社会学の部屋PartⅡ
ジェンダー
ジェンダーgenderという言葉は、生物学で使う性別、セックスsexとは異なった用いられ方をしているようだ。しかし、男女同権やら、男尊女卑等を話題にする際は、セックスではなくジェンダーを意識しているようだ。
英米語におけるgenderには、以下のような用法があるらしい。
1.言語学における文法上の性のこと。
2.生物一般における生物学的性のこと。雌雄の別。
3.医学・心理学・性科学の分野における「性の自己意識・自己認知」のこと。性同一性。
4.社会科学の分野において、生物学的性に対する、「社会的・文化的に形成された性」のこと。男性性・女性性、男らしさ・女らしさ。
5.社会学者のイヴァン・イリイチの用語で、男女が相互に補完的分業をする本来的な人間関係のあり方。イリイチはその喪失を批判している。
6.電子工学・電気工学の分野におけるコネクターの嵌め合い形状(オスとメス)の区別のこと。プラグとジャック、雄ネジと雌ネジなど。
1の意味では、西欧語は男性名詞と女性名詞、さらにはご丁寧に中性名詞まである。動詞や形容詞の格変化にも性がついて回る。これも男尊女卑の思想の表れとして変えて行こうという動きもあるらしいが。
2の生物学的な性を考えると、男女の違いは明白であり、男女の役割が同じだなどということは絶対にありえない。そもそも男は子を孕(はら)むことは出来ないし、乳を与えることもできない。
6の意味は工学の分野なので、差別だなんてことは問題にならない。だからgenderは主に社会科学の分野において使われる、男らしさ・女らしさとその役割分担の在り方を議論しようということになる。
ただ、"gender"という語は生物学的な性を指す単語としても用いられているようだ。単に「sex」の婉曲的表現として使用する場合だ。例えば、女子のスポーツ競技において、生まれつきの性別を確認するために染色体検査が行われることがあるが、これを指す用語として英語ではgender verificationという用語を用いる。 染色体検査は女子にだけ行われる。何かこれも差別だという気もするんだけど。
ジェンダーとは、ある社会において、生物学的男性ないし女性にとってふさわしいと考えられている役割・思考・行動・表象全般を指す。男性にとっては男らしさであり、女性にとっては女らしさである。 ところが、この男らしさや女らしさという概念が、地域、民族、時代で千差万別であり、定義しようもない。論者が自分の勝手に考えている「男らしさや女らしさ」を前提に議論すれば、結果は発散してしまうことは目に見えている。
今、子供の教育で「男らしくしなさい。」とか「女らしくしなさい。」という表現は、だんだん使われなくなっている。こんなことを子供に説明することも難しくなっているし、そもそも適切な表現かどうかも怪しい。
男らしさや女らしさとは、本来、生物的な男性・女性が社会的にいかにあるべきか、という価値観の問題であるのにその価値観が多様では議論は収束しない。生物的性と社会的性は同一視すべきではないものの、相互に深い関わりを持つ。
話を具体的にするため、江戸時代の社会で考えて見よう。武士の家庭では男女の役割分担は明確だ。家の中の仕事はすべて妻の責任。男は藩の役所で仕事をし、給料を運ぶだけ。食事を仕切っているのは女性。「男子厨房に入らず。」出された食事を黙って食べるのが格好いい男。妻は外では「三歩下がって」夫を立てて、内では家計はしっかり握っている。これでバランスが取れていれば、男も女も文句を言わないだろう。町人や農民たちもこれと同じ。しかし、武士と違って女性もビジネス(商売や農作業)に参加している分、女性の立場は間違いなく強い。「かかあ天下と空っ風」か。
しかし、このシステムがうまく回っているのは、家族の中に子供がいる場合だね。男がせっせと給料を運ぶのはひとえに子供のため。家を守るためだね。江戸時代の職業は世襲制。仕事は祖父→父→子と引き継がれていく。子のいない妻はどうしても立場が弱い。養子でももらった方が良い。
このような社会どう思いますか。当時の人達はどう思っていたでしょう。どうも社会の中に女の世界と男の世界があって、交じり合わずに共存してますね。今の世界は男女同権で男の世界と女の世界は、相当に交じり合ってますね。まず、教育の場では小学校から大学まで男女はほとんど同じ教育を受けて育ちます。机を並べて学んだ同級生が、一方が女性だからと就職で差をつけられたら怒るのが当然。入学試験で点数にこっそり男女差をつけていて、問題になった私立医科大学があった。どんな職業でも向き不向きがあるでしょうから、男の方が向く、女の方が向く仕事もあるかもしれません。でも、それは人為的操作しなくても自然の成り行きでバランスが取れるのではないだろうか。でも一方で、力仕事の現場が減ったことでほとんどの仕事では男女の能力にはほとんど差がないことも科学的にも証明されている。
では、男女同権を否定し、男尊女卑を肯定する考え方は、江戸時代のような封建的な時代の遺物なのでしょうか。男女同権運動の推進に熱心な国は欧米の先進諸国です。実は戦前のヨーロッパ諸国では、家族に関する法律(民法)は、非常に権威主義的な物であったとか。ヒットラー政権下のドイツでは、子供が親の言うことを聞くのが当たり前、殴ったり、折檻したりするのは普通のことだったとか。また、労働者は上司の言うことには絶対服従問暗黙の掟が。このような風土が全体主義を助長したのだと反省されています。オランダ統治下のインドネシアでは、妻は家庭内のことで裁判を受ける権利が無かったとか。著しく男尊女卑を肯定する考え方が横行していたらしい。戦前は女性に選挙権などなくて当たり前。
どうも、男尊女卑の考えの根底には、伝統的な秩序が崩れ、工場で労働する男性・女性や戦争のための兵隊が増加し社会が不安定になってくることを防ごうという初期資本主義の思想ではないかと思う。一婦一夫制の核家族を理想とするキリスト教プロテスタントの考えがもとではないか。多数の労働者に均等に女性を分配するには一婦一夫制が良い。妻も子供も男の所有物だ。
しかし、総力戦となった第二次世界大戦時の連合国および枢軸国では、男性が徴兵され戦場に出向いている間、女性が工場労働に従事することになり、女性が労働力として社会参加することの大きなきっかけとなる。しかし、比較的多くの国家で男性に対してのみ徴兵制が課される。男尊女卑の考え方を肯定しないと、このルールは成立しない。
欧米の専業主婦の女性には家計を一切取り仕切る権利はないという。夫と妻の財布は別のようです。端的に言えば、妻も子供も夫の所有物という考えです。西欧のウーマンリブの女性たちが日本に来て財布の紐はしっかりと握っている専業主婦がいる事実を知ってビックリするそうです。西欧の専業主婦の女性は、夫の忠実な僕でないとならないらしい。だからひたすら社会参加を求めることに。専業主婦は同性からも馬鹿にされる。
キリスト教世界では、神が男性であるというイメージが保持されている。かつては神の使者たる天使も昔は成人男性の姿でイメージされていたが、近世以降は赤子や女性のイメージで描かれることも。カトリックやオーソドクスでは聖職者の特定の地位は男性にしか許されていない。プロテスタントでは女性の教職者が認められている教派が多いが。
仏教大乗仏教では、仏陀は男性であるとの主張が法華経の一節の解釈から生じているらしい。女性は成仏しないが来世に男性として輪廻すれば、成仏する可能性があるとの考えも。上座部仏教では、あくまで悟りを目的としており成仏を目的としない。経典では複数の女性が在家、出家を問わずに涅槃に到達している(阿羅漢果という)。仏が必ず男であるという大乗仏教の考えは異端性を示すものともいえる。
神道日本の神道では、明治以降は最高神が女性であるアマテラスとされている。道教道教では、陰と陽はそれぞれ女性と男性の属性であり、女性は月に、男性は太陽に支配されていると考えられている。
男尊女卑の思想は、宗教の影響も大きいようだ。特に、産業革命以降のプロテスタント達の考えは男尊女卑の考えを補強するのに一役買っている。
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ミソジニー
ミソジニー (misogyny);
「ミソジニー」という言葉がある。「女性嫌悪」「女性蔑視」などと訳されたりする。女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視のことだという。男性が女性に対して持つだけでなく、女性が同性に対して持つこともあると言われる。たまたま新聞の論壇の中で説明なしで使われていたのでWikipediaで調べて見た。しかし、「男尊女卑」等と言う語と何が異なるのかよく分からない。
ミソジニー (misogyny) とは、女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視の事らしい。女性嫌悪、女性蔑視などともいう。女性、女性らしさを嫌悪する人物をミソジニスト(misogynist)と呼ぶ。
対義語には、「女性や女らしさに対する愛好」を意味するフィロジニー(philogyny)と、「男性や男らしさに対する嫌悪」を意味するミサンドリー(misandry)の二つがあるようだ。通常「女性嫌悪」「女性蔑視」などと訳される。男性にとっては「女性嫌悪」、女性にとっては「自己嫌悪」。
男性側のミソジニー
男性側のミソジニーの例として、女性に対する性的暴力やセクシャルハラスメント、制度的差別などに加え広告や映画、文学テクストなどにおける女性を憎む表現など。逆に男性に対する制度的差別?や身体的差別?等に対する意思などが挙げられる。
女性側のミソジニー
女性側においてミソジニーは、女性の体に対する羞恥心、拒食症などの摂食障碍、性的機能不全、鬱病、女性であることに起因する劣後感や無価値感。「女性であることが嫌だ」という感情の形をとって表れる。
社会・宗教におけるミソジニー
広く父権制的な社会においては、その社会構造に由来する必然的なミソジニーが見られるという。キリスト教やイスラム教のような父権制的な宗教では、父権的性質の薄い社会における宗教のテクストに比べ明らかなミソジニーが見られるらしい。こうした宗教社会では、女性は負の要素の象徴として、あるいはその元凶として描かれることが多いとされる。
ミソジニーと大衆文化
しばしばヒップホップなどの分野が、激しいホモフォビアの傾向とともにこの傾向を強く帯びる事がある。攻撃的なスラングをもって女性を嘲罵する一方で、当の女性たちからの熱い支持を受けもする。
**ホモフォビア(Homophobia)とは、同性愛、または同性愛者に対する恐怖感・嫌悪感・拒絶・偏見、または宗教的教義などに基づいて否定的な価値観を持つこと。フォビアという語は恐れとか嫌悪感の意味。Acrophobiaは高所恐怖症。Claustrophobiaは閉所恐怖症。Anthropophobiaは対人恐怖症。Female phobiaなら女性恐怖症。対人恐怖症ならSocial phobiaでいいようだね。色々多様な性癖があるのは別にとやかく非難する筋合いは無いが、もし、このような人達やそれに反対する人達の行動や言動が他の人に害を及ぼすならそれは問題だ。
インターネットスラング
インターネットスラングにおいては、ミソジニーは反フェミニズム(いわゆるアンチフェミ)とほぼ同義で使われる傾向があるとか。反フェミニズムを掲げているSNS上のユーザー内に一定数ミソジニストが存在する為か、混用され使われる様になったとか。しかし、反フェミニズム=ミソジニストという構図は成り立たない。アンチフェミニズムはフェミニズムと敵対する思想や人物であるのに対し、ミソジニーは社会や人間の心や行動の中にあるものを指す概念である。
実はここまで調べても「男尊女卑」とミソジニーの違いは何なのかよく分からない。そもそも、ネット上で「私は反フェミニズムだ」と声を上げてなんか意味があるのだろうか。同様に、「私はミソジニストだ」と宣言することに意味があるとは思えない。
ところで例として、「女の子の誰一人として僕に振り向いてくれなかったから、大学の女子学生を無差別に殺した」というような事件があったとする。このような事件は、犯人自身とはまったく関係ない女性たちを、彼女たちが女性であるという理由で殺害したという意味において、ミソジニーという概念にもっとも適合しているように思えるとの意見があった。これなら一種のFemale phobiaなら女性恐怖症の変形か。「男尊女卑」と言われる男性も劣等感の裏返しが差別に繋がるから。
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なぜ韓国は日本離れしつつあるのか
なぜ韓国は日本離れしつつあるのか
懸け橋、という言葉がある。
以下は韓国在住の女性の方の投稿から。
“定かではないが、自分で使ってみた記憶(懸け橋という言葉)はほとんどない。かつては特にどうとも思わなかったが、韓国に住むようになってからというもの、積極的に使いたいとは思えない言葉になってしまった。
だが、そう思うようになってから、私の目の前では使う人が増えていったような気がする。「日韓の懸け橋になりたい」 そんなことを言われてしまう。でも、私はすぐに「そんな無理をするのはやめた方がいいよ」と返事。何故??
自己犠牲の精神に何度も驚愕。相談を切り出してくる人の年齢はさまざまだが、若い人が多い。日本語を勉強している大学生、ワーキングホリデーや留学などで韓国で暮らしている日本人もいる。私の教え子(韓国語?)数人もそのなかに含まれる。
彼らが私についついそう言ってしまいたくなる気持ちは、理解できなくもない。私は日本人であると同時に韓国でかれこれ15年も暮らしている。日韓交流おまつり、という交流事業でもそれなりに積極的に関わっていたこともある。
だから、私に「日韓の懸け橋になりたい」と切り出すときに、まさかそれを否定されるだなんて、思ってもいないのだろう。その証拠に、「やめた方がいいよ」と答えると、キョトンとした顔をする。顔というのは、正直だ。
「日韓の懸け橋」なんて、いかにも美しい言葉ではないか。でも、私には、そのいかにもの美しさが、好きになれない。「日韓の人たちは、がんばってでも仲良くしましょう、そのために、自分が近くて遠い2つの国を繋いでみせます!」と、自己犠牲に満ちた表現になってしまうからだ。本人たちに聞いてみても、“人生を捧げます”というくらい強い意味で使っているという(韓国に永住する? 韓国人と結婚する?)。
「日韓の懸け橋」はいかにも不毛である。まず、国通しの関係が良くない。その上、日本には嫌韓感情があり、韓国には反日感情がある。そんな状況は、数十年単位で改善するとは思えないし、それどころか、両国相互の感情はこれからもっと悪くなるだろう。年を重ねてから「私の人生何だったのか」なんて思うのがオチだ。
そんな若者の将来が見え見えだ。「世の中にはもっと楽しいことがあるから、それは考え直した方がいいよ。日韓はきっと、根本的には変わらないから、もっと気楽に日本のことに関わってよ」と、アドバイスをする。
北朝鮮よりも日本に「敵がい心」
とはいえ、そのアドバイスに自信があったわけではない。その根拠としてきた日韓両国民の感情の対立は、あくまでも私が日本人として韓国で生活するなかでの実感として思っていただけだったからだ(**個人的な経験なので一般論として通用するかどうか?)。
ところが、それをデータとして明確に示してくれる記事がつい先日、出た。中央日報による7月8日付の報道。日本に対して敵がい心を抱いている韓国人は71.9%にのぼり、対北朝鮮の65.7%を上回るという(つまり、北朝鮮は今は敵対していても本来は同朋だからね)。
この数字が異様に合点がいく。敵がい心という言葉も微妙な訳だが、原文で使われている「敵対感」は、政治外交上での意味も含む。だから、韓国という国にとって脅威だと思うかを問うアンケートだと考えればよい(もっと端的に言えば仮想敵国)。
韓国人が日本に敵対感情を抱いてしまうの理由の一つに、いわゆる歴史認識問題で韓国に厳しい姿勢をとる安倍首相の存在も大きい。ともかく安倍首相のことは無条件に嫌いな人がほとんど。とくにこの数年は、徴用工裁判の影響もあり、そんな傾向が強い。
では、日本の首相が別の人になれば、対日感情ははっきりと改善するかというと、そうは思えない。というのは、韓国社会が徐々に内向きで排他的になっていることも、記事で指摘されているからだ。
たとえば、中国への敵がい心はこの5年間で16.1%から40.1%に増加した。また、多民族・多文化国になるべきだと考える人は、この10年間で60.6%から44.4%に、つまり、約4分の3まで減少した。さらに、外国人居住者を受け入れるのに限界があると回答した人は増えていて、10年間で48.9%から57.1%に膨らんだ。
また、日本語では報じられていないようだが、この調査に関連する別の記事もある。国際結婚の家庭の子どもたちのことを韓国人だと思えるか、という質問に対して、肯定的な回答をしたのは、10年前の36.0%から17.1%と減少した。さらに、そうした子供を韓国人だと思えないと回答したのは、18.8%から32.4%に増加している。
日本も内向きだと言われているが、韓国も輪をかけて内向き志向。しかもその傾向がまします強まっているのがデータから一目瞭然。
だが、韓国でそれを問題として扱うニュースや論説記事は。私にはその記憶がない。その一方で、我が家では日本の放送はNHKの国際放送しか視聴できないが、日本国内に暮らす外国人の苦労話の報道は何度も見ている(**日本も相当少なくない?)。ということは、韓国社会は、いま、自分たちが内向きに傾いていることに無自覚。あるいは、そこから目を逸らしている(**日本も実際には相当内向きだと思うけど)。
国内に蔓延しつつある内向き志向をどう克服するかは、韓国社会が今後10年以上かけて向き合っていくべき課題となるであろう(**多分当面は克服する意図はなさそう)。そのうえで諸外国の事情を受け止められるようになるのには、もっと時間がかかるし、できるようになるのかでさえ、未知数。
そのなかで、歴史認識問題ですれ違う日韓両国民で、どれだけ理解し合えるのだろうか。ここでは日本の状況を書く余裕はないが、程度の差こそあれ、似たり寄ったりだと思う。だから、無理して付き合いを深めるよりも、興味のある人が肩の力を抜いて往来し、互いに協力できることはそれなりにやればいい。そういうことは、肩に力を入れなくても続けられる。
ちなみに、韓国が好意を寄せる国はアメリカ。敵がい心を持つ人の割合は上昇したが、トランプ政権による韓国への辛めの対応のわりに、10.2%に留まる。ヨーロッパの国々に対してはデータがなかったので不明だが、実感としては、アメリカに近いはずだ。ちょっと皮肉な言い方かもしれないが、韓国社会はいま、脱亜入欧に傾いている。“(JBpress: 2020.7.19)
以上、筆者が主張する“懸け橋”になろうとするのは、止めなさい。“懸け橋”になんかなろうとしても不可能という助言だ。年を重ねてから「私の人生何だったのか」なんて思うのがオチだ。このアドバイスは、理想に燃えた若者たちへ優しいアドバイスだね。
これ、韓国語を習い始めて、だんだん韓国の文化にも慣れてきて、何年か韓国にも在住して、韓国人達の反日感情、逆に日本人たちの嫌韓感情にも嫌気がさし、何とかその溝を埋めたい。その“懸け橋”となれれば。おそらく彼等は、韓国にも親しい友人が出来て、お互いに意見も交換できる間柄になっているのでしょう。だから、それまで問題にもしていなかった両国民感情の深い溝を何とか解消したいとの気持ちが出てくるようだ。
しかし、所詮あなたは日本人、彼等は韓国人、歴史や文化や国際政治のしがらみの中で造れた深い溝は、簡単には解消されないということだ。
でも、もしあなたが韓国に住んで韓国人の男性或いは女性と結婚する。韓国の会社に就職する。逆に日本で韓国の方と結婚する。韓国の人を会社で雇う。なんていう場合は、この深い溝が存在することを前提にお付き合いしないと行けない。そうしないと余計なトラブルに巻き込まれることが多くなる。
韓国語に限らず、語学が好きになるにはその国の全体が好きになってしまうのが語学の習得には手っ取り早い方法だろう。しかし、あまりにも感情移入し過ぎるのは危険な様だ。確かに韓国人達の反日感情、逆に日本人たちの嫌韓感情も中立の立場で見れば根拠も薄い不合理なものが多い。しかし、当人たちにとっては空気のようなもので、理屈抜きで当然のこととして逆らうことが出来ないものだ。
現在新型コロナが世界中で大流行している。そんな情勢下でコロナはチョットした風邪かインフルエンザのようなもの。そんなに危険ではないよ。なんて、うっかり口走れば空気の読めない大馬鹿だと大バッシングを受けること請け合いだ。
これと同じで、韓国内で日本人もいい人多いよ。何て言えばひどいバッシングを受けるらしい。韓流スターたちもこれに苦労しているらしい。
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カッコウの托卵
先日話題にあげた、カッコウの托卵の話の補足。
実際の鳥のカッコウは、托卵した後は、親子の縁が完全に切れる。ところがヒトの場合は、変な未練が残るせいか、また復縁し昔の関係を取り戻したいとの妄想が起こる因果な生き物らしい。いわゆる「生みの親か、育ての親か?」の話。現実には時間を逆に動かすことは全く不可能。結局は、現状をひとまず肯定した上で、子供の権利を最優先に考えて関係者全員で子供の将来を熟慮して話し合いで解決する以外にない。
今回の事件は、娘Mの所属を巡って、カッコウ夫婦T&Aが彼等の実の育て親A&Yを裁判に訴え、「娘Mを引き渡せ」の判決を勝ち取った。その結果はどうだったか? 当然前提として肝心の娘が喜んで両親のもとに飛んでくる? そんな夢みたいな話が現実になる訳がない。肝心な娘Mは怒り心頭に達し、断固戦う決心をする。
勿論、裁判所の判決は、そんなこともお見通し。「娘さんMの意志があれば」の条件付き。でも、こんなことすれば、「ああ、そうですか。」で収まりがつくはずがない。
当初、カッコウ夫婦T&Aは、子供を現に養育してくれている自分達の両親を仮想の敵として、彼等が娘Mの意志に反して囲い込んで、自分たちを排除していると勝手な思い込みをする。邪悪な彼等の支配を取り除けば、自分達の娘Mは、喜んで自分達の処へ来ることを大前提にして、弁護士を頼み、上記判決を勝ち取ったつもりだった。ところが娘の意志は明か。彼等は理不尽にも自分を連れ去り虐待を考えている邪悪な鬼達でしかない。
それまでは、彼等は、親権オカルトに基づく勝手な思い込みかもしれないが、一定の囚われの娘を救い出すという大義名分を掲げていた。しかし、判決をいざ実施しようとすると、今度は自分達が、単に理不尽にも娘Mを連れ去り虐待を考えている邪悪な鬼のような存在にしかならない。子供の権利まで侵害しては、親権オカルトを主張しても権利の濫用になることは一目瞭然。しかも、判決が出てみると、取りあげた等勝手な思い込みであることが判明。。そもそも、趣味で子育てする酔狂な人、そんなに多くない。実際のカッコウの育ての親だって、騙されて育てているんだから。
では、どうすれば和解できる。そもそも宣戦布告して戦いを始めたのは自分達。親権オカルトに固執している限り、周囲の人達から見れば、彼等はある意味犯罪者。まず、真摯に反省し、自分の娘に頭を下げて、陳謝の意を何らかの見える形で示さないことには、永久に敵対関係になってしまうぞ。
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日本学術会議とは
日本学術会議は、科学に関する重要事項を審議したり、研究の連絡をすることを目的にした科学者の組織だ。政府に対して提言をするのが役割の一つ。210人の会員は非常勤特別職の国家公務員。この210人の半数の105人が3年ごとに入れ替わる。ということは職員は、大学の研究などの本業との掛け持ちということか。
会議は、内閣総理大臣が管轄するが、政府から独立して職務を行う「特別の機関」だ。国費で運営される。原子力三原則など国の大型プロジェクトの元になる「マスタープラン」を策定したり、素粒子実験施設の誘致についてや地球温暖化、生殖医療などについて提言や声明を発表したりする。人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全分野の約87万人の科学者を代表し「科学者の国会」とも言われる。
菅首相は10月1日、会議が推薦した会員候補105人のうち6人を除外して任命した。推薦された人を任命しなかったのは、会議が推薦する方式になった2004年度以来初めてのことだ。この除外された6人はどんな学者なのか。
安全保障法制や「共謀罪」法に反対を表明した学者らが含まれている。日本学術会議への人事介入に抗議する というハッシュタグができるなど波紋を呼んでる。確かにこれは問題だ。反対派いることで議論が盛り上がり良いものが出来る。
除外された6人に含まれる加藤陽子教授は、10月1日付の毎日新聞にコメントを寄せた。「なぜ、この1カ月もの間、(学術会議会員の人事を)たなざらしにしたのか。その理由が知りたい。そのうえで、官邸が従来通りに、推薦された会員をそのまま承認しようとしていたにもかかわらず、もし仮に、最終盤の確認段階で止めた政治的な主体がいるのだとすれば、それは『任命』に関しての裁量権の範囲を超えた対応である。念のため、付言しておく」としている。
加藤教授は公文書管理について政権に意見を届けてきた。公文書管理について、小泉純一郎政権で政府の有識者懇談会に参加し、2010年設置の「内閣府公文書管理委員会」委員。現在は「国立公文書館の機能・施設の在り方等に関する調査検討会議」の委員を務めている。
【任命されなかった6人】 (共同通信によると)
1.芦名定道(京都大教授 ・キリスト教学)
「安全保障関連法に反対する学者の会」や、安保法制に反対する「自由と平和のための京大有志の会」の賛同者。
2.宇野重規(東京大社会科学研究所教授・政治思想史)
憲法学者らで作る「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人。 2013年12月に成立した特定秘密保護法について「民主主義の基盤そのものを危うくしかねない」と批判していた。
3.岡田正則(早稲田大大学院法務研究科教授・行政法)
「安全保障関連法案の廃止を求める早稲田大学有志の会」の呼び掛け人。沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設問題を巡って2018年、政府対応に抗議する声明を発表。
4.小沢隆一(東京慈恵会医科大教授・憲法学)
「安全保障関連法に反対する学者の会」の賛同者。安保関連法案について、2015年7月、衆院特別委員会の中央公聴会で、野党推薦の公述人として出席、廃案を求めた。
5.加藤陽子(東京大大学院人文社会系研究科教授・日本近現代史)
「立憲デモクラシーの会」の呼び掛け人。改憲や特定秘密保護法などに反対。「内閣府公文書管理委員会」委員。現在は「国立公文書館の機能・施設の在り方等に関する調査検討会議」の委員。
6.松宮孝明(立命館大大学院法務研究科教授・刑事法)
犯罪を計画段階から処罰する「共謀罪」法案について、2017年6月、参院法務委員会の参考人質疑で「戦後最悪の治安立法となる」などと批判。京都新聞に対し「とんでもないところに手を出してきたなこの政権は」と思ったとインタビューに答えている。
どうも、皆さん立派な方ばかり見たいだ。テレビでいい加減なコメント発している学者とはことなり、極めて地味な活動をしておられるようだ。こんな方々を自分の意見に賛成でないと言って指名を拒否することは立件民主主義の理念にも反する。どう見ても菅首相の頭の中の方が変だね。
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アメリカ合衆国憲法修正第12条
マスコミの報道で米国の大統領選挙は民主党のバイデン氏の確定とされて報道されているが、共和党のトランプ氏は選挙に不正があったとして談合を拒否し、敗北宣言を出さない。つまり、現状では次期大統領は決まっていないことに。
だから世界の各国の対応はさまざま。さっそく祝辞をおくりバイデン氏に媚びを売る国(欧州、日本)から、冷静に楽しんで見ている国まで(ロシア、中国、その他)様々な様だ。
結局は法廷闘争に持ち込まれ、最後は最高裁判所と判断となるようだ。しかも、トランプ氏の一見無謀な頑張りも米国の憲法で認められた合法な手続きとなれば、これを感情論で非難することは的外れということに。
アメリカ合衆国憲法修正第12条(Twelfth Amendment to the United States Constitution、あるいはAmendment XII)は、アメリカ合衆国憲法第2条第1節第3項を置き換え、大統領選挙を規定するものである。
憲法の当初の条項では、選挙人団の各自が2票を大統領候補に投じ、過半数を得た者が大統領に、次点の者が副大統領になることになっていた。このやり方の欠点が1796年と1800年の大統領選挙で露呈された。修正第12条は、1803年12月9日にアメリカ合衆国議会により提案され、1804年6月15日に必要とされる数の州によって批准された。選挙人が2票を持つことは同じだが、大統領と副大統領にそれぞれ1票ずつ投票することになった。
**当初の憲法では、次点のものが副大統領は現在の二大政党のもとでは守られていない?
いや、米国大統領選挙は直接国民が選ぶのではなく、誰を選ぶかは選挙人に任されているらしい。
当初の形式での大統領と副大統領に対する投票
アメリカ合衆国憲法第2条第1節第3項では、各選挙人が2票を投ずることになっていた。各選挙人は2票ともに選挙人と同じ州の住人に投票することはできなかった。選挙人票の過半数(50%以上)を得ることが当選者に求められた。
選挙人票の過半数を得た者が1人を超えて存在し、且つ、その得票数が同数の時は、アメリカ合衆国下院がこれらの候補者の中から選択することになっていた。もし、だれも過半数を得られなければ、下院は選挙人票の上位5人の中から選ぶこととされていた。
副大統領の選出はより単純な方法だった。大統領に次いで最高得票をした者が副大統領になった。大統領と違って副大統領は選挙人票の過半数を得る必要がなかった。多くの候補者の中で次点が2人以上いる場合、アメリカ合衆国上院がその中から1人を副大統領に選ぶことになっていた。各上院議員は1票ずつを投じた。当初の憲法のやり方では、候補者の票が同数になった場合に現職の副大統領(上院議長を兼ねる)が最後の1票を投じることができるか否かについて、規定がなかった。
1800年の大統領選挙では当初のやり方の欠陥が露呈され、もし選挙人団のそれぞれが党の公認候補に投票すれば、最も票を集めた者2人が同数になるということだった。下院では大統領を選ぶために何度も投票を重ねることになるということも示された。
さらに、副大統領は選挙人投票で大統領の対抗馬であったという状況では、2人が効果的に協力してことに当たる能力を妨げ、少なくとも理論的には(副大統領は現職大統領の排除もしくは死の場合に大統領職を継ぐことになるため)クーデターの引き金にもなりうるということが徐々に明らかになってきた。修正第12条では、大統領と副大統領を順番に別々に選ぶことで、そうでない場合に比較してこの可能性を排除することになった。
修正第12条での選挙人団
原文:アメリカ国立公文書記録管理局に保管されているアメリカ合衆国憲法修正第12条
選挙人は各々その州に会合し、秘密投票によって、大統領および副大統領を決定する。この二人の内、少なくとも一人は、選挙人と同じ州の住民であってはならない。選挙人は、その投票において大統領として投票する者を指名し、別の投票において副大統領として投票する者を指名する。また選挙人は、大統領として投票されたすべての者あるいは副大統領として投票されたすべての者の表ならびに各人の得票数の表を作成し、これらの表に署名し証明した上、封印をして上院議長に宛て、合衆国政府の所在地に送付しなければならない。
上院議長は、上下両院議員出席の下に、すべての証書を開封し、次いで投票が計算される。
大統領として最多得票を獲得した者を大統領とする。ただし、その数は任命された選挙人総数の過半数でなければならない。もし何人も右の過半数を得なかった時は、大統領として投票された者の内、三名を超えない最高得票者の中から、下院が直ちに秘密投票により大統領を選任しなければならない。大統領の選任に際して、各州の下院議員団は一票を有するものとし、投票は州を単位として行う。この目的のための定足数は、全州の三分の二の州から一名またはそれ以上の議員が出席することによって成立し、また選任のためには全州の過半数が必要である。もし右の選任権が下院に委譲された場合に、下院が次の三月四日まで大統領を選任しない時は、大統領の死亡またはその他の憲法上の不能力を生じた場合と同様に、副大統領が大統領の職務を遂行する。
副大統領として最多得票をした者を、副大統領とする。ただし、その数は任命された選挙人総数の過半数でなければならない。もし何人も右の過半数を得なかった時は、右の表の内、二名の最高得票者の中から、上院が副大統領を選任しなければならない。この目的のための定足数は、上院議員の総数の三分の二とし、また選任のためには総数の過半数が必要である。しかし何人といえども、憲法上大統領職に就く資格のない者は、合衆国副大統領の職に就くことができない。
適用
この修正条項は1804年の大統領選挙から適用され、選挙人団の構成は変えなかった。むしろ、選挙人団が、さらに必要ならば下院が大統領を選ぶ手順を修正した。
修正第12条の下では、選挙人は大統領に2票を投じる代わりに、大統領と副大統領を区別して投票しなければならない。どの選挙人も選挙人と同じ州に住む大統領と副大統領候補者双方に投票することは許されない(住人条項)。しかし、選挙人が同じ州の一人の候補者に投票することは可能である。
修正第12条は、憲法に定める大統領として不適格な者が副大統領になることを明確に排除。その問題は、修正第12条に定める憲法上の不適格者および修正第22条の任期制限が、以前に大統領職を務めた者あるいは大統領を代行した副大統領に適用されるかということであり、合衆国最高裁判所によって裁定が出されておらず、他の憲法修正条項の批准で規定されてもいないために、憲法上不明なままである。
大統領あるいは副大統領として選ばれる者には選挙人投票の過半数が現在も要求されている。誰も過半数に達しない場合、下院が州ごとの投票により、また憲法第2条で要求される定足数で大統領を選出する。修正第12条では当初の憲法で5人の中から選ぶとしていたものを、3人を超えない候補者から選べるようにした。
同様に上院は、もしどの候補者も選挙人投票で過半数に達しない場合、副大統領を選ぶことが出来る。その選択は選挙人投票での「上位2名」にある者に限定されている。もし多くの候補者が同点で2位となった場合、最高得票となった候補者に加えて、同点の者全てを対象にすることができる。修正第12条は、投票を行う時に州または議員の3分の2という定足数要求を導入した。さらに修正第12条は上院の「議員総数の過半数」の票が選出のために必要であると規定している。
国家指導者がいないというような行き詰まりを避けるために、修正第12条では、もし下院が3月4日(当時、大統領任期の初日)以前に大統領を選べないときは、副大統領に選ばれた者が「現職大統領の死もしくはその他の憲法上の不能の場合と同様に」大統領職を代行する。修正第12条では、副大統領がいつまで大統領を代行するか、あるいは3月4日以降に下院が大統領を選出できるかについては、述べていない。憲法修正第20条第3節は、大統領の任期開始日を1月20日に変え、また両院が行き詰まった場合に「誰が大統領職を代行すべきか」を立法によって指示することができるようにすることで、修正第12条の規定に置き換わった。
1804年から現在までの選挙
ヘンリー・クレイ。1824年の選挙で裏取引をやったと非難された。
1804年の大統領選挙以降全ての選挙は修正第12条に基づいて行われてきた。その時以降下院が大統領を選出したのは1度だけある。1824年大統領選挙で、アンドリュー・ジャクソンは選挙人票99票を獲得し、ジョン・クィンシー・アダムズ(ジョン・アダムズの息子)は84票、ウィリアム・クロウフォードは41票、ヘンリー・クレイは37票を得た。候補者全てが民主共和党員であり(候補者の間には重要な政治的違いはあった)、誰もが選出に必要な過半数の131票に届かなかった。副大統領の方は競合が少なく、ジョン・カルフーンが182票を得て即座に選ばれた。
下院は上位3人のみを対象にできたので、クレイは大統領になれなかった。クロウフォードは卒中を患った後の健康が優れず、下院で選ばれる可能性が消えた。アンドリュー・ジャクソンは一般投票でも選挙人投票でも最高得票を得ていたので、下院が自分を選んでくれるものと期待していた。しかし、下院での1回目の投票でアダムズが13州、ジャクソンが7州、クロウフォードが3州という結果になった。クレイがアダムズの大統領を後押しした。クレイは下院議長だったので、クレイの後押しは余剰効果があった。アダムズがクレイをアメリカ合衆国国務長官に指名したとき、多くの、特にジャクソンとその支持者はこの2人を「裏取引」をやったと非難した。他の者は、大統領候補者がその立場を強化するために、その副大統領後者を指名するように、これは政治における通常の連携であると理解した。さらにある歴史家は、クレイが理論的にジャクソンよりもアダムズに近く、クレイ支持者がアダムズの支持に回ったのは自然であるとも言った。
1824年の選挙後、民主共和党は民主党とその後にホイッグ党となるものに分かれた。1836年の大統領選挙では、ホイッグ党が選挙人の票を分散し民主党の候補者マーティン・ヴァン・ビューレンが過半数を取れないようにするために、異なる地域に異なる候補者を指名し、それによってホイッグ党が支配する下院での議決に持ち込もうとした。しかし、この戦略は失敗し、ヴァン・ビューレンが一般選挙でも選挙人選挙でも過半数を獲得したので、それ以降合衆国の主要政党が国政選挙で地域候補を出す戦略を採用することは無かった。
1836年の選挙では、これと同時に副大統領候補が誰も選挙人選挙で過半数を獲得できない選挙になった。民主党の副大統領候補リチャード・メンター・ジョンソンは以前の奴隷との関係ゆえにバージニア州の民主党選挙人の票を獲得できなかったことが原因だった。その結果ジョンソンは147票となり過半数に1票足りなかった。次に来るのはフランシス・グレンジャーの77票、ジョン・タイラー47票、ウィリアム・スミス23票だった。しかし、選出は上院に委ねられ、ジョンソンが33票を獲得し、グレンジャーの17票を破って当選した。
修正第12条では、大統領と副大統領が同じ州から選ばれることを排除していないが、住人条項に対してやや難しくなっている。現代の選挙では副大統領候補が異なるタイプの有権者に訴えるためにしばしば選ばれている。この問題は2000年の選挙でジョージ・W・ブッシュ(副大統領候補はディック・チェイニー)とアル・ゴア(副大統領候補はジョー・リーバーマン)との間で争われた時に起こった。チェイニーとブッシュはどちらもテキサス州住民であり、テキサス州の選挙人が双方に投票することは修正第12条に違背するものだと主張された。ブッシュはテキサス州知事だったのでその住所は問題が無かった。チェイニーとその妻はハリバートンの社長の役割を果たすために5年前にダラスに引っ越した。チェイニーはワイオミングで育ち、合衆国議会はワイオミング州の代表だった。選挙の数ヶ月前、チェイニーは有権者登録と自動車免許をワイオミング州に移し、ダラスの自宅を売りに出した。3人のテキサス州選挙人がダラスの連邦裁判所にこの選挙の異議申し立てを行い、続いて第5巡回控訴裁判所に控訴したが、そこで却下された。
**実に複雑で分かりにくい。本文はWkipediaからの引用で。いずれにしろ米国の次期大統領は簡単には決まりそうもない。簡単に決まらないことが立憲主義のいい所でもああるのですが。
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中間層の役割
今までの日本は、「一億総中流」等と言われていたが、今は格差社会で上流国民と下流国民に分かれているんだなんていう論者もいるらしい。中流と中間は意味がやや異なるかもしれないが、下記は古典を元にした政治論的な試論。
福沢諭吉先生が「学問の進め」で喝破している。
国を豊かで強くするのは国民一人一人の努力と精進にかかっている。
よく見、良く聞き、よく理解して、おのおの天職を通じて、努力することしか国の発展はない。
技術者が頑張らないと良い車は出来ないし、医者が頑張らないと良い医療は出来ない。
教師が頑張らないと良い生徒は育たない。政府が旗振っても国民は動かない。
天職に目覚めた彼等が、自分達の意見を代弁する代表を選び、国を動かす。これが民主主義の基本原理。このように代表を選出する力量を持った人が中間層と位置付けられるのでは?
欧米流民主主義は、権利の拡大として有選挙権者を増やすこと正当化してきた。
でも、これが本当に民主主義が発展したのかと言えば異論があるだろう。
馬鹿でもチョンでも1票は1票だ。その結果生じることは、中間層の没落と衆愚政治。
古代ギリシャ・アテネの成功と没落の構図と同じ。
古代ローマ人は、はっきりと多数決による民主主義は愚劣と認識して採用しなかった。
歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として。
History repeats itself. The first as a tragedy and the second as a comedy.
История повторяется. Первая как трагедия, вторая как комедия.
历史总是重演。 第一个是悲剧,第二个是喜剧。
新型コロナは、2度目危機だ。意味も無く都市封鎖して(既に都市内には感染者有)。
、
喜んで自ら在宅規制。マスクして人と距離置き話をしない。絶対に感染したくない(でも誰でも感染する)、何時までもstay home 続けましょう。感染は間違いなく収束しない、コロナとの共生を図るしかない。でもそれはいや。何時までも何時までもstay home。 初めからワクチン何て期待できない。
衆愚う政治の見本そのものだね。
まるで映画「猿の惑星そのものだ。」後世の人から見たら、絶対にお笑い草の喜劇だろう。
【追記】追記
フランスの政治思想家にトクビルという人がいる。彼自身は自由主義の考えの持ち主だったらしけど、親戚かなんかの関係で反革命派とされて米国に亡命する。彼は自身の足で当時の米国各地を視察して手記をまとめている。次の逸話は米国民主主義の理想の形を示すものとして有名なのでは?
学生時代に読んだなんかの本に紹介されていたもので詳細や出典は分からないが。
トクビルさんが独立後間もない頃の米国のある地で見たことらしい。住民たちが集まっているところに、議員たちの集団が通りかかり。偉そうなそぶりで、「どけどけ議員様のお通りだ。」住民達:「??」「俺たちは市民の代表だぞ!!」「!!」後ろの方から「バッカヤロー。俺たちがその市民だ。」
トクビルさん、これぞ民主主義の手本だ! 米国侮れず。
今の米国にも、この精神、共和党の草の根派などに脈々と受け継がれているとか。
**トクビル
アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル(仏: Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年7月29日 - 1859年4月16日)は、フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった。
パリ出身。生家はノルマンディー地方の貴族で軍人・大地主という由緒ある家柄だったものの、フランス革命の際に親戚が多数処刑されたことから、リベラル思想について研究を行っていた。その後ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカのデモクラシー』)。
30歳の時、家族の反対を押し切り、英国人でフランスに移民した平民階級の3歳年上の女性メアリー・モトレーと結婚。1848年の二月革命の際には革命政府の議員となり、更に翌年にはバロー内閣の外相として対外問題の解決に尽力した。彼の政治的手腕はなかなか鮮やかなものであったが、1851年、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターに巻き込まれて逮捕され、政界を退くことになる。その後は著述及び研究に没頭する日々を送り、二月革命期を描いた『回想録』と『旧体制と大革命』を残し、1859年に母国フランスで肺結核のため54歳の生涯を終えた。フランスが誇る歴史家・知識人。
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反知性主義
トランプ大統領は、「バイデン氏が大統領になったら(大統領は)科学者たちの言うことを聞くぞ」と発言し、支持者の喝采を浴びたそうだ。
アメリカだけではない。日本でも、科学技術や学問に対する疑問、懐疑や非難の声が強まり、研究者たちが不安の声を上げている。反知性主義がこれほど強まって、果たして世界はどうなってしまうのだろうか。多少とも科学技術に興味のあるものにとっては無視できない主張だ。
理不尽?に見える動きにも、何らかの理由があるはず。アメリカや日本で、研究者や科学技術への疑問や批判が一般国民からも少なからず出てくる背景には、実は人工知能関連の言説があるという意見もある。
でも、上の議論は本当に正しいのか。科学技術や学問に対する疑問、懐疑や非難の声が強まるのは、寧ろ専門家の言う説明が合理的に納得できなくなっているからかも知れない。反知性主義が強まることは、論理性合理性を重んじるホモサピエンスとして健全な反応かも知れない。科学技術や学問が細分化されて、彼等の主張が間違っていても誰も反論無しでメディア等に正しいものとしてまかり通ってしまう現状の方が更に問題は大きそうだ。
トランプ大統領が科学者達と言っているのはいわゆるプロバガンダをばら撒く御用学者を非難してのことだ。例えば、「温暖化の原因はCO2」だという主張は、まだ現段階では極めて不確実な仮説段階のものであるし、「covit-19はそれほど危険なウィルスではない。」→今は少数意見かも知れないが、最も検証が必要な科学的課題でもある。
専門家の意見が政治家によって事実とされ、多数決でまかり通ってしまう事態の方が寧ろ問題だろう。
どんなに当たり前のことと思われることも、一度疑ってみると良い。そこには新しい発見や、新しい世界が開けて来る。反知性主義というものも、人としての論理的な考えを失わない限り有意義なものと言えそうだ。
人工知能を扱う記事は、日々配信されている。特に記事中で「シンギュラリティ」という言葉によく出くわす。いつか人間の知性を人工知能が超えるのではないか、その瞬間を示した言葉だ。でも、一方には人工知能の脳はまだゴキブリにも及ばない等と言う物理学者の意見もあることも一考する必要もある。
記事によっては、シンギュラリティを迎えたときの恐ろしい未来を予想するものが多い。人工知能やロボット技術が雇用を奪い、多くの人々を路頭に迷わせるだろうと。人工知能やロボットが苦手とする創造的能力を発揮できない人間は仕事にあぶれても仕方がない、と言わんばかりの内容だ。人工頭脳が人間の職場を奪うというのだ。
しかし、楽観的な意見もある。人工頭脳は人間の活動範囲を広げ、人の活動をサポートしてくれるから、人間にとってより創造的な仕事が増える。大変望ましいことではないか。
確かに、科学技術や学問に対する疑問、懐疑や非難の声が強まることは寧ろ社会が健全であることの証だ。もともと科学技術の発展は人々の疑問や懐疑を解決することで飛躍的な発展を遂げて来たのだから。疑問や懐疑の無い所には、科学技術や学問の飛躍的な発展はない。
人工知能やロボット技術によって、人が考える力や学びの力、労働の喜びを忘れてしまうことが最も危険な事だろう。
反知性主義の人達の方が、メディアや政治家のいうことを妄信する人達よりは遥かに健全で人間的だということかも知れない。
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世界最大のリスク??
米次期大統領、世界の最大リスクと認定されてしまう。
ユーラシア・グループがバイデン次期大統領を10大リスクの1位に(古森 義久:産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授)
2021年の国際的な最大リスク(危険)は、米国46代目の大統領となるジョセフ・バイデン氏だ。こんな予測を国際的に著名な米国の政治学者イアン・ブレマー氏が1月冒頭に打ち出した。同氏が代表を務める国際情勢分析機関「ユーラシア・グループ」が、「2021年のトップリスク」という報告書で発表した。
この予測では、新しい年の国際リスクが1位から10位まで挙げられ、そのトップが「第46代アメリカ大統領」と明記されていた。ちなみに2位は「新型コロナウイルス」、3位は「気候変動」、4位は「米中緊迫の拡大」、以下は「サイバーの混乱」や「中東の低油価危機」「メルケル首相後の欧州」などと続いていた。
カーター以来、最も弱い大統領に?
日本でも広く知られ、評価の高いブレマー氏は、はたして本気でバイデン氏を大きなリスクと考えているのか?
こう訝(いぶか)しまざるを得ないのは、同氏が政治的には民主党支持、トランプ大統領批判で知られる人物だからだ。であるからこそ、この診断は吟味しておく必要があるだろう。
ただしこの報告書が公表されたのは1月4日、つまりトランプ支持者の一部が米国議会に乱入して、トランプ大統領への非難が全米に広がった直前である。とはいえ、バイデン氏への評価はトランプ氏評価と必ずしもゼロサムではない。トランプ支持が減れば、その分、バイデン支持が増す、というわけではないのだ。ましてバイデン氏の大統領としての地位がトランプ氏の命運と反比例の関係になっていることはない。
この報告書を読むと、トランプ氏の振る舞いとは関係なく、バイデン氏自身が抱えた問題や現在の米国の特殊な状況が米国と世界の今後に多大なリスクの要素を注入しているという構図が説明されていた。
その一例として同報告書は、「バイデン次期大統領は米国民からの信託という点では1976年に当選したジミー・カーター大統領以来、最も弱いといえよう」と述べ、米国内の極端な政治分裂の状況に加えて、バイデン氏は高齢のため2期目はないとの予測をマイナス要因として強調していた。
確かにカーター大統領は近年の米国の歴代大統領のなかでも失政を重ね政権として弱体だったことで知られる。つまり、失政を重ねたのは彼が無能だったのではなく、政権が弱体だったためか。それは強い与党が望ましいという、立憲主義に反する考えでもあるが。
私自身がワシントンに特派員として初めて赴任した時期が、まさにカーター政権の発足時であり、それ以後の4年間、カーター政権の失態を目の当たりにすることになった。ジミー・カーターという人物は、人間的には大いに好感の持てる誠実な人柄だったが、国内、国外の政策は歴史に残る失敗の連続だった。
カーター政権下の米国経済は沈滞をきわめ、「マレーズ」(不定愁訴)と称される暗い雰囲気が米国社会をおおった。対外関係ではソ連のアフガニスタン大侵攻を許し、イランの過激派に米国人外交官約50人を1年近くも人質に取られた。
**経済や外交の問題だとすると、カーターさんはたまたま運の悪い時に大統領になっただけなのか?
経済が沈滞している時は、誰が担当しても運営は難しく、経済が好転すれば誰がリーダになっても国民は満足するものだから。
でも、そんなカーター大統領を引き合いに出されるほどバイデン政権が弱体化するという予測をまだ始まる前から、まさかブレマー氏から受けるとは、私には驚きでもあった。
国際的な信頼度が低下した米国
ブレマー氏はこの報告書で以下の骨子を指摘していた。
・もはや化石のように固まった米国内の政治的分断と国際的な米国の地位や指導力の低下によって、バイデン大統領は手足を縛られた状態となり、バイデン氏自身の能力や活力の限界によって統治は大幅に制約される。
・バイデン氏自身は国際情勢に対して指導力を発揮しようと試みるだろうが、まず米国が新型コロナウイルスの世界最大の感染に効果的に対処できないという現実が、国際的な信頼度を激しく低下させるだろう。
・中国の無法な行動を非難し、抑止するというバイデン政権の基本方針は、共和党と一致する部分も多い。だが、ヨーロッパがつい最近、中国との投資の包括的な合意を成立させたように、国際的には、米国の強固な対中政策を阻む要因も多い。
強固なトランプ支持層の存在が政権運営の支障に
また、同報告書はバイデン氏が大統領候補として約8000万票という米国史上最多の得票を記録した(オバマやクリントンより多かった)ことを取り上げ、バイデン新大統領は国民の支持という点では自信を保てるはずだ、と指摘する。でも、このことが郵便投票のインチキ選挙の噂を消せない最大の理由。そうしたバイデン氏への国民多数の支持は、トランプ氏への支持の広範さと、トランプ支持者の間でのバイデン氏の勝利を認めないという「確信」の激しさで相殺され、正常の大統領としての職務遂行が難しくなるとも述べていた。
その部分の骨子は以下のとおりである。
・トランプ大統領も米国の歴史では2番目に多い7400万という票を獲得し、共和党は上下両院や州議会の多くで総得票を伸ばした。またヒスパニックや黒人からの得票も増えた。トランプ氏自身が前回の選挙よりも1100万票も多い得票を記録したことも、支持層に勢いをつけた。
・トランプ支持層では70%以上とみられる多数派がトランプ氏の「バイデン陣営の不正選挙」の主張を支持し、バイデン氏が「大統領ポストを盗んだ」という認識を隠さない。この種の主張のほとんどは裁判の場などで排除されたが、連邦議会の合同会議では上院8人、下院130余人の議員が最後まで「バイデン陣営の選挙不正」を主張し続けた。
**つまり、新型コロナを武器にして無益なロックダウンを続け、感染者を沢山増やして、郵便投票に持ち込んで、大統領選挙まで奪った張本人との疑惑が何時までもつきまとうことに。
・世界の主要各国の首脳を見わたしても、その首脳の座につくための選挙の結果が国民の多くに否定されるという指導者はまず存在しない。その特殊な状況がバイデン氏の内外での統治の深刻な足かせとなる。また政策面でも、「アメリカ第一」主義はトランプ大統領の退陣にもかかわらず米国民の広い層で支持され、バイデン政権への制約となる。
ブレマー氏は以上のように「トランプ効果」がバイデン政権にとって今後の大きな負の要因になると強調する。
まだまだ予断は許せないが・・・
この予測は、その発表後に起きたトランプ支持層の議会乱入や、それに伴う民主党側のトランプ大統領に対する弾劾追及によって、どれほどの影響を受けるのか。バイデン政権にとって、どれほどの明るい材料となるのか。まだまだ予断は許さないだろう。
だが、いずれにしてもバイデン政権の発足間近というこの段階で、民主党支持のブレマー氏のような著名な専門家からこんな険しいバイデン政権への予測が発せられた事実は注視しておくべきだろう。
**ただし、ブレマー氏がリスクという言葉を使っている点を注意して欲しい。つまり、適切な対応を取らないとこうなると言っている警鐘だ。バイデン政権を批判して、やっぱり、トランプさんの方が良かったと言っている訳では無い。つまり、身内からの警鐘だね。
他の、2位以下のリスクも、どうも世界全体のリスクではなく、米国にとってのリスクのようだ。
2位の新型コロナも同様。バイデン政権は、新型コロナのお陰で大統領選に勝ったので、今後さらなるロックダウン政策を強行していく可能性が高い。ワクチンが行きわたるまで「自粛を続けろ」だろうが、本当にワクチンを皆が受けて、その結果感染は収束するのか。ワクチンが実用化してもロックダウン政策が解除されなければ、本当に暴動が生じてしまうだろう。
3位の気候変動が何故リスクか? バイデン氏は脱炭素社会を始めて認めた米大統領。その結果は、米国の産業に大きな負の影響を。オイルシェールは、環境問題で破綻し、米国はまた石油を輸入する立場に。EVカーは中国製? 米国のメリットはなさそうだ。
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先進国と開発途上国
“Fact Fullness- Hans Rosling” という本が出た。一見世の中の常識の様な事柄も、データを見て自分の頭で考えれば実はとんでもない誤解であったということが多数ある。この本の最初の方にあった意外な事実。多分衝撃的だ。
まず、右のグラフを眺めてみよう。横軸は女性一人当たり何人子供を産むのか。縦軸は生まれた子供が5歳まで死なずに生き残る確率だ。
このグラフは各国を人口の比率でプロットしている。世界の国々はごく大雑把に2つのグループに分けられる。その間に位置する国は少ない。左の四角は開発途上国(developing countries)で右が先進国(developed countries)という訳だ。左側の大きな丸はインドと中国だろう。開発途上国は、貧しく沢山の子供を産んで多くが無くなる。先進国は少子化で死亡率も小さい。これ多くの人の固定概念だろう。
日本だって戦前や戦後すぐは正に子沢山で幼児の死亡率も高かった。でも待て、中国は今一人っ子政策の為子供を5人も生む女性はいないぞ。
そうなのだ、このグラフは1965年当時の世界の状況だということ。では、改めて2017年時点のグラフはどうなったのか。著しい変化が見られる。少なくとも子供の生存率は著しく向上。5歳まで死なずに生き残る子供は、大抵の地域で9割近い。子供の数は減ってくる傾向にあることは分かるが、貧富の差とは関係なさそうだ。
2つのグラフの間の年代差は52年しかない。一体全体何があったんだろう。グローバル社会の進展だ。米国は欧州の戦後復興のため、ドルを大量に発行してものを買いまくる。
1971年にはドルは金との交換も無くなり、ドル紙幣の世界への垂れ流しが始まる。基本的には超インフレになるはずだけど、ユーロも円も人民元もドルに合わせて紙幣の増刷に応じたため、世界の為替相場は一見安定しているかに見えた。
でもこれは、開発途上国の多数の中間層の生活レベルを著しく引き上げ、一方先進国の中間層の生活レベルを著しく低下させる力となって働いた。
先進国へ集まる富は一部の富裕層にだけ集中するためこのグラフには反映されない。開発途上国でも富の偏在はあるものの全体としての生活の向上は著しい。資本はより労賃の安い地域を求めて世界を回り、その結果世界中の中間層の富を均一化する方向に働いたようだ。
このことは多くの日本の人達は気づいていないかもしれない。現在、米国でも欧州でもアジアでもアフリカでも中間層の人達の生活レベルはそんなに変わらない。羨んだり差別したりは総て偏見のなせるわざ。基本的に対当だ。米国人の多くが豊かだと思うのは間違いだ。富裕層はほんの一握り。先進国(多分開発途上国も)の方が富の偏在は著しい。1%の一握りの人達が残りの99%の人達の富と同じだとしたら?
少なくとも我々は、1965年とは全く異なった世界の住んでいることに。
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上からの社会主義
社会主義と言えば、革命やストライキ、住民運動と言った下からの改革と言ったイメージがあり、
多くの富裕層にとっては、著しく危険な思想と見なされていた。
しかし、グローバル社会の進展で、欧米等の先進国の普通の労働者は雇用が亡くなり、もし雇用があっても「やりがいの無いつまらない仕事しかあり付けなくなって来ている。」
逆に、1%の超富裕層の多国籍企業にとっては、欧米先進国で、無能でプライドだけ高く高賃金を要求する自国の労働者を雇うより、安い賃金でも有能でまじめに働く開発途上国??の人達の働いてもらった方が遥かに効率が良い。つまり、自国の労働者は皆年金生活者にしてしまった方が世界の経済もより活性化するぞ。
でも、現実には、開発途上国の生活水準は著しく向上して、先進国と生活水準はあまり変わらなくなっているのが現実のようだ。つまり、このプランが成功するかどうかは、欧米以外の国々の今後の動向が無視できない。世界は何時までも欧米中心で動いている訳では無い。
私は、社会主義者ではないが、マルクスの予言は一理あるようにも。
個人的には、政府与党やマスメディアを全面信頼し、「パンとサーカス」の生活に99%の国民が
満足するような社会が健全な人類の未来像とは思えないのですが。ただ、いずれにしても
現在のグローバル資本主義社会が曲がり角に来ていることは確かだね。
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ネオコン(新保守主義)
新保守主義(Neoconservatism)とは、旧来の保守と新しい保守の分別のために使われてきたが、特に明確な定義は存在しないらしい。概念は時代と共に変容し、国によっても異なっている。でも、よくネオコンという言葉聞く。過激な外交戦略で戦争も辞さないと言う立場のようにも。少なくとも日本には自らネオコンを自称する立場の人達は少ないと思うが。
米国で「ネオコン」と呼ばれる勢力は、元来は1930年代に反スターリン主義左翼として活動した後に「ニューヨーク知識人」と呼ばれるトロツキストたちによるグループであったらしい。ニューヨーク知識人の多くは、アメリカの公立大学の中で最も歴史のある大学の1つであるニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)を根拠地として活躍していたが、アメリカの消極的な対外政策に失望した集団である。アメリカの伝統的な保守主義の対外政策はモンロー主義に則った孤立外交を重視し、他国の人権問題には関心を示さない、あるいは自国の利益のためには(中国などの)独裁国家とも同盟を結ぶとの姿勢であったが、ネオコンの場合は民主主義、ひいては自由主義の覇権を唱え、独裁国家の転覆を外交政策の目的に置くという極めて革新的な思想および外交政策を標榜する。中東においては、唯一の近代民主国家であるイスラエルを基盤に周辺の独裁国家を滅ぼすことが中東問題の解決策であると主張する。
**トロッキー
レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(Лев Давидович Троцкий1879年~1940年8月21日)は、ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家、ボリシェヴィキの革命家、マルクス主義思想家。ソ連邦においてはレーニンの正当な後継者と目されていたがレーニンの死後スターリンに追放され、メキシコに亡命したトロツキーは第四インターナショナルを結成し、官僚制に反対し続けたが、1940年、スターリンの刺客ラモン・メルカデルによって同地で暗殺される。
ネオコンには東欧系、ロシア系、アシュケナジユダヤ人をルーツに持つものが多く、一定の政治勢力を持っていても不思議はなさそうだ。彼等が外交問題に熱心なのはトロツキーの世界同時革命論の信者でもあるからか。
1950年代には、保守反動を避けつつ漸進的政策や社会福祉の再分配政策を行っていこうとする保守党の路線が新保守主義と言われ、1980年代には、アメリカ合衆国やイギリスなどで、1970年代の社会民主主義や自由主義に代わり誕生したニューライトを稀に新保守主義と呼ぶこともあった。
米国で「ネオコン」と呼ばれる勢力は、本来1930年代に反スターリン主義左翼として活動した後に「ニューヨーク知識人」と呼ばれるトロツキストたちによるグループである。ニューヨーク知識人の多くは、アメリカの公立大学の中で最も歴史のある大学の1つであるニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)を根拠地として活躍していたが、アメリカの消極的な対外政策に失望した集団である。アメリカの伝統的な保守主義の対外政策はモンロー主義に則った孤立外交を重視し、他国の人権問題には関心を示さない、あるいは自国の利益のためには(中国などの)独裁国家とも同盟を結ぶとの姿勢であったが、ネオコンの場合は民主主義、ひいては自由主義の覇権を唱え、独裁国家の陥落を外交政策の目的に置くという極めて革新的な思想および外交政策を標榜する。中東においては、唯一の近代民主国家であるイスラエルを基盤に周辺の独裁国家を滅ぼすことが中東問題の解決策であると主張する。イスラエルも建国時には理想の社会主義国家建設の理念があったんでしょう。
ネオコンはユダヤ思想と同根であり、社会主義、リベラル、新自由主義も同根である。ユダヤ人自身が、「これらはみなユダヤ思想である」と述べている。
ディープステートの実戦部隊として東欧のカラー革命(2003年-2005年)、アラブの春(2010年-2012年)の背後にいたのが彼ら。運動の指導者に莫大な資金援助を行い、革命手法を教え、選挙に不正があったとしてデモを扇動し、選挙で選ばれた政権を少数者が転覆させた革命の、影の主役がネオコンである。
彼らは1970年代に相次いで民主党を離れて共和党へ向かい、第1期レーガン政権で台頭し、主に外交や軍事の分野で強い影響力を持った。レーガン大統領はネオコンのジーン・カークパトリックを外交顧問に指名し、ソ連を「悪の帝国」と呼び、ネオコンの師であるアルバート・ウォルステッターの限定核戦争を採用し、SDI構想など軍備増強を推し進めた。しかし、2期目に入ってからレーガン政権は柔軟姿勢に転換し、カークパトリックらネオコンは事実上追放された。
ブッシュ政権はネオコンの主張を容れてイラク戦争を始めたとされる。口実にした大量破壊兵器は、イラク占領後も見つからず、代わりにアメリカ資本がイラクの石油を押さえた。
残る石油大国はロシア、イラン、リビアなどとなった。リビアにはネオコンのヒラリー・クリントン国務長官が謀略を巡らし、ガダフィを失脚、殺害させたといわれる。
イラクとの開戦に導いた、ネオコンの代表的人物ジョン・ボルトンは、その後もイラン爆撃や北朝鮮攻撃を主張している。
アメリカ合衆国における新保守主義(Neoconservatism、ネオコンサバティズム, 略称:ネオコン)は、政治イデオロギーの1つで、自由主義や民主主義を重視してアメリカの国益や実益よりも思想と理想を優先し、武力介入も辞さない思想。1970年代以降に米国において民主党リベラル派から独自の発展をした。それまで民主党支持者や党員だったが、以降に共和党支持に転向して共和党のタカ派外交政策姿勢に非常に大きな影響を与えている。
【追記】
確かに、ネオコンと言う言葉ニュースでも良く聞く。妥協を許さない過激な発言で戦争も辞さないという姿勢。トランプ政権のポンペイオさんなんかどうなんだろう?
でも、彼等の実態は? Wikiで歴史的なこと知れべて見てビックリ!
何と彼等の母体は、ソ連からスターリンのクーデターで追い出された、トロッキーの支持母体に発すると。
なるほど、異常なまでのソ連敵視もそれで納得。多くは東欧系、ヨーロッパ系ユダヤ等の出身者が多いとか。
表面的内は、ウルトラ右翼のようで、実はマルクスの正当な後継者ということか。
イスラエル建国の際には、積極的にかかわりを持ったようで、今でもイスラエル・ロビーとは密接な関係?
合言葉は世界同時革命。covit-19は絶好のチャンスでもある。
無知蒙昧な民衆にはstay homeさせてマスクをさせて、その間に一機に革命を進めてしまおう。
社会主義は死んではいなかった。米国を共産化して中国と手を組ませれば、同時革命も可能かも。
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パンとサーカス
パンと見せ物/パンとサーカス
ローマ共和制末期に増加した無産市民が有力者に要求したこと。パンは食糧、見世物(サーカス)とは円形競技場などでおこなわれる剣闘士試合などの娯楽。共和政時代、権力を狙う有力者が市民に提供することで人気を得た。帝政時代の歴代皇帝も盛んに提供した。
ローマ共和政が前3世紀ごろから中産市民が没落して無産市民(プロレタリア)となっても、市民であるので平民会の選挙権はもっていた。彼らは国や有力者に食料と娯楽を要求し、それらを提供してくれる政権や人物を支持した。「パンと見世物(パヌム=エト=キルケンセス)」のパンとは穀物つまり小麦のこと。穀物の特別価格での販売とか、無料配布が国や有力者の手で行われていた。見世物はサーカスともいわれるが現在のサーカスのことではなく、競技場での戦車競争とか、円形闘技場での剣闘士試合、ライオンと剣奴の闘いなどのことで、これらも国や有力者が主催して無料で市民に提供されていた。剣闘士試合が行われた円形競技場として最も有名なものがローマのコロッセウムであった。
前1世紀の「内乱の一世紀」の時代には、カエサルなどの有力者が盛んに剣闘士競技や戦車競争を開催して市民の人気を集めた。また属州から多くの穀物がローマにもたらされるようになると、ローマ市民の特権として穀物(小麦)が配給されるように。ローマ帝国時代になると、アウグストゥス以降の皇帝たちは、市民に対する穀物の提供と見世物などの娯楽の提供が政治の安定につながるので、盛んにそれを実施した。しかし、それらは帝国の財政を苦しめることにもなるので、後には緊縮策を採る皇帝も。
参考:パンとサーカス 柳沼重剛『ギリシア・ローマ名言集』によると、この言葉はユウェナリスという人の『諷刺詩』第十番80に、(民衆が)熱心に求めるのは、今や二つだけ:パンとサーカス。
とあるという。パンとサーカスとは「食べ物と娯楽」ということ。サーカスは円形劇場のことだった、ここでは「見世物」のこと。昔は国のために身も心も一兵士として砕いたローマの民衆も今や堕落して、本気になって要求することといったら、食べ物と娯楽だけという有様になってしまったと嘆いている。
小麦の配給
ローマ市民に提供する小麦を確保するために、属州のエジプトやヒスパニアから小麦を運ぶ海運が盛んになり、歴代の皇帝は造船や港湾などの海上輸送力の増強に努めた。その他に食糧供給のための施設の整備も必要であった。カリグラ帝の乱脈な政治で財政再建が急務となったクラウディウス帝は次のような対策を立てた。
(引用)アヴェンティヌス丘とテヴェレ川のあいだに穀物倉庫を建設し、カンブス・マルティウスのミヌキウス回廊を小麦配給所に改築した。当時、小麦の無料配給を受ける市民は、その資格を証明する無料配給資格証を各自所持しており、毎月指定された日に配給所へ小麦を受け取りに行った。クラウディウスは、ミヌキウス回廊に45の配給窓口を設け、毎月の指定日に、指定された番号の窓口に出頭することを義務づけた。無料配給を受けていた市民の正確な数字はわからないが、30万人とし、指定日が毎月20日あるとするなら、一つの窓口は一日約300人を処理すればよかった。しかも、配給所が一ヶ所にまとめられたので、業務上の効率も飛躍的に向上したはずである。
見世物(サーカス)とは
サーカスとは、直接的には戦車競技場を意味するキルクス circus(サーカスの英語もcircus) から来た言葉で、英語のサーキット circuit の語源になったもの。つまりもともとは戦車競技場でおこなわれる戦車競走のことであったが、それが広く円形競技場(円形闘技場)で行われる剣闘士の試合を含めて、民衆に提供される娯楽(見世物興行)全般を指すようになった。
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ローマ社会で何故、「パンとサーカス」のような状態が生じたか。ローマの歴史を見ないと分からない。この点、塩野七生先生の「ローマ人の物語」は非常に良くできている。ただ、いかんせん力作であるが大作だ。一度読んで見たけど、もう一度読むにはやはり勇気がいる。
ローマは、ある意味軍事国家で、周辺の国と比べて圧倒的に強い。その強さの一つに重装歩兵の密集戦法がある。王政を取らずに元老院の貴族たちの共和制を敷いていたローマだが、戦力の主体は平民であり、兵役の義務と引き換えに平民の権利は向上し、平民会の選挙権を獲得し、平民会は元老院と対等の力を持つようになる。
カエサルを始めとし、歴代皇帝は平民会を利用し、貴族たちの元老院を抑え込むことに成功していく。元老院の中ではある程度話し合いによる民主的な手続きもあったが、平民会の圧倒的支持を得たカエサルやオクタビアヌスの前には元老院の政治的な権力は極めて限られたものに。以後、ローマ皇帝は、ずっとローマ市民達の世論に気を配り続けなければならない羽目に。世論の最大の関心事はローマ帝国の領土の拡大と維持である。これによりローマ帝国には世界中(当時の尺度で)の富が集まる。グローバル経済の実現。これにより旧ローマ領の産業は皆空洞化。多くの平民達は職を失う。総てのものは海外(ローマの属州)から買った方が安価で良質。「パンとサーカス」のような状態になるのも一理ある。
これ、今の世界の先進国の置かれた立場に似てないかしら?
でも、ローマ皇帝の立場も大変。軍の最高司令官として常に馬上で辺境地帯を走り回っていたとか。「パンとサーカス」の平民と言えども、緊急事態に備えての兵役の義務だけは持っていたと思われるが。
で、歴史的に見て、成功者はローマ皇帝なのか平民の側なのか。働かなくなった平民の中からは、色々な文化や思想が誕生してくる可能性も。でも、平民の側には歴史を変えるような政治への発言権は全く失われている。
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経済の話
韓国起源説
これまで韓国人は様々な韓国起源説を主張してきた。日本関連だけでも相撲や歌舞伎、醤油、日本酒、うどんなど、例を挙げればキリがない。寿司やカラオケまで韓国起源説を主張するのはまさに噴飯ものだけど。民族としての劣等感の裏返しとしか見えないが、うっかり議論しようとすると、彼等は本気で怒りだすから始末に負えない。
ところで、韓国のアイデンティティとも言えるキムチを巡り、中韓でキムチ起源論争がわき起こっているらしい。
2020年11月、中国四川省の塩漬け発酵野菜「泡菜(パオツァイ)」の製法や保存法が国際標準化機構(ISO)の認証を受け、中国共産党の機関紙「環球時報」は「キムチ宗主国の屈辱」と報道した。**キムチ宗主国=韓国ということで喧嘩を売っているのか?
韓国の人気モッパン(飲食の様子を撮影した動画)ユーチューバー Hamzyさんは「中国人がキムチやサムなどを自国の伝統文化だと主張する」とコメントしたが、すべてのコンテンツが中国のSNSや動画共有プラットフォームから突然削除されるなど、韓中間でキムチ起源論争が巻き起こったという。
キムチはパオツァイの派生形
キムチと聞くと唐辛子で漬けた赤いキムチを連想するが、元来、キムチという語は漬物の意味で使われた言葉だ。1760年代の韓国の飢饉時に、高騰した塩の代替品として唐辛子が使われたのが現在の韓国キムチの始まりらしい。
中国がISO認証を受けた「泡菜(パオツァイ)」は「塩に漬けた野菜」という意味だが、高麗時代の書物『高麗史』に記述された韓国最初のキムチは祭祀のお供え物「沈菜(チムチェ)」で、塩漬けした野菜に、ニンニク、ショウガを入れて作られている。記述だけを見れば、パオツァイとキムチの元祖であるチムチェは何ら変わりがない。それぞれの国でそれぞれの風土や国民性、生活習慣に合わせて少しずつ変化したに過ぎない。
キムチが日本で知られるようになったのは、1910年の韓国併合以降だ。朝鮮漬けと呼ばれ、辛くて臭いものという認識から、それほど普及はしなかった。そのキムチが日本で普及したきっかけは、1988年のソウル五輪に伴う韓国ブームだ。テレビや新聞、雑誌などが韓国特集を組んだことで韓国に「好感」を持つ人が増え、2002年の日韓ワールド杯がキムチブームに火をつけた。
さらに、2003年に韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」が放映されて、第一次韓流ブームが巻き起こり、エンターテインメントと韓国料理のブームが始まった。これを契機に新大久保のコリアタウンの日本人客が増加。オールドカマーのコリアンタウンとして知られる東上野のキムチ横丁や大阪・鶴橋駅付近にも日本人客が押し寄せた。「近くて遠い国」といわれていた日韓の距離が近づいた瞬間である。
台風19号で「辛ラーメン」だけが売れ残った理由
北朝鮮に対する日韓のベクトルが同じ時、両国の距離は近づく。北朝鮮に強硬に対応した朴政権と対北朝鮮圧力路線を取る安倍政権は強い連携関係を作ったが、対北朝鮮融和政策を取る現政権下で日韓の距離が遠のくのは必然だ。
日韓関係が悪化した2019年、韓国内で日本製品不買運動が広がる。「NO Japan」「NO 安倍」が叫ばれた2019年10月、50年に一度と言われる大型台風19号の来襲で、日本人は食べ物を確保するため、スーパーやドラッグストアに駆け込んだ。この時、韓国の「辛ラーメン」だけが売れ残り、韓国では日本人が韓国製品の不買運動をしていると報じられた。実際の理由は「辛い韓国ラーメンは、辛い食べ物に慣れていない日本人の非常食として合わない」からだが、韓国人は事態を深刻に捉えていたらしい。「こんなうまいものを我慢して食べないのは不買運動」?
日本人が嫌韓というのは韓国人の杞憂? もちろん、嫌韓族がいることは否定できないが。2019年の日本政府による「外交に関する世論調査」で、「韓国に親しみを感じる」という回答は、18~29歳は45.7%、70歳以上は17.4%と3倍近い差があった。その結果を反映するように、10~20代の若者を中心に第三次韓流ブームがSNSで拡散し、余韻が冷めやらぬ2020年、「愛の不時着」「梨泰院クラス」が人気となって第4次韓流ブームが巻き起こった。
生まれた時から韓国ドラマや韓国料理が身近にある世代は、韓国の化粧品やグルメにお金を使う。不買どころか積極的に消費する動きを見せている。報道に左右されず、自分で判断したい日本人の意識の表れだ。日本製品不買運動が今でも続く韓国と違って、現在の日本で、政治情勢が個人の行動に大きな影響を与えることはないだろう。
新型コロナウイルス感染症の拡大以降、発酵食品の需要が増え、韓国のキムチ輸出量は過去最大となった。韓国農水産食品流通公社のキムチ輸出入情報によると、2020年8~12月(5カ月間)のキムチの輸出は3万9748トン、1億4451万ドル(約158億円)に上っている。主な輸出国は日本、米国、香港だ。
過去最大という言葉だけを聞くと素晴らしい数字に見えるが、実際は異なるらしい。日本で韓国産キムチは中国産キムチに押されているが、韓国内も同様だ。韓国の飲食店では注文した料理と別にお代わり自由のキムチが必ず提供される。飲食店経営者にとってこのキムチの無料提供の原価負担は大きく、外食産業が韓国のキムチ輸入量の増加を後押しする。
そして、輸入元は主に中国だ。2020年8~12月(5カ月間)の韓国のキムチ輸入量は 28万1000トンで、同時期のキムチ輸出量の約7倍。それにもかかわらず、輸入金額は約1億5242万ドル(約167億円)で輸出金額と大差はない。韓国は安価な中国産キムチ無しには食生活を維持できないらしい。
韓国が攻撃的にならず、歩み寄りや共存の姿勢を示せれば新しい関係を生み出していけると信じるが、果たしてその日はやってくるのだろうか。このまま反日不買運動が続けば国内の韓国産キムチが中国産に代わられているように、韓国製品が別産地の製品に取って代わられるのも時間の問題か。
ところで、「辛い」のもとになる唐辛子、そもそもは中南米原産。コロンブスが1493年にスペインへ最初の唐辛子を持ち帰ったが忘れられ、ブラジルで再発見をしたポルトガル人によって伝播され、各地の食文化に大きな影響を与えた。韓国起源説等主張してもそんなに古い伝統とも言えそうもないね。
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経済の話
GAFAはなぜ邪悪に堕ちたのか
GAFAはなぜ邪悪に堕ちたのか
ビッグテックは素晴らしい理念と私たちを裏切った 前編(著者は米国の人)
どうしてこうなってしまったのだろう
2007年以降、金融業界に注目してきた人は、当時と今の状況がとてもよく似ていることに気づくだろう。みるみるうちに、排除するには大きすぎ、管理するには複雑すぎる、新たな業界が発生した。その業界は歴史上のどの業種よりも富を集め、高い時価総額を誇る一方で、過去のどの巨大企業よりも雇用機会を減らしつづけた。私たちの経済と労働を根本からつくりかえたと言える。何しろ、人々の個人データを集めてそれを売り物にすることで、いわば人間を商品にすることに成功したのだから。
**自由主義の経済に取って独占は最大の悪である。アダム・スミスの原点に戻ればそうだ。でも、国益を言い訳に彼等の独占を許して来たのが各国の政府だ。つけは払わねばならない。
つまり、事実上まったく規制を受けずにきたのである。そして、2008年ごろの金融業界と同じで、この業界も、今の状態が続くように、政治と経済の分野に大いに口出ししている。
2016年の大統領選で予想外の結果が出たことをきっかけに、これらの企業に批判が集まりだした。そこで私はビッグテックについて詳しく調べてみることした。すると、いろいろなことがわかってきた。今では誰もが知っているように、フェイスブック、グーグル、ツイッターをはじめとする世界最大級のテクノロジー・プラットフォーム企業が、ドナルド・J・トランプを大統領選で勝たせようとするロシアの工作員によって悪用されていたのだ。国際政治を意のままに操り、国家の運命を揺さぶるための手段になっていた。
→**とりあえず、これはあり得ない前提だね。トランプ大統領は、ロシアに取って有益なこと何一つやってないように見えるが。また、ロシア疑惑は大騒ぎしたのに何も出てこなかった。
しかも、そのように利用されることを通じて、経営陣や株主は財をなしていたのである。でも、テクノロジー業界は、これまでずっと金銭的な利益だけを追求してきたというわけではない。実際のところ、シリコンバレーは1960年代の反体制運動の影響を大いに受けていて、事業を立ち上げた人の多くは、テクノロジーが世界をよりよく、より安全に、より豊かにする未来を夢みていたはずある。***確かにインターネットが普及し始めた当初はそのような夢に満ちていたかも。
デジタルの世界に理想郷を求めた人々は、自らのビジョンを人々に伝えながら、まるで福音のように、こう繰り返した。情報は無料であるべきで、インターネットは民主化を推し進める力であり、私たちのすべてにとって公平な場所だと。
だからこそ、問わずにはいられない。どうして今のような状況になってしまったのだろうかと。かつては野心的で、革新的で、楽観的だった業界が、わずか数十年のあいだに、欲深くて、閉鎖的で、尊大になってしまったのはなぜだろうか?
私たちはどうやって「情報は無料であるべき」だった世界を、データが金儲けの手段になった世界に変えてしまったのだろう? 情報を民主化することを目指していた運動が、民主主義の構造そのものを壊しているのはなぜ? そして、地下室でマザーボードをいじくり回していたリーダーたちは、どんな理由があって政治経済の世界を支配する気になったのだろうか?
私たちは消費者ではなく製品である
その答えは、ある時期を境に、最大級のテクノロジー企業と、それらが奉仕する相手である顧客や一般人の利害が一致しなくなったことにあると、私は調査を始めてまもなく確信するようになる。
ビッグテック企業の問題については、個別で論じられることは多いものの、実際にはすべてが複雑に絡み合っていて、その根底には一つの避けられない問題が潜んでいる。シリコンバレーの人々の多くは認めようとしないだろうが、「人々をできるだけ長い時間オンラインに釘付けにして、彼らの関心を利益に変える」ことがビジネスモデルになっている、という問題だ。
コロンビア大学のティム・ウーはビッグテック企業を「関心の商人(アテンション・マーチャント)」と呼んだ。関心の商人は行動信念、大量の個人データ、そしてネットワーク効果を利用して、独占的な力を手に入れようとする。独占的な地位を得ることができた企業は政治的な力も手に入れ、それがまた、独占を維持する力に変わる。
過去、フェイスブック、グーグル、アマゾンの3社が規制上“何をやっても自由(フリー)でおとがめなし”権を手に入れた。結局のところ、この論理の延長線上で、グーグルは検索を“無料(フリー)”で提供するし、フェイスブックは“無料(フリー)”でメンバーになれる。アマゾンは価格を切り下げ、製品を無料に近い値段でたたき売る。
これは、消費者にとって“ありがたい”ことなのだろうか? 問題は、ここで言う「フリー」は実際にはフリーでも何でもないことだ。確かに、デジタルサービスのほとんどで私たちは現金を支払わないが、その代わりにデータや関心を大いに差し出している。“人間”が金儲けの手段なのだ。
私たちは、自分のことを消費者だと考えている。だが実際には、私たちこそが製品(商品?)なのである。
いいことをしているのになぜ不満を持つのか
グーグルの創立者であるラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは、スタンフォード大学のコンピュータ・サイエンスの博士課程にいるころ、ヒューマン・コンピュータ・インタラクション・グループに入った。学生のほとんどは“ポータル”づくりにいそしんだが、ブリンとペイジはまったく違う道を選んだ。彼らが目指すべきは、ハイパーリンクの数を集計する能力をもつ検索エンジンにほかならない。そこでペイジとブリンはほかの文章へのリンクを追跡するプログラムをつくり、それをバックラブと名付けた。
ペイジとブリンにとって、彼らのやり方にやましい部分は何一つない。彼らにしてみれば、全国のコンピュータ・アーカイブに保存された知識を、人類に利益をもたらすために集めようとしただけなのである。その結果として自分たちにも利益がもたらされるなら、それはそれでありがたい。
これがのちに、合法的窃盗と呼ばれる最初のケースになった。誰かが文句を言うたびに、ペイジは困った表情を浮かべた。「どうして明らかに善良なことをしている人の活動に、不満をもつことができるのだろうか?」とでも言いたげに。彼らは許可を求める必要を感じなかった。ただ、やりたいようにやった。
「もしあなたが全員の許可を得ようとすれば、ラリーとセルゲイはそれを物事の実現を妨害する行為だとみなす」と、スタンフォード大学のコンピュータ・サイエンス教授であり、ペイジの論文指導者でもあったテリー・ウィノグラードが2008年の記事で語っている。「もしあなたがそれをやってのければ、二人が昔ながらの好ましくないやり方にこだわっていることに、ほかの人たちも気づくだろうに・・・。今のところ、二人が間違っていることを証明した者はいない」 これがグーグルのやり方になった。
許可を求めるな、謝罪せよ
ジョナサン・タプリンが著書『Move Fast and Break Things(素早く動き、破壊せよ)』で指摘したように、Gmailの最初のバージョンを公開したとき、ペイジは「利用者に恥ずかしい過去を削除する力を与えるよりも、グーグルがすべてのメールを保持して利用者のプロファイルをつくる能力を得るほうが重要だ」という理由で、エンジニアに削除ボタンを実装することを禁じた。
同じように、グーグルは誰の許可を得ることもなしに、ストリートビュー用に人々の自宅の写真を撮り、それを住所と一致させて、もっと多くの広告を売るために利用している。彼らが守りつづける方針は、「許可を求めるよりも赦しを請うほうがいい」だ──実際のところは、許可も赦しも求めたりしないのだが。
これは特権を求める態度だと言える。過去数年にわたりさまざまな問題を引き起こしてきたにもかかわらず、この態度はいまだに変わらない。2018年、ある大きな経済会議に出席したとき、私はグーグルのデータサイエンティストと同じタクシーに乗る機会があった。彼女は国民と国民が生む膨大なデータの多くを監視することが許されている中国企業がうらやましいと漏らした。また、彼女がAIの研究を行っている大学が、学生に関する情報を集めるためのデータ記録センサーを彼女が希望するほど使わせてくれないことに、心から憤慨しているようでもあった。「情報を集めるのに5年もかかったわ!」と彼女はいらだたしげに言った。
このような不信感は、シリコンバレーの住人に広く浸透している。彼らは自分たちのやりたいことは人々のプライバシーや市民の自由、あるいは他人の安全よりも大切だと思い込んでいる。自分たちは何でも知っていると考えて、自分たちの動機に疑問をさしはさもうとする者がいるなんて、想像もできないのだ。
ビッグテックはやっかいな政府や政治、市民社会、さらには都合の悪い法律からも解放された自由な存在でなければならない。この考えがあるため、テクノロジー業界の巨人たちはシリコンバレーをアメリカからもカリフォルニアからも独立した存在とみなし、ほかの地域がシリコンバレーの足を引っ張ってはならないと主張する。
「そんなコードは書けない、だからできない」
結局のところ、シリコンバレーの王(そして女王)たちの考えでは、自分たちはある種の予言者であり、テクノロジーは未来なのである。問題は、未来の創造者たちの多くが、過去から学ぶ必要をほとんど感じていない点にある。
フランク・パスカーレはメリーランド大学の法学教授で、ビッグテック批判家として『The Black Box Society(ブラックボックス社会)』──政治と経済に対するテクノロジーの影響を理解するための必読の書──を書いた人物でもあるのだが、その彼がとてもわかりやすい例を挙げている。
「以前、私はシリコンバレーのコンサルタントを相手に、検索の中立性[検索エンジンは自社のコンテンツをほかよりも優遇すべきではないとする考え方]について話をしたことがある。すると彼はこう言った。『そんなコードを書くことはできない』。私は、これは法的な問題であって技術的な話ではない、と指摘したのだが、彼はどことなく見下すかのようにこう繰り返した。『ええ、でも私たちにはそんなコードを書くことができない。だから、中立性は実現できない』と」。要するに、問題について論じるなら技術者の視点から、それができないのなら問題そのものが存在しないという言い分なのである。
選挙で選ばれたワシントンのリーダーたちも含む多くの人が、この言い分を支持する側に買収されてしまった。だからこそ、最初から消費者ではなく業界に有利なルールが敷かれてきたのだろう。
商用インターネットの初期、つまり1990年代の半ば、シリコンバレーは何度も繰り返して、インターネットは街の広場のような場所だと主張した。したがって、考えや行動が自由に繰り広げられるべき中立の場所なのである。つまり、オンライン・プラットフォームは公共の広場なので、運営する企業はそこでの出来事に責任を負う必要はない、と言いたいのだ。
自動化できないことはやりたくない
この主張の根底には、自宅の地下やガレージでオンライン掲示板やチャットルーム、あるいは初期の検索エンジンを立ち上げたばかりの起業家たちには、資金的にも人材的にも、ユーザーの行動を監視するだけの余裕がなかったという事実がある。監視に力を割けば、インターネットの発展にブレーキがかかったかもしれない。
しかし時代は変わった。今では、フェイスブックも、グーグルも、ほかの企業も、ユーザーのオンライン活動のすべてを監視“できる”し、実際に監視している。それなのに、彼らのプラットフォームで繰り広げられるヘイトスピーチ、ロシアの資金による選挙広告、あるいはフェイクニュースなどの責任という話題になれば、どっちつかずの態度をとろうとする。
『邪悪に堕ちたGAFA ビッグテックは素晴らしい理念と私たちを裏切った』(ラナ・フォルーハー著、長谷川圭訳、日経BP)
彼らは私たちが何を買ったか、どの広告をクリックしたか、どんなニュース記事を読んだか、すべて容易に追跡できるのに、その一方で、ウェブサイトからいかがわしい陰謀論を取り除くのも、反ユダヤ的なコメントをブロックするのも、ロシアのボットによる不正を特定するのも、とても難しいと主張するのだ。***いかがわしい陰謀論を取り除く難しいことは分かる。陰謀論かどうかの判断は読み手に求められる性質のものだろう。ただユーザーのクリックを追跡する行動や止めて欲しいと願う。
ビッグテックは分裂状態に陥っている。会社という意味でも、社会の一部としても、その本質において相反する表情を見せている。メディア会社? 報道機関? プラットフォーム企業? 小売業? 物流? 本質が何であれ、彼らが自らに課している現在のルールは──その多くはルールと呼べる代物でもないのだが──うまく機能していない。
グーグル、フェイスブック、アマゾンをはじめとするプラットフォームはあまりに巨大になったため、彼らのリーダーたちを一般的な考えや倫理規範、あるいは普通の市民に適用される法律などを超越する存在に押し上げてしまった。
後編では、そのようなビッグテックに振り回されないため、私たちがとり得る方策について検討する。→後編を期待しよう。
邪悪なGAFAから世界を救うには
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63733
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経済の話
大学の歴史
大学の誕生
大学を単に高等教育機関と定義するならば、紀元前7世紀創設のタキシラの僧院が最古の大学とする説がある。タキシラ僧院では、学位に相当するものが卒業生に与えられていた。世界遺産のタキシラ遺跡がある現在のパキスタンのイスラマバード北西にあったが、6世紀に街とともに破壊された。古代インドにはかつて学問の中心地として、タキシラ、ナーランダ、ヴィクラマシーラ、カーンチプラムがあったとされる。
紀元前387年に古代ギリシアの哲学者プラトンが作ったアカデメイア(アテーナイ)では、数学、哲学等が教えられており、十字軍以降、イスラム世界を通じて中世ヨーロッパの大学成立に多大な影響を及ぼした。その他にもギリシアでは、ヒポクラテスの故郷コス島に医学校、ロドス島に哲学の学校があり、アレクサンドリアには博物館(ムーセイオン)と図書館(アレクサンドリア図書館)があった。
中国では前漢代の紀元前124年に官吏養成学校である太学が設立された。『漢書』儒林伝に「夏は校と曰い、殷に庠と曰い、周に序と曰う」とある。周代には辟雍と呼んだともいう。『礼記』王制篇には「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟雍、諸侯曰頖宮」とある。隋代以降は国子監が最高学府としての役割を担った。
5世紀設立のナーランダ大学はインドのナーランダに所在し、仏教を中心とした学問研究で有名で、仏教だけでなく天文学などの知識も教授していた。学位に相当するものの授与のほかに、今の大学院に相当するコースもあり、西域、ペルシア、アラブ世界からも人々が学びに来ていた。地元の熱心な仏教徒らの寄進・布施によって運営費や学生らの食費などがまかなわれ、最盛期には学生の数はおよそ1万人、教師数1000人、蔵書数500万冊にも達しており(世界最大級)、建物群は仏教を大切にした歴代の王たちによって増築が重ねられ、キャンパスの広さはおよそ10km×5kmほどにも達し、中央には大きな塔もあった。12世紀頃のイスラム教徒による破壊まで続いた。
6世紀にはサーサーン朝ペルシャにグンデシャープール大学(ジュンディーシャープール)があった。
日本では、7世紀の天智天皇の治世に官僚養成を目的とした「大学寮」が創設された。
カロリング朝では、シャルルマーニュがアーヘン(現在のドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州の街)に scola palatina (宮廷学校)という名の学校を作った。アカデミー・ブレクスガタ大学 (Brexgata University Academy) もカロリング朝指導者により、798年、今のフランスのノワイヨン近郊に設立された。学者、統治者、聖職者、シャルルマーニュ自身などが参加して、一般市民の教育について、統治者の子どもの(次世代の統治者としての)教育、統治、侵略者からの領地の防衛、浪費を防ぐ術など議論していた。これらの活動は大学 (universitas) の下準備となった。
ヨーロッパにおける中世最初の大学は、849年にビザンツ帝国アモリア王朝3代皇帝ミカエル3世の摂政バルダス・マミコニアン (Bardas Mamikonian) によって建てられたコンスタンティノープル大学(あるいはマグナウラ宮殿の大学)で(次代のマケドニア朝ルネサンスの先駆)、9世紀にはサレルノ大学が作られた。
988年創設のアル=アズハル大学(966年設立のモスクに由来)はエジプトのカイロに所在し、イスラーム法学、プラトン、アリストテレスなど古代ギリシアの研究が行われ、大学院に相当するコースも行われていた。
大学を近代西欧語の大学(伊: università、英: university、仏: université、独: Universität)という意味で捉えるならば、その歴史は12世紀-13世紀に始まるとされる。もともとはラテン語の "universitas" (ウニベルシタス)を起源とし、学生のギルド(組合)から始まる。世界最初の校則は、学生のギルドから教師達への規則(「学生ギルドに無断で授業を休まない」「学生ギルドに無断で都市からでない」など)として作られた。その後、教師のギルドも作られ、連合体を意味するようになる。ギルド=組合を意味する大学は、学生間で上下関係がなく、日本語の訳語としては「大学」ではなく「組合」とした方が原義に近い。ウニヴェルシタスという語はもともと団体全般を指していたが、特に「教師と学生の団体」を指すように。
中世の大学の中でも最初期の代表的なものはイタリアのボローニャ大学とフランスのパリ大学である。ボローニャ大学は自由都市国家ボローニャで生まれた。11世紀末以来、『ローマ法大全』を研究したイルネリウスをはじめとして多くの法学者が私塾を開いていたボローニャは、法学校のある学都として有名になり、ここに各国から集まってきた学生たちが市民や市当局に対して自分たちの権利を守るために結束して作った組合が大学の起源である。
この意味での大学は自然発生的に成立したものであるため、創立年を明確に示すことはできない。一方、12世紀のパリにはノートルダム司教座聖堂付属学校や聖ジュヌヴィエーヴ修道院付属学校をはじめとして多くの学校があり、アベラールもパリでよく講義を行っていた。12世紀末までにこれらの教師たちが権力者の介入に対抗して結集したのがパリ大学の始まりである。私塾の連合体としてのパリ大学がいつ成立したかを明確にすることはできないが、1200年にフランス王の勅許を得、1231年の教皇勅書『諸学の父』によって自治団体として認められた。イングランドのオックスフォード大学とフランスのモンペリエ大学もこのように自然発生した大学である。こうした初期の大学では、何らかの事情により教師と学生が集団で他の都市に移住することがあり、それによってオックスフォード大学からケンブリッジ大学が、パリ大学からオルレアン大学が、ボローニャ大学からパドヴァ大学が生まれた。さらにローマ教皇によってトゥールーズ大学が、王権によってサラマンカ大学やナポリ大学が設立された。14世紀に入ると神聖ローマ帝国の領邦君主らによってプラハ大学、ウィーン大学、ハイデルベルク大学が相次いで創設された。
中世の西ヨーロッパにおいて、大学は、神学部(キリスト教聖職者の養成)、法学部(法律家の養成)、医学部(医師の養成)の3つの上級学部と自由学芸学部との4学部からなり、専門職を養成することが大きな役割であった。12世紀から13世紀の間の社会の専門職化の増大に伴って、同様の要求が職業的聖職者に対しても増大した。12世紀以前には、ヨーロッパの知的生活は修道院に託されていた。修道院は、もっぱら典礼と祈りの研究に関わっており、少数の修道院が本当の知識人を誇ることができた。教会法と秘蹟の研究についてのグレゴリウス改革の重点化に従って、司教は、教会法に基づいて聖職者を養成するための、さらに説教と神学的議論で使うための論理学や論争、より効果的に財務を管理するための会計学をふくむ教会運営のより世俗的側面においても聖職者を養成するための司教座聖堂学校を組織した。西方ラテン教会圏で中世末までに生まれた多くの大学は、カトリック教会の後援により、教皇や世俗君主の主導で設立された。これらの大学は、ボローニャ大学やパリ大学が「自生的大学」であるのに対して、「創られた大学」と呼ばれる。
学習は、教会のヒエラルキー内での昇進に不可欠になり、同じように教師は名声を集めた。しかしながら、需要はすぐに、本質的に一人の教師によって運営されていた司教座聖堂学校の容量を越えた。なお、そのうえ、司教座聖堂学校の学生とより小さい町の市民との間で緊張が高まり、司教座聖堂学校はパリやボローニャのような大都市へ移転した。
13世紀に、教会における最高位の職務の約半数が修士学位所持者によって占められ(大修道院長、大司教、枢機卿)、次に高位の職務の三分の一以上が修士によって占められていた。加えて、中世最盛期の何人かの偉大な神学者、トマス・アクィナス、ロバート・グロステストは、中世の大学の出身者であり、スコラ学はその産物といえる。中世の大学の発展は、ビザンツやユダヤの学者からのアリストテレスの広くいきわたった再導入や、アリストテレス主義の思想を支持してのプラトン主義や新プラトン主義の人気の衰えと符合する。
中世の大学は、キャンパスを持たなかった。授業は教会や家のように場所が使える所ならどこでも行われ、大学は物理的な場所ではなく、学生のギルドと教師のギルドが1つにまとまった組合団体として互いに結び付けられた諸個人の集まりだった。この呼称で知られる高等教育機関としての大学は、まさに中世ヨーロッパの産物であり、それ以外の世界各地にあったという古代の教育機関とは直接的な関係はない。
大学は一般に、教師に給料を支払う者に依存する2つのタイプに従って構成されていた。最初にできたタイプはボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので、教師は教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した。事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。したがって、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。
大学の研究は学士号のために6年かかり、修士号や博士号のためにはさらに12年に及んだ。最初の6年は、リベラル・アーツ(=自由七科)(算術、幾何、天文、楽理、文法、論理、修辞)を研究する学芸学部 (faculty of the arts) に学んだ。当時ポピュラーな教授法だったスコラ学との緊密な結びつきがあるために、最も重視されたのは論理学だった。
ひとたび学士 (Bachelor of Arts) を取得すると、学生は修士や博士となるべく三つの学部―法学部、医学部、神学部―から1つを選ぶ。神学は学問のうち最も名望のある領域で、かつ最も難しい領域だった。
課程は主題やテーマによってではなく書物に従って設けられる。例えば、ある課程はアリストテレスの書物あるいは聖書からの書物に基づいてあるかもしれない。課程は選択ではなく、課程の設置は固定され、全員が同じ課程をとらなければならなかった。しかし、どの教師が使用するかにしたがって臨時の選択があった。
学生は大学に14、5歳の時に入った。授業は、午前5時か6時の開始が普通であった。
学生は保護を与えられた。学生に特権を与えたのは、皇帝フリードリヒ・バルバロッサの勅令ハビタによってである。だれも学生に肉体的な危害を与えることを許されず、学生は教会裁判所において犯罪のために審問されるのみであり、従っていかなる身体刑からも免れていた。このことは学生に都市環境においてとがめなく世俗法を犯す自由を与えた。実際、多くの乱用がなされ、盗み、強姦、殺人は、聖職者でありながらもゆゆしい結果を直視しない学生の間では珍しくはなかった。このことは世俗的権威とともに不安な緊張へと導いた。学生は時々都市を去り何年も戻らないことによって「ストライキ」した。これは、(学生によって始められた)暴動が多数の学生を死に至らしめた後、1229年のパリ大学でストライキにおいて起こった。学生はストライキしつづけ、二年間戻らなかった。学生は法律上も準聖職者として扱われ、女性が大学に入学することは許可されなかった。12-13世紀には、大学から大学へ渡り歩いたり、ドロップアウトして浪々の身となった学生が方々で見られた。かれらは教会の定職を得られない放蕩無頼の聖職者で、ゴリアールまたは遍歴学生 (clerici vaganti) と呼ばれる。
大学の研究のためのポピュラーな教科書は、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』と言われる。神学生や修士はカリキュラムの一部としてこの教科書について広範な注釈を書くことを要求された。哲学と神学における中世思想の多くは、スコラ的な文献注釈に見出される。なぜならスコラ学は非常にポピュラーな教育法だったからである。
ヨーロッパにおける国際的な卓越性をもつどの大学も神聖ローマ帝国によって「ストゥディウム・ゲネラーレ」(Studium Generale)として登録された。この施設の構成員は、異なったストゥディウム・ゲネラーレにおける講義課程をしばしば与えるので、ヨーロッパ中にかれらの知識を広めるよう奨励された。
「都市の論理」の著者として有名な羽仁五郎氏の理想とする大学は、自由都市国家で生まれた学生ギルトを元にした、自由を重んじたものなんでしょう。学ぶ権利を最大の売りにすれば、案外このような形式の大学がベストかも。
キリスト教に根差した大学は、世俗的な権力者が、既存の宗教権力に対抗させるため保護育成を図って来たそう面もありそうだ。
また、今後の大学教育を考える上では、西欧以外の他の国の例も研究した方が新しい知見を得られる可能性もありそうだ。
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経済の話
大学の歴史(2)
近代の大学
米国では1636年にハーバード大学(最初はHarvard Collegeとして)が誕生する。
イギリスでは、英国国教会の主導の下、中世のギルド的な大学の伝統に従った貴族による教育が大学で行なわれており、研究は民間のアカデミーで進められ、発表されていた。
フランスでは、1806年に、ナポレオン・ボナパルトによって、かつての地方大学が専門学校へと引き下げられ、新設された帝国大学(L'Université impériale)が指導監督し、国家が国民の教育にあたるというモデルが採用され、研究はやはりアカデミーで進められるものであった。
特に重要なのは、言語学者でプロイセンの政治家としても有名だったヴィルヘルム・フォン・フンボルトがその骨格をつくったベルリン大学である。ベルリン大学は、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、法学、神学、医学といった伝統的な学問領域を軸として、哲学がこれら3つの学問のみならず、自然科学を含めたすべて学問の理論的な研究を指導するというモデルを採用した。ベルリン大学は、研究と教育の一体化を図るとの革命的な発想の転換により各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた。19世紀に至ると、歴史学、社会学、教育学、民俗学など新たな学問分野が生じ、数学、物理学、化学など既存の学問分野も急速な発展を遂げただけでなく、哲学から心理学、哲学史が分離するなどして今日の大学の基本的な諸分野が、ほぼその骨格を現すことになった。
イギリス・アメリカでは大学院教育が重視されるようになる。ジョンズ・ホプキンス大学はその代表的な大学である。
20世紀になってからは、欧米以外の世界の各国でも多くの大学が誕生してくるようになる。
ヨーロッパでは、人文科学・社会科学・自然科学でも理論的な学問研究が、大学の主要学部とみなされた。また、経営学や音楽、美術、工学などでの単科大学はやや差別的な位置づけをされていたが、徐々に大学の構成学部として認知されるようになってきた。
21世紀に入ると、情報科学、社会福祉、都市開発などで従来にはなかったような新しいコンセプトの学部も、世界各国のそれぞれの国内事情に対応して誕生するようになってきた。
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経済の話
ジョンズ・ホプキンズ大学
ジョンズ・ホプキンズ大学(Johns Hopkins University)は、メリーランド州ボルチモアに本部を置くアメリカ合衆国の私立大学である。1876年に設置された。世界屈指の医学部を有するアメリカ最難関大学の一つであり、脳神経外科学、心臓外科学、小児科学、児童精神医学などの学問を生み出した。附属のジョンズ・ホプキンズ病院は世界で最も優れた病院の一つとして認知されている。また世界最古の公衆衛生大学院を有し、US Newsの格付けが開始されて以来ランキング1位を保っている。医学部が最も有名で、10年以上US No.1ホスピタルの地位を継続してきたが、他学部においても各種の大学ランキングでは常に最上位に位置する名門校で、政財界から学術分野まで幅広い分野で指導的な人材を輩出しつづけている。そのため、卒業生からの寄付金も莫大であり、NIHの競争資金とともに、大学の研究活動に多大な貢献をしている。
スタンフォード大学と共にヒドゥン・アイビーの一校として知られ、これまで36名以上のノーベル賞受賞者を輩出。2019年の合格率は9.2%。
ボルティモアのクェーカー教徒の実業家ジョンズ・ホプキンズ(1795年 - 1873年)の遺産を基に、1876年に世界初の研究大学院大学として設立された。それまでのアメリカの大学教育は教養中心の学部教育であったが、新たに研究を中心とした専門教育を行うことを目的とし、大学院教育のシステムを確立した。大学院教育と奨学金を組み合わせることによってPh.D.(博士)の学位の授与制度の改革を行ない、この制度を他の多くの大学が取り入れることによってアメリカ全土に広まったとされる。全米で初めて実験室での科学実験を行った?、また、公衆衛生大学院 (School of Public Health) を初めて設置したのもこの大学。附属のピーボディ音楽学院(Peabody Institute)も北米で最初の音楽学校であり、この大学には「アメリカで最初」と言われるものが多い。
前述の通り医学・公衆衛生学の研究に優れ、US Newsのランキングで医学大学院は常に全米1-2位、公衆衛生大学院は格付けが開始されてから一度も陥落することなく全米1位を保っている。同じメリーランド州に位置するアメリカ国立衛生研究所との関わりが深く、多くの研究資金を獲得している。特に公衆衛生については同研究所の予算の25%近くを獲得するなど他大学の公衆衛生大学院を圧倒しており、このような豊富な研究資金が高い研究レベルを支えている。
工学分野では医用生体工学が世界的に有名で、長きに渡り全米1位(US News)にランキングされている。国際関係学及び国際経済学では、ワシントンD.C.に設置された高等国際問題研究大学院(Paul H. Nitze School of Advanced International Studies(SAIS))が実務家向けの修士プログラムとして常に全米上位にランキングされ、米国内で特に高い評価を得ている。また、医療経営のノウハウをアメリカ国外の医療機関に提供する組織、ジョンズ・ホプキンス・メディスンを有する。
スポーツではラクロスが有名で大学チームのブルージェイズ(Blue Jays)は何度も全米優勝をしている。キャンパス内に米国ラクロス協会の事務局、ラクロス博物館、ラクロスの殿堂(Lacrosse Hall of Fame)がある。また、大学のマスコットはアオカケス(Blue Jay)であり、学生からは"Jays"と呼ばれている。
最近ではマイケル・ブルームバーグ (2000億円相当)やビル・ゲイツ(23億円相当)の多額な寄付がアメリカで話題となった。
実は、日本の新型コロナ対策を歯に衣を着せず正論で批判する木村盛世元厚生労働省医系技官もこの大学の卒業生。1965年、開業医の家に生まれる。1990年3月、筑波大学医学専門学群卒業。1998年、ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院疫学部修士課程修了。
どうも、日本のマスコミには出演する機会が少ないようだ。口にマスクをされているのかも。
一方の、ジョンズ・ホプキンズ大は今欧米系のメディアで大活躍。世界の感染状況などのマップをネット上でも公開している。都市ロックダウン派の司令塔のような存在だ。
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経済の話
ナーランダ大学
ナーランダ大学(ナーランダだいがく、Nalanda University、 ナーランダー大学)は、インドビハール州、ナーランダ(नालंदा、Nālandā)中部にある427年に建てられた世界最古の大学の1つ。北部インド仏教の最重要拠点であり、後期以降はヴィクラマシーラ大学(Vikramaśīla University)等と共に、インド仏教が終幕を迎えるまでそれを支えた。ナーランダ僧院(ナーランダー僧院)、ナーランダ大僧院(ナーランダー大僧院)、那爛陀寺とも。
「ナランダ」は " 蓮のある場所 " という意味。蓮は知恵の象徴であるため、“知恵を与える場所、知恵を授ける場所”と解釈される。(ナラン=蓮、ダ=与える) また玄奘三蔵は『大唐西域記』で " 施無厭(せむおん) "という意味にとっている。この場合は“惜しみなく与える処、倦まず授け続ける場所”という解釈になる。(ナ=ない、否定、アラン=十分、ダ=与える)
ゴータマ・ブッダ が訪れ、"Pavarika" と呼ばれるマンゴーの木立の下で説法した。仏教を学ぶ重要な場所となり、10,000人までの人が滞在した(最古で、それまでの歴史で最大の居住型の学校、最多で1万人の生徒と、1,500人の教員がいた。高い塀と、1つの門、図書館は9階建ての建物にあり、多様な分野の教科が行われていた)。
チベットの記録によると、インド仏僧龍樹(ナーガールジュナ)(150 - 250年頃)が講義を行ったとされるが、グプタ朝(427年成立)時代に、クマーラグプタ1世によって大学が出来たと思われる。
645年(唐時代)に、唯識派のシーラバドラ(中: 戒賢)は玄奘三蔵に唯識を伝え、玄奘は657部に及ぶ経典を中国に持ち帰った。
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761年に中観派のシャーンタラクシタ(中: 寂護)がチベット仏教を起こし、774年にはニンマ派の開祖パドマサンバヴァ(中: 蓮華生)が密教をチベット仏教にもたらした。サムイェー寺の宗論(792年 - 794年)では、インド仏教のカマラシーラと中国仏教の摩訶衍が宗教論争を行い、チベット仏教の方向性を決定した。
1193年に、アイバク靡下の将軍 ムハンマド・バフティヤール・ハルジー 率いるトルコイスラム人の侵略によって大学は破壊された。インド仏教の衰退はグプタ朝時代から始まっており、イスラーム侵入以前にはほぼ衰退していた。イスラーム勢力によるナーランダー大学の破壊はインド仏教の滅亡を決定づけた。
1957年、中華人民共和国の周恩来総理によるインドのジャワハルラール・ネルー首相への提案で大学に玄奘の舎利が分骨された。
ナーランダーに関連した仏教
大乗仏教 (Mahayana):ナーランダ大学で学究が進められ、その成果がヴェトナム、中国、韓国、日本に伝わった。
チベット仏教 (Vajrayana):ナランダ後期(9ー12世紀)の教え、伝統から来ていると思われる。
現在ナーランダには人は住んでおらず、遺跡が残っている。バラガオン村 (Baragaon) が近接。 現在ナーランダー全地域を衛星写真で記録する作業が行われている。ナーランダー博物館には発掘された写本、遺物などが展示されている。現在ナーランダーの名は3つの学校と修道院に付けられている。 ビハール州、スリランカ、トロント、フランスの修道院にもナーランダーの名前が使われている。
新ナーランダ大学の建設は「ナーランダ大学復興構想」と呼ばれるインドの国家プロジェクト。 新ナーランダ大学は2014年9月1日、800年の時を経て授業を再開した。40ヶ国の1000人の申請者の中から15人を募集して新学期を開始した。ナーランダ大学の副学長よると2020年までに大学院を7つ設立して科学、哲学、心理学、社会学科を開設する予定である。
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経済の話
自虐史観
この度の、森喜朗のオリンピック会長辞任を巡って、日本のマスコミがいかに自虐史観に取り憑かれているかがはっきり分かった。卑しくも日本の総理も務められたお方だ。
森氏の発言は、少なくとも内輪の議論の一環で、話だけ見ても女性蔑視論を展開している訳では無い。要するに内部の人間のリークで、話を部分的に切り取って意図的に流した陰謀であることは明かだろう。
そもそも発言自体が不適切であったかどうかも不明だし、森さん本人も謝罪し発言を取り消し(無かったことにした)、IOCを認めたものをわざわざ問題視して、大騒ぎすること事態、明かに欧米諸国の陰謀であると気がつかないほどマスコミは馬鹿なのか? 本来マスコミは、日本の立場をしっかりと説明する責任があったはずだ。
どんなリーダでも、発言内容は100%正しいとは限らない。でも、勇気を持って発言し間違ったら周りのものに修正してもらえばよい。マスコミは言論の自由すら抑圧したいのだろうか。
結局、欧米の主張は、日本は女性蔑視の国だから、オリンピックを開催する国としては相応しくない。だから誰が会長をやっても同じだから中止すべしと言っているのだ。確かに朝日新聞も、NHKもかなり前から中止論を展開していた。
つまり、マスコミの主張は、「米国のいうことだから、日本は本当に女性蔑視の国なんだろう。米国のいうことだから聞いた方が良い。」という変な思い入れがありそうだ。
でも、日本は本当に女性蔑視の国で欧米より遅れている?? 確かに欧米では女性の社会進出は数値目標を実施しているのか日本より進んでいる面もある。
しかし、歴史を学んでみれば分かる。女性蔑視の伝統は欧米キリスト教プロテスタントの思想だ。伝統社会の男女の役割分担とは全く異なったルーツであることを見抜かないといけない。都市労働者が増え、一婦一夫の核家族の誕生から生まれたもの。家の中心には夫がいて家内労働は主婦の役割。だから欧米の男女平等は戦いの歴史となる。日本の方が進んでいる面も沢山あることにも注意して欲しい。
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経済の話
温暖化問題の虚構
温暖化対策の問題は、我々がまだ会社員勤めの時代からずっと続いている超長期的な課題だね。
もうかれこれ40年前から、ずっと技術開発やって来た。自然エネルギーの利用、太陽光、風力、波発電、水力、バイオマス。どれもうまくいかなかった。政府の補助金なしではどれも成立しない。要は原油が安過ぎて需要が無い。だったら脱炭素で需要を作ればいい?
CO2が温暖化の原因だということは、ずっと証明できない。温室効果と言っても、空気中で0.04%以下の超微量成分が温室効果に大きな役割を果たすとは物理的に説明不可能。だから小中学生にも理解できる説明は今後も出ない。環境学者は、CO2悪玉論を前提(仮定)にして、これを疑わないことして先に研究を進めているらしい。結局自分達だって分からない。
科学者の態度としては大変危険なことだ。科学の基本は、仮説を疑うことで始めて新しい発見が出来る。仮説に仮説を積重ねて行っても得られるものは無い。
脱炭素を進めようと本気で動いているのは欧米の政治家だけ。残りは追従組だね。そう言う意味では、今のcovit-19と同じ構図。
ところで、地球上の直物(動物よりマスが巨大)にとっては、CO2は貴重な栄養素のもの。
過去の歴史を見ればCO2はもっともっと多かった。今の植物達にとっては、CO2の長期的減少は
看過できない危機なのかもしれない。
大森林→草地化→農耕→イネ科植物→砂漠化(CO2零)→生態系の絶滅
(2021.02.21)
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経済の話
G7サミット
G7サミットとは、主要国首脳会議もしくは先進国首脳会議は、国際的な首脳会議の一つ思われて来た。現時点では、その実態はほとんどない。代わりに出て来たのがG20だ。
日本では、未だにニュースなどで大きな会議のように報道されているが。日本のマスコミはG7が大好きらしい。
ロシア連邦が参加していた1998年から2013年までは、G8、主要8ヶ国首脳会議などと呼ばれていが、ロシアも中国も排除してしまったら主要国・先進国とは羊頭狗肉の状態だろう。
主な参加国→米国、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本の7カ国。何のことはない、第二次大戦の戦勝国と敗戦国(ドイツ、イタリア、日本)の戦後復興のための協力会議。戦勝国のイギリス、フランスだって、相当ダメージを受けていたのだから。戦前の旧先進国の再構築が目的か? 東西冷戦の時代には大きな役割を果たして来た。ただこれらの国が今、世界の主要国かつ先進国と言えるだけの経済力もリーダーシップも全く持っていないことも事実であることだ。
バブル経済崩壊寸前の米国、EUとしてのまとまりを欠くドイツとフランス、EU離脱を決めた英国、東アジアを重視しなければならない日本、一体何を話し合おうというのか?
G7のまとまりを結び付けているのは、軍事同盟。NATOと日米安保協定。この2つがメリット亡くなった今、G7に拘ることは百害あって一利無し。化石の様な存在なのか?
しかも、G7で決められたことは、何の国際法的な権限もないため、G7諸国間の談合と言う意味しか持たない。
代りに登場したのが、G20。構成国は、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、EU、ロシア、中華人民共和国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカ共和国、オーストラリア、大韓民国、インドネシア、サウジアラビア、トルコ、アルゼンチンである。20か国・地域首脳会合(G20首脳会合)および20か国・地域財務大臣・中央銀行総裁会議(G20財務相・中央銀行総裁会議)を開催している。
ただ、これも旧G7に、非欧米諸国を追加したもの。だったら、国連の場で話し合いをすれば良いのでは。G7もG20も多くの政治団体やNGOからの反対の声も大きい。
確かに、日本もメディアでは、G7サミットはG20より取り扱いが大きい。G7諸国間の談合とは言え、国際政治で談合の果たす役割は無視できないかも。
今回のコロナについても、G7サミット主要国とその支援国にだけワクチンが供給されるとか。ワクチンは恵んでもらうのか無理やり買わされるのか?
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経済の話
送別会は悪いこと??
職員23人が午前0時近くまで送別会を開いていたことが明るみに出た厚生労働省では、ほかにも3月下旬に2部署で、政府が自粛を求める5人以上の会食を開いていた。
厚労省は今回の問題を受け、2度目の緊急事態宣言が出た今年1月7日以降、本省と中央労働委員会事務局で「職員5人以上の会食」が開かれていないかを調べた。
その結果、職業安定局の建設・港湾対策室で管理職含む5人、子ども家庭局の保育課で6人の会食がそれぞれあったという。いずれも緊急事態宣言が解除された後の3月下旬で、東京都が飲食店の時短要請をしている午後9時までに終わったとしている。
厚労省は30日、全職員にメールで「歓送迎会等の会合は控え、自覚ある行動をとること」と指示した。
職員23人で送別会を開いていた老健局老人保健課については、厚労省は会合を提案した同課の真鍋馨課長を減給1カ月とした上で大臣官房付として事実上更迭するなど、計22人を処分した。田村憲久厚労相も給与を2カ月間、自主返納する。
以上、朝日新聞のニュース。朝日自身はこれに対して論評を控えているが、一体何が問題で厚労省の役人たちは処分されねばならないのか。公務員の倫理規定に違反する者とは思えない。政府が求めたのはあくまでも自粛であって、法令に違反する行為をしたわけでもない。
日頃、超過勤務の多い本庁の職場で、仲間の移動に伴う送別会はある意味仕事を円滑に進めるうえで必要なことだろう。仕事の都合上夜になることは今までもそのようにしていたためでしょう。出来れば勤務時間中にやりたいのでしょうが。その意味ではこの職場の上司の判断は適切で、部下達の尊敬を集めてしかるべきだろう。マスコミの人達がタカリで酒飲むのとは全く次元の異なる話だ。人数だって高々23人、これが感染の拡大と何ら関係ないことなど一目瞭然ではないか。
「歓送迎会等の会合は控え、自覚ある行動をとること」→明かに自覚ある行動の範囲内でしょう。
田村憲久厚労相も態度がいい加減だね。いい仕事してもらおうと思ったら部下を庇わねばならない立場だ。謝って済む問題ではない。愚劣な指示出していた政府の責任。田村1人が辞任すれば何の問題も無いことだろう。
「職員5人以上の会食」もそもそも、理不尽極まりない、何ら根拠のない非科学的なスローガンだね。4人ならOK? こんなクソ馬鹿なスローガンなんて厚労省の役人でなくても守る気がしない。市井の民間人だって馬鹿にしている。
確かに、テレビなどの報道では感染者が増えたことにはなっている。しかし、日本全体の感染者の数? 大体6,000人に1人の感染者がいることになっているようだ(Googleで調べて見れば分かる)。23人の中に誰が感染者いる確率? ほとんど零だね。
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経済の話