技術開発のお話

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技術開発のお話

【-こんなもんは要らない????????】

井戸と肥溜め 鉄道の復権 飛行船の復活
ローカル線廃止について ヒマラヤの水資源開発 ダム開発の功罪 令和元年台風第19号
ダムの歴史 停電被害 河川改修・老化対策 建設残土処理
霞堤 ポルダー ヨハニス・デ・レーケ アスワンダム
三峡ダム
水力発電 北陸新幹線浸水 プラスチック廃棄物 農薬
電気自動車たま トリカヘチャタテ
ダスト・シュート フラッキング技術
自動車の無い世界 馬型ロボットの開発 日本は世界5位の農業大国光力の時代 発動機
温暖化対策の国際的枠組み 温暖化問題の虚構 温暖化問題の虚構-その2 陶芸と窯 アンモニア発電? 医療用マリファナ
温室効果ガス オゾンホール
波力発電
人物列伝
人物列伝

井戸と肥溜め

手押しポンプ 私の子供の頃は、手押しポンプの付いた井戸はどこの家にもありました。また、畑には、あちこちに肥溜めがあって、うっかり落ちたら大変だと思ったものです。農家は.各家庭を回って、トイレから糞尿を回収していました。私の住んでいる東武東上線柳瀬川駅の隣の「みずほ台駅」も、もともとは都心からの糞尿を積んだ列車が止まるために開設されたのが起こりと言われています。江戸時代、化学肥料の無い時代、江戸の町人達の家のトイレから排出される糞尿を金肥と称して、糞尿はとても貴重品だったのです。地球環境が重視される今の時代、江戸~明治に利用されていたこのシステムは、世界に誇るべき素晴らしいものですね。今、採用されれば下水道の負荷も大いに軽減されるでしょう。
     一方、夏の暑いとき冷たい井戸水は美味しいですね。また、消毒のカルキの臭いも無い安全で美味しいと水と考えますが、如何でしょう。しかも開発のコストがかからず、経済的です。地下水は地層という自然のろ過システムを通過してくるで、基本的には品質の良い生活水です。ただ、地下水は地下で広範囲に繋がっていますから、誰かが汚染すれば皆が迷惑を被ります。従って、政府が地下水は危険だということは、当時、産業の発展のためには多少の汚染には目をつむろうという姿勢の現れだったのでしょう。
     いずれにしろ、戦後の日本は、欧米に追付くという数値目標を上げて、下水道、上水道の普及率向上を進めてきました。下水道、上水道の発達のお陰で潤った業界もあります。しかしながら、官指導による画一的な開発は、結局は最適な結果を生まないようです。

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鉄道の復権

1964年(昭和39年)に東海道新幹線が東京駅~新大阪駅間に開業したに始まり、山陽、東北、上越、山形と秋田(ともにミニ)、九州、北陸と続いて、やっと北海道新幹線が新函館駅まで2016年(平成28年)に開通した。国家プロジェクトとしては異常に遅いテンポで52年もの歳月がかかっている。リニア新幹線に至っては未だ開業に目途がついていないようだ。
     このような大規模な交通インフラの進展は技術よりも政治の力学で大きく変化する一例である。当時は、鉄道の管轄は運輸省でも、鉄道の敷設から車両の開発まで旧国鉄が自前でやらねばならない。しかも、膨大な数の赤字のローカル線の運営も国からおしつけられてきた。一方の道路は、建設省の管轄で国費または補助金で建設でき、鉄道と比べお金がかかるので地方の土建会社や、雇用の促進の効果もあり地元出身の議員さん達から政治的な圧力をかけることもできた。また、道路を造ることはマイカー販売促進にもなるので政府も積極的に旗振りをしてきたのだろう。新幹線を造ると車の販売にはむしろマイナスとなりますよね。
     一方、世界に目をやれば今高速鉄道は、世界中で引張りダコだ。中国を筆頭に、アメリカ、フランス、韓国、台湾等で高速鉄道が熱く見直されている。開発途上国の大都市はどこも車の渋滞、排気ガスや騒音による公害に悩まされており、また、グローバル競争が進む中、よりコストの安い鉄道に熱い目が向けられるようになって来ている。
リニアモーターカー(和製英語で英語ではMaglev(magnetic levitation)と称されるらしい)は、国鉄の京谷 好泰等が開発した世界に誇れる技術である。日本のMagrevは、超低温超伝導を用いるもので、真空にしたトンネル内を走らせれば、想像を絶する超高速も可能かもしれません。

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飛行船の復活

飛行船ツェッペリン

飛行船は、20世紀前半には大西洋横断航路などで旅客運行に従事していましたが、1937年に発生したドイツの「ヒンデンブルク号」の爆発事故を契機に水素利用の飛行船の信頼性が失墜し、航空輸送には用いられなくなっている。しかし、その後も小規模なものではあるが広告宣伝用や大気圏の観測用等として、不燃性のヘリウムガスを利用した飛行船が小規模に使われている。しかしながら、爆発したのが水素ガスだとするなら、ヘリウムガスを充填した飛行船は、問題が無いのではないかとの疑問が生じる。
     ドイツのツェッペリンによって開発されたヒンデンブルク号は、硬式飛行船というもので、従来からよく用いられてきた軟式飛行船(船体そのものが空気を入れる柔軟な袋で出来ている)とは異なり、アルミニウム合金を用い、しっかりした骨格をもった流線形の船体の中にガス袋を収めたもので、高速長時間の飛行を可能にしている。硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。飛行機と違って、ツェッペリン飛行船の浮力は寸法の3乗である体積に比例し、また、構造重量は寸法の3乗以下にとどめることができるため、大型であるほど搭載貨物を増大できるとされている。
     このようにしてみると、硬式の飛行船、結構飛行機に代わるものとして使えそうだ。特徴をまとめてみる。

  1. 空中の一点にとどまることができる。飛行機は飛んでないと落ちてしまう。

  2. ヘリコプターは、空中で停止できるがプロペラの揚力を用いているので操縦は難しい。

  3. 飛行船は浮力で浮いているので、スラスターを組合せて、正確な位置保持が出来る。

  4. ヘリウムガスは高価だろうが、圧縮して体積を減らせば良いので、再利用ができる。

  5. 揚力が不要なので目的に応じて機体の形状を自由に設計できる。

  6. 機体を大型化できるので大量の物資を運ぶことが可能。

  7. 滑走路が不要なので大規模な飛行場が不要である。

  8. 低空でアンカーを地上に設置して、係留状態で置いておける。

  9. 揚力が不要で推進力のみ必要なので多分燃料費が安いと思われる。

このような利点を鑑みれば、飛行船利用価値ありそうだ。大規模な建設現場、災害救助等。ただし、今さら航空機会社が新たに開発をする気になるだろうか。さもなければ、開発のプレーヤーになりうるのは誰か。

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ヒマラヤの水資源開発

ヒマラヤ山脈  ヒマラヤ山脈は、インド亜大陸のプレートがユーラシアプレートに衝突してできた世界最大の山脈。このインド亜大陸の東側を流れる大河ガンジス川とブラマプトラ(ツァンポー)川は、夏季のモンスーン時に大量の雨を降らせ、毎年流域に洪水を引き起し、大量の難民を作り出している暴れ川である。特に最下流の国バングラデシュの洪水は、世界的にも有名で国際的な支援活動が必要ですが、上流域のネパールやインドも河川の氾濫で田畑が一面の砂礫に埋もれる等の災害をもたらしています。従って、治水洪水対策が必要ですが、この両大河、治水と言ってもスケールが我が国の河川とは桁違いにスケールが大きく、しかも複数の国にまたがる国際河川でもあるため、河川の管理にあたっても各国の利害の調整も難しく、またインド亜大陸各国の経済レベルから資金的にも難しい状況にあります。
 洪水の対策としては、上流に巨大なダムをつくる以外には無いでしょう。堤防なんか造っても無駄。なんせ雨季と乾季の流量の差が半端でない。堤防ごと流されてしまうのが落ち。巨大なダムを造るには、国際的な支援が必要ですが、ここにも障害が。近年、欧米の環境保護団体がダム建設は環境破壊だとして大騒ぎになります。
 一方、ダム建設は経済的には多大な利益をもたらします。農業では旱魃時に水が利用できます。また、ヒマラヤ地帯は降水量が多いので水力発電にも有利です。ダム1基造るだけで、1,000万kw(我が国に普通の原子力発電10基分)なんていうダムの候補地もいくつかあります。もちろん洪水制御も可能です。国際河川ですから利益の配分をどうするかという問題は残りますが。既に成功している例としては、ブータン国があります。インド資金協力のもと水力発電を開発し、インドに電力を輸出。唯一の外貨獲得手段になっています(農業は自給自足で輸出力無し)。慢性的に電力不足に悩むインドにとっても美味しい話です。因みにインドでは盗電(東電ではない)が有名。勝手に電線から自分の所に電力を引き込む犯罪。
 さて、環境保護団体の言い分。ダムの適地は山の中。文明の主流から外れた少数民族が細々と暮らす地域となっている。また、希少な動植物も残っているだろう。これらの広大な地域がダムにより水没することは避けられない。ダム建設の話でも持ちあがろうものなら環境保護団体が早速現地に赴き少数民族とともに反対運動を盛り上げるというパターンである。場合によっては、札束でこれらの少数民族を反対運動に味方させることも辞さない。この反対運動を盛り上げマスコミを使って世界中にアピールする。本来はダム建設は補償のやり方次第では少数民族にとっても利益はあるはず。少数民族だっていつまでも伝統にしがみついていたい訳でもないはず。ダム建設を中止させたことが環境保護団体の勲章なのでしょうが。
 これって、先進国のエゴでしょう。自分たちはダムを造りたいだけ造ってきた。その幾つかは環境破壊と言える問題を引き起こしたかも知れない。しかし、一方では電力や用水、洪水対策として多大な恩恵を被ってきたはずです。

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ダム開発の功罪

ダムは巨大な土木構造物だ。建設には長い時間と労力及び資金を必要とする。そして最大の問題は、そこで暮らしている人々や豊かな自然環境が一瞬のうちに水没してしまうことだ。つまりダムによる環境破壊。従って、ダムの建設は、必ず利益を被る賛成派と水没の対象になってしまう住民、および水没する生態系を守りたい環境保護団体反対派の対立の構図になってしまう。従って、ダムの建設の可否を判断し、利害調整して妥当な結論を出すことは政治や行政の極めて重要な役割の一つであろう。
八ッ場ダム 令和元年台風第19号は、2019年10月6日3時にマリアナ諸島の東海上で発生し、12日~13日にかけて関東地方や東北地方を中心に、東日本各地に記録的甚大な被害をもたらす。多摩川や阿武隈川など主要な大河川の堤防が決壊した中で、東京の下町の洪水危険区域が無傷で守られたのは、①首都圏外郭放水路と②八ッ場ダム③彩湖(荒川第一調節池)のお陰であったとする専門家のコメントもテレビであり、建設に係わった方々にはうれしいニュースだったかも。
八ッ場ダム(やんばダム)は利根川の主要な支流である吾妻川中流部、群馬県吾妻郡長野原町川原湯地先に建設された重力式コンクリート多目的ダム。高さ116m。建設計画は、1949年(昭和24年)に「利根川改訂改修計画」において、利根川に10箇所のダムを建設する利根川上流ダム群(後の「利根川水系8ダム」)計画に準拠。カスリーン台風級の水害から首都・東京及び利根川流域を守るために1952年(昭和27年)に計画発表。その後計画は紆余曲折、当初の治水一点張りから「流水の正常な機能維持(環境への配慮)」や「発電」まで加わる多目的化。総事業費も2,110億円から4,600億円に増額修正。当然当初から反発はある。何故、首都・東京を守るため地元が犠牲にならないといけないのか。
昭和40年代からの実施計画調査や地元住民の生活再建案調整を経て、1986年(昭和61年)、「八ッ場ダムの建設に関する基本計画」が2000年(平成12年)の事業工期として策定された。その後、2001年(平成13年)の第1回変更で工期が2010年(平成22年)に延長され、2004年(平成16年)の第2回変更で建設目的に「流水の正常な機能維持」が新たに追加されると同時に、総事業費が2,110億円から4,600億円に増額修正された。2008年(平成20年)の第3回変更では建設目的に「発電」が追加されると同時に、工期が2015年(平成27年)に再延長された。国土交通省という役所は一度先輩たちが決めたことは 絶対に変えないという強い意志を持っているようだ。
しかし、民主党が衆議院第一党 となった際に、鳩山内閣が正式に発足し、国土交通大臣に就任した前原誠司は、認証式後の就任会見において八ッ場ダムの事業中止を明言し、鳩山由紀夫首相もこれを支持したし凍結となる。しかし、ここまで既成事実化したものを撤回すれば地元も寧ろ怒り出す。結局工事は再開され、2019年10月1日から、試験湛水開始となった。台風第19号はこれが幸いし、貯水池はほとんど空の状態で、これが大雨の一時貯留に寄与したと言われる。本当にそうなのかチョット検証してみましょう。
テレビでは約1億トンと言っていた。総貯水量は107,500,000 m3とされているからその通りだ。堤高116mだから、100mとして、108÷102=1062=100ha、実際の湛水面積は304ha、流域面積は711.4 km2とされているのでこの流域に降った雨がほぼ全部この貯水池に入り込むのでしょう。推定される降水量を仮にx mmとして、これが約1億トンになるまでどのくらいかかるのが推定してみましょう。
       x×10-3m×711.4×1062=1083、(雨量×流域面積=貯水量)
ここから雨量を求めると、x=140mm。つまり、時間雨量140mmの雨(結構な豪雨です)が1時間降り続けば貯水池は満杯だ。どう見ても八ッ場ダムが、今回荒川等東京の河川が氾濫しなかった主要因とは言えないようだ。単純なそろばん計算でもそのことは自明だ。若干の寄与はしたかも知れないが。あまりたいそうなこと言うとかえって逆効果だね。この数値を見れば民主党の方々が、何もそこまでしなくてもと思う発想も分かる。洪水制御だけが目的では余りに効果が小さすぎる。
  地下ダム 首都圏外郭放水路は、埼玉県春日部市の上金崎地から小渕にかけての延長約6.3km、国道16号直下約50m地点に設けられた世界最大級の地下放水路。洪水防止のみを目的とすることから、通常時は水を取り込まず空堀状態で、人も立ち入れる巨大な地下空間となっている。地下に作られた巨大なパルテノン神殿という感じで多くの観光客を集めているようだ。しかし、ダムと言っても地下構造物。泥水式シールド工法で建設されたシールドトンネルで、延長約6.3km、内径約10m。
すると、総貯水量は(π/4)×102m2×6.3×103m=5×105m3
  つまり、50万立法メートル程度。八ッ場ダムと比べると2桁以上少ない。短期決戦で長期戦には対応できそうもない。海への排水はポンプを使う他ないね。電源の確保が生命線だ。
  彩湖のような洪水対策に遊水地を活用するのは、昔からある正統派の考え。武田信玄の信玄堤等が有名。河川敷にある運動場やゴルフ場等も洪水時には遊水地として有効に機能している。河川敷のゴルフ場は今回の台風で軒並み水浸し。1か月ぐらいは再開できない。それと今建設中のスーパー堤防。洪水対策として今回の台風19号に対してどの程度効果があったのか。都市化が進むと遊水地を確保することが難しくなる。どうしても堤防の嵩上げで対応することになる。しかし堤防の嵩上げは、決壊した場合の被害が更に大きくなる欠点もある。
彩湖 関東平野の江戸川、荒川の治水対策は江戸時代からの先人たちの知恵が積み重ねられている。先人たちの知恵を受け継ぎ、総合的な治水対策を地道に積み重ねていくことが重要なのでしょう。つまり、一つ一つの対策はさほど抜本的な対策にならないわけだ。
ところでダム開発は世界的にも逆風だ。欧米先進国は自国では既にダム開発は終わったと考えている。開発途上国にはダムの適地はいくらでもある。例えばヒマラヤ山脈を擁するインド圏では総貯水量1億m3なんてチンキなダムではなく、桁が3つ以上も大きい巨大なダムの適地がいくらでもある。ガンジス河、ブラマプトラ川、インダス川どれも河のスケールが日本とはけた違いに大きい。当然経済効果も大きい代わりに環境への影響も大だ。しかも、これらのダムの適地は、大抵は少数民族の住む特別な地域。欧米の環境保護団体も反対運動には熱が入る。民主主義の発想からは地元最優先だから、なかなかプロジェクトは進まない。しかし、ダムと言う構造物は、発電、利水、治水、洪水制御と人類に幸福に多大な寄与をする可能性が大きい。賛成反対を問わず大きな視点から国民の生活向上第一の視点を失わないで議論して欲しいと思う。

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令和元年台風第19号

令和元年台風第19号は、2019年10月6日3時にマリアナ諸島の東海上で発生した台風である。関東地方や東北地方を中心に、東日本各地に甚大な被害をもたらす。
10月12日より関東甲信地方を中心に記録的な大雨ととなる。15時30分に大雨特別警報が静岡県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、山梨県、長野県の7都県に発表され、19時50分に茨城県、栃木県、新潟県、福島県、宮城県に、13日0時40分に岩手県にも発表された。半日で13都県での発表とは、3日で11府県に発表された平成30年7月豪雨を超え、特別警報の運用を開始して以来最多の発表数となった。
大雨特別警報が出た12都県では、台風19号本体が上陸する前から活発な雨雲が断続的に生じ、広範囲で強い雨が降り続ける。その結果、各地で観測記録を塗り替えるような大雨になる。また12日は大潮にあたっていた。

以下は国土交通省が発表した資料。
1時間降水量
1. 95.0 mm: 普代(岩手県、13日1時54分まで)
2. 93.5 mm: 小本(岩手県、13日1時55分まで)
3. 85.0 mm: 箱根(神奈川県、12日19時21分まで)
4. 84.5 mm: 宮古(岩手県、13日1時21分まで)
5. 81.5 mm: 丹沢湖(神奈川県、12日19時52分まで)
6. 80.5 mm: 筆甫(宮城県、12日20時30分まで)
7. 77.5 mm: 山田(岩手県、13日0時59分まで)
8. 75.0 mm: 梅ケ島(静岡県、12日17時55分まで)
9. 71.0 mm: 久慈(岩手県、13日1時43分まで)
10. 70.5 mm: 今市(栃木県、12日18時39分まで)
(70mm以上)


24時間降水量
1. 942.5 mm: 箱根(神奈川県、12日21時00分まで)
2. 717.5 mm: 湯ケ島(静岡県、12日18時50分まで)
3. 647.5 mm: 浦山(埼玉県、12日22時00分まで)
4. 627.0 mm: 小沢(東京都、12日21時20分まで)
5. 613.5 mm: 梅ケ島(静岡県、12日20時00分まで)
6. 604.5 mm: 相模湖(神奈川県、12日21時20分まで)
7. 588.0 mm: 筆甫(宮城県、13日3時50分まで)
8. 587.0 mm: ときがわ(埼玉県、12日22時10分まで)
9. 580.0 mm: 小河内(東京都、12日21時20分まで)
10. 561.5 mm: 三峰(埼玉県、12日21時40分まで)
(550mm以上)


最大瞬間風速
1. 44.8 m/s: 神津島(東京都、12日15時15分)
2. 43.8 m/s: 江戸川臨海(東京都、12日21時17分)
3. 43.8 m/s: 横浜(神奈川県、12日20時32分)
4. 42.7 m/s: 羽田(東京都、12日21時04分)
5. 42.2 m/s: 三宅坪田(東京都、12日17時16分)
6. 41.5 m/s: 東京(東京都、12日21時14分)
7. 40.3 m/s: 千葉(千葉県、12日21時20分)
(40m/s以上)


風速も40 m/sを越える超大型。とりあえず、洪水被害に焦点を当てるため、降水量を考えて見よう。降水量の測り方の基本は、バケツのような容器に決められた時間にどれだけ雨水が貯まるかその深さを測るもの。
国土交通省発表のデータでは、時間雨量では最大100mm程度だ。つまり、10cm程度。とりあえず我慢していればいずれ水は引く。ところが、降水の継続時間が長くなると問題は大きくなる。24時間降水量のデータでは、1,000mmに迫る数値だ。1m水位が上がれば宅地では1階は全滅だろう。降った雨は、地面に浸み込まない限り、近くの川へ流れ込む。地下にしみ込んでもいずれ湧水となって下流へと運ばれる。
しかし、実際に浸水の被害にあった地域では、水位上昇が6~7m程度もあったという。つまり、この地域の水害は地域の降った雨ではなく上流で降った雨が原因だ。例えば阿武隈川流域では洪水があった時間は日中で雨は降っていなかったという。つまり、水は上流からやって来たので、本来は事前に予測可能なはずである。洪水対策の難しさは、洪水の被害地と大雨に見舞われた地域が異なっていることがある。
こんなことは海外では当たり前のこと。東南アジアや南アジアの大河川では、上流に降った雨が下流に届くには数週間から数か月かかるのは普通のことだ。流量が大きいため、洪水が来ることは分かっていても対策は避難する以外にはないという。人口の密集する関東地方では人が避難することは難しいので降った雨を効率良く海まで流さないといけない。それと日本の河川は海外の大河と比べると勾配も強く、瞬時(数日)で海まで到達してしまう。
利根川や荒川などの大河川は、多くの支流から水を集め、最終的には海に流れ込む。河川に集まる水は、流域の面積×降水量。しかし、河川網の支流からの洪水流が、一度に本流の河口目指して流れ込んで来たら、本流が持つわけがない。
今回の台風では、降雨は同時多発的に生じているが、流域から河川へ、支流から本川へ流れ込むには実際は時間差がある。各河川での流速と流量が大事な訳だ。関東の山間部から東京湾まで流れるには半日程度の時間差があるようだ。それと水位も大事だ。水位が上がると堤防を乗り越えてしまう。下流の水位が上昇すると、それにつれて上流の水位も上昇する。いわゆるバックウォーターと言われる現象。
どうも、洪水対策と言うものは、堤防を嵩上げしたり、河川を浚渫したり、ダムを造ったりと色々な対策はあるが、決定打はなく流域全体を一つのシステムととらえた総合的な対策が必要なようだ。治水には水文学、水理学、河川工学やその他色々な分野の専門家が互いに知恵を出し合って進めて行くことが必要なのだろう。

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ダムの歴史

ダムの歴史なんて本気で書きだせば、何十作冊の本が出来るほどの内容があるでしょう。今の河川法では、高さ15メートル以上のものを「ダム」と表記し、それ未満の河川構造物については基本的に「堰堤(えんてい)」・「堰」と表記するとなっているようだ。
狭山池 満濃池
日本でダムを造り始めるのは、水田耕作が開始されてからだが、人口が増えて渡来人が新しい土木技術を持ち込んで来た以降だろう。記紀の記録からは7世紀初めの「狭山池」と言うのが最初らしい。これはその後何度も改修されているとの記録もある。
香川県には日本最大級のため池「満濃池」(金倉川)がある。これも8世紀の初め頃。狭山池も満濃池もどちらも現役として現在も使われているらしい。その後も多くのダムが建設されて来たようだが調べ始めるとキリがない。しかし、規模の大きなダムが本格的に建設されるのは明治以降でしょう。
ダム建設は、土木技術の花だろう。大量の土砂が運搬され、大量のコンクリートが使われる。使われる重機も超特大級。トンネルや道路はいくら規模が大きくても延長が長いだけで同じことの繰返し。ダム現場では、これが一箇所で見られる。土木技術者なら一度は経験して見たいと思うのが自然だろう。 黒部ダムは、電源開発目的とした本格的な大ダムだろう。鬼怒川上流に水力発電所を建設し、発生した電力を東京へ供給するという目的。年間を通じて一定でない鬼怒川の流量を調整するためのダム貯水池を計画。1912年(大正元年)12月に竣工(しゅんこう)する。318メートルという高落差を利用して、最大3万1,200キロワットの電力を発生する下滝発電所は、当時日本最大級の規模を誇るものであったといわれる。
日本のダム建設、初めの頃はほとんど電力が目的だった。当時の日本は、電力が著しく不足しており、石炭や石油のような資源も輸入する資金もないため、電源開発目的としたダムの建設は国家の優先的事業でもあったわけだ。 水力発電では、ダム放流の落差が重要だ。318mの落差は大変有利だ。しかし、鬼怒川の流量には季節変動が大きく、その変動を小さくするため貯水池(ダム)を設けることに。しかし、想定を上回る大量の土砂が黒部ダムに堆積し、貯水容量を圧迫。このため、水不足に備えて黒部ダムに貯水しておくという、当初の運用計画は破綻。東京の電力を賄うため、隅田火力発電所(1919年,大正8年)が建設されたとか。
黒部ダムに関連しては、吉村昭氏の長編ノンフィクション小説『高熱隧道』(こうねつずいどう)が有名かも。日本電力黒部川第三発電所(現関西電力に移管)水路トンネルの工事が舞台。同発電所は1936年着工、1940年工事完了。厳密にはトンネル(隧道)工事であるが、大きな目で見てこれもダム工事の一環と見ることもできよう。ダム年間では黒部ダムの竣工年は1963年となっているので、1912年竣工のものとは大部形状も変わっているのでしょう。
(財)日本ダム協会発行の「ダム年鑑」に日本のダム・有効貯水量ベスト30が出ている。どれも、有効貯水量は1億m3を越えている。日本は世界でもダムが多い国なのでしょうか。山の多い地形の影響か。
大きなダム
慣行水利権者との争い
大正時代のダム事業は主に電気事業者が中心となって日本各地にダムを建設する。しかし、水力発電のために河川から取水することで下流の水量が減少し農業用水、あるいは当時盛んに実施されていた流木(山で切った木を流す)に対する影響が表面化する。1896年(明治29年)に日本初の河川関連法規である旧河川法、1911年には電気事業法が成立したがこれらの法律では対応し得ない状況であり、江戸時代以前より農業用水を取水している農民や林業を営む流木業者が持つ慣行水利権と電気事業者が獲得した新規発電用水利権が衝突する例が発生する。 それは今まで使っていた水がいきなり使えなくなれば、それらの水で生活していた人々が怒り出すのは当然だ。ダムの建設は、水没させられる住民や自然環境に加えて、川を生活の基盤としていて人々の既存の権利も侵害することもある。また河を遡上する魚類への影響も馬鹿には出来ない。
昭和初期(1926年-1944年)
大正時代のダム建設ブームにより日本のダム技術は明治以前に比べて飛躍的に向上し、高さ50メートルを超えるダム建設も盛んに行われる。一方で慣行水利権者との摩擦は、日本における河川行政・法整備が実情に追い付いていないという現実を露呈させる。さらに治水事業との整合性や利水事業者同士による開発事業の衝突など、旧河川法や電気事業法では解決できず政治家による調停に委ねる例も出て、河川行政の抜本的な改革が問われつつあった。また、満州事変以降次第に日本は軍国主義の風潮が高まり、河川事業にもその暗い影が差して行ったのが昭和初期のダム事業を取り巻く環境である。
1896年(明治29年)に制定された旧河川法では治水事業は堤防整備を主体とした河川改修が主眼であり、ダムを活用するという流れはなかった。またダム事業自体も単一事業者が単一の目的で建設しており、複数の事業者が関与することもなかった。こうした状況下で同一河川における水力発電事業で複数の事業者が水利権の所在を巡り対立するなどの事案が多発する。従来の法整備では太刀打ちできない現実を目の当たりにした行政は、大正時代より逓信省、農林省がそれぞれ水力発電・灌漑目的の立場から法改正を画策したが河川行政を管轄する内務省の猛反対によって陽の目を見なかった。ようやく法整備に関する事態が動き出したのは1926年(大正15年)8月26日に勅令第270号として公布された河川行政監督令である。即ち当時盛んだった水力発電に係る河川占用の許可を内務大臣の許認可事項とする内容のもので、内務省(今なら国土交通省)の河川行政への専管業務を強化する意図があった。またダムの基準についても従来曖昧だったものを統一するため、1935年(昭和10年)5月27日内務省は省令第36号として河川堰堤規則を、6月15日には逓信省が省令第18号として発電用高堰堤規則をそれぞれ制定。二つの政令によって「基礎岩盤からの高さが15メートル以上(河川堰堤規則ではアースダムは高さ10メートル以上)」というダムの基準が日本で初めて確立する。

物部長穂 こうした流れの中、一人の学者がその後の日本における河川行政の流れを大きく変える論文を発表する。東京帝国大学教授・東京帝国大学地震研究所研究員・内務省土木試験所長の職に在った当時38歳の物部長穂。物部は1920年(大正9年)に耐震構造に関する論文で第一回土木学会賞を受賞、その後耐震構造学の権威として重力式コンクリートダムの耐震理論を確立し今日まで地震による重力ダムの致命的な損壊を防ぐ重要な基礎を築く。河川工学にも精通する物部は1926年に『わが国に於ける河川水量の調節並びに貯水事業について』という論文を発表し、河川総合開発・多目的ダム建設の必要性を主張した。論文の要旨は以下の通りである。

1.河道が全能力を発揮する期間は極めて短いので、貯水による河川水量の調節は洪水防御上有利。
2.発電が渇水に苦しむのは冬季であり、冬季には大洪水の心配はないから治水容量は発電に利用可能。夏季の渇水には多目的として貯水池を少し大きくする。
3.貯水池地点は日本では一般に有利な地点が少ないので、多目的に利用する。治水・灌漑用はなるべく平地に近く、発電用は上流部が有利なので水系一貫的に効率・有機的な運用を行う。
4.大規模貯水池の下流には逆調整池を設け、貯水池埋没対策として、将来は大規模な砂防事業を進める。
5.民間企業の貯水池も治水・利水の総合計画にするため補助金など助成策を講じる。
6.計画は、公平な立場にある河川管理者が統制する。

物部長穂博士というのは、日本の水理学の泰斗であり、今でも「物部水理学」は大学での立派な教科書だ。おっしゃること一々正論である。この当時は、米国でもテネシー川総合開発が始まり、1913年(大正2年)からはマイアミ川総合開発に基づく5か所のダム建設も実施されている。世界的にも河川事業が見直されている時期だったのか。我が国も物部論文を最優先とする河川事業を国策で推進することを決定する。
日本発送電とダム
電力会社による発電用ダムの建設は大井ダム以降、より大規模なダムの建設を手掛ける。水力発電は渇水時に発電能力が減少する欠点がある。これを火力発電所で補うことが当時の電力政策(水主火従)。電力会社はより大容量の貯水池を有する水力発電所建設を計画し、ダム建設もそれに比例して大規模なものに。1929年(昭和4年)に完成した高さ79.0メートルの小牧ダム(庄川)は、物部長穂の耐震理論を最初に導入した重力式コンクリートダム。またこの頃よりコンクリートに関する技術も進歩し、従来のコンクリートダムではコンクリートに玉石を混合した玉石コンクリートが主力だったが、玉石を使わない硬練りコンクリートの研究が進められる。塚原ダムは1938年(昭和13年)完成するが、高さ87.0メートルは戦前のダムとしては日本で最も高く、歴史的な土木遺産として小牧ダムと共に国の登録有形文化財に登録されている。また1917年(大正6年)日本有数の急流河川である黒部川では、高峰譲吉がアルミニウム精錬の電源として黒部川の開発に着手。その後日本電力が事業を承継。1936年に小屋平ダム(黒部川)と黒部川第二発電所、1940年に仙人谷ダム(黒部川)と黒部川第三発電所を完成させた。このダム・発電所工事は難工事であり、雪崩や吉村昭の『高熱隧道』で知られる灼熱のトンネル工事などで多くの殉職者を出しながら完成した。こうした河川一貫の水力発電事業は戦後さらに活発化する。
しかし、電力会社を巡る環境は戦時体制に突き進む日本の国情の中次第に厳しい情勢に追い込まれる。当時日本には東京電燈、東邦電力、日本電力、大同電力、宇治川電気のいわゆる「五大電力会社」が電気事業の中心であった。日本各地の河川で開発を進めていたが配電シェアの獲得競争は極めて激しく互いに紛争も絶えなかった。こうした激烈で無秩序なシェア競争に対して電気事業を民間に任せることは不適当とする意見が逓信省内部から出始める。満州事変勃発後は国家が積極的に電力統制を行うべきという急進的な意見が軍部や逓信省、企画院などで主流となる。「半官半民」の国策電力会社である日本発送電が1939年(昭和14年)4月に発足。実質は発送電事業の国有化であった。

軍部の介入
電力国家統制を成し遂げ、国家総力戦に突き進む軍部が次に狙ったのが河川行政、特に河水統制事業。航空機の生産や軍艦建造など軍備増強を図る上で水力発電事業や水道整備は欠かせなかったが、電力事業を掌握したことから今度は河川行政に直接介入し、軍部に都合が良い河川開発を企てる。 軍部は日本各地の河水統制事業に強引な圧力を掛けて自らの目的を押し通す。その極めつけが相模ダム(相模川)。建設反対住民に対し圧力をかけ無視。なりふり構わず突き進んだ太平洋戦争も次第に日本不利の戦況となる。資材や人員の欠乏は日を追う毎に深刻。ダム事業もこうした事情から進捗が滞る。1944年東條内閣は国家総動員法を補強するため決戦非常措置要綱を発令。物資の全てを戦争に投入することになり、これが遠因となってダム事業のほとんどが事業遂行不可能となり、中断に追い込まれる。各地の山林は乱伐によって極端に保水力が低下。河川改修も完全に停滞し、修繕がままならぬ状態で日本は終戦。後に残されたのは荒廃した国土であり、それは戦後直ちに大きな災害をもたらす。

終戦直後(1945年-1954年)
太平洋戦争で敗戦した日本は、国力も国土も極めて疲弊した状態。決戦非常措置発令で物資の全てを戦争に費やし、河川事業はダムを含め完全に停滞。電力に関しては物資不足による事業中断に加え、民間の電力需要が爆発的に増大、電力の需給バランスは一挙に崩壊し深刻な停電が頻発。さらにコメを始めとする農業生産力も低下して食糧不足が深刻化、1946年(昭和21年)には皇居前広場に25万人が集まる食糧メーデーが開かれるなど日本の社会は大きな混乱を来たす。戦災からの復興を果たさねばならない中で、混乱に拍車を掛けたのは連年襲い来る水害であった。
襲い来る災害
1945年-1954年に発生した主な水害
1945年 昭和20年 枕崎台風 (死者2,473、行方不明 1,283)
1947年 昭和22年 カスリーン台風 (死者1,077、行方不明 853)
1948年 昭和23年 アイオン台風 (死者512、行方不明 326)
1950年 昭和25年 ジェーン台風 (死者398、行方不明 141)
1951年 昭和26年 ルース台風 (死者572、行方不明 371)
1953年 昭和28年 昭和28年西日本水害 (死者759、行方不明 242)
治水事業の停滞、加えて戦時中に行われた日本各地の森林乱伐は治水安全度を極度に低下。そうした状況下、毎年のように台風や水害が来襲。日本各地に甚大な被害をもたらす。連年日本全土を襲った水害は、敗戦からの復興を目指す日本経済に大きな打撃を与え、復興の大きな阻害要因となる。 因みに、2019年台風19号の被害は、死者79名、行方不明 8名とされているが、人口密集地を襲ったこともあり、経済的な損失から見ると被害は決して小さいとは言えないだろう。

ダムの歴史について簡単に整理してみようと思ったが、とりあえずここまで書いてチョット疲れてしまった。続きはまた。(2019.10.21)

技術開発のお話
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停電被害

今年の台風は、19号の被害も甚大だったけど、15号の際も結構大きな被害を被った。東京都で死者1名、埼玉県と千葉県、神奈川県、茨城県での重傷者11人を含む、1都6県で150人が重軽傷を負ったといわれる。特に被害が甚大だった千葉県に到達したのは、10月9日頃か。
この台風で特徴的な点は、台風による停電のための2次被害が非常に目立つことがあげられる。千葉県内では高齢者を中心に、台風被災による停電のため熱中症とみられる症状で死亡した者が相次いでいる。
また19号では雨による被害が大きかったのに比べ、15号は風の被害が大きかったように見える。屋根が飛ばされビニールシートで覆われた家屋がテレビの画面で何度も映し出されたが、これらの家屋が19号の大雨に際にどうなったかは大変心配である。
この台風により、千葉県内で送電塔2本と電柱84本が倒壊。推計約2000本の電柱が損傷。神奈川県と千葉県を中心に9日時点で93万戸が停電。関東の広域で停電が発生。復旧に時間を要し、停電は異例の長期。17日午後7時半時点でも、6万戸あまりで停電が続く。通信網が途絶した地域からは被害の報告が出来ず、状況が正確に把握できていない状態。
電柱倒壊 電柱倒壊 電柱倒壊
11日時点で東京電力パワーグリッドは、停電の全面復旧は、千葉市周辺で12日中、それ以外のエリアでは13日以降とする。設備・施設に想定を超える被害が確認され、山間部での作業が難航しているためだと。全面復旧は1週間、10日かかることはないとしていたが、実際には2週間以上かかってしまった。
洪水や家屋損傷と異なり、停電被害は復旧作業にも影響し問題がより深刻。しかも今回の停電は被害地域が非常に広範囲であるため、復旧作業の大きな妨げの原因ともなっている。停電の被害は波及効果が大きく、浄水場などから家庭に送るポンプが停電で広域な断水被害や通信障害も併発。 復旧作業は、電気を扱うため、電力会社(東京電力)一社の善意に頼らざるを得ないことも、責任の所在を見えにくくする一因となっていそうだ。
日本の電力供給システムという重要なインフラが、かように脆弱な物であったとは、では今後どのような対策を取っていくのだろうか。どうも先が見えない話だ。
風による電柱の倒壊が多数(84本)見られたとある。電柱は大抵コンクリートなどできている丈夫な柱だ。しかも、地中深く埋められている。風でボキット折れたのか、根元から折れずに倒れたのか。多少とも構造力学を齧った人なら知りたいところだ。少々の風では倒壊など絶対にあり得ないはずだ。木の枝などが当たって電線が切れることは考えられるが。この点ははっきりさせて欲しい。
都市部では電線の地下化なども進められているが、これは住民の安全と美観を優先しているためで、強風対策のためではない。それにコストもかかる。当然これからも電柱は残されていくのであろうから、何らかの抜本的な対策が必要であろう。
一方、台風19号の際の、川崎市武蔵小杉では、停電の影響で、駅や超高層のマンションへの電力供給がストップ。近代都市と言うものは電気が無ければ本当に無力だ。エレベータもエスカレータもストップ。夜は明かりもない。ポンプが動かないと水も運べず断水だ。生活そのものが不可能だろう。
原因は配電設備が水没したためとか。電気設備は水に弱い。水没しないための対策は。似たような例では、北陸新幹線の車両が水没してして、新幹線がしばらく普通になったこともある。新幹線の基地は広大な面積が必要だ。しかし、北陸新幹線は後発組であったため、適切な敷地の確保が難しかったらしい。従って基地自体が初めから水没する可能性のある低湿地に建設されていた可能性も指摘されている。しかし、新幹線は自走可能な構造物だ。水没する前に安全な場所に避難する余裕はあったはずだ。 配電設備が水没も同じ理由で、都市化の速い地域では、重要なインフラを設置するための、敷地は水に弱い限られた土地しか残っていなかった可能性もある。建設することが最優先で、災害対策は後回し。その結果、被災するまで忘れられた存在に。水に強い設備に改善しない限り災害は繰り返される。
昨年(2018年)9月6日午前3時8分頃に発生した北海道胆振東部地震では、強い揺れによって、震源近くにあった苫東厚真火力発電所の2号機と4号機が、タービンの振動を検知して停止しました。その後、連鎖的にすべての発電所が停止して、ブラックアウトし、全道が停電するという事態となる。これも北海道の人達にとっては大変事態。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害でも、停電の被害は大問題であることは証明済み。それなのに、北海道、関西、千葉、神奈川と同じような停電被害が繰り返し頻発するようになっている。ここまでくると、日本の電力行政そのものが可笑しいのではないかと思えて来る。
一方、水道水が供給できなくなる断水の問題もクローズアップされた。
11日午後1時現在で、千葉・東京・静岡の3都県で約2万4000戸の断水が発生し、最大断水戸数は約12万戸もあったという。給水のポンプが停電での影響で使えなくなったという理由もある。実は多くの浄水施設は河川の近くに設置されており、河川が氾濫した際には同時に被災してしまうものらしい。つまり、洪水の災害と断水はセットで起こるケースが多いというのが現実らしい。 浄水施設が川の近くに設置されているのはある意味仕方がない。水は川から取水するのだから。河川が氾濫しないように祈るだけか。
電気も水道も現代生活には欠くことの出来ない重要なインフラだ。国土交通省の洪水対策は主に河川の治水だろう。しかし、今後は都市化の進展や気候の変化を見越し、電気、水道、通信などのインフラ整備も並行して進めなければいけないでしょう。バブルが崩壊して日本がますます貧しくなっていく中、過去に整備したインフラがドンドン老朽化して、災害に対し脆弱になっていく。政府の対策は避難対策ばかりで、今後日本の国土をどのように守っていくのがビジョンに乏しいように感じるのだか、皆さんはどう思われますか。
【追記】
電力設備の安全対策は、国土交通省ではなく経済産業省の管轄のようだ。インフラ設備の老朽化対策は電気設備に対してもしっかりとやってもらわないといけないようだ。
台風上陸から10日後、送電復旧作業の応援に駆けつけていた九州電力の作業員は、週プレ記者にこうつぶやいたとのこと。「これまで全国各地の災害現場で復旧作業に当たってきましたが、千葉の電柱や電線は総じてもろいです」どういうことか?
電力各社は、経済産業省が定める「電気設備技術基準」に沿って送配電設備の設計や設置を行なうことになっている。鉄塔や電柱は省令で毎秒40メートルの強風にも耐えられる設計を求めており、東京電力管内でも「風速40メートル基準で設計」していた(東京電力パワーグリッド・広報)という。今回の台風では瞬間風速50メートル以上を記録し、多くの電柱が倒壊してしまったとのこと。
しかし、台風被害の多い他地域の電力会社は独自に手を打っている。沖縄電力の鉄塔は「風速60メートルの風圧荷重に耐えられる設計」(同社広報)とし、九州電力も「過去に台風で大きな被害が出た地域は『強風地区』に指定し、電柱や鉄塔を風速50メートルに耐えうる設計にしている」(同社広報)という。
東電管内でも、過去に同様の台風被害は起きている。例えば2002年10月、関東地方を通過した台風21号による強風を受け、茨城県鹿嶋市などで送電鉄塔9基が折損・倒壊、約60万軒が停電した。
東電から送配電設備の設置や改修を請け負う電気工事会社の社長がこう話す。
「当時(02年)、倒壊した鉄塔は風速40メートル基準でした。国や東電は事故原因の検証を行ないましたが、強度基準が見直されることはなかった。千葉県の被災状況を見ると、もっと過去の教訓が生かされていれば......との思いはぬぐい切れません」
では、今回の台風被害は今後にどう生かされるのか?
「鉄塔や電柱の強度を上げるには当然、コストがかかる。例えば風速40メートル基準の鉄塔と60メートル基準の鉄塔を比べると、設置費用は2倍ほどになります」
しかし、東電の台所事情は厳しいのが現状だという。福島原発の補償も終わってないしね。
「3.11以降、耐震補強など原発の安全対策費が膨張し、送配電設備への投資は絞られています。建設から50年以上が経過した鉄塔や電柱が多いのに、建て替えや改修などの老朽化対策は後回しにされがち。現場担当者も上からのプレッシャーがきついのか、コストカットにがんじがらめになっています。電気の安定供給は電気事業者の最大の使命ですが、その意識が薄れてきているように思えてなりません」(電気工事会社社長)
何か災害が生じるたびに「想定外」を繰返す体質はもうたくさんだ。設備更新のコストは電気料金の値上げという形で消費者に跳ね返ってくる可能性も高いが、今回の被害を見れば、背に腹は代えられない?(2019.11.19)

技術開発のお話
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河川改修・老化対策

巴波川 巴波川
栃木県に巴波川(うずまがわ)と言う河がある。今年2019年の台風19号の際にも氾濫し、被害を出した。「ウズを巻き、波を立てて流れる」という意味に由来すると言われるので結構暴れ川なのか。
中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、栃木市内には蔵造りの建造物が多く残り「蔵の街」として親しまれている。舟運の始まりは、江戸時代に徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際に、日光御用の荷物を栃木河岸に陸揚げしたことが端緒である。その後、物資の集散地として江戸との交易で隆盛を極めた。現在は、錦鯉が放流されており、船頭による舟歌が楽しめる観光用の舟が行き来する。 現代は氾濫することは極めて少ない。明治時代に堤防が築かれる以前はたびたび氾濫し、橋をかけても2年ともたないと言われたほどであった。氾濫を鎮めるために人柱を立てたという伝説も残っており、「巴波川悲話」として栃木市の塚田歴史伝説館などで紹介されているそうだ。
近代以降においては、1947年(昭和22年)のカスリーン台風襲来の際に大洪水となり、多くの被災者を出した。また、2015年(平成27年)9月の関東・東北豪雨、2019年の台風19号の際にも氾濫し、被害を出したという。
テレビで観光用の船着き場付近の被災状況の映像があった。現在は、船は航行できない。本当に、気の毒な状態だ。河川には大量の礫が運び込まれて、川のあちこちに洲が出来ている。
はっと気がついた。洪水は大量の水だけを運んでくるわけではないのだ。山地では山崩れが起きて大量の礫が運び込まれる。おまけに風でなぎ倒された流木も来る。これらは流されて海まで運ばれれば問題は無いが、河川のあちこちに置き去りにされることが多い。一度流木などで川の流れがせきとめられると、流速が落ちて更に土砂を置き去りに。その結果、更に流れがせきとめられる。川の上流側では著しく水位が上昇し堤防が決壊し氾濫する。つまり、氾濫の主役は大量の水よりも、一緒に流れ込む土砂などの流下物かも知れないのだ。
河川網と言うのは、人間の血管系と似ている。人の動脈は、心臓を出発して枝分かれしながら体の隅々まで行き渡る。一方、河川は山地から雨水を集めて、次々と合流を重ねながら、最後には海に出る。心臓→太い血管→毛細血管、山地の渓流→中小河川→大河川→河口。流れる方向は逆だが、良く似ている。血圧が上がってしまうと、血管は耐えきれず破裂する。水位が上がってしまうと、堤防は耐えきれず破堤する。水位が上がるのは支流からの流入する水の他に、土砂や流木やゴミなどがある。
今回の被災地域を見ると、どれも河の河口ではなくて、中流部、特に合流点。ということは合流部での通水能力が劣化している。これ河川の老化なのでは。心臓ではなく、枝の部分だ。河川の水を流す力、これを通水能とでもいうでしょうが、通水能を向上させることが洪水対策の最も根幹でしょう。つまり、血液サラサラの状態だ。そのためには川幅は広く、深く、適切な勾配が必要だ。適切な場所に遊水池を造るのの有効だ。場合によっては、放水路(バイパス)のような外科的方法も必要かも。河は生きている。適切なメンテナンスをしないと老化してしまう。川は上流から土砂やゴミ等も沢山流れ込んできます。河川が動脈硬化にならないためには、川底の浚渫、川幅の拡大等日頃からの地味なメンテナンスの積み重ねが必要なのです。

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建設残土処理

自然の河川は、生き物のようだ。ある時は大きく蛇行し、流路をしばしば大きく変化させる。特に洪水時には、水の力と運ばれて来た大量の土砂のお陰で、川の姿は激変するものだ。 しかし、都市化が進み人が川の周辺に住み着くようになれば、堤防を嵩上げして、川を封じ込めようとする。
蛇行 蛇行
堤防内に運ばれた砂は行き所が無いのでどんどん川底に貯まり、川は年々浅くなっていくのが自然の成り行きだ。川の水面より周辺の地盤の方が低い場合は、これを天井川と称している。洪水時に土地が水面よりも低い場合は、堤防が決壊したら大災害になる。

天井川 天井川
堤防の嵩上げは、このように長期的見れば決して洪水の抜本対策になっていない。また、気候の長期変動を考えると、今後ますます洪水の規模が大きくなることも考えられるので、どこまで堤防を嵩上げすれば安全かという見通しも立たないはずだ。
今回の台風災害の結果、今後多くの自治体で堤防の嵩上げの計画が増えてくる見通しだ。一方、河川を浚渫したり河道を改修しようとする計画は出て来ないと想定される。
天井川 その理由は、浚渫(しゅんせつ)した土砂の捨て場がないためである。浚渫した土砂は考えようによっては、資源にもなるが、基本的には廃棄物。河川を浚渫すれば、その中にはヘドロやゴミが混入することは避けられない。環境省の安全基準も厳しくなっており、捨て場を確保することは極めて困難であるし、残土の処理も高額になる。各自治体だって、こんなコストのかかる工事は議会の承認が得られるはずがないだろうし、地元の建設業の方々も大変だろう。

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霞堤

千曲川 霞堤(かすみてい)は、河川堤の一つ。戦国時代に武田信玄によって考案されたという。もしそうなら、信玄公は河川工学の天才だ。現代の理論によってもその優秀性は立証されているから。
連続する堤ではなく、あらかじめ間に切れ目をいれた不連続の堤防。不連続点においては、上流側の堤防が下流側堤防の堤外(河川側)に入れ込んでいる。不連続部周辺の堤内(生活・営農区域)側は、予め浸水を予想されている遊水地で、それにより洪水時の増水による堤への一方的負荷を軽減し、決壊の危険性を少なくさせた。
この霞提の優れた点として、洪水で運ばれる土砂は、もともと上流の山林で形成された肥沃な土壌であり、それをそのまま下流に流すことなく、営農区域に蓄積する機能を有したことがあげられる。近代化された視点からは、治水を単なる土木工事の対象としか見ないことが多いが、農業さらに広くはエコロジーの視点を持った治水法として再評価されている。
元々、遊水地に浸水させる目的があるので、堤は高くない。先に記述した通り、堤に切れ目を入れ、増水した川の水をそこから堤後背の遊水地へ逃がす。しかし、水位が下がり始めれば、逆にその切れ目から速やかに排水が行われる。
もともと河川の堤防は、ババ抜きみたいな面がある。ある部分に堤防を造れば、その上下流では洪水の危険が増す。霞堤なら、上流の氾濫を下流の霞堤で吸収することが出来、被害軽減に有用で、平時において周辺田畑や排水路の排水が容易に行える利点がある。
千曲川で今回被災した地区は、以前は畑地(ある意味で遊水池)であったそうだか、現在では民家が密集している。だから、この部分は本堤よりも天端を高くした堤防で守らないといけない所だった。水は高い所から低い所に流れる。本堤が決壊しなかったことは、霞堤の優秀さを立証している。霞堤は今でも採用すべき技術だと思う。しかし、都市化が進んで河の傍まで民家が密集するようになって来ているため、採用が難しくなっているようだ。

技術開発のお話
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ポルダー

ポルダー ポルダー(polder)とは、低湿地の干拓によってつくられた土地のこと。ふつうはオランダやベルギーの干拓地を指す。干拓とは、河川や海などに堤防を築き、堤防内の水を無くして陸地をつくることです。つまり、もともとは水面よりも土地だった訳です。オランダのポルダーでは、水はけのよいところで園芸栽培が行われています。水はけが良いということは相当一生懸命排水をしているということになります。
オランダ 干拓(かんたく)とは遠浅の海や干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を仕切り、その場の水を抜き取り干上がらせるなどして陸地にすることです。主に農地として開拓する時に用いられるようだ。干拓された土地を干拓地(polder)と呼ぶ。 ポルダーはオランダ語だったんでしょう。水域に土砂や廃棄物等を投入して土地を造成する埋立とは発想が異なっているんですね。
方法として、まず、干拓堤防(潮受け堤防、潮受堤防)で水域を仕切り、堤防の随所に水門を設ける。その上で動力によって強制的に仕切内の水を排水し干上がらせる。または海の場合、潮の干満を利用する方法も取られる。干潮時に水門を開き海水を排し、満潮時には水門を閉じて干上がらせる。 オランダの独特の風景を造る風車もこのための物です。
だから土地は海面よりも低くなることが多く、塩分を含んだ土地であるため、農地化する際には、塩分とともに水を排水する設備を作る必要がある。また地盤も軟弱であるため、宅地としては余り好ましくないため何らかの工夫が必要でしょう。

オランダ 干拓による環境破壊
干拓される対象となる水域の大抵は既に海の豊かな生態系が形成されている個所でもあります。そこを陸地化させてしまうことは、元々あった生態系を破壊してしまうことであり、しばしば自然破壊の1つとして問題視されるようになって来ました。
日本でも、諫早湾干拓事業のような大規模事業では、その影響が干拓地だけでなく、周辺の水域にも及ぶことになります(1997年4月に湾の西半分を潮受け堤防で閉め切ったことが、有明海全体に甚大な漁業被害をもたらす原因となった)。
風車 オランダの干拓
オランダの歴史は、俗に「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った。」と言われるように干拓地(ポルダー)と切り離せない。
オランダでは海岸沿いに広がる湿地や泥炭地や干潟を埋め立てて土地を広げてきた歴史がある。オランダ最古の堤防はローマ帝国時代に遡り、初期の干拓は11世紀から13世紀の間に始まったらしい。海や湖を干上げる近代的な干拓の始まりは、1612年のベームスター干拓地。それ以来オランダでは堤防に囲まれ風車・排水路・水門で雨水や地下水を排水する干拓地が広がる。
また水管理委員会の長として、干拓地の周りの堤防を維持管理する「dijkgraaf(英語:dike-warden)」の役職が置かれる。この職は土地の存続や住民の生死に関わるものだったため、堤防維持のために人々を徴発する強力な権限がある。もっとも堤防の保全という作業はあらゆる階層の干拓地住民の協力が不可欠なため、オランダには階層を超えた協力や話し合いを重視する気風が生まれた。労使協調やワークシェアリングなどを特徴とするオランダ独特の政治・経済システムも「ポルダーモデル」の名で呼ばれているそうだ。
オランダの干拓手法はヨーロッパ、さらに世界各地にも影響を与えた。日本の干拓も、明治以降はオランダの強い影響を受けている。
日本の干拓
有明海沿岸での干拓は室町時代頃に始まったと考えられている。泥質干潟である有明海湾奥部では泥の堆積により年間平均10m程度(標高にして2mm程度)の自然陸化が継続するが、ひとたび陸化して干上がった地域には泥が堆積しないため低地が広がり洪水や高潮に弱く、泥質土に顕著な圧密沈下により逆に沈下してゆくこと、また干潟の方も台風の波浪や高潮などによって堆積した泥が簡単に流されていってしまうという特徴があった。そのため、陸化を促進する目的とともに陸化した地域を水害から守る目的などで干拓が行われるようになる。
明治に入ると資金力のある有力者が出資する組合方式の干拓が始まり、再び活発となった。しかし、拡大が進むにつれて水深の深い干潟を干拓せざるを得なくなり、資金のある村営、県営、そして国営と規模を拡大して行く。このころには、岩を基礎とした堤防を作り広範囲の干潟を干上がらせ自然陸化を待たない、オランダ方式が主流となった。そして、堤防も堅牢化・コンクリート化が進み大規模化する。しかし、1968年(昭和43年)に有明海の干拓がほぼすべて完工し、その後行われたのは笠岡湾干拓と諫早湾干拓のみである。
戦後の日本は米の増産が課題であったため、政府も農地を積極的に進めようとし、干拓事業も積極的に推進された。
しかし、何故オランダはそんなに努力してまで、陸地を増やそうとしたのだろう。オランダの歴史を学んでみる必要がありそうだ。戦後の日本は米の増産が課題であったため。土地バブルの頃は、山を削って内湾を埋め立てたりしたが、それは土地がいくらでも値上がりすると期待したため。今では干潟の環境的価値が見直され、埋め立てや干拓には逆風だろう。

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ヨハニス・デ・レーケ

砂防の父」と称される。日本の土木事業、特に河川改修や砂防における功績から、に土木史の偉人の一人として取り上げられている(農林水産省ウェブサイト)。
内務省の土木技術の助言者や技術指導者として現場を指揮する。氾濫を繰り返す河川を治めるため、放水路や分流の工事を行い、根本的な予防策として水源山地における砂防や治山の工事を体系づける。また全国の港湾の建築計画を立てた。特に木曽川の下流三川分流計画には10年にわたり心血を注ぎ成功させた。木曽三川分流計画にも参画。当初の二川分流案に対し、片野萬右衛門(かたのばんえもん)という老人の三川分流案の進言に感動し、三川分流に踏み切ったという。柔軟な思考ができたのでしょう。 日本中の現場にも広く足を伸ばし技術指導や助言も行う。これらの業績は高く評価され、1891年、現代の内務省事務次官に近い内務省勅任官技術顧問の扱いになる。これは「天皇から任命を受けた内務大臣の技術顧問・相談役」という立場である。
デ・レーケが指導や建設した砂防ダムや防波堤は、100年以上経過した現在でも日本各所に現存している。粗朶沈床の手法を日本に伝えた。雇い外国人としては、評価の高い人のようだ。

【三川分流(さんせんぶんりゅう)】
三川分流 以下は子供のための説明があったので載せておきます。
三川分流 明治政府(めいじせいふ)が招いたオランダ人技術者(ぎじゅつしゃ)ヨハネス・デレーケの指導(しどう)のもと、明治20年から44年にかけて木曽三川下流部の改修(かいしゅう)が行われ、三川分流がなされました。
木曽三川は複雑にからみあっていたから洪水の時はお互い悪い影響(えいきょう)を与えていました。だからこの3つの川を分流(別々に)する事が必要だったのだけど、ヨハネス・デレーケのおかげで成しとげられたのです。ヨハネス・デレーケは、木曽三川だけでなく、日本各地の河川の改修を行いました。

一本の川となっていた長良川と木曽川の間に背割堤を築いて川を分けたのです 。この工事でみんなが願っていた三川分流が実現しました。

砂防 ヨハネス・デレーケは、山林の保護(ほご)や砂防工事も大切だと考えていました。各地でオランダ式の砂防施設が造られたのが、今もその原型をとどめている所があります。
日本の川を見てその流れの激しさに驚き 「これは川ではない。滝だ」と述べたという逸話が知られています。これに関しては低地国であるオランダ出身のデ・レーケは、ゆったりした川しか見たことが無く、日本の川を見て「これは滝だ」と驚いたという説。「(日本の川が)急流なのは、大きな滝がないからだ」と言ったのを通訳が誤訳したものであるとする説の二つがあるようです。前者は、確かに日本の河川はヨーロッパと比べて短くて急です。ヨーロッパとはまた違った配慮が必要でしょう。後者は、河川に沢山ダムを造れば解決するでしょう。どうも前者ととらえた方が自然に思えるのですが。

技術開発のお話
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アスワンダム

アスワンダム アスワンダムは2つある。現在では単に「アスワンダム」と言うとアスワン・ハイ・ダムを指す。1902年に完成した古いアスワンダムは、1902年に完成し。数度にわたって拡張された。 アスワン・ハイ・ダムは、アスワン・ロウ・ダム(古いダム)の6.4 km上流に建設され、1970年に完成。エジプトの南端部、アスワン地区のナイル川に作られたダム。
アスワンダムの建設目的は、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保。しかし、1902年に作られたアスワン・ロウ・ダムだけでは力不足で、当時のエジプトのガマール・アブドゥル・ナセル大統領が、ソビエト社会主義共和国連邦の支援を受けてアスワン・ハイ・ダムを国家的事業として計画を立てる。
こうして1970年に新たに建設されたアスワン・ハイ・ダムは、堤の高さが111 m、堤の全長が3600 mの巨大なロックフィルダム。アスワン・ハイ・ダムによって出現した、表面積5250 km2の巨大な人工の湖であるナセル湖の名は、ガマール・アブドゥル・ナセル大統領の功績を讃えて命名されたもの。
アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止すると共に、12基の水力発電装置によって合計2.1 GWの電力が供給可能になる。またダムにより出現したナセル湖から供給される水は、不足がちだった農業用水を安定させ、周辺の砂漠の緑化も行われる。さらに、ナセル湖での漁業は活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されている。なお、今では、周辺の遺跡と共に、ダム付近は観光地ともなっている。
その一方で、ナイル川の生態系のバランスを破壊したなどの批判もある。ナイル川が上流から運搬してくる土砂がダムによって遮られたために、ダムの下流では河岸の侵食、さらに、ナイル川河口部の三角州への土砂の供給も減少し、付近の海岸の侵食も起きている。また、そこに生息する生物にも影響が出ており、一部地域では住民に寄生虫による病気を増加させた。さらに、ナイル川の上流から運搬されてくる土砂がダム内に堆積することによって、いずれダム湖が埋まるなどの問題も存在する。この他、エジプトが観光収入を得る観光資源ともなっている遺跡への悪影響も懸念されている。

【構造】:堤高 - 111 m:堤頂長 - 3600 m:発電能力 - 2.1 GW (175 MWの水力発電機が12基)、210万kwとなる。
*電力の「発電容量」の単位には、kW(キロワット)、MW(メガワット)、GW(ギガワット)という単位があります。
1000W=1kW、 1000kW=1MW、1000MW=1GW です。つまり、100万kW=1GWです。
発電容量とは、発電所がフルに稼動した際に、発電できる値です。日本全体の発電容量は、237GWです。しかし、実際には、発電所は常時フルの発電を行ってはいません。実際に発電した量は、「発電電力量」と言います。日本全体の発電電力量は、95~100GW(1億kW)です。

かつてナイル川の下流のエジプトでは、毎年夏にナイル川の氾濫によって洪水が発生していたが、この洪水がナイル川流域に肥沃な土壌を形成することに役立っていた。つまり、この洪水は古代からのエジプトの文明を支えてきた側面があった。
しかし、19世紀中盤にこれまでの水路を深く掘り下げて、夏運河と呼ばれる通年灌漑用の水路とすることによって農業生産高が激増した。これにより流域の人口が激増すると、ナイル川の洪水は必ずしも農業生産に不可欠なものだとは認識されなくなった。逆に、住居や農地を押し流す洪水をコントロールしたいと考えられるようになった。
ナイル川は、アスワンのすぐ南で急流が続いており、船舶の航行が不可能となっている。そのため、アスワンは古代エジプトにおいては長く南の国境とされ、ここより南はヌビアとして別の文明圏であると考えられていた。一方で、この地形はダム建設には最適であったため、上述の理由によりナイル川へのダム建設が構想されるようになると、エジプトを保護下に置いていたイギリスによって調査が行われる。そして1902年に、アスワンのすぐ南にアスワンダムが建設された。これにより治水能力は大幅に向上。それでもなおナイル川の洪水を完全にコントロールできたわけではなかったため、やがてより大規模なダム建設が構想されるようになった。結局アスワンダムだけでは不充分と結論したエジプト政府は、1952年にアスワン・ハイ・ダムの建設計画を立案。しかしその後、エジプト革命で政権交代が起こり、イギリス主導で行われていた建設計画は中止されるに至る。
ナセル 一旦は中止されたダムの建設計画だったが、ガマール・アブドゥル・ナセル大統領率いる革命政府は、ダム建設によって大きな利益を得られると踏み、さらに革命によって近代化されたエジプトのシンボルとなると計算して、計画を再開。また、建設へ向けて資金調達を始める。アメリカ合衆国が資金援助を申し込んだものの、エジプトとは敵対関係にあるイスラエルを支援するアメリカ合衆国とエジプトとの交渉は難航し、援助計画は破棄される。ナセル大統領は援助に代わる財源確保のため、1956年にスエズ運河の国有化を宣言。これはスエズ運河の権益を所有していたイギリスとフランスを激怒させ、両国はイスラエルを支援してスエズ運河の奪回を画策し、第二次中東戦争の発端となる。この戦争によりエジプトは軍事的には敗北したものの、政治的には勝利し、アラブ世界の広範な支持を得たナセル政権は磐石のものとなった。さらに1958年には、冷戦の影響もあり、ソビエト連邦がエジプトへの建設資金と機材の提供を申し出て、ソビエト連邦の企業であったギドロプロエクトが設計で協力することになる。これにより、政治的にも資金的にも技術的にも巨大プロジェクトを遂行する準備が整う。
1960年1月9日にアスワン・ハイ・ダムの起工式が行われ建設が始まる。しかし、資金面、技術面以外にも、アスワン・ハイ・ダムの建設には2つの大きな問題があった。1つ目は、ダム湖によって水没する地域の約9万人とも言われる住民の移住。結局、水没地域の住民は主にルクソールからコム・オンボの間に開かれた30の新開地へと移住させることで解決が図られる。そして2つ目は、同じく水没地域にあった、古代エジプトの遺跡群の保護の問題。当初は、ヌビア遺跡のアブ・シンベル神殿をはじめとする遺跡群は、そのまま水没させてしまう計画だった。しかし、国際社会からの批判の声が強く、最終的にユネスコから援助を受けて、巨額の費用をかけて湖畔に移築される。移築されたのはアブ・シンベル神殿だけではなく、アスワン・ロウ・ダム建設時から水没していたフィラエ島のイシス神殿や、カラブシャ神殿、アマダ神殿、ワディ・セブアなど10個ほどの遺跡も水面上へと移設する。
こうして、総費用10億米ドルをかけて1970年にアスワン・ハイ・ダムは竣工。その後、第四次中東戦争においてイスラエル軍によりペイント弾を投下された。このこともあり、2018年現在では軍事施設に匹敵する重要な防衛拠点として、軍が駐留して厳しい警備が行われている。
アスワン・ハイ・ダム 産業 アスワン・ハイ・ダムの完成によって出現した人造湖のナセル湖では、次第に富栄養化が起こり漁業が活発化。また、アスワン・ハイ・ダムの完成により、エジプト、スーダンに跨る広大な地域が耕作可能となる。1973年に起きた大旱魃の際も、周辺国で旱魃が起きても、エジプトは全く旱魃の影響を受けなかった。さらに、ナセル湖の水を湖西部北岸のトシュカより北西の低地へと送り込み、2250 km2の耕地を開発するトシュカ・プロジェクトが1998年に着工され、2003年に完成。ただ、耕作可能な場所が広がったとは言え、エジプト全体で見れば2012年現在においても食糧自給が達成されず、穀物を輸入している。
この他、ダムの建設によりナイル川の氾濫が少なくなり、穏やかな水流になった。渇水期であった冬季の水量も安定し、そのため、船に乗りナイル川を途中遺跡に立ち寄りながらクルーズするのが上流下流ともに盛んになる。アスワンからアブ・シンベル遺跡にもクルーズ船が就航し、多くの観光客を集めている。2012年現在も、観光収入はエジプトにおける重要な外貨獲得の手段の1つとなっている。

技術開発のお話
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三峡ダム

三峡ダム 三峡ダム 2020年の6月から続く長い豪雨により、中国・重慶市の水害がいよいよ本格的にヤバいことになっているとの記事があった。中国の洪水災害は常に被害が大きいらしいが、今年は特に被害が大きい模様とか。特に重慶市のある南西部。中国当局は「80年に一度の規模の大洪水」と警告を出しているくらい既に悲惨な状況らしい。
懸念されているのが、重慶市を流れる長江の下流にある三峡ダム。総貯水量は393億トンで世界的に見ればまだ上には上がいるレベルのダムですが水力発電ダムとしては世界最大。

この三峡ダムが決壊すると300億トンの津波が発生し、下流にある都市を飲み込み、被災者の数は4億人とか6億人とか言われている。どんぶり勘定でも、長江に隣接する重慶・武漢・南京・上海にまで被害が拡大するので割と現実的な予測値です。
もし本当なら、重金属に汚染された土砂がそのまま日本海に流れ込む恐れがあるので日本も無関係ではすまない。日本の漁業も泥流による日本海の汚染で大変なことになるらしい。

ということで三峡ダム決壊がどれだけヤバいのか調べた結果が以下の通りだとか。
三峡ダム(さんきょうダム)は、中国・長江中流域の湖北省宜昌市三斗坪にある大型重力式コンクリートダム。1993年に着工、2009年に完成。洪水抑制・電力供給・水運改善を主目的としている。三峡ダム水力発電所は、2,250万kWの発電が可能な世界最大の水力発電ダム。日本の原発なら1基100万kW程度だから、中国にとっても重要な電源だ。
建設前には、住民110万人の強制移住、三峡各地に残る名所旧跡の水没、更には水質汚染や生態系への悪影響等、ダム建設に伴う多くの環境問題も指摘されて来た。特に欧米各国の環境論者たちの大非難の的、現在どうなっているのか。
ダムの詳細:
ダム湖→長さ : 約570km/通常水位 : 標高175m
発電所→年間発電量 : 1,000億kWh/発電機の数 : 32基(1基の発電能力 : 70万kW)


三峡ダム決壊の危機2020:
2020年6月、三峡ダム上流の重慶市で1940年以来最大の洪水が発生し、最高水位が10~20メートルに到達。中国南部の豪雨は毎年のことだが、今年の5月末から続く集中豪雨は80年に1度のレベルらしい。6月13日の時点で多くの河川の氾濫が相次ぎ、道路や家屋、農作物に深刻な被害をもたらいる。
また重慶市の南に隣接する貴州省では洪水により少なくとも6つの県が冠水。三峡ダムでこっそり放水が行われている様子も撮影されているという。しかし、ダムが決壊する事態ならこっそり放水するのも変だ。放水すれば下流に大被害が出るので緊急事態宣言を発してなければならないはずだが。

7月10日の時点で雨量は減らず、三峡ダムでは放水しても貯水量が増える一方だそうだ。放水しても流れ込む水量の方が多い、手も足も出ない状況だとか。三峡ダムの放水が続いているため、下流域は悲惨なことになっていると言われる。中国で起こっていることの情報は外の世界にはそれほど伝わらないということか。

武漢市より下流にある「鄱阳湖(ハ陽湖)」の堤防が崩壊し、4,000平方キロメートルが浸水。今年の冬は食糧不足に陥ると書いてあります。確かに下流一帯は中国第一の米の生産地。中国の食糧不足は日本にも影響が出そう。買い占めや転売が起きたら大変だろう。

重慶市はどの省でもなく中国の直轄市。北京市、上海市、天津市と並ぶ一級行政区画。さらに下流には新型コロナで一役有名になった武漢。そして中国四大古都の一つ南京、長江の河口には中国最大の商工業都市である上海。いずれも人口1000万人を超すメガシティです。また長江沿岸には地図に載らないような小さな村が無数に存在している。重慶市よりもっと上流にあるダムも限界を迎えている模様。上流にはかなりの数のダムがあり既に満杯に近い状態らしい。

以上、恐ろしいシナリオです。最悪の事態はダムの決壊だろうから、とりあえず下流側の洪水は無視して放水を続けざるを得ないと思いますが、もし雨量が多すぎて放水して間に合わない(最大放水量≦流入量)という事態に陥ったら、ダムは決壊するのでしょうか。考えられないシナリオでもなさそう。
しかし、下流の都市は多分、ダムの洪水調節機能を加味して洪水対策を立てているだろうから、下流年の洪水被害は避けられないだろう。
日本でも洪水に被害が多数報告されているので、中国でも大雨があったことは事実だろう。この記事が反中のデマではなさそうなので、注目していく必要がありそうだ。

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水力発電

水力発電の発電量について考察してみよう。高い所(上池)にある水を低い所(下池)へ落下させる。位置エネルギーを運動エネルギーに変換する。
水力発電 適当な基準面を取って、上池水面までの高さをH1、下池水面までの高さをH2としよう。H=H1- H2が落差と言われるものだ。
上池と下池は丈夫な鉄管で連結されており、下部には発電のタービンが設置されている。鉄管の断面積はa(m2)として、流れ込む流量をQ(m3/s)としよう。流れの連続性から、管内の流速は上から下まで一様で、v=Q/a (m3/s)となるはずだ。
発電量は、一般に次のように算定されている。
単位時間(1秒間)に位置エネルギーとして流入する量、質点ならE=mghだったが、水は連続的に来るので単位時間で考える。単位時間に流れ込む質量はρQとなる。ただし、ρは水の密度(1000kg/m3)、単位時間当たりのエネルギーはパワーPになる。
P=(ρQ)gH、発電に際しては若干のロスがあるので、100%は、利用できない。効率としてη(一般にη=0.8~0.9とするらしい)をかけて、発電量は見積もられる。
   P=ηρQ gH …(1)
例として、η=0.8、ρ=1000kg/m3、g=9.8m/s2、H=100m、Q=100 m3/sとしてみると、
P=0.8×1000kg/m3×100 m3/s×9.8m/s2×100m=7.84×107 kgm2/s3 =7.84×107 W
1ワット→1W=1 J/s=1 kg・ms-2・m/s=1 kgm2/s3
であるから、確かに計算結果は電力の単位ワットになっている。
1 kW=1000W、1 MW=106W、だからP=78,400 kW=78.4MW

電気の専門書では、発電量の計算は、P{kW}=Q{m3/s}×g{9.8}×H{m}と表示されています。数字を代入すると直ちに答えが出るのですが、単位が合わないことに気がつきますか。
しかし、本当に水の位置エネルギーを効率η=0.8~0.9とそんなに効率良く電力に変えられるのでしょうか。電力を抽出された川の水の流れはどうどうなるのでしょうか。まだ、鉄管の太さも中の流速も分かっていません。実際には鉄管内にはタービンが設置されており、回ったタービンは更に発電機を回さないといけません。

まず、こんな時に有力なツールとして、ベルヌーイ(Bernoulli)の定理がある。流管内では、下記の値が保存されるというものだ。3つの項は、速度水頭、圧力水頭、位置水頭と呼ばれる。各々の項は長さの単位となっているのが土木的(河川工学)な表現。

    (1/2g)u2+H+z=一定…(2)
これを図のA点とE点に当てはめてみよう。
H1=(1/2g)u2+H2 …(2) →v=√(2gH)、H=H1- H2
v=√(2×9.8×100)=44.3m/s、a=Q/v=100 m3/s÷44.3m/s=2.26m2
(π/4)D2=2.26m2、から D=1.67m、
鉄管の径は1.67mの大口径、流速は44.3 m/sと相当速い。
ただこの計算は鉄管路の中にタービンが設置されていることを全く無視している。この時、下池の出口では、(1/2g)u2=H1-H2となっているので、位置エネルギーはそのまま運動エネルギーとなって全く仕事をしていない。タービン(水車)を回すために仕事を考慮しなければならない。多分タービンを回すために最終的な出口の流速は遅くなっているはず。ということはタービンがない時よりも流量も減っているはずです。この効果が効率ηに含まれているのでしょう。効率ηを考慮した落差を有効落差としています。

上の図でタービンの前後での水圧を考えて見ましょう。pC/w=H、pD=0(大気圧)、圧力も水頭表示です。
ここでまた、ベルヌーイを使うと、 H+(1/2g)u2=He+(1/2g)u2 となってしまします。Heは、タービンで消費されるエネルギーと考えられます。このようにタービンが作動すれば位置エネルギーは100%利用できることになりますが。

技術開発のお話
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北陸新幹線浸水

台風19号では長野市の車両センターにあった北陸新幹線の10編成120両が浸水。うち2編成はJR西、8編成はJR東が保有。ともに「廃車に向けた手続きを進めている」そうだ。 台風19号の影響で車両が浸水被害を受けた北陸新幹線は25日、東京―金沢間で直通運転を再開した。鉄道ジャーナリストの枝久保達也氏は「車両を事前に避難させた例は過去にもある。運転に欠かせない作業車を守るために、基地の浸水対策も必要だ」と指摘している。

分別回収 新幹線車両は走行や車内サービスに必要な機器の多くを床下に搭載している。これらは電子機器の塊であり、泥水につかった機器は全滅で再利用は不可能だ。また水没した自動車はいくら洗っても臭いがとれないと言われるように、浸水した座席をはじめとする車内設備も全て交換が必要になるが、これらの大規模な工事を現地で行うことは困難であるため、10編成は廃車となり、代替の新車を製造することになるとの見方が有力だ。

両社が10月末に発表した中間決算によると、全10編成を廃車にした場合、減価償却費を差し引いた損害額はJR東が約118億円、JR西が約30億円。JR東は8編成とも新造する方針で、通常の製造費とされる1両約3億円で計算すると、JR東だけで288億円がかかる見込みだ。

今回の台風がもたらした被害の1つの象徴として、さまざまなメディアで報じられた長野新幹線車両センターの浸水。多数の新幹線車両が水没している映像は多くの人に衝撃を与えた。浸水したのは北陸新幹線車両全体の3分の1にあたる10編成で、はたして全線再開後もこれまで通り運行できるのかという心配を与えた。

車両だけではなく浸水により確認車車庫・車輪研削庫・臨時修繕庫・仕交検査庫、車両センターの変電所も水に浸かったそうだ。列車が走る本線も浸水したほか、架線に電力を供給するための施設も被害を受けたそうだ。

しかし、JRの虎の子、新幹線車両が、何も抵抗もせずみすみす浸水してしまった事態が全くの驚きだ。新幹線車両はレールの上を自走できる。つまり、事前に避難するチャンスはいくらでもあったはずだ。株主に対してどう説明するのだろう。ニュースで早めに避難が推奨されているとき、JRの人達は一体何を考えていたのか不思議だ。どのように説明するのだろう。

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プラスチック廃棄物

一般の日本の団地の住民は、プラスチック製品はゴミ回収の際に分別回収をしているので自分は環境汚染に関係が無いと信じているかもしれない。でも、ゴミ焼却場の近隣には、プラスチックのリサイクル施設がある訳ではないし、どこか知らない所へ運ばれていることだけは薄々感じていたかもしれない。
年間およそ150万トンのゴミが海外に輸出されていると知っている人はどのくらいいるだろうか。150万トン÷1億人=150×107kg÷108人=15kg/人となり、日本人一人当たり年15kgもの廃棄物を海外に押し付けていることに。ペットボトル1本ならせいぜい1本5g程度。ペットボトルなら一人当たり年3,000本相当だ。1日8本もペットボトルで飲み物を飲んでいるんでしょうか。
分別回収 私たちは日頃から、ペットボトル飲料、コンビニ弁当の容器、レジ袋、洗剤の容器など、多くのプラスチック製品に囲まれた生活をしている。同時に、大量のプラスチック廃棄物を出している。今、そんな生活を見直すべき時がきている。
2019年5月11日、スイス・ジュネーブで開催された国連環境計画(UNEP)の会議で、プラスチック廃棄物の輸出を制限する条約、「有害廃棄物の国境を超える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」(以下、バーゼル条約)の改正案に日本を含む180カ国近くが合意した。
これにより、日本にある大量のプラスチック廃棄物が行き場を失うことになりそうなのだ。 ここ数年、世界中で脱プラスチックの流れが加速。日本も、プラスチック廃棄物の処分方法について見直しが迫られている。
私たちが普段、何気なく捨てているプラスチックごみ。それらは国内で正しくリサイクルされ、再利用されていると思っている人もいるかもしれないがそうではないらしい。 実は日本は、プラスチック廃棄物の多くを、リサイクルとして海外に輸出しているらしい。これはアメリカも同じ。その数は、日本では年間およそ150万トンに及ぶと推定されている。リサイクル処理には手間がかかるため、その人件費を日本では捻出できないことから人件費の安い海外に輸出しているのが現状です。つまり、「日本はプラスチック廃棄物の処理を海外に押し付けている」のが現状らしい。

主な輸出先であった中国は2018年、工業由来の廃プラスチックの輸入を停止しました。中国も最初は儲かったんでしょうか。経済成長と共に中国国内のゴミも増えたので処理が追い付かなくなったこと。もうひとつは、環境汚染に繋がっていたことです。プラスチック廃棄物の多くは、食べ残しが付いていたり、実際には資源としてリサイクルしにくいものばかりなので、業者は不法投棄をしたり、有害物質を焼却したり、海に流出させていました。それによって深刻な環境問題が起きていました。これは中国に限らず、他の国でも起きています。
中国に輸出できなくなった日本は、タイやマレーシア、ベトナムなど、同じく人件費の安いアジアの国を中心に輸出をするようになった。しかし、それらの国でも輸入規制は進みつつありもう受け入れてくれそうもない。
そんな中、今回のバーゼル条約の改正により、「日本が今後、プラスチック廃棄物の輸出をすること自体が事実上難しくなる」ようだ。今回の改正により、汚れたプラスチック廃棄物について、輸入国政府の同意がなければ輸出できなくなる。また、日本と同じレベルの処理体制でないと輸出ができなくなります。だったら日本国内でやれとなる。
現在のプラスチック廃棄物の多くが食べ物の残りカスなど汚れたプラスチックであり、また、現在輸出している国々の中には日本と同じレベルの処理体制である国はほぼないことから、今後の日本では、多くのプラスチック廃棄物が行き場を失うことになるのです。

プラスチック廃棄物 プラスチック廃棄物が正しく処理されないことによる環境問題の中でも、かなり深刻な問題が、海洋汚染です。プラスチックは自然分解されないので、海に流出したプラスチックは、紫外線などにより微細なマイクロプラスチックとなり、海洋全体に漂い続けています。それにより、小魚などに取り込まれ、生態系に悪影響を及ぼしている。実際に太平洋の孤島ガラパゴス諸島の海岸でも日本語や韓国語のラベルがついているプラスチック容器が流れ着いている。だから、ペットボトルの回収では、ラベルを剥がして蓋を外すように言われるのでしょうか。近年、魚介類からマイクロプラスチックが検出されたと話題になったのも、こうしたプラスチック廃棄物の処理方法に問題があるからだという。
プラスチック廃棄物による様々な環境問題に対して、輸入規制と同時に世界中で進んでいるのが、“脱プラスチック”の流れだ。「そもそもプラスチック製品自体を使わないようにしよう」という動きである。
2018年、アメリカの大手コーヒーチェーン・スターバックスが、2020年までに世界中の全店舗で、プラスチック製の使い捨てストローを全廃すると発表したことは記憶に新しい。 世界中で、プラスチックレジ袋の有料化もしくは使用禁止、公共施設におけるペットボトルの販売禁止、プラスチックストローの禁止、もしくは紙や天然素材で代用するなどの動きが加速している。
自治体や町内会ではプラスチックゴミを分別回収するように指導しており、大抵の人達はこれがリサイクルされて新しい製品になると信じている。分別回収で一般ゴミの量が減らせるので、ゴミを焼却する際にでるCO2の排出量を減らせると宣伝されているのでしょう。でも、海洋に投棄されたプラスチック塵を失くすにはどうすれば良いのでしょう。結局多大な労力を投資して掻き集め、最後には焼却する以外には処理の手段がないのが現状です。これが分別回収の実態です。 どうも、ペットボトルは一般ゴミと一緒に燃やしてしまうのが最善の方法みたいだ。ペットボトルで1本の重さはせいぜい5g程度。ペットボトルの中身はほとんどが空気(1/5は酸素)です。湿った生ゴミと一緒に燃焼すれば処理場で必要な燃料用の重油を大幅に節減できます。この方がよっぽど地球温暖化防止に貢献できるでしょう。燃やせば処理できるものを野ざらしで放置しておくことはある意味、犯罪です。

プラスチックは、燃やす以外に処理する方法はまだ見つかっていません。リサイクルできると言ってもせいぜい質の悪い安価な土建材料にしかならないので誰も本気で技術開発などしてないのが現実。しかし、世間ですぐに問題とされるのプラスチックゴミでも、ペットボトル、レジ袋、ストロー等、小さなもので消費者に直結するものばかりだ。燃やしてしまえばほとんど何も残らない。何故焼却処理しないのでしょうか。分別回収という行為が一種の免罪符となっているからではないでしょうか。意味のない分別回収はやめて、しっかりと焼却し残骸が残らないようにすべきです。地球温暖化や地球環境が心配なら、もっと効果の大きい所から実施すべきでしょう。

【バーゼル条約】
2017年末の中国による使用済みプラスチック等の輸入禁止措置を契機に、世界的に大きな問題となっているプラスチックごみ。このたび、有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約(以下、バーゼル条約)第14回締約国会議(COP14)(2019年4月29日~5月10日)にて、さらに「汚れたプラスチックごみ」の輸出規制が強化されることとなりました。

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農薬

農薬は歴史的には戦争用に開発された毒ガスを転用したもの。土壌燻蒸剤等として土そのものを消毒、あるいは殺虫剤として広く使われている。基本的には人体にとっても極めて有毒。生態系にも多大な悪影響を与える。出来れば使用しないに越したことはない。

朝日新聞にクロルピクリン (chloropicrin)という農薬の被害が続出しているとの報告(2020.1.20)があった。最近農家人口が減っているせいか、あまり話題にされていなかったようだが、農業の現場で働いている人たちにとっては大問題だ。しかし、残留農薬や土壌汚染の問題を引き起こし結果的には国民の健康にも多大な影響を与える。

沈黙の春 1962年に出版された世界的な名著レイチェル・カーソンの『沈黙の春』でも化学物質浸けの農業の環境に対する危険性が指摘されて以降も、それほど事態は改善されていないのかもしれない。
そもそも、米国(他の農作物輸出国も)は大規模なモノカルチャー農業が基本で、大きな土地に機械を使って大量の化学物質を投入し人手をかけずに生産するスタイルだ。種子も肥料も殺虫剤も化学メーカーがプログラムを組んで、作業をマニュアル化し、農家はそれに従うだけ。化学メーカーが主導権を持っている以上、農薬の使用が減る道理が無い。

クロルピクリンは危険な気体を発生し、人体にも危険、しかも大気中に拡散。CO2のように安全な気体ではないし、大気中にも残留蓄積していく。クロルピクリンについてGoogleで検索してみる。農水省、厚労省、環境省などのサイトは使用法のマニュアルを守って安全に使って下さい。クロルピクリンの危険性を警告したサイトは見つからない。基本的スタンスは病虫害に被害を防ぐため使わざる得ないでしょうということ。

日本は食料には高い関税をかけ、日本の農業を守って来た。いま、日本の政府に求められているのは食料の自給率ではなく、食の安全ではないのだろうか。食の安全の中には当然農家の安全も含まれる。有機農業が盛んに喧伝され、バイオテクノロジー研究も進んできた今、 脱化学薬品、脱農薬の進展を進めて欲しいと思うのですが。

クロルピクリン **クロルピクリン (chloropicrin) は、メタンの水素3個が塩素に、1個がニトロ基に置き換わった構造を持つ有機化合物。常温ではいくぶん粘性のある無色の液体で、刺激臭を有する。水には難溶。蒸気は空気より重く、その相対蒸気密度は 5.7 。衝撃または熱を加えることにより爆発する可能性がある。光や熱などで分解して塩化水素や窒素酸化物など極めて有毒な気体を生じることから、取り扱いには厳重な注意を要する。 見るからに有害そうだ。そもそも第一次世界大戦中に窒息性毒ガスとして開発されたものだそうだ。
【追記】
何故、農家は農薬を使うのか。大規模なモノカルチャー農業だからか?有機農業と言うものは普及しないのか。農薬と言ってもここでは化学肥料も含まれている。DNA組換えの種子なんかもより大きな問題のようだ。本来命を育む農業の分野に資本主義の工学の原理を無理繰り適用することに諸悪の根源がありそうだ。つまり、農薬会社は、環境問題などお構いなしに、大量の農薬を安く作り大量に売り込むだけのことしか考えていない。 環境と言うものは多様な生物の複雑な連鎖で成立している。それを要素に分解破壊して、工学の論理一辺倒で突き進めば、どんな環境だってサステイナブル(持続可能)になる訳がないことをしっかり認識すべきだろう。 (2021.06.06)

技術開発のお話
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トリカヘチャタテ

お堅いイメージをもたれがちな日本ですが、オモシロ分野でも大活躍しているのは大変結構なこと。2017年、イグノーベル賞を日本人が受賞したのは、生物学賞だとか。その主役になったのが、この極めて珍しい生物!トリカヘチャタテというらしい。
交尾の際にはオスが上に乗っている生物が多いですが、この昆虫ではそれが逆。上に乗ってがっちりホールドしているのがメスで、捕らえられているのがオス。でも、この昆虫の凄いところはそこではありません。なんと、メスがオスに陰茎(要はオチンチン)を挿し込んでいて、オスがそれを受け入れています。そう、この昆虫では、交接器が雌雄で逆転しているということらしい。しかも、オスは精子を渡すときに、一緒に栄養になる成分もメスに一緒に渡しているらしい。メスは、卵を成熟させる際にその栄養分を消費しているとのこと。交尾しているというか、三日三晩かけてじっくり搾り取られてるというか。面白い。
イグノーベル賞は、面白いだけではなく、考えさせられるような研究に贈られる賞。この研究も、下品だという前に事実だから面白い。この研究の意義は、「性別ってどうしてあるんだろう」と考えさせるところがいい。受賞した吉澤さんは、「世界中の辞書を書き換えてしまうかもしれない発見だ」とも言っています。
オスとメスがいる生物を見ると、オスだけ派手だったり(クジャクなど多くの鳥類など)、オスがケンカして勝った者だけがメスを独占したり(ライオンなど多くの哺乳類)、捧げ物をしてメスの気を引いたり(ガガンボやオドリバエなど)と、メスの獲得にがんばっているオスが多くみられます。
これは、産卵や妊娠・育児が大変なメスにとっては、良い子供を残せるように優秀なオスを相手に選んだ方が有利だから、オスはがんばらないと相手にしてもらえないのだ、という風に考えることができます。
トリカヘチャタテ 今回のトリカヘチャタテでは、オスを逃がさず何日も捕まえておく仕組みがメスに備わっています。そして、精子を受動的に待たず、陰茎を挿入することで能動的にオスの体内から精子を獲りに行きます。この種では、繁殖相手を捕まえておくがんばりは、メスが担っているんです。

どうしてこんな逆転が起こっているのかというと、オスから精子と一緒に渡される栄養分が原因だろうと考えられています。彼らが住んでいるブラジルの洞窟は、かなり乾燥しており、栄養になるものはコウモリの糞や死骸くらい、という厳しい環境なのだそうです。そんな栄養の限られた環境で、卵を作る栄養源を供給しているのがオスなのであれば、オスが子孫のために使うエネルギーの割合が多くなります。するとオスも気軽に下手な鉄砲を打てなくなって、オスがじっくりメスを見定めたり、希少なオス(の栄養分)をメスが奪い合ったりする、とそういうお話です。
トリカヘチャタテ(Neotrogla)はコチャタテ亜目に分類されるトリカヘチャタテ属の昆虫である。トリカヘチャタテは、性の役割と生殖器の形状が他の生物と逆転しており、その形質はトリカヘチャタテ属のすべての種に共通している。和名は、男女のきょうだいが性別を入れ替えて育てられる古典文学「とりかへばや物語」に由来する。

トリカヘチャタテ 生息地
トリカヘチャタテはブラジルの乾燥した洞窟で見られる。主にバットグアノ(どうも蝙蝠の糞らしい)を食料としている。
ノミと同じぐらいの大きさ。雌雄ともに足根に毛があるが、雌のは著しく長い。トリカヘチャタテには分岐した後翅と茶色の前翅がある。
逆転した性別の役割
トリカヘチャタテのメスはgynosomeと呼ばれるペニスのような器官を持つ。メスは積極的に仲間を探す一方、オスは選択的である。交尾中、メスはオスに抱きつき、後ろから小さな生殖器の開口部を貫通する。メスのgynosomeは大きくなり、gynosomeにある小さな棘により個体がしっかりと固定される。研究者が交尾中の個体を分離しようとしたら、オスは2つに引き裂かれ、生殖器官はメスに付着したままになった。交尾中、メスはオスから精子と栄養を含んだ精液を抽出するために、gynosomeを使用する。1回の交尾は40〜70時間続くことがある。

オスとメスの性器の逆転は、洞窟環境下の栄養素の欠乏によって説明できる可能性があり、メスがオスから栄養素を抽出することは進化的に有用である。昆虫の交尾行動の研究を共著した昆虫学者の吉澤和徳によれば、メスのトリカヘチャタテは、たとえ生殖適性期前であっても、オスから精液を抜き出す。もし、オスが限られた資源の大半を栄養豊富な液体の生産に費やすならば、なぜ、オスが自分のパートナーを慎重に選ぶのかを説明する助けにもなる。他の昆虫のオスは、交尾のときに栄養素のような「nuptial gift」を作ることが知られている。メスにあるペニスのような器官の進化的起源は完全な謎である。吉澤は「通常、新しい構造は以前の構造の改変として進化している」と説明する。このような適応は、オスとメスの生殖器の構造が同時に変化する必要があるため、「例外的に困難」となるだろう。

メスがオスに生殖器を挿入する種は、タツノオトシゴのように数種知られているが、メスがペニスのような明確な器官を持っているのはトリカヘチャタテのみである。また同様に、性別の役割が逆転した例は、他のいくつかの動物に記録されている。トリカヘチャタテは、両方の特性を持つユニークな種であるようである。吉澤によれば、動物は、進化において性と性的選択の役割を研究する独特の機会を提供している。吉澤は、多くの性役割が逆転した動物の中で、なぜ、トリカヘチャタテのメスだけがペニスのような器官を精巧に進化させたのかを明らかにすることが重要であると述べている。2017年、吉澤和徳、ロドリゴ・フェレイラ、上村佳孝、チャールズ・リンハードは、トリカヘチャタテの研究の功績によりイグノーベル賞生物学賞を受賞した。

分類学的歴史
トリカヘチャタテは、生態学者であるRodrigo Ferreiraによって発見された。2010年に、昆虫学者であるチャールズ・リンハード(Charles Lienhard)が、新属に分類し、Neotrogla brasiliensisをタイプ種とした。それまで、Speleketorinae亜科の下位分類であるSensitibillini族の生物は、アフリカのみ生息が確認されていたが、この発見により、初めて新世界での生息が確認された。トリカヘチャタテは南アフリカに生息するAfrotrogla属に密接に関連している。
【追記】
生物における性の分化。多細胞生物が出来てその後、いや単細胞生物にも性の差はあるのか? 本当に摩訶不思議な世界だね。何しろ長い歴史を辿っている。ヒト社会での男女同権論も生物達が辿って来た歴史をきちんと踏まえているのだろうか。欧米に比べて日本は遅れている? ほんとかね。オリンピックの森喜朗会長の差別的発言?米バイデン大統領は女性の地位向上のため副大統領に女性を選んだ?単なる政治闘争に利用されているだけでは? (2021.06.06)

技術開発のお話
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ダスト・シュート

高層建築物に設置するごみ棄て装置。各階で投入されたごみはチューブ(縦管あるいは縦につながった空間)を通して下に集積され運び出される。 ダスト・シュートと言う言葉自体は、和製英語。英語では"Garbage chute"または"Rubbish chute"という。

ダスト・シュート 実は、この言葉、たまたま家でゴミ出しをしていた際に思い出した。20年以上前になるが駐在員として3年ほどシンガポールに一人暮らししたことがある。高層マンションであるが、考えて見るとゴミ出しで苦労した覚えは全くない。いらなくなったものは、部屋の片隅のゴミ投入口からポイでさよなら。分別やゴミ処理は地上の出口で清掃作業員たちがセッセと働いている。実はこの頃日本でも大規模な高層住宅など既に導入されていたようだ。住民に取ってはある意味合理的で近代的なシステムとも思われるのだが、現在の日本では廃れてしまったか?
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日本では、昭和40年代初めまで大規模なオフィスビル、公団住宅、マンションといった高層の集合住宅や学校に設置されていた。衛生上の問題、またさらなる高層化やゴミ分別問題の可視化に伴い、廃止されるようになっていった。そのうち、学校では木造校舎から鉄筋コンクリート校舎への立て替えが進んだ際に導入された所も多いが、後年には生徒が転落事故を起こした場合の学校への責任追及を避けるため、投入口をふさぐ処置を施した所がほとんどである。欧米では、まだ使われていることが多い。またダスト・シュートが原因で起こった火災がある。(京都国際ホテル火災など)
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ダスト・シュートが採用されなくなったのは、日本だけの特殊事情なのか。欧米では将来どうなるのだろうか。SF的な発想から見ると未来社会は寧ろこちらの方に移行して行ってもいいような気もするが。チョット検討してみよう。

1. 衛生上の問題
住民に取っては、衛生上の問題は皆無どころか理想的な環境ようだが? 問題が生じるとしたら処理を行う作業員の健康被害だろう。
もし、この点を改善したいのなら処理作業のロボット化等が課題だろう。
ただ、高層階の住民は良いかも知れないが、地上近くでは生ごみの悪臭。取り残しのゴミの飛散等公害の恐れも。
2. 高層化に伴う問題
高層の部屋から落ちて来る粗大ゴミは落下速度が増大し、落ちたら粉々に。爆発物でも混入していれば大惨事に。また、バラバラにされた幼児の死体でもビニール袋に混入していたら、誰が犯人かの特定も難しい。
3. 犯罪の温床に?
という訳で、ごみの排出者の社会的責任を問うことが大変困難になって来る。物流などの宅配システムは社会の動脈として機能するが、廃棄物の処理も静脈として非常に重要な役割を担っている。ごみの排出者の社会的責任は今後極めて重要な要素になるが、経済優先の社会では後回しにされて来た感がある。この排出者の社会的責任を無視し続けるならば、将来様々な犯罪的事態が生じることを防止できない。

しかしながらダスト・シュート方式は、将来の廃棄物処理の問題を解決する上では無視できない要素を含んでいる。処理業者の健康や社会的差別を無くすには、作業のロボット化もっ可能だろう。また、ダスト・シュート方式を取り入れるにしてもある程度の分別処理も不可能ではない。超高層住宅では、ゴミ処理のため高層階から地上まで人が毎日往復することは至難の業であろう。本当に無駄な技術かどうかはマジメなしっかりした検討を積重ねて行って欲しい。
スモーキィ・マウンテン ただ廃棄物処理を考える上で、無視できな大きな課題を忘れてはならない。フィリピン等に存在するスモーキィ・マウンテンの存在だ。都市部や先進国から輸入されたゴミの山に生活の糧を求める貧困な人々が存在することだ。富裕な人々から見れば単なるゴミでも、貧しい人々から見れば資源と回収できる有用なものが含まれている可能性がある。例えば、先進国から出される大量のプラスチックごみ。

技術開発のお話
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フラッキング技術

フラッキング 水圧破砕法(Hydraulic fracturing)は、地下の岩体に超高圧の水を注入して亀裂を生じさせる手法である。高温岩体地熱発電や、シェールガス・タイトオイル(シェールオイル)の採取に用いられている。 天然ガスや石油の掘削の際は、特殊な砂粒(プロパント proppant)や、酸・防腐剤・ゲル化剤・摩擦低減剤などの化学物質を添加した水が使われており、フラクチャリング流体(fracturing fluid)またはフラッキング水(fracking water)と呼ばれている。

化学物質による地下水の汚染、大量の水使用による地域の水不足の可能性、排水の地下圧入による地震発生の危険性といった問題点が指摘されている。ただ米国が石油輸入国から一躍輸出国に転じた立役者でもある、シェールオイルの採掘に不可欠なこの技術が不可となれば、米エネルギー産業にとって大打撃となる。

次期米副大統領候補のマイク・ペンス氏とカマラ・ハリス氏は7日夜の討論会でフラッキング(水圧破砕法を使ったシェールガス・石油の開発)について論争を展開し、過去10年間続いてきた議論をさらに拡大させた。  フラッキングは、気候変動問題を巡る広範な議論の中心的要素であり、石油・ガス業界と環境保護運動家たちの間で継続して対立の元となってきた。地下の見えない地層を破壊することは、今までになかった環境破壊を引き起こす可能性は以前から指摘があったが、米国はそれを無視して開発を続けて来た。他の国でこれに追従する国は出て来ないようだ。

 フラッキングとは、泥質岩の一種である頁岩(シェール)の層から石油・天然ガスを抽出する技術だ。ある種のフラッキングは過去数十年にわたって利用されてきたが、現在ではフラッキングという言葉は主に、「水平掘削型の水圧破砕法」と呼ばれる特殊な技術のことを指している。

ここ数年、「シェールブーム」という言葉をよく耳にするようになりました。アメリカでは、フラッキング(正確にはハイドロ・フラクチャリング/水圧破砕法)と呼ばれる採掘法を用いて、従来の方法では採掘することができなかった層にあるシェールガス/シェールオイルの採取が可能になり、国内の原油生産量が大きく伸び、長年の課題であった原油を輸入に依存する体質が改善され、ついには海外への原油輸出を開始する法案が可決されるまでに至りました。日本にもアメリカから天然ガスを輸入する計画があります。

この採掘法は、シェール層(頁岩層)の岩盤に人工的な割れ目(フラクチャー)を作ってそこに大量の水と化学薬品を流し込んでガス/オイルを採取する技術で、通常は深さ2000メートルから3000メートルの坑井を掘り、そこから水平方向に2000メートルから3000メートルの坑井を掘ることで、従来の原油とは違う場所に閉じ込められているガスやオイルを採掘します。
シェールブームが盛り上がりを見せ、原油生産量が伸び、電気代やガソリン代が安くなるなどの利点がある一方で、様々な問題が表面化している。

フラッキング 1. 大量の水を使用
米環境保護局によると、2010年に約3万5千の油井でフラッキングに使用した水の量は、約700億から1,400億ガロン(約2,650億リットルから5,300億リットル)で、これは40から80の人口5万人の都市が使用する水の量にあたる。そして、これらの水は貯留水や地下水を汲み上げ、トレーラーによって運搬されるため、ローカルコミュニティの水不足や大気汚染、道路状況の悪化、交通事故の増加にも繋がる。

2. 砂とプロパント原材料の掘削
フラッキングで頁岩層に作った割れ目が塞がるのを防ぐために使用されるプロパントと呼ばれる支持材の原料となる砂等の掘削による環境への影響が懸念されている。

3. 有毒化学薬品の使用と情報公開義務の欠如
フラッキングに使用される約600種類にものぼる化学薬品には毒性のあるものが含まれており、人間や生物に悪影響を与えることで知られています。また、ほとんどの州で、企業はそれらの化学薬品の情報を公開する義務を負っておらず、州によってはフラッキングを行うことを周辺住民に知らせる義務すらない。

4. オイル漏洩による地表水と土壌の汚染
他のオイル掘削と同じく、フラッキングによるシェールガス/オイルの掘削にも漏洩事故は付きものです。ピットと呼ばれる採取した混合液を一時的に貯留しておく人工池からの流出や、パイプラインからの漏洩事故による川や土壌の汚染が後を絶ちません。

5. 地下水汚染
フラッキングの油井は地下水脈よりも深い場所まで掘削してコンクリートで固め、そこに管を通してシェール層に作った割れ目に化学薬品と水の混合液を注入するのですが、そのいずれかの過程で地下水脈に化学薬品が混入していることが疑われるケースが見受けられる。

6. 大気汚染
フラッキングに使用されるベンジンなどの揮発性の高い化学薬品や、フラッキングによって発生するメタンなどによる大気汚染が、周辺住民の健康問題に発展しています。また、油井掘削時に発生する細かい砂の粒子による大気汚染とそれを吸入した周辺住民の健康問題も起こっています。

7. 騒音・振動による被害
油井掘削時の騒音と振動で日常生活を送ることができず、それが原因で病気になったり引っ越しを余儀なくされるケースが報告されています。

8. 廃液処理
ガスやオイルを抽出後、フラッキングに使用した大量の水と化学薬品の廃液の25%から100%は、そのまま油井に戻され放置されています。

9. 地震
近年、フラッキングを行った後の油井近辺で多数の地震が発生して問題となっています。今のところはまだ大きな地震には繋がっていませんが(最大でマグニチュード4.6)、このままこの問題を放置すると最大でマグニチュード7クラスの地震に繋がる可能性があるとも言われています。

フラッキング問題は、現在連邦政府も州政府もエネルギー国家安全保障と企業の利益を優先させているため対応が鈍い。しかし、地球環境に多大の影響を与える問題の極めて多い技術らしい。企業と多くの州政府はこれらの問題の多くとフラッキングとの関連性を意図的に否定している。しかし、今後 典型的な環境問題として、今後さらに市民や非営利団体、地方都市を巻き込んで州政府や連邦政府と対立を深めていくことが予想されます。民主党のバイデン候補は、はっきりとフラッキングを止めさせると明言してしまった。これは彼にとっての大変な失言と受け止められている。しかし、こうなるとシェールガス産業は将来危ない。

シェールガス採掘技術は、どうも政府の補助金で何とかやり繰りされているので、中東の原油等と比べると明らかに採算が悪い。ある意味、政治的色合いに強いフェイク技術なのかもしれない。つまり、いずれ破綻する技術。シェールガス会社の多数が破産することになれば、リーマンショックの二の舞。世界経済にも大きな影響を。中東やロシアが原油価格を低迷させているのも、シェールガスを破綻させる目的もあるらしい。米国側の説明は、シェールガスによるオイルの増産でロシアが困ると説明しているが。

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電気自動車たま

たま 【航空技術者が手がけた電気自動車】
「たま」は、戦前の立川飛行機から派生した「東京電気自動車」が開発した電気自動車です。「東京電気自動車」は、中島飛行機から派生した「富士精密工業」と合併し、「プリンス自動車工業」となり、さらに1966年に「日産自動車」と合併した。「たま」が登場した1947(昭和22)年当時の日本は、終戦直後で物資や食糧だけでなく、深刻な石油不足に見舞われていた一方で、家電製品はまだほとんどなく、また工場も破壊され、大口電力需要者もいなかったため、電力供給は余剰気味であった。このような状況下で、政府も電気自動車の生産を奨励し、未経験の領域ながら「日本を戦災から一日も早く復興させたい」という情熱で、同社の技術者たちは持ち前の技術を新時代の移動や物流を担う「自動車」の開発に発揮したのであった。 早くも1947年には乗用車タイプのE4S-47 型とトラックタイプのEOT-47を発売。「たま」のブランド名は工場のあった多摩地区から命名された。
先端技術を搭載した「たま」は、1948年、商工省(現・経済産業省)主催の第1回電気自動車性能試験で、カタログ性能を上回る航続距離96km、最高速度35km/hという当時トップクラスの性能を記録して注目を集め、1949年には中型の「たまセニア」(EMS-49 I型)を追加し、1951(昭和26)年頃までタクシーなどで活躍した。
つまり、日本にはこんな素晴らしい電気自動車の歴史があったんですね。量産化に成功した電気自動車が倒産に追い込まれた第一の原因は、朝鮮戦争の勃発で、鉛の需要(砲弾等)が急増し鉛の入手が困難になり、蓄電池が造れなくなったことらしい。朝鮮特需の裏腹にこういう悲劇もあるんですね。更に追い打ちをかけてのガソリン価格が超低価格の時代に直面してしまうんですね。 これらの要因は日本経済を高度成長につなげる要因にもなっていました。重化学工業に特化して、大量生産低価格で輸出しまくる。造れば造るだけ売れたんだから、ガムシャラに作れば良かった。電気自動車で培った技術はガソリン車にも生かされたんでしょう。

今、石油資源の枯渇、価格の高騰と大気中のCO2濃度の増加から電気自動車が見直されています。電気自動車を走らせるにもエネルギーは要りますが、水力発電等の化石燃料を使わない方法もある。となれば今はガソリン自動車にとって逆風だ。中国、インドを含め今後発展する国の目は明かに電気自動車にシフトしている。

技術開発のお話
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自動車の無い世界

自動車の無い世界を想像してみよう。
【危険な乗り物】
交通事故  自動車はとても便利な物だ。だけと大変危険なものでもある。世界中で毎日、大勢の人が交通事故で命を落とし障害を受けている。戦争で亡くなる人の数より多分ずっと多いだろう。自動車と言うものは危険な乗り物との認識が必要だ。
右のグラフは、2018年に日本の警視庁がまとめだ死亡事故で失われた命の数。警視庁はこれを「交通安全教育や取り締まりなどに取り組んだ結果」としているが本当だろうか。
ドライバーの高齢化や若年層の貧困化による車離れ、経済の停滞などから実際に走っている車の数が減ったことが最大の原因だろう。なお、この統計では「死亡者」とは事象発生から24時間以内に死亡した人数を指す。
事故 世界の各国の自動車1万台当たり交通事故死者数が分かっている。日本は(0.64人)、アメリカ(1.23人)、ドイツ(0.70人)、イギリス(0.53人)、フランス(0.88人)、スウェーデン(0.52人)、オランダ(0.54人)、韓国(2.93人)となっている。日本も1990年頃までは現在の2倍以上だった。英国のスミード氏が提唱する「スミードモデル」によれば、自動車保有台数当たりの死者数は車の普及率が上昇するに従って少なくなると指摘している。 それはそうだ。台数が増えれば1台当たりの事故率は減る。また、高齢者ドライバーがが増えれば高齢者の事故が増えるのも当然。昔は高齢者の方が慎重なので事故が少ないと思われていたはずだ。

大気汚染 【大気汚染の元凶】
自動車は大量の排気ガスを放出して大気や環境を汚染する。SOX(硫黄酸化物)やNOX(窒素酸化物)と言った有害物質は、技術開発により以前よりかなり減少したものの排気ガスに含まれる色々な有害物質を完全に除去することは不可能だ。また、ガソリンで走る宿命上、CO2は、宿命的排出せざるを得ず、自動車台数を減らす以外にCO2削減の抜本的対策はない。つまり、少ない数の自動車を効率良く使いまわすことが必要だ。
電気自動車なら大気汚染はない。でも、電気を作るために石炭や石油を燃やせばどうなんだろう。車の屋根にソーラーパネルを積むなんていうのはいいかもしれないね。

野生動物 【環境破壊】
道路は自然環境を著しく破壊する。生態系を分断し、多くの生物を絶滅に追いやって来ている。郊外の路上では多くの野生生物が車に引き殺されている。道路が水の移動を遮断することも。大量の排気ガスは人以外にも多くの野生生物の健康を損なっている。アマゾンの大森林やサハラ砂漠にハイウェイを建設すること経済的な観点かといっても果たして許されることなのか。

キャデラック 【何のための車か】
 そもそも、自動車は何のために存在するのだろうか。人や物を移動するためだ。当たり前のことだ。ステータスシンボルとして持っている人の満足感を満たすだけの目的もあろうが。自動車の無い世界を考えるためには、人や物を移動するための代替手段と比較する必要があろう。さらには、何のために人や物を移動させねばならないのかその目的まで踏み込んで考える必要があろう。

東海道53次 人の移動の基本はとにかく歩くことだ。長い人類の歴史においてほとんどの時間は歩くことに費やされてきている。歩くことは、人の健康にも密接に関係している。過度に乗物に依存して、運動不足をわざわざフィットネスクラブで解消なんて言う生活はそもそも異常だ。東海道を歩いた江戸時代の旅人たちは、万歩計でその日の歩数を測る必要性など全く感じていなかったであろう。健康のためにわざわざ歩く。そんな馬鹿なことを昔の人は考えたこともない。

戦車 歩くことの最初の代替は、動物を利用することだった。馬はそのための最適な手段。他に、ラクダや牛、象、ラマ、ロバなども使われた。車輪の発明は相当古い。シュメール人、インダス、あるいは中国とか。戦争には馬に曳かせた戦車を使っていた。

海上交通の船は、相当に早い時代から使われている。海を泳いで渡るわけにはいかないのでこれは当然必要な技術だ。江戸時代には河川交通も大事な物流幹線だった。河川交通は、今でも利用可能な物流手段だ。国によっては有効に活用しているようだ。しかし、陸上の移動は長い間、徒歩が主流であった。物流を盛んにするには運河網の整備が大切な時代もあった。
今では自動車が主流か。自動車に対抗できる最大のライバルは鉄道だろう。空の利用は、やや遅れている。しかし熱気球は相当前から知られていたようだ。ナスカの地上絵も気球から見たのではないかとの説もある。次は軽い気体を詰めた飛行船だ。その後ライト兄弟がプロペラ飛行機を発明。他にグライダーのような手段もある。飛行船はヒンデンブルグ号の爆発以来使われなくなってしまったが、中に詰める気体が水素からヘリウムに変わったので安全性は飛躍的に増しているはずだ。ヘリウムは高価だろうが、燃料でないので再利用も可能だろう。
最近の話題ではドローンがある。大きなドローンを作って人載せたいとの考えもあるが、これヘリコプターとどこが違うのでしょうか。ロケットを使うような手段もあるかもね。安全に着地できる手段があればね。

鉄道 物流のコストとして最も安いのは船。これは、加工貿易立国を目指した戦後の工業地帯が総て臨海部であることでも分かる。河川交通も江戸時代までは盛んであった。 また、船よりはかなり割高でも鉄道はコスト面では明らかに自動車よりも安い。鉄道の建設費は道路よりも遥かに安い。また、鉄路を走ることは摩擦が少ない分、エネルギーは遥かに節約で来る。しかし、鉄道会社は自前で線路を引くが、道路は国や自治体が税金を投入して作ってくれる。でも、最近世界各国で鉄道を見直す動きがある。

【何故車はこんなに増えたのか】
車がこんなに増えたのは石油を大量に消費するからだ。石油は地下からいくらでもタダ同然で取れた。だから工業製品を造る先進国は豊かになり、農業国は貧しくなった。日本はいち早く工業国になったので高度成長を遂げることが可能になったのだ。だから資本主義のシンボルとして車は成長神話の神様として尊敬されるようになった。車を世界中に売りまくることが繁栄の基礎。でも今はだいぶ情勢が変わった。石油資源の枯渇が問題になっており、排気ガスの放出も控えなければならない。車の台数自体を制限しなければいけない。未だに円安誘導して、関税を撤廃させて車の輸出を増やしたいという考え自体が時代遅れだ。

【未来の車】
今のガソリン車に変わるものとして、電気自動車が推進されている。中国、インド、その他開発途上国の現状を考えると、近い将来には、ガソリン車はなくなり、すべての車は電気自動車になると予想されている。電気自動車はクリーンで環境に優しいと言われる。でも、どうやって電気を生産するのか。化石燃料を使ってでは、環境対策にはならないだろう。でも、原子力では核廃棄物の処理の問題が解決されていない。
電気自動車の大きな利点としては、ブレーキ操作などの捨てるエネルギーを逆に発電に利用し蓄電できるという省エネ対策が行いやすことがある。ハイブリッド車などガソリン車にも取り入れられている技術だけど、それなら初めから全部電気にした方が良い。
また、いま研究の最前線は車の自動運転技術でしょう。AI技術が進んだのでほとんど実現可能な段階まで来ている。車そのものが人や荷物を運んでくれるロボットを目指していたのだから、技術の進む方向としてはある意味当然。

【電気自動車】
電気自動車が主流になると、今の車生産の大手は皆生き残れないとの予想がある。ガソリン車で培われた技術開発があまり活かされないのだ。また、ガソリンスタンドが不要になる。交通関係の警察官も暇になるかも。
また、自動運転の技術が本格的に実現すれば、車社会の様相は一変する。まず、職業としての運転手が不要になる。タクシーの運転手。大型バスの運転手が職を失う。運転免許証も必要なくなるかも。車は誰でも何処でも何時でも利用可能なものとなり、ステータスシンボルとしての価値もなくなる。デザインも簡素になり、コストも非常に安くなる。運転手がAIなら誰も車のデザインや性能など気にしなくなる。車を所有するメリットもなくなる。目的地に時間通り移動できればどの車も同じだ。駐車場も不要だ。必要なときに電話すればいつでもすぐに車の方からやって来てくれる。車ロボットは人の役に大切はパートナーとなって生き残るだろう。

その代わり多くの人々が職を失い不況になり、無駄が減るのでGNPが大いに低下するでしょう。だから自動車業界はどこまで本気でやるか困っているようだ。
最後に、道路建設に係わる環境破壊の対策だ。海外では大草原や砂漠や熱帯雨林といった道路を作ること事態が重大な環境破壊につながる地域が沢山ある。鉄道は、レールがないと走れないけど、車だって道路が無いと走れない。そこで考えられるのが馬型ロボット。軍事用には開発が進められているようです。映画スターウォーズにも出てきましたね。車輪の発明は偉大ですが、人の基本は歩くことではないでしょうか。

技術開発のお話
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馬型ロボットの開発

馬型ロボット

旧ソ連邦のカザフスタン、草原の中を舗装された直線の道路が延々と続く。車窓から時々見えるのは草をはむ羊の群れ。ソ連邦は、計画経済を標榜していたが、まさに官僚主導の土建大国であった。今後、砂漠を横断したり、熱帯雨林を切り開いたりして、どんどん道路が造られる可能性がある。しかし、開発のため無人の荒野や森林を破壊することは大規模な環境破壊であり、野生生物の与える影響も甚大である。更に、経済効率の観点からも決して得策ではないでしょう。
馬型ロボット 乗物のために道路や鉄道を造るのでなく、乗物自体を砂漠や草原に対応できるようにすることはどうであろう。ヒントは映画「スターウォーズ」の中にあった。砂漠の中を突き進む戦車は、馬のように歩いているのだ。地球上には、人の住めない荒野は無尽蔵に存在する。馬型のロボットは、そのような地域にもアクセスを提供できる。いい考えだと思っていたら、なんと馬型ロボットを既に米軍が開発している。YouTubeに映像があった。次は、民間ベースで商用化できるかどうかですね。

技術開発のお話
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ローカル線廃止について

レール自転車 今、またJRが赤字ローカル線を廃止する動きが相次いで来ている。昭和62年の国鉄の分割民営化に伴って、かつて全国で多くの赤字ローカル線が廃止された。過疎化する地元の人々のことを考えると心痛む思いである。廃止になったのは民営化したJRの経営問題ですのでJRを責めるわけにはいきません。しかし民営化すればこのような動きが生じることは当然予測できたはずです、国や自治体には何とか対策を考えて欲しいですね。過疎化地域は、高齢化も早く進んでいるので車も運転もままならず、過疎化がますます進んでしまいます。せっかく敷設した鉄道ももったいない。動力付きのトロッコのようなもの走らせることは出来ないのでしょうか。自動車の車輪を鉄道用に変えるだけで簡単にできそうですが。鉄道ならハンドルも、タイヤも要りません。車体も廃車になったボディを使えそうです。運転も簡単なので必要な人がシェアーして使えば台数も少なくて済みます。でも、あまりにも安くでき過ぎて、また台数も少ないので自動車会社は全く興味を示さないでしょう。退職したボランティア技術者の出番でしょうか。
自転車の例はあるようだ。でも、自転車ではレールの上を走るメリットはあまりないのでは。

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日本は世界5位の農業大国

 少し古くなったけど、こんなタイトルの本が出ていました。農水省は、国防強化の口実として食料自給率の強化をうたっています。でも、自給率の算定の根拠は。計算はカロリーベースでしているとのこと。金額ベースに直すと世界5位ぐらいが妥当なのでしょう。どうして金額ベースで計算しないのでしょうか。高級な野菜を作る畑をつぶして、家畜飼料をつくる牧草地に変えたいのでしょうか。昔、シンガポールにいた時のことですが、日本産の食糧は、超高級品。リンゴでも中国産の倍以上。でも売れているのです。
 日本の農家は規模が小さく、貧困で政府の手厚い保護がないと成り立たないというのは、戦前の発想。今では、兼業農家でも平日はサラリーマン、土日の片手間の農業でも都市のサラリーマン層よりも収入は上回っていることが明らかになっています。機械化や科学技術の進歩のお陰です。
 戦前は、確かにコメを輸入しなければならない時期もあったようです。地主勢力は、政府に対し国防を口実として食料の自給を主張し、外米の輸入を阻止のために米の高関税が必要であると要求します。彼らによって「食料自給」という概念は、食料の増産ではなく、輸入の阻止が目的。米の供給が減少したほうが米価は上昇し、地主の利益になるからである。地主だけを悪者にしてはいけない。当時はまだ、都市化が進んでないので、余剰人口を小作として養っていかねばならない事情もあったでしょう。
これは、今日でもJA 農協が、高い関税を維持することによって国内市場を国際市場から隔離したうえで、減反により供給を制限して本来実現する市場価格よりもさらに高い米価を維持しようとしているのと同じ構図です。いまの、兼業農家は戦前の地主と同じですね。でも、農民の総数から行くと、多数派でしょう。日本の農業を発展させるにはむしろ邪魔な政策ですね。
参考文献;日本は世界5位の農業大国、浅川芳裕著、講談社新書

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光力の時代

20世紀はエレクトロニクスの世紀だとも言われている。電気は送電線で遠くまで運べるし、電池を使って持ち運びも可能だ。平賀源内がエレキテルで人々を驚かせていた時代は、主に静電気の世界。フランクリンが雷を電気だと証明したのとほぼ同時代。電池が発明されて初めて電気の本格的な研究が花開いたわけ。 21世紀は電力ならぬ光力の時代だと信じて研究している人たちがいる。医療用のレーザーなどは既に実用化されている。また、従来の電気信号に代わって、レーザー信号が光ファイバー・ケーブルを使って情報を伝達する時代になってきている。このオプティカル・パワーを電池のように持ち運び自由にできないかと考えている人たちがいる。電気は電池に蓄えて持ち運びできる。自動車のバッテリー、携帯電話の電源、電池の役割は大きい。
レーザーを発射できる装置と薬品を車やヘリに積んで行けばいい。実用化のためには適切なダウンサイジングとコスト。一方、レーザーは光ファイバーで遠隔地までも送ることも可能なので、発電所ならぬ発光所でレーザー光を造り出し、各家庭に送電ならぬ送光することも考えられる。光コンセントなども必要だが。ただ、一般の素人には電気と違って使うためのノーハウが全く蓄積されていない。光でお茶や風呂を沸かしたりできるのか。あるいは電気でできなかったことが光でできるようになるのか。たとえば、この蓄光システムを災害現場に持っていき、瓦礫を破壊粉砕するのに使えないか、落石などの障害物を直ちに焼き払って下敷きになった人を救うなど。
可能性のあるレーザーの一つは、沃素レーザーがあるという。比較的安価に光ができるという。今後の研究に注目していきたい。

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発動機

発動機と言えば、戦後農村ではよく見かけたのではないだろか。今では、発動機と言っても何のことか分からない若い人が多いと思う。石油を動力とする内燃機関の一種なので、基本的な仕組みは自動車などに使われているエンジンと同じもの。吸気→圧縮→点火爆発→排気の工程を繰返す。発動機は万能エンジンでこれ一つあれば、揚水ポンプを回したり、脱穀等の作業を出来、当時は無くてはならないものだった。効率はガソリン・エンジンと比べると劣るもののコストが圧倒的に安く魅力的な部分も多く、鉄道のSLファンと同じく、結構マニアもいるとか。
発動機 発動機 発動機
子供の頃の思い出。数人のおじさんたちが畑で発動機を作動させている。このエンジンは簡単には始動しない。最初は、丈夫なロープを引っ張り、はずみ車を回す。はずみ車は小さな発電機を連動しており、発電機が回れば連続的に火花が出て気化した石油が爆発する。ロープの引っ張り方が弱いと連続したサイクルが出来ずに途中で止まってしまう。たいていは数回の試行で動き出すので問題は無いが。子供が見ている分にはなかなか楽しそうだ。水田に水を引くときはポンプと発動機の組合せで行う。
発動機 発動機
これが無い時代には足踏みの水車なんていうのもあった。子供が見ている分にはなかなか楽しそうで見応えがある。残して欲しい技術だね。
発動機 発動機 漁船なんかには、他に焼玉エンジン(Hot bulb engine)なんていうのもあったようだ。こちらは球形の中空の鉄の球を事前にバーナーで加熱しておいて発火原にするらしい。このような技術は生物の歴史で言うと進化の中間の生物みたいだ。これらが消えてしまうと進化の歴史が分からなくなってしまうかもしれない。

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温暖化対策の国際的枠組み

COPはConference of Partiesの略で、広く「締約国会議」という意味。よく使われるのは1992年の地球サミットで採択された国連気候変動枠組条約(UNFCCC)における締約国会議で、温室効果ガス排出削減等の国際的枠組みを協議する最高意思決定機関を意味する。

地球温暖化のリスクが一般に認知され始めたのは1980年代末。しかし地球温暖化に対する懐疑論や、緩和策の費用対効果を疑問視する意見などにより、実際に削減義務を伴う対策が始まるまでに多くの議論が続く。 温暖化が「疑う余地がない??」とのコンセンサス(相当強引な方法)を得て、対策の必要性が広く認識されるまでに約20年間の時間を要した。

1827年にジョゼフ・フーリエが温室効果を発表。1861年にジョン・ティンダルが水蒸気・二酸化炭素・オゾン・メタンなどが主要な温室効果ガスである主張。地球の気候を変える可能性を指摘。これらの研究をベースに1896年、スヴァンテ・アレニウスは自身の著書『宇宙の成立』の中で、石炭などの大量消費によって今後大気中の二酸化炭素濃度が増加すること、二酸化炭素濃度が2倍になれば気温が5~6℃上昇する可能性があることを示唆。このころは、二酸化炭素による冷害防止に触れた『グスコーブドリの伝記』(宮沢賢治、1932年)などに見られるように、一部には浸透していたものの、こういった科学知識が一般に広く認知されるには至っていなかった。 当時は氷河期の再来の方が真剣に議論されていたためだ。

一方、20世紀の中頃、ますます顕著になってきていた公害(環境汚染)を取り巻く環境が一変。住民の意識の高まりや汚染当事者の責任が明確になるとともに、行政の責任も高まる。学術面でも、公害に関連した環境全般の研究が盛んになる中で、行政が研究を推進する動きが出始め、マスメディアは環境問題を大きく取り上げるようになった。温暖化の問題はその中のほんの小さな一部であった。

沈黙の春 1960年代に『沈黙の春』を契機として大きな問題となった化学物質汚染、経済において環境に配慮する必要性を促した1972年の『成長の限界』と、次第に環境問題が対象とする分野は広がっていった。その流れの中で、地球の気候も対象となりつつあった。

しかし、1940年代から1970年代にかけては、地球の気温は低下傾向に入っていた。地球の気温上昇に関する議論や研究は下火、代わって気温低下に関する研究が盛んであった。1960年代には、地球の気温低下に関する研究結果がいくつも発表される。ミランコビッチ・サイクルの変化によって氷河期になる(1965)というもの、数千年以内に次の氷河期が到来するというもの(1966)等。ただ、氷河期が到来する具体的な原因は、いまだ不明。

1970年代に入って、エアロゾルや二酸化炭素が気候に与える影響について研究がなされた。具体的に将来の気候がどのように寒冷化して行くかという予測までは至らなかったが、マスメディアの「氷河期が近づいている」という報道が先行し、さも学術的な裏づけがあるかのような認識が生まれていた。

1979年、スリーマイル島原子力発電所事故の発生後、アメリカ合衆国大統領行政府科学技術政策局から「気候に対する人為起源 CO2 の影響」について諮問を受けた全米科学アカデミーがこれらの学術報告をまとめ、「21世紀半ばに二酸化炭素 (CO2) 濃度は 2 倍になり、気温は 3 ± 1.5 ℃ (1.5 ~ 4.5 ℃) 上昇する」とするチャーニー報告を発表した。

1980年代には、地球の気温も上昇傾向に転じ、温暖化に関する研究も進展していった。1985年10月には、フィラッハで地球温暖化に関する初めての世界的な学術会議としてフィラッハ会議が開催され、「21世紀半ばには人類が経験したほどのない規模で気温が上昇する」との見解を発表した。1988年8月には、世界気象機関 (WMO) と国連環境計画 (UNEP) の共同で気候変動に関する政府間パネル (IPCC) が設立される。

1990年8月、IPCCは膨大な数の学術的報告を集約して評価を行い、第1次評価報告書にて、21世紀末までに地球の平均気温が約3℃、海面が約65cm上昇するとの具体的予測を発表した。こんな具体的予測、今の技術で本当に出来るんでしょうか。このころには、学術的にも「地球寒冷化説」は過去の説となりつつあり、地球温暖化説が定着しはじめた。1992年6月にリオデジャネイロで開かれた環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)では、気候変動枠組条約が採択され、国際政治は全世界規模での地球温暖化対策が議題に上り始めた。

その後、IPCCは第2次、第3次評価報告書を順次発表し、地球温暖化の研究や予測の精度が向上していった。下記のような結論が示された。
1).この半世紀の温暖化の大部分は、人間活動が原因と考えられる。
2).人間活動が大気中の温室効果ガスの濃度と放射強制力を増加させ、21世紀中もそのトレンドを支配すると考えられる。
3).平均地上気温は今世紀末までに、1990年に比べて1.4~5.8℃上昇すると予測される。これに伴い、海水準の上昇や大規模な気候変化が懸念される。

余りにも独断的な決めつけのようだが、科学的な実証が必要なことを認めつつ、これらの内容が客観的に実証できる段階まで温暖化が進んでしまうと手遅れになると主張している。
このように、地球温暖化が人為的なものであり、早急な対策が必要であることは国際的かつ学術的(科学的)なコンセンサスとされた。もちろん、これに異議を唱える者も多い。2007年7月に米国石油地質協会(AAPG)がその意見を変えて以来、近年の温暖化に対する人為的影響を否定する国際的・公的な学術組織は事実上解散させられている。

その後、1988年10月にはトロント会議において「先進国が2005年の二酸化炭素排出量を1988年より20%減らす」という数値目標(トロント目標)が初めて提示され、行政レベルでの活動のきっかけとなった。1989年11月の大気汚染と気候変動に関する環境大臣会議では温室効果ガス排出量の安定化に初めて言及するノールトヴェイク宣言を採択した。アルシュサミット、ヒューストンサミットでも地球温暖化問題が話し合われた。

1995年のCOP1および1996年のCOP2では、地球温暖化対策の必要性が合意されるとともに、温室効果ガスの削減目標や削減手法について協議を行った。ただ、意見の対立に伴う議論の停滞や先送りといった問題も当然続出。

1997年のCOP3では、初めて具体的に排出量の削減を義務づける内容を盛り込んだ京都議定書が議決された。これは世界的に様々な温暖化の緩和策の進展を促すこととなった。しかし主要な排出国である中国に削減義務が無かったり、また国によって義務の厳しさが異なるなどの規定は、その後も議論の焦点となる。

これ以降のCOPでは、京都議定書の運用事項について細かい部分まで協議が進められ、2001年のCOP7では、最終的な合意(マラケシュ合意)に至った。2002年に開かれた持続可能な開発に関する世界首脳会議やこれ以降のCOPでは、対策に関して途上国と先進国の南北問題による対立も濃くなっていった。ただ、IPCC第3次評価報告書やスターン報告などにおいて科学的にリスクの大きさと対策の必要性がより確かになるにつれ、政治や経済の場においても地球温暖化への対策が検討されることが増えていった。

2005年には京都議定書が発効し、法的にも削減義務が発生した。2007年末の時点では、欧州などは再生可能エネルギーの普及を中心とした強力な政策により、最も厳しい-8%の義務を達成する見込みである。その一方で義務の無い中国の排出量は激増し、米国が離脱し、カナダも目標達成をあきらめ、日本も排出量を増やすなど、各国の達成状況はまちまちである。

また温室効果ガスの削減としては、現在京都議定書による削減目標提示が最も大規模なものであるが、スターン報告やIPCC第4次評価報告書により集約された科学的知見によれば、それよりも一桁多い削減量が必要とされている。このため京都議定書以上の削減目標(ポスト京都議定書)についての議論も現在行われている。

2007年10月には、気候変動に関する活動に対してIPCCが、人為的な気候変動問題の啓発に対してアル・ゴアが、それぞれノーベル平和賞を受賞することが発表され、同年12月に受賞した。彼の著「不都合な真実」では、気候変動に伴うされる世界各地の災害を網羅しているが、気候変動とCO2関連は実証されておらず、警鐘を鳴らすという役割のようだ。

2007年12月のCOP13においては、欧州やインドネシアによる数値目標導入の主張に日本や米国、カナダなどが反対し、また途上国と先進国との間での反発も顕在化した。辛うじて合意には至ったものの、数値目標の設定は見送られ、AR4の指摘への言及がなされるに留まった。こうした日米などの動きに対しては激しい批判も見られた。

このように、現時点では京都議定書以降の国際的な削減の道程は不明瞭である。その一方、京都議定書の目標達成の目処がついた欧州連合(EU)では、2007年2月の環境相理事会において、2020年までに温室効果ガスの排出量を1990年比で20%削減する目標で合意するなど、更なる削減を推進している国々もある。

技術開発のお話
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温暖化問題の虚構

長々と国際会議の経緯を引用してきたが、温暖化の話は政治的な話や宗教的な話が混沌と入り組んでいるように思える。宗教的な側面は、温暖化信仰の学者と寒冷化信仰の学者がいて、温暖化信仰の学者が政治家を巻き込んで勝利したらいいこと。つまり本当のことは分からないということ。
気候変動については、1980年以降は温暖化の傾向を示しているが、それ以前は寒冷化が心配されていたことも事実。イギリスでのクライメート・ゲート事件では温暖化を示すとされていたデータが実は捏造であったことが発覚している。

そもそも、温暖化とCO2の増加は直接繋がらない。太古の大気には大量に含まれていたCO2は、現在に大気中には0.03~0.04%しか含まれていない微量成分なのだ。植物はCO2を取り入れて酸素を放出してくれている。400ppmなんて書くと大きそうだが、実態はこんなもの。現状は地球上の植物たちにとっては極めて過酷な環境なのです。温室効果ガスは他にも沢山ある。こんな微量成分がどの程度温室効果があるのか果たして定量的に解析できるとは信じられない。定性的なことは言えるでしょうが。

さらに、現在増えたとされているCO2が人間活動によるものだという証拠は無い。勝手に断定しているだけのようだ。ちょっとした火山の噴火だけで人間活動によるCO2を遥かに越える量が排出される。CO2が増えれば植物が元気になるので、熱帯雨林や海洋の植物プランクトンがCO2を吸収して酸素を放出してくれる。酸素が増えればオゾン層を補強してくれる効果も期待できる。CO2は循環している。

ということは温暖化の最大の原因は、地球上の緑の減少だろう。砂漠化が進展し、海洋が汚染されれば誰がCO2を吸収して酸素を放出してくれるのだろうか。CO2の排出だけを規制して吸収の方を無視し続けることは許されない。いまの温暖化の議論が極めて政治色が濃いいことが伺われる。

政治的な側面は、対策に熱心なのは欧州連合(EU)連合に限られること。また、各国のエネルギー戦略が見え隠れしていることだ。国際会議の話題は、他国にエネルギー消費を削減させることだけが前面に出て、軍縮会議と同じ構造になっていることだ。「俺も減らすからお前も減らせ。」

現在にグローバル経済の根幹にあるのは石油(天然ガスや石炭も含まれるが)である。先進工業国は石油を使って工業製品を造って輸出して儲ける。石油は地下から略奪したものだ。だから一度工業化した先進国はいつまでも豊かで、開発途上国はいつまでも貧しい状態が維持できる。
しかし、中国の発展はその状態を許さない。他の開発途上国もこれに倣って何とか工業化を進めようとしている。ところが、地下資源を略奪し続けるには限界があることが分かって来た。資源には限りがあり、環境にも許容範囲がある。

欧州連合(EU)連合の諸国は、自分たちは削減しているのだから、他国にも削減しろと要求している。しかし、先進諸国の生活は石油浸け。元々浪費していたから削減できただけだ。 本当に石油の消費を減らしたいなら原油の価格を大幅に値上げすれば良い。でもこんな提案、産油国以外は大反対だろう。石油は相変わらず産業の米。経済発展のためには必要。自分たちの取り分は確保したい。でも、開発途上国には制限を加えたい。

原油の枯渇は以前から心配されている。産油国のイランは原子力を開発しようとしている。中国や他のアジアの開発途上国は、石炭の活用を考えている。石炭は石油より賦存量が多く、エネルギー選択からは良い選択だ。中国の考えは以前よりもCO2排出が減らせる石炭利用技術は温暖化対策になると主張し、日本もこの考えを支持している。だから日本はEUのNGOたちに避難されるのだ。

グレタ・トゥーンベリ いま、実際には温暖化論者は、窮地に立たされている。例え温暖化が現実に進行しているとしてもこれが人為的CO2のせいだとの強弁が通りにくくなっているから。プロパガンダを強化して、温暖化の被害が以前よりもかなり過大に評価されるように。グレタ・トゥーンベリさんなんて16歳の少女まで担ぎ出して感情に訴える作戦のようだ。この険しい顔は何なんでしょうね。

CO2犯人説は、多分破綻するのでは。欺瞞が明かになった問題の一つはプラスチックゴミの問題。大量に出るプラチックは現状では焼却処分するのがベストのはずだ。それをリサイクルと称して、先進国は焼却せずに途上国に資源として売りつけていたことが明かになった。その分、CO2排出を削減した勘定になっていた訳。途上国側も最初はまだ使えるものをリサイクルして、後は野積みで放置して来たらしい。これが環境問題として浮上し、先進国のプラスチックゴミの引取り手がなくなってしまった。しかも、これが海へ流れ出し、マイクロプラスチックゴミと化し、既に海洋生物に大打撃を与えている。
プラスチックゴミをリサイクルするとして、一般のゴミと分別回収していることが欺瞞。リサイクル出来ないなら分別回収をする意味がない。

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温暖化問題の虚構-その2

温暖化問題の問題点を分かり易く簡潔にまとめてくれた方がいる。武田邦彦氏もなかなかの工学者だ。環境問題にも幅広い視点を持っておられる。下記の彼の主張をきちんと科学的に反論できないなら、地球温暖化説は全くのインチキ理論ということになる。まして、CO2犯人説などトンデモないインチキだ。
マジメに環境問題を取組むなら、彼の言い分についてハッキリと検証が必要だ。温暖化や脱炭素社会の必要性を他者に納得させるには、下記の反論にキチンと科学的に説明する義務がある。
勿論、下記の事項は、だれしもどこかで見たこと聞いたことあるに違いない。マスメディアの妄信者達は総て、陰謀論として片付けている要だけと、自然科学をきちんと学んだものなら一々最も至極なことばかり。

【地球温暖化問題】​
1.海面上昇に北極は関係しない
北極は、陸地が無く全て氷の塊。アルキメデスの原理があるから、海面水位の上下には関係がない。

2.南極の氷は温暖化で増える
南極は、温暖化によって海水の温度が上がれば、より多くの水蒸気が発生し、それは雪となって南極に降り積もる。南極はマイナス数十度なので多少温暖化しても氷は解けず、結局温暖化によって南極の氷は増える。

3.持続性社会を作るためは二酸化炭素を増やすべき
温暖化も日本にとって良いことばかりで悪いことなどほとんどなく気にしなくてよい。現在は平安時代や縄文時代よりかなり寒い。生物が地上に繁栄するために二酸化炭素を増やすべきだ。

【 資源保護問題】
1.分別とリサイクルは「誠実、礼儀、恩義」に反し「日本文化を破壊する」。
ペットボトルは分別せずに全て焼却がよい。
2.レジ袋は石油の余り物からできているので削減は意味がない。
3.割箸は間伐材の有効利用であるからどんどん使うべきで「マイ箸」は意味がない。
古紙はリサイクルせず新しい紙をどんどん使うのがよい。


つまり、温暖化理論はインチキで、脱炭素社会は100害あって一利無しか。

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陶芸と窯

穴窯 日本で初めて窯が登場したのは古墳時代。須恵器を焼くための穴窯がはじまりです。従来の土器は手びねり(ロクロを使わない)成形した土を野焼きしていたのに対し、須恵器は「ロクロ」を使って成形したものを窯で焼く最先端のやきものでした。
具体的には足で回し両手が自由になる蹴ロクロと、地中に傾斜のある穴を掘った穴窯です。これらは中国大陸および朝鮮半島から伝播したといわれます。
穴窯は地中に穴を掘る「完全地下式」のものと、山などの傾斜に屋根を付けた「半地上式」(半地下式とも)があります。

完全地下式の穴窯は日本に伝播した最も原始的な窯といえます。野焼きの場合、炎の熱は空中に逃げてしまいます。その炎を地中に閉じ込めて焼くという発想から作られました。 窯自体が地中にあるので湿度とメンテナンスの問題があります。適切な湿度は必要ですが、地中の湿気が多すぎれば温度が上がらずうまく焼けなかったはずです。また崩れた場合は莫大な労力をかけて掘りなおすか、諦めて場所を変えるしかありません。
半地上式の穴窯は傾斜を利用して築かれたものです。平らな地上に傾斜を築くわけではないので「半地上式」と呼ばれます。もともとあった傾斜にドーム状の屋根を作って煙突につなげた単室の窯です。
完全地下式よりメンテナンスが容易で燃焼効率も優れています。なお、現代でも半地上式の穴窯を使っている作家もいます。単室の窯では保温・温度管理が難しい反面、個性的な作品が作られています。
穴窯 半地上式穴窯の平面図です。上から見ると窯は「涙型」をしています。長方形に近い穴窯、細長いものもありますが涙型が一般的なものです。焚口から円形に開いて「焼成室」は作品を詰める幅を取っています。そして仕切りを通って捨て間、煙突に向かってすぼんでいきます。 炎は何もなければ煙突の方向へ直進していきます。すると左右の壁際の作品がうまく焼けないおそれが出てきます。そこで分煙柱をたてて炎を左右に振り分けます。
登窯は複数の燃焼室を持つ(連房式)ため、単室の穴窯よりも燃焼効率が良いとされます。 焼成日数は登窯の1~2日間に対し、穴窯は4~6日間がひとつの目安です。登窯は多くの作品を詰め、焼成室ごとに違った雰囲気の作品、それに対して穴窯は単室なので、少ない作品かつ作りたい方向性を絞って焼きます。

もちろん登窯の一部でも個性的な作品は取れるはずです。ただ、穴窯は窯全体が運命共同体です。全滅の可能性もあれば、登窯以上の美しい作品、アクの強い作品が取れることもあります。また施釉作品においても酸化・還元に火の強弱も加え、個性的な焼き上がりが得られます。同容量の電気窯・ガス窯とは個性という点で比較にならないでしょう。
逆に安定してキレイに焼くという点では、穴窯は電気窯・ガス窯に遠く及びません。排煙問題・操作性・安定度・経済性はさておき、個性を重視する作り手にとっては最高の窯といえるでしょう。
【追記】
NHKの朝ドラ「スカーレット」で信楽焼が紹介されたね。主人公・川原喜美子が新しい焼き物を目指して自分用の穴窯を作るんだった。NHK「連続テレビ小説」第101作目として、2019年9月30日から2020年3月28日まで放送された。主演は戸田恵梨香。

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アンモニア発電?

アンモニア発電が脱炭素技術として注目されているらしい。
アンモニアを造るには触媒上で水素ガスと窒素ガスに熱を加えて起きる化学反応(N2 + 3H2 → 2NH3)で合成できる。この反応を逆にすれば熱を放出し発電も出来るというのだけど本当かな?
そもそも大気中の窒素ガスは反応させることが難しく、なかなか利用が困難であったことが歴史的に証明されている。アンモニアを作るハーバーボッシュ法とかが出来るまでにもかなりの月日が。 そもそもこの技術の安全性はいかがなものなのか。アンモニアが燃えれば、水素は水になるからいいけど、窒素はどうなるんだ。窒素酸化物は炭酸ガスと比べても更に有毒なものではないのだろうか。
窒素酸化物は、一酸化窒素(NO)、二酸化窒素(NO2)、三酸化窒素(NO3)、亜酸化窒素(一酸化二窒素)(N2O)、三酸化二窒素(N2O3)、四酸化二窒素(N2O4)、五酸化二窒素(N2O5)など。化学式の NOx から「ノックス」ともいう。どれも自動車の排ガスなどで問題となったんでは。自然界には存在しない気体だ。
排出基準値以下と言っても、本当は零にしたい物質。絶対に排出してはいけない。一方のCO2は、植物の栄養となるある意味貴重な資源だ。

どうも、胡散臭いと思っているんですがどうなんでしょうか? 今後国費を投じて開発していくとしているようですが。
【追記】
実は、このプロジェクトは大手の会社が参画している。多大な国費が投入されるので某社の技術者もさほど不満では無いだろうが、同じ技術者の立場として、彼等も本当に役に立つ技術に携わりたいと思っているのでは。
正直な話、日本を含め脱炭素社会が本当に来ると考えている国は世界中にほとんどいないのではないだろうか。水素エネルギー、太陽光、自然エネルギー、実はこれらは30~40年前から色々と研究がなされて来て、なかなか経済性が合わず実用化できなかったものばかりだ。欧米諸国の陰謀で、いずれ破綻すると考えて、形だけの付き合いか? 米国が大声出しているので逆らえばやばいということか。

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医療用マリファナ

マリファナが新型コロナウイルスの感染防止に効果的であるとする研究がカナダで発表される。(2020.05.21 FNMNL編集部)
新型コロナウイルスことCOVID-19の治療薬やワクチンの研究が日夜進められている昨今。そんな中、新型コロナウイルスの感染抑制にマリファナが効果的であるとする研究がカナダから発表された。
マリファナが新型コロナウイルスの感染予防に効果的であるとする研究はカナダのアルバータ州の研究者によってPreprintsというプラットフォーム上に発表されたらしい。レスブリッジ大学に所属する研究者は、カナダ保健省によって承認されたTHCとCBDを含む400以上の品種を調査したところ、そのうち13の品種、とくにCBDを多く含むサティバが肺や消化器官などでCOVID-19の標的となるタンパク質受容体ACE2を抑制することを発見したという。つまりサティバなどの品種のマリファナを吸うことで新型コロナウイルスに感染するリスクを減らせるというのだ。この研究は未だ査読が行われていないため信憑性が高いものとは言い難いが、興味深いものであることは確かだ。

カナダは既に国内でマリファナが合法化され、他国にも同様な処置を進めたいようだ。ただ研究内容がいかにも我田引水的な感じを持たれるのは筆者だけでは無いだろう。だって、現在の日本ではマリファナは非合法。多くの芸能人が海外から持ち込まれたらしい薬物を掴まされ逮捕されている。マスメディアも大バッシングなのが現状だから。
果たしてマリファナが本当に新型コロナウイルスの感染予防に効果的なのかどうか確かなところは未だ不明だが、もし本当だったとすればマリファナを愛する人々にとって良いニュースと言えるだろうが。本当に認可される可能性はあるのだろうか。
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マリファナ。またの名を大麻。日本では禁断の植物として厳しく規制される一方、米国では使用を認める州が増えているが、連邦法では依然として規制されているなど、実はさまざまな矛盾をはらんでいる。米国で最初に医療マリファナが合法化されたカリフォルニア州に住むジャーナリストが、その現実に迫る。(文・写真=柳田由紀子)

第1回 実は病人が入手しづらい〈医療大麻〉のカラクリ
 初めて〈医療用マリファナ〉と聞いた時、冗談でしょと思った。承知のように、日本では、「大麻取締法」によりマリファナ(大麻)の取扱いは厳しく制限されている。医の現場で、マリファナを使用することはまったく不可能だ。大麻といえば、暴力、衝動、快楽、犯罪のイメージ。実際――これはアメリカでの話なのだけれど――マリファナを吸った友人たちがケタケタと笑い出したのを見て、異様に感じた思い出が私にはある。
 ところがアメリカでは現在、私が住むカリフォルニア州を含む25州とワシントンD.C.が、なんらかの形でマリファナの医療的使用を合法としている。アメリカ以外でも、オランダやカナダ、イスラエル他の先進諸国で、マリファナの医科学的研究がダイナミックに進行中と聞く。

**でも良く分からないことも。マリファナの原料は、昔から日本でも栽培されかなり雑草化している植物。「カラムシ」なんて呼ばれて、植物繊維「麻」の貴重な原料。戦国大名上杉謙信だって特産物として売りまくっていたものだ。農家の庭なんかに何気に植えられていたものだろ。
でも、私自身はマリファナを吸ったことがないし、〈医療用マリファナ〉も関係ないやというのがこれまでのスタンスだった。
 そんな私がマリファナに関心を持ったのは、昨夏、手の甲を複雑骨折した時。痛かった。あまりの痛さに、術後しばらくレントゲン写真を見る勇気がないほどの激痛だった(その後、レントゲンを見てまた具合が悪くなった‥‥)。
 そのため、医師に処方された鎮痛剤を飲み続けたのだけれど、この薬、劇的に効くものの胃痛と吐き気が激しく1カ月間で5キロも痩せてしまった。不安になって薬名を確認すると、「ヒドロコドンーアセトアミノフェン合剤」とある。さらに調べたら、ヒドロコドンはオピオイド(アヘンに似た化合物)で、日本では未承認の麻薬だとわかった。なんと!
 米疾病対策センター(CDC)によれば、2014年のオピオイドによる中毒死(含・ヘロイン)は全米で28,647名。365日で割れば、1日あたり78人もが死亡している計算になる。また、これらの中毒死の中には、医師の処方箋がきっかけだったケースも珍しくないという。**確かに名前からして阿片から作られたものみたいだね。
 なるほど、そうだったのか、私の鎮痛剤。とにかく依存する前に気づいて良かった、と頷く頭にふとマリファナの文字が浮かぶ。というのも、大統領選で、「オピオイド依存防止のためにマリファナの規制緩和を」と、訴えた候補者がいたことを思い出したからだ。その候補者の話では、マリファナには鎮痛や食欲増進の効果があり、依存もしにくいとのことだった。すぐに試す気はなかったが、なんといってもカリフォルニアは、1996年に全米で最初に〈医療用マリファナ〉を合法化した州だ。少なくとも、医者に問い合わせる価値はあるだろう。

次ページ:主治医に聞いたら予想外の反応が
それで、主治医を訪ねると、「マリファナなんてとんでもない!」と、予想に反して言下に否定。さっさと席を立たれてしまった。続いて訪問したリハビリ医師の反応も同様で、取りつく島もないのだった。カリフォルニアは、〈医療用マリファナ〉がオーケーのはずなのだが……。
 頭が混乱した私が次に訪ねたのは、2年前に肺癌を患った知人だった。彼は、術後の化学療法で吐き気と食欲減退に襲われ、3週間で20キロ強も減量。その時、医師からマリファナを処方されたと聞いていた。
「正確にいうと、マリファナではなく『マリノール』という薬だったんですよ」
 今はほぼ元の体重に戻った彼は、そう言って茶色い錠剤を見せた。看護師から、「マリファナには、化学療法の副作用を和らげる効果がある」と教えられ、主治医に相談したが取り合ってもらえず、代わりにマリノールを処方されたという。「マリノール」は、1985年に米食品医薬品局(FDA)が許可したマリファナの合成成分を含む薬品だ(日本では未承認)。

アメリカには、大別すると「連邦法」と「州法」、2つの法律がある。「連邦法」は連邦政府が定める全米に通じる法律で、「州法」はそれとは別に各州が独自に作る法律だ。実はマリファナ、「連邦法」の規制物質法(麻薬取締局管轄)で、「もっとも乱用性が高く、医療用途がなく、安全性に欠如した物質」を示す「スケジュールI」に分類されているのだ。よって、「連邦法」にしたがえば、医者がマリファナを患者に処方することも、患者が服用することもできない。

 一方、カリフォルニア州には「医療用マリファナ法」があり、医療目的のマリファナを認可している。2つの法は明らかに矛盾する。それ故、州内でマリファナを使用したにもかかわらず、連邦機関により医師や患者が逮捕されるという事態が起きうるのである。
 私や知人の主治医が、マリファナを拒否した理由はここにあったのだ。
 ところが――。
 ある日、親友の家でこれらの体験を話していたら、突然、彼女が1枚の書類を目の前に差し出した。次ページ:「カラクリを教えてあげようか」と親友は言った。 「医療用マリファナ推薦書:△×医師は、カリフォルニア州法にしたがい、□△が、マリファナを医療行為に使用するに適切な患者と考える」
 話には聞いていたが、初めて目にする「医療用マリファナ推薦書」。カリフォルニア州では、この推薦書をマリファナ薬局(そういう所が存在する)に提示して初めてマリファナを購入できる。
 だけど、癌患者や激痛の私の手に届かなかった推薦書が、なぜここに? 彼女、重病を隠していたのか?
「ハハハ、私はいたって健康よ。でも、仕事に支障があると困るから基本的に他言しないようにしているの」
 確かに州法では、たとえ推薦書があってもマリファナ陽性反応が出た場合、雇主には従業員を解雇する権利がある。しかし、ヒッピー世代で大学時代にマリファナに親しんだ彼女は、時折マリファナを吸ってはリラックスするのだと話した。そして、「私みたいな人はいっぱいいるわ」とも。

薄暗く雑然とした小部屋が受付で、受付嬢が、「先生は診察中なのでソファーに座って待つように」と、ぞんざいに指図した。先客は、タトゥーを彫った若いカップル。テーブルの上には、マッチョ系マリファナ専門誌やマリファナ薬局の割引券が山のように積まれている。日本のどこかの雑誌が、「医療が認められたアメリカで、マリファナは今やエコやロハスの象徴」なんて書いていたけれど、この診療所に吹く風は、従来からあるマリファナのイメージ、アウトローそのものだった。居心地が悪くなって診療所を出た私に、友人が説明した。
「健康な人でも、不眠を訴えればほぼ100%推薦書をもらえるわ」
 カリフォルニア州では〈医療用マリファナ〉は合法だが、“楽しみ”のためのマリファナまでは認めていない。そこで人々は、法を逆手に利用してマリファナをゲットしているのだ。現在、この州の「医療用マリファナ推薦書」所持者数は約75万人前後と推定される。
 医の現場では遠ざけられるマリファナが、巷でこうも簡単に入手できるとはなんという皮肉だろう。これが、アメリカの実態なのか? いやいや、本当にマリファナが必要な患者と、本気でマリファナに取り組む医師はきっとどこかにいるはずだ――。つづく

「カラクリを教えてあげようか」
 親友はそう言うと、私を車でほんの5分の診療所に連れて行った。「推薦料30ドル(約3000円)」と書かれた外看板に、緑十字のマーク。緑十字は、マリファナ関連施設の印だという。時間は夜の9時。救急病院でもないのに、こんな夜更けに開業していること自体があやしいが、扉を開くと、そこにはますますあやしい空間が広がっているのだった。
**話はそこで終わっていた。後半に続くらしい!

技術開発のお話
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温室効果ガス

温室効果ガス(greenhouse gas、GHG)とは、大気圏にあって、地表から放射された赤外線の一部を吸収することにより、温室効果をもたらす気体のこと。水蒸気、二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素、フロンなどが温室効果ガスに該当。近年、大気中の濃度を増しているものもあり、地球温暖化の主な原因とされている。

京都議定書における排出量削減対象となっていて、環境省において年間排出量などが把握されている物質としては、二酸化炭素 (CO2)、メタン (CH4)、亜酸化窒素(N2O、=一酸化二窒素)、ハイドロフルオロカーボン類 (HFCs)、パーフルオロカーボン類 (PFCs)、六フッ化硫黄 (SF6) の6種類がある。

IPCC第4次評価報告書では、人為的に排出されている温室効果ガスの中では、二酸化炭素の影響量が最も大きいと見積もられている。二酸化炭素は、石炭や石油の消費、セメントの生産などにより大量に大気中に放出されているといわれる。勿論これに対する懐疑論も多くは見られる。多くは科学的論拠或いは政治力によって否定されている。また気候変動が世界各地で顕在化していることなどから、温暖化の主要因として相関性の高さが問われ、さらに悪化傾向が警告されている。2015年、環境省などが温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」の観測データから、2016年中にも推定経年平均濃度が温暖化の危険水準である400ppmを超えてしまうと報告した。危険水準400ppmの根拠は何だろうか。

水蒸気も温室効果を有し、温室効果への寄与度も最も多い。おそらく最大。蒸発と降雨を通じて、熱を宇宙空間へ向かって輸送する働きも同時に有する。人為的な水蒸気発生量だけでは、有為な気候変動は発生しない? どうもここは嘘くさい。

世界の排出量(CO2)
世界の主要国の排出量は、2010年時点で二酸化炭素に換算して約427億トンに達している。2010年時点での各国の排出量は、中国 (23%) が一番多く、それにアメリカ (16%)、インド (5.7%)、ロシア (5.4%)、日本 (2.9%)、ブラジル (2.6%)、ドイツ (2.1%)、インドネシア (1.9%)、カナダ (1.7%)、イラン (1.6%) と続く。
また、国連の下部機関であるUNFCCC(国連気候変動枠組条約)事務局の集計結果が、温室効果ガスインベントリにて公表されている。
日本における温室効果ガスの排出量は、2007年度に過去最高(二酸化炭素に換算して13億7400万トン)を記録。その後、リーマン・ショックの影響で、2008年度、2009年度と二年連続で排出量は前年度の水準を下回った。2011年の福島第一原子力発電所事故の発生後、電源構成が原子力から火力に変化したため、2011年度、2012年度と二年連続で排出量は前年度の水準を上回った。

水蒸気
各温室効果物質の寄与→水蒸気;48%、二酸化炭素;21%、雲 19%、オゾン;6%、その他;5%
ここでいう、雲は水蒸気が凝結した水だ。確かに液体の水は水蒸気ではないかも。つまり水素の寄与は67%、炭素の寄与は21%。しかも太陽光をさえぎる雲の役割は温暖化の原因にもなるが寒冷化の原因にもなりそうだ。水素エネルギー利用も意味があるかどうかとても怪しい。

以下の主張は、温暖化の原因は水蒸気でCO2の寄与はほとんどないとの主張と、その反論。
(主張)二酸化炭素よりも、水蒸気の方が温室効果が大きい。水蒸気は温室効果物質の寄与率は48%と寄与率は最も大きい、しかし水蒸気はすべての波長の赤外線を吸収するわけではなく、15µm付近の赤外線はCO2によって吸収され、CO2の寄与率は21%程度になります。二酸化炭素の濃度増加が地球温暖化の唯一の原因であると仮定した場合に、地球全体の平均的表面温度が今世紀中に約1℃上昇すると推定さるとした場合に対し、対流圏上部での水蒸気量を考慮し解析を行った場合、気温がさらに3倍程度上昇するという結果がある。大気中に含まれうる水蒸気量は「飽和水蒸気量」と呼ばれ、気温によって決まっており、大気中に飽和水蒸気量以上に存在する事はできません。なので、温室効果のあるCO2が増え気温が上昇することで、飽和水蒸気量が増えます、しかし相対湿度は変わりません。相対湿度が変わらない理由については明らかになっていません。過去20年ほどの人工衛星による観測データによれば、気温上昇とともに水蒸気量の増加が観測され「相対湿度がほぼ一定」であるという結果になっている。今後水蒸気量の増加によって、大気中のCO2濃度が倍増した場合の気温上昇は全体で少なくとも2.4°C、つまり水蒸気量の増加を考えなかった場合の2倍程度になるとされる。

(反論)水蒸気は温室効果物質の一つではあるが、飽和水蒸気量は気温によって決まっている。気温が高いほど飽和水蒸気量は大きくなる。水蒸気量を増やすには気温の上昇が必要である。その気温の上昇をもたらすのが二酸化炭素である。二酸化炭素が増え気温上昇が起きることで水蒸気量も増え温暖化を加速させている。つまり二酸化炭素による温暖化が無ければ、水蒸気は温顔化の原因にはなりえないのであり、温暖化の原因は二酸化炭素など人為起源の温室効果ガスであるといえる。水蒸気の温室効果は気候モデルでも考慮されている。水蒸気だけでは、温暖化傾向を説明できない。

上の(主張)(反論)温暖化の原因がCO2だとする説も、反対する説も全く説明になっていないことが分かる。一体何を言いたいのかもサッパリ不明だ。大気中のある成分のガスが太陽光のある成分の波長を選択的に吸収するとしても、すぐに熱平衡の状態になり、熱線として地上へ再反射するものと宇宙へ捨て去るものに分かれる。でも、CO2濃度は高々0.04%しかない。地球誕生以来の大幅な減少だ。植物達にとっては窒息死寸前の低濃度。森林が減少し、低CO2濃度でも生息可能なイネ科植物(稲、小麦、トウモロコシ)優勢の植物相に変化している。美しい花を咲かせる植物が減少し、イネ科の雑草ばかりの草地の世界を見たいと思う人達はどれだけいるのだろうか。CO2濃度と温暖化の関係をもう少し科学的に検証する必要があるだろう。

技術開発のお話
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オゾンホール

オゾンホール(Ozone hole)は、南極や北極上空の成層圏のオゾン層における春期のオゾンの濃度の減少を指す。春から初夏にかけてのオゾンの減少は、1970年代前半には発生していたことがわかっている。

発見
人工衛星から地球を撮影した画像で、まるで穴があいたように見えることからオゾンホールと呼ばれるようになった。**勿論こんなものは人工衛星からでも肉眼で判別できるような画像を撮影することは不可能。いかなる画像処理を施したのだろうか。 南極上空のオゾンが毎年春期に減少することの発見は、ジョセフ・ファーマン、ブライアン・ガードナー、ジョナサン・シャンクリンの1985年の論文によって発表されているが、最初の報告は1983年12月の極域気水圏シンポジウムおよび翌1984年ギリシャで開かれたオゾンシンポジウムでの、気象庁気象研究所(当時)の忠鉢繁らによる日本の南極昭和基地の観測データの国際発表である。
その後、ストラスキーらが人工衛星ニンバス7号の解析映像を発表し(Stolarski et al. 1986 "Nimbus 7 satellite mesurements of the spring time Antarctic ozone decrease" Nature, 322, 808-811)、オゾンホールがマスメディアを通じて一般に認知されるようになった。

モントリオール議定書
1987年のモントリオール議定書 (Montreal Protocol)により、オゾン層破壊物質の削減・廃止への道筋が定められた。この議定書では、5種類のフロンについて1998年までに半減すること、3種類のハロン(フッ化炭素類)を1992年以降に増加させないことが定められている。2007年11月現在、この議定書の締約国は、190か国及びEUである。日本では1988年に、「オゾン層保護法」が制定され、1989年7月より、フロン等の生産規制が始まっている。

近状
2002年には、オゾンホールが2つに分裂したが、これは最高気温のためと言われている。2003年には、いままでで最大のオゾンホールの発生が確認された。NASAが発表した2015年の調査結果では、モントリオール議定書以降の取り組みによりオゾンホールは着実に縮んでおり、21世紀末にはこの問題は解決する見通しである。
2019年は、南極オゾンホールの最大面積が1990年以降最小となり、消滅が最も早かった。この原因を気象庁は、南極域上空の冬の気温が高い特異な状態によるとしている。

特徴
南極上空に顕著にあらわれる。
春から初夏の極夜にかけてあらわれる。
年々規模が拡大する。
オゾンがもっとも減少するのは、成層圏の下層部分であるが、オゾンホールは単位面積あたりのオゾン全量(ドブソン単位によって計測される)によって示させるのが普通である。

発生原因
オゾンホールの発生は、フロンやハロンが紫外線によって分解(破壊)され、生成した塩素ラジカルが触媒としてオゾンを破壊するために引き起こされると言われている。この作用は、極成層圏雲と呼ばれる氷の雲の存在によって早められる。極成層圏雲を反応の媒体として、気相―固相の不均一反応が起こり、オゾンが急速に破壊されることが知られている。 極成層圏雲の存在は、冬の間に急激にエアロゾルが増加することによって判明してきた。極成層圏雲は、低温であるほど発生しやすい。南極の場合、極渦と呼ばれる強い偏西風帯が南北方向の熱輸送を阻害することにより、放射冷却で気温が低下しやすく、極成層圏雲が生成しやすい。

北極でもオゾンホールの存在は確認されているが、南極ほど大きくない。南半球は陸地が少なく、起伏の大きな地形も少ないが、北半球の場合、チベット高原、ロッキー山脈のような大規模山塊があり、陸地と海洋のコントラストも大きい。このため、北半球では大規模山塊や海陸のコントラストで励起されたロスビー波が成層圏に伝播して極渦を弱め、南極に比べて気温が低下せず、極成層圏雲が生成されにくい。

オゾンは大気中では微量な存在に過ぎないが、太陽光に含まれる紫外線を吸収し、地上にUVCを到達させない役割を担っている。 オゾンが減少すると対流圏に紫外線が到達し、成層圏で起きていたオゾン生成の光化学反応が対流圏で生じるようになるが、対流圏でのオゾンは存在期間が短いため、地表へはより多くの紫外線が到達することになる。これが、北極や南極の氷が溶け出す理由だと言われている(**チョット飛躍では?)。

地球温暖化への影響
成層圏では対流圏よりも強力な紫外線が酸素に当たる。その際に光化学反応が起きオゾンが発生するが、それに伴い熱も発生させるため成層圏では高度の上昇に伴い気温が上昇する。近年、成層圏ではオゾン層の希薄化に伴う光化学反応の減少と思われる気温の低下が報告されており、その代わりに対流圏付近でその光化学反応が行われ気温が上昇する事が考えられる。またオゾンホールの形成により通常よりも明るい色の雲が形成され、これが太陽光をより多く遮断するため温暖化を防いでいるとする研究結果も報告されている。

人体・生物への影響
南極圏でのオゾンホールは、オーストラリアやニュージーランドの南部にまで広がることがある。そのため、この地域での紫外線の増大は、帽子をかぶらないと肌が荒れてしまうほど強烈であるし、ヒトの健康に無視できない影響を及ぼす。定住人口が多い北極圏においても健康被害が懸念されている。 強度の紫外線は、皮膚がんを誘発する要因になる。紫外線の10%の増大は、男性に対しては19%、女性に対しては16%の皮膚がんの増加になるという研究結果もある。太陽光に含まれる紫外線A波・B波・C波が、細胞やDNAを傷つけてしまう。これらの地上到達を減らすオゾン層が減少すると、あらゆる生物の身体に悪い影響を及ぼす。

ところで、オゾンホールの問題は解決されたのか? 近年規模が縮小されているようでもある。フロンガス等の排出規制が功を奏したのか? それとも地球規模の変動の為か? 人類への影響は温暖化よりも大きそうだが。そもそもフロンガス等の微量なガスがオゾンホールの原因だったのか。ノーベル賞学者のマリス博士もオゾンホールの問題は科学者達が勝手に作り出した創造の産物だと言っている。

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波力発電

波力発電は、主に海水などの波のエネルギーを利用して発電する発電方法。風力発電ばかりが注目されている昨今だけど、かなり昔から色々なアイデアが出されており、脱炭素社会の自然エネルギー利用としてはもっと注目しても良いかもね。また、発電だけでなく別の形で利用する方法も無いのでしょうか。
波力発電の最大の問題はコストと言われている。1987年、文部科学省の海洋科学技術センターが、国際エネルギー機関(IEA)の協同研究として、米国、英国、アイルランド、ノルウェー、スウェーデンの参加を得て、浮体式波力発電装置「海明」(設備定格1,000kW)の研究開発を行った。この時の発電コストは63.2円/kWhだったとか。
その後も太陽光発電や風力発電が着々と低コスト化を進める中足踏み状態が続き2017年の英国の研究でも商業化実現は遠いと結論付けられた。

太陽光発電や風力発電は、数多く設備を設置し企業化量産化に向いているのに比べて、どうしても地形的制約があり、海洋と言うアクセスの悪さ等色々と解決すべき課題も多いのかも知れない。ただエネルギーの変換方式としては、波の力学的エネルギーを単に発電機を回すための別の力学的エネルギーに変換するだけなので、アイデアとしてはかなりの数の特許が申請されてきたようだ。つまり、その気になれば開発は容易ということ。主要なタイプとして、
① 振動水柱型空気タービン方式、② 振り子方式、③ 可動物体型、④ その他多数
Wave Energy Technology社は5~7円/kWhとしており、ほかの再エネや火力発電などにも優位性を持つとされ、2017年に1/10のスケールモデルで実証試験を行ったが、まだ実用には至っていないとか。

Wave Energy Technology社のPR→今なぜ波力発電?
◾ 24時間、365日、安定した電力供給が可能となり、投資リスクが低減。 ◾単位出力当たりの占有面積が小さい。 ◾土地取得が不要となり、設置コスト低減に寄与。 ◾浮遊型(半潜水型)なのでソーラーや風力に比べて景観上の問題が少ない。 ◾周辺自然環境への影響が少ない。 ◾メンテナンスの軽減、長寿命化により長期に渡り低運転コスト、低発電コストを実現。 自然エネルギー利用の一形態としてご注目願いたいということか。

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波動ポンプの開発

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人物列伝

からくり儀右衛門 島津製作所の歴史
安藤百福 吉野 彰 梶田 隆章 仁科 芳雄
アルキメデス メンデル
今西 錦司 木原 均 木村 資生 北里 柴三郎
沢田 敏男先生 羽仁 五郎 森 毅
ジョン・ガードン 屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ) シェーンハイマー
福沢諭吉 緒方洪庵
Nobel

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からくり儀右衛門

文字書き人形

江戸時代末に流行していた「からくり人形」の技術は凄い。からくり儀右衛門とは、田中 久重(たなか ひさしげ;1799年~ 1881年(明治14年))の幼名で、子供のころから「からくり人形」の傑作をたくさん残している。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。これらの技術は人型ロボットを作る技術とも重なるもので、機械工学というものも最終的にはこういう技術やアイデアは不可欠なものなのだ。田中 久重は、また、東洋のエジソンといわれるが、肥前国佐賀藩の精煉方に着任したあとは、蒸気機関車の模型、反射炉の設計、蒸気船「電流丸」など実に多くの工学の分野に功績を残している。
弓曳童子 晩年は田中製造所を設立し、これが後に株式会社芝浦製作所、現在の東芝の基礎となる。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。天才といえども常に努力を惜しまなかった人なのでしょう。
文字書き人形 **下記文章は佐賀県の方の書かれたもの。
先週かなり興奮気味に私に『田中久重』(1799~1881)の動画を見ることを勧めてきました。 彼はその感動的人物が佐賀藩と関係があったことに驚いていました。 久留米の鼈甲職人の長男に生まれた人。
  蒸気機関車佐賀の鍋島直正(鍋島閑叟)の下で田中久重は蒸気機関車や蒸気船、アームストロング砲などの制作にかかわった人でした。
佐賀藩は長崎の出島の警護の役をしていましたので殿様はオランダ船に乗り込み防衛の大切さを悟ったようです。田中を佐賀藩に招き、城内で機関車を走らせてみせました。その中に大隈重信もいたのです。日本に明治5年 新橋⇔横浜間に鉄道を引いた一人が大隈重信です。むべなるかな(宜なるかな)ですね。

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人物列伝
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NHK連続テレビ小説『まんぷく』

2018年10月より放送開始の、NHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルとなったのが、「カップヌードル」の生みの親、安藤百福氏だ。ドラマの内容は、実業家の夫・萬平とその妻・福子(ヒロイン)をモデルとする夫婦の成功物語。百福と満腹を語呂合わせしたのかも。
安藤夫妻 安藤 百福(ももふく);1910年(明治43年)~ 2007年(平成19年)、は日本の実業家でインスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として世界的にも知られる。日清食品(株)創業者。日本統治時代の台湾出身で、元は呉百福、民族は台湾人ということらしい。敗戦のため1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得しなければならなかった。
チキンラーメンの開発のすごいところは、ゼロから独力でスタートして、実験と失敗の繰り返しで開発したこと。すべて自分で考え観察し改良を重ねる。技術開発の手本だ。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」とヒット商品を世に送り出してきたが、失敗もある。
1974年7月、日清食品は「カップライス」を発売した。この商品は食糧庁長官から「お湯をかけてすぐに食べられる米の加工食品」の開発を持ちかけられたことがきっかけとなっもの。カップライスを試食した政治家や食糧庁職員の評判はすこぶる高く、マスコミは「奇跡の食品」、「米作農業の救世主」と報道した。「長い経営者人生の中で、これほど褒めそやされたことはなかった」と述懐しているが、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなって消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされた。安藤は日清食品の資本金の約2倍、年間の利益に相当する30億円を投じてカップライス生産用の設備を整備していたが「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという。この時の経験について安藤は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている。何故か国が技術開発に口を出すとうまく行かない。
日清製粉は宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発も手掛けている。百福さんが生前に残した言葉、「食足世平」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として今でも継承されているそうだ。

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吉野 彰(2019ノーベル化学賞)

吉野 彰(よしの あきら、1948年(昭和23年)1月30日~)。ご存知、今年(2019年)のノーベル化学賞受賞者。電気化学が専門。携帯電話やパソコンなどに用いられるリチウムイオン二次電池の発明者の一人。2019年10月、ノーベル化学賞受賞が決定した。福井謙一の孫弟子に当たるそうだ。 民間の会社(旭化成)で研究を続けていたようだ。
吉野 彰 1948年に大阪府に生まれる。担任教師の影響で小学校三・四年生頃に化学に関心を持ったという。少年時代の愛読書にマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』の訳本がある。
合成繊維の発展という世相を背景に、新たなものを生み出す研究をしたいと思いから、京都大学工学部石油化学科に入学。すでに量子化学分野の権威として知られていた福井謙一への憧憬も京大工学部入学の理由の一つで、大学では福井の講義を受講している。
福井謙一博士 大学の教養課程では考古学研究会に入り、多くの時間を遺跡現場で発掘に充てた。樫原廃寺跡の調査と保存運動にも携わり、また、考古学研究会での活動を通して後の妻と出会ったとのこと。大学院修士課程修了後、大学での研究ではなく企業での研究開発に関わることを望み、旭化成工業(現 旭化成株式会社)に入社。
リチウム・イオン電池の開発
1980年代、携帯電話やノートパソコンなどの携帯機器の開発により、高容量で小型軽量な二次電池(充電可能な電池)のニーズが高まる。従来のニッケル水素電池などでは限界があり新型二次電池が切望されていた。一方、陰極に金属リチウムを用いたリチウム電池による一次電池は商品化されていたが、金属リチウムを用いた二次電池は、充電時に反応性の高い金属リチウムが発火・爆発する危険があり、また、充電と放電を繰り返すと性能が著しく劣化してしまうという非常な難点があり、現在でもまだ実用化には至っていない。
  【一次電池の使用用途の違い】
 実は、電池と呼ばれているものには非常に多くの種類があるが、①一化学電池、②物理電池、③生物電池に分類できるという。

1. 私たちが日常生活で多用している乾電池は、「化学電池」に属するもの。化学電池とは、  電池の内部に充填された物質が「酸化」や「還元」といった化学反応によって他の物質へ変化する際に生じる電気エネルギーを利用する。普通の電池の他、「燃料電池」も化学電池の仲間に分類されます。「燃料電池」なんてまたまた難しい用語が出て来たので、後でキット説明が必要になるのでしょう。

  2. 物理電池とは、熱や光などのエネルギーを取り入れることで電力を取り出す(エネルギー変換)タイプの電池で、太陽電池がその代表です。太陽電池はソーラー電池ともいい、太陽光がエネルギーの元だ。

3. 生物電池とは、微生物などが起こす生物化学反応を利用する電池で、光合成を利用した「生物太陽電池」などがあるそうだ。今後発展していくのでしょう。

という訳で、一般に電池と言うと化学電池のことになる。しかし、まだ一次電池と二次電池の区別までたどり着いていないね。
化学電池とは、どうも乾電池と同じようなものと考えて良さそうです。乾電池の仕組みと構造は、種類によらずほぼ同じ。電池の内部では、「イオン化傾向」の異なる2種類の金属が電解液に浸されている。イオン化傾向が大きい(溶けてイオンになりやすい)物質はしだいに電解液の中に溶け出していく。金属は解けると+イオンになるので、電極は残された電子によって-に帯電する。つまり「負極」になる。一方、イオン化傾向が低い物質はほとんど電解液に溶けず、プラス側に帯電して「正極」になります。「正極」と「負極」を銅線で繋げば電気が流れる訳です。もちろん電気の流れる方向は決まっているので直流です。
更に、化学電池は、「一次電池」と「二次電池」に分類できます。
 一次電池:一度きりの使用で使い捨てタイプの乾電池です。
 二次電池:充電して繰り返し使える乾電池です。
白川英樹博士 【電導性ポリアセチレン】
ペットボトルの材料のPET(ポリエチレンテレフタラート)やスーパーの買い物袋のポリエチレンは小さな有機化合物(高分子を合成する原料の低分子化合物の総称をモノマーと呼びます)が多数つながった「高分子」(ポリマーとも言います)。普通の高分子は電気をまったく通しません。でも炭素と炭素との結合が二重結合と単結合が交互に並んだ共役(きょうやく)高分子は電気を少し流す性質を示します。炭素-炭素二重結合を形作っている内の1つはσ(シグマ)結合、もうひとつはπ(パイ)結合と呼び、この結合に関与している電子をそれぞれσ電子、π電子といいます。π電子は比較的動きやすいので、このπ電子が高分子の中を動いて電気が少し流れます。しかし共役高分子は電気が流れるといっても鉄や銅などの金属に比べればまだまだ電気は流れにくい化合物です。この共役高分子に臭素やヨウ素を加えると金属と同じくらい電気を通すようになります。これはπ電子の一部が引き抜かれて部分的にプラス(正孔)ができます(ドーピングと言います)。そのプラスを埋めるために隣のマイナスの電子(π電子)が動き、またその電子が抜けた場所にプラスができる。それが繰り返すことで電子がつぎつぎ動いて電気が流れます。白川英樹先生は共役高分子のひとつであるポリアセチレンの薄い膜を作る方法とドーピングによって共役高分子が金属のように電気をよく流すこと(導電性高分子)を発見して、2000年にA.J. ヒーガー氏、A.G. マクアダイアミッド氏と共にノーベル化学賞を受賞されました。

しかし、ポリアセチレンは真比重が低く電池容量が高くならないことや電極材料として不安定であるという問題があった。そこで、炭素材料を負極として、リチウムを含有するLiCoO2を正極とする新しい二次電池であるリチウムイオン二次電池 (LIB) の基本概念を1985年に確立した。吉野は、更にいくつかの点に着目し、LIB(リチウムイオン・バッテリー)が誕生したという。


吉野博士は、白川英樹(2000年ノーベル化学賞受賞者)が発見した電気を通すプラスチックであるポリアセチレンに注目。それが有機溶媒を使った二次電池の負極に適していることを1981年に見いだす。電池の開発が無機溶媒から有機溶媒へ、電極も有機化合物を使う時代になったわけですか。 さらに、正極にはジョン・グッドイナフらが1980年に発見したリチウムと酸化コバルトの化合物であるコバルト酸リチウム (LiCoO2) などのリチウム遷移金属酸化物を用いて、リチウムイオン二次電池の原型を1983年に創出する。
しかし、ポリアセチレンは真比重が低く電池容量が高くならないことや電極材料として不安定であるという問題があった。そこで、炭素材料を負極として、リチウムを含有するLiCoO2を正極とする新しい二次電池であるリチウムイオン二次電池 (LIB) の基本概念を1985年に確立する。吉野が次の点に着目したことによりLIB(リチウムイオン・バッテリー)が誕生した。 1.正極にLiCoO2を用いることで、
(1).正極自体がリチウムを含有するため、負極に金属リチウムを用いる必要がないので安全である
(2).4V級の高い電位を持ち、そのため高容量が得られる
2.負極に炭素材料を用いることで、
(1).炭素材料がリチウムを吸蔵するため、金属リチウムが電池中に存在しないので本質的に安全である
(2).リチウムの吸蔵量が多く高容量が得られる

また、特定の結晶構造を持つ炭素材料を見いだし、実用的な炭素負極を実現した。加えて、アルミ箔を正極集電体に用いる技術や、安全性を確保するための機能性セパレータなどの本質的な電池の構成要素に関する技術を確立し、さらに安全素子技術、保護回路・充放電技術、電極構造・電池構造等の技術を開発し、さらに安全でかつ、出力電圧が金属リチウム二次電池に近い電池の実用化に成功して、ほぼ現在のLIBの構成を完成させた。1986年、LIBのプロトタイプが試験生産され、米国DOT(運輸省、Department of Transportation)の「金属リチウム電池とは異なる」との認定を受け、プリマーケッティングが開始される。

しかし、商品化に1993年まで掛かった吉野とエイ・ティーバッテリ-(当時、旭化成と東芝の合弁会社、2004年解散)は出遅れ、世界初のリチウムイオン二次電池 (LIB) は西美緒率いるソニー・エナジー・テックにより1990年に実用化、1991年に商品化された。現在、リチウムイオン二次電池 (LIB) は携帯電話、ノートパソコン、デジタルカメラ・ビデオ、携帯用音楽プレイヤーをはじめ幅広い電子・電気機器に搭載され、2010年にはLIB市場は1兆円規模に成長した。小型で軽量なLIBが搭載されることで携帯用IT機器の利便性は大いに増大し、迅速で正確な情報伝達とそれに伴う安全性の向上・生産性の向上・生活の質的改善などに多大な貢献をしている。また、LIBは、エコカーと呼ばれる自動車 (EV, HEV, P-HEV) などの交通機関の動力源として実用化が進んでおり、電力の平準化やスマートグリッドのための蓄電装置としても精力的に研究がなされている。

ボルタ電池 最も初期の、化学電池はボルタ電池でしょう。高校で習うかも。イオン化傾向なんかと一緒に。Li→K→Ca→Na→Mg→Al→Zn→Fe→Ni→Sn→Pb→(H2)→Cu→Hg→Ag→Pt→Au 始めの方ほどイオンになり易い。亜鉛Znと銅Cuでは、亜鉛の方がイオンになりやすく、溶けてプラスのイオンになります。つまり陰極に電子を置き去りにして溶けます。ところが銅は水素よりもイオンになりにくい。希硫酸はH2SO4で、溶媒中で既にイオンになっている。水素イオンは電極(銅)から電子を受け取り、気体の水素になりブクブクと泡になって出てくる。図を見れば分かる通り、電極を導体で繋げば、電子の余った負極から電子の不足する正極の方へ電子の流れが出来ます。つまり電流が発生し、豆電球を光らせる訳です。
勿論、リチウムイオン二次電池はこんな簡単なものではありませんが、電池とはどんなものかを知っておくことは必要でしょう。吉野さんの話では、日本のノーベル化学賞は、福井→白川→吉野と19年周期で受賞しているので、多分次は2034年頃に再度受賞の可能性があるかもしれません。

技術開発のお話

人物列伝
scienceの部屋---はじめに

梶田 隆章(2015ノーベル物理学賞)

梶田 隆章 梶田 隆章(かじた たかあき、1959年3月9日~)は、日本の物理学者、天文学者。東京大学教授。専門はニュートリノ研究。ニュートリノ振動の発見により、2015年にアーサー・B・マクドナルド氏と共にノーベル物理学賞を受賞。川越高校出身。1959年3月9日、埼玉県東松山市の農家に生まれ。幼少期から読書好きで、両親に「お茶の水博士になりたい」と話していたこともあったそうだ。
埼玉大学で物理学を専攻して素粒子に興味を持つ。卒業後、東京大学大学院理学系研究科に進学。小柴昌俊研究室に所属し、この頃から小柴、戸塚洋二の下で宇宙線研究に従事。素粒子に特に強い関心があったわけではなかったが、「何となく興味があった」という理由で研究室を選んだという。

スーパーカミオカンデ ニュートリノ研究を始めたのは、1986年のこと。ニュートリノの観測数が理論的予測と比較して大幅に不足していることに気づき、それがニュートリノ振動によるものと推測。ニュートリノ振動とは、ニュートリノが途中で別種のニュートリノに変化するという現象。ニュートリノに質量があることを裏付けるものだ。これを明らかにするためには膨大な観測データが必要で、岐阜県神岡町(現・飛騨市)にあるニュートリノの観測装置カミオカンデで観測を始める。転機はカミオカンデより容積が15倍大きいスーパーカミオカンデが1996年に完成し、観測データが飛躍的に増大したことにある。
小柴博士 1996年よりスーパーカミオカンデで大気ニュートリノを観測、ニュートリノが質量を持つことを確認し、1998年ニュートリノ物理学・宇宙物理学国際会議で発表。1999年に第45回仁科記念賞を受賞した。これらの成果はすべてグループによる研究の賜物であった。2015年、アーサー・B・マクドナルドと共にノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」である。同年、ノーベル生理学医学賞を受賞した大村智らと共に文化勲章を受章した。

戸塚洋二博士 2015年の梶田博士のノーベル物理学賞の受賞理由となった「ニュートリノが質量をもつことを示すニュートリノ振動の発見」は、梶田博士の先輩であり師でもあった戸塚洋二博士を中心として行われた研究の賜物であり、梶田氏は戸塚氏の後継者としてノーベル物理学賞を受賞する形となる。戸塚本人は2008年に癌で亡くなっており、もしも戸塚が生きていれば梶田との共同受賞は確実だったと惜しまれた。梶田自身もノーベル物理学賞受賞発表時の記者会見の場において、「戸塚氏が生きていたら共同受賞していたと思いますか」との質問に「はい、そう思います」と即答している。指導教官の小柴昌俊によると、謙虚かつ控えめで、学生時代は議論ではあまり活発に発言しなかったが、実験には熱心だったという。中学時代の担任によると、先生の言うことをよく聞く素直な子供だったが、温和で控えめな性格で、授業中に積極的に発言するようなことはなかったという。趣味はなく、飲酒や喫煙もせず、休日は富山市の自宅で寝ていることが多いという。また、テレビではニュース番組を見るという。子供の頃は親から注意されるほど読書が好きで、隠れて本を読んでいた。 後進の育成のため東京大学や東京理科大学で教鞭を執る他、母校の埼玉県立川越高校でも授業や物理部の指導を行っている。

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ニュートリノの質量証明 素粒子物理学の定説覆す
 ニュートリノは物質を構成する基本単位である素粒子の中で、最も謎の多い存在だ。1970年代に確立された「標準理論」と呼ばれる素粒子物理学の基本法則では、その質量はゼロとされてきたが、この定説を覆したのが梶田氏だった。
 ニュートリノは電子型、ミュー型、タウ型の3種類があり、飛行中に別のタイプに変身する不思議な性質がある。「振動」と呼ばれる現象で、これを確認すればニュートリノに質量があることの証拠になると考えられていた。
 梶田氏は、超新星爆発に伴うニュートリノの観測で2002年にノーベル賞を受けた小柴昌俊氏(89)に師事。岐阜県飛騨市神岡町の地下にある観測施設「カミオカンデ」の観測データを解析し、宇宙線が大気中の原子核と衝突して生まれる「大気ニュートリノ」でミュー型が理論予想より少ない異変を1986年に見つけた。
 後継施設「スーパーカミオカンデ」の観測で、この異変が振動現象であることを証明。98年に岐阜県高山市で開かれた国際学会で発表して脚光を浴び、素粒子物理学に革命をもたらす。  この大発見は標準理論を超える新たな理論の構築を迫るものとなる。ニュートリノの質量は17種類ある素粒子の中で極端に軽く、同じ素粒子でもなぜ質量が大きく違うのかを説明する新たな法則が必要になるからだそうだ。
 ニュートリノは宇宙の謎を解く上でも鍵を握る。宇宙は138億年前に誕生し、物質もこのときに生まれた。物質の根源である素粒子の性質が詳しく分かれば、宇宙の誕生や進化の謎を解明する手掛かりが得られる。
 宇宙誕生時には物質を作る粒子と、電気的な性質が反対の「反粒子」が同じ数だけ存在していた。何故か、粒子だけが生き残って現在の宇宙が出来上がる。粒子の方が反粒子よりもほんの少し多かったからという説明もあるがホントのことはまだ分かっていないようだ。  この理由は2008年にノーベル賞を受けた小林誠、益川敏英両氏の理論によって、素粒子の一種であるクォークについては説明されたが、宇宙を今も満たすニュートリノについては未だ分かっていない。この謎を解明すれば、宇宙の理解が飛躍的に進みそうだ。

--発見のきっかけは:「小柴先生の助手だった1986年、改良したソフトを使ってカミオカンデのデータを解析したところ、大気ニュートリノのうちミュー型が予想より少ないことを見つけた。十中八九、ソフトの間違いだと思ったが、1年以上かけてチェックして88年に論文を書いた」
--ニュートリノが別のタイプに変化する振動現象の可能性は当時、指摘されていたのか:  「70年代に大気ニュートリノでミュー型が少ないとの論文があったが、明確ではなかった。正面からおかしいと言った論文は世界初だった」
--なぜ発見できたのか: 「予想しないことがあると思うかどうかだ。解析プログラムの結果を信じられるかということもある。何年にもわたり観測データを見てきた経験があり、自分の目にも自信があった」
--当時の思いは: 「ニュートリノは飛行中に振動しても変化はわずかと思われていたが、大きく変化していた。標準理論が予想していない振動が起きていると、非常に興奮した。あまりにも重要な問題に出くわしたので、このサイエンスをきちっとやらなければと思った」--小柴氏はどんな人か: 「サイエンスでは妥協しない。その意味では厳しい。私が学生だったときから偉い先生で、雲の上のような存在。サイエンスに対して厳しい目を持たないとちゃんとした研究ができないことを、後進にも伝えていきたい」
--ニュートリノの研究はなぜ重要なのか: 「ニュートリノの小さな質量は、標準理論よりも根本的で深いレベルの理論を作る上で非常に重要なことを教えてくれる。今の宇宙がなぜ物質だけでできているのかは大きな謎だが、ニュートリノには物質と反物質の数の違いの元を作るメカニズムがあるのではと考えられている。宇宙をより理解することは、生活には直接影響しないが、人類として重要なことではないか」
--素粒子研究には多額の費用が必要になる: 「その通りで、国にサポートしてもらわない限りできない。国民にきちんと重要性を分かっていただかないといけない。われわれがやることは、科学の重要性や面白さを地道に伝えていくことだ」
■「次の受賞」へ宇宙の謎に迫る 日米で競争激化  梶田隆章氏が成果を挙げたスーパーカミオカンデでは、ニュートリノの性質をさらに詳しく解明し、宇宙の謎に迫る新たな実験「T2K」が行われている。次のノーベル賞が狙える重要な研究だ。  T2Kチームは昨年5月、茨城県東海村の大強度陽子加速器施設「J-PARC(パーク)」から、西に295km離れたスーパーカミオカンデに向けて「反ミュー型」のニュートリノを発射する実験を開始した。チームは一昨年、ミュー型を発射し、電子型に変身する現象を世界で初めて発見。今度はこれと反対の性質を持つ反粒子に着目し、反ミュー型が反電子型に変わる様子をとらえる。
 新旧の実験データを比較して、変身する確率に違いが見つかれば、小林誠、益川敏英両氏が素粒子クォークで確立した理論がニュートリノでも成立することを示す大発見になる。  宇宙ではクォークよりもニュートリノの方が圧倒的に多い。宇宙誕生時にあった反粒子が消滅し、物質を作る粒子だけが生き残った仕組みが、現在の宇宙形成により大きな意味を持っていたことが裏付けられる。
 チームを率いる京都大の中家剛教授は「世界に先駆けて5~10年後に発見し、宇宙を理解する新しい扉を開きたい」と話す。
 スーパーカミオカンデの体積を20倍に大型化した「ハイパーカミオカンデ」の建設構想もある。100年分の観測データがわずか5年で得られる3代目の施設で、小林・益川理論の精密観測を目指す。2025年ごろの観測開始が目標だが、800億円に及ぶ建設費が課題だ。
 国際競争も過熱している。米国などのチームはT2Kを追って同様の実験を始めており、小林・益川理論の検証で巻き返しを狙っている。米国はハイパーカミオカンデに似た実験も日本と同時期の開始を目指しており、新発見の競争は激化しそうだ。
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小林・益川 小林・益川理論
小林誠(京都大学、当時)と益川敏英(京都大学、当時)によって1973年に発表された理論。 両者は1973年に発表した論文の中で、もしクォークが3世代(6種類)以上存在し、クォークの質量項として世代間の混合を許すもっとも一般的なものを考えるならば、既にK中間子の崩壊の観測で確認されていたCP対称性の破れを理論的に説明できることを示した。 クォークの質量項に表れる世代間の混合を表す行列はカビボ・小林・益川行列(CKM行列)と呼ばれる。2世代の行列理論をN.カビボが1963年に提唱し、3世代混合の理論を1973年に小林・益川の両者が提唱した。

カビボ・小林・益川行列(Cabibbo-Kobayashi-Maskawa matrix)は、素粒子物理学の標準理論において、フレーバーが変化する場合における弱崩壊の結合定数を表すユニタリー行列。 頭文字をとってCKM行列と呼ばれる。クォーク混合行列とも言われる。 CKM行列はクォークが自由に伝播する場合と弱い相互作用を起こす場合の量子状態の不整合を示しており、CP対称性の破れを説明するために必要不可欠である。この行列は元々ニコラ・カビボが2世代の行列理論として公表していたものを、小林誠と益川敏英が3世代の行列にして完成したものである。発表当時クォークはアップ、ダウン、ストレンジの3種類しか見つかっていなかったが、その後、1995年までに残りの3種類(チャーム、ボトム、トップ)の存在が実験で確認された。
KEKのBelle実験およびSLACのBaBar実験で、この理論の精密な検証が行われた。これらの実験により小林・益川理論の正しさが確かめられ、2008年、小林、益川両名にノーベル物理学賞が贈られた。

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仁科 芳雄(日本の素粒子論の草分け)

仁科・湯川・朝永 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年(明治23年)~1951年(昭和26年))は、日本の現代物理学の父と言われる人だ。日本に量子力学の拠点を作り、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげる。なんせ彼の弟子に当たる人たちの活躍が素晴らしい。日本のノーベル物理学賞を受賞した方々は、皆彼の薫陶を受けた弟子が孫弟子。なぜ日本にこんなに物理学賞が多いのか。

ニールス・ボーアのもとで身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理を世界水準に引き上げた。仁科の主催する研究室からは、多くの学者が巣立っていく。ニールス・ボーアはデンマークの人。戦争の時代に各国の逸材を自国に招き分け隔てなく育てた学者で、量子力学のリーダー格。アインシュタインとも交流があったとか。

Bohr 彼の弟子たちの一部は後、アメリカに渡り原子爆弾の製造に取り組む。仁科も日本に帰り、原子爆弾の製造に関係していたことは間違いない。ドイツやソ連の学者達も同様だ。残念ながら、或いは幸いと言うべきが、日本はトップの判断や資金不足の影響で敗戦までに間に合わなかった。仁科等が研究用に造っていた科学装置はGHQの手によって密かに破壊されつくされたらしい。だから、日本の物理学は専ら理論科学の方面だけで活躍することに。

1949年(昭和24年)、湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞。π中間子の発見を理論的に予測した。

1965年、朝永振一郎博士が相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。 湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一等が仁科の弟子で、多くの孫弟子がいる。仁科の影響の及ばない素粒子論の研究者は少ないとされている。

2002年、小柴昌俊博士がカミオカンデを使って太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した功績でノーベル物理学賞。日本もかなり豊かになったのか、実験科学の面でも功績があげられるようになった。ただ実験装置がだんだん巨大になるので国際協力が不可欠に。

2008年、南部陽一郎博士、自発的対称性の破れの発見により、ノーベル物理学賞を受賞。この時は、益川・小林博士も同時受賞。同時に3人も受賞、日本物理学大国なのでしょうか。

2015年、梶田隆章博士がスーパーカミオカンデを使ってニュートリノ振動を発見したことでノーベル賞を受賞。先輩の戸塚洋二氏も功績があったのだが惜しくも亡くなっていた。

以上、7人が日本の量子力学、素粒子の世界の物理学の伝統を繋いで来た方々らしい。梶田隆章先生今後の日本の展望はいかが。どうも梶田さんの後を継ぐ世代、やや心もとない気がするらしい。今後を繋ぐ若手が育って来ているかどうかだ。今の教育制度の元では、根気のいる地道な研究を継続してい行く力が育つがどうかとても心配だ。

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アルキメデス

アルキメデス アルキメデス(Archimedes、紀元前287~212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。古代ギリシアの科学者といえば一にも二にも彼だろう。ただし、時代的にはアレキサンダー帝国が無くなり、古代ローマが台頭してきた時期だ。当時の世界の学問の中心地はアレクサンドリア(プトレマイオス王朝)だ。アルキメデスはギリシアの植民都市シラクサの人。ローマの侵略に対して祖国シラクサ防衛のために知恵を傾けた英雄でもあるようだ。ただ、ローマ軍は彼一人のため多大な犠牲を強いられたようだ。

アルキメデスの人生の記録は、彼が没してから長い時間が過ぎた後に古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、全容を掴めていない。アルキメデスの友人のヘラクレイデスも伝記を書き残したといわれるが、失われてしまい細部は伝わっていない。しかし、没年については例外的に、正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死んだことが、彼の死に関する故事の記述からわかっているからである。彼の生年は、死んだときの年齢(75歳とされている)から逆算して求められたもの。

**ポリュビオス
ポリュビオス(紀元前204? ~紀元前125年?)。古代ギリシアのメガロポリス生まれの歴史家である。第三次マケドニア戦争のピュドナの戦いの後、人質としてローマに送られ、スキピオ・アエミリアヌスの庇護を受けた。

シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『Universal History 』(普遍史)には70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが出典に利用している。この書ではアルキメデス個人にも若干触れ、また街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。 アルキメデスは紀元前287年、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア島のシラクサで生まれた。この生年は、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者[3]「ペイディアス[4] (Phidias)」と告げている。プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している。アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『幾何学理論』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』にはエラトステネスに宛てた序文がある。

アルキメデスは紀元前212年、第二次ポエニ戦争でローマの将軍がシラクサを占領した時に殺された。アルキメデスの評判を知っていた将軍は、彼には危害を加えないように命令を出していた。アルキメデスの家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは砂に描いた図形の上にかがみこんで、何か考えこんでいた。アルキメデスの家とは知らないローマ兵が名前を聞いたが、没頭していたアルキメデスが無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したといわれている。アルキメデス最期の言葉は「図をこわすな!」だったとか。これも有名なエピソードだ。

【アルキメデスの原理】
アルキメデスは浮力の原理を用いて黄金の王冠が純金よりも密度が低いか否か判断したと言われる。最も広く知られたアルキメデスのエピソードは、「アルキメデスの原理」を思いついた経緯である。ヒエロン2世は金細工職人に金塊を渡して、神殿に奉納するための誓いの王冠を作らせることにした。しかし王冠が納品された後、ヒエロン王は金細工師が金を盗み、その重量分の銀を混ぜてごまかしたのではないかと疑いだした。
もし金細工師が金を盗み、金より軽い銀で混ぜ物をしていれば、王冠の重さは同じでも、体積はもとの金地金より大きい。しかし体積を再確認するには王冠をいったん溶かし、体積を計算できる単純な立方体にしなくてはならなかった。困った王はアルキメデスを呼んで、王冠を壊さずに体積を測る方法を訊いた。アルキメデスもすぐには答えられず、いったん家に帰って考えることにした。
何日か悩んでいたアルキメデスはある日、風呂に入ることにした。浴槽に入ると水面が高くなり、水が縁からあふれ出した。これを見たアルキメデスは、王冠を水槽に沈めれば、同じ体積分だけ水面が上昇することに気がついた。王冠の体積と等しい、増えた水の体積を測れば、つまり王冠の体積を測ることができる。ここに気がついたアルキメデスは、服を着るのを忘れて表にとびだし「ヘウレーカ、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら、裸のままで通りをかけだした。確認作業の結果、王冠に銀が混ざっていることが確かめられ、不正がばれた金細工師は、死刑にされてしまった。 これも有名なエピソード。
比重が大きい金の体積をこの方法で調べようとしても、水位変動が小さいため測定誤差を無視できないのではとの疑問も提示されている。

実際には、アルキメデスは自身が論述『浮体の原理』で主張した、今日アルキメデスの原理と呼ばれる流体静力学上の原理を用いて解決したのではと考えられる。この原理は、物質を流体に浸した際、それは押し退ける流体の重量と等しい浮力を得ることを主張する。この事実を利用し、天秤の一端に吊るした冠と釣り合う質量の金をもう一端に吊し、冠と金を水中に浸ける。もし冠に混ぜ物があって比重が低いと体積は大きくなり、押し退ける水の量が多くなるため冠は金よりも浮力が大きくなるので、空中で釣り合いのとれていた天秤は冠側を上に傾くことになる。ガリレオ・ガリレイもアルキメデスはこの浮力を用いる方法を考え付いていたと推測している。

【アルキメディアン・スクリュー】
アルキメディアン・スクリューは効率的な揚水に威力を発揮する。工学分野におけるアルキメデスの業績には、彼の生誕地であるシラクサに関連する。ギリシア人著述家のアテナイオスが残した記録によると、ヒエロン2世はアルキメデスに観光、運輸、そして海戦用の巨大な船「シュラコシア号」の設計を依頼したという。シュラコシア号は古代ギリシア・ローマ時代を通じて建造された最大の船で、アテナイオスによれば搭乗員数600、船内に庭園やギュムナシオン、さらには女神アプロディーテーの神殿まで備えていた。この規模の船になると浸水も無視できなくなるため、アルキメデスはアルキメディアン・スクリューと名づけられた装置を考案し、溜まった水を掻き出す工夫を施した。これは、円筒の内部にらせん状の板を設けた構造で、これを回転させると低い位置にある水を汲み上げ、上に持ち上げることができる。現代では、このスクリューは液体だけでなく石炭の粒など固体を搬送する手段にも応用されている。
アルキメディアン・スクリューは、ねじ構造を初めて機械に使用した例として知られている。ねじ構造はアルキメデスのような天才にしか思いつかないという人もおり、実際に中国でねじ構造を独自に機械として使用することはできなかった。「ねじは中国で独自に生み出されなかった、唯一の重要な機械装置である」とも言われる。本当かな??

【アルキメデスの鉤爪】
アルキメデスの鉤爪とは、シラクサ防衛のために設計された兵器の一種である。「シップ・シェイカー」(the ship shaker) とも呼ばれるこの装置は、クレーン状の腕部の先に吊るされた金属製の鉤爪を持つ構造で、この鉤爪を近づいた敵船に引っ掛けて腕部を持ち上げることで船を傾けて転覆させるものである。2005年、ドキュメント番組「Superweapons of the Ancient World」でこれが製作され、実際に役に立つか検証してみたところ、クレーンは見事に機能した。

光線兵器 【アルキメデスの熱光線】
2世紀の著述家ルキアノスは、紀元前214~紀元前212年のシラクサ包囲の際にアルキメデスが敵船に火災を起こして撃退したという説話を記している。数世紀後、トラレスのアンテミオスはアルキメデスの兵器とは太陽熱取りレンズだったと叙述。これは太陽光線をレンズで集め、焦点を敵艦に合わせて火災を起こしていたもので「アルキメデスの熱光線」と呼ばれたという。
このようなアルキメデスの兵器についての言及は、その事実関係がルネサンス以降に議論された。ルネ・デカルトは否定的立場を取ったが、当時の科学者たちはアルキメデスの時代に実現可能な手法で検証を試みた。その結果、念入りに磨かれた青銅や銅の盾を鏡の代用とすると太陽光線を標的の船に集めることができた。これは、太陽炉と同様に放物面反射器の原理を利用したものと考えられた。1973年にギリシアの科学者イオアニス・サッカスがアテネ郊外のスカラガマス海軍基地で実験を行った。縦5フィート(約1.5m)横3フィート(約1メートル)の銅で皮膜された鏡70枚を用意し、約160フィート(約50m)先のローマ軍艦に見立てたベニヤ板製の実物大模型に太陽光を集めたところ、数秒で船は炎上した。
2005年10月、マサチューセッツ工科大学 (MIT) の学生グループは一辺1フィート(約30cm)の四角い鏡127枚を用意し、木製の模型船に100フィート(約30m)先から太陽光を集中させる実験を行った。やがて斑点状の発火が見られたが、空が曇り出したために10分間の照射を続けたが船は燃えなかった。しかし、この結果から気候条件が揃えばこの手段は兵器として成り立つと結論づけられた。MITは同様な実験をテレビ番組「怪しい伝説」と協同しサンフランシスコで木製の漁船を標的に行われ、少々の黒こげとわずかな炎を発生させた。しかし、シラクサは東岸で海に面しているため、効果的に太陽光を反射させる時間は朝方に限られてしまう点、同じ火災を起こす目的ならば実験を行った程度の距離では火矢やカタパルトで射出する太矢の方が効果的という点も指摘された。原理的には可能だが、実際にやってみると難しいようだ。

【その他力学】
梃子 てこについて記述した古い例は以前から知られていたようだ。アルキメデスは『平面の釣合について』において、てこの原理を説明している。4世紀のエジプトの数学者パップスは、アルキメデスの言葉「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう。」を引用して伝えた。プルタルコスは、船員が非常に重い荷物を運べるようにするためにアルキメデスがブロックと滑車機構をどのように設計したかを述べた。また、アルキメデスは第一次ポエニ戦争の際にカタパルトの出力や精度を高める工夫や、オドメーター(距離計)も発明した。オドメーターは歯車機構を持つ荷車で、決まった距離を走る毎に球を箱に落として知らせる構造を持っていた。

【数学】
アルキメデスはまた数学の分野にも大きな貢献を残した。級数を放物線の面積、円周率計アルキ代数螺旋の定義、回転面の体積の求め方や、大数の記数法も考案している。
彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。
アルキメデスは取り尽くし法を駆使して円周率を求めた。アルキメデスは、現代で言う積分法と同じ手法で無限小を利用していた。背理法を用いる彼の証明では、解が存在するある範囲を限定することで任意の精度で解を得ることができた。これは取り尽くし法の名で知られ、円周率π(パイ)の近似値を求める際に用いられた。
アルキメデスは、ひとつの円に対し外接する多角形と、円に内接する多角形を想定した。この2つの多角形は辺の数を増やせば増やす程、円そのものに近似してゆく。アルキメデスは96角形を用いて円周率を試算し、ふたつの多角形からこれは31⁄7(約3.1429)と310⁄71(約3.1408)の間にあるという結果を得た。
また彼は、円の面積は半径でつくる正方形に円周率を乗じた値に等しいことを証明した。『球と円柱について』では、任意の2つの実数について、一方の実数を何度か足し合わせる(ある自然数を掛ける)と、必ずもうひとつの実数を上回ることを示し、これは実数におけるアルキメデスの性質と呼ばれる。
『円周の測定』にてアルキメデスは3の平方根を265⁄153(約1.7320261)と1351⁄780(約1.7320512)の間と導いた。実際の3の平方根は約1.7320508であり、これは非常に正確な見積もりだったが、アルキメデスはこの結果を導く方法を記していない。
球の体積は無限小・積分を用いることで公式を発見した。また球の表面積は無限小・積分・カヴァリエリの原理を用いることで公式を同じ高さの円柱の側面の表面積と等しいことを示す。
ゼロの対極にある無限集合の概念に、到達していたらしいという新しい資料が発見されている。

アルキメデスの数学に関する記述は古代においてほとんど知られていなかったらしい。著述はギリシア語の方言ドーリス地方語であったし、原典は伝わっていない。アルキメデスは存命中アレクサンドリアの数学者達とは多少交流を持っていた事も手伝い、この地ではアルキメデスの論説も多少伝わっていたようだ。彼らが研究の途上で再発見した事項も多いのだろう。

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メンデル

メンデル グレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel、1822年7月20日~ 1884年1月6日)は、オーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭。植物学の研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したことで有名。遺伝学の祖。
当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は交雑とともに液体のように混じりあっていく(混合遺伝)と考えられていた。メンデルの業績はこれを否定し、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱したことである。

オーストリア帝国のオドラウ近郊のハインツェンドルフ(Heinzendorf bei Odrau, 現在のチェコ・モラヴィア)に小自作農(果樹農家)の子として生まれ、ヨハンと名付けられる。母語はドイツ語であった。オルミュッツ大学で2年間学んだ後、1843年に聖アウグスチノ修道会に入会し、モラヴィア地方ブリュンの修道院に所属、修道名グレゴール(グレゴリオ)を与えられる。

メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた。1847年に司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える。1850年、教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった。生物学の劣等性が生物学の大変革をもたらす遺伝の法則を発見するのだから世の中は分からないものだ。

1851年から2年間ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名な クリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ。ブリュンに帰ってからは1868年まで高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが失敗している。 この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した。このころに1860-1870年にかけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない。

遺伝の研究
メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは、1847年司祭として修道院の生活を始めた時である。1862年にはブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。 有名なエンドウマメの交配実験は1853年から1868年までの間に修道院の庭で行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があるため、様々な形質や品種があり人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目。そしてエンドウ豆は、花の色が白か赤か、種の表面に皺があるかない(滑らか)かというように対立形質が区別しやすく、さらに、花弁の中に雄しべ・雌しべが存在し花弁のうちで自家受粉するので、他の植物の花粉の影響を受けず純系を保つことができ、また、どう人為交配しても必ず種子が採れ、さらには一世代が短いなどの観察のしやすさを備えていることから使用した。次に交配実験に先立って、種商店から入手した 34品種のエンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に 22品種選び出した。これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった。エンドウ豆を実験の資料に選んだことが彼が普通の生物学者と異なり、物理学と数学等の幅広い教養の基盤を有する非凡な点であったようだ。

その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で 2n=14であるからである。

この結果の口頭での発表は1865年にブリュン自然協会で、論文発表は1866年に『ブリュン自然科学会誌』で行われた。タイトルは“Versuche über Pflanzen-Hybriden”(植物雑種に関する実験)であった。さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった。

1868年には人々に推されブルノ修道院長に就任し多忙な職務をこなしたが、毎日の仕事に忙殺され1870年頃には交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった。

メンデルは、研究成果が認められないまま、1884年に死去した。メンデルが発見した法則は、1900年に3人の学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらによりそれぞれ独自に(つまり共同研究ではない)再発見されるまで埋もれていた。彼らがそれぞれ独自に発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった。ライフ誌が1999年に選定した、「Life's 100 most important people of the second millennium(この1000年でもっとも重要な100人)」に入っている。

生物学の基本中の基本ともとも言える遺伝の法則が、1900年まで認められていなかったというのもある意味驚きだ。高校教科書でも紹介される物理や化学の法則は、大体18世紀には総て発見済みだ。

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今西 錦司

今西 錦司 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年1月6日~1992年6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学、1939年)。京都府出身。
今西錦司氏は、生物学の研究において次々とユニークな新しい学説を提案し、今では彼の考えは寧ろ世界の標準として認知されつつある。研究においては多彩な仲間同士の自由な対話を重んじ、多くの弟子達を育成。ノーベル賞クラスの学者だったようだ。
今西氏の活動は登山家、探検隊としてのものが有名だが、登山も探検も結局彼等の研究の成果に結びつくもので、登山家、探検隊としては資金調達の名人だったようだ。 生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。住み分け理論はダーウィンの進化論を補完する基礎理論だ。
今西 錦司 第二次大戦後は、京都大学の理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類学の礎を築いた。「彼らは人と同じように知能を持ち、社会生活をしている」ので、彼等と同じ目線で考えることの必要性を訴え、野外の自然観察の重要性を強調し、類人猿研究の先駆けを作った。
現代文明が行き詰まりを見せている今、人間とは何かを見直そうという世界的な風潮のなか、ヒトと共通の先祖を持つ類人猿の研究がホットな話題として注目されてきている。

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木原 均

木原 均 木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日~1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。 コムギの祖先を発見したことで知られる。近縁の植物のゲノムと遺伝子との関係を知り、ゲノムの遷移や進化の過程を調査するのに用いられる手法を確立した。また、スイバの研究から種子植物の性染色体も発見した。種なしスイカの開発者でもある。

木原がコムギの遺伝子の研究をすることになったのは、北大の先輩で、当時大学院生だった坂村徹の「遺伝物質の運搬者(染色体)」という題の講演を聴いたことがきっかけ。木原は話が面白くて感激のあまり坂村の研究室まで押しかけていったという。これは木原が学問に目覚め、科学者としての出発点でもあった。しかし木原はこの後、他の植物生理学の研究を続けコムギには縁なく過ごしていたが、坂村が植物生理学の教授となり外国留学することになったため、コムギの遺伝子研究を木原に委ねたのである。 恵迪寮出身であり、大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当した。日本スキー草創期に発展に尽くした一人で、科学的トレーニングを提唱し、スキー、テニス、野球などをたしなんだ。 木原の遺した言葉として「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」(The History of the Earth is recorded in the Layers of its Crust; The History of all Organisms is inscribed in the Chromosomes.) というものが知られている。これは1947年刊行の著書『小麦の祖先』の前書きにある以下の文章を元に後年整理されたものだという。

木原 均 「小麦の歴史はこの染色体に刻まれてあって、恰も地球の歴史が地層と云う書物で読めるやうに、こゝから小麦の分類や祖先の発見がなされるのである。 — 木原均、『小麦の祖先』(1947年)」
生命科学を地球の医師に
生命科学の一定義は、「生命科学は生命に関するすべての分野を総動員して人類生存の活路を見出そうとする総合学術である」としています。 生命科学の役割はたくさんありますが、とりわけ人口の爆発的増加、資源の枯渇、環境汚染等の対策には、全人類規模で当たらなければなりません。 地球は人間だけのものではなく、全ての生物がここで生を営んでいるのです。他の生物なしでは人間は生きることができません。 このままなりゆきまかせで行くならば、いつかは自滅することでしょう。 医師が人類の病気を予防したり治療するように、生命科学は地球の医師となって働いてほしいものです。 (1976年9月14日 北海道大学創基百周年記念講演より)

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木村 資生

木村 資生 木村 資生(きむら もとお、1924年11月13日 ~1994年11月13日)は、日本の集団遺伝学者。中立進化説を提唱。日本人で唯一ダーウィン・メダルを受賞。
中立進化説とは、分子レベルの進化はダーウィン的な「サバイバル・オブ・ザ・フィッテスト」(適者生存)だけではなく、生存に有利でも不利でもない中立的な変化で「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」、すなわち、たまたま幸運に恵まれたものも残っていくという学説である。中立説は発表当初多くの批判を浴び世界的な論争を引き起こした。その後、この説は広く認められるようになり、現代進化論の一部となっている。

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北里 柴三郎

北里 柴三郎 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、1853年~ 1931年(昭和6年))は、日本の医学者・細菌学者・教育者・実業家。「日本の細菌学の父」。ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。
第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)だったのに惜しかったね。 名字の正しい読みは「きたざと」。北里が留学先のドイツで「きたざと」と呼んでもらう為に、ドイツ語で「ざ」と発音する「sa」を使い、「Kitasato」と署名したところ、英語圏では「きたさと」と発音され、一般的となってしまったらしい。

肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まる。父は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格。母は幼少時江戸育ち、嫁いでからは庄屋を切りもり。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼。柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わる。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。

1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮。翌年7月に廃止。熊本医学校に入学。そこで教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚める。マンスフェルトから特別に語学を教った柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになる。

1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学。在学中よく教授の論文に口を出し大学側と仲が悪く、何度も留年。頭良すぎた? 1883年(明治16年)には、医学士。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書く。演説原稿が残っている。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職。

留学時代
柴三郎は同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツのベルリン大学へ留学。そこで、コッホに師事し大きな業績を上げる。1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させる。さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞。柴三郎が受賞できなかったのは、運が悪かった? ペスト菌を発見だけでも十分ノーベル賞級では。でもこの時点はまだペスト菌は発見されていない。

論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から多くの招きのオファーを受ける。しかし、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に日本に帰国。

帰国後
北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」の烙印を押され、母校の東大医学部と対立する形に。それは単に東大を敵に回すことだけでなく柴三郎自身の研究者生命も危うくすることを意味していた。しかし、ベルリン大学へ留学緒方正規の紹介ではなかったか。弟子の成長を嫉妬したのであろうか? 多様な考えがあることは成長へのバネ。権威に胡坐をかいて既得権を守ろうとしたのか?

******************脚気
脚気(かっけ、beriberi)はビタミン欠乏症の一つ。重度で慢性的なビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患。軽度のものはチアミン欠乏症(Thiamine deficiency)と呼ばれる。心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起きることから脚気と呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心、しょうしん)を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。最悪の場合には死亡に至る。
リスクファクターには、白米中心の食生活、アルコール依存症、人工透析、慢性的な下痢、利尿剤の多量投与など。
日本では、白米が流行した江戸において疾患が流行したため「江戸患い」と呼ばれた。大正時代には、結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。1910年代にビタミンの不足が原因と判明し治療可能となったが、死者が1000人を下回ったのは1950年代。その後も1970年代にジャンクフードの偏食によるビタミン欠乏、1990年代に点滴輸液中のビタミン欠乏によって、脚気患者が発生している。 大日本帝国海軍で軍医の高木兼寛は、イギリスの根拠に基づく医療に依拠して、タンパク質が原因であると仮定して、洋食、麦飯を試み、1884年(明治17年)の導入により、1883年に23.1パーセントであった発症率を2年後には1パーセント未満に激減させた。その理論は誤っていたが、疫学の科学的根拠を得ていたわけ。

だが、当時医学の主流派は、理論を優先するドイツ医学を模範としていたことから高木は批判され、また予防成績も次第に落ちて様々な原因が言われ、胚芽米も導入された。これに対抗して、大日本帝国陸軍は白米を規則とする日本食を採用した。『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、死者総計の約2割、約4000人の死因が脚気であり、その後も陸軍は脚気の惨害に見舞われた。 農学者の鈴木梅太郎は、1910年(明治43年)に動物を白米で飼育すると、脚気類似の症状が出るが、米糠・麦・玄米を与えると、快復することを報告した。これを基にして翌年、糠中の有効成分を濃縮して「オリザニン」として販売したが、医学界においては伝染病説と中毒説が支配的であり、また農学者であって医学者ではなかった鈴木が提唱したこともあり、彼の栄養欠乏説は当時受け入れられなかった。

**鈴木 梅太郎**
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)~ 1943年(昭和18年)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を脚気の予防に使えることを発見したことで有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。文化勲章受章者。長岡半太郎、本多光太郎と共に理研の三太郎と称される。農芸化学者だったからか医学界にはなかなか認められなかったらしい。権威主義というかセクト主義。学問と言うのはすそ野の広さが大切だね。

1912年にポーランドのカジミェシュ・フンクが『ビタミン』という概念を提唱したが、日本帝国陸軍はなおも栄養説を俗説であるとしてさげすみ、外来の栄養説を後追いした。今日から観ると、陸軍主導の調査会には、真の原因を解明するだけの能力はなかったとも指摘されている。陸軍が白米の給食を止めて、麦を3割含む麦飯に変更したのは、海軍から遅れること30年の大正2年のこと。
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**東大教授・緒方正規、どうしちゃんたんですかね。柔軟性に欠ける権威主義。彼の弟子たちが勝手に忖度したのかもしれないけど。今でも、医学界にはこんな風潮残っているんでしょうか。山崎豊子の「白い巨塔」なんでいう小説もあるけど。
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日本に帰国した柴三郎は自分の希望する研究ができると思っていたはず。実際は北里の思う通りには行かなかった。東大と対立した柴三郎を研究者として暖かく受け入れてくれる研究所はどこもなく、学界に大きな力と人脈を持つ東大を恐れて誰も援助する者も無し。研究者・北里柴三郎はまさに孤立無援の状態であり、これが東大の恩師を敵に回した者の(科学の仮説に敵味方なぞないのにね)厳しい現実だった。そんな時、この北里柴三郎の危機的状況を静かに目撃していた福澤諭吉は海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれにふさわしい研究環境が用意されない日本の状況を深く失望。多大な資金援助により北里柴三郎の為の「私立伝染病研究所」を設立。そして、北里柴三郎は福沢に感謝して、そこの初代所長に。その後、私立伝染病研究所は国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」(現・東京大学医科学研究所)となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた。
しかし、学問上の対立を権力で封じ込めようとする悪癖。今でもあるみたいだ。そういえば脚気の原因を細菌とする説は、文学でも有名な森鴎外にも受け継がれてしまったようだ。

かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な対立が背景にあるといわれている。その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里柴三郎はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大を憎悪していた為、すぐに所長を辞任した。そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所。北里大学の母体)を設立した。そこで新たに、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

福沢諭吉の死後の1917年(大正6年)、北里柴三郎は福沢諭吉による長年の多大なる恩義に報いる為、「慶應義塾大学医学部」を創設し、初代医学部長、付属病院長となった。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。

また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらの状況であったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として「大日本医師会」が誕生した。その後、1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。

***緒方正規
緒方 正規(おがた まさのり、~1919年)は日本の衛生学者、細菌学者。東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。
1853年肥後国に熊本藩医緒方玄春の子として生まれる。古城医学校を経て、1880年東京帝大医学部を卒業。緒方洪庵なら有名だけと。

翌年ドイツのマックス・フォン・ペッテンコーファーのもとに留学、ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。また、1882年からはベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子であるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。
1000円 1884年に帰国。1885年には東大医学部の衛生学教室と内務省衛生試験所に着任し、衛生試験所に細菌室を創設する。同年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー宛に紹介状を書いている。 1885年に脚気病原菌説を発表するが、ドイツ留学中の北里はこの学説を批判した。現在では北里の批判が正しかったことが分かっている。この事件によって、北里は東大の医学部と対立しつづけることになる。赤痢や後述のペスト菌の研究でも二人は対立しあい、研究面で何かと対決することが多かったが、私生活では晩年まで交流が続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を述べている。緒方の弟子たちが悪かったのか。1886年帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。

1896年、台湾でペストが流行したときに現地調査を行い、ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指摘した。北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実はペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤りを北里は認め自説を撤回している。また、ペストはネズミのノミを媒介として流行することを証明し、ドイツの専門誌に発表した。
1898年に医科大学学長をつとめ、東京学士会院会員、第5回日本医学会総会会頭などを歴任。 1919年、食道癌を患って静養していたが、気管支・肺に転移し、肺壊疽も併発して同年7月30日に死去。

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島津製作所の歴史

島津製作所の歴史
島津製作所は、◯に十字のロゴマークの他、ものづくり精神を堅持し続けている不思議な存在だ。下記のその秘密の一端を紹介した記事があった。
京都の誇り、島津製作所の凄まじさを知っているか?
本能の赴くままに新市場を開拓した島津製作所のあり得ない歴史:2020.9.18(金)(鵜飼 秀徳:ジャーナリスト、一般社団法人良いお寺研究会代表理事)
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島津本社  京都には京セラ、任天堂、オムロン、村田製作所、ローム、日本電産など名だたる大企業が存在する。創業100年を超える企業も少なくない。帝国データバンクの調査では、京都における創業100周年を超える「老舗企業」は1403社(2018年11月時点)。全体に占める老舗企業の割合は4.73%(全国平均2.27%)だ。これは、全都道府県の中でトップである。**確かに京都には独自の技術を売り物のする個性は企業が多い。
   例えば、東京にも進出した百年超企業では、和菓子の虎屋、和文具・線香の鳩居堂、陶磁器のたち吉、呉服商の大丸百貨店などがある。花札やトランプ製造に端を発する任天堂も1889(明治22)年の創業で、2019年に創業130周年を迎えた。こうした京都の老舗企業から学ぶとするならば、業態をさほど変えない「保守的経営」こそが、組織を長持ちさせる永続のカギかもしれない。
 だが、京都にありながらこの百年超企業(島津)は、異色中の異色。創業は任天堂よりも古い1875(明治8)年(前身の店はもっと古い)。
 連結売上高3854億円(2020年3月31日現在)、グループ社員数1万3200人を擁する精密機器メーカーだ。最近は新型コロナウイルスPCR検査試薬の発売で注目を集めた、最先端テクノロジーの会社でもある。
 だが、島津製作所の変遷は更に興味深い。とくに戦前はカメレオンのように事業内容を七変化。それぞれが何の脈絡のなさそうな製品を数々生み出してきている。現に、「えっ、これも島津製作所が最初なの?」という「日本初」の製品がいくつもある。
 製品だけではない。島津製作所から派生した企業は多い。自動車用バッテリー世界シェア2位のGSユアサ、塗料大手の大日本塗料、フォークリフトで世界3位の三菱ロジスネクストなどは島津製作所が前身企業。京セラや日本電産、村田製作所など売上高ベースで1兆円を超える巨大企業も、その創業時は島津製作所と何らかの協力関係をもってきたようだ。
**つまり、次から次へを新規のベンチャー企業を生み出す母体ともなっている。

仏具  以下は、知られざる島津製作所の「別の顔」。
 島津製作所はもともと仏具屋であった。江戸時代末期には、西本願寺門前に店を構えていた。島津が手がけた仏具はお寺に納める鳴り物や装飾具、仏壇などに備えられる香炉、花立て、蝋燭立てなどであった。**今でも京都にはこんな店一杯ある。

 仏具業はそれこそ、大寺院がひしめく京都にあって安定的なビジネスだ。今でも大本山クラスの寺院の門前には、創業数百年といった仏具店が軒を並べている。
 ところが、過去に一度だけ仏具業全体が廃絶の危機に立たされた局面があった。明治維新である。それまで大切にしていた寺院や仏教的慣習を破壊する「廃仏毀釈」が吹き荒れた時代だ。  背景には、国家仏教から国家神道への切り替えにあった。神仏分離令という法律が出され、習合状態であった仏(寺院)と神(神社)を明確に切り分けよ、ということになって寺院が壊されたのだ。寺院が壊されるような時代では、仏具も不要になる。

島津源蔵  同時期、京都は禁門の変や鳥羽伏見の戦いによって、丸焼けになっていた。物価は高騰し、治安は悪化を極め、京都は深刻な政情不安に陥っていた。京都が荒廃する中、首都が東京に遷り、多くの人々が天皇の後を追って京都を去っていった。この時、先に紹介した和菓子の虎屋は東京に進出している。それを裏切りと捉えている京都人は多い。

だが、島津製作所の創業者で、仏具職人だった島津源蔵(初代)は京都に残って復興の旗手となることを誓う。 当時、京都府政は「教育施設の整備」を復興政策の最優先に掲げた。例えば、全国に先駆けて小学校が整備されたのが京都であった。新政府による学制発布は1872(明治4)年だが、京都ではその3年も前に64校も開校している。

 また、お雇い外国人を呼び寄せ、欧米の科学技術を教える機関「舎密局(せいみきょく)」などが開かれた。舎密局を通じて、西洋諸国から最新の理化学機器が我が国にもたらされたことは、初代源蔵の好奇心を大いに刺激した。小学校の整備にともなって学校の授業で使用される理化学機器の需要は高まりを見せ、源蔵はそこに商機を見出す。
**しかし、こんな時代に実験器具の製造に眼をつける人も稀だ。実験器具なんてみな研究者自身が苦労して手作りするのが当たり前だったから。
**舎密とはchemistryの音訳。つまり、化学のことだ。化学実験器具メーカーとなったのか。

「お寺が学校に変わるのは時代の流れや。仏具はもうあかん。いまのうちに科学の知識を習得して、実験器具を手がけるんや。そうや、西洋鍛冶屋や――」
 時代の変化に飲み込まれるのではなく、それを逆手にとって推進力にしていく。そうして、島津源蔵は理化学機器の製造・修理を手がける島津製作所を創業する。

気球 電気自動車
日本海海戦の「敵艦見ユ」を可能にした島津のバッテリー。島津製作所は様々な発明・開発を成し遂げることになる。
 1877(明治10)年には日本で最初に人間を乗せた気球を揚げている。ライト兄弟が飛行機で有人飛行を成功させるのが1903(明治36)年だから、その四半世紀も前に島津製作所の技術で日本人が空を飛んでいたのである。 **これは初耳でだ。歴史の教科書に載ってないのでは?

梅治郎  明治期には、初代源蔵の息子である梅治郎(二代源蔵)によって、現代生活に欠かせないアイテムが開発、商業化された。バッテリー(蓄電池)だ。バッテリーを搭載する製品は、自動車やバイクはもちろん、ノートパソコン、スマートフォンなど、例を挙げればキリがない。近年は電気自動車が普及し出し、高性能バッテリーの需要は増している。

 バッテリーを世界で最初に発明したのはフランスの科学者、ガストン・プランテで1859(安政6)年のことであるが、プランテの原理を使って、日本で最初にバッテリーを開発したのが二代源蔵であった。このバッテリー開発が、島津製作所に大きな転機をもたらした。折しも、満州や朝鮮半島の権益を巡り、日露戦争に発展していた時期だったからだ。

 当時の主戦場は「海(軍艦)」。ロシアが誇る太平洋艦隊と、日本海軍連合艦隊はほぼ互角であった。そこで、大海原の中でいかに敵艦の情報をつかみ、先手を撃つか。情報戦略こそが戦局の明暗を分ける。そこで連合艦隊の無線の電源として搭載されたのが「島津のバッテリー」だった。

 日本海海戦において、連合艦隊司令長官東郷平八郎は「敵艦見ユ」(敵の艦隊が見えた)といち早く打電。迎え撃つ体制の連合艦隊は、常に風上にたって有利に戦いを進め、バルチック艦隊を撃滅。日露戦争における影の立役者が、島津製作所であったとはほとんど知られていない事実。

   このバッテリー事業はその後、日本電池の創業へ。現在、クルマのバッテリー世界シェア2位を誇るGSユアサの前身企業の1社。なお、創業者島津源蔵は日本で最初に自社製のバッテリーを積んだ電気自動車(デトロイト2号)を走らせた人物とのこと(実機はGSユアサ本社に展示されている)。

人体模型 仏具屋の技術から生まれた「島津のマネキン」!!  さらに島津製作所は当時、意外なものを手掛けている。マネキンだ。島津の源流は仏具業である。そして、仏教関連産業が衰退し、教育用理化学機器の需要が高まる中で、人体模型が島津の手によって手掛けられた。そこには仏具商時代の鋳物仏具という精緻なものづくり技術がベースにある。それが西洋医学や学校における科学教育の発展とともに、人体模型という新たなる分野に昇華していく。
 1909(明治42)年、二代源蔵はアメリカのシアトルで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会に人体模型を出品し、見事に大賞を受賞。そして1923(大正12)年9月に起きた関東大震災によって、人体模型事業は大きな画期を迎えることになる。
震災後、日本は生活物資の国際支援を受ける。その中にアメリカから送られてきた大量の古着が。その結果、洋服文化が一気に拡大。
 そこで国内の繊維業界は堰を切ったように洋服製造に着手する。すると、販売促進用としてマネキンの需要も生まれる。島津製作所はいよいよ、自社製マネキン製造に打って出る。島津製作所は人体模型を基に改良に改良を重ね、ファイバー素材を用いたマネキン製造に成功する。この時、京人形にヒントを得たとされる。 「島津のマネキン」はその後、ワコールグループのマネキン会社、七彩などを誕生させる。国内マネキン企業25社のほとんどが島津製作所に関係しているらしい。「日本アパレルの祖」が島津製作所と言えば、チョット違う気がするが。

田中耕一 現代に息づく島津製作所のもの作り精神!!
 仏具、気球、バッテリー、マネキン。すべてが、脈絡のないようで、源流では繋がっている。時代の潮流をつかみ、自由な発想に基づいて、新しいものに果敢に挑戦する。この島津のものづくりの精神は、現代にもしっかりと受け継がれてきているのか。
 後に社員である田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞し、このコロナ禍においてはPCR検査試薬をいち早く開発、販売を実現させたこととも決して無縁ではない。
 詳しくは『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(鵜飼秀徳著、朝日新聞出版、1400円)をご覧いただければ幸いである。
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以上、ご参考までに。

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沢田 敏男先生

沢田 敏男先生 沢田 敏男(1919年〈大正8年〉~2017年(平成29年)10月18日)は、日本の農学者(農業農村工学)。学位は農学博士(京都大学・1955年)。京都大学名誉教授、京都大学農学部教授、京都大学農学部学部長、京都大学総長、農業土木学会会長などを歴任した。
農業土木、ダム工学を専攻する農学者、工学者である。三重県伊賀市出身。学位論文「浸透水の流動に関する研究」により、1955年に京都大学より農学博士を授与された。京都大学で教鞭を執るだけでなく総長にも就任し、のちに名誉教授の称号を贈られた。2017年10月18日午後0時半に京都市内の病院で心不全のため死去。

灌漑ダムや干拓施設に関する理論的研究を行った。特に、ロックフィルダムの変形や透水の諸問題を解決する有用な設計法を多数確立。これらの工法は、各地のダム建設時に適用されたという。
京都大学総長としては、留学生受け入れの拡充など「国際化」路線を確立し、「将来計画検討委員会」発足でその後具体化する京大改革構想の策定に着手したことが注目される。一方、1970年代以後、竹本処分(1977年)を経てなお一定の勢力を維持し「日本のガラパゴス」と称された京大学生運動に対しては、「学生寮の正常化」政策を進めることでその支持基盤を弱めようとした。1982年12月、沢田は評議会で吉田寮を廃寮にするための「在寮期限」(1986年3月31日)の設定を取り決めたが、吉田寮自治会や他の学生の猛反発によって事態はいっそう混乱し、「在寮期限闘争(紛争)」と呼称される新たな学生運動が盛り上がってしまった。この問題の解決は後任の西島安則総長時代に持ち越され、吉田寮も存続した。

先輩には奥田東がいる。彼も1961年に農学部長、1963年には京都大学総長となり2期6年を務めた。当時は学園紛争の時期に当たり、国立大学協会会長として各地の紛争解決にも尽力した。後輩には南勲先生がいる。実は、彼が私の学生時代の指導教官だった。

僕たちの学生時代は、ちょうど学園紛争のさ中。奥田東先生も沢田 敏男先生も過激化する学生達とまじめに体力勝負で立ち向かった猛者。他大学では機動隊の導入等強権的な手段を取らざるを得ないとみられる状況下でも、監禁状態の中でも最後まで話し合いの姿勢を貫いた烈士ともいえる。
沢田 敏男先生は、柔道で鍛えた頑強な体力と、万年青年の熱意を持ち、日本の農業や農業土木の将来を語らせれば止まらなくなる愛すべきキャラクターの持ち主であった。農水省の後輩達に聞けば、ゴルフの腕も相当なもので、90歳を越えてからもその飛距離は若手が敵わないとか。

残念ながら、学生時代はそんなすごい人とは思わなかった。そもそも講義は滅茶滅茶下手くそで、ある意味聞くに堪えない。古色蒼然とした自分のノートを教室で読み上げ、一字一句書き取れと言うのだから。でも、昔の人はそのような努力をして知識を手に入れたのだろう。
まだ、ご健在と思ってネットで調べて見たら、ご逝去されたことを知った。ただご冥福を祈るばかりである。

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羽仁 五郎

羽仁 五郎 羽仁 五郎(はに ごろう、1901年(明治34年)~1983年(昭和58年))は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
群馬県桐生市出身。父親・森宗作はは第四十銀行の創立者で初代頭取、舘林貯蓄銀行頭取などを務めた。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部に入学。数ヶ月後に休学し、同年9月、ドイツで歴史哲学を学ぶ。留学中、糸井靖之・大内兵衛・三木清と交流し、現代史・唯物史観の研究を開始。「すべての歴史は現代の歴史である」というベネデット・クローチェの歴史哲学を知り、影響を色濃く受ける。1924年(大正13年)、帰国し、東京帝国大学文学部史学科に入る。 マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。1983年(昭和58年)、肺気腫のため死去。

1926年(大正15年)4月8日、羽仁吉一・もと子夫妻の長女説子と結婚。「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、森姓から羽仁姓となる。1927年(昭和2年)、東京帝国大学卒業。同大史料編纂所に嘱託として勤務。1928年(昭和3年)2月、日本最初の普通選挙で応援演説をしたことで問題となり辞職。同年10月三木清・小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊。1932年(昭和7年)、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。1933年(昭和8年)9月11日、治安維持法容疑で検束。留置中に日本大学教授を辞職。強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放。その後、『ミケルアンヂェロ』その他の著述で軍国主義に抵抗し多くの知識人の共感を得た。中でも『クロォチェ』論は特攻隊員の上原良司の愛読書となり遺本ともなった。1945年(昭和20年)3月10日、北京で憲兵に逮捕され、東京に身柄を移され、敗戦は警視庁の留置場で迎え、10月4日の治安維持法廃止を受けてようやく釈放された。1947年(昭和22年)、参議院議員に当選[2]し、1956年(昭和31年)まで革新系議員として活動。国立国会図書館の設立に尽力する。日本学術会議議員を歴任。
マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。1983年(昭和58年)、肺気腫のため死去。
息子は、ドキュメンタリー映画監督の羽仁進、孫が羽仁未央。甥はしいたけの人工栽培を発明した農学者の森喜作。晩年には家元制度打倒を唱える花柳幻舟と交際があり、羽仁は花柳を「ぼくのガールフレンド」と呼んでいた。志士多彩だね。

基本的にはレベラルな思想の持ち主だったのかな。当時世界を席巻したマスクス主義も今の若者、実は僕達にもよく内容は理解できない。一種の流行なようなものだったのか。生粋のマスクス主義の方がいたら反論を期待したいのだけど。羽仁 五郎さんの旧姓は森さんだって。そういえば数学者で教育評論家でもある森毅先生とも容貌が何となく似ている気もするが血縁関係はあるのかどうかは知らない。

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森 毅

森 毅 森 毅(もり つよし、1928年1月10日~2010年7月24日[1]):
日本の数学者、評論家、エッセイスト。京都大学名誉教授。専攻は、関数空間の解析の位相的研究。東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区)生まれ。大阪府豊中市育ち。大学教授時代より亡くなるまで京都府八幡市に在住。小学生の頃から塾へ通うなどしていたが、『戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生、要領と度胸だけは抜群の受験名人、それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた』という(本人著『数学受験術指南』より)。

大阪府立北野中学校(旧制)(現:北野高校)在学中から数学が得意であった。その後、旧制第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)へ進学。受験した理由は戦時下にあって最もリベラルが残っている、と評判であったからだそうだ。在学中の二年生の時に終戦を迎え、東京帝国大学理学部数学科へ。この頃は、東大では医学部よりも理学部物理学科の方が難関であったらしく、『数学科なんて入りやすいほうだった』(同著)という。 数学・教育にとどまらず社会や文化に至るまで広い範囲で評論活動を行う。歌舞伎、三味線、宝塚歌劇団は在学中より熱中し、これらもエッセイの材料としている。北海道大学理学部助手を務めた後、1957年京都大学教養部助教授に就任。1971年、教授昇任の審査の際に、助教授就任後の数学者としての業績は論文が2本だけだったため、「これほど業績がない人物を教授にしてよいのか」と問題になったが、「こういう人物がひとりくらい教授であっても良い」ということで京都大学の教授となった。

数学教育に関していえば、民間の教育団体である数学教育協議会の活動との関わりが挙げられる。京大時代は名物教授の一人として人気を博す。40代半ばから一般向けの数学の本で知られ、1981年刊行の『数学受験術指南』はロングセラーとなった。また浅田彰は森に数学を習い、ニューアカ・ブームの当時は盛んに森を称揚していた。「一刀斎」と号する。「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが教育に関する持論。新聞・テレビなどのマスコミでも広く活躍。また、文学・哲学についても造詣が深く、『ちくま文学の森』『ちくま哲学の森』などの編集に加わった。萩原延壽とは三高時代の同級生で親交深かった。2010年7月24日午後7時30分、敗血症性ショックのため大阪府寝屋川市内の病院で死去。

彼は確か大学の教養部の構内で何回かお目にかかった気がする。一刀斎とかの素人向けの数学の説明が面白かったように。徹底したリベラリストで一切の拘束を忌み嫌うところがある。庶民に語りかける教育学者及び哲学者と言った感じだった。

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ジョン・ガードン

ジョン・ガードン ジョン・バートランド・ガードン(Sir John Bertrand Gurdon, FRS, 1933年10月2日 - )は、イギリスの生物学者。専門は発生生物学。ケンブリッジ大学名誉教授。山中伸弥と2012年度ノーベル生理学・医学賞を共同授賞した。
山中伸弥は、ガードンとのノーベル賞同時受賞に関して、「ガードン先生との同時受賞が、一番うれしいと言っても過言ではない。ガードン先生はカエルの研究で、大人の細胞が受精卵の状態に戻るということを核移植技術で証明した。まさに、私のしている研究を開拓してもらった」と述べている。 ところで、写真は左は山中伸弥教授、右はジョン・ガードン博士。真ん中はクローン羊を開発したイアン博士。

幼少期から昆虫に興味を抱き、イートン校では何千匹もの毛虫を蛾にふ化させ教師に好かれることはなかった。15歳の通知表では「生物学分野への進学を考えているならば全く時間の無駄である。そんな考えは直ちに放棄すべきこと。」と記されている。イートン校の生物学クラスでは同級生250名の中で最下位。他の理系科目も最下位グループが定位置であった。父からは軍人か銀行員になるよう言われたが、イギリス軍の入隊検査に不合格となりオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジへ進学した。

オックスフォード大学入学当初は古典文学を専攻したが、入学担当者の手違いで理学専攻生枠が30名欠員となっており、生物学専攻への転籍に成功した。ガードンはこの転籍を「幸運な出会い」と後述している。大学院では昆虫学の研究でPh.D.取得を目指したが申請却下され、核移植の研究を行うことに。この核研究が後のノーベル賞受賞研究へとつながる。オックスフォード大学での指導教授はマイケル・フィシュバーグ博士で核研究に関する手ほどきを受けた。ガードンは晩年になってもフィシュバーグとの出会いに感謝している。

1960年にオックスフォード大学でPh.D取得後、ポストドクターとしてカリフォルニア工科大学で学ぶ。フィッシュバーグから新しい分野の研究を行うよう助言を受け、カリフォルニア工科大学ではボブ・エドガー教授の下でファジー研究を行った。しかしファジー研究は上手くいかず、1年後に胚研究へ戻る。カリフォルニア工科大学での研究は上手く進まなかったが、未知の研究領域を探究したことで科学者としての見識が広まったとフィシュバーグとカリフォルニア工科大学へ感謝するコメントを残している。 1963年にフィッシュバーグがジュネーブ大学へ移籍したことに伴ない空席となったオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジ動物学講座へ復帰(1963年 - 1971年)。この間、クライスト・チャーチカレッジで動物学講座助教授・准講師(准教授級)を経て、1971年にマックス・ペルツ教授の招きでケンブリッジ大学へ移籍した。1972年に新設されたMRC分子生物学研究所で研究を行い、1979年にMRC生物学部門長、1983年にケンブリッジ大学分子生物学講座教授、1989年ケンブリッジ大学ウエルカムトラスト/UKがんセンター・細胞生物学研究所を設立。

1971年に王立協会フェロー(FRS)に就任。生物学研究の功績により1995年にイングランド国王からナイトの勲位を授与され“サー (Sir)”の称号を得る。1994年から2002年までモードリン・カレッジ長を務めた。

カエルの体細胞核移植により、クローン技術の開発に成功した。この研究がES細胞やiPS細胞の開発に結びつくことになった。その先達としての業績で、2012年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。2004年には細胞生物学研究所がガードンの功績を讃えて、ガードン研究所へ改称された。

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山中研究とガードン研究:分化と未分化、カエルとヒトをつなぐ「初期化」;道上達男

何を隠そう、私もiPS研究のごくごく一端を担っている。1年に一度、研究成果を報告する会があり、山中先生をお見かけする。テレビからも十分のその人柄は伝わってくるが、会合でも大きな会場の端の方に座り、いわゆる「前に前に」という方ではない。一方で、自分のラボの関係者とは気さくに会話をしていて、そういうところにすごく親近感を感じる。

京大の山中伸弥教授とイギリスのジョン・ガードン博士が2012年のノーベル医学・生理学賞を受賞したことは、受賞直後から数多く報道され、ご存じの方も多いと思う。特に「iPS細胞」は受賞前から既に有名であり、うちの大学の理系学生なら「iPS化って何?」という問いに「遺伝子を導入して分化細胞を未分化細胞にすること」といったくらいには答えを返せると思う(期待)。これまで動物細胞では分化細胞を、多分化能を有するような未分化状態に戻すことは無理だとされてきた。それをたった4つの遺伝子で可能としたところが衝撃的であり、最初の論文発表からわずか6年での受賞という点からもこの研究の重要性が理解できよう。

一方で、ガードン先生の研究内容は必ずしも日本では広く知られていない(発生学の研究としてはもちろん有名である)。ガードン先生の受賞対象は「核移植による細胞の初期化」であるが、簡単に言うとクローン生物の作出であり、それを(分化細胞の核を使って)動物で最初に成功させた研究ということになる。世の中ではヒツジのドリーが最初のクローン動物と思っている方が多いかもしれないが、ドリーの発表は1997年、アフリカツメガエルを使った彼の初期化実験は1975年、つまりそれより20年以上前の成果である。

初期化とはゴールの細胞、あるいはそれに内包される核をスタート(に近いところ)に戻すことを意味する。これらの研究が注目される中で、改めて採り上げられる機会が増えた概念がある。C.H.Waddingtonが1950年代の著書『発生と分化の原理』で提示した「運河モデル」は細胞の分化・未分化に関するもので、細胞の分化状態を球に例え、球が山の上(未分化)から下(分化)に転がり落ち、下の谷の部分で止まるようなものであるとする。お分かりだと思うが、山中研究はボールを山の「下から上に」転がせたわけであり、このような発生学の概念を覆したとも言えるのである。

さて、人間との関わりを考えた時、これらの研究の位置づけはどうなるだろう。ガードン研究の先にはドリーがあり、更にはヒトクローン胚作製の捏造問題があった。ヒトクローンの作出には現在も成功していない。山中研究の先には再生医療応用があるが、iPS細胞の安全性の問題、再分化の方法論など、これからやらなければいけないことが山積している。一部のマスコミはiPS細胞を人工万能細胞と訳すが、少なくとも現時点で「万能」という言葉を平然と使うことには大きな抵抗がある。また、iPS細胞樹立前から広く用いられていた胚性幹細胞(ES細胞)はiPS細胞樹立のヒントにもなり、ES細胞の免疫拒絶の問題を回避することがiPS細胞の有利性にもつながり、実は同じことがクローン胚由来のES細胞によっても可能である…といったように、両者の関係は実はES細胞と併せ、やはり密接に関係していると言える。

私自身、ツメガエルの初期発生とiPSの分化誘導系の研究を両輪で行っているので、この二人の受賞はそういう意味でも感慨深い。ちなみに、昨年9月にツメガエル研究の国際学会がフランスで行われ、そこにガードン先生も出席された。実は全く同じ日程で日本ではiPS研究のシンポジウムがあり、ここには山中先生が出席されている。ノーベル賞受賞発表のわずか1ヶ月前のことであるが、なんか因縁(?)めいたものをこんなことでも感じる(私は日程がずれていたら両方出席する予定だったのだが、海外を選択してしまいました(苦笑))。

さて、これらの一見異なる研究がなぜ同時にノーベル賞を受賞したかというと、両者の共通点として先に書いた「初期化」というキーワードが浮かぶ。山中研究はごく限られた数の遺伝子を核に導入することで、分化細胞の中にある核が初期化するのに対し、ガードン研究は分化細胞の核を脱核した未受精卵に移植することで、細胞の影響を受けて移植した核が初期化される(図1)。では初期化とは何か? 人間をはじめとする動物のほとんどは、全く同じ細胞がただ集まっているのではなく、個々の役割を果たす様々な種類の細胞から成り立っている。これらは全て1つの細胞(=卵)から生み出され、1細胞がスタート、個体それぞれの細胞がゴールだと考えることができる。

ガードン先生も、学生のポスターや発表にも耳を傾け、熱心にメモをとるような方であり、山中先生に通じるところがあるような気がする。逆に、残念ながら今のマスコミ、あるいは国の風潮として、これらの事についてお祭りのように騒ぎ、有頂天になり、万能だと過信する危惧があるが、こういうことに踊らされず謙虚かつ真摯な態度で正しく事実を理解し、研究を行っていきたいものである。栄誉を得た先生方自身がそうであるように。 (生命環境科学系/生物)

受精卵からはじまった細胞が分化していく過程で、遺伝子のオン・オフが固定化されます。この固定化の選択は、細胞が分裂するときも引き継がれていきます。この固定化が緩くて細胞の運命が途中で変わってしまっては、適切な細胞、ひいてはからだをつくれなくなるため、厳重に固定化された大人の細胞の運命を巻きもどすことは不可能と考えられていました。しかし、この定説をくつがえしたのが、山中伸弥教授とともにノーベル賞を受賞したジョン・B・ガードン教授でした。
ガードン教授は、おたまじゃくしの腸にある細胞から核を抜き出して、除核した卵子に移植しました。すると、通常の受精と同じく、おたまじゃくしが生まれることを発見したのです。しかし、「おたまじゃくしのような若い幼生の細胞核だからではないか」という批判がありました。そこで、1975年、ガードン教授は大人のカエルの皮膚細胞から採取した核を2段階にわたって卵子に移植しました。その結果、世界で初めて、大人の細胞核から「クローン動物」を生み出すことに成功しました。つまり、ガードン教授は「再び受精卵となる」という能力の一端は、卵子が持っているのではないか、ということを示したのです。

しかし、こうしたクローンの作成は、カエルだからできることで、ほ乳類では難しい、という意見が根強くありました。ところが1997年にイギリスのロスリン研究所から発表されたクローン羊ドリーの誕生によって、ほ乳類でも「核移植によるクローン個体」が作れることが証明されました。ドリーは、分化してしまっていた大人の提供羊の細胞とまったく同じ遺伝情報を持って生まれてきました。ほ乳類でも、卵子のなかに「体細胞を全能性胚細胞に初期化する能力」があることが証明されたのです。ただ、依然として体細胞クローンの成功率は低く、無事にうまれても、初期化が不完全なことに起因する先天的な疾病を発症する可能性が高いことがわかっています。

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屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ: Tú Yōuyōu)

屠 呦呦 屠 呦呦(トゥ・ヨウヨウ: Tú Yōuyōu、1930年12月30日~ )は中国の医学者、医薬品化学者、教育者。多くの命を救った抗マラリア薬であるアルテミシニン(青蒿素)とジヒドロアルテミシニンの発見者として知られている。アルテミシニンの発見およびそれを使ったマラリア治療は、20世紀における熱帯病治療、南アジア・アフリカ・南米の熱帯開発途上国での健康増進を、飛躍的に進歩させたとみなされている。屠は2011年にラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞を、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。中国本土で教育を受け且つ研究を続けた生粋の中国人がラスカー賞及びノーベル賞を受賞したのは、屠が初めて。

経歴
屠は1930年12月30日に中国・浙江省の寧波生まれ。名前は『詩経』の一節「呦呦鹿鳴 食野之苹(ゆうゆうとして鹿の鳴くあり、野のよもぎを食らう)」に由来するとか。1951年に北京大学医学院に入学、薬学科で学び、1955年に卒業。その後、2年半のあいだ伝統的中国医学を学んだ。卒業後、北京の中国中医研究院(現在の中国中医科学院)に勤めた。改革開放の後、1980年に初めて研究員に昇進し、2001年に博士課程における相談役 (academic advisor) に昇進した。現在、彼女は科学院の首席研究員である。

2011年のラスカー賞受賞に際して、「全人類の健康のために戦い続けることは研究者の責務です … 私がしたことは、祖国が私に授けてくれた教育への恩返しとして、私がしなければならなかったことです」と語り、受賞を喜んだ。「私にとって、多くの患者の治癒を見ることがより喜ばしいことです」とも語る。それまでの何十年もの間、屠は「人々からほとんど忘れ去られた」無名の存在だった。2007年のインタビューによると、屠の生活環境は非常に貧しいものだった。彼女のオフィスは北京・東城区の古いアパートにあり、暖房も滞りがちで、電化製品といえば2つだけ、電話機と、薬草サンプル保存用の冷蔵庫しかなかった。

屠は「三無科学者」と言われていた。まず彼女は大学院に進んでいない(当時の中国に大学院制度はなかった)。また海外での教育・研究経験が無い。そして中国科学院・中国工程院という中国の国立研究機関に属していない。1979年まで中国に大学院制度は無く、その点で他国と大きな隔たりがあった。彼女は1949年の中国建国以降における中国医学界の第一世代を代表する存在とみなされている。

家族
屠の夫は寧波効実中学 (日本の高等学校に相当する元私立校)の同級生で、工場労働者をしていた。二人の娘がおり、姉はイングランドのケンブリッジ大学に勤務しており、妹は北京に住んでいる。屠がマラリア研究を始めた頃、彼女の夫は労働改造所で強制労働させられており、二人の娘はまだ幼かった。

研究背景
屠は1960年代から1970年代にかけての文化大革命の時期に研究を続けていた。この時期、科学者たちは毛沢東思想により最下層の階級(いわゆる「臭老九」)とみなされていた。この頃、中国の同盟国である北ベトナムは、南ベトナム・米国とベトナム戦争を戦っていたが、マラリアで多くの死者を出し、従来の特効薬であるクロロキンに対する抵抗性が出始めていた。マラリアは中国南部の海南、雲南、広西、広東でも主な死因の一つだった。毛沢東は523計画という新薬開発の秘密プロジェクトを1967年5月23日に立ち上げ、屠はそのプロジェクトのリーダーに指名された。

以下、主な研究内容↓
住血吸虫病: 屠はそのキャリアの初期にミゾカクシの研究をしていた。これは20世紀前半に華南で流行した住血吸虫症の薬として、中国医学で伝統的に使われている薬草である。

マラリア
当初、世界各地の科学者が24万もの合成物を検査したが、いずれも失敗だった。1969年、当時39歳だった屠は、中国の薬草を調べることを考えていた。彼女はまず中国伝統医学の古書、民間療法を調査し、中国各地のベテラン中医を訪ね歩き、「抗マラリアのための実践的処方集」と名付けたノートを作った。そのノートには640もの処方がまとめられていた。また彼女の研究チームは1971年までに、2000もの伝統的な中医の調剤法を調べ、薬草から380もの抽出物を取り出し、マウスで試験した。

そのうちの一つの合成物に効果が認められた。マラリアの特徴である「断続的な発熱」に使われるヨモギの一種クソニンジン(黄花蒿)からの抽出物が、動物体内でのマラリア原虫の活動を劇的に抑制することを突き止めた。屠が編み出した抽出法は、抽出物の薬効を高め、かつその毒性を抑えるものだった。プロジェクトの研究会で屠が発表したところによると、その調合法は1600年前に葛洪が著作した文献に『肘後備急方』(奥の手の緊急処方)という名で記されていたという。尚、アルテミシニンの有効性を最終的に証明したのは、屠とは別の中国人研究者だとの指摘もある。

当初、屠たちは文献どおりに熱湯で抽出を行なったため効果が得られなかったが、熱が植物中の有効成分を損なったのではないかと屠は考え、代わりに低温のエーテルを使って有効な合成物を抽出する手法を提案した。マウスとサルを使った動物実験で、この薬は充分な効果が認められた。その上で、屠はヒトとしての最初の被験者となった。「この研究グループのリーダーとして、私には責任がありました」と彼女は語った。薬の安全性が分かり、その後に実施したヒトの患者への臨床試験も成功した。

1972年に彼女と共同研究者たちはその純物質を取り出し、「青蒿素」と名付けた。これは欧米ではアルテミシニンと呼ばれており、特に開発途上国で多くの命を救うことになった。屠はアルテミシニンの化学構造と薬理作用も研究し、研究グループはアルテミシニンの化学構造を初めて明らかにした。1973年に屠は、アルテミシニン分子のカルボニル基を調べているさなか、偶然ジヒドロアルテミシニンの合成に至った。屠の研究は、1977年に匿名で発表された。

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ルドルフ・シェーンハイマー

シェーンハイマー ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolph Schoenheimer、1898年5月10日~1941年7月11日)は、ドイツ生まれのアメリカ合衆国の生化学者。代謝回転の詳細な調査を可能にする、同位体を用いた測定法を開発した。 ドイツのベルリンで生まれ、ベルリン大学医学部を卒業。その後、ライプツィヒ大学、フライブルク大学で生化学の教鞭を執った。

1933年にコロンビア大学に移り、生物化学部門に参加する。ハロルド・ユーリーの研究室の研究者やコンラート・ブロッホと共に、安定同位体を使用して生物が摂取するエサをマークし、生体内での代謝を追跡する方法を確立した。さらにコレステロールが動脈硬化症の危険因子であることを発見する。1941年、シアン化合物で自殺。

ルドルフ・シェーンハイマー博士は、いま盛んに「動的平衡」の考えを唱えておられる福岡伸一博士の尊敬する画期的なアイデアを最初に提唱した方のようだ。福岡伸一博士は、また「マリス博士の奇想天外な人生(キャリー・マリス著)」の翻訳もされている。

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「生命の神秘は、神が作ったものだから追及しきれない」という時代から、遺伝子がすべて解明される時代に移り、生命も機械部品のように、それぞれの役割が明確に捉えられる時代になった。「機械論メカニズム」という視点。 それ以来、世界を分けて、分けて、小さくして、私たちは生命の機能を解き明かし、進化してきた。 福岡氏が大学の研究室に入った頃、その流れはますます強まっていた。生物を個別にみるのではなく、生物全体で捉える「分子生物学」という新しい流れが生まれていた。幼少時代、昆虫の新種を見つけることを夢みていた福岡氏は、細胞という巨大な森の中で、新種の細胞を見つけることになった。

しかし、細胞の役割を機械的に解明しようとすればするほど、それだけでは解明できない壁にぶつかった。その時に目にしたのがルドルフ・シェーンハイマーのこの言葉だった。 “生命は機械ではない、生命は流れだ” 機械論に寄りすぎた生物学に対し、シェーンハイマーは独自のアプローチをした。人間はなぜ食べつつけるのか?機械論者はこう考える。「食べ物は、人間が動き続けるためのエネルギー。車にとってのガソリンのようなもの。だから常に食べ物を摂取し、その燃えカスを老廃物として排泄するのだ。」 「それは本当だろうか?」シェーンハイマーは、食べ物を細胞レベルで着色し、摂取した際の体中での流れを緻密に測定した。すると50%以上はエネルギーとして燃やされずに、身体の中に「細胞」として取り込まれていることを発見した。同時に、多くの外部の細胞を新たに取り入れているのに、体重は増えていないことにも注目した。 つまり、生物の身体は、身体の原子を食べ物の原子と入れ替えているのだ。自分自身を分解しながら、新たな細胞を統合している。うんちの主成分は、食べ物のカスではない。自分の身体の分解されたものなのだ。最も入れ替えが早いのは消化器系の細胞。数日の単位でどんどん入れ替わる。入れ替わるペースは違っても、骨や脳細胞ですら入れ替わっている。 “私たち人間は、絶え間ない分子の流れに身を置いているのだ。” 分子的には、一年も経つとほとんど入れ替わってしまう。だから久し振りに会う人に「お変わりありませんね」というのは大間違い。細胞レベルではほとんど入れ替わっている。それなのに、約束やアイデンティティにこだわる人間の不思議。 生きている本質は、絶え間なく更新すること。それが生き続ける唯一の法則であり、それを「DYNAMIC STATE(動的平衡)」という。 要素はたえまなく更新される。平衡はたえまなく求められる。絶え間なく入れ替わることが、エントロピーへの抵抗。だから人間は、頑丈ではなく、柔らかに緩くつくられている。 それでも捨て残りが少しずつ溜まる。それが老化。そして緩やかに更新が滞り、いつかはエントロピーに捉えられるのだ。 鴨長明の言葉を思い出すね。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」生物と言うものも結局流れに浮かぶ「うたかた」のようなものらしい。

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「生命の神秘は、神が作ったものだから追及しきれない」という時代から、遺伝子がすべて解明される時代に移り、生命も機械部品のように、それぞれの役割が明確に捉えられる時代になった。「機械論メカニズム」という視点。 それ以来、世界を分けて、分けて、小さくして、私たちは生命の機能を解き明かし、進化してきた。 福岡氏が大学の研究室に入った頃、その流れはますます強まっていた。生物を個別にみるのではなく、生物全体で捉える「分子生物学」という新しい流れが生まれていた。幼少時代、昆虫の新種を見つけることを夢みていた福岡氏は、細胞という巨大な森の中で、新種の細胞を見つけることになった。

しかし、細胞の役割を機械的に解明しようとすればするほど、それだけでは解明できない壁にぶつかった。その時に目にしたのがルドルフ・シェーンハイマーのこの言葉だった。 “生命は機械ではない、生命は流れだ” 機械論に寄りすぎた生物学に対し、シェーンハイマーは独自のアプローチをした。人間はなぜ食べつつけるのか?機械論者はこう考える。「食べ物は、人間が動き続けるためのエネルギー。車にとってのガソリンのようなもの。だから常に食べ物を摂取し、その燃えカスを老廃物として排泄するのだ。」 「それは本当だろうか?」シェーンハイマーは、食べ物を細胞レベルで着色し、摂取した際の体中での流れを緻密に測定した。すると50%以上はエネルギーとして燃やされずに、身体の中に「細胞」として取り込まれていることを発見した。同時に、多くの外部の細胞を新たに取り入れているのに、体重は増えていないことにも注目した。 つまり、生物の身体は、身体の原子を食べ物の原子と入れ替えているのだ。自分自身を分解しながら、新たな細胞を統合している。うんちの主成分は、食べ物のカスではない。自分の身体の分解されたものなのだ。最も入れ替えが早いのは消化器系の細胞。数日の単位でどんどん入れ替わる。入れ替わるペースは違っても、骨や脳細胞ですら入れ替わっている。 “私たち人間は、絶え間ない分子の流れに身を置いているのだ。” 分子的には、一年も経つとほとんど入れ替わってしまう。だから久し振りに会う人に「お変わりありませんね」というのは大間違い。細胞レベルではほとんど入れ替わっている。それなのに、約束やアイデンティティにこだわる人間の不思議。 生きている本質は、絶え間なく更新すること。それが生き続ける唯一の法則であり、それを「DYNAMIC STATE(動的平衡)」という。 要素はたえまなく更新される。平衡はたえまなく求められる。絶え間なく入れ替わることが、エントロピーへの抵抗。だから人間は、頑丈ではなく、柔らかに緩くつくられている。 それでも捨て残りが少しずつ溜まる。それが老化。そして緩やかに更新が滞り、いつかはエントロピーに捉えられるのだ。

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福沢諭吉

福沢諭吉 福澤 諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日)。日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾(旧:蘭学塾、現在の慶應義塾大学はじめ系列校)の創設者。、商法講習所(のちの一橋大学)、神戸商業講習所(のちの神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現:東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力。
新聞『時事新報』の創刊者。ほかに東京学士会院(現:日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている。

**明治六大教育家
明治六大教育家は、1907年(明治40年)に「近世の教育に功績ある故教育家の代表者」として顕彰された6人の教育家を指す呼称。顕彰当時は故六大教育家または帝国六大教育家と称されたが、大正期以降に「明治六大教育家」「明治の六大教育家」という呼称が見られるように。1907年(明治40年)5月、帝国教育会、東京府教育会、東京市教育会共同主催の全国教育家大集会が東京高等工業学校(東京工業大学の前身)講堂で開催され、集会2日目に故六大教育家追頌式が執り行われた。顕彰された6人は以下の通り。
① 大木喬任(おおき たかとう)…文部卿として近代的な学制を制定
② 森有礼(もり ありのり)…明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施
③ 近藤真琴(こんどう まこと)…攻玉塾を創立、主に数学・工学・航海術の分野で活躍
④ 中村正直(なかむら まさなお)…同人社を創立、西国立志編など多くの翻訳書を発刊した
⑤ 新島襄(にいじま じょう)…同志社を創立、英語・キリスト教の分野で多くの逸材を教育
⑥ 福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)…慶應義塾を創立、法学・経済学を中心に幅広い思想家として著名

福沢諭吉 1835年1月10日、摂津国大坂堂島新地五丁目(現・大阪府大阪市福島区福島一丁目)にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の間に次男(末子)として生まれる。諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。福澤氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した。 友米の孫である父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。栗園は、中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。
なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ)。

天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでも祟りが起こらない事を確かめてみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。
5歳ごろから藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。

福澤の学問的・思想的源流に当たるのは亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。したがって、諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。

安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。

高島秋帆 **高島秋帆(たかしま しゅうはん)
1798年、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれる。先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔。文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。藤沢東畡(1794-1864)によって大坂市中に開かれた漢学塾であり関西大学の源流の一つの泊園書院に学ぶ。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。また、この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌天保6年(1835年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。
その後、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平[1])で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であり、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府役人が「異様之冠物」と称するような斬新なものであった。
この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。幕命により江川英龍や下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、さらにその門人へと高島流砲術は広まった。しかし、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。幕府から重用されつつ脇荷貿易によって十万石の大名に匹敵する資金力を持つ秋帆を鳥居耀蔵が妬み「密貿易をしている」という讒訴をしたためというのが通説だが、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中水野忠邦によって行われたものとする説もある。武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者名は本間弘武で、秋帆は監修)。慶応2年(1866年)、69歳(満67歳)で死去した。
NHK大河ドラマ「晴天を衝け」では、高島秋帆の役を玉木宏が演じた。渋沢栄一は吉沢亮。

安政2年(1855年)、諭吉はその山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。
**適塾(てきじゅく、正式名称: 適々斎塾〈てきてきさいじゅく〉、別称: 適々塾〈てきてきじゅく〉)は、緒方洪庵が江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾。1838年(天保9年)開学。緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする。幕末から明治維新にかけて福沢諭吉、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、高峰譲吉など多くの名士を輩出した。大阪大学及び大阪大学医学部の源流の一つ。

その後、諭吉が腸チフスを患うと、洪庵から「乃公(だいこう:自分のこと)はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説を初めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。ほかにも昆布や荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。

幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

**勝 海舟(かつ かいしゅう)は、日本の武士(幕臣)、政治家、華族。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。
福沢諭吉 元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大きく、マシュー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろからすでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、島津文三郎のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じて氷解塾の塾頭も務める)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、藤本元岱・神尾格・藤野貞司・前野良伯らが適塾から移ってきたほか、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。

島村鼎甫を尋ねたあと、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周・神田孝平・箕作秋坪・柳川春三・大槻磐渓・宇都宮三郎・村田蔵六らとともに出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現・浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。

安政6年(1859年)、日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に諭吉は出かけることにした。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影がないことは当時の蘭学者の間では常識であった。緒方洪庵もこれからの時代は英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、当時の日本では、オランダだけが鎖国の唯一の例外の国であり、現実にはオランダ語以外の本を入手するのは困難だった。

諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだあと、蕃書調所へ入所したが「英蘭辞書」は持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていた。諭吉はようやく蕃書調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。

渡米
安政6年(1859年)の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。この派遣は、岩瀬忠震の建言で進められ、使用する船は米軍艦「ポーハタン号」、その護衛船として「咸臨丸」が決まった。
福澤諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。安政7年1月13日、幕府使節団は品川を出帆、1月19日に浦賀を出港する。 福澤諭吉は、軍艦奉行・木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船したが、この咸臨丸の航海は出港直後からひどい嵐に遭遇した。咸臨丸はこの嵐により大きな被害を受け、船の各所は大きく破損した。乗員たちの中には慣れない船旅で船酔いになる者、疲労でぐったりする者も多く出た。そんな大変な長旅を経て、安政7年2月26日(太陽暦3月17日)、幕府使節団はサンフランシスコに到着する。ここで福澤は3週間ほど過ごして、その後、修理が完了した咸臨丸に乗船してハワイを経由して、万延元年5月5日(1860年6月23日)に日本に帰国する。

(一方、その後の幕府使節団はパナマに行き、パナマ鉄道会社が用意した汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在のコロン)へ行く。アスピンウォールに着くと、米海軍の軍艦「ロアノーク号」に乗船し、5月15日にワシントンに到着する。そこで、幕府使節団はブキャナン大統領と会見し、日米修好通商条約の批准書交換などを行う。その後、フィラデルフィア、ニューヨークに行き、そこから、大西洋のポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をまわり、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、万延元年11月10日に、日本の江戸に帰国・入港する。)
今回のこの咸臨丸による航海について、福澤諭吉は、「蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したのは日本人の世界に誇るべき名誉である」と、のちに述べている。また、船上での福澤諭吉と勝海舟の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いたと言われている。

一方、福沢諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。福澤は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては福澤はさまざまに衝撃を受けた、という。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。)。

福澤諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。また、翻訳途中だった『万国政表』(統計表)は、福澤の留守中に門下生が完成させていた。

アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を福沢諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、福澤は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。

その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用されて、公文書の翻訳を行うようになった。これは外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。福澤はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いた。この頃の福澤は、かなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。また、米国公使館通訳ヒュースケンの暗殺事件や水戸浪士による英国公使館襲撃事件など、多くの外交文書の翻訳も携わり、緊迫した国際情勢を身近に感じるようになったという。 **語学の習得とは、かように困難なものなのだ。福沢の場合も、オランダ語を相当に学んだことが功を奏したようだ。英語が嫌いな学生さんで他の外国語をマスターしようと志すなら、もう一つベースになる語学をマスターできるかどうか考えた方が良い。

渡欧(幕臣時代)
1861年、福沢諭吉は中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。同年12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安、箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった。文久元年(1861年)12月23日、幕府使節団は英艦「オーディン号」に乗って品川を出港した。
12月29日、長崎に寄港し、そこで石炭などを補給。1862年1月1日、長崎を出港し、6日、香港に寄港。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義・帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けた。
1月12日、香港を出港。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、2月22日にスエズに到着。ここから幕府使節団は陸路を汽車で移動し、スエズ地峡を超えて、北のカイロに向かった。カイロに到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海を渡り、マルタ島経由でフランスのマルセイユに3月5日に到着。そこから、リヨンに行って、3月9日、パリに到着。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテルに宿泊し、パリ市内の病院、医学校、博物館、公共施設などを見学(滞在期間は20日ほど)。
1862年4月2日、幕府使節団はドーバー海峡海峡を越えてイギリスのロンドン。ここでも幕府使節団はロンドン市内の駅、病院、協会、学校など多くの公共施設を見学。万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。ロンドンの次はオランダのユトレヒトを訪問。そこでも町の様子を見学するが、その時、偶然にもドイツ系写真家によって撮影されたと見られる幕府使節団の写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。その後、幕府使節団は、プロイセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国境問題を討議するためにペテルブルクを訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院で尿路結石の外科手術を見学。その後、幕府使節団はまたフランスのパリに戻り、そして、最後の訪問国のポルトガルのリスボンに文久2年(1862年)8月23日、到着した。
以上、ヨーロッパ6か国の歴訪の長旅で幕府使節団は、幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書をたくさん買い込み、日本へ持ち帰った。また、福沢諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。
また、福沢諭吉は今回の旅で日本語をうまく話せる現地のフランスの青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い、友好を結んだ。そして、福沢諭吉はレオンの推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった(この時、福沢はその学会に自分の顔写真をとられている。)。 1862年9月3日、幕府使節団は、日本に向けてリスボンを出港し、1862年12月11日、日本の品川沖に無事に到着・帰国。ところが、その時の日本は幕府使節団が予想もしていない状況に一変していた。

品川に到着した翌日の12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった。1863年3月になると、孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。福沢の周囲では、同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が誰かに切られそうになるという事件も起こっていた。この時、福沢諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせになり、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年頃〜明治6年頃までが江戸が一番危険で、物騒な世の中であったと福沢はのちに回想している。)

1863年7月、薩英戦争が起こったことにより、福沢諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し(拒否したのは中津藩では無く福沢の意味?)、代わりに、以前より親交のあった仙台藩の大童信太夫を通じ新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。

元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった。慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。また明治2年(1869年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記を、福沢諭吉は玄白の曽孫の杉田廉卿、他の有志たちと一緒になってまとめて、『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。

再び渡米
慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福沢諭吉が加わることになった(他に津田仙、尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。福沢諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。

アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。この時、福澤は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。 慶応3年6月27日(1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。福澤は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、福澤は『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。

明治維新
慶応3年(1867年)12月9日、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、福澤諭吉は新政府から出仕を求められたがこれを辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった。慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念する。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意になり、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩には慶應蘭学所内に「紀州塾」という紀州藩士専用の部屋まで造られた。長岡藩は藩の大参事として指導していた三島億二郎が諭吉の考えに共鳴していたこともあり、藩士を慶應義塾に多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支えてもいた。同時に横浜の高島嘉右衛門の藍謝塾とも生徒の派遣交換が始まった。官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェーランド『経済学原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講義を続けた(なお漢語に由来する「経済学」の語は諭吉や神田孝平らによりpolitical economyもしくはeconomicsの訳語として定着した)。老中・稲葉正邦から千俵取りの御使番として出仕するように要請されてもいたが、6月には幕府に退身届を提出して退官。維新後は、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、イギリス流憲法論を唱えた。

妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。

新銭座の土地を攻玉社の塾長・近藤真琴に300円で譲り渡し、慶應義塾の新しい土地として目をつけた三田の旧島原藩中屋敷の土地の払い下げの交渉を東京府と行った。明治3年には諭吉を厚く信頼していた内大臣・岩倉具視の助力を得てそれを実現。明治4年からここに慶應義塾を移転させて、「帳合之法(現在の簿記)」などの講義を始めた。また明六社に参加。当時の文部官吏には隆一や田中不二麿・森有礼ら諭吉派官吏が多かったため、1873年(明治6年)、慶應義塾と東京英語学校(かつての開成学校でのち大学予備門さらに旧制一高に再編され、現:東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることになった。

廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)のすべてを政府が握るのではなく「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝とともに、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張。

『通俗民権論』『通俗国権論』『民間経済禄』なども官民調和の主張ないし初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由主義を紹介する際には「自由在不自由中(自由は不自由の中にあり)」という言葉を使い、自分勝手主義へ堕することへ警鐘を鳴らした。明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声があった。
**短い期間ではあったが、文部官僚への道は福沢が最も目指していたものだったかも。

明治7年(1874年)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、高知の立志学舎に門下生を教師として派遣したほか、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載。特に後藤には大変入れ込み、後藤の夫人に直接支援の旨を語るほどだった。同年、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会し、弥太郎が山師ではないと評価した諭吉は、三菱商会にも荘田平五郎や豊川良平といった門下を投入したほか、後藤の経営する高島炭鉱を岩崎に買い取らせた。また、愛国社から頼まれて『国会を開設するの允可を上願する書』の起草に助力。

明治9年(1876年)2月、諭吉は懇意にしていた森有礼の屋敷で寺島宗則や箕作秋坪らとともに、初めて大久保利通と会談した。このときの福澤について大久保は日記の中で「種々談話有之面白く、流石有名に恥じず」と書いている。諭吉によると晩餐のあとに大久保が「天下流行の民権論も宜しいけれど人民が政府に向かって権利を争うなら、またこれに伴う義務もなくてはならぬ」と述べたことについて、諭吉は大久保が自分を民権論者の首魁のように誤解していると感じ(諭吉は国会開設論者であるため若干の民権論も唱えてはいたが、過激な民権論者には常に否定的であった)、民権運動を暴れる蜂の巣に例えて「蜂の仲間に入って飛場を共にしないばかりか、今日君が民権家と鑑定した福沢が着実な人物で君らにとって頼もしく思える場合もあるであろうから幾重にも安心しなさい」と回答したという。

1880年12月には参議の大隈重信邸で大隈、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞の発行を依頼された。福澤はその場での諾否を保留して数日熟考したが、「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと1881年1月に井上を訪問した。しかし井上が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで福澤はその英断に歓喜し、新聞発行を引き受けた。

しかし、大隈重信が当時急進的すぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤への事前相談なしに独自に提出したことで、伊藤は大隈の急進的傾向を警戒するようになる。またちょうどこの時期は「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていた。大隈もその反対論者であり、また慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった。そのため政府関係者に大隈・福澤・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、明治14年には大隈一派を政府の役職から辞職させる明治十四年の政変が起こることとなった。つい3か月前に大隈、伊藤、井上と会見したばかりだった諭吉はこの事件に当惑し、伊藤と井上に宛てて違約を責める手紙を送った。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙だった。この手紙に対して、井上は返事の手紙を送ったが伊藤は返答しなかった。数回にわたって手紙を送り返信を求めたが、伊藤からの返信はついになく、井上も最後の書面には返信しなかった。これにより諭吉は両政治家との交際を久しく絶つことになった。諭吉の理解では、伊藤と井上は初め大隈と国会開設を決意したが、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節し、大隈一人の責任にしたというものだった。

諭吉はすでに公報発行の準備を整えていたが、大隈が失脚し、伊藤と井上は横を向くという状態になったため、先の3人との会談での公報の話も立ち消えとなった。しかし公報のために整えられた準備を自分の新聞発行に転用することとし、明治15年(1882年)3月から『時事新報』を発刊することになる。『時事新報』の創刊にあたって掲げられた同紙発行の趣旨の末段には、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡(おしひろ)めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟(いやしく)もこの精神に戻(もと)らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦(また)その相手を問わず一切敵として之を擯(しりぞ)けんのみ。」と記されている。

教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、ついに諭吉が勝海舟に資金調達を願い出るまでとなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさとやめて、明治政府に仕官してこい」と返されたため、島津家に維持費用援助を要請することになった。その上、優秀な門下生は大学南校や大学東校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の教授として引き抜かれていくという現象も起こっていた。
**確かにその後も、日本では東京大大学に莫大な資金が注ぎ込まれて、学問の一極集中の弊害をきたしている感がある。
**元幕臣の勝海舟は、この時点でも資金調達を段取りできる立場にあったのだろうか?

港区を流れる古川に狸橋という橋があり、橋の南に位置する狸蕎麦という蕎麦店に諭吉はたびたび来店していたが、明治12年(1879年)に狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた。その場所に慶應義塾幼稚舎が移転し、また東側部分が土筆ケ岡養生園、のちの北里研究所、北里大学となった。

明治13年(1880年)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた諭吉の立場はますます厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。このころから平民の学生が増えたことにより、運営が徐々に黒字化するようになった。
また、私立の総合的な学校が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。
**ライバルの早稲田大学は、未だ登場していなかったのか? 学生も士族の子弟ばかりで平民が少なかった。学問をやっても金儲けには繋がらないとの考えがあったため?

明治25年(1892年)には、長與專齋の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。ちょうど帝国大学の構想が持ち上がっているころだったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。

金玉均 朝鮮改革運動支援と対清主戦論
明治15年(1882年)に訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた諭吉は、朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった。 **日本は戦時中でも、多くの軍人たちにとって軍事活動は西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためと信じられており、植民地的侵略とは考えもしていなかっただろう。侵略との考えは、敗戦後に戦勝国から押し付けられた考えだ。でも、今となって日本の周辺諸国に納得出来る説明が可能だろうか。
**金玉均
金 玉均(김옥균、1851年2月23日~1894年3月28日)。李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の大朝鮮国の思想家。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力。
大朝鮮国第26代国王、初代大韓帝国皇帝、高宗の王命「勅命」を受けて1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食する。当時の日本の一部の思想=アジア主義を金玉均が独自に東アジアに特化された「三和主義」として発案し唱えた。1882年10月、壬午事変後に締結された済物浦条約の修信使朴泳孝らに随行して再度日本を訪れ、福澤諭吉から紹介された井上馨を通じて横浜正金銀行から運動資金を借款し、朝鮮半島初の諸外国への留学生の派遣や朝鮮半島で初めての新聞である『漢城旬報』の創刊発行に協力。幾多の功績は朝鮮半島の近代化に貢献した、一部の有識者や福澤諭吉などに「朝鮮半島の近代化の父」と呼ばれる貢献を残した。
清朝から独立し、日本の明治維新を模範とした朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため国王の委任状を持って日本へ渡ったが、交渉は失敗に終わり、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた。 当時の日本政府の政治的立場から、東京や札幌、栃木県佐野や小笠原諸島などを転々とした後、李経方(李鴻章の養子、日本淸国公使官)と李鴻章に会うため、上海に渡ったが、1894年3月28日、上海は東和洋行ホテルで洪鐘宇(復讐に燃えていた朝鮮王妃閔妃の手先)によって回転式拳銃で暗殺された。 金玉均の死体は大清帝国政府により軍艦咸靖号で本国大朝鮮国に運ばれて死後に死刑宣告され凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。
金玉均氏の評価は今の韓国では?


1882年7月23日、壬午事変が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件が。外務卿井上馨は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約を締結。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに、清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して諭吉が推薦する慶應義塾出身の牛場卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えている。

朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、袁世凱率いる3,000の兵を京城へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、1884年12月4日に甲申事変を起こすも、事大党の要請に応えた清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で磯林真三大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も中国人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた。

この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった。

**甲申事変
甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。

このときの開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿・井上馨との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清揃っての朝鮮からの撤兵を約した天津条約が結ばれたことで一応の終息をみた。しかし、主戦論者の諭吉はこの結果を清有利とみなして不満を抱いたという。 **確かに朝鮮半島で独立党による政権が樹立できなかったことは、日本政府の失敗であった。朝鮮半島に独立した親日政権さえ造れれば、後の日韓併合もおこり得なかったはずだ。

当時の諭吉の真意は、息子の福澤一太郎宛ての書簡(1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川へ逃げたる訳なり。日支兵員之多寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦之分れハ、今後半月か一月中ニ公然たる事ト存候。」に窺える。

日清戦争の支援
明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まる。諭吉も金玉均の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置。同年4月から5月にかけて東学党の乱鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると、日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。

国会開設以来、政府と帝国議会は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。諭吉は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた。

また戦費の募金運動(諭吉はこれを遽金と名付けた)を積極的に行って、自身で1万円という大金を募金するとともに、三井財閥の三井八郎右衛門、三菱財閥の岩崎久弥、渋沢財閥の渋沢栄一らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5,000万円の公債募集を決定したためその際に解散した)。

この年は諭吉の還暦であったが、還暦祝いは戦勝後まで延期とし、1895年12月12日に改めて還暦祝いを行った。この日、諭吉は慶應義塾生徒への演説で「明治維新以来の日本の改新進歩と日清戦争の勝利によって日本の国権が大きく上昇した」と論じ、「感極まりて泣くの外なし」「長生きは可きものなり」と述べた。
**日清戦争の勝利は、当時の日本人全体の士気を大いに鼓舞したようだ。

福澤諭吉・小幡篤次郎共著『学問のすゝめ』(初版、1872年)
諭吉は日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。このころまでには慶應義塾は大学部を設けて総生徒数が千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた。

晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したりしたことなどが挙げられる。また明治30年(1897年)8月6日に日原昌造に送った手紙の中には共産主義の台頭を憂う手紙を残している。諭吉は明治31年(1898年)9月26日、最初に脳溢血で倒れ一時危篤に陥るも、このときには回復した。その後、慶應義塾の『修身要領』を編纂。
しかし1901年1月25日、脳溢血が再発したため2月3日に東京で死去。享年68(満66歳没)。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議している。8日の諭吉の葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5,000人の会葬者が葬列に加わった。

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緒方洪庵

緒方洪庵 緒方 洪庵(おがた こうあん、1810年8月13日~1863年7月25日)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだ。洪庵の功績として最も有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。

日本最初の病理学書『病学通論』を著した。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては、西洋の医書を参考に『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を5、6日で書き上げて出版し、医師らに100冊を無料配布するなど、日本医学の近代化に努めた。

人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。 塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。それは極めて厳格で、子の緒方平三と緒方四郎が、預けられた加賀大聖寺藩の渡辺卯三郎の塾を抜け出し、越前大野藩に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである(後日、復帰させた)。

語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している。

原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。
福澤諭吉が、適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。堂島新地5丁目(現・大阪市福島区福島1丁目)にあった中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。 診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。特に和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな」という悲痛な作品を残している。

江戸での洪庵は将軍徳川家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど、富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。さらには蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。以上のことからくるストレスが健康を蝕んでいった。洪庵の急死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して炎天下に長時間いたことであると述べている。
人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり、顔が広かった。大坂城在番役を勤めていた旗本久貝正典は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。また、ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあった。 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し、英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
緒方八重 洪庵の人柄や適塾での教育は優れていたものの、洪庵を敬慕する福沢の『福翁自伝』で伝えられ、さらに司馬遼太郎の歴史小説で知られるようになったことで、理想化されている面があるとの指摘もある(**住友史料館主席研究員海原亮の見解)。
適塾を前身とする大阪大学では、学務情報システムに"KOAN(コーアン=洪庵)"の名が用いられている。また、卒業証書には洪庵直筆の書が用いられている。

妻の八重は、夫との間に7男6女(うち4人は早世)を儲け、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。時に洪庵が叱責すると、それをなだめつつ門弟を教え諭すことも多かったと言われる。福沢は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘を書いている。洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。八重の葬儀には、門下生から明治政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。

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Nobel

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(スウェーデン語: Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日~1896年12月10日)は、スウェーデンの化学者、発明家、実業家。 ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。
遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられた。ディナミット・ノーベルやアクゾノーベルのように現代の企業名にも名を残している(どちらもノーベルが創業した会社の後継)

Alfred Bernhard Nobel スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家のイマヌエル・ノーベル(1801–1872) とカロリナ・アンドリエッテ・ノーベル (1805–1889) の4男として生まれた。両親は1827年に結婚し、8人の子をもうけた。一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。父は機雷の発明で会社は一時儲かるもののやがて破産。
**注)機雷(きらい)とは、水中に設置されて艦船が接近、または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する水中兵器。機雷は機械水雷の略。機雷に触れることを触雷(しょくらい)、機雷を設置した海域を機雷原(きらいげん)、機雷を撤去することを掃海という。機雷ではどのような爆薬が使われたか。また爆発までの防水の工夫は?

事業に失敗した父は1837年、単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた。1842年、父は妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった。学校に通っていたのはストックホルムでの1841年から1842年にかけての18カ月間だけだった。

化学の家庭教師として雇われたのは化学者ニコライ・ジーニン。その後化学をさらに学ぶため、1850年にパリに行き、テオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講している。翌年にはアメリカに渡って4年間化学を学んだ。そこで短期間だが発明家ジョン・エリクソンに師事。その後、父の事業を手伝う。最初の特許を出願したのは1857年のことで、ガスメーターについての特許。父も子もかなりの発明家。

クリミア戦争 (1853–1856) では兵器生産で大儲けをするが、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため事業はたちまち逼迫し、父は1859年に再び破産。父は工場を次男のルドヴィッグ・ノーベル(1831–1888) に任せ、ノーベルと両親はスウェーデンに帰国した。なお、ルドヴィッグは受け継いだ工場を再開して事業を発展させた。ノーベルは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。ノーベル本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことである(テオフィル=ジュール・ペルーズの下で共に学んだアスカニオ・ソブレロが発見)。この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。

**注) ニトログリセリン
ニトログリセリン ニトログリセリン(nitroglycerin)とは、有機化合物で、爆薬の一種であり、狭心症治療薬としても用いられる。グリセリン分子の3つのヒドロキシ基を、硝酸と反応させてエステル化させたものだが、これ自身は狭義のニトロ化合物ではなく、硝酸エステルである。また、ペンスリットやニトロセルロースなどの中でも「ニトロ」と言われたら一般的にはニトログリセリン、またはこれを含有する狭心症剤を指す。甘苦味がする無色油状液体。水にはほとんど溶けず、有機溶剤に溶ける。 しかし、わずかな振動で爆発することもあるため、取り扱いはきわめて難しい。一般的に原液のまま取り扱われるようなことはなく、正しく取り扱っていれば爆発するようなことは起きない。昔は取り扱い方法が確立していなかったため、さまざまな爆発事故が発生していた。実際の爆発事故は製造上の欠陥か取り扱い上の問題がほとんど。日本において原液のまま工場から出荷されることはない。綿などに染みこませて着火すると爆発せずに激しく燃焼するが、高温の物体上に滴下したり金槌で叩くなど強い衝撃を加えると爆発する。


**注) 珪藻土
珪藻土(けいそうど、diatomite、diatomaceous earth)は、藻類の一種である珪藻の殻の化石よりなる堆積物(堆積岩)。ダイアトマイトともいう。珪藻の殻は二酸化ケイ素(SiO2)でできており、珪藻土もこれを主成分とする。珪藻が海や湖沼などで大量に増殖し死滅すると、その死骸は水底に沈殿する。死骸の中の有機物の部分は徐々に分解されていき、最終的には二酸化ケイ素を主成分とする殻のみが残る。このようにしてできた珪藻の化石からなる岩石が珪藻土である。多くの場合白亜紀以降の地層から産出される。
固化した珪藻土は、殻を壊さない程度に粉砕して用いる。珪藻土の粒径、すなわち珪藻の殻の大きさは大体100µmから1mmの間。粒子の形態はもとになった珪藻の種類に応じて、円盤状のもの、紡錘状のものとさまざまである。珪藻土の色は白色、淡黄色、灰緑色と産地によってさまざまであるが、これは殻の色ではなく、珪藻土に混入している粘土粒子など莢雑物の色である。また、焼成すると赤く変色するものもある。
珪藻の殻には小孔が多数開いている為、珪藻土は体積あたりの重さが非常に小さい。珪藻土の最大の用途は濾過助剤である。吸着能力は低く、溶液中に溶解している成分はそのまま通し、不溶物だけを捕捉する性質がある。そのため珪藻土単独で濾過する事は稀で、フィルターに微細粉末が目詰まりしてしまうのを防ぐためにフィルターの手前において微細粉末を捕捉するのに用いられる。
また、珪藻土は水分や油分を大量に保持することができる。このため乾燥土壌を改良する土壌改良材や、流出した油を捕集する目的で使用される。アルフレッド・ノーベルはニトログリセリンを珪藻土に吸収させることで安定性を高めたダイナマイトを発明したが、ノーベルはその後はるかに爆発力の強いブラスチングゼラチンスタイルのダイナマイトを開発したため、珪藻土を使ったダイナマイトは科学史のトピック的存在にとどまった。触媒やクロマトグラフィーの固定相の担体としても使用される。
その他、耐火性と断熱性に優れているため建材や保温材として、電気を通さないので絶縁体として、また適度な硬さから研磨剤としても使用されている。建材としては、昔からその高い保温性と程よい吸湿性を生かして壁土に使われていた。近年、自然素材への関心が高まるとともに、壁土への利用用途が見直され脚光をあびている。漆喰に類似した外観に仕上げることができ、プロでなくとも施工しやすいため、DIY向けの建材としても販売されている。珪藻土そのものには接着能力はないので、壁土としては石灰やアクリル系接着剤を混ぜて使用される。


1864年9月3日、爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡。ノーベル本人も怪我を負う。この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマヌエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。珪藻土に液体のニトログリセリンを含ませるのは彼の発明のサビの部分のようだ。1866年、不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明。雷管を使うことで自由に爆発をコントロールできるように。彼の莫大な利益を狙うシャフナーと名乗る軍人が特許権を奪おうと裁判を起こしたがこれに勝訴し、1867年アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得する。しかしシャフナーによる執拗な追求はその後も続き、アメリカ連邦議会にニトロの使用で事故が起きた場合、責任はノーベルにあるとする法案まで用意されたため、軍事における使用権をシャフナーに譲渡。
**注) 雷管(Blasting cap)は、わずかな熱や衝撃でも発火する火薬を筒に込めた火工品。微量の起爆薬(爆粉、ばくふん)と、それによって点火される添装薬(導爆薬)で構成され、火薬・爆薬などに、意図通りのタイミングで確実に点火するため、主に軍事用途のほか発破など工業用途で用いられる。 アンホ爆薬などは雷管だけでは起爆できず、伝爆薬(プライマーブースタ)を必要とする。 なお、信管は「雷管」に「起爆時期を感知する装置」と「安全装置」を組み込み、一体化させたもの。1865年、アルフレッド・ノーベルによりダイナマイト点火用として、併せて発明された。

1871年、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をダイナマイトと名づけ生産を開始。50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになり、一躍世界の富豪の仲間入りをする。1875年、ダイナマイトより安全で強力なゼリグナイトを発明。1887年にはコルダイトの元になったバリスタイトの特許を取得している。

**無煙火薬(バリスタイトballistite)
ニトログリセリン単独では危険すぎるので,ノーベルはそれを安全にして使えるケイ藻土ダイナマイト,ゼラチンダイナマイトを発明して,ニトログリセリンの爆薬原料としての地位を確立した。さらに1886年にはニトログリセリンを多量のニトロセルロースと混ぜてゼラチン状とし,衝撃に対して鈍感にしたダブルベース無煙火薬(バリスタイトballistite)を発明している。無煙火薬は土木工事ではさほどニーズがあったものでなく、連続攻撃の必要な専ら戦争用の兵器開発と言われる。

1878年、兄ルドヴィッグとロベルトと共に現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社を設立。この会社は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。
1884年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。また同年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与される。さらに1893年にはウプサラ大学から名誉学位を授与された。
1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。ノーベルは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし1895年最終的な敗訴が確定する。更に仏政府は相手方の方を正式に購入。1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけとして、長年居住していたパリからイタリアのサンレーモに移住。

1895年、持病の心臓病が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く。病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。ニトロは心臓病などの薬にも使われている。1896年12月7日、サンレーモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わなかった。現在、ノーベルはストックホルムに埋葬されている。

ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともあるという。生涯独身であり、子供はいなかった。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがあるという。1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタには既にアートゥル・フォン・ズットナーという婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。

発明
ニトログリセリンの衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1867年ダイナマイトの特許を取得した。同年イングランドのサリーにある採石場で初の公開爆発実験を行っている。また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel's Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。

その後ノーベルはコロジオンなどに似た様々なニトロセルロース化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。それをゼリグナイトと名付け、1876年に特許を取得した。それにさらに硝酸カリウムや他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている無煙火薬のさきがけともいうべきバリスタイトも発明している。

死の約一年前に、ノーベルは次のような遺言書を書いていたそうです。
 私の遺産を次のように処分してほしい。遺言執行人は、確かな有価証券に遺産を投資し、それで基金をつくる。これによって生じた利子を5等分し、毎年その前年度に人類に最もつくした人々に賞金を与える。
  物理学の方面で最も重要な発明や発見をした者。
  最も重要な化学上の発見や改良をした者。
  生理学または医学で最も重要な発見をした者。
  理想主義的文学についていちじるしい寄与をした者。
  国家間の友好関係を促進し、平和会議の設立や普及につくし、   軍備の廃止や縮小に最も大きな努力をした者。(後略)

『世界の科学者100人―未知の扉を開いた先駆者たち』より
 この遺書によって処分された基金は約3300万クローナ。
 授賞式が行われる今日12月10日は彼の命日。享年63歳でした。

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