Geography

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地理の部屋

地理学とは、地球の表面と住民の状態、その相互関係を研究する学問。この世界で生じている森羅万象総て地理の世界か。自然地理学と人文地理学何て区別もあるようだけど、何もことさら分別する必要も無いだろう。 一方、空間的な関係から時間軸に視点を移すのが歴史。ビッグ・ヒストリー何て言って宇宙の誕生から現在まで大局的に眺めようとの研究も。歴史地理学何て言うのもある。

まあ、とりあえず現実を熟視することが先だね。
当初はこのページ、海外も日本も一緒で始めたけど、やはり二分した方が整理しやすようだ。日本でも海外でもない宇宙空間の話はどうするか。まあ、どこか適当なページにブチ打ちこんでおこう。

日本を知ろう 世界を知ろう

日本再発見

裸坊達の祭りについて  
合掌造り集落 対馬 壱岐島 軍艦島 竹島・独島
秩父と花火 金閣寺 勅使河原 羽生市(はにゅう市)

世界の国々

世界の国々 先進国と開発途上国
秘境ブータン   ロシアと日本 ニューギニアが面白い  
カレーライスのお話  
クラカタウ火山   アラル海の問題について   ディエゴ・ガルシア島   スプリト  
デリーの鉄柱   イースター島 リベリア フィンランド共和国
慶州市
謎の百済王国
ダホメ王国
ハット・リバー公国
ナーランダ
サハリン2
ジンバブエの石
アフガニスタン

世界の国々

万国旗 世界にはいくつ国があるのか。日本政府が承認している国だけでも196もの国家があるそうです。国連加盟国は193だそうだ。日本の196は国連加盟国数193に、「バチカン」「コソボ」「クック」「ユウエ」の4か国を足して「北朝鮮」を引いた数とのこと。これらの国を全部回ったことのある人は世界でだいたい100人程度だそうだ。
私達は、そのうちいくつぐらいの国の現状について知っているでしょうか。定年退職して海外旅行に行く時間ができる。でもたいていは数か国回ればもう堪能してしまうでしょう。それに言葉も分からなくて旗振りのガイドについて観光地回って買い物して、何を得るのでしょうか。旅は人の知識を増やし、人生を豊かにするとは昔から言われてきました。日本の常識は世界の非常識なんて言いますが。
いま、我が国は大変内向き志向になっています。オリンピックなんかの報道も、焦点は日本の選手だけ。国民は本当に他の国の選手の頑張っている姿を見たくないのでしょうか。一時は世界のトップクラスだったODAも今では情けないほど減少しています。ニュースを見てもベトナムやインドネシア、タイ等の国の人々の生活が20年前とどう変わっているのが全く分からない状況でしょう。
でも、これだけインターネットが発達した時代、ほとんどの情報は机の上で居ながらにして手に入ります。まずは手に入る情報をしっかりと把握し整理しておくことが大事です。もし、運よく海外に行くチャンスが来たら有効に活用しましょう。中学や高校で地理を学ぶのもそういう目的のためのはずですね。

目次
裸坊達の祭りについて  
合掌造り集落 対馬 壱岐島 軍艦島 竹島・独島
秩父と花火 金閣寺 勅使河原 羽生市(はにゅう市)
先進国と開発途上国
秘境ブータン   ロシアと日本 ニューギニアが面白い  
カレーライスのお話  
クラカタウ火山   アラル海の問題について   ディエゴ・ガルシア島   スプリト  
デリーの鉄柱   イースター島 リベリア フィンランド共和国
慶州市
謎の百済王国
ダホメ王国
ハット・リバー公国
ナーランダ
サハリン2

裸坊達の祭りについて

裸坊祭り

裸坊祭というのが本当にある。「はだかぼうまつり」と読むそうですが、山口県防府市の防府天満宮で、1000年以上続いているとされる御神幸祭(裸坊祭)とも称される極めて伝統と由緒ある祭りだそうです。学問の神様として崇められている菅原道真公の御霊(みたま)を慰める神事で、菅原道真公が京都から大宰府に流されて行く道筋での宿泊地として立ち寄られた際の送迎にちなんで毎年11月の第4土曜日に実施されるそうです。白装束姿の「裸坊」と呼ばれる男たち約5千人が境内を埋め尽くす中、触れると願い事が叶うといわれる、御網代輿が登場し、裸坊たちが我先にと群がる壮大な祭りだそうです。
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世界の国々

カレーライスのお話

 カレーライスは、今や日本料理の定番として定着しつつあるが、その歴史的背景はなかなか複雑です。ところで毎週金曜日はカレーの日。これ明治以来の日本の伝統。というより、英国の伝統。そもそも、インドにはカレーという料理は無く、ガラムマサラという国民食---日本で言えば味噌汁あるいは醤油みたいな汎用性の高い多種多様な食材がある。どれも豊富に香辛料を使うのですがその使い方も色々で、まさに「おふくろの味」と言ったもの。しいて、カレーの語源を探れば、ドラビダ語系のタミル語「カリ」に行きつくようです。

 英国が、インドを統治下に治め、1772年にインド総督だったウォーレン・ヘースティングズによって、「カレー」料理が紹介された。ヘースティングズはロンドンで仕出し屋のような商売もしていて、イギリス人でも調理できるように材料を調合してカレー粉として販売したようです。当時、英国では日曜日に肉を焼く。ローストビーフです。まいにち少しずつ食べて金曜あたりなると肉が傷み始める。それをごまかすためには香辛料満載のカレーがピッタリと言った訳です。土曜日は何食べたのですかね。

 日本には明治3年の兵制改革の時期。各藩寄せ集めの群を改革するため、陸軍はフランス、海軍はイギリスの範を取ることにした。そこで、英国海軍の金曜カレーが日本海軍に移植されたようだ。今でも海上自衛隊の金曜の夕食はカレーライスです???。横須賀カレーはその名残(海軍基地があった)。

 イギリスでは、ご飯でなくてパン??。イギリスでもカレー&ライスですよ。ヘースティングズは、ベンガル知事。ちょうどガンジス川河口のバングラデシュあたりで、主食は米。もちろんインディカ米の長粒種。日本では超異常なコメの高関税のため入手は難しいでしょうが、この方が多分美味しいのでしょう。  日本でのカレーの国産化は、まず漢方薬屋がトライして成功する。カレー粉は、まさに色々な生薬に混合物。カレーの実が成る植物なんて絶対にありません。この成分を解き明かすことは非常に面白い。きっと色々なカレーを試してみたくなること請け合いです。  また、カレーの具の方も色々な肉や魚、野菜のバリエーションも多く豊富なメニューが可能です。だた、日本のカレーは小麦粉を入れてトロミを出すのに比べて、他のカレーはもっとさらっとしたスープ状と言った違いがあるようです。
1.カレーの色
 あの黄色い色のもとは、ウコン(鬱金)。英語名ターメリック (turmeric)。
ターメリック ターメリック ショウガ科ウコン属の多年草。インドが原産であり、紀元前からインドで栽培されている。根茎に含まれるクルクミンは黄色い染料の原料としても広く用いられてきた。日本では、カレー粉に用いられるほか、クルクミンの肝機能への影響を期待して二日酔い対策ドリンクの原料にも用いられていますがまだ実証はされていないらしい。
2.辛み成分
 辛み成分は、胡椒も多少は使われるのですが、基本はトウガラシ
トウガラシ 胡椒
胡椒(左側)はヨーロッパではものすごく貴重品だったのです。トウガラシは、コロンブスが持ち帰るのですが、行ったのはインドでないので代わりに持ち帰ったもの。どちらもpepperなんて呼んでますが、トウガラシはナス科、胡椒はコショウ科のツル性植物で全く別もの。唐辛子は手軽に植えられることもあり、今や世界中で胡椒の座を奪ってしまったようです。他に生姜なども入っていることも。
3.香り成分
クミン コリアンダー クローブ クローブ
左から、cumin、coriander、clove
香りの一番手はクミン(cumin)。セリ科の植物。漢方では馬芹。市販のカレーを食べる際にこのパウダーを一振りすると香りが断然引き立つらしい(今度やって見たい)。
二番手はコリアンダー(coriander)タイ料理ではパクチー、中華では香菜(xiangcai)。セリ科の一年草。世界中で使われているが、最近ではスーパーでも売られている。
三番手は、クローブ(clove)、丁子(ちょうじ)ともいう。おもにインドネシア、ザンジバル、スリランカ、モーリシャス、マダガスカル、コモロ、ペナン、ドミニカなどで栽培されている。私も、タンザニアのザンジバル島、ペンバ島に行ったことがあるが、丁子の臭いが町中に漂っていました。チョットあまいいい香りがします。フトモモ科の木の花のつぼみです。大航海時代は、胡椒と並ぶ重要商品だったらしい。
ナツメグ シナモン シナモン
四番手は、ナツメグ。ニクズク科の常緑高木の種子。漢方薬では荳(ずく)。下痢止め。
他に、シナモン(肉桂)…クスノキ科の常緑樹、またその樹皮から作られる香辛料である。ニッキとも。香り高く、『スパイスの王様』と呼ばれる。
カルダモン フェンネル フェヌグリーク
左から、カルダモン、フェンネル、フェヌグリーク
カルダモン(cardamon)は、ショウガ科の多年草。和名は小荳蒄(ショウズク)。原産はインド、スリランカ、マレー半島。「スパイスの女王(the queen of spices)」と呼ばれることがある。
フェンネル(Fennel)は、セリ科ウイキョウ属の多年草。和名はウイキョウ(茴香)。
フェヌグリーク(fenugreek)…マメ亜科の一年草植物。
カレーにはものすごく色々な香料が入っているのですね。

世界の国々

先進国と開発途上国

“Fact Fullness- Hans Rosling” という本が出た。一見世の中の常識の様な事柄も、データを見て自分の頭で考えれば実はとんでもない誤解であったということが多数ある。この本の最初の方にあった意外な事実。多分衝撃的だ。

fact1 まず、右のグラフを眺めてみよう。横軸は女性一人当たり何人子供を産むのか。縦軸は生まれた子供が5歳まで死なずに生き残る確率だ。
このグラフは各国を人口の比率でプロットしている。世界の国々はごく大雑把に2つのグループに分けられる。その間に位置する国は少ない。左の四角は開発途上国(developing countries)で右が先進国(developed countries)という訳だ。左側の大きな丸はインドと中国だろう。開発途上国は、貧しく沢山の子供を産んで多くが無くなる。先進国は少子化で死亡率も小さい。これ多くの人の固定概念だろう。
日本だって戦前や戦後すぐは正に子沢山で幼児の死亡率も高かった。でも待て、中国は今一人っ子政策の為子供を5人も生む女性はいないぞ。

fact2 そうなのだ、このグラフは1965年当時の世界の状況だということ。では、改めて2017年時点のグラフはどうなったのか。著しい変化が見られる。少なくとも子供の生存率は著しく向上。5歳まで死なずに生き残る子供は、大抵の地域で9割近い。子供の数は減ってくる傾向にあることは分かるが、貧富の差とは関係なさそうだ。

2つのグラフの間の年代差は52年しかない。一体全体何があったんだろう。グローバル社会の進展だ。米国は欧州の戦後復興のため、ドルを大量に発行してものを買いまくる。 1971年にはドルは金との交換も無くなり、ドル紙幣の世界への垂れ流しが始まる。基本的には超インフレになるはずだけど、ユーロも円も人民元もドルに合わせて紙幣の増刷に応じたため、世界の為替相場は一見安定しているかに見えた。
でもこれは、開発途上国の多数の中間層の生活レベルを著しく引き上げ、一方先進国の中間層の生活レベルを著しく低下させる力となって働いた。
先進国へ集まる富は一部の富裕層にだけ集中するためこのグラフには反映されない。開発途上国でも富の偏在はあるものの全体としての生活の向上は著しい。資本はより労賃の安い地域を求めて世界を回り、その結果世界中の中間層の富を均一化する方向に働いたようだ。

このことは多くの日本の人達は気づいていないかもしれない。現在、米国でも欧州でもアジアでもアフリカでも中間層の人達の生活レベルはそんなに変わらない。羨んだり差別したりは総て偏見のなせるわざ。基本的に対当だ。米国人の多くが豊かだと思うのは間違いだ。富裕層はほんの一握り。先進国(多分開発途上国も)の方が富の偏在は著しい。1%の一握りの人達が残りの99%の人達の富と同じだとしたら?
少なくとも我々は、1965年とは全く異なった世界の住んでいることに。

世界の国々
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世界一きれいな英語が聞ける国…秘境ブータン

 ブータンと聞いても一般の人は、なかなかイメージが沸かないと思う。なんせ1970年ぐらいまでほとんど鎖国状態で、今でも観光客の数は制限されていて、特定の旅行会社を経由して現地のガイドを同伴しないと旅行することは難しい。ヒマラヤ山脈の山の中の人口約78万人の非常に小さな国である。国民の9割が農民で貧しい国であるが、1972年代にワンチュク国王が提唱した国民総幸福量(いわゆる幸せの指標、GNH (Gross National Happiness))の概念に基づき、「世界一幸せな国ブータン」として国造りを進めており、GDP/GNP増加だけを経済の指標としている世界中の先進国からも注目されている。
ブータン・パロ空港ブータン・パロ空港
 ブータンの人達は、伝統文化に中で現代文明とは距離を置いて生活しており、ほとんどは農民ですが、農家はどの家も大きなガッチリしたつくりで、自給自足の生活ができるため、GNP統計上は実際以上に貧困状態と分類されているようです。また、教育、医療、水道等のインフラが無料ということも生活の心配が少ないため、幸福度に大きく貢献しているでしょう。一般的にはお金や経済の成長と幸福度は正の相関があるとされているが、実際の幸福度は、常に他者との比較ですから皆が同程度の貧しさなら人は幸福でいられます。また、余計な情報が氾濫していないことも精神的な豊かさのためには必要でしょう。そのようなわけから、アンケート調査などから、実際にブータンは幸福度は世界のトップ10には入ってくるようです。日本、米国等は20位以下。格差社会が進んでいるのでしょう。
ブータンのニューカップル 【上記写真の注釈】
 上の結婚式の写真は、左の青年がオランダ人で、森林保護関係のNGOの仕事をしているらしい。とてもブータンがお気に入りとのことですが、まさかブータンの女性と結婚して永住するつもりとは。実は、この写真を彼が私に送ってきたのは訳があるのです。
ネパールのカトマンズ空港から、ブータン行の飛行機に乗り込んだとたんの機内放送があり、本日の飛行は霧のため中止ということで、乗客はほぼ強制的にホテルに直行させられ翌朝に飛ぶことに。しかも、ホテルは見知らぬ客同士の相部屋。オランダ人は世界でも背が高いので有名だが、彼も相当にノッポで強そうだ。まあ、向こうからすれば正体不明の中年のアジアのオジサン。お互い間が持たないね。たまたま、ウィスキーのボトルを私が1本持っていたので、二人で1本あけて多少の話もしたようだ。大変喜んでくれていて、そのお礼として写真を送ってくれた。どうしてボトルなんか持っていたのか。ブータンの夜は何も娯楽が無いので準備しておいた方が良いとの情報があったからなのだが。まさに、ノミニュケーションの見本ですね。まあ、これも昔の話。2000年頃かな。ブータン国自体は今もそんなに変わってないかも。

ブータンのガイドさん
 このブータンの人、どうして英語が得意なのでしょう。ブータンと言う国、ちょうどヒマラヤの急斜面に位置しており、大河ツァンポー川(ブラマプトラ川)の沢山の支流による浸食で、国中が深い谷で分断されています。谷が異なると人の行き来も難しく、言葉も異なってきます。従って学校教育では共通語として英語が用いられているそうです。ブータンの人はシャイで人見知りするため、自分から外国人に話しかけることはありませんが、話しかけられるとしっかりとした英語で答えが返ってきます。スーパー(雑貨屋さん)の売り子の女性も英語の教科書を読んでいるような英語が返ってきます。ブータンは国連職員も多く出しているそうです。スローテンポで格調高く、威厳を持って話すことが出来る。日本の英語教育もそんな英語を目指して欲しいですね。

世界の国々

ロシアと日本

文明開化時期のロシアと日本。日本はヨーロッパ諸国から色々なものを学んできました。科学技術は当然としても、軍事や法律など。では、ロシアから学んだもの。文学では、チェホフ、トルストイ、ドストエフスキー他結構あげられそう。後は音楽、チャイコスキーの他幾人かあげられそうです。後は一時流行った歌声喫茶などのロシア民謡。日露戦争と太平洋戦争で敵味方として戦った以外、隣人としてはあまり接触がないのが現実。それと戦後の東西冷戦の影響で、日本人の中にはあまりロシアが好きでない人も多いようです。
レーニン 右写真はユジノサハリンスクで見かけたレーニン像。スターリン像はもうないがレーニンは健在。
また、ロシアと言う国は軍事的には大国ですが、経済の面では相当貧しく、国民は常に西欧諸国にあこがれを抱いている国なのです。ロシア人の方は、経済成長を成し遂げ、文化的にも独自な日本には親近感を持っている人の方が多いようです。日本に来る観光客の中にはロシアや旧ソ連邦からやってくる人結構見かけます。
以前、政治家鈴木宗男が、「ロシアと経済交流をしないと北海道の未来は無い。」と言っていましたが、逆にサハリン、北方4島、極東の地域の発展も日本の力なくして発展は不可能です。韓国、中国がその地位を狙(ねら)っていますが。サハリンのスーパーを経営しているのはたいてい韓国人か中国人。社会主義の影響か、ロシア人は商売が下手で、新しい企画を行うことは苦手なようです。ただ、スポーツや芸術の世界ではとことん打込むすぐれた素質がありそうですね。付き合って損は無い相手でしょう。
サハリンには、今でも日本料理店があります。スーパーでは東郷ビールなんて売っています。反日の韓国や中国では、絶対にありえないことです。ロシアの首脳達は、領土問題を棚上げして、経済交流をしましょうと、何度もさそっているのに領土問題に固執し経済交流を拒否してきたのは日本の政府です。北方領土は、戦後のヤルタ会談の密約で米ソが合意したもの。基本的にはロシア側の好意が無ければ絶対に帰ってきません。朝鮮戦争で米国が38度線で留まったのと同じこと。米国の意向は、ロシアが常に敵側にいて欲しいことだけ。四島返還なんてことがおこれば米国が黙っているはずがありません。 ソ連邦が崩壊して、ロシアが自由主義経済圏に組入れられたはずですが、なんとかそれを阻止したい勢力が米国の政治の主導権を握っているのです。冷戦に変わる恒久的な対立です。
ところで、ソ連邦とは何だったのでしょうか。ロシア人は、常に西洋諸国から、田舎者あつかいされ、仲間外れにされ、バカにされ劣等感すら持ち続けてきた歴史があります。国際的には強面で、強いリーダーシップを発揮してくれるプーチンが国民の圧倒的な支持を受けるのはそれなりの理由があるのでしょう。

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ニューギニアが面白い

ニューギニア ニューギニアは一度訪ねてみたい国の一つである。ニューギニア島(New Guinea)は、は太平洋南部に位置する島。西半分は、インドネシア領で東はパプアニューギニアとしての独立国。オーストラリアがトレス海峡を隔てその北側にある。パプア島 (Papua)・イリアン島 (Irian)とも呼ばれている。面積は約78.6万km2で日本の国土の約2倍の大きさ。世界の島の中では、グリーンランドに次ぐ面積第2位の島。大陸を含めても8番目に広い陸塊だ。

ニューギニア最初の人類は、氷河期の頃にスンダランドから移住してきた人々であるようだ。オーストラリアのアボリジニに近い系統であるオーストラロイド(パプア人の祖先)とされている。その後、海洋民族で青銅器文明を持つアウストロネシア系の諸民族(メラネシア人、マレー人、ジャワ人)も到来したらしい。 熱帯雨林と湿地帯がほとんどを占めているため、白人たちにはうまく植民地的利用ができず比較的伝統的な社会が良く保存されてきている。そうはいっても独立までは色々と紆余曲折はあったのでそれは別途調べてみる必要はあるでしょう。 ニューギニア ニューギニアはダイヤモンド博士が、最初に人類学の研究のため訪れた地で、その後の彼の思想にも大きな影響を与えた場所だ。彼はバードウオッチングウォチャーとしての側面もあったので、その面でもニューギニアは最初から魅力的な土地でもあったのでしょう。
ただ、他の地域から隔絶された環境で、その複雑な地形から、多種多様な文化や言語を持った多くの部族達が独自の文化を守りながら生活しており、人類学研究の宝庫であったわけです。
最初に博士がこの島を訪ねたのが、1931年。2006年に首都ポートモレスビーの空港で見た光景は非常に衝撃的だ。近代的な飛行場。空港内での人々の服装も空港職員も設備も他の先進国の様子と全く変わらない。豊かな自然を破壊する道路建設をやめていきなり空港網が完備される。素晴らしいことだ。ただ一歩外へ行くとそこには伝統的な社会もいまだ根付いている。人類2000~3000年ぐらいの歴史の変化をたった数十年程度で追いついたこの人々達が今後どんな変化をしていくのかは大変興味深い人類学の壮大な実験だ。

世界の国々

グリーンランド

グリーンランド

グリーンランドは、北極海と北大西洋の間にある世界最大の島(日本の面積の5.73倍)。メルカトル図法の地図で見ると北極に近いところにやたらと大きな島が描かれている。しかし、特別な観光地でもなさそうだし、我々にとっては存在感の薄い土地でもある。所属はデンマークの旧植民地。現在はデンマーク本土、フェロー諸島と対等の立場でデンマーク王国を構成しており、独自の自治政府が置かれてそうだ。
982年頃、ヴァイキングの仲間の赤毛のエイリークという人物が、この島を発見しグリーンランドと命名したらしい。ちなみにアイスランドもこの人物が発見し、ネーミングが悪く入植希望者が来なかったので、グリーンランドと命名したらしい。その後は住民たちも絶滅し忘れられた存在になっていたらしい。
グリーンランドは、大部分が北極圏に属し、全島の約80%以上は氷床と万年雪。巨大なフィヨルドが多く、氷の厚さは3,000m以上に達する所もあるという。居住区は沿岸部に限られ、本当に北極の島だ。
16世紀半ばに再発見され、18世紀にゴットホープに植民地が作られ、同時に布教も行われた。1917年以降はデンマークの支配が全島に及び、1953年本国の県と同様の自治権を得る。1979年5月に自治政府が発足し、グリーンランドはデンマークの自治領となった。1985年グリーンランド政府はECを離脱。
グリーンランドは、島内のほとんどの土地が厚い氷に覆われており、地下資源の採掘が困難であった。しかし、地球温暖化の影響で少しずつ氷が溶解しており、今後採掘のスピードが速まると予想される。グリーンランドの地下には中東地域に匹敵する量の原油が存在するとされており、地下資源収入が経済的にグリーンランドを支え、デンマークからのグリーンランド独立が容易になるとも指摘されています。主な資源は鉱物(亜鉛、銅、鉄、氷晶石、石炭、モリブデン、金、プラチナ、ウランなど)と海産物(魚介類、アザラシ、クジラなど)。
【グリーンランドの経済】
現在のグリーンランドの主な収入源は漁業のようだ。2010年の輸出品の87%が魚介類(うち55%がエビ)および水産加工品。農業の中心は野菜生産と牧羊、そしてトナカイの飼育です。またグリーンランドアザラシをはじめとする動物の皮革や毛皮製品も、輸出の一部を占めています。

世界の国々

クラカタウ火山

インドネシアのジャワ島とスマトラ島間スンダ海峡にある超巨大火山。今でも活発に活動しているらしく恐ろしい話だ。数万年以上前から活動していたようだが、文字が発明されて以降、535年と1883年に大爆発を起こしている。特に535年の噴火は地球環境にも多大な影響を与え、歴史を大きく塗り替える原動力ににもなったとか。
クラカタウ火山 東ローマ帝国には、この時の様子の記述が明確に記載されており、1年以上も「太陽が暗い状態」が続いていたことが記されています。

【東ローマ帝国の歴史家プロコピオスの西暦536年の記述】
昼の太陽は暗くなり、そして夜の月も暗くなった。
太陽はいつもの光を失い、青っぽくなっている。
われわれは、正午になっても自分の影ができないので驚愕している。
太陽の熱は次第に弱まり、ふだんなら一時的な日食の時にしか起こらないような現象が、ほぼ丸一年続いてしまった。
月も同様で、たとえ満月でもいつもの輝きはない。

同様な記述は、西ローマ側にある。
【歴史家であり教会指導者ヨーアンネースの西暦536年の記述】
あのような太陽からの合図は、いままで見たこともないし報告されたこともない。
太陽が暗くなり、その暗さが1年半も続いた。太陽は毎日4時間くらいし照らなかった。照ったといっても、実にかすかだった。
人々は太陽が以前のように輝くことは2度とないのではと恐れた。

クラカタウ火山 このような記録は、中国にもあり、世界の多くの地域で噴火の爆音が聞こえたらしい。535年の大規模な噴火はインドネシアの文明に歴史的な断絶を引き起こした。5世紀から6世紀にかけてのジャワ島西部にはカラタンと呼ばれた高度の文明が栄えていたが、6世紀以後姿を消す。また、世界各地に異常気象をもたらす。その痕跡は樹木の年輪や極地の火山灰の堆積のような物的なものから歴史文書に至るまで広範囲に亘っているのだ。
1999年、イギリスで放映されたテレビ・ドキュメンタリーにおいて、この巨大噴火による気候変動を発端として、東ローマ帝国の衰退やネズミを媒介とするペストの蔓延、歴史に残らぬ暗黒時代の惨事の数々、イスラム教の誕生、ゲルマン人等によるヨーロッパ侵攻、中央アメリカのマヤ文明の崩壊、少なくとも4つの新しい地中海国家の誕生などが起こったと推論できるとされた。

世界の国々

合掌造り集落

富山県の五箇山(ごかやま)と岐阜県の白川郷は合掌造りで有名で、世界遺産にも登録されています。でも、なぜこのような独特の構造の家屋が誕生したのでしょうか。
合掌造り 実はこれは、日本の戦国時代の武器生産、もっと具体的には火薬の製造に密接に関係していたとのことです。合掌造りの特徴は、大家族制。つまり、大きな家に多くの家族が住み、そこから出る大量の糞尿で、火薬を製造していたのです。
合掌造り 鉄砲の伝来は、種子島にポルトガル人が伝えますが、実は日本には鉄砲はもっと前から伝わっていたとされています。鉄砲には火薬が必要。でもこの火薬の製造方法が大変なため日本では鉄砲は普及しないでいたのです。本来火薬の発明は、中国なのですが国家秘密を言うことで日本には伝わってこなかったようです。
 火薬は長らく黒色火薬のみでした。これは木炭と硫黄、硝酸カリウム(硝石)の混合物ですが、日本では硝酸カリウムが採れないのです。大貿易港だった堺は硝石の輸入が可能でした。つまり、火薬は堺でしか作れず、これが戦国時代の堺の自治を支えたのだと考えらています。  その後、硝石を「国産化」する技術が広がります。原料は意外なところにありました。トイレです。バクテリアがアンモニアを分解すると、硝酸ができることを利用するのです。
 まず、人糞や厩肥に、ヨモギ、麻、サクなどの雑草を混ぜ合わせ、そこに尿を掛け、何度もかき混ぜる。すると分解が促進され、硝酸塩ができる。これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムに変化。これを灰汁(炭酸カリウム)で煮詰め、結晶化させると硝石となるのです。ヨーロッパでも海外から輸入できるようになるまでトイレを利用していたことが知られています。大変手間暇がかかり多大な労力が必要だったようです。
白川郷は幕府直轄の天領でした。そして、五箇山は加賀藩に含まれます。加賀藩は幕府にも火薬を献上しますが、加賀100万石の力の源泉は、この火薬製造だったともいえるのか。 そんな硝石製造ですが、明治になってチリから大量の「チリ硝石」が輸入されると、国産硝石の製造はあっさり壊滅してしまうのです。
なるほど技術の歴史から見ても、合掌造り家は世界遺産として恥ずかしくないもの。臭い話で恐縮ですが。

世界の国々

対馬

対馬 対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島で、島全域が対馬市。南北82キロメートル、東西18キロメートルと細長く、面積約700km2で、広さ第10位の日本の島。島内人口は3万470人 (2019年9月現在)。
日本地図を広げ見ると、日本と朝鮮半島に間に巨大な島が鎮座している。日本の歴史においても地政学的にも極めて重要なところに位置している。現在も海上自衛隊の対馬防備隊が駐屯しているとか。一度は、訪れて見たいと思っているがその機会はなかなか訪れない。それより対馬が何県にあるか知っている人??

  主島は対馬島で、このほか属島として6つの有人島(海栗島、泊島、赤島、沖ノ島、島山島)と102の無人島から構成され、対馬列島とすることもある。『日本書紀』にも、対馬島(つしま)と記述されている。旧字体は對馬。
地理的に朝鮮半島に近いため、古くからユーラシア大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的・経済的交流の窓口かつ交流の場の役割を果たしてきた。 日本海の西の入り口に位置する対馬島は、九州本土より玄界灘と対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡)をはさんで約132キロメートル、朝鮮半島へは対馬海峡西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5キロメートルの距離にある。なんだ、朝鮮半島からの方が近い。つまり、対馬島は日本海の海岸からだけでなく、韓国の釜山からも良く見えるようだ。ということは、縄文時代から人々がこの島を経由して頻繁に交流を続けてきたことが想定される。

現在も大韓民国からの観光客が増加しており、島内の至る所にハングルが併記された標識や案内を見ることができるという。北関東のゴルフ場やJR駅、スーパー等にもハングル語がたくさん見られる時代だから、当然と言えば当然だろうが。でも、逆に日本人の数が少なすぎる。 対馬全島の人口は、1960年の6万9556人をピークとして減少し、人、2016年には3万1963人まで減少。世帯数は1万5166世帯で、1980年からあまり減少していない。島に若者が働ける仕事先が少なく核家族化と高齢化が進んでいる。行政は長崎県に属しているが、人びとの日常生活のうえでは航空機やフェリーの直行便数が多い福岡県との結びつきが深い。

地質屋さんにも面白いかもしれない。何故、あのような交易有利な場所にポツンと島があるのか。ハワイ島なら火山で説明できる。東海岸の一部と下島の西海岸の一部を除くほぼ全域でリアス式海岸が発達し、海岸線の総延長は915キロメートルにもおよぶ。リアス式海岸ということは陸地が沈降した出来る地形だろう。日本海の生成とも関係が深そうだ。複雑で入組んだ海岸線や断崖絶壁など自然を楽しむ観光にも最適か。仙台→松島、ハノイ→ハロン湾。

江戸時代、幕藩体制の時代対馬藩は宗氏が治めるある意味独立国。というより、実際は李氏朝鮮へは朝貢し柵封関係。小中華思想だね。秀吉の朝鮮出兵でグチャグチャになって国交断絶状態。幕府も関係を改善したい。対馬藩も幕府も朝鮮との関係を修復して、交易の利を確保したい。当然朝鮮側としては朝鮮出兵に対する謝罪と講和が先と譲らないが、江戸幕府も朝鮮側が朝貢に来たとでもしないと他大名にも示しがつくまい。板挟みの対馬藩、巧みに二枚舌外交を続ける。

その結果、生じたのが柳川一件(やながわいっけん)と称される「公文書書換事件」。
今、与野党が「前代未聞の歴史的犯罪だ」と財務省を非難していますが、過去にも公文書の改ざんが大問題になったことはあったのだ。江戸時代に公文書中の公文書である「国書」の書き換えが発覚し、3代将軍・徳川家光(1604~51)が、諸大名を列席させて、じかに“証人喚問”まで行った。事件の名を「柳川一件(やながわいっけん)」という。
結局は、徳川家光の名仲裁の結果、一部の関係者(枝葉)が罰せられただけで、皆円満解決。 対馬藩は、朝鮮との良好な関係を続けることが出来、朝鮮側の面子も傷つけることなく、朝鮮使として幕府にも使者が来日することにも成功。他大名も幕府の威厳が保たれたことに満足。これも、大権現家康の意向だったのかもしれない。

なお、対馬の地質は、大部分が新生代古第三紀に形成された泥質の堆積層で、「対州層」と呼ばれ、北の一部には新第三紀層もみられる。対州層は、主として黒灰色の頁岩や粘板岩から成り、これに砂岩が混じる場合が多く、ところどころに石英斑岩やはんれい岩、花崗岩が貫入する。上島北部の御岳周辺には玄武岩、下島東部に石英斑岩、下島中央部の内山盆地周辺に花崗岩、それを囲む矢立山系には硬いホルンフェルスがそれぞれ分布している。更新世の中頃までは、日本列島と大陸は陸続きであったが、その終末期に海進によって九州と朝鮮半島の間が離れ、対馬は壱岐とともに地塁島(飛び石のようになった島)として取り残されたらしい。日本海の歴史が刻まれているようだ。

対馬へ行くには、福岡経由が便利らしい。フェリー、高速船、飛行機の3つのルートでアクセスできる。飛行機ではなんと30分で対馬へ!飛行機は長崎からも出ているらしい。釜山経由で対馬入り!なんて裏ルートもあるそうだ。
【魏志倭人伝】
対馬については、中国の「魏志倭人伝」にもきちんと出てくる。邪馬台国の所在地は未だに議論が絶えないが、対馬については誰が見ても今の対馬だ。ここには当時政権があって、半島と日本との間を貿易を持って行き来していたようだ。
下の文は、司馬遼太郎氏の「街道を行く」から引用した。
始めて一海を度(わた)る千余里。対馬国に至る。その大官を卑狗(ひく)と曰(い)ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所、絶島。方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径のごとし。千余戸あり。良田無く、海物を食(くら)つて自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。
**「糴」の字は、「テキ」と読み、「米を買い入れる」ということから 「交易」を意味するという。 弥生の末期北部九州諸国に独占されていた鉄器の集積が、山陰日本海沿岸諸国(麦木晩田 青 谷上寺地 丹後 北陸)から畿内へと広がってくる時代である。 昨今の纏向遺跡の発掘などによって 邪馬台国大和説が大きくクローズアップされ、「古代国家形成に至る黎明 邪馬台 国・魏志倭人伝の時代 卑弥呼の邪馬台国連合を結びつけていたのは朝鮮半島の鉄の流通路を安定確保する支配力」として 朝鮮半島と日本列島を結ぶ和鉄(てつ)の道が大きく注目されるようになった。
朝鮮半島側は、気候の寒冷化か何かで、食料が不足し、倭国側は米を売って、その見返りに鉄を輸入したのではないかと想定される。となれば対馬と壱岐はその重要な拠点であった可能性はある。

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壱岐島

対馬 壱岐島(いきのしま)は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島。九州と対馬の中間に位置する。『古事記』では「伊伎島(いきのしま)」とされ、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)という。 周囲には23の属島(有人島4・無人島19)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。

島内は、農業集落と漁業集落に大きく分けられる。農業集落は「在」(ざい)と呼ばれ、散村の形態をとるのに対し、漁業集落は「浦」(うら)と呼ばれ、集村の形態をとる。そして、それぞれ農村集落には「触」(ふれ)、漁業集落には「浦」が地名の末尾に付く。「触」の語源には、江戸時代の村方三役のうち扨頭(さすがしら)が藩命を触れ回った範囲の呼称に由来するとする説と、朝鮮語のプル(村の意)に由来するとする説がある。

島の大部分は玄武岩に覆われた溶岩台地で、高低差が小さい。暖流の対馬海流が対馬海峡を流れる影響もあり、気候は比較的温暖。また、平坦な地形は田畑として利用されやすく、古来より自然環境への人的な影響が強かった。照葉樹林は島の各地に残るが、大規模な原始林は無い。 なお、春先に吹く強い南風のことで、今では気象用語となっている「春一番」の発祥の地は壱岐である。江戸時代の幕末期の1859年(安政6年)に「春一番」と呼ばれていた季節性の強い南風により地元の漁師が大勢遭難した海難事故をきっかけに広まったもので、1987年(昭和62年)には、郷ノ浦港入口の元居公園に船の帆をイメージした「春一番の塔」が建立された。

歴史
対馬とともに、古くから朝鮮半島と九州を結ぶ海上交通の中継点。なお、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』(ヘドンチェグッキ)にも、壱岐島や対馬島についての記事がみられる。 縄文時代の遺跡としては、後期と推定される郷ノ浦町片原触吉ヶ崎遺跡がある。弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと思われる。中でも河川流域に遺跡が濃密に分布している。下流域の原の辻やミヤクリ、上流域の柳田田原地域の物部、戸田遺跡などは、その域内も広く遺物も豊富である。

弥生時代
中国の史書である『三国志』魏書の魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』においては、邪馬台国の支配のもと、「一大國」が存在したと記されている。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國が存在したと記されている。1993年12月に長崎県教育委員会が島内にある原の辻遺跡を一支国の中心集落と発表し、話題となった。魏書の魏書東夷伝倭人条では「有三千許家(三千ばかりの家有り)」とあり、1家5人と仮定しても当時すでに15,000人もの人口が存在していたこととなり、当時の日本の中では人口が多い地域だった(2012年12月1日時点での壱岐市の推計人口は、28,290人である)。 壱岐の島が歴史上重要なのは、ここが弥生時代に朝鮮半島との鉄の交流を行った中継地点と想定されるからだ。

原の辻遺跡 **一支国
一支国(いきこく、いきのくに、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。『魏志倭人伝』では「一大國」とされるが、他の史書(魏略逸文、梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされている。一方誤記ではないとする説もある。
1993年、長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。
**原の辻遺跡(はるのつじいせき)
は弥生時代の環濠集落で、『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡です。この原の辻遺跡は“遺跡の国宝”にあたる国の特別史跡に指定されています。日本で弥生時代の遺跡として特別史跡に指定されているのは、この他、登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の2箇所だけです。
 これまでの発掘調査で、日本最古の船着き場の跡や当時の「一支国」が交易と交流によって栄えていたことを示す住居跡などが確認されています。遺跡からは交易によってもたらされた様々な地域の土器や中国の貨幣や三翼鏃(さんよくぞく)をはじめ、日本唯一の人面石やココヤシで作った笛等が発見されています。
古墳時代
河川の流域や島の中部、各地に横穴式石室墳群が分布している。前方後円墳は、長崎県内最大の勝本町百合畑触の双六古墳をはじめとして数基が存在する。後期(6世紀)になると、島の中央部に鬼の窟古墳・笹塚古墳などの巨石石室墳が築造される。鬼の窟古墳の近くには島分寺があり、壱岐直の住居を寺としたとの伝承がある。これらの巨石石室墳を、壱岐直の墓との推定も可能である。郷ノ浦町鬼屋久保古墳の横穴式石室の奥壁には、線刻で帆船とクジラと認められる画が描かれており、これは回遊するクジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いたと考えられる。

律令制
令制国としては、壱岐国となった。『和名抄』には壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられる。原方と山方に相当する。壱岐値は壱岐県主で、中央に出仕した伊吉連や雪連は一族であると考えられる。平安時代の1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司・藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。 なお、長田忠致が源義朝を討った恩賞に壱岐守として赴任、湯岳に覩城を築く。

中世
中世には大宰府権能の消滅に伴い松浦党倭寇の勢力下に置かれる。鎌倉時代中期、モンゴル帝国(大元ウルス)とその属国・高麗により二度にわたり侵攻を受ける。一度目の文永の役の際には、壱岐守護代・平景隆ら百余騎が応戦するが、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、島民が虐殺を受けるなど大きな被害を受けた。
続く弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。

1472年(文明4年)、岸岳城主波多泰が壱岐に進攻、倭寇勢力を排除し勢力家に置く(なお波多氏も松浦党一派の出自)。波多興(おき)の代、周辺豪族の有馬氏、松浦氏ほかと姻戚の誼を結ぶ。後代の16世紀半ば(年代諸説あり)、波多盛(さこう)の死後、本家岸岳城でお家騒動が勃発。家老日高資と盛の後室・真芳(一説に有馬義貞娘)との抗争である。真芳方は盛の娘の嫁ぎ先である有馬義貞との子、藤堂丸を推し、壱岐島の代官らと通じて盛の弟ら(当時島に居た波多隆、重)を次々と誅戮、藤堂丸(波多親)を16代当主に据える(1556年、弘治2年)。

真芳方がさらに資をも毒殺すると、資の子、日高喜に攻められ岸岳城を奪われる。真芳らは大村の草野氏を頼り落ち延びる。喜は島を支配していた代官らを攻め滅ぼし、城主に盛の弟波多政を据えた(1565年、永禄8年)。その後真芳らは龍造寺氏や有馬氏を支援を得て反攻に出る。喜は松浦隆信に支援を求めるが破れ、壱岐島に逃れたのち政を誅戮し自ら城代となる(1569年、永禄12年)。岸岳城を奪還した波多親は島を攻めるが、喜が領地と引替に支援を求めた隆信との連合軍に敗退した。結果、島は喜の娘を嫁がせた隆信の子信実が城代として治める事となった。
江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。

近現代
1871年(明治4年)廃藩置県の際には平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部となった。島内にあった2つの郡は1896年の郡区町村編制法で統合され、壱岐郡1郡となった。自治体としては、1889年(明治22年)の町村制度施行当初は壱岐郡に7村、石田郡に5村の計12村が発足したが、町制施行や合併を繰り返し、昭和の大合併を経て1970年(昭和45年)までに郷ノ浦町・勝本町・芦辺町・石田町の4町に再編された。2004年3月1日、平成の大合併によりこれら4町が合併して市制が施行され、壱岐市が誕生した。

特産品としては焼酎が有名である。麦焼酎発祥の地で、世界貿易機関から壱岐焼酎として保護産地指定を受けている。肉用牛も壱岐牛として特産品化している。また、海産物の特産品も多い。
レオタードを着ての漁 壱岐島の東部・八幡(やはた)地区では、今も海女が古(いにしえ)の海人族からの伝統の潜水漁を営んでいるが、ウェットスーツではなく、レオタードを着て海に潜っている。これは、八幡では昔から乱獲を防ぐため、ウェットスーツの着用を禁止しているからである。伝統漁の「海女」と「レオタード」を組み合わせて「レオタード漁」と呼ばれることがある。八幡の海女の仕事は5月1日から9月末までとなっている。

観光
島は、温泉、ホテル、ビーチ、ゴルフ場、キャンプ場がある観光地として宣伝されています。 島の北海岸にはイルカ水族館があります。

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軍艦島

軍艦島 端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧西彼杵郡高島町)にある島。明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。しかし、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られる。「羽島」とも書いていた。日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅がある。
2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録された。

長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートル。長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。

軍艦島 端島は、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬であった。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張。その大きさは南北に約480メートル、南北に細長く、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。
端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されいる。

軍艦島 歴史
第一期・原始的採炭期(1810~1889年)
端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている。

端島(軍艦島)の埋立の歴史
このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで台風による被害のために廃業に。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑。

第二期・納屋制度期(1890~1914年)
1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長(1897年)。この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年。1935年に廃止)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。
1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていた。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった。納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通り。端島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となった。
**** 三菱端島労働状況(1907(M40)3~8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37~S39
1.坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。
2.坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。
3.会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。
4.坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。
軍艦島 第三期・産業報国期(1914~1945年)
納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んだ。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建て。

RC造の30号棟が完成した1916年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止されたが、1930年の直営合宿所の完成以降には、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941年にはついに端島から納屋制度が全廃される。しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も、劣悪であったといわれる。例えば1916年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかった。一方で、後に建設された坑外夫向けの16号 - 20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りで、端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化されていた。

軍艦島 昭和初期の端島
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。それを支える労働者のための福利厚生も急速に整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、相当なレベルに整備される。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉がある。
1916年(大正5年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始。1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという。戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の華人労務者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定。

戦時中の1941年から始まった「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭(端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2,062トンを出炭した。この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年 - 1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる。死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3,333人なので、住人の40%近くが死んでいる計算になる。

1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話に。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没する。1945年(昭和20年)に完成した65号棟(報国寮)北棟の防空用偽装塗装にこの時期の記憶が残る。

第四期・復興・近代化期(1945~1964年)
労働者に給与として「日本円」の代わりに支払われた、端島の「炭鉱札」(1961年発行)(福岡大学図書館所蔵)。現金を支払わないことで、会社の運転資金の節約と、労働者の移動(「島抜け」「ケツワリ」「ヤマカエ」)を制約する役割がある[37]。1916年施行の工場法で禁止されたが、現実には1960年代まで行われた 終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減するが(なお、1945年当時の端島の人口データは、終戦の混乱期ということもあり、国勢調査のデータで1,656人、高島町端島支所のデータで4,022人と大きな乖離があり、あまりあてにならない)、1945年10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給、さらに1948年にGHQによって輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加する。同時に住宅不足が深刻化する。

この時期には設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われた。1946年には端島炭鉱労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えた。賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えた。遊び場にブランコも設置され、住みやすくなった。特に1955年の海底水道開通で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善した。島内には3つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別があったが、これも労働組合結成直後に起こった差別撤廃闘争で解消するなど、戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていった。

しかし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の坑員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う区分は労働組合に黙認された。住宅規模は住人の家族数にはあまり考慮が払われておらず、勤続年数や職階など住人のランクに応じたものがあてがわれており、住宅に関しては歴然とした階級社会であった。海が荒れると潮が建物を乗り越えて上から降る「塩降街」の狭い坑員合宿で単身坑夫らが共同生活をしている一方で、砿長の自宅(5号棟)は波のかからない高台の一軒家にあり、全ての一般坑員が3つの浴場を共同で利用している一方で、砿長の自宅には個人用の風呂があった(1952年当時の端島における風呂の数は、一般坑員・職員向けの共同風呂が3か所、上級職員・来客向けのクラブハウス(7号棟)の風呂、砿長の自宅の風呂、計5か所)。

また、会社の立場からは、稼働率の低さ、労働者の流動性の高さ、出炭量の低さが問題となった。労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、戦時中と比べて人口が急激に増加したにもかかわらず、石炭の生産量は大きくダウンした。「食ったり遊んだりする分しか働かない単身者ではなく、家族持ちを多く採用する」「掛売制の採用(商品の代金を後払いとすることで、代金を払いきるまで半永久的に島外に出られなくする、納屋制度期の手法)」「設備の機械化による合理化」などの対策が提案されたが、労働組合との関係もあり、この時期はあまりうまくいかなかった。

人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口があり、人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した。炭鉱施設・住宅のほか、高浜村役場端島支所(1947年 - 1955年)→高島町端島支所(1955年 - )・小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。

第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小。これ以降人口が急速に減少する。しかし端島炭坑は1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となった。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善した。この時期の端島の住民にアンケート調査を行った長崎造船大学の片寄俊秀によると、住民の充足度も高く、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「シビル・ミニマムの完全充足期」と評される。

しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1970年に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表。その後数百万トンの石炭を残したまま1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、4月20日の連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の片寄俊秀、阿久井喜孝、片寄の友達である作家の小松左京らの離島をもって、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた。

片寄俊秀は、「職住近接」、「シビル・ミニマム充足」、「住宅問題解消」の3つの実現をもって、この時期の端島を「理想郷」とも評しているが、最終的に鉱山は閉山となり、少しの退職金を手に全国に散らばった老齢の元坑員の再就職の苦労という現実も取材していることから、「端島において外見的に実現していた『理想郷』そのものが、真に人間が要求するものではなかったことを証明しているのではないか」と、一方でやや批判的な見方もしている。いずれにせよ、同時期の殺伐とした本土とは全くかけ離れた社会であるこの時期の端島も、日本の一部であり、日本の一つの尺度とみている。

閉山前より西山夘三や、片寄俊秀をはじめとする西山研究室の人々によって、主に「住まい」の方面からの調査が行われていたが、島全体が三菱の私有地であり部外者に対しては「外勤」と呼ばれる監視が付くのはともかく、調査を行う西山研究室の人々の後を総務課のN氏が密かに付けているなど、会社に常に監視されており、調査は限定的にならざるを得なかった。

また、住人らは戦時中の「闇」の部分を語ろうとはしなかった。長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げた片寄は、軍艦島の充足した生活と言う「光」の部分だけでなく、戦時中の「圧制ヤマ」と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった「闇」の部分も明らかにし、論文『軍艦島の生活環境』(1974年)としてまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会、1974年5月号-7月号)に掲載された(この論文は西山研究室の研究の一環とみなされ、 西山の撮影した閉山前の写真・西山の論文とともに『軍艦島の生活<1952/1970>:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』としてまとめられている)。しかし、「これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい」と言う元住民のまなざしと板挟みとなり、片寄は研究を中断するに至る。

閉山後より阿久井喜孝の調査によって、建築の方面からも光が当てられた(端島の建築には鉱山の技術が使われていることが明らかにされた)。また、高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、林えいだいの調査によって、端島炭坑の「闇」の部分にも光が当てられるようになった。戦時中の端島の朝鮮人坑夫の足取りに関しては、1992年に『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』としてまとめられた。奴隷労働があったとする片寄は、この調査に対して「その努力を決して無駄にしてはならないと思う」としている。

2000年代より、近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る。無人化以来、建物の崩壊が進んでいる。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。

島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡された。所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承された。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された。島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止)。解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸。その後も、半年間で34,445人、1年間で59,000人、3年間で275,000人と好調。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる。軍艦島上陸ツアーによる経済波及効果は65億円に上ると推定されている。

一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり、2009年(平成21年)1月に記載された。 2014年10月6日に軍艦島は国史跡として文化財指定された。これで軍艦島が世界遺産登録へ向けて、非稼働遺産に必要な要件である国の文化的価値づけが明確に。しかし、2015年3月31日に韓国政府が端島の世界遺産登録に反対を表明。朴槿恵元大統領、尹炳世外交部長官が陣頭指揮を執り、ユネスコ、国際記念物遺跡会議、世界遺産委員国などに端島を世界遺産登録として認めないように外交活動を行っており、日韓の外交問題となっている。

長崎大学インフラ長寿命化センターは2009年度より軍艦島の3Dによる記録・保存管理に取り組んでおり、2014年には長崎市の委託を受けて、3Dレーザースキャナ・全方位カメラ・無人航空機 (ドローン)、水中ソナーなどを用いて、全島の3次元データでの記録化を行った。

軍艦島 島内の建築物

端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている。7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパート(ただし1916年の竣工時は4階建て)。

30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である。なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためであり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった。

高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。

どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず(1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。トイレも多くが落下式であったが、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。炊事場は閉山まで共同のところが多かった。

岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)建てられもの。灯台は、1998年12月17日に強化プラスチック製の「2代目」に建て替えられた。

木造や鉄骨造で建設された建物は、元から荒波に晒され続けた(酷い時には島全体を波が覆う事すらあった)上に、風雨のほか、防水技術の問題[78]や無人化によって維持管理がなされなくなったことから急速に劣化。1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものが多い。なお、潮害対策として、建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった。鉄筋コンクリート造の場合も、その技術が未熟な時期のものも多く、配筋の問題のほか、建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり劣化が進んでいる。56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は、その設計に不備があったため亀裂が入り、鉄パイプの支柱で補強されていたが、閉山後その支柱も消失し、キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる。70号棟(小中学校校舎)は波で土台の土が浚われ基礎杭が剥き出しになっている。30号棟を筆頭に古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊される事無く手付かずのまま放棄されているため、建築工学の観点からも経年劣化などの貴重な資料として注目されている。

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竹島・独島

独島 竹島は、日本海の南西部韓国の鬱稜島と日本の隠岐の間に位置する島嶼群で、急峻な地形をなす2つの島と周辺の岩礁からなる。日本、韓国および北朝鮮がそれぞれ領有権を主張している国際紛争の場。以前は人の住めない無人島であったが、現在は韓国の武装警察が常駐し実効支配を強化している。

第二次世界大戦後、日本の領域は1952年発効のサンフランシスコ平和条約より定められた。これに先立ち、同条約の発効によってマッカーサー・ラインが無効化されることを見越した韓国の李承晩大統領は李承晩ラインを設定し、竹島を韓国領として韓国側水域に含めた。その後、1965年に締結された日韓基本条約で李承晩ラインは廃止されるが、現在に至るまで韓国は竹島の実効支配を継続している。日本側は毎年韓国に「不法な支配である」との口上書を提出し、また国際司法裁判所での司法解決の提案をしているが、韓国側はこれを拒否している。

竹島 まあ、双方言い分があり、話し合いでは解決できそうもない。だからと言ってお互いに国民感情から言って妥協していいものではない。だから取って武力衝突まで犯して取りあげようとするのも大人げない。地政学的には両国の中間に位置し軍事的には要所かもしれない。
軍事的に利用さえされなければ、お互い協力して観光地にでも仕立て上げられないものかね。

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秩父と花火

火薬づくり 【高校生が古来の方法で火薬づくり授業】
秩父夜祭や龍勢祭など、埼玉県秩父地方で古くから伝わる各種祭りで打ち上げられる花火やロケットに使われる黒色火薬。この原料製造を再現する県立熊谷西高校の課外授業が12日、長瀞町であった。理数科などの1年生約10人が興味深そうに材料を抽出する作業を続けた。
 火薬はなぜ生まれたか、なぜ秩父地方で盛んにつくられたかを探るのが目的で、同地方での火薬づくりを研究している日本薬科大学(伊奈町)の野沢直美・客員教授の自宅庭で授業を進めた。同高校の教諭柿沼孝司さんが指導に。
 野沢さんの研究によると、秩父地方は江戸幕府からの要請もあり、さらには祭りには必ず花火が奉納されており、火薬づくりが盛んだった。黒色火薬は硝石(硝酸カリウム)に硫黄、木炭を調合して作るが、日本に硝石の鉱脈はなく、民家の床下の土地から硝石を作る「古土法」という方法が考案され、戦国時代に全国に広まった。
 今回の授業では、計3軒の床下から採取した土を高校生が分担してそれぞれ水で溶かし、抽出し、灰を加えて、これを煮詰めていった。煮詰めたものを乾燥させれば、数日後には硝石の結晶が完成する。これとは別に火薬の材料である木炭を溶かした濃縮液も作った。この日の授業はここまでで、後の高校授業で、火薬づくりを終える。
 野沢さんは「この作製方法がどこから生まれてきたかは全く分かりません。大陸からなのか、それとも国内で発明されたのか。1軒の床下から土を取ると、次に取れるまで15~20年間が必要なので、かなり広範囲で火薬づくりが続けられたはずです」と説明する。
 参加した1年生の島崎虹朱さん(16)は、自宅の床下から土1キロを提供した1人。「初めての経験で楽しい。勉強になります」と話した。(原裕司)(以上朝日新聞)

日本の歴史でも、鉄砲の伝来が歴史を変えたとなっているが、鉄砲といえども火薬が無ければ単なる金属の棒筒。何の役にも立たない。当然各戦国大名達も火薬確保に血眼(ちなまこ)になっていたはず。でも何故か、この辺の事情が歴史本をめくってみても今一つ良くまとめられたものは見当たらない。因みに、「血眼」は海の生物「海鼠(ナマコ)」とは全く関係が無い。
黒色火薬は硝石(硝酸カリウム)に硫黄、木炭を調合して作る。硫黄、木炭は日本各地どこにでも手に入れられる。問題は硝酸カリウム(KNO3)を如何にして入手するかだ。
窒素(N)と言うものは、大気成分の4/5を占めるほどありふれた元素。しかし、水素や炭素と異なってこれを利用すること、なかなか難題な代物らしい。
どうも、昔の人は人間や動物の排泄物から微生物の力を利用して硝酸カリウムを合成することが一般的だったようだ。家の床下から土というが、普通の土ではだめだろう。多分トイレの糞尿の成分を吸収した土であろうと推察できる。
飛騨の白川郷もやはり、硝石生産のための大規模集合家族だったらしい。秩父地方は、花火やロケット等の生産もしていたのでより大規模な火薬の生産基地だったんだろう。高校生に限らず研究テーマとしてはとても面白い。
【秩父神社の例祭に関する言い伝】
秩父神社の例祭は、知知夫国に知知夫彦が大神を祭ったとされる時代か、それ以前から神奈備山である武甲山への信仰として行われてきたものが起源ではないかと言われる。真夜中に神社と武甲山の間にある御旅所で神事を執り行うというのが最大の特徴である(斎場祭が行われるのは夜の10時以降であり、神幸行列が神社にもどると朝の4時をすぎる)。
秩父神社は地理的に見ても神奈備山である武甲山からみて北面に位置し、秩父神社の本殿は再建前も現在も真北を向いているとされ北辰信仰の影響があるのは明白である。北辰信仰がいつごろから行われてきたのかは定かではないが、妙見菩薩習合以前からの信仰と指摘する人もいる。

**北辰信仰
妙見菩薩 妙見菩薩は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる。確かに、北極星は北天に留まっておりその周りを色々な星が回るので信仰の対象になったのであろうことは納得できる。 妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもの。「菩薩」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」(梵語:bodhisattva)の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されているとのこと。

道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられている。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということ。妙見信仰は中国の南北朝時代には既にあったと考えられている。

我北辰菩薩名曰妙見。今欲說神呪擁護諸國土。所作甚奇特故名曰妙見。處於閻浮提。眾星中最勝。神仙中之仙。菩薩之大將。光目諸菩薩。曠濟諸群生。

(我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見と曰ふ。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す。所作甚だ奇特なり、故に名づけて妙見と曰ふ。閻浮提に処し、衆星中の最勝、神仙中の仙、菩薩の大将、諸菩薩の光目たり。広く諸群生を済ふ。)— 七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経 第二巻

唐代に入ると妙見信仰が大きく発展し、妙見関連の経典や行法は流布していた。円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』から、当時の中国では妙見信仰が盛んであったことが窺える。
妙見信仰が日本へ伝わったのは7世紀(飛鳥時代)のことで、高句麗・百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられる。当初は渡来人の多い関西以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本にも広まった。

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金閣寺

金閣寺 鹿苑寺(ろくおんじ)は、建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)と舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。 義満の北山山荘をその死後に寺としたもの。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し(三島由紀夫氏の小説「金閣寺」参照)、1955年(昭和30年)に再建された。1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録される。

応永4年(1397年)、室町幕府第3代将軍足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。
足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。銀閣(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて「京の三閣」と呼ばれる。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年(明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。

この金閣寺は、何のために造られたか? どうも対明朝貢貿易の使者を迎え入れるためだたらしい。対明貿易は相当に利益のあるものだったようだ。対明貿易を独占した足利義満は巨額の資金力を手に入れたのだろうか。

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勅使河原

勅使河原 実は、この名はゴルフの時のキャディさんの姓。京都の公家さんの姓だと思っていたが、何とルーツは埼玉県だった。勅使河原(てしがわら)は、埼玉県児玉郡上里町(地図赤塗部)の大字。郵便番号は369-0311。日本人の姓の一つとしての勅使河原もこの地名が発祥である。そういえば彼女は結婚し旦那の姓が勅使河原だ。地理上里町西部に位置する。神流川が流れる。地区内には鉄道は敷設されているが駅は無く、高崎線神保原駅が最寄り駅となっているらしい。
有名人が多いと思ったら、生け花の草月流がそうか。他陶芸家なんかもおられるらしい。

勅使河原氏(てしがわらうじ)
鎌倉時代から室町時代初期に活動した武士の家系。武蔵七党のうち丹(たん)党に属す。本貫地は武蔵国賀美(かみ)郡勅旨河原(てしがわら)(埼玉県児玉郡上里町)。祖は秩父基房(ちちぶもとふさ)の子直時(なおとき)という。1184年(元暦1)直時の孫有直(ありなお)は鎌倉方として木曽義仲と合戦、89年(文治5)奥州藤原氏追討にも従軍した。有直の子則直(のりなお)もまた御家人として活動。1221年(承久3)の承久の乱に一族を率い、幕府方として参戦。子孫は南北朝期後醍醐天皇の都落ちに従い南朝方となり、1352年(文和1)武蔵野合戦でも宗良(むねなが)親王のもとに参陣している。所領を没収されたらしく、「勅使河原跡」が岩田氏などに与えられている。

**武蔵七党:
七党を構成する氏族は文献によって異なる。整理すると横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党(西野党)(日野市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』にはないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられている。

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羽生市(はにゅう市)

埼玉県の北東部に位置する市。人口は約5万4千人。江戸時代末期以降、青縞(あおじま)の生産が行われ、現在も衣料の町でもある。旧武蔵国埼玉郡(のちの埼玉県北埼玉郡)。
たまたま新聞で、この地が田山花袋と縁があるらしいと知った。
羽生市は埼玉県の北東に位置し、北部には利根川が流れる。市域は概ね平坦だが、加須低地北部の沖積台地に当たり、標高は17メートル前後と比較的高い。当市は、葛西用水路と中川の起点。群馬県と隣接するほか、茨城県と栃木県にも近い。東武伊勢崎線が南北に縦断し、秩父鉄道は羽生駅を起点に熊谷市を通って秩父市方面へと伸びる。また、東北自動車道が東部を縦断する。岩瀬地区には、大型商業施設を中核とした愛藍タウンがある。

羽生と言えば将棋の羽生さん。こちらは「ハブ」と読む。アイススケートの達人羽生弓弦さんのほうは「ハニュウ」。羽二重餅は福井県の和菓子。福井県では羽二重織も有名。ことらは羽二重=「ハブタエ」で全く漢字が異なる。

ところで、田山花袋と言う小説家、高校国語の文学史に出ていたぐらいしか記憶にはないが、田舎教師(1909年)というタイトルがチョット気になった。
田山花袋 - 「林清三は、利根川べりの三田ヶ谷村(現羽生市)の小学校教師。中学卒業までは希望をもって生活してきたが、卒業後は月給11円の田舎教師にならざるを得なかった。東京から下宿先の寺に親友の文学者が2人やって来て、酒に酔って文学談義をすることもあれば、一高に行った友人から葉書が来ることもあり、たまには教師仲間で料理屋の酒の味もおぼえる。夏休みには熊谷の親友の妹が学校から帰ってきたのを訪ねてその美貌に心を焦す。やるせない寂しさを癒やそうと利根川べりの妓楼にも行くようにさえなる。東京に高校の試験を受けに行くが、だめで、借金がふえ、健康もますますわるくなり、もうすでに病魔におかされていた。学校を休んで郷里の家で養生していて、遼陽半島占領をいわう提灯行列の日、貧困のなか死亡する。」

田山花袋氏は自然主義文学のリーダ格として文壇でも活躍されていたようだ。上の主人公の様な人生良くある話だ。で、彼の人生は不幸だったのか? 結構自由奔放な豊かな人生だったとも言えそうだ。1900年代の日本なら旧制中学校を卒業すれば、立身出世してある程度の名を成すことが人生の目標か?でも、主人公主実在の人物。だから羽生市は脚光を浴びているんだ。No.1でなくてもいい。Only oneでいいね。かなり早い時代に先取りしたような内容かも? 田山氏自身主人公の生きざまに何らかの共感を持っているようだ。読んだこと無いけど!→読んで見るつもりだけど。

田山花袋 以下は羽生市のHPから。
【小説『田舎教師』】
  「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」で始まる小説『田舎教師』。この作品は、実在の人物小林秀三が書き残した日記をもとに田山花袋が丹念な取材を行って書き上げた小説で、登場人物はほぼ実在した人々です。明治30年代の羽生の自然や風物、人間模様が生き生きと描かれており、主人公林清三を中心にした小説として、また、明治期の郷土羽生の風景や人々を現代に伝える郷土資料と言えます。小説から当時の面影を偲ぶことができます。

【建福寺(小説では成願寺)】
 田舎教師のモデル小林秀三は、建福寺に下宿し、死後ここの墓地に葬られました。作者田山花袋は、当時の住職太田玉茗の義弟にあたります。玉茗は新体詩を唱えた一人で、日本の近代詩史に名を残した詩人でもあります。作中、玉茗は山形古城、花袋は原杏花の名で登場します。大銀杏がそびえる寺内には、田舎教師ゆかりの旧跡が残されています。

【田舎教師巡礼記念句碑】
 昭和13年、新感覚派の作家、川端康成、片岡鉄兵、横光利一の3人は、「田舎教師遺跡巡礼の旅」として、熊谷、行田、羽生を訪ね、羽生では「田舎教師巡礼記念」と題して連名の句を宿の扇に書き記しました。
  「山門に木瓜吹きあるる羽生かな」
 古刹の春にふさわしい、木瓜の花が咲き乱れる建福寺の情景を詠んだ句で、碑は扇面の文字をそのまま拡大したものです。**注)木瓜とはどうもボケの花のようだ。胡瓜(キュウリ)の可能性も否定はできないが。赤いボケの花の方が絵画的には美しいね。

【弥勒高等小学校跡】
 「新しい先生は、何となく困ったような恥ずかしそうな様子に生徒には見えた」
 明治34年に小林秀三は、三田ヶ谷、村君、井泉3か村組合立の弥勒高等小学校に赴任しました。内心に愁いを抱えながらも、真面目な秀三は、生徒にたいへん慕われる教師でした。
 教えを受けた大越もん女史(作中:田原ひで子)の当時の作文帳には情熱を傾けて添削批評を加えた朱筆が残っています。また、教え子の小林三季は、のちに画家として活躍しました。
 『田舎教師』が羽生の人に愛されてきたのは、小説もさることながら、実在した「小林秀三先生」のやさしい人柄にもあるのではないでしょか。弥勒高等小学校跡の文学碑もまた、秀三を慕う人々の建碑です。

【田山花袋の羽生ゆかりの小説】
 田山花袋は群馬県館林市の生まれですが、花袋の妻・里さが、建福寺第23世住職・太田玉茗の妹であったことから、花袋は時々玉茗を訪ねては建福寺にしばらく滞在していました。そこで原稿や手紙を書いたり、寺の周りを散策していたことから、羽生ゆかりの作品が多いことで知られています。その一部を紹介します。
  『春潮』(新声社)、『妻』・『縁』(今古堂書店)
  『白い鳥』・『再び草の野 に』(春陽堂)
  「幼きもの」・「籾がら」(『早稲田文学』所収)
  「風雨の夜」・「小さな廃墟」・「Mの葬式」(『中央公論』所収)
  「おし灸」・「ボールドに書いた字」(『文章世界』所収)
  「騎兵士官」(新世紀)ほか
  ・・・『   』は単行本、 「   」は雑誌など

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アラル海の問題について

アラル海 アラル海と言ってもどこにあるのか分からない日本人が多いと思う。昔はシルクロードの真珠とも言われる美しい湖。世界で4番目の湖水面積を持っていた。シルクロードの中継点として、古代から色々な文化遺産もあるはず。歴史に興味ある人は、一度は訪れてみたい所。場所は、カザフスタンとウズベキスタンの国境。このアラル海が消滅の危機にあると言う。大規模モノカルチャー農業による典型的な環境破壊の一例だ。旧ソ連時代には、綿花の栽培のため大規模な灌漑事業が盛んに行われた。綿花というものは完全な商品作物。アメリカでも黒人奴隷を使った廉価な綿花でインド綿を売れなくした歴史がある。コストパフォーマンスを考えれば、大量の水を使って耕地面積を増やすことが米国の綿花に対抗できる唯一の方法だろう。加えて大量の農薬もあるだろう。

アラル海 ところがアラル海は砂漠のような乾燥地に奇跡的に存在しているような湖。水源は近くの山からの雪解け水なのでしょうが、出口の無い湖なのだ。アムダリア川とシルダリア川から流入した水は、ここアルル海で蒸発するか地下にしみ込むかで消えてしまう。当然灌漑で水を消費すれば、湖は干上がってしまうのは当たり前のこと。でも、世界で4番目の湖水面積を誇っていたアラル海は、そんなにすぐには消えない。
しかし、湖水面積の減少、塩分の集積、漁業の壊滅、周辺環境の悪化と、綿花の栽培のメリットよりも環境悪化のデメリットの方が目立つようになる。この問題が表面化したのは旧ソ連邦の崩壊が原因だ。崩壊後のソ連に対し西側の環境団体やメディアがソ連経済政策の悪さを宣伝する目的で強調しているが、これは本来古代から引き続き行われてきている灌漑農業による環境破壊の一例でしかない。
話は飛ぶが、宮崎駿監督の「もののけ姫」を覚えておられる方は多いだろう。実はこれは、人間による環境破壊を取り扱った映画であることは、これを見た方は気がつくと思う。破壊された環境に住んでいた「もののけ達」は、いずれとんでもない形でしっぺ返しをする。この「もののけ姫」実は、原型となるストーリーがあるのだそうだ。ギルガメッシュ叙事詩は、古代メソポタミアに伝わる一種の神話だが、ギルガメッシュ自身は実在していたとも。彼は都市を作るため森の神を退治する。その結果、どんな祟りがあったかは、原作を読んでいないので私は知らない。別に楔形文字が読めなくても日本語訳は出ていると思いますが。
もののけ姫 しかし、現実にも祟りは生じている。当時は豊かに繁殖していたらしいレバノン杉の森は今ではほとんど姿を消し、中東の人々は今ではろくな農業はできず、油(原油)を売って暮らしている。肥沃な三日月地帯など今は伝説上の代物となってしまった。原油は枯渇資源、いずれは掘りつくして無くなる。今、林立するビル群も砂上の楼閣なのかも。
そもそも、アメリカ、カナダ、オーストラリアの大規模モノカルチャー農業が、本質的に環境破壊型であることに気がつかねばならない。モノカルチャー農業よりも更に破壊的な農業が、西欧人が植民地で実施してきたプランテーションという大規模モノカルチャー農業だ。この二つの環境破壊農業を推し進める原動力が、自由貿易やグローバリゼーションという魔術である。低コストの大規模モノカルチャー農業と自由貿易が、開発途上国や社会主義国の農業政策まで破壊していることを認識しないといけない。
西欧人たちは、原住民たちを追い出して、タダ同然で土地を手に入れている。農作物の収穫を増やすために農地を増やせば良い。土地が無ければ森を焼いて、ブルドーザーで開墾して作れば良い。労働力は貧しい人たちを雇えばいくらでも手に入る。作物は同じ畑で何年も育てていれば連作障害と言って、育たなくなる。だから、大量の化学肥料をまき散らす。農地は荒廃するが土地は無尽蔵だ。今では、これらの地域は世界の食料基地として君臨している。
こんな農業に、旧世界の農民たちは太刀打ちできるわけがない。こんな農業が理想の形と誤解してまねをすれば、当然環境破壊をもたらすことは必然だ。環境に配慮した農業は当然コストもかかるし、無制限に規模の拡大はできない。
それでは、アラル海の問題は今後どうすればいいのか。あるいはどうなるのか。基本的な解決策は一つしかない。灌漑農業を総て止めること。アラル海への水の供給が復活すれば時間はかかるものの環境はある程度もとに戻る。ところが大規模モノカルチャー農業というもの一度手を染めると元に戻ることは難しい。麻薬中毒と同じだ。灌漑をすれば収量が増やせる。生産が増えると人手が必要に。人が増えれば食料を増やさないといけない。そのためには耕地面積を増やして灌漑施設を増強する。そのためには投資がいる。投資を回収するには水が必要。すべての可能な土地を灌漑しつくすまで終わらない。人が住み生活しているのに今さら止めることはできないだろう。しかも、それまでに多大の投資もしている。灌漑農業を止めない限りどんな解決策も効果が無い。他の河から水を引いて来る。結局更に耕地面積を増やすだけだ。大規模モノカルチャー農業という考えを捨てて、多品種少量生産、産地地消型、環境保全型の農業を作り上げていくことが必要だ。
実は、新世界の大規模モノカルチャーも曲がり角に来ている。耕地面積を増やして灌漑施設を増強する余地がなくなっているからだ。世界の食糧生産基地として君臨していくために大量の補助金を必要としている。つまり以前ほどもうからなくなっている。 水資源の問題も深刻だ。コロラド川の下流には水がなくなってしまっている。河口の生態系には大打撃。中国の黄河の河口にも水が来ない。長江から転流なんていう考えもあるが環境破壊だとも言えそうだ。アマゾンやアジアの熱帯雨林では耕作や放牧のために森林の伐採が進んでいるという。熱帯雨林では土壌の問題から数年で土地が荒廃し、更に伐採が進むという。荒廃した土地は元の森林には戻らず、世界の植物によるCO2吸収量が大幅に減少することが懸念されている。
オーストラリア大陸は、農業には不適な乾燥地で、原住民のアボリジ達はつい最近まで狩猟採集生活を行っていた地域だ。そこにやって来た白人たちは井戸を掘ることを考えた。地下には膨大な水量の化石水が眠っていた。井戸を掘れば水が自噴する。だからオーストラリアは今では農業大国。しかし、将来も安全な訳ではない。化石水は有限な資源で将来は枯渇するからだ。
世界の人口は今も増え続けているが、食糧生産は今までの大規模モノカルチャー農業では頭打ちだ。今後大規模な環境破壊を伴わずに耕地を拡大することは不可能になっている。 アラル海の問題は、世界的規模で進んでいる大規模モノカルチャー農業による限界を示す警鐘であろう。住家を奪われた「もののけ達」の祟りを受ける前に知恵を絞って新しい生き方を考えなければいけない時代かも。

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ディエゴ・ガルシア島

ディエゴ・ガルシア島 こんな島の名前は、たいていの日本人は知らないだろう。実は、この島にはインド洋最大の米空軍基地があり、沖縄と比べてもはるかに重要な基地なのだそうだ。インド洋の真ん中にあるこの島は、米軍がアジア太平洋地域とインド洋中東地域を行き来する際、補給や空爆などの拠点として非常に重要で、アフガニスタン侵攻やイラク戦争などでフル活用されてきた。この島を使えなくなると、米軍のインド洋拠点が失なわれ、世界的な軍事覇権の低下につながるものと懸念されている。しかし、この基地が消滅する可能性が実現性を帯びてきているらしい。
モーリシャス でも、地図の上でこの場所を特定するのも結構大変だ。まず、ディエゴ・ガルシア島は、「チャゴス諸島」の最大の島だ。チャゴス諸島は1814年に英国の植民地になり、モーリシャスの一部として統治されていた。ところがモーリシャス独立の際、チャゴス諸島だけを不法に占拠を続け、英国がディエゴ・ガルシア島を米国にまた貸ししていたことになる。モーリシャスは、インド洋でもマダガスカル島のチョット東側、セイシェルやモルジブとな並ぶ、美しい海洋リゾート地。誰でも一度は訪れてみたい所だろう。そんな平和な島に世界最大級の軍事基地があるというのも現代世界の醜さを表す象徴なのかも。
今年(2019年)2月末、国際司法裁判所が「英国はチャゴス諸島をモーリシャスに返還(引渡し)すべき。英国はチャゴス諸島に対し、不当な植民地支配を続けている」とする、モーリシャス勝訴の勧告(判決的なもの)を出す。国際司法裁判所の勧告には拘束力がないので英国に無視されているが、ディエゴガルシア島の米軍基地の存立基盤である「英国によるチャゴス諸島の領有」が、国際法的に違法なことであると確定した。国際司法裁判所の勧告を受けて、国連総会は5月22日、英国に対し、チャゴス諸島を半年以内にモーリシャスに返還するよう求める英国非難決議を、賛成116、反対6、棄権56の圧倒的多数で可決したと言われる。いずれにしろ英国はこの件に関しては今後、何も権利を主張しないだろう。今後モーリシャス政府が米国と直接交渉しないといけないことになる。
ディエゴ・ガルシア モーリシャス政府は「英国からチャゴス諸島を返還された後も、ディエゴガルシアの米軍基地の存続を認める」と言っている。モーリシャス政府は、米軍基地の建設前にディエゴガルシアから追い出された旧島民の権利主張を代弁して米英に補償などを求める可能性は高い。しかし、モーリシャス政府だって基地の経済的軍事的メリットをみすみす失う気はない。だが、モーリシャス政府が米国に基地存続の条件を提示しても、外国政府に寛容でないトランプの米国は要求を突っぱねる可能性が大だ。。トランプ的に言うなら「米軍が高い金をかけてインド洋を守る義務などない。インド洋の防衛は、航路を使うアジア諸国がやるべきだ。ディエゴ・ガルシアの基地など閉鎖すれば良い」という話になる。今の米国のスタンスは基地を存続してやるから金を出せ。嫌ならいつでも出て行くぞだ。
確かに英国のEU離脱騒動で国際影響力が低下し、米国もトランプになって覇権放棄を積極的に進めている。ディエゴ・ガルシアの米軍基地などなくなった方が良いと考える国や人(米国人を含め)が増えていることを、賛成の増加と反対棄権の減少が物語っている。
事実、日本や中国は、インド洋の西端のジブチに海賊退治の名目ですでに基地を設けており、インド洋を自衛する傾向だ。中国海軍は、スリランカやパキスタン、ミャンマーなどインド洋の諸国の港を租借して首飾りのようにつないで影響圏にする「真珠の首飾り戦略」(インド包囲網)を以前からやっている。米国がインド洋から出て行く流れの中にいるのと対照的だ。日本の沖縄基地も同じだろう。何も米国が日本のためにコストをかけて守る義務はない。もっともっと金を出せ。

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スプリト

スプリトは、ローマ時代にはダルマチアと呼ばれていたクロアチア南部の中心都市でユネスコの世界遺産にもなっている美しい都市。アドリア海東海岸の、小さな半島に位置し、対岸はイタリアのベニス。
スプリト スプリト スプリト
この町を最初に建設したのが古代ローマ帝国の帝王ディオクレティアヌス。彼が引退後のために建てた宮殿とは言え、本格的な要塞機能も備えた本格的なもの。AD295年~305年に建てられたと言われており、こんな古い時代の物なら当然世界遺産の候補だが、著しく保存状態がいいことも魅力。
それ以前も、ギリシアの植民地が建設されており、彼等はダルマチア人との貿易を行って暮らしていたらしい。アテネだのスパルタだのギリシア人の活躍していた時代だね。その頃ゲルマン人たちは森の中で狩猟採集生活していたのでしょう。つまり、ダルマチア地方というのは当時では文化の先端地域の一部だったわけか。
宮殿はどっしりとした構造をしており、ほとんどローマの軍事要塞。城壁内の面積は38,000平方キロメートル。一辺190kmの正方形を考えるといかに巨大かが分かる。当時のローマ帝国がいかに周辺の異民族たちの侵入に気を配っていたかが分かる。 水道は堅固な作りで、アルプス山中の水源から水道路で供給されていた。宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていたと推定されている。住民には、公園と余暇施設が与えられていた。ディオクレティアヌスは、予定通りにきっちりと引退し、自発的に自ら職を退いた最初のローマ皇帝となる。 ということは他の皇帝達は病死か、暗殺か、クーデターで殺されたのか。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スプリト(当時はスパラトゥムと呼ばれていた)は東ローマ皇帝の支配下に。西ローマ帝国が滅亡は民族大移動という世界的な出来事が原因。定住地の確保を巡って、色々な民族同士が互いに争うようになる。
639年頃にこの地域一帯がアヴァール人とスラヴ人の侵攻で略奪されると、住処を失った東ローマ市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れる。東ローマ支配がその地域で復活するにつれ、多くのローマ市民は、本土へ戻る。しかし、一部の市民たちはディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択する。宮殿が強固な要塞状だったためである。この時、宮殿は長く打ち捨てられていたが、建造物内部は避難民等によって、新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造される。現在でも、宮殿はスプリト市の内核として機能しており、今も商店や市場・広場、住宅があり市民が暮らしている。遺跡をうまく利用した独特の街並みは今では立派な観光資源。宮殿都市は、その後歴史の中を紆余曲折しながら、現在までその姿をとどめているようだ。

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デリーの鉄柱

デリーの鉄柱(デリーのてっちゅう)とは、インド・デリー市郊外のクトゥブ・ミナール内にある錆びない鉄柱のことです。チャンドラヴァルマンの柱とも呼ばれている。1993年に「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」として世界遺産に登録されている。
鉄柱 鉄柱 鉄柱
鉄柱は99.72%という高純度な鉄(純鉄)で作られており、表面にはサンスクリット語の碑文が刻まれ、頂上には装飾的なチャクラがあしらわれている。直径は約44cm、高さは約7m、地下に埋もれている部分は約2m、重さは約10トン。インド有数の観光スポットになっているようだ。グプタ朝時代、紀元415年に建てられたといわれる。1500年以上のあいだ地上部分に限り錆が内部に進行していないことで知られている。錆びない理由としては、鉄柱を覆うリン酸化合物の皮膜が存在することで錆に強い特性が生まれたと考えられているが、現代の科学をもってしても謎だ。
一般に『アショーカ王の柱』と呼ばれているが、アショーカ王の建てたものではなく、アショーカ王より700年近くも後のものらしい。ダマスカス鋼で作られているとも言われている。この鉄柱のように錆びない鉄を目指す研究からステンレスが生まれたようだ。

鉄柱 鉄が錆びる理由は: 自然界において不安定な鉄(Fe)は、酸素を取り込んで、鉄鉱石はFe2O3、Fe3O4など酸化鉄の状態で安定する。精錬した鉄も同様で、その過程で生じる酸化鉄が錆である。普通の鉄は錆びるのが普通で、考古学の遺物も青銅器は残るが鉄器はなかなか残らない。
加熱しながら鍛えた鉄が錆びにくいことは経験上知られている。熱を加えて叩くことにより、不純物が外側に押し出され鉄の純度があがり、内部では再結晶化が促進されるためらしい。例として日本刀があるが、手入れを怠ればやはり錆を生じる。

現代では錆びない鉄として1913年に開発されたステンレス鋼が知られている。これは鉄(Fe)に、クロム(Cr)とニッケル(Ni)を一定量加えたもので、金属の表面に酸化皮膜を形成することで錆の発生を防いでいる。
古代の錆びない鉄としては同じく鍛造のダマスカス鋼が有名で、鉄柱もこれではないかと言われる。ただし、ダマスカス鋼も全く錆びないわけではなく、また注目を集めるのはむしろ模様の美しさによる。ダマスカスはシリアの首都の名前だね。
また、鉄は酸素と水があれば容易に酸化する。この地域は乾燥しているので、鉄は酸化しにくいのでしょうか。

鉄柱が純度の高い鉄製だから錆びないというのは誤りであるらしい。金属工学の専門家、インド工科大学のバラスブラマニアム博士によれば、99.72%の純度ならば50年ほどで錆びるという。1500年の間風雨に曝されながら錆びなかった理由は、鉄の純度の高さではなくむしろ不純物の存在にあるという仮説が有力らしい。

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イースター島

イースター島 イースター島は、チリ領の太平洋上に位置する火山島。モアイ像の建つ島として有名です。ポリネシア・トライアングルの東端に当たり、最も近い有人島まで直線距離2000km余と、周囲にはほとんど島らしい島が存在しない絶海の孤島です。
海底火山の噴火によって形成された島に最初の移民がたどり着いた時期は諸説あるが未定。文字記録がないため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀〜5世紀頃、西暦800年頃とする説が有力だったが、近年の研究では西暦1200年頃と言う説もある。実は文字による記録は残っているのだが、解読はされていない。
この移民は、はるか昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びと(オーストロネシア語族)の一派、いわゆるポリネシア人だったと考えられている。

ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象で、神格化された王や勇者たちの霊を部族の守り神として祀る習慣があり、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれたらしい。イースター島でも同様に行われていたようだ。化石や花粉の研究から、当時のイースター島は、世界でも有数の巨大椰子が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと想定されている。上陸したポリネシア人は鶏とネズミを共に持ち込んで食用としたといわれている。

イースター島 【モアイの時代】
ジャレド・ダイアモンドらによれば、7世紀〜8世紀頃に、アフ(プラットホーム状に作られた石の祭壇)造りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイ像も作られるようになったとされる。他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工しやすい軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことがある。採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡で、現在でも完成前のあらゆる段階の石像が、散乱する彫る道具とともに残されている。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイ像も作られていく。
モアイは比較的加工しやすい素材である凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられている。デザインも時代につれ変化していった。

第1期:人の姿に近いもので下半身も作られている。
第2期:下半身はなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる。
第3期: 頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。
第4期: 一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになる。

文字 18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器や鉄器の存在は確認されていない。当時作られたモアイや墳墓、石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえる。 よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。
現在、アフ(台座)に立っている全ての像は、近年になって倒れていたものを立て直したものである。 島の東端にある、島最大の遺跡「アフ・トンガリキ」(アフの長さ100m)の上には、高さ5mを超える15体のモアイが立ち並んでいるが、これも1994年に周辺に倒れていた15体の像を、考古学者のクラウディオ・クリスティーノが55tの重量に耐えるクレーンを使って立て直したものである。
過去には、島にはもともと、巨大な像を作って動かす技術や知識がなく、モアイは南米からやって来た人々の力で建てられたという説が有力だった。しかし島民の遺骨のDNAには、島外起源の遺伝情報は見つかっていない。最近の研究により、モアイは島民が自力で建設し、移動させたことがわかっている。

【文明の崩壊】
島民の入植から17世紀までの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息する。モアイを作り、運び、建てるためには大量の木材が必要で、伐採によって森が失われた。ジャレド・ダイアモンドらは、こうした人為的な自然破壊が究極的にイースター島文明の崩壊を呼んだとする説を述べている。
それによれば、人口爆発(僅か数10年の間に4~5倍に膨れ上がり、1~2万人に達したという)と共に森林破壊が進んだ結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じた。モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続き、森林伐採は結果として家屋やカヌーなどのインフラストラクチャー整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代とほとんど変わらないものになっていた。 これは、文明の自滅説とでもいえるか。

ただし異説もある。テリー・ハントは、まず、森を破壊した主因はネズミによる食害だとしている。天敵が居ない環境にネズミが持ち込まれると、その急激な繁殖に伴って森林が破壊され、これを駆除すると森林が再生する様子は太平洋の他の島々の歴史上でも見られて来たという。イースター島でも発掘された植物の種子の多くにネズミにかじられた跡が見られた。文明の崩壊についても、そもそもイースター島の人口が1万5千人以上などに達した証拠はなく、森林破壊が進んだ状態でも人口は安定的に推移しており、最終的に崩壊をもたらしたのは自然破壊ではなく西洋人との接触(後述)だと唱えている。 でもネズミは食料として移入されたのではなかったのかな。

また、部族の争いがあったにしては、人を殺すことを目的としたような殺傷能力のある「武器」が島内からほとんど発掘されておらず、島で使われていた「マタア」と呼ばれる石器は、人を刺し殺すような作業には適していないという。島内から発掘された469個の頭骨を調べたところ、マタアによるものと思われる切り傷の痕が見つかったのは、そのうちわずか2個だけだった。西洋人による侵略時にも、現地人は投石で戦ったとされる。このことから、口伝にあるような戦闘があったのかどうか疑問視する専門家もいる。

いずれにせよ、争いが起こったとされる時から数百年も後になってから、収集された口承だけを頼りにすることは、研究者の間で論争となっている。部族間抗争の存在については、研究が進むにつれて否定されつつあり、イースター島民の人口が減ったのは、ヨーロッパ人による奴隷狩りが原因である可能性が高まっている。苛烈な奴隷狩りにより、島民の人口は100人前後まで減り、やがて疫病の流行で絶滅したとされる。

【ヨーロッパ人到達後】
1722年の復活祭(イースター)の夜、オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。発見した日にちなみ島名が付けられたとされている。この島に上陸したロッヘフェーンは、1,000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島民の姿を目の当たりにする。
1774年には、イギリス人探検家のジェームズ・クックも上陸しているが、倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたものの、半数ほどはまだ直立していたと伝えている。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる。
18世紀〜19世紀にかけてペルー副王領政府(→ペルー)の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、島民が奴隷として連れ出された。1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時の島民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致された。また外部から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果、人口は更に激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時ではわずか111人であった。この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶した。
1888年にチリ領になり現在に至るが、1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、日本に対して打診があったという。日本は主に漁業基地としての有用性を認めたが、在チリ国公使三宅哲一郎がアルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマ大統領と面会したところ、アメリカ合衆国及びイギリスにも売却が打診されているとの説明がなされたため、しばらく静観するのが得策であるとの意見が出されたという。独立運動が起こっている話もあるし。結局最後に残る説は、白人到来による奴隷狩りと持ち込まれた疫病のせいではないか。

地理
チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmほどの太平洋上に位置し、ペルー海流が周辺海域は渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場であり、とくにカタクチイワシが多く捕れる。全周は60km、面積は180km2ほどであり、北海道利尻島とほぼ同じ大きさである。島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。また1995年に世界遺産に登録されている。
やや乾燥した気候で年間降雨量は1,250mmと少ない。バナナ、サトウキビなどの栽培には十分である。一方、河川がないため灌漑用水の確保はしにくい。タロイモ栽培などには適していない。

地質
マグマの噴出によって造られた小さな火山島であり、上空から見ると三角形をした島の各頂点には、カウ山、カティキ山、テレバカ山の3つの火山がある。テレバカ山(海抜507m、海底からは約2,000mの高さがある)が島の大部分を占め、他の2つの他に多数の噴火口や火口湖がある。ガラパゴス諸島やハワイ諸島と同じ玄武岩で鉄分が多く75万年前に形成され、最新の噴火は約10万年前とされるが、20世紀前半に水蒸気の噴出が記録されている。

交通
島の人口は約4000人。島内には、チリ海軍が駐留し、数ヶ月に1度は物資とともに海兵隊もやって来る。鉄道は敷設されていないが、主要道路については舗装されており、島内の主な交通手段としては、乗り合いバスもしくはタクシーが、主な公共交通手段として、島民や観光客に利用されている。観光客には、レンタカー、レンタルバイクも利用されることが多い。 島内には、レストラン、ホテル、ディスコ、ガソリンスタンド、ビデオレンタルショップ、学校、病院、博物館、郵便局、放送局(テレビ局3局、ラジオ局1局)等の施設が整っており、島の暮らしは至って現代的。
ラン航空が、マタベリ国際空港とサンティアゴ、リマ、タヒチのパペーテとの間に定期便を運航している。近隣諸島との間には貨客船も運航されている。なお、マタベリ国際空港の滑走路は、島の規模には不釣合いな3,300mと長大なものであるが、これはかつてNASAがスペースシャトルをヴァンデンバーグ空軍基地から打ち上げる計画を持っていたため、その際の緊急着陸場(TAL sites) のひとつとして整備されたため。チャレンジャー号爆発事故によってこの計画も中止されたため、緊急着陸地のリストから外された。

住民はロンゴロンゴと呼ばれる絵文字を持っていた。この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、1行目を読み終えると逆さにして2行目を読むというように、偶数行の絵文字が逆さになっている。板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。
この文字は伝統的に支配者家族や神官に伝えられていたが、1862年のペルー人の襲撃による奴隷化と後続した疫病を通じてこれらの識字層が全滅してしまい、内容を判読不能となった島民たちによって、以後薪や釣り糸のリールなどにされて、多数の文字資料が失われたという。そのため僅か26点しか現存せず、それらは全て島外に持ち出されて各国の博物館などに収蔵されている。 また、現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによりタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であり、現行のラパ・ヌイ語はタヒチ語の影響を強く受けた言語である。古代ラパ・ヌイ語についてはヨーロッパ人による貧弱な記録をたどるほかは、現行のラパ・ヌイ語から復元する以外、知る手立ては存在しない。したがって、解読は難しいとされている。

その他
閉鎖された空間に存在した文明が、無計画な開発と環境破壊を続けた結果、資源を消費し尽くして最後にはほぼ消滅したというダイアモンドらによる説は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い。
ポリネシア人がラパヌイ島に着いたとされる時期の森林は島を覆い尽くすほど茂っていたが、16世紀末頃までにほぼ消滅した。花粉分析から1300年頃までに椰子を初めとする全樹木類の花粉が減少してイネ科やカヤツリグサ科などの草本の花粉が急増していき、場所によりばらつきはあるが1500年〜1600年頃までには椰子、ハケケ、トロミロ、灌木の花粉が消滅する。椰子の実の化石を放射性炭素年代測定で分析した結果でも1500年以後のものは皆無である。環境破壊をしたのは島民自身であるという説と、島民が持ち込んだネズミによるという主に2説がある。
マゼランによる最初の西洋人による太平洋横断は1521年のことであり、先に挙げた樹木花粉の消滅時期や椰子の実の化石の消滅時期より後である。つまり文明の崩壊は白人のせいではないということか。

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リベリア

リベリア リベリア共和国(Republic of Liberia)は、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立し、現在のアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国。建国時はアメリから沢山のお金をもらってきた人口の4%のエリートが現地の人達を支配する中央集権国家。首都モンロビアは米第5代大統領モンローの名から。リベリアと言う名前もラテン語のLiber(自由な)から来ているという。
建国当時は、理想的な国家のごとく(日本でも戦後の教育ではそのように教えられたかも)宣伝されていたが、実態はアメリカの植民地。その後内戦や動乱が続いて今ではアフリカでも最貧国の一つになっているらしい。
地理的位置は、西アフリカで北にギニア、西にシエラレオネ、東にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。西アフリカ地区と言う物自体どうも日本人にはなじみの少ない国ばかりだ。

そもそも、何故米国がこんな国を建設しなければいけないかったの。解放黒人奴隷という存在が邪魔だったのか。解放黒人がリベリアに持ち込んだのはアメリカで廃止された奴隷制度。これをアフリカで復活することだったのか。ゴムなどのプランテーション農場で現地人を奴隷のように使い儲けること。更には奴隷売買にも手を出していた疑いもある。 その後も内戦や動乱が続いているようだが、他のアフリカ諸国もようやく発展の兆が見えて来た現在どうなっているんでしょうか。

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フィンランド共和国

フィンランド共和国 フィンランド共和国。北欧諸国のひとつで、西はスウェーデン、北はノルウェー、東はロシアと隣接し、南はフィンランド湾を挟んでエストニアが位置している。いま、この国が世界の注目を浴びている。豊かな国なのに格差が小さく、経済活動も活発。世界で最も住みたい国の一つになっているらしい。
首都ヘルシンキは露仏同盟以来、ロシアの主要都市であるサンクトペテルブルク方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきた。同じく直近の旧領ヴィボルグはサイマー運河の出口であったが、現在はロシア領で、ノルド・ストリームの経由地となっている。ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、たびたび勢力争いの舞台や戦場になってきた。

オーロラ 中立的外交の裏では、外交・安全保障やエネルギー政策を巡り東西の綱引きが行われている。国内には原子力発電所があり、オンカロ処分場が2020年に開設されれば世界初の使用済み核燃料の最終処分場となる。情報産業も政治と関係しており、公職経歴者が民間企業の幹部になる例として、エスコ・アホという首相経験者がノキア取締役を務めているようなことがある。

人口や経済規模は小さいが、一人当たりGDPなどを見ると豊かで自由な民主主義国として知られている。フィンランドは2014年のOECDレビューにおいて「世界でもっとも競争的であり、かつ市民は人生に満足している国のひとつである」と報告された。フィンランドは収入、雇用と所得、住居、ワークライフバランス、保健状態、教育と技能、社会的結びつき、市民契約、環境の質、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っている。公用語はフィンランド語とスウェーデン語。

トナカイ フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、スオミはフィン人の自称である。「スオミ」の語源については多くの説が提唱されており定説はない。「フィン」についてはタキトゥスが残した「北方に住む貧しいフェンニ人」の記述が最古のものらしい。スオミは、フィンランド語で「湖沼・沼地」を表す単語「スオ」(suo)に由来するものらしい。

【歴史】
通常は、①先史時代( ~ 1155年)、②スウェーデン時代(1155年 - 1809年)、③ロシアによる大公国(フィンランド大公国)時代(1809年 - 1917年)、④独立後の現代(フィンランド王国時代を含む、1917年 - )の4つの区分に分けられる。 現在、ヨーロッパの優等生のフィンランドではあるが、過去には大変な歴史があったのです。

現在のフィンランドの土地には、旧石器時代から人が居住した。南には農業や航海を生業とするフィン人が居住し、のちにトナカイの放牧狩猟をするサーミ人が、北方に生活を営むようになった。400年代にノルマン人のスヴェーア人(ヴァイキングの仲間みたいだ)がフィンランド沿岸に移住を開始し、居住域を拡大していった。

1155年にはスウェーデン王エーリク9世が北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。16世紀の宗教改革でスウェーデンのグスタフ1世がルター派を受け入れたため、フィンランドもルター派が広まることになった。カトリックの承認を得ずに司教となったアグリコラが聖書翻訳を進めたことで、フィンランドは新教国としての性格を決定的にした。スウェーデンの支配下にあったということです。

1581年にはフィンランドの独立が模索された結果、ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」(のちにフィンランド大公となった)"となり、スウェーデン王国が宗主国となる形でフィンランド公国建国が宣言された。しかしこれは、フィンランドに植民したスウェーデン人が中心で長くは続かなかった。この時代のフィンランドはスウェーデン=フィンランドと呼称されており、スウェーデンによる大国時代を形成していた。

1700年から始まった大北方戦争の結果の1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)がロシア帝国に割譲された。ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後、スウェーデンは戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンに戻らず、ロシアに留め置かれた。今度はロシアの支配下に。

19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史研究がなされた。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。

1899年、ニコライ2世が署名した二月詔書には、高揚するロシア・ナショナリズムに配慮してフィンランドの自治権廃止宣言が含まれていることがフィンランド人に発覚したため、フィンランドで暴動が発生している。1904年6月17日にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマンによるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事に至り、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。フィンランド人は、歴史的文化的民族的に他のヨーロッパとは異なっており、自尊心の高い人たちなんです。

都市 第一次世界大戦末期の1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した。1918年に共産化し、オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立した。その後、敗戦国となったドイツ軍など外国の介入もあり、フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され、1919年にはフィンランド共和国憲法が制定された(フィンランド内戦)。 独立後のフィンランドの政情や国際情勢は不安定で、1921年にスウェーデンとオーランド諸島の領土問題で争ったが、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造による「新渡戸裁定」で解決をみた。さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土(38万2,801km²)の10分の1を失った。喪失した地域はおもに人口と産業密度の高い南東部で、ヴィープリ州にはもっとも要となる港湾があった。ペツァモ州にはニッケル鉱床と国内唯一の不凍港と北極海への出入り口があった。これらが失われたうえ、サイマー運河も両断された。

第二次世界大戦(継続戦争)ではソ連と対抗するためにナチス・ドイツやイタリア王国などの枢軸国側について戦い、一時は冬戦争前の領土を回復した。その後、ソ連軍の反攻によって押し戻され、1944年にソ連と休戦し、休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦った(ラップランド戦争)。日本や独伊と同様に敗戦国になったものの、フィンランド軍はソ連軍に大損害を与えて進撃を遅らせ、ナチス・ドイツ降伏前に休戦へ漕ぎ着けた。このため、バルト三国のようにソ連へ併合されたり、ソ連に占領された東ヨーロッパ諸国(東側諸国)のように完全な衛星国化や社会主義化をされたりすることなく、冷戦終結による東欧革命も経た現在に至っている。

戦後はソ連の影響下に置かれ、ソ連の意向により西側陣営のアメリカによるマーシャル・プランを受けられず、北大西洋条約機構(NATO)にもECにも加盟しなかった。自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわら、外交・国防の面では共産圏に近かったが、ワルシャワ条約機構には加盟しなかった(ノルディックバランス、フィンランド化)。この微妙な舵取りのもと、現在に至るまで独立と平和を維持した。ソ連崩壊後には西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟に合意。2000年には欧州共通通貨ユーロを北欧諸国の中で初めて自国通貨として導入した。

2010年代にクリミア・東部ウクライナ紛争などでロシアの脅威が高まったため、西側への接近を加速している。2017年にはスウェーデンとともにイギリス主導でNATOや国際連合に協力する合同派遣軍への参加を決めた。

ムーミン 以上が、歴史の概略であるが、どう見ても現在の繁栄のための好条件に恵まれていたとは言い難い。おそらく今のフィンランドはヨーロッパ諸国の中で住みたい国のNo.1に選ばれる国の一つだ。何故彼らがこのような国家をつくることに成功したのか、学ぶべき点は多そうだ。実際の暮らしたことのある人たち(フィンランド人と日本人)の意見を聞いてみると次のようなことが挙げられる。

1. 豊かではあるが格差の小さい社会。経済発展すると同時に格差も広がる世界の多くの国々と違い、格差が小さくフラットな社会。自由競争の世界で個性を発揮できるが、独占は許さない。理想的な資本主義。アダムスミスの世界みたいだ。

2. 幼児からの教育が行き届き、議論と自立の教育が徹底されている。政治というものが身近で、子供の頃から自分の意見を言えるように訓練される。

3. 自立という考えも徹底していて、高校を卒業すれば、公的な補助のもと親元から離れて自立する。男女とも一人一人、自分で生計を立てられることが自立。そのためには福祉制度の充実が欠かせない。いつまでも、親にぶら下がって引きこもりやフリータ何て言うことは許されないね。 でも、国支援をあてにしてあまり働かない人も出てきているようだ、「もっと、働かせるべきだ。」いう議論も出てきている。特に移民に対しては厳しいようだ。

4. 保育園や義務教育は完全無償。子供本人にやる気さえあれば、どんな家庭環境でも学びたいことを選択でき、夢をかなえる機会が平等にあるというのがフィンランドの教育の基本原理。そのための国民の税負担は当然大きくなる。 その代わり、私立学校はほとんどなく、塾に通わなければならないような受験競争は無縁の社会。

5. 北欧の社会福祉といえば、高齢者福祉の方が問題かも。教育の問題は多少金がかかっても将来への投資と納税者も納得がいく。緊縮財政が必要になれば、公的なケアサービスはどんどん民間の多国籍企業へと委託されてします。つまり、自己負担。もともと格差の小さい社会なのですぐには問題にならないかもしれないが。

6. 価値観の多様化を認める国。34歳の女性首相が誕生した。他国の人々から見ればニュースかも。だけど、フィンランドの人達から見れば政治家も単に職業選択の一つ。一生懸命働いてくれれば、性別も年齢も関係ない。ましてや、利権や権力とは無縁なんでしょう。安全な国なので、発砲事件のような犯罪はほとんどない。警察も暇だろう。警察官になるには哲学や社会学の教養を身に着けていないと採用されないとか。

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慶州市

慶州市 慶州市(キョンジュし경주시)は、大韓民国慶尚北道(경북)の歴史文化都市。東は東海동해(日本海)に面し、面積1,324.41平方キロ、人口258,156人(2017年6月30日)。意外と小さな町だね。今の韓国한국は日本以上にソウル市서울시一極集中だから。

新羅王国(신라 왕국)の都・金城(クムソン금성)の地であり、石窟庵석굴암仏国寺불국사が1995年にユネスコの世界遺産に登録された。また、2000年には南山ベルト・月城ベルト・大陵園(古墳公園)に含まれる膨大な遺跡と芬皇寺분황사などが慶州歴史地域として登録され、さらに、2010年には市の北部・江東面に位置する両班양반の伝統的民俗村である良洞村양동が、安東河回村とともに世界遺産に登録された。これで同市内には3件の世界遺産が存在する事になった。

石窟庵 韓国(朝鮮半島)の古都という点で、韓国国内はもちろん、世界各地からたくさんの観光客が訪れる。現代的な建造物が遺構の周辺にないという点で、ある意味で当時のまま街並みが残っている都市であるといえる。また、市街地東方にある普門湖(ポムンホ뽀문호)地域では、新しい観光拠点としての開発が行われており、特級ホテルが立ち並ぶ。

慶州市は全体に桜の木が多く、毎年春に、慶州さくらマラソン경주 벚꽃 마라톤という大会が開催され、日本からも参加者がある。埼玉県の志木市も名前のもとは新羅だったとか。一帯は帰化人達が開拓したんだね。その北の地域は高麗と関係があったらしい。因みに日本では福井県小浜氏が姉妹都市となっている。おっと、奈良市も姉妹都市提携をしているらしい。
慶州は古代には新羅王国の首都・金城(クムソン금성)として発展し、高麗太祖王建が慶州と改称。李氏朝鮮時代は慶州府と呼ばれた。市自らがGolden Cityと称しているのは勿論金城の英語訳だ。
【慶州市だけではない】
奈良県の天理市と韓国の瑞山市(ソサン서산시)と姉妹都市提携を結んで交流を深めているとか。瑞山市は、大韓民国忠清南道충청남도の都市。こちらは新羅ではなく百済の中心だったらしい。

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謎の百済王国

百済は古代日本に最大の影響を与えた隣国なのですが、663年の白村江の戦いで、日本の援助もむなしく滅亡し完全に地図から抹殺される。しかし、大和政権の中枢にもしっかりと根を下ろし、日本の歴史にも大きな影響を与え続けている。また、百済が滅亡して以降、どうも日本と朝鮮半島の外交関係は余り良好な状態が続いていない。百済の歴史は後の王朝の改竄等もあるのか消されている事柄も多いのかもしれない。

武寧王陵 百済(くだら/ひゃくさい、朝鮮語: 백제)、4世紀前半~660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。百済の歴史はその首都の移動によって、大きく①漢城時代(475年まで)、②熊津時代(475~538年)、③泗沘時代(538年から)に分類されている。
漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張。538年には新たな首都として泗沘を建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。

**①漢城府한성부
漢城府(ハンソンブ)は、今の韓国・ソウル特別市。戦前の李氏朝鮮の首都でもあった。

**②熊津웅진
熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、百済語では固麻那羅(コマナル・고마나루)と表記されている。熊川(錦江)のほとりの都市であり、現在の忠清南道公州市충남 공주시にあたる。 475年に高句麗の長寿王が百済の国都・漢城(現在のソウル特別市)を陥落させ、百済の蓋鹵王(がいろおう、? - 475年)を処刑すると、南方に逃れていた文周王が即位し、首都を熊津に移す。後に聖王が538年に、さらに南方の泗沘(現在の忠清南道扶余郡)へ遷都するまでの63年間、百済の首都であった。新羅の統一の後、熊川州→熊州という名称を経て、高麗時代に公州に改称される。

**③泗沘사비
泗沘(しび、朝鮮語: 사비、サビ)は、古代朝鮮の百済の古都であり、現在の忠清南道扶餘郡충남 부여군にあたる。 百済最後の都らしい。扶餘郡(プヨぐん、ふよぐん)は、大韓民国忠清南道の郡である。百済最後の都・泗沘があった。538年第26代の聖王の代にそれまでの国都熊津(忠清南道公州市)から泗沘に遷都し、百済滅亡の660年までの国都であり続ける。新羅による半島統一の後、新羅の景徳王(在位:742年~765年)の時代に扶餘郡と改称された。扶餘郡は奈良県高市郡明日香村と姉妹都市提携を結んでいるようだ。

百済の熊津への遷都の記事は以下の史料で確認できる。中国の南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。

中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立するといち早く関係を結んだが、ついで唐が成立すると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦(敗戦したのは倭国)とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。新羅が後々まで裏切り国家(倭国から見て)とされる原因となっている。
扶餘郡は奈良県高市郡明日香村と姉妹都市提携を結んでいるようだ。
**明日香村
明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部付近に位置する。中央集権律令国家の誕生の地であることから飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されており、「日本人の心の故郷」とも紹介される。

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ダホメ王国

ダホメ王国 ダホメ王国は、現在のアフリカ・ベナンにあったアフリカ人の王国。ダホメ王国は17世紀に創建され、19世紀にフランスの軍隊がセネガルから来て王国を征服しフランス領西アフリカに組み入れるまで存続した。西アフリカの歴史においては、奴隷狩りと専制軍事国家として特異な位置を占めている。 ダホメ王国の起原はアラダの海岸沿いの王国から来たアジャ人の一群が北に移動し、内陸のフォン人の中に入植したところにまで遡る。

1650年頃、アジャ人はフォン人を支配し、ウェグバジャ自らがアジャ人の住む領域の王であると宣言。アグボメ(現アボメイ)を都としたウェグバジャと後継者たちは、動物の犠牲を伴う王の崇拝儀礼に深く根ざした中央集権的な国家を築くことに成功。王の祖先への人身供犠も伴っていた。王国の土地全体を直接王が所有し、王は収穫から徴税。

しかし経済的には、歴代の王たちの主要な収入源は奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、ライフルや他の火器を使用するようになり、捉えた捕虜たちと火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られていった。グローバル経済に組み込まれていったわけだ。

アガジャ王(在位1708年-1732年)の治下、王国は王家の発祥の地であるアラダを征服し、アフリカ西海岸にいるヨーロッパの奴隷商人と直接関わりをもつようなる。とはいえアガジャ王は、奴隷貿易においてダホメ王国の最大のライバルであった隣国のオヨ王国に勝利することが出来なかった。1730年、アガジャ王はオヨ王国に進貢するようになったが、ダホメ王国は独立を維持したままであった。隣国の従属国となったとはいえ、ダホメ王国は膨張を続け繁栄しつづける。この繁栄は奴隷貿易と、後に導入されたパーム栽培の農園から産するパーム油の輸出によっていた。王国の経済的構造のために、土地は王に属しており、王は事実上すべての貿易を独占した。王は征服したウィダーを交易港として奴隷貿易(マルーンの項を参照)を行なった。

ダホメ王国が最盛期を迎えたのは、1818年に即位し、残虐さで悪名高かったゲゾ王の時代。即位したその年に、北からのソコト帝国軍の侵攻と内乱で混乱したオヨ王国からダホメは独立を果たす。ゲゾは常備軍を作り、奴隷狩りを広く行う一方、アブラヤシの農園を拡張し、奴隷交易に代わる財政基盤を確立しようとした。

アマゾン ダホメ王国は最終的にフランスに1890年から1894年にかけて征服された(第1次フランス=ダホメ戦争、第2次フランス=ダホメ戦争)。ダホメ王国に対して闘った軍隊(フランス軍)の成員のほとんどはアフリカ人であった。これらのアフリカ人の兵士たちのダホメ王国に対する敵意が、王国の凋落を導いたと推量されている。
この地域は、1958年に自治国となり、1960年にふたたび独立を回復してダホメ共和国が成立。1975年にベナン人民共和国に改称し、1990年にベナン共和国と改名。

それまでのアフリカ諸王国と異なり専制君主制で、中央集権政治だった。後継者は王の在位中に任命され、嫡子のみに継承権を与えられた。ユーラシア大陸の他の国々もだいたいそうだ。すると他の アフリカ諸王国は氏族制度の連立王国だったのか。
かつては制限された王権で評議会は、後継者を拒否することもできたが、西アフリカ沿岸諸国と同じく強大になるために必要な銃器、それを得るために奴隷狩り、そのための戦争を絶えず行い、外敵の脅威に直面することで王の意思が法であり、国民の生命と財産を私物とし、貿易と銃器の独占、スパイ網を用いた恐怖政治による国内統制へと変質していく。この体制を支えていたのはよく組織された軍隊であり、特に銃器で武装した女性兵士の軍団)が有名で、「アマゾン」として知られる。

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ハット・リバー公国

ハット・リバー公国(Principality of Hutt River)は、レオナード・ジョージ・ケースリー(Leonard George Casley)が独立国と主張していた、オーストラリア大陸西部の広大な小麦畑を中心とした地域。入国にはビザが必要だったり、独自の通貨を持っていたり。
広大なオーストラリアに、こんなチッポケな独立国があっても、オーストラリア時代は痛くも痒くもないだろうが、でも独立を維持していたということはある意味小気味いい話だ。
ハット・リバー公国 歴史
1969年10月、西オーストラリア州政府が小麦の販売量割当を決定した際、ケースリーの農場に割り当てられた販売量が十分なものではなかったため、他の5つの農場と連携し政策に反対し、西オーストラリア州総督のダグラス・ケンドルーに法案撤回の請願書を提出。しかし、請願書は無視され、さらに州政府が地方の農地を取り返す権利を認める法案の審議が進められたため、ケースリーは「経済・土地が奪われる危機に瀕した際には分離独立することが出来る」という国際法の規定に基づき独立の準備を進める。

ケースリーは「販売量割当の修正または52万オーストラリア・ドルの補償金が支払われない場合、オーストラリアから独立する」と西オーストラリア州政府に最後通告するが、これに対する返答が得られなかったため、1970年4月21日に自身が所有する75平方キロメートルの土地を「ハット・リバー公国」としてオーストラリアからの独立を宣言する。ケースリーは「ハット・リバー公レオナード1世」を名乗るようになるが、独立宣言以降も「自身はエリザベス2世の忠実な臣下である」と発言している。つまり英連邦の一員としては残るということか。

レオナードの独立宣言に対し、オーストラリア総督のポール・ハズラックは「西オーストラリア州憲法に関する問題には連邦政府は介入出来ない」と発言し、西オーストラリア州政府は連邦政府が介入しない限りハット・リバーへの対応を行わないと決定。オーストラリア首相のウィリアム・マクマホンは「領土侵害」として訴追するとしたが、レオナードは「国際条約に基いた独立」と反論し、オーストラリアの方針を無視して小麦を売り続けた。

1976年、オーストラリア郵便局はハット・リバーの郵便物の処理を拒否すると通告した。さらに、オーストラリア国税庁がレオナードに対し納税を要求したことを受け、1977年12月2日にレオナードはオーストラリアへの宣戦を布告したが、数日後には停戦を宣言している。

ハット・リバー公国 1980年頃に国名を「ハット・リバー王国」と改称したが、短期間で公国に戻している。 2000年、独立30周年に際し、息子のイアン・ジョージ首相はオーストラリアの週刊誌からの取材で「父が亡くなった後も、その意志を受け継いでいく」とコメントし、ハット・リバーの存続を宣言。

2017年2月、レオナードはグレームへ譲位した。6月16日、西オーストラリア州最高裁は、オーストラリア国税庁に2006年から8年分、レオナードに約270万ドル、次男のアーサーに242000ドル、あわせて約300万ドルの納税を命じた。ル=ミエール判事は、「ハット・リバー公国」の提出した陳述書を"gobbledegook"(もったいぶった中身のない文書)と一蹴。

2019年2月、先代「ハット・リバー公」レオナードが死去した。2020年8月3日、グレームは「公国」の解散を宣言した。同年にオーストラリアで流行した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で1月より「国境」を閉鎖せざるを得ず、観光収入が断たれたために、オーストラリア政府への租税の支払いの目処が立たなくなったためという。グレームは土地を売り払い、納税に充てるという。「ハット・リバー公国」が独立を宣言してから50年で、再びオーストラリアが実効支配を回復することになった。結局、1970年に独立して2020年に解散するまでの50年、半世紀の独立を保ってことに。

「経済・土地が奪われる危機に瀕した際には分離独立することが出来る」という国際法の規定と言うのは、本当にあるのだろうか。国際法の規定が遵守されていれば、世界中には物凄く沢山の国が出来ているのではなかろうか。住民が分離独立を希望する場合、それを引き留める国の権利はどこに由来するのか。国とは何かを考えさせられる事件でもあった。
統治
妻シャーリー公妃(2013年死去)が海外のマスコミの取材や観光客の歓待を担当し、長男イアン・ジョージ公太子が首相・経済開発大臣・郵政大臣として小麦などの農産物の生産・輸出を担当。この他、次男アーサー・ウェイン公子が外務大臣、三男レオナード・リチャード公子が財務大臣、四男グレアム・アーネスト公子が教育大臣・国立大学学長を担当している。 国民は総勢23人だが、レオナードは「世界中に1万4,000人の国民が存在している」と主張。レオナードを最高司令官とするハット・リバー国防軍を保有し、国民は軍事委員会に名簿登録されている。 主要産業は小麦・ワイルドフラワー・切手・貨幣の輸出。主な資源として観光があり、海外から年間約4万人がハット・リバーを訪れてた。また、自動車のナンバープレートも発行しているため、新車登録も可能となっている。2005年3月29日に外国企業の会社信託の登録を開始すると発表するが、オーストラリア政府は「脱税に繋がる恐れがある」として、「ハット・リバーへの登録に法的根拠はない」と警告。 隣接するノーサンプトン地区政府には、友好のため農産物などを「贈り物」として毎年進呈。 オーストラリアの対応
オーストラリア政府はハット・リバーの独立を認めていないが、西オーストラリア州政府は1972年4月21日に、ハット・リバーを事実上の自治州と規定。 オーストラリア郵便局は1976年にハット・リバーの郵便物の処理を拒否すると通告したが、1980年にパースの裁判所が「ハット・リバーの発行する通貨・切手はハット・リバー内において有効」とする判決を出したため、ハット・リバーの郵便物の受付を再開。
オーストラリア歳入庁はハット・リバーの住民を「オーストラリア非居住者」として扱っているため、ハット・リバー内で得た所得についてはオーストラリアへの納税が免除されている。 オーストラリア国立博物館には「オーストラリア内の分離」に関する展示がされており、その中でハット・リバーは「オーストラリアからの分離に成功した例」として紹介されている。オーストラリア政府にとっても観光資源としては無視できない存在でもあったかも。

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ナーランダ

nalanda ナーランダ (Nalanda, नालंदा) は、ブッダガヤの北東に位置する町、今日のインドではビハール州。ここには5世紀頃に創設された最大の仏教の学院(今日で言う大学)があった。学生1万人以上、教師も1,000人を数えたといわれる。9階建ての校舎の他、六つの寺院、七つの僧院があった。図書館には 500万冊に及ぶ蔵書があったという。これは文字通り古代の世界では最大の教育施設だったらしい。大学は、12世紀イスラム勢力のインド征服(ムガール帝国のこと)により完全に破壊され、それと共にインドでの仏教の衰退が始まった。同じ名前の教育施設が、1351年チベットに設立されている。
**古代世界最大の学問の拠点としては、エジプトのアレクサンドリア図書館が有名、十字架をかけた野蛮人に破壊されたとも言われる。ここも大学の機能を持っていたのでは?

釈迦が最後に旅をしたルートとも知られ、マガダ国の王舎城(ラージャグリハ)から多くの弟子を従え、パータリガーマに至るまでの旅の立ち寄り地点である。

【追記(2021.03.21)】
仏教に興味ある方なら一度は尋ねてみたい場所かも。新型コロナ騒動でGo to Travelまして海外に行くことままならない今、ネット訪問なら自由にできそうだ。実際の場所やアクセス等も調べて見たら面白いかも。

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サハリン2

サハリン2(Сахалин-2)プロジェクトとは、サハリン州北東部沿岸に存在する石油および天然ガス鉱区と関連する陸上施設の開発プロジェクトの名称。サハリン・エナジーがプロジェクトのオペレーターを務める。ロシアと日本の経済交流を促進する夢のプロジェクトのはずだが。
このプロジェクトにおいて、ロシアで初めて天然ガス液化プラントが建設された。このことはロシアのエネルギー政策上重要な意味をもち、後、ガスプロム社が強引にサハリン・エナジー社の株式を取得した理由のひとつとされている。事業本体は100%外資である。なおプラント建設工事は2003年日本の千代田化工建設、東洋エンジニアリングがロシア企業と共同で受注した。
鉱区はサハリン島(樺太)東北部沖のオホーツク海海底に存在する。原油は約11億バーレル、天然ガスは約18兆立方フィートの推定可採埋蔵量が推定されている。

サハリン-2は、それまでほとんど人の手がはいったことのない地域で行われているため、この開発が環境へ与える悪影響を非難する団体などもある。しかし、サハリン(樺太)は、戦前は日本領であったため、多くの日本人にとっても全く未開の地という訳でもない。州都ユジノサハリンスクにも南端の港町コルサコフにも日本人は残って活動しているし、日本料理店すらある。

サハリン島(樺太)周辺に豊富な化石燃料資源が存在することは早くから予想されていた。その中で、1991年にソビエト連邦政府はサハリン北東部沖のピルトン・アストフスコエ(弁連戸 べれんと)鉱区及びルンスコエ(呂郷 ろごう)鉱区の2鉱床の開発を国際入札を用いることを発表した。この入札には複数の会社が手を挙げた。

1994年にロイヤル・ダッチ・シェルと三井物産、三菱商事の三者が合同でサハリン・エナジー社を設立し、ロシア政府と生産物分与協定(PSA)を締結した。当初のサハリン・エナジーへの出資比率は英蘭シェルが55%、三井物産25%、三菱商事20%であり、総事業費は100億ドルと見積もられていた。

1999年には第1フェーズ原油生産が行われ、さらに2001年に全体開発計画がロシア政府によって承認された。2008年中の本格稼働を目指し、最終的には日量18万バレルの原油生産、天然ガス産出量はLNG換算で年間960万トンを見込んでいた。これは日本の総輸入量のそれぞれ4%、18%に相当する。開発計画は順調に進行し、1997年にはピルトン・アストフスコエ鉱区の第1段階開発計画が承認された。しかし環境対策を求められたことで開発費用が増大し、2005年7月14日にサハリン・エナジーは総事業費が当初の100億ドルから200億ドルに倍増すると発表した。

2006年9月、ロシア政府は環境アセスメントの不備を指摘し、サハリン2の開発中止命令を出した。その後の交渉で、2006年12月にロシアのガスプロム参画が決まり、2007年4月にはサハリン・エナジーの株式の50%+1株を取得した。これによってサハリン・エナジーの出資比率は、英蘭シェルが55%から27.5%-1株、三井物産が25%から12.5%、三菱商事が20%から10%に減少した。2007年4月にロシア天然資源省はサハリン・エナジーの環境是正計画を承認。2007年10月には1年以内に工事を完了させることで合意し、開発中止の危機は免れた。2009年2月18日、日露両首脳が出席する中でサハリン2の稼動式典が行われ、3月29日には液化天然ガスの出荷が始まった。

自然環境破壊への危惧
鉱区の周辺は流氷の接岸、10m近くに達する高波など過酷な気象条件下にあることから、原油流出事故などが発生した場合には破局的な環境汚染を招くとして、一部の自然保護団体から反対運動が行われている。 IUCNでは、付近の海域に生息するクジラ(特にコククジラが懸念されている)の生息状況を評価している。 しかし、自然環境破壊の危険性、また生態系への悪影響、これはどのような大規模なプロジェクトにもついて回る問題。原子力発電所に立地でも同じ。具体的な危惧を一つ一つ解明していく他、手立てはなさそうだ。

ただ、このプロジェクトの重要性は、この立地場所を見れば明らかだ。極東地域の経済的自立を成し遂げたいロシアと、北日本のさらなる経済発展と将来のエネルギー資源の多角化を目指す目指す日本国の利益がぴったり一致している。本来は日本とロシアが協力して仲良くできる絶好のプロジェクトのはずだ。誰がこのプロジェクトをつぶそうとしているか?

ユーラシア大陸の西側でも、ロシアとドイツを結ぶ大規模のガス・パイプライン計画が完成まじか。勿論ドイツのメルケルさんも積極的推進派。ドイツのエネルギー戦略の将来がかかっている。ただこちらの方も対米従属派からの圧力がかかって頓挫する可能性も。対米従属を続けているとどんどん経済力を浪費させられていく同盟国の悲劇が見て取れる。

世界の国々

ジンバブエの石

petalite 今でも土鍋を使うのはジンバブエにいい石があったから~
土鍋はガスの高い火力で割れた。粘土に「いい石」をいれて割れないように改良し、いまでも普及してるそうだけど。

NHK「チコちゃんに叱られる」でやっていた。日本で使われる土鍋の材料の粘土がジンバブエの石だった。本当に初耳の話だった。本当なんだろうか。答えはジンバブエのペタライトという鉱石のおかげで土鍋が日本の食卓に戻って来たからというもので、羽田美智子&吹越満の朗読劇に乗せて土鍋の歴史についてご紹介。

【ペタライト】ウィキペディアで調べて見ると
葉長石(ようちょうせき、petalite)は、ケイ酸塩鉱物の一種。化学組成は LiAlSi4O10で、結晶系は単斜晶系。準長石グループの鉱物。1800年に発見された。名前はギリシャ語で葉を意味する petalon に由来。 産出地は、ウート島(何処?)、ハーニンゲ、ストックホルム等で見られる。日本では、福岡県長垂に産する。リチウムを含んだペグマタイトと、リシア輝石、リチア雲母、電気石の含まれる鉱床で生成される。葉長石は重要なリチウムの鉱石。 無色のものはしばしば宝石として利用される。 萬古焼(ばんこやき)(四日市市)の土鍋に使用され、高熱でも鍋が割れない。ジンバブエの名前が出て来ないぞ。

【万古焼】
日本で初めてつくられた直火OKなお皿は、実は三重県四日市市や菰野町で作られる陶磁器、萬古焼 (ばんこやき) 。三重といえば伊賀焼の土鍋が有名ですが、萬古焼の土鍋も、古くからつくられてきました。その過程でいつしか「割れない土鍋」をつくる研究が始まり、昭和30年代後半、原料メーカーと民間企業によって“直火でも割れない土”が開発された。
その鍵となっているのが、「ペタライト」という原料。高い耐熱性で知られる鉱物のひとつで、陶磁器の土、釉薬に一定量加えることで、通常よりも高い耐熱・耐衝撃性を示すことが確認されています。今まで使っていた陶磁器の土にペタライトを配合することで、直火でも割れない土鍋の開発に成功。その後は、グラタン皿など土鍋以外のお皿も手がけていったそう。
 四日市萬古焼耐熱陶器の最大の特徴として,原料にペタライトを使用していることが挙げられる。ペタライトは化学式 Li 2O・Al 2O ・3 8SiO 2 で表される鉱物で、主にジンバブエから輸入されている。昭和30 年代に四日市萬古焼のメーカーが耐熱衝撃性のあるペタライト入り土鍋を開発したことから,この地域に土鍋の生産が広まっていった。このペタライト入り土鍋をペタライト質土鍋と呼んでいる。

【ジンバブエ国】 しかし、これだけ需要があれば相手側のジンバブエ国にも生産体制が出来ているはずだ。それに、日本がこの国から他に買っているもの何かあるかな? ジンバブエは超インフレの破産国とされており、イグノーベル賞の賞金にも使われている。天文学的な巨大な数字にもかかわらず価値は紙くず同然とか。
ジンバブエの鉱山開発は 1800 年代後半にさかのぼり,ゴールドラッシュを背景に英国人セシル・ローズ経営の英・南アフリカ会社が開発。推定埋蔵量世界第2位のプラチナの他,フェロクロム,アスベスト,ニッケル,鉄鉱石,石炭など多様。特に白金族(PGM)は,ロシア,南アフリカ,英国,豪州企業による資源開発が顕著です。つまり、権益は殆ど欧米人に握られているようだ。
一方、日本で生産される多くの土鍋の生産過程においてジンバブエ産のペタライト鉱石が使われている。ペタライト鉱石を混ぜることによって,耐熱性に優れた土鍋ができ上がる。親日国でもあり青年海外協力隊の隊員を通じた交流も盛んだとか。

世界の国々

アフガニスタン

アフガンは「帝国の墓場」とも言われる。何それ?
 古来、アレキサンダー大王、モンゴル帝国、チムール大王、大英帝国、ソ連などが介入し、長期の武装抵抗に悩まされ結局撤退を余儀なくされたという歴史がある。大英帝国以降は分かるけど、過去の話はどうかな?
 今回は米国がその轍を踏んでしまった。アフガンはユーラシア大陸のハートランドとも言える戦略要域でもある。でも、かってのアフガンは、東西南の交流の拠点で経済的にも文化的にもそれなりに栄えた土地だったのでは?

 世界の屋根と言われるパミール高原から西に流れるヒンズークシ山脈により南北に分断された、内陸の山岳国家であるが、その部族と宗派は複雑に入り組み部族間の争いが絶えない。外敵が侵略して来れば果敢なゲリラ戦を執拗に続け追い出す頑強さを持つ半面、外敵が撤退すると部族間の武力闘争が起きるのが常である。でも山岳民族何てそんなものでしょう。尾根一つ越えれば、言葉も文化も歴史も全く異なる人達同士、統一が難しい地域でもある。
 確かに交通の要衝。でも、道路網は限られ国土の大半は高度数千メートルの山岳地帯である。その面積は約65.2万平方キロメートルと、日本の約2倍の比較的広大な国土面積を占めている。人口約3,890万人の民族構成は極めて複雑である。人口は決して少なくない。日本の江戸時代だってこんなものでは?

 人口の最大数を占めるのは、パシュトゥン人。彼らは、パキスタン北西部のペシャワールなどを中心とする地域にも居住する民族だが、英国の恣意的な国境線の線引きにより、2つの国に分断されてしまった。つまり、半数近いパシュトゥン人はパキスタンに棲んでいる。クルド人に近い。彼らだけの統一国家を造りたい。
 他方のヒンズークシ山脈以北の北部は、トルクメニスタン、タジキスタン、ウズベキスタンなどのトルコ系の諸国と国境を接し、これらの諸民族が居住している。パシュトゥン人に対抗するため北部同盟を結成。これらの部族は同一国家でありながら、パシュトゥン人とは対立関係。国家統一を困難にする一因になっている。

 このようなまとまりのない多民族国家として無理やり誕生させた背景には、英露両帝国による緩衝地帯としての国境線画定という歴史がある。19世紀に大英帝国とロシア帝国は「グレート・ゲーム」と言われる覇権争いを、イランからチベットなど清国周辺領土に及ぶユーラシア大陸全域で繰り広げていた。その覇権争いの焦点の一つがアフガンだったことは世界史の常識。英露は直接陸地国境を接するのを避けるため、アフガンを緩衝地帯とすることで妥協した。
 実質的には、大英帝国の「保護国」ではあったが王政は残された。タイがそうだね。タイは英仏の緩衝地帯だった。その際に、ヒンズークシ山脈が中央を走る不自然な国境の線引きを地元住民の意向や民族分布の実態を無視して英露両国により一方的にされてしまった。

ワハン回廊と呼ばれる東西約200キロの細長い地形が東に伸びて、中国領の新疆ウイグル自治区と接している。米国がウイグル地区の人権問題を大騒ぎする理由もこれらしい。

 これも英露が直接国境を接するのを避ける緩衝地帯とするために引かれた国境線であり、かつ清国の力が衰えていたこともあり、中国とアフガンの国境は極力狭められることになった結果である。中国に言わせれば、新疆ウイグルは元々中国領(清)だったんだから米国の干渉は余計なお世話ということか。

 またアフガン西部は、歴史的にペルシアの影響下にあったために、イスラム少数派のシーア派が浸透しており、他の地域の多数派のスンニ派とは対立関係にある。イランは当然シーア派の保護を求めるだろう。
 しかも、モンゴル帝国やチムール支配の末裔であるモンゴル系のハザラ族が東部から中部山岳地帯に居住しており、彼らはシーア派でもあり、アフガンを3分する勢力の一角をなしている。また、アフガン南部では、パキスタン南西部、イラン南東部とともに、バルチスタン解放軍がバルチスタン独立を目指し武装闘争を展開している。

 アフガンは地形的にも民族・宗教の面から見ても、相対立する部族が高度数千メートルの険峻な山岳地帯に割拠する状況にあり、統一した統治は極めて困難な地政学的環境に置かれている。サービス産業、農業、建設業、鉱業・採石業などの産業があるとされているが、1人当たりGDP(国内総生産)は530ドルに過ぎず、世界最貧国の一つでもある。ただし、世界的な金、銅、レアアース、鉄鉱石、リチウム、ウランなどの鉱物資源に恵まれており、その価値は1兆ドル以上に相当するともみられている。世界のレアアース市場の約7割を占める中国にとり、アフガンの鉱物資源支配はその独占体制を確固としたものにするとともに、電気自動車用電池、その他の先端産業、軍需用に不可欠なレアアースやリチウムなどは極めて魅力のある資源と言えよう。
でも、実際にもっと貴重な資源がここにはある。ここは世界で最も芥子栽培の盛んな土地だ。芥子とは阿片の原料だ。各国で違法薬物に指定されているが、どこの大手薬品会社も喉かから手が出る程、欲しいもの。多くの地域軍閥の大きな資金源となっている。アフガンが真の独立を達成してしまうと、欧米諸国で最も利権を失うのはどこなのだろうね。

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