技術開発のお話

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技術開発のお話

【-こんなもんは要らない????????】

井戸と肥溜め 鉄道の復権 飛行船の復活
ローカル線廃止について ヒマラヤの水資源開発 ダム開発の功罪 令和元年台風第19号
ダムの歴史 停電被害 河川改修・老化対策 建設残土処理
霞堤 ポルダー ヨハニス・デ・レーケ アスワンダム
水力発電 北陸新幹線浸水 プラスチック廃棄物 農薬
自動車の無い世界 馬型ロボットの開発 日本は世界5位の農業大国 光力の時代
発動機 温暖化対策の国際的枠組み 温暖化問題の虚構 人物列伝
人物列伝

井戸と肥溜め

手押しポンプ 私の子供の頃は、手押しポンプの付いた井戸はどこの家にもありました。また、畑には、あちこちに肥溜めがあって、うっかり落ちたら大変だと思ったものです。農家は.各家庭を回って、トイレから糞尿を回収していました。私の住んでいる東武東上線柳瀬川駅の隣の「みずほ台駅」も、もともとは都心からの糞尿を積んだ列車が止まるために開設されたのが起こりと言われています。江戸時代、化学肥料の無い時代、江戸の町人達の家のトイレから排出される糞尿を金肥と称して、糞尿はとても貴重品だったのです。地球環境が重視される今の時代、江戸~明治に利用されていたこのシステムは、世界に誇るべき素晴らしいものですね。今、採用されれば下水道の負荷も大いに軽減されるでしょう。
     一方、夏の暑いとき冷たい井戸水は美味しいですね。また、消毒のカルキの臭いも無い安全で美味しいと水と考えますが、如何でしょう。しかも開発のコストがかからず、経済的です。地下水は地層という自然のろ過システムを通過してくるで、基本的には品質の良い生活水です。ただ、地下水は地下で広範囲に繋がっていますから、誰かが汚染すれば皆が迷惑を被ります。従って、政府が地下水は危険だということは、当時、産業の発展のためには多少の汚染には目をつむろうという姿勢の現れだったのでしょう。
     いずれにしろ、戦後の日本は、欧米に追付くという数値目標を上げて、下水道、上水道の普及率向上を進めてきました。下水道、上水道の発達のお陰で潤った業界もあります。しかしながら、官指導による画一的な開発は、結局は最適な結果を生まないようです。

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鉄道の復権

1964年(昭和39年)に東海道新幹線が東京駅~新大阪駅間に開業したに始まり、山陽、東北、上越、山形と秋田(ともにミニ)、九州、北陸と続いて、やっと北海道新幹線が新函館駅まで2016年(平成28年)に開通した。国家プロジェクトとしては異常に遅いテンポで52年もの歳月がかかっている。リニア新幹線に至っては未だ開業に目途がついていないようだ。
     このような大規模な交通インフラの進展は技術よりも政治の力学で大きく変化する一例である。当時は、鉄道の管轄は運輸省でも、鉄道の敷設から車両の開発まで旧国鉄が自前でやらねばならない。しかも、膨大な数の赤字のローカル線の運営も国からおしつけられてきた。一方の道路は、建設省の管轄で国費または補助金で建設でき、鉄道と比べお金がかかるので地方の土建会社や、雇用の促進の効果もあり地元出身の議員さん達から政治的な圧力をかけることもできた。また、道路を造ることはマイカー販売促進にもなるので政府も積極的に旗振りをしてきたのだろう。新幹線を造ると車の販売にはむしろマイナスとなりますよね。
     一方、世界に目をやれば今高速鉄道は、世界中で引張りダコだ。中国を筆頭に、アメリカ、フランス、韓国、台湾等で高速鉄道が熱く見直されている。開発途上国の大都市はどこも車の渋滞、排気ガスや騒音による公害に悩まされており、また、グローバル競争が進む中、よりコストの安い鉄道に熱い目が向けられるようになって来ている。
リニアモーターカー(和製英語で英語ではMaglev(magnetic levitation)と称されるらしい)は、国鉄の京谷 好泰等が開発した世界に誇れる技術である。日本のMagrevは、超低温超伝導を用いるもので、真空にしたトンネル内を走らせれば、想像を絶する超高速も可能かもしれません。

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飛行船の復活

飛行船ツェッペリン

飛行船は、20世紀前半には大西洋横断航路などで旅客運行に従事していましたが、1937年に発生したドイツの「ヒンデンブルク号」の爆発事故を契機に水素利用の飛行船の信頼性が失墜し、航空輸送には用いられなくなっている。しかし、その後も小規模なものではあるが広告宣伝用や大気圏の観測用等として、不燃性のヘリウムガスを利用した飛行船が小規模に使われている。しかしながら、爆発したのが水素ガスだとするなら、ヘリウムガスを充填した飛行船は、問題が無いのではないかとの疑問が生じる。
     ドイツのツェッペリンによって開発されたヒンデンブルク号は、硬式飛行船というもので、従来からよく用いられてきた軟式飛行船(船体そのものが空気を入れる柔軟な袋で出来ている)とは異なり、アルミニウム合金を用い、しっかりした骨格をもった流線形の船体の中にガス袋を収めたもので、高速長時間の飛行を可能にしている。硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。飛行機と違って、ツェッペリン飛行船の浮力は寸法の3乗である体積に比例し、また、構造重量は寸法の3乗以下にとどめることができるため、大型であるほど搭載貨物を増大できるとされている。
     このようにしてみると、硬式の飛行船、結構飛行機に代わるものとして使えそうだ。特徴をまとめてみる。

  1. 空中の一点にとどまることができる。飛行機は飛んでないと落ちてしまう。

  2. ヘリコプターは、空中で停止できるがプロペラの揚力を用いているので操縦は難しい。

  3. 飛行船は浮力で浮いているので、スラスターを組合せて、正確な位置保持が出来る。

  4. ヘリウムガスは高価だろうが、圧縮して体積を減らせば良いので、再利用ができる。

  5. 揚力が不要なので目的に応じて機体の形状を自由に設計できる。

  6. 機体を大型化できるので大量の物資を運ぶことが可能。

  7. 滑走路が不要なので大規模な飛行場が不要である。

  8. 低空でアンカーを地上に設置して、係留状態で置いておける。

  9. 揚力が不要で推進力のみ必要なので多分燃料費が安いと思われる。

このような利点を鑑みれば、飛行船利用価値ありそうだ。大規模な建設現場、災害救助等。ただし、今さら航空機会社が新たに開発をする気になるだろうか。さもなければ、開発のプレーヤーになりうるのは誰か。

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ヒマラヤの水資源開発

ヒマラヤ山脈  ヒマラヤ山脈は、インド亜大陸のプレートがユーラシアプレートに衝突してできた世界最大の山脈。このインド亜大陸の東側を流れる大河ガンジス川とブラマプトラ(ツァンポー)川は、夏季のモンスーン時に大量の雨を降らせ、毎年流域に洪水を引き起し、大量の難民を作り出している暴れ川である。特に最下流の国バングラデシュの洪水は、世界的にも有名で国際的な支援活動が必要ですが、上流域のネパールやインドも河川の氾濫で田畑が一面の砂礫に埋もれる等の災害をもたらしています。従って、治水洪水対策が必要ですが、この両大河、治水と言ってもスケールが我が国の河川とは桁違いにスケールが大きく、しかも複数の国にまたがる国際河川でもあるため、河川の管理にあたっても各国の利害の調整も難しく、またインド亜大陸各国の経済レベルから資金的にも難しい状況にあります。
 洪水の対策としては、上流に巨大なダムをつくる以外には無いでしょう。堤防なんか造っても無駄。なんせ雨季と乾季の流量の差が半端でない。堤防ごと流されてしまうのが落ち。巨大なダムを造るには、国際的な支援が必要ですが、ここにも障害が。近年、欧米の環境保護団体がダム建設は環境破壊だとして大騒ぎになります。
 一方、ダム建設は経済的には多大な利益をもたらします。農業では旱魃時に水が利用できます。また、ヒマラヤ地帯は降水量が多いので水力発電にも有利です。ダム1基造るだけで、1,000万kw(我が国に普通の原子力発電10基分)なんていうダムの候補地もいくつかあります。もちろん洪水制御も可能です。国際河川ですから利益の配分をどうするかという問題は残りますが。既に成功している例としては、ブータン国があります。インド資金協力のもと水力発電を開発し、インドに電力を輸出。唯一の外貨獲得手段になっています(農業は自給自足で輸出力無し)。慢性的に電力不足に悩むインドにとっても美味しい話です。因みにインドでは盗電(東電ではない)が有名。勝手に電線から自分の所に電力を引き込む犯罪。
 さて、環境保護団体の言い分。ダムの適地は山の中。文明の主流から外れた少数民族が細々と暮らす地域となっている。また、希少な動植物も残っているだろう。これらの広大な地域がダムにより水没することは避けられない。ダム建設の話でも持ちあがろうものなら環境保護団体が早速現地に赴き少数民族とともに反対運動を盛り上げるというパターンである。場合によっては、札束でこれらの少数民族を反対運動に味方させることも辞さない。この反対運動を盛り上げマスコミを使って世界中にアピールする。本来はダム建設は補償のやり方次第では少数民族にとっても利益はあるはず。少数民族だっていつまでも伝統にしがみついていたい訳でもないはず。ダム建設を中止させたことが環境保護団体の勲章なのでしょうが。
 これって、先進国のエゴでしょう。自分たちはダムを造りたいだけ造ってきた。その幾つかは環境破壊と言える問題を引き起こしたかも知れない。しかし、一方では電力や用水、洪水対策として多大な恩恵を被ってきたはずです。

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ダム開発の功罪

ダムは巨大な土木構造物だ。建設には長い時間と労力及び資金を必要とする。そして最大の問題は、そこで暮らしている人々や豊かな自然環境が一瞬のうちに水没してしまうことだ。つまりダムによる環境破壊。従って、ダムの建設は、必ず利益を被る賛成派と水没の対象になってしまう住民、および水没する生態系を守りたい環境保護団体反対派の対立の構図になってしまう。従って、ダムの建設の可否を判断し、利害調整して妥当な結論を出すことは政治や行政の極めて重要な役割の一つであろう。
八ッ場ダム 令和元年台風第19号は、2019年10月6日3時にマリアナ諸島の東海上で発生し、12日~13日にかけて関東地方や東北地方を中心に、東日本各地に記録的甚大な被害をもたらす。多摩川や阿武隈川など主要な大河川の堤防が決壊した中で、東京の下町の洪水危険区域が無傷で守られたのは、①首都圏外郭放水路と②八ッ場ダム③彩湖(荒川第一調節池)のお陰であったとする専門家のコメントもテレビであり、建設に係わった方々にはうれしいニュースだったかも。
八ッ場ダム(やんばダム)は利根川の主要な支流である吾妻川中流部、群馬県吾妻郡長野原町川原湯地先に建設された重力式コンクリート多目的ダム。高さ116m。建設計画は、1949年(昭和24年)に「利根川改訂改修計画」において、利根川に10箇所のダムを建設する利根川上流ダム群(後の「利根川水系8ダム」)計画に準拠。カスリーン台風級の水害から首都・東京及び利根川流域を守るために1952年(昭和27年)に計画発表。その後計画は紆余曲折、当初の治水一点張りから「流水の正常な機能維持(環境への配慮)」や「発電」まで加わる多目的化。総事業費も2,110億円から4,600億円に増額修正。当然当初から反発はある。何故、首都・東京を守るため地元が犠牲にならないといけないのか。
昭和40年代からの実施計画調査や地元住民の生活再建案調整を経て、1986年(昭和61年)、「八ッ場ダムの建設に関する基本計画」が2000年(平成12年)の事業工期として策定された。その後、2001年(平成13年)の第1回変更で工期が2010年(平成22年)に延長され、2004年(平成16年)の第2回変更で建設目的に「流水の正常な機能維持」が新たに追加されると同時に、総事業費が2,110億円から4,600億円に増額修正された。2008年(平成20年)の第3回変更では建設目的に「発電」が追加されると同時に、工期が2015年(平成27年)に再延長された。国土交通省という役所は一度先輩たちが決めたことは 絶対に変えないという強い意志を持っているようだ。
しかし、民主党が衆議院第一党 となった際に、鳩山内閣が正式に発足し、国土交通大臣に就任した前原誠司は、認証式後の就任会見において八ッ場ダムの事業中止を明言し、鳩山由紀夫首相もこれを支持したし凍結となる。しかし、ここまで既成事実化したものを撤回すれば地元も寧ろ怒り出す。結局工事は再開され、2019年10月1日から、試験湛水開始となった。台風第19号はこれが幸いし、貯水池はほとんど空の状態で、これが大雨の一時貯留に寄与したと言われる。本当にそうなのかチョット検証してみましょう。
テレビでは約1億トンと言っていた。総貯水量は107,500,000 m3とされているからその通りだ。堤高116mだから、100mとして、108÷102=1062=100ha、実際の湛水面積は304ha、流域面積は711.4 km2とされているのでこの流域に降った雨がほぼ全部この貯水池に入り込むのでしょう。推定される降水量を仮にx mmとして、これが約1億トンになるまでどのくらいかかるのが推定してみましょう。
       x×10-3m×711.4×1062=1083、(雨量×流域面積=貯水量)
ここから雨量を求めると、x=140mm。つまり、時間雨量140mmの雨(結構な豪雨です)が1時間降り続けば貯水池は満杯だ。どう見ても八ッ場ダムが、今回荒川等東京の河川が氾濫しなかった主要因とは言えないようだ。単純なそろばん計算でもそのことは自明だ。若干の寄与はしたかも知れないが。あまりたいそうなこと言うとかえって逆効果だね。この数値を見れば民主党の方々が、何もそこまでしなくてもと思う発想も分かる。洪水制御だけが目的では余りに効果が小さすぎる。
  地下ダム 首都圏外郭放水路は、埼玉県春日部市の上金崎地から小渕にかけての延長約6.3km、国道16号直下約50m地点に設けられた世界最大級の地下放水路。洪水防止のみを目的とすることから、通常時は水を取り込まず空堀状態で、人も立ち入れる巨大な地下空間となっている。地下に作られた巨大なパルテノン神殿という感じで多くの観光客を集めているようだ。しかし、ダムと言っても地下構造物。泥水式シールド工法で建設されたシールドトンネルで、延長約6.3km、内径約10m。
すると、総貯水量は(π/4)×102m2×6.3×103m=5×105m3
  つまり、50万立法メートル程度。八ッ場ダムと比べると2桁以上少ない。短期決戦で長期戦には対応できそうもない。海への排水はポンプを使う他ないね。電源の確保が生命線だ。
  彩湖のような洪水対策に遊水地を活用するのは、昔からある正統派の考え。武田信玄の信玄堤等が有名。河川敷にある運動場やゴルフ場等も洪水時には遊水地として有効に機能している。河川敷のゴルフ場は今回の台風で軒並み水浸し。1か月ぐらいは再開できない。それと今建設中のスーパー堤防。洪水対策として今回の台風19号に対してどの程度効果があったのか。都市化が進むと遊水地を確保することが難しくなる。どうしても堤防の嵩上げで対応することになる。しかし堤防の嵩上げは、決壊した場合の被害が更に大きくなる欠点もある。
彩湖 関東平野の江戸川、荒川の治水対策は江戸時代からの先人たちの知恵が積み重ねられている。先人たちの知恵を受け継ぎ、総合的な治水対策を地道に積み重ねていくことが重要なのでしょう。つまり、一つ一つの対策はさほど抜本的な対策にならないわけだ。
ところでダム開発は世界的にも逆風だ。欧米先進国は自国では既にダム開発は終わったと考えている。開発途上国にはダムの適地はいくらでもある。例えばヒマラヤ山脈を擁するインド圏では総貯水量1億m3なんてチンキなダムではなく、桁が3つ以上も大きい巨大なダムの適地がいくらでもある。ガンジス河、ブラマプトラ川、インダス川どれも河のスケールが日本とはけた違いに大きい。当然経済効果も大きい代わりに環境への影響も大だ。しかも、これらのダムの適地は、大抵は少数民族の住む特別な地域。欧米の環境保護団体も反対運動には熱が入る。民主主義の発想からは地元最優先だから、なかなかプロジェクトは進まない。しかし、ダムと言う構造物は、発電、利水、治水、洪水制御と人類に幸福に多大な寄与をする可能性が大きい。賛成反対を問わず大きな視点から国民の生活向上第一の視点を失わないで議論して欲しいと思う。

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令和元年台風第19号

令和元年台風第19号は、2019年10月6日3時にマリアナ諸島の東海上で発生した台風である。関東地方や東北地方を中心に、東日本各地に甚大な被害をもたらす。
10月12日より関東甲信地方を中心に記録的な大雨ととなる。15時30分に大雨特別警報が静岡県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、山梨県、長野県の7都県に発表され、19時50分に茨城県、栃木県、新潟県、福島県、宮城県に、13日0時40分に岩手県にも発表された。半日で13都県での発表とは、3日で11府県に発表された平成30年7月豪雨を超え、特別警報の運用を開始して以来最多の発表数となった。
大雨特別警報が出た12都県では、台風19号本体が上陸する前から活発な雨雲が断続的に生じ、広範囲で強い雨が降り続ける。その結果、各地で観測記録を塗り替えるような大雨になる。また12日は大潮にあたっていた。

以下は国土交通省が発表した資料。
1時間降水量
1. 95.0 mm: 普代(岩手県、13日1時54分まで)
2. 93.5 mm: 小本(岩手県、13日1時55分まで)
3. 85.0 mm: 箱根(神奈川県、12日19時21分まで)
4. 84.5 mm: 宮古(岩手県、13日1時21分まで)
5. 81.5 mm: 丹沢湖(神奈川県、12日19時52分まで)
6. 80.5 mm: 筆甫(宮城県、12日20時30分まで)
7. 77.5 mm: 山田(岩手県、13日0時59分まで)
8. 75.0 mm: 梅ケ島(静岡県、12日17時55分まで)
9. 71.0 mm: 久慈(岩手県、13日1時43分まで)
10. 70.5 mm: 今市(栃木県、12日18時39分まで)
(70mm以上)


24時間降水量
1. 942.5 mm: 箱根(神奈川県、12日21時00分まで)
2. 717.5 mm: 湯ケ島(静岡県、12日18時50分まで)
3. 647.5 mm: 浦山(埼玉県、12日22時00分まで)
4. 627.0 mm: 小沢(東京都、12日21時20分まで)
5. 613.5 mm: 梅ケ島(静岡県、12日20時00分まで)
6. 604.5 mm: 相模湖(神奈川県、12日21時20分まで)
7. 588.0 mm: 筆甫(宮城県、13日3時50分まで)
8. 587.0 mm: ときがわ(埼玉県、12日22時10分まで)
9. 580.0 mm: 小河内(東京都、12日21時20分まで)
10. 561.5 mm: 三峰(埼玉県、12日21時40分まで)
(550mm以上)


最大瞬間風速
1. 44.8 m/s: 神津島(東京都、12日15時15分)
2. 43.8 m/s: 江戸川臨海(東京都、12日21時17分)
3. 43.8 m/s: 横浜(神奈川県、12日20時32分)
4. 42.7 m/s: 羽田(東京都、12日21時04分)
5. 42.2 m/s: 三宅坪田(東京都、12日17時16分)
6. 41.5 m/s: 東京(東京都、12日21時14分)
7. 40.3 m/s: 千葉(千葉県、12日21時20分)
(40m/s以上)


風速も40 m/sを越える超大型。とりあえず、洪水被害に焦点を当てるため、降水量を考えて見よう。降水量の測り方の基本は、バケツのような容器に決められた時間にどれだけ雨水が貯まるかその深さを測るもの。
国土交通省発表のデータでは、時間雨量では最大100mm程度だ。つまり、10cm程度。とりあえず我慢していればいずれ水は引く。ところが、降水の継続時間が長くなると問題は大きくなる。24時間降水量のデータでは、1,000mmに迫る数値だ。1m水位が上がれば宅地では1階は全滅だろう。降った雨は、地面に浸み込まない限り、近くの川へ流れ込む。地下にしみ込んでもいずれ湧水となって下流へと運ばれる。
しかし、実際に浸水の被害にあった地域では、水位上昇が6~7m程度もあったという。つまり、この地域の水害は地域の降った雨ではなく上流で降った雨が原因だ。例えば阿武隈川流域では洪水があった時間は日中で雨は降っていなかったという。つまり、水は上流からやって来たので、本来は事前に予測可能なはずである。洪水対策の難しさは、洪水の被害地と大雨に見舞われた地域が異なっていることがある。
こんなことは海外では当たり前のこと。東南アジアや南アジアの大河川では、上流に降った雨が下流に届くには数週間から数か月かかるのは普通のことだ。流量が大きいため、洪水が来ることは分かっていても対策は避難する以外にはないという。人口の密集する関東地方では人が避難することは難しいので降った雨を効率良く海まで流さないといけない。それと日本の河川は海外の大河と比べると勾配も強く、瞬時(数日)で海まで到達してしまう。
利根川や荒川などの大河川は、多くの支流から水を集め、最終的には海に流れ込む。河川に集まる水は、流域の面積×降水量。しかし、河川網の支流からの洪水流が、一度に本流の河口目指して流れ込んで来たら、本流が持つわけがない。
今回の台風では、降雨は同時多発的に生じているが、流域から河川へ、支流から本川へ流れ込むには実際は時間差がある。各河川での流速と流量が大事な訳だ。関東の山間部から東京湾まで流れるには半日程度の時間差があるようだ。それと水位も大事だ。水位が上がると堤防を乗り越えてしまう。下流の水位が上昇すると、それにつれて上流の水位も上昇する。いわゆるバックウォーターと言われる現象。
どうも、洪水対策と言うものは、堤防を嵩上げしたり、河川を浚渫したり、ダムを造ったりと色々な対策はあるが、決定打はなく流域全体を一つのシステムととらえた総合的な対策が必要なようだ。治水には水文学、水理学、河川工学やその他色々な分野の専門家が互いに知恵を出し合って進めて行くことが必要なのだろう。

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ダムの歴史

ダムの歴史なんて本気で書きだせば、何十作冊の本が出来るほどの内容があるでしょう。今の河川法では、高さ15メートル以上のものを「ダム」と表記し、それ未満の河川構造物については基本的に「堰堤(えんてい)」・「堰」と表記するとなっているようだ。
狭山池 満濃池
日本でダムを造り始めるのは、水田耕作が開始されてからだが、人口が増えて渡来人が新しい土木技術を持ち込んで来た以降だろう。記紀の記録からは7世紀初めの「狭山池」と言うのが最初らしい。これはその後何度も改修されているとの記録もある。
香川県には日本最大級のため池「満濃池」(金倉川)がある。これも8世紀の初め頃。狭山池も満濃池もどちらも現役として現在も使われているらしい。その後も多くのダムが建設されて来たようだが調べ始めるとキリがない。しかし、規模の大きなダムが本格的に建設されるのは明治以降でしょう。
ダム建設は、土木技術の花だろう。大量の土砂が運搬され、大量のコンクリートが使われる。使われる重機も超特大級。トンネルや道路はいくら規模が大きくても延長が長いだけで同じことの繰返し。ダム現場では、これが一箇所で見られる。土木技術者なら一度は経験して見たいと思うのが自然だろう。 黒部ダムは、電源開発目的とした本格的な大ダムだろう。鬼怒川上流に水力発電所を建設し、発生した電力を東京へ供給するという目的。年間を通じて一定でない鬼怒川の流量を調整するためのダム貯水池を計画。1912年(大正元年)12月に竣工(しゅんこう)する。318メートルという高落差を利用して、最大3万1,200キロワットの電力を発生する下滝発電所は、当時日本最大級の規模を誇るものであったといわれる。
日本のダム建設、初めの頃はほとんど電力が目的だった。当時の日本は、電力が著しく不足しており、石炭や石油のような資源も輸入する資金もないため、電源開発目的としたダムの建設は国家の優先的事業でもあったわけだ。 水力発電では、ダム放流の落差が重要だ。318mの落差は大変有利だ。しかし、鬼怒川の流量には季節変動が大きく、その変動を小さくするため貯水池(ダム)を設けることに。しかし、想定を上回る大量の土砂が黒部ダムに堆積し、貯水容量を圧迫。このため、水不足に備えて黒部ダムに貯水しておくという、当初の運用計画は破綻。東京の電力を賄うため、隅田火力発電所(1919年,大正8年)が建設されたとか。
黒部ダムに関連しては、吉村昭氏の長編ノンフィクション小説『高熱隧道』(こうねつずいどう)が有名かも。日本電力黒部川第三発電所(現関西電力に移管)水路トンネルの工事が舞台。同発電所は1936年着工、1940年工事完了。厳密にはトンネル(隧道)工事であるが、大きな目で見てこれもダム工事の一環と見ることもできよう。ダム年間では黒部ダムの竣工年は1963年となっているので、1912年竣工のものとは大部形状も変わっているのでしょう。
(財)日本ダム協会発行の「ダム年鑑」に日本のダム・有効貯水量ベスト30が出ている。どれも、有効貯水量は1億m3を越えている。日本は世界でもダムが多い国なのでしょうか。山の多い地形の影響か。
大きなダム
慣行水利権者との争い
大正時代のダム事業は主に電気事業者が中心となって日本各地にダムを建設する。しかし、水力発電のために河川から取水することで下流の水量が減少し農業用水、あるいは当時盛んに実施されていた流木(山で切った木を流す)に対する影響が表面化する。1896年(明治29年)に日本初の河川関連法規である旧河川法、1911年には電気事業法が成立したがこれらの法律では対応し得ない状況であり、江戸時代以前より農業用水を取水している農民や林業を営む流木業者が持つ慣行水利権と電気事業者が獲得した新規発電用水利権が衝突する例が発生する。 それは今まで使っていた水がいきなり使えなくなれば、それらの水で生活していた人々が怒り出すのは当然だ。ダムの建設は、水没させられる住民や自然環境に加えて、川を生活の基盤としていて人々の既存の権利も侵害することもある。また河を遡上する魚類への影響も馬鹿には出来ない。
昭和初期(1926年-1944年)
大正時代のダム建設ブームにより日本のダム技術は明治以前に比べて飛躍的に向上し、高さ50メートルを超えるダム建設も盛んに行われる。一方で慣行水利権者との摩擦は、日本における河川行政・法整備が実情に追い付いていないという現実を露呈させる。さらに治水事業との整合性や利水事業者同士による開発事業の衝突など、旧河川法や電気事業法では解決できず政治家による調停に委ねる例も出て、河川行政の抜本的な改革が問われつつあった。また、満州事変以降次第に日本は軍国主義の風潮が高まり、河川事業にもその暗い影が差して行ったのが昭和初期のダム事業を取り巻く環境である。
1896年(明治29年)に制定された旧河川法では治水事業は堤防整備を主体とした河川改修が主眼であり、ダムを活用するという流れはなかった。またダム事業自体も単一事業者が単一の目的で建設しており、複数の事業者が関与することもなかった。こうした状況下で同一河川における水力発電事業で複数の事業者が水利権の所在を巡り対立するなどの事案が多発する。従来の法整備では太刀打ちできない現実を目の当たりにした行政は、大正時代より逓信省、農林省がそれぞれ水力発電・灌漑目的の立場から法改正を画策したが河川行政を管轄する内務省の猛反対によって陽の目を見なかった。ようやく法整備に関する事態が動き出したのは1926年(大正15年)8月26日に勅令第270号として公布された河川行政監督令である。即ち当時盛んだった水力発電に係る河川占用の許可を内務大臣の許認可事項とする内容のもので、内務省(今なら国土交通省)の河川行政への専管業務を強化する意図があった。またダムの基準についても従来曖昧だったものを統一するため、1935年(昭和10年)5月27日内務省は省令第36号として河川堰堤規則を、6月15日には逓信省が省令第18号として発電用高堰堤規則をそれぞれ制定。二つの政令によって「基礎岩盤からの高さが15メートル以上(河川堰堤規則ではアースダムは高さ10メートル以上)」というダムの基準が日本で初めて確立する。

物部長穂 こうした流れの中、一人の学者がその後の日本における河川行政の流れを大きく変える論文を発表する。東京帝国大学教授・東京帝国大学地震研究所研究員・内務省土木試験所長の職に在った当時38歳の物部長穂。物部は1920年(大正9年)に耐震構造に関する論文で第一回土木学会賞を受賞、その後耐震構造学の権威として重力式コンクリートダムの耐震理論を確立し今日まで地震による重力ダムの致命的な損壊を防ぐ重要な基礎を築く。河川工学にも精通する物部は1926年に『わが国に於ける河川水量の調節並びに貯水事業について』という論文を発表し、河川総合開発・多目的ダム建設の必要性を主張した。論文の要旨は以下の通りである。

1.河道が全能力を発揮する期間は極めて短いので、貯水による河川水量の調節は洪水防御上有利。
2.発電が渇水に苦しむのは冬季であり、冬季には大洪水の心配はないから治水容量は発電に利用可能。夏季の渇水には多目的として貯水池を少し大きくする。
3.貯水池地点は日本では一般に有利な地点が少ないので、多目的に利用する。治水・灌漑用はなるべく平地に近く、発電用は上流部が有利なので水系一貫的に効率・有機的な運用を行う。
4.大規模貯水池の下流には逆調整池を設け、貯水池埋没対策として、将来は大規模な砂防事業を進める。
5.民間企業の貯水池も治水・利水の総合計画にするため補助金など助成策を講じる。
6.計画は、公平な立場にある河川管理者が統制する。

物部長穂博士というのは、日本の水理学の泰斗であり、今でも「物部水理学」は大学での立派な教科書だ。おっしゃること一々正論である。この当時は、米国でもテネシー川総合開発が始まり、1913年(大正2年)からはマイアミ川総合開発に基づく5か所のダム建設も実施されている。世界的にも河川事業が見直されている時期だったのか。我が国も物部論文を最優先とする河川事業を国策で推進することを決定する。
日本発送電とダム
電力会社による発電用ダムの建設は大井ダム以降、より大規模なダムの建設を手掛ける。水力発電は渇水時に発電能力が減少する欠点がある。これを火力発電所で補うことが当時の電力政策(水主火従)。電力会社はより大容量の貯水池を有する水力発電所建設を計画し、ダム建設もそれに比例して大規模なものに。1929年(昭和4年)に完成した高さ79.0メートルの小牧ダム(庄川)は、物部長穂の耐震理論を最初に導入した重力式コンクリートダム。またこの頃よりコンクリートに関する技術も進歩し、従来のコンクリートダムではコンクリートに玉石を混合した玉石コンクリートが主力だったが、玉石を使わない硬練りコンクリートの研究が進められる。塚原ダムは1938年(昭和13年)完成するが、高さ87.0メートルは戦前のダムとしては日本で最も高く、歴史的な土木遺産として小牧ダムと共に国の登録有形文化財に登録されている。また1917年(大正6年)日本有数の急流河川である黒部川では、高峰譲吉がアルミニウム精錬の電源として黒部川の開発に着手。その後日本電力が事業を承継。1936年に小屋平ダム(黒部川)と黒部川第二発電所、1940年に仙人谷ダム(黒部川)と黒部川第三発電所を完成させた。このダム・発電所工事は難工事であり、雪崩や吉村昭の『高熱隧道』で知られる灼熱のトンネル工事などで多くの殉職者を出しながら完成した。こうした河川一貫の水力発電事業は戦後さらに活発化する。
しかし、電力会社を巡る環境は戦時体制に突き進む日本の国情の中次第に厳しい情勢に追い込まれる。当時日本には東京電燈、東邦電力、日本電力、大同電力、宇治川電気のいわゆる「五大電力会社」が電気事業の中心であった。日本各地の河川で開発を進めていたが配電シェアの獲得競争は極めて激しく互いに紛争も絶えなかった。こうした激烈で無秩序なシェア競争に対して電気事業を民間に任せることは不適当とする意見が逓信省内部から出始める。満州事変勃発後は国家が積極的に電力統制を行うべきという急進的な意見が軍部や逓信省、企画院などで主流となる。「半官半民」の国策電力会社である日本発送電が1939年(昭和14年)4月に発足。実質は発送電事業の国有化であった。

軍部の介入
電力国家統制を成し遂げ、国家総力戦に突き進む軍部が次に狙ったのが河川行政、特に河水統制事業。航空機の生産や軍艦建造など軍備増強を図る上で水力発電事業や水道整備は欠かせなかったが、電力事業を掌握したことから今度は河川行政に直接介入し、軍部に都合が良い河川開発を企てる。 軍部は日本各地の河水統制事業に強引な圧力を掛けて自らの目的を押し通す。その極めつけが相模ダム(相模川)。建設反対住民に対し圧力をかけ無視。なりふり構わず突き進んだ太平洋戦争も次第に日本不利の戦況となる。資材や人員の欠乏は日を追う毎に深刻。ダム事業もこうした事情から進捗が滞る。1944年東條内閣は国家総動員法を補強するため決戦非常措置要綱を発令。物資の全てを戦争に投入することになり、これが遠因となってダム事業のほとんどが事業遂行不可能となり、中断に追い込まれる。各地の山林は乱伐によって極端に保水力が低下。河川改修も完全に停滞し、修繕がままならぬ状態で日本は終戦。後に残されたのは荒廃した国土であり、それは戦後直ちに大きな災害をもたらす。

終戦直後(1945年-1954年)
太平洋戦争で敗戦した日本は、国力も国土も極めて疲弊した状態。決戦非常措置発令で物資の全てを戦争に費やし、河川事業はダムを含め完全に停滞。電力に関しては物資不足による事業中断に加え、民間の電力需要が爆発的に増大、電力の需給バランスは一挙に崩壊し深刻な停電が頻発。さらにコメを始めとする農業生産力も低下して食糧不足が深刻化、1946年(昭和21年)には皇居前広場に25万人が集まる食糧メーデーが開かれるなど日本の社会は大きな混乱を来たす。戦災からの復興を果たさねばならない中で、混乱に拍車を掛けたのは連年襲い来る水害であった。
襲い来る災害
1945年-1954年に発生した主な水害
1945年 昭和20年 枕崎台風 (死者2,473、行方不明 1,283)
1947年 昭和22年 カスリーン台風 (死者1,077、行方不明 853)
1948年 昭和23年 アイオン台風 (死者512、行方不明 326)
1950年 昭和25年 ジェーン台風 (死者398、行方不明 141)
1951年 昭和26年 ルース台風 (死者572、行方不明 371)
1953年 昭和28年 昭和28年西日本水害 (死者759、行方不明 242)
治水事業の停滞、加えて戦時中に行われた日本各地の森林乱伐は治水安全度を極度に低下。そうした状況下、毎年のように台風や水害が来襲。日本各地に甚大な被害をもたらす。連年日本全土を襲った水害は、敗戦からの復興を目指す日本経済に大きな打撃を与え、復興の大きな阻害要因となる。 因みに、2019年台風19号の被害は、死者79名、行方不明 8名とされているが、人口密集地を襲ったこともあり、経済的な損失から見ると被害は決して小さいとは言えないだろう。

ダムの歴史について簡単に整理してみようと思ったが、とりあえずここまで書いてチョット疲れてしまった。続きはまた。(2019.10.21)

技術開発のお話
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停電被害

今年の台風は、19号の被害も甚大だったけど、15号の際も結構大きな被害を被った。東京都で死者1名、埼玉県と千葉県、神奈川県、茨城県での重傷者11人を含む、1都6県で150人が重軽傷を負ったといわれる。特に被害が甚大だった千葉県に到達したのは、10月9日頃か。
この台風で特徴的な点は、台風による停電のための2次被害が非常に目立つことがあげられる。千葉県内では高齢者を中心に、台風被災による停電のため熱中症とみられる症状で死亡した者が相次いでいる。
また19号では雨による被害が大きかったのに比べ、15号は風の被害が大きかったように見える。屋根が飛ばされビニールシートで覆われた家屋がテレビの画面で何度も映し出されたが、これらの家屋が19号の大雨に際にどうなったかは大変心配である。
この台風により、千葉県内で送電塔2本と電柱84本が倒壊。推計約2000本の電柱が損傷。神奈川県と千葉県を中心に9日時点で93万戸が停電。関東の広域で停電が発生。復旧に時間を要し、停電は異例の長期。17日午後7時半時点でも、6万戸あまりで停電が続く。通信網が途絶した地域からは被害の報告が出来ず、状況が正確に把握できていない状態。
電柱倒壊 電柱倒壊 電柱倒壊
11日時点で東京電力パワーグリッドは、停電の全面復旧は、千葉市周辺で12日中、それ以外のエリアでは13日以降とする。設備・施設に想定を超える被害が確認され、山間部での作業が難航しているためだと。全面復旧は1週間、10日かかることはないとしていたが、実際には2週間以上かかってしまった。
洪水や家屋損傷と異なり、停電被害は復旧作業にも影響し問題がより深刻。しかも今回の停電は被害地域が非常に広範囲であるため、復旧作業の大きな妨げの原因ともなっている。停電の被害は波及効果が大きく、浄水場などから家庭に送るポンプが停電で広域な断水被害や通信障害も併発。 復旧作業は、電気を扱うため、電力会社(東京電力)一社の善意に頼らざるを得ないことも、責任の所在を見えにくくする一因となっていそうだ。
日本の電力供給システムという重要なインフラが、かように脆弱な物であったとは、では今後どのような対策を取っていくのだろうか。どうも先が見えない話だ。
風による電柱の倒壊が多数(84本)見られたとある。電柱は大抵コンクリートなどできている丈夫な柱だ。しかも、地中深く埋められている。風でボキット折れたのか、根元から折れずに倒れたのか。多少とも構造力学を齧った人なら知りたいところだ。少々の風では倒壊など絶対にあり得ないはずだ。木の枝などが当たって電線が切れることは考えられるが。この点ははっきりさせて欲しい。
都市部では電線の地下化なども進められているが、これは住民の安全と美観を優先しているためで、強風対策のためではない。それにコストもかかる。当然これからも電柱は残されていくのであろうから、何らかの抜本的な対策が必要であろう。
一方、台風19号の際の、川崎市武蔵小杉では、停電の影響で、駅や超高層のマンションへの電力供給がストップ。近代都市と言うものは電気が無ければ本当に無力だ。エレベータもエスカレータもストップ。夜は明かりもない。ポンプが動かないと水も運べず断水だ。生活そのものが不可能だろう。
原因は配電設備が水没したためとか。電気設備は水に弱い。水没しないための対策は。似たような例では、北陸新幹線の車両が水没してして、新幹線がしばらく普通になったこともある。新幹線の基地は広大な面積が必要だ。しかし、北陸新幹線は後発組であったため、適切な敷地の確保が難しかったらしい。従って基地自体が初めから水没する可能性のある低湿地に建設されていた可能性も指摘されている。しかし、新幹線は自走可能な構造物だ。水没する前に安全な場所に避難する余裕はあったはずだ。 配電設備が水没も同じ理由で、都市化の速い地域では、重要なインフラを設置するための、敷地は水に弱い限られた土地しか残っていなかった可能性もある。建設することが最優先で、災害対策は後回し。その結果、被災するまで忘れられた存在に。水に強い設備に改善しない限り災害は繰り返される。
昨年(2018年)9月6日午前3時8分頃に発生した北海道胆振東部地震では、強い揺れによって、震源近くにあった苫東厚真火力発電所の2号機と4号機が、タービンの振動を検知して停止しました。その後、連鎖的にすべての発電所が停止して、ブラックアウトし、全道が停電するという事態となる。これも北海道の人達にとっては大変事態。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害でも、停電の被害は大問題であることは証明済み。それなのに、北海道、関西、千葉、神奈川と同じような停電被害が繰り返し頻発するようになっている。ここまでくると、日本の電力行政そのものが可笑しいのではないかと思えて来る。
一方、水道水が供給できなくなる断水の問題もクローズアップされた。
11日午後1時現在で、千葉・東京・静岡の3都県で約2万4000戸の断水が発生し、最大断水戸数は約12万戸もあったという。給水のポンプが停電での影響で使えなくなったという理由もある。実は多くの浄水施設は河川の近くに設置されており、河川が氾濫した際には同時に被災してしまうものらしい。つまり、洪水の災害と断水はセットで起こるケースが多いというのが現実らしい。 浄水施設が川の近くに設置されているのはある意味仕方がない。水は川から取水するのだから。河川が氾濫しないように祈るだけか。
電気も水道も現代生活には欠くことの出来ない重要なインフラだ。国土交通省の洪水対策は主に河川の治水だろう。しかし、今後は都市化の進展や気候の変化を見越し、電気、水道、通信などのインフラ整備も並行して進めなければいけないでしょう。バブルが崩壊して日本がますます貧しくなっていく中、過去に整備したインフラがドンドン老朽化して、災害に対し脆弱になっていく。政府の対策は避難対策ばかりで、今後日本の国土をどのように守っていくのがビジョンに乏しいように感じるのだか、皆さんはどう思われますか。
【追記】
電力設備の安全対策は、国土交通省ではなく経済産業省の管轄のようだ。インフラ設備の老朽化対策は電気設備に対してもしっかりとやってもらわないといけないようだ。
台風上陸から10日後、送電復旧作業の応援に駆けつけていた九州電力の作業員は、週プレ記者にこうつぶやいたとのこと。「これまで全国各地の災害現場で復旧作業に当たってきましたが、千葉の電柱や電線は総じてもろいです」どういうことか?
電力各社は、経済産業省が定める「電気設備技術基準」に沿って送配電設備の設計や設置を行なうことになっている。鉄塔や電柱は省令で毎秒40メートルの強風にも耐えられる設計を求めており、東京電力管内でも「風速40メートル基準で設計」していた(東京電力パワーグリッド・広報)という。今回の台風では瞬間風速50メートル以上を記録し、多くの電柱が倒壊してしまったとのこと。
しかし、台風被害の多い他地域の電力会社は独自に手を打っている。沖縄電力の鉄塔は「風速60メートルの風圧荷重に耐えられる設計」(同社広報)とし、九州電力も「過去に台風で大きな被害が出た地域は『強風地区』に指定し、電柱や鉄塔を風速50メートルに耐えうる設計にしている」(同社広報)という。
東電管内でも、過去に同様の台風被害は起きている。例えば2002年10月、関東地方を通過した台風21号による強風を受け、茨城県鹿嶋市などで送電鉄塔9基が折損・倒壊、約60万軒が停電した。
東電から送配電設備の設置や改修を請け負う電気工事会社の社長がこう話す。
「当時(02年)、倒壊した鉄塔は風速40メートル基準でした。国や東電は事故原因の検証を行ないましたが、強度基準が見直されることはなかった。千葉県の被災状況を見ると、もっと過去の教訓が生かされていれば......との思いはぬぐい切れません」
では、今回の台風被害は今後にどう生かされるのか?
「鉄塔や電柱の強度を上げるには当然、コストがかかる。例えば風速40メートル基準の鉄塔と60メートル基準の鉄塔を比べると、設置費用は2倍ほどになります」
しかし、東電の台所事情は厳しいのが現状だという。福島原発の補償も終わってないしね。
「3.11以降、耐震補強など原発の安全対策費が膨張し、送配電設備への投資は絞られています。建設から50年以上が経過した鉄塔や電柱が多いのに、建て替えや改修などの老朽化対策は後回しにされがち。現場担当者も上からのプレッシャーがきついのか、コストカットにがんじがらめになっています。電気の安定供給は電気事業者の最大の使命ですが、その意識が薄れてきているように思えてなりません」(電気工事会社社長)
何か災害が生じるたびに「想定外」を繰返す体質はもうたくさんだ。設備更新のコストは電気料金の値上げという形で消費者に跳ね返ってくる可能性も高いが、今回の被害を見れば、背に腹は代えられない?(2019.11.19)

技術開発のお話
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河川改修・老化対策

巴波川 巴波川
栃木県に巴波川(うずまがわ)と言う河がある。今年2019年の台風19号の際にも氾濫し、被害を出した。「ウズを巻き、波を立てて流れる」という意味に由来すると言われるので結構暴れ川なのか。
中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、栃木市内には蔵造りの建造物が多く残り「蔵の街」として親しまれている。舟運の始まりは、江戸時代に徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際に、日光御用の荷物を栃木河岸に陸揚げしたことが端緒である。その後、物資の集散地として江戸との交易で隆盛を極めた。現在は、錦鯉が放流されており、船頭による舟歌が楽しめる観光用の舟が行き来する。 現代は氾濫することは極めて少ない。明治時代に堤防が築かれる以前はたびたび氾濫し、橋をかけても2年ともたないと言われたほどであった。氾濫を鎮めるために人柱を立てたという伝説も残っており、「巴波川悲話」として栃木市の塚田歴史伝説館などで紹介されているそうだ。
近代以降においては、1947年(昭和22年)のカスリーン台風襲来の際に大洪水となり、多くの被災者を出した。また、2015年(平成27年)9月の関東・東北豪雨、2019年の台風19号の際にも氾濫し、被害を出したという。
テレビで観光用の船着き場付近の被災状況の映像があった。現在は、船は航行できない。本当に、気の毒な状態だ。河川には大量の礫が運び込まれて、川のあちこちに洲が出来ている。
はっと気がついた。洪水は大量の水だけを運んでくるわけではないのだ。山地では山崩れが起きて大量の礫が運び込まれる。おまけに風でなぎ倒された流木も来る。これらは流されて海まで運ばれれば問題は無いが、河川のあちこちに置き去りにされることが多い。一度流木などで川の流れがせきとめられると、流速が落ちて更に土砂を置き去りに。その結果、更に流れがせきとめられる。川の上流側では著しく水位が上昇し堤防が決壊し氾濫する。つまり、氾濫の主役は大量の水よりも、一緒に流れ込む土砂などの流下物かも知れないのだ。
河川網と言うのは、人間の血管系と似ている。人の動脈は、心臓を出発して枝分かれしながら体の隅々まで行き渡る。一方、河川は山地から雨水を集めて、次々と合流を重ねながら、最後には海に出る。心臓→太い血管→毛細血管、山地の渓流→中小河川→大河川→河口。流れる方向は逆だが、良く似ている。血圧が上がってしまうと、血管は耐えきれず破裂する。水位が上がってしまうと、堤防は耐えきれず破堤する。水位が上がるのは支流からの流入する水の他に、土砂や流木やゴミなどがある。
今回の被災地域を見ると、どれも河の河口ではなくて、中流部、特に合流点。ということは合流部での通水能力が劣化している。これ河川の老化なのでは。心臓ではなく、枝の部分だ。河川の水を流す力、これを通水能とでもいうでしょうが、通水能を向上させることが洪水対策の最も根幹でしょう。つまり、血液サラサラの状態だ。そのためには川幅は広く、深く、適切な勾配が必要だ。適切な場所に遊水池を造るのの有効だ。場合によっては、放水路(バイパス)のような外科的方法も必要かも。河は生きている。適切なメンテナンスをしないと老化してしまう。川は上流から土砂やゴミ等も沢山流れ込んできます。河川が動脈硬化にならないためには、川底の浚渫、川幅の拡大等日頃からの地味なメンテナンスの積み重ねが必要なのです。

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建設残土処理

自然の河川は、生き物のようだ。ある時は大きく蛇行し、流路をしばしば大きく変化させる。特に洪水時には、水の力と運ばれて来た大量の土砂のお陰で、川の姿は激減するものだ。 しかし、都市化が進み人が川の周辺に住み着くようになれば、堤防を嵩上げして、川を封じ込めようとする。
蛇行 蛇行
堤防内に運ばれた砂は行き所が無いのでどんどん川底に貯まり、川は年々浅くなっていくのが自然の成り行きだ。川の水面より周辺の地盤の方が低い場合は、これを天井川と称している。洪水時に土地が水面よりも低い場合は、堤防が決壊したら大災害になる。

天井川 天井川
堤防の嵩上げは、このように長期的見れば決して洪水の抜本対策になっていない。また、気候の長期変動を考えると、今後ますます洪水の規模が大きくなることも考えられるので、どこまで堤防を嵩上げすれば安全かという見通しも立たないはずだ。
今回の台風災害の結果、今後多くの自治体で堤防の嵩上げの計画が増えてくる見通しだ。一方、河川を浚渫したり河道を改修しようとする計画は出て来ないと想定される。
天井川 その理由は、浚渫(しゅんせつ)した土砂の捨て場がないためである。浚渫した土砂は考えようによっては、資源にもなるが、基本的には廃棄物。河川を浚渫すれば、その中にはヘドロやゴミが混入することは避けられない。環境省の安全基準も厳しくなっており、捨て場を確保することは極めて困難であるし、残土の処理も高額になる。各自治体だって、こんなコストのかかる工事は議会の承認が得られるはずがないだろうし、地元の建設業の方々も大変だろう。

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霞堤

千曲川 霞堤(かすみてい)は、河川堤の一つ。戦国時代に武田信玄によって考案されたという。もしそうなら、信玄公は河川工学の天才だ。現代の理論によってもその優秀性は立証されているから。
連続する堤ではなく、あらかじめ間に切れ目をいれた不連続の堤防。不連続点においては、上流側の堤防が下流側堤防の堤外(河川側)に入れ込んでいる。不連続部周辺の堤内(生活・営農区域)側は、予め浸水を予想されている遊水地で、それにより洪水時の増水による堤への一方的負荷を軽減し、決壊の危険性を少なくさせた。
この霞提の優れた点として、洪水で運ばれる土砂は、もともと上流の山林で形成された肥沃な土壌であり、それをそのまま下流に流すことなく、営農区域に蓄積する機能を有したことがあげられる。近代化された視点からは、治水を単なる土木工事の対象としか見ないことが多いが、農業さらに広くはエコロジーの視点を持った治水法として再評価されている。
元々、遊水地に浸水させる目的があるので、堤は高くない。先に記述した通り、堤に切れ目を入れ、増水した川の水をそこから堤後背の遊水地へ逃がす。しかし、水位が下がり始めれば、逆にその切れ目から速やかに排水が行われる。
もともと河川の堤防は、ババ抜きみたいな面がある。ある部分に堤防を造れば、その上下流では洪水の危険が増す。霞堤なら、上流の氾濫を下流の霞堤で吸収することが出来、被害軽減に有用で、平時において周辺田畑や排水路の排水が容易に行える利点がある。
千曲川で今回被災した地区は、以前は畑地(ある意味で遊水池)であったそうだか、現在では民家が密集している。だから、この部分は本堤よりも天端を高くした堤防で守らないといけない所だった。水は高い所から低い所に流れる。本堤が決壊しなかったことは、霞堤の優秀さを立証している。霞堤は今でも採用すべき技術だと思う。しかし、都市化が進んで河の傍まで民家が密集するようになって来ているため、採用が難しくなっているようだ。

技術開発のお話
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ポルダー

ポルダー ポルダー(polder)とは、低湿地の干拓によってつくられた土地のこと。ふつうはオランダやベルギーの干拓地を指す。干拓とは、河川や海などに堤防を築き、堤防内の水を無くして陸地をつくることです。つまり、もともとは水面よりも土地だった訳です。オランダのポルダーでは、水はけのよいところで園芸栽培が行われています。水はけが良いということは相当一生懸命排水をしているということになります。
オランダ 干拓(かんたく)とは遠浅の海や干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を仕切り、その場の水を抜き取り干上がらせるなどして陸地にすることです。主に農地として開拓する時に用いられるようだ。干拓された土地を干拓地(polder)と呼ぶ。 ポルダーはオランダ語だったんでしょう。水域に土砂や廃棄物等を投入して土地を造成する埋立とは発想が異なっているんですね。
方法として、まず、干拓堤防(潮受け堤防、潮受堤防)で水域を仕切り、堤防の随所に水門を設ける。その上で動力によって強制的に仕切内の水を排水し干上がらせる。または海の場合、潮の干満を利用する方法も取られる。干潮時に水門を開き海水を排し、満潮時には水門を閉じて干上がらせる。 オランダの独特の風景を造る風車もこのための物です。
だから土地は海面よりも低くなることが多く、塩分を含んだ土地であるため、農地化する際には、塩分とともに水を排水する設備を作る必要がある。また地盤も軟弱であるため、宅地としては余り好ましくないため何らかの工夫が必要でしょう。

オランダ 干拓による環境破壊
干拓される対象となる水域の大抵は既に海の豊かな生態系が形成されている個所でもあります。そこを陸地化させてしまうことは、元々あった生態系を破壊してしまうことであり、しばしば自然破壊の1つとして問題視されるようになって来ました。
日本でも、諫早湾干拓事業のような大規模事業では、その影響が干拓地だけでなく、周辺の水域にも及ぶことになります(1997年4月に湾の西半分を潮受け堤防で閉め切ったことが、有明海全体に甚大な漁業被害をもたらす原因となった)。
風車 オランダの干拓
オランダの歴史は、俗に「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った。」と言われるように干拓地(ポルダー)と切り離せない。
オランダでは海岸沿いに広がる湿地や泥炭地や干潟を埋め立てて土地を広げてきた歴史がある。オランダ最古の堤防はローマ帝国時代に遡り、初期の干拓は11世紀から13世紀の間に始まったらしい。海や湖を干上げる近代的な干拓の始まりは、1612年のベームスター干拓地。それ以来オランダでは堤防に囲まれ風車・排水路・水門で雨水や地下水を排水する干拓地が広がる。
また水管理委員会の長として、干拓地の周りの堤防を維持管理する「dijkgraaf(英語:dike-warden)」の役職が置かれる。この職は土地の存続や住民の生死に関わるものだったため、堤防維持のために人々を徴発する強力な権限がある。もっとも堤防の保全という作業はあらゆる階層の干拓地住民の協力が不可欠なため、オランダには階層を超えた協力や話し合いを重視する気風が生まれた。労使協調やワークシェアリングなどを特徴とするオランダ独特の政治・経済システムも「ポルダーモデル」の名で呼ばれているそうだ。
オランダの干拓手法はヨーロッパ、さらに世界各地にも影響を与えた。日本の干拓も、明治以降はオランダの強い影響を受けている。
日本の干拓
有明海沿岸での干拓は室町時代頃に始まったと考えられている。泥質干潟である有明海湾奥部では泥の堆積により年間平均10m程度(標高にして2mm程度)の自然陸化が継続するが、ひとたび陸化して干上がった地域には泥が堆積しないため低地が広がり洪水や高潮に弱く、泥質土に顕著な圧密沈下により逆に沈下してゆくこと、また干潟の方も台風の波浪や高潮などによって堆積した泥が簡単に流されていってしまうという特徴があった。そのため、陸化を促進する目的とともに陸化した地域を水害から守る目的などで干拓が行われるようになる。
明治に入ると資金力のある有力者が出資する組合方式の干拓が始まり、再び活発となった。しかし、拡大が進むにつれて水深の深い干潟を干拓せざるを得なくなり、資金のある村営、県営、そして国営と規模を拡大して行く。このころには、岩を基礎とした堤防を作り広範囲の干潟を干上がらせ自然陸化を待たない、オランダ方式が主流となった。そして、堤防も堅牢化・コンクリート化が進み大規模化する。しかし、1968年(昭和43年)に有明海の干拓がほぼすべて完工し、その後行われたのは笠岡湾干拓と諫早湾干拓のみである。
戦後の日本は米の増産が課題であったため、政府も農地を積極的に進めようとし、干拓事業も積極的に推進された。
しかし、何故オランダはそんなに努力してまで、陸地を増やそうとしたのだろう。オランダの歴史を学んでみる必要がありそうだ。戦後の日本は米の増産が課題であったため。土地バブルの頃は、山を削って内湾を埋め立てたりしたが、それは土地がいくらでも値上がりすると期待したため。今では干潟の環境的価値が見直され、埋め立てや干拓には逆風だろう。

技術開発のお話
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ヨハニス・デ・レーケ

砂防の父」と称される。日本の土木事業、特に河川改修や砂防における功績から、に土木史の偉人の一人として取り上げられている(農林水産省ウェブサイト)。
内務省の土木技術の助言者や技術指導者として現場を指揮する。氾濫を繰り返す河川を治めるため、放水路や分流の工事を行い、根本的な予防策として水源山地における砂防や治山の工事を体系づける。また全国の港湾の建築計画を立てた。特に木曽川の下流三川分流計画には10年にわたり心血を注ぎ成功させた。木曽三川分流計画にも参画。当初の二川分流案に対し、片野萬右衛門(かたのばんえもん)という老人の三川分流案の進言に感動し、三川分流に踏み切ったという。柔軟な思考ができたのでしょう。 日本中の現場にも広く足を伸ばし技術指導や助言も行う。これらの業績は高く評価され、1891年、現代の内務省事務次官に近い内務省勅任官技術顧問の扱いになる。これは「天皇から任命を受けた内務大臣の技術顧問・相談役」という立場である。
デ・レーケが指導や建設した砂防ダムや防波堤は、100年以上経過した現在でも日本各所に現存している。粗朶沈床の手法を日本に伝えた。雇い外国人としては、評価の高い人のようだ。

【三川分流(さんせんぶんりゅう)】
三川分流 以下は子供のための説明があったので載せておきます。
三川分流 明治政府(めいじせいふ)が招いたオランダ人技術者(ぎじゅつしゃ)ヨハネス・デレーケの指導(しどう)のもと、明治20年から44年にかけて木曽三川下流部の改修(かいしゅう)が行われ、三川分流がなされました。
木曽三川は複雑にからみあっていたから洪水の時はお互い悪い影響(えいきょう)を与えていました。だからこの3つの川を分流(別々に)する事が必要だったのだけど、ヨハネス・デレーケのおかげで成しとげられたのです。ヨハネス・デレーケは、木曽三川だけでなく、日本各地の河川の改修を行いました。

一本の川となっていた長良川と木曽川の間に背割堤を築いて川を分けたのです 。この工事でみんなが願っていた三川分流が実現しました。

砂防 ヨハネス・デレーケは、山林の保護(ほご)や砂防工事も大切だと考えていました。各地でオランダ式の砂防施設が造られたのが、今もその原型をとどめている所があります。
日本の川を見てその流れの激しさに驚き 「これは川ではない。滝だ」と述べたという逸話が知られています。これに関しては低地国であるオランダ出身のデ・レーケは、ゆったりした川しか見たことが無く、日本の川を見て「これは滝だ」と驚いたという説。「(日本の川が)急流なのは、大きな滝がないからだ」と言ったのを通訳が誤訳したものであるとする説の二つがあるようです。前者は、確かに日本の河川はヨーロッパと比べて短くて急です。ヨーロッパとはまた違った配慮が必要でしょう。後者は、河川に沢山ダムを造れば解決するでしょう。どうも前者ととらえた方が自然に思えるのですが。

技術開発のお話
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アスワンダム

アスワンダム アスワンダムは2つある。現在では単に「アスワンダム」と言うとアスワン・ハイ・ダムを指す。1902年に完成した古いアスワンダムは、1902年に完成し。数度にわたって拡張された。 アスワン・ハイ・ダムは、アスワン・ロウ・ダム(古いダム)の6.4 km上流に建設され、1970年に完成。エジプトの南端部、アスワン地区のナイル川に作られたダム。
アスワンダムの建設目的は、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保。しかし、1902年に作られたアスワン・ロウ・ダムだけでは力不足で、当時のエジプトのガマール・アブドゥル・ナセル大統領が、ソビエト社会主義共和国連邦の支援を受けてアスワン・ハイ・ダムを国家的事業として計画を立てる。
こうして1970年に新たに建設されたアスワン・ハイ・ダムは、堤の高さが111 m、堤の全長が3600 mの巨大なロックフィルダム。アスワン・ハイ・ダムによって出現した、表面積5250 km2の巨大な人工の湖であるナセル湖の名は、ガマール・アブドゥル・ナセル大統領の功績を讃えて命名されたもの。
アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止すると共に、12基の水力発電装置によって合計2.1 GWの電力が供給可能になる。またダムにより出現したナセル湖から供給される水は、不足がちだった農業用水を安定させ、周辺の砂漠の緑化も行われる。さらに、ナセル湖での漁業は活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されている。なお、今では、周辺の遺跡と共に、ダム付近は観光地ともなっている。
その一方で、ナイル川の生態系のバランスを破壊したなどの批判もある。ナイル川が上流から運搬してくる土砂がダムによって遮られたために、ダムの下流では河岸の侵食、さらに、ナイル川河口部の三角州への土砂の供給も減少し、付近の海岸の侵食も起きている。また、そこに生息する生物にも影響が出ており、一部地域では住民に寄生虫による病気を増加させた。さらに、ナイル川の上流から運搬されてくる土砂がダム内に堆積することによって、いずれダム湖が埋まるなどの問題も存在する。この他、エジプトが観光収入を得る観光資源ともなっている遺跡への悪影響も懸念されている。

【構造】:堤高 - 111 m:堤頂長 - 3600 m:発電能力 - 2.1 GW (175 MWの水力発電機が12基)、210万kwとなる。
*電力の「発電容量」の単位には、kW(キロワット)、MW(メガワット)、GW(ギガワット)という単位があります。
1000W=1kW、 1000kW=1MW、1000MW=1GW です。つまり、100万kW=1GWです。
発電容量とは、発電所がフルに稼動した際に、発電できる値です。日本全体の発電容量は、237GWです。しかし、実際には、発電所は常時フルの発電を行ってはいません。実際に発電した量は、「発電電力量」と言います。日本全体の発電電力量は、95~100GW(1億kW)です。

かつてナイル川の下流のエジプトでは、毎年夏にナイル川の氾濫によって洪水が発生していたが、この洪水がナイル川流域に肥沃な土壌を形成することに役立っていた。つまり、この洪水は古代からのエジプトの文明を支えてきた側面があった。
しかし、19世紀中盤にこれまでの水路を深く掘り下げて、夏運河と呼ばれる通年灌漑用の水路とすることによって農業生産高が激増した。これにより流域の人口が激増すると、ナイル川の洪水は必ずしも農業生産に不可欠なものだとは認識されなくなった。逆に、住居や農地を押し流す洪水をコントロールしたいと考えられるようになった。
ナイル川は、アスワンのすぐ南で急流が続いており、船舶の航行が不可能となっている。そのため、アスワンは古代エジプトにおいては長く南の国境とされ、ここより南はヌビアとして別の文明圏であると考えられていた。一方で、この地形はダム建設には最適であったため、上述の理由によりナイル川へのダム建設が構想されるようになると、エジプトを保護下に置いていたイギリスによって調査が行われる。そして1902年に、アスワンのすぐ南にアスワンダムが建設された。これにより治水能力は大幅に向上。それでもなおナイル川の洪水を完全にコントロールできたわけではなかったため、やがてより大規模なダム建設が構想されるようになった。結局アスワンダムだけでは不充分と結論したエジプト政府は、1952年にアスワン・ハイ・ダムの建設計画を立案。しかしその後、エジプト革命で政権交代が起こり、イギリス主導で行われていた建設計画は中止されるに至る。
ナセル 一旦は中止されたダムの建設計画だったが、ガマール・アブドゥル・ナセル大統領率いる革命政府は、ダム建設によって大きな利益を得られると踏み、さらに革命によって近代化されたエジプトのシンボルとなると計算して、計画を再開。また、建設へ向けて資金調達を始める。アメリカ合衆国が資金援助を申し込んだものの、エジプトとは敵対関係にあるイスラエルを支援するアメリカ合衆国とエジプトとの交渉は難航し、援助計画は破棄される。ナセル大統領は援助に代わる財源確保のため、1956年にスエズ運河の国有化を宣言。これはスエズ運河の権益を所有していたイギリスとフランスを激怒させ、両国はイスラエルを支援してスエズ運河の奪回を画策し、第二次中東戦争の発端となる。この戦争によりエジプトは軍事的には敗北したものの、政治的には勝利し、アラブ世界の広範な支持を得たナセル政権は磐石のものとなった。さらに1958年には、冷戦の影響もあり、ソビエト連邦がエジプトへの建設資金と機材の提供を申し出て、ソビエト連邦の企業であったギドロプロエクトが設計で協力することになる。これにより、政治的にも資金的にも技術的にも巨大プロジェクトを遂行する準備が整う。
1960年1月9日にアスワン・ハイ・ダムの起工式が行われ建設が始まる。しかし、資金面、技術面以外にも、アスワン・ハイ・ダムの建設には2つの大きな問題があった。1つ目は、ダム湖によって水没する地域の約9万人とも言われる住民の移住。結局、水没地域の住民は主にルクソールからコム・オンボの間に開かれた30の新開地へと移住させることで解決が図られる。そして2つ目は、同じく水没地域にあった、古代エジプトの遺跡群の保護の問題。当初は、ヌビア遺跡のアブ・シンベル神殿をはじめとする遺跡群は、そのまま水没させてしまう計画だった。しかし、国際社会からの批判の声が強く、最終的にユネスコから援助を受けて、巨額の費用をかけて湖畔に移築される。移築されたのはアブ・シンベル神殿だけではなく、アスワン・ロウ・ダム建設時から水没していたフィラエ島のイシス神殿や、カラブシャ神殿、アマダ神殿、ワディ・セブアなど10個ほどの遺跡も水面上へと移設する。
こうして、総費用10億米ドルをかけて1970年にアスワン・ハイ・ダムは竣工。その後、第四次中東戦争においてイスラエル軍によりペイント弾を投下された。このこともあり、2018年現在では軍事施設に匹敵する重要な防衛拠点として、軍が駐留して厳しい警備が行われている。
アスワン・ハイ・ダム 産業 アスワン・ハイ・ダムの完成によって出現した人造湖のナセル湖では、次第に富栄養化が起こり漁業が活発化。また、アスワン・ハイ・ダムの完成により、エジプト、スーダンに跨る広大な地域が耕作可能となる。1973年に起きた大旱魃の際も、周辺国で旱魃が起きても、エジプトは全く旱魃の影響を受けなかった。さらに、ナセル湖の水を湖西部北岸のトシュカより北西の低地へと送り込み、2250 km2の耕地を開発するトシュカ・プロジェクトが1998年に着工され、2003年に完成。ただ、耕作可能な場所が広がったとは言え、エジプト全体で見れば2012年現在においても食糧自給が達成されず、穀物を輸入している。
この他、ダムの建設によりナイル川の氾濫が少なくなり、穏やかな水流になった。渇水期であった冬季の水量も安定し、そのため、船に乗りナイル川を途中遺跡に立ち寄りながらクルーズするのが上流下流ともに盛んになる。アスワンからアブ・シンベル遺跡にもクルーズ船が就航し、多くの観光客を集めている。2012年現在も、観光収入はエジプトにおける重要な外貨獲得の手段の1つとなっている。

技術開発のお話
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水力発電

水力発電の発電量について考察してみよう。高い所(上池)にある水を低い所(下池)へ落下させる。位置エネルギーを運動エネルギーに変換する。
水力発電 適当な基準面を取って、上池水面までの高さをH1、下池水面までの高さをH2としよう。H=H1- H2が落差と言われるものだ。
上池と下池は丈夫な鉄管で連結されており、下部には発電のタービンが設置されている。鉄管の断面積はa(m2)として、流れ込む流量をQ(m3/s)としよう。流れの連続性から、管内の流速は上から下まで一様で、v=Q/a (m3/s)となるはずだ。
発電量は、一般に次のように算定されている。
単位時間(1秒間)に位置エネルギーとして流入する量、質点ならE=mghだったが、水は連続的に来るので単位時間で考える。単位時間に流れ込む質量はρQとなる。ただし、ρは水の密度(1000kg/m3)、単位時間当たりのエネルギーはパワーPになる。
P=(ρQ)gH、発電に際しては若干のロスがあるので、100%は、利用できない。効率としてη(一般にη=0.8~0.9とするらしい)をかけて、発電量は見積もられる。
   P=ηρQ gH …(1)
例として、η=0.8、ρ=1000kg/m3、g=9.8m/s2、H=100m、Q=100 m3/sとしてみると、
P=0.8×1000kg/m3×100 m3/s×9.8m/s2×100m=7.84×107 kgm2/s3 =7.84×107 W
1ワット→1W=1 J/s=1 kg・ms-2・m/s=1 kgm2/s3
であるから、確かに計算結果は電力の単位ワットになっている。
1 kW=1000W、1 MW=106W、だからP=78,400 kW=78.4MW

電気の専門書では、発電量の計算は、P{kW}=Q{m3/s}×g{9.8}×H{m}と表示されています。数字を代入すると直ちに答えが出るのですが、単位が合わないことに気がつきますか。
しかし、本当に水の位置エネルギーを効率η=0.8~0.9とそんなに効率良く電力に変えられるのでしょうか。電力を抽出された川の水の流れはどうどうなるのでしょうか。まだ、鉄管の太さも中の流速も分かっていません。実際には鉄管内にはタービンが設置されており、回ったタービンは更に発電機を回さないといけません。

まず、こんな時に有力なツールとして、ベルヌーイ(Bernoulli)の定理がある。流管内では、下記の値が保存されるというものだ。3つの項は、速度水頭、圧力水頭、位置水頭と呼ばれる。各々の項は長さの単位となっているのが土木的(河川工学)な表現。

    (1/2g)u2+H+z=一定…(2)
これを図のA点とE点に当てはめてみよう。
H1=(1/2g)u2+H2 …(2) →v=√(2gH)、H=H1- H2
v=√(2×9.8×100)=44.3m/s、a=Q/v=100 m3/s÷44.3m/s=2.26m2
(π/4)D2=2.26m2、から D=1.67m、
鉄管の径は1.67mの大口径、流速は44.3 m/sと相当速い。
ただこの計算は鉄管路の中にタービンが設置されていることを全く無視している。この時、下池の出口では、(1/2g)u2=H1-H2となっているので、位置エネルギーはそのまま運動エネルギーとなって全く仕事をしていない。タービン(水車)を回すために仕事を考慮しなければならない。多分タービンを回すために最終的な出口の流速は遅くなっているはず。ということはタービンがない時よりも流量も減っているはずです。この効果が効率ηに含まれているのでしょう。効率ηを考慮した落差を有効落差としています。

上の図でタービンの前後での水圧を考えて見ましょう。pC/w=H、pD=0(大気圧)、圧力も水頭表示です。
ここでまた、ベルヌーイを使うと、 H+(1/2g)u2=He+(1/2g)u2 となってしまします。Heは、タービンで消費されるエネルギーと考えられます。このようにタービンが作動すれば位置エネルギーは100%利用できることになりますが。

技術開発のお話
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北陸新幹線浸水

台風19号では長野市の車両センターにあった北陸新幹線の10編成120両が浸水。うち2編成はJR西、8編成はJR東が保有。ともに「廃車に向けた手続きを進めている」そうだ。 台風19号の影響で車両が浸水被害を受けた北陸新幹線は25日、東京―金沢間で直通運転を再開した。鉄道ジャーナリストの枝久保達也氏は「車両を事前に避難させた例は過去にもある。運転に欠かせない作業車を守るために、基地の浸水対策も必要だ」と指摘している。

分別回収 新幹線車両は走行や車内サービスに必要な機器の多くを床下に搭載している。これらは電子機器の塊であり、泥水につかった機器は全滅で再利用は不可能だ。また水没した自動車はいくら洗っても臭いがとれないと言われるように、浸水した座席をはじめとする車内設備も全て交換が必要になるが、これらの大規模な工事を現地で行うことは困難であるため、10編成は廃車となり、代替の新車を製造することになるとの見方が有力だ。

両社が10月末に発表した中間決算によると、全10編成を廃車にした場合、減価償却費を差し引いた損害額はJR東が約118億円、JR西が約30億円。JR東は8編成とも新造する方針で、通常の製造費とされる1両約3億円で計算すると、JR東だけで288億円がかかる見込みだ。

今回の台風がもたらした被害の1つの象徴として、さまざまなメディアで報じられた長野新幹線車両センターの浸水。多数の新幹線車両が水没している映像は多くの人に衝撃を与えた。浸水したのは北陸新幹線車両全体の3分の1にあたる10編成で、はたして全線再開後もこれまで通り運行できるのかという心配を与えた。

車両だけではなく浸水により確認車車庫・車輪研削庫・臨時修繕庫・仕交検査庫、車両センターの変電所も水に浸かったそうだ。列車が走る本線も浸水したほか、架線に電力を供給するための施設も被害を受けたそうだ。

しかし、JRの虎の子、新幹線車両が、何も抵抗もせずみすみす浸水してしまった事態が全くの驚きだ。新幹線車両はレールの上を自走できる。つまり、事前に避難するチャンスはいくらでもあったはずだ。株主に対してどう説明するのだろう。ニュースで早めに避難が推奨されているとき、JRの人達は一体何を考えていたのか不思議だ。どのように説明するのだろう。

技術開発のお話
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プラスチック廃棄物

一般の日本の団地の住民は、プラスチック製品はゴミ回収の際に分別回収をしているので自分は環境汚染に関係が無いと信じているかもしれない。でも、ゴミ焼却場の近隣には、プラスチックのリサイクル施設がある訳ではないし、どこか知らない所へ運ばれていることだけは薄々感じていたかもしれない。
年間およそ150万トンのゴミが海外に輸出されていると知っている人はどのくらいいるだろうか。150万トン÷1億人=150×107kg÷108人=15kg/人となり、日本人一人当たり年15kgもの廃棄物を海外に押し付けていることに。ペットボトル1本ならせいぜい1本5g程度。ペットボトルなら一人当たり年3,000本相当だ。1日8本もペットボトルで飲み物を飲んでいるんでしょうか。
分別回収 私たちは日頃から、ペットボトル飲料、コンビニ弁当の容器、レジ袋、洗剤の容器など、多くのプラスチック製品に囲まれた生活をしている。同時に、大量のプラスチック廃棄物を出している。今、そんな生活を見直すべき時がきている。
2019年5月11日、スイス・ジュネーブで開催された国連環境計画(UNEP)の会議で、プラスチック廃棄物の輸出を制限する条約、「有害廃棄物の国境を超える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」(以下、バーゼル条約)の改正案に日本を含む180カ国近くが合意した。
これにより、日本にある大量のプラスチック廃棄物が行き場を失うことになりそうなのだ。 ここ数年、世界中で脱プラスチックの流れが加速。日本も、プラスチック廃棄物の処分方法について見直しが迫られている。
私たちが普段、何気なく捨てているプラスチックごみ。それらは国内で正しくリサイクルされ、再利用されていると思っている人もいるかもしれないがそうではないらしい。 実は日本は、プラスチック廃棄物の多くを、リサイクルとして海外に輸出しているらしい。これはアメリカも同じ。その数は、日本では年間およそ150万トンに及ぶと推定されている。リサイクル処理には手間がかかるため、その人件費を日本では捻出できないことから人件費の安い海外に輸出しているのが現状です。つまり、「日本はプラスチック廃棄物の処理を海外に押し付けている」のが現状らしい。

主な輸出先であった中国は2018年、工業由来の廃プラスチックの輸入を停止しました。中国も最初は儲かったんでしょうか。経済成長と共に中国国内のゴミも増えたので処理が追い付かなくなったこと。もうひとつは、環境汚染に繋がっていたことです。プラスチック廃棄物の多くは、食べ残しが付いていたり、実際には資源としてリサイクルしにくいものばかりなので、業者は不法投棄をしたり、有害物質を焼却したり、海に流出させていました。それによって深刻な環境問題が起きていました。これは中国に限らず、他の国でも起きています。
中国に輸出できなくなった日本は、タイやマレーシア、ベトナムなど、同じく人件費の安いアジアの国を中心に輸出をするようになった。しかし、それらの国でも輸入規制は進みつつありもう受け入れてくれそうもない。
そんな中、今回のバーゼル条約の改正により、「日本が今後、プラスチック廃棄物の輸出をすること自体が事実上難しくなる」ようだ。今回の改正により、汚れたプラスチック廃棄物について、輸入国政府の同意がなければ輸出できなくなる。また、日本と同じレベルの処理体制でないと輸出ができなくなります。だったら日本国内でやれとなる。
現在のプラスチック廃棄物の多くが食べ物の残りカスなど汚れたプラスチックであり、また、現在輸出している国々の中には日本と同じレベルの処理体制である国はほぼないことから、今後の日本では、多くのプラスチック廃棄物が行き場を失うことになるのです。

プラスチック廃棄物 プラスチック廃棄物が正しく処理されないことによる環境問題の中でも、かなり深刻な問題が、海洋汚染です。プラスチックは自然分解されないので、海に流出したプラスチックは、紫外線などにより微細なマイクロプラスチックとなり、海洋全体に漂い続けています。それにより、小魚などに取り込まれ、生態系に悪影響を及ぼしている。実際に太平洋の孤島ガラパゴス諸島の海岸でも日本語や韓国語のラベルがついているプラスチック容器が流れ着いている。だから、ペットボトルの回収では、ラベルを剥がして蓋を外すように言われるのでしょうか。近年、魚介類からマイクロプラスチックが検出されたと話題になったのも、こうしたプラスチック廃棄物の処理方法に問題があるからだという。
プラスチック廃棄物による様々な環境問題に対して、輸入規制と同時に世界中で進んでいるのが、“脱プラスチック”の流れだ。「そもそもプラスチック製品自体を使わないようにしよう」という動きである。
2018年、アメリカの大手コーヒーチェーン・スターバックスが、2020年までに世界中の全店舗で、プラスチック製の使い捨てストローを全廃すると発表したことは記憶に新しい。 世界中で、プラスチックレジ袋の有料化もしくは使用禁止、公共施設におけるペットボトルの販売禁止、プラスチックストローの禁止、もしくは紙や天然素材で代用するなどの動きが加速している。
自治体や町内会ではプラスチックゴミを分別回収するように指導しており、大抵の人達はこれがリサイクルされて新しい製品になると信じている。分別回収で一般ゴミの量が減らせるので、ゴミを焼却する際にでるCO2の排出量を減らせると宣伝されているのでしょう。でも、海洋に投棄されたプラスチック塵を失くすにはどうすれば良いのでしょう。結局多大な労力を投資して掻き集め、最後には焼却する以外には処理の手段がないのが現状です。これが分別回収の実態です。 どうも、ペットボトルは一般ゴミと一緒に燃やしてしまうのが最善の方法みたいだ。ペットボトルで1本の重さはせいぜい5g程度。ペットボトルの中身はほとんどが空気(1/5は酸素)です。湿った生ゴミと一緒に燃焼すれば処理場で必要な燃料用の重油を大幅に節減できます。この方がよっぽど地球温暖化防止に貢献できるでしょう。燃やせば処理できるものを野ざらしで放置しておくことはある意味、犯罪です。

プラスチックは、燃やす以外に処理する方法はまだ見つかっていません。リサイクルできると言ってもせいぜい質の悪い安価な土建材料にしかならないので誰も本気で技術開発などしてないのが現実。しかし、世間ですぐに問題とされるのプラスチックゴミでも、ペットボトル、レジ袋、ストロー等、小さなもので消費者に直結するものばかりだ。燃やしてしまえばほとんど何も残らない。何故焼却処理しないのでしょうか。分別回収という行為が一種の免罪符となっているからではないでしょうか。意味のない分別回収はやめて、しっかりと焼却し残骸が残らないようにすべきです。地球温暖化や地球環境が心配なら、もっと効果の大きい所から実施すべきでしょう。

【バーゼル条約】
2017年末の中国による使用済みプラスチック等の輸入禁止措置を契機に、世界的に大きな問題となっているプラスチックごみ。このたび、有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約(以下、バーゼル条約)第14回締約国会議(COP14)(2019年4月29日~5月10日)にて、さらに「汚れたプラスチックごみ」の輸出規制が強化されることとなりました。

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農薬

農薬は歴史的には戦争用に開発された毒ガスを転用したもの。土壌燻蒸剤等として土そのものを消毒、あるいは殺虫剤として広く使われている。基本的には人体にとっても極めて有毒。生態系にも多大な悪影響を与える。出来れば使用しないに越したことはない。

朝日新聞にクロルピクリン (chloropicrin)という農薬の被害が続出しているとの報告(2020.1.20)があった。最近農家人口が減っているせいか、あまり話題にされていなかったようだが、農業の現場で働いている人たちにとっては大問題だ。しかし、残留農薬や土壌汚染の問題を引き起こし結果的には国民の健康にも多大な影響を与える。

沈黙の春 1962年に出版された世界的な名著レイチェル・カーソンの『沈黙の春』でも化学物質浸けの農業の環境に対する危険性が指摘されて以降も、それほど事態は改善されていないのかもしれない。
そもそも、米国(他の農作物輸出国も)の大規模なモノカルチャー農業が基本で、大きな土地に機械を使って大量の化学物質を投入し人手をかけずに生産するスタイルだ。種子も肥料も殺虫剤も化学メーカーがプログラムを組んで、作業をマニュアル化し、農家はそれに従うだけ。化学メーカーが主導権を持っている以上、農薬の使用が減る道理が無い。

クロルピクリンは危険な気体を発生し、人体にも危険、しかも大気中に拡散。CO2のように安全な気体ではないし、大気中にも残留蓄積していく。クロルピクリンについてGoogleで検索してみる。農水省、厚労省、環境省などのサイトは使用法のマニュアルを守って安全に使って下さい。クロルピクリンの危険性を警告したサイトは見つからない。基本的スタンスは病虫害に被害を防ぐため使わざる得ないでしょうということ。

日本は食料には高い関税をかけ、日本の農業を守って来た。いま、日本の政府に求められているのは食料の自給率ではなく、食の安全ではないのだろうか。食の安全の中には当然農家の安全も含まれる。有機農業が盛んに喧伝され、バイオテクノロジー研究も進んできた今、 脱化学薬品、脱農薬の進展を進めて欲しいと思うのですが。

クロルピクリン **クロルピクリン (chloropicrin) は、メタンの水素3個が塩素に、1個がニトロ基に置き換わった構造を持つ有機化合物。常温ではいくぶん粘性のある無色の液体で、刺激臭を有する。水には難溶。蒸気は空気より重く、その相対蒸気密度は 5.7 である。衝撃または熱を加えることにより爆発する可能性がある。光や熱などで分解して塩化水素や窒素酸化物など有毒な気体を生じることから、取り扱いには注意を要する。 見るからに有害そうだ。そもそも第一次世界大戦中に窒息性毒ガスとして開発されたものだそうだ。

技術開発のお話
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自動車の無い世界

自動車の無い世界を想像してみよう。
【危険な乗り物】
交通事故  自動車はとても便利な物だ。だけと大変危険なものでもある。世界中で毎日、大勢の人が交通事故で命を落とし障害を受けている。戦争で亡くなる人の数より多分ずっと多いだろう。自動車と言うものは危険な乗り物との認識が必要だ。
右のグラフは、2018年に日本の警視庁がまとめだ死亡事故で失われた命の数。警視庁はこれを「交通安全教育や取り締まりなどに取り組んだ結果」としているが本当だろうか。
ドライバーの高齢化や若年層の貧困化による車離れ、経済の停滞などから実際に走っている車の数が減ったことが最大の原因だろう。なお、この統計では「死亡者」とは事象発生から24時間以内に死亡した人数を指す。
事故 世界の各国の自動車1万台当たり交通事故死者数が分かっている。日本は(0.64人)、アメリカ(1.23人)、ドイツ(0.70人)、イギリス(0.53人)、フランス(0.88人)、スウェーデン(0.52人)、オランダ(0.54人)、韓国(2.93人)となっている。日本も1990年頃までは現在の2倍以上だった。英国のスミード氏が提唱する「スミードモデル」によれば、自動車保有台数当たりの死者数は車の普及率が上昇するに従って少なくなると指摘している。 それはそうだ。台数が増えれば1台当たりの事故率は減る。また、高齢者ドライバーがが増えれば高齢者の事故が増えるのも当然。昔は高齢者の方が慎重なので事故が少ないと思われていたはずだ。

大気汚染 【大気汚染の元凶】
自動車は大量の排気ガスを放出して大気や環境を汚染する。SOX(硫黄酸化物)やNOX(窒素酸化物)と言った有害物質は、技術開発により以前よりかなり減少したものの排気ガスに含まれる色々な有害物質を完全に除去することは不可能だ。また、ガソリンで走る宿命上、CO2は、宿命的排出せざるを得ず、自動車台数を減らす以外にCO2削減の抜本的対策はない。つまり、少ない数の自動車を効率良く使いまわすことが必要だ。
電気自動車なら大気汚染はない。でも、電気を作るために石炭や石油を燃やせばどうなんだろう。車の屋根にソーラーパネルを積むなんていうのはいいかもしれないね。

野生動物 【環境破壊】
道路は自然環境を著しく破壊する。生態系を分断し、多くの生物を絶滅に追いやって来ている。郊外の路上では多くの野生生物が車に引き殺されている。道路が水の移動を遮断することも。大量の排気ガスは人以外にも多くの野生生物の健康を損なっている。アマゾンの大森林やサハラ砂漠にハイウェイを建設すること経済的な観点かといっても果たして許されることなのか。

キャデラック 【何のための車か】
 そもそも、自動車は何のために存在するのだろうか。人や物を移動するためだ。当たり前のことだ。ステータスシンボルとして持っている人の満足感を満たすだけの目的もあろうが。自動車の無い世界を考えるためには、人や物を移動するための代替手段と比較する必要があろう。さらには、何のために人や物を移動させねばならないのかその目的まで踏み込んで考える必要があろう。

東海道53次 人の移動の基本はとにかく歩くことだ。長い人類の歴史においてほとんどの時間は歩くことに費やされてきている。歩くことは、人の健康にも密接に関係している。過度に乗物に依存して、運動不足をわざわざフィットネスクラブで解消なんて言う生活はそもそも異常だ。東海道を歩いた江戸時代の旅人たちは、万歩計でその日の歩数を測る必要性など全く感じていなかったであろう。健康のためにわざわざ歩く。そんな馬鹿なことを昔の人は考えたこともない。

戦車 歩くことの最初の代替は、動物を利用することだった。馬はそのための最適な手段。他に、ラクダや牛、象、ラマ、ロバなども使われた。車輪の発明は相当古い。シュメール人、インダス、あるいは中国とか。戦争には馬に曳かせた戦車を使っていた。

海上交通の船は、相当に早い時代から使われている。海を泳いで渡るわけにはいかないのでこれは当然必要な技術だ。江戸時代には河川交通も大事な物流幹線だった。河川交通は、今でも利用可能な物流手段だ。国によっては有効に活用しているようだ。しかし、陸上の移動は長い間、徒歩が主流であった。物流を盛んにするには運河網の整備が大切な時代もあった。
今では自動車が主流か。自動車に対抗できる最大のライバルは鉄道だろう。空の利用は、やや遅れている。しかし熱気球は相当前から知られていたようだ。ナスカの地上絵も気球から見たのではないかとの説もある。次は軽い気体を詰めた飛行船だ。その後ライト兄弟がプロペラ飛行機を発明。他にグライダーのような手段もある。飛行船はヒンデンブルグ号の爆発以来使われなくなってしまったが、中に詰める気体が水素からヘリウムに変わったので安全性は飛躍的に増しているはずだ。ヘリウムは高価だろうが、燃料でないので再利用も可能だろう。
最近の話題ではドローンがある。大きなドローンを作って人載せたいとの考えもあるが、これヘリコプターとどこが違うのでしょうか。ロケットを使うような手段もあるかもね。安全に着地できる手段があればね。

鉄道 物流のコストとして最も安いのは船。これは、加工貿易立国を目指した戦後の工業地帯が総て臨海部であることでも分かる。河川交通も江戸時代までは盛んであった。 また、船よりはかなり割高でも鉄道はコスト面では明らかに自動車よりも安い。鉄道の建設費は道路よりも遥かに安い。また、鉄路を走ることは摩擦が少ない分、エネルギーは遥かに節約で来る。しかし、鉄道会社は自前で線路を引くが、道路は国や自治体が税金を投入して作ってくれる。でも、最近世界各国で鉄道を見直す動きがある。

【何故車はこんなに増えたのか】
車がこんなに増えたのは石油を大量に消費するからだ。石油は地下からいくらでもタダ同然で取れた。だから工業製品を造る先進国は豊かになり、農業国は貧しくなった。日本はいち早く工業国になったので高度成長を遂げることが可能になったのだ。だから資本主義のシンボルとして車は成長神話の神様として尊敬されるようになった。車を世界中に売りまくることが繁栄の基礎。でも今はだいぶ情勢が変わった。石油資源の枯渇が問題になっており、排気ガスの放出も控えなければならない。車の台数自体を制限しなければいけない。未だに円安誘導して、関税を撤廃させて車の輸出を増やしたいという考え自体が時代遅れだ。

【未来の車】
今のガソリン車に変わるものとして、電気自動車が推進されている。中国、インド、その他開発途上国の現状を考えると、近い将来には、ガソリン車はなくなり、すべての車は電気自動車になると予想されている。電気自動車はクリーンで環境に優しいと言われる。でも、どうやって電気を生産するのか。化石燃料を使ってでは、環境対策にはならないだろう。でも、原子力では核廃棄物の処理の問題が解決されていない。
電気自動車の大きな利点としては、ブレーキ操作などの捨てるエネルギーを逆に発電に利用し蓄電できるという省エネ対策が行いやすことがある。ハイブリッド車などガソリン車にも取り入れられている技術だけど、それなら初めから全部電気にした方が良い。
また、いま研究の最前線は車の自動運転技術でしょう。AI技術が進んだのでほとんど実現可能な段階まで来ている。車そのものが人や荷物を運んでくれるロボットを目指していたのだから、技術の進む方向としてはある意味当然。

【電気自動車】
電気自動車が主流になると、今の車生産の大手は皆生き残れないとの予想がある。ガソリン車で培われた技術開発があまり活かされないのだ。また、ガソリンスタンドが不要になる。交通関係の警察官も暇になるかも。
また、自動運転の技術が本格的に実現すれば、車社会の様相は一変する。まず、職業としての運転手が不要になる。タクシーの運転手。大型バスの運転手が職を失う。運転免許証も必要なくなるかも。車は誰でも何処でも何時でも利用可能なものとなり、ステータスシンボルとしての価値もなくなる。デザインも簡素になり、コストも非常に安くなる。運転手がAIなら誰も車のデザインや性能など気にしなくなる。車を所有するメリットもなくなる。目的地に時間通り移動できればどの車も同じだ。駐車場も不要だ。必要なときに電話すればいつでもすぐに車の方からやって来てくれる。車ロボットは人の役に大切はパートナーとなって生き残るだろう。

その代わり多くの人々が職を失い不況になり、無駄が減るのでGNPが大いに低下するでしょう。だから自動車業界はどこまで本気でやるか困っているようだ。
最後に、道路建設に係わる環境破壊の対策だ。海外では大草原や砂漠や熱帯雨林といった道路を作ること事態が重大な環境破壊につながる地域が沢山ある。鉄道は、レールがないと走れないけど、車だって道路が無いと走れない。そこで考えられるのが馬型ロボット。軍事用には開発が進められているようです。映画スターウォーズにも出てきましたね。車輪の発明は偉大ですが、人の基本は歩くことではないでしょうか。

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馬型ロボットの開発

馬型ロボット

旧ソ連邦のカザフスタン、草原の中を舗装された直線の道路が延々と続く。車窓から時々見えるのは草をはむ羊の群れ。ソ連邦は、計画経済を標榜していたが、まさに官僚主導の土建大国であった。今後、砂漠を横断したり、熱帯雨林を切り開いたりして、どんどん道路が造られる可能性がある。しかし、開発のため無人の荒野や森林を破壊することは大規模な環境破壊であり、野生生物の与える影響も甚大である。更に、経済効率の観点からも決して得策ではないでしょう。
馬型ロボット 乗物のために道路や鉄道を造るのでなく、乗物自体を砂漠や草原に対応できるようにすることはどうであろう。ヒントは映画「スターウォーズ」の中にあった。砂漠の中を突き進む戦車は、馬のように歩いているのだ。地球上には、人の住めない荒野は無尽蔵に存在する。馬型のロボットは、そのような地域にもアクセスを提供できる。いい考えだと思っていたら、なんと馬型ロボットを既に米軍が開発している。YouTubeに映像があった。次は、民間ベースで商用化できるかどうかですね。

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ローカル線廃止について

レール自転車 今、またJRが赤字ローカル線を廃止する動きが相次いで来ている。昭和62年の国鉄の分割民営化に伴って、かつて全国で多くの赤字ローカル線が廃止された。過疎化する地元の人々のことを考えると心痛む思いである。廃止になったのは民営化したJRの経営問題ですのでJRを責めるわけにはいきません。しかし民営化すればこのような動きが生じることは当然予測できたはずです、国や自治体には何とか対策を考えて欲しいですね。過疎化地域は、高齢化も早く進んでいるので車も運転もままならず、過疎化がますます進んでしまいます。せっかく敷設した鉄道ももったいない。動力付きのトロッコのようなもの走らせることは出来ないのでしょうか。自動車の車輪を鉄道用に変えるだけで簡単にできそうですが。鉄道ならハンドルも、タイヤも要りません。車体も廃車になったボディを使えそうです。運転も簡単なので必要な人がシェアーして使えば台数も少なくて済みます。でも、あまりにも安くでき過ぎて、また台数も少ないので自動車会社は全く興味を示さないでしょう。退職したボランティア技術者の出番でしょうか。
自転車の例はあるようだ。でも、自転車ではレールの上を走るメリットはあまりないのでは。

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日本は世界5位の農業大国

 少し古くなったけど、こんなタイトルの本が出ていました。農水省は、国防強化の口実として食料自給率の強化をうたっています。でも、自給率の算定の根拠は。計算はカロリーベースでしているとのこと。金額ベースに直すと世界5位ぐらいが妥当なのでしょう。どうして金額ベースで計算しないのでしょうか。高級な野菜を作る畑をつぶして、家畜飼料をつくる牧草地に変えたいのでしょうか。昔、シンガポールにいた時のことですが、日本産の食糧は、超高級品。リンゴでも中国産の倍以上。でも売れているのです。
 日本の農家は規模が小さく、貧困で政府の手厚い保護がないと成り立たないというのは、戦前の発想。今では、兼業農家でも平日はサラリーマン、土日の片手間の農業でも都市のサラリーマン層よりも収入は上回っていることが明らかになっています。機械化や科学技術の進歩のお陰です。
 戦前は、確かにコメを輸入しなければならない時期もあったようです。地主勢力は、政府に対し国防を口実として食料の自給を主張し、外米の輸入を阻止のために米の高関税が必要であると要求します。彼らによって「食料自給」という概念は、食料の増産ではなく、輸入の阻止が目的。米の供給が減少したほうが米価は上昇し、地主の利益になるからである。地主だけを悪者にしてはいけない。当時はまだ、都市化が進んでないので、余剰人口を小作として養っていかねばならない事情もあったでしょう。
これは、今日でもJA 農協が、高い関税を維持することによって国内市場を国際市場から隔離したうえで、減反により供給を制限して本来実現する市場価格よりもさらに高い米価を維持しようとしているのと同じ構図です。いまの、兼業農家は戦前の地主と同じですね。でも、農民の総数から行くと、多数派でしょう。日本の農業を発展させるにはむしろ邪魔な政策ですね。
参考文献;日本は世界5位の農業大国、浅川芳裕著、講談社新書

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光力の時代

20世紀はエレクトロニクスの世紀だとも言われている。電気は送電線で遠くまで運べるし、電池を使って持ち運びも可能だ。平賀源内がエレキテルで人々を驚かせていた時代は、主に静電気の世界。フランクリンが雷を電気だと証明したのとほぼ同時代。電池が発明されて初めて電気の本格的な研究が花開いたわけ。 21世紀は電力ならぬ光力の時代だと信じて研究している人たちがいる。医療用のレーザーなどは既に実用化されている。また、従来の電気信号に代わって、レーザー信号が光ファイバー・ケーブルを使って情報を伝達する時代になってきている。このオプティカル・パワーを電池のように持ち運び自由にできないかと考えている人たちがいる。電気は電池に蓄えて持ち運びできる。自動車のバッテリー、携帯電話の電源、電池の役割は大きい。
レーザーを発射できる装置と薬品を車やヘリに積んで行けばいい。実用化のためには適切なダウンサイジングとコスト。一方、レーザーは光ファイバーで遠隔地までも送ることも可能なので、発電所ならぬ発光所でレーザー光を造り出し、各家庭に送電ならぬ送光することも考えられる。光コンセントなども必要だが。ただ、一般の素人には電気と違って使うためのノーハウが全く蓄積されていない。光でお茶や風呂を沸かしたりできるのか。あるいは電気でできなかったことが光でできるようになるのか。たとえば、この蓄光システムを災害現場に持っていき、瓦礫を破壊粉砕するのに使えないか、落石などの障害物を直ちに焼き払って下敷きになった人を救うなど。
可能性のあるレーザーの一つは、沃素レーザーがあるという。比較的安価に光ができるという。今後の研究に注目していきたい。

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発動機

発動機と言えば、戦後農村ではよく見かけたのではないだろか。今では、発動機と言っても何のことか分からない若い人が多いと思う。石油を動力とする内燃機関の一種なので、基本的な仕組みは自動車などに使われているエンジンと同じもの。吸気→圧縮→点火爆発→排気の工程を繰返す。発動機は万能エンジンでこれ一つあれば、揚水ポンプを回したり、脱穀等の作業を出来、当時は無くてはならないものだった。効率はガソリン・エンジンと比べると劣るもののコストが圧倒的に安く魅力的な部分も多く、鉄道のSLファンと同じく、結構マニアもいるとか。
発動機 発動機 発動機
子供の頃の思い出。数人のおじさんたちが畑で発動機を作動させている。このエンジンは簡単には始動しない。最初は、丈夫なロープを引っ張り、はずみ車を回す。はずみ車は小さな発電機を連動しており、発電機が回れば連続的に火花が出て気化した石油が爆発する。ロープの引っ張り方が弱いと連続したサイクルが出来ずに途中で止まってしまう。たいていは数回の試行で動き出すので問題は無いが。子供が見ている分にはなかなか楽しそうだ。水田に水を引くときはポンプと発動機の組合せで行う。
発動機 発動機
これが無い時代には足踏みの水車なんていうのもあった。子供が見ている分にはなかなか楽しそうで見応えがある。残して欲しい技術だね。
発動機 発動機 漁船なんかには、他に焼玉エンジン(Hot bulb engine)なんていうのもあったようだ。こちらは球形の中空の鉄の球を事前にバーナーで加熱しておいて発火原にするらしい。このような技術は生物の歴史で言うと進化の中間の生物みたいだ。これらが消えてしまうと進化の歴史が分からなくなってしまうかもしれない。

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温暖化対策の国際的枠組み

COPはConference of Partiesの略で、広く「締約国会議」という意味。よく使われるのは1992年の地球サミットで採択された国連気候変動枠組条約(UNFCCC)における締約国会議で、温室効果ガス排出削減等の国際的枠組みを協議する最高意思決定機関を意味する。

地球温暖化のリスクが一般に認知され始めたのは1980年代末。しかし地球温暖化に対する懐疑論や、緩和策の費用対効果を疑問視する意見などにより、実際に削減義務を伴う対策が始まるまでに多くの議論が続く。 温暖化が「疑う余地がない??」とのコンセンサス(相当強引な方法)を得て、対策の必要性が広く認識されるまでに約20年間の時間を要した。

1827年にジョゼフ・フーリエが温室効果を発表。1861年にジョン・ティンダルが水蒸気・二酸化炭素・オゾン・メタンなどが主要な温室効果ガスである主張。地球の気候を変える可能性を指摘。これらの研究をベースに1896年、スヴァンテ・アレニウスは自身の著書『宇宙の成立』の中で、石炭などの大量消費によって今後大気中の二酸化炭素濃度が増加すること、二酸化炭素濃度が2倍になれば気温が5~6℃上昇する可能性があることを示唆。このころは、二酸化炭素による冷害防止に触れた『グスコーブドリの伝記』(宮沢賢治、1932年)などに見られるように、一部には浸透していたものの、こういった科学知識が一般に広く認知されるには至っていなかった。 当時は氷河期の再来の方が真剣に議論されていたためだ。

一方、20世紀の中頃、ますます顕著になってきていた公害(環境汚染)を取り巻く環境が一変。住民の意識の高まりや汚染当事者の責任が明確になるとともに、行政の責任も高まる。学術面でも、公害に関連した環境全般の研究が盛んになる中で、行政が研究を推進する動きが出始め、マスメディアは環境問題を大きく取り上げるようになった。温暖化の問題はその中のほんの小さな一部であった。

沈黙の春 1960年代に『沈黙の春』を契機として大きな問題となった化学物質汚染、経済において環境に配慮する必要性を促した1972年の『成長の限界』と、次第に環境問題が対象とする分野は広がっていった。その流れの中で、地球の気候も対象となりつつあった。

しかし、1940年代から1970年代にかけては、地球の気温は低下傾向に入っていた。地球の気温上昇に関する議論や研究は下火、代わって気温低下に関する研究が盛んであった。1960年代には、地球の気温低下に関する研究結果がいくつも発表される。ミランコビッチ・サイクルの変化によって氷河期になる(1965)というもの、数千年以内に次の氷河期が到来するというもの(1966)等。ただ、氷河期が到来する具体的な原因は、いまだ不明。

1970年代に入って、エアロゾルや二酸化炭素が気候に与える影響について研究がなされた。具体的に将来の気候がどのように寒冷化して行くかという予測までは至らなかったが、マスメディアの「氷河期が近づいている」という報道が先行し、さも学術的な裏づけがあるかのような認識が生まれていた。

1979年、スリーマイル島原子力発電所事故の発生後、アメリカ合衆国大統領行政府科学技術政策局から「気候に対する人為起源 CO2 の影響」について諮問を受けた全米科学アカデミーがこれらの学術報告をまとめ、「21世紀半ばに二酸化炭素 (CO2) 濃度は 2 倍になり、気温は 3 ± 1.5 ℃ (1.5 ~ 4.5 ℃) 上昇する」とするチャーニー報告を発表した。

1980年代には、地球の気温も上昇傾向に転じ、温暖化に関する研究も進展していった。1985年10月には、フィラッハで地球温暖化に関する初めての世界的な学術会議としてフィラッハ会議が開催され、「21世紀半ばには人類が経験したほどのない規模で気温が上昇する」との見解を発表した。1988年8月には、世界気象機関 (WMO) と国連環境計画 (UNEP) の共同で気候変動に関する政府間パネル (IPCC) が設立される。

1990年8月、IPCCは膨大な数の学術的報告を集約して評価を行い、第1次評価報告書にて、21世紀末までに地球の平均気温が約3℃、海面が約65cm上昇するとの具体的予測を発表した。こんな具体的予測、今の技術で本当に出来るんでしょうか。このころには、学術的にも「地球寒冷化説」は過去の説となりつつあり、地球温暖化説が定着しはじめた。1992年6月にリオデジャネイロで開かれた環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)では、気候変動枠組条約が採択され、国際政治は全世界規模での地球温暖化対策が議題に上り始めた。

その後、IPCCは第2次、第3次評価報告書を順次発表し、地球温暖化の研究や予測の精度が向上していった。下記のような結論が示された。
1).この半世紀の温暖化の大部分は、人間活動が原因と考えられる。
2).人間活動が大気中の温室効果ガスの濃度と放射強制力を増加させ、21世紀中もそのトレンドを支配すると考えられる。
3).平均地上気温は今世紀末までに、1990年に比べて1.4~5.8℃上昇すると予測される。これに伴い、海水準の上昇や大規模な気候変化が懸念される。

余りにも独断的な決めつけのようだが、科学的な実証が必要なことを認めつつ、これらの内容が客観的に実証できる段階まで温暖化が進んでしまうと手遅れになると主張している。
このように、地球温暖化が人為的なものであり、早急な対策が必要であることは国際的かつ学術的(科学的)なコンセンサスとされた。もちろん、これに異議を唱える者も多い。2007年7月に米国石油地質協会(AAPG)がその意見を変えて以来、近年の温暖化に対する人為的影響を否定する国際的・公的な学術組織は事実上解散させられている。

その後、1988年10月にはトロント会議において「先進国が2005年の二酸化炭素排出量を1988年より20%減らす」という数値目標(トロント目標)が初めて提示され、行政レベルでの活動のきっかけとなった。1989年11月の大気汚染と気候変動に関する環境大臣会議では温室効果ガス排出量の安定化に初めて言及するノールトヴェイク宣言を採択した。アルシュサミット、ヒューストンサミットでも地球温暖化問題が話し合われた。

1995年のCOP1および1996年のCOP2では、地球温暖化対策の必要性が合意されるとともに、温室効果ガスの削減目標や削減手法について協議を行った。ただ、意見の対立に伴う議論の停滞や先送りといった問題も当然続出。

1997年のCOP3では、初めて具体的に排出量の削減を義務づける内容を盛り込んだ京都議定書が議決された。これは世界的に様々な温暖化の緩和策の進展を促すこととなった。しかし主要な排出国である中国に削減義務が無かったり、また国によって義務の厳しさが異なるなどの規定は、その後も議論の焦点となる。

これ以降のCOPでは、京都議定書の運用事項について細かい部分まで協議が進められ、2001年のCOP7では、最終的な合意(マラケシュ合意)に至った。2002年に開かれた持続可能な開発に関する世界首脳会議やこれ以降のCOPでは、対策に関して途上国と先進国の南北問題による対立も濃くなっていった。ただ、IPCC第3次評価報告書やスターン報告などにおいて科学的にリスクの大きさと対策の必要性がより確かになるにつれ、政治や経済の場においても地球温暖化への対策が検討されることが増えていった。

2005年には京都議定書が発効し、法的にも削減義務が発生した。2007年末の時点では、欧州などは再生可能エネルギーの普及を中心とした強力な政策により、最も厳しい-8%の義務を達成する見込みである。その一方で義務の無い中国の排出量は激増し、米国が離脱し、カナダも目標達成をあきらめ、日本も排出量を増やすなど、各国の達成状況はまちまちである。

また温室効果ガスの削減としては、現在京都議定書による削減目標提示が最も大規模なものであるが、スターン報告やIPCC第4次評価報告書により集約された科学的知見によれば、それよりも一桁多い削減量が必要とされている。このため京都議定書以上の削減目標(ポスト京都議定書)についての議論も現在行われている。

2007年10月には、気候変動に関する活動に対してIPCCが、人為的な気候変動問題の啓発に対してアル・ゴアが、それぞれノーベル平和賞を受賞することが発表され、同年12月に受賞した。彼の著「不都合な真実」では、気候変動に伴うされる世界各地の災害を網羅しているが、気候変動とCO2関連は実証されておらず、警鐘を鳴らすという役割のようだ。

2007年12月のCOP13においては、欧州やインドネシアによる数値目標導入の主張に日本や米国、カナダなどが反対し、また途上国と先進国との間での反発も顕在化した。辛うじて合意には至ったものの、数値目標の設定は見送られ、AR4の指摘への言及がなされるに留まった。こうした日米などの動きに対しては激しい批判も見られた。

このように、現時点では京都議定書以降の国際的な削減の道程は不明瞭である。その一方、京都議定書の目標達成の目処がついた欧州連合(EU)では、2007年2月の環境相理事会において、2020年までに温室効果ガスの排出量を1990年比で20%削減する目標で合意するなど、更なる削減を推進している国々もある。

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温暖化問題の虚構

長々と国際会議の経緯を引用してきたが、温暖化の話は政治的な話や宗教的な話が混沌と入り組んでいるように思える。宗教的な側面は、温暖化信仰の学者と寒冷化信仰の学者がいて、温暖化信仰の学者が政治家を巻き込んで勝利したらいいこと。つまり本当のことは分からないということ。
気候変動については、1980年以降は温暖化の傾向を示しているが、それ以前は寒冷化が心配されていたことも事実。イギリスでのクライメート・ゲート事件では温暖化を示すとされていたデータが実は捏造であったことが発覚している。

そもそも、温暖化とCO2の増加は直接繋がらない。太古の大気には大量に含まれていたCO2は、現在に大気中には0.03~0.04%しか含まれていない微量成分なのだ。植物はCO2を取り入れて酸素を放出してくれている。400ppmなんて書くと大きそうだが、実態はこんなもの。現状は地球上の植物たちにとっては極めて過酷な環境なのです。温室効果ガスは他にも沢山ある。こんな微量成分がどの程度温室効果があるのか果たして定量的に解析できるとは信じられない。定性的なことは言えるでしょうが。

さらに、現在増えたとされているCO2が人間活動によるものだという証拠は無い。勝手に断定しているだけのようだ。ちょっとした火山の噴火だけで人間活動によるCO2を遥かに越える量が排出される。CO2が増えれば植物が元気になるので、熱帯雨林や海洋の植物プランクトンがCO2を吸収して酸素を放出してくれる。酸素が増えればオゾン層を補強してくれる効果も期待できる。CO2は循環している。

ということは温暖化の最大の原因は、地球上の緑の減少だろう。砂漠化が進展し、海洋が汚染されれば誰がCO2を吸収して酸素を放出してくれるのだろうか。CO2の排出だけを規制して吸収の方を無視し続けることは許されない。いまの温暖化の議論が極めて政治色が濃いいことが伺われる。

政治的な側面は、対策に熱心なのは欧州連合(EU)連合に限られること。また、各国のエネルギー戦略が見え隠れしていることだ。国際会議の話題は、他国にエネルギー消費を削減させることだけが前面に出て、軍縮会議と同じ構造になっていることだ。「俺も減らすからお前も減らせ。」

現在にグローバル経済の根幹にあるのは石油(天然ガスや石炭も含まれるが)である。先進工業国は石油を使って工業製品を造って輸出して儲ける。石油は地下から略奪したものだ。だから一度工業化した先進国はいつまでも豊かで、開発途上国はいつまでも貧しい状態が維持できる。
しかし、中国の発展はその状態を許さない。他の開発途上国もこれに倣って何とか工業化を進めようとしている。ところが、地下資源を略奪し続けるには限界があることが分かって来た。資源には限りがあり、環境にも許容範囲がある。

欧州連合(EU)連合の諸国は、自分たちは削減しているのだから、他国にも削減しろと要求している。しかし、先進諸国の生活は石油浸け。元々浪費していたから削減できただけだ。 本当に石油の消費を減らしたいなら原油の価格を大幅に値上げすれば良い。でもこんな提案、産油国以外は大反対だろう。石油は相変わらず産業の米。経済発展のためには必要。自分たちの取り分は確保したい。でも、開発途上国には制限を加えたい。

原油の枯渇は以前から心配されている。産油国のイランは原子力を開発しようとしている。中国や他のアジアの開発途上国は、石炭の活用を考えている。石炭は石油より賦存量が多く、エネルギー選択からは良い選択だ。中国の考えは以前よりもCO2排出が減らせる石炭利用技術は温暖化対策になると主張し、日本もこの考えを支持している。だから日本はEUのNGOたちに避難されるのだ。

グレタ・トゥーンベリ いま、実際には温暖化論者は、窮地に立たされている。例え温暖化が現実に進行しているとしてもこれが人為的CO2のせいだとの強弁が通りにくくなっているから。プロパガンダを強化して、温暖化の被害が以前よりもかなり過大に評価されるように。グレタ・トゥーンベリさんなんて16歳の少女まで担ぎ出して感情に訴える作戦のようだ。この険しい顔は何なんでしょうね。

CO2犯人説は、多分破綻するのでは。欺瞞が明かになった問題の一つはプラスチックゴミの問題。大量に出るプラチックは現状では焼却処分するのがベストのはずだ。それをリサイクルと称して、先進国は焼却せずに途上国に資源として売りつけていたことが明かになった。その分、CO2排出を削減した勘定になっていた訳。途上国側も最初はまだ使えるものをリサイクルして、後は野積みで放置して来たらしい。これが環境問題として浮上し、先進国のプラスチックゴミの引取り手がなくなってしまった。しかも、これが海へ流れ出し、マイクロプラスチックゴミと化し、既に海洋生物に大打撃を与えている。
プラスチックゴミをリサイクルするとして、一般のゴミと分別回収していることが欺瞞。リサイクル出来ないなら分別回収をする意味がない。

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人物列伝

からくり儀右衛門 安藤百福 吉野 彰 梶田 隆章 仁科 芳雄

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からくり儀右衛門

文字書き人形

江戸時代末に流行していた「からくり人形」の技術は凄い。からくり儀右衛門とは、田中 久重(たなか ひさしげ;1799年~ 1881年(明治14年))の幼名で、子供のころから「からくり人形」の傑作をたくさん残している。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。これらの技術は人型ロボットを作る技術とも重なるもので、機械工学というものも最終的にはこういう技術やアイデアは不可欠なものなのだ。田中 久重は、また、東洋のエジソンといわれるが、肥前国佐賀藩の精煉方に着任したあとは、蒸気機関車の模型、反射炉の設計、蒸気船「電流丸」など実に多くの工学の分野に功績を残している。
弓曳童子 晩年は田中製造所を設立し、これが後に株式会社芝浦製作所、現在の東芝の基礎となる。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。天才といえども常に努力を惜しまなかった人なのでしょう。

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人物列伝
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NHK連続テレビ小説『まんぷく』

2018年10月より放送開始の、NHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルとなったのが、「カップヌードル」の生みの親、安藤百福氏だ。ドラマの内容は、実業家の夫・萬平とその妻・福子(ヒロイン)をモデルとする夫婦の成功物語。百福と満腹を語呂合わせしたのかも。
安藤夫妻 安藤 百福(ももふく);1910年(明治43年)~ 2007年(平成19年)、は日本の実業家でインスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として世界的にも知られる。日清食品(株)創業者。日本統治時代の台湾出身で、元は呉百福、民族は台湾人ということらしい。敗戦のため1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得しなければならなかった。
チキンラーメンの開発のすごいところは、ゼロから独力でスタートして、実験と失敗の繰り返しで開発したこと。すべて自分で考え観察し改良を重ねる。技術開発の手本だ。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」とヒット商品を世に送り出してきたが、失敗もある。
1974年7月、日清食品は「カップライス」を発売した。この商品は食糧庁長官から「お湯をかけてすぐに食べられる米の加工食品」の開発を持ちかけられたことがきっかけとなっもの。カップライスを試食した政治家や食糧庁職員の評判はすこぶる高く、マスコミは「奇跡の食品」、「米作農業の救世主」と報道した。「長い経営者人生の中で、これほど褒めそやされたことはなかった」と述懐しているが、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなって消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされた。安藤は日清食品の資本金の約2倍、年間の利益に相当する30億円を投じてカップライス生産用の設備を整備していたが「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという。この時の経験について安藤は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている。何故か国が技術開発に口を出すとうまく行かない。
日清製粉は宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発も手掛けている。百福さんが生前に残した言葉、「食足世平」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として今でも継承されているそうだ。

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人物列伝
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吉野 彰(2019ノーベル化学賞)

吉野 彰(よしの あきら、1948年(昭和23年)1月30日~)。ご存知、今年(2019年)のノーベル化学賞受賞者。電気化学が専門。携帯電話やパソコンなどに用いられるリチウムイオン二次電池の発明者の一人。2019年10月、ノーベル化学賞受賞が決定した。福井謙一の孫弟子に当たるそうだ。 民間の会社(旭化成)で研究を続けていたようだ。
吉野 彰 1948年に大阪府に生まれる。担任教師の影響で小学校三・四年生頃に化学に関心を持ったという。少年時代の愛読書にマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』の訳本がある。
合成繊維の発展という世相を背景に、新たなものを生み出す研究をしたいと思いから、京都大学工学部石油化学科に入学。すでに量子化学分野の権威として知られていた福井謙一への憧憬も京大工学部入学の理由の一つで、大学では福井の講義を受講している。
福井謙一博士 大学の教養課程では考古学研究会に入り、多くの時間を遺跡現場で発掘に充てた。樫原廃寺跡の調査と保存運動にも携わり、また、考古学研究会での活動を通して後の妻と出会ったとのこと。大学院修士課程修了後、大学での研究ではなく企業での研究開発に関わることを望み、旭化成工業(現 旭化成株式会社)に入社。
リチウム・イオン電池の開発
1980年代、携帯電話やノートパソコンなどの携帯機器の開発により、高容量で小型軽量な二次電池(充電可能な電池)のニーズが高まる。従来のニッケル水素電池などでは限界があり新型二次電池が切望されていた。一方、陰極に金属リチウムを用いたリチウム電池による一次電池は商品化されていたが、金属リチウムを用いた二次電池は、充電時に反応性の高い金属リチウムが発火・爆発する危険があり、また、充電と放電を繰り返すと性能が著しく劣化してしまうという非常な難点があり、現在でもまだ実用化には至っていない。
  【一次電池の使用用途の違い】
 実は、電池と呼ばれているものには非常に多くの種類があるが、①一化学電池、②物理電池、③生物電池に分類できるという。

1. 私たちが日常生活で多用している乾電池は、「化学電池」に属するもの。化学電池とは、  電池の内部に充填された物質が「酸化」や「還元」といった化学反応によって他の物質へ変化する際に生じる電気エネルギーを利用する。普通の電池の他、「燃料電池」も化学電池の仲間に分類されます。「燃料電池」なんてまたまた難しい用語が出て来たので、後でキット説明が必要になるのでしょう。

  2. 物理電池とは、熱や光などのエネルギーを取り入れることで電力を取り出す(エネルギー変換)タイプの電池で、太陽電池がその代表です。太陽電池はソーラー電池ともいい、太陽光がエネルギーの元だ。

3. 生物電池とは、微生物などが起こす生物化学反応を利用する電池で、光合成を利用した「生物太陽電池」などがあるそうだ。今後発展していくのでしょう。

という訳で、一般に電池と言うと化学電池のことになる。しかし、まだ一次電池と二次電池の区別までたどり着いていないね。
化学電池とは、どうも乾電池と同じようなものと考えて良さそうです。乾電池の仕組みと構造は、種類によらずほぼ同じ。電池の内部では、「イオン化傾向」の異なる2種類の金属が電解液に浸されている。イオン化傾向が大きい(溶けてイオンになりやすい)物質はしだいに電解液の中に溶け出していく。金属は解けると+イオンになるので、電極は残された電子によって-に帯電する。つまり「負極」になる。一方、イオン化傾向が低い物質はほとんど電解液に溶けず、プラス側に帯電して「正極」になります。「正極」と「負極」を銅線で繋げば電気が流れる訳です。もちろん電気の流れる方向は決まっているので直流です。
更に、化学電池は、「一次電池」と「二次電池」に分類できます。
 一次電池:一度きりの使用で使い捨てタイプの乾電池です。
 二次電池:充電して繰り返し使える乾電池です。
白川英樹博士 【電導性ポリアセチレン】
ペットボトルの材料のPET(ポリエチレンテレフタラート)やスーパーの買い物袋のポリエチレンは小さな有機化合物(高分子を合成する原料の低分子化合物の総称をモノマーと呼びます)が多数つながった「高分子」(ポリマーとも言います)。普通の高分子は電気をまったく通しません。でも炭素と炭素との結合が二重結合と単結合が交互に並んだ共役(きょうやく)高分子は電気を少し流す性質を示します。炭素-炭素二重結合を形作っている内の1つはσ(シグマ)結合、もうひとつはπ(パイ)結合と呼び、この結合に関与している電子をそれぞれσ電子、π電子といいます。π電子は比較的動きやすいので、このπ電子が高分子の中を動いて電気が少し流れます。しかし共役高分子は電気が流れるといっても鉄や銅などの金属に比べればまだまだ電気は流れにくい化合物です。この共役高分子に臭素やヨウ素を加えると金属と同じくらい電気を通すようになります。これはπ電子の一部が引き抜かれて部分的にプラス(正孔)ができます(ドーピングと言います)。そのプラスを埋めるために隣のマイナスの電子(π電子)が動き、またその電子が抜けた場所にプラスができる。それが繰り返すことで電子がつぎつぎ動いて電気が流れます。白川英樹先生は共役高分子のひとつであるポリアセチレンの薄い膜を作る方法とドーピングによって共役高分子が金属のように電気をよく流すこと(導電性高分子)を発見して、2000年にA.J. ヒーガー氏、A.G. マクアダイアミッド氏と共にノーベル化学賞を受賞されました。

しかし、ポリアセチレンは真比重が低く電池容量が高くならないことや電極材料として不安定であるという問題があった。そこで、炭素材料を負極として、リチウムを含有するLiCoO2を正極とする新しい二次電池であるリチウムイオン二次電池 (LIB) の基本概念を1985年に確立した。吉野は、更にいくつかの点に着目し、LIB(リチウムイオン・バッテリー)が誕生したという。


吉野博士は、白川英樹(2000年ノーベル化学賞受賞者)が発見した電気を通すプラスチックであるポリアセチレンに注目。それが有機溶媒を使った二次電池の負極に適していることを1981年に見いだす。電池の開発が無機溶媒から有機溶媒へ、電極も有機化合物を使う時代になったわけですか。 さらに、正極にはジョン・グッドイナフらが1980年に発見したリチウムと酸化コバルトの化合物であるコバルト酸リチウム (LiCoO2) などのリチウム遷移金属酸化物を用いて、リチウムイオン二次電池の原型を1983年に創出する。
しかし、ポリアセチレンは真比重が低く電池容量が高くならないことや電極材料として不安定であるという問題があった。そこで、炭素材料を負極として、リチウムを含有するLiCoO2を正極とする新しい二次電池であるリチウムイオン二次電池 (LIB) の基本概念を1985年に確立する。吉野が次の点に着目したことによりLIB(リチウムイオン・バッテリー)が誕生した。 1.正極にLiCoO2を用いることで、
(1).正極自体がリチウムを含有するため、負極に金属リチウムを用いる必要がないので安全である
(2).4V級の高い電位を持ち、そのため高容量が得られる
2.負極に炭素材料を用いることで、
(1).炭素材料がリチウムを吸蔵するため、金属リチウムが電池中に存在しないので本質的に安全である
(2).リチウムの吸蔵量が多く高容量が得られる

また、特定の結晶構造を持つ炭素材料を見いだし、実用的な炭素負極を実現した。加えて、アルミ箔を正極集電体に用いる技術や、安全性を確保するための機能性セパレータなどの本質的な電池の構成要素に関する技術を確立し、さらに安全素子技術、保護回路・充放電技術、電極構造・電池構造等の技術を開発し、さらに安全でかつ、出力電圧が金属リチウム二次電池に近い電池の実用化に成功して、ほぼ現在のLIBの構成を完成させた。1986年、LIBのプロトタイプが試験生産され、米国DOT(運輸省、Department of Transportation)の「金属リチウム電池とは異なる」との認定を受け、プリマーケッティングが開始される。

しかし、商品化に1993年まで掛かった吉野とエイ・ティーバッテリ-(当時、旭化成と東芝の合弁会社、2004年解散)は出遅れ、世界初のリチウムイオン二次電池 (LIB) は西美緒率いるソニー・エナジー・テックにより1990年に実用化、1991年に商品化された。現在、リチウムイオン二次電池 (LIB) は携帯電話、ノートパソコン、デジタルカメラ・ビデオ、携帯用音楽プレイヤーをはじめ幅広い電子・電気機器に搭載され、2010年にはLIB市場は1兆円規模に成長した。小型で軽量なLIBが搭載されることで携帯用IT機器の利便性は大いに増大し、迅速で正確な情報伝達とそれに伴う安全性の向上・生産性の向上・生活の質的改善などに多大な貢献をしている。また、LIBは、エコカーと呼ばれる自動車 (EV, HEV, P-HEV) などの交通機関の動力源として実用化が進んでおり、電力の平準化やスマートグリッドのための蓄電装置としても精力的に研究がなされている。

ボルタ電池 最も初期の、化学電池はボルタ電池でしょう。高校で習うかも。イオン化傾向なんかと一緒に。Li→K→Ca→Na→Mg→Al→Zn→Fe→Ni→Sn→Pb→(H2)→Cu→Hg→Ag→Pt→Au 始めの方ほどイオンになり易い。亜鉛Znと銅Cuでは、亜鉛の方がイオンになりやすく、溶けてプラスのイオンになります。つまり陰極に電子を置き去りにして溶けます。ところが銅は水素よりもイオンになりにくい。希硫酸はH2SO4で、溶媒中で既にイオンになっている。水素イオンは電極(銅)から電子を受け取り、気体の水素になりブクブクと泡になって出てくる。図を見れば分かる通り、電極を導体で繋げば、電子の余った負極から電子の不足する正極の方へ電子の流れが出来ます。つまり電流が発生し、豆電球を光らせる訳です。
勿論、リチウムイオン二次電池はこんな簡単なものではありませんが、電池とはどんなものかを知っておくことは必要でしょう。吉野さんの話では、日本のノーベル化学賞は、福井→白川→吉野と19年周期で受賞しているので、多分次は2034年頃に再度受賞の可能性があるかもしれません。

技術開発のお話

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

梶田 隆章(2015ノーベル物理学賞)

梶田 隆章 梶田 隆章(かじた たかあき、1959年3月9日~)は、日本の物理学者、天文学者。東京大学教授。専門はニュートリノ研究。ニュートリノ振動の発見により、2015年にアーサー・B・マクドナルド氏と共にノーベル物理学賞を受賞。川越高校出身。1959年3月9日、埼玉県東松山市の農家に生まれ。幼少期から読書好きで、両親に「お茶の水博士になりたい」と話していたこともあったそうだ。
埼玉大学で物理学を専攻して素粒子に興味を持つ。卒業後、東京大学大学院理学系研究科に進学。小柴昌俊研究室に所属し、この頃から小柴、戸塚洋二の下で宇宙線研究に従事。素粒子に特に強い関心があったわけではなかったが、「何となく興味があった」という理由で研究室を選んだという。

スーパーカミオカンデ ニュートリノ研究を始めたのは、1986年のこと。ニュートリノの観測数が理論的予測と比較して大幅に不足していることに気づき、それがニュートリノ振動によるものと推測。ニュートリノ振動とは、ニュートリノが途中で別種のニュートリノに変化するという現象。ニュートリノに質量があることを裏付けるものだ。これを明らかにするためには膨大な観測データが必要で、岐阜県神岡町(現・飛騨市)にあるニュートリノの観測装置カミオカンデで観測を始める。転機はカミオカンデより容積が15倍大きいスーパーカミオカンデが1996年に完成し、観測データが飛躍的に増大したことにある。
小柴博士 1996年よりスーパーカミオカンデで大気ニュートリノを観測、ニュートリノが質量を持つことを確認し、1998年ニュートリノ物理学・宇宙物理学国際会議で発表。1999年に第45回仁科記念賞を受賞した。これらの成果はすべてグループによる研究の賜物であった。2015年、アーサー・B・マクドナルドと共にノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」である。同年、ノーベル生理学医学賞を受賞した大村智らと共に文化勲章を受章した。

戸塚洋二博士 2015年の梶田博士のノーベル物理学賞の受賞理由となった「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」は、梶田博士の先輩であり師でもあった戸塚洋二博士を中心として行われた研究の賜物であり、梶田氏は戸塚氏の後継者としてノーベル物理学賞を受賞する形となる。戸塚本人は2008年に癌で亡くなっており、もしも戸塚が生きていれば梶田との共同受賞は確実だったと惜しまれた。梶田自身もノーベル物理学賞受賞発表時の記者会見の場において、「戸塚氏が生きていたら共同受賞していたと思いますか」との質問に「はい、そう思います」と即答している。指導教官の小柴昌俊によると、謙虚かつ控えめで、学生時代は議論ではあまり活発に発言しなかったが、実験には熱心だったという。中学時代の担任によると、先生の言うことをよく聞く素直な子供だったが、温和で控えめな性格で、授業中に積極的に発言するようなことはなかったという。趣味はなく、飲酒や喫煙もせず、休日は富山市の自宅で寝ていることが多いという。また、テレビではニュース番組を見るという。子供の頃は親から注意されるほど読書が好きで、隠れて本を読んでいた。 後進の育成のため東京大学や東京理科大学で教鞭を執る他、母校の埼玉県立川越高校でも授業や物理部の指導を行っている。

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ニュートリノの質量証明 素粒子物理学の定説覆す
 ニュートリノは物質を構成する基本単位である素粒子の中で、最も謎の多い存在だ。1970年代に確立された「標準理論」と呼ばれる素粒子物理学の基本法則では、その質量はゼロとされてきたが、この定説を覆したのが梶田氏だった。
 ニュートリノは電子型、ミュー型、タウ型の3種類があり、飛行中に別のタイプに変身する不思議な性質がある。「振動」と呼ばれる現象で、これを確認すればニュートリノに質量があることの証拠になると考えられていた。
 梶田氏は、超新星爆発に伴うニュートリノの観測で2002年にノーベル賞を受けた小柴昌俊氏(89)に師事。岐阜県飛騨市神岡町の地下にある観測施設「カミオカンデ」の観測データを解析し、宇宙線が大気中の原子核と衝突して生まれる「大気ニュートリノ」でミュー型が理論予想より少ない異変を1986年に見つけた。
 後継施設「スーパーカミオカンデ」の観測で、この異変が振動現象であることを証明。98年に岐阜県高山市で開かれた国際学会で発表して脚光を浴び、素粒子物理学に革命をもたらす。  この大発見は標準理論を超える新たな理論の構築を迫るものとなる。ニュートリノの質量は17種類ある素粒子の中で極端に軽く、同じ素粒子でもなぜ質量が大きく違うのかを説明する新たな法則が必要になるからだそうだ。
 ニュートリノは宇宙の謎を解く上でも鍵を握る。宇宙は138億年前に誕生し、物質もこのときに生まれた。物質の根源である素粒子の性質が詳しく分かれば、宇宙の誕生や進化の謎を解明する手掛かりが得られる。
 宇宙誕生時には物質を作る粒子と、電気的な性質が反対の「反粒子」が同じ数だけ存在していた。何故か、粒子だけが生き残って現在の宇宙が出来上がる。粒子の方が反粒子よりもほんの少し多かったからという説明もあるがホントのことはまだ分かっていないようだ。  この理由は2008年にノーベル賞を受けた小林誠、益川敏英両氏の理論によって、素粒子の一種であるクォークについては説明されたが、宇宙を今も満たすニュートリノについては未だ分かっていない。この謎を解明すれば、宇宙の理解が飛躍的に進みそうだ。

--発見のきっかけは:「小柴先生の助手だった1986年、改良したソフトを使ってカミオカンデのデータを解析したところ、大気ニュートリノのうちミュー型が予想より少ないことを見つけた。十中八九、ソフトの間違いだと思ったが、1年以上かけてチェックして88年に論文を書いた」
--ニュートリノが別のタイプに変化する振動現象の可能性は当時、指摘されていたのか:  「70年代に大気ニュートリノでミュー型が少ないとの論文があったが、明確ではなかった。正面からおかしいと言った論文は世界初だった」
--なぜ発見できたのか: 「予想しないことがあると思うかどうかだ。解析プログラムの結果を信じられるかということもある。何年にもわたり観測データを見てきた経験があり、自分の目にも自信があった」
--当時の思いは: 「ニュートリノは飛行中に振動しても変化はわずかと思われていたが、大きく変化していた。標準理論が予想していない振動が起きていると、非常に興奮した。あまりにも重要な問題に出くわしたので、このサイエンスをきちっとやらなければと思った」--小柴氏はどんな人か: 「サイエンスでは妥協しない。その意味では厳しい。私が学生だったときから偉い先生で、雲の上のような存在。サイエンスに対して厳しい目を持たないとちゃんとした研究ができないことを、後進にも伝えていきたい」
--ニュートリノの研究はなぜ重要なのか: 「ニュートリノの小さな質量は、標準理論よりも根本的で深いレベルの理論を作る上で非常に重要なことを教えてくれる。今の宇宙がなぜ物質だけでできているのかは大きな謎だが、ニュートリノには物質と反物質の数の違いの元を作るメカニズムがあるのではと考えられている。宇宙をより理解することは、生活には直接影響しないが、人類として重要なことではないか」
--素粒子研究には多額の費用が必要になる: 「その通りで、国にサポートしてもらわない限りできない。国民にきちんと重要性を分かっていただかないといけない。われわれがやることは、科学の重要性や面白さを地道に伝えていくことだ」
■「次の受賞」へ宇宙の謎に迫る 日米で競争激化  梶田隆章氏が成果を挙げたスーパーカミオカンデでは、ニュートリノの性質をさらに詳しく解明し、宇宙の謎に迫る新たな実験「T2K」が行われている。次のノーベル賞が狙える重要な研究だ。  T2Kチームは昨年5月、茨城県東海村の大強度陽子加速器施設「J-PARC(パーク)」から、西に295km離れたスーパーカミオカンデに向けて「反ミュー型」のニュートリノを発射する実験を開始した。チームは一昨年、ミュー型を発射し、電子型に変身する現象を世界で初めて発見。今度はこれと反対の性質を持つ反粒子に着目し、反ミュー型が反電子型に変わる様子をとらえる。
 新旧の実験データを比較して、変身する確率に違いが見つかれば、小林誠、益川敏英両氏が素粒子クォークで確立した理論がニュートリノでも成立することを示す大発見になる。  宇宙ではクォークよりもニュートリノの方が圧倒的に多い。宇宙誕生時にあった反粒子が消滅し、物質を作る粒子だけが生き残った仕組みが、現在の宇宙形成により大きな意味を持っていたことが裏付けられる。
 チームを率いる京都大の中家剛教授は「世界に先駆けて5~10年後に発見し、宇宙を理解する新しい扉を開きたい」と話す。
 スーパーカミオカンデの体積を20倍に大型化した「ハイパーカミオカンデ」の建設構想もある。100年分の観測データがわずか5年で得られる3代目の施設で、小林・益川理論の精密観測を目指す。2025年ごろの観測開始が目標だが、800億円に及ぶ建設費が課題だ。
 国際競争も過熱している。米国などのチームはT2Kを追って同様の実験を始めており、小林・益川理論の検証で巻き返しを狙っている。米国はハイパーカミオカンデに似た実験も日本と同時期の開始を目指しており、新発見の競争は激化しそうだ。
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小林・益川 小林・益川理論
小林誠(京都大学、当時)と益川敏英(京都大学、当時)によって1973年に発表された理論。 両者は1973年に発表した論文の中で、もしクォークが3世代(6種類)以上存在し、クォークの質量項として世代間の混合を許すもっとも一般的なものを考えるならば、既にK中間子の崩壊の観測で確認されていたCP対称性の破れを理論的に説明できることを示した。 クォークの質量項に表れる世代間の混合を表す行列はカビボ・小林・益川行列(CKM行列)と呼ばれる。2世代の行列理論をN.カビボが1963年に提唱し、3世代混合の理論を1973年に小林・益川の両者が提唱した。

カビボ・小林・益川行列(Cabibbo-Kobayashi-Maskawa matrix)は、素粒子物理学の標準理論において、フレーバーが変化する場合における弱崩壊の結合定数を表すユニタリー行列。 頭文字をとってCKM行列と呼ばれる。クォーク混合行列とも言われる。 CKM行列はクォークが自由に伝播する場合と弱い相互作用を起こす場合の量子状態の不整合を示しており、CP対称性の破れを説明するために必要不可欠である。この行列は元々ニコラ・カビボが2世代の行列理論として公表していたものを、小林誠と益川敏英が3世代の行列にして完成したものである。発表当時クォークはアップ、ダウン、ストレンジの3種類しか見つかっていなかったが、その後、1995年までに残りの3種類(チャーム、ボトム、トップ)の存在が実験で確認された。
KEKのBelle実験およびSLACのBaBar実験で、この理論の精密な検証が行われた。これらの実験により小林・益川理論の正しさが確かめられ、2008年、小林、益川両名にノーベル物理学賞が贈られた。

技術開発のお話

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仁科 芳雄(日本の素粒子論の草分け)

仁科・湯川・朝永 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年(明治23年)~1951年(昭和26年))は、日本の現代物理学の父と言われる人だ。日本に量子力学の拠点を作り、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげる。なんせ彼の弟子の当たる人たちの活躍素晴らしい。日本のノーベル物理学賞を受賞した方々は、皆彼の薫陶を受けた弟子が孫弟子。なぜ日本にこんなに物理学賞が多いのか。

ニールス・ボーアのもとで身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理を世界水準に引き上げた。仁科の主催する研究室からは、多くの学者が巣立っていく。ニールス・ボーアはデンマークの人。戦争の時代に各国の逸材を自国に招き分け隔てなく育てた学者で、量子力学のリーダー格。アインシュタインとも交流があったとか。

Bohr 彼の弟子たちの一部は後、アメリカに渡り原子爆弾の製造に取り組む。仁科も日本に帰り、原子爆弾の製造に関係していたことは間違いない。ドイツやソ連の学者達も同様だ。残念ながら、或いは幸いと言うべきが、日本はトップの判断や資金不足の影響で敗戦までに間に合わなかった。仁科等が研究用に造っていた科学装置はGHQの手によって密かに破壊されつくされたらしい。だから、日本の物理学は専ら理論科学の方面だけで活躍することに。

1949年(昭和24年)、湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞。π中間子の発見を理論的に予測した。

1965年、朝永振一郎博士が相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。 湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一等が仁科の弟子で、多くの孫弟子がいる。仁科の影響の及ばない素粒子論の研究者は少ないとされている。

2002年、小柴昌俊博士がカミオカンデを使って太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した功績でノーベル物理学賞。日本もかなり豊かになったのか、実験科学の面でも功績があげられるようになった。ただ実験装置がだんだん巨大になるので国際協力が不可欠に。

2008年、南部陽一郎博士、自発的対称性の破れの発見により、ノーベル物理学賞を受賞。この時は、益川・小林博士も同時受賞。同時に3人も受賞、日本物理学大国なのでしょうか。

2015年、梶田隆章博士がスーパーカミオカンデを使ってニュートリノ振動を発見したことでノーベル賞を受賞。先輩の戸塚洋二氏も功績があったのだが惜しくも亡くなっていた。

以上、7人が日本の量子力学、素粒子の世界の物理学の伝統を繋いで来た方々らしい。梶田隆章先生今後の日本の展望はいかが。どうも梶田さんの後を継ぐ世代、やや心もとない気がするらしい。今後を繋ぐ若手が育って来ているかどうかだ。今の教育制度の元では、根気のいる地道な研究を継続してい行く力が育つがどうかとても心配だ。

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