社会科学・哲学の部屋---はじめに
色々と観察し、仮説を立てて、実験などで検証する。この立場には自然科学も社会科学も区別はないと思う。なんでもやってみよう。物理、化学、地質学、生物学、経済学、社会学、宇宙、生命、数学、文学、芸術、ゴルフ理論、将棋、何でもありで行きましょう。特に最近は色々な学問の境界に属する課題が非常に面白いと思います。全体の見通しを良くするため、目次を付けてみました。興味のある話題から、別の話題に自由に飛び回って頂ければと思います。
とは言え全体のボリュームが増えてきてのでまとまりがつかなくなってきました。日常新聞にも出ているホットな社会的な話題や人生論見たいな話題はとりあえず新しいページに移した方が管理がしやすいだろうとのことで新しく立ち上げました。(2019.5.25)
最近話題が増えてしまって、新しく追加分はPartⅡをご覧下さい。(下の一覧からクリック)(2020.8.1)
経済の話…
哲学・社会学の部屋…
社会学の部屋PartⅡ…
最近流行している言葉…
技術開発のお話…
哲学・社会学の部屋
管理組合の崩壊
最近やたらと聞くマスコミ用語
管理組合の崩壊
管理組合の崩壊1 | 管理組合の崩壊2 | 管理組合の崩壊3 |
大規模修繕工事とは一体何? |
町内会の社会学
町内会の活動については、少子化が進み、団塊の世代が退職して在宅する等社会の変化に対応して各地で色々な問題が発生しているらしい。私の住んでいる志木ニュータウンを例として今後の町内会のあり方について考察をしてみたい。
志木ニュータウンは、某ゼネコンが開発した大規模団地でかれこれ40年近くの年月が経過しています。ニュータウン全体は、いくつかのサブエリアに分割されます。筆者が住んでいるのは、中央の森弐番街。ここにも、当初から町内会が設置されていて、筆者も過去2回役員を引き受けたことがあります。町内会の結成には、行政の指導もあったのかもしれません。また、ニュータウン全体として連合町内会がもたれており、各町内会の代表が出席が役員として出席することになっています。町内会の会則は、戦時中の町内会がいわゆる大政翼賛会等に変身して自ら戦争に協力して、結果として我が国国民に多大の辛苦を与えたことの反省からか、非常に民主主義の理念に基づいていて大変うまくまとめられています。それは、町内会会則に極めて要領良く簡潔にまとめられています。
まず、最高意思決定機関として総会が位置づけられています。実際には、町内会員すべてが集まることは不可能ですから、マンションのいくつかの棟毎に役員が選ばれて、役員会が実際の執行機関になる訳です。役員の互選で会長が選ばれますが、過半数の賛成で議事が決定されることになります。役員会で決まったことをもとに会員の協力のもとにいろいろな事柄が実施されていくわけです。役員は一年交代で、総会で次の役員と交代となります。総会も会員が皆集まることはできませんし、議決権のある委任状をもって出席したものと見做すとしています。もちろん大多数の会員は委任状出席となります。会則では、総会は会員の1/2以上の参加をもって成立し、議案(事前に委任状に添付)は、出席者の2/3以上で可決することになっています。議案の中身は、1.前年度の実施事項、2.前年度の会計報告及び監査結果、3.次年度の予算案、4.役員の交代の4項目で、これら4項目を承認するというものです。要するに町内会費を払っている会員が、とりあえずご苦労様でしたと言っているようなものです。済んでしまったことですから、よほどのことが無い限り、議案が承認されるのは当然です。というよりも、出席者(委任状による出席を含む)が過半数あれば、承認されるように既に会則で決められているようです。議案の承認がされれば、役員交代ですから、新役員により総会が開始されることになります。前年度に出された、問題点や課題はここで整理されて、新役員に対する宿題となる訳です。
筆者が、最初に役員になった時は、総会ではほとんど意見も出ないので5~10分程度で終わったように記憶しています。しかし、2回目の役員になった時の最初の総会ではビックリ仰天の世界があった。まず、旧役員の司会者が総会成立を宣言、と言うことは、議案承認は決定事項のはず。ところが、ここで司会者はこれから議案の審議をすると宣言。議案とは言ってもすべては決定済みのことの事後承認でしょう。しかも、そこに実際に出席しているのは新旧役員とごくわずかな一般会員だ。大部分の会員は委任状による出席。更に議案は配布前に十分審議されているはず。審議などしていいはずはない(この点に関しては南の森弐番街の会長も審議は絶対不可だと言っている。)。各議案を長々と読み上げた後、挙手による採決。ゆっくり念入りに人数を数えて、さらに委任状の数を合計して議案は可決としていた。これ全くのインチキ審議でしょう。後は新役員の自己紹介をして、総会は終了となった。この間、しゃべるのはほとんど司会者のみ。会場は、皆押し黙って、妙な雰囲気で、まるで北朝鮮の町内会か戦争中の大政翼賛会かと見間違えるほどである。
いったいどうして、このような変質が起こったのであろうか。現在このような総会スタイルは、マニュアル化までされていて、役員交代の際にガッチリと引き継がれているようだ。また、会長候補は前年度役員の中から出来レースで選ばれることも常態化してきている。まず、説明の必要の全くない、前年度の実績をあたかも総会の議題のように見せかけ(騙される人も多い)時間をかける真の目的は、会員の自由な意見を封じ込めるためであることは明らかだ。しかしながら、町内会の会長になる人物なら会則を守り、民主的に会を運営するべくモラルを備えているべきであろう。また、会員も会則に違反していると感じたなら、はっきり言うべきであろう。組織全体がモラルハザードに陥っている。
志木ニュータウンもはじめの頃は、入居者はほとんどがサラリーマン。休日を返上しなければならない町内会は、できれば遠慮したい代物。もっとはっきり言って、町内会なんて本当に必要なのでしょうか。マンションの管理組合が必要なのは分かりますが。役員は回り持ちなので一度やるとしばらくは回ってこないのでふだんはあまり関心がないのは当然かもしれませんね。役員会も何をやるのか困ったみたい。志木市から町内会対抗の運動会の案内があれば、参加しようとのことになりますが、結局出席するのは役員ばかり、結局後には運動会への参加は消滅している。
町内会の会員は、典型的なサラリーマン層で、平日は会社人間、土日はゆっくり家サービス、町内会の必要性はほとんど感じてないはずです。ところが、いったん役員、特に会長、副会長等に選ばれると、サラリーマンの習性で、何が何でも頑張ろうとするものが多数現われてくる。町内会の祭り、連合町内会の祭り(これは横並び体質から無碍には断りにくい)、防災訓練、防犯パトロール、その他市主催の行事等、だんだんと業務が増えてきている。さらにこれらの業務がマニュアル化して、役員の引継ぎを通して、前年度の実施事項は次年度の最小限のノルマのように変化していく。このようにして、役員会は会長を中心とした、業務遂行型の組織に変わっていき、会長は、リーダーとして先頭に立って黙々と汗をかいて他の役員を多少強引に引張って行ける人材が求められるようになってくる。役員も黙って、言われたことをしている方が楽で、一度役員をやればしばらくは町内会は無縁のものとなる。
さて、志木ニュータウンも他の団地と同様、段階の世代が退職し、地域のいる時間が長くなってくと、町内会のあり方が変わってくる。また、地域の活性化なども本気で考える人も増えてくる。従って、町内会のあり方も変わってくるのが必然で、会員の親睦団体という町内会本来の役割が最重要になって来る。毎年マンネリ化している祭りなど必要か。NGOやNPO等の団体が企画すれば、ずっと気の利いたものを実施してくれる。なければ会員の有志を募れば済む話だ。防犯パトロールや防災訓練だって役員会の下部組織として常設の組織を立ち上げれば良い。町内会の役員会にはもっと重要な役割があるはずである。多くの役員経験者達は、マニュアル業務だけをやらされて失望していると思う。このようにしてみると、会則を無視してまで、総会での発言を阻止したい役員会の会長を含めた執行部の意向は分かってくる。一般の会員、役員と会長等の考えがずれて来ているのだ。会長は、今までのやり方で滞りなくやりたいのだが、会員のほうは、色々な意見を持っていて、まとめることは大変、もっともっと議論を深めて生きたい。一方会長側は今まで積み重ねてきた業務遂行の時間を奪われてしまうのは我慢できない。一種の既得権益だからそれを無視するような意見は聞きたくない。一般の役員の方はつべこべ言わずにマニュアル通りに業務を実施してくれるだけで良い。
さて、それでは今後どうすれば良いのか。会長側は既に耳栓をした状態ですので、現状を継続していれば、会員の不満は蓄積されて行くでしょう。このままでは、会員数は減少し、崩壊に向かうでしょう。町内会はもともと会員が無関心でやることを探している段階から始まったのですからまずは初心に帰り、できるだけ何もしない。できるだけ、専門委員会を設置し、会員の自主性を重んじて身軽になるのが第一でしょう。それと、会則無視は絶対に許されない。今の総会は総会とは言えません。総会での議案の承認は10分以内で終了する結果発表ですから、後は新役員による自由討論で会員の意見を取り入れていくことです。例え総会の席で一般会員から意見が出ないとしても、それは今まで聞く努力をしていなかった報いもあります。新旧役員が知恵を絞って、今後の問題を話し合うべきです。それと、役員とその他会員との日ごろの接触も大切だと思います。個々の役員は,たとえ持回りで選ばれたとしてもそのエリアの代表であるという前提は変わりません。民主的な運営はまずは、会則の理念にのっとり決められたルールを守ることからはじまるはずです。
管理組合の崩壊1
実は続出「マンション管理会社が突然撤退」の怖-管理組合と「立場逆転」、大きな転換期に(2021/11/08 4:30;梅咲 恵司 : 東洋経済 記者)
「明日から清掃やゴミ出しの管理はどうすればいいのか」
東京都渋谷区のマンションで理事長を務める男性は途方に暮れた。独立系の管理会社が、9月末をもって突然撤退したためだ。
管理会社は契約上、撤退の3カ月前までに管理組合に通告する必要がある。理事長の元に管理会社の担当者からメールが送られてきたのは、きっかり3カ月前にあたる6月末だった。
管理会社は契約上、撤退の3カ月前までに管理組合に通告する必要がある。理事長の元に管理会社の担当者からメールが送られてきたのは、きっかり3カ月前にあたる6月末だった。
この管理会社には20年前から管理を委託していたが、委託費は当時の安い料金で据え置かれたまま。「早く手を引きたかったのだろう」と男性。急いで後継の管理会社を探し、10月下旬に地場企業への委託が決まった。
管理会社からの「三行半」が続出
今やマンション管理組合と管理会社の立場は逆転した。
これまでは管理組合が管理会社を選ぶ側にあった。「お前たちの代わりなんて、いくらでもいる」。管理会社に捨てぜりふを吐いて、リプレース(管理会社の変更)を実施した管理組合もかつてはあった。
だが現在は、管理会社が管理組合に「三行半(みくだりはん)」をつきつけるケースが続出している。
三行半の背景には、管理会社側の厳しい経営状況がある。これまでは委託費を安く提案し、管理戸数の獲得に邁進してきた。管理を担えば修繕工事など派生する仕事の受注も見込めるためだ。ただ、ここ数年、人件費や資材費の上昇で管理会社の安値攻勢は限界を迎えた。大手管理会社の幹部は「社員の人手が不足しているため、管理戸数を伸ばすよりも、採算の取れる物件を厳選して受託している」と話す。
実はこの話は他人ごとではない。私たちの住んでいる志木ニュータウンでも同じ問題が起こりそうである。当の管理組合の理事たちが修繕工事を、
「管理会社の見積もりは割高だ、騙されないように自分達で業者を選んで自分達で歩行時の発注をするべきだ」
実際トンデモ論が蔓延して、現実に昨年の大規模修繕では彼らの望む業者に工事をやらせることに成功している。そのためには臨時の勉強会も何度もやったらしい。
騙されているのは管理組合の理事達の方で、これはよくある振り込め詐欺と同じ手口だ。
管理組合が管理会社に「三行半(みくだりはん)」を突きつけれる事態になったら大事である。新しい管理会社探そうとしても今より遥かに悪い条件でしか引き受けてはくれないでしょう。つまり「自分達で」は管理組合としては自殺行為に過ぎない。
管理組合の崩壊2
管理組合崩壊、マンションの“軍艦島化”が始まる?(中川 寛子)
多くの方はご存知だろう。長崎に軍艦島という世界遺産になっている島がある。明治時代から昭和にかけて海底炭鉱によって栄えた島だが、1974年(昭和49年)の閉山に伴い、無人島に。大正5年以降に建てられた日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパート群が崩壊しつつも現存しており、数々の映画、ドラマなどにも登場している。建設された当初は世界最高レベルの集合住宅団地を自負していたものだったが。
さて、軍艦島は日常生活から離れた海上にあり、歴史的な経緯もあるから世界遺産であり、多くの人が訪れるわけだが、それが我が家の隣にあったらどうだろう。ほとんどの人が迷惑だと思う。だが、今、都心などのマンションでは水面下でマンションの崩壊、軍艦島化が始まっている。
【古いマンションでは住民の高齢化が崩壊の要因】
最初に話を聞いたのはマンションの大規模修繕などを手掛ける友人からである。その時彼は築40年、建物外観、共用部だけを見れば手入れの行き届いた、都内の大規模マンションの排水管更新工事を手がけていた。本来、大規模修繕は共用部が対象だが、築年数が30年以上にもなると専有部にも立ち入らざるを得ないケースが出てくる。
そこで立ち入った住戸で彼は衝撃的な光景を目にする。
「300戸ほどのマンションでここ2年弱に3件の孤独死があっただけでなく、単独居住の高齢者が多く、そうした部屋は孤独死のあった部屋よりも荒れた状態。土足のまま、お邪魔すると、人が住んでいるとは思えないほどゴミだらけで、また、住んでいる人も孤独死予備軍といってもいいような、生きる気力を感じない状況でした」。
しかも、管理組合にはそこに住んでいるのが元からの居住者なのか、相続後に賃貸された部屋に住んでいる賃借人なのかも分からない状態である。管理組合で作っている名簿は義務ではなく、中には個人情報だから出したくないという人もいる。名簿を作る段階から不明が多いわけで、さらにその後、そうした人が亡くなり、相続で所有者が変わっても、それを管理組合に届ける義務もない。すると、管理組合では住んでいる人が誰で、所有者が誰なのかが分からない状態が発生してしまう。空室が出ても、その所有者が分からなくなってしまうのである。
さらに同物件では高齢化が進展。介護者同伴や車いす出席なども含め、彼が担当した工事を議題とする臨時総会は有効議決権数ぎりぎり半分を確保、実施に漕ぎつけたが、今後、大規模修繕、建替えなどの決議は難しくなっていくことが想定される。
「認知症が入りつつある人もおり、総会の通知を誰に出したら良いか分からない部屋もある。このままでは、いずれ総会の成立自体が危うくなってくるのではないかと危惧しています」。
実際、他の管理組合関係者からはある日突然、管理費、修繕積立金を払わなくなった住民の話を聞いたことがある。しかも、それを伝えると、自分はちゃんと払ったと主張。おそらく認知症が進行した状態なのだろう、らちが明かないという。こういう人が増えていくと管理組合の機能はどんどん失われていってしまう。
管理組合はマンションの意思決定機関(管理業務の実施機関ではない)である。そして、総会は定数(マンション標準管理規約では議決権総数の半数以上)が集まらなければ開催できないし、たとえば大規模修繕には内容にもよるが、過半数以上など、一定数の賛成が必要である。
空室増、認知症の住民の増加などによってその管理組合が機能しなくなると、意思は決定できなくなる。なんとかしたいと思う人がいたとしても、現状では打つ手はない。その状況を嫌って出ていく人が出はじめると、荒れるに任せるしかなく、その後に待つものは軍艦島化しかない。
こうした事態を避けるためには中古マンション購入時は「管理組合+管理会社」がきちんと機能しているかどうかをきちんと調べておくべきだろう。管理費、修繕積立金の滞納状況などを気にするのはもちろん、活動そのものの把握も大事である。
管理組合の崩壊3
新築マンションでは外国人所有者増が不安材料
新築マンションには違うタイプの不安がある。あらかじめ、将来の火種が仕込まれているマンションが増えているのである。その火種とは外国人所有者である。
*この問題は新築に限らないのではないか?
少し前に元々は大手デベロッパー勤務、現在は講演、執筆などを行っている『空き家問題 ~1000万戸の衝撃』(祥伝社新書)著者の牧野知弘氏の講演を聞く機会があった。氏によると都心、湾岸のタワーマンションでは外国人購入者が増加しており、ある物件では中国人所有者が半数にも及んでいるという。となると、管理組合の通知を何語で出すか、総会の公用語を何にするかという問題が出てくる。翻訳が必要だとすると、その費用を誰が出すかという問題もあろう。
それにそもそも、住宅を巡る法律、常識は国によって大きく異なる。たとえば、日本では毎月、修繕積立金を払うという方法に違和感を覚える人は少ないだろうが、修繕積立金は修繕以前に退去しても返還されない。だとしたら、積立は損、それよりも必要な時にまとめて必要額を払えばいいじゃないかと考えるお国柄もある。
よほどに壊れない限り、修繕など不要、荒れていても気にしないという感覚が一般的な国もあれば、建替え、容積率などといった概念がない国もある。普通に日本人だけが住んでいてもなかなかまとまらない協議に法律、常識の違う人が混じるとなれば、さらに大変になることは考えなくても分かる。
それでもまだ、住み続けていれば、交渉の余地はある。だが、もし、購入者が海外に転出、さらにそこから引っ越しとなったら連絡をつけることすらできない可能性が出てくる。とすると、中古マンション同様に管理組合の機能停止の危険もありうる。
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この問題は外国人を責めても埒は開かない。これで外国人の入居を拒否する管理組合が出て来れば、外国人差別となりかねない。管理費、修繕積立金の仕組みが彼らには理不尽で全く理解できない。翻訳が必要だなどは単なる言い訳にしかならない。彼らから管理費を徴収するなら、翻訳ぐらいのサービスをするのは管理組合の義務ではなかろうか。そんなことできない。当然である。これはそもそも管理会社の責任で、管理組合とは単に住民の意思決定機関に過ぎない。管理会社に適切な費用を支払い人材を派遣してもらえばよほど特殊な言語で無ければ何とでも対応できるはずだ。
マンションの維持管理は販売時点では、普通は専門の管理会社が決まっていて、購入者はその管理能力も考慮して購入を決める訳だ。それを管理組合が何でも自分達でやろうなんて言う全く不可能な理想を掲げて、窮地に陥っているだけだろう。管理組合が杜撰な運営をしているマンションなんて危なくて購入することもできない。
普通に日本人だけが住んでいてもなかなかまとまらない協議に法律、常識の違う人が混じるとなれば、さらに大変になることは考えなくても分かる。つまり、案件が理不尽だということ。しかし、日本人だけが住んでいてもなかなかまとまらない協議なら、外国人の多様な意見を取り入れた方が良い結果が出るだろう。日本の管理組合は多少無理難題とは思っても、リーダ、例えば理事長などの意見に右へ並へで盲従してしまう欠点がある。つまり、決定事項が組合員の意志を代弁していないことが多い。
これからは、人口減少社会となり労働力としても外国人が増加することは必至だ。
大規模修繕工事とは一体何?
昨年、我が団地で大規模修繕工事が行なわれた。ほぼ一年近く、仮設の足場と黒いメッシュのカバーに覆われた建物の中で何となく穴倉暮らしをさせれられた住民の方々、よく我慢しましたね。その結果、どれだけ住みやすくなったんでしょうか?
つまり、費用対効果の問題だ。仮設の足場がどうしても必要な工事は外壁の塗装位の(特殊な塗装としても)もの。階段部やベランダの塗装は仮設のビティ足場全く必要ない。外壁の塗装が大規模修繕何でしょうか。この度は、工事が長期でもあったため、ゆっくりと現場の作業状況を見学することもできた。作業員の大部分は鳶職人と言われる高所作業の専門家達(今回の工事の主役)。後は周りの安全パトロール要員。こちらは高齢者も多い。一方の本工事の塗装職人は数えるほどしかいない。そもそも工期がやたら長いの少人数で端からゆっくりと仕事していけば何の問題も無い。黒いメッシュのカバーで目隠しをしているから、その裏ではどんな工事が行われているか見えない。
仮設工事費用/外壁塗装費用は計算するまでも無く、途方もなく大きくなる(無限大に近づく)。まず、普通の建設技術者として、このような非効率な計画はあり得ないと判断できそうだ。外壁塗装がマンション維持管理上クリティカル(不可欠)の工事だという意見もあるかも知れない。しかし、外壁塗装は足場を組んで行わなければならない工事だろうか。
我が団地では、高層(14階)、中層(8階)、低層(5階の)で全8棟を一斉に同時施工で実施した。足場の組み立て→カバー→本工事(塗装)→足場の解体撤去のサイクルは分割して行えば足場材の賃料や人件費も大幅に節約でき、住民の我慢も最小限に済ませられたはずだ。でも、これでは大規模工事にならないか。
14階の足場工事は確かに大規模だ。仮設である以上、地震や大風対策も万全を期すことは困難だろう。超高層ビルならこのような足場工事は全く不可能だ。逆に言えば工事会社にとってはとてもやりがいのある工事とも言えそう。
一方、外壁の塗装工事のニーズはどこから発生して来たのか。建築や土木のコンクリート面を塗装した場合の耐久性については従来から研究があるようだが、際立って耐久性が向上するというデータはない。せっかく綺麗に仕上げたコンクリート面にペンキを塗るなどコンクリート技術者にとっては冒涜行為でしかない。多少は見栄えが良くなるか、いや何だかケバケバしくかえって品格が無くなる?
大規模修繕工事と言う以上、何か修繕すべきものがあっての工事であり、工事のために修繕か所を造る(でっち上げる)ものであってはならないはずだが。以前の大規模修繕ではコンクリートの劣化診断が主な作業内容だったとか。東京オリンピック(一回目の)当時の建設ラッシュ時に、一部の業者が質の悪いコンクリートを混入させたりして、建物の劣化が予想以上に速い例が各地で見られたためでもある。大規模修繕工事と言うより品質保証のための確認点検だ。
では、今回の大規模修繕は何をやるのか? はっきり言って何もない。でも、大規模足場工事はやりたい。何故やりたいのでしょうか?
普通に考えれば、管理会社のためだったはずだ。高度成長期には管理会社は需要拡大を見越し管理費を安値で請け負い、儲からない体質になっている。工事をやることで工事管理費を稼ごうという動きになることは理解できる。しかし、管理会社と管理組合は共存共栄に関係にある。必要もない工事をやりたくないのは管理組合と同じだ。
でも、今回管理組合側は、わざわざ管理会社を外して、管理組合自体が管理会社に変身して、業者の入札を行い見積もり取って業者の選定まで行ったそうだ。管理組合の役員達は毎日勉強会で大変な労力を費やしたらしい。6社から見積書を取り寄せ最安値の業者を選んだとか。入札なんて管理組合の役員達ができると考えているんでしょうか。最安の会社が最も良い工事ができるなんてそんな保証何処にもないではないか。業者の談合をどうやって見破れると考えているんでしょう。
今回の大規模?修繕工事は、8棟の足場の同時組立て、同時解体の条件が付いていたようだ。つまり、実際の工事を担当するのは足場工事を担当する専門業者でそのコストは鳶の人件費と足場材のリース、運搬費用がほとんどだ。だから我々の管理会社が管理を担当しても、別の業者を選定しても本質的には工事の性質は何も変わらない。つまり管理会社の見積もりが最も高かったというのは、管理会社の見積もりが正統なもので、もし高いと感じたら(高いと感じる根拠は?)、大規模修繕工事を止めるという選択肢が大正解だった訳です。そもそも入札時に見積もりを入れた会社が談合していたかどうかなんて、把握できる道理もない。というよりも、管理組合の役員達の誰かが談合に加担していたということだろう。
実は、この大規模修繕工事はお隣の管理組合も時期を少しずらして行うことが前もって分かっていたようだ。だから偶然?同じ業者に発注したのだ。お隣の管理組合も管理会社に変身して独自入札を実施したようだ。当団地で解体した足場はそのまま横移動してお隣さんの足場の組み立てに利用。お隣さんでは住民の拘束期間も随分と短縮された。つまり、業者側は大幅なコストダウンに成功した訳です。つまり相当儲けた言うこと。だって、解体した足場は一旦リース会社に返却し、又数量を計算して現場に運搬しないといけないのに、その作業を取り払うことができるから。当団地の拘束期間が長かったのは、お隣さんとの時間調整のためだったようです。そのために、足場が不要な階段部などの塗装工事を頻繁に行ったりしていたようだ。
更には、同時に工事した窓のアルミサッシの交換工事。窓を二重ガラスに改善。でも、これは今回の大規模修繕とはまったく別個の工事だ。もちろんお隣の地区ではやらない。この工事には高層のビティ足場は全く不要。各家庭へのガラス窓の搬入は各戸の玄関を通して行っており、足場は全く使っていない。確かに住環境は改善されたかもしてないが、そのためにかかった費用も馬鹿にはならないだろう。単独の工事として実施の賛否を問えば、必ずしも多数の賛成を得られるとは限らなかったでしょう。修繕積立金はやはり地震などの予期せぬ災害のため、できるだけ費用を惜しむべきと言う立場は無視できない。
では、何故管理組合がここまでして、大規模修繕をやらねばならなかったのでしょうか。組合内に長期修繕計画とやらの文書が保管されていて、ちょうど修繕の年に相当しているとの言い訳もあった。一体誰が何のために長期修繕計画なんてものを拵えたんでしょうか。「大規模修繕は建物の維持管理のために不可欠で絶対にやるべし!!」
マンションの購入時には、「当マンションは、管理会社がしっかり管理しており定期的な大規模修繕も行います。また、管理組合も存在しています。」ぐらいの歌い文句はあったかもしれない。しかし、必要もない大規模修繕を定期的に行う必要は無いだろう。そもそも何を修繕するか、せいぜい外壁のペンキ塗りが精々だ。
今回の大規模修繕は、住民には実施の可否は問われていない。実施が前提で説明会がいきなり行われたわけです。後は委任状で賛成多数。
今後は、理事会の理事の方、住民(理事の経験者も多い)もおそらく、今後はこのような大規模修繕を行おうとすることは無いでしょう。今後は人件費や工事費はどんどん高騰していくようだ。管理会社の管理費値上げも避けられない。管理組合は予算を握っているので無駄な工事をやめさせることは可能だ。しかし、マンションの日常管理には管理会社は不可欠で、重要なパートナーである。管理会社を敵視して、新しく別の管理会社を探そうとしても、今の時代ほぼ不可能。足元を見られて食い物にされてしまうのが落ちである。つまり管理組合崩壊の序曲と言うことだ。
哲学の復権
最近、本屋さんで哲学関係の本の売れ行きが良い。哲学なんて「人生如何に生きるべきか。」等アーでもないコーでもないと七面倒な屁理屈を並べ立てて役にも立たないことばかりやっていると思っている方も多いのに。でも、哲学とは何なのでしょうか。何のために必要なのでしょう。多分必要だったので発達してきたのでしょう。
人の先祖達は、どうしていたのでしょう。最初の人類たちは、狩猟採集生活の中で生き延びていくために集団で協力して知恵を絞ってきたのでしょう。野生の動物達に混じって人間は一人で生きていくことは大変困難だったと思います。集団と言っても家族が中心です。高等な哺乳類は生活の知恵を親から教わって身に着けて行きます。特にお年寄りは知恵を代々伝えていく重要な役割が与えられています。そのうち集団が大きくなると語り部等の専門の学者集団も現れてきます。また、人間は他の動物や自然からも色々なことを学んだのでしょう。だから、野生の動物達は皆仲間で一種の神様として尊敬されます。自然まで共同体の一員として尊敬を集めていたのでしょう。人は、何のために生きるのか。共同体につくし、子孫を繁栄させるため。立派な哲学を持っているのだと思います。
農業を始めるようになると事情は変わってきます。最初は住居の周りに果物、野菜の種をまく程度でしたが、イネ科の植物(小麦、米)を育てるようになって農業が大規模単一栽培に代わってきます。森や草地には火をつけられ土地がどんどん囲い込まれていきます。狩猟民族は、野生の動物達を狩り尽くしたりはしません。子供を持った母親は肉食獣でも逃がしてやるようにするでしょう。同じ共同体の仲間と言う意識があるからです。しかし、この時代になると共同体の質が変化して来ます。共同体は囲まれた田畑とその中の住人だけになってしまいます。野生の生き物達は田畑を荒らす外敵として駆除されていきます。共同体の内側の味方と外の敵が明確に2分されてきます。昨日までの仲間の隣人集団も水や資源をめぐって敵対するようになります。
また、リーダの出現とリーダに従う多数のフォローアの分離が進んできます。リーダとその取り巻き達は支配のための虚構を紡ぎだし、宗教が発達して来ます。フォローア達はリーダに盲目的に従うことが美徳とされるようになります。始めは村落規模でしたが互いに競い合ううちに王国と言える規模にまで成長していきます。
都市が発達してくると、色々な職業分化が起こってきます。都市の住民は周辺の農民から農作物を買う代わりに、農作業の道具等や通商を通して手に入れた金属器のような貴重なものも得るようになります。都市の特徴は、職業選択の自由があることです。知識があれば医者や弁護士(法律相談)、家庭教師。場合によっては乞食のような生活だって可能です。
自由があるということは、人は自分の責任で生き方を考えることになり、哲学が生まれてきます。特に古代ギリシャでは哲学が生まれます。そのうちに、ソフィストと呼ばれる弁論術を教える人達が現れ、その行き過ぎた詭弁術を批判し、正しい議論の進め方を提案し推し進めようとした哲人がソクラテスです。互いに推論を出し合い議論によって合意形成していこうとするすぐれた方法で、今でも西欧では議論の基本とされています。ソクラテスは著作を残していないのですが、これを発展させたのが弟子のプラトン。更にアリストテレスによって完成されます。アリストテレスは博学でなんにでも興味を持った人でしたが、本人の意図に反して中世の科学の中心となってしまいます。これを打ち破るのにガリレオなど科学者の登場が必要になって来ます。アリストテレスは、のちに大帝国を打ち立てる開明君主アレキサンダー大王の家庭教師でしたので、ギリシャ文化を世界に広める役割も果たしています。
ソクラテス→プラトン→アリストテレスはいわゆる哲学ですが、他に、自然科学の分野でも多彩な人物が現れます。この時代哲学とは学問の総て。観察して→考えて→仮説をたて→検証する。知の冒険そのものです。例えとして名前だけでも挙げれば、タレス、ピタゴラス、アルキメデス、ヒポクラテス(医学)、デモクリトス(原子論)、ユークリッド(幾何学)等々。
このような動きは、中国でも戦国時代の諸子百家、インドのウパニシャッド哲学や仏教等色々な哲学が生じています。
産業革命以降、資本主義の国々では、多数の労働者階級(サラリーマン)が現れます。農業が中心の世界では、農民は地域の共同体一員として生涯を送ります。農民はリストラで解雇されることは考えていません。ところが労働者と資本家は契約関係なので当然解雇される事態は避けられません。会社とのつながりは給料をくれる人ともらう人だけの関係です。また、多くの労働者は両親のいる土地ではなく都会で一人暮らし。結婚しても核家族となり、夫婦と子供だけの所帯が多くなっています。
さて、こうなると労働者個人としては、共同体への帰属意識はどうなってしまうのでしょうか。家族は大事ですが、家族とのつながりは給料を運んでくれるだけの存在になりかねませんね。会社が総て。これも変です。企業の業績が落ちればいつでもリストラで解雇されます。終身雇用という日本的な考えも高齢化社会では通用しないでしょう。また、労働者は労働した時間で給料をもらうわけですから、労働していない自分の時間は大変貴重です。自由な時間を得るために働いているともいえる訳ですから。自由な時間があるということは実は悩みにタネ。哲学が必要になる訳です。沢山給料をもらって、立派な家に住んで、美味しいものを食べていれば人生幸せか。まして、職を失った場合、自由な時間は沢山あるが、お金がない。パートや派遣で自給を稼いでも生活もカツカツ。何のための人生か。
年金暮らしのお年寄りも、同じように悩みがある。今の年金の仕組みは自分が働いてためた貯金ではないのだそうだ。現役の世代から徴収した掛け金から捻出していることになっているそうだ。つまり、国から生活費を恵んでもらっている乞食生活ということ。では、そこまでして生きている意味は。法的には生存権があるが、哲学的な意味で人生の充実感、満足感は。哲学が必要でしょう。
進化論について
ダーウィンの進化論。進化論は生物の進化だけでなく、社会学、経済学の裏付けとしても結構応用されて来ています。また、一部の原理主義者を除くと、たいていの人に何の疑いもなく受け入れられています。でも、実は生物の進化の原動力は、分かってないことが大変多いのです。今までの進化の概念が間違ったものであれば、今流行している経済学、社会学の根本も大幅に見直す必要が出て来ます。
「適者生存」が、いつの間にか優秀なものが生き残り、その頂点に人類がいる。社会は過去の野蛮な時代から進化して、現在の資本主義、民主主義が最も進んだ政治経済だ。資本主義はいずれ崩壊して、理想の社会主義が実現する。云々。どこかに社会は進化してより高度なものになって行くという思い込みが入り込んでいます。確かに、20世紀の科学技術の進化がこのような思想に拍車をかけたこともあるのでしょう。
でも、実際この地球上で起こってきた生物の進化の実態は。どうも、絶滅と新たな進化は紙一重。次の時代を担うのは、ごく平凡な、あるいは最も不適な生き物だった可能性すらあるのです。
可笑しな進化論
多数決原理は正しいか
法律や規則がすでにある時は、多数決で決めた結果に優先する。
独裁国家で住民投票すれば、ほぼ100%に近い票で与党が勝ちますね。マスコミも有識者も与党の味方ですから。「見えざる目と耳」が国中に張り巡らされていますから。ギリシャの民主制が成立したころ、ギリシャを視察したローマの元老院は、「多数決原理は衆愚政治」だとしてこの制度を取り入れることを断念します。実際、圧倒的なカリスマ政治家ペリクレスが失脚して以降、アテネはまとまらず凋落の一途を取ります。
フランス革命の精神、自由、平等、博愛の精神。個人の自由まで多数決で奪ってはならない。決定は平等であって、一部の人間を差別してはいけない。互いの意見や立場を尊重し合って、話し合いで落としどころを決めましょう。A案とB案が対立しているなら、A→A’→A"、 B→B’→B"となって、互いに歩み寄り、結果A" =B"となれば良し。どうしても駄目な場合は、多数決。その場合も少数意見も反映することを忘れるな。
幾つかの法律や、憲法は、将来多数の横暴によって少数派の権利が侵害されないための予防措置です。規則を変えることは単純な多数決は馴染みません。時間を掛けた議論が必要です。(2017.10.1)
道徳的代数
ベンジャミン・フランクリンはアメリカが州国建国の父、極めて多彩な才能と知恵の持ち主で、政治家にして科学者、発明家、アメリカ初の図書館や大学、消防隊を結成し、印刷業も営んでいたといわれる。次の逸話は我々にも応用可能なものでしょう。
1779年、フランクリンは甥から結婚問題について助言を求められた。その際の答えの返書が以下のものだったそうだ。
「親愛なるジョナサンへ
あまりに仕事が多いうえに、友人たちのせいでたびたび中断しなければならず、少しばかり気分が悪くて、君への返事が遅れてしまった。『中略』モンシュー氏がきみに持ってきたという結婚話については、どう助言していいかわからない。自分の判断にしたがいたまえ。迷っているなら、1枚の紙を用意し、左側の列に賛成の理由すべてを、右側の列には反対の理由をすべて書き出すといい。二、三日よく考えた後、代数の問題に似た作業を実行せよ。両方の列について、どの理由や弁明が同じ重みをもつのか、たとえば、左側の理由一つと右側の理由一つ、または一つと二つ、二つと三つ…と比べて検討せよ。そして、両方の列から同等のものを消していき、どちらの列にあまりが残っているのか確認する。『中略』重要なことであるにもかかわらず、どうしていいかわからない状況に置かれたとき、私はしばしばこの《道徳的代数》を実践する。ちなみに、これを習得しないかぎり、君はずっと結婚しないままだと思う。」
この結果、甥のジョナサンはどうしたのだろうか。最後の一言がいい。結局、フランクリンは優柔不断の甥を早く結婚しなさいと暗に諭しているのだろう。他人の判断に頼ってはだめ、自分で判断しろ。
この方法は今では品質管理や製品開発の現場などでもすでによく使われている有力な手法だ。しかし、肝心な判断が重要な場面では意図的に無視されることも多い。
ロボット
ロボットという言葉を最初に使ったのは、第二次大戦中にチェコでもっとも人気のあったカレル・チャペック(1890年~1938年)だといわれています。「労働」を意味するチェコ語「robotaロボタ」(もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)から ロボット という言葉を作ったと言われてます。彼の代表作『R.U.R.』『山椒魚戦争』はSFの古典的傑作とされている。同じロシア語のРаботать(動詞の働く)もスラブ語なので同語源でしょう。ナチスドイツに文学で徹底的に戦っておりヒットラーからも敵視されていたということです。
なお、ドイツ語のArbeitもaとrを反対にするとRabeitになるので同語源という考えもあるが、日本語と英語にも「道路(douro)」と「road(道路)」など偶然に似た語もあるので単純に納得は出来ない。
山椒魚戦争
山椒魚戦争は、チェコのカレル・チャペック(1890年~1938年)という人の書いた小説。最初の本格的SF小説ということですが、当時の社会情勢を反映しており、痛烈な文明批判となっている力作です。この小説の主役の山椒魚は、インドネシアの孤島にひっそりと暮らす海生の両生類ですが、当時はこの海域はどんな生き物がいるかも分からない未知の世界だったことを考えると全くあり得ない話でもないですね。現にフローレス人という原人がフローレス島に生息していたことが最近確認されています。
ところでどうして山椒魚かというと、1726年、ドイツのショイツェルという人が、ドイツのエニンゲンにある3000万年前の地層から、オオサンショウウオの化石を発見した。しかし、彼はそれをノアの洪水で死んだ罪人の骨と考え、化石に「洪水の証拠となる哀れな人」と名付けて発表したという有名な事実があるからです。
山椒魚たちは、生息地は海中であるものの二足歩行でき、手を使って海中に都市を作っている。言語の習得能力を持っており、性格は温厚で従順。早速人類たちは商業利用を考える。その結果、旺盛な繁殖力も手伝い、世界中の海が山椒魚で一杯になってしまう。その結果山椒魚たちは新たな海を求めて人類たちに陸地を掘削することを求めるようになる。その結果、陸はどんどん消滅し……
SFという形式は、まず一つの思考モデルを作り、それをもとに色々な哲学的な思索を巡らすことが可能となります。その結果、当然と思われていた事柄が実は矛盾に満ちた非常に不安定なものであることが明らかになる訳です。
カレル・チャペックは、ロボットに関する戯曲R.U.R(ロボット)も書いています。R.U.Rは、ロッスム・ユニバーサル・ロボット社のこと。この会社が人間とそっくりなロボットを開発するところから話が始まります。ロボットは自分の意思を持たないこと、自分の子孫を増やさないことが特徴で、どんな仕事も嫌がらずに黙々と与えられた仕事をこなす優秀なロボットは当然、大ヒット商品となり瞬く間に世界中に広まります。最もニーズが多いのは軍事部門であることは当然のことか。その内どういう訳かロボットが意思を持つようになってしまいます。誰かが何らかの目的でロボットを洗脳したのかも。その結果は……
この時代資本主義の発展期で、大きな工場で働く沢山の労働者が求められた時代です。与えられた仕事を嫌がらず黙々と行うロボットのような人間が労働者の理想像でしょう。ストライキなんかやるのは共産主義者の革命家に洗脳されたできそこないのロボット以下。政府の言うことに賛成の票を入れ、マスコミの言うことを信じるロボットが大量生産される時代です。そのことがドイツやイタリアや日本で全体主義が台頭し、米国や英国も負けじと強権的な政治を強行する結果となります。ロシアももっと過激に革命による大量虐殺が断行されます。結局、ロボットや山椒魚がいなくても歴史は同じような道を歩んで彼の予想したように動いていたようです。
ローマ人の物語から
ローマ人の物語は、全15巻に及ぶ塩野七生さんの大作です。今の日本人がヨーロッパの歴史を知るには最も良くできた本ですので、愛読書にしておられる方も多いと推察できます。その中でカエサルの出て来る当たりでしたが、気になる記述がありました。
ローマ社会では、教育と医療には国は一切口を出さないという鉄則があったという所。カエサルが行ったというより過去の前例を確認したもののようです。今の日本の行政とは真逆ですね。
教育に関しては、奴隷制もありましたし、ギリシャやオリエントから優秀な人材はいくらでもいたという事情はあります。それに教育とは所詮個人の問題、学ぶための教材や人脈はいくらでも転がっているということです。また、ローマ人の性格として高尚な学問よりも実践的な知識を重んじるという性格もあったのでしょう。どうしても学びたいものはギリシャ語をマスターしギリシャ人の先生につけば自由に学べます。国家として義務教育を行う必要性は全く感じていなかったようです。
また、医療の方もこの当時ならギリシャの方がはるかに進んでいますから、これも必要なし。それに高齢化社会の老人介護なんていう問題も最後まで生じていません。
しかし、年金制度はありました。ローマの兵士は一般の市民から構成される重装歩兵部隊、後に戦略上騎兵も使われますが。兵士である間は、衣食住は国から支給され退役後にはそれに見合った年金も支払われる仕組み。一種の失業対策も兼ねていたのでしょう。
一方の日本、教育医療関係の政策は大変熱心です。老人医療の無料化や、高校無償化等旗揚げすれば国民の選挙の票は稼げます。選挙民なんてだいたいその費用がどこから捻出されるか考えることがないので、新しい政策に次々に飛びついてしまいます。つまり行政にとって教育・医療関係の事業は権益拡大の絶好のチャンスとなります。巨大官庁の厚生労働省と文部省、熾烈な覇権争いを繰り広げていますね。カエサルが戒めた理由分かりますね。行政側にとっては医療と教育、とても美味しい分野なのです。
一時、老人医療の無償化が行われたことがありました。現在でも1割負担などと働く世代とは格差がついています。その結果、病院は長蛇の列、待合室は老人たちのサロンと化し、ゴミ捨てには飲みきれない不要な薬が沢山捨てられているといった状況になりました。その結果誰が困ったか。医者は保険制度で国から報酬が出るので患者が増えてホクホク、介護施設も経営が成り立つようになり、役人たちも天下り先が増え皆、幸せ。どうせ負担は税金から。みんなで払えば怖くないです。高校無償化も変な話ですね。未だ義務教育にもなってない。明らかに個人の裁量の話。誰が費用を支払うのでしょうか。みんなで払えば怖くない。こうして国の借金は年々増え、消費税の値上げは天井知らずとなるのでしょうね。(2018.1.21)
ジャパン・アズ・ナンバーワン
著者のエズラ・ヴォーゲルは、戦後の日本経済の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価したとのこと。具体的には、まず日本の高い経済成長の基盤として、日本人の学習への意欲と読書習慣であるとしている。ヴォーゲルによれば、この当時の日本人の数学力(当時は2位、今は10位以下か)、他の科学分野についても相当上位だったという。ヴォーゲルは、この本が出た当時、日本人は他の国の人たちより英語力は明らかに劣っているが、優秀な通商産業省や大蔵省主導の経済への強烈な関与がまた日本の競争力を高めていると語っている。
さて、多くのアメリカ人、ヨーロッパ人、さらに中国やアジアの人達、この本を読んで日本の発展の秘訣を学んだのでしょうか。日本はその後、この本に書かれていることを信じて慢心したのか、土地バブルの崩壊以降どんどん生産性が低下して経済の停滞状態が続いているのはみなさんもご存じの通り。まあ、経済成長至上主義自体も検証の時期に来ているのですが。
経済成長の原動力。これは、結局人の心の問題に帰着するのでしょうか。勤勉と努力。では、何のために努力するのでしょうか。資本主義の発展の基盤を社会学者マックス・ウェーバーはキリスト教に倫理、特にプロテスタントのカルバン主義に求めました。カルバンの教えは当時のヨーロッパの手工業や新興資本家達の精神的支柱として大いに普及し資本主義発展の原動力になったと考えられています。実際、今の欧米で経済成長を遂げているイギリス、ドイツ、フランスなど。合衆国も色々な宗教の人々がいますが国を動かしている人たちはプロテスタントです。逆にイタリア、スペイン、ポルトガル、アイルランドなどカトリックの国は経済の面ではイマイチですね。ロシアに至ってはロシア正教と社会主義の洗礼をうけ、経済の運営はどうもイマイチ。
だから、キリスト教の洗礼を受けていない日本だけが、何故このように経済発展できたかは西欧の人々には非常に不思議な現象としてとらえられたのでしょう。新渡戸稲造さんあたりに言わせれば、「そんなことは不思議でない。日本には武士道という倫理規範があるではないか。」ということになるか。
敗戦後の中で、当時の官僚たちが無意識化も知れないけど、この武士道精神を利用したかのせいがあります。軍事では負けたが経済では負けない。国家への忠誠は薄れたけれど、企業への忠誠心に変えれば良い。年功序列制度は企業への忠誠心を確保するには不可欠だ。官僚機構はそのモデル。定年まで一つの組織で働くことが美徳。だから大企業優先。総てに産業を国産化することに血祭をあげる。敵からものを買うなんて。いわば、新しい戦争だ。国民はGNPの序列が上がるたびに大喝采をする。領土が増えたことと同じだからね。
企業も利益率よりもシェアーの拡大を計る。子会社や関連会社を造って領土を拡大し続ける。だいたい、年功序列制度そのものが領土の拡大なくしては存続できないネズミ講的性格のものだから。
エコノミック・アニマルの誕生です。企業戦士がもてはやされます。どうしてガムシャラに働くの。年功序列社会では、自分の食い扶持は新しい領土を確保しないと得られない仕組みです。組織の上には既に既得権を持った上司がのさばっていて定年まではやめてくれません。過労死なんていう言葉は日本だけ。年功序列社会というのは、自由に転職することが難しいからです。評価の対象は能力よりも会社への忠誠心の方が上です。いくら優秀でもいつ敵側に寝返るか分からない人材はむしろ危険です。
人間の欲望には限りがありません。日本の戦国時代でも天下が統一されてくると戦争で勝っても新しい領土が得られません。だから、秀吉は朝鮮出兵なんてやらかしたのか。工業製品も同じです。経済で新しい領土を確保する。でも、実際には古い巨大になった領土をメンテナンするだけでも大変です。新興国が安い労働力や新しい技術で進出してくれば領土はどんどん小さくなって行きます。でも、先進国にはそこに多くの労働者がいて賃金をもらっているので、彼らはどんどん貧しくなって行く。今までうまく回っていた歯車が全く逆に回り始める訳。今までの日本の成功の教訓は今後どう生かされていくのでしょうか。
【注】『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One: Lessons for America)は、社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書。ただし、本分はこの本の感想ではありませんので悪しからず。日本語版は、広中和歌子・木本彰子の訳により『ジャパン アズ ナンバーワン: アメリカへの教訓』として、英語版に1月遅れで出版。日本人自身が日本特有の経済・社会制度を再評価するきっかけとなり、70万部を超えるベストセラーとなった。著作の主要なテーマは、単に日本人の特性を美化するにとどまらず、何を学ぶべきで、何を学ぶべきでないかを示唆した点でで、実際最後の章はアメリカへのレッスンと書かれているそうです。
困窮化する若者達
現在の日本の社会は、今後この国を背負っていく若者たちに非常に住みにくい世界になって来ている。しかも、この国の年長者たちはそのことに、全く気が付かないか無関心を装っている。
まず、彼らが働く職場の現状。日本企業どこも人件費削減のため、新卒採用が厳しい状況になっている。中卒、高卒まで引張りダコだった高度成長時代とは大違い。一度派遣になると正社員への道はさらに遠くなってしまう。運良く正社員になれても、新卒1人に上司と称する人たちが数人いる。昔は部長と言えば何十人と部下がいたものだが、今では部長の下に課長が2人、平が2人なんていう状況はザラ。何年働いても、責任にある仕事は任せてもらえない。給料だってなかなか上がらない。日本の社会は、まだまだ年功序列社会。既得権優先だから。現場で汗水たらして働くものより、本社で会議ばかりしている人たちの方がはるかに高給を持って行ってしまう。その上、国の定年延長政策で、企業の高齢化はますます進んでいく。定年延長や再雇用。労働者の権利が守られるようになったのは民主主義のおかげでしょうが、その恩恵に若者たちは浴することが出来ない。例え、仕事に努力しても、老人たちは言うだろう。「まだ、だめだね。会社は俺たちがいないと回らないよ。」。高度成長時代には規模拡大、シェアー拡大がモットーの大企業は、今では、利益率優先、株主優先で縮小こそすれ、拡大する可能性ほとんどない。
正社員になれば、ハッピーかといえば、そうではない。長時間労働、最悪の場合過労死が待っている。当然だ。おみこしを担ぐ人より、ぶら下がっているものの方が多いのだから。日本の仕事の仕方は効率が悪く、労働生産性は先進国でも最低クラス。年間150日の労働時間のドイツと比べれば格段の差。いくら好景気で株価上がっても、絶対給料には反映しないね。
かといって、働き方を変えて、派遣を渡り歩いてもいいことないでしょう。日本の企業文化として、派遣はあくまでお手伝い。責任のある高度な職は見つからないでしょう。では、自分で企業を起こすか。確かに、能力のある人にはこれが一番いいでしょう。しかし、実際に成功する人はさほど多くはありません。政府の政策としては、正社員を増やすより、派遣やベンチャー企業の人達を支援していくことの方がはるかに大事だと思うのですが。
若者の困窮は、夫婦共稼ぎに増加にも表れています。子育ての必要な時期も働かなければならない。仕事をいったん止めると正社員の地位を失う。しかし、保育園の待機児童の問題等、悩みは尽きません。育児と仕事が両立できる、ワークシェアリングのような方法が確立している欧米とはえらい違いです。核家族化も問題ですね。子供の将来には、日本の未来がかかっています。保育園は許認可事業なので、簡単には増えません。両親との同居も増えているようです。
更に、今の若者の困窮化に拍車をかけているのが、日本社会の高齢化。年金問題です。いまのお年寄りも、働いている間には年金を積み立てていました。誰もがそれを返してもらえると思っていました。ところが、日本の政府は既にかなりの部分を使ってしまったことを明言してしまいました。「今、君たちが積み立てている分は現在のお年寄りの年金につかう。君たちは後の世代に出してもらえば良い。」。それって、詐欺見たいなものですね。だって、今少子化で人口が減っているんです。しかも、積立金20年以上掛けないと1銭も帰ってこない。また、途中で死んだりしたら0ですよ。お年寄りの中には、すでに掛け金の何倍ももらっている人もいるんです。政府はそれでも足らないので消費税で賄おうとしています。ただでさえ、貧しくなって来ているのに大変な負担です。
また、老人介護の問題もあります。哺乳類の中で老人介護なんてする生き物いませんね。若い人は次世代の世話をすればOKです。老人がどう生きるかは自己責任の問題。若い人に自分の老後を見てもらおうなんていう考えは、戦争でお国のために死んだ人に対しても顔向けできないでしょう。下記の思考実験もお読みください。
思考実験
文系人間と理系人間
日本では、高校に入った時から、生徒達は文系・理系に分けられてしまう。これは日本の常識、世界の非常識である。韓国は日本が植民地支配した時期にこの制度を持ち込んだようで、今でも日本に習っているようだが。この習慣は、旧制高校にまで遡る歴史がある。当時の日本は欧米に比べ、色々な分野で遅れていたため即戦力育成の目的もあったのでしょう。
それに比べ、欧米ではリベラルアート(一般教養)という考えが中心ですから、高校では社会人として、自分で考えて合理的な判断が出来るようにすることが目的です。大学でも専門知識を重視するかリベラルアーツを重視するかはそれぞれ大学によってさまざまでしょう。日本でも建前はその通り、実際大学で学んだことが現場ですぐ役に立つことはまれでしょう。企業側ではその点は不満でしょうが。
戦後もこの制度を踏襲したことは、様々な悪影響を及ぼしているが、最大の弊害は学問の縦割り化であろう。文系・理系の分野は互いに相互不可侵、似た学問分野相互も互いに干渉しないとする弊害が生じている。また、政治家や行政の人間はもっとも一般教養が必要とされる職業ですが、自分で調べ判断することを放棄し、すぐに専門家の意見を聞いて事足れりとする習慣が蔓延しています。マスコミもそうだ。「誰の発言」かが「どんな意見か」よりも優先し、専門家の中でも体制に都合の良い学者(御用学者)が蔓延する弊害が生じている。良くマスコミに出て来る有識者会議なんてその典型だ。うっかり、正論を持って発言しようものなら、発言の中身は無視され個人攻撃でつぶされてしまうのが落ちでしょう。福島の原発事故では、原子力関係者の村社会があったことが事故の解明を遅らす最大の原因だったですね。
いま、日本の国民は「裸の王様」になっているのですよ。誰かに「あなたは裸だ」と言われても、政府も沢山の御用学者もマスコミも、「いえいえ、あなた方はご立派な服をきておられます。大丈夫です。年金、雇用、経済、健康みんな私たちにお任せ下さい」と言ってくれます。
科学は哲学から発祥したものですが、哲学とはそもそもはどう生きていくかが根本です。物事を良く観察し、仮説を立てて自ら検証していく。そこには、文系人間も理系人間も全く区別は無いはずです。
スロー思考とファスト思考
人間の思考方法には、2通りあり、状況により適宜使い分けているという。「速い思考」は、直感を元にするもので、人の顔の写真を見て怒っているのか、喜んでいるのかを瞬時判断するもの。
これはどの人種でも同じ反応を示すので人類に生まれつき備わった能力と考えられます(実際にはこんな能力も生まれつきではなく学習が必要との指摘もある。)。「遅い思考」の方は、簡単には答えの出ない問題に対処するもので、事実を良く観察整理し、論理的に考えて結論を出すものです。このうち、「ファスト思考」しかできない人間をバカと定義するのだそうです。(参考文献、「バカが多いのには理由がある」橘玲著)
負荷の高い(精神が高揚し、血圧心拍数があがる)スロー思考は、人は無意識のうちに避けようとする傾向があると言います。特に自分にとってすぐに必要でない限り。しかし、現代社会の問題は、スロー思考でない限りほとんど解決不能なものばかりです。スロー思考を回避する方法は、次の2つの方法しかないでしょう。
①遅い思考が必要な問題を無視する。
②あらゆる問題を直感的思考法だけで解決しようとする。
ある高名な女流作家さんが「二次方程式を解かなくても生きてこれた。社会に出て役に立たない、このようなものは追放すべきだ。」と教育審議会で述べて、実際に中学課程で必修で無くなったことがあったらしい。現在はゆとり教育批判で復活したそうですが。速い思考しかできない人は遅い思考が必要とされるものを不快なものとして、この世から抹殺しようとする傾向があると言います。
直感的思考法とは、原因と結果が一対になった思考法で、それが好まれるのはとてもわかりやすくて楽だからから。古代人は、すべての自然現象に因果関係があると信じていたので、天変地異を神の意志と見做し、神と交信できるものを王として選び、それでも日照りが続いたりすれば、王が神の不興を買ったとして首をはねてしまうことをしていた。それでは、王も困るので生贄を捧げることになったのでしょう(でも、これはファスト思考かどうか)。
一般教養として色々なことを学ぶ価値は、スロー思考ができるようになることでしょう。まいにち研究に打ち込んでいる専門家ですら、研究で難問にぶつかると直感的な思考を優先させていることがあるのです。ましてや、専門外のことになると、無視したり、不快なものとして抹殺しようとするものです。直感的思考の罠に陥っていることは、意外と本人も気が付かないもんです。無知の知。いい言葉ですね。。
血液型性格診断
A、B、O、ABという血液型の違いが人間の性格に何らかの影響を及ぼすということは現在は科学的に否定されていることだが、未だにそれを信じ込ませたいという人々が日本には多く、わざわざ特集を組む雑誌やテレビ番組は後を絶たない。このような誤った情報がもたらす差別や偏見による被害を考えると、たとえ冗談でも話題としては避けた方が無難である。特に、子供向けの記事では、たとえ占いの一種として紹介しても、子供は簡単に信じ込んでしまうかもしれません。もともと、医学的・心理学的な裏付けがないものを既成事実として流し、誤った認識や偏見、差別意識を世間に植え付けたことは大問題で、マスメディアは批判を受けて当然だと思います。
血液型が性格に影響すると信じているのは、日本、韓国、台湾ぐらいであるが、もともと日本の民放テレビ局が受けを狙って大々的にキャンペーンしたのが原因らしい。私の記憶でも、シンガポールである日本人が秘書の採用に当たって血液型を書く欄を設けたことが差別として問題視されたことがある。当の本人はどうしてもA型の秘書を採用したかったのだそうだ。
以上のことに対する反論として、「血液型が性格に全く影響しないとは言えない。」というものがある。全くその通りである。過去に実際に調査が行われて、血液型の違いと性格の間には有意の差がないことは分かっている。しかし、全く関係がないと言うことは論証不可能なことである。裁判でも、証拠が無いものは無罪です。「やってないとは言えない」では、誰でも犯人にされてしまいます。こんな詭弁は結構専門家でも口にすることがあるので気を付けて下さい。
こんな例もあります。「将来巨大地震を起こす可能性があるとみられる立川断層について詳細な調査を実施しましたが、活断層としての証拠は見つかりませんでした。でも、活断層が無いということは言えないので今後も引続き調査を続けていきます。」
おい、おい、証拠が見つからなければ無罪でしょう。今後どんな調査をするの。組織温存予算獲得のための詭弁でしょう。
一方、このような似非科学を人々が信じ込む理由は、原因(血液型)と性格(結果)が短絡的に結びつきスローな思考が不要なことが挙げられる。また、何度もそのような視点で見ていることでかえってその信念を強めてしまう確証バイアスという力が働くことも知られています。
正義と進化論……チンパンジーにも正義がある
チンパンジーは、第一位のボス猿(アルファオス)を中心とした、厳しい順位社会を構成していますが、ある種の正義感情が共有されており、メンバーの行動に正統性を与える機能をしていることは、次の実験からも知られています。
例1:順位の低い下っ端のサルに餌を与えます。そこにたまたまαオスが通りかかります。αオスは,掌を上にして「物乞いのポーズ」と言われるポーズを行い餌をねだる。決して力ずく で取り上げることはしない。チンパンジーの世界にも先取特権が存在し、所有権の侵害は許されないという正義が存在していることになる。
例2;真ん中をガラスで仕切った2つの部屋に2頭のサルを一匹ずついれ、キュウリを与えると両者とも喜んで食べる。ところが1頭の餌をリンゴに変えると、キュウリを食べていたサルは、キュウリを放り出し、怒り狂う。自分だけが一方的に不当に扱われるのは、平等の原則に反する。
例3;異なる群れから選んだ2頭のサルを四角いテーブルの両端に座らせ、真ん中にリンゴを置く。はじめは取合いを行い、先に手にした方が食べるが、何回か繰り返すうちにどちらが手を出さなくなる。一度序列が決まると、上下の掟は絶対となる。
以上の3例から、チンパンジーの社会にも、群れを維持する原理原則としての正義の概念、「所有権」、「平等」、「組織の序列」があることが分かります。これは、フランス革命で提唱された3つの理念、「自由」、「平等」、「博愛」に対応していることが見て取れます。正義とは人類の歴史において、数百万年前から種族保存のため保持されてきた直感的な思考法だったのでしょう。正義とは、自分の縄張りを守ること、悪とは自分の縄張りを奪いに来る敵のこと。人類は、石器時代の昔から、集団を味方と敵に二分し殺し合いを続けてきた歴史を持っています。以上、正義について
①直感とは、進化の過程で造られた脳のOS(オペレーティング・システム)
②私達は、直感的に「正しい」と思えるものを「正義」と見做す。
③進化論的に基礎づけられた正義は複数あり、重複する部分もあるが、原理的に両立できない。
④それ以外に、直感的に正しいと思えない正義もある(功利主義的の正義)。
現代政治と正義の関係…政治学入門
フランス革命で提唱された3つの理念、「自由」、「平等」」、「博愛」」は、現代でも民主主義の基本原理と言えるでしょう。これが人間が類人猿と分岐するころから群れを維持する原理として維持されて来ていた「所有権」」、「平等」」、「組織の序列」といった群れの掟に対応していることも上で見てきたとおりです。これを猿知恵と見ることは適切とは言えず、進化における貴重な遺産と見るべきでしょう。これら正義の概念は、遺伝的な情報と言うより、哺乳類の特徴として、親から子、群れ社会の中で教育と訓練によって代々伝えられてきた規範であることは疑いないでしょう。人間の場合も親の躾、学校教育の洗脳によって、培われて来たものです。従って、これらの正義の感覚は訓練によっていくらでも強化できるものであることも指摘しておきたいと思います。
以下、人の場合も3つの正義感があるのに対応して、3つの政治的立場が生まれます。
①自由を求める(自由主義)
②平等を重視する(平等主義)
③共同体を尊重する(共同体主義)
フランス革命後の、国民議会は右翼を保守派(王党派、コンサバティブ、conservative)、左翼を共和派が占めていて、共和派内には自由を重視するリベラルliberalと平等を求めるデモクラットdemocratに分かれていた。その後、私有財産を否定するマルクス主義(共産主義)が自由の敵を見なされるようになり、経済格差を悪としてより平等を求める立場がリベラルとよばれるようになってきた。それに対して税や再分配で競争の結果を変えて平等にするのは自由の圧殺との考えがリバタリアンlibertarianとなっている。先にリベラルと言う言葉が使われてしまったため、このような名称となったが良く似ていてとても紛らわしいですね。後者は、もともとアダム・スミスやジョン・ロック時代の古典的自由主義ともいえる立場です。また、歴史や伝統重んじる立場を共同体主義者communitarianいいますが、これも立場的にはリベラルに近いものになっているようです。リベラルとリバタリアンは大きな政府と小さな政府と言う志向の違いが重要でしょう。
リベラルにしてもリバタリアンにしても結局は選挙に勝たねばなりません。その結果どちらの政党も似た政策を掲げるようになる傾向はあります。その結果、どの民主制の国家も大きな政府に近いものになって、財政赤字が累積していく傾向があります。これらの立場を別にして大衆に迎合する考えをポピリズムpopulismと言います。
政治思想には、上にあげた3つの考えとは別に功利主義utilitarianismというものがある。社会全体の幸福を重視するという発想は古来からあるが、功利主義を体系化したのはイギリスの哲学者ベンサムである。功利主義の考えは正義や道徳と言った議論を必要とせず、功利主義的発想をするチンパンジーはおそらくいないと思われている。功利主義的発想は、多くの人を不愉快にするもので、当時から、「冷酷」「エリートの横暴」「非人間的」との批判がなされてきました。しかし、近代経済学というものは功利主義的な理想社会を造るための社会学とも。この政治思想は一般には、新自由主義New Liberalismと呼ばれています。
今回の説明は、政治思想について徹底的に色眼鏡で見ています。だから文中のフォントに沢山色づけして見ました。私も理系人間で政治の問題はあまり得意ではありません。でも、このようにパターン化することで、政治の問題を考える上での一つの座標軸が出来てくると思います。
参考文献;「バカが多いのには理由がある」橘玲
リベラルとは
衆院選の直前から「リベラル」(liberal)という言葉が使われるようになった。民進党が分裂し、保守を掲げる「希望の党」への合流組と、民進リベラル派を集めた「立憲民主党」などに分かれたとされるのがきっかけだ。「個人の自由を尊重する思想的な立場」という本来の意味から外れて、日本ではある特定の「平和主義者」や「左派」を指すとする専門家もいるらしいが、原因はやたらと候補者にレッテルと貼りたがるマスコミの影響があるようだ。言葉は正確に使って欲しい。
枝野幸男氏(53)本人がテレビのインタビューで答えていたように、立憲民主党の立場は日本の保守本流の立場。米国でもいまだ健在だ。より平等な社会を重視し、弱者救済など社会保障なども充実できるやや大きな政府を目指す。一方、対立する立場は、リバタリアン。より強く自由主義を掲げ、政府の干渉を極力減らし、規制緩和などで政府の干渉を徹底的に排除するより小さな政府を理想とする人たち。また、一方共産党も社会党も社会主義への改革は旗印として降ろしてはいるものの自ら自由主義を旗印にはしていないのでリベラルとはいうことは出来ない。公明党も同じです。自由主義とは、お互いの自由を尊重し合う「話し合いの精神」が核でしょう。数合わせの論理は似合わない。
では、今回の選挙において、リベラルの反対に立った人たちの立場は。緊縮財政は行わず、年金や子ども手当等の社会保障は消費税増税で行おうとする財務省主導の超巨大政府を目指している。北朝鮮の脅威に対しては、憲法を改正して核武装の力で対抗しようとする。どんなことでも数の論理で押し通す強いリーダシップと安定した政府。少なくともリバタリアンとはいえそうもない。こういう政府を国家社会主義(全体主義)と言うんでないでしょうか。下記の項もご参照ください。
現代政治と正義の関係…政治学入門
全体主義の起源
全体主義とは何か。それは、近代社会が成立し国民国家が成立するその過程の中に萌芽てきに含まれているとされています。この分析を本格的な行った人が、ハンナ・アーレントという女性政治哲学者です。『全体主義の起源(The Origins of Totaliarianism)』が出版されたのは日本が未だ連合軍の占領下にあったころ。従って日本ではあまりなじみがないが欧米ではかなり前から読まれているようです。NHKの『100分で名著』にも取り上げられて静かなブームとなっているようです。
全体主義が生じるきっかけは、民主主義の過程で、市民が大衆に変化することだと彼女は看破しています。市民は、たいていどこか共同体に属していて、政治家は共同体支持基盤のもとに立候補します。大衆は、よるべき共同体がなくメディアのスローガン次第で簡単に候補者を変えます。大衆の将来への不安感が、強いリーダーシップを求め、安易なスローガンに依存する傾向を強めます。全体主義とは、民主主義の中に潜在的に隠されていていつでも顔を出す危険な罠と言えるでしょう。
アーレントがこの考えを一層確認したのは、ナチスドイツの残党の一人アイヒマンの裁判を傍聴したことにあるそうです。
アイヒマン裁判
英国病
英国病とは、経済が停滞していた1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策によって社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生等の経済・社会的な問題が発生した現象を例えた日本における用語である。
1960?1970年代のイギリスは、労使紛争の多さと経済成長不振のため、他のヨーロッパ諸国から「ヨーロッパの病人(Sick man of Europe)」と呼ばれていた。
イギリス初の女性首相サッチャー(在任: 1979年~1990年)の構造改革や、1980年代以降の北海油田産出で「英国病」を脱したとされている。
現在の日本の状況は、当時の英国と良く似ているがどのように対処していくのでしょうか。少子化高齢化による人口減少を抱えてもとには絶対に戻れない。大胆な構造改革が必要でしょう。
築地→豊洲・移転問題
築地市場の移転の話は、非常に古く、当初、列車輸送が想定されていたためトラック駐車スペースが狭小という問題はあった。昭和47年~昭和60年 大井市場(現大田市場)に一部機能移転を検討するが、業界の意見を統一できず、断念している。
移転問題が浮上した際の東京都知事、石原慎太郎は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。他に適地はない」として急速に移転を進めようとした。
都が移転問題を蒸し返したのは、言わずと知れた「東京オリンピック誘致」の問題が密接にかかわっている。築地市場は、年々売上高は減少傾向で、今後豊洲に移ったところで発展の余地はない。従って、業務に携わる人々は原則移転反対。賛成派は、知事の意図を忖度して、利権を確保したい人達。そこで、移転先豊洲の土壌の汚染問題。
石原氏にとっては、オリンピックは国威発揚の絶好の機会。これを利用して経済を活性化、前の東京オリンピックの夢をもう一度。また、築地は銀座にも近く、ここを更地にして、もっと面積当たりの売り上げの多い施設(例えばカジノみたいな)を呼び込みたい。魚市場なんて迷惑施設だ。さっさと移転して欲しい。国民の利益を考えれば、オリンピックの方が絶対大事だ。でも、オリンピックが終わった必ずやってくる経済不況を考えているのでしょうか。
いま、都民にとっての築地の価値は物流のインフラではないだろう。築地はそのブランド力の方が遥かに重要でしょう。築地を経由した商品が江戸前。新鮮な魚介類は産地直送のものが簡単に手に入る。築地は、その狭隘で猥雑な活気にあふれる賑わい、および長い歴史的文化的な価値でもっている。都民の誇れる一大観光スポットです。豊洲の新しい市場が出来たら、外国人観光客は果たして喜んで来るでしょうか。高級な江戸前寿司を食べる気になりますか。超格安の回転ずしの方がずっと似合うでしょう。インフラ整備で、箱モノを作りまくる時代はもう終わっています。今度のオリンピックの標語は、「おもてなし」の精神です。
【築地問題のその後】
石原知事を継いだ小池知事。豊洲は最新の物流基地、築地は観光のスポットと機能分担することで反対派にも面子を保てる妥当??な解決を図ったようだ。オリンピックを受け継いだのは大変だったようだ。フィナーレを飾るマラソンは札幌に行ってしまうし。まだ苦労は終わらない。ご苦労様ですね。(2019.12)
日馬富士関の引退
日馬富士が飲み会の場で同僚を殴った事件で、連日マスコミが大騒ぎています。相撲界の暴力体質を改善だって、何だか話がとんでもなく飛躍している気がしませんか。あなたが会社の飲み会でうっかり部下に腹を立てて殴ってしまったら退職するようなことになるんでしょうか。事件が起きたのは懇親会の席、稽古場や土俵の上のことではないでしょう。懇親会とは、普段わだかまりを持っているもの同志もいったんはこれを忘れて仲良くしようというのが趣旨のはず。これが相撲界の暴力体質とどうつながるのか理解できないですね。少なくとも当事者の日馬富士関が責任を取って引退した以上事件は終結しなければならないはずです。
相撲の世界では、違う部屋の力士が一緒に飲食することを禁じられていたらしい。これこそが前近代的な制度で、建前は八百長防止ということらしいが、力士を部屋に隷属させること真の目的。親方による弟子の囲い込みだ。NHKの朝ドラでやっている「笑わんかの」の世界でも芸人が逃げ出さないように謝金を背負わせ肩代わりして一生隷属させる手配師が出て来た。土俵の上では敵味方でも、土俵を離れれば仲良く語り合えるのが真のライバル。これがスポーツマンシップだ。日本の武士道や西洋の騎士道だって同じ精神のはず。将棋の世界でも子弟制度は残ってはいるが、棋士同志は仲良く研究会をしたり、食事をしたり、ファンと自由に交流したり自由にやっている。相撲界では谷町の付き合いも総て親方が仕切っていて力士の自由は全くなく、野球界のトレードのように部屋から部屋へ所属を変える権利も無いらしい。全くの閉鎖社会、このことが相撲界の暴力が絶えない一因であろう。
貴ノ岩関(貴乃花部屋)の行動もいささか奇妙だ。親方の禁止している飲み会の席に出席しておきながら、徹底抗戦不服従の構え、殴られても携帯をいじくり回してヘレヘラ笑っているのも変だ。最後に謝ってその場を収め、後で親方に警察の通報してもらって後はダンマリ。親方の意向を忖度したのですか。無口で正義感の強い酒に酔うと歯止めの利かなくなる日馬富士がどこかで暴力をふるうのを待っていたのでしょう。
これって、日本人の好きな話、『赤穂浪士』と良く似ていますね。浅野匠守が最後に暴力に訴えた、庶民は吉良上野介を憎みます。貴ノ岩関の態度はどう見ても日本人の美意識から見て美しくない。このままでは、貴ノ岩は決して人気は出ない。貴乃花親方は自分の愛弟子の将来をつぶしてまで権力を保持したいのでしょうか。(2017.12)
20〇〇年問題
2040年問題というのと2045年問題という言葉が、あるそうです。この二つ全く異なった視点ですが、どちらも今後の日本のあり方を考える上で、重要な事項です。
2040年問題の方は、少子高齢化が進み、2040年頃には日本各地で地方の自治体が破綻してしまうのではないかと言う懸念です。これについては、一般の民間人はあまり関心が無いようですが、政府自治省や、自治体の間では、相当真剣に議論されているようです。日本の自治体は、3割自治とも言われており、政府の補助金なしではやっていけない状態ですが、人口が減れば補助金も減り、財政破たんを招いて機能が果たせなくなってしまいます。地方と中央の役割分担を見直す時期に来ているのでしょうが、出来れば従来の枠組みを維持していきたいのが本音でしょう。確かに、少子高齢化の進展は待ったなし。広く意見を募り抜本的な対策が求められます。
2045年問題は、コンピュータの発展に伴う問題。ディープラーンニング等の技術が進んで、人工頭脳の能力が2045年頃には、人間の能力を凌駕すると想定されています。現在は、囲碁将棋の世界で、コンピュータが何時名人を破るか時間の問題となっていますが、これがすべての分野に波及するとどうなるのでしょうか。
例えば、医者はパソコンにデータを打込むだけ、診断はコンピュータ。「だめだよ、君。自分で判断したら。診断はコンピュータに任せなさい。」なんてこと言われるかも。法律だって総てのデータはコンピュータに入っていますから、どの弁護士さんに相談しても全く同じ。外国語の通訳もロボットがやる。多くの専門職が不要になってしまいます。でも、逆にこれによってできるいいことも沢山あるかも。いずれにしても、社会のあり方について人間に大幅な考え方の変更を迫るでしょう。これ、不安ですか楽しみですか。
嫌われる勇気-アドラーの心理学
最近、書店でもよく見かけるアドラーの心理学、アニメ版なども出ています。アドラーは、フロイト、ユングと並ぶ「三大巨頭」ともいわれる心理学者。今では古典の部類ですか。欧米では、相当ポピュラーな存在で、診療カウンセリングの実務でも使われているようですが、我が国では、今まで忘れられた存在でした。岸見一郎氏の翻訳や解説本によって俄かに脚光を浴びたようです。
本書「嫌われる勇気」は、岸見氏とその弟子??古賀氏の共著で、アドラーの心理学の真髄を誰にでも分かるように解説しようとする力作です。本書は、アドラー+ギリシャ哲学を専門とする哲学者と劣等感による自己嫌悪に悩み、それでも自分を変えようとしない青年との会話で話が進んでいきます。青年が哲学者を訪問するのは、その哲学者の持論を論破するため。もちろん最後はこの哲学者を認め、自己の世界観を変える第一歩を踏み出すことに。この哲学者は岸見氏自身、青年役は古賀氏が務めたようです。この会話は、ソクラテスと弟子の会話を想定していることは本人の後書きにも記されている通り。ソクラテスの業績は、弟子のプラトンの著作をとおして、後世に伝わるのですが、岸見氏自身はプラトン役も演じる所存とか。従って、ここに書かれている内容は、
アドラー心理学+ギリシャ哲学+岸見哲学
ということかもしれません。本書の中身については、読んでからのお楽しみの方がいいかもしれませんね。
人は何のために長生きするのか
これは古来よりの永遠のテーマでしょう。ところが、こんなことが今さら問題になるのは、やはり人の寿命が延びて高齢化社会を迎えたことがあります。では、視点をもっと広くして生物は何のために生きるのか。環境に適応して生き残って子孫を伝えていく。ただこれだけのために遺伝子は巧みな戦略で進化して来ました。多細胞生物の細胞の中には、本来別の生き物であったミトコンドリアや葉緑体やその他さまざまな微生物が取りこまれて、共生をすることで進化しました。多細胞生物は各々の細胞が役割分担をすることで全体としての生物が出来ています。そのためには個々の細胞は、全体のためには死をもいとわず、生物全体の機能が停止した状態を死と定義します。人も死んでもしばらくは、髪や爪が伸びますがこの状態は生きているとは言いませんね。
『環境に適応して生き残って子孫を伝えていく。』これは、人間にも当てはまる原則ですね。そのような観点で、人は生きている価値がある訳です。ミミズやオケラが生きている価値があるのと同じ程度に。さらに、人類は共同体という社会を発達させてきました。この共同体というものも、生物の進化から言うと歴史は古く、昆虫では、ハチやアリ、シロアリ、哺乳類でもハダカデバネズミなどが知られています。上記の生物では共同体の役割分担は非常に明確で、個体は完全に共同体の部品と化しています。つまり、群れ全体が一つの完結したもので、遺伝子は群れ全体の生存を計っている訳です。
ところが、哺乳類になると個体同志の役割分担は明確でなく、環境や学習、お互いの競争などによって後天的にかたちづけられていくことになります。リーダーになる個体も最初からリーダーではなく、仲間との協力や競争を通して、最終的に共同体の他の構成員から認められて初めてリーダーになるのです。このことは、人間も全く同じです。人は、共同体の一員として考えて行動し、共同体の一員として認められて初めて幸福感を得られるように遺伝的に刷り込まれているのでしょう。心理学者のアドラーによれば、人の悩みはほぼ100%対人関係に起因すると喝破しています。人の幸福度は、共同体への貢献度で決まる。どんなに見かけ上成功したように見えても共同体への貢献を本人が感じることが出来なければその人の人生は無です。従って、利己的で周りの人々は皆敵、あるいは利用すべき対象でしかない人は幸福にはなれない。たとえ寝たきりになっても、周囲の人にとってかけがいの無い人は幸福なんだそうです。
一方、人を含む類人猿は、子供をつくる能力を失ってからの人生が長いことが特徴です。特に人は異常に長い。魚類あたりまでは、卵を産んだら親はすぐ死んでしまいます。鳥類哺乳類は子育てしますが、子育ての終了後は、そんなに長い余生はありません。何故、人の余生は異常に長いか。それは、共同体への貢献が期待されているからです。類人猿達は、共同で子育てをするのが特徴です。人類だって、狩猟採集時代の壮年の男女は、共同で作業に当たらねばなりません。子育ての役割は、もっぱら高齢者、おじいさん、おばあさんです。そういえば、日本の昔話。桃太郎も、金太郎も、一寸法師も、かぐや姫も子育てはおじいさんとおばあさんですね。高齢者の財産は人生で積み重ねてきた膨大な知恵のノーハウ。これを直接孫に伝えていくことは大変理に適っています。これも遺伝子による共同体の生き残り作戦です。戦後定着し、国も積極的の支援してきた核家族化は、終身雇用制度の崩壊と所得格差の増大、子供の貧困化、共稼ぎ家庭の増加等色々な問題を抱えてきています。遺伝子の意図に反するからです。
森友学園の問題
森友学園の問題は、戦後最大の政治的不祥事に発展することがある。この問題であまり世間では話題になっていないことだが、森友学園の実態は何かということである。籠池泰典という人物が極めて胡散臭い人間であること。教育勅語を教育の理念とするということ。明治天皇の言葉ということだがもちろん天皇自らが書かれたものであるはずがない。尊王攘夷から始まり討幕運動の起爆剤になった皇国神話思想だが、いつの間にか偏狭な国粋主義に変貌し、日本国民の生活に多大な犠牲を課し、周辺諸国にも多大な迷惑をかけたこと、二度をこのようなことが起こらないように日本国民は深く反省したはずだ。今のドイツがナチズムを否定するのと全く同じで、皇国神話に基づく民族主義、国粋主義を語ることはそれ自体国民のタブーとなっているはずだ。最近、戦時の記憶が希薄になって、妙な日本特殊論や排外主義が頭をもたげてきている。また、ドイツ以外のヨーロッパの国でもネオナチと呼ばれる台頭してきている。
だから、このような主義主張を公然と主張するような団体に対して財務省という国の機関が便宜を図るということは当然あってはならないことなのだ。籠池という人物は、首相夫人をうまく利用して財務省に圧力をかけたらしい。財務省とて首相の意向を忖度しないと首が飛ぶ。財務省内の抵抗をかわすためには公文書を改竄して、あるいは文書を残して精一杯の抵抗をしたのであろう。動機から言っても財務省の単独犯行ということはあり得ない。
安倍晋三首相や佐川宣寿前国税庁長官が直接かかわることは絶対にありえない。二人ともそれなりの地位も責任もある立場で、このようなタブーとなっていることを建学の理念とするような胡散臭い学園を支援することは絶対ないと信じる。だから、昭恵首相夫人の関与が問題になるのだ。得意になってこの財団の理事長だかを引き受けて、推進に協力している。首相といえども公務員。昭恵夫人は公務員の妻という立場を逸脱している。財団の理事長を引受けるということは、第三者にとっては当然首相の意向と取られることは認識していないといけない。一個人の立場では済まないからだ。
安倍首相が妻の立場を知っていたとすれば、首相も同罪だし、昭恵夫人だけが勝手にやったことなら、一種の詐欺行為か。どちらにしても証人喚問は免れる話ではないだろう。
なお、教育勅語自体は、立派なものかもしれない。ヒットラーの経済政策がなかなかのものだったの同じように。ただ、運用によっては、「お国のため」とか「一億層玉砕」とか民族主義的排外思想へとつながる危険性が極めて大きいのだ。
ものづくり
最近良く聞かれる言葉です。現在の日本の製造業の繁栄は、日本の伝統文化、固有文化に源を発するという史観も絡んでいて、「ものづくり」の精神は日本人特有のものと思いたいという気持ちもあるのでしょう。これは、いわゆる大和言葉ですが、英語に訳せばcraftsmanshipとでもなるのか。Industrial Engineeringなどでは技術的なほうの片寄過ぎている。職人気質などでは必ずしもプラスのイメージは出てこないですね。
1980年代以降、単純な製造作業の拠点は中国などに移り、おりしもITブームや財テクが流行り、日本の製造業には3Kに代表される工場で油にまみれる作業のネガティブな印象が強くなります。しかし、1990年代後半から自動車産業を筆頭に、日本の製造業が復活を遂げ、日本の製造業が集約型単純労働ではなく、より高度で精神性の高い技術活動であるとの認識が生まれ、製造業をポジティブなイメージで捉える言葉として「ものつくり」という表現が使われるようになります。現在の日本の製造業の繁栄は、日本の伝統文化に源を発するという考え方である。実際には、モノづくりの精神ある意味では世界の人々共通の考えでもあるはず。日本特別論に陥ってはいけません。
工場労働者は、もちろん賃金をもらって働くわけですが、労働者がプライドを持って働くためには賃金以外にその根底となる職業モラルというものが必要です。自分の仕事が経営者以外の社会一般の人に役に立っているのだ。社会への帰属意識です。
武士は戦争が仕事かも知れませんが、それでは心の方が持たない。やはり「武士道」とでもいう精神的なモラルを確立することが必要でしょう。士農工商の身分が分かれていた時代、職人さん達は社会からの蔑視に対し、職人気質を育て上げ、プライドを持って対応して来ました。それによって仕事にやりがいを見つけ、人生を有意義にすることができるからです。また、社会も職人さんたちの技術を尊敬し評価します。
「道」と名がつけば、それをとことん追求して見ようとすることも人の本性。「ものづくり」の精神も時には資本の論理とぶつかることも多いでしょう。しかし、今の日本を本当に変える力となる可能性もあると思います。(2017.09.07)
迷走する教育理念1
そもそも、義務教育は何のために存在しているのでしょうか。西洋で発達した民主主義の理念の中に、「すべての人は生まれながらに平等である。」とあります。福沢諭吉翁も「天は人の上に人を作らず。」と書いております。でも、諭吉翁は、人は学問をするとしないではその後の人生に大きな差が生まれることも強調しております。でも実際、法の上ではすべての人は平等だと規定されていても、世の中の貧富の差はとても大きく、貧困家庭では子供にろくな教育を与えることができません。その結果、教育を受けられなかったその子供が成人してまた、貧困に陥るといった連鎖を断ち切ることができなくなります。
だから、義務教育とはどの子供も平等とはいえないまでも、ある程度の基礎教育を受ける権利を担保しようという趣旨で、子供の親、自治体、国に教育する義務を課しているわけです。子供にとっては、基本的人権の一部であって、教育を受ける権利で、決して義務などではないはず。
当初は、学校へ通えることを嫌がる子供など、想定できなかったはず。字が書けて、多少の計算が出来て、本が読めるということは人間が生きていくうえで大きな武器となることは、子供でも分かったから。でも、制度が確立してしまうと、学校嫌いの生徒がドンドン増えていきます。一方、社会の方は学ばねばいけないことがドンドン増えていきます。何故学校嫌いが増えるかは、さらなる分析が必要でしょう。でも、この傾向に対応して、学校に通うことは生徒の義務という発想に変わっていきます。近頃、先生の側から「教える権利」なんていう奇妙奇天烈な言葉を聞くことがあります。「教える権利」なるものあるとすれば、あくまでも「学ぶ権利」を補完するもので、単独で存在するものではありません。生徒が学ぶ義務があると考えるから、その対極として「教える権利」なる変なものが考え出されるのです。でも、本来人間が学ぶことは、権利の行使であって、決して義務ではないはず。
最近、文部省が言い出した、「アクティブ・ラーンニング」。それでは、今までの教育は「パッシブ・ラーンニング」だったのでしょうか。人間が学ぶということは、あくまでも「学ぶ権利」を行使するアクティブなものなのか、言われたことを粛々とこなす義務としてのパッシブなものなのか。親や地域の反対を押し切り、ようやく学校に通えるようになって、初めて読み書きを学んだ貧しかった小学生たち、絶対に「アクティブ・ラーンニング」を行ったと思います。次から次へと知りたいことが出てきます。「アクティブ・ラーンニング」とは学ぶ喜びのある学習。権利としての学習。これを上から押しつけて義務としの学習としてしまっては効果無しでしょう。権利と義務。権利はアクティブな行為。義務はパッシブになりがちです。最後の孔子の言葉(論語)で締めくくりましょう。
「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず。」
今学校で起こっている可笑しなこと
うちの孫娘が、小学校の算数のテストで文章題で答えがあっているのに式を直されて来たことがある。もう、問題は覚えていないがこんな極めてやさしい問題だ。「初めに教室に3人の生徒がいました。後から17人やってきました。全部で何人になったでしょうか。」
これを、17+3=20人とやるとダメで、3+17=20でないと式がペケなのだそうだ。
これって、大数学者もビックリですね。しかも、これ文部省が指導要綱に明記して先生にとってはマニュアル化しているらしい。
同じことは掛け算でもあるらしく、「5台のトラックに、1台当たり3個ずつ米俵を積むと米俵は全部で何個ですか。」。これも5×3、3×5どっちが正解か。基本的にはこんなこと大昔から世界中でどちらでも同じ、決まっているはず。ところがネット上では、日本の教室内では教室内だけで守るべきローカルルールがなければならないと主張している人々が存在しているらしい。足し算、掛け算では可換則が成立し、この事実は低学年からしっかりと身につけねばならない。5×3と3×5は等しいけど、5÷3と3÷5は異なっている。ただ、掛け算や割り算は、用いられている単位も同時に掛けたり割ったりしていることはしっかりと教えて欲しい。だから、本当に式にこだわるなら、「5台×3個/台=15個」とすれば良く、それ以外の式は減点と約束すれば良い。
足し算や掛け算は、普通の数だけでなく、高学年になるとベクトルだったり、行列だったり、集合だったりいろいろなものを考えなければいけない。a×b=-b×a (ベクトルの外積)、この程度のことは、今後中学生ぐらいまで下りてくると思われる。アクティブラーンニングによる柔軟な思考力が求められる。融通の利かないキッチョマン(著しく几帳面な人間)は最悪な先生だ。
迷走する教育理念2
鳴り物入りで登場した「ゆとり教育」。2000年頃は「脱詰込み教育」としてもてはやされたのに、何故かいまは「脱ゆとり」。PISAとかいうOECDが実施する各国の学力試験の結果が下がってきたことが原因とか。これも、日本の経済力が落ちてきたことや、貧富の格差が拡大して教育困難な生徒が増加したことが本当の原因なのか、「ゆとり教育」の実施のやり方が原因なのか、学校の教育力の低下が原因なのか、その辺の検証は行われていないようだ。
少なくとも、第2次中曽根内閣の時代に提案された「公教育の民営化、自由化」や「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」「国際化、情報化など変化への対応」といった理念は教育の未来に向けての改革を目指しており、さらには、内暴力、非行、いじめ、不登校、落ちこぼれ、自殺など、学校教育や青少年にかかわる数々の社会問題を解決に向けて取り組もうとの姿勢もあったはずだ。
「ゆとり」といっても、富裕な家庭の子供たちは学外の学習塾や課外体験学習等の機会が増えて、学校とは別の「生きる力」といった本物の学力を大いに伸ばす機会に恵まれた半面、貧困家庭の増加から、学習困難児が教室でも増え、いわゆる学力の二極化がより顕著になってきている。確かにオリンピックでのメダルの獲得数が増えたり、将棋や本格的な学問の世界でも大人を凌ぐ能力の子供が出現したりするのはまさにゆとり教育の賜物であろう。学習の場は、学校だけじゃない。でも、この傾向が進めば、学校の役割はどうなるのであろう。
教育の現場では、先生たちは一様に自信を失っている。平均的なレベルで授業を行っても、上位の子供たちは、あまりにレベルが低すぎて、聞くに堪えない。でも、一方には、もっとずっと前に遡っても全く理解できない子供たちがいる。平均値の教育では、どちらの側にたっても生徒たちは不満で先生は尊敬されない。どちらか一方の側に立てば、父兄や仲間の先生からもブーイングとなろう。子供たちは学習塾の先生の方が、教え方がうまいという。それは当然だ。学習塾は生徒一人一人のニーズに合わせて教え方をその都度工夫できる。
今まで、学校の先生方は画一教育に慣らされてきた。文部省の指導要綱に従って、箸の上げ下げまでマニュアル化されている。だから、抜本的な改革が必要なのは学校の制度そのものであろう。「脱ゆとり」を掲げて、授業時間を長くして、「英語」や「道徳」等の教科を増やして、無理やり子供たちを学校に囲い込んでも、生徒も先生も疲弊するだけだ。「公教育の民営化、自由化」をさらに進めて、学校の役割を見直すこと大切だろう。
政府閣僚の失言問題
防衛大臣(第15代)の稲田 朋美氏が2017年6月27日に、都議選の自民党候補者応援演説の際、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてお願いしたい」と発言したことが、自衛隊の政治利用ともとれる発言ではないかと批判されています。この発言が野党各党から辞任を求める要求となり、本人も謝罪しており、これで主相が解任すれば一件落着のはずが、主相が解任を拒んでいることが最大の問題となっている訳です。
過去失言問題で辞任した大臣は沢山います。ですが、今回の稲田さん、主相も解任させたくないほどの優秀なブレーンなのですね。将来は主相も目指したい。小池都知事と同じですか。従って、この発言はうっかりではなく、計画的に準備されたもの。たとえ謝罪しても、本心は変わってないはず。多分、言いたいことは「将来の日本の国防、自衛隊のあり方、他日本の将来を本気で考えているのは自民党ですよ。私は、自民党の代表としてお願いします。」程度のことだったかもね。あくまでもレトリック。「言葉通り受け取られてもこまるよ。」。でも世の中の人達、そんなに賢くないですよ。
選挙というものあくまでも個人が行う行為。防衛省の意見、自衛隊の意見、自民党の意見などある訳がない。ただ、最近の自民党は、執行部の公式見解に対し、反対意見を認めないとすることが慣例になりつつある。各省庁においても公式見解があれば、職員はそれに従うべきという考えが出てきているように思われる。非常に危険な思想です。
今、稲田氏は防衛省という軍の最高指揮官。もし、自民党が都議選で負けたら許しません。軍隊を派遣して、議会を解散させますよ。現にエジプトではアラブの春は軍によって潰されたでしょう。稲田氏の場合、防衛大臣という立場が、事を余計不安にさせているんです。
ダイヤモンドの知恵
NHKのEテレで、ジャレド・ダイヤモンド博士(Jared Mason Diamond, 1937年~)の学生との間の特別授業の様子(日本語吹き替え)が連載されていた。博士は、米国人で1937年、ボストンでベッサラビア(今のモルドバ共和国)出身のユダヤ系の両親の間に生まれる。1958年にハーバード大学で生物学の学士号を取得後、1961年にケンブリッジ大学で生理学の博士号を取得。その後、生理学者として分子生理学の研究(生物の遺伝や生理についても非常に詳しい)を続けながら、平行して進化生物学・生物地理学の研究も進め、特に鳥類に興味を持ち(バードウォチャーとしても本格派だ)、ニューギニアなどでのフィールドワークを行なった。そこでニューギニアの人々との交流から人類の発展について興味を持ち、その研究の成果の一部が『銃・病原菌・鉄』として結実する。他に、『人間はどこまでチンパンジーか?』、『第三のチンパンジー』、『文明の崩壊』等
多数の著作がある。上記テレビ番組の中でも、人類の誕生から人類の将来までの幅広い考察が披露された。
ダイヤモンド博士
『銃・病原菌・鉄』の冒頭で、博士はニューギニアで現地の賢者から、「あなた方白人は、沢山のものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それは何故だろうか」との素朴な質問を受け、答えられないことに気が付いた。
ジャレド・ダイアモンドの名を一躍有名にしたのが、一般向けの書籍『銃・病原菌・鉄』である。この著作は、「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのか?」という疑問に対し、一つの答えとして書かれたという。ダイアモンドは、これに対して「単なる地理的な要因」(例えば、ユーラシア大陸の文明がアメリカ大陸の文明よりも高くなったのは大陸が東西に広がっていたためだから等)という仮説を提示し、「ヨーロッパ人が優秀だったから」という従来の根強い人種差別的な偏見に対して反論を投げかけ、世界的なベストセラーとなる。さらに、補足すると、もしニューギニア人の先祖がたまたま今のヨーロッパに住み着いて、白人の先祖がニューギニアやオーストラリアに住み着いていたなら、君たちニューギニア人の子孫たちが世界を席巻することになったはずだということ。なぜこんなことが言えるのか。詳細は上記書籍を読んでいただければ分かるが、次のことは言えそうだ。
まず、博士のあくなき知的探求心がある。ありきたりの定説では満足しない。必ず別の疑問が生じる。また、彼の広範な知的バックグラウンドは実にいろいろなアプローチを可能にし、彼が考えた仮説に確固たる基盤を提供してくれる。一方、過去の出来事を正しく理解するというのは歴史科学の役割だ。そのような意味では、宇宙の歴史から誕生まで人類の誕生までの歴史も自然科学一分野として確立している。ところが文明が起こり文字や記録が残されるようになった時代から以降は、歴史学は文科系の学問のように棲み分けできてしまったようだ。そこには「人間はサルとは別で、自然科学的な考察になじまない。」という、暗黙の了解があったのだろう。でも、「人間とチンパンジーの遺伝子は1.6%しか異なっていない。どうして人間は文化や技術を発展させたのに、チンパンジーは昔と変わらない生活をしているのか。」。 人間でも、オーストラリアのアボリジニと呼ばれる人々は、いまでも原始的な石器を用いた狩猟採集の生活をしている。彼らの先祖も昔は中国か東南アジアからやってき人々で、人間個人として劣っているわけでは全くない。結局、農業も文明も人と環境との相互作用の結果として生じたもので、そこには天才も意志強固なリーダも必要ない。このような考えは、特に人文系の人々からは「環境決定論」だと批判もあるらしい。しかし、一般の生物の進化論では地球環境の変化の重要性を認識しながら、人間だけは別だという論理は成り立たない。では、歴史に現れる偉人たちの功績は。それは、環境の変化、時代の要請をいち早く予見し、賢明な対策を先取りしたということだろう。ダイヤモンド博士は、間違いなく現代社会の「知の巨人」といわれる一人でしょう。
安全国家
安全国家という概念があるらしい。平和で安全が保たれていてそんな国に棲んで見たい。実ところが実態はその反対。国の権力者が安全をやたら強調するのは、現状が安全ではないという大前提が含まれているからだ。
2001年9月11日アメリカ合衆国内で発生した同時多発テロ。ジョージ・W・ブッシュ大統領は対テロ戦争を位置づけ、イラクやアフガニスタンに一方的に戦争を吹っ掛ける。国内では安全を理由に個人情報の開示が義務付けられ、監視国家へと変身していく。国民は安全を旗印にしているので多少の疑問があっても政府の言うことを忠実に聞くようになる。
イラクへの攻撃は全くの濡れ衣であったことは現在では明白になっている。イラクが大量破壊兵器を準備しているというのは、米軍の一部がでっち上げた報告書。そもそもフセイン自身、世俗主義の独裁者でアルカイダのような原理主義者の目の敵のような存在。同時多発テロとは何の関係もない。
ビン・ラディン
WTC爆破
一方の、アフガニスタンの場合もさらに気の毒だ。同国に逃げ込んできた亡命者をかくまうのはある意味では、独立国の権利でもあるし、義務でもある。つまり、米国はアフガニスタンを国家として認めていなかったわけだ。
中世のヨーロッパにもこんな話がある。当時ヨーロッパには、都市国家といって周辺の王国から独立して自治を行っている都市が多数発生する。都市国家は独自の軍隊を持っており、周辺の王や貴族たちの干渉をはねのけることができる。だから、王国内の犯罪者やお尋ね者も都市国家へ逃げ込めば安全を確保できたのだ。ある時、一人の男が都市の少年にかくまってくれと頼む。少年は快く引き受けるが、後から来た追手の示す報酬に目がくらんで、男の居場所を教えてしまう。それを知った父親。「それは、許すべからず犯罪だ。」として、少年を撃ち殺してしまう。まあ、父親が許しても都市のルールが許さなかったのだろうが。
このような規範は、人類古来から存在する道徳であろう。日本の武士道もヨーロッパの騎士道にもそういう精神はある。危機をあおられると、国民のこのような理性は打ち消されてしまう。
アフガニスタンは、お金や軍事力では屈しない、宗教や道徳の力を持っている。イラクや中東もそうだ。金儲け一辺倒の資本主義の論理では、解決しない。だから、アメリカが軍事介入した地域はどこも滅茶苦茶な状況になってしまうのだ。
安全国家というものは法治国家とは相反する性質を持つ。法治国家は、権力者に一定の歯止めをかけるために作られたもの。法を変えるには国民の間に正しい議論を積み重ねが必要だ。しかし、危機をあおることで超法規的なことを常態化してしまえば、法治国家の枠組みをいくらでも打ち壊せる。いつも、「オオカミが来た。オオカミが来た。」と騒いでいる政治家には要注意だ。
数値目標
数値目標という言葉は良く使われます。でも、一見耳触りが良いようですが、たいていの場合意味のない数値が独り歩きして結局は世の中は変な方に発展してしまうことが多いので気を付けないといけません。
崩壊前のソ連邦では、自動車の生産量を西側諸国の追いつこうと大変努力しました。その結果、ソ連の自動車は大変重量が大きく効率の悪いものになってしまいました。官僚たちは、自動車の生産量を重量で計ったので、生産現場は生産量を水増しするためなるべく重たい車を作る努力をしたためです。
日本の上水道や下水道は、本当に過疎地域まで張り巡らされていますが、結局普及率向上のためでしょう。欧米諸国に追付け追い越せでしょう。本当に美味しい井戸水や農地や山林に下水を循環させた方が環境にもはるかに優しいのでしょうが。
日本では、高度成長期にサラリーマン向けの大規模な団地開発を沢山行ってきました。綿密な都市計画を実施して、宅地、商店街、近隣の農地をきれいに線引きしました。線引きも一種の数値目標でしょう。その結果団地には、年齢収入などが同じような人達が沢山集まり金太郎飴のような集団になってしまいます。だから地域の構成員同志の役割分担もなく、隣は何をする人ぞという関係に。今その世代が一斉に高齢化しています。地域と切り離された老人たちは、老後は介護施設に入りたい。江戸時代までは、老人の知恵は貴重な戦力だったのに。だから国を挙げての介護介護の大合唱となる。もともと老後の生活なんて国がとやかく口を出す筋のことではないはず。
農水省は、食料自給率向上を掛け声にしていますが、自給率はカロリーベースだそうです。高級野菜の畑をつぶして牧草を植えた方が自給率が向上するという計算です。実際に金額ベースでは日本の食糧生産高は世界の5本の指に入るとか。
子供の出生率なども、確かに人口の高齢化が進み出生率の低下が進んでいますが、社会の構造が変化しているためで、子供達の教育環境の整備ややりがいのある社会の構築を後回しにして子ども手当などをバラ撒いても社会を混乱させる以外の何物にもならないでしょう。
民間の会社でも経費削減とか残業代節約等に数値目標を入れるとサービス残業の増加やモラル低下を招くことが関の山でしょう。
我々の社会のほとんどの問題は、複雑系と言われるシステムですが、込み入って複雑なわけではなくモデルは単純でも結果は予測が難しいということです。しかし、モデルが比較的単純なら現場におけるその都度適切な対応で解決できるわけです。頭の良いと言われている人たちが会議をして出した結果はたいていは上手く行かない訳です。
思考実験
思考実験という言葉。理論物理学で良く行われる手法。アインシュタインが得意していたとか。特殊相対性理論の入門書では、「花子が止まっていて、太郎が速度V(光速に比べ無視できない速さ)で等速運動していて、云々…」。結構、読んでいてくたびれます。思考実験をするには、思考モデルが必要です。世の中、実際に実験を行うことは、大がかり過ぎ、コストもかかり、事実上不可能なことがほとんどだからです。だけれども、この方が、大変有効であったことは、現実の科学の歴史が証明しています。このことは、社会科学の分野でも当てはまります。社会科学で、最もモデルを有効に使っているのは経済学の分野です。
社会の力学というものは、実際に実験することは当然不可能ですし、再現することも難しいからです。また、モデルの妥当性を説得することも困難でしょう。また、モデルが良くできていて、現実をうまく説明できるほど、人々は、嫌悪感を抱き否定しようとします。人は、自分の先入観が否定されそうになると何とか理屈をつけて否定しようとするものです。次にあげる、映画館モデル、非常に簡明でうまいモデルだと思うのですが、みなさんはどうお思いでしょうか。
町中に大きな映画館がある。人気の映画が上映されていて、中は立錐の余地も無いほどの超満員。映画館の中は入場を待つ人たちの長蛇の列。映画の上映時間はとても長く、何時まで経っても中に入れない。上映されている映画はとてもつまらない。観客の目的はいつまでもこの映画館に留まること自体なのだ。実は、この映画館は、今の日本を反映したモデルなのです。
この映画館は、時間とともに縮小していく。映画館の外の人達は抗議の声を上げるようになり、中の観客は押しつぶされそうになって悲鳴を上げている。もうお分かりと思いますが、この映画館は「終身雇用劇場」の看板をあげ、「年功序列制度を守り美しい日本」という長尺の映画を上映している。この映画館が大人気なのは終身雇用と年功序列の制度が日本経済の高度成長の原動力と信じられてきたからだ。
でも、この制度は明らかに致命的欠陥があります。会社組織というもの基本的に軍隊と同じピラミッド組織。入社時に総ての社員に終身雇用と年齢に応じた昇進を約束すれば、必然的に円筒型の組織に変わってしまう。軍隊ならば強制的に兵士を退役させることが出来る。社員を解雇できない企業は、この矛盾を解消しシステムを維持するためには、常に企業を拡張していく必要に迫られる。従って、日本の企業は、利益率よりもシェアーの拡大、子会社、系列会社を増殖させて、業務の多角化を続けていくことを運命づけられてしまう。
組織が拡大している限り、このシステムは機能するが、経済の成長が止まると、この制度は瞬く間に崩壊する運命にある。原理的にはネズミ講と全く同じだ。小泉政権の規制緩和も、この状況を緩和する目的で実施したもの。これが派遣労働が増えた原因だとは、原因と結果の取り違え、主客転倒、的外れな批判ですね。終身雇用制度が崩壊しているのだ。
ドイツでは、派遣労働を正規な労働の形態と位置図け、短時間労働と高効率の生産システムを達成し、今ではEUでもっとも成功した国となっている。日本にはもう一つネズミ講モデルがピッタリの例がある。国民年金の問題である。
哲学・社会学の部屋
最近流行している言葉
人は言葉を使う生き物だ。言霊というように言葉には魔力がある。マスコミは日々、新しい言葉を発明し、普及させようとする。言葉はある意味で、葵の紋章と同じだ。「汝ら、これが見えぬか。」水戸黄門が印籠を見せるような効果が出てします。本来の意味を離れて錦の御旗のごとく反論を封じてしまう魔力があるので気をつけないとけません。
忖度(そんたく) | 印象操作 | リア充 | ヒール | 親権とは | ヘイト本 | 「カッコウの森」 | |
ウクライナ疑惑 | Empath | 大人のアスペルガー | |||||
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忖度(そんたく)
何故今頃になってこんな言葉がはやるのか。基本的には相手の気持ちを推し量る。発端は、私学の森友学園瑞穂の国小学院認可問題からで、総理の立場を忖度して云々。最近こんな難しい言葉使われてないと思いきや、実はこれは古語ではなく官僚仲間では、普通に使われているもの。官僚の立場、法や規則を守って公平が原則、しかし、実際の実務に当たっては、過去のしがらみや権力者の意向に逆らえない。こんな時に便利な言葉、こちらの立場も忖度してくれよ。「こっちにも事情があるんだ。こちらの立場を推測して理解して下さい。」では、相手は納得しないでしょう。もっと端的に言うと、「もう、話は決まっているの。議論はお終い。」が本音。
日本の官僚は、基本的には終身雇用で、止めたらただの人、上司や時の権力者の意向に背いて左遷や首になったら元も子もない。常に上の意向を忖度してやっていくことが宿命となっている。現在の政治は自民党の一党独裁、政治指導とかで、官僚への圧力が強くなっている。せっかく忖度しても、後でトカゲの尻尾切りでは、官僚もたまらない。精一杯の反抗が始まっている。本日の忖度は、悪い方の使い方。こんな忖度ならない方が良い。
儒教の道徳では、民の心を忖度するのは為政者の心得、友人関係も互いに相手の立場を忖度していけば丸く収まる。忖度ということば、単に相手の気持ちを推し量るという普通の意味だったのです。
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印象操作
首相は「印象操作」を今国会でたびたび使う。「忖度(そんたく)した事実がないのに、まるで事実があるかとのことを言うのは典型的な印象操作なんですよ」「我々がまるでうそをついているかのごとく、そういう印象操作をするのはやめていただきたい」
またまた、意味不明の言論。忖度とは、相手の気持ちを推し量ること、そんなこと、誰がどうやって証明できるの。担当の役人が忖度したと言えばそうかもしれない。事実がないと言い張ること自体が既に自己矛盾です。
印象操作とは、見慣れない表現ですが、次のような定義があるそうです。文章表現上の工夫で、断定的な口調で自己の判断を提示し、それがあたかも「一般的」であるかのような印象を読み手に与える手法。断定的な口調で自らの主張を示す。
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リア充
リア充(リアじゅう)は、リアル(現実)の生活が充実している人物を指す言葉で、2ちゃんねる発祥のインターネットスラングだそうだ。リアルでない生活が充実している人物なんていうのがあるのかね。当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だったらしい。当時は友達が1人でもいればリア充とされた。その後、このニュアンスは、従来のネット文化に染まっていない、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していく。また、学生の場合は、容姿・部活(スポーツ)・学業の面で総合的に優れている者や、恋愛面において彼女がいる・女生徒と頻繁に出掛ける等も、そのような要素・経験が皆無な者と区別してリア充と呼称されるらしい。昔風の普通の人が一番リア充なんですかね。
他にも、ソロ充=インターネット上のスラングの一つで、1人でも生活を楽しめる人を指す。他人を気にせず趣味や仕事、食事などに打ち込むことができる人のことで、同じような意味の言葉に「おひとりさま」など。一方、キョロ充=他人の目を気にしつつも、自分の学生生活がリア充であることや、行動を共にするグループの一員であることを確認せずにはいられない人、年配者にはよく分からない世界だね。
リア王なら知ってるけど!
そもそもリア充ってなんだ。少し分かりやすい説明をネットで見つけた。勝手に引用させてもらう。
タイトルは「リア充におびえる女子の本音」
“中学生「小学生の頃は良かった」。 高校生「中学の頃は良かった」。大学生「高校の頃は良かった」。社会人「学生の頃は良かった」。退職後「働いてた頃は良かった」。 いい加減気づけよ、今が一番楽しいって事に。
――私たちはしばしば過去の自分と今の自分を比較し、「あの頃は楽しかった…」なんて言いがちです。でもよく考えてみると、それってその時その時が一番楽しいってことでは?そんなことを気づかせてくれる素敵な文章ですね。
近頃私たちは、この「その時その時を楽しむ」という意識を忘れがちです。ではなぜ、この感覚が薄れてきてしまっているのでしょうか。「昔は良かった…」となげくだけならともかく、今の自分の日々がなんとなく充実していないかのように感じてしまう。これは単なる懐古主義や、思い出補正という言葉では片付けられません。では本当の原因はなんなのか。それはずばり、“リア充”です。
もうすっかり定着しつつある“リア充”という言葉。このなんともあいまいな「リアルが充実している人」という言葉を聞いた時、私たちはどんな人物を思い浮かべるでしょう。交友関係が広くて、素敵な恋人もいて、日々何かに打ち込んでいて人生をエンジョイしている…なんてイメージが思い浮かぶと思います。
ではこのリア充という言葉を使うのはどんな時か。
「あの子はリア充だからいいよねー」「私はリア充じゃないから……」
私たちがこの“リア充”について言及する時、多くの場合リア充と自分自身とを比較するような文脈で使っていませんか?逆に「私こそがリア充だ!」と声高に主張するような人はいないですよね。
私たちが日常を省みるとき、自分よりワンランク上の存在=リア充を勝手に想定してしまっているのではないでしょうか。
「仕事はやりがいもあるし楽しい……けれど、恋人がいないから私はリア充じゃない」
「大切な友達は何人かいる……けど、コミュニティが広くないから私は非リアだ」
この実体のないリア充と自分とを比べ、あたかも自分たちの日常は充実していないかのように感じてしまう。それって日々を過ごす上でとてももったいないことですよね。
自分にないものを持っている人物を見れば、劣等感を抱いてしまうのも仕方のないことです。しかしその相手もまた、本人にしかわからないような悩みを抱えているはず。こんな人の人生は充実している(あるいはしていない)なんてことは決められていないのだから、幻のリア充と自分とを比べる必要なんてないのです。
そして冒頭で述べた通り、この“リア充”は、他人とは限りません。過去の自分と現在の自分を比べ、「あの頃は楽しかった…」と感じてしまうこともあるはず。過去の思い出を懐かしむということは、もちろん悪いことではありません。しかし思い出に引きずられるあまり、今の自分の幸せを見失ってしまうのはとても悲しいことですよね。
他人に捕らわれず、自分の日常を受け入れ、日々楽しむ。それこそが真のリア充の姿ではないでしょうか。そうした気持ちこそが新しい出会いを受け入れることにつながり、そうすれば、愛情やパートナーにも恵まれ、結果的にいわゆる「リア充」になることができるのです。
表面的なリア充を手放すことこそが、真のリア充につながる。一見難しいけれど、簡単なこと。ぜひがんばってみてください! (五百田達成2015.1)
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ヒール
ヒールとは
最近NHKの歴史の番組「知恵泉」という番組で、歴史の悪役と言う意味で「ヒール」という言葉が使われていた。タイトルにも出ているので相当使われている用語がと思いきやそうでもないようだ。
もともとは米国のプロレスの番組で、色々なタイプの悪役のことを”heel”と呼んでいたらしい。一方の善玉・正統派の方を”babyface”と対立する言葉のようだ。北米圏では本来の意味で使われていたのが、日本ではマスコミを中心にもう少し広い意味で使われているようです。日本のプロレスでは、もともとは善玉と悪玉と2分法で、使い分けていたのが、実際はチョイ悪だけと憎めないキャラとかがいて、むしろ誉め言葉として使われている場合すらありそうだ。
昔の勧善懲悪型の歴史感では、登場人物を善玉と悪玉に分けたがる傾向があるが、実際には悪玉側にもそれなりの言い分はある。それらを学べば今までの価値観が変わって来る可能性すらある。「ヒール」という言葉、チョット分かりにくい気がするが、
(2019年1月31日記)
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親権とは
親権とは神権か、真剣に考えてみよう。
千葉県野田市立小4年の栗原心愛(みあ)さん(10歳)が2019年1月24日、深夜に自宅浴室で父親・栗原勇一郎容疑者(41歳)に虐待の結果殺害された事件が生じた。母親のなぎさ容疑者(32歳)も共犯の疑いがある。母親は、父親からDVを受けていたとされている。加えて心愛さんが「父からの暴力」を訴えた校内アンケートの回答のコピーを市教委が父親に渡していたことが判明。子供を守る立場の教育関係者までが虐待に加担していたことも大きな問題だ。子供を守ることが出来る周囲の大人たちがそろって父親の見方をして虐待に加担していることもこの事件の異常性の一つだ。
昨年(2018年)3月にも、東京・目黒区で船戸結愛ちゃん(当時5歳)が虐待で亡くなった事件との共通点の多さも指摘されている。さすがにこれら一連の事件は、世界中から注目を浴びており、子供の人権を守る意識の低さがユネスコなどからも忠告されるようになっている。日本の法制度に問題があることは明かだ。
今年(2019年)3月には、横浜市の橋本佳歩容疑者と交際相手の田中聡容疑者は背中から腰にかけて全治3か月のやけどをしている3歳の長女を病院に連れて行かず、自宅に放置した疑いで逮捕され。原因は熱湯のシャワーを母親が服の上からかけたとのこと。
多発する児童の虐待事件。犯人は総て実の両親。しかも罪の意識は異常なまでに希薄だ。前の2つの事件では、父親がさかんに主張するのは「自分には親権がある。」「親権の行使をしたまでだ。」彼らにとって、親権は錦の御旗。
一体親権とは何なのか。結構みんな知らないようだ。ただ、とてつもなく強い権利らしく、行政関係の人間も黙らせる力があるとか。実は、六法の中の民法に規定がある。民法に第四章親権と言う項目が出ている。基本的には明治時代に作られた規定が、現状に合わなくなってきたんだろうと思われる。どんなことが書かれているのか。
第818条【親権者】成年に達しない子は、父母の親権に服する。
最初からビックリだ。子供を育てる能力が、子供が生まれたからと言って、父母にあるはずがないだろう。本能で子育てできる動物ならいざ知らず、哺乳類(多分鳥類も)は学習しないと子育て能力は身につかないものだ。動物園で育てられたゴリラの母親、子育てできず子育て放棄、飼育員が子供を世話しないと育てられない。
母親は、自分の両親や友達、その他周囲の大人たちのアドバイスを受けながら母親になっていく。父親ならなおさら学習が大変だ。そのためには社会の仲間達とのコミュニケーション能力が重要だ。生まれたばかりの赤子は、泣いたり笑顔を見せたり、笑ったりして、仕切りの大人たちとコミュニケーションを取ろうとする。これも一種の学習だ。両親もその気持ちを忖度して適切に対応していく必要がある。
多くの父母は、不完全ながらもそこそここの能力を会得し、何とか親になれる。ところが、最近これができない父母が増えている。核家族の密室保育。「親子水入らず」の生活。本当にこれが理想なのでしょうか。子育てができない。初めはみんなそんなもの。だから周りの人達と相談しだんだん賢くなって親も育っていくんだ。
ところが、コミュニケーション能力が無い人は逆だ。子育てができないのは自分のせいではない。単に周囲の評価が間違っているんだ。密室に囲い込んで自分流に子供や妻(夫)をコントロールしようとする。既に、家庭内DVが始まっている。
親とは初めから親なのでなく、子供と一緒に学習しながら少しずつ親になっていくのだ。そう考えると、民法第818条の規定は少しヤバイ。親になれない人にまで、あんたが親から頑張りなさいと言っているようなもの。学習しなさいならいいが、親権を行使すべきだと煽っているわけだから。
コミュニケーション能力とは、親と子にとっては特に大切だ。動物には本来自分以外は敵か味方かの価値基準しかない。コミュニケーション能力の無い親は子供にとっては大変危険だ。子供は、親としての世間体を保つ道具にしかならないからだ。だから、親権者=父母と言う考えは、大変危険。危険な親には親権も一時的には放棄してもらうような対策が絶対に必要だろう。
世界的にも親権の概念に関しては、子の保護という観点から見直しが進んでいるらしい。イギリス法では従来の監護権(custody)を親責任(parental responsibility)と改めるに至っている。また、ドイツ法でも従来の親の権力(elterliche Gewalt)を親の配慮(elterliche Sorge)と改めるに至っている。日本でも、
第820条 (監護及び教育の権利義務); 親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
として、義務を強調してはいるのだが、「親だから子供のことを一番考えているはずだ」という、ウソがまかり通り、権利だけを主張するものが後を絶たないようだ。
第821条から先は、ずいぶん大きな権利が並べられている。居所の指定の権利だの懲戒の権利だのどう見ても行きすぎみたいだ。「居所の指定の権利」なんて母親が父親のDVから子供を避難させた時に父親が子供を連れ戻す口実に使われそうだ(父と母が逆のケースもあるか)。懲戒の権利も虐待の正当化に使われそうだ。
どうも、我が国は親権のついては真剣に見直す時期に来ている。憲法の改正よりも優先事項だ。今のままでは、DVの親にとっては、親権は神権みたいだからだ。
(2019年3月9日記)
【追記】
戦前までは、ヨーロッパ諸国においても親の権限がとても強かったらしい。ドイツでは特に権威主義的な傾向が強く、親が子供を殴るなどの行為も当然のこととされていたらしい。子供は親に絶対服従。労働者は上司の絶対服従に近い状況だったという。だから日本の民法はそれらをまねて親の権威がやたらと強いのでしょう。
敗戦後のドイツでは、国民の権威主義的な傾向が全体主義を生み出したとの反省から、親権と言う権利ではなく、「親の子供への配慮」と書き換えられているという。他のヨーロッパ諸国も同じ考えだろう。だから日本は遅れていると見なされるのだ。
親の権限が強くなるのは、産業革命以降で街に労働者があふれ、核家族が出現したためだ。
伝統社会の大きな家族では、家父長と言うべき頼もしいリーダが家を取りまとめていたのですが、核家族では父親の立場はそれほど頼りにならない。法の力で押さえつけようということだろう。(2020年1月11日記)
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中学生誘拐容疑
朝日新聞によると事件の概要は以下の通りらしい。
兵庫県の中学生の少女を約2カ月にわたり自分の借りている借家に住まわせていたらしい。誘拐したとして、埼玉県警は27日、不動産業の阪上裕明容疑者(37)を未成年者誘拐の疑いで逮捕。家出を望む少女のツイッターの投稿に「埼玉においで。勉強するなら養ってあげる」などと返信していたらしい。男は容疑を認め、「将来自分の会社の従業員にしたかった」と述べているとのこと。
浦和署によると、さいたま市の中学生(上とは別の中学生)の少女の父親から「娘が帰宅しない」との相談を受け、防犯カメラなどから浮上した阪上容疑者が管理する借家を先月29日に捜索。この少女のほか、兵庫県の少女も発見し保護。翌日、さいたま市の少女を1カ月余り誘拐したとして、同容疑で阪上容疑者を逮捕していた。2人は外出もでき、3 度の食事も出されていたという。更に、自分の携帯電話を所有しており親とは自分から連絡を取れる状態であったという。親との連絡の遮断は少女達の希望であったようだ。
少し前だけど、アニメ映画「天気の子」を見た。家出した少年が東京の新宿で体験したことを描いている。何故家出したのか理由は説明されていないが、そこで天気を予言できる(変えられる)不思議な能力を持った少女と仲良くなるんだ。家出するときに乗った船の中で、若い男に「困ったらいつでも相談においで」と名刺をもらい、結局その男を尋ねて行き、仕事を紹介してもらうことに(男の下働きをして食べさせてもらう。)。家出したって仕事もなく住むところも無ければ他に方法は無いからね。家出して警察が捜索している子など雇ってくれる会社ある訳がない。
今回の事件も、どうもこの男の立場と良く似てそうだ。自分の会社の従業員にでもしなければ、子供達だって居場所ない。だから、中学生の少女の立場から見ると、善玉と悪玉が入れ替わる。親権を盾に子供を連れ戻そうとする親が悪玉で、住まわせてくれたこの男の方が善玉だ。この気持ちは一生変わらないでしょう。
ジャレド・ダイヤモンド博士がニューギニアで体験したこと。奥地を探検するため、村から人材を募集しようと思って、10歳の少年に伝言を依頼した。少年は、日当や条件をつぶさに確認して、何と自分を雇ってくれと言ってそのまま隊に加わって出発してしまう。他の男たちと一緒に荷物を担ぎ同じ仕事を立派にこなしたとのこと。このことを少年の親が知るのは出発した後だ。ニューギニア社会ではこれは普通のことで、10歳(多分もっと前)にもなれば自分のことは自分で決めるのは極めて当然のこととして認知されている。もちろん貴重な経験をすることが出来た息子を父親が褒めることはあっても、叱るなど絶対にありえないことだ。でも、日本でやれば、博士は当然未成年誘拐の罪で裁判にでもなったかも。
本件の少女たちも、きっと家庭内で親との確執があって、自由を束縛されていると感じていたのでしょう。子供の人権を守る気があるなら、いきなり警察力で連れ戻す前に、よく本人の話を聞いて、場合によってはしばらくは親と別居する人生もあっていいと思いませんか。でも、今の日本、子供の権利を守る駆け込み寺のような制度が著しく不足しています。また、何時までも子供を自分の管理下に囲い込んおきたいという「親権」の考えも、時代の流れにとって著しく不適当なものになっているように思うのですが。家出したいという子供の権利、人権をどうやって守っていくのでしょう。
*未成年者誘拐罪は、未成年者本人の同意があっても、親権者などの意思に反する場合は適用される。これでは家出した少年少女を助けて相談にのってくれる善意の第三者はいなくなってしまう。親権者などの意思が不適切な場合、子供達はどうすればよいのでしょう。民法にある親権と言う項目、世界の人権団体からも批判が強いようだ。ぜひ削除するようにして欲しいものである。
*子供が家出したいという考えを持つことは、当然親の虐待が真っ先に考えられる。家出したところでどんな苦労が待っているかは、どんな子供でも知っているはずだ。つまり責任は親の側にある。親権と言う考えは子供への虐待を容認した法律だろう。
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「天気の子」
『天気の子』(てんきのこ、英題:Weathering With You)は、新海誠監督による日本のアニメーション映画作品。2019年7月19日公開。キャッチコピーは「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語」。
前作『君の名は。』から3年ぶりとなる、新海の7作目の劇場用アニメーション映画。離島から東京に家出してきた少年、帆高と、“祈るだけで晴れにできる“力を持つ少女、陽菜が出会い、運命に翻弄されながらも自らの生き方を「選択」していくストーリー。
伊豆諸島の神津島で暮らす高校1年生、森嶋帆高(もりしま ほだか)は家出し、東京本土にフェリーに乗ってやって来た。ネットカフェで暮らすも数日で所持金が尽きたため、フェリーで知り合ったライターの須賀圭介(すが けいすけ)を頼る。圭介は姪の夏美(なつみ)と2人で雑誌に記事を提供する零細編集プロダクションを営んでおり、帆高は住み込み、食事付きの条件に惹かれ、そこで働き始めた。
2021年夏の関東地方は、異常気象により長期間にわたって雨の日が続いていた。そんな中、一時的な晴天を呼ぶ「100%の晴れ女」なるものが存在するという都市伝説が流れていた。帆高はある事件から天野陽菜(あまの ひな)という少女と出会う。その少女こそが晴れ女であり、祈ることで短時間、局地的だが確実に雲の晴れ間を作る能力を持っていた。
陽菜は小学生の弟、凪(なぎ)と2人だけで暮らしており、経済的に困っていた。その様子をみた帆高は、晴れ女の能力で商売をすることを提案し、依頼用ウェブサイトを作成する。「晴れ女」のサービスは次第に評判を呼び、順調に仕事を増やしていく。しかし、神宮外苑花火大会を晴れにする依頼の際、テレビに映ってしまい依頼が殺到したため、サービスを休業した。
帆高には家族により捜索願が出されていたことと、陽菜と出会った時の事件での拳銃の発砲が警察に知られていたことから、陽菜や圭介のもとに刑事が捜査に訪れ、圭介からは事務所を追い出されてしまう。さらに子供2人だけの天野家に児童相談所が介入することになり、3人が引き離されることを恐れた陽菜と凪は、帆高とともに3人で逃げ出した。
逃避行中に異常気象が進み、夏でありながら外気は冬の温度まで低下し、雪が降っていた。大雨で鉄道が運休となり池袋で立ち往生中の3人は暖を求めてラブホテルに泊まり、インスタント食品やカラオケで一夜を過ごす。しかし能力の代償として、陽菜の身体は次第に薄く透明になっていた。最終的に人柱として彼女が犠牲になることで異常気象が収まるという伝承のとおり、その夜に陽菜の身体は消失してしまった。
翌朝、ホテルの部屋に警察が踏み込み、凪は児童相談所へ、帆高は警察署へと送られるが、2人ともそれぞれに脱走し、陽菜が晴れ女の能力を得た神社がある代々木の廃ビルへ向かう。一方、陽菜が人柱となったことで天候は回復したのか、東京は数か月ぶりの晴れとなった。
警察の追跡のなか、夏美、圭介、凪の3人の助けで神社にたどり着いた帆高が祈りながら鳥居をくぐると、彼の身体は遥か上空へとワープし、積乱雲の上に囚われていた陽菜を救い出すことに成功した。2人が地上に戻ると再び豪雨が東京を覆った。それから雨は2年半の間降り続き、東京の荒川、江戸川下流域の広範囲が徐々に水没していった。再逮捕された後高校卒業までの保護観察処分が下され神津島に戻っていた帆高は、大学進学を機に東京へと再び渡り、陽菜と3年ぶりの再会を果たし、「陽菜さん、僕たちは、きっと、大丈夫だ。」と伝えた。
【追記】現在の民法の「親権」は明治時代につくられたもの。当時の西欧諸国は、親の権力が異常に強く、男尊女卑の世界観が当然だった。都市労働者が増え、大衆化社会、核家族化が急速に進んできたことへの対応だろう。ドイツでも、労働者は上司には絶対服従、家では子供や妻は父親に絶対服従が当然のことと見なされていた。父親が子供を叩くのはごく普通のこと。家出でもしようものなら犯罪者と同じく警察のお世話にならないといけない。妻も子も父親の所有物だから。
でも、ドイツでもこのような国民の権威主義的な風潮が、ナチスの全体主義国家を生み出した原因の一つと認識され、今では「親権」と言う言葉は、単に「親の配慮」と書き換えれているらしい。
子供の人権を尊重する福祉国家なら、家出した少年少女が何とか独立して生活できるように支援し、両親からも虐待ではなくサポートを受けれるように考えてやる。これが本来の児童相談所や警察の役割だろう。そもそも、逃げたという事実を「なかったことにしよう。」では発想が非常に後ろ向きで人権無視の発想と言えるのではないでしょうか。(2020.1.15)
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「カッコウの森」
カッコウは日本人にとても親しまれている鳥。渡り鳥で5月頃日本にやって来る(夏鳥)。何と言っても鳴き声が素晴らしい。ゴルファーでもプレイ中にこの声を聴くと夏の訪れを実感するであろう。バードウォッチヤーなら是非写真に納めたいと思うだろう。俳句の題材にも成りそうだ。
でも、この鳥の習性「托卵」は、どうも人間の道徳観と相反し、嫌悪の感を持たれる方も多い。これは他の別種の鳥の巣に自分の卵を産み付け育ててもらう習性だ。托卵の際には巣の中にあった卵をひとつ持ち去って数を合わせる。ヒナは短期間で孵化し、巣の持ち主のヒナより早く生まれることが多い。先に生まれた本種のヒナは巣の持ち主の卵やヒナを巣の外に放り出してしまい、自分だけを育てさせる。
ただし、いつも成功するわけではないらしい。托卵のタイミングが遅いと、先に孵化した巣の持ち主のヒナが重すぎて押し出せず、一緒に育つ場合もあるそうだ。
あるカッコウが巣に卵を産みつけた後、別のカッコウが同じ巣に卵を産むことがあるだろう。2つの卵がほぼ同時にかえった場合、2羽のヒナが落とし合いをする。敗れたほうには当然死が待っている。
被害者となる種は、オオヨシキリ、ホオジロ、モズ等、近年オナガも托卵の被害者であることが確認されている。当然、偽の卵を見破って排除する鳥もいる。対抗するため、カッコウも卵の模様をまねする能力を発達させる。これは片利片害共進化というらしい。
カッコウがなぜ托卵をするのかという謎は未だ完全には解明されていないらしい。しかし、進化の結果、カッコウはどうも自分で子育てする能力を失ってしまったらしい。進化とは方向性があり、一度進んだ道を後戻りすることは不可能だ。
カッコウに対して、いまさら「あんた、自分の子供くらい自分で育てなさい。」と言っても、無理な話だ。進化とは逆戻りできない。カッコウが種としての絶滅を免れるには今後、この托卵の能力に更に磨きをかけていく必要があるようだ。写真はカッコウハタオリというカッコウとは別の鳥。ひな鳥は既には母鳥ようも大きくなっているが餌をもらっている。カッコウ以外にもこういう動物は自然界には沢山いるようだ。
人の場合、自分の子供の養育を他の動物に託することはないだろう。例外として、狼に育てられた子供の話などあるが、真偽の程は分からない。でも、人の場合子供の養育をその実の親が行うとは限らない。人は集団で社会生活をするから。その社会のルールや仕組みによって子育ての方法は大きく異なる。
類人猿でも、オランウータンやテナガザルのように単独生活する人達は、子供を育てるのは母親に決まっている。父親が多少助けることもあるにしてもだ。チンパンジーやゴリラのような人達や日本猿等一部のサルは、子育ては群れ社会のルールに乗っ取って行われるようだ。ちなみに現在の生物学では、人と他の類人猿は遺伝子の差が僅差であるため、人の仲間として扱うことになっている。
人は社会生活する動物。つまり、人の母親は一人では子育てできない。今の母親は一人で出産することもまれ。昔は産婆さんだが、今は大抵産婦人科で医者の助けが必要。帝王切開など昔は母親の死を意味した。運よく無事に生まれても今度は子供を育てる自信がまるでない。核家族で育った今の親たちはそもそも子育ての現場を見ることがない。子育ての実際を経験していない。自分が子供だった頃の記憶なんて役に立つはずもない。育児書なんか買ったって色々書いてあってかえって分からなくなる。このことは科学的な事実として証明されている。動物園で育てられたゴリラやチンパンジー(彼女等も人だ)も、無事主産しても母親になれない。赤ちゃんを抱きあげもしないし、ミルクもやらない。飼育員さん達が知識を総動員して母ゴリラを母親モードに切り替えてやらないといけない。そうしないと育児放棄で生まれた赤ちゃんはすぐに亡くなってしまうとのこと。
核家族で育てられた男女が赤ちゃんを持った。母親は育児放棄。父親は外部のサポートを頑なに拒否し自分達だけで育てようとする。オスの本能は外敵排除だから(脳がアドレナリンを放出状態)。母親にはDVを加え、子供が泣けば虐待する。後は破滅が待っているだけだ。
「托卵」というネットスラングがあるらしい。母親が実の父親に内緒で別の子を育てていたというケースらしい。実の父親が自分のことを被害者として訴えているようだ。この場合、実の母親は実の子をしっかり育てているのだから、カッコウの托卵に全く当たらない。こんなバカな女々しい訴えをするのは現代人のオスだけだ。草原の英雄ジンギスカンも長男は妻の元カレの子と知っていたかもしてないし、秀吉だって淀君を信頼していたかどうかは分からない。たとえDNA鑑定がどうあろうと、父親が自己責任で決めれば良い。生物の歴史を学ぶと良い。鳥類や哺乳類のような知能の高い動物では、「生みの親か、育ての親か」の答えは明確だ。育ての親しかない。「托卵」したカッコウには再び親になれるチャンスはない。親子の関係が続いているのは親と子の相互の絶え間ない学習の結果なのだ。
実は、この話はまだおまけがある。結婚できない男が増えている。不倫して人妻に自分の子を産ませればよい。不倫がバレては困るので彼女は自分の旦那からはそのことを隠し通す。この男の行為も「托卵」と言うらしい。これもネットスラングなのか。
父親の役割とは何なのだ。自分の遺伝子を後世に残すためだけなのか。「利己的遺伝子」なんていうトンデモ本が売れている。人は子供を社会全体で育てるように進化してきている。。人類の進化の歴史を見れば分かる通り、子供の保育とは母親が属している集団で行うのが当然だ。ゴリラも、チンパンジーも、人の伝統的社会もそうだ。人は今さら「カッコウ」には変われない。
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ウクライナ疑惑
米上院(定数100)で開いていたトランプ米大統領の弾劾裁判は5日、ウクライナ疑惑を巡る権力乱用と議会妨害の2つの訴追条項について無罪評決を下した。多数派を占める与党・共和党の大半が無罪を主張し、有罪支持票は大統領罷免に必要な3分の2を大きく下回った。米史上3例目となった弾劾裁判は終結したが、評決をめぐる米世論は二分され、社会の分断が鮮明になった。権力乱用をめぐっては有罪支持が48票、無罪支持が52票だった。共和党から有罪を支持した造反議員が1人出て、同党の結束に影を落とした。議会妨害について、有罪支持が47票、無罪支持が53票だった。(日経新聞2020.2.6)
格差社会、米国の民主主義の危機を表しているような事件だね。そもそも発端となったウクライナ疑惑が何なのか。権力乱用とか議会妨害とかは具体的には何を指すのか。
民主党が多数派の下院は19年12月、トランプ氏がウクライナに軍事支援の見返りとして大統領選の民主党有力候補のバイデン前副大統領の捜査を要求したうえ、議会の弾劾調査を妨げたとして弾劾訴追した。裁判は1月中旬に開廷し、陪審員役の上院議員がそれぞれの条項が大統領罷免に値するか精査してきた。
バイデン前副大統領の捜査というのは、バイデンの息子がウクライナのエネルギー会社の役員に不正に収まっていたことらしい。ウクライナに反ロシア政権を作るための工作の一環だったんでしょう。トランプ氏でなくても真相解明のためにはしっかりと捜査して欲しいね。民主党の言い分は、ウクライナ疑惑を解明することは、米国の国益に反することということらしい。トランプ氏が民主党の対抗馬のバイデン氏を貶める目的でウクライナ政府に話しを持ちかけたという可能性も否定できない。しかし、民主党の幹部の思惑とは異なり、バイデン氏が次の大統領候補に選ばれる可能性はほとんどなくなっている。格差社会の是正を目指す民権派候補が得票を伸ばし、候補者選びは混迷を極めている。
メディアを活用し感情的な反感を煽り、最後は多数決で事を決する。アメリカ型の民主主義が実は、古代ギリシャのアテネが落ち込んで衰退した原因となった衆愚政治型になっているのではないか。真摯な議論を置き去りにして多数派工作だけを最優先する。
トランプ氏は5日、ツイッターで「でっち上げの弾劾訴追に対する我が国の勝利だ」と歓迎した。6日にはホワイトハウスで自ら弾劾裁判に関する声明を発表する。
ウクライナ疑惑の真相が解明されない限り、トランプ氏が罷免に相当するかどうかは、決められないはずのことだ。
米政治サイト「リアル・クリア・ポリティクス」の各種世論調査の集計によると、トランプ氏の罷免に賛成するとの回答は5日時点で47.8%となり、反対(48.1%)と拮抗している。
真相を知らない国民を感情論で煽り、世論をリードする。これも典型的な衆愚政治だろう。
支持政党で罷免の賛否が大きく分かれていることを示す世論調査が多く、トランプ政権下で進んだ米社会の分断が弾劾裁判でも鮮明になっている。
そもそも、今のウクライナ政権はアメリカの軍事支援で造られたようなもの。ウクライナ自身何時までも反ロシア政策を続けていても国の運営が立ち行かない。ウクライナ自身が疑惑の解明に乗り出すことは自然の成り行きだ。トランプがこれにOKサインを出した。ウクライナに軍事支援する見返りとして。隠蔽体質も衆愚政治の特質だ。知らしむべからず、寄らしむべし。
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ドナルド・トランプとウクライナ論争
真相はウクライナのガス会社をめぐる疑惑。以下Wikiによると真相は下記の通りらしい。
元アメリカ合衆国副大統領で2020年アメリカ合衆国大統領選挙への立候補を目指すジョー・バイデンの次男であるハンター・バイデンは、2014年から2019年まで、ウクライナの天然ガス会社であるブリスマ・ホールディングスの取締役を務めていた。同社は、2016年までに何らかの疑惑を抱えウクライナ検察当局の捜査対象となっていたが、父親のバイデン副大統領がウクライナを訪問した際に同国の検事総長を罷免するよう要求すると、まもなくウクライナ議会は検事総長を罷免。会社は、検察当局からの追及を免れていた。
2019年7月25日、ドナルド・トランプ大統領は、ウクライナへの軍事支援を進めているタイミングでウォロディミル・ゼレンスキー大統領と電話で会談。秘密裏にバイデン親子のウクライナにおける活動について捜査するよう要請していたが、同年8月頃、会談の内容が何者かの手で明るみになった(事実かどうか確認されていない情報だね)。ナンシー・ペロシ下院議長を始めとした民主党議員らは、職権乱用であるとして大統領の姿勢を一斉に批判し始めた。本来が捜査しないように米国が止めていたんだから、OKしたところで職権の濫用とはいいがたいようだが。
大統領弾劾裁判
民主党側は、2017年のトランプ政権誕生以降、大統領選挙におけるロシアとの共謀疑惑(この件も根拠が曖昧だ)などを足がかりに大統領弾劾を模索してきた。明るみになったウクライナへの要請は、軍事支援を背景とした干渉で、国の安全保障と引き換えに政敵への妨害を試みたとの解釈もできることから、大統領の弾劾に向けた新たな材料となった。2019年9月24日、ペロシ下院議長は民主党の会合後、弾劾調査を開始すると発表した。
2019年9月26日、トランプ側は電話会談の記録を公表。ウクライナ側に捜査を促す発言はあったが、軍事支援関連のやりとりはなく「いかなる圧力もなかった」と改めて主張した。また、ウクライナのゼレンスキー大統領も、会談記録の公表に合わせてトランプからの圧力を否定するコメントを発表した。 捜査をやりたいのがウクライナのゼレンスキー大統領で、許可を求めたのが本音ではないか。
2019年10月8日、トランプは証人喚問や証拠提出を求める下院民主党に反発し、ペロシらにあてた書簡で弾劾に向けた調査には協力しないと表明。無い袖は振れない。全面対決の姿勢を鮮明にした。弾劾に関してホワイトハウスの顧問は、ペロシらあての書簡の中で手続きを始めるためには下院本会議で採決にかける必要があると主張。一方の民主党側は、下院本会議での採決は憲法で義務付けられていないと指摘して対立した。
2019年10月9日、ウクライナ論争の切っ掛けを作ったったジョー・バイデンは、ニューハンプシャー州で行われた選挙集会に出席。「トランプが国を裏切り就任宣誓を破った」、「大統領は弾劾されるべき」として初めてウクライナ論争に関する批判を行った。民主党から大統領選への立候補者を選ぶ戦いで終始リードしてきたジョー・バイデンではあったが、夏場以降、健康問題なども加わり支持率が低下。批判を行った前日には、二番手候補だったエリザベス・ウォーレンに支持率で逆転を許したとする調査結果も現れていた。
2019年12月10日、民主党はドナルド・トランプ大統領による職権乱用、議会妨害を理由に弾劾訴追状を作成したことを発表した。職権乱用は、トランプ大統領がウクライナ政府への軍事支援を保留し、バイデン親子への捜査を求めたこと。また議会妨害は、下院の弾劾調査に応じない連邦当局者らに命じたこととなっている。手続き的には、下院で大統領訴追の是非を問う採決の準備、続いて上院での弾劾裁判を行う準備が整ったこととなる。12月18日、下院は弾劾訴追決議案に関する審議を行い、職権乱用について賛成230反対197、議会妨害について賛成229反対198でそれぞれ可決し、トランプは弾劾訴追された史上3人目の大統領となった。
2020年2月5日、上院の弾劾裁判で陪審員を務める上院議員による評決があり、職権乱用については有罪48人、議会妨害については有罪47人と、罷免に必要な3分の2(67票)以上の有罪票が得られず、無罪評決となった。 有罪を主張したのは民主党議員だけという異常な結果だ。
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イラン要人の暗殺
ソレイマーニー司令官暗殺という強硬手段は、本当にトランプ大統領に指示だったのか。イラク国内に特使として主張中の暗殺なので国際法に照らしても断じて許されるべきことではない。常軌を逸している。海外訪問中のプーチン大統領や習近平主席をドローンで暗殺することと同じ行為だ。
国際世論は、すわ戦争かと。誰がどう見ても米国に正義は無い。西欧諸国は静観を決め込む。当然イランが報復すると見られていた。ところがイランは米軍基地の倉庫を爆撃するだけで、事前に予告しており人的被害は零。形だけの反撃。国内世論を良く治めたね。トランプ大統領も和平に矛先を変える。
この件、米軍の独走かも。大統領の指示としてもその目的が分からない。軍というもの大統領の押さえも利かない。一番喜んでいるのがIS(イスラム国)だとか。イスラム国を潰しているのがアサド政権とロシアとイラン(中国??)。となると、ISは米軍の別動隊。トランプ大統領も米軍の独自行動は抑えられないらしい。戦前の日本と同じだ。しかも、米国は戦勝国、軍は解体されずに残っている。また、テロリスト国家ISを影で応援している国も多数ある。イランと対抗するスンニー派のサウジ、トルコ、或いはイスラエル、表向きは反ISだけど、どうも裏では資金・武器援助を続けているらしい。中東情勢は過去の歴史もあり簡単ではない。
**ガーセム・ソレイマーニー(1957~2020年)
イランの軍人。イスラム革命防衛隊の一部門で、イラン国外でも特殊作戦を行うゴドス部隊の司令官を務めた。青年期は建築労働者として父の負債を返済するために働く。1975年にケルマーン州の水道局の請負人として働く。イラン革命後に設立されたイスラム革命防衛隊へ1979年に入隊。入隊後、軍事訓練はほとんど受けないままに出世を重ね、軍人としてのキャリアの初期に西アーザルバーイジャーン州におけるクルド人独立勢力の鎮圧に参加。 イラン・イラク戦争の際は戦場に加わり、指揮官として参加した。従軍後すぐにその勇敢さを認められ、20代で師団長となりほとんどの戦線に参加した。 イラン・イラク戦争後の1990年代はケルマーン州のイラン革命防衛隊の司令官に就任し、軍事経験を生かして麻薬の密売阻止に成果を上げた。その後、2010年代にはサウジアラビアの駐米大使暗殺未遂事件への関与やイラク軍がISILへ奪還作戦を行った際は現地入りし、地元民兵組織の作戦調整などを行っていた。 たたき上げの軍人で、イラン国内ではそれなりの人気もあったらしい。
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新型コロナウイルス
世界中が大騒ぎの新型コロナウイルスではあるが、人類は過去において何度も感染症の危機に晒されてきている。ウイルスというものがどんなに知恵を絞っても感染が拡大することを防ぐことは現在の科学技術では防ぐことは不可能らしいことがだんだん分かって来た。ヒトの移動距離が増し、大勢の人が密集する場所は、必然的に感染症が増える。人類が少量採集生活を捨て、農耕を始め都市に住むようになってから感染症の危険も急激に増えて来たようだ。次々に新手の細菌やウイルスが登場する。医療技術と細菌(ウィルスも含む)のイタチごっこが続いている。
何の落ち度もない感染者が、まるで悪者のように隔離されて、差別される。感染した患者をいかに早く治してやるかが医療の最大の任務のはずなのに未だに治療薬もワクチンも開発されたとの話もない。下記の記事(田中宙さんの配信)もかなり信憑性はありそうだ。多分、戦いは長期戦になりそうだ。
★人類の7割が感染し2年以上続くウイルス危機
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ドイツの大衆紙ビルトによると、メルケル首相は3月10日に独議会の非公開の委員会で「ドイツ国民の60-70%が新型コロナウイルスに感染するだろう」との予測を述べた。ビルトによると、ドイツのシュパーン保健相も、もし今後もずっとワクチンなどの予防策が出てこない場合、メルケルの「国民の60-70%が感染」が正しい予測になると認めた。メルケルがこの予測を述べたとき、委員会の出席者の全員が息をのんで言葉が出てこず、しばし沈黙が続いたという。
これはドイツだけの話でない。世界的に、人類の60-70%が新型ウイルスに感染す
るという予測になる。メルケルが最初に指摘したことでもない。2月末には英国政府の保健省が、最悪のシナリオとして「英国民の80%が新型ウイルスに感染し、50万人が死ぬ」と予測する報告書を作成し、わざわざマスコミにリークしている。2月末には米ハーバード大学の研究者(Marc Lipsitch)も「人類の40-70%が新型ウイルスに感染し、感染者のうち発症した人の1%が死ぬ」とする予測を発表し、米マスコミで報じられている。
これらの米英独での予測を総合すると、ワクチンなど予防策が出てこない限り、人類の40-80%が新型ウイルスに感染する。人類の60-20%は感染しないことになる。どんな人が感染しないのか詳述されていないが、大人より免疫力が強い子供たちでないかと推測される。感染しても、80%は無発症か、ごく軽症のまま終わる。
無発症や軽症の人からも他人に感染するが、無発症者は体内のウイルスの量が少ないので感染力が非常に弱いと考えられている。感染者のうち残りの20%(人類の12%前後)が中程度から重篤に発症する。中程度以上の発症者の25%、つまり人類の3%前後、感染者の5%前後は入院が必要になり、入院者の10%(人類の0.3%)が死亡すると、米国病院協会 (AHA)の非公式予測の報告書に書いている。致死率は人類の0.3%、感染者全体の0.5%ほどになる。
ドイツでは、メルケルの予測とは別に、ベルリンのウイルス専門家クリスチャン・ドロステン(Christian Drosten)も同様の予測をしており、ドロステンは「ドイツ国民の60-70%が感染するまでに2年以上かかる」と予測しているという。彼はまた「ドイツでのウイルス発症の増加のピークは今年の6-8月になる」とも予測している。ワクチンができない限り人類の70%が感染するという見方は、専門家の多くにとってそれほど意外なものでないだろう。
私の近所にいる小さな個人病院の開業医も、今年2月初めの時点ですでに「人類の多くが感染するするだろう。早めに感染して体内に抗体を作ってしまった方が良い。再感染があり得るとのことだが、感染した方が抗体ができるので良いことに変わりはない」とか「新型ウイルスの遺伝子には自然界にない塩基配列の部分があり、自然にできたのでなく実験室で作られたものだろう」と言っていた。彼は私の記事の読者でない。
人類の60%以上が感染するまでウイルス危機が続き、ワクチンなどの予防策が出てこない限り、ウイルス危機はこれから2年続くことになる。その間、国際的な人の移動が制限され、サービス業や飲食、エンタメ、観光、学校、議会、交通など、多くの産業や社会機能が制限され、世界経済に大打撃を与える。グローバリゼーションが劇的に終わる。金融危機が大幅に進行し、米国覇権体制が終わる。今起きている金融危機は、危機の序の口にすぎない。分析せねばならないことが無数にあるが、今回はここまでで配信する。
【追記】
今回のコロナは、確かに〇〇さんの言うように、人類の過去の感染症の歴史から見れば全然大したことは無い。WHOの職員の方の投稿があったが、アフリカで流行ったエボラとエイズに感染者の致死率は90%位あったとか。でも先進国はそれに対してほとんど無関心だった。
でも、今回のウィルスは世界的に富裕な大都市の人口密集地を直撃。しかも、老人の方が致死率が高い。貧困者が優先的に亡くなるなら政府は動かなくても世論は何も言わない。
今回は、金を持っていて選挙で投票してくれるお年寄りがターゲットになっている。マスコミも騒がざるを得ない。
日本では、奈良時代に天然痘が大流行した。政府の要職の役人も次々に亡くなる(藤原4兄弟の死→長屋王の祟り?)。聖武天皇は大仏を建立して、ひたすら祈祷の毎日。
乞食僧だった行基だったかが、全国から寄進をして回り、資金の調達に。人々はこれに感動して大仏は完成する。おかげて天然痘は何とか収まったらしい(自然消滅?)。
奈良時代と比べて、どれだけ進歩したのか。各家庭にマスクを2枚ずつ配ることが首相命令? 世界一のウィルス研究所でも立ち上げたら。皆さんのコメントをお待ちしてます。(2020.4.2)
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新型コロナウイルスについて
コロナウイルス(coronavirus; CoV)とは、ゲノムとしてリボ核酸 (RNA) をもつ一本鎖プラス鎖RNAウイルスで、哺乳類や鳥類に病気を引き起こすウイルスのグループの1つ。今までに多くの種類が蔓延して感染症を引き起こして来たが、今回の発見は7番目とのことだ。どうして新型かは色々説明があるけど、今までのコロナウイルスと比べて対応が難しい特徴があるらしい。もちろん、今後第8、第9の新手のウィルスが過密都市に出現する可能性は大きい。
新型コロナウイルスに感染しても、多くの場合は症状が出ない。症状が出る場合も大半の人では咳や発熱などの軽症で終わります。だったら、特別悪いウィルスではないではないか。多くの人は新型コロナウイルスに感染しても気づきません。そのため、感染が急速に広がる恐れがあります。
一方で、一部の患者さん、特に高齢者や糖尿病などの持病をお持ちの方には、同じウイルスが牙をむいて襲い掛かります。肺炎が急速に悪化し、多くの場合、人工呼吸が必要となります。70歳以上の感染者では感染者のうち10%近い方が、数週間以内に亡くなっています。もちろん一般の感染症でも高齢者や糖尿病などの持病を持っている人が肺炎が急速に悪化しなくなり易いことは同じだ。しかし、肺炎が急速に悪化し、多くの場合、人工呼吸が必要となる。人工呼吸器等はどこの病院にもある訳ないから、たいていは手遅れで亡くなってしまう。でも、中国の報告では、20代30代であっても感染すると500人に1人くらい(0.2%)は亡くなっています。ウイルスは人の力を借りてのみ猛威を振るう。そもそも、人がいなければウィルスは存在すらできないもの。今回大騒ぎしているのは総て人口密集地。
一方、普通の季節性インフルエンザでは、ワクチンがあり、ある程度の予防が可能です。多くの治療薬が開発されています。インフルエンザがきっかけで、1000人に1人(0.1%)くらいが亡くなると考えられています。高齢者や免疫力の弱っている方がインフルエンザに感染すると、それがきっかけで細菌性の肺炎になったり、持病が悪化して亡くなることがあります。毎冬、日本だけで1千万人くらいの患者が発生し、インフルエンザがきっかけで1万人程度が亡くなっていると考えらいる。でも、人工呼吸器が不足したり、医療崩壊が起こったことはない。
もし、500回に1回の確率で死亡事故を起こす乗り物があったとして、あなたは乗ることが出来ますか?新型コロナウイルスは、あなたにとって、そして周囲の人にとって、大きな脅威です。こんな脅し文句が流れています。でも、あなたは毎日車に乗るかも、車の事故なら500回も事故を起こさなくても死亡する確率はずっと高いはずです。感染を防ぐことがベストには変わりないのですが、車の運転と異なりどんなに注意しても感染するリスクはそんなに減らすことは出来ません。事実、細心の注意を払っているはずの医師や看護婦などの医療関係者に感染者が多発しています。
結局、今回の問題は感染症の発見(検査機器)、隔離(病床の不足)、医師・看護婦の不足等医療崩壊が総ての原因のようですね。
今回、WHO(世界保健機構)がパンデミック宣言をするのが遅すぎたとの批判がある(いまさら手遅れ)ようですが、特別悪いウィルスではなく、致死率もそんなに高くない。エボラ出血熱等は90%程度と極めて危険なウィルスだったけど、先進諸国は何も対策をしなかった。先進諸国は今度は自分たちの問題なのでWHOに無理やりパンデミック宣言を出させたというのが実態らしい。確かにろくな医療制度の無い後進国では、医療崩壊も起こりようがない。結局自然に収まるのを黙って待つしかないようだ。
WHOや中国を批判する人もいるようだが、彼らは今のところ最善を尽くしているようだ。武漢の巨大クラスターがひとまず落ち着いたことはとりあえず良いニュースでしょう。
新型コロナには今のところワクチンや特効薬が無い。だから今の医学界の想定としては、国民の60~80%がウィルスに感染して、皆(生き残った人々)が免疫を持つようになれば、自然と治まるとの筋書きで一致(日本の医師も含めて)している。これが現在の医学の常識であるし限界でもある。
だから、今できることは医療崩壊を起こさないように感染のピークを先延ばしにして、医療体制を整える時間を稼ごうという方針だったはずだ。特に感染が心配な高齢者や持病のある方は出来るだけ、ヒトとの接触を避けて下さいとの説明だったはずだ。このことはテレビでも何度も説明があったはずだ。
国民の半分が感染するには、1日1000人として、5000万人÷1000人/日=5万日=137年 となるので、1世紀以上かかってしまう。つまり、何時までたっても感染は収束しない。だから本当は若い人はもっともっと感染してくれないと困ることになる。もちろん感染者の数を何時までも1日1000人何て言う少人数に押さえておくことは不可能でしょう。医療崩壊よりも前に社会全体が崩壊してしまう。感染のピーク時ともなれば数千~数万の感染者が出ることになるだろう。それまでに医療機関はその対応を整備しておかねばならない。いま人と人の接触を避けるようにしてどんなに感染のピークを先延ばしにしても、ウィルスは必ず巧みに防御を潜り抜けどこかで感染のピークを迎える。
いま、やたらとクラスター等と言う言葉で、クラスターを失くせば感染をストップ出来るような幻想がまかり通っている。でも、国民の自粛を1世紀も続けるなど社会が崩壊してしまう。国民の60~80%がウィルスに感染するまで恐怖は落ち着かないということが事実のようだ。複数の感染者が出て初めてクラスターらしきものが特定できる。事前には予測できない。ヒトとヒトの接触を8割減らす等、そんなこと土台無理な要求だろうし、根拠すら薄弱だ。人間は社会的動物だからお互いに接触が無いと生活が成り立たない。国民一丸となって努力すれば感染症は防げるという精神主義は自滅への序曲にしかならない。
いま、必要なことは医療関係者の負担を軽減し、十分な医者や看護師の数と施設を極力増やすこと。サラリーマンが在宅勤務が可能なら、医者や看護師だって遠隔治療も可能。感染のリスク無しで的確な治療が可能だ。遠隔治療ならば実際に感染者と接するのは家族であり、隣人であり、ボランティアであり、だれでも参加が可能になる。
新型コロナは怖いものという先入観はあるが、かかってしましまって、治った人は免疫力を持ち、もう他人には感染させることは無い。つまり、感染者は時代のパイオニアだ。力で封じ込めることが不可能なら、新型コロナウィルスとも人類は共生するしか道は無い。
いま、自粛要請が連発され、一番被害を受けているのは子供達だ。子供の教育は社会全体で行うのは類人猿共通のやり方。核家族が普及し、両親が育児を出来ない(当然のことだ)ので、保育園、学校の存在がある。学校や保育園は子供の養育の主要な部分を担っているはずだ。子供の脳は両親以外の他の子供達や先生などの大人との対話によって発達する。この大事な機会に休園や休学等を試みるのは犯罪としか言いようがない。欧米でも家庭内DVや児童虐待が発生しているという。児童虐待は日本だけの専売特許ではないようだ。
もし、ネット学習で学校の肩代わりが出来ると主張する人がいるなら、その人は「学校は不要だ」と言っているようなものだ。子供は出来るだけ沢山の人と接することで知恵(知識ではなく)を発達させる。子供に感染症を持ち込むのは基本的には両親だろう。両親が会社に通勤していて子供だけ休ませるというのは、あまりにも不合理な指示だ。発想が狂っている。学校や保育園の休業は、最後の最後の切り札なはずなのに最初に出されてしまった。
いま、新型コロナウィルスについては誰も蔓延を望んではいない。しかし、人類も地球の一員であると同時に彼等、新型コロナウィルスも同様に地球上に蔓延する権利がある??。
短絡的感情的な議論を避けて、科学的合理的な解決策を見つけないと、いたずらに社会崩壊を招き得るべきものが無くなってしまう。先進国では一部の政治家のわがままが取り巻きの専門家の助けで異常に拡大し、被害を拡大して行く危険が大きい。新型コロナウィルスが例えば、アフリカで生じたなら、対策は何も行われずに自然消滅を待つことになったであろうから。
実は、新型コロナウィルスの問題と並行して進んでいるのは、アフリカ発の砂漠飛びバッタの蝗害(こうがい)がある。これも世界の食糧危機に結びつきかねない大問題だけど先進国では意識的に無視されている。それと、新型コロナウィルスに起因する世界大恐慌。先進国中心に回って来たグローバル経済の破綻だ。また、温暖化問題と石油価格の大幅下落。米国の大統領選挙。欧米の政府も日本政府も当然これらの問題を見ながらコロナ対策を練っているはずだ。ハッキリ言っておこう。新型コロナウィルスはどんなに努力しても感染の増加は防止できない。どのようにウィルスと共存していくかが問われている。
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感染症対策の基本方針
厚生労働省のホームページから取ったものです。基本的には水際対策は不可能で、最終的には多くの人が感染し免疫を持つまで収束しないことを前提にしています。ただ、あまり患者が増えると医療崩壊になるので感染の速度を出来るだけ遅くして、医療体制が整うのを待つのが基本です。
新型コロナウイルス感染症対策の基本方針
令和2年2月 25 日 新型コロナウイルス感染症対策本部決定
1.現在の状況と基本方針の趣旨
新型コロナウイルス感染症については、これまで水際での 対策を講じてきているが、ここに来て国内の複数地域で、感染経路が明らかではない患者が散発的に発生しており、 一部地域には小規模患者クラスター(集団)が把握されてい る状態になった。しかし、現時点では、まだ大規模な感染拡大が認められている地域があるわけではない。 感染の流行を早期に終息させるためには、クラスター (集団)が次のクラスター(集団)を生み出すことを防 止することが極めて重要であり、徹底した対策を講じて いくべきである。また、こうした感染拡大防止策により、 患者の増加のスピードを可能な限り抑制することは、今後 の国内での流行を抑える上で、重要な意味を持つ。 あわせて、この時期は、今後、国内で患者数が大幅に 増えた時に備え、重症者対策を中心とした医療提供体制等 の必要な体制を整える準備期間にも当たる。
このような新型コロナウイルスをめぐる現在の状況を的確に把握し、国や地方自治体、医療関係者、事業者、そして国民が一丸となって、新型コロナウイルス感染症対策 を更に進めていくため、現在講じている対策と、今後の状況 の進展を見据えて講じていくべき対策を現時点で整理し、基本方針として総合的にお示ししていくものである。まさに今が、今後の国内での健康被害を最小限に抑える 上で、極めて重要な時期である。国民の皆様に対しては、2.で示す新型コロナウイルス感染症の特徴を踏まえ、感染の不安から適切な相談をせずに医療機関を受診することや感染しやすい環境に行くことを避けていただくようお願いする。また、手洗い、咳エチケット等を徹底し、 風邪症状があれば、外出を控えていただき、やむを得ず、 外出される場合にはマスクを着用していただくよう、お願いする。
2.新型コロナウイルス感染症について現時点で把握して いる事実
・一般的な状況における感染経路は飛沫感染、接触感染であり、空気感染は起きていないと考えられる。 閉鎖空間において近距離で多くの人と会話する等の一定の環境下であれば、咳やくしゃみ等がなくても 感染を拡大させるリスクがある。
・感染力は事例によって様々である。一部に、特定の人 から多くの人に感染が拡大したと疑われる事例がある一方で、多くの事例では感染者は周囲の人にほとんど感染させていない。
・発熱や呼吸器症状が1週間前後持続することが多く、 強いだるさ(倦怠感)を訴える人が多い。また、季節性インフルエンザよりも入院期間が長くなる事例が 報告されている。
・罹患しても軽症であったり、治癒する例も多い。 重症度としては、致死率が極めて高い感染症ほどではないものの、季節性インフルエンザと比べて高いリスクがある。特に、高齢者・基礎疾患を有する者では重症化する リスクが高い。
・インフルエンザのように有効性が確認された抗ウイルス薬がなく、対症療法が中心である。また、現在の ところ、迅速診断用の簡易検査キットがない。
・一方、治療方法については、他のウイルスに対する治療 薬等が効果的である可能性がある。
3.現時点での対策の目的
・感染拡大防止策で、まずは流行の早期終息を目指しつつ、 患者の増加のスピードを可能な限り抑制し、流行の規模 を抑える。
・重症者の発生を最小限に食い止めるべく万全を尽くす。
・社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる。
4.新型コロナウイルス感染症対策の基本方針の重要事項
(1)国民・企業・地域等に対する情報提供
① 国民に対する正確で分かりやすい情報提供や呼びかけを行い、冷静な対応を促す。
・発生状況や患者の病態等の臨床情報等の正確な 情報提供
・手洗い、咳エチケット等の一般感染対策の徹底
・発熱等の風邪症状が見られる場合の休暇取得、外出の 自粛等の呼びかけ
・感染への不安から適切な相談をせずに医療機関を受診することは、かえって感染するリスクを高めることになること等の呼びかけ等
② 患者・感染者との接触機会を減らす観点から、企業に対して発熱等の風邪症状が見られる職員等への休暇取得の勧奨、テレワークや時差出勤の推進等を強力に呼びかける。
③ イベント等の開催について、現時点で全国一律の自粛 要請を行うものではないが、専門家会議からの見解も踏まえ、地域や企業に対して、イベント等を主催する際には、感染拡大防止の観点から、感染の広がり、会場の状況等を踏まえ、開催の必要性を改めて検討するよう 要請する。
④ 感染が拡大している国に滞在する邦人等への適切 な情報提供、支援を行う。
⑤ 国民、外国政府及び外国人旅行者への適切迅速な情報提供を行い、国内での感染拡大防止と風評対策につなげる。
(2)国内での感染状況の把握(サーベイランス(発生動向調査) )
ア)現行
① 感染症法に基づく医師の届出により疑似症患者を把握し、医師が必要と認めるPCR検査を実施する。
患者が確認された場合には、感染症法に基づき、積極的疫学調査により濃厚接触者を把握する。
② 地方衛生研究所をはじめとする関係機関(民間の検査機関を含む。)における検査機能の向上を図る。
③ 学校関係者の患者等の情報について都道府県の保健 衛生部局と教育委員会等部局との間で適切に共有を行う。
イ)今後
○ 地域で患者数が継続的に増えている状況では、入院を要する肺炎患者の治療に必要な確定診断のためのPCR検査に移行しつつ、国内での流行状況等を把握するためのサーベイランスの仕組みを整備する。
(3)感染拡大防止策
ア)現行
① 医師の届出等で、患者を把握した場合、感染症法に 基づき、保健所で積極的疫学調査を実施し、濃厚接触者に対する健康観察、外出自粛の要請等を行う。地方自治体が、厚生労働省や専門家と連携しつつ、 積極的疫学調査等により、個々の患者発生をもとに クラスター(集団)が発生していることを把握すると ともに、患者クラスター(集団)が発生しているおそれ がある場合には、確認された患者クラスター(集団) に関係する施設の休業やイベントの自粛等の必要 な対応を要請する。
② 高齢者施設等における施設内感染対策を徹底する。
③ 公共交通機関、道の駅、その他の多数の人が集まる 施設における感染対策を徹底する。
イ) 今後
① 地域で患者数が継続的に増えている状況では、
・ 積極的疫学調査や、濃厚接触者に対する健康観察は縮小し、広く外出自粛の協力を求める対応にシフトする。
・ 一方で、地域の状況に応じて、患者クラスター (集団)への対応を継続、強化する。
② 学校等における感染対策の方針の提示及び学校等の臨時休業等の適切な実施に関して都道府県等 から設置者等に要請する。
(4)医療提供体制(相談センター/外来/入院)
ア)現行
① 新型コロナウイルスへの感染を疑う方からの相談を受ける帰国者・接触者相談センターを整備し、24 時間 対応を行う。
② 感染への不安から帰国者・接触者相談センターへの相談なしに医療機関を受診することは、かえって感染するリスクを高めることになる。このため、まずは、 帰国者・接触者相談センターに連絡いただき、新型コロナウイルスへの感染を疑う場合は、感染状況の正確 な把握、感染拡大防止の観点から、同センターから帰国者・接触者外来へ誘導する。
③ 帰国者・接触者外来で新型コロナウイルス感染症を疑う場合、疑似症患者として感染症法に基づく届出を行うとともにPCR 検査を実施する。必要に応じて、 感染症法に基づく入院措置を行う。
④ 今後の患者数の増加等を見据え、医療機関における病床や人工呼吸器等の確保を進める。
⑤ 医療関係者等に対して、適切な治療法の情報提供を行うとともに、治療法・治療薬やワクチン、迅速診 断用の簡易検査キットの開発等に取り組む。
イ) 今後
① 地域で患者数が大幅に増えた状況では、外来での対応については、一般の医療機関で、診療時間や動線 を区分する等の感染対策を講じた上で、新型コロナウイルスへの感染を疑う患者を受け入れる(なお、地域で協議し、新型コロナウイルスを疑う患者の診察を行わない医療機関(例:透析医療機関、産科医療機 関等)を事前に検討する。)。 あわせて、重症者を多数受け入れる見込みの感染症指定医療機関から順に 帰国者・接触者外来を段階的に縮小する。風邪症状が軽度である場合は、自宅での安静・療養 を原則とし、状態が変化した場合に、相談センター又 はかかりつけ医に相談した上で、受診する。高齢者や 基礎疾患を有する者については、重症化しやすいことを念頭において、より早期・適切な受診につなげる。
風邪症状がない高齢者や基礎疾患を有する者等に対する継続的な医療・投薬等については、感染防止の 観点から、電話による診療等により処方箋を発行するなど、極力、医療機関を受診しなくてもよい体 制をあらかじめ構築する。
② 患者の更なる増加や新型コロナウイルス感染症の特徴を踏まえた、病床や人工呼吸器等の確保や地域の医療機関の役割分担(例えば、集中治療を要する重症者を優先的に受け入れる医療機関等)など、適切な入院医療の提供体制を整備する。
③ 院内感染対策の更なる徹底を図る。医療機関に おける感染制御に必要な物品を確保する。
④ 高齢者施設等において、新型コロナウイルスへの 感染が疑われる者が発生した場合には、感染拡大防止策を徹底するとともに、重症化のおそれがある者については円滑に入院医療につなげる。
(5)水際対策
国内への感染者の急激な流入を防止する観点から、現行 の入国制限、渡航中止勧告等は引き続き実施する。一方で、検疫での対応については、今後、国内の医療資源の確保の観点から、国内の感染拡大防止策や医療 提供体制等に応じて運用をシフトしていく。
(6)その他
① マスクや消毒液等の増産や円滑な供給を関連事業者に要請する。
② マスク等の国民が必要とする物資が確保されるよう、過剰な在庫を抱えることのないよう消費者や事業者に 冷静な対応を呼びかける。
③ 国際的な連携を密にし、WHO や諸外国の対応状況 等に関する情報収集に努める。また、日本で得られた 知見を積極的に WHO 等の関係機関と共有し、今後の対策に活かしていく。
④ 中国から一時帰国した児童生徒等へ学校の受け入れ支援やいじめ防止等の必要な取組を実施する。
⑤ 患者や対策に関わった方々等の人権に配慮した取組を行う。
⑥ 空港、港湾、医療機関等におけるトラブルを防止するため、必要に応じ警戒警備を実施する。
⑦ 混乱に乗じた各種犯罪を抑止するとともに、取締りを徹底する。
5.今後の進め方について
今後、本方針に基づき、順次、厚生労働省をはじめとする各府省が連携の上、今後の状況の進展を見据えて、 所管の事項について、関係者等に所要の通知を発出するなど各対策の詳細を示していく。
地域ごとの各対策の切替えのタイミングについては、 まずは厚生労働省がその考え方を示した上で、地方自治 体が厚生労働省と相談しつつ判断するものとし、地域の実情に応じた最適な対策を講ずる。なお、対策の推進に当たっては、地方自治体等の関係者の意見をよく伺いながら進めることとする。 事態の進行や新たな科学的知見に基づき、方針の修正が必要な場合は、新型コロナウイルス感染症対策本部において、専門家会議の議論を踏まえつつ、都度、方針を更新し、具体化していく。
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マスクの効用
マスクをつけた動物は人以外にいない。WHOの説明でも、マスクは感染防止にはそんなに役には立たない。ないよりまし程度とハッキリと言っているのに、何故日本人はこんなにマスクが好きなのか分かりますか。
医療従事者や理容師さんは、お客とどうしても顔と顔が近い距離で接近することがあるでしょう。その時、偶然のセキやクシャミが出ると、飛沫が口から口へ感染を広げる可能性があると考えられます。医療従事者や理容師さんは勿論プロですから、チャンと横を向くとか、タオルで口を覆うことをするので、彼等からお客さんに感染が移る可能性はほとんど無いでしょうから、万が一の予防措置。しかし、身動きの制約されたお客さんの方は、偶然のセキやクシャミが出ることを避けるのは難しいでしょう。医療従事者や看護婦さんが感染するケースが急増してます。彼等はキチンとマスクを着け、最善の注意を払っていたはず。それでもマスクだけでは感染を防げないことを証明しています。
つまり、マスクは他者への感染を防止するためであって、自分への感染を防御する効果はほとんど期待できないという訳。着けないよりも多少マシという程度。「ご自身の予防用にマスクを着用することは、混み合った場所、特に屋内や乗り物など換気が不十分な場所では一つの感染予防策と考えられますが、屋外などでは、相当混み合っていない限り、マスクを着用することによる予防効果はあまり認められていません。」というのが厚生労働省の専門家の見解。
それにしては、マスクの需要は異常。なんで買い占めや品不足が起こるのでしょうか。極めて少数の感染したら危険な人達の命を守るためにやっているんでしょうか。みんな自分が感染源だと意識しているんでしょうか。若い人達は、家の外に出たら既に大気がコロナで汚染されていると思っているようです。
しかも政治家の対応は、国民にマスク(2枚だけ)を配り、国民に向けてテレビでマスクを着けて話をしている。明らかに多くの国民に「マスクを着ければ大丈夫」のアピールだね。
日本の医療はそんなにやわではありません。感染したら重篤な症状になる方々にあなたが接触できる可能性はほとんど無いはずです。しっかりと防御されています。
そうではなく、あなたは単に自分が感染したくないと思っているだけでしょう。もしそうなら、マスクはあまり意味がありません。国はあなたが潜在的な感染者だと疑っているからあれほど執拗にマスクを着けろといっているんです。PCR検査を受けている人は、国民のせいぜい0.2%程度でしょう。あなたは自分が感染を済ますまでは、ずっと被疑者な訳です。
他のヒトと会うのを7~8割減らせと要請が来ています。誰が感染者か分からないので、100%近くにしないと感染は防げないし、そもそも現時点で感染を防ぐことに意味があるかどうかよく考えて下さい。そもそも人間というように、ヒトとヒトが面談しなくなったら社会生活は崩壊してしまう。国民に生きるのを止めて感染の恐怖が去るまで冬眠しておけとでもいうつもりでしょうか。専門家の意見では国民の6~8割程度が感染して抗体を持つようになるまでブームは収束しないと言っています。感染が増えるのを減らせても防ぐことは不可能。もし、一日1000~2000人の感染者しか出なければ、この状態は1世紀近くも続いてしまうことになる計算ですよ。今やるべきことは、感染した人が安心して治療を受けれるようにすることが最優先の課題のはずです。
人が10人いて、確率的に3人程度が感染の疑いがあり、1人が感染すれば重篤になる可能性のある人とすればどうしますか。危険のある1人を隔離して、他の9人は平常通りの生活をすることがベストのはずです。今国がやっていることはこの真逆です、1人の命を守るため、後の9人が自宅待機で人との接触を避けて隠遁生活を強いられています。新型コロナウィルスは大部分の人がほとんど無自覚で感染したのかどうかすら分かりません。PCR検査を受けている人は、国民のせいぜい0.2%程度なので、あなたも既に感染を終えて治っているかもしれません。もしあなたが感染して既に完治しているとしたら、極めてラッキー。既に抗体を持っているの実生活でバリバリ働くことが可能になります。
でも、何故国はオリンピック延期が決まってから、急に都市封鎖に近いことまでやって完全試合を試みるようになったんでしょうね。専門家は今さら水際対策は出来ないと言っているのに。
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新型コロナウィルスを世界にバラまいたのは中国??
新型コロナウィルスの自然発生説、人為説諸説あろうが、諸説あろうがいずれにしろ中国が発生源であることには変わりない。問題なのは世界に広がる人の心に伝染する内なるウィルスの方だ。
しかし、中国政府の武漢封鎖による、外部への流出策は、全力で行ったものであり、故意にバラまいた訳では無かろう。問題は、その後世界に向けた発信が歪曲されたもので、その歪曲にはWHOを始め多くの国も関与している可能性だ。
そもそも、問題が中国国内だけにとどまっていれば、エピデミックであり、パンデミック宣言を出す必要はない。新型コロナウィルスの感染のスタイルは、感染症としてはかなり温和なもので、大多数の人は感染しても気がつかず、人から人へと静かに感染を進め、ある程度クラスターと呼ばれる集団が出て初めて爆発的に猛威を振るう。だから、都市封鎖した後は、ある程度の感染を認め、市民全体が自然の免疫を有するようになって自然と治まるのを待つのが最適な方法であることは感染症対策の常識であったはずだ。
ところが、中国政府のやったことは、真逆な方法。市民にもマスクをかけさせ、外出規制、stay home。
市民にも感染後の恐怖を代々的に宣伝し、市民自らが協力を求めるように求めた。市民の自由を奪い統制を強めるファシズム的な方法だ。本来普通のの民主主義の国では許されざる暴挙だ。
パンデミックを出す目安としては、感染の致死率が大きいことが必要だろう。致死率は5%前後と推定されている。大多数の人は感染しても気づかない新型コロナウィルスの場合、PCR検査を実施して陽性となったもののみが感染と判定される。PCR検査の実施が少なかった日本は致死率3%強程度らしい。致死率5%は、ペストやコレラと比較すれば著しく小さいが、一般のインフルエンザよりはかなり大きいらしい。PCR検査が無ければ感染者は零のまま気がつかれなたっかのか??
一般に言われるように実際の感染者の数はもっと多いという主張は確かにそうだが、だとすれば本当の感染の致死率は逆に大いに下がり、中国政府のやったことは、明かに過剰演出と言えそうだ。しかし、何故かこの方法がマニュアル化されて世界中に広まりつつあることだ大問題だ。
中国政府の対応は、明かにチフスやコレラなどへの対応と同じ。多分どの先進国も同じような基準かも。防護服の専門の医師達が、特別な車で感染者を移送、隔離。過密な隔離施設で危険物として取り扱われる。でも、致死率が5%程度なら手当が本当に必要の人の20倍もの人達を収容しないといけない。PCR検査を多数実施した国ほど医療崩壊を引き起こし多数の犠牲者を出している現実を直視しないといけない。 PCR検査で陽性となった潜伏期の多くの人は一定期間の後、自然と陰性に変わり抗体を持つ感染拡大の防波堤になってくれる貴重な人達だ。彼等を院内感染で本当に疲弊発症させてしまっては本末転倒だろう。
中国政府の真の目的に気がつかないといけない。彼等の目的は、国民に徹底的に新型コロナウィルスが恐ろしい敵であると洗脳すること。マスクやstay homeはそのための手段。PCR陽性者へのいわれなき差別。絶対に感染したくないとの恐怖感。ファシスト達にとっては美味しい密の味。恐怖感を持った国民はリーダーに絶大な信頼感を寄せてくれる。
国民を感染から守っていれば、彼等は何時までも抗体を持てず、マスクやstay homeを続けてくれる。緊急事態の解除は不安感にかられた国民は望まなくなる。更に何時までも2次、3次、4次の感染の大拡大に怯え続けなければならない。この状態永遠に続いて欲しい。
そう考えると今、日本の緊急事態宣言も異常で唐突。オリンピックの延期が決まるまでは、日本の新型コロナ対策は世界で最も成功していた。死者が米国の1/100以下だ。対策が非常に優れていたからに他ならない。新型コロナで命を失う人は、95%以上は人一倍防衛本能が強い65歳以上の高齢者。小中学生、高校、大学生、働き盛りの大人たちにマスクをかけての外出自粛促すことは愚劣の極み。彼等の多くは全く無害な一時的感染者(潜伏期)。いずれ抗体を持って陰性に。静かに感染を進めた方が明かにベターだ。マスクを外し街に出よ。国民の60~80%が感染を終えるまでコロナは収束しないとは言われるが、かといって収束を遅らせて良い理由は何一つない。
Stay homeを叫ぶ者は中国政府への協力者か。彼等はウィルスと共生を図る意図もないし、かといって、ウィルスを根絶(多分不可能)する意図もない。何時までも世界の人々に恐怖感を持ち続けてもらい、その恐怖感を利用した世界征服を目論んでいる。
「the threat of a pandemic has become very real. But it would be the first pandemic in history that could be controlled(パンデミックの脅威が現実味を帯びている。でも、これは史上初めてコントロール可能なパンデミックだ)」
このWHOの言葉、今の中国流の対策を示唆しているのか。中国国民は未だ抗体を持ったものが3%未満だという。これは中国政府の、国民が恐怖感を持ち続け、素直にファシズムに従うための意図的な対策のおかげだろう。つまり今後何時でも爆発的感染拡大の可能性は残っている。彼等はこれからも鎖国を続け、マスクをかけ、ファシズムの監視社会の中で生活を続けることに。
「サルの惑星」という小説がある。国民が未知のウィルスへの恐怖感から、引きこもりを続け脳が退化して猿に狩られて奴隷にされてしまう話だ。SFの世界が現実味を帯びてきている。
最近になって、新たに開発途上国で感染拡大が流行っている。原因は中国政府が熱心に推進するPCR検査を盛んに実施したためのようだ。新型コロナウィルスの感染はPCR検査を実施しない限り発見は不能。つまり、知らぬ間に感染が終わり恐怖は終了。PCR検査は患者への適切な治療を行うためのもので、感染者の数を数えても百害あって一利無しだ。
PCR検査を沢山実施した国=沢山感染者を出した国=沢山死亡者を出した国。
中国政府の狙いは明確。世界中の多くの国を新型コロナウィルスの恐怖に陥れ、何時までもファシズム閉鎖を続けさせること。その間の中国だけ経済で大儲けしよう。
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日産自動車の問題
日産とルノーの戦いか。日本の経済産業省とフランス政府の戦いか。東京地検特捜部がやけに慌てている。カルロス・ゴーン氏が日本から脱出したということは国際的組織のネットワークが関連していることは明白だろう。また、ゴーン氏の言う通り、日本の政府機関が裏で動いていることも明白な事実であろう。証拠も十分でない段階で異常な長期勾留・拘束は確かに国際的にも非難されて当然で、これ以上騒ぎ立てることは得策ではないように思うのですが。東京地検も海外に逃亡されたから面子が潰されたという考えも可笑しい。長期勾留と拷問で自白を促すというやり方は、日本は警察国家だと世界に宣伝するようなものだ。そもそも発端は日産とルノーという企業同士の問題なはず。自動車産業が未だに国の基幹産業という経済産業省の考え方も古い。
日本のリポーターは「ゴーン被告は無罪と潔白を主張するんであれば、なぜ海外に逃げたのか。なぜ日本で堂々と裁判を受けて無罪を勝ち取らないのか」と主張したらしいが、日本の司法制度ではたとえ無罪でも有罪にされてしまうという理屈には勝てない。
そもそも裁判とは検事側に有罪を立証する責任があるので。無罪を証明することなど論理学的に不可能な技だ。証拠不十分な段階で逮捕を実行し自白を強要しようとする地検側に無理がある。
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麒麟(きりん)が来る
今回NHKが放映予定の時代劇大河ドラマ。主人公・明智光秀が負けた側の謀反人だからという理由だけで避けられてきたテーマだが、歴史と言うものは敗者の側から見た方が学ぶことは多いものだ。NHKも担当者は大変な熱の入れようみたいだ。
ところで、この番組は正月明け早々に始まる予定が、かなり延期されたという経緯がある。発端は女優の沢尻エリカ容疑者(33)が合成麻薬MDMAを所持していた疑いで逮捕された事件らしい。沢尻容疑者は、2020年1月に放送が始まる大河ドラマに初回から出演する予定だったが、NHKから11月21日代役として川口春奈さんが務めることが発表された。
川口さんが演じるのは、戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)役。明智光秀と姻戚関係であり、幼い頃からの付き合いで、政略結婚により、のちに織田信長の正妻となる人物。
ドラマのロケはほとんど終わっていたので、最初から撮り直しの部分が多く、そのため膨大な追加費用と労力が費やされたといわれる。一説によると数億円以上とか。何故、このような無駄な費用をかけてまで造り直しをしなければいけなかったのか。理由は明確にされていない。
そもそも、沢尻エリカ容疑者がやったこと、社会的な制裁を加えねばならないほど凶悪な犯罪なのでしょうか。所持していたいう麻薬、海外では簡単に入手できるものらしく、沢尻さんが持っていたということは、かなり多くの日本人が使っているのが実態で、たまたま知人から違法とは知らずにもらっていた可能性が高い。特に大麻のような麻薬は既に、海外でもカナダを始め比較的リベラルな先進地域では既に合法化されているという。
麻薬が禁止されている理由は、健康を害するという一点だけだろう。つまり、沢尻さんは騙されて健康を害した被害者で、それだけで十分な制裁を受けているはずだ。本当に気の毒な話だ。
NHKは、視聴者からお金を徴収して運営している会社だ。無駄な費用をかけてまで造り直しをするなど絶対に許されない行為だろう。一体その資金は誰が負担しているのでしょうか。麻薬事件で捕まるのはいつも、軽微な利用者の芸能人等のタレントで、裏で巨額の利益を得ている販売組織の親玉は絶対に名前が出て来ない。
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Never Let Me Go
"Never Let Me Go"、日本語の翻訳では「私を離さないで」。カズオ・イシグロさんの小説だ。ご存知ノーベル賞作家です。読み進めて行けば、これは現実の出来事ではなく、まさにSFの世界であることが分かるが、遺伝子工学の倫理的問題も絡んでいる。
余りネタ晴らししてしまうとこれから読む人の興味を半減させてしまうかも知れないが、逆に問題がはっきりしてかえって読もうという気になる人もいるかもしれない。
キャシーという名の女性が、孤児院の出身らしく、自分の過去を振り返っていく話だ。仕事は介護士ということ。それと頻繁に出て来るのが「提供者」という言葉。
提供者というのが実は臓器提供者なのだ。医学の進歩で臓器の需要が増えるので、専門に提供する産業が育ってきたという前提。だから、この孤児院にいる子供たちは、みな試験管ベビーで育ったクローン人間。実の親は不明。孤児院での教育は至れり尽せりで、将来自分たちの置かれた立場に矛盾を感じないで受け入れるに周到に準備されている。提供者は何回か臓器を提供した後、死に至る。介護士というのはそれを看取る役目だ。介護士を続けていれば提供をしなくてもいいが、介護士を止めれば、提供者にならねばならない。
クローン人間というのは、産業界が勝手に作り出したもの。どうしようと後は資本の論理に従うだけだ。でも、実際には心も精神も一般の人間とは何も変わらない。孤児院の教育者たちもそこは感じており、それなりの人間教育をしてきている。社会人になっても見た目は一般の人と変わらない。最愛の恋人を臓器提供で死なせた主人公キャシーがその後どうなったかは書かれていない。ただ、世の中は個人一人の力では変えられない。
では、一歩譲って、クローン人間たちが人の心を有していないように作られていたら。我々は、牛や豚を食べる。牛や豚だって感情が無い訳ではない。現在の屠殺は近代工場の一般に目に見えない所で行われているが、実際に現場を見た人は余りにも残酷でしばらくは肉が食べられなくなるらしい。日本では屠殺という作業は仏教の影響で不浄な仕事と見なされていたが、専ら被差別階級の人々が行ってきたという歴史もある。ここでいったん筆をおくけど、この問題根深いものがあるね。
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嘘発見器
テレパシー (telepathy) とは、ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されることで、 超感覚的知覚 (ESP) の一種、かつ超能力の一種とされている。 漢字表記では「精神感応」とも。
もし伝達する手段が、本当に何もないなら超能力は科学では解明できない。しかし、脳波、磁気、電波、超音波等他の人には感じないものを感じる能力がある人がいるならこれは科学的に調べる価値はあるかもしれない。自然界でも他の生き物が感知できないこのような信号を感知できる生き物が存在しているらしい。
しかし、人の心の内容を、言語・表情・身振りなどで伝達でき、受け取ることが出来るということは、他の類人猿から見れば人はかなりの超能力者であるともいえそうだ。
ところで、嘘発見器と言う機械が発明されている。
嘘発見器(Lie detector)とは人間の生理現象の変化から被験者が嘘をついているかどうかを判定する装置である。一般に嘘を見破る装置といわれているが、人間の精神を調査する装置として性的嗜好や精神病の判定にまで広く使用されているらしい。つまり、嘘発見器は超能力者ではない。脳波、磁気、電波、超音波等既存のデータを上手く利用しているだけだ。
代表的なものとしてポリグラフを使用した装置が有名である。嘘発見器に使用されるポリグラフは発明者レナード・キーラーの名前を取ってキーラー・ポリグラフと呼ばれており、これがポリグラフ=嘘発見器という代名詞を生み出す原因となっているらしい。またキーラーは嘘発見器によって無実を証明する組織を設立した。法廷で証拠能力よりもマスメディアがこの結果を大きく取り上げ、これが議員から犯罪者まで身の潔白を証明して欲しいと望む人たちがキーラーに嘘発見器で自分の証言を判定してくれるように依頼者が殺到する原因となった。この組織は後にアメリカポリグラフ協会になった。
装置には血圧や心拍数の変化を読み取るものや、脳波や声紋を測定するものなど様々な種類が開発されているらしい。 検査法は一般的に次のような手順で進められる。まず、検査者は被験者に対してベースラインとなる反応を調べるために、名前や住所といった嘘をつく必要の無いありきたりな質問をする。必要なベースラインが得られたら本題の質問事項に入る。特定の質問に対してベースラインと顕著に異なる反応が検出されれば、その返答は疑わしいと判断される。
裁判における嘘発見器の使用に関しては論争があり、嘘をつかなくても反応する、あるいは嘘をついても反応しない場合がある、疑いをかけられただけで不安になり反応してしまう人もいる、予備知識があれば、意図的にベースラインの測定を歪めることができる、などの問題点が指摘されている。
嘘発見器が世界中で最も使用されているのはアメリカであり、使用がピークに達していた1980年代にはアメリカ全土で五千人以上の検査技師がおり、年間二百万人が嘘発見器にかけられているといわれている。日本でも約100人の検査技師がいて年間5000人を検査しているといわれている。アメリカでは使用しているのは警察だけでなく核開発施設の職員から民間企業での市場調査からハリウッド映画の観客まで様々な場所で使用され続けている。
多くの企業や組織で従業員の不正を暴く装置として使用されてきた事実があるが、これは「嘘をつき、また不正を行えば絶対にばれる」ということを刷り込むための道具であったとされている。近年では従業員の士気を下げるデメリットが大きくなり、電子セキュリティ技術の発達、監視カメラやパソコンの監視ソフト、生体認証などによって従業員の監視体制が強化されたこともあり、嘘発見器を従業員に対して使用することはほとんどなくなった。これは嘘発見器がセキュリティシステムと監視装置に取って代わられたわけである。
嘘発見器は同性愛者を狩りだすためにも多用された、嘘を識別する装置としてだけでなく、性的嗜好を判定する装置としても活躍したのである。また、ジョン・ラーソンはローガンズポート病院で精精神病の診断に嘘発見器を使用した。この装置は「リアクトグラフ」と呼ばれていた。
映画やドラマにおいて、被疑者の取り調べで嘘発見器をつないで嘘をついていないかを検査するシーンもしばしば見られる。歴史的に「嘘発見器」や虚偽を検出するもの、と言った名称や認識がなされてきた事もあった。現在、ポリグラフ検査は「ウソを発見する」ものではなく、「記憶検査の一種」であるとされている。現代においては、警察の捜査において、参考として活用されており、法廷での証拠能力は認められていない国が多い。
人の心の内容を、言語・表情・身振りなどで伝達できるという能力は、人と人が感情を共有し、共に行動できるようにするため進化の過程で獲得した能力のはずだ。嘘発見器はこのような行動に伴って結果的に不随意的に反応する血流の変化、脳波の変化等を感知しようとするもの。反応は極めて個人差やその時の環境が与える影響が大きく、出て来た結果の信頼性も極めて間接的で誤差も検証できない。善意の嘘は発見できても、悪意のある嘘は逆に見逃す可能性も大きそうだ。そもそも、嘘発見器は自分がついた嘘を発見することは出来ない。
そもそも人の心中身は脳が作り出している仮想空間だ。しかし、このような仮想空間を造り出す能力は、人が進化の上で必要なため生じたもので、これこそが人が人たる所以だ。
だから、嘘かどうかの判定は物的証拠による実空間で判定しなければ真偽は不明だ。
最近流行している言葉
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士農工商
士農工商とは、儒教において社会の主要な構成要素(官吏・農民・職人・商人)を指す概念である。「四民」ともいう。もっと端的に言えば国民皆の意味しかない。似た言葉に「百姓」というものもある。これも基の意味は百の姓(かばね)、色々な職業の人々。つまり、総ての人の意味しかない。
日本では、明治~現在まで、江戸時代に存在した?古い封建的な身分制度を意味すると捉えられて来た。最近、実証的な研究が進み、現実に施行された制度ではない、ということは明治期に捏造されたプロパガンダと理解されるようになった来ている。2000年代には「士農工商」の記述は、文部科学省検定済教科書から削除される様になった???。知りませんでした。これホントのことでしょうか。
中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視された。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えた。だからと言って重農主義の政策が実施されたという証拠は無いようだ。
士農工商の概念は奈良時代までには日本にも取り入れられ、「四民の徒、おのおのその業あり」などと記されている。でも、奈良時代は武士階級ともいえる「士」は役人の意味か。これがだんだん職業軍人階級を意味するようになるらしい。
元々武士の多くは武装した農民から発生したものであるため、「士」と「農」の違いはかなり曖昧なものであった。その転換期は戦国時代後期である。1582年頃から始まった太閤検地や1588年の刀狩によって、武士と百姓が分離され、その職業(身分)が固定化されるようになる(兵農分離)。
兵農分離政策は江戸時代に強化され、職業は世襲制となる。また、「士」(武士)が「四民」ではなく支配者層として他の四民(三民)より上位に置かれ政治を行う階級とされ、苗字帯刀、切捨御免などの特権が認められ、髷の結い方、服装などに差異が設けられ、士分とそうでないものの通婚は禁じられた。武士というもののマニュアルが整備されて来たわけ。
しかしながら、江戸時代中期頃になると貨幣経済や産業の発達により商人が政治、経済に大きな影響力を持つようになり、大名貸のように武士が経済的に商人に依存するようになった。このため商人には町人でありながら扶持米や士分など武士身分並の待遇が与えられる者もいた。武士という身分が金で買える時代に。 また、藩の召し抱えで職人が昇格することも多数あった。例として田中久重(日本のエジソン)が挙げられる。時代の変わり目では身分制度は100害あって一利なし。
上記のように士農工商の職業概念は実際の歴史上指摘される色々な身分制度とは大きく異なっていることが分かる。ギリシャ・ローマ時代の奴隷制、インドのカースト制、アメリカでの黒人奴隷制、南ア等の人種差別などと比べて見れば一目瞭然。
江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、「百姓」と「町人」を並べるものであった。また、「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされた。この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。しかし百姓・町人身分は「平人」身分としてくくられ、「平人」が武士になることは多くなく、また、「平人」が「えた」「ひにん」などになることはめったになかった。 一般に言われるような差別は存在していないようだ。
ただし、「えた」「ひにん」などと呼ばれた人々は、公家や武士はもちろん百姓や町人からも一線を画されており、彼らは「人外」、すなわち同じ人間ではないかのようにみられ、人間づきあいから「排除」されていた。ただこれは幕府として制度か、社会的(住民自らが作り出したもの)なものかは要検討だろう。ただし、この差別の起源は更に古く、江戸時代の身分制度とは全く異なった観点からの議論が必要だろう。
江戸時代の身分制度と言われているもの。藩の財政と大きく関係している。武士階級は藩に給料をもらいある意味寄生している。本来はリストラして人数を大幅に減らせば済むのですが既得権があり難しい。藩の収入は米といくらかの特産物。藩のコントロール下に置いておかなければ。すべての産業が規制産業で既得権最優先だ。自由に職業を選択して貰ったら藩の財政が破綻してしまう。実際幕末では多くの藩が破綻していたらしい。
江戸時代の職業は世襲が原則(規制国家で新規参入は原則禁止)とはいえ、百姓・町人の間では職業(身分)の移動は比較的容易であり、武士の下層(徒士)や足軽との身分移動も当然あった。ある程度は金で買える物だから。例えば、/養子縁組・婿入り/御家人株の買得/
武家奉公人からの登用用人としての雇用/帰農。
徒士や足軽と百姓上層との間にある程度の流動性があることに着目し、この階層を「身分的中間層」と呼ぶ考え方もある。この他、百姓が苗字帯刀の特権や「士分格」という格式を得ることがある。しかし、この特権・格式は必ずしも武士化ではない。また、士分とその他の身分の間の通婚は禁じられていたが、養子縁組によりこれを回避することができた。
明治時代になると、近代国家へ脱皮するためには規制の多い封建制社会の身分制度を破棄することは避けて通れない。明治政府により江戸時代の身分制度(士農工商)が廃止され四民平等の政策(規制緩和)が採られることになった。ところが、支配階層には皇族・華族・士族の称号が付与され、戸籍に明記された。 つまり新しいより強固な身分制度を構築し、法の下に固定化した。
明治時代以降の歴史学者は士農工商の言葉を江戸時代の身分制度を表すものと解釈するようになる。そして明治になって人々は身分制度から解放されたと主張する。しかし、実際はヨーロッパ型の新しい身分制度としてより強固なものとして再構築されたことを見失ってはならない。ヨーロッパ型の新しい身分制度的な考えは日本にしっかりと根を下ろしている。
明治維新で明治の指導者たちは、西洋文明を学ぶのに取捨選択して良い物だけを受け入れたと自画自賛されている。海外の研究者たちもこの点については特に異論は無いようだ。でも実態は、支配者達の都合の悪いこと以外は総て受け入れたようだ。つまり、日本固有の良い美風も同時に洋風に置き換えられている。
ヨーロッパ型社会は、階級社会、身分社会と言われている。明治に取り入れられたものとして貴族の概念。伯爵、侯爵、男爵、子爵何なんだろう。ヨーロッパには封建時代の長い伝統がある。一見民主主義が進展し色々な国民の権利が生じているように見えるが、実態は旧態依然のものも多い。家族制度などその最たるもの。男尊女卑の風潮もこの時代に強化されたものだ。現在の日本に残っている差別思想はどちらかと言えば江戸時代ではなく、明治期に西洋技術文明と一緒に導入されたものである可能性が高い。この点は更に検討が必要だ。
平民以外の特権身分のうち、比較的人口の多い士族は早々に特権を失い、平民とは戸籍表記上の違いしかなくなった。華族は国家から公法上の特別待遇が与えられたが、その所帯数は最終的には1000家程度であった。皇族以外の身分制は日本国憲法の施行によって廃止されたが、皇族は戦後の制度にも名を留めている。 身分制度的な考えはあっても経済の発展に伴って自然消滅した形ではあるが、日本人の精神文化に未だに影を落としている。
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都市封鎖外出制限は正義か
感染対策として、感染者を隔離する手段は、古代でも全くなかったとは言い切れない。細菌やウィルスが発見されるまでもある程度、人と人が接触を通じて感染を広げる可能性があることは古代人も気がついていた。しかしながら、感染者の集団を強制的に隔離し、彼らを濃密接触の地獄に陥れ自分たちだけ安全に助かろうという疚しい気にはならなかったと思われる。当時は感染に気がついた時には、既に共同体のほとんど全員が感染している状態でしょうから、そもそも隔離何て言う野蛮な方法は決して考えもつかなかったはずです。
ところが、人は家畜を飼うようになる。豚も牛も可愛い。家族の一員だ。ところが、家畜を多数飼うようになったら。モノカルチャーだ。密集・密着・密接して同じ所に閉じ込められて生活。当然、一匹が感染すれば群れ全体が全滅する。だから、感染した家畜は隔離し、屠殺し、焼却する以外に方法は無かった。集団隔離の原点はここにある。
西欧諸国が植民地を持つようになる。奴隷貿易等も家畜と同じで隔離処理だろう。植民地で感染症が大流行したら。本国に持ち込まれないように、都市封鎖。カミュの「ペスト」に書かれている不条理の世界だ。罪のない人たちが人権を無視され移動の自由を奪われる。
ヨーロッパ人が世界各地へ進出するにつれて、世界各地で感染症が流行するようになる。ペストであり、コレラ、チフス。感染すれば致死率が9割近い。ワクチンも治療法もない時代なので、感染者個人か感染者を含む集団を隔離して、外部に出さないようにする以外にはいい方法が見つからなかったようだ。密集・密着・密接して同じ所に閉じ込められて生活する人達の人権、結局感染しても免疫があった人だけが助かることに。でも、いくら隔離しても感染源は巧みに外部に漏れだし、ワクチンによる治療法が発見されるまで感染症は根絶できなかった。
今回の新型コロナウィルスは、従来の感染症とは明らかに性格が異なる。致死率は非常に小さい。感染しても気がつかない。感染が広がるスピードがものすごく速い。
これ都市封鎖して意味がある? 武漢では確かに軍隊まで派遣して都市封鎖を実施。封鎖の目的は当然、ウィルスの封じ込め。しかし、武漢は外国人も多い巨大都市。簡単に外に広がり、今やアフリカから南米まで世界中に蔓延してしまった。つまり、失敗した作戦だ。
ところが欧米諸国は、何故か緊急事態として自ら都市封鎖を実施。
封鎖の目的は、ウィルスの出入りを止めること。でも、ウィルスが都市の中にも外にも既に蔓延していることは承知の事実。
新型コロナウィルスにはワクチンも特効薬も無い。国民の60~80%の人が感染して免疫を持てば自然に収束すると言われている。そうなるまでは何時までも恐怖が続く。しかも、大多数の人は感染しても気がつかない。
だとすれば、今医療に出来ることは、感染を防ぐことではなく、感染して重体化しそうな人を助ける努力が第一のはずだ。子供や若者は元気に学び働いでもらって、感染しても気がつかない人達は免疫ができるのでそれで良し。もし感染して危険な状態になってもしっかりとした医療が整っていれば安心のはずだ。本当に隔離が必要な人は、既に余病があったりして感染があれば危険になる人達。そういう人達の安全な隠れ家が必要な訳でしょう。
今、進められていることは、これとは真逆の動き。速く国民全体が免疫を確保して、元気に安心して働ける世にするのが本当の政府の務めのはずだ。
1億の国民が1年で皆感染するには、1億÷365日=27万人/日、一日20万人以上、感染が生じないといけない計算だ。でも、大多数の人は感染しても無症状だから、既にかなりの人が既に免疫を持っているのかもしれない。しかし、今のまま外出規制や人との接触を禁ずる要請を続けていても、事態は何時までたっても収束しないことは明かだ。
いずれにせよ、都市封鎖や外出規制は、民主主義の原則にも反する人を家畜扱いする野蛮なやり方のようだ。百害あって一利無しのやり方だろう。
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ノーベル賞受賞者たちの見解
コロナに対するノーベル賞・山中伸弥、本庶佑両教授の見解
山中伸弥教授は「マラソン」に例えた(共同通信社)
世界中で新型コロナウイルスの感染が止まらず、日本は「緊急事態宣言」などの“対応”で耐え忍んでいるが、世界から認められる功績を学術界で残している日本の賢人たちも、さまざまな目線から未来に希望を見出そうとしている。
京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥教授は、自身を「感染症の専門家ではない」としながらも強い危機感から世界の最新情報を日々発信、現状をマラソンと重ね合わせこう指摘する。
「新型コロナウイルスとの闘いは長いマラソンです。都市部で市中感染が広がり、しばらくは全力疾走に近い努力が必要です」(HP『山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信』)
さらに山中氏は、日本がパンデミック終息を迎えるには3つのケースしかないと強調する。
***!!確かにそうなんですけど、では全力疾走とはどんなこと、マラソンとはどんなことをすれば良いの? これは皆で良く考えないといけない。彼だって「感染症の専門家ではない」ではないから。海外でも一部行われた警察や軍隊まで動員した都市封鎖や外出禁止令も全力疾走なのかな。テレビのインタビューでは全力疾走として絶対に医療崩壊を起こさないことに尽きるようだ。!!
「一つは季節性インフルエンザのように気温などの理由でコロナウイルスが勢いをなくすこと。だが気温にかかわらず世界中でまん延していることからすれば、そうでない可能性は高い。そうなると後は二つ。
ほとんどの人が感染して集団免疫という状態になるか、ワクチンや治療薬ができることだ。ワクチンや治療薬は1年ではできないのではないか。最低1年は覚悟しないといけない。ダッシュと思って全力疾走すると、まだ(ウィルスが社会に)残っているのに力尽きることになってしまう」(4月15日付京都新聞)
***!!山中氏はテレビのインタビューでは、新型コロナウイルスとは最初は戦わねばならないと思っていたが、今は人類と共存することを模索すべきともおっしゃた。ウィルスが勝って人類が滅亡するか、人類が勝ってウィルスを根絶するか。時間はかかるがいずれ多くの人が免疫抗体を持つようになり、新型コロナウイルスとも共生できるようになる。
将来は、新新型、更に新新新型のウィルスが出現する可能性もあるね。そのためにも今回の新型コロナウイルスを適切に対処ししっかりと対策を学んでいかないといけない。!!
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一方、ノーベル医学・生理学賞受賞者の本庶佑・京都大学特別教授は、新型コロナウイルスとの戦いを「眼に見えない忍者との戦い」と例え、4月6日に自身のホームページで、これ以上の感染を広げないために「PCR検査数を毎日1万人以上に急速に増やす」「1か月の完全外出自粛で満員電車での通勤をやめる」「外国で有効性が示されている治療法を実地導入する」の3点を提言した。
!!**「眼に見えない」ということが、間違った推測から間違った対策を取らせる可能性は否定できない。PCR検査数は、日本では全国民の1%以下しか実施されていない。こんな数字を持って感染者数が増えたの減ったの言っても意味がなさそうだ。それよりも検査で陽性で具合の悪い人をいかに迅速に治療するかが喫緊の課題のはず。発病してもどこの病院も受け入れて貰えず、たらい回しされる。肺炎の危険があってもすぐには入院できず、人工呼吸器の台数だって不足。院内感染院内死亡が増えてしまう。しかも、医療関係者の感染が増えている。医療崩壊が現に生じているなら確かに今はまだ全力疾走の時期かも。
新型コロナが終焉するには、多くの人達が結果的にはいいずれ感染するリスクを負うことはやむを得ない。感染して抗体を持った人が最も安全だから。問題は感染した際に適切な治療をしてもらえるかだ。だから今は、感染したくない人は出来るだけ人との接触を避けて感染しないことが賢明で、それは自分のためでもあるということだ。
医療関係者を悪く言うことは絶対に慎んで欲しい。感染は誰にでも生じうる。でも適切な治療を行えば大多数の人は治癒し、免疫を取得できる。運悪く感染者を出した病院やその他の施設を営業停止のような罰で臨む態度はやめよう。努力している人を悪者扱いにして差別することは許されることだはない。!!
経済への影響を最小にするためには厳しい規制で早期終息が最良と主張する本庶氏は、パンデミック終息後について、「大流行が起こったからといって人の動きを永遠に止めることはできない。グローバル化の流れが逆流するとはみていない」と語る。
!!**医療崩壊を生じさせない範囲で、出来るだけ活動を開始すべしということだね。そう言う意味では、感染患者を収容できる施設や医療関係者の数を増やしていく対策も大事だろう。
いくら、多数の人と接触するなと言っても、仕事がらそれが無理な人は安全に仕事が続けられる支援こそ大事だろう。特に医療現場の方々にそれが当てはまる。
「中国の動向が大きい。中国発の病気だが、一番早く経済復興にたどりつくに違いない。中国の力がさらに強くなるのか、逆に世界中から冷たくあしらわれるのか。予想できないが、中国の立ち位置、各国の中国を見る目が影響を受けるだろうし、国際秩序が変わる可能性はある」(4月10日付日本経済新聞)
**中国は、武漢では強硬な封鎖措置を行ったが、今は経済活動と両立させる方向へチェンジしうまく行っているようだ。感染者当然相変わらず増加しているのでしょうが、医療を崩壊させなければ、ウィルスと共存可能。持続的な対策が可能だ。マラソンでの長期戦の体制が完了したのかも。日本も速く中国を見習った方が良いようだ。
日本も、東京オリンピックの延期が決まるまでは、比較的順調に対策が進められていたようだ。それを無理繰り感染を封じ込めようとした途端、医療崩壊が進み急に不安が増加するようになった。医療崩壊が進むとマラソンでは済まなくなり、全力疾走を求める声が強くなる。しかし、コロナとの共存への道は時間のかかる長い道。挫折して折れないためには肩の力を抜いてマラソンを続ける以外に方法は無い。
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何故中国だけがうまく行くのか
「アメリカの月面着陸は捏造」「秘密結社が世界を支配」等の陰謀論は昔からある。最近は「新型コロナウィルス中国陰謀説」が米国ではまともに信じられているようだ。トランプ大統領が言うなら、「ああ、またか」で済むが、多くの米国民や日本人、特にマスコミ、政治家、学者等の影響力のある人達が本気で信じているなら問題だし有害だ。多くの陰謀論の特徴として、もし事実だとしても証拠が無いし、かといってこれを科学的に否定することもむずかしい。つまり、はっきりした科学的根拠のない陰謀論は信じてはいけないことだ。
新型コロナウィルスでは、結構死者も出ているアメリカ国民としては、発生源とされる中国だけが、感染ピークを脱し、コロナウィルスとの共存作戦に成功しているように見える (本当かどうかは分からないが)。嫉妬が原因だろうが、気持ちは分かる。しかし、これを政治目的で積極的に利用し、国民を先導することは明かに陰謀で扇動そのものだろう。その意味ではテロリストと同罪だ。中国側の主張も認めて対話による解決を目指さないと、自滅への道となる。
まず、初めに中国の武漢で新型コロナウィルスの発生が突如発生したことに世界中は驚いた。対岸の火災視していた各国は、あっという間に自国への感染に気がつきパニックに陥る。
「中国陰謀説-その1」は、中国が意図的にバラ撒いた
中国政府は、すぐに武漢市を軍隊まで使って都市封鎖。内部への封じ込め戦略を。これはペスト等の感染症でも取られたある意味、定石のようなやり方。特殊な防護服に身を固めた医療関係者の群れには極めて異常な風景で、ことの重大さを強調するには十分すぎる。
しかし、最初の最も苦労し、多大な犠牲を被ったの武漢の市民たちであることを忘れてはいけない。都市封鎖を行ったことは、外部への流出を遅らせることには成功(実は失敗)したかも知れないが、都市内部は三密の状態が加速され悲惨な状態であったはずだ。武漢から外部(世界中)に感染したことは、大人口を抱える国際都市武漢では、そもそも都市封鎖という過去(例えばカミュのペストの時代)の手段では止めることは不可能ということだろう。
「中国陰謀説-その2」-WHOは中国寄り
WHOがパンデミック宣言を出さなかったのは、最初感染が中国だけに限られていたことと、ペストのように危険な感染症に比べて異常に致死率が低かったためで、従来の基準に合致しなかったからだ思われる。トランプがWHOを批判することは外交的戦略があるのでまあ、いいだろう。しかし、これを新型コロナウィルスとの共生を本気で考えている人が信じれば百害あって一利無しだ。感染が世界規模で広がった今さら、中国の責任をとやかく言って何もならない。「新型コロナウィルスが極めて危険」という説の方が陰謀論の可能性もある。ただ、米国がWHOから離脱すれば、ECや日本を除く世界の多くの国の医療関係者は、対策のうまく行っている中国を信頼するようになるだろう。確かに、中国はWHOに資金的、人的な交流が多く、開発途上国からは感謝されてもいる。
WHOは、中国寄りでWHOのいうことは信用しない方が良い。あえて、逆のことをやった方が良い。例えば、WHOはマスクの効用について、効果は限定的で必要な場所(例えば医療現場)でのみすればいい言っていたのを、「国民の皆さん常時全員マスクをしましょう。」と言って、国民に2枚ずつマスクを配って、マスク着用を世界ファッションした政治家もいたね。
「中国陰謀説-その3」-新型コロナウィルスは、遺伝子操作された極めて危険なウィスル
WHOが主張するように、中国は感染症発生の後は総力を挙げて取り組んでおり、巨大な国際都市武漢を封鎖し、市民には多大な犠牲を強いたことは間違いない。この封鎖にかかわらず国外にまで感染が広がったのは封鎖という手段が有効でなかったことを示したものだ。つまり、今中国は既に都市封鎖や外出自粛のような強硬手段は以後使っていないはずだ??
多くの感染症の専門家や科学者が主張するように、感染を防ぐことは出来ない。国民の60~80%が感染するまで終わらない。そのようにしてウィルスとの共生を図るのだ。
WHO達の多くの科学者達も、新型コロナウィルスは、当初想定された程危険なものではないらしい。感染の広がる速度はかなり速いものの、大多数の人は感染したことすら気がつかないほど軽症で済んでします。手遅れで肺炎などになると重篤化して死に至ることもあるが、これは普通のインフルエンザでもあることで、実は毎年多くのお年寄りがインフルエンザでなくなっている。
ところが、ニューヨーク、ローマ、パリ等の欧米諸国の都市は何故か感染を防止するためとして強硬な都市封鎖手段を取り、その結果、急速な感染死者を増やしてしまった。何故か封鎖された密室空間では感染は増加し、死亡も増える。日本でもクルーズ船での大失敗がある。
「新型コロナウィルスが極めて危険」という陰謀論を信じている限り、外出自粛や営業停止の状態が延々と続き、経済の自滅、国家破綻の道を突き進まざるを得ない。つまり陰謀論は経済テロともいえるものだ。「中国陰謀説」を信じているからか。
医療関係者の対応も可笑しい。テレビでも毎回放映されるように、宇宙服さながらの特殊な防護服を着けることが義務らしい。感染すれば感染症専門の病院に強制入院させれれるらしい。普通の町の医師が診察することは許されないらしい。PCRの検査も専門の衛生士しか行うことが出来ない。普通のインフルエンザでこんな対応をするのだろうか。これでは、現場の医療担当者も疲弊してお手上げになるのは当たり前。感染の速いインフルエンザ(ただし致死率は低い)への対応をペストやコレラ(極めて危険)と同じやり方では、あまりにも現場には酷だろう。やはり、「中国陰謀説」を信じているから、ウィルスは共生等不可能な、悪魔の感染症(中国の陰謀)と信じているようだ。
多くの感染症の専門家や科学者が主張するように、感染を防ぐことは出来ない。国民の60~80%が感染するまで終わらない。そのようにしてウィルスとの共生を図るのだ。つまり、速く終わらせたければ、出来るだけ早く感染を安全に広げることが最善の策だ。この点が致死率が90%位の従来の感染症とは対応が全く異なる。ところが日本の法律は従来型の感染症しか想定していなため、このような柔軟な発想が出来ない。
「中国陰謀説-その4」
また、陰謀論を信じているマスコミは、毎日感染者の数を発表して大変だ大変だを連呼。本来問題とすべきは、死亡者の数のはず。多くの場合、人工呼吸器等の緊急対応が遅れてなくなるケースが多い。ところがマスコミは必至で頑張っている医療関係者や病院で感染者が発生すると、不注意だと大騒ぎする。わざわざ医療崩壊を助長している。
外出規制、商店営業の自主規制を行うのは、患者が増えすぎて医療が対応できなくなることを防ぐのが目的で、感染が広がる速さを少し遅くするのが目的のはずだ。
ただし、感染の速度を落とせばそれだけ収束も先延ばしにしていることも忘れてはならない。目的も無しに数値目標ばかり独り歩きしている。つまり、緊急事態宣言は何年たっても解除されない。
更に、悪いことに感染を遅らせてくれと言っている医療側の受け入れ態勢も一向に増強される見通しが無い。うっかり、感染すると、普通の病院では怖がって受け入れて貰えないし、高熱が続くまでPCRの検査すらやってもらえない、陽性と判断された時は、大抵は手遅れ。でも、現場の医療関係者達は多忙で過労死寸前とか。病院側も大変だ。うっかり感染者が見つかれば院内感染とマスコミに報道され叩かれ、しばらくの休院に。もっとも頑張っている人たちが現場から消えてしまう。
実際には、PCRの検査とは国民全体の1%以下しか実施されていない。つまり、統計の数字としてはまったく意味のないものだ。感染者数は検査数に比例するので、行政の腹次第でいかようにも操作できる代物だ。
東京オリンピックの延期が決まる前までは、PCRの検査数が少なかったため、日本の感染者数は少なく、他国から嫉妬されるほど。PCRの検査をチョト増やしたら医療崩壊が始まり、都知事の思惑通り緊急事態宣言となる。何のためのPCRの検査かよく考えないとろくなことにはならない。
どうも、現在の緊急事態宣言は、テロリストの陰謀で、本来の目的は、経済と生活の破壊ではないかと勘繰りたくなる。では、何故政治家たちやマスコミが簡単に「中国陰謀説」を信じてしまうのか。経済が止まっている間に、国の借金だけが膨大に膨らんでいく。
「中国陰謀説-その5」
確かに、今回のウィルスは中国発。でも、これが自然発生したものなら、今後とも同じようなウィルスは世界中どこで発生しても可笑しく。歴史は繰り返す。グローバル経済と都市化の宿命だろう。だからしっかりと学習し、今後の反省にしないといけない。
武漢の最先端の研究施設から漏れたとの説もあるが、これは話題にしてはいけない。中国政府が最初強硬な都市封鎖を行ったのは、テロの可能性があったからだろう。今でもその可能性を消すことは出来ない。しかし、テロリストの行為が国や国民の意向と合致している訳ではない。こんなことを一般の国民が知れば、世界戦争を引き起こしかねない大事件だ。それに、ウィルスはRNAだけで来ており、自然発生したという説明で科学的にもなんら不都合はない(単なる塩基の組換え)。
基本的には7番目のコロナウィルスで、今までのインフルエンザ・ウィルスと若干塩基の組合せが変わってしまっただけだ。つまり、速く大勢の人が安全に感染を済ませて正常な生活に戻ることが必要でしょう。
「中国陰謀説-その6」-中国だけうまくやっている?
感染防止の観点からは、そんなことは無いはずだ。今でも感染者は着実に増えているはずだし、肺炎を誘発して死んでいる方もいるはずだろう。でも、経済活動は既に正常に戻っているのだろう。「車を運転することは事故死する可能性が高いから運転するな」とはいわない。しかし、日本で言われているのは「経済活動を再開して外出すると感染する可能性が高いから家にいなさい。」しかし対策を続けても一向に収束に向かわず、経済と社会の崩壊だけが進んでいく。結局、国民一丸となって今が正念場の日々が延々と続かざるを得ない。
どうも、今回の新型コロナウィルス、普段よりうがい手洗いを頻繁にし、人込みを避け、感染してもあわてず普通のお医者さんにかかり(これが出来ないと不安は去らない)、しっかりと仕事に打ち込んでいれば、そのうち感染は収束し、経済も何とか回復するようだ。
どうも、中国だけが、ウィルスとの共生の方法を見いだしたのかも。結果として中国だけがうまくやっている。中国陰謀説を妄信し、科学的合理的な理性を失えば、どんなに頑張っても成果は出ない。
【追記】
感染は収束した。中国を習って、米国の一部の州、ニュージーランド、北欧に緊急事態解除の動きがある。しかし、多くの市民たちは自主的に自宅にとどまり外出しない傾向は続いているらしい。どうもこれらの国調査でも、感染の免疫を持っている人はせいぜい3%どまりで、60~80%には程遠い数値らしい。ニューヨーク市の抗体検査では14%だったとか。
つまり、中国でも一部生産活動を開始したとは言うものの、都市によっては封鎖手段を取ったりしながら、人の出入り、特に海外との人の出入りは厳重に禁止する状態は変わっていないらしい。収束までは長い年月の戦いとなりそうだ。ウィルス・ワクチンは意図的な感染拡大の効果があるが、現状の段階では開発完了までに数年かかりそうで、なまじ急いで使い始めると致死率を更に高めてしまう危険性も指摘されている。(2020.4.30)
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統計についての一考察
統計学は非常に有力な技術であろう。でも、新聞やテレビに出て来る数字を納得するには、別に統計学の理論を学ぶ必要はない。しかし、統計学の基礎、つまり盛り込まれている知恵の部分はしっかりと理解しておくにこしたことは無い。
いま、世界中で新型コロナウィルスが大流行。極めて危険なウィルスということで、都市封鎖、外出禁止、人との接触禁止という強硬な政策が次々を持ちだされ、家計の破綻、経済の崩壊、人々の精神の崩壊と社会的問題まで続出するようになると、何のための感染防止か。社会崩壊を防ぐための感染対策のはずが、感染を防ぐために社会崩壊策。なんだか目的と手段が逆立ちしているようだ。
いっそみんな感染して生き残った者たちが免疫を持った方が速いのではとなる。
実際、過去には天然痘やペストのように、感染症がある人類集団の過半数或いはほぼ全部を失うという惨事も何度も生じたようだ。
しかし、新型コロナの致死率は、天然痘やペストのように8~9割という恐ろしいものではないという。WHOがパンデミック宣言を出すのが遅かったと批判されるが、致死率が宣言を出す基準に達していなかったからだという。テレビで毎日報道される感染者数の増減の説明に騙されないためには、その統計の意味するところをしっかりと把握しておくことが大切だろう。
まず、ここで出て来る「致死率」とは、明かに統計用語。多数のデータをもとに算出しないといけない。
致死率=死亡者/感染者×100 (%)
たまたま4人感染して1人死んだので致死率が25%と言っても意味がない。亡くなった方はたまたま運が悪かったとしか言えない。多数のデータが必要だ。
2020.5.1時点のデータをネットで拾うと、日本では
感染が確認された人数=14,516 人
回復した人数=3,466人
死亡者数=466 人
となっている。つまり 466/14,516×100=3.2%
マスコミが報道するように466 人も死亡が出たのか、1,000人以下しかいなかったのか。
感情的な表現は厳禁で統計学では科学的合理的なデータを見る大切さを教えている。
また、こんな3.2%なんて低い可能性なら、絶対私は大丈夫という訳にもいかないし、年寄りで持病がある人は絶対感染するということも統計は主張しない。
ここで、死亡者数についても注意がいる。日本の人口は、1億2000万人いる。このまま死者数が増加して仮に1000人になったとする。毎年国民の0.00084%もの人が毎年亡くなることに。毎年12万人に1人程度のとても運の割る人がお亡くなりになる。癌や交通事故と比べて異常に多い死者数なのでしょうか。ペストやコレラのように身の回りの人達が次々に病魔に襲われるという恐怖は感じないですね。
毎年12万人に1人程度の運の悪い人が出ないようにするために、数万人ものが職を失い、自殺者が発生してもいいというのでしょうか。
一方、世界全体では
感染が確認された人数=327万 人
回復した人数=102万人
死亡者数=23.4万 人
となっているので、23.4万÷327万×100=7.16%
日本の場合と比べてかなり高い致死率となっている。では、あまり使われることのない数値ですが、回復率=回復した人数/感染者×100 (%)
というものを考えて見たらどうだろう。感染した人数から、回復した人数、死亡した人数を引いた残りの人数がかなり多いことが気になる。感染したことが分かっても、ほとんど症状の出ない方も多いという。PCR検査を受け陰性なら回復者として無事退院させてもらえるということかな。感染して死亡も回復もしていない人はどんな人なんだろう。回復率は、日本では23.8%、世界全体で31.1%となっている。では、回復していない人はどうなっているんでしょうか。収容施設に入れられたまま長期に渡って監禁されたまま。密室状態で誰とも会えずに死ねば葬式も行われず粗大ゴミみたいに焼かれる。
なぜ若者たちが感染を怖がるかはこれだ。
では、感染者が多いと言われる米国はどうだろう。
感染が確認された人数=110万 人
回復した人数=13.3万人
死亡者数=63,766人
米国の場合、感染が確認された人数も死亡者数もダントツだけど、致死率はどうだろう。
63,766÷110万×100=5.8%
致死率だけ見れば、米国の状況が特別悪いようでもなさそうだ。感染者の致死率に影響があると考えられる要因は、医療崩壊が大きいだろう。発症すれば手遅れで亡くなる。他に感染が確認された人数、つまり母集団に違いの影響もありそうだ。
まず、新型コロナが世界中に蔓延している現状から、感染が確認された人数は日本が1.4万人、米国が110万 人、米国が日本の80倍近くもの感染者が出たという推論はどう見てもあり得ないことが分かるはずだ。
米国の人口は約3億人位か。年間10万の人が死亡するとすると、国民の0.033%の人達が命を落とす。運の悪い人が3000人に一人の割合で発生するということです。
チョト問題でしょう。しかも死亡者の多くは黒人や貧困者が7割以上らしい。格差社会で医療の助けを受けられない感染者が命を落としているらしい。医療崩壊社会ということらしい。
ポイントはここだ。感染が確認された人数とは、その国で既に感染している人数とは全く関係の無い数字です。感染が確認された人とは、たまたまPCR検査を行い、陽性の反応が出た人。国民全部に実施したものでないことはご存知の通り。
新型コロナウィルスの特徴は、感染しても大多数の人は何事もなく自覚しないうちに治ってしまうので、感染したかどうの判別は不明。PCR検査では陰性。でも抗体は出来るらしい。PCR検査には高度な知識が要請されコストもかかるため、日本では新型コロナと伺われる人にのみ実施して来たわけです。多分これは正しい判断で、日本の感染者数は欧米諸国と比べると格段に少ないだけでなく死亡者の数も断然少なくて済んでいます。
PCR検査を行うなら希望者全員にしないと意味がありません。国民の要望、海外からの圧力や政治家の圧力で、PCR検査の数を増やしたらどうなるでしょう。当然、検査数に比例して感染者数は増えます。陽性の反応が出たら、軽度の症状の方も皆隔離病棟に移ってもらわないといけません。あっという間に医療崩壊を起こしてしまいます。PCR検査機関が満杯になれば、必要な検査が遅れ治療が遅れ患者が重症化してしまいます。PCR検査は適切な治療には必要の技術です。重篤な患者が必ずしも新型コロナとは限らないから。
もう一度整理してみます。あなたが、コロナウィルスに感染して亡くなる可能性は、たまたま運悪くどこかからコロナウィルスを貰ってくる確率(でも無自覚で気がつかない場合を除く)と、感染してそれに気がついてPCR検査を受けて入院して重症化して亡くなる確率(致死率)の積となるわけです。つまり、あなた個人にとっては、隕石が落ちた程度の運の悪かった確率かも知れないわけです。
感染してから死亡に至る確率、つまり致死率は、PCR検査をすることである程度把握できます。ただ、致死率を下げるには、医療関係者の努力に期待するしかありません。
一方、ウィルスに感染する確率を詳細に見積もることは不可能です。そもそも大多数の人はもし感染していても全く自覚すらないからです。ただ今までの経験から人の多い所程、感染者が多いことは分かっています。従って、人との接触を8割減らせ、とか自宅退避と言っても、その数量的な根拠は全く無いはずです。効果の判定が不可能だから。悪く言えば、感染経路が不明のままでは、どのような対策を取っても、やらないよりましなだけ、かえって状況を悪くするだけです。ストレスが増えれば感染の確率が増える可能性の方が多きくなるでしょう(クルーズ船や院内感染)。
新聞やテレビでは、毎日のように感染者数の数を各都道府県別に発表しています。感染者数の数に一喜一憂しても何も意味がないことが分かるでしょう。感染者を減らすことも大事ですが、犠牲者を失くすことが第一のはずです。医師や看護婦の感染が増え、院内感染を起こしても、医療関係者を責めることは百害あって一利無しです。対応できる医師や施設を増やすことが急務のはずです。また、マスコミが新型コロナウィルスをことさら危険なものと煽ることは百害あって一利無しです。
新型コロナウィルスを絶滅することは不可能で、人類との共存を図るしかありません。これは今の専門家の共通認識。最終的には国民の60~80%が感染を済ませ、ウィルスの獲得する以外に収束の道はないことは分かっています。感染が危険なものである間は、外出規制や海外と交流禁止の措置はある程度止むを得ません。対策を取れば感染の速度は遅れ、少し気を緩めると感染はまた、拡大します。しかし、過度の規制は感染を遅らせ解決を先延ばししてしまうデメリットもあるんです。無理のない社会活動も止めないで済む息の長い対策が必要なようです。
最近は、PCR検査に変えて、抗体検査を取り入れようという動きも。抗体を獲得した人は新型コロナウィルスの脅威から自由になれます。しかし、中国ではまだ国民の数%程度しか抗体を持ってないらしい。ニューヨークでも、14~20%らしい。国民全体が抗体を持つようになれば、その国民だけが世界のどの国も自由に出入りできるようになる。
致死率だけ見ると新型コロナウィルスはさほど危険なものではないのかもしれない。致死率を押さえながら感染を促進することがベスト。今後、いかに早く自国民に抗体を持たせるか各国が競争するようになりそうだ。
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条件付き確率
確率とは何か。いま、コロナウィルスにつての話になると他人ごとではなく真剣に考えて見たくなる。
P(A)=あなたが死ぬ確率、P(B)=あなたがコロナウィスルスに感染する確率。
文系人間なら、明日には生きているか死んでいるかのどちらか、確率は五分五分だ。なんて乱暴な議論して済ましている人もいるだろう。でも、確かにこんな確率計算しようもない。要は神のみぞ知る世界だ。統計では一人一人の個性は見ない(同様に確からしいと仮定)。つまり確率を計算するためには統計による多数のデータの裏付けが必要な訳です。
ここで、A、Bを事象、P( )をその事象が生じる確率を表すものとする。
A=あなたが死ぬという事象(事柄)に対する確率は、明かに確率の理論からは計算でいません。そもそも、あなたが健康でバリバリ働いていれば明日亡くなるなんて言う誰もあなたが明日亡くなる確率は0だと想定して社会生活が成り立っている訳ですから。でも、人間いつかは死ぬのも事実です。毎日何らかの理由から世界で多くの人が亡くなっています。
ニューヨーク州には、約2000万人の人口を擁しています。当然毎日多くの人が無くなり多くの人が生まれます。何故、ニューヨーク州を選んだか。それは、確率を計算するうえで最も基礎となる統計データ(PCR検査)が最も充実しているからです。
(ニューヨーク州で人が亡くなる確率)=(死者の数/全人口 )なら死亡率として一つの統計データとして指標になりそうです。政策立案者ならこの指標があれば十分。この場合、死者の中には、自動車事故のあった人、空からの落下物に当たった人、老衰で亡くなった人、及びコロナ感染で亡くなった人すべてが含まれます。また、全人口ですから元気はつらつとしてどう見ても死にそうもない人も長いこと寝たきりの人も総て含まれています。でも、統計での取り扱いは、個々の事象を「同様に確からしい」という仮定で扱います。
(ニューヨーク州の人が新型コロナウィルスに感染して亡くなる確率)
は、最も知りたい確率です。感染しても何事も無ければ問題ないし、もし感染しても治って回復し、抗体ができれば更に安心。ニューヨーク州知事は、緊急事態として、①州の外部との人の出入りを遮断して、②州内での人と人の接触を極端に禁止しています。
民主主義の国では、これは住民の自由権の著しい制限なのでよほどの大義名分がないと普通は怖くて発令できません。コロナで人命を失うリスクと社会経済が崩壊してしまうリスクを計りにかけ、州知事の行った行為を正当化しないといけません。しかも、一度緊急事態を発令してしまうと今度は解除するタイミングも大変難しいものになってしまいます。
(新型コロナウィルスに感染して亡くなる確率)とは?
事象として、A=感染する、B=死亡するとしたとき、
P(B|A) を条件付き確率と呼びます。つまり、Aの条件のもとでBが起こる確率。感染した際に、その結果死亡する確率です。次の公式が成立します。
P(B|A)=P(A∩B)/P(A) → P(A∩B)=P(A) P(B|A)
P(A)は感染する確率。P(B|A)は感染が分かったという条件でで死亡する確率。P(A∩B)は感染してかつ死亡する確率です。P(A∩B)が最も知りたい確率です。
ところで、死亡の原因となる感染する確率P(A)。実はこの算定は本当はとても難しいのです。でも、新型コロナウィルスの感染の有無の判定にはPCR検査が用いられている。新型コロナウィルスの感染の有無を判定する唯一の判断材料がPCR検査です。もし、感染して死亡とみられる事例でも、PCR検査で陽性が確認されなければ原因不明と処理されるから。
クオモ州知事によると、NY州ではPCR検査を受けた人数は100万人を越えたそうだ。これは人口1950万人の5.12%にも当たる。このうち31万9000人の感染が確認された。ほぼ3割の感染だ。そのうち死者は1万9000人、100万人の1.9%だ。PCR検査が無作為ランダムの住民からのサンプルなら感染で亡くなる人は1.9%となる。感染者の中で死亡する確率は6%ぐらいか。ところが住民の数の実数は1950万人だから、死者は住民の0.0974%、住民の1000人に一人が新型コロナウィルスで亡くなるようだ。
確率を整理すると P(A∩B)=0.001
つまり、住民の千人に一人が、亡くなっている。かつその原因はコロナ。この先もっと増えるかもしれないが、1年間で1000~2000人の率で人が亡くなっているという事態は放置できるものではない。
だから、クオモ州知事は病床や医者の確保とPCR検査の充実を極めてまじめに実施したということだ。
ところで、P(B|A)=1万9000人/31万9000人=0.06=6%
この値は、感染症の致死率とも言われており、感染した人の6が死亡するという数値だ。これは、通常のインフルエンザ(0.1%程度)と比べるとかなり高い率で、このことが新型コロナウィルスが危険なウィルスとされる根拠となっている。
でも、PCR検査で陽性のものだけが感染者?? だったら、何も都市封鎖やstay home 何て必要ない。日本なんかPCR検査も感染を伺われるものにだけ限定して実施しており、オリンピックの延期が決まるまでは制御に成功していた。致死率も3%程度で、死者も欧米諸国の1/100~1/50だ。何故方針変更したのか。世界の7不思議。
PCR検査で陽性のものだけが感染者。
では、感染者の実数は?
P(A)=P(A∩B)/P(B|A)=0.001/0.06=0.0167、州の住民の全数は1950万人だから、32万人。
31万9000人の感染が確認されたという事実と一致する。ある意味当然のことで、感染者とはPCR検査で陽性の反応が出た者。
でも、PCR検査でほとんど総てに感染者が把握されているなら、stay home 等全く必要ない。
ここからがロジックが歪んでくる。新型コロナウィルスの感染は、無自覚無症状のものが大部分で、多くは2週間程の潜伏期間を経過して、本人は何事もなく陰性に転じてしまう。この短い潜伏期間の間に多数の人にも感染させてしまうというのだ。これらの人々はPCR検査で陽性が確認されたわけではないので感染者とは言えない。また、住民全部にPCR検査を行うことは現時点が不可能(N州ですら5%)。ということは住民全員が被疑者という訳だ。だから、stay home とmaskということか。
しかし、このような状態を仮に感染者と見なすと、実際の致死率は極めた小さくなってしまい、危険なウィルという根拠が失せてしまう。
例えば通常のインフルエンザの致死率は0.1%程度とされている。もし致死率がP(B|A)=0.001、P(A∩B)=0.001とすれば、
これから、P(A)=P(A∩B)/P(B|A)=0.001/0.001=1
これば、住民の100%が感染中(陽性)? 勿論こんな致死率では住民の1万9000人もが無くなること自体あり得ない。致死率が低ければ死亡者も減るはずだから。
つまり、実際の感染者はもっと多いという議論は、感染の判定基準がPCR検査陽性と決めた以上、不可能だ。その代わり致死率は実際はもっと低いはずも成り立たない。
感染の判定基準がPCR検査陽性と決めた以上、新型コロナウィルスの感染者の数は、PCR検査で陽性になったものの数に等しい。条件付き確率の定理からそれしか言えない。
だから、PCR検査数を行くら増やしても、感染源は特定できるはずは無いし、三密とかクラスターと騒いでみても、証拠の無いあて推量。マスクの効果もstay homeもどれだけ効果あったかは、ニューヨーク州ではデータで示すことには成功していない。
エ!! これでは、感染症としては極めてたちの良いものではないか。過去人類が経験したペストやコレラ、エボラ出血熱、SARSやMARSと比べても寧ろたちの良い感染症だ。一体全体何故、こんなにも住民の移動の自由を奪い、経済的な負担まで強いねばならないのか。緊急事態を宣言する正当性はあるんだろうか。
クオモ知事が自慢できることは、住民の間の抗体所有者の比率が 20% まで増加させることに成功したこと。ということは、都市封鎖、外出制限、の間も多少の人の移動を許していたことに。
中国の発表では、今だ3% に満たず、これからも監視社会を作って人の移動を厳しく制限していく政策らしい。
そもそも欧米諸国で一斉に取られた、都市封鎖、外出制限、多くの人々が疑問に感じているはずだ。新型コロナウィルスはフェイクだ。新型コロナウィルスは必ずしも安全な訳ではないので、それなりに科学的合理的な対策が取られるべきだった。しかし、都市封鎖、外出制限は科学的・合理的かと問われると??と言わざるを得ない。やらなきゃよかった都市封鎖-外出制限ということになりそうだ。
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あなたがコロナウィルスで死ぬ可能性
世界で一番感染者が多かったニューヨーク州。不退転の決意で緊急事態を行ってきた、クオモ知事。今彼が全米で英雄となっている。なんせ抗体検査で州民の16~20%も抗体が確認され、緊急事態の解除も目の前。
ニューヨークは世界の金融と富の中心。感染者も死者も多いのは当然だ。州のデータをもとに調べてた。
統計や確率を考える際は、あなたが死ぬ確率も赤ちゃんや寝たきりのお年寄りが亡くなる確率も同様に確からしいという前提で考える。ここで対象とするのはニューヨーク州民全体の集合。
P(A)= あなたがコロナウィスルスに感染する確率、P(B)= あなたが死ぬ確率。事象としては、A=感染する、B=何らかの理由で死亡する(交通事故、老衰、隕石の落下、etc.)だ。
P(A∩B)はコロナに感染してかつ死亡する確率。
P(B|A) を条件付き確率呼ぶ。つまり、Aの条件のもとでBが起こる確率。感染してその結果死亡する確率。次の公式が成立します。
P(B|A)=P(A∩B)/P(A) → P(A∩B)=P(A) P(B|A)
ニューヨーク州は、人口1950万人。当然毎日多くの人が無くなり多くの人が生まれる。クオモ州知事によると、NY州ではPCR検査を受けた人数は100万人。これは人口の5.12%、日本は0.2%以下。
P(A∩B)=1万9000人(コロナの死者)/全人口1950万人×100=0.0974%
P(B|A)=1万9000人/31万9000人×100=6%(治療現場では、これを致死率)
P(A∩B)が最も知りたい確率で、1000人に1人程度。これをもっと減らさねば。
もし、PCRの検査がデータに偏りが無ければ、
P(A)=陽性者31万9000人/検査数100万人×100=32%
州民の32%が陽性(628万人も陽性で即治療が必要?)? 当然感染の疑いのある人を優先して検査する。
P(A)=P(A∩B)/P(B|A)=0.0974%/6%=0.016=1.6%
これは、人口1950万人×0.016=31.2万人
つまり、検査が必要な人はもれなく検査が行われているようだ。
実は、この点が新型コロナウィルスの従来のペストなどの感染症と全く異なる。感染者は感染しても無自覚。自覚症状もないままPCR検査は陰性に、その過程で多くの人に感染させる。いくら検査を実施しても感染経路の追跡は不能。
クオモさん、それでは都市を封鎖し個人の行動を制限する様々な規制は正義なの。ようやく世界の潮流は、コロナウィルスとの共生。今後はPCR検査に変わって抗体検査が世界の主流だ。ニューヨーク州民1/5は既に抗体を保有。多分世界一だろう。ようやく都市封鎖解除の目途がついたらしい。
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条件付き確率(2)
条件付き確率
ニューヨーク州での検討をしたので今度は日本にも適用できるか。日本の人口を1億2000万人としてこれを全体集合、厚労省のデータをもとに考えよう。
感染確認済み(PCR検査で陽性だった)=15,547人
PCR検査実施数=202,013人
新型コロナウィスルスでの死亡者数=606人
P(A)= あなたがコロナウィスルスに感染する確率
P(B)= あなたが死ぬ確率。これは日本の人口統計だ。厚労省のHPから、
出生数は 86 万 4000 人、出生率(人口千対)は 7.0 と推計されている。
死亡数は 137 万 6000 人、死亡率(人口千対)は 11.1 と推計されている。
1億2000万人×(11.1/1000)=0.0114=1/87→133万人
つまり90人に一人が毎年亡くなっている計算か。結構大変な数に見えるけど、毎年年末に来る喪中の葉書の数考えるとこんなものかとも。
事象としては、A=感染する、B=何らかの理由で死亡する(交通事故、老衰、隕石の落下、etc.)だ。
P(A∩B)はコロナに感染してかつ死亡する確率。これは簡単。
P(A∩B)=606人/1億2000万人=1/20万
でも、これは異論がありそうだ。だって、コロナに感染してかつ死亡する人の2000倍以上の方が、コロナ以外の理由でお亡くなりになっている。日本でコロナに感染してかつ死亡する人は欧米社会の1/100以下とのデータもあるようだ。
それでは、安倍政権が行っている緊急事態宣言の理由は何か。何のために人の移動を禁止し、stay homeに拘るのか、海外の方には全く不可解だろう。
さて、P(B|A) を条件付き確率呼ぶ。つまり、Aの条件のもとでBが起こる確率。感染してその結果死亡する確率。次の公式が成立します。
P(B|A)=P(A∩B)/P(A) → P(A∩B)=P(A) P(B|A)
P(B|A)=606人/15,547人=0.039
PCR検査で陽性が判明し、治療の努力空しく亡くなられる方は、致死率3.9%あり、これも欧米諸国と比べてかなり低い(5~6%が普通では)。
では、感染はどのくらい広がっているのか、感染する確率は
P(A) =P(A∩B) /P(B|A)=(1/20万)/0.039=1.28×10-4 =1/7,800
つまり、日本での感染者の数は、1億2000万人×(1/7,800)=15,380人
この数は、PCR検査陽性の数とほぼ一致。ニューヨーク州の場合と一緒。
一方、陽性者数/ PCR検査実施数=15,547人/202,013人=0.077
検査して陽性の人は、7.7%だから、この検査が無作為に行われているなら、
陽性率=0.077だから、1億2000万人×0.077=924万人の国民は陽性のはずだ。
ところが、条件付き確率からは、陽性者の数は15,380人でこの推定はもっともらしいが、これは検査した人数に含まれている。
つまり、924万人÷1.53万人=603
このことは、PCR検査の在り方に大きな疑問を投げつける。そもそもPCR検査は感染の可能性のある人に適切な治療を施すために必須のもので、感染の自覚症状のないものには実施しても全く無駄ということだ。
なぜなら、検査の陽性者の裏にはその600倍にも当たる人々が、感染をしており、しかも無自覚のまま感染を終えて、陰性となり、その過程で周りの多くの人に感染をさせている。このサイクルは、誰かが自覚症状を発症してくれない限り、見つけ出すことは不可能とは言えないまでも至難の業だ。
結局、感染経路を特定することは不可能だ。例え、特定できたとしても推測の域を出るものではない。感染経路が特定できないものを、防ごうとしてもその対策も合理的なものではなく、所詮気休め程度の効果しか期待できないはずだ。完全防備のはずの医療関係者や病院内でも感染者が発生するということは、その他の対策はほとんど気休めかやらないよりまし程度。寧ろ経済や社会の崩壊を招くので害悪でしかない。
例えば大勢が近づいて互いに握手しても、600人中1~2人が感染して他のものは無自覚なら、その握手が感染の原因かどうかすも特定できない。単なる邪推だ。「Stay home!」と言われても、感染を済ますまで何時までも不安を抱え続けて生活するのでは単なる問題の先送るにしかならない。
この点が新型コロナウィルスの従来のペストなどの感染症と全く異なる点だ。感染者は感染しても無自覚。自覚症状もないままPCR検査は陰性に、その過程で多くの人に感染させる。いくら検査を実施しても何時までたっても感染経路の追跡は不能。
結局、世界の多くの賢者達が言うように、ウィルスと人類は共生の道を歩むしかない。多くの人がゆっくりと感染を済ませ、抗体を持つようになれば、コロナウィルスは脅威ではなくなる。
我が国の場合、統計を見ている範囲では、欧米諸国と比べ、感染による死者が著しく少ないので、既に共生の道を歩んでいるのかもしれない。効果が不明な外出規制やマスク規制は速くめて、緊急事態を解除し、粛々と日常の正常な生活に戻るべき時が来たように思う。
もう一度、条件付き確率 P(A∩B)=P(A) P(B|A)に、
P(B|A)は感染者の致死率で、これは対策がはっきりして効果が目に見える。
P(A)は、新型コロナのような感染してもほとんどの人が無自覚のような良性のウィルスに対しては、ペストの時のような悪性の感染症に対して行ったような、都市封鎖、外出制限、自宅待機、人との接触禁止のような処置を取っても、対策の効果は測れない。つまり、単なく憶測の可能性が高い。良性のウィルスとは、争わずに共存の道を選ぶのがベストである。
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新型コロナウィスルスに感染しないために
新型コロナウィスルスどのくらい危険か。マスクをする前に、自分の安全を確認しておこう。①コロナウィルスに感染して、②その結果死亡する。確率計算では①×②。
空から隕石が落ちて死亡することを恐れて、外出しない人はいない。可能性が小さい。①×②の確率が小さければ、stay homeなんて必要ない。
条件付き確率なんてもう忘れたね。
事象としては、A=感染する、B=死亡するだ。
P(A)= あなたがコロナウィスルスに感染する確率
P(B)= あなたが死ぬ確率。
P(B)は、簡単。日本では死亡数は 137 万 6000 人、死亡率(人口千対)は 11.1。
1億2000万人×(11.1/1000)=0.0114=1/87→133万人
つまり90人に1人が毎年亡くなっている。つまり、P(B)=1/90
厚労省のHP
死者は606人。
P(A∩B)=606人/1億2000万人=1/20万
20万人に1人(人の命は貴重だ)。でも、90人1人が亡くなっている現状?
さて、P(B|A) は条件付き確率。次の公式が成立。P(B|A)は致死率。
P(B|A)=P(A∩B)/P(A) → P(A∩B)=P(A) P(B|A)
P(B|A)=606人(コロナ死者)/15,547人(PCR陽性)=0.039
致死率3.9%。欧米諸国と比べて低い(5~6%が普通では)。
P(A) =P(A∩B) /P(B|A)=(1/20万)/0.039=1.28×10-4 =1/7,800
つまり、7800人に1人の率で感染。
死んだ方は当然PCR検査実施済(死因の特定)。無作為なら、P(B|A)=0.039は、1億2000万人×0.039=468万人の感染者。陽性確認者は15,547人。
つまり、実際には300倍 (468万人/1.55万人)の感染者。本人は無自覚のまま陰性。あなたも多分感染を済ましてしまった一人? PCR検査陰性でも、抗体は残る。抗体検査で陽性なら次からは感染の恐れもなく、他人に移す危険もない。最も幸運な一人になる。
ペスト型(感染=死)を想定した古典的な対策はどうも通用しないようだ。厳重に管理された指定病院の厚い壁も簡単にクリアー、医師や患者も感染。このような良性のウィルスとは、争わずに共存の道を選ぶしか方法がなさそうだ。
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コロナ君のアドバイス(1)
日本の政治家達は専門家の意見を聞かない。現場の医療関係者や厚労省技官等が声をあげても抑え込まれて、自分の都合のいい意見を言う専門家だけをテレビに出演させているようだ。やっぱり専門家はコロナの性質よく研究しているよ。
元厚労省技官が断言している。「1カ月自粛してもコロナは収束しない」。ニュースを見ていても確かにその通りに進んでいる。何度聞かされたか「今が正念場」
「『1カ月、2カ月頑張って自粛すれば収束する』と盛んに言われていますが、それは間違い、嘘です。この闘いが長期化するのは明らか。日本人の6割は感染が終わって抗体を持つまで終わらないから、2~3年は続くのでしょうか。オリンピックは間違いなく中止だね。
「一般にどんな感染症でも、収束への道筋は二つのみで、集団免疫を獲得すること、あるいは有効なワクチンが開発されること以外にありません。1~2カ月という短期間での収束とは、現実逃避にすぎないと思います。」延々と延長する。ワクチンとはウィルスとの共存を図る手段の一つ。今出ているのは対症療法の薬だけ。
“3密” という言葉に固執することにも疑問があります。海外を見ても採用している国はないんです。カリフォルニア州やニューヨーク州では、PCR検査で陽性となった人たちの何十倍の人数が感染していると分かっています。では、マスクは? 人との距離は?
日本も市中感染が広まっている可能性はきわめて高く、現状を考えると、3密やクラスター封じ込めは、焼け石に水です」(K氏、以下同)
感染症に対する政策は、3種類。(1)徹底的に行動制限して封じ込める「抑圧政策」、(2)社会的距離を保ち経済活動も制限する「徹底的自粛政策」、(3)緩やかな自粛で集団免疫獲得を目指す「緩和政策」だ。アメリカはじめ多くの国々は、「徹底的自粛政策」をとっている。
「日本は緊急事態宣言で、『緩和政策』から『徹底的自粛政策』に転じたといっていいでしょう。宣言前、政府は何もしていませんでしたが(注意喚起ぐらいはしていたと思うが)、日本人の行動様式と医療機関の努力によって、図らずも『緩和政策』状態にあったのではないかと、私は思います。
『抑圧政策』『徹底的自粛政策』は、厳しくするほど感染を抑えられますが、短期間では効果は一時的。解除すれば、再び感染が広がることは、4月14日にハーバード大の研究者が『サイエンス』誌に発表した論文でも予測されています。結局は解決の先延ばしにしかならない。人とウィルスが戦闘すれば、最後には必ずウィルスが勝つのは歴史の必然だね。
『抑圧政策』『徹底的自粛政策』は、ワクチン開発まで継続しなければ意味がないのです。政府は、これを国民に周知できているのでしょうか。出来てるわけないでしょう。何回「今が正念場」を聞かされたか。
また仮に1~2年後にワクチンが開発されても、そのとき、社会や経済はボロボロになっており、人とふれ合うという、人としての幸福も失われているでしょう。『社会不安や経済悪化にともなう死者は、新型コロナの直接の死者より多い』という指摘もあります」
一方の「緩和政策」にも、当然デメリットはある。
「集団免疫を得るには、人口の6~7割程度は、新型コロナに感染しなければいけません。日本は、諸外国に比較して致死率は低いですが、死者は数十万人単位になるという試算もあります。“医療崩壊” の危機は、ひっ迫した問題です」
確かに、オリンピック延期が決まる前までは、日本は感染を上手く抑え世界が羨む状況。今でも実態はあまり悪くない。ところが今は良くても必ず爆発的被害生じるとの海外からのアドバイスがあり、東京都知事が音頭を取って、感染者の数の増加を毎日メディアで掲げ、騒ぎを大きくして、緊急事態宣言を勝ち取ることに成功した。でも、実態はまだ、爆発的被害とは言えないし、そうなる可能性も??だ。
木村氏は、次のような方向転換の必要性を説く。
「全員予防ではなく、重症化しやすい人、基本的には高齢者に政策のターゲットを絞るべきです。若者の行動自粛ではなく、いかに高齢者が人との接触を減らせるかに焦点を当てるべきだと思います。
確かにそうだ。感染者のグラフを見れば分かる通り、多くの若年者は感染しても無自覚のものが多いので、働き盛りの人や学生を自宅待機させ、老人が普段通りの生活を満喫している現状は異常としか言いようがない。自宅待機は老人(60歳以上?)に限定にした方が遥かに効率がいいのにね。
それ以外の人は、なるべく普通に暮らしながら、集団免疫の獲得を目指す。賛否両論あるとは思いますが、真っ向から否定することではないはずです。否定することではないどころかそれしか解決の道は無いはずだ。
いずれは、ほとんどの人が感染するのですから、陽性患者全員を隔離するのも非現実的。同様に、日々の新規感染者数に過剰反応するのも、意味がないと思います」
「とにかく避けなければいけないのは、医療崩壊。政府には、『徹底的自粛政策』で時間を稼ぐ間に、人工呼吸器の数を確保することや、感染者数の少ない地方から呼吸器を扱える医師や看護師を都市部に派遣してもらうなどの医療資源確保と、トリアージ(患者の治療優先順位決定)の基準設置をぜひやってもらいたい。本当は、町の開業医全部に協力してもらえれば効率がいいと思うのですが。
新型コロナウィルスは特別な感染症に指定されており、感染者が出ても町の開業医には治療をすることが許されない。PCRで陽性が出れば、特別な施設で検査を行い、陽性なら特別の病院に入院させ、厳重な防護装置の中で治療を行わないといけません。新型コロナウィルスはペストなどと異なり、PCRで陽性の人の数は、本当に治療が必要な人の数の何十倍(或いは何百倍)と出てしまいます。当然医療現場は崩壊してしまいます。
都市を閉鎖し、外出規制を厳重に行った欧米の都市では当然医療崩壊が起こり、日本と比べて大勢の感染者死亡者が続出したのはある意味当然のことです。
日本の医師達は知恵を発揮し、どちらかと言えは緩和的政策でウィルスとの共存を図る温和で平和的な方策を模索してきました。少なくともオリンピック延期が決まるまでは。
政府は対策を、ただ先延ばしにしてきましたが、今こそデータから逃げずに、臨機応変に方向転換をすべきときだと思います」(参考:週刊FLASH 2020年5月12・19日号)
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見えて来た対策
新型コロナに対して世界各国の取り組みが変わって来た。コロナへの感染の恐怖と世界経済と人類社会の崩壊のどちらを優先するか。習近平、プーチン、トランプと世界の3大指導者たちが揃って、緊急事態解除、経済優先位舵を切り始めた。リーダが経済と市民の生活を優先し、国民や産業界、自治体が逆に不安から解除の延長を求めるネジレ現象が発生している。緊急事態解除を先延ばししているのは、従来から対米従属のEC諸国と日本ぐらい。
米ジョンズ・ホプキンズ大学は、今世界の新型コロナ対策のオピニオンリーダになっているようだ。彼等は世界各国の感染状況の統計を集めてHPに発表している。最も注目すべきは当然だが、世界の主要国の新型コロナウイルスによる死亡者の推移。これを見ると、死亡者の推移は明かに2つのグループに大別出来る 。欧米諸国とその他の国だ。
現時点での死亡者数。多い国は ドイツ 7,754名、米国 83,082人、イタリア 30,911人、フランス26,991人。この数値はGoogleでも確認できる。
一方、日本 678人、韓国 259人、ロシア 2,212人、中国 4,633人、インド 2,415。
グラフは対数で表わされているのでこの差は大きい。米国は日本の100倍以上だ。
この差の理由についても、色々な説明が試みられいる。曰く、人種的な差、BCG仮説、
…。ウィルスのタイプの違い。しかし決定的な証拠は出て来ないようだ。死亡者の少ない国は、いずれ第二次第三次のピークが来るので用心しておけ? ほんとかな?
欧米諸国でも、ようやくピークを脱したようでソロソロ緊急事態解除の動きもあるが、市民たちは寧ろ不安から延長を求める声も無視できないようだ。そして、今注目を浴びているのはオリンピック開催が決まるまでの、日本の対応だ。米国の1/100の死者数、大成功だろう。
そもそも、ウィルスと戦っても人類は勝てない。共存を目指すべき。PCR検査も極力限定し、治療が必要な者を優先して対処。国民の60~80%と多くの人が感染を済ませて抗体を持てば、自然に解決する。極めて科学的合理的というか、多分今残された方法はこれ以外にないはずだ。
死亡者数が多いのは、総て緊急事態と称して都市封鎖を実施した国ばかりだ。感染者見つけ出すためPCR検査も多く実施。つまり、ペスト型の感染症を真似て市民に強い制限を課した国ほど、結果は良くない。そもそも緊急事態宣言自体が市民の大幅な権利を取りあげる強権的なもので、民主主義国家ではよほどの切迫した理由がない限り、安易に出してはいけないもの。いま都市封鎖を実施した国の方が明かに死亡者が多い事実が明るみに出て、戦争タイプよりも共生タイプの戦略が明かに正しいことが知れ渡ると、欧米の諸国にとっては一大事だ。緊急事態後の対応は明かにファシズムの手法そのもの。何とか事実を隠蔽し都市封鎖を敢行したことを正当化したい。せっかくうまく行っていた日本のやり方が、東京オリンピックの延期以降、急展開して緊急事態宣言になったのか考えて見て欲しい。
ところで、日本型の方法を少し説明する。
P(A∩B)=P(A) P(B|A) …(1)
いきなり条件付き確率の定理だけと、感染症対策の基本ともいえる。この内容は、
感染してかつコロナで死ぬ確率=感染する確率×感染の致死率
と言い換えることが出来る。ここで感染者とは当然、PCR検査で陽性となったものだけ。当然、医者にかからずに検査もせず亡くなったものは当然除外される。その結果、既存のデータをもとに、死亡者数と致死率から感染者の数が推定される。式から当然のことだが感染者の数は、検査で陽性となったものの数に等しいい。普通の伝染病なら当たり前のことで、これで何の問題もない。
ところが、新型コロナウイルスの場合は、もし感染しても
① 一定の潜伏期間(2週間程度か)の間に周りの人にも感染を伝達し、その後陰性に転じて何事もなく終わる。抗体は持てるかも。
② 若干の自覚症状を有した後、治ってその後陰性に転じて何事もなく終わる。これも抗体は持てるかも。
③ かなり高熱等重症化するが何とか治療でき、その後陰性に転じて何事もなく終わる。これも抗体は持てるかも。
④ 肺炎等を誘発して、重篤化して死に至る。
のように、必ずしも治療が必要のない人が大勢いる。しかも④に該当する方は、高齢者火事病のある方に限定されている。米ジョンズ・ホプキンズ大学のHPでも、90%以上は60歳以上。しかも糖尿病などの持病のある方。
つまり、新型コロナウイルスは性格の良い、優しい人類と共生できるウィルスだったのではと思われる。だけど、①の人が大勢いたら、PCR検査しても感染経路何て何時までたっても分かる訳がない。
だから、日本の医師達は、初めから③と④の方を優先的に絞ってPCR検査を実施していた。従って検査数は少ない。ところが欧米流は、PCR検査を多数実施して感染源を元から潰そうと試みていた。共生でなく戦争だ。ところが、感染者とはPCR検査で陽性となったものだけ。①の形でどんどん広がっていく感染タイプにはとても対応できない。陽性なら緊急に入院が必要だ。院内感染大量死亡だ。
テレビで何度も尾身先生が言っていた通り。無作為に多数の①タイプの感染者を取りあげていたら、医療崩壊することは眼に見えている。正論だ。
新型コロナウイルスにとって、気の毒なことは、何故か非常に危険な特別なウィルスだという誤解が広まってしまったことだ。たいていの人は①か②のタイプ。特に大多数の若者や子供はほとんど重症化しない。例外的な場合だけを特に強調するのはプロパガンダだろう。自ら危険と感じている人は、当然自ら外出を控えたてstay home対策を講じている。国民の60~80%が感染するという最終目標を達成するためには、①か②のタイプの人からも感染の可能性を奪うことは、100害あって1利無し。犯罪的行為としか言いようがない。
新型コロナウイルスにとって、気の毒なことは、何故か非常に危険な特別なウィルスだという誤解が生じたのは、最初の武漢での中国の対応があるだろう。特殊防護服を着た作業員の物々しい姿が焼き付いている方も多い。その結果、大抵の国では、特別な感染症という扱いで、患者の隔離を、強権を発揮して推し進めた経緯がある。しかし、実態が分かって来ると、本当に危険な特別なウィルスだという考えには疑問符がつく。普通の町の開業医の治療、在宅の介護の方が、感染者へのストレスも小さく、結果として致死率を下げる効果もあるはずだ。
今、日本の若者の多くが、マスクを常時かけ、在宅引きこもりの生活を選択させられている。何故、こんな選択を自ら。ひたすら感染が怖い。でも若者が死ぬリスク極めて小さい。では、何故若者たちがコロナ感染を怖がるか。もちろん彼等だって、自分たちが感染して亡くなるリスクは小さし、出来れば外出し人間らしい生活を送りたいと思っているはず。しかし、もし感染すればどうだろう。特殊防護服を着た作業員が家までやって来て。強制的に隔離され、その結果院内感染で、命を失う。しかも、痛くもない腹を探られ、どこで感染したかを脅迫的に自白させられ、罪もない町の飲食店経営者が休業に追い込まれ、家族はいわれのない差別を受ける。つまりファシスト的制裁が恐ろしい。マスコミもこれに拍車をかける。口にマスクして黙っている。
厚生省の技官らは主張している。WHOの技官等も同じだ。でも、今彼等も口封じされている。マスクや不要だ。三密なんて彼等は言っていいない。人との距離を離せ。そんなことして何になる。若者同士が互いに感染させ合わない限りコロナの不安は当面は終わらない。図書館や本屋の本を触ると感染? ドアノブや手摺を触ると感染。マスクをかけても本当は10以上の距離が必要。ハッキリ言ってそんな根拠は何もない。そもそも感染経路なんて未だに不明。だって感染者と断定できるのはPCR検査陽性の人だけだから。人口の5%にPCR検査したニューヨーク州でも未だに分からない。日本はその1/10以下だ。犯人捜しは無駄な努力。当て推量の魔女狩りだ。それより新型コロナウイルスとの共生を計るべきだろう。若者や子供たちはマスクをはずし、stay homoを止めて、街に出よ。人間は人と人との会話があってナンボの人生だ。ゾンビとして生きても何が得られる。
心配しなくても大丈夫だ。人類はもうじきコロナとの戦いに無条件降伏する。経済は日増しに悪くなる。人々の生活は破綻する。日本・米国・ECの国はstay homeの見返りに多大な費用を支払っている。株価を買い支え、生活資金を肩代わりし、経済活動を止め、破綻寸前だ。せいぜい頑張っても今年一杯。でも、その時町に見られる餓死者の群れ見たくないね。stay homeを続けても、第二次第三の感染爆発の恐怖は続く、免疫抗体が出来ていないから。
コロナワクチンが出来れば? ワクチンは人為的感染の促進。だったら、もうすでにワクチンは出来ている。人との接触、外出の促進を少しずつ増やす。人口のワクチンよりも遥かに安全で安上がり。しかもワクチン2~3年はかかるかもしれないし。出来ても副作用の危険も無視できない。
結局、日本の医療関係者は偉かった。それに横槍を入れたのは政治家、医療も分からない文系人間が、西欧崇拝でへつらい続けた結果が今。それがファシズムに繋がる道とは知らずに。
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新型コロナウィルスからの警告
我々は、既に世界中に感染を蔓延させている。人類とウィルスが戦争すれば、必ずウィルスが勝つ。人は死ぬがウィルスは死なない。もともとRNAの断片みたいなもの。
ウィルスと共生する以外に、人類が生き残る道はない。共生するには人類がある程度の感染を許容し、抗体を持って欲しい。そもそも新型コロナウィルスは人知れず静かに感染し、何事もなく感染が終わって欲しいと思っている。大多数の人は感染して一定の潜伏期間の間、大勢に感染を広げるが、本人は回復し検査すら陰性に。でも抗体があるので感染しなくなる。
一部体の異常を感じ、こじらせて悪くなり亡くなる方もおられるが、そこは医療の技術で対処して頂くしかない。でも、実際に死亡する人は9割以上お年寄りでしかも糖尿などの持病のある方。こういう方は、どんな感染症でも同じで感染しないように自らが自粛するしか方法がない。でも、実際にはその数はそんなに多くないのでは。従って、そのために子供や働き盛りの方が感染できる機会を奪わないで欲しい。
日本の医療関係者は、当初我々の意向をよく理解してくれて、ウィルスとの共生の道は大変うまく行っていた。なのに、オリンピックの延期が決まった途端、ファシストの側に寝返ってしまった。
欧米のファシスト達は、新型コロナウィルスは危険なものと勝手に断定し、徹底的に戦う道を選んでしまった。都市を封鎖して、stay homeやマスクを強制。強権発動の連発。その結果、逆に多くの感染者を増産し、多数の人々を収容施設に収容し密室内で死亡に追い込んだ。日本の50~100倍の死者数。ファシスト達にとって緊急事態は美味しい密だ。一度出された緊急事態は解除されず何時までも続く。
彼等は、PCR検査を犯人(感染者)捜しのために使った。潜伏期間の感染者まで掘り起こし、死に至らしめた。PCR検査は本来コロナがどうか確かめ正確な治療を行うためのもの。マスコミを利用した感染者を非難する恐怖支配。市民にはマスクを着けて「今が正念場」、「stay home」を連呼する。でも、これは緊急事態を続ける口実。感染の恐怖を拡大すれば、住民をコントロールするなど訳はない。感染が治まらない間はPCR検査を増やせば感染者は簡単に増加させられるかもしれない。まだ、時期尚早。良かった、更に延期だ。
ファシスト達は、これをコロナと戦っていると考えているようだ。感染を徹底的に防げると思っているか。マスクもstay homeも全く無意味。コロナウィルスに対しては丸腰と変わりない。籠城戦のつもりかも知れないが、兵糧攻めにはどう対処。経済は破綻、勤労意欲の低下、住民のモラル低下、精神病、虐待、DV、犯罪の増加。
マスクを外し、外出を認めなければ、新型コロナウィルスは危険なものとの考えが何時までも人々の傍から離れない。これは、人の心に住み着いた内なるウィルス。新型コロナウィルスよりも何千倍も恐ろしいウィルスだ。
終戦は見えている。ファシスト達は、敗戦を認めない限り、新型コロナウィルスは町も経済も、人の心も徹底的に叩き潰してしまうぞ。
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アスペルガー症候群と高機能自閉症
アスペルガー障害というのは、アメリカ精神医学会の診断統計マニュアル、DSM-5では自閉スペクトラム症という項目に分類されている。
アスペルガーという言葉が有名になったのは、ウィングという人の論文らしい。このウィングの枠組みに沿った場合も、アスペルガー症候群と呼ばれているようだ。そう、昔はこんな病気は問題にもされていなかったようだ。
今、何故これが問題になるかと言えば、日本では、隠れアスペルガー症候群とでもいえる若者たちが急増しているから。社会を震撼させる殺人事件の犯人達も自己中心的なな理屈を言い張って反省もしない。アスペルガーとでもいえる特異な性格の者が増えている。
高機能自閉症というのは何かというと、一般的にはIQが70以上ある自閉症という考えが主流らしい。
そしてアスペルガー症候群の人は、IQが高い人が多いので、高機能自閉症と同じもの? でもアスペルガー症候群の症状は子供時代から続いているもので、いわゆる発達障害に分類されるようだ。
とりあえずウィングの言うところの『対人関係がうまくいかない』、『コミュニケーションが取り難い』『行動・興味・活動パターンが偏狭で、反復的・常動的である』という特徴がかなり強い人を想定して、とりあえずアスペルガー症候群と定義する。
まずは特徴がわかる『アスペルガー簡易診断表』があるらしい。
(Copyright(c)2016 合同会社ベルコスモ・カウンセリング)
1.目をあまり合わせない。若しくは目を反らさず相手の目を見続ける
2.会話のキャッチボールが出来ず一方的にしゃべる
3.流れに関係ない自分の話をする
4.人の話や呼びかけが聞こえていないような時がよくある
5.かなり年上の人、若しくは年下とつきあい、同年代の友達は少ない
6.「仮に」相手の立場だったらと考えることが難しい
7.相手の話のイントネーションや声のトーン、表情、態度から人がどう思っているかがわからない
8.人に対しての関心をあまり持たない
9.敬語の使い方がヘタ(タメ口になる)
10.比喩や冗談を理解しにくい
11.察するのが苦手
12.自分の考え方は絶対正しいと思い込む
13.自分の感情の気付きや理解が苦手
14.自分の気持ちを上手に表現できない
15.強迫的なところがある
16.ストレートに受け取る
17.強いこだわり傾向
18.予定の変更に強い怒りを覚える
19.変化に対してパニックになりやすい
20.狭い分野を深く掘り下げる
21.記憶力が良い場合が多い
22.反復的な動きが多い
23.決まったパターンで行動しようとする
24.不器用、運動が苦手
25.ぎこちない動きをする
26.光、音、臭い、皮膚感覚などに鋭敏で刺激に弱い
27.声のトーンにあまり変化がない
要するに、周囲の空気を読めず、一緒に行動したり、場のルールを守ったりが苦手・相手の言葉からいろいろと察することができず、超マイペースな行動をとったりする。また、物事にすごくこだわることが多いらしい。
こういう人、身の回りを見渡せば沢山いることに気が付くはずだ。しかしこのよう特徴があっても、大抵の場合、本人も周囲の人も病気とは思わないだろう。ただ、周囲の人がそれなりの対応を取ってやらないと、彼等(彼女等)は、自分を理解できない周囲に対し強い敵を抱くようになり反社会的行動に走る可能性も大きい。
つまりウィングの言うところの『対人関係がうまくいかない』、『コミュニケーションが取り難い』『行動・興味・活動パターンが偏狭で、反復的・常動的である』ということ。
そして、アスペルガー簡易診断表の26にあるように、よく見られるのは『過敏性』。
音や光にとっても敏感で、大きな音や閃光などでパニック状態となることもあります。
外から見た特徴としては、目を合わせるのが苦手、もしくは逆に相手の目を直視し続ける等があります。
また、指や手を使って行う動き(微細運動)が鈍い、つまり不器用なケースも多く見られます。
なお、簡易診断表には書いていませんが、アスペルガーやADHDなどの発達障碍の傾向がある人に、幼児性が強いケースがあります。
人類は、社会の中で人と良好な関係を築き円滑なコミュニケーションが図れるように大きな脳を進化させてきたらしい。脳のそのような機能の発達が止まっていることから、発達障害とも言われるのだろう。
狩猟採集生活や伝統社会に暮らす人々の間では、子供は社会で育てるものだったので、子供のこのような障害は、周囲からも簡単に気づくことができ、周囲の努力でだいたいは大人になるまでには解消されて来たのではないか。
現代の西洋文明を受け入れた核家族社会では、子供の面倒は密室で両親のみというケースが増えて来たようだ。子育ては太古の昔から集団でおこなうものに決まっている。精神医療のカウンセラー達は、このような発達障害では母親の責任は無い。脳の病気だというらしい。でも、これが遺伝的起こる病気とか細菌やウィルスのよる感染症の可能性もなさそうだ。ということは子供の発育段階のどこかで精神的な障害を受けたと考えるしかないのでは。核家族社会という家族形態自体に大きな問題が潜んでいそうだ。
実際、カウンセリングに来られる大人のアスペルガーの方、若しくは家族や関係者の方の一番多いお悩みは、やはり人間関係です。例えば、家族や職場で「人の気持ちを考えない人間だ」と非難される場合など。
職場におけるパワーハラスメントの問題においても、この特性が関係しているケースが結構多い。
また、家庭では夫に対して妻が「わたしの気持ちを考えてくれない」と傷つき、カサンドラ症候群となるケースもあります。どうしても自分勝手で独断的な行動になりやすく、周囲からは理解不能。
しかし、これは、本人が『やさしくない』のではなく、「仮に○○さんの立場に立って考えてみると…」と機能する脳のある部分がうまく働かないことによるもの。
アスペルガーが問題になるのは、家族とか友人とか身近な人間が被害者や加害者になりがちなこと。
色々解決策も提案されているであろうが、大人のアスペルガーは結局、本人がそれを認めないことには始まらないようだ。なまじ、指摘すればかえって反抗的になり逆効果。また、彼(彼女)の取り巻きには、その性質を逆用して利用しようとする人たちもいて解決を難しくしているようだ。今後の精神医療の世界でも大きな課題になりそうなテーマだね。
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またも幼児殺害事件
大阪府富田林市の団地で2歳の女児が熱中症で死亡し、祖母(46)と内縁の夫(50)が保護責任者遺棄容疑で逮捕された事件。事件当日「ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行った」と話した内縁の夫が、「その前に奈良へ行った」と供述したことが捜査関係者への取材でわかった。奈良行きの形跡はなく、府警は供述が不自然とみており、女児を放置した時間について調べている。
女児の死亡から1週間。内縁の夫は「これまでも何度か1人にして外出した」と供述しているといい、府警は虐待が長期にわたった可能性があるとみている。逮捕されたのは、いずれも富田林市小金台4丁目で無職の小野真由美、自営業桃田貴徳の両容疑者。府警によると、2人は6月29日午前5時ごろ、小野容疑者の孫の小野優陽(ゆうは)ちゃんを団地3階にある自宅洋室のベビーサークル内に閉じ込めて外出し、午後4時ごろまで放置した疑いがある。
ベビーサークルはタテ91センチ、ヨコ124センチの広さ。柵の高さは88センチで、優陽ちゃんの身長を超えていた。柵の四方は板で覆われて脱出しにくく、風通しが悪くなっていた可能性がある。内側には飲み物や食べ物もなかった。優陽ちゃんは脱水症状になり、29日昼ごろ死亡したとみられる。
桃田容疑者は「外出の際に洋室のエアコンと扇風機をつけ、窓を開けていった」と供述。富田林市消防本部によると、29日の同市の気温は午後2時50分ごろに34・5度になった。捜査関係者によると、府警は事件後、事件当時に近い状況を作り、室内の温度変化などを確認しているという。(山本逸生、甲斐江里子)
この件で、女児が2年前、この部屋で祖母が入浴させている際におぼれ、一時心肺停止になっていたことが捜査関係者らへの取材でわかった。
大阪府富田林子ども家庭センター(児童相談所)はネグレクト(育児放棄)と認定し、虐待リスクを「最重度」と判断。その後リスク判断を下げ、富田林市に引き継いでいた。
死亡したのは小野優陽(ゆうは)ちゃん。府警や児相によると、2020年1月、優陽ちゃんの目の前で実父(20)が実母(19)に暴力を振るう「心理的虐待」を確認。優陽ちゃんはその後、祖母で無職の小野真由美容疑者(46)の自宅に引き取られた。生後11カ月の20年6月、「入浴中におぼれ、心肺停止状態だ」と病院から児相に通告があった。
児相の調査に対し、小野容疑者は「一緒に入浴していた際に目を離した」と説明。優陽ちゃんは数日で退院したが、児相は安全配慮不足だったとして小野容疑者を指導。ネグレクトと認定し、虐待リスクを最重度とした。
大阪府警によると、優陽ちゃんは逮捕された2人のほか、叔父にあたる小野容疑者の四男(15)、五男の計5人で暮らしていた。
優陽ちゃんの父親は小野容疑者の三男で、優陽ちゃんと桃田容疑者との間に血縁関係はなかった。小野容疑者の長男から四男までは元夫との間に生まれた子で、五男の父親は桃田容疑者だという。
関係者によると、優陽ちゃんの両親は離婚し、祖母の小野容疑者らが引き取って養育していた。桃田容疑者は府警に「これまでも何度か1人にして外出した」「育児のストレスがたまっていた」と供述しているという。府警は、2人が養育放棄を常態化させていた可能性があるとみて調べる。
捜査1課によると、両容疑者は五男を連れ、6月29日午前5時ごろに車で家を出て、USJに行った。優陽ちゃんは午前7時40分ごろに1人になり、昼ごろ死亡したとみられる。
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何だか見るのも嫌な事件だね。最近日本ではこの種の事件が多いようだ。いや、実は欧米でも増えているとか。国全体として社会や家庭の崩壊が進んでいる可能性も。
人間関係を整理すると、殺された女児は優陽ちゃん(2才)。
事の始まりは両親に離婚が原因としてある。
殺人の容疑者として挙げられているのが桃田さんと祖母の小野さん。
彼女の両親は離婚、ともに別居。親権者として責任のある両親は?
2歳の女児ちゃんは、祖母の小野さんらが引き取って養育していた。
桃田さんは優陽ちゃんの父親であるが血縁関係は無かった?
では桃田さんの母親である小野さんも優陽ちゃんとは血縁関係無しか?
桃田さんは優陽ちゃんの母親に対して内縁の夫
でも、桃田さんと母親は同居していない。
つまり、桃田さんは離婚した父親でなく、再婚予定の内縁の夫?つまり優陽ちゃんは初めから邪魔。桃田さんと母親の間には別の子供がいた。
では、優陽ちゃんの本当の父親は誰? 母親はこの事件の容疑者にはならないの?
親権者として責任のある両親は何故名前入りで出て来ないのか?
桃田さん小野さんも、優陽ちゃんの母親に無理やり養育を押し付けられた?
始めから納得づく養育を引受けた訳ではなさそうだ。
これでは、2人が養育放棄を常態化させていたのではなく、母親に引取りに来いと警告していただけだったかも。
ただ、親権がある両親は例え別居していようと、子供の養育や監督の絶対的な責任があることは民法に明記されている通りである。容疑者として逮捕されるべきは何を差し置いても優陽ちゃんの両親であることは明かであろう。優陽ちゃんを殺した最大の真の犯人は彼女の両親だね。もちろん、現実に幼児を引受けている以上、保護監督の責任は免れない。それは保育園の様な一時的な預かりでも同じことだ。
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講釈の誤り
「講釈の誤り」は、「物事が起こってから、後付けで因果関係やストーリーを組立てること」を指す。このような行動は、例えばニュース番組で経済専門家が市場の値動きを解説しているシーンで頻繁に見られる。理論が整然として実に理解しやすいように見える。
でも、よく考えて見ると、市場がそんなに分かり易い動きをしているなら、何故最初からそう予測できなかったのでしょう。何故、いつも結果論ばかりなのでしょう。
こういうのを「講釈の誤り」と言うそうだ。我々ば知らず知らずのうちに、眼に見えるものを特定のパターンに当てはめて考え、そこに後からもっともらしい解釈を付けて満足してしまう。おかげで同じ一つの出来事に対して完全に逆の説明をしていても、自分ではその矛盾に気づきさえしない。
我々は、自分の周りで起こる出来事に絶えず意味を見いだそうとするため、そこから必然的に講釈の誤りが生まれる。ひとがもっともらしいと感じる説はとてもシンプルなものだ。抽象的ではなく具体的で誰かの才能・愚かさ・意図などが大きな役割を担う。起こらなかった無数の物事より、ほんの2~3の目を引く現象に眼を奪われてしまう。とにかく、間近に起こった特徴的な出来事なら何でも、あと講釈の題材になり得る。
後講釈の最大の欠点は、進化のプロセスを著しく妨げる。思考の停止をもたらしてしまうからだ。
3年間も新型コロナ感染対策を行って未だに、感染の拡大の危機の叫ばれる日本の現状を見て見て見れば分かる。感染の拡大縮小を繰返して、既に第七波となっていても一向に対策を変えようとはしない。完全に思考停止状態のようだ。
連日、テレビで感染症の専門家としての疫学系の医師が、後付け解釈を連発する。
何故、感染者が増えたのか。PCR陽性者が増えたからだ。連日医療崩壊寸前の医療現場の風景が写される。
何故、PCR陽性者が増えたのか。PCR検査数が増えたから。何故、検査数が増えたのか。感染者数が増えたから。感染者が増えているのはテレビニュースを見れば分かる?
「講釈の誤り」の典型例と言えそうだ。
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SGDs
持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals、略称: SDGs)
SDGsとは何か。誰かキチンと説明できるのでしょうか。はっきりしているのは、日本の江戸時代は間違いなくSDGs社会であったということだ。
SDGsは、2015年9月25日に国連総会で採択された、持続可能な開発のための17の国際目標である。その下に、169の達成基準と232の指標が決められている。
目標 1: あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困に終止符を打つ
目標 2 飢餓をゼロに
目標 3 あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を推進する
目標 4 すべての人々に包摂的かつ公平で質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する
目標 5 ジェンダーの平等を達成し、すべての女性と女児のエンパワーメントを図る
目標 6 すべての人々に水と衛生へのアクセスを確保する
目標 7 手ごろで信頼でき、持続可能かつ近代的なエネルギーへのアクセスを確保する
目標 8 すべての人々のための包摂的かつ持続可能な経済成長、雇用およびディーセント・ワークを推進する
目標 9 レジリエントなインフラを整備し、持続可能な産業化を推進するとともに、イノベーションの拡大を図る
目標 10 国内および国家間の不平等を是正する
目標 11 都市を包摂的、安全、レジリエントかつ持続可能にする
目標 12 持続可能な消費と生産のパターンを確保する
目標 13 気候変動とその影響に立ち向かうため、緊急対策を取る
目標 14 海洋と海洋資源を保全し、持続可能な形で利用する
目標 15 森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、土地劣化の阻止および逆転、ならびに生物多様性損失の阻止を図る
目標 16 公正、平和かつ包摂的な社会を推進する
目標 17 持続可能な開発に向けてグローバル・パートナーシップを活性化する
https://www.unic.or.jp/files/Goal_17.pdf
何だか盛沢山の割に全く具体的な施策が出て来ない。確かに現実の社会はこれと逆行する方向に進んでいる面もある。
グローバル経済のもとで進む貧富の格差は増大するばかり。戦争による難民も増えるばかりだ。飢餓で無くなる子供達。
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『寒山拾得』
『寒山拾得』。何処かで聞いたことがあるような。多分高校の国語の中だったか。何と著者は文豪・森鴎外。
あらすじ
主人公は閭丘胤(りょきゅういん)である。凡庸な官吏であり、リウマチ性の頭痛に悩まされていた。医者に診てもらっても治らなかったが、あるとき、自分の街にたまたま乞食坊主・豊干(ぶかん)がやって来たので、会うことにした。閭丘胤は僧侶や学者を無条件に尊敬していたためである。
さて、この乞食坊主に頭痛を診てもらうことにしたのだが、その治療方法も面白い。豊干は呪い(のろい)と称して、水を口に含んで、閭丘胤の頭に吹きかけたのだ。そのお陰か、閭丘胤の頭痛は治った。閭丘胤は礼を述べるとともに、豊干が天台国清寺の僧侶であり、そこには寒山と拾得という高名な僧がいることを聞きだす。どうやら、彼らは現代の文殊菩薩と普賢菩薩と称されているらしい。
かくして閭丘胤は国清寺に向かうこととなった。道翹(どうぎょう)という僧が境内を案内してくれた。そして寒山と拾得(二人はみすぼらしい姿をしていた)を閭丘胤に紹介した。閭丘胤は二人に対して、丁寧に挨拶するのだが、彼らは笑い声をあげて、去ってしまった。
実に不思議なユーモアを孕んだ話である。ただ、鴎外のことであるから、読者に対して想像力を要求してくる。そのせいか、鴎外の作品はどこか古典の風味をよく残しており、味わい深い。しかし同時に、漢文調の厳めしい文体と相まって、読みづらいと感じてしまうのも事実だろう。そこで、この作品の面白いポイントを2,3個に絞って紹介したい。(水石鉄二さん)
四国香川県丸亀市の妙法寺に与謝野蕪村の作の寒山拾得の襖絵がある。妙法寺の旧本堂の中央、本尊が安置される内陣と、本尊を礼拝する外陣との間を仕切る襖絵として描かれた作例。妙法寺の蕪村作品群のうち、唯一当初の襖の形態で残る。重要文化財の指定では「蘇鉄図」の「附」だが、襖絵としての位置や大きさから、妙法寺の障壁画において最も中心となる作品であったとみられる。
昭和43年(1968)に、拾得の目が油性マジックで汚損され、寒山の顔も損傷したが、昭和46年(1971)の重要文化財の指定以降、二度の修理を受け、昭和57年~58年(1982~83)度の修理で油性マジックの汚損は除去された。この修復作業を担当した東京文化財研究所職員たちの苦労話はNHKで放映されていた。
『寒山拾得』の話は勿論中国からだ。森鴎外の不思議なユーモアは、後の芥川龍之介の「杜子春」などにも受け継がれている。俳人与謝野蕪村も『寒山拾得』に何か惹かれていたんでしょう。さもなければそんな絵なぞ書かない。
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少年寅次郎
国民的映画「男はつらいよ」の主人公、ご存じ車寅次郎。寅次郎の生みの親である山田洋次監督が小説で描いた寅さんの少年時代がドラマになった! 山田洋次監督の小説「悪童 寅次郎の告白」映画化ということらしい。
寅次郎出生の秘密から、戦争をはさんだ悪ガキ時代、そして最愛の妹さくらに見送られて葛飾柴又の駅から旅立つまでの物語。なさぬ仲の育ての母は寅次郎のアキレス腱。母を悲しませないために、悪の道を何とか踏みとどまって生きてきた。そして、さくらへの無垢な愛情。この二人への感情が、寅次郎という人間の骨組みを作ってきた。どんなにいいかげんで、どんなに破天荒でも、人への悪意はそこにない。損得では動かない。人の心を溶かす寅次郎の秘密がそこにある。そんな笑えて泣ける市井の人々の物語。
昭和11年2月25日。歴史を揺るがす2.26事件の前夜、車家にも大事件が勃発。雪のこの日、帝釈天の参道にある団子屋の軒下に置かれていた赤ん坊は、この家の子供になった。そして日本一の妹さくらの誕生、小学校時代に始まった戦争と父の出征、初恋・・・そしてその後の寅次郎につながる家出。忘れたくない真っすぐな少年の心と、家族への愛。
フーテンの寅はこうして出来上がった。
舞台は昭和の東京・葛飾柴又ですが、そこに集う様々な人々たちの心の描写は、戦後日本の原点と言うか昔から続いてきた日本の伝統社会の何とか守り育てて残して行きたい美風を描いた力作と言えるでしょう。
まず、寅次郎は軒下に放置された捨て子。本当は父親が外でこしらえた自分の子。相手方の女が育てられずに父親(車 平造)宅の軒下に。まあ、当時はよくあった事例みたいだ。男尊女卑の風潮か、男は種付けだけ、子供を育てるのは女性の役割。
でも男尊女卑の風潮は、明治以降の西欧キリスト教型の一夫一婦の考えが入って来てからかも。江戸時代なら、それなりのお金が無いと男は子供など作れない。捨て子の父親は誰がどう考えてもこの父親の子。「では、誰がこの子を育てるの?」。平造の妻・光子が自分の子と同じように一生懸命可愛がる。父親 平造は「俺たちの子じゃなく捨て子だと」と寅次郎を邪険に扱い続ける。継母の光子役、女優・井上真央がとてもけなげで可愛らしい。
家族は大家族で、父親の父(寅次郎の祖父)と父平造の弟夫婦、寅次郎の親(平造、光子)、寅次郎の兄(病気がちで早死にする)と6人で、後に妹のさくらが生まれる。光子も家族の協力(父親を除く)があったから寅次郎を育てることが出来たんでしょう。寅次郎は周囲の大勢の大人達の愛情のもとで育ったので、他者への思いやりだけは失わずにスクスクと育つことが出来たのでしょう。今の核家族の家庭では考えられないことだ。
「西欧の昔話では、だいたい継母とは子供を虐めるのが相場なのに、何故お前は優しくするんだ。」父親 平造は光子にこういう。子供を虐めるのは核家族での継母、実の父親はそれを咎めない。産業革命以降に実の母から継母に書き換えが行われたようだ。日本の昔話では、悪い継母は出て来ない。その代わり、「おじいさんとおばあさん」だ。祖父母が子育てするのが当たり前か。
西洋流の子育てでは、子供と両親は別の部屋で過ごすのが理想のようだ。赤子でもミルクを定時にしか与えない。これは類人猿以来の人類の歴史に著しく反している。母親と幼児は24時間一緒だ。だから母親の手が塞がっている時は家族の誰かが代役せざるを得ない。子供は家族全員で育てる。人類は遠い先祖の時代からこうしてきた。やたらと親権を振りかざすのは産業革命以降の核家族社会になってからだろう。妻や子は父親の所有物だから。
伝統的な社会では育児は当然として家事を切り盛りするのも妻の役割。「男子厨房に入らず。」。男の役割は、外に出て狩りをすること。つまり外で働いてお金(サラリー)を家に入れること。となるとお店や農家などの自営業では男の立場は結構弱い。父親 平造は飲んだくれて大抵は家にはいない。ナマケモノで家にいても居場所がない。だから、皆に可愛がられる寅次郎には嫉妬の感情しかないのかも。日本の父親は大きな口を叩く割に、実際はかかあ天下の世界で頭が上がらないのが実態かも。財布の紐も握られている。
寅次郎が中学生ぐらいに大きくなってから、実の母親が一度だけ面会に来る。もちろん取り返そうなどと言う気持ちは微塵もないのだが旅立ちの前に一度会って起きたいとの悲願から。しきりに許しを請う。
子育て放棄と言っても、今の母親のそれとは全く異なる。子供を捨てる場所は大抵人目につく場所、多分90%位の確率で拾ってもらえると信じているはずだ。全く愛情が無いのでなく生活が立ち行かないという事情もある。つまり一緒にいても共倒れ、カッコウの托卵と同じ。だから、その後うまく育ったかどうかはいつも気にしている。単純に憎むわけにはいかない。問題は父親の側だね。不倫の責任を総て女の側に押し付けている。
この物語では、祖父が亡くなり、弟夫婦が別居するようになり、育ての母光子がガンで亡くなる。寅次郎は母を手伝っていたのだが、父と喧嘩して結局家出をしてしまう。父とは絶対にうまくやっていけないと悟る。核家族の家に男のリーダは二人はいらないということだろう。妹桜の世話を弟夫婦に託すと書置きして。「男はつらいよ」の寅次郎の誕生。テキやさんの修業を始めたところで話は終わる。父親はどうなったか分からないが、店は弟夫婦が継いだようで、妹さくらと同居している。時々ふらりと帰ってはまた出て行ってしまう渥美清主演の寅さんはこうして生まれたのだそうです。
ところで、父平造が子供を捨てた母親とよりを戻して、育ての母光子に親権があるから寅次郎を返せと訴えたらどうなるのでしょうかね。寅次郎にとっては本当の母親は光子しかいないはずだが、今の日本の民法では親権があるのは実の父母とあるようだ。明治の頃の都市化・核家族化の進みつつある西洋では妻や子は父親の所有物だから。なんでも損得勘定で動く現実に対して、たとえ破天荒で支離滅裂な行動でも、そこには悪意のない分ちあいの精神が宿っている。伝統的社会の良さだね。
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一つの民族
麻生氏は13日に地元の福岡県直方市で開いた国政報告会で「2千年の長きにわたって一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いている国はここしかない。よい国だ」と述べた。
この発言が問題視されている。一見どこが間違っているのか分からない人も多いのでは。「よい国だ」は主観的発言で、世界の多くの国が民族、文化の違いで問題を抱えているかも知れないが、これを「悪い国だ」と断定すれば明らかに非難が集中する。
日本は単一民族国家で皆天皇を神と仰ぎ、言語文化の多様性に乏しい画一国家だから結束が固い。だから、だから「よい国だ」と言いたいのでしょう。ナショリズムを鼓舞したかったのかも。
麻生氏が「政府の方針を否定するつもりはまったくない。」と政府の方針とは何を指すのでしょうか。しかし、「2千年の長きにわたって一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いている国はここしかない。」というのは、単なる歴史解釈の一つの便法で、実証できるものでもないし、このようにみられる事態が生じたのも単なる偶然の出来事だ。良いも悪いも何の関係もない。
問題は、新聞にあるように日本が単一民族国家と受け取られかねない発言は批判を呼ぶ可能性がある。何故か。選民思想的な差別的な発言に繋がる可能性があるからだ。麻生氏は2005年にも「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と発言し、北海道ウタリ協会(アイヌの人達)から抗議を受けていたらしい。アイヌの人達だって立派な日本人だから。
もちろん麻生氏の発言は、前提条件から間違っている。世界広しと言えど、単一民族何て言う化石人類、化石国家は存在していない。現在DNAの分析から民族の複雑な系統的なつながりも少しずつ明らかににされつつある。特に日本列島は大陸から海を越えて次々と色々な民族の人達が入ってきている。そのことが縄文や弥生の豊かな文化を育んで来たことを忘れてはならない。中国でも純粋な漢民族と言う概念は否定されている。朝鮮や中国とも戦前までは人の交流も行われて来た。つまり、日本が単一民族なんていう仮説は全く成立しない。
一民族一国家なんていう概念も、実は西欧諸国が植民地を分割統治するために発明した思想だ。宗教的な対立を煽って国がまとまらないようにする。偏狭なナショリズムは権威主義的な国家をつくるには便利だけど、差別や偏見を助長する。人類はホモサピエンスという一つの種だけで出来ている。
日本の皇室は確かに歴史が長い。たいていの国では政権が交代すれば王族は処刑され血統は絶える。その点、日本の天皇は「君臨すれども統治せず」を実施し、神として象徴として生き残るという賢い選択をして来た。日本の天皇が武力を持って日本を征服したというのは神話の世界だけだ(当時は大君と呼ばれていた)。だから、この今後も皇室が象徴として存在しているなら、国民は支援を惜しまないでしょう。
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ビザなし交流の訪問団事件
北方四島ビザなし交流の訪問団の一員として国後島を訪問した日本維新の会の丸山穂高衆院議員(35)が11日夜、滞在先の国後島古釜布(ふるかまっぷ)で元島民の男性に対し、北方領土問題について「戦争をしないとどうしようもなくないか」「(戦争をしないと)取り返せない」などと発言し、トラブルになったという。
同行記者団によると、丸山氏は11日午後8時ごろ、訪問団員との懇談中、元国後島民で訪問団長の大塚小弥太(こやた)さん(89)に「ロシアと戦争で(北方領土を)取り返すのは賛成か反対か」と語りかけた。大塚団長が「戦争なんて言葉を使いたくない」と言ったところ、丸山氏は「でも取り返せない」と反論。続いて「戦争をしないとどうしようもなくないですか」などと発言したとのこと。
この後、丸山氏は発言の責任を取らされ維新の会を除名されたとのこと。何かこの事件スッキリしないと思いませんか。丸山氏が不適切な発言をしたと非難されているが、彼は戦争をすべしなどとは全然言っていないではないですね。北方四島全面返還なんて日本だけの都合で発言していたら、北方領土問題は永久に解決しませんよという正論を主張しただけだろう。歴史を学べば誰でも分かること。訪問団長の団長は元国後島民だったということなので、ビザなし渡航の団長として認められているんだろう。友好目的の訪問団の団長が、北方四島全面返還論の支持者だとすればまことに不適切な人事で、喧嘩を売りに行くようなものだ。そもそも北方四島全面返還論というものは、日本とロシアが何時までも敵対していて欲しいアメリカの陰謀だということ位は関係者なら誰でも周知の事実だ。確かに現時点での外務省の正式な見解は北方四島全面返還なのでしょう。だから日本維新の会は、党として言論統制したかったのかも。
この件に関する報道の姿勢も可笑しい。「戦争」という言葉だけをクローズアップして、どんな会話があったかも全然報道しない。このニュースを読んだだけではどこが失言なのかはさっぱり分からないだろう。まるでSNSの書き込み見たいな記事だ。
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ヘイト本
ネット社会に密かに広がっているヘイト発言が問題になっているようだ。ケント・ギルバート氏のベストセラー『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社)が中国人や韓国人への憎悪を煽る悪質なヘイト本であると非難されている。
私自身、中国語も韓国語も学んだこともあるし、彼等とも多少付き合いをしたこともあるので、ケント氏の言い分も多少とも当たっているところもあると、面白く読ませて頂いた。だけれども、一般の中国人や韓国人がベッタリと儒教浸けになっているわけでもないし、彼ら自身ある程度、儒教道徳の悪さも自覚しているものと信じている。コッソリ楽しんで読めばいい本だと思うんですが。
エスニック・ジョークと言うものがある。有名なものは食堂でウェイターが水を持って来てくれた。しかし、その中にはハエが一匹入り込んでいて、おぼれてバタバタしていた。「英国人は、勘定を払って黙って店を出る。ドイツ人はピンセットでハエを取って水を飲む。フランス人はウェイターに文句をつけて代わりの水を持ってこさせる。ロシア人は全く気にせずゴクリ。中国人はハエが溺れるの楽しみながら結局一緒に飲んでしまう。」
こんな話ウソに決まっているでしょ。でも、そこはかとなく民族性(他者から見た)が紛れ込んでいて面白いジョークとなっている。このような発言を、冗談だと笑って楽しむか差別的発言をとるかは、受け手の資質にもよるだろう。
確かに韓国人は、儒教道徳に支配されている。儒教と言っても孔子や孟子の教えではなく、朱子学と言って支配者のために作られた膨大なルールブックだ。結構日常の礼儀作法にもやたらとうるさい。韓国の友人が私に尊大な態度を取っていたことがある。ところが私の方が誕生日が2~3日早く年長だと分かったとたんに手のひらを返したように丁重になる。自分の方が年上だと思っていたらしい。年功序列社会なんですね。自分の父母を、うちの御父上(おちちうえ)が…と話すのも日本人から見たら変だ。当然、自分の父や母に対しては敬語など使うべきでないと思うのが日本人。会社員がうちの社長殿が何て言ったら馬鹿かと思われるが、彼らはまじめにそう話す。でも韓国人から見たら自分たちのルールに合わせない日本人を品格の無い輩だと思っているかもしれない。
これも、一つの文化だから仕方がないと割り切るべきだろう。アメリカ人だって、『キリスト教に支配された悲劇の人達』かもしれないし、日本にも日本教なんてあるかも。ようは感情的な成らずに双方の意見の相違をしっかり理解しあうことが大切なのでしょう。
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ポイ捨てされる人間
橘玲さんの本「上級国民/下級国民」を読んでいたら、恐ろしいキーワードが見つかった。原典はジグムント・バウマン(Zygmunt Bauman;1925~2017)という、ポーランド出身の社会学者らしい。「Liquid modernity 液状化する社会」で人々が自由になるリベラルな社会では、伝統的なCommunityが崩壊し、人々が液状化すると考えた。そして、このようなliquidな社会は人々にとって、本当に祝福なのか、呪いなのかを真剣に問いかけたということです。「自由の行使には苦労が伴うので、人間は不自由なままでいたいのではないか。解放の展望等、考えるだけでも嫌などではないか。」 実際、自由とは本当は不自由なものだということは、多くの人々が指摘もしているし、現に実感していることだろう。
でも、その後バウマンは、この液状化する社会から落ちこぼれて行く人たちのことに目を向けて行くことに。グローバル化して格差がドンドン広がる社会では、一部のエリート階級を除いて、大多数の人間が社会にぶら下がって生きているだけの、落ちこぼれ人間になってしまう可能性すらある。バウマン氏の著の原題では、「Wasted Lives=ポイ捨て人生」。人間廃棄物とも訳されている。
「他者は君(余分な人間)を必要としていない。彼らは君がいなくても同じようにうまくできるし、場合によってはよりうまくこなせるのである。君がそこにいる自明の理由など存在しないし、そこに居続ける権利を主張しても明白に正当化してくれるものもない。余分だと宣告されることは、使い捨て可能であるがゆえに処分されてしまったということなのである。(廃棄された生)」
でも、この考えはほとんど総ての現代人に当てはまりそうだ。組織で働く人間は、その組織の中での歯車の一つとして働くことが期待されている。余計な動きなどされては皆が迷惑だ。自分の時間を賃金として売ることで生活している。歯車である以上、何時でも交換可能でないと組織はうまく回らない。使い捨て可能であるがゆえに何時処分されるかは予測不可能。マルクスもこの状態を疎外と呼んでいる。でも、あなたの仕事は他の人がやった方がうまく行くかも知れないが、結局は誰かがやらなければならない。また、あなたが仕事をやめれば家族も困るだろう。使い捨て可能であるがゆえに処分されてしまった人達が大勢発生すれば、社会全体が不安になるし、暴動も起こるでしょう。
ポイ捨てされる人間の問題は、ポイ捨てされる人間側の心の問題と、そのような人達を大量に生み出す社会の在り方の問題の両面からとらえることが必要だろう。
伝統的な社会-例えば江戸時代を考えてみよう。江戸時代では個人の仕事は生まれた時から決まっていて、自由も無いけど悩みもない。跡取り以外の子供はある意味、ポイ捨てされても仕方のない粗大ゴミ。跡取りが亡くなった時のスペアーだ。時にはスペアーであることが幸いして跡取りより上に出世してしまうこともままあるようですが。しかし、誰も自分がポイ捨てされた人間だなんて悩んだりはしなかったでしょう。結構趣味や遊び毎に熱中して毎日自由に楽しんでいたでしょう。
リタイヤしたご隠居さん。みな趣味に没頭して玄人はだし。現役のうちは家業に没頭して趣味の方はお預け。江戸の文化はご隠居さん達が活躍した部分が大きいようだ。伊能忠敬なんか勉強始めたのは50歳過ぎだ。江戸時代はお年寄りが大切にされた時代だけど、お年寄りも頑張っていたんでしょう。その大きな理由は、隠居してはじめて人生の自由を満喫できるようになるからだ。
伝統社会にも、人間のポイ捨ては公然と行われていたことも事実だ。赤子の間引きや姥捨山なんてもの。貧困な家庭では、双子や年子等の場合、十分な栄養を提供できないばかりか、家族の他の構成員の食料まで、奪ってしまわれては共倒れになってしまう。社会全体の合意もあったんでしょう。でも、江戸時代に生きていた人たちで、自分は社会の廃棄物だと考えた人はいたでしょうか。江戸時代はまだ社会が液状化する以前の状態だから。それでは、液状化とは何でしょう。地震の際に建物が傾く液状化なら分かるけど、人間社会の液状化とはね。今日はここまで。まだ検討を続ける必要がありそうだ。(2019.10.6)
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Empath
Empath(Empath)という言葉があるとは知らなかった。反対語は、サイコパス(psychopath)だ。精神病質(psychopathy、サイコパシー)とは、反社会的人格の一種を意味する心理学用語であり、主に異常心理学や生物学的精神医学などの分野で使われている。その精神病質者をサイコパス(psychopath)と呼ぶ。反社会性パーソナリティ障害として分類されている。
千葉県の自分の子を虐待して殺した栗原被告や、19人もの身障者を殺害した相模原(津久井やまゆり園)障害者殺人事件の犯人植松被告は、明かにサイコパスだろう。
一方、エンパスとは、非常に高い共感能力を持つ人のこと。 他人の気持ちに共感できないサイコパスとは真逆の性質です。 一を聞いて十を知れる、空気を読める、人の嘘を見抜けるなど、共感力の高さを発揮する一方で、人の気持ちを汲み取りすぎて気づかれすることも多いのが特徴です。そんな聖人みたいな人いるんですかね。あるいはこれが普通の人?少なくとも精神の病気ではないようだ。サイコパスの人達から見れば異常人だろうが。
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アスペルガー症候群と高機能自閉症
アスペルガー障害というのは、アメリカ精神医学会の診断統計マニュアル、DSM-5では自閉スペクトラム症という項目に分類されている。
アスペルガーという言葉が有名になったのは、ウィングという人の論文らしい。このウィングの枠組みに沿った場合も、アスペルガー症候群と呼ばれているようだ。そう、昔はこんな病気は問題にもされていなかったようだ。
今、何故これが問題になるかと言えば、日本では、隠れアスペルガー症候群とでもいえる若者たちが急増しているから。社会を震撼させる殺人事件の犯人達も自己中心的なな理屈を言い張って反省もしない。アスペルガーとでもいえる特異な性格の者が増えている。
高機能自閉症というのは何かというと、一般的にはIQが70以上ある自閉症という考えが主流らしい。
そしてアスペルガー症候群の人は、IQが高い人が多いので、高機能自閉症と同じもの? でもアスペルガー症候群の症状は子供時代から続いているもので、いわゆる発達障害に分類されるようだ。
とりあえずウィングの言うところの『対人関係がうまくいかない』、『コミュニケーションが取り難い』『行動・興味・活動パターンが偏狭で、反復的・常動的である』という特徴がかなり強い人を想定して、とりあえずアスペルガー症候群と定義する。
まずは特徴がわかる『アスペルガー簡易診断表』があるらしい。
(Copyright(c)2016 合同会社ベルコスモ・カウンセリング)
1.目をあまり合わせない。若しくは目を反らさず相手の目を見続ける
2.会話のキャッチボールが出来ず一方的にしゃべる
3.流れに関係ない自分の話をする
4.人の話や呼びかけが聞こえていないような時がよくある
5.かなり年上の人、若しくは年下とつきあい、同年代の友達は少ない
6.「仮に」相手の立場だったらと考えることが難しい
7.相手の話のイントネーションや声のトーン、表情、態度から人がどう思っているかがわからない
8.人に対しての関心をあまり持たない
9.敬語の使い方がヘタ(タメ口になる)
10.比喩や冗談を理解しにくい
11.察するのが苦手
12.自分の考え方は絶対正しいと思い込む
13.自分の感情の気付きや理解が苦手
14.自分の気持ちを上手に表現できない
15.強迫的なところがある
16.ストレートに受け取る
17.強いこだわり傾向
18.予定の変更に強い怒りを覚える
19.変化に対してパニックになりやすい
20.狭い分野を深く掘り下げる
21.記憶力が良い場合が多い
22.反復的な動きが多い
23.決まったパターンで行動しようとする
24.不器用、運動が苦手
25.ぎこちない動きをする
26.光、音、臭い、皮膚感覚などに鋭敏で刺激に弱い
27.声のトーンにあまり変化がない
要するに、周囲の空気を読めず、一緒に行動したり、場のルールを守ったりが苦手・相手の言葉からいろいろと察することができず、超マイペースな行動をとったりする。また、物事にすごくこだわることが多いらしい。
こういう人、身の回りを見渡せば沢山いることに気が付くはずだ。しかしこのよう特徴があっても、大抵の場合、本人も周囲の人も病気とは思わないだろう。ただ、周囲の人がそれなりの対応を取ってやらないと、彼等(彼女等)は、自分を理解できない周囲に対し強い敵を抱くようになり反社会的行動に走る可能性も大きい。
つまりウィングの言うところの『対人関係がうまくいかない』、『コミュニケーションが取り難い』『行動・興味・活動パターンが偏狭で、反復的・常動的である』ということ。
そして、アスペルガー簡易診断表の26にあるように、よく見られるのは『過敏性』。
音や光にとっても敏感で、大きな音や閃光などでパニック状態となることもあります。
外から見た特徴としては、目を合わせるのが苦手、もしくは逆に相手の目を直視し続ける等があります。
また、指や手を使って行う動き(微細運動)が鈍い、つまり不器用なケースも多く見られます。
なお、簡易診断表には書いていませんが、アスペルガーやADHDなどの発達障碍の傾向がある人に、幼児性が強いケースがあります。
人類は、社会の中で人と良好な関係を築き円滑なコミュニケーションが図れるように大きな脳を進化させてきたらしい。脳のそのような機能の発達が止まっていることから、発達障害とも言われるのだろう。
狩猟採集生活や伝統社会に暮らす人々の間では、子供は社会で育てるものだったので、子供のこのような障害は、周囲からも簡単に気づくことができ、周囲の努力でだいたいは大人になるまでには解消されて来たのではないか。
現代の西洋文明を受け入れた核家族社会では、子供の面倒は密室で両親のみというケースが増えて来たようだ。子育ては太古の昔から集団でおこなうものに決まっている。精神医療のカウンセラー達は、このような発達障害では母親の責任は無い。脳の病気だというらしい。でも、これが遺伝的起こる病気とか細菌やウィルスのよる感染症の可能性もなさそうだ。ということは子供の発育段階のどこかで精神的な障害を受けたと考えるしかないのでは。核家族社会という家族形態自体に大きな問題が潜んでいそうだ。
実際、カウンセリングに来られる大人のアスペルガーの方、若しくは家族や関係者の方の一番多いお悩みは、やはり人間関係です。例えば、家族や職場で「人の気持ちを考えない人間だ」と非難される場合など。
職場におけるパワーハラスメントの問題においても、この特性が関係しているケースが結構多い。
また、家庭では夫に対して妻が「わたしの気持ちを考えてくれない」と傷つき、カサンドラ症候群となるケースもあります。どうしても自分勝手で独断的な行動になりやすく、周囲からは理解不能。
しかし、これは、本人が『やさしくない』のではなく、「仮に○○さんの立場に立って考えてみると…」と機能する脳のある部分がうまく働かないことによるもの。
アスペルガーが問題になるのは、家族とか友人とか身近な人間が被害者や加害者になりがちなこと。
色々解決策も提案されているであろうが、大人のアスペルガーは結局、本人がそれを認めないことには始まらないようだ。なまじ、指摘すればかえって反抗的になり逆効果。また、彼(彼女)の取り巻きには、その性質を逆用して利用しようとする人たちもいて解決を難しくしているようだ。今後の精神医療の世界でも大きな課題になりそうなテーマだね。
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推し活
最近やたらと聞くマスコミ用語
「推し活」とは、自分のイチオシを決めて、応援する活動全般を指します。 元々は、熱狂的なアイドルファンが自分の好きなアイドルを「推し」と呼んだことが、推し活の始まりです。こんなこと昔からあったのでは?似た言葉に「オタ活」や「ヲタ活」がありますが、それぞれに明確な定義はなく、活動内容の差はほとんどありません。
「推し活」とは、自分にとってイチオシの人やキャラクター(=推し)を、さまざまな形で応援する活動のこと。 推しの出ているライブやイベントを観に行ったり、グッズを買ったり、手作りのグッズを作ることもその活動の一部です。 一部調査では、今や20代〜50代女性の約5人に1人が「推し活」をしているそう。つまり、自分の好きな「推し」の応援活動を通して、人気を更にアップしたいという動機?
終活とは「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最期を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括を意味する言葉である。で具体的に何をする? 終活は死を意識した本人やその家族・親族や友人・知人と関わりながら個人的に行うだけでなく、地方自治体や企業が支援・助言する動きも広がっている。神奈川県横須賀市では、身寄りがいない又は少ない市民から、遺言の保管場所や墓の所在などについて生前に知らせてもらい、没後に対応する「終活情報登録伝達事業」(通称・わたしの終活登録)を行っている。葬祭業などを営む企業や信託銀行などは、ビジネスとして終活を手掛けている。各社がサービス・商品を紹介する見本市「エンディング産業展」も開催されている。少子高齢化社会を迎えて、高齢者がますます社会のゴミ化して来た? 飛ぶ鳥跡を濁さずと言うことですね。
他に就活(就職活動)、婚活などのかなり定番化した用語もあるね。