったことから、旧吉田派は池田勇人の預かりとなった。1956年12月の自民党総裁選をきっかけに旧吉田派は池田勇人派と佐藤栄作派に事実上分裂する。1957年2月に佐藤が自民党に入党すると佐藤派は「周山会」を発足させ、池田派は同年6月に「宏池会」を旗揚げした。

主な吉田学校生徒は数知れないが、自民党の主要なメンバーは自称吉田学校生徒なのかな? では、野党の方は? 政策面での特徴は何だろう。

なお、『小説吉田学校』は、政治評論家の戸川猪佐武による日本の実録政治小説。『小説吉田学校』は、占領下での吉田内閣から鈴木善幸内閣までの保守政党や保守本流などを中心に政界の権力闘争史を描いた長編小説。

歴史一般

五百羅漢

【五百羅漢】 川越市にある五百羅漢を見学。
羅漢(らかん)とは、仏教用語の阿羅漢(あらかん)が省略されたもの。サンスクリット語ではअर्हत् , arhat(アルハット)だそうだ。
仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。

原始仏教・部派仏教において阿羅漢は、修行者の到達し得る最高位。学道を完成してこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位(むがくい)という。

禅宗の中には、阿羅漢(にして四大声聞)だった摩訶迦葉に釈迦の正法が直伝されたとして、釈迦の弟子たちの修行の姿を理想化し、阿羅漢の図像を正法護持の祈願の対象とした宗派があるとか。

中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集:けちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して尊崇することも盛んになったとか。

500体もの僧の姿を石を削って形造ることは大変な労力がかかる。一人で出来る技ではなさそうだ。また僧の表情が写実的で一体一体異なった個性を有しているのも面白い。誰か有力者が私財を投じて作らせたものであることは間違いないだろう。

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五百羅漢
川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。日本三大羅漢の一つに数えられます。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠しじょうの発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。
十大弟子、十六羅漢を含め、533体の他、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座しています。
笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。
また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。
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■日本三大五百羅漢とは?
   ・栃木県 徳蔵寺
   ・神奈川県 建長寺
   ・大分県 羅漢寺→500どころか3000羅漢
色々な説があるようだ。

歴史一般

神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国(ドイツ語:Heiliges Römisches Reich, ラテン語:Sacrum Romanum Imperium, 英語: Holy Roman Empire):
現在のドイツ・オーストリア・チェコを中心とし、中央ヨーロッパに位置していた多民族国家のこと。支配下には、かなりの他民族(イタリア北部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)の領域が含まれる。中世以降、国家としての統一性は形骸化し、ドイツ系諸国の連合体へと変質していった。国号も「ドイツ国民の」という前綴語が加えられ、解散時には単なる「ドイツ帝国」と呼び、ドイツ人国家としての性格を明確化した。

9世紀から10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。大空位時代に諸侯の台頭を許し、ヴェストファーレン条約でフランスに領土を割譲した。以後、その体制は諸領域の連合体に近いものになっているとはいえ、その版図に限られない国際的影響力を誇った。カール5世のときにイングランド王家と閨閥をつくったほか、ヴァチカン公認の中世大学を版図の外にも複数抱えた。版図消滅後は、財政基盤をロスチャイルドに残すかたわら、多民族を統治した勢力均衡の要領をウィーン体制に継承した。諸侯でも特にハプスブルク君主国は事実上の帝国とみなされた。

神聖ローマ帝国はローマ教皇に支持された皇帝を認めた中近世国家、あるいは地域である。西暦800年のカール大帝戴冠を始まりとする。理念的には古代ローマ帝国と一体であり、またカトリック教会を含む概念でもあった。教会と教皇の守護者である皇帝は最高権威を教皇と二分し、皇帝の権威は教会を通じて西欧全体に及んでいた。しかし皇帝の実権は封建制の下で制限され、皇帝を直接の君主とする地域は962年のオットー1世戴冠をもってドイツと北イタリアなどに限定された。さらにその中でも諸侯や帝国自由都市は領地支配における特権を拡大していき、300以上に分裂した教会領、公領、侯領、伯領、帝国自由都市、その他小貴族の領地は半ば独立した政体となった。「神聖ローマ帝国」の名称はこうした分裂傾向が強まった1254年からのもので、それまでは単に「ローマ帝国」「帝国」と呼ばれていた。近世の神聖ローマ帝国は皇帝を君主とする地域に限定しても複数の民族から構成される国家連合に近いものとなり、末期にはナポレオンによって北イタリアへの宗主権すら失い、実質的にドイツ連邦となり果てていた。帝国の全体像を把握することは困難となり、フランスの哲学者ヴォルテールは歴史哲学を論じた『諸国民の風俗と精神について』において、近世の神聖ローマ帝国を「神聖でなく、ローマでなく、帝国でもない」と酷評した。

日本では通俗的に962年のオットー1世戴冠を神聖ローマ帝国の始まりと見なし、高等学校における世界史教育もこの見方を継承。しかしドイツの歴史学界では西暦800年のカール大帝戴冠を神聖ローマ帝国の始まりとするのが一般的。

帝国史は3つの時期に区分される。すなわち、
①フランク王カールの皇帝戴冠から中世盛期に至る「ローマ帝国」期(800年-10世紀)
②オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(962年-1254年)
③中世後期から1806年に至る「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期。

「ローマ帝国」期はギリシャのローマ皇帝に対抗できる力を持ったカロリング朝フランク王国の国王カールが、西暦800年にローマ皇帝に戴冠されたことで始まった。歴史学上の用語でカロリング帝国と呼ぶ。領域は当時のカトリック世界ほぼ全域にわたり、古典古代とカトリック、ゲルマンの文化的融合が推進された(カロリング朝ルネサンス)。しかし843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約でフランク王国は東・西フランク王国と北イタリアに分割された。その後も帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガーリオが暗殺されると帝国から皇帝はいなくなった。

「帝国」期は962年に東フランクのオットー1世が皇帝となって帝位を復興したことで始まった。皇帝はイタリア王と東フランク王を兼ねた君主で、1032年からはフランス南東部のブルグント王も兼ねた。帝国の政治的中心は東フランク(後のドイツ)であり、11世紀以降の東フランク王はローマ王を称した。ローマ王はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式で選出されていたが、ザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝のいわゆる三王朝時代では事実上の世襲が行われた。実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。ローマ王はローマで教皇から戴冠しなければ皇帝と名乗れず、そのためドイツ諸侯を率いてイタリア半島へ度々遠征した(イタリア政策)。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)。10世紀から11世紀にかけて皇帝権は教皇権に対して優勢であり、歴代皇帝は度々腐敗した教皇庁に介入した。だが教会改革運動が進展すると皇帝と教皇の対立が引き起こされた。11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争で皇帝は敗北して神権を失い、教皇の権威が皇帝を上回った。この間に諸侯は特権を拡大して領邦支配を確立した。1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ。

「神聖ローマ帝国」の国号は大空位時代から用いられだした。大空位時代後の13世紀から15世紀にかけてローマ王位は殆ど世襲されず、異なる家門から国王が選ばれる跳躍選挙の時代となった。1356年に皇帝カール4世は金印勅書を発布し、ローマ王はドイツの有力な7人の選帝侯による選挙で選ばれると定めた。選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。15世紀半ばからはオーストリア大公のハプスブルク家が帝位をほぼ独占した。マクシミリアン1世治世の1495年から行われた帝国改造によって、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなった。ローマ王は教皇から直接帝冠を受けなくてもローマ皇帝を名乗ることを許され、同時期に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号が定められた。この頃までには皇帝のイタリア王権、ブルグント王権は失われていた。

「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期の16世紀、皇帝カール5世はイタリア戦争でフランスやローマ教皇と戦い、イタリアにおける覇権を手にした。しかし同時期に始まった宗教改革によってドイツはカトリックとプロテスタントに分裂した。宗教紛争は最終的に皇帝を中心とするカトリックの敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化された。それでも宗教対立は収まらず、1618年から始まった三十年戦争ではドイツ各地が甚大な被害を受けた。1648年にヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められた。一方で平和的な内紛解決手段も整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。しかしこのヴェストファーレン体制も18世紀になると諸侯間のバランスが崩れることで形骸化し始めた。その中で台頭してきたのはプロイセン王国(ブランデンブルク選帝侯)で、18世紀初頭でのスペイン継承戦争で帝国の兵力はプロイセンに頼っていた。プロイセンは1740年からのオーストリア継承戦争で皇帝のハプスブルク家と決定的な対立関係となった。ハプスブルク家は外交革命で長年の宿敵だったフランスと同盟し、1754年からの7年戦争でプロイセンと相対した。1792年にフランス革命戦争が勃発すると帝国はナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、イタリアとライン川以西が事実上フランスに併合された。

1804年に「ローマ=ドイツ帝国」と改称した帝国は300以上あった諸侯を40前後に統合・整理した。しかし新たに生まれた中規模諸侯たちは欧州を席巻していたフランスのナポレオン・ボナパルトに従属するライン同盟を編成した。レーゲンスブルクにあった帝国議会は1806年8月1日に帝国解散を決議し、フランス公使は議場で「ドイツ帝国」解散決議書を読み上げた。既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していたローマ皇帝フランツ2世は1806年8月6日、ウィーンの宮廷内礼拝堂のバルコニーで伝令官に短い帝国解散勅書を読み上げさせ、中世から続いた帝国は完全に解体され終焉を迎えた。

しかし、国際法(当時はあったかどうか知らないが)から見て、ローマ皇帝(東ローマ)を差し置いて何の権限も有しない、宗教上の権威ローマ教皇が世俗の長の皇帝を任命する権利など全く無いはず。皇帝カール5世は、どれだけリーダとしての権限を発揮できたのだろう。諸侯の反発はいかがなものだったのか。これが西欧社会の封建制度の骨格なのかも。自分達の領土は自分たちで守る他ない。
日本の場合、封建制の始まりは鎌倉幕府成立をもってし、承久の乱で確立するとの考えが主流かも知れない。ローマ教皇と日本の皇室、どちらがより大きな宗教的権威を有していたかは議論の余地がある所だろうが。

カール大帝
【カール大帝(742年/747年/748年~ 814年)】:
 フランク王(在位:768年 - 814年)にしてローマ皇帝(在位:800年~814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ(Charlemagne)といい、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ(神聖ローマ帝国およびオーストリアを含めて)フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風の呼び名であるカールとフランス風の呼び方であるシャルルを共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。
つまり、カールもシャルルもチャールズも同じ物。でも、高校の世界史でこれやったら減点かもね。

オットー1世
【オットー1世(Otto I.、912年11月23日~973年5月7日)】: 神聖ローマ帝国の皇帝(在位:962年~973年)、並びに東フランク王(在位:936年~973年)及びイタリア王(在位:951年~973年)。ザクセン朝初代皇帝、第2代の王で初代国王ハインリヒ1世の子。形骸化して消滅した皇帝の称号を約40年ぶりに復活させて国制を確立し、神聖ローマ帝国の初代皇帝とも見なされる。オットー大帝(Otto I. der Große)とも呼ばれる。彼の時代にアブド・アッラフマーン3世(後ウマイヤ朝)から使節があった。

歴史一般

トスカネリ

トスカネリ 15世紀イタリア(フィレンツェ)の天文学・地理学者で地球球体説を唱え、コロンブスの航海に示唆を与えた。古代のプトレマイオスの地球球体説と世界地図に影響を受けて、西廻り航路で東洋に到達出来ることを提唱し、1474年にコロンブスに説いた。 また自ら作製した地図をコロンブスに贈ったという。世界最初の地球儀を造ったのだろうか。まだ南北アメリカ大陸は抜けているが。
**ギリシャ人は、地球が球体と知っていた。この時代、こんなことイスラム世界では多分常識。インドや中国そして日本では? 多分学者の間では常識。大航海でもしなければ一般の人達にはどちらでもいいことだけど、宗教的な縛りがないから地球球体説なんか説いても誰も異論は挟まないでしょうね。
トスカネリの本来の職業は医者。だが道楽に地理学に凝っていたフィレンツェの高名な古典学者。マルコ・ポーロを崇拝しており、アジア大陸はプトレマイオスが論じたよりも遙か東方にまで拡がっているとするポーロの説に賛成した。ギリシャ人プトレマイオスは既に地球を球体としてその大きさまで推測していた。 トスカネリは、地球の大きさに関するプトレマイオスの推測値を引用し、地球の全周は1万8000地理マイルとした。コロンブスはそこへ行きたい一心から、それを更に3500マイルにまで縮めている。

パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli, 1397年~ 1482年)は、イタリア・フィレンツェの地理学者・数学者・天文学者。トスカネリとも表記される。 フィレンツェ(フィレンツェ共和国)生まれ。パドヴァ大学で数学を学ぶ。1474年に地球球体説を主張し、クリストファー・コロンブスに影響を与えたとされる。実際には地球球体説はかなり普及していたようだ。その150年以上前に書かれたダンテの『神曲』地獄篇に地球球体説を前提とした描写が見られるとか。

フィレンツェで医師の息子として生まれた。パドヴァ大学で数学を修め、1424年には医学博士となった。トスカネッリは、いくつもの彗星を観測し、それらの軌道を念入りに計算したことで知られる。彼が観察した彗星には1456年のハレー彗星も含まれる。
その長命、知性、広範な好奇心によりトスカネッリはルネサンス初期のフィレンツェにおいて、知識階級の中心的人物となった。彼の友人には、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を作った建築家フィリッポ・ブルネレスキ、哲学者のマルシリオ・フィチーノらがいた。「万能人」レオン・バッティスタ・アルベルティとも面識があった。優れた知識人であり人文主義者の走りでもあったニコラウス・クザーヌスとは親友であった。クザーヌスは1455年に数学に関する短い論文2本をトスカネッリに捧げており、1458年の対談"De quadratura circuli"(円積問題について)では対談者にトスカネッリを選んでいる。

トスカネッリとクザーヌスは、フィレンツェとローマの知識人のネットワークに加わっていたようである。彼ら(フランチェスコ・フィレルノ、トラブゾンのジョルジオ、人文主義者ニコラウス5世、アルベルティ、ブルネレスキ)はギリシアの数学を研究していた。

1439年、バーゼル公会議のためイタリアを訪問していたギリシア人哲学者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンから、古代ギリシアの地理学者ストラボンのことを知る。その時までイタリアではストラボンの広範な旅行、著作、地図については全く知られていなかった。

1474年にポルトガルの友人フェルナン・マルティンス(リスボン大聖堂の司教)へ送った手紙と地図では、西回りで香料諸島やアジアに行く計画が詳細に述べられていた。マルティンスは国王アフォンソ5世の元にその手紙を持っていった。現物は失われたが、後に筆写版を入手したクリストファー・コロンブスは、航海にこれを携えていったという。トスカネッリが地球の直径を小さく見積もる誤りを犯したことは、コロンブスがアメリカ大陸をアジアと誤解する原因ともなった。

歴史一般

形而上学

形而上学(けいじじょうがく、Metaphysics)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野。
→まず、この説明からして意味不明だろう。学問ないし哲学とは、感覚や経験を通して得たものを論理的に再構築するものでは。少なくとも無から有は生じない。

世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものについて考える。対立する用語は唯物論。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場や、ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと。
→ますます、意味不明。例えば何故宇宙は存在するのか。なぜ人間は存在するか?恐竜だけの世界では駄目なのか?なんだか不毛の理論にならないかな?

形而上学(metaphysics)とは、PubMedにおいては、哲学の一分野であり、存在の性質(オントロジー)と宇宙の起源と構造(宇宙論)を含む第1原理を取り扱うものとしている。
→宇宙の起源と構造は天文学(自然科学)の厚い研究分野。形而上学は何のために必要なのか?

概要
形而上学は、哲学の伝統的領域の一つとして位置づけられる研究で、歴史的にはアリストテレスが「第一哲学」と呼んだ学問(そして、それに関する著作がまとめられた『形而上学』という書物)に起源を有し、「第二哲学」は自然哲学、今日でいうところの自然科学を指していた。
→「第一哲学」とは「第二哲学」の上位に属するもののようだ。道徳とか倫理とか宗教とかを考えようということか?

形而上学における主題の中でも最も中心的な主題に存在(existence)の概念があるが、これは、アリストテレスが、第二哲学である自然哲学を個々の具体的な存在者についての原因を解明するものであるのに対し、第一哲学を存在全般の究極的な原因である普遍的な原理を解明するものであるとしたことに由来する。そして存在をめぐる四つの意味を検討してから存在の研究は実体(substance)の研究であると見なして考察した。
アリストテレスの研究成果は中世のスコラ哲学における普遍論争の議論へと引き継がれることになる。近代になるとデカルトはあらゆる存在を神の存在によって基礎付けてきた中世の哲学を抜本的に見直し、あらゆる存在証明の論拠を神の自明な存在から、思推している人間の精神に置き換えて従来の形而上学を基礎付け直そうとした。
このような近代的な考え方はバークリーの独我論的な存在論にも認めることができる。バークリーは存在することとは知覚されることであるという原理を示し、唯一確かな実体とは自らの知覚だけだと主張する。ハイデッガーの研究は存在が成立する上で不可欠な条件を明確化し、その条件とは自己が存在しなくなる死を問いかけながら自己から脱出(脱自)する自由な存在の在り方をしていることだと論じた。
→「我思う、故に我在り」は、デカルトが仏語の自著『方法序説』の中で提唱した有名な命題。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われている。世の中絶対的に確実なものは無い。すべてを疑え。

形而上学では、存在論の他に、神、精神、自由の概念等が伝統的な主題とされ、精神や物質もしくは数や神のような抽象的な事柄が存在するか、また人間という存在は複雑に組み立てられた物質的な体系として定義できるかどうか、などが問われてきた。
→こんなことを考えていて建設的な議論が可能なんでしょうか?

形而上学の研究には心理学的、宇宙論的、存在論的、神学的な関心に基づいた研究もあるにもかかわらず、形而上学は哲学的方法に基づいた研究であり、物理学や心理学や生物学といった科学的方法に基づいた自然諸科学や、特定の聖典や教義に基づいた神学と区別される。
→形而上学は科学ではない?

古代
アリストテレス
歴史の中で、形而上学的な問題の研究であれば、古代ギリシアに遡る。ソクラテス以前の哲学者と呼ばれる古代ギリシアの哲学者は、万物の根源を神でなく、人によってその内実は異なるにせよ何らかの「原理」(アルケー)に求めたのであって、哲学はもともと形而上学的なものであったともいえる。
→今、形而上学とは何かを調べている。形而上学的なものと断定したら何を言っているか分からなくなる循環論法だ。哲学は自然科学の一分野とする一般の理解とも矛盾する。

ソクラテスやプラトンも、現象の背後にある真因や真実在、「ただ一つの相」を探求した。 →これこそが自然科学の目標そのものではないの?より根源的なものの探究。

しかし、形而上学の学問的な伝統は、直接的には、それらを引き継いだ古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『形而上学』に始まる。彼の著作は西暦30年頃アンドロニコスにより整理されたが、その際、『タ・ピュシカ』(自然(についての書))に分類される自然学的書作群の後に、その探求の基礎・根本に関わる著作群が置かれた。その著作群は明確な名を持たなかったので、初期アリストテレス学派は、この著作群を、『タ・メタ・タ・ピュシカ』(自然(についての書)の後(の書))と呼んだ。これが短縮され、『メタピュシカ』(metaphysica)として定着、後の時代の各印欧語の語源となり、例えば英語では「メタフィジックス」(metaphysics)という語となった。
**形而上学と言う言葉は、初期アリストテレス学派によって造られた語らしい。ここでは自然科学の各論の上の総論程度の意味では?

上記のごとく、書物の配置に着目した仮の名称「meta physika(自然・後)」が語源なのだが、偶然にも、その書物のテーマは"自然の後ろ"の探求、すなわち自然の背後や基礎を探るものであり、仮の名前が意味的にもぴったりであったため、その名のまま変更されずに定着。アリストテレスの著作物の『形而上学』では存在論、神学、普遍学と呼ばれ西洋形而上学の伝統的部門と現在みなされている三つの部分に分けられた。また、いくつかのより小さな部分、おそらくは伝統的な問題、すなわち哲学的語彙集、哲学一般を定義する試みがあり、そして『自然学』からのいくつかの抜粋がそのまま繰り返されている。
神学はここでは神あるいは神々そして神的なものについての問いの研究を意味する。普遍学は、全ての他の探求の基礎となるいわゆるアリストテレスの第一原理の研究と考えられる。そのような原理の一つの例は矛盾律「あるものが、同時にそして同じ点で、存在しかつ存在しないことはありえない」である。特殊なリンゴは同時に存在し、かつ存在しないことはありえない。普遍学あるいは第一哲学は、「存在としての (qua) 存在」を扱う―それは、誰かが何かある学問の個別的な詳細を付け加える前に全ての学問への基礎となるものである。これは、因果性、実体、種、元素といった問題を含む。

→今ある学問で、論理学何て言うものはこれだね。論理学は数学の一分野とも見做せる。論理は自然科学をやるものにとっては必須の知識だ。

中世
アリストテレスの形而上学は、その後、中世におけるアンセルムスやアクィナスなどによる神学的な研究を経ながら発展してきた。中世のスコラ学では、創造者たる神を万物の根源であるとして、神学的な神の存在証明を前提とし、普遍、存在、自由意思などなどの形而上学的問題を取り扱ったのである。
→形而上学は、神学研究者の逃げ場として正当化される道を取った?

近世
近代に入ると、デカルトは、スコラ学的な神学的な神の存在証明を否定し、絶対確実で疑いえない精神を、他に依存せず存在する独立した実体と見、その出発点から、理性によって神の存在(および誠実さ)を証明するという方法をとった。ジョン・ロックはデカルトの生得説を批判したが、やはり神の存在は人間の理性によって証明できるとした(いわゆる宇宙論的証明)。
→神の存在は人間の理性によって証明出来たのでしょうか?

これらに対して、人間自身の理性的な能力を反省するカントは、神の存在証明は二律背反であるとして理性の限界を示し、理論的な学問としての形而上学を否定した。カントは、その著書『プロレゴメナ』において、それまでの形而上学を「独断論」と呼んで批判し、ヒュームが独断論のまどろみから眼覚めさせたとした。以後、哲学の中心的なテーマは、認識論へと移っていった。
→カントが従来の形而上学を否定した? 認識論は今脳科学の中心的テーマかも。一見地味で堅物のようなカントの思想にこのような革命的内容が隠されていた!!

  現代
19世紀から20世紀の現代の形而上学の時代になると、近代に解明された理性と経験の対立を踏まえながら、存在論的な研究が発展することになる。生の哲学を展開したアンリ・ベルクソン、現象学を発展させたハイデガーなどは新しい形而上学の方法論によりながら人間の存在をめぐる意識や社会について研究している。

20世紀前半に活躍したウィーン学団は論理実証主義を奉じ、その立場から形而上学を攻撃した。その代表的論客カルナップは意味の検証理論に則り、形而上学の命題は経験的にも論理的にも検証ができないがゆえに無意味であると主張した。彼によれば、経験的に形而上学で出てくる「存在」や「形相」のような語が用いられている命題の正しさを検証できないし、そのような命題は論理的にも検証できない。彼は分析命題と総合命題の区別に則っており、ここで論理的に検証できるのは分析命題である。

形而上学を定義することの困難の一部は、何世紀も前にアリストテレスの編者に根源的に形而上学的と考えられなかった問題が、次々に形而上学に加えられてきたことにある。また、何世紀にも渡って形而上学的と考えられていた問題が、概して現在において、宗教哲学、心の哲学、知覚の哲学、言語哲学、科学哲学といった、その独特の分離した副次的主題へと追いやられている点にある。

【形而下学】
形而下学は、実体のない原理を研究の対象とする形而上学の反対であって、実体のあるものを対象とする応用科学の学問。つまり、ほとんど総ての学問。
中国では
『易経』繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述に依拠すると、「道」は、世界万物の本質、根源であり、形のないもの。その形のないものがいざ実体のあるものに変遷した場合、『易経』はその状態を「形而下」とし、その状態にある物質を「器」と呼ぶ。「道」は「器」の根源であるに対して、「器」は「道」の発展形。
→世界万物にはより本質的、根源的で、形の見えないものが数多くあること認めないといけないだろう。でも、それらのものも根気強く粘り強く思索を続け解明していけば、少しずつでも今まで見えなかったものが見えるようになってくる。
例えば、物質の根源も、今では分子→原子→素粒子→?? とドンドンと解明が進んでいる。
それで、形而上学と言う学問は全く不要の長物と化したのか?


毛沢東の批判による中国での影響
1949年中華人民共和国建国以後、1952年に『矛盾論』の発表につづき、毛沢東はソ連の政治体制への不満を噴出させる。スターリンなどの路線は、時代と環境の要素を加味できず、マルクス主義の単純コピー(「形而上学」、「教条主義」)だと強く批判した。さらにその直後の文化大革命において、毛沢東語録の一部として「形而上学」という語彙が「唯心論」という意味合いで新聞などに多用された。その影響により、「形而上学」は今日に至るも中国では一般的には貶す言葉として使用されている。
→結局、ここまでで分かったことは「形而上学」と言うものは学問としては存在しない。もっとはっきり言えば机上の空論の意味とも。社会主義者達のいう「唯心論」も同じ意味かも。
因みに、日本に「形而上学」の学会はなさそうだ。しかし、信奉者は結構多いようだ。


歴史一般

ナポレオン法典

ナポレオン法典(Code Napoléon)
フランス民法典ともいう。フランスの私法の一般法を定めた法典。皇帝となったナポレオン・ボナパルトが制定に深く関わっている経緯から、フランス民法典言う方が一般的。 しかし、ナポレオン法典はフランスだけでなく、世界中の国の民法典の基盤として今日も生きている人類の重要な遺産だ。

なお、ナポレオン"諸"法典(codes napoléoniens)と言うときはナポレオン治下に制定された諸法典、すなわちナポレオン"五"法典(cinq codes napoléoniens)をさす。 国籍において血統主義を定め、出版において検閲と著作権を規定した。 1800年8月12日に4名の起草委員が任命され、護民院・立法院における審議は必ずしも容易ではなかったが、1章ずつ法律として成立し施行された。1804年3月21日に36章をまとめた法典として成立。起草委員4名にナポレオンが参加。

当初の題名は「フランス人の民法典」(Code civil des Français)であったが、ベルギー、ドイツのライン左岸地方、オランダ王国にも適用されることとなったことから、1807年9月3日の法律で「ナポレオン法典」(Code Napoléon)に改題。ナポレオンの失脚に伴い、1816年には元の「フランス人の民法典」に改題。ナポレオン3世の下で1852年に再び「ナポレオン法典」に改題。その後、正式には改題されていない。もっとも、フランスの法令や実務においては、単に民法典(Code civil)と呼ばれ「ナポレオン法典」との呼称は廃用されている。

ローマ法とフランス全土の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、近代私法の三大原則たる、法の前の平等、私的所有権の絶対、契約の自由、過失責任の原則や、「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れており、近代市民社会の法の規範となっている。後に日本の旧民法編纂の際にも参考とされた。エジプトを始め、イスラム世界でも影響を受けている国がある(イラン、インドネシア他)。

2012年6月現在での編別は以下のとおり(Wikipedia参照)。人、物、行為に分けるローマ法における法学提要式を採用。六法全書見て日本の民法と比較しても面白いかも。

特徴
(1). 著しく影響力が大きい。これを模範又は影響を受けたとみられる国は、ベルギー、ルクセンブルク、ラインランド、オランダ、スイスの一部、イタリア(1865年)、スペイン(1889年)、ポルトガル(1867年)、ルーマニア(1865年)、エジプト、アメリカの若干州(ルイジアナなど)、及び日本等。
法典論争に見られるように、最もナポレオン民法典の影響を忌避したと見られるドイツも例外ではなく、1896年の民法典には自筆遺言証書の制度を導入。

(2). 旧慣習にも配慮していた。フランス革命の自由主義・人権思想といった基本原理に依拠したものであるが、革命時の熱狂の極端に走らず、旧制度(アンシャンレジーム)の伝統の精神にも一定程度譲歩して、あらゆる国の立法がそうであるように、妥協的・中庸的性格のものとして成立している。→つまり方は誰でもが守ることが可能でなければならない。

(2).規定方法が個別具体的で説明的である。思想の系譜としてはプロイセン国法と同様の啓蒙主義的見地に立ち、学術用語や抽象的法理によらず、素朴な日常生活上の問題につき、日常用語を用いて具体的・説明的な法文を用いている。
一方ドイツにおいては、プロイセン法典があまりに説明的に過ぎるためにかえって法解釈の柔軟性を欠き、運用しづらいものとなってしまったために、ドイツ民法典においてはこれと反対の学問的・抽象的規定をもって立法の主義に換える。しかし、専ら法律の専門家にしか分からない、法律を民衆から遠ざけるもの批判されるに至っている。文体の親しみやすさはフランス民法典の長所でもあり短所でもあるとされている。
**確かに法の規定は例外を許してはならない。あまりに具体的に記述してしまうと法解釈の柔軟性を欠くようになることも理解できる。

フランス民法の変容
妥協的性格をも併せ持つものである分、制定時のナポレオン民法典はナポレオン個人の思想とも相まって、封建時代の残滓ともいうべき不平等の規定も有しており、外国人の人権の制限、非嫡出子の差別的取り扱いを規定していたばかりでなく、一応男女平等を原則としながらも、婚姻時には他の近代法典と比べても強大な夫権・父権優位の家父長制を採用していた。
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財産法におけるような自由・平等の理念はどこにあるだろうか。……慣習と革命の理念を調和させ、中庸の道をとったとされるフランス民法典の親子関係は、子の監護・教育という幼児・小児にとって必然的に必要な権威以上に、親の権力を認めていた。また、とくに夫婦関係において、男女の平等、女性の自由は、不十分であった。……憲法学者により、人権宣言が人権を認めた「人」は、実際は男性であったと指摘されている。第二に、19世紀から最近のドイツやフランスにおいて、「人」とは、実は旧来の男性たる「家長」であり、「社会」は彼らの構成する社会であって、自由・平等も家長のものであったとされる。
— 星野英一、1998年
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**確かに、今の日本の民法の「親権」の項は正しくこれだ。ドイツは「親の子への配慮」と修正されているらしい。「親権」の由来はドイツではなく、ナポレオン法典に由来するものだったようだ。なぜ日本では両親による子への虐待事件が無くならないのか。必要以上の親の権力を容認(第三者の関与を排除)しているからでは。
この時代の「人」とは、実は旧来の男性たる「家長」であり、「社会」は彼らの構成する社会そのものだった。当然のことだ。それ以前の社会は「家長」というものすら公的には存在していなかったから。「家長」の存在を認めたこと自体が大きな進歩だった訳だろう。

歴史一般

不改常典(ふかいのじょうてん、ふかいじょうてん):

707年以降、江戸時代までの日本の天皇の即位の詔(みことのり)でたびたび参照された法で、天智天皇が定めたとされるものである。天智天皇が「改めるまじき常の典と定め賜ひ敷き賜ひた法」というくだりから、学界で不改常典と呼ばれる。
女性天皇を正当化するために使われた。とすると今の皇室典範は無効?

元明天皇 この法は、天智天皇の事績をまとめて記した『日本書紀』には記されず、『続日本紀』以下で後の天皇が言及する形で現れる。その最初は元明天皇の即位詔で、以後江戸時代に至るまで度々言及された。史料に具体的内容が引かれていないが、藤原不比等の発明らしい。

「不改常典」は法の正式名称ではなく、この法に言及した即位詔の一節からとられた歴史学用語である。桓武天皇以降は「不改常典」の語がなくなり、「天智天皇が初め定めた法」として言及される。歴史用語としては両方とも不改常典で通じる。

この法は『日本書紀』の天智天皇のくだりに見えず、『続日本紀』以降の諸書が引く天皇の詔の中で言及される。最初は元正天皇の即位詔で、他もすべて即位詔か、即位詔の中で引用される前天皇の譲位詔の中に現れる。しかし、天智天皇が定めた法が実在した証拠もなく、持統天皇(女帝)の意向を受けた藤原不比等の作文と捉えるのが妥当なようだ。

【元明天皇】
元明天皇(げんめいてんのう、661年~721年);第43代天皇(在位:707年~715年10月3日)。 女性天皇の一人。諱は、阿閇(あへ)。阿陪皇女(あへのひめみこ)とも。天智天皇第四皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

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キリストの墓

キリストの墓
面白い報告がある。突拍子もない仮説が、茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇大神宮の竹内家に伝わる竹内古文書から出てきたのが昭和10年のことです。竹内氏自らこの新郷村を訪れ、キリストの墓を発見。1936年に考古学者の一団が「キリストの遺書」を発見したり、考古学・地質学者の山根キク氏の著書でとりあげられたりして、新郷村は神秘の村として人々の注目をあびるようになりました。

**竹内古文書は現在では、新興宗教団体によって造られた偽書とされている有名なもの。

キリストの墓 キリストの墓と弟のイスキリの墓であるかは判断を預けるとしても、この新郷村にはいくつかのミステリーがあります。戸来(へらい)はヘブライからくるという説。父親をアヤまたはダダ、母親をアパまたはガガということ。子供を初めて野外に出すとき額に墨で十字を書くこと。足がしびれたとき額に十字を書くこと。ダビデの星を代々家紋とする家があること。そして、「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」という意味不明の節回しの祭唄が伝えられていること‥

霧に包まれた新郷村の森に行きましょう。何かが感じられるはずです。その後で伝承館という資料館に寄りましょう。ここでは単に伝承を集めるだけではなく、当時の原著や報道も展示されています。みなさんの個々の価値観で、神秘の里のロマンに想いをはせてください。
問い合わせ先: 青森県三戸郡新郷村大字戸来字野月33-1、TEL 0178-78-3741

実は、中学校の英語の先生の姓が戸来(へらい)だったけど、この姓はヘブライから来ていると言っていたことを思い出した(半世紀以上も前の話だけど)。村にはキリストの墓もあるらしい。彼女はクリスチャンだたかも。

飛鳥時代に日本にキリスト教が入って来ていた可能性は零では無い。景教という。景教を伝えた人達がヘブライ人だったかどうかは? 墓と言っても、遠路遥々死体を運んできて埋めた訳では無かろう。でも、それに代わるシンボルを埋めた可能性は無きにしも非ずだね。しかもコンスタンチノープルから中国を経由して日本までやって来た。本州の北端までの旅は考えられる。

青森には不思議な場所がある。“キリストの墓”だ。筆者は、偶然にも新郷(しんごう)村にこの墓があることを知った。八戸から十和田湖にむけて国道454号を走っていたところ、「キリストの墓」と書かれた道路標識を見つけたのだ。聖地巡礼の研究者としては、立ち寄らざるを得ない。

キリストの墓 国道沿いの小高い丘の上にある墓の周囲はしっかりと整備され、「キリストの里公園」と名づけられていた。最も高い場所に十字架が立てられた二つの丸い塚が並んでいる。なぜ、二つあるのだろうか。
公園の説明板によると、イエス・キリストは21歳の時に来日し、神学修行を重ねた。33歳の時にユダヤに戻って伝道を行ったが受け入れられず、十字架刑に処されそうになる。だが、弟のイスキリが身代わりとなって死に、キリスト本人はシベリア経由で日本に戻り、現在は新郷村の一部となっている戸来(へらい)村で106歳まで生きた。二つの墓のうち、一つはキリストを埋葬したもので、もう一つはイスキリの遺髪を納めた墓だという。あまりにも荒唐無稽な話ではないか。

「キリストの里伝承館」という資料館もある。村でかつて使われていた農耕具や衣服と並んで、村に暮らす“キリストの末裔(まつえい)”の写真、村とユダヤのつながりを示す数々の“証拠”、日本語で書かれた“キリストの遺言書”などが展示されている。それらによれば、十字架刑を逃れたキリストは名前を十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)に変え、村の女性と結婚して3人の娘を育てたというのである。

一般的には、キリストの墓はエルサレムにある聖墳墓教会と信じられている。イスラエルにおいてさえ、考古学的にイエスの墓が特定されることは今後もないだろう。聖書によれば、イエスは十字架刑から3日後に復活して昇天したとされる。学術的にも宗教的にも、イエスの墓はそもそも存在しない。
しかし、墓の建造者を何もユダヤ人に限定する必要は無かろう。景教(ネストリウス派)の信者が、キリストに成代って布教活動したとも考えられないか? 106歳まで生きたキリストは復活したキリストかも。飛鳥時代には渡来人は多数来日している。その中に景教を信じていた人がいても可笑しくない。そんな人達なら先住の村人たちとの共生の道を選ぶ。
火のない所に煙は立たぬと言う。こんな込み入った話がひとりでに生じる道理はない。

偽書によって発見された“キリストの墓”
なぜ青森に“キリストの墓”があるのだろうか。話は戦前にさかのぼる。1934年、戸来村の村長の要請で、日本画家・鳥谷幡山(とや・ばんざん)が十和田湖周辺の調査に訪れる。当時、十和田湖周辺を国立公園に指定する動きがあり、戸来村に属する迷ヶ平(まよがたい)が十和田湖と深い関係があることを宣伝するため、いわば広告塔として鳥谷は招かれた。そしてこの頃、鳥谷が親しんでいたのが『竹内文書』と呼ばれる有名な偽書である。
**鳥谷幡山捏造説か?するとキリストの墓が造られたのそれ以降。村おこしの為に歴史を捏造した。だとすれば捏造の証拠を見つけ立証するする必要がある。鳥谷幡山と言う画家も面白い人物だね。

竹内文書は、宗教家・竹内巨麿(きょまろ、1875~1965)の家に伝わる文書とされる。特殊な文字で著され、神武天皇以前の歴史など、一般に知られていない真の歴史が書かれているというが、おそらく巨麿の創作だ。竹内文書によれば、釈迦(しゃか)、孔子、孟子、モーセなども日本で修行したという。近代以前に日本が長く劣等感を覚えてきた中国、そして近代以後は日本が常に後塵(こうじん)を拝した欧米文明の根源が古代日本にあったと主張するのだ。

35年夏、鳥谷の要請で巨麿本人が戸来村の調査にやって来る。そして、当時「墓所舘(はかどこだて)」と呼ばれていた丘の上で“キリストの墓”を発見する。巨麿は二つの丸い塚の前で黙祷(もくとう)し、「やはりここだ、ここだ!」と叫んだという。
**巨麿は二つの丸い塚を何の証拠も無しに黙祷と言う技を使って決めつけた訳だね。

キリスト伝承は新郷村の中で受け継がれてきたものではない。ある村職員によると、かつて村おこしのため、キリスト伝承に関わる物品の提供を頼んで回ったが、戦前戦中を村で過ごした人の中には、「“キリストの墓”がある村の者」ということで嫌な目にあったせいか、一切関わりを持とうとしなかった人もいたという。敗戦後、この墓はしばらく忘れられた場所になる。
**行き過ぎた国粋主義のもとで、キリスト教も邪教とされていたから?また、この時点では、村の名前「戸来(へらい)」=「ヘブライ」の語呂合わせだけしか根拠も無い。でも「ヘブライ」はユダヤ教でキリスト教ではないのでは。

奇祭として脚光を浴びる「キリスト祭」
この墓が再び注目されるのは1970年代のオカルト・ブーム以降だ。オカルト雑誌や伝奇小説で、“キリストの墓”はたびたび取り上げられる。村にはキリスト教徒もおらず、その点でも、いろいろと使いやすかったのだろう。高橋克彦、斎藤栄といった著名な作家たちも創作に用いている。

1964年からは毎年初夏に「キリスト祭」が開催されている。当初は村の商工会、その後は観光協会を中心に運営されている。祭りは神道式で行われる。神主が墓に向かって祝詞(のりと)をあげ、来賓が玉串奉奠(ほうてん)を行う。与野党の政治家も参列する。地元の民俗芸能である田中獅子舞が、そして墓を囲んで村に伝わる盆踊り「ナニャドヤラ」が奉納され、祭りはクライマックスに達する。

大きな十字架の周りで着物姿の女性たちが盆踊りを踊るのは、かなりインパクトがある。キリスト祭はテレビ番組やガイドブックで日本有数の奇祭として取り上げられ、特に2000年代以降はSNSで拡散されて、新郷村はB級観光地として全国的に知られるようになった。祭りには毎年数百人の観光客がつめかける。人口2500人程度の村にとってはかなりの数である。

墓を受け継いできた祖先を信じる村人たち
筆者が調べた限り、この墓を本物だと信じる村人はいない。むしろ、外からやってくる観光客の中に少数ながら墓を本物だと信じている人がいる。それでは、村人にとってこの墓は、年に1度のイベントを行うための観光資源に過ぎないのだろうか。

キリスト祭を司式する神主によれば、「埋葬されているのが誰であれ慰霊は大切だ。そして万が一、墓の主がキリストであっても、八百万(やおろず)の神を祀(まつ)る神道にとって何ら問題ない」という。祭りのスタッフとして働く村職員も、葬られている人は村の先祖であり、古くからある墓の供養を絶えさせてはならないと語る。

村人たちは“キリストの墓”ではなく、墓を受け継いできた自分たちの先祖を信じている。巨麿の発見以前にこの墓がある場所が墓所舘と呼ばれていたことも、二つの塚が元々は誰か村に関わりの深い人の墓であることを示唆している。現在の村人たちは、墓の保存と供養を続けてきた祖先の営みを大切に感じているのである。墓の中身は問題ではない。教義や信仰ではなく、自分たちが所属するコミュニティーと、そのコミュニティーが続けてきた実践が大切にされているのだ。

信じるよりも実践する日本の宗教文化
こうした状況は、実は日本の宗教全般にもあてはまる。初詣に神社に行き、結婚式は教会で挙げ、葬式は仏式で行う。家には仏壇も神棚もある。日本に広く見られる宗教の混交は、しばしば日本人の宗教的な無節操や実質的な無神論として語られる。とりわけ葬式は、信仰に基づかない形骸化したイベントとして批判される。

しかし、そもそも宗教は「信じるもの」なのか。実は「体系化された教義を信じる」という宗教イメージは、欧米のプロテスタントをモデルにしたものである。神道の教義といっても曖昧だし、日本仏教は釈迦が説いた仏教とは異なる。世俗との交わりを絶って解脱を目指す釈迦の教えに、先祖や墓が入り込む余地はない。
でも、これが本来の宗教だ。多神教とはそんなもの。シュメールに起源をもつユダヤ教、キリスト教、イスラム教の方が特殊化しているだけだね。ギリシャ、ローマの神々、ヒンズー教、神道+仏教、道教、アフリカの民族宗教、世界中宗教とは総てそんなもんだ。

だから、日本の宗教が偽物なわけではない。日本では、宗教は信じるものではなく、自分が所属するコミュニティーと不可分であり、だからこそ「実践するもの」だ。天照大御神(あまてらすおおみかみ)や浄土や地獄の実在を固く信じているから初詣や葬式を行うのではない。自分が所属するコミュニティーで、そうした実践が受け継がれてきたからこそ行うのだ。新郷村の“キリストの墓”は明らかに偽物であるからこそ、「信じる・信じない」という枠組みがそもそも日本の宗教風土になじまないことを教えてくれるのである。
そもそも、日本に伝えられたかもしれない景教とはどんな宗教だったのか。異端とされたアタナシウス派(実際は多数派だったとも)が今のカトリック教とは全く異なったものであることは疑いない。シルクロードを旅しながら途中色々な民族に受け入れられながら日本の最北端までたどり着いた。これはこれでロマンのある話だ。

歴史一般

アグリッパ

アグリッパ   アグリッパ   アグリッパ

マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(ラテン語: Marcus Vipsanius Agrippa, 紀元前63年~紀元前12年)は、古代ローマの軍人、政治家でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心。のちにアウグストゥスの娘婿となる。
ガイウス・ユリウス・カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たした。また、パンテオンやポン・デュ・ガールなど多数の建築物を建造した。 多数の有名な建造物の建設に係わったエンジニアの側面もあったか。なんせ美術室に置かれている石膏像はほとんどが彼の顔であることも注目だね。

パンテオン   ポン・デュ・ガール

アグリッパの生まれ故郷は分かってはいない。ただ父の名はルキウス・ウィプサニウス・アグリッパ、父と同名の兄と妹ウィプサニア・ポッラがいたことだけは分かっている。騎士階級出身であったので、彼の家族は裕福なものの、元老院議員を祖先に出すほど政治的な影響力のある家系ではなかった。
早いうちから軍務に就き、ローマ内戦ではカエサル派に属して元老院派と戦った。この時、兄ルキウスは元老院派に属してマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスの下で戦っていたが、タプススの戦いで元老院派が敗北すると兄は捕虜として牢獄に入れられた。しかし友人オクタウィアヌス(アウグストゥス)の配慮で釈放されたという。ただし、この戦いでアグリッパが兄と陣を相対して戦ったかどうかは定かではない。ムンダの戦いなどに参加していることは確かである。いずれにせよ、彼の働きはカエサルの目に留まり、紀元前45年にオクタウィアヌスと引き合わされる。ここでアグリッパとオクタウィアヌスは同年代でもあったので、同様な教育を受け親しい友人となる。そしてカエサルがローマで次々と政策を挙げて行く中で、アグリッパとオクタウィアヌスはともにギリシアのアポッロニアに遊学することになった。そして彼らがギリシアに旅立って4ヶ月が過ぎた紀元前44年3月15日、カエサルが暗殺された。

この時アグリッパは、もう一人の友人クィントゥス・サルウィディエヌス・ルフスと同様、マケドニア属州の軍団を率いてローマへと進軍するように促したが、オクタウィアヌスは小部隊のみ率いてローマへと赴く。そしてオクタウィアヌスがカエサルの後継者となったことを知らされる。こうしてアグリッパは、友人オクタウィアヌスの腹心として政治の表舞台に立つことになった。そして軍才のないオクタウィアヌスの代理、実質的な最高司令官として内乱を戦い、紀元前36年9月3日のナウロクス沖の海戦ではオクタウィアヌスの海軍を指揮しセクストゥス・ポンペイウス軍に勝利する。紀元前31年のアクティウムの海戦ではマルクス・アントニウス派およびプトレマイオス朝連合軍を破り、勝利へ導いた。

帝政樹立が進められる中、アグリッパはアウグストゥスの同僚執政官を連続して務めた。共和制正規の官職の中で元老院議員たちに気付かれないように権力を集中していくには、絶対の信頼を置くアグリッパの協力が不可欠であった。またイベリア半島のカンタブリア戦争では指揮を執り、勝利へ導いた。

最初はティトゥス・ポンポニウス・アッティクスの娘であるポンポニアと結婚し、娘ウィプサニアを得ていた。このウィプサニアはティベリウスと結婚し小ドルススを出産している。その後小オクタウィアとガイウス・クラウディウス・マルケッルスの娘である大マルケッラと2度目の結婚をする。前25年、アウグストゥスの娘大ユリアは、大マルケッラの兄マルケッルスと結婚した。前23年マルケッルスが死去すると、アウグストゥスはアグリッパを大マルケッラと離婚させ、紀元前21年寡婦となっていた娘大ユリアと結婚させる。この結婚でアウグストゥスの孫にあたる、ガイウス・カエサル、ルキウス・カエサル、小ユリア、大アグリッピナ、アグリッパ・ポストゥムスが生まれた。

病弱なアウグストゥスとしては、自分の後継者として病気知らずのアグリッパを中継ぎにし、その後アグリッパの子である自分の孫たちに帝位を継承させようとしていたと思われる。しかし皮肉にも病弱だったアウグストゥスが長命し、一方アグリッパや孫たちは次々に逝去し、アウグストゥスは血のつながりのないティベリウスを養子にせざるを得なくなった。
系図

歴史一般

覇権

覇権(はけん)あるいはヘゲモニー(hegemony)とは、政治的あるいは経済的あるいは軍事的に抜きん出た国家が他国を支配・統制すること。
→本来の覇権とは支配・統制でなく、国同士の争いを解決し、秩序を維持することが重要なのでは? つまり話し合いの精神、「和を以って尊しとせよ」のはずだね。良きリーダーたれ。

古代ギリシア(紀元前8世紀から紀元6世紀)においては、ヘゲモニーとはあるポリス(都市国家)が他のポリスに対して政治的・軍事的に支配的な状態にあることを示す語だった。この優位にある国は「ヘゲモン(覇権国・覇者)hegemon」として知られている。

**ペルシャ戦争の際には、アテネは他のポリス国に対してリーダーシップを発揮した。もし、アテネが指導力を発揮しなければ、多くのポリスはペルシャ側に寝返ってしまったかも知れない。しかも戦費を最も多く提供。覇権を維持することはコストの伴うことで必ずしも割に合う話ではない。アテネは覇権国と言えるが、ギリシャを統一したマケドニアは王国であっても覇権国とは言えない。

19世紀、ヘゲモニーとは「社会的あるいは文化的な優位性もしくは支配性;社会または環境において、一つの集団が大きく優位にあること」を示す語となった。後にこれは「あるグループや政府が、社会の中で並外れた影響力を有している」との意味にもなった。また、地政学的および文化的な意味で、ある国が他国を圧する優位性を指すようにもなった。後には帝国主義時代において、列強によるヨーロッパの覇権がアフリカ・アジア・ラテンアメリカを覆った状況も「ヘゲモニズム(覇権主義)hegemonism」の語で表されるようになった。

覇権安定論(Hegemonic stability theory)とは経済学者のチャールズ・キンドルバーガーによって発表され、ロバート・ギルピンによって確立された理論である。一国の覇権で世界が安定し、かつ経済的に発展するには以下の条件を要する。
① 一国が圧倒的な政治力及び経済力、すなわち覇権(Hegemony)を有していること。
② 覇権国が自由市場を理解し、それを実現するために国際体制を構築しようとすること。
③ 覇権国によって国際体制の中で利益を享受すること。
④ ある単一の国が圧倒的な覇権を掌握しておくことで国際社会は安定するというものではない。覇権国が諸国に利益を提供することができる国際体制を構築・維持する点が重要である。この体制が諸国にとって有益なものである限り、非覇権国は自ら国際体制を築くことなく円滑な経済活動を行うことができる。

覇権循環論
覇権循環論(hegemonic cycle theory)は近現代の国際関係についてジョージ・モデルスキーによって唱えられた理論。
概ね16世紀以降、世界の政治・経済・軍事他覇権は欧米を中心にある特定の大国によりその時代担われ、その地位の循環を繰り返すとする。この世界大国は歴代16世紀のポルトガル、17世紀のオランダ、18世紀と19世紀の大英帝国、20世紀のアメリカ合衆国といった具合に2世紀連続してその地位を務めた大英帝国を例外とし、大体1世紀で交代するものとされその覇権に異議を唱え対抗するのはスペイン、フランス、ドイツ、ソ連といった大陸国で、決まって勝利することは無い。

**何だか訳の分からない屁理屈だね。理論ではなくただ歴史上の出来事羅列しただけ。

新興大国が既存の世界大国に反旗を翻し世界の不安定性が増した際に決まって世界戦争が起こり(**戦争が生じないように調整するのが覇権国の役割ではないか?)、そこで新興大国は敗北し(**単に偶然運が悪かっただけでは? でも明らかに日本とドイツを名指ししているね)先代の世界大国の側に付き共に戦った国(米国を指している)が新しい世界大国の地位を得るとする。世界大国となる条件(**英国と米国だけを念頭に??)には
① 外界に対して開かれた島国もしくは半島国であること。
② 内政に競合があり、しかも政局が安定(例としては大英帝国の保守党と労働党、アメリカの共和党と民主党の二大政党制)していること。
③ 世界中にその意思を知らしめ影響力を行使する暴力装置(例としては強力な海軍や情報機関)を持っていること。
などを要するとされる。
どうも、この2つの覇権論は、どうも英米の世界植民地支配の現状を自らを覇権国と見なし、覇権維持を目的とした戦争介入を正当化するためだけの目的で書かれたもののようである。欧米帝国主義の理論的支柱か。しかしこんな勝手な屁理屈は非覇権国に受け入れられる余地は無いのではないか。そもそも理論と言いながら論理が無い。でも、Wikiで調べた結果だ。ある程度学会レベルでは認められている理論らしい?

本来の覇権の意味は中国の春秋時代に生まれたもののようで、衰えた周王室を助けて諸国(楚、斉、晋、秦等の国)のリーダーシップを取ること意味していた。リーダーシップを発揮するためには徳のある公平な政治を行い諸侯の合意を形成することが最も肝要である。つまり、徳を失ったものは覇権も失わないといけない。つまり、覇権を行使するためには皆が納得する大義名分が必要。

日本の戦国時代も、将軍は天皇を補佐する、諸大名は将軍を補佐する、武力によるリーダーシップを発揮しても、その原則を破れば覇権の正当性は無くなり、他のものに成敗されても文句は言えない。これは封建制の元の覇権の意味だろうが、現代世界ではもう少し検討の余地が残る。

上の世界大国が覇権を行使する正当性があるか。少なくとも世界の一国が覇権を行使できる不公平な制度は持続可能ではあり得ない。覇権の多極化が必要な訳だ。多様な考え多様な意見を持った多くの地域覇権国が集まり、国際連盟或いは国際連合の様な場で話し合いの元に皆が守れるルールを作る。皆が守れないルールをゴリ押しすることは戦争の原因となる。→エマニエル・カントの国際平和論「永久平和のために」
つまり、覇権国の義務は、国際連合の円滑な運営を補佐することだ。拒否権みたいなものを使わなくても良いように。

歴史一般

ラプラプ

マクタン島 ラプ=ラプ(Lapu-Lapu、1491年? - 1542年)
16世紀、フィリピンのマクタン島(セブ島の東沖合い)の領主であり、イスラム教徒の部族長。世界一周航海の途上でフィリピンへ来航し、キリスト教への改宗と服従を要求するフェルディナンド・マゼランらをマクタン島の戦いで破り、マゼランを討ち取った。フィリピンでは民族の誇りを守った国民的英雄とみなされている。なお、マゼラン艦隊の記録者であり、マゼランとラプラプの戦闘にも参加しているアントニオ・ピガフェッタによれば名前をセラプラプもしくはシラプラプとしている。

マゼランはフィリピンにたどりつくと、鎧と槍、火縄銃、大砲などの武器の威力を背景に部族長たちに対してスペイン王への朝貢とキリスト教に改宗したセブ王への服従ならびにキリスト教への改宗を要求。部族長を次々と服従させていったが、マゼランの要求を初めて拒否したのがラプ=ラプであった。

マクタン島 マゼランは激怒し、ラプ=ラプを討つべく兵をひきいてマクタン島へやってきた。1521年4月27日のことである。島の地理と潮汐を知り尽くしたラプ=ラプは、綿密な情報収集と周到な計画の上でこのマクタン島の遠浅の海岸を決戦地に選んでいた。干潮のため、船で岸に近づけなかったマゼランとその部隊は艦砲射撃をあきらめ、上陸。抵抗勢力を結集して待ち構えていたラプ=ラプの軍勢と戦闘状態に入った。ラプ=ラプたちは甲冑で身を固めたスペイン兵の足だけが無防備なことを見抜くなど、巧みな戦術によってマゼラン軍を破り、ついにマゼラン本人を殺害した。リーダーを失ったマゼランの配下たちは退却していった。(マクタン島の戦い)

ラプ=ラプ 伝説ではラプ=ラプ本人がマゼランと一騎討ちの末、とどめをさしたといわれているが、研究者たちはこれを事実とは考えていない。マゼランの近傍で戦いに参加していたピガフェッタの記録でもマゼランは大勢の敵と戦っており、王らしき人物とマゼランの一騎討ちについての記述はない。しかし一騎討ちの事実は無いにせよ、ラプ=ラプはヨーロッパ人のアジア侵略に対して立ち上がった最初の東南アジア人であるとされ、現代に至るまでフィリピンの英雄とされている。マクタン島には海に向かって立つラプ=ラプの像がある。また、マクタン島の主要部を占める都市にはラプ=ラプ市の名前がつけられ、フィリピン近海でとれる魚の一つには彼にちなんでラプ=ラプの名前がつけられている。

マゼラン **マクタン島のレストランでの魚料理が出たので、取り合えず魚の名前を聞いてみた。海外の多くの国では料理に出る魚の名前なぞ意識していない所が多い。「ラプラプ」と答えてので冗談だろうと思っていたが本当だった。ハタの仲間で色も色。定番のご馳走のようだ。
マクタン島はマクタン橋で観光地として日本では有名なセブ島とつながっており、一体となっている。
魚料理   マクタン橋

歴史一般

磁器の間

シャルロッテンブルク宮殿 シャルロッテンブルク宮殿(独:Schloss Charlottenburg)とは、ドイツのベルリン・シャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区にあるプロイセン王国の宮殿。ベルリンの代表的観光地のひとつ。
プロイセン王・フリードリヒ1世が1699年に妃ゾフィー・シャルロッテのために建設。最初は「リーツェンブルク宮殿」(Schloss Lietzenburg)および「夏の館」と呼ばれていたが、ゾフィー・シャルロッテの死後に彼女を偲んで改名された。大戦時1943年に空襲で被害を受けたが、現在は復元されている。
ここで有名なのが磁器の間。彼女(ゾフィー妃)の中国や日本(伊万里・柿右衛門)の莫大な磁器コレクションを豪華に飾った部屋。
しかし、この見事な展示の裏には陶磁器に関わる技術や経済の発展の歴史が刻み込まれていて大変興味深いものなのです。

シャルロッテンブルク宮殿 17世紀のヨーロパにとって中国の陶磁器は垂涎の的。もちろん陶磁器だけでなく絹やお茶など欲しいものはいくらでもあったが。陶磁器は超高級品
この当時、日本は江戸幕府。鎖国政策により貿易が許されていたのは中国とオランダ。これらの国を窓口としてヨーロッパに持ち込まれた陶磁器は、瞬く間にヨーロッパの王侯貴族を魅了し、金に糸目をつけず東洋磁器をコレクションし、邸宅を飾り立てる姿は「磁器病」と呼ばれるほどでした。もちろん日本でも陶磁器は人気があったが、高価でもあり中国やオランダに売る商品が無く金銀の流出超過が問題。国内ではそんなには普及してなかったかも。

ところで明の時代に秀吉の行った朝鮮出兵、九州の大名たちは朝鮮の陶工達を自国に連れて帰り、国産の陶磁器の開発に成功する。
陶磁器と言えば中国、最初は中国の景徳鎮のものだったようだけど、ここが衰退し日本に生産地が移行したらしい。肥前磁器の焼造は17世紀初期の1610年代から始まる。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂に同行してきた陶工たちの一人の李参平は、1616年頃に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖とされている。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もある。有田焼として有名ブランドになるが伊万里港から輸出するので伊万里焼とも呼ばれる。

磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。これによって品質水準が確認され、1659年(万治2年)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジアに伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社が伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。これによって品質水準が確認され、1659年(万治2年)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。

という訳で、シャルロッテンブルク宮殿の磁器の間に陳列されている作品はかなりのものが有田焼の可能性がある。景徳鎮やマイセンのものも多数あるかも知れないが。
有田焼 こうして17世紀後半から18世紀初頭にかけて最盛期を迎えた有田の磁器生産であるが、1684年の展海令などで景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい競争に晒されることとなる。また、江戸幕府が1715年に海舶互市新例を制定し貿易の総量規制を行った事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失う。最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止され、以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくこととなる。今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。19世紀は明治新政府の殖産興業の推進役として各国で開催された万国博覧会に出品され、外貨獲得に貢献する有田焼に期待が集まった。この輸出明治伊万里は第四の伊万里様式美として研究され、確立されつつある。万国博覧会の伊万里と称される。

一方のマイセン(ドイツ語:Meißen)は、ドイツのマイセン地方で生産される磁器の呼称。名実ともに西洋白磁の頂点に君臨する名窯である。
東洋からもたらされた白磁は、17世紀ごろの西洋社会では憧れの芸術品。各国が競ってその製造開発に乗り出し、ザクセン選帝侯兼ポーランド王のアウグスト2世も錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉し、白磁を作るように命じた。ベトガーは物理学者・数学者・哲学者エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスらの協力を得て、1709年にザクセン・フォークラント地方のアウエ鉱山のカオリンを原料とした白磁の製造に成功した。アウグスト2世はこれに大満足し、西洋磁器の歴史の幕が開けた。

翌1710年、ドレスデンに「王立ザクセン磁器工場」が設立され、硬質磁器製造の独占権が与えられた。これが現在の「国立マイセン磁器製作所」の始まり。数か月後に磁器工場は25km離れたエルベ川沿いのマイセン地方・アルブレヒト城の内部に移され、厳重に機密が保持された。また、同年1月23日には「ザクセンでは今や東インドと同等の磁器の製造が可能になった」という布告が出ている。なお、ベトガー(開発の功労者の錬金術師)は幽閉を解かれることなく、ただちに染付の複製を命じられた。しかしベトガーはこれを果たすことなく37歳で死亡。近年の研究では、チルンハウスは1704年に既に磁器の焼成に成功していたのではないかとも考えられている。

マイセン マイセンはエルベ川の舟運により材料・製品の輸送が容易であり、また近辺には露天掘りでカオリンを採掘できるザイリッツ鉱山もあり(現在では坑道を掘って採掘)、この立地条件の良さが現在に至る繁栄を支えてきた。

初期のマイセンのデザインは中国の五彩磁器や日本の伊万里焼の影響を受けているが、1720年にウィーンから招かれた絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト(1696年 - 1775年)らによってヨーロッパ的なロココ調の作品が主流になった。1764年には工場私設の芸術学校が創設され、4年間の訓練・実習と専門課程が設けられている。また、1865年に作られた国立マイセン磁器製作所では、この芸術学校の卒業生が大勢働いている。
贋作防止のため、マイセンの陶磁器には交差した2本の剣のトレードマークが1723年から用いられており、これは現在まで使われているトレードマークの中ではもっとも古くからあるものの一つである。なお、刃や鍔の傾きなどは年代によって変化している。

歴史一般

ソグド人

ソグド人 ソグド人(英: sogd)は、中央アジアのザラフシャン川流域地方に住んでいたイラン系(ペルシア系)のオアシスの農耕民族。また、商業を得意として定住にこだわらず、シルクロード周辺域の隊商をはじめとして多様な経済活動を行った。ソグド語はイラン語派に属するが、ソグド人は隊商のことをイラン語系のキャラヴァンではなく、サールトと呼んだ。これはサンスクリット語のサールタ(सार्थ)に由来しており、インドの商人がソグド人と同じかそれ以前から活動していた可能性を示している。 ソグド人とは世界史で大きな活躍を見せて、突如歴史から忽然と消えた謎の民族と言われている人達だ。シルクロードの商業の民。NHKで今彼等はタジキスタンの山の中で当時の歴史を繋いでひっそりと暮らしていると紹介されたが。大部分の民は周辺の他民族の中に同化して分からなくなっているらしいが。

ソグド人 ソグド人はアケメネス朝の支配下にあった頃より交易に従事した。マケドニア王国のアレクサンドロス3世の征服や、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても交易を続けた。クシャーナ朝、エフタル、突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変遷したが、ソグド人は独自の文化を維持した。ソグド語とソグド文字を使い、宗教的にはゾロアスター教を信仰したほか、2世紀から3世紀にかけては中国に仏教を伝えた。6世紀から7世紀にはマニ教とキリスト教のネストリウス派を中国やテュルク人に伝え、東方のイラン系精神文化も中国にもたらした。活動範囲はビザンツ帝国から唐の長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。ソグディアナはウズベク人の南下によるテュルク化が進んでいき、中国では漢人の文化に同化していった。

地理・活動範囲
ソグド人の主な居住地であるソグディアナは、アム川とシル川の中間にあたり、シルクロードの中間に位置する。ソグド人が各地で交易を始めたきっかけは、ソグディアナの人口増加にあるとも言われている。灌漑農耕で生活できる人口を超えて過剰となったため、ほかの土地に出て交易を生業にしたという説である。

ソグディアナの東では交易路沿いの各地にソグド人が集落を作り、中国の京師(長安・洛陽)にも住んでいた。また、中国東北部の渤海国にもいたと推測されている。ステップルート(草原の道)においては、モンゴル高原・カザフ草原・南ロシア草原を結ぶ各地に住んだ。ソグド人はインドやチベットにも進出したが、主な活動は中国から豊富な物資が送られてくる東方だった。こうした集落を拠点として商売が行われ、移動するソグド人にとって取り引きや情報収集で必要な場所となった。ソグド人の集落は、すでにある都市から離れた場所に建てられて混住を避けた。長安や洛陽のような大都市では、城内の居留区域に住んだ。遠距離貿易をするソグド人の中には、家族をソグディアナに残して遠方に滞在しつつ、中国などに人を派遣する者もいた。裕福な商人は、支店や代理人によるネットワークを構築した。遠距離交易のほかに、各地に常駐して日常的な商売を行うソグド人もいた。

ソグド人 政治
オアシスの都市国家は地域によって政治体制が異なっていた。ソグディアナのオアシス国家では富豪の代表者が王であり、タリム盆地のオアシス国家は世襲の王が支配した。中国内地のソグド人集落では、5世紀から薩宝(さっぽう)と呼ばれる官がリーダーとして治めた。トゥルファンのオアシス国家である麴氏高昌では薩簿という官職がリーダーを務めた。薩宝の下には司録と呼ばれる役職があり、文書管理を行った。これらの役職は集落の自治として定められたと推測されている。

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アケメネス朝
アケメネス朝時代からソグディアナに都市文明があり、紀元前8世紀から紀元前7世紀にはアフラシアブやコク・テペ(Kök Tepe)で人が暮らしていた。コク・テペは衰退するが、アフラシアブはのちにソグディアナの中心都市の一つであるサマルカンドとなる。ソグド人についての最古の記録は、ゾロアスター教の経典であるアヴェスターに付けられた注釈の『ゼンド・アヴェスター』であるとされている。イランの最高神オルムズが自らの創った国々の名を挙げている中で、「スグドの地のガウ」という言葉が出てくる。また、頌神書である『ヤシュト書』にも出てくる。

ソグド人 キュロス2世がソグディアナを征服してソグディアナはアケメネス朝の支配下となり、ダレイオス1世によって宮殿が建設された。宮殿の基礎部分にあったベヒストゥン碑文には、ダレイオス1世に臣従した23国の一つとしてスグダと刻まれている。ダレイオス1世に対する貢物も記録されており、ソグディアナからはラピスラズリとカーネリアンが運ばれた。ラピスラズリは南東に鉱山があったバダフシャンから、カーネリアンはインドのグジャラートから産出したと推定される。ソグド人はシル川のサカ族と接触しており、アケメネス朝様式の模様がある絨毯などの遺物が発見されている。

古代ギリシャのヘロドトスも『歴史』においてソグドイ人、ソグディア人と記している。アケメネス朝の臣下となったソグド人は、パルティア人、コラスミオイ人、アレイオイ人とともに第16番目の州(納税区)に属し、300タラントンを納めることとなった。クセルクセス1世のギリシア遠征において、ソグド人はアルタイオスの子であるアザネスの指揮下で従軍した。

ヘレニズム国家
アケメネス朝の支配は、マケドニア王のアレクサンドロス3世の征服によって終了する。アレクサンドロス3世の軍隊が中央アジアに侵攻してサマルカンド(マラカンダ)を攻め落とした時、抵抗したソグド人の死者は約3万人にのぼったと歴史書にある。ソグド人の将軍スピタメネスの抵抗は激しく、長期間のゲリラ戦に手を焼いたアレクサンドロスは、中心都市の占領のみで矛を収め、将兵にソグド女性との婚姻を奨励するなど住民との融和に努めた。アレクサンドロスの死後は、グレコ・バクトリア王国が成立してソグディアナを支配した。マラカンダを中心とするソグディアナ一帯は周辺の諸民族の乱入による混乱が続くが、その間にソグド人は東西貿易に従事する商人として優れた才能を発揮するようになる。

ソグド人 遊牧国家
ソグド人の東方への進出は、遊牧民族の国家によって可能となった。4世紀から7世紀にわたって遊牧民の大規模な移動が起きて定住民と衝突し、やがて遊牧国家ができるとオアシス国家はその支配下に入る。オアシス国家のみの時代は、安全を保障する範囲は隣接するオアシスまでにとどまっていたが、遊牧国家によって広い領域の交通システムが統一されると、多くの政治権力の間を移動するのが容易になっていった。遠距離交易には安全の保障が不可欠であり、その恩恵を受けたのがソグド人だった。ソグド商人は商品や情報を提供し、遊牧国家は道中の安全を提供するという協力関係ができあがり、遊牧国家が大規模になるにつれてソグド人の活動範囲も拡大した。パックス・モンゴリアの時代はとても良かった?

奄蔡・康居
ソグド人についての中国の最古の記録は、司馬遷の『史記』の巻一二三・大宛列伝と、班固の『漢書』である。これらの記録は紀元前2世紀頃の中央アジアに交易が存在したことを表しており、安息(パルティア)、大夏(バクトリア)、大宛などの国家について書かれている。大宛がどこを指すかについては、フェルガナやソグディアナなどの説がある。ソグド人はフェルガナからパルティアにかけての交易ルートで活動する民族と書かれている。

ソグド人 前漢の武帝の時代から、中国は西域(中央アジア)と通じるようになる。当時の中国は、遊牧民族の匈奴に対抗するための同盟者を必要としており、張騫の使節団が中央アジアを訪れた。中国の史書では初め、ペルシアなどイラン系の西方異民族を胡人と呼んだ。ソグド人もこの中に含まれており、商胡というのがそれにあたる。この頃のソグディアナは康居(こうきょ)というシル川中域の小さな遊牧国家が支配していた。その西北にも奄蔡(えんさい)という遊牧国家があり、ソグド人はこれらのもとで暮らしていた。中国は中央アジアに絹を持ち込み、絹との交換で食物などの必要物資を入手した。バクトリアやパルティアは外交手段で中国から絹を入手できたが、ソグド人は商業の取り引きによって絹を手に入れるしかなかった。グレコ・バクトリア王国の時代までは農業を基盤としていたソグド人が遠距離交易を始めたのは、中国との接触がきっかけとする説もある。シルクロード交易が盛んになると、ソグド商人は徐々にバクトリア商人に取って代わり、4世紀以降に東西交易の主役となった。ソグド人商人はシルクロードの各所にソグド人コロニーを形成し、情報網を張り巡らした。ソグド人はこれによってシルクロード交易で主導的な地位を成していた。

マニ教 粟特国・昭武九姓
ソグドとして中国史書に登場するのは『魏書』の列伝第九十・西域であり、そこには粟特国(そくどくこく)と記されている。粟特国は漢の時代に奄蔡と呼ばれた地域にあたり、康居の西北、大沢(アラル海)沿いにあった。北魏の時代には粟特国に商人が多く、涼州の姑臧にまで商売に来ていたという。この商人がソグド人だと思われる。また、旧康居である康国(サマルカンド)をはじめとした国々、いわゆる昭武九姓においてもソグド人は健在だった。甘粛はソグド人にとって中国への入り口にあたり、5世紀以降に大規模な移住が続いた。ほかには漢人とインド人が暮らしており、ソグド人には古くから住んでいたインド・パルティア系やそれ以降に移住した者がいた。ソグド人は甘粛からテュルク族のステップ地域での交易に進出した。

突厥・回鶻
突厥可汗国によって中央ユーラシアが統一されると、ソグド人は中国からビザンツ帝国にいたる領域で遠距離交易に進出した。中国北西部にはテュルク・ソグド人が定住し、帝国の上層や行政、軍事、外交でも働いた。このため、ソグド語とソグド文字は突厥で公用語・公用文字にもなった。ソグド文字はテュルク語を記録するために使われ、テュルクの書記官はソグド語を使い、ソグド文字はテュルク語の音韻に合うように変化していった。突厥に代わって回鶻(ウイグル)が北方草原の覇者となると、ソグド人はウイグル人と取り引きをした。ウイグルはソグド人や漢人を都市に居住させ、技術者や書記として利用した。かつてのウイグルの首都で発見されたカラバルガスン碑文は、ルーン文字のウイグル語、ソグド文字、漢文の3言語で刻まれており、こうした技術者が関係していたとされる。

ソグド人 ハザール
ハザール汗国は西突厥の地に成立し、ビザンツ帝国へつながる交通路の上手に位置しており、9世紀や10世紀の交易の要衝となる。ハザールは国内に外国商人を保有しつつ領地を拡大させてビザンツやサーサーン朝の領土から略奪で利益を得た。ビザンツ帝国に向かったソグド商人やホラズム商人もこの地域を通ったと推測されている。ロシア北東部のカマ川で発見された8世紀以前の金銀器の45パーセントは中央アジア経由で運ばれており、ソグドやホラズムのものも含まれている。北方民族と中央アジア商人が取り引きしていた可能性がある。
**ハザール汗国は、国の首脳部がユダヤ教に改宗したことでも有名だ。どの程度まで国民全体まで普及したかは不明であるが。

トゥルファン・敦煌
中央アジアの交易・交通の拠点であるトゥルファンや敦煌は、ソグド人にとっても重要な拠点だった。トゥルファンは天山の東に位置しており、紀元前から遊牧民と中華王朝の勢力争いが起きていた。5世紀にはトゥルファンにソグド人の集落があり、6世紀に高昌国によってトゥルファンが統一される頃には、商人のほかに官職につくソグド人も多数にのぼった。北方に遊牧国家である突厥が建国されると、ソグド人は遊牧国家側の使節としても高昌国を訪れ、この使節に商人が同行して取り引きをした。のちに唐が高昌国を征服してトゥルファンが唐の西州となると、使節はなくなって唐の軍需物資の輸送が交易に重要となった。

敦煌は中国・中央アジア・北アジア・チベットを結ぶ位置にあり、「華戎の交わる所の一都会」とも表現される地だった。ソグド人は3世紀頃から集落を作り、11世紀まで活動した記録がある。敦煌をはじめ河西地方のソグド人は、本拠地であるソグディアナの商人と連携して中国内地での遠隔地交易を行った。ソグド人が商業以外で活動をするのは8世紀以降で、唐に代わって吐蕃が敦煌を征服した時代には行政官・軍人・仏教僧としても活動が増えた。ソグド人は唐の帰義軍に参加して吐蕃と戦い、敦煌が唐の支配下に戻ってからも政治や軍事面で活動を続けた。

ソグド人
中国が唐の時代に入ると、唐は北魏の政策を引き継いで遊牧民と農耕民の融合を進めようとした。長安を中心として、モンゴリアやソグディアナを含む地域を支配して交通を整備したのも、その意図による。唐の領内の全ての臣民は、民族に関わらず百姓として扱われた。ソグド人(胡人)の集落も各地の州県下の郷・里に属する百姓とされた。税制上は、各地の集落に住むソグド人は租庸調が課せられ、都市で商業を行うソグド人には銀貨の納税が課せられた。ソグド人の集落は、文化や交易拠点としての役割は保持を許されており、過所と呼ばれる通行許可証があれば郷里を離れた交易が可能であった。しかし過所の審査は厳しく、それまでソグド人集落を指導していた薩宝は唐の官吏が入ることで重要性が薄れ、集落民は徐々に漢人化が進んだ。

唐の政策は、唐内地のソグド人の漢人化につながる一方で、交易面では利点もあった。唐の建国前は、各オアシス都市が通行規制や市場の税を課していたが、唐が交通ルールを統一すると通行規制や市場ごとの税はなくなった。このため遠距離交易がさらに容易になり、唐内地の漢人の中にも交易を望む者が増えて、ソグド人と漢人が協力して遠距離交易を行った。ソグド人は長安と洛陽をはじめ、北西部、北東部、四川の成都に多く移住した。国境の出入りができるのは公使のみで、ソグド人は例外として許されていた。唐政府はオアシスで過所をソグド人に渡し、国境を越えて唐内地に入ることを許可した。過所を持つソグド人には興胡という肩書きを与え、百姓と区別した。

7世紀からは、河西地方や中央アジアへ送る軍需物資は涼州で集めてから輸送しており、早くから涼州に住んでいたソグド人は輸送隊にも参加した。輸送隊に便乗した商人たちは、個人の取り引きも行った。唐の送る物資が大量だったために、中央アジアは唐の経済圏に組み込まれるようになった。特に、唐が吐蕃との戦いに勝って安西都護府が設置されると3万人の兵が駐留して、輸送される物資も増大した。こうして8世紀を境に、オアシス諸国はサーサーン朝の銀貨をはじめとする西アジアの経済圏から、銅貨(銅銭)をはじめとする唐の経済圏に変化していった。トゥルファン(西州)では、ソグド人は典と呼ばれる書記の官僚や、軍人や従者(別奏)としても働いた。

敦煌文書とトゥルファン文書には、唐から見たソグド商人が記録されている。唐の戸籍に登録されたソグド人が商人の場合は、国に対して商人役(商税)を負って商売をした。ソグド人が交易をするには通行許可書が必要であり、契約書を交わすときには定住しているソグド人が保証人となった。契約書は漢文で書かれ、ソグド人はラクダ、奴隷、馬を絹と交換した。唐のソグド人は、行商人のほかに馬丁、軍人、官吏、芸人として文芸に登場する。唐の宮廷には、ソグディアナから朝貢への贈り物として様々なものが献上された。小人、楽師と舞人、馬、犬、ライオン、ヒョウ、ウコン、石蜜、サマルカンドの桃、薬草、絨毯、黒塩、宝石や装飾品などがある。唐では王族のほかに貴族の間でも西方の品物が愛好され、貴族の女性は西方の衣服をまとい、男性はテュルク流の狩猟やゲームを行なった。このため宮廷周辺にはソグド人の富裕層も暮らしており、長安や洛陽のソグド人は多くが市場のそばに住んでいた。
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玄奘の『大唐西域記』において、ソグド人は窣利人として記される。以下は窣利総記の全文。
素葉(スイアブ)より西に数十の孤城があり、城ごとに長を立てている。命令をうけているのではないが、みな突厥に隷属している。素葉城から羯霜那国(史国)に至るまで、土地は窣利と名付け、人も「窣利人」という。文字・言語もその名称に随って「窣利文字・窣利語」と称している。字の成り立ちは簡略で、もと二十余文字であるが、それが組み合わさって語彙ができ、その方法が次第にひろがって文を記している。ほぼ記録があり、その文を竪(縦)に読んでいる。そのやり方を順次に伝授して、師匠も弟子もかえることがない。氈や褐を身につけ、皮や氎を着ている。裳も服もせまく、身にぴったりとし、頭髪をととのえて頭頂を出しているか、或いはまったく剃り、絵彩を額に巻く。体つきは大きいが、性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐がまかり通っている。おおむね欲張りで、父子ともに利殖をはかっている。財産の多い者を貴とし、身分の優劣の区別が無い。たとえ巨万の富を持った者でも、衣食は粗悪である。力田(農民)と逐利(商人)が半ばしている。


ソグド系テュルク人と安史の乱
テュルク(突厥)経由で中国に入ってきたソグド人は、外見上はソグド人だが言語や習慣はテュルク化しており、ソグド系突厥人とも呼ばれる。オルドスの六胡州には遊牧を営むソグド系突厥が生活しており、唐に対して六胡の乱を起こした。反乱の原因は二世以降の住人に税負担が増加したことにあった。六胡の乱に参加したソグド系テュルク人には、のちの安史の乱にも参加した者がいた。

ソグド人は北部の境界地域でも活動しており、安史の乱を起こした有力節度使の安禄山と史思明は、境界地域のソグド系だったとも。安禄山たち軍人は、反乱の準備においてソグド商人の協力を受けて資金を用意した。ソグド人はそれまでの商業活動で反感を持たれていたこともあり、反乱が鎮圧されると各地で迫害を受けて衰退し、周辺民族に吸収されていった。

イスラム王朝
サーサーン朝がイスラム王朝のウマイヤ朝に敗北してサーサーン朝の保護貿易政策がなくなると、少数のソグド人がイラクへのルート沿いに進出した。ブハラの射手の集団がバスラに移住した記録や、イラクから海上貿易に参加して広東へ行った商人の記録などがある。ソグド人の本拠地ソグディアナは、8世紀からイスラム王朝の支配下に入った。ウマイヤ朝の軍人クタイバ・イブン・ムスリムがソグディアナ、ホラズム、タシュケント、フェルガナを征服し、ソグディアナの都市は数回の掠奪をされつつ、降伏の条約を結んで大規模な被害を逃れた。住民がアラブ軍の兵士を殺したパイケントは、徹底的に掠奪された。ソグド人には戦争を商売の機会とした者もおり、アラブ軍がサーサーン朝から掠奪した戦利品を買い取って売った。この時代のソグド人については、アッバース朝のウラマーであるタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』に書かれている。

同化
ソグディアナは8世紀中ごろにアッバース朝の支配下に入り、それ以後イスラム化が進行するにつれて、ソグド人の宗教的・文化的独自性は徐々に失われていく。特に9世紀のサーマーン朝治下では、アラビア文字のペルシア語が主流となった。一方、カラハン朝以後のテュルク系イスラム王朝治下でテュルク化が進むと、アラビア文字のテュルク語が支配的となっていく。10世紀の最後の30年間までは、ソグド語とペルシア語を併用するソグド人がいたが、都市部のエリート層から使用者が減っていき、農村部でソグド語が保持された。ソグディアナでは8世以降の史料が少ないため、ソグド語が使われなくなるまでの経緯は不明である。ソグディアナは、イスラム世界がマー・ワラー・アンナフルと呼ぶ地域の一部となった。9世紀から11世紀にかけてソグディアナやホラズムで教育を受けた学者には、ビールーニー、ファーラービー、イブン・スィーナー、フワーリズミーらがいる。中国のソグド人は、ウイグル可汗国の滅亡以降に漢人に同化していった。ソグドの信仰であるゾロアスター教(祆教)は、開封を中心として11世紀まで保持された。テュルク化したソグド人はウイグル人らとともに活動し、貿易や外交で役割を発揮した。

11世紀以降、ソグド人はテュルク人国家のカラハン朝や西ウイグル国で活動していたと推測される。カラハン朝出身の学者であるマフムード・カーシュガリーの『ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク』では、西部天山の北麓に11世紀までソグディアナ出身のソグド人集団が確認される。彼らはソグド語とテュルク語(カラハン朝トルコ語)のバイリンガルであり、テュルクの服装と習慣に染まっていたという。しかし彼らはその1〜2世紀後にソグド文字とソグド語を使わなくなった。西トルキスタンの大部分ではテュルク語やペルシア語に替わったものの、山間部ではソグド語が保たれた。20世紀後半にザラフシャン河上流にあるヤグノーブ渓谷で約3千人のヤグノビ人に話されていたヤグノブ語 は、ソグド語の直系と考えられている。東トルキスタンにいたソグド人は西ウイグル王国や甘州ウイグル王国で暮らし、ほかの民族の中に溶け込んでいった。

身体的特徴
ソグド人についての記録では、コーカソイドとしての身体的特徴が挙げられる。色黒の肌、深目、高鼻、多鬚とある。『史記』の巻一二三・大宛列伝や班固の『漢書』には、商売上手でわし鼻、深い目、あご髭や口髭があると書かれている。 言語
ソグド人の言語はソグド語である。ソグド語は印欧語族イラン語派に属する中世イラン語の東方言のひとつであり、同じ仲間としてはホラズム語、バクトリア語、コータン語がある。紀元前6世紀にソグディアナがアケメネス朝の支配下に入ると、アケメネス朝からアラム文字が流入してアラム語が公用語として行政や記録に使われた。初めはアラム文字でアラム語を記していたが、アケメネス朝の崩壊後はアラム文字を使ってソグド語を表すようになり、これがソグド文字の起源となった。

やがてソグド人が商人として各地に散らばったため、ソグド語・ソグド文字は中央アジアのシルクロードにおいて国際共通語となった。ソグド文字はアラム系文字であるため当初は右からの横書きだったが、のちに縦書きに変化した。縦書きになった時期は、匈奴の移動による動乱が収まった5世紀後半からと推測される。6世紀以降の突厥のソグド語碑文や石人 (中央アジア)は縦読みになっており、玄奘はソグド文字が縦読みをされていると書いている。ソグド文字が縦読みに変化したのは、中国の碑石や漢字の影響があるとされている。トゥルファンのソグド語のマニ教文書や、10世紀以降のウイグル文字の仏典も縦書きになっている。他方、洋装本では横書きが続き、10世紀にソグド文字で書かれたマニ教やキリスト教の文献には横書きになっているものがある。ソグド文字はウイグル文字のもとになり、さらに13世紀にモンゴル文字へ、16〜17世紀には満州文字のもとになった。

ソグド姓
中国では姓のない人間は奴婢と見なされたため、中国に住むソグド人は漢字の姓を持った。その際には出身都市名を示す漢語が姓として採用された。ソグド姓は後漢から三国時代にかけて始まり、当初は康姓や安姓が多かった。ソグド人の活動が中国で顕著になる南北朝時代の中期以降になると多様化が進んだ。

ヤグノブ サマルカンド→康
ブハラ→安(安禄山など)
マーイムルグ→米
キッシュ→史(史思明など)
クシャーニヤ→何
カブーダン→曹
タシュケント→石
パイカンド→畢
トカリスタン→羅

これらを一括してソグド姓と呼ぶ。また、都市名を特定できないが、羅、穆、翟もソグド姓に含まれるとされ、姓の法則について不明な点もある。トゥルファンでは6世紀中頃からの仏教の普及によって中国仏教の寺院が建てられ、康寺、曹寺、史寺などソグド姓を寺名とした寺院があった。姓が寺院についているのは、一族の菩提を弔うために遺族が僧尼となったためである。中国在住のソグド人には、康姓と安姓が多かった。しかし安史の乱が起きると、指導者の安禄山と同じ安姓の者は改姓が増えていき、ソグド起源以外の者も加わってソグド姓の固有性は減少した。
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宗教
ソグド人は紀元前から信仰していたゾロアスター教をはじめ、マニ教、仏教、キリスト教のネストリウス派などを信仰した。

ゾロアスター教
ゾロアスター教は移住したソグド人の間でも守られ、中国では祆教と呼ばれた。長安、洛陽、敦煌、武威などにはゾロアスター教の神殿である祆祠が建てられた。ソグド人の本拠地であるソグディアナでは埋葬において『アヴェスター』の「ヴィーデーウダート」の指示を守り、火葬、土葬、水葬は行われなかった。遺体は鳥や犬に食べさせて骨だけを残し、骨を集めて納骨堂(ソグド語でフラワルトカテー)に安置した。遺体を食べさせるための特別な場所をダフマと呼び、サマルカンドをはじめ各地に遺跡が発見されている。トゥルファンより東では、ソグディアナと同様の葬儀の記録がない。

仏教
中国に移住したソグド人には、ゾロアスター教の信仰を守る者のほかに仏教に帰依する者もいた。仏教僧には法蔵 のようなソグド人の僧侶や、康僧鎧や康僧会などソグド姓をもつ者の記録がある。特に唐の則天武后から中宗の時代には、長安や洛陽における仏教の普及にソグド人も貢献した。インドに向かった玄奘や、インドから唐へ旅をした金剛智、日本に渡航した鑑真などの旅にはソグド人が同行して活動を支えた。初期の仏典を漢訳した者にはソグド人がおり、漢訳仏典からソグド語に重訳された『金剛般若経』、『摩訶般若波羅密経』、『金光明最勝王経』、『無量寿経』などがある。これらはソグド人が資金を提供して制作したと推測されている。ソグド人の仏教信仰は中国を中心としており、ソグディアナには浸透しなかった。ソグド人はテュルクに仏教を伝える役割も果たした。

マニ教
ソグド人の中でマニ教は少数派だったが、ソグド人によってウイグルに伝わったマニ教は、第3代可汗の牟羽可汗の改宗をきっかけに東ウイグル可汗国の国教となった。牟羽可汗がマニ教徒になった目的として、マニ教徒のソグド商人と関係を緊密にしてシルクロード交易から利益を得るという点があげられる。ウイグルは安史の乱の平定に貢献したのちに唐への影響を強め、マニ教の布教保護を唐に主張して、明教と呼ばれて唐に広まった。各地には、大雲光明寺という寺院も建設された。この時期のマニ教の布教においてはマニ教徒のソグド人も活動し、ウイグル人に同行して交易を行い、マニ教経典の漢語訳も行った。のちに東ウイグル可汗国が滅亡すると、中国内のマニ教徒は弾圧を受けて減少した。

ユダヤ教
コータンで活動したソグド商人が持っていた手紙には、ユダヤ・ペルシア語で書かれたものがある。800年頃にはユダヤ教徒のソグド人がおり、ペルシア語の文書で仲間と連絡を取りながら交易を行っていたと推測される。ユダヤ教徒がソグド化したのか、ソグド人がユダヤ教に改宗したのかは不明である。

芸能
唐初期の長安では、社会的地位の高いソグド人によってソグド文化が宮廷にも流入し、服装や楽器、胡旋舞などの踊りが流行した。法隆寺や東大寺に現存する伎楽の面で酔胡王と酔胡従は、ソグド人をモデルにしている。

ソグド人の商品
ソグド人の遠距離交易では、一つの商品を遠くへ運ぶことは少なかった。各地の同族と近距離の商品の取り引きを多数行ない、利ざやを稼ぎながら移動した。近距離の取り引きが積み重なった結果として、さまざまな商品が広域に流通していった。唐などに向けた朝貢の貿易においては、貢物の遠距離運搬が行われた。ソグド人が売買する商品は、以下のようであり、主に扱われたのは奢侈品(しゃしひん)であった。

絹製品:シルクロードという名の通り、絹馬貿易によってウイグルに備蓄された絹製品(馬価絹:ばかけん)など。
家畜:馬、ラクダ
奴隷
香薬類:麝香・沈香・檀香・鬱金根・硇砂・樟脳・胡椒・大黄・肉桂
貴金属:金・銀・銅貨・金銀器
貴石類:玉(ぎょく)・真珠・瑪瑙・珊瑚・琥珀
そのほか:ワイン・鉄製品・陶磁器・ガラス製品・絨毯

ソグド語古代書簡によれば、4世紀頃にソグド人が扱っていた商品は奢侈品が中心で、ワイン、麝香、金、麻の服(諸説ある)、毛織物、胡椒、銀、樟脳などが記録されている。西からは金と銀を輸入し、胡椒、銀、ワインなどを輸出していた。610年代から620年代のアスターナ古墓群で出土した文書によれば、ソグディアナから1500キロメートル以上離れたトゥルファン(麴氏高昌)のような地域でも、ソグド人が交易を独占していたことが分かる。商品は絹、金銀、香料、ウコン、鍮石、薬草、塩化アンモニウムなどであり、絹のほかは西方の商品だった。税はサーサーン朝の銀貨で集められ、中国の銅貨(銅銭)は使われなかった。712年のサマルカンドの記録によると、奴隷1人は200ディルハム、大きな服(おそらく絹製)は100ディルハム、小さな服は60ディルハム、絹1枚は28ディルハム。750年頃の敦煌では生絹一枚は銅貨(銅銭)460枚、銀貨1枚は銅貨32枚だった。9世紀以降にソグド商人の活動は次第に衰退し、奴隷と麝香が最後の重要な商品となった。


中国からの輸出品である絹は、漢の時代から始まった。前漢の政治家である桑弘羊の財政対策によって絹の生産が盛んになり、8世紀頃には年間で500万匹にのぼる時もあった。大量の絹が中央ユーラシアに運ばれて、現地の漢軍兵士の給料や物資調達に使われ、その取り引きをソグド人が行った。このため、絹には防衛経費という面もあった。ソグド人にとって絹は商品だったが、中国にとって絹は物品貨幣だった。南北朝時代に北斉と北周の争いが起きると、突厥は両国から同盟のための絹を求めて年間10万段を受け取った。ソグド人はその絹を西方へ輸出することを可汗に提案し、隋によって中国が統一されるまで約30年にわたって利益を得た。

唐の時代には租税を硬貨のほかに絹織物や穀物で集めており、絹は帛練と呼ばれる貨幣となった。帛練の価格帯は絹の品質に応じて決まっており、練(ねりぎぬ)、生絹(きぎぬ)、施(あしぎぬ)などの種類があった。


突厥は馬の交易を行い、6世紀から8世紀にかけて中国は軍馬を輸入した。唐は隋の時代にはなかった大規模な騎兵隊を編成した。馬の飼育に適した地域としてオルドスも有名であり、馬丁や馬交易の商人としてオルドスに移住したテュルク系のソグド人もいた。727年には馬交易を行うための互市がオルドスに設けられた。

奴隷
馬やラクダと並ぶ高額商品が奴隷であった。戦争や犯罪などによって国内外から捕らえられた奴隷は、付加価値を高めるため外国語や礼儀作法、歌舞音曲その他の技芸を教え込まれ、商品としての教育を施された上で売られた。10世紀の状況について地理学者のイブン・ハウカルは「サーマーン朝統治下のサマルカンドはマー・ワラー・アンナフル中の奴隷の集まる所であり、しかもサマルカンドで教育を受けた奴隷が最良である」と記している。奴隷交易は10世紀以降も重要であり続け、サーマーン朝は奴隷交易に高い関税をかけて利益を得た。これら奴隷貿易では契約文書が用いられており、近年になって多数発見されている。

香料・香木
香料や香木が東ユーラシアに流通するのは紀元1世紀頃からであり、ソグド人の東方進出と同時期にあたる。同じく時期に伝来した仏教の儀礼において香料は重要であり、仏教の普及が影響したとされる。香料の中でも価格の高いものが麝香だった。麝香のほかでは、沈香・鬱金花・白檀・丁香が高かった。

ソグド語古代書簡によれば、麝香はソグド人の商品だった。麝香は重量と値段のコストが良いために遠距離交易に適していた。麝香が採れるジャコウジカはソグディアナに生息していなかったので、ソグド人は市場で仕入れていたと推測される。歴史学者・地理学者のヤアクービーによれば、カリフの宮廷では最高級はチベットの麝香、次がソグドの麝香、その次が中国の麝香であり、ソグドの麝香はホラーサーンの商人がチベットで買ったものとされている。イブン・ハウカルの記録では10世紀でもソグドの麝香が取り引きされており、アブー・ザイドはソグド商人が持っていた麝香について書いている。ソグディアナからチベットをつなぐ麝香のルートは12世紀まで記録があり、サマルカンドは麝香交易を主導していた。ソグド人にとって麝香は主に西アジア方面に送る商品であり、陸路と海路で運んだ。

金銀器・琥珀
中央アジアやイランで作られた金銀製品にはソグド産もあり、サーサーン朝製の金銀器にはソグドやホラズムの銘文がある。9世紀〜10世紀には、ソグディアナとホラズムでバルト海の琥珀が流通しており、サマルカンドやパンジケントの神殿や、奈良の正倉院の宝物にある琥珀はソグド人の交易でもたらされたとされる。

硬貨
エフタルがソグディアナで優勢になった5世紀から6世紀には、サーサーン朝がエフタルに貢物を送っており、中央アジアとイラン東部にはサーサーン朝のドラクマ銀貨が流入した。ソグド人はエフタルのもとで銀貨を取り引きに使ったため、中央アジアにサーサーン朝の銀貨が普及した。ソグド人は銀貨を元手にして北方へ進出し、タシュケント(ソグド語でチャーチュ)とソグドは取り引きが盛んになり、タシュケントやイラクへソグド文化が広まった。タシュケントでは小領主が硬貨を発行し、大部分がソグド語の銘文となっており、硬貨の図像はソグドとテュルクが混じっていた。

5世紀末か6世紀頃に、ブハラのオアシスではサーサーン朝の硬貨を原料としてブハル・フダーと呼ばれる硬貨が発行された。7世紀には複数の都市でブハル・フダーと中国様式の孔のあいた硬貨が発行された。ソグド人は、遠距離交易用の貨幣と、ソグディアナでの取り引き用の貨幣を使い分けた。遠距離交易にはサーサーン朝の銀貨を使い、ソグディアナ内の取り引きには都市が発行したソグド風の硬貨を使った。このため中国ではソグド風の硬貨は発見されていない。唐の時代から中国産の物資とともに絹や銅貨が大量に流入して、中国の銅貨(銅銭)も流通した。中国風に孔が開いた銅貨も発行され、7世紀のサマルカンドの銅貨は「ソグドの王、サマルカンドの支配者」と刻まれていた。

金融
遠距離貿易は費用と時間のかかる事業であり、協同で投資をして利益を分配した。取り引きを行う商人と、投資をする出資者(国家、王族、官僚、軍人、地主など)に大きく分かれており、ソグド人も出資者を集めたり、ソグディアナと遠隔地の商人が協同した。7世紀にはソグド人の金貸しが活動していた記録がある。また、ソグディアナの外に住むソグド人の中には、ソグディアナへの軍事行動に資金を提供した可能性もある。8世紀から9世紀にはソグド人の高利貸しが長安などで漢人に融資しており、ソグド人が金貸しとして有力になったため、唐政府はソグド人から借りることを禁じた。


アラビア語やペルシア語の文献によると、ソグドの特産品に紙があった。9世紀のバグダードの奢侈品のリストにサマルカンド産の紙があるが、紙を売買していたのがソグド人という記録はない。

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他民族との関係
ホラズム人
ホラズム人は、ソグド人と並んで中央ユーラシアで活発に交易をした民族である。ホラズムは地理的にはソグディアナの西方に位置し、西方での交易において有利だった。568年にビザンツ帝国からの使節がコンスタンティノープルに帰る際に、ソグド人とホラズム人(ホリアタイ人)の王が同行しており、両者は協力していたと推測される。その後、ソグド人は唐や突厥との取り引きを有利に進めてホラズムの領域にも進出して、8世紀にはホラズムをソグドの交易圏とした。8世紀のホラズムの銀貨にはホラズム語とソグド語の表記があり、8世紀末にはアラビア語も加わった。ホラズムの銅貨にはソグド語表記がないため、銀貨は国を越える貿易に使われたと考えられる。イスラム王朝によってソグド人の活動が次第に衰退すると、北西での交易は9世紀のうちにホラズム人へと主導権が移った。

ウイグル人
ソグド人は8世紀に取り引き相手となったウイグルのもとへ入り込み、植民集落(ソグド人コロニー)や植民都市を形成した。ソグド人はウイグルにソグド文化を持ち込み、なかには遊牧民化する者も現れたため、次第に混血が起こり、ソグド系突厥人やソグド系ウイグル人などの集団が生まれた。ソグド文字をもとにしてウイグル文字が考案され、10世紀以降のウイグル文字の仏典はソグド文字にならって縦書きになっている。ソグド人がイスラム王朝によってソグディアナと分断されて衰退してゆくと、ウイグル人は識字力を活かしてオアシス東西ルートの交易を盛んにした。ウイグル文字による手紙や、各種経済文書、行政文書、諸啓典は14世紀まで作成されており、活発な活動がうかがえる。

研究の歴史
敦煌文書やトゥルファン文書など、西域文書と総称される文書群にソグド人に関する情報が残されており、発見で史料が増えるにつれて、ソグド人についても次第に明らかになった。トゥルファンでは19世紀末から調査が始まり、1912年の大谷探検隊、1915年のオーレル・スタイン隊、1930年の各国共同の西北科学考査団などのほかにル・コックやグリュンウェーデルのドイツ隊も調査をしている。トゥルファン文書は、3世紀末から8世紀にかけての記録がある。

敦煌文書は、19世紀末に王円籙という道士が莫高窟に住み着いたときに偶然に発見し、20世紀に入るとヨーロッパ各国が相次いで敦煌を訪れた。1907年にスタイン隊が王から大量の文献を購入し、1908年にフランスのポール・ペリオが敦煌を訪れ、1910年には清が文物の流出を知って文書を持ち出し、1911年には日本の大谷探検隊、1914年にはロシアのオイレンブルク隊も王から文献を入手した。1919年には中華民国も文物を収容している。こうして大量の文献が敦煌から持ち出された。敦煌文書は半分以上が9世紀から10世紀のものとされる。

「さまよえる湖」として知られるロプ・ノールの岸辺に位置する楼蘭では、1901年のスウェン・ヘディン、1906年のスタイン隊、1908年の大谷探検隊らが文献を発見した。楼蘭の文書は、3世紀後半から4世紀前半である。そのほか、東トルキスタンではコータン、クチャ、営盤などでも漢文の文書が発見され、西トルキスタンではムグ城址からソグド文字や漢文の文書が出土しており、ムグ文書と呼ばれる。その後も調査は続き、1959年から1975年にかけて中華人民共和国がアスターナ古墓群を調査し、1600点の漢文文書が復元された。

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神武天皇

神武天皇系図 日本の初代天皇ということになっている。もちろん神話の世界で実態は闇の中。諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さの、さぬ)。『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)。 『日本書紀』・『古事記』によれば天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫とされる。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服し(神武東征)、畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)に遷都して日本国を建国したとされる人物。つまり、長髄彦なる人物がはっきりしないと。
実在した可能性のある最初の天皇は、崇神天皇であるという説もある。もちろんこれも仮説の域を出ない。以前調べたこともあるが(本HP日本の歴史)今回もその域を出るか?

天孫(天照大御神の孫)・瓊瓊杵尊の曽孫。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。『日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいる。稲飯命は新羅王の祖ともされる。
**稲飯命(いないのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「稲飯命」や「彦稲飯命」、『古事記』では「稲氷命」と表記される。神武天皇(初代天皇)の兄である。また『新撰姓氏録』に見えるように、稲飯命は新羅王の祖であるとする異伝がある。大陸の遊牧民なら末子相続の伝統も。少なくとも神武天皇は長男ではなさそうだ。

【天照大神】
天照大神または天照大御神は、日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神とされる。本当に最初から女神だったのか? 太陽神を女神とする神話は世界でも多くはない。『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名。


『日本書紀』によると筑紫の日向で誕生。15歳で立太子。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳のときに兄や子を集め東征を開始。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神(大物主神)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)を正妃とし、翌年に初代天皇として即位した。『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると、即位日は西暦紀元前660年。皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命(かむやいみみ)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ、綏靖天皇)を得た。即位76年に、崩御。つまり、当然縄文時代のリーダーだった。文字の無い時代でも語り部達によって伝承された可能性が全く無いわけでもない。英国のアーサー王伝説とも類似点があるか。
東征の経路:日向→宇佐→安芸国→吉備国→難波国→河内国→紀伊国→大和国(都)→出雲国(皇妃)、
現代の地名に直すと:宮崎県→大分県→広島県→岡山県→大阪府→和歌山県→奈良県→島根県 と極めて広大な版図を征服したことに。最後の大和には抵抗勢力となる豪族が多数いて手こずった。ただ神武一代で成し遂げたにしては経路が長すぎないかな。他の豪族に比べて圧倒的な軍事力、とすれば渡来系の氏族が新しく鉄製の武器を持ってやってきた。だから天孫降臨となるのかな。

【橿原市】
橿原市(かしはらし)は、奈良県中部の市。総人口約121,000人と奈良市に次ぐ県下第二の都市。市名は九州地方宮崎県から渡ってきた神武天皇が磐余(いわれ)の地において磯城の首長の兄磯城(えしき)を破り、饒速日命も天津瑞を献じて仕えることとなり、神武天皇即位紀元辛酉の年の春正月の庚辰の朔日に畝傍山東南「橿原の宮」に即位し建国したという伝承に由来する。市章(シンボルマーク)の金鵄は、神武天皇の弓弭(ゆはず・弓の端)に止まって光り輝き、長髄彦の兵を追い払った鳶から意匠された。

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遊仙窟

『遊仙窟』(ゆうせんくつ)は、中国唐代に書かれた伝奇小説である。
作者は唐の張鷟と伝えられる。作者と同名の「張文成」なる主人公が、黄河の源流を訪れる途中、神仙の家に泊まり、寡婦の崔十娘(さいじゅうじょう)、その兄嫁の五嫂(ごそう)らと情を交わし、一夜の歓を尽くすが、明け方に外のカラスが騒がしくなり情事が中途半端に終わらせられる、というストーリーである。
唐代の伝奇小説の祖ともいわれるが、中国では早くから佚存書(いつぞんしょ)となり、存在したという記録すら残っていない。後に魯迅によって日本から中国に再紹介された。文章は当時流行した駢文(四六文)によって書かれている。
遣唐使によって持ち帰られ、日本では流行するも、本場中国では廃れてしまい、日本から逆輸入されたという代物。ある意味エロ小説なので発禁処分を受けたのかもしれない。
**張鷟(チョウサク):
唐代の文人。河北省の人。字(あざな)は文成。名文家としての名は日本にまで知られていた。著「遊仙窟ゆうせんくつ」「朝野僉載ちょうやせんさい」など。生没年未詳。

**佚存書(いつぞんしょ):
中国では失われたが、日本や朝鮮などに伝存していた漢籍のこと。佚存(いつぞん)という言葉は、江戸時代後期の儒学者、林述斎が『古文孝経』など16編の佚存書をまとめた『佚存叢書』によるとされる。有名な佚存書として、『遊仙窟』や『古文孝経』などがある。

林 述斎(はやし じゅっさい、1768~1841年):
江戸時代後期の儒学者。林家8代で林家中興の祖。父は美濃国岩村藩主・松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した老中・松平乗邑。

**松平 乗邑(まつだいら のりさと、1686~1746年):
江戸時代中期の大名・老中。唐津藩2代藩主・松平乗春の長男として誕生。元禄3年(1690年)、藩主であった父・乗春の死により家督を相続。1711年には、近江国守山において朝鮮通信使の接待を行っている。享保8年(1723年)老中となり、下総佐倉に転封となる。以後足掛け20年余りにわたり徳川吉宗の享保の改革を推進。


日本での伝承
日本では遣唐使が帰途にあたり、この本を買って帰ることが多く流行した。例えば、奈良時代の山上憶良は『万葉集』に「遊仙窟に曰く、九泉下の人は、一銭だに直(あたひ)せず)」と記している。また『万葉集』巻4の大伴家持による相聞歌も『遊仙窟』中の句を踏まえている。
また、松尾芭蕉の俳句「つね憎き烏も雪の朝哉」や高杉晋作の都々逸「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」、更にそれを踏まえた落語「三枚起請」も、作中で情事を邪魔したカラスを踏まえたものである。
なお『唐物語』第9篇は張鷟(張文成)と則天武后が絡む話だが、中国典籍が古来不詳。

**松尾芭蕉の俳句
ひごろ憎き烏も雪の朝哉(ひごろにくき からすもゆきの あしたかな)

**高杉晋作の都々逸(どどいつ)
「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」
天保年間、江戸の寄席ではやった「都々逸:どどいつ」らしい。意味は「三千世界」(世の中すべての朝早くから喧しい)「カラス」を殺して、「主:ぬし」(この場合、貴方とゆっくり)「朝寝がしてみたい」。江戸花街での遊女と馴染み客との朝方の睦言の情景を唄ったもの。高杉晋作の作と云われている。
「都々逸」は七・七・七・五の短詩型で、俳句や短歌の仲間ですが、庶民的で三味線と供に唄う江戸情緒豊かな粋な当時の流行歌でした。

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『玉葉』(ぎょくよう)

『玉葉』(ぎょくよう):
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、公家九条兼実の日記。
『玉葉』は兼実の公私にわたる記録。その記述は1164年(長寛2年)から1200年(正治2年)に及ぶ。この時期は院政から武家政治へと政治体制が変動した時期と重なり、源平の争乱についても多数の記述がある。このことから、平安時代末期から鎌倉時代初期の研究を行う上での基礎史料と位置付けられている。

なお、同時期の史料には『吾妻鏡』もあるが、これは鎌倉幕府とりわけ北条氏の立場で編纂された正史に近いものである。一方、九条兼実は関白や太政大臣を歴任した朝廷側の大物であり、『玉葉』は朝廷側の史料と言える。そのことから『玉葉』と『吾妻鏡』は相補的に用いられることが多い。

また当時の公家の日記は、宮中行事を遂行するための所作など(=有職故実)を後世に伝える目的も帯びていた。『玉葉』も例外ではなく、宮中における儀式の次第が詳細に記されている。兼実の孫・九条道家の没後、元本は一条家に伝えられた。九条家に伝わるものは写本である。

別名
『玉葉』は『玉海』『月輪兼実公記』などと呼ばれることがある。このうち『玉海』については、同じ五摂家の二条家が『玉葉』という名称を用いず『玉海』と呼んだのが始まりとされる。
二条家は九条家・一条家とともに兼実の子孫であるが、初代の二条良実は実父の九条道家(兼実の孫)より義絶されているために『玉葉』を含む父祖の文書を受け継がなかった。しかし、二条良基が実子の経嗣を養子にすることに成功して『玉葉』などの一条家に伝わる文書の写本を得ることが出来たと言われているため、『玉海』の呼称は良基が始まりとする説もある。
江戸時代、二条家系の写本が紅葉山文庫に収められたこともあり、水戸藩が大日本史を編纂する時は『玉海』の名で記載された(江戸幕府に要請して紅葉山文庫から貸し出しを受けた)。

影響と価値
公家の日記である『玉葉』がどんな経緯で他人の目に触れるようになったかは定かでないが、鎌倉時代初期から多くの人に読まれてきたものと推測されており、『吾妻鏡』の編纂にも影響を与えている可能性がある。
本書の価値は兼実の識見の高さでしかも表現の明快熟達にあり、さらに記事の随所にある人物評や世相の動向を巧みにとらえて活写している事にある。

公家九条兼実の意図は何であったのか。事の真相を正確に子孫たちの為に残そうということらしい。或いは貴族社会にあっては公文書の役割を。武家政権からの横槍で改竄が加えられないようにある意味私的な文書として残されたようだ。いくつかの写本が残されているのもそれだけ重要な文書と言う位置づけがあり、改竄や削除が行われていないという保証があれば歴史書としての価値は十分ある。

**追記:
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まってる。「戦の天才」と呼ばれた源義経。その象徴的な戦いの1つとして語り継がれるのが「一ノ谷の戦い」で見せた「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」ですが、どうも後世の創作の可能性が高いらしい。論拠は『玉葉』に書かれている内容と鎌倉政権の正史『吾妻鏡』が異なっている。

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九条兼実

九条 兼実(くじょう かねざね):
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。
兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。

生涯
有職の公卿:
久安5年(1149年)、摂政・藤原忠通の六男として生まれる。母の身分は低かったが、異母姉である皇嘉門院の猶子となり(『兵範記』保元元年正月4日条)、保元3年(1158年)には兄・基実の猶子の資格で元服、正五位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられる。永暦元年(1160年)には従三位となり、公卿に列した。 **猶子(ゆうし):猶子は、実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子。漢文訓読では「なほ子のごとし」と読み、中国における本義は兄弟の子。 身分や家格の高い仮親の子に位置付けられることによって社会的に上昇、一家・同族内あるいは何らかの関係を有する他氏族間の結束強化のために行われた。

保元の乱で勢力を後退させた摂関家は、故実先例の集積による儀礼政治の遂行に特化することで生き残りを図ろうとしていた。皇嘉門院の庇護を受けて兼実も学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として異母兄の基実・基房に次ぐ昇進を遂げる。長寛2年(1164年)に16歳で内大臣、仁安元年(1166年)に18歳で右大臣に進んだ。兼実は若年ながら公事・作法について高い見識を有し、特に左大臣・大炊御門経宗の作法については違例が多いと厳しく批判している。しかし、兼実の官職はこの時から20年間動くことはなく、永らく右大臣に留まった。これは欠員が出ず昇進が頭打ちになったこともあるが、所労・病悩を訴えて朝廷への出仕が滞りがちだったことも要因の一つとして考えられる。

治承・寿永の乱
治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、これは兼実に思わぬ僥倖をもたらした。新たに関白となった近衛基通は公事に未練であったため、平氏は兼実にその補佐役としての役割を期待して、兼実の嫡男・良通を権中納言・右大将とする優遇策に出た。兼実は平氏から恩顧を与えられることを「生涯の恥辱」と憤慨しながらも、任官自体は九条家の家格上昇に繋がるため受諾した。公事の遂行について助言を求める近衛基通に対しても、「故殿(基実)の深恩を思う」としてその手ほどきをしている。

治承4年(1180年)の以仁王の挙兵を機に全国各地は動乱状態となり、治承5年(1181年)には清盛が死去して後白河院が院政を再開するなど情勢は目まぐるしく変転するが、兼実は特定の勢力に属さず内乱期を通して傍観者的態度を取った。この時期の兼実は右大臣の要職にありながら朝廷にほとんど出仕せず、後白河院からの諮問には明確な返答を避け、摂政の基通に対しても煩わしさからか公事・作法を教示することはなくなっている。兼実は内心の不満や批判は日記の中だけに止め、それを公言したり、後白河院や平氏に正面切って対峙するようなことは決してしなかったが、貴族社会崩壊の危機に直面して苦慮している後白河院にとっては信を置きにくい存在であり、両者の関係は敵対とは行かないまでも徐々に冷却化していった。

翌治承4年(1180年)、兼実(かねざね)は熊野に向かう自らの護持僧・智詮に自ら書写した『般若心経』と『法華経』を託し、現状の混乱した政治を憂い、自らが権力の中枢に立った暁には「政を淳素に反(かえ)す(すなおで飾りけがないこと。また、そのさま。淳朴。)」(『玉葉』治承4年3月20日条)、すなわち政治の刷新を図って昔のような安定した社会を回復させる決意を示した。
兼実は家司でもあった清原頼業に『貞観政要』の加点を求めるなど、中国の政治書の学習に没頭する。ところが、その最中の同年の暮には平重衡による南都焼討によって東大寺・興福寺が炎上し、兼実は悲嘆することになる。興福寺が藤原氏の氏寺であったという側面もあるものの、同年5月27日の朝議において「謀叛の証拠がない」ことを理由に興福寺への攻撃に反対(『愚管抄』巻第5)し、その後の再建に対する後白河法皇からの諮問でも再建の重要性を訴える一方で、戦乱や飢饉が解決しない中での造営は民を苦しめるだけである(『玉葉』治承5年7月13・15日条)とも説き、神仏への祈祷と徳化(=徳政)の両立と調和を訴えた。この祈祷と徳政の両立と調和によって「政を淳素に反す」という兼実の信念は以後一貫されることになる。

**家司(けいし、いえのつかさ):
家司とは、親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。執事のようなもの?

**『貞観政要』は、中国唐代に呉兢が編纂したとされる唐の太宗の言行録。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」。全10巻40篇からなる。 中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。

政治の中枢から一定の距離を置く兼実が頼みとしたのは、異母姉の皇嘉門院だった。皇嘉門院は兼実の幼少の頃から親密な関係にあり邸宅も接していた。養和元年(1181年)12月に皇嘉門院が崩御すると、兼実は日記に繰り返し哀惜の情を綴っている。皇嘉門院の所領の大部分は兼実の嫡子・良通に譲られており、九条家の主要な経済基盤となった。唯一と言ってよい拠り所を失った兼実は、莫大な財力を持つ八条院への接近を図り、八条院無双の寵臣である三位局(高階盛章の女)を室として良輔を産ませ、実子のいない八条院への養子の送り込みに成功している。ただし、三位局は謀反人である以仁王の室であった女性で兼実にとっては政治的交渉相手の1人に過ぎず、兼実にとって彼女が自分の子を身ごもったのは全くの想定外の出来事であったために生まれた子の扱いに困っていたところ、以仁王を失っていた八条院の意向で彼女に引き取られたとする見方もある。
**八条院:
暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう、1137~1211年):
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院と号した。鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)。近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたる。ほかに母を同じくする姉妹に、早世した叡子内親王と二条天皇中宮となった姝子内親王(高松院)がいる。
終生、未婚であったが、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。以仁王は八条院の猶子であり、王が八条院女房・三位局との間に儲けた子女のうち、男子は東寺長者・僧正となった安井宮道尊であり、女子は三条姫宮と呼ばれた。九条良輔は2歳、昇子内親王は生後3ヶ月ほどで、いずれも幼くして八条院の養子女となり、その著袴・元服などは女院御所で行われた。

内覧宣下
文治元年(1185年)10月、後白河法皇は源義経の要請により源頼朝追討の院宣を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。頼朝は院の独裁を掣肘するために院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、兼実への内覧宣下を柱とする廟堂改革要求を突きつける。頼朝が兼実を推薦した背景には兼実が故実に通じた教養人だったこともあるが、平氏と親密だった近衛家、木曾義仲と結んだ松殿家による政権を好まなかったという事情もあった。もっとも内覧推薦は兼実にとって全くの寝耳に水だったようで、「夢の如し、幻の如し」と驚愕し、関東と密通しているという嫌疑をかけられるのではないかと怯えている。頼朝の要求に対して後白河院が近衛基通擁護の姿勢を取ったため、一時は摂政・内覧が並立するなど紆余曲折があったが、文治2年(1186年)3月12日、兼実はようやく摂政・氏長者を宣下された。

執政の座に就いた兼実は、それまでの病悩が嘘のように政務に邁進する。その様子は日記『玉葉』に詳細に記載がある。兼実の信条は保守的で故実先例に基づき公事を過失なく遂行することを重視したが、その反面「政を淳素に反す」という理念の実現のために必要な改革や徳政の推進については積極的であった。建久2年(1193年)に出された建久新制には兼実の現実的な側面と政治理念が反映されているという見方もある。こうした姿勢によって貴族社会に一定の秩序と安定をもたらした。文治4年(1188年)正月27日、兼実は一門・公卿・殿上人を引き連れて春日社に参詣し、氏神に感謝の祈りを捧げている。

ところが、それから一月も立たない2月20日未明、嫡子で内大臣の良通が22歳で死去した。良通は前夜に兼実と雑談しており正に急逝だった。将来を嘱望していた嫡子の死に兼実は打ちのめされるが、喪が明けると悲しみを振り払うかのように自らの女子の入内実現に向けて活動を開始する。文治5年(1189年)11月15日、女子は従三位に叙され「任子」の名が定められた。文治6年(1190年)正月3日、後鳥羽天皇の元服において兼実は加冠役を務め、任子は11日に入内、16日に女御となり、4月26日には中宮に冊立された。

一方で、この頃から兼実にとって気にかかる事態も生じていた。文治5年(1189年)10月16日、後白河院が権中納言・土御門通親の久我亭に入り種々の進物を献上された。兼実は日記に「人以って可となさず、弾指すべし弾指すべし」と記して通親の動きに警戒感を募らせるが、通親はさらに後白河院の末の皇女(覲子内親王)が内親王宣下を受けると勅別当となり、生母である丹後局との結びつきを強めた。12月14日、兼実の太政大臣就任を祝う大饗では通親と吉田経房が座がないことを理由に退出するなど、しだいに兼実に反発する勢力が形成されていった。

頼朝上洛
文治5年(1189年)に奥州藤原氏を討滅して後顧の憂いがなくなった頼朝は、建久元年(1190年)11月7日に上洛した。9日、兼実は閑院内裏の鬼間において頼朝と初めて対面する。頼朝が兼実に語った内容は以下の通りである。

【読み下し文】
…八幡の御託宣に依り、一向君に帰し奉る事、百王を守るべしと云々。これ帝王を指すなり。仍て当今の御事、無双に之を仰ぎ奉るべし。然れば当時、法皇天下の政を執り給う。仍て先ず法皇に帰し奉るなり。天子は春宮の如くなり。法皇御万歳の後、又主上に帰し奉るべし。当時も全く疎略するにあらずと云々。又下官辺の事、外相疎遠の由を表すと雖も、その実全く疎間無く、深く存ずる旨あり。射山の聞こえを恐れるにより、故に疎略の趣きを示すなりと云々。又天下遂に直し立つべし。当今幼年、御尊下又余算猶遙かなり。頼朝又運有れば、政何ぞ淳素に反らざらんや。当時は偏に法皇に任せ奉るの間、万事叶うべからずと云々。…
【意訳】 …私は八幡の御託宣により、一向に君に帰し奉り百王を守るつもりです。従って当今の御事は、並びなくこれを仰ぎ奉るべきです。しかし今は法皇が天下の政を執り、天子は春宮のような状態ですから、まずは法皇に帰し奉り、法皇崩御の後は主上に帰し奉るべきです。もちろん今も全く主上を疎んずる訳ではありません。また、あなたについてですが、外相は疎遠なように見せかけていても、内実は全く疎間の心はありません。深く考えることがあって、院中の風評を恐れるため、あえて疎略なように見せかけています。天下はいずれ立て直すことができるでしょう。当今は幼年ですし、あなたも余算はなお遙かです。私も運があれば、政は必ず淳素に帰るに違いありません。今のところは法皇に任せ奉る他ありませんので、万事思うようには行きません。…

**八幡神(やはたのかみ、はちまんしん): 日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。

— 『玉葉』建久元年11月9日条
上洛中に兼実と頼朝が何度会ったかは定かでないが、『玉葉』による限り両者の対面はこの一度きりであった。そして皮肉にも翌年から反兼実派の動きはむしろ活発となり、兼実は窮地に追い込まれることになる。

建久2年(1191年)4月1日、頼朝の腹心・中原広元が土御門通親の推挙により、慣例を破って明法博士・左衛門大尉に任じられた。4月5日には頼朝の女子(大姫)が10月に入内するのではないかという風聞が、兼実の耳に入っている。6月26日、覲子内親王が院号宣下を受けて宣陽門院となった。通親は宣陽門院の執事別当となり、院司には子息や自派の廷臣を登用して大きな政治的足場を築くことになる。兼実は元来、宣陽門院の生母・丹後局に良い感情を持っていなかったが、院号定には所労不快ながら、追従の心切なるによって参入している。7月17日、兼実の家司が法皇を呪詛しているという内容の落書が、丹後局から兼実に示された。11月5日、一条高能(一条能保の子、母は坊門姫)と山科教成(丹後局の子)の近衛中将、少将への補任について後白河法皇から諮問されるが、兼実の返答は法皇の逆鱗に触れた。これを聞いた兼実は「無権の執政、孤随の摂籙、薄氷破れんとす、虎の尾を踏むべし、半死半死」と自嘲している。「愚身仙洞に於いては疎遠無双、殆ど謀反の首に処せらる」(『玉葉』建久3年正月3日条)とまで追い詰められていた兼実だったが、建久3年(1192年)3月13日、後白河院が崩御したことで長年の重圧から解放された。

**中原広元:
大江 広元(おおえ の ひろもと)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。当初は中原姓を称し、中原 広元(なかはら の ひろもと)といった。大江姓に改めたのは晩年の建保4年(1216年)に陸奥守に任官した以後のこと。 はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府と公文所(後の政所)の初代別当を務め、幕府創設に貢献した。広元の出自は諸説あり、その詳細は不明。
広元の兄・中原親能は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。寿永2年(1183年)10月に親能は源義経の軍勢と共に上洛し、翌元暦元年(1184年)正月にも再度入京して頼朝の代官として万事を奉行、貴族との交渉で活躍した。
その親能の縁で広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となる。さらに頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、その別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。『吾妻鏡』文治元年11月12日の条によると、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであるという。 正治元年(1199年)の頼朝死後は、後家の北条政子や執権・北条義時と協調して幕政に参与した。承久の乱の際は嫡男・親広が官軍についたため親子相克する。『吾妻鏡』は、広元はあくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者の一人と記している。 和田合戦(**和田合戦は、鎌倉時代初期の建暦3年5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱)に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟において、広元が執権の義時とともに「連署」をした文書が存在する。また頼朝が強いつながりを持っていなかった土御門通親などの公卿とも独自の連絡網を持っていたことなども明らかになっている。こうしたことから、広元の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る重要な地位を占めるものだったことが指摘されている。
なお、頼朝の在世中、鎌倉家臣団は棟梁の最高正二位という高い官位に対し、実弟の範頼、舅の北条時政をふくめ最高でも従五位下止まりという極度に隔絶した身分関係にあったが、参入以前に既に従五位下であった広元のみは早くから正五位を一人許されており、名実とも一歩抜きん出たナンバーツーの地位が示されていた。頼朝死後も、最高実権者である北条義時を上回る正四位を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたといえる。

**覲子内親王(きんしないしんのう、1181~ 1252年):
平安時代後期の皇族、女院。後白河天皇の第六皇女で、女院号は宣陽門院(せんようもんいん)。母親は高階栄子(丹後局)。

失脚
法皇崩御により兼実は一転して廟堂に君臨し、誰を憚ることもなく朝政を主導することになった。頼朝に征夷大将軍を宣下し、南都(奈良)復興事業を実施するなど、兼実の政治生活では一番実り多い時期が到来するが、それも長くは続かなかった。後白河院崩御後に新たな治天の君となった後鳥羽天皇(承久の乱で敗北し後に隠岐に流される)や上級貴族は厳格な兼実の姿勢に不満を抱き、一方で院近臣への抑圧は宣陽門院を中心に反兼実派の結集をもたらし、門閥重視で故実先例に厳格な姿勢は中・下級貴族の反発を招いた。そして頼朝も大姫入内のために丹後局に接近し、兼実への支援を打ち切った。こうして朝廷内で浮き上がった存在となった兼実であったが、自らの政治路線を譲ることなく、故実先例に拘るよりも自らの治天の君としての立場の強化を図ろうとする後鳥羽天皇との対立は深刻化していく。だが、中宮・任子が皇子を産まなかったことで廷臣の大半から見切りをつけられ、建久7年(1196年)11月、関白の地位を追われることになる。

浄土宗に帰依
失脚した兼実は二度と政界に復帰することはなく、建仁元年(1201年)12月10日には長年連れ添った室(藤原季行の女)に先立たれ、建仁2年(1202年)正月27日、浄土宗の法然を戒師として出家、円証と号した。兼実は将来を嘱望されていた長男・良通が早世した心痛から専修念仏の教えに救いを求め、法然に深く帰依するようになった。法然の著作『選択本願念仏集』(『選択集』)は兼実の求めに応じて、法然が著したものである。
しかし、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』などによると、兼実は法然が唱える悪人正機の教えに少々信がおけなかった。そこで、自分達のような俗人や、戒を破った僧までもが本当に念仏を唱えることで極楽浄土に往生できるのか確かめようとした。法然の弟子の僧と自らの娘を結婚させてその僧を破戒僧にしてみようと考えたのである。本当にそれでもその僧は浄土に往生できるのかを確認しようとしたのである。そのような破戒僧でも往生できるのならば自分のような俗人でも往生できるであろうと。その話を法然に持ちかけたところ、法然は、かつては兼実の弟である天台宗の慈円の弟子でもあった綽空(のちの親鸞)を指名し、あまり乗り気ではなかった綽空を説得して兼実の娘の玉日と結婚させ、兼実を安堵させた。

晩年
次男・良経は土御門通親死後の建仁2年(1202年)12月に摂政となるが、元久3年(1206年)3月に38歳で急死したため、兼実は孫の道家を育てることに持てる全てを傾けた。建永2年(1207年)2月に起こった専修念仏の弾圧(承元の法難)では、法然の配流を止めることはできなかったが、配流地を自領の讃岐に変更して庇護した。その直後の4月5日、兼実は59歳で死去した。京都法性寺に葬られ、墓は東福寺にある。 兼実は若い頃から和歌に関心が深く、自ら和歌を能したほか、藤原俊成・定家らの庇護者でもあった。40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る第一級の史料として有名。他の著作に『魚秘抄』『摂政神斎法』『春除目略抄』がある。

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科学的な見方

地球の歴史の見方は、ここ数十年で大きく変化した。その最大の原因はプレート理論の発展だ。地表の大陸の分布は、その下にある流動するマントルという巨大な部分の絶え間ない運動に支配されている。地球という巨大な生き物は今も我々の下でいまも動き続けており、人を含むすべての生物の運命を支配している。
生物の進化の粗筋もかなり見えて来た。生命という存在もどうも宇宙において地球だけのものでは無いようだ。地球の上に生じた、偶然ともいえる事象の積み重ねが今の人類の存在にも繋がっている。
ダイヤモンド博士に発せられた「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのか?」という、ニューギニア人の賢者から発せられた問いに対して、「単なる地理的な要因」(例えば、ユーラシア大陸の文明がアメリカ大陸の文明よりも高くなったのは大陸が東西に広がっていたためだから等)という仮説を提示し、「ヨーロッパ人が優秀だったから」という従来の根強い人種差別的な偏見に対して反論を投げかけ、世界的なベストセラーとなった。さらに、補足すると、もしニューギニア人の先祖がたまたま今のヨーロッパに住み着いて、白人の先祖がニューギニアやオーストラリアに住み着いていたなら、君たちニューギニア人の子孫たちが世界を席巻することになったはずだということだ。まさに地球の歴史という観点からの見方だ。
多くの歴史的な物の見方には、著者本人も気づかないうちに、根強い人種差別的な偏見、特定の宗教的な偏見、職業的な偏見などに左右されがちである。
実際に歴史を動かして来た原動力は、自然災害、異常気候からの不作やその結果生じた民族の大移動など、偶発的で対応の難しい事態への必死の対応の連続であったはずだ。歴史の勝者も敗者も各々懸命に生きて来たわけで、その知恵を学び後世に活かすことが歴史を学ぶ意義になるはずだ。歴史には必然的な部分と極めて偶然的な部分が混在している。そして、一度変化が進むと後戻りできない所がある。だからこそ科学的推論が不可欠な訳だ。

歴史一般

世界の歴史の部屋

勧善懲悪の世界観

 世の中、良いことと悪いこと、この区別が明確にされていると楽ですね。従って、世の中を一つの基準で断定的にさばいていく考えは、大衆には大歓迎されます。時代が不透明なほど、一刀両断で思考の不要な考えが人気を博するようになる傾向が有りますね。
 時代劇を見てみましょう。例えば、定番にもなっている「水戸黄門」。必ず悪役が出てきて、悪事の限りを徹底して行う。でも、最後に悪事が発覚し罰せられて、めでたし、めでたし。NHKの大河歴史ドラマも予め筋が分かっている。歴史の流れに逆らった悪役が最後に滅ぼされる。基本的に「勧善懲悪型」のドラマは歓迎されます。以前、NHKの大河歴史ドラマで足利尊氏がヒローとして取り上げられたことがありました。確か視聴率は余り良くなかったかと。世の中の価値観が変わりつつあるこの時代、敵味方着いたり、離れたり誰が敵で誰が味方か混沌として分かりにくいですね。戦争中は、足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻した逆賊として評価されていて(誰が決めたんでしょうかね。)、戦後も足利尊氏をヒローとして歴史小説を書くことはタブーだったことも人気がイマイチの理由かもしれませんが。でも、歴史小説としては室町時代は非常に面白い題材だと思います。
 この世の中を二分法で善悪を判断するは、日本だけでなく世界中で、また歴史上でも現在でも好まれる傾向があります。しかし、この判断で見た相手方は、実際は想像上の産物です。当然相手方にも言い分があるし、相手方もこちらを悪の塊と捉えているでしょう。だから、逆に視点から見ることも大切なのです。ヒール(悪役)の言い分こそ実は面白い。

【勧善懲悪世界観…どこにでも見られる】(2022.1.13)
マルクス主義のそんな面があって好きになれない。資本家階級が悪で、科学者や技術者はプチブルで悪。文化大革命で大勢の優秀な若者が地方の寒村に送られ強制労働をさせられた。その結果、中国経済は大いに停滞してくれた。
自民党もやったね。小泉首相の抵抗勢力。気に入らない者は皆悪人だ。
今の韓国、反日は善で親日は軍国主義者。

歴史一般

世界の歴史の部屋

土偶を読む

何とも画期的な本が出たものだ。著者は竹倉史人さん。晶文社。縄文時代の歴史、弥生時代も含めて書かれた文書など残っていないので、古代人の残した遺跡や遺物を頼りに紐解いていくしかないだろう。しかし、縄文人の文化は現代まで脈々と受け継がれており、古代人がどのような意図を持って土偶や土器などを残したかやはりどうしても知りたい謎だ。

縄文土器については、梅原猛氏の哲学的研究がある。世界にも誇る芸術的価値を火炎土器などに見いだしている。確かに火炎土器などのように装飾性豊かな作品は、製作にも多大な労力がかかり、技巧を高めるための修練も必要だろう。日常生活に必要なものとも思えないし、生活の片手間に製作した物とも思えない。専門家集団が深い精神的な思いを込めて丹精込めて作りこまれた作品のようだ。確かに土器と向き合い観察することはある意味、縄文人との対話だ。でも、対話を成立させるには、自分を縄文人の立場に置いてみないと始まらない。どのような社会で何を食べてどんな労働をやっていたか、幅広い見地からの考察が不可欠だ。

一方、縄文土偶もかなりユニークは作品だ。竹倉氏の解釈は、植物霊祭器と言うもの。土偶の顔をつぶさに眺めればそこには、胡桃や里芋等の姿が浮かび上がって来る。それだけならば、過去色々と提案された土偶の解釈が一つ増えただけに終わってしまう。縄文人との対話と言う以上、縄文人の当時の生活と密接な関係が無ければならない。 古代人の考えを、アニミズムとか呪術とかで割り切ってしまっては理解不能だろう。現代人の科学も一般人にとっては、単なる宗教的な信念見たいなものであるのと同じく、古代人にとっての呪術やアニミズムも彼等に取っては立派な科学なのだ。つまり、狭い学問領域に拘っていたら彼等の科学は理解できない。

縄文時代を狩猟採集生活と位置づけいたら、土偶が植物霊祭のお守りと言う発想にはならない。縄文人は既に定住生活を行っており、世界に先駆けて(他の世界の調査も必要だが)農耕文明の段階に入っていたようだ。つまり、食生活はかなり植物性の食料が多用されていたことが明かになる。これは近年の科学的成果と言えよう。

縄文農業は、弥生時代の稲作一辺倒のモノカルチャーと異なり、木の実等を取り入れたマルチカルチャーで、当時の食卓は弥生時代よりはバライティに富んで豊かなものだったようだ。その代わり、彼等の定住の場所は、山地や森の近くで、低湿地に移るのは稲作の進展を待たねばならなかった。

農耕民が栽培植物を神格化するのはある意味当然。と言うより、栽培植物は手間のかかる子育てと同じく、大事な家族の一員なのだろう。これは、日常生活で使う道具にも適用されるように。この発想は、弥生時代にも受け継がれて、脈々脈と現代まで受け継がれる日本的精神の一つにもなっている点も注目だ。

ここまで、準備が出来れば、後は個々の土偶を分類整理すれば、実証的な研究に入れる。農耕作物の分布や花粉分析、古気候、地形、色々と利用できるデータが沢山ある。縄文研究に一石を投じる名著だ。

書評
『土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社)著者:竹倉 史人Amazon |honto |その他の書店
◇縄文時代は植物と人間の違いが認識されていなかった⁈
鹿島さんは吉本隆明の『共同幻想論』を読み直す中で、古代には植物と人間の再生産の差異が認識されていなかったという仮説に注目しています。植物と人間の区別がなく、植物の豊饒(実が大きくなっていくこと)と人間が妊娠しお腹が大きくなることが同一視されていたのではという仮説です。

竹倉さんも、古代人が植物と動物というものを区別していなかったという説をとります。フレイザーの『金枝篇』に影響を受けた竹倉さん。土偶は、縄文人が自分が採集した食用植物をかたどったのではないかという結論にたどり着きます。

鹿島茂さんの大好きなフランスの19世紀の画家のグランビルも、植物の擬人化を行っています。植物の擬人化というのは突拍子もないことではないのです。

◇サトイモ、オニグルミ、ハマグリ…縄文人が採集・食べていたもの 竹倉さんによると、土偶はサトイモ、オニグルミ、ハマグリなど縄文人が採集しているものをかたどっているとのこと。竹倉さんは、土偶が発見された森にいき、当時の植生を調べ、縄文人の食生活に思いを馳せて、土偶のもととなる植物を特定していきます。このようなイコノロジー(形状の類似)的な方法は従来の縄文研究とは一線を画す、大胆な仮説です。 竹倉さんが土偶は植物ではないかとひらめいたきっかけがサトイモ。竹倉さんは剥いたサトイモしか食べたことがなく、あるとき、神社で皮付きのサトイモをごちそうになり、閃いたそう。この他、対談では、オニグルミやハマグリの話など、『土偶を読む』に所収された土偶の話を著者の竹倉さんが語っていきます。

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ホツマツタヱ

日本には、漢字が伝わる前からいわゆる「神代文字」と言うものが存在していたとの説は昔からあるようだ。たまたま高校の先輩・早坂光平さんが、何かに「縄文文化として、実は「ホツマツタヱ」と云う12万文字に及ぶ史書があった。それを受け入れるか否か?日本文化の問題だ。」と書いていたことに気がついた。確かに漢字が伝わる前には一切文字が無かったというのも一種の仮説かも知れない。文字を知っている人達の方が、新しく入って来た文字の便利さに気がつくのも速いし、古い文字は廃れて歴史の舞台から消えてしまったとものとも考え得る。「ホツマツタヱ」の他にも古代文字の候補はあるらしいけど。

ヲシテ文字 『ホツマツタヱ』は、「ヲシテ」なる「文字」(いわゆる「神代文字」の一つである)を使っているいわゆる「ヲシテ文献」のひとつ。勿論一般的には偽書と認識されている。一方で、『古事記』『日本書紀』の原書であると根強く考える者も存在するらしい。何か根拠があるのだろうか。偽書だとすれば、一体だれがそんなものを作ったでしょうか。

『ホツマツタヱ』は、五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)・10700行余で構成された、肯定派の研究者によれば記紀の「原書」であるという、いわゆる「古史古伝」のひとつとか。その成立時期は、記紀との内容比較から『古事記』『日本書紀』よりも古くなければならない。しかし、写本の出現時期などからは少なく見積もっても、江戸時代中期までしか遡れない。『春日山紀』(安永8年、1779)の存在による(『春日山紀』は、江戸時代当時の木版活版での印刷出版物である。岩波書店版『国書総目録』に記載あり)。

『ホツマツタヱ』については安永8年版と安永9年版の二種類の版本が『春日山紀』にある。『春日山紀』には、『ホツマツタヱ』の40アヤの各所からの引用文がヲシテ文字の原文で縦横に掲載されている。同様の文字による古文書である『ミカサフミ』(「三笠紀」)『フトマニ』(「太占」)も発見されている。この3書に使われている文字は同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。

ホツマツタヱの内容
(小笠原長弘写本ハツアヤより)。全編がこのようなヲシテによる長歌で記述される。ヲシテの右にあるのは、伝承中に付加されたふりがな。
『ホツマツタヱ』は、アメツチの始まり(天地開闢)から、カミヨ(記紀にいう神代)、そして初代人皇のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のヲシロワケ(景行天皇)の56年までを記述している。
また、歴代の天皇のイミナ(実名)と陵墓、伊勢神宮他主要な神社の創建のいわれ、ヤマトコトハ(大和言葉)の語源なども述べられている。真書であれば、日本の国の創建と古代日本の文明を明らかにする書物ということになるが、その根拠は乏しい。

まあ、とりあえずこの「ヲシテ」なる「文字」を見てもらおう。「ホツマツタヱ」とはこの文字で書かれた歴史書ということだ。だからこの文字が縄文時代に粘土板なり毛皮なり木材なりに書かれていた考古学的な証拠の発見が無い限り、この歴史書は偽作とされてもやむを得ないね。
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この文字群を見れば一目瞭然。明らかにこれらは表音文字。ア行は〇、ウ行は△、オ行は□等非常にシステマチック、子音の方も同様だね。韓国語のハングルにも似ている。エジプト文字だってかなりの表意文字の要素が多い。ハングルの成立は1443年、15世紀だ。江戸時代は17世紀から。ハングルの影響もあるかも。カタカナやひらがなよりも遥かに覚えやすい。これを使って、古事記や日本書紀を書き換えたと考えた方が辻褄が合う。一種の暗号作成みたいだ。

しかし、何故このようなことを誰がやったのか。本居宣長等を中心に進められた国学思想が源流にありそうだ。神代の時代から日本は天皇が支配していた?でも、縄文時代に既に文字があった?確かにワクワクする仮説だ。敢えて反論する必要もなさそうだ。
また南北朝時代に南朝方が作った、或いは鎌倉時代に皇室側で密かに作られていた? 色々な可能性があるらしい。

でも、縄文人に近いとされているアイヌ民族も文字を持っていないようだし。古代の出来事はやはり口承で伝えられてきたと考えた方が本筋かも。

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長髄彦

長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する伝承上の人物。神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人。神武天皇との戦い(神武東征)に敗れ、殺されたとされている。 『日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。

『古事記』では特に討伐の場面もなく主君の邇芸速日命が神武天皇に服属したとするが、『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため饒速日命(にぎはやひのみこと)の手によって殺されたとされる。
『先代旧事本紀』では神武天皇が紀伊半島を迂回し長髄彦と再び対峙した頃には、既に邇芸速日命は亡くなっており、宇摩志麻遅命が天孫(神武天皇)への帰順を諭しても聞かなかったため殺したとする。なお、長髄とは『日本書紀』では邑の名であるとされている。

時は弥生時代。魏志倭人伝によると「倭国大いに乱れ」とあり、環濠集落の遺跡も発見されており、人々の心に残る戦争もあったらしいことは伺える。大和王権が勢力拡大を図った際に抵抗した人達がいたであろうことは推察できる。場合によっては政権内部での争いだった可能性もあるが。
長髄彦と言う名前、「脛が長い」と単純に解釈するのも無理がある。例えば縄文系の人達は脛が長い?? まだ文字が無かった時代だから、音を頼りに漢字を当てはめたとしておく方が無難だ。ただ、長髄彦を祭っているという神社も存在しているし、何らかの鎮魂の必要性があったようだ。そもそも、神武東征と言う行為は何なのか? 邪馬台国は九州にあった??

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アテルイ

アテルイは、日本の奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。続日本紀では「阿弖流爲(あてるい)」、日本紀略では「大墓公阿弖利爲(おおはかのきみあてりい)」。 8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長とされる。史実にはじめて名前がみえるのは、古代日本の律令国家(朝廷)による延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いにおいて、紀古佐美率いる官軍(朝廷軍)の記録中。その後延暦二十年の征夷が終結した翌年胆沢城造営中の坂上田村麻呂の下に盤具公母禮(いわとものきみもれ)とともに降伏し、田村麻呂へ並び従い平安京へ入京、公卿会議で田村麻呂が陸奥へと返すよう申し出たことに対して公卿達が反対したため河内国□山で母禮とともに斬られた。 降伏した訳では無く騙し討ちだったとの説も。

それまでの大和朝廷は、朝鮮半島への侵出には熱心であったが、半島や大陸の勢力が固まって来るにつれ、半島へのこれ以上の勢力拡大は阻まれるように。関東以北の地域への勢力拡大を図るように。蝦夷社会にとっては、明かにこれは侵略行為であり、アテルイはそれに抵抗を試みた英雄と言う位置づけだね。アテルイ側は平和的共存を願ったようだが、結局田村麻呂に騙された形となった。ただ、アテルイ側の反撃で朝廷側も多大の損害を被ったらしい。 大和朝廷の目論見は?

ウェルキンゲトリクス
**アレシアの戦い アレシアの戦い(Alesiae pugna)あるいはアレシア包囲戦は、紀元前52年の8月から10月にかけてガリア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた戦闘である。古代ローマにおける包囲戦の中では最も大規模なものの1つであった。
規模はこちらの方が遥かに大きいようだけど、戦いの性格はよく似ている。いわゆる文明の衝突か。米国の白人とインディアンの戦いも同じか。
この戦いの結果、紀元前58年から続いたガリア戦争は実質的に終結し、ガリアはローマの属州となってその版図に組み込まれることとなった。でも、ウェルキンゲトリクスは今でもガリア解放のために戦ったフランス最初の英雄として尊敬されている。奥州が大和政権に組み込まれる。米インディアン達は白人の支配に屈することに。
これからの歴史の研究では、アテルイ側に立った研究も大事だね。当時の蝦夷地だって今の日本だから。

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魏志倭人伝

魏志倭人伝:
中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)~ 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
ただし、周辺国の地理書としであり、倭人条はほんの一部と言える。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれたようだ。

「東夷伝」に倭奴国王が後漢・光武帝から印綬を受領したとの記事がある。→志賀の島で発見されたという金印?
「魏志倭人伝」では卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女(一族or宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。

3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。 この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。

中国の文献以外の証拠となりそうなもの
吉野ケ里遺跡、 纏向遺跡

【烏丸鮮卑】
烏丸(うがん)は 漢―北魏(ほくぎ)間の中国北方にいたアルタイ語系遊牧民族。 烏桓とも書く。 古くは東胡(とうこ)とよばれ、東胡が紀元前3世紀末に匈奴(きょうど)に撃破されると残部は2部に分かれ、北方シラムレン川流域を根拠地としたのが鮮卑(せんぴ)、南方ラオハ川流域に根拠地を置いたのが烏丸(うがん)とよばれた。
**烏丸と検索すると、京都の烏丸通の方が出て来るので困るね。

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アラハバキ

アラハバキは、主に東北地方から関東地方で信仰されてきた神。記紀神話や伝統的な民話などに登場しない謎の神で諸説あるが、「荒覇吐」「荒吐」「荒脛巾」「阿良波々岐」などと表示され、現代でも全国各地の神社でひっそり祀られている。但し、客人神(門客神)となっている例が多い。これは、「元々は主神だったのが、客人(まれびと、まろうど)の神に主客転倒したもの」といわれる(cf. 地主神)。
神社では、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神、また「足の神」とされてきた。(多賀城市の荒脛巾神社の祭神「おきゃくさん」は、旅人らから脚絆等を奉げられてきたが、下半身全般をも癒すとされ、男根像も奉げられる。(cf. 金精神))
明治の神仏分離以降、各神社の祭神は記紀神話の神々に比定され変更されたが、荒脛巾の場合は「脛」の字も相まって、大和王朝(神武天皇)に敗れた側の「長脛彦」とされることがある。

古史古伝『東日流外三郡誌』の影響力が強く、偽書とされながらも、その後、アラハバキ「縄文の神」説、「蝦夷の神」説は定着している。遮光器土偶のイメージとしても世間には広まった。
ウェブの言説などでは、「瀬織津姫」や「大元帥明王」らとの習合もみられるが、これらのシンクレティズムが昔日からのものか、現在信仰形なのか、明確ではない。

【シンクレティズム(英語: syncretism)】
シンクレティズム(英語: syncretism)とは、別々の信仰、文化、思想学派などを混ぜ合わせること。異なる信念や実践の組み合わせ。異なる複数の文化や宗教が接触して混交している状態や現象。違った背景をもち、互いに異質の宗教、哲学的立場、神学的立場を妥協させようとする行為、またその結果生まれる考え方。「混合」(混合主義)、「習合」(習合主義)、「諸教混淆」(しょきょうこんこう)ともいう。また「融合」「混交」「複合」「重層」などの訳語も使用されている。
シンクレティズムという概念や用語は、異なる芸術や文化が合体・融合するさまを指すのにも使われる(「折衷主義」とも)。政治の分野でも使われている(政治的シンクレティズム)。
**日本の仏教と神道は江戸時代まではズット融合していた形で存在していた。シンクレティズムの典型例であった訳。

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鄭成功

鄭 成功 鄭 成功(てい せいこう、郑成功、拼音:Zhèng Chénggōng、郑成功、1624年~1662年):中国明代の軍人、政治家。肥前国松浦郡の平戸で誕生。日本名は福松。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蔣介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。

肥前国松浦郡の平戸で、父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれた。父・鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦(現在の長崎県平戸市川内町字川内浦)に住んで、田川マツを娶り鄭成功が産まれた。たまたま、マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて鄭成功を出産したという逸話があり、この千里ヶ浜の南の端にはこの逸話にちなむ誕生石がある。

幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建に移る。鄭一族は泉州府の厦門島、金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、泉州府南安県の生員になった。以後、明の陪都・南京で東林党の銭謙益に師事している。
幼かった弟は母と共に日本に留まり、田川七左衛門と名付けられて日本人として育った。長崎で商売が成功した七左衛門は、鄭成功と手紙でやり取りを続け、資金や物質面で鄭成功を援助していた。

明の滅亡
1644年、李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍な清の軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった。

そんな中、鄭成功は父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、鄭成功は決して朱姓を使おうとはせず、鄭姓を名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。

隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、父鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたが、鄭芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。
その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。

1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。 意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
北伐軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。

ゼーランディア城攻防戦 ☆☆
1660年代から生産が始まった有田焼の柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたもので、初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、明の海禁政策により景徳鎮の陶磁器を扱えなくなった鄭成功が有田に目を付け、景徳鎮の赤絵の技術を持ち込み有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっている。

鄭成功は勢力を立て直すために台湾を占領し拠点にしようと試みた。当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していたが、鄭成功は1661年に澎湖諸島を占領した後に同3月30日からゼーランディア城を攻撃(ゼーランディア城包囲戦)、翌1662年2月21日にこれを落としてオランダ人を一掃し鄭氏政権を樹立した。ゼーランディア城跡に安平城を築き王城とし、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して国家体制を固めたが、熱病にかかり同6月23日に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれた。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。

☆☆
ゼーランディア城包囲戦後、降伏したオランダ人男性は虐殺され、生き残ったオランダ人女性と子供はその後奴隷にされ、オランダ人女性は鄭成功の指揮官達が自分たちの性的快楽のために徹底的に利用した後、最終的に中国の兵士に売られて彼らの妻となるよう強いられた。その後の出来事については、オランダの砦の日誌が一次資料となっている。「最高のものは指揮官の使用のために保存され、次に一般の兵士に売られた。未婚の男の手に落ちた女性は幸せだった、嫉妬深い中国の女性による煩わしさから解放されたのだから」。鄭成功自身もオランダ人宣教師のアントニウス・ハンブルクの10代の娘を妾にし解放することはなかった。1684年になっても、これらのオランダ人女性の何人かは中国人に妻や性的奴隷として捕らえられていた。金門島でオランダ人商人が連絡を取り、鄭成功の息子に囚人を解放する取り決めを提案したが、実現することはなかった。
**この辺のことは話半分に信じた方が良いかも。オランダ人の証言だろう。この時代の風習としては欧米各国でも似た話は尽きない。アフリカでは奴隷狩りすら行われていた時代だから。

鄭成功は自身の目標だった「反清復明」を果たす事なく死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことから、台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」「民族の英雄」と評価されている。中国や台湾では英雄と見なされており、福建省廈門市の鼓浪嶼では、鄭成功の巨大像が台湾の方を向いて立っているが、「中国で英雄視されている鄭成功が日本と中国のハーフであり、その弟が日本人として育ち日本で商売をしていたというのは、中国人からすると複雑な感情なのかもしれない」という指摘がある。台湾城内に明延平郡王祠として祠られており、毎年4月29日復台記念式典が催されている。

中華民国海軍の成功級フリゲート一番艦には鄭成功の名を取り、「成功」と命名されている。
国姓爺合戦(こくせんやかっせん):
正徳5年 (1715) に大坂竹本座で初演された、近松門左衛門作の人形浄瑠璃および歌舞伎の演目の、原案の時点における題。物語は実在の国姓爺こと鄭成功の生涯に沿いながらも、その結末は史実とは大幅に異なるものとなったため、初演直前に「国姓爺」を「国性爺」と直したとされている。

台湾独自の政権の政権として、歴史上台湾は大陸の王朝に支配された歴史的事実は一度も無い。つまり、今の一つの中国のルールは台湾人にとっては納得できないもの。現に台湾を独立国と見なし外交関係を有している国もある。

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火薬の歴史

世界を変えた火薬の歴史;クライヴ・ポンティング著-国家の盛衰を左右した兵器。
   火薬の発明は、羅針盤、印刷術と同様に、ルネサンスの3大発明であると西欧人は思っていた。羅針盤、印刷術は今では中国人がずっと前から使っていたことは常識。ところが、火薬に関しても、ほんの50年ほど前にこれに対する反証が挙げられた。
  火薬の発明は、本書によれば、科学技術の先端を突っ走るヨーロッパでなくて、なんと9世紀初頭の中国。1000年以上前のことだった。不老不死の霊薬を求めた道教の錬丹術師が偶然発見(発明)したようだ。古代中国の時代から医薬品だった木炭、硫黄、そして硝石の混合物が「火の薬」と判明したのだ。今日の黒色火薬である。
元寇
火薬は直ちに軍事機密とされ、その後12~14世紀の中国では、例えば、火炎放射器の「火槍(かそう)」、最初の爆弾の「震天雷(しんてんらい)」、軽量爆弾の「群蜂砲」、なんとも奇妙な名称の火薬兵器が作られている。中国は周囲を強力な騎馬民族(遊牧民)に囲まれているため防衛の必要上からも研究が進められたようだ。
特に宋に時代は、北半分を女真族に取られ、南の半分の南宋はモンゴルのフビライによって制圧されてしまう。この時モンゴルは火薬の技術を手に入れたようだ。モンゴルの波状的な西方への軍事遠征に火薬が有効に使われたようだ。あんな小型の蒙古馬だけでは世界征服などできるわけがない。制圧されたイスラム世界で硝石は「中国の雪」、ロケットは「中国の矢」と呼ばれたという。つまり、モンゴルの世界征服は火薬の技術おかげだったようだ。日本も元寇の際にはこの火器に相当悩まされたらしい。モンゴル人は中国人の裏切りを恐れ色目人を優遇しため、火薬技術は世界に拡散していく。
この火薬の利用は、歴史を大きく動かす原動力となったようだ。 モンゴル帝国が崩壊した後、火薬兵器を最大限に生かしたのがオスマントルコとインドのムガール帝国だという。また、チムール帝国もこの仲間だろう。日本でも織田信長の天下統一が加速する。種子島に伝わったという鉄砲は、特に最先端のものではなく既に中国にもあったものかも知れない。その後鉄砲の生産高も品質も日本は多分世界のトップクラスだったと言われる。オスマントルコと対峙した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、領土と奪われ最後は首都コンスタンティノープルを残すだけになるが、この時ローマ側は「ギリシャの火」という兵器を用いてトルコ側を散々てこずらせたとあるが、これも何らかの火薬技術だろうが正確な記録は残っていないようだ。
 その後、火薬兵器を装備したイスラム勢に対峙したヨーロッパ勢は前代未聞の艱難(かんなん)辛苦を嘗(な)めさせられた。14世紀のイタリアの桂冠(けいかん)詩人ペトラルカが火薬兵器を「地獄から送られてきた道具」と嘆息したのも宜(むべ)なるかなであった。おしなべて低温のヨーロッパにおいて、火薬の製造は難しく、硝石の生成も、また腐敗した有機物の結晶化以外に方法がなく、悪臭と闘わねばならなかったらしい。
その後、中国は明から清になり平和が続くにつれ、危険な火薬兵器は国が独占するようになるため新規の開発がなされなくなる。日本の徳川幕府も、火薬兵器の威力を十分理解していたため他大名には作らせないよう国が独占する。その間に戦争に明け暮れたヨーロッパ諸国に水を開けられたのかも。しかし、ヨーロッパ諸国だけが何故勝者として君臨できたのかはもう少し納得のいく説明が欲しいところだ。
火薬兵器は、今まで統一されてなかった民族の統一が急速に進む効果もあった。アフリカでも新しい国がいくつも出現する。チベットなんかもそうだろう。仏教寺院なども火器に対抗できるよう城のような形をしている。ハワイのカメハメハ大王なんかも火薬兵器を利用して、ハワイ全体を統一したらしい。アメリカインディアン達だって、馬に乗って銃で武装した集団で戦っている。ロシアのコサック騎兵達のシベリア征服も鉄砲の力だろう。

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モンゴルの世紀(Pax Mongolica)

元版図
13~14世紀(1201~1400年)は、チンギス・ハーンの興したモンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を支配したため、モンゴルの世紀と呼ばれる。モンゴル帝国は交易を奨励、保護しユーラシア大陸を陸路、海路で結ぶ一大交易網が成立した(シルクロードの発展)。ユーラシア各地を多くの技術や情報が行き交い、世界史の転換期のひとつとなった。
テムジン テムジン
1206年周辺部族をまとめ上げ、テムジンはクリルタイ(族長会議)で大ハーンに選出され、以後ヂンギスハーンな名乗る。これより破竹のごとく膨張が始まる。まずは周辺の大国を次々に滅ぼす。西遼(1211)、ホラズム王国(1220)、西夏(1227)、ここでヂンギスハーンは亡くなる。2代目、オゴタイハーン(位1229~41)。金を征服(1234)。
ヂンギスハーンには4人の子がいる。ジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイ。遊牧民の伝統では末子相続が一般的だったらしい。
モンゴル版図 ① 長男ジュチは西へ進み、その息子もバトゥもそれを引き継ぎ、キプチャク=ハーン国
② チャガタイ、オゴタイはチャガタイ=ハン国(中央アジア)、オゴタイ=ハン国(西北モンゴリア)を形成。
③ 末子トゥルイの子フラグもイランにとどまりイル=ハン国を興す。
④ 末子トゥルイの子フビライは南宋を滅ぼし元を建国する。
しかし、版図が広がるにつれて、一族の結束はだんだん緩くなり、時には対立するようになる。中国贔屓のフビライが強引に5代目を襲名するとどうもフビライの一人勝ち、反発も出て来るんだろう。
元寇とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗王国による2度にわたり行われた対日本侵攻。1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)。弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であったらしい。朱元璋(太祖・洪武帝)が元を追いやり明を建設するのが1368年なのでまだしばらくは元の時代が続く。

モンゴル人の快進撃は、火薬(火器)の利用を考えないと説明できそうにない。「世界を変えた火薬の歴史;クライヴ・ポンティング著」にあるように、宋に時代には中国は、北半分を女真族に取られ、南の半分の南宋はモンゴルのフビライによって制圧されてしまう。モンゴル人は女真族と戦った際に火薬の技術を手に入れたようだ。モンゴル人は周辺を多くの遊牧民に囲まれている。蒙古馬は彼らの馬と比べて決して大きい訳でない(むしろ小さい)。火薬の利用によりその後の世界の国々の盛衰は速度を急に速めて来る。イル=ハン国→オスマン帝国、キプチャク=ハーン国→ロシア帝国、チャガタイ=ハン国→チムール帝国およびムガール帝国と言うようなユーラシア大陸の歴史の流れの構造が浮き出で来るように思えるのですが。(2020.1.13)

世界の歴史の部屋

巨大噴火の恐怖

地球上の生物の進化の歴史は、地球環境の変化に対応して進んでいる。このことは人類の歴史に対しても同様なはずだ。地球という惑星は今でも活発に動いている。地球上の総ての生き物は生活環境の激変という試練からは逃れることは不可能なのです。
6500万年前に、巨大隕石が地球に衝突し、1億年以上続いた恐竜の天下を終わらせる。その後の荒廃した環境から哺乳類が進化し、人類の先祖がアフリカを出たのが6~7万年前頃。では、地球は大人しくなったのか。人類が自分達の歴史を残せるようになったのは、せいぜい1万年以下。これから先、どんな異変が生じるかは予想もつかないのです。
実は、西暦535年にこのような巨大災害が生じていたことが、世界各地で文字として記録されており、最近の地質調査からも証拠が挙がってきている。
噴火の場所は、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡。クラカタウ火山だ。別の場所でも火山活動が頻発したようだ。
この時、遠く離れた東ローマ帝国でも、大きな爆発音があり、その後1年以上も「太陽が暗い状態」が続いていたことが記されている。西ローマ側の教会の指導者たちも同じような記録を残している。中国でも(隋によって統一される前)、北の魏、南の梁の2つの王朝で同様な記録が残されている。その後、世界は飢饉と疫病が蔓延し、洪水や旱魃が繰り返された暗黒の時代に。食料を失った絶望した人々の移動が繰り返され、民族の対立が激化。この状況は相当長期に渡ったようだ。つまり、西暦6世紀は、世界的な出来事が同時発生的に生じている。今まで、学校で習っていた歴史の見方も大幅に書き換える必要がありそうだ。
1.ヨーロッパでは、東西ローマ帝国の力が弱体化し、ゲルマン人等周辺の異民族が大量に流れ込み社会が不安定に。
2.中国でも既存の王朝が弱体化して、異民族的な隋による統一が簡単に進む。
3.朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が食料を巡って生き残りの抗争繰り返し、大量の難民が日本に流れ込む。
4.日本には大量の帰化人が来る。仏教もその時入る。しかし、同時に疫病も持ち込まれたらしい。天然痘ではないかと言われる。帰化人と組んで仏教を保護したい蘇我氏と反対する物部・中臣氏の対立だ。仏教と疫病とがセットで持ち込まれたことが反対する理由だった。
5.ヨーロッパでは、絶望した人々の終末観(あの世で幸せに)が広がり、キリスト教が一気に勢力を増す。不幸な人が増えるほど宗教家は仕事が増える。
6.ムハンマドがイスラム教をあれほど急速に普及できたのも、多発する災害を都合良く天罰だとして利用できたため。イスラム教の発展もえらく急速だ。
7.新大陸のマヤやインカにも大きな変化があったらしい。
8.インド圏や他の地域はどうだったんだろうか。
自然災害、火山の爆発が人類の歴史を大きく塗り替えたということだ。
パウロ      ムハンマド

世界の歴史の部屋

Ibn Battuta

イブン・バットゥータ

マリーン朝
イブン・バットゥータ(Ibn Battuta;1304年~1368年/69年)は、マリーン朝のモロッコ人。イスラム教徒だ。彼の旅した地には北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれる。イブン・バットゥータは史上最も偉大な旅行家であろう。日本語訳では三大陸周遊記となっている。マリーン朝スルターンの命令を受けて、イブン・ジュザイイが口述筆記を行ない、1355年に旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(通称Rihla)が完成する。この旅行記は19世紀にヨーロッパにも紹介され、各国語に翻訳されて広く読まれた。イスラーム教徒だったためか西洋ではあまり評価されず、日本でも歴史の中にチョット顔を出す程度だが、当時の世界を俯瞰するには最適な書物なようだ。

14世紀は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。14世紀は、モンゴル帝国が成立したおかげて、世界のグローバル化が一気に進み、イスラム教が大いに発展した時代。そうでなければこのような世界旅行など全く不可能な話。一昔前なら陸も海も盗賊や海賊が出没するのは当たり前、地域間のネットワークが非常に良くなって来たようだ。しかしまだ、このネットワークには西欧諸国は入っていない。イスラム教を異常に敵視する蛮族たちが闊歩する(十字軍や異端裁判等)後進的な地域だったようだ。
イブン・バットゥータ 生まれ育ちは、北アフリカ西部のモロッコ。当時は文化的には先進地だったようだ。マリーン朝は、12世紀末から15世紀末にかけてモロッコに存在していたイスラーム国家。フェズを首都とし、マグリブ西部(北アフリカの西側)を支配していた。対岸はスペインだがこの時はイスラームの勢力下にある。イブンは1304年マリーン朝の治世のモロッコ、タンジェのイスラム法学者、すなわちウラマーの一家に生まれとされている。
1325年6月、21歳のときに彼は巡礼、すなわちハッジのためにメッカを目指し故郷を発つ。往復16ヶ月の道程である。しかし彼が再びモロッコの地を踏むのは24年後となる。
【ハッジとは】
ハッジとは、イスラーム世界における、メッカへの巡礼の事。五行の1つ。すべてのムスリム(イスラーム教徒)にとって、少なくとも人生のうちに1回は、メッカ巡礼が義務付けられている。ただし、すべてのムスリムに課せられる他の四行(信仰告白(シャハーダ)、礼拝(サラート)、喜捨(ザカート)、断食(サウム))と異なり、巡礼は実行できる体力や財力のある者のみが行えば良いものとされている。巡礼期間中にハッジを済ませたものはムスリムの社会で尊敬を受ける。 サウジアラビア政府は(巡礼月、イスラム暦の第12月)の間に巡礼を目的とする外国人に特別査証を発給している。また、サウジアラビアとイスラエルとは国交はないが、パレスチナ人やアラブ系イスラエル人のイスラム教徒たちは、ヨルダンのアンマンを経由してサウジアラビアに入国しハッジを行うことが可能である。また、メッカは、イスラム教徒以外の人間が立ち入ることは禁じられていて、市内全域がイスラム教の聖地であるとのこと。

イスラム国家 彼は北アフリカ海岸沿いを陸路にてメッカを目指した。ザイヤーン朝、ハフス朝を横断し、そしてチュニスに到着すると彼はそこで2ヶ月を過ごす。チュニスは今でもチュニジアの首都、大都市だ。昔ローマ時代にカルタゴの拠点だった所。ザイヤーン朝、ハフス朝はベルベル人の建てたイスラム王朝。 1326年の早春、3500キロの旅の後イブン・バットゥータは当時バフリ朝(Bahri dynasty、マムルーク朝)の支配にあったアレクサンドリアの港に着く。マムルーク朝は首都をカイロに置くエジプトの王朝だ。アレクサンドリアにはアレクサンドロス大王の後継者たちが建てた世界最大級の立派な図書館があったのだが、5世紀ごろキリスト教徒の野蛮な攻撃を受けてこの当時には消失していた。 カイロには約ひと月滞在し、彼は比較的安全なマムルークの領内にて、この旅の中で幾度も行われる最初の遠回りを行った。ナイル河谷を遡上し、その後東へ向かい、紅海の港街アイザーブを経由するルートを選んだ。しかし街に近づくと反政府勢力に追い返されてしまった。アイザーブはナイル川を上った王家の谷で有名なルクソールの対岸(サウジアラビア側)にある港町だったようだ。 イブン・バットゥータはカイロに戻り、そしてマムルーク支配下のダマスカスへと2回目の遠回りをした。ダマスカスは今でもシリアの首都だ。1回目の旅で出会った聖人が、イブン・バットゥータはシリア経由でしかメッカにはたどり着けないと予言を残していたためだった。この遠回りにはヘブロン、エルサレム、ベツレヘムなど道中に聖地が点在しているという利点もあった。マムルーク朝は巡礼者のための治安確保に骨身を惜しまなかった。この権力の後押しが無ければ身包み剥がされ、殺害される旅行者で溢れていたことであろう。 イブン・バットゥータがこれほどの大旅行を無事成し遂げることが出来たのは当時の、イスラーム教を介した人的ネットワークの存在が非常に大きい。西のモロッコから東のインドネシアまで広大なネットワークが存在しているのだ。そうでなければ言語、文化の異なる地域を旅すること自体、この時代では危険極まりない所業だろう。
ダマスカスでラマダン月を過ごしたあと、彼はキャラバンに参加して1300キロ南のマディーナ(メジナとも、イスラム教の第二の聖地)に向かい、そこで4日を過ごしたあと、彼の巡礼の終着点であるメッカへ向かった。これ以降イブン・バットゥータはハッジとしてイスラム社会に受け入れられるようになる。つまりどこへ行っても尊敬を受けて便宜を図ってもらえる。ここで帰路に就くよりもむしろイブン・バットゥータは旅を続けることを選び、次の目的地を北東、モンゴル帝国のイルハン朝に定めた。 つまり、モンゴル帝国のおかげで、世界がある程度一つになったという利点があったのか。マルコ・ポーロの冒険もこのころか、調べて見ましょう。
イブン・バットゥータは1327年、東アゼルバイジャン州のタブリーズ(モンゴル帝国のイルハン朝の都があったところ、今はイラン領、アゼルバイジャン領だったことも)を訪れている。 メッカでひと月を過ごした後の1326年11月17日、アラビア半島を横断してイラクへ戻る大規模な巡礼キャラバンに参加した。一行はまず北のマディーナ(メジナ)へ向かった。日中を避け夜に旅を続け、やがて北東へと進路を変える。ナジュド平野を横断し、ナジャフ(イラク南部)へとたどり着いた。2週間の旅であった。ナジャフでは第4代カリフ、アリーの廟を訪れている。 その後バグダードへ向かうキャラバンと別れイブン・バットゥータは、ペルシアに入り6ヶ月の回り道をする。ナジャフからワシットへ、そしてチグリス川を南下してバスラを訪れる。そこからザグロス山脈を越えエスファハンへ向かう。そして南へ向かいシーラーズを訪れる。シーラーズはモンゴルの侵略の際にも破壊を免れて繁栄を誇っていた。ようやく彼は山道を戻り1327年6月、バグダードへ到着する。バグダードはいまだ街の至るところにフレグが1258年の侵略の際に残した破壊の痕跡が残っていた。エスファハンも美しい都市として有名。

イスラム国家 バグダードにて彼はイルハン朝最後の君主アブー・サイードが大勢の従者を引き連れて街を北へ向かうところを目撃している。イブン・バットゥータはしばらくそのロイヤル・キャラバンに随行し、その後にシルクロードを北へと向かい、タブリーズを訪れた。モンゴルへの道を開いた最初の街であり、この地域の他の交易都市はモンゴルにより徹底的に破壊されていたため、タブリーズは交易の要衝となっていた。

1328年か1330年のハッジの後、紅海に面するジッダを訪れる。その後彼は海岸に地域特有の南東の風に逆らいながら小船を乗り継ぎゆっくりと海岸に沿って南下した。ラスール朝統治下のイエメンに入ると、ザビードを、そしてタイズを訪れた。タイズではラスール朝のマリク(すなわち王)のムジャヒードに謁見している。イブン・バットゥータはサナアに立ち寄ったとも記録しているが、実際に訪れたかどうかは疑わしい。タイズからは直接交易の要衝アデンへ向かったと考えるのが現実的である。アデン着は1329年か1331年と考えられる。
アデンよりイブン・バットゥータはソマリアのゼイラに向かう船に乗った。ゼイラからソマリアの海岸をさらにくだりグアルダフィ岬を訪れる。それぞれで1週間を過ごした。その後、アフリカの角の当時最大の都市であったモガディシュを訪れる。アフリカの角とはソマリアのあたりが地図で見れば尖っていて三角形になっているがここを示す。この付近ではエチオピアが大国で力を持っていたようだ。 イブン・バットゥータの訪れた1331年、モガディシュは繁栄の絶頂にあった。彼はモガディシュを裕福な商人の多い「極めて巨大な都市」と描写、エジプトを含む各地から持ち込まれる高品質な織物についても触れている。

キルワ イブン・バットゥータはスワヒリ海岸の島にある町キルワ王国(現在タンザニア領)に1330年に着いたと記録を残している(ソマリアに着く前だろう)。キルワは金の貿易の要衝となっていた。彼はこの都市を「最も美しく設計された街のひとつ、すべての建物は木で作られ、ディース葦(dīs reed)で屋根が葺かれている」と記録している。そしてそのスルタンの謙虚で敬虔な人柄についても好意的に描写している。コーラル・ラグ(サンゴ由来の石灰岩)で造られた宮殿と拡張されたキルワのグレート・モスク(世界遺産となっている)の歴史はこの時代から始まっている。モンスーンの向きが変わるのにあわせて、イブン・バットゥータはアラビア半島へと戻る。まずはオマーン、そしてホルムズ海峡を通過し、1330年(あるいは1332年)のハッジにメッカへ戻った。
3度目のメッカ巡礼の後、イブン・バットゥータはムスリムのムハンマド・ビン・トゥグルクが治めるデリー・スルターン朝にて職を探すことに決める。1330年(あるいは1332年)の秋、陸路でのインド入りを意図し、セルジューク帝国の支配下にあったアナトリア半島(現在のトルコ)に向けて旅立った。シリアの港街ラタキアにてジェノヴァ共和国の船が彼(と彼の道連れ)を拾ってアランヤまで運んだ。この街は現在のトルコ南海岸に当たる。これ以降、旅行記におけるイブン・バットゥータのアナトリアでの足跡は混乱を来たす。歴史家たちはイブン・バットゥータは実際に中央アナトリアのいくつかの都市を巡ったものの、旅行記の記述が時系列に沿っていないものだと考えている。

スィノプから海路でジョチ・ウルス領(モンゴル帝国でもここはキップチャク)のクリミア半島へ到着。港街アゾフにてハンのアミールに出会う。その後豊かな大都市マジャールを訪れる。そしてマジャールからウズベク・ハンのオルドを訪問するために出発。この当時、ハンのオルドはベシタウ山の近くにあった。その後ブルガールへ向かう。この街が彼の旅のなかでの北限となった。夏の夜が(亜熱帯出身者からすれば)極端に短いと記録している。その後ウズベク・ハンのオルド(宿営地、テントの街か)に戻り、彼らとともにアストラハン(ボルガ河口右岸の都市)まで移動した。
ブルガール滞在中彼は闇の地を訪れてみたいとも書き残している。その地は遍く雪で覆われていて(シベリア北部のこと)唯一の移動手段は犬ぞりである。神秘的な人々が暮らし彼らは姿を見せることを嫌う。それでも彼らは南方の人々と奇妙な方法で交易を行っている。南の商人は夜にさまざまな商品を開けた雪原に並べておき、自分たちのテントに戻る。そして翌朝その場所にもどると商品はその神秘的な人々に持ち去られ、代わりにコートなど冬の衣類の素材となる上等な動物の毛皮が置かれている。この交易は神秘的な人々と商人がお互いの顔を見ることなく行われる。イブン・バットゥータは商人ではないしそれほど値打ちのある旅に思えなかったので闇の地への寄り道は差し控えた。

東ローマ皇帝 アストラハンに着くと、ウズベク・ハンは妊娠中の后の一人、ギリシャ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス(東ローマ帝国皇帝のことだ)の娘バヤルン妃にコンスタンティノープルへ出産のための帰郷を許可する。イブン・バットゥータは頼み込んでコンスタンティノープルへ向かう一行に同行させてもらった。これがイスラム世界を出た最初の旅となった。

1332年(あるいは1334年)も終わりに差し掛かったころにコンスタンティノープルに到着。彼は東ローマ帝国のアンドロニコス3世パレオロゴスに謁見。名高い教会アヤソフィアを訪れ、正教の司祭に旅の中で訪れたエルサレムの話をして聞かせた。ひと月滞在した後、イブン・バットゥータはアストラハンに戻った。その後首都サライを訪れ、スルタンのウズベク・ハンに旅の報告をした。その後カスピ海、アラル海を越えブハラ、サマルカンドを訪れた(両市は今はウズベキスタン領内)。そこでまた別のモンゴルの王、チャガタイ・ハン国のタルマシリンのもとを訪れている。そこから彼は南へ向かいモンゴル治世下のアフガニスタンを旅した。そのままヒンドゥークシュ山脈の山道を経てイブン・バットゥータはインド入りを果たした。旅行記で彼はこの山岳地帯の名称と奴隷貿易の関係について触れている。 この後、私は山岳地帯をバーワンの街へ向かった。山道は雪で覆われ凍えるように寒い。この地域はヒンドゥ・クシュ、すなわち「インド人殺し」と呼ばれている。厳しい寒さのために取税人の連れてくる奴隷のほとんどが死んでしまうのが理由だそうだ。 イブン・バットゥータと彼の一行は1333年の9月12日にインダス川に達している。これより彼はデリーへ向かいスルタン、ムハンマド・ビン・トゥグルクに謁見している。
当時ムハンマド・ビン・トゥグルクはその豊かな財力でイスラム世界に名をはせており、彼は支配をより強固なものにする目的でさまざまな学者や、スーフィー、カーディー、ワズィール、そして役人に経済的な支援をしていた。イブン・バットゥータはムハンマド・ビン・トゥグルクの治世にカーディー(裁判官)として6年間仕えた。この国はモンゴル帝国の侵攻の後に残った、エジプトのマムルーク朝と同様、数少ないアジアのイスラム国家であった。メッカでの経験が買われ、イブン・バットゥータはスルタンよりカーディーに任命された。しかしながら、彼はイスラム教の浸透していないインドでスルタンのお膝元、デリーを越えてイスラム法の執行を徹底することは難しいと悟る。 サルサティ(Sarsatti)のラージプートの王国からイブン・バットゥータはインドのハンシを訪れる。イブン・バットゥータはハンシの街を以下のように描写している「数多ある美しい街でも最もよく設計され、最も人々がよく集まる街。堅固な城壁に囲まれていて、聞けばこの街を造ったものは偉大な不信心な王という話でタラ(Tara)と呼ばれている」。シンド州に着くとすぐに彼はインダス川の河畔に生息するインドサイについて言及している。

スルタンは当時の感覚からしても理不尽な男で滞在する6年の間にイブン・バットゥータは、信の置ける臣下としてのアッパークラスな生活からさまざま理由から反逆者としての疑いをかけられる状態へと身を落とす。ハッジを理由に旅立つ計画を持ち出すとスルタンは彼を苦境へと落とし込んだ。1347年、元の使節が中国人巡礼者に人気の高かったヒマラヤの仏教寺院の再建の許可を求めにやってくると、イブン・バットゥータはようやくデリーを離れる機会を得た。
イブン・バットゥータは使節としての命を託された。しかし中国への出発点となる港へ向かう道中、彼の大規模な使節団は山賊の襲撃にさらされる。イブン・バットゥータは一団からはぐれ、身包み剥がされ、あわや命すらも失いかける。苦境に陥りながらも彼は10日以内に使節団に追いつき、合流を果たすとグジャラート州のカンバートへの旅を続けた。そこから船でカリカット(現在のコーリコード)へ向かった。2世紀の後にヴァスコ・ダ・ガマが上陸を果たす地である。カリカット滞在中、イブン・バットゥータはこの地の支配者ザモリンに客人として迎えられた。その後コッラムへと船を進める。南海岸で最も活況を極める港のひとつである。カリカットからコッラムまでの日数は10日であった。イブン・バットゥータが岸のモスクに立ち寄っているとき、嵐がやってきて2隻の船団のうちの1隻が沈んでしまった。別の1隻はイブン・バットゥータを残して出航するが、この船は数ヶ月後にスマトラ島の王に拿捕されることとなる。
このままデリーに戻った場合に責任を問われることを怖れたイブン・バットゥータはしばらくの間ナワーヤトのジャマール・ウッディーン庇護の下で南インドにとどまった。ナワーヤトは小さいながらも力のあるスルタン国でアラビア海に面するシャラベイ川河畔に位置する。しかしやがて起こるこのスルタン王国の転覆の中、イブン・バットゥータはインドを去るよりほかなくなる。中国への旅を続ける決意を固めるが、まずはモルディブへの寄り道からはじめることとした。
彼は当初の予定よりもずいぶんと長い9ヶ月をこの島国で過ごした。彼は仏教国からイスラム化を果たしたばかりのモルディブにとって貴重な人材だった。半ば強引に滞在を求められてこの国で主任カーディを務め、そしてロイヤルファミリーから伴侶を迎えオマル1世と姻戚関係を持った。しかししだいに彼は政治問題に巻き込まれるようになり、彼の厳格なイスラム法の執行に対し奔放な気質の島民がいらだちを募らせるようになると、イブン・バットゥータはモルディブを発った。彼は旅行記の中で島の女性たちが上半身裸で街をうろついていること、それに対するイブン・バットゥータの不満を現地の人々が歯牙にもかけなかったことを記録している。モルディブを発ったイブン・バットゥータはスリランカに向かい、アダムスピークとテナヴァラム寺を訪れた。
スリランカを出航するとすぐに船が沈み始めた。救助にやって来た船は海賊の襲撃に晒されるが、イブン・バットゥータは無事だった。彼はスリランカの岸で途方に暮れ、苦労してやっとのことでインドのマドゥライ王国までもどり、しばらく滞在する。その後彼は再びモルディブへ渡り、中国のジャンク船に乗りこんだ。まだ中国へ向かう使者としての使命を全うする意思を持っていた。 彼は現在のバングラデシュ、チッタゴンの港に上陸する。イブン・バットゥータはシャー・ジャラールに会うためにシレットに向かうことにした。チッタゴンからカマルの山々を越えてシレットに至る1ヶ月の旅路である。当時のイスラム世界ではシャー・ジャラールはこの骨折りに値するほど高名な人物であった。シレットへの旅の途中シャー・ジャラールの弟子たち数人に声をかけられる。彼らはイブン・バットゥータを案内するために何日も前から待っていた。1345年のシャー・ジャラールとの面会について、シャー・ジャラールは背が高く、細身で顔色はよく、洞窟のモスクで暮らしている。ミルク、バター、ヨーグルトのためのひつじを一頭だけ所有し、その他には財を持たないと記録している。また、取り巻きは外国人であり、強さと勇敢さで知られていた。たくさんの人々が教えを請うためにシャー・ジャラールのもとを訪れる、等々記している。イブン・バットゥータはさらに北へ向かいアッサム州を訪れた後、中国へのルートに戻った。

東南アジア
陳ベトナム イブン・バットゥータは陳朝ベトナムのポー・クロン・ガライを訪れたと考えられている。地域の姫ウルドゥジャと会ったと触れられている場所である。 1345年イブン・バットゥータは現在のスマトラ島北部アチェ州に位置するサムドラ・パサイ王国を訪れた。イブン・バットゥータはこの国の統治者について触れている。彼によれば、スルタンは、敬虔なムスリムで宗教的義務は最大限熱心に行い、しばしば地域の精霊信仰勢力に対して軍事行動をとっている。彼はスマトラ島について樟脳、ビンロウ椰子、クローブ、スズが豊かな島であると描写している。イブン・バットゥータは彼らのマズハブ(イスラム法学派)についてシャーフィイー学派と記録している。これは彼が実際に見てきたインド沿岸地域のムスリムに近い学問で、とりわけマッピラ・ムスリムはまさにイマーム、アル=シャーフィイーを信奉していた。当時サムドラ・パサイ王国はダール・アル=イスラーム(イスラム世界)の限界で、これ以上東にムスリムの統治する領域は存在しなかった。彼はスルタンの客人として、この木製の城壁に守られた街で2週間をすごした。スルタンはイブン・バットゥータに物資を提供し、スルタン所有のジャンクで彼を中国へ送り出した。

イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。
イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。 イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。

イブン・バットゥータは船でマレー半島のムラカ州に向かった。旅行記の中でムル・ジャウィと記録しているこの地で、統治者の客人として3日をすごしている。そしてまた船を出しベトナムのポー・クロン・ガライへ向かった。旅行記の中ではカイルカリとして記されており、ごく短時間であるがこの地域の姫ウルドゥジャに会ったと記されている。イブン・バットゥータは彼女の一族は元と敵対していると記している。ポー・クロン・ガライを後にし、彼はついに中国福建省泉州市に入港を果たす。
中国
イブン・バットゥータはイスラム世界で初めて万里の長城について触れている。1345年、モンゴル治世下の中国福建省泉州。彼は外国人のポートレイトを描いている似顔絵師と、彼らの巧みな技術について触れている。イブン・バットゥータは彼らの描く似顔絵はセキュリティ目的に使われると記している。イブン・バットゥータはこの街の職人と彼らの作る絹織物、磁器、そしてプラム、スイカといった果物、そして紙の通貨の利便性に賛辞を送っている。泉州における巨大船舶の製造工程について、さらには中国料理と食材、たとえばカエルやブタなど、イヌが食材として市場で売られていること、中国のニワトリが大きいことなどについて書き残している。
泉州にてイブン・バットゥータはこの地のカーディーに歓待を受けた。さらにはイスラム商人のリーダーが旗、太鼓、トランペットと楽団を引き連れてイブン・バットゥータに会いに来た。彼は、ここ泉州ではムスリムはいくつかのコミュニティに別れて暮らし、それぞれが自分たちのモスクとバザールと病院持っている、と記録している。滞在中彼は清源山に登り、洞窟に著名な道教の僧侶を訪ねている。その後彼は海沿いに南下し広州を訪れ、その街の裕福な商人のもとで2週間を過ごした。 広州から北へ泉州にもどり、福州へと向かう。
イブン・バットゥータは杭州を彼が見てきた中でも最大級の都市とし、そしてこの街の魅力について触れている。いわく、美しい湖を湛え、なだらか緑の丘に囲まれている。ムスリムの居住する一角にも言及し、彼はエジプトに起源を持つ一家のもとに身を寄せていた。杭州滞在中たくさんのよく設計され、きれいに塗装され、色彩豊かな帆を持ち、シルクの日よけをもった木製の船が運河に集まっているのを見ていたく感動したことを記録に残している。彼はカータイという名の元朝の地方行政官の晩餐会に呼ばれている。イブン・バットゥータによれば、この行政官は現地中国人の召喚魔術に大変興味を持っていた。また彼は太陽神を信仰する現地の人々についても言及している。
彼は京杭大運河を小船で上りながら、畑やラン、黒い絹の衣を纏った商人たち、花柄の絹の衣を纏った婦人たち、やはり絹を纏った僧たちを見た。北京ではイブン・バットゥータははぐれたデリー・スルターン朝の使節を名乗り、元朝ボルジギン氏、トゴン・テムルの宮廷に招かれる。イブン・バットゥータはトゴン・テムルについて、中国の一部の人々から崇拝されていると描写している。大都の宮殿は木造で、統治者の第一夫人(奇皇后)は彼女を称える行進を行わせた、と記録している。
イブン・バットゥータはまた泉州から60日のところにゴグとマゴグ(マゴグ)の地があると記している。ハミルトン・ギブによればイブン・バットゥータは万里の長城はクルアーン(コーラン)にあるとおり、ズー・ル=カルナインがゴグとマゴグを退けるために築いたものだと信じていた。 イブン・バットゥータは北京から杭州へ戻り、福州へと旅を進めた。泉州に戻るとすぐにサムドラ・パサイ王国のスルタン所有のジャンクに乗り込み、東南アジアを目指した。しかし船の乗組員に法外な額の報酬を要求され、彼が中国滞在中に工面した蓄えをほとんど失ってしまった。

帰郷とペスト
1346年に泉州に戻るとイブン・バットゥータはモロッコに帰る決心をする。インドのカリカットに着くと、もう一度ムハンマド・ビン・トゥグルクを訪ね慈悲を請うべきかと逡巡するが、そのままメッカへと向かうことにした。バスラへ向かう航路でホルムズ海峡を通る。そのときにイルハン朝の最後の君主アブー・サイードがペルシアで死亡したことを知る。イルハン朝はこのあとに起こるペルシア人とモンゴル人との間の激しい内戦により崩壊することになる。
1348年、イブン・バットゥータは最初のハッジのルートをなぞるつもりでダマスカスに立ち寄る。そこで彼の父が15年前に他界していたことを知る。そして続く翌年からしばらくの旅は「死」が支配的なテーマとなった。黒死病の流行が中東を襲い、彼はまさにペストの支配するシリア、パレスチナ、アラビア地域に居合わせていた。メッカに到着すると、彼はモロッコへ帰る決断をする。タンジェの家を発ってから実に四半世紀が経とうとしていた。帰り道にサルデーニャ(イタリアの島)へ最後の寄り道をした。1349年フェズを通ってタンジェ(モロッコ北部の町、タンジールとも)への帰郷を果たす。彼は彼の母もまた数ヶ月前に他界していたことを知る。
アンダルスと北アフリカ
イブン・バットゥータはグラナダ王国を訪れた。グラナダ王国はアンダルスにて最後のムラディ文化を育んでいる。ついに帰郷を果たしたイブン・バットゥータだが2、3日も滞在するとすぐにタンジェを離れることになる。これはムーア人の支配するイベリア半島のアンダルスを旅するきっかけとなった。当時カスティーリャ王アルフォンソ11世はジブラルタルへの攻撃を仄めかしていた。1350年、その攻撃から港を守る目的でイスラム教徒のグループがタンジェを旅立った。そこにイブン・バットゥータも参加した。しかし彼らが到着するまでにペストがアルフォンソ11世を殺したために侵略の恐れは無くなった。彼はそのままアンダルスの観光旅行へと目的を変え、バレンシア王国をめぐり、グラナダでアンダルスの旅を終える。
アンダルスを後にした彼はモロッコを旅する決断をする。家へ帰る途中でしばらくマラケシュに滞在した。かつての首都マラケシュはペストと、フェズへの遷都によりほとんどゴーストタウンのようだった。
マンサ・ムーサ マンサ・ムーサ
もう一度彼はタンジェに戻るが、ほんのしばらく滞在しただけでまた旅にでることになる。時は戻るが1324年にイブン・バットゥータが初めてカイロを訪れた2年前、西アフリカのマリ王国の皇帝マンサ・ムーサがまさにその街をハッジの為に訪れていた。途方も無い量の金を彼の国から持ち込んだマンサ・ムーサの巡礼は当時カイロでセンセーションを巻き起こしていた。イブン・バットゥータは旅行記の中でこのエピソードには触れなかったものの、当時のカイロでマンサ・ムーサの話を耳にしていたとしても不思議はない。彼はサハラ砂漠を越えた向こう側にあるこのイスラム国家を次の目的地とした。マンサ・ムーサの話は有名だが、どのようにしてこんな富を蓄えることが出来たのだろう。
モスク 1351年の秋にイブン・バットゥータはフェズを出発し、現在ではサハラ砂漠の北限となっている街、シジルマサへ向かった。この街で彼はラクダを何頭か購入し4ヶ月を過ごした。1352年2月、彼はキャラバンを伴って再び出発、25日をかけてタガーザーの塩原にたどり着く。この地域では建物はすべて塩のブロックでできている。ここではマッスーファ族の奴隷が塩を切り出し、ラクダで運び、建物を造る。タガーザーは交易の要衝でマリで産出される金に溢れていたが、イブン・バットゥータはあまり良い印象を持たなかった。ハエに悩まされ、水はしょっぱいと記録している。
タガーザーに10日滞在したあと、キャラバンはターサラフラーのオアシスに向かった。そこに準備のために3日滞在する。ここからこの広大な砂漠を縦断する旅で最後の、そして最も難しい区間が始まる。ターサラフラーから、まずはマッスーファ族の先行隊がウアラタのオアシスに向け出発、彼らはそこで水を調達して4日目の地点までもどり本体と合流する。ウアラタはサハラ交易ルートの南の終点で、ちょうどこのころにマリ帝国の支配下に入っていた。キャラバンはシジルマサから1600キロの行程に2ヶ月を費やした。
ここからイブン・バットゥータはナイル川と彼が思い込んでいた川、すなわちニジェール川に沿って南西へと旅をつづけ、マリ帝国の首都にたどり着く。彼は1341年より在位しているマンサ・スライマーンに謁見する。イブン・バットゥータは女奴隷、召使、さらにはスルタンの娘たちまでもが肌の一部を露出させた格好をしていることがムスリムらしくないと、不満をもらしている。2月には首都を離れ、現地のムスリム商人とともにラクダでトンブクトゥを訪れた。トンブクトゥは翌15世紀、16世紀にはこの地域でもっとも重要な都市となるが、イブン・バットゥータが訪れたこのときはまだ小さな街だった。この旅でイブン・バットゥータは生まれて初めてカバを目にする。トンブクトゥに少し滞在した後、彼はピローグという丸木舟でニジェール川を下り、ガオを訪れた。当時ガオは重要な交易の要衝であった。 ガオでひと月を過ごした後、彼は大きなキャラバンに参加してタカッダーのオアシスを目指した。砂漠を越える旅の中で彼はモロッコのスルタン、アブー・イナーン・ファーリスからのメッセージ、家に帰るようにとの命令を受け取る。彼は1353年の9月に、600名の女奴隷を輸送する巨大キャラバンとともにシジルマサへ向けて出発した。そして1354年の初旬にモロッコに戻っている。イブン・バットゥータのこのアフリカの旅の記録はイスラム教が西アフリカへと波及していく過程を覗かせてくれる貴重な資料となっている。

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インド航路の発見

ヴァスコ・ダ・ガマ ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1460年頃 - 1524年)は、ポルトガルの航海者、探検家。アフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれます。コロンブスの米大陸発見(1492年)でスペインに先を越されたポルトガル王には焦りもあったらしい。航海について公式に作成された報告書は残っておらず、いわば海賊の親玉みたいな人か。
魔女狩り ガマは、1497年7月、大勢の観衆が見守る中、リスボンから出発。 この艦隊派遣では、航路の発見に並びプレスター・ジョンの国およびインドとの親交と貿易の端緒をつくることが目的とされ、国王の親書が用意された。プレスター・ジョンの国とは、インドかアフリカにあるとされる伝説上の国。ローマ法王の狙いは、この国と組んでイスラム勢力を叩きのめすこと。十字軍の恨みまだ懲りずに戦う気だ。この当時のイベリア半島は、反宗教改革急先兵。失地回復運動(レコンキスタ)やら、魔女狩りや異端審問、ちょうど今のIS(イスラミック・ステート)みたいな国だ。航海の目的も商売も一つだが、カトリック教の布教が表向きの理由。異教徒は、本心では人間とは思わない、殺しても構わない。大変危険な集団だったのです。でも、プレスター・ジョンの伝説は、嘘ではなかったわけで、アフリカにはエチオピアと言う立派な国があって、今でも元祖キリスト教を信仰している。
アフリカの西海岸を回って喜望峰まではすんなりたどり着くが、それから先は全く未知の世界。当時のインド洋は、イスラム商人たちの縄張りだ。でも、実際はイスラムの陸の大帝国、ムガール帝国もオスマン帝国も陸の世界にしか目が無い。各地域の港町はチャンと税金を納めていれば完全な自治が認められ、誰でも自由に貿易ができる体制が確立していたようだ。だから、商人たちはインド人もスラバヤ人もアフリカ人も皆、平等に商いが出来たらしい。東アフリカには共通語としてスワヒリ語と言うものがある。タンザニア、ケニア、モザンビークなどで今でも共通語となっているようです。概ね彼らはイスラム教徒になっていた。スワヒリ語は、イスラム商人とアフリカ商人の交易のための共通語として発達したとのこと。また、これらの地域では、金融関係は今でもインド商人が強いとか。アフリカ人だって西欧人か来なければ、今ももっと平和な社会に生きていくことが出来たのでしょう。
しかし、イスラム教徒を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちは、アラビア語を話すムスリム(ムーア人)に対し妄想に近い強い警戒感を持っていました。結局、鉄砲を利用して無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に押し入ってその中心で銃を何発か放つ。ヴァスコの船隊に加わっていた一人の人物の記録によると、「ムーア人は家の中にとどまり、誰一人浜まで出てこようとしなかった」という。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この水域の慣行を無視し、港の使用料を払わないままだった。およそ彼らの行動は当時の慣習にはそぐわない。不自然で不可思議な行為だった。
インドに到達する。王宮に到着したヴァスコは来訪の目的を廷臣に伝えるように要求されたにもかかわらず、自らはポルトガル王の大使であるから王に直接話すと主張して聞かなかった。翌日宮殿で謁見したヴァスコは国王に親書を渡し、目的のひとつを達成した。しかし用意した贈り物を見た王の役人やイスラム教徒の商人は笑い出した。贈り物は布地、一ダースの外套、帽子6個、珊瑚、水盤6個、砂糖1樽、バターと蜂蜜2樽に過ぎなかった。「これは王への贈り物ではない。この街にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している」と言われ、ヴァスコは「私は商人ではなくて大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。」だったら偉そうな顔をするな。つまり、当時の西洋人は貿易をしようにも何も売るものすらないという悲しい現実があったわけだ。
これに対しヴァスコはイスラム系商人に対する過剰な猜疑心から、強硬な手段に打って出る。火器を使って暴力的に相手を脅す。当時のインドやアフリカの港町は独立した自治組織で自前の軍隊は小さい。簡単に武力で制圧されてしまう。こんな貿易だが、ヨーロッパでは、持ち帰った胡椒が高値で売れ、第二回の遠征が可能になる。
二回目以降はしっかりと火器を準備し、初めから征服目的で遠征をする。相手方は弱小の港湾都市国家、国策で火薬武器を平気で使用する相手にはかなわない。火器で領土を広げた、モンゴル帝国、チムール、ムガール、オスマン帝国の海洋版だ。これに対して陸の帝国は全くこの動きを無視。一定の税金さえ払えば何をしても構わない。あっという間に、ポルトガルの海洋帝国が成立する。スペイン、オランダ、イギリスがこれに倣う。西欧の覇権が成立する。ヴァスコが交易で得た品は、胡椒、肉桂、蘇木、丁字、生姜など。 このポルトガルの決定は、ヨーロッパ各国が本格的にアジアに進出する契機になったとともに、その基本的態度を方向付ける。強力な海軍を派遣して貿易を支配する構造は、ヨーロッパ諸国がアジアに植民地主義を展開する手段として用いられることに。
しかし、ポルトガルのやり方は東アジアでは通用しなかった。インドではムガール帝国は海には無関心だったが、中国(明)は違った。明は海外貿易を禁止するとともに、貿易の利益を国家が独占する政策を取る。朝貢貿易が主体であるため、周辺国も海賊退治を熱心に進める。イスラム圏では、一般の民間と海賊の区別はない。しかし、東アジアではポルトガルは大人しく振舞うしかない。キリスト教は、限定的にしか普及できず、ザビエルは日本での布教は断念し、中国で失意のうちに亡くなる。最後は布教抜きで経済利益を追求するオランダに覇権を奪われる。
イタリアのベネチア等の都市国家も、ポルトガルの興隆で最初は大きな打撃を受けるが、ポルトガルがすでに出来上がっていた自由な貿易網を完全に破壊できた訳でもなく、しばらくは息をつくことが出来たらしい。

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民主主義の歴史

みんなで決める。これは人類の歴史ではほぼ最初からあったルールです。類人猿の世界でも食べものを老人や幼い子供達にもある程度平等に分けるためのルールが存在しています。弱肉強食の社会でない限り。構成員が平等な狩猟民の世界では話合いで物事を決めることはごく当然のこと。マルクスの言う、原始共産制の世界です。農耕社会になって、リーダの存在が大きくなり、初めは回り持ちのリーダが世襲制となり、王政や帝国が生まれました。遊牧民の世界は部族会議などがしばらく続いており、これも一種の間接民主主義と言えるでしょう。ローマの元老院などは、話し合いの場ですが、議員は家柄で決まっており、終身ですから平民の権利は認められてなかったのですね。しかし、ここでの議論は真剣でカエサル(シーザー)とキケロの弁論での対決など、弁論の価値を高く評価している点はすばらしいものがあります。多数決で決まるより弁舌の力で決着することが多かったようです。元老院の議員にはそれだけの格式が求められていたようです。だいたい議論に参加しない人には決定に加わる権利は無いのです。

ローマでは、その後だんだん平民の力が強くなり、元老院と対立するようになります。シーザーは平民達の多大な支持を得て皇帝のような地位を確保します。今のロシアのプーチンみたいな存在かもしれません。その後、初代皇帝としてアウグストゥスが後を継ぎ、平民達の声を利用しながら、元老院から権力を奪い取っていきます。でも、その際の最大の力は武力よりも言論の力と信じられていました。
      古代ギリシャでは、アテネが民主制を採用します。アテネはペリクレスという偉大なリーダに恵まれ、大発展します。しかし、アテネ政体を視察に来たローマの元老院のメンバー達は、「これはダメだ、いづれ潰れる」と判断して、民主制の採用を見送ったそうです。案の定、ペリクレスが無くなると、アテネは混迷を極め、衰退します。いわゆる衆愚政治に陥ってしまったわけです。。

現代の民主制は、資本主義の勃興と並行して進んできたことを見逃してはなりません。新しく出て来た産業資本家達は、地主貴族から土地の農民を工場の賃労働のために引離す必要があります。そのためには普通選挙は格好の口実になります。選挙の投票では、賃金をくれる人の言うこと聞くのは当然です。また、中間層が増加することは、製品の買い手としても有望です。こうして成熟した資本主義国家の資本家達は遅れた国の政治制度にも横槍を入れるようになります。各国で労働争議が増加していく裏には、資本主義国からの資金援助もあったことでしょう。革命運動等の指導者達、その資金源どこだったのでしょうか。

戦後の日本は、民主主義はもっとも進んだ制度だと学校教育で洗脳されて来ました。しかし、民主主義を真に機能させることは容易ではありません。権力者はマスメディアもネットの情報も管理できます。アメリカのトランプ政権は色々マスメディアでは叩かれていますが、今までとは異なった見方もあるのだと国民が気付いた点では評価できるのではないでしょうか。

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パックス・アメリカーナ

パックス・ロマーナという言葉が西洋史には出て来る。パックスはピースの意味で平和、ローマ帝国がヨーロパ及びその周辺を含む巨大な地域を統一し、長期間の平和と安定がもたらされていた状態をいう。時代的にはBC27年~AD180年、すなわちアウグストゥスによる帝政開始~五賢帝時代の終わりぐらいまでを指している。確かに域内に住む人々にとっては、戦争もなく経済も発展し平和で良い時代であったことは間違いないようです。世界史の中で巨大な帝国は何度も現れますが、パックス・〇〇と呼ばれるような帝国(共和国でもかまわないが)になるには、いくつかの条件が必要でしょう。具体的にいくつかの候補を挙げて見ましょう。

【唐帝国】

唐帝国は、交易も世界的で統一後は、周辺国ともうまくやっているようです。中華帝国の貿易は、朝貢という形で行われ、実際には宗主国の大幅な持ち出しです。中国の王朝は唐に限らず、統一後しばらくは平和な時代が訪れます。そのうちに国の統治機構が腐敗して、衰退していくことになります。これは中国だけに限らないか。でも、パックス・タンもありですね。ところで、唐の時代は、すごく国際的ですね。西から色々な文化がやって来てます。キリスト教(景教、ネストリウス派)も唐経由で、日本にも入って来てます。日本にキリスト教を最初に伝えたのは、ザビエルだというのはウソですね。

【パックス・モンゴリア】

モンゴルの世界帝国、歴史地図を見るとすごいですね。まさに、世界最大の帝国が忽然と現れるのです。モンゴルの侵入は、残虐さで有名ですが、征服後の統治には、現地の人材をフルに活用します。何せ、あれだけの版図をごく少数のモンゴル人では統治しようがありません。政府の中枢も有力な官僚たちは西域の色目人と言われる人々が多数を占めています。モンゴルの残虐さは、当時の支配者達の立場で歴史が書かれているためで、その後の善政については抹殺されているのでしょう。モンゴル帝国の一部であった元でも、官僚機構はそのまま、役人たちも不満なし、頭が入れ替わるだけですから。一般の人々から見たモンゴル支配下の生活、そんなに不満はなかったのかも知れませんね。モンゴル帝国の版図が大きくなったおかげ、世界交流は大幅に活性化します。商人たちが安全に行き来できるからです。ローマからは、マルコ・ポーロ達がやってきますね。

【パックス・ブリタニカ】

15世紀ごろから、ヨーロッパ列強の世界進出が始まります。はじめは、スペイン、ポルトガル、オランダそして最終的に英国に覇権が移っていきます。この時代戦争が絶えませんね。英国も最初は、武力に頼って来ましたが、次第に外交による平和的(陰謀的)解決を主力にするように変わって行きます。日本でも、幕末には陰で反政府勢力の薩長を支援し (幕府を支えたのはフランス)、日露戦争でもロシアの足を引張り続けます。更に、当時勃興してきたマスメディアをフル活用してロシアが負けたことを既成事実化して交渉を日本に有利に進めます。ロシアはお陰で革命が起こりロマノフ王朝は転覆します。この革命にも情報や資金面で隠然と操っていた力があったのですね。巧みに情報を操作して、世界を操る諜報活動の力を最初に認識したことが英国が成功した鍵ですね。

英国は、植民地経営でもうまくやっていたようですね。現地の人材をうまく活用しています。フランスが力で押さえつけるやり方を取ったのと対照的ですね。植民地が独立した後も、比較的順調に発展している例が多いようです。ただし、地元民を分断して統治する政策は、後々に大きなしこりを残しているようですね。我が国も戦前には、「大東亜共栄圏」を目指したことありましたが上手く行かなかったですね。

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【パックス・アメリカーナ】

第二次大戦の結果は、アメリカの一人勝ち、日本、ドイツの負組以外の、英、仏も戦争の痛手で青息吐息、英国は覇権をアメリカに譲り、院政を試みます。ところが予想外のことが生じます。いわゆる「鉄のカーテン」が出来、別の世界が形成されてしまうのです。でも、ソ連邦は、その後経済的に破綻し、現在覇権国と言えるのは米国だけになっています。パックス・アメリカーナは、現代の状態そのものでしょう。ここから先は、歴史の課題というより、現代政治そのものかも知れません。でも、昨日までに生じた事柄はすべて歴史の対象とも言えます。歴史を読み解き未来の予測に使えなければ歴史を学ぶ意味は何でしょうか。パックス・アメリカーナについての考察はまた後日行いたく思っています。

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米国の人種差別にたった一人で立ち向かった日系人

NHK・Eテレの「知恵泉」という番組で取り上げられました。日系二世のフレッド・コレマツ氏(是松 豊三郎1919年~ 2005年)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国における、日系人の強制収容の不当性をたった一人で訴えた権利擁護活動家です。当時有罪を言い渡されたコレマツでしたが」、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年1月に、法史研究学者のピーター・アイロンズから「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」という内容の手紙を受け取り、再び政府と対決することを決意し、結果的に無罪を勝ち取って、今アメリカでは大変見直されているとのこと。

途中、政府はコレマツに対して特赦を申し出るが、「私は国からの許しはいらない、許すのとするならば、私が国を許すのです」と述べ、あくまでも再審にこだわった。そして、1983年11月10日に41年前初めて裁判を戦った北カリフォルニア州連邦地裁でコレマツの公判が行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツが受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は抹消されることとなった。法廷でコレマツは、パテル判事の前で「私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べた。

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部のマリン郡にある長女の自宅で死亡した。86歳没。
2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。
フレッド・コレマツ 2017年1月30日、先述の「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」というコレマツの言葉を紹介している。直前にドナルド・トランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと話題になった。

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【日系人の強制収容所】

日本人の強制収容所は、第32代大統領ルーズベルトによって断行された政策です。従って、軍や裁判所も戦時下と言う事情もあり、反対しにくい事情はあったようです。ルーズベルト自身、日本人に対しては、優生学の視点から日本人に対する異常な差別意識があったとされており、同じ敵性国のドイツやイタリアとは全く異なった対応となったようです。ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線に参加したく(英国の要請もあったか)、なんとか国民の世論を戦争に向かわせるため、日本を挑発し続けていましたが、やっと真珠湾攻撃をしてくれて喜んでいたのもつかの間、被害が想定外だったため、ヒステリックになっていたのかも知れません。この時代、アメリカ国民自身もごく少数を除き意義を唱える人も少なかったのでしょう。ルースベルトは、大恐慌の後のニューデール政策の成功などで未だに国民の人気の高い大統領です。

ちょうど、ヒットラーのユダヤ人差別と同じ構図ですね。ヒットラーも差別の視点は優生学だったですよね。国民もマスコミも一緒になって差別に加担してしまうのです。ヒットラーも、ケインズ流の政策を取り入れ、ドイツ経済は大発展しますね。ヒットラー政権も、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法の元で民主的手続きで造られたのですね。歴史は勝ち組によって書かれます。真実は分かるのは相当後になってからですね。

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原子爆弾の開発

1945年8月、人類史上初、世界で唯一核兵器が実戦使用された。
8月6日 広島市 広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイ
8月9日 長崎市 長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマン
原子爆弾の開発は、E=mc2、すなわちわずかな質量が膨大なエネルギーを生み出すという発見から生まれた画期的な殺戮兵器である。ナチス支配下で米国に亡命して来た著名な科学者達がルーズベルト大統領に進言して開発が進められた。確かにドイツでも日本でも並行して開発が進められていたことは公然の秘密である。日本では仁科芳雄等が中心となって研究開発が進められていたが、敗戦後には原子力に関係する施設は米軍によって秘密裏に完璧に破壊された。日本のノーベル賞学者は湯川、朝永は仁科の弟子で、以後日本の物理学者らは専ら理論物理の研究を中心に行っていくことになる。
 ドイツが降伏し、日本も降伏寸前の時点では、核兵器の破壊力から投下を中止する意見もあったが、ルーズベルト死去の後を継いだトルーマン大統領の決定で投下が実施された。更に、第三の原子爆弾を投下することも計画されていたがトルーマンによって中止された。ルーズベルト大統領は、日系日本人の捕虜収容所を進めた張本人、やっていることナチスのユダヤ人捕虜収容所と何ら変わりがない。はじめからドイツには落とすつもりはなかったのかも。
 その後朝鮮戦争では、マッカーサーは原爆の使用を提言するが、トルーマンはこれを許さず、38度線にこだわり、また、今まで支援してきた蒋介石の中華民国政権の梯子をはずし、共産党の大陸支配を容認する。この結果、金日成が朝鮮解放の英雄として北朝鮮の支配を確立し、毛沢東も米国・日本から中国を解放した英雄として支配権を確立。その後進んでいく東西冷戦もこの時から想定されていた筋書通り展開のように思われる。

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敗戦後の東アジア世界

 日本がポツダム宣言を受け入れ終戦となったのが1945年。日本の降伏調印式は1945年9月2日。実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた(知らないのは日本国民だけ)。日本の終戦記念日は翌日の8月15日。正式に国家同士で戦争していたのはアメリカ合衆国と中華民国(蒋介石政府だけ)。ソ連とは不可侵条約を結んでいたので正式には戦闘状態には無かったわけです。中華人民共和国の成立は1949年10月1日。朝鮮戦争は1950年の北朝鮮の突然の侵入に始まり、1953年7月に休戦協定成立。未だ最終的な平和的解決は行われていない。

 戦後賠償については、米国、中華民国は賠償の権利を放棄している。これは第一次大戦時にドイツに過大な賠償金を課したことが大二次大戦の原因ともなったことを踏まえてのこと。従って、この時点において日本は戦後賠償の義務は一切ないことになっている。毛沢東の中華人民共和国は、戦中は国共合作として称して日本軍とも戦闘したことになっているが、実際は国民党を背後から鉄砲を打って邪魔したことぐらい。毛沢東は、「日本軍のお陰で国共内戦に勝てた」と豪語しているくらい。もちろん朝鮮半島は日本の統治下ですから日本国内の問題。韓国がとやかく言う筋合いは全くないはずのものです。

戦後、日本は東南アジア諸国に戦後賠償を行っておりますが、これは全く善意による経済援助。中国と韓国には未だに多大な資金供与を行っているのが我が国の現状です。しかし、日本は今の中国と韓国には賠償責任は一切ないはず。もしこれらの国が賠償しろというのは、アメリカ政府のさしがねか、中国、韓国の諜報組織による陰謀でしょう。日本人は歴史の勉強が足りないのは事実ですね。
日本は戦争放棄の他、諜報能力も放棄してしまったようで、政界、マスコミ、学会のすべてにこれら中国、韓国、北朝鮮からの諜報機関から莫大な資金がノーチェックで流れ込んでいるはず。世界中で、このように支払わなく良い賠償金??を払い続けている国はありません。日本では自民党の議員の中にすら中国、韓国のシンパは大勢います。本当の国益とは何か相当良く考えないといけませんね。

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ニクソン・ショックとプラザ合意

リチャード・ニクソンと毛沢東

第二次大戦後、米ドルを基軸通貨として為替の安定・自由貿易の推進により世界各国が相互に発展することを目指して定められた国際ルールがブレトン・ウッズ体制(1944)です。
日本が奇跡的な経済成長を見せ、西ヨーロッパも順調に復興すると、国際競争力が相対的に上がっていきます。世界各国は輸出によって稼いだ米ドルを金にどんどん換えていきます。一方アメリカは世界の警察として多くの軍事費を投入し、また共産圏の拡大を防ぐために発展途上国への経済援助費を増やしていきます。多国籍企業は米国外へ投資をつづけ、膨大な米ドルが世界中に流出し、これらのドルも金に交換されました。
結局アメリカの保有していた金(ブレトンウッズ体制当初、世界の7割とも言われていた)は、大量に国外に流出し、金ドル交換の不安が叫ばれるようになりました。1960年代にはしばしばドル危機の声が高まり、ゴールド・ラッシュと呼ばれる金への投機が活発になる現象が起きました。
1971年8月15日、アメリカ大統領チャールズ・ニクソンは、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止することを突然発表します。これは、ブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味しており、国際金融の大幅な枠組みが変わるきっかけとなります。この発表はアメリカ議会もしらなかったため、ニクソン・ショックと名づけられドル・ショックとも呼ばれます。ほぼ同時期(一ヶ月前)に発表されたニクソンによる中国訪問宣言と一連の北京での外交活動も合わせて、ニクソン・ショックと呼ばれています。
ところで、それまではドルは金と対応していたので他の財貨との関係は需要供給曲線のロジックでバランスが取れるフィードバック機能が働いていました。しかし、ドル金交換が停止されて以降、米国は無尽蔵にドル(もちろん貨幣に変わる債権なども含みます)を発行し、覇権国として世界中から自由に物を買うことができるようになりました。これが米国が覇権を維持できる根幹でしょうね。今後もドルはどんどん増え続けるでしょう。その結果は世界は一体どうなってしまうのでしょう。世界の経済は、常に新たな需要と供給のバランス点を模索して変化し続けるでしょう。人はそれを経済発展を称するのでしょうが、変動する世界は行きつく先が見えないので大変不安です。少なくともサスティナブル(持続可能)な制度ではないはずです。ただ、世界経済の規模が大きいのでたとえ破綻するにしても数十年の規模で推移するのでしょう。
基本的に貨幣の量が増えれば、財の需要は増え供給の価格は割高になるでしょう。特に労働賃金(労賃にも需要と供給の関係が成り立つ)の安い開発途上国には有利に働くでしょう。その結果、中国、インド、東南アジア、アフリカなどの経済はずいぶんよくなって来たようです。一方、先進国の工業は材料費や賃金の高騰で立ち行かなくなって行くようです。そして頻繁に発生するバブル、やはり近い将来何が起こる可能性は否定できないでしょう。現在も金はどんどん米国や日本から流出して中国やロシア、インドなどの国は金をせっせと集めていると言われます。そのうちにまた金本位制が復活するのかもしれません。

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中華思想と小中華思想

中国は儒教に国と言われ、韓国も儒教の国であることを自負している。儒教は日本人の思想にも多大な影響を与えています。北朝鮮やベトナムも儒教の影響を受けており、東アジア一帯に渡って一つの大きな文化圏を形成しているとも言えそうです。ただし、日本での儒学は隣の中国、朝鮮とは異なった発展をとげたようです。儒教は、何故か国の宗教にはならず、そのため人の生き方のような哲学的な部分が発展して、陽明学のような流れは日本から逆に中国に輸出されるまでに発展します。
一方、本家中国では、儒教は秦の時代の焚書坑儒のように最初は多大な迫害を受けますが、漢の時代以降、国を治める宗教(理念というべきか)として取り上げられ、大きく変身してしまいます。親には孝、国には忠と言う部分だけが強調されて、礼儀作法が形式化されていきます。現状肯定の支配者に取って、都合の良い考えですね。
一方、中国が宗主で周りの国が家来といった、中華思想が段々強化されていきます。いわゆる朝貢貿易です。歴史上、王国が誕生すると同時に王国の周辺の民族を見下すような自己中心的な考えは多かれ少なかれ見られるものですが、中国ではこの考え方が異常に発展してしまいます。中国独特の歴史的、地理的な環境がそのようにさせたようです。
一つには、儒教が中華思想を肯定し、強化する役割を果たしたようです。また、中国は何度も周辺の遊牧民に支配される歴史を経験しています。このような支配を受けた経験は、その劣等感の裏返しで、かえって選民思想のようなものを強化していく作用があるようです。
一方の韓国での小中華思想は、とりあえず中国を親と仰ぎつつ、自分はその第一の継承者として周辺の民族を積極的に見下す。朝鮮と言う国は、中国の影響をはねのける代わりに従属の道を選んだ。日本やベトナムとは異なる道だ。総ての文化は韓国から日本へ流入したと信じたい。コメも、仏教も、漢字も、カラオケも、寿司も、血液型性格判断も、終身雇用制度も。これが韓国の実態。結局見たいものしか見ないし、見たくないものは否定する。これが歴史認識の違いと彼らが声高に主張していることの真実です。
 中国も、尖閣列島の問題も、スプラトリー諸島の問題もすべて同じ。総て自己中心的な発想ですから解決するはずもないわけです。外交問題ではこれからも色々問題を起こすでしょうが、常に発想は自国中心。力の外交を繰り広げると予測されています。
 まあ、あまり隣の国を批判するのも格好いい話ではないので日本のことを振り返ると、戦争中の日本は、まさしく中華思想ならぬ皇国史観に塗り固められていて、あまり自慢できる話でもないですね。大東亜共栄圏などまさに中華思想とウリ二つ。劣等感に起因する排外思想、現実を見ないで過去を美化する史観。ちょうど今の北朝鮮と同じですね。このような民族主義的な歴史観、そろそろ終わりにして欲しいですね。

世界の歴史の部屋
裸坊達の部屋

コロンブスのお土産

 スペイン・イサベラ女王の資金援助で新世界に到達するコロンブス。1492年西インド諸島のサン・サルバドル島に上陸する。地元原住民の歓迎を受けるも、コロンブス本人は、金と奴隷の略奪しか興味がなかったらしい。要は海賊ビジネスが生業だった訳。ただ、インドに行った証明に胡椒(pepper)を持ち帰る必要があった。胡椒はインド原産で大変な貴重品。もちろんここは、本当はインドではないので、胡椒なんて手に入る訳がない。ところがここに素晴らしい代替品があった。唐辛子である。これも、英語ではpepperだ。以後、世界中で大流行の香辛料になる。本家の胡椒を凌ぐほどに。ただ、コロンブス自身は、インドに行ってないことがバレてしまい、晩年は不幸な人生だったとか。

 ところで、コロンブスが持ち帰った農作物は、非常に貴重なものが多く、世界中の人々の農業や食文化に多大な影響を与えている。例えば、下記のような作物が挙げられる。このうち一部は、コロンブス以前に別のルートで広まったと思われるものや、より後の時代に旧世界に伝えられたと思われるもの混じっているが、スペイン人による完璧な破壊略奪で滅ぼされた新大陸の文化の高さを証明している。

1.唐辛子…ナス科トウガラシ属、中南米を原産。
2.ピーマンやパプリカも唐辛子の変種。
3.トマト…ナス科ナス属、南アメリカのアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産。
4. ジャガイモ…ナス科ナス属、原産は南米アンデス山脈の高地といわれる。
5. タバコ…ナス科タバコ属
6.カボチャ…ウリ科カボチャ属、原産は南北アメリカ大陸。
7. サツマイモ…ヒルガオ科サツマイモ属、
8.トウモロコシ…イネ科の一年生植物。
9. 落花生…マメ亜科ラッカセイ属、南米原産。
10. いんげん豆…マメ科、アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税として徴収

非常に多彩です。1~5がナス科というのも面白いですね。インカのナスカ絵…ダジャレ。世界に4大穀物…小麦、米、トウモロコシ、ジャガイモ。このうち2つが米大陸原産。トウモロコシとサツマイモは10世紀頃に既にポリネシアで栽培が記録されており、もっと前に伝わっていた可能性もあるそうです。唐辛子は、秀吉の朝鮮出兵の時に日本から朝鮮半島に伝わったようです。

世界の歴史の部屋

アイヒマン裁判

アドルフ・オットー・アイヒマン(1906年~ 1962年)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割をになったとされている。
Eichmann
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行される。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑。
 アイヒマン氏は、アルゼンチンで家族を持ち平穏な余生を送っていたようだ。イスラエルのやり方は、当然国際法違反であるが、アメリカの強い後ろ盾もあり不問にされた。世界のメディアは、アイヒマンを凶悪な性格に描こうと待ち構えていたが、アイヒマンの答弁は終始、「法と上司の命令を忠実に守っただけで、自分には罪はない。」というものであった。要するにごく普通の一般人。この裁判を傍聴したハンナ・アーレントは、この記録を発表するが、ユダヤ社会を含めメディアから猛烈な批判を受ける。でも、事実なのだから仕方がない。でも、あなたがアイヒマンの立場だったら、上からの命令を敢然と拒否できたでしょうか。

世界の歴史の部屋

中国は何故世界の覇者になれなかったのか

ジャンク船 明の時代、中国の鄭和(ていわ)は大艦隊を引き連れアフリカの東海岸(現ケニア)まで遠征する。鄭 和(1371年 ~1434年)は、中国明代の武将で12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられる。鄭和の船団は途中、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、中国の威を誇示して回った。コロンブスが米大陸を発見する(1492年)よりも60年ぐらい前のことだ。しかも遠征の規模も桁違いに大きい。
 コロンブスと鄭和の艦隊を比べてみると、人数ではコロンブスは100人強であるのに対し、鄭和は3万人弱でした。船の大きさも鄭和は全長120mあり、コロンブスの約4倍でした。ただ、コロンブスが持ち帰った中南米原産のトウモロコシやジャガイモ、ほかにも性病の梅毒は、ヨーロッパを経由して世界に広がりました。これらの食物はヨーロッパで主食になり、18世紀の世界的な人口増加を支えたと言われています。これに対して、鄭和が持ち帰った目新しいものと言えば、アフリカのキリン、シマウマ、ライオンくらいで、その後の歴史に大きな影響を与えるものはあまりなかったからという説もある。
しかし、3万人もの人材を海外に派遣して各地の地理情報を取りまとめているのだから、利用の仕方次第でいくらでも歴史に大影響を与えることは可能なはずだ。このような海外派遣を続けていれば(資金が枯渇しなければ)、インドやアフリカの国々も中国に朝貢するようになり、世界帝国の中心として覇をとなえることも可能であったはずだ。
鄭和の遠征鄭和の遠征      コロンブスコロンブス
 ただ、はっきり言えることは鄭和のプロジェクトは、国策プロジェクトで、当時の明は中央集権的国家であった。一方、コロンブス達は得体の知れないならず者集団。ベネチアからの資金やイサベラ女王の支援(ポルトガルには断られる)のおかげで成立した博打のようなプロジェクトだ。だからどちらもプロジェクトとしては成功しても、歴史に与える影響でコロンブスが勝っていることになる(歴史の逆説みたいなもの)。
 当時の明は、民間による海外貿易は禁止している。第三代永楽帝は、クーデター的に政権を確立したこともあり、積極的な海外拡張策を取り、周辺諸国に朝貢を促す政策を実施。基本的に朝貢貿易というのは、朝貢国よりも宗主国の方が持ち出しの経済的には割が合わないシステム。度重なる遠征と朝貢から明の財政は逼迫、以後中国は二度と海外に目を向けることはなくなる。ヨーロッパ諸国が海の覇権を確立する絶好の好機を提供したわけだ。
しかし、鄭和の艦隊が去った後は、その隙間はしばらくの間の海は、イスラム商人たちの独壇場(インドや東南アジア諸国も入れたか)となったはず。ここを避けて西へ向かったのがスペイン、強引に割り込んだのポルトガル。どのようにしてポルトガルが海の覇権を手に入れたのか、これも歴史の面白いところ。
ダウ船ダウ船      キルワキルワ遺跡(タンザニア)
 中国は、孔子の生まれた春秋戦国時代を除くと、ほとんどの時代統一王朝が存在している。たまたま、前の王朝が倒れても次の新しい王朝が統一する。基本的にはトップは倒れても官僚制は存続しているわけ。明の前の元王朝の時だって、王家の人間は処刑されても官僚たちはそのまま利用される。だって、極めて少人数のモンゴル人がどうやって人口の多い中国を治めるんだ。これが中国の歴史的な体質となってずっと残っている。いわゆる律令国家だ。朝鮮も同じ。ところが日本だけは、例外的に武士が政権を握りいわゆる封建制度となる。ヨーロッパもローマ帝国崩壊以降封建制に変わる。封建制は中央集権に対して非常に地方分権型。多数の国家が覇を競って競争する。封建制は中央集権に対して国の運営としては効率が悪そうだが、自由競争や思想の多様性が高い利点もあり結局、経済・技術の分野では成功する。
中国は世界に先駆けて安定して平和な中央集権の確立に成功した。その結果は、当初技術面でも素晴らしい発展を見せる。紙、羅針盤、印刷術、火薬、鉄砲(のようなもの)等、世界中の近代以前の主要な発明は総て中国産と言っても過言ではあるまい。シルクロードで運ばれる絹も中国。スパッゲティだって元をたどれば中国の麺だろう。ところが、明代以降の中国は、海外から目を反らし、国内の技術の発展をむしろ禁止して、ひたすら政権の安定だけを目指すようになってしまう。日本も江戸幕府は民間の海外貿易を禁止したり、海外の情報を入れないようにして、300年の平和と安定を維持したが、政権の基礎が封建制であったため、諸藩から生じる討幕の動きを止めることができなかったわけだ。安定や平和、秩序を求める国民の要求にも一見合致した政策が、結果として世界の大勢に遅れ、国民にも多大な負担を強いることになってしまうわけだ。

世界の歴史の部屋

めげない北朝鮮

米トランプ政権の強硬な姿勢にもかかわらず、ますます戦術をエスカレートして行く北朝鮮。国際的制裁を声高に叫び続けるだけの阿部政権。果たして、落としどころはあるのでしょうか。そもそも、北朝鮮の歴史をたどってみれば、絶対に折れることが無いことは明白なはずですが。
朝鮮戦争が1953年に国連軍と中朝休戦協定が結ばれて以降、米国と朝鮮は未だに戦争が終わってない状態にある訳で、今まで北がもっとも望んでいたのは停戦協定と平和条約だったはずなのです。北朝鮮は、日本の敗戦とドサクサに紛れて金日成がソ連後と中国の力を借りて軍事力で簒奪した国家で、別に多くの国民の支持を集めて造られた国家ではありません。その意味では中国も一緒で、日本軍と戦っていた中華民国の軍隊を背中から鉄砲を打って倒したような政権。中国が米国を打倒した言うことで党内で一躍力をつけたのが毛沢東。結局朝鮮戦争で一番得をしたのは毛沢東と金日成です。
これに対して、米国の対応がまた不可思議。マッカーサー等のさらなる進行をトルーマン大統領は拒否し、今の38度線で休戦協定。これはソ連との約束とのこともあるようですが、その後中華民国への支援の梯子を外し(ルーズベルトの時代までは良かった)、中華民国は台湾へ追いやられることになります。同時に英国のチャーチルの「鉄のカーテン」演説を受けて、反共活動を開始します。
金日成
まあ、トルーマン大統領にとっては、世界とは米国と欧州。その他の野蛮人の国はどうでも良かったのかもしれませんが。もう一つ理由を挙げれば、当時事実上の唯一の戦勝国の米国は、強力に育った軍事力を戦後どのように処理して行けば良いか分からなかったと言う問題があったようです。熱い戦争は困るけど、冷たい戦争、お互いに睨み合って軍事拡張を続ける。時々小さな小競り合いがある(代理戦争)状態が大変好ましかったということもあるでしょう。軍隊と言う組織は超巨大な官僚組織、組織を縮小、予算を減らすなどしたら大変です。更に大戦後の米国軍は諜報能力も絶大で、あることないことでっち上げ政府を操ること等、お手の物。この軍と防衛産業、諜報機関、西欧諸国の同様な機関が協力して冷戦構造を作りあげられました。
金日成
この間、北朝鮮は常に米国から見て悪役、北朝鮮から見たら米国が悪役の体制が続けられてきました。北朝鮮の意志とは全く関係なく米国の都合です。もし、今米国が北朝鮮と和解して交流を開始したらどうなるのでしょう。韓国にいる米軍は必要なくなります。日本の沖縄基地も不要になってしまいます。トランプはそれでも良いと思っているのしょう。でも、米国の主流派は決してこのような状態は許せません。日本政府も韓国政府も対米依存ですから、米国が出て行ってしまうことには大反対でしょう。北朝鮮とはいつまでも敵対していて欲しいのが本音です。北朝鮮も反米を国是として国をまとめてきたことから、停戦協定を行うと、国家の存続理由が無くなって崩壊してしまう懸念もあるのでしょう。結局当事者達は今の状態が継続することを望んでいる訳です。一番困るのは北朝鮮の一般の民衆でしょう。
金日成
北朝鮮の国家体制は、戦前戦中の日本と瓜二つです。全体主義国家。天皇の代わりに金王朝があります。お国のために死ぬことを教育された人々、原爆でも落ちるまでは戦う覚悟が出来ているでしょう。トランプは多分自分から攻撃をかけることは無いでしょう。しかし、北朝鮮封じ込め戦略を取り続けた軍部には、北朝鮮が米国に届くミサイルを開発したことは大変なショックを受けているはずです。過去の日本と同じように玉砕戦を挑む可能性が現実味を帯びて来るからです。経済封鎖に当たって、中国とロシアが原油の供給をストップすることに躊躇したのは日本が真珠湾を攻めた前例があるからです。
停戦の最後の切り札は、北朝鮮が核開発を止めることでしょう。しかし、米国は今持っているものも破棄するように要求するでしょう。これは絶対にありえないストーリーです。イラクのフセインが大量破壊兵器を破棄してもまだあるはずだと因縁をつけられ最後に潰されましたね。リビアのカダフィも同じか。北朝鮮は、イラクやリビアのの二の舞にはならないでしょう。結局、現状を認め核兵器開発を止めることで手を打つところが落としどころでしょう。だから、米国世論が和平に傾くのを待っているのがトランプの真の狙いでしょう。和平が成立すれば、米国は韓国、日本から膨大な軍事力を引き上げることが出来、膨大な経費が削減できます。ただ、和平が成立すると韓国、日本も大幅な政策変更が避けられなくなるでしょう。北朝鮮が先に手を出せば話は簡単。戦争で片が付くでしょう。だから北もうかつに手を出さない。最後は米国の方が何らかの妥協案を出すかも。とすると現在駐留している韓国や沖縄の軍を引き上げることもトランプの視野にあるかも知れませ。

世界の歴史の部屋

忘れられた巨人The Buried Giant

アーサー王 2017年のノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロ氏の小説です。この舞台設定がとてもユニーク。舞台はイギリス、主人公の老夫婦は、ブリトン人。4世紀から5世紀頃大陸からサクソン人が大挙して侵入してくる。日本で言えば、縄文社会に大陸から弥生人が大挙してやってくるような状況か。でも、日本では大和政権が確立されていく頃。ローマ帝国ではキリスト教が国教となり(392)、ブリトン人はキリスト教徒という設定です。
ブリトン人は、ストーンヘンジ等の新石器文明を残した人々の末裔か、あるいはその後に来た人々か。また、サクソン人は、ドイツのザクセンと同語源でゲルマン系でしょうが、今ではアングロ・サクソンとして英国人の主流となっていいます。
小説の設定では、ブリトン人は山の斜面の横穴式の住まいを好み、サクソン人は環濠集落を築いており、言語も異なり文化も異なるものの平和な時代にはお互い多少の交流もあったという設定です。
アーサー王 ここで、出て来る巨人とは、「アーサー王」という伝説上の人物でしょう。マーリーンという魔法使いの参謀がいたり、ドラゴンやその他の怪獣を操ったり、また選ばれた騎士達の力で国土を一旦は統一したという設定だ。アーサー王はブリトン人ということで、実は戦いにおいて大量の虐殺も行い、そのため一部のサクソン人達は復讐心を燃やしブリトン人を殲滅しようと密かに計画している。一方、ブリトン人の中にはアーサー王の継承者を自認する人たちも存在している。一方、ドラゴンの息から吐き出される気が人々の過去の記憶を消し去るという魔術を持っている。主人公の老夫婦も過去の記憶が消されており、最初は二人とも認知症でもかかっているようだが、読み進めていくうちにドラゴンの霧というのが実際に作用していることが分かる。
主人公の老夫婦は、過去の記憶を求めて旅に出る。そこで色々な人物に会う。最後に竜は退治され人々は過去の記憶を取り戻すが、本当にそれは幸せなことなのか。
ブリトン人とサクソン人の遭遇、これは今の世界にも当てはまる重要なテーマです。EUにはイスラム教徒が難民として大挙して押し寄せてくる。日本だって将来、他人ごとではないかも知れません。多分ドラゴンがまき散らす息と言うのは、自然災害等による環境の劣化を指しているのだろう。洪水や旱魃など人の力では対処できない事柄はドラゴンなどと魔物のせいにしていたのでしょう。

世界の歴史の部屋

戦後の米国覇権とその政策

1.戦後処理
 太平洋戦争は、一般に「真珠湾攻撃・マレー作戦・開戦の詔が出された1941年12月8日から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とされているが、英国はこの戦争でアジアでの覇権を失い、欧州では、戦勝国側も疲弊しきっており、米国の一人覇権が確定する。米国の当初の戦略は、戦勝国5か国の共同管理を想定しており、国連の英語名のUnited Nationsは、戦時中に使用していた単に連合国そのままである。
 米国の外交戦略は、もともとはモンロー主義(第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ モンローによって提唱された)に代表されるようにヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉が基本であった。 実際、米国は独立当初から、各州の自立を重んじる分権派と連邦政府の強化を目指したいエリート層との間で峻烈の戦いが続いて来ている。今年、大統領になったトランプのアメリカ第一主義や、共和党の茶会派等は、アメリカ庶民の本来の本音の草の根の意見を代表しているともいえるでしょう。
 米国中心の占領軍の、日本に対する政策は二度と戦争できないように極力力を削ぐものではあったが、一部国民の総意に基づく民主主義の理想を実現しようという意図もなかったとは言えない。農地解放、平和憲法等は自国では実現できない政策を実行に移したものともいえる。どちらかというと分権派的だ。それまで禁止されていた共産党の活動も合法化されるなど、戦後民主主義の時代を迎えるかと思われていた。また、イラク占領の際には、フセイン政権下の官僚機構をズタズタに破壊してしまったことが今の混迷の一因ともいわれているが、日本の場合、吉田茂主相の尽力もあり、官僚機構は米国の御用聞きとして無傷で残された。ただし、その代償として戦後の日本では、官僚主導の対米従属一辺倒の政策を変えられない状況となっている(これも米国の覇権戦略か)。
2.魔女狩りの時代
 ところが、その後米国では、戦略に大転換が行われる。発端は、当時英国の主相を退任した後のチャーチルが米国で講演した、いわゆる鉄のカーテン発言(1946年3月)だ。この時の米国の大統領は、トルーマン。米国では、マッカーシー旋風が吹き荒れ、日本でもマッカーサーの指令でレッドパージという政策が断行される。逆コースと言う時代である。公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とレッテルを貼られた人々裁判にもかけずに解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職したとされる。「赤狩り」とも呼ばれた。
3. 冷戦の始まりと朝鮮戦争
 どうも、トルーマンの一見弱腰と見られる戦略は、初めから意図したもので、トルーマンにとって、世界とは米国、ヨーロッパ、反共の拠点となりうる日本だけで、その他の地域は、とりあえず放置しておいてもいいと考えていたのではないかと思える。このようにしてチャーチル~ルーズベルト~トル-マンの冷戦構想が出来上がる。英国は今までの覇権を米国に移譲する。米国は英国をリーダとするヨーロッパに戦後復興を支援する。戦争中に増大した軍事力は、冷戦構造を持続することで維持する。そのためにはソ連邦には永続的な敵としてふるまってもらう。(2017.5.24)

チャーチル 鉄のカーテン…チャーチルの講演
 (前略)つい最近まで連合国側の勝利によって光輝いていた状況に影がさしてきた。ソヴィエト・ロシアとその国際共産主義組織が近い将来に何をなさんとしているのか、又、彼等の膨張主義的傾向や(他者にイデオロギーの)転向を強いる傾向に限界があるとすればそれは何なのか、誰にもわからない。再びドイツが侵略する事態に備えて、ロシア人がその西部国境の安全保障を確保する必要があることを我々は理解できる。
 (略)しかし、ヨーロッパの現況についての確かな事実を諸君にお伝えすることは私の義務なのである。言いたくはないが、この確かな事実を伝えることが私の義務と思うのである。バルト海のステテティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降された。このカーテンの裏側には、中欧・東欧の古くからの国々の首都がある。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブタペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア、これらの有名な全ての郡市とその周辺の住民は、ソヴィエト圏内にあり、何らかの形で、ソヴィエトの影響下にあるばかりか、ますます強化されつつあるモスクワからの厳しい統制を受けている。(略)
 この『鉄のカーテン』を越えて西ヨーロッパまで手をのばしてきた各地の共産党第五列は、文明に対する挑戦である。ソ連が戦争を欲しているとは思わないが、彼らの求めているのは戦争の報酬であり、彼らの権力と主義のかぎりなき拡張である。だから手遅れにならぬうちに、すペての国にできるだけ早く自由と民主主義を確立しなくてはならない。ぞのために民主諸国とりわけアソグロ・サクソソの人々はしっかりと団結する必要がある。(略)
 さもなければ、ふたたぴ暗黒時代に逆もどりするかもしれない。私はあえていうが、用心してもらいたい。われわれに残された時間は少ないかもしれぬ。もう手遅れだということになるまで事態を放任しておくようなやりかただけは、おたがいにしないでおこうではないか。
スターリンの「鉄のカーテン」演説批判(抜粋) 『プラウダ』(1946.3.13)
 チャーチルの演説は、連合国間に不和の種をまき、協力をいっそう困難にすることをめざした危険な行動であると考える。それは平和と世界の安全をあやうくするものである。じっさい、チャーチルは、いまや戦争屋の立場に身をおいている。しかし彼はそこに一人でいるわけではない。イギリスだけでなく、おなじくアメリカにも彼の友人がいる。この点でチャーチルとその友人たちは、ふしぎなほどヒトラーと彼の一味を思わせるではないか。
「鉄のカーテン」演説
CIA NSC チャーチル~トルーマン 冷戦 鉄のカーテン
鉄のカーテンが降ろされた。チャーチルは、8月8日には、驚くほど楽観的だった。広島に Little Boy が落とされた後、長崎にFat Manが落とされる前の、8月8日だ。
チャーチルはトルーマンに機密電報を送り、「広島への攻撃は、この新しい力が正義の力となるか邪悪の力となるか、の可能性を持っていることを証明した。あなたと私は、この大戦争を統括する政府の元首として、世界の平和を促進するために、この偉大な力を我々の国益達成のためではなく、人間性を守る道具として利用する意思を表明した共同宣言を発表すべきだ」と述べた。
それから7カ月後、1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で、スターリンの冷酷な政府を厳しく攻撃した「鉄のカーテン」の演説をし、「国際連合は武装し、キリスト教文明を共産主義の脅威から護らねばならない」と言った。
トルーマン大統領も聴講していた。

ソ連封じ込め
トルーマンは、国連加盟国に原子力エネルギーの情報を提供すべきではないかというスティムソン陸軍長官の提案について、閣僚全員に意見を差し出すよう求めた。
「独占を」という意見もあれば、「完全公開」という意見まで様々だったが、ソ連の侵略的政策との絡みで、トルーマンがアメリカの原爆独占を続ける決定を出すのは当然であった。
1947(昭和22)年9月26日、新設された国家安全保障会議(National Security Council, NSC)は、ホワイト・ハウスでの最初の会合を開いた。そこで、CIAの最初の正式報告が提出され、アメリカの外交政策が明確にされた。「ソ連封じ込めという観点から、地域の重要順位は、⑴西ヨーロッパ、⑵中近東、 ⑶極東となる。日本は、ソ連極東地域に対抗する力として早く発展する資質を持つ唯一の地域なので重要である」

世界の歴史の部屋

日の名残りThe Remains of the Day

日の名残り 「日の名残り(The Remains of the Day)」は、ノーベル文学賞を受賞した英国の作家カズオ・イシグロ氏の作品です。歴史的背景は、2つの世界大戦のはざまの、やや没落しつつある英国。主人公スティーブンスは、有力貴族ダーリントン卿の執事。ダーリントン卿を骨の髄まで真髄して忠誠を尽くそうとする。「執事道」を究めた成功者と自認している。ダーリントン卿のもとには世界中(といっても米国を含む欧米諸国だが)の卿の人徳をしたいお忍びで相談に来る。卿は、来る人拒まずで常に公平を理想としていた人徳者。国際会議や条約締結の下準備として、ダーリントン卿の屋敷を借り、丁々発止の議論が行われている。そのため、スティーブンスは執事の仕事を通して各国の主要な人々の世話をする機会があり、自分も世界を動かす役割の一部として貢献していることに自負心を持っている。
しかし、当時の外交は、実際のこのようにして動かされていた一面もあったようです。ダーリントン卿自身もこのような場を提供することが平和と国際正義実現のためと思い精力的にホスト役を引き受けていたようだ。客の一人に「普通選挙だ民主主義だといってみても、婦人会の人々が戦争遂行なんてできるわけがない。」と言わせている。各国のエリート達が腹を割って話し合いをする場が必要なわけだ。しかし、戦争に対する危機感とそれに伴って台頭してくる国家主義によって、話し合いで解決しようという土壌は次第に失われていく。結局、第二次世界大戦後にはダーリントン、対独協力者として失脚し、屋敷は米国の金持ちファラディー氏のものになり、スティーブンスは、屋敷の管理人(肩書は今まで通り執事だが)として再雇用されることに。スティーブンスは、主人からもらった休暇を使って、元屋敷で働いていた女中頭を再雇用する目的で旅をする。旅の途中で色々な経験をする。なんせ主人公は人生ほとんどの期間、屋敷の中から外へ出たことがなかったのだ。また、実はその女中頭が、自分にたいして恋心があったこと(執事の仕事に夢中で気がつかなった)を初めて知る。現在は彼女は結婚していて孫が複数いることを知らされる。さすがに今までの自分の価値観に疑問を持つようになり、新しい人生を始めることを決意する。
「執事道」、結構日本の武士道と一脈通じるところがあるのでは。武士だって、主君のために命を捨てる覚悟を持てるのは、その主君を真から尊敬してないとできないこと。また、現在の外交の場でも、表向きニュースで扱われる動きの裏では、プライベートな話し合いの場が重要であるという事実は変わっていないのではなかろうか。いろいろと考えさせられる課題の多い良い作品だと思います。訳者「土屋政雄」氏の訳も読みやすい。
世界の歴史の部屋

歴史の部屋

ハイレ・セラシエ皇帝

エチオピア国旗 帝国主義時代のヨーロッパ諸国にとっては、海外に植民地を持つことがその国のステータスシンボルであったようだ。イギリスはインド、カナダ、オーストラリアの他、アフリカ大陸には南アフリカ、東アフリカ(タンザニア、ケニア)を植民地化する。インドシナ半島も領有していたフランスも負けじと西アフリカ一帯を植民地化する。オランダはインドネシア(蘭領インド)、日本だって朝鮮、台湾、樺太などを植民地化、合衆国もフィリピンをスペインから奪い取る。ベルギーだってアフリカのコンゴを植民地化。そのようなヨーロッパ列強国によるアフリカの植民地化(アフリカ分割)が進む中、19世紀後半イタリアはエチオピアに強引に介入を始め、1885年に占領し、1889年、ウッチャリ条約によりエチオピアはエリトリアをイタリアの支配権を奪い取る(第一次エチオピア戦争)。国家統一が進みこれから発展するはずのエチオピアにとっては全く迷惑な話だろう。また、同年、隣国ソマリアがイタリア領となる。
独立国エチオピアへの植民を狙うイタリアはメネリク2世の帝位襲名を支援することで、間接的にエチオピアに影響力を行使することを計画していた。そのため、現地には1万人前後の兵士しか派遣されていなかったが、これを好機と見たメネリク2世はイタリアとの協定を破棄して開戦。単に数で上回れるだけでなく、陸軍がフランスの支援で高度な近代化を成し遂げていたのも大きな要因であった。アドワの戦いでエチオピア軍15万とイタリア軍1万が衝突する。
ハイレ・セラシエ1 終結後の1906年にはエチオピアに関する英仏伊三国協定が結ばれ、エチオピアにおける三国の利益保護のために協力することが決めらる。エチオピアは蚊帳の外。1925年にベニート・ムッソリーニがイタリア首相に就任する。 領土拡大を図るイタリアはドゥーチェ・ムッソリーニの指導の下、国境紛争を口実に再びエチオピアに侵攻した。数十年の間に近代的装備を失いつつあったエチオピア軍に圧勝し、皇帝ハイレ・セラシエ1世は亡命してイタリア国王がエチオピア皇帝を兼任した(第二次エチオピア戦争)。
この際、エチオピア政府は国際連盟にイタリアの侵略を訴えるが、効果のある解決策にはならなかったという。国際紛争の解決において大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だがイタリアに対して実効的ではなかった。しかし、イタリアは孤立からドイツおよび日本と結ぶようになり、枢軸国を形成する道をたどることになる。
1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐するとハイレ・セラシエが帰国し、軍の近代化を進めることとなる。

【ハイレ・セラシエ皇帝】
1930年4月にエチオピア帝国皇帝に即位。1931年7月16日に大日本帝国憲法を範とし、7章55条から成るエチオピア帝国初の成文憲法たる「エチオピア1931年憲法」を制定。しかしながら、実態は絶対主義的な欽定憲法であり、社会体制そのものの改革には手をつけず、ガバルと呼ばれる小作地制度も温存された。
ハイレ・セラシエ2 しかし、1934年イタリア・ファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国が「アドワの報復」を掲げてエチオピアに進攻、第二次エチオピア戦争が勃発。国際連盟でエチオピアはイタリアへの強制措置を訴えるもイギリスとフランスの対応が誠意を欠いたものであったために限定的な経済制裁しか行われず、翌1936年3月のマイチァウの戦いでイタリア軍は毒ガスを用いて帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させる。その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世は5月2日に鉄道でジブチに向かい、ジブチを経由してイギリスのロンドンに亡命した。その間首都アディスアベバは5月5日に陥落。
1936年から1941年までのエチオピアはイタリア領東アフリカ帝国としてファシスト・イタリアに統治された。1939年の第二次世界大戦勃発後、東アフリカ戦線 (第二次世界大戦)にて枢軸国のイタリア軍と連合国のイギリス軍の激戦を経て、1941年にエチオピアはイギリス軍に解放され、5月5日に皇帝ハイレ・セラシエ1世は凱旋帰国。
アフリカ分割 国際舞台での活躍;
1945年の第二次世界大戦終結後は、かつて国際連盟で自身が訴えた集団安全保障の実践として朝鮮戦争の国連軍にエチオピア軍を参加させた。また、コンゴ動乱ではコンゴ国連軍に真っ先に参加した国の1つであった。
外交面では朝鮮戦争に参戦するなど冷戦構造の中で西側寄りながら、ソビエト連邦や中華人民共和国のような東側の国々とも国交を築き、1955年のバンドンのアジア・アフリカ会議や1961年のベオグラードの非同盟諸国首脳会議に出席して非同盟中立を掲げ、1963年にはアディスアベバで西側寄りのアフリカ諸国であるモンロビア・グループと東側寄りのアフリカ諸国であるカサブランカ・グループを汎アフリカ主義に基づいてまとめあげたアフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合)の初代議長に就き、アラブ諸国とは同じ第三世界として連携しつつイスラエルとも歴史的な繋がりから軍事協力を行っていた。国際的に孤立していたラテンアメリカの黒人国家ハイチの独裁者であったフランソワ・デュヴァリエは外国指導者のハイチ訪問を唯一ハイレ・セラシエ1世にだけ認めた。内政面では憲法改正、軍の近代化などの改革を行うが、依然として専制政治を続けて権力分立はされず、議会に政党を認めず、封建体制を維持したため、経済面は発展せず国民の生活は悪化の一途を辿り、1960年代の国民一人当たりの年間所得は平均わずか70ドルという世界最貧国の一つに転落するなどさまざまな矛盾を国内に生み出していた。1960年には、皇太子アスファを擁立した陸軍近衛部隊のクーデター未遂事件が発生する。
なかんずく、1970年頃からの深刻な飢饉と、スエズ運河閉鎖による原油価格高騰から来るインフレの悪化は国民生活を苦しめ、一部支配層の農作物の隠匿から餓死者が農村部で増加するなど、エチオピア社会は大混乱となったが、皇帝は何ら対応策を取らず、逆に飢饉を隠蔽するなど、国際社会の非難を浴びた。
1973年以降、ストライキやデモが頻発し、エリトリアでは内戦が発生し、事態は悪化の一途を辿った。折悪しくも、皇帝が宮殿内に飼育しているペットのライオンに肉を与えている写真が発表され、深刻な食糧難に苦しむ国民を激怒させた。1973年9月には皇帝の孫イスカンデル・テスタ海軍副総督が、銃を突きつけて退位を迫る事件が起こり、皇帝の権威は政府内部でも著しく低下した。
退位・死去;
1974年には皇帝自身による不正が発覚するなど、国内におけるカリスマ性は地に堕ち、同年2月には軍が反乱を起こし、帝政打倒の声が高まった。皇帝はエンデルカチュ・マコンネンを首相に任命し、立憲君主制への移行や土地改革などを公約するが、時すでに遅く、民衆によるゼネスト、デモ、若手将校を中心とする改革集団「軍部調整委員会」の成立、軍部による政府要人の拘束などが公然と行われた。
そんな騒然とした雰囲気の1974年9月2日早朝、皇帝はアディスアベバの宮殿内で陸軍のクーデターにより逮捕・廃位され、拘禁中の1975年に暗殺(犯人はメンギスツという説もある。また、1997年にエチオピア当局は廃位直後に射殺されたと発表)された。
死後;
長らく遺骨は行方不明であったが、メンギスツ政権崩壊後の1992年に旧宮殿敷地内から発掘され、2000年にアディスアベバの至聖三者大聖堂内の墓地に埋葬された。なお、息子のアスファは妹等と共にアメリカのニューヨーク州に逃れ、慎ましく過ごすこととなり、1989年には皇帝アムハ・セラシエ1世を称したが、1997年にバージニア州で死去している。アスファの息子ゼラ・ヤコブは現在、エチオピアのアディスアベバに戻って居住している。
アディスアベバのアフリカ連合本部前にはそのアフリカ独立運動とアフリカ統一運動への功績を称えてハイレ・セラシエ1世の銅像が設置されている。
ハイレ・セラシエ3 結局、エチオピア国民は、独裁者である皇帝を廃位したものの、メンギスツというより専制的な独裁者に国を任せることになってしまった。皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際政治の舞台での活躍を見ると寧ろ名君に近い。結局、彼の失敗は経済政策だったのか。カリスマ性のある皇帝は、国民は過剰な期待を寄せてしまったようだ。チャンとした政策ブレーンを育てられなかったんでしょうね。軍人の扇動者たちは、自分は何もする能力は無くても、失敗をあげつらうのは得意な人達ばかりだ。ハイレ・セラシエ1世は明治維新の頃の日本をモデルにしたいと考えていたようだ。しかし、明治天皇はカリスマ性があったものの独裁者ではなかった。多分ハイレ・セラシエ1世は生格的には独裁者に向かないのに無理やり独裁者にされてしまったようだ。だから、断固たる対応が取れずに優柔不断のまま沈没してしまったんでしょう。しかし、第二次世界大戦後の国の舵取りはどこの国も大変みたいだったようだ。ソ連だってスターリンの独裁で経済は停滞、中国だって毛沢東時代の経済は貧しいままだ。どうすれば良かったのか答えを探すのは難しいでしょうね。
ハイレ・セラシエは1956年11月に戦後初めて日本を訪れた国家元首の国賓であり、満州国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って日本から歓迎された。また、1970年(大阪万博観覧のため)の際も来日していた。写真皇帝の両側の方は昭和天皇ご夫妻です。
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イラン革命(انقلاب ۱۳۵۷ ایران‎)

パーレビ皇帝 イラン革命は1978年1月に始まった革命である。国王による専制といっても、国民の生活への不満、海外からの外圧が無ければ、革命は起こらない。でもこれを契機(けいき)に、イランは何故か強硬な反米国家になってしまう。あるいはアメリカが嫌イランになったのか。この状態は2019年の現在まで40年以上も続いている。そもそも、イラン革命が専制王政を倒した民主主義革命ならば、民主化の旗手を自認するアメリカにとっては喜ばしいことではあっても、敵対する状態は変だ。

パフラヴィー朝下のイランは、西側諸国のアドバイスによる国際戦略で、脱イスラム化と世俗主義による近代化政策を取り続けてきた。国民の合意無き急進的すぎる改革上からの改革を否定したのだから、この革命は民主主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。また、イスラム化を通した反西欧化、反キリスト教化を謳った宗教革命の色が強い。

皇帝は、1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を強く推し進めようとした。しかしそれがかえって、宗教勢力や保守勢力の反発を招く。また、イラン国民のなかには、政府をアメリカの傀儡政権であると認識するものもいた。パフラヴィー皇帝は、自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除した。イランは有望な産油国。イギリスに肩代わりして米国がイランを傘下に置きたいと考えていることは勿論明白。国民の意識の中に反西欧、反キリスト教の精神が根強いことも考慮しないといけない。つまり単なる政治的な変革を越えて、宗教的、文化的、思想的な大改革であったことを見逃してはならない。

ホメイニー氏 亡命中のルーホッラー・ホメイニー氏を精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とする革命勢力が革命の中心。1979年、4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。国家の根本理念がイスラム教、世界初の宗教に基づく民主国家が成立。

この革命の特徴
この革命がまったく民衆自身によって成就されたことである。冷戦下の1970年代にあって、米国もソ連も外部から支援はしていないようだ。 当時は東西冷戦のさなかで、アメリカ合衆国とソ連の覇権争いと、その勢力圏下の国や民間組織が、アメリカ合衆国やソ連の代理としての戦争や軍事紛争、政治的・経済的な紛争が世界的に発生・継続していた国際情勢だった。この革命の場合は反米・反キリスト教を掲げながらも、ソ連には依存せず、インドやインドネシアのように米ソのどちらの勢力にも加わらない中立の姿勢を堅持し、第三世界の自立性の強化を歴史的に実証し、当時第三の勢力として実力をつけつつあった第三世界の傾向を強烈に示したのがこの革命だった。

イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国連邦政府が背後から支援して樹立した傀儡政権だったパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。米英はこの革命で石油の利権を失うことを最も懸念していたのでしょう。 1979年11月には、イランアメリカ大使館人質事件が起こり、アメリカは1980年4月にイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動。また西側諸国に発注していた、兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす。

一方、サウジアラビア、イラクなどの周辺のアラブ諸国の多くは、同じイスラム今日でもスンナ派というグループに属しており、十二イマーム派を含むシーア派とはやや敵対的な関係にある。反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム全体にも波及することに対して強い恐怖感を抱く。 隣国イラクがアメリカの軍事支援を得て、イランを侵攻、イラン・イラク戦争が勃発。この戦争は8年間も続く長期戦。 また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻も、ソ連がイスラム革命のアフガニスタンへの波及を防ぎたいと考えたのも要因とされている。

革命当初、欧米ではイラン・イスラム共和国体制を短命であると見ていた。西欧にとって、革命とその体制は信じがたい衝撃で、こんな体制が何年にも渡って継続するとは、まるで予想していなかった。だから、経済制裁を続けていればそのうち崩壊するだろうという戦略を続けている。しかし、四十年以上もこの革命体制は欧米の激しい干渉にさらされながらも継続しているのが現実だ。

革命後、人々は国王という共通の敵を失い、政治集団内では新体制を巡り激しい権力闘争に突入したようだ。これはどこの国でも共通にみられる現象。最終的にホメイニーを頂点とするイスラム法学者が統治する体制が固まり、そこではイスラム法が施行されるイスラム的社会が目指されることになる。
しかし、イランにはイスラムの他にも少数ではあるが複数の宗教が存在している。このような宗教少数派の一部、すなわちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒は、公認の宗教少数派としてイラン・イスラム共和国憲法第1章第13条で認められている。彼らが運営する私立小学校では、教育省が作成した宗教少数派用の教科書に従って宗教教育を実施することが義務付けられている。
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パーレビ朝

パフラヴィー朝(Pahlavi)は1925年から1979年までイランを統治した、イラン最後の王朝である。パフレヴィー朝、パーレビ朝、パーラヴィ朝とも呼ばれる。確か日本の新聞ではパーレビ国王と記されていた。
歴史: カージャール朝ペルシア帝国がイギリスとソビエト・ロシアによる干渉に苦しむ中、ペルシア・コサック旅団の軍人レザー・ハーンは1921年にクーデターを起こし、1925年にレザー・シャーとして皇帝に即位。カージャール朝に代わってパーレビ朝が成立。
初代皇帝レザー・シャーは軍事力を背景に中央集権化を進め、近代国家形成を目指して法制などを西欧化する改革を行い、1928年には不平等条約の撤廃に成功した。第二次世界大戦で、レザー・シャーは英ソによる支配からの脱却を目指して親ナチス・ドイツ政策に転換したが、逆にイラン進駐を招いて失脚。1941年9月16日、第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーが即位。
1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニーがソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立。1946年12月15日、イラン軍の侵攻にあい崩壊。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。1949年に反植民地主義のトゥーデ党(イラン共産党)が非合法化される。
1951年にモハンマド・モサッデクが首相に就任した。1951年のアーバーダーン危機(1951年~1954年)では、モハンマド・モサッデク首相がアングロ・イラニアン石油会社 (AIOC)を国有化。1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、親ソ政策を推進。このことはアメリカの反感を買い、1953年にMI6とアメリカ合衆国の協力のもと、アジャックス作戦でモサッデクを失脚させ、親米英的なモハンマド・レザー・シャーが権力を回復した。1955年にはCENTOに加盟し、西側陣営に加わった。
モハンマド・レザー・シャーは、アメリカの支援を受けて「白色革命」と呼ばれる石油利潤を元にした工業化と近代化を進める。しかし、原油価格の下落と急速な近代化の失敗から経済危機を招く。ルーホッラー・ホメイニー氏は、白色革命を批判しなかったが皇帝の独裁的な性格を非難して抵抗運動を呼びかけ、反皇帝運動が激化。1964年、ルーホッラー・ホメイニーは国外追放を受け亡命する。
1979年にルーホッラー・ホメイニーを指導者としてイラン革命が勃発すると、モハンマド・レザー・シャーはエジプトに亡命してパフラヴィー朝は崩壊し、イラン・イスラム共和国が成立。 モハンマド・レザー・シャー(在位:1941年~1979年)は、何故か日本のマスコミでは「皇帝」でなく「パーレビ国王」と呼ばれていた。
どうも、イランの歴史を見るとパーレビ朝自体が簒奪政権のようで、国民の信頼を獲得してなかったようだ。また、時代的には東西冷戦のため両陣営からの横槍も多く、国の舵取りも容易ではないようだ。また、英米による西アジア地域の弱体化戦略、「分断して統治せよ。」の実践もあったようだ。 クルド人の造ったクルディスタン共和国が潰されてことも気の毒なこと。独立を求めるクルド人勢力の存在は、未だに中東の不安定の原因となっている。イスラエルの存在もそうだ。英国がわざと紛争の種を置いて行った結果だ。
イランは、世界史の中では、ヨーロッパよりも遥かに先進地で文化的な誇りもある。思いつくままでも、古代ギリシャと戦ったアケメネス朝ペルシアやその後継のササン朝ペルシア、セレウコス朝、ウマイヤ朝、イルハン国など、色々な王朝名が出て来る。今後も西アジア地域のリーダ的存在としての動向が注目される。
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盛岡の偉人達

文学系 政治系 実業界 特別枠

盛岡という所は、なかなか人材の豊富な土地である。以下、一例を挙げたが他に漏れている方々も多いかも。筆者の浅学のためである。しかし、時代を経ても色あせぬ業績の多くは今後も受け継がれていく価値のあるものが多いでしょう。筆者が盛岡の高校を卒業したため我田引水的な評価もあると思われる方も多いでしょうが、そこはご容赦下さい。

文学系


野村胡堂(1882年~1963年)
野村胡堂 盛岡尋常中学校(現:盛岡第一高等学校)卒。『銭形平次捕物控』で有名です。空想科学小説『二万年前』等の著作も。私は読んだことありませんがネットオークションではかなり高値がついていました。
金田一京助(1882年~1971年)
金田一京助 石川啄木とは盛岡高等小学校(現下橋中学校)以来の友人であり,啄木の死まで親交が続いた。東京帝国大学時代,アイヌ語に興味を持つ。のちに北海道へ行き現地を調査,アイヌ民族に伝わる叙事詩ユーカラの存在に注目する。日本でアイヌの研究をするならこの人抜きには語れません。

石川啄木(1886年~1912年)
石川啄木 盛岡ゆかりの詩人。1895年(明治28年),幼きころより優秀だった啄木は岩手郡下に一つしかない高等小学校へ通うため,親元を離れて盛岡で暮らす。その後1902年(明治35年)に盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)を中退するまでの7年間を盛岡で過ごしている。『一握の砂』『悲しき玩具』早世の詩人の業績は偉大です。短歌の世界この人を越える存在はこれからもなかなか出てこないでしょう。

参考
【近藤 典彦】
近藤 典彦(こんどう のりひこ、1938年(昭和13年)12月18日~)。近代文学研究者、元群馬大学教授。専門は主に石川啄木。北海道旭川市出身。1990年(平成2年)7月 - 『国家を撃つ者 石川啄木』で第5回岩手日報文学賞啄木賞。

宮澤賢治(1896年~1933年)
宮澤賢治 909年(明治42年)4月,賢治は親元を離れて盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)に入学する。この間仏教や文学に親しみ, 1915年(大正4年)4月,盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に入学,成績優秀な賢治は関豊太郎教授に目をかけられ,地質や土壌についての教えを受けた。農学者だった訳。『注文の多い料理店』は今でも名作です。盛岡第一高等学校42年卒業生を始めとする記念碑の除幕式の様子をPDFファイルに添付します。新しいウィンドウで表示します。
宮沢賢治記念碑


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盛岡の偉人達
原 勝郎(はら かつろう)(1871年~1924年)

原 勝郎 原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月26日)~1924年(大正13年)1月12日)は、日本の歴史学者、軍人、文学博士。
経歴
岩手県盛岡市出身。旧盛岡藩士・原勝多の長男として生れる。盛岡中学校、第一高等学校を経て、1896年、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し大学院に進む。1896年12月から一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入営。1899年2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1904年、歩兵中尉に進級。

1899年9月、第一高等学校教授となり、1902年10月、文学博士号を取得。1907年2月から1909年3月までイギリス、アメリカ、ドイツに留学。帰国後、京都帝国大学文科大学教授に就任した。1922年4月から1924年1月まで文学部長を勤める。和辻哲郎や西田幾多郎らと同僚であった。
1924年、直腸癌と癌性腹膜炎のため京都で死去。墓所は盛岡市の法華寺にある。

業績
専攻は西洋史だが、日本史にも通じていて日本通史を英語で執筆・出版したことでも知られている。また西洋史の研究を通じて日本にも西洋史の中世と同じようなものがあったことを指摘し、それは他のアジア諸国と日本との違いであると主張した。 『吾妻鏡』の史料としての価値と限界についてなど、鎌倉時代について文化史から考察論考を書いている。

この人を取り上げたのは理由がある。母校の大先輩「みや こうせい さん」にお伺いして、盛岡出身で京都で活躍した人、知ってますか?」確かに、原 勝郎さんは京都の大思想家、西田幾多郎や和辻哲郎なんかと濃密なお付き合いをしていたようだ。 彼の偉大さは別の項で紹介して見よう。ただいま、情報収集中です。

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政治系


岩手県は、原敬(第19代)、斎藤実(第30代)、米内光政(第37代)、鈴木善幸(第70代)の4人の内閣総理大臣を輩出している。
原敬原敬(たかし)(1856年~1921年)
1906年(明治39年)1月,第1次西園寺内閣で内務大臣(のち逓信(ていしん)大臣を兼務)となるまで原は郵便報知新聞記者,天津領事,農商務省大臣秘書官,外務省通商局局長,大阪毎日新聞社社長など多くの職を務める。特に農商務省時代には“カミソリ陸奥”の異名を持つ陸奥宗光の知遇を得た。のち1918年(大正7年)9月29日に第19代内閣総理大臣となるまで,第2次西園寺内閣における内務大臣兼鉄道院総裁,第1次山本内閣における内務大臣を歴任した。貴族の称号を自ら辞退したことから平民宰相と呼ばれ,近代日本における政治家の中でもその評価は極めて高い。これは明治初期より続いた薩摩(鹿児島),長州(山口)等の出身者における政治の独占,いわゆる藩閥政治に対して政党政治で対抗し,第3代政友会総裁として政党内閣を組閣したことが理由として大きい。しかし,1921年(大正10年)11月4日東京駅構内で,原の政治姿勢に反対する19歳の青年に刺殺される(政治力があったということだろう)。原は京都に向かう途中だった。
1921年、フィンランドとスェーデン、オーランド諸島をめぐる「新渡戸裁定」は有名で、未だに3国では新渡戸の評価は高いらしい。
新渡戸稲造新渡戸稲造(1862年~1933年)

札幌農学校在学中にキリスト教の洗礼を受け,卒業後にアメリカ,ドイツへ留学し農学,経済学などを学ぶ。国際連盟の設立時にはその深い学識と高潔な人格のため事務次長に推され,スイスに渡り連盟の発展に寄与しますが、日本が連盟脱退の際には、日本の立場を国際的の理解してもらうため奔走するが、日本側でも海外でも理解されなかったようです。日本人の道徳観を世界に示そうとした、英語で書かれた著書『武士道』は、世界的なベストセラー。日本の英語の教科書にも是非取り入れて欲しい教材です。旧5,000円札の肖像として人々に親しまれています。

米内光政米内光政(1880年~1948年)

盛岡尋常中学校を(現:盛岡第一高等学校)へて海軍兵学校へ進み,卒業後海軍少尉に任官,日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し,その地の実情を直に見聞した。日本と他国とを冷静に見比べる米内の姿勢は,このころに培われた。1937年(昭和12年),林内閣のもとで海軍大臣に就任し,海軍次官を務めた山本五十六(いそろく)とともに,陸軍の主張する三国同盟に反対し続けた。天皇の信頼も厚く,1940年(昭和15年)には岩手県出身者として3人目となる内閣総理大臣に就任している。しかし陸軍の反対にあい半年後に退任,米内(よない)が政治の表舞台から去るとともに日独伊三国同盟は締結され,日本は太平洋戦争へと突き進むこととなる。昭和天皇をして「あの時、米内がいてくれたなら。」と言わせる人物だったようだ。
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実業界


鹿島精一鹿島精一(1875年~1947年)

1888年(明治21年),盛岡~一関間の鉄道敷設が開始され,工事を請け負った。この縁で鹿島組組長鹿島岩蔵の知遇を得た精一は県立岩手中学校(現:盛岡第一高等学校)卒業後に上京,岩蔵の援助を得て東京帝国大学土木工学科を卒業した。のち岩蔵の長女糸子と結婚,婿養子となって鹿島を名乗り,1912年(明治45年)の岩蔵逝去後は鹿島組3代目組長に就任した。精一は1930年(昭和5年)に同社を株式会社に改め,株式会社鹿島組初代社長となる。この間にそれまでの経営から堅実で近代的な方針に切り替え,拡張された事業を鉄道建設に一本化した。
“鉄道の鹿島”,この名は東海道線における熱海‐三島間の「丹那(たんな)トンネル」の難工事を行ったことによって与えられた。全長7.8キロメートルの当時日本一の長さに加え,鹿島組が請け負った西口(三島口)は地盤が脆弱な難工事区域で,これまでの工法は役に立たなかった。精一は陣頭に立ちエアーロック工法,セメント注入法などを新たに発案,17年の歳月をかけて1933年(昭和8年)にトンネルを貫通させた。この工事で開発された多くの工法や経験,技術が,“世界の鹿島”の基礎を作り上げたと言える。また,東京土木建築業組合長,日本土木建築請負業者連合会長,土木学会会長などを歴任,土木建築業界全体の発展にも貢献した。精一は自らが岩蔵のおかげで道が開かれたように,向学心を持ちながらも進学できない学生に対して援助を惜しまなかった。
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特別枠


保阪 嘉内 金田一 秀穂 知里 幸恵 高野長英

保阪 嘉内(ほさか かない:1896年~1937年)

保阪 嘉内 日本の詩人。宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカンパネルラのモデルとも言われる。宮沢賢治を語るにはこの人を忘れてはならないようだ。 彼自身は山梨県の出身だが、盛岡高等農林学校農学科第二部に入学(1916)する。寄宿舎(自啓寮)では賢治と同室となる。山梨の農民生活の改善が進学の目的だったとか。この点も賢治と通じるものがある。嘉内が石川啄木に興味を持っていることを知った賢治は更に嘉内に惹かれて行く。どうも、嘉内の方が個性も強く、その後の宮沢賢治の生き方に大きな影響を与えたらしい。宇宙とか地質学の強い興味を持っている点も2人共通だ。
しかし、嘉内は1918年3月発行の第6号に寄稿した「社会と自分」という文章の中に、「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節があったことが問題視され、退学処分となる。賢治は学校当局に再考を求めたが処分は覆らず、嘉内は退学が決まり寮を出る。 嘉内は東京で明治大学に学籍を置き、農業を支える志を貫こうと札幌もしくは駒場の農科大学への進学に向け勉強に取り組んだが、母の急死に遭い断念し、山梨に戻って農業活動に入る。1919年11月から1年間は志願兵として近衛輜重兵大隊に応召。除隊後は山梨で職に就く傍ら、勤務演習に数度参加して1923年に士官(少尉)に任じられた。
農林学校を離れた後も、賢治と嘉内は手紙で交流を重ねていたようだ。一度、上野の帝国図書館で面会したとされるが、その日の嘉内の日記では「宮澤賢治 面会来」と書かれた文字を上から斜線で消している。この時期を境に賢治から嘉内への手紙の数は大きく減り、以後再び会うことはなかったとされる。二人の間に何があったのかは誰にも分からない。
1924年から1925年まで山梨日日新聞に文芸記者として勤務し、短歌欄に投稿したさかゑと結婚、その後、念願の農業生活に入る。柳宗悦と小宮山清三らと諏訪で講演した1926年と、1927年、1929年に子どもをさずかる。1928年には歌集出版を企図したが、出版社の火災で預けていた歌稿を失い断念した。営農中に在郷軍人会の分会長や駒井村会議員といった役職にも就いていたらしい。
アメリカで農学を究めようとした小菅健吉と保坂嘉内は、小菅渡米の1918年10月10日付けの絵はがきに始まり、20通を超すはがきと手紙の記録がある。そのなかに英文で記されたものも混じる点から、この期間に健吉経由でアメリカの農業指導の情報を得ていたことが推察される。
1926年7月に文部省が青年訓練所を開くと、初等教育で学業を終えた青年は軍事教練と学問の補習を受けることができた。山梨県を代表する「青年訓練所充用睦合実業補習学校」の記録が残っている。青年訓練所で指導をするうち青年教育に情熱を見出したらしい。
保阪と宮沢の二人は、その後の人生は異なったものの心の中では一緒に銀河鉄道で旅をしていた友人だったのでしょう。

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金田一 秀穂(きんだいち ひでほ、1953年〈昭和28年〉5月5日 - )

金田一 秀穂 金田一 秀穂(きんだいち ひでほ、1953年〈昭和28年〉5月5日 - )は、日本の言語学者。専門は日本語教育・言語行動・意味論。杏林大学外国語学部教授、政策研究大学院大学客員教授。
東京都杉並区生まれ。区立西宮中学校、都立西高校、上智大学文学部心理学科卒業。島田裕巳は都立西高校の同期。当初は学者の道に進むつもりはなく、大学卒業後は就職せずに読書三昧の日々を3年ほど過ごした。1980年の光州事件直前に韓国旅行をしたことがきっかけで日本語を意識するようになり、外国に住みたいという目的から日本語教師養成講座に通いはじめ、寺村秀夫に師事する。
1983年東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程修了。東京外国語大学では日本語学を専攻。その後、大連外国語学院、コロンビア大学などで日本語を教えハーバード大学客員研究員を経て杏林大学外国語学部教授。東南アジア諸国の日本語教師に対しての指導も行っている。2018年度からは、山梨県立図書館の館長を務めている。
名門国語学者一族・金田一家の三代目であり、2002年頃から「日本語の専門家」としてメディアへの出演が増えた。とりわけ「Matthew's Best Hit TV+ 」『なまり亭』の判定係として知名度を上げた。

金田一 秀穂(きんだいち ひでほ)氏は、NHKのeテレ、NHK高校講座「ベーシック国語」の講師をしておられる。滝川カレンさんと名コンビだ。とても分かりやすいいい番組だ。番組で石川啄木を文学史の重要人物の一人として紹介。盛岡城址公園のロケもある。やはりそうだった。金田一さんはかの金田一京介氏のお孫さんだった。祖父は金田一京介氏、父は金田一春彦氏。

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知里 幸恵

知里 幸恵 The Ainu are the native people of northern Japan, esepecially Hokkaido.
The Ainu don't have a written language, so they taught their children their history and traditions by telling stories. In the late 1800s, the government started sending people to Hokkaido from the main islands of Japan.
The Ainu lost a lot of their land and were foreced to give up their traditional lifestyle. Because of this, it became harder for the Ainu to share their traditions. But one book saved this situation. The key person was Chiri Yukie, a young Ainu woman. Here is her story.
Chiri was born in 1903. When she was six years old, she went to live with her aunt and grandmother, who was an experienced storyteller. By listening to her stories, Chiri learned about the Ainu way of life. At the local elementary school, the Ainu were not allowed to speak their language, so Chiri learned Japanese, too.
When she was 15, Chiri met a language professor from Tokyo called Kindaichi Kyosuke. He was working on protecting Ainu culture and wanted to talk to Chiri's grandmother. Chiri was surprised that Kindaichi really wanted to learn about Ainu culture.
She thought, "I want to help protect Ainu culture, too"
折口信夫と Kindaichi respected Chiri's language skills. He wanted her to help him with his work in Tokyo, but she couldn't go because her heart was too weak. So, Kindaichi sent Chiri a notebook and asked her write down Ainu stories in it. Chiri wrote the sounds of the Ainu language using Japanese and the Romaji alphabet. Kindaichi was amazed by her work. Chiri not only translated the Ainu tales but she also wrote a lot about the everyday lives of the Ainu people. Kindaichi wanted to create a book about about the Ainu and asked Chiri again to move to Tokyo to help him.
This time, Chiri went to Tokyo, She stayed with Kindaichi and his family and worked with him to make sure the stories were translated correctly. Once Chiri had a heart attack and had to stay in bed, but she kept working. Finally, on September 18, 1922, she finished checking the final page of the book. Sadly, Chiri died that same night. She was only 19 years old. About one year after Chiri's death, her book was published. Chiri wrote in her book.
"If more people read my book, it would make me and my people happy." Many people read the book and learned about the way the Ainu live for the first time.
The Ainu don't havea a written history, but because of Chiri's hard work, they can share their stories with people around the world.

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知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)~1922年(大正11年))は、北海道登別市出身のアイヌ女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。
生誕100年を迎える2003年頃から、マスコミや各地のセミナー等でその再評価の声が高まり、また幸恵への感謝から「知里幸恵」記念館の建設運動が活発化した。2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ、インターネット書店「アマゾン」の「本のベストセラー」トップ10に『アイヌ神謡集』が入った。また、『アイヌ神謡集』は、英語・フランス語・ロシア語・エスペラントにも翻訳されており、2006年1月には、フランス人作家ル・クレジオが、そのフランス語版(ガリマール社)の出版報告に幸恵の墓を訪れている。

なお、弟に言語学者でアイヌ初の北海道大学教授となった知里真志保がおり、幸恵の『アイヌ神謡集』の出版以降、大正末期から昭和にかけて、新聞・雑誌などからはこの姉弟を世俗的表現ながらも「アイヌの天才姉弟」と評された。他の弟の知里高央(1907年~1965年)(ちり たかなか、真志保の長兄)も、教師をつとめながらアイヌ語の語彙研究に従事した。

1903年(明治36年)6月8日、北海道幌別郡(現・登別市、札幌市から南へ約100キロ)で父・高吉(1884年 - 1961年)と母・ナミ(1879年 - 1964年)の間に生まれた。6歳で近文コタン(現旭川市内)の伯母金成マツのもとに引き取られて尋常小学校に通学した。最初は和人の子どもと同じ学校だがアイヌのみの学校設置がされて学業優等でアイヌの尋常小学校を卒業した。

旭川で実業学校(旭川区立女子職業学校)にまで進学している。アイヌ語も日本語も堪能で、アイヌの子女で初めて北海道庁立の女学校に受験するが不合格になった。『優秀なのになぜ』『クリスチャンだから不合格となったのでは』と言う噂が町中に飛び交った。幸恵の祖母・モナシノウクはユーカラクル、すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手であった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。

幸恵の生まれた頃は、ロシアによる領土侵略を防ぐため、明治政府が北海道を開拓し始めてから30年以上がたっていた。この幸恵の家を言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の時であった。金田一の目的はアイヌの伝統文化を記録することであった。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じた。幸恵はカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京・本郷の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けた。

幸恵は重度の心臓病を患っていた(当時は慢性の気管支カタルと診断されていた)が、翻訳・編集・推敲作業を続けた。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成した。しかしその日の夜、心臓発作のため死去。19歳没。

幸恵が完成させた『アイヌ神謡集』は翌1923年(大正12年)8月10日に、柳田國男の編集による『炉辺叢書』の一冊として、郷土研究社から出版された。

明治時代以前、アイヌ民族は農業・狩猟・漁業で、自然と共存した平和でおだやかな生活を享受してきた。また、川でとったサケなど“アイヌの特産物”で、北は、樺太を通じてロシアと、東は、千島列島を通ってカムチャツカ半島の先住民イテリメン人と、広範囲に交易も行っていた。アイヌ民族は文字を持たない民族ながら、樺太・北海道・千島列島を中心に一大文化圏を築いていた。

しかし19世紀に入り、アイヌの平和を脅かす存在となったのがロシアと日本であった。南下して領土拡張をしたいロシア、それに危機感を覚え、樺太・北海道・千島など北方の島を一刻も早く自国領土にしたい日本。それまで、両者ともあまり意識しなかったこの地域における「国境線の概念」を、強く意識せざるを得なくなった19世紀、先手を打ったのが日本だった。
明治政府は、ロシアの領土拡張(南下)の脅威だけでなく鉱物資源なども求めて、本格的に日本人(軍人・開拓民)を北海道に進出させて、日本の領土拡張を積極的に行った。このことが、アイヌ人の平和で穏やかな生活を一変させた。

19世紀の列強の国々(ロシア・アメリカ・カナダ・イギリス等々)が、領土拡張の際に先住民族に対してとった政策、すなわち、先住民の“自然消滅”という手法を、明治政府も強力に実行に移していった。

明治政府は、1899年(明治32年)に制定した『北海道旧土人保護法』(土人とは土着民の意であり、新たに北海道に移住した人と区別するために元々の住民を旧土人と呼んだ)により、アイヌ人保護を行った。しかし、これを、口実であって日本人への同化すなわちアイヌ民族の“自然消滅”を進めたと解釈する者もある。この法律に記されている内容は、農業に従事したいアイヌに対する土地の無償附与、貧困者への農具の給付や薬価の給付、また貧困者の子弟への授業料の給付等である。

これにより、アイヌ民族の生活は、明治時代以前の平和でおだやかな生活から一変して悲惨のものへと変わった。とりわけ、アイヌの人々にとって、外からやって来た「明治政府」に土地を没収され、その没収された土地が、外からやって来た「開拓民」に安価で払い下げられる様子は、精神的にアイヌの人々を絶望させた。

また、明治政府に土地や漁業権・狩猟権など「生活基盤」を政策的に収奪されたことで、アイヌ人は経済的にとどめを刺され極貧へと追い込まれた。当時、「座して死を待つばかり」とまで形容されたアイヌ民族、アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していた。 後世への影響 明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えた。幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となった。また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになった。幸恵はまさに事態を改善する重要なきっかけをもたらした。 幸恵の『アイヌ神謡集』により、アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であった。かつて幸恵が祖母から謡ってもらったように、母親が読み聞かせ子供が容易に理解できる程に平易な文章でつづられた13編からなる物語。アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、幸恵のアイヌ語・日本語双方を深く自在に操る非凡な才能が遺憾なく発揮されている。また、文字を持たないアイヌ語の原文を、日本人が誰でも気軽に口にだして読めるようにその音をローマ字で表し、日本語訳と併記している。 1990年(平成2年)6月には、知里幸恵記念文学碑が、幸恵が伯母の金成マツ、祖母のモナシノウクとともに過ごした旭川・チカプニ(近文)の旭川市立北門中学校の構内に市民の募金により建てられ、毎年幸恵の戸籍上の誕生日である6月8日にチカプニのアイヌの人々の主催で生誕祭がおこなわれている。また、生誕地の登別では2000年(平成12年)より毎年、幸恵の命日である9月18日の前の連休ごろに知里むつみ(幸恵の姪)を中心とする特定非営利活動法人「知里森舎」によって、幸恵や幸恵が命をかけて残した「カムイユカラ」を中心とするアイヌ文化などについて考えるイベントが開かれている。 2002年(平成14年)には池澤夏樹が代表となり、記念館の建設募金委員会が発足。募金運動が行われた結果、2010年(平成22年)9月に「知里幸恵 銀のしずく記念館」が開館した。

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高野長英

高野長英 高野 長英(1804年6月12日~1850年12月3日)は、江戸時代後期の医者・蘭学者。実父は後藤実慶。養父は伯父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。
陸奥国仙台藩の一門である水沢領主水沢伊達家家臣・後藤実慶の三男として生まれる。養父の玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く、長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事する。この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。
**岩手県の人と思っていたが、伊達藩・水沢なら今は岩手県となる。

文政3年(1820年)、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、抜きん出た学力で塾頭となる。文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。まもなく豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、逡巡したもののついに拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失う。

天保元年(1830年)江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業する。まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。わが国で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約した。

天保3年(1832年)、紀州藩儒官遠藤勝助の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入り、崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。

鳴滝塾出身者の宴会で、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた。多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、長英のみオランダ語を使い続けていた。それを妬んだ仲間の伊東玄朴が、長英を階段から突き落としたが、長英は「GEVAARLIJK!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ、という逸話がある。長英自身才能を鼻にかけて増長する傾向があり、仲間内の評判も悪かったが、当時の蘭学者として最大の実力者であると周囲は認めざるを得なかった。

天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。翌天保9年(1838年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。

天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。

弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた。高野家離座敷は文化財として公開されている。後に、一時江戸に入って鈴木春山に匿われ、兵学書の翻訳を行うも春山が急死。鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したとされる。しかし、この生活も長くは続かず、暫くして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。このとき、江戸では既に長英の人相書きが出回っていたことと、医者になれば人と対面する機会が多くなり、誰かに見破られることも十分に考えられたため、逃亡生活の最中に硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。

嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという。

勝海舟 「高野長英は有識の士だ。その自殺する一ヶ月ばかり前に横谷宗與の紹介で、夜中におれの家へ尋ねて来て、大いに時事を談論して、さて帰り際になって、おれに言うには、拙者は只今潜匿の身だから、別に進呈すべき物もないけれど、これはほんの志ばかりだといって、自分が謄寫した徂徠の『軍法不審』を出してくれた」
岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)では、長英は三偉人(高野長英、後藤新平、斎藤実)の一人として扱われている。また、小学校ではよく総合的な学習の時間で取り上げられ、その生涯、功績を学んでいる。また、平成16年(2004年)には高野長英の生誕200年ということで、水沢では色々なイベントが行われた。
**自他ともに認める天才であった。生まれるのが少し早すぎたか。もっと活躍して貰えた人だろう。
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