地理の部屋
地理学とは、地球の表面と住民の状態、その相互関係を研究する学問。この世界で生じている森羅万象総て地理の世界か。自然地理学と人文地理学何て区別もあるようだけど、何もことさら分別する必要も無いだろう。
一方、空間的な関係から時間軸に視点を移すのが歴史。ビッグ・ヒストリー何て言って宇宙の誕生から現在まで大局的に眺めようとの研究も。歴史地理学何て言うのもある。
まあ、とりあえず現実を熟視することが先だね。
当初はこのページ、海外も日本も一緒で始めたけど、やはり二分した方が整理しやすようだ。日本でも海外でもない宇宙空間の話はどうするか。まあ、どこか適当なページにブチ打ちこんでおこう。
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世界の食料(1)…小麦
世界の食料(1)…小麦
世界の三大食糧と言えば、トウモロコシ、小麦、米である。ヒトがイネ科植物の種を食べるようになって1万年。人類はこのイネ科植物に過度?に依存してきている。
この3種の植物でどれが最も人類の食料調達に寄与しているか。これは一概に結論を出せる問題ではないが、世界の4大文明発祥の元とされる小麦が最も目立つ存在である。
小麦の起源はメソポタミアの肥沃な三日月地帯で、ヒトツブコムギが総ての小麦の起源らしい。これが世界中に広がり、エジプト文明、インダス文明、黄河文明へと発展したという話が現在の歴史学の主流らしい。ただ、黄河文明はどうも米も含めた雑穀を中心とした複合農業であった可能性も大きい。ただ欧米社会では人が食べる主食はまずは小麦。ただし、日本やアジア諸国ではコメ比率が高い。
小麦は世界中多くの土地で生産されている。しかし、小麦の主要な生産国は意外と偏っている。いわゆる肥沃な土壌が必要なことと、国際的貿易の対象となっていることから広い農地で安価に生産できることが条件になっている。例えば日本では、稲作の裏作としてどこの農家でも生産していたが、今ではほとんど輸入に依存しているのが現状である。
まずは小麦の生産のグラフを見て見よう(農水省のデータ(2015年))。これによると、小麦のこの年の生産量の予測値は7.2億トン。人口の多い国は生産量も多い。世界の人口は約70億人とすると、
7.2億トン÷70億人=0.1トン/人=100kg/人。これが1年間の消費量。1人1日当たり274gとなる。つまり、生産された小麦が世界の人口に均等に分配されていれば食糧危機は存在しない筈である。以前は人口増加に比べ食料生産が追い付かないと心配されていたインドも中国も今では小麦の大生産地となっている。これグリーン革命という。農業技術の進歩で単位面積当たりの収量が大幅な増加が見られたためである。
次に世界の小麦の輸出量のグラフ。輸出量の予測値は1.6億トン。生産量7.2億トンの22%(1.6億トン÷7.2億トン×100%)が輸出に回されている。つまり生産量の4/5は国内消費、1/5が輸出用と言うことのようだ。
また、このグラフから輸出スペシャリスト、始めから輸出向けの生産を行っている国があることが分かる。米国(16%)、カナダ(13%)、オーストラリア(12%)、アルゼンチン(4%)はいわゆる新大陸農業。ヨーロッパからの移民農民達が原住民を追い出し開墾して農地を造り出したもので、最初から本国への輸出志向でそれは今でも続いている。
以外なのはウクライナ(7%)とロシア(13%)かも。ウクライナはチェルノーゼムと言う肥沃な土壌で有名で昔から小麦の有力な生産地であった。しかし生産量自体はそれほどでもなさそうだ。
それでは、小麦を輸入している国は? これ右下の横長のグラフだ。何と食料としての小麦を輸入に依存する国は極めて少数派だ。その他が67.8%も占める。
エジプトはナイル川の恵みで小麦の大生産地であったはず。更に売るための産物は何でしょう。経済的に苦しそうだ。産油国のアルジェリアやイランだって農業開発は行っているが生産が追い付かない。或いは生産は可能だけど価格が輸入品より割高になる?
日本は、工業製品を売るためにそのバランスとして小麦を買う必要がある。適正な価格で売れれば日本の農家にも生産の余力はありそうだ。深刻な食糧不足が叫ばれているアフリカの多くの国はその他に含まれているのかも。
2023年現在、ウクライナ問題を受けて小麦の値段が高騰している? ウクライナ産の小麦が市場に出回らないので価格が高騰? 基本的に小麦は買い手市場と言うのが実態のようだ。どう見ても誰も困らないようだ。
世界の食料(2)…トウモロコシ
世界の食料(2)…トウモロコシ
世界の三大食糧と言えば、トウモロコシ、小麦、米である。ヒトがイネ科植物の種を食べるようになって1万年。人類はこのイネ科植物に過度?に依存してきている。
この3種の植物で最も生産量の多いのがトウモロコシ。トウモロコシの起源は新大陸、つまり南北アメリカである。小麦と比べ遥かに栽培化の難しかった植物を何千年もかけて食料としての作物に品種改良したアメリカ・インディアン達の偉大な努力の成果である。
まずはトウモロコシの生産のグラフを見て見よう。農水省のデータ(2015年)によると、トウモロコシの生産量の予測値は9.9億トン。これは小麦の7.2億トンを上回る。新大陸発見後、これが急速に世界中に広まり、急激な人口増加をもたらした一因であることは否定できない。
世界の人口は約70億人とすると、9.9億トン÷70億人=0.14トン/人=140kg/人。これが1年間の消費量。1人1日当たり383gとなる。つまり、生産されたトウモロコシが世界の人口に均等に分配されていれば食糧危機は存在しない筈である。更にトウモロコシが不作でも小麦もあるし、米だってある。大豆やジャガイモだってあるのでは?
生産量の多いのは何と言っても米国。コーンベルト何て言う地域もある。何て言ってもトウモロコシ発祥の地だ。次の中国、清朝以降の人口の急増を支えたとも言われている。トウモロコシが中国にもたらされたのは何時だったんだろう。第三位はブラジル。人口の多いインドの生産はそう多くない。気候のせいだろうか?
次に世界のトウモロコシの輸出のグラフ。輸出量の予測値は1.2億トン。生産量9.9億トンの12%(1.2億トン÷9.9億トン×100%)が輸出に回されている。小麦は22%だったので、小麦よりは商品化されてはいない。また、小麦と異なりかなりの比率が家畜の飼料として利用されているという特徴もある。トウモロコシを食べた家畜がヒトの胃袋に入るので結果としては食料と言うことではあるが。輸出量が多いのは米国、ブラジル、ウクライナ、アルゼンチンと続く。米国では今トウモロコシを航空機燃料として使うプロジェクトが進められている。化石燃料の代替品とか。でもそのコスト、今は化石燃料の数倍はするという。これも温暖化対策の一環だと言うが本当に対策になっているのでしょうか。
それでは、トウモロコシを輸入している国は? 何とダントツ一位は日本ではないか。日本人はトウモロコシが大好き? いいえ。人が食べるトウモロコシはスーパーに行けばどこでも売っているね。でもこれは国産のトウモロコシ。日本が大量に輸入しているのは家畜の飼料用のトウモロコシ。日本人は家畜を通して間接的にトウモロコシを食べている訳です。日本の食料自給率(カロリーベース)が低いのは家畜を通して間接的に食料を輸入しているからなのです。だから日本の食料自給率は金額ベースにすれば、食料自給率は大幅に減少し、ある意味日本は農業大国とも言えるわけ。だから今農水省は日本の農産物を世界に売り込もうと戦術を転換している。日本の農産物は高いけど品質が良いとの評判がある。
トウモロコシ価格の高騰は、今日本畜産農家を直撃している。多くの畜産農家は飼料を輸入トウモロコシに過剰に依存している。トウモロコシ価格の高騰が続けば畜産を続けることが不可能になる。牛を例に取れば、牛は本来草を食べて生きている。稲なら米粒を食べるのがヒトで、牛は稲藁(いなわら)を食べるのが普通だ。牛が胃袋を4つも持っているのは植物のセルローズを消化するためではないか。本来は牧草を使うべきなのかもしれない。
トウモロコシを化石燃料の代替にするプロジェクトが進めば(破綻する可能性もある)、トウモロコシ価格の高騰は避けられない。飼料を輸入トウモロコシに依存する日本の畜産は成り立たなくなる。これは牛だけでなくニワトリも豚も同様だ。
もう一度、この地図を見て見よう。日本のトウモロコシの輸入はほとんどが米国からだ。つまり日本は自動車などの工業製品を売る見返りにトウモロコシのような農産物を義務的に買わざるを得ない構図になっている。ヒトの口に合わないトウモロコシを有効活用するには家畜の飼料とする以外ないかも。
世界の食料(3)…米
米国農務省によると、世界の米の生産量は年間約4億8,000万トン(精米ベース)。その大半がアジアを中心とした国々で作られています。生産量の第1位は中国の1億4,450万トンで、全体の30%を占めています。続くインド、インドネシアの上位3カ国だけで、約60%近くにもなります。
日本の米の自給率はほぼ100%で、人口は1億人でも生産量が10位、消費量が9位。米は小麦やトウモロコシと比べてあまり国際取引が多くなく、基本的に国内消費が多い。しかし詳細に見れば輸入の多い国、輸出の多い国も見られる。すなわち、国内消費の少ない米国やブラジルは輸出志向であるし、ナイジェリアや韓国は米を輸入に頼っているようだ。
世界の食料(4)…大豆
世界の食料(4)…大豆
大豆は穀物かと言えばちょっと微妙。水に浸してから使う乾燥大豆は穀物、若い時期に収穫した大豆=枝豆は野菜だなんていう説明も。狭義の穀物と言えば、トウモロコシ、小麦、米、のイネ科植物。でも澱粉質を主体とする種子をまとめて穀物とすることも。
まずは大豆の生産のグラフを見て見よう。農水省のデータ(2015年)によると、大豆の生産量の予測値は3.2億トン。これは小麦の7.2億トンと比べると少ないものの相当な量と言える。畑の肉とも称され、タンパク質にも富んだ大豆は今後も世界の重要な食糧源であり続けるでしょう。
生産量の多いのは何と言っても米国とブラジル、アルゼンチンがこれに続く。ところが輸出量は1.2億トン。生産量の37.5%が輸出に回されている。で輸入は何処の国。何と64.7%が中国に輸出されている。大豆はもともと中国原産で、中国人は大豆好き。確かに麻婆豆腐なんて中国料理有名だ。
1.2億トン×0.647+3.2億トン×0.04=0.9億トン
中国人達は毎年約1億トンの大豆を消費している訳? 同じく大豆好きの日本の27倍(64.7/2.4)も消費している。日本だって枝豆、豆腐、納豆、油揚げ、ずいぶん大豆大好き人多いのだけど。
大豆は、食用はもちろん、大豆ミール(と呼ばれる大豆油を絞り取ったあとの大豆の粕を粉砕して作られた粉末)にして家畜や養殖魚の飼料として使用します。 現在、主要な輸入国である中国は、人口増加による国内の穀物需要増加に備えて、主食の作付けを優先したため、大豆の需要増加に伴い、外国から輸入せざるを得なったとの説明があったが、それにしても随分大量の輸入だ。ところで中国への大豆の輸出は大部分がブラジルから。つまり中国とブラジルには相互依存の特別な関係がありそうだ。同じことは日本が輸入するトウモロコシ(輸入量世界一)の大部分は米国から。当然相互依存の特別な関係が想定される。
世界の原子力発電
世界の原子力発電
現在世界で原子力発電所が一番多い国はアメリカで、日本の約2倍の104基の原子力発電が運転されています。アメリカは原子力の技術を生み出した国ですから当然かもしれません。また、原子力発電を世界中に売り込もうとPRしている積極的推進国とも言える。
その他、原子力発電は日本も含めてフランスやロシアをはじめ、サッカー王国のブラジルやアルゼンチン、南アフリカなど、30カ国で運転され、世界の電気の13.5%(2008年)をつくっているとのこと。
また世界で建設中や計画中は163基あり、今後も世界の国々でも開発や利用を勧めようという機運もある。とくに中国やインドなどのアジアの国々で電気の需要を賄うために原子力発電の建設や計画が積極的に進められています。
一方、スリーマイル島、チェルノブィリ、福島の大災害やその多数の危険な事故の発生が止まないことから、原発の「安全神話」の崩壊が進み、「ノーモア原発」の運動も進みつつあります。最初の原発が出来てから既に半世紀以上も経過。脱炭素改革のクリーンなエネルギーとしての期待と環境大破壊の危険性、世界の電気の比率が1~2割程度から上昇する可能性はあるのでしょうか。原子力発電が「地上の太陽」なんて半世紀以上も前の過去の神話を未だに信じている人がいるのでしょう。
**世界最初で最初に原子力発電を行ったのは、アメリカの原子炉EBR—1(1951年12月実験的に200kWの発電に成功)、世界最初の原子力発電所は、ロシアのОбининская АЭС原子力発電所(1954年6月送電開始,出力5MWe)。
**米国は、原子力が20%、再生可能エネルギーが15%であり、非化石電源比率は35%と5か国中2番目に低くなっていますが、火力発電に占める石炭火力とガス火力の比率がそれぞれ約半分ずつとなっており、米国は今後も原子力推進派となりそう。地球温暖化CO2説を熱心に推進する勢力は、原子力産業から巨額の補助金を受けている。米国自身が脱炭素脱化石燃料をやりたがるのは、原子力発電の比率を今より増やしたいから。
**2019年度の日本における発電量の電源別の割合は天然ガス37.1%、石炭31.9%、石油等6.8%、水力7.8%、水力以外の再生可能エネルギー10.3%となっています。また、再生可能エネルギーの内訳は太陽光6.7%、バイオ2.6%、風力0.7%、地熱0.3%です。
日本は水資源に恵まれた国であるにもかかわらず、水力発電の比率が異常に低い。水力は最良の再生可能エネルギーであるにもかかわらず、欧米の環境団体(原発推進派)が自然破壊とクレームをつけることで事実上開発が止まっている。もし、日本が中小水力まで含め、本格的に水資源開発に取組めば、太陽光や風力などの効率の悪い開発(これらも水力以上の自然破壊を引き起こす)は一切不要となるはずだ。でも、それでは原子力発電は売れなくなってしまうか。因みにブラジルは電力の7割近くを水力発電。環境対策の優等生か?
**フランスの原子力発電、過去の成長と近年の衰退
フランスには現在56基の原子炉が運転可能な状態にある。設備容量を合計すると約6400万kW(キロワット)にのぼる。さらにEPRを採用したFlamanville-3 (165万kW)を2007年から建設中だ1。1973年に石油危機が起こった時に、化石燃料に乏しいフランスがとった主要な対策が原子力発電だった。当時は代替のエネルギー源として、発電量が豊富でコストが低く、しかも準国産の供給体制を構築できると考えられた。
その結果、原子力による発電量は1980年代に急増して、2005年にピークに達した。その後に経済が停滞して、2016年から原子力発電の減少が進んだ。
*スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと相次ぐ原発の大事故の結果、原発の安全神話が崩壊したことの方が大きな要因だ。
しかし、今この流れを反転しようとの動きも。ウクライナ戦争でロシアへの経済制裁としてガスや原油の流れを止めたことだ。もちろん脱化石燃料の観点からも。当然エネルギー危機に陥る。再生可能エネルギーの開発ではとても間に合わない。後は原発しか手段は無いよね。
風力発電や太陽光発電、確かに無理だ。でも水力発電なら。たぶんそれしか答えは無いでしょう。水力発電やらせたら大変?原子力は不要となってしまうではないか。
日本再発見
年を取って旅行も面倒になって来る。しかも、2020年から例の新型コロナ騒動で人の行き来すら制限が加えられるように。
少なくてもネット上の旅行を楽しみ、夢を広げて行くことも必要でしょう。
目次
裸坊達の祭りについて | ||||
合掌造り集落 | 五箇山 | 対馬 | せんだんご | |
壱岐島 | 軍艦島 | 竹島・独島 | ||
秩父と花火 | 金閣寺 | 勅使河原 | 羽生市(はにゅう市) | |
東映太秦映画村 | 難波田城 | 上五島国家石油備蓄基地 | ||
巨椋池 | 栗山町 | 厳島神社のしゃもじ | 日本工業大学 | 忍藩(おしはん)[埼玉県] |
埼玉県の成り立ち | 群馬県の成り立ち | 水月湖 | ||
南禅寺 | 首里城 | 椿山荘 | 三十三間堂 | |
大仙陵古墳 |
日本の原子力発電所
裸坊達の祭りについて
裸坊祭というのが本当にある。「はだかぼうまつり」と読むそうですが、山口県防府市の防府天満宮で、1000年以上続いているとされる御神幸祭(裸坊祭)とも称される極めて伝統と由緒ある祭りだそうです。学問の神様として崇められている菅原道真公の御霊(みたま)を慰める神事で、菅原道真公が京都から大宰府に流されて行く道筋での宿泊地として立ち寄られた際の送迎にちなんで毎年11月の第4土曜日に実施されるそうです。白装束姿の「裸坊」と呼ばれる男たち約5千人が境内を埋め尽くす中、触れると願い事が叶うといわれる、御網代輿が登場し、裸坊たちが我先にと群がる壮大な祭りだそうです。
裸坊達の部屋に戻る
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合掌造り集落
富山県の五箇山(ごかやま)と岐阜県の白川郷は合掌造りで有名で、世界遺産にも登録されています。でも、なぜこのような独特の構造の家屋が誕生したのでしょうか。
実はこれは、日本の戦国時代の武器生産、もっと具体的には火薬の製造に密接に関係していたとのことです。合掌造りの特徴は、大家族制。つまり、大きな家に多くの家族が住み、そこから出る大量の糞尿で、火薬を製造していたのです。
鉄砲の伝来は、種子島にポルトガル人が伝えますが、実は日本には鉄砲はもっと前から伝わっていたとされています。鉄砲には火薬が必要。でもこの火薬の製造方法が大変なため日本では鉄砲は普及しないでいたのです。本来火薬の発明は、中国なのですが国家秘密を言うことで日本には伝わってこなかったようです。
火薬は長らく黒色火薬のみでした。これは木炭と硫黄、硝酸カリウム(硝石)の混合物ですが、日本では硝酸カリウムが採れないのです。大貿易港だった堺は硝石の輸入が可能でした。つまり、火薬は堺でしか作れず、これが戦国時代の堺の自治を支えたのだと考えらています。
その後、硝石を「国産化」する技術が広がります。原料は意外なところにありました。トイレです。バクテリアがアンモニアを分解すると、硝酸ができることを利用するのです。
まず、人糞や厩肥に、ヨモギ、麻、サクなどの雑草を混ぜ合わせ、そこに尿を掛け、何度もかき混ぜる。すると分解が促進され、硝酸塩ができる。これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムに変化。これを灰汁(炭酸カリウム)で煮詰め、結晶化させると硝石となるのです。ヨーロッパでも海外から輸入できるようになるまでトイレを利用していたことが知られています。大変手間暇がかかり多大な労力が必要だったようです。
白川郷は幕府直轄の天領でした。そして、五箇山は加賀藩に含まれます。加賀藩は幕府にも火薬を献上しますが、加賀100万石の力の源泉は、この火薬製造だったともいえるのか。 そんな硝石製造ですが、明治になってチリから大量の「チリ硝石」が輸入されると、国産硝石の製造はあっさり壊滅してしまうのです。
なるほど技術の歴史から見ても、合掌造り家は世界遺産として恥ずかしくないもの。臭い話で恐縮ですが。
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五箇山
五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指す。地域内の「越中五箇山相倉集落」と「越中五箇山菅沼集落」は重要伝統的建造物群保存地区であり、世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」を構成している。そうなんです。合掌造り集落と言えば白川郷。でも五箇山の方も忘れないで欲しい。
赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷からなるので「五箇谷間(やま)」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の5つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約120ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源平合戦の近隣の地域に伝説が多いとも言われる。
五箇山には、縄文時代の埋蔵文化遺跡が約50箇所ある。約4500年前(縄文中期前葉)土器が出土している。他の年代も含めての出土品は、磨製石斧・石皿・石鏃・石棒・石刀・土偶・耳飾り・ヒスイ大珠・御物石器などである。ヒスイの大珠がコモムラ遺跡(旧平村下梨)東中遺跡(旧平村)から3個出土している。縄文時代のヒスイは全て新潟県糸魚川市の明星山から姫川(支流小滝川)と青海川に流出したもので、日本海側との交流があったことを示している。また、御物石器は祭祀具と推測されており、岐阜・富山・石川で多く出土していることから、中部圏との交流も盛んだったようである。
五箇山には平家の落人が住み着いたと伝えられている。1183年、富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている。
また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、『五箇山誌』(1958年)には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説が紹介されている。
白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、1471年(文明3年)、浄土真宗(一向宗)本願寺八世蓮如が現在の福井県吉崎に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となり、この地域も浄土真宗に改宗したようである。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる。
江戸時代の1690年(元禄3年)からは加賀藩の正式な流刑地となった。流刑場所は庄川右岸の8カ所で、軽犯罪者は平小屋と呼ばれる建物に収容され拘束の程度は緩かったが、重犯罪者は御縮小屋と呼ばれる小屋に監禁され自由を奪われていた。御縮小屋の一部は昭和年間まで残されていたが、1963年(昭和38年)の38豪雪の際に倒壊。1965年(昭和40年)に復元されたものが富山県の有形民俗文化財に指定され、流刑小屋として地域の名所となっている。加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在は再現されたものが籠の渡しとして残っており、人の代わりに人形が川を越える)。
気象条件が厳しい五箇山では、江戸時代、年貢を米で納めることができなかった。1780年頃の宮永正運著「越の下草」によれば「水田はもとよりなくして、穀類も稗、粟、大小豆に過ぎず・・・」とあり、稲作が絶望的であったことが窺える。住民は、商品作物などを井波町、城端町(現在の南砺市)の商人(判方)を介して換金し、年貢を納めていたが、多くの場合、判方から前借を行い次年度に返済するという自転車操業的な生計を余儀なくされた。借金が返せずに土地を手放す農家が出る一方で、判方の方も貸し倒れや廃業が相次ぐなど貸借双方で厳しい環境であった。大きな気象害の年には、数年間の間、判方への借金の延納や藩への借米でしのぐこともあったが、生活環境の改善や向上には結びつかず、1837年の天保の飢饉の際には住民の約4割が餓死している。
周囲を1000メートル超の山々と庄川の峡谷に囲まれた陸の孤島で、五箇山から城端(富山平野側)に行くには難所中の難所の朴峠や人喰谷を超える必要があった。このような地理的に隔絶された環境から、加賀藩の流刑場として利用された。
南方には人形山という姉妹の雪絵がある山があり、五箇山のシンボルの山となっている。雪絵の姉妹に関する悲しい伝説はまんが日本昔ばなしにも取り上げられている。五箇山の集落周辺は景観保護のために五箇山県立自然公園に指定されている。
戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(1570年〈元亀元年〉 - 1580年〈天正8年〉)の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻…など)と、蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。16世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。加賀藩は、外様大名として100万石の経済力をもち徳川家の2分の1の石高を持っていたので、取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)の輸入によって廃れてしまう。
五箇山の合掌造りの屋根は茅葺である。五箇山の茅葺はコガヤ(チガヤ)を材料とすることが特徴となっている。なお、現在はチガヤの採取量が全ての合掌造りに必要な分を満たせず、重要文化財や世界遺産を除く合掌造りは大茅(ススキ)で屋根が葺かれている家屋がある。昭和30年代までは「結」、集落の共同作業にて葺き替えを行っていたが、現在は富山県西部森林組合(旧五箇山森林組合)が屋根の葺き替え、茅場の管理・刈取りを行っている。
この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれた。現在も南砺市(旧平村)の相倉地区や同市(旧上平村)の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、それぞれ1970年12月4日、「越中五箇山相倉集落」「越中五箇山菅沼集落」として国の史跡に指定され、1994年には重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
1995年12月、隣接している岐阜県大野郡白川村の白川郷(荻町地区)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録されている。
2009年(平成21年)3月には、フランスミシュラン社発行の旅行ガイド日本編「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」にて最高峰の3つ星観光地に選ばれた。日本国内では17ヶ所が3つ星に選ばれている。また相倉集落・菅沼集落も2つ星に選ばれている。2015年(平成27年)3月、アメリカのニュース専門放送局・CNNが発表した “Japan's 31 most beautiful places”(日本の最も美しい場所31選)の一つとして選ばれた。
「五箇山は民謡の宝庫」と言われ、発祥や伝播の経緯が定かでないものが数多く存在する。「お小夜節」は伝承ではお小夜(おさよ)という遊女と関係が深いという。加賀騒動の首謀者と遊女たちが輪島に流刑になったが、お小夜は輪島の出身だったため、意味がないということで、小原(上平)に流され、歌を教えたとされる。口頭で伝承され発展してきた文化遺産であり、麦屋踊は、国の助成の措置を講ずべき無形文化財に選定された経過にある。代表的な「こきりこ節」や「麦屋節」を含む多くの民謡は、1973年(昭和48年)11月5日に「五箇山の歌と踊」として、国の選択無形民俗文化財に選択されており、多くの五箇山民謡保存団体が存在し、唄い踊り続けることによって守られている。
また、「五箇山の歌と踊」が国の選択無形民俗文化財に選択された際、保存会4団体(のちに小谷麦屋節保存会が1993年(平成5年)より参加、現在は5団体)で「越中五箇山民謡民舞保存団体連合会」が結成され、これらの保存会は小・中学校や高校で五箇山民謡を指導し、地元の富山県立南砺平高等学校の郷土芸能部が全国高等学校総合文化祭で優秀な成績をおさめるなど、大いに成果をあげている。
こきりこ(こっきりこ)節・麦屋節・長麦屋節・早麦屋節・小谷麦屋節・古代神・小代神・四つ竹節・といちんさ節・お小夜節・なげ節・五箇山追分節・神楽舞・古大臣・しょっしょ節・草島節・輪島節など
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対馬
対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島で、島全域が対馬市。南北82キロメートル、東西18キロメートルと細長く、面積約700km2で、広さ第10位の日本の島。島内人口は3万470人 (2019年9月現在)。
日本地図を広げ見ると、日本(九州)と朝鮮半島に間に巨大な島が鎮座している。日本の歴史においても地政学的にも極めて重要なところに位置している。現在も海上自衛隊の対馬防備隊が駐屯しているとか。一度は、訪れて見たいと思っているがその機会はなかなか訪れない。それより対馬が何県にあるか知っている人??
主島は対馬島で、このほか属島として6つの有人島(海栗島、泊島、赤島、沖ノ島、島山島)と102の無人島から構成され、対馬列島とすることもある。『日本書紀』にも、対馬島(つしま)と記述されている。旧字体は對馬。
地理的に朝鮮半島に近いため、古くからユーラシア大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的・経済的交流の窓口かつ交流の場の役割を果たしてきた。
日本海の西の入り口に位置する対馬島は、九州本土より玄界灘と対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡)をはさんで約132キロメートル、朝鮮半島へは対馬海峡西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5キロメートルの距離にある。なんだ、朝鮮半島からの方が近い。つまり、対馬島は日本海の海岸からだけでなく、韓国の釜山からも良く見えるようだ。ということは、縄文時代から人々がこの島を経由して頻繁に交流を続けてきたことが想定される。
現在も大韓民国からの観光客が増加しており、島内の至る所にハングルが併記された標識や案内を見ることができるという。北関東のゴルフ場やJR駅、スーパー等にもハングル語がたくさん見られる時代だから、当然と言えば当然だろうが。でも、逆に日本人の数が少なすぎる。
対馬全島の人口は、1960年の6万9556人をピークとして減少し、人、2016年には3万1963人まで減少。世帯数は1万5166世帯で、1980年からあまり減少していない。島に若者が働ける仕事先が少なく核家族化と高齢化が進んでいる。行政は長崎県に属しているが、人びとの日常生活のうえでは航空機やフェリーの直行便数が多い福岡県との結びつきが深い。
地質屋さんにも面白いかもしれない。何故、あのような交易有利な場所にポツンと島があるのか。ハワイ島なら火山で説明できる。東海岸の一部と下島の西海岸の一部を除くほぼ全域でリアス式海岸が発達し、海岸線の総延長は915キロメートルにもおよぶ。リアス式海岸ということは陸地が沈降した出来る地形だろう。日本海の生成とも関係が深そうだ。複雑で入組んだ海岸線や断崖絶壁など自然を楽しむ観光にも最適か。仙台→松島、ハノイ→ハロン湾。
江戸時代、幕藩体制の時代対馬藩は宗氏が治めるある意味独立国。というより、実際は李氏朝鮮へは朝貢し柵封関係。小中華思想だね。秀吉の朝鮮出兵でグチャグチャになって国交断絶状態。幕府も関係を改善したい。対馬藩も幕府も朝鮮との関係を修復して、交易の利を確保したい。当然朝鮮側としては朝鮮出兵に対する謝罪と講和が先と譲らないが、江戸幕府も朝鮮側が朝貢に来たとでもしないと他大名にも示しがつくまい。板挟みの対馬藩、巧みに二枚舌外交を続ける。
その結果、生じたのが柳川一件(やながわいっけん)と称される「公文書書換事件」。
今、与野党が「前代未聞の歴史的犯罪だ」と財務省を非難していますが、過去にも公文書の改ざんが大問題になったことはあったのだ。江戸時代に公文書中の公文書である「国書」の書き換えが発覚し、3代将軍・徳川家光(1604~51)が、諸大名を列席させて、じかに“証人喚問”まで行った。事件の名を「柳川一件(やながわいっけん)」という。
結局は、徳川家光の名仲裁の結果、一部の関係者(枝葉)が罰せられただけで、皆円満解決。
対馬藩は、朝鮮との良好な関係を続けることが出来、朝鮮側の面子も傷つけることなく、朝鮮使として幕府にも使者が来日することにも成功。他大名も幕府の威厳が保たれたことに満足。これも、大権現家康の意向だったのかもしれない。
なお、対馬の地質は、大部分が新生代古第三紀に形成された泥質の堆積層で、「対州層」と呼ばれ、北の一部には新第三紀層もみられる。対州層は、主として黒灰色の頁岩や粘板岩から成り、これに砂岩が混じる場合が多く、ところどころに石英斑岩やはんれい岩、花崗岩が貫入する。上島北部の御岳周辺には玄武岩、下島東部に石英斑岩、下島中央部の内山盆地周辺に花崗岩、それを囲む矢立山系には硬いホルンフェルスがそれぞれ分布している。更新世の中頃までは、日本列島と大陸は陸続きであったが、その終末期に海進によって九州と朝鮮半島の間が離れ、対馬は壱岐とともに地塁島(飛び石のようになった島)として取り残されたらしい。日本海の歴史が刻まれているようだ。
対馬へ行くには、福岡経由が便利らしい。フェリー、高速船、飛行機の3つのルートでアクセスできる。飛行機ではなんと30分で対馬へ!飛行機は長崎からも出ているらしい。釜山経由で対馬入り!なんて裏ルートもあるそうだ。
【魏志倭人伝】
対馬については、中国の「魏志倭人伝」にもきちんと出てくる。邪馬台国の所在地は未だに議論が絶えないが、対馬については誰が見ても今の対馬だ。ここには当時政権があって、半島と日本との間を貿易を持って行き来していたようだ。
下の文は、司馬遼太郎氏の「街道を行く」から引用した。
始めて一海を度(わた)る千余里。対馬国に至る。その大官を卑狗(ひく)と曰(い)ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所、絶島。方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径のごとし。千余戸あり。良田無く、海物を食(くら)つて自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。
**「糴」の字は、「テキ」と読み、「米を買い入れる」ということから 「交易」を意味するという。
弥生の末期北部九州諸国に独占されていた鉄器の集積が、山陰日本海沿岸諸国(麦木晩田 青 谷上寺地 丹後 北陸)から畿内へと広がってくる時代である。 昨今の纏向遺跡の発掘などによって 邪馬台国大和説が大きくクローズアップされ、「古代国家形成に至る黎明 邪馬台 国・魏志倭人伝の時代 卑弥呼の邪馬台国連合を結びつけていたのは朝鮮半島の鉄の流通路を安定確保する支配力」として 朝鮮半島と日本列島を結ぶ和鉄(てつ)の道が大きく注目されるようになった。
朝鮮半島側は、気候の寒冷化か何かで、食料が不足し、倭国側は米を売って、その見返りに鉄を輸入したのではないかと想定される。となれば対馬と壱岐はその重要な拠点であった可能性はある。
【魏志倭人伝】
「(朝鮮半島から)始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の小径(こみち)の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。」
(断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島と日本本土を往来して交易を行っている)
倭人伝の頃の対馬の中心地についてはまだ特定されていませんが、遺跡・出土品などの状況から、上県町佐護(かみあがたまちさご)地域、峰町三根(みねまちみね)地域、豊玉町仁位(とよたままちにい)地域、美津島町鶏知(みつしままちけち)地域などに、交易を行い、墳墓を築いた実力者が存在していたと考えられています。
特に、2000年に峰町の山辺(やんべ)遺跡で弥生時代の集落跡が確認され、対馬国の中心地として有力視されています。
【追記】
原子力発電で出る高レベル放射性廃棄物、いわゆる「核のごみ」の処分地選定をめぐって、第1段階にあたる「文献調査」を受け入れるかどうか議論が続いている長崎県対馬市の比田勝尚喜市長は、27日、市議会で、調査を受け入れない意向を表明しました。(2023年9月27日 NHK)
「核のごみ」は最終処分場を設けて地下300メートルより深くに埋めることが法律で定められていて、処分地の選定に向けては3段階で調査を行うことになっています。このうち第1段階にあたる「文献調査」の受け入れをめぐって対馬市議会は今月12日、賛成派の団体が出していた受け入れの促進を求める請願を10対8の賛成多数で採択しました。
そもそもこんな施設の必要性すら全く議論されていない。一旦文献調査を受け入れれば、最終的には処分地としての認定を受け入れざるを得なくなることは目に見えている。日本が将来原子力発電の全廃を目指すならこんな施設は全く不必要だ。それまでに排出される核のゴミは北欧の丈夫な岩盤に立地した国が処分を引受けてくれる。将来日本が核兵器保有国になりたい意図が丸見えだ。
日本を知ろう
せんだんご
長崎 対馬 せんだんご(NHK: 初回放送日:2024年5月26日)
作るのに千の手間がかかるから「せんだんご」。サツマイモが原料ですが、似ても似つかない姿に変身。4か月かかるという大変な製造過程!
対馬にしかない発酵食「せんだんご」。サツマイモを砕いて発酵させて丸めてカビを生やしてでんぷんを取り出してさらに丸めて乾燥させて・・・と果てしない手間がかかる。傷みやすいサツマイモを保存食にする対馬の人々の知恵、世界的にも珍しい食べ方のようだ。4か月かかる過程の最後に参加した小雪さんもその大変さにびっくり。さらにその「せんだんご」、モッチモチの麺「ろくべえ」になるんです!
確かに文化財としても貴重だ。最終形は乾燥した団子状のものだけど、麺としても利用できる。保存食なので普及させて日本国民(世界)誰でも食べられるものにもなりそうですね。でも、製造に手間がかかるので技術の伝承が心配される。
平地が少なく土地が痩せている対馬では、穀物の大規模な栽培が難しく、島の人々はたびたび食糧難に悩まされていました。そのような状況を打破するため、江戸時代の対馬にもたらされた救世主、それが痩せた土地でも手間いらずで沢山育つサツマイモでした。しかし、そうはいってもここまで手間のかかる食文化を育ててきたことは並大抵の努力でない。人々の暮らしを助けたサツマイモは、「農民に孝行する芋」であることから「孝行芋」と呼ばれるようになったそうな。
そして、大切な食糧源である孝行芋を一年を通して保存、活用できるように、対馬のお母さんたちは様々な加工の知恵を生みだし、子どもたち、孫たちへとその技を伝えてきたのだそうだ。
日本を知ろう
壱岐島
壱岐島(いきのしま)は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島。九州と対馬の中間に位置する。『古事記』では「伊伎島(いきのしま)」とされ、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)という。
周囲には23の属島(有人島4・無人島19)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。
島内は、農業集落と漁業集落に大きく分けられる。農業集落は「在」(ざい)と呼ばれ、散村の形態をとるのに対し、漁業集落は「浦」(うら)と呼ばれ、集村の形態をとる。そして、それぞれ農村集落には「触」(ふれ)、漁業集落には「浦」が地名の末尾に付く。「触」の語源には、江戸時代の村方三役のうち扨頭(さすがしら)が藩命を触れ回った範囲の呼称に由来するとする説と、朝鮮語のプル(村の意)に由来するとする説がある。
島の大部分は玄武岩に覆われた溶岩台地で、高低差が小さい。暖流の対馬海流が対馬海峡を流れる影響もあり、気候は比較的温暖。また、平坦な地形は田畑として利用されやすく、古来より自然環境への人的な影響が強かった。照葉樹林は島の各地に残るが、大規模な原始林は無い。
なお、春先に吹く強い南風のことで、今では気象用語となっている「春一番」の発祥の地は壱岐である。江戸時代の幕末期の1859年(安政6年)に「春一番」と呼ばれていた季節性の強い南風により地元の漁師が大勢遭難した海難事故をきっかけに広まったもので、1987年(昭和62年)には、郷ノ浦港入口の元居公園に船の帆をイメージした「春一番の塔」が建立された。
歴史
対馬とともに、古くから朝鮮半島と九州を結ぶ海上交通の中継点。なお、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』(해동 제국기)にも、壱岐島や対馬島についての記事がみられる。
縄文時代の遺跡としては、後期と推定される郷ノ浦町片原触吉ヶ崎遺跡がある。弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと思われる。中でも河川流域に遺跡が濃密に分布している。下流域の原の辻やミヤクリ、上流域の柳田田原地域の物部、戸田遺跡などは、その域内も広く遺物も豊富である。
弥生時代
中国の史書である『三国志』魏書の魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』においては、邪馬台国の支配のもと、「一大國」が存在したと記されている。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國が存在したと記されている。1993年12月に長崎県教育委員会が島内にある原の辻遺跡を一支国の中心集落と発表し、話題となった。魏書の魏書東夷伝倭人条では「有三千許家(三千ばかりの家有り)」とあり、1家5人と仮定しても当時すでに15,000人もの人口が存在していたこととなり、当時の日本の中では人口が多い地域だった(2012年12月1日時点での壱岐市の推計人口は、28,290人である)。
壱岐の島が歴史上重要なのは、ここが弥生時代に朝鮮半島との鉄の交流を行った中継地点と想定されるからだ。
**一支国
一支国(いきこく、いきのくに、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。『魏志倭人伝』では「一大國」とされるが、他の史書(魏略逸文、梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされている。一方誤記ではないとする説もある。
1993年、長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。
**原の辻遺跡(はるのつじいせき)
は弥生時代の環濠集落で、『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡です。この原の辻遺跡は“遺跡の国宝”にあたる国の特別史跡に指定されています。日本で弥生時代の遺跡として特別史跡に指定されているのは、この他、登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の2箇所だけです。
これまでの発掘調査で、日本最古の船着き場の跡や当時の「一支国」が交易と交流によって栄えていたことを示す住居跡などが確認されています。遺跡からは交易によってもたらされた様々な地域の土器や中国の貨幣や三翼鏃(さんよくぞく)をはじめ、日本唯一の人面石やココヤシで作った笛等が発見されています。
古墳時代
河川の流域や島の中部、各地に横穴式石室墳群が分布している。前方後円墳は、長崎県内最大の勝本町百合畑触の双六古墳をはじめとして数基が存在する。後期(6世紀)になると、島の中央部に鬼の窟古墳・笹塚古墳などの巨石石室墳が築造される。鬼の窟古墳の近くには島分寺があり、壱岐直の住居を寺としたとの伝承がある。これらの巨石石室墳を、壱岐直の墓との推定も可能である。郷ノ浦町鬼屋久保古墳の横穴式石室の奥壁には、線刻で帆船とクジラと認められる画が描かれており、これは回遊するクジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いたと考えられる。
律令制
令制国としては、壱岐国となった。『和名抄』には壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられる。原方と山方に相当する。壱岐値は壱岐県主で、中央に出仕した伊吉連や雪連は一族であると考えられる。平安時代の1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司・藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。 なお、長田忠致が源義朝を討った恩賞に壱岐守として赴任、湯岳に覩城を築く。
中世
中世には大宰府権能の消滅に伴い松浦党倭寇の勢力下に置かれる。鎌倉時代中期、モンゴル帝国(大元ウルス)とその属国・高麗により二度にわたり侵攻を受ける。一度目の文永の役の際には、壱岐守護代・平景隆ら百余騎が応戦するが、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、島民が虐殺を受けるなど大きな被害を受けた。
続く弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。
1472年(文明4年)、岸岳城主波多泰が壱岐に進攻、倭寇勢力を排除し勢力家に置く(なお波多氏も松浦党一派の出自)。波多興(おき)の代、周辺豪族の有馬氏、松浦氏ほかと姻戚の誼を結ぶ。後代の16世紀半ば(年代諸説あり)、波多盛(さこう)の死後、本家岸岳城でお家騒動が勃発。家老日高資と盛の後室・真芳(一説に有馬義貞娘)との抗争である。真芳方は盛の娘の嫁ぎ先である有馬義貞との子、藤堂丸を推し、壱岐島の代官らと通じて盛の弟ら(当時島に居た波多隆、重)を次々と誅戮、藤堂丸(波多親)を16代当主に据える(1556年、弘治2年)。
真芳方がさらに資をも毒殺すると、資の子、日高喜に攻められ岸岳城を奪われる。真芳らは大村の草野氏を頼り落ち延びる。喜は島を支配していた代官らを攻め滅ぼし、城主に盛の弟波多政を据えた(1565年、永禄8年)。その後真芳らは龍造寺氏や有馬氏を支援を得て反攻に出る。喜は松浦隆信に支援を求めるが破れ、壱岐島に逃れたのち政を誅戮し自ら城代となる(1569年、永禄12年)。岸岳城を奪還した波多親は島を攻めるが、喜が領地と引替に支援を求めた隆信との連合軍に敗退した。結果、島は喜の娘を嫁がせた隆信の子信実が城代として治める事となった。
江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。
近現代
1871年(明治4年)廃藩置県の際には平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部となった。島内にあった2つの郡は1896年の郡区町村編制法で統合され、壱岐郡1郡となった。自治体としては、1889年(明治22年)の町村制度施行当初は壱岐郡に7村、石田郡に5村の計12村が発足したが、町制施行や合併を繰り返し、昭和の大合併を経て1970年(昭和45年)までに郷ノ浦町・勝本町・芦辺町・石田町の4町に再編された。2004年3月1日、平成の大合併によりこれら4町が合併して市制が施行され、壱岐市が誕生した。
特産品としては焼酎が有名である。麦焼酎発祥の地で、世界貿易機関から壱岐焼酎として保護産地指定を受けている。肉用牛も壱岐牛として特産品化している。また、海産物の特産品も多い。
レオタードを着ての漁
壱岐島の東部・八幡(やはた)地区では、今も海女が古(いにしえ)の海人族からの伝統の潜水漁を営んでいるが、ウェットスーツではなく、レオタードを着て海に潜っている。これは、八幡では昔から乱獲を防ぐため、ウェットスーツの着用を禁止しているからである。伝統漁の「海女」と「レオタード」を組み合わせて「レオタード漁」と呼ばれることがある。八幡の海女の仕事は5月1日から9月末までとなっている。
観光
島は、温泉、ホテル、ビーチ、ゴルフ場、キャンプ場がある観光地として宣伝されています。 島の北海岸にはイルカ水族館があります。
【魏志倭人伝-一支国(いきこく、いきのくに、一支國)】
一支国(いきこく、いきのくに、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。『魏志倭人伝』では「一大國」とされるが、他の史書(魏略逸文、梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬国から末廬国の道程に存在することから、『魏志倭人伝』は誤記ではないかとされている。一方誤記ではないとする説もある。
1993年、長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。
日本を知ろう
軍艦島
端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧西彼杵郡高島町)にある。明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、1960年代には東京以上の人口密度を。しかし、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られる。「羽島」とも。日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅がある。
2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録された。
ICOMOS: 国際記念物遺跡会議は、世界の歴史的な記念物および遺跡の保存に関わる専門家の国際的な非政府組織で、ユネスコのヴェネツィア憲章に基づき設置された記念物および遺跡の保護に関するユネスコの諮問機関。 1965年設立。『記念物および遺跡の保存修復憲章』によって設立される。
長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートル。長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。
端島は、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬であった。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張。その大きさは南北に約480メートル、南北に細長く、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。
端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されいる。
歴史
第一期・原始的採炭期(1810~1889年)
端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている。
端島(軍艦島)の埋立の歴史
このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで台風による被害のために廃業に。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑。
第二期・納屋制度期(1890~1914年)
1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長(1897年)。この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年。1935年に廃止)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。
1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていた。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった。納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通り。端島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となった。
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三菱端島労働状況(1907(M40)3~8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37~S39
1.坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。
2.坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。
3.会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。
4.坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。
第三期・産業報国期(1914~1945年)
納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んだ。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建て。
RC造の30号棟が完成した1916年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止されたが、1930年の直営合宿所の完成以降には、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941年にはついに端島から納屋制度が全廃される。しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も、劣悪であったといわれる。例えば1916年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかった。一方で、後に建設された坑外夫向けの16号 - 20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りで、端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化されていた。
昭和初期の端島
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。それを支える労働者のための福利厚生も急速に整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、相当なレベルに整備される。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉がある。
1916年(大正5年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始。1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという。戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の華人労務者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定。
戦時中の1941年から始まった「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭(端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2,062トンを出炭した。この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年 - 1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる。死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3,333人なので、住人の40%近くが死んでいる計算になる。
1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話に。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没する。1945年(昭和20年)に完成した65号棟(報国寮)北棟の防空用偽装塗装にこの時期の記憶が残る。
第四期・復興・近代化期(1945~1964年)
労働者に給与として「日本円」の代わりに支払われた、端島の「炭鉱札」(1961年発行)(福岡大学図書館所蔵)。現金を支払わないことで、会社の運転資金の節約と、労働者の移動(「島抜け」「ケツワリ」「ヤマカエ」)を制約する役割がある[37]。1916年施行の工場法で禁止されたが、現実には1960年代まで行われた
終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減するが(なお、1945年当時の端島の人口データは、終戦の混乱期ということもあり、国勢調査のデータで1,656人、高島町端島支所のデータで4,022人と大きな乖離があり、あまりあてにならない)、1945年10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給、さらに1948年にGHQによって輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加する。同時に住宅不足が深刻化する。
この時期には設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われた。1946年には端島炭鉱労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えた。賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えた。遊び場にブランコも設置され、住みやすくなった。特に1955年の海底水道開通で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善した。島内には3つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別があったが、これも労働組合結成直後に起こった差別撤廃闘争で解消するなど、戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていった。
しかし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の坑員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う区分は労働組合に黙認された。住宅規模は住人の家族数にはあまり考慮が払われておらず、勤続年数や職階など住人のランクに応じたものがあてがわれており、住宅に関しては歴然とした階級社会であった。海が荒れると潮が建物を乗り越えて上から降る「塩降街」の狭い坑員合宿で単身坑夫らが共同生活をしている一方で、砿長の自宅(5号棟)は波のかからない高台の一軒家にあり、全ての一般坑員が3つの浴場を共同で利用している一方で、砿長の自宅には個人用の風呂があった(1952年当時の端島における風呂の数は、一般坑員・職員向けの共同風呂が3か所、上級職員・来客向けのクラブハウス(7号棟)の風呂、砿長の自宅の風呂、計5か所)。
また、会社の立場からは、稼働率の低さ、労働者の流動性の高さ、出炭量の低さが問題となった。労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、戦時中と比べて人口が急激に増加したにもかかわらず、石炭の生産量は大きくダウンした。「食ったり遊んだりする分しか働かない単身者ではなく、家族持ちを多く採用する」「掛売制の採用(商品の代金を後払いとすることで、代金を払いきるまで半永久的に島外に出られなくする、納屋制度期の手法)」「設備の機械化による合理化」などの対策が提案されたが、労働組合との関係もあり、この時期はあまりうまくいかなかった。
人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口があり、人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した。炭鉱施設・住宅のほか、高浜村役場端島支所(1947年 - 1955年)→高島町端島支所(1955年 - )・小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。
第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小。これ以降人口が急速に減少する。しかし端島炭坑は1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時期に持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となった。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善した。この時期の端島の住民にアンケート調査を行った長崎造船大学の片寄俊秀によると、住民の充足度も高く、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「シビル・ミニマムの完全充足期」と評される。
しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1970年に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表。その後数百万トンの石炭を残したまま1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、4月20日の連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の片寄俊秀、阿久井喜孝、片寄の友達である作家の小松左京らの離島をもって、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた。
片寄俊秀は、「職住近接」、「シビル・ミニマム充足」、「住宅問題解消」の3つの実現をもって、この時期の端島を「理想郷」とも評しているが、最終的に鉱山は閉山となり、少しの退職金を手に全国に散らばった老齢の元坑員の再就職の苦労という現実も取材していることから、「端島において外見的に実現していた『理想郷』そのものが、真に人間が要求するものではなかったことを証明しているのではないか」と、一方でやや批判的な見方もしている。いずれにせよ、同時期の殺伐とした本土とは全くかけ離れた社会であるこの時期の端島も、日本の一部であり、日本の一つの尺度とみている。
閉山前より西山夘三や、片寄俊秀をはじめとする西山研究室の人々によって、主に「住まい」の方面からの調査が行われていたが、島全体が三菱の私有地であり部外者に対しては「外勤」と呼ばれる監視が付くのはともかく、調査を行う西山研究室の人々の後を総務課のN氏が密かに付けているなど、会社に常に監視されており、調査は限定的にならざるを得なかった。
また、住人らは戦時中の「闇」の部分を語ろうとはしなかった。長崎造船大学の教授として、京大の西山夘三に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げた片寄は、軍艦島の充足した生活と言う「光」の部分だけでなく、戦時中の「圧制ヤマ」と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった「闇」の部分も明らかにし、論文『軍艦島の生活環境』(1974年)としてまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会、1974年5月号-7月号)に掲載された(この論文は西山研究室の研究の一環とみなされ、 西山の撮影した閉山前の写真・西山の論文とともに『軍艦島の生活<1952/1970>:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』としてまとめられている)。しかし、「これ以上暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい」と言う元住民のまなざしと板挟みとなり、片寄は研究を中断するに至る。
閉山後より阿久井喜孝の調査によって、建築の方面からも光が当てられた(端島の建築には鉱山の技術が使われていることが明らかにされた)。また、高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、林えいだいの調査によって、端島炭坑の「闇」の部分にも光が当てられるようになった。戦時中の端島の朝鮮人坑夫の足取りに関しては、1992年に『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』としてまとめられた。奴隷労働があったとする片寄は、この調査に対して「その努力を決して無駄にしてはならないと思う」としている。
2000年代より、近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る。無人化以来、建物の崩壊が進んでいる。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。
島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡された。所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承された。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された。島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止)。解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸。その後も、半年間で34,445人、1年間で59,000人、3年間で275,000人と好調。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる。軍艦島上陸ツアーによる経済波及効果は65億円に上ると推定されている。
一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり、2009年(平成21年)1月に記載された。 2014年10月6日に軍艦島は国史跡として文化財指定された。これで軍艦島が世界遺産登録へ向けて、非稼働遺産に必要な要件である国の文化的価値づけが明確に。しかし、2015年3月31日に韓国政府が端島の世界遺産登録に反対を表明。朴槿恵元大統領、尹炳世外交部長官が陣頭指揮を執り、ユネスコ、国際記念物遺跡会議、世界遺産委員国などに端島を世界遺産登録として認めないように外交活動を行っており、日韓の外交問題となっている。
長崎大学インフラ長寿命化センターは2009年度より軍艦島の3Dによる記録・保存管理に取り組んでおり、2014年には長崎市の委託を受けて、3Dレーザースキャナ・全方位カメラ・無人航空機 (ドローン)、水中ソナーなどを用いて、全島の3次元データでの記録化を行った。
端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている。7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパート(ただし1916年の竣工時は4階建て)。
30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である。なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためであり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった。
高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。
どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず(1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。トイレも多くが落下式であったが、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。炊事場は閉山まで共同のところが多かった。
岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)建てられもの。灯台は、1998年12月17日に強化プラスチック製の「2代目」に建て替えられた。
木造や鉄骨造で建設された建物は、元から荒波に晒され続けた(酷い時には島全体を波が覆う事すらあった)上に、風雨のほか、防水技術の問題[78]や無人化によって維持管理がなされなくなったことから急速に劣化。1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものが多い。なお、潮害対策として、建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった。鉄筋コンクリート造の場合も、その技術が未熟な時期のものも多く、配筋の問題のほか、建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり劣化が進んでいる。56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は、その設計に不備があったため亀裂が入り、鉄パイプの支柱で補強されていたが、閉山後その支柱も消失し、キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる。70号棟(小中学校校舎)は波で土台の土が浚われ基礎杭が剥き出しになっている。30号棟を筆頭に古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊される事無く手付かずのまま放棄されているため、建築工学の観点からも経年劣化などの貴重な資料として注目されている。
日本を知ろう
竹島・独島
竹島は、日本海の南西部韓国の鬱稜島と日本の隠岐の間に位置する島嶼群で、急峻な地形をなす2つの島と周辺の岩礁からなる。日本、韓国および北朝鮮がそれぞれ領有権を主張している国際紛争の場。以前は人の住めない無人島であったが、現在は韓国の武装警察が常駐し実効支配を強化している。日本側としては島根県の一部だ。
第二次世界大戦後、日本の領域は1952年発効のサンフランシスコ平和条約より定められた。これに先立ち、同条約の発効によってマッカーサー・ラインが無効化されることを見越した韓国の李承晩大統領は李承晩ラインを一方的に設定し、竹島を韓国領として韓国側水域に含めた。その後、1965年に締結された日韓基本条約で李承晩ラインは廃止されるが、現在に至るまで韓国は竹島の実効支配を継続している。日本側は毎年韓国に「不法な支配である」との口上書を提出し、また国際司法裁判所での司法解決の提案をしているが、韓国側はこれを拒否している。
まあ、双方言い分があり、話し合いでは解決できそうもない。だからと言ってお互いに国民感情から言って安易に妥協していいものではない。だから取って武力衝突まで犯して取りあげようとするのも大人げない。地政学的には両国の中間に位置し軍事的には要所かもしれない。つまり、排他的経済水域の問題はある。話し合いで解決できる問題ではない。実効支配の現状を変えるには軍事侵攻する以外にはなさそうだ。
軍事的利用さえされなければ、お互い協力して観光地にでも仕立て上げられないものかね。でもあまりにも小さな島なので経済的な開発は無理でしょう。
日本を知ろう
秩父と花火
【高校生が古来の方法で火薬づくり授業】
秩父夜祭や龍勢祭など、埼玉県秩父地方で古くから伝わる各種祭りで打ち上げられる花火やロケットに使われる黒色火薬。この原料製造を再現する県立熊谷西高校の課外授業が12日、長瀞町であった。理数科などの1年生約10人が興味深そうに材料を抽出する作業を続けた。
火薬はなぜ生まれたか、なぜ秩父地方で盛んにつくられたかを探るのが目的で、同地方での火薬づくりを研究している日本薬科大学(伊奈町)の野沢直美・客員教授の自宅庭で授業を進めた。同高校の教諭柿沼孝司さんが指導に。
野沢さんの研究によると、秩父地方は江戸幕府からの要請もあり、さらには祭りには必ず花火が奉納されており、火薬づくりが盛んだった。黒色火薬は硝石(硝酸カリウム)に硫黄、木炭を調合して作るが、日本に硝石の鉱脈はなく、民家の床下の土地から硝石を作る「古土法」という方法が考案され、戦国時代に全国に広まった。
今回の授業では、計3軒の床下から採取した土を高校生が分担してそれぞれ水で溶かし、抽出し、灰を加えて、これを煮詰めていった。煮詰めたものを乾燥させれば、数日後には硝石の結晶が完成する。これとは別に火薬の材料である木炭を溶かした濃縮液も作った。この日の授業はここまでで、後の高校授業で、火薬づくりを終える。
野沢さんは「この作製方法がどこから生まれてきたかは全く分かりません。大陸からなのか、それとも国内で発明されたのか。1軒の床下から土を取ると、次に取れるまで15~20年間が必要なので、かなり広範囲で火薬づくりが続けられたはずです」と説明する。
参加した1年生の島崎虹朱さん(16)は、自宅の床下から土1キロを提供した1人。「初めての経験で楽しい。勉強になります」と話した。(原裕司)(以上朝日新聞)
日本の歴史でも、鉄砲の伝来が歴史を変えたとなっているが、鉄砲といえども火薬が無ければ単なる金属の棒筒。何の役にも立たない。当然各戦国大名達も火薬確保に血眼(ちなまこ)になっていたはず。でも何故か、この辺の事情が歴史本をめくってみても今一つ良くまとめられたものは見当たらない。因みに、「血眼」は海の生物「海鼠(ナマコ)」とは全く関係が無い。
黒色火薬は硝石(硝酸カリウム; KNO3)に硫黄、木炭を調合して作る。硫黄、木炭は日本各地どこにでも手に入れられる。問題は硝酸カリウム(KNO3)を如何にして入手するかだ。
窒素(N)と言うものは、大気成分の4/5を占めるほどありふれた元素。しかし、水素や炭素と異なってこれを利用すること、なかなか難題な代物らしい。
どうも、昔の人は人間や動物の排泄物から微生物の力を利用して硝酸カリウムを合成することが一般的だったようだ。家の床下から土というが、普通の土ではだめだろう。多分トイレの糞尿の成分を吸収した土であろうと推察できる。
飛騨の白川郷もやはり、硝石生産のための大規模集合家族だったらしい。秩父地方は、花火やロケット等の生産もしていたのでより大規模な火薬の生産基地だったんだろう。高校生に限らず研究テーマとしてはとても面白い。
【秩父神社の例祭に関する言い伝】
秩父神社の例祭は、知知夫国に知知夫彦が大神を祭ったとされる時代か、それ以前から神奈備山である武甲山への信仰として行われてきたものが起源ではないかと言われる。真夜中に神社と武甲山の間にある御旅所で神事を執り行うというのが最大の特徴である(斎場祭が行われるのは夜の10時以降であり、神幸行列が神社にもどると朝の4時をすぎる)。
秩父神社は地理的に見ても神奈備山である武甲山からみて北面に位置し、秩父神社の本殿は再建前も現在も真北を向いているとされ北辰信仰の影響があるのは明白である。北辰信仰がいつごろから行われてきたのかは定かではないが、妙見菩薩習合以前からの信仰と指摘する人もいる。
**北辰信仰
妙見菩薩は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる。確かに、北極星は北天に留まっておりその周りを色々な星が回るので信仰の対象になったのであろうことは納得できる。
妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもの。「菩薩」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」(梵語:bodhisattva)の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されているとのこと。
道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられている。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということ。妙見信仰は中国の南北朝時代には既にあったと考えられている。
我北辰菩薩名曰妙見。今欲說神呪擁護諸國土。所作甚奇特故名曰妙見。處於閻浮提。眾星中最勝。神仙中之仙。菩薩之大將。光目諸菩薩。曠濟諸群生。
(我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見と曰ふ。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す。所作甚だ奇特なり、故に名づけて妙見と曰ふ。閻浮提に処し、衆星中の最勝、神仙中の仙、菩薩の大将、諸菩薩の光目たり。広く諸群生を済ふ。)— 七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経 第二巻
唐代に入ると妙見信仰が大きく発展し、妙見関連の経典や行法は流布していた。円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』から、当時の中国では妙見信仰が盛んであったことが窺える。
妙見信仰が日本へ伝わったのは7世紀(飛鳥時代)のことで、高句麗・百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられる。当初は渡来人の多い関西以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本にも広まった。
日本を知ろう
金閣寺
鹿苑寺(ろくおんじ)は、建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)と舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。
義満の北山山荘をその死後に寺としたもの。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し(三島由紀夫氏の小説「金閣寺」参照)、1955年(昭和30年)に再建された。1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録される。
応永4年(1397年)、室町幕府第3代将軍足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。
足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。銀閣(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて「京の三閣」と呼ばれる。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年(明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
この金閣寺は、何のために造られたか? どうも対明朝貢貿易の使者を迎え入れるためだたらしい。対明貿易は相当に利益のあるものだったようだ。対明貿易を独占した足利義満は巨額の資金力を手に入れたのだろうか。
日本を知ろう
勅使河原
実は、この名はゴルフの時のキャディさんの姓。京都の公家さんの姓だと思っていたが、何とルーツは埼玉県だった。勅使河原(てしがわら)は、埼玉県児玉郡上里町(地図赤塗部)の大字。郵便番号は369-0311。日本人の姓の一つとしての勅使河原もこの地名が発祥である。そういえば彼女は結婚し旦那の姓が勅使河原だ。地理上里町西部に位置する。神流川が流れる。地区内には鉄道は敷設されているが駅は無く、高崎線神保原駅が最寄り駅となっているらしい。
有名人が多いと思ったら、生け花の草月流がそうか。他陶芸家なんかもおられるらしい。
**草月流:いけばなの流派。1927年に初代家元勅使河原蒼風によって創流された。自由で前衛的な作風を特徴とする。
勅使河原氏(てしがわらうじ)
鎌倉時代から室町時代初期に活動した武士の家系。武蔵七党のうち丹(たん)党に属す。本貫地は武蔵国賀美(かみ)郡勅旨河原(てしがわら)(埼玉県児玉郡上里町)。祖は秩父基房(ちちぶもとふさ)の子直時(なおとき)という。1184年(元暦1)直時の孫有直(ありなお)は鎌倉方として木曽義仲と合戦、89年(文治5)奥州藤原氏追討にも従軍した。有直の子則直(のりなお)もまた御家人として活動。1221年(承久3)の承久の乱に一族を率い、幕府方として参戦。子孫は南北朝期後醍醐天皇の都落ちに従い南朝方となり、1352年(文和1)武蔵野合戦でも宗良(むねなが)親王のもとに参陣している。所領を没収されたらしく、「勅使河原跡」が岩田氏などに与えられている。
**武蔵七党:
七党を構成する氏族は文献によって異なる。整理すると横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党(西野党)(日野市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』にはないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられている。
日本を知ろう
羽生市(はにゅう市)
埼玉県の北東部に位置する市。人口は約5万4千人。江戸時代末期以降、青縞(あおじま)の生産が行われ、現在も衣料の町でもある。旧武蔵国埼玉郡(のちの埼玉県北埼玉郡)。
たまたま新聞で、この地が田山花袋と縁があるらしいと知った。
羽生市は埼玉県の北東に位置し、北部には利根川が流れる。市域は概ね平坦だが、加須低地北部の沖積台地に当たり、標高は17メートル前後と比較的高い。当市は、葛西用水路と中川の起点。群馬県と隣接するほか、茨城県と栃木県にも近い。東武伊勢崎線が南北に縦断し、秩父鉄道は羽生駅を起点に熊谷市を通って秩父市方面へと伸びる。また、東北自動車道が東部を縦断する。岩瀬地区には、大型商業施設を中核とした愛藍タウンがある。
羽生と言えば将棋の羽生さん。こちらは「ハブ」と読む。アイススケートの達人羽生弓弦さんのほうは「ハニュウ」。羽二重餅は福井県の和菓子。福井県では羽二重織も有名。こちらは羽二重=「ハブタエ」で全く漢字が異なる。
ところで、田山花袋と言う小説家、高校国語の文学史に出ていたぐらいしか記憶にはないが、田舎教師(1909年)というタイトルがチョット気になった。
- 「林清三は、利根川べりの三田ヶ谷村(現羽生市)の小学校教師。中学卒業までは希望をもって生活してきたが、卒業後は月給11円の田舎教師にならざるを得なかった。東京から下宿先の寺に親友の文学者が2人やって来て、酒に酔って文学談義をすることもあれば、一高に行った友人から葉書が来ることもあり、たまには教師仲間で料理屋の酒の味もおぼえる。夏休みには熊谷の親友の妹が学校から帰ってきたのを訪ねてその美貌に心を焦す。やるせない寂しさを癒やそうと利根川べりの妓楼にも行くようにさえなる。東京に高校の試験を受けに行くが、だめで、借金がふえ、健康もますますわるくなり、もうすでに病魔におかされていた。学校を休んで郷里の家で養生していて、遼陽半島占領をいわう提灯行列の日、貧困のなか死亡する。」
田山花袋氏は自然主義文学のリーダ格として文壇でも活躍されていたようだ。上の主人公の様な人生良くある話だ。で、彼の人生は不幸だったのか? 結構自由奔放な豊かな人生だったとも言えそうだ。1900年代の日本なら旧制中学校を卒業すれば、立身出世してある程度の名を成すことが人生の目標か?でも、主人公主実在の人物。だから羽生市は脚光を浴びているんだ。No.1でなくてもいい。Only oneでいいね。かなり早い時代に先取りしたような内容かも? 田山氏自身主人公の生きざまに何らかの共感を持っているようだ。読んだこと無いけど!→読んで見るつもりだけど。
以下は羽生市のHPから。
【小説『田舎教師』】
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」で始まる小説『田舎教師』。この作品は、実在の人物小林秀三が書き残した日記をもとに田山花袋が丹念な取材を行って書き上げた小説で、登場人物はほぼ実在した人々です。明治30年代の羽生の自然や風物、人間模様が生き生きと描かれており、主人公林清三を中心にした小説として、また、明治期の郷土羽生の風景や人々を現代に伝える郷土資料と言えます。小説から当時の面影を偲ぶことができます。
【建福寺(小説では成願寺)】
田舎教師のモデル小林秀三は、建福寺に下宿し、死後ここの墓地に葬られました。作者田山花袋は、当時の住職太田玉茗の義弟にあたります。玉茗は新体詩を唱えた一人で、日本の近代詩史に名を残した詩人でもあります。作中、玉茗は山形古城、花袋は原杏花の名で登場します。大銀杏がそびえる寺内には、田舎教師ゆかりの旧跡が残されています。
【田舎教師巡礼記念句碑】
昭和13年、新感覚派の作家、川端康成、片岡鉄兵、横光利一の3人は、「田舎教師遺跡巡礼の旅」として、熊谷、行田、羽生を訪ね、羽生では「田舎教師巡礼記念」と題して連名の句を宿の扇に書き記しました。
「山門に木瓜吹きあるる羽生かな」
古刹の春にふさわしい、木瓜の花が咲き乱れる建福寺の情景を詠んだ句で、碑は扇面の文字をそのまま拡大したものです。
**注)木瓜とはどうもボケの花のようだ。胡瓜(キュウリ)の可能性も否定はできないが。赤いボケの花の方が絵画的には美しいね。
【弥勒高等小学校跡】
「新しい先生は、何となく困ったような恥ずかしそうな様子に生徒には見えた」
明治34年に小林秀三は、三田ヶ谷、村君、井泉3か村組合立の弥勒高等小学校に赴任しました。内心に愁いを抱えながらも、真面目な秀三は、生徒にたいへん慕われる教師でした。
教えを受けた大越もん女史(作中:田原ひで子)の当時の作文帳には情熱を傾けて添削批評を加えた朱筆が残っています。また、教え子の小林三季は、のちに画家として活躍しました。
『田舎教師』が羽生の人に愛されてきたのは、小説もさることながら、実在した「小林秀三先生」のやさしい人柄にもあるのではないでしょか。弥勒高等小学校跡の文学碑もまた、秀三を慕う人々の建碑です。
【田山花袋の羽生ゆかりの小説】
田山花袋は群馬県館林市の生まれですが、花袋の妻・里さが、建福寺第23世住職・太田玉茗の妹であったことから、花袋は時々玉茗を訪ねては建福寺にしばらく滞在していました。そこで原稿や手紙を書いたり、寺の周りを散策していたことから、羽生ゆかりの作品が多いことで知られています。その一部を紹介します。
『春潮』(新声社)、『妻』・『縁』(今古堂書店)
『白い鳥』・『再び草の野 に』(春陽堂)
「幼きもの」・「籾がら」(『早稲田文学』所収)
「風雨の夜」・「小さな廃墟」・「Mの葬式」(『中央公論』所収)
「おし灸」・「ボールドに書いた字」(『文章世界』所収)
「騎兵士官」(新世紀)ほか
・・・『 』は単行本、 「 」は雑誌など
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東映太秦映画村
東映太秦映画村:
京都市右京区太秦東蜂岡町にある映画のテーマパーク。日本に於けるテーマパークの先駆けといわれる。東映京都撮影所の一部を分離し、巨大映画アミューズメント施設として一般公開した。
何故、今注目。NHK朝ドラの舞台となっているからだ。元々、ここが時代劇の撮影現場。日光江戸村の方は、映画とは関係がないのだろうか。
テーマパークは、その後随分できた。ハウステンボス(オランダ村、佐賀県)、志摩スペイン村(三重県)、柏崎トルコ文化村(新潟県→入場者激減で閉鎖)、新潟ロシア村(→閉園)、デスニーランドやユニバーサル・スタジオもテーマパークだね。これらに比べて東映太秦映画村は息が長い。造り物ではない本物志向が成功の鍵だろう。
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難波田城
難波田城:
埼玉県富士見市南畑にあった日本の城。埼玉県旧跡。難波田城公園として整備されている。
難波田城は富士見市東部の荒川と新河岸川の間の自然堤防上にあった、武蔵七党村山党の一派・難波田氏の居城。鎌倉時代に村山党金子氏の金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われている。『新編武蔵風土記稿』には築城から廃城に至るまでだけでなく具体的に城郭の構造にも触れられており、「小田原編年録」の文化9年(1812年)の古図にも描かれている。河越夜戦で難波田氏の主家扇谷上杉氏の敗戦により難波田氏が没落すると上田朝直一族の上田周防守左近の知行地となり、支城として縄張りを広げ城郭を改築していったとされる。
→難波田氏:武蔵七党村山党から派生した富士見市南畑の氏族。金子六郎家範の長子高範が難波田小太郎と名乗って始祖となった。難波田九郎三郎が足利直義に従って高麗彦四郎経澄と羽根倉で戦ったが、敗死した。難波田弾正憲重は上杉朝定に仕えたが、後北条氏との河越夜戦で討死した(河越はもちろん今の川越です)。
**このあたりの地名が南畑で、難波田は読みは同じで漢字が異なる。日本の地名人名にはこういう例が多いね。
戦国時代に小田原の北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』にも小机衆の上田左近が難波田の領主であったことが記されている。しかし、永禄年間初頭には北条氏の家臣清水政勝が河越城衆として難波田城を攻撃したことを晩年に作成した覚書(「清水正花武功覚書」)に記しており、難波田周辺に所領を持っていた太田資正が北条氏と争った時期に難波田城を支配していたと考えられている。その後、大田資正が岩付城を追われたことで難波田城も北条方に戻っている。小田原征伐の武州松山城落城と共に廃城となった。
**太田道灌は、岩槻城、江戸城、川越城等を造った人物として知られている。関東の各地に銅像がある(埼玉県川越市、岩槻市、神奈川県伊勢原市等)ので当時は相当有力な人物だったようだ。
現在城跡は市の発掘調査後に「難波田城公園」として整備されている。市教育委員会の発掘調査によると古図とほぼ同様に三重の堀と本郭を中心に郭が同心円状に配置され、建物跡や倉庫跡が発掘された。
1928年(昭和3年)に埼玉県史跡に指定され、1961年(昭和36年)に埼玉県旧跡に指定変更された。公園として整備されるまでは、石碑だけが建つ小さな空き地、のような雰囲気のままであった。
2000年(平成12年)6月1日に公園として開園(広さ:約17000平方メートル)した。園内は、東側に難波田城の堀や橋などを復元した城跡ゾーンと、西側に富士見市内に建っていた古民家2軒と長屋門(いずれも富士見市指定有形文化財)を移築した古民家ゾーンにわかれており、その中央に難波田城資料館がある。この資料館は難波田氏や難波田城についてだけでなく、富士見市の近現代の歴史についても扱っており、鶴瀬団地の模型なども展示されている。平成13年度国土交通省手づくり郷土賞(地域整備部門)受賞。
復元した堀は、蓮や菖蒲の名所にもなっているが、城郭としては、余りに綺麗に整備され過ぎていて、城跡として当時の面影を偲ぶ事は困難である。なお土塁の一部と思われる土盛りが民家脇に見られる。
**確かに城跡としては石碑があるだけに近い。ただ古民家としてはよく再現されており、子供達にも開放されて自由に触れれるところが素晴らしい。
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上五島国家石油備蓄基地
上五島国家石油備蓄基地は、長崎県南松浦郡新上五島町に位置する海上石油備蓄基地。独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構が所有し、上五島石油備蓄株式会社が操業管理業務を受託。
メガフロート(巨大な浮体)を使用した世界初の洋上タンク式石油備蓄基地として、日本の石油需要7日分に相当する440万klの原油を貯蔵している。折島と柏島との間に防波堤が設けられ、その東側の、二重の浮式防油堤に囲まれた海域に5隻の貯蔵船を係留。タンカーで輸送された原油は折島のシーバースからパイプラインで貯蔵船に移送される。貯蔵船は1隻あたり長さ390m・幅97m・深さ27.6mで、最大貯蔵能力は88万kl。内部は9つの貯蔵ブロックが設けられ、外部と貯蔵ブロックとの間の二重構造内は海水で満たされている。一隻ずつ切り離すことができ、定期的に長崎市のドックまで曳航してメンテナンスが行われる。
1981年(昭和56年)12月、上五島地区が国家石油備蓄基地の建設地と決定した。1982年2月、石油公団(現石油天然ガス・金属鉱物資源機構)や三菱石油(現ENEOS)、日本郵船など出資により上五島石油備蓄株式会社設立。1984年に備蓄基地着工。1988年9月に完成し、翌1989年1月には原油の充填が完了した。
その後、数多くの海上備蓄基地、地下備蓄基地の建設が続いた。建設に携わる企業にとっては、社運をかけての大プロジェクトだ。でも、地下に埋蔵された原油をわざわざ掘出して、別の場所に長期貯蔵することは、経済的に何かメリットがあるのだろうか?
**国家備蓄の恒久基地第5号として建設された世界初の洋上備蓄方式で日本の造船工学・土木工学の枠を結集し造られた鋼鉄製貯蔵船です。1隻の大きさは長さ390m、幅97m、深さ27.6mで野球場が3つもできる大きさで、国内消費量の6日分を備蓄しています。
**本施設は長崎県新上五島町青方湾約40haの海域に貯油タンク船を5隻浮かべ原油440万klの貯油能力を有する国家石油備蓄基地です。貯油タンク船1隻の大きさは長さ390m×幅97m×深さ27.6m、容量88万klで超大型タンカー以上です。鹿島は貯油タンク船を荷役・係留するドルフィン11基の建設を行いました。各ドルフィンは10階建のビルに相当する大型コンクリートケーソンで設置されました。
でも、そもそも、何のために石油を備蓄する必要が。計画は第一次及び第二次オイルショックの経験から来たものか。原油は、現地に貯蔵されている間が最も安全。備蓄基地何てまさにテロリストの標的にすらなり得る。また、事故があれば多大な環境破壊。しかも、これだけ備蓄しても精々1年分程度しかない。壮大な無駄?
そう、こんなことが計画された当時は、世界のエネルギー、特に原油市場は欧米諸国、特に米国の国際石油資本が握っていたからだね。OPECの力が弱かった。OPECが値上げをしてもG7諸国が備蓄を取り崩して対抗すれば、OPEC側も原油を売らないと困るのでいずれ原油は値下がりする。だから、精々1年分程度の備蓄でもある程度は役に立ったわけだ。
ただ、現在のエネルギー資源は、原油はOPECやロシアや中国やG20諸国(G7を除いた)の支配下にあり、米国が何らかの経済制裁を加えても、値下がりする可能性はほぼあり得ない。しかもドルの価値がドル札の大量印刷で大幅に下落している。値段は下方硬直性がある。備蓄はほんの一時凌ぎにしかならない。石油備蓄施設は壮大な無駄遣いとなりそうだ。
世界一の産油国の米国は、世界一の消費国でもあるため、輸出能力はほぼゼロ。しかも、オバマ大統領ご自慢のオイル・シェールは技術的・環境的・経済的に完全に破綻してしまった。
ロシアは、これを好機と捉え、原油は金かルーブルで支払うことを条件に。また、OPEC産油国(イラン、イラク、サウジ、etc.)もこれに追従し、高値安定を維持するのが当然の国益。経済制裁もG7先進国が望むような結果はもたらさず、自国の経済破綻をもたらすだけの愚策のようだ。
【追記】
原油価格が値上がりしている。市中のガソリン価格を見れば一目両全である。年初リッター150円程度だったのが、現時点では180円程度。でも、原油輸入を増やせる見通しは?日本は産油国の一員であるロシアから原油の輸入を禁止している。となればイランもサウジも原油を売ってくれる道理がない。米英から割高な原油を頭を下げて購入する他ない。政府は原油高に対して補助金を出して価格保証をするというが、これも原資は国民の税金。当然諸物価に反映されるし、電力料金の高止まりも続く。
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巨椋池
巨椋池(おぐらいけ)は、京都府の南部、現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。規模からいえば池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、現在「池」と呼んでいる最大の湖沼である湖山池よりも広かった。そう、学生時代に大きな池があったとの伝説?を聞いたことがあった気がする。
豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする土木工事などにより時代によって姿を変え、最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変えた。干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった(因みに琵琶湖は隣の滋賀県です)。では、秀吉の時代にはどの程度の大きさだった?
【巨椋池の姿の変遷】
巨椋池の形態に大きな変化を与えた事業によって、いくつかの段階に分けて考えることができる。
(古代から秀吉の伏見築城期まで)
宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。これがこの時代の巨椋池である。
平安京と平城京の間に位置しており、古代、中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たした。また陸上交通は、巨椋池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。
巨椋池の北側には多くの島州が形成されていた。現在も残る槇島や向島や中書島などの地名はそれらが巨椋池の水面に浮かぶ島々だったことに由来し、これらを一望にする景勝地・指月の丘(現在の桃山丘陵南麓)には橘俊綱によって伏見山荘が営まれた。
秀吉の伏見築城期から明治まで
天下統一を果たした豊臣秀吉は、晩年伏見城を築城し伏見に居を移した。 それに伴い宇治川(巨椋池)に堤防を築き、河川改修を行った。代表的なものは以下の3件である。
槇島堤の造築
宇治橋下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、槇島堤によって分離、新たに出来た宇治川の流路は伏見城下に導かれ城の外濠の役割を果たすとともに、水位を上げたことにより城下に港の設置を可能にした。これによって、秀吉が設けた二つの城、大坂城と伏見城を水運で結ぶこととなり、政治都市伏見の繁栄を招いた。築造には前田利家が当たったと伝え、当時は左岸側のみが築造されたと考えられている。このことにより右岸側には洪水の危険をもたらすこととなった(実際、のちに木幡池など多くの池沼が右岸側に生まれた)。槇島堤は宇治堤とも呼ばれた。近年宇治市により宇治橋下流右岸で桃山期の堤の跡が発掘された。市では国の補助も受けて「太閤堤跡」として付近一帯を整備している。
宇治川上流からの水の供給を断たれた巨椋池はかろうじて下流部で狭い口により宇治川と結ばれたが、宇治川とそれに繋がる鴨川が運ぶ砂によりその口も塞がれあたかも出口を持たない沼のようになった。明治時代にはマラリヤ蚊の発生場所(**日本にもマラリア感染症はあったのか)となり、結局干拓されることになる。
淀堤の造築
伏見から納所(現・京都市伏見区)に向けて宇治川の右岸に堤防を築き、宇治川の流路を定めた。これによって、横大路沼(よこおおじぬま、現在の伏見区横大路の京都市南清掃工場を中心とする一帯に位置した)が宇治川・巨椋池と分離された。堤上は伏見と淀城(江戸期)とを結ぶ道にもなり、江戸時代には京都を通らずに大津と大坂を結ぶ東海道五十七次の一部となった。淀堤は文禄堤とも呼ばれた。淀堤の脇には唐人雁木と呼ばれる桟橋も作られ、訪日した朝鮮通信使等も通行した。
巨椋池の中を縦断する小倉堤を造り、伏見城下から向島に宇治川を渡る豊後橋(現在の観月橋)を架橋し、堤上を通り伏見と奈良の距離を縮める大和街道を新たに造った。小倉堤は巨椋堤、太閤堤とも呼ばれた。豊後橋は宇治川上流にあった宇治橋を曳いて架けたため、宇治川右岸を通り宇治町を貫いていたそれまでの大和街道は断たれることになり、京都と奈良を結ぶ人の流れはおのずと伏見城下を通ることになった。
この3つの堤のほか、大池堤、中池堤がこの時期に築かれ、巨椋池は、大池(おおいけ)、二の丸池(にのまるいけ)、大内池(おおうちいけ)、中内池(なかうちいけ)に分割された。そのため、江戸時代には一般に大池と呼ばれており、巨椋池という名が広く使われるようになったのは近代に入ってからである。
(明治から干拓まで)
1868年(明治元年)に木津川の堤防が決壊したことで、京都府は淀藩との共同事業によって木津川の宇治川との合流点を下流側に付け替えた。これは木津川から巨椋池に向けての洪水時の逆流を少なくすることになった。
しかし、それからも洪水の被害がたびたび起こったことから、淀川改良工事の一環として宇治川の付け替えが行われ、1910年(明治43年)に完成した。この工事によって巨椋池(大池)は、淀・一口(いもあらい)間の水路で宇治川とつながるのみとなった。このため、周辺から流入する生活排水や農業排水の排出が滞ることになり、水質悪化により漁獲量が減少したり、マラリア蚊が発生したりする問題が生じた。そして春から夏にかけて蚊が大量発生し、付近住民は蚊燻(かいぶし;蚊取り線香の先祖みたいなもの)をたかなければ夕食の箸を取ることさえできなかった。このような状況の中での地元の働きかけもあり、国の食糧増産事業として国営第1号の干拓事業が実施されることになった。干拓事業は、国営・府営・組合営の分担により行われた。
国営干拓事業は1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われ、巨椋池は干拓され、農地になった。干拓後の農地における用水利用を考慮し、池の底部を小倉堤や池に点在した島で埋めた程度で、ほとんどがポンプを用いた排水によって干拓された。
なお、干拓前の巨椋池は東西4キロメートル、南北3キロメートル、周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートル(約800ヘクタール)、平均水深は90センチメートルであった。当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。
干拓によって、634ヘクタールの干拓田ができ、あわせて周辺の1,260ヘクタールの既存耕地の改良が行われた。干拓地の農地は近鉄京都線(当時は奈良電気鉄道)を基準として区割りされたことから、周囲の条里制の区割りとは異なっている。
1953年の昭和28年台風第13号の大洪水で宇治川の堤防が決壊した。これにより干拓前の巨椋池全域を含む2,880ヘクタールが浸水し、干拓地に巨椋池が「復活」する災害が起こった。これを契機に天ヶ瀬ダムが造られ、1964年(昭和39年)に完成した。
**天ケ瀬ダムは洪水対策だった? 発電の為ではなかった?
巨椋池干拓前の概況
巨椋池は多様な動植物の生息地として、豊かな環境を育み多くの人に恩恵を与えてきた。鳥類では鴨の群れが多く、狩猟場として利用されてきた。 生息する魚類は漁業に恵みをもたらした。
沿岸のヨシ(アシ)は、京都御所の屋根や簾として用いられ、また周辺地域特産の茶(宇治茶)で碾茶や玉露を作るための覆いとして用いられた。
ハス(蓮)、ヒシ、マコモなどが自生し、その採取と加工が周辺住民の副収入になっていた。 また、巨椋池といえば蓮といわれるほど古来から蓮見が行われた。
池には食虫植物のムジナモが自生し、1921年(大正10年)に「巨椋池むじなも産地」として天然記念物に指定された。しかし、干拓に伴い1940年(昭和15年)に指定は取り消された。1970年代に種指定の天然記念物となったアユモドキやイタセンパラも生息した。
巨椋池にちなむ名前を持つ植物としては、オオトリゲモ(学名:Najas oguraensis)、オグラコウホネ、オグラノフサモがある。
巨椋池においては内水面漁業、沿岸では水田耕作等の農業が営まれた。巨椋池の漁業は、東一口村(現・久御山町)、弾正町(現・京都市伏見区)、小倉村(現・宇治市)の3地域が、池の沿岸を除いて独占的な漁業の権利を有した。この権利は干拓まで続いた。漁業では、魞漁(えり漁、魚を誘い込んで逃げ場をなくして捕獲する漁法)をはじめとして浸木漁、網漁などさまざまな漁法が用いられた。
巨椋池は、その周辺の洪水調整機能を引き受けたため、洪水時には湖岸約数千ヘクタールが長期に渡り浸水した。そのため、農業は3年に一度を平作とするほど洪水に左右されるものだった。
漁業と農業は、水が多い時は漁業に都合がよいが田の水が長く引かず米の生産が悪く、逆に水が少なく米の生産が良好なときは漁が悪いという相克の関係にあった。
(文学の中の巨椋池)
巨椋池は古くから景勝地として文人墨客に愛された。古くは『万葉集』に「柿本朝臣人麻呂之歌集所出」の雑歌として「巨椋の 入江響むなり 射目人の 伏見が田居に 雁渡るらし」(おほくらの いりえとよむなり いめひとの ふしみがたゐに かりわたるらし)と詠まれた歌が収録されている(巻9, 1699)。これが「巨椋」の名の初見で、上代には巨椋の入り江(おおくらの いりえ)と呼ばれていたことが窺える。「射目」は雁を猟る際に猟師が身を隠した遮蔽物のことで、これが「伏見」の語源とも考えられている。
和辻哲郎の『巨椋池の蓮』という手記は、1926年(大正15年)の夏に巨椋池で蓮見船に乗った思い出をつづったもので、当時の観蓮の情景を描いており、1950年(昭和25年)に発表された。この観蓮記が発端となり、往時の種子などをもとに自宅で蓮を育ててきた篤志者により、現在も巨椋池花蓮品種の保存や観蓮会が行われている。
現在の巨椋池
干拓地は、京都・大阪に近接した一大農業地帯として、米や野菜が生産されている。干拓地や宇治川河川敷は渡り鳥の飛来地となっている。また干拓地の北側にある宇治川堤外地の源内は、西日本では有数のヨシ群落で、植生の面でも貴重である。ここは日本有数のツバメのねぐらといわれ、8月から9月に掛けての最盛期には、数万羽のツバメを見ることができる。
京都競馬場の馬場の中央にある池は、かつての巨椋池の名残りを残した池だと考えられてきた。1999年(平成11年)に、京都府によって池中の生物の生態調査が実施されている。
南北方向には、従来の国道1号や国道24号に加えて第二京阪道路、東西方向には京滋バイパスが通っており、久御山ジャンクションでつながり、現代的な自動車交通の要衝となっている。巨椋池干拓地内に位置する第二京阪道路のインターチェンジには、「巨椋池インターチェンジ」という名称が付けられている。
陸地化した巨椋池はもう元に戻すことは不可能だ。失われた遺産も大きいけど、メリットもあっただろう。歴史を良く学び将来の知恵として活用しないといけないね。
今の東京も、かなりの部分が海面の埋め立てで形成されている。水面は無駄で陸地にしか価値がないとの神話は過去の話だろうが。
日本では、湖を埋め立てて農地を造り、海面を埋め立てて工業団地や港湾を建設し、山を削って団地を造ったり、これを経済成長の証と考えて来た。しかし、これらの自然改造にはどうも負の影響も大きいこともだんだん分かって来た。失ったものは取り返しがつかない。京都にもかって大きな湖が存在していた。そこでは多様な生態があり、多様な生活が行われているユートピアが存在していた。想像するだけでも面白くないだろうか。
日本を知ろう
栗山町
栗山町(くりやまちょう)は、北海道空知総合振興局管内南部にある町。もともと角田(かくた)という村名(のち町政施行)であったが、これは当地の開拓が仙台藩角田(かくだ)藩士により行われたことから、その故郷の名よりとられた。その後、1949年(昭和24年)に市街名の栗山から栗山町と改名し現在に至っている。
今この町が注目を浴びているのは、WBCの監督、栗山さんのある意味発祥の地とも言えるかららしい。
「侍ジャパンを世界一に導いた栗山監督の“地元”北海道栗山町では優勝を祝福する横断幕が掲げられました。栗山監督の地元・北海道栗山町役場では28日朝から、世界一奪還を祝福する横断幕の設置作業が行われています。横断幕には「夢を正夢、世界一」と書かれています。栗山町・佐々木学町長:「栗山町民のために、日本のために頑張っていただいたなと感謝したい」栗山町では5月以降に栗山監督の凱旋(がいせん)パレードを行う予定です。
2023年野球のWBCの日本チームを3年ぶりの世界一の導いた栗山監督。地元ではどんな活動をしておられたんでしょうね。栗山町は今後どう発展していくんでしょうかね。
日本を知ろう
厳島神社のしゃもじ
岸田首相のお忍びのウクライナ訪問。この際の小さな手土産として地元広島厳島神社の「必勝のしゃもじ」をプレゼントしたとか。日本の政治評論家たちには大変評判が悪いが、なかなかウィットに富んでいて知恵のあふれたプレゼントではなかったか。
日本も必勝の小道具を振りかざして米国と戦争したけど、結局は努力空しく敗戦。広島・長崎に原爆を落とされて敗戦を認めた。もっと早く停戦に応じていれば国民は塗炭の苦しみを免れたはずだ。ウクライナへの経済復興への資金提供は約束したが、武器支援は触れなかった。
ところで、厳島神社のしゃもじの生産は本当に日本一なのだそうだ。もちろん木製でプラスチックしゃもじは論外。発祥は宮島の僧侶で地元の産業育成の一環で始めたものとか。それまで日本人はあんな形のしゃもじを使っていなかったのか。ご利益もありそうだ。今後世界的に有名になってしゃもじを使うことが食事の際の流行になれば面白いね。
厳島神社で知られる宮島では「飯をとる」と「敵を召しとる」をかけて、「必勝」などの文字を書いた縁起物のしゃもじが特産品となっている。首相も2020年、21年の自民党総裁選に出馬した際、党広島県連から特大の必勝しゃもじを贈られた。
日本を知ろう
日本工業大学
日本工業大学(Nippon Institute of Technology)は、埼玉県南埼玉郡宮代町学園台4-1に本部を置く日本の私立大学。1907年創立、1967年大学設置。大学の略称は日本工大(にっぽんこうだい)、日工大(にっこうだい)、NIT(エヌアイティー)。
工学系学部を中心とした大学である。1907年(明治40年)に創立し、後に付属校となる日本工業大学駒場高等学校を運営する学校法人東工学園(1990年に学校法人日本工業大学に改称)が母体となり、1967年、現在地に大学を設置した。
埼玉県の有名な動物園、東武動物公園が近くにある。良くテレビでもお目にかかる大きな動物園。ここだけにしかいないホワイトタイガーでも有名だ。電車で行くにはとてもアクセスが悪く、大抵はマイカーで訪問するのが普通だったようだ。という訳で行き帰りともともタクシーを使った訳だが、途中にとても大きな大学施設が存在していることに気がついた。
そもそも、宮代町の中の町名にやたらと学園台と名がつくのは何故か? 一体学園とは具体的にどんな学校があるんでしょう。タクシーの運転手さんも??であったが。結局学園台地名に関連するのはNITだけ。というよりNIT開設を睨んで街の整備が進められて来たらしいことが分かって来た。とても授業利用が高額で庶民には高値の花の大学? 授業料が年1000万円? でも私立の医大ならあり得るか。奨学金(ローン)をもらって卒業してもよほど給料の高いところに就職しないと返せないね。
と言う訳で調べてみた。何と歴史は結構古い。開学当時から長年にわたり、工業高等学校出身の学生を多く受け入れ、工業高等学校の教育に引き続き、更に高度な専門教育を行う。近年では入学者の多くが普通科高校出身者となっているが、引き続き一定数の工業高等学校出身者も受け入れているという。
NITの名はもちろん米国のMIT(マサチューセッツ工科大学)に対抗するためだろう。建学の理念は立派だ。現実に目にする建物も立派だ。今の大学では国際化の対応できない。新しいタイプの大学が求められている?? 今現実の産業界でどのよう役割を果たしているのか注目かも。
交通案内
埼玉キャンパス住所:〒345-8501 埼玉県南埼玉郡宮代町学園台4-1
東武スカイツリーライン(伊勢崎線)・日光線、東京メトロ日比谷線・半蔵門線直通
「東武動物公園」駅下車
「東武動物公園」駅西口より、スクールバス乗車5分、徒歩14分
JR宇都宮線(東北本線)・湘南新宿ライン
「新白岡」駅下車
「新白岡」駅東口よりスクールバス乗車12分
【追記】
残念ながら、受験生の間では偏差値が必ずしも良くなく人気はいまいち。工業高校出身者が多く、微積分などの基礎学力が不足して成績が伸びない? でも、そんな学力は大学に入ってからやればいくらでも伸びるのでは? 学生にやる気がない?就職がいまいち? 受け入れ側(大学)の奮起を期待したね。
日本を知ろう
忍藩(おしはん)[埼玉県]
260年続いた江戸時代、約300近くの藩が全国各地に存在。江戸100藩のひとつである関東・甲信越地方の「忍藩」(おしはん)について。
位置は現在の埼玉県行田市あたり。古代においては埼玉の先進地だったようだ。稲荷山古墳群もこのあたり。例のワカタケルの鉄剣が出土。戦国時代には、後北条氏と上杉氏の係争地、代々この地を治めてきた地元豪族の成田氏は両家の間を揺れ動く。後北条氏は鎌倉幕府を造った北条氏ではなく、戦国大名一番手の北条早雲が造った国だ。最後の太閤の小田原攻めで滅亡する。
成田氏の拠点となった「忍城」(おしじょう)は要衝として整備がなされ、周辺の低湿地帯を堀とした堅城となりました。
1569年(永禄12年)、正式に後北条氏に属した成田氏。1590年(天正18年)の「小田原征伐」の際には、小説「のぼうの城」で広く知られることになったように「石田三成」(いしだみつなり)率いる豊臣軍の水攻めを受けながらも落城することなく耐え切ってみせたのです。智謀の将で行政官としても有能だった石田三成も実戦の方はあまり得意でなかったようだ。
しかし、小田原落城から後北条氏が滅亡すると、これに連座して成田氏も没落。忍城は開城され、徳川家康の四男である「松平忠吉」(まつだいらただよし)が忍藩10万石を与えられました。当時11歳の忠吉に代わって政務を行なった「松平家忠」(まつだいらいえただ)は、まず豊臣軍の水攻めによって荒廃した忍城と城下町を修築し、領内の検地を実施。
1592年(文禄元年)に、家忠が下総国上代に移ると、忠吉の家老「小笠原吉次」(おがさわらよしつぐ)は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕をふるっています。そののち「関ヶ原の戦い」で忠吉が武功を挙げたことから「尾張藩」(おわりはん:現在の愛知県西部)52万石に加増移封され忍藩は廃され、幕府直轄の天領に。
1633年(寛永10年)には「知恵伊豆」こと「松平信綱」(のぶつな)が3万石で入って忍藩は再興、これも「島原の乱」鎮圧の功績から「武蔵川越藩」(むさしかわごえはん:現在の埼玉県川越市)6万石に加増移封。
これに代わって入封したのは3代将軍「家光」の下で老中にまで昇進した「阿部忠秋」(あべただあき)で、そのあとも歴代藩主となった阿部氏が老中に昇進したことから、忍藩は「老中の藩」とも称されました。
しかし、18世紀半ば以降は相次ぐ洪水や1783年(天明3年)の浅間山噴火とそれに伴う大飢饉の被害を受けて藩政は不安定化。阿部氏9代目となる「正権」(まさのり)は「陸奥国白河藩」に転封。
代わって入封したのは「伊勢国桑名藩」の「松平忠尭」(まつだいらただたか:戦国時代、三河の奥平家を始祖とする奥平松平氏)で、以後明治の時代になるまで松平氏の治政が続く。
幕末、松平家3代藩主の「松平忠国」(まつだいらただくに)は幕府から異国船の警備を任じられます。1853年(嘉永6年)にペリーが来航し、幕府が品川砲台(現在のお台場)を完成させると、忍藩はその第三台場(現在の台場公園のあたり)の警護を担当。
相次ぐ幕府からの要請によって忍藩の財政は逼迫し、「安政の大地震」と大洪水で領内が大被害を受けると出費はさらに重なりました。この頃の忍藩の借金総額は76万両と言われ、幕府の年間予算が約160万両であったことと比べても、これがいかに途方も無い物だったかが分かります。
「第二次長州征伐」の際には、幕府軍の殿(しんがり)まで任されたほどの忍藩がら、「大政奉還」後の「戊辰戦争」に際して新政府側に与することに決めた要因、前述のような幕府の過剰なまでの要求に嫌気がさした部分があったのかも。江戸で敗れた旧幕府軍約850名が逃げ込んできて、忍城を拠点として籠城戦を挑もうと勝手なふるまいをした際には、わずかな軍資金と草鞋を与えて立ち退かせたりもしています。
藩主が目まぐるしく交代した忍藩。でも藩主は常に徳川の親藩・譜代から選ばれている。軍事上の重要な拠点であったようだ。
【のぼうの城;荒筋】
「のぼうの城」は、和田竜による日本の歴史小説。またそれを原作とする2012年映画化。
周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城(おしじょう)。領主・成田氏一門の成田長親は、領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれ、親しまれる人物であった。
天下統一目前の豊臣秀吉は、関東最大の勢力北条氏の小田原城を攻略せんとしていた(小田原征伐)。豊臣側に抵抗するべく、北条氏政は関東各地の支城の城主に籠城に参加するよう通達した。支城の一つであった忍城主の氏長は、北条氏に従うように見せかけ、手勢の半数を引き連れて小田原籠城作戦に赴きつつも、裏では豊臣側への降伏を内通していた。
「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」秀吉にそう命じられ、石田三成は大軍勢を率いて忍城に迫る。軍使として遣わされた長束正家は、成田氏が既に降伏を決めていることを知りながら、戦を仕掛けるためにあえて傲慢な振る舞いをし、まんまと策略にはまった総大将・長親は「戦」を選択した。当主・氏長より降伏を知らされていた重臣たちは、初め混乱するが覚悟を決め、かくして忍城籠城戦は幕を開けた。
三成率いる2万超の軍勢に、農民らを含めても3千強の成田勢。総大将たる長親は、将に求められる武勇も智謀も持たない、その名の通りでくのぼうのような男。だがこの男にはただ一つ、他人に好かれる才能、特に異常なほどの民からの「人気」があった。
地の利と士気の高さから、緒戦は忍城側の圧勝であった。三成は、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定する。総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設し、忍城と城下本丸を除いて水に沈む。この水攻めに対する長親の策は、城を囲む湖に船を出して、敵兵の前で田楽踊りを披露することであった。
三成の指示で雑賀衆が田楽踊りを踊る長親を狙撃するが、長親は一命を取り留める。その後、城に入らず場外で堤作りに雇われていた百姓らも長親が撃たれたことの怒りから石田堤を壊す者が現れ、ついには水攻めが失敗する。
水が引き、三成軍が総攻撃を行おうとする矢先、小田原城が落城したとの知らせが成田勢にももたらされ、忍城も開城する。小田原城落城時までもちこたえた支城は忍城だけだった。
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埼玉県の成り立ち
埼玉県が成立したのは?明治維新で廃藩置県があって。でも、実際には入間県とか熊谷県とかもあって、明治9年8月に今の埼玉県が出来たらしい。県庁所在地は初めから浦和市。でも今はさいたま市。これひらがなで書かないと不正解になる。
全国の県庁所在地の多くは江戸時代の城下町が選ばれているが浦和はどうして。すぐ近くには太田道灌築城の岩槻城があるのに。岩槻の市民(当時は皆農民)が陸蒸気(鉄道)が来ることに反対したためとか。昔岩槻小学校の先生がそう言っていた気がする。蒸気機関車から吐き出される煙は作物に被害を与えるからとか。今では岩槻市はさいたま市に組み込まれ一つの区になって残っている。
熊谷市は埼玉県だけど、熊谷県の大半は今の群馬県。上州何て言う語はほぼ群馬県に相当するのかしら。廃藩置県というから廃止された藩も調べておきたいね。
地理の部屋
【更に深く!!】
江戸時代の武蔵国は、現在の首都圏に重ね合わせると、埼玉県と東京都と神奈川県の一部(横浜市や川崎市など)が含まれた。現在の埼玉県域は、「北武蔵」と言われた地域。県議会史によると、武蔵国には21郡121郷が置かれていましたが、このうち15郡73郷が埼玉県域に所在。さらに、老中など幕閣の中心となる人物を輩出した忍藩(行田市)、川越藩(川越市)、岩槻藩(さいたま市岩槻区)は「武蔵三藩」と敬意を持って呼ばれていたそうです。
江戸幕府開府以来、武蔵国は徳川将軍家のお膝元となり、政治の中心となる。また、北武蔵の埼玉県域は、江戸という大消費地を背後から支える重要な穀倉地帯として、大きくその地政学的な立ち位置を変えていく。軍事的・政治的な重要性もあり、「蔵入地」と言われる幕府直轄領(天領)、また御三卿(徳川家直系の田安・一橋・清水の三家)の領地や旗本知行地(旗本領)が非常に多かったのも特徴。
背景には、江戸の防衛線として重臣(幕閣の中心であった大老や老中、若年寄など)が配置された歴史的経緯もありますが、彼らの多くは幕閣の中枢を担う高級官僚でした。今でいえば、霞が関のキャリア組の転勤と同じで、転封などにより藩主交代が他の地域に比べ頻繁に行われていました。
このため、忍、川越、岩槻の3藩では藩独自の風土を醸成出来なかった。領民にとっても「お殿さま」という意識は薄く、藩主と領民との結びつきが希薄であったことは容易に想像できる。→埼玉県は個性に乏しく魅力がない??
県議会史などを見ると、埼玉県域を支配する各領有者の石高を合計した90万石は、ほぼきれいに幕府直轄領、旗本知行地、藩領分で3分割されている。そして支配者(領有者)は実に1千を超えており、テレビでおなじみの時代劇などで目にするお殿さまと領民との関係とは違い、「細切れ支配」「モザイク支配」が行われていたのが埼玉県域の武蔵国の状況でした。
翻って平成の世。首都・東京を常に意識する一方で、地元への愛情に薄く、地域の連帯意識も乏しく、県全体としてのまとまりを欠くとされる埼玉県民。それが事実かどうかはともかく、そんな風によく言われる県民性は、江戸時代約260年の間に醸成されたのかもしれません。(松本博之・ぶぎん地域経済研究所 取締役調査事業部長)
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群馬県の成り立ち
埼玉県の成り立ちを調べたついでに群馬県も見て見よう。
上代においては「毛野国」(毛の国)を形成し、これを上下に分かち「上毛野国(かみつけぬのくに)」とされ、のちに上野国となる。現在の県域はほぼ上野国と一致し、今でも異称として「上州(じょうしゅう)」「上毛(じょうもう、かみつけ)」を用いることがあるとされる。「毛」という文字には何か意味があるんでしょうか?
郷土の風物・人物を詠んだ「上毛かるた」は広く県民に親しまれている。上毛かるたでは毛野国を「しのぶ毛の国二子塚」と詠んでおり、多くの古墳が築かれた古代毛野地域は、東国における有力な文化圏を形成したと考えられている。
**「上毛かるた」は、なかなかの名作です。
県名は県庁所在地(町)が所属する郡名採用型で、群馬郡に由来する。群馬県庁は、第一次群馬県(1871年 - 1873年)では群馬郡高崎町に設置された後に群馬郡前橋町へ移転、第二次群馬県(1876年 - 現在)でも群馬郡(郡の分割後は西群馬郡)高崎町に設置された後に東群馬郡前橋町へ移転と、高崎から前橋へ移転した経緯がある。
県庁の移転元も移転先も群馬郡の町、なおかつ、郡名採用型の県名であるため、高崎と前橋のどちらを指しているのか判別のしようがないが、高崎と前橋が県庁の誘致で対立した経緯があったようだ。
およそ1,300年前、現在の群馬県にあたる地域は「上かみつ毛け野の国くに」と呼ばれ、その中に「 車くるまの評こおり」と呼ばれる評(郡のこと、大宝2年(702)に評は郡に改められる)がありました。奈良時代の初め、和銅6年(713)に、各地の地名に良い字をあて、二文字で表すようにとの命令が朝廷から出され、「 車くるまの郡こおり」は「群くるまの馬郡こおり」へと改められます。国名もあわせて二文字に変えられ、「上かみつ毛け野の国くに」は「 上かみつけ野の国くに」と記されるようになりました。鎌倉時代頃からは、「上野国」を「こうずけのくに」と読むようになりました。
明治期になり、廃藩置県が行われると、新県の名称は「群馬県」と決定されました。前橋・高崎を含み当時県内で最も人口が多く栄えていた「群馬郡」の名前をとったとされています。また、県境も3度変更されましたが、結局、旧上野国の範囲をもって県域に決定しました。
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水月湖
水月湖は地球科学(自然史)において世界的に注目を浴びている凄い場所なのです。NHKで放映があったので早速、Web百科事典Wikipediaで調べて見たら英語版があった。日本の研究者の執筆はまだないようだ。水月湖は福井県にあり、三方五湖の一つ全体として風光明媚な自然公園になっている。
Lake Suigetsu (水月湖) is a lake in the Hokuriku(北陸) region of Honshu, Japan, which is one of the Mikata Five Lakes(美方五湖) located in Mihama(美浜) and Wakasa(若狭), Fukui Prefecture(福井県), close to the coast of the Wakasa Bay in the Sea of Japan.
Since 1993, it has been attracting the attention of scientists because of the undisturbed nature of the water for many thousands of years. It is possible to identify the annual deposits of silt in a similar manner that tree rings are identified. The area of the lakes is now part of the Wakasa Bay National Park.
水月湖は、三方五湖の中で最も大きな湖(面積4.15k㎡、水深34m)。 この湖の底には7万年の歳月をかけて積み重なった 「年縞」と呼ばれる縞模様が形成されている。樹木の年輪と似ている。これが地史を読み解く貴重な歴史書になるわけだ。
Mikata five lakes(三方五湖)
All five lakes have different concentrations of salt. Lake Mikata is a fresh water lake, and Lake Hiruga contains ocean water. Lake Kugushi and Lake Hiruga are connected with Wakasa Bay.
The primary inflow of fresh water is from the Hasu River to Lake Mikata.The size and the depth of the lakes are as follows,
Lake Mikata(三方湖): fresh water lake; area of 3.56 km2, 5.8 m deep
Lake Suigetsu(水月湖): brackish water lake; area of 4.16 km2, 34.0 m deep
Lake Suga(菅湖): brackish water lake; area of 0.91 km2, 13.0 m deep
Lake Kugushi(久々子湖): brackish water lake; area of 1.40 km2, 2.5 m deep
Lake Hiruga(日向湖) : ocean water lake; area of 0.92 km2, 38.5 m deep[1]
The lakes are all connected with channels or canals.
"Because Lake Kugushi opens into Wakasa Bay through a narrow and shallow river (Hayase River), seawater enters Lake Suigetsu periodically via Lake Kugushi during high tide."
Lake Suga may be seen as the eastern part of Lake Suigetsu, since the two are joined by a wide channel.
Radiocarbon dating
The varves of Lake Suigetsu allow a chronology to be established, because of the leaf fragments embedded in them, which have been used to calibrate the Carbon-14 time scale beyond the range of the absolute tree-ring calibration. In late 2009, the journal Radiocarbon announced agreement on the INTCAL09 standard, which extends a more accurate calibration curve to 50,000 years. The results of research on varves(年縞) in Lake Suigetsu, Japan announced in 2012 realised this aim. "In most cases the radiocarbon levels deduced from marine and other records have not been too far wrong. However, having a truly terrestrial record gives us better resolution and confidence in radiocarbon dating," said Christopher Bronk Ramsey. "It also allows us to look at the differences between the atmosphere and oceans and study the implications for our understanding of the marine environment as part of the global carbon cycle." Results were published in 2012 in the journal Science increasing the calibration from 12,593 to 52,800 years.
The only inflow to Lake Suigetsu(水月湖) is through a shallow channel from the neighbouring Lake Mikata and there is little outflow. Consequently, only the finest sediment comes into the lake. The water is anoxic (無酸素)(deoxygenated脱酸素) preventing the growth of organisms and due to seasonal variations it is usually but not always possible to distinguish the annual deposits visually. It has taken almost twenty years to overcome the consequent problems, using multiple cores and new detection techniques to complete the sequence.
【年縞の発見】
年縞(ねんこう、英: varve)とは、長い年月の間、湖沼などの底に堆積した土などの層が描く特徴的な縞模様の湖底堆積物のこと。年縞堆積物(ねんこうたいせきぶつ)とも称される。英語の varve に対して、国際日本文化研究センター(日文研)の安田喜憲名誉教授がつけた訳語である。
水月湖で湖底堆積物の採取が初めて行われたのは、1991年のこと。安田喜憲国際日本文化研究センター名誉教授をリーダーとした研究チームの試掘により、年縞堆積物の存在がアジアで初めて確認された。その後、同チームは1993年に約75mの堆積物を採取。日本における本格的な年縞研究の幕開けとなりました。
湖底には春から夏はプランクトンの死骸や繁殖した珪藻が堆積することで黒い色の層ができ、また秋から冬は粘土鉱物が堆積することにより白い色の層が湖底に積み上がっていく。この白と黒のバーコード状の縞模様が1つの組み合わせで1年を表す。これは樹木の年輪と同様で、1対の縞模様が1年の時間単位を表すことで、精度の高い自然環境変動のデータを得ることができる。
年縞の特徴
年縞の中を解析すれば花粉やプランクトン、火山灰や黄砂などが含まれているため、過去の気温や水温などの気候変動を年単位で分析することが可能である。堆積物の量や内容で自生していた周辺の植生の変化、洪水や地震の回数、またその周期などの精度の高い変化過程の正確なデータが得られる。
なお、地層では、地表に露出する部分を中心に侵食作用や地殻変動、人間による開発の影響を受けることから、必ずしも水平方向には連続していない。また、年縞のような1年周期での積層にはなっていないため、これらの点においても年縞での年代測定は精度が高く有効である。
参考:ふじのくに地球環境史ミュージアム
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南禅寺
☆☆南禅寺☆☆
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山の寺院。本尊は釈迦如来。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。正式には太平興国南禅禅寺と号する。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つ。つまり、別格扱いされていた禅寺である。誰が決めたのか?
**京都五山(きょうとござん)とは、臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院。鎌倉時代末期に創設されたが、その内訳が確定したのは室町時代、足利義満の代になってからである。
五山の制度はもとは南宋の寧宗のころにインドの五精舎十塔所にならって創設されたもの。
鎌倉幕府は既存宗門などの既存勢力に対抗するため新興の臨済宗を保護する政策をとり、政争や戦乱によって勢力下に入った荘園や領地を御家人に分け与える一方、一部を寺社領とし、幕府の領地も含めてその管理を禅寺に委ねていた。
暦応4年(1341年)、足利直義(尊氏の弟)の評定により、第一位を建長寺(鎌倉)と南禅寺(京都)、第二位を円覚寺(鎌倉)と天龍寺(京都)、第三位を寿福寺(鎌倉)、第四位を建仁寺(京都)、第五位を東福寺(京都)とし、準五山に浄智寺(鎌倉)を含めたとする。
観光の見どころ。まずは格式も歴史もある豪壮な建築か?
「絶景かな、絶景かな」とは、歌舞伎「楼門五三桐」で石川五右衛門が発する名台詞(せりふ)。春の桜を愛でながら大盗賊が見得を切る、その舞台こそ、南禅寺の「三門」楼上。もちろん、山門以外にも見どころある建築物も多い。
また、南禅寺を代表する“絶景スポット”といえば、こちらも忘れてはならない。サスペンスドラマに欠かせない、テレビ・映画・アニメの舞台としてもおなじみの「水路閣」。京都の近代化を物語る貴重なモニュメント。明治維新後の京都を復興させるべく琵琶湖の水を京都へと引いた「琵琶湖疏水事業」にともない、明治21年(1888)に完成。
琵琶湖疏水と同じく、田邊朔郎(たなべ さくろう)が設計・デザインした水道橋で、全長93.2メートル、幅4メートル、高さは9メートルにもなるそう。建設当初は「景観を害するのでは」と反対の声もあったそうですが、今では、禅寺の侘びた趣にふさわしい、格好のフォトスポットとなっているいう。土木建築物としての世界遺産と言えよう。
南禅寺で料理と言えば、何と言っても湯豆腐。「なぜ湯豆腐なの?」。湯豆腐はもともとお坊さんの精進料理。 いま有名な湯豆腐は昆布だしで豆腐をゆでて食べるのですが、当時のものは、焼き豆腐を煮たものでどちらかというとおでんみたいな感じだったらしい。
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首里城
首里城
首里城(しゅりじょう、沖縄方言: スイグシク)は、琉球王国中山首里(現在の沖縄県那覇市)にある。海外貿易の拠点だった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾。戦前の柱や壁は灰色や褐色であったが、第二次世界大戦中に消失。1992年に柱・壁・瓦も朱色とするデザインで再建し、瓦についても1945年の消失以前の首里城建物は灰色だけ、または赤も灰色瓦の中に混在していたが赤瓦のみで再建された。
しかし、2019年10月31日に首里城正殿など主要7棟が延長コード由来の火災で消失した。現在は国営沖縄記念公園の首里城地区(通称・首里城公園)として都市公園になっている。2019年の首里城の焼失は、1453年、1660年、1709年、1945年に次ぐ歴史上5度目となった。
首里城
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設によりほぼ完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態だった。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を灰色から、朱色メインに変える形で完成した。
1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない。2019年10月31日の深夜の火災により、正殿を始めとする多くの復元建築と収蔵・展示されていた工芸品が全焼・焼失または焼損した。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵(たまうどぅん)、園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。
創建
首里城の創建年代は明らかではない。尚氏歴代居城の正殿は、かつて百浦添(ムンダシー)と呼ばれ、敬称では御百浦添(ウムンダシー)と称された。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。
王家の居城としての利用開始
1853年6月、首里城を訪れたペリー提督。城内に軍人を入れることを恐れた王府は北殿を開けたが、偽役人が応じ、正殿や中枢部を守った。
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても同様だった。史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失している。焼失の度に再建されてきたが、良材が不足しがちな沖縄では木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。
歴代城主
(第一尚氏)尚巴志→ 尚忠→ 尚志達→<中略>- (第二尚氏)尚円 → 尚宣威→ 尚真 →<中略>→尚育 →尚泰
志魯・布里の乱による一度目の消失
1度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。1度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ、1456年2月の目撃記録として、首里城は、「外城」「中城」「内城」の3地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には2層の屋根を持つ「閣」があり、内部は3階建てで、3階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、1階は酒食が供される集会所となっていたと記述されている。
二度目と三度目の消失
2度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。1709年(宝永6年)には3度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。
琉球処分以後
1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、沖縄県立首里高等女学校(首里尋常高等小学校女子部、沖縄県立女子工芸学校)の校舎として利用された。
1912年に小学校が建てられた後、首里城は老朽化が激しく、荒廃した正殿に倒壊の危険があるとして1923年には正殿の取り壊しも検討された。しかし、沖縄の文化調査を行っていた東京帝国大学教授伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により取り壊しは中止となり、1897年制定の古社寺保存法の対象になるよう、正殿の背後に沖縄神社を建立し、正殿を神社の拝殿と位置付けることで国の予算で修復できるよう取りはからった。1929年に国宝保存法が制定されると国宝に指定されて国に保存されることとなった。正殿は県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた(源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという説がある??)。
太平洋戦争前
正殿は1925年(大正14年)に特別保護建造物(のち旧国宝)に指定された(指定名称は「沖縄神社拝殿」)。昭和初期(1927年(昭和2年)~ 1932年(昭和7年))に正殿の改修工事が行われた。
4度目の消失以降
1945年には第二次世界大戦で4度目の消失した。1992年に再建した首里城の建築は、3度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図会」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵(地図)のなかに描かれている。1719年冊封副使・徐葆光『冊封琉球全図』の「中秋宴図」に首里城が描かれている。
*米軍の無差別空爆によって消失した訳。首里城が軍事施設と見なされたことも。
太平洋戦争中の沖縄戦で、旧日本軍は首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。さらに日米両軍の激しい闘いで、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能の重傷兵約5000名が首里城の地下陣地で自決した。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。
戦後は首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくより、多くの人々の悲願だった。
1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。
琉球大学の移転による本格開始
1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。1989年(平成元年)11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤~黒まで意見がバラバラで難航した。すでに琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目主奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された(河原の色は不明のまま)。
首里城の外壁は『首里那覇鳥瞰図屏風』は赤と白、1719年冊封副使・徐葆光『冊封琉球全図』の「中秋宴図」に描かれた首里城の外壁は白色、19世紀初頭『琉球貿易図屏風』は黒色、『首里那覇鳥瞰図』は黒色、王国時代の公的な画家・友寄喜恒の『首里城図』は黒色、阿嘉宗教『首里那覇図』は白色、『首里那覇港図屏風』は黒色、琉球朝日放送にて2019年11月12日午後6時35分から放映された那覇市歴史博物館の 『首里那覇鳥瞰図』では赤と白または黒、 『沖縄首里城図』では木地にて描かれている。
昭和大修理の際、見本の柱の古材に弁柄(べんがら)が残っていたという証言から柱は弁柄色に決められた。昭和大修理の際の内壁に弁柄が残っていたという記述から推定して外壁も弁柄色とされた。
塗料は漆が使用されていた。「尚家資料を調べると、琉球漆器を作る貝摺奉行所の職人たちが建物の塗装に参加していたことが分かった。それを知り、正殿は巨大な琉球漆器だと理解した。(誰が?)」
技法は新たに模索された。「首里城の補修も貝摺奉行が担当したのだが、現存する資料の範囲内では具体的な工程は不明だという」
1462年、『李朝実録』には、宮古島へ漂着した肖得誠達は首里城と思われる城の国王が住む2階の閣は丹漆(油漆)ではなく丹艧(細かい赤い色の土で塗装された彩色(丹青))と報告している。
1992年首里城復元では漆と乾性油の桐油が交互に多層塗りされたが、酸化重合反応や2019年火災時の炎の勢いを強めた可能性が指摘されている。
国営沖縄記念公園開園以後
1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建されことで、首里城公園(国営沖縄記念公園)が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年(平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。約30年にわたる復元工事が2019年1月に完了した。2月には国王が家族や女官と暮らした御内原(おうちばら)が公開された。
再建開始から40年目の2019年(令和元年)10月31日未明に火災が発生、正殿と北殿、南殿が全焼した。前述の1453年・1660年・1709年・1945年の焼失に次いで、歴史上5度目の焼失となる。
令和の再建
2019年に焼失した正殿再建の起工式が2022年11月3日に沖縄県那覇市の首里城公園内特設会場で行われた。26年秋の完成を目指す。
首里城の構造
日本の他地域の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けている。門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、後に琉球瓦(赤瓦)が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用された。また、戦乱のない琉球王朝時代に再建されていることもあり、軍事目的よりも政治の中心地としての役割を中心にして設計されている。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられている。
首里城は第二尚氏王朝時代の15世紀後半から16世紀前半にかけて建設された外郭と、第一尚氏王朝時代の15世紀前半ごろに建設された内郭という二重の城壁に囲まれ、御庭(うなー)と呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中している。内郭には瑞泉門、漏刻門など9つの門が、外郭には歓会門、久慶門など4つのアーチ門があった。城の正門である歓会門(別名・あまえ御門(うじょう))、または通用門である久慶門(別名・ほこり御門)を経て外郭内部に入ると、内郭の入り口である瑞泉門(別名・ひかわ御門)に至る。瑞泉門には「龍樋」という名の泉があり、龍の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出している。ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の冊封使が18世紀前半から19世紀後半にかけて残した碑刻(冊封七碑)がある。
瑞泉門を通り、漏刻や日時計で時間を計測していた漏刻門(別名・かご居せ御門)を抜けると、司法や寺社宗廟関係の機関が入居していた楼閣・広福門(別名・長御門)に至る。広福門の内側は、系図座・用物座(家系図や城内の物品を管理する機関)や、御庭につながる奉神門、祭祀空間である「京の内」(けおのうち)に囲まれた下之御庭(しちゃぬうなー)が広がる。ここは御庭に入る前の控えの場であり、首里城の10ある御嶽のひとつ・首里森御嶽(すいむいうたき)がある。「君誇御門」(きみほこりうじょう)とも呼ばれた奉神門をくぐると正殿などに囲まれた御庭が広がる。
正殿前の御庭(うなー)
正殿の前には、家臣らが謁見したり中国からの冊封使を迎え入れたりするための御庭(うなー)と呼ばれる広場が設けられている。それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、御庭への入り口となり行政施設も入っていた奉神門が建てられている。さらにそれを各種の門・城壁が取り囲む形になっている。これらの構造には、中国の紫禁城との類似性も指摘されている。南殿は薩摩藩の接待のため使われたので、ここのみ和風の意匠が用いられていた。
王の居住する中心部は正殿(せいでん)と呼ばれ、別名「唐破風」(からふぁーふ)と呼ばれた。中には1階と2階の両方に御差床(うさすか)という玉座が設けられ、2階の御差床の上には清国皇帝から贈られた扁額が飾られていた。沖縄戦で全て失われたが、康熙帝の贈った「中山世土」(ちゅうざんせいど)、雍正帝の贈った「輯瑞球陽」(しゅうずいきゅうよう)、乾隆帝の贈った「永祚瀛壖」(えいそえいぜん)の3つの扁額が本人の筆跡や落款を再現した上で復元され飾られている。正殿の1階は国王が政務をおこなう場所で「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれており、正殿の2階は王妃や女官らの使用する「大庫理(うふぐい)」と呼ばれる場所であった。2階の御差床は重要な儀式のために使うものであり、2階南東隅の「おせんみこちゃ」という部屋は国王や女官らが祭祀を行う場所であった。
南殿の南側には王が日常的に執務する建物であった書院および鎖之間(さすのま)がある。書院・鎖之間庭園は琉球のグスク内にある唯一の庭園で、石灰岩の岩盤を生かしてソテツなどを配しており中国の使節からも名園と評価されていた。遺構の保存状態もよく、2008年8月に復元公開された。2009年7月には書院・鎖之間庭園ともに日本国の名勝に指定された。
正殿の裏側は「御内原」(うーちばる)と呼ばれる私的な生活空間に当たり、正殿後方の後之御庭(くしぬうなー)という広場を中心にいくつかの建物があったが、1990年代後半からかつて存在した建物の復元のための発掘や建設工事がすすんでおり、2019年2月1日に御内原全体が新規開園ゾーンとして観光客に開放された。御内原の入り口に当たる淑順門(別名・みもの御門、うなか御門)が2010年に、王の住む「二階御殿」(にーけーうどぅん)が2000年に再建されているほか、王妃らの寝室があり国王以外の男性は入れなかった「黄金御殿」(くがにうどぅん)、調理を行う「寄満」(ゆいんち)、王の側近である近習らが控える「近習詰所」(きんじゅうつめしょ)、王の休息の場である「奥書院」(おくしょいん)が2014年に復元公開された。王女の住まいであり王位継承の際には儀式の場となる「世誇殿」(よほこりでん)や女官たちの生活する「女官居室」は2017年に竣工した。その東奥には、国王逝去の際に遺体を安置する寝廟殿(古写真などの資料がないため未復元、建物の輪郭部のみ地面に表示)を取り囲む石垣とその入り口である白銀門が再建されている。首里城の東の門である継世門(別名・すえつぎ御門)は1998年に再建された。この門はもともと倭寇襲来に備えて16世紀半ばに造られたもので、日常生活用品の城内への搬入や、国王逝去時に王子がこの門から入り世誇殿で王位継承を行う儀式のために使われた。城郭の東端には、「東のアザナ」(あがりのあざな)と呼ばれる物見台があり、標高140メートルの城内最高地点から東シナ海と太平洋の両方を望むことができる。漏刻門や「西のアザナ」とともに時刻を知らせる合図を行う場所でもあった。
正殿地下の旧遺構。焼失に伴い露見し、初公開された(再建工事期間限定)=世界遺産本来の木造建築として復元された建物は正殿および書院・鎖之間のみである。正殿を再建するに当たり、沖縄本島北部の山から大木を運ぶ「木曳式」などの儀式が行われたが、実際の構造材の大半は台湾から輸入されたタイワンヒノキか、日本本土産のヒノキやアスナロである。沖縄で伝統的に高級材とされていたチャーギ(イヌマキ)やオキナワウラジロガシは資源枯渇のため、前者は日本本土産のものが一部でのみ使用された。他の建物ではコンクリートを用いるなど外観のみの復元といえる。旧来の城壁は一部に残っており、新しい城壁の建設の際に発掘され利用されたため、地表近くに旧来の城壁の姿を見ることができる。これが唯一残ったオリジナルの首里城の遺構である。首里城の復元建物群は文化財にも世界遺産にも該当しない。
宗教的役割
首里城は政治・軍事の拠点であるとともに、琉球有数の聖域でもある。以前は城内には十か所の御嶽があり、また首里城内郭の南側の大きな範囲を「京の内(けおのうち)」と呼ばれる聖域が占めていた。「京の内」は十か所の御嶽のうちの数か所と、鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所だったが、この森こそが首里城発祥の地であり、首里城を国家の聖地とさせている重要な場所であった。聞得大君をはじめとする神女たちが京の内で祭祀を行っていたが、その祭祀の内容やはっきりとした京の内内部の様子はいまだによくわかっていない。ここで行われた祭祀の研究に基づき公開に向けての整備工事が進められ2003年に公開されている。
敷地内の御嶽等は単なる遺跡ではなく、現在に至るまで信仰の対象であった。琉球大学があった頃には、立ち入りが自由であったため、その構内のあちこちの拝所には常に線香やウチカビ(紙銭)が供えられ、主として女性の拝む姿がよく見られたものである。しかし、首里城の復元によって無断の立ち入りが禁止となってしまった。このため「首里城の建物は復活したが拝所としては破壊された」との声もある。
日本を知ろう
椿山荘
武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれ、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷があった。
*久留里藩(くるりはん):上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)の久留里城を居城とした藩。小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・榊原康政の嫡男・大須賀忠政(松平忠政)に久留里3万石を与えた。これが久留里藩の立藩である。
明治維新を経て西南戦争の功により、元勲の山縣有朋は年金740円を与えられ、それを元手に1878年(明治11年)旧屋敷を購入。「椿山荘」と命名して趣味である作庭を行った。1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。
1948年(昭和23年)に藤田興業(現:DOWAホールディングス)の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され、1952年(昭和27年)から宴会場・結婚式場の営業を開始。1955年(昭和30年)に藤田興業の観光部門が分離して、小川栄一が初代社長となり藤田観光が発足すると椿山荘の運営は移管された。
70年代に入ると藤田観光では、椿山荘内にも宿泊施設が早晩必要であるという考えから、1978年(昭和53年)に敷地内の再開発計画に着手。1983年(昭和58年)に宴会棟を完成させ、フォーシーズンズ・ホテルズ&リゾーツとの提携を下に、1992年(平成4年)1月16日、ラグジュアリーカテゴリーの旗艦ホテルである「フォーシーズンズホテル椿山荘東京(FSH椿山荘)」を開業した。しかし、開業から20年が経過し国内に置いて数多くの外資系リゾートホテルが台頭し、顧客のニーズが多様化していることを踏まえ、藤田観光は2012年(平成24年)12月31日を以って、フォーシーズンズとの業務提携契約を終了。翌2013年(平成25年)1月1日、FSH椿山荘をホテル椿山荘東京にリブランドし、総合宴会施設である椿山荘もホテルと一体運営化した。
庭園は一般公開されており、椿や桜など植物、史跡等を鑑賞できる。庭園の頂上に建つ三重塔は、元々広島県賀茂郡入野(現東広島市)の竹林寺にあった塔で、創建時期は明らかではないが、平安前期に小野篁が創建し平清盛が第1回の修復を執り行ったという言い伝えがある。大正時代に強風にあって三層目が大破してしまったものを藤田平太郎が譲り受け、1925年(大正14年)に椿山荘に移築し、三層目を復元した。太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で発生した早稲田の火災の際も、木立に囲まれた環境もあり奇跡的にも三重塔と御神木は焼失を免れ、2003年(平成15年)国の登録有形文化財に登録された。
塔の建立年代は繰形の特徴などから室町時代末期のものと推定されていたが、2010年(平成22年)から翌年にかけて行われた竹中工務店による耐震補強・改修工事の際、年輪年代調査も併せて実施され、その結果、1420年頃(室町時代前期)の部材が使われていることが判明した。
日本を知ろう
三十三間堂
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう):
三十三間堂は、京都市東山区三十三間堂廻町にある天台宗の寺院。本尊は千手観音。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある妙法院の飛地境内であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。洛陽三十三所観音霊場第17番札所。
中学校の京都への修学旅行なら定番コース。これについて調べて下さいが宿題なら、その意図を理解し、不必要なデータを取り払って要点だけを整理しないと、ダラダラと長いだけの無意味な資料となってしまう。何とか要点を上手くまとめたいね!
何故、この場所が選ばれるか?
1. 交通アクセスが良い。
なんせ京都駅に近い。新幹線を降りたらすぐに徒歩でも行ける距離にある。同じように近くて有名な場所は、東寺がある。これは新幹線の車窓から見えるかもしれない。碁盤の目のように区画整理されていた平安京。天皇のお住まいだった御所は、街の北側に位置している。何故北側に。それは「君子南面す。」の中国の伝統を受け継いでいるからだ。現在の京都駅は、平安京の南側にある。
2. まず平安京の全体の地図を思い描いて欲しい
歴史の勉強として、平安京が生まれたのは何時でしょう。794年桓武天皇の時代だ。「なくよ(794)うぐいす平安京」なんて年号まで覚えさせられた。東西4.5 km、南北5.2 kmの長方形の都城として計画された。市街の中心に朱雀大路を南北方向に配置。西側を右、東側を左(天皇から見て)とした。道路は碁盤の目。東西を走る道路は1条~9条までの名前がついている。だから、三十三間堂のある場所は八条とか九条当たりに相当するのでかなり南側だ。京都の町は散策するのに便利です。まずは、碁盤の目のような道は迷う心配はない。南側は京都駅、京都タワー、東寺が眺められ、北は比叡山や大文字山が眺望できる。
3. 何故、有名なのか?
三十三間堂は、京都市東山区三十三間堂廻町にある天台宗の寺院。天台宗と言えば秀才の最澄が唐に渡って学んできた宗教? 比叡山延暦寺が中心。本尊は千手観音。建物の正式名称は蓮華王院本堂。同じ京都市東山区にある妙法院の飛地境内であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。平清盛が後白河法皇の為に建てたとも。洛陽三十三所観音霊場第17番札所。要は皇室とのゆかりの深い寺院。実際当時としてもかなりお金をかけた立派な施設であることは見学して見れば分かるでしょう。
特に注目すべきは、本堂西側の軒下(長さ約121m)を南から北に矢を射通す弓術の競技。通し矢と言われる。安土桃山時代に行われ始め、江戸時代前期に各藩の弓術家により盛んに行われ、京の名物行事となった。33間は、1間≒1.818mだから、約60m。長さ約121mの半分しかない。どうやって競技したか調べて見て下さい。
もう一つは多数の仏像。堂内中央に鎌倉時代の仏師湛慶(たんけい)作の本尊千手観音坐像を安置。本尊の左右には長大な階段状の仏壇があり、左右の仏壇に各500体(50体×10段)の千手観音立像が立ち並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にもう1体あり、計1,001体となる。1,001体のうちの一部の像は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されていたが、2018年(平成30年)には、国宝指定を記念して、博物館に寄託の像が堂に戻り、1,001体が勢ぞろいした。仏像の数を確認するのも面白いかも。
【雑記】
日本一大きな歴史的木像建造物は東大寺大仏殿。では、日本一長い歴史的木像建造物は? 答えは京都の三十三間堂。長さはなんと120メートル。1000体以上の仏像が安置されている。
日本を知ろう
大仙陵古墳
もともとは仁徳天皇のお墓とされていたが、今では社会科の教科書でも大仙陵古墳と表記が変わっている。仁徳天皇陵説が否定されたわけではないが、それを積極的に支持すべき証拠も見つからないからだろう。実際ほとんどの古代古墳の被埋葬者は不明らしい。
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現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設
仁徳天皇陵の建設――巨大土木工事と国の誕生
かつてこの地球上の各所で、まるで申し合わせたように"巨大さ"を指向した建造物がつくられている。古代の闇が薄れて文明の明るみがさし始めたころ、忽然と巨大な建造物が現れるのである。エジプトのあの大ピラミッドや秦の始皇帝陵、マヤ文明の神殿ピラミッドなどなど枚挙にいとまがない。それは日本でも例外ではなかった。まさに"倭"というこの列島で最初の国が誕生しつつあった動乱の5世紀初めに、第十六代仁徳天皇の陵と伝えられる巨大古墳が築造されている――いったいこれはどうした事態なのか? いまも大阪府堺市の東郊外に濃い緑と濠に囲まれてある巨大"前方後円墳"は世界一の規模とされ、かつては現在よりずっと海に近い小高い丘の上に、海岸に沿うように築かれていたようだ(古墳が移設されたのではなく、海が埋め立てによって遠くになったのか?)。現在は樹々が生い茂って森のように見えるが、本来は径20cmほどの小石が全体を覆い、前部が方形、後部が円形というきわめて人工的な姿をして、大阪湾を一望し、海上遠くからその姿が認められたはずである。
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**実は、ある大手ゼネコンの社員達がこれを現在の技術で再現したらどのくらいの費用とマンパワーが必要か試算を試みた。その結果も公表されているものと思う。以下の工事現場の状況説明はその時の検討の前提ともなっていたと思われます。
現場は、まず敷地全体が整然と打ち込まれた多数の木杭と、引かれた縄や水糸が縦横に張り巡らされた姿となる。その上で、内堀・外堀の周囲に沿って縁取るように溝を巡らす。大規模な土木工事には周到な排水計画が必要だ。地下水位は高く、降雨でも排水が不完全だと、現場は泥田のようになる。
*当時の社会においても、このような詳細な計画を立案できる技術者集団が存在していたということですね。
古代の土木工事で、使用する道具は先端に鉄製の刃を付けたスキにクワ、土砂運搬のためのモッコくらいであった。原始的な道具であり、効率もよくない。そこで、掘削の作業効率も現在の50%(1人1日2m3)として、仕事量を試算した。しかし、この二重の濠で陵全体に要する140万m3もの土を得るには、濠全域にわたって深さ10mも掘る必要がある。ところが10mも掘り下げると多量の地下水が溜り、人間は首まで泥水に浸かって作業することになり、無理だ。これらのことから、5mほど掘り下げるのが現実的だと考えた。これならなんとか地下水を排除しつつ掘削作業もできそうである。しかし、濠部から得ることのできる土量は70万m3ほどで、必要量の約半分である。残りの必要分は近隣からの客土でまかなうこととする。
掘削した土はモッコをつかって2人で一度に60kgを運ぶものとする。現場で降ろされた土砂は、その上を足で踏み固めていく。この方法は、作業能率は原始的ではあるが、きわめてきめ細かい効果があがるものだ。
*掘削した土とはどこから持って来たんだろう。距離が遠い場合は、大量の土はおそらく船を用いて運ばれたのではないか。60kgもの土砂をモッコで毎日1km以上運ぶのではいくら古代人でも音を上げてしまうのでは。多分遠距離の輸送は船を利用したと思われる。古墳の周りに環濠が掘りめぐらされているのはそのためだろう。
古墳全体に敷かれた葺石は、斜面保護のために有効である。斜面を風雨による崩壊から防ぎ、植物の生育を妨げる。石津川で採取した小石を、運搬専用の水路を開削して、いかだを曳いて運んだと考えた。小石を集める要員や水路開削に携わる人びともふくめ延べ17万人の作業員が要るが、地上を運ぶ場合に比べ、半数の要員で済む。
**葺石(ふきいし): 古墳の墳丘斜面などに敷きつめられた礫(れき)。 一般に河原石が用いられ、封土の流失などを防いだ。
古墳にはよく知られるように、埴輪が設置されるが、ここでは墳丘や中堤の上に垣根のように並べられる円筒埴輪とした。当初はベンガラなどで表面が赤く彩色されていたという。
この埴輪の設置が完了すると、後円部の中央に、石棺を納めるための深さ2mほどに竪穴式の石室を構築する。これで仁徳陵の土木工事が完了したことになる。この膨大な土を積み上げた、きわめて人工的な巨大な形に、びっしり表面を小石で葺かれ、陽があたると白く輝き、赤く塗られた埴輪が横列に並び、その姿は相当の見ものであったことだろう。
では、これほどの大仕事にどれだけの員数と日数がかかったのだろうか。ここでは、1週間に1回休み、1日8時間労働と仮定する。さらに技術者などを指導者とした労務管理がシステム化されていたと考えられる。施工管理の大半は、1日数千人にのぼる大集団を広大な現場で把握・統率していかに効率よく働かせるかにつきる。
全工期と総工費を別添の各表にしたので、ご覧いただきたい。この巨大な土木工事を「もし私たち現代人がいま建設するとしたら?」という関心にこたえるため、建設機械やコンピュータを多用した現代工法で実施した場合の工期と工費もあわせて併記してみた。
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堺市にとっても自慢の世界文化遺産であるが、そのパンフレットでも巨大な権力を誇示する目的で海上からも目立つ巨大な構造物を造ったとされている。
しかし、これに対しては異論がある。今は古墳の周辺は住宅地が密集している。でも、ここはかっては広大な水田が広がっていたはずだ(ここは古地図などで検証できるでしょう)。新規に水田を開発するには小高い地形を切取り、土地を平らにして河川から水を引いて、均等に水を配分するためのかんがい排水システムの構築が不可欠である。こちらの工事は古墳の建設以上の大工事でかつ息の長いプロジェクトと言えよう。つまり、古墳の建設はある意味土捨て場の確保という大切な役割があったとする考えだ。また、水田開発の間、収入が得られない住民のために雇用対策の意味合いも。弥生時代以降、日本では急速に稲作文化が普及する。全国各地に前方後円墳が広がる。しかも水田開発技術者達はその技術を全国に伝える。
なるほど、説得力のある仮説だ。仁徳天皇以降は巨大な古墳が作られなくなるのは捨土が減ってしまから。実際、仁徳天皇は例の民の竈(かまど)から煙が登らないのをみて租税を取り上げるの止めたとか、善政をした天皇となっている。でも、その結果米の収穫が増えれば天皇も豊かになれる。古墳は明治以前比較的庶民が誰でも入れる空間だったらしい。前方後円墳の方形の部分は人々が集まる祭礼の空間だった?
日本を知ろう
日本のエネルギー
日本のエネルギー(電力)推移を示す。出典は資源エネルギー庁。社会科地理の勉強に最適か。これを見て今後のエネルギーの構成比率を予測できるだろうか。中学生の地理の問題みたいですが。
戦後しばらくは電力と言えば水力発電(水色)に決まっていた。「黒部の太陽」でないけど、地下資源の乏しい日本に取って水力発電は希望の星だ。
1970年代になって石油火力が急速に拡大。なんせ当時は石油が安かった。つまり初期投資に大規模な土木工事が必要な水力発電よりも、石油を湯水のごとく使える火力発電が電力需要の急増に見合ったためだろう。
1975年から、原子力発電が鳴り物入りで導入され、2000年ごろまでは一本調子の急拡大。電力構成比に筆頭に躍り出る。全国津々浦々の電力が原発によって供給される事態に。2000年を過ぎると、スリーマイル、チェルノブィリ等の大事故が起こり、最終的に福島の大災害。また核廃棄物の処理も大問題だ。脱原発の動きが世界中に広まる。
原発の比率は現在6%(一時は30%近くまで)。水力発電が7.8%。つまり原子力発電は無くても全く困らないという状況だ。多くの原発が稼働停止した後、急速にその穴埋めをしたのが石炭火力発電。以外に多いのがLNG発電。水力発電至っては1970年代から一向に開発されていない。
新エネ等には、風力、太陽光が含まれるようだ。水素などはまだ研究段階。自然エネルギーの代表格は当然水力発電だ。実際新エネルギーは、もう数十年前から研究しつくされたものばかり。つまり、ちっとも新ではない。経済的に今まで成立しなかっただけ。政府の補助金無には成立しない技術だ。
ところが、将来電力が不足すると予測されている。この冬は節電要請すら。このグラフだけ見ても何故不足するかは分からない。脱炭素政策のおかげた。脱炭素を進めて地球の温暖化を食い止めるため?
確かに脱炭素でLNG発電も石炭火力のダメなら、電力の80%失われる。「だから原発を再稼働しないとまずいよね。」と言うのが経済産業省の見解なのか。
このグラフを見ればお判りの通り、原子力発電が増えたことが、水力が増えなかった最大の理由だ。つまり、水力発電は原子力発電の最も強烈なライバルで目の上のタンコブ。つまり、原発の再稼働の必要性な全くなくなってしまう。
欧米の環境団体がダムは自然破壊と世界中で動いているのも原子力発電推進が目的だったようだ。地球温暖化防止=脱炭素で騒いでいる環境保護団体も原子力発電推進が目的。原子力産業界から巨額の補助金が出ているらしい。
脱炭素の動きは欧米では大いに盛り下がってきている。ドイツはこの冬恥ずかしげも無く石炭火力を復活する。フランスは原発稼働を増やせる? 更に、地球温暖化は現実に既に始まっていることも明確になって来た。シベリアやカナダグリーンランドで氷床が著しく後退。溶けた地面から大量のCO2が発生。今さら脱炭素何て全く意味がない。温暖化への対策の方が本命だ。どうも脱炭素陰謀説はそろそろ終焉を迎えるかも。
と言う訳で、エネルギー資源を確保して明るい未来を築くには、今後頼りになるのは過去に見捨てられた(原発促進のため)水力発電を復活させるのが急務であろう。ブラジルなどなんと70%のエネルギーを水力で賄っているという。日本もせめて7割ぐらいは水力に移行できる余力はある。だって、水力発電の適地は沢山あるのに当初からその発電量は全く頭打ち。経産省は水力発電にはほとんど付けてくれないらしい。
なんせ洪水も多く、水余りの国で山地も多く落差も取れる。今後のエネルギーの構成比率は水力70%、石炭火力30%ぐらいが望ましいのではないか。間違いなく原子力は不要だ。未だに地上の太陽何て迷信を信じてはいけない。
日本の原子力発電所
2011年3月11日の時点で、日本には54基の原発があり、日本で使う電力の30%前後を原子力で賄っていた。しかし。東日本大震災で、東京電力の福島第1原子力発電所が重大事故を起こしたことで、日本における原子力発電の在り方は大きく変わった。
2013年7月、政府は原発に対する新規制基準を施行。地震や津波に備え、従来よりも厳しい安全基準をクリアしなければならず、巨額の安全対策費が必要となった。さらに、原発が立地する自治体では、再稼働か否かが首長選挙の争点となったり、住民から運転差し止めの訴訟が相次いで提起されたりしている。巨額のコストを掛けて安全対策をしても、再稼働にはいくつものハードルが待ち受ける。
2018年7月12日時点で新基準にパスして再稼働にこぎ着けているのは、大飯(関西電力)、高浜(関西電力)、玄海(九州電力)、川内(九州電力)、伊方(四国電力)の5発電所の9基。西日本エリアに集中しており、事故を起こした福島第1原発とはタイプが異なる「加圧水型」だ。
福島第1と同じ「沸騰水型」では、柏崎刈羽(東京電力)の6・7号機、東海第2発電所(日本原子力発電)、女川(東北電力)が新基準に合格している。ただ、福島第1と同型であることや、特に東日本では震災の記憶が強く残っていることから、地元住民・自治体の合意を得ることは容易ではなく、再稼働の目途は立っていない。
福島の大災害以降現実には原発は日本の発電量の数%にまで減っている。少子高齢化社会を迎え現実には日本のエネルギー消費量は減少傾向。しかも自然エネルギーとしての水力発電の潜在能力は世界でも指折りだ。つまり将来日本のエネルギーは何の心配もいらない。何故今政府は原発の再稼働を急ぐのかその根拠が問われる所以だ。基本的には将来核兵器を所有し敵基地攻撃能力を拡大したという意図が丸見えなのです。
そもそも「加圧水型」と「沸騰水型」は何がどう異なるか。「加圧水型」が安全という根拠はあるのか。
**加圧水型原子炉(Pressurized Water Reactor, PWR):
原子炉の一種。核分裂反応によって生じた熱エネルギーで、一次冷却材である加圧水(圧力の高い軽水)を300℃以上に熱し、一次冷却材を蒸気発生器に通し、そこにおいて発生した二次冷却材の軽水の高温高圧蒸気を得る方式である。2020年現在は主に発電炉として、原子力発電所や原子力潜水艦、原子力空母の発電に用いられている。
**沸騰水型原子炉(Boiling Water Reactor、BWR):
核燃料を用いた原子炉のうち、純度の高い水が減速材と一次冷却材を兼ねる軽水炉の一種である。核分裂反応によって生じた熱エネルギーで軽水を沸騰させ、高温・高圧の蒸気として取り出す原子炉であり、発電炉として広く用いられている。炉心で取り出された汽水混合流の蒸気は汽水分離器、蒸気乾燥器を経てタービン発電機に送られ電力を生ずる。原子炉としては単純な構造であるが、炉心で核燃料に接触した水の蒸気を直接タービンに導くことから、タービンや復水器、蒸気配管などが放射能汚染され、耐用年数終了時に発生する放射性廃棄物が加圧水型原子炉(PWR)より多くなり廃炉コストが嵩む可能性が高い。また、その汚染のため作業員の被曝量が加圧水型原子炉よりも多い。
**軽水炉(けいすいろ)は、減速材に軽水(普通の水)を用いる原子炉。水は安価で大量に入手でき、高速中性子の減速能力が大きく、冷却材を兼ねることも出来る。しかし、中性子吸収量が大きいため、運転に必要な余剰反応度を確保するには、濃縮ウランを燃料とする必要がある。アメリカで開発され、世界の80%以上のシェアを占めている(原子炉基数ベース、1999年時点)。2007年時点で、日本で商用稼動している原子力発電所は全て軽水炉。では、ソビエト連邦で使っていた(今もウクライナで稼働中)原子炉はどうなのか?
**原子炉には、冷却材として軽水(普通の水)を使う軽水炉のほかに、重水を使う重水炉、炭酸ガスやヘリウムガスを使うガス冷却炉などがあります。こちらの方がより安全性が高そうだけど。
黒鉛炉:
減速材に黒鉛(炭素)を用いる原子炉。黒鉛減速原子炉 (Graphite moderated reactor)とも言われる。黒鉛は安価で大量に入手でき、中性子の吸収が少なく減速能力も比較的大きい優秀な減速材である。中性子吸収量が少ないため、黒鉛炉は濃縮していない天然ウランを燃料として使用できる。世界ではこの炉が約12%使われている(原子炉基数ベース、1999年現在)。エンリコ・フェルミの世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」がこの形式。現在の商用黒鉛炉の直接のルーツはプルトニウム生産炉(原子爆弾の材料を作る為の炉)である。確かソビエト製はこれだと思うが。
ただ、上の説明では沸騰水型が危険で加圧水型沸騰水型なら安全みたいだけど本当にそうだろうか。
誰が原発を製造できる
原子力発電所は、納入先である電力会社によって運営されていることになっていますが、原子炉を初めとする原子力発電設備の製造メーカーは技術的なこともあり、数多くのメーカーが参入できる分野ではありません。世界的には統廃合がすすみ、原子力発電設備の設計・製造が可能なメーカーは世界でおおむね3つの陣営に分けることが出来ます。もっとも、これらのメーカーがすべての部材に至るまで物品を製造しているわけではなく、主契約者ということになります。原子力発電所設備を製造可能な3つの陣営とは、東芝とウェスチングハウスによる陣営、GEと日立による陣営、三菱重工とアレバによる陣営。
世界の国々
目次
地理学入門
日本を知ろう
世界の国々
初めに
世界にはいくつ国があるのか。日本政府が承認している国だけでも196もの国家があるそうです。国連加盟国は193だそうだ。日本の196は国連加盟国数193に、「バチカン」「コソボ」「クック」「ユウエ」の4か国を足して「北朝鮮」を引いた数とのこと。これらの国を全部回ったことのある人は世界でだいたい100人程度だそうだ。
私達は、そのうちいくつぐらいの国の現状について知っているでしょうか。定年退職して海外旅行に行く時間ができる。でもたいていは数か国回ればもう堪能してしまうでしょう。それに言葉も分からなくて旗振りのガイドについて観光地回って買い物して、何を得るのでしょうか。旅は人の知識を増やし、人生を豊かにするとは昔から言われてきました。日本の常識は世界の非常識なんて言いますが。
いま、我が国は大変内向き志向になっています。オリンピックなんかの報道も、焦点は日本の選手だけ。国民は本当に他の国の選手の頑張っている姿を見たくないのでしょうか。一時は世界のトップクラスだったODAも今では情けないほど減少しています。ニュースを見てもベトナムやインドネシア、タイ等の国の人々の生活が20年前とどう変わっているのが全く分からない状況でしょう。
でも、これだけインターネットが発達した時代、ほとんどの情報は机の上で居ながらにして手に入ります。まずは手に入る情報をしっかりと把握し整理しておくことが大事です。もし、運よく海外に行くチャンスが来たら有効に活用しましょう。中学や高校で地理を学ぶのもそういう目的のためのはずですね。
アフリカの都市人口
世界で最も人口増加が著しいアフリカ。多くの巨大な都市が創造されつつある。
1位 ラゴス (ナイジェリア) 1312万人
多分上海を抜いて世界一に
2位 キンシャサ (コンゴ民主) 1012万人
旧ベルギー領コンゴの首都
3位 カイロ (エジプト) 929万人
歴史的にも古い都市。ある意味納得でしょう。
4位 ルアンダ (アンゴラ) 777万人
ちょっと意外?ポルトガル人によって造られた街
5位 アレクサンドリア (エジプト) 510万人
もちろん名前の由来はアレキサンダー大王。
6位 ナイロビ (ケニア) 439万人
高度が高いせいか白人達には住みやすい
7位 アビジャン (コートジボワール) 439万人
フランスによって造られた街
8位 ダル・エス・サラーム (タンザニア) 436万人
対岸が観光地ザンジバル
9位 ギザ (エジプト) 421万人
ピラミッド観光もあるから?
10位 カサブランカ (モロッコ) 356万人
11位 アジスアベバ (エチオピア) 327万人
12位 イバダン (ナイジェリア) 316万人
13位 カノ (ナイジェリア) 282万人
14位 ドゥアラ (カメルーン) 276万人
15位 ヤウンデ (カメルーン) 276万人
以上出典は https://worldscities.net/
これを見ると、なるほどと思われる都市も「え!」と思われる都市もある。少子高齢化に悩む欧米先進?国を尻目に、逆に爆発する人口増に悩んでいる国も多そうだ。一つ気になること。今ニュースで騒がれているスーダンのハルツーム(2010年の都市的地域の人口は518万人であり、世界第58位、アフリカでは第5位。)がここでは抜け落ちている。更にここにリストされた都市は総て人口200万人以上の巨大都市。世界は欧米を中心に動いている訳ではないことを再認識。
カレーライスのお話
カレーライスは、今や日本料理の定番として定着しつつあるが、その歴史的背景はなかなか複雑です。ところで毎週金曜日はカレーの日。これ明治以来の日本の伝統。というより、英国の伝統。そもそも、インドにはカレーという料理は無く、ガラムマサラという国民食---日本で言えば味噌汁あるいは醤油みたいな汎用性の高い多種多様な食材がある。どれも豊富に香辛料を使うのですがその使い方も色々で、まさに「おふくろの味」と言ったもの。しいて、カレーの語源を探れば、ドラビダ語系のタミル語「カリ」に行きつくようです。
英国が、インドを統治下に治め、1772年にインド総督だったウォーレン・ヘースティングズによって、「カレー」料理が紹介された。ヘースティングズはロンドンで仕出し屋のような商売もしていて、イギリス人でも調理できるように材料を調合してカレー粉として販売したようです。当時、英国では日曜日に肉を焼く。ローストビーフです。まいにち少しずつ食べて金曜あたりなると肉が傷み始める。それをごまかすためには香辛料満載のカレーがピッタリと言った訳です。土曜日は何食べたのですかね。
日本には明治3年の兵制改革の時期。各藩寄せ集めの群を改革するため、陸軍はフランス、海軍はイギリスの範を取ることにした。そこで、英国海軍の金曜カレーが日本海軍に移植されたようだ。今でも海上自衛隊の金曜の夕食はカレーライスです???。横須賀カレーはその名残(海軍基地があった)。
イギリスでは、ご飯でなくてパン??。イギリスでもカレー&ライスですよ。ヘースティングズは、ベンガル知事。ちょうどガンジス川河口のバングラデシュあたりで、主食は米。もちろんインディカ米の長粒種。日本では超異常なコメの高関税のため入手は難しいでしょうが、この方が多分美味しいのでしょう。
日本でのカレーの国産化は、まず漢方薬屋がトライして成功する。カレー粉は、まさに色々な生薬に混合物。カレーの実が成る植物なんて絶対にありません。この成分を解き明かすことは非常に面白い。きっと色々なカレーを試してみたくなること請け合いです。
また、カレーの具の方も色々な肉や魚、野菜のバリエーションも多く豊富なメニューが可能です。だた、日本のカレーは小麦粉を入れてトロミを出すのに比べて、他のカレーはもっとさらっとしたスープ状と言った違いがあるようです。
1.カレーの色
あの黄色い色のもとは、ウコン(鬱金)。英語名ターメリック (turmeric)。
ショウガ科ウコン属の多年草。インドが原産であり、紀元前からインドで栽培されている。根茎に含まれるクルクミンは黄色い染料の原料としても広く用いられてきた。日本では、カレー粉に用いられるほか、クルクミンの肝機能への影響を期待して二日酔い対策ドリンクの原料にも用いられていますがまだ実証はされていないらしい。
2.辛み成分
辛み成分は、胡椒も多少は使われるのですが、基本はトウガラシ。
胡椒(左側)はヨーロッパではものすごく貴重品だったのです。トウガラシは、コロンブスが持ち帰るのですが、行ったのはインドでないので代わりに持ち帰ったもの。どちらもpepperなんて呼んでますが、トウガラシはナス科、胡椒はコショウ科のツル性植物で全く別もの。唐辛子は手軽に植えられることもあり、今や世界中で胡椒の座を奪ってしまったようです。他に生姜なども入っていることも。
3.香り成分
左から、cumin、coriander、clove
香りの一番手はクミン(cumin)。セリ科の植物。漢方では馬芹。市販のカレーを食べる際にこのパウダーを一振りすると香りが断然引き立つらしい(今度やって見たい)。
二番手はコリアンダー(coriander)タイ料理ではパクチー、中華では香菜(xiangcai)。セリ科の一年草。世界中で使われているが、最近ではスーパーでも売られている。
三番手は、クローブ(clove)、丁子(ちょうじ)ともいう。おもにインドネシア、ザンジバル、スリランカ、モーリシャス、マダガスカル、コモロ、ペナン、ドミニカなどで栽培されている。私も、タンザニアのザンジバル島、ペンバ島に行ったことがあるが、丁子の臭いが町中に漂っていました。チョットあまいいい香りがします。フトモモ科の木の花のつぼみです。大航海時代は、胡椒と並ぶ重要商品だったらしい。
四番手は、ナツメグ。ニクズク科の常緑高木の種子。漢方薬では荳(ずく)。下痢止め。
他に、シナモン(肉桂)…クスノキ科の常緑樹、またその樹皮から作られる香辛料である。ニッキとも。香り高く、『スパイスの王様』と呼ばれる。
左から、カルダモン、フェンネル、フェヌグリーク
カルダモン(cardamon)は、ショウガ科の多年草。和名は小荳蒄(ショウズク)。原産はインド、スリランカ、マレー半島。「スパイスの女王(the queen of spices)」と呼ばれることがある。
フェンネル(Fennel)は、セリ科ウイキョウ属の多年草。和名はウイキョウ(茴香)。
フェヌグリーク(fenugreek)…マメ亜科の一年草植物。
カレーにはものすごく色々な香料が入っているのですね。
先進国と開発途上国
“Fact Fullness- Hans Rosling” という本が出た。一見世の中の常識の様な事柄も、データを見て自分の頭で考えれば実はとんでもない誤解であったということが多数ある。この本の最初の方にあった意外な事実。多分衝撃的だ。
まず、右のグラフを眺めてみよう。横軸は女性一人当たり何人子供を産むのか。縦軸は生まれた子供が5歳まで死なずに生き残る確率だ。
このグラフは各国を人口の比率でプロットしている。世界の国々はごく大雑把に2つのグループに分けられる。その間に位置する国は少ない。左の四角は開発途上国(developing countries)で右が先進国(developed countries)という訳だ。左側の大きな丸はインドと中国だろう。開発途上国は、貧しく沢山の子供を産んで多くが無くなる。先進国は少子化で死亡率も小さい。これ多くの人の固定概念だろう。
日本だって戦前や戦後すぐは正に子沢山で幼児の死亡率も高かった。でも待て、中国は今一人っ子政策の為子供を5人も生む女性はいないぞ。
そうなのだ、このグラフは1965年当時の世界の状況だということ。では、改めて2017年時点のグラフはどうなったのか。著しい変化が見られる。少なくとも子供の生存率は著しく向上。5歳まで死なずに生き残る子供は、大抵の地域で9割近い。子供の数は減ってくる傾向にあることは分かるが、貧富の差とは関係なさそうだ。
2つのグラフの間の年代差は52年しかない。一体全体何があったんだろう。グローバル社会の進展だ。米国は欧州の戦後復興のため、ドルを大量に発行してものを買いまくる。
1971年にはドルは金との交換も無くなり、ドル紙幣の世界への垂れ流しが始まる。基本的には超インフレになるはずだけど、ユーロも円も人民元もドルに合わせて紙幣の増刷に応じたため、世界の為替相場は一見安定しているかに見えた。
でもこれは、開発途上国の多数の中間層の生活レベルを著しく引き上げ、一方先進国の中間層の生活レベルを著しく低下させる力となって働いた。
先進国へ集まる富は一部の富裕層にだけ集中するためこのグラフには反映されない。開発途上国でも富の偏在はあるものの全体としての生活の向上は著しい。資本はより労賃の安い地域を求めて世界を回り、その結果世界中の中間層の富を均一化する方向に働いたようだ。
このことは多くの日本の人達は気づいていないかもしれない。現在、米国でも欧州でもアジアでもアフリカでも中間層の人達の生活レベルはそんなに変わらない。羨んだり差別したりは総て偏見のなせるわざ。基本的に対等だ。米国人の多くが豊かだと思うのは間違いだ。富裕層はほんの一握り。先進国(多分開発途上国も)の方が富の偏在は著しい。1%の一握りの人達が残りの99%の人達の富と同じだとしたら?
少なくとも我々は、1965年とは全く異なった世界の住んでいることに。
社会科学・哲学の部屋へ
社会学の部屋PartⅡへ
世界一きれいな英語が聞ける国…秘境ブータン
ブータンと聞いても一般の人は、なかなかイメージが沸かないと思う。なんせ1970年ぐらいまでほとんど鎖国状態で、今でも観光客の数は制限されていて、特定の旅行会社を経由して現地のガイドを同伴しないと旅行することは難しい。ヒマラヤ山脈の山の中の人口約78万人の非常に小さな国である。国民の9割が農民で貧しい国であるが、1972年代にワンチュク国王が提唱した国民総幸福量(いわゆる幸せの指標、GNH (Gross National Happiness))の概念に基づき、「世界一幸せな国ブータン」として国造りを進めており、GDP/GNP増加だけを経済の指標としている世界中の先進国からも注目されている。
ブータンの人達は、伝統文化に中で現代文明とは距離を置いて生活しており、ほとんどは農民ですが、農家はどの家も大きなガッチリしたつくりで、自給自足の生活ができるため、GNP統計上は実際以上に貧困状態と分類されているようです。また、教育、医療、水道等のインフラが無料ということも生活の心配が少ないため、幸福度に大きく貢献しているでしょう。一般的にはお金や経済の成長と幸福度は正の相関があるとされているが、実際の幸福度は、常に他者との比較ですから皆が同程度の貧しさなら人は幸福でいられます。また、余計な情報が氾濫していないことも精神的な豊かさのためには必要でしょう。そのようなわけから、アンケート調査などから、実際にブータンの幸福度は世界のトップ10には入ってくるようです。日本、米国等は20位以下。格差社会が進んでいるのでしょう。
【上記写真の注釈】
上の結婚式の写真は、左の青年がオランダ人で、森林保護関係のNGOの仕事をしているらしい。とてもブータンがお気に入りとのことですが、まさかブータンの女性と結婚して永住するつもりとは。実は、この写真を彼が私に送ってきたのは訳があるのです。
ネパールのカトマンズ空港から、ブータン行の飛行機に乗り込んだとたんの機内放送があり、本日の飛行は霧のため中止ということで、乗客はほぼ強制的にホテルに直行させられ翌朝に飛ぶことに。しかも、ホテルは見知らぬ客同士の相部屋。オランダ人は世界でも背が高いので有名だが、彼も相当にノッポで強そうだ。まあ、向こうからすれば正体不明の中年のアジアのオジサン。お互い間が持たないね。たまたま、ウィスキーのボトルを私が1本持っていたので、二人で1本あけて多少の話もしたようだ。大変喜んでくれていて、そのお礼として写真を送ってくれた。どうしてボトルなんか持っていたのか。ブータンの夜は何も娯楽が無いので準備しておいた方が良いとの情報があったからなのだが。まさに、ノミニュケーションの見本ですね。まあ、これも昔の話。2000年頃かな。ブータン国自体は今もそんなに変わってないかも。
このブータンの人、どうして英語が得意なのでしょう。ブータンと言う国、ちょうどヒマラヤの急斜面に位置しており、大河ツァンポー川(ブラマプトラ川)の沢山の支流による浸食で、国中が深い谷で分断されています。谷が異なると人の行き来も難しく、言葉も異なってきます。従って学校教育では共通語として英語が用いられているそうです。ブータンの人はシャイで人見知りするため、自分から外国人に話しかけることはありませんが、話しかけられるとしっかりとした英語で答えが返ってきます。スーパー(雑貨屋さん)の売り子の女性も英語の教科書を読んでいるような英語が返ってきます。ブータンは国連職員も多く出しているそうです。スローテンポで格調高く、威厳を持って話すことが出来る。日本の英語教育もそんな英語を目指して欲しいですね。
ロシアと日本
文明開化時期のロシアと日本。日本はヨーロッパ諸国から色々なものを学んできました。科学技術は当然としても、軍事や法律など。では、ロシアから学んだもの。文学では、チェホフ、トルストイ、ドストエフスキー他結構あげられそう。後は音楽、チャイコスキーの他幾人かあげられそうです。後は一時流行った歌声喫茶などのロシア民謡。日露戦争と太平洋戦争で敵味方として戦った以外、隣人としてはあまり接触がないのが現実。それと戦後の東西冷戦の影響で、日本人の中にはあまりロシアが好きでない人も多いようです。
**右写真はユジノサハリンスクで見かけたレーニン像。スターリン像はもうないがレーニンは健在。
また、ロシアと言う国は軍事的には大国ですが、経済の面では相当貧しく、国民は常に西欧諸国にあこがれを抱いている国なのです。ロシア人の方は、経済成長を成し遂げ、文化的にも独自な日本には親近感を持っている人の方が多いようです。日本に来る観光客の中にはロシアや旧ソ連邦からやってくる人結構見かけます。
以前、政治家鈴木宗男が、「ロシアと経済交流をしないと北海道の未来は無い。」と言っていましたが、逆にサハリン、北方4島、極東の地域の発展も日本の力なくして発展は不可能です。韓国、中国がその地位を狙(ねら)っていますが。サハリンのスーパーを経営しているのはたいてい韓国人か中国人。社会主義の影響か、ロシア人は商売が下手で、新しい企画を行うことは苦手なようです。ただ、スポーツや芸術の世界ではとことん打込むすぐれた素質がありそうですね。付き合って損は無い相手でしょう。
サハリンには、今でも日本料理店があります。スーパーでは東郷ビールなんて売っています。反日の韓国や中国では、絶対にありえないことです。ロシアの首脳達は、領土問題を棚上げして、経済交流をしましょうと、何度もさそっているのに領土問題に固執し経済交流を拒否してきたのは日本の政府です。北方領土は、戦後のヤルタ会談の密約で米ソが合意したもの。基本的にはロシア側の好意が無ければ絶対に帰ってきません。朝鮮戦争で米国が38度線で留まったのと同じこと。米国の意向は、ロシアが常に敵側にいて欲しいことだけ。四島返還なんてことがおこれば米国が黙っているはずがありません。
ソ連邦が崩壊して、ロシアが自由主義経済圏に組入れられたはずですが、なんとかそれを阻止したい勢力が米国の政治の主導権を握っているのです。冷戦に変わる恒久的な対立です。
ところで、ソ連邦とは何だったのでしょうか。ロシア人は、常に西洋諸国から、田舎者あつかいされ、仲間外れにされ、バカにされ劣等感すら持ち続けてきた歴史があります。国際的には強面で、強いリーダーシップを発揮してくれるプーチンが国民の圧倒的な支持を受けるのはそれなりの理由があるのでしょう。
ニューギニアが面白い
ニューギニアは一度訪ねてみたい国の一つである。ニューギニア島(New Guinea)は、は太平洋南部に位置する島。西半分は、インドネシア領で東はパプアニューギニアとしての独立国。オーストラリアがトレス海峡を隔てその北側にある。パプア島 (Papua)・イリアン島 (Irian)とも呼ばれている。面積は約78.6万km2で日本の国土の約2倍の大きさ。世界の島の中では、グリーンランドに次ぐ面積第2位の島。大陸を含めても8番目に広い陸塊だ。
ニューギニア最初の人類は、氷河期の頃にスンダランドから移住してきた人々であるようだ。オーストラリアのアボリジニに近い系統であるオーストラロイド(パプア人の祖先)とされている。その後、海洋民族で青銅器文明を持つアウストロネシア系の諸民族(メラネシア人、マレー人、ジャワ人)も到来したらしい。
熱帯雨林と湿地帯がほとんどを占めているため、白人たちにはうまく植民地的利用ができず比較的伝統的な社会が良く保存されてきている。そうはいっても独立までは色々と紆余曲折はあったのでそれは別途調べてみる必要はあるでしょう。
ニューギニアはダイヤモンド博士が、最初に人類学の研究のため訪れた地で、その後の彼の思想にも大きな影響を与えた場所だ。彼はバードウォチャーとしての側面もあったので、その面でもニューギニアは最初から魅力的な土地でもあったのでしょう。
ただ、他の地域から隔絶された環境で、その複雑な地形から、多種多様な文化や言語を持った多くの部族達が独自の文化を守りながら生活しており、人類学研究の宝庫であったわけです。
最初に博士がこの島を訪ねたのが、1931年。2006年に首都ポートモレスビーの空港で見た光景は非常に衝撃的だ。近代的な飛行場。空港内での人々の服装も空港職員も設備も他の先進国の様子と全く変わらない。豊かな自然を破壊する道路建設をやめていきなり空港網が完備される。素晴らしいことだ。ただ一歩外へ行くとそこには伝統的な社会もいまだ根付いている。人類2000~3000年ぐらいの歴史の変化をたった数十年程度で追いついたこの人々達が今後どんな変化をしていくのかは大変興味深い人類学の壮大な実験だ。
パプアニューギニア
通称パプアニューギニアは、南太平洋にあるニューギニア島の東半分及び周辺の島々からなる立憲君主制国家。つまり王様がいる? では、西半分はどうなっているのでしょう。西側はイリアンジャヤとよばれ、れっきとしたインドネシアの一部。
東南アジア諸国連合 (ASEAN) の特別オブザーバーであるが、地理的にはオセアニアとされる。場所は地図で確かめた方が良い。イギリス連邦加盟国かつ英連邦王国の一国であり、非白人が国民の多数を占める国としては英連邦王国のうち人口最多かつ面積最大の国である。首都はポートモレスビー。
元々あったパプアとニューギニアが合併してできた国。パプアニューギニアの南側(旧イギリス領、のちにオーストラリア領)で、メラネシア人の縮れ毛を指すマレー語の言葉から、パプアと呼ばれた。一方、北側は、旧ドイツ領(のちにオーストラリア委任統治領)で、メラネシア人がアフリカのギニア人に似ているところから、スペイン人の探検家がニューギニアと名付けた。
なお、ニューギニア島の西半分はかつてオランダ領ニューギニアであり、現在はインドネシアに併合され「パプア州」、「西パプア州」という名称である。
ニューギニア島はオーストラリア大陸と共にゴンドワナ超大陸を構成していたが、白亜紀に始まった大陸分裂で、オーストラリア大陸と南極大陸は4500万年前に分離し、ヒマラヤ山脈と同じころにニューギニア中央山脈も形成された。氷河期にはニューギニアとオーストラリアは地続きで、サフルと呼ばれる一つの陸地であった。謎のムー大陸伝説の根拠かも知れない。
この地域において、約6万年前の東南アジア方面から来たと思われる人類の痕跡が見つかっている。約5000年前、ニューブリテン島中央部のタラセアにおいて、貝の貨幣「シェルマネー」が作られた。これが世界最古の貝貨とされている。
島の発見
1526〜27年ごろにポルトガル人のドン・ジョルジェ・デ・メネセスが、パプアニューギニアの主となる島を発見するに至り「パプア」と命名した。1546年には、ニューギニア島北岸を航海したスペイン人のオルティス・デ・レテスが「ニューギニア」と命名した。
1941年からの太平洋戦争では、日本軍が1942年1月22日、ニューブリテン島ラバウルに上陸、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領し、ポートモレスビー攻略を狙った。しかし、1942年5月に行われた珊瑚海海戦の結果、海からのポートモレスビー攻略を諦め、1942年8月にはソロモン海岸からオーエン・スタンレー山脈越えでポートモレスビーを陸路攻略する作戦が実行された。ここでも飢えとマラリアの為に多くの死者を出して撤退し、その後、制海権、制空権を失い補給を絶たれたニューギニアの日本軍は、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と評される凄惨な状況となった。多分ニューギニアのジャングルには戦死した日本兵たちの遺骨があちこちに散らばっているらしい。
約4万年前にメラネシア系住民がニューギニア島に入り、長く原始的な部族社会を営んできた。19世紀にオランダ人が西海岸に商館を設置。1885年、オランダはイギリス・ドイツとともにニューギニア島を分割し、西半分をオランダ領ニューギニアとし、オランダ領東インド(インドネシア)に併合した。1942年から1944年までは、日本軍が同地域の北部海岸を占領した。
1949年、インドネシア独立戦争を終結させたハーグ協定で、この地域の帰属問題は難航し、オランダ領ニューギニア(1949年~ 1962年)のまま将来の解決に委ねられた。1952年、オランダはパプア人の自治権を認め、独立準備を進めたため、領有権を主張するインドネシアとの対立が深刻になった。
ソ連の軍事援助を受けて軍備を拡張したスカルノ大統領は1960年、オランダとの国交断絶を宣言し武力による解決を示す一方で国連に提訴した。1961年にオランダが西パプア共和国の独立を認めると、インドネシア国軍を西パプアに進攻させた(パプア紛争、1963年–現在)。しかし、インドネシアにおけるソ連の影響力拡大を恐れたアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは弟のロバート・ケネディ司法長官をオランダ、インドネシア双方に派遣して調停させた。その結果、西パプアは1962年国連の管理下に置かれ、翌年インドネシアに引き渡された。
インドネシアは1969年、国軍の管理下で操作された住民投票を行い、80万人のパプア人の意思を無視して西パプアを併合、西イリアン州(1973年、イリアンジャヤ州と改称。2002年、パプア州に改称)を設置した。ビヤック語でイリアンは「東」から転じて「ニューギニア島」、ジャヤは「偉大な」を意味する。これに対してパプア人の間ではインドネシアからの独立を求める自由パプア運動が起こったが、インドネシアは1970年、イリアンジャヤを軍事作戦地域に指定し、国軍による弾圧を行った。その一方で120万人を超えるインドネシア人がイリアンジャヤに移住して植民している。
2000年に西パプア住民大会が新国家パプアの樹立を宣言しインドネシアをゆるがす問題に発展した。2003年2月、住民の反対にもかかわらず、同州最西部(形からバーズ・ヘッド(鳥の頭)と呼ばれる)を西イリアンジャヤ州として分割した(2007年2月、西パプア州に改称。)。その後、独立運動はさらに活発になった。2006年には独立運動家がオーストラリアに亡命しオーストラリア政府がビザを発行したためインドネシア・オーストラリアの関係悪化にもつながった。
グリーンランド
グリーンランドは、北極海と北大西洋の間にある世界最大の島(日本の面積の5.73倍)。メルカトル図法の地図で見ると北極に近いところにやたらと大きな島が描かれている。しかし、特別な観光地でもなさそうだし、我々にとっては存在感の薄い土地でもある。所属はデンマークの旧植民地。現在はデンマーク本土、フェロー諸島と対等の立場でデンマーク王国を構成しており、独自の自治政府が置かれてそうだ。
982年頃、ヴァイキングの仲間の赤毛のエイリークという人物が、この島を発見しグリーンランドと命名したらしい。ちなみにアイスランドもこの人物が発見し、ネーミングが悪く入植希望者が来なかったので、グリーンランドと命名したらしい。その後は住民たちも絶滅し忘れられた存在になっていたらしい。
グリーンランドは、大部分が北極圏に属し、全島の約80%以上は氷床と万年雪。巨大なフィヨルドが多く、氷の厚さは3,000m以上に達する所もあるという。居住区は沿岸部に限られ、本当に北極の島だ。
16世紀半ばに再発見され、18世紀にゴットホープに植民地が作られ、同時に布教も行われた。1917年以降はデンマークの支配が全島に及び、1953年本国の県と同様の自治権を得る。1979年5月に自治政府が発足し、グリーンランドはデンマークの自治領となった。1985年グリーンランド政府はECを離脱。
グリーンランドは、島内のほとんどの土地が厚い氷に覆われており、地下資源の採掘が困難であった。しかし、地球温暖化の影響で少しずつ氷が溶解しており、今後採掘のスピードが速まると予想される。グリーンランドの地下には中東地域に匹敵する量の原油が存在するとされており、地下資源収入が経済的にグリーンランドを支え、デンマークからのグリーンランド独立が容易になるとも指摘されています。主な資源は鉱物(亜鉛、銅、鉄、氷晶石、石炭、モリブデン、金、プラチナ、ウランなど)と海産物(魚介類、アザラシ、クジラなど)。
【グリーンランドの経済】
現在のグリーンランドの主な収入源は漁業のようだ。2010年の輸出品の87%が魚介類(うち55%がエビ)および水産加工品。農業の中心は野菜生産と牧羊、そしてトナカイの飼育です。またグリーンランドアザラシをはじめとする動物の皮革や毛皮製品も、輸出の一部を占めています。
クラカタウ火山
インドネシアのジャワ島とスマトラ島間スンダ海峡にある超巨大火山。今でも活発に活動しているらしく恐ろしい話だ。数万年以上前から活動していたようだが、文字が発明されて以降、535年と1883年に大爆発を起こしている。特に535年の噴火は地球環境にも多大な影響を与え、歴史を大きく塗り替える原動力ににもなったとか。
東ローマ帝国には、この時の様子の記述が明確に記載されており、1年以上も「太陽が暗い状態」が続いていたことが記されています。
【東ローマ帝国の歴史家プロコピオスの西暦536年の記述】
昼の太陽は暗くなり、そして夜の月も暗くなった。
太陽はいつもの光を失い、青っぽくなっている。
われわれは、正午になっても自分の影ができないので驚愕している。
太陽の熱は次第に弱まり、ふだんなら一時的な日食の時にしか起こらないような現象が、ほぼ丸一年続いてしまった。
月も同様で、たとえ満月でもいつもの輝きはない。
同様な記述は、西ローマ側にある。
【歴史家であり教会指導者ヨーアンネースの西暦536年の記述】
あのような太陽からの合図は、いままで見たこともないし報告されたこともない。
太陽が暗くなり、その暗さが1年半も続いた。太陽は毎日4時間くらいし照らなかった。照ったといっても、実にかすかだった。
人々は太陽が以前のように輝くことは2度とないのではと恐れた。
このような記録は、中国にもあり、世界の多くの地域で噴火の爆音が聞こえたらしい。535年の大規模な噴火はインドネシアの文明に歴史的な断絶を引き起こした。5世紀から6世紀にかけてのジャワ島西部にはカラタンと呼ばれた高度の文明が栄えていたが、6世紀以後姿を消す。また、世界各地に異常気象をもたらす。その痕跡は樹木の年輪や極地の火山灰の堆積のような物的なものから歴史文書に至るまで広範囲に亘っているのだ。
1999年、イギリスで放映されたテレビ・ドキュメンタリーにおいて、この巨大噴火による気候変動を発端として、東ローマ帝国の衰退やネズミを媒介とするペストの蔓延、歴史に残らぬ暗黒時代の惨事の数々、イスラム教の誕生、ゲルマン人等によるヨーロッパ侵攻、中央アメリカのマヤ文明の崩壊、少なくとも4つの新しい地中海国家の誕生などが起こったと推論できるとされた。
アラル海の問題について
アラル海と言ってもどこにあるのか分からない日本人が多いと思う。昔はシルクロードの真珠とも言われる美しい湖。世界で4番目の湖水面積を持っていた。シルクロードの中継点として、古代から色々な文化遺産もあるはず。歴史に興味ある人は、一度は訪れてみたい所。場所は、カザフスタンとウズベキスタンの国境。このアラル海が消滅の危機にあると言う。大規模モノカルチャー農業による典型的な環境破壊の一例だ。旧ソ連時代には、綿花の栽培のため大規模な灌漑事業が盛んに行われた。綿花というものは完全な商品作物。アメリカでも黒人奴隷を使った廉価な綿花でインド綿を売れなくした歴史がある。コストパフォーマンスを考えれば、大量の水を使って耕地面積を増やすことが米国の綿花に対抗できる唯一の方法だろう。加えて大量の農薬もあるだろう。
ところがアラル海は砂漠のような乾燥地に奇跡的に存在しているような湖。水源は近くの山からの雪解け水なのでしょうが、出口の無い湖なのだ。アムダリア川とシルダリア川から流入した水は、ここアルル海で蒸発するか地下にしみ込むかで消えてしまう。当然灌漑で水を消費すれば、湖は干上がってしまうのは当たり前のこと。でも、世界で4番目の湖水面積を誇っていたアラル海は、そんなにすぐには消えない。
しかし、湖水面積の減少、塩分の集積、漁業の壊滅、周辺環境の悪化と、綿花の栽培のメリットよりも環境悪化のデメリットの方が目立つようになる。この問題が表面化したのは旧ソ連邦の崩壊が原因だ。崩壊後のソ連に対し西側の環境団体やメディアがソ連経済政策の悪さを宣伝する目的で強調しているが、これは本来古代から引き続き行われてきている灌漑農業による環境破壊の一例でしかない。
話は飛ぶが、宮崎駿監督の「もののけ姫」を覚えておられる方は多いだろう。実はこれは、人間による環境破壊を取り扱った映画であることは、これを見た方は気がつくと思う。破壊された環境に住んでいた「もののけ達」は、いずれとんでもない形でしっぺ返しをする。この「もののけ姫」実は、原型となるストーリーがあるのだそうだ。ギルガメッシュ叙事詩は、古代メソポタミアに伝わる一種の神話だが、ギルガメッシュ自身は実在していたとも。彼は都市を作るため森の神を退治する。その結果、どんな祟りがあったかは、原作を読んでいないので私は知らない。別に楔形文字が読めなくても日本語訳は出ていると思いますが。
しかし、現実にも祟りは生じている。当時は豊かに繁殖していたらしいレバノン杉の森は今ではほとんど姿を消し、中東の人々は今ではろくな農業はできず、油(原油)を売って暮らしている。肥沃な三日月地帯など今は伝説上の代物となってしまった。原油は枯渇資源、いずれは掘りつくして無くなる。今、林立するビル群も砂上の楼閣なのかも。
そもそも、アメリカ、カナダ、オーストラリアの大規模モノカルチャー農業が、本質的に環境破壊型であることに気がつかねばならない。モノカルチャー農業よりも更に破壊的な農業が、西欧人が植民地で実施してきたプランテーションという大規模モノカルチャー農業だ。この二つの環境破壊農業を推し進める原動力が、自由貿易やグローバリゼーションという魔術である。低コストの大規模モノカルチャー農業と自由貿易が、開発途上国や社会主義国の農業政策まで破壊していることを認識しないといけない。
西欧人たちは、原住民たちを追い出して、タダ同然で土地を手に入れている。農作物の収穫を増やすために農地を増やせば良い。土地が無ければ森を焼いて、ブルドーザーで開墾して作れば良い。労働力は貧しい人たちを雇えばいくらでも手に入る。作物は同じ畑で何年も育てていれば連作障害と言って、育たなくなる。だから、大量の化学肥料をまき散らす。農地は荒廃するが土地は無尽蔵だ。今では、これらの地域は世界の食料基地として君臨している。
こんな農業に、旧世界の農民たちは太刀打ちできるわけがない。こんな農業が理想の形と誤解してまねをすれば、当然環境破壊をもたらすことは必然だ。環境に配慮した農業は当然コストもかかるし、無制限に規模の拡大はできない。
それでは、アラル海の問題は今後どうすればいいのか。あるいはどうなるのか。基本的な解決策は一つしかない。灌漑農業を総て止めること。アラル海への水の供給が復活すれば時間はかかるものの環境はある程度もとに戻る。ところが大規模モノカルチャー農業というもの一度手を染めると元に戻ることは難しい。麻薬中毒と同じだ。灌漑をすれば収量が増やせる。生産が増えると人手が必要に。人が増えれば食料を増やさないといけない。そのためには耕地面積を増やして灌漑施設を増強する。そのためには投資がいる。投資を回収するには水が必要。すべての可能な土地を灌漑しつくすまで終わらない。人が住み生活しているのに今さら止めることはできないだろう。しかも、それまでに多大の投資もしている。灌漑農業を止めない限りどんな解決策も効果が無い。他の河から水を引いて来る。結局更に耕地面積を増やすだけだ。大規模モノカルチャー農業という考えを捨てて、多品種少量生産、産地地消型、環境保全型の農業を作り上げていくことが必要だ。
実は、新世界の大規模モノカルチャーも曲がり角に来ている。耕地面積を増やして灌漑施設を増強する余地がなくなっているからだ。世界の食糧生産基地として君臨していくために大量の補助金(国民の税金)を必要としている。つまり以前ほどもうからなくなっている。
水資源の問題も深刻だ。コロラド川の下流には水がなくなってしまっている。河口の生態系には大打撃。中国の黄河の河口にも水が来ない。長江から転流なんていう考えもあるが環境破壊だとも言えそうだ。アマゾンやアジアの熱帯雨林では耕作や放牧のために森林の伐採が進んでいるという。熱帯雨林では土壌の問題から数年で土地が荒廃し、更に伐採が進むという。荒廃した土地は元の森林には戻らず、世界の植物によるCO2吸収量が大幅に減少することが懸念されている。
オーストラリア大陸は、農業には不適な乾燥地で、原住民のアボリジ達はつい最近まで狩猟採集生活を行っていた地域だ。そこにやって来た白人たちは井戸を掘ることを考えた。地下には膨大な水量の化石水が眠っていた。井戸を掘れば水が自噴する。だからオーストラリアは今では農業大国。しかし、将来も安全な訳ではない。化石水は有限な資源で将来は枯渇するからだ。
世界の人口は今も増え続けているが、食糧生産は今までの大規模モノカルチャー農業では頭打ちだ。今後大規模な環境破壊を伴わずに耕地を拡大することは不可能になっている。
アラル海の問題は、世界的規模で進んでいる大規模モノカルチャー農業による限界を示す警鐘であろう。住家を奪われた「もののけ達」の祟りを受ける前に知恵を絞って新しい生き方を考えなければいけない時代かも。
ディエゴ・ガルシア島
こんな島の名前は、たいていの日本人は知らないだろう。実は、この島にはインド洋最大の米空軍基地があり、沖縄と比べてもはるかに重要な基地なのだそうだ。インド洋の真ん中にあるこの島は、米軍がアジア太平洋地域とインド洋中東地域を行き来する際、補給や空爆などの拠点として非常に重要で、アフガニスタン侵攻やイラク戦争などでフル活用されてきた。この島を使えなくなると、米軍のインド洋拠点が失なわれ、世界的な軍事覇権の低下につながるものと懸念されている。しかし、この基地が消滅する可能性が実現性を帯びてきているらしい。
でも、地図の上でこの場所を特定するのも結構大変だ。まず、ディエゴ・ガルシア島は、「チャゴス諸島」の最大の島だ。チャゴス諸島は1814年に英国の植民地になり、モーリシャスの一部として統治されていた。ところがモーリシャス独立の際、チャゴス諸島だけを不法に占拠を続け、英国がディエゴ・ガルシア島を米国にまた貸ししていたことになる。モーリシャスは、インド洋でもマダガスカル島のチョット東側、セイシェルやモルジブとな並ぶ、美しい海洋リゾート地。誰でも一度は訪れてみたい所だろう。そんな平和な島に世界最大級の軍事基地があるというのも現代世界の醜さを表す象徴なのかも。
今年(2019年)2月末、国際司法裁判所が「英国はチャゴス諸島をモーリシャスに返還(引渡し)すべき。英国はチャゴス諸島に対し、不当な植民地支配を続けている」とする、モーリシャス勝訴の勧告(判決的なもの)を出す。国際司法裁判所の勧告には拘束力がないので英国に無視されているが、ディエゴガルシア島の米軍基地の存立基盤である「英国によるチャゴス諸島の領有」が、国際法的に違法なことであると確定した。国際司法裁判所の勧告を受けて、国連総会は5月22日、英国に対し、チャゴス諸島を半年以内にモーリシャスに返還するよう求める英国非難決議を、賛成116、反対6、棄権56の圧倒的多数で可決したと言われる。いずれにしろ英国はこの件に関しては今後、何も権利を主張しないだろう。今後モーリシャス政府が米国と直接交渉しないといけないことになる。
モーリシャス政府は「英国からチャゴス諸島を返還された後も、ディエゴガルシアの米軍基地の存続を認める」と言っている。モーリシャス政府は、米軍基地の建設前にディエゴガルシアから追い出された旧島民の権利主張を代弁して米英に補償などを求める可能性は高い。しかし、モーリシャス政府だって基地の経済的軍事的メリットをみすみす失う気はない。だが、モーリシャス政府が米国に基地存続の条件を提示しても、外国政府に寛容でないトランプの米国は要求を突っぱねる可能性が大だ。。トランプ的に言うなら「米軍が高い金をかけてインド洋を守る義務などない。インド洋の防衛は、航路を使うアジア諸国がやるべきだ。ディエゴ・ガルシアの基地など閉鎖すれば良い」という話になる。今の米国のスタンスは基地を存続してやるから金を出せ。嫌ならいつでも出て行くぞだ。
確かに英国のEU離脱騒動で国際影響力が低下し、米国もトランプになって覇権放棄を積極的に進めている。ディエゴ・ガルシアの米軍基地などなくなった方が良いと考える国や人(米国人を含め)が増えていることを、賛成の増加と反対棄権の減少が物語っている。
事実、日本や中国は、インド洋の西端のジブチに海賊退治の名目ですでに基地を設けており、インド洋を自衛する傾向だ。中国海軍は、スリランカやパキスタン、ミャンマーなどインド洋の諸国の港を租借して首飾りのようにつないで影響圏にする「真珠の首飾り戦略」(インド包囲網)を以前からやっている。米国がインド洋から出て行く流れの中にいるのと対照的だ。日本の沖縄基地も同じだろう。何も米国が日本のためにコストをかけて守る義務はない。もっともっと金を出せ。
スプリト
スプリトは、ローマ時代にはダルマチアと呼ばれていたクロアチア南部の中心都市でユネスコの世界遺産にもなっている美しい都市。アドリア海東海岸の、小さな半島に位置し、対岸はイタリアのベニス。
この町を最初に建設したのが古代ローマ帝国の帝王ディオクレティアヌス。彼が引退後のために建てた宮殿とは言え、本格的な要塞機能も備えた本格的なもの。AD295年~305年に建てられたと言われており、こんな古い時代の物なら当然世界遺産の候補だが、著しく保存状態がいいことも魅力。
それ以前も、ギリシアの植民地が建設されており、彼等はダルマチア人との貿易を行って暮らしていたらしい。アテネだのスパルタだのギリシア人の活躍していた時代だね。その頃ゲルマン人たちは森の中で狩猟採集生活していたのでしょう。つまり、ダルマチア地方というのは当時では文化の先端地域の一部だったわけか。
宮殿はどっしりとした構造をしており、ほとんどローマの軍事要塞。城壁内の面積は38,000平方キロメートル。一辺190kmの正方形を考えるといかに巨大かが分かる。当時のローマ帝国がいかに周辺の異民族たちの侵入に気を配っていたかが分かる。
水道は堅固な作りで、アルプス山中の水源から水道路で供給されていた。宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていたと推定されている。住民には、公園と余暇施設が与えられていた。ディオクレティアヌスは、予定通りにきっちりと引退し、自発的に自ら職を退いた最初のローマ皇帝となる。 ということは他の皇帝達は病死か、暗殺か、クーデターで殺されたのか。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スプリト(当時はスパラトゥムと呼ばれていた)は東ローマ皇帝の支配下に。西ローマ帝国が滅亡は民族大移動という世界的な出来事が原因。定住地の確保を巡って、色々な民族同士が互いに争うようになる。
639年頃にこの地域一帯がアヴァール人とスラヴ人の侵攻で略奪されると、住処を失った東ローマ市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れる。東ローマ支配がその地域で復活するにつれ、多くのローマ市民は、本土へ戻る。しかし、一部の市民たちはディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択する。宮殿が強固な要塞状だったためである。この時、宮殿は長く打ち捨てられていたが、建造物内部は避難民等によって、新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造される。現在でも、宮殿はスプリト市の内核として機能しており、今も商店や市場・広場、住宅があり市民が暮らしている。遺跡をうまく利用した独特の街並みは今では立派な観光資源。宮殿都市は、その後歴史の中を紆余曲折しながら、現在までその姿をとどめているようだ。
デリーの鉄柱
デリーの鉄柱(デリーのてっちゅう)とは、インド・デリー市郊外のクトゥブ・ミナール内にある錆びない鉄柱のことです。チャンドラヴァルマンの柱とも呼ばれている。1993年に「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」として世界遺産に登録されている。
鉄柱は99.72%という高純度な鉄(純鉄)で作られており、表面にはサンスクリット語の碑文が刻まれ、頂上には装飾的なチャクラがあしらわれている。直径は約44cm、高さは約7m、地下に埋もれている部分は約2m、重さは約10トン。インド有数の観光スポットになっているようだ。グプタ朝時代、紀元415年に建てられたといわれる。1500年以上のあいだ地上部分に限り錆が内部に進行していないことで知られている。錆びない理由としては、鉄柱を覆うリン酸化合物の皮膜が存在することで錆に強い特性が生まれたと考えられているが、現代の科学をもってしても謎だ。
一般に『アショーカ王の柱』と呼ばれているが、アショーカ王の建てたものではなく、アショーカ王より700年近くも後のものらしい。ダマスカス鋼で作られているとも言われている。この鉄柱のように錆びない鉄を目指す研究からステンレスが生まれたようだ。
鉄が錆びる理由は: 自然界において不安定な鉄(Fe)は、酸素を取り込んで、鉄鉱石はFe2O3(ヘマタイト)、Fe3O4(マグネタイト)など酸化鉄の状態で安定する。精錬した鉄も同様で、その過程で生じる酸化鉄が錆である。普通の鉄は錆びるのが普通で、考古学の遺物も青銅器は残るが鉄器はなかなか残らない。
加熱しながら鍛えた鉄が錆びにくいことは経験上知られている。熱を加えて叩くことにより、不純物が外側に押し出され鉄の純度があがり、内部では再結晶化が促進されるためらしい。例として日本刀があるが、手入れを怠ればやはり錆を生じる。
現代では錆びない鉄として1913年に開発されたステンレス鋼が知られている。これは鉄(Fe)に、クロム(Cr)とニッケル(Ni)を一定量加えたもので、金属の表面に酸化皮膜を形成することで錆の発生を防いでいる。つまり表面が錆びることで内部を逆に保護しているということ。
古代の錆びない鉄としては同じく鍛造のダマスカス鋼が有名で、鉄柱もこれではないかと言われる。ただし、ダマスカス鋼も全く錆びないわけではなく、また注目を集めるのはむしろ模様の美しさによる。ダマスカスはシリアの首都の名前だね。
また、鉄は酸素と水があれば容易に酸化する。この地域は乾燥しているので、鉄は酸化しにくいのでしょうか。
鉄柱が純度の高い鉄製だから錆びないというのは誤りであるらしい。金属工学の専門家、インド工科大学のバラスブラマニアム博士によれば、99.72%の純度ならば50年ほどで錆びるという。1500年の間風雨に曝されながら錆びなかった理由は、鉄の純度の高さではなくむしろ不純物の存在にあるという仮説が有力らしい。
イースター島
イースター島は、チリ領の太平洋上に位置する火山島。モアイ像の建つ島として有名です。ポリネシア・トライアングルの東端に当たり、最も近い有人島まで直線距離2000km余と、周囲にはほとんど島らしい島が存在しない絶海の孤島です。
海底火山の噴火によって形成された島に最初の移民がたどり着いた時期は諸説あるが未定。文字記録がないため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀〜5世紀頃、西暦800年頃とする説が有力だったが、近年の研究では西暦1200年頃と言う説もある。実は文字による記録は残っているのだが、解読はされていない。
この移民は、はるか昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びと(オーストロネシア語族)の一派、いわゆるポリネシア人だったと考えられている。
ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象で、神格化された王や勇者たちの霊を部族の守り神として祀る習慣があり、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれたらしい。イースター島でも同様に行われていたようだ。化石や花粉の研究から、当時のイースター島は、世界でも有数の巨大椰子が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと想定されている。上陸したポリネシア人は鶏とネズミを共に持ち込んで食用としたといわれている。
【モアイの時代】
ジャレド・ダイアモンドらによれば、7世紀〜8世紀頃に、アフ(プラットホーム状に作られた石の祭壇)造りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイ像も作られるようになったとされる。他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工しやすい軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことがある。採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡で、現在でも完成前のあらゆる段階の石像が、散乱する彫る道具とともに残されている。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイ像も作られていく。
モアイは比較的加工しやすい素材である凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられている。デザインも時代につれ変化していった。
第1期:人の姿に近いもので下半身も作られている。
第2期:下半身はなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる。
第3期: 頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。
第4期: 一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになる。
18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器や鉄器の存在は確認されていない。当時作られたモアイや墳墓、石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえる。
よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。
現在、アフ(台座)に立っている全ての像は、近年になって倒れていたものを立て直したものである。 島の東端にある、島最大の遺跡「アフ・トンガリキ」(アフの長さ100m)の上には、高さ5mを超える15体のモアイが立ち並んでいるが、これも1994年に周辺に倒れていた15体の像を、考古学者のクラウディオ・クリスティーノが55tの重量に耐えるクレーンを使って立て直したものである。
過去には、島にはもともと、巨大な像を作って動かす技術や知識がなく、モアイは南米からやって来た人々の力で建てられたという説が有力だった。しかし島民の遺骨のDNAには、島外起源の遺伝情報は見つかっていない。最近の研究により、モアイは島民が自力で建設し、移動させたことがわかっている。
【文明の崩壊】
島民の入植から17世紀までの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息する。モアイを作り、運び、建てるためには大量の木材が必要で、伐採によって森が失われた。ジャレド・ダイアモンドらは、こうした人為的な自然破壊が究極的にイースター島文明の崩壊を呼んだとする説を述べている。
それによれば、人口爆発(僅か数10年の間に4~5倍に膨れ上がり、1~2万人に達したという)と共に森林破壊が進んだ結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じた。モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続き、森林伐採は結果として家屋やカヌーなどのインフラストラクチャー整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代とほとんど変わらないものになっていた。 これは、文明の自滅説とでもいえるか。
ただし異説もある。テリー・ハントは、まず、森を破壊した主因はネズミによる食害だとしている。天敵が居ない環境にネズミが持ち込まれると、その急激な繁殖に伴って森林が破壊され、これを駆除すると森林が再生する様子は太平洋の他の島々の歴史上でも見られて来たという。イースター島でも発掘された植物の種子の多くにネズミにかじられた跡が見られた。文明の崩壊についても、そもそもイースター島の人口が1万5千人以上などに達した証拠はなく、森林破壊が進んだ状態でも人口は安定的に推移しており、最終的に崩壊をもたらしたのは自然破壊ではなく西洋人との接触(後述)だと唱えている。 でもネズミは食料として移入されたのではなかったのかな。
また、部族の争いがあったにしては、人を殺すことを目的としたような殺傷能力のある「武器」が島内からほとんど発掘されておらず、島で使われていた「マタア」と呼ばれる石器は、人を刺し殺すような作業には適していないという。島内から発掘された469個の頭骨を調べたところ、マタアによるものと思われる切り傷の痕が見つかったのは、そのうちわずか2個だけだった。西洋人による侵略時にも、現地人は投石で戦ったとされる。このことから、口伝にあるような戦闘があったのかどうか疑問視する専門家もいる。
いずれにせよ、争いが起こったとされる時から数百年も後になってから、収集された口承だけを頼りにすることは、研究者の間で論争となっている。部族間抗争の存在については、研究が進むにつれて否定されつつあり、イースター島民の人口が減ったのは、ヨーロッパ人による奴隷狩りが原因である可能性が高まっている。苛烈な奴隷狩りにより、島民の人口は100人前後まで減り、やがて疫病の流行で絶滅したとされる。
【ヨーロッパ人到達後】
1722年の復活祭(イースター)の夜、オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。発見した日にちなみ島名が付けられたとされている。この島に上陸したロッヘフェーンは、1,000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島民の姿を目の当たりにする。
1774年には、イギリス人探検家のジェームズ・クックも上陸しているが、倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたものの、半数ほどはまだ直立していたと伝えている。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる。
18世紀〜19世紀にかけてペルー副王領政府(→ペルー)の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、島民が奴隷として連れ出された。1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時の島民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致された。また外部から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果、人口は更に激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時ではわずか111人であった。この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶した。
1888年にチリ領になり現在に至るが、1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、日本に対して打診があったという。日本は主に漁業基地としての有用性を認めたが、在チリ国公使三宅哲一郎がアルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマ大統領と面会したところ、アメリカ合衆国及びイギリスにも売却が打診されているとの説明がなされたため、しばらく静観するのが得策であるとの意見が出されたという。独立運動が起こっている話もあるし。結局最後に残る説は、白人到来による奴隷狩りと持ち込まれた疫病のせいではないか。
地理
チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmほどの太平洋上に位置し、ペルー海流が周辺海域は渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場であり、とくにカタクチイワシが多く捕れる。全周は60km、面積は180km2ほどであり、北海道利尻島とほぼ同じ大きさである。島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。また1995年に世界遺産に登録されている。
やや乾燥した気候で年間降雨量は1,250mmと少ない。バナナ、サトウキビなどの栽培には十分である。一方、河川がないため灌漑用水の確保はしにくい。タロイモ栽培などには適していない。
地質
マグマの噴出によって造られた小さな火山島であり、上空から見ると三角形をした島の各頂点には、カウ山、カティキ山、テレバカ山の3つの火山がある。テレバカ山(海抜507m、海底からは約2,000mの高さがある)が島の大部分を占め、他の2つの他に多数の噴火口や火口湖がある。ガラパゴス諸島やハワイ諸島と同じ玄武岩で鉄分が多く75万年前に形成され、最新の噴火は約10万年前とされるが、20世紀前半に水蒸気の噴出が記録されている。
交通
島の人口は約4000人。島内には、チリ海軍が駐留し、数ヶ月に1度は物資とともに海兵隊もやって来る。鉄道は敷設されていないが、主要道路については舗装されており、島内の主な交通手段としては、乗り合いバスもしくはタクシーが、主な公共交通手段として、島民や観光客に利用されている。観光客には、レンタカー、レンタルバイクも利用されることが多い。
島内には、レストラン、ホテル、ディスコ、ガソリンスタンド、ビデオレンタルショップ、学校、病院、博物館、郵便局、放送局(テレビ局3局、ラジオ局1局)等の施設が整っており、島の暮らしは至って現代的。
ラン航空が、マタベリ国際空港とサンティアゴ、リマ、タヒチのパペーテとの間に定期便を運航している。近隣諸島との間には貨客船も運航されている。なお、マタベリ国際空港の滑走路は、島の規模には不釣合いな3,300mと長大なものであるが、これはかつてNASAがスペースシャトルをヴァンデンバーグ空軍基地から打ち上げる計画を持っていたため、その際の緊急着陸場(TAL sites) のひとつとして整備されたため。チャレンジャー号爆発事故によってこの計画も中止されたため、緊急着陸地のリストから外された。
住民はロンゴロンゴと呼ばれる絵文字を持っていた。この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、1行目を読み終えると逆さにして2行目を読むというように、偶数行の絵文字が逆さになっている。板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。
この文字は伝統的に支配者家族や神官に伝えられていたが、1862年のペルー人の襲撃による奴隷化と後続した疫病を通じてこれらの識字層が全滅してしまい、内容を判読不能となった島民たちによって、以後薪や釣り糸のリールなどにされて、多数の文字資料が失われたという。そのため僅か26点しか現存せず、それらは全て島外に持ち出されて各国の博物館などに収蔵されている。 また、現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによりタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であり、現行のラパ・ヌイ語はタヒチ語の影響を強く受けた言語である。古代ラパ・ヌイ語についてはヨーロッパ人による貧弱な記録をたどるほかは、現行のラパ・ヌイ語から復元する以外、知る手立ては存在しない。したがって、解読は難しいとされている。
**ロンゴロンゴと呼ばれる独自の (今まで解読されていない) イースター島文字は、古代ラパ・ヌイ語で書かれていると推測されている。
その他
閉鎖された空間に存在した文明が、無計画な開発と環境破壊を続けた結果、資源を消費し尽くして最後にはほぼ消滅したというダイアモンドらによる説は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い。
ポリネシア人がラパヌイ島に着いたとされる時期の森林は島を覆い尽くすほど茂っていたが、16世紀末頃までにほぼ消滅した。花粉分析から1300年頃までに椰子を初めとする全樹木類の花粉が減少してイネ科やカヤツリグサ科などの草本の花粉が急増していき、場所によりばらつきはあるが1500年〜1600年頃までには椰子、ハケケ、トロミロ、灌木の花粉が消滅する。椰子の実の化石を放射性炭素年代測定で分析した結果でも1500年以後のものは皆無である。環境破壊をしたのは島民自身であるという説と、島民が持ち込んだネズミによるという主に2説がある。
マゼランによる最初の西洋人による太平洋横断は1521年のことであり、先に挙げた樹木花粉の消滅時期や椰子の実の化石の消滅時期より後である。つまり文明の崩壊は白人のせいではないということか。
リベリア
リベリア共和国(Republic of Liberia)は、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立し、現在のアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国。建国時はアメリから沢山のお金をもらってきた人口の4%のエリートが現地の人達を支配する中央集権国家。首都モンロビアは米第5代大統領モンローの名から。リベリアと言う名前もラテン語のLiber(自由な)から来ているという。
建国当時は、理想的な国家のごとく(日本でも戦後の教育ではそのように教えられたかも)宣伝されていたが、実態はアメリカの植民地。その後内戦や動乱が続いて今ではアフリカでも最貧国の一つになっているらしい。
地理的位置は、西アフリカで北にギニア、西にシエラレオネ、東にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。西アフリカ地区と言う物自体どうも日本人にはなじみの少ない国ばかりだ。
そもそも、何故米国がこんな国を建設しなければいけないかったの。解放黒人奴隷という存在が邪魔だったのか。解放黒人がリベリアに持ち込んだのはアメリカで廃止された奴隷制度。これをアフリカで復活することだったのか。ゴムなどのプランテーション農場で現地人を奴隷のように使い儲けること。更には奴隷売買にも手を出していた疑いもある。
その後も内戦や動乱が続いているようだが、他のアフリカ諸国もようやく発展の兆が見えて来た現在どうなっているんでしょうか。
フィンランド共和国
フィンランド共和国。北欧諸国のひとつで、西はスウェーデン、北はノルウェー、東はロシアと隣接し、南はフィンランド湾を挟んでエストニアが位置している。いま、この国が世界の注目を浴びている。豊かな国なのに格差が小さく、経済活動も活発。世界で最も住みたい国の一つになっているらしい。
首都ヘルシンキは露仏同盟以来、ロシアの主要都市であるサンクトペテルブルク方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきた。同じく直近の旧領ヴィボルグはサイマー運河の出口であったが、現在はロシア領で、ノルド・ストリームの経由地となっている。ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、たびたび勢力争いの舞台や戦場になってきた。
中立的外交の裏では、外交・安全保障やエネルギー政策を巡り東西の綱引きが行われている。国内には原子力発電所があり、オンカロ処分場が2020年に開設されれば世界初の使用済み核燃料の最終処分場となる。情報産業も政治と関係しており、公職経歴者が民間企業の幹部になる例として、エスコ・アホという首相経験者がノキア取締役を務めているようなことがある。
人口や経済規模は小さいが、一人当たりGDPなどを見ると豊かで自由な民主主義国として知られている。フィンランドは2014年のOECDレビューにおいて「世界でもっとも競争的であり、かつ市民は人生に満足している国のひとつである」と報告された。フィンランドは収入、雇用と所得、住居、ワークライフバランス、保健状態、教育と技能、社会的結びつき、市民契約、環境の質、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っている。公用語はフィンランド語とスウェーデン語。
フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、スオミはフィン人の自称である。「スオミ」の語源については多くの説が提唱されており定説はない。「フィン」についてはタキトゥスが残した「北方に住む貧しいフェンニ人」の記述が最古のものらしい。スオミは、フィンランド語で「湖沼・沼地」を表す単語「スオ」(suo)に由来するものらしい。
【歴史】
通常は、①先史時代( ~ 1155年)、②スウェーデン時代(1155年 - 1809年)、③ロシアによる大公国(フィンランド大公国)時代(1809年 - 1917年)、④独立後の現代(フィンランド王国時代を含む、1917年 - )の4つの区分に分けられる。
現在、ヨーロッパの優等生のフィンランドではあるが、過去には大変な歴史があったのです。
現在のフィンランドの土地には、旧石器時代から人が居住した。南には農業や航海を生業とするフィン人が居住し、のちにトナカイの放牧狩猟をするサーミ人が、北方に生活を営むようになった。400年代にノルマン人のスヴェーア人(ヴァイキングの仲間みたいだ)がフィンランド沿岸に移住を開始し、居住域を拡大していった。
1155年にはスウェーデン王エーリク9世が北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。16世紀の宗教改革でスウェーデンのグスタフ1世がルター派を受け入れたため、フィンランドもルター派が広まることになった。カトリックの承認を得ずに司教となったアグリコラが聖書翻訳を進めたことで、フィンランドは新教国としての性格を決定的にした。スウェーデンの支配下にあったということです。
1581年にはフィンランドの独立が模索された結果、ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」(のちにフィンランド大公となった)"となり、スウェーデン王国が宗主国となる形でフィンランド公国建国が宣言された。しかしこれは、フィンランドに植民したスウェーデン人が中心で長くは続かなかった。この時代のフィンランドはスウェーデン=フィンランドと呼称されており、スウェーデンによる大国時代を形成していた。
1700年から始まった大北方戦争の結果の1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)がロシア帝国に割譲された。ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後、スウェーデンは戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンに戻らず、ロシアに留め置かれた。今度はロシアの支配下に。
19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史研究がなされた。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。
1899年、ニコライ2世が署名した二月詔書には、高揚するロシア・ナショナリズムに配慮してフィンランドの自治権廃止宣言が含まれていることがフィンランド人に発覚したため、フィンランドで暴動が発生している。1904年6月17日にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマンによるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事に至り、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。フィンランド人は、歴史的文化的民族的に他のヨーロッパとは異なっており、自尊心の高い人たちなんです。
第一次世界大戦末期の1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した。1918年に共産化し、オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立した。その後、敗戦国となったドイツ軍など外国の介入もあり、フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され、1919年にはフィンランド共和国憲法が制定された(フィンランド内戦)。
独立後のフィンランドの政情や国際情勢は不安定で、1921年にスウェーデンとオーランド諸島の領土問題で争ったが、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造による「新渡戸裁定」で解決をみた。さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土(38万2,801km²)の10分の1を失った。喪失した地域はおもに人口と産業密度の高い南東部で、ヴィープリ州にはもっとも要となる港湾があった。ペツァモ州にはニッケル鉱床と国内唯一の不凍港と北極海への出入り口があった。これらが失われたうえ、サイマー運河も両断された。
第二次世界大戦(継続戦争)ではソ連と対抗するためにナチス・ドイツやイタリア王国などの枢軸国側について戦い、一時は冬戦争前の領土を回復した。その後、ソ連軍の反攻によって押し戻され、1944年にソ連と休戦し、休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦った(ラップランド戦争)。日本や独伊と同様に敗戦国になったものの、フィンランド軍はソ連軍に大損害を与えて進撃を遅らせ、ナチス・ドイツ降伏前に休戦へ漕ぎ着けた。このため、バルト三国のようにソ連へ併合されたり、ソ連に占領された東ヨーロッパ諸国(東側諸国)のように完全な衛星国化や社会主義化をされたりすることなく、冷戦終結による東欧革命も経た現在に至っている。
戦後はソ連の影響下に置かれ、ソ連の意向により西側陣営のアメリカによるマーシャル・プランを受けられず、北大西洋条約機構(NATO)にもECにも加盟しなかった。自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわら、外交・国防の面では共産圏に近かったが、ワルシャワ条約機構には加盟しなかった(ノルディックバランス、フィンランド化)。この微妙な舵取りのもと、現在に至るまで独立と平和を維持した。ソ連崩壊後には西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟に合意。2000年には欧州共通通貨ユーロを北欧諸国の中で初めて自国通貨として導入した。
2010年代にクリミア・東部ウクライナ紛争などでロシアの脅威が高まったため、西側への接近を加速している。2017年にはスウェーデンとともにイギリス主導でNATOや国際連合に協力する合同派遣軍への参加を決めた。
以上が、歴史の概略であるが、どう見ても現在の繁栄のための好条件に恵まれていたとは言い難い。おそらく今のフィンランドはヨーロッパ諸国の中で住みたい国のNo.1に選ばれる国の一つだ。何故彼らがこのような国家をつくることに成功したのか、学ぶべき点は多そうだ。実際の暮らしたことのある人たち(フィンランド人と日本人)の意見を聞いてみると次のようなことが挙げられる。
1. 豊かではあるが格差の小さい社会。経済発展すると同時に格差も広がる世界の多くの国々と違い、格差が小さくフラットな社会。自由競争の世界で個性を発揮できるが、独占は許さない。理想的な資本主義。アダムスミスの世界みたいだ。
2. 幼児からの教育が行き届き、議論と自立の教育が徹底されている。政治というものが身近で、子供の頃から自分の意見を言えるように訓練される。
3. 自立という考えも徹底していて、高校を卒業すれば、公的な補助のもと親元から離れて自立する。男女とも一人一人、自分で生計を立てられることが自立。そのためには福祉制度の充実が欠かせない。いつまでも、親にぶら下がって引きこもりやフリータ何て言うことは許されないね。
でも、国支援をあてにしてあまり働かない人も出てきているようだ、「もっと、働かせるべきだ。」いう議論も出てきている。特に移民に対しては厳しいようだ。
4. 保育園や義務教育は完全無償。子供本人にやる気さえあれば、どんな家庭環境でも学びたいことを選択でき、夢をかなえる機会が平等にあるというのがフィンランドの教育の基本原理。そのための国民の税負担は当然大きくなる。
その代わり、私立学校はほとんどなく、塾に通わなければならないような受験競争は無縁の社会。
5. 北欧の社会福祉といえば、高齢者福祉の方が問題かも。教育の問題は多少金がかかっても将来への投資と納税者も納得がいく。緊縮財政が必要になれば、公的なケアサービスはどんどん民間の多国籍企業へと委託されてします。つまり、自己負担。もともと格差の小さい社会なのですぐには問題にならないかもしれないが。
6. 価値観の多様化を認める国。34歳の女性首相が誕生した。他国の人々から見ればニュースかも。だけど、フィンランドの人達から見れば政治家も単に職業選択の一つ。一生懸命働いてくれれば、性別も年齢も関係ない。ましてや、利権や権力とは無縁なんでしょう。安全な国なので、発砲事件のような犯罪はほとんどない。警察も暇だろう。警察官になるには哲学や社会学の教養を身に着けていないと採用されないとか。
慶州市
慶州市(キョンジュ市;경주시)は、大韓民国慶尚北道(경북)の歴史文化都市。東は東海(동해;日本海)に面し、面積1,324.41平方キロ、人口258,156人(2017年6月30日)。意外と小さな町だね。今の韓国한국は日本以上にソウル市(서울시)一極集中だから。
新羅王国(신라 왕국)の都・金城(クムソン금성)の地であり、石窟庵석굴암と仏国寺불국사が1995年にユネスコの世界遺産に登録された。また、2000年には南山ベルト・月城ベルト・大陵園(古墳公園)に含まれる膨大な遺跡と芬皇寺분황사などが慶州歴史地域として登録され、さらに、2010年には市の北部・江東面に位置する両班양반の伝統的民俗村である良洞村양동が、安東河回村とともに世界遺産に登録された。これで同市内には3件の世界遺産が存在する事になった。
韓国(朝鮮半島)の古都という点で、韓国国内はもちろん、世界各地からたくさんの観光客が訪れる。現代的な建造物が遺構の周辺にないという点で、ある意味で当時のまま街並みが残っている都市であるといえる。また、市街地東方にある普門湖(ポムンホ뽀문호)地域では、新しい観光拠点としての開発が行われており、特級ホテルが立ち並ぶ。
慶州市は全体に桜の木が多く、毎年春に、慶州さくらマラソン경주 벚꽃 마라톤という大会が開催され、日本からも参加者がある。埼玉県の志木市も名前のもとは新羅だったとか。一帯は帰化人達が開拓したんだね。その北の地域は高麗と関係があったらしい。因みに日本では福井県小浜氏が姉妹都市となっている。おっと、奈良市も姉妹都市提携をしているらしい。
慶州は古代には新羅王国の首都・金城(クムソン금성)として発展し、高麗太祖王建が慶州と改称。李氏朝鮮時代は慶州府と呼ばれた。市自らがGolden Cityと称しているのは勿論金城の英語訳だ。
【慶州市だけではない】
奈良県の天理市と韓国の瑞山市(ソサン서산시)と姉妹都市提携を結んで交流を深めているとか。瑞山市は、大韓民国忠清南道충청남도の都市。こちらは新羅ではなく百済の中心だったらしい。
謎の百済王国
百済は古代日本に最大の影響を与えた隣国なのですが、663年の白村江の戦いで、日本の援助もむなしく滅亡し完全に地図から抹殺される。しかし、大和政権の中枢にもしっかりと根を下ろし、日本の歴史にも大きな影響を与え続けている。また、百済が滅亡して以降、どうも日本と朝鮮半島の外交関係は余り良好な状態が続いていない。百済の歴史は後の王朝の改竄等もあるのか消されている事柄も多いのかもしれない。
百済(くだら/ひゃくさい、朝鮮語: 백제)、4世紀前半~660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。百済の歴史はその首都の移動によって、大きく①漢城時代(475年まで)、②熊津時代(475~538年)、③泗沘時代(538年から)に分類されている。
漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張。538年には新たな首都として泗沘を建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。
**①漢城府한성부
漢城府(ハンソンブ)は、今の韓国・ソウル特別市。戦前の李氏朝鮮の首都でもあった。
**②熊津웅진
熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、百済語では固麻那羅(コマナル・고마나루)と表記されている。熊川(錦江)のほとりの都市であり、現在の忠清南道公州市충남 공주시にあたる。
475年に高句麗の長寿王が百済の国都・漢城(現在のソウル特別市)を陥落させ、百済の蓋鹵王(がいろおう、? - 475年)を処刑すると、南方に逃れていた文周王が即位し、首都を熊津に移す。後に聖王が538年に、さらに南方の泗沘(現在の忠清南道扶余郡)へ遷都するまでの63年間、百済の首都であった。新羅の統一の後、熊川州→熊州という名称を経て、高麗時代に公州に改称される。
**③泗沘사비
泗沘(しび、朝鮮語: 사비、サビ)は、古代朝鮮の百済の古都であり、現在の忠清南道扶餘郡충남 부여군にあたる。 百済最後の都らしい。扶餘郡(プヨぐん、ふよぐん)は、大韓民国忠清南道の郡である。百済最後の都・泗沘があった。538年第26代の聖王の代にそれまでの国都熊津(忠清南道公州市)から泗沘に遷都し、百済滅亡の660年までの国都であり続ける。新羅による半島統一の後、新羅の景徳王(在位:742年~765年)の時代に扶餘郡と改称された。扶餘郡は奈良県高市郡明日香村と姉妹都市提携を結んでいるようだ。
百済の熊津への遷都の記事は以下の史料で確認できる。中国の南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。
中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立するといち早く関係を結んだが、ついで唐が成立すると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦(敗戦したのは倭国)とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。新羅が後々まで裏切り国家(倭国から見て)とされる原因となっている。
扶餘郡は奈良県高市郡明日香村と姉妹都市提携を結んでいるようだ。
**明日香村
明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部付近に位置する。中央集権律令国家の誕生の地であることから飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されており、「日本人の心の故郷」とも紹介される。
ダホメ王国
ダホメ王国は、現在のアフリカ・ベナンにあったアフリカ人の王国。ダホメ王国は17世紀に創建され、19世紀にフランスの軍隊がセネガルから来て王国を征服しフランス領西アフリカに組み入れるまで存続した。西アフリカの歴史においては、奴隷狩りと専制軍事国家として特異な位置を占めている。
ダホメ王国の起原はアラダの海岸沿いの王国から来たアジャ人の一群が北に移動し、内陸のフォン人の中に入植したところにまで遡る。
1650年頃、アジャ人はフォン人を支配し、ウェグバジャ自らがアジャ人の住む領域の王であると宣言。アグボメ(現アボメイ)を都としたウェグバジャと後継者たちは、動物の犠牲を伴う王の崇拝儀礼に深く根ざした中央集権的な国家を築くことに成功。王の祖先への人身供犠も伴っていた。王国の土地全体を直接王が所有し、王は収穫から徴税。
しかし経済的には、歴代の王たちの主要な収入源は奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、ライフルや他の火器を使用するようになり、捉えた捕虜たちと火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られていった。グローバル経済に組み込まれていったわけだ。
アガジャ王(在位1708年-1732年)の治下、王国は王家の発祥の地であるアラダを征服し、アフリカ西海岸にいるヨーロッパの奴隷商人と直接関わりをもつようなる。とはいえアガジャ王は、奴隷貿易においてダホメ王国の最大のライバルであった隣国のオヨ王国に勝利することが出来なかった。1730年、アガジャ王はオヨ王国に進貢するようになったが、ダホメ王国は独立を維持したままであった。隣国の従属国となったとはいえ、ダホメ王国は膨張を続け繁栄しつづける。この繁栄は奴隷貿易と、後に導入されたパーム栽培の農園から産するパーム油の輸出によっていた。王国の経済的構造のために、土地は王に属しており、王は事実上すべての貿易を独占した。王は征服したウィダーを交易港として奴隷貿易(マルーンの項を参照)を行なった。
ダホメ王国が最盛期を迎えたのは、1818年に即位し、残虐さで悪名高かったゲゾ王の時代。即位したその年に、北からのソコト帝国軍の侵攻と内乱で混乱したオヨ王国からダホメは独立を果たす。ゲゾは常備軍を作り、奴隷狩りを広く行う一方、アブラヤシの農園を拡張し、奴隷交易に代わる財政基盤を確立しようとした。
ダホメ王国は最終的にフランスに1890年から1894年にかけて征服された(第1次フランス=ダホメ戦争、第2次フランス=ダホメ戦争)。ダホメ王国に対して闘った軍隊(フランス軍)の成員のほとんどはアフリカ人であった。これらのアフリカ人の兵士たちのダホメ王国に対する敵意が、王国の凋落を導いたと推量されている。
この地域は、1958年に自治国となり、1960年にふたたび独立を回復してダホメ共和国が成立。1975年にベナン人民共和国に改称し、1990年にベナン共和国と改名。
それまでのアフリカ諸王国と異なり専制君主制で、中央集権政治だった。後継者は王の在位中に任命され、嫡子のみに継承権を与えられた。ユーラシア大陸の他の国々もだいたいそうだ。すると他の アフリカ諸王国は氏族制度の連立王国だったのか。
かつては制限された王権で評議会は、後継者を拒否することもできたが、西アフリカ沿岸諸国と同じく強大になるために必要な銃器、それを得るために奴隷狩り、そのための戦争を絶えず行い、外敵の脅威に直面することで王の意思が法であり、国民の生命と財産を私物とし、貿易と銃器の独占、スパイ網を用いた恐怖政治による国内統制へと変質していく。この体制を支えていたのはよく組織された軍隊であり、特に銃器で武装した女性兵士の軍団)が有名で、「アマゾン」として知られる。
ハット・リバー公国
ハット・リバー公国(Principality of Hutt River)は、レオナード・ジョージ・ケースリー(Leonard George Casley)が独立国と主張していた、オーストラリア大陸西部の広大な小麦畑を中心とした地域。入国にはビザが必要だったり、独自の通貨を持っていたり。
広大なオーストラリアに、こんなチッポケな独立国があっても、オーストラリア自体は痛くも痒くもないだろうが、でも独立を維持していたということはある意味小気味いい話だ。
歴史
1969年10月、西オーストラリア州政府が小麦の販売量割当を決定した際、ケースリーの農場に割り当てられた販売量が十分なものではなかったため、他の5つの農場と連携し政策に反対し、西オーストラリア州総督のダグラス・ケンドルーに法案撤回の請願書を提出。しかし、請願書は無視され、さらに州政府が地方の農地を取り返す権利を認める法案の審議が進められたため、ケースリーは「経済・土地が奪われる危機に瀕した際には分離独立することが出来る」という国際法の規定に基づき独立の準備を進める。
ケースリーは「販売量割当の修正または52万オーストラリア・ドルの補償金が支払われない場合、オーストラリアから独立する」と西オーストラリア州政府に最後通告するが、これに対する返答が得られなかったため、1970年4月21日に自身が所有する75平方キロメートルの土地を「ハット・リバー公国」としてオーストラリアからの独立を宣言する。ケースリーは「ハット・リバー公レオナード1世」を名乗るようになるが、独立宣言以降も「自身はエリザベス2世の忠実な臣下である」と発言している。つまり英連邦の一員としては残るということか。
レオナードの独立宣言に対し、オーストラリア総督のポール・ハズラックは「西オーストラリア州憲法に関する問題には連邦政府は介入出来ない」と発言し、西オーストラリア州政府は連邦政府が介入しない限りハット・リバーへの対応を行わないと決定。オーストラリア首相のウィリアム・マクマホンは「領土侵害」として訴追するとしたが、レオナードは「国際条約に基いた独立」と反論し、オーストラリアの方針を無視して小麦を売り続けた。
1976年、オーストラリア郵便局はハット・リバーの郵便物の処理を拒否すると通告した。さらに、オーストラリア国税庁がレオナードに対し納税を要求したことを受け、1977年12月2日にレオナードはオーストラリアへの宣戦を布告したが、数日後には停戦を宣言している。
1980年頃に国名を「ハット・リバー王国」と改称したが、短期間で公国に戻している。
2000年、独立30周年に際し、息子のイアン・ジョージ首相はオーストラリアの週刊誌からの取材で「父が亡くなった後も、その意志を受け継いでいく」とコメントし、ハット・リバーの存続を宣言。
2017年2月、レオナードはグレームへ譲位した。6月16日、西オーストラリア州最高裁は、オーストラリア国税庁に2006年から8年分、レオナードに約270万ドル、次男のアーサーに242000ドル、あわせて約300万ドルの納税を命じた。ル=ミエール判事は、「ハット・リバー公国」の提出した陳述書を"gobbledegook"(もったいぶった中身のない文書)と一蹴。
2019年2月、先代「ハット・リバー公」レオナードが死去した。2020年8月3日、グレームは「公国」の解散を宣言した。同年にオーストラリアで流行した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で1月より「国境」を閉鎖せざるを得ず、観光収入が断たれたために、オーストラリア政府への租税の支払いの目処が立たなくなったためという。グレームは土地を売り払い、納税に充てるという。「ハット・リバー公国」が独立を宣言してから50年で、再びオーストラリアが実効支配を回復することになった。結局、1970年に独立して2020年に解散するまでの50年、半世紀の独立を保ってことに。
「経済・土地が奪われる危機に瀕した際には分離独立することが出来る」という国際法の規定と言うのは、本当にあるのだろうか。国際法の規定が遵守されていれば、世界中には物凄く沢山の国が出来ているのではなかろうか。住民が分離独立を希望する場合、それを引き留める国の権利はどこに由来するのか。国とは何かを考えさせられる事件でもあった。
統治
妻シャーリー公妃(2013年死去)が海外のマスコミの取材や観光客の歓待を担当し、長男イアン・ジョージ公太子が首相・経済開発大臣・郵政大臣として小麦などの農産物の生産・輸出を担当。この他、次男アーサー・ウェイン公子が外務大臣、三男レオナード・リチャード公子が財務大臣、四男グレアム・アーネスト公子が教育大臣・国立大学学長を担当している。
国民は総勢23人だが、レオナードは「世界中に1万4,000人の国民が存在している」と主張。レオナードを最高司令官とするハット・リバー国防軍を保有し、国民は軍事委員会に名簿登録されている。
主要産業は小麦・ワイルドフラワー・切手・貨幣の輸出。主な資源として観光があり、海外から年間約4万人がハット・リバーを訪れてた。また、自動車のナンバープレートも発行しているため、新車登録も可能となっている。2005年3月29日に外国企業の会社信託の登録を開始すると発表するが、オーストラリア政府は「脱税に繋がる恐れがある」として、「ハット・リバーへの登録に法的根拠はない」と警告。 隣接するノーサンプトン地区政府には、友好のため農産物などを「贈り物」として毎年進呈。
オーストラリアの対応
オーストラリア政府はハット・リバーの独立を認めていないが、西オーストラリア州政府は1972年4月21日に、ハット・リバーを事実上の自治州と規定。
オーストラリア郵便局は1976年にハット・リバーの郵便物の処理を拒否すると通告したが、1980年にパースの裁判所が「ハット・リバーの発行する通貨・切手はハット・リバー内において有効」とする判決を出したため、ハット・リバーの郵便物の受付を再開。
オーストラリア歳入庁はハット・リバーの住民を「オーストラリア非居住者」として扱っているため、ハット・リバー内で得た所得についてはオーストラリアへの納税が免除されている。
オーストラリア国立博物館には「オーストラリア内の分離」に関する展示がされており、その中でハット・リバーは「オーストラリアからの分離に成功した例」として紹介されている。オーストラリア政府にとっても観光資源としては無視できない存在でもあったかも。
ナーランダ
ナーランダ (Nalanda, नालंदा) は、ブッダガヤの北東に位置する町、今日のインドではビハール州。ここには5世紀頃に創設された最大の仏教の学院(今日で言う大学)があった。学生1万人以上、教師も1,000人を数えたといわれる。9階建ての校舎の他、六つの寺院、七つの僧院があった。図書館には 500万冊に及ぶ蔵書があったという。これは文字通り古代の世界では最大の教育施設だったらしい。大学は、12世紀イスラム勢力のインド征服(ムガール帝国のこと)により完全に破壊され、それと共にインドでの仏教の衰退が始まった。同じ名前の教育施設が、1351年チベットに設立されている。
**古代世界最大の学問の拠点としては、エジプトのアレクサンドリア図書館が有名、十字架をかけた野蛮人に破壊されたとも言われる。ここも大学の機能を持っていたのでは?
釈迦が最後に旅をしたルートとも知られ、マガダ国の王舎城(ラージャグリハ)から多くの弟子を従え、パータリガーマに至るまでの旅の立ち寄り地点である。
【追記(2021.03.21)】
仏教に興味ある方なら一度は尋ねてみたい場所かも。新型コロナ騒動でGo to Travelまして海外に行くことままならない今、ネット訪問なら自由にできそうだ。実際の場所やアクセス等も調べて見たら面白いかも。
サハリン2
サハリン2(Сахалин-2)プロジェクトとは、サハリン州北東部沿岸に存在する石油および天然ガス鉱区と関連する陸上施設の開発プロジェクトの名称。サハリン・エナジーがプロジェクトのオペレーターを務める。ロシアと日本の経済交流を促進する夢のプロジェクトのはずだが。
このプロジェクトにおいて、ロシアで初めて天然ガス液化プラントが建設された。このことはロシアのエネルギー政策上重要な意味をもち、後、ガスプロム社が強引にサハリン・エナジー社の株式を取得した理由のひとつとされている。事業本体は100%外資である。なおプラント建設工事は2003年日本の千代田化工建設、東洋エンジニアリングがロシア企業と共同で受注した。
鉱区はサハリン島(樺太)東北部沖のオホーツク海海底に存在する。原油は約11億バーレル、天然ガスは約18兆立方フィートの推定可採埋蔵量が推定されている。
サハリン-2は、それまでほとんど人の手がはいったことのない地域で行われているため、この開発が環境へ与える悪影響を非難する団体などもある。しかし、サハリン(樺太)は、戦前は日本領であったため、多くの日本人にとっても全く未開の地という訳でもない。州都ユジノサハリンスクにも南端の港町コルサコフにも日本人は残って活動しているし、日本料理店すらある。
サハリン島(樺太)周辺に豊富な化石燃料資源が存在することは早くから予想されていた。その中で、1991年にソビエト連邦政府はサハリン北東部沖のピルトン・アストフスコエ(弁連戸 べれんと)鉱区及びルンスコエ(呂郷 ろごう)鉱区の2鉱床の開発を国際入札を用いることを発表した。この入札には複数の会社が手を挙げた。
**ソ連邦の崩壊は1991年。その後はロシア政府が単独で引き継いだ?
1994年にロイヤル・ダッチ・シェルと三井物産、三菱商事の三者が合同でサハリン・エナジー社を設立し、ロシア政府と生産物分与協定(PSA)を締結した。当初のサハリン・エナジーへの出資比率は英蘭シェルが55%、三井物産25%、三菱商事20%であり、総事業費は100億ドルと見積もられていた。
1999年には第1フェーズ原油生産が行われ、さらに2001年に全体開発計画がロシア政府によって承認された。2008年中の本格稼働を目指し、最終的には日量18万バレルの原油生産、天然ガス産出量はLNG換算で年間960万トンを見込んでいた。これは日本の総輸入量のそれぞれ4%、18%に相当する。開発計画は順調に進行し、1997年にはピルトン・アストフスコエ鉱区の第1段階開発計画が承認された。しかし環境対策を求められたことで開発費用が増大し、2005年7月14日にサハリン・エナジーは総事業費が当初の100億ドルから200億ドルに倍増すると発表した。
2006年9月、ロシア政府は環境アセスメントの不備を指摘し、サハリン2の開発中止命令を出した。その後の交渉で、2006年12月にロシアのガスプロム参画が決まり、2007年4月にはサハリン・エナジーの株式の50%+1株を取得した。これによってサハリン・エナジーの出資比率は、英蘭シェルが55%から27.5%-1株、三井物産が25%から12.5%、三菱商事が20%から10%に減少した。2007年4月にロシア天然資源省はサハリン・エナジーの環境是正計画を承認。2007年10月には1年以内に工事を完了させることで合意し、開発中止の危機は免れた。2009年2月18日、日露両首脳が出席する中でサハリン2の稼動式典が行われ、3月29日には液化天然ガスの出荷が始まった。
自然環境破壊への危惧
鉱区の周辺は流氷の接岸、10m近くに達する高波など過酷な気象条件下にあることから、原油流出事故などが発生した場合には破局的な環境汚染を招くとして、一部の自然保護団体から反対運動が行われている。
IUCNでは、付近の海域に生息するクジラ(特にコククジラが懸念されている)の生息状況を評価している。
しかし、自然環境破壊の危険性、また生態系への悪影響、これはどのような大規模なプロジェクトにもついて回る問題。原子力発電所に立地でも同じ。具体的な危惧を一つ一つ解明していく他、手立てはなさそうだ。
ただ、このプロジェクトの重要性は、この立地場所を見れば明らかだ。極東地域の経済的自立を成し遂げたいロシアと、北日本のさらなる経済発展と将来のエネルギー資源の多角化を目指す目指す日本国の利益がぴったり一致している。本来は日本とロシアが協力して仲良くできる絶好のプロジェクトのはずだ。誰がこのプロジェクトをつぶそうとしているか?
ユーラシア大陸の西側でも、ロシアとドイツを結ぶ大規模のガス・パイプライン計画が完成まじか。勿論ドイツのメルケルさんも積極的推進派。ドイツのエネルギー戦略の将来がかかっている。ただこちらの方も対米従属派からの圧力がかかって頓挫する可能性も。対米従属を続けているとどんどん経済力を浪費させられていく同盟国の悲劇が見て取れる。
ジンバブエの石
今でも土鍋を使うのはジンバブエにいい石があったから~
土鍋はガスの高い火力で割れた。粘土に「いい石」をいれて割れないように改良し、いまでも普及してるそうだけど。
NHK「チコちゃんに叱られる」でやっていた。日本で使われる土鍋の材料の粘土がジンバブエの石だった。本当に初耳の話だった。本当なんだろうか。答えはジンバブエのペタライトという鉱石のおかげで土鍋が日本の食卓に戻って来たからというもので、羽田美智子&吹越満の朗読劇に乗せて土鍋の歴史についてご紹介。
【ペタライト】ウィキペディアで調べて見ると
葉長石(ようちょうせき、petalite)は、ケイ酸塩鉱物の一種。化学組成は LiAlSi4O10で、結晶系は単斜晶系。準長石グループの鉱物。1800年に発見された。名前はギリシャ語で葉を意味する petalon に由来。
産出地は、ウート島(何処?)、ハーニンゲ、ストックホルム等で見られる。日本では、福岡県長垂に産する。リチウムを含んだペグマタイトと、リシア輝石、リチア雲母、電気石の含まれる鉱床で生成される。葉長石は重要なリチウムの鉱石。 無色のものはしばしば宝石として利用される。 萬古焼(ばんこやき)(四日市市)の土鍋に使用され、高熱でも鍋が割れない。ジンバブエの名前が出て来ないぞ。
【万古焼】
日本で初めてつくられた直火OKなお皿は、実は三重県四日市市や菰野町で作られる陶磁器、萬古焼 (ばんこやき) 。三重といえば伊賀焼の土鍋が有名ですが、萬古焼の土鍋も、古くからつくられてきました。その過程でいつしか「割れない土鍋」をつくる研究が始まり、昭和30年代後半、原料メーカーと民間企業によって“直火でも割れない土”が開発された。
その鍵となっているのが、「ペタライト」という原料。高い耐熱性で知られる鉱物のひとつで、陶磁器の土、釉薬に一定量加えることで、通常よりも高い耐熱・耐衝撃性を示すことが確認されています。今まで使っていた陶磁器の土にペタライトを配合することで、直火でも割れない土鍋の開発に成功。その後は、グラタン皿など土鍋以外のお皿も手がけていったそう。
四日市萬古焼耐熱陶器の最大の特徴として,原料にペタライトを使用していることが挙げられる。ペタライトは化学式 Li 2O・Al 2O ・3 8SiO 2 で表される鉱物で、主にジンバブエから輸入されている。昭和30 年代に四日市萬古焼のメーカーが耐熱衝撃性のあるペタライト入り土鍋を開発したことから,この地域に土鍋の生産が広まっていった。このペタライト入り土鍋をペタライト質土鍋と呼んでいる。
【ジンバブエ国】
しかし、これだけ需要があれば相手側のジンバブエ国にも生産体制が出来ているはずだ。それに、日本がこの国から他に買っているもの何かあるかな? ジンバブエは超インフレの破産国とされており、イグノーベル賞の賞金にも使われている。天文学的な巨大な数字にもかかわらず価値は紙くず同然とか。
ジンバブエの鉱山開発は 1800 年代後半にさかのぼり,ゴールドラッシュを背景に英国人セシル・ローズ経営の英・南アフリカ会社が開発。推定埋蔵量世界第2位のプラチナの他,フェロクロム,アスベスト,ニッケル,鉄鉱石,石炭など多様。特に白金族(PGM)は,ロシア,南アフリカ,英国,豪州企業による資源開発が顕著です。つまり、権益は殆ど欧米人に握られているようだ。
一方、日本で生産される多くの土鍋の生産過程においてジンバブエ産のペタライト鉱石が使われている。ペタライト鉱石を混ぜることによって,耐熱性に優れた土鍋ができ上がる。親日国でもあり青年海外協力隊の隊員を通じた交流も盛んだとか。
アフガニスタン
アフガンは「帝国の墓場」とも言われる。何それ?
古来、アレキサンダー大王、モンゴル帝国、チムール大王、大英帝国、ソ連などが介入し、長期の武装抵抗に悩まされ結局撤退を余儀なくされたという歴史がある。大英帝国以降は分かるけど、過去の話はどうかな?
今回は米国がその轍を踏んでしまった。アフガンはユーラシア大陸のハートランドとも言える戦略要域でもある。でも、かってのアフガンは、東西南の交流の拠点で経済的にも文化的にもそれなりに栄えた土地だったのでは?
世界の屋根と言われるパミール高原から西に流れるヒンズークシ山脈により南北に分断された、内陸の山岳国家であるが、その部族と宗派は複雑に入り組み部族間の争いが絶えない。外敵が侵略して来れば果敢なゲリラ戦を執拗に続け追い出す頑強さを持つ半面、外敵が撤退すると部族間の武力闘争が起きるのが常である。でも山岳民族何てそんなものでしょう。尾根一つ越えれば、言葉も文化も歴史も全く異なる人達同士、統一が難しい地域でもある。
確かに交通の要衝。でも、道路網は限られ国土の大半は高度数千メートルの山岳地帯である。その面積は約65.2万平方キロメートルと、日本の約2倍の比較的広大な国土面積を占めている。人口約3,890万人の民族構成は極めて複雑である。人口は決して少なくない。日本の江戸時代だってこんなものでは?
人口の最大数を占めるのは、パシュトゥン人。彼らは、パキスタン北西部のペシャワールなどを中心とする地域にも居住する民族だが、英国の恣意的な国境線の線引きにより、2つの国に分断されてしまった。つまり、半数近いパシュトゥン人はパキスタンに棲んでいる。クルド人に近い。彼らだけの統一国家を造りたい。
他方のヒンズークシ山脈以北の北部は、トルクメニスタン、タジキスタン、ウズベキスタンなどのトルコ系の諸国と国境を接し、これらの諸民族が居住している。パシュトゥン人に対抗するため北部同盟を結成。これらの部族は同一国家でありながら、パシュトゥン人とは対立関係。国家統一を困難にする一因になっている。
このようなまとまりのない多民族国家として無理やり誕生させた背景には、英露両帝国による緩衝地帯としての国境線画定という歴史がある。19世紀に大英帝国とロシア帝国は「グレート・ゲーム」と言われる覇権争いを、イランからチベットなど清国周辺領土に及ぶユーラシア大陸全域で繰り広げていた。その覇権争いの焦点の一つがアフガンだったことは世界史の常識。英露は直接陸地国境を接するのを避けるため、アフガンを緩衝地帯とすることで妥協した。
実質的には、大英帝国の「保護国」ではあったが王政は残された。タイがそうだね。タイは英仏の緩衝地帯だった。その際に、ヒンズークシ山脈が中央を走る不自然な国境の線引きを地元住民の意向や民族分布の実態を無視して英露両国により一方的にされてしまった。
ワハン回廊と呼ばれる東西約200キロの細長い地形が東に伸びて、中国領の新疆ウイグル自治区と接している。米国がウイグル地区の人権問題を大騒ぎする理由もこれらしい。
これも英露が直接国境を接するのを避ける緩衝地帯とするために引かれた国境線であり、かつ清国の力が衰えていたこともあり、中国とアフガンの国境は極力狭められることになった結果である。中国に言わせれば、新疆ウイグルは元々中国領(清)だったんだから米国の干渉は余計なお世話ということか。
またアフガン西部は、歴史的にペルシアの影響下にあったために、イスラム少数派のシーア派が浸透しており、他の地域の多数派のスンニ派とは対立関係にある。イランは当然シーア派の保護を求めるだろう。
しかも、モンゴル帝国やチムール支配の末裔であるモンゴル系のハザラ族が東部から中部山岳地帯に居住しており、彼らはシーア派でもあり、アフガンを3分する勢力の一角をなしている。また、アフガン南部では、パキスタン南西部、イラン南東部とともに、バルチスタン解放軍がバルチスタン独立を目指し武装闘争を展開している。
アフガンは地形的にも民族・宗教の面から見ても、相対立する部族が高度数千メートルの険峻な山岳地帯に割拠する状況にあり、統一した統治は極めて困難な地政学的環境に置かれている。サービス産業、農業、建設業、鉱業・採石業などの産業があるとされているが、1人当たりGDP(国内総生産)は530ドルに過ぎず、世界最貧国の一つでもある。ただし、世界的な金、銅、レアアース、鉄鉱石、リチウム、ウランなどの鉱物資源に恵まれており、その価値は1兆ドル以上に相当するともみられている。世界のレアアース市場の約7割を占める中国にとり、アフガンの鉱物資源支配はその独占体制を確固としたものにするとともに、電気自動車用電池、その他の先端産業、軍需用に不可欠なレアアースやリチウムなどは極めて魅力のある資源と言えよう。
でも、実際にもっと貴重な資源がここにはある。ここは世界で最も芥子栽培の盛んな土地だ。芥子とは阿片の原料だ。各国で違法薬物に指定されているが、どこの大手薬品会社も喉かから手が出る程、欲しいもの。多くの地域軍閥の大きな資金源となっている。アフガンが真の独立を達成してしまうと、欧米諸国で最も利権を失うのはどこなのだろうね。
トンガ王国
トンガ王国
トンガ王国: ポリネシアに位置する立憲君主制国家。首都はトンガタプ島のヌクアロファ。171の島からなる群島で、そのうち45が居住地。 2021年現在、トンガの人口は104,494人で、その70%が本島のトンガタプ島に居住。国土は南北に約800km広がっている。トンガはニュージーランドの北島から約1,800km離れている。
約2,500年前にラピタ族が最初に居住し、ポリネシア系住民が徐々にトンガ人としての明確で強力な民族的アイデンティティ、言語、文化を発展させた。彼らはいち早く南太平洋に強力な足場を築き、このトンガの拡張主義と植民地化の時代はトゥイ・トンガ帝国として知られる。トンガの初代国王であるアホエイトゥ (ʻAhoʻeitu) の統治により、トンガは地域の大国へと成長した。西はソロモン諸島の一部、ニューカレドニアとフィジー全域、東はサモアとニウエ、さらには現代のフランス領ポリネシアの一部まで、太平洋の未曾有の大地を征服し支配した海洋国家であった。トゥイ・トンガは太平洋における経済的、民族的、文化的覇権で有名になり、それは13世紀のサモア革命や1616年のヨーロッパ人による島々の外部発見後も強力なままであった。
**ラピタ族と聞いて何か思い出さない。そう、天空の城ラピュタ。宮崎駿さんのアニメSFだ。偶然の一致かも知れないが、何か関係もありそうだ。
1900年から1970年まで、トンガはイギリスの保護国であった。イギリスは友好条約に基づき、トンガの外交を担当したがトンガはいかなる外国勢力にも主権を放棄しなかった。立法改革が最初の部分的代表選挙への道を開いた後の2010年、トンガは伝統的な絶対王政から脱却し完全な立憲君主制へと移行するための決定的な一歩を踏み出した。
考古学的な証拠から、トンガへの最初の植民者はサンタ・クルーズ諸島から船で来たことが分かっている。紀元前4000年頃から、元々東南アジアにいたオーストロネシア語を話す人々の祖先(ラピタ人)がポリネシアへ移住してきたが、トンガへの植民はこの動きの一部である。トンガは考古学的な年代推定から、BC800 - 750年前の独特のラピタ式土器が出土しているため、ポリネシアで一番古い遺跡として認められている。ラピタ人たちは1000年に渡り、現在はトンガ・サモア・フィジーとして知られている島々で生活し、航海し、戦争を行い、異なった種族間の結婚を行っていた。その後、より多くの探検者たちが東へ出発してマルキーズ諸島やタヒチ、最終的には太平洋の残りの島々を発見した。このことにより、人類学者たちはトンガ・サモアとフィジーをポリネシアの文化と文明の発祥地と評する。
12世紀までに、トンガ人とトンガの大酋長、すなわちTu'i Tonga(神聖王)はニウエからティコピア島まで、太平洋中に知れ渡っていた。このことから、ただちにトンガ帝国と言及する歴史家もいる。もっと良い言い方としては、相互にやりとりを行う、航海者、首長、冒険者のネットワークというのが妥当であろう。15世紀と17世紀には、内戦が勃発した。オランダ人の探検家のウィレム・スホーテン(Willem Schouten) とヤコブ・ルメール (Jacob Le Maire) が1616年にヨーロッパ人として初めてトンガに到着したのは、このような時期。他のヨーロッパ人の来航としては、もっとも重要なジェームズ・クックの1773年・1774年・1777年の到着、また最初のロンドンの使節の1797年の到着、メソジストのWalter Lawreyの1822年の到着が挙げられる。ジェームズ・クックの来航は、トンガがイギリス帝国 (大英帝国) の植民地として組み入れられる過程への決定的な第一歩となった。
1875年に、使節のシャーリー・ベーカー (Shirley Baker) の助けで、ベーカーは法典を整備しトンガを立憲君主国として宣言した。その時にはベーカーは奴隷を解放し、また法典、土地保有、出版の自由を大事なものとして扱い、そして首長(国王)の権力を制限した。1900年にトンガは、友好条約の下でイギリスの保護領となった。その時、ヨーロッパ人の植民者とライバルのトンガの首長は2代目の王を追放しようとしていた。友好条約と保護領の地位は、3代目の君主のサローテ・トゥポウ3世(サローテ女王)が亡くなる前に結ばれた条約の下で、1970年に終わりを迎えた。トンガは1970年にイギリス連邦に参加し、1999年には国際連合に参加した。植民地化の力にさらされたにも関わらず、トンガは決して現地人による統治を失うことが無かった。このことは太平洋の国では珍しいことであり、彼らに多くのプライドを与えている。
元首は国王。立憲君主制で一院制の立法議会(閣僚および貴族議員9名、民選議員17名により構成)があるが、国王に多くの権限がある。国民は王族、貴族、平民の3つの身分からなる。身分の変更は基本的に認められない。1980年にオナライバハママオ王子が平民の娘と結婚したために王族の称号を剥奪され、平民になった事例以外、公式な記録がない。身分制度が存在するが、全ての法律は全ての身分に平等に適用されることが憲法に明記されている。憲法が制定されたのは1875年で、日本の大日本帝国憲法(1889年)よりも早い。現在の憲法もこの当時の改定憲法である。
今、火山の大爆発でテレビでも報道のあるトンガ王国、今後日本の支援活動が最も求められる地域であることは間違いない。
ノヴゴロド公国
ノヴゴロド公国(Новгородского княжества)は、公座を大ノヴゴロドに置いていた中世のルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つ。中世には特殊な貴族共和制により、しばしばノヴゴロド共和国(Новгородская республика)と呼ばれ、こちらの名前が定着しつつある。その他、ノヴゴロド国という表記も見られる。「タタールのくびき」にルーシ全体があえぎ、北方十字軍がスラヴ人へ正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制していた13世紀のルーシの中心だった。
ノヴゴロド公国はヨーロッパの中でも先進的な共和制の伝統を育んできた。ノヴゴロドは公が支配する公国であるが、実態は貴族共和制。名目上の君主としてルーシの諸公国から公を推戴するが彼には実質的な公権が無く、貴族の利権にそぐわなければ罷免されることも。モスクワがノヴゴロドの体制を転覆する日まで、ノヴゴロド市民は政府の運営と人事について発言権を有していた。市民は官吏を任免することができるほか、君主である公をも選出し、また罷免する権利があった。年代記によれば、これらの決定はヴェーチェ(вече)、すなわち「民会」によって行われた。民会には貴賤を問わずあらゆる階層の人々が参加した。中世のノヴゴロド公国の厳密な制度ははっきりしないが、ノヴゴロドの強固な伝統は高度に体系化された行政、軍事、司法、そして通商の制度を構築していたといわれている。
公国の主権は、公の権力が衰えた13世紀から14世紀前半にかけても、少なくとも名目上は外国より推戴されたノヴゴロド公が有しているものとされた。「公」と訳されるクニャージ(Knyaz)は、語源をヨーロッパ諸語の「王」と同じくしており(ゲルマン語派:kuning、スウェーデン語:konung、英語:king、ドイツ語 könig、ゲルマン祖語:kuningaz)、当時においては独立した国家における君主号であり、これを公と訳すのはクニャージの称号がロシア帝国の貴族の爵位となった後世においての事情による。ただ、中世には公(クニャージ)と王(コローリ)は称号として区別されていた。 ノヴゴロド大主教が行政の長であったのか否かは未だにはっきりしないが、都市の重要人物であったことだけは疑いの余地がないようだ。単に国内の教会を監督するのみならず、大使館を代表し、世俗の裁判において司法権の一部を掌握した。ただし、ほとんど常にボヤールと足並みをそろえており、独断的に行動した形跡はほとんど見られない。大主教は任命制ではなく、やはりノヴゴロド市民の選挙によって選出され、ロシア府主教による承認を必要とした。大主教はおそらくノヴゴロドでももっとも豊かな地主であり、印紙の販売や市場からの徴税その他によって副収入をも得ていたらしい。
**つまり、公国も王国も内容的には同じということらしい。では、帝国と王国の違いは? 単に規模の違いでもなさそうだけど。一民族一国家は王国、多民族国家は帝国?
ノヴゴロドにおけるもう一方の権力者は市長、すなわちポサードニクであった。ポサードニクは民会の議長を務めるのみならず、国家をノヴゴロド公と共同統治し、徴税を担当したほか都市の様々な問題に対処した。公の重要な決定は大部分がポサードニクの承認を必要とした。当初、ポサードニクは一人であったが、14世紀中葉には、区間の権力闘争を緩和するための改革として、民会は6人のポサードニクを選出するようになり、その内の一人が筆頭の現役市長となった。ポサードニクは終身の資格であり、毎年互選で代表ポサードニクを選出した。後に、ポサードニクの任期は一年とされた。民会の正確な構成も不明な部分が多いが、都市の人口と郊外の自由市民によって占められていたものと考えられる。この民会が真に民主的な組織であったのか、あるいはボヤールが仕切っていたのかという問題はいつも論争の的になっている。ポサードニク、トィシャツキー、そして主教や大主教までもが民会によって選挙されるか、少なくとも承認される必要があった。公の追放はこの市長の交代と機を同じくすることが多かった。
商人や手工業者もノヴゴロドの政治に参画した。伝統的な研究によれば、彼らは5つのkontsy、konetsと呼ばれる居住区に分けられていたという。居住区の名称はしばしば、そこに集住している商工業者の属性を示していた。商人はソトニャ(sotnyas、сотня)と呼ばれるギルドを組織していた。これはルーシにおける最初のギルドであるとされている。
中世ノヴゴロド史の大部分がそうであるように、これらの商工業者の組織については不明な部分が多いが、少なくとも西洋におけるギルドのように強固な組織ではなかった点に留意せねばならない。近隣同士で組織された組合は、ギルドというよりも互助会と呼んだ方が正確かも知れない。この組織は教会を建設し、疫病で仲間内から死者が出た際にはそこに埋葬した。組織について、それ以上のことは判明していない。イワン治世の100年間においては、それ以上のことは何も分かっていない。それは市場より北にあるOpokiのSt. John the Forerunner教会の周囲で組織され、メンバーは入場料としてYpreの衣服のboltを大主教に支払う必要があった。トィシャツキーは仲間内の争いを仲裁した。それ以外には、イワン治世の100年について何も明らかになっていない。
ノブゴロドの名前が気になったのは、リムスキー・コルサコフの歌劇「サトコСадко」よりの「インドの歌」。中世ロシアの叙事詩「ブィリーナ」の登場人物。主人公のSadkoはノヴゴロド出身の冒険家、商人で、またグースリの演奏家。ノヴゴロドは中世のルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つで歴史のロマンのある名曲だということだったため。バイキングの子孫かとも思っていたが。
中世ノヴゴロド史の大部分がそうであるように、これらの商工業者の組織については不明な部分が多いが、少なくとも西洋におけるギルドのように強固な組織ではなかった点に留意せねばならない。近隣同士で組織された組合は、ギルドというよりも互助会と呼んだ方が正確かも知れない。この組織は教会を建設し、疫病で仲間内から死者が出た際にはそこに埋葬した。組織について、それ以上のことは判明していない。イワン治世の100年間においては、それ以上のことは何も分かっていない。それは市場より北にあるOpokiのSt. John the Forerunner教会の周囲で組織され、メンバーは入場料としてYpreの衣服のboltを大主教に支払う必要があった。トィシャツキーは仲間内の争いを仲裁した。それ以外には、イワン治世の100年について何も明らかになっていない。
【ノヴゴロド市】
ノヴゴロド(Но́вгород)は、ロシアの北西連邦管区、ノヴゴロド州の州都。人口は21万人。イリメニ湖とそこから流れ出るヴォルホフ川に沿って位置する。ロシア最古の都市であり、中世のノヴゴロド公国の首都。1992年に『ノヴゴロドと周辺の文化財』としてユネスコの世界遺産に登録された。
名前を訳すと「新しい街」の意になり、ロシア国内には同名の都市が複数あるため、1998年以降の公式名称は大ノヴゴロド(ヴェリーキー・ノヴゴロドВеликий Новгород)である。他の「ノヴゴロド」で有名なのはニジニ・ノヴゴロド(旧ゴーリキー)。
ノヴゴロドの発祥
ルス族の首長、リューリクは弟とともにドニエプル水系のスラヴ人地域に進出。862年、ノヴゴロドを中心に商業都市国家ノヴゴロド国を建てた。ロシア建国の初めとされる《「ロシア」とは「ルス(Russ)の国(-ia)」の意》。
リューリクの死後、彼の後継者オレーグは、リューリクの息子イーゴリを伴いさらに南下して882年にキエフ公国が建国され、ウラディミル1世の時代に全盛期を迎えた。建国神話に近い話とも言えるが。
862年は日本では平安時代。864年富士山貞観噴火、866年応天門の変
ノヴゴロド
ノヴゴロド(Новгород)は、ロシアの北西連邦管区、ノヴゴロド州の州都。人口は21万人。イリメニ湖とそこから流れ出るヴォルホフ川に沿って位置する。ロシア最古の都市で、中世のノヴゴロド公国の首都。1992年に『ノヴゴロドと周辺の文化財』としてユネスコの世界遺産に登録された。サンクト・ペテルブルグよりちょと南に位置するか。
名前を訳すと「新しい街」の意になり、ロシア国内には同名の都市が複数あるため、1998年以降の公式名称は大ノヴゴロド(Великий Новгород)である。他の「ノヴゴロド」で有名なのはニジニ・ノヴゴロド(旧ゴーリキー)。
この都市はノヴゴロド公国以前のルーシと呼ばれる人々によって建国されたという「ルーシ・カガン国」の中心的都市で、旧名は『ホルムガルド』(Holmgard、古ノルド語:「川の島の城」)と呼ばれていたといわれている。この都市は、考古学調査により、860年代か870年代に火災によって焼失しておりその後再建されたという。
開かれたのかがいつかは正確には分かっていないが、『過ぎし歳月の物語』(『原初年代記』ともいう)によると854年か859年といわれている。862年スウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)のノルマン人・ルス族(ロシアの語源)が首長リューリク(?~879年)に率いられてノヴゴロドを占領し、スラヴ人を征服してロシア最初の国家を建設した。
コンスタンティノープルに近いキエフが政治の中心になるに従って、ノヴゴロドは商業・工業に優れた独自の自由都市へと変遷していく。名目上の長として外部から公を招きつつも、大主教や都市貴族を中心とした民主共和政体が敷かれており、公が大主教や都市貴族達の意に沿わなくなると自由に罷免する権利を有していた。
1240年、モンゴル帝国が侵攻し、キエフが灰燼に帰す中、運良く侵攻を免れたノヴゴロドは、その後モスクワがロシアの歴史の表舞台に登場するまでの間、ロシアの中心都市として機能することになる。ハンザ同盟の外交施設である「商館」が置かれ、ドイツ商人たちが農産物や毛皮の買い付けにやって来た。
1478年にノヴゴロド公国はモスクワ大公国によって併合された。この頃にはモンゴル帝国の支配力は弱体化し、モスクワ大公国のイヴァン3世はツァーリ(皇帝)の称号を使い始めた。イヴァン3世はノヴゴロドの商人に重税を課したため、モスクワとの関係は次第に悪化。
1570年、この時代のツァーリであるイヴァン4世(雷帝)により町全体における粛清が行われた(ノヴゴロド虐殺)。当時のノブゴロドの人口の1割にあたる約3千人もの住人が拷問の末虐殺されたとされ、死体は氷の浮いたヴォルホフ川に遺棄された。その後何日も流され、ラドガ湖の底はおびただしい遺骸で厚い層を成したと記録に残っている。
1598年のフョードル1世の死後、ロシアでは大動乱という内戦が起こり、1611年にノヴゴロドは介入してきたスウェーデンのグスタフ・アドルフ(後スウェーデン王)に占領された。そして同年、ツァーリ不在のロシアにスウェーデン王子カール・フィリップがノヴゴロドにおいてツァーリに選出された。しかしツァーリはロシア全体では認められず、自称に止まり、スウェーデンで国王が代替わりした後、1617年に撤退した。
1703年、ピョートル1世は新首都サンクトペテルブルクの建設を始めた。これ以降、ロシアの商業の中心はサンクトペテルブルクとなり、ノヴゴロドは、「一地方都市」となった。
1862年、リューリク即位1000周年を記念して、ロシア1000年記念碑が市内中心部に建立された。ノブゴロドはロシア建国の地と目されており、最初の首都とされている。
キエフ大公国
キエフ大公国は、9世紀後半から13世紀半ばまで、東ヨーロッパおよび北ヨーロッパの東スラヴ人、バルト人、フィンランド人が、ヴァリャーグの王子リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた国。 ベラルーシ、ロシア、ウクライナの現代国家はいずれもキエフ大公国を文化的祖先とし、ベラルーシとロシアはそれに由来する名称。リューリク朝は16世紀にロシア・ツァーリ国となるまで大公国の一部を支配し続けた。11世紀半ばの最大時には、北は白海から南は黒海、西はヴィスワ川の源流から東はタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねた。
**ヴァリャーグはスラブ語のバイキングの意味らしい。リューリクが建国者。
キエフ大公国(正式名称「ルーシ」)は、複数の公国の連合であり、キエフ公国もそれら公国の中の一つである。そのため、日本語名称の「キエフ大公国」は、ルーシ全体を指しているのかその中のキエフ公国だけを指しているのかが分かり難い。
原初年代記によれば、東スラヴの諸地域を現在のキエフ大公国に統合し始めた最初の統治者はオレグ王子(879年~912年)である。彼は東からのハザール人の侵入から貿易を守るため、ノヴゴロドからドニエプル川流域に沿って南へ支配地域を広げ、首都をより戦略的なキエフに移した。スヴャトスラフ1世(972年没)は、ハザール人と征服戦争を行い、キエフ大公国の領土を初めて大きく拡大した。ウラジーミル大帝(980年〜1015年)は、自らの洗礼によってキリスト教を導入し、勅令によってキエフとその周辺のすべての住民にキリスト教を広めた。キエフ大公国は賢者ヤロスラフ1世(1019年-1054年)の時代に最大規模に達し、彼の息子たちは彼の死後すぐに最初の成文法である『ルースカヤプラウダ(「ルーシの正義」)』を編纂・発行した。
**ハザール(Khazar)は、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。支配者層はテュルク系民族と推測されており、支配者層が9世紀頃にユダヤ教に改宗したことは有名。交易活動を通じて繁栄した。日本語ではハザル、ハザリア、ホザールあるいはカザールと表記されることもある。ユダヤ教の強国で、東欧ユダヤ人にはこの系統の人達が多数いるらしい。ビザンツ帝国とイスラムに挟まれ亡命して来たユダヤ人を多数受け入れためとも。
ハザール国の存在は、歴史上の抹消できない事実。だから、今のイスラエルがパレスチナ系のユダヤ人ではなく、トルコ系のハザール人によって建国された国とする主張もあるらしい。でも、ハザール国自身が多くの亡命ユダヤ人を受け入れていた可能性もあり、遺伝子解析では結論は出ないようだ。でも、彼らがユダヤ社会の主流となっていることは魔g切れも無い事実のようだ。
11世紀後半から12世紀にかけて衰退し始め、様々な地域勢力に分裂した。 さらにコンスタンティノープルの衰退によるビザンツ帝国との商業関係の崩壊、それに伴う領土内の通商路の減少など、経済的要因によっても弱体化した。1240年代にモンゴルの侵攻を受け、ついに国家は崩壊した。
中世時代の史料で確認できるルーシの正式な国号は「ルーシ」のみである。ルーシとは、『サンベルタン年代記』の839年の記述においてはヴァリャーグを指していた。後にその意味は転じ、狭義にはキエフ地域(ただしドレヴリャーネ族・ドレゴヴィチ族の地を除く)、チェルニゴフ-セヴェルスキー地域(ただしラヂミチ族・ヴャチチ族の地を除く)と、ペレヤスラヴリ地域を指していた。狭義のルーシの用法は、13世紀直前まで用いられており、たとえばノヴゴロドの史料などにおいてその使用例が確認できる。
ルーシ最古の年代記である『ルーシ原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)によれば、ノヴゴロド(ホルムガルド)に拠って最初のルーシの国家(ルーシ・カガン国)を建設したといわれるリューリクの子、イーゴリを擁した一族のオレグが882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。なお、この国家を建設したと年代記が記している「海の向こうのヴァリャーグ」がノルマン人なのかそうでないのかには議論の余地があるが、ノルマン人が関与していたことはほぼ間違いないとされている(彼らの言語は古ノルド語であったが、次第に古東スラヴ語へと変遷して行ったと推定されている)。建国当初はまだキリスト教化もしておらず、ペルーンなどの固有の神々を信仰していた。一方でソ連の学者M・チホミロフは、「ルーシ」という名前は9世紀から知られており、キエフを中心とした東スラヴ人ポリャーネ族の国の国号であったと論じており、それがヴァリャーグによって征服され大公国として成立したという説もある。
建国より10世紀までの歴代支配者、すなわちオレグ、イーゴリ1世、そしてその寡婦オリガは周囲の東スラヴ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大。また、南に位置する大国ビザンツ帝国とも数度戦い、帝国の首都ツァリグラード(ミクラガルド)を攻撃した(ルーシ・ビザンツ戦争)。いずれの戦いも当時マケドニア王朝支配下で国力を上昇させていたビザンツに撃退されているが、これらの接触を通じて帝国の首都コンスタンティノポリスとキエフの間には商人が行き来し、次第にビザンツの文化やキリスト教がルーシに流れ込むようになっていく。オリガに至ってはビザンツ皇帝コンスタンティノス7世を代父としてキリスト教の洗礼を受けたと言われている。
カザフスタン大使館の思い出
旧ソ連崩壊の頃。何故か出向先から会社へ戻り、突然海外事業部の営業部に配属される。右も左も分からないのに自分で新分野開拓しろだって。港湾、農業或いはCIS諸国のプロジェクト。ちょうどソ連邦が崩壊した頃。何故か当社はカザフスタンのアルマトィ市に事務所を置いていた。そうカザフスタンなら出張で行ける。JICAでは無償援助プロジェクトの募集している。何かいい案件造れるかも。まあ、とりあえず大使館調べてアポの電話を入れる。
ガザフスタン大使館にtelしたら大使自らが面談に応じてくれるとか。相手も一人、日本駐在で何していいか分からず暇だったらしい。楽しく歓談させてもらった。
ソ連邦が残してくれた射撃の演習場がある。見渡す限り何もない平原で実弾射撃も出来るぞ。日本の観光客来るかな。カスピ海もあるし、石油資源も豊富だ。バイコヌールの宇宙基地も。農業分野確かには今後の課題だ。と言っても国もできたばかりで、未だ右も左も分からない状態のようだった。
** CIS諸国: 独立国家共同体は、ソビエト連邦の崩壊時に、ソビエト社会主義共和国連邦を構成していた15か国のうちバルト三国を除く12か国によって結成されたゆるやかな国家連合体。当時の欧州共同体 型の組織をモデルにしたが、独自の憲法や議会は持っていない。本部はベラルーシの首都ミンスクに置かれている。
大使さんは、カザフ人か。見た目は日本人とあまり変わらない。とりあえず、会話は自慢ではないが勿論英語だ。ロシア語の方が良かったのか。勿論こちらも力不足だけど、対露感情はどうなんだろう。でも、この時点で日本に大使館を持っていた中央アジアの国、~スタン系の国は、カザフスタンだけであった。楽しく歓談させてもらった。何とお茶菓子までご馳走になってしまった。楽しく歓談させてもらった。来たついでにカザフスタン国の若手画家の絵が展示してあるので見て行ってくれと。絵は風景画とか馬とか。
ところが、先客として真剣に絵を眺めている日本人が一人いた。偶然顔があったのでお辞儀したら、にっこり笑顔を返してくれた。とても優しそうないい笑顔だった。
その人は、なんと当時首相の橋本竜太郎さんだった。SPもつけずにじっと絵を眺めていた人。橋本竜太郎さん、それ以来とても好きになってしまった。忘れがたい昔の思い出。
カザフスタンは、実際に出張することになる。現地の役人はほとんどカザフ人のようだけど、英語はほとんど通じないので、ロシア語の通訳を頼むことに。何とその通訳さんがウクライナの方であった。でも、現地での交渉事は総てやってくれるとても人の好い世話好きなおばさんだった。
カザフスタンは旧ソ連では面積的にロシアに次ぐ大国である。しかも産油国、道路などのインフラも立派。大草原の中を一直線に地平線のかなたまでどこまでも伸びる。車はほとんど走っていない。たまに見えるのは羊の群れ。ラクダもいたかな。旧ソ連は土建大国でもあったようだ。そう、自然改造計画だ。JICAの無償援助プロはせいぜい数億円規模。建設業の会社としては余り協力できる余地は無かったかもしれない。カザフ人はもともと遊牧の民だったようだ。南の人口の多いウズベキスタン、ウズベク人が農耕の民であったのと対照的。でも定住化政策で農業も今後は重要な産業らしい。でも、乾燥地内陸国特有の問題も。ソ連時代に造られた灌漑農地の塩害の問題だ。海への出口のない内陸河川で灌漑して大量の水を消費すると塩分が蓄積して荒れ地になってしまうのだ。代表的なものとしてアラル海の消滅の問題がある。
アラル海
アラル海(Aral Sea、鹹海)はカザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖である。名前の由来は「島が多い」という意味のテュルク語らしい。中央アジア西部の内陸湖。アラル海の西にはカスピ海があり、2つの海の間にはトゥラン低地やウスチュルト台地がある。アラル海の南東にはキジルクム砂漠があり、南はカラクム砂漠、北はカザフステップに囲まれている。
1960年代まで湖沼面積は約66000〜68000平方キロメートルで、日本の東北地方とほぼ同じ大きさの世界第4位の湖だったが、半世紀で約5分の1に縮小。降水の多寡により水位変動があるが、2010年11月現在のアラル海の面積は1万3900平方キロメートルであり、日本の福島県とほぼ同じ大きさ。
かつては1つの湖だったが、その後小アラル海(北アラル海)と大アラル海(南アラル海)に分かれ、現在は小アラル海とバルサ・ケルメス湖、東アラル海、西アラル海の4湖に分かれている。小アラル海と大アラル海の間はかつてベルグ海峡と呼ばれ、現在はコカラル堤防で仕切られている。また干上がった部分はアラルクム砂漠と呼ばれる。つまり、今は歴史上のアラル海は今存在せずに痕跡があるだけと言う方が現実に近いか。
アラル海は砂漠の中にあり降水量は年間200ミリ未満。アラル海の水源はパミール高原や天山山脈などの融雪水に由来し、河川を伝って2000キロメートル以上流れてアラル海に到達する。小アラル海の主な水源は現在でもシルダリヤ川だが、大アラル海の主な水源だったアムダリヤ川は現在はアラル海まで到達しておらず、バルサ・ケルメス湖は水源を湧き水に頼っている。
アラル海の水位は、1960年に53.4メートル、半世紀後の2011年現在では大アラル海が25メートル下がって28.3メートルになり、小アラル海は11メートル下がって42.5メートル。それに伴い水量は大アラル海が6%、小アラル海は32%となった。その結果、海岸線は北岸の都市アラルから25キロメートル(2007年)、南岸の都市モイナクから77キロメートル後退。
アラル海が形成されたのは1〜2万年前とも、200万年以上前(古代湖)とも言われる。古生代のテチス海を起源とする説もある。紀元前5世紀のヘロドトスはアムダリヤ川はカスピ海に注いでいると記述しており、それが正しければ当時のアラル海は現在と同じようにシルダリヤ川のみが流入する湖だったようである。その後、地殻変動や流入河川の水路の変異によってサリカミシュ湖とつながったり干上がりかけたりする時代を経て、現在に至る。。13世紀から14世紀にほぼ干上がったことがあり、入り込んだ人間が集落を築き、モスクなどを造っていたことが発見されたケルデリ遺跡から明らかになっている。1960年頃までの塩分濃度は海水の約3分の1(10g/L)の汽水であり、この塩分濃度の低さはロプノールと同様に、発生と消滅を繰り返す不安定な湖の歴史の証明となっているようだ。
帝政ロシアはアラル海を自国領に組み込むに従い「アラル艦隊」を編成した。もともとアラル海周辺は漁業でなりたっている地域であったが1903-1905年頃、トランス・アラル鉄道(オレンブルク・タシケント間)が一部開通し、輸出をも視野に入れた商業的漁業が成立するようになる。ソビエト連邦時代にはアラル海サケ (ブラウントラウトの亜種)やアムダリア・チョウザメなどの在来種に加えて外来種も放流され、年間4〜5万トンの漁獲高があった。アムダリア・チョウザメがカスピ海産チョウザメの寄生虫で大量死する事件もあったが、最盛期には二千人の漁民が船団を組んで漁業を行い、アラリスクのコンビナートでは五千人の労働者が魚肉加工に従事し、名産のキャビアや缶詰を製造した。湖にはヴォズロジデニヤ島などの島があり、バルサケルメス島にはサイガやクランが放牧され、バルサ・ケルメス自然保護区が出来た。シルダリヤ川やアムダリヤ川の河口の湿地帯にはヨシや河畔林「トゥガイ」が広がり、ペリカンやフラミンゴなどの渡り鳥が飛来した。この他にシマハイエナやカラカル、カスピトラなどが居り、1930年代には毛皮を取るためにマスクラットが移植された。アラル海はシルクロードのオアシス地帯であり、ソ連時代は保養地ともされ、モイナクとモスクワには定期的な航空路線があった。
**世界地図で見ると気がつかないかもしれないが、少し前までは日本の東北全土、今でも福島県一県に相当する面積。人も数も産業もそれなり盛んなこの湖が消えてしまうことは、人類全体にとっても大きな問題だろうね。
1940年代にソビエト連邦は「自然改造計画」を実行し、綿花栽培のために大規模な灌漑を始めた。1950年代にはアムダリヤ川の中流域にカラクーム運河を建設し、アムダリヤ川の水をトルクメニスタンの首都アシガバートのほうに流すようにした。その結果1960年を境にアラル海の面積は急激に縮小し、1970年代末には塩分濃度の上昇により魚が取れなくなった。1980年代にはコクアラル島が地続きになり、アラル海の行く末が世界的に危惧されるようになった。1980年代を通じてアラル海の塩分濃度は海水(35g/L)に近づいていったが、アゾフ海から塩分に強いカレイを導入する事で漁業は何とか続いた。
アラル海は1989年に小アラル海と大アラル海に分断された。アムダリヤ川の河口部の湿地帯は干上がり、植生が砂漠の植物に変わり、マスクラットが巣を作れなくなり、渡り鳥が飛来しなくなった。大アラル海の塩分濃度は1993年に海水を超えて(37g/L)、2000年には海水の2倍(70g/L)に達し、塩分に強いはずのカレイですら死滅して漁業が不可能になった。湖の中にあったバルサケルメス島やヴォズロジデニヤ島、コンスタンチン島などは地続きになり、バルサケルメス島のクランはオオカミの脅威にさらされ個体数が激減した。細菌兵器の開発が行われていたヴォズロジデニヤ島では細菌の流出が危惧された。こうしてアラル海周辺の多くの生物が死滅し、漁業や魚肉加工業や毛皮産業が衰退し、9割の漁民が他地域に移住・転廃業して、いくつもの村が廃村になった。追い討ちをかけるように、干上がった湖底から砂嵐が舞い上がり、塩害により住民の健康被害や植生の破壊を引き起こした。2005年には大アラル海が東西に分断され、その後大アラル海は3つの湖に分裂した。2009年8月頃、衛星写真を根拠に東アラル海が消滅したかのように報道されたが、東西両アラル海は未だに健在であり、季節的要因や直近の降水量の多寡によって水位が変動する事が分かる。また小アラル海はコカラル堤防の建設により回復しつつあり、2012年2月にはシルダリヤ川の河口デルタと共にラムサール条約に登録された。これら人的要因による湖の縮小とそれにともなう周辺環境の急変は、「20世紀最大の環境破壊」とも言われている。
この地域で綿花栽培を最初に行ったのは、18世紀のホラズム・ハン国らしい。19世紀に中央アジアに進出した帝政ロシアは第一次産業革命の最中にあり、原材料として綿花を必要としていた。当時はアムダリヤ川水系を利用した運河網を建設してインドと交易する案(19世紀末のグルホスコイのアムダリヤ・カスピ航路案)もあったが、アメリカで南北戦争が勃発して綿花価格が高騰したことや大英帝国とのグレート・ゲームなどを理由に、中央アジアで綿花を国内生産する方が良いという結論に達した。またアラル海は農業用水として価値の低い塩湖であり、貴重な淡水を蒸発させるよりもアラル海に達する前に使いきってしまった方が良いという考え方もあり、当時からアラル海の縮小・消滅は織り込み済みだったようである。これらの考え方はロシア革命後も形を変えて引き継がれ、冷戦時代には経済的・軍事的な理由の他に、政治的・イデオロギー的な側面も加わり、社会主義陣営の盟主として「社会主義的政策」により素晴らしい効果を挙げることやマルクス・レーニン主義の唯物史観に基づいて、進化する人知と科学により自然を凌駕すること、共産主義は西洋社会や遊牧社会に勝ることを示そうとしたためと言われている。
ソビエト連邦は領主や地主、イスラム寺院などのブルジョワ階級から土地を取り上げて、灌漑によって草原を農業用地に変えた。更に遊牧民を定住させ、ソ連の沿海州から朝鮮系住民を強制移住させて労働者階級を作り出し、コルホーズやソフホーズで集団的な農畜産業に従事させた。ケッペンの気候図によると、シルダリヤ川流域は大量の水を必要とする綿花や稲科の栽培には向かない風土である。一方、アムダリヤ流域の高温が4ヶ月続く水の多い低地は稲作に適しており、高温を必要とする綿花は乾燥と塩分土壌にも耐性があるので、小麦ではなく稲作や綿花のモノカルチュアが導入された。第二次世界大戦後は大区画農地と大型農業機械による農業も始まり、ウズベキスタンの綿花生産量は150万トン弱(1940年)から450万トン(1970年)、500万トン(1986年)に増大した。更に近代的医療の導入により人口が増大し、「社会主義の勝利」と銘打って華々しく喧伝される。
アラル海の下流域では地下水位が高く1メートルも掘れば塩分を含んだ地下水が湧き出し、しかもシルト・粘土土壌であるために水分含有率が非常に高い。降水量の少なさと相まって塩類集積が発生しやすい環境にあり、最初は強制的な灌漑により耕作できた土地も、塩害の進行とともに放棄せざるを得なくなった。
**このような問題は、ソ連だけでなく米国の西海岸でも生じているらしい。或いは世界中にある問題かも。灌漑農地や都市住民の給水のため、河川が干上がり、河口まで水が来ない。河口の生態系が脅かされ漁業にも影響。塩分集積の問題はどうなんでしょう。ニューディール政策も同じような思想で行われていそうだから。
アムダリヤ・シルダリヤ両河川を水源として灌漑用水路を建設したがこれらは原始的な手掘りで河床対策が施行されなかったため、大半の水が無駄に砂漠に吸収され土壌の塩類集積・沼地化を促進させてしまった。しかも灌漑農地から染み出した排水や地表の塩分を洗い流すリーチングの排水は、灌漑用水の水質が低下しないように農地より低い位置にある砂漠に棄てられるか、排水路末端の池に注ぐことになり、アム河やシル河に戻ることはない。このようなずさんな灌漑設備および灌漑・排水方式により流量が激減した両河川は、アラル海を大きく減少させたとされる。水を消費するカラクーム運河の補完水源として「シベリア河川転流構想」(オビ・エニセイ川からアラル海経由でカスピ海)もあったが、実現性が乏しく1986年に中止された。
**河川転流の計画は、中国では今も真剣に模索中らしい。水量の豊富な長江の水を黄河に転流する計画だ。実際、黄河下流では既に水の枯渇が進んでおり、何らかの対策が必要らしい。過去のソ連邦の政策も一概に愚策と評価することも慎まないといけない。結果が現れるの政策立案時点よりも遥かに後になる。世界の水資源は絶対量で不足している。つまりあちら立てればこちらが立たずのトレードオフの関係だ。水の惑星と言われる地球でも、海水は豊富でも真水は乏しい。水資源にたまたまめぐ目れた日本人には気がつきにくいかもしれないが。
計画推進の結果、1960年代には年平均20cm、1970年代には年平均60cmと猛烈なペースで水面が低下し、急激に縮小をはじめた。一晩で数十 m も湖岸線が遠のいていくため、退避しそこなってその場に打ち捨てられた船の群れが後に「船の墓場」として有名になった。アラル海は中央アジアの中のオアシス的存在であった。湖の存在により気温・湿度が一定の過ごしやすい環境に保たれ、動植物が多様に存在していた。しかし湖が干上がることにより雨は降らなくなり、気温も年較差が激しくなった。そのことにより河畔林であるツガイ大森林など周辺の緑が枯れ、風食作用により表層土も失われ、湖ともども砂漠化の進行を加速化している。アラル海の塩分濃度は、ナトリウム以外の塩基成分であるカルシウムやマグネシウムなどの塩分等が湖底に沈殿し、カルシウムは貝類の貝殻に取り込まれる生態濃縮機能などによって数百年もの間一定の濃度を保っていたが、生態系の破壊によってその絶妙なバランスが機能しなくなったとも。
1980年代のソ連ではペレストロイカやグラスノスチが進んだ。1988年の第19回ソ連党協議会ではアラル海の惨状が議題に上り、主要閣僚が反省の弁を述べた。翌年、ソビエトは「国の環境健全化の緊急措置について」を発表し、海外の専門家に「アラル海復興構想」を募集することにした。1992年から1993年ごろ、カザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタン・キルギスタンの五カ国は「国家間水資源調整委員会」(ICWC)、「アラル海流域問題国家間会議」(ICAS)、「アラル海救済国際基金」(IFSA)を創設した。しかしタジキスタン内戦などが起こり、対策は遅々として進まなかった。
小アラル海
カザフスタン政府はシルダリヤ川の水が大アラル海に流出しないように、堤防を建設することにした。しかし1992年に作られた即席の堤防は土砂を積んだだけの物だったために、1998年に完全決壊した。そこでカザフスタン政府は世界銀行から融資を受けて本格的な堤防を建設することにした。2001年に「シルダリヤ川流路管理及び北アラル海プロジェクト」が始まり、2005年8月にはコカラル堤防(全長13キロメートル)が完成した。コカラル堤防は成功を収め、小アラル海の水位が上昇し、表面積は1.5倍となり塩分濃度は半減した。それに伴い漁獲量は2004年の52トンから2008年には1490トン、2016年には7100トンに回復した。2009年現在、アラル港(アラリスク港)を復活するために、サルィーシャガナク湾に第二の堤防(サルィーシャガナク堤防)を建設する計画が持ち上がっている。しかしコカラル堤防のかさ上げによる水位上昇を期待する意見もあり、賛否が分かれている。サルィーシャガナク湾やシルダリヤ川の河口デルタにはバスタード・チョウザメやシルダリヤ・シャベルノーズ・チョウザメが生息し、秋にはカンムリカイツブリやセイタカシギなど約20万羽が営巣する貴重な自然が残っている。これらの地域(33万ヘクタール)は2012年2月にラムサール条約に登録された。2013年現在、近隣の村では鯉やチョウザメなどを養殖し放流していると言う。
大アラル海
地下水の流入があるため完全に消滅することはないとされるが、アラル海はこのままでは2020年には干上がるという説もある。しかしアムダリヤ川の灌漑を全てやめたとしても回復までに75年かかると言う説もあり、世界銀行は大アラル海の救済には否定的。他地域から導水する案も根強く残っており、2000年代前半、モスクワ市長のユーリ・ルシコフがシベリア河川転流構想の復活を主張。ウズベキスタン政府は上流のダムの放水量の増加を期待しているが、冬季の水力発電が必要な上流国と夏季の農業用水を必要とする下流国では利害が一致しない。キルギス政府やタジキスタン政府は消極的だという。中央アジアではキルギスのトクトクル・ダムの過剰放水による洪水や建設中のログン・ダムを巡るウズベキスタン政府とタジキスタン政府の対立など課題が山積しており、大アラル海の救済まで手が回らないのが実情である。またウズベキスタン政府は石油開発のために大アラル海の砂漠化を歓迎しているという意見もある。せめて塩害だけでも防ごうと、干上がった湖底に植物を植える草の根の活動があるが、貧困に苦しむ住民が冬場の燃料として刈り取ってしまい、なかなか上手く行かない。2004年以降、ウズベキスタン政府は漁業・農業・放牧、洪水対策、塩分飛散軽減のために、アムダリア河口デルタに複数の人工湖を作っている。また水源の塩分濃度の低下を目指して、湿原に葦原を構築する草の根運動も行われている。
アラル海を撮影し、その関連作品を世に発信しているフランス出身の写真家ディディエ・ビゼーは大アラル海の現状に対し「かつて人々はアラル海を破壊してしまいましたが、いまはそれを復活させようとしている。うまくいけば、ほかの問題もそれに続いていい方向に向かっていくはずです」と語っている。
ダナキル砂漠
ダナキル砂漠(Danakil Desert)は、アフリカ大陸東部、エチオピア北東部とエリトリア南部に広がる砂漠。アファール人の居住地であり、その高温と海抜マイナス100メートル以下のアファール盆地で知られる。陸地では噴火口が最も低いダロル火山がある。ダナキル砂漠の主産業は岩塩の採掘である。また、アフリカノロバ等の野生動物生息地でもある。夏には気温が50℃近くになることがあり、人類が住める最も暑い場所としてギネス記録に登録されている。
アファール人と言えば化石人類に興味のある方ならピンとくるだろう。そう、アファール原人。勿論今住んでおられる方々は、化石人とは全く関係ない。人種的には他のアフリカ系のネグロイド系の人達とはちょっと見た目が違うか。岩塩の採掘は極めて過酷な労働のようだ。運搬を考えてか、総ての岩塩を30cm角程度の板状に鑿(のみ)で加工する。炎天下で6時間程度作業を続ける。採集している岩塩はある意味古代の海の化石。
この岩塩を周辺に運ぶ仕事も大変なようだ。ラクダの背中に乗せて運ぶ。砂漠のところどころに行き倒れになったラクダの死骸(ミイラ)が転がっている。アファール人達は太古の昔からこのような生活スタイルをズット続けて来たようだ。彼等に取っては塩だけが大地の恵みなのだ。
カリーニングラード
カリーニングラード(Калининград、Kaliningrad )は、ロシア連邦西部にあるカリーニングラード州の州都。バルト海に接する港湾都市で、人口は約42万人。カリーニングラード州はポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの飛地領で人口はおよそ95万人、世界有数の琥珀の産地である。
カリーニングラードはもともと1255年にドイツ人の東方植民(東方十字軍)によって建設された都市で、1946年まで使われていた旧名はケーニヒスベルク(Königsberg;ドイツ語で「王の山」の意)。20世紀前半まではドイツの東北辺境の重要都市。哲学者カントが生まれ一生を過ごした街。
多くのロシアの都市に比べ、海洋性に近い気候で、夏はそれほど暑くなく、冬も極端に寒くはならない。降水量は年間を通して、ほぼ均等。
30℃を超えることはそれほど多くないが、最高気温は1992年8月10日に36.5℃を記録。7月としての最高気温は1994年7月30日に記録された36.3℃。最低気温は1956年2月に-33.3℃、1月としては同年に-32.5℃を記録。カリーニングラードはロシアにとっても手放せない貴重な不凍港。
ケーニヒスベルクとしての歴史
現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、1255年にドイツ騎士団によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となる。街はポーランドとリトアニアを流れるプレゴリャ川の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄。ところが住民はポーランド王国を支持してドイツ騎士団と対立、1410年のタンネンベルクの戦いの結果第一次トルンの和約が交わされ、ケーニヒスベルクをはじめとしたドイツ騎士団領はすべてポーランド王国の従属国となる。その後ドイツ騎士団による専制に反発したケーニヒスベルク等の商業都市がプロイセン連合を結成して騎士団と対立してポーランド王国の庇護を求め、1466年の第二次トルンの和約によりケーニヒスベルクはポーランド王の直接の所有物となり、住民による自治権を与えられた。
1525年にドイツ騎士団の総長だったホーエンツォレルン家のアルブレヒトが修道会国家を世俗化させてプロシア公領を東プロイセンに成立させケーニヒスベルクはその首都となった。公国の血が絶えると1618年より同族であるブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。1660年のオリヴァ協定でポーランド王国がプロシア公領に対する宗主権を放棄して公領はポーランドから独立、プロイセン公国となり、1466年より194年の間ポーランド王が保障した自治権によって大いに繁栄していたケーニヒスベルクはその自治権を失ってプロイセン公国に隷属することになった。
1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位、フリードリヒ1世となりプロイセン王国がこの街で誕生した。この時期、ケーニヒスベルク大学などを擁する教育と研究の中心地でもあり、イマヌエル・カントら多くの学者を輩出した。19世紀にプロイセン王国を中心にドイツ帝国が形成されると、その一部となった。1848年にはヨーロッパ市民革命のプロイセンにおける中心地となり、王侯貴族の支配に対して商工業者を中心とした市民が立ち上がり、大規模な抵抗運動を行った。
第一次世界大戦後、旧ドイツ帝国の東部領土が割譲され、ドイツやオーストリアによって分割されていたポーランドが独立を果たした。その際、ポーランド北部のバルト海に面した地域にあたる旧プロイセン公国の領域のうち、自由都市として残されたダンツィヒ(グダンスク)を除いた「西プロイセン」は、ポーランドの海への出口(ポーランド回廊)としてポーランドに割譲された。ケーニヒスベルクを中心とする「東プロイセン」はドイツ領として残されたが、ドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立した飛び地となった。
のちにドイツで政権を握ったナチス党のアドルフ・ヒトラーは、ポーランド侵攻直前に飛び地解消を名目にポーランド回廊の領土返還を要求したが、権威主義的なポーランド側はミュンヘン会談の取り決め(ドイツは英・仏・伊に対しチェコスロバキアから併合したズデーテン地方以外に領土要求はしないと約束した)を盾にドイツの領土要求を拒否したため、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、ポーランドと相互防衛条約を結んでいた英仏がドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まった。
第二次大戦前の市街風景
独ソ戦中盤までケーニヒスベルクは比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部戦線の激しい戦場となった。1944年8月26日から27日の夜にかけてイギリス軍の爆撃機174機による長距離爆撃が行われたが、この空襲は郊外に爆弾のほとんどが落ちほぼ失敗に終わった。しかし続く8月29日から30日にかけてのイギリス軍機189機による空襲では市街地中心部が打撃を受けた。住居と工場の多くが破壊されたほか、クナイプホーフはじめ旧市街の大半、ケーニヒスベルク大聖堂はじめ古い教会のほとんど、ケーニヒスベルク城、大学などは完全に破壊された。
ソ連赤軍が東プロイセンに進撃を始めた1944年10月頃からは約37万人にのぼる市民の西部ドイツへの脱出が始まった。1945年1月13日にはソ連軍がついにケーニヒスベルクに達し1月末には市は完全に包囲されたが、市民や避難民はドイツ軍の確保した鉄道と港湾を使ってバルト海経由でケーニヒスベルクからの脱出を続けた。要塞化された市街の周辺には地雷や鉄条網などで三重の防衛線が築かれ、2月から3月の間ドイツ軍は抵抗をつづけた。しかし1945年4月6日から4月9日まで、ソ連軍は4日間にわたり南北から最後の突撃を行い、残されたドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは陥落した(ケーニヒスベルクの戦い)。
ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、ケーニヒスベルクはソ連邦への帰属が決定された。すなわち、東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に編入された。
戦後もドイツ系市民約2万人(1945年7月の同市の総人口は約7万人)が同市内に残留していたが、1947年10月11日スターリンは市内に残留していたドイツ系市民の追放を決定し、翌年にかけてドイツ系残留市民は全員鉄路でソビエト占領区域(後の東ドイツ地域に相当)へと移送された。前後して大量のソ連市民が市内へ移住した。1946年7月4日、ソ連領となったケーニヒスベルクは1ヶ月前に死去した先のソビエト連邦最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンにちなんでカリーニングラード市、区域全体はカリーニングラード州とロシア語名に改称された。その後、ケーニヒスベルク城の焼け残った外壁はドイツ時代の遺物として完全に破壊され、城の跡地にはソビエトの家が建設された。ケーニヒスベルク大聖堂の外壁は、歴史的な旧市街の廃墟が完全に撤去された空き地の中にそのまま残された。
カリーニングラードは冷戦時代は軍事都市として、州全体が外国人の立ち入りが規制される閉鎖都市だった。ソ連でも重要な不凍港としてバルト艦隊の拠点となり、造船業が発達、また古くからの琥珀の世界的産出地としても地位を確かなものとした。
ところが冷戦終結後にリトアニアがソ連から独立した結果、カリーニングラード州は今度はソ連・ロシア連邦の飛び地となってしまった。さらに冷戦後の造船需要の悪化で造船業が衰退して失業率が増加し、市民の4割が貧困層といわれるほど経済状況が悪化、琥珀も密売者の間で高騰する事態となった。ソ連崩壊後の一時期は東欧各国の中心にある地理的特性を活かして「バルト海の香港」としようという夢が語られたが、それとは程遠い状態になりつつある。ソ連崩壊直後にロシアはここをポーランド領とする案を用意(代わりにドイツはシュチェチンを得るという話であった)したものの頓挫、結局そのまま放置された。
カリーニングラードの経済は崩壊し、この町が東ヨーロッパの中心に位置するということもあって、麻薬取引、人身売買、盗難車の取引中継地など、東欧・旧ソ連全域を舞台にしたさまざまな犯罪の拠点に使われるほど治安が悪化、エイズなどの感染症も蔓延し始めた。さらに、軍事都市時代の有害な廃棄物が放置されており、住めない土地が各地に広がっていた。もはやこの都市の存在が、ロシアにとってもポーランド・リトアニアなど周辺諸国にとっても頭痛の種となった。
独立後10年を経て、ロシア政府はウラジーミル・プーチン大統領のリュドミラ・プーチナ夫人(当時。2013年離婚)がカリーニングラード出身ということもあってカリーニングラードの復興をてこ入れすることにし、経済対策として経済特区を設け、輸入関税を免除するなど外貨獲得を目指した。しかし、当初はロシア国内向けの家電組立工場が多数成立した他は特区の効果はあまり出ず、さらに2004年に周囲を取り囲むリトアニアとポーランドが共にEUに加盟したため、カリーニングラードとロシア本土との通行にリトアニアがビザを科すようになったなど、周囲との通行に障害が生じ、先の見通しが立たないとまで言われた。
ところがその後、ロシア本土との通行にリトアニアのビザ取得が簡素化され、物流も整備された結果、カリーニングラードの経済は驚異的な成長を遂げている。2006年10月16日付の、BBCの『カリーニングラード、過去の汚名をそそぐ』と題された記事では次のようなことが述べられている。カリーニングラードの今後のさらなる発展は、東方拡大を進めてきたEUとロシアの関係の重要な課題となっている。現在では、ソ連時代に破壊された大聖堂などの歴史的建造物の再建が進められている。
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BBCの『カリーニングラード、過去の汚名をそそぐ』
…過去数年の経済成長率は毎年10%を超えており、モスクワを含めたロシアのどの地域よりも発展している。域内は建設ラッシュであり、モダンなデザインの新しいビルが建設され、街にはデザイナーズショップが建ち並ぶ。 …また、住民一人当たりの自家用車保有台数はモスクワを上回っている。ロシアで販売されるテレビの3台に1台はカリーニングラード製であり、州内ではハマーやBMWといった高級車の工場がフル稼働している。 …人口95万人のカリーニングラード州の失業率はほぼ0%であり、労働力の不足が深刻である。そのため、カリーニングラード州政府は、ロシア本土などの旧ソ連地域から早急に30万人のロシア人をカリーニングラードに移住させる計画を進めている。とくに辺境のカザフスタンやカフカス地方に住むロシア人は地位が不安定で定職に就くことも難しいため、カリーニングラード州としては彼らを呼び寄せたいと考えている。州政府は、彼らのための住宅建設は順調に進んでおりすぐにでも呼び寄せることは可能である、と述べている。… …ただし「ロシアの工場」カリーニングラード経済の問題は、原材料や中間製品がすべてロシア本土からやってきて、州内で作られる最終製品の販売先がロシア本土しかないことである。州政府としては、周辺のEU諸国と経済関係を築きたいところであるが、EUと様々な政治的問題を抱えるロシア中央政府がそれに反対している。…しかしカリーニングラード住民の意識は年々変化し、ロシア離れが加速しており、子供たちまで「我々カリーニングラード住民は大ロシア(ロシア本土)とは違って、もっとヨーロッパ的である」と発言するまでになっている。
**以上、BBC(英国)からの報道。G7諸国のロシアへの経済制裁が続き自由主義経済がブロック化していくなら、EU諸国との関係は経済へのデメリットが大きくなるため、中国ロシアとのパイプの重要性が見直されているのでは?
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ヨーロッパの紛争の歴史がぎっしりと濃密に詰め込まれた歴史都市だ。今後も注目。東方十字軍・ドイツ騎士団が建てたケーニッヒブルク大聖堂。さらに、何と大哲学者エマニエル・カントが一生を暮らした街でその墓もある。旅行者には必見の地らしい。
プーチンさんの奥さんの出身地でもあり、ロシアからの経済支援も半端ではないらしい。ただ、NATO諸国から見れば喉元の骨みたいな存在であることも事実。
パトナ市
パトナ市:
インドのビハール州の州都である。2011年現在の人口は168万人。紀元前5世紀ごろ、マガダ国の首都パータリプトラが置かれ、紀元前3世紀にインド亜大陸の大半を統一したマウリヤ朝、紀元後の西暦4世紀成立のグプタ朝の都もあった古代インド世界の中心都市の1つであった。マガダ国と言えば、仏教を世界に広めた立役者アショカ王のおさめた国だ。仏教関係の遺跡も多そうだ。雨季は6月から9月であり、雨量の大半がこの時期に集中する。一番暑いのは5月であり、平均最高気温は38℃を超える。
【パトナ旅行ガイド】
バナーラスのガート(南アジアの川岸に設置された階段状の浸水施設)を洗う聖河ガンガー(ガンジス河)が多くの支流を集め、ビハール州の平原をゆったりと流れる。パトナーはこの大河の南岸に沿って東西に広がる都市である。 パトナーの印象は、地上の水すべてを集めたかのように、圧倒的な水量で流れるガンガー抜きにはあり得ない。州都として活気を見せる町のにぎわいの向こうには、対岸さえも定かには見えない大河が、人間の立てる物音などには少しも乱されることなく、人間の耳には聞き取れないほど波長の長い大音響をとどろかせて、今も流れ続けている。 パトナーは、仏跡のナーランダー、ラージギルを訪れ、ブッダ・ガヤーを目指す旅の起点になる町。また、古い歴史を誇る町でもある。紀元前5世紀にマガダ国の首都となるべく建造されたパータリプトラが、この町の前身。紀元前3世紀、その広大な領土のすみずみに、仏教公布のため石柱を立てたアショーカ王の都もここである。 発掘された古都パータリプトラPataliputraの遺跡が見られるのは、駅から線路沿いに東へ7kmほど、線路南側のクムラーハールKumrahar地区。マウリヤ朝の大ホール跡(石の列柱も残っている)などが保存されている。
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パータリプトラ(華氏城)は、マガダ国、マウリヤ朝、およびグプタ朝の都として繁栄した古代インド世界の中心都市の1つ。現在のビハール州の州都パトナにあたる。
マガダ国
紀元前6世紀か紀元前5世紀頃、マガダ国の王アジャータシャトルが、外征のための拠点として、(特にガンジス川を渡河するために)この地に城を築いた事から整備が進み、河川の合流点に位置し地の利のあるこの都市は急速に発展した。
アジャータシャトルの後の王ウダーインの時代には旧来の首都ラージャグリハ(王舎城)からパータリプトラに首都が遷され、その後長くマガダ国の首都として繁栄した。
マウリヤ朝
パータリプトラで発掘された柱の頭部の遺跡。古代ギリシャ芸術とペルシャ芸術の影響を受けている。紀元前四世紀。
パータリプトラで発掘された柱の頭部の遺跡。古代ギリシャ芸術とペルシャ芸術の影響を受けている。紀元前四世紀。
インド亜大陸の大半を征服することになるマウリヤ朝の時代にはパータリプトラの繁栄も頂点に達し、マウリヤ朝の初代王チャンドラグプタの時代にパータリプトラを訪れたギリシア人メガステネスの記録によれば「無数にあるインドの都市の中で最大の都市」であった。
しかしマウリヤ朝の第3代王アショーカの後、チェーティ朝の王カーラヴェーラやインド・グリーク朝の王メナンドロス1世らがパータリプトラに脅威を与え、またマガダ国自体の政治的地位も低下していったため、次第に衰退した。
グプタ朝
グプタ朝時代(320年から550年頃)には再び巨大帝国の首都として繁栄の時代を迎えたが、その後次第にインド世界の中心都市としての地位は失われた。
モルドバ共和国(Republica Moldova):
東ヨーロッパの内陸国。西はルーマニア、北・東・南はウクライナと国境を接し、面積は九州とほぼ同じ。首都および最大都市はキシナウ。ウクライナとの国境にドニエストル川を隔ててトランスニストリアという未認可国家がある。
モルドバは14世紀から1812年までモルダヴィア公国の領土であったが、オスマン帝国(モルダヴィアは属国)からロシア帝国に割譲され、ベッサラビアと呼ばれるようになった。1856年、ベッサラビア南部はモルダヴィアに返還され、3年後にモルダヴィアはワラキアと統合してルーマニア公国となったが、1878年に全土がロシア帝国に支配されるように。1917年のロシア革命では、ベッサラビアは一時モルダヴィア民主共和国と呼ばれるロシア共和国の自治州となった。1918年2月、モルダヴィア民主共和国は独立を宣言し、同年末、議会の議決を経てルーマニア王国に統合された。この決定にはソビエトロシアも異を唱え、1924年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内で、ベッサラビア東部の一端に設けられたモルドバ人居住地にモルダヴィア自治共和国(MASSR)を建国した。
**ベッサラビア
ベッサラビアは、1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指していった名称である。モルダビア公国の残余部分は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。
1940年、モロトフ・リッベントロップ協定により、ルーマニアはベッサラビアと北ブコビナをソ連へ割譲することになり、ベッサラビアの大部分と旧MASSRの最西端(ドニエステル川以東)を含むモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダビアSSR,MSSR)が建国されることになった。1991年8月27日、ソビエト連邦の崩壊に伴い、モルダビアSSRは独立を宣言し、現在の「モルドバ」へと名を改めた。3年後の1994年にモルドバ憲法が採択された。なお、モルドバ領内のドニエステル川東岸の一帯は、1990年以降から離脱したトランスニストリア政府の事実上の支配下にある。
ソビエト連邦崩壊後の工業・農業生産の減少により、サービス業がモルドバ経済の中心となっており、GDPの60%以上を占めている。一人当たりGDPではヨーロッパで2番目に貧しい国である。モルドバの人間開発指数はヨーロッパで最も低く、世界では90位である。
モルドバは大統領を国家元首とし、首相を政府元首とする議会制の共和制国家である。国連、欧州評議会、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、GUAM民主主義経済開発機構、独立国家共同体(CIS)、黒海経済協力機構(BSEC)、三国同盟のメンバー国である。
マイア・サンドゥ(ルーマニア語: Maia Sandu, 1972年5月24日~ )は、モルドバの政治家。2020年12月24日から同国の大統領(第6代)を務めている。ルーマニアの市民権も所持しており、母語のルーマニア語の他にロシア語、スペイン語、英語を話す。
なお、サンドゥはモルドバでは初の女性大統領で、NIS諸国では4人目、東ヨーロッパにおいては5人目の女性大統領となった存在でもある。またはマヤ・サンドゥとも表記される。
ウクライナ問題に絡んで、NATO諸国からの加入への勧誘が強い。一方、ロシア側も隣国トランスニストリアに干渉を強めて牽制。鉄の女との評判。いかに中立を維持できるか、腕の見せどころ。
ティグレ州
ティグレ州 (アムハラ語: ትግራይ ክልል) は、エチオピア北部の州。日本の外務省や一部報道機関ではティグライ州と表記され、こちらが原語の発音に近いかも。州都はメックエル(メケレ)。面積は8万4722km²で、2015年現在の人口は505万6000人。人口密度は59.7人/km²。2022年現在、ティグレ州を根城とするティグレ人民解放戦線との間でアムハラ州やエチオピア政府との戦闘が続いている。
アクスム王国の故地。1995年に民族ごとに州が再編された際、旧ティグライ州をほぼ引き継ぐティグライ人を中心とする地域で作られた。1998年、州内のバドメの街の帰属を巡ってエチオピア・エリトリア国境紛争が起きた。2000年に停戦が成立し、国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)の本部が設置された。2008年、UNMEEは活動を終了した。
【アクスム王国】
アクスム王国(アクスムおうこく)は、過去のエチオピア東北部、エリトリア地域に栄えた交易国である。紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までに交易国になった。325年または328年にコプト派キリスト教が伝来した。7世紀に衰退し始め、内陸の高地へ追いやられてクシ系のアガウ(Agaw)族の女族長グディット(Gudit;ジュディット(Judith)、ヨディット(Yodit)とも)によって950年頃滅ぼされたとされる。ただし、グディットはただ単に非キリスト教徒ないしユダヤ教徒であって、彼女の支配の後、アクスム王朝の流れを汲むアンベッサ・ウディム(Anbessa Wudim)が即位してからしばらくして、アガウ族が住む地域まで進出したところで、1137年にアクスム王国が滅亡したという説もある。面積は350年に約3,500,000km²と巨大だった。
一般に、アクスムは現在のイエメンに当たる南アラビアから紅海を越えてきたセム語系のサバ(シェバ)人が中心になって建国されたと考えられている。一方、少なくとも紀元前1000年位にはセム語系民族が存在したこととサバ移民が数十年しかエチオピアに留まっていなかったことを示唆する証拠を示して 、アクスムはより古い土着のダモト(D’mtないしDa'amot)王国の跡を継いだ者達の国である、と主張する学者もいる。
王たちは、ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋を引いているとして、自らの正当性を主張し、"negusa nagast"(「王の中の王」)と公称していた。
アクスム王国はインドとローマ(後に東ローマ帝国はアクスムに多大な影響を与えた)と主に交易した。象牙・鼈甲・金・エメラルドを輸出し、絹・香辛料・手工業製品を輸入した。2世紀にアクスムは紅海を越えてアラビア半島に属国となるよう迫り、また北エチオピアを征服した。350年にはクシュ王国(メロエ王国)を征服した。
アクスム王国は独自の硬貨を持ったアフリカで最初の国で、エンデュビス(Endubis)王からアルマー (Armah) 王に至る治世の間(大体270年から670年まで)同時代のローマの通貨を模倣した金貨や銀貨や銅貨が鋳造されていた。硬貨が作られたことにより、取引は簡単になり、また王国の収入源であった。
アクスム王国は最盛期、現在のエリトリア、北部エチオピア、イエメン、北部ソマリア、ジブチ、北部スーダン、に広がっていた。首都はアクスムで現在の北部エチオピアにあった。他の主要都市にイェハ (Yeha)、ハウルティ (Hawulti) 、そして現在エリトリアにある重要な港湾都市アドゥリス (Adulis) をはじめとしてマタラ (Matara) およびコハイト(Qohaito) がある。この時アクスムの住民は、エチオピアと南アラビアにいるセム系民族とハム系民族が混ざり合って構成されていた。
アクスムは7世紀にイスラム教が起こるまで、強大な国で強い交易力を持っていたが、段々と新興のイスラム帝国に圧迫されていった。アクスムはヒジュラで預言者ムハンマドと最初の信者達を匿ったため、イスラム帝国が紅海とナイル川の多くの支配権を得て、アクスムが経済的に孤立していってもアクスムとムスリムは友好関係を保ち、アクスムが侵攻されたり、イスラム化されたりすることはなかった。
11世紀もしくは12世紀にアクスムがあった土地にはザグウェ朝 (Zagwe) が興った。ザグウェの領土はアクスムの領土より限られていた。その後、最後のザグウェ王を殺した、イクノ・アムラク (Yekuno Amlak) が祖先の跡を継ぎ、最後のアクスム王ディル=ニード(またはディナオード;Dil Na'od)の支配権を引き継いで、近代のエチオピア帝国にまで系譜がたどれるソロモン朝を開いた。
3世紀のものと思われるアクスムの戦勝碑には、ゼウス、ポセイドーン、アレースなど、ギリシャの神の名が見られる。この事から、この時代の王は、ギリシャやローマなど、地中海世界の影響を強く受けていたと考えられている。西暦325年ごろエザナ王の下で、王国はそれまでの多神教の信仰に代わってキリスト教を受容した。エチオピア正教会の典礼では現在でもアクスム王国の言語であるゲエズ語が用いられている。アクスムはプレスター・ジョン伝説の候補地の一つとして挙げられていた。
アクスムは国際的に且つ文化的に重要な国だった。エジプト、スーダン、アラビア、中東、インドといった様々な文化が集う場所で、アクスムの都市にはユダヤ教徒やヌビア人・キリスト教徒・仏教徒さえいた。王国初期の西暦300年ごろ、キリスト教が伝来する前に建てられたと考えているオベリスクが、現在まで残っている。
2020年8月、ティグレ州で予定されていた総選挙が新型コロナウイルスの感染拡大を理由に延期された。しかし州議会は選挙を9月9日に強行し、エチオピア政府との間の軋轢が増した(2020年ティグレ州議会選挙)。同年11月、政府側は州議会与党のティグレ人民解放戦線が政府軍の基地を攻撃したとして開戦を宣言。空爆を含めた攻撃が開始され、多数の市民が犠牲になった(ティグレ紛争)。隣国のエリトリアもエチオピアを支援するために軍を派遣した。エチオピア政府は同州に6か月間の非常事態宣言を発令し、インターネットや電話など通信インフラの制限が実施された。
戦争が激化すると住民が国境を越えて隣国スーダンのガダーレフ州やカッサラ州に流出、2020年11月15日までに2万人を超える住民が難民化した。戦闘により州内に食料支援などの関係者の立ち入りができなくなったこともあり、2021年には数万人の子供が栄養失調に直面する危機に立たされた。WHOはティグレ州について、人口の約40%が極度の食料不足に陥っていると発表した。
なんと、アクスム王国とは今のエチオピアの起源そのものではないか。こんな紛争位解決こそ国際連合の出番のはずなのに何故国連は機能しないのか。
そもそもティグレ州を根城とするティグレ人民解放戦線の主張は何か。州としては小さな州だけど、そこがエチオピアから独立したということか。旧ユーゴスラビアの場合は、一民族一国家が正義とする欧米各国の支援のもとに、旧ユーゴスラビアは多数の小さな独立国家に分裂した。独立を食い止めたいエチオピアの側も経済制裁などで餓死者を出せば民族浄化策を取っているとの非難は免れない。総選挙を行ったことが何故エチオピア政府を怒らせたのか。エチオピアからの独立を決めたのか。ティグレ人民解放戦線はエチオピア全土の解放を目指しているのか。或いはエリトリア国への編入が目的か。
スリランカの内紛
スリランカに住むシンハラ人とタミル人
スリランカ民主社会主義共和国は、シンハラ人(74%、主に仏教)やタミル人(18%、主にヒンドゥー教)、スリランカ・ムーア人など約2,000万人が住む多民族国家。シンハラ人は、紀元前483年に北インドから上陸したアーリア系(インド・ヨーロッパ語族)の民族とされます。タミル人は、主に南インドに住むドラヴィダ系(ドラヴィダ語族)の民族で、紀元前2世紀中頃にセイロン島北部に到来したり、英国植民地時代に紅茶などのプランテーション労働者として強制移住させられたりして、定住するようになりました。公用語はシンハラ語とタミル語ですが、両民族間をつなぐ言葉(link language)として英語が使われている。「スリランカ」とは、シンハラ語で「光輝く島」という意味。(※文中の数字は2007年現在)
■民族対立に火をつけた英植民地の分割統治
シンハラ人とタミル人の対立の発端は、大航海時代に始まる外国の植民地支配にあるとされています。セイロン島は、1505年にポルトガル、1658年にオランダがシナモンを求めて来航し、それぞれ湾岸地域を植民地化。1815年には、キャンディ王朝の滅亡により、全島が英国の植民地となる。 この時から、それまであった両民族の慣習的な居住区域(境界線)は無視され、統一的に支配されるようになり、さらに英国は"少数派"のタミル人を行政府官吏に重用して、"多数派"のシンハラ人を統治させる「分割統治」を行いました。その結果、シンハラ人は貧しい農村でコメの生産などに従事する一方、タミル人のみが優れた教育を受け、官吏以外にも商人や資本家など社会的に高い地位を占めるようになりました。これが後に民族間の確執へと発展する英帝国が残した火種なる。
■対立を決定付けた1956年のシンハラ人優遇政策
100年以上に及ぶ英国支配の後、スリランカは1948年に英連邦自治領「セイロン」として独立。1951年にスリランカ自由党(SLFP)を創設したバンダラナイケ氏が、分割統治によって社会的に虐げられてきたシンハラ人の利益を尊重する政治姿勢を打ち出したことで、風向きが一気に変わりました。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」を掲げ、1956年の選挙で圧勝。シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策など急進的な政治を展開しました。タミル人はこれに強い反感を抱き、同年以降、シンハラ人との間で大規模な衝突が頻発するようになりました。
■タミル人青年たちの反政府武装組織化
シンハラ人優遇政策が展開される中、1972年公布の新憲法では、シンハラ語を唯一の公用語と明記しただけでなく、シンハラ人の大多数が信仰する「仏教」に特別な地位を与えることを宣言。さらに、少数派に不利な立法を監視する「第二議院」を廃止した上、英国統治下で1947年に制定された憲法にあった「少数派保護の条項」をほとんど削除。タミル人はこれに猛反発し、民族内での結束を強めて武装組織を次々結成。この時、後に「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam)となる過激派組織も結成され、スリランカ北・東部を"タミル人のホームランド(母国)"として、「タミル・イーラム」(イーラムはタミル語で国の意味)の独立を求めるようになりました。これら武装組織の中心となったのは、当時、高等教育を受けながらも失業状態にあったタミル人青年たちでした。
全面的な戦闘状態に突入した1983年
徐々にエスカレートしていたシンハラ人とタミル人の衝突は、1983年を境に政府軍とLTTEの全面的な戦闘状態へと突入します。そのきっかけとなったのは、1984年まで首都だったコロンボ。人口の半数以上がタミル人。ジャフナで発生したタミル人によるシンハラ人兵士13人の殺害事件でした。当時、シンハラ政府は社会主義経済の行き詰まりから、経済自由化を推し進めていましたが、急激な自由化で国内ではインフレが進行するなどしており、シンハラ人の不満はタミル人に向けて噴出しました。コロンボでは、多くの犠牲者を出す大規模な暴動が勃発し、タミル人難民がカナダなど北米をはじめ、欧州、アジア各国に避難しました。
**欧米諸国は裏でLTTEを支援して対立をエスカレートさせていた可能性もありそうだ。
インド平和維持軍とノルウェー政府の仲介
紛争の激化に伴い、1987年にはインドが平和維持軍(IPKF)をスリランカに派遣し、LTTEとの仲介に乗り出しました。しかし、事態の改善には至らないまま、1990年に撤退。政府軍とタミル人武装組織との間で激戦が再開しました。その後、中東和平などで仲介外交の実績を持っていたノルウェーが仲介に入ったことで、2002年2月、ウィクラマシンハ首相率いる政府側とLTTEとの間で、一時的に停戦合意が成立。その背景には、2001年の米国同時多発テロ事件(9.11)以降、国際社会が足並みを揃えて取り組んできたテロとの闘いがありました。
** LTTEがテロ組織として認定された??
■内戦の最終局面を支えた海外のタミル人ネットワーク
しかし、停戦合意後に6回の和平交渉が行われ、2003年には「スリランカ復興開発に関する東京会議」が開催されましたが、散発的なテロや政府要人暗殺が発生するなど和平に進展は見られず、2005年のラージャパクサ大統領就任後には再び戦闘が激化しました。停戦合意は事実上守られていませんでしたが、2008年1月には正式に失効しました。LTTEは、世界各国で社会的な成功を収めたタミル人からの後方支援(活動資金、武器弾薬の調達、世論形成など)を得て、軽飛行機による空爆などで政府軍への応戦を続けました。また、LTTEはインターネットを活用して「スリランカ政府が少数民族を迫害している」と非難し、これに呼応する形で、海外のタミル人(カナダの25万人をはじめ、欧州など世界各国に多数居住しているとされています)を中心にスリランカからの分離独立を求めるも声も強まりました。また、こうしたアピールや海外からのタミル人のロビー活動は、欧州諸国でのスリランカ内戦に対する世論形成にも少なからず影響を与えました。
内戦の終結宣言
一方で、スリランカ政府軍はLTTEの武器補給ルートを絶つなど徐々に攻勢を強めていき、北・東部のLTTE支配拠点を次々と奪回。そして、2009年5月19日、ラージャパクサ大統領は、LTTEのプラバーカラン議長が戦闘で死亡したことを確認し、内戦の終結を宣言しました。26年間に及んだ内戦による死者は7万人以上。ラージャパクサ大統領は、その後国会で、すべての国民に受け入れ可能な政治解決に取り組んでいくことを表明しています。
■国内避難民28万人の再定住が最重要課題
最終局面で激化した内戦によって、約28万人ものタミル人らが国内避難民(IDPs:Internally Displaced Persons)となり、避難民キャンプでの生活を余儀なくされている。埋められたままになっている地雷キャンプでの生活は衛生面などに問題があり、スリランカ政府は2009年末までに80%の国内避難民を再定住(帰還)させる方針を示しています。しかし、内戦で破壊された住居やインフラの復興、埋められたままになっている地雷の除去など課題は残されています。日本は、国内避難民の再定住に向けた緊急人道支援と地雷除去支援を実施してきています。
シンハラ人とタミル人の和解に向けて
26年間に及ぶ内戦で分断された社会を再び統合していくには、シンハラ人とタミル人の和解が欠かせません。このため、ラージャパクサ大統領は、スリランカとして単一国家を維持しながらも、“セイロンティー”の茶摘みをするタミル人女性北・東部を含む各州に一定の自治を認める「権限委譲」を進めていく考えを示しています。また、タミル人をはじめとした少数民族の不満解消に向け、少数民族の声がより反映されやすい上院の設置なども議論され始めています。1983年の内戦突入時、混乱状況下にありながらも、身の危険を冒してタミル人をかくまったシンハラ人もいたといいます。今後、民族の対立を越えた着実な民族融和の進展が期待されます。
これで、何故今スリランカで暴動が発生しているが、なんとなく分かって来るのではないか。新型コロナの過剰な経済活動の低下に加えて、ウクライナ問題での経済制裁への協力で原油や食料価格の高騰。ただでさえ内戦で疲弊した経済下での、市民の生活が著しく破綻されているようだ。このような環境下では市民の不満はどうしても対立民族への敵意へと発展しかねない。政府のどんな政策も対立民族を優遇する差別としてとらえられてしまうのだろう。
【コロンボ】
コロンボ(Colombo)は、スリランカの最大都市。同国の経済的な中心都市であり、かつては首都であった。
名称の由来はシンハラ語で「マンゴーの樹の茂る海岸」を意味する「Kola-amba-thota」がポルトガル語でのクリストファー・コロンブスの名であるコロンボに置換えられたもの。
2011年の人口は752,993人(コロンボ都市圏の人口2,323,826人)。セイロン島の南西に位置しており、郊外には新首都であるスリジャヤワルダナプラコッテが存在する。スリジャヤワルダナプラコッテはコロンボの衛星都市であることから、遷都後もしばしばコロンボが事実上首都として扱われる。またコロンボは西部州の州都であり、コロンボ県の県都でもある。
コロンボは現代的な生活と植民地風の建築物、それに旧跡が入り混じった、忙しく活気のある都市。 化学工業、繊維産業、ガラス工業、皮革製品、家具、宝石などのスリランカの大企業の大半はその本部をコロンボに置く。
コロンボにはコロンボ大学や多くの大学と研究所、国立美術館、多くの教会やモスク、仏教やヒンドゥー教の寺院がある。郊外に仏教系大学が2つある。亜大陸一の港など、南アジア有数のインフラが整備された都市である。
南アジア最初のラジオ局であるラジオセイロンとして知られたスリランカ放送協会(SLBC放送局)はコロンボにある。
歴史
1680年のコロンボ
コロンボは2000年前からローマやアラブ、中国と交易を持っていた。ムスリム商人は8世紀には使節を置き、シンハラ諸王国と外部の交易の大半を支配下に置いた。16世紀初頭になると香辛料交易を求めるポルトガル人が到来。彼らは1517年にコロンボのムスリム人を追放し、この地に要塞を建築。ポルトガルは当時この地域を支配していたコーッテ王国内の対立を利用して勢力を拡大、16世紀末には同国を併合、セイロン島沿岸部の支配を確立する。コロンボはポルトガル領セイロンの首都とされた。当時のコロンボはフォート地区の要塞とそのすぐ外側のペター地区の商業地域から構成されていた。
1658年にはオランダに攻略されるが、引き続きオランダ領セイロンの首都とされる。1802年には次いでイギリスの支配下となり、イギリス領セイロンの首都となった。軍事拠点としての性格の強かったポルトガル、オランダ時代と異なり、イギリス統治下では都市開発が進められ、今日のコロンボの下地が作られた。1866年には市議会 (Municipal Council) が設置されるが、当時の人口は8万人ほどである。イギリス領であったことから、第二次世界大戦中にはセイロン沖海戦の一環として、日本海軍の艦載機によるコロンボ空襲が行われている。
1948年にはセイロン(1972年にスリランカと改称)が独立し、引き続き首都としての地位を占める。1985年、ジャヤワルダナ大統領は同国の首都をスリジャヤワルダナプラコッテへ遷し、コロンボは首都としての地位を失った。ただし、国会議事堂などの一部施設を除いて行政府、司法府など首都機能の大半は移転が進まず、コロンボに残された。
内戦が起こっていた1980年代から2000年代の間はタミル・イーラム解放のトラによる爆弾テロに幾度と無く見舞われている。
チャプルテペク城
チャプルテペク城(Castillo de Chapultepec):
メキシコシティのチャプルテペクの丘の頂上にある宮殿。チャプルテペクとはナワトル語で「バッタの丘の場所」を意味する。歴史学者ジェームズ・F・エルトンはチャプルテペク城について「世界中の何ものも美しさにおいてこれを越える」ことはないと書いた。チャプルテペク公園の入口に位置し、標高は2,325メートルである。チャプルテペク城とイトゥルビデ宮殿以外に北アメリカに王宮はない。
アステカ時代にはチャプルテペクの丘は聖地とされていた。チャプルテペク城はスペイン植民地時代に副王の夏の住居として造られた。メキシコの独立後、1841年から軍事学校、1864年から1867年までメキシコ第二帝政のマクシミリアンの皇宮、1884年から1935年までメキシコ大統領官邸、ほかに天文台などいくつかの用途に用いられたが、1940年代以降は国立歴史博物館(MNH)として使われている。
植民地時代、チャプルテペクの丘の頂上に修道院が建てられていたが、副王マティアス・デ・ガルベス (Matías de Gálvez) はその跡に新しい宮殿を造ることを命じた。しかし実際の建築がはじまったのはその子の副王ベルナルド・デ・ガルベスの時代にはいってからだった。建設担当者はフランシスコ・バンビテイとマヌエル・アグスティン・マスカロ。しかし副王ベルナルドは1786年11月8日に急死した。
ベルナルドの没後、スペイン王室はそれまでにかかった費用の1⁄5の価格で競売に出したが、買い手がつかなかった。最終的に1806年にメキシコシティ政府が購入した。
独立後
メキシコ独立戦争(1810-1821年)中と戦後しばらくの間、チャプルテペク城は見捨てられていた。1833年になって士官候補生の訓練のための軍事学校とすることが公布され、1843年に開校。この目的のためにいくつかの改造が加えられた。
1847年9月13日、米墨戦争のチャプルテペクの戦いにおいてチャプルテペク城がアメリカ軍の手に落ちようとした時、6人の士官候補生が命を落とした(ニーニョス・エロエス)。城の入口の天井には彼らをたたえる大きな壁画が描かれている。
アメリカ海兵隊の海兵隊讃歌はチャプルテペクの戦いとそれに続くメキシコシティ占領をたたえて「モンテズマの間から」で歌い出すが、これは史実と矛盾しており、チャプルテペク城はモクテスマ2世の時代より200年以上後にスペイン人の統治者によって建てられたものである。チャプルテペク城への突撃では多数の士官・下士官が戦死した。
ここの軍事学校出身であるミゲル・ミラモンが大統領だった1859~1860年の間、チャプルテペク城は初めて臨時の大統領官邸として使用された。このとき2階にいくつかの新しい部屋が造られた。
メキシコ第二帝政
1864年、メキシコの保守派がマクシミリアンを招いてメキシコ第二帝政が始まると、チャプルテペク城はミラバイェ城(Castillo de Miravalle)と呼ばれ、皇帝と皇妃カルロータの住居になる。皇帝は建物を改築するためにヨーロッパとメキシコの建築家を招いた。建物は新古典主義建築様式で、より皇宮らしく造られた。植物学者ヴィルヘルム・クネヒトは屋上庭園の造成を担当した。皇帝はヨーロッパから大量の家具や美術品などを輸入し、それらは現在も展示されている。
当時、城はメキシコシティ郊外に位置していた。マクシミリアンはウィーンのリングシュトラーセやパリのシャンゼリゼ通りなどのヨーロッパのブールバールを見本として、皇宮と市の中心部を結ぶ直線的な大通りの建設を命じ、皇妃通り(Paseo de la Emperatriz)と名付けた。1867年にベニート・フアレス大統領によって共和制が復活し、フランスの侵略者を排除し、メキシコ保守軍に勝利すると、通りはメキシコの改革(レフォルマ)をたたえてレフォルマ通りと改称された。
1867年にメキシコ第二帝政が崩壊した後、建物は使われなくなった。
ポルフィリオ・ディアス大統領時代(1876-1911年)初期の1877年、ここにメキシコ初の国立天文台を設立する布告がなされ、セバスティアン・レルド・デ・テハダ大統領時代の1878年に開館。天文台には1882年の金星の太陽面通過を観測する目的があった。しかし天文台が機能したのは5年間だけで、1883年には天文台はタクバヤのかつての大司教の住居に移転し、チャプルテペク城はふたたび再び軍事学校として使われた。軍事学校は1914年まで存在した。
建物はマヌエル・ゴンサレス大統領時代の1882年以前に夏の間の大統領の住居として使用された。ディアス大統領は年間を通して大統領官邸として使用した。ディアスはエレベーターを備え付けるなど城を近代化した。1896年にはここでメキシコ最初の博覧会が開催された。
メキシコ革命で1911年にディアス政権が倒れた後もチャプルテペク城は大統領官邸であり続けたが、ラサロ・カルデナス大統領は1934年にメキシコ大統領官邸をロス・ピノスに移し、その後チャプルテペク城が官邸として使われることはなくなった。
1939年2月3日、カルデナス大統領はチャプルテペク城を国立歴史博物館(MNH)とする法を公布した。かつての国立考古学・歴史・民族誌博物館から歴史に関する所蔵品がここに移された(1964年に設立された国立人類学博物館にも所蔵品が移された)。博物館はマヌエル・アビラ・カマチョ大統領時代の1944年9月27日に開館。
ザンジバル
ザンジバルはタンザニアの首都ダルエスサラームと海を挟んで真向かいにある。乗り合いバス感覚のプロペラ機であっという間にたどり着いた記憶がある。
ザンジバル (Zanzibar) は、アフリカ東海岸のインド洋上にあるザンジバル諸島の地域名だがメインはザンジバル島だろう。現在はタンザニア連合共和国に属するが自治権はかなり強いとか。人口は約107万人(2004年度)。1963年12月のザンジバル王国のイギリスからの独立と、翌1964年1月のザンジバル革命を経て同年4月にタンザニアに合流。
白い珊瑚礁とアラブやスワヒリ、ヨーロッパの石造建築遺跡が多数残る。かつては奴隷貿易、香辛料貿易、象牙貿易の拠点でもあった。2000年にザンジバル島のストーン・タウンが国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) の世界遺産(文化遺産)に登録された。現在は夕陽の名所として有名になっている。面積は日本の沖縄県よりも少し大きい程度。
ザンジバルの歴史
ザンジバルは、11世紀から13世紀にかけて形成されたイスラーム系スワヒリ文明の周縁部。16世紀のポルトガルの征服と17世紀末のオマーンによる征服を経て、19世紀前半のオマーンのサイイド・サイード王による王宮ストーン・タウンの建設以後、19世紀インド洋西部の覇権をイギリスと争ったオマーン帝国の中心として栄えた。象牙、クローヴ、奴隷などの貿易によって繁栄したザンジバルのイスラーム商人は、1870年代より奴隷を求めて東アフリカ内陸部のタンガニーカ湖にまで進出し、同地域のスワヒリ語化の契機を形成するなどアフリカ大陸にも強い影響力を保ったが、19世紀末のヨーロッパ列強によるアフリカ分割の文脈の中で1890年にザンジバル王国はイギリスの保護国となり、1896年のイギリス=ザンジバル戦争の敗北によってイギリスによる直接統治が決定付けられた。
20世紀に入るとアラブ系住民の主導で民族解放運動が進み、1963年12月10日にブーサイード家の国王を戴くザンジバル王国として独立を遂げたが、独立直後の翌1964年1月12日に勃発したザンジバル革命によって君主制は廃止され、ザンジバル人民共和国が成立した後、大陸部のタンガニーカと合併して同1964年4月にタンザニア連合共和国が成立した。以後、ザンジバルは大陸部のタンガニーカから強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。
**オマーンは現在もイエメンの東隣りに位置する王国だが、当時は結構な強国だったようだ。首都マスカットは、葡萄の品種としても有名だが。
金門島
金門県
金門島と言うより金門県と言う方がいいようだが。では、金門島はどこの国?
国共内戦で中国大陸から撤退した蔣介石率いる中華民国軍が、1949年の古寧頭戦役や1959年の金門砲戦を経て防衛に成功。 それ以来一貫して中華民国の統治下にある。つまり正式には台湾政府の統治下にあるということ。総人口約14万人(2019年10月)、世帯数:41,000 戸(2019年10月)、面積: 151.6560 km²。
金門県(Jīnmén xiàn)は、中華民国の県。英語でQuemoyと呼ばれることも多い。
概要
中国大陸に近接する大金門島などを領域とする。台湾海峡対岸の台湾に依拠する中華民国の「福建省政府」が置かれているが、1996年から省としての機能を「凍結」している。一方、中華人民共和国の行政区分上は、福建省泉州市の管轄とされているが、実効支配できていない。国共内戦で中国大陸から撤退した蔣介石率いる中華民国軍が、1949年の古寧頭戦役や1959年の金門砲戦を経て防衛に成功。それ以来一貫して中華民国の統治下にある。
**古寧頭戦役(こねいとうせんえき)は、1949年の国共内戦中に発生した台湾海峡の金門島を巡る激戦である。金門戦役(きんもんせんえき)としても知られている。中国共産党は国民党に大敗北を喫し、台湾を奪取し全土を統一する機会を逃した。
九龍江口や泉州の囲頭湾を望む大金門島、小金門島および大胆島(別称・大担島)や二胆島など12個の島から構成される。総面積は150.3397平方キロメートルである(代理管轄の烏坵郷を含まず)。中華人民共和国側の厦門市や泉州市とは海を隔てて接する。中国大陸側の支配地域とは最小2.1kmしか離れておらず、国共内戦期間中は最前線となった。
右の地図?で見える台湾海峡にある群島は澎湖諸島である。金門は亜熱帯海洋性気候に属し、4月から9月にかけて最も降水量が多い。年間平均降水量は1,049.4ミリ。年間平均気温は20.9℃である。地質は花崗岩が主体であり、農業には適していない。
ニクソンによる外交戦略変更以降、「一つの中国」を国是とし、台湾政府の存在を否定する日本政府。ところで、台湾の国旗は? なんせ日本政府が台湾独立を否定する以上、国旗が検索で来るわけもない。赤地に??。チョット写真からは判断がつかない。現実には台湾と中共は平和共存路線の道を進んでいる。
1949年の古寧頭戦役や1959年の金門砲戦は、同じ中国人同士の激しい戦闘があったようだ。大勢の戦死者も出た。でも、金門県は大陸からも台湾からも多くの観光客が押し寄せ賑わっているようだ。
今の習近平の中国が、台湾政府の存在を否定して武力侵攻を企てる? 「一つの中国」を欧米諸国が押し付けるなら、中国は義務として台湾進攻をして台湾民に中国式を押し付け経済社会の崩壊を進めざるを得ない。でも、台湾独立は歴史的な経緯を考えれば既に既成事実化している。
【追記】
台湾では、国民党政府のことを「犬が去って豚がやって来た。:狗走了,猪来了。」とあからさまに批判する声が。犬とはもちろん日本人を表す。蛇蝎の如く嫌われた国民党政府も李登輝総統の改革以来、世界が認める健全な民主的政府に生まれ変わった。今の国民党は、寧ろ中国の一部として自治を望む方向に転換した? もちろんこれには民進党は大反対でしょうが。
実際には、米軍の海兵隊の専門家に言わせれば、中国政府が軍隊を派遣して台湾に侵攻することは100%あり得ない。逆に中国が何らかの理由で混乱した際に台湾側から進行する可能性も無いということだ。米国民はこの可能性を信じているから台湾国としての独立には反対するらしい。
雲南省
雲南省(うんなんしょう、中国語:云南省:Yúnnán Shěng、英語:Yunnan)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は雲、または滇(てん)。省都は昆明市。省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることに由来する。南はベトナム、ラオス、ミャンマーとも国境を接する。少数民族の文化も残っており、気候は緯度に比べ冷涼、風光明媚、観光地としてまた訪問した土地だ。
古代
古代には中国の勢力が浸透して郡県が設置されたこともあったが、晋代には再び後退し、諸民族が分立した。唐代には南詔が出現して統一王国を形成し、宋代には大理国がこれに代わった。大理国はモンゴル帝国のクビライに征服され、名目的には元代の雲南等処行中書省が置かれたが、クビライの庶子のフゲチを祖とする梁王家の世襲の所領とされた。クビライが設けた三大王国・二小王国のうちの後者の一つである。この梁王国は、大理の旧王家段氏の協力のもと、1390年までこの地を支配し続けた。
**大理言えば思い浮かぶのは大理石。大理石(marble)は、石灰岩が変成作用を受けてできた粗粒の方解石、ドロマイトなどの岩石。結晶質石灰岩と呼び、変成岩の一種。中国ではこの地域で取れた石なのでそう名付けられた。古代より建築材料や彫刻の材料として使われている。
明・清
明代の洪武帝により梁王国が滅ぼされた際、段氏は梁王家を裏切り、その功績により再びこの地の王として復帰し、大理王国を復活させようと目論んだ。しかしこの地の東アジア有数の銀山に目をつけていた洪武帝は、この地の統治を段氏に委ねることを拒否、この地を併合して直接支配下に組み込み、南詔以来の独立王国の歴史は終焉を迎えた。明代には雲南布政使司が置かれ、清代に雲南省が成立した。明代以後、漢民族が大量に流入して多数を占めるようになり、漢民族の地になった。清末期には、この地に居住するイスラム教徒の回族が反乱を起こし、漢族と回族の紛争が続いた(回民蜂起参照)。1855年から1873年にかけては雲南省でパンゼーの乱が起こっている。
日中戦争・第二次世界大戦
日中戦争間は、援蒋ルートをめぐって中国国民党軍と日本軍との間で攻防戦(拉孟・騰越の戦い・ビルマの戦い)が繰り広げられた。
**援蔣ルート(えんしょうルート):日中戦争における大日本帝国と中華民国の蔣介石政権の対立の際、主にイギリス、アメリカ、ソ連が蔣介石政権を軍事援助するために用いた輸送路のこと。
現代
21世紀初頭から、エネルギー資源計画にもとづいた中国・ビルマ・パイプラインと大型船が寄港可能な港湾施設の建設が始まった。チャウッピューの港湾でポートスーダンからの石油を陸揚げ可能になり、石油パイプラインで昆明まで輸送が可能になる予定である。
雲南省と日本国とは複数の航空会社が運航する航空路線で結ばれており、本拠地とする中国東方航空や雲南祥鵬航空により、省内中心都市昆明市の空の玄関口である昆明長水国際空港から日本の三大都市圏(東京・大阪・名古屋)の国際空港との間で定期国際便が運航されている。高いビジネス需要によって、時期によってはこれらの路線にA330などの大型機が投入される事もあり、活況を呈している。
昆明市(拼音: Kūnmíng、英語: Kunming)は中華人民共和国雲南省の省都であり、雲南省の政治、経済、文化、交通の中心地。また1400年の歴史を有する国家歴史文化名城でもある。765年に南詔の拓東城として歴史に姿を現し、1276年に元朝に征服された後、昆明の名が始まった。14世紀に明に征服され、城壁都市が築かれたのが今日の昆明に続く。765年に南詔の拓東城として歴史に姿を現し、1276年に元朝に征服された後、昆明の名が始まった。14世紀に明に征服され、城壁都市が築かれたのが今日の昆明に続く。
サバナ気候地帯の緯度にあるが、1,891mの高原に位置するため温帯夏雨気候(Cwb)に属する。年間平均気温は摂氏15度で、冬は温暖で夏も涼しく、中国で最も快適な気候にある都市とされ古来、春城の異称を持つ。1月の平均気温は8.9度、7月の平均気温は20.2度、年降水量は920mmである。
プーアール市(普洱市)
プーアル市は、東南アジアの人々との交流で栄えた街。沢山の少数民族と言われる人々が暮らしている。中国茶のプーアル茶は有名だ。
岩手県はプーアル市と平成22年4月、経済、貿易などの分野で交流と協力を進め、併せて南部鉄瓶とプーアル茶を相互に宣伝を行うことなどを定めた「協力交流強化に係る協定」を締結しました。同年5月、上海万博に同市と共同出展しました。以来、互いの職員が訪問し合い、また特産品の共同PR等を行ってきました。(更新日 平成31年2月20日)
ゴロンゴーザ国立公園
【ゴロンゴーザ国立公園】
素晴らしい場所があるもんだ。アフリカのモザンビーク国。モザンビーク海峡を挟んで対岸は、希少な動植物を有するMadagascar島。インド洋から吹き付ける貿易風が独特の地形や風土を作り上げた。NHKで紹介されていたので、早速ネット百科事典Wikipediaで検索してみた。
【Gorongosa National Park】
Gorongosa National Park is at the southern end of the Great African Rift Valley in the heart of central Mozambique, Southeast Africa. The more than 4,000 square kilometres park comprises the valley floor and parts of surrounding plateaus. Rivers originating on nearby Mount Gorongosa (1,863 m) water the plain.
Seasonal flooding and waterlogging of the valley, which is composed of a mosaic of soil types, creates a variety of distinct ecosystems. Grasslands are dotted with patches of acacia trees, savannah, dry forest on sands and seasonally rain-filled pans, and termite hill thickets. The plateaus contain miombo and montane forests and a spectacular rain forest at the base of a series of limestone gorges.
flooding and waterloggingは洪水とそれによる湛水。非常に複雑で多様な環境や生態系が広がっている。
This combination of unique features at one time supported some of the densest wildlife populations in all of Africa, including charismatic carnivores, herbivores, and over 500 bird species. But large mammal numbers were reduced by as much as 95% and ecosystems were stressed during Mozambique's long civil conflict at the end of the 20th century.
NHKの放映でも野生の象が見られる。でも、国内でも内戦があり希少動物への影響も心配された。それ以上に住民の生活も心配しなといけないけど。
The Carr Foundation/Gorongosa Restoration Project, a U.S. non-profit organization, has teamed with the Government of Mozambique to protect and restore the ecosystem of Gorongosa National Park and to develop an ecotourism industry to benefit local communities.
米国のNGOが保護活動を行っていると言うが。
Civil War: 1981–1994
In 1977, the People's Republic of Mozambique, under the leadership of Samora Machel declared itself a Marxist-Leninist state. A rebel army is known as RENAMO sprung up to oppose the new government. Feeling threatened by FRELIMO's new one-party government in Mozambique, neighbouring Rhodesia and South Africa began arming and supplying RENAMO. Once Rhodesia became Zimbabwe in 1980, direct support for RENAMO came from South Africa with the intention of destabilizing Machel's government. Initially dismissed by Machel as a group of "armed bandits", RENAMO's war developed into a full-scale national threat by 1981. In December 1981 the Mozambican National Resistance (MNR, or RENAMO) fighters attacked the Chitengo campsite and kidnapped several staff members, including two foreign scientists. The Mozambican Civil War lasted from 1977 to 1992.
モザンビークは、ポルトガルの植民地だった。なんせバスコ・ダ・ガマが最初にたどり着いたんだから。同緯度の反対側にナミビアがある。どのように独立したのか?ポルトガルの対応は? モザンビークの独立に反対し武力行為に踏み切ったの英国の半植民地の南アとローデシアだったようだ。今はどちらの国も黒人の政権となっているようだけど。
アフリカの独立は本当に苦難の歴史だ。新しい政権が出来ても、欧米列国が反政府勢力に武器を供与し、内戦が勃発し、なかなか国がまとまらない。その結果、地球に残された野生の楽園も相当なダメージを被ったようだ。
The violence increased in and around the Park after that. In 1983 the park was shut down and abandoned. For the next nine years Gorongosa was the scene of frequent battles between opposing forces. Fierce hand-to-hand fighting and aerial bombing destroyed buildings and roads. The park's large mammals suffered huge losses. Both sides in the conflict slaughtered hundreds of elephants for their ivory, selling it to buy arms and supplies. Half of Gorongosa's elephants evolved to be tuskless. Hungry soldiers shot many more thousands of zebras, wildebeest, African buffalo, and other ungulates. Lions and other large predators were gunned down for sport or died of starvation when their prey disappeared.
A cease-fire agreement ended the civil war in 1992 but widespread hunting in the park continued for at least two more years. By that time many large mammal populations—including elephants, hippos, buffalo, zebras, and lions had been reduced by 95 percent. Surveys counted just 15 buffalo, 5 zebra, 6 lions, 100 hippos, 300 elephants, and just a handful of wildebeest. The cheetahs, leopards, hyenas, wild dogs and rhinoceros were nearly extinct.
野生動物の数が95%減った。でも、種の数が95%減ったんでなくてまだ幸い。復旧の可能性がある。白亜紀末の地球規模の大量絶滅では種の数が95%ぐらい減ったらしい。
Post-war: 1995–2003
A preliminary effort to rebuild Gorongosa National Park's infrastructure and restore its wildlife began in 1994 when the African Development Bank (ADB) started work on a rehabilitation plan with assistance from the European Union and the International Union for Conservation of Nature (IUCN). Fifty new staff were hired, most of them former soldiers.
元兵士がパトロール隊員。彼等が密猟者と結託しなければいいが。
Restoration: 2004-present
In 2004 the Government of Mozambique and the US-based Carr Foundation agreed to work together to rebuild the park's infrastructure, restore its wildlife populations and spur local economic development—opening an important new chapter in the park's history.
Since the beginning of the project, aerial surveys of wildlife have shown sharp increases in the number of large animals.
In the aftermath of Cyclone Idai, park rangers conducted rescue missions using their helicopter, boat, and tractor. According to Gorongosa Project president Gregory Carr, the park was "right in the middle of the impacted area." Roughly half the park was flooded due to the cyclone, but impacts to wildlife were expected to be minimal as the animals would be able to migrate to higher ground. The protection of this area was cited as a reason that the impacts of the flood on the human population were less severe, as the protected wilderness area can moderate the flow of water.
In March 2018, a leopard was captured by camera after 14 years.
豹は絶滅したと思われていたようだ。
Geology
The Park is in a 4,000km2 section of the Great African Rift Valley system. The Rift extends from Ethiopia to central Mozambique. Massive tectonic shifts began forming the Rift about 30 million years ago. Other warpings, uplifts, and sinkings of the Earth's crust over millennia shaped the plateaus on both sides and the mountain to the west. Mozambique's tropical savanna climate, with an annual cycle of wet and dry seasons, has added another factor to the complex equation: constant change in soil moisture that varies with elevation. The valley is located 21 km west of Mount Gorongosa at 14 m above sea level.
国立公園は東アフリカを縦断する大地溝帯(the Great African Rift Valley system)に位置する。テレビに映る複雑で多様な地形。また海岸の風景も見逃せない。
Vegetation
Scientists have identified three main vegetation types supporting the Gorongosa ecosystem’s wealth of wildlife. Seventy-six percent is savanna — combinations of grasses and woody species that favor well-drained soils. Fourteen percent is woodlands — several kinds of forest and thickets. The rest is grasslands subjected to harsh seasonal conditions that prevent trees from growing. All three types are found throughout the system, with many different sub-types and varieties. Tree cover increased throughout the park in the decades following the Mozambican Civil War, likely due to the dramatic declines of large herbivores such as elephants during that period.
Mount Gorongosa has rainforests, montane grasslands, riverine forests along its rivers, and forests and savanna woodlands at lower elevations. Both plateaus are covered with a kind of closed-canopy savanna, widespread in southern Africa, called “miombo,” after the Swahili word for the dominant tree, a member of the genus Brachystegia. About 20 percent of the valley’s grasslands are flooded much of the year.
Mount Gorongosa
More than 2,000 people live on Mount Gorongosa. In July 2010 the government of Mozambique and the Gorongosa Restoration Project (headed by the U.S.–based Carr Foundation) announced that Gorongosa Mountain would be added to the park bringing its total size to 4067 km2. This designation has contributed to an ongoing conflict between long-term residents of the mountain and representatives of the park.
以上は、Wikipedia英語版からの抜粋。米国のNGO、The Carr Foundationの活動がえらく宣伝されているようにも思えるが。世界遺産でもあるから多くの関係国の協力が不可欠ではないか。リーダのカー氏は、映画の「ジュラシックパーク」のような観光客をひきつける公園を造りたいのだろうか。
【Gregory C. Carr】
Gregory C. Carr (born 1959~) is an American entrepreneur and philanthropist. His most notable philanthropic venture is the restoration of Mozambique's famous Gorongosa National Park, which has been ravaged by civil war and environmental destruction. He has pledged more than $100 million over 35 years to restore and protect the Park's biodiversity, and to assist communities living adjacent to the Park with health care, education and agriculture-- in a public-private partnership with the Government of Mozambique.
モザンビーク共和国: アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家。南に南アフリカ共和国、南西をエスワティニ、西にジンバブエ、北西にザンビアとマラウイ、北はタンザニアと国境を接する。東はインド洋で、モザンビーク海峡内や対岸にマダガスカルが存在する。首都はマプト。国土面積は約79万9000平方キロメートル(日本のおよそ2倍)、人口は約3036万人で増加傾向。
**エスワティニ王国:
聞いたこと無ない国名。そう、昔はスワジランドと言った。首都はムババーネ。イギリス連邦加盟国の一つで、周囲を南アフリカ共和国とモザンビークに囲まれた内陸国。
紅海
紅海(こうかい、Red Sea, フランス語: Mer Rouge):
アフリカ東北部と、アラビア半島に挟まれた湾。長さ2250km、幅最大355km、面積438,000km2、平均水深491m、最深部2211m。海水は強い蒸発作用(少ない降雨)、流入河川無し、インド洋との限られた循環などにより塩分濃度は3.6%-3.8%と高い。北部にはシナイ半島があり、チラン海峡を通じてアカバ湾とつながっている。また、北西部にはスエズ湾があり、スエズ湾はスエズ運河を経て地中海とつながっているほか、南部はバブ・エル・マンデブ海峡を経てアデン湾とつながっている。同海峡はまさに国際海峡。
目立った河川が流れ込んでいないこともあり海水の透明度が高く、200種ものサンゴが生息するなど固有種も多いことからダイバーにとって憧れの対象である。とりわけ、エジプトがその経済的恩恵を享受している。海水の表面温度は夏には34°Cに達するが、サンゴの白化が見られないのは熱を吸収する藻類によると考えられる。海水の蒸発が激しいため、塩分濃度は40パーミルと世界平均35パーミルより高い。
紅海の海水は決して赤くはない。紅海はギリシャ語のエリュトゥラー海の直訳で、赤いという謂れには諸説ある。一説には、昔方角を色分けして考えた(例えば北の黒海)ため、南を表す赤となった。ヘロドトスも赤い海と南の海を交互に使った。また、エジプトの砂漠を赤い大地と言ったことがあり、その大地の海という意味、などである。
**中国にも方角を色で表わす考えはあったね。四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)。玄武は北を守る動物の神で色は黒。南を守るのは朱雀で赤。東が青で西が白。ユーラシア大陸の東西で同じ考えがあるのは起源が同じ?
紅海は地球の裂け目、地溝帯に海水が溜まった場所である。アフリカプレートとアラビアプレートが始新世に裂け始め、現在も拡大している。マントルからのマグマ上昇によって海底火山がいくつも島を形成し、その1つは2007年に激しく噴火した。
名前に色がつく4つの海、それぞれが何処に位置するか言える?
→紅海、黒海、黄海、白海→答は下段
解答:航海は上述の通り、黒海は今問題になっているウクライナを含む多くの国に囲まれた海域、黄海は朝鮮半島と中国、日本(東シナ海)に囲まれた海、白海だけは完全なロシア領。
なお、紅海;Red sea、Красное море、黒海;Black sea、Чёрное море、黄海;Yellow sea、Жёлтое море、白海;White sea、Белое море となっており、日本語以外でも同じ色の名前となっている。中国語はもちろん日本語と同じ(ただし簡体字で表記される)。紅海と黒海はギリシャ、ローマ時代からそう呼ばれていたようだが、後の2つは何時から?
済州島
済州島(チェジュとう、さいしゅうとう、제주도、Jeju Island):
朝鮮半島の南西、日本海、東シナ海、黄海の間にある火山島。その付属島嶼と併せて大韓民国済州特別自治道を構成。人口は約66万人、面積は1,845 km2。日本からも近く観光地として賑わっているようですが。一度は訪問して見たいね。
1105年まで耽羅(たんら、탐라)という独立した王国があった。日本の対馬とよく似た地理的位置にある。高麗や李氏朝鮮による併合後は流刑地となったが、朝鮮半島からの人口流入は流刑の時くらいであり、独自の文化を保っていた。かつては産業が無い困窮地域であったが、1960年代に在日韓国人らが日本からみかんの苗木を持ち込んで産業形成し、韓国政府の外国人観光客誘致政策で例外的にノービザで来れる観光地とされていた。首都ソウルと共に代表的な韓国の観光地となっている。なお、韓国語では「島」と「道」は同じ発音と表記。
済州島は韓国の最南端に位置する楕円形をした火山島であり、同国で最大面積の島。島の中心には標高1,950mの漢拏山がある。180万年前から火山活動が始まり、楯状火山の活動で島がほぼ形成され、その後、単成火山群が活動した。島内および海岸には360個以上の火砕丘が形成されている。岩質は主に玄武岩から成る。漢拏山は同国において最高峰であり、多くの登山客が訪れる。済州島は日本とも近く、最も近い長崎県の五島列島まで180kmほどの距離にある。
**漢拏山(ハルラサン、한라산)は、韓国の済州島にある山。標高1,947 mであり、韓国の最高峰。韓国はそんなに高い山なかったのか。
行政面では、済州特別自治道が置かれ、済州市が島の北半分を、西帰浦市が南半分を市域としている。観光地済州島は、実は過去にとても暗い悲惨な事件があったことでも有名なのだ。
韓国もこの事件の真相究明に乗り出そうという動き(金大中の時など)もあるらしいが、歴代政府の反共政策との絡みからか実態は未だ闇の中らしい。
【済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん):】
1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件。
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察及びその支援を受けた反共団体による大弾圧をおこない、少なくとも約1万4200人、武装蜂起と関係のない市民も多く巻き込まれ、2万5千人から3万人超、定義を広くとれば8万人が虐殺されたともいわれる。また、済州島の村々の70%(山の麓の村々に限れば95%とも)が焼き尽くされたという。その後も恐怖から島民の脱出が続き、一時、島の人口は数分の一に激減したともいわれる。弾圧を行う側からは住民は総て敵に写るらしい。
**在日朝鮮人で朝鮮総連に属している人の中にはこの事件を一生忘れられないとして、どうしても韓国は信頼できないとしている人達も多いという。
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた。1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体を済州島に送り込み、白色テロが公然と行われるようになった。韓国軍も住民虐殺事件を引き起こし、共産主義者による犯行であるとの情報操作を行った。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)、韓国本土でも戦闘が行われた。この混乱により済州島の住民を中心に、戦闘から逃れて日本へ渡る者が多数生じ、現在の在日韓国・朝鮮人の先祖にもこういった者が多く含まれるとされる。彼らは日本に来てからも他の在日の人の目を避けひっそりと暮らしているとか。
ハルツーム
ハルツーム(Khartoum、アラビア語: الخرطوم al-kharṭūm、意味:象の鼻)は、スーダンの首都。人口は2013年時点で約2,630,000人。2010年の都市的地域の人口は518万人であり、世界第58位、アフリカでは第5位。
古代エジプト文明を育んだナイル川。その上流の青ナイルと白ナイルが合流する地点に位置する。エジプトの上流ではヌビア人とかが独自の文明を持ってエジプトと対峙していたとも言われる。スーダンは灼熱の砂漠の中の国のようだが、ナイル川の周辺では農業も行われており緑も見られる。
**ヌビア人:ナイル川の第1急流から上流のハルツームにいたる古来ヌビアと呼ばれてきた地域の住民をいう。 考古学的資料によると,中石器時代に,この地域の南部に主として漁労とカバ猟を営む黒色人種が住んでいた。 彼らは木の枝と泥で造った小屋に住み,土器をつくり,抜歯の慣習をもっていたようである。(こんな資料もある)
1820年に、エジプトのムハンマド・アリー朝による支配の拠点として築かれた。ナイル航路の拠点となり、奴隷貿易の中継地として栄えた。
マフディー戦争では大英帝国のゴードン将軍が守備したハルツームをマフディー・ムハンマド・アフマドの軍が1884年3月13日から包囲し、1885年1月26日に陥落させた(ハルツーム包囲戦)。オムドゥルマンで1898年9月2日にマフディー軍はイギリス軍に敗れ、1万人以上が殺害された。
1998年8月7日、ナイロビ、ダルエスサラームのアメリカ大使館爆破事件でアルカーイダに関係して化学兵器を製造しているとされ、8月20日ハルツームのアッ=シファーの製薬工場がアメリカにより巡航ミサイルで攻撃された。
2019年スーダンクーデターでは、市内などで発生したデモによりオマル・アル=バシール政権が崩壊。同年、後を受けた軍事暫定政権に対しても民主化を求めるデモは続き、多数の死者、負傷者を出している。6月3日には治安部隊が座り込みを行っていたデモ隊を武力で強制排除し、100人以上の死者を出した(ハルツームの虐殺)。
欧米植民地による搾取と独立後の民族分断政策、本来平和な地であったスーダンは紛争の絶えない地域に変わってしまったようだ。
南スーダン共和国
南スーダン共和国(Republic of South Sudan):
首都はジュバ。北はスーダン、東にエチオピア、南東をケニアとウガンダ、南西がコンゴ民主共和国、西は中央アフリカと国境を接する内陸国。2011年7月9日、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立。2023年現在、国際連合が承認した中で一番新しい独立国。
スーダン紛争は、北のアラブ・イスラムの人達が南の黒人系の人々にイスラム法を強制して弾圧を加えたための紛争が生じたとの認識があるが、今北のスーダンで(2023.4)に起こっている政府軍と反政府軍の戦いとは別の物であった。
2011年7月8日までは、スーダン領でありながら南部スーダン自治政府の統治下にあった。これは、2005年1月9日にケニアのナイバシャで結ばれた第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意により、スーダン政府から自治を認められたためである。現在の南スーダンは黒人キリスト教徒を中心に数十の民族が暮らす多民族国家であり、独立前からムスリムのアラブ系を主流とする北部と対立し、アフリカ大陸最長ともされる内戦につながった。
2011年、分離独立の是非を問う住民投票が実施され、分離独立票が98.83%の圧倒的多数を占めた。新国名は「南スーダン共和国(The Republic of South Sudan)。2011年7月13日には国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった。さらに、AU(アフリカ連合)の54番目の加盟国となった。また英連邦に加盟を申請中。東アフリカ共同体にもケニアとルワンダの協力で2016年に加盟。
2014年、非政府組織の平和基金会が発表した「世界でもっとも脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となった。2019年のランキングでも3位になっている。国際通貨基金(IMF)が公表したデータによると、2018年南スーダンは「世界で最も貧しい国」のトップに選ばれた。首都ジュバは立地が南部すぎることや、再開発が難しいことを理由に、レイク州南東部のラムシールへの移転計画がある。
この南スーダンには、実は石油資源の埋蔵が確認されておりその採掘も始まっているはずだ。独立の際にこの石油資源の利権はどうなったんでしょうか。未だに北のスーダンが持っている? 欧米列強が簡単には利権を手放すとは考えれない。独立した後も連立政権内の争いが絶えないらしい。
クリミア半島
クリミア半島は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km2、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。日本の面積は378,000 km²であることを考えれば小さな半島か。でも四国4県の面積の大きさは18,803平方キロメートル。人口約375万6000人・人口密度は1平方キロメートルあたり約200人。でも、ウクライナが主張するように歴史的にここがウクライナの固有の領土であったとは明らかに無理がある。
ここクリミア半島はソ連圏にとって軍事上の要所。いや、帝政ロシアにとってもそうだった。ロシアにとっては海への出口。という訳でクリミア半島の人口の90%以上は非ウクライナ人。カザフ人、アルバニア人、アルメニア人、ウズベク人、グルジア人。
では、何故こんなロシアにとって歴史的な要所が今ウクライナの領域にあるのか。それはウクライナがソ連の中核だったからではないか。東西冷戦で大きな役割を果たした大政治家フルシチョフ。彼はウクライナ人ではないけど大のウクライナ贔屓でで、クリミアはウクライナに任せておけば安心と思ったらしい。
ウクライナ、白ロシア、ロシアは元々ロシア(ルーシー)三兄弟。「你办事,我放心。」=君に任せておけば僕は安心だ。ところがオバマ政権下(バイデン副大統領が指揮)でのオレンジ革命、マイダン革命を通して、なんとウクライナ政府は完全な米国の傀儡と化してしまった。当然ロシアや周辺国は大不安な状況でしょう。ウクライナ政府がここの領有を放棄しない限りこの戦争は絶対に終わることがあり得ない状況だ。
マチュ・ピチュ
マチュ・ピチュ(スペイン語:Machu Picchu、ケチュア語:Machu Pikchu):
15世紀のインカ帝国の遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根(標高2,430m)にある。
当時、インカ帝国の首都は、標高3,400mに位置するクスコに所在した。標高2,430mのマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にあった。現在のクスコはペルー有数の都市で、1983年より、その市街地は世界遺産(文化遺産)に登録されている。
なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡した。アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担などの理由はまだ明確には分かっていない。
**最近の調査でかなりのことが解明されてきているようですが。
山裾からは遺跡の存在は確認できないことから、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと称される。一方、遺跡の背後に見える尖った山はワイナ・ピチュ(Huayna Picchu、若い峰)で、標高2720m。山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山腹にはマチュ・ピチュの太陽の神殿に対する月の神殿が存在する。
この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。南緯13度で、10月から翌年4月までの長い雨季と5月から9月までの短い乾季に分かれる。行政上クスコ県に属しており、クスコの北西約70kmに位置する。2015年の第39回世界遺産委員会終了時点でペルー国内に12件あるユネスコの世界遺産のうちでは、クスコとともに最初(1983年)に登録された。
【インカ文明と文字】
13世紀から16世紀にかけて南アメリカに存在したインカ帝国は、文字を持たない文明だったため、その歴史についてわかっていることは限られている。しかし、結び目を使って出来事などを記録する「khipus(キープ)」と呼ばれるひもをインカ文明で使っていたことがわかっており、この「意味」の解読作業が続けられています。そんな中、ハーバード大学の学生が春休みを利用してキープの解読作業に着手し、それまでわかっていなかった秘密を探り当てることに成功したらしい。
確かにキープはいわゆる文字ではないが、出来事を記録する手段としては、十分に役に立つ。同様なことは遺伝情報にも言える。ATCGという4つの塩基の超長い配列を3つずつ区切ったコドンと言うものを文字だとすれば、ゲノムと言うものは一つの文章、或いは文学を表しているものとも言える。世界には文字を持たない文化を持った人達も多い。キープの他にも記録を保存する媒体は存在するのではなかろうか。
火焔山
火焔山(かえんざん、拼音: huǒyànshān)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区の天山山脈付近にある丘陵。タクラマカン砂漠タリム盆地の北部、トルファン市(吐魯番市)高昌区の東部に位置する。砂岩が侵食してできた赤い地肌には、炎を思わせる模様ができている。平均標高は500メートルであり、比較的平らな山頂が、長さ98キロメートル、幅9キロメートルにわたって横たわっている。途中の何箇所かが川で切断されている。この特徴的な地形は、火山活動による溶岩が、長年にわたってガリ侵食などで削られてできたものである。平均気温が高いことで知られ、夏の気温が摂氏50度を超えることも頻繁である。この地形と気候が特徴的なため、中国での人気観光スポットの一つとなっている。
【トルファン市(吐魯番市)】:
中国新疆ウイグル自治区天山山脈東部山間の盆地に位置する。市名は、ウイグル語で「人と物が豊かな地域」を意味する。トルファン市は光熱資源が豊富である。盆地内は乾燥し少雨、日照が満ち足り、無霜期は270日に達し、年間日照時間は3200時間。特産品はブドウ、ハミウリ、長絨綿、季節外の野菜などの経済作物。
シルクロードとの関係
古代の東西交易にとってタクラマカン砂漠は難所の一つであった。交易商人たちは、タクラマカン砂漠の北端を、シルクロード天山南路として利用した。その途中にあるオアシスは、高昌のように貿易中継地として栄えた。彼ら交易商人達に仏教の僧侶も同行し、その路上に仏教寺院を作った。火焔山の中腹には、そのような寺院の一つ、ベゼクリク千佛洞がある。5世紀から9世紀にわたって増築が進められたもので、仏教施設がある70の洞窟の集合体。多数の壁画や仏像が残されている。
ところで、火焔山の赤い砂岩は酸化鉄が海底に堆積したもの。つまり太古にはこの周辺は大きな海、テチス海が広がっていた。
一方、火焔山の名前は西遊記にも出て来る。孫悟空の出てくる話。三蔵法師は実在人物の玄奘和尚がモデルらしく、彼は「大唐西域記」の著者でもあり、実際この地を訪れた可能性もある。なお、同名の火焔山は台湾にも存在する。
サンティアゴ大聖堂
サンティアゴ大聖堂
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂 (Catedral de Santiago de Compostela)は、スペイン・ガリシア州・州都サンティアゴ・デ・コンポステーラにある大聖堂。「ヨーロッパ三大聖地」の一つで、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の終着点に位置する。ヨーロッパ社会でも、日本の四国八十八か所巡りのような巡礼の旅が今でも続いているらしい。
来歴
9世紀頃、エルサレムで殉教した聖ヤコブの遺骸が埋葬されたという伝説が誕生した。1075年にアルフォンソ6世の治世の下、大司教ディエゴ・ペラエスの指示で、「尊敬すべき親方」大ベルナルドとロベルトが建築を開始した。1100年にディエゴ・ヘルミレスによって親方エステバンに委託された。また大司教ヘルミレスは12世紀初頭、ヤコブの聖遺物の一部をピストイアに送ることを了承した。1168年には彫刻家マテオに西側の封鎖と主身廊の聖歌隊席を含め、完成させるよう委託された。マテオは聖堂正面「栄光の門」やスペインバロック様式の主祭壇を作り上げた。1211年、大聖堂はアルフォンソ9世に奉献された。その後基礎的な構造は守られつつも建築は続き、その後数世紀のルネサンスからバロックが流行した時期に、回廊の増設や併合が行われた。その間に主祭壇やオルガン、オブラドイロ門などが増築された。新古典主義の時代にはアサバチェリア門が増築された。
【聖ヤコブ】
ゼベダイの子のヤコブは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟。アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われる。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。正教会では聖福音者イオアンの兄聖使徒イアコフと呼ばれる。
『マルコによる福音書』1:19-20によるとヤコブは父ゼベダイ、兄弟ヨハネと共にガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、そのまま父と雇い人を残してヨハネと共に弟子になった。彼ら二人は「ボアネルゲス」(雷の子ら)とよばれていたようである(→ゼベダイの子)。ヤコブはエルサレム教会においても一貫して中心的な立場を占めていたが、『使徒行伝』12:2によるとユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、殉教したという。44年頃のことと推定される。
崇敬
9世紀、ヤコブの遺体とされるものが、遥か遠くスペインの、現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの地で”奇跡的に発見された”とされる。その頃のスペイン地域は、イベリア半島においてのレコンキスタの最中であり、イスラム勢力と闘っていたキリスト教勢力を守護する、またはキリスト教徒勢力がイベリア半島を制圧する行動のシンボルとして熱狂的に崇められた。このためスペインの守護聖人とされる(聖ヤコブはスペイン語で「サンティアゴ(Santiago)」となる→随分名前が変わるんですね)。
このためサンティアゴ・デ・コンポステーラは、イベリア半島のみならず、西方カトリック世界における代表的な巡礼地となり、三大巡礼地のひとつに数えられるに至った。巡礼路は整備され、巡礼を世話することを目的とする修道院が配置されるに至った。いまも同地は巡礼の聖地として信仰を集めている。巡礼路の中核をなすものは、隣国フランスに発し、ピレネー山脈を越える巡礼路である。
ホタテ貝はヤコブのシンボルで、フランス語ではホタテ貝を「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques、コキーユ・サンジャック)と呼ぶ。そうだ、ヤコブさんはもともと漁師の出身だた。ヨーロッパ料理はホタテ貝を好んで使うのでしょうか?
この教会の最大の見物(みもの)は、天井から吊るされた世界最大の香炉(ボタフメイロ, botafumeiro)。重さはなんと80キロ乳香の香りと煙を振りまきながら、ぶんぶん宙を舞う様は圧巻。物理の振子の実験みたいだ。うっかり、接触しようものならその破壊力は大変なものでしょう。
英語圏で多いジャック(Jack)の名は、彼の名(ジェイコブ)か、あるいは旧約聖書に登場するユダヤ人の祖ヤコブに因むJamesまたはJacobの愛称である。ただし、ヨハネを表すJohnの愛称である場合の方が多い。なお、フランス語のジャック(Jacques)はヤコブに相当する名前である。
カトリック教会における記念日は7月25日。正教会での記憶日は4月30日(ユリウス暦を使用する正教会では5月13日に相当)。
ところで、サンディエゴ(San Diego)と言えば、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ郡にある都市。同州ではロサンゼルスに次いで人口が多く、アメリカ西海岸有数の世界都市。国境の町でちょっと歩くと、隣国メキシコの都市ティファナ(Tijuana)に入れる。もちろんパスポートが必要。これも観光の売り。また、シーワールド・サンディエゴ ( SeaWorld San Diego)は海のテーマパークとして1964年にオープン。ダウンタウンから車で15分ほどと、アクセスしやすいこともあり、世界各国から多くの人が訪れる、サンディエゴの観光名所のひとつです。シャチのショーが見物(みもの)、鴨川シーワールドの先輩。
忘れてはいけない。サンティアゴ(Santiago)はチリの首都でもあった。名前が同じ或いは似ているのは語源が同じと言うことでしょう。カリフォルニア州だって元はスペイン領、米墨戦争で米国が奪い取ったものだ。スペイン語を学べはこんなことも分かって来る。
サンティアゴ(Santiago)大聖堂がスペインにあるとのことで調べてみました。
マラガ
マラガ(Málaga)は、スペイン・アンダルシア州マラガ県のムニシピオ(基礎自治体)。マラガ県の県都。地中海岸のリゾート地であるコスタ・デル・ソルの中心に当たる。世界有数の歴史を持つ都市であり、紀元前770年頃にフェニキア人によって建設されたマラカ(Malaka)にさかのぼる。紀元前6世紀からはカルタゴの支配下にあり、紀元前218年からはマラカ(Malaca)として古代ローマの支配下にあった。ローマ帝国が崩壊し、西ゴート王国の支配が終焉すると、約800年間はイスラーム勢力の支配下にあった。1487年にはカスティーリャ王国のレコンキスタによってキリスト教勢力の支配下に。フラメンコの様式であるマラゲーニャはマラガで産み出された。
マラガはグアダルメディナ川の河口部に形成された町で、港湾設備も有する。マラガが属するアンダルシア州の海岸部には、西から大西洋の外洋に面しているウエルバ県、イベリア半島とアフリカ大陸を隔てるジブラルタル海峡に面しているカディス県、そして地中海に面するマラガ県、グラナダ県、アルメリア県と並んでいる。このようにアンダルシア州の海岸部の中央に位置しているのがマラガ県であり、その県都がマラガである。この付近の地中海沿岸は、コスタ・デル・ソルと呼ばれ、マラガは、その中心地に位置する都市でもある。なお、ジブラルタル海峡からは、約130km離れている。また、背後の内陸部にはマラガ山地が連なる。
*costa de sol(コスタ・デル・ソル)は英語ならsunshine coast、つまり燦燦と太陽が降り注ぐ、北国の人達にとっては最高のリゾート地。
2017年の人口は569,002人(約60万人)で、アンダルシア州ではセビリアに次いで第2位、スペインではマドリード、バルセロナ、バレンシア、セビリア、サラゴサに次いで第6位。
マラガは亜熱帯性の特徴を持つ地中海性気候であり、ケッペンの気候区分ではCsaに分類される。年間日照時間は長く、年間300日の晴天日に対し、雨天日は40日から45日程度しかない。冬季は気温があまり下がらずに穏やかである反面、夏季は暑く乾燥しがちであり、特にアフリカ大陸方向から地中海を越えてくる熱風が吹き込むと高温になる。ただし、地中海岸に沿って東の方向から吹いてくる涼風の影響も受ける沿岸地域であるため、内陸部と比べると夏の暑さは幾分しのぎやすい。
ヨーロッパの人口50万人以上の都市の中では最も冬季の気温が高く、12月から2月の平均気温は摂氏17度から18度である。冬季にはマラガ山地がスペイン内陸部の寒い気候を遮断する役目を果たす。4月から11月までは夏季であるが、12月から3月までの期間も気温が摂氏24度を超える場合がある。日中の年平均気温は摂氏23.3度であり、夜間の年平均気温は摂氏13.7度である。最寒月である1月の日中の気温は摂氏13度から20度であり、夜間の気温は摂氏5度から13度である。最暖月である8月の日中の気温は摂氏26度から34度であり、夜間の気温は摂氏20度を超える。1月の平均海水温は摂氏16度から17度であり、8月の平均海水温は摂氏26度である。つまり、ヨーロッパでは最も住みたい人気のある都市と言うことのようだ。
紀元前1000年頃、フェニキア人が現在のマラガの位置に「マラカ」(Malaka)という都市を建てた。「マラカ」の名はおそらくフェニキア語の「塩」から来ており、港で魚が塩漬けにされたことによる。その6世紀ほど後、カルタゴの領土だったイベリア半島の他の地域と共に、ローマ人により征服された。5世紀からは西ゴート王国の支配下に入った。
8世紀にイベリア半島はイスラム教徒に征服され、マラガは重要な貿易の中心地となった。マラガは後ウマイヤ朝に領有された後、タイファ時代にはグラナダとは独立した王国の首都となった。レコンキスタの最終期になってから1487年にスペイン王国に征服された。1704年に沖合でスペイン継承戦争の局地戦であるマラガの海戦が起こった。
1919年にはマラガ空港が開港し、フランスのトゥールーズ、スペインのバルセロナとアリカンテとマラガ、アルジェリアのカサブランカを結ぶ定期便の航路に組み込まれた。1920年代、詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカを含むマラガの知識人は、フラメンコ歌手が歌うカフェ・デ・チニータスを社交の場とした。1931年3月14日にスペイン第二共和政が成立すると、スペイン各地で修道院や教会などの宗教施設が破壊される暴動が起こり、マラガはスペインの中でも修道院焼き討ちが特に激しかった都市となった。この焼き討ちでは多くの歴史資料・宗教画・図書資料などが破壊された。因みにマラガは巨匠パブロ・ピカソの生誕の地でもある。
1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、1937年2月初頭にはマラガの戦いが起こり、共和国派の支配下にあったマラガはフランシスコ・フランコ率いるナショナリスト派とイタリア軍の攻撃にさらされた。約1週間の戦いで共和国派が敗北し、マラガはナショナリスト派に占領された。多くの民間人や兵士がアルメリアに向かって敗走したが、空軍・海軍・戦車・砲兵などによって攻撃されるマラガ=アルメリア道の虐殺も起こった。
オケオ
オケオ《ベトナム語: Óc Eo/ 喔㕭、クメール語: អូរកែវ, ラテン文字転写: O'keo)》は、ベトナム南部のメコンデルタ地方、アンザン省南部のトアイソン県にある考古学的な遺跡群。また今日において、オケオ市鎮はトアイソン県を構成する行政区画。「オ・ケオ」はクメール語で「水晶の運河」を意味する。
1世紀から7世紀にかけて、扶南国の最も賑わった港があったとされる。考古学用語の「オケオ文化」は、この地で発掘された遺物によって特徴づけられる、古代のメコンデルタにおける文明の物質的痕跡を指す。何と、日本の奈良時代よりも前のものだ。
オケオの発掘は、フランスの考古学者が航空写真から遺跡を見出した後、1942年2月10日に開始された。最初の発掘隊を率いたのはルイ・マレレ。遺跡群の範囲は450ヘクタールに及んでいた。
オケオは、メコンデルタの低地平原を縦横に結ぶ古代の運河ネットワークの中に位置しており、オケオと海の港を繋ぐ運河の一つは、北北西に約67km離れたアンコール・ボレイまで繋がっていた。オケオは運河によって南北に分断され、更に4つの運河が東西に走り、その運河はメコンデルタ地域に現在でも見られる高床式の水上住宅に囲まれていたと思われる。
オケオでの発掘品には、陶器、道具類、宝石類、宝石やコインを作るための鋳物類、宗教的な像などが含まれている。また、発掘品の中にはクシャーナ朝ガンダーラの青銅の仏頭、ローマのマルクス・アウレリウス金貨なども含まれている。多くの発掘品はホーチミン市のベトナム歴史博物館の展示品となっている。マレレによって発掘されたオケオの銀貨には、明らかに扶南で鋳造された、ハンサもしくはカンムリセイランをかたどったものが8枚含まれる。
オケオの文化を反映した遺跡群はベトナム南部全域に広がっているが、特にホーチミン市より南西のメコンデルタ地域に集中している。現在のオケオ市鎮から離れた場所での最も重要な遺跡群は、メコン川の東の流れ(ソンティエン)に位置する、ドンタップ省カオライン市の東、同省タップムオイ県にあり、ここでは6世紀のサンスクリット碑文が発見されている。
また、1958年に撮影された航空写真によって、扶南時代にはメコン川の支流が、タケオの周辺からタイランド湾に流れ込んでいたことが証明された。タケオは古くは海岸に面していたが、後に堆積によって海岸線と離されていったと見られている。扶南時代のオケオは運河でタケオと繋がっており、オケオもタイランド湾の深部へつながる経路を持っていたことになる。また、航空写真によって明らかになったこのメコン川の河口部は、プトレマイオスが「ゲオグラフィア」で言及した、メコン川の西の支流(プトレマイオスはコッティアリス(Cottiaris)と呼んだ)に属する河口分流の「シーナス(Saenus)」である可能性があるとされる。
【銅鼓】
銅鼓(どうこ)は中国南西部から東南アジア島嶼部まで幅広く出土する楽器、祭器でドンソン文化を特徴づける遺物。
青銅で作られた片面の太鼓である。主に雨乞いや祖先祭祀の際、精霊に働きかける目的で作られたとされる。最古のタイプの銅鼓は、紀元前5世紀頃に雲南地方で作られはじめたと考えられている。その後の銅鼓は、20世紀初頭のフランツ・ヘーゲルによって、一型から四型にまで分類されている。こうした銅鼓(とりわけヘーゲルI型銅鼓)はメコン川、紅河流域の交易ルートを通じて各地に伝播したほか、東南アジア島嶼部にまで幅広い広がりをみせた。
日本には、銅剣、銅矛、銅鏡、銅鐸が青銅器として中国から伝わったようだが、銅鼓(どうこ)は伝わらなかった。銅鐸が楽器だとすれば多少の関連があるかも。
フィラデルフィア
フィラデルフィア(Philadelphia、费城)は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州南東部にある同州最大の都市。ニューヨーク市とワシントン D.C. の中間に位置し、東海岸で2番目、全米で6番目の人口を持つ北アメリカ有数の都市。
1682年10月27日にクエーカー教徒のウィリアム・ペンが同志とアメリカに渡来し、この地に居住区を建設したのが市の起源。ペンはこの地を古代ギリシャ語で「兄弟愛の市」を意味する(Φιλαδέλφεια、フィロス=愛、アデルフォス=兄弟、ア=都市名につく語尾形)「フィラデルフィア」と命名した。こうして、フィラデルフィアはペンシルベニア植民地の首都として成立した。
18世紀に入ってフィラデルフィアは交易の要地となり、目覚ましい発展を遂げる。当初、生活基盤は貧弱であったが、ベンジャミン・フランクリンの尽力によって大きく改善されることとなる。1750年代までには、フィラデルフィアはボストンを上回る北アメリカ最大の都市となり、イギリスの領土内でもロンドンに次ぐ第2位の都市だった(1835年までにニューヨークがフィラデルフィアを上回ることになる)。このためアメリカ合衆国の独立期には、この地はアメリカ合衆国建国の父と後に呼ばれる人たちの集う中心地となった。独立戦争時に州議事堂(現在のアメリカ独立記念館)で大陸会議や独立宣言の起草が行われた。また1790年にアメリカ合衆国の首都がニューヨーク市からフィラデルフィアに移ってくると、新都ワシントン特別区の建設が一段落する1800年までの10年間はアメリカ合衆国の首都であった。
1793年には市内で黄熱病が流行し、一時は放置された遺体が山積みとなる状況に陥った。禁酒法時代には、かつての輝かしい歴史を有する街から一転して、一時シカゴに次ぐマフィアが暗躍する都市となった。19世紀以来フィラデルフィアは商業や海運の都市である。有名な大学(ペンシルベニア大学、ドレクセル大学、テンプル大学、トーマス・ジェファーソン大学、ラサール大学など)やカーティス音楽院、ペンシルベニア美術アカデミーなどがあり、「センターシティー」という中心部に銀行や法律事務所が多く、フィラデルフィア連邦準備銀行、フィラデルフィア株式取引所もある。
ラパス
ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス(西: Nuestra Señora de La Paz)、通称ラパスは、ボリビア多民族国の首都。憲法上の首都はスクレであるが、ラパスは行政・立法府のある事実上の首都といえよう。
*nuestra señora de la paz =our lady of peace
これは、1825年の独立以来首都であったスクレを基盤にしていた保守党政権を、1899年の「連邦革命」によってラパスを拠点とした自由党が打倒し、議会と政府をスクレからラパスに遷したからである。なお、現在も最高裁判所はスクレに存在する。
*ボリビアの独立は、ベネズエラ、コロンビア、ペルーなどを独立させたシモン・ボリバル麾下のスクレ将軍率いる軍隊により、1825年に達成された。 独立 宣言は8月6日に行われ、ボリバルにちなんでボリビアと名づけられた新生国家が誕生したのである。と言うことは旧宗主国はスペインだ。
かつてのインカ帝国支配地は、スペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)によって、 ペドロ・デ・ラ・ガスカに委任された。ガスカは、アロンソ・デ・メンドーサに、 ペルーの征服終結を記念した新しい都市を建設するように命令を出した。1548年10月20日にアロンソ・デ・メンドーサにより、アルト・ペルー南部の鉱山と太平洋岸のペルー副王領の主都リマ(現ペルーの首都)との中継地点として、ラパス市が建設された。建設当時の名称はLa Ciudad de Nuestra Señora de La Paz(我らが平和の母の街の意)であり、現在のラパス市の西隣にある高地のラハ (Laja) という場所が中心であった。しかし、ラハは谷の上にあり風の影響を強く受け、また、ラパス近郊には金鉱があったこともあって風の影響の弱い現在の谷底に中心が移された。植民地時代を通じてスペインは、ラパスを確固として支配し、スペイン国王がすべての政治的事項に関し、最終的な決定権を有した。
1781年にトゥパク・カタリの指導の下、計6ヶ月の間、アイマラ人がラパスを包囲し、教会や政府の所有物を破壊した。30年後、インディオがラパスを2ヶ月包囲した。この時、この場所でエケコの伝説が生まれた(エケコの人形はお土産品の定番らしい)。
1809年にスペイン支配からの独立を求め、ラパス革命が始まった(ボリビア独立戦争の中心地のひとつ)。1809年7月16日、ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは、「ボリビア革命は、誰も消すことのできない独立の火を灯すことである(Bolivian revolution was igniting a lamp that nobody would be able to turn-off)」と述べた。これは南アメリカ諸国のスペイン支配からの解放が始まったことを意味した。ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョはその晩スペイン広場で絞首刑となったが、ムリーリョの名前は広場の名前として永遠に残り、南米において「革命の声」として記憶された。1825年12月9日のイスパノアメリカ独立戦争におけるアヤクーチョの戦いでのスペイン軍に対する、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍率いる大コロンビア共和国軍の決定的勝利の後、街の名前は、ラ・パス・デ・アヤクーチョ (「アヤクーチョの平和」の意味)に変更された。スクレはこの戦いの後、ベネズエラ人でありながらも、新たに独立したボリビア共和国の実質的な初代大統領になった。
1898年、ラパス市は事実上の首都となったが、スクレ市は名目上の歴史的な首都、および憲法上の首都として残った。これは19世紀末から20世紀初頭にかけてほとんど枯渇していたポトシ銀山とスクレ市を背景とする保守党勢力から、オルロ近郊の錫とラパスを基盤とする自由党勢力に、政治、経済がシフトしたことを反映するものであり、それまでの保守支配層に替わって新たに自由党系の「ロスカ」と呼ばれる寡頭支配層が、1929年の世界恐慌で打撃を受けるまでエリートとして君臨した。1950年の国勢調査では、ラパス市の人口は290,731人であった(30万人弱)。
ラパス市の中心街の標高は3,600m強で、すり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。おおざっぱに言うと、すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の部分に低所得者が住んでいる。現在に至るまで人口は増え続けており、すり鉢の内側はほぼ飽和したために隣のエル・アルト(El Alto)に市街地が拡大している。そのため、市街地の上と下で、700mほどの標高差があると言われる。
*ボリビアは南米で2つしかない海の無い内陸国(他の一つはパラグアイ)で、又主要な都市や観光地もほとんどが3,000m級の高地にあるという地理的に非常に変わった国だ。
山岳地域からの雪解け水や地下に水脈があるため、水に不自由することはほとんど無いが、インフラ整備が遅れているため、断水することがしばしばある。近年急速に人口が増加してきている地域では上下水道などのインフラ整備が追いつかず、衛生的な水は不足することがある。下水道が貧弱なため、ちょっとした大雨でも道路が冠水しやすい。そのため、2002年2月には、50人以上の犠牲者を出す水害も発生している。
チチカカ湖
チチカカ湖(Lago Titicaca)は、南米大陸のアンデス山脈のペルー南部とボリビア西部にまたがる淡水湖。アルティプラーノの北部に位置する。湖の中央は、南緯約16度、西経約69度で、標高は3,810mほどである。湖面の60%がペルー領で、40%がボリビア領となっている。「汽船などが航行可能な湖として世界最高所」と言われる。数少ない古代湖でもある。
*アルティプラーノ(スペイン語: altiplanoまたはaltiplanicie アルティプラニシエ:「高く、平らな土地」の意)は、一般的に新生代に形成された2つかそれ以上の山脈(同時期に隆起したとは限らない)の間に広がる、標高の高い平坦な高原地帯。具体的地名としては、南アメリカ大陸西部のアンデス山脈のうち、ペルー南部からボリビア、チリ北部などにかけてを指す。
アンデス山脈は、オクシデンタル山脈((西山系)とオリエンタル山脈(東山系)という2列に山脈が平行して走っている。しかし、およそ南緯14度付近から、このアンデス山脈の間が広がり始め、標高およそ4000m前後で広大な高原地帯が広がり始める。この高原地帯をアルティプラーノと呼ぶ。その北部にチチカカ湖、中部にポオポ湖が存在する。他にラパス市、ウユニ塩原等観光地が沢山ある。
標高が4,000m前後あるため、冷涼で乾燥した気象条件を備える。その厳しい気候のため大木はほとんど生えず、赤茶けた大地が延々と広がっている。現在では、雑穀や麦類、塊茎類(ジャガイモ)、豆類などの農耕のほか、羊、リャマ、牛などの放牧が行なわれている。
チチカカ湖には流入河川は複数存在するが、湖から流れ出すのは南部から流出するデサグアデーロ川のみであり、アルティプラーノ南部にあるポーポ湖へと連なっている。
湖には、ソト島やルーナ島(月の島)、タキーレ島、アマンタニ島、太陽の島、スリキ島、スアシ島など41の大小の島々がある。またペルー側にあるプーノ市街の沿岸や沖合にはウル族(Uros)がトトラ(Schoenoplectus californicus)と呼ばれる葦を多数重ね合わせた浮島に居住している。かつては小舟もトトラで作っていた。彼らは現在でも浮島に居住しながら、漁や観光客を相手の商売で生計を立てている。チチカカ湖やその周辺には、他にもケチュア族やアイマラ族といった、先住民族が居住しており、漁業や都市部での就労の他、島では農耕などに携わって生計をたてて暮らしている。
ウル族が住むこうした浮島群はウロス諸島と呼ばれ、プーノ沖に大小100程度が集まり、約1500家族、5000人程度が暮らす。一部の島ではソーラーパネルによる太陽光発電が行われている。浮島は1630年頃、先住民がスペイン人の侵略を逃れて造るようになったと推定されている。かつては漁業で生計を立てていたが、2005年にある浮島にオランダ人夫婦が泊まったことをきっかけに観光客の受け入れが始まり、約20の島に民宿がある。
周辺に泥炭地などの湿地が多く、1997年1月にペルー側の領域、1998年9月にボリビア側の領域がそれぞれラムサール条約登録地となった。また、この湖にはチリとの戦争に敗れて太平洋に面する領土を失い、内陸国となったボリビアの海軍基地がある。
ルーマニア
ルーマニア(Romania)は、東ヨーロッパ、バルカン半島東部に位置する。首都はブカレスト。セルビア、ハンガリー、ウクライナ、モルドバ、ブルガリアと国境を接し、東は黒海に面する。
国土の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原のトランシルヴァニア山脈、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれている。
ルーマニアは「多種多様な民族によって形成された国家」である。同国の住民は、紀元前からこの地方に住んでいたトラキア系のダキア人、2世紀頃にこの地方を征服した古代ローマ人、7~8世紀頃に侵入したスラブ人、9~10世紀に侵入したマジャール人、その他トルコ人、ゲルマン人などの混血や同化によって、重層的かつ複合的に形成されたとされる複合民族 români(ロムニ、ルーマニア人)が約9割を占める(români(ルーマニア人)の起源については諸説ある)。そして少数のマジャール系のセーケイ人やロマ人(≒ジプシー)なども住んでいる。
なおルーマニアという国は、言語的には公用語がラテン語起源のルーマニア語で、宗教的には東方教会系のルーマニア正教会が多数派。それに対し、ポーランドのほうは同じ「東欧」と言っても、言語的にはスラヴ語派に属するポーランド語が主に話されている。また、ポーランドのほうは宗教的には西方教会のカトリック教会が支配的。つまり、ルーマニアとポーランドは、東欧において、言語的にも宗教的にも好対照の存在といえる。
ルーマニアがローマ人の国(Romania)、ハンガリー(Hungary)がフン族?の国、多民族国家に対し欧米流の一民族一国家の原理を持ち込まれると、国が更に小さな小国家群に分裂してバラバラになってしまう。ユーゴスラビアの解体がいい例だ。所詮東欧の多くの国は西欧と異なり歴史的に多民族国家であり多様な民族多様な文化を統一して国家運営を行わないといけない運命にある。
【歴史】
ローマ帝国へのルーマニア人の侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスによる2度の遠征(101年~106年)の結果、ローマ帝国の領土となる。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯から。
*大ローマ帝国の一部となることは当時の周辺国の人達にとっては大変名誉なことであったと思われる。蛮族の国から文明国への仲間入りだ。英国でもイングランドとスコットランドとが何となくシックリまとまらないのは、イングランドまでは完全のローマ帝国下で最後まで抵抗していたのがスコットランドだったから。日本が古代中国の隋や唐の朝貢したのも大陸の進んだ文化や技術を学ぶ目的があったことも大きい。
238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。
271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いたのち、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人、アヴァールがトランシルヴァニアを8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。この頃の史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国頃、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。
中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲した(パリ条約により1920年に再合併)。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった。
トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、のちにハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。
1859年にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立した(ルーマニア公国)。1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。1878年、ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立した。
第一次世界大戦では中央同盟国に攻め込まれ一時屈服したものの、与した連合国が勝利したことからトランシルヴァニアなどを併合して領土を倍増させ、大ルーマニアを実現させたが、全人口の4分の1が異民族という不安定な国家となった。1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年に再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国、ウクライナ)。
第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなどルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復。しかし、ドイツ敗退により再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。
戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍の圧力により社会主義政権が樹立した。王制を廃止し、1947年にルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。しかし、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権のもと、次第に他の東側諸国とは一線を画す「自主独立路線」を唱え始め西側との結びつきも強めた。1989年、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が打倒され(「ルーマニア革命」)、民主化された。
2007年1月1日に欧州連合(EU)に加盟した。加盟に際しては「改革が不十分である」として欧州理事会によって再審査されたが、「加盟後も改革を続行する」として承認された。
【政治】
2007年の欧州連合の拡大。黄色で表示されている国が新たに加盟したルーマニアとブルガリア。現在の政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、国民から直接選挙で選ばれる大統領と議会から選出される首相が行政を行う半大統領制を採用している。
大統領は任期が5年である(2004年までは任期4年)。立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数332人、上院(元老院)は定数137人で両院とも任期は4年。司法権は最高裁判所に属している。
2004年には北大西洋条約機構(NATO)に参加。2007年1月に欧州連合に加盟した。2006年6月30日、ルーマニア最高国防評議会議長を兼任するバセスク大統領は、タリチェアヌ首相が29日にイラク駐留部隊の年内撤退計画を発表したが、同評議会が同計画を拒否したことを明らかにした。同大統領は熱烈な親米政治家として知られ、外交政策がある日突然変わってはならないとタリチェアヌ首相を批判した。
2007年2月、選挙制度改革を進めようとする大統領と野党が対立。4月19日、権力乱用を理由に大統領の職務停止案の投票が議会で行われ、賛成多数で可決された。4月20日、ルーマニア憲法裁判所はバセスク大統領の職務停止を決定。バカロイウ上院議長が大統領代行に就任した。1か月後の5月20日にバセスクの弾劾の可否を問う国民投票が行われたが、結果は弾劾の否決であり、バセスクは大統領職に復帰した。大統領が議会から弾劾されたのも、大統領が国民投票で弾劾の可否を問われたのも、弾劾が否決されて大統領が留任したのも、ルーマニア史上初のことであった。2016年2月、コメルサントはヨハニス政権下の同国が隣国モルドバの政治危機に乗じて両国の統合を目指し、そのための働きかけを強めていると報じた。
なお、ルーマニア国内では旧王家が「王室」を称して公的活動を積極的に展開している。旧王家の家督は「ルーマニア王冠守護者」の称号と「陛下」の敬称を自称し、ルーマニア社会では広範に認められている。現在の家督はマルガレータ・ア・ロムニエイ。2018年10月29日、旧王家を軸とする国家的価値推進機関「国王ミハイ1世」の創設に関する法案が下院を通過した。この法案には、特権を付与して「王室」を制度化するものであるとする違憲論もある。
地理
西のセルビア、南のブルガリアとの間におけるルーマニアの国境は、基本的にドナウ川を境界としている。モルドバとの国境線であるプルト川もドナウ川と合流し、東に位置する黒海に注ぐ。ドナウ川の河口は三角州(ドナウ・デルタ)となっており、生物保護区となっている。
これらの自然国境はそれぞれの川の流路変更によって変化する。また、ドナウ・デルタは年に2 ~5km2ずつ面積を増やすため、ルーマニアの領土面積はここ数十年、増加の傾向にある。1969年に23万7,500km2だった総面積は2005年には23万8,319km2となっている。
ルーマニアの地形は34%が山地、33%が丘陵地、33%が平地である。国の中央をカルパチア山脈が占め、トランシルヴァニア平原を取り囲んでいる。カルパチア山脈のうち14の山は2,000メートル級であり、最高峰のモルドベアヌ山は 2,544メートルである。カルパチア山脈は南の丘陵地帯に続き、さらにバラガン平野に至る。
*ルーマニアもお隣のモルドバはヨーロッパの中では未だに最貧国のままのようだ。独裁者として処刑された、チャウセスクもソ連邦からの脱却を図り、市場原理を取り入れる経済改革を謀ったが、急ぎ過ぎた改革は経済の大混乱を招き、国民の不満が高まってしまったよう。不満を抑えるために強権的な政治を行わざると得なかったようだ。
台湾
台湾(臺灣/台灣、Taiwan)は、東アジアの島(台湾島)、およびそれを中心とした地域。フォルモサという別称がある。全域が中華民国の実効支配下にある。
台湾島の面積は日本の九州よりやや小さく、海を隔てて東北に日本、南にフィリピン、北西に中華人民共和国がある。
台湾は長年の移民により多民族が共生する地域となっており、現在の台湾島には元々台湾に住んでいる台湾原住民の他に、漢民族系の閩南人・客家人・外省人や、日本人・オランダ人・ポルトガル人・スペイン人など様々な民族が住んでいる。各民族は多様性や多元論の原則に従って共存している。
中華民国の首都である台北市をはじめとした新北市・桃園市・台中市・台南市・高雄市の6つの直轄市は合わせて「六都」と呼ばれ、台湾の大都市圏を構成している(台北市への一極集中が進んでいる面も無視できまい)。台湾の経済は半導体・ウェハー・ビデオカード・CPU・ノートパソコン・スマートフォン・人工知能をメインとして、ハイテク・IT産業・電子工学の分野で世界の最先端となっている。台湾製品は世界シェアの多くを占め、毎年世界から巨額の資金を吸収しつつ、中国・日本・スイスに次ぐ世界第4位の外貨準備高を有している。そのため、台湾の一人当たり実質GDPは非常に高く、2009年からは日本を上回り、2023年現在では日本の1.4倍程度となっているほか、ドイツ・フランス・イギリスを含む多くのヨーロッパの国々も超えている。2023年からは一人当たり名目GDPでも日本を上回っている。
*そうなのだ、台湾はとても平和で豊かな国、GNPベース(多分軍事力でも)では東アジアでは日本に次ぐ大国なのです(韓国やベトナムを上回る)。このような国がお隣の中華人民共和国の武力併合で統一されるとは、誇大妄想としか言いようがない。少なくとも台湾は国ではなく地域だとする日本外務省の見解は大変な無理があるだろう。
公用語は中国語の一種である「国語」であり、中国大陸(中華人民共和国)の中国語「普通話」とは多少の差異があるが、基本的には意思疎通が可能である。国語と普通話の最大の違いは文字(漢字)にあり、中国大陸では「簡体字」を使う一方、台湾では従来の「繁体字」を使う。繁体字は日本での「旧字体」に近いが、字体や用字法が一部異なる。台湾で一般的に話されている言葉は国語ではなく「台湾語」と「台湾国語」である。台湾語は台湾総人口の7割を占める「閩南人」の言葉で、中国大陸の中国語(官話)とは大きく異なる。台湾国語は中華民国国語を中心に、台湾語・客家語・日本語・オランダ語・原住民語の要素が加わって形成された言語であり、多民族の国民の間の共通語として使われている。
台湾の歴史は世界的にも複雑と言われている。16世紀以前の台湾島は台湾原住民が住んでおり、17世紀前半にはスペインとオランダ、1662年から1895年までは明(鄭 成功の政権)や清などの中華王朝、1895年から1945年までは大日本帝国、1945年以降は中華民国の統治を経て、台湾人はこの歴史の流れから複雑な愛国意識が生まれた。つまり、中国人ではあるが本土とは全く別の民族、台湾人であるとの意識。
蒋介石(米国の傀儡)の軍事政権時代は、与党であった国民党は、「犬が去って、豚が来た」と台湾人には蛇蝎の如く嫌われたが、国民党総裁になった李登輝さんの大改革(本人は台湾の原敬だと自慢)で国民党も親中国政策に方針展開して、台湾の民主化もかなり進んできている。
国民党の党是は勿論、大陸反攻、つまり中国本土の武力制圧である。だから、米国民は一つの中国論(台湾は孫文が造った中華民国の正統な継承国家、中国は共産主義者による砂上の楼閣)に固執する。社会主義、共産主義の国はロシアが崩壊したようにいずれ経済バブルが崩壊し、政府への信頼が暴落する。大陸制覇のチャンス到来。これは多くの米国民が待ち望んでいる未来像。
ところが今の、国民党は「台湾は中国の一部」を容認するとのこと。つまり、中国の台湾武力侵攻は正統な行為だと容認。その一方で、米国に台湾武力侵攻の可能性を仄めかして、軍事支援を強要。まさに、二枚舌外交か。
でも、台湾ではまだ、本省人(もともとの台湾の住民)と外省人(蒋介石と一緒に大陸から来た人達)との根深い対立もあるようだ。台湾は中国の一部となれば、中国は台湾の人事にも介入できるようになり、外省人達には大いに有利になる。国民党がもともと蒋介石によって造られた政党ならそんな意図も隠されている。だから中国政府が国民党にエールを送れば、かえって台湾人の反発を招く可能性も大きい。
2つの中国はあり得ない。しかし、一つの中国に対し、台湾は一つの独立国。これなら歴史も証明している。ただし、そのためには中華民国と言う名は捨てなければならない。それを台湾の民衆は認められるかだ。
フランスの海外領土
フランス共和国がヨーロッパ大陸以外に有する領土の総称。フランスはナチスドイツに占領され地図から消滅したが、米国の支援を受けてドゴールを大統領にして復活した完全な対米従属国家である。そのフランスが未だに海外に植民地を有しているというのもある意味驚きである。
かつてのフランス植民地帝国時代に形成されたこれらの領土はアメリカ州、オセアニア、インド洋、太平洋、南極大陸にもある。脱植民地化後もさまざまな形でフランスの一部として残ることを選んだ地域である。これらの領土は、文化的、政治的にさまざまな現実があり、まったく異なる行政・法制度が適用されている。英連邦のような存在らしいが、もう少し支配力が強い植民地に近い存在かも。
総合計面積は120,369km2(フランスが領有権を主張する南極大陸のテール・アデリーを含めると552,528km2)、2019年の人口は220万人を超え、フランスの国土面積の17.9%、人口の4%を占める。確かにかなり広大な面積を占めているね。
フランス共和国憲法によれば、フランスの法律は国内全土に於いて施行される事となっているが、海外県・海外領土では国防・国際関係・貿易・貨幣・法廷・統治等の特殊な分野を除き、この原則に反して独自の法律を制定する事が許可され、実際に施行されている。
フランスの海外県・海外領土は、その地域が有する議会とフランス共和国会(国民議会・元老院)との二重統治体制である。 また、居住地域では共和国会に対する代表者を選出する事となっており、また実際に有しているため、欧州議会に対する投票権を有している。フランス人も沢山住んでいるということだろう。実際の海外領土は、色々な名称で分類されているがその区別も複雑だ。
まずは、今ニュースでも取り上げられているニューカレドニア(英語:New Caledonia、仏語: Nouvelle-Calédonie。)
【ニューカレドニア】
1946年に海外領土となったが、1998年のヌーメア協定により、翌1999年に特別共同体となった。2018年11月4日と2020年10月4日、そして2021年12月12日に、フランスからの独立の是非を問う住民投票が実施されたが、いずれも独立反対が過半数となり、ニューカレドニアはフランスにとどまることとなった。地元の現住民側は独立を求めて今でも暴動を起こしているが、仏政府は断固弾圧する姿勢を崩さないようだ。
ニューカレドニア島は、オーストラリアの東、ニュージーランドの北にある比較的大きな島。ニッケルを産出する鉱業の島である一方、リゾート地でもある。ニューカレドニアの珊瑚礁は世界遺産に登録されている。ニッケルが発見されるまでは流刑植民地だった。フランスがニューカレドニア所有に拘るのはこのニッケルの存在が大きいようだ。中国が最近この島への接近を試みるのもむべなるかなですね。
カナキー(ニューカレドニア人の自称?)という名は、ポリネシア語で「人間」を意味し、ポリネシア人の自称として使われる「カナカ (kanaka)」から来ている。 カナカという語は後に、フランス人がポリネシア・メラネシアを含めた全ての太平洋先住民を指して使う言葉になった。一方、フランス語化したカナク (Canaque) は侮蔑語(土人という感じ)として使われていた。
1960年代から1970年代にかけ、ニューカレドニアのメラネシア系先住民が政党を結成し独立への訴えを開始したとき、侮蔑語だったカナクはメラネシア人の政治的解放と民族の誇りのシンボル的な言葉となった。1983年、政治的混乱がニューカレドニアを襲った時期、カナク (KANAK) とカナキーは政治的な標語となり、カナクという語が政治的主張の強い言葉へと変わったことが広く認識されるようになった。
【フランス領ポリネシア】
フランス領ポリネシアは、南太平洋にあるフランスの海外共同体であり、ポリネシアのいくつかの諸島からなる。
☆タヒチ島
ソシエテ諸島のタヒチ島は、リゾート地として最も有名な島で、フランス領ポリネシアの中心地。ハワイアンならぬタヒチアンダンスでも有名。でも独立国ではなかったんだね。タヒチの面積は1,608km2の火山島でオロヘナ山(2,237m)が最も高い山。人口も最大であり、行政所在地パペーテがある。コプラ、ノニ(ヤエヤマアオキ)、真珠母貝、黒蝶貝真珠(黒真珠)、バニラ、果汁、マグロなどを産出する。
【核実験】
ムルロア環礁やファンガタウファ環礁では、フランスによる核実験が1966年から1996年まで193回(空中実験と地下実験を合わせて)行われていた。フランス政府は核実験の安全性を説明してきたが、2010年に核実験の被ばくによる健康被害を認めて被害者に補償する法律を施行。しかし2016年時点で、約1000件の申請のうち補償が認められたのは約20件と僅かにとどまった。同年、フランソワ・オランド大統領がポリネシアを訪問した際には、被害者への補償を見直すことを表明した。2013年にフランス政府が機密解除した核実験関連文書によれば、1974年に行われた核実験「サントール」だけでも、当時のフランス領ポリネシアのほぼ全人口に相当する約11万人が汚染されていたと推定されている。
【トンガ】
1900年から1970年まで、トンガはイギリスの保護国であった。イギリスは友好条約に基づきトンガの外交を担当したが、トンガはいかなる外国勢力にも国家主権を放棄しなかった。立法改革が最初の部分的代表選挙への道を開いた後の2010年、トンガは伝統的な絶対王政から脱却し完全な立憲君主制へと移行するための決定的な一歩を踏み出した。
こうした中、2022年の火山の大規模噴火は、現地時間の2022年1月15日17時ごろに南太平洋、トンガのフンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ火山で発生した海底火山の大規模な爆発的噴火。見かけ噴出量は6-7km3、火山爆発指数は少なくともVEI-5と推定され、噴火によって発生した衝撃波(空振)は1883年クラカタウ噴火に匹敵する規模、過去100年以上の自然現象としてはもっとも強力な例であり、米国が保有する最大の核爆弾にも匹敵するほどであったとされている。
この震災復興に日本政府はどれだけ協力して来たのでしょう。この時の最もずば抜けた支援活動を行ったのがオーストラリア。
フランスの海外領土は、太平洋地域だけなんでしょうか。
◯フランス領ギアナ これは南米ブラジルの北側
◯マルティニーク カリブ海に浮かぶ西インド諸島南部の小アンティル諸島の中のウィンドワード諸島に属する島。大西洋のど真ん中。
◯サンピエール島およびミクロン島 カナダ・ニューファンドランド島の南、セントローレンス湾内にある。サン=ピエール島はニューファンドランド島南部ビューリン半島西端から南西19kmにあり、ミクロン島は同じくビューリン半島西端から南西21kmにある。元は海外領土であり、その後特別な地位を持つ地方自治体。
◯レユニオン マダガスカル島東方のインド洋上に位置する。面積2512km2、人口約85万9,959人(2020年)。コーヒーの品種の一つブルボン種の原産地。県都はサン=ドニ。
◯マヨット(Mayotte) アフリカ大陸南東、マダガスカル島との間のモザンビーク海峡に浮かぶコモロ諸島に属する島である。コモロ諸島の最も南東に位置する。マヨット島を除く他の島々は独立国家コモロ連合であり、同国はフランスに対し、マヨット島の領有権および返還を主張している。
ソビエト連邦の崩壊
1.アルメニア 2.アゼルバイジャン 3.ベラルーシ 4.エストニア 5.ジョージア 6.カザフスタン 7.キルギス 8.ラトビア 9.リトアニア 10.モルドバ 11.ロシア 12.タジキスタン 13.トルクメニスタン 14.ウクライナ 15.ウズベキスタン
1991年8月のクーデターは、ソ連の政府と軍のエリートがゴルバチョフを倒して「主権国家のパレード」を止めようとしたが、失敗に終わり、モスクワの政府はその影響力のほとんどを失い、その後数日から数ヶ月の間に多くの共和国が独立を宣言した。最初に主権を宣言し、その後完全な独立を果たしたバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の分離独立が認められたのは1991年9月。12月8日、ボリス・エリツィン(Boris Yeltsin)ロシア大統領、レオニード・クラフチュク(Leonid Kravchuk)ウクライナ大統領、スタニスラフ・シュシケビッチ(Stanislav Shushkevich)ベラルーシ議長の3人が、互いの独立を承認し、独立国家共同体(CIS)を創設する「ベロヴェーシ合意」に調印。12月21日、ジョージアを除く残りの共和国は、アルマ・アタ議定書に署名してCISに加盟した。
12月25日、ゴルバチョフ大統領は辞任して消滅を宣言し、核発射コードを含む権限をエリツィンに委譲した。同日午後7時32分、クレムリンからソビエト連邦の国旗が最後に降ろされ、ロシアの三色旗に変わった。翌日、最高ソビエトの上院である共和国ソビエトの宣言142-Нにより、ソビエト共和国の自治独立が認められ、連邦は正式に解体された。1989年の東欧諸国の革命とソビエト連邦の解体は、ともに冷戦の終結を意味した。
冷戦後、いくつかの旧ソビエト共和国は、ロシアとの緊密な関係を維持し、CIS、ユーラシア経済共同体、連合国家、ユーラシア関税同盟、ユーラシア経済連合などの多国間組織を形成し、経済・軍事協力を行っている。一方、バルト三国をはじめとする多くの東欧諸国は、欧州連合(EU)の一員となり、NATO軍事同盟に加盟した。
レガシー
アルメニアでは、ソビエト連邦の崩壊が良かったと答えた人は12%、悪かったと答えた人は66%であった。キルギスでは、「ソ連崩壊は良かった」と答えた人は16%、「悪かった」と答えた人は61%であった。ソ連崩壊以来、レバダセンターが毎年行っている世論調査では、ロシア国民の50%以上がソ連崩壊を後悔しており、唯一の例外は2012年であった。2018年のレバダセンターの世論調査では、ロシア人の66%がソ連の崩壊を嘆いていた。2014年の世論調査では、ロシア市民の57%がソ連の崩壊を後悔しており、30%がそうではないと答えている。若いロシア人よりも高齢者の方が懐かしむ傾向にあった。ウクライナで2005年2月に行われた同様の世論調査では、回答者の50%がソ連の崩壊を後悔していると答えた。しかし、2016年に行われた同様の世論調査では、ソ連崩壊を後悔しているウクライナ人は35%にとどまり、50%はこれを後悔していないと答えた。2016年1月25日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウラジーミル・レーニンと、彼が個々の共和国の政治的分離権を唱えたことを、ソ連崩壊の原因とした。
ソビエト連邦の崩壊に伴う経済的な結びつきの崩壊により、ポストソビエト諸国や旧東側諸国では、世界恐慌よりもさらに深刻な経済危機と生活水準の壊滅的な低下が発生。1988年から1989年、1993年から1995年の間に貧困と経済的不平等が急増し、旧社会主義国全体でジニ係数が平均9ポイント上昇した。1998年にロシアが金融危機に見舞われる前でさえ、ロシアのGDPは1990年代初頭の半分であった。冷戦終結後の数十年間で、豊かな資本主義の西側諸国に加わる道を歩んでいるのは、共産主義後の国のうち5〜6カ国だけで、ほとんどの国は遅れをとっており、中には共産主義終結前の状態に追いつくのに50年以上かかる国もあるという。経済学者のスティーブン・ローズフィールドが2001年に行った調査によると、1990年から1998年までにロシアで340万人の早期死亡が発生しており、その原因の一部はワシントン・コンセンサスに伴う「ショック療法」にあるとしている。
1959年の台所論争で、ニキータ・フルシチョフは、当時のアメリカ副大統領リチャード・ニクソンの孫は共産主義の下で暮らすと主張し、ニクソンはフルシチョフの孫は自由の中で暮らすと主張した。1992年のインタビューで、ニクソンは、この討論会の時点で、フルシチョフの主張が間違っていることは確信していたが、自分の主張が正しいかどうかは確信していなかったとコメントしている。ニクソンは、フルシチョフの孫たちが自由な生活を送っていることから、自分の主張が正しいことが証明されたと語ったが、これは最近のソ連崩壊を指している。フルシチョフの息子セルゲイ・フルシチョフはアメリカに帰化した。
国連加盟
1991年12月24日、ロシア連邦大統領エリツィンは、国連事務総長に対し、ソ連の安全保障理事会をはじめとする国連機関への加盟は、独立国家共同体の11カ国の支持を得てロシア連邦が継続していることを伝えた。
しかし、白ロシア・ソビエト社会主義共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国は、すでに1945年10月24日にソ連とともに国連の原加盟国として加盟していた。独立を宣言したウクライナ・ソビエト社会主義共和国は1991年8月24日に「ウクライナ」と改称し、白ロシア・ソビエト社会主義共和国は1991年9月19日に「ベラルーシ共和国」と改称したことを国連に報告した。
その他、旧ソビエト共和国から設立された12の独立国がすべて国連に加盟した。
1991年9月17日:エストニア、ラトビア、リトアニア
1992年3月2日 1992年3月2日: アルメニア、アゼルバイジャン、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン
1992年7月31日 ジョージア
歴史学における説明
ソ連崩壊に関する歴史学は、大きく分けて意図主義的な説明と構造主義的な説明の2つのグループに分類される。
意図主義者は、ソ連の崩壊は必然的なものではなく、特定の個人(通常はゴルバチョフとエリツィン)の政策や決定に起因すると主張する。意図的な記述の特徴的な例としては、歴史家のアーチー・ブラウンが書いた『ゴルバチョフ・ファクター』がある。この本では、ゴルバチョフは少なくとも1985年から1988年の間はソ連政治の主役であり、その後も、出来事に導かれるのではなく、政治的な改革や発展の先頭に立つことが多かったと主張している。これは、政治学者のジョージ・ブレスラウアーがゴルバチョフを "事件の人 "と呼んだように、ペレストロイカとグラスノスチの政策、市場への取り組み、外交政策などに特に当てはまる。また、David KotzとFred Weirは、ソ連のエリートはナショナリズムと資本主義の両方に拍車をかけた責任があり、彼らは個人的に利益を得ることができたと主張している(このことは、彼らがポストソビエト共和国の経済的・政治的上位層に存在し続けていることからも明らかである)。
一方、構造主義者は、ソ連の崩壊は根深い構造的問題の結果であり、それが「時限爆弾」を植え付けたという、より決定論的な見方をする。例えば、エドワード・ウォーカーは、少数民族は連邦レベルでの権力を否定され、文化的に不安定な形での経済的近代化に直面し、一定のロシア化を受けていたが、同時にソ連政府が進めたいくつかの政策(指導者の土着化、現地語の支援など)によって強化され、やがて意識的な国家が生まれたと主張している。さらに、ソビエト連邦の連邦制の基本的な正当性を示す神話、すなわち同盟関係にある人々の自発的かつ相互的な連合であるという神話が、分離・独立の作業を容易にしていた。2016年1月25日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はこの見解を支持し、レーニンがソビエト共和国の分離権を支持したことを「遅延作動爆弾」と呼んだ。
2006年4月に書かれたゴルバチョフの意見書にはこう書かれている。「20年前の今月、チェルノブイリで起きた原発事故は、私がペレストロイカを発動したこと以上に、おそらくソ連崩壊の真の原因となった」。
*福島原発事故は、今の日本の地位低下の真の原因となっている可能性は大いにある。
チェルノーゼム
黒土(こくど、くろつち、英語: Black soil、ドイツ語: Schwarzerde)は東ヨーロッパ、北アメリカ、中国東北部など世界の各地にあり、非常に肥沃な黒色の土壌(成帯土壌)で、農業に適している。
特にウクライナからシベリア南部にかけてのポントス・カスピ海草原に分布する黒土がチェルノゼム(ロシア語: чернозём)と呼ばれ、小麦の栽培地として有名で、他の地域の黒土も地質学者によりそう呼ばれるようになった。"черно"(チェルノ)と"зём"(ゼム)は、それぞれロシア語で「黒い」を意味する語と「地、土地」などを意味する語に由来する。また、その肥沃さから、「土の皇帝」とも呼ばれる。
チェルノゼムは、草本などの遺骸からつくられる腐植層が降水量の低い地域(ステップ気候)のために流出を免れ、ぶ厚く蓄積している。仮に降水がより少なく乾燥すると植物の生育ができず腐植層・窒素分の少ない栗色土となり、逆に降水が多ければ樹木が生育するが、流出のため表層の薄い腐植層と下層の酸化鉄を含む層の褐色森林土となり、冷涼ならば植物体の分解が進まず酸性化し灰白色のポドソル層や排水が悪ければ泥炭層になる。いずれも生産性が低い土壌となる。そしてロシア南部では下層に石灰分を含む層がある。これら降水・気温・土地条件が重なり、穀物栽培の下限に近い降水量ではあるが、土地は肥沃で施肥なく農業が行われている。
世界の穀物の大産地は、このような黒色の土壌に限定されているらしい。いま、ウクライナ紛争のおかげで、ウクライナの穀物の重要性が脚光を浴びて来た。ヨーロッパ地域の穀倉地帯だった訳だ。肥沃な土壌は、長い地球の歴史の中で作られて来たもので、人の力では簡単には出来ないものらしい。農業生産の向上のためには肥料や農薬の研究だけでなく、土壌のメンテナンスや創生の研究が重要な課題だ。
チェルノーゼムの様な黒土の存在するところは、基本的にはステップ気候の草地のようだ。歴史的には主に遊牧民たちが生活していた場所。つまり、遊牧にとっても魅力的な土地。農耕民達が次第に耕地を広げて、土地を奪い取って来たという歴史もあるかも。
ウクライナの場合は、黒海沿岸に面しており、古代からギリシャやローマへの穀物供給地として古くらから栄えていた。
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土の皇帝――。そう呼ばれてきた土がある。「チェルノーゼム(黒い土)」。土壌の養分が豊富でバランスがよく、作物の栽培に非常に適した性質の土だ。アメリカのプレーリー、アルゼンチンのパンパなどにも分布するタイプの土で、世界で最も肥沃な土として地理の授業などでもおなじみの存在だ。
ところが、その土にいま「疲れ」が見え始めているという。いったい何が起きているのか。3月中旬、「欧州のパンかご」と呼ばれる穀倉地帯、ウクライナを訪ねた。
ウクライナは、土壌の6割がその黒い土だ。第2次大戦中、侵攻してきたナチスが土を貨車で運び出そうとしたという逸話が残るほどで、土の肥沃さは折り紙つきだ。
首都キエフから特急で5時間かけてたどりついたのは、東部の古都ハリコフ。そこからさらに車で1時間ほど走ると、寒風が吹きつける丘の上の畑に、真っ黒な土が広がっていた。ハリコフにある国立科学センター土壌科学・農芸化学研究所の試験畑だ。
畑の隅にはまだ雪が残っていた。一歩足を踏み入れると、雪解け水を吸った真っ黒な土が靴底にねっとりと絡みつく。想像していたよりも、はるかに重い。
「典型的なチェルノーゼムです。黒い土の層は1メートルほどあるでしょう」。同研究所のヴァディム・ソロヴェイさん(55)が教えてくれた。
土が黒いのは、枯れ草などの有機物を微生物が分解したあとに残る「腐植」という物質が多いからだ。腐植は養分を蓄える力を持っていて、土を豊かにする。おかげでウクライナは大麦、小麦、トウモロコシ、油の原料となるヒマワリの種などの世界有数の産地だ。
黒い土ができる大きな理由は気候だ。ウクライナの平均降水量は、日本の半分以下。雨が少ないので森よりも草原が多い。草の葉や根は秋になると枯れて土に戻るが、冬には雪が土を覆うために分解はゆっくり進む。冷蔵庫の中の食べ物が腐りにくいのと同じ理屈だ。おかげで土の中に養分が残りやすい。
「でも、宝物は黒い土の下にもあるんです」とソロヴェイさんは言った。それは、黒い土の下にある黄色い土。約1万年前まで続いた氷河時代に、氷河に削られた岩が風に飛ばされてきて降り積もった。カルシウムなどのミネラルを豊富に含んだこの土台が、豊かな黒い土を生んだのだという。
ところが、世界で最も肥沃なチェルノーゼムが「疲れ」始めている。豊かな土地なので住民はこぞって農地にしたが、手入れが足りていない。
「ここも侵食を受けていますね」。試験畑に向かう車中では、ソロヴェイさんが時折、そう言って畑を指さした。ところどころ、幅数十センチの溝のようなものができている。傾斜地にできた畑では、うまく管理をしないと水で土が流れ出ていってしまうという。
さらに、風も敵になる。畑にしたまま土を風にさらしておくと貴重な表土が飛んでいってしまうからだ。このためウクライナでは伝統的に「シェルターベルト」と呼ばれる樹林帯を畑の周りにつくり、土を守ってきた。ところがシェルターベルトの中には手入れが不十分なところや、切り倒されてしまったところもあり、土がダメージを受けているという。
ハリコフの街中にある研究所に戻ると、所長のスヴィアトスラフ・バリュク(72)さんが迎えてくれ、土の現状について語ってくれた。「侵食に加えて、誤った施肥などにより、土が衰えました。スピードはゆるやかになっていますが、悪化は今も進んでいます」
研究所によると、ウクライナでも耕地の3分の1は風や水による侵食を受けている。さらに、十分な手入れをしないまま作物を育て続けてきたことで、土の養分も減ってきているという。最近では、土の力の衰えが、年間8000万~9000万トンの穀物生産のマイナスにつながっているという試算もある。
さらに、政治的な事情も絡む。紛争が続く東部のロシア国境付近では砲弾による汚染もあり、研究所は衛星画像による監視を続けている。
バリュク所長はこう言った。「いま、土の力が見直されています。農業に必要なだけでなく、土の中の炭素が温暖化にもかかわることが分かってきたからです。まずは劣化を止めなければいけません。私たちもそのために、土壌の監視システムをつくっているところです」
翌日に訪ねたのは、首都キエフの近郊。黒い土が失われて白っぽくなった農地や、すでに資材置き場などにされている元農地などが広がっていた。
「劣化しているとはいえ、もともと豊かだったために土はまだ肥沃です。しかし、だからこそ、農家は土の劣化にあまり真剣に向き合ってこなかったとも言えます」。案内してくれた国連食糧農業機関(FAO)ウクライナ事務所のミハイル・マルコフ開発プログラム・コーディネーター(50)が言った。
だが土が衰えれば、地域も衰えてしまうとマルコフさんは言う。土がやせれば収穫は減る。採算がとれなくなれば、農家は耕作をやめる。そこで新たな職を見つけられなければ、地域が貧しくなる。懸念しているのは、そんな負の連鎖だ。
ただし、うまく土を生かし、農業を持続可能なものに変えていければ、農業生産を大きく増やすポテンシャルも大きいとも言う。「世界の中には、明らかに農業に向いていない土地もあります。将来の世界的な食糧危機への懸念を考えてみると、私たちには土をうまく管理し、世界の食糧生産に貢献する責任があると思っています」
そこでFAOウクライナはいま、土を積極的に守る農法を広げようとしている。環境に貢献するプロジェクトを支援する投資ファンドなどから資金を集め、昨年から新たなプログラムを開始。今年からは、試験農場で地域の農業法人とともに土にいい農法のテストを始めた。うまくいった例を、各地の農家のモデルにしてもらうためだ。
「土を守ったほうが、長い目で見れば利益になると農家に分かってもらうことが大事なんです」。プロジェクトの責任者のオクサナ・リャブチェンコさんが言った。昨年には、ウクライナ中の関係者を集めた会議も開催。「農家、政府、研究機関、企業など、あらゆる関係者が同じ問題意識を持つことが重要なんです」
すでに、土地の生産性を高めようと動き出している企業もある。キエフから南西に100キロほど離れた村に拠点を置く「KOLOS」は、有機肥料などを積極的に使っている農業企業だ。
4000ヘクタールの土地でトウモロコシなどを栽培。果樹の生産や畜産も手がける。飼育している500頭の乳牛のふんは、有機肥料に加工して使っている。
「最近は土の中の腐植も増えてきた。土が変われば、作物の味も変わるんです」。そう語る総責任者のレオニド・ツェンティロさん(52)が見据えるのは、市場の動きだ。
輸出先として期待する欧州では、作物の安全性や農業の持続可能性への関心も高い。作物をより高く売るためにも、いい土は欠かせない。
もうひとつ見据えているのが、農地改革だ。旧ソ連時代、農地はすべて国有。1991年の独立後は農家に分配されていった。2001年には農地の売買を可能にする法律もできたが、施行が見送られる「モラトリアム」が今も続いている。世界有数の土があるだけに「外国企業に土地が次々に買収される」といった不安も根強い。
それでも、ここ数年は毎年のように売買の自由化が議論されている。ツェンティロさんは「農地の売買は、遅かれ早かれ自由化される。そうなればよく手入れされている土が、高い評価を受けることになる」と話す。
4月の大統領選では、コメディータレントのボロディミル・ゼレンスキー氏(41)が圧勝するなど、政治的に不透明な状況が続くウクライナ。世界に誇る「皇帝」の未来は、そうした政治の旗振りにも左右されることになりそうだ。
全く同じ問題は、米国やカナダ、オーストラリアの様な大規模企業農業の将来にも当てはまる。これらの国々は、皆先住民たちの土地をタダ同然で奪い取って来た歴史もあり、農地の価値を面積でしか評価しない傾向がある。土地生産性でなく労働生産性のみが土地評価の基準のようだ。土壌の劣化による土地生産性の低下は、遺伝子工学で補えると思っているようだけど、現実には生産性が徐々に劣化しているのはウクライナだけでないようだ。
世界の土
土に近代科学のメス(スコップ)が入るようになったのは、「土壌学の父」ドクチャエフ(ロシア)が活躍した150年前のことだ。彼の少し前を生きたチャールズ・ダーウィンが生物の進化論を打ち立てたことに触発されたという。
「土壌の材料となる岩石(地質)や地形、気候、生物、時間という5つの環境条件によって、土も変化する」ことを発見した。穴掘り名人たちが世界中の土壌を調査し、類似する土壌を大胆にまとめていくと、世界の土はたったの12種類になった。農業利用のためではあるが、ずいぶん大胆に分けたものだ。
もちろん、細かく見ると、同じ土は1つとしてない。それはヒトと同じだ。それでも、ある程度似た土はある。たとえば、ウクライナのチェルノーゼム、北米のプレーリー土、中国東北部の黒土、南米のパンパ土は違う言語や地域名を背負っているが、土そのものはとても似ている。乾燥した草原に発達する肥沃な黒い土だ。
小麦のタネをまけば、穀倉地帯となる。肥料のやり方も水やり(灌漑(かんがい))の方法も似ている。これをひとくくりにして名前を付けて管理するのが土の分類である。
12種類の土の違いは何か
12の土には小難しい名前があるが、ここでは色で大まかに分けると、黒い土が3つ、赤い土が1つ、黄色い土が1つ、白い土が2つ、茶色い土が1つだ。残りの4種類の土は土の色と関係なく、凍った土、水浸しの土、乾いた土、そして何の特徴もない“のっぺらぼう”な土だ。つまり、3+1+1+2+1+4=12だ。
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世界で最も肥沃な土として名高いチェルノーゼムなら、知っている人もいるかもしれない。あとは、よくわからない。園芸店に並ぶ腐葉土や鹿沼土はどこにいったのか? 12種類の土の違いは何か? どうして違う土が生まれたのか? 地理の教科書を読んでも、よくわからなかった。実はまだわかっていないことが多いのだ。
すでにわかっている重要なことは、「肥沃な土」という名前の土はなく、12種類のどこかに散らばっているということだ。まずは自分の目で実物を見て、12種類の土を知るしかない。大学4年生になっていた私が選んだのは、土壌学研究室。ようやく肥沃な土を探す旅が始まろうとしていた。
ヴァシーリー・ドクチャーエフ(Васи́лий Васи́льевич Докуча́ев, Vasily Vassilievitch Dokuchaev、1846年3月1日~1903年11月8日):ロシアの地質学者、地理学者。
プレーリー
プレーリー (Prairie [ˈprɛəri]) は、北米大陸中央部でカナダ南部からアメリカ南部まで広がり、草原・サバナ・低灌木からなる生態系。主に米国では大平原と呼ばれ、より広い内地平原の一部とされる。西部は短草の、東部は長草の草原となっている。こうした温帯の草原は、ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ、ロシア・カザフスタン・モンゴルにもあり、それぞれパンパ、ステップと呼ばれている。要するに穀物栽培に適した土壌であり、米国が世界に穀物を輸出できる根幹となっている。
哺乳類のプレーリードッグはこの地域に多く生息することから名づけられた。Prairie(プレリー)はフランス語で牧草地または平原を意味して、もともとはラテン語のpratum(平原)から来ている。他方、アフリカ、南北アメリカの熱帯のこうした場所はサバンナと呼ばれている。ちょっと待って、サバンナは穀倉地帯なのかな?
地理的位置。ロッキー山脈の東側に位置し、グレートプレーンズの東部と内地平原の西部を中心に分布。夏の平均気温は20℃以上で平均降水量は100mm前後。
北米の穀倉地帯であり、プレーリー土や褐色森林土という肥沃な土壌が分布し、小麦、とうもろこし、大豆などの大生産地となっている。主に、プレーリーでは混合農業が行われ、豚や肉牛の飼育もさかんである。
元々インデアン達が遊牧的生活をして保存して来た豊かな土壌。インデアン達から切取り放題で奪い取った土地に大規模な近代的農業を展開して生産量を上げて来た。しかし土壌と言うものは再生産が難しく、そのメンテナンスも困難なもの。土壌の劣化を肥料や品種改良で補って来ているが、今後生産量は低下していきコストも上がっていく。これはウクライナのチェルノーゼムや他の地区の土壌にも当てはまる。いま、人口の増加と食料生産のバランスが問題になっているが、世界中の土壌の劣化! これも頭の痛い問題の一つである。