社会科学の部屋

人生すべて学習の対象だ

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社会科学・哲学の部屋---はじめに

色々と観察し、仮説を立てて、実験などで検証する。この立場には自然科学も社会科学も区別はないと思う。なんでもやってみよう。物理、化学、地質学、生物学、経済学、社会学、宇宙、生命、数学、文学、芸術、ゴルフ理論、将棋、何でもありで行きましょう。特に最近は色々な学問の境界に属する課題が非常に面白いと思います。全体の見通しを良くするため、目次を付けてみました。興味のある話題から、別の話題に自由に飛び回って頂ければと思います。 とは言え全体のボリュームが増えてきてのでまとまりがつかなくなってきました。日常新聞にも出ているホットな社会的な話題や人生論見たいな話題はとりあえず新しいページに移した方が管理がしやすいだろうとのことで新しく立ち上げました。(2019.5.25)
経済の話 技術開発のお話 哲学・社会学の部屋
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哲学・社会学の部屋

町内会の社会学 哲学の復権 進化論について
多数決原理は正しいか 道徳的代数 ロボット
山椒魚戦争 ローマ人の物語から ジャパン・アズ・ナンバーワン
困窮化する若者達 文系人間と理系人間 スロー思考とファスト思考
血液型性格診断 正義と進化論……チンパンジーにも正義がある 現代政治と正義の関係…政治学入門
リベラルとは 全体主義の起源 英国病
日馬富士関の引退 築地→豊洲・移転問題 20〇〇年問題
嫌われる勇気-アドラーの心理学 人は何のために長生きするのか 森友学園の問題
ものづくり 迷走する教育理念1 今学校で起こっている可笑しなこと
迷走する教育理念2 政府閣僚の失言問題 ダイヤモンドの知恵
安全国家 数値目標 思考実験
親権とは ヘイト本 ビザなし交流の訪問団事件

町内会の社会学

 町内会の活動については、少子化が進み、団塊の世代が退職して在宅する等社会の変化に対応して各地で色々な問題が発生しているらしい。私の住んでいる志木ニュータウンを例として今後の町内会のあり方について考察をしてみたい。
 志木ニュータウンは、某ゼネコンが開発した大規模団地でかれこれ40年近くの年月が経過しています。ニュータウン全体は、いくつかのサブエリアに分割されます。筆者が住んでいるのは、中央の森弐番街。ここにも、当初から町内会が設置されていて、筆者も過去2回役員を引き受けたことがあります。町内会の結成には、行政の指導もあったのかもしれません。また、ニュータウン全体として連合町内会がもたれており、各町内会の代表が出席が役員として出席することになっています。町内会の会則は、戦時中の町内会がいわゆる大政翼賛会等に変身して自ら戦争に協力して、結果として我が国国民に多大の辛苦を与えたことの反省からか、非常に民主主義の理念に基づいていて大変うまくまとめられています。それは、町内会会則に極めて要領良く簡潔にまとめられています。

まず、最高意思決定機関として総会が位置づけられています。実際には、町内会員すべてが集まることは不可能ですから、マンションのいくつかの棟毎に役員が選ばれて、役員会が実際の執行機関になる訳です。役員の互選で会長が選ばれますが、過半数の賛成で議事が決定されることになります。役員会で決まったことをもとに会員の協力のもとにいろいろな事柄が実施されていくわけです。役員は一年交代で、総会で次の役員と交代となります。総会も会員が皆集まることはできませんし、議決権のある委任状をもって出席したものと見做すとしています。もちろん大多数の会員は委任状出席となります。会則では、総会は会員の1/2以上の参加をもって成立し、議案(事前に委任状に添付)は、出席者の2/3以上で可決することになっています。議案の中身は、1.前年度の実施事項、2.前年度の会計報告及び監査結果、3.次年度の予算案、4.役員の交代の4項目で、これら4項目を承認するというものです。要するに町内会費を払っている会員が、とりあえずご苦労様でしたと言っているようなものです。済んでしまったことですから、よほどのことが無い限り、議案が承認されるのは当然です。というよりも、出席者(委任状による出席を含む)が過半数あれば、承認されるように既に会則で決められているようです。議案の承認がされれば、役員交代ですから、新役員により総会が開始されることになります。前年度に出された、問題点や課題はここで整理されて、新役員に対する宿題となる訳です。

筆者が、最初に役員になった時は、総会ではほとんど意見も出ないので5~10分程度で終わったように記憶しています。しかし、2回目の役員になった時の最初の総会ではビックリ仰天の世界があった。まず、旧役員の司会者が総会成立を宣言、と言うことは、議案承認は決定事項のはず。ところが、ここで司会者はこれから議案の審議をすると宣言。議案とは言ってもすべては決定済みのことの事後承認でしょう。しかも、そこに実際に出席しているのは新旧役員とごくわずかな一般会員だ。大部分の会員は委任状による出席。更に議案は配布前に十分審議されているはず。審議などしていいはずはない(この点に関しては南の森弐番街の会長も審議は絶対不可だと言っている。)。各議案を長々と読み上げた後、挙手による採決。ゆっくり念入りに人数を数えて、さらに委任状の数を合計して議案は可決としていた。これ全くのインチキ審議でしょう。後は新役員の自己紹介をして、総会は終了となった。この間、しゃべるのはほとんど司会者のみ。会場は、皆押し黙って、妙な雰囲気で、まるで北朝鮮の町内会か戦争中の大政翼賛会かと見間違えるほどである。

 いったいどうして、このような変質が起こったのであろうか。現在このような総会スタイルは、マニュアル化までされていて、役員交代の際にガッチリと引き継がれているようだ。また、会長候補は前年度役員の中から出来レースで選ばれることも常態化してきている。まず、説明の必要の全くない、前年度の実績をあたかも総会の議題のように見せかけ(騙される人も多い)時間をかける真の目的は、会員の自由な意見を封じ込めるためであることは明らかだ。しかしながら、町内会の会長になる人物なら会則を守り、民主的に会を運営するべくモラルを備えているべきであろう。また、会員も会則に違反していると感じたなら、はっきり言うべきであろう。組織全体がモラルハザードに陥っている。

志木ニュータウンもはじめの頃は、入居者はほとんどがサラリーマン。休日を返上しなければならない町内会は、できれば遠慮したい代物。もっとはっきり言って、町内会なんて本当に必要なのでしょうか。マンションの管理組合が必要なのは分かりますが。役員は回り持ちなので一度やるとしばらくは回ってこないのでふだんはあまり関心がないのは当然かもしれませんね。役員会も何をやるのか困ったみたい。志木市から町内会対抗の運動会の案内があれば、参加しようとのことになりますが、結局出席するのは役員ばかり、結局後には運動会への参加は消滅している。

町内会の会員は、典型的なサラリーマン層で、平日は会社人間、土日はゆっくり家サービス、町内会の必要性はほとんど感じてないはずです。ところが、いったん役員、特に会長、副会長等に選ばれると、サラリーマンの習性で、何が何でも頑張ろうとするものが多数現われてくる。町内会の祭り、連合町内会の祭り(これは横並び体質から無碍には断りにくい)、防災訓練、防犯パトロール、その他市主催の行事等、だんだんと業務が増えてきている。さらにこれらの業務がマニュアル化して、役員の引継ぎを通して、前年度の実施事項は次年度の最小限のノルマのように変化していく。このようにして、役員会は会長を中心とした、業務遂行型の組織に変わっていき、会長は、リーダーとして先頭に立って黙々と汗をかいて他の役員を多少強引に引張って行ける人材が求められるようになってくる。役員も黙って、言われたことをしている方が楽で、一度役員をやればしばらくは町内会は無縁のものとなる。

さて、志木ニュータウンも他の団地と同様、段階の世代が退職し、地域のいる時間が長くなってくと、町内会のあり方が変わってくる。また、地域の活性化なども本気で考える人も増えてくる。従って、町内会のあり方も変わってくるのが必然で、会員の親睦団体という町内会本来の役割が最重要になって来る。毎年マンネリ化している祭りなど必要か。NGOやNPO等の団体が企画すれば、ずっと気の利いたものを実施してくれる。なければ会員の有志を募れば済む話だ。防犯パトロールや防災訓練だって役員会の下部組織として常設の組織を立ち上げれば良い。町内会の役員会にはもっと重要な役割があるはずである。多くの役員経験者達は、マニュアル業務だけをやらされて失望していると思う。このようにしてみると、会則を無視してまで、総会での発言を阻止したい役員会の会長を含めた執行部の意向は分かってくる。一般の会員、役員と会長等の考えがずれて来ているのだ。会長は、今までのやり方で滞りなくやりたいのだが、会員のほうは、色々な意見を持っていて、まとめることは大変、もっともっと議論を深めて生きたい。一方会長側は今まで積み重ねてきた業務遂行の時間を奪われてしまうのは我慢できない。一種の既得権益だからそれを無視するような意見は聞きたくない。一般の役員の方はつべこべ言わずにマニュアル通りに業務を実施してくれるだけで良い。

さて、それでは今後どうすれば良いのか。会長側は既に耳栓をした状態ですので、現状を継続していれば、会員の不満は蓄積されて行くでしょう。このままでは、会員数は減少し、崩壊に向かうでしょう。町内会はもともと会員が無関心でやることを探している段階から始まったのですからまずは初心に帰り、できるだけ何もしない。できるだけ、専門委員会を設置し、会員の自主性を重んじて身軽になるのが第一でしょう。それと、会則無視は絶対に許されない。今の総会は総会とは言えません。総会での議案の承認は10分以内で終了する結果発表ですから、後は新役員による自由討論で会員の意見を取り入れていくことです。例え総会の席で一般会員から意見が出ないとしても、それは今まで聞く努力をしていなかった報いもあります。新旧役員が知恵を絞って、今後の問題を話し合うべきです。それと、役員とその他会員との日ごろの接触も大切だと思います。個々の役員は,たとえ持回りで選ばれたとしてもそのエリアの代表であるという前提は変わりません。民主的な運営はまずは、会則の理念にのっとり決められたルールを守ることからはじまるはずです。

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哲学の復権

最近、本屋さんで哲学関係の本の売れ行きが良い。哲学なんて「人生如何に生きるべきか。」等アーでもないコーでもないと七面倒な屁理屈を並べ立てて役にも立たないことばかりやっていると思っている方も多いのに。でも、哲学とは何なのでしょうか。何のために必要なのでしょう。多分必要だったので発達してきたのでしょう。

人の先祖達は、どうしていたのでしょう。最初の人類たちは、狩猟採集生活の中で生き延びていくために集団で協力して知恵を絞ってきたのでしょう。野生の動物達に混じって人間は一人で生きていくことは大変困難だったと思います。集団と言っても家族が中心です。高等な哺乳類は生活の知恵を親から教わって身に着けて行きます。特にお年寄りは知恵を代々伝えていく重要な役割が与えられています。そのうち集団が大きくなると語り部等の専門の学者集団も現れてきます。また、人間は他の動物や自然からも色々なことを学んだのでしょう。だから、野生の動物達は皆仲間で一種の神様として尊敬されます。自然まで共同体の一員として尊敬を集めていたのでしょう。人は、何のために生きるのか。共同体につくし、子孫を繁栄させるため。立派な哲学を持っているのだと思います。

農業を始めるようになると事情は変わってきます。最初は住居の周りに果物、野菜の種をまく程度でしたが、イネ科の植物(小麦、米)を育てるようになって農業が大規模単一栽培に代わってきます。森や草地には火をつけられ土地がどんどん囲い込まれていきます。狩猟民族は、野生の動物達を狩り尽くしたりはしません。子供を持った母親は肉食獣でも逃がしてやるようにするでしょう。同じ共同体の仲間と言う意識があるからです。しかし、この時代になると共同体の質が変化して来ます。共同体は囲まれた田畑とその中の住人だけになってしまいます。野生の生き物達は田畑を荒らす外敵として駆除されていきます。共同体の内側の味方と外の敵が明確に2分されてきます。昨日までの仲間の隣人集団も水や資源をめぐって敵対するようになります。
また、リーダの出現とリーダに従う多数のフォローアの分離が進んできます。リーダとその取り巻き達は支配のための虚構を紡ぎだし、宗教が発達して来ます。フォローア達はリーダに盲目的に従うことが美徳とされるようになります。始めは村落規模でしたが互いに競い合ううちに王国と言える規模にまで成長していきます。

都市が発達してくると、色々な職業分化が起こってきます。都市の住民は周辺の農民から農作物を買う代わりに、農作業の道具等や通商を通して手に入れた金属器のような貴重なものも得るようになります。都市の特徴は、職業選択の自由があることです。知識があれば医者や弁護士(法律相談)、家庭教師。場合によっては乞食のような生活だって可能です。
自由があるということは、人は自分の責任で生き方を考えることになり、哲学が生まれてきます。特に古代ギリシャでは哲学が生まれます。そのうちに、ソフィストと呼ばれる弁論術を教える人達が現れ、その行き過ぎた詭弁術を批判し、正しい議論の進め方を提案し推し進めようとした哲人がソクラテスです。互いに推論を出し合い議論によって合意形成していこうとするすぐれた方法で、今でも西欧では議論の基本とされています。ソクラテスは著作を残していないのですが、これを発展させたのが弟子のプラトン。更にアリストテレスによって完成されます。アリストテレスは博学でなんにでも興味を持った人でしたが、本人の意図に反して中世の科学の中心となってしまいます。これを打ち破るのにガリレオなど科学者の登場が必要になって来ます。アリストテレスは、のちに大帝国を打ち立てる開明君主アレキサンダー大王の家庭教師でしたので、ギリシャ文化を世界に広める役割も果たしています。 ソクラテス→プラトン→アリストテレスはいわゆる哲学ですが、他に、自然科学の分野でも多彩な人物が現れます。この時代哲学とは学問の総て。観察して→考えて→仮説をたて→検証する。知の冒険そのものです。例えとして名前だけでも挙げれば、タレス、ピタゴラス、アルキメデス、ヒポクラテス(医学)、デモクリトス(原子論)、ユークリッド(幾何学)等々。 このような動きは、中国でも戦国時代の諸子百家、インドのウパニシャッド哲学や仏教等色々な哲学が生じています。

産業革命以降、資本主義の国々では、多数の労働者階級(サラリーマン)が現れます。農業が中心の世界では、農民は地域の共同体一員として生涯を送ります。農民はリストラで解雇されることは考えていません。ところが労働者と資本家は契約関係なので当然解雇される事態は避けられません。会社とのつながりは給料をくれる人ともらう人だけの関係です。また、多くの労働者は両親のいる土地ではなく都会で一人暮らし。結婚しても核家族となり、夫婦と子供だけの所帯が多くなっています。 さて、こうなると労働者個人としては、共同体への帰属意識はどうなってしまうのでしょうか。家族は大事ですが、家族とのつながりは給料を運んでくれるだけの存在になりかねませんね。会社が総て。これも変です。企業の業績が落ちればいつでもリストラで解雇されます。終身雇用という日本的な考えも高齢化社会では通用しないでしょう。また、労働者は労働した時間で給料をもらうわけですから、労働していない自分の時間は大変貴重です。自由な時間を得るために働いているともいえる訳ですから。自由な時間があるということは実は悩みにタネ。哲学が必要になる訳です。沢山給料をもらって、立派な家に住んで、美味しいものを食べていれば人生幸せか。まして、職を失った場合、自由な時間は沢山あるが、お金がない。パートや派遣で自給を稼いでも生活もカツカツ。何のための人生か。
年金暮らしのお年寄りも、同じように悩みがある。今の年金の仕組みは自分が働いてためた貯金ではないのだそうだ。現役の世代から徴収した掛け金から捻出していることになっているそうだ。つまり、国から生活費を恵んでもらっている乞食生活ということ。では、そこまでして生きている意味は。法的には生存権があるが、哲学的な意味で人生の充実感、満足感は。哲学が必要でしょう。

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進化論について

ダーウィンの進化論。進化論は生物の進化だけでなく、社会学、経済学の裏付けとしても結構応用されて来ています。また、一部の原理主義者を除くと、たいていの人に何の疑いもなく受け入れられています。でも、実は生物の進化の原動力は、分かってないことが大変多いのです。今までの進化の概念が間違ったものであれば、今流行している経済学、社会学の根本も大幅に見直す必要が出て来ます。
「適者生存」が、いつの間にか優秀なものが生き残り、その頂点に人類がいる。社会は過去の野蛮な時代から進化して、現在の資本主義、民主主義が最も進んだ政治経済だ。資本主義はいずれ崩壊して、理想の社会主義が実現する。云々。どこかに社会は進化してより高度なものになって行くという思い込みが入り込んでいます。確かに、20世紀の科学技術の進化がこのような思想に拍車をかけたこともあるのでしょう。
でも、実際この地球上で起こってきた生物の進化の実態は。どうも、絶滅と新たな進化は紙一重。次の時代を担うのは、ごく平凡な、あるいは最も不適な生き物だった可能性すらあるのです。
可笑しな進化論

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多数決原理は正しいか

法律や規則がすでにある時は、多数決で決めた結果に優先する。
独裁国家で住民投票すれば、ほぼ100%に近い票で与党が勝ちますね。マスコミも有識者も与党の味方ですから。「見えざる目と耳」が国中に張り巡らされていますから。ギリシャの民主制が成立したころ、ギリシャを視察したローマの元老院は、「多数決原理は衆愚政治」だとしてこの制度を取り入れることを断念します。実際、圧倒的なカリスマ政治家ペリクレスが失脚して以降、アテネはまとまらず凋落の一途を取ります。
フランス革命の精神、自由、平等、博愛の精神。個人の自由まで多数決で奪ってはならない。決定は平等であって、一部の人間を差別してはいけない。互いの意見や立場を尊重し合って、話し合いで落としどころを決めましょう。A案とB案が対立しているなら、A→A’→A"、 B→B’→B"となって、互いに歩み寄り、結果A" =B"となれば良し。どうしても駄目な場合は、多数決。その場合も少数意見も反映することを忘れるな。
幾つかの法律や、憲法は、将来多数の横暴によって少数派の権利が侵害されないための予防措置です。規則を変えることは単純な多数決は馴染みません。時間を掛けた議論が必要です。(2017.10.1)

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道徳的代数

道徳的代数

ベンジャミン・フランクリンはアメリカが州国建国の父、極めて多彩な才能と知恵の持ち主で、政治家にして科学者、発明家、アメリカ初の図書館や大学、消防隊を結成し、印刷業も営んでいたといわれる。次の逸話は我々にも応用可能なものでしょう。
 1779年、フランクリンは甥から結婚問題について助言を求められた。その際の答えの返書が以下のものだったそうだ。
「親愛なるジョナサンへ
あまりに仕事が多いうえに、友人たちのせいでたびたび中断しなければならず、少しばかり気分が悪くて、君への返事が遅れてしまった。『中略』モンシュー氏がきみに持ってきたという結婚話については、どう助言していいかわからない。自分の判断にしたがいたまえ。迷っているなら、1枚の紙を用意し、左側の列に賛成の理由すべてを、右側の列には反対の理由をすべて書き出すといい。二、三日よく考えた後、代数の問題に似た作業を実行せよ。両方の列について、どの理由や弁明が同じ重みをもつのか、たとえば、左側の理由一つと右側の理由一つ、または一つと二つ、二つと三つ…と比べて検討せよ。そして、両方の列から同等のものを消していき、どちらの列にあまりが残っているのか確認する。『中略』重要なことであるにもかかわらず、どうしていいかわからない状況に置かれたとき、私はしばしばこの《道徳的代数》を実践する。ちなみに、これを習得しないかぎり、君はずっと結婚しないままだと思う。」
ベンジャミン・フランクリン
 この結果、甥のジョナサンはどうしたのだろうか。最後の一言がいい。結局、フランクリンは優柔不断の甥を早く結婚しなさいと暗に諭しているのだろう。他人の判断に頼ってはだめ、自分で判断しろ。
 この方法は今では品質管理や製品開発の現場などでもすでによく使われている有力な手法だ。しかし、肝心な判断が重要な場面では意図的に無視されることも多い。

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ロボット

戯曲R.U.R

ロボットという言葉を最初に使ったのは、第二次大戦中にチェコでもっとも人気のあったカレル・チャペック(1890年~1938年)だといわれています。「労働」を意味するチェコ語「robotaロボタ」(もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)から ロボット という言葉を作ったと言われてます。彼の代表作『R.U.R.』『山椒魚戦争』はSFの古典的傑作とされている。同じロシア語のРаботать(動詞の働く)もスラブ語なので同語源でしょう。ナチスドイツに文学で徹底的に戦っておりヒットラーからも敵視されていたということです。
なお、ドイツ語のArbeitもaとrを反対にするとRabeitになるので同語源という考えもあるが、日本語と英語にも「道路(douro)」と「road(道路)」など偶然に似た語もあるので単純に納得は出来ない。

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山椒魚戦争

山椒魚と戯曲R.U.R

山椒魚戦争は、チェコのカレル・チャペック(1890年~1938年)という人の書いた小説。最初の本格的SF小説ということですが、当時の社会情勢を反映しており、痛烈な文明批判となっている力作です。この小説の主役の山椒魚は、インドネシアの孤島にひっそりと暮らす海生の両生類ですが、当時はこの海域はどんな生き物がいるかも分からない未知の世界だったことを考えると全くあり得ない話でもないですね。現にフローレス人という原人がフローレス島に生息していたことが最近確認されています。
ところでどうして山椒魚かというと、1726年、ドイツのショイツェルという人が、ドイツのエニンゲンにある3000万年前の地層から、オオサンショウウオの化石を発見した。しかし、彼はそれをノアの洪水で死んだ罪人の骨と考え、化石に「洪水の証拠となる哀れな人」と名付けて発表したという有名な事実があるからです。
山椒魚たちは、生息地は海中であるものの二足歩行でき、手を使って海中に都市を作っている。言語の習得能力を持っており、性格は温厚で従順。早速人類たちは商業利用を考える。その結果、旺盛な繁殖力も手伝い、世界中の海が山椒魚で一杯になってしまう。その結果山椒魚たちは新たな海を求めて人類たちに陸地を掘削することを求めるようになる。その結果、陸はどんどん消滅し……
SFという形式は、まず一つの思考モデルを作り、それをもとに色々な哲学的な思索を巡らすことが可能となります。その結果、当然と思われていた事柄が実は矛盾に満ちた非常に不安定なものであることが明らかになる訳です。
カレル・チャペックは、ロボットに関する戯曲R.U.R(ロボット)も書いています。R.U.Rは、ロッスム・ユニバーサル・ロボット社のこと。この会社が人間とそっくりなロボットを開発するところから話が始まります。ロボットは自分の意思を持たないこと、自分の子孫を増やさないことが特徴で、どんな仕事も嫌がらずに黙々と与えられた仕事をこなす優秀なロボットは当然、大ヒット商品となり瞬く間に世界中に広まります。最もニーズが多いのは軍事部門であることは当然のことか。その内どういう訳かロボットが意思を持つようになってしまいます。誰かが何らかの目的でロボットを洗脳したのかも。その結果は……
この時代資本主義の発展期で、大きな工場で働く沢山の労働者が求められた時代です。与えられた仕事を嫌がらず黙々と行うロボットのような人間が労働者の理想像でしょう。ストライキなんかやるのは共産主義者の革命家に洗脳されたできそこないのロボット以下。政府の言うことに賛成の票を入れ、マスコミの言うことを信じるロボットが大量生産される時代です。そのことがドイツやイタリアや日本で全体主義が台頭し、米国や英国も負けじと強権的な政治を強行する結果となります。ロシアももっと過激に革命による大量虐殺が断行されます。結局、ロボットや山椒魚がいなくても歴史は同じような道を歩んで彼の予想したように動いていたようです。

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ローマ人の物語から

ローマ人の物語は、全15巻に及ぶ塩野七生さんの大作です。今の日本人がヨーロッパの歴史を知るには最も良くできた本ですので、愛読書にしておられる方も多いと推察できます。その中でカエサルの出て来る当たりでしたが、気になる記述がありました。
ローマ人の物語 ローマ人の物語
ローマ社会では、教育と医療には国は一切口を出さないという鉄則があったという所。カエサルが行ったというより過去の前例を確認したもののようです。今の日本の行政とは真逆ですね。
教育に関しては、奴隷制もありましたし、ギリシャやオリエントから優秀な人材はいくらでもいたという事情はあります。それに教育とは所詮個人の問題、学ぶための教材や人脈はいくらでも転がっているということです。また、ローマ人の性格として高尚な学問よりも実践的な知識を重んじるという性格もあったのでしょう。どうしても学びたいものはギリシャ語をマスターしギリシャ人の先生につけば自由に学べます。国家として義務教育を行う必要性は全く感じていなかったようです。
また、医療の方もこの当時ならギリシャの方がはるかに進んでいますから、これも必要なし。それに高齢化社会の老人介護なんていう問題も最後まで生じていません。
しかし、年金制度はありました。ローマの兵士は一般の市民から構成される重装歩兵部隊、後に戦略上騎兵も使われますが。兵士である間は、衣食住は国から支給され退役後にはそれに見合った年金も支払われる仕組み。一種の失業対策も兼ねていたのでしょう。
一方の日本、教育医療関係の政策は大変熱心です。老人医療の無料化や、高校無償化等旗揚げすれば国民の選挙の票は稼げます。選挙民なんてだいたいその費用がどこから捻出されるか考えることがないので、新しい政策に次々に飛びついてしまいます。つまり行政にとって教育・医療関係の事業は権益拡大の絶好のチャンスとなります。巨大官庁の厚生労働省と文部省、熾烈な覇権争いを繰り広げていますね。カエサルが戒めた理由分かりますね。行政側にとっては医療と教育、とても美味しい分野なのです。
一時、老人医療の無償化が行われたことがありました。現在でも1割負担などと働く世代とは格差がついています。その結果、病院は長蛇の列、待合室は老人たちのサロンと化し、ゴミ捨てには飲みきれない不要な薬が沢山捨てられているといった状況になりました。その結果誰が困ったか。医者は保険制度で国から報酬が出るので患者が増えてホクホク、介護施設も経営が成り立つようになり、役人たちも天下り先が増え皆、幸せ。どうせ負担は税金から。みんなで払えば怖くないです。高校無償化も変な話ですね。未だ義務教育にもなってない。明らかに個人の裁量の話。誰が費用を支払うのでしょうか。みんなで払えば怖くない。こうして国の借金は年々増え、消費税の値上げは天井知らずとなるのでしょうね。(2018.1.21)

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ジャパン・アズ・ナンバーワン

著者のエズラ・ヴォーゲルは、戦後の日本経済の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価したとのこと。具体的には、まず日本の高い経済成長の基盤として、日本人の学習への意欲と読書習慣であるとしている。ヴォーゲルによれば、この当時の日本人の数学力(当時は2位、今は10位以下か)、他の科学分野についても相当上位だったという。ヴォーゲルは、この本が出た当時、日本人は他の国の人たちより英語力は明らかに劣っているが、優秀な通商産業省や大蔵省主導の経済への強烈な関与がまた日本の競争力を高めていると語っている。
     さて、多くのアメリカ人、ヨーロッパ人、さらに中国やアジアの人達、この本を読んで日本の発展の秘訣を学んだのでしょうか。日本はその後、この本に書かれていることを信じて慢心したのか、土地バブルの崩壊以降どんどん生産性が低下して経済の停滞状態が続いているのはみなさんもご存じの通り。まあ、経済成長至上主義自体も検証の時期に来ているのですが。 経済成長の原動力。これは、結局人の心の問題に帰着するのでしょうか。勤勉と努力。では、何のために努力するのでしょうか。資本主義の発展の基盤を社会学者マックス・ウェーバーはキリスト教に倫理、特にプロテスタントのカルバン主義に求めました。カルバンの教えは当時のヨーロッパの手工業や新興資本家達の精神的支柱として大いに普及し資本主義発展の原動力になったと考えられています。実際、今の欧米で経済成長を遂げているイギリス、ドイツ、フランスなど。合衆国も色々な宗教の人々がいますが国を動かしている人たちはプロテスタントです。逆にイタリア、スペイン、ポルトガル、アイルランドなどカトリックの国は経済の面ではイマイチですね。ロシアに至ってはロシア正教と社会主義の洗礼をうけ、経済の運営はどうもイマイチ。
     だから、キリスト教の洗礼を受けていない日本だけが、何故このように経済発展できたかは西欧の人々には非常に不思議な現象としてとらえられたのでしょう。新渡戸稲造さんあたりに言わせれば、「そんなことは不思議でない。日本には武士道という倫理規範があるではないか。」ということになるか。
敗戦後の中で、当時の官僚たちが無意識化も知れないけど、この武士道精神を利用したかのせいがあります。軍事では負けたが経済では負けない。国家への忠誠は薄れたけれど、企業への忠誠心に変えれば良い。年功序列制度は企業への忠誠心を確保するには不可欠だ。官僚機構はそのモデル。定年まで一つの組織で働くことが美徳。だから大企業優先。総てに産業を国産化することに血祭をあげる。敵からものを買うなんて。いわば、新しい戦争だ。国民はGNPの序列が上がるたびに大喝采をする。領土が増えたことと同じだからね。
企業も利益率よりもシェアーの拡大を計る。子会社や関連会社を造って領土を拡大し続ける。だいたい、年功序列制度そのものが領土の拡大なくしては存続できないネズミ講的性格のものだから。
     エコノミック・アニマルの誕生です。企業戦士がもてはやされます。どうしてガムシャラに働くの。年功序列社会では、自分の食い扶持は新しい領土を確保しないと得られない仕組みです。組織の上には既に既得権を持った上司がのさばっていて定年まではやめてくれません。過労死なんていう言葉は日本だけ。年功序列社会というのは、自由に転職することが難しいからです。評価の対象は能力よりも会社への忠誠心の方が上です。いくら優秀でもいつ敵側に寝返るか分からない人材はむしろ危険です。
人間の欲望には限りがありません。日本の戦国時代でも天下が統一されてくると戦争で勝っても新しい領土が得られません。だから、秀吉は朝鮮出兵なんてやらかしたのか。工業製品も同じです。経済で新しい領土を確保する。でも、実際には古い巨大になった領土をメンテナンするだけでも大変です。新興国が安い労働力や新しい技術で進出してくれば領土はどんどん小さくなって行きます。でも、先進国にはそこに多くの労働者がいて賃金をもらっているので、彼らはどんどん貧しくなって行く。今までうまく回っていた歯車が全く逆に回り始める訳。今までの日本の成功の教訓は今後どう生かされていくのでしょうか。

【注】『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One: Lessons for America)は、社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書。ただし、本分はこの本の感想ではありませんので悪しからず。日本語版は、広中和歌子・木本彰子の訳により『ジャパン アズ ナンバーワン: アメリカへの教訓』として、英語版に1月遅れで出版。日本人自身が日本特有の経済・社会制度を再評価するきっかけとなり、70万部を超えるベストセラーとなった。著作の主要なテーマは、単に日本人の特性を美化するにとどまらず、何を学ぶべきで、何を学ぶべきでないかを示唆した点でで、実際最後の章はアメリカへのレッスンと書かれているそうです。

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困窮化する若者達

現在の日本の社会は、今後この国を背負っていく若者たちに非常に住みにくい世界になって来ている。しかも、この国の年長者たちはそのことに、全く気が付かないか無関心を装っている。
まず、彼らが働く職場の現状。日本企業どこも人件費削減のため、新卒採用が厳しい状況になっている。中卒、高卒まで引張りダコだった高度成長時代とは大違い。一度派遣になると正社員への道はさらに遠くなってしまう。運良く正社員になれても、新卒1人に上司と称する人たちが数人いる。昔は部長と言えば何十人と部下がいたものだが、今では部長の下に課長が2人、平が2人なんていう状況はザラ。何年働いても、責任にある仕事は任せてもらえない。給料だってなかなか上がらない。日本の社会は、まだまだ年功序列社会。既得権優先だから。現場で汗水たらして働くものより、本社で会議ばかりしている人たちの方がはるかに高給を持って行ってしまう。その上、国の定年延長政策で、企業の高齢化はますます進んでいく。定年延長や再雇用。労働者の権利が守られるようになったのは民主主義のおかげでしょうが、その恩恵に若者たちは浴することが出来ない。例え、仕事に努力しても、老人たちは言うだろう。「まだ、だめだね。会社は俺たちがいないと回らないよ。」。高度成長時代には規模拡大、シェアー拡大がモットーの大企業は、今では、利益率優先、株主優先で縮小こそすれ、拡大する可能性ほとんどない。
正社員になれば、ハッピーかといえば、そうではない。長時間労働、最悪の場合過労死が待っている。当然だ。おみこしを担ぐ人より、ぶら下がっているものの方が多いのだから。日本の仕事の仕方は効率が悪く、労働生産性は先進国でも最低クラス。年間150日の労働時間のドイツと比べれば格段の差。いくら好景気で株価上がっても、絶対給料には反映しないね。 かといって、働き方を変えて、派遣を渡り歩いてもいいことないでしょう。日本の企業文化として、派遣はあくまでお手伝い。責任のある高度な職は見つからないでしょう。では、自分で企業を起こすか。確かに、能力のある人にはこれが一番いいでしょう。しかし、実際に成功する人はさほど多くはありません。政府の政策としては、正社員を増やすより、派遣やベンチャー企業の人達を支援していくことの方がはるかに大事だと思うのですが。
 若者の困窮は、夫婦共稼ぎに増加にも表れています。子育ての必要な時期も働かなければならない。仕事をいったん止めると正社員の地位を失う。しかし、保育園の待機児童の問題等、悩みは尽きません。育児と仕事が両立できる、ワークシェアリングのような方法が確立している欧米とはえらい違いです。核家族化も問題ですね。子供の将来には、日本の未来がかかっています。保育園は許認可事業なので、簡単には増えません。両親との同居も増えているようです。
更に、今の若者の困窮化に拍車をかけているのが、日本社会の高齢化。年金問題です。いまのお年寄りも、働いている間には年金を積み立てていました。誰もがそれを返してもらえると思っていました。ところが、日本の政府は既にかなりの部分を使ってしまったことを明言してしまいました。「今、君たちが積み立てている分は現在のお年寄りの年金につかう。君たちは後の世代に出してもらえば良い。」。それって、詐欺見たいなものですね。だって、今少子化で人口が減っているんです。しかも、積立金20年以上掛けないと1銭も帰ってこない。また、途中で死んだりしたら0ですよ。お年寄りの中には、すでに掛け金の何倍ももらっている人もいるんです。政府はそれでも足らないので消費税で賄おうとしています。ただでさえ、貧しくなって来ているのに大変な負担です。
また、老人介護の問題もあります。哺乳類の中で老人介護なんてする生き物いませんね。若い人は次世代の世話をすればOKです。老人がどう生きるかは自己責任の問題。若い人に自分の老後を見てもらおうなんていう考えは、戦争でお国のために死んだ人に対しても顔向けできないでしょう。下記の思考実験もお読みください。
思考実験

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文系人間と理系人間

 日本では、高校に入った時から、生徒達は文系・理系に分けられてしまう。これは日本の常識、世界の非常識である。韓国は日本が植民地支配下敷きにこの制度を持ち込んで今でも日本に習っているようだが。この習慣は、旧制高校にまで遡る歴史がある。当時の日本は欧米に比べ、色々な分野で遅れていたため即戦力育成の目的もあったのでしょう。

 それに比べ、欧米ではリベラルアート(一般教養)という考えが中心ですから、高校では社会人として、自分で考えて合理的な判断が出来るようにすることが目的です。大学では専門知識を重視するかリベラルアーツを重視するかはそれぞれ大学によってさまざまでしょう。日本でも建前はその通り、実際大学で学んだことが現場ですぐ役に立つことはまれでしょう。企業側ではその点は不満でしょうが。

 戦後もこの制度を踏襲したことは、様々な悪影響を及ぼしているが、最大の弊害は学問の縦割り化であろう。文系・理系の分野は互いに相互不可侵、似た学問分野相互も互いに干渉しないとする弊害が生じている。また、政治家や行政の人間はもっとも一般教養が必要とされる職業ですが、自分で調べ判断することを放棄し、すぐに専門家の意見を聞いて事足れりとする習慣が蔓延しています。マスコミもそうだ。「誰の発言」かが「どんな意見か」よりも優先し、専門家の中でも体制に都合の良い学者(御用学者)が蔓延する弊害が生じている。うっかり、正論を持って発言しようものなら、発言の中身は無視され個人攻撃でつぶされてしまうのが落ちでしょう。福島の原発事故では、原子力関係者の村社会があったことが事故の解明を遅らす最大の原因だったですね。

 いま、日本の国民は「裸の王様」になっているのですよ。誰かに「あなたは裸だ」と言われても、政府も沢山の御用学者もマスコミも、「いえいえ、あなた方はご立派な服をきておられます。大丈夫です。年金、雇用、経済、健康みんな私たちにお任せ下さい」と言ってくれます。  科学は哲学から発祥したものですが、哲学とはそもそもはどう生きていくかが根本です。物事を良く観察し、仮説を立てて自ら検証していく。そこには、文系人間も理系人間も全く区別は無いはずです。

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スロー思考とファスト思考

人間の思考方法には、2通りあり、状況により適宜使い分けているという。「速い思考」は、直感を元にするもので、人の顔の写真を見て怒っているのか、喜んでいるのかを瞬時判断するもの。 これはどの人種でも同じ反応を示すので人類に生まれつき備わった能力と考えられます(実際にはこんな能力も生まれつきではなく学習が必要との指摘もある。)。「遅い思考」の方は、簡単には答えの出ない問題に対処するもので、事実を良く観察整理し、論理的に考えて結論を出すものです。このうち、「ファスト思考」しかできない人間をバカと定義するのだそうです。(参考文献、「バカが多いのには理由がある」橘玲著)
     負荷の高い(精神が高揚し、血圧心拍数があがる)スロー思考は、人は無意識のうちに避けようとする傾向があると言います。特に自分にとってすぐに必要でない限り。しかし、現代社会の問題は、スロー思考でない限りほとんど解決不能なものばかりです。スロー思考を回避する方法は、次の2つの方法しかないでしょう。
     ①遅い思考が必要な問題を無視する。
     ②あらゆる問題を直感的思考法だけで解決しようとする。


ある高名な女流作家さんが「二次方程式を解かなくても生きてこれた。社会に出て役に立たない、このようなものは追放すべきだ。」と教育審議会で述べて、実際に中学課程で必修で無くなったことがあったらしい。現在はゆとり教育批判で復活したそうですが。速い思考しかできない人は遅い思考が必要とされるものを不快なものとして、この世から抹殺しようとする傾向があると言います。
     直感的思考法とは、原因と結果が一対になった思考法で、それが好まれるのはとてもわかりやすくて楽だからから。古代人は、すべての自然現象に因果関係があると信じていたので、天変地異を神の意志と見做し、神と交信できるものを王として選び、それでも日照りが続いたりすれば、王が神の不興を買ったとして首をはねてしまうことをしていた。それでは、王も困るので生贄を捧げることになったのでしょう(でも、これはファスト思考かどうか)。
     一般教養として色々なことを学ぶ価値は、スロー思考ができるようになることでしょう。まいにち研究に打ち込んでいる専門家ですら、研究で難問にぶつかると直感的な思考を優先させていることがあるのです。ましてや、専門外のことになると、無視したり、不快なものとして抹殺しようとするものです。直感的思考の罠に陥っていることは、意外と本人も気が付かないもんです。無知の知。いい言葉ですね。。

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血液型性格診断

A、B、O、ABという血液型の違いが人間の性格に何らかの影響を及ぼすということは現在は科学的に否定されていることだが、未だにそれを信じ込ませたいという人々が日本には多く、わざわざ特集を組む雑誌やテレビ番組は後を絶たない。このような誤った情報がもたらす差別や偏見による被害を考えると、たとえ冗談でも話題としては避けた方が無難である。特に、子供向けの記事では、たとえ占いの一種として紹介しても、子供は簡単に信じ込んでしまうかもしれません。もともと、医学的・心理学的な裏付けがないものを既成事実として流し、誤った認識や偏見、差別意識を世間に植え付けたことは大問題で、マスメディアは批判を受けて当然だと思います。
     血液型が性格に影響すると信じているのは、日本、韓国、台湾ぐらいであるが、もともと日本の民放テレビ局が受けを狙って大々的にキャンペーンしたのが原因らしい。私の記憶でも、シンガポールである日本人が秘書の採用に当たって血液型を書く欄を設けたことが差別として問題視されたことがある。当の本人はどうしてもA型の秘書を採用したかったのだそうだ。
以上のことに対する反論として、「血液型が性格に全く影響しないとは言えない。」というものがある。全くその通りである。過去に実際に調査が行われて、血液型の違いと性格の間には有意の差がないことは分かっている。しかし、全く関係がないと言うことは論証不可能なことである。裁判でも、証拠が無いものは無罪です。「やってないとは言えない」では、誰でも犯人にされてしまいます。こんな詭弁は結構専門家でも口にすることがあるので気を付けて下さい。
こんな例もあります。「将来巨大地震を起こす可能性があるとみられる立川断層について詳細な調査を実施しましたが、活断層としての証拠は見つかりませんでした。でも、活断層が無いということは言えないので今後も引続き調査を続けていきます。」
おい、おい、証拠が見つからなければ無罪でしょう。今後どんな調査をするの。組織温存予算獲得のための詭弁でしょう。
     一方、このような似非科学を人々が信じ込む理由は、原因(血液型)と性格(結果)が短絡的に結びつきスローな思考が不要なことが挙げられる。また、何度もそのような視点で見ていることでかえってその信念を強めてしまう確証バイアスという力が働くことも知られています。

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正義と進化論……チンパンジーにも正義がある

チンパンジーは、第一位のボス猿(アルファオス)を中心とした、厳しい順位社会を構成していますが、ある種の正義感情が共有されており、メンバーの行動に正統性を与える機能をしていることは、次の実験からも知られています。
例1:順位の低い下っ端のサルに餌を与えます。そこにたまたまαオスが通りかかります。αオスは,掌を上にして「物乞いのポーズ」と言われるポーズを行い餌をねだる。決して力ずく   で取り上げることはしない。チンパンジーの世界にも先取特権が存在し、所有権の侵害は許されないという正義が存在していることになる。
例2;真ん中をガラスで仕切った2つの部屋に2頭のサルを一匹ずついれ、キュウリを与えると両者とも喜んで食べる。ところが1頭の餌をリンゴに変えると、キュウリを食べていたサルは、キュウリを放り出し、怒り狂う。自分だけが一方的に不当に扱われるのは、平等の原則に反する。
例3;異なる群れから選んだ2頭のサルを四角いテーブルの両端に座らせ、真ん中にリンゴを置く。はじめは取合いを行い、先に手にした方が食べるが、何回か繰り返すうちにどちらが手を出さなくなる。一度序列が決まると、上下の掟は絶対となる。
チンパンジーの正義 チンパンジーの正義

以上の3例から、チンパンジーの社会にも、群れを維持する原理原則としての正義の概念、「所有権」、「平等」、「組織の序列」があることが分かります。これは、フランス革命で提唱された3つの理念、「自由」、「平等」、「博愛」に対応していることが見て取れます。正義とは人類の歴史において、数百万年前から種族保存のため保持されてきた直感的な思考法だったのでしょう。正義とは、自分の縄張りを守ること、悪とは自分の縄張りを奪いに来る敵のこと。人類は、石器時代の昔から、集団を味方と敵に二分し殺し合いを続けてきた歴史を持っています。以上、正義について
①直感とは、進化の過程で造られた脳のOS(オペレーティング・システム)
②私達は、直感的に「正しい」と思えるものを「正義」と見做す。
③進化論的に基礎づけられた正義は複数あり、重複する部分もあるが、原理的に両立できない。
④それ以外に、直感的に正しいと思えない正義もある(功利主義的の正義)。

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現代政治と正義の関係…政治学入門

フランス革命で提唱された3つの理念、「自由」「平等」」「博愛」」は、現代でも民主主義の基本原理と言えるでしょう。これが人間が類人猿と分岐するころから群れを維持する原理として維持されて来ていた「所有権」」「平等」」「組織の序列」といった群れの掟に対応していることも上で見てきたとおりです。これを猿知恵と見ることは適切とは言えず、進化における貴重な遺産と見るべきでしょう。これら正義の概念は、遺伝的な情報と言うより、哺乳類の特徴として、親から子、群れ社会の中で教育と訓練によって代々伝えられてきた規範であることは疑いないでしょう。人間の場合も親の躾、学校教育の洗脳によって、培われて来たものです。従って、これらの正義の感覚は訓練によっていくらでも強化できるものであることも指摘しておきたいと思います。
 以下、人の場合も3つの正義感があるのに対応して、3つの政治的立場が生まれます。
自由を求める(自由主義)
平等を重視する(平等主義)
共同体を尊重する(共同体主義)

フランス革命後の、国民議会は右翼を保守派(王党派、コンサバティブ、conservative)、左翼を共和派が占めていて、共和派内には自由を重視するリベラルliberal平等を求めるデモクラットdemocratに分かれていた。その後、私有財産を否定するマルクス主義(共産主義)が自由の敵を見なされるようになり、経済格差を悪としてより平等を求める立場がリベラルとよばれるようになってきた。それに対して税や再分配で競争の結果を変えて平等にするのは自由の圧殺との考えがリバタリアンlibertarianとなっている。先にリベラルと言う言葉が使われてしまったため、このような名称となったが良く似ていてとても紛らわしいですね。後者は、もともとアダム・スミスやジョン・ロック時代の古典的自由主義ともいえる立場です。また、歴史や伝統重んじる立場を共同体主義者communitarianいいますが、これも立場的にはリベラルに近いものになっているようです。リベラルとリバタリアンは大きな政府と小さな政府と言う志向の違いが重要でしょう。
 リベラルにしてもリバタリアンにしても結局は選挙に勝たねばなりません。その結果どちらの政党も似た政策を掲げるようになる傾向はあります。その結果、どの民主制の国家も大きな政府に近いものになって、財政赤字が累積していく傾向があります。これらの立場を別にして大衆に迎合する考えをポピリズムpopulismと言います。  政治思想には、上にあげた3つの考えとは別に功利主義utilitarianismというものがある。社会全体の幸福を重視するという発想は古来からあるが、功利主義を体系化したのはイギリスの哲学者ベンサムである。功利主義の考えは正義や道徳と言った議論を必要とせず、功利主義的発想をするチンパンジーはおそらくいないと思われている。功利主義的発想は、多くの人を不愉快にするもので、当時から、「冷酷」「エリートの横暴」「非人間的」との批判がなされてきました。しかし、近代経済学というものは功利主義的な理想社会を造るための社会学とも。この政治思想は一般には、新自由主義New Liberalismと呼ばれています。  今回の説明は、政治思想について徹底的に色眼鏡で見ています。だから文中のフォントに沢山色づけして見ました。私も理系人間で政治の問題はあまり得意ではありません。でも、このようにパターン化することで、政治の問題を考える上での一つの座標軸が出来てくると思います。 参考文献;「バカが多いのには理由がある」橘玲

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リベラルとは

 衆院選の直前から「リベラル」(liberal)という言葉が使われるようになった。民進党が分裂し、保守を掲げる「希望の党」への合流組と、民進リベラル派を集めた「立憲民主党」などに分かれたとされるのがきっかけだ。「個人の自由を尊重する思想的な立場」という本来の意味から外れて、日本ではある特定の「平和主義者」や「左派」を指すとする専門家もいるらしいが、原因はやたらと候補者にレッテルと貼りたがるマスコミの影響があるようだ。言葉は正確に使って欲しい。
 枝野幸男氏(53)本人がテレビのインタビューで答えていたように、立憲民主党の立場は日本の保守本流の立場。米国でもいまだ健在だ。より平等な社会を重視し、弱者救済など社会保障なども充実できるやや大きな政府を目指す。一方、対立する立場は、リバタリアン。より強く自由主義を掲げ、政府の干渉を極力減らし、規制緩和などで政府の干渉を徹底的に排除するより小さな政府を理想とする人たち。また、一方共産党も社会党も社会主義への改革は旗印として降ろしてはいるものの自ら自由主義を旗印にはしていないのでリベラルとはいうことは出来ない。公明党も同じです。自由主義とは、お互いの自由を尊重し合う「話し合いの精神」が核でしょう。数合わせの論理は似合わない。
では、今回の選挙において、リベラルの反対に立った人たちの立場は。緊縮財政は行わず、年金や子ども手当等の社会保障は消費税増税で行おうとする財務省主導の超巨大政府を目指している。北朝鮮の脅威に対しては、憲法を改正して核武装の力で対抗しようとする。どんなことでも数の論理で押し通す強いリーダシップと安定した政府。少なくともリバタリアンとはいえそうもない。こういう政府を国家社会主義(全体主義)と言うんでないでしょうか。下記の項もご参照ください。
現代政治と正義の関係…政治学入門

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全体主義の起源

全体主義とは何か。それは、近代社会が成立し国民国家が成立するその過程の中に萌芽てきに含まれているとされています。この分析を本格的な行った人が、ハンナ・アーレントという女性政治哲学者です。『全体主義の起源(The Origins of Totaliarianism)』が出版されたのは日本が未だ連合軍の占領下にあったころ。従って日本ではあまりなじみがないが欧米ではかなり前から読まれているようです。NHKの『100分で名著』にも取り上げられて静かなブームとなっているようです。
全体主義が生じるきっかけは、民主主義の過程で、市民が大衆に変化することだと彼女は看破しています。市民は、たいていどこか共同体に属していて、政治家は共同体支持基盤のもとに立候補します。大衆は、よるべき共同体がなくメディアのスローガン次第で簡単に候補者を変えます。大衆の将来への不安感が、強いリーダーシップをもとめ、安易なスローガンに依存する傾向を強めます。全体主義とは、民主主義の中に潜在的に隠されていていつでも顔を出す危険な罠と言えるでしょう。
アーレントがこの考えを一層確認したのは、ナチスドイツの残党の一人アイヒマンの裁判を傍聴したことにあるそうです。アイヒマン裁判

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英国病

英国病とは、経済が停滞していた1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策によって社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生等の経済・社会的な問題が発生した現象を例えた日本における用語である。
1960?1970年代のイギリスは、労使紛争の多さと経済成長不振のため、他のヨーロッパ諸国から「ヨーロッパの病人(Sick man of Europe)」と呼ばれていた。
サッチャー イギリス初の女性首相サッチャー(在任: 1979年~1990年)の構造改革や、1980年代以降の北海油田産出で「英国病」を脱したとされている。
 現在の日本の状況は、当時の英国と良く似ているがどのように対処していくのでしょうか。少子化高齢化による人口減少を抱えてもとには絶対に戻れない。大胆な構造改革が必要でしょう。

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築地→豊洲・移転問題

築地市場の移転の話は、非常に古く、当初、列車輸送が想定されていたためトラック駐車スペースが狭小という問題はあった。昭和47年~昭和60年 大井市場(現大田市場)に一部機能移転を検討するが、業界の意見を統一できず、断念している。
移転問題が浮上した際の東京都知事、石原慎太郎は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。他に適地はない」として急速に移転を進めようとした。

都が移転問題を蒸し返したのは、言わずと知れた「東京オリンピック誘致」の問題が密接にかかわっている。築地市場は、年々売上高は減少傾向で、今後豊洲に移ったところで発展の余地はない。従って、業務に携わる人々は原則移転反対。賛成派は、知事の意図を忖度して、利権を確保したい人達。そこで、移転先豊洲の土壌の汚染問題。
石原氏にとっては、オリンピックは国威発揚の絶好の機会。これを利用して経済を活性化、前の東京オリンピックの夢をもう一度。また、築地は銀座にも近く、ここを更地にして、もっと面積当たりの売り上げの多い施設を呼び込みたい。魚市場なんて迷惑施設だ。さっさと移転して欲しい。国民の利益を考えれば、オリンピックの方が絶対大事だ。でも、オリンピックが終わった必ずやってくる経済不況を考えているのでしょうか。

いま、都民にとっての築地の価値は物流のインフラではないだろう。築地はそのブランド力の方が遥かに重要でしょう。築地を経由した商品が江戸前。新鮮な魚介類は産地直送のものが簡単に手に入る。築地は、その狭隘で猥雑な活気にあふれる賑わい、および長い歴史的文化的な価値でもっている。都民の誇れる一大観光スポットです。豊洲の新しい市場が出来たら、外国人観光客は果たして喜んで来るでしょうか。高級な江戸前寿司を食べる気になりますか。超格安の回転ずしの方がずっと似合うでしょう。インフラ整備で、箱モノを作りまくる時代はもう終わっています。今度のオリンピックの標語は、「おもてなし」の精神です。

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日馬富士関の引退

日馬富士が飲み会の場で同僚を殴った事件で、連日マスコミが大騒ぎています。相撲界の暴力体質を改善だって、何だか話がとんでもなく飛躍している気がしませんか。あなたが会社の飲み会でうっかり部下に腹を立てて殴ってしまったら退職するようなことになるんでしょうか。事件が起きたのは懇親会の席、稽古場や土俵の上のことではないでしょう。懇親会とは、普段わだかまりを持っているもの同志もいったんはこれを忘れて仲良くしようというのが趣旨のはず。これが相撲界の暴力体質とどうつながるのか理解できないですね。少なくとも当事者の日馬富士関が責任を取って引退した以上事件は終結しなければならないはずです。
日馬富士
相撲の世界では、違う部屋の力士が一緒に飲食することを禁じられていたらしい。これこそが前近代的な制度で、建前は八百長防止ということらしいが、力士を部屋に隷属させること真の目的。親方による弟子の囲い込みだ。NHKの朝ドラでやっている「笑わんかの」の世界でも芸人が逃げ出さないように謝金を背負わせ肩代わりして一生隷属させる手配師が出て来た。土俵の上では敵味方でも、土俵を離れれば仲良く語り合えるのが真のライバル。これがスポーツマンシップだ。日本の武士道や西洋の騎士道だって同じ精神のはず。将棋の世界でも子弟制度は残ってはいるが、棋士同志は仲良く研究会をしたり、食事をしたり、ファンと自由に交流したり自由にやっている。相撲界では谷町の付き合いも総て親方が仕切っていて力士の自由は全くなく、野球界のトレードのように部屋から部屋へ所属を変える権利も無いらしい。全くの閉鎖社会、このことが相撲界の暴力が絶えない一因であろう。
貴ノ岩関(貴乃花部屋)の行動もいささか奇妙だ。親方の禁止している飲み会の席に出席しておきながら、徹底抗戦不服従の構え、殴られても携帯をいじくり回してヘレヘラ笑っているのも変だ。最後に謝ってその場を収め、後で親方に警察の通報してもらって後はダンマリ。親方の意向を忖度したのですか。無口で正義感の強い酒に酔うと歯止めの利かなくなる日馬富士がどこかで暴力をふるうのを待っていたのでしょう。
これって、日本人の好きな話、『赤穂浪士』と良く似ていますね。浅野匠守が最後に暴力に訴えた、庶民は吉良上野介を憎みます。貴ノ岩関の態度はどう見ても日本人の美意識から見て美しくない。このままでは、貴ノ岩は決して人気は出ない。貴乃花親方は自分の愛弟子の将来をつぶしてまで権力を保持したいのでしょうか。(2017.12)

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20〇〇年問題

 2040年問題というのと2045年問題という言葉が、あるそうです。この二つ全く異なった視点ですが、どちらも今後の日本のあり方を考える上で、重要な事項です。
 2040年問題の方は、少子高齢化が進み、2040年頃には日本各地で地方の自治体が破綻してしまうのではないかと言う懸念です。これについては、一般の民間人はあまり関心が無いようですが、政府自治省や、自治体の間では、相当真剣に議論されているようです。日本の自治体は、3割自治とも言われており、政府の補助金なしではやっていけない状態ですが、人口が減れば補助金も減り、財政破たんを招いて機能が果たせなくなってしまいます。地方と中央の役割分担を見直す時期に来ているのでしょうが、出来れば従来の枠組みを維持していきたいのが本音でしょう。確かに、少子高齢化の進展は待ったなし。広く意見を募り抜本的な対策が求められます。
 2045年問題は、コンピュータの発展に伴う問題。ディープラーンニング等の技術が進んで、人工頭脳の能力が2045年頃には、人間の能力を凌駕すると想定されています。現在は、囲碁将棋の世界で、コンピュータが何時名人を破るか時間の問題となっていますが、これがすべての分野に波及するとどうなるのでしょうか。
例えば、医者はパソコンにデータを打込むだけ、診断はコンピュータ。「だめだよ、君。自分で判断したら。診断はコンピュータに任せなさい。」なんてこと言われるかも。法律だって総てのデータはコンピュータに入っていますから、どの弁護士さんに相談しても全く同じ。外国語の通訳もロボットがやる。多くの専門職が不要になってしまいます。でも、逆にこれによってできるいいことも沢山あるかも。いずれにしても、社会のあり方について人間に大幅な考え方の変更を迫るでしょう。これ、不安ですか楽しみですか。

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嫌われる勇気-アドラーの心理学

最近、書店でもよく見かけるアドラーの心理学、アニメ版なども出ています。アドラーは、フロイト、ユングと並ぶ「三大巨頭」ともいわれる心理学者。今では古典の部類ですか。欧米では、相当ポピュラーな存在で、診療カウンセリングの実務でも使われているようですが、我が国では、今まで忘れられた存在でした。岸見一郎氏の翻訳や解説本によって俄かに脚光を浴びたようです。アドラー

本書「嫌われる勇気」は、岸見氏とその弟子??古賀氏の共著で、アドラーの心理学の真髄を誰にでも分かるように解説しようとする力作です。本書は、アドラー+ギリシャ哲学を専門とする哲学者と劣等感による自己嫌悪に悩み、それでも自分を変えようとしない青年との会話で話が進んでいきます。青年が哲学者を訪問するのは、その哲学者の持論を論破するため。もちろん最後はこの哲学者を認め、自己の世界観を変える第一歩を踏み出すことに。この哲学者は岸見氏自身、青年役は古賀氏が務めたようです。この会話は、ソクラテスと弟子の会話を想定していることは本人の後書きにも記されている通り。ソクラテスの業績は、弟子のプラトンの著作をとおして、後世に伝わるのですが、岸見氏自身はプラトン役も演じる所存とか。従って、ここに書かれている内容は、
   アドラー心理学+ギリシャ哲学+岸見哲学
ということかもしれません。本書の中身については、読んでからのお楽しみの方がいいかもしれませんね。

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人は何のために長生きするのか

 これは古来よりの永遠のテーマでしょう。ところが、こんなことが今さら問題になるのは、やはり人の寿命が延びて高齢化社会を迎えたことがあります。では、視点をもっと広くして生物は何のために生きるのか。環境に適応して生き残って子孫を伝えていく。ただこれだけのために遺伝子は巧みな戦略で進化して来ました。多細胞生物の細胞の中には、本来別の生き物であったミトコンドリアや葉緑体やその他さまざまな微生物が取りこまれて、共生をすることで進化しました。多細胞生物は各々の細胞が役割分担をすることで全体としての生物が出来ています。そのためには個々の細胞は、全体のためには死をもいとわず、生物全体の機能が停止した状態を死と定義します。人も死んでもしばらくは、髪や爪が伸びますがこの状態は生きているとは言いませんね。
『環境に適応して生き残って子孫を伝えていく。』これは、人間にも当てはまる原則ですね。そのような観点で、人は生きている価値がある訳です。ミミズやオケラが生きている価値があるのと同じ程度に。さらに、人類は共同体という社会を発達させてきました。この共同体というものも、生物の進化から言うと歴史は古く、昆虫では、ハチやアリ、シロアリ、哺乳類でもハダカデバネズミなどが知られています。上記の生物では共同体の役割分担は非常に明確で、個体は完全に共同体の部品と化しています。つまり、群れ全体が一つの完結したもので、遺伝子は群れ全体の生存を計っている訳です。
 ところが、哺乳類になると個体同志の役割分担は明確でなく、環境や学習、お互いの競争などによって後天的にかたちづけられていくことになります。リーダーになる個体も最初からリーダーではなく、仲間との協力や競争を通して、最終的に共同体の他の構成員から認められて初めてリーダーになるのです。このことは、人間も全く同じです。人は、共同体の一員として考えて行動し、共同体の一員として認められて初めて幸福感を得られるように遺伝的に刷り込まれているのでしょう。心理学者のアドラーによれば、人の悩みはほぼ100%対人関係に起因すると喝破しています。人の幸福度は、共同体への貢献度で決まる。どんなに見かけ上成功したように見えても共同体への貢献を本人が感じることが出来なければその人の人生は無です。従って、利己的で周りの人々は皆敵、あるいは利用すべき対象でしかない人は幸福にはなれない。たとえ寝たきりになっても、周囲の人にとってかけがいの無い人は幸福なんだそうです。
日野原重明  一方、人を含む類人猿は、子供をつくる能力を失ってからの人生が長いことが特徴です。特に人は異常に長い。魚類あたりまでは、卵を産んだら親はすぐ死んでしまいます。鳥類哺乳類は子育てしますが、子育ての終了後は、そんなに長い余生はありません。何故、人の余生は異常に長いか。それは、共同体への貢献が期待されているからです。類人猿達は、共同で子育てをするのが特徴です。人類だって、狩猟採集時代の壮年の男女は、共同で作業に当たらねばなりません。子育ての役割は、もっぱら高齢者、おじいさん、おばあさんです。そういえば、日本の昔話。桃太郎も、金太郎も、一寸法師も、かぐや姫も子育てはおじいさんとおばあさんですね。高齢者の財産は人生で積み重ねてきた膨大な知恵のノーハウ。これを直接孫に伝えていくことは大変理に適っています。これも遺伝子による共同体の生き残り作戦です。戦後定着し、国も積極的の支援してきた核家族化は、終身雇用制度の崩壊と所得格差の増大、子供の貧困化、共稼ぎ家庭の増加等色々な問題を抱えてきています。遺伝子の意図に反するからです。

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森友学園の問題

森友学園の問題は、戦後最大の政治的不祥事に発展することがある。この問題であまり世間では話題になっていないことだが、森友学園の実態は何かということである。籠池泰典という人物が極めて胡散臭い人間であること。教育勅語を教育の理念とするということ。明治天皇の言葉ということだがもちろん天皇自らが書かれたものであるはずがない。尊王攘夷から始まり討幕運動の起爆剤になった皇国神話思想だが、いつの間にか偏狭な国粋主義に変貌し、日本国民の生活に多大な犠牲を課し、周辺諸国にも多大な迷惑をかけたこと、二度をこのようなことが起こらないように日本国民は深く反省したはずだ。今のドイツがナチズムを否定するのと全く同じで、皇国神話に基づく民族主義、国粋主義を語ることはそれ自体国民のタブーとなっているはずだ。最近、戦時の記憶が希薄になって、妙な日本特殊論や排外主義が頭をもたげてきている。また、ドイツ以外のヨーロッパの国でもネオナチと呼ばれる台頭してきている。
だから、このような主義主張を公然と主張するような団体に対して財務省という国の機関が便宜を図るということは当然あってはならないことなのだ。籠池という人物は、首相夫人をうまく利用して財務省に圧力をかけたらしい。財務省とて首相の意向を忖度しないと首が飛ぶ。財務省内の抵抗をかわすためには公文書を改竄して、あるいは文書を残して精一杯の抵抗をしたのであろう。動機から言っても財務省の単独犯行ということはあり得ない。
 安倍晋三首相や佐川宣寿前国税庁長官が直接かかわることは絶対にありえない。二人ともそれなりの地位も責任もある立場で、このようなタブーとなっていることを建学の理念とするような胡散臭い学園を支援することは絶対ないと信じる。だから、昭恵首相夫人の関与が問題になるのだ。得意になってこの財団の理事長だかを引き受けて、推進に協力している。首相といえども公務員。昭恵夫人は公務員の妻という立場を逸脱している。財団の理事長を引受けるということは、第三者にとっては当然首相の意向と取られることは認識していないといけない。一個人の立場では済まないからだ。
 安倍首相が妻の立場を知っていたとすれば、首相も同罪だし、昭恵夫人だけが勝手にやったことなら、一種の詐欺行為か。どちらにしても証人喚問は免れる話ではないだろう。
 なお、教育勅語自体は、立派なものかもしれない。ヒットラーの経済政策がなかなかのものだったの同じように。ただ、運用によっては、「お国のため」とか「一億層玉砕」とか民族主義的排外思想へとつながる危険性が極めて大きいのだ。

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ものづくり

最近良く聞かれる言葉です。現在の日本の製造業の繁栄は、日本の伝統文化、固有文化に源を発するという史観も絡んでいて、「ものづくり」の精神は日本人特有のものと思いたいという気持ちもあるのでしょう。これは、いわゆる大和言葉ですが、英語に訳せばcraftsmanshipとでもなるのか。Industrial Engineeringなどでは技術的なほうの片寄過ぎている。職人気質などでは必ずしもプラスのイメージは出てこないですね。
1980年代以降、単純な製造作業の拠点は中国などに移り、おりしもITブームや財テクが流行り、日本の製造業には3Kに代表される工場で油にまみれる作業のネガティブな印象が強くなります。しかし、1990年代後半から自動車産業を筆頭に、日本の製造業が復活を遂げ、日本の製造業が集約型単純労働ではなく、より高度で精神性の高い技術活動であるとの認識が生まれ、製造業をポジティブなイメージで捉える言葉として「ものつくり」という表現が使われるようになります。現在の日本の製造業の繁栄は、日本の伝統文化に源を発するという考え方である。実際には、モノづくりの精神ある意味では世界の人々共通の考えでもあるはず。日本特別論に陥ってはいけません。
刀鍛冶 刀鍛冶 工場労働者は、もちろん賃金をもらって働くわけですが、労働者がプライドを持って働くためには賃金以外にその根底となる職業モラルというものが必要です。自分の仕事が経営者以外の社会一般の人に役に立っているのだ。社会への帰属意識です。
武士は戦争が仕事かも知れませんが、それでは心の方が持たない。やはり「武士道」とでもいう精神的なモラルを確立することが必要でしょう。士農工商の身分が分かれていた時代、職人さん達は社会からの蔑視に対し、職人気質を育て上げ、プライドを持って対応して来ました。それによって仕事にやりがいを見つけ、人生を有意義にすることができるからです。また、社会も職人さんたちの技術を尊敬し評価します。
「道」と名がつけば、それをとことん追求して見ようとすることも人の本性。「ものづくり」の精神も時には資本の論理とぶつかることも多いでしょう。しかし、今の日本を本当に変える力となる可能性もあると思います。(2017.09.07)

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迷走する教育理念1

 そもそも、義務教育は何のために存在しているのでしょうか。西洋で発達した民主主義の理念の中に、「すべての人は生まれながらに平等である。」とあります。福沢諭吉翁も「天は人の上に人を作らず。」と書いております。でも、諭吉翁は、人は学問をするとしないではその後の人生に大きな差が生まれることも強調しております。でも実際、法の上ではすべての人は平等だと規定されていても、世の中の貧富の差はとても大きく、貧困家庭では子供にろくな教育を与えることができません。その結果、教育を受けられなかったその子供が成人してまた、貧困に陥るといった連鎖を断ち切ることができなくなります。
 だから、義務教育とはどの子供も平等とはいえないまでも、ある程度の基礎教育を受ける権利を担保しようという趣旨で、子供の親、自治体、国に教育する義務を課しているわけです。子供にとっては、基本的人権の一部であって、教育を受ける権利で、決して義務などではないはず。
 当初は、学校へ通えることを嫌がる子供など、想定できなかったはず。字が書けて、多少の計算が出来て、本が読めるということは人間が生きていくうえで大きな武器となることは、子供でも分かったから。でも、制度が確立してしまうと、学校嫌いの生徒がドンドン増えていきます。一方、社会の方は学ばねばいけないことがドンドン増えていきます。何故学校嫌いが増えるかは、さらなる分析が必要でしょう。でも、この傾向に対応して、学校に通うことは生徒の義務という発想に変わっていきます。近頃、先生の側から「教える権利」なんていう奇妙奇天烈な言葉を聞くことがあります。「教える権利」なるものあるとすれば、あくまでも「学ぶ権利」を補完するもので、単独で存在するものではありません。生徒が学ぶ義務があると考えるから、その対極として「教える権利」なる変なものが考え出されるのです。でも、本来人間が学ぶことは、権利の行使であって、決して義務ではないはず。
 最近、文部省が言い出した、「アクティブ・ラーンニング」。それでは、今までの教育は「パッシブ・ラーンニング」だったのでしょうか。人間が学ぶということは、あくまでも「学ぶ権利」を行使するアクティブなものなのか、言われたことを粛々とこなす義務としてのパッシブなものなのか。親や地域の反対を押し切り、ようやく学校に通えるようになって、初めて読み書きを学んだ貧しかった小学生たち、絶対に「アクティブ・ラーンニング」を行ったと思います。次から次へと知りたいことが出てきます。「アクティブ・ラーンニング」とは学ぶ喜びのある学習。権利としての学習。これを上から押しつけて義務としの学習としてしまっては効果無しでしょう。権利と義務。権利はアクティブな行為。義務はパッシブになりがちです。最後の孔子の言葉(論語)で締めくくりましょう。
「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず。」

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今学校で起こっている可笑しなこと

 うちの孫娘が、小学校の算数のテストで文章題で答えがあっているのに式を直されて来たことがある。もう、問題は覚えていないがこんな極めてやさしい問題だ。「初めに教室に3人の生徒がいました。後から17人やってきました。全部で何人になったでしょうか。」
これを、17+3=20人とやるとダメで、3+17=20でないと式がペケなのだそうだ。
これって、大数学者もビックリですね。しかも、これ文部省が指導要綱に明記して先生にとってはマニュアル化しているらしい。
 同じことは掛け算でもあるらしく、「5台のトラックに、1台当たり3個ずつ米俵を積むと米俵は全部で何個ですか。」。これも5×3、3×5どっちが正解か。基本的にはこんなこと大昔から世界中でどちらでも同じ、決まっているはず。ところがネット上では、日本の教室内では教室内だけで守るべきローカルルールがなければならないと主張している人々が存在しているらしい。足し算、掛け算では可換則が成立し、この事実は低学年からしっかりと身につけねばならない。5×3と3×5は等しいけど、5÷3と3÷5は異なっている。ただ、掛け算や割り算は、用いられている単位も同時に掛けたり割ったりしていることはしっかりと教えて欲しい。だから、本当に式にこだわるなら、「5台×3個/台=15個」とすれば良く、それ以外の式は減点と約束すれば良い。
足し算や掛け算は、普通の数だけでなく、高学年になるとベクトルだったり、行列だったり、集合だったりいろいろなものを考えなければいけない。a×b=-b×a (ベクトルの外積)、この程度のことは、今後中学生ぐらいまで下りてくると思われる。アクティブラーンニングによる柔軟な思考力が求められる。融通の利かないキッチョマン(著しく几帳面な人間)は最悪な先生だ。

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迷走する教育理念2

鳴り物入りで登場した「ゆとり教育」。2000年頃は「脱詰込み教育」としてもてはやされたのに、何故かいまは「脱ゆとり」。PISAとかいうOECDが実施する各国の学力試験の結果が下がってきたことが原因とか。これも、日本の経済力が落ちてきたことや、貧富の格差が拡大して教育困難な生徒が増加したことが本当の原因なのか、「ゆとり教育」の実施のやり方が原因なのか、学校の教育力の低下が原因なのか、その辺の検証は行われていないようだ。
 少なくとも、第2次中曽根内閣の時代に提案された「公教育の民営化、自由化」や「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」「国際化、情報化など変化への対応」といった理念は教育の未来に向けての改革を目指しており、さらには、内暴力、非行、いじめ、不登校、落ちこぼれ、自殺など、学校教育や青少年にかかわる数々の社会問題を解決に向けて取り組もうとの姿勢もあったはずだ。
 「ゆとり」といっても、富裕な家庭の子供たちは学外の学習塾や課外体験学習等の機会が増えて、学校とは別の「生きる力」といった本物の学力を大いに伸ばす機会に恵まれた半面、貧困家庭の増加から、学習困難児が教室でも増え、いわゆる学力の二極化がより顕著になってきている。確かにオリンピックでのメダルの獲得数が増えたり、将棋や本格的な学問の世界でも大人を凌ぐ能力の子供が出現したりするのはまさにゆとり教育の賜物であろう。学習の場は、学校だけじゃない。でも、この傾向が進めば、学校の役割はどうなるのであろう。
 教育の現場では、先生たちは一様に自信を失っている。平均的なレベルで授業を行っても、上位の子供たちは、あまりにレベルが低すぎて、聞くに堪えない。でも、一方には、もっとずっと前に遡っても全く理解できない子供たちがいる。平均値の教育では、どちらの側にたっても生徒たちは不満で先生は尊敬されない。どちらか一方の側に立てば、父兄や仲間の先生からもブーイングとなろう。子供たちは学習塾の先生の方が、教え方がうまいという。それは当然だ。学習塾は生徒一人一人のニーズに合わせて教え方をその都度工夫できる。
今まで、学校の先生方は画一教育に慣らされてきた。文部省の指導要綱に従って、箸の上げ下げまでマニュアル化されている。だから、抜本的な改革が必要なのは学校の制度そのものであろう。「脱ゆとり」を掲げて、授業時間を長くして、「英語」や「道徳」等の教科を増やして、無理やり子供たちを学校に囲い込んでも、生徒も先生も疲弊するだけだ。「公教育の民営化、自由化」をさらに進めて、学校の役割を見直すこと大切だろう。

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政府閣僚の失言問題

防衛大臣(第15代)の稲田 朋美氏が2017年6月27日に、都議選の自民党候補者応援演説の際、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてお願いしたい」と発言したことが、自衛隊の政治利用ともとれる発言ではないかと批判されています。この発言が野党各党から辞任を求める要求となり、本人も謝罪しており、これで主相が解任すれば一件落着のはずが、主相が解任を拒んでいることが最大の問題となっている訳です。

過去失言問題で辞任した大臣は沢山います。ですが、今回の稲田さん、主相も解任させたくないほどの優秀なブレーンなのですね。将来は主相も目指したい。小池都知事と同じですか。従って、この発言はうっかりではなく、計画的に準備されたもの。たとえ謝罪しても、本心は変わってないはず。多分、言いたいことは「将来の日本の国防、自衛隊のあり方、他日本の将来を本気で考えているのは自民党ですよ。私は、自民党の代表としてお願いします。」程度のことだったかもね。あくまでもレトリック。「言葉通り受け取られてもこまるよ。」。でも世の中の人達、そんなに賢くないですよ。

選挙というものあくまでも個人が行う行為。防衛省の意見、自衛隊の意見、自民党の意見などある訳がない。ただ、最近の自民党は、執行部の公式見解に対し、反対意見を認めないとすることが慣例になりつつある。各省庁においても公式見解があれば、職員はそれに従うべきという考えが出てきているように思われる。非常に危険な思想です。 今、稲田氏は防衛省という軍の最高指揮官。もし、自民党が都議選で負けたら許しません。軍隊を派遣して、議会を解散させますよ。現にエジプトではアラブの春は軍によって潰されたでしょう。稲田氏の場合、防衛大臣という立場が、事を余計不安にさせているんです。

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ダイヤモンドの知恵

 NHKのEテレで、ジャレド・ダイヤモンド博士(Jared Mason Diamond, 1937年~)の学生との間の特別授業の様子(日本語吹き替え)が連載されていた。博士は、米国人で1937年、ボストンでベッサラビア(今のモルドバ共和国)出身のユダヤ系の両親の間に生まれる。1958年にハーバード大学で生物学の学士号を取得後、1961年にケンブリッジ大学で生理学の博士号を取得。その後、生理学者として分子生理学の研究(生物の遺伝や生理についても非常に詳しい)を続けながら、平行して進化生物学・生物地理学の研究も進め、特に鳥類に興味を持ち(バードウォチャーとしても本格派だ)、ニューギニアなどでのフィールドワークを行なった。そこでニューギニアの人々との交流から人類の発展について興味を持ち、その研究の成果の一部が『銃・病原菌・鉄』として結実する。他に、『人間はどこまでチンパンジーか?』、『第三のチンパンジー』、『文明の崩壊』等 多数の著作がある。上記テレビ番組の中でも、人類の誕生から人類の将来までの幅広い考察が披露された。
ダイヤモンド      ダイヤモンド博士ダイヤモンド博士
 『銃・病原菌・鉄』の冒頭で、博士はニューギニアで現地の賢者から、「あなた方白人は、沢山のものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それは何故だろうか」との素朴な質問を受け、答えられないことに気が付いた。
ジャレド・ダイアモンドの名を一躍有名にしたのが、一般向けの書籍『銃・病原菌・鉄』である。この著作は、「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのか?」という疑問に対し、一つの答えとして書かれたという。ダイアモンドは、これに対して「単なる地理的な要因」(例えば、ユーラシア大陸の文明がアメリカ大陸の文明よりも高くなったのは大陸が東西に広がっていたためだから等)という仮説を提示し、「ヨーロッパ人が優秀だったから」という従来の根強い人種差別的な偏見に対して反論を投げかけ、世界的なベストセラーとなる。さらに、補足すると、もしニューギニア人の先祖がたまたま今のヨーロッパに住み着いて、白人の先祖がニューギニアやオーストラリアに住み着いていたなら、君たちニューギニア人の子孫たちが世界を席巻することになったはずだということ。なぜこんなことが言えるのか。詳細は上記書籍を読んでいただければ分かるが、次のことは言えそうだ。
まず、博士のあくなき知的探求心がある。ありきたりの定説では満足しない。必ず別の疑問が生じる。また、彼の広範な知的バックグラウンドは実にいろいろなアプローチを可能にし、彼が考えた仮説に確固たる基盤を提供してくれる。一方、過去の出来事を正しく理解するというのは歴史科学の役割だ。そのような意味では、宇宙の歴史から誕生まで人類の誕生までの歴史も自然科学一分野として確立している。ところが文明が起こり文字や記録が残されるようになった時代から以降は、歴史学は文科系の学問のように棲み分けできてしまったようだ。そこには「人間はサルとは別で、自然科学的な考察になじまない。」という、暗黙の了解があったのだろう。でも、「人間とチンパンジーの遺伝子は1.6%しか異なっていない。どうして人間は文化や技術を発展させたのに、チンパンジーは昔と変わらない生活をしているのか。」。 人間でも、オーストラリアのアボリジニと呼ばれる人々は、いまでも原始的な石器を用いた狩猟採集の生活をしている。彼らの先祖も昔は中国か東南アジアからやってき人々で、人間個人として劣っているわけでは全くない。結局、農業も文明も人と環境との相互作用の結果として生じたもので、そこには天才も意志強固なリーダも必要ない。このような考えは、特に人文系の人々からは「環境決定論」だと批判もあるらしい。しかし、一般の生物の進化論では地球環境の変化の重要性を認識しながら、人間だけは別だという論理は成り立たない。では、歴史に現れる偉人たちの功績は。それは、環境の変化、時代の要請をいち早く予見し、賢明な対策を先取りしたということだろう。ダイヤモンド博士は、間違いなく現代社会の「知の巨人」といわれる一人でしょう。

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安全国家

安全国家という概念があるらしい。平和で安全が保たれていてそんな国に棲んで見たい。実ところが実態はその反対。国の権力者が安全をやたら強調するのは、現状が安全ではないという大前提が含まれているからだ。
     2001年9月11日アメリカ合衆国内で発生した同時多発テロ。ジョージ・W・ブッシュ大統領は対テロ戦争を位置づけ、イラクやアフガニスタンに一方的に戦争を吹っ掛ける。国内では安全を理由に個人情報の開示が義務付けられ、監視国家へと変身していく。国民は安全を旗印にしているので多少の疑問があっても政府の言うことを忠実に聞くようになる。
     イラクへの攻撃は全くの濡れ衣であったことは現在では明白になっている。イラクが大量破壊兵器を準備しているというのは、米軍の一部がでっち上げた報告書。そもそもフセイン自身、世俗主義の独裁者でアルカイダのような原理主義者の目の敵のような存在。同時多発テロとは何の関係もない。
ビン・ラディンビン・ラディン      WTCWTC爆破
     一方の、アフガニスタンの場合もさらに気の毒だ。同国に逃げ込んできた亡命者をかくまうのはある意味では、独立国の権利でもあるし、義務でもある。つまり、米国はアフガニスタンを国家として認めていなかったわけだ。
     中世のヨーロッパにもこんな話がある。当時ヨーロッパには、都市国家といって周辺の王国から独立して自治を行っている都市が多数発生する。都市国家は独自の軍隊を持っており、周辺の王や貴族たちの干渉をはねのけることができる。だから、王国内の犯罪者やお尋ね者も都市国家へ逃げ込めば安全を確保できたのだ。ある時、一人の男が都市の少年にかくまってくれと頼む。少年は快く引き受けるが、後から来た追手の示す報酬に目がくらんで、男の居場所を教えてしまう。それを知った父親。「それは、許すべからず犯罪だ。」として、少年を撃ち殺してしまう。まあ、父親が許しても都市のルールが許さなかったのだろうが。      このような規範は、人類古来から存在する道徳であろう。日本の武士道もヨーロッパの騎士道にもそういう精神はある。危機をあおられると、国民のこのような理性は打ち消されてしまう。
アフガニスタンは、お金や軍事力では屈しない、宗教や道徳の力を持っている。イラクや中東もそうだ。金儲け一辺倒の資本主義の論理では、解決しない。だから、アメリカが軍事介入した地域はどこも滅茶苦茶な状況になってしまうのだ。
     安全国家というものは法治国家とは相反する性質を持つ。法治国家は、権力者に一定の歯止めをかけるために作られたもの。法を変えるには国民の間に正しい議論を積み重ねが必要だ。しかし、危機をあおることで超法規的なことを常態化してしまえば、法治国家の枠組みをいくらでも打ち壊せる。いつも、「オオカミが来た。オオカミが来た。」と騒いでいる政治家には要注意だ。

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数値目標

数値目標という言葉は良く使われます。でも、一見耳触りが良いようですが、たいていの場合意味のない数値が独り歩きして結局は世の中は変な方に発展してしまうことが多いので気を付けないといけません。
崩壊前のソ連邦では、自動車の生産量を西側諸国の追いつこうと大変努力しました。その結果、ソ連の自動車は大変重量が大きく効率の悪いものになってしまいました。官僚たちは、自動車の生産量を重量で計ったので、生産現場は生産量を水増しするためなるべく重たい車を作る努力をしたためです。
日本の上水道や下水道は、本当に過疎地域まで張り巡らされていますが、結局普及率向上のためでしょう。欧米諸国に追付け追い越せでしょう。本当に美味しい井戸水や農地や山林に下水を循環させた方が環境にもはるかに優しいのでしょうが。
日本では、高度成長期にサラリーマン向けの大規模な団地開発を沢山行ってきました。綿密な都市計画を実施して、宅地、商店街、近隣の農地をきれいに線引きしました。線引きも一種の数値目標でしょう。その結果団地には、年齢収入などが同じような人達が沢山集まり金太郎飴のような集団になってしまいます。だから地域の構成員同志の役割分担もなく、隣は何をする人ぞという関係に。今その世代が一斉に高齢化しています。地域と切り離された老人たちは、老後は介護施設に入りたい。江戸時代までは、老人の知恵は貴重な戦力だったのに。だから国を挙げての介護介護の大合唱となる。もともと老後の生活なんて国がとやかく口を出す筋のことではないはず。
農水省は、食料自給率向上を掛け声にしていますが、自給率はカロリーベースだそうです。高級野菜の畑をつぶして牧草を植えた方が自給率が向上するという計算です。実際に金額ベースでは日本の食糧生産高は世界の5本の指に入るとか。
子供の出生率なども、確かに人口の高齢化が進み出生率の低下が進んでいますが、社会の構造が変化しているためで、子供達の教育環境の整備ややりがいのある社会の構築を後回しにして子ども手当などをバラ撒いても社会を混乱させる以外の何物にもならないでしょう。
民間の会社でも経費削減とか残業代節約等に数値目標を入れるとサービス残業の増加やモラル低下を招くことが関の山でしょう。
我々の社会のほとんどの問題は、複雑系と言われるシステムですが、込み入って複雑なわけではなくモデルは単純でも結果は予測が難しいということです。しかし、モデルが比較的単純なら現場におけるその都度適切な対応で解決できるわけです。頭の良いと言われている人たちが会議をして出した結果はたいていは上手く行かない訳です。

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思考実験

思考実験という言葉。理論物理学で良く行われる手法。アインシュタインが得意していたとか。特殊相対性理論の入門書では、「花子が止まっていて、太郎が速度V(光速に比べ無視できない速さ)で等速運動していて、云々…」。結構、読んでいてくたびれます。思考実験をするには、思考モデルが必要です。実際に実験を行うことは、大がかり過ぎ、コストもかかり、事実上不可能なことがほとんどだからです。だけれども、この方が、大変有効であったことは、現実の科学の歴史が証明しています。このことは、社会科学の分野でも当てはまります。社会科学で、最もモデルを有効に使っているのは経済学の分野です。
社会の力学というものは、実際に実験することは当然不可能ですし、再現することも難しいからです。また、モデルの妥当性を説得することも困難でしょう。また、モデルが良くできていて、現実をうまく説明できるほど、人々は、嫌悪感を抱き否定しようとします。人は、自分の先入観が否定されそうになると何とか理屈をつけて否定しようとするものです。次にあげる、映画館モデル、非常に簡明でうまいモデルだと思うのですが、みなさんはどうお思いでしょうか。


混雑する映画館  町中に大きな映画館がある。人気の映画が上映されていて、中は立錐の余地も無いほどの超満員。映画館の中は入場を待つ人たちの長蛇の列。映画の上映時間はとても長く、何時まで経っても中に入れない。上映されている映画はとてもつまらない。観客の目的はいつまでもこの映画館に留まること自体なのだ。実は、この映画館は、今の日本を反映したモデルなのです。
 この映画館は、時間とともに縮小していく。映画館の外の人達は抗議の声を上げるようになり、中の観客は押しつぶされそうになって悲鳴を上げている。もうお分かりと思いますが、この映画館は「終身雇用劇場」の看板をあげ、「年功序列制度を守り美しい日本」という長尺の映画を上映している。この映画館が大人気なのは終身雇用と年功序列の制度が日本経済の高度成長の原動力と信じられてきたからだ。
でも、この制度は明らかに致命的欠陥があります。会社組織というもの基本的に軍隊と同じピラミッド組織。入社時に総ての社員に終身雇用と年齢に応じた昇進を約束すれば、必然的に円筒型の組織に変わってしまう。軍隊ならば強制的に兵士を退役させることが出来る。社員を解雇できない企業は、この矛盾を解消しシステムを維持するためには、常に企業を拡張していく必要に迫られる。従って、日本の企業は、利益率よりもシェアーの拡大、子会社、系列会社を増殖させて、業務の多角化を続けていくことを運命づけられてしまう。
組織が拡大している限り、このシステムは機能するが、経済の成長が止まると、この制度は瞬く間に崩壊する運命にある。原理的にはネズミ講と全く同じだ。小泉政権の規制緩和も、この状況を緩和する目的で実施したもの。これが派遣労働が増えた原因だとは、原因と結果の取り違え、主客転倒、的外れな批判ですね。終身雇用制度が崩壊しているのだ。
ドイツでは、派遣労働を正規な労働の形態と位置図け、短時間労働と高効率の生産システムを達成し、今ではEUでもっとも成功した国となっている。日本にはもう一つネズミ講モデルがピッタリの例がある。国民年金の問題である。

経済の話
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最近流行している言葉

人は言葉を使う生き物だ。言霊というように言葉には魔力がある。マスコミは日々、新しい言葉を発明し、普及させようとする。言葉はある意味で、葵の紋章と同じだ。「汝ら、これが見えぬか。」水戸黄門が印籠を見せるような効果が出てします。本来の意味を離れて錦の御旗のごとく反論を封じてしまう魔力があるので気をつけないとけません。
  
忖度(そんたく) 印象操作 リア充 ヒール 親権とは ヘイト本
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忖度(そんたく)

 何故今頃になってこんな言葉がはやるのか。基本的には相手の気持ちを推し量る。発端は、私学の森友学園瑞穂の国小学院認可問題からで、総理の立場を忖度して云々。最近こんな難しい言葉使われてないと思いきや、実はこれは古語ではなく官僚仲間では、普通に使われているもの。官僚の立場、法や規則を守って公平が原則、しかし、実際の実務に当たっては、過去のしがらみや権力者の意向に逆らえない。こんな時に便利な言葉、こちらの立場も忖度してくれよ。「こっちにも事情があるんだ。こちらの立場を推測して理解して下さい。」では、相手は納得しないでしょう。もっと端的に言うと、「もう、話は決まっているの。議論はお終い。」が本音。
 日本の官僚は、基本的には終身雇用で、止めたらただの人、上司や時の権力者の意向に背いて左遷や首になったら元も子もない。常に上の意向を忖度してやっていくことが宿命となっている。現在の政治は自民党の一党独裁、政治指導とかで、官僚への圧力が強くなっている。せっかく忖度しても、後でトカゲの尻尾切りでは、官僚もたまらない。精一杯の反抗が始まっている。本日の忖度は、悪い方の使い方。こんな忖度ならない方が良い。
 儒教の道徳では、民の心を忖度するのは為政者の心得、友人関係も互いに相手の立場を忖度していけば丸く収まる。忖度ということば、単に相手の気持ちを推し量るという普通の意味だったのです。

最近流行している言葉

印象操作

 首相は「印象操作」を今国会でたびたび使う。「忖度(そんたく)した事実がないのに、まるで事実があるかとのことを言うのは典型的な印象操作なんですよ」「我々がまるでうそをついているかのごとく、そういう印象操作をするのはやめていただきたい」  またまた、意味不明の言論。忖度とは、相手の気持ちを推し量ること、そんなこと、誰がどうやって証明できるの。担当の役人が忖度したと言えばそうかもしれない。事実がないと言い張ること自体が既に自己矛盾です。  印象操作とは、見慣れない表現ですが、次のような定義があるそうです。文章表現上の工夫で、断定的な口調で自己の判断を提示し、それがあたかも「一般的」であるかのような印象を読み手に与える手法。断定的な口調で自らの主張を示す。

最近流行している言葉

リア充

リア充(リアじゅう)は、リアル(現実)の生活が充実している人物を指す言葉で、2ちゃんねる発祥のインターネットスラングだそうだ。リアルでない生活が充実している人物なんていうのがあるのかね。当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だったらしい。当時は友達が1人でもいればリア充とされた。その後、このニュアンスは、従来のネット文化に染まっていない、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していく。また、学生の場合は、容姿・部活(スポーツ)・学業の面で総合的に優れている者や、恋愛面において彼女がいる・女生徒と頻繁に出掛ける等も、そのような要素・経験が皆無な者と区別してリア充と呼称されるらしい。昔風の普通の人が一番リア充なんですかね。
他にも、ソロ充=インターネット上のスラングの一つで、1人でも生活を楽しめる人を指す。他人を気にせず趣味や仕事、食事などに打ち込むことができる人のことで、同じような意味の言葉に「おひとりさま」など。一方、キョロ充=他人の目を気にしつつも、自分の学生生活がリア充であることや、行動を共にするグループの一員であることを確認せずにはいられない人、年配者にはよく分からない世界だね。
リア王リア王なら知ってるけど!
そもそもリア充ってなんだ。少し分かりやすい説明をネットで見つけた。勝手に引用させてもらう。
タイトルは「リア充におびえる女子の本音」
“中学生「小学生の頃は良かった」。 高校生「中学の頃は良かった」。大学生「高校の頃は良かった」。社会人「学生の頃は良かった」。退職後「働いてた頃は良かった」。 いい加減気づけよ、今が一番楽しいって事に。
――私たちはしばしば過去の自分と今の自分を比較し、「あの頃は楽しかった…」なんて言いがちです。でもよく考えてみると、それってその時その時が一番楽しいってことでは?そんなことを気づかせてくれる素敵な文章ですね。
近頃私たちは、この「その時その時を楽しむ」という意識を忘れがちです。ではなぜ、この感覚が薄れてきてしまっているのでしょうか。「昔は良かった…」となげくだけならともかく、今の自分の日々がなんとなく充実していないかのように感じてしまう。これは単なる懐古主義や、思い出補正という言葉では片付けられません。では本当の原因はなんなのか。それはずばり、“リア充”です。
  もうすっかり定着しつつある“リア充”という言葉。このなんともあいまいな「リアルが充実している人」という言葉を聞いた時、私たちはどんな人物を思い浮かべるでしょう。交友関係が広くて、素敵な恋人もいて、日々何かに打ち込んでいて人生をエンジョイしている…なんてイメージが思い浮かぶと思います。 ではこのリア充という言葉を使うのはどんな時か。
「あの子はリア充だからいいよねー」「私はリア充じゃないから……」 
私たちがこの“リア充”について言及する時、多くの場合リア充と自分自身とを比較するような文脈で使っていませんか?逆に「私こそがリア充だ!」と声高に主張するような人はいないですよね。 
私たちが日常を省みるとき、自分よりワンランク上の存在=リア充を勝手に想定してしまっているのではないでしょうか。
「仕事はやりがいもあるし楽しい……けれど、恋人がいないから私はリア充じゃない」
「大切な友達は何人かいる……けど、コミュニティが広くないから私は非リアだ」 
この実体のないリア充と自分とを比べ、あたかも自分たちの日常は充実していないかのように感じてしまう。それって日々を過ごす上でとてももったいないことですよね。 
自分にないものを持っている人物を見れば、劣等感を抱いてしまうのも仕方のないことです。しかしその相手もまた、本人にしかわからないような悩みを抱えているはず。こんな人の人生は充実している(あるいはしていない)なんてことは決められていないのだから、幻のリア充と自分とを比べる必要なんてないのです。  そして冒頭で述べた通り、この“リア充”は、他人とは限りません。過去の自分と現在の自分を比べ、「あの頃は楽しかった…」と感じてしまうこともあるはず。過去の思い出を懐かしむということは、もちろん悪いことではありません。しかし思い出に引きずられるあまり、今の自分の幸せを見失ってしまうのはとても悲しいことですよね。
  他人に捕らわれず、自分の日常を受け入れ、日々楽しむ。それこそが真のリア充の姿ではないでしょうか。そうした気持ちこそが新しい出会いを受け入れることにつながり、そうすれば、愛情やパートナーにも恵まれ、結果的にいわゆる「リア充」になることができるのです。
  表面的なリア充を手放すことこそが、真のリア充につながる。一見難しいけれど、簡単なこと。ぜひがんばってみてください! (五百田達成2015.1)

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ヒール

ヒールとは
最近NHKの歴史の番組「知恵泉」という番組で、歴史の悪役と言う意味で「ヒール」という言葉が使われていた。タイトルにも出ているので相当使われている用語がと思いきやそうでもないようだ。 ブッチャー もともとは米国のプロレスの番組で、色々なタイプの悪役のことを”heel”と呼んでいたらしい。一方の善玉・正統派の方を”babyface”と対立する言葉のようだ。北米圏では本来の意味で使われていたのが、日本ではマスコミを中心にもう少し広い意味で使われているようです。日本のプロレスでは、もともとは善玉と悪玉と2分法で、使い分けていたのが、実際はチョイ悪だけと憎めないキャラとかがいて、むしろ誉め言葉として使われている場合すらありそうだ。
昔の勧善懲悪型の歴史感では、登場人物を善玉と悪玉に分けたがる傾向があるが、実際には悪玉側にもそれなりの言い分はある。それらを学べば今までの価値観が変わって来る可能性すらある。「ヒール」という言葉、チョット分かりにくい気がするが、
(2019年1月31日記)

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親権とは

親権とは神権か、真剣に考えてみよう。
栗原さん 千葉県野田市立小4年の栗原心愛(みあ)さん(10歳)が2019年1月24日、深夜に自宅浴室で父親・栗原勇一郎容疑者(41歳)に虐待の結果殺害された事件が生じた。母親のなぎさ容疑者(32歳)も共犯の疑いがある。母親は、父親からDVを受けていたとされている。加えて心愛さんが「父からの暴力」を訴えた校内アンケートの回答のコピーを市教委が父親に渡していたことが判明。子供を守る立場の教育関係者までが虐待に加担していたことも大きな問題だ。子供を守ることが出来る周囲の大人たちがそろって父親の見方をして虐待に加担していることもこの事件の異常性の一つだ。
船戸さん 船戸さん 昨年(2018年)3月にも、東京・目黒区で船戸結愛ちゃん(当時5歳)が虐待で亡くなった事件との共通点の多さも指摘されている。さすがにこれら一連の事件は、世界中から注目を浴びており、子供の人権を守る意識の低さがユネスコなどからも忠告されるようになっている。日本の法制度に問題があることは明かだ。


橋本さん 今年(2019年)3月には、横浜市の橋本佳歩容疑者と交際相手の田中聡容疑者は背中から腰にかけて全治3か月のやけどをしている3歳の長女を病院に連れて行かず、自宅に放置した疑いで逮捕され。原因は熱湯のシャワーを母親が服の上からかけたとのこと。
多発する児童の虐待事件。犯人は総て実の両親。しかも罪の意識は異常なまでに希薄だ。前の2つの事件では、父親がさかんに主張するのは「自分には親権がある。」「親権の行使をしたまでだ。」彼らにとって、親権は錦の御旗。
一体親権とは何なのか。結構みんな知らないようだ。ただ、とてつもなく強い権利らしく、行政関係の人間も黙らせる力があるとか。実は、六法の中の民法に規定がある。民法に第四章親権と言う項目が出ている。基本的には明治時代に作られた規定が、現状に合わなくなってきたんだろうと思われる。どんなことが書かれているのか。
第818条【親権者】成年に達しない子は、父母の親権に服する。
最初からビックリだ。子供を育てる能力が、子供が生まれたからと言って、父母にあるはずがないだろう。本能で子育てできる動物ならいざ知らず、哺乳類(多分鳥類も)は学習しないと子育て能力は身につかないものだ。動物園で育てられたゴリラの母親、子育てできず子育て放棄、飼育員が子供を世話しないと育てられない。
母親は、自分の両親や友達、その他周囲の大人たちのアドバイスを受けながら母親になっていく。父親ならなおさら学習が大変だ。そのためには社会の仲間達とのコミュニケーション能力が重要だ。生まれたばかりの赤子は、泣いたり笑顔を見せたり、笑ったりして、仕切りの大人たちとコミュニケーションを取ろうとする。これも一種の学習だ。両親もその気持ちを忖度して適切に対応していく必要がある。
多くの父母は、不完全ながらもそこそここの能力を会得し、何とか親になれる。ところが、最近これができない父母が増えている。核家族の密室保育。「親子水入らず」の生活。本当にこれが理想なのでしょうか。子育てができない。初めはみんなそんなもの。だから周りの人達と相談しだんだん賢くなって親も育っていくんだ。
ところが、コミュニケーション能力が無い人は逆だ。子育てができないのは自分のせいではない。単に周囲の評価が間違っているんだ。密室に囲い込んで自分流に子供や妻(夫)をコントロールしようとする。既に、家庭内DVが始まっている。
親とは初めから親なのでなく、子供と一緒に学習しながら少しずつ親になっていくのだ。そう考えると、民法第818条の規定は少しヤバイ。親になれない人にまで、あんたが親から頑張りなさいと言っているようなもの。学習しなさいならいいが、親権を行使すべきだと煽っているわけだから。
コミュニケーション能力とは、親と子にとっては特に大切だ。動物には本来自分以外は敵か味方かの価値基準しかない。コミュニケーション能力の無い親は子供にとっては大変危険だ。子供は、親としての世間体を保つ道具にしかならないからだ。だから、親権者=父母と言う考えは、大変危険。危険な親には親権も一時的には放棄してもらうような対策が絶対に必要だろう。
世界的にも親権の概念に関しては、子の保護という観点から見直しが進んでいるらしい。イギリス法では従来の監護権(custody)を親責任(parental responsibility)と改めるに至っている。また、ドイツ法でも従来の親の権力(elterliche Gewalt)を親の配慮(elterliche Sorge)と改めるに至っている。日本でも、
第820条 (監護及び教育の権利義務); 親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
として、義務を強調してはいるのだが、「親だから子供のことを一番考えているはずだ」という、ウソがまかり通り、権利だけを主張するものが後を絶たないようだ。
第821条から先は、ずいぶん大きな権利が並べられている。居所の指定の権利だの懲戒の権利だのどう見ても行きすぎみたいだ。「居所の指定の権利」なんて母親が父親のDVから子供を避難させた時に父親が子供を連れ戻す口実に使われそうだ(父と母が逆のケースもあるか)。懲戒の権利も虐待の正当化に使われそうだ。
どうも、我が国は親権のついては真剣に見直す時期に来ている。憲法の改正よりも優先事項だ。今のままでは、DVの親にとっては、親権は神権みたいだからだ。
(2019年3月9日記)

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ビザなし交流の訪問団事件

 北方四島ビザなし交流の訪問団の一員として国後島を訪問した日本維新の会の丸山穂高衆院議員(35)が11日夜、滞在先の国後島古釜布(ふるかまっぷ)で元島民の男性に対し、北方領土問題について「戦争をしないとどうしようもなくないか」「(戦争をしないと)取り返せない」などと発言し、トラブルになった。 北方4島 同行記者団によると、丸山氏は11日午後8時ごろ、訪問団員との懇談中、元国後島民で訪問団長の大塚小弥太(こやた)さん(89)に「ロシアと戦争で(北方領土を)取り返すのは賛成か反対か」と語りかけた。大塚団長が「戦争なんて言葉を使いたくない」と言ったところ、丸山氏は「でも取り返せない」と反論。続いて「戦争をしないとどうしようもなくないですか」などと発言したとのこと。
この後、丸山氏は責任を取らされ維新の会を除名されたとのこと。何かこの事件スッキリしないと思いませんか。丸山氏が不適切な発言をしたと非難されているが、彼は戦争をすべしなどとは言っていないではないか。北方四島全面返還なんて日本だけの都合で発言していたら、北方領土問題は永久に解決しませんよという正論を主張しただけだろう。訪問団長の団長は元国後島民だったということなので、ビザなし渡航の団長として認められているんだろう。友好目的の訪問団の団長が、北方四島全面返還論の支持者だとすればまことに不適切な人事で、喧嘩を売りに行くようなものだ。そもそも北方四島全面返還論というものは、日本とロシアが何時までも敵対していて欲しいアメリカの陰謀だということ位は関係者なら誰でも周知の事実だ。確かに現時点での外務省の正式な見解は北方四島全面返還なのでしょう。だから日本維新の会は、党として言論統制したかったのかも。
この件に関する報道の姿勢も可笑しい。「戦争」という言葉だけをクローズアップして、どんな会話があったかも全然報道しない。このニュースを読んだだけではどこが失言なのかはさっぱり分からないだろう。まるでSNSの書き込み見たいな記事だ。

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ヘイト本

ネット社会に密かに広がっているヘイト発言が問題になっているようだ。ケント・ギルバート氏のベストセラー『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社)が中国人や韓国人への憎悪を煽る悪質なヘイト本であると非難されている。
Kent G.さん 私自身、中国語も韓国語も学んだこともあるし、彼等とも多少付き合いをしたこともあるので、ケント氏の言い分も多少とも当たっているところもあると、面白く読ませて頂いた。だけれども、一般の中国人や韓国人がベッタリと儒教浸けになっているわけでもないし、彼ら自身ある程度、儒教道徳の悪さも自覚しているものと信じている。コッソリ楽しんで読めばいい本だと思うんですが。
エスニック・ジョークと言うものがある。有名なものは食堂でウェイターが水を持って来てくれた。しかし、その中にはハエが一匹入り込んでいて、おぼれてバタバタしていた。「英国人は、勘定を払って黙って店を出る。ドイツ人はピンセットでハエを取って水を飲む。フランス人はウェイターに文句をつけて代わりの水を持ってこさせる。ロシア人は全く気にせずゴクリ。中国人はハエが溺れるの楽しみながら結局一緒に飲んでしまう。」、こんな話ウソに決まっているでしょ。でも、そこはかとなく民族性(他者から見た)が紛れ込んでいて面白いジョークとなっている。このような発言を、冗談だと取るか差別的発言をとるかは、受け手の資質にもよるだろう。
確かに韓国人は、儒教道徳に支配されている。儒教と言っても孔子や孟子の教えではなく、朱子学と言って支配者のために作られた膨大なルールブックだ。結構日常の礼儀作法にもやたらとうるさい。韓国の友人が私に尊大な態度を取っていたことがある。ところが私の方が誕生日が2~3日早く年長だと分かったとたんに手のひらを返したように丁重になる。自分の方が年上を思っていたらしい。年功序列社会なんですね。自分の父母を、うちの御父上(おちちうえ)が…と話すのも日本人から見たら変だ。当然、父が母がで敬語など使うべきでないと思うのが日本人。会社員がうちの社長殿が何て言ったら馬鹿かと思われるが、彼らはまじめにそう話す。
これも、一つの文化だから仕方がないと割り切るべきだろう。アメリカ人だって、『キリスト教に支配された悲劇の人達』かもしれないし、日本にも日本教なんてあるかも。ようは感情的な成らずに双方の意見の相違をしっかり理解しあうことが大切なのでしょう。

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